戸別訪問禁止合憲判決
差戻後上告審判決

公職選挙法違反被告事件
最高裁判所 昭和57年(あ)第1839号
昭和59年2月21日 第三小法廷 判決

上告申立人 被告人

被告人 甲野ハルミ(仮名) 外1名
弁護人 河野善一郎 外9名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官伊藤正己の補足意見

■ 被告人甲野ハルミの上告趣意
■ 被告人乙山秋子の上告趣意
■ 弁護人河野善一郎の上告趣意
■ 弁護人村野守義の上告趣意
■ 弁護人妻波俊一郎の上告趣意
■ 弁護人高野孝治の上告趣意
■ 弁護人佐々木猛也の上告趣意
■ 弁護人大賀良一、同岡崎由美子の上告趣意
■ 弁護人大賀良一、同岡崎由美子の上告趣意
■ 弁護人石川元也の上告趣意
■ 弁護人上田誠吉の上告趣意


 本件各上告を棄却する。


[1] 被告人両名の各上告趣意は、いずれも、違憲をいうかのごとき点を含め、原判決に対する不服の理由を具体的に示しておらず、適法な上告理由にあたらない。

[2] 弁護人河野善一郎、同村野守義、同妻波俊一郎、同高野孝治、同佐々木猛也、同大賀良一、同岡崎由美子、同石川元也、同上田誠吉の各上告趣意のうち、憲法31条違反をいう点は、公職選挙法138条1項、昭和57年法律第81号による改正前の公職選挙法239条3号の各規定が憲法31条に違反するものではなく、また、被告人らの本件各所為につき公職選挙法の右各規定を適用して処罰しても憲法の右規定に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和43年(あ)第2265号同44年4月23日大法廷判決・刑集23巻4号235頁。なお、最高裁昭和42年(あ)第1464号同42年11月21日第三小法廷判決・刑集21巻9号1245頁、昭和55年(あ)第1472号同56年7月21日第三小法廷判決・刑集35巻5号568頁参照)の趣旨に微し明らかであるから、所論は理由がなく、その余は、事実誤認の主張であつて、刑訴法405条の上告理由にあたらない。

[3] よつて、同法408条により、主文のとおり判決する。
[4] この判決は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

[1] 所論は、戸別訪問には、買収、利益誘導などの幣害をもたらし、選挙の自由と公正を確保するという保護法益を侵害する抽象的危険すら伴わないものがあり、これについてはそれを処罰の対象とする理由も必要性も存しないのであるから、抽象的危険の有無をとうことなく、すべての戸別訪問を一律に禁止し、その違反を処罰の対象とする公職選挙法138条1項、昭和57年法律第81号による改正前の公職選挙法239条3号の規定は、憲法31条に違反するものであるという。私も、法廷意見と同じく、この違憲の主張は採用することができないと考えるが、その理由について若干の私見をのべておくこととしたい。

[2] 思うに、抽象的危険の概念をどのように考えるかによつて、公職選挙法138条1項の規定により禁止されている投票依頼等を目的とする戸別訪問は、常に買収、利益誘導等の不正行為を誘発し、選挙の公正を損う等の抽象的危険を伴うものであるという考え方も可能であり、またこれとは異なり、戸別訪問の中には、法益侵害の抽象的危険すら伴わないものも含まれ、これを処罰することとなるとそれは形式犯に属することとなるという考え方も可能と思われる。しかし、形式犯も、程度の差こそあれ法益侵害の危険を要するものと解すべきであるから、抽象的危険をどのように捉えるか、したがつて戸別訪問罪を抽象的危険犯と解するか又は形式犯と解するかによつて、直ちに同罪が憲法31条に違反するか否かの結論を導き出せるものとは考えられない。
[3] したがつて、私は、以下には、右のような犯罪類型の観点からではなく、実質的な観点から、投票依頼等を目的とする戸別訪問を一律に処罰している刑罰規定が合理的なものか否かについて意見をのべることとする。
[4] 私の見解によれば、戸別訪問の禁止は、国会が選挙の公正を確保するために候補者その他の選挙運動者の守るべきルールの一つとして定立したものであり、投票依頼等を目的とする戸別訪問は、このルールの違反として処罰されるものである(最高裁昭和55年(あ)第1472号同56年7月21日第三小法廷判決・刑集35巻5号568頁における私の補足意見参照)。換言すれば、法が、現実に買収などの不正行為を誘発するという弊害を生ずる危険が存在するかどうかにかかわりなく、選挙運動としての戸別訪問を一律に禁止して違反者を処罰することとしているのは、戸別訪問行為が常に右のような法益侵害の危険を随伴するものと考えているからではなく、選挙運動という一種の競争を公平に行わせるためのルールをすべての選挙運動者に一律に及ぼすためであると解される。すなわち、選挙運動を行う者に戸別訪問禁止という法の定めるルールを一律に遵守するよう強制することによつて公正な選挙の実現を確保するというのが法の趣旨とするところであるから、ルールに違反した以上処罰をうけることとされていても、それが憲法31条に違反するとはいえないと考える。もとより、国会は選挙運動のルールとしてどのような内容のものを設定するかについて完全な裁量権をもつものではなく、そのルールは合理的なものでなければならないが、競争を公平に行わせることに独自の価値があり、そのためにある行為を禁止するというルールを定立する場合と、ルールの定立ということ自体には意味がなく、単にある行為を無価値なものとして禁止する場合とを対比してみると明らかなように、前者の場合のルール設定については、国会の裁量権の幅は広く、その立法政策にゆだねられているところが大きいといわなければならない。そして、従来戸別訪問に伴う弊害(「買収、利害誘導等の温床になり易く、選挙人の生活の平穏を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害」、最高裁昭和55年(あ)第874号同56年6月15日第二小法廷判決・刑集35巻4号205頁参照)としてあげられていることは、戸別訪問それ自体を無価値として一律に処罰する根拠としては、右弊害が戸別訪問に必然的に随伴するとまではいえないだけに、国会に認められる立法裁量権を考慮しても、なお十分とはいい難いようにも考えられるが、競争の公平を確保するために、戸別訪問を一律に禁止するという選挙運動のルールを定立する根拠としては、右弊害が過去における戸別訪問に随伴した例が多いという程度であつても、国会に認められる立法裁量権のもとでは、十分合理性があるものと考える。また法定刑の均衡の点でも、公職選挙法に規定する各種制限の違反行為に対する刑罰(同法243条、244条等参照)と対比するとき、国会の裁量権の範囲をこえて憲法に違反するものとは解されない。以上のように考えると所論違憲の主張は理由がないというほかはない。

(裁判長裁判官 安岡満彦  裁判官 横井大三  裁判官 伊藤正己  裁判官 木戸口久治)
[1] 裁判長、私は昭和51年12月に戸別訪問禁止規定違反として起訴されてから、広島高裁差戻し審で罰金1万円の判決を受けた今日に至るまで、一貫してその不当性を主張し続けて参りました。
[2] なぜ不当なのかについては、この6年間にわたつて各段階の公判廷において、弁護団から事実に基づいて歴史的経過からみて、法解釈について、あらゆる角度からこまやかにまた鋭く条理をつくして論戦を展開してきました。この時点に立つていま一度、私の心情をのべたいと思います。
[3] 一審の公判廷でも申しましたけれども、私は1人の母親として子ども達の健康としあわせを願いました。またこのきびしい現代を生きる人間のひとりとして暮しよい社会への発展を願いました。1人で本を読んで学ぶことから他の人たちと交流して学ぶことの喜びを知りました。ひとりで思い悩むよりも他の人と話合い共に行動することの力強さを知りました。
[4] このことが土台となつて婦人運動に参加し、共産党員として活動することになりました。
[5] 私が戸別訪問したという天神団地は、私の自宅から近いということもあつて少なくとも月に2、3回はビラ配布、新聞購読のおすすめなどで訪問活動を日常的にしていたところです。永い間に顔見知りから教育や生活について語り合つたり冗談を言い合う間柄になつた方もたくさんあります。当日、私はこの団地の一部に共産党の法定ビラを配布しました。私は以前からビラを配布するのに、出来るだけ声をかけジカに手渡しする方法をとつています。どんなに内容の良いビラでも読まれなければ意味がありません。条件が許せばビラの内容の一端にも触れて渡すことが効果的だと考えています。選挙期間中であればより一層、党の政策や政治のあり方を有権者に知らせることが、公党の一員としての責務でもあります。
[6] 私は日本国民の1人であり主権者のひとりです。主権者である国民が、国政を審議すべき代表者を選ぶ選挙で、よりよき代表を選ぶために運動することはごく当然ですし、何にもましてその権利は保障されるべきです。私自身、この事件で被告となるまで憲法をよく読んだことがありませんでした。しかし憲法を一読すれば、非常に明快に記述されているこの主権者の権利が戸別訪問禁止規定によつて封じこめられています。憲法の番人と言われ、司法権の頂点に位置する最高裁で頑迷なほどに合憲論に固執されるのはどういうことでしようか。
[7] 昭和54年1月24日の松江地裁出雲支部の無罪判決のあと、読売新聞島根版のこの判決をめぐつて一般有権者はどうみるかという報道の中で、県選挙浄化委員の奥山文子さんが次のように話しています。
「個人的には憲法問題とは関係のない次元で、戸別訪問はあつていいと思う。選ぶ立場からいうと、多くの情報に触れることで選択の材料を得られるわけで、住民が出ていつても材料を集めるには限度がある「いけない」づくしの現公選法下では明るい選挙は進みかねる。この判決を契機に法律自体の手直し、見直しを考えてもいいのではないでしようか。」
[8] “憲法問題とは関係のない次元で”など、非常に遠慮がちな表現の中で、県選挙浄化委員という役職の上からも現公選法が有権者から選挙そのものを遠ざけている。従つて真の意味での公正な選挙権の行使が実行しにくい状況が語られています。
[9] 裁判長、私は日本が真に民主主義国家として発展するために言論の自由はなによりも尊重されなければならないし、特に選挙に当つて有権者同志が自由にのびのびと政治を語り論議し行動することが保障される必要があると考えます。私たちに対し、憲法と良心に従つて勇気ある公正な判断で無罪とされるよう、心から訴えます。
[1] 私は、今から6年前に突然逮捕、起訴され被告人としての汚名をきせられたのです。全く、不本意であり思いも及ばない出来事でした。
[2] 私は両親と3人で暮していますが、あまり身体の丈夫でない母は、「まだ裁判は続くのか。早く終つて欲しい。」と公判のたびに言い、心痛のあまり寝込んでしまうことさえあります。一体、私がどんな悪いことをしたというのでしようか。腹の底から怒りが今もこみあげてきます。
[3] 私は、保育労働者です。生活の危機が様々な形で進み、人間らしい生活が保障されにくくなつている中で、手先の不器用さ、生活リズムがない、自分でも考える力がない、遊びがたりない等、幼児期における発達の歪みが問題となつています。子どもの発達を促していく活動とは何か、私は仲間と共に手さぐりで保育実践を重ねてきたつもりである。自分の要求をしつかりともち、それを豊かに表現し、実現しようとする子どもに育てたいと願つているが、そのためには保育者や子ども、父母の切実な願いや要求を阻んでいるもの、阻もうとする矛盾の根源に迫らねばならないと考えている。そして、未来をになう子ども達に責任を持つために家庭訪問を行なつたり、地域の人々の保育要求を聞きに出かけることは、身近かで大切な日常的活動の一つであると思う。選挙期間中、法定ビラや新聞を配布している時に、顔見知りであればなおさら選挙について話題になるのは当然のことです。その時に候補者や選挙の状況について話し、自分の支持している候補者をよろしくと訴えることはいわば挨拶のようなものです。これがどうして写真を持ち歩いたり、尾行したり執ような聞き込み捜査まで受け、犯罪だとされねばならないのでしようか。
[4] 選挙中こそ、候補者の人柄や政策について多角的に語り合うことがより保障され、有権者に一人一人が主体的に選挙にかかわりあい、本当に選挙民の声を反映してくれる政党・政治家に投票すべきだと思う。
[5] これをしては駄目、あれをしても駄目と選挙運動を制限し、戸別訪問については全面的に禁止をし、これに違反した者には刑罰さえ科する。人としてのごく自然な、あたり前の行為が、選挙の時ともなると買収や地域住民の静ひつを害するおそれがあるから、口をつむいで出来るだけかかわりをもたない方がよしとされる、どこか間違つていはしないでしようか。人間性否定の論理といえるのではないでしようか。
[6] 私達が慣れない裁判を曲がりなりにも続けることが出来るのは、弁護団、守る会をはじめ戸別訪問の自由化を求める多くの人達の支援があつてのことであるが、それと同時に、私達の主張こそ正当であり、いつか必らず最高裁の扉が開かれ、戸別訪問の自由に行なえる日が来ると確信しているからである。
[7] 昭和40年以降10件の違憲無罪判決が、下級審において出されている。
[8] 私達の事件においては、一・二審ともに違憲無罪判決が下されています。高らかに自らも感動しながら判決文を読みあげる良心的で勇気ある裁判長の姿は脳裏にやきついて離れません。私はこの貴重な宝物である違憲無罪の判決を守りたいと思い再び上告したのです。広島高裁での差戻審における有罪判決に屈する訳にはいかないのです。
[9] 戸別訪問の禁止はもはや理論的にも、実践的にも崩れかかつています。自由化を求める声はますます高まつています。東京・中野区で行なわれた教育委員の準公選での手づくり選挙にみられる地域住民の生々とした姿に学ぶことは多いはずである。国民は、生きた血の通う選挙活動を求めているのです。
[10] 真理に対して忠実に、過去の最高裁判例の再検討を行ない、本件に対して慎重に審理されるよう強く要求します。
(一) 戸別訪問罪の性質と特徴
[1] 戸別訪問罪の法定刑は、1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金であり、戸別訪問行為は、刑罰をもつて抑止する犯罪行為である。従つて、犯罪論の基本法理に服すべきものである。
[2] ところで戸別訪問罪は、一般に形式犯又は抽象的危険犯と称されているが、講学上2つの犯罪は性格が異なつているのにあいまいにされてきたことが問題である。
[3] 危険犯は、保護法益の侵害の危険の発生を構成要件の内容とするもので、法益侵害の具体的な危険の発生を要件とするものを具体的危険犯、単なる抽象的な危険の発生で足りるものを抽象的危険犯という。これに対し形式犯は、保護法益侵害の抽象的危険の発生すら構成要件上必要としないものである。(以上団藤「刑法綱要」総論86頁参照)
[4] 本件差戻判決(昭和56年6月15日)は、理由中で
「戸別訪問の禁止は……戸別訪問が買収、利害誘導等の温床になり易く、選挙人の生活の平隠を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することを目的としている」
と説示していることからみて、(しかも構成要件の明文上も具体的危険の発生を要件としていないから)戸別訪問罪を選挙の自由と公正に対する抽象的危険犯として理解していると思われる。差戻後の原判決も同様であると考えられる。

(二) 罪刑法定主義と危険犯
[5] 抽象的危険犯にしろ、形式犯にしろ、罪刑法定主義の原則から要請される処罪の根拠は、抽象的な危険又は抽象的な危険ともいえないきわめて軽度の間接的な危険の発生であつて、いずれにせよ法益侵害への「危険」の発生が要件であり、全く「危険」のない行為を処罰対象とすることは許されない。
[6] とくに本来憲法上保障される権利の行使が、危険犯として処罰されるには、危険の性質、程度、行為と危険発生との関連性、刑罰と危険との権衡などが明確かつ合理的に首肯されるものでなければならない。

(三) 危険犯としての戸別訪問罪の不合理性
[7] ところで、戸別訪問罪における行為の危険性について、判例は買収等の不正行為の害悪を発生せしめるおそれがあり、その結果として選挙の自由と公正を侵害するおそれがあるというのであるが、実際には行為の主体(行為者)、客体(相手方)の相違によつてそのようなおそれのない場合がある。つまり要求される危険の程度が抽象的(侵害の可能性)で足りるとしても、誰が行なつてもその可能性を生ずるという一般性、定型性がない。しかも刑罰は1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金であつて、決して軽微ではなく、危険との権衡を著しく失している。
[8] また、戸別訪問罪を形式犯として解するならば、抽象的危険の発生すら要件としないで、憲法上の権利行使を処罰することの不合理性はいつそう大きいといわねばならない。
[9] 従つて、危険の存否や程度を無視して一律に戸別訪問行為を処罰する視定は、罪刑法定主義ひいては憲法31条に違反するものと解すべきである。
(一) 危険犯における限定解釈
[10] 「危険なければ犯罪はない」ことは刑罰法の大原則であり、たとえ抽象的な危険犯であつても、具体的な場合に、処罰の根拠をなす抽象的危険(侵害の可能性)の発生がなかつたときは、構成要件不該当もしくは違法性を欠くものとして、犯罪の成立が否定されなければならない。
[11] 近時学説において、危険犯の処罰根拠をめぐる理論の再検討が進められ、また戸別訪問や政治活動をめぐる裁判例の中で、裁判官の中にも刑罰論の見地から従来の見解に批判を加える動きが見られるのは、いずれも危険犯の処罰根拠と範囲を明確化しようとする問題意識の現われと思われるが、いずれも危険についての実質説の方向を採つていることが注目される。このような観点から本件の事例の再検討を要請する。

(二) 本件における危険の不存在
[12] 戸別訪問行為がそれ自身として違法性をもつものでないことは、近時の合憲説に立つ判例の中でもかなり承認されているが、本件の場合に、それに付加して害悪発生の危険ないしその可能性を生ぜしめた事情は全く認められない。
[13] 被告人甲野は古くから地域で活躍していた共産党の婦人活動家被告人乙山は保育所の保母として働くかたわら、「赤旗」の配達集金に従事していた活動家であり、訪問先の大半は「赤旗」の購読者であつた。訪問時の態度、当動、時間の面でも相手方に迷惑感や拘束感を与えておらず、両名の行為態様は、通常の社交、許されている訪問販売等の日常の訪問行為と異なる要素は全く存しない。従つて差し戻し判決の指摘する買収等の不正行為の発生する可能性も認められない行為であつたことは記録によつて明らかである。要するに本来的な戸別訪問の態様であつて、処罰に値する危険性は抽象的にも存しなかつたといえる。このような事例にまで戸別訪問処罰規定を一律に適用するのは、刑罰法の理論に背し憲法31条の保障に反するものである。
[14] 右補足意見については、すでに多くの批判が加えられているが、一言付加すれば、憲法の基本原理や刑罰法の原理では容認することの困難な立法を、立法府の裁量をたてに許容することの背理、矛盾を説明できない点である。選挙法も憲法の価値理念を具現する手続法規として、憲法の諸原理に忠実に支配されるべきであり、伊藤意見は更宜論に等しい。さらにルール論を推し進めると、危険の有無を一切問わない形式説、ないし不服従それ自体を処罰することにもなりかねず、刑罰理論からも危険な方向と言わざるを得ない。
[1] 原判決は公職選挙法138条1項、同239条3号の解釈を誤り、憲法31条に違反するので破棄を免れない。

[2] 、本件差戻後の広島高等裁判所第一部判決は、弁護人らの公職選挙法138条1項、同239条が憲法31条に違反するとの主張に対して、次のように判示した(判決書6丁裏)。
「意見表明の手段としての戸別訪問行為が、買収、利益誘導等の温床になり易いなどの弊害をもたらすことは、差戻判決が説示するとおりであるから、これを一律に禁止することと保護法益である選挙の自由と公正を確保することとの間には客観的、合理的な関連性があると認められるから、このような危険性に着目して戸別訪問行為を違法性のある行為として一律に禁止することが罪刑法定主義に違反するものではなく、また、戸別訪問罪の規定が刑罰法規としての明確性を欠くものではないから、公職選挙法138条1項が憲法31条に違反するとは認められない。」
[3] 原判決の右の論理には重大な誤りが散見される。
[4] 第一に,差戻判決の説示を当然の前提、あるいはこれに当然に拘束されて戸別訪問行為には弊害が伴うものと認定し、
[5] 第二に、この弊害を伴うことの危険性に着目して、戸別訪問行為を一律に禁止することは憲法31条に違反するものではないと説示していること等である。
[6] 本件第一審判決は戸別訪問禁止理由として、通常主に指摘されている(一)買収、利益誘導、威迫等の不正行為の温床となること、(二)情緒、義理、人情にうつたえる傾向を助長し、理性的判断を阻害すること、(三)候補者側の煩瑣を強いること、(四)選挙人の迷惑になること、(五)多額の経費を要するようになること、(六)当選議員の不利に働くこと、を掲げ、証拠調の結果に基いてこれらの弊害と戸別訪問行為との相関々係は極めて薄く、無縁のものであること、あるいは戸別訪問の禁止を基礎づける合理的な理由に該当しないことを明らかにした。
[7] 原判決はこの点に関する証拠調を全く行わなかつたにもかかわらず、一審判決の明確に説示した判断を一蹴した。
[8] 又、原判決は本件差戻前の控訴審判決が行つた
「戸別訪問を禁止しなかつた場合、不正行為の温床となり易く、その機会を多からしめるという弊害を生じる蓋然性が高いということはできず、右弊害を生じるおそれは極めて抽象的な可能性にとどまるというほかはない……」
との判断も一顧だにしなかつた。
[9] このような原判決の根拠は明らかではない。破棄判決の拘束力について規定した裁判所法第4条もこの根拠にはなり得ないものと考える。
[10] 原審裁判所を拘束すべき差戻判決の判断の範囲について、弁護人らは、それが旧二審判決が下した「公職選挙法138条1項は憲法21条に違反する」との判断に対する「同条項が憲法21条に違反するものではない」との法律判断の部分であることを明確にし、主張した。
[11] 原判決はこの主張を却け、拘束すべき判断の範囲とは
「原判決を違法ならしめる事項についての法律点及び事実認定に関する判断……」であり、「差戻判決が公職選挙法138条1項が憲法21条に違反するものではないとした判断……」である
旨を説示したのであるが、この原判決の論理によつても公選法138条1項が憲法31条に違反するとの法律点及び事実認定には判断の拘束力は及び得なかつたはずである。
[12] 前述のとおり、原判決は弁護人らのこの憲法31条に違反する旨の主張を排斥する際に何らの証拠調をもすることなく、「差戻判決が説示するとおりである……」としてこれに拘束されるという誤りをおかしてしまつたのである。

[13] 一般に戸別訪問の禁止を基礎づけると云われている本件一審判決があげる6点の立法理由は、課刑の根拠になり得るのか否か、罪刑法定主義の面からも検討されねばならない。特に公選法239条は、戸別訪問行為に対して自由刑たる禁錮刑を規定しているのであるから、同法138条1項が憲法21条に違反するか否かの審査の基準とは別の基準により判断されることが必要であろう。
[14] すなわち、戸別訪問禁止規定が憲法21条に違反しないからと云つて、憲法31条や刑法上の処罰の正当性にかかわる問題が全て払拭されてしまつたとは云えないのである。
[15] 例えば、最高裁判所昭和56年7月21日第三小法廷判決における伊藤判事の
「……戸別訪問はそれ自身として違法性をもつものではなく、買収などを誘発する可能性があるといつても、なお抽象的な危険があるにとどまり、実際にはそのようなおそれのない場合もあるし、かりにその可能性があるとしても、不正行為の発生の確率の高いものとは必ずしもいえない。……また、具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に、表現の自由の行使を形式犯として刑罰を科することには、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる」
との意見はこの両側面の存在を肯定し、別の基準の存在を示唆しているように思われるのである。
[16] 公職選挙法の戸別訪問行為には果して差戻審判決が指摘するような、買収、利益誘導等々「意見表明の手段方々のもたらす弊害」が、この行為を刑罰をもつて一律に禁止することを理由づける程に伴うものではない。これまで、本件差戻前の控訴審判決をはじめ十指に及ばんとするこの規定に関する違憲判決はこの弊害論に疑問を投げかけ、関連性を否定してきたのである。
[17] 又、最高裁判所においても、前記伊藤意見では実に差戻審判決の弊害に関する説示が引用されたうえ、
「私見によれば、それらをもつて直ちに十分な合憲の理由とするに足りないと思われる」
と批判しているのである。原判決は、公選法138条1項が憲法31条に違反するとの主張に対して、あらためて、その処罰を根拠づける「弊害」の有無を検討すべきであつた。
[18] 原判決は、それにもかかわらず差戻審判決が説示する公選法138条1項が憲法21条に違反しない旨の前述の理由をすべて引用し、これを当然の如く、同規定が憲法31条に違反しないことの根拠として利用してしまつた。
[19] 原判決には、先ずこの点で、憲法31条の解釈に重大な誤りがあると云うべきである。
[20] 原判決は前記の各弊害が選挙の自由と公正という保護法益を侵す危険性があると認め、これを一律に刑罰をもつて禁止することも違憲でないと判断した。
[21] 原判決が法益侵害の危険性を処罰の根拠にもとめている点で、判決は戸別訪問罪を「保護法益侵害の抽象的危険の発生をも構成要件上必要としない」(団藤・刑法綱要総論・増補版86頁)「形式犯」のカテゴリーには入らず、危険犯に含ましめているものと解される。
[22] この危険犯は、危険発生が構成要件要素となつている「具体的危険犯」と危険発生が特に構成要件要素となつていない「抽象的危険犯」に区分されるが、戸別訪問罪は抽象的危険犯に含まれることになる。

[23] 抽象的危険犯において、この抽象的にしろ法益侵害の危険が発生していない場合、なお行為は可罰の対象であるべきか。
[24] 戸別訪問の場合、その指摘される弊害たるものが存在しない場合にもなお、犯罪の成立を肯定するためには、処罰の根拠として戸別訪問には常に不正行為の温床等々の弊害が伴つて発生するものとしなければならない。
[25] 法益侵害の危険が常に存在するものとして看做されることになるのである。
[26] 冒頭に引用した原判決の立場は、つきつめればこの擬制説ともいうべき立場と同一のものになる。この擬制説に対しては近時種々の点から批判がなされている。
[27] その最も根本的な批判としては、国家が、具体的な場合に犯罪の処罰の根拠が無いにもかかわらず、刑罰権を発動することになり、処罰の正当性を失つてしまうということである。
[28] 次の論述はこの事情をよく述べていると思われる。
「……
 危険の擬制という考え方は明らかに妥当でないように思われる。一般に、刑法が一定の事態(法益侵害及びその危険)を生ぜしめることを犯罪として処罰するのは、そのことによつて、そのような事態が生ぜしめられることを防ぐためであると解することができる。従つて、犯罪の成立を認めるためには、このような――正しく当該の規定が――その発生を防止しようとする事態が実際に生ぜしめられたことが必要であるように解される。
 このような犯罪の成立を基礎付ける事態が、犯罪の処罰根拠である。このような処罰根拠は、何らかの行為を処罰する規定を定立する場合に(その行為について一般的に)認められることが必要であるばかりではなく、具体的な行為者をその具体的な行為について処罰する場合においても現実に認められることが必要であると解される。というのも、国家が、具体的な行為者を、その具体的な行為について処罰することの正当性が基礎付けられる必要性があるように思われるからである。従つて、犯罪の成立が具体的に肯定されるためには、その処罰根拠が具体的に認められなければならないと解されることになる。危険の擬制という考え方は、右のような観点から見るときには、犯罪の具体的な成立が現実には(実質的に)基礎付けられないにも拘らず、犯罪の成立を認めようとする考え方であり、問題のある考え方であると言わざるをえないように思われるのである。」(山口厚・危険犯の研究207頁)。
[29] 判例においても、抽象的危険犯を一律に処罰する方向で解釈することには批判が加えられ、構成要件の解釈により、危険の存在しない場合にはそれらを規定の対象から排除して行こうとする意見が出されている。
[30](一) 最高裁判所昭和54年(あ)第423号、国家公務員法違反事件での裁判官の反対意見がまずそれである。
[31] この事件は高松地方簡易保険局に勤務する一般職の郵政事務官が職務外の書道家としての立場から選挙期間中に、勤務時間外に、勤務場所とは全く無関係な場所で、職場の組職あるいは職員関係を利用することなく、政党の候補者の応援演説を行つた事件であり、国家公務員の政治的中立性を規定した国家公務員法102条1項、及び同法110条1項19号の合憲性(憲法21条、31条)が争点となつた。
(1) 団藤裁判官の意見
[32]「『政治的行為』についての現行人事院規則14-7を通覧すると、……公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を害する危険性のきわめて稀薄な行為が含まれることになるのであり、その中には、公務員に対する単なる訓示規定としてはともかく、懲戒処分の原由としてさえ、問題になりうるものがあると思われる。まして、そのような態様のものを含むすべての規則違反行為が刑事罰の対象となると考えることは、とうていできない。わたくしは、……この規則の違反行為は、それが公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性がないかぎり、国公法110条1項19号の罪の構成要件該当性を欠くものと考える。」
(2) 谷口裁判官の意見
[33]「およそ人の行為が犯罪として成立し処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険を伴わない行為を違法として処罰することは、刑罰法の基本原則に反する。そのことは本件のごとき形式犯についても同じである。
 ところで、本件において被告人の所為に適用される国家公務員法110条1項19号、102条1項、人事院規則14-7は、前に述べた国家公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を保護法益とするものであるが、そこで禁止処罰の対象となる行為の違法性は行為の主体が国家公務員であることによるものであつて、行為主体の身分によるものである。そして、行為の違法性がその主体の身分的属性により導かれるものである以上、行為がその主体の身分的属性と全く関係なく行われた場合、すなわち、行為並びに行為の附随事情を通じて行為主体の身分的属性が毫も当該行為と結びついてこない場合には、抽象的にせよ法益侵害の危険性はないものというべく、行為者がたまたま国家公務員の身分を有するとの故を以つてかかる行為についてまで、右罰則を適用することは前記刑罰法の基本原則に反し許されないところといわざるをえない。右罰則の解釈適用についてやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である。行為者がたまたま国家公務員の身分を有していることの一事により行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは、憲法31条に反するものといえよう。」
[34] 団藤裁判官においては、国公法110条1項19号が具体的危険犯、谷口裁判官においては形式犯として認識されているが、限定的解釈を志向している点では共通である。
[35](二) 前に引用した伊藤裁判官の
「……憲法上の重要な価値をもつ表現の自由をこのような害悪発生のおそれがあるということでもつて一律に制限をすることはできないと思われる。また、具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に、表現の自由の行使を形式犯として刑罰を科することには、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる。」
[36] すでに詳細に述べたように、戸別訪問行為に種々の弊害が伴うとする主張は何ら検討されていない。刑事罰を科すことの正当性を担保するものとはなり得ていないのである。
[37] もともと、戸別訪問禁止規定は憲法21条に違反することは明らかであるが、これを一律に禁止している点では、憲法31条が規定する「罪刑法定主義」にも違反することになる。
[38] 原判決は、この点について憲法31条の解釈を誤つたものであり破棄を免れないと思料する。
[1] 公職選挙法138条1項および239条1項の規定は、憲法21条に違反するばかりではなく、憲法31条にも違反する。
[2] 以下、右規定が憲法31条に違反する所以を述べることとする。
[3] 憲法31条は、基本的人権尊重の立場から、刑罰権の発動を制限しようとするものであり、その沿革は、遠くは、1215年のマグナ・カルタにまで遡り、英米法の適法手続条項(デユー・プロセス・オブ・ロー)に該当し、かつ、大陸法の罪刑法定主義をも含意するものであると言われている。

[4] マグナ・カルタが違法行為の程度と刑罰の比例を保障し(20条等)、「いかなる自由人も……国の法律によらなければ、逮捕せられ……ることなく」(39条)と、合衆国憲法修正5条が、「なに人も……法の適正な手続によらなければ、その生命、自由または財産を奪われない」(14条も同旨)と、1789年の人権宣言が「自由とは、他人を害さないすべてをなしうることにある」(4条)、「法律は、社会に有害な行為でなければ、禁止してはならない」(5条)、「法律は、厳格、かつ、明白に必要な刑罰以外は規定すべきではなく」(8条)等の各規定を有していることに意を用いるべきであろう。
[5] 従つて、本条の解釈・意味内容の確定にあたつては、一方、その制定の目的、歴史的な経過、内外の判例法の発展を十分に究明する必要があると同時に、他方、憲法の基本原理に則り、また、現代的視点からも十分な考憲を払う必要がある。
[6] 本条の「法律の定める手続」に関しては、単に「法律の形式」によるべきことを要求するにとどまるのか、それとも「適正な法律」によるという要求をも含んでいるのか、「手続」とは、刑罰権の実現の「手続」のみを意味するのか、それとも「実体」をも含めたものであるのかに関して、種々の学説があるが、通説は、手続・実体の両者を法律で定めることだけではなく、その両者の内容が適正であることをも要求するものと解しており、私もそれが憲法の正しい解釈であると考える。
[7] その理由としては、
1 本条は、合衆国憲法の適法手続条項に淵源しており、同国では、同条項は、適正な実体をも要求するものと解されていること。
2 実体法の内容が適正でなければ、手続法の内容のみ適正であつても人権保障は、不十分なものにならざるを得ず、人権を永久の不可侵の権利と規定している日本国憲法(97条)の下においては、本条が適正な実体をも要求すると解すべきこと。
3 憲法の人権保障規定は、排他的独占的な守備範囲を守つているわけではないから、他の法条と競合的に人権を保障していると解しても何らさしつかえないこと。
4 憲法のどの条文に反すると明らかには言えないが、憲法の精神に反すると言わざるを得ない場合がある。このような場合には、本条によつて救済するのが妥当であること。
5 本条に基づいて制定される法律は、「生命」・「自由」という基本的人権を制限する法律であるから、すでに憲法13条の「公共の福祉」・「内在的制約」論争によつて明らかにされているように、立法者がその内容を自由に定めうるものではあり得ず、それは、個人主義の観点からする必要最小限度の規制を内容とするものでしかありえない。この点からしても、手続・実体ともに当事者の人権侵害を必要最小限度に食い止める内容をもつた適正なものであることを要求すると解するのは当然のことであること。
等を挙げることができる。
[8] 本件裁判との関連で特に重要なのは、実体的適正の問題であるから以下、それについて述べることにする。
[9] 本条が罪刑法定主義を定めたものであることおよびその内容として罪刑法律主義のほかに遡及処罰の禁止(憲法39条)、刑罰法規の類推解釈の禁止、絶対的不定期刑の禁止を有するものであり、さらに、実体的適正の内容としては、刑罰規定の明確性、罪刑の均衡性、刑法の謙抑性(規制内容の合理性)の要求を挙げることが出来る。

2 刑罰規定の明確性の原則
[10](一) 罪刑法定主義が、個人の自由を保障するために、何が犯罪として禁止され、その違反に対して、どのような刑罰が科されるかを予め法律で予告しておくことを内容(刑法の保障的機能)としていることからすれば、明確性の要求は、罪刑法定主義自体の内容ないし派生的な内容と解しえ、それは、本条の保障するところと言える。
[11](二) アメリカにおいて
「本条例は、あいまいさの故に無効である。恣意的ででたらめな逮捕と有罪判決を助長するからである。本条例は、現代の基準からいくと普通は罪とならない行意を犯罪としている。法の支配は、法の適用における平等と正義を含んでいる。正義のはかりが一方に片よりすぎていて、公平な法の執行が不可能なことを教えている。本条例は、憲法の基準に合致させることができず、明白に憲法に違反する。」(英米判例百選Ⅰ公法158)。
としているが参考にされるべきである。
[12](三) 最高裁判所も、明確性の原則は、これまで認めてきていたところであり、特に、徳島市公安条例事件において、結論的には否定されたものの、「刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反する」場合があると述べている(最大50・9・10刑集29・8・489)。

3 罪刑の均衡性の原則
[13](一) 人権についての必要最小限の規制原側からすれば、そもそも一定の行為を禁止する場合および禁止違返に対して制裁を科する場合には、必要最小限でなければならず、また、犯罪の内容と刑罰は、比例していなければならない。
[14] これは、立法に際しても、裁判に際しても適用されるものであり、本条の適正な内容となるものである。
[15](二) 砂川事件(東京地34・3・30下刑1・3・776)、猿払事件(旭川地43・3・25下刑10・3・293、札幌高44・6・24刑集28・9・734)は、憲法31条違反を言つている。

4 刑法の謙抑性(規制内容の合理性)の原則
[16](一) 刑罰権は、その特質からして、それが発動される場合には、「生命」・「自由」等人権に重大な侵害を加えることになる。
[17] 従つて、人権の最大限の尊重を基本原理とする憲法(13条、97条等)のもとにおいては、他の人権に対する重大な侵害(強い違法性)がある場合(処罰の理由が明確な形で積極的に明らかにされる必要がある)で、かつ、他の処罰規定、政治・社会教育、道徳等の手段(より制限的でない他の選びうる手段)によつては、当該侵害行為を効果的に抑止しえない場合(必要最小限の規制の原則)にはじめて、その発動が認められると解するのが妥当である。可罰的違法性論、違法性相対論は、その一つの理論的表現である。
[18] これは、刑罰権成立の根拠と範囲、刑罰権の実体的制限が憲法原理に基づいて規制されなければならないことを意味し、刑事実体法の内容の合理性を憲法の次元で要請しているのであり、刑罰権発動の謙抑性、刑法の謙抑性の要求も本条の適正の内容となるものである。
[19](二) 以上の観点からは
(1) 処罰の必要性が明確でない行為、他に選びうるより制限的でない方法がある場合の当該行為、違法性のない行為何ら法益侵害の発生しない行為、必要最小限度の原則に違反している場合の当該行為を処罰する立法を設けることは憲法に違反する。
(2) さらに、刑罰を科する程度に違法性(可罰的違法性)を備えていない行為や社会的相当性の限界を逸脱した法益侵害(実質的違法性)でない行為に対しては、当該刑罰規定を適用することは許されない(もし、それらの行為にも当該刑罰規定を適用すれば、適用違憲ないし運用違憲となる)。
[20] 右の判断に際しては、禁止されている当該行為が憲法上有する地位(同じ基本的人権でも優越的地位が与えられている表現の自由か否か)と禁止規定の内容・性質(実害犯か危険犯か等)をも吟味することが重要である。
[21](三) 最高裁判所は、かの全逓東京中郵事件判決(最大41・10・26刑集20・8・901)、都教組事件判決(最大44・4・2刑集23・5・305)、全司法仙台事件判決(同685)などにおいて、刑事制裁は、必要やむを得ない場合に科されるべきであるとしてこの刑罰の謙抑主義をとつていたが、その後、全農林警職法事件判決(最大48・4・25刑集27・4・547)においては、裁判官が交替したこともあり、従来の少数意見(違法性一元論)が多数意見に、多数意見が少数意見にと逆転したという経過があり、全逓名古屋中郵事件判決(最大52・5・4刑集31・3・182)においても同じ状況にある。
[22](四) 最高裁判所は、以前、医療類似行為事件において、これを罰するのは、このような業務行為が人の健康に害を及ぼすおそれがあるからであり、本件HS式無熱高周波療法が人の健康に害を及ぼすおそれがあるか否かについて何らの判示がないとして原判決を破棄差戻したことがあり(最大35・1・27刑集14・1・33)、これは、無害な行為を処罰することは憲法31条違反になりうる趣旨も含んでおり、立法事実の認定の仕方、当罰性の関係等本件裁判に有益な材料を提供するものである。
[23] さらに、最高裁判所は、
「立法の趣旨・目的からすると、同項に関する罰則規定である同法235条の2第2号のいう選挙に関する『報道又は評論』とは、当該選挙に関する一切の報道・評論を指すのではなく、特定の候補者の得票について有利又は不利に働くおそれがある報道・評論をいうものと解するのが相当である。さらに、右規定の構成要件に形式的に該当する場合であつても、もしその新聞紙・雑誌が真に公正な報道・評論を掲載したものであれば、その行為の違法性が阻却されるものと解すべきである(刑法35条)。」(最第一54・12・20判時952・17)
と判示しており、本件裁判にも役立つ考え方を示している。
[24](五)(1) 団藤重光裁判官は、
(イ 右全逓名古屋中郵事件判決において、多数意見が右全逓東京中郵事件の判決の判例を根本的に変更したことに対し、反対意見として、
「わたくしは、いまなお、この判例がすくなくとも基本的には維持されるべきものと考える。……憲法三31が含蓄するところの刑罰謙抑主義……争議権を制限する場合にも、争議禁止を実効的にするために民事法上の手段で足りるならば、それ以上に刑罰的制裁を用いるべきではない」
と述べておられる。
[25](ロ) また、いわゆる高松簡易保険局事件について、最高裁昭和56年10月22日第一小(判時1020・3)で、
「公務員の政治的行為であつて、公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を現実に害するもの、すくなくとも、これを害するような具体的な危険性があるものにかぎつて、その内容の規定を人事院規則に委任したものと解することによつて、かろうじて、この規定の合憲性を肯定することができるものと解するのである」
と少数意見を述べておられる。
[26](2) さらに、右事件で、谷口正孝裁判官は、
「およそ人の行為が犯罪として成立し処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険を伴わない行為を違法として処罰することは,刑罰法の基本原則に反する。そのことは、本件のごときいわゆる形式犯についても同じである。右罰則の解釈適用についてはやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは、憲法31条に反する」
と、これまた、少数意見を述べておられる。
[27](3) さらに、伊藤正己裁判官は、戸別訪問事件であるいわゆる高津事件について、最高裁昭和56年7月21日第三小(判時1014・49)で、
「憲法上の重要な価値をもつ表現の自由をこのような害悪発生のおそれがあるということでもつて一律に制限をすることはできないと思われる。また、具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に、表現の自由の行使を形式犯として処罰を科することには、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる」
と補足意見を述べておられる。
[28] 以上述べた如く、最高裁判所の内部において、あるいは下級審裁判所において、刑罰の謙抑性の思想が脈を打つていることが窺われる。
[29] この外、いわゆる公安条例違反事件において、下級審裁判所が可罰的違法性なしないし現在かつ明白な危険なしとして無罪の判決を下す例が多いが、これも、刑罰の謙抑性の一環であつて、大きな歴史的な流れとなつているものである。
[30] 公職選挙法138条1項は、
「何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない」
と戸別訪問を時・場所・方法等を限定しての禁止ではなく、あらゆる場合にも全面一律に禁止しているのであり、この禁止違反に対し、同239条1項で、
「1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金に処する」
と自由刑を含む厳しい刑罰を規定している。
[31] 右の公職選挙の規定は、その立法目的・理由ないし保護法益を侵害する恐れ(危険)の全くない行為(当罰性の全くない行為)をも処罰の対象にしているように読める。
[32] 公安条例においては、許可(実質上届出)があれば、適法に集団行動等が出来るところ、戸別訪問は、そもそも一切出来ないことになつているが、果たして、戸別訪問はそれ程有害な行為であろうか。

[33] このような解釈は、右規定をいわゆる形式犯ないし抽象的危険犯であると考え、その危険を擬制したとき、初めて成立することが可能であるが、もし、それが肯定されるのであれば、その考え方自体、かの公安条例における潜在的暴徒観と同じく国民愚民観ないし潜在的悪温床論という国民主権の下では到底許されない思想であり、それは、前述の刑罰規定の明確性、罪刑の均衡および刑法の謙抑性の原則に反するものである。
[34] けだし、憲法上重要な主権者としての権利の行使である表現・政治活動を何ら害悪の危険さえ伴わないのに禁止し、しかも自由刑を含む刑罰を科することは、あまりにも罪刑の均衡を失し重すぎるのであり、そもそもかような行為をも罰するものは広汎すぎ、さらに、必要最小限度の原則にも明らかに反するからである。
[35] もし、抽象的危険犯だと言うのであれば、その構成要件において、戸別訪問行為が危険であり有害な行為であることが一目瞭然であるように、客体や行為の手段・方法その他の態様によつて明確に類型化されなければならないが、右規定には、そのような危険な行為の類型化が全く欠如している。
[36] 当然のことではあるが、刑法において行為の結果である危険を擬制することは、到底許されないところである。

[37] それらのことは、私達が本件において、これまで様々な立証を行つてきて得られた次の結果からも裏付けられるものである。
(一) 戸別訪問それ自体は、何ら罪悪性・違法性を有しないこと(法律で定められることによつて犯罪とされた法定犯である)
(二) 戸別訪問を禁止する理由(処罰をする理由)が全く根拠薄弱であること
(三) 禁止目的と目的達成手段との問に合理的関連性が全く認められないこと
(四) 戸別訪問を全面一律に禁止しなくても他の方法によつて十分に立法目的を達成する手段・方法が存在すること(実質犯たる買収罪等の規定も現行法に用意してある)
(五) 戸別訪問は、誰でもいつでも経費をかけないでできるものであること
(六) 戸別訪問は、優越的地位たる表現の自由に属すること
(七) 戸別訪問を禁止していることによつて、民主主義の発達を阻害しているという逆の弊害が生じていること
(八) 現実には多くの選挙関係者が戸別訪問をしており、一般国民の間で法の権威が全く失墜していること
(九) 本件捜査が共産党を支援した被告人らのみを目的とした恣意的な逮捕・公訴の提起で、法の適用・運用における不正義を生んでいること
(十) 外国において戸別訪問は全く自由で、しかも重要な選挙運動の一つとされており、禁止しているのは日本位なものであること
(十一) 現実に行われている戸別訪問も弊害と全く関係のないものが殆んどであること(極めて一部に病理現象が見受けられるが、それは、戸別訪問禁止規定の存否と全く関係がない)
[38] ちなみに、これらの殆んどの点は、伊藤正己裁判官もいわゆる高津事件において喝破されているところである。
[39] 本件被告人らの一部戸別訪問行為は、訪問時間、訪問態様等あらゆる面から検討しても、模範的なもので、言われているところの種々の弊害(実害)が全くなく、かつ、そのおそれ(実害発生の危険)さえも全くなかつたことも明らかとなつている。
[40] 以上のように、一般的にも個別的にも何らの弊害(実害ないしその危険)を全く伴わない状況の下、被告人らの正当な行為に対し、原判決が罰金1万円の刑を言い渡したことは、前述した内容をもつ憲法31条に違反するものである。
[41] 万一、アメリカ合衆国に日本における如き戸別訪問の全面一律禁止規定があれば、一点の疑いの余地なく、適法手続条項で違憲とされるであろう。それ位、戸別訪問は、民主国家にとつて普遍的なものなのであり、かつ、適法(適正)なものだからである。

[42] 以上の次第であり、原判決は、憲法31条の解釈適用を誤つたものであり、刑事訴訟法405条1号、410条1項により、原判決の破棄を求め、上告に及んだ次第である。
[1] 公職選挙法第138条、第239条3号は憲法第31条に違反し、無効である。

[2](一) 憲法第31条はアメリカの適正手続条項に由来し、憲法第39条と相俟つて「成文の法律をもつてあらかじめ犯罪の前に定められた規定がなければ犯罪もなく刑罰もない」という罪刑法定主義の原則を定めたものである。
[3] 罪刑法定主義の原則、適正手続条項は単に刑事手続の適正だけでなく、刑罰法規の内容が適正でなければならないことを要求し、又刑罰法規の内容が国民に対し何が犯罪であるかを適正に告知するという条件を満たすに足る明確性を有しなければならないことを要求する。
[4] 刑罰法規の解釈と運用は国民の人身の自由、幸福追求の権利などに対する重大な制約を内包するものであるから、刑罰法規の内容自体が明確、適正でなければならないことは極めて当然の憲法上の要請である。
[5]「憲法第31条は前述のとおりアメリカの適正手続条項に由来するものである。したがつて、「適正な」という表現はないが、当然に、罪刑の法定が適正であることを要求するものといわなければならない。
 そのことから、第一に、刑罰規定を設けるにあたつては、実質的な処罰の必要と根拠が充分に明白に認められることが必要である。何が保護法益であるかを充分に見定め、これを刑罰規定をもつて保護する必要があることが明確にいえるばあいに、はじめて、刑罰法規を設けることが許されるものといわなければならない。ことに、刑罰規定を設けることが基本的人権を制限する結果になるようなばあいには、このことはとくに注意されなければならないのである(団藤刑法綱要)。」
[6](二) 戸別訪問処罰の根拠について、昭和56年6月15日本事件の最高裁第二小法廷判決は、
「戸別訪問が買収、利害誘導策の温床になり易く、選挙人の生活の平穏を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することを目的としている」とし、「右の目的は正当であり、それらの弊害を総体としてみるときには、戸別訪問を一律に禁止することと禁止目的との間に合理的な関連性がある」
としている。
[7] つまり、同判決は戸別訪問は(a)不正行為温床(b)私生活の平穏侵害(c)候補者の煩と出費(d)情実を生じ易いことに禁止目的があるとし、これらを総体としてみるときには合理的関連性があるとするものだから、これらを個別にみるときは合理的関連性はないことを認めたものであるが、しかし、個別にみたとき合理的関連性の無いものが、総体としてみるとき何故に合理的関連性を生ずるのか全く不可解なところである。関連性を量的なものとし、個別の弊害との関連性は少ない(合理性がない)が、総体とすると関連性が高まる(合理性を生ずる)という判示であるとしても、到底納得のできるところではない。個別に合理的関連のないものをいくら寄せ集めても合理性を生ずるいわれはない。

[8](三) 公職選挙法第138条1項は「何人も選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない」と規定して、いわゆる戸別訪問を一律に禁止し、第239条3号において、この違反に対し、「1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金」の刑罰を定めている。戸別訪問は明らかに犯罪行為とされている。しかし、戸別訪問はそれ自体は全く違法性のないものである。国民は日常普段の生活の一部として戸別訪問を繰り返しており、例え、戸別訪問が選挙に際し、投票を得又は得しめない目的を伴つたとしてもそれ自体には何の違法性もない。しかるに戸別訪問が犯罪として処罰されるその根拠はあくまで戸別訪問が前記判示のような弊害を招く「危険」があるということであり、法益も本来戸別訪問自体が目的ではなく、あくまで右各種弊害(危険)の防止であり、戸別訪問禁止はそのための手段にすぎないものである。
[9] 従つて戸別訪問処罰規定の合憲性判断については、当の処罰と弊害との関連性はおろそかにされることなく充分に合理性があるかどうかが審査されなければならない。
[10] 右規定が憲法第31条の要求する刑罰の適正(処罰の根拠と必要性)を有するか否か、構成要件の明確性が有するかどうかについて充分慎重な審査がなされねばならない。殊に右規定が戸別訪問という表現の自由の制約を伴うものであるから審査はより厳格になされねばならない道理である。
[11] 戸別訪問禁止規定の右審査にあたつては、次の2点が検討されねばならない。
1 戸別訪問行為が法の目的とする法益の侵害をもたらしたものであることあるいは侵害の危険を生じたものであること。
2 法益の侵害又は侵害の危険防止のために当該内容の処罰の必要性が高度にあること。
[12] これは、法益の目的達成のためには戸別訪問処罰が有効であることを前提とし、戸別訪問の全面一律禁止が必要かどうかということに関連する。

[13](四) 繰り返すまでもなく、刑罰が適正なものとして根拠を有するのは、当の行為が刑罰に値する法益侵害又は法益侵害の危険を生じたものであることを要する。侵害も危険もない行為に刑罰を課すことはそもそも刑罰としての合理性を有せず、憲法第31条に違背する。
[14] ところで、戸別訪問罪は前記のようにそれ自体は違法性もないが、法の目的とする危険(弊害)防止の手段として禁止、処罰される構造のものであるからいわゆる危険犯であり、それも抽象的危険犯に属するとされる。危険犯は侵害犯に対比され、法益侵害の結果(実害発生)を要せず、法益侵害の危険で足るとされ、危険犯の中でも戸別訪問罪のような抽象的危険犯はその構成要件上実害発生の危険が具体的に現われたことを要しないとされる。
[15] しかしながら、抽象的危険犯において、かかる具体的危険の発生が要件とされないのは、その行為のもたらす危険の程度が低いからではなく、逆にその行為が法益侵害の高い行為であり、構成要件上の行為自体が、それだけでただちに危険を徴表するものとなつているからであり、それ故にまた当の行為が行われればそれだけで通常具体的危険の発生が高度に推定されるからである。例えば、刑法第110条の非建造物放火はそれ自体では必ずしも公共の危険を生ぜしめるとは限らないので、犯罪の成立要件に公共の危険を具体的に生じたことを要するとされているに対し、刑法第108条、109条の現住、非現住建造物放火罪が具体的危険の発生を要件としないのはその行為自体が公共の危険の高い行為であり、それ故にその行為だけで通常公共の危険の発生が強く推定されるからである。
[16] 抽象的危険犯処罰が合理性を有するとすれば、まさに右の点において犯罪行為そのものが構成要件上高度の危険を有するものに類型化、限定がなされているからである。

[17](五) ひるがえつてみるに、戸別訪問罪は処罰規定そのものが抽象的危険犯としての適正な根拠を有するとは到底言い難い。
[18] 抽象的危険犯は特に危険の発生を構成要件上の要件としなくてもその行為だけで、危険が明瞭でなければならないが、戸別訪問行為はそれだけで直ちに危険(弊害)を有するものではない。戸別訪問には通常危険(弊害)を伴うという関係が見当らず、戸別訪問一般と弊害との関係は単に観念上の想定であり、そうしたこともありうるという程度のものである。
[19] 前記のように抽象的危険犯においては具体的危険の発生は構成要件とされず、格別の立証も不要であるとされるが、それはその行為自体から危険が強く推定されるということに根拠がある。
[20] しかしながら戸別訪問罪においては、戸別訪問行為自体から危険(弊害)の発生が推定されるという関係はない。本来刑事法上推定に基づく処罰が認められるかどうかすら問題であろうと思われるが、戸別訪問の場合にはかかる推定自体が成立しない。
[21] このように戸別訪問罪は抽象的危険犯として要求される内容が伴つておらず、刑罰法規としての適正を欠いている。
[22] なお、戸別訪問罪を抽象的危険も要求されない形式犯(行政犯)とすることはできない。戸別訪問罪の法定刑は形式犯(行政犯)に対するものとしては重きにすぎるし、表現の自由にかかわる行為に対し、危険すら要求されない行政犯として刑罰を課すこと自体憲法第31条違背であり、許されるべき事柄ではない。

[23](六) 次に(三)2の項で述べた問題であるが、法益侵害の危険(弊害)防止のために、戸別訪問一律処罰の必要性が存在するであろうか、選挙買収防止のために戸別訪問全面禁止が有効であり且つ必要であろうか、候補者の煩わしさを防ぐため費用がかかるのを防ぐため、投票が情実に流れるのを防止するため、選挙民の生活の平穏を守るため戸別訪問の全面禁止が有効であり且つ必要であろうか。
[24] 戸別訪問罪は放火罪抽象的危険犯の場合のように、高度に危険な行為を類型化し、限定しておらず、戸別訪問を一律全面禁止している。
[25] 戸別訪問はその大部分に弊害発生のおそれがない。極く一部の買収事犯それも戸別訪問とは観念上の関連にすぎぬものだが、これを防止するため戸別訪問を一律に全部禁止する必要は全くない。又仮に弊害防止の必要があるとしても例えば時間、人数の制限、候補者の資金規制、その他の方法により充分これを防止することが可能である。
[26] 弊害防止のため戸別訪問全面禁止は有効でなく、又その必要もない。

[27](七) このように戸別訪問処罰を定めた公職選挙法は刑罰法規としての内容的適正を有せず、憲法第31条に違反し無効である。
[28] 戸別訪問処罰は戸別訪問自体が目的ではなく、他の弊害防止の手段として禁止されるものであるが、戸別訪問自体はかような危険を徴表するものではなく、かかる危険すら存しない行為には処罰は根拠を有せず、処罰規定はその基本的条件を欠くものである。
[29] 戸別訪問はその法益に照らしてみてもこれを一律に全面禁止する必要はない。戸別訪問罪が抽象的危険犯としての合理性を有するためには、その行為について法益との関連で構成要件に類型化、限定づけがなされねばならない。かかる限定なしに一律に禁止し処罰することはたとえ行為の要件自体が明確だとしても、真に可罰的な行為を限界づけたことにはならず、実質的に刑罰法規としての明確性を欠く(中山研一 戸別訪問罪の問題性)ものである。
[1]一、戸別訪問を含む選挙運動の規制に対する違憲性を問う事件が次から次へと最高裁の門を叩いてきた。そして戸別訪問に関していえば本件における従前の最高裁判決やその引用する最高裁判決は、これに答えて戸別訪問の一律禁止は憲法21条に違反するものではないと宣言し続けてきた。にもかかわらず、なおその違憲性を問う事件が今なお次々と最高裁に押しかけている。そしてこうした事態は最高裁が戸別訪問を含む選挙運動の自由について根本的に問いなおすことのない限り今後も変わることなく続くにちがいない。それは、これまでの最高裁判決が戸別訪問をある固定観念にとらわれてその実態を見ず観念的に考えられるその消極的側面を単なる推測にもとづき強調し、これを禁止する実質的理由の有無についての検討をさけていることに由来するものである。
[2] 本件における従前の控訴審(広島高裁松江支部)判決は、いわれるところの弊害の防止と戸別訪問の禁止との間には合理的関連性がないことを納得的に示した。にもかかわらず本件における従前の最高裁判決(最高裁昭和55年(あ)第874号・昭和56年6月15日第二小法廷判決、以下単に本件における従前の最高裁判決という)は戸別訪問の禁止はそのもたらす弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することが禁止目的であるとしたうえ、
「それらの弊害を総体としてみるときには」、「戸別訪問を一律に禁止することと禁止目的との間に合理的な関連性がある」
というにとどまつており、予測される弊害と戸別訪問との間における因果関係、具体的関連性について、その検討、究明をさけたのであり、要するに合憲という結論のみを、従来同様繰り返えしたにすぎないものである。これでは到底、国民の納得を得ることはできえない。だからこそ、あらためて最高裁にその検討をせまらざるをえないものである。
[3] 現に、本件における従前の最高裁判決が言い渡されたその後、最高裁において伊藤正己裁判官の戸別訪問に関する意見が現われた。(最高裁昭和55年(あ)第1472号・昭和56年7月21日最高裁第三小法廷高津事件判決)
[4] 右伊藤意見は、
「最高裁判所の合憲とする判断の理由のもつ説得力が多少とも不十分である」こと、「必ずしも広く納得させるに足る根拠を示しているとはいえない憾みがあることは否めない」こと
を認め、
「戸別訪問を禁止することが憲法の保障する表現の自由にとつて重大な制約としてそれが違憲となるのではないかという問題を生ずるのは当然といえ」る
とし、最高裁判決のあげる諸弊害は、「直ちに十分な合憲の理由とするに足りない」ことを卒直に認めざるをえなかつたものである。
[5] 国民の政治意識は今や高まり、一審判決がいうように、
「戸別訪問は、候補者、選挙運動者が選挙人の生活の場に出向いて、候補者の政見等を説明し、投票依頼などをすることであるから、候補者、選挙運動者にとつては、選挙運動の方法として、極めて自然なものであり、また、選挙人にとつても、彼等が戸別訪問してくれることは直接彼等と対話できることであるから、候補者の政見等をじつくり聞くのにも、最も効果的な方法である。」
「戸別訪問は、選挙運動の方法として、他の方法をもつて代替し得ないほどの意義と長所を有するものであり、財力のない一般国民にとつては、なくてはならない選挙運動なのである。」
そして、「現代の議会制民主主義の下では、国民の日常的な政治活動は、最も尊重しなければならないしとりわけ、主権者が向う数年間の政治を託する代表の選挙の際には主権者の選挙運動の自由が、必要不可欠であり、それが最大限に保障されなければならないのであつて、現行憲法は、まさに、この自由を保障しているのである。」
という国民の認識が広まつているのである。
[6] この国民の政治意識と最高裁の意識の隔離があるかぎり、戸別訪問の違憲性は、いつまでも問いつづけられるに違いない。
[7] 戸別訪問の違憲性は、従来同様、憲法21条との関係でなお問い続けられるであろうが、それはまた、憲法31条との関係においてもその回答をせまられているものである。
[8] それは本件一審判決がいうように、
「人が人をその居宅に訪ねるという戸別訪問は、本来、国民の日常生活の一場面であり、古来より対人交際の基本的手段となつているものであつて、それ自体、何ら犯罪視されるいわれはない。選挙運動というのは、国民が知人、友人、隣人に対し、自分の支持する候補者に、究極的には投票を依頼すべく働きかけることを含んでおり、従つて、必然的に戸別訪問は、選挙運動の基本的手段の一つとならざるを得なかつたのであつて、現に西欧型民主国では、すべてそうなつている」
にもかかわらず、現行法制では戸別訪問は、「1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金」という重い刑に処せられることになつている。このような刑罰が許されるのは何故かという卒直な疑問は、「権利のための斗争」となつて、何が法的主義かを問おうとしているのである。戸別訪問の違憲性が問われる由縁は、正しく、私人の生命、身体、財産をはじめ各種の公私の利益をそこなう現実の有害性は何らないのに、法の形式的規定を厳格に貫徹し、その刑事責任を問うことが社会生活の実態にそむき正義と矛盾する結果を招来しているからにほかならないのである。

[9]二、ところで、原判決は
「戸別訪問行為……を一律に禁止することと選挙の自由と公正を確保することとの間には、客観的、合理的な関連性が認められるから、このような危険に着目して戸別訪問行為を違法性のある行為として一律に禁止することが罪刑法定主義に違反するものではなく、……また戸別訪問の規定が刑罰法規としての明確性を欠くものではないから、公職選挙法第138条が憲法31条に違反するとは認められない」
旨を判示し、被告人らに公選法138条1項、239条3号を適用して有罪判決を言い渡した。
[10] 原判決で問題とされなければならないのは、
[11] 第一に、戸別訪問の一律禁止と選挙の自由と公正を確保することとの間に果して原判決が当然のこととして言うような客観的合理的な関連が認められるか否かについてあらためて検討されなければならないこと、それは前記のとおり、伊藤意見はもとより国民の卒直な疑問に答え、最高裁判決を権威あるものとするためにも必要なことであり、同時にまた、この客観的合理的関連性が否定されるならば、この関連性を当然のこととして肯定したうえ、戸別訪問禁止が憲法31条に違反しないものとしている原判決が崩壊する運命にあるものである。
[12] 第二に、原判決は、戸別訪問は選挙の自由と公正に対する危険性をもつものであり、違法性がある以上、一律禁止は罪刑法定主義に違反せず、戸別訪問の規定が刑罰法規として明確性を欠くものではないから憲法31条に違反しないとしているが、他方、前記高津事件判決における伊藤意見では
「戸別訪問はそれ自身として違法性をもつものではなく、買収などを誘発する可能性があるといつても、なお抽象的な危険があるにとどまり、実際にはそのようなおそれのない場合があるし、かりにその可能性があるとしても不正行為の発生の確率の高いものとは必ずしもいえない。憲法上の重要な価値をもつ表現の自由をこのような害悪発生のおそれがあるということでもつて一律に制限することはできないと思われる。また、具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に,表現の自由の行使を形式犯として刑罰を科することには、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる。」
としているところ、この見解との関係が問われなければならない。

[13]三、憲法31条は、「何人も法律の定める手続によらなければその生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定している。この規定は「法的手続の保障」を定めたものであり「公正と賢明の最低限度の水準」を満足させる手続、つまりは人権が侵害される可能性を最小限度にくいとめるに役立つ適正な手続でなければならないことを憲法は要求しているものであり、その保障の一として罪刑法定主義の原則が定められているのである。罪刑法定主義は法律がなければ処罰できないということであるが、逆に法律を作りさえすれば何でも処罰できるというものでは決してない。ことに言論の自由、労働基本権など憲法が保障する自由権と境を接する領域においては、法律の厳格解釈ないし縮少解釈が要求されるし、また処罰の必要性、正当性を是認しえない場合にはその刑罰法規自体が憲法31条に違反するものとして無効とされるものである。戸別訪問について本件における従前の最高裁判決は憲法21条との関係で、買収などの弊害と禁止との間の合理的関連性があるとした。そして原判決も、盲目的にこれに従つているが、しかし前記のとおり、その関連性についての論証は全くないものであり、そのような結論を導く理由、由縁は全く不明というほかなく、そのことは処罰の根拠が薄弱であることを意味するものである。本件における広島高裁松江支部判決は、その合理的関連性を理由を示して否定し、また前記伊藤意見もこの合理的関連性に疑問を呈している。われわれはすでに従前の最高裁における昭和56年1月30日付答弁書39頁以下、同昭和56年5月15日付弁論要旨45頁以下、原審(差戻し審)における意見書19頁以下において戸別訪問の禁止と禁止目的との間に何らの合理的関連性がないことを明らかにしてきた。
[14] その詳細は右書面における主張を全て援用することとするが、いわれるところの買収などの害悪の発生の蓋然性と戸別訪問との間には客観的、合理的関連性、因果関係は全くないのであり、従つて憲法31条との関係において、戸別訪問禁止の立法目的を合理的ならしめる立法事実は有しないものである。同時にまた、平常時はもとより、選挙時において、何人も日常生活としての人が人を訪ねる「戸別訪問」行為は許されているものであり、また選挙時においても何人も「選挙に関し投票を得る目的」をもつて、個々に面接や電話をする選挙運動は現行法上許されているものであることとの対比において公選法138条1項により戸別訪問を全面、一律に禁止することは「必要最少限度」の基準に反しているというほかないものであり、実質的な処罰の必要と根拠を見い出すことができえないのである。
[15] 原判決は、戸別訪問と憲法31条との関係について、戸別訪問の弊害と選挙の自由と公正という禁止目的、保護法益との間における客観的合理的関連性を具体的に検討しないまヽにこれを肯定したうえ、戸別訪問行為は危険、違法のものであり罪刑法定主義に反しないとしているが、これは憲法31条とこれにみちびかれる罪刑法定主義、「必要最少限度の基準」の解釈適用を誤つているものであり破棄を免れない。

[16]四、仮りに戸別訪問の一律禁止と禁止目的との間に合理的関連性があり、法益侵害の危険性があるとしても、その危険はあくまで抽象的危険にとどまるものであり、何らの具体的危険を伴わない場合にも無差別に処罰することが許されるか否かが次に問われなければならない。被告人らの本件訪問行為は、日常生活の一貫として従前行つていた赤旗日曜版新聞の配達、集金のための訪問行為であり、偶々の機会に面接し訪問した行為であり、あるいは選挙用法定ビラを配布する目的で行つた訪問行為であり、これらはいずれも社会常識的な行為であり、公選法上許される行為であり、問われているところの得票を得る目的なるものも、その実態は、社会常識的な挨拶にすぎないものである。審理の結果明らかにされた全証拠によつても被告人らの行為には買収、利害誘導の危険があつたとか被訪問者の生活の平穏を害したとか、情実に支配されたとかの結果はなく、その可能性、蓋然性も存しないもので危険の萌芽さえなく、無害のものである。このような法益侵害の具体的危険を伴わない行為に対し刑罰を加えることは憲法31条、罪刑法定主義に反するものというほかないのである。前記伊藤意見が
「具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に刑罰を科することは憲法上のみならず刑法理論としても問題がある」
と指摘したのは当然のことである。因みに右同様、昭和56年10月22日最高裁第一小法廷判決が言渡した国家公務員法違返事件(いわゆる大坪事件判決)において、谷口裁判官は、
「およそ人の行為が犯罪として成立し処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険性を伴わない行為を違法として処罰することは刑罰法の基本原則に反する」「罰則の解釈適用についてやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である。行為者がたまたま国家公務員の身分を有していることの一事により行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは憲法31条に反するものといえよう」
とし、同じ判決で団藤裁判官が
「公務員の政治的行為であつて、公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を現実に害するもの、すくなくとも、これを害するような具体的な危険があるものに限つてその内容の規定を人事院規則に委任したものと解することによつてかろうじてこの規定の合憲性を肯定することができ……この規定の違反行為は公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性がないかぎり……構成要件該当性を欠くもの」
としているのである。
[17] 法益侵害ないしその危険性が具体的に存しないところに、およそ犯罪の概念が成立する余地はないものである。本件は前記のように法益侵害の具体的危険性のないものであり、このような危険のない行為を含めて一律処罰を予定する公選法138条1項は憲法31条の要求する構成要件の明確性、処罰の必要と根拠の明白性に明白に反しているのである。原判決は法益侵害に対する具体的危険の発生のない本件戸別訪問行為に対し刑罰を科することが憲法31条との関係で何故許されるのか具体的判示を欠き、法的侵害の具体的危険性のないものに対し本来、公選法138条1項、同法239条3号の適用を排除すべきであるのにこれを適用したものであり、これは憲法31条の解釈を誤つたものであり破棄を免れない。
[1]一、公職選挙法138条1項の戸別訪問罪は、そもそも憲法31条に違反し無効のものである。
[2] 原判決は、弁護人の右主張に対し、戸別訪問罪に対する最高裁の憲法21条合憲論の手法をそのまま31条にいいかえたにすぎない全く説得力のない理由でこれをしりぞけた。
[3] 原判決のこのような態度は、合憲の結論をいそぐがあまり憲法上の人権保障規定としての(それは当然のこととして裁判所の違憲立法審査権の積極的発動を義務づけるであろう)罪刑法定主義の現代的発展と実質的役割に目をつぶり、刑法理論に於てあたらしい問題として検討されつつある抽象的危険犯に於ける問題性をも全く一顧だにしないものとして批判されるべきである。
[4] 以下、公選法138条1項の規定が、罪刑法定主義に違反し、あるいは被告人らの本件行為に同法を適用することが憲法31条に違反するものであることを論述する。

[5]二、公選法138条1項は「何人も選挙に関し、投票を得、もしくは得しめ、又は、得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない」と規定する。この法文自体からは何が戸別訪問であるのか、どのような行為が処罰され、どのような行為が許されるのか知ることはできない。判例によれば、
戸別訪問とは「連続して2以上の住民に就き、訪問することを指称する」、
「連続して」とは「必ずしも戸より戸へと間断なく歴訪する場合も包含する」とされ、
その目的があるかぎり「その訪問について、他の用務をあわせ有した場合」は勿論、「仮りにその目的が直接の目的でなかつたとしても」、戸別訪問罪は成立する、
とされている。
[6] このように「戸別訪問」の意義が法文の解釈に委ねられざるをえないために、一般国民にとつては勿論、選挙運動にかかわる国民にとつてもどのような場合に罪となり、どのような場合に罪とならないのか、はなはだ不明確なものとなり、そのことが、選挙を国民から遠ざける理由の一つとなつていることはこれまで指摘されてきたとおりである。

[7]三、罪刑法定主義とは成文の法律をもつてあらかじめ犯罪の前に定められた規定がなければ犯罪もなく刑罰もない、という原則であるが、その内容をなす派生的原則の発展として近時、(一)明確性の原則(「明確な法律なければ犯罪なし」)、(二)実体的デユー・プロセスの理論(「適正な法律なければ犯罪なし」)が承認あるいは提唱されつつあることは周知のとおりである。そして、罪刑法定主義の思想的基礎づけについても自由主義と法的安定性に加え、民主主義と人間の尊厳の思想、正義と合目的性などの諸原理が多元的に主張されるようになつてきている。
[8] 更に、罪刑法定主義は、右現代的発展とその意義および役割の重要性から、法律のレベルから憲法のレベルへ、さらに、立法者をも拘束する基本権的原則へと高められ、日本国憲法にも31条が規定されるに至つている。
[9] この憲法31条の存在によつて、裁判所の役割がかわつたこともあわせて指摘さるべきであろう。すなわち、違憲立法審査権をもつ裁判所のもとでは、裁判所は、たんに法律に拘束されるにとどまるだけでなく、立法内容の合憲性を審査し、不当な刑事立法から国民を守るという重大な役割を任うこととなつたのであり、これによつて、罪刑法定主義は、人権保障の形式的原理から、実質的原理へとなつたといえよう。
[10] この点で、最高裁に於て、戸別訪問罪の憲法31条適合性についての違憲立法審査権の発動を強く求めるものである。

四、明確性の原則
[11] 罪刑が法定されても、その内容が不明確で、何が犯罪であるか、あるいは犯罪でないかが一般国民にも裁判官にもわからないようなものであれば、刑罰権の恣意的な行使を防ぎ、国民の自由を守るという罪刑法定主義の目的は達せられない。
[12] そこで最近、刑罰法規は明確でなければならず、不明確な刑罰法規は憲法31条に違反し、無効であるとする原則が認められるようになつた。
[13] この原則の機能は、国民に何が犯罪であるかを適正に告知し、法的効果の予測可能性を与えると同時に、裁判官の恣意的裁判を防止し、さらに、捜査機関の不当な捜査活動に対して国民を保護するというところにある。
[14] そして、不明確のゆえに違憲とされるのはどのような場合であると解すべきであろうか。
「裁判官があらゆる合法的な方法を用い、行為者の立場に立つて法文を解釈しても、なお不明確さが残つて法的確実性を害する場合」
とする見解もあるが、この原則の機能が何よりも国民に対する適正な告知と法的効果の予測可能性を与えることにあると考えるとき、その刑罰法規の適用対象たる一般国民の平均人が法規の文言から何が禁止されているかを理解することができない場合には、不明確で違憲と解すべきであろう。
[15] なお、徳山〔徳島〕市公安条例事件の最高裁判決も、この明確性の原則の基準について
「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうか」(最大判昭和50・9・10)
としているとおりである。
[16] かような基準に照らすとき、前述のごとく、公職選挙法138条1項は、一般国民の平均人にとつていかなる行為が戸別訪問罪に該当するのか、法文上明らかでないことは、明らかであり、したがつて、明確性の原則に反し、憲法31条に違反して無効というべきである。

五、実体的デユー・プロセスの理論
[17] 「実体的デユー・プロセスの理論」とは、憲法に規定された適正手続条項は、刑事手続の適正のみならず、刑事立法の実体的内容の合理性をも憲法上要求し、その内容が刑罰法規としての合理性のない場合には、デユー・プロセス違反として憲法違反となるという理論である。
[18] すなわち、
「国家による刑罰権の行為はそれが憲法に規定された個別的な基本的人権の保障規定との牴触のおそれの有無をとわず、それを蒙る者に対して多大の苦痛を与えるものであり、個人の自由の限界を画するものであるから、個人の自由相互間の『内在的制約』の具体的表現と認められる場合にのみ憲法上許されることになる。これを刑罰法規の内容という面からみたとき、それはまさに合理的な内容の到罰法規のみが憲法上許されるという主張」(芝原邦爾「刑法の社会的機能」)
なのである。そしてこの理論は、罪刑法定主義の派生的原則として、有力な学説を提唱し、最近の下級審判例にはこれを正面から認めたものもある。(所得税法違反罪に関する東京地裁判決、昭和44・6・25)。
[19] 団藤重光最高裁判事も、この実体的デユー・プロセスの理論を提唱される有力な一人であるが、その著書「刑法綱要」の中で、
「刑罰規定を設けるにあたつては、実質的な処罰の必要と根拠が充分に明白にみとめられることが必要である。
 何が保護法益であるかを充分に見定め、これを刑罰規定をもつて保護する必要があることが明確にいえる場合に、はじめて刑罰法規を設けることが許されるものといわねばならない。ことに刑罰規定を設けることが基本的人権を制限する結果になるような場合には、このことは特に注意されなければならない」
[20] まさに正論である。すなわち刑罰法規は、その保護法益が明確であつて、禁止(構成要件)と、それによつて保護される法益とが合理的関連性あるものとして明白に認められるものでなければならず、とりわけ基本的人権にかかわる場合には、その合理的関連性は、高度のものが要求されているといわねばならない。
[21] しかるときには、もともと戸別訪問は国民の選挙運動の自由および表現の自由に属するものであるから、
(一) このような自由を規制してまで達しなければならないほどに重要な保議法益が具体的かつ明確に存在すること。
(二) 戸別訪問を禁止し、処罰することによつて、その弊害防止の蓋然性が高いこと。
(三) 戸別訪問禁止し、処罰以外に、その法益保護のためのより制限的でない手段方法がないこと。
が要求されよう。
[22] 右の点については、第一審以外弁護人が主張立証してきた如く、戸別訪問禁止規定の保護法益なるものが、いずめもきわめて抽象的であり、戸別訪問を禁止しないとその弊害が生ずるのかどうか、生ずるとしてもどの程度生ずるのかということが客観的に明らかにされないままである。又、不正行為等の弊害を防止するという目的からすれば、戸別訪問の中で買収等のあらわれたものを禁止すればよく、そのためには公選法221条の買収の申込、約束に着目してこれを処罰することが可能かつ十分である。
[23] したがつて、戸別訪問罪は、その形式に於て明確性を欠くと同時に、その実質に於ても合理性を欠き、憲法31条に違反するものというべきである。
[24]一、犯罪の成立、すなわち具体的な行為者を具体的な行為ゆえに処罰する「処罰根拠」は、(一)なんらかの行為を処罰する規定を定立する場合に一般的に認められることが必要であるが、それと同時に、(二)具体的な行為者をその具体的な行為において処罰する場合にも、現実に認められることが必要である。
[25] 戸別訪問罪は、その立法事実の検討及び弊害論の検討の際に弁護人が主張、立証してきたように右(一)の処罰根拠自体にも重大な問題があるが、右(二)の処罰根拠、いいかえると前記実的デユー・プロセスの要請を刑法理論の危険犯における「危険」との関連でみるときにも、その根拠を欠き、したがつて戸別に訪問する行為を具体的な法益侵害の危険の発生の有無を問わず一律に処罰する規定であるが故に、憲法31条に違反する法規であり、あるいは、一律処罰は憲法31条に違反するといわねばならないのである。以下具体的に述べる。

[26]二、投票を得る目的をもつての訪問行為は、それ自体なんらの法益をも侵害するものではない。むしろ、選挙期間中に、国民の一人一人が自らの支持する政党や候補者の政策を直接訴え、意見を交換することは国民主権主義、議会制民主主義の理念から積極的に評価されるべきものである。にもかかわらずこの戸別訪問が禁止され処罰される理由はどこにあるのであろうか。
[27] 戸別訪問罪は、本件の昭和56年6月15日、最高裁判決によれば、
「戸別訪問が、買収等の不正行為の温床となりやすく、選挙人の生活の平穏を害するほか、候補者側も訪問回数を競う煩に耐えず、多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配されやすくなる」
などの理由によつて禁止されるものであるとされている。(ところで不正行為温床論以外の弊害なるものは、およそ独立した保護法益たりえず、又、それ自体として合理的な一般的処罰根拠たりえないことは明らかである)。
[28] すなわち、戸別訪問罪の処罰根拠は右「買収等の危険」ということになる。
[29] そして、この危険の発生は法律上の要件とされていないので戸別訪問罪は、具体的危険犯ではなくいわゆる「抽象的危険犯」だと解されるのが一般である。
[30] そこで問題点の第一は、国民の政治活動の自由、表現の自由という憲法上の重要な権利・自由を制約し、この制約に反した行為に対して具体的な法益侵害の結果どころか具体的な法益侵害の危険の発生すらない場合にまで、これを犯罪として処罰することが実体的デユー・プロセスの原則から許されない、ということである。そもそも、抽象的危険犯という法概念自体が、罪刑法定主義あるいはデユー・プロセス、および責任主義の立場から、その存在根拠を問われているのであるが、その禁止および処罰規定の存在によつて制約される国民の自由権利の性質からすれば、すくなくとも具体的危険の発生あつてはじめて処罰の合理性が認められる、というべきである。
[31] さらに第二に、いわゆる抽象的危険犯の場合法令により当該行為それ自体危険を発生させるものと擬制され、あるいは反証を許さぬ仕方で推定される、とするのが通説である。だから、
「抽象的危険犯というためには、当該行為が法令に具体的に規定せられ、かつその危険性が右の擬制に値する程度のものであると同時に、法令の規定そのものが右の擬制をしているものと解されるものであることを要する」(昭和47年12月25日大阪高裁判決)
とされているのである。ところが、戸別訪問罪は、あらゆる「戸別訪問」行為を一律に処罰する形式をとつており構成要件上危険な行為としての類型化がなされておらず、むしろ、単なる「形式犯」あるいは単純不服従犯の規定の如くである。しかも、戸別訪問に買収等の不正行為の発生の危険性が通常一般的に随伴するなどというものではなく、したがつて右危険性が、その擬制に値する程度のものではない。かように、この点からしても、戸別訪問罪は刑罰法規としての明確性、合理性を欠き、かつ、責任主義に反するものであるといわねばなるまい。
[32] それでは、戸別訪問をむしろ「形式犯」あるいは「単純不服従犯」として理解することができるであろうか。しかし、戸別訪問罪が憲法上の権利、自由を制約、禁止するものであること、又、その法定刑が重きにすぎることから、かような解釈は可能でない。又、もともと、本当になんら法益に対する危険がない形式犯があれば、そのような行為に対して「刑罰」をもつて臨むことは許されないと解すべきである。
[33] 結局のところ、戸別訪問罪の規定は、具体的な法益侵害の危険性のない場合も一律にその処罰の対象としているという点で、もともと憲法上の権利として保障されている政治活動の自由、表現の自由等の権利自由と違法不当に侵害する結果となつて憲法31条に違反する違憲無効の規定といわざるを得ず、又、本件の甲野、乙山両被告人の各訪問行為は、およそ不正行為等の法益侵害発生の危険性が全くないのであるから戸別訪問罪を本件に適用することは許されないのである。
[1](一) 広島高等裁判所差戻審判決(原判決)は上告人(被告人)乙山秋子の所為について、明らかに誤つた事実の認定を前提として、これに有罪の判決をしている。
[2] 被告人及び弁護人は、本件一審以来一貫して被告人両名の訪問行為は正当な政治活動の一環として行われたものであつて戸別訪問罪に該当しないことを主張してきた。特に、被告人o乙山の被訪問者伊藤春恵、同浅津熊市に対する訪問行為は赤旗日曜版の配達、集金の目的でなされたものであり、これらの行為までも戸別訪問罪に該当するものと認定することは絶対に許されないことを強調してきた。広島高等裁判所は右主張に基き、出張尋問による事実調べまでしながら、その判決では十分な理由を付することなく、右浅津、伊藤に対する配達、集金行為までも他の訪問行為と同一視し、これを戸別訪問罪に該当するものと認定している。正に「味噌も糞も一緒にする」論理とはこのことである。
[3] 刑事事件における事実認定は厳正且つ謙譲でなければならない。厳格な要件を証拠によつて疑いなく立証された場合にのみ、これを存在する事実として認定し、合理的な疑いをさしはさむ余地が残る場合にはこれを存在しないものと判断するのが刑事法の原則である。
[4] 然るに、原判決は被告人植田の浅津、伊藤に対する訪問行為について、その目的、配達、集金等の各事実について故意に眼をつむり、十分な検討もしないまま、他の訪問行為と同一視し、十分な証拠もなく、多大な疑問があるにもかかわらず一連の戸別訪問と誤つた認定をしてしまつている。
[5] 右事実誤認は重大であり、単に量刑にとどまるのみならず、他の訪問行為との連続性その他判決に影響を及ぼすべきものと言わざるをえない。

[6](二) 以下その理由について述べる。
[7] 公選法138条は、「何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない」と規定し、同法239条は、右の規定違反の者に対し、「1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金に処する」旨定めている。
[8] ところで、人の人たるは人と人との交際・交わりにある。「人間」という言葉自体が示すごとく、人と人との交際それが人間社会を構成しているのである。
[9] 公選法は、この人間本来の交際手段である訪問行為を「選挙に関し」「投票依頼目的をもつて」いる限り、禁止し、その違反に刑罰をもつてのぞもうとするのである。
[10] この人間自然の訪問行為が、投票依頼目的というだけで社会的悪とされ、さらに犯罪として処罰されうるのであろうか。
[11] また、こんにちの社会において、現実に、各戸を訪問する行為もひろくおこなわれている。訪問販売、新聞の拡張・勧誘、宗教上の布教目的での訪問、各種の署名運動などなど日常的におこなわれている。それらに対しての、訪問自体を禁止する法規は全く存せず、ただ一部の違法な態様の行為について「訪問販売等に関する法律」等が規制を加えているにすぎないのである。
[12] このようにみてくると、ただ「投票依頼」ということが存するだけで、それが違法性の徴表とするわけにはいかないだろう。
[13] ところで、公選法138条・239条の実質的違法性や可罰性の根拠をどこに求めるかといえば、公選法1条の規定との関連でみる以外にはない。同一条は、「この法律は、……その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。」と定めている。
[14] 得票目的をもつてする戸別訪問が,この「選挙人の自由に表明せる意思」を歪めるものであろうか。また「公明且つ適正」を侵すことがあろうか。すべての戸別訪問が、当罰性・可罰性を有するのであろうか。やはり「自由な意思の表明」を妨げるもの、公明適正な選挙を害するもの、そのような戸別訪問に対してのみ、その禁止や処罰の実質的合理性を、辛うじて認めうるものではなかろうか。
[15] 言葉を変えて言えば、訪問行為それ自体、或いは選挙に関する議論や投票依頼に実質的な違法性や可罰性が存するのではなく、「自由な意思の表明」を妨げるもの、不正行為発生の危険性を含んでいるような戸別訪問に限つて、その処罰理由を見い出しうると言えるであろう。
[16] このことは、戸別訪問罪の構成要件を解釈するに際し、行為と目的との関連性、行為の社会的妥当性、或いは個々面接との限界を画する場合等に十分留意されなければならないことである。
[17] 公選法138条の立法当時に適用を予定されていた「戸別訪問」とは、当時の社会的実態として存在し横行していたもつぱら情実に基づく投票を哀訴嘆願するいわゆる「投票乞食」を指称するものとされていたのに対し、裁判所はその後「連続して戸々に選挙人を訪問する」という単に文理解釈によつて一律に訪問行為を「戸別訪問」としてきた。しかしながら、戸別訪問という選挙活動は現行憲法下に於ては国民が国政に参加するための最も重要な手段として高い権利性を認められていると解すべきであり、かような見地からすれば単純な文理解釈によつてその意義を決めるのではなく、弊害とされているものの実態を念頭において、その要件をより厳格化すべきである。少なくともその訪問件教が相当の多数に及ぶものであること、又、その各訪問行為が同一機会における一連の行動として、継続し連続していることを要件とすべきである。又、選挙というものは国の政治に国民が参加する大切な場であることは、指摘するまでもなく、いつてみれば関心の程度は一人一人違つていようとも、又、政治的無関心層がことさらにとりあげられようとも、しかしながら市民の間の世間話の中でも選挙の話が出ることがむしろ普通であつて、選挙の時期たまたま顔見しりの政党の活動家がおれば選挙の話に発展し、あるいは挨拶程度にでも「どうですか?」「お願いします」というのは、人間社会の常識ともいうべきである。
[18] かようなやりとりまで禁止するとしたら、選挙期間中人は人の家を訪ねても口をきくな、というに等しいであろう。したがつて、訪問目的も「投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的」がその主たる目的であることを要する、というべきである。
[19] 戦前の大審院判例は、戸別訪問であると個々面接であると厳格に解釈上差異を設ける必要もなかつた。ところが、戦後の改正により、個々面接が解禁されたのであるから、戸別訪問と個々面接とは厳格に峻別して解釈適用されなければならなくなつたはずのものである。しかし、戦後の多くの判例は、無批判的に戦前判例を踏襲してしまつた。こんにち、あらためて再検討されなければならないゆえんである。
[20] 戦後の法改正で、個々面接が解禁されたのは、他の目的で訪問又は面接していた際、たまたま話が選挙に及び投票依頼を行つたような行為まで処罰するというのは、言論表現の自由の保障ということもあろうが、人と人との社会的交際そのものを処罰することの不合理が顕著と認識されたからにほかならないであろう。人が、たとえ選挙期間中といえども、他用で人を訪問し、仮にそこで選挙に関する話となつて自分の応援する候補者への投票依頼を行つたとしても、それ自体は個々面接にすぎず、これをもつて直ちに戸別訪問と認定することは誤りである。
[21] 前述したごとく、訪問行為及び投票依頼それ自体が実質的な違法性を有するものではなく、他方、議会制民主主義にとつて選挙期問中の政治的な言論活動はより一層尊重されなければならないという観点からも、個々面接は広くゆるやかに、戸別訪問は狭く厳格に解されなければならないからである。
[22] 本件甲野・乙山事件については、控訴審以来、憲法31条を前提とする罪刑法定主義の立場から戸別訪問罪を鋭く批判してきた。上告趣意書の今一つの理由として、その構成要件が刑法理論として是認しえないとの観点から厳しく追究されている。このことは単に構成要件が罪刑法定主義に反するか否かという点にのみとどまるものではなく、その解釈、適用についても十分留意されなければならないことである。
[23] 抽象的危険犯でありながら、禁止と法益侵害との因果関係が合理的且つ定型性を有するものとは言えないこと、それにもかかわらず、最も尊重されなければならない政治的表現活動が不正行為発生の具体的な危険性の有無を問うことなく、一律全面的に戸別訪問として禁止されていることなど、刑法理論として許容しえないところである。かかる戸別訪問罪の構成要件を憲法31条に違反しないものとして合憲的に理解するのであれば、せめてその要件の解釈、適用にあたつては、政治的表現活動の尊重、法益侵害の危険性の有無等を十分考慮し、その目的、連続性等を厳しく且つ限定的に解すべきである。

[24](三) 被告人乙山が訪問したとされる伊藤、浅津両氏は赤旗日曜版の読者であり、同被告人の所為は、毎週定期的に行なわれている赤旗日曜版の配達並びに月1回の集金のための訪問である。
[25] たまたま、その際翌日の選挙のことに話が及んだかも知れないと言うにすぎないものである。原審の各証言並びに本人質問でも明らかなように、当時乙山被告は、20人ないし25人の日曜版読者を担当していて、毎週金・土(その多くは土曜日)に、すべての読者に各1部宛配達し、うち月末又は翌月はじめの配達の機会に、1カ月の購読料の集金をしていたのである。伊藤、浅津に対しても、本件以前1年以上も継続して、毎週土曜日又は金曜日、配達のため訪問しており、本件所為も、その一環にほかならない。これは、投票依頼の目的による訪問行為とは全く異るもので、戸別訪問罪を適用して処罰しうるものではない。また、伊藤・浅津両氏との話の中で、投票依頼の言葉が、仮に出たものと認められるとしても、そのことによつて、訪問の目的そのものが当初から投票依頼にあつたものと認定されてはならない。訪問目的そのものは配達・集金であることに変りはない。もともと、共産党の機関紙である赤旗新聞の読者は、日刊紙であれ、日曜版であれ、共産党の政策・政見に或る程度の共鳴ないし共感を有し、同党の支持者といつても過言ではない人達である。だからこそ、話が選挙に及んでも、何ら不思議でないのであり、これらの支持者又は後援会員内相互の話合いや投票依頼は、いわば運動体内部の行為で、公選法138条に該当するということはできないのである。
[26] 浅津・伊藤ともその家の子、孫がひまわり保育園の園児であつたもので、乙山は保母としてこれに接し、その担任までしていた親密な間柄にあり、単に新聞の配達者と講読者という関係だけのものではなかつた。
[27] 乙山は浅津・伊藤を新聞の配布目的で訪問する際に、普段から両名が顔を合わせたときは子供のこと、保育園のことなど話い合いになるのが常であつた。
[28] 本件訪問時も、子供の話や世間話の中に、偶々選挙に関する話が出たというものにすぎないのであつて、これらの各事実については、その証人調べにおいて右両名も明確に認めているところである。
[1]一、原判決は、戸別訪問罪が罪刑法定主義ひいては憲法31条に違反するとの弁護人の主張をいれず、
「意見表明の手段としての戸別訪問行為が、買収、利益誘導等の温床になり易いなどの弊害をもたらすことは、差戻判決が説示するとおりであるから、これを一律に禁示することと保護法益である選挙の自由と公正を確保することとの間には客観的、合理的な関連性があると認められるから、このような危険性に着目して戸別訪問行為を違法性のある行為として、一律に禁止することが罪刑法定主義に違反するものではなく、また戸別訪問罪の規定が刑罰法規としての明確性を欠くものでもないから、公職選挙法138条1項が憲法31条に違反するものとは認められない。」
と判示した。

[2]二、ところで、差戻判決(昭和55年(あ)第874号、昭和56年6月15日第二小法廷判決は、差戻前の控訴審判決の判断が憲法21条の解釈を誤まりかつ判例に違反するとの検察官の上告趣意をいれ、戸別訪問を一律に禁止している公職選挙法138条1項の規定は、憲法21条に違反するものではないとして、破棄差戻をしたものである。本上告趣意は、右の経過をふまえて、ここに、戸別訪問の一律処罰を定める公職選挙法138条1項、239条3号の規定が憲法31条に違反することを主張するものである。
[3] すなわち、差戻判決が指摘する戸別訪問を一律に禁止している同法138条1項の規定が憲法21条に違反しないとしても、そのまゝ一律全面処罰を定める239条3号の規定は、危険の存否や程度を無視して一律に処罰するもので、実質的に刑罰法規として明確性を欠き、憲法31条に違反することにならざるをえないのである。
[4] 罪刑法定主義は憲法31条に法源をもつもので、「適正手続条項」だけでなく、法律の内容においても適正かつ明確なものでなければならないことを要請している。
[5] 団藤重光最高裁判事の著書「刑法綱要」の中で、次のように説明されている。
「刑罰法規を設けるにあたつては、実質的な処罰の必要と根拠が充分に明白にみとめられることが必要である。何が保護法益であるかを充分に見定め、これを刑罰規定をもつて保護する必要があることが明確にいえる場合に、初めて刑罰法規を設けることが許されるものといわなければならない。ことに、刑罰規定を設けることが基本的人権を制限する結果になるような場合には、このことは特に注意されなければならない。」
[6] したがつて、保護法益が不明確であつたり、保護法益と構成要件の定め方との間に合理的関連性がなかつたり、実質的な処罰の根拠が存在しないような場合には、罪刑法定主義に反し、その刑罰規定は違憲無効といわざるをえない。
[7] 実害犯の場合には、右の問題は当然のことであるが、危険犯や形式犯といわれる罪については、右の問題は極めて重要な問題を含んでいる。
[8] こんにち、戸別訪問罪は抽象的危険犯といわれる。
[9] ここで、抽象的危険犯とは、具体的危険犯に対するものであり、この両者をあわせた危険犯が実害犯と対立し、さらに危険犯と実害犯を併せた実質犯が形式犯と対立するのだとされている。実質犯と形式犯の区別は、法益に対する侵害または脅威(実害または危険)を内容とするかどうかによるもので、形式犯は法益に対する侵害脅威を要しない犯罪だというのである。また、実質犯のなかでの実害犯と危険犯との違いは、それが法益侵害の結果(実害発生)を必要とするか、それとも法益を侵害しそうな危険があるだけで足りるかである。
[10] この危険犯が、さらに具体的危険犯と抽象的危険犯とに区別される。具体的危険犯は、その構成要件上実害が発生する危険が現実に現われたことが要求されるのに対して、抽象的危険犯では、構成要件としては、単に、一般的経験からみていかにも法益侵害を惹起しそうな危険な行為の類型化だけが与えられているだけで、危険の発生は構成要件要素となつていないが、構成要件該当の行為があれば当然にその危険があると法律上反証を許さない仕方で推定されもしくは擬制されるのだとされている。したがつて実際には何らの危険も生じなかつたとしても、犯罪の成立を妨げないとされているのである。

[11] ところで、戸別訪問罪は、こういう意味での抽象的危険犯であるから、構成要件該当の行為があれば、それは何らの危険を生じなかつたとしても犯罪は成立するという説明で、問題は終るであろうか。
[12] また、戸別訪問行為は、買収、利益誘導等の温床になり易いなどの弊害をもたらす危険があるから、実際の個々の訪問で、かような危険が発生したかいなか問うまでもなく、一律に禁止し処罰することに合理性があるという説明で足りるであろうか。(原判決はこの立場をとつている)
[13] 何れも否である。
[14] 抽象的危険犯においては、構成要件該当の行為さえあれば、危険が生じたものと擬制され、或いは反証を許さぬ仕方で推定され、刑罰が科せられるものだという考え方について、法治国家として、そのような擬制や推定に基づく処罰が許されるかという深刻な問題を生ぜぬにはおかない。ドイツにおけるビンデイングが、
「刑罰法規が、危険でない行為まで擬制といういかがわしい方法を用いて危険な行為というレツテルを貼り刑罰を科しようとするなら、それは重大な不正であろう。」
と強調して以来、第二次大戦後では、人権の重視から責任主義の貫徹が要求されるにつれて、危険の推定、擬制ということは責任主義に反するとの批判を強められてきている。(これらの詳細は、佐伯千仭「公安条例と抽象的危険犯」、法律時報49巻10号83頁以下、また山口厚「危険犯の研究」189頁以下)
[15] わが国でも、最近、抽象的危険犯の名による処罰については、批判が有力となつてきている。
「抽象的危険犯といえども、まつたく危険の考えられないばあいには、やはり犯罪とすべきではないだろう」(平場・井上・滝川共編「刑法概説」)とか、
「抽象的危険というのは一応の分類概念であつて、結局は、その規定の解釈によつて定まるものであることに注意しなければならない」(平野「刑法総論」)
とされる。
[16] 最高裁大法廷、昭和35年1月27日判決は、(刑集14巻1号33頁)「あん摩師、はり師、きゆう師、及び柔道整復師法」12条の「医療類似行為」につき、
「医療類似行為を業とすることが公共の福祉に反するのは、かかる業務行為が人の健康に害を及ぼす虞があるからである。それ故前記法律が医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのも人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならないのであつて」
と、限定解釈をし、犯罪が予定している危険がまつたく存在しない場合には、犯罪が成立しないと判示しているわけである。
[17] このように、「抽象的危険犯における制限的解釈」の必要性は、次第に認められるに至つている。

[18] 戸別訪問罪は、投票を得せしめる等の目的で、戸別に訪問する行為を処罰するものであるが、その保護法益は、一体何であるのか。
[19] 戸別に人を訪問すること自体に違法性のないことは明らかであるし、また、投票を勧誘する行為そのものも、たとえば、電話での投票依頼行為は禁止も処罰もされないのである。
[20] したがつて、この2つが併せられ、戸別訪問の形で投票依頼の目的をもつものだけが処罰されるという実質的な根拠は何かということになると、電話での依頼には物の授受ができないが、戸別訪問の場合には買収など不正行為の温床となり易いという、ここに、保護法益を求めざるをえないことになつてきている。
[21] しかしながら、こうした不正行為温床論が、抽象的危険犯にいわゆる危険発生の蓋然性ある行為といえるか。その吟味から出発しなければならないだろう。
[22] 伊藤正己裁判官が、高津事件判決(昭和56年7月21日、第三小法廷判決)において、
「戸別訪問はそれ自身として違法性をもつものではなく、買収などを誘発する可能性があるといつても、なお抽象的な危険があるにとどまり、実際にそのようなおそれのない場合があるし、かりにその可能性があるとしても、不正行為の発生の確率の高いものとは必ずしもいえない。……また、具体的な危険の発生が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に、表現の自由の行使を形式犯として刑罰を科することには、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる。」
と意見を述べられているのは、まさに、抽象的危険犯といつても、たゞ構成要件該当の行為さえあれば足りるという見解にくみしえないことを示しているものであろう。
[23] また、国公法大坪事件判決(高松簡易保険局選挙応援演説事件の最高一小、昭和56年10月22日判決)の中で、団藤・谷口裁判官は、法益侵害の抽象的危険がない時にも刑事罰を加えるのは憲法31条に違反するとの意見を明らかにしている。
[24] すなわち団藤裁判官は、次のようにいう。
「罰則の関係においては、国公法102条1項の人事院規則への委任を違憲とすることは相当の理由を有すると考えるのであつて、これを合憲とみるためには、罰則に関する限り、特定委任といえる程度にこの規定をしぼつて解釈する以外にないと思う。即ち公務員の政治行為であつて公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を現実に害するもの、少なくともこれを害するような具体的な危険性があるものにかぎつて、その内容の規定を人事院規則に委任したものと解することによつて、かろうじて、この規定の合憲性を肯定することがてきるものと解するのである。
「したがつて、この規則の違反行為は、それが公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性がないかぎり、国公法110条19号の罪の構成要件該当性を欠くものと考える。」
[25] また、谷口裁判官の意見は次のとおりである。
「およそ人の行為が犯罪として成立し処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険を伴わない行為を違法として処罰することは、刑罰法の基本原則に反する。そのことは、本件のごときいわゆる形式犯についても同じである。」
「そこで禁止処罰の対象となる行為の違法性は行為の主体が国家公務員であることによるものであつて、行為主体の身分によるものである。そして、行為の違法性がその主体の身分的属性により導かれるものである以上、行為がその主体の身分的属性と全く関係なく行われたばあい、すなわち、行為並びに行為の附随事情を通じて行為主体の身分的属性が毫も当該行為と結びついてこないばあいには、抽象的にせよ法益侵害の危険性はないものというべく、行為者がたまたま国家公務員の身分を有するとの故を以つてかかる行為についてまで、右罰則を適用することは前記刑罰法の基本原則に反し許されないところといわざるをえない。右罰則の解釈適用についてはやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である。行為者がたまたま国家公務員の身分を有していることの一事により行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは、憲法31条に反するものといえよう。」
[26] 両裁判官の意見は、憲法31条と刑罰法規の明確性、合理性に関し、極めて明快な結論を出している。とくに、谷口裁判官の「右罰則の解釈適用については、やはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である」との判示は、重みをもつている。説得的でもある。
[27] 谷口裁判官は、右の立場にたつて、
「被告人の所為については、それは被告人の国家公務員たる身分を離れ専ら私人たる書道家大坪南竜としてなされた行為であり同人の個人生活に属するものというべく、行為の内容、行為の附随事情についてみても、国家公務員たる身分は捨象され、被告人の国家公務員たる身分に基く行為の抽象的危険性を認めることは記録上困難である。
 してみると、被告人の本件所為は未だ前記罰則の構成要件、すなわち国家公務員として選挙に関する政治活動をしたものと断定することはできないものと考える。」
と、構成要件該当性を否定された。
[28] そのほか、最高裁が構成要件の制限的解釈をとつている事例として、公選法235条の2、第2号にいう選挙に関する「報道又は評論」の意義を論じているものがあげられる(最高裁一小法廷54・12・20判決、判例時報952号17頁)。
「右のような立法の趣旨・目的からすると、同項に関する罰則規定である同法235条の2第2号のいう選挙に関する『報道又は評論』とは、当該選挙に関する一切の報道・評論を指すのではなく、特定の候補者の得票について有利又は不利に働くおそれがある報道・評論をいうものと解するのが相当である。」
[29] このように、余りにも包括的な禁止と処罰を規定する法規の解釈適用にあたつては、憲法31条の違反を免れようとすれば、その合理的適用の限界を厳しく見きわめることが必要とされるのである。
[30] 戸別訪問罪の法定刑は、1年以下の禁錮または10万円以下の罰金であり、決して軽いものではない。
[31] この処罰を合憲とするのは、戸別訪問行為は、買収・利益誘道等の温床となり易いなどの弊害をもたらすもので、かゝる抽象的危険の発生する行為を類型化して、一律に処罰する合理的理由があるとするのである。
[32] しかしながら、すでに明らかにしたとおり、戸別訪問行為とかゝる弊害とが相当の蓋然性なり必然性をもつているとの論証は全くない。(伊藤裁判官の意見参照)
[33] かような危険の発生が認められる場合にこれを処罰することはともかく、本件の如き何らの抽象的危険すら発生せしめていない事案も一律に処罰する公選法239条3号の規定は、危険の存否や程度を無視して一律に処罰することは、たとえ行為の要件自体が明確だとしても、真に可罰的な行為を限界づけたことにならず、実質的に刑罰法規としての明確性を欠くことになり、憲法31条に違反するものである。
[34] 原判決は破棄さるべきである。
[1] 原判決は、公職選挙法138条1項の解釈適用につき、憲法31条に違反したものとして、破棄さるべきである。
[2](一) この上告趣意は、戸別訪問禁止違反の罪をもつぱら危険犯論の角度から分析し、原判決が被告人らを処罰するにあたり、具体的にも抽象的にもなんらの法益侵害の危険性が存在しないにもかゝわらず、あえてこれを処罰した点において、処罰根拠を欠く不当な科刑であつて憲法31条に違反する所以を明らかにしようとするものである。この論点は、一、二審、第一次上告審、差戻審においても弁護人から主張されてきたのであるが、いまだ十分に裁判所の裁断を得たものということはできず、とりわけ第一次上告審判決は全くふれるところのなかつたものである。その意味で適法な上告趣意にあたること、いうをまたない。

[3](二) 原判決は次のようにのべている。
「弁護人は、戸別訪問罪は、憲法21条に違反するのみならず、形式犯、抽象的危険犯であるから戸別訪問行為を選挙の自由、公正という保護法益との間に強固な合理的、客観的な関連性を必要とするところ、このような関連性がないのに、一律全面的に戸別訪問行為を禁止している点において、罪刑法定主義ひいては憲法31条にも違反する旨主張する。しかし公職選挙法138条1項の規定が憲法21条に違反するものでないことは前記判断のとおりである。次に意見表明の手段としての戸別訪問が、買収、利益誘導等の温床となり易いなどの弊害をもたらすことは、差戻判決が説示するとおりであるから、これを一律に禁止することと保護法益である選挙の自由と公正を確保することとの間に客観的、合理的な関連性があると認められるから、このような危険性に着目して戸別訪問行為を違法性のある行為として一律に禁止することが罪刑法定主義に違反するものではなく、また戸別訪問罪の規定の明確性を欠くものでもないから、公職選挙法138条1項が憲法31条に違反するとは認められない」
[4] この上告趣意は、原判決のいう保護法益と禁止手段との間の「客観的、合理的関連性」のなかみを、危険犯論の立場から法益侵害の危険性の存否という観点にたつて再吟味するものであり、戸別訪問罪の構成要件を、これを抽象的危険犯とみた場合と具体的危険犯とみた場合に分けて,その憲法31条への適合性を検討しようとするものである。
[5] 犯罪は法益の侵害である。法益の侵害のないところに犯罪はありえない。しかし、法益の侵害があれば必ず犯罪になる、というものではない。団藤重光裁判官は、罪刑法定の適正について、
「第一に、刑罰法規を設けるにあたつては、実質的な処罰の必要と根拠が充分に明白にみとめられることが必要である。何が保護法益であるかを充分に見定め、これを刑罰法規をもつて保護する必要のあることが明確にいえるばあいに、その限度において、はじめて、刑罰法規を設けることが許されるものといわなければならない。ことに刑罰法規を設けることが基本的人権を制限する結果になるようなばあいには、このことはとくに注意されなければならない」(「注釈刑法(1)」、有斐閣)
という。
[6] ところで法益の侵害は、必ずしも実害の発生を必要としない。法益侵害の危険性の発生をもつて足る場合がある。これが侵害犯と危険犯とが分けられる理由である。つまり侵害犯の場合は保護法益の侵害をその処罰の根拠とし、危険犯の場合は侵害発生の危険を処罰の根拠とする。危険犯はさらに一般に具体的危険犯と抽象的危険犯とに区別される。
[7] 実際の問題は、特定の犯罪を具体的危険犯と解するか、抽象的危険犯と解するかをめぐつて発生することが多く、また抽象的危険犯についても、その危険の抽象性のゆえに往々にして処罰の無限定的な拡大を結果することから、その危険の内容をどのようにとらえ、処罰の範囲をどのように限定するか、をめぐつて発生するのである。しかし、抽象的危険犯の場合であつても、構成要件を充足する行為があれば、それだけで抽象的危険の存在は「擬制」されたり、あるいは「推定」される、という見解はとうてい採ることができないのであつて、当該行為に即して抽象的危険が発生したことを必要とし、かつその立証責任は検察官にある、というべきである。刑事法の思考においては、「ない」にもかかわらず、「ある」ものと「擬制」することは許されない。また被告の反証の有無によつて処罰されたり、処罰されなかつたりするような有罪の「推定」を許すこともできない。そして法益の侵害なくして犯罪はない、という原則をつらぬく限り、特定の事件の特定の行為に即して、具体的であれ、抽象的であれ、危険の発生を必要とする、という要件をとりはずすことはできないのである。このことは、いわゆる形式犯の場合にもあてはまる。それは、単に禁止命令違反のみによつて成立するのではなく、その罰則が保護しようとする抽象的危険の発生をもつてその成立の要件とするものである。
[8](一) とりわけ抽象的危険犯についてその処罰の範囲が野放図にひろがりやすいことに対しては、刑事法の基本原則にてらして、これに反省を加え、再検討をこゝろみる傾向が顕著である。山口厚著「危険犯の研究」(東京大学出版会)は
「抽象的危険犯の処罰根拠をなす抽象的危険の意義については、従来必ずしも十分な解明が与えられたとは言い難いように思われる。抽象的危険犯の処罰根拠について、再度反省し、根本的な検討を加える必要があるのではないだろうか」
という深刻な問題提起をしているし、佐伯千仭「公安条例と抽象的危険犯」(法律時報49巻3号、5号、6号、9号、10号)は、抽象的危険犯の解釈論との関連で公安条例に関する判例を批判的に論究している。
[9] かつて最高裁大法廷は昭和35年1月27日判決において、被告人の業とするHS式無熱高周波療法があん摩師、はり師、きゆう師、及び柔道整復師法第12条の禁止する医療類似行為に該当するか否かが争われた事件について、
「医業類似行為を業とすることが公共の福祉に反するのは、かかる業務行為が人の健康に害を及ぼす虞があるからである。それ故前記法律が医療類似行為を業とすることを禁止処罰するのも人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」とし、「ただ被告人が本件HS式無熱高周波療法を業として行なつた事実」だけで犯罪の成立を認めることはできない、
とした。ここでは「人の健康に害を及ぼす虞れ」が処罰の根拠とされ、その存否が実質的に判断されることによつて、処罰の範囲が限定されたのである。あきらかに抽象的危険の存否が、処罰の範囲を画する基準として、独立して機能している。この判決には少数意見があり、田中耕太郎、下飯坂潤夫裁判官らが
「法律は医業類似行為が一般的に人の健康に害を及ぼす虞れのあるものという想定のもとにこの種の行為を画一的に禁止したものであ」り、「個々の場合に無害な行為といえども取締の対象になることがあるのは、公共の福祉の要請からして、やむを得ない」
という理由で、「有害の虞れの有無の認定は不必要である」とする意見をのべていたのであるが、この弛緩した抽象的危険犯論を否定したところにこの判決の意義がある。この判決の健全な法的思考は、他の、とくに基本的人権の制限となる危険犯の分野にもつと生かされてよいはずである。たとえば
「戸別訪問行為が禁止されるのは、その行為が公職選挙の自由と公正に害を及ぼす虞があるからである。それ故公職選挙法が戸別訪問行為を禁止するのも公職選挙の自由と公正に害を及ぼす虞のある行為に限局する趣旨と解しなければならない」から、「ただ被告人が戸別訪問行為を行なつた事実」だけで犯罪の成立をみとめることはできない、
といつた具合いに、である。

[10](二) 昭和56年10月22日、最高裁判第一小法廷の大坪事件の判決における少数意見の説くところもまた危険犯処罰の範囲をどう自制するか、という努力のあらわれとみることができる。
[11] 団藤重光判事は、国公法102条1項の人事院規則への委任規定について、その合憲性を疑い、次のようにのべていた。
「そこでわたくしは、右両判決(猿払事件並びに徳島郵便局事件判決、引用者註)における反対意見の指摘するように、罰則の関係においては、国公法102条1項の人事院規則への委任を違憲とすることは相当の理由を有するものと考えるのであつて、これを合憲とみるためには、罰則に関するかぎり、特定委任といえる程度に、この規定をしぼつて解釈する以外にないとおもう。すなわち、公務員の政治的行為であつて、公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を現実に害するもの、すくなくとも、これを害するような具体的危険性があるものにかぎつて、その内容の規定を人事院規則に委任したものと解することによつて、かろうじて、この規定の合憲性を肯定することができるものと解するのである。……わたくしは、国公法102条1項の委任の趣旨を前記のように解し、したがつて、この規則の違反行為はそれが公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性がないかぎり、国公法110条1項19号の罪の構成要件該当性を欠くものと考える。」
[12] ここには、「政治的行為」の定義に関する国公法の委任規定の合憲性という特異な問題があるが、この問題の解明を通じて、国公法110条1項19号の罪を侵害犯か、少なくとも具体的危険犯と解することによつて、処罰の拡大を避ける努力がおこなわれている。
[13] 谷口正孝判事は次のようにいう。
「およそ人の行為が犯罪として成立し処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険を伴わない行為を違法として処罰することは、刑罰法の基本原則に反する。そのことは本件のごときいわゆる形式犯についても同じである。ところで、本件において被告人の所為に適用される国家公務員法110条1項19号、102条1項、人事院規則14-7は、前に述べた国家公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を保護法益とするものであるが、そこで禁止処罰の対象となる行為の違法性は行為の主体が国家公務員であることによるものであつて、行為主体の身分によるものである。そして、行為の違法性がその主体と身分的特性を全く関係なく行われたばあい、すなわち、行為並びに行為の附随事情を通じて行為主体の身分的属性が毫も当該行為と結びついてこないばあいには、抽象的によせ法益侵害の危険性はないものというべく、行為者がたまたま国家公務員の身分を有するとの故を以てかかる行為についてまで、右罰則を適用することは前記刑罰法の基本原則に反して許されないところといわざるをえない。右罰則の解釈適用についてはやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である。行為者がたまたま国家公務員の身分を有しているとの一事により行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは、憲法31条に反するものといえよう。」
[14] ここには、むしろ堅実な刑事法的思考の健全さがみなぎつていると考える。谷口判事は右のようにのべたあとで、「被告人の国家公務員たる身分に基く行為の抽象的危険性を認めることは記録上困難である」としたのであつた。国公法110条1項19号の罪を抽象的危険犯と解したうえで、本件の場合にはそのような抽象的危険性を認めることができない、と断定したのである。
[15] ある犯罪を具体的危険犯と解してその処罰の範囲を限定的に画するか、あるいはそれを抽象的危険犯と解したうえでなおかつその危険性を否定することによつて処罰の範囲を画するかは、ほとんど相隣する判断であるとおもわれる。いずれにしても、特定の事件の特定の行為について、抽象的危険性の発生したことの認定をきびしく要求することの正当性は、この谷口意見によくつくされている。

[16](三) 昭和55年12月9日、第一小法廷の決定は、刑法126条2項の艦船破壊罪の構成要件について、「船体自体に破損が生じていなくても」、「破壊」にあたる、としたのであるが、この決定に付せられた団藤、谷口両判事の補足意見も、抽象的危険犯における危険性を考えるうえで、重要な示唆を与えている。
[17] 団藤意見はいう。
「艦船覆没罪は公共危険罪であ」り、「法が『人の現在する艦船』を本罪の客体としているのは、覆没・破壊が艦船に現在する人の生命・身体に対する危険の発生を伴うものであることを構成要件として予想しているというべきである。通常の形態における覆没・破壊は当然にかような危険の発生を伴うものと法がみているのであるが、自力離礁が不可能な坐礁は、それが航行能力の喪失にあたるからといつて、ただちに艦船の『破壊』にあたるものと解するのは早計であり、それが艦船内に現在する人の生命・身体に対する危険の発生を伴うようなものであるばあいに、はじめてこれにあたるものといわなければならない。」
[18] 谷口意見はいう。
「右刑法の罪(艦船破壊罪ー引用者)はいわゆる抽象的危険犯とよばれるもので、法は艦船の覆没とか破壊の行為があれば、多数人の生命・身体に危険を生ぜしめたか否かを具体的に問わないで直ちに右の危険があるものとしている、と一般に解されている。行為の性質に着目して危険を抽象的に論定しているというわけである。あるいは危険を擬制しているといつてもよい。しかし私は抽象的危険犯をこのように考えることには疑問を感ずる。抽象的危険犯を右のように形式的にとらえる限り、およそ法益侵害を発生することのありえないことが明らかであるようなばあいにも、法所定の行為があれば直ちに抽象的危険があるものとして処罰されることになる。そうだとすると、法益侵害の危険のないばあいにまで犯罪の成立を認めることになり、犯罪の本質に反し不当であるとの非難を免れまい。私は、いわゆる抽象的危険犯と具体的危険犯とが異なるところは、後者では法益侵害の危険が現に生じたことを処罰の根拠とするのに対し、前者では行為当時の具体的事情を考えて法益侵害の危険の発生することが一般的に認められる行為がなされたばあいに限り、危険が具体化されることを問わずに処罰の理由が備わつたものとする点にあると考える。特に本件の如く破壊の語を規範的、目的論的に理解するばあい、行為じたいがすでに一義的に限局されないものであるから、拡張して用いられるおそれがあるので、抽象的危険犯の性格に即した考慮が一そう要求される。本件のばあい、艦船の航行能力の全部又は一部を失わせたという点で破壊と価値的に同一視できるというだけで艦船破壊罪に当るとし、しかもそのような行為があれば直ちに抽象的危険犯としての同罪が成立するという考え方には賛成できないのである。
 私としては、先に述べたように、抽象的危険犯の実質に即して、本件についても、行為当時の具体的事情を考えて多数人の生命、身体に対する危険の発生することが、一般的に認められる艦船の航行能力の全部又は一部の喪失行為があつたばあいにはじめて、法にいう破壊に当る行為があつたと考える。そして、そのように解することによつて、破壊の語を拡張して解釈することを抑えることができるものと思う」
[19] 谷口意見は「犯罪の本質」にてらして、法益侵害の危険が発生しない場合にも犯罪の成立の余地をみとめることを排斥し、「行為当時の具体的事情」のもとで「法益侵害の危険の発生することが一般的に認められる行為」があつたか否かをもつて抽象的危険犯の成否をさだめ、この見地から構成要件に限定解釈をおこなう方法を提示しているのである。抽象的危険犯の危険性を「形式的にとらえる」ことに厳格な批判の眼を向けている。あとは「行為当時の具体的事情」の内容をどのように考え、法益侵害の危険発生が「一般的に認められる行為」という場合の一般性をどのように考えるのか、にかかつてくるわけである。
[20] 伊藤正己判事は、昭和56年7月21日の第三小法廷公判決(高津事件)、昭和57年3月23日の第三小法廷判決(泉北教組・上原事件)において、前者では戸別訪問禁止につき、後者では文書図画制限についてそれぞれ補足意見を付し、従前の最高裁判例における合憲論についてその誤りであることを縷説しながら、憲法47条について独自の新説をうち出し、新合憲論をのべた。そのあやまりについて、弁護人は被告人斉藤正子に対する昭和57年(あ)952号公選法違反被告事件(第一小法廷)の上告趣意書で詳述したが、憲法論としての誤りはいまここで問わないとしても、伊藤意見が刑事法の問題として、危険犯の「危険性」を深く自覚していることは注目しておく必要がある。すなわち、伊藤意見は戸別訪問が買収や利益誘導のような不正行為を誘発する危険性についてこれを容認しつつ、次のようにのべている。
「しかしながら、戸別訪問はそれ自身として違法性をもつものではなく、買収などを誘発する可能性があるといつても、なお抽象的な危険があるにとどまり、実際にはそのようなおそれのない場合があるし、かりにその可能性があるとしても不正行為の発生の確率が高いものとは必ずしもいえない。憲法上の重要な価値をもつ表現の自由をこのような害悪発生のおそれがあるということでもつて一律に制限をすることはできないと思われる。また具体的な危険が推認されるときはともかく、単に観念上危険があると考えられるにすぎない場合に、表現の自由の行使を形式犯として刑罰を科することは、憲法上のみならず刑法理論としても問題があると思われる」
[21] ここでの問題意識は、抽象的危険犯として戸別訪問罪をとらえてみた場合に、その危険の抽象性、観念性のゆえに、刑法理論として罪刑の設定のうえで許されないのではないか、というにあることは明らかであろう。
[22](一) 以上の所論を要約してみるとおよそ次のとおりになるであろう。
(1) 法益侵害のないところに犯罪はない。
(2) 犯罪が成立するためには、法益侵害の危険はたとえ抽象的なものであれ、その事件のその行為について発生していなくてはならない。危険発生を擬制したり推定したりすることは許されない。
(3) これらの原則をふみはずさないように、個々の構成要件について限定的解釈をすることが必要でありかつ可能である。
(4) これらの原則は処罰の根拠をなすものであるから、これを欠く処罰は、罪刑法定主義に反するものとして、憲法31条に違反する。
[23] ところで本件の戸別訪問行為は、なんらかの意味で法益侵害又は法益侵害の危険性を発生せしめたであろうか。

[24](二) ここで、原判決認定の罪となるべき事実を掲記しておこう。4つ目の審級で、ようやくこの事実認定にいたつたのである。
「被告人両名は、いずれも昭和51年12月5日施行の衆議院議員総選挙に際し、島根県選挙区から立候補した中林よし子に投票を得させる目的をもつて、
一、被告人甲野ハルミは、同年12月3日ごろ、別紙一覧表(一)記載のとおり、同選挙区の選挙人である出雲市塩治町407の2赤木米子方ほか4戸を戸々に訪問して、同人らに対して右候補者に投票するよう依頼し、
二、被告人乙山秋子は、同年12月1日ころから同月4日ころまでの間、別紙一覧表(二)記載のとおり、同選挙区の選挙人である出雲市塩治町407木太敏子方ほか6戸を戸々に訪問して同人らに対し右候補者に投票するよう依頼し、
もつて戸別訪問したものである。」
[25] 甲野ハルミが5軒、乙山秋子が7軒、それぞれ訪問した、というのである。甲野の場合、5軒の被訪問者は赤木米子を除いてすべて旧知の仲で、玄関先で短時間の訪問である。礼節をわきまえたもので、迷惑がましい振舞いは全くない。赤木米子は、選挙に際して選挙情報について訪問をうけることは家庭にいる主婦としては、むしろ望ましいことだ、という趣旨の証言をしている。名越澄子は、その頃、街のうさわで「今日あたりお金がとぶ時期だ」というようなことをきいたので、甲野にむかつて、
「で、まあ共産党はそういうことはないわねつて言つたような記憶があります。逆に取られるぶんでも、いただくことはないわねつて言つた」
と証言している(以上、差戻審、昭和57年7月13日付証人尋問調書)。
[26] 乙山の場合、未知であつたのは中尾洋子ひとりで、他の6名はすべて旧知の仲である。これら6名は、植田の勤務するひまわり保育園に、子や孫を出している保護者であり、浅津熊市は、乙山の父の代からの職場の知合いである。うち伊藤春恵、浅津は乙山が毎週新聞「赤旗」の配達にあたり、この日は配布と集金を同時にしている。いずれも玄関先の短時間の訪問で節度をわきまえている。
[27] これらの訪問は、いかなる法益を害したのか。「買収、利害誘導等の温床」ではなかつた。「選挙人の生活の平穏を害する」ことはなかつた。このことによつて「他の候補者の側に訪問回数等を競う」ことを促したこともない。
[28] ましては「多額の出費を余儀なく」させたこともない。乙山の場合は、2人から新聞代金の支払をうけている。「投票も情実に支配され易くなるなどの弊害」は、そのきざしもない。そこで、「もつて選挙の自由と公正の確保」に障害を与えたことはない(以上、かつこ内は差戻判決理由からの引用)。なんの実害もない。
[29] しからば法益侵害の具体的危険を発生せしめたのか。それもないといわねばならぬ。とすれば、法益侵害の抽象的危険を発生せしめたか。
[30] 2人の本件行為に特有の諸事情が、抽象的危険の発生からさえ、はるかに遠いところにあることは、明白であろう。谷口判事が艦船破壊罪の決定の補足意見でのべた「行為当時の具体的事情」からするならば本件の場合、法益侵害の蓋然性は寸毫もない、といつてもよいだろう。しからば、被告人らの所為は、「法益侵害の危険の発生することが一般的にみとめられる行為」であるといえようか。
[31] 被告人らのような態様のもとにおこなわれる戸別訪問は、一般的には法益侵害の危険を発生せしめる行為であろうか。そうはいえないだろう。地域社会の日常の交際を通じて旧知の人を訪ねて、生活時間の範囲内で、きわめて短時間、玄関先で家族のみまもるなかで、あるいは幼児たちが訪ねてきた保母にじやれつくような、そんな態様の訪問行為は、どんなに一般化してみたところで、買収などに発展する抽象的危険性にはなはだ乏しいといわなければなるまい。
[32] 風が吹いても桶屋は決してもうからないのである。先引の伊藤意見はむしろひかえ目に
「戸別訪問はそれ自身として違法性をもつものではなく、買収などを誘発する可能性があるといつても、なお抽象的危険があるにとどまり実際にはそのようなおそれのない場合があるし、かりにその可能性があるとしても、不正行為の発生の確立の高いものとは必ずしもいえない。」
とのべていた。これは一般論である。この一般論を本件「行為当時の具体的事情」のもとで考えてみたらどうなるか。どんなに一般化してみても、危険の発生には、行きつかないようにおもわれる。本件行為は、処罰の根拠を欠く。
[33] ここで、危険犯における危険発生をどのような方法でみとめるのが正しいか、ということにもふれておく必要がある。
[34] 実際におこなわれた行為は、法益を侵害しなかつた。しかし、法益侵害の蓋然性が、程度の差こそ多様であれ、みとめられた、という場合は、どんな思考の順序でそのことがいえるのであろうか。その場合、現実にあつた行為と、その客体とを、他の仮定的な行為や客体とにおきかえてみて、おきかえられた行為や客体を仮定したときに、結果として法益侵害が発生したかどうか、を考えてみる作業がおこなわれる。しかし、このおきかえてみる仮定的事実は、無限のものであつてはならない。
[35] 特定の具体的事件の実在した行為と客体との具体的事実に即したものでなければならない。つまり、仮定的事実の存在可能性は、実際におこつた特定の事実に接続した現実性のあるものでなければならぬ。つまり「十分にありえた」、と考えられる範囲のものである。「そういうことも全くありえないことではない」などという程度の稀薄な存在可能性しかもたないような仮定的事実とおきかえることは、処罰の範囲を徒らにひろげるだけのことで、いうところの謙抑主義に反するやはなはだしい。
[36] この原則は、抽象的危険犯の場合もかわらない。具体的危険犯と抽象的危険犯の相違は、この原則の範囲の中で、法益の具体的侵害の直前の段階のものを具体的危険犯とし、やゝ離れた段階のものを抽象的危険犯とするのである。
[37] このように考えてみると、地域住民に信頼をえている保育園の保母と、婦人運動、原水爆禁止運動に熱心な呉服店の店員が、主に旧知の主婦を相手に、その生活時間のなかで、短時間、玄関先でそれぞれ支持する候補への支援を話題にしたという行為を、札束を封筒に入れて胸におさめ、深夜、人目をはばかりながら戸別においてあるく戸別訪問とおきかえてみることは、あまりに現実性が乏しくて、とうてい健全な理性の許す判断ではないことに容易に気がつくであろう。
[38] 下級審で戸別訪問罪を有罪としながらも、なお被告人の行為になんらの危険性のなかつたことをみとめざるをえなかつた判決がいくつか出ていることも、実は危険犯のもつ矛盾と混迷の所産であつた。福岡地裁小倉支部、昭和52年3月25日判決は
「偶々被告人の行なつた戸別訪行為は、政策宣伝を中心とした投票依頼目的をも有する純粋な支持説得活動であつたとみることができ、かかる戸別訪問形態の存することは否めないところである」とし,さらに、「被告人の本件戸別訪問行為が、弁護人の主張するように、礼節をわきまえた相当なものであつて、その政治参加への意義は一面において十分認められ、また他方において悪質な選挙違反が見過されていることもうかがえる」
としたのであつた。東京地裁、昭和53年5月16日判決は、
「なるほど戸別訪問はその理想の形態においては、直接の対話を通じて選挙人に判断の材料を提供し、相互に批判する機会を与えるもので、とかく見解の一方的な伝達に終りがちな他の選挙運動にない利点を有しており、したがつて戸別訪問禁止を解除してもなお選挙の公正が維持されるならば、それが選挙制度のうえで理想であり、かつ表現の自由の保障の観点からも望ましいことである」
とのべた。そしてさらに、札幌地裁室蘭支部、昭和53年3月23日判決は、
戸別訪問を「自由化することこそ選挙の民主化、民主社会の維推発展にとつて望ましいとの弁護人の見解は政策論として充分傾聴に価するのであり、また戸別訪問が買収や利益誘導等の実質的な不正行為を必然的に伴うものでないことも弁護人の指摘のとおりである」
としつつ、被告人を有罪としたのであるが、最後に「蛇足ながら付言する」として、
「当裁判所の判断はもとより戸別訪問の禁止を良しとしているものではない」
とのべた。
[39] この種の混迷は、実は、戸別訪問には国民の政治参加のために推奨すべき多数の模範的戸別訪問と、買収などのための少数の実質犯的戸別訪問とがあつて、ほんらいみそとくそとは全々別のものなのだが、抽象的危険犯の名のもとに、みそもくそも一把ひとからげに処罰する、という点にその原因がある。
[40] かくなるうえは、危険を発生せしめたものと発生せしめなかつたものとを分別して、きちんと腑分けすることが不可欠なのである。
[41] 本件についていえば、どんなに仮定と抽象の作業を試みても、危険の発生はみとめられなかつたものとして、処罰の根拠を欠いている。
[42] この場合、公選法138条の戸別訪問禁止規定には、「何人も選挙に関し、投票を得しめ、又は得しめない目的をもつて戸別訪問をし、よつて選挙の自由と公正を妨げてはならない」というかくれた構成要件がふくまれているものととらえ、このかくれた構成要件によつて処罰すべきものと、処罰してはならないものとを分別する、と解釈することは必要であり、また十分に可能である。この場合、239条3号の罰則にも当然のことながらこのかくれた構成要件が付せられているものと解する。
[43] このように解釈することは、あまりに戸別訪問罪を具体的危険犯に傾いて把えるものだ、という批判があるかも知れない。しかし、たとえ、戸別訪問罪を抽象的危険犯として把えるとしても、その危険性の内容については既述のように解すべきものであつて、個々の事件に即して、やゝ抽象的な危険性の発生を必要とすることは明らかであるから、戸別訪問罪の構成要件について右のように解釈することに支障はない、と考える。

■第一審判決 ■控訴審判決 ■上告審判決    
  ■差戻控訴審判決 ■差戻上告審判決   ■判決一覧