猿払事件
上告審判決

国家公務員法違反被告事件
最高裁判所 昭和44年(あ)第1501号
昭和49年11月6日 大法廷 判決

上告申立人 検察官

被告人   大沢克己
弁護人   東城守一 外438名

検察官   横井大三 外4名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見

■ 検察官の上告趣意
■ 検察官弁論要旨
■ 弁護人弁論要旨(総論)
■ 弁護人弁論要旨(各論)


 原判決及び第一審判決を破棄する。
 被告人を罰金5,000円に処する。
 被告人において右罰金を完納することができないときは、金1,000円を1日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。
 原審及び第一審における訴訟費用は被告人の負担とする。

[1] 本件公訴事実の要旨は、被告人は、北海道宗谷郡猿払村の鬼志別郵便局に勤務する郵政事務官で、猿払地区労働組合協議会事務局長を勤めていたものであるが、昭和42年1月8日告示の第31回衆議院議員選挙に際し、右協議会の決定にしたがい、日本社会党を支持する目的をもつて、同日同党公認候補者の選挙用ポスター6枚を自ら公営掲示場に掲示したほか、その頃4回にわたり、右ポスター合計約184枚の掲示方を他に依頼して配布した、というものである。
[2] 国家公務員法(以下「国公法」という。)102条1項は、一般職の国家公務員(以下「公務員」という。)に関し、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、この委任に基づき人事院規則14-7(政治的行為)(以下「規則」という。)は、右条項の禁止する「政治的行為」の具体的内容を定めており、右の禁止に違反した者に対しては、国公法110条1項19号が3年以下の懲役又は10万円以下の罰金を科する旨を規定している。被告人の前記行為は、規則5項3号、6項13号の特定の政党を支持することを目的とする文書すなわち政治的目的を有する文書の掲示又は配布という政治的行為にあたるものであるから、国公法110条1項19号の罰則が適用されるべきであるとして、起訴されたものである。
[3] 第一審判決は、右の事実は関係証拠によりすべて認めることができるとし、この事実は規則の右各規定に該当するとしながらも、非管理職である現業公務員であつて、その職務内容が機械的労務の提供にとどまるものが、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なくして行つた規則6項13号の行為で、労働組合活動の一環として行われたと認められるものに、刑罰を科することを定める国公法110条1項19号は、このような被告人の行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては合理的にして必要最小限の域を超えるものであり、憲法21条、31条に違反するとの理由で、被告人を無罪とした。
[4] 原判決は、検察官の控訴を斥け、第一審判決の判断は結論において相当であると判示した。
[5] 検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法21条、31条の解釈の誤りを主張するものである。
[6] 第一審判決及び原判決が被告人の本件行為に対し国公法110条1項19号の罰金を適用することは憲法21条、31条に違反するものと判断したのは、民主主義国家における表現の自由の重要性にかんがみ、国公法102条1項及び規則5項3号、6項13号が、公務員に対し、その職種や職務権限を区別することなく、また行為の態様や意図を問題とすることなく、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為を、一律に違法と評価して、禁止していることの合理性に疑問があるとの考えに、基づくものと認められる。よつて、まず、この点から検討を加えることとする。

[7](一) 憲法21条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限することができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほかに、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲法21条による保障を受けるものであることも、明らかである。国公法102条1項及び規則によつて公務員に禁止されている政治的行為も多かれ少なかれ政治的意見の表明を内包する行為であるから、もしそのような行為が国民一般に対して禁止されるのであれば、憲法違反の問題が生ずることはいうまでもない。
[8] しかしながら、国公法102条1項及び規則による政治的行為の禁止は、もとより国民一般に対して向けられているものではなく、公務員のみに対して向けられているものである。ところで、国民の信託による国政が国民全体への奉仕を旨として行われなければならないことは当然の理であるが、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とする憲法15条2頁の規定からもまた、公務が国民の一部に対する奉仕としてではなく、その全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを理解することができる。公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もっぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。

[9](二) 国公法102条1項及び規則による公務員に対する政治的行為の禁止が右の合理的で必要やむをえない限度にとどまるものか否かを判断するにあたつては、禁止の目的、この目的と禁止される政治的行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の3点から検討することが必要である。
[10] そこで、まず、禁止の目的及びこの目的と禁止される行為との関連性について考えると、もし公務員の政治的行為のすべてが自由に放任されるときは、おのずから公務員の政治的中立性が損われ、ためにその職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立的運営に対する国民の信頼が損われることを免れない。また、公務員の右のような党派的偏向は、逆に政治的党派の行政への不当な介入を容易にし、行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するばかりでなく、そのような傾向が拡大すれば、本来政治的中立を保ちつつ一体となつて国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し、そのため行政の能率的で安定した運営は阻害され、ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障をきたすおそれがあり、このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大すべく、かくては、もはや組織の内部規律のみによつてはその弊害を防止することができない事態に立ち至るのである。したがつて、このような弊害の発生を防止し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え、公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであつて、その目的は正当なものというべきである。また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。
[11] 次に、利益の均衡の点について考えてみると、民主主義国家においては、できる限り多数の国民の参加によつて政治が行われることが国民全体にとつて重要な利益であることはいうまでもないのであるから、公務員が全体の奉仕者であることの一面のみを強調するあまり、ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによつて右の利益が失われることとなる消極面を軽視することがあつてはならない。しかしながら、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を、これに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしてではなく、その行動のもたらす弊害の防止をねらいとして禁止するときは、同時にそれにより意見表明の自由が制約されることにはなるが、それは、単に行動の禁止に伴う限度での間接的、付随的な制約に過ぎず、かつ、国公法102条1項及び規則の定める行動類型以外の行為により意見を表明する自由までをも制約するものではなく、他面、禁止により得られる利益は、公務員の政治的中立性を維持し、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益なのであるから、得られる利益は、失われる利益に比してさらに重要なものというべきであり、その禁止は利益の均衡を失するものではない。

[12](三) 以上の観点から本件で問題とされている規則5項3号、6項13号の政治的行為をみると、その行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為であつて、政治的偏向の強い行動類型に属するものにほかならず、政治的行為の中でも、公務員の政治的中立性の維持を損うおそれが強いと認められるものであり、政治的行為の禁止目的との間に合理的な関連性をもつものであることは明白である。また、その行為の禁止は、もとよりそれに内包される意見表明そのものの制約をねらいとしたものではなく、行動のもたらす弊害の防止をねらいとしたものであつて、国民全体の共同利益を擁護するためのものであるから、その禁止により得られる利益とこれにより失われる利益との間に均衡を失するところがあるものとは、認められない。したがって、国公法102条1項及び規則5項3号、6項13号は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、憲法21条に違反するものということはできない。

[13](四) ところで、第一審判決は、その違憲判断の根拠として、被告人の本件行為が、非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供にとどまるものにより、勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、労働組合活動の一環として行われたものであることをあげ、原判決もこれを是認している。しかしながら、本件行為のような政治的行為が公務員によってされる場合には、当該公務員の管理職・非管理職の別、現業・非現業の別、裁量権の範囲の広狭などは、公務員の政治的中立性を維持することにより行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保しようとする法の目的を阻害する点に、差異をもたらすものではない。右各判決が、個々の公務員の担当する職務を問題とし、本件被告人の職務内容が裁量の余地のない機械的業務であることを理由として、禁止違反による弊害が小さいものであるとしている点も、有機的統一体として機能している行政組織における公務の全体の中立性が問題とされるべきものである以上、失当である。郵便や郵便貯金のような業務は、もともと、あまねく公平に、役務を提供し、利用させることを目的としているのであるから(郵便法1条、郵便貯金法1条参照)、国民全体への公平な奉仕を旨として運営されなければならないのであって、原判決の指摘するように、その業務の性質上、機械的労務が重い比重を占めるからといって、そのことのゆえに、その種の業務に従事する現業公務員を公務員の政治的中立性について例外視する理由はない。また、前述のような公務員の政治的行為の禁止の趣旨からすれば、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、職務利用の有無などは、その政治的行為の禁止の合憲性を判断するうえにおいては、必ずしも重要な意味をもつものではない。さらに、政治的行為が労働組合活動の一環としてなされたとしても、そのことが組合員である個々の公務員の政治的行為を正当化する理由となるものではなく、また、個々の公務員に対して禁止されている政治的行為が組合活動として行われるときは、組合員に対して統制力をもつ労働組合の組織を通じて計画的に広汎に行われ、その弊害は一層増大することとなるのであつて、その禁止が解除されるべきいわれは少しもないのである。

[14](五) 第一審判決及び原判決は、また、本件政治的行為によつて生じる弊害が軽微であると断定し、そのことをもつてその禁止を違憲と判断する重要な根拠としている。しかしながら、本件における被告人の行為は、衆議院議員選挙に際して、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布したものであつて、その行為は、具体的な選挙における特定政党のためにする直接かつ積極的な支援活動であり、政治的偏向の強い典型的な行為というのほかなく、このような行為を放任することによる弊害は、軽微なものであるとはいえない。のみならず、かりに特定の政治的行為を行う者が一地方の一公務員に限られ、ために右にいう弊害が一見軽微なものであるとしても、特に国家公務員については、その所属する行政組織の機構の多くは広範囲にわたるものであるから、そのような行為が累積されることによつて現出する事態を軽視し、その弊害を過小に評価することがあつてはならない。
[15] 第一審判決は、また、たとえ公務員の政治的行為を違法と評価してこれを禁止することが憲法21条に違反しないとしても、その禁止の違反に対し罰則を適用することについては、さらに憲法21条、31条違反の問題を生じうるとの考えに立ち、国公法の立法過程にふれたうえ、その罰則は被告人の本件行為に対し適用する限度において違憲であると結論し、原判決もこれを支持するのである。よつて、この点について検討を加えることとする。

[16](一) およそ刑罰は、国権の作用による最も峻厳な制裁であるから、特に基本的人権に関連する事項につき罰則を設けるには、慎重な考慮を必要とすることはいうまでもなく、刑罰規定が罪刑の均衡その他種々の観点からして著しく不合理なものであつて、とうてい許容し難いものであるときは、違憲の判断を受けなければならないのである。そして、刑罰規定は、保護法益の性質、行為の態様・結果、刑罰を必要とする理由、刑罰を法定することによりもたらされる積極的・消極的な効果・影響などの諸々の要因を考慮しつつ、国民の法意識の反映として、国民の代表機関である国会により、歴史的、現実的な社会的基盤に立つて具体的に決定されるものであり、その法定刑は、違反行為が帯びる違法性の大小を考慮して定められるべきものである。
[17] ところで、国公法102条1項及び規則による公務員の政治的行為の禁止は、上述したとおり、公務員の政治的中立性を維持することにより、行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の重要な共同利益を擁護するためのものである。したがつて、右の禁止に違反して国民全体の共同利益を損う行為に出る公務員に対する制裁として刑罰をもつて臨むことを必要とするか否かは、右の国民全体の共同利益を擁護する見地からの立法政策の問題であつて、右の禁止が表現の自由に対する合理的で必要やむをえない制限であると解され、かつ、刑罰を違憲とする特別の事情がない限り、立法機関の裁量により決定されたところのものは、尊重されなければならない。
[18] そこで、国公法制定の経過をみると、当初制定された国公法(昭和22年法律第120号)には、現行法の110条1項19号のような罰則は設けられていなかつたところ、昭和23年法律第222号による改正の結果右の規定が追加されたのであるが、その後昭和25年法律第261号として制定された地方公務員法においては、初め政府案として政治的行為をあおる等の一定の行為について設けられていた罰則規定は、国会審議の過程で削除された。その際、国公法の右の罰則は、地方公務員法についての右の措置にもかかわらず、あえて削除されることなく今日に至つているのであるが、そのことは、ひとしく公務員であつても、国家公務員の場合は、地方公務員の場合と異なり、その政治的行為の禁止に対する違反が行政の中立的運営に及ぼす弊害に逕庭があることからして、罰則を存置することの必要性が、国民の代表機関である国会により、わが国の現実の社会的基盤に照らして、承認されてきたものとみることができる。
[19] そして、国公法の右の罰則を設けたことについて、政策的見地からする批判のあることはさておき、その保護法益の重要性にかんがみるときは、罰則制定の要否及び法定刑についての立法機関の決定がその裁量の範囲を著しく逸脱しているものであるとは認められない。特に、本件において問題とされる規則5項3号、6項13号の政治的行為は、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書の掲示又は配布であつて、前述したとおり、政治的行為の中でも党派的偏向の強い行動類型に属するものであり、公務員の政治的中立性を損うおそれが大きく、このような違法性の強い行為に対して国公法の定める程度の刑罰を法定したとしても、決して不合理とはいえず、したがつて、右の罰則が憲法31条に違反するものということはできない。

[20](二) また、公務員の政治的行為の禁止が国民全体の共同利益を擁護する見地からされたものであつて、その違反行為が刑罰の対象となる違法性を帯びることが認められ、かつ、その禁止が、前述のとおり、憲法31条に違反するものではないと判断される以上、その違反行為を構成要件として罰則を法定しても、そのことが憲法21条に違反することとなる道理は、ありえない。

[21](三) 右各判決は、たとえ公務員の政治的行為の禁止が憲法21条に違反しないとしても、その行為のもたらす弊害が軽徴なものについてまで一律に罰則を適用することは、同条に違反するというのであるが、違反行為がもたらす弊害の大小は、とりもなおさず違法性の強弱の問題にほかならないのであるから、このような見解は、違法性の程度の問題と憲法違反の有為の問題とを混同するものであつて、失当というほかはない。

[22](四) 原判決は、さらに、規制の目的を達成しうる、より制限的でない他の選びうる手段があるときは、広い規制手段は違憲となるとしたうえ、被告人の本件行為に対する制裁としては懲戒処分をもつて足り、罰則までも法定することは合理的にして必要最小限度を超え、違憲となる旨を判示し、第一審判決もまた、外国の立法例をあげたうえ、被告人の本件行為のような公務員の政治的行為の禁止の違反に対して罰則を法定することは違憲である旨を判示する。
[23] しかしながら、各国の憲法の規定に共通するところがあるとしても、それぞれの国の歴史的経験と伝統はまちまちであり、国民の権利意識や自由感覚にもまた差異があるのであって、基本的人権に対して加えられる規制の合理性についての判断基準は、およそ、その国の社会的基盤を離れて成り立つものではないのである。これを公務員の政治的行為についてみるに、その規制を公務員自身の節度と自制に委ねるか、特定の政治的行為に限つて禁止するか、特定の公務員のみに対して禁止するか、禁止違反に対する制裁をどのようなものとするかは、いずれも、それぞれの国の歴史的所産である社会的諸条件にかかわるところが大であるといわなければならない。したがつて、外国の立法例は、一つの重要な参考資料ではあるが、右の社会的諸条件を無視して、それをそのままわが国にあてはめることは、決して正しい憲法判断の態度ということはできない。
[24] いま、わが国公法の規定をみると、公務員の政治的行為の禁止の違反に対しては、一方で、前記のとおり、同法110条1項19号が刑罰を科する旨を規定するとともに、他方では、同法82条が懲戒処分を課することができる旨を規定し、さらに同法85条においては、同一事件につき懲戒処分と刑事訴追の手続を重複して進めることができる旨を定めている。このような立法措置がとられたのは、同法による懲戒処分が、もともと国が公務員に対し、あたかも私企業における使用者にも比すべき立場において、公務員組織の内部秩序を維持するため、その秩序を乱す特定の行為について課する行政上の制裁であるのに対し、刑罰は、国が統治の作用を営む立場において、国民全体の共同利益を擁護するため、その共同利益を損う特定の行為について科する司法上の制裁であつて、両者がその目的、性質、効果を異にするからにほかならない。そして、公務員の政治的行為の禁止に違反する行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、前述のとおりであるから、その禁止の違反行為に対し懲戒処分のほか罰則を法定することが不合理な措置であるとはいえないのである。
[25] このように、懲戒処分と刑罰とは、その目的、性質、効果を異にする別個の制裁なのであるから、前者と後者を同列に置いて比較し、司法判断によつて前者をもつてより制限的でない他の選びうる手段であると軽々に断定することは、相当ではないというべきである。
[26] なお、政治的行為の定めを人事院規則に委任する国公法102条1項が、公務員の政治的中立性を損うおそれのある行動類型に属する政治的行為を具体的に定めることを委任するものであることは、同条項の合理的な解釈により理解しうるところである。そして、そのような政治的行為が、公務員組織の内部秩序を維持する見地から課される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに、国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることは、すでに述べたとおりであるから、右条項は、それが同法82条による懲戒処分及び同法110条1項19号による刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものであるからといって、そのことの故に、憲法の許容する委任の限度を超えることになるものではない。

[27](五) 右各判決は、また、被告人の本件行為につき罰則を適用する限度においてという限定を付して右罰則を違憲と判断するのであるが、これは、法令が当然に適用を予定している場合の一部につきその適用を違憲と判断するものであつて、ひつきよう法令の一部を違憲とするにひとしく、かかる判断の形式を用いることによつても、上述の批判を免れうるものではない。
[28] 以上のとおり、被告人の本件行為に対し適用されるべき国公法110条1項19号の罰則は、憲法21条、31条に違反するものではなく、また、第一審判決及び原判決の判示する事実関係のもとにおいて、右罰則を被告人の右行為に適用することも、憲法の右各法条に違反するものではない。第一審判決及び原判決は、いずれも憲法の右各法条の解釈を誤るものであるから、論旨は理由がある。よつて、上告趣意中のその余の所論に対する判断を省略し、刑訴法401条1項本文により第一審判決及び原判決を破棄し、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法413条但書により被告事件についてさらに判決する。
[29] 第一審判決の認定した事実(第一審第1回公判調書中の被告人の供述記載、被告人、並河誠一、越智良九、牧野邦昭、白取兢、山川健二、立野政男の検察官に対する各供述調書による。)に法令を適用すると、被告人の各行為は、いずれも国公法110条1項19号(刑法6条、10条により罰金額の寡額は昭和47年法律第61号による改正前の罰金等臨時措置法2条1項所定の額による。)、102条1項、規則5項3号、6項13号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、以上は刑法45条前段の併合罪であるから、同法48条2頁により各罪につき定めた罰金の合算額以下において被告人を罰金5,000円に処し、同法18条により被告人において右罰金を完納することができないときは金1,000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置し、刑訴法181条1項本文により原審及び第一審における訴訟費用は被告人の負担とし、主文のとおり判決する。

[30] この判決は、裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官大隅健一郎、同関根小郷、同小川信雄、同坂本吉勝の反対意見は、次のとおりである。
[1] 本件の経過は多数意見記載のとおりであり、検察官の上告趣意は、第一審判決及び原判決の判断につき、憲法21条、31条の解釈の誤りと判例違反とを主張するものである。
[2] 思うに、国公法102条1項は、公務員に関して、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、これに基づいて規則14-7は、右条項の禁止する「政治的行為」の内容を詳細に定めている。そして右条項及びこれに基づく規則の違反に対しては、国公法82条以下に懲戒処分、同法110条1項19号に刑事制裁が定められている。すなわち、国公法102条1項は、違反に対する制裁の関連からいえば、公務員につき禁止されるべき政治的行為に関し、懲戒処分を受けるべきものと、犯罪として刑罰を科せられるべきものとを区別することなく、一律一体としてその内容についての定めを人事院規則に委任している。このような立法の委任は、少なくとも後者、すなわち、犯罪の構成要件の規定を委任する部分に関するかぎり、憲法に違反するものと考える。その理由は、次のとおりである。
[3] およそ国民の政治活動の自由は、自由民主主義国家において、統治権力及びその発動を正当づける最も重要な根拠をなすものとして、国民の個人的人権の中でも最も高い価値を有する基本的権利である。政治活動の自由とは、国民が、国の基本的政策の決定に直接間接に関与する機会をもち、かつ、そのための積極的な行動を行う自由のことであり、それは、国の基本的政策の決定機関である国会の議員となり、又は右議員を選出する手続に様々の形で関与し、あるいは政党その他の政治的団体を結成し、それに加入し、かつ、その一員として活動する等狭義の政治過程に参加することの外、このような政治過程に働きかけ、これに影響を与えるための諸活動、例えば政治的集会、集団請願等の集団行動的なものから、様々の方法、形態による単なる個人としての政治的意見の表明に至るまで、極めて広い範囲にわたる行為の自由を含むものである。このように、政治活動の自由は、単なる政治的思想、信条の自由のような個人の内心的自由にとどまるものではなく、これに基づく外部的な積極的、社会的行動の自由をその本質的性格とするものであり、わが憲法は、参政権に関する15条1項、請願権に関する16条、集会、結社、表現の自由に関する21条の各規定により、これを国民の基本的人権の一つとして保障しているのである。
[4] もとより、右のような基本的人権としての政治活動の自由も、絶対無制限のものではなく、公共の利益のために真にやむをえない場合には、多かれ少なかれ何らかの制限に服することをまぬかれないが、積極的な政治活動はその性質上その時々の政府の見解や利益と対立、衝突しがちであるため、とかく政治権力による制限を受けやすいことにかんがみるときは、このような制限がされる場合には、その理由を明らかにし、その制限が憲法上十分の正当性をもつものであるかどうかにつき、特に慎重な吟味検討を施すことが要請されるものといわなければならない。
[5] 国家公務員もまた、国民の一人として、右に述べた政治活動の自由を憲法上保障されているわけであるが、国公法102条及び同条1項に基づく規則は、公務員に属する者の政治活動に対し、前記のような制限を加えている。その理由は、おおよそ次のごときものと考えられる。すなわち、国公法は、日本国憲法のもとにおいて、国の行政に従事する公務員につき、「国民に対し、公務の民主的かつ能率的な運営を保障する」目的(同法1条)から、成績制を根幹とする公務員制度を採用しているが、この成績制公務員制度においては、いわゆる中立性の原則がその本質的なものとされている。けだし、公務員は、国民を直接代表する立法府の政治的意思を忠実に実行すべきものであつて、自己の政治的意思に従つて行政の運営にあたつてはならないとともに、近代民主国家における政治(立法)と行政の分離の要請に基づき、政治と行政の混こう、政治の介入による行政のわい曲を防止しなければならないからである。そして、国公法がこのような公務員制度を採用したことは、公務員が国民全体の奉仕者たるべきことを定めた憲法15条2頁の趣旨及び精神にも合致するものということができる。
[6] 国公法の採用した右のような公務員制度の趣旨及び性格、なかんずく公務員の政治的中立性の原則からするときは、公務員は、ひとり実際の行政運営において政治的な利害や影響に基づく、法に忠実でない行政活動を厳に避けなければならないばかりでなく、現実にこのような行政のわい曲をもたらさないまでも、その危険性を生じさせたり、又は第三者からそのような疑惑を抱かれる原因となるような政治的性格をもつ行動を避けるべきことが要請される。のみならず、公務員は、多かれ少なかれ国政の運営に関与するものであるから、それが集団的、組織的に政治活動を行うときは、それ自体が大きな政治的勢力となり、その過大な影響力の行使によつて民主的政治過程を不当にわい曲する危険がないとはいえない。国の行政が国の存立と円満な国民生活の維持のうえで必要不可欠なものであり、行政の政治的中立性が右に述べたように極めて重要な要請であることを考えるときは、公務員に対し、その職務を離れて専ら一市民としての立場においてする政治活動についても、一定の制限を課すべき公共的な利益と必要が存することは、これを否定することができないのである。
[7] しかしながら、このことから直ちに、一般的、抽象的に公務員の個人的基本権としての政治活動の自由を行政の中立性の要請に従属させ、その目的のために必要と認められるかぎり、右政治活動の自由に対していかなる制限を課しても憲法上是認されるとの結論を導き出すことはできない。けだし、ひとしく公務員といつても、それが属する行政主体の事業の内容及び性質、その中における公務員の地位、職務の内容及び性質は多種多様であり、またそれらの公務員が行う政治活動の種類、性質、態様、規模、程度も区々であつて、これらの多様性に応じ、公務員の特定の政治活動が行政の中立性に及ぼす影響の性質及び程度、並びにその禁止が公務員の個人的基本権としての政治活動の自由に対して及ぼす侵害の意義、性質、程度及び重要性にも大きな相違が存するからである。それゆえ、前記の相反する2つの法益ないしは要求の間に調整を施すにあたつても、右に述べた相違を考慮し、より具体的、個別的に両法益の相互的比重を吟味検討し、真に行政の中立性保持の利益の前に公務員の政治活動の自由が退かなければならない場合、かつ、その限度においてのみこれを制限するとの態度がとられなければならない。のみならず、ひとり制限されるべき政治活動の範囲及び内容ばかりでなく、制限の方法、態様においてもその性質、効果を異にするのであるから、この点もまた、右の問題を解決するうえにおいて重要な要素であることを失わない。そして、以上に述べたことは、ひとり国会の専権に属する立法政策上の問題であるにとどまらず、また、憲法の要求するところでもあるというべきである。
[8] 国公法102条は、冒頭記述のとおり、公務員の政治活動に関して若干の特定の形態の行為を直接禁止した外は、選挙権の行使を除き人事院規則で定める政治的行為を一般的に禁止するものとし、禁止行為の具体的内容及び範囲の決定を人事院に一任するとともに、その禁止の方法においても、これを単に公務員関係上の権利義務の問題として規定するにとどまらず、刑事制裁を伴う犯罪として扱うべきものとしている。国公法におけるこのような規制の方法は、同法に基づく規則における具体的禁止規定の内容の適否を離れても、それ自体として重大な憲法上の問題を惹起するものと考える。すなわち、
(い) 公務員関係の規律として公務員の一定の政治的行為を禁止する場合と、かかる関係を離れて刑罰権の対象となる一個人としてその者の政治的行為を禁止する場合とでは、憲法上是認される制限の範囲に相違を生ずべきものであり、この両者を同視して一律にこれを定めることは、それ自体として憲法15条1項、16条、21条、31条に違反するのではないかという問題があり、
(ろ) 国会が公務員の政治的行為を規制するにあたり、直接公務員の政治活動の制限の要否を具体的に検討しその範囲を決定することなく、人事院にこれを一任することは、立法府が公開の会議(憲法57条)において国民監視のもとに自ら行うべき立法作用の本質的部分を放棄して非公開の他の国家機関に移譲するものであつて、憲法41条に違反するのではないかという問題があり、
(は) 右(い)と(ろ)の問題の関連において、懲戒原因としての政治的行為の禁止と可罰原因としてのそれを区別することなく一律にその具体的規定を規則に委任することは、委任自体として憲法に違反するのではないかという問題があるのである。
[9] これらの問題は、事の性質上、右授権に基づいて制定された規則における具体的禁止規定の内容の適否の問題に入る以前において検討、決定されるべき問題であるといわなければならない。
(一) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為と刑罰権の対象となる政治的行為とでは、その内容、範囲についてそれぞれ憲法上の区別があること(憲法15条1項、16条、21条、31条)。
(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為について(憲法73条4号、15条、16条、21条、国公法102条1項、82条)。
[10] 公務員と国との間に成立する法律関係は、公務員としての職務活動に自己の労働力を提供する個人と、これを使用して公務を遂行する国との間に成立する権利義務の関係であり、基本的には双方の意思に基づいて成立し、その内容は、法律によつて直接これを規定しないかぎり、本来は当事者の合意によつて決定されうるところのものである。しかし、公務員関係の内容をすべて当事者の合意によつて定めることは適当でなく、他方、憲法はこの問題を行政主体の完全な裁量に委ねず、法律で定める基準に従つて処理すべきものとしている(73条4号)ので、公務員関係の法的内容は、実際においては、国公法をはじめとする関係諸法律によつて詳細に規定され、その具体的内容は、公務員関係の成立の基礎となる任用の方法、基準、手続、勤務時間、給与、勤務上の地位の異動等の勤務条件に関する基準、公務員の勤務上及び勤務外の行為に関する規律、公務員関係内における紛争の処理等極めて広い範囲にわたつている。
[11] このように、公務員関係を規制すべき法内容を定めるにあたつては、立法機関としての国会が広い裁量権を有し、国会は、日本国憲法のもとにおいていかなる公務員制度が最も望ましいかを考え、その構想のもとに、その具体化のための措置を講ずることができるのであつて、国会が具体的に採用、決定した立法措置は、憲法上是認しうる目的のために必要又は適当であると合理的に判断しうる範囲にとどまるかぎり、憲法に適合する有効なものであるとしなければならない。
[12] 国公法102条における公務員に対する政治的行為の禁止もまた、前述のような公務員制度の具体化の一環として、公務員関係内における公務員の職務上又は職務外における義務又は負担の一つとして定められたものと認められるのであり、その目的ないしは理由が、国公法の採用した成績制公務員制度における公務員の政治的中立性の要請にこたえるにあり、公務員の任免、昇進、異動の面における政治的考慮ないしは影響の排除の反面として、公務員自身に対しても、一定範囲における政治的中立性遵守の義務を課したものであることは、さきに述べたとおりである。
[13] そして、成績制公務員制度が憲法の精神に適合するものであり、かかる制度の要請する公務員の政治的中立性の保持が憲法上是認される目的に基づくものである以上、たとえ政治活動の自由が憲法における最も重要な個人的基本権であるとしても、自らの意思に基づいて国との間に公務員関係という一定の法律関係に入る者に対し、かかる法律関係の一内容として、前記の目的を達するために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において右権利に対する制約を加えることは、憲法上許されるところであるとしなければならない。
[14] また、右の基準のもとにおける制限の必要性に関する国会の判断の合理性については、前記のような国会の裁量権の広範性にかんがみ、必ずしも特定の政治的行為が公務員の政治的中立性を侵害する現実の危険を伴うかどうかというような厳格、狭あいな視点にのみ限局されることなく、より広くその種の行為が一般的に右のような侵害の抽象的危険性を有するかどうかという点をも考慮に入れることが許されるというべきである。それゆえ、国公法102条における政治的行為の禁止は、その違反に対し公務員関係上の義務違反に対する制裁としての懲戒によつて強制されるべき義務を設定するものであるかぎりにおいては、右の基準に照らしてその合憲性を決定すべく、この基準に適合するかぎり、これを違憲とする理由はないのである。
(2) 刑罰権の対象となる公務員の政治的行為について(憲法15条1項、16条、21条、31条)。
[15] およそ刑罰は、一般統治権に基づき、その統治権に服する者に対して一方的に行使される最も強力な権能であり、国家が一般統治上の見地から特に重大な反国家性、反社会性をもつと認める個人の行為、すなわち、国家、社会の秩序を害する行為に対してのみ向けられるべきものである。単なる私人間の法律関係上の義務違背や、公私の団体又は組織の内部的規律侵犯行為のように、間接に国家、社会の秩序に悪影響を及ぼす危険があるにすぎない行為は、当然には処罰の対象とはなりえない。一般に個人の自由は、多種多様の関係において種種の理由により法的拘束を受けるが、それらの拘束が法的に是認される範囲は、それぞれの関係と理由において必ずしも同一ではないのであつて、公務員の政治活動の自由についても、事と同様である。究極的には当事者の合意に基づいて成立する公務員関係上の権利義務として公務員の政治活動の自由に課せられる法的制限と、一般統治権に基づき刑罰の制裁をもつて課せられるかかる自由の制限とは、その目的、根拠、性質及び効果を全く異にするのであり、このことにこそ民事責任と刑事責任との分化と各その発展が見られるのである。したがつてまた、右両種の制限が憲法上是認されるかどうかについても、おのずから別個に考察、論定されなければならないのであつて、公務員が公務外において一市民としてする政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止しうる範囲は、一般に国が一定の統治目的のために、国民の政治活動を刑罰の制裁をもつて制限、禁止する場合について適用される憲法上の規準と原理とによつて、決せられなければならないのである。
[16] 右の見地に立つて考えると、刑罰の制裁をもつてする公務員の政治活動の自由の制限が憲法上是認されるのは、禁止される政治的行為が、単に行政の中立性保持の目的のために設けられた公務員関係上の義務に違反するというだけでは足りず、公務員の職務活動そのものをわい曲する顕著な危険を生じさせる場合、公務員制度の維持、運営そのものを積極的に阻害し、内部的手段のみでこれを防止し難い場合、民主的政治過程そのものを不当にゆがめるような性質のものである場合等、それ自体において直接、国家的又は社会的利益に重大な侵害をもたらし、又はもたらす危険があり、刑罰によるその禁圧が要請される場合に限られなければならない。
[17] 更に、個人の政治活動の自由が憲法上極めて重大な権利であることにかんがみるときは、一般統治権に基づく刑罰の制裁をもつてするその制限は、これによつて影響を受ける政治的自由の利益に明らかに優越する重大な国家的、社会的利益を守るために真にやむをえない場合で、かつ、その内容が真に必要やむをえない最小限の範囲にとどまるかぎりにおいてのみ、憲法上容認されるものというべきである。すなわち、単に国家的、社会的利益を守る必要性があるとか、当該行為に右の利益侵害の観念的な可能性ないしは抽象的な危険性があるとか、右利益を守るための万全の措置として刑罰を伴う強力な禁止措置が要請される等の理由だけでは、かかる形における自由の制限を合憲とすることはできない。けだし、一般に政治活動、なかんずく反政府的傾向をもつ政治活動は政治権力者からみれば、ややもすると国家的、社会的利益の侵害をもたらすものと受けとられがちであるが、このような危険や可能性を観念的ないし抽象的にとらえるかぎり、その存在を肯定することは比較的容易であり、したがつて、政治活動の自由の制限に対して前述のような厳格な基準ないし原理によつて臨むのでなければ、国民の政治的自由は時の権力によつて右の名目の下に容易に抑圧され、憲法の規本的原理である自由民主主義はそのよつて立つ基礎を失うに当るおそれがあるからである。我々は、過去の歴史において、為政者の過度の配慮と警戒による自由の制限がもたらした幾多の弊害を度外視してはならないのである。このことは、公務員の政治活動についても同様であるといわなければならない。
(3) 規則6項13号の違憲性(憲法15条1項、16条、21条、31条)。
[18] 以上の基準に照らすときは、例えば、本件において問題とされている規則6項13号による文書の発行、配布、著作等は、政治活動の中でも最も基礎的かつ中核的な政治的意見の表明それ自体であり、これを意見表明の側面と行動の側面とに区別することはできず、その禁止は、政治的意見の表明それ自体に対する制約であるのみならず、これを政治的目的についての同規則5項、特に同項3号ないし6号の広範かつ著しく抽象的な定義と併せ読むときは、右の意見表明に所定の形態で関与する行為につき、その者の職種、地位、その所属する行政主体の業務の性質等、その具体的な関与の目的、関与の内容及び態様のいかん並びに前後の事情等に照らし、その行為が行政の政治的中立性の保持等の国家的、社会的利益に対していかなる現実的、直接的な侵害を加え、ないしはいかなる程度においてその危険を生じさせるかを一切問うことなく、単に行為者が公務員たる身分を有するというだけの理由で、包括的、一般的な禁止を施しているものであり、公務員に対し、実際上あまねく国の政策に関する批判や提言等の政治上の意見表明の機会を封ずるに近く、公務員関係上の義務の設定として合理的規制ということができるかどうかは別論として、少くとも刑罰を伴う禁止規定としては、公務員の政治的言論の自由に対する過度に広範な制限として、それ自体憲法に違反するとされてもやむをえないといわなければならない。
[19] 右に述べたように、ひとしく公務員の政治的行為の禁止であつても、公務員関係上の義務として定める場合と刑罰の対象となる行為として定める場合とでは、その意義、性質、効果を異にし、憲法上それが許される範囲にも相違が生ずることをまぬかれえないのであり、これらの点を全く無視し、専ら行為の禁止の点のみを抽象してそれが憲法に適合する制限かどうかを判断すべきものとし、禁止違反に対して懲戒が課せられるか刑罰が科せられるかは、単なる強制手段の問題として立法政策上の当否の対象となるにすぎないとすることはできないのである。

(二) 国公法102条1項の委任。
(1) 公務員関係の規律の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法73条4号、地方公務員法36条、29条)。
[20] 以上の次第であるから、法律が直接公務員の政治的行為の禁止を具体的に定めるには、公務員関係内における規律として定める場合と刑罰の構成要件として定める場合とを区別し、前述したような別個の観点、考慮に従つてその具体的内容を定めるべきであり、現実に定められた禁止内容に対しても、それが憲法に違反しないかどうかは別個の基準によつて判断すべきものであるが、国公法102条は、上述のように、禁止行為の内容及び範囲を直接定めないでこれを人事院規則に委任しており、そのためにかかる委任の適否について問題が生ずることは、さきに指摘したとおりである。そこでこの点について順次考察するのに、まず一般論として、国会が、法律自体の中で、特定の事項に限定してこれに関する具体的な内容の規定を他の国家機関に委任することは、その合理的必要性があり、かつ、右の具体的な定めがほしいままにされることのないように当該機関を指導又は制約すべき目標、基準、考慮すべき要素等を指示してするものであるかぎり、必ずしも憲法に違反するものということはできず、また、右の指示も、委任を定める規定自体の中でこれを明示する必要はなく、当該法律の他の規定や法律全体を通じて合理的に導き出されるものであつてもよいと解される。この見地に立つて国公法102条1項の規定をみると、同条項の委任には、選挙権の行使の除外を除き、いわゆる政治行為のうち、禁止しうるものとしえないものとを区分する基準につきなんら指示するところはないけれども、国公法の他の規定を通覧するときは、右の禁止が国公法の採用した成績制公務員制度の趣旨、目的、特に行政の中立性の保持の目的を達するためのものであることが明らかであり、他方、一般に法律が特定の目的を達するための具体的措置の決定を他の機関に委任した場合には、特にその旨を明示しなくても、右目的を達するために必要かつ相当と合理的に認められる措置を定めるべきことを委任したものと解すべきものであるから、前記法条における禁止行為の特定についての委任も、行政の中立性又はこれに対する信頼を害し、若しくは害するおそれがある公務員の政治的行為で、このような中立性又はその信頼の保持の目的のために禁止することが必要かつ相当と合理的に認められるものを具体的に特定することを人事院規則に委ねたものと解することができる。また、公務員の多種多様性、政治活動の広範性とその態様及び内容の多様性、これに伴う禁止の必要の程度の複雑性と多様性、更に社会的、政治的情勢の変化によるこれらの要素の変動の可能性等にかんがみるときは、具体的禁止行為の範囲及び内容の特定を他のしかるべき国家機関に委任することに合理性が認められるのみならず、人事院が内閣から相当程度の独立性を有し、政治的中立性を保障された国家機関で、このような立場において公務員関係全般にわたり法律の公正な実施運用にあたる職責を有するものであることに照らすときは、右の程度の抽象的基準のもとで広範かつ概括的な立法の委任をしても、その濫用の危険は少なく、むしろ現実に即した適正妥当な規則の制定とその弾力的運用を期待することができると考えられる。そして、前述のように、公務員関係の規律としては、行政の中立性の保持のために必要かつ相当であると合理的に認められる範囲において公務員の政治活動の自由に制約を加えることが是認されるのであるから、以上の諸点をあわせて考えると、右の関係における公務員の政治的行為禁止の具体的な規定を規則に委任することは、その委任に基づいて制定された規則の個々の規定内容が、あるいは憲法に違反し、あるいは委任の範囲をこえるものとして一部無効となるかどうかは別として、委任自体を憲法に違反する無効のものとするにはあたらないというべきである(地方公務員法36条、29条参照)。
(2) 刑罰権の対象となる政治的行為の規定の委任(憲法41条、15条1項、16条、21条、31条)。
[21] しかしながら、違反に対し刑罰が科せられる場合における禁止行為の規定に関しては、公務員関係の規律の場合におけると同一の基準による委任を適法とすることはできない。けだし、前者の場合には、後者の場合と、禁止の目的、根拠、性質及び効果を異にし、合憲的に禁止しうる範囲も異なること前記のとおりであつて、その具体的内容の特定を委任するにあたつては、おのずから別個の、より厳格な基準ないしは考慮要素に従つて、これを定めるべきことを指示すべきものだからである。
[22] しかるに、国公法102条1項の規定が、公務員関係上の義務ないしは負担としての禁止と罰則の対象となる禁止とを区別することなく、一律一体として人事院規則に委任し、罰則の対象となる禁止行為の内容についてその基準として特段のものを示していないことは、先に述べたとおりであり、また、同法の他の規定を通覧し、可能なかぎりにおける合理的解釈を施しても、右のような格別の基準の指示があると認めるに足りるものを見出すことができない。これは、同法が、両者のいずれの場合についても全く同一の基準、同一の考慮に基づいて禁止行為の範囲及び内容を定めることができるとする誤つた見解によつたものか、又は憲法上前記のような区別が存することに思いを致さなかつたためであるとしか考えられない。それゆえ、国公法102条1項における前記のごとき無差別一体的な立法の委任は、少なくとも、刑罰の対象となる禁止行為の規定の委任に関するかぎり、憲法41条、15条1項、16条、21条及び31条に違反し無効であると断ぜざるをえないのである。
[23] 以上説述したとおり、国公法102条1項による政治的行為の禁止に関する人事院規則への委任は、同法110条1項19号による処罰の対象となる禁止規定の定めに関するかぎり無効であるから、これに基づいて制定された規則もこの関係においては無効であり、したがつて、これに違反したことの故をもつて前記罰条により処罰することはできない。したがつて、これに反する従来の最高裁判所の判決は変更すべきものである。それゆえ、本件被告人の行為に適用されるかぎりにおいて規則6項13号の規定を無効として、被告人を無罪とした原判決は、結論において正当であるから、結局、本件上告は理由がなく、棄却すべきものである。

(裁判長裁判官 村上朝一  裁判官 大隅健一郎  裁判官 関根小郷  裁判官 藤林益三  裁判官 岡原昌男  裁判官 小川信雄  裁判官 下田武三  裁判官 岸 盛一  裁判官 天野武一  裁判官 坂本吉勝  裁判官 岸上康夫  裁判官 江里口清雄  裁判官 大塚喜一郎  裁判官 高辻正己  裁判官 吉田豊)
   目次
一、序説
二、確定された事実
三、原判決の要旨
四、上告趣意
 (一) 憲法違反
 (二) 判例違反
[1] 本件は、北海道の北端稚内に近い一寒村猿払村に起つた事件である。猿払村は、面積こそかなり広いが、その大部分は山林原野で、人口は5000余、それも年々減少の傾向を示す、いわゆる過疎地帯である。本件の内容は、そこにある一郵便局の局員が行つた選挙用ポスターの掲示や配布で、国家公務員法102条、110条1項19号、人事院規則14-7、6項13号に該当するとされたものである。これを、第一審判決は、憲法論の観点から無罪とし、原判決もこの無罪判決を支持した。そして、その憲法論は特異なものであり、しかもこの種事件は全国各地に数多く見られ、これらに対する本件判決の影響も考えられるので、(現に徳島地裁昭和44年3月27日の★本信之に対する判決には本件第一審判決の明瞭な影響が見られる。)、原判決および第一審判決のとる憲法論の誤りを指摘し、かつ、従来の判例との矛盾を論じ、最高裁判所の正当なる裁判を求めるため上告に及んだ次第である。
[2] 本件第一審判決は、具体的な事実関係を確定し、その上に立つて憲法論を展開し、原判決もこれを支持しているので、憲法論の当否に関する見解を述べる前に第一、二審を通じ確定された事実関係を明らかにしておくこととしたい。
[3](一) 被告人は、北海道宗谷郡猿払村字鬼志別所在、鬼志別郵便局に勤務する非管理職の国家公務員で、同時に猿払地区労働組合協議会事務局長であること。
[4](二) 被告人は、現業公務員であること。ただし、その意味は、被告人が国家行政組織法21条にいわゆる現業の行政機関に勤務する職員であるという意味と、公共企業体等労働関係法の適用を受けるいわゆる五現業の一つである郵便関係業務に従事する公務員という意味においてであつて、本件第一審判決の引用する、いわゆるミツチエル判決がその対象とした造幣局の圧延工というような現業公務員ではない。
[5](三) 被告人は、昭和42年1月8日告示の第31回衆議院議員選挙に際し、猿払地区労協の決定に従い、日本社会党の公認候補である芳賀貢の選挙用ポスター6枚を鬼志別地内の6箇所の公営掲示場に掲示したほか、同じ芳賀貢の選挙用ポスター約80枚を猿払村字浅茅野に住み浅茅野郵便局に勤務する牧野邦昭に掲示を依頼して郵便配布し、同じ芳賀候補のポスター8枚と同党公認の安井吉典候補の選挙用ポスター8枚を、同村字知来別に住み、知来別郵便局に勤務する白取兢に掲示を依頼して郵送配布し、同じ芳賀候補のポスター8枚を同村字小石地区集配担当の鬼志別郵便局員山川健二に掲示を依頼して配布し、更に、右安井候補のポスターを北海道電力株式会社鬼志別電業所の職員立野政男に分配掲示方を依頼して配布したこと。
[6] これは、本件公訴犯罪事実のすべてであつて、この事実ははじめから被告人の認めて争わないところである。
[7](四) 右の被告人の掲示または配布行為は、何れも勤務時間外に行われたこと。ただし、右のうち、山川健二に配布した分は、記録によると、同人が正規の郵便物配達の途次掲示したのであり(記録81丁82丁)、被告人もそれを前提として配布したとしか考えられないから、被告人自身の配布行為は勤務時間外であつたとしても、被告人の依頼内容は勤務時間中の掲示行為ということになる。そこに多少問題はあるが、いまここでは、これ以上、この点に触れないこととする。
[8](五) 被告人の本件所為は、いずれも、国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用し若しくはその公正を害する意図なしに行われたこと。
[9] しかし、この点には問題がある。
[10] 第一に、鬼志別郵便局の小石地区集配担当の山川健二に対する配布行為は、被告人がポスター8枚をまるめて、郵便物区分台の上に置き、「小石の配達さんお願いします。一番に貼つて下さい」という伝言を添えておいたのを、山川健二がこれを取り上げ前述のごとく集配の途次掲示したというのであるから、政治的目的のために国の施設を利用しまたは職権を利用したという見方もできないことはない。そこで検察官は、それを否定する第一審判決に対する控訴においてこの点を事実誤認として争つたのであるが、原判決は、第一審判決のいう国の施設を利用したものでもなく、職権を利用したものでもないというのは、人事院規則14-7、6項1号または12号の予想するような事実はないという意味であつて、その意味では第一審判決の右の判示は誤つていないとした。
[11] しかし、この原判決の判示は、少し焦点が違つているようである。検察官の起訴は、被告人の所為を人事院規則14-7、6項13号違反とするものである。第一審判決は、同項1号2号12号等に言及してはいるが、それは、合憲的に規制することの可能な場合の例としてであつて、本件における被告人の所為がそれら各号に該当するかどうかを検討しているのではなく、被告人の所為を人事院規則14-7、6項13号に違反するものとして合憲的に処罰しえない理由の一つとして、被告人は国の施設を利用したものでもなく、職権を利用したのでもないことを挙げているのであるから、原判決もその角度から被告人の山川健二に対する所為が国の施設の利用に当るかどうか、職権の利用に当るかどうかを考えるべきであつたのである。そうすれば、郵便局内の郵便物区分台を利用し同僚の集配担当者に集配の途次のポスター掲示を依頼することは、国の施設と職務関係を利用したものであるということも可能であろう。しかし、これは、純粋な事実認定の問題ではなく、被告人の所為を人事院規則14-7、6項13号に違反するものとして処罰する場合、国の施設の利用とか職務職権の利用が必要な条件になるかどうか、仮になるとして右の如き被告人の山川健二に対する依頼関係がそれに該当するかどうかの法律判断の問題とも考えられるので、ここでは、被告人が山川健二に対して右のような依頼をしてポスターを配布したという事実のみを確定された事実と考えることとしたい。
[12] 同じようなことは、第一審判決が、被告人の本件所為をもつて職務の公正を害する意図なしに行つたものとした点についてもいえるのであつて、検察官は、この点をとらえて、被告人は、国家公務員として関与してはいけない政治的行為であることを知りながら本件所為にでたものであるから、第一審判決の右のような判示は事実誤認であると主張したのであるが、原判決は、第一審判決が、右のように判示したのは、被告人の本件所為が人事院規則14-7、6項2号のような不公正な企図をはらんだ類の行為でないことを説明したのにとどまるとして検察官の右の主張を排斥しているのである。しかし、これも焦点をはずれた説示であつて、第一審判決が被告人に職務の公正を害する意図がなかつたとしたのは、被告人の本件所為を人事院規則14-7、6項13号違反として処罰することができない理由の一つとして述べたのであつて、決して同規則6項2号そのものに該当する事実があつたかどうかについて述べたのではないのである。
[13] しかし、被告人に職務の公正を害する意図があつたかどうかということは、被告人の本件所為を人事院規則14-7、6項13号違反として処罰することができるかどうかということとは直接の関係がないものと思われるので、ここではこれ以上この点についても論じないこととする。
[14] もつとも、原判決も認めるとおり、被告人が国家公務員法によつて禁止されていることを認識しながら本件所為に出たものであることは、確定された事実である。
[15](六) 被告人の職務は、鬼志別郵便局において郵便貯金、簡易保険等に関し、外務員が集金した現金およびこれに関する書類等を検査し、右現金を出納官吏に払い込むとともに窓口担当者に引継をする内勤事務、電話交換事務等で、その内容は内規により規制されていて全く裁量の余地がなく、機械的労務の提供にとどまるものであつたこと。
[16] しかし、このうち被告人の職務内容が全く裁量の余地のないものであつたという点は問題である。執務に関する細かい規程が、どんなに整備されていても、その手続の過程の各所に執務者の判断の介入する余地はあるのであつて、裁量の余地の有無ということが執務者の判断の介入する余地の有無ということと等質のものであるならば、すべての裁量の余地の有無は結局程度問題に帰するものともいえるのである。
[17](七) 被告人の本件所為は、労働組合活動の一環として行われたものであること。これには争いはない。
[18] 原判決は、二に掲げた事実関係を前提とし、被告人を無罪とした第一審判決に対する検察官の控訴を棄却して、第一審の見解を支持した。
[19] 検察官が第一審判決に事実誤認があるとして争つた3つの点、すなわち、被告人の職務内容が裁量権の全くない機械的労務であつたという点、被告人の本件所為が国の施設を利用したり、職務を利用したものでないという点および被告人の本件所為が職務の公正を害する意図なく行われたものであるとする点についての原判決の見解並びにこれについての疑問は、すでに二において述べたとおりなので、ここでは、第一審判決の憲法解釈の誤りを指摘する検察官の論旨に対する原判決の見解を見ることとする。
[20] 原判決は、
 第一に、国家公務員法102条が一般職の国家公務員(被告人が国家行政組織法21条にいわゆる現業の行政機関につとめ、公共企業体等労働関係法にいわゆる五現業の一を担当する者であることは争いないが、それと同時に一般職の国家公務員であることも疑いはない。)につき政治活動を制限する理由が憲法15条にいう国民全体の奉仕者で一部の奉仕者でないことに由来すること、すなわち公務員の政治的中立性の確保にあるとする検察官の主張を承認しつつ、
 第二に、検察官が判例違反の対照判例として指摘する、昭和33年3月12日、同年4月16日の各大法廷判決(刑集12巻3号501頁、同6号942頁)および同年5月1日の第一小法廷判決(刑集12巻7号1272頁)はいずれも第一審判決の説示したとおり憲法14条との関係における判断をしたにとどまり(このうち最後の判決は憲法14条のものでなく、本件第一審判決もこれを憲法14条に関するものとはしていないので、この点に関する原判決の右説示は正確を欠く。)、憲法21条との関係で本件のような具体的事案において合憲的に刑罰を科しうるかどうかの点についてまで判断したものではないとしてりぞけ、
 第三に、右第一に掲げたような立法理由に基づき一方における公務員の政治的中立の要請と他方における民主社会の市民の積極的参政の理念との具体的調和点を今日のわが国の現実的諸条件をふまえて何処に求めるか、換言すれば、公務員の職種ないし階層の如何により、政治活動の如何なる態様のものについてどれほどの範囲にわたり、如何なる程度、種類の制裁を予定して制約を科するかは、まずもつて立法府の合理的裁量の領域に属するものとし、立法府がこの問題についての第一次責任機関であることを認め、その理由として、立法府が国民の意思に基づき右の調和点として秤量選択したところが、法として制定せられた以上、よしんば、およそ立法に時として免れ難い不合理や不均衡ないし誤謬逸脱の廉があつても、それが顕著の故に違憲であること明白と断じえない限り、一般的にはできる限り司法審査の介入はそれを差し控え、ひとえに国民の多数意思を反映する政治過程自体の裡において是正修復されるべきものとする民主政の基本的機能に期待するのが、まさに三権分立の建前と民主政の仕組に鑑みて司法審査の原則といわなければならないからである
とした。
[21] この部分は、第一審判決が国家公務員法102条、110条およびこれに基づく人事院規則の制定事情やその後のこれに関する国会および政府の取扱の異常性に言及し、恰もそれがこれらの規定を本件に適用することを拒否すべき理由の一つとしているかのごとき判示をしているのを、抽象的にではあるが、批判しているものと解せられないことはない。
[22] 第四に、原判決は、右の如く立法府の権限を尊重し、その権限の行使が明白に違憲と断じえない限り、裁判所はこれに介入すべきではないとし、
第一審判決が、これと同趣旨に出た昭和40年7月14日の大法廷判決(民集19巻5号1198頁)を引用しながら、一転して、この大法廷判決は、憲法上はじめて認められた労働基本権に関するもので、言論の自由ないし政治活動の自由に関するものでないとして、本件に関するその判例性を否定し、これに代り「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準によるべきであるとしたものとし、その理由を、およそ民主政はその自らの政治過程のうちに柔軟な復元機能をうしなうことなく保持する限りにおいて生存しうるという意味において、言論の自由ないし政治活動の自由こそがまさに民主政の中核としてその死命を制する根本原理というべきであるから、いかなる理由原因によるにせよひとたび右の自由が制約されるにおいてはそれだけ右の復元機能は柔軟性をうしない、民主主義政治過程に本質的な是正修復の方途をうしない、はては麻痺硬塞という事態を招来することもありうるという重要性の故に、言論の自由ないし政治活動の自由をめぐる司法審査について立法府の広汎な裁量を前提とする合理性の基準は必ずしも適切でないとの配慮に基づくと理解されるのである
としている。
[23] この部分は原判決の判示中最も重要な部分で、一方において言論の自由ないし政治活動の自由を他の基本的人権と異なる民主政の基本原理とし、他方においてその制限の基準は「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という原理であるとするのである。
[24] 第一審判決の論理がこのようなものであつたかどうかには若干の疑問があるが、原判決は一応第一審判決をこのように解したものとし、後にこの論理を第一審判決の論理とともにあらためて検討することとする。
[25] 第五に、原判決は、
第一審判決が右に掲げたような思考方法に立脚して、国家公務員法102条、人事院規則14-7、同法110条1項19号をめぐる具体的詳細な立法事実(この立法事実という言葉がいかなる意味に用いられているのか明確でないが、第一審判決が具体的詳細に検討しているのは、いわゆる立法事情、立法趣旨、外国法をふくむ立法例およびその運用の状況等であるから、そのすべてを指すものと考えられる。)を検討したうえ、被告人の本件所為のごときにまで3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるものと評価し、国家公務員法110条1項19号が本件所為に適用される限度において憲法21条および31条に違反するから適用することができないと判断したのは相当である
としたのである。
[26] つまり、第一審判決が本件被告人の所為に国家公務員法102条人事院規則14-7、6項13号を適用し、同法110条1項19号の刑罰をもつて臨むのは、前述の「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」があるのに、それによつていないこととなるというのであろう。もつとも、後に触れるように規制すること自体と規制違反に対する制裁の程度の何れに重点を置いて右基準を適用しているのか、そういう区別なしに漠然と右基準を適用したのかはつきりしないばかりでなく、何れにしても本件の場合他の選びうる手段が何であるかも全く示されていないのである。
[27] 三に述べたような原判決の判断は、憲法の解釈適用を誤つたものであり、併せて、従来の判例または判例の趣旨に反するもので、原判決およびその前提となつた第一審判決は破棄を免れないものと考える。
(1) 言論の自由ないし政治活動の自由と労働基本権との相違について
[28] 言論の自由ないし政治活動の自由はいわゆる自由権に属し、労働基本権はいわゆる社会権に属し、その間に性質を異にするものがあることは否定できないであろう。しかしながら、労働基本権が近時判例上重視されつつあることは周知のとおりであり(大法廷昭和41年10月26日判決―いわゆる全逓中郵事件判決―同昭和44年4月2日判決―いわゆる都教組事件および仙台全司法事件判決―)、殊に、例えば全逓中郵事件の判決において最高裁は、労働基本権が生活権に由来するその本質に言及した後労働基本権の制限も国民生活に重大な障害をもたらすおそれを避けるため必要やむをえないものに限られるとし、さらにその制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益についても、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない、とくに、勤労者の争議行為等に対して刑事制裁を科することは、必要やむを得ない場合に限られるべきであるとしているのである。一方言論の自由にも公共の福祉からくる制約のあることは判例(大法廷昭和25年9月27日判決等)の認めるところである。従つて、原判決のごとく言論の自由ないし政治活動の自由についてのみ民主政におけるその重要性を強調し、それが多少でも制限されれば、すなわちこれを本件に即していえば一般職の国家公務員という限られた人々について、制限されても民主政が麻痺硬塞するが如く述べ、労働基本権の制限との間に著しい差異を置こうとする発想法には多大の疑問がある。両者はともにその性質に応じて尊重され、また性質に応じて制約を受けるというべきで、それを並列的に並べてその優劣を論ずるのは妥当を欠くと考える。
[29] 学者の研究するところによれば、アメリカにおける言論出版の自由とその制限に関する判例の動きには歴史的変遷があり、精神的自由と経済的自由とでは規制の原理に差異の存することが意識せられ、一時は精神的自由の規制は「明白にして現在の危険」がある場合に限られるとされ、その趣旨の多くの判例を生んだのであるが、1940年後半以後判例に変化が見られ、精神的自由についても、いわゆる合理性の基準が適用せられ、立法機関の判断に比較的広い自由裁量の途を認めつつ、それを著しく遺脱した場合にのみ裁判所が介入する方向に向いつつあるという(伊藤正己、言論出版の自由参照)。第一審判決の引用するミツチエル判決(1946年)の多数意見はその方向を追うものである。従つて、原判決の支持する第一審判決が昭和40年7月14日の最高裁大法廷判決を単にそれが労働基本権に関するものであるという理由で、本件への適用を拒否したことは納得し難い。
[30] のみならず、原判決は、言論の自由と政治活動の自由とを同列に並べ一括して労働基本権との間に差異のあることを論じているが、一般の言論の自由とその中での政治活動の自由とはその性質に応じおのずから制約の許される範囲方法に差異があるものと見てよく、殊に政治活動の自由の中心となるべき選挙運動の自由については選挙運動の性質上かなり厳しい法律的制約があり、一部の規定についての合憲性に関する論議は盛んであつても、最高裁判例はいまだかつてその合憲性を否定していないのである。本件は選挙運動の自由、殊に選挙の公正への影響の強いものと考えられる一般職の国家公務員の選挙運動の自由が問題になつている事件である。
[31] 原判決が単に言論の自由一般を論ずる態度で終始したのは誤りであつたと考える。

(2) 「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」ということについて
[32] 「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準がアメリカの判例に現われていることは、学者の指摘するところである(芦部信喜、記録432丁以下)。しかし、この原則を表明したとされるアメリカの判例の事案を見るに、例えば、Shelton v. Tucker (364 U.S.479)のごとく、州立小学校の教師に対し彼らが過去5年以内に所属しまたは定期的に寄附をしたすべての団体のリストを宣誓陳述書にして提出すべきことを1年の任期終了ごとに要求する州法を違憲とするものであり、Lovell v. Griffin (303 U.S.444) Schneider v. State (308 U.S.147) Talley v. California (362 U.S.60) のごとく、一見必要以上にビラの配布を規制しようとする条例を違憲とするものであつて、言論の自由を規制する立法だからという理由で卒然として「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準を持ち出しそれだけから結論を導き出しているものとは思われない。むしろ、規制自体から他により適当な規制手段がありそうであることが一見明白に推測できるような場合についていわれる基準のごとく思われる。従つて、右に掲げたアメリカの各判例においても、しからば如何なる「より制限的でない他の選びうる手段」があるのか必ずしも具体的に明示されていないが、それでも、およそ推測がつくというものである。
[33] しかしながら、本件においては、かりに原判決のごとく「同じ目的を達成しうる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準によるとしても、それが何であるか、判文上明示されていないばかりでなく、それを推測することも困難である。学者は、アメリカの州の一判例を挙げ、政治的活動の制約については、その制約が公務の向上に合理的に関連を持つていること、その制約によつて公衆の受ける利益が制約に起因する憲法上の権利の損傷よりも重要であることのほか、制約する側において、憲法上の権利をより侵害しない他の選びうる手段が利用できないことを証明しなければならないとされているとするのであるが、(芦部信喜、判例評論114号12頁以下参照)、かりにそうであつても、アメリカのこの判例も前述の各判例と同様、一見規制が広汎に過ぎる事案に関するものであつて、本件事案とはその内容を異にする。従つてアメリカの判例の事案では他の選びうる手段の利用ができないことの証明を規制する側に要求することが可能であるとしても、本件の場合は規制が一見広汎に過ぎるとはいえない場合であるから、他の規制方法または他の制裁方法では立法目的を達成することができないことを証明しようとしても、恐らくそれは困難であろう。すなわち、本件の場合は、いわゆる現業官庁に勤務する国家公務員ではあるが、一般職に属するものが、最も重要な、最も典型的な選挙において特定の候補者を支持するポスターを掲示配布することの規制または規制違反に対する制裁が問題なのであつて、しかも郵便業務の性質、その組織の全国的であること等を考えれば、これを規制しその規制違反に刑罰を科しうるとすることも十分合理性のあることと考えられるからである。従つてもし裁判所が選びうるより制限的でない手段があるという理由で法律の定める規制の方法、程度を違憲と判断するならば、少なくともどのような方法、程度をもつて最小限度とするかの基準くらいは示さなければならないものと考える。それをしないで、アメリカの判例に現われた抽象的な表現である「より制限的でない選びうる手段」という原則のみを移入して本件に適用し、一般職国家公務員の政治行為を規制すること自体の合理性は否定せず、単により制限的でない他の選びうる手段があるという理由で、国家公務員法102条、人事院規則14-7、6項13号を本件に適用することは違憲であるとした原判決の見解には納得できないものがある。
[34] のみならず、この「より制限的でない他の選びうる手段」という原則とミツチエル判決の多数意見や昭和40年7月14日の最高裁大法廷判決のとる見解、すなわち、いわゆる合理性基準説との間にあたかも二律背反的関係があるがごとく説く、原判決の判示にも賛成し難い。かりに、自由権的基本的人権の制約の合憲性の判断に当つては「より制限的でない他の選びうる手段」という基準が適用されるにしても、立法機関自身も同じ基準の適用を考えつつ立法したものと考えることは可能であつて、その場合立法機関の判断に優越的地位を与えるべきことはその性質上当然であるから、裁判所が、立法機関が如何なる配慮をしたかに関係なく、いきなり本件について「より制限的でない他の選びうる手段」がないとはいえないという判断をすることは、原判決自身がその憲法判断の前提として、公務員の政治的中立の要請と民主社会の市民の積極的参政の理念との調和を今日のわが国の現実的諸条件をふまえて何処に求めるかはまずもつて立法府の合理的裁量の領域に属するとした考え方と矛盾するものと思う。原判決は、第一審判決が立法機関の合理的裁量を尊重すべきことを説きながら、一転して、言論の自由ないし政治活動の自由に関しては、立法機関の裁量権尊重の原則をとらず「より制限的でない選びうる他の手段」という基準によつたとしているが、第一審判決の判示はその点必ずしも明確に割切つてはいないのであつて、昭和40年7月14日に大法廷判決を労働基本権に関するもので政治的自由の如き基本的人権に関するものでないとしながら、
「当裁判所は、国家公務員につき国民の基本的人権の一つである政治活動をどの程度制約できるかにつき……先に引用した米連邦最高裁判所判決(いわゆるミツチエル判決)における多数意見の判示と同様、制約できる程度の判断権は、一次的には国会および国会の委任を受けて規則を制定した人事院にある」
と解するとし、その判断が「社会一般に存在している観念をとび超えた場合」にのみ、その判断の合理性を否定しうるとしているのである。これは、第一審判決が、国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7、6項13号を本件被告人の所為に適用して処罰することを拒否しているのは、判文上明示されてはいないが、社会一般に存在している観念をとび超えるものとしたことを意味するものとも考えられる。そうすれば、「とび超える」という言葉が示すとおり、第一審判決は、かりに「より制限的でない選びうる他の手段」という基準によつたとしても、その判断権は一応立法機関にあるものとしているのであつて、原判決の如く、いきなり立法機関の裁量権を否定するか、これを過少評価し、裁判所が自ら優越した地位において判断を下すべきものとしているのではないと思われる。
[35] このように見れば、第一審判決の当否は別に論ずるとして、原判決は、第一審判決の憲法解釈の方法を誤解したうえ、明白な憲法解釈の誤りを犯したものといわなければならない。

(3) 「被告人の本件所為の如きにまで3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限度の域を超える」とする点について
[36] 原判決がこの刑罰の点を前述の「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準とどういう関係があると考えたのか必ずしもはつきりしない。なぜならば、言論の自由の規制問題につき右にいう「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という基準を適用する場合、2つの異つた面があることに留意する必要がある。その1つは言論の自由を規制する方法の面で、他の1つは規制違反に対する制裁の面である。前者について右基準を適用すると、例えば前掲の Shelton v. Tucker 事例ではそのような広汎な宣誓陳述書の提出を求めなくても同じ目的を達成できる、より制限的でない方法があるのではないかということになり、また前掲のLovell v. Griffin 事件その他のビラ配布の規制の当否が問題となつた事件でもビラの配布自体をそれ程広く規制しないでも他にもつとおだやかな方法で同じ目的を達成できるのではないかということになる。これに反し後者について右基準を適用すると結局法定刑の軽重を問題とすることになるのである。もつとも、懲戒罰で足りるか刑事罰まで必要とするかという問題は、本質的には後者に属しながら多少前者的面を持つ中間的な性質を有しているし、前者と後者とは理論上裁然と区別されるようで、実際面では相関関係を持つであろう。しかし原判決のいう「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という右の基準は、本来前者の面に適用されるもので、後者に適用される基準はどう考えても規制違反に対する違法性評価の合理性の有無ということ以上に出ないものである。
[37] そうすると、原判決が、第一審判決のとる基準をいわゆる合理性の基準ではなく、「同じ目的を達成できる、より制限的でない手段」という基準であると理解して是認したうえ、卒然として法定刑の重い点を持ち出し「被告人の本件所為の如きにまで3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるもの」とした真意は捕捉し難いといえよう。もし法延刑の重い点を問題とするのであれば、その法定刑の予定するすべての構成要件との関係およびその構成要件に該当する行為に出るべき者の予想される犯情とそれらに対する法定刑とのバランスを問題とすべきで、被告人の本件所為と法定刑の最高を比べて必要最小限度の域を超えるというが如きは誠に首肯し難い所論といわねばならない。
[38] もしかりに原判決のいわんとするところが法定刑の重いことではなく刑事罰を科すること自体の重いことであるとしても、刑事罰と懲戒罰の軽重は必ずしも一義的にはきめられないのであつて、刑事罰の最低が常に必ず懲戒罰の最高を越えることは明らかであるとはいえないであろう。
[39] 従つて、原判決が「被告人の本件所為の如きにまで3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限の域を超えるものと評価し、国家公務員法第110条第1項第19号が本件所為に適用される限度において」違憲であるとしたのは納得し難いのである。

(4) 第一審判決の行つた具体的詳細な立法事実の検討及びこれに基づく憲法論について
[40] 原判決は、右の如く、被告人の本件のような所為にまで3年以下の懲役等という刑事罰を加えることを予定することは必要最小限度の域を超えるものと評価するにあたり、第一審判決が具体的詳細な立法事実を検討したことに言及しているので、この点につき一言し、併せて第一審判決の憲法論につき所見を述べておきたい。
[41] 第一審判決は、この関係について、
(一) まず国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7の制定改正の事情を述べ、わが国の自主的立法としての性格の弱いことを指摘し、
(二) 次いで、国家公務員法102条、人事院規則14-7がアメリカのいわゆるハツチ法および人事委員会の規定を参酌したものであることを述べ、
(三) ハツチ法は連邦公務員の政治活動を禁止しているがそれに対する制裁は罷免にとどまり刑事罰の定めがないことを述べ、
(四) そのハツチ法違反の責任を問われた連邦造弊局圧延工の事件(いわゆるミツチエル事件)についての連邦最高裁判所の判決における多数意見と、それに近い発想方法をとる昭和40年7月14日の最高裁大法廷判決の地方公務員法52条と憲法28条との関係に関する意見と紹介した後、
(五) この大法廷の見解は労働基本権に関するもので表現の自由に由来する国民の政治的活動をする自由といつた基本的人権の制約に関するものでないとしながら、
(六) 再転して、前述の如く、
「当裁判所は、国家公務員につき国民の基本的人権の一つである政治活動をどの程度制約できるかにつき、先に引用した米連邦最高裁判所判決における多数意見の判示と同様、制約できる程度についての判断権は、一次的には国会及び国会の委任を受けて規則を制定した人事院にあると解するけれども、この公務員の政治活動の自由の制約については、その違反行為に課せられる制裁を含みその制約の程度が、社会一般に存在している観念をとび越えたものである場合には、その制約が合理的でないと判断する権能を有すると解する。この観念は、米連邦最高裁判所の多数意見がいう『慣行、歴史および年々変化する教育的、社会的、経済的状況を基礎として生まれるものである』のみならず、国民の政治活動の自由が基本的人権として認められている近代民主主義社会で先進国といわれている諸国における公務員に対する政治活動の制限についての基本的考え方をも基礎として思考すべきものと思料する」
としている。このあたりの第一審判決の表現はかなり微妙であつて、原判決の判示の極めて直裁的なのと異る。
[42] 第一審判決には右のように述べたあと、
(七) アメリカのハッチ法は連邦法典に組み入れられたけれども、公務員の政治活動の制限違反には刑事罰の制裁がなく、制裁としての罷免についてもその程度が緩和されるに至つていること、イギリス、西ドイツでは多くの公務員の政治活動が自由となつており、ことに政治活動の自由であるべきいわゆる現業公務員の多いことでは日本はイギリスに近いこと、いわゆる五現業が三公社と同様労働関係について他の一般公務員と異る取扱を受けるに至つたこと、最高裁大法廷はいわゆる中郵事件の判決において、国家公務員も憲法28条の勤労者であるから憲法15条の全体の奉仕者であるという理由だけで労働基本権を否定することはできないとしたこと、I.L.O.105号条約についても、わが国としては批准する方向で検討する旨の国会での政府答弁があること、昭和39年9月の臨時行政調査会の答申に単純労務的な職務に従事するものについては政治的行為の規制を最小限にとどめるべきものとされていることなどに触れたうえ、
(八) これらの事実を足がかりとして、
「憲法21条の保障する表現の自由に由来する政治活動を行なう国民の権利は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とする国民の基本的人権の中でも最も重要な権利の一つであると解されるが、右の自由も絶対無制限のものでないばかりでなく、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者でない国家公務員の身分を取得することにより、ある程度の制約を受けざるを得ないことは論をまたないところであるが、政治活動を行う国民の権利の民主主義社会における重要性を考えれば、国家公務員の政治活動の制約の程度は必要最小限度のものでなければならない」
とし、
(九) その必要最小限度かどうかを考える過程において、公務員の職種、地位、行為の場所的時間的関係などを挙げ、人事院規則14-7、6項1号、2号、12号に該当する行為とか、勤務時間中の政治的行為を禁止しても、憲法違反にならないとし、さらに本件において問題とされている同規則6項13号に掲げられているような行為を行政過程に関与する公務員が行う場合は禁止されてよく、そのため同号が置かれることは認めるとしながら、
「行政過程に全く関与せず、かつその業務内容が細目迄具体的に定められているため機械的労務を提供するにすぎない現業公務員が、勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ、職務を利用し若しくはその公正を害する意図なしに行つた場合、その弊害は著しく小さい」
ので、
(一〇) この種の行為に刑事罰を科している国はなく、人事院規制14-7の母法とも見られるアメリカの法令でも懲戒罰ですませていることは、通例の場合それで十分法目的を達成することができることを示すものである。
(一一) 従つて、懲戒罰に加えて3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑罰を法定する国家公務員の規定は、刑法193条、197条、国家公務員法109条8号、12号等に比し、更に罰則の定めのない地方公務員法の建前に比し、「決して軽いものではない」、
(一二) そういう理由から
「国の政策決定に関与する高級公務員等が勤務時間中に組織的に反政府的政治活動を行い、これが国の行政の能率的運営に重大な影響を及ぼすことがある場合を考えれば、右政治活動に対し(国家公務員法)82条の懲戒処分の制裁に止まらず110条の刑事罰を科することも合理的と考えられる場合もないではないのであるが……非管理職である現業公務員でその職務内容が機械的労務の提供に止まるものが勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ職務を利用し、若しくは、その公正を害する意図なしで人事院規則14-7、6項13号の行為を行う場合、その弊害は著しく小さいものと考えられる」
ので、「このような行為自身を規制できるかどうか、或いは、その規制違反に対し懲戒処分の制裁を課し得るかどうかはともかくとして」、前述のように懲戒処分のほか「3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰」を加えることができる旨を法定することは「行為に対する制裁として相当性を欠き、合理的にして必要最小限度の域を超えている」とし、
(一三) 更に、本件被告人の所為が被告人の属する全逓労組活動の一環としてなされたものであることを把え、労組の選遂運動はその目的の範囲内であれば公職選挙法にふれない限り禁止されていないので、組合の決定に基づきその組合員で公共企業体等労働関係法の適用を受ける職員がする行為につき、国家公務員法110条1項19号の刑罰を科することは五現業に属する非管理職である職員に対する労働関係の規制を、国家公務員法から公共企業体等労働関係法に移し労働関係についての制約を緩和した趣旨に沿わないとし、
(一四) 結局、国家公務員法110条1項19号は、本件のような被告人の行為に適用される限度において、行為に対する制裁としては、合理的にして必要最小限度の域を超えたものと断ぜざるを得ないとしたものである。
[43] 以上が第一審判決の憲法論であつて、その中には確かに原判決のいうとおり立法事実ないし立法事情、立法例等に関する詳細な検討がふくまれているが、その全体を通読して見ると、その無罪判決に至る法律論の構造は、必ずしも一義的でないのであつて、一面いわゆるミツチエル判決の多数意見に従い立法機関の判断権を尊重し、その判断が社会一般の観念を著しく飛び超えた場合にのみ裁判所の介入を認めるべきものとしながら、他面、被告人の本件所為の如きにまで国家公務員法102条、110条1項19号、人事院規則14-7、6項13号を適用して処罰することは、一般職公務員の政治的中立性を保持するためには、必要最小限度を超え憲法21条、31条に違反するものとしているのであつて、そこには両者の関連性についての説明、いいかえれば前半の「一般の観念を著しく飛び超える」ということと後半の「必要最小限度を超える」ということと関係の説明がないように思われるのである。もつとも、第一審判決が右の前半部分にかなりの重点を置いていることを考えれば、後半の意味は「一般の観念上必要最小限度と考える基準を著しく飛び超える」という意味にとれるのであるが、そうであるとすると、第一審判決は一方においてそのような立法機関の裁量権を尊重するとしながら、何時の間にかその裁量権を裁判所自ら代つて行使したこととなつているきらいがある。そこに第一審判決の論理に微妙なものがあるともいえるが、理論とその具体的事件への適用との間にギヤツプがあるともいえるのである。そこで原判決は前述の如く、この第一審判決の判断過程を前半と後半とに切り離し、前半の考え方、すなわち、原判決のいう合理性基準説は、言論の自由ないし政治的自由の規制には適用がないものとし、言論の自由ないし政治的自由の規制の合憲性の判断は「同じ目的を達成できる、より制限的でない他の選びうる手段」という別の基準によるべきであるとしたものであるとした。しかし、第一審判決の摘示自体で明らかなように、第一審判決はどこまでもミツチエル判決の多数意見に従うという態度、すなわち、立法機関の第一次判断権を尊重するという態度をくずしていないのであるから、その判断過程で、昭和40年7月14日の最高裁判決は労働基本権に関するもので、本件に適切ではないかの如く説示している部分はあるが、それだけで第一審判決がミツチエル判決の多数意見であるといわれる合理性基準説を離れて全く別の「より制限的でない他の選びうる手段」という基準によつたとすることは誤りであろう。そうすれば、第一審判決の問題点は、一方においていわゆる合理性基準説またはそれに近い立法機関の第一次判断権を尊重する立場をとるとしながら、他方において原判決が第一審判決はその基準をとらず立法機関の裁量権を小さく見ようとする別の基準によつたものと解せざるを得なかつたような結論に導いた点にあるといえよう。
[44] そこで次に第一審判決が無罪の結論を導くに当つて考慮したという各種の事実を見ていくこととしよう。その中には前掲二の確定された事実の項で示したような認定の甘さを示すものがあるばかりでなく、考慮された各種のいわゆる立法事実には考慮すべからざるものを考慮し、または考慮するのを適当としないものを考慮した誤りがあり、しかも、これらの事実をいかに考慮しても、第一審判決のとつたという合理性基準説的理論に照らしても、また原判決のいう「より制限的でない他の選びうる手段」という基準に照らしても無罪の結論に導くものとは到底考えられないのである。
[45] 第一に、国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7の立法経過であるが、確かに第一審判決判示の如き占領軍当局の立法に対する圧力はあつたと認めるべき証拠がある。しかし、他面、政府および国会が占領軍当局としきりに折衝した事実も証拠上認められ、第一審判決もいうように、占領下とはいえ官公労を中心とする反政府的政治活動がゼネストにまで発展しようとした社会情勢もあつたのであるから、占領軍当局の圧力があつたという一事をとらえて、国会の制定した法律及びその委任に基づく人事院規則の効力を軽く見ようとすることは妥当でなく、また占領終了当時の法制の改廃の経過から国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7が改廃を要するのにそれをされないで取り残されたものとし、そのことを違憲判断の資料とするのも妥当を欠くのであつて、東京地方裁判所、刑事第2部昭和44年6月14日判決(東京地裁昭和40年特(わ)第555号公職選挙法、国家公務員法違反被告事件判決で、以下仮りにこの事件を統計局事件という。)が、本件と同じく国家公務員法102条、110条、人事院規則14-9の制定改廃情況を問題とする弁護人の主張に対し、かかる事情はこの場合考慮に入れるべきではなく、裁判所としては法律の内容に憲法に適合しない点があるのか否かを判定すべきであるとしたのを相当と考える。
[46] 第二に、アメリカの立法例の中に本件のような行為に対する制裁としては、懲戒罰があるだけで、刑事罰はないとか、イギリスや西ドイツでは公務員の政治的活動が大幅に自由とされているとし、それらの事情を国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7の規制が厳し過ぎる理由としている点もミツチエル判決の多数意見がいうように、規制の程度の合理性の基準は「慣行、歴史および年々変化する教育的社会的経済的状況を基礎として生まれるものである」から、日本の事情との対比においてアメリカ、イギリス、西ドイツの各国におけるそれら各般の事情を調査しなければならないのにそれをせず、単に多数の公務員の政治活動が法制上自由であるとか、規制違反に対する制裁が軽くなつているということのみを捉えて、わガ国の法律の批判の資料、殊に違憲判断の資料とすることは妥当を欠くというべきであろう。
[47] 第三に、最高裁大法廷がいわゆる中郵事件について周知のような判断を示したこととか、郵政職員が公共企業体等労働関係法の適用を受け労働関係について一般職公務員中特殊な取扱をされることとなつたこととか、本件における被告人の所為がその所属労働組合の決定に従つたものであることなどの事実を違憲判断の資料とする部分も、労働関係の規制の緩和の傾向が政治的行為の規制の緩和を不可分に招来するものでないことは当然のことで、むしろ公共企業体等労働関係法がいわゆる五現業についてその労働関係の規制を三公社と同様にしながら、政治的行為については、依然として国家公務員法の規制を残したという立法事情は、政治的行為の規制をなお従来どおり続けるのを妥当とするという国会の意思を示すものであつて、これを反対に考える第一審判決はいわゆる立法の先取りの非難を免れないであろう。また労働組合がその本来の目的を達するため政治行為に出ることは禁ぜられないとしても、国家公務員自身が政治行為をなしうるかどうかは別問題であつて、この点についても第一審判決の考えは誤つていると思う。
[48] 第四に、立法の先取りの著しい部分として、第一審決判の挙げるI.L.O.105号条約に対する政府の国会答弁と臨時行政調査会の答申に関する考慮とを挙げることが出来る。これらの点は、はじめての政府の国会答弁が行われた時または臨時行政調査会の答申が行われた時より現在まですでに相当の年月を経ているのであるが、いまなお政治問題として残されたままとなつており、殊にI.L.O.105号条約に関する政府答弁の内容は、その後たびたび国会で野党が追及があつたにもかかわらず実現されず、今日に至つているのであつて、それらの事情を措いて、裁判所がこのI.L.O.105号条約に関する政府の国会答弁や臨時行政調査会の答申を違憲判断の資料とするのは誠に相当でない。
[49] 第五に、第一審判決は刑法193条、197条、国家公務員法109条8号、12号を挙げて本件に適用せらるべき国家公務員法110条1項19号の刑と比較し、後者の刑を軽くないとしているが、その比較の適当でないことは、明らかであるばかりでなく、国家公務員法110条1項19号の適用を受ける行為の中には第一審判決も認めているとおり、上級公務員の誰が見ても不当な政治的行為までふくまれているのであつて、そのような事案にも適用される国家公務員法110条の刑を他の刑法その他の刑とを比較して軽くないとすること自体誤つているといわなければならない。
[50] また、地方公務員法では地方公務員の政治行為の規制違反について、刑罰の制裁のないことが考慮せらるべき事情として挙げられているが、地方公務員が政治的行為を行つた場合と国家公務員がそれを行つた場合とでは、必ずしも影響の及ぶところを同じくしないものと考えられるので、この比較も適当でない。
[51] 以上要するに、第一審判決が無罪の結論を導く過程において考慮したとする各種の事実は何れも考慮に値するものとは考えられないものである。
[52] 元来、国家公務員は主権を有する国民全体に対する奉仕者であつて、一部の国民に傾斜した奉仕をしてはならないものである。国民が全体として何を求めているかは、国民の総意の端的な現われである総選挙によつてきまるものであり、それがどのようにきまろうとも国家公務員は、一人一人が、そしてその勤務する官署全体が国民の総意の命ずるところによつてその職務を行い、一部のためにかたよつた行動に出てはならないのはもちろん、一部のためにかたよつた行動をする疑いを持たれるような行為をしてもならないのである。国家公務員法102条、人事院規則14-7が一般国家公務員にかなり広い範囲にわたつて政治的目的のもとに行う政治的活動を禁止しているのもそのためである。このことは、前記統計局事件に関する東京地方裁判所の判決の特に強調する点で、同判決は国家公務員が選挙に当つて特定政党のための選挙活動をすることは一般国民に対し、その公務員の勤務する行政官庁が特定の政党とつながりを有するのではないかとの疑惑を持たせ、ひいては当該官庁の行政の公正な運用について一般的不安.不信を抱かせることになるとし、被告人の行為がたまたま文書の配布のようなことであつても、選挙活動というのは文書の配布にとどまらず、いろいろな態様のものに発展することがありうるわけであつて、例えば公務員が主催して特定政党、特定候補者のための公開の演説会を開催することも可能であること、一の政党の支持者にできることは他の政党の支持者にもできなければならないこと、そしてそれは全国的のあらゆる行政官庁の公務員にもできなければならないことであること、各種選挙のたびにその効果が累積されていくこと等を考え合わせてみると、公務員の選挙活動を放任した場合そのことが行政官庁の公正な運営について一般的に国民に与える不安・不信感等は軽視することができない。そしてこの観点に立つて考えると重要なのはむしろ当該公務員の勤務する行政官庁全体の性格であつて、個々の公務員の担当職務が、大なり小なり裁量権限のあるものか、それの全くない機械的事務であるかどうかは重要ではなく、ことに実際に行われる選挙活動の内容、程度とも不可分のことであつてみれば、下級の公務員についても、これを考慮の外におくことは、直ちに是認できないことであるとしなければならないとし、公務員が特定政党または特定の候補者のために選挙活動をすることを放任した場合に生ずる弊害として考えられるものは一でないとしても、その中で最も重視すべきものは、一般国民に対し、行政官庁の公正な運営について一般的に不安・不信・疑惑を抱かせるに至ることであり、その弊害を避けるために憲法15条2頁の規定による要請として、憲法21条の保障する表現の自由にある程度の規制を加えることは、合理的な理由のないことではなく、右弊害が軽視できない程度のものであり、現行法の下においても公務員またはその組合に容認されている選挙活動の程度等をも合わせ考えれば、少くとも、同事件についてその適用を見ることとなる国家公務員法102条1項、人事院規則14-7、5条1項及び6項13号中文書の配布(本件におけるポスター掲示配布と本質において異らない)に関する程度の規制は必要最小限度の規制に属し、さらにそれが一般国民にかかわる問題であつて、行政官庁の単なる内部事項として処理さるべき事柄でないことを考え合わせると、その違反行為に対し、刑罰の制裁をもつてのぞむことも理由のないこととはいえないとしているのである。
[53] この考えは、刑罰の点を除き、基本的には第一審判決の引用するアメリカのミツチエル判決の多数意見と異ならないのであつて、それは本件記録添付の同意見を仔細に検討すれば明らかである。殊に同判決は、その対象となつた被告人が造弊局の圧延工という、文字通りの意味の機械的労務の提供者に過ぎないことを念頭に置きつつ、そのような公務員の勤務時間外の政治活動であつても、勤務時間外であるからといつて悪影響が少くなるわけではないこと、議会は政党の指導者が政党機構をつくるうえにこれらの公務員を手軽な要員となると考えたかも知れないこと、右の圧延工と同じような政策決定に影響を及ぼさない地位にある者が何十万といて、連邦会議がおそれたのは明らかに政治活動にひきこまれるかも知れないすべての公務員による政治活動が公務員のモラルに及ぼす累積的影響であるとしているのであつて、十分参考に値する見解といえよう。
[54] のみならず、刑罰の点においても、アメリカの連邦刑法典により刑罰の制裁をもつて臨まれる公務員の政治的行為の中には国家公務員法102条、人事院規則14-7によつて禁止される政治的行為に近いものもふくまれているのであつて、アメリカにおいても公務員のすべての政治活動の規制違反が行政罰のみでないことを知るのである。
[55] ひるがえつて、わが国の現状を見るに、郵便局員が選挙のたびごとに全国的な組織を利用して特定政党または特定候補者のために選挙活動をしていることは顕著な事実であつて、検察官が原審公判において提出した各地の判決例にもその片鱗が現われているのである。こういう現象は、郵便局員が一般職の国家公務員である限り、好ましくないものとして、国会及びその委任を受けた人事院がその弊害の拡散、累積を心配し、その政治活動をなお厳しく規制しようとしていることにも十分合理性があることを示す資料となろう。
[56] 従つて、その合理性を否定すべき明白な理由を示すことなく、しかも、否定の基準すら示さず、被告人の本件所為のみを各種の角度からことさらに軽くかつ影響の乏しいものと認定して、それに外国の法制や判決を抽象的な表現のみをとらえて参考とし、一方、国家公務員法や人事院規則の該当条文をその文言より狭く解釈する余地がないとしながら法令自体の違憲判断をさけ、本件に当該法令を適用する限度において同法令は違憲であるとする従来にない思考方法(この点については次の判例違反の項でも触れる。)をとつて、被告人を無罪とした第一審判決及びこの第一審判決をその複雑な思考方法を簡単な形に直し、いわゆる合理性基準説をとらず、「より制限的でない他の選びうる手段」という基準を用いて第一審判決の結論を支持しようとした原判決は、ともに憲法の解釈を誤つたものといわざるを得ないのである。
[57] 原判決が、国家公務員法110条1項19号が本件所為に適用される限度において憲法21条および31条に違反するから適用できないと判断した第一審判決の判断は相当であるとしたのは、判例に反する判断をしたものである。
[58] その理由を具体的判例を挙げて説明する前に、第一審判決及びこれを支持した原判決の憲法判断の方法につき一言疑問を述べておきたい。
[59] 周知のとおり、本年4月2日の2つの大法延判決(前掲のいわゆる都教組事件および仙台全司法事件)は、地方公務員法37条61条4号または国家公務員法(昭和40年法律69号による改正前のもの)98条5項、110条1項17号の合憲性を判断するに当り、法律を文字どおり解すれば違憲の疑があるが、法律の規定は可能なかぎり憲法の精神に即しこれと調和しうるよう合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば右各法律の規定は直ちにこれを違憲とすることはできないとしつつ、いわゆる都教組事件においては原判決を破棄して被告人らを無罪とし、仙台全司法事件においては被告人らの上告を棄却しているのである。その結論の当否はいま本件に関係がないので暫く措き、右に述べた両判決の違憲立法審査権行使のあり方は、本件第一・二審判決のそれと異るものがあることに注目しなければならない。本件第一審判決は、右両判決の出る前であつたが、右両判決のような解釈方法が本件ではとりがたいものであることを示すため前述の如く、国家公務員法110条1項19号は「同法102条1項に規定する政治的行為の制限に違反した者という文字を使つており、制限解釈を加える余地は全く存しないのみならず、同法102条1項を受けている人事院規則14-7は全ての一般職に属する職員にこの規定の適用があることを明示している以上」、ここにも解釈によつて適用範囲を狭める余地がないとし、結局、「当裁判所としては、本件被告人の所為に、国家公務員法110条1項19号が適用される限度において、」同号が憲法21条および31条に違反するとしているのである。
[60] しかし、法文の文字上の明確性からするならば、大法廷の右2判決の対象とした地方公務員法及び国家公務員法の各規定でも同じであつて、それにもかかわらず、法律はその上位規定である憲法の精神に即してこれと調和しうるよう解釈すべきであるとするのが大法廷の考えであつた、仮に同じ結論に到達するとしてもその思考過程において、本件第一審判決は大法廷のそれと異るものがあり、それが、ひいては、法律適用の基準の不明確性を招来する点において、大法廷的思考方法に比し、より著しい結果を生むに至つているものと推測されるのである、なぜならば、大法廷的思考方法においては、一応法律の解釈が示されることとなるのに反し、本件第一・二審判決の如き思考方法をとれば特定法令が本件には適用されないというだけあつて、「本件」の意味をどこまで一般化しうるか必ずしも明瞭でないからである。しかし、ここでは第一審判決のこのような特異な違憲立法審査権の行使方法を指摘するにとどめ、その方法の特異性にもかかわらず、それは結局国家公務員法102条、110条1項19号、人事院規則14-7、6項13号の一部違憲をいうものと異らないものであるとし、従来の判例との関係を考究することとする。
[61] まず、判例違反の対象判例として、第一審以来問題とされている昭和33年3月12日および同年4月16日の大法廷判決(刑集12巻3号501頁および同6号942頁)を挙げたい。この両判決の判決要旨は、判例集によれば国家公務員法102条は憲法14条に違反しない、または国家公務員法102条は憲法14条および28条に違反しないとなつていて、本件で問題とされている憲法21条との関係が挙げられていない。そのためか、本件第一審判決も原判決も、これを本件に関係のない判例としている、しかし、両事件の上告趣旨は、ともに、憲法14条のほか憲法21条を挙げ、憲法21条の表現の自由を公務員なるが故に奪う国家公務員法102条は憲法14条に違反しているという論理構造をとつているのであるから、その主張の中心は憲法21条違反にあつたとも見られるのである。このような主張に対し右大法廷判決は、公務員はすべて全体の奉仕者で一部の奉仕者でなく、行政の運営は政治にかかわりなく、法規の下において民主的且つ能率的に行わるべきものであるところ、国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は、国の行政の運営を担任することを職務とする公務員であるから、その職務の遂行にあたつては厳に政治的に中正の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することを許されないものであつて、かくてはじめて、一般職に属する公務員が憲法15条にいう全体の奉仕者であるゆえんも全うせられ、また政治にかかわりなく法規の下において民主的且つ能率的に運営せらるべき行政の継続性と安定性も確保されうるものといわなければならない。これが即ち国家公務員法102条が一般職に属する公務員について、とくに一党一派に偏するおそれのある政治活動を制限することとした理由であるとしたうえ、この点において一般国民と差別して処遇されるからといつてもとより合理的根拠にもとづくものであり、公共の福祉の要請に適合するものであり、これをもつて所論のように憲法14条に違反するものではないとしたものであるから、実質は憲法21条の表現の自由に関し、国家公務員法102条の制限の合理性のあることを論じたものと解することができる。このことは、昭和23年12月1日大法廷判決(刑集2巻13号1661頁)が黙示の合憲判断を認めていることに照しても明らかであつて、本件第一・二審判決が一部にせよ国家公務員法102条、110条の違憲をいい、本件につきその適用を拒否したことはまさにこの大法廷判決に反する判断をしたものというべきである。
[62] 第一審判決は、右大法廷判決のほか、昭和33年5月1日第一小法廷判決(刑集12巻7号1272頁)に言及し、これらには、前認定のような職務内容を有する非管理者である郵政事務官の勤務時間外にした人事院規則14-7、6項13号に該当する所為を国家公務員法110条で合憲的に処罰できるかどうかという具体的判断はなされていないとし、原判決もこれを受けて、検察官がその控訴趣意書において、第一審判決の考え方は右最高裁判所の判例に反するとしたのをしりぞけているが、なるほど、右3判例のみならず、国家公務員法102条と憲法21条または14条・28条等の関係を論じた従来の他の判決例も、本件第一審判決の認定したごとき具体的場合を意職的に対象としてとり上げて法律論を展開したものではない。
[63] しかしながら、すべての事件はそれぞれ具体的事実関係を異にするので、具体的事実関係を細かく認定し、それについての判例を求めても、その認定が細かくなればなるほど適切な判例は見当らないということになるであろう。しかし、判例というのは具体的事件を通じて示された裁判所の法律見解であるが、特定の具体的事件に適用されるだけではなく、それを越えて適用範囲を持つものでなければならない。ただどこまで適用範囲が広がるかについては、それぞれの判旨により広狭の差があり、また見解の違いの生ずるところではあるが、第一審判決の如く、本件のような事件についての具体的判断はなされていないということだけで先行裁判例の判例性を否定することは問違つていると思う。その意味で少なくとも、右昭和33年3月12日および同年4月16日の大法廷判決の本件に対する判例性を否定するのは妥当でないと考える。
[64] 次に、昭和40年7月14日の大法廷判決(民集19巻5号1198頁)と本件との関係につき検討を加えたい。この判決は、専従休暇不承認処分取消請求の民事訴訟に関するものであるが、そこに示された違憲立法審査権のあり方に関する部分は、事案の相違を越えて妥当する性質のものと考えられる。すなわち、同判決は、地方公務員法52条と憲法28条との関係について、
「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと当裁判所の屡次の判決の示すところである。そして右制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを主的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限りその判断は合憲適憲なものと解するのが相当である」
としているのである。この判示は、第一審判決がいうように直接には労働基本権に関するものであるが、それに限定して論ずるという趣旨は少しも見られず、むしろ労働基本権の問題に関連して基本的人権一般の規制に関する裁判所の違憲立法審査権のあり方を示したものというべきである。
[65] 原判決は、第一審判決がこの判決に言及しながら、その判旨とする違法審査の基準によらず「より制限的でない他の選びうる手段」という基準に準拠したと判示し、第一審判決が、労働基本権と言論の自由に関する基本的人権とでは違憲審査の基準を異にすべきであるとしたことを妥当としているが、右昭和40年の大法廷の判例のどこにも労働基本権に限りこの基準に準拠するという趣旨をうかがわせるものはなく、むしろ、右に述べた如く裁判所の違憲立法審査のあり方を示したものとすれば、原判決及び第一審判決は、ともにこの判例に反する憲法判断を行つたものと評せざるを得ない。
[66] 最後に、昭和34年6月12日福岡高等裁判所宮崎支部判決(同裁判所昭和33年(う)第61号国家公務員法違反被告事件)を挙げておきたい。事案が本件に酷似しているのである。すなわち、この宮崎支部の事件は、鹿児島県霧島郵便局の事務員で保険の勧誘集金等外務職に従事する一般職の公務員であつて、かつ全逓労組の支部執行委員であつた被告人が昭和31年の参議院議員通常選挙に当り、所属労組の選挙対策に従い、所要のため立ち寄つた3軒の家で組合の推せんする候補者のための投票勧誘の選挙運動をしたというのである。本件と同じように非管理職の現業公務員が勤務時間外に国の施設を利用することなく、かつ職務を利用し若しくは職務の公正を害する意図なしに行つたものと認められる。もつとも、本件第一審判決の如く意識して事案の具体性を細部まで確定したうえその法律見解を示していないので、本件第一審判決は、この宮崎支部の判決をもつて本件のような争点についての具体的判断はなされていないとして、その本件に対する判例性を否定しているが、この宮崎支部の判決もその判決面にこそ現わしてはいないが、その法律判断の前提事実として証拠上に現われた事実はこれを考慮に入れていたと見るのが裁判実務の常識であるから、もし、宮崎支部が本件第一・二審判決のような具体事実関係に重点を置く考えをとつておれば、本件第一審判決と同じような細かい事実認定を行つたうえ、おそらく合憲に処罰しうるとの結論を出していたであろうと推測されるのである。そうすれば、宮崎支部判決のとる考え方は、まさに本件第一・二審判決とその法律見解を異にするのであつて、ここにも本件第一・二審判決の判例違反があるものと解すべきである。
[67] 以上のほか、郵便局の職員の選挙運動を国家公務員法102条違反として処罰した裁判例は非常に多い。このことは、原審公判に提出された裁判例によりその一端をうかがうことができるであろう。もつともこれらの事例は、主として選挙法違反を伴うものであり、前掲統計局事件の判決も、そのことを合憲処罰の一つの根拠にしているようであるが、全国的に見れば、選挙法違反を伴わず、政治行為禁止違反のみで処罰された事例(例えば前掲の昭和33年5月1日第一小法廷判決の事例)もあるばかりでなく、かりに選挙法違反を伴うものであつても、選挙法違反を伴うから国家公務員法違反にもなるという論理には必ずしも納得し難いものがあるので、判決文の上に本件第一・二審判決の如く具体的詳細な事実認定とそれに即した法律見解が示されていると否とにかかわらず、また選挙法違反を伴うと否とにかかわらず本件第一・二審判決の憲法判断の当否を判断するに当つては、これらの先例が参照されるべきものと信ずる。
[71] かくして、原判決及びその前提となつた本件第一審判決は従来の最高裁判例または高裁判例に相反する判断をしたもので破棄を免れないものと信ずる次第である。
   目次
検事 横井大三の弁論要旨(序論)
検事 辻辰三郎、佐藤忠雄の弁論要旨
検事 外村隆の弁論要旨
検事 横井大三の弁論要旨(総括) [1]一、本日弁論の行われる3件、すなわち、いわゆる猿払事件、徳島郵便局事件、統計局事件の3件は、いずれも検察官上告事件である。したがつて、すでに検察官名義の上告趣意書が提出されているので、ここではその上告趣意書どおり陳述し、それを前提として若干の補足的陳述をすることとしたい。
[2] そして、私はその補足的陳述の枠組みを申し述べる。
[3] なお、統計局事件の上告趣意書2頁7行目に第一審判決の日付を昭和44年7月25日としてあるのは、6月14日と訂正する。7月25日は判決書作成の日付で、判決の表示は宣告の日である6月14日とするのが慣例だからである。

[4]二、本日の3件に共通の法律問題は、一口にいうと、国家公務員法102条、110条、人事院規則14-7による一般職国家公務員の政治的行為の規制に憲法違反があるかどうかということである。
[5] ただ、統計局事件は論点が他の2件とやや異つている。同事件の原判決は、第一に、選挙運動というのはその対象である特定の候補者が1人でなければならないとし、複数の候補者の当選のために働いた被告人らの行為は公職選挙法の面でも国家公務員法の面でも罪にならないとしている。そのあとで、仮定論として、かりに複数の候補者の当選のために働くことが選挙運動になるとしても、被告人らの行為は実質的違法性を欠くので可罰性がないとし、その中間に、国家公務員法102条の政治的行為の規制は公務員の地位にもとづく行為に限るという解釈を示し、公務員の地位にもとづく行為かどうかの判定基準として、他の2件の用いる、裁量権のある管理職の地位にある者かどうかとか、勤務時間内、勤務施設内の行為かどうかといつた基準を持ち出しているのであつて、その論理の進め方から見ると、どうもこの国家公務員法102条の解釈の点は無罪の結論と直接関係がないように思われる。その意味で統計局事件の原判決の理論構成にはすつきりしないところがあるといえよう。
[6] すつきりしないところがあるといえば、猿払事件の第一・二審判決にも、徳島郵便局の第一審判決にも、一体国家公務員法102条、人事院規則14-7の政治的行為規制が広範囲にすぎるということが無罪理由なのか、その規制違反に対する制裁が重すぎるというのが無罪理由なのか必ずしもすつきりしない点がある。そして、その点だけについていえば、徳島郵便局事件の第二審判決は、制裁の重い点だけを違憲、無罪の理由としているように思われるので、無罪理由としてはかえつて、はつきりしているともいえる。

[7]三、判決のそのような法技術的に批判はともかくとして、3事件の原判決に共通の流れる第一の問題は、前述のように、国家公務員法102条、110条1項19号、人事院規則14-7に、その適用面を含めて憲法違反があるかどうかであり、第二の問題は、統計局事件特有の問題である選挙運動における特定候補者の意義如何ということと、実質的違法性欠如を理由とする可罰性否定論の当否である。
[8] そして、右の第一の問題はさらに2つに分れる。その1は、どのような政治的行為の規制が許されるかということであり、いわば政治的行為規制の幅を主として論ずるもので、憲法21条の問題といえよう。これに対し、その2は、主として政治的行為規制のいわば深さを問題とするもので、規制違反に対する制裁はどの程度まで許されるかということであり、本件の各原判決によれば憲法31条の問題ということになる。
[9] そこで、これからの検察官の意見陳述も、右にいう政治的行為規制の幅の問題、深さの問題、そして選挙運動における特定候補者の問題および実質的違法性の問題に集中し、各担当検察官により順次行う予定である。

[10]四、なお、猿払事件第一審判決に代表されるように、政治的行為規制の合憲性を論ずる場合の各判決にはアメリカの判決の強い影響が見られるので、それについても十分考慮を払う一方、先般のいわゆる全農林警職法闘争事件判決に示された最高裁大法廷の違憲立法審査権行使についての考え方をも参酌し、また、制裁の面では、いわゆる本所郵便局のプラカード事件で懲戒処分まで違憲とした一・二審判決のあることを念頭に置きつつ論述を進めたいと思う。
   目次
一 憲法21条違反について
 1 政治的行為制約の合憲性
 (一) 一般職国家公務員の身分に基づく制約の必要性と合理性
  (1) 政治的行為制約の必要性
   (イ) 政治と行政の分離の観点からする理由
   (ロ) 行政の広汎性と一体性の観点からする理由
   (ハ) 政治的党派的勢力の行政組識への侵入の防止の観点からする理由
   (二) 行政官署の性格の観点からする理由
   (ホ) 政治と行政との混淆による弊害の観点からする理由
  (2) 政治的行為制約の範囲とその合理性
   (イ) 立法機関の裁量権とその範囲
   (ロ) 政治的行為制約の範囲・程度とその合理性
 (二) 選挙運動規制の必要性と合理性
  (1) 3事件の性格
  (2) 選挙運動規制の厳正・公平性
  (3) 3事件判決における判断対象の拡大化
 2 3事件の判決が示した政治活動制約の違憲性ないし実質的違法性欠如の認定の前提基準
 (一) 「現業」「非管理職」
 (二) 「裁量権のない、機械的労務」
 (三) 「勤務時間外の行為」
 (四) 「国の施設の利用」「国の施設内の行為」
 (五) 「職務利用の意図」
 (六) 「労働組合活動の一環としてなされたこと」
 (七) 「一私人としての行為」
 3 「より制限的でない他の選びうる手段(LRA)」の原則
二 判例違反について
 1 適用違憲
 2 司法審査の原則としての立法政策不介入の原則
 (一) 違憲審査の限界
  (1) 昭和33年3月12日、同年4月16日の各大法廷判決に対する判例違反
  (2) 昭和40年7月14日大法廷判決に対する判例違反
  (3) 4・25判決に対する判例違反
 (二) いわゆる「ミツチエル事件判決」について
(一) 一般職国家公務員の身分に基づく制約の必要性と合理性
(1) 政治的行為制約の必要性
(イ) 政治と行政の分離の観点からする理由
[1] 一般職国家公務員(以下単に「公務員」という。)に対する政治活動制限の理由は、通常、全体の奉仕者性(憲法15条2頁)と公共の福祉(同13条)とに求められているが、むしろ現実的には、議会制民主主義ないし議院内閣制下における行政の中立性の要請に由来するものと考えられる。すなわち、わが憲法は、政治と行政分離の原則のもとに、立法府に国民の意思を代表させて、その政策的判断により法律を定立させるとともに、法律に内在する硬直性と行政の合目的的性格をも考慮して、行政のトップには直接国民の意思を代表する政治的公務員を置いて議院内閣制をとり、その指揮のもとに、膨大な一般行政機構を構成する非政治的公務員を配して、国会及び内閣の意思の忠実・公正な執行を義務づけることとしているのである。従つて、公務員は、政府の政治的意見によつて行動すべき拘束を受ける。そして、公務員は、国民に対しては何ら政治的責任を負わないのであるから、行政が、その個人的な政治的意見によつて左右されることがあつてはならないのであつて、これら公務員に対して政治活動を制限することは、その政治的中立性確保のため憲法上許容されているものというべきである。
[2] なお、ここに注意すべきは、公務員によつて守られるべき公務の公正・中立性は、実質的な公正・中立性のほか、形式的な公正・中立性、換言すれば、公務運営の中立的外観の維持をも含むものと解すべきことである。けだし、公正・中立性の外観を失つた行政に対しては、国民は、疑惑と不信を覚えるであろうし、一般国民の信頼を抜きにしては、行政の円滑な遂行とその安定性を期待することはできず、議会制民主主義は成り立ち得ないといつても過言ではないからである。
(ロ) 行政の広汎性と一体性の観点からする理由
[3] わが国の現状をみると、わが国がその道を辿つている福祉国家の理念の要請から、行政は必然的にしかも急速に膨張し、国民生活のあらゆる分野に浸透しているのであり、行政との接触なしに国民生活は成り立たない。そして、その行政は、複雑で精巧な近代的機構をもつて常に一体として行われている。その内部には、広範囲な裁量権をもつ管理職の地位にある者、狭い範囲の裁量権しか持たない者、全くの機械的労務に服する者等種種の職種に在る者を包摂して一つの官署を構成し、この官署により国の行政が行われ、これが地方から中央へと連なつて全国的・統一的な一体としての行政が行われているのである。その間、国民の側からみれば、管理職の地位にある者も、非管理職の地位にある者も、一体となつて行政が行われていると考えているのである。しかも、これら国民の眼にふれ、直接折衝の対象となるのは、一般的に言つて、裁量権の範囲の小さいと思われる(今回の3事件では、「機械的労務の提供にとどまる」といつているような)末端の非管理職の公務員であるが、これらの公務員が裁量権を有するか有しないか、管理職であるか非管理職であるかは、外部からみる限り、多くの場合不明であろうし、国民に接することの多い末端職員も、多くの国民にとつて、オピニオン・リーダー的な存在となつており、ことに、猿払事件や徳島郵便局事件の舞台となつたような山間僻地に赴くほど、その傾向が強いように思われる。
[4] 仮に、公務員に党派的製力にくみした積極的な政治的行為、とくに本件の如き選挙運動を許すときは、「行政過程に全く関与せず、かつ、その業務内容が細目迄具体的に定められているため機械的労務を提供するにすぎない現業公務員」であつても、これらの者と右の党派的勢力の結び付きが緊密化し、法規の基準を超えて一党一派に偏した不公正、不公平な執務がなされるおそれがあるとともに、一般の国民に対する公務員の言動も、強力な一体をなす行政庁を背景とし、あるいは背景としているような外観のもとに行われるため、国民に大きな影響を及ぼすこととなろう。そして、やがて、国民に、当該公務員の関与する公務の公正のみならず、その所属する役所の公正、さらには国の行政一般の公正に対する不安、不信、疑惑を抱かせるに至ることは、容易に推測しうるところである。
[5] 以上のような弊害を未然に防止し、行政の公正・中立性を維持確保するためには、公務員の特定の政治的行為を一律に禁止する必要があり、このことは、公共の福祉を維持するためのやむを得ない制約であつて、まさに、憲法の容認するところというべきである。
(ハ) 政治的党派的勢力の行政組織への侵入の防止の観点からする理由
[6] 公務員は、全国的な規模をもつ国の行政組織の構成員である。もしも、行政過程に全く関与しないいわゆる現業公務員という限定を置いたとしても、公務員が一般国民同様に、自由に政治活動を行いうるものとするならば、必ずや、2つの方面から、大きな弊害が表面化してくることと思われる。その1つは、行政の中立性、統一的一体性の放棄につながるものであるが、公務員である政治的活動家は、全国的な行政組織を基礎とし、勤務時間及び職場の内外を問わない精力的な政治活動により、公務員を構成員とする巨大な派閥的・政治的圧力団体を結成し、行政内部の対立・抗争を誘発せしめるとともに、政府の命令に沿つた行政の円満な遂行が妨げられるに至るであろうということ、その2は、政治的支持者・協力者を求めて積極的に動く政治的・党派的勢力は、この巨大な組織をもち政治的な活用価値の大きい公務員の集団に対し、何らかのきつかけをつかんでこれに接近し、その関係がますます緊密化するに従い、公務の執行そのものが、法規の定める基準を超えて、一党一派に偏した不公正、不公平なものに堕するおそれを生ずることである。
[7] このようなことは、決して観念上の空想ではない。選挙運動という政治活動の許されていない現在でさえも、郵便局員その他巨大な組織をもつ公務員の職員団体又は労働組合の構成員が、選挙のたびごとに、その組織を利用して、特定政党又は特定候補者のために、選挙運動を大々的に行つていることは顕著な事実である。いま問題になつている3事件も、その部分的・片鱗的現われということができよう。かようなこれらの事件における背景と、国家公務員法(以下単に「国公法」という。)102条1項、110条1項19号、人事院規則(以下、単に「人規」という。)14-7が一種の抽象的危険犯を規定したものであることを考えるとき、同種行為が組織的に行われていることに眼をつぶり、数人の公務員の政治的行為のみの観点から事件を捉え、その影響力の軽微であることを強調して不可罰的なものとする考え方は、到底とることができないのである。
[8] いずれにしても、一部公務員の政治活動を自由化することは、一般国民に与えられている以上の政治的力を付与することになり、公務員の全体の奉仕者性は、全く有名無実化することとなるのである。
(ニ) 行政官署の性格の観点からする理由
[9] 行政の公正・中立性は、国の行政全般にわたつて保たれなければならないことは勿論であるが、その所掌する行政の性格から行政官署に応じ、公正・中立性の確保の必要性に強弱の差があることは否定し得ないところであろう。
[10] これを今回の3事件についてみると、統計局事件一審判決は、統計局の性格に関し、
「総理府統計局は、要するに、国その他地方公共団体等の施策樹立の基礎となる統計の仕事を管掌するところであつて、一般国民の側がそれに期待するところのものは客観的真実を伝える統計であり、客観性、中立性を要請されている行政官庁であるというに妨げはなく、そこに勤務する公務員が特定の政党または特定の候補者のために選挙活動をすることは、一般国民の側に上述の意味における不安、不信等を抱かせるに足りる官庁である。」
と判示し、正しく、その公正・中立性の要請を指摘しているところであり、また、猿払事件、徳島郵便局事件における郵便局については、郵便局は、国民に対し、国の事業である郵便、郵便貯金、簡易生命保険等の事務を取扱う末端の行政官署であるが、その性格は、公共性がとくに強く、国民とのつながりが極めて密接である。そもそも、郵便事業が諸外国と同様に、国営にされた理由は、(1)郵便は憲法の保障するところによつて、通信の秘密が確保されなければならないこと、(2)なるべく安い料金で公平にこれを利用できるようにすること、(3)郵便のサービスは山間僻地にまで普遍的に提供されなければらなないこと、(4)郵便事業は全国的な組織を必要とすること、(5)郵便は諸外国とも交換するものである点から対外的に国営とすることが便宜であること等によるのである(郵便法1条ないし9条)。
[11] また、郵便貯金事業や簡易生命保険事業は、いずれも、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進することを目的とし、前者は、簡易で確実な貯蓄の手段として、国民にあまねく公平に利用させ、後者は、国民に簡易に利用できる生命保険を確実な経営により、なるべく安い保険料で提供する事業である(郵便貯金法1条、簡易生命保険法1条)。
[12] かように郵便局の所掌する事務は、高度の公共的・公益的性格をもち、事務取扱いの公平性・厳格性が強く要請されるところであり、一部の者の利益に傾斜した業務運営の許されないことは当然である。例えば、選挙関係の文書その他政治的色彩を有する郵便物が、政治的に偏頗に取扱われてはならないし、また、郵便物が披見されるような危険がいささかでもあつてはならない。郵便貯金や簡易生命保険の事業も公平に取扱われ、人によつて有利・不利の差別があつてはならないことは当然である。
[13] こうした郵便局関係の事業に従事する公務員が、公然と選挙運動等の政治活動を行い、党派的・政党的な政治的意図を公衆に表明することは、その地位の上下、権限の大小、裁量権の広狭等に一切関係なしに、日常の郵便等の業務においても、一部の党派のため偏つた取扱いをするのではないかとする不安、疑惑を国民に抱かせ、国の郵便事業全体の公正な運営に対する国民の不信を招くおそれがあるのである。
(ホ) 政治と行政との混淆による弊害の観点からする理由
[14] 先に述べた議会制民主主義ないし議院内閣制下における政治と行政の分離の原則と関連するところであるが、政治と行政との混淆が、健全な民主政治の発達にいかに有害であるかは、世界的に、すでに体験ずみといいうるのである。例えば、
a 積極的な政治活動を放任することは、行政部内に政治的派閥を生じ、行政の内部における全体の不調和ないし派閥的な対立を生じ、職務の能率的な遂行に悪影響を与えるおそれがあること、
b 裁量権の少ないことを理由として、非管理職の地位にある者に政治的行為を許したとした場合でも、政治的同調者多数の圧力等により、職場が特定の政治的勢力となり、裁量権のある者、管理職の地位にある者に影響を及ぼして、公務の公正性・中立性に害を与えるおそれのあること、
c 政治行為の自由化は、特定の政治組織内での昇進を狙う公務員を生ずるにいたり、能率的な執務を怠り、公務の粗略化をきたすおそれがあること、
等々である。
[15] 以上述べた数々の理由により、公務員に対し政治的行為を制約して、政治活動を許した場合に生ずるであろう種々の弊害を未然に防止し、もつて行政の公正・中立性とこれに対する国民の信頼を確保することの必要性が論証できたものと考える。
(2) 政治的行為制約の範囲とその合理性
(イ) 立法機関の裁量権とその範囲
[16] もとより、公務員といえども、一般国民としての面をもつ以上、政治的自由は保障されなければならない。この意味で、公務員の政治活動の自由を制限する範囲・程度は、その目的を達成するために必要かつ合理的な限度にとどめられるべきであり、その限界は、公務員の政治活動の自由を尊重すべき必要性と、先に述べた公務員の政治的行為制約の必要制、すなわち、公共の福祉とくに行政及び行政庁の公正・中立性の確保と、その公正・中立性に対する国民の信頼を推持する必要性とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に、具体的な制限の範囲・程度を決定することは、立法府の裁量権に属するのであつて、立法府がその裁量権の範囲を著しく逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合憲・適法なものと解すべきである。なぜならば、これまで縷々述べたごとく、公務員の政治活動を制約することの必要性の理由となる諸般の事項、すなわち政治活動を放任ないし許容した場合において生ずる公務員と政治的・党派的勢力との結びつきや、行政の面における種々の障害の程度、あるいは、国民が公務運営の公正に対して抱く不安・不信感の程度等は、その時代時代における政治的、経済的、社会的、教育的環境によつて変化するものであり、公務員の政治活動をどの範囲、どの程度において規制すれば、実質的・形式的両面における公務の公正・中立性の確保という立法目的を達成することができるかという判断は、全く政治の領域に属する重大で複雑な、しかも流動的な政策決定の問題であり、かような政策決定の問題については、憲法は、立法府の広い範囲の選択に任せているのであり、立法府の選択が、社会一般に存在している観念を超えて過度の規制にわたるため、明らかに不合理と認められる場合以外には、裁判所は自らの責任において、立法府による選択の当否を判断すべきではないのである。これは、まさに、司法権に内存する本質的制約というべきである。
(ロ) 政治的行為制約の範囲・程度とその合理性
[17] 3事件の判決は、公務員の政治活動に対する制約は最小限度でなければならないのに、国公法102条1項、人規14-7による制限は広きに失するとする立場から、その適用範囲を限定するため種々の基準を設けて、当該被告人の行為を過小評価し、猿払事件、徳島郵便局事件では適用違憲の、統計局事件では実質的違法性なしとの結論に導いているのである。
[18] なるほど、国公法102条1項、人規14-7による制約は、一見したところでは、きわめて広範囲であるとの印象を受ける。すなわち、人規14-7、6項は17種類の禁止行為を挙げており、この規制は、雇問、参与、委員等について適用除外されているほかは、一般職に属するすべての職員に対して、休暇中にも休職・停職中にも適用され、また、職員たる地位・身分を有する限り、16号の場合を除いて職務時間外の行為にもすべて適用されることになる。
[19] しかしながら、仔細に検討してみると、規制の範囲・程度は、政治的行為を許した場合に予想される弊害の大きさにくらべて、さほど高度のものではなく、合理的な限界を守つているものといえるのである。すなわち、国民の政治的権利として最も重要な選挙権の行使は、国公法102条1項により何らの制限を受けないことになつているし、人規における政治的行為制約の定め方も、無数に存在する政治活動の中から禁止・制限すべき行為を確定的に列挙する方法をとり、政治的目的と政治的行為とを別個に定義し、政治的目的をもつてなされる行為であつても、所定の政治的行為に該らない限りその行為は禁止されないし、逆に、政治的行為に該当する行為であつても、所定の政治的目的がなければ禁止の対象とはならないのであり、その結果、政党加入、示威運動への参加、候補者の推せん届出、組合員だけの会合における意見発表、その他多くの政治的行為が禁止の枠外に置かれることになつている、この2つの要素のかみ合わせが必要とされることによつて、禁止行為の幅が大きく狭められることになるが、その上に、形式的に見ればこの規制の違反に該当する行為であつても、職員が本来の職務を遂行するために当然行う行為は規制から除外されるし(人規14-7、7項)、また、この規制は、偶発的に又は気がつかないでしたような個々の行為までを追及しようとするものではないのである(たとえば人規14-7、6項、6号、8号、9号には、行為の反覆継続ないしその意図を要件とする「運動」という文字が使われている)。
[20] 同規則5項と6項を対比し、そこで禁止されている行為を概括的に述べると、(1)政治的目的のための職務上の地位利用、金品その他の利益の授受、(2)政党・政治団体の結成関与、(3)政党・政治団体の勢力伸張に奉仕する行為、(4)政治上の主義主張を対外的に発表し、宣伝する行為、(5)選挙運動等であり、いずれも、非政治的公務員であることの立場を忘れ、積極的に政治運動を行い、政治と行政分離の原則を乱して行政の中立性を失わせ、また、国民から、公務の公正と行政の中立性を疑われるに至る原因となるような行為のみである。立法府及びその委任を受けた人事院がこのような範囲・程度の行為につき規制の必要を認めるとともに、違反行為に出た公務員の地位、権限、職務内容、勤務時間内の行為か否か、国の施設を利用したか否か、職務を利用する意図があつたか否か等の事項に関し、何ら限定することなく一律にこれを禁止したとしても、それは立法府の裁量権の範囲内に属する政策的判断であつて、国公法102条1項及び人規14-7の規定が憲法21条に違反するものでないことには疑問の余地がないのである。

(二) 選挙運動規制の必要性と合理性
(1) 3事件の性格
[21] 3事件において問題とされている被告人らの政治的行為は、公務員によつて行われた選挙運動であること、法文に即していえば、国公法102条1項、人規14-7、6項13号(猿払事件、統計局事件)・8号(徳島郵便局事件)に違反して行われた特定の政党に属する候補者のためのいわゆるポスターの掲示・配布、ビラ配り、演説会での司会・投票勧誘の演説等という選挙運動であることである。すなわち、ここでは、本来、全体の奉仕者として、政治行動的に中正であるべき公務員がその義務に背き、憲法の禁ずる一部の奉仕者として、特定政党の候補者の当選をはかるために、国民に働きかけたことの責任が問われているのであつて、表現の自由ないし政治的行為一般が問題とされているのではないし、また、これを問題とすべきでもないのである。
(2) 選挙運動規制の厳正・公平性
[22] 表現の自由のうち政治活動の自由なかんずくその中心となるべき選挙運動の自由については、いわゆる精神的自由などとは異り、選挙運動という事柄の性質上、かなり厳しい法律的制限が許されて然るべきものであると考える。すなわち、選挙においては、相対立する主義・主張をもつ政党・政治団体が、その盛衰と政治家の政治生命をかけてはげしい競争を展開し、比較的短期間内に、国民の支持共鳴をとりつけて勝敗の結着をつけるのであるから、選挙運動は、あくまで厳正、公平に行われなければならず、これを担保するために、選挙運動の全般にわたつて多くの厳しい法律的制約が設けられているのである。過去において選挙運動の規性の合憲性が争われた事例が多いにもかかわらず、かつて、その合憲性が否定されたことがなかつたのもそのためである。
[23] このように、選挙運動における公正性は、その至上命令というべきものであるため、その公正を害する行為はもちろん公正を疑わせる行為も極力避けなければならないことは当然である。ところで、公務員が、中立性保持の義務に背き、一党派に傾斜してこれを利する行為に出るときには、先に述べたように、その地位、権限、職務内容、勤務時間及び職場の内外、行為の意図等如何にかかわらず、広汎かつ一体的な行政組織の一員として、あるいはまた、その組織を背景として、組織の内外に大きな影響をもたらしうる立場にある関係上、選挙そのものの公正を害し、又は害するおそれが極めて顕著であるといえるのであり、その弊害は、一般国民による違法な選挙運動とは比較にならないほど大きいのである。従つて、公務員に対しては、憲法21条の表現の自由の保障はあるにしても、その選挙運動に対しては、罰則を伴う相当きびしい規制が許されてきたのであり、今後も許されるべきものであると考える。
(3) 3事件判決における判断対象の拡大化
[24] 3事件の実質は、右のように選挙運動であり、従つて政治的行為規制の合憲性を判断するにあたつても、公務員による選挙運動規制の合憲性を判断すれば足りた筈である(人規14-7、6項・8号・13号の中にも選挙運動と然らざるものが含まれている)。然るに、3事件の判決はいずれも問題を拡大し、選挙運動の場合とその取扱いを異にすべき他の政治的行為の場合をも含め、政治的行為一般に関し国公法、人規の合憲性を考えたため、論点が錯雑し、中心を失つた感が深いのである。
[25] 立法府は、公務員の選挙運動を人規14-7、6項、8号及び13号をもつて規制するにあたり、行為者及び行為の多様性の故に個別的規制に適さないところからこれを画一的に規制し、事案の軽重による科刑の寛厳は、法の範囲内において司法権の判断に任したものと考えられるにもかかわらず、3事件の判決は、規制の必要性の判断をこえ、右の人規の規定は規制が広きに失するとして適用範囲限定の基準を設定したのであるが、これらは規制の範囲・程度に関することであつて、立法府の裁量事項に属するものであり、それらが過度の規制にわたるため、明らかに不合理と認められる場合以外には司法審査はこれに及ばない筈のものである。かくして、猿払・徳島郵便局両事件の判決は結局、表現の自由に関する憲法21条の解釈適用を誤る結果に陥つたものと考える。
[26] 猿払事件、徳島郵便局事件各判決の結論部分の構成は、大同小異であるので、猿払事件一審判決に例をとつてみると、「国公法110条1項19号は、このような行為に適用される限度において……合理的にして必要最小限の域を超えたもの」とし、或いは、「本件被告人の所為に、国公法110条1項19号が適用される限度において、憲法21条および31条に違反する」としている。しかしながら、この「被告人のような行為」を法律的な意味において特徴づけるものが何であるかは事件ごとに同一とはいいがたいのである。また、無罪理由として他の2件とは別の理論構成をとる統計局事件控訴審判決のうち国公法違反の部分は、国公法、人規により処罰の対象となる公務員の政治的行為は、それが公務員の地位に基づく行為でなければならないとし、公務員の地位に基づく行為であるか否かの判断基準は、他の2件が用いているのと同じような基準を示しているのであるが、それにも他の2件との間に若干の相違があるのである。このように、3事件の判決が用いた基準は、不斉一であるばかりでなく、無意味と思われるものが多いのであるが、煩をいとわず、基準とされた各事項につき、順次検討することとする。

(一) 「現業」「非管理職」
[27](1) ここに「現業」といい、「非管理職」といつているが、実は、いずれも、主として、労働関係において、どこまで私企業の労働者に準じて考えられるかという次元において問題とされる事柄である。なるほど、国家行政組織法21条に「現業の行政機関」、郵政省設置法12条4項には「現業事務」という用語がそれぞれ用いられており、また、公共企業体等労働関係法2条には、いわゆる五現業に属する郵便その他の事業が掲げられているが、「現業」そのものの定義はなく、あいまいな観念である。
[28] また、郵政省関係において「管理職」とは、法令上の名称ではなく、公共企業体等労働委員会が公共企業体等労働関係法4条2頁に基づき労働組合法2条1号に該る者として告示した者を俗に「管理職」といい、然らざる者を「非管理職」と称するのであつて、まつたく、労働関係における事実上の概念に過ぎないのである。
[29] このように、不正確な、漠然とした意味内容の用語を、政治的行為制約に関する違憲判断の基準の一つとして用いることは問題である。
[30](2) いわゆる「現業」、「非管理職」の公務員も、行政的な意味では、他の地位、職種の公務員と同様に、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために、国の作用を分担し、勤務する者である。したがつて、公務員は、「現業」とか「非管理職」という従属的職務についているとしても、民間企業における従業員のような労働関係とは異なつた、国の組織法上の服務関係にあり、国の作用の執行にあたつては、国の行為を構成し、これを表示すべき主体そのものと見なければならないのである。
[31](3) その担当事務の細部にわたつて法規で規制されている非管理職の職員であつても、具体的公務の執行に当つては、広狭の差は別として、裁量権を行使し、又は行使しなければならない余地は常に存するばかりでなく、直接公衆に接して職務を遂行する者は、その者の行為が、外部に対し、そのまま行政の作用として事実上通用することがあるだけに、国民は、このような公務員の職務遂行の公正・中立については、特別な関心を払つている。
[32] ことに、統計局事件は別として、猿払、徳島郵便局両事件は、いずれも、辺ぴな山村・僻地において行われたものであるが、かかる地方においては、いわゆる管理職の立場にいない駐在所の巡査、郵便局員、営林署員等が、住民と日常密接に接触している関係上、いわゆる官の代表的人物として、住民に対し多大の影響力をもつていることは、顕著な事実である。
[33](4) なお、あとで詳しく触れるアメリカ連邦最高裁判所のいわゆるミツチエル事件判決において、ダグラス判事は多数意見に反対して、公務員のうち政策決定に何ら影響力をもたず、かつ、公衆と接触することのない現業労務者、熟練労働者及び職人は、一般市民と同様に政治活動に従事する権利を認められるべきである旨強調しているが、同判事の意見によつても、公衆と接触することのある現業公務員は、自由な政治活動を認められるべきグループから除外されていることが注目される。
[34] 要するに、「現業」・「非現業」とか「管理職」・「非管理職」といつても、そのような区別に意味があるのではなく、国民に働きかけることにより政治的に影響を与え、公務の公正・中立性を害する立場にあるかどうかが重要なのである。

(二) 「裁量権のない、機械的労務」
[35] たとえ、裁量の余地の少ない機械的労務に従事する者であつても、一体化されている行政組織の中の一人として政治活動をするとき、職種の上下、権限の大小、裁量権の広狭等にかかわりなく国民に大きな影響を及ぼし、その者の行動如何によつては、公務に対する不安、不信、疑惑を生ぜしめることについては前述したところである。
[36] また、例えば、郵便集配業務に従事する郵便職員については、郵便法66条の特別送達等公権力の行使に属し、相当高度の判断、裁量を伴う業務に従事しているが、通常郵便物の配達の如く定型的、機械的な業務にかかる場合であつても、自己の政治的見解により、配達の優先順位に若干の手心を加える等の行為に出ることの絶無であることは保し難く、かくては公務の公正・中立的運営に与える支障は重大である。したがつて、裁量権の有無・大小・機械的労務かどうかということは、それらの者の政治的行為制限の要否とは無関係である。

(三) 「勤務時間外の行為」
[37] 勤務時間外における政治的行為の制限は行為の制約としては広きに失するというのが、3事件判決の趣旨であろう。これは人規14-7、4項を真向から否定する違法の基準である。同項が設けられたのは、勤務時間外の行為であつても、職員の政治的中立性を害する点においては同じであるとの考えに基づくものである。
[38] 本人は勤務時間外であつても、当該官署としては業務執行中とみられる場合があり、このようなときに職員が政治的行為を行うことは当該官署が公認してその行為をさせているとの誤解を生じ、公務の公正への信頼を著しく傷つけることになる。また、当該職員が勤務時間中であれば、禁止された政治的行為については国公法98条1項、101条1項等により中止・是正させる手段があるが、時間外の行為については、同法102条1項による規制をするほかに手段はないのである。
[39] なお、さきに触れたミツチエル事件におけるアメリカ連邦最高裁判所判決の多数意見では、
「勤務時間内の政治活動が許されないことは明らかだとしても、勤務時間外の政治活動は制限されないはずであるとの上告人の主張には説得力はない。もし公務員の政治活動が、公務、公務員又は公務員と交渉のある人達に対し悪影響を及ぼすとすれば、勤務時間外に政治活動が行われたからといつて、その悪影響が少なくなるわけではない。もとより、この規制が必要か否かは、裁判所が判断すべきことではなく、他の政府部門が判断すべきことである。」
とされていることも、参考となろう。

(四) 「国の施設の利用」「国の施設内の行為」
[40] 猿払事件、徳島郵便局事件では、国の施設外での、従つて、国の施設を利用しない行為を禁止することは、政治的行為の制限として広過ぎるというのが判決の趣旨と思われる。
[41] しかしながら、政治的行為制限の理由、制限されるべき行為の態様等に照し考えれば、本来、国の施設の利用、不利用は、政治的行為の制限には無関係であるから、人規14-7、6項各号にあるように、政治的行為の主なものは、国の施設の利用等に何ら関係なく制限されているのである。
[42] そして、とくに政治的目的をもつて国の庁舎等を利用する場合は、当然のことながら、その利用目的に沿わないのみならず、国民の疑惑を招くおそれがあるところから、人規14-7、6項12号をもつて国の庁舎等の利用そのものを禁じているのである。それ以外の政治活動に「国の施設の不利用」をもち出すことは、あまり意味のあることではない。

(五) 「職務利用の意図」
[43] 猿払事件、徳島郵便局事件判決は、職務利用の意図のないことも、政治的行為の規制を許さない基準にあげている。
[44] 「職務を利用しない」ということが具体的に何を指すか、必ずしも明らかでなく、猿払事件控訴審判決も、検察官控訴に対し適確に答えていないが、選挙運動用ポスターを郵便区分台の上において同僚の郵便集配担当者にその掲示方を頼む等の行為は、職務を利用したとも見られると思う。また、郵政職員等が制服を着用したまま、職務終了後あるいは休暇時間中に、職務を利用せず又はその公正を害する意図もなく、何らかの政治的行為を行つた場合などには、その結果として、郵政当局の公務の公正に対する疑惑等を生ぜしめることは明らかであり、まさにこれらの行為はこれを制限しなければならないのである。

(六) 「労働組合活動の一環としてなされたこと」
[45] 労働組合は、一般的には、その目的達成に必要な範囲の政治活動を行うことができるとされているが、公務員を構成員とする職員団体又は労働組合については、公務員の政治的行為につき国公法上制限が科せられているので、問題がある。
[46] この点につき、猿払事件一審判決は、
「労働組合が、労働組合の目的の範囲内で政治活動を行うことは法の禁止するところでなく、労働組合が、公職の候補者について特定人を組合として支援することを決定し、且つ支援活動をすることは、その具体的方法が公職選挙法にふれない限り、法の禁止していないところである。」
とし、この「労働組合活動の一環として行われたと認められる所為」であるからということを、本件につき、いわゆる適用違憲の結論に導くに至つた一つの前提事実としている。
[47] また、統計局事件控訴審判決においては、
「被告人らの所為は……組合の候補者推薦決定を内容とする文書の配付であつて、その方法は組合の日常活動としてとられていたいわゆる朝ビラの配付であるから、たまたまその行為が形式上政治的行為に該当するにせよ、組合活動に随伴する行為として違法性は低いのみならず、……被告人らの主観においても、割り当てられた組合の日常行動としての意識が主潮をなすもので、違法性の認識において軽度のものというべきである」
として、他の事情をも総合して、被告人らの所為が実質的違法性を欠くとの結論に導いているのである。
[48] しかしながら、たとえ、公務員の加入している労働組合又は職員団体が、それぞれ、ある限度で政治活動を行うことが許されるとしても、その構成員である公務員は、これと同様に解することはできない。すなわち、公務員は、国公法102条1項、人規14-7、6項に反しない限り、個人としても、組合員としても政治的行為を適法に行いうる反面、これに違反する行為は、組合員の名において、あるいは組合運動の名のもとに行う場合においても、許されないのである(人規14-7、6項17号参照)。
[49] 従つて、被告人の選挙運動が「労働組合活動の一環として行われた」から被告人の行為は不可罰であるとしたり、「組合活動に随伴する行為」であるから違法性が低いなどという論理は成立しないのであって、全くの謬論というほかはないのである。

(七) 「一私人としての行為」
[50 統計局事件控訴審判決は、前に触れたように、法律の合憲的解釈の原則から、国公法102条1項、110条1項19号、人規14-7、6項13号の適用範囲を限定するにあたり、
「国家公務員の処罰の対象となる政治的行為は、それが国家公務員としての立場換言すれば国家公務員の地位に基づく行為でなければならない。蓋し、一私人としての行為まで国家公務員であるが故に処罰されなければならない理由はない。」
としているが、一私人としての行為か、国家公務員の地位に基づく行為かは、必ずしも明瞭に区別し難い場合が多いばかりでなく、それが客観的に判断されるべきものである以上、政治的行為による働きかけの対象となる一般国民の立場から、その区別をなしうるか否かが明らかにされなければならない。しかしながら、国民一般は、公務員の行為について、それが公務員の立場でなされたものか、私人としての立場でなされたかの区別を明白に認識することは極めて困難であるという外はないのである。
[51] 公務員の行為について公私の区別がつけ難く、国民の側からは同じ評価を受けるところから、国公法上、職員の信用失墜行為に関しては私行上の行為を含めて禁止され、また、非行に関しても、職務の内外を問わず懲戒原因とされているのである。
[52] 以上のように公務員の政治活動の制限の合憲性あるいは実質的違法性の有無を判断するに当り考慮すべき基準として3事件判決の掲げている諸事項は、いずれも、政治活動制限の程度、範囲等の相当性、合理性を判断する基準とするに足りる事項ではないのである。にもかかわらず、3事件判決がこれに基づき国公法102条1項、人規14-7、6項につき誤つた適用範囲の限定をしたことは、憲法21条の解釈適用を誤り、あるいは国公法の刑罰規定の解釈適用を誤つたものといわざるを得ないのである。
[53] 猿払事件一審判決はLRAの原則に準拠したものかどうかは疑問であるが、仮に、これに準拠したものであるとしても、同判決が、このLRAの原則をどういうところでとり入れているのかが第一の問題である。
[54] この問題を考える場合、LRAの原則には2つの異つた面があることに留意する必要がある。その1つは規制する方法の面であり、他の1つは規制違反に対する制裁の面である。LRAの原則というのは、本来、前者の面に適用されるもので、後者に適用される基準は、どう考えても、規制違反に対する違法性評価の合理性の有無ということ以上に出ないものである。
[55] 猿払事件における原審の判示は、LRAの原則をいずれの意味において使用しているか明らかではない。すなわち、同判決は、一審判決が立法府に広汎な裁量権のあることを前提とする合理性基準説をとらず、LRAという基準に準拠したのは、言論の自由ないし政治的自由がひとたび制約されると、それだけ民主主義政治過程に本質的な復元力を失う、つまりとりかえしのつかないことになるため、その制約に特に慎重でなければならないと考えたからであるとし、自由の制約そのもの即ち前記の自由を規制する方法の面の焦点を当てながら、一転して、一審判決が被告人の本件所為の如きにまで3年以下の懲役又は10万円以下の罰金という刑事罰を加えることまで予定することは必要最小限の域を超えるとしたことは正しいとして、ここでは、規制違反に対する制裁の過重であることを問題としているが、これは、論理の一貫性を欠いている。なぜならば、言論の自由ないし政治的自由を制約すると、民主政の本来の機能たる復元力を失つてしまうとすれば、それは制約すること自体によるのであつて、制約違反に対する刑が重すぎるかどうかとは直接関係がないからである。
[56] それはとも角として、LRAの原則に従つた場合、第1に、立法目的を達成することとの関連性のない、あるいは薄い行為までも含めて制限していないかどうか、第2に、もし制限しているとすれば、これを関連のある制限から除外して立法することが可能かどうかが審査の対象となることになろう。
[57] ところが、アメリカの判決でも、右第2の点、言い換えれば、何が「より制限的でない手段」であるかを明らかにしていない。そのため、この原則は、「結果にいたる理由を説明するものではなくて、結果を宣言するだけのものである」といわれている。
[58] 精神的自由の制限に関してこの原則を適用したリーディング・ケースとしてしばしば引用されるアメリカ連邦最高裁判所のシエルトン事件に対する多数意見も、その開示を要求している関係団体の範囲が広汎すぎるという理由で違憲であるとしたのみで、法目的をひとしく達成できるより制限的でない他の手段は明らかにされていないようである。
[59] そこで、LRAの原則は、同一の法目的をひとしく達成することのできるより制限的でない他の手段は、当該具体的事件では何々であるかを判決で明示することを要求するものではなく、法令の定めるような規制(禁止)を行わなければならない必要性があるかどうかという争点、すなわち、立法目的からみた規制の広範性を問題にするテストであるともいわれている(このことが、原則として、規制の範囲、程度の審査には立ち入らないいわゆる「合理性の基準」が司法消極主義といわれるのに対し、LRAの原則が司法積極主義といわれる所以であろう)。
[60] このように、裁判所が、「より制限的でない他の選びうる手段」の内容を明示しない理由としては、裁判所が他の選びうる手段を語ることによつて、司法による立法作用だとか、立法権の侵害だとかいう批判を招きかねないということのほか、勧告的意見になるおそれがあること、他の選びうる手段を明示することによつて、それが後の事件において憲法問題を提起する可能性があること、とくに、裁判所には調査機関ないし専門的スタツフがいないため、他の選びうる手段を分析する十分な能力がないことなどが指摘されている。
[61] この最後の点は重要である。というのは、立法機関は、一定の政治的行為を規制するに当たつては、基本的人権との関連において、調査機関による十分な調査、権威ある専門家の関与、多くの議員の討議を経て、規制の必要性の有無を判断し、規制の方法・範囲を選定するものであり、「他の選びうる手段がない」、「その規制方法が最良の手段である」として立法するものだからである。
[62] ただ、学者の説くところによると、アメリカでは、「他の選びうる手段がない」ことは国側が立証すべきこととされているというのであるが、国側としても、「他の選びうる手段がない」ことの立証は必ずしも容易ではあるまい。そこで、学者の中には、「より制限的でない他の選択しうる手段」の原則は、違憲審査に当たつて、司法的積極主義をとり、憲法の保障した人権、自由の制限をたやすくは合憲と判断しないという意味をもつにとどまり、実際の適用においては、必ずしも常に明確な合憲性判断の基準を与えるものではない、多くの場合、裁判所が問題となつた制限を行き過ぎであると判断した場合には、何が当該法目的をひとしく達成しうる実行可能な「より制限的でない他の手段」であるかを明らかにせず、また、十分に論証せずに、単にことばの上で「より制限的でない他の選択しうる手段」の原理をもち出したのみで、あるいは「より制限的でない他の選択しうる手段」のないことを論証しないという理由によつて、その制限を違憲であるとしているに過ぎず、その結果、同じく「より制限的でない他の選択しうる手段」の原則を適用とするといつても、その適用に緩厳の差があると云つているのである(田中和夫、訟務月報19巻3号114頁)。
[63] このようなLRAの原則が、アメリカにおいても、一般に承認され、確立された原則といえるかどうかはなはだ疑問であり、また、これが、裁判所が言論の自由等の基本的人権に関する制限の合憲性を判断するのに明確な基準となりうるものかどうかについても、疑問の多いところである。仮に、そういう原則を採用したアメリカの裁判例があるからといつて、それをいきなりわが国に持ち込み、生きた具体的事件に適用するなどということは許されないところと信ずる。
[64] 猿払事件及び徳島郵便局事件の各一審判決並びにその判決の結論を相当なものと承認した各控訴審判決は、いずれも、いわゆる適用違憲の法理により無罪の結論に達したものといわれている。
[65] これに対し、昭和44年4月2日の2つの大法廷判決(全司法仙台事件・刑集23巻5号565頁、都教組事件・刑集同巻同号305頁)は、法文に一定の限定解釈を施すことにより国公法98条5項、110条1項17号や地公法37条、61条4号の合憲性を認めている。
[66] 猿払事件一審判決が、前記のように適用違憲に赴いたのは、その判示にもあるごとく、
「同号(国公法110条1項19号)は同法102条1項に規定する政治的行為の制限に違反した者という文字を使つており、制限解釈を加える余地は全く存しないのみならず、同法102条1項をうけている人事院規則14-7は、全ての一般職に属する職員にこの規定の適用があることを明示している以上」
ここにも制限解釈を加える余地がないものとしたことによるものである。検察官が、先に、上告趣意書において、違憲立法審査権の行使方法が右大法廷判決に反するといつたのは、この点を指すのである。
[67] ところが、昭和48年4月25日大法廷判決(全農林警職法闘争事件・刑集27巻4号547頁―以下、4・25判決と略称)は、右の全司法仙台事件の判例を変更して、そのような限定解釈は許されないものとした。その理由は
「このように不明確な限定解釈は、かえつて犯罪構成要件の保障的機能を失わせることとなり、その明確を要請する憲法31条に違反する疑いすら存するものといわなければならない。」
というにあつたのである。
[68] 以上のように、4・25判決によつて、前記の全司法仙台事件判決の限定解釈の方法は否定されたが、一般論として、従来は、限定解釈によつて法律の違憲判断を避けようとする思考方法と、それをせず、またはそれを不可能として適用違憲ないし部分的違憲に向う思考方法の対立があることがわかる。この場合、根本的に重要なことは、犯罪構成要件の保障的機能が、そのいずれによつて、よりよく保たれるかということであると考える。犯罪構成要件は何よりも明確でなければならず、通常人が解釈に戸惑うようなものであつてはならない。いわゆる限定解釈は、それが法の合理的解釈の範囲にとどまるもの、すなわち、立法目的に反するものでなく、また、余りにも法文からかけ離れた解釈でなければ、国民の理解も得られるし、限定解釈の基準が一応客観的に示されることにより、国民の行為の準則が明らかにされる余地があるが、適用違憲の場合のように、「この条文は、本件被告人の行為に適用される限りにおいて違憲である」とするのでは、猿払、徳島郵便局事件判決に見られるごとく、「被告人の行為」をどこまで一般化することができるかについての確たる基準がなく、極端に言えば、取締る官憲側も、取締りを受ける国民側も、実際に裁判を受けてみなければ、問題の行為が犯罪になるかどうかはつきりしないこととなり、犯罪構成要件の保障的機能の上において、大きな欠陥をもつているのである。
[69] しかるに、前記の4・25判決のいうように、限定解釈ですら犯罪構成要件の保障的機能の明確を要請する憲法31条に違反する疑いがあるとされたのであるから、右限定解釈よりも一層右の保障的機能、国民の行為の準則性の稀薄な、いわゆる適用違憲の方法は、この際、改められなければならないものと思料する。
[70] なお、右の犯罪構成要件の保障的機能というのは、犯罪構成要件の内容、すなわち、いかなる行為が犯罪とされいかなる処罰を受けるかが明瞭確実になつていて、その行為に該当しない限り処罰されることがないという確信を得させることであるから、被告人を無罪にするのだから適用違憲は許されるとする論理は成り立たない。けだし、当該の場合、被告人を無罪としたとしても、無罪とされる行為が客観的な基準をもつて明らかにされない限り、犯罪構成要件の保障的機能が保たれているとはいえないからである。
(一) 違憲審査の限界
[71] 裁判所は、いかなる事項についても、独自の立場で法律の違憲性を宣言しうるものではなく、それには、おのずから一定の限界がある。
[72] 公務員の政治的中立性の要請と、民主社会における国民としての政治活動の自由との具体的調和点をどこに求めたかについては、民主主義体制ないしはわが憲法のよつて立つ三権分立の理念のもとにおいては、国民の意思に基づいて決定する立法府の合理的裁量の領域に属するものというべきであり、それが違憲であることが明白であると断じ得ない限り、司法審査の介入を差し控えるのが違憲審査の正当な在り方でなければならない。
[73] 右に述べた「違憲であることが明白である」と断ずるにあたり、公務員の政治活動の自由についての制約が「合理的にして必要最小限度のものであるかどうか」ということを判断の基準の一つとすることは許されるであろうが、その意味は、「合理的にして必要最小限度のものであるかどうかについての国会およびその委任を受けた人事院の裁量権の範囲を明白に逸脱しているかどうか」ということであつて、「ある規定が国家公務員の政治的行為の制限として必要最小限度のものであるかどうか」ということではないことに注意すべきである。しかるに、3事件の判決は、この違憲審査の基準を無視し、右の述べた「必要最小限度」についての解釈を誤り、本来、立法権に属すべき政治的行為制限の範囲、程度等の相当性という立法政策の問題に立ち入つて、立法府の定めていない前記の独自の基準事項を設定して判断するという誤りを犯した判例違反がある。すなわち、従来の判例の趣旨によれば、裁判所が判断しうるのは国会が行う行治的行為の制限に合理性が認められるか否かに関してであつて、その制限の合理性が認められる限り、違憲性の明白に認められる特別の場合を除いては、制限の範囲、程度の相当性に立ち入つて判断することは許されないものと解すべきである。
(1) 昭和33年3月12日、同年4月16日の各大法廷判決に対する判例違反
[74] 上告論旨引用の昭和33年3月12日大法廷判決(刑集12巻3号501頁)及び同年4月16日大法廷判決(刑集12巻6号942頁)の示す憲法適否の判断基準は、「政治活動を制限することとした理由についての合理性」のみであつて、制限の範囲、程度等の相当性は全く問題の外に置かれているのである。これは、右各大法廷判決の判旨の中に、とくに違憲性が明白に認められる場合でない限り、政治活動制限の範囲、程度等は立法府の裁量事項であるとする司法審査の原則が潜在していることを示すものといえよう。
[75] なお、統計局事件控訴審判決では
「非管理職の公務員の勤務時間外、勤務庁施設外の、公務員の地位又は職務に関連性のない行為は、たとえ政治的目的を有する政治的行為であっても、国家公務員法の定める政治的行為の禁止に違反しない。」
とし、このように解することは、国公法102条の合憲性を判示する右2つの大法廷判決の趣旨に反するものではないとしているが、右控訴審判決が挙げている事項は、公務員の政治的行為制限の範囲に関することであるから、明らかに、この大法廷判決に反する見解を示したものである。
(2) 昭和40年7月14日大法廷判決に対する判例違反
[76] 司法審査の原則としてのいわゆる合理性の基準を最も端的かつ明快に判示したのは、昭和40年7月14日の大法廷判決(民集19巻5号1198頁)である。すなわち、同判決は、地方公務員法52条と憲法28条の関係について、
「具体的に(団結権)制限の程度を決定することは立法府の裁量に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である」
と判示している。
(3) 4・25判決に対する判例違反
[77] 先に掲げた4・25判決は、国公法(昭和40年改正前のもの)98条5項、110条1項17号に関し限定解釈を施すことにより合憲性を認めた前記の昭和44年4月2日の全司法仙台事件に関する大法廷判決を変更して、
「もし、公務員中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり行為等を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関において慎重な考慮すべき立法問題である」
と判示した。この4・25判決の趣旨からしても、本件3事件の判決は、立法政策の問題に立ち入り判断したものというべきである。
[78] また、4・25判決は、
「憲法21条の保障する表現の自由といえども、もともと国民の無制約な恣意のままに許されるものではなく、公共の福祉に反する場合には合理的な制限を加えうるものと解す」る
ものとして、多くの参照判例をあげている。そして、そこにあげられているもののうち、昭和39年11月18日大法廷判決(刑集18巻9号561頁)、昭和45年6月17日大法廷判決(刑集24巻6号280頁)は、いずれも、表現の自由に対し、必要かつ合理的と認められる範囲における制限を是認しているのである。これらの大法廷判決には、先に掲げた昭和40年7月14日大法廷判決に判示されているような「具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量に属するもの」であること、「立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合意、適法なもの」と解されるべきであること等の文言はないが、各事件において、具体的に制限の範囲、程度をきめたのはいずれも立法府であつたのであり、しかも、いずれも裁判所により合憲性が認められ、立法府の裁量権の範囲を逸脱したものでないことが確認されたケースであつたのであるから、特に、右のような文言が判文上に現われていなくても、各判決は、いずれも合理性の基準を示したものと言いうると思う。そうだとするならば、いわゆる合理性の基準は、表現の自由に対する制約に関しても、わが判例法上確立された理論といつても過言ではないのである。

(二) いわゆる「ミツチエル事件判決」について
[79] 猿払事件判決は、一・二審とも、外国とくにアメリカにおける裁判例の強い影響を受け、むしろその無批判的受入れの感を深くするので、すこしこの点に触れておく。
[80] 国公法102条及び人規14-7の母法であるアメリカのハツチ法は、その9条(a)において、連邦公務員の政治活動を制限しているが、この規定が表現の自由を侵し違憲であるとして争われたミツチエル事件における連邦最高裁判所の多数意見のなかに、違憲問題に関する司法審査の原則として立法政策不介入の原則が諸処に打ち出されていることは、大いに注目されるところである。すなわち、
(1) 「勤務時間内の政治活動が許されないことは明らかだとしても、勤務時間外の政治活動は制限されないはずであるとの上告人の主張には説得力はない。………この規制が必要か否かは裁判所が判断すべきことではなく、他の政府部門が判断すべきである。」
(2) 「いま審査中の事件と類似するいくつかの事件が、当裁判所の判断をうけ、公務員のある種の政治活動の禁止が是認されてきた。リーデイングケースは1882年に言渡されたものである(カーテイス事件)。
 この事件においては………当裁判所は、連邦議会がこの法律の違反を処罰する権限のあることを認めた。連邦議会は、合理的な範囲内で、必要と認める場合に、公務員の政治活動を規制する権限を有するというのがきめ手となつた原理であつた。」
(3) 「公務員について規制をするためには、規制の対象となる行為が、公務の能率を阻害するものであると連邦議会が合理的に考える以上のものである必要はない。」
(4) 「議会は、政府職員の政治行為を、例えその規制が、国民の政治活動の自由をある程度侵すことになろうとも、合理的範囲内では規制することができる。政府職員の政治活動をどの程度制約できるかという判断権は一次的には議会にある。裁判所は、政府のこの制約の権能についての社会一般に存在している観念を超えてこのような規制がなされていると認められる場合にのみくちばしを入れることになる。」
などという判旨があり、政治活動に関する制限立法に関しても議会の判断を尊重する司法審査の原則、すなわち立法政策不介入の原則が明示されているのである。そしてその内容は、いわゆる合理性の基準を明確に打ち出した、先に引用にかかる昭和40年7月14日の大法廷判決の内容と全く軌を一にするのである。
[81] しかも、右のミツチエル事件判決の多数意見の判旨はその後も維持され、最近、連邦人事委員会対郵便集配人全国同盟事件及びブロードリツク対オクラホマ州事件について、1973年6月25日連邦最高裁判所において、ハツチ法9条(a)(合衆国法典5篇7324条(a)(2))による政治活動制限の合憲性が、ミツチエル事件判決の多数意見を再確認することにより承認されたことは、大いに注目されるところである。
   目次
一 国家公務員法110条と憲法31条
二 刑罰不適用の限界に関する判決の不統一について
三 政治的行為に刑罰を科する上の問題点
 1 懲戒処分と刑罰
 2 規律違反と刑罰
 3 類似する外国法との比較
 4 地方公務員法との比較
四 国家公務員法110条の法定刑の合理性
五 結び
[1] 猿払事件、徳島郵便局事件の第一、二審判決は、被告人らの行為についてまで国家公務員法110条1項19号が「3件以下の懲役または10万円以下の罰金」という刑罰をもつて臨む限りにおいて、同規定は憲法21条、31条に違反するとの判断を示している。
[2] その意味は必ずしも明らかでないが、国家公務員法102条人事院規則14-7の規制が被告人らの行為にまで及ぶ限りにおいて憲法21条にもとることになるので、これに右のような刑罰をもつて臨むのは憲法31条に違反するという意味であれば、それは憲法31条違反の問題というよりも憲法21条違反にとどまるものというべきである。これに反し、被告人らの行為にまで右のような刑罰をもつて臨むのは憲法21条の表現の自由尊重の精神に照らし憲法31条に違反するという意味であれば、憲法21条は憲法31条違反の有無を判断する基準にすぎないから憲法21条違反の問題はなく、憲法31条違反の問題があるに過ぎないことになる。しかし、すでに上告趣意、特に徳島郵便局事件の上告趣意において詳述したとおり、憲法31条はそのような制裁の程度まで規制するものではないので、右の見解は憲法31条の解釈適用を誤つたものというべく、かりに憲法31条が行為に対する制裁の程度を規制するものであるとしても、尊属殺の場合の如く特定の行為に対する特定の刑罰が他のそれと比較して極端に重いとされる場合はともかく、特定の行為に適用される罰条所定の刑罰の上限が重いということまで規制するものではないので、ここで憲法31条を持ち出すのは全く理由がないといわざるをえないのである。
[3] 猿払、徳島郵便局両事件の判決は、被告人らの行為に国家公務員法110条1項19号を適用し得ないとする前提として、被告人らの行為といわれるもののメルクマールをいくつか挙げているが、すでに(同僚の検事が)述べたようにそのメルクマールは必ずしも各判決において同一ではなく、統計局事件の原判決において実質的違法性を欠くとする理由もこれと異なるものがあつて、各判決相互間に合理的統一を発見し難い。さらに制裁の面においても、猿払、徳島郵便局両事件判決は懲戒処分に加えて刑罰を加えることを問題としているようであるが刑罰そのものを問題としているのか法定刑の上限の高いことを問題としているのか必ずしもはつきりしないのみならず、現在最高裁に係属中の本所郵便局のいわゆるプラカード事件の第一、二審は懲戒処分すら問題としているのであり、統計局事件の原判決に至つては全く別の角度から刑罰の適用を拒否しているのである。公務員の政治的行為についての規制の範囲と制裁についての判断がこのように区々であるということは、各判決のとる理論にいまだ一般の納得の得られる基準のないことを示すものといえよう。
[4] かりに国家公務員法102条、人事院規則14-7に刑罰を科すること自体を問題とするとしても、それには次のような疑問がある。

1 懲戒処分と刑罰
[5] 猿払、徳島郵便局両事件の一、二審判決は、懲戒処分と刑罰とを同じ平面において比較し前者を後者より軽いものと考えているように思われる。
[6] しかし、懲戒処分は、公務員の職務上の義務違反ないし非違行為に対し、国(又は地方公共団体)が公務員関係の秩序維持のために制裁として科する処分を言い、その性質は国家が使用主として行う制裁であつて、民間企業が使用者としてその従業員に科す制裁と同質のものであり、刑罰とは異質で、単純にその軽重を比較し得ないものである。例えば罰金と懲戒免職とを比較するならば、見方によつては罰金の方が軽いともいえるのである。

2 規律違反の刑罰
[7] 国家公務員法102条、人事院規則14-7は一般職公務員としての規律を定めたものであるから、その違反に対する制裁は公務員からの排除すなわち懲戒免職をもつて足り刑罰に及ぶべきではないとの意見がある。しかし、公務員としての規律違反であつてもその性質上刑罰を科するのを相当とするものはいくらでもあるのであつて、例えば収賄の如きは規律違反の点で懲戒処分の対象となり、かつ、公務員の廉潔性に対する重大な侵害であるとして刑罰の対象とされているのである。わが国における一般職公務員の沿革、現状などに照らせば、その政治活動就中選挙運動的政治活動については、規律違反に対する制裁としての懲戒処分のほか刑罰を相当とするということも一概に不当すべきものではないと考える。

3 類似する外国法との比較
[8] 猿払、徳島郵便局事件の各一審判決は、国家公務員法102条1項、人事院規則14-7の母法は、米国のハツチ政治活動法(以下ハツチ法と略称)9条であるとし、同法の制裁に刑罰のないことを指摘して国家公務員法の刑罰を批判している。そこでアメリカ法制において、人事院規則14-7の規制する政治的行為が如何に扱われているかつにつき、右人事院規則とその内容において共通するところの多いアメリカ法を上げると次の通りである。
人事院規則14-7アメリカ法制裁その他
条文出典所在
6項1号ハツチ法2条・7条米国公務員制度概要273~274頁
内容は同書164頁第1項8・9と同一
1,000ドル以下の罰金又は1年以下の拘禁刑もしくは両者を併科
〃2号合衆国法典18章606条同書164頁第1項55,000ドル以下の罰金又は3年以下の拘禁刑もしくは両者を併科
〃3号合衆国法典18章602条
ハツチ法5条
同書275頁 内容は同書162頁第1項1・2合衆国法典は5,000ドル以下の罰金又は3年以下の拘禁刑もしくは両者を併科
ハツチ法は1,000ドル以下の罰金又は1年以下の拘禁刑もしくは両者併科
〃4号合衆国法典18章607条同書164頁第1項75,000ドル以下の罰金又は3年以下の拘禁刑もしくは両者を併科
〃5号以下ハツチ法9条・15条
1940年現在の連邦人事委員会決定(後述)
同書274、277、167~170頁罷免、場合により90(30)日以上の無給停職(後述)
注 アメリカ法の条文については人事院事務総局管理局法制課編集「米国公務員制度概要」を引用する。便宜上、ハツチ法の条文を掲げたが、そのうち刑罰のある部分は、合衆国法典編纂の慣例に従い、現在下院編集のUSCの18章の一部として集録されている。一般に連邦刑法典といわれるものは合衆国法典18章に収録された刑罰のある規定の集積を指すものである。
[9] 以上のように国家公務員法102条1項、人事院規則14-7に対応するアメリカ法制では、3年以下の拘禁刑及び5千ドル以下の罰金から30日以上の無給停職の範囲内の制裁が予定されているのである。
[10] ところで、周知のとおりアメリカでは猟官制の弊害がガーフイルド大統領暗殺事件にまで発展したため、1883年公務員法で、50人以上の職員を有する税関・郵便局等を含む連邦行政部職員(当時の政府職員の約10.5%)に分類職制度を採用し、同時に政治的行為を禁止した。その後その適用範囲は次第に拡大され、1936年38年の選挙運動の経験等から、1939年ハツチ法が制定されたものであつて、同法9条(a)により我が国の特別職クラスを除く連邦行政関係職員全部に「政治的管理業務(political-management)又は選挙運動(political campaign)において積極的な役割を演ずることを禁止し」たのである。何が右の禁止される行為に該当するかについては、制定当初は解釈に任されていたが翌年のハツチ法改正で付加された同法15条により、その時までに、連邦公務員規則により連邦人事委員会が懲戒処分を認め又はそれを取消すに当り、政治的管理業務又は選挙運動において積極的な役割を演じたものに該当するか否かの判定をしたところを適用すると規定し、規制の内容が確定されるに至つたものである。そして右連邦人事委員会の判定の集積の内容は、米国公務員制度概要167頁以下に登載されているところであつて、人事院規則6項5号以下と共通するところ多く中には人事院規則より規制の厳しい部分もある。
[11] 猿払および徳島郵便局事件一審判決において、ハツチ法では懲戒処分のみを定めているとしている点は、まさにこの人事院規則6項5号以下に対応する部分をさしたものであろうが、ハツチ法9条(b)はそれまで戒告、譴責等の処分も可能であつたのを、罷免を原則とすることとし、処分を受けた者の要求により、連邦人事委員会が全員一致で罷免の措置が重すぎると判定した場合に、罷免は取消されるが、なお30日の無給停職より軽い処分にすることは出来ないのであつて、実質的に見た場合本件被告人らの場合の5千円又は1万円の罰金とハツチ法の定める最も軽い制裁である30日の無給停職とは、いずれが重いと言い得るであろうか。

4 地方公務員法との比較
[12] 地方公務員の政治活動の制限は国家公務員の場合とその方法を異にし、とりわけ、刑罰の規定がない点で著しく異なる。その理由を、徳島郵便局事件一審判決は制定当時の事情が国家公務員法の場合と異なる点にあると推測しているが、それもあるとしても、そのほかに地方自治体の行政と国の行政とは中立性が侵されまたは侵される危険のある行為により影響を受ける範囲が異なること、自治体の自主性を尊重すべきこと(地方公務員法36条5号は、条例で法定の政治行為以外の政治行為の禁止が認められている。)も考慮されたものと考えるべきであろう。
[13] 故に地方公務員法36条違反に刑罰がないことをもつて国家公務員法の刑罰を不当とし更に違憲とする理由とはなし難いものと考える。
[14] 猿払、徳島郵便局事件各一審判決は、公務員に適用される他の刑事犯の刑と、国家公務員法110条1項19号の刑とを比較して重きに過ぎるとしているが、性質の異なる雑多な刑罰規定を単純に比較しても余り意味はない。
[15] 我が国の刑事法は、その法定刑の範囲が広いことが特徴であつて、刑法においては、殺人について謀殺、故殺、嬰児殺と区分せず3年以上の懲役から死刑まで規定し、傷害について罰金から10年の懲役まで規定しているが、事案に応じて具体的な量刑がなされており、何ら不都合もなく違憲の議論も生じていない。
[16] 特別法においては、取締法規の性質上数多くの技術的細目的な禁止規定が設けられるけれども、その刑罰として数個の違法類型を一括して巾の広い法定刑を規定することは、立法技術上認められているところであり、取締内容を政令等に委任した場合、政令によつて定められる違法類型が多岐に亘つても、同じ法定刑で賄われていることも公知の事実である。
[17] 人事院規則14-7の行為類型中には、6項1号のように職権を利用するものあり、同項2、3号のように収賄罪的な行為もあるのであつて、これらについて最高3年の懲役刑を予定することは、何人も不合理とは言わないであろう。それ故国家公務員法110条の刑の上限は決して重いということは出来ず、事案に応じ軽い懲役または罰金を適用して処断すれば足りるのである。単に法定刑の最高を比較して憲法違反を云々するのは誤りである。
[18] 猿払、徳島郵便局事件の各判決が、被告人の本件所為という具体的な行為と国家公務員法110条1項所定の抽象的な法定刑を比較して、その軽重を論ずる誤りを犯していることについては、上告趣意書において論じたところであるが、上述したとおり国家公務員法110条の法定刑には何ら非難すべき点はなく、被告人の本件所為に判決認定の如き情状ありとするならば罰金刑を選択して、相当の科刑をすれば足りるのである。それをしも憲法に違反するほど重い制裁であるとするのは当らないと考える。
[1] 一昨日(昭和49年2月13日)午後より本日(昭和49年2月15日)先刻までの各弁護人の弁論には傾聴すべきものもあるが、反論を要するものもあるので、数点をとり上げて、これまでに行つた検察官の補足陳述をさらに補足しておきたい。
[2] その前に1点裁判所の留意を煩わしたいのは、弁護人の弁論の中で特定の項目を挙げて書面に譲るとされた部分があるのにその部分の書面がまだわれわれの手許に届いていないので、この意見陳述に当つて考慮できなかつたことである。このような部分は弁論としては効力がないものと考えるのであるが、念のため一言する。
[3] 弁護人は、むつ営林署事件につき検察官が上告しなかつたことと今回の3事件に上告したこととの間に首尾一貫しないものがあるようにいわれるが、むつ営林署事件の原判決と今回の3事件の原判決との間には法律論の構成に違いがあるので、右弁護人の主張は理由がない。
[4] むつ営林署事件というのは、青森営林局むつ営林署庶務課労働係農林技官が、昭和42年1月29日施行の衆議院総選挙の際日本共産党を支持する目的で赤旗号外を配布し、また、青森1区の日本共産党公認候補のためポスター2枚を2回にわたり掲示したという国家公務員法102条、人事院規則14-7違反の公訴事実につき、第一審は昭和45年3月30日猿払事件の第一審判決とほぼ同じように、国家公務員法110条1項19号は被告人のような行為に適用される限度で憲法21条、31条に違反するとしたのであるが、第二審は昭和47年4月7日検察官控訴を棄却する判決をするに当り、最高裁大法廷昭和33年3月12日判決、同年4月16日判決および同第一小法廷同年5月1日判決を引用して国家公務員法102条、人事院規則14-7の合憲性を認めたうえ、単に被告人のような行為には刑事罰をもつて臨むのを相当とする程度の違法性は見出し難いとしたのであつて、憲法論を無罪の直接の理由とはしていないのである。
[5] 結局この第二審判決の無罪理由は統計局事件の実質的違法性欠如を理由とする無罪理由にやや似ているのであるが、法律的にはそれとも異るように思われるばかりでなく、行為の日常性などという一般的表現を用いてもいないので、判決結果にも、判決理由にも不満ではあつたが、今回の3事件に加えてさらに上告してまで争う必要はないと考えて上告しなかつたものである。従つて、この判決確定によりこの判決の理論を検察官において承認したことになるものでもなく、この判決確定によつて今回の3事件の上告の帰趨に影響のあるべきものでもない。
[6] この主張は誤りである。占領当時の法律には多かれ少なかれ占領軍当局の息がかかつていて、国家公務員法にはそれが多かつたかも知れないが、そのため裁判所が厳重に違憲審査をすべきであるというのは当らない。日本国憲法の制定にも占領軍当局の相当な関与があつたことは現在では公知の事実となつている。また、占領軍の圧力によつてはじめて成立し得たいわゆる進歩的な法律も数多く存在する。それらの法律の違憲性を厳重に審査せよという意見は余りない。要は、成立当時の事情ではなく、現在の憲法適合性を審査すれば足りるのである。
[7] 占領終了当時はいわゆるポツダム命令はすべて再審査されたが、国家公務員法、人事院規則は法律および法律にもとづく命令であるということで再審査を免れそのまま存続しているということをもつて違憲審査を厳重にする理由とすることも誤りである。占領終了後すでに20年以上たつのであるから、国会は改正すべきものと思えば改正し得たのに改正しないで今日に至つているのは、複雑な事情がからむためであろう。そのことを差し措いて、国会が改正しないから裁判所が厳重に審査すべきであるというのは、余りにも短絡的論理である。
[8] いわゆる公安条例の無届デモの規制はまさに秩序混乱の危険を防止するため表現の自由に制限を加えるものである。弁護人は、だから公安条例は違憲であるといわれるかも知れないので別の例を挙げると、各種選挙運動の規制も、選挙の公明を保持し難い結果をきたすおそれがあると認めて表現の自由に規制を加えるものであり(最高裁大法廷昭和30年3月30日判決刑集9巻3号635頁)、食糧不供出煽動罪も供出しなかつたかどうかにかかわりなく処罰される意味で危険犯であり言論の自由を規制するものである(最高裁大法廷昭和24年5月18日判決刑集3巻6号839頁)。したがつて、危険があるということだけでは言論の自由を制限できないとする所論は理由がないと考える。
[9] われわれは、自己の支持する候補者または党派のため傾斜した公務の取扱いのされた事例を知つていたのであるが、それを具体的に指摘する場所としてここは適当でないと考え差し控えてきたが、弁護人は公務の乱された事例があるなら示して見よといわれるので、一・二例を示すこととする。ある郵便局員が支持候補者の選挙運動文書を郵便料免脱で郵送したという事例があり、また、ある郵便局員が頒布の効果を挙げるため投票日直前まで郵便物たる選挙運動文書を一時隠匿したという事例もある。これらは確定裁判例にあつた事例である。このような事例は稀であり、一般的には弁護人所論のとおりであると思う。しかし、間違つた公務の遂行がなされた事例がないわけではないことを一言しておく。
[10] 選挙法は選挙のルールをきめたものである。その目的は選挙の公正を図るにある。一方、国家公務員法は公務および公務員の中正保持のためのルールをきめたものである。だから選挙法で規制されない選挙運動を国家公務員法で規制しても少しも差支えないはずである。
[11] 学問はたしかにそうである。しかし裁判はそれとは違う。どんな法律でもまず憲法に反するかも知れないと疑つてかかることからはじめよいうのは法律論として全く誤りである。
[12] この意見も誤りである。検察官は、もちろん、場合により裁判所の違憲立法審査権が行使されるべきことを認めるのである。ただ行使のしかたについて弁護人と意見を異にするに過ぎない。これを本件に即していえば、公務員個人の表現の自由、政治的活動の自由、選挙運動の自由と公務の中立性保持のためこれを制限する必要との均衡は、流動的な社会的、経済的、政治的その他の事情を勘案したうえまず国会がきめるので最も妥当であるというだけで、もし国会がきめたことが裁判所の考える社会的、経済的、政治的その他の事情の下で、とびぬけて厳しすぎ、憲法21条の関係で容認できないというときにはじめて裁判所は国会の制定した法律をも憲法に違反すると判断すべきであるというのである。そうすれば弁護人が考えるよりも違憲とされる場合が少なくなるかも知れないが、そうやたらに法律を違憲とするのが違憲立法審査権の本来の姿ではない。国会は国会なりに、各基本的人権の種類、性質に応じ憲法との関係を考えたうえ、各政党間、各議員間の十分な討議を経て法律を制定するのであるから、裁判所がそれを違憲とするのは余程の場合であつてよいのである。
[13] 違憲立法審査権はアメリカに由来するものであるから、アメリカの判例や学説を参考にすることは間違つていない。むしろ正しいとすらいえる。しかし、アメリカと日本とでは法律制定の方式も出来上つた法律の内容も著しく違うので、違憲立法審査についてのアメリカの判例や学説をそのまま日本へ持つてくることはできないと考える。
[14] アメリカの法律を一見すればすぐわかるとおり、刑事関係の法律だけでも日本のものとはかなり違うのである。法律用語の大陸法的な概念分析がないため、大陸法的な言葉の使用例になれた者には甚だ理解しにくいものも少なくないし、またわれわれから見ると表現方法の違いからくるのか、内容も違うためそうなるのかわからないが、規制が広すぎたり、強すぎたりするものも見られるのである。
[15] それに、日本と違い、議員立法が非常に多いし、各州ごとに自治立法があつて、それと連邦憲法との関係はとくにややこしくなつている。
[16] そのアメリカでの違憲立法審査に用いられた一つの基準、例えばLRAという基準をそのまま日本に持つてきて、他により制限的でない方法のないことを国側で証明しない限り基本的人権就中表現の自由の制限は違憲になるとするのは相当でないと考える。
[17] LRAの原則は精神的自由制約立法の違憲性判断の最近はやりの基準であるとのことであるが、明白にして現在の危険の原則もまたその一つの基準である。アメリカの裁判所がそれぞれの場合にそれらの基準を用いて裁判したということはわれわれも十分参考にすべきものと考えるが、アメリカには、なおミツチエル判決の多数意見のように「合理的制限の範囲内で」議会が政府職員の政治的行為を規制することを容認すべきであるとしているものもあるのであるから、LRAの基準だけを強調するのは相当でないと思う。
[18] 弁護人は、ミツチエル判決を追認したといわれるレターキヤリヤーズ事件の判決に言及された際それとミツチエル判決とは必ずしも同じでないと言われた。たしかに主な論点はややずれているといえるが、ミツチエル判決を完全に追認していることも間違いないのである。
[19] しかし、これ以上ここでアメリカの判例の意味を論ずることは意味がない。アメリカの判例を論ずると同様に言論の自由の制約に関する各国の裁判例も、アメリカのものほど参考にはならないとしても、一応研究しなければならないと思われるのに、それは不可能に近いし、とりわけ、ここは日本の裁判所で、裁かれるのは日本の法律だからである。
[20] 日本の裁判例でよく使われるのが必要最小限度という基準である。この基準は抽象的に過ぎるという意見はある。そのため、もう少し具体的にというので、明白にして現在の危険という基準やLRAという基準などが考えられたのではないかと思う。しかし、基準がより具体的であることは、その運用面に、より細心の注意を必要とすることを意味すると思う。
[21] 弁護人は、昭和44年11月26日の報道写真提出命令に関する大法廷決定を引用し、報道写真提出による報道の自由に対する影響と報道写真不提出による刑事裁判への影響とを比較衡量すること、いいかえれば相対立する利益の比較衡量をして違法かどうかを判断するという方法をとつたことを高く評価し、これは国会の裁量権を尊重するという考え方を否定するものであるとされるが、この判例は違憲立法審査権に関するものではないのでここに引用するのは適当でない。また、弁護人は、社会経済の分野における法的規制措置の当否についてはその性質上立法府の機能を考えその裁量を尊重すべきものとした昭和47年11月22日の大法廷判決を引用し、精神的自由については立法府の裁量に任せないのが最高裁の考え方であるとされるが、この判決はそこまで言つているものではない。
[22] われわれも、立法目的の合理性から直線的に合憲の結論を出し、途中の手段の当否を無視するような議論をしているのではない。手段は立法目的達成のため必要なものでなければならないと考える。とりわけ、ある目的を達成するため精神的自由を制約することは最小限度でなければならないと考える。最小限度かどうかは国会が第一次的に判断し、裁判所はその国会の判断がとびぬけて相当性を欠く場合否定的判断を下すべきものと考えるのである。
[23] 弁護人は、精神的自由は行動の自由を閉ざされると窒息してしまうといわれ、だから政治的自由のためには政治活動の自由も制約してはならないとされる。しかし、政治的自由と政治活動の自由とは必ずしも一致しなければならないものではない。政治活動ということになれば、単なる精神面の問題と異り外部行動を伴うため他の利益との衝突をきたすので、利益の比較衡量上、政治活動もある程度制約を受けざるを得ないのである。その程度について人事院規則14-7の制約は窒息するくらい広いというのが弁護人の意見であるが、われわれは、政治活動の性質、とりわけ選挙運動の性質上あの程度の制約は必要であるとする立法府の考えを著しく不合理で憲法に違反するとまでは考えないのである。
[24] 要するに、違憲立法審査権の問題は、国会と裁判所との関係の問題である。日本国憲法は明文をもつて最高裁判所に違憲立法審査権のあることを認めた。その限度で日本国憲法は司法権の立法権に対する優位を認めた。しかし、その司法権の優位を論じた古典的名著である高柳賢三博士の同名の著書には違憲立法審査権に本質的制約と政策的制約とがあると指摘されている。基本的人権を制約する立法の合憲性を論ずる場合、LRAの原則とか、明白にして現在の危険の原則とか、最小限度の原則などよりも前に、違憲立法審査権に高柳博士のいわれるような制約のあることを考えて見る必要があると思うのである。
   目次(総論)
検察官上告趣意に対する反論  東城守一
弁護人弁論の主要論点について  佐藤義弥
「全体の奉仕者」と「公務員制度」の憲法理念について  佐藤文彦
昭和23年国家公務員法改正の経過  高橋融
米国公務員制度との比較法的考察  山本博
表現の自由の現代的意義とその優越性(その一)  東垣内清
同(その二)  塙悟
「表現の自由」制限立法と司法審査  宮里邦雄
総括弁論  野村平爾
[1] 検察官の本件上告の棄却されることを求めて弁論する。

[2] 政治活動の自由の規制をめぐり、国家公務員法102条と人事院規則14-7が一体をなして国家公務員の政治活動の自由を禁止しているが、これが一括した条項は非常に広汎に憲法21条の規定する国民の基本的人権を禁止し、かつ国家刑罰の威嚇の下に、また国家公務員法所定の懲戒罰という制裁を伴って、非常に広汎な、言葉をかえていえば、すべての表現の自由に対する重大な侵害を含むものであつて、到底これを合憲的なものと認める訳にはいかないというのが我々の見解である。
[3] 我々がこの3件を重視するのは、単にこれが国家公務員法の関係条項と人事院規則の憲法21条の上での問題を論ずるだけでなく、検察官が述べられたように、立法目的の合法性が存すれば、立法府は基本的人権について、とりわけ憲法21条についてかくも広汎な立法裁量を許すという考え方に立つとすれば、これは憲法21条の取扱いについて重要な問題を提起するからである。検察官の論法をもつてすれば、憲法21条を規制するすべての法律は合憲法的なものとなつてしまうであろう。そして、それに対して司法審査が及ばないというものであれば、最高裁判所とりわけ大法廷は何のためにその司法審査の仕事を憲法上まかせられているのかわからなくなつてしまう。私達がこの事件を重視し、憂えるのはまさにその点にあるのである。
[4] 本件を国家公務員法上の公務員の言論の自由、表現の自由に関するものに限定、歪小化せずに、憲法21条の基本的取扱いをめぐる問題として、以下検察官の述べた論旨に従つて見解を述べる。

[5] 検察官は、本件で問題になつている国家公務員法なり人事院規則14-7の規定が、その規制目的において合理性を有することを第一の前提にする。そして規制目的の合理性のよつてきたるところを、議会制民主主義の下における政治と行政の分離という論点からスタートし、それは議院内閣制度をとる日本国憲法秩序の下における政治と行政の分離は、行政部門における実質的又は外観的中立性の維持を至上命題とするという論陳を張られた。
[6] 我々も、議院内閣制をとつている日本国憲法秩序の下における表現の自由という点から論点をスタートさせており、それは従来の関係訴訟資料を見ていただければ明白である。
[7] 検察官の論旨は、議院内閣制をとる政治機構の下では、行政機関が、実質的にも外観的にも一体として中立性を維持しなければならないという論陣を張られる。しかし議院内閣制から直ちに行政機関の中立性という言葉を引出してくることが可能なのか。憲法21条の問題を論ずるに当つては、議院内閣制から直ちに引出される結論は、議院内閣制を支える国民主権主義の上で、憲法21条の基本的人権はどのような地位を占めるか、そこから問題は出発しなければならないのである。検察官の論法は、議院内閣制を支える憲法理念が如何なるものであるのか、その憲法理念に基づいて、表現の自由といい、政治活動の自由という憲法21条の基本的人権がどのように位置づけられなければならないのか、この論証を経た上で、議院内閣制を支える国民主権の理念と、国民主権の名の下に行政機関に託された公務員制度の理念とを、どのように説明するのか、という憲法的吟味を議院内閣制に試みなければ、憲法裁判としての憲法21条の地位を問う事案としての接近のし方として欠けるところがあるのではなかろうかと考える。
[8] 我々は、議院内閣制を支える国民主権主義の下における表現の自由の優越的地位、それこそが関係事件において、各裁判官が意を払い、この判例研究をめぐって、多くの学者、研究者が論陣を張つた要点はそこにあるのだと思う。
[9] 検察官は、今日の行政機関が福祉国家理念に基づいて非常に膨大化し、官署という名において、全国的に、統一的に、一体化した機能を営んでいるといわれる。2つの大戦を経て、国家或いは地方自治体の、国民に対する業務が増えたことは事実である。そして多くの国民生活が、大量に増えた公務員の日常の勤務とかかわり合つて存在することも事実である。しかし我々の理解するところに従えば、このような公務員群の大量の出現こそが、実は公務員の労働基本権問題を歴史に登場させたものである。また公務員の基本的人権、表現の自由の問題を各国裁判史上に現出させて来た理由なのである。それが正しい問題の取扱いであつて、公務員機構が膨大化したが故にその基本的人権を奪い、否定することができるという議論を我々は聞いたことがない。とりわけILOが、第2次大戦後公務員問題を重視せざるを得なくなつたのは、1960年代以降、各資本主義国における公務員労働粉争の抑圧と頻発は、まさしく膨大化した行政機構の中における基本的人権が再び問い直されなければならなかつたことを示すものであつて、この論理を逆にとつて、基本的人権抑圧の社会的事実とみなすことはできない。それは問題の取扱い方を基本的に間違つているということをこの際指摘しておきたいと思う。そこに働く人が増えれば、そこに多くの多元的な価値観を持つた人が存在することになる。そして多元的な価値観を持つた人が存在し、各々の価値の選択に従つて言論の自由を許容されることが民主主義というものではなかろうか。公務員であるからといつて、各々が持つている思想的、政治的見解の表明を、人事院規則14-7のような広汎な形で刑罰或いは懲戒罰の威嚇において禁止することの合理性を我々は検察官の説明を聞いても納得することができないのである。
[10] 検察官は、今日、公共労働部門における労働組合が、選挙或いはその他の政治活動の分野において組織的な活動を展開していることは公知の事実であり、政治活動の自由を公務員に許すことは、この組織的活動をさらに野放しのものにするであろうと或いは憂えておられるのかも知れない。そしてそのことによつて行政全体に対する国民の不安が醸成され、それは実質的、外観的中立を害するに至ると言われるようである。
[11] しかし、今日の日本社会の健全なる社会常識において、公共労働部門における労働組合がその各々信ずるところに従つて選挙を行ない政治活動を行なつてきているが、それによつて今日の行政官庁の取扱つている事務が、それら公共部門における労働組合の政治的意見に左右されて、政治的に歪められていると考えている国民がいるであろうか。官庁の業務と、そこに働く労働者のつくつている労働組合の活動とは、截然と区別された社会的事実として今日存在している。官公署における事務は事務として展開され、そこに働く労働者はその意見に基づいて各種の社会活動を行なつているというふうに截然と区別する良識を今日の日本の国民各層は持つていると信じてよいのではないか。20数万にのぼる日本の公共労働部門における労働組合の運営の実際について、今日の社会常識は、公務の遂行と、そこで働く労働者の社会活動とを截然と区別する良識を持つている。これは裁判所流にいえば、公知の事実と考えてよいものと思う。

[12] 次に検察官の本件関係事件をめぐる上告論旨と本日の弁論要旨を聞いていると、国公法と人事院規則は抽象的危険犯の規定であると言われる。それでは反論するが、憲法21条の表現の自由について、抽象的危険犯という視点から合憲法的にこの基本的人権を規制することができるのか。そういう方法をとつていいのかということについて反問したい。
[13] 各国の最高裁判所が、表現の自由をめぐる規制手段についての合憲性を検討するに当つて広く用いられている原則は、明白にして現存する危険の原則である。検察官は国家公務員に限つてはこの明白にして現存する危険の原則をとりやめ、抽象的危険の推定――抽象的危険の存在ではない――をもつて足りるとされる。検察官の上告趣意書を見ても、今日の弁論を聞いても、抽象的危険の存在を論証しているのではなくして、抽象的危険を推定しているに過ぎない。憲法21条について、抽象的危険の推定をもつて合憲法的な規制手段とすることにつき私共は我慢ができない。事実に則し、事案に則して考えるならば、明白にして現存する危険の存在を論証し、立証していただきたい。それをせずに、それをかえて憲法21条問題を議論することは誤りであると言わねばならない。
[14] 検察官は、この抽象的危険犯を推定するに当つての保護法益は、行政官署の全体としての中立性と言われ、或いは公務署の中立性とも言われる。冒頭で述べたように、公務員の政治的中立性というような言葉を安易に引出すのは妥当ではないが、行政官署の全体として保護すべき法益は、普通は公務の民主的、能率的な運営の保障である。全体の奉仕者概念から引き出し得るものは、その公務の民主的、能卒的な運営そのものである。その公務の民主的、能率的な運営を俗に呼んで中立性といわれる論者があるがこれは正確ではない。
[15] 国会が公務員法を定立することによつて、公務員制度を内閣の所管におくことによつて、憲法が命じているのは、国民のための民主的、能率的な公務の遂行である。そして、民主的、能率的な公務の遂行に当つての政治決定を議会制民主主義にまかせているのである。従つて、議会制民主主義が憲法によつて付託されているものは、その公務の民主的、能率的な遂行を国民のために行なうということが定められているのであつて、そのために、そこで働く何百万を超える公務員の政治的白痴状態を強制するものではない。
[16] このことは、猿払事件初め3件の第一審以来の論争の中で、非管理職の地位にある機械的労務に服する職員というふうに限定して論争を進めてきたのは、この行政機関に託された公務の民主的、能率的運営という保護法益と政治活動の自由というものを比較考量し論証するに当つては、そのような個々の具体的限定を伴つた論証を積み重ねなければならない、憲法21条の意のあるところを明らかにしようという手法をとつたからである。即ち、抽象的立法目的から一直線に結論をもつてこないで、政治的活動を規制するとするならば、どのような妥当領域が、どのような論理構造の上になり立つのか仔細に点検して見ようという発想方法に基づくのであり、それは基本的人権の尊重こそが第一義的な基本原則であつて、その制限というのは例外でなければならないという発想に基づくからである。
[17] 人権の尊重が最大原則であつて、その制限は例外であるという思考方法をとらない限り、すべての立法は憲法に合致することになり、司法審査は立法府の多数決を追認するに止まつてしまうであろう。それならば何のための基本的人権のうたい上げであり、何のための司法審査であるのかわからなくなつてしまうのである。
[18] 検察官の言われる政治と行政の分離というのは、政行機関が法治主義の原則に基づいてその行政事務を取扱わねばならないという意味においては、政治と行政は一体の法治主義の下にある。ただこの議論の中に、政治的公務員と非政治的公務員という言葉が屡々登場してくるが、行政官署に勤務する職員はいわゆる非政治的職員である。ここでいう非政治的職員というのは、政治的職員、端的にいえば、国会における立法に従つてその事務を行なうことが命じられているという意味において非政治的なものであつて、そこに勤務する人間が政治的人間であることを捨象してしまうものではない。行政が法律によつて動くということと、その行政機関に勤務する職員が政治的意見を持ち、活動するということは両立し得るのであつて、それは行政機関に働く職員もまた市民としての自由が保障されていなければならないからである。

[19] 検察官は、政治活動の規制範囲の合理化の論証において、どのような範囲においてその規制をするかは立法府の裁量権にまかせられたところだという。この立法府の裁量権という言葉をどのように理解するのか、ミツチエルケースがいつた裁量権という言葉と、検察官が述べた裁量権という言葉が、果して同じ言葉として説明し切れるであろうかということについて私は疑問を持たざるを得ない。とりわけ国公法102条と人事院規則14-7が今日のような形で制定されるに当つて、当時の立法府は、裁量権を持つていたのか、どの程度の裁量をしたのかということについては、これは無である。当時の国会は、この102条と14-7についてその裁量権を止められていたのである。これは占領軍の命令によつて一言半句も書きかえることを不可能にされ、それで制定された規定であることは今日では公知の事実である。そしてこのような法律は、通常の議会運営においては立法不可能であろうということが、当時の関係者によつて、今日公刊された文書で述べられているところである。であるから、ミツチエルケースがいうように、多くのアメリカの人事委員会の運用を通じて確かめられた原則に基づいて、というふうに好意的に理解して、というようなミツチエルケースにあらわれる立法府の裁量は、この102条と人事院規則14-7については存在しない。いつて見れば立法事実を欠いているといわざるを得ない。
[20] 検察官は、立法府の裁量は、その時々の政治的、経済的或いは文化的、教育的な諸関係を勘案して、どのような規制が妥当するのかについて考慮を払うものだと述べられ、そしてそれらは流動的政治情況であるから、立法府の裁量には適するが司法審査には適さないと言われる。しかし、各国の基本的人権の裁判を見れば、検察官が説くところの政治的、経済的、文化的、教育的環境の推移に着目して、基本的人権のあるべき姿を発見するのが伝統的な司法裁判所の手法ではないのか。検察官の挙げるような流動的政治情況は立法府の判断であつて、そのような政治情況については司法部は一顧だに払わないのだとしたならば、まさにそのような裁判機構は化石である。裁判は生きものでなければならない。生き生きとした基本的人権の発見、具体的人権の発見こそが裁判の使命である。その時、その時の社会情況に合わせて、どのように基本的人権を実現させるのかということこそが裁判の使命である。政治的流動情況、流動的社会情況を立法府に一任して口を緘するならば、我我々は最高裁判所を必要としない。

[21] 次に検察官は、人事院規則14-7は一見して広範囲に見えるけれども、その許された範囲というのは政治的目的と政治的行為を各々限定列挙することによつて、この範囲は必要な限度に止められていると言われる。しからば反問するが、人事院規則14-7の禁止しない公務員の市民としての自由を挙げることができるのか。
[22] なる程、人事院規則14-7は、公務員の政治的目的と政治的行為とを列挙している。しかし、その列挙された内容に従つて考えれば、すべての市民的自由の息の根が止められているというふうに読むのが正確な読み方である。法文の作り方が限定的であるから、よつてもつて禁止された行為が限定的であるというふうにいかないのがこの14-7の特徴なのである。だから、この14-7の禁止の対象はあまりにも広汎なので、これは無効ではないかと論難されてきたのである。今日の国公法102条と人事院規則14-7が許容しているものは、投票権――選挙権の行使――と主観的内心の政治的自由だけである。外形的行為は一切禁止されている。およそ政治的意見に関して、外形的活動が禁止されたときに、その法文は民主主義の息の根を止めているということが素直な結論ではなかろうか。人事院規則14-7は、法文の立法技術としては限定列挙の方法をとりながら、その内容においてはすべての政治的活動の自由の息の根を止めていると私共は結論しない訳にいかないのである。

[23] 検察官は次の論点として、本件3件は公務員の選挙活動に関したものであるから、その選挙活動というところにアクセントをおいて判断すればよいのに、これを表現の自由の範疇へ拡げていつて憲法問題を議論したのは問題の的のしぼり方を誤つているといわれる。本件3件に共通している部分は、選挙活動の際に行なわれたものであるが、公職選挙法が可罰的非難を加えない問題を、検察官は人事院規則14-7違反と論じたのである。従つて人事院規則14-7が、表現の自由を保障する憲法21条とどういう問題を起すかということを取上げて論ずるのは事理の当然であり、そのような論じ方をせざるを得ないのである。もともと人事院規則14-7は憲法21条事件における問題として立案され、論ぜられてきたものであるから、これに則して議論を展開し、多くの判例研究が行なわれてきたのは当然である。
[24] 検察官はこの3事件共通の前提基準である現業、非管理職、機械的労務、時間外における活動、国の施設の外で行なわれた、或いは職務利用の意図、労働組合活動の一環として行なわれた、これらの前提基準が何れも不正確、或いは不明確、或いは不必要な吟味であると原審判決の論証部分を非難しているが、そういう非難は的外れと言わざるを得ない。検察官が現業或いは非管理職といつた以下の限定的前提事実の論証を不必要だと言われるのは、全体の奉仕者或いは公務の民主的、能率的運営、或いは公共の福祉といつた法理念から一直線に政治的活動規制の合憲性を結論できるという前提に固執するからである。それ故に、これらの吟味は不必要だということになるのである。
[25] 我々は、全体の奉仕者とか、公共の福祉という言葉から一直線に基本的人権侵害の論理を導くことは非論理的であり、不可能ではないか、もしそのような論理を用いるとすれば、如何なる立法であれ、国会で法律がつくられる際、或いはそれに基づいて関係規則が立案される際には、必らず立法目的自体はそれなりの合理性を持つているのである。しかし、立法の動機、立法目的の合理性が、その現実に行なわれた実定法全体を合法化し、合憲的たらしめるものになるかどうかというところに法律学の議論は集中されなければならない。
[26] 合理的な動機、合理的な立法目的があるからその立法全体が合理性を持つのだということに疑いをかけること、とりわけ基本的人権を制限する立法動機、立法目的が存するからといつて、現実につくられた法律に先ず違憲の疑いの目をかけること、それが法律学の使命なのである。それが司法審査の出発点でなければならない。それでなければその国の最高裁判所は、そして大法廷は、立法府の後を数歩遅れて歩いていく存在になり下つてしまうではないか。基本的人権規制の法律について先ず違憲の疑いを持つこと、そして吟味し、論証しつくすこと、それが法律学の使命であり、大法廷の任務なのである。
[27] その点を明らかにするために、我々は一審以来、公訴事実について法律学的限定を加え吟味しながら、人事院規則14-7のあまりにも過酷な、広汎な政治活動禁止立法であることを浮び上らせようと努力して来たのである。この努力は続けられてよかつたことであるし、本件の吟味に当つて、不可欠な憲法判断の手法を提供しているといわねばならない。学会の研究者が本件3件を注目し、議論を多く説き起してきたのは、まさに司法審査の手法について着目したからである。そして、司法審査の手法について新しい学問的提起を与えたところに、本件3件の裁判に関係した裁判官が、かえつて憲法学会、公法学会の水準引上げに大きく貢献したことを今日誰も疑う人はいないのである。現業、非管現職、或いは機械的労務、時間外、施設庁舎の利用を欠くといつたような具体的、法律的限定は、司法審査の手法として堅持されなければならないと申し上げたい。
[28] 本件で公訴事実とされている各事実を、今日この大法廷で裁判が開かれるに当つて読み返して見れば、検察官がお読みになつても、我々が読んでも、大法廷の各裁判官が読まれても、何故こんな事件をわざわざ起訴したのか、何故このような事件について、延々と10年にわたる期間裁判を続けられているのかという懸念を持つに至るような事実関係である。猿払事件の一審判決が下りた時、ある東京高検管内の検察庁に勧める検察官は、北海道の検察庁は何でこんなのをわざわざ立件したんだろうかと驚いていた。一審判決の論理そのもの以前に、何故こんなものを手がけなければならないのか、そういった種類の事実がこの3件を共通しているのである。ということは、この3件に共通する事実は、今日の日本の社会常識においては、一般人の、或いは一般的な労働組合の運営として平常とられているところである。普通の市民が、普通の労働組合の組織運営が、日常的に行なっている事実がこの公訴事実の対象とされている事実なのである。
[29] 検察官は、社会通念としての正当性を持つていなければならない。しかし、社会通念としての正当性を本件の各公訴事実は持つていないと言われるが、本件の公訴事実として摘示されているところを一般市民に聞いて見て、これがとびぬけた政治活動であり、可罰的非難を加えなければならない政治活動であるのかということを聞いた場合に、これは当りまえのことではないですかという答えが返つてくるような事実である。だから、今日の社会通念に則していえば、社会が、健全な良識が、市民の政治活動の自由としてその正当性を許容する事実、これが本件で問題とされている事実であることは一見して明瞭の筈である。そしてそれを国家公務員法なり人事院規則なりという形で非難することにより、そこに憲法21条違反の憲法問題が惹き起されてくる。社会常識においてはヴイノグラドフ流にいえば、法の下における常識にかなつた行為であるのに、これを国家公務員法なり人事院規則違反という形で論及するから、それで憲法問題が惹き起されてくるのである。
[30] 検察官はアメリカのミツチエルケース或いは昨年6月25日のレターキヤリヤーズアソシエイシヨンをめぐるアメリカ連邦最高裁を引用して、ミツチエルケースを再確認した昨年6月25日の連邦最高裁の判決――これに多数意見、少数意見があるが――多数意見がこのレターキヤリヤーズケースにおいてとつた手法は、検察官が述べられるような立法府の広汎な裁量の確認である。むしろ日本の現行人事院規則よりもその制約範囲を限定しているハツチ法の具体的適用に当つて、一刀両断的なオーバーブレツドドクトリンをとるなと下級審に注意したケースこれが昨年のレターキヤリヤーズのケースである。
[31] 破棄の対象となったコロンビアデストリクトの判断は、簡単明瞭に、今日のアメリカの公務員に対する政治的活動規制の法律はあまりにも広範囲にすぎると、それだけオーバープレツドであるから憲法違反であると論難したのである。それに対して連邦最高裁の反応は、実務的に事実と法律の解釈を限定しつつ裁判をやり直せと命じたものである。このレターキヤリヤーズケースの多数意見に我々は反対であるが、検察官が賛成するのであれば、その多数意見が用いたその手法、具体的事実の限定と法律の解釈の限定、それが司法部のとるべき態度でオーバープレツドドクトリンに徒らに影響してはならないというその骨格部分をこそ学ぶべきであつて、ミツチエルケースの踏襲であるという結論だけに問題をとどめることは、正確にこのケースを読みつくしたと評する訳にはいかない。

[32] 最後に、検察官が述べられたいわゆるLRAの原則について私共の所見を述べて見たい。LRAの原則は、明白にして現存する危険の原則と表裏一体をなして展開されてきたセオリーであつて、このLRAの原則を、より制限的でない他の選び得る手段という日本語に限局されて、日本語訳に自分の論理をがんじがらめにしてしまつて、ではどういう手段があるのかということについて、裁判所が答案を書くべきだというふうに論理が発展するのは誤りなのである。検察官も一寸ふれたように、LRAの原則について、選び得る他の手段そのものについて考慮を払つたか払わなかつたかということについて、立法府の側が、公訴を提起した検察官の側が審査を逆にされる、逆にされる方の立法府が、或いは立法府を代表して原告官としてあらわれる検察官の側が、外にどういう方法があるのかを裁判所に逆問する原則ではないと思う。
[33] だからLRAの原則というものは、明白にして現存する危険の原則と離れて一人歩きするものではない。それが、このルールが出てきた経過を考えれば、これと一体をなす判例としてしばしばあげられる各種の判例との対比で考えればそのことは明白である。その明白にして現存する危険、LRAのルールととび離れたところにいわゆる合理性の基準があるからこれは危険だと、アメリカの憲法学会において憲法判例研究において指摘されたところなのである。
[34] 一言つけ加えると、アメリカの判例にいわれる合理性の基準と、日本語でいう立法目的の合理性、規則手段の合理性という言葉は、訳してしまうと言葉は同じであるけれども違うのである。アメリカの憲法判断における合理性の基準といわれるものは、マツカーシー旋風吹きすさぶときのスミス法について行なわれたテストにおいてさかんに言われるが、そのままそれを合理性という言葉で日本語におきかえることは危険である。むしろ、合理性の基準というふうに今日訳されているところのものは、立法目的の真正というふうに訳した方が正確に浮び上つてくるもののように思われる。
[35] 我々は、基本的人権の司法審査に当つて、立法府の恣意的な態度を容認できない。正確な意味における立法目的の合理性と規制手段の合理性というものを、提起された裁判事実に則して検討すべきである。そのような方法をとるならば、各種の公務員の職責、行なわれた事実の客観的情況を個々に審査して、人事院規則14-7が憲法21条の名の下において合憲法的に存在できないと一審以来論証してきたのである。大法廷が一審以来の我々の論証方法に、各原審がとった憲法解釈についての接近方法について、注意を払って審理を進められることを望んで私の弁論を終了する。
[1] 検察官の上告趣意書の主要論点に対応し、弁護人弁論の主要論点をまとめて、これに対置し、補充する弁論である。 [2] 本件は原判決認定のごとき、機械的労務を担当するものが、市民として、あるいは労働組合員として、つまり公務員たる資格をはなれ、職務と関係なく、原判決認定のごとき態様の行為をした場合に、何故、これを刑罰をもつて禁止しなければならないのかが伺われているのである。一体このような行為が罰せられるべき行為なのかどうかということである。本件が処罰に価する行為であるとすれば、既に最高裁に係属している、全逓本所郵便局事件のメーデーのさいのアメリカのベトナム侵略に加担する佐藤内閣打倒、首切合理化絶対反対全逓本所支部の横断幕の掲示も又処罰に価することに論理、必然的にならざるを得ない。メーデーの日に大勢の私服警官が会場にもぐりこんで、プラカードなどなどを見てまわり、ひつかけ得るものはすべて逮捕、勾留、訴追をしてても、裁判所はこれに有罪の言渡をしなければならないことになる。それでは国民全体の共通の価値判断に著るしく喰いちがうことになるのである。本件3件と後にのべるむつ営林署事件の高裁判決がすべて、このような行為を処罰すべきでないと宣言しているのも、この共通の価値判断によるものであり、これらの判決が学界に於ても一定の支持をうけ、世論の支持をうけたのもまさに社会共通の価値判断に合致していたからである。最高裁判所の裁判官がこの社会共通、かつ、第一線裁判官にも共通の価値判断からとびぬけてちがつた価値観をもつていられるかどうか、それが争点なのである。法律上の見解として、適用違憲説をとるか、可罰的違法論をとるかはこの価値判断を前提にした法律の解釈、適用の問題なのである。そこで私は裁判所にむつ営林署事件に関する注意を喚起したい。この事件は営林署の非管理職の機械的職務に従事する職員がなしたアカハタの配布及び公選法所定の選挙用ポスターの法定掲示場所への掲示行為を政治的行為として訴追した事件であるが、昭和47年4月7日、仙台高裁は「これに対し刑事罰をもつてのぞむのを相当とする程度の違法性は見出しがたいところであつて、かかる行為については国公法110条1項19号の適用はないものと解するのが相当」と可罰的違法性の理論をもつて無罪の判決をし、検察官は上告を断念して右判決は確定している。右の場合と本件の場合とは事実については略同趣旨の類型とみてよい。従つて、右事件について上告を断念して検察官は同類型の本件についても可罰的違法性がないことを承認したものといわなければならない。可罰的違法性がないことを承認しながら、適用違憲という理由が気にくわないということで、本件について上告し、処罰を求める検察官の立場は、既にその前提において破産しているというべきである
[3] 検察官は本件の政治的行為の可罰性について、「公務員の全体の奉仕者性に危険を及ぼし、公務の公正さ、公務所の公正さに疑を抱かせる」ことを主張するのみである。何という空虚さであろうか。弁護人弁論の「全体の奉仕者と公務員制度」は、正にこれに対応する陳述で、当弁護人は若干これに補充、陳述をする。

[4] 全体の奉仕者論からストレートに公務員の政治的行為の禁止、処罰を結論ずけることは法理論的には不可能である。ドイツのワイマール憲法130条の規定の問題は余りにも有名で、詳論を要しない。更に同じ公務員でありながら地公法36条は禁止される政治的行為をしぼつており、しかも刑罰の定めがないこと、公営企業の職員は、公務員でありながら地方公務員法36条の政治的行為の制限の規定そのものの適用が除外されていること、所謂政治的公務員は公務員ではあるが、政治的行為の禁止、処罰の適用がないこと、また、教育基本法6条は「学校の教員は全体の奉仕者である」旨定めているが、これは政治的行為の禁止及び処罰と全然関係がなく、私立学校の教員の政治的行為についてなんらの規制がないこと、このようなことを綜合考慮すれば「全体の奉仕者」が直接政治的行為の禁止に結びつかないことは明白といわなければならない。

[5] そこで検察官は行政の公正、中立性をもち出すのである。中立性とは一体何であろうか。結局は法令及び上司の指示に従つてまじめに職務を遂行するということに他ならない。わざとまげて職務を遂行するようなことをしないということである。国公法でこの点を定めたのは、96条「服務の根本基準」、98条1項「法令及び上司の命令に従う義務」101条「職務に専念する義務」などがそれである。国民の立場から行政公務員に期待するのはまさにそのようなことなのである。この行政の公正、中立性、或いは適正な行政の執行が著るしく現実に阻害される実例を私共は日常に見ることができる。有力者の口ききによる国有財産の不当な払下、有力者の口ききによる事件のもみ消し、仲間意識による現職警官の交通事故の隠ペイ、等国会に於て問題になつたり、新聞紙上明るみに出されたりする事例は数多いのである。
[6] 具体的にあげれば仙台のやぐら荘事件のような暴行、脅迫を以て警察官が市民に情報提供を強要した事件、名古屋大学の横井事件のように現職の警官が窃盗犯人をつかつて学生運動の情報をあつめた事件などは、それぞれ裁判手続を以て明らかにされている。政府に反対する政党や労働組合などの重要な人たちや会合に対する盗聴器の設置などの数々の不法な事件は日弁連の人権白書に具体的に指摘されている。これらはすべて行政の中立性を現実に破つた事例である。
[7] その結果表面化して関係行政公務員が懲戒処分になる例もあれば、依願免官で懲戒にもならない例もあれば、そのまま頬破りですましてしまう事例など数多くある。これらの中には故意に裁量権を乱用したと見るべきものも数多いといわなければならない。しかし国公法はかかる忠実義務の現実の侵害については懲戒の定めをするだけで、刑罰を定めていないのである。刑法その他の特別法に触れる場合はともかく、そうでない限りは、いかに忠実義務に違反し、上司の命令に従わないで行政をなそうと、法令の解釈をねぢまげて行政をしようと、懲戒に付されるだけで、刑罰を科されることはないのである。これに対比して、現実に公務の中立性を侵害しているわけではないが、そのおそれがあるということで規定されている「政治的行為の禁止」には刑罰の定めがあることの合理性は一体どこにあるのだろうか。破防法38条2頁2号の文書頒布罪は、本犯である内乱罪などの重罰規定と相まつて、はじめてその可罰の合理性が是認され、それでも憲法21条の保障との関連で厳格な構成要件の解釈が要求されているのである。団規令違反事件に於ては調査のための出頭要求に応じないことに対する法定刑が本犯と同じ法定刑であることが憲法31条との関連で問題にされていることは御承知の通りである。これらのことを考えあわせると、行政の中立性を現実に侵害した行為を可罰類型にせず、行政の中立性をおかすおそれのあるという政治的行為を可罰的とすることはどうしても合理的な説明がつかず、憲法31条に違背するものといわなければならないのである。

[8] 更に検察官の論拠には致命的な欠陥がある。検察官はその主張で昭和33年3月12日及び4月16日の大法廷判決に依拠していますが、この判決でも「国家公務員法の適用をうける一般職に属する公務員は、国の行政の運営を担任することを職務とする公務員であるから」と論旨をすすめている。行政の運用の公正さ、中立性を保護法益と考える以上当然であろう。それならば国の行政の運営を担任することを職務としない公務員の場合どうなるかという問題である。「一般職」という言葉を省略してのべるが、実質的意味の公務員と形式的意味の公務員のくいちがいをどうするかであります。形式的意味の公務員の範囲は実質的意味の公務員の範囲をはるかにこえ、国有林で山の木を伐つている林業労働者も、郵便を配達する郵便配達員も、統計資料の調査表を符号化するキーパンチャーなど行政過程になんら関係のない、又、国民に対し国家権力を行使する立場にもない。単に機械的労務の提供者にすぎない国家公務員の数が著るしく多いのである。このように形式的には国家公務員ではあるが実質的意味の国家公務員にあたらないものの、しかもその上に、そのものの公務員たる地位と全く無関係であり、職務執行と全く関連性のない「政治的行為」について、憲法21条のもとに刑罰による禁止が許されるかどうかが問われているのである。行政の中立性を保護法益とする限り、実質的意味の公務員でないものの、公務と関係のない「政治的行為」を刑罰をもつて禁止することが矛盾であり、許されないことは自明といつてよい。

[9] そこで行き詰つた検察官は行政の中立性より、更に「公務所の中立性」「公務所の中立性に対する信頼感」へと保護法益をエスカレートする。しかし、郵便局員が選挙演説をしたからといつて、郵便の配達が間違つて配達されると不安をもつものもいなければ、営林署の職員が「赤旗」をくばつたからといつて、国有林の木材が使えなくなると心配する者もいない。統計局の職員が機関紙をくばつたからといつて、統計数字に作為があると心配する国民もいない。検察官の主張は国民を愚ろうするものである。現在各官庁の長の地位は、与党たる自民党の実力者が国務大臣として占めている。憲法上議院内閣制をとつている以上当然なことである。国民の不安は、公正なるべき行政が、この与党の実力者によつて左右されることである。何しろ政府は与党がにぎり、与党の有力者が行政庁の長となつているのだからその不安は当然であるし、又与党の実力者に頼んで陳情を行うという陳情行政も事実たる慣習として現実にまかり通つていることも又公知のところである。国民の不安はまさにそういう有力者による行政の支配にあるのである。さきにのべた、盗聴器の設置や、違法不当な情報集しゆうも又この不安を裏付けている。国民は機械的労働に服する公務員の政治的行為によつて行政庁の中立性が左右されるなどという不安は些かも感じていないというのが実体である。私は公務所の中立性に対する国民の信頼という検察官の主張をみ、本日の弁論を聞き使い古された「都庁アカハタ」論のデマゴギーを思い出した。検察官の主張はいわば、「郵便局赤旗論」、或いは「統計局赤旗論」ともいうべきものである。数年前美濃部さんが最初都知事に立候補したとき、反対政党は「都庁アカハタ論」をふりまき、美濃部さんが都知事になれば、都庁に赤旗がたち、都政は一部のものに牛耳られると宣伝した。このことはすべての記憶に残つているところである。しかし、美濃部氏が知事になつたけれども、都庁に赤旗がたつたこともなければ、都政が一部のものに牛耳られたこともない。美濃部氏は都民の支持をうけつづけている。都庁アカハタ論のデマゴギーであることは事実によつて証明された。又賢明な都民はそれを看破して美濃部氏を知事にしたのである。検察官は今「郵便局赤旗論」的議論をぶつて、最高裁の15名の裁判官の心情に働きかけようとしているわけである。しかし、後に「各事件の主要論点」で具体的に各弁護人がのべる通り、本件の捜査の端初で、公務所の中立性が心配だというような投書の1通でもあつたであろうか。ただの1通もなかつたのである。そのような市民の側の不安なるものが現実には虚偽、架空のものであることは明かである。私はこのような国民の不安なるもののデマゴギー性を見破る力に於て、最高裁の裁判官が都民よりも劣るとは思わないのである。検察官の郵便局赤旗論的デマゴギーは空振りにおわることは必至と考える。
[10] 以上は、公務所の中立性に関する国民の信頼乃至不安ということがそもそも虚偽、架空なデマゴギーであつて、刑罰をもつて保護さるべき保護法益ではないということであるが、これが、かりに法律上保護さるべき保護法益にあたると解しても、このような正体不明の、漠然とした信頼感なるものを維持するために、憲法21条に保障する表現の自由、政治活動の自由をかくも広汎に、かくも自由の息の根をとめるやり方で刑罰をもつて禁止し得るかが問われなければならない。憲法21条の保障の意義を考えれば、かかる不安なるものを理由に本件行為の処罰を正当化することは許されないことは明かである。この点については、他の弁護人弁論に於て詳論する所で、ここではこれ以上のべないこととする。

[11] 検察官は苦しまぎれに、選挙期間中の選挙活動だから、きびしい規制が許さるべきだとの主張を展開する。この検察官の主張は明かに論理をとりちがえている。選挙活動も表現の自由、政治活動の自由の一部であるが、特定の候補者の当選を得せしめるために、一定の時期に最も集中的に、大量的になされるものである。従つてその集中性、大量性公平さのために一定の規制を設け、いわば交通整理をするために選挙法規が定められているのである。その交通整理の中に違憲の条項があるかどうかは別として、交理整理の必要があること自体は自明である。その交通整理にあたる選挙法規の範囲内ではわが国民は最大限の活動の自由を保証されなければならない。検察官はこの交通整理の必要性とその交通規制の範囲内での最大限の活動の保証とをとりちがえ、交通整理が必要なのだから、本件被告らの政治的行為が規制されるのは当然と主張しているが、交通規制の範囲内での活動の完全な保証を、逆に交通規則そのものの必要性にすりかえているもので論理的に破産していることは明白である。

[12] 検察官は更に国公法の規定は抽象的危険犯を定めたのだから、影響力が少いからといつて処罰の対象からはづすのはあまりだと主張する。これについては破防法に関する判決を検討していただきたい。破防法38条2頁2号の文書頒布罪につき、昭和41年4月21日大阪高裁判決はこれが抽象的危険犯であることを承認したうえで、「政治的基本組織とそれに基づく施策によつて支えられている公共の安全に重大かつ近接した危険を及ぼすおそれのある場合に限り、右安全を確保する必要な限度においてのみ罰則を適用すべきもの」としている。名古屋高裁昭和37年十2月24日判決も略々同趣旨で「このように解することは、ホームズ判事のいわゆる明白かつ現在の危険の原則にも合致する」とまでのべているのである。抽象的危険犯であつても危険の高度さをもつてしぼることは妥当な解釈である。この大阪高裁判決が、名古屋高裁昭和39年1月14日判決の無限定的な抽象的危険犯の判示と判例的に違背するのではないかという判例違背を上告理由とした昭和41年(あ)1405号事件において、42年9月22日第2小法廷判決は「原判決は結局において引用の判例と相反する判断をしたものということができない」としているのである。
[13] 結局、抽象的危険犯であることと、危険の程度について実質的考察をすることと矛盾するものでないことを最高裁判所が是認したものと解すべきである。この実質的考察に於て、憲法21条の観点より比較衡量をすることも当然あり得るところである。従つて、検察官の主張する抽象的危険犯だから影響の程度を考慮することは不当という主張のあたらないことは明白である。
[14] 検察官は本件行為の可罰制の根拠を合理的に説明できないので、立法府の裁量権の問題ににげこみ、国公法102条、110条19号の規定は立法府の裁量権の範囲内にあると主張し、さらに原判決は昭和40年7月14日大法廷判決(和教組専従事件判決)の判例に違反するとの主張をなし、ほとんどこれ以外に逃げこむ場所を失つたかの観を呈している。

[15] この主張に付ては、まづ、「昭和23年国家公務員法改正過程について」の弁論が対置される。その趣旨は、これらの国公法改正案は、マ司令部の指示に基くもので国会に於て論議し、改廃する余地のないものであつたということにある。国公法の前記法条は形式的意味の法律ではあるが、国会に於て、国民を代表する国会議員が討議、決定するという点に於ては、実質的意味における法律ではないのである。従つて検察官の主張は、実質的意味の法律に関する議論であつて、実質的意味の法律の実体を見えていない国公法の該当法条については、そもそもはじめから成立するに由のない議論なのである。それのみでなく、本件は構成要件が人事院規則14-7によつて定められているという特殊性をもつています。構成要件を人事院規則に白紙委任していることの憲法上の問題はさておき、人事院規則で定めた構成要件について、立法府の裁量権尊重という検察官の主張がそもそもはじめから成立つ余地がないのである。人事院規則14-7の制定については、立法府がなんらの関与もしないこと、これも又、マ指令部の指示によつて作成されるに至つたものであることは明白なのである。この人事院規則について、立法府の裁量論を展開する検察官の論旨は、そもそもはじめから根拠のないものといわなければならない。

[16] 次にわれわれは、憲法21条の表現の自由、政治活動の自由の保障にかかわる法令については「立法府の裁量権」の主張はそもそも妥当しないのであるという主張をする。「表現の自由の現代的意義とその優越性」、「表現の自由制限立法と司法査審」という弁護人弁論は主としてこの点にあてられるものである。
[17] これらの弁護人弁論に関連して、当弁護人はわが国の判例の推移上注目すべき点を2、3あげるにとどめる。
[18](イ) まづ、検察官が論拠としている和教組専従事件大法延判決の拘束力の問題である。この判決が労働基本権の規制立法に関するもので、憲法21条の表現の自由に関する規制立法の審査に関するものでないということは文面上明である。検察官は、この判決の趣旨を勝手に他の領域に拡大しようとしているが、その不当であることは言うまでもない。それのみでなく、この判決の趣旨はその後の、41年10月26日全逓中郵事件判決により実質的に変更されているということである。裁判所は労働基本権規制の法律について、比較衡量論を展開すると共に最小限規制の原則をうち立て、現実に比較衡量をなしているのである。極めて不十分、不徹底な比較衡量ではあるが、ともかく比較、衡量の中身に立入つているのである。これは明らかに和教組専従事件の趣旨を実質的に変更したものといつてよいであろう。
[19](ロ) 次に問題となるのは憲法21条の表現の自由と裁判所の提出命令との関係についてなされた昭和44年11月26日の大法廷決定である。これは憲法21条とこれを規制する処分との関係で最高裁がとりくんだ貴重な判例である。この決定は「提出命令によつてもたらされる公正な刑事裁判の実現と、これによつて妨げられる報道機関の取材の自由とを衡量して提出命令の許容される限度を決定すべきもの」とし、さらに現実に右衡量を行つているのである。現実の衡量のやり方については奥平助教授の批判など領聴に価する批判があるが、この比較、衡量そのものについては学界に於ても一定の評価がなされており、先般、東京地裁で判決があつた外務省秘密文書事件の判決も、この系譜のうえにたつもので、この大法廷決定の考え方は定着しているとみてよいであろう。この現実に比較、衡量をするということは立法府の裁量権にゆだねるという検察官の主張とは明確に相違するもので、憲法21条の規制には立法府の裁量権なる考え方を最高裁判所自体とつていないものといわなければならない。
[20](ハ) 検察官はあるいは右決定は裁判所の提出命令に関するもので、法令の審査に関するものではないと強弁するかもしれない。そこで最後に昭和47年11月22日大法廷判決に御留意いただきたい。この判決は「個人の経済的自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制」をすることも憲法上許容されるとし、「個人の経済的活動に対する法的規制措置については立法府の政策的、技術的な裁量に委ねるほかなく、裁判所は立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著るしく不合理であることが明白な場合に限つてこれを違憲として効力を否定」できるというのである。後に尊族殺違憲判決でただ一人反対意見を表示された下田裁判官もこの判決では補充意見すら表示されず、全員一致で右の結論を示しているのである。この判旨は、猿払事件原審弁論で、弁護人がのべた「国民の経済的取引について、どのような法的規制が必要であるかの専門家は議会であつて、裁判所ではない。」「基本的人権の展開とその保障についての専門家は議会ではなく裁判所である」との命題を最高裁判所の裁判官全員一致で承認したことを示すものである。本件につき検察官の立法府の裁量論成立する余地が全くないのである。
[21] 検察官は猿払事件一審判決の判旨及びこれを承認した原審判決の認めている立法事実の検討について「考慮された各科のいわゆる立法事実には考慮すべからざるものを考慮し、または考慮するのを適当としないものを考慮した誤りがある」と主張するので、この点につき若干のべる。法令に関する憲法判断において、当該立法を合理的ならしめる社会的事実の検討、爾後におけるその立法事実の消長の検討がなされるべきことは、芦部教授らがアメリカ憲法裁判の分析等に基き主張かつ証言していることで、検察官もこの手法自体には反対していないようである。主張しているのは、具体的に爼上にのぼつた立法事実が適当でないということにすぎません。例えば検察官はILO105号条約批准に関する政府の国会答弁や臨時行政調査会の答申を資料とすることを立法の先取りといつて非難している。しかし立法事実として資料にするのは政府が右趣旨の国会答弁をした事実、或いは臨時行政調査会が右趣旨の答申をしたという事実なのである。これらの答弁や答申がなされたけれども諸般の政治情勢からみて法改正が実現しなかつたとしても、それらの政治情勢のうごきなどは司法審査の際考慮すべきものでないことは自明である。又法改正がなされていれば、今さら憲法裁判の必要もなく、立法事実の検討の必要もない。従つて立法の先取りといつて非難する検察官の主張それ自体、立法事実の検討の何たるかを解しない議論である。そもそも、立法事実の検討の具体的内容について不服があるのであれば、検察官は自らに有利な立法事実を積極的に主張すべきであり、それによつて憲法裁判は単なる観念的議論ではなく具体的資料に基き、事実を基礎とした裁判へと発展することができる。検察官は単に「郵便局アカハタ論」に類する、虚偽、架空の不安論をふりまわすのみで、自から適切な立法事実の主張をもなさず、いたづらに裁判所の挙示する立法事実に因縁をつけるのみで、到底適切な訴訟態度とはいえない。
[22] 特に「アメリカの立法例の中に本件のような行為に対する制裁としては懲戒罰があるだけで刑事罰はないとか、イギリスや西ドイツでは公務員の政治活動が大幅に自由とされているとか」判決はいうけれども、日本の事情との対比で、これらの各国の事情を調査しないで、ただちに日本の憲法裁判の資料とするのは妥当でないという検察官の議論は全く的外というべきである。もし各国の法制の中に利益に援用できるものがあつたら、検察官は双方の国内事情の差などは検討することなしに大喜びでこれを利益に援用したであろう。既に48年4月25日の大法廷判決のあつた全農林事件で、検察官は公務員の争議禁止に関する世界中の法制で、利益に援用できるものはすべて書きあげて上告に於て主張しているのである。近代的公務員制度、議会制民主主義下の公務員制度において、各国を通じて本件のごとき刑罰による政治的行為の禁止の事例が全く存在せず、単なる禁止の事例すらない国が圧倒的である。その中でわが国の国公法だけがとびはなれて、刑罰による政治的行為の禁止の制度を占領の違産として残しているのである。もしわが国の特殊事情でこのことの正当性を主張できるものだというならば、検察官の方で我が国特有の事情を立法事実として主張すべきである。自らの主張を拠棄して、裁判所にその責を転嫁するがごときは言語同断である。「米国公務員法との比較法的考察」なる弁護人弁論はまさにこの点に対応する弁論で、特にアメリカを中心とし、各国の公務員の政治的行為に関する法制を検討し、わが国公法の当該規定が世界全体の中で、とびぬけて苛酷なものであることを明にし、さらに検察官が大黒柱として依拠するミツチエル判決の多数意見が、本件の裁判にあたつて、その趣旨に於て参考にならない所以を詳論する。
[23] 憲法31条に関する検察官主張に対する反論は他の弁護人がのべる予定がないので、私がまとめてのべる。

[24] 検察官の主張は必ずしもはつきりしていないけれども、まづ、憲法31条はアメリカ連邦憲法の適正手続条項のごとき意味をもたない、かりにもつたとしても手続の点だけであると主張している。憲法31条が適正手続条項を含むものであることは、昭和36年12月20日大法廷判決でも明瞭にうち出されているところである。この事件は、団体等規制令という形式的にも占領法規であることが明白な法令の失効にかかわるものであるから失効の理由につき各裁判官がそれぞれ議論を展開し最高裁判所としてまとまつた意見は表明していないけれども、多くの裁判官が憲法31条は適正手続の趣旨を含むものと解していることは判文にてらして明白である。
[25] 例えば、垂水裁判官は
「憲法31条にいう『法律の定める手続』は『合理、適正な法定手続』、すなわち『適法手続』の意味であるとし、法律をもつてするならば如何なる行為をも『犯罪』とし、『犯罪』に対しては死刑その他いかなる『刑罰』を科してもよい訳ではないという趣旨が憲法31条に含まれている」
とのべている。河村大介裁判官は
「憲法31条が米連邦憲法修正5条の適法手続の規定の影響の下に成立した沿革と、人権保障を強く標ぼうとする新憲法において、人権の制限、剥奪には合理的根拠を必要とする法の精神にてらして、同条の法律の定める手続とは法律の正当な手続の保障、すなわち適正条項の要請を含むもの」
としている。検察官も弁論に於てはこの点についてのべるのを断念したかの観がある。これに加えて昭和37年11月28日、第三者所有物没取に関する大法廷判決を考慮すれば検察官の主張の排斥さるべきことは、明白と考える。

[26] 次に検察官は行為と制裁とが均衡を失するかどうかは憲法31条の保障の問題ではないとか、具体的な行為と抽象的法定刑を比較することはそもそもくらべることのできないものをくらべることになるとか、色々な議論をしている。そのうち、前者は適正手続に関する問題であり、さきほどのべた通りである。後者は、その主張自体明らかでないが、量刑には大きな幅があるから、情状が軽い場合には軽い科刑がなされる筈で、法定の最高刑と具体的行為とを比照するのは相当でないということと思われる。しかしこれも又論理のすりかえである。前記団規令事件判決で横田喜三郎裁判官が
「またこの法定刑(10年以下の懲役又は禁箇若しくは7万5千円以下の罰金)は長期と短期との間に極めて広い量刑の範囲を認め、情状によつては罰金刑を選択することもできると検察官はいうけれども、禁止されている行為に対する刑罰と同じ法定刑をその行政調査に課しているのは失当であるし、通常の調査の場合には見られないところである。更に、このような重刑を定めていることは不可避的に出頭を強制することになり、出頭するか否かの選択の自由が全くないことになる」
とのべている。
[27] 本件の場合にあてはめればどうなるであろう。行政過程にかかわりのない機械的労務に服する公務員の、職務に関係のない政治的行為の不可罰性が前提になるのである。まづ、本来刑罰をもつて禁止すべきでない行為に刑罰を処罰することが憲法31条違反であることは明かである。つぎに、保護法益たる行政の中立性を現実におかす行為を可罰類型とせず、冒すおそれがあるということで政治的行為を可罰的とすることの不合理性も又憲法31条の問題である。最後に長期3年という、国公法100条の秘密漏洩罪をうわまわる法定刑を定めることによつて、これらの公務員はほとんど一切の政治的行為がなし得ないことになり、これらの公務員の表現の自由の息の根がとめられるということである。情状が軽いのに長期3年の法定刑では重すぎるという問題ではないのである。これを情状の問題にすりかえるところに検察官の論理のすりかえがあるといわなければならない。
[28] 以上の次第で検察官の主張は何れの面よりみても理由がないこと明である。速に各上告を棄却されたい。
[1] 本弁論は、現行憲法下における公務員制度において「全体の奉仕者」の概念は如何なる意味をもつのか、そうしてこの概念が公務員の政治活動と如何なるかかわりをもつのか、現憲法の理念において公務員に政治活動の制限が許されるとすれば、その根拠と範囲は何か、これを論ずるのが目的である。
[2] ところで、現在の公務員制度は歴史的な経過があり、その産物である。従つて以上の論点を正しくとらえるには歴史的に到達した、近代公務員制度の本質をまず考えてみる必要がある。
[3] 近代的公務員制度は、絶対主義とこれに結び付き、官僚主義に支配された官僚制が近代革命によつて打破され発展したものである。
[4] 即ち封建領主ないし、君主とこれに忠実な官僚は、人民の利益ではなく、君主と自らの特権的利益保護に、より深い関心をもつていたのであるが、これを人民の利益に奉仕する公務員制の方向に基本的に転回させたところにその本質がある。
[5] 従つてここから出て来る公務員の特質は次のように指摘されている。
[6] 第一に旧憲法における天皇大権下のように封建的・身分隷属的関係にあつて、その服務は天皇に対する忠実を本質として無定量且つ絶対(人的な服従義務(1))を要請されていたのに対し、国民主権主義の下で、国民の選挙、罷免権に従属し、その服務は国家という団体固有の目的を遂行する限りでの定量且つ契約に基くものである(憲15、73条4号)
[7] 第二に従つて近代的公務員制にあたつては、公務員の私生活(市民としての公務員個人の政治的生活を含む)と公務の担い手としての公務員の関係とは明確に区別される。
[8] 前近代的な官僚制においては、官僚はことごとく臣僚としての忠実義務に拘束され、それから分離した私的な個人としての生活は存しなかつた。これに対し公務員は公務に従事する関係においては特別の権利・義務の関係にあるが、市民としての自己の生活関係はこれを別箇のものであり、公務員関係の法規は、右の私生活が公務員としての公生活に影響をもたないかぎり、それを干渉することはない。(憲13条、14条、19ないし23条)
[9] 第三に、公務員は、民間私企業の労働者と比較すると、その軽重は別にして、二重の側面を有し、一面には労働者としての側面をもちながら他面、国・地方公共団体の公共業務を行なうという公務の担い手としての側面である。(憲28条、全逓中郵最判)
[10] 第四に、公務員の服務義務の個別、具体化ということである。社会の発展に伴い、国家自らが広汎な社会政策と大規模な企業経営の主体となつてくるいわゆる「社会職能国家(2)」となるに及んで膨大な公務員が出現すると同時に公務員の職務が多様化し服務義務も多様化して来る(3)。従つて公務員の服務義務の法文解釈にあたつては、当該公務員がどのような関係において、また何が故に、そしてどのような基準にもとづいて、どんな内容の義務が要求されるかを、個別、具体的に検討すべきであり、逆に公務員一般に課せられる義務一般を論じただけでは、殆んど無意味であるか場合によつては誤りにおちいる。(前者の例として全逓中郵最高裁判決の「全体の奉仕者」と公務員の争議行為禁止の関係についての立場、後者の例として弘前機関区事件最判における全体の奉仕者、公共の福祉論)。
[11] 以上のような近代的公務員制の本質をふまえたうえで、わが国の公務員制度について憲法、公務員法の解釈がなされなければならない。
(1) 「公務員法」鵜飼信成 法律学全集 1頁以下
(2) 「日本官僚制の研究」辻清明 17頁以下
(3) 従つて公務員概念の多様化につき中山和久証言(猿仏一審)参照
(一) 比較法
[12] 公務員が「全体の奉仕者」であると定めた憲法15条2頁の規定はワイマール憲法130条1項に由来するといわれており、又わが国現行国家公務員法及び人事院規則14-7の規定はアメリカの立法を模倣したといわれている(1)。そこでドイツにおける「全体の奉仕者」の意味と公務員の政治活動との関係、アメリカにおける政治活動制限の根拠、理由についてそれぞれ立法の動機、内容を検討する必要がある。
(1) ドイツ
[13] ワイマール憲法130条1項は「官吏は全体の奉仕者であつて一党派の奉仕者ではない」と規定していた。これが規定されたのは、君主制から議院内閣制への移行にともない、官職に対する政党の支配と行政の政治的混乱を危惧し、官吏の政党からの独立、即ち「官吏制度の中立性」を強調するためであつた(2)。従つて官吏が議院内閣制の趣旨に反して、一部の政党のため、或いはその指示に服して行動することは否定されても、一般に公務員の政治活動を制限する必要もなければ、制限出来ることの根拠も出て来ない。同条2項は「すべての官吏はその政治上の意思及び結社の自由を保障する」と規定しているのも右の立法趣旨から当然であつて1、2項は何ら矛盾するものではない。尚中山和久教授は猿仏事件の一審における証言において、ワイマール憲法130条の立法趣旨を次のように説明している。即ち、アメリカで主張される全体の奉仕者と政治活動の関係はドイツの場合と正反対に異ることを強調しながら、
同条の1項は、「それまでの絶対主義権力の配下であつた公務員を国民全体に対する奉仕者、真の意味での国民主権体制の中での国民全体に対する奉仕者たる立場に切り替えて行くというのがその意味内容であり、従つてワイマール憲法では、絶対主義権力時代の官僚制度を民主化する為に公務員に対して政治的自由および団結の自由を与えることが必要とされ、同条2頁はこの趣旨による、つまり公務員の政治的自由は民主化のための必要条件である」
とされている。これによれば、公務員の政治的自由は官僚制度の民主化のためにより積極的な意味をもつて規定されている訳である(この点わが国憲法と類似することは後述のとおりである)。
[14] そうして現在でもドイツ(西独)は勿論イタリヤ、フランスにおいても実質的にはワイマール憲法時代と同様官吏の政治的自由は保障されているのである(3)
(2) アメリカ
[15] アメリカにおいては1883年の公務員法(ペンドルトン法)により従来の猟官制度を排除して資格任用制の普及が目指された。同法による政治活動の規制をみると、政治的任命職公務員による下級公務員への党派的強要行為に向けられ、下級公務員の身分保障と政治的自由擁護のために、このような制約についても、地位または職権の濫用行為に限定して認められる。
[16] 従つて同法は、「公務員は政治資金の寄附または政治的奉仕の義務を負わず、その拒否を理由に免職され、または不利益取扱いをうけない」(Sec.2.2.5)また「公務員はいかなる個人または団体にたいしても、政治的行為を強要するために職権または公的影響力を行使してはならない。」(Sec.2.2.6)と規定した。これをうけて公務員制規則は「行政部公務員は選挙に干渉し、またはその結果に影響を与える目的のため、職権または公的影響力を行使してはならない」(Rvle1.)とし、さらに採用にあたつて政治的・宗教的見解または、関係を理由とする差別を厳禁した。
[17] したがつて、この段階での公務員制度では、一般職公務員の政治的自由、身分保障とは相互補完的関係にあつたといわれている(4)。したがつてここでも「公務員の党派的中立」とは、公務員の身分保障のための障碍排除に向けられ、一般職公務員個人の政治活動の制限を指向するものではなかつたのである。
[18] ところが、1907年に至り右公務員制規則が改訂され、一般職公務員の政治活動が禁止されることとなつた。これは当時独占段階に入つたアメリカ資本主義下において活発な政治活動を行なつていた郵便労働者の労働運動への対抗が意識されていたといわれている(5)。そうして1938年に至りニユーデイール政策の破綻と、第2次大戦の危機に備え、また肥大化した行政組識を中央集権的に整備し戦争体制を準備するために労働者階級のなかで大きな比重をしめる公務員大衆の自主的、政治活動・労働組合活動を抑圧する意図で政治活動の禁止がハツチ法に組み入れられたといわれている。これに対しアメリカにおいて厳しい批判が加えられ、現在では同法の廃止または全面改正が日程にのぼるところとなり、公務員の基本的人権保障を前提とした民主的公務員制度の確立が志向されているといわれている。
[19] 従つて右のようなアメリカの歴史的経過からみても、公務員の政治的中立の要請の本来のねらいは公務員に対して支配的な政治権力が政治的な圧力をかけることを排除することにあつたから、公務員それ自体の政治活動禁止の根拠として援用しうる性質のものではなかつたのである。しかるに前記規則改訂によつて政治活動が禁止されるにおよんで「政治的要素の侵入のすべての可能性を完全に抑制する必要性のための一つの必要悪とのみ考えうる(6)」とされ、又この禁止は「第一次的には支配的な政党が公務員を自分の従属者に仕立てていくことの禁止にありもつて公務員、行政の保護」にあるが、第2次的には、公務員自身において政治活動の禁止という法的口実によつて政党に協力を拒否する手段としての消極的な要請があつた(7)」といわれている。
(1) 今村成和猿仏事件一審鑑定、宮沢俊義憲法2法律学全集423頁
(2) 辻清明前掲31頁以下
(3) 中山和久、一審証言、今村前掲
(4) 佐藤昭夫、大久保史郎 季刊労働法85号25頁
(5) 佐藤・大久保 前掲26頁詳しくは、本弁論「国公法と人事院規則をめぐる「立法事実」の項参照
(6) 佐藤・大久保 前掲26頁の援用するL・メイヤーの指摘
(7) 労働法律旬報682号5頁中山和久
(3) 日本
[20] わが国憲法15条は国民主権の理念と公務員は国民全体のための公務員であることを宣言した。この規定は次のような要請にもとづくものであつた。
[21](イ) 憲法が、国民主権主義、民主主義の原則を採用したのに伴い、公務員制度の民主化の要請、従つて、官吏が、かつて天皇に身分的に隷属し天皇の官吏であり、天皇の名において人民を支配する特権階級であつたのを根本的に改革することである。ここから出て来るのが、旧官僚制度の打破と、公務員制度の民主化である。
[22](ロ) 又旧憲法下において、政党勢力が弱体で、猟官制の弊害の経験は少なく、逆に官僚制が政党を支配していた状況において、公務員の政治活動を自由にすることこそ官僚制を打破し、民主化する意義があつた(1)
[23] したがつて、立法当時の要請からみると本条は、公務員の政治活動を肯認する根拠とはなり得ても、制限ないし、否定する根拠とはなり得ないものであつた。この点においてワイマール憲法130条とその趣旨を同じくするものである。(但し、ワイマール憲法の場合は議院内閣制度に伴う政党の影響から官吏を遠ざけることを主眼としたのに対し、本条は、国政を信託された者としての公務員の本質を宣言することを主眼としている点で相違がある(2)
(1) 辻前掲60頁
(2) 註解日本国憲法上巻370頁
(二) 憲法15条2頁の法理的意味
[24] 「すべて公務員は全体の奉仕者であつて一部の奉仕者ではない」との意味は前項で、公務員が国民主権に基礎を置くとの原則を宣言したのに続き、公務員の職務は、特定の支配者(天皇)個人でなく信託をうけた国民のために遂行すべきことを定め国民主権下の公務員の本質を宣言したものである。
[25] これを解して「近代的な公務員観念の基本原則を示すもの(1)」あるいは「国民全体に奉仕すべき国民のための公務員でなければならないことを示したもの(2)」と説いているのも同じ意味と解せられるが、要するに、同項は、公務員制度の民主化の担保として対国民との関係での公務員の服務の根本的基準を宣明したということであろう(3)
[26] この場合特に注意すべきことは、さきにみた近代的公務員の特質、即ち、身分隷属的関係の打破、公務生活と私生活の分離、公務員の労働者としての側面の肯定ということから考えると、公務員が「全体の奉仕者」であるとしても、このことは公務員が、公務員なる身分によつて奉仕者となるものではないということである。それはあくまで公務員が「公務の担い手」として側面における限りでいわれることであるから、国民全体の奉仕者はその職務を通じてのみ奉仕者なのである。従つて「全体の奉仕者」に公務員の服務の根本的規準を求めるとしても、それは「職務の執行」において、ないしはこれを対象としての規準であることを忘れてはならないということである。
[27] そこで問題はかかる根本的規準から如何なる具体的内容のものが出て来るかである。
[28] 右の規準から或いは「政党の直接支配から独立し、公正中立の立場(4)」とか「公務員は自己の私的利益の追及者であつてはならず、全体の利益を優越せしめなければならない(5)」との意味を引き出す立場もあるが、正しくは、「公共の利益のみをその指針として行動すべく、私的利益のためにその地位を利用してはならない(6)」と解すべく又これ以上ではない。何となれば、
[29] 第一に、憲法15条にいう「公務員」の概念は立法行政司法は勿論、広く国又は公共団体の事務の執行に当る者すべてを含むと解されている。この点ワイマール憲法が議員を除いた「官吏」に限るのと異る。従つて国会議員は勿論、公庫、公社職員、学術会議議員、民生委員のはてまで含むとされている(8)。かかる広汎な「公務員」全体に通ずる公務員の本質ないしは服務の根本規準として国民主権主義の要請からあえて規定したとすれば右以上には考えられないからである。
[30] 第二に、公務員の政党からの独立という意味での「政治的中立」を同条に求めるとすれば、猟官制の経験はなく前述した立法趣旨からしてわが国では実態にそわない。
[31] 第三に、「全体の利益を優越せしめなければならない」との解釈のもとに労働基本権の制限をこれに求める考え方であるが、これが誤りであることは、最高裁判所の判例上確定しているところで、あえて多言を要しない。
[32] 第四、公務員の政治活動の制限ないしは政治的中立の態度の必要をこれに求めることはできない(9)
[33] まず公務員が「全体の奉仕者」であることと公務員が政治活動を行うこととは何ら矛盾するものではないことはワイマール憲法の立法趣旨とその規定(130条1、2項)から明らかであり、又わが国憲法の立法趣旨からこれと別異に解釈すべき何らの根拠もない。
[34] 次にわが国憲法15条2項は、さきに指摘したとおりいわゆる政治的公務員たる国会議員をも含むすべての公務員に対して「全体の奉仕者」と規定している。したがつてこの「全体の奉仕」から直ちに「政治活動制限」を導くことは、国会議員まで対象とせざるを得ない矛盾に逢着する。
[35] 更に、実定法規の面から逆にこれをみると、教育基本法第6条2頁には「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」と定めている。この「法律に定める学校」には私立学校も入るのであるが、同じ「全体の奉仕者」とされる私立学校の教員には政治活動の制限はないからである。
[36] 以上「全体の奉仕者」なる概念は、公務員の服務の根本的規準を宣明したものとしてその意味・内容を検討してきたのであるが結局、この概念は公務員制度の発展ないし歴史的背景から公務員の地位を確立しようとしたところにその意味があり、論理的・精神的なもので、法論理的な拘束性を持つて服務関係へ直ちに種々の権利義務が導かれるという概念ではないことが判明するのである(10)
(1) 鵜飼前掲15頁
(2) 田中二郎 行政法 新版下1、170頁
(3) 籾井 労働法律旬報682号8頁、小林直樹憲法講義上442頁
(4) 田中 前掲171頁、もつとも公務員制度の要請としているが
(5) 前掲註解上365頁特に(五)の註に注目
(6) 宮沢前掲423頁 小林前掲442頁
(7) 前掲註解上364頁
(8) 宮沢前掲423頁
(9) 宮沢前掲424頁 小林前掲442頁 今村「人権と裁判」北大図書刊行会12頁以下36頁以下 園部判事ジユリスト520号56頁
(10) 室井、園部ジユリスト520号55・56頁、なお小林前掲443頁は政治的中立性の観点からはひとつの抽象的理念にほかならぬという、和田英夫ジユリスト520号
[37](一) かくして「全体の奉仕者」概念は公務員に対する政治活動の制限の根拠とはなり得ないことが明確となつた。にもかかわらず、公務員には、それぞれの職務の性格によつて何らかの制約があることを否定することはできない。政治的自由が原則として認められている西ドイツの連邦官吏法53条ですら「官吏は、政治活動をするに当つては、その全体に対する地位とその官職の諸義務の顧慮から生ずる制約と抑制を守らなければならない」と定めている。その根拠は何であろうか。
[38] まず第一に公務員の「政治的中立」ということがいわれる。これは立法、司法に分けて考えねばならない。立法にたずさわる議員及び国務大臣その他の政治的公務員は、議院内閣制をたてまえとしている限り、政党的立場にたつて行動すべきであるから、ここに「政治的中立」はあり得ない。行政部門の事務的職員(非政治的職員)は政治的職員の指揮下にあつて政府の政治的意見によつて行動すべき拘束を受ける。これに対して「政治的中立」というのであれば、この拘束の範囲を超えてはならないことを意味することにほかならない。更に司法部門の裁判官についてみるに、裁判官の独立が保障されている。一切の外部からの政治的影響を排除しもつて裁判の公正を守ろうとするのがその趣旨である。ここで「政治的中立」をいうのであれば、かかる裁判官の独立を犯す外部の影響力を排除するとともに裁判官自らがかかる独立を犯す行為を抑制することにある。
[39] 第二に行政部門の公務員についていうならば、「行政の中立性の確保」ということがいわれる。これは議会制民主主義において、行政が政治に従いこの枠組みをこえないという意味での中立性である。そうしてこの中立性を守る意味で公務員の活動が制約をうけるということになる。
[40] このように考えてくると、公務員がそれぞれの立場から政治活動が制約されるというのは、三権分立の建前から、この原則を破るような活動が制約されるというのが、この根本原理であると考える。それぞれの部門が他の部門に直接影響を与えるような行動、或いは社会的実質においてこれと同視ないしは似たような評価を受ける行動(1)をとらないということが基本的な理由と考える。このことが国民の側からみれば、この基本原則が犯された場合、特に行政、司法に対する不法等感となつて反映し国民の信頼感を失わせる結果となる。(この場合、公務員の政治活動禁止の保護法益は国民の信頼感であるとしてこれを抽象的に前面にうちだす議論があるが、本来の意味を失わせ本末を転倒する議論である)
[41] 従つて他の部門に影響を与えるような行動が問題になるのであるから、当該公務員の影響力、即ち地位、職務権限の差によつて規制の内容を異つて来るのは当然である。
[42] このように考えてくると、ここで追及さるべきなるは「公務員」が公務員なるが故に「政治的中立」であることが(これは即ち公務員自体に非政治性を要求することであるが)要請されるというのではなくて、それぞれの公務員が、それぞれの職務(公務)を行ううえで、「中正、公平」であることにあるのであり「公務員の政治的中立」と「職務執行の中立、公平」とは、本来同一のものでなく、必然に関連するものでもない。両者を明確に区別すべきことはこれまた近代的に公務員の特質からして当然である。
(1) 今村前掲37頁「行政執行上の病理現象」と説明している。
[43](二) そこで右のような基本原則が現行法でどのように規定されているかを検討し、公務員の政治活動制限の意味を検討してみる。
[44] まず裁判官については、憲法76条3項において「裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ないこの憲法及び法律にのみ拘束される」として三権分立のなかでの裁判官の独立を宣言し、裁判所法52条1号では「国会若しくは地方公共団体の議会の議員となり、又は積極的に政治運動をすること」が禁ぜられている。ここで「積極的な政治運動」とは裁判官が「特定の政党に加入して政党員になつたり、一般国民としての立場において政府や政党の政策を批判すること」は自由と解されている(最高裁判所事務総局編「裁判所法逐条解説」中巻178頁参照)。ここにいう議員となることはまさに立法権に対し司法権が介入することであり、「積極的政治運動」とは右の解釈の限界を超えることが即ち、社会的実質において右と同視される場合にあたるからである。逆に右限度内の政治活動は少くとも法的にはその趣旨からして規制される理由はないのである。
[45] 次に行政部門の公務員については、議会制民主主義の原則そのものにより、政治と行政が遮断され、公務員については、法令遵守義務(国公法98条1項)、職務専念義務(101条1項)、宣誓義務(97条)等によつて法治主義即ち法律の執行に忠実であることによつていわゆる行政の中立性が確保されている(1)。したがつてこの建前が貫かれる限り公務員個人としての政治活動は自由であつてよい筈である。しかしながらなお政治活動が制限されなければならないとすれば、行政の執行上三権分立を犯し又は社会的にこれと同視される行動で且つ行政の執行上国民に対し平等原則を犯すような行為が、これにあたると考える。
[46] これが行政の中立権といわれている内容である。より具体的には、当該公務員の地位、職務権限等により検討されねばならない。
(1) 今村前掲37頁
(三) 公務員の政治活動制限の根拠として主張されている2、3の根拠について
[47](1) 「行政官庁の公正な運営についての一般的な不安、不信、疑惑」を避ける必要を主張するものがある(猿仏事件上告趣意書)。
[48] ここでいう「行政官庁の公正な運営」というのが、具体的な公務員の職務の公平な遂行ということと離れて如何なる目的からこれを保護せねばならないというのか明らかでなく、又これに対する「一般的疑惑」というに至つては、誠に主観的・抽象的な不確定な要素を根拠とするものであつて公務員の基本的人権を制限する根拠にはとうていなり得ない。そもそも「一般的疑惑」なるものは、ある特定の世界観ないし価値判断を前提とするものである。ところが現在の社会においては、様々な世界観ないし価値観が存在する。しかもこれが激しく多様化している現在において一人の疑惑が他の一人にとつては、好感とさえ映る場合もある、しかし民主主義社会においては、これが多数決によつて一定の価値が民主的に選択される仕組みとなつている。にもかかわらず、このような民主的手順を通さずに、客観的事実として表われない「疑惑」という名において一つの価値観を押し通すことになる議論は民主主義社会においては、とうてい通用するものではない。
[49] かつて裁判官が特定の団体に加入することは裁判官の公正さについて「疑惑」を抱くとする議論があつた。しかしこれとても、あくまでもモラルの問題として論じ、疑惑もつて法的に規制する論拠にまではなし得なかつた。如何に法律概念として持ちこむことが、困難であるか想起すべきである。公務員がその職務、地位とかかわりない一般的な表現の自由の範囲内の政治活動をしたことをもつて「官庁の公正さに疑惑を抱く」とする論理は、かかる概念を持ちだすことによつて結局、さきに指摘した「公務員の政治的中立」ないし「公務員個人の非政治性」を導きだそうとするものであつて、これは公務員の「公務生活」と「個人の生活」の区別を否定しあるいは公務員の行政主体と労使の関係を否定する議論であり、結局のところ、身分法的官吏ないし公務員観に基くかたちをかえた特別権力関係論に帰着するものというべきである。かつて戦前のわが国の支配者たちが「中立性」の名のもとに政治的権利をはく奪し、教育、行政、司法にまで超国家主義や軍国主義の政治思想を徹底的に注入しこれによつて教育、裁判内容にまで規制するにいたつた論理に通ずることを想起すべきである。
[50] 日本国憲法はまさにこのような歴史的事実に立脚して、国家権力による国民の基本的人権が侵害されることのないよう詳細な保障規定を設け、その反面では権利の制限は厳格な規制が要求されていることを忘れてはならないのである。
(2) 「行政の継続的且つ能率的運営」「公務員の保護」という根拠について
[51] 右の論拠はいずれもアメリカにおいて猟官制の弊害から、考えられた論拠であつた。右の弊害の経験のないわが国においては実態にそぐわず、公務員の政治活動を制限する妥当な根拠とはいえない(プラカード事件第一審判決参照)。

(四) 判例の立場
(1) 昭和33・3・12最高裁大法延判決
[52] 右の判決は公務員の政治活動を制限する理由として次のように判示する。
「およそ公務員はすべて全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者でないことは憲法15条の規定するところ、国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は国の行政の運営を担当することを職務とする公務員であるから、その職務の遂行にあたつては厳に政治的に中正の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することは許されないものであつて、かくしてはじめて一般職に属する公務員が憲法15条にいう全体の奉仕者である所以も全うせられ、また政治にかかわりなく法規の下において民主的且能率的に運営せられるべき行政の継続性と安全性も確保されうるといわなければならない」
[53] 右判決は、政治活動制限の根拠として「全体の奉仕者」論から直ちに規制の全面的合憲性を認めるものであり、国民の基本的権利である公務員個人の政治的自由の尊重は第二義的にしかとらえられていない(1)
[53] ところが、次の判例法の形成により、「全体の奉仕者」論は否定され、これをもつて労働基本権をすべて否定することは許されないとした。かくて従来の判例の態度を根本的に修正したのである。
(1) 昭和41年10月26日最高裁大法廷判決(中郵事件判決)
(2) 同 43年12月4日最高裁大法廷判決(三井美唄公選法判決)
(3) 同 44年4月2日最高裁大法廷判決(都教組安保6・4判決)
[54] ところで、この後に全農林警職法事件の判決がなされた(昭和48年4月25日大法廷)。右判決に対しては多くの批判がなされているのであるが、しかし同判決といえども公務員の労働者性は決して否定したものではなく、そうである限り公務員の政治活動の自由は否定しているものではない、又右判決の意図はともあれ、「公共の福祉」「全体の奉仕者」の言葉はどこにも出て来ない。代つて用いられているのが、「国民全体の共同利益」ということであるが、この内容は何の説明もないし又憲法15条をあげながら、これを根拠に一切の労働基本権を否定することは許されないとして「公務員の地位の特殊性と職務の公共性」をあげ、「全体の奉仕者」に必ずしも依存してはいない。ここでは中郵判決の示した「制限は必要やむを得ない限度」および「制限の4原則」は正面からは否定されていない。そうして立法問題だとしながらも「公務員中職種と職務内容の公共性の程度」に差のあることは否定出来ない。法理論的には多大の弱点を含むこと否定し難くこの後の下級審判決はこれを否定する判決があい次いでいるのも前記中郵判決の流れを汲む判例法がむしろ今や定着しているといつても過言ではない(昭和48年9月12日和歌山地裁判決、同年10月4日熊本地裁判決、尚同年9月19日東京高裁判決は公共の福祉論を根拠にしているが、「職務論」「必要最小限論」をとつている点では中郵判決の流れを汲む。詳細は後述)
[55] かくて、新しい判例法の展開と呼ばれ且つ定着した判例理論にもとづき(2)近代的公務員制度の到達した理念に立脚した公務員観にたつて、政治活動の自由を論ずべきである。
(1) 今村前掲23頁、佐藤和夫「労働法」季刊85号30頁
(2) 労働法律旬報833号96頁 片岡「公務員が全体の奉仕者としての地位故に労働基本権が制限されていいというのは一種の前近代的身分的な公務員」であると指摘する。
[56] 以上のように憲法は、一般職国家公務員の個人としての政治活動を制限しうることを判定しているとしても、基本的人権の制限であるから、その限度は、前述した意味での行政の中立性確保のため必要な最小限でなければならない。ところが前述したように行政の中立性は特に立法権との関係で相互にこれを犯し、又はこれと同視される行動を慎しむということにあるから、論理必然的に、その行動に出る当該公務員の職務、権限、および、当該行為と職務執行との関連性によつてその範囲が異らざるを得ない。
[57] 問題は行政の中立性であるから、この中立性を全く犯すおそれのないものは問題とならない。この意味で職務執行と関連のない即ち「公務員がその地位を利用することなく、又はその職務執行行為と関連せずに行つた政治活動」は当該公務員が如何なる職務権限を有するかに関係なく制限されるいわれはない(1)
[58] また、職務権限の面からみるに政策又は法律の立案等に参画し、あるいは、行政裁量権をもつて政策または法律の施行を担当する職務権限を有する公務員については前記弊害を防止する意味で何らかの制限は許されよう(2)
[59] ここで特に注意を要するのは、公務員が「現業」に属するか否かがこの場合、如何なる意味があるかである。もともと現業、非現業の区別は、公労法の適用するための政策上の分類、いわば職務の権限の別なくたて割りに区別したものである。又国家の事務を権力的作用と非権力的作用に区別した場合「県業」は非権力的作用に属するといいうる。しかしこの差異も結局は「政策又は法律の立案に参画」、あるいは行政裁量権をもつて政策又は法律の施行を担当する職務権限を有する公務員」が多いか少ないかの量的差異にあらわれるにすぎない。権力的作用ないし一般的統治権の作用に属する職員であつても、その職務内容が「政治的職員」の従属下におかれいる場合においては、その労務の性質が、「機械的労務」であることは、現業の労務とは何ら異るところはないからである。
(1) 裁判所法52条の前掲解説もこの趣旨で裁判官でも「一般的国民としての立場において」は一定の行為は許されるとする。
(2) 本所郵便局事件第一審判決は公務員の政治活動に関する判例中最も理論的に整理されたものとして評価されている。今村 佐藤前掲
[60] 以上考察したところによれば、本件で問題になつている3件の被告人らは、いずれも機械的業務に従事する非政治的一般職の公務員でその行為は職務と無関係になされた選挙活動で、憲法によつて保障された国民の政治的権利の行使であり、公務員がこの種の行為を行うことは行政の政治的中立に何ら影響を及ぼすものではなく、これに人事院規則14-7、第6項13号(猿払事件)第8号(徳島郵便局事件)をそれぞれ適用することは違憲である。
   目次
一、はじめに
二、昭和23年国公法改正に至る経過
 (一) 国公法制定の意義
 (二) マツカーサー書簡と政令201号
三、昭和23年国公法改正の立法過程
四、人事院規則14-7制定まで
五、結語
[1] 徳島郵便局事件に関する検察官の上告趣意は、原判決の違憲審査の基本的態度に誤りがあると主張し、
「国公法102条1項、110条1項を制定した国会も、国家公務員の政治的行為の制限は憲法21条との関係上必要最少限度のものでなければならないということをも当然考慮したものと考えるべきであるから、裁判所が国公法102条1項、110条1項、人規14-7の合憲違憲を判断するに当つての基準はその規定が国家公務員の政治的行為の制限として必要最少限度のものであるかどうかというのではなく、必要最少限度のものであるかどうかについての国会および人事院の裁量権の範囲を明白に逸脱しているかどうかの基準によらなければならないのである」
という。
[2] 最高裁はいわゆる和教組事件の大法廷判決(昭和40年7月14日判決)において、地方公務員法の違憲審査に当つてこの方法によつた。
[3] また、政治的行為の制限を規定するハツチ法に関する、アメリカ連邦最高裁の判例であるミツチエル事件多数意見も、連邦議会の裁量の範囲を広く認める立場に立つ。
[4] しかしこと国家公務員法102条1項、110条1項、人規14-7に関する限り、この方法は適用する余地がない。
[5] なぜならば全くこの方法を採用する前提を欠くからである。その前提とは何か。
[6] 検察官は
「国会も国家公務員の政治的行為の制限は、憲法21条との関係上必要最少限度のものでなければならないということをも当然考慮したものと考えるべきである。」
といい、国会はもてる裁量権を行使したことを前提とする。
[7] ところが、国家公務員の政治的行為を制限する国公法102条1項、人事院規則14-7に関する限り、国会や、人事院が立法者でありながら、占領軍の完全な指示命令のもとに全く自分の意思に関りなくこの立法をさせられ、自ら何の裁量を行いうるような状況でなかつた。検察官はこのことを完全に怠視しておりその点に致命的欠陥を有する。この問題については立法裁量論を採用する余地がなく、裁判所は基本に帰つて憲法を厳しく守る立場から法令審査を行うべきであることを私はこの弁論により論証する。
(一) 国公法制定の意義
[8] 昭和22年5月2日、すなわち現行憲法施行の前日、官吏服務規律第1条が改正された。明治以来の「凡ソ官吏ハ天皇陛下及ヒ天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主トシ法律命令ニ従ヒ各基職務ヲ尽スヘシ」が「凡ソ官吏ハ国民全体ノ奉仕者トシテ誠実勤勉ヲ主トシ法令ニ従ヒ各其職務ヲ尽スヘシ」と改められ、天皇の官吏が「国民全体の奉仕者」となつたのである。
[10] 太平洋戦争が日本の敗戦、ポツダム宣言受諾によつて終つた後、日本は連合軍の占領を受け侵略戦争に導いた諸々の機構は、断乎として破壊されるべきものとされ一連の民主化措置がとられた。
[11] 帝国軍隊は武装解除を受け、侵略戦争指導者は戦争犯罪人として裁かれ、あるいは追放命により追放され財閥は解体され、特高警察は廃止された。これらとともに国民の自由と権利を剥奪し、天皇制の下に呻吟せしめ、羊の如く戦争に狩り立てた巨大な支配機構―天皇制官僚機講も徹底的民主化の運命にあつた。そこで主張された理念こそ「天皇の官吏から全体の奉仕者へ」であり、民主的な改革を求める人々のスローガンだつた。この故にこそ官吏服務規律は改正され、また現行憲法第15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と規定したのである。
[12] このような状況の下で国家公務員法制定作業が進められたが、当時の占領下という特殊な状況が占領軍総司令部特にプレイン・フーバーを団長とする対日合衆国人事行政顧問団の持つ影響を決定的なものにし、国家公務員法原案は実際には同顧問団が作成したのであつた。この状況を、当時同顧問団との接渉に当つた後の人事院総裁浅井清氏は
「昭和22年6月11日、フーヴァー氏が片山哲内閣総理大臣を訪問し彼独特の尊大な態度を演技しつつ、国家公務員法案のくわしい要綱を提出して『修正することなく』、すみやかにこれを法案化して、国会に提出すべき旨をおごそかに申入れた」(新版国家公務員法精義2頁)
と述べている。しかしこの原案から政府案を作成する過程と、その後の国会の審義過程で各界からの反対にあい、当初原案に含まれていた公務員組合の団体交渉権、争議権のはく奪の規定や政治的行為制限規定は大巾に緩和されて成立した。
[13] これに対し、占領軍総司令部はその間フーバー氏が不在だつたこともあつて、強い干渉もないままこの立法を承認した。

(二) マツカーサー書簡と政令201号
[14] このようにして制定された国家公務員法の主要部分は、昭和23年7月1日より施行されたが、1ケ月もしない間に重大な変化が生じた。7月22日芦田首相宛のマツカーサー書簡が発表され、「国家公務員法を全面的に改正して、ここに論議された考え方の体制に適合せしめることが時を移さず着手されなくてはならないと考える」と命じたのである。そしてこの書簡は、施行されたばかりの国公法が「情勢に対処するため不充分であることが明らかになつた。」として改正を命じたのであつた。
[15] 昭和22年から23年にかけて、世界の情勢は大きく変化して、東西の対立がたかまり、特に極東では中国で国府軍の延安攻略作戦に対抗して22年9月中共軍の総反攻宣言以降はげしく動き、朝鮮では大韓民国の建国宣言に対抗するように朝鮮人民民主主義共和国が成立する等して、再び戦争の危機を胎む緊張が高まり日本を取りまく情勢は一変した。こうした状況のもと、アメリカの対日政策は180度転換されて、日本はマツカーサーの目指した「民主的な永世中立国」「東洋のスイス」から、ロイヤル陸軍長官のいう「極東の工業、反共の防壁」(昭和23年1月6日の演説)とされることになつたのである。
[16] 一方、昭和22年の2・1スト中止命令以降一時沈滞したかのように見えた労働運動は、昭和23年に入ると官公労を中心に3月闘争、7月攻勢と昂揚の一途を辿り、書簡が出された7月22日当時は、公務員の労働組合の連合体である「官公労」が5,200円ベースの引き上げを含む諸要求を掲げて政府と団体交渉に入つたが妥結に至らず、7月7日、中労委へ提訴した結果、8月7日から争議権を行使できるという急迫した情勢であつた。
[17] この書簡が、これら労働組合を弾圧することによつてこの情勢を乗り切る為に出されたことは、これに基いて制定された政令201号(同年7月31日公布、施行)が官公労の団体交渉権、争議権を否認し、労働協約を失効させ、中央労働委員会で進められていた給与問題をめぐる調停手続は当然解消されることにしたことにより明らかであつた。
[18] 当時閣議決定でなされた法務総裁の政令201号に関する説明は、
「連合国最高司令官が降伏条項を実施するため適当と認める措置を要求して来た場合には、これを取捨する余地はなくただ迅速且つ誠実に履行すべき国家的義務が存在するのみである。この場合具体的な要求の内容が法律を要する事項であれば国会によつて法律制定の手続がとられるべきであるけれども要求の性質によつては緊急を要するものもあり、或はまた、その他条件によつて、法律制定の手続を踏むことが不可能な場合もあるからあらかじめ、委任による命令制定の途が設けられている。」
と述べている。
[19] また政令201号付則2頁は「この政令は昭和23年7月22日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡にいう国家公務員法の改正等国会による立法が成立実施されるまで、その効力を有する」と規定した。まさに政令201号は、やがて開かれる国会が国家公務員法改正等を行うまでの中間的措置であり、国家公務員法改正は既定の事実とされ、これが行われないことはありえなかつた。
[20] このような背景のもとで国公法改正作業はただちに開始され、一国の基本的制度を決定する重要な法律としては異常なスピードで行われた。

[21](一) 政府原案は総司令部案そのものであつた。
[22] 改正案は総司令部が起案し、これを臨時人事委員会(後の人事院)に極秘裡に翻訳されておいて、総司令部民政局公務員課長となつたフーバーが、政府に対し、修正の余地を認めないものとして突きつけられた(浅井清前掲書6頁)
[23] ブレイン・フーバーはU.S.ステイール、フランクリン・マクビーフ、U.S.シツピング・ボード等アメリカの大会社の人事担当専門家として腕をふるい、やがて1943年合衆国・カナダ人事委員会連合会総裁となつた人で、大資本経営者の合理主義と反組合主義をかねそなえ極めて尊大であつたという。(竹前栄治対日労働政策の研究216頁、座談会国公法制定秘録、人事行政28年1月号)
[24] フーバーは国公法制定時に総司令部を留守にしたため、自分の原案を大巾に修正され、実質上自分が主張していた点、すなわち(1)公務員が多過ぎる。(2)組合活動が勝手に行われている。(3)特に一部高級公務員には国民の奉仕者たることの無理解がある。(4)給与制度が不適当である。(5)強力な中央人事機関の設置の必要等々の構想が入れられなかつたのをかねがね不満に思い、政治的陰謀をめぐらされたとさえ思つていたから、秘かに情勢を窺いながら、改正案を準備していた。したがつてマ書簡が出るに及んで、その実施者となることができたフーバーはこの改正にあたつて彼の構想を貫くために全力を注いだ。その結果、政府に突きつけられた総司令部案はマ書簡が含んでいた争議権、団体交渉権の制限禁止に止らず、何等示唆さえもない政治的行為の厳重な制限と、その違反に対する罰則まで含まれていたのである。
[25] したがつて、このような一国の公務員制度の大変革という重要な問題の法律案作成という大事業に際して普通行われる――「法制審議会」等による諸外国の実例の調査とか、多方面よりの意見の聴取、実情の調査等の基礎的研究を踏まえての検討作業は何等なされなかつた。

[26](二) 第3国会における国公法改正案審議の経過、国家公務員法改正を審議する国会をとりまく情勢も異常づくめであつた。
[27](1) マ書簡を受けた芦田内閣は閣僚の昭和電工事件連座の責任をとり10月7日総辞職し、10月15日、当時議席数151の少数党の民主自由党吉田茂氏が首班に指名された。しかし吉田内閣は国民の信を改めて問う必要があり、いわば選挙管理内閣で国会の早期解散、総選挙は必至であつた。
[28](2) 第3臨時国会は主として国家公務員法改正を審議するため、11月8日開会されたが、吉田内閣は組閣後初の国会であるのに異例にも冒頭の首相施政方針演説を行わなかつたばかりか、翌9日国家公務員法改正関係4法案(公共企業労働関係法、日本国有鉄道法、日本専売公社法を含む)の審議を11月15日までの7日間に終了するよう期限を切つて行うことを求めた。これは結果において延びたがそれでも11月30日に議了しており、審議期間はわずか22日間であつた。
[29](3) 政府原案を策定し、これを審議するため第3臨時国会を召集したのは総辞職前の芦田内閣であり、民主党、社会党、国民協同党の3党は、この連立内閣の与党であつた。その後この政府原案は、殆ど修正することなく第2次吉田内閣により上程されたが、この旧与党3党は政府原案に消極的であり、特に社会党は明確に反対し、後に右3党共同修正案をとりとめるに至つた。
[30](4) この政府案上程の11月9日、臨時人事委員会(委員長浅井清氏)は、公務員新給与ベース6,307円の勧告をはじめて内閣に対して行つたが、これはただちに追加予算を要求する性質のものであり、国家公務員法改正の国会審議とどうしても代償措置の問題を通してからむ問題であり、少数与党の第2次吉田内閣にとつて、この2つを切り離すことは至難であり、しかしこれが解決されなければ国家公務員法改正の早期議了はおぼつかなかつた。
[31](5) 法案の内容についても問題は山積されており、いずれも憲法論議を呼ぶ困難なものであつた。例えば、国公法102条1項の政治的行為の制限の条項は憲法上の政治的自由の問題に深く関連するにもかかわらず、全面的に人事院規則に委任されることになるが、国会の審議にその人事院規則の案すら、政府・臨時人事委員会ともに準備してなく、「大体のまあきわめて簡単な構想」(浅井清の証言)しか示すことのできないという状況であり、到底充分な審議が円滑にできる条件がなかつた。
[32](6) 同法案の審議は衆議院先議で行われ、その審議が終つたのは11月30日であつたが、これだけの重要法案であつたのに参議院において実質審議は行われないまま、同日衆議院送付案通り可決成立した。

[33](三) これだけ世論から攻撃を受け、衆議院で開かれた公聴会においても中立的立場から招かれて公述人となつた末広厳太郎(当時中労委会長)、鮎沢厳(当時中労委事務局長)両氏が、共に反対したような問題が多く準備の足りぬ法案が、何故に少数党内閣の提案であるにも拘らず、21日という短期間に国会で成立したのであろうか。現在の国会の状況等から考えれば到底理解しえないところである。
[34] この謎を解く鍵は、立法当時衆議院人事委員会に政府委員として出席して主として答弁に当つた浅井清氏の証言、著作や労働省の資料等により現在明白になつている。
[35] 当時の立法に当つてなされた国会論議を知ろうとして、各委員会の議事録をひもとく者は、人事委員会の委員長や政府側の答弁に当つた者が「速記を止めて」という言葉により重要論議と思われるところがすべて「虫喰い」の状態になつていることに失望する。この点について浅井氏は、当時総司令部との折衝に関するものは公表がとめられていたので、国会では速記を中止し、或いは速記録から削除していたという。これは占領軍が、占領下において日本の立法と行政が、占領軍の直接の指図によるものでなく、間接統治方式で行われ、日本人自ら選んだ代表の自由な意思により行われているように国民にみせてカモフラージユする為の方便であつたのである。
[36] この速記中止によつて空白された審議の実態はどうであつたのか。
[37] 総司令部のフーバー案がそのまま政府案として、政府案に対する各党の修正が総司令部の許容できる範囲でしか認められず、国会の多数意見さえ怠視されて改正法は成立させられたのである。
[38] 国会審議の最終段階をみよう。11月30日成立を前に29日社会、民主、国民協同の3党は、第98条の団体交渉の容認、第102条第1項政治的行為の制限についてはそのまま変更しない等、政府原案を担当大巾に変更する内容をもつ共同修正案をとりまとめた。当時芦田内閣は総辞職したといえ、この前与党3党を併せると232議席を有し過半数を制することができたのである。しかし当時は修正案を出すについては総司令部側の承認を要するのでその意向を質したところそのままでは認められず、却つて不本意な3党共同修正案を提出することを求められることとなつた。この段階で社会党は、自らの意思に反する共同修正案を出すことは総選挙を間近に控えて政治的自殺行為となるので共同修正を放棄し単独修正案を提出し、原案に反対することにしたところ、民主、国民協同の両党は総選挙対策を考え、それならばということでこれに対し同調することになつた。こうしてあわや社会党単独修正案が成立するかにみえたが、この時総司令部ウイリアムズ国会課長は、国会の社会党代議士会に出席し、総司令部の見解を述べるという形でこの社会党単独修正案を上程しないことを指示し、その後も深夜まで衆議院議長室に止まり、この指示が守られるかどうか監視した。結局社会党はこの単独修正案を提出できないことになつたので、委員会、本会議通じて原案に反対し、民主党が3党共同修正案を提出して民主、国会協同及び民自党が賛成して一部修正の後、30日朝8時に同法案は衆議院を通過し、その日の内に参議院は実質審議をしないまま衆議院送付案通り可決成立したのである。(労働省編資料労働運動史、昭和23年359頁、1182頁)
(一) 国公法改正後公務員労働者を待ち受けていたもの
[39] 国家公務員法改正により、労働基本権と政治的自由を奪われた公務員労働者を待ち受けていたのは極めて過酷な措置であつた。
[40] すでに述べた6,300円の新給与ベースは、臨時人事委員会(後の人事院)によりなされたはじめての勧告であつたが、その実施は財源難により難行し、ようやく実施が決つたときには総司令部の経済復興計画のための9原則が示されていた。この経済9原則を示したマ書簡は断乎として次の様に云い切つていた。
「これはまた日本人の生活のあらゆる面においてより以上の耐乏を求め、自由な社会に与えられている特権と自由の一部を一時的にも放棄することを求めるものである」
「今回の措置が目指している目的について政治的粉争が起ることも絶対に許されないだろう」
「これに対して思想的立場から反対を称えることを許されずその達成を遅らせたり、くじいたりしようとする企図は公共の福祉を脅かすものとして抑圧されなければならない。」
[41] 政令201号で「政治の秋」を感じた国民は、この書簡により「冬」が来たのを知らないわけにはいかなかつた。
[42] この9原則発表と同時に総司令部労働課長は、闘争中の電産、炭労、海員、私鉄、金属、全繊の各組合にスト中止を命じ、もし続行すればスト権を失う恐れがあると脅した。また公務員に対しては勤務時間の延長、すなわち、半ドンを廃止し昼休みを30分にする48時間制の実施、とこうして余つた労働力を整理する行政整理を出してきた。
[43] 昭和24年度の予算定員165万の現業部門は2割、非現業は3割、地方公務員を含めて実人員にして40万の行政整理がみこまれ、失業者はこれと経済9原則により本格化する企業整備関係60万、新規雇入のストツプ、海外引揚等による失業者71万併せて171万人が、昭和24年中に失業するものと2月の閣議は見込み失業対策を立てた。
[44] 国家公務員法改正により労働基本権と政治的自由という手足をもがれ、定員法により首を切られ、遂に三鷹事件、松川事件等を通じて闘う労働組合を破壊された。しかも定員法は御丁寧にも附則5項において「国家公務員法第89条から第92条までの規定は前2頁の規定により降任され又は免職された職員については適用しない」と定め、行政整理を「円滑に進めるため」審査請求を認めず、また公労法適用の組合について団体交渉や苦情処理の対象から外して切捨て御免にしてしまつたのである。

[45](二) 人規14-7はすべて総司令部が準備した。
[50] 改正された国家公務員法102条第1項の空白を埋めるための人事院規則制定作業は、法改正後直ちにはじめられた。この作業の経過は当時総司令部側と交渉に当つた浅井清氏が、自己の体験に基づいて改訂した新版国家公務員法420頁以下に詳しい。これによれば人事院規則14-7は最初から最後までフーバー氏のイニシヤテイブで進められ、
人事院側は「こういうと一体人事院自身は、何をしていたか、人事院自身の案は、なかつたのかという疑問が起るであろうが、人事院は、事の重大性に鑑み、慎重に案を練つていたのに、司令部の方から、次から次へと案を出して来て早急の制定を迫られたのが実情であつた。」(前掲書431頁)。
要するに刑罰規定であるから構成要件的に明確化しようと努力したが、圧力に抗しきれず、現行規則14-7という形で公布、施行されたのが実態である。
[51] 人事院側が自ら制定者となつているにも拘らずこれに不服であつたことは次の諸点から明白である。
[52](1) 人事院はこの規則制定後、ただちにこの規則の「運用方針について」という事務総長通牒を出したが、それは「この規則を乱用しないことを第一義としてなるべく、強くしぼつて解釈して来た。」(前掲書458頁)そして、例えば政治的目的第5号の「政治の方向に影響を与える意図で」とあるのを「日本国憲法に定められた民主々義政治の根本原則を変更しようとする意思」とし、最底賃金制確立、産業社会化等を主張し、反対する等はこの「意図」に当らないとした。真に適切な解釈であるが、これは正に限定解釈であり、その条項を適正なものと信じて制定したものの採る態度ではなかつた。
[53](2) 政治的行為第5号に「政党その他の政治的団体の役員、政治的願問その他これらと同様な役割をもつ構成員」となることが規定されている。しかしこれはすでに法102条3項で禁止されており、これを改めて規定する必要はない。法の正文が禁止しながらも罰則の適用を除外しているものを規則で罰則をつけることのできないことは明らかである。浅井氏は「フーバー氏等の主張に押されてこれを規則14-7に取りこんだ筆者らの誤りであつた。」と認めて不満を表している。
[54] 国公法改正自体を自分の思う通りに行えた総司令部にとつて野党も国民もいない密室で人事官3人を思い通りにして規則を作らせることは困難なことではなかつたのである。
[55] これまで述べて来たことにより、昭和23年11月30日成立した国家公務員法の改正と、その102条第1項にもとずき制定された人事院規則14-7の立法過程は明らかになつたと信ずる。法改正は米占領軍総司令部の圧力により、国権の最高機関たる国会で多数派による修正案提出まで潰して成立したものであり人事院規則は国民の組織的反対が不可能な状態を作り上げた後人事院の意に沿わないものを制定させたのである。当時法制的にも国会や人事院は占領軍の指示したことに背くことはできず、裁量の余地は何等なく、ひたすら命ぜられたことを実行するのみであつたし、また占領軍は超憲法的な権力であるということで、その指示の内容が合憲的であるかどうかについて考える余地もなかつたというのが実態である。だからこれらは典型的な占領立法であり、内容が国民の意思によらないばかりでなく占領軍の指令の内容そのものにこれまた指令により法律あるいは人事院規則という法形式を附加したものであつたから、占領終了とともに改めて検討されねばならなかつたものである。
[56] もし、これが政令201号の如くポツダム勅令という形をとつていたならば改めて検討されていたであろう。ところが、占領軍の指令により法律或いは人事院規則の法形式をとつたというだけで、その後社会情勢も一変したにもかかわらず旧態依然としているのである。
[57] 残念ながら一旦でき上つた法令は、一人歩きし立法時から4半世紀たつたにもかかわらず変更されていない。しかし、この間国会や人事院がこれを変更しないことをもつて、占領軍の指示により国会や人事院が立法をしたものが後にこの期間の経過だけにより審査しなおされているということはできない。
[58] 国会であるいは人事院でその後この問題が一度でも具体的に問題になり実質的審査がなされたであろうか。一度もないのである。しかし、国会という複雑な政治的な場の状況をそのように単純にいい切ることができないことは、一寸考えれば誰にもわかることである。
[59] 一旦定められて実行されて来た制度はそれが如何に不合理でもそれを変更するためには莫大な力を要する。しかもそれが重要な制度であればある程困難である。
[60] 最高裁は刑法の尊属殺人の規定は違憲であると判決した。しかしこの問題は比較的単純と思われるのに国会は未だに立法的解決をしていない。そのため種々混乱が起っている。同じことが政治的行為の制限についてもいえる。
[61] このようにして作られた法律や、人事院規則が憲法21条との関係上必要最少限度のものでなければならないということが考慮されていないことは明らかであり、立法裁量論をとる余地は全くない。
[62] このように立法機関が予め立法にあたつて、憲法適合性について審議することすらできなかつたのであるから、裁判所に今求められているのは、このような不幸な時代があつたことを直視して、この憲法適合制審査を回避したり、他人まかせにしたりせず、自ら憲法の守り手として本来の任務を断乎として実行することである。そうしなければ、国公法102条1項、人規14-7についてはこれまで誰も憲法適合制についての判断をしなかつた。そしてこれらについて凡そ判断したのは26年前の米占領軍だけだつたということになるからである。
[63] わが国の立法機関も、また裁判所も自国の公務員制度の憲法適合制について26年前の占領軍が決めたことがあるからといつて、これを遵守し、自ら実質的審査をしないとすればそれは完全な自主体性の放棄である。
[64] アメリカの判例理論を批判的に摂取せずストレートにただちに引用するのも問題だが、直一層問題なのはこのようにアメリカ軍の決めたものを立法裁量権ということで回避するとすれば問題性は段ちがいに大きい。
[65] 最高裁は主体性をもつて独自な立場から何が合憲的な立法目的たりうるか、そして違反者に対する合憲的な制裁はどのような種類と程度が許されるかを明らかにする責務を国民に対して負つていることは明らかである。最高裁がこの責務を立派に果たされることを求めて弁論を終える。
[1](1) 昭和24年10月14日付の、当時の連合軍最高司令部民政局公務員課長代理ピーアス・マツコイの声明というものがある(1)。それは20数年後たつた今日、この法廷で争われているところの現行国家公務員法上の政治活動の制限についての、実質的な立法者側であつたGHQの唯一の、かつ公式的な声明である。同声明によれば、この国公法102条とその関連規則は、国会と人事院が「公務員を保護したいという親心から作つたものであり、国家公務員の権利を制限するものでない」と日本人民に教えさとしたものである。今日われわれの目からみてかかる奇異かつ非常識な声明が何故に出されたのか(2)。これは、本件を解明する上での、一つの重要な鍵である。
[2](2) 相弁護人が詳述するように、現行国家公務員法は、当時の米国の極東軍事政策の必要にもとづく占領立法であり、GHQのフーバー長官の圧力の下に日本の国会の実質的審議の行われないまま制定されたという生いたちをもつ。しかしその中でも、ことにこの政治活動禁止の制度は、法改正の実質的な根拠とされた、いわゆるマツカーサー書簡にも含まれていなかつたものであり(3)、フーバー長官の改正案の中に突然現れて来たものであつて、当時の日本側立法担当者を困惑させたものの一つであつた。
[3] その後の米国法政の研究により、このフーバー案が実はアメリカの1939年法、1940年改正法、その9条および15条の引きうつしであることが判明した。しかし、単に米国に母法がある以上やむを得ないという考えに流され、その比較法的分析がなされないまま時が過ぎ、猿払事件の第一審を契機として、始めてその根本的な問題が彫り下げられることになつたのである(4)
[4](3) 国家公務員一般について、その政治活動に何らかの規制を必要としないかという問題は、近代的政党政治をもつ西欧諸国において、いずれも共通のことがらであつた。各国の事情により、ドイツ型、フランス型、イギリス型というようなそれぞれのタイプの一定の規制が今日確立している(5)。しかし米国における公務員の政治活動の規制は、他国ときわだつた特異性をもつているのであつた。殊にそれのみを目的に制定された単独立法としてのハツチ法のような法は、―その規制の範囲・対象・内容の広汎厳格な点で―他国に例をみない。これはまさしく同法が米国の特異な風土・歴史・社会・政治情勢の上に必要とされて誕生して来たものであることを物語る(6)
[5](4) しかしながら、われわれは、このフーバー案に先立つ合衆国人事顧問団の報告は、ハツチ法と必ずしも同一のものでなく、旧国家公務員法にみあう内容のものであつたことを想起する必要がある。何故に、このわずかの期間の間に、内容の異つた2つの公務員政治活動規制法案が、米国占領軍司令部内に存在したのか。このことを検討することによつてのみ、前記マツコイ声明の意味を理解し得るし、米国公務員法制の日本法への移植が正しいものであつたか否かが、判断し得るのである。
(1) 「公務員」11月号7~11頁、26頁
(2) 「憲法が日本人一般に認めた政治的自由を禁止又は制限される理由が未だはつきり納得されていない」「マツコイ氏も指摘していたようにこの規則が公務員を政党の影響から保護する、つまり公務員の利益のために制定せられたという一面もあるのだといつてもそれは合点が行かないのではないかと思われる」と述べられるのは蝋山政道「公務員の政治活動の制限について」法律時報21巻706頁。また「同法制定の経緯からみて、この規定は職員を各種の政治的圧力から保護するというよりはむしろ職員の労働運動、政治活動を規制することを主要な目的としていた」とするのは外間寛「公務員の政治的行為」行政法講座第5巻「地方自治・公務員」221頁
(3) 1947年4月24日に合衆国人事顧問団が司令部に出した報告では「職員は非政治的に行動しなければならない。職員は投票権とその選択する政党に所属する権利をもつが、政党もしくは政治的目的のための会費、寄付金もしくは献金を求め又は受領してはならない。何人も政党又は政治的目的のために職員から会費寄付金もしくは献金を求め又は受領し、もしくはこれらの行為に関与してはならない。職員は公選による公職の候補者となつてはならない。職員は政党又は政治的団体の役員になることは出来ない」(第4部第5、基準第3)とあるだけであつた。そのため旧国公法102条は、ほぼこの通り「職員は政党又は政治的目的のために寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らかの方法を以つてするを問わずこれらの行為に関与してはならない。職員は人事委員会規則で別段の定をした場合を除いては公選による公職の候補者となることが出来ない。職員は政党その他の政治的団体の役員となることが出来ない」というものであり、現行法の政治活動の禁止条項の部分がなかつた。
(4) 園部逸夫著「現代行政法の展望」(52頁以下はこの間の経緯を指摘する。)
(5) 諸外国の法制と対比し、ハツチ法よりきびしいわが国の法制につき「法律に違反した者に一律に同じ刑罰を科するような不合理な立法はおそらく民主主義の発達した国家では日本をおいて他にないのでなかろうか」とするのは芦部信喜「公務員の政治活動禁止の違憲性」判例評論519号112頁。なお本猿払事件第一審の同教授の鑑定書および今村成和教授の証言に外国法制の紹介がある。
 英国公務員の政治活動については、三島宗彦「公務員に対する政治活動の規制」野村還暦論文集319頁以下。
(6) 注(3)参照。なお、この顧問団と国公法成文との比較については、岡部史郎「公務員制度の研究」有信堂刊がくわしい。
[6](1) ハツチ法は、米国において、近代的公務員制度が生れて来る、いろいろと変遷した政治過程の中で、過去の政治のリアクシヨンとして生れたものである。ことに、今日でも依然として続いている米国憲政史をいろどる「大統領と国会の間における権力闘争」の副産物として生れた制度である。ハツチ法は猟官(スポイル)制度を防止するためのものだと、しばしば説明されている。しかし、これだけでは歴史の誤訳的単純化であり、むしろ日本においてことの本質を誤解させる。何故なら、米国において、一つにはスポイルシステム自体が、一時代にあつては必要とされたそれなりの合理性をもつものだからである。また猟官制防止にむけられたと称される法体系の中に、ハツチ法とならんで後述のペンドルトン法があり、両者に大きな断層があるばかりか、ハツチ法は純粋に猟官制防止という目的でないものも含んだ法だからである。
[7](2) 米国の政治史を一度でもひもといたことのある者なら、米国の人事行政の変遷を語ることが米国の政治史そのものを語ることを意味するのを知るだろう。米国の政治構造の基本的形態を決定した1787年の合衆国憲法は、当時の複雑な諸勢力の妥協の上に生れたといわれる。
[8] その諸勢力の抗争とは、一つは1776年の独立宣言の理念にもえる人民主権派と、当時の不安定な政治経済を安定させる統一的な政治機構の確立を切望した80年代の実利派の対立である。他の一つはいうまでもなく連邦派と分権派である。その結果、まず重要な国家機能が連邦政府と州政府に分属され、さらに国会の中においても人口比率で選出される議院構成の「下院」と、州別の発言権を確保するための「上院」という二院制が実現される。他の一つの特徴は、人民主権派の説く立法部の優越を牽制するために、当初予定されていた議院内閣制が放棄され、独立で強力な権限をもつ行政府の首長たる大統領制が作られたということである。
[9] このような政治的妥協から生れた典型的な権力分立型の政治機構は、どのような影響を公務員制に与えたか。結論的にいうならば、行政部門に「大統領」と「議会」という2つのボスを頂く宿命を負わせたのである。そしてこれこそが同時に、猟官制の出現を必然的にしたのである(1)
[10](3) 議院内閣制を基礎にしない米国の大統領は、その政策を遂行する上で直接議会の支持を期待できない。立法府の拘束から解放された代償として、その支持を不断に求め得る保障を失つた。したがつて大統領は自己の政策実現のためには、有力な肢足というべき信頼のおける人物を行政機構の各ポストに配置するということが、不可欠の急務にならざるを得なかった。米国歴代の大統領が、その就任に際して常に大量の公務員を更迭して来たのはかかる事情にもとづく。
[11] 史上、公正と称され、猟官制の弊風を免れた唯一の大統領とされるワシントンすら、「政府の遂行する諸政策に反対する政治的信条の持主には公職を拒否する。そうしなければ一種の政治的自殺になる」という書簡をのこした。そして、この思想が歴代大統領に継承され、猟官制を生みだす有力な思想的淵源となつている。また、われわれの知る偉大な大統領リンカーンは、それまでの大統領の中でもつとも大量の公務員の更迭――実にその任免について裁量権をもつ公職1639のうち、1457という大規模の追放政策を断行した経歴をもつている。もつと近代にいたつて1933年に米国の政治を一変させたニユーデイール政策を実施したF.D.ルーズベルトは、1年の内に実に約20万の公務員を資格制から除外したのはあまりにも有名な事実である。
[12](4) 大統領の地位と並んで米国の政治史をいろどる他の一つの特徴は、2つのボスの存在の故に、この国の政治機構において「政党」の占める役割が異常にまで強化されたということであろう。議院内閣の下でも政党は存在する。しかしそこでは、政党は立法府を支配するだけで間接に行政府に影響力をもつ。二元的な政治機構をもつ米国では、立法と行政と各2部に対して、それぞれ政党の意思を反映させざるを得ない宿命がある。いいかえると、対立する立法部と行政部の中から、一元的な国家意思を創出するためには、これを媒介する機関が要求されたのであり、この役割を果したのが、実に政党であつた。プライスがその著書「アメリカ共和国」の中で米国の政治機構において、政党は「機関車における蒸気の地位」に匹敵するという意義をのべたのは、かかる事情を指している。この政党と行政との過度の接触が、情実任免と猟官制を生んだのもまた歴史的必然であつたのである。
[13](5) このようにして、その政治機構自体の中に猟官制の誕生を胚胎した米国公務員制度は、ジエフアソン大統領からジヤクソン大統領の時期にいたつて猟官制の確立期をむかえる。
[14] 民衆の圧倒的支援のもとに1829年大統領の地位についたジヤクソンは、「ジヤクソン的民主主義」といわれるところの、米国政治史上一つの新しい紀元を劃したと評されている。彼は、「民主制の具体的制度化とは一切の公職をすべての民衆に開放することであり、逆にその地位を固く保障された公務員層の出現はアメリカ民主制の危機である……。」いいかえると、「公職の地位を左右するのは、ひとりアメリカ民衆のみであるという民主主義の理念」を固く信じていた大統領であつた。彼がそのように考えるにいたつたのはそれなりの政治信条、1830年代を中心とする合衆国の社会状態と彼のおかれた環境があつた。1820年から30年にかけて米国の歴史を特徴づけるものは西部の拡大発展と、それにともなう人口の増加である。激変する旧大陸から莫大な移民が米国の無限の穀倉である西部に流れこみ、それがヨーロッパに対比しうる文字通りの新大陸、新興国家を形成させた時期であつた。この西部新興勢の地盤を代表するのが彼だつたのであり、その政治信条はその西部的環境から生れたものに外ならなかつた。またその東部と西部の人口比率の変化というものが、従来のヴアージニア閥といわれる東部出身者で固められていた官界で、西部の小農・小市民におきかえ、公務員の質的転換をとげさせる劇的な更迭策を必要とさせたのである。
[15](6) このようにして確立した猟官制は、1845年代から南北戦争の時代を通じ、民主・共和の二大政党の発展に伴つてはげしさをまし、大統領選挙が公職の争奪という観すら呈したのである。しかし、それは決して単純な、利益追及だけのものを意味しなかつた。例えば、先にのべた大統領リンカーンが、何故大量の公職追放策を断行したか。1861年に彼が就任したときは、奴隷問題と南部諸州の脱退権に関する内乱の前兆期であつた。彼は彼の確信する奴隷制廃止・連邦維持を遂行するためには、何をおいてもまずその政策を妨害する障碍を打破しておかなければならなかつたのである。彼が今日いわゆるメリツトシステムを採用していたら、あの激烈な内乱期に北部を統一して勝利をおさめ得たかは疑問である。彼がそれを必要とする程、当時の公務員が党派性をもつていたのであり、猟官制はそれなりの政治的意義をもつていたのである。彼の政策こそ、猟官制に内在する民主的公職と、同時に腐敗公職のあり方を象徴するものに外ならなかつた。
[16](7) ここで、これ以上猟官制の歴史の詳細を論ずる余裕はないし、また必要もないだろう(2)。しかしわれわれは、日本の公務員制を検討するに当り、まず米国がかかる歴史的条件から生れた猟官制を克服する必要があつたということ、換言すると米国におけるメリツト・システムの確立と、特殊な政治活動規制の誕生には、こうした特殊な歴史的・社会的背景が存在したことを知る必要がある。そして、日本にはたして同じような社会的基盤が存在するか否かを考えなければならない。かかる法の基礎となる社会的事情の差というものについての、比較法的検討を抜きにしては、法の正しい解釈はなし得ない。それを無視した形式的な条文解釈は、問題を根本的かつ合理的に解決することにならないだろうし、法と司法の権威を高めることにならないであろう。
(1) 猟官制発生の原因を憲法構造との関連で説くのは、辻清明「アメリカ公務員制」比較政治叢書1勁草書房刊1956年5頁以下。
(2) アメリカにおける公務員制度の発達とスポイルシステムの関係については、Mosher, Kingsley & Stahl, Public Personnel Administration, 1950,465頁以下。
White, Introduction to Study of Public Administration, 1949,458頁以下。
[17](1) このような歴史をもつ猟官制は、19世紀末における米国経済における独占資本の前進とともに金権政治の餌食になりその弊害を顕著にするようになる。その弊害としてあげられたものを指摘すれば、(イ)完全なる能率の喪失、(ロ)行政費の莫大な浪費、(ハ)不要公職の濫設、(ニ)綱紀の紊乱、(ホ)任命昇進をめぐり大統領と上院間の確執の増加、(ヘ)大統領や行政長官側の猟官者対策のための時間と労力の浪費……などであつた(1)
[18](2) ことに当時における政党組織の変貌は、「投票獲得」と「政治資金調達」とにすぐれた企業的手腕をふるう職業的政治家、すなわち「ボス」の跳梁するところとなつた(2)。スポイル・システムもこれらのボスによつて操作された。例えばその政治資金調達方法を例にとれば、次のようなものであつた(3)
[19] 第一に、資金調達者に対する官職配分。これは関僚にまで及んだ。この傾向はやがて指名をうけるために、その任期と地位に応じて一定の資金を払わなければならないところまで進む。ニユーヨーク州の場合、その額は判事が1万5千ドル、上院議員4千ドル、州立法府議員が1500ドルだといわれている(4)
[20] 第二に、官職保有者に対する、その給与に応じた政党への献金の賦課。この慣習は内乱以前にもあつたが、内乱後ことにその額と規模の点において増大するようになつた。その徴収は名目的には自発的とされていたが、事実上は更迭される脅威があつたため強制に近いものであつた(5)。グランド、ヘイズの両大統領はその在任中しばしばこの種の賦課を禁止する命令を出したが死文化に終つた。1883年のペンドルトン法も禁止条文をおいたが、それは官庁内だけのものであつた。そのため実際には家庭訪問で徴収が行われ、官庁へ郵便で督促すらすることもあり、実効をあげ得なかつたといわれる。
[21] 第三は、官職の党利的運用(6)。ニユーヨーク関税収税官について、ヴアン・ビユーレンの時代にすでにその党利的運用が指摘されているが、内乱後は国内の収税官から消防庁の吏員にいたるまで官職の党利的運用はきわめて顕著であつたといわれる。政党はこの官職の党利的運用によつて利益を得たものから再び政治資金を調達したのである。
[22](3) こうした弊害の実情、こうした社会的慣行が日本の社会――公務員制をめぐつて――存在しただろうか。本章のはじめに指摘した合衆国人事顧問団の報告書の内容が(7)、こうした弊害防止のためにふさわしいものであつたことを想起する必要がある。
(1) 辻清明「アメリカ公務員制」前掲書26頁
(2) M.Weber, Politik als Beruf, S.429. 邦訳「職業としての政治」西島芳二訳岩波文庫65頁
(3) 阿部斉「民主主義と公共の概念」第4章アメリカ民主主義の展開398頁以下
(4) C.R.Fish, The Civil Service and Patronage, Cambridge, 1904, P.180
(5) M.Ostrogorski, Democracy and The Organization of Political Parties, London, 1902, Vol.1: II, P.144
(6) スポイルシステムにおける官職の党利的利用については、C.E.Merriam, The American Party System, New York, 1922, P.164-178
(7) 本弁護人の本意見陳述一の注(3)参照。
[23](1) こうした猟官制の弊害を克服するために考えだされたことは、公務員の任免を政党的隷従から解放することであり、そのために公務員制度を資格任免(メリツト・システム)の基盤の上に確立することであつた。
[24] 南北戦争後、この国における産業の顕著な発達は、73年代の恐慌を通じて経済分野における巨大な独占資本を誕生させた(1)。と同時に大衆的な選挙制度を基礎にした二大ブルジヨア政党制が確立されるに至る。他面、労働騎士団・総同盟・AFL等の労働団体が生れ(2)、資本と政治との癒着を攻撃し国家機構の改革を目標とする人民党の運動が展開されるようになる(3)
[25] こうしたこの国の社会的基盤の変質は、同時に大統領行政府の比重を増大させ、いわゆる職能政府Service stateの形成を必要とさせる。そしてそれが、恒常的な国家機能の専門的な担当者――新しいタイプの専門的公務員制度の確立をうながしたのである(4)。ここでは行政が政治と別のものであるとする観念が生れ、メリツト制公務員(全連邦公務員の過半数をしめるまで増大するにいたる)は、統一的・画一的に科学人事行政に服しなければならないという思想が現れて来る。こうした思想を背景に、1853年の改正法、1863年のジエンクス連邦議員の改革案、1871年および1876年の公務員任用法などを経て、1883年にいたり、いわゆる「ペンドルトン法」(正式名称は、CIVIL SERVICE ACT,1883)が制定されるにいたるのである(5)
[26](2) この米国公務員法、つまりペンドルトン法は、猟官制の防止と、固定した公務員層を志向するものとして、米国公務員制度の歴史の中で画期的な法律と評価されている。まさしくメリツト・システムの確立である。もつとも、同法も、一猟官失意者によるガーフイルド大統領の暗殺という悲惨な事件のシヨツクがその制定の直接的な契機であつた。
[27] また、1882年の下院における民主党の勝利によつて、その勢力の低下を危惧した共和党が、既往の公務員の中につちかつていた勢力を温存するために民主党による大量更迭を防止するために制定されたといわれている(6)。同法の特色は、(イ)政党的抗争から中立である人事委員会の確立、(ロ)公開競争試験制の採用、(ハ)分類職の確立と拡大、(ニ)公務員税と称される公務員の政党資金供与と政治活動の禁止等を明白に規定したところにあつた。
[28](3) このうちの本件で問題となる「政治活動の規制」に関していえば、それは、(a)政治的任命職公務員による下級公務員への党派的強制行為の防止、(b)下級公務員の身分保障と政治的自由の擁護、(c)地位または職権の濫用行為の禁止に限られている。すなわち、同法は「公務員は政治資金の寄付または政治的奉仕の義務を負わず、その拒否を理由に免職され、または不利益を受けない」(Sec.2,2,5)と規定し、かつ、「公務員は、いかなる個人または団体にたいしても、政治的行為を強要するために職権または公的影響力を行使してはならない」(Sec.1,2,6)と規定していたのである。そのため、これを受けて「公務員規則」(The Civil Service Rule)が制定されたが、この規則も、行政部公務員は選挙に干渉し、またはその結果に影響を与える目的のため、職権または公的影響力を行使してはならないとすると同時に、採用にあたつて、政治的宗教的見解または関係を理由として差別してはならないと規定していたのである。
[29] このように、この時期における公務員の政治活動規制は、前述の如き猟官制の弊害の直接的な防止にむけられた規定だつたのであり、いわゆる破廉恥的乃至は腐敗的な性格をもつ行為を禁止することに止つていたのである(7)。なお、この規制が、この種の地位・職権濫用行為に限定していたのは、合衆国憲法修正第1条との抵触をさける配慮が払われていたためである(8)
[30](4) この当時のこの法律について重視すべき他のもう一つの点は、同法が公務員の政治的自由および身分保障の目的をあわせもつていたことである。事実、同法は多くの下級公務員が政争の葛藤にまきこまれることをふせぎ、日常のわずらわしさと地位をおびやかされる不安から守るのに役だつたといわれる。
[31] 本章冒頭で指摘した、合衆国人事顧問団が昭和22年4月連合軍総司令部に提出した報告書は、まさしくこの時期のペンドルトン法の内容に見合うものだつたのである。またこの間の経緯を知ることにより、ピーアス・マツコイの「公務員を保護するもの」という声明も理解することが可能になるのである。
[32](5) ところが、この猟官制の腐敗の直接的な除去のみを対象にしていたペンドルトン法も、その後その進路を大きく右旋回させるような事態が発生する。
[33] すなわち、1902年、および1907年にいたつて、ルーズベルト大統領が人事委員会宛書書簡および大統領執行命令(Exective Order 642, June 3, 1907)にもとづき、この人事院の「公務員規則」の中に修正条項の挿入を要求するにいたるのである。それは「分類職公務員は、自己の意思にもとづき投票し、すべての政治的事項について見解を表明する権利を保有するが、政治的運営または政治的活動に積極的に参加することを禁ぜられる」という趣旨のものであつた(9)。このような従来の猟官制防止と趣きを異にする規則の挿入は、当時の言論抑圧令Gag-orderに抵抗して活発なロビー活動と政治活動を展開する公務員組合に対する対抗策という強度の政策的色彩をおびるものであつた(10)(11)。そのためこの書簡を受けた人事委員会も、「かかる書簡の示す規制より正確な規制基準が採用されうるなら、この規制は正当とはいえないという約束を常に保留すべき」という声明を出した上、かつ5年後になつてようやく規則を改正したのであつた(12)。また連邦公務員制における科学的人事政行の確立を強く主張していたL.メイヤー氏においてすらも「非政治的職員に対し政治生活において他の市民と同様の積極的参加を否定する論拠を認めることは不可能である」という前提の上で、現状のような管理的公務員の任免が党派的見地から行われ、昇任降等などの合理的な人事手続が発達していない現状においては、かかる措置も一つの必要悪として認めざるを得ない」と嘆かせたところであつた(13)
[34] ところがその後、この人事委員会が行政組織と癒着する過程の中で当初の精神を忘却し、明確な理由もないまま、広汎な禁止類型を作りあげて行く。これを制定法文に組み入れたのがハツチ法なのである(14)
(1) 神野璋一郎・宇治田富造「アメリカ資本主義の生成と発展」青木書店刊。南克己著「アメリカ資本主義の歴史的段階」。石崎昭彦著「アメリカ金融資本の成立」東大出版等参照。清水知久「アメリカ帝国の形成」(岩波講座世界歴史)
(2) ボイヤー・モレース「アメリカ労働運動の歴史」岩波書店、雪山慶正訳。Marc Karson, American Labor Union and Politics.
(3) アンナ・ロシエスター「アメリカ農民と第三政党」有斐閣、山岡亮一・奥井正美訳
(4) 辻清明「アメリカ公務員制」29頁。辻清明「現代官吏制度の展開と科学的人事行政」国家学界雑誌56巻・5号63頁以下。杉村敏正「米国公務員制度の研究」有斐閣。阿利莫二「合衆国における職能政府の形成」法学志林51巻2号、55巻1号。
(5) ペンドルトン法とその制定の経緯については大久保史郎「19世紀末における米連邦公務員の政治活動規制」法政論集56号43頁以下が詳しい。
(6) 辻清明前掲「アメリカ公務員制」31頁。
(7) 検察官はその上告趣意書で「アメリカの連邦刑法典により刑罰の制裁をもつて臨まれる公務員の政治的行為の中には、国公法102条、人事院規則14-7によつて禁止される政治的行為に近いものも含まれている」と主張している(四―(一)項末尾近く)。しかしながら、本文で説明した1883年のペンドルトン法中、上下議院を含む全連邦公務員または市民をも対象として猟官的行為を禁止した第11条乃至14条が、自然犯的・破廉恥的性格の行為を対象とするものであつて(規制対象も公務員だけでない)、公務員制度上の制約と異質なものであつたため、1910年に分離して、刑法典に編入されたのである。(1948年に更に整備拡張されて現行法になつている)検察官の主張はかかる法整理の経緯を無視したところから生じた誤解であろう。
(8) この法の制定の前年に、1876年法(猟官制的行為の典型とされる公務員相互の政党賦課金徴収行為を禁止したもの)の合憲性が最高裁で争われていた。(Louthan v. the Commonwealth, 79 Va, 196. 1884, 19th Report of the C.S.C. 146-147)同判決は、「公職はいかなる条件をも課し得る信託である」という司法省側の主張をしりぞけ、修正第1条との抵触の可能性を認めた上で、同法の具体的規制方法も問題にしている。
(9) ルーズベルトは、かかる修正の必要な理由として、その書簡で次のようにのべている。「これまでの規制態様では、拡大した行政組織の実情に適合しない。規制行為基準は、政治的任命職については従前通りであるが、分類職職員につていは任期の固定性と政治的考慮に左右されず任用される故に、投票権と政治的見解の私的表明以外の積極的な政治的活動は禁止される。その理由は判事・軍人兵士・警察官が、かかる積極的政治参加を禁止されるのと全く同じ理由による。……」と。
(10) 当時メリツト制公務員の過半数をしめていた郵便労働者は、社会的・経済的条件の改善を求めて活発な運動を展開していたが、その手段は主としてロビーイング、請願、立法推進活動であつた。これは言論抑圧令GagOrder に抵抗するものであり、アメリカ公務員労働運動史上劃期的な脱皮とされている。この間の事情は、金子宏「アメリカにおける公務員の労働基本権について」ジユリスト463号参照。なお、W.D.Foulk, Fighting the Spoilsman, 1919. P.197. S.D.Spero, The Labour Movement in a Goverment Industry. 1927. P.96参照
(11) W.D.Foulke, Fighting the Spoilsman, 1919, P.197. S.D.Spero, The Labour Movement in a Government Industry 1927, P.96.
(12) W.D.Foulke, Op.cit., P.178.
(13) LeWis Mayer, The Service, 1922. P.164-7.
(14) アメリカの政治のうえにスポイルズシステムをもたらした主原因は、「公務員の政治活動でなく、政党活動の資金を他にもとめて来た伝統的政党運営の方法、終身雇用の権利をもつ職業官僚に対する国民一般の不信感と懸念、および公務員組織に対する低評価等の事由に期すべきである」とするのは、Godin, The Labour Problem in The Public Service, 1951. P.189.
[35](1) ペンドルトン法を先駆にした米国公務員制の改革のこころみは、分類職の拡大と政党との隔離という2つの極を中心に展開を続ける。(1920年退職法、1923年職階法、1907年大統領執行命令等)
[36] ところが1929年にこの国を襲つた大恐慌はこの国を激動の中に陥れ、局面を一変させる。この異常現象に対処するため、資本の補強と失業救済を主目的とする職能国家の形成が急務とされ、そのためにとられた劃期的政策が「ニユー・デイール」であつた。この緊急措置を遂行するため膨大な専門職員が誕生する。この時代における緊急機関の濫設は、12年間雌伏を余儀なくされていた民主党の勝利とあいまつて、上昇の途をたどつて来たメリツト・システムの歩調は中断され、猟官制の復活の如き気運を呈するのである(1)
[37] こうした政治的必要から生じた行政改革への反動は、かえつて行政部の自己反省や改革論者の再反動をまねき、1937年の大統領の行政管理委員会作成の大規模な「行政改革案」、1938年の連邦人事局設置、郵便局長法、1940年のラムスペツク法などが生れる。
[38](2) こうした背景の中に1939年生れたのが「ハツチ法」である。同法は従来の分類職に限定した政策服従を政策決定にあたる官職以外な一部に官職にまで拡げた点で独自の意義をもつとされる。すなわち、「政党の指導者や機関が、公務員に対して資金の供与や政治運動への介入を強制すること」を禁止するとともに、同時に、公務員の自身の側においても、「自己の権限を濫用して選挙運動へ干渉したり、政治運動や選挙戦に没入すること」を仰制するのを、その制定の限目とするものだつたのである。従つて、官職に対する政党的支配の危険除去に成功したといえ、他面、公務員の政治的権利が主として投票と言論の自由に限定されることになり、公務員が本来保有していたその市民的自由を奪う危険を生むことになつた。
[39] ことに、同法を州レベルの公務員にまで拡大適用するために修正した際(1940年改正)、同法9条で禁止される「政治行為類型」の定義について、「人事委員会の裁定」をもつてこれにあてるとしたことが(2)、(もつとも人事委員会が将来決定するのでなく、同委員会の過去の裁定)、その裁定基準の不明確性の故に、公務員の政治的自由をおびやかす危険を生むことになつた。これが、また同法をして識者の批判の的とさせたのであり、爾後の違憲論争をよびおこす原因となつたのである。
[40](3) 同法を日本の公務員制の対比で考察する場合、何故にかかる法案が成立し得たかということが重要な問題である。それは、1938年の中間選挙により表面化した南部民主党と共和党との連合、すなわち反ニユー・デイールブロツクによる圧力の結果であつた(3)。従来の公務員の政治活動規制は、先にのべたように「有害な政治活動」pernicuous political activityの抑制を目的とするものであつた。すなわち、党派的公務員の猟官的強制行為から下級公務員及びメリツト制公務の身分と政治的自由を守るためのものであつたのである(4)。然しながら、この新しいハツチ法案はこうした趣旨を超越した異質のものであり、当時の反ニユーデイール派がスローガンとしていた「政治浄化運動」Clean Politics Movementを名目とするものであつた(5)。その本質は、ニユーデイール公共行政の下の労働者・農民の結合と、ニユーデイーラーとの背離をはかると同時に、当時盛り上つて来た公務員労働組合運動の弾圧を企図するものに外ならなかつた。ルーズベルト連合の大衆的基盤をゆりうごかし、ルーズベルトの再選阻止をねらつた極度の政治的性格をおびたものであつたのである(6)
[41] しかし、当時のルーズベルトは、当時の社会情勢の下で暗礁に遭遇していたニユーデイール政策の遂行をなしとげなければならなかつたし、第2次世界大戦の勃発が予期される世界情勢の中で(7)、肥大化した行政組織を中央集権的に整備し戦時体制を準備するという急務に直面していた。こうした情勢下において、大統領は高度の政治的必要から、自派のニユーデイーラーの反対をおしきつて、反ニユーデイール派との妥協をこころみざるを得なくなる(8)。その苦悩の結果生れたのがこのハツチ法なのである(9)
[42](4) かかるドイツのポーランド侵入による世界大戦の発生という特殊な政治的条件の中においてのみ、本来の「民主的能率的公務員制」から逸脱し、公務員の基本的人権の保障を無視した、公務員大衆の自主的政治行動、労働組合運動の制圧を目的とするこの法が成立し得たのである。それ故にこそ、ルーズベルト大統領も、「この法律が公務員の正当に有している市民権を不当に圧迫することのない」ようにという警告を「教書」(10)の形で発表したのであつた。当時、ニューヨーク市人事委員であつたセイヤー教授も、この法律が公務員を二流の市民にひき下げる結果を生むと危惧したところでもあつたのである(11)
(1) 辻清明「アメリカ公務員制(ニユーデイールと第2次大戦の時代)」の章参照。前掲書39頁以下。
(2) ハツチ法の、法制定形式としての特徴は、前記人事委員会が行つて来た約3000にのぼる裁定を整理して法案化したものであつた。これは判例法にウエイトをおく英米法系の国としては特に異例なものでないが、大陸法系の国のような論理的一貫性をもたない。この裁定の法文化過程で基本的人権との抵触が厳密に討議されないまま法文化されたところに同法の問題点がある。従つて、わが国のような大陸法系の国へ移植上に関して2つの問題をもつ。1つはこれら裁定が具体的ケース・ケースに応じてなされたものであるため、それぞれのケースについてはそれなりの理由をもつていたことになるが、それを一般化するとなれば、それは経験上必要であつたとしか言えないことになる。後記ミツチエルケースの多数決意見が、ハツチ法の公務員の政治活動制限の根拠を、公職の党派的利用という経験的事実に求めるのはこうした事情による。第2にアメリカの人事委員会はわが国の人事院と異つてかなり公正、政治的独立性が保障されており(同一政党の委員だけでは構成されない)、この行政委員会で具体的な事件に応じて柔軟な処理を行うところに制度的合理性があつた。それを制定法によつて抽象的一般的に規制の固定化をしてしまう点に制度目的の否定があり難点があつたのである。現にハツチ法について、こうした観点からの批判が強かつた。(園部逸夫「現代行政法の展望」163頁参照)。
 この繰込についての批判は、Rose, A Critical Look at the Hatch Act 75. Harv.L.Rev. 510(1962)
(3) 1937年の不況は、ニユーデイール政策の限界を露出させ、1938年の中間選挙では、共和党の進出と、議会における反ニユーデイール派(共和党と南部民主党との連合)の台頭を結果した。L.W.レヴイ・J.P.ロシユ編「アメリカの政治」斎藤真監修訳東大出版216頁以下。
(4) L.M.Mosher, Government Employees under the Hatchy Act, 22.New York Uni. L.Q. Rev., P.225.
(5) 反ニユーデイール派は、ルーズベルト連合の基礎となつていたニユーデイール公務員、同行政によつて公共事業に雇傭される労働者と、農民との間の離隔を企画しルーズベルト体制をゆり動かす手段として、重税負担を嫌悪する大衆にアッピールするために「政治浄化」のスローガンをかかげ、その具体的政策としてハツチ法の政定をこころみた。
(6) 芦部信喜「公務員の政治活動禁止の違憲性」判例時報319号判例評論112頁。なおこの点については、Wormuth and Mirkin, The Doctrine of the Reasonable Alternative, 9 Utah L.Rev, (1964) P.277.
(7) ハツチ法の誕生は1939年8月5日の議会通過であるが、この9月1日にはドイツのポーランド侵入で第2次世界大戦が勃発する。この年の7月にルーズベルトは日米通商条約を破棄しており、3月にはドイツのチエツコ解体等があり、第2次世界大戦の開始は時間の問題とされ、ルーズベルトは臨戦体制の確立にいそいでいた。
(8) ルーズベルトは第2次大戦をひかえ、ニユーデイール政策の破綻を、軍備拡大政策におきかえることによつて克服しようとした。そのためには独占資本および反ニユーデイール派との妥協をはかる以外には不可能であつた。W.E.ロイテンベルグ「ローズベルト」訳参照。
(9) このハツチ法制定の議会はニユーデイール派の猛烈な反対があり、激しい違憲論争がくりひろげられるが、8月5日開期終了のぎりぎりの日に大統領がニユーデイール派の一部を封じて法案が通過する。
(10) 1938年のWPA法(失業者救済を目的とする公共事業を起す法案)が提案された際、ハツチ氏の提案にかかる修正条項として後のハツチ法とほぼ同一の内容のものが入るが、このときは同法の成立を急いでいたルーズベルトも、同法の署名にあたり、公務員の政治活動をおかす疑いがあると留保した上で署名をした。そして教書を出すのである。しかし39年のハツチ法制定にあたつては、前記のような事情があるため、ルーズベルトは留保署名をしない。しかしこの経緯があるため、ハツチ法が1940年に州への拡大適用が行われた際、18条の憲法適合解釈条項が挿入されることになる。
(11) 辻清明、前掲「アメリカ公務員制」40頁。
[43](1) こうした内容と生いたちをもつハツチ法は、その合憲性について、当初から多くの疑問と、強い批判を免れなかつた(1)。しかし第2次世界大戦というアメリカがかつて経験したことのなかつた事態の中で、戦争遂行体勢確立という至上命令の下に大量の行政職員の登用が行われ、メリツト制度自体が人的資源の確保という声の前にその機能を停止させられる状態に立つたため、批判の論議は一時休止するにいたる。それ故にこそ、1945年の終戦にともなつて戦時体制の行政が平時体制に切り替えられるにおよんで、メリツトシステムの中断に対する反省が生まれ、戦前の諸人事行政制度が復活し、そしてハツチ法の適用が再び浮び上つて来るのである。と同時に、この法の合憲性も問題になり、その具体的ケースとして争われるようになつたのが「ミツチエル・ケース」なのである。
[44](2) このミツチエル・ケースによつて、ハツチ法の合憲性が認められてしばしば引用される(2)。しかしながら同判決を日本で解釈するには、両国の憲法裁判の手法の差という重要な問題以外にも(この点は他の弁護人が詳述する)、いくつかの重要な前提が考慮されなければならないのである。
[45] 第一に、この判決が出された背景である。この事件はプールという圧延工が原告になつているが、その実質的原告はU.P.W.A(3)であつた。この組合は、米国公務員労働運動の中で、外交問題を含め国民的レベルの政治課題について、はじめて積極的にとり組んだ組合である(4)。そのため、時の政府に対立的見解をもつことがあり得るという、およそ従来の伝統的米国公務員組合観念(5)と異つた色彩をおびていた。それ故にこそまた、政府行政権力側からの嫌悪の対象にもなつていたのである。ことに、この判決は有名なマツカーシ旋風の吹きあれる時代に出されたものであつた。共産党を破壊的団体と規定するこの国において、AFL・CIOから「共産主義勢力支配団体」として除名されたこの組合の事件に、裁判所が何らの予断偏見的感情をもたず、時の風潮に全く無影響で判決を出し得たであろうかどうか。多くの説明を要しないところであろう。
[46] 第二に、この事件は刑事事件でなかつたということである。米国において、その地位が「特権」とされる公務員について、特権にともなう何等かの不利益(身分上の制約)を使用者たる国が課し得ないか、という点で争われた事件なのである。この場合、日本と異つて従業員たる地位の剥奪(解雇)というものが、米国においてはごく普通に、かつ自由に行われるのが一般だということ――米国における労使関係の流動性ということ――がその前提にして考えられなければならないのである。一般的には自由に行われる解雇が、公務員なるが故に制限されて、その地位が特権的に保障されている。それならば、その地位にともなう若干の、部分的な不利益があり得てよいのでないか。こうした特殊な雇傭関係上の、特殊・部分的規制の設定ということにまで、第三者である裁判所がはたして干渉し得るのか。干渉することがそもそも適当であるのか……。こうした考えが、その思想的基礎として存在している事件なのである(6)
[47] 要するに、これは、米国において、公務就任を権利でなく「特権」privilegeと考える公務員観の問題である(7)。こうした発想方法の基礎の上に、こうした特権をもつ者が、「差止命令的かつ宣言的救済」を求めたシビル・ケースがこの事件であつた。だからこそ、最高裁で規則制定の自治――立法府裁量論――ということに重点をおく多数決意見が出たというのも、それなりの理由があつたわけである。
[48] この事案が、刑事法廷においての、基本的人権が争われたものであれば、その判決の結論とその理由も、また趣きを変えたであつたろうということを考えなければならない。この「公務員特権観」という点と、これが「刑事事件」でなかつたということを前提にしないで、多数決意見の理論を日本の法制――ことに本件――に直訳的に援用することは甚だしい誤りになることは、いうまでもないところであろう。
[49] またこの点を理解しなければ、多数決意見の重点がなぜ、「立法府裁量論」におかれないかということが理解できなくなるのである。
[50] 第三に、この判決は僅少差で出されたものであり、全員一致でない(8)。4対3という対立意見の中で、ダグラスおよびブラック判事(ラトリッジ判事同調)の少数意見は、決して奇異かつ孤立したものでなかつた。後にのべるように、この両判事の見解は、多くの学説や人事行政専門家の間で(メリツト制自体、および近代的科学的人事行政の支持者を含めて)強力な支持を得ていたことが忘れられてならない(9)
[51] 第四に重要なのは、多数決意見が合憲とした、その内容である。この多数決意見は、本猿払事件の第一審が司法審査における立法府と司法部との関係について論述したのとほぼ同じような表現で、次のようにのべている。
「われわれは、議会が、政府職員の政治的行為を、その規制がある程度まで自由な政治活動におよぶときにおいても『合理的な限度において』規制することが出来ると述べた。政府職員の政治的活動が規制さるべき限度の決定は、第一次的に議会のおこなうものである。裁判所は、かかる規制が、政府の権限についての一般的な概念Generally existing conceptionをこえているときにのみ、干渉を加えるものである。その概念は、慣行、歴史ならびに教育的社会的および経済的諸条件の変化にしたがつて発展するものである…」同判決書102頁26行以下。
そしてこの多数意見は、ハツチ法上の制限が、かかる「一般的概念」をこえていないと判断して、政府のハツチ法上の規制はその権限内と結論するのである。然しながら、この判決は、一般的概念をこえているといえない理由づけとして、前記文節の直後に
「プール(上告人)のおこなつたような活動の規制は、人事委員会による永年の慣行、類似の問題についての裁判所の決定、ならびに知られている大量の与論によつて承認されて来ている」
と述べているのである。(同書102頁最終行以下)と同時に、この判決はこのような結論を導き出す理由づけの中で
「政治的中立性が、連邦職員のメリツト・システムにとつて不可欠(notindispensable)でないという主張はうけいれることの出来るものである」(同書100頁1行以下)
として、ハツチ法上の規制が必が公務員の中立性の維持上不可欠のものでないことも明らかに認めているのである。その上で次のように規制の必要をのべているのである。
「現代のアメリカの政治は、組織化された政党をふくんでいる。多くの政府職員の分類職群は、全国・州および地方の政治の中で働くことを原則なものとして、あるいは彼等の職を確保するものとして慣れ親んでいる。議会が一党制の傾向を防ぐために連邦職員の政治活動を制限しようと考えるのは合理的である。」(同書100頁4行以下)
「上告人の仕事(造幣局の圧延工)が、熟練した機械についての資質を要求する仕事であり、公衆との接触をふくまないものであることは認める。しかしながら、勤務時間外に政治活動を行つた場合、議会はその政治活動が彼の昇進、あるいは彼の上級への昇級を早め、あるいはおくらせうる旨決定しうるであろう。政治的な政策の指導者達にとつて、政府職員は政治的な機構を作りあげる上での手頃な材料になると、議会が考えるかもしれない」(同書101頁7行以下)
「議会は公務についてよりも、政治についての努力のほうが昇進に役立つということが、公務にたいして危険であり、また、政府の思顧が政治的な縁由を通じてあたえられることが公衆に対して危険であると認めている」(同書98頁3行以下)
[52] 又、同判決は理由の他の部分で次のようにも述べる。
「分類職公務員を政党の役職や、投票所での個人的政治活動から排除するという慣行は数十年にわたつて実施されてきたところのものである」(同書96頁14行目以下)
「現在審理中の禁止は、政府職員による力の政治的貢献についてむけられている。それらの貢献もまた、それを非とする永い背景をもつている」(同書99頁1行目)
「経済の教訓はあきらかに議会をして、ハツチ法の規定を制定するところまで到らしめた。」(同書99頁9行目)
[53] 要するに同判決は、ハツチ法上の規制が、米国において「一般的な合理性」をもつと判断するにあたつて、それらの規定が、米国社会の特殊事情の下で公務員を猟官制の弊害から守るために経験上から生みだされた諸行為類型であり、そうした行為の禁止が永年の慣行で認められて来たものであることを理由としているのである。
[54] 日本の場合、かかる社会事情、経験、慣行、常識が存するであろうか。多言を要しないところであろう。
(1) ハツチ法についての批判的論文は多いが、次のものがよく知られている。
Hayman and Stah, Political Activity Restrictions: An Analysis with Recommendations (1963), P.10
Davis, Standing, Ripeness and Civil Liberties: A Critique of Adler v. Board of Education, 38 A.B.A.J, 924, 926 (1952)
Godine, The Labour Problem in the Public Service, 1951, P.184
Rose, A Critical Look at the Hatch Act, 75 Harv.L.Rev. 510 (1962)
Emerson, Haber & Dcrson, Political and Civil Rights in the United States (Studented. 1967) Vol.1. 531
Esman, The Hatch Act - A Reapraisal, 60 Yale.L.J. 986 (1951)
Nelson, Public Employees and the Right to Engage in political Activity, 9 Vand.L.Rev. 27 (1955)
Irwin, Public Employees and the Hatch Act, 9 Vand.L.Rev. 527 (1956)
Mosher, Government Employees under the Hatch Act, 22. N.Y.U.L.Q.Rev. 233 (1947)
C.O.Jones, Reelvaluating the Hatch Act: A Report on the Commission on Political Activity of Government Personal, 29 Pub.Admin.Rev. 249 (1969)
Political Activity and Public Employees, A Sufficient Cause for Dismissal? 64 Nw.U.L.Rev. 736 (1969)
(2) ミツチエル・ケースとは、United Public Workers of America v. Mitchell, 67 Sup.Ct. 556 (1947)
 ミツチエル・ケースについての紹介は、三島宗彦「公務員に対する政治活動の規制」野村還暦論文集「団結活動の法理」所収306頁以下がくわしい。
(3) 正式名称はUnited Public Workers of America. この組合については三島宗彦前掲書に簡単な紹介がある。
(4) Morton D.Godin, The Labor Problem in the Public Service 1967, P.176 ff.
(5) 川田寿「アメリカにおける公共労働」有斐閣刊「公共労働の研究」所収81頁以下参照。
(6) この点を指摘するのは前掲芦部信喜「公務員の政治活動禁止の違憲性」判例評論519号110頁。
(7) この公務員の「特権」論については、D.Nelson, Public Employees and the Right to Engage in Politic Activity, 9 Vanderbilt L.Rev. 27, 38-42 (1955)
 最近のこの特権理論の変遷につていはW.W.Vam Alstyne, The Demeise of the Right-Priviledge Distinction in Constitutional Law, 81 Harv.L.Rev. 1439 (1968)
H.V.Nickel, The First Amendment and Public Employees, 37 George Wash.L.Rev. 409 (1968-9)
(8) 4対3の判決(ジヤクソンとマフイ判事は不参加)。ブラツクとダグラス判事の少数意見にラトリツジ判事が同調。
(9) ミツチエルケースの少数意見と、これについての学説の動向を説明するのは、三島宗彦前掲「公務員に対する政治的活動の規制」である。なおミツチエル・ケースに対する批判的論文として本節注(1)の文献のほか次のものがある。
Note, Labour Relations in the Public Service, 75 Harv.L.Rev. 391 (1961)
Emerson and Helferd, Loyalty Among Government Employees, 58 Yale L.J.I. 86-87 (1948)
[55](1) 以上のべたような生いたちをもつハツチ法は、その制定時から多くの批判をあび、かつミツチエル・ケースの支持にもかかわらず、同判決も含めての批判が絶えなかつた。またこれに対する公務員側の根づよい反対運動がくりかえされたのである。そしてまた、政府側もこの規制の運用につていは、すこぶる慎重であつた。
[56] このハツチ法が猟官制の弊害という歴史をもつたアメリカの社会においてすら、いかに不当と考えられていたかということは、同法制定以後1942年から63年にかけて、実に、40にものぼる改正法案が絶えず提案されつづけて来たということ、その半数が全面的改正をこころみたものであつたという事実によつても明らかであろう(1)
[57](2) こうした批判の結果、まず制裁条項が緩和修正されることになる(2)
[58] 制定当初の法案では違反者に対する解雇が義務づけられていた。それが1940年の修正時に停職との選択的併用となり、また事案によつては一定の条件づきで復職を可能にする道を設けた。更に1950年の改正によつて、この停職期間が最低90日であつたものから30日に修正される。従つて現在では、よほど悪質な行為でないかぎり違反行為は1カ月の停職に止まるのであり、実際にその抑制的な運用の結果、解雇の事例はごく例外となつている。
[59](3) そればかりか、1960年代に入つて、その全面的改正が歴史のスケジユールにのるようになる。すなわち1960年代の米国公務員労働運動の高揚にともない、1962年のケネデイ大統領行政命令10988号を契機として、米国公務員制自体の根本的改正が着手されるようになる(3)。この米国公務員の労働基本権回復のための諸改革の中で、本件の対象となつている公務員の政治活動の自由がおきざりになるはずがない。1966年には、アービンERVIN上院議員の提案にかかる政治活動禁止撤廃を意味する法案が上院の圧倒的多数で可決される。(66年提案が67年を経て審議され、69年に上院で79票対4票で可決。下院で司法委員会にまわされるが審議未了になつた)
[60](4) 1966年の議会の決定により、ジヨンソン大統領の下で設けられた「政府公務員の政治活動に関する委員会」の報告書が1968年に公表される(4)。このジヨーンズ・レポートと名づけられる報告書はハツチ法の基礎をゆりうごかす画期的のものとされる。なぜならこれが、この問題の中核にせまつたものであり、後の立法作業の指針となつているからである。同報告書の骨子は次の通りのものである。即ち、
a、現行ハツチ法は、本来的に混乱、不明確、かつ抑制的であり、否定さるべきものである。そして憲法の可能性をもつ。
b、制約は、ただ公務の本来の姿、能率、公正さを脅かす行為から、公務員を守るためにのみ必要とされる。
c、公務員をして、政治的参加をせしめるごとき法を強化する努力が払われなければならない。
d、現行ハツチ法の党派的、非党派的区分は非現実的であつて、かかる区分はなされてならない。
[61](5) そして同趣旨の考え方は、合衆国人事委員会の1968年年次報告書にも現れるようになる(5)。現在、これらの趣旨を基礎にした改正のための立法的準備が、現に進行中なのである。
(1) P.S.Ford, Political Activities and Public Service; A Continuing Problem, Institute of Governmental Stadies, Uni. of California, Berkeley, Aug.1963 pp.22-23.
(2) 後記最高裁判決(1973.6.25)41 LW 5126頁
(3) 園部逸夫「公務員制度の変容」法学論叢83巻1号。同「アメリカ公務員労使関係法の現状」日本労働協会雑誌102号。花見忠「アメリカ官公労働者と労働基本権」労働法27号等。
(4) C.O.Jones, Reevaluating the Hatch Act; A Report on Commission on Political Activity of Government Personal, 29. Pub.Adm.Rev. p.249 ff.
 この報告書については佐藤昭夫・大久保史郎「公務員法における政治活動禁止の法的評価」李刊労働法85号26頁。
(5) U.S. Civil Service Commission Annual Report 85th, 1968, p.41.
[62](1) ハツチ法の合憲性が、かろうじてミツチエル・ケースによつて認められたというものの、その合憲の根拠は、主として「立法目的の合理性」と「立法府の裁量権」とに重点をおいたものであり、この問題に関心と利害をもつ人々を納得するに足るものでなかつた。
[63] 1960年代における公務員労働運動のたかまりと、公務員制改革の着手、その過程における公務員制度および公務員の基本権への反省は、当然、ハツチ法ならびにこれを合憲としたミツチエル・ケースの批判を再び活発なものにすることになる。
[64](2) その結果、1960年に入つて、実に次のような多くの州レベルの反・ミツチエルケース乃至は違憲判決が続々と生れるという衝撃的な事態が司法過程にも現れるにいたるのである(1)
a、全米郵便配達夫組合対プロウンツ事件 National Ass'n of Letter Carriers v. Blount, D.D.C. 1969. 305 F.Supp. 546, 549.
b、デ・ステフアノ対ウイルソン事件 De Stefano v. Wilson, 1967, 96. N.J.Super. 592, 233 A.2d. 682.
c、バグレイ対ワシントン・タウンシツプ・ホスピタル・デイストリクト事件(2) Bagley v. Washington Town ship Hospital Dist., 1966, 65 Cal.2d. 499, 421 P.2d 409.
d、ミニーリー対州事件 Miniielly v. State, 1966, 242 Or. 490, 411. P.2d. 69.
e、キンニアー対サンフランシスコ市・郡事件 Kinnear v. City and County of San Francisco 1964, 61. Cal.2d. 331, 38. Cal.Rptr. 631, 392 P.2d 391.
f、フオート対人事委員会事件(3) Fort v. Civil Serv. Comm'n 1964, 61. Cal.2d. 331, 38. Cal.Rptr. 625, 392 P.2d 385.
g、ホツプス対トムプソン事件(4) Hobbs v. Thompson 448 F.2d 456 (5th Cir. 1971)
h、マンクソー対ハフト事件 Mancuso v. Taft 341. F.Supp 547 (D.R.I. 1972)
i、全米郵便配達夫対米国人事委員会事件(5) National Ass'n of Letter Carriers v. U.S. Civil Service Comm'n, U.S.D.C.D.C. July 31. 1972.
[65] これらの諸判決の内容を詳細に逐一検討することは、本弁論の目的をこえるところであり、またその必要もないところであろう。問題はこれらの判決が、どのような理論的潮流で、ハツチ法及びミツチエル・ケースの基礎をゆり動かすようにいたつたか――ミツチエル・ケースの合憲論を破綻させ、古くさいものにしたか――が重要であろう。
[66](3) 一つの基本的な動向は、合衆国憲法修正第1条の表現の自由に対する規制の手法と理論に対する反省である。この点は相弁護人の「表現の自由規制立法と司法審査」の項で分担されるので、ここでの詳論はさける。しかし、これを要約すれば、かかる基本権規制のルールとしての「合理性の基礎」が、この種問題の解決のための理論として、適切な機能を果し得ないという反省である(6)。そのために或判決は「LRAの理論」lessrestrictive alternative(「目的は正当で、実質的でも、その目的がより制限的に達成され得るときは、基本的な個人的自由の息を広汎にとめるような手段で目的を達成することは出来ない」(7)「憲法上の権利をより破棄しない他の選び得る手段が利用できなければならない」(8))を展開する。
[67] また別の判決は、これを更に厳格にした、いわゆる「ソーンヒル理論」Thornhill doctrine(9)(「もし表現の自由を制約する法律の規定が、適用上違憲の可能性があれば、かりにそれが或種の状況には合憲的に適用できるとしても、その規定は全体として違憲」と考える)を復活させる。
[68] また他の判決は「合理的基礎」の理論によつてハツチ法の制定目的自体は合憲的であつても、その規制の手段(ことに人事委員会裁定の「くりこみ」incorporation by reference)が不適当であり、「過度の広汎性」over-breadthと、許容し難い「莫然性」vaguenessの故に、違憲性を免れないと論及するのである(10)
[69] 要するに、「表現の自由、ことに政治的討議の自由は、米国の憲法体制の基礎を構成しており」、「このわれわれの社会に、重要かつ貴重なこの自由は、あまりにも繊細でかつ傷つきやすいもの」である。この自由の行使を「滅入らすような効果 chilling effects はまさしく憲法体制に対する害悪」(11)であり、この自由の領域を侵す法律は、「狭くかつ厳格に制限されたものでなければならない」という法思想の確立と反省に外ならないのである。
[70] だからこそ、このハツチ法を取扱った最近の最高裁判決(後述)も、その制定の経緯と運用上の問題点、ことにその修正および改正への動向を詳述した上で、「おそらく、議会も、いつかは(現在のハツチ法の規制を肯認するような)政府の職務と政治的生活との関係について、異つた見解をもつに到るにちがいない」(12) と強調した上で、現時点の問題としてさしあたり合憲とする多数決意見をのべるのである。
[71](4) 他の一つの底流は、伝統的な公務員の「特権論」privilege の克服である。第2次世界大戦後の、この国における行政・公共労働の分野における未曽有の拡大は、この分野に働く公務員の職種・性格・タイプを著しく変容させた。そして、それは公務員労働運動の変革・脱皮をひきおこし、それが一般私企業の労使関係の変質(労働協約による身分保障は、私企業の労働者の地位を、公務員の身分保障と異らないものにしつつある)とあいまつて、伝統的公務員観の修正・変貌をとげさせたのである。
[72] このことは、最近出された合衆国最高裁判所の判決(1963・6・25)(13)をみれば一目瞭然である。ここにはミツチエル・ケースにみられたような伝統的「特権論」と、これを基礎にした発想方法は全く姿を消しているのである。まさしくミツチエル・ケースは過去の「異つた時代」different rintageのものとなり、「時の流れにより、時代おくれとなつた」ということであろう(14)
[73](5) 以上の事実は、第一に、本件で争われている公務員の政治活動について、日本における昭和33年の最高裁の先例は、時代に適合し得ないものであり、その判例としての拘束力を維持し得ず、変更を余儀なくされているものであることを明らかにする。第二に、米国における判例理論、ことに日本法の母体となつたハツチ法の合憲性を認容したミツチエル・ケースは、今日その当時の原型を理論では維持され得ないものになつて来たことを示す。第三に、具体的・技術的な法規制形式の差と、各種係争事案の差という問題があるとしても、刑罰法規でないハツチ法ですら、今日の米国の一般的憲法裁判の流れの中で、違憲性がおおいがたいものとして認識されるにいたつて来たことを知ることが出来るのである。従つて、米国判例を、本件に参照するにあたり、検察官の所論の如く、部分的皮想的な援用による、自己に都合のよいような解釈が許されるものでないことは、公正な判断と理性をもつものの目には明瞭といわざるを得ない。
(1) 各下級審の違憲判決の出現については、本文(g)のホツプスとトンプソン事件に紹介がある。
(2) 過度の広汎性の故に違憲とするもの。芦部信喜判例評論519号111頁に紹介あり。
(3) ミツチエル・ケースとの対比でソーンヒル理論を展開する。なお前記バーグレー事件は、この判決を援用する。
(4) 公務員の特権論を論及する。なお後記本文(i)の判決は、この判決を援用する。
(5) 本判決は最も新しいものであり、米国政府の膝下であるコロンビア地区連邦地裁の判決であり、その原告の規模の大きさとあいまつて、米国政府および世論に衝撃を与えた。そのため最高裁に控訴され後記の判決が出ることになる。この事件は、原告がハツチ法の編入条項の合憲性を争つたため、人事委員会裁定を同法に編入した経緯とその方法が合理的であつたかが重要な論争点になつた。ゲゼル裁判長は、ハツチ法の目的の合理性は認め得ても、その規制の手段たる「編入」が結果的に過度の広汎性と許容し難い莫然性を帯びているとして違憲の判断をする。
(6) この点については次の論文に指摘がある。芦部信喜「公務員の政治活動禁止の違憲性」判例評論519号。及び同教授の猿払事件第一審の鑑定書。
(7) Shelton v. Tucker (364. U.S. 479)
(8) 前掲Bagley v. Washington Township Hospital District (421 P.2d. 409)
 なおこのL・R・Aの原則については、G.Strve, The Less-Restrictive Alternative Principle and Economic Due Process, 80 Harv.L.Rev. 1463, 1464 (1967)
(9) このソーンヒル理論については芦部信喜「憲法訴訟における当事者適格」ジユリスト263号78頁参照。
(10) 前記連邦地裁判決(本文(i)の事件)
(11) 後記注(12)の最高裁判決のダグラス判事の少数意見(同書原文5137頁)参照。
(12) 次の注(13)の判決 41 LW 5127頁。原文が「will come」になつている点に注意。
(13) United State Civil Service Commission v. National Association of Letter Carrier, AFL-CIO, 1973, 6.25.
 この事件は前掲本文(i)の上告事件である。最高裁は、この連邦地裁の判決を破棄した。(ダグラス判事外2名の少数意見あり)この判決は、原審がハツチ法の繰込条項の違憲性を判断したため、この点に重点をおいて論述する。そして同法の制定経過、人事委員会の運用、同委員会の裁定などを検討した上、これら条項は被適用者に公知の状態であること等を斟酌し、「過度の広汎性」および「許容し難い莫然性」「文面上違憲」等の伝統的判例理論に抵触しないとしたかなり技術的なものである。しかしこの判決の全文を熟読すれば、第1にハツチ法の制裁が大幅に緩和されている。(当初の解雇が30日の停職の選択にまで軽減された)、第2にいろいろな諸例外がある。第3に議会においてその改正が継続的に繰返され、その改正は時間の問題である。第4に政府および人事委員会で濫用の弊害が生じないように努力している。第5に人事委員会の裁定は実際上の運用の必要上出された経験則であり、こうしたものがないと公務員の職務・行為・信条等の権利をむしろ保護できない。第6にこの事件は将来にわたる法執行の差止を求める訴訟である。第7に裁判所の責務はハツチ法を破壊することでなく合憲的に解釈することである……等の論点をみることが出来る。要するにハツチ法自体がすでに立法府において改正の爼上にのぼつているのであるから、裁判所がこの立法府の権限に過度の干渉や刺激を与えることを避けたいという配慮から出されたものであることは明瞭であつて、今日の日本にそのまま援用できない。なお、多数決意見の誤謬は、ダグラス判事の少数意見に的確に指摘されている。
 なお、政治活動に関する最高裁判決としては、高校教師の手紙送付行為が解雇の対象となつた事件で原告の故意過失についての事実の証明がないとして、イリノイ州最高裁の判決を破棄して事例がある。Picking v. Bd. of Education, 391 U.S. 563, 20 L.Ed. 2d 811, 88 S.Ct. 1731 (1968)
(14) 前掲注(13)の最高裁判決 41. LW. 5137p. および前掲連邦地裁(i)判決 585p.
 なおこの(i)判決の原文は、「Changes in the size and complexity of Public Service,place Mitchell among other dicision outmoded by passage of time.」
[74](1) 以上のような米国における政治と公務員制との結びつき、その変遷、またその変遷を生みだしてきた政治的・社会的事情を概観しただけで、それがいかに日本の明治以降の社会事情および官吏=公務員制と異つたものであるかを理解できるであろう。然りとすれば、このような全く異つた生いたちをもつ2つの国について、1つの国の異例的・特殊的事情によつて生れた法制を他国に強行的に移植することが合理的であり得るか否かが明らかになるだろう。
[75] その結論については何人も見解を異にすることは出来ないであろう。しかし、今、われわれが直面している問題は立法論ではなく、解釈論である。いかにその立法過程が不当であつても、その内容自体が正当かつ合理的なものであれば、解釈論としては別の観点から考えなければならないのも当然である。
[75] それでは現行国公法102条とこれに基く人事院規則14-7は、日本の国内法としても、正当かつ合理的であり得るか。この点について、諸論点からの考察が、他の相弁護人によつて論述される。ここでは、比較法的見地からの、解釈にあたつて考慮せざるを得ない点にかぎつて、その問題点を指摘しよう。
[76](2) 第一に現行国公法102条の規定の構造の問題がある。本章の初めにのべたように、合衆国人事顧問団の勧告は旧国公法の条文となり、フーバー案は現行条文となつた。その差は人事委員会にその規制内容を白紙委任したところの政治活動規制条項である。前者はおおむねベンドルトン法にみあうものであり、後者がハツチ法(正確には同法9条および15条)に対応する。本来この2つは異質なものであつて、前者は破廉恥乃至は腐敗行為に結びつくものであり、刑事法規の対象となつても不思議でない性格をもつ。後者はどちらかというとその行為自体は反社会的性格をもたない行為を対象とするところの労使関係の秩序維持的機能と性格をもつものであり、――それを懲戒処分の対象にすることの当否は別論として――刑事制裁の対象にするのにふさわしくない内容をもつ。この両者の差を厳密に検討しないで(米国でもこうした立法上の検討が行われたのに)、異質のものを同一条文中に規定したところに、本質的な欠陥、立法技術上の誤りがあるということである。ことに前述のミツチエル・ケースの多数意見も認めるように、この後者の類型行為の規制は、もともとメリツト・システム=近代的能率的官僚機構の維持とも直接に結びつかないものであつた(1)。米国においてすら同国の公務員制の特殊事情、同国の労使関係の特色、制定時の異常な社会情勢を背景にして必要悪として設けられたものであつた(2)。だからこれを日本に刑事法として導入する場合、その被保護法益との関連が厳密に検討されて然るべきものであつた。これら現行人事院規則14-7で制限される諸行為類型を詳細に検討してみれば、かかる行為によつて侵害され得る「公務員の中立性」なるものの具体的内容とは、一体どのようなものであり得るかが疑問とされざるを得ないはずである。
[77](3) 第二に、法技術的にいつて、ハツチ法という特殊な形態の法を、大陸法系の日本の刑事法に直訳的に移しかえる点に最大の誤りがあつた。日本の現行国公法102条は、禁止すべき政治行為の構成要件の決定を人事院に包括的に委任した。国民の基本的人権を侵害する危険をもつ規制を、法律で定めずして人事院に白紙委任すること自体既に明らかに憲法第31条に違反するといわざるを得ない。しかし、この点の評論はさけるが、その白紙委任の形式をとるにあたつて、母法たるハツチ法をよく理解しなかつた(当時としては知り得なかつたのであろうが)ところに重大な問題がある。すなわち、この人事院への白紙委任はハツチ法15条を模倣したのであろう。ところが既にのべて来たように、米国においてすら、この白紙委任、いいかえれば「編入 in-corporation」は、制定にあたつて、議会で憲法違反の疑いから大論争の焦点になつたところであつた。結局、法案提出者であるハツチ上院議員が修正案を提出し、「(法案成立時点である)1940年の時点までに、人事委員会が裁定して来たところの諸行為」という限定つきで現行法が成立したのである(3)。この当時既に委員会の裁定は3千ケースほどになつており、その要約の解説書が出来ていたとはいうものの、かなりこの点に無理があつたのである。そのため後に1970年になつてこれを再び整理するが、それでも適用上の混乱を免れなかつた。そのため、後の判例(前述八章(i)の連邦地裁判決)でも、この点の欠陥がまさしく違憲の根拠とされたし、最高裁判決でもダグラス判事がその矛盾を鋭く指摘した所以でもあつた。われわれは(イ)米国が英米法系の判例法の国であることを想起する必要があるし、(ロ)この裁定が個別的事例で具体的妥当性を生むための経験のつみかさねであることを知らなければならないし、(ハ)更にそもそもこの裁定例なるものが職場秩序維持のためのルール(その違反に雇傭契約上の処分の対象になるという、いわばわが国の就業規則上の懲戒条項にみあうもの)だということを考えてみる必要がある。また、その違反は1カ月の停職程度でもあり得るのだということも考えなければならない。更には合衆国人事委員会の構成が、わが国の人事院と異り、被適用者たる両政党の代表者も含むところのかなり中立性が保持された制度であることを考慮しなければならないのである。こうした条件を前提にしても、その人事委員会による政治活動の類型決定ということが、米国で違憲の疑いの濃いものであるとされたのである。わが国の現行法102条の人事院への白紙委任とその後の規則制定が、かかる事情を全く考慮せず、拙速的(というより日本の実情を知らないGHQの強制)に作られたものであることを更び想起しなければならないであろう。
[78](4) 第三に、日本の刑事法規としてみた場合、この人事院規則による諸行為の禁止は、抽象的危険を処罰する形式になつている。単なる労使関係の秩序維持としての規則の制定については別の観点からの見方も可能であろう。しかし今問題となつているのは刑事法規である。少くともこの程度の行為を、国家の刑罰法規をもつて、広汎に抽象的危険を理由に処罰する必要は全く存しない。具体的危険(現実的な公務員の中立性侵犯)をまつて処罰すれば足りるし、刑事法規の一般的予防効果機能を考慮に入れれば、それのみで必要かつ充分である(4)。まして、国民の重要な基本的人権がその基制の対象となつているのであり、かかる規制は必要・最少限のものでなければならないのは自明の理である。米国においてすら、こうした事前抑制的禁圧は非難の対象となつたのである。
[79](5) 第四に、日本と米国との政治形態のあり方の差、ことに政治と公務員との結びつきの態様が全く異つていることを考えなければならない。米国公務員と政党との結びつき形態は、縦割であるの対し、日本のは横割り的構造をもつている。即ち、米国では上級公務員から下級公務員にいたるまで、縦断型にほとんどの公務員が二大政党のいずれかの支持者である。それ故にこそ、公務員の政党との強度の癒着に弊害が生じるのであり、その政治活動が公務員をおびやかすこともありうるのである。そしてまた、公務員の「中立性」が現実的実感をもつて必要とされるのである。日本にはもともとこうした政治的風土がない。むしろ「わが国では、とくに上級公務員の非政治化について関心が寄せられなくてはならないのに、下級公務員のごく平凡な市民的諸権利の行使が、政治的と見られやすい状態になつていること(5)」こそ問題なのである。
[80] こうした点についての認識が欠けると、日米公務員法の比較は、平板なきれいごと(6)におわり、ことの本質を公正かつ公理的に解決することにならない。米国ですら問題となつたハツチ法の直接的導入は、まさに木に竹をついだ移植立法の最悪の見本であろう。ましたその立法過程において、ナシヨナル・コンセンサスの同意もなく、合理的な国会の検討も存在しないというにおいておや。
[81](6) 第五に、日本の公務員制における体系的吟味の欠如ということも考えなければならない。現在日本の公務員制は、一般国家公務員と地方公務員とに大別され、一般国家公務員が更に非現業と現業とに区分され、それぞれ異つた法律の適用をうけている。しかし現在の公務員の種類、ことにその職務を具体的かつ詳細に検討した場合、かかる区別が正当かつ合理的であるか誰もが疑問をもつところである(7)。例えば本件における総理府統計局の職員や、裁判所における廷吏・雑役の担当職員の如きは現業職員と異別に取扱う合理的根拠を求めるのは困難である。こうした公務員体制は、もともと占領時代の思いつき的な立法によるものである。この体系の設定は、理論的、経験的、科学的の、いずれにも基くものでない。それが、またILOのドライヤー調査団をして、「1948年以降法律的事情があまりにも複雑になりすぎ、労働組合がある場合に法律がいかに自らに適用されるかを知ることが不可能」にしてしまつたし、「国家公務員及び公共企業体等の職員も同様にこみ入つた法規則の網にがんじがらめにされている」(8)と批判させた原因になつている。
[82] まして米国の公務員制は、連邦公務員と州公務員とが全く異つた法体系下にあり、日本の公務員とかなり趣きを異にしていることを考慮に入れれば、米国公務員制度の直裁的移植が著しい法解釈の混乱をひきおこすことは自明の理なのである。
[83] 米国においても、ハツチ法の公務員の職種を選ばない一般的規制は、ミツチエル・ケースのダグラス判事の見解をはじめとする厳しい批判をあびており、それ故にこそ数次にわたる勧告と法改正が行われた所以であつた。イギリスをはじめとする西欧諸国において、公務員の職種と地位を具体的に把握し類別した上での、合理的な規制が行われているのも、この間の事情を物語る。しかるに多様多種の公務員について、すべて一律的に、かつ厳格にその基本権を規制しようとする現行国公法102条と人事院規則14-7は、その不合理性がおおいがたいものになつている。
[84](7) 最後に、国公法102条及び人事院規則14-7の「硬直性」――いいかえればその規制の対象となる公共労働の変化に対する立法府の無理解・無反省――が問われなければならないであろう。この国公法上の政治活動禁止の不合理性を指摘し、批判したのは、実に政府の諮問機関である臨時行政調査会であり、それは実に10年以前のことであつた。(昭和39年9月「公務員に関する改革意見」、1項(キ)の部分)激動する戦後20有余年の日本の社会は、その公務員像を大きく変貌させつつある。自己の委嘱した学識経験者によつて構成される機関の公的な勧告がありながら、今日まで国会乃至は政府のレベルでこれらの関係法規の具体的改正の動きは全くみられない。近い将来に、かかる動向の現れるきざしすらない。その批准が閣議決定されているものの、ILO105号条約の批准すら、いつになるのか全く不明である。こうした反動的傾向は、本件検察官の上告趣意に端的に物語られている。公務員は何をたよりに、その侵された基本的人権の回復をはかることが出来るのであろうか。世界で最も公務員制度の近代化がおくれていると評されている米国においてすら、公務員の諸基本権の回復は着実に軌道にのつている。本件で係争の国公法の母体となつたハツチ法がその生みの親である米国においては、議会レベルで改正されつつあるのは既にのべたところである。
[85] 最高裁の違憲立法審査権の適正な行使のみが、かかる日本の現状において国民の基本的人権侵害を防ぎ、法の威信を高め、旧套依然たる政府の時代錯誤的思想に反省を与え得るものであることを、冷静かつ卒直に考えなければならない。
(1) 「公務員の政治活動が、スポイルシステムをまねいた主要因であるなどということは極端な歴史の単純化であり、因果関係のとりちがいである。」「メリツトシステムの確立はかえつて公務員の政治活動に関する権利を回復させるだろう」とするのは前掲 Godine 118p.なお前述の如く、ミツチエル・ケースの多数意見もこのことを認める。
(2) 同法制定時の事情は、佐藤昭夫・大久保史郎「政治活動禁止の法的評価」季刊労働法85号26頁以下。
(3) 前記1963・6・25最高裁判決 41 LW 5126頁参照
(4) 公務員の中立性ということは、決定された公の政策を、それに対する個人的ないし党派的批判のいかんにかかわりなく、忠実かつ精力的に遂行することを要求するものにほかならない。……こうした意味で、公務員の政治活動が公務の運営にとつて不可欠な中立性や公平性を害する危険のある場合には、これを禁止すべきである。しかし、それと同時にこれらの弊害のおそれがない活動については許されてよい」とするのは前掲三島宗彦「公務員に対する政治活動の規制」316頁。
 なお、米国政府自体も、「連邦政府の下級公務員に関するかぎり、その職務遂行にあたつては、当該職務の性質上、中立性を要求する必要は認められない」と証言したこともある。(前掲 Godine書189頁参照)
(5) 園部逸夫「現代行政法の展望」165頁
(6) 園部逸夫「いわゆる猿払事件第一審判決」判タ224号79頁
(7) この点に指摘するのはシヨー・サトー「日本法における公務員の政治活動の制限について」司法研究所論集1971年1月号121頁
(8) ドライヤー報告書「事実認定と勧告」の章2162―2163項。
[1] 検察官は、上告趣意書ならびに弁論で、国公法と人事院規則14-7の有用性、必要性をあれこれ述べ、かつその合憲法性を論証しようと努めるけれども、所せん同法令が政治的表現の自由を制限することに動機付けられて制定された治安立法であるところから、検察官の努力は、かえつてその法令のもつ矛盾を際立たせ、おのづから反憲法性を暴露せざるをえないこととなつている。
[2] 検察官の論理は、それ自体実定法を無視し、あるいは非実証的論拠に頼ざらるをえないなど、自己矛盾が甚だ目立つが、基本的に重要なことは、政治的表現の自由とその民主主義的意義を無視し否定しなければ成立たない点にある。
[3] 検察官は、国公法人規14-7が制限の対象としている政治的表現の自由の意義についてはこれを述べるところがなく、甚だ関心がうすい。これは無理解に起因するものであることは、およそ名誉のためにもいえないことであるが、真の理由はそのことによつて治安目的の達成を意図するからにほかならない。このことは、その破綻した論理のなかにありありと読みとることができる。
[4] 表現の自由の現代的意義やその優越的価値は、多くの論者によつて明らかにされ学説、判例上も確立されているところであるが、国公法・人規14-7が規制対象とする政治的表現の自由の現代的意義と、その優越性を重ねて述べることは、検察官の論旨の誤りを明らかにし、何が保障されるべき憲法的価値であるかを明らかにする意味で益なしとしない。
[5] 以下、右のような関心に従って若干の点に触れることにする。
(一) 表現の自由の発展と現代的意義
[6] かつてわが国の多くの裁判例は(最高裁を含めて)、「表現の自由は基本的人権のうちでも最大限尊重されるべきもつとも基本的な権利である」と述べながら、「しかしその自由も絶対無制限ではなく」、「公共の福祉によつて制限をうけることもやむをえない」として、公共の福祉論の無内容な公式的、形式的適用によつて表現の自由を抑圧してきた。
[7] 公共の福祉の中身については、抽象的ではあるが一応触れられるけれども、最大限尊重されるべき表現の自由の意義については必らずしも明確にはされていない。
[8] 表現の自由の意義を語る場合、問題は、なぜわれわれは表現の自由を求めるのか、その保障がわれわれに何をもたらすのかということに帰着するが、実際その必要性有用性は、社会国家の変遷にともなつて一定の変化発展を遂げていることも事実である。
[9] 日本においては、旧憲法下で法律の留保のもとの形式だけの自由であつたため、個人の尊厳や国民の側からの表現の自由についての思想も、理論も定着することなく経過した。
[10] しかしながら、表現の自由はまさに近代民主主義発展史のなかでブルジョア民主主義革命以来、民主主義社会存立の基底をなすものとして認識され優越的地歩を伝統的に形成してきた。
[11] もつとも表現の自由をふくむ精神活動の自由は、本来それに固有の法則があるものではなく、よつて自成的に成立し確立するものではない。営業の自由・所有権不可侵など経済上の活動の自由は、市民革命当初からブルジョアジーの最大の関心事であつたのでブルジョアジーが支配階級となつたとき円滑にその保障をかちとることができた。またその段階では、固有の経済法則に任ねることによつて保障されてきた。
[12] 表現の自由は市民革命当時とくにブルジョアジーにとつて支配体系を否定するために必要であつたが、ブルジョアジーが支配権を確立するに従つて新たに被支配層からの運動がなければ確保できなかつた。さらに国家独占段階に至り公権力が経済社会過程に強く介入するようになるにおよんで、民主主義と結合して、逆にいつそう強く、表現の自由の保障が求められるようになつてきた。
[13] かかる歴史の発展過程と国家独占資本主義段階にあつて、国民主権・議会制民主主義の政治制度をとる政治社会現状を正しく把握し、かつ、私所有権の自由などの意義との対比のうえで表現の自由の現代的意義を正しく位置付けることなしに、その法原理や法的基準を定立することはできないのである。

(二) 個人主義的意義と自然権思想
[14] 表現の自由を含む市民的諸自由が、近代市民革命の一大所産として成立するまえに、中世末期におけるルネツサンス、宗教改革など先行する諸過程のなかで誕生した人間主義、個人主義のイデオロギーがあつたことはいうまでもない。かかる過程のなかで表現の自由がもつともはやく原理として要請され、成立したといわれるイギリスでは当初、個人主義の原理にのつとつてその意義づけがおこなわれた。
[15] アメリカの独立宣言、諸州の憲法をはじめ、合衆国憲法ならびにフランスの人権宣言が制定されたアメリカ、フランスでは、表現の自由は広く人間の自然権と考えられた。
[16] 要するに自分のいいたいことを他人に伝え、他人のいいたいことをうけとるといつた表現行為は、純粋に個人的なことがらであるから、公権力はこれに介入することができないという考え方である。
[17] このような意義づけは、思想史的脈絡のなかで意味を有するのみならず、表現の自由の意義の基底に固く位置付けられているとみることができよう。
[18] ちなみに公務員が「公に政治的目的を有するところから、さらに議会制民主主義との関連での意義付けが必要であり、可能となる。

(三) 表現の自由の社会効用的な意義と「思想の自由市場」理論
[19] もともと表現の自由は、自説と他説の意見交換の自由、討論の自由を内包する。そしてかかる行為形式は、人類の終局的に追究する諸価値のための必要不可欠な手続きであるとの方法論的な認識が、背後に基礎づけられている。近代初期のミルトンが個人の観点から、下つて功利主義的哲学者J・S・ミルが全社会的な脈絡の中でかかる表現の自由の社会的有用性を説くとともに、アメリカにおいては、プラグマテイズムの思想的背景をもちながら「思想交換の自由市場論」となつて表われた。
[20] かかる思想は、19世紀のレツセフエールの支配した自由主義経済、マスメデイアの未発展な社会状況と対応する。
[21] 「思想の自由市場」理論の本質は、自由な討論による世論統合の契機をふくませながら、万人の生活レベルにかかわることがらに関し、いわば暫定的相対的に価値決定をしていくプロセスとして、自由な討論の形式がもつ方法的・手続的な正当性が主張されているものと認められる。そうとするならば、かかる意義づけも民主主義の原理にかかわるものと理解されるのである。(もつとも思想史的には表現の自由を「国家からの自由」としてとらえ統治過程から区別された社会過程のなかで意義や役割を見出していたものであるが)

(四) 国民主権の原理にもとづく意義
[22](1) もともと表現の自由の要求はすぐれて政治的なものであつた。自由の要求は自由に対する抑圧があるから出てくるのだが、多くの場合は、その抑圧は、政治的な内容の表現行為にむけられた。このことは本件を含め多く経験する事柄である。また歴史的にも、そもそものはじめから政治過程に位置づけられた政治的権利であつた。
[23] そして表現の自由は、アメリカの哲学者マイクルジヨンのその著書“Political Freedom”(1920年)において「表現の自由はみずからを統治する者=国民が十全に憲法上の権限を行使するために必要不可欠なものである」と述べ、憲法構造上欠くことのできないものと把握された。
[24] その顕著な功績は、主権者・統治権者としての国民の地位を代議制という制度の形式のなかに埋没させたり、投票のときにのみ主権者となるような考え方に押し込めることなく、この地位を日常の政治・社会生活のなかで生かすものとして把え、この憲法上の地位と表現の自由とを接合させたことにある。
[25] そして表現の自由を、公権力の組織や権力行使に関与し、参加する積極的かつ能動的な権利としての性格を有し、参政権行使の一形態として理解することによつて、国民主権の原理は虚構から解放されることとなつた。かかる思想は、国家独占資本主義段階の進行と政治制度としての民主主義の発展と照応する。国家独占資本主義段階においては福祉国家理念の下に経済的・社会的分野においては多くの立法と行政権による介入を必要とすることになるが、かかる国家意志決定過程、ならびに執行過程に国民が主権者の立場から表現の自由の権利行使によつて参加することによつてこれに国民の意思を反映させ、また、立法府や政府の誤りを正す(過誤の修正)ことが可能となる。
[26] 表現の自由の権利はこのように他の市民的諸自由と異なり、議会制民主主義の政治過程に参加するものと位置付けられることにより異質な位置付けを与えられ、国民主権、議会制民主主義を基本とする憲法秩序のなかで、国民主権、民主主義を保障する権利として優越した保障を受けるものとなつたのである。
[27](2) かかる考えはアメリカの判例法上も、1964年のニユーヨークタイムズ対サリバン事件判決で「公共性のある争点にかんする討論は抑制されてはならず健全でしかも広く開放されているべきである」と判決されるなど、政治的表現の自由の保障を特に重視する方向に発展させ、かのベトナム軍事機密文書に関するニユーヨークタイムズ対ワシントンポスト事件第一審判決において、ニユーヨーク地裁のガーフアイン判事は言論の自由の価値について
「国家の安全保障はそれのみでは金城鉄壁ではない。安全保障はわれわれの自由な制度の価値のうちにも存する。表現の自由と国民の知る権利というもつとも大きな価値を守るために権力の座にあるものはがんこしつような報道機関にもがまんしなければならない」
と述べた。この厳然とした高まいな自由擁護の理念は最高裁においても支持された(1971年6月30日判決)。
[28] なおダグラス判事は右最高裁判決において、
「これらの資料の発表は、重大な結果をひきおこすかもしれない。しかしそうだからといつて報道の事前差止めを認める根拠にはならない。政府の秘密主義は基本的に反民主的なものであり、官僚主義のあやまちを永続させるものである。
 公の問題を公開討議することは、アメリカ国家の健全のために絶対必要である。実際、1週間以上も続いた本件の記事差止めは修正第1条の原則を愚弄するものである」
と述べ、政府の過誤の修正のため、表現の自由擁護の信念を明示している。
[29] わが国においても公安条例事件、京都地裁判決(昭和42年2月23日)が表現の自由は「代議政治のものでその正常な運営上、選挙権を補う参政権的要素を有する」と述べている趣旨も右と同様である。
[30] なお、本件猿払事件控訴審判決が次のように述べている点も同様な考えに立つことを単的に表現しているものとして注視しなければならない。
「凡そ民主政はその自らの政治過程の裡に「前記」すなわち「柔軟な復元を喪うことなく保持する限りにおいて生存しうるという意味において、言論の自由ないし、政治活動の自由こそが、まさに民主政の中核としてその死命を制する根本原理というべきであるから、如何なる理由原因によるにせよ、ひとたび右の自由が制約されるにおいては、それ丈、右の復元機能は柔軟性を喪い、民主主義政治過程に本質的な是正修復の方途を喪い、果ては痳痺硬塞という事態を招来することもありうる」
(一) 議会制民主主義の政治過程と表現の自由
[31] 表現の自由の国民主権の原理にもとづく意義と、優越的地位についてはすでに述べたところであるが、本件が公務員の政治活動を制限する立法であるところから、政治活動=政治的表現の自由の意義を実際の政治制度と政治過程に立入つて検討しておくこととする。
[32](1) 日本国憲法はいうまでもなく議院内閣制で、国民主権の制度的具体化は、普通選挙制度によつて国会議員を選出し、国会を最高の決定機関とし、執行機関としての内閣は国会多数の意志=実際には、多数党の意思によつて構成され、またその執行も国会の議決にもとづいておこなわれるという建前の民主的政治制度である。そして普通選挙制度を媒介として国民は国政を担当する代表を選出するが国民はこれをもつて彼らに全権を委任したわけではない。実際、決定され施行されようとする個々の政策すべてを国民が支持しているというわけにはいかないからである。権力の侵害からの国民の権利、自由の保護と同時に、国民の意思要求をより直接的に政治に反映させ国民の求める政治の実現にむけさせていくための国民の表現の自由などの民主的権利が保障されているのである。
[33] しかし、実際には国民一般というものは存在せず、あらゆる産業諸部門、社会的諸部門に分業化され、所有関係などに応じ上下に分解されていることから、個々の国民の所属する部署、階級、階層により現実的利害、要求関心は異なつている。そのため、それを政治的に代表する政党が形成され、日常政党による、または政党を通じてその政治活動がおこなわれるとともに、選挙に際しては、主要な政治戦の場として多数を競う政党と、特定の政党を支持する個々の国民との共同のもとで、政策戦、宣伝戦が展開されていく、選挙の結果議席数が定まることによつて、自己の支持する政党の政策の実現の可否を含め議会の勢力分野は基本的に定まるのであるから国民と政党のおこなう選挙活動は、国民主権、民主主義の観点から極めて重要な意味をもつことはいうまでもない。
[34] ところで議会制民主主義は「代表の原則」と「多数決の原則」の他に(これだけですべてが選挙時に結着をみることになつてしまう)「討議の原則」「公開の原則」「思想・信条、言論、出版、集会、結社の自由の原則」という3つの原則のうえになりたつている。
[35] これらをとおして院内外において徹底的に審議し、審議内容を国民に知らせ、必要に応じて国民が民主的諸権利を行使してその意思を表明することを通じ、国民全体の意思国民世論をもつとも正しく反映させる形で国会において国家意志を形成し決定していくことができるのである。
[36] ここに議会制民主主義を補完するものとしての政治的表現の自由の意義とその優越性が語られる理由がある。

(二) 権力側からの政治反動と表現の自由
[37] 政治的表現の自由の意義は、政治反動の方式と狙いをみておくことによりいつそう鮮明となろう。
[38] 政治反動は、端的にいって形だけの国民主権、形式的な民主主義(国民多数の合意という民主政治の外観だけ保持して)に墜落させていくことによつて達しうる。
[39] その方式は、第一に西独の政党法のように反体制政党を政治的舞台から排除してしまう。第二に選挙制度そのものに非民目的操作を加える。たとえば小選挙区制の企てのように。第三に国会で徹底審議ができなくするなど国会選営、国家意思形成、決定過程を非民主的なものに改める。たとえば、討議の時間の制限、単独強行採決のように。第四に立法に際して法令に裁量の巾を広く残しておいて、実際の執行過程で政策を反国民的なものに歪曲してゆく。第五は国家意思の形成、決定過程や執行過程にむけられる広般な国民大衆の批判、監視、要求等の、その下からの自主的行動、すなわち行治的表現の自由を行使する諸活動を抑圧し制限してゆくことである。
[40] もちろんこれらは、常に国民大衆の強力な力によつて喰い止めていかない限り、常に総合的におしすすめられる危険を有しているものであつて、右に列挙した順位とかかわりはない。
[41] このように、政治的表現の自由が、政治反動のために抑圧すべき主要な対象とされているということから、逆に議会制民主主義の重要な一原則をなしていることが明らかとなろう。
[42](一) 政治反動の方式でみてきたことからも明らかなように国公法人規14-7は、政治的表現の自由を直接規制するもので治安立法の一種である。
[43] 表現の自由を規制する治安立法は他にも多いが、国公法人規14-7は、市民的犯罪を法の前面に出しながら表現の自由を制限するという方法によらず、政治的表現の自由をそれ自体として制限する立法である点に、見逃がすことのできない特殊性がある。
[44] 人規14-7は、「すべての一般職に属する職員に適用する」と定め、法文の上からみる限り、すべての公務員が規制の対象であるかのようにみえるけれども、立法の真の動機は、公務員労働者の政治的表現活動の規制を主眼としたものであつたことは、その立法経過等からも明らかである。
[45] 1939年ハツチ法が制定された年は、アメリカ自身が第2次大戦へむけての軍事体制に入り、そのために軍事目的にむけて行政権の強化がおこなわれていた。
[46] そのため「公務員労働者」の政治活動をひろく制限する必要があつたのである。こうしたアメリカ型の考えが、同し狙いをもつて、やがてはじまる朝鮮戦争を予想して、ブレン・フーバーの手によつて日本に移入されてきた。そして官公労働者からスト権を奪い、同時に政治的表現の自由を奪つた。このように反動支配強化のため政治的自由を奪うことが本来の目的であった。
[47] だからこそ、国公法102条は、占領軍の圧力によつて国会で実質的審議もされずに成立させられ、又人規14-7も本来国会で審議し立法すべきものであつたのに、国民の反対を無視して、国民の意思が反映しない人事院会で、脱法的に委任立法の形式をとつてつくられた。
[48] アメリカによつて押しつけられた不当な狙いは、そのまま、自民党政権に引きつがれ、昭和35年岸内閣は、国公法改正案を提案した際も、102条ならびに人規14-7には手を触れず、翌36年池田内閣によつて再提案した際にも、国会を通る可能性がないため提案を控えてそのまま温存してきたのである。

[49](二) 法の階級的性格を明らかにするためには、国公法人規14-7の実質的な適用の対象は誰かをみておく必要がある。
[50] 今日の公務員社会においては、かつて明治憲法下の官吏社会が現在以上の身分差別を含みながら、一般社会の階級意識の未成熟と「天皇陛下及天皇陛下の政府」(官吏服務規律1条)の官吏として官吏社会全体の国民に対する優越性意識のために、官吏社会内部の階級意識の分裂が希薄であつたのと異なり、「公務員をすべて等質的な全体の奉仕者たる側面からのみ把握し、労使の対立関係の存在を否定した法理はすでに崩壊している」(中山和久『使用者たる最高裁判所論』早稲田法学45巻1・2号142頁)といわれるように「若干の高級官僚群を除き、今日の公務員の大部分は事実上賃金労働者と異ならない」(野村平爾『日本労働法の形成過程と理論』264頁)。
[51] 政府は資本家それ自体ではないが、政治権力や法的権限によつて公務員の労働条件を左右しうる力をもち、高級官僚群は政府の補助機関としてこれに関する実権を握つている。また、日本の現状のように保守党が永く国会で多数を占めている場合、議院内閣制の必然の結果として、保守党が政府を形成し、これと密着する高級官僚の意識は、一般公務員を含む労働者大衆の意識とはるかにかけはなれたものになつている。公務員社会から政界に進出する場合、高級官僚が保守、官公労出身者が革新と陣営を異にするのが通例であることも、この間の事情を物語つている。このように資本家対労働者の対立関係と近似した現象が公務員社会にみられるにいたっている。

[52](三) そして人規14-7で制限される政治的表現活動の内容をみるとき、6項1・2・3号等を除き、他の多くは非管理職である一般の労働者公務員の、しかも、組合活動の一環としておこなわれやすい性質のミニコミであり、彼らを彼らの組織にとつて、必要、不可欠な政治活動の方式である。現に本件ら3事件いずれも非管理職の一般公務員の行為であり、2件は組合活動の一環としておこなつたものであることからも、このことは肯けよう。
[53] これに反し、高級公務員の場合には、右規則で禁止されているような政治的行為をおこなう必要は全くない。政治的権力を握る政府やこれを支える大企業にとつて政治的表現の自由はほとんど無制約であるのみならず、マスコミ操作の手段等によつていくらでも政治的キヤンペーンを展開しうるのが実情であるから、これと密着する高級官僚群においては、あえて人規14-7で禁止するようなささやかなミニコミを利用する必要なくして、自己の政治的意見は充分代弁され、また、さまざまな政策のなかへ、主体的に滲透をさせることができるのである。
[54] このように人規14-7の定める政治的表現活動のうち、6項1号(職名・職権等の利用)や、同項2号(利益供与)、あるいは昭和32年10月9日最高裁判決の事案のように、電通省の管理職が、前電通省次官から同人の選挙運動資金として金員の交付をうけて適用された同項3号(金品の授受)のような汚職的なものを除き(もつともこれは民主主義的権利としての本来の表現の自由の権利に属するものではないが)政治的表現活動規制の規定は事実上、労働者層に属する一般公務員に対してのみ、適用があるといえる。

[55](四) このようにみてくると人規14-7は一種の階級的立法であり治安立法であることは明らかで、かかる法の性質上、また、刑罰をもつて同法令が制限しようとしている政治行為の内容を仔細にみるとき、その本質的機能は、公務員労働者の政治活動を圧殺し、結社の自由に介入してこれを抑圧し、政治的退廃と不毛化をもたらし、反動支配維持の機能をはたすものとなつていることは明白である(この点の詳細は徳島郵便局塀本事件一審の私の弁論要旨4項を参照されたい)。そして、このことが議会制民主主義に敵対し、行政の民主化を阻害するものであることも極めて明白である。
[56](一) 政治活動の自由、とくに選挙活動の自由について検察官は、表現の自由を抑圧する反動的治安立法の命脈を維持するため、多くの言葉を用い理論的擬装を試みたが、その論理は全く科学的根拠をもたず、自ずからその矛盾を露呈し、反民主主義的反動法イデオロギーは掩い難いものとなつた。表現の自由の民主的意義を明らかにするうえでこの点に触れざるをえない。
[57] 本件3事件は、いずれも選挙活動に関係するもので、いずれの上告趣意書もこの点に触れている。
[58] その論旨甚だ不明確でニユアンスもそれぞれ異なるが、その要点は
(1) 選挙運動の自由は表現の自由の中において「特殊な地位を占める」もので、選挙運動は比較的短期間に多数の人々の関与の下に政治家の政治生命をかけ政党の盛衰をかけてはげしく行なわれるものであるため、極めて公正に行われなければならない。そして公務員の選挙活動は選挙の公正に疑いを抱かせる虞れがある。(徳島郵便局塀本事件第三一、(二))
(2) 一般の言論の自由とその中での政治活動の自由とはその性質に応じおのずから制約の許される範囲には差異があるものと見てよく」、殊に「選挙運動の自由については、選挙運動の性質上厳しい法律的制約」が許されている(猿払事件上告趣意書四(一)(1))。
(3) 選挙は、「国家の政治の根幹を決めるものであるから殊の外公正に行なわれなければならない」、「公務員が選挙運動に関与するならば、自らの利益となる立法府をつくろうとしているのではないかとの疑惑を生じさせ、政治に対する不信を抱くことになろう」また「行政官庁の公正な運営について一般的に国民に与える不安、不信感等は軽視することができない」(総理府統計局事件二(一)3)。
[59] 右(1)の論旨は、言外に選挙活動は政党と候補者がおこなうもので国民は得票活動の客体にすぎないとの理解に貫ぬかれているといえよう。国民主権の原理を忘れ、選挙活動が、国民が主体的にとりくむ政治活動のうちとくに重要な政治活動であることを無視している。
[60] また(2)は選挙活動のルールを担保するためのさまざまな法律的制約のあることを根拠に、国民主権議会制民主主義のうえからとりわけその価値を重視すべき選挙活動につき、かえつてその価値を否定しようとする誤りを犯している。
[61] (1)(2)とも選挙の公正に「疑いを抱かしめる」、あるいは「影響が強い」ものと考えて、「厳しい規制をすることができる」とする点において共通であるが、公務員の政治活動の制限禁止は、選挙活動の公正を担保しようとするものではないから甚だ筋違いな飛躍した論理といわざるをえない。のみならず、選挙というものは、国民が自らの信条に従って選んだ候補者の当選を目指して、表現の自由その他の民主的諸権利を十分行使して活動してこそ、議会の議席に国民の意思が正しく反映されるものであり、このことこそ議会制民主主義の民主的たる由縁であることに照らしてみれば、民主的諸権利を行使することをもつて違法性が強いとする検察官の反動的イデオロギーは掩い難いものがある。
[62] さらに(3)の論理、すなわち公務員が選挙活動に関与すると「自らの利益となる立法府をつくろうとしているのではないか」という疑惑を国民に生じさせると述べたくだりは、これを抑圧しようとする治安立法としての人規14-7の立法動機を直截に物語つているともいえようが、本来選挙活動は国民諸階層がそれぞれ自己のもつている諸要求の実現を願い、それを実現してくれるであろうと信ずる政党や候補者の当選と、それらの人が国会で多数を占めることを目指して相互に働きかけるところの政治活動である。公務員も労働者として、またさまざまな政治、経済、社会、文化、教育的環境にかかわりをもつて生活する市民として、自らの期待する候補者の当選を願うことは当然である。この当然のことをあたかも危惧すべき事柄のように述べる検察官の合理性ありとする検察官の論理は甚だ破綻しているのみならず極めて反動的な反民主的なものであると同時に全く科学的根拠のないものでもある。
[63] 検察官は、人規14-7によって制限禁止する公務員の政治活動の内容が、かつて最孝裁が判示した「民主的且つ能率的に運営せらるべき行政の継続性と安定性の確保」という目的に照らし甚だ不合理であることを自ら意識して、あらたに論理の基底にわれわれは恐るべき反動的法イデオロギーをみないわけにはいかないのである。
[64] また、そのことによつて国民が政治不信を抱くとか、行政官庁の公正な運営に不安、不信を抱くなどは虚妄にすぎない。

(二) 立法目的について
[65](1) つぎに立法目的、すなわち、公務員の政治活動を制限するにつき、その必要性、立法目的が、一般国民に対し、当該公務員の属する行政官庁(ないし公務所)の公正な運営について、一般に不安、不信、疑惑を抱かせない点にあると述べるに至つている(もつともこのことは、それぞれの二審でも述べているし、総理府統計局事件では、一審判決が同様な考えに立つていた)。
[66] その論拠とするところは、
「非政治的公務員は非政治的に公務を遂行するもので、政治に影響されてはならない。かかる公務の公正・中立性については外観上もそうであるような外観をとることを必要とする。
 なぜならば、公務の公正・中立な運営について、一般国民の信頼ということを見逃すことはできない。公務員が一党一派に偏した政治活動を行なつた場合、国民はその公務員が属する公務所の公正、さらには国の行政一般の公正に対し、不信、疑惑を抱かせることになる。かかる国民の不信、疑惑は行政の円滑な遂行、安定性に対し、大きな弊害をもたらすことを「推測」しうる(「推測しうる」は総理府統計局事件上告趣意書)」
というものである。
[67](2) 問題の第一は「公務所が公正・中立であるかのような外観をとる必要がある」といい、また「国民が不安、不信、疑惑をもつであろう」というがこれはいずれも公務が公正中立におこなわれているかどうかと関係なく単に国民の「観念」、「認識」を問題にするものにすぎない。
[68] しかし、未だかつて、本件3事件等を含め、国民がかかる「観念」「認識」をもつたということを証明させた試しがない。また、かかる国民の「観念」や「認識」を問題にするのなら、もともと国民の考え方受けとめ方は多様であり、一律に不信、疑惑に傾くものではない。
[69] かえつて、学会の意見に代表されるところの「封建的官僚制を打破して、民主行政を確立していくためには、むしろ、公務員の政治活動を放任することが好ましい」とする公務研究会の主張(鵜飼信成「公務員法」法律学全集124頁)やあるいは「行政の中立化の必要は政治の正常化、健全化に反比例する」(田中守「行政の中立性理論」、勁草書房刊141頁)というような学者の見解に照らしても、検察官の意見とは反対の見解が国民のなかで支配的と考えられる。
[70] 第二の点は、「一公務員、あるいは一部の公務員が『一党、一派に偏した政治活動をした』ならば、国民はその公務員が属する公務所、さらには国の行政一般の公正」について疑惑等をもつに至るであろうとする点である。これはあたかも検察官が国民は行政にかかわりのない一公務員の行為と公務所の行政のあり方とを区別することはできないであろうという認識に立つて初めていえることである。これほど国民を愚民扱いするものはない。また国民がかかる錯覚をするであろう蓋然性のないことも明らかなところである。
[71] 第三の点は、国民が不信不安をもつことは「行政の円滑な遂行に対し弊害をもたらす」とする点である。
[72] かかる国民の「観念」が、行政の公正な遂行に弊害をもたらしたということはかつて聞いたこともないし、全く蓋然性のないことである。
[73] このように如何なる点からみても実証できないところの論理を弄び、みずからの手で論理の破綻振りを披れきしていかざるをえない。
[74] このことは、検察官自ら自己の論理の自己破産の申立てをしたことと同じである。
[75] のみならずより重要なことは、検察官の論理の中には見逃すことのできない反民主性、反動性が含まれていることである。
[76] われわれは政治的表現の自由は国民主権民主主義のために侵すことのできない権利だと主張している。
[77] 検察官も国民主権民主主義の原理を無視することができないので、「国民」が不信疑惑をもたないことが公務の公正中立のためにも、また「国民」のためにも重要なことだといつて、あたかも基礎を「国民」に置いているかのような民主的ポーズをとつている。
[78] ところで、もともと民主的政治制度をとる場合には、支配者の側は政治反動を推しすすめる場合でも、形式としての民主的政治制度は破壊しないことによつて国民を偽瞞的に納得させ国民の反抗を抑圧しながらその実民主主義の実質を奪つていくというやり方をするものである。また、民主主義の実質を奪つていく場合にも、常に、そのことがあたかもより民主的であるかのようなポーズと偽瞞的な論理を駆使するものである。
[79] またフアツシヨは、虚偽と恐怖の幻想をふりまいて国民を威しておいて、その隙に国民から権利を奪い取るというのが常とう手段である。
[80] このようにみてくると検察官の論理は民主主義ポーズをとる点では、政治反動化の常道に通じ、虚偽の幻想を振りまいて国民に不信不安疑惑を故意に植えつけ、その隙に政治活動を奪いとろうとする点において、まさにフアツシヨの手口に通ずるものがあるといわなければならない。
[81](3) さらに検察官は、公務員に政治活動を許容することによつて、これに党派性が侵入しもつて2つの弊害が生ずるという。
[82] ひとつは、公務員労働者が、全国的行政組織を基礎に巨大な「圧力団体」を構成しもつて公正な行政を妨げるに至るであろうというものである。
[83] しかし、公務員労働者が職員団体、労働組合を組織することは憲法28条も公務員法等も認めていることである。かかる組織された公務員労働者が、自らの政治的、制度的諸要求を実現するために、民主的諸制度のルールに従つて民主的諸権利を行使することは、議会制民主主義のために本来必要なことであり、期待されていることである。そのためにこそ政治的表現の自由の意義とその優越性が論じられているのである。
[84] 検察官の論理は、組織された公務員労働者の団体を「圧力団体」と述べ、これに対し単純に反民主的、否定的評価を下している点にある。
[85] 「圧力団体」という概念は必らずしも一義的ではない。問題は「圧力団体」という用語を用いるかどうかはともかく、労働組合、市民団体その他の大衆組織の活動が近代の現実政治の政治過程のなかで、極めて重要な民主的役割を担っていることを重視しなければならない…………。
[86] なお「圧力団体」という用語は、近代政治学に表われた用語であるが、かかる用語はさまざまな社会集団を同一視することにより、各集団の性格、民主的性格、反動的性格をおおいかくし、政治の基本的関係を見失わせるものである。
[87] 検察官のかかる評価は、第一に大衆団体の、その集団の利益や要求実現のため議会や政党に働きかけるという民主政での当然の政治過程に対し否定的評価を下す点、第二に、したがつてかかる活動の民主的意義を否定する点において重大な誤りを犯すものである。とりわけ労働組合は、憲法において労働者の団結権、団体行動権が保障されていることに鑑みれば、かかる考えの誤りはいつそう明白であろう。
[88] かかる検察官の見解は帰するところ民主政の基盤の破壊につながるものである。
[89] 第二の点は、このような組織が特定の党派と接近することにより、一党一派に偏した行政となるという点である。
[90] これも基本的には第一の点と同様の批判があてはまる。
[91](4) 検察官はさらに「郵便職員は、日常国民に接しているので、その個人たる職員が事実上政官庁を代表する地位にある。」あるいは「そうみられる」とか、「公務所が執務中であれば、当該公務員が休暇中でも公務所が政治行為をさせているとみられる」とか、さらに「公務員の行為は、私人の行為か、行政官庁の行為か、一般国民からみて区別できない」などという趣旨のことを述べるが、かかる口実は、いずれも国民の観念を問題にする点、また、全く論拠のない点、偽瞞的手口で国民の権利を奪おうとするものである点等、前述の批判がすべてあてはまる。
[92] のみならず、例えば人規14-7、6項16号ならびに「人規14-7の運用方針」2頁によつても「政治上の主義主張又は政党その他の政治団体の表示に用いられる腕章、記章、えり章、服飾等を勤務時間外に単に着用することは禁止されない」のである。したがつて、国民の「観念」を基本においてみる限り、公務員が勤務時間外に特定の政党のために政治活動をすることと、有着用行為とは質的に差異はないから、検察官の主張は明らかに明文にも反するものといわなければならない。
[93] さらに検察官は、「郵便配達等の順位に差異が生ずるおそれがある」などという。しかし、もしそのようなことが懸念されるとすれば、それは公務員が人規14-7で禁止されるような政治活動をおこなうからではなく、公務員が政治的思想をもつことにおいてであるとみなければならない。
[94] よつて、かかる論拠は(もし「おそれ」があるとしても)職務専念義務の問題であつて、政治活動禁止の必要性の問題ではない。のみならず、本質的には公務員の信条や政治思想を問題にするものであつて、かかる見解自体憲法19条を犯すものであり、かかる論拠を理由に政治活動等を禁止しようとするのであれば憲法19条に違反することとなる。いわんや国公法・人規14-7は公務員の思想・信条はもちろん政党に加入することを禁じているものではないから、明らかに明文に反する見解といわなければならない。
[95](5) また検察官は、国公法の各規定は、抽象的危険犯を規定したものであり、これに対し、特定の公務員の特定の政治的行為のみを同種行為と切離してその影響力の軽微であることを強調し、処罰の対象から除外しようとするのは誤りであるとする(徳島郵便局事件上告趣意書第三、3、七)。他2事件が同種行為の「累積的影響」をこそ重視すべきであるとする点も同様の考えに立つものであろう。
[96] しかしながら、前述、腕章・記章等の着用等は勤務時間外は自由とするところ、国民の不信・疑惑といつた「観念」を基本に置いて考える限り、腕章着用行為等と他の行為等を区別する理由はない。よつて、検察官のかかる見解が明文に反すること前同様である。
[97] のみならず抽象的危険といい、累積的効果といい、かかる危険や効果は、何ら実証的根拠をもたないのみならず、かかる理由で刑罰をもつて政治的表現の自由を奪おうとすることは、その優越的地位からみて到底許されるべきことではない(この点は別に詳論される)。

(三) 昭和40年7月14日最高裁大法延判決の機械的適用
[98] 右判決は、地方公務員法52条と憲法28条との関係についての判決において司法審査の方法における合憲性推定の原則を明らかにしたものであるといわれているが、検察官は右判例のどこにも労働基本権に限りこの基準に準拠するという趣旨をうかがわせるものはなく、むしろ裁判所の違憲立法審査のあり方を示したものとすれば一、二審判決ともこの判例に反する憲法判断をおこなつたもの(猿払事件上告趣意書四、(二))であるといい、さらに右の原則に従えば国公法・人規14-7の合違憲の判断をするに当つての基準はその規定が国家公務員の政治的行為の制限として必要最少限のものであるかどうかというのではなく必要最少限度のものであるかどうかについての国会および人事院の裁量権の範囲を明白に逸脱しているかどうかの基準によらなければならない(徳島郵便局事件第三、一、1)と述べる。
[99] 問題は右判決は政治的表現の自由についても右基準によるとはいつていないこと。同判決も同じ労働基本権に関する判決である最高裁昭和41年10月26日判決(全逓中郵事件)以来実質的に変更されたこと。何よりも表現の自由の優越性からかかる基準によるべきでないことなどから誤つている。のみならず検察官の論法は優越的価値をになう表現の自由についての価値を低め、事実上裁判所の司法審査権の積極的行使の放棄を求めるものであつてその反動的法イデオロギーは看過できない。
[100] 以上、表現の自由の意義、とりわけ政治的表現の自由の現代的意義とその優越的地位からして、公務員の政治活動を禁止、制限することは、国民主権、議会制民主主義の否定につながり、憲法21条に違反するものであることは明らかであり、検察官の意見なるものは甚だ反民主的、反動的であることが明らかとなつたと考える。本件3事件につきいずれも上告を棄却されるべきものであるとの結論は、国民にとつてあまりにも明白である。いまや国民は、憲法の番人たる貴最高裁がどのような態度をとられるかに重大な関心をよせて注視していることを最後に申し添える。
[1]、危険犯とは、いうまでもなく、構成要件の内容たる行為の実現にあたり、単に、法益侵害の危険性を生ぜしめることをもつて十分とする犯罪を指称する。したがつて、検察官の主張によれば、一般職の国家公務員の政治的行為それ自体に、法益侵害の事実発生の可能性ありとせらるることになる。
[2] ところで、右にいう法益侵害の可能性とは、公務員の全体に対する奉仕者性に対する危険の可能性であり、公務員の担当する公務の公正さらには当該公務員の属する公務所の公正に対する国民の不信、不安、疑惑の可能性であるとされる。しかし、検察官の主張する国民の不信、不安、疑惑の可能性なるものは、いずれもその主観的な判断・意見の産物であり、観念的なこしらえものにすぎない。換言すれば、公務員の政治的行為を禁ずる国公法の構成要件が、公務の公正あるいは公務所の公正に対する疑惑の存否についての個別的な吟味を一切不要とするような行為類型であることの論証はまつたくされていないのである。したがつて、公務員の政治的行為のうちに、危険の発生の可能性が常に存在するものとする検察官の擬制は成り立たない。よつて公務員の政治的行為一般をもつて、右の如き危険性を荷うべき性質のものとする合理的理由はなく、国公法の規定をもつて、公務員の政治活動を禁止する根拠とすることはできない。
[3] 検察官の主張は、この点において誤つている。

[4]、検察官は、なお、公務員が「その全国的または地方的な組織を利用して」政治的行為をすることになれば、その全体の奉仕者性に危険をおよぼすことになる点に、国公法の立法趣旨がありとする。すなわち、検察官は、公務員の個々の政治的行為が、その全国に及ぶ組織を利用してなされ、かつこれが選挙のたびに累積される結果、前記の如き弊害を生じやすいことをもつて、一転して個々の公務員の政治的行為に急険性推定の根拠を見出そうとするのである。しかし、本来、抽象的危険犯なるものは、個々の構成要件に該当する行為の累積的効果をもつて、危険推定の根拠とするものではなく、一つ一つの行為そのものがその根拠を擬制しうるに足るものでなければならないから、検察官のかかる主張自体、理由なきを露呈したものにほかならない。
[5]、公務員の政治的行為を、抽象的危険犯を規定した犯罪構成要件をもつて問疑し、刑罰の威嚇をもって制約することは、憲法21条の趣旨から許されない。
[6] 危険犯は、前述のように、法益侵害の事実発生に対する可能性のみをもつて、犯罪構成要件の内容たる行為として十分であるとされる犯罪態様である。なかんづく、抽象的危険犯は、立法機関によつて一定の行為自体において一般的危険性を内在するものを予想されるもので、具体的事件の審理に際し実際に危険の発生を招来したものであるか否かを調査し、その犯罪の成否を成定する必要をみないものである。例を刑法典中の犯罪にとると、刑法108条1項の現住建造物放火罪を典型とし、同法109条1項の非現住建造物等放火罪、同法119条の現住建造物等侵害罪、同法106条の騒擾罪、等があげられる。これらの行為は社会一般の経験上、広く公共の安全性を阻害すべき性質のものとされる。社会防衛的立場から、おのずから法益侵害の現実的結果の招来を待つことなく、これに対する予防的処置が講ぜられる。そこで、いきおい行為に対するいわゆる事前の抑制が要請される。

[7]、ところで、表現の自由とりわけ政治的表現活動の自由は、各種の自由のうちでも第一義的な地位を占めるべきものである。その「優越的地位」は、他の表現の自由のうちにおいても、保持されなければならない。民主政国家において、国民に主権者たる地位を付与しているうえは、国民がその代表者の選出に関与し、その行動を自由に批判し論議することが保障され、その結果、国民が積極かつ能動的に国家権力の行使に参加することこそ民主主義を実効あらしむるものだからである。
[8] 果してしからば、政治的行為の自由の行使に対し、刑罰の制裁的効果をもつてこれを規制せんとし、事前検閲の方法をもつて表現の自由を不当に圧迫することは、到底憲法の趣旨に合致するところではない。しかるに、抽象的危険犯を規定する構成要件をもつて政治的活動の自由を制約する国公法は、あらかじめ危険の存在を予知して、政治的表現の自由の行使に先立つてあらかじめこれを検閲し、これを抑制するものである。それはまた、表現の自由の制約の基準である「明白でありかつ現在の危険」がまつたく存在しない状態のもとで、この自由を規制することになる。政治的行為制約の手段として抽象的危険犯の構成要件をもつてすることは、本質的に表現の自由保障の趣旨に合致しないものというべきである。

[9]、なお、検察官が危険犯をもつて表現の自由を制約しうる例としてかかげるものは、公職選挙法の規定にせよ、公安条例にせよいずれも具体的危険犯を規定したものであるから、弁護人の主張に対する反論としては当を得ない。
[10]いずれにせよ、公務員の政治活動のなかに、抽象的危険の発生が擬制されているとする検察官の主張は誤りである。
[1](一) 弁護人らが本件において違憲論を強く主張してやまないのは、本件において問題とされている国公法102条、人事院規則14-7の各条項、すなわち、猿払事件にあつては、5項3号と6項13号、徳島郵便局事件にあつては5条1項、6項8号、総理府統計局事件にあつては5条1項、6項13号の各規定が、公務員の政治活動について広汎かつ包括的に制限するものであるということ、加えて、制限違反に対しては、過酷な刑事罰が科されるということ、の2点にあるといつてよい。公務員の担当する職務の性質の相違、職務上の行為と職務外の行為等々について何んらの考慮を払うことなく一律に制限を課し、制限違反に対しては刑罰を科するということが、憲法21条の保障する表現の自由に対する制限として合憲的に許容される必要最少限度の規則といいうるかどうか、これがまさに本件における司法審査の焦点である。
[2] なお検察官は、「刑罰と懲戒処分は異質ものであり、単純にその軽量を比較し得ない」とか、「あるいは実質的に見た場合本件被告人らの場合の5千円又は1万円の罰金とハツチ法の定める最も軽い制裁である30日の無給停職とは、いずれが重いといい得るだろうか」との議論をもち出し、刑事罰があるからといつて制裁手段として決して必要最小限の規制を超えたものではないと述べているので、この点に一言言及しておきたい。
[3] 刑罰がとりわけ反社会性の強い行為に対する製裁手段と考えられていること、刑事罰が他の制裁手段に比して強度の威嚇的機能をもつていること、また、結果的には罰金制が相当な事案であつても、逮捕、勾留という国家権力による直接的な人身の拘束が加えられる可能性のあること等の点は、懲戒処分との著しい差異である。われわれがとりわけ問題とするのは、刑事罰の以上のような性質や機能がもたらすところの、もたらしているところの、表現の自由に対する一般的な抑圧機能なのであり、検察官の論理はこの点を完全に無視したものであり、姑息な論理といわなければならない。

[4](二) 加えて、本件における司法審査の必要性は国公法102条、人事院規則14-7の立法経過および人事院規則14-7の立法形式を考慮するとき一層強調されなければならない。
[5] 国公法102条、人事院規則14-7の立法経過についてはすでに他の弁護人によつて詳細に明らかにされたとおりである。そこで明らかにされた立法経過は国公法102条、人事院規則14-7の違憲性を疑わせるに十分であるが、立法経過そのものは、それだけで直ちに立法の違憲性を示すものでないとしても、占領下の特殊事情のもとで生れたかくも厳しい政治活動制限を、現時点においてそのまゝ維持することが合理的なものとして許されるか、という問題は裁判所による司法審査の今日的必要性を加実に示すものである。
[6] 立法形式における問題というのは、人事院規則に対する委任の問題である。この場合の委任は、基本的人権、とくに精神的自由権の制約に関する委任であること、刑罰決規の委任であること、が重要である。もつとも、最高裁判所はかつて、
「前記人事院規則は右国家公務員102条1項に基づき、一般職に属する国家公務員の職責に照らして必要と認められる政治的行為の制限を規定したものであるから、実質的に何ら違法・違憲の点は認められないばかりでなく、右人事院規則には国家公務員法の規定によつて委任された範囲を逸脱した点も認められず、形式的にも違法でないから、憲法31条違反の主張はその前提を欠くものというべきである。」(昭和32年5月1日刑集12巻7号1272頁)
と判示したことがあるが、委任命令性という観点からの違憲論はさておくとしても、人事院規則14-7が、国会における立法ではなく、国公法の広範な委任にもとづく規定であるという動かし難い事実は、裁判所による司法審査を通常の立法に比して一層必要としていることは否定できないところである(注1、注2)
[7](一) 基本的人権を制限する立法の司法審査にあたつては大きく分けて2つの観点が必要である。1つは、当該立法の立法目的の合憲性であり、いま1つは、当該立法に定められている制限の方法・手段の合憲性である。当然のことながら、この2つの観点はそれぞれ独立して検討を要するものである。もつとも多くの場合、立法目的自体の違憲性は問題とならず、主として違憲性が論じられるのは、当該立法による手段が、当該立法目的を達成するための手段として合憲性を肯定しうるか否か、という点での審査である。
[8] 制限の手段・方法については、さらに2つの問題を分つ必要がある。1つは、制限の範囲・程度の問題であり、1つは制限違反に対する制裁方法の問題である。これらもまたそれぞれ独自に検討されなければならない課題である。刑事罰の問題は、制限違反の制裁方法に関する問題として提起される。
[9] 司法審査においてとりわけ重要なのは、制限の方法について、である。何故なら議会制民主々義が確立している国においては、立法目的それ自体が憲法上明白に疑義がある、あるいは一見して不合理と認められるような法律が制定される可能性は少いと考えられるからであるとすると、憲法問題が提起され、違憲訴訟の主たる争点となるのは、実際上は立法手段に関して、ということになり、ここに司法審査の焦点があわされ、司法審査の機能が果されるのである。
[10] そして、制限の方法・手段に関して適用される原則は、法目的を達成するために必要にして最小限度の規制に限られる、という点である。基本的人権を制限する立法の司法審査にあたつては、このように立法目的と立法手段の必要最小限性という2つの点について厳密に行われなければならないのである。
[11] なお、検察官は、政治的行為規則の範囲の問題は、憲法21条の問題であり、規制の深さの問題すなわち制裁はどの程度許されるかの問題は憲法31条の問題であるとの論旨を述べている。しかし、これまた誤つた議論である。規制の範囲と規制違反に対する制裁の問題は表現の自由に対する制限の手段・方法における2つの側面なのであり、それぞれが憲法21条の問題として位置づけられるのであり、規制の範囲が合理的なものとされる場合であつても、制裁手段の点から憲法21条違反と断ぜられる場合が存するのであり、制裁の問題を憲法21条論の枠外におくのは正しくない。また、一方憲法31条論も、単に制裁方法の領域についてのみ問題となるのではなく、例えば、制限の範囲の広範性不明確さ等々は、まさに憲法31条の立場からも問題となるのである。検察官の前記論旨の21条と31条の適用領域にかかわる峻別論はおよそ誤つた議論といわざるをえない。

[12](二) ところで、最高裁判所は司法審査にあたつてどのような手法をもつてのぞんでいるであろうか。若干の判決の検討をこころみてみよう。結論的にいうならば最高裁判所の司法審査の態度はとりわけ近年基本的人権制限立法に関しては、より慎重に、より厳格に、より具体的になつてきている点は注目される。ことに立法目的についての検討もさることながら、立法の手段について、立法目的との関連でその手段の当否を判断しようとする姿勢を示してきていると思われる。このような傾向の端的な例は、労働基本権をめぐつての判決にはつきりとあらわれている。すなわち、昭和38年3月15日第二小法廷判決と昭和41年10月26日大法廷判決を対比すればその差異は極だつている。司法審査のあり方という観点から右大法廷判決をみるならば、立法目的の合理性についての具体的検討(単なる「全体の奉仕者」や抽象的な「公共の福祉」論からの解放)と制限手段の程度・限界(制限違反に対する制裁のあり方を含めて)についての自覚的な検討という点で、司法審査のあり方を大きく前進させたものと評価されよう。この判決に続くものとしての昭和44年4月2日大法廷判決は一層このような立場を展開したものといえる。また、昭和44年4月2日大法廷判決を変更した昭和48年4月25日大法廷判決についても、その論理や結論は別として、司法審査の態度・手法という立場からみるならば、立法目的および立法手段について、合憲的に許容されるかどうかについて詳細に検討していることは疑いを入れないところである。
[13] 司法審査のあり方という点から、注目すべきなのは尊属殺人違憲判決といわれる昭和48年4月4日大法廷判決である。
[14] 同判決は刑法200条の憲法適合性について、「まず同条の立法目的につき、憲法14条1項の許容する合理性を有するか否か」について判断する。そして、「尊属の殺害は通常の殺人に比して一般に高度の社会的道義的非難を受けて然るべきであるとしてこのことを処罰に反映させてもあながち不合理であるとはいえない」として、立法目的の合理性を肯定する。しかしながら、同判決はすゝんで、
「刑罰加重の程度いかんによつてはかかる差別の合理性を否定すべき場合でないとはいえない。すなわち加重の程度が極端であつて前示のごとき立法目的達成の手段として甚しく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法14条1項に違反し無効であるとしなければならない」
と論じ、刑法200条の法定刑は、その立法目的達成のため必要な限度を遥かに超えていると結論するのである。判決の手法は、立法目的とあわせてその立法手段について意識的な検討を加え、立法目的の合理性から直ちに立法手段を肯定するのではなく、立法目的の合理性は肯定しながら、立法手段における不合理性という点から、違憲論を導き出しているのである。このような司法審査の手法は、弁護人が指摘した司法審査のあり方にも基本的に符合するものと評価できる。
[15] ところで、検察官が3つの事件の上告趣意において、原判決の判例違反を主張するにあたつて対象判例として掲げている最高裁判所昭和33年3月12日および同年4月16日判決はどうであろうか。同判決は
「公務員は、すべて全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者でないことは、憲法15条の規定するところであり、また行政の運行は政治にかかわりなく、法規の下において民主的且つ能率的に行なわれるべきものであるところ、国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は、国の行政の運営を担任することを職務とする公務員であるから、その職務の遂行に当つては厳に政治的に中正の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することは許されないものであつて、かくしてはじめて、一般職に属する公務員が憲法15条にいう全体の奉仕者である所以も全うせられまた政治にかかわりなく法規の下において民主的且つ能率的に運営せられるべき行政の継続性と安定性も確保されうるものといわなければならない。これが即ち、国家公務員法102条が一般職に属する公務員について、とくに一党一派に偏するおそれのある政治活動を制限することとした理由である」
とし、国公法102条1項による公務員の政治的行為の制限を認め、この制限により国家公務員の政治活動の自由が一般国民と差別されることになつても、それは
「合理的根拠にもとづくものであり、公共の福祉の要請に適合するものであつて、これをもつて所論のように憲法14条に違反するとすべきではない」
と判示する。この判決は、立法目的に関しての検討はそれなりになされているものの、立法の手段すなわち、制限方法の程度については自覚的検討を欠いていることは明らかである。もし、自覚的検討がここころみられているならば例えば、右判示内容を前提として、立法目的が「職務の遂行に当つての政治的中立性」とするならば、職務の遂行と関連のない行為についまで制限するのは右の立法目的からしても、制限方法・程度として許容される限界を超えているのではないか、という問題意識が当然生れるはずだからである。検察官が引用する昭和33年の右各大法廷判決が、その後の最高裁判決である昭和41年10月26日判決、あるいは昭和48年4月4日判決等々に比べて、司法審査のあり方という点からみた場合、著しく立遅れたものであることは明白であり、右各判決以後の最高裁判所における司法審査の手法の前進・発展に照らすならば、本件において検察官が右各大法廷判決を引用して原判決を攻撃するのは不適切との批判を免れない。
[16](一) 基本的人権を制限する立法に対する以上のような司法審査のあり方をふまえて、とくに表現の自由制限に対する司法審査のあり方について以下に言及しよう。
[17] 基本的人権とひと口にいつても、経済的自由権といわれるものから精神的自由権といわれるものまで、その権利の性格は一様ではなく、また基本的人権保障体系における価値という点からも相異が存在することは否定できない。このような基本的人権の権利の性格いいかえれば違憲と争われている法律が経済的自由権を制約するものか、精神的自由権を制約するものかといつた、その法律の性格は、違憲審査の手法や基準に大きく影響する。表現の自由制限立法の司法審査にあたつてもつとも強調されなければならないのは、表現の自由という権利の憲法体系における価値の認識である。民主主義における根幹としてその権利の性格から、周知のとおり、表現の自由は基本的人権のカタログのなかで、とくに「優越的地位」が主張されるようになつたのである。表現の自由に対する重大な侵害が問題とされている本件において、正しく司法審査をなすためには、このような表現の自由についてのとらえ方が不可欠の前提となるのである。表現の自由の優越的地位は、表現の自由がとくに保護されなければならないこと、より厳格な司法審査が行われなければならないこと、制限の必要最小限性もより厳格に貫徹されなければならないこと、等々の帰結をもたらすのである。

[18](二) 弁護人らが、本件において表現の自由の優越的地位に鑑みて、厳格な司法審査を要求しているのに対し、検察官らは裁判所の違憲審査権の発動を避けまたはこれを免れようとしていわゆる「立法裁量」「明白の原則」「合憲性の推定」等々の議論をもち出している(注3)。しかしながら、検察官の論旨は以下に述べるような点から明白に排斥されなければならないものである。
[19] まづ、いわゆる「立法裁量」についてである。「立法裁量」という考え方を認めうるとしても、それが適用される余地があるのは、あくまでも経済的自由権に限定されるということである。すなわち、経済的自由権に関しては立法府が専門的裁量権限を有する、という前提のもとに立法裁量論が展開されるのであり、こと「優越的地位」をもつ表現の自由の如き基本的人権については、人権の府としての裁判所こそ専門家なのである、ということである。したがつて、表現の自由に対する侵害が問われている本件においては、立法裁量をもち出すことは許されないものといわなければならない。さらに、加えるならば、国会の判断が基本的に尊重されなければならないというのが立法裁量論の考え方であるが、国公法102条について、国会が憲法21条の表現の自由保障という点をふまえつ、公務員の政治活動の制限について慎重に審議決定したというのならともかく、占領軍総司令部の強い圧力のもとで独自の審議の許されない状況下で作られた法文について、「立法府の裁量」などというのは、あまりにも白々しい。検察官は
「国公法102条1項、110条1項を判定した国会も、国家公務員の政治的行為の制限は、憲法21条との関係上必要最小限度のものでなければならないということをも当然考慮したものと考えるべきである」(徳島郵便局事件の上告趣意書14丁)
というが、これは立法の経過を完全に無視する暴論というべきであろう。
[20] 次に指摘しなければならないのは、検察官が「立法裁量」等の考え方を主張するにあたつて採用している和歌山県教組事件に関する昭和40年7月14日最高裁大法延判決(民集19巻5号1198頁)についてである。
[21] 右大法延判決の違憲判断の基準それ自体についての批判(注4)はさておくとして、同判決は憲法28条の保障する団結権の制限に関するものであり、猿払事件の一審判決も指摘したとおり、労働基本権と言論・表現の自由に関する基本的人権とでは違憲審査の基準を異にすべきものである点を指摘しておかなくてはならない。すなわち、違憲問題が提起されている権利の性格は、違憲審査にあたつてまづもつて考慮されなければならない点であり、権利の性格の差異が違憲審査の基準の差異をもたらすのである。右判決における判示をもつて、違憲審査のあり方について、「事案の相違を越えて妥当する性質のもの」「労働基本権問題に関連して基本的人権一般の規制に関する裁判所の違憲審査権のあり方を示したもの」(猿払事件上告趣意書30丁)というのは、問題の所在を正しく認識したものとはいえない。表現の自由が優越的地位を有するとの考え方は、まさに右のような論理を排斥しているのである。
[22] さらに、つけ加えておかなければならないのは、最高裁判所自身、憲法28条の労働基本権についても、右の昭和40年7月14日判決を変更していると考えられる点である。
[23] すなわち、最高裁判所は、右判決後、全逓中郵事件に関する大法延判決(昭和41年10月26日)において、その後の都教組事件判決(昭和44年4月2日)、あるいは全農林警職法事件判決(昭和48年4月25日)において、その内容や結論の当否はともかく、少くとも憲法28条の保障する労働基本権を制限する立法についても、いわゆる立法裁量論の立場からではなく、積極的に司法審査にあたつていることは、各判決の判示内容からして明らかである。最高裁判所は、和歌山県教組事件に関する判決において展開した憲法28条に関する違憲審査の考え方をその後の判決において自ら修正したものと評価すべきであり、したがつて、検察官が右判決を援用するのは不適切であるとの批判を免れないのである(注5)
[24] また、検察官は全農林警職法判決をも立法裁量論の立場にたつた判決として掲げているのであるが、これは著しい恣意的引用といわなければならない。同判決中に
「もし公務中職種と職務内容の公共性の程度が弱く、その争議行為が国民全体の共同の利益にさほどの障害を与えないものについて、争議行為を禁止し、あるいはそのあおり等の行為を処罰することの当を得ないものがあるとすれば、それらの行為に対する措置は、公務員たる地位を保有させることの可否とともに立法機関において慎重に考慮すべき立法問題であると考えられるのである」
と述べている部分があるが、右判示内容それ自体からも、また判文全体からも、同判決が立法裁量論をとらずに国公法98条5項および110条1項17号について司法審査を試みたうえで、一部の限定的場合についてのみ立法問題である、との立場にたつていることは明らかである。
[25] 「明白の原則」「合憲性推定の原則」も右に述べた立法裁量論と結局において同じ思想にたつものであり、司法の自己制限の内容として説かれるものである。その論旨は要するに、立法府による立法がなされた場合には、憲法違反が確かめられるまでは、その有効性あるいは合憲性を推定すべきであるとか、あるいは違憲無効を宣言するのは、憲法違反が合理的な疑いの余地を残さないほど明白である場合にかぎるべきである、とするところにある。いいかえれば、違憲審査を、あくまでも例外的としようとする司法消極主義の立場ともいえよう。たしかに、「合憲性の推定」の原則や「明白の原則」が米合衆国連邦裁判所における違憲審査制において古くからいわれてきたことは周知のとおりであるが、今日右の原則は決して憲法訴訟に一律に妥当する一般理論とは考えられていないのであり、右理論の適用領域は、合理性の基準が妥当するといわれる経済的自由を規制する立法に対する違憲審査の準則だとされているのである。そして、精神的自由を規制する立法はかえって違憲の疑いをもつてみられ、厳格な基準によつて司法審査を受けなければならないとされているのである。
[26] ことに、検察官の主張する「立法裁量」等の考えが、制限の範囲、制限違反に対する制裁という立法手段に対していわれていることは明らかな誤りである。前述したとおり今日司法審査上問題となりうるのは、実際上は立法目的というよりも立法手段についてなのであるから、もしこの点についての選択はあげて立法府の裁量にゆだねられるとするならば、憲法訴訟は裁判所から姿を消してしまうことになるだろう。検察官の論理は、結局において裁判所に対し、違憲立法審査権の放棄を迫るものというべきである。
[27] 以上要するに、本件において、「立法裁量」論や「合憲性の推定」の原則あるいは「明白の原則」等をもち出すのは、著しく妥当性を欠くものといわなければならない(注6、注7)。裁判所に対し、注意をあえて喚起したいのは、検察官が主張するような原則が表現の自由に対する制限の当否が問題とされている本件に安易に適用され、裁判所が憲法判断を回避するならば、それはまさしく裁判所の崇高な使命である違憲立法審査権の実質的放棄であり、「憲法の番人」たる地位・任務に背くことになるという点である(注8)

[28](三) 表現の自由を制約する立法の司法審査にあたつて、いかなる制約の基準が妥当するか、という問題はさまざまに論じられている困難な問題である。米合衆国連邦最高裁において、修正第1条にかかわつて展開されている法理は制約基準の妥当性をめぐつてのさまざまな試みを示している。「事前抑制の禁止」「明白かつ現在の危険」「漠然性のゆえの無効」「広汎性のゆえの無効」「L・R・Aの原則」等々の手法が連邦最高裁判例において展開されてきたことは周知のとおりである(注9)。これらの理論はそれぞれその適用される領域(表現の自由を制約する形態との関連)とそれぞれの理論の問題点を含むのであるが、少くともここで明らかにしておく必要があるのは、これらの理論が判例上つくられたのは、経済的自由権に対する制約の基準とは異つたより厳しい基準が表現の自由に対する制約については適用されるとの強い考慮に基づくものであるという事実である。連邦最高裁判例に示されている各種の手法はわが国における司法審査においても十分に参考としうるものであるが、とりわけ重要なことは右のような手法にみられる表現の自由制約立法に対する厳しい司法審査という態度であり、この態度についてはわが国の裁判所においても是非確立されなければならない。
[30](一) わが国においては、違憲立法審査権は、事件性を前提とし、具体的事件の解決に必要な限度で行使されるのであるが、同時に違憲審査制は憲法保障機能とくに基本的人権の保障機能をも有しているといわれる。このような違憲審査制に随伴する人権保障機能は、表現の自由制約立法に対する司法審査においてこそ十分に発揮されなければならない。
[31] われわれが違憲と主張する本件の国公法、人事院規則14-7の諸規定の存在のもとで直接的には被告人らの表現の自由の権利が具体的に侵害されたのであるが、右の各規定が不特定多数の多くの一般職の公務員の表現の自由について本件類似の侵害をもたらす危険性を有していることはいうまでもない。さらに、重要なことは、右各規定の存在がもたらす表現の自由に対する重大な抑圧的機能である。違憲審査制の有する人権保障機能は事件の正しい解釈とともにこのような表現の自由に対する抑圧的機能に対しても向けられなくてはならない。すなわち、本件において適用の可否が問題とされている国公法、人事院規則の該当条項そのものに対して明確な判断が加えられる必要がある。
[32] 合憲的限定解釈、あるいは合憲解釈のアプローチということがいわれる。もとよりこのような手法が憲法訴訟にむいて採用される場合のあることは否定しえないであろう。しかしながら、憲法判断を回避して、限定解釈をなしうるかどうか、なすのが妥当かどうか、は違憲として攻撃されている法律の規定と関連させながら、違憲審査制の前述のような人権保障機能をふまえて考慮されなければならない。法律の文言と立法目的の2つの面から合憲性に関する判断を回避できるような法解釈が合理的に成立する場合には、合憲解釈のアプローチもありえよう(注10)。しかしながら、とくに、刑罰法規については、罪刑法定主義の原則から構成要件の明確性の要請がある。このような点を考慮するならば、表現の自由を制限する刑罰立法には原則として合憲的限定解釈あるいは合憲解釈のアプローチを採用することができないと結論される。
[33] 本件において問題となつている諸規定は一般職の公務員全てに、その職務の性質にかかわりなく、職務上か職務外を問うことなく、文言上においては一律全面的に、当該規定にかかわる政治活動を禁止していることは明白であるから、右に述べたような要素をとりこんで右諸規定を合理的に解釈することは困難であり、またそのような解釈論は構成要件の明確性という点からも問題の存するところである。結局において、本件における憲法判断においては該当条項自体の違憲を宣言するのが最も正しい司法審査のあり方というべきであろう。
[34] この意味からすれば、猿払事件、徳島郵便局事件の原判決が適用違憲論をとつたのは、本件の司法審査の手法としてはやゝ不徹底の感を免れない。しかしながら、だからといつて、検察官のような論理で原判決の適用違憲論を論難するのは全く筋違いである。
[35] 原判決は立法目的の合理性の検討のうえにたつて、一般職の公務員に対し政治活動の制限を合憲的になしうる場合についての基準を明らかにし、本件が政治的活動を合憲的に制限しうる基準に該当しないとの判断すなわち本件に適用される限り違憲である、との判断を示したのである。すなわち、原判決当該法令条項それ自体についての違憲判断(法令違憲)を回避しつつ、本件を当該法令条項の適用外として刑罰権の発動を否定したのであり、このような当該事件の具体的事実を前提とした司法審査の手法自体は決して珍しいものでもなければ、誤りでもない。当該立法自体に問題がある以上右のような手法を非難するのはあたらない。
[36] 問題は右のような手法が誤つているというのではなく、本件の国公法、人事院規則の各項の内容・性格、その果している機能、違憲審査権の人権保障機能等々からして、法令自体の違憲性を判断するのとどちらがより正しいものとして選択さるべきか、という司法審査における政策判断の問題であるということである。
[37] 最高裁判所大法延は今こそ昭和23年以来今日まで続いている公務員の政治活動に対する抑圧法制に対し厳格な司法審査を行い、勇断をもつてその違憲性を明らかにすべきである。
注1 外間寛教授「公務員の政治的行為」行政法講座第5巻218頁以下は、人事院規則への委任に関して次のように述べている。
「この場合の委任が、基本的人権の制約に関する事項の委任であること、および刑罰法規の委任であることが注意されなければならないであろう。人事院の特殊性は、人事行政の専門的・技術的事項について、他の場合に許されるよりも広汎な委任を認めることの理由とはなりえても、右のような重要な事項についてとくに広汎な立法の許されるべき合理的な根拠とはなりえないものと考えられる。このことは、次のような事情を想定することによつても承認されるところであろう。すなわち法律自ら、制限されるべき政治行為の範囲を明確に定めることとすれば、現行の国家公務員102条および人事院規則14-7による制限とはかなり異なつた制限となるであろうし、そしてそれが基本的人権の制限の強化の方向ではなく、その緩和の方向において定められることになるであろうことは、現行法規の立法の経過からみて十分に予想しうるところであるということである。」
注2 浅井清元人事院総裁自身が「人事院規則のような詳細な規定を法律で設けるには無理がある。せいぜい地方公務員法36条程度のものとなり、規定が簡単すぎて底抜けとなつてしまうし、第一、このような法律案が国会で成立するということはとうてい考えられないことである。」「このような基本的人権にも関する事項の規制は、国会でたちまち議論をまき起すから、その成立は、政府与党がよほど強引に押切らない限り、現在の見とおしではまず困難であろうと思われる。」(「公務員入門」187・189頁)
注3 徳島郵便局事件の上告趣意は「法律が憲法に違反しているかどうかを判断するに際しては、法律が民主主義の大原則のもとに、公選された国会議員により、社会の実情等を種々考慮して審議、制定されるものであるから、できる限りその裁量を尊重し、その規定が一般的に明白にその裁量権を逸脱したものと認められる場合にかぎりこれを違憲と判断すべきであつて、立法の際における裁量基準に多少の異論があるからといつて憲法に違反するとすべきではないと考える」と述べたうえ、和歌山県教組専従休暇不承認処分に関する最高裁大法廷判決(昭和40年7月14日)を引用する(趣意書11丁ないし12丁)。猿払事件の上告趣意もまた、右判決を引用し、右判決が「基本的人権一般の規制に関する裁判所の違憲立法審査権のあり方を示したもの」とする(趣意書30丁)。
注4 芦部教授は右判決の判決評釈(法学協会雑誌83巻3号82頁)において、その違憲判断の基準に関する見解を次のように批判している。
「民主的法治国家においては、立法目的それ自体に憲法上明白な疑義あるような法律が制定される可能性は稀であるのみならず、立法技術も高度化したので、違憲訴訟として主たる争点となるのは、規制手段の合理性だということができる。……『具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不分理であつて、立法府がその裁量の範囲を逸脱したと認められるものでないかぎり、その判断は、合憲、適法なものと解する』というのでは、立法目的を達成するため手段の選択は、事実上あげて議会の裁量にゆだねられることにもなりかねないからである。おそらく、『いちじるしく適正な均衡を破り、明らかに不合理』ということは、ほとんどありえないから、もし右に掲記した判示が違憲訴訟の一般的基準を明らかにした趣旨だとすれば、規制手段が立法目的を達成するのに必要最小限度であることを基礎づける事実の合理性の問題は憲法訴訟から姿を消すといつても言過ではなかろう」
注5 和歌山県教組事件に関する大法廷判決の立法裁量的な違憲審査の考え方が、全逓中郵事件に関する大法廷判決によつて最高裁自ら変更ないし修正したとの評価については、例えば、伊藤正己教授の次のような指摘があげられる(座談会「全逓中郵事件最高裁大法廷判決」ジユリスト360号、1966・12・15)。
「今度の判決は、いわば労働基本権についての考え方、それについての制限を憲法上どう考えていくかということについての発想法が、従来と相当に違つた見方に立つているように思われるわけです。その点で私がすぐに思い出したのは、昨年の7月14日に和歌山県教組事件の大法廷判決です。その判決についてはいろいろ批判があるわけですが、それがいつていることをちよつとみてみますと、憲法28条の保障する勤労者の団結権というものは、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限できないということをいつていますが、しかしそれは絶対無制限ではなく、公共の福祉のための制限を受けるのはやむを得ないことは、従来の判決の示すところであるということをいつております。この部分は、これまでの公共の福祉論と同じですが、そのつぎに述べているところは注目されます。すなわち『右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでないかぎり、その判断は合憲』である、ということをいつているわけです。このくだりについては、芦部教授あたりも非常に鋭い批判をしているところですが、卒直にいうと、明らかに不合理であるとかいちじるしく均衡を破るなどということは、現在の立法過程ではちよつと考えられないので、この論旨をもつてすれば、28条違反の立法というのはまつたく考えられないといつても、いい過ぎではないような気がするわけです。ところが今度の判決は、たとえば労働基本権の制限は、その勤労者の職務が公共性が強くて、その職務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるものについて、これを避けるため必要やむを得ない場合について考慮される、といういい方をしているわけでして、いわば制限が合憲であるための基準というものを、きわめて明確な方向に持つていこうとしているということで、非常に望ましい方向だと私としては思います。いずれにしても、これは1年ほど前にあのような徹底した合憲性の推定の考え方をとつた裁判所と同じ裁判所がやつたとは考えられないほど違つているように私には思われるわけです。
注6 「合憲性の推定」の意味とその妥当領域については、芦部信喜教授の論文「合憲性推定の原則と立法事実の司法審査」(有斐閣「憲法訴訟の理論117頁以下)に詳しく論じられている。連邦最高裁判例の分析を通じてそこで明らかにされている重要なことは、次のような点である。すなわち、合憲性推定に司法審査の対象となる権利・自由の性質に応じた強弱の段階が存すること、「優越的自由」を制約する立法については通常の合憲性推定は妥当しないこと、言論・表現の自由の高度の価値性は、その自由を制約する立法について、特別な精査が必要とされること、である。
 奥平康弘教授もまた、合衆国にあつては表現の自由を制約する立法については、「合憲性の推定」からの解放があること、を指摘する(「表現の自由」日本国憲法体系第7巻基本的人権I75頁)。
注7 「明白の原則」の意味とその適用領域についても、芦部教授の前注に掲げた論文集中の「違憲審査権と司法消極主義」(227頁以下)において詳細に論じられているが、ここでは同論文から以下の引用を掲げておく。
「明白の原則は、その本来の意義はともあれ、少なくも1940年代以後のアメリカでは、第一に『基礎にある事実問題が立法の合憲性推定の原則と結びついたルールであること、つまり明白の原則が適用される領域では立法事実の司法審査が重要な役割を果たすこと、第二に、それと密接に関連して、明白の原則はすべての憲法事件に画一的に適用されるルールではなく、合理性の基準が妥当する経済的自由の規制立法の違憲審査の準則だということ、が注意されなければならない。さらに、第三には、経済的自由の規制立法でも、デユー・プロセス条項が問題となる場合と州際通商条項が問題となる場合とでは、判例の立場に大きな相違がなすことが、きわめて示唆的な注目すべき論点である。しかるに、わが国の司法消極主義の論者は、別稿で指摘したように違憲審査を『どこまでも、まつたく例外的なこと』だとする誤つた観念に立脚し、明白の原則をすべての憲法事件に一律に妥当する一般準則であるかのように考え、右の3点を全く考慮に入れていないように思われる。」
注8 T・I・エマースン教授はその著「表現の自由」(小林直樹訳「表現の自由」東京大学出版会)において、「連邦最高裁判所と対立することになるかもしれない政府の2つの他の主要な機関 立法部と行政部に対する態度に関して、2つの系たる命題をつけ加えることができよう。立法部との関係において最高裁判所は、民主的過程の基本的メカニズムを含む問題を審査する場合の最高裁判所の機能と、その過程の結果に関する問題を審査する場合の機能との間の、きびしい区別を指針とすべきである。後の部門においては、最高裁判所の役割は必然的に限定されるが、前の部門においては、その役割は絶対に必要でありまた広汎である。最高裁判所が立法部の意見に服しなければならない義務は、これらの機関の側からする表現の自由の侵害に対して重大な権利主張が提起されている場合には、最小限度にとどまる。この意味で、司法の見地からすれば、表現の自由は『優越的地位』を有する。
注9 これらの各種理論の内容と問題点については、奥平康弘教授の前掲「表現の自由」、T・I・エマースン教授の前掲「表現の自由」に論じられている。
注10 芦部教授は前掲「憲法訴訟の理論」所収の「違憲審査権と司法消極主義」のなかで次のように述べている。
「憲法判断の回避が正当化されるのは……法律の合憲性に関する判断を回避できるような法解釈が合理的にまたは十分に可能な場合にかぎられる。そうして、合理的か否かは、アメリカのみならず西ドイツの憲法判例においても、法律の文言と立法目的(または文言と沿革)の2つの面から判定される。したがつて、裁判所は適切な資料から立法目的および法文の意味が明確で、それによれば違憲となり、それ以外に合理的な解釈の成立する余地がない場合には、実質的に法律を書き直すような形で憲法判断を回避してはならない。」(236頁)
 また、時国康夫判事も、前記論文「合憲解釈のアプローチ」(下)ジユリスト327号100頁において次のように述べている。
「合憲解釈のアプローチを用い、限定解釈して法を救済することの当否を考えるに当つては、必ずや、立法目的が法文上ないし法文外の資料から明らかに導き出せるか否か、導き出された法目的に照らし、法文上出てくる広狭二義の解釈のうち、いずれが合理的かが特定しうるか否かという思考の筋道がたどられ、立法目的の不明確な場合や、立法目的に照らしても法文上可能な広狭二義の解釈のうち、いずれが合理的かが特定されない場合に限り、合憲的解釈のアプローチが用いられるのでなくてはならない。もし、安易に合憲解釈のアプローチをして、法について憲法判断をすべき場合にまで、憲法判断を回避するならば、それは、裁判所に付与されている違憲立法審査権を無にするものである。」
 弁護人側は2月13日及び15日の弁論によつて、ほぼ検察官側上告趣旨の誤りを、全面に亘つて十分に論証しつくしたと考えるものであるが、最後に若干の補足を加えつつ総括しておきたい。

、検察官は、表現の自由をどの程度制限するかは立法府である国会の裁量権に属するものであり、その裁量権を逸脱した場合に始めて違憲立法審査権が働くと主張する。われわれは、およそ基本的人権に対して、その制限が、必要最小限度を越えているか否かを判断しなければ、憲法が最高裁判所に付与した違憲立法審査権はその意義を失い、徒らに、国会の立法の後を追つて、ただこれを是認・肯定する役割しか果せなくなることを論証した。その詳細はくり返さないが、次の点を付加しておきたい。検察官側がその論拠として挙げている昭和40年7月14日大法廷判決は、その後昭和41年10月26日東京中郵事件大法廷判決によつて、労働基本権の制限について、必要最小限度論を採用したことによつて、事実上修正されたものと考えねばならない。昭和44年4月2日大法廷判決の「限定解釈論」を否定した48年4月25日大法廷判決もこの労働基本権制限についての「必要最小限度論」は、未だ変更していないのである。したがつて表現の自由に対する制限も必要最小限度を越えてはならぬものであり、その制限の適否は司法審査の対象となるものと考えるべきである。もしかりに40年7月14日大法廷判決の考え方が、そのまま違つておるとしても、その後の大法廷判決と合せ統一的に理解すれば、本件にみる如き表現の自由に対する制限の、はるかにその必要最小限度を越えたものについては、同じく司法審査の対象とすべきものである。

、以上の点に関連して、検察官は、国家公務員法を制定した国会も国家公務員の政治的行為の制限は、憲法21条との関係上必要最小限度のものであるか否かについて考慮してあるものだから、この点は審査の対象とすべきではなく、国会および人事院の裁量権の範囲を明白に逸脱しているか否かを基準として審査すべきだとの趣旨を述べている。そのような裁量の加えられる余地も与えられず、当時の占領軍総司令部の意思のまま制定され、その中で国家公務員法102条によつて人事院規制に委任せられ、フーバー公務員制度課長の指導下に、その意図のまま今日の人事院規則14-7が定められた点は、13日高橋弁護人の弁論において十分に明らかにしたところである。当時焼残つた庁舎のうちもつとも立派であつた旧内務省庁舎の2階の1室をフーバー課長が占拠し、そこから人事行政を指揮しており、同庁舎に同居していた建設省の如きは4階以上の廊下にまで机を並べて執務していたのと対比して想起すれば、如何にフーバー課長の力が大きかつたかを想像することができるのである。したがつて検察官主張は、事実に立脚しない仮定の議論であり、全く恣意的独断だと云わなければならない。しかるに検察官はその補足弁論において、「われわれは23年、4年国公法成立当時の事を論じているのではなく、20年余を経過した現在を問題にしているのだ」と言われた。われわれは、その成立の時の事情が、二十数年再検討の機会を持つことなく持続し、今まさに本事件において検討の機会を恵まれたのであるから、今こそこの成立事情を踏まえて司法審査の対象とすることを望んでいるのである。

、このような観点に立つ検察官は、政治的表現の自由の重要性については、当然のことながらふれるところがない。13日東城弁護人の指摘したように、表現の自由こそ憲法上の原則であつて、それを制限することは、全く原則に対する例外でなければならないと考える。それ故に本日われわれは、表現の自由の優越性を論証することに努めたのである。要するに、私が特にここで主張しておきたいのは、表現の自由の何故に尊重せらるべきかの積極的意味は、次の2つの点にあると考えることである。その1つは、表現の自由を尊重することは、民主主義政治を、実質的に成立せしめる根元的な要請であるということである。言論その他表現の自由が失われば失われるほど、政治は独裁主義に移行するということである。もう1つは、表現の自由が真に保障されることは、政治的暴力主義を小数化し、それに対する堅固な防波堤たらしめるものである。これらの意味において、憲法が予定する民主的政治体制の維持・発展のためには、表現の自由こそもつとも重要なものである。それ故に、表現の自由の制限は、文字どおり必要最小限度に限らるべきであり、そこに「明白にして現実の危険」の原則も生れるのである。検察官は、しばしば官庁に対する国民の不安・不信・疑惑を生ずる「おそれ」があるということを制限の理由としてあげている。しかしわれわれは、少くとも「おそれ」という以上現実化する条件のあるおそれでなければならないはずだと考える。現実化することも予想できない「おそれ」は、とうてい制限の理由とはならぬ仮空のものであることを指摘しておきたい。

、しからば、この政治的表現の自由が、公務員について、今日必要最小限度において制限されねばならぬとするならば、その範囲はどこに求められねばならぬだろうか。国民が公務員について真に期待しているのは何かという点からみると、次の2つである。その1つは、公務員が職務を遂行するに当り、国民それぞれが持つ政治的信条ないし政党支持の如何に係わりなく、差別なしに、公正・迅速にこれを行うことである。もう1つは、公務員が、政治的目的をもつて地位を利用したり、職務権限を利用しないことである。その範囲において公務員の政治的中立を法持することを求めている。検察官は、理由の弱さを逃れるためか、官庁は、管理職たると非管理職で機械的労務に服するものも、これを一体として国民は眺めており、公務員個人ないし組合が政治的行為を行うことは、国民の官庁に対する不安・疑惑を招くおそれがあるから、公務員の政治的行為を全面的に禁止することは合理的であるという趣旨の論を展開している。今日、民国それぞれに異なる政治的信条があり、また政党数に比例する政党の支持が在る。膨大な数にのぼる公務員も国民の一員としてその例外ではないことは、国民の側において十分に熟知している。それにも拘らず国民誰れもが、官庁の執務は、法律とそれにもとづく諸規程に従つて、むしろ機械的にすぎるほどに、また冷酷に感ずるほどに、行われているとさえ考えている。したがつて職務を離れ、その権限を利用することなく、個人としての公務員が政治的表現活動を行つても、それを現実の官庁の執務と混同し、それに対し官庁に対する不安・不信・疑惑を抱くが如き者は、とうてい見出すことはできない。検察官の考えは全く実情に合わず、ただ自ら「おそれ」をかきたて、国民の政治的良識を疑うものと云わなければならない。したがつて国家公務員法102条とこれに基く人事院規則14-7のうち本件に適用される条規は、その表現の自由に関する制限が徒らに広汎に過ぎ、必要最小限度の制限を、はるかに越えたものである点において、憲法21条に違反するか、少くとも本件の如き事例に適用される限りにおいて違憲と判断せざるをえないのである。

、投票権行使その他軽微な事例を除いて、公務員の一切の政治的表現の自由を、24時間に亘つて禁止する、この広汎な規定の違反か、しかも国家公務員法110条1項19号によつて、3年以下の懲役または10万円以下の罰金という、重く且つ幅広い刑罰の対象となつている。われわれは、本日3つの事件の主要論点の弁論において明らかにした如き行為が、公務員なるが故に、このような刑罰を科せられるに値する行為であるか、むしろ、驚ろきをもつて見てさえいるのである。この異常さこそ下級審が憲法31条違反の見解を示した理由として、同感をもつて眺めたのである。検察官は、憲法31条は、アメリカにおける適正手続条項とは異つて、法による手続という狭い意味に考うべきだとする。そしてそのために田中美夫教授の学説を引用する。学説の引用は自由であるが、憲法31条の憲法解釈については5分類されるのが憲法学者の間において一般である(たとえば大野盛直教授、憲法講座1 手島孝、基本法コメンタール憲法などをみよ)。すなわち、(1)手続の法定されているものとするもの、(2)手続の適正であることを要求するもの、(3)手続と実体要件の両面の法定されることとするもの、(4)手続も実体要件も法定され且つ手続の適正であるとするもの、(5)手続も実体要件も適正であるとするもの、の5つに分類される。検察官引用の田中説は右の(1)の少数説であり、通説は(5)の手続も実体要件も適正なることを要求する考え方であることを指摘しておく。なお宮沢俊義名誉教授の引用もあるが、その引用は旧版憲法IIであり、すでに新版憲法IIにおいて、詳しく説明されているものであることも付加しておく。

、検察官は、2月13日弁論要旨中に、ハツチ法と人事院規則14-7と対比し、そこにハッチ法において刑罰の科せられる場合をあげてある。しかしその引用は、主として公務員の職権濫用、地位利用についての刑罰であり、本件が該当するとされる人事院規則14-7とは対比されるものではない。さらに注意しておきたいのは、俗に人事院規則14-7の母法といわれるハツチ9(a)条は、「投票権とすべての政治的事項又は候補者について意見をのべること」を留保した上で、党派的・政略的行為を禁止し、しかも刑罰を定めていないことである。そして「党派的・政略的行為」とは例示すれば、投票用紙を受授したり、金員を渡したりするが如き行為である。而もアメリカ人事委員会規則は、政治的図画、ステツカー、バツヂなどを展示することは、これを禁止対象から除いているのである。検察官がアメリカのハツチ法との対比をする場合不明確な点があり、ために判断を誤らせるおそれもあるので敢て指摘をしておきたいのである。要するに、日本における人事院規則14-7はアメリカのハツチ法および人事院委員会規則にくらべても、はるかに広汎であり、しかも刑罰の対象となつていることである。そのアメリカにおいてハツチ法は、しばしば違憲審査の対象となり、またそのため改正の対象となつている。エール大学教授T・I・エマースンは、今日アメリカにおいて権威ある表現の自由に関する研究者であるが、彼は、その著 The System of Freedom of Expression において、「現下の問題は、Government employment が憲法の保障をうけない特権であるかどうかではなくて、修正第1条(表現の自由保障―筆者)を広汎に適用した上で、公務員について、いかなる限定がなされるかである」(565p)とし、「ハツチ法の再検討は、かかる形態の立法を解消するであろう」(592p)と指摘しているのである。われわれは、このようなアメリカ法に比して、はるかに広汎且普遍的政治的行為の禁止を定める人事院規則14-7について問題としていることを付け加えておきたい。引用の不明確と云えば、レター・キヤリアーズ事件判決の引用も同様である。原文を忠実に読めば、如何にさまざまの条件のもとで結論を出したかが明瞭になるためであつて、ただ結論がミツチエル判決と同一であるというのは当つていないことをも付言しておきたい。

、要するに検察官は、本件に対し、解釈上疑義ののこらない形での結論、しかも高裁判決破棄を求めているのであるが、私は同じく明確に、しかし逆に上告を棄却される判断を期待して弁論をしめくくりたいのである。
[1]、猿払事件の主要論点は極めてすつきりしていて公職選挙法の禁止規定から解き放された公職選挙法が可罰的非難を加えない大沢君のポスターの頒布、掲示の行為に対して、国家は、彼が公務員であるからといつて彼に可罰的非難を加えることができるのかというに尽きる。そのようにこの事件は憲法21条をとり扱う事件として極めて典型的な事実関係をもつて、我々にこの事件関係者に憲法21条に基く価値判断の基準を示すようにせまつてくる。

[2]、議会制民主主義が維持運営される基礎に世論によつて動かされる政治、世論によつて政治が支配されなければならないというルールがある。私はこの世論によつて動かされる政治といわれる「世論」を大別して今日の社会科学者の研究によれば、世論というものは大別して次の3つに分けて考えられる。
[3] 1つは一般的世論と呼ばれる有力なマスメデアを通じて提供される情報と、その情報をめぐる判断である。2つ目には専門家的世論と呼ばれる夫々の社会科学或いは自然科学の分野における専門研究者が次々に起つてくる社会的、経済的、或いは政治的な、あるいは自然の現象に対して、その専門としてこころざす分野からこれに価値判断を与え、方向を与えて行くという専門家的世論が存在する。それに加えて、今日の多くの社会生活の中で見られるように考え、行動する市民が自らつくり出す世論――或いは公害問題にせよ、教育問題にせよ、交通事故問題にせよ、それに当面した市民が、何故にそういう困難が自分達の市民生活におしよせてくるのか、その打開方法はないのか、ということについて、市民自身が自分で考え、行動する、そのことによつてつくられる世論が存在する。

[4]、憲法21条の市民的自由の直接の領域は、今日の社会経済の実情にそくして孝えれば、この考え、行動する市民の活動の自由をより多く保障しなければ表現の自由は現実に消えてしまうという危機的な状況にあるということが世論についての研究家の今日の一致した結論である。
[5] それは何故なのか一般的世論は巨大な資本を必要とするマスメデアによつて運営されているから、この巨大な資本の機構から離れたこの巨大な資本の中に住んでいない一般市民にとつては、マスメデアのつくり出す世論は自分とは離れたところにある。極言すればマスメデアの定めたサイクルに従つて、情報が伝達され選択をせまられるという状況の中にある。専門家的世論も亦一般に社会生活を営む市民の手の届かないところにある。従つて個々的な市民の表現の自由、個々的な市民の政治活動の自由に基礎をおいて考えなければその選択を間違つてしまうという社会的・政治的情況に我々は立たされているのである。例えば、去年の秋から今年にかけておそつた石油危機なるものを考えて見るとき、あれは今日では「つくり出された危機」ではないのかということが日本でも問題になり、アメリカの議会でも問題になつている。それは、マスメデアの支配する一般的世論が一たび「石油危機」ということを次々宣伝、展開して行くと一人一人の市民はそれにまきこまれてしまう。そして、自分で考え、行動する市民の世論が良心的専門家的世論と結合したとき、誤つた一般的世論を矯正し、また誤つた政治行動を改めるように働きかけているというのが今日の議会制民主主義の実情ということができる。従つて今日のような高度に発達した資本主義機構の中における言論の自由、表現の自由、政治活動の自由の基礎は一人一人の市民の政治的自由によりかかつて存在しているというふうにいわざるを得ない。そこに焦点をおいて個々的な市民的自由に焦点をおいて今日の表現の自由を語るのでなければ、ことの本質にせまつたことにならない、こういうふうに言うことができると思う。
[6] この論点について、この政治活動=自由を論ずる3事件は恰好の論題を提供しているのである。

[7]、猿払事件は大沢君の政治活動として公職選挙法の禁止から解放された文書の活動である。塀本君の事件は、これも公職選挙法の禁止から解放されて彼が自分の信ずる政治的信念を彼が市民として短時間語つたにすぎない。語られた相手も亦市民なのである。総理府統計局の事件は、三井美唄公選法事件の大法延判決(43・12・4)がいうように労働組合も亦今日政治活動の自由を展開する社会的・経済的必要があるとする、その一かんとして総理府統計局の労働組合がどのような都議会選挙についての意思決定をしたのか、ということについての組合内自治に関する文書である。このような3つの事実関係について考えると憲法判断においてあらわれる、裁判の基本的人権についての特別機能保障型の案件としてこれを見ることができる。即ち同事件にあらわれたその当事者となつた人のシビルライトのみを問題とするのではなくて、その事件の対象となつている人権の特別保障条項の解釈をめぐつて、本件では憲法21条の解釈をめぐつてどのようなルールを発見するのかいうことに全く適合した機能を営むべき事案としてここに登場してきている訳である。従つて憲法21条を合憲的に規制し得るルールは何なのかということを検察官は論証し、定義しなければならないのである。我々は検察官が定義し、国家公務員法なり人事院規則なりが定めている定め方が誤つているのだということを論じているのである。

[8]、憲法21条を議会制民主主義の現実においては、個々的市民に保障されたときこそが、民主主義の最後のとりで、というふうに考えるべき今日の実情である。したがつて、検察官のいうようにこれを立法裁量に一任したというふうに見ることはできない。立法裁量という言葉が出てくるのは三権分立の制度の下で裁判所が立法府に対して敬意を払つた。先ず立法府の専門とする分野においては立法府をしてその裁量を働かせて見ようという考え方に立つ。国家社会の経済活動をめぐる第一次の専門家は議会であるという前提に立つて今日の三権分立は機能している。しかし、くりかえして申し上げるように人権擁護の専門家は裁判所である。なかんずく人権擁護の最後の専門家は最高裁判所大法廷でなければならない。このような燃えるような執念がアメリカ連邦最高裁の人権裁判の歴史をつらぬいている。この執念の中で明白にして現在する危険あるいはLRAの原則などが生み出されて来たということができる。アメリカ人はアメリカ合衆国憲法修正第1条に我々が想像もつかないような執着をもつている。これは我々も大いに学ばなければならないところであろう。先日、ウオーターゲート事件の報道に関係した日本新聞記者がある有力新聞に寄稿して、彼はウオーターゲート事件を調べるために派けんされたのだが、非常に暗い気持でウオーターゲート事件の取材にワシントンに飛んだ。しかし彼が気分爽快さを感じたのはウオーターゲート事件は暗い事件であるけれども、ウオーターゲート事件を追いかけるアメリカの新聞の執念に自分はまだアメリカ民主主義の建在であることを見てとつた。取材の対象は暗いけれども自分をとりまく環境の明るさに喜んだという一文を寄せていた。そのような言論の自由に対する執念こそが民主主義の最大の保障である。

[9]、我々が行政過程に直接関与しない国公法上の職員にとつて彼らの勤務時間外の政治活動の自由を保障せよと要求するのは、民主主義の最後のまもり手は今日では個々の一人一人の市民の活動以外にないのだと強調するからである。かつて国民総生産を崇拝したといつたそういう傾向に代つて、今日は一人一人の国民の生活の充実こそが問題であるという1970年代後半の幕明けに当つて、個々的市民の政治活動の自由の旗を高々と掲げた判決を望んで私の弁論とする。

■第一審判決 ■控訴審判決 ■上告審判決   ■判決一覧