戸別訪問禁止合憲判決
第一審判決

公職選挙法違反被告事件
松江地方裁判所出雲支部 昭和51年(わ)第42号・第43号
昭和54年1月24日 判決

■ 主 文
■ 理 由


 被告人両名は、いずれも無罪。

一、被告人甲野ハルミは、昭和51年12月5日施行の衆議院議員総選挙に際し、島根県選挙区から立候補した中林よし子に投票を得させる目的で、同年12月3日ころ、同選挙区の選挙人である出雲市○○町×××の×番地島根松子ほか4名を戸々に訪問し、同候補者のため投票を依頼し、もって戸別訪問をしたものである。

二、被告人乙山秋子は、昭和51年12月5日施行の衆議院議員総選挙に際し、島根県選挙区から立候補した中林よし子に投票を得させる目的で、同年12月1日ころから同月4日ころまでの間、同選挙区の選挙人である出雲市○○町×××番地松江梅子ほか6名を戸々に訪問し、同候補者のため投票を依頼し、もって戸別訪問をしたものである。
一、戸別訪問禁止の違憲性
 戸別訪問禁止は、最高裁判所が打ち立てた人権制約基準たる「合理性の認められる最小必要限度」の規制を、はるかに越えるものであることは明らかであり、その全面的禁止を規定する公職選挙法(以下公選法という。)138条1項は、憲法21条、31条及び15条にそれぞれ違反し、無効である。仮にそうでないとしても、公選法138条1項は、全面、一率的に戸別訪問を禁止しているのでなく、具体的に買収、供応を伴ったり、あるいは伴う危険性のあるものを、禁止しているという限定解釈を施して、初めて合憲と解する。

二、構成要件不該当
 公選法138条1項は、その立法経過、保護法益などに鑑みると、友人、知人達の家を訪問するといったような形態以外の、つまり不特定多数の家を無差別に訪問して投票を懇願し、被訪問者に迷惑をかけるといったような形態の訪問を禁止していると解されるところ、本件被告人両名の各戸別訪問は、いずれも従前からの知人宅数件を、選挙以外の目的で、ごく短時間訪問した際、政治に関する話が出、選挙についての話となって、自らの支持する候補者への支持を依頼したに過ぎないもので、被告人両名に買収、供応の意思がないことは勿論、そのような事実や被訪問者の生活の平穏を害するような事実が全くなかったことは、証拠上明らかであり、このような常識的で節度ある説得を旨とする形態の戸別訪問については、戸別訪問罪としての構成要件該当性がない。

三、可罰的違法性の不存在
 前記のように、戸別訪問罪の保護法益である被訪問者の生活の平穏を害する抽象的危険性すらなく、もっぱら政策による常識的で節度ある説得をしたにすぎない本件各訪問行為は、いずれもこれを犯罪として処罰しなければならない実質的違法性を有しないことは明らかであり、いわゆる可罰的違法性を欠くものである。

四、公民権停止の違憲性
 本件各戸別訪問罪のような形式犯についてまで、実質犯同様、一律に一定期間公民権を停止する旨規定する公選法252条は、憲法前文、同15条、同44条の各規定に違反し無効である。仮にそうでないとしても、前記のように、保護法益侵害はもとより、その虞れすらない本件各戸別訪問についてまで、公選法252条を適用して公民権を停止することは、その適用が憲法に違反し無効である。
[1] 被告人甲野ハルミに対する本件公訴事実は、《証拠略》により、被告人乙山秋子に対する本件公訴事実は、《証拠略》により、それぞれこれを認めることができる。
1 選挙制度の重要性
[2] 民主主義、言葉をかえていえば、「国民の、国民による、国民のための政治」は、基本的人権尊重主義とともに、現行憲法の採用する重要な基本原理である。
[3] かかる憲法の下では、選挙は国民が国政に参加し、主権者として自ら政策、政治を決定するための最高の権利行使であり、そのため国民の行うべき選挙運動は、最大限に尊重されなければならない。選挙活動の自由が、あらぬ理由によって制限されることは、現行憲法の民主主義と根本的に相いれぬところである。
[4] すなわち、我が国を初めとする近代自由主義国家が採用する西欧型デモクラシイの支配形態は、議会制民主主義であり、その政治過程は選挙で始まり、立法過程、行政過程を経て司法過程で完結する体系である。
[5] 従って、議会制民主主義の出発点は、国民代表の選出を行う選挙であり、選挙こそ民主主義社会形成の基盤である。選挙が自由、公正、活発に行われないところでは、議会制民主主義が形骸化してしまい、民主主義は有名無実なものとなってしまうのに反し、選挙がうまく運営されるところでは、議会制民主主義はスムースに行っている。
[6] 議会制民主主義の政治システムは、「討議の政治」として特徴づけられ、そこでは、「言論の自由」、「少数意見の尊重」、「多数決の原理」が支配する。この「討議の政治」は、選挙過程から始まらなければならない。
[7] ところで、選挙は投票によって行われる。投票は、主権者の選択の意思表示であり、候補者の人物、政策、所属政党の政策などを吟味して行われる。投票は通常、何年かに1回の割で行われる選挙の際に行使されるに過ぎないが、現実の政治は、毎日休むことなく、継続的に行われている。しかも、高度に複雑多様化した現代社会では、主権者(国民)は、政治情勢を的確に把握することは困難で、情報の多くは、マス・メディアを通して獲得せざるを得ない。また、国民の代表(政治家)は、不断に主権者の意見を聞いて、政治過程に反映しなければならないし、国民は、間断なく主権者として、政治家に意見を表明しなければならない。このような治者と被治者、主権者と国民代表の日常的な相互作用が、政治活動であり、選挙時に行われる候補者と国民との相互作用が、選挙運動である。
[8] 従って、参加民主主義が問題となっている現在の大衆社会状況の下での政治活動や選挙運動においては、政治家や候補者が、国民や選挙人に働きかけるばかりではなく、国民や選挙人が、政治家や候補者、更には他の国民に、積極的に働きかけることが重要であり、また国民一人一人が、正しい情報を得るために、マス・メディアや政治家だけでなく、他の国民からフェイス・ツー・フェイスの言論により、意見を聞くことも重要である。
[9] このように、現代の議会制民主主義の下では、国民の日常的な政治活動は、最も尊重しなければならないし、とりわけ、主権者が向う数年間の政治を託する代表の選挙の際には、主権者の選挙運動の自由が、必要不可欠であり、それが最大限に保障されなければならないのであって、現行憲法は、まさに、この自由を保障しているのである。

2 憲法の選挙運動観と公選法のそれとの乗離
[10] 以上述べた選挙の意義からすると、現行憲法は、大略、次に列挙するような選挙運動を予定しているものと解される。
(一) 選挙運動は、候補者や選挙運動者だけが行うものではなくて、主権者としての誰もが行い、または行いうるものである。
(二) 国民は、代表を選出するのに必要な情報と資料を十分提供され、合理的な判断能力をもっている。
(三) 情報、資料の送り手は、選挙の公正を害する買収や選挙の自由妨害をすることは禁じられるが、文書活動や戸別訪問は、むしろ民主主義の根本原理からして望ましいものであり、形式犯は罰せず、なるべく広く、選挙運動の自由を認める。
(四) 政治は、手近なところにあり、代表と国民との間には距離を置かない。
(五) 国民に対してだけでなく、政党や団体に対しても、十分な選挙活動を保障し、公開の討論を広く認め、開かれた選挙をする。
(六) 取締主義に落ち入らず、公の秩序の形成は、国民の不断の努力に待つ。
[11] これに対し、公選法の下で許される選挙運動を要約すると、次のようになる。
[12] 選挙運動は、選挙期間中にのみ限られ、公務員や教育者の選挙運動は、禁止されている。戸別訪問や署名運動も禁止されている。文書図画の頒布は、選挙用葉書以外は禁止されているし、政治的意見表明などのための文書図画の掲出も禁止されている。ポスターが数少い公営掲示板に掲示されるが、これも顔写真と氏名のみで、政治的意見は表明されていない。放送は、ラジオとテレビでなされるが、経歴放送が多く、例えばテレビによる政見放送は、候補者1人につき1回4分30秒で、数回なされるだけである。
[13] また、立会演説会は、広範囲の住民を対象として1回なされるのみで、個人演説会も、各校区で1回開かれることはまずないし、それも国民から候補者に質問する機会は与えられていない。日常生活の中で、わずかに候補者の顔を見、政見を聞けるのは、街頭演説と町中を流す連呼行為だけであるが、前者は殆んどターミナルや大団地でなされ、一般の人に行きわたるようにはなされていないし、後者は氏名が聞きとれる程度で、政見を聞くにはほど遠い有様である。選挙公報は、1度各家庭に配布されるが、候補者の政見を聞くには、これまたほど遠い。国民は、意見の受け手であって、送り手にはなり得ない仕組になっている。
[14] 更に、政党についても、選挙期間中、ごくわずかの政談演説会、街頭政談演説会しか開催できず、国民の目に殆んど届かない数のポスターの掲示が許されるのみで、立札、看板は禁止され、ビラも3種しか頒布できないように規制されている。
[15] これをふまえて、前記憲法の選挙運動観と対比する意味で、公選法の選挙運動観を浮彫りにすると、大略、次に列挙するとおりとなる。
(一) 公選法の選挙運動は、候補者やその運動員が行うものとしていて、国民が自主的、自発的に行うものとはしていない。
(二) 公選法は、旧憲法時代の国民愚民観に立脚している。
(三) 公選法は、議会制民主主義における政党の役割を十分評価せず、選挙は、候補者とその一部運動員が行うものとしている。
(四) 公選法は、政党と国民の緊密な接触を好まず、政策中心の選挙を好まない。
(五) 公選法は、言論、文書活動を好まない。
(六) 公選法は、民衆の自由な自治を押えた公権的秩序の強制と取締主義の体制に依拠している。
(七) 公選法は、党利党略の産物たる性格をもつ。
[16] 以上述べたところから、公選法の選挙運動観と憲法の選挙運動観の乗離が、いかに大きいものであるかがわかるのである。

3 戸別訪問の意義と長所
[17] 人が人をその居宅に訪ねるという戸別訪問は、本来、国民の日常的生活の一場面であり、古来より対人交際の基本的手段となっているものであって、それ自体、何ら犯罪視されるいわれはない。選挙運動というのは、国民が知人、友人、隣人に対し、自分の支持する候補者に、究極的には投票を依頼するべく働きかけることを含んでおり、従って、必然的に戸別訪問は、選挙運動の基本的手段の一つとならざるを得なかったのであって、現に西欧型民主国では、すべてそうなっている。
[18] このように、戸別訪問は、国民ができる選挙運動としては、最も簡易で、優れたものなのである。すなわち、戸別訪問は、候補者、選挙運動者が選挙人の生活の場に出向いて、候補者の政見等を説明し、投票依頼などをすることであるから、候補者、選挙運動者にとっては、選挙運動の方法として、極めて自然なものであり、また選挙人にとっても、彼等が戸別訪問してくれることは、直接彼等と対話できることであるから、候補者の政見等をじっくり聞くのにも、最も効果的な方法である。
[19] 以上述べたところから明らかなように、戸別訪問は、選挙運動の方法として、他の方法をもって代替し得ないほどの意義と長所を有するものであり、財力のない一般国民にとっては、なくてはならない選挙運動なのである。従って前記憲法的選挙運動観に立脚すれば、戸別訪問は、むしろ推奨されなければならないということができる。

4 戸別訪問の正当性
[20] 戸別訪問は、前記のような意義と長所を有するばかりか、次に述べるとおり、世論や国民の主体的な選挙運動に関する意識の変化や欧米諸国の選挙における戸別訪問の意義と実情、更には我が国の選挙制度審議会における意見などによって、その正当性を裏付けられている。
[21] まず、世論や国民の意識についてみると、旧憲法下では、国民は選挙に際しては、常に受動的な存在と規定されていたが、終戦による上からの民主主義も終戦後30年余り経過した現在では、ようやく国民一人一人のもとに根付き、国民の自覚も高まって、選挙運動は、候補者だけが行うものではなくて、国民一人一人が主体的に行うものであるという認識が、普遍化してきている。因みに、ここ数年、戸別訪問による逮捕が増大していることは、国民の政治意識が向上し、主体的な選挙運動の重要性の認識が、高まっていることを証明するものといえよう。このような選挙民の意識の変化に対応した選挙運動の自由化、とりわけ戸別訪問の自由化こそ、明朗、活発にして自由な雰囲気を醸成し、買収などの実質的選挙違反を減少させるものである。
[22] 次に、欧米諸国における戸別訪問であるが、これらの国では、戸別訪問は禁止されないばかりか、むしろ法律上も奨励されており、実際にも、最も有力な選挙運動の一つとして盛んに行われていて、国民の政治意識の高揚に役立ち、選挙や政治を国民の身近なものにするのに、大きな役割を果していることは、周知のとおりである。
[23] 最後に、我が国の選挙制度審議会における戸別訪問に関する意見についてみると、周知のように、選挙運動の自由化の観点から、戸別訪問を自由化すべしとの意見が、圧倒的多数を占めている。
1 言論の自由の優越性とその制限
[24] 基本的人権尊重主義を基本原理とする現行憲法は、その21条1項において、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定し、言論の自由を保障しているが、国民主権に基づく議会制民主主義をとっている現行憲法の下では、言論の自由は、基本的人権の中でも、最も優越的地位を占めるものであることは、改めて説くまでもない。
[25] 本件では、前記のように、選挙運動としての言論の自由が問題となっているが、選挙は議会制民主主義の下において、国民が主権者として、積極的に政治に参加するための基本的手段であり、かつ選挙運動においては、言論がその最も重要な手段であるから、選挙運動としての言論の自由は、最大限に尊重されなければならない。
[26] もっとも、右のような言論の自由といえども、絶対無制限のものではなく、他の基本的人権と関連する限りにおいて、合理的な制限を加える余地のあることは、否定できない。しかしながら、右のような言論の自由が、議会制民主主義の下で果たす役割の重要さからみて、その自由は、「沈んではならない最低線」を有することは明らかであって、単なる政策的判断によってほしいままに制限することは許されず、選挙の自由と公正を確保するうえに必要かつ最小限度の範囲内においてのみ、これを制限することに合理的理由があるものとして、許容されるに過ぎないというべきである。

2 戸別訪問による弊害
[27] 戸別訪問を禁止する理由として、主にあげられるのは、(一)選挙の自由、公正をくつがえす買収、利益誘導、威迫などの不正行為の温床となる(不正行為温床論)、(二)情緒、義理、人情に訴える傾向を助長し、理性的公正な判断を害する(感情支配論)、(三)候補者に無限の競争を強い、煩に堪えなくする(煩瑣論)、(四)選挙人の生活の平穏を害し、選挙人が迷惑至極である(迷惑論)、(五)候補者が競って戸別訪問をするため、費用がかかる(多額経費論)、(六)次期立候補予定者が、当選議員の留守中に地盤荒しをする(当選議員不利論)などである。
[28] では、右(一)ないし(六)の戸別訪問禁止の理由は、合理性を有するであろうか。以下、逐一検討する。
(一) 不正行為温床論
[29] 戸別訪問に買収などの不正行為が伴うことが、全くないとはいえないが、必ず随伴するものでなく、その相関関係の極めて薄いことは、《証拠略》に照らしても、明らかである。従って、買収などを伴う戸別訪問がなされれば、買収犯などの実質犯を取締れば十分であり、なおその上に、戸別訪問罪という形式犯を設けることは、屋上屋を重ねる感を免れない。
[30] 「温床」は、戸別訪問に限らず、人の交流する他の場合、例えば、企業組織や組合組織を通じての票集めにも、考えようによっては有りうるのであって、むしろこの方が、選挙民の死活に係る場合も生じうることを考えれば、その弊害の方がはるかに大であり、ひとり戸別訪問自体を、買収などの不正行為の温床として処罰するのは、片手落ちといわざるを得ない。
[31] 大選挙区や中選挙区制のように、選挙人の数が何十万となるところでは、戸別訪問が買収などの不正行為の温床となるとする議論は、その買収に要する費用が、いかに巨額にのぼるかを考えれば、とってつけたにも等しい議論であり、「風が吹けば桶屋が儲かる。」という議論であることがわかるであろう。
[32] 更に、不正行為温床論は、戸別訪問は候補者が行うという選挙運動観に立脚するものであって、一般国民大衆が政策宣伝等を目的として行う戸別訪問は、買収などの不正行為とは、全く無縁のものであることを忘れた議論である。
(二) 感情支配論
[33] この議論は、日本人の義理がたさ、人情の厚さという国民性をふまえて、一見合理的なように思えるが、本当に国民が義理、人情に縛られて投票しているかというと、具体的なデーターは皆無である。
[34] 仮に、義理、人情に縛られて、はいはいと返事していても、その人が本当に義理、人情に縛られて投票しているのか不明であって、感情支配論が、国家の規制目的たりうるかどうか疑わしいし、いわんや、市民の政治的な権利制限の保護法益たりうるかどうか、一層疑わしい。
[35] 仮に、百歩譲って、被訪問者が感情を支配されたとしても、右のように国家が干渉するほどのこともないし、そのことによって、選挙の公正が害されたとは、到底考えられない。そのような被訪問者であれば、戸別訪問を受けなくとも、合理的な判断ができたかどうか、疑わしいし、殊に現代人は、「組織人」として、組織ごと選挙過程に取り入れられていて、戸別訪問が禁止されていても、義理、人情に支配されるような機構になっているのであって、むしろ、その弊害の方が、戸別訪問より深刻である。
[36] 従って、これをとらえて、選挙の公正を害するというのであれば、現代における選挙は、選挙の公正はすべて失われていることになり、選挙そのものが、成立しないことになる。
[37] また、感情支配論は、反憲法的な思考方法であり、国民愚民観に立脚するものといわなければならない。現行憲法は、国民の一人一人が民主主義の本質を理解し、合理的かつ冷静な政治的判断をできるものとしているし、現に、終戦後30年余りを経過した昨今では、大部分の国民は、そうしつつあるのである。
[38] 仮に、一部国民の中に、合理的かつ冷静な政治的判断に欠ける者がいるとしても、それは、国民の自覚と成長に待てば十分であって、国家が介入すべきことではないし、もし、感情支配論を理由に戸別訪問を禁止しておれば、いつまでたっても、国民は義理、人情に支配されたままであって、合理的かつ冷静な判断はできないことになる。かえって、感情に支配されている国民ほど、政策選挙のための戸別訪問をする機会を与える方が、治療法としては、有効である。
[39] 更に、政策や政治的意見を訴える戸別訪問であれば、感情支配論でもって、戸別訪問を禁止する理由とはなし得ない。従って、義理、人情に訴える戸別訪問を禁止するならともかく、候補者の政見や政治的意見を訴え、更にはその支持、同調を得て、当該候補者のため投票を慫慂するのは、何ら禁止理由にならず、戸別訪問を一挙に禁止することは、許されないことになる。
[40] 最後に、戸別訪問は、投票依頼の場合のみ禁止されていて、たとえば、地方自治法に定める直接請求のための署名集めなどの場合には、禁止されていない。義理、人情の混入の契機において、前者と後者とでは、決定的に異るとは到底考えられない。後者の場合の戸別訪問は、むしろ不可欠な手段であるのに、それが、どうして前者の場合の戸別訪問には、妥当しないのか。その合理的説明は、つかないのである。
(三) 煩瑣論
[41] この議論は、候補者にとっての利便の問題に過ぎず、まして、運動員や選挙人の戸別訪問を禁止する理由になり得ないことは、明らかである。現行憲法は、前記のように、候補者やその運動員のみでなく、国民一人一人が選挙運動を行うことを期待している。従って、候補者やその選挙運動者のみが戸別訪問を行うという観点に立脚する煩瑣論は、本質的に選挙運動観をあやまっているといえるし、これを逆にいえば、国民一人一人が戸別訪問を行うときは、この煩瑣論は、戸別訪問を禁止する理由とはなり得ないことを意味する。
(四) 迷惑論
[42] これも、真剣に批判の対象とすべきものではない。訪問の時間、方法などが公選法、刑法などによる合理的制限に服することを考えると、多少の迷惑の程度に止まり、前記戸別訪問の意義、長所と対比すれば、容忍すべき範囲といえるので、重大な弊害とはいえない。迷惑だと思う被訪問者がいれば、断わればいいし、迷惑だと感じられれば、被訪問者の支持を失うことになるだけのことで、刑罰を設けて禁止しなければならないほどの理由にはならない。また、被訪問者は戸別訪問によって、これまで知らなかった事実を知らされたり、訪問者の政治的意見と交流する中で、より多くの判断材料を入手できるのであって、戸別訪問を受けることにより、迷惑と感じているどころか、かえって、有益なものと考えているのである。
[43] 現に、本件における各被訪問者も、何ら迷惑を感じていないことは、《証拠略》に照らし、明らかである。なお、現行公選法は、個々面接及び電話による投票依頼を容認しているが、その弊害が皆無であることも、これを裏付ける。
(五) 多額経費論
[44] これも、全体としての法定選挙費用で制限すればよいし、また、対価を支払わなければ、自己のための選挙運動の担い手を獲得できない政治家のみの特有な議論でしかない。この議論も、前記煩瑣論同様、選挙運動は国民の一人一人が行うものであることを看過したもので、根拠薄弱である。
(六) 当選議員不利論
[45] これは、当選議員固有の議論であって、全く合理的な根拠となり得ないことは、明白なので、あえて論評するまでもない。
[46] 以上述べたところから、戸別訪問禁止理由は、どれ一つとして、合理的根拠を有するものはなく、戸別訪問による種々の弊害は、存しないことが明らかとなった。

3 戸別訪問禁止による弊害
[47] 戸別訪問は、前記のように、選挙運動上大きな意義と長所を有するものであり、財力のない一般国民にとっては、なくてはならない選挙運動なのである。しかるに、戸別訪問は、何ら合理的な理由がないのに禁止されている。そのため、大略、次に列挙するような大きな弊害を、もたらしている。
(一) 戸別訪問禁止の結果、選挙や政治は、国民から縁遠い存在となり、国民の代表と国民とのつながりは、稀薄化している。
(二) 一般国民の選挙運動を奪いさり、政治に関するフェイス・ツー・フェイス、マン・ツー・マンの日常的な対話の場を剥奪している。前記のように、国民にとって、戸別訪問ほど身近で手数と金のかからない基礎的な選挙運動はないのに、それが禁止されていることにより、国民は個人として、選挙運動を事実上行い得ないことになっている。その結果、国民に正確な情報を提供する機会をなくし、他の政治的意見と交流をなくした独断専行(たとえば事実無根の流言卑語の横行)と国民の政治に対する無関心、無気力化が進んでいる。
(三) 取締当局も、形式犯の検挙に追われ、実質犯の摘発を阻害されている。

4 要約
[48] 以上のようにみてくると、戸別訪問の禁止は、前記人権制約基準たる「合理性の認められる最小必要限度」の規制をはるかに越えるものであることは明らかであり、戸別訪問を、殊更処罰しなければならない合理的理由は、到底見出すことができないのである。
[49] 従って、戸別訪問の全面的禁止を規定した公選法138条1項、239条3号は、言論の自由を保障した憲法21条1項の規定に違反し、無効といわざるを得ない。
[50] よって、その余について判断するまでもなく、被告人両名の本件各所為は、いずれも罪とならず、被告人両名は無罪であるから、刑訴法336条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

  (裁判官 小川国男)

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