東京都教組事件
上告審判決

地方公務員法違反被告事件
最高裁判所 昭和41年(あ)第401号
昭和44年4月2日 大法廷 判決

上告申立人 被告人

被告人 長谷川正三 外5名
弁護人 佐伯静治  外393名

検察官 平出禾   外3名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官松田二郎の補足意見
■ 裁判官入江俊郎の意見
■ 裁判官岩田誠の意見
■ 裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見

■ 弁護人佐伯静治、外27名の上告趣意


 原判決を破棄する。
 被告人らはいずれも無罪。

[1] 論旨は、憲法違反、条約違反、判例違反、判断遺脱その他きわめて多岐にわたるが、要するに、地方公務員法(以下地公法という。)37条の定める争議行為の禁止が憲法28条に違反し、かつ、ILO87号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法98条2項にも違反する旨の主張と、地公法61条4号の定める争議行為のあおり行為等に対する刑事罰が憲法28条、18条、31条に違反し、かつ、ILO87号条約および国際慣習法規にも違反し、ひいては憲法98条2項にも違反する旨の主張とを骨子とし、あわせて、地公法61条4号の定める「あおり」の要件についての解釈適用の誤り、原判決の刑訴第400条但書違反および原判決の判断遺脱を主張するものである。当裁判所は、結論として、原判決を破棄し、被告人全員を無罪とすべきものとするが、その理由は、つぎのとおりである。

[2]、公務員の労働基本権について、当裁判所は、さきに、昭和41年10月26日の判決(いわゆる全逓中郵事件判決)において、つぎのとおり判示した。
「憲法28条は、いわゆる労働基本権、すなわち、勤労者の団結する権利および団体交渉その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法25条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法27条の定めるところによつて、勤務の権利および勤労条件を保障するとともに、他方で、憲法28条の定めるところによつて、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。
 このように、憲法自体が労働基本権を保障している趣旨にそくして考えれば、実定法規によつて労働基本権の制限を定めている場合にも、労働基本権保障の根本精神にそくしてその制限の意味を考察すべきであり、ことに生存権の保障を基本理念とし、財産権の保障と並んで勤労者の労働権・団結権・団体交渉権・争議権の保障をしている法体制のもとでは、これら両者の間の調和と均衡が保たれるように、実定法規の適切妥当な法解釈をしなければならない。
 右に述べた労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法28条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。」
[3] 右判決に示された基本的立場は、本件の判断にあたつても、当然の前提として、維持すべきものと考える。
[4] 右のような見地に立つて考えれば、「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とする憲法15条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことが許されないことは当然であるが、公務員の労働基本権については、公務員の職務の性質・内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を受けることのあるべきことも、また、否定することができない。ところで、公務員の職務の性質・内容は、きわめて多種多様であり、公務員の職務に固有の、公共性のきわめて強いものから、私企業のそれとほとんど変わるところがない、公共性の比較的弱いものに至るまで、きわめて多岐にわたつている。したがつて、ごく一般的な比較論として、公務員の職務が、私企業や公共企業体の職員の職務に比較して、より公共性が強いということができるとしても、公務員の職務の性質・内容を具体的に検討しその間に存する差異を顧みることなく、いちがいに、その公共性を理由として、これを一律に規制しようとする態度には、問題がないわけではない。ただ、公務員の職務には、多かれ少なかれ、直接または間接に、公共性が認められるとすれば、その見地から、公務員の労働基本権についても、その職務の公共性に対応する何らかの制約を当然の内在的制約として内包しているものと解釈しなければならない。しかし、公務員の労働基本権に具体的にどのような制約が許されるかについては、公務員にも労働基本権を保障している叙上の憲法の根本趣旨に照らし、慎重に決定する必要があるのであつて、その際考慮すべき要素は、前示全逓中郵事件判決において説示したとおりである(最高刑集20巻8号907頁から908頁まで)。地公法37条および61条4号が違憲であるかどうかの問題は、右の基準に照らし、ことに、労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち、違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように十分な配慮がなされなければならず、とくに、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要やむをえない場合に限られるべきであるとする点に十分な考慮を払いながら判断されなければならないのである。
[5](イ) ところで、地公法37条、61条4号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法37条1項には、「職員は、地方公共団示の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法61条4号には、「何人たるを問わず、第37条第1項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は3年以下の懲役または10万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。
[6] しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨と調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、それにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。
[7] かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない。
[8](ロ) また、論旨は、前示地公法の各規定がILO87号条約、ILO105号条約、教員の地位に関する勧告、国際慣習法に違反し、したがつてまた、憲法98条2項に違反するものと主張するが、ILO87号条約は、争議権の保障を目的とするものではなく、ILO105号条約および教員の地位に関する勧告は、未だ国内法規としての効力を有するものではなく、また、公務員の争議行為禁止措置を否定する国際慣習法が現存するものとは認められないから、所論は、すべて採用することがきない。

[9]、つぎに、地方公務員の争議行為についてみるに、地公法37条1項は、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止しているから、これに違反してした争議行為は、右条項の法文にそくして解釈するかぎり、違法といわざるをえないであろう。しかし、右条項の元来の趣旨は、地方公務員の職務の公共性にかんがみ、地方公務員の争議行為が公共性の強い公務の停廃をきたし、ひいては国民生活全体の利益を害し、国民生活にも重大な支障をもたらすおそれがあるので、これを避けるためのやむをえない措置として、地方公務員の争議行為を禁止したものにほかならない。ところが、地方公務員の職務は、一般的にいえば、多かれ少なかれ、公共性を有するとはいえ、さきに説示したとおり、公共性の程度は強弱さまざまで、その争議行為が常に直ちに公務の停廃をきたし、ひいて国民生活全体の利益を害するとはいえないのみならず、ひとしく争議行為といつても、種々の態様のものがあり、きわめて短時間の同盟罷業または怠業のような単純な不作為のごときは、直ちに国民全体の益利を害し、国民生活に重大な支障をもたらすおそれがあるとは必ずしもいえない。地方公務員の具体的な行為が禁止の対象たる争議行為に該当するかどうかは、争議行為を禁止することによつて保護しようとする法益と、労働基本権を尊重し保障することによつて実現しようとする法益との比較較量により、両者の要請を適切に調整する見地から判断することが必要である。そして、その結果は、地方公務員の行為が地公法37条1項に禁止する争議行為に該当し、しかも、その違法性の強い場合も勿論あるであろうが、争議行為の態様からいつて、違法性の比較的弱い場合もあり、また、実質的には、右条項にいう争議行為に該当しないと判断すべき場合もあるであろう。
[10] また、地方公務員の行為が地公法37条1項の禁止する争議行為に該当する違法な行為と解される場合であつても、それが直ちに刑事罰をもつてのぞむ違法性につながるものでないことは、同法61条4号が地方公務員の争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、もつぱら争議行為のあおり行為等、特定の行為のみを処罰の対象としていることからいつて、きわめて明瞭である。かえつて、同法37条2項は、職員で同条1項に違反する行為をしたものは、地方公共団体に対して保有する任命上または雇用上の権利をもつて対抗することができないという不利益を課しているにすぎないことを注意すべきである。したがつて、地方公務員のする争議行為については、それが違法な行為である場合に、公務員としての義務違反を理由として、当該職員を懲戒処分の対象者とし、またはその職員に民事上の責任を負わせることは、もとよりありうべきところであるが、争議行為をしたことそのことを理由として刑事制裁を科することは、同法の認めないところといわなければならない。
[11] ところで、地公法61条4号は、争議行為をした地方公務員自体を処罰の対象とすることなく、違法な争議行為のあおり行為等をした者にかぎつて、これを処罰することにしているのであるが、このような処罰規定の定め方も、立法政策としての当否は別として、一般的に許されないとは決していえない。ただ、それは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法な争議行為等のあおり行為等であつてはじめて、刑事罰をもつてのぞむ違法性を認めようとする趣旨と解すべきであつて、前叙のように、あおり行為等の対象となるべき違法な争議行為が存しない以上、地公法61条4号が適用される余地はないと解すべきである。(もつとも、あおり行為等は、争議行為の前段階における行為であるから、違法な争議行為を想定して、あおり行為等をした場合には、仮りに予定の違法な争議行為が実行されなかつたからといつて、あおり行為等の刑責は免れえないものといわなければならない。)
[12] つぎに、あおり行為等の意義および要件については、意見の分かれるところであるが、一般に「あおり」の意義については、違法行為を実行させる目的で、文書、図画、言動により、他人に対し、その実行を決意させ、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることをいうと解してよいであろう(昭和33年(あ)第1413号、同37年2月21日大法廷判決、刑集16巻2号107頁参照)。しかし、地公法でいう争議行為等のあおり行為等がすべて一律に処罰の対象とされうべきものであるかどうかについては、慎重な考慮を要する。
[13] 問題は、結局、公務員についても、その労働基本権を尊重し保障しようとする憲法上の要請と、公務員については、その職務の公共性にかんがみ、争議行為を禁止すべきものとする要請との2つの相矛盾する要請を、現行法の解釈のうえで、どのように調整すべきかの点にあり、労働基本権尊重の憲法の精神からいつて、争議行為禁止違反に対する制裁、とくに刑事罰をもつてする制裁は、極力限定されるべきであつて、この趣旨は、法律の解釈適用にあたつても、十分尊重されなければならない。そして、地公法自体は、地方公務員の争議行為そのものは禁止しながら、右禁止に違反して争議行為をした者を処罰の対象とすることなく、争議行為のあおり行為等にかぎつて、これを処罰すべきものとしているのであるが、これらの規定の中にも,すでに前叙の調整的な考え方が現われているということができる。しかし、さらに進んで考えると、争議行為そのものに種々の態様があり、その違法性が認められる場合にも、その強弱に程度の差があるように、あおり行為等にもさまざまの態様があり、その違法性が認められる場合にも、その違法性の程度には強弱さまざまのものがありうる。それにもかかわらず、これらのニユアンスを一切否定して一律にあおり行為等を刑事罰をもつてのぞむ違法性があるものと断定することは許されないというべきである。ことに、争議行為そのものを処罰の対象とすることなく、あおり行為等にかぎつて処罰すべきものとしている地公法61条4号の趣旨からいつても、争議行為に通常随伴して行なわれる行為のごときは、処罰の対象とされるべきものではない。それは、争議行為禁止に違反する意味において違法な行為であるということができるとしても、争議行為の一環としての行為にほかならず、これらのあおり行為等をすべて安易に処罰すべきものとすれば、争議行為者不処罰の建前をとる前示地公法の原則に矛盾することにならざるをえないからである。したがつて、職員団体の構成員たる職員のした行為が、たとえ、あおり行為的な要素をあわせもつとしても、それは、原則として、刑事罰をもつてのぞむ違法性を有するものとはいえないというべきである。

[14]、これを本件についてみるに、原審の確定したところによれば、文部省が企図した公立学校教職員に対する勤務評定の実施に反対する日教組の方針に則り、都教組も、その定例委員会において、休暇闘争を含む実力行使をもつてこれに対応する方針をきめたが、都教育長は、昭和33年4月19日に、同月23日の都教育委員会に勤務評定規則案を上程する旨の告示をすると言明し、爾後の話合いを拒否するに至つたので、都教組は、同月21日に、「組合員は勤務評定を実施させない措置を地公法4条に基いて人事委員会に要求せよ。右手続は昭和33年4月23日午前8時から開催する全員集会で取りまとめて提出せよ。(右手続に必要な休暇請求は同日までに行う)」との指令を発し、右指令に基づいて、同月23日1日の一せい休暇闘争を行なつたというのであり、原判決は、右は同盟罷業にあたるものとし、被告人らがしたその指令配布、趣旨伝達等の行為について、被告人らは地公法61条4号の争議行為の遂行をあおつたものとして、同条の刑責を免れないとしているのである。
[15] しかし、本件をさきに詳細に説示した当裁判所の考え方に従つて判断すると、本件の一せい休暇闘争は、同盟罷業または怠業にあたり、その職務の停廃が次代の国民の教育上に障害をもたらすものとして、その違法性を否定することができないとしても、被告人らは、いずれも都教組の執行委員長その他幹部たる組合員の地位において右指令の配布または趣旨伝達等の行為をしたというのであつて、これらの行為は、本件争議行為の一環として行なわれたものであるから、前示の組合員のする争議行為に通常随伴する行為にあたるものと解すべきであり、被告人らに対し、懲戒処分をし、また民事上の責任を追及するのはともかくとして、さきに説示した労働基本権尊重の憲法の精神に照らし、さらに、争議行為自体を処罰の対象としていない地公法61条4号の趣旨に徴し、これら被告人のした行為は、刑事罰をもつてのぞむ違法性を欠くものといわざるをえない。したがつて、被告人らは、あおり行為についての刑責を免れないとした原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものといわざるをえない。

[16] よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、刑訴法411条1号により原判決を破棄し、同法413条但書、414条、404条、336条により被告人らに無罪の宣告をなすべきものとし、主文のとおり判決する。

[17] この判決は、裁判官松田二郎の補足意見、裁判官入江俊郎、同岩田誠の各意見および裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官松田二郎の補足意見は、次のとおりである。

[1] 私は、多数意見に従うものであるが、奥野裁判官らの反対意見について若干自己の考をのべたい。

[2](一) 反対意見は、地方公務員法37条1項後段は「何人も」、61条4号は「何人たるとを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨規定をしていることを根拠として、多数意見の「あおり」についての見解を目して、条文の限定解釈なりとし、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものと評するのである。
[3] たしかに、「あおり」行為について、条文上何等の限定の設けられていないことは、反対意見のいうとおりである。しかし、いうまでもなく、刑罰法規の解釈は、単に条文を外部より観察するものでなく、その内容に立入つてその意味を明らかにするものである以上、それは単なる文理的解釈に止まるべきではないのである。ことに、日常用語が同時に法律用語たる場合にあつては、日常用語としての意味や語感に禍されることなく、その刑罰規定の趣旨・目的に従つてその規範的意味内容を明らかにすべきであつて、「あおり」が日常用語として巾広い概念であつても、刑罰法規の解釈はこれに拘束されるべきではない。そして、勤労者の争議行為に対して刑事制裁を科することは、必要止むを得ない場合のみに限られるべしとの全逓中郵事件判決(当裁判所昭和39年(あ)第296号同41年10月26日大法廷判決、刑集20巻8号901頁)において当裁判所の示した基本的立場に即するとき、多数意見「あおり」行為についてなした解釈の正当性を理解し得るのである。私は、右の中郵事件の判決において、「労働法規が争議行為を禁止しこれを違法として解雇などの不利益な効果を与えているからといつて、そのことから直ちにその争議行為が刑罰法規における違法性、すなわち、いわゆる可罰的違法性まで帯びているとはいえない」との意見をのべた(右判例集916頁)。多数意見の「あおり」行為の解釈は、これと同一の趣旨に基づくものと思う。そして、この見解よりすれば、前記法条の文言上限定のないことを根拠として「あおり」行為の意味を定めんとする反対意見には、到底賛し得ないのである。
[4] 更に、反対意見は、「あおり」についての多数意見を目して法解釈の域を「逸脱」したものとして非難する。思うに、従来、刑罰法規の解釈は厳格であることを要すとされ、その根拠として屡々罪刑法定主義が採用されるのである。しかしながら、本件における多数意見は、形式上より見ても、いわば条文を狭く解釈したものであつて、何等条文の拡張又は類推解釈をしたものでもない。換言すれば、多数意見の「あおり」についての解釈は、条文の枠内に止まるものであつて、反対意見のいう如く、これを「逸脱」したものでないことは明らかである。

[5](二) 多数意見が被告人らの本件行為は刑事罰をもつてのぞむ違法を欠くというのに対し、反対意見は、その行為を違法とし、これに刑罰を科することを主張するものである。すなわち、反対意見は、被告人らに刑罰を科することによつて、社会的秩序の維持に資そうとするものといえよう。
[6] ここにおいて問題となるのは、反対意見のいう「違法性」の意味である。そして、反対意見の違法性についての考方は、既に前記中郵事件に示されている(本件における反対意見を採る5人の裁判官のうち奥野、草鹿、石田の3裁判官は、先に中郵事件においても、五鬼上裁判官と合して4名で反対意見を採られたのであり、また下村裁判官は中郵事件の反対意見と同意見であるから(昭和36年(あ)第823号同41年11月30日大法廷判決、刑集20巻9号1076頁)、中郵事件における反対意見の違法性についての考は、本件における反対意見の違法性の考と同じであるといえる)。そして、中郵事件において、反対意見はいう「行為の違法性はすべての法域を通じて一義的に決せられるべきである」と(右中郵事件判決登載の判例集922頁)。この考、すなわち、違法性についての「一義的」考によれば、刑法上違法と評価される行為は、民法その他の領域においても、統一的に違法と評価されるのであるが、しかし、刑法上違法と評価されない行為は、他の法域においても違法とされることなく、すなわち、法律上何等の責任を生じないということになるのである。従つて、かかる考に立つ者より見れば、本件行為を処罰するのでなければ、被告人らに対して民事上その他の責任を追及することも不可能となるべく、この点の考慮よりしても、被告人らの本件行為を罰すべきことが社会的秩序維持のため、きわめて必要となるのであろう。そして、かかる考に立つ者より見れば、或は、被告人らの本件行為を罰しない見解は、社会的秩序の混乱に対して無関心のものとさえ映じるかも知れない。
[7] 私は、先の中郵事件において、「行為の違法性を一義的に解すべきでなく、刑法において違法とされるか否かは、他の法域における違法性と無関係ではないが、しかし、別個独立に考察されるべき問題である」との趣旨の意見を述べた(右中郵事件判決登載の判例集916頁)。この見地に立つとき、被告人らの本件行為が罰されないにしても、そのことは被告人らの行為が私法上、労働法上において、又は地方公務員法上において、違法であるか否かと必然的関連はなく、これらは刑事上の責任とは別個に考察されるべきものなのである。そして、若し、被告人らの行為が刑罰法令違反以外のかかる点において違法であるならば、その責任が追及されるべきは当然であり、或は民事上の責任を負い、或は公務員として懲戒され、免職されることすらあるべきであろう。多数意見が被告人らの本件行為を罰しないというのは、決して被告人らが民事上の責任がないとか、公務員として責任がないとかいうことを意味するものではない。ただ、刑事的責任がないというに止まるのである。そして、前記中郵事件の判決は、「違法性は一義的に決すべし」との考に対して、最高裁判所が、それを採り得ないとした点にきわめて重要な意味をもつものといえよう。中郵事件の判決のこの意義は誤解されてはならないのである(因みに、ひとしく過失といつても、刑事責任としての過失と民事責任としての過失とは、別個の考察を要するものである)。
[8] 思うに、刑罰は、科せられる者に対して強烈な苦痛すら伴うもつとも不利益な法的効果を伴うものであるから、刑事的制裁は社会秩序維持の上においてきわめて大きな機能を果すものである。現に、わが国においては、刑事的制裁が刑事責任追及の域を越えて他の法域において解決すべき問題、たとえば、民事的又は労働法上の責任追及の関係に対しても、大きな影響を及ぼしつつあることは、われわれの知るところであり、それはいわば刑事的制裁の副次的作用ともいうべきものであるが、社会状態のおだやかならざる時代においては、民事上の責任、労働法上の責任などの追及に代えて、刑事的制裁によつて社会秩序の維持を図らんとし、従つて刑事的制裁に期待する傾向が高まりがちである。もとより、この点に関して、われわれは、わが国における民事訴訟制度の機能が十分でないこと――現にその一例として、わが国の大都市における民事部の数の刑事部の数に対する比率が、ドイツなどのそれに比較して極めて低いことを指摘し得る――に対して、真剣に考慮を払うべきであろう。しかしながら、刑事的制裁に威力を頼みにして、これに刑事的責任以外の責任、たとえば民事的責任追及のための代用品的作用をあまりに行なわしめるべきではないのである。かかることは、民事責任と刑事責任の分化のなかつた時代、裁判といえば刑事裁判を考えがちだつた時代に逆行する事態を生じる危険を伴うのである。われわれは、すべからく、中郵事件の判決の精神に即して、刑事裁判をして、本来の領域に止まらしむべきであろう。
[9] 要するに、反対意見が違法性を一義的に解することは、ややもすると、違法即刑罰とする考に導き易いことを私は虞れるのである。この意味においても、私は、反対意見をもつて不当と思わざるを得ない。


 裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。

 私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ1点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につき私の意見を表示する。また、本件で問題となつたあおり行為等の刑罰規定の適用につき、そのあおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものであるか否かについて、若干の補足意見を表示する。そしてこれらの点に関する私の意見は、昭和41年(あ)第1129号国家公務員法違反等被告事件の判決に付した私の意見と趣旨を同じくするので、それを本件に援用する。

《最高裁判所昭和41年(あ)第1129号国家公務員法違反等被告事件昭和44年4月2日大法廷判決、刑集23巻5号685頁(いわゆる全司法仙台事件)で示された入江俊郎裁判官の意見を、次に引用する。》

 裁判官入江俊郎の意見は、次のとおりである。

[1]、私は、多数意見と結論を同じくし、また、その理由の大部分についてはこれに同調するが、ただ一点だけ多数意見と根本的に考え方を異にする。そしてこの点は、本件においては、判決の結果に影響のない論点のごとくではあるが、他日、他の類似の事案が問題となつた場合には判決の結果を左右することのありうべき問題であるから、この際右の点につきまず私の意見を表示する。

[2](一) 憲法28条の労働基本権といえども絶対無制限なものではなく、公共の福祉の要請に応じ、これに合理的制限を加えることは違憲ではないが、労働基本権に対するそのような制限は、憲法28条の法意に照らし、労働基本権を尊重確保する必要と、国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考量して、両者の間に適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであることは、既に当裁判所の判例(昭和39年(あ)第295号、同41年10月26日大法廷判決、刑集20巻8号901頁、いわゆる中郵判決)の判示するとおりである。そして、国家公務員や地方公務員も憲法28条にいう勤労者にほかならず、これらの公務員も原則として同条の保障を受くべきものであつて、公務員は全体の奉仕者で、一部の奉仕者ではない(憲法15条)からといつて、その一事をもつて、公務員に対して右労働基本権をすべて否定することは許されないというべきであるが、ただ公務員については、その担当する職務の内容は私企業におけるそれと異なり、一般に公共性が顕著であるから、その職務の具体的な内容に応じて、私企業における労働者の場合と異なる制約を受けることがあつてもやむを得ないといわなければならない。かように考えて来ると、本件で問題となつている国家公務員法(昭和40年法律第69号による改正前のもの。以下国公法と略称する。)98条5項が公務員の争議行為を禁止しているからといつて、いやしくも争議行為と認められる以上、すべての国家公務員につき一律に一切の争議行為を違法として禁止しているものではなく、具体的事案に即して公共の福祉の要請を充分勘案した上、同法条によつて禁止されている争議行為に該当するか否かを判断すべきであり、もしかような考慮を何ら払うことなく、国家公務員の一切の争議行為を違法として禁止するならば、それは憲法28条違反というほかないことも、前記当裁判所の判例の趣旨とするところである。国公法の前記法条は単に「争議行為」というに止まり、同法82条は懲戒に関する規定が置かれているから、単に法文を文字どおりに解すれば、国家公務員の一切の争議行為は禁止され、この法条に違反して争議行為を行つた場合にはすべて懲戒処分を受けることとなるがごとくであるが、これらの法条については当然憲法28条の法意に即した適切な解釈が加えらるべく、その限度において争議行為が禁止され、かくして禁止された争議行為であつてはじめてこれに懲戒を加えることができるものといわなければならない。ここまでは多数意見と私は意見を異にするわけではない。

[3](二) しかし、本件は国家公務員の争議行為自体に刑罰を科するか否かではなく、その争議行為に対するあおり行為等に刑罰を科するか否かが問題となつているものであり、国公法110条1項17号は、同号の規定するあおり行為等を独立の犯罪行為として、これに刑罰を科することを定めた規定である。ところで、憲法28条の法意に鑑み、国公法上禁止されているとは認められず、従つてまた国公法上懲戒処分の対象ともならないような争議行為であれば、それは憲法上適法な争議行為であり、憲法上の保障を与えられているのであるから、これを対象としてあおり行為等が行なわれたからといつて、前記国公法の刑罰法条の適用の余地のないことは明らかであるが、いやしくも国公法上違法と認められる争議行為を対象としてあおり行為等が行なわれた以上、これに対し前記刑罰法規の適用のあることは当然といわなければならない。しかるに、多数意見は、あおり行為等の対象とせられる国公法上違法な争議行為の中で、さらに争議行為の違法の程度、反社会性の程度に強弱の区別をたてて、多数意見が例示するような、その程度の強いものに対するあおり行為等がはじめて国公法の前記刑罰法条の適用を受けうるものであり、程度の弱いものに対するあおり行為等はその適用外であるとしているが、このような解釈は、憲法28条、31条の法意こ照らしても、また国公法の解釈の上からも、これを是認すべき根拠を欠き、私は到底これに賛同することはできないのである。もちろん、理論的には、国公法上違法と解されるような争議行為の中、その違法性ないし反社会性の程度の軽いものに対するあおり行為等に対して、不当に重い刑罰を科し、これがため公務員の争議行為自体が結局において不当に制約されるようなことになるとするならば、それは憲法28条、31条の法意に照らし、違憲の問題を生ずることがないとはいえないけれども、本件に関する限り、国公法の前記罰条はそのような場合に当たるとは考えられない。右罰条には、長期3年の懲役刑のほか罰金刑の定めもあるから、右刑罰法規の適用に当たつては、情状等を考慮することにより量刑の面で適切な斟酌をすることが可能であり、違憲の問題は生じないと考える。また、これを立法政策の面から考察しても、右罰条は立法府の有する立法に対する裁量権の範囲を逸脱しているものとは認められない。

[4](三) 原審の確定した事実関係の下においては、本件あおり行為等の対象となつた争議行為は、昭和35年6月4日仙台高等裁判所前で、午前8時30分から同9時30分までの勤務時間内に、仙台高等裁判所、同地方裁判所および同簡易裁判所の職員の職場大会を実施しようとするものであつて、そのようにまさに勤務時間にくいこんでこの種争議行為を行なうことは裁判所事務の明らかな停廃にほかならず、裁判所事務は、正義の実現と人権の保障とを目途とする司法権の行使につき不可缺のものであつて、裁判所職員の職務は極めて公共性の強いものというべく、またたとえ短時間であるとしても、本件におけるように勤務時間内にくいこんで裁判所の事務の運営を停廃するがごときは、まさに国公法98条5項前段により違法として禁止される争議行為であることは多言を要せず、そして、その違法性は勿論極めて程度の強いものというべきであるが、これに国公法110条1項17号を適用するに当たつては、その程度の強弱を問題とすることは全く不必要であり、かく解することは何ら憲法28条、31条に違反するものではないと考えるのである。

[5](四) なお、当裁判所は、前記いわゆる中郵判決において、公共企業体等労働関係法(以下公労法と略称する。)17条の解釈ならびに郵便法79条1項の解釈につき、郵便法により郵政職員の争議行為に刑罰を科する場合の判断を示している。それによれば、右郵便法の法条はもつぱら争議行為を対象としたものでないことは明白であるが、反面、郵政職員が争議行為として同条所定の行為をした場合にその適用を排除すべき理由はなく、争議行為をした場合にも適用あるものと解するほかはないが、公労法は、同法17条1項に違反してなされた違法な争議行為に対しては同法18条により懲戒処分をする途を認めているに止まり、刑罰を科する規定は全く置いていないのに、前記郵便法の法条により例外として郵政職員の違法な争議行為に刑罰を科することとなる点を考えると、公労法の職員の争議行為自体の中に刑罰を科せられない場合と科せられる場合とがあることになる点に鑑み、刑事制裁を科せられる郵政職員の右争議行為は前記中郵判決判示のような特に違法性、反社会性の強度のものに限ると解するを相当とするとし、かく解することが、憲法28条、公労法17条1項の合理的解釈に沿う所以であるとしたのである。しかるに本件は、争議行為自体に刑罰を科する問題ではなく、違法とされる争議行為を対象としてなされたあおり行為等に刑罰を科することが問題となつているのであつて、前記中郵判決は、この点に関する限り、本件とは事案を異にし本件に適切でなく、あおり行為等の刑罰規定に関する多数意見の中、私の反対する前記の部分に関しては、中郵判決は何らの判示をも包含しているものではないと私は解する旨を附言したい。

[6]、次に、多数意見があおり行為等を処罰しうるためには、あおり行為等がその対象とされた争議行為に通常随伴するものと認められるものでないことを要件としている点は、私もこれに賛同するが、この点につき若干補足意見を表示する。
[7] 私見によれば、多数意見の右のごとき解釈のよつて来たる所以は、そもそもあおり行為等は争議行為の発案、計画、遂行の過程として、他人に対し、争議行為を実行する決意を生じさせるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えることであつて、通常は対象とされる争議行為に従属的ないし附随的な性質のものであるから、動労者自らが争議行為をした場合は刑罰を科せられないとされているのに、そのような従属的ないし附随的行為につき刑責を認めるとすれば、それはその動労者が自ら行なう争議行為に実質的に包含されていると解される行為の一部を取り上げて処罰すると同様な結果となり極めて不合理であり、争議行為自体に刑責を負わせない立前と矛盾し、かくては労働基本権を認めた憲法28条の法意にも反することとなるという配慮に出たものに外ならないと考える。それ故、ここに通常随伴するものと認められるものでないというのは、あおり行為等が例えば、組合における争議行為の共同意思に基づかないで争議行為の遂行を煽動するとか、争議行為の際に通常行なわれるような手段、方法、程度をこえた激越なものであるとか、故意に誤つた情報を提供し、欺罔、威力、暴力等の手段、方法を用いるとか等、社会通念上争議行為に伴つて行なわれるものとしては著しく不当と認められるような行為による場合をいうものと解するのが相当である。従つて、このような制限は、あおり行為等の行為者が、その者の行なう争議行為自体につき刑事罰を科せられないとされる動労者ないしそれと同等の立場にある者であつて、本来憲法28条の保障の下に在るものにつき問題とされるのであり、しからざる純然たる第三者のように、全く憲法28条の保障の下にない者については、このような制限は問題とならない。すなわち純然たる第三者のしたあおり行為等については、通常随伴するものか否かを考える余地も必要もなく、憲法28条の要請とも無関係であつて、そのような第三者のあおり行為等がすべて国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定によりもとよりも当然というべきである。また、そのような第三者と共謀した者がたとえ動労者であつても、独立の犯罪者たる第三者の共犯者である以上、そのあおり行為等の行為は、争議行為て通常随伴すると解する余地も必要もなく、憲法28条の要請とも無関係の事柄であつて、これまた国公法の前記罰条の適用を受けることは、法律の規定により当然というべきものと私は考える。その意味において、本件被告人らに刑責を負わせた原判決の結論は正当である。(なお、あおり行為等の対象とされた争議行為が、公務員の勤務条件の維持改善、経済的立場の向上等労働争議本来の目的達成に関係はあるが、その手段、方法、態様等からみて、公共の福祉の要請上許容し得ず違法とされるようなものであれば格別、労働争議本来の目的と全く無関係に、例えば専ら政治的目的達成のための政治運動が、争議行為の形態を採つてなされたような場合には、そのような争議行為は、憲法28条の保障とは無関係なものというべきであろう。しかし、私はそのような争議行為も実定法たる国公法上の争議行為という中には包含されていると思う。そしてたとえそのような場合であつても、そのあおり行為等をした者が動労者自身であれば、現行国公法が、その者のする右のような争議行為自体に刑罰を科さない立前であるとすれば、それとの均衡上、右あおり行為等のみに刑罰をもつて臨むことは、それが右争議行為に通常随伴するものと認められるものである限り、憲法31条の要請から、または現行国公法の妥当な解釈の上から、許されないと解するのが相当ではないかと考える。そして本件は、原審の確定したところによれば、新安保条約に反対するための労働争議に対するあおり行為等に関する事案であるが、本件は、被告人らが本件あおり行為等を第三者と共謀して行なつたというのであるから、右の点は、判決の結果には影響のないことに帰するので、ここではただ問題の所在を指摘するに止め、これ以上の詳述は省略する。)
《引用ここまで》


 裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。

[1]、法律の規定をその文字どおりに解釈すると違憲の疑のある場合には、これに可能なかぎり合理的限定解釈を加え憲法の趣旨に調和するように解釈すべきものであり、地方公務員法(以下地公法という。)61条4号の規定を解釈するに当つても、右のような限定解釈を加うべきものであることは多数意見の判示するとおりである。

[2]、よつて按ずるに、地公法61条4号は、争議行為自体を行なつた者は処罰しないけれども、争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおり、またはこれらの行為を企てた者を処罰する旨定めている。しかし、職員組合の行なう争議行為は、通常組合の役員または組合員から発案され、所定の議決機関の決議を経、これに従つて実行されるものと解されるので、右争議行為の「遂行を共謀し、そそのかし、あおり、企てる」行為(以下「あおり行為等」という。)のような行為が、その組合において本来の目的たる勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とし、自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる場合にこれを刑罰をもつて処罰することは、結局刑罰をもつて、すべての公務員に対し、一切の争議行為を禁止することになり、憲法28条に違反する疑が生ずる。したがつて、地公法によつて認められた地方公務員の職員組合がその本来の目的達成のため自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれる「あおり行為等」は(組合の役員または組合員は勿論、それ以外の者であつても、その組合の上部組織若しくは連合体の役員のような者によつて行なわれても)、暴力等を伴わないかぎり、地公法61条4号にいう「第37条第1項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた」場合に当らないものとして処罰の対象にならないと解すべきである。
[3] これを要するに、組合本来の目的を越えて行なわれたと認められる地方公務員の争議行為に対する「あおり行為等」、および組合が自主的に行なう争議行為の発案、計画、遂行の過程として行なわれるものでない一切の「あおり行為等」は、本条項に該当し、処罰の対象となるものと解する。何となれば右各行為はいずれも憲法28条が勤労者に保障する労働基本権の行使とはいえないからである。
[4] 以上の考えに立つて本件を見るに、被告人らの本件行為は、被告人らの属する職員団体である都教組がその本来の目的達成のために自主的に発案、計画した争議行為遂行の過程としての指令の配布、その趣旨の伝達等をしたものであつて、地公法61条4号にいうあおり行為にあたらないものとして罪とならないものである。

[5]、多数意見は、地公法61条4号を限定的に解釈するにあたり、「あおり行為等」の対象となる争議行為は、地公法37条1項の規定上違法であつても、その違法性には強弱があり、「あおり行為等」を処罰し得るのは、争議行為自体が違法性の強いものであることを前提とし、そのような違法性の強い争議行為等の「あおり行為等」に限るとしている。
[6] しかし私は、「あおり行為等」の対象となる争議行為(地公法37条1項は、地方公務員の争議行為を禁止しているから地方公務員の争議行為は地公法上は原則として違法である。〔刑事罰をもつてのぞむべき違法の意ではない。〕)について、その違法性の強弱により地公法61条4号の適用の有無を決すべきではないと思う。「あおり行為等」の対象となつた争議行為が、地方公務員の勤務条件の維持改善、経済的地位の向上およびこれと関連する事項を目的とするものではなく、例えば政治的意図の達成を目的とするものであるときは、かかる争議行為は憲法28条の保障するところではないから、かかる争議行為を対象とする「あおり行為等」は、それが争議行為に通常随伴するものであると否とを問わず、憲法28条の保障する労働基本権の行使とはいえない。また「あおり行為等」についても争議行為に通常随伴する行為は、違法性が弱いから処罰されないというのは賛同できない。むしろかかる行為は、対象たる争議行為が組合の本来の目的達成のための争議行為である限り、憲法28条の保障する勤労者の労働基本権なかんづく団体行動権の行使と認められるから、かゝる行為は、地公法61条4号のいう「あおり行為等」にあたらないので処罰できないというべきものと思料する。


 裁判官奥野健一、同草鹿浅之介、同石田和外、同下村三郎、同松本正雄の反対意見は、次のとおりである。

[1] 国家公務員は、国民の信託により、全体の奉仕者として国政に干与するものであつて、その使用者である国民大衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなすことは、国民の信託に叛き、国政の活動を停廃せしめ、国民生活に重大な障害をもたらし、公共の福祉に反するものであるから、国家公務員法(昭和40年法律第69号による改正前のもの、以下同じ)98条5項は、違法な行為として、これを禁止しているのである。また、地方公務員法37条1項は、同様の趣旨において地方公務員の争議行為を違法な行為として禁止しているのである、これら公務員の争議行為の禁止は、公共の福祉の要請に基づくものであつて、憲法28条に違反するものということはできない。
[2] 法は、右の如く公務員の争議行為を違法な行為として禁止しながらも、それに違反して争議行為自体に参加した個々の公務員に対しては、刑罰を科することなく、公務員として保有する任命上又は雇用上の権利を奪う制裁を科し得るに止めている。しかし、法は、公務員の争議行為が国民又は地方住民に対し、重大な損害を与えるものであることに鑑み、かかる違法な争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成する、いわゆる煽動者等に対しては刑事制裁を科し、もつて違法な争議行為の禁遏の実を挙げようとしているのである。すなわち、違法な争議行為に原動力を与える者は、単なる争議に参加した者に比して、反社会性の強いものとして、特別の可罰性を認めるべきであるとの観点から、争議に対し指導的役割をなる煽動者等のみを処罰することにより、違法な争議行為の防止と刑政の目的を達し得るものと考えたのである。かくの如く、集団行動による違法行為について、その原動力となつた煽動行為等の違法性を特に重視することは十分合理性のあることであり、内乱罪、騒擾罪などの処罰方式の例にも見られるところであり、決して不合理な立法ではなく、固より、立法政策の範囲内に属するものであつて、違憲とはいい難い。
[3] そして、法が違法な争議行為に対する誘発、指導、助成の原動力となるものとして処罰せんとする「あおり」についていえば、「あおり」の概念は、「違法行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢のある刺激を与えること(昭和33年(あ)第1413号同37年2月21日大法廷判決、刑集16巻2号107頁参照)」をいうものと解するのが相当であり、その構成要件の内容が漠然としているものではない。そして法は、「あおり」行為について何らの限定を設けていないのであるから、いやしくも前記「あおり」の行為に該当するものである限り、これを可罰性のある違法な行為とする趣旨であつて、これらの行為をその違法性の強弱によつて区別し、特に違法性の強いものに対してのみ刑事制裁を科するものであると解する余地は、法文上考えられないところである。
[4] 「あおり」の対象となつた争議行為自体の態様により、その違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限つて、「あおり」を処罰する趣旨であると解することも到底是認できない。けだし、法は、争議行為自体を処罰しないとしながら、敢てこれをあおつた者を処罰すると規定しているのであるから、違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のある争議行為をあおつた場合に限り、あおり行為を処罰する趣旨と解することは、ことさらに明文に反する解釈であるからである。
[5] それ故、「あおり」の罪が成立するためには、その「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性の有無を論ずる余地はなく、したがつて、その争議行為が例えば政治的目的のために行なわれたものであるか否かという如きことは、同罪の成否になんら影響を及ぼすものではないというべきである。しかも、もともと法律上争議権を否定された公務員が、「正当な争議行為」をすることができないのは当然であるから、公家公務員法附則16条、地方公務員法58条の規定をまつまでもなく、争議行為として「正当なもの」について、刑事免責を規定した労働組合法1条2項の規定が公務員の争議行為に適用の余地のないことは明白であつて、この点からいつても、「あおり」の対象となつた争議行為自体の正当性ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性の有無を論ずることは理由がないといわなければならない。
[6] また、争議には、企画、共謀、指令、伝達等は、通常、一般的に随伴し、争議と不可分の関係にあるものであつて、組合構成員は当然これに干与するのであるから、これを処罰することは、争議行為を処罰することになるから、組合構成員の「あおり」行為は除外すべきであるとの解釈論も是認することはできない。けだし、国家公務員法98条5項後段、110条1項17号、地方公務員法37条1項後段、61条4号は、「何人も」および「何人たるを問わず」あおり行為をした者を処罰する旨を明定しており、あおつた者が組合構成員であると、組合構成員以外の第三者であると、また組合構成員がそれ以外の第三者と共謀した場合であるとを問わず、また争議に当然随伴し、これと不可分の関係において為した者であると否とを問わず、等しく処罰する趣旨であることが明白であるからである。
[7] これを要するに、「あおり」の概念を、強度の違法性を帯びるものに限定したり、「あおり」行為者のうち、組合構成員と組合外部の者とを区別し、外部の者の行為若しくはこれと共謀した者の行為のみを処罰の対象となると解したり、または「あおり」の対象となつた争議行為が違法性の強いもの、ないし刑事罰をもつてのぞむべき違法性のあるものである場合に限り、その「あおり」行為が可罰性を帯びるのであるというが如き限定解釈は、法の明文に反する一種の立法であり、法解釈の域を逸脱したものといわざるを得ない。
[8] 従つて、以上に述べたところと解釈の結論を同じくする原判断は相当であり、弁護人のその余の所論は単なる訴訟法違反の主張にすぎないから、結局本件上告は棄却すべきものである。

(裁判長裁判官 横田正俊  裁判官 入江俊郎  裁判官 奥野健一  裁判官 草鹿浅之介  裁判官 城戸芳彦  裁判官 石田和外  裁判官 田中二郎  裁判官 松田二郎  裁判官 岩田誠  裁判官 下村三郎  裁判官 色川幸太郎  裁判官 大隅健一郎  裁判官 松本正雄  裁判官 飯村義美)
    凡例
以下次のとおり略記する
法律
  地公法 地方公務員法
  国公法 国家公務員法
  公労法 公共企業体等労働関係法
  破防法 破壊活動防止法
判例
  最高 35・1・25   最高裁判所昭和35年1月25日判決
判例集
  最刑 15・3・715  最高裁判所刑事判例集15巻3号715頁
  高刑        高等裁判所刑事判例集
  下刑        下級裁判所刑事判決例集
  時報        判例時報
  旬報        労働法律旬報別冊
その他一般の用例による

    目次
序論
第一章 上告理由第一点 憲法28条の解釈適用の誤り
第二章 上告理由第二点 条約ならびに国際法規違反
第三章 上告理由第三点 憲法18条の解釈適用の誤り
第四章 上告理由第四点 憲法31条の解釈適用の誤り
第五章 上告理由第五点 「あおり」の解釈適用の誤り
第六章 上告理由第六点 憲法31条、37条違反ならびに判例違反
第七章 上告理由第七点 原判決の判断い脱の違法
第一(本趣意書の構成)
[1] 本件には一審以来数多くの争点があつたが、その中でも3つの大きな争点があつた。それは第一には罰条である地公法61条4号の違憲性の問題であり、第二には地公法61条4号にいう「あおり」の解釈適用の問題であり、第三には本件行為の正当性の問題であつた。一審判決は第一の問題については弁護人の違憲の主張を斥け、第二の問題についてはほぼ弁護人の主張を容れて無罪とし、したがつてその余については判断するまでもないとして第三の問題については何ら判断を示さなかつた。ところが原判決は、第一の問題については一審判決よりも厳しい態度で弁護人の主張を斥け、第二の問題については一審判決の解釈を斥けて本件行為は地公法61条四号の「あおり」に該当するとしたが、その場合には当然判断を示すべき第三の問題については何らの判断をも示さなかつた。
[2] したがつて、当審において私たちの主張すべき大きな問題は、第一と第二の問題であり、第三の正当性の問題については、遺憾ながら当面は、原判決が判断を示さなかつたことのみは問題とできるが正当性の主張の内容については問題とする場所がない。
[3] そこで私たちの上告理由は、地公法61条4号の違憲性について第一、第三、第四の各章において、またこれとほぼ同一の内容を別の視点すなわちILO条約との関係から見て第二章に、原判決の「あおり」の解釈適用の誤りについて第五章に、最後に正当性の判断のい脱および事実認定についての刑事訴訟法上の重大な誤りについて第六、七章において述べることとした。
[4] 原判決は、地公法61条4号の違憲性についてはきわめて寛大に合憲性を認め、同じくその解釈についてもまたきわめて寛大に処罰の範囲を拡大した。そうして、事実の認定については刑事訴訟法の規定と根本精神に反して、きわめて寛大に公訴事実を認定し、正当性の主張については一顧だに与えなかつた。このことは原判決の態度が、労働者の基本権とその行使についての強い偏見と敵意によつて貫かれていることを示している。このことは後に本論において具体的に事実をあげて明らかにしよう。私たちが何よりもまず、裁判所に対して望むことは、一切の偏見と敵意を捨てて、労働者の基本権とその行使についてすなおに考えていただきたいということである。

第二(序論の趣旨)
[5] 地公法61条4号は憲法28条に違反するだけでなく、同時に、18条にも31条にも違反している。このように地公法61条4号が憲法のいくつもの条項に違反するのは、そもそも地公法が憲法の保障する基本的人権を刑罰の威嚇をもつて抑圧しようとする無理な立法であることから生じた結果なのである。また、地公法61条4号の「あおり」について、私たちは厳しい解釈を要求しているのであるが、そのような解釈が求められるのは、地公法61条4号が右のような無理な立法であつたために、構成要件についても多くの無理があつたためであることに大きく原因している。
[6] したがつて、私たちのこれからの主張を正しく理解するためには、地公法61条4号がどのような歴史的社会的基盤の上にどのようにして定立されたか、それは全法体系中にどのような位置を占めるか、一口にいえばその制定と改正の歴史と現状を明らかにしなければならない。この課題は私たちの以下の主張に共通する総論的課題である。そこでこの課題を全上告趣意の序論として、明らかにする。
(註) 序論中で略称で引用した著書は次のとおりである。
浅井・改正法 浅井清・改正国家公務員法
鵜飼・公務員法 鵜飼信成・公務員法・法律学全集7
学会誌27号 日本労働法学会・学会誌27号・官公労働者の労働基本権
佐藤・鶴海 佐藤功・鶴海良一郎・公務員法・法律学大系コンメンタール篇15
ジユリスト345号特集 同上特集・各国公務員の労働者性
末弘・はなし 末広厳太郎・労働法のはなし
末弘 運動史 末弘厳太郎・日本労働運動史
ドライヤー報告 片岡曻・中山和久訳・ドライヤー報告
野村・形成過程 野村平爾・日本労働法の形成過程と理論
松岡・労働行政 松岡三郎・石黒拓爾・日本労働行政
峯村・全集 峯村光郎・公共企業体等労働関係法・法律学全集48
峯村・各国の公務員 峯村光郎編・各国の公務員制度と労働基本権
 以下の記述は主として左の諸著によつたので、これらの著書によつた部分はとくに必要ある場合以外は典拠を註記しない。
末弘・運動史
松岡・労働行政 第一篇
鵜飼・公務員法 とくにその第一章および第三章第二節四、五(7頁以下)
佐藤・鶴海 特に前註(1-23頁)および98条の前註(374頁-384頁)地方公務員法の前註(507-514頁)
峯村・全集 第一章第二節(5頁以下)
野村・形成過程 第二部第七章(244頁以下)および補論(285頁以下)
第一(争議権の解放)
(一)(戦前の争議権)
[7] わが国では、かの悪名高かつた治安警察法17条が大正15年に廃止されて以来、労働争議を抑圧することを直接の目的とする法律は存在しなかつた。しかし、実際には時の権力は法令を濫用することによつて常に労働争議を弾圧し続けてきたし、またそれにかかわらず、戦時中でさえも労働争議を絶滅させることはできなかつた。このような状態の中で天皇の官吏は、争議をするどころか、労働組合をつくることさえ許されなかつたのは当然であろう。しかしその中でも教員については、そのほとんどが非合法化されてはいたが、絶えず組織活動が続けられてきたことは注目されていい。このことは教員が、聖職の美名の下で官吏の中でも最低の待遇を強いられたことと、常に民衆の中にあつてその生活の貧しさに現われる社会の矛盾をともに体験していたからであろう。たとえば、農村不況の中で主として東北の貧しい農村地帯に起こった生活綴方運動は、直接には労働組合運動ではないが、そうした教員の意識をよく示すものである(本件一審における、証人国分一太郎、北村孫盛、今井誉次郎、田中惣五郎の各証言、弁護人一審弁論要旨270-275頁)。
(二)(旧労働組合法の制定)
[8] 終戦とともに労働者の団結は解放され、早くもその年の12月22日に労働組合法(以下旧労組法という)が公布、翌21年3月1日から施行され、わが国でここに初めて労働者の争議権が保障されるに至った。往々にして、これを与えられた団結権だとするものもあるが、それは戦前からの労働運動弾圧への反省や、世界各国の労働運動の進展の結果であつて、決して偶然の贈物ではない。同法には次のような規定があつた。
第3条 本法に於て労働者とは職業の種類を問わず賃金、給料其の他之に準ずる収入に依り生活するものを謂う
第4条 警察官吏、消防職員及監獄に於て勤務する者は労働組合を結成し又は労働組合に加入することを得ず
 前項に規定するものの外官吏、待遇官吏及公吏其の他国又は公共団体に使用せらるる者に関しては本法の適用に付命令を以て別段の定を為すことを得 但し労働組合の結成及び之に加入することの禁止又は制限に付ては此の限に在らず。
[9] 同法が、警察官吏等については公安維持のためという理由で労働組合の結成加入をも全面的に禁止したこと、また、警察官吏等以外の一般の官公吏等の団結について命令をもつて別段の定をすることができるとしたこと、は後の団結抑圧立法の萠芽を示すものであり、ことに命令をもつて定め得るとした点は後の立法よりも危険なものではあつたが、この特別の定めとして政府が用意したのは、官公吏等は官公吏等以外の組織する労働組合に加入できないこと、官公吏等の労働組合の政治活動を制限禁止することができるようにすることなどであつて、争議行為を禁止することは全く予定されていなかつたといわれる。しかも、この特別の定めさえ実際にはなされることなくして終わつた(松岡・労働行政106頁)。
[10] このように、若干の団結権侵害の危険ないしその萠芽はあつたが、同法は公務員を原則として一般私企業の労働者と同様な労働者とし、争議権を有するものとしていた。

第二(労働関係調整法の制定)
(一)(制定の経過と内容)
[11] しかし、このような公務員の団結の原則的な保障は、久しからずして最初の侵害を受けるようになつた。それは労調法の制定である。政府は、旧労組法の制定を不満とする資本家の強い要望に応えて、労働争議調停法に代わるべき法律案を次の議会に提出することを約束したのであつたが、この約束に基づいて第90議会に提出制定されたのが、この労調法であつた。同法は21年9月5日議会を通過し、同月27日公布された。この労調法の38条が一部公務員の争議行為を禁止し、39条はこれを受けてその違反に対する罰則を定めた(以下この38条、39条を旧労調法という)。
第38条 警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者その他国又は公共団体の現業以外の行政又は司法の事務に従事する官吏その他の者は、争議行為をなすことはできない。
第39条 前2条の規定の違反があつた場合においては、その違反行為について責任のある使用者若しくはその団体、労働者の団体又はその他の者若しくはその団体は、これを1万円以下の罰金に処する。
 前項の規定は、そのものが、法人であるときは、理事、取締役その他法人の業務を執行する役員に、法人でない団体であるときは、代表者その他業務を執行する役員にこれを適用する。
 1個の争議行為に関し科する罰金の総額は、1万円を超えることはできない。
 法人、法人でない使用者又は労働者の組合、争議団等の団体であつて解散したものに、第1項の規定を適用するについては、その団体は、なお存続するものとみなす。
[12] 警察官吏等はすでに当時の労組法で組合の結成、加入をも禁止されていたのであるから、争議行為をも禁止されるのは当然の成り行きということもできるであろうし、公安維持のためにも止むをえないという考え方も了解できないことはなかつた。しかし、それ以外の行政司法の事務に従事するいわゆる非現業の官公吏等に対する争議禁止は、争議権の抑圧として、いうまでもなく労働者側の大きな反対にあつた。
[13] 争議調整制度はもともと労働争議解決のための手段であるはずなのに、争議それ自体を禁止してしまつたのは、大きな行きすぎであり、矛盾である。
(二)(公務員への適用)
[14] また、現行公務員法(国公法附則16条、地公法58条)と異なり、当時労調法が公務員全般に適用されていた点も注意すべきことである。すなわち、公務員の労働関係の調整についても、一般私企業についてと同じく労働委員会が調整の権限をもつていたのである。これらの点から見て、労調法は38条、39条において弾圧的性格をもちながらも、なお一応労働立法のわくの内にあつたということができよう。
(三)(争議を禁止された公務員の範囲)
[15] さらに注意すべき点は、争議を禁止された公務員の範囲が、現行公務員法、公労法と比べて、大きく異なる点である。すなわち、それは警察官吏等の他は「現業以外の行政又は司法の事務に従事する官吏その他の者」に限られていて、公務員全部ではない。それは、38条の趣旨が「国政の停廃を防ぐ」ことにあつたから、すなわち、公務員であるという身分によるのではなく、その公務の内容・性質によるものであつたからである。
[16] また、同条にいう「現業以外の行政又は司法の事務に従事する」者の範囲については、厚生省労政局長名の労調法解釈例規第1号(22・5・15)は次のように示している。
38条の適用範囲の認定は左の基準によるものとする。
一、本来の行政及び司法の事務の遂行に不可欠の補助事務に従事する者は適用を受けるものとする。
二、国又は公共団体の行なう企業の中、同種のものが現に民間企業として行なわれているもの、及び企業の性質上民間においても行なうことのできる事業に従事する者は適用を受けないものとする。
三、右により38条の適用の有無の認定が困難なものについては、国又は公共団体の行政司法の事務に従事する官公吏その他の者の争議行為により国政の停廃することを防ぐ労働関係調整法の立法趣旨と勤労者の団体行動を保障する憲法28条の精神とに基いて、その認定を行なうものとする。

右の基準により大体左の者が38条の適用のないものとする。
(一) 左に掲げる官公署及び官公署所属施設
 (1) 官公署
  (略)
 (2) 官公署所属施設
  (イ) 試験所、研究所その他調査研究施設
  (ロ) 学校、講習所その他の教育養成施設
 (以下略)
(四)(教員)
[17] これによると教員は38条による争議禁止の適用外だということになる。そうしてまた、教育事業は同法8条によつて公益事業に指定されてもいなかつたから、同法37条による抜打ち争議の禁止もなかつた、すなわち、教員の仕事は、その争議行為が「国政の停廃」をもたらすものでもなければ、「公衆の日常生活に欠くことのできないもの」(労調法8条)でもないとされていたわけで、その争議行為は全く自由とされていたのである。
[18] なお、労調法の制定に当たつて、時の政府は閣議で教員の争議行為の禁止を決定した。ところが占領軍当局は「教員が争議行為をしても、直ちに、国家が崩壊するおそれはない。」「アメリカで、各州においても、教員の争議行為を禁止していない。」「教員の争議行為を禁止しても、必ずや争議行為をなすであろう。そうすると、教員が罰金を払わねばなぬ。教員が争議行為をやることより、罰金を払うことの方が、学生に深刻な影響を与えるであろう。」「教員は、公益事業にも入らない。公益事業の争議行為の制限は日常生活に著しく障害を与えることを抑える趣旨であるが、教員の争議行為はわれわれの日常生活に著しい障害を与えるとは思わない。」等の理由を指摘して反対したそうである(松岡・労働行政154頁)。また、現業と非現業の区別に関する前記解釈例規は中央労働委員会の解釈に基づくものであるが、末弘博士によると「この決定を更に閣議にかけたところ、また問題が色々でてくると云つた始末で非常に難儀したとのことである。例えば、学校の教員が現業官吏であるかどうかは比較的明白であるに拘らず、どうしたわけか閣議で最後まで問題になつた」そうであり、「こうした場合にのぞんで妥当な結論を得るためには、どうしても前に述べたように法律的な即ち労働法的な考え方と能力が必要となつてくる」と忠告している(末弘・はなし・まえおき)。政府が教員の争議権を奪うのにいかに必死であつたか、またそれがいかに道理に反していたか、明らかであろう。
(五)(罰則)
[19] 労調法が争議行為の禁止に罰則を設けたことは、その争議抑圧的性格をなおさら強くしている。しかし、39条は「前2条の規定の違反があつた場合」であつて、37条の公益事業の抜打ち争議禁止違反とひとつ規定である。また、39条によつて処罰される者は原則として団体であつて、同条1項によつて処罰される「その他の者」とは争議行為をした団体に含まれない外部の者をさすのであつて、争議行為に参加した公務員がその故に処罰されることはなく、ただ、2項によつて団体の役員が処罰されることになつているにすぎない。すなわち、39条は争議行為をした団体を処罰することを原則とし、その罰も罰金である。これらの点から見て典型的な行政罰であるといえよう。このことは、労調法が罰則を設けながらも、公務員は本質的に争議行為と矛盾するもの、公務員の争議行為は本来的に不法なもの、とはしないで、公益事業の抜打争議防止などとともに、争議調整という行政上の目的から定めた行政上の義務に対する違反であるというたてまえであることを物語つている。

第三(日本国憲法の制定)
[20] 日本国憲法が、21年10月7日第90帝国議会を通過、11月3日公布、翌22年5月3日に施行され、労働者の団結権、団体交渉権、団体行動権、いわゆる労働三権あるいは労働基本権が、法律上の保障から憲法上の保障をされる権利にまで高められ、確立されたことは、いまさらいうまでもない。この実質的意味については後に本論で述べよう(第一章第二節)。

第四(国家公務員法の制定)
[21] 敗戦と旧統治原理の崩壊によつて、官吏制度の改革が必然的に要請されるに至つた。それは何よりも「神権による天皇支配の封建的観念に基づいて、人民に対する統治権力を行使していた、緊密に結びつき、排他的で自続的な官僚制」を解体することにあつた(註)。21年11月ブレイン・フーバーを長とする合衆国人事顧問団が来朝し、大規模な調査を行ない、翌22年6月政府に対して勧告を提示した。政府は右勧告に含まれた草案を基礎として、国家公務員法案を作成して第1国会へ提出、国会を通過して22年10月21日公布、その大部分は翌23年7月31日から施行された。しかし、フーバーの原案は政府における法案作成と国会の審議の過程で多くの修正が加えられた。ことに本件に関して重大な修正は、フーバー原案にあつた公務員が政府の活動を阻害するごとき争議またはその他の共同罷業行為に出ることの禁止が、すでに法案作成の過程で削除されたことである。この法案はフーバーの帰米中に作成審議されたが、これらの修正についてフーバーは強く憤激したと伝えられ、フーバーは本法制定後再び来日し、今度は総司令部民政局公務員制度課長の地位についた。このことは当然総司令部をして、本法施行直後から直ちに、改正の計画を抱かせることとなつた。
(註) フーバーのことば、鵜飼・公務員法18頁による。
第五(公務員団結権の崩壊)
(一)(占領軍の労働政策の転回)
[22] 誕生したばかりの国家公務員法は、その施行後1ケ月もたたないうちに大きな修正を余儀なくされることとなつた。それは同時に、憲法施行1年余にしてその保障する労働者の団結権の一角が大きく崩壊せしめられたことでもあつた。すなわち政令201号の制定である。
[23] それよりさき、憲法公布後僅か2ケ月、その施行に先立つて、マツカーサー司令官の2・1スト禁止の声明によつて争議権の行使は早くも重大な制約を受けることとなつた。これは一応臨時の措置ということであつたが、占領軍当局の労働政策の大きな転回な示すものであつた。
(二)(マ書簡)
[24] 23年7月22日マツカーサー司令官から芦田内閣総理大臣にあてて、官公労働者の争議行為を禁止するため、早急に国家公務員法を改正すべき旨の書簡が発せられた(註)。
(註) マ書簡の全文は、佐藤・鶴海11頁。浅井・改正法183頁。末弘・運動史146頁。
[25] マ書簡が施行以来1ケ月にもならない国公法の早急な改正を要求したのを見ても、その理由は決して公務員についての一般論にあるのではなく、朝鮮戦争前夜の国際間の冷戦状態におけるアメリカの反共政策と総司令部が当時の官公労組が共産党の指導下にあつて政府を圧倒しつつあると考えたことによるものであることは多くの論者の一致して指摘するところである。同書簡の出された理由について総司令部民政局は8月3日次のように発表した。「政府の使用人は8月7日を期してストライキを宣言したが、かかるストライキは困窮した日本の現状にあつては国民の大多数に飢餓と災害をもたらさずにはおかないものである。」こえて同月28日の対日理事会においてシーボルト議長はさらに率直に「事態を正解する上にはつきりのみ込む必要がある点は、日本は武力を放棄した結果、将来わが占領軍が撤退したあかつき現在の運輸および通信組合を支配し得る指導分子はこの二大動脈をおさえて日本政府をほとんど意のままに左右する地位に立ち得ることである。いまにして日本政府の権限を明定しておく措置を講じなければ、少数圧力集団は容易に日本政府を制御しうることになる、われわれの採つた措置は官公労組の指導部に食い込んだ急進分子が政府に対しふるう力と脅迫を一掃してこれに痛打を与えた。これほどまでしなければ混乱と不安をあおる勢力を大目に見すぎることになる。」と述べたといわれる(大原社会問題研究所・日本労働年鑑23集152頁)。総司続部のこのような事実の認識自体にも問題はあろうがいずれにせよ、マ書簡はこのような全く時の政治的目的から出されたものであつた。
[26] マ書簡は一応、公務員争議禁止の必要を一般論として述べている。そうして総司令部当局の一部に、たとえばフーバー公務員課長のように、公務員の争議を禁止すべきであるという意見が根強く前からあつたこともすでに述べたとおりである。しかしながら、同時に総司令部内に、労働課を中心に、公務員の争議権を全面的に剥奪すべきでないという意見が、これまた根気くあつたことも、旧労組法、労調法の制定過程に関してすでに述べたとおりである。この書簡の内容に対しては、それが余りにも公務員の労働法上の基本的権利を制限し過ぎるという理由で、総司令部内にも反対の意見があり、時の労働課長キレンは反対意見を正式に声明してその職を辞した(末弘・運動史165頁)。マ書簡を公務員の団結権についてのアメリカの正統的な思想を現わすものと速断するものがあるかもしれないが、それは全く政策の所産なのである。
(三)(政令201号)
[27] 政府はこの書簡に応じて、さしあたりの措置として同月31日、政令201号を公布即日施行した。それは、すべての官公労働者の団体交渉権と争議権を奪い、その違反に対して1年以下の懲役または5千円以下の罰金に処することを主な内容とするものであつた(註)。これに対して当然労働者は強く反対したが、占領軍の命令ということで押切られてしまつた。公務員の労働基本権はほとんどすべて奪われてしまつた。
(註) 全文は浅井・改正法189頁。
第六(国家公務員法の改正)
[28] ついで同年12月の国会で国公法の改正を行ない、臨時の措置であつた政令201号は、ほぼ同じ内容で法律化された。すなわち、国家公務員は労働組合法、労働関係調整法の適用から外され、団体交渉権と争議権を奪われ、争議行為に参加した者はもちろん、これを企てたりしただけでも国に対する法令上の権利を失わせられ、争議行為を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者は3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられることとなつた。国家公務員の争議権は完全に刑罰の威嚇によつて奪われることとなつた。
[29] この国家公務員法の改正が占領軍の指示によるものであることは、すでに政令201号について述べてきたところで明らかであるが、衆議院人事委員会における浅井政府委員(臨時人事委員長)の次のような提案理由の説明によつてことに明らかであろう。
「この改正案を政府において起草し、このたび国会に提出したしましたその最も重要な動機は、申すまでもなく去る7月22日付内閣総理大臣あてマツカーサー元師の書簡であります。」「国家公務員法につきましては、これをマツカーサー元師の書簡の指示するところに即せしめるよう改正するため、政府は同書簡に基づく最高司令部の助言によりまして、この法律案の起草を行なつてきた次第であります。従いましてこのたびの改正法案は,あくまでも、書簡の精神と内容とに基いて起草されたものでありまして、このことは特に申し上げるまでもないことであります。」(官報第3回国会衆議院人事委員会議録第3号23年11月11日1頁)。
第七(地方公務員法、公共企業体等労働関係法の制定)
[30] 地方公務員については、国公法改正国会では何らの立法措置が講ぜられなかつたので、その後も政令201号の適用下におかれていたが、25年12月に至つて地方公務員法が新たに制定されたが、その労働関係についてはわずかな点を除いては国家公務員法のとおりであり、ことに争議行為については完全に同じであつた。
[31] また、国鉄専売の職員については、公共企業体等労働関係法が制定され、争議行為の禁止は続けられたが刑罰の制裁は解除されることとなり、24年6月1日から施行され、翌27年8月1日からは公務員である五現業(郵政・印刷・造弊・営林・アルコール専売)の職員と公共企業体に切りかえられた日本電信電話公社の職員とがその適用を受けることとなり、同年さらに地方公営企業について地方公営企業労働関係法が制定されて、ほぼ公共企業体労働者と同様の取扱いを受けることとなつた。このようにして、官公労働者に対する争議禁止の法体系が完備され、政令201号はその使命を終えて失効した。

第八(公務員法の争議禁止の特徴)
[32] 国家・地方公務員法の争議禁止条項は、すでに述べたように、政令201号の法律化、恒常化されたものであるが、若干の異なる点がある。
(一)(公務員と公企体労働者の分離)
[33] その第一は、すでにマ書簡にその方向が示されているところであるが、公共企業体と五現業、地方公営企業の労働者を公務員法の適用から外し、争議行為禁止の違反に対して刑罰の制裁を解除した点である。ただしその範囲は、かつての労働法38条の適用を受けない現業職員よりは狭く、ことに教員が公務員法の適用を受けるままに残されたことは、その特殊な地位と数の多いことからみて重要であり、政府は労調法制定以来の望みを果たしたといえよう。
(二)(処罰規定)
[34] その第二は、政令201号は争議参加者のすべてを処罰する規定をおいていたが、公務員法では争議に参加しただけでは処罰されず、これを共謀、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者のみを処罰することとした点である。その趣旨についてはいろいろな見解がある。一つは、争議行為は必ず組織的団体的行動である以上、争議参加者は結局処罰を免れず、実質的には争議参加者のほとんどを処罰するものであるとする。立法者の意図は、そんなところにあつたのかもしれない。しかしこれに対して当時の浅井人事院総裁は「政令201号と大いに罰則の適用範囲を異にするに至つた。故に単なる参加者は懲戒処分の対象とはなるかも知れないが、刑罰を科せられることはなくなつた」(改正法165頁)としてその違いを強調する。そうしなくては余りにも憲法違反が露骨すぎるからであろう。いずれにせよ、争議を組織するのに必要な行為を処罰することによつて、争議を刑罰の威嚇をもつて禁遏しようとする規定であることは疑いない。このような特異な形の処罰規定はほとんど類がない。そのために解釈上多くの疑義を生ずることは後に第五章で詳しく述べるとおりである。かつての治安警察法17条が、同盟罷業を遂行するため「他人を誘惑若しくはせん動することを得ず」としたのも争議自体を処罰すること、はいくら何でも無理だつたからにほかならない。このことは同時に労働争議が労働者の要求を解決するための必然的な手段であるとは考えないで、何人かのせん動誘惑によつて起こるものであり、したがつてまた、それに対する対策は、労働問題として解決するのではなく、治安問題として弾圧によつて解決すべきものだとする考え方において、全く共通する。このような立法は明治時代への逆戻りであり、それはもはや憲法28条の労働基本権の調整とか制限とかいうものではなく、完全にその枠を逸脱してしまつた。それは直接には占領政策としてであつたが、しかし同時に、旧労組法制定以後日本政府が絶えず持ち続けた野望であつた。ただそれが、憲法28条によつて押さえられていたのが、マ書簡を笠にその永年の野望を達成したのである。その意味でこの国公法改正は、自衛隊などとならんで占領政策を固定化したなしくずし憲法改悪の一典型といべきであろう。
[35] 世界各国における公務員の争議行為についての取扱いは、かなり多種多様である。しかし、その大体の風潮として、わが国のように公務員の争議行為を一律かつ全面的に禁止するのとは、反対の方向に進んでいる。ことにその違反に対して刑罰を科することははなはだ例外である。

第一(諸国の立法)
[36] ここでは、英、仏、西独、米の代表的な四国について、その現状の概況を見てみよう。
(註) 学会誌27号。ジユリスト345号特集・峯村編・各国の公務員。
(一)(イギリス)
[37] イギリスにおいては、警察職員および北アイルランドの地方公務員の場合を除いて、公務員の争議権を制限する法律は存在せず、一般労働者と全く同様に争議権を認められている。
(二)(フランス)
[38] フランスでは、公務員についても、法律の範囲内ではあるが憲法による争議権の保障が及ぶと解されている。そして特別法によつて争議権を制限されているのは、憲兵、警察職員、航空の安全管制に従事する特定要員、監獄職員、裁判官だけで、その他の公務員は一般的に争議権を認められているのである。もつとも通達による争議権制限も判例によつて認められているが、その場合も特別法による制限の場合と同じく、違反に対しては懲戒処分のみで刑事罰は科されていない。
(三)(西ドイツ)
[39] 西ドイツでは、わが国の公務員に相当する労働者は、官吏と職員、労務者に分かれる。全公務員の過半数を占める後2者については、一般労働者と同様に争議権を認められている。官吏については、明文規定はないが、争議行為は違法であるとするのが通説判例である。しかし、その争議行為に対しては懲戒処分のみで刑事罰は科せられていない。
(四)(アメリカ合衆国)
[40] このような、公務員の争議行為についても刑事罰を科することはないという先進諸国の一連の傾向に対して、アメリカ合衆国の法制は全く異端といつてよい。すなわち、1955年に制定された法律330号は、ストライキに参加した国家公務員等に対して刑事罰を科している。
[41] アメリカにおいても全面的に刑事罰を科しているのは国家公務員に対してのみであり、全公務員の4分の3以上を占める地方公務員については、かなりの州・都市においてスト禁止の州法・都市条例が制定されているが、刑事罰を科している例はごくわずかであり、その場合はもちろん解雇等の懲戒処分を定めている場合でも、現実にはほとんど罰則規定は発動されていないことも注目すべきである。
[42] 前記1955年の立法は、冷戦下のアメリカで、いわゆる「忠誠計画」の一環という特異な条件の下で制定されたものである。しかもそれを可能としたのは、アメリカ労働立法の後進性である。アメリカでは労働者の権利が認められるようになつたのはごく最近であり、それも、かなり不充分にである。しかもそのアメリカにおいてすら、公務員の争議行為を全面的に禁止することについては、かなり意見の対立のあることは、前節で連合国軍総司令部の労働政策に関して述べたとおりである。このような基盤の上に、1955年法を成立させたのは、前記のような特殊な事情なのである。つとに末弘博士は、労務法制審議会での審議において、アメリカの官業労働についての官側の意見に対して、次のようにいつている。「只今のようなことを今の此の段階で仰しやられたことを私非常に遺憾と致します。今の『アメリカ』の例、多少知つております。『アメリカ』は其の為に相当色々な問題があり、大体『アメリカ』は労働組合に対して随分酷いんです。併し一方デモクラシー政治的のものがあるので、労働組合に対する酷い法制があつても、それが悪くならずに居るような状況があります。日本では外国の条文だけを見てああだ斯うだと云う議論がある」(松岡・労働行政101頁。)このようなアメリカの立法を無此判に日本の立法の範とするわけにはいかないであろう。

第二(ILO)
[43] 争議権についての世界的傾向を示すものにILOの諸条約がある。ILOの諸条約は諸国の労働立法の水準を現実に引上げることを目的とするので、その内容は決して一般的に高いものではなく、おくれた国によつても当然受け入られなければならない程度のものである。その諸条約によつても、公務員の争議権は保障されなければならないという原則がたてられている。
(一)(ILO87号条約)
[44] この条約は昭和40年6月14日わが国も批准しその1年後にわが国についても発効した。この条約は結社の自由および団結権の保護を目的とするものであるが、同条約は、労働者団体は労働者の利益を増進しかつ擁護することを目的とするものであつて、その目的のために完全な自由の下に活動する権利を有し、法律はこの条約に規定する保障を阻害するようなものであつてはならないことを定める。そうすると、争議行為は労働者の利益を増進し、かつ、擁護するための通常の手段であるから、これを禁止することは、この条約の規定する保障を阻害することとならざらをえない。なお、これらの詳細については後に第四章で述べる。
(二)(ILO105号条約)
[45](1) 1957年第40回ILO総会において採択されたILO105号条約(「強制労働の禁止に関する条約」)は、労働組合の争議行為に対する刑罰の制裁から労働組合運動を解放したものであるといわれる。
[46] すなわち、同条約1条は「この条約を批准する国際労働機関の加盟国は次に掲げる手段、制裁または方法としてのすべての種類の強制労働を禁止し、かつこれを利用しないことを約束する」として「(c)労働規律の手段」、「(d)同盟罷業に関与したことに対する制裁」と規定している。
[47] 右にいう「強制労働」の概念には、懲役刑、禁錮刑はもちろんこと罰金刑も含まれると解すべきである。そうでなければ多額の罰金を科することによつて実質的には懲役刑に等しい換刑処分を科し得る結果をもたらすことになるからである。
[48] このように解すると、(d)項にいうストライキに関与したことに対する制裁として懲役刑、禁錮刑はもちろんのこと罰金刑を科することも禁止されているというべきである。さらに単純な労働放棄に対する制裁としての刑罰を含む強制労働を科することは(c)項に違反することになるのである。したがつて休暇戦術は各自の有給休暇権の行使であるから、この場合に該当することになる。
[49] これを要するに、105号条約は争議行為に関与したことに対する制裁としての強制労働禁止という形で定められているが、その反面として労働争議に対する刑事罰を排除して争議権を保障しているといえるのである。
[50](2) 右のとおり、105号条約は争議行為に対して刑事罰を科することを禁止しているものであるが、法規違反の「違法スト」に対する刑事罰をどう考えるかは、争いのあるところである。とくに、法律によつて争議行為が禁止されている公務員は、本条約の適用の対象となるか否かが問題となる。この点に関しては、次に述べるとおり本条約の成立過程、あるいはILOの基本的考え方から見て、公務員にも無差別に適用されると解すべきである。
[51] すなわち、第一に、本条約の成立以前にすでに結社の自由委員会はチリーに関する事件(1957年)において、同国の公共部門労働者は争議行為が禁止され、違反の場合は懲戒処分を受けるほか、恒久民主々義擁護法が適用され、懲役、禁錮、追放および3千ペソ以上2万ペソ以下の罰金を科することになつていたことに対し、「しかしながら恒久民主々義擁護法は公務員規則によれば行政処分を受ける単なる懲戒理由にすぎないものを、重い刑罰をもつて罰するものである。当委員会は、チリー政府が恒久民主々義擁護法第3条4項を改正することが望ましいので考慮を払うよう、その注意を喚起することを勧告する」と述べている。
[52] この判断は、刑事免責が一般に承認されるという原則を公務員についても確認したものだと考えられる。そして、ILO105号条約はかようなILOの考え方を基礎として成立しているのである。
[53] 第二に、本条約の討議過程において、違法ストに対する制裁が問題となつたとき、労働者代表が違法ストに対して制裁としての刑罰が許される場合として例示したのは、法定予告期間および斡旋仲裁手続に違反したストライキにとどまつているのである。そして各国政府代表の意見としても、とくに右の諸点以外に留保した事項はなかつたのである。
[54] 右の制定経過に照らしてみると、通常のストライキが行なわれてもそれだけを理由として刑罰を科することは認められなくなつたと解せられるのであり、公務員は別であるという考え方も成り立たないのである。右討議過程において(わが国の修正意見を除いて)公務員に対する特別扱いの意見が全くなかつたことは同一の取扱いを当然と考えていたことを示すものであろう。
[55] 第三に、1962年4月「勧告適用専門家委員会」は105号条約に関する一般的所見を含む報告書において次の点を明らかにしている。
(1) (c)号について 単純労務不提供を処罰し得る場合は軍人、警察官、監獄の看守、税関吏、灯台監視員のような場合に限られ、それ以外は単純な労務不提供を処罰することは許されない。とする。
(2) (a)項について ストライキを研罰をもつて制限禁止し得る場合の最低基準を示して、法定手続違反および仲裁手続に付託することの合意に違反した場合のほか、いわゆる「不可欠な事業」のなかでストライキ権が制限される場合は「その中断が非常事態を生ずる事業」に限られるべきであるとする。
(3) 右(1)(2)の場合を通じて (c)項については規律違反に対する制裁は懲戒的制裁にとどまり、(d)項についても「相当多数の国において、非合法ストライキの場合に適用されうる制裁は、刑事罰でなく、またなんらかの形の強制労働も含んでいない、ということに留意すべきである。これらの制裁は単なる民事上の制裁である」としている。
[56] 右の点から、105号条約の現行解釈として専門家委員会がとらえたところは、単純な労務の不提供およびストライキに関与したことに対して、強制労働を含む刑罰を適用し得る場合は、その労務の不提供ないしストライキが、人命の安全に影響を及ぼす場合等に限定されるということであろう。そうであるとすれば、一般の公務員のストライキを刑罰をもつて禁止することは許されないことは明らかである。そして、この報告書は105号条約についての暫定的解釈であるが、前述の本条約採択過程の議論をあわせ考えると、この解釈が国際的に承認される最低限の解釈基準であると解せられる点がとくに重視されるべきである。
(三)(教師の地位に関する勧告)
[57] 本年2月、ILOおよびユネスコの合同専門家会議は、「教師の地位に関する勧告」案を決定した。その82項は「雇用関係から生じた教員と雇用主との間の紛争を処理するため、適切な合同の機関が設けられなければならない。もしこの目的のためにつくられた手段と手続とが使い尽され、あるいは当事者間の交渉が行きづまつた場合には、教員団体は、その正当な利益を守るために通常他の団体に認められている手段をとる権利を有するべきである。」とされている。いうまでもなく、このような場合に通常他の団体に認められている手段とは争議行為である。日本政府は、公務員たる教員は他の争議権を有しない公務員と同じに取扱われるべきだとして、本年9月から開かれたユネスコ「教員の地位に関する特別政府間会議で、この82項の修正案を提出したが否決され原案が確定した。これが確定しても勧告であつて法的拘束力はないが、そういうことよりも、ここに世界的な水準があることを知らなければならない。
[58] 国公法改正から20年に近い年月が流れ、事態は著しく変わつた。占領が終わつてからでもすでに14年をすぎた。
[59] 労働組合は日本国民の生活に定着し、争議を権利とする意識は国民の意識に定着した。「法律によつて官公吏から争議権を奪つておいても、それだけでは被等が争議をしないという保障にはならない。食えなくなれば、人間何をするか判らない。」(末弘・はなし152頁)「教員の争議行為を禁止しても、必らずや争議行為をなすであろう。)」(コーエン労働課長、松岡・労働行政155頁)という20年前のことばは、まさに実証された。争議行為をとめうるものは労働問題を解決することであつて、それを禁止する法律ではない。争議禁止こそかえつて官公労における労使関係を複雑にし摩擦を大きくしているということは、識者によつてしばしば指摘されているとおりである。ドライヤー報告は次のように述べている。
「本委員会は、ストライキが事実上全く禁止されていなかつた時期に引続いて起こつたこの全面的なストライキの禁止が、それ以後の労働関係の雰囲気に影響を与えたものと確信する。労働組合はたんに、同部門におけるストライキの禁止に対してばかりでなく、とりわけかつてストライキ権を享受していた200万余の官公労働者に対し、その措置が全面的かつ突然に課せられたやり方に憤激を感じているようである。彼等は、今日でもそうであるが、この権利は日本国憲法に侵すべからざるものとして定められていると信じていたのである。いくつかの申立組合は、ストライキが認められない場合、代償措置を伴うストライキの部分的回復を考慮するよりも、自らの権利であると信じているものを主張してストライキ権の全面的な回復を熱心に望んでいるようである。」(2121項)。
[60] この権利は国際的にも認められた。占領政策の傘の下に築かれた憲法違反の体系は、批判され、終息せしめられなければならない。もちろんそれは労働者自身が先立つてしなければならないことであり、また、その努力を続けている。しかし、これは同時に、憲法を守ることを職責とする裁判所のしなければならないことでもある。すでに第一線の裁判官はこの職責を忠実に果たしはじめている。原判決はそれをまた、異常な熱意をもつてもとにねじまげようとする。最高裁判所は、このような事態を前向きに理解し、憲法の精神を卒直に考え、基本的人権を積極的に守られんことを切望する。 [61] 原判決は、本件罰条たる地公法61条4号が憲法28条に違反するとの弁護人の主張を排斥し、違反しないとしたが、これは憲法28条の解釈適用を著しく誤つたものである。
第一(原判決の要旨)
[62] 原判決が、地公法61条4号が憲法28条に違反しないとする理由の要旨はおおむね次のとおりである(原判決理由(第四)38頁以下)。
1(38頁終4行から39頁6行までの第1段)
 公務員はその公務員たる地位を離れて勤労者としてあるときは、憲法28条の規定により争議行為を行う権利を享有することは言うまでもないが、それが公務員たる地位にある限り、公共の福祉のためにその争議権を失う。
 憲法の保障する国民としての権利は、公共の福祉のために立法その他国政の上でその制約をうけることは憲法13条等の条規によつて明瞭である。
 ここに公共の福祉というのは、国家、社会全体の利益をいう。
 全体は必ずしも利害を共通にするとは限らないし、互に利害相対立する場合もある。そこで、これら互に相反撥する利害関係をできるだけ調整して矛盾、衝突をできる限り少なくして、円満平和な社会を維持するために必要欠くことのできないものが「公共の福祉」の理念である。
2(39頁7行から終3行までの第2段)
 「公共の福祉」のためにどうして公務員から争議権を剥奪しなければならないか。
 公務員の使用者は住民、公務員は全体の奉仕者としてその住民に奉仕する。
 公務員はその職務の性質上一般私企業に従業する勤労者と異なつて、その服務についても、種々法律上の規制を受け、これに違反した場合には懲戒または刑罰等による制裁を受ける。
 このような公務員が全体の奉仕者として誠実、公正に住民に対しその職責を果すために、それにふさわしい勤務条件が法律または条例により適正に保障されなければならない。
 そこで、公務員の勤務条件は、法律または条例によつて適正なものを保障され、使用者たる住民に対抗して労働不売の闘争が禁止される。
3(39頁終2行から40頁3行の第3段)
 公務員の勤務条件は法律または条例によつて、その職務と責任に応じて適正なものが保障されなければならない。
 これは争議行為が禁止された代償だけの意味ではない。
4(40頁4行より9行の第4段)
 公務員は争議行為をなし得ないと同時に、その勤務条件を保障されることによつて、当該公務員を含めての国家社会における均衡調和が保障される。
 これが「公共の福祉」の理念である。
5(40頁10行より終2行の第5段)
 公務員が争議行為をなし得ないのは、当該公務員の職責が特に重大であつて、その争議行為によつて国家、社会の存立を危殆ならしめるという理由ではない。
 すべての公務員について、争議行為は一律かつ全面的に禁止される。
 一審判決が、法益均衡の上から本件争議行為は許されないとしたのは正鵠を得たものとは言えない。
[63] これを要約すると、公務員は、憲法28条によつて勤労者として争議権を保障されてはいるが、公務員は公共の福祉のためにその争議権を失う。なぜならば、公務員の使用者は住民であり、全体の奉仕者としてその住民に奉仕するものであるから、住民に対して争議行為をすることが禁止されるのである。このように、公務員は争議権を失うが同時に、勤務条件を法律、条例によつて保障されていることによつて、公務員を含めて国家社会における均衡調和が保障され、公共の福祉に合することとなる。このように、公務員という地位にある限り争議権を失うので、すべての公務員について争議行為は一律かつ全面的に禁止される、というのである。

第二(弁護人の主張の要旨)
[64] 憲法28条の保障する争議権を含むいわゆる労働基本権は、労働者の生存に必要不可欠な権利として保障されているものであるから立法の上でも最大限に尊重されなければならない。ところが、地公法61条4号は地方公務員の争議権を一律かつ全面的に奪うもの、しかも刑罰の威嚇をもつて奪うものである。それを合憲だとする説はその根拠として公務員が全体の奉仕者であることと公共の福祉とをあげる。
[65] 公務員が全体の奉仕者であるということは、国民主権の下における公務員の職務遂行についての理念を明らかにしたものであつて、公務員が団結権、団体行動権をもつことと何ら矛盾するものではない。したがつて公務員が全体の奉仕者であることを理由に争議権を奪われる理由はない。
[66] 争議権もその他の人権と同じく人権相互の調整のために時にその行使を制限されなければならないことがある。公共の福祉とは人権相互の調整をさすものと考えるが、そうであるならば、公共の福祉のために制限されることがあるということになる。しかし、その制限は調整のためであるから、個別的具体的でなければならない。したがつて地公法61条4号が公務員の争議権を一律かつ全面的に、しかも制限ではなく刑罰の威嚇をもつてしまうことは許されない。ことに教員については、これを具体的に検討して見ても、このような取扱いを受けるべき何らの理由がない。

第三(本章の構成)
[67] 本章の主題については、周知のように、従来から盛んに論議され、判例も少なくない。そこで、私たちの主張の正しさと原判決の誤りを明らかにするには、原判決を含めて、公務員の争議権を奪うことを憲法28条に違反しないとする説(以下単に合憲論という)の誤りを明らかにしなければならない。そこで本章は続く第二節において従来の学説,判例を概観してどこに問題があるか、またそれと原判決がどのような関係にあるかを明らかにし、第三節において憲法28条について同条が公務員にも適用されるかなど主題の前提となる問題を検討し、続く第四節、第五節において合憲論の論拠である全体の奉仕者公共の福祉を検討する。
(註)1 本件は地公法61条4号(その前提として37条)に関するものであるが論文には国公法110条1項17号に関するものが多い。したがつて以下において、その理由を釈明しないで時に国公法時に地公法に言及し、ことに使用者を地公法では住民、国公法では公衆といい、学説はおおむね国民というので、ここではなるべく国民ということばを使つたが、それでも引用の関係などで全部を統一しきれず、たとえば、地公法の条文をあげながら使用者としての国民に対し、など甚だ形の上ではおかしいことがあるが、論旨は読めばわかると思うので、そのつもりでお読みいただきたい。
2 公務員法の争議禁止規定は「争議行為、争議権の制限ではなく、争議行為の禁止・争議権の剥奪である」が学説、判例は一般論として制限といつていることが多いので、煩瑣を避けるためにとくに禁止、剥奪を強調する場合以外は制限ということばを使つているが、しかし常に右の「……」内のことを加えて主張している趣旨に読んでいただきたい。
3 また、公務員法は「争議に関与するものを刑罰することによつて、刑罰の威嚇をもつて争議を禁遏しようとするものであり、したがつて単なる禁止よりも甚だ違憲性が強い」のであるが、これも煩瑣を避けるためにとくに強調するとき以外はこれをいわないが、常に、右の「……」内のことを加えて主張している趣旨に読んでいただきたい。
4 本章で略称で引用した著書、論文、判例は本章の最後に表示するとおりである。
[68] ここでは、まず第一に学説、第二に判例を概観してその問題点と動向を明らかにし、第三に原判決がその問題点と動向にどのように関係しているかを明らかにして、次節以下に展開する原判決を含めた合憲論批判の基礎とする。

第一(学説)
[69] 学説では、最高裁判例や原判決のように公務員の争議行為を一律かつ全面的に禁止することを正当合憲だとする説は、きわめて少ないが、それはおおむね、全体の奉仕者を根拠とする。多数の説は公共の福祉などのために何らかの制限を必要とする場合はあろうが、それは当該公務員の職務内容等によつて具体的に決定されなければならないと説く。そうすると、公務員法が公務員の争議行為を一律全面に禁止したこと、ことに刑罰の威嚇を加えているのは、当然この制限の限界をこえるものだといわざるをえない。違憲論はおおむねこのように説く。
(一)(公法学者の見解)
[70] 公法学者の見解といつても、もちろん、公法学者のこの問題についての見解が統一されているわけではないが、「判例は、公務員の全体の奉仕者であるという基本的性格と公共の福祉との基礎づけによつて、公務員が一般の勤労者と異なる取扱を受けることは当然であるとし、政令201号の合憲性を認め、学説上の見解も概ね公務員の団結権の制限を承認しているようである。」と説く学者もある(三宅・体系4巻240頁)。しかし、この論文が昭和37年に発表されているのに、その典拠として「註解」のみをあげているのは甚だ偏頗である。それだけでなく、もつと注意しなければならないことは、「学説上の見解も概ね公務員の団結権の制限を承認しているようである」という、その「制限の承認」の内容が問題なのである。それを吟味しないで、あたかも政令201号についての最高裁判例と同じ趣旨で団結権の制限を認めているようにいうのは大変な誤りであるし、もし、この論文の筆者がそういう意味ではなくただ広い意味で学説が概ね団結権の制限をある程度認めているというだけの意味で書いたのだとすれば、この書き方は大変誤解け受けやすい。
(1)(職務の性質により決定さるべきだという説)
[71] 公務員の争議権の制限が可能だということは、直ちにいかなる制限も合憲だということではない。まして剥奪が合憲だということにはならない。多くの学説は、公務員の職務の性質等によつて具体的に考えていかなければならないとしているのであつて、このことはそれを考えずにすべての公務員の争議権の一律かつ全面的に剥奪した現行法に対して当然批判的となるのが当然であろう。いわんや、刑罰をもつてこれを強行しようというに至つては強い批判が出るのは当然である。註解も「制限は可能であるといつても、制限違反に対して刑罰をもつて臨むことは問題で、その労働関係からの放遂が限度であろう。従つて、公務員について、刑罰を科している点は憲法違反の疑がある。」としている(上巻548頁)。
[72] ところでいま述べたように、学説はおおむね、公務員の争議権の制限を可能であるとは認めている。その典型とされるのが宮沢教授の学説であろう。
[73] 「判例は、この合憲性を公共福祉によつて、公務員が『全体の奉仕者』であることを援用しつつ、説明する(最高28・4・8)。結局、公務員の職務の質性により、現業、非現業、単純労務そのほか、それぞれの種類に応じて、具体的に勤労者の権利と一般国民の基本的人権との正しい調和の一線を見出すよりしかたがない。」(全集417頁)とし、しかも、判例が援用する「全体の奉仕者」については、「公務員が『全体の奉仕者』であることは、公務員の団結権や、団体行動権の制限とも直接の関連はない。憲法28条の保障がどのように公務員に適用されるかは、ひとえに各公務員の職務の性質によつて決定されるべきことである。「全体の奉仕者」であることと、団結権や団体行動権をもつこととは、両立しないことではない。」(全集424頁)とされるのであるから、「全体の奉仕者」を援用しつつすべての公務員の争議行為を一律かつ全面的に禁止することを合憲とする最高判例とは、全く反対であるとしなければならないであろう。団結権の制限を認めるといつても大部分は、公共の福祉のための制限は具体的に職務の性質により決定さるべきだという、宮沢説と同じような見解であつて、一律全面禁止、処罰を定めた現行法や、これを是認する最高裁判例をそのまま認めるのではない(註)。むしろ、明言していないだけで、次の違憲説に通ずる。
[74] 後に述べるように、労働法学者は現行公務員法により制限(というより剥奪)に対してはつきり批判をしている説がほとんどであるが、公法学者は大体宮沢教授のような言い方で現行法についての批判を直接明言をしていないが、それは公法学者にとつては憲法28条の権利を制限できるかという一般論が問題とされることが多いのに、労働法学者にとつては、まさに当該の具体的制限自体が問題とされているからであろう。
(註) 大西・要論115頁、しかし「公務員に関するこれらの制限を理由づけるのはかなりむずかしい。」全体の奉仕者であることは「労働三権と直接関係はない。」「公共の福祉による制限の度合が多くなるというだけである。だからここでも、現行法上の制限がはたして公共の福祉のため必要というテストに合格するか否か検討されなければならない。」という。川上・体系八137頁、「全体の奉仕者という公務員の性格が労働権について、私企業における労働関係と別に論ずべき論拠を提供するものでない……物的人的な面で私企業に比してやや広範な罷業の制約は充分予想される。しかしながらこの範囲を越える公務員の罷業権の制約には違憲のおそれが多い。」(160頁)。小林直樹・講義275頁。杉村敏正・判例百選14頁、最高判例に反対だがはつきり自説を述べない。田畑・講義208頁、ただし「国家権力の側に不理解が多く、判例も多くはこの勤労者の権利を狭く解しすぎることによつて権力に味方している傾きがある。下級審の中には然し正しい判決も存している。」とする。橋本・原論265頁。和田体系158頁。
(2)(違憲説)
[75] しかし、公法学者でも、現行公務員法の争議行為禁止を明らかに否定する学者は決して少なくはない(註)。その代表的なものとして、鵜飼教授の説(公務員法75~95頁、憲法149頁)はどこでも引用されているので、ここでは、稲田教授の説を引用しておこう(提要184頁)。
「国家公務員、地方公務員から争議権と団体交渉権を奪い、現業の国家公務員、公共企業体の職員、地方公営企業の地方公務員から争議権を奪い、団体交渉権を制限することは、明らかに彼らの基本的人権を侵すもので違憲である。公務員などといえども、勤労者としての基本的権利をもち、これをまもらなければならない必要さについては、他の勤労者と全く同じであり、彼らに対してのみ、国が使用者としての拘束を免れ、その主権を主張することは許されないのである。最高裁判所の判例は……といつているけれども、正当な根拠があるとは思われない。もつとも、警察職員、消防職員など止むを得ぬ最小の範囲の公務員について、争議行為を禁止し、その代りに、彼らのために適正な勉務条件を確保できる法的措置をとるようなことは、みとめられてよいであろう。」
(註) 本文に引用した鵜飼、稲田両教授の他に、川口・憲法論256頁。黒田・講座3巻240頁、同・学習319頁。小林孝輔・要論134頁。鈴木・概論155頁。園部・憲法判例百選160頁。室井・公務員の基本権131頁。
(3)(合憲説)
[76] 公務員の争議行為禁止を正当とする若干の説が公法学界には存する(註)。これらの説の根拠は、要するに最高裁判例のように、公共の福祉と全体の奉仕者とをいうのではなく、ほとんどが「全体の奉仕者」を根拠としているようである。一律全面禁止の正当性を主張するには、それ以外にはありえないであろうことは、すでに述べたとおりである。「全体の奉仕者」が争議禁止の根拠とはなりえないことは、前記のようにすでに宮沢教授らによつて指摘されているところであり、当然この趣意書においても後節で詳論するが、ここでは合憲論のよつて立つ立場について若干の事実を明らかにしておこう。
(註) 大石・論叢77巻1号。佐藤・鶴海374頁。杉村章三郎・要義216頁。田上・撮要139、146頁。三宅・体系4巻240頁。柳瀬・教科書80頁。
[77] 合憲論の一つのタイプは大石、田上両教授の説である。
[78] 大石教授の合憲説は、公務員は憲法28条の勤労者ではない、ということにある。なぜなら、28条の保障の根拠は「利潤追求の企業主体に対して労働者が対等の関係において利潤の配分を要求し得る手段として」保障するところにあるのだから、国と公務員との関係はこれに当たらない。「もし、この公務員の性格を無視して、給料をもらつて働く者はすべて憲法28条の保障する労働基本権を持つというならば、内閣総理大臣国務各大臣はもちろん、国会議員も裁判官も検察官もすべて憲法28条の労働基本権が保障されている、ということにならざるを得ない。しかしこういうようなことは、もはや、国家生活における常識の外の問題である。」(論叢6頁)からであるというわけである。またいう「日本国憲法の下においては、独り団結することだけでなく団体行動をなすこと、たとえば労働協約の締結も示威運動をなすことなども、すべて憲法上の権利とし保障されることとなつたわけである」と(講義266頁)。ここでは団体行動権とは労働協約の締結や示威運動であつて争議権は頭から無視されている。教授の争議禁止合憲論はこのような憲法28条に対する考え方が基礎になつているのである。これこそ全く「常識の外の問題」であろう。
[79] また、田上教授は「公務員の組織は、国家、地方公共団体の機関を構成し、国権を行使するものであるから、公務員を全体の奉仕者と定めて、団結権による階級的独裁を否定し、……」といつているが(撮要139頁)、これにはおそらく、皆驚かざるをえないであろう。ここでは、団結権は「階級的独裁」の武器だとされているのである。これでは憲法がいくら団結権を保障する規定をおいても、腹中では団結権など否定したいと思つているに違いない。しかし、これは笑つてすませることではない。争議禁止合憲論を唱える人は腹の中にこのような意識がないか、反省してみる必要があるのではなかろうか。
[80] 合憲論のもう一つのタイプは佐藤教授の説にみられる。「すなわち、公務員の団結権等の制限の根拠を憲法上求めるとすれば、それは公務員は勤労者であること、すなわち公務員と一般労働者との間には労働者たる点では本質的な相違はないことを認めながら、憲法における他の原理に求め、それによつて公務員ないし公務員の勤務関係の特殊性を理由づけるよりほかはない。」(佐藤・鶴海379頁)。「以上のように、「公共の福祉」のみ、あるいはこれに比重を置いて論ずることには賛成しえない。したがつて憲法上の根拠としては、憲法は28条を設けながら他方公務員を『全体の奉仕者』としており、これによつて公務員も勤労者ではありながら一般労働者とは異なつた特殊性を有することをみずから承認したものと解するところに求めるよりほかないと思われる。」(同381頁)。すなわち、教授によれば、「制限の根拠を憲法上求めるとすれば」全体の奉仕者に「求めるよりほかない」ということ、すなわち、そこでは争議禁止が合憲か否かが問題とされているのではなく、争議禁止は合憲でなければならないのが前提であり、ただその根拠を求めなければならないという立場なのである。憲法解釈の論理の必然として禁止が根拠ありとされるのではなく、根拠を求めるとすればこれより仕方がないということなのである。これでは学問ではなくて政策である。
[81] しかし、これまた、現行法の違憲をいつて混乱を招きたくないというような姑息な態度から合憲論をとるということはほかにもないといえようか。
[82] 合憲説は、以上のように、「常識の外」の理論?によるか、さもなければ現行法を絶対としてこれを説明するという道をとるか、いずれかである。それ以外には合憲説に到達する道はない。日本国憲法の精神をよくふまえ、その上に立つて厳正な解釈を進めるならば、とうてい合憲論に到達するはずがない。
(二)(労働法学者の説)
[83] 労働法学界で、現在の公務員法、公労法における争議行為禁止を肯定する説は甚だまれであつて、大多数の学説はその合憲性を否認するか、あるいは、強く疑つている。したがつてその一々をあげることは必要でないと思うので(註)。代表的と思われる2、3の説を引用してその大勢をうかがつて見よう。そこで私の恣意的選択を避けるために、有斐閣版法律学全集の2冊、石井・労働法総論と峯村・公務員労働関係法をとりあげてみよう。
[84] 石井教授によると、
「労働三権の保障には、憲法13条にいわゆる公共の福祉による制約は予定されていないと解すべきである」、「しかし、かくいうことは労働三権に対しては、法律によつても全然制限を加えないということではない。労働三権はそれ自体『目的』ではなく、結局のところ労働者の生存確保のための『手段』にすぎないから、それ自体のうちに当然に制約を内包しているといわねばならぬ。即ち労働三権は生存を支える一つの手段として財産権と異り、労働のみを生存確保の途とする大衆労働者にとつては、その生存を確保せしめるためには、ほとんど欠くことのできない『基本的手段』であるから、軽々にこれを制限すべきではないが、労働者の生存の確保は労働者をも含めた国民全体の生存の確保の要請のうちに調和的な表現をみるべきものであり、そのこととの関連から法律により必要な制約をうけることを当然に予定しているものといわなければならない。従つて労働三権の制約は、このような国民全体の利益との関係において慎重に判断せらるべきものであるが、それはあくまでも労働三権という労働者の経済的基本権に内在する制約として考察すべきものであり、特定時の政策的考慮から『公共の福祉』の要請として具体的には立法者の考えによつては、いかようにも制約しうるようなものではないと考える。」(342頁)。
[85] そこで、公務員の労働三権の制約について見ると、
「このような取扱をなす根拠は必ずしも明瞭でないが、公務員は、いわば「公僕」であるということを理由にするものではないかと考えられる(なお、マツカーサー元師の書簡につき82頁以下参照)。即ち憲法15条2項は『すべて公務員は全体の奉仕者であつて一部の奉仕者ではない』とすることから、公務員は公僕といわれ、このことを理由に、憲法28条に、いわゆる『勤労者』には、公務員を当然含まないものとするのである。この立場に従えば、新憲法制定前に旧労働組合法が公務員を含めて広く勤労者に労働三権を認めていたのは、理論的に誤りであつたことになり、憲法で、これを改めたことになる。しかし、本来勤労者という概念は広い概念として理解されていたことは、たしかであつて、新憲法が、これを制限したと解することは無理である。また、すでに指摘したように、1952年(昭和27年)の改正で、現業公務員(地方公営企業の職員とともに)団体交渉権が回復されたことも、これを憲法の保障とは別な『恩恵』であると考えることは妥当ではない。このような取扱が認められるに至つたことは、現業公務員の業務の内容が一般企業における労働者の、それと実質的に変らないこと、その給与などが原則として事業収益(使用料等)によつて賄われていることなどを考慮したものである。この限りでは、公僕論ないし予算制約ということも、労働三権を否定するに足る絶対的理由ではないことが明らかになつたわけである。
 このように考察するとき、公務員であるか否かということでは当然に、それらの者の労働法上の在り方が決定されるものではないことを、現行労働法規そのものが承認せざるをえない破目にたちいたつているといわねばならぬ。また、身分的な理由のみによつて取扱を異にしようとする考え方は、公務員と公務員でない公共企業体の職員とにつき共通に争議権を否定しているという点でも破綻を示している。けだし、公共企業体の職員は公務員ではなく、また、かつて公務員であつたということは、それ自体法律的には問題とならないからである。のみならず、公共企業という事業経営の方式も、当該事業の公共的性質・国の政策遂行の便宜・財政上の考慮など、異つた理由から、採用されうるものであつて、この方式をとつたということ自体から、そこにおける労働者の労働三権の基本的な在り方が当然に条件づけられるものではない。この点については、国有ないし公有企業形態の発達したイギリスにおいて、国有ないし公有形態をとることから、当然に、そこにおける労働関係が民間企業におけると全く異るものとして条件づけられるものではないと一般に理解されていることを注目すべきである。この意味においては、現業公務員ないし公共企業体の職員につき、一律に争議権を否定していることも、その業務の具体的内容に即して再検討されるべき余地があるといわねばならぬ。とりわけ、現実には、定時退庁・座り込みなど、争議現象が行われていることは否定しえない事実である。労働三権の制限を法律上無用に広く認めることによつて、事実上法規に違反するような現象をみつつ、而もこれをある程度看過せざるをえないということよりは、労働三権の法律上の制限は健全な常識において納得せられうる範囲にしぼること、即ち原則としては、公務員や公共企業体等の職員についても、争議権を認めるとともに、これを団体的に統一された組織活動として捉えて、これを正面から適正に規整するとともに、法に対する違反行為は違法行為として法の正しい運用を図るということが、労働三権保障の精神に適合し、かつ、法の権威を保つ所以でもあると考える。
 これを要するに、公務員ないし公共企業体等の職員などに対し、労働三権を、どのように認めるかということは、労働三権にも、それ自体内在的な制約があること、即ち、その業務の性格や内容から、国民全体の利益(生存の確保)を図らねばならぬということから、その国の労働関係の実態に応じて、具体的に判断して決定さるべきことであり、その限りで、労働三権の制限は、いわば『政策』の問題であつて、その身分から生ずる当然の『理論的帰結』ではないと考える。」(345~347頁)。
[86] ここで「政策」ということばに、わざわざ「いわば」をつけているのは、和教組専従事件最高裁判決のいう「立法府の裁量権に属するもの」ではなく、すでに引用して部分にあるように「特定時の政策的考慮から……立法者の考えによつては、いかようにも制約しうるようなものではない」ことを意味するからである。
[87] そうして最後に「この点に関連し、労働組合が争議権回復のための運動として、争議行為を禁止する現行労働関係法規を実力を以て無視することによつて、これを実現せんとするようなことは充分に反省すべきことである。かくては、世論の批判をうけ、かえつて、労働三権制限の方向に導く虞があるからである。」として、現在の労働組合のスト権奪還闘争の方法に批判的な立場にあることを明らかにしつつも「このように考察するとき、わが国における公務員や公共企業体の職員の労働法上の取扱については、根本的に再検討を加える必要がある。」と結論する(349頁註10)。
[88] 峯村教授は、28・4・8大法廷判決を紹介した上、
「右の判旨にはいろいろな疑問がある。とりわけ、すでに指摘したように、国民の基本的人権を公共の福祉の名において制限し、はく奪できるとする論理には賛成できない。公共の福祉によつて基本的人権の行使を内容的に制限することはできても、これを否定あるいははく奪することは、わが憲法の認めないところといわなければなるまい(本稿20頁参照)。
 政令201号と同趣旨を規定した国家公務員法における争議権否定の法理は、『全体の奉仕者』としての公務員の勤務関係の特殊性に求められるべきであろう。」(42頁)。
「しかし、公務員は『全体の奉仕者』であることを認めるからといつて、国民全体の意思として定められた法律の規定でさえあれば、それが何であれ従わなければならないと解すべきではない、いいかえれば、現業・非現業・単純労働その他、それぞれの職務の性質に関係なく、それらが公務員であるというだけで一律に規定することを原則とする現行の国家公務員法および地方公務員法の規制を、そのまま妥当であるとするのではない。公務員の労働関係の規制に当つては、公務員の職務の内容、勤務の態様に従つて、これを区別し、公務の性質の許すかぎり、私企業における労働者と同様の権利をみとめるため、特別職とすることが要請される。」
とする(43頁)。
[89] 以上の2説は、現在の労働法学界の大勢から見れば、おだやかにすぎて、労働法学者の見解を代表するというわけにはいかないかもしれない。そのおだやかにすぎると思われるこの2説でさえ、現行公務員法が一律かつ全面的に争議行為を禁止しているのは正しくないとする。
(註) したがつて、労働法の著書、論文で労働基本権や公務員・公共企業体職員の労働関係にふれたものの、どれをとつても、そのような見解を見ることができる。概観をするには、少し古いけれど、学説判例総覧・官公労法。
第二(判例)
[90] 最高裁判所の判例としては、直接地公法61条4号およびこれと同趣旨の国公法110条1項17号が憲法28条に違反するかどうかについての判断を示したものはないが、間接には、公務員の争議権についての最高裁の考え方を推定させるような判例が幾つか出されている。また下級審には本件一、二審判決と前後して、かなり多数の判決例が出されており、なかには、はつきりと違憲であることを判示したものもある。
[91] 原判決はひとり突然生まれたのではなくこれらの判例の流れの中に生まれたものである。そこでこの流れを概観しようと思うが、その趣旨は、いうまでもないことだが個々の判例の解説批評ということにあるのではなく、これらの判例の流れにあつて、原判決がどのような位置を占めどのような意義をもつているかを見ることによつて、地公法61条4号と憲法28条との関係についての問題点を明らかにしようということにある。
(一)(最高裁判例)
(1)(公共の福祉と全体の奉仕者)
[92]28・4・8大法廷判決(政令201号事件)
「国民の権利はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重をすることを必要とするものであるから,憲法28条が保障する勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利も公共の福祉のために制限を受けるのは已むを得ないところである。殊に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法15条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国公法96条1項)性質のものであるから、団結権、団体交渉権等についても、一般に勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である。従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。同じ理由により、本件政令201号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法28条に違反するものということはできない。」
[93] いうまでもなく、公務員の争議権についての最初の判例として、その後の判決や、合憲論者によつて、常に引用されているものである。しかし、これは、現在の公務員法ではなく占領下の特殊な政令第201号についての判決であつて、直ちに今日の公務員についての判例とすることはできない。
[94] またその理論についても、反対の立場からの批判は次に続く各節においてなされるからしばらくおくとして、同じ合憲論者からも次のような批判がなされている。すなわち「この判決の論旨はあまりに簡単であり、またいわば安易であるように思われる」「そのような態度は、すべて公務員が団結権等を有することは公共の福祉に反するということを一般的に主張するにすぎず、したがつて、たとえば、国民の日常生活に関係のきわめて薄い種類の公務員が争議行為をなすというような場合、また争議行為にも出でずして単に団結するというような場合に、それは何ら「公共の福祉」に反しないという反論を受けざるをえないからである。すなわち、単に、「公共の福祉」のみを理由とするならば、私が前に述べたように比較考量の態度で臨むとしても、たとえば警察職員等の場合でも争議権や団体交渉権にとどまらず団結権までをも禁止した理由を見出しえないであろう。以上のように、「公共の福祉」のみ、あるいはこれに比重を置いて論ずることには賛成しえない。」(佐藤・鶴海380、381頁)。
[95] この判決は、漫然と公共の福祉、全体の奉仕者というだけで、公共の福祉と公務員が全体の奉仕者であるということとがどういう関係にあるのか、何の説明もない。判決を読む限り、公共の福祉とは呪文的に用いられているだけであつて(蓼沼・新講座1巻118頁)全体の奉仕者であることを意味するだけであり、結局、合憲論の実際の根拠は全体の奉仕者であると解して誤りないであろう。また、公務員は一般に勤労者と違つて特別の取扱いを受けることのあるのは当然であるというだけで、なぜその争議行為の禁止という特別の取扱いを受けなければならないのか、さらにその違反に対してなぜ刑罰の制裁という特別の取扱いまで受けなければならないのかということについては、一言半句の説明もないのである。これでは簡単であり安易であるどころか、何もいつていないといつてもいいであろう。
[96] それだけではない。この判決は根拠として国家公務員法96条1項を援用しているが、法律を合憲の根拠とするというようなことは、全く本末顛倒であつて、一体憲法裁判を何と考えているのであろうか。
[97] それにもかかわらず、この判決が公務員の争議行為禁止合憲説の判例として、以後常に援用されてきた。このことは、合憲説がいかに安易で無反省であるかということを示している。
(註) この判例の評釈の主なものとして。杉村敏正・判例百選14頁。峯村・労働判例百選18頁。園部・憲法判例百選160頁。(2)の判例を含め、横川・労働者の権利132頁以下。その他、争議権の制限禁止の合憲性についての論文でこの判例にふれないものは少ない。
(2)(全体の奉仕者論の崩壊)
30・6・22大法廷判決(三鷹事件)
[98] (1)の判例は国鉄職員に関するものであつたが、その後国公法の改正、公労法の制定によつて、国鉄職員は国家公務員ではなく公共企業体労働者となつた。この変化後の最初の最高裁判決がこれである。
「その後本件犯罪の発生前、国鉄職員は法制上国家公務員とはならなくなつたが、しかしなお、法令により公務に従事する者とみなされるものであり(日本国有鉄道法34条)、また国鉄の資本金は金額政府の出資にかかわり(同法5条)、その性格は公法上の法人であつて(同法2条)、その事業経営の実質及び条件は従前と殆んど異なるところはないのである。すなわち、かかる公共企業体の国民経済と公共の福祉に対する重要性にかんがみ、その職員が争議行為の制限を受けてもこれが憲法28条に違反するものでないことは、前掲判例(弁護人註、(1)の判例をさす)の趣旨に徴して自ら明らかである。国鉄職員が国家公務員でなくなつたが、その事業経営の実質及び条件は従前と殆んど異なるところはない」
という。
[99] 「かかる公共企業体の国民経済と公共の福祉に対する重要性にかんがみ」争議行為禁止の合憲性は(1)の判例の趣旨からも明らかであるとするのであるが、(1)の判例で争議行為禁止の直接の根拠であつたのは「全体の奉仕者」であつたが、どうして「国民経済と公共の福祉に対する重要性」ということと結びつくのか。また、「国民経済」と「公共の福祉」とが同列に並ぶのはどういうわけか。ここにいう「公共の福祉」とはいつたいどういうものなのか。読む者には「自ら明らかである」どころか、全然わからない。ただここで「国民経済」「に対する重要性」を持出してこなければならなくなつたことが、次のことを示すこと、すなわち、全体の奉仕者論が崩壊したこと、それにしたがつて当然全体の奉仕者だけを内容とした空疏な公共の福祉論もまた崩壊したこと、すなわち、判決がみずから典拠としている(1)の判例が崩壊したこと示すこと、このことだけは「自ら明らか」である。それにもかかわらず、この判決は公労法の争議禁止の合憲判決の先例とされるに至つた。
(3)(立法府の裁量権への逃避)
40・7・14大法廷判決(和教組専従休暇事件)
[100] これは直接争議権に関するものではないが、注目すべき問題を含んでいる。
「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと、当裁判所の屡次の判決の示すところである(28・4・8大法廷判決、25・11・15大法廷判決)。そして、右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である。」
[101] この判決は前記(1)の判例とあわせて、25・11・15大法廷判決(山田鋼業事件)をも援用することとなつたが、同判決は次のように述べている。
「憲法は勤労者に対し団結権、団体交渉権その他の団体行動権を保障すると共に、すべての国民に対して平等権、自由権、財産権等の基本的人権を保障しているのであつて、是等諸々の基本的人権が労働者の争議権の無制限な行使の前に悉く排除されることを認めているのでもなく、後者が前者に対して絶対的優位を有することを認めているのでもない。寧ろこれ等諸々の一般的基本的人権と労働者の権利との調和をこそ期待しているのであつて、この調和を破らないことが、即ち争議権の正当性の限界である。その調和点を何処に求めるべきかは、法律制度の精神を全般的に考察して決すべきものである。」
[102] この山田鋼業事件判決を新たに援用し立法府の裁量権を持出したことは何を意味するか。それはすでに(2)で崩壊した全体の奉仕者論を実際には捨ててしまつたこと、全体の奉仕者を理由とする一律全面禁止論の完全な敗退を意味するにほかならない。したがつてまた、同じ「公共の福祉」をいつても、政令201号判決にくらべれば、かなり「公共の福祉」論らしいものとなつた。
[103] この判決によれば団結権等の「制限の限度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定さるべきである」が「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものである」とするとその制限の適否を判断するのは、まさに裁判所の職責である。ところが、この判決は、これをあげて立法府の裁量権に委ねてしまつた。これは全く裁判所の違憲審査権の放棄であるといわなければならない。なぜこのような自殺的行為をあえてしたのか。すでに(1)の判例について佐藤教授が批判しているように、公共の福祉によるならば個々の場合について制限の根拠が検討されなければならない。後に述べるように、すでに下級審判決例はそこまで追いつめてきている。そうなると全体の奉仕者が崩れた今日では、公共の福祉によつて合憲説を維持するために個々の制限の合憲性を検討するか、さもなければ、この判決のように立法府の裁量権に逃げ込むかしかなくなつたわけである。
[104] しかし、公共の福祉を理由に一律全面に禁止する「裁量権」などというものはありえないはずである。この判決の事案と異なり、一律全面禁止こそが問題となる本件にまで、この判決の論理を押付けることはできないだろう。また本件のような刑罰法規についてまで立法府の裁量に委ねるとは、最高裁もいうことはできないはずである。本件の場合は、立法府の裁量権への逃避もできない。もはや合憲説は右へ左へ揺れながらついに完全に崩壊してしまつたのである。
(註) この判決の評釈の主なものとして、芦部信喜・法協83巻3号、片岡曻・民商法雑誌54巻3号、宮島尚史(共同討論)・季刊労働法57号。
(二)(本件一審判決と下級審判決例)
[105] このようにして、最高裁の争議行為禁止合憲論は再検討を必至とされるようになるとともに下級審、ことに第一審裁判所に、真剣にこの問題を再検討した判決が次々と出されるようになつた。公務員法についてのその先駆となつたのは、本件第一審判決である。そこで一審判決がどのような意味をもつかを以下に判例の流れに即して検討してみよう。
(1)(全体の奉仕者)
[106] 公務員争議禁止論の根拠としての全体の奉仕者については、一審判決は何もふれていない。弁護人と検察官との論争は主としてこの点にあつたのだから、考えないわけはないのでおそらくは理由とするに足りないとしたのであろう。その後、大教組事件判決は「憲法15条2項は、元来、国民主権の下における公務員の職務の性質について規定したものであつて。直接公務員の勤務関係について規定したものではない」とし、大阪中央郵便局事件判決もまた「公務員が全体の奉仕者であるというのは公務員の本質についていわれるにとどまり、そのことが直ちにその労働関係を規制し、争議行為禁止の根拠になるわけではない。」として、全体の奉仕者であることが公務員の争議禁止の根拠とはならないことを明らかにした。また、佐教組事件、北川村教組事件判決はいずれも、公務員が全体の奉仕者であることが争議行為制限の理由となることを認めながらも、具体的に公共の福祉に反する場合でなければ争議行為を禁止することはできないとして、一律かつ全面的な禁止は違憲とならざるをえないとした。
(2)(公共の福祉)
[107] 「全体の奉仕者」が争議禁止の合憲論をおおいきれなくなつたとき、当然考えられるのは「公共の福祉」である。本件一審判決はその道を選んだ。同判決は「争議権と国民全体の利益との調和をはかるためすなわち公共の福祉のため、争議権に対し法律による剥奪乃至制限を加えることは許されるといわなければならない。それでは教職員については、この点をいかに判断すべきか。」と問題を提起して、国民の教育を受ける権利と教員の争議行為の必要を比較した。これは従来の最高裁の判例が漫然と「公共の福祉」というだけであつたことから見れば大きな前進であつた。たしかに、「公共の福祉」は具体的な利害の調和として考えられなければならないのである。しかし、これを具体的に考えていくと、当然、「公共の福祉」のためにということでは一律全面に官公労働者の争議行為を禁止するだけの合理的な根拠を見出しえないのではないか。あるいは、争議行為には「公共の福祉」に反するものもあろうが同時に必ずしも「公共の福祉」に反しないものもあるのではないかという疑問に、導かれざるをえないはずである。本件一審判決は、合憲論としての理論の精巧さを大きく進めたのであつたが、そのことは同時に合憲論の限界に近ずいたことでもあつたのである。
(3)(違憲論へ)
[108] はたして、やがて「多種多様の職員の争議行為を一律かつ全面的に刑罰をもつて禁止しようとすることは、公共の福祉を基本的人権相互間の矛盾衝突の調整原理と解する立場から到底是認しえない。」として、右の前者の疑問を発展させた判決を見るに至つたが(大阪府教組事件判決)、その後全逓組合員の争議権に関し、争議権も「公共の福祉の観点から制約を受けることのあるのはもちろん」であるが「その制約の範囲と程度は必要最少限にとどむべきものであつて(労働者の争議権は不可侵の永久の権利として国民に信託されたものである)いやしくも公衆の便宜というようなことから、安易に、必要以上の制約を加えるようなことがあつてはならない。したがつて、公労法17条の違憲性の有無は、公労法の適用を受ける職員の職務の実体の検討を通じて個別的、具体的に検討さるべく、一般的、抽象的に違憲性の存否を決定することは妥当でない。」との見地から、郵政事業とその職員の職務の内容を検討し、その事業の特殊性が高度の公共性、独占性にあること、それは公益事業であるガス・電力事業とほぼ同じであり「そこに見られる労働関係は右郵政事業における労働関係と一応質的には異らないものと考えられるから、郵政事業の労働関係は一応公益事業の労働関係として把握し、右程度の差をも考慮しこれにふさわしい規制を加うれば足るものと考えられる。そうだとすると公労法17条が一般公益事業の労働者に対する争議権の制限を越えて全面的にその争議行為を禁止しているのは果して許されるであろうか」といつて「郵政職員の争議行為を禁止する公労法17条は憲法28条に違反する疑が十分に存するものといわなければならない。」とした判決(大阪中央郵便局事件)も基本的には同じ考えに立つものであろう。また後者の疑問を進めて「地方公務員の争議行為といえども、人権相互の実質的に公平な調整という意味における公共の福祉に反しない場合がありうる」「したがつて同条は具体的に公共の福祉に反するおそれのないことが明らかな争議行為までも、これを禁止する法意ではないと解すべきである。すなわち、公共の福祉に反するおそれのないことが明らかな争議行為は、地公法37条、61条4号にいわゆる争議行為に該当しないのであり、かく解してはじめて右各法条は憲法28条に適合するのである」とする判決(佐教組事件)、また「地公法61条4号につき考察するに、同規定を先に見たように、一般的一律的にすべての争議行為につき、その参加者を殆んどすべて処罰するものと解するならば、憲法28条18条31条に違反し、違憲の規定であると断ぜざるを得ない」「それで本条の処罰規定が合憲性を取得するには、先ず、その目的たる争議行為の可罰性そのものが合憲性を許容される場合に限定されるものと解するを妥当とする」「地公法61条4号の違法な行為とは、結局同法37条1項前段の争議行為中右の可罰的違法性ある争議行為を指称するものと解するを妥当とする」とする判決(北川村教組事件)を見るに至つた。また公労法17条の争議行為禁止について「公労法は、このような国鉄の業務の重要性にかんがみて、国鉄を公共企業体となし、一方において国鉄の職員又は組合員に対し一般に争議行為を禁止する(同法17条)と共に、他方において、その代償措置として、その適正な労働条件を確保するために仲裁制度(同法32条ないし35条)を設け、両者の調和を図つたものと解されるのである。とすれば職員または目的の団体行動が一般労働法上争議行為の評価を免れ得ないとしても、その目的、手段または方法が全法律秩序に照らして相当であり、具体的に公共の福祉に反しないことが明らかなときには、それは公労法17条に違反する争議に該当しないものといわなければならない(このように解してこそはじめて、公労法17条が憲法28条に適合し、また公労法18条が公労法17条に違反する争議行為をした職員は解雇されるものとする、同規定の合理的な根拠を肯認することができよう。)」とした判決(長崎機労事件)は佐教組判決と同じ考えに立つものであろう。このような一連の判決例こそ、最高裁をして立法府の裁量権へ逃避することを余儀なくさせたのではなかろうか。
(4)(「あおり」の解釈)
[109] また、後に第五章で詳しく論ずるが、原判決は地公法61条4号の「あおり」の解釈について、 まず「あおり」の一般概念として、「特定の行為を実行させる目的で文書もしくは図画または言動によつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えることを意味する。」「ここで刺激を与えるというのは、感情に対する作用を中心とすることを意味するから、主として被煽動者の感情に訴える方法により、その興奮、高揚を惹起させることを意味すると解すべきである」とし、 さらに地公法61条4号のあおつた者の意義について、争議行為の性格と同法が争議行為の実行行為自体を処罰していないことから、争議行為の遂行をあおつた者を違法性の強い3つの場合に限定したのであつたが、その後このの考え方は福教組事件判決・大教組事件判決に承継され、の考え方は全農林事件判決、仙台高裁前事件の一、二審判決に承継された。これらの判決は争議行為禁止を合憲としながらも、少なくとも刑罰を科しうる場合は合理的に限定されなければならないとする考え方をとつているわけであるが、そのような考え方の根底には、公務員の争議行為を本来的全面的に違法とし罪悪視する考え方には容易に与しえないという思想が一貫して流れているからであると考えざるをえない。このような流れからはずれているものは、先にあげた多くの判決のうち特異な教育観と日教組に対する異常な敵意に満ちた和教組勤評事件判決と本件原判決とこれに無批判的に追随した岩教組事件判決とのわずか3つにすぎない。
[110] このように、公務員の争議禁止の合理性、合憲性について、多くの下級審判決が厳しい批判をしているが、このような下級審の傾向は、いま見てきたように決して一部の特異な傾向ではなく、第一線裁判官の一般的な傾向であるということを否定することはできないであろう。

第三(原判決の理論と動向)
[111] 原判決が公務員の争議行為禁止を合憲だとする理由は「それが公務員たる地位にある限り、公共の福祉のためにその争議権を失うものと解しなければならない。」ということに要約される。
(一)(公共の福祉の理念)
[112] ところで原判決によると、「公共の福祉というのは、国家、社会全体の利益」をいうのであるが、原判決は「公共の福祉」とならんで「公共の福祉の理念」ということをいつている。公共の福祉の理念とは、全体の利益の調和をいうものであつて、公務員の争議行為禁止は公務員の勤務条件が保障されることによつて調和され公共の福祉の理念が満足されるというのである。
[113] しかも注意しなければならないのは、公務員の勤務条件が法律・条例によつて保障されるのは、争議行為の「代償だけの意味ではない」のであつて、それはそもそも公務員の特別な地位によつて「その職責を果すたるに、それにふさわしい勤務条件が法律または条例により適正が保障されなければならないのである。」といつている点である。そうだとすると、争議行為禁止と勤務条件保障との調和は、争議行為禁止による利害を調整するためにつくられた調和ではなく、いわば自然の調和だということになるのであろう。これは甚だ特異な考え方であるが、そうするとこの公共の福祉の理念が満足されているということは、いわば単なる結果論であるが、さもなくとも、結果においても公共の福祉の理念に反しないことが検証されたというだけのことであつて、これによつて争議行為禁止が合憲とされる積極的な根拠とされているわけではない。利害関係の調整だとか、真の均衡調和だとかいうが、それは、公共の福祉を人権相互の調和だとする考え方とは、全くの別物である。
(二)(公共の福祉)
[114] 結局、原判決が争議禁止の根拠とする公共の福祉とは「全体の利益」であつて、公共の福祉がいろいろな意味に使われている中でも、もつとも超越的な意味に使われているものに属する。つまり、公共の福祉によつて人権の制限が可能だとする説のうちでも、人権の保障にとつてもつとも危険な考え方だということができよう。原判決は、「公共の福祉のために」といいながら公務員の争議行為が何故に国家、社会全体の「利益」を害するかということについては一言もふれていない。ふれていないどころか「すべて公務員は、その地位にある限り、いかなる争議行為をもなし得ないのである。……その公務員が争議行為をしても、それ程支障がない場合でも、それは禁止されるのである」とするのであるから、ここで「国家、社会全体の利益」というのは、争議行為によつて侵害される具体的な利益をいうのではなく、全く観念的なものである。これは政令201号事件判決以来すべての合憲論に通じていえることであるが、原判決はその中でも最も徹底した、最も意識的なものであろう。しかも、原判決によれば、「争議権を失う」のであつて単に制限されるのではない。しかだつて、同じく「公共の福祉」といつても、宮沢教授等の多数説や、新しい判決例のそれとは縁もゆかりもない。
(三)(全体の奉仕者)
[115] 結局、原判決の合憲論は、公共の福祉と口ではいつても、直接の理由は「公務員は全体の奉仕者としてその住民に奉仕するものである。」ということに帰する。この点においては政令201号事件以来の最高裁の伝統と異ならない。そうして「すべて公務員は、その地位にある限り、いかなる争議行為をもなし得ない」として「すべての公務員について一律かつ全面的に禁止するものである。」ことを強調する。まことに典型的な、いわば戦闘的な、全体の奉仕者論である。
(四)(その動向)
[116] すでに見たように、最高裁も、和教組事件判決によつて、公共の福祉の正して考え方に近ずいてきた。下級審判決例も全体の奉仕者を否定し公共の福祉によつて争議禁止の合憲性を検証しようとする方向に進みつつある。これらの動向に反して、原判決はもつとも極端な全体の奉仕者論を異常な熱意をもつて主張した。これは、そのような動向を知らないためであるが、それともひとり狐塁を守ろうとする決意なのか。原判決は合憲論としても、いわばまさにもつとも後ろ向きだというべきであろう。これまでに見てきたところだけでも原判決の誤りは明らかであろう。
[117] 憲法28条の労働基本権の保障は、公務員にも適用される。それは法文上そうであるだけでなく,実質的にもそうでなくてはならない。そのことを、公務員の社会的地位の実際と、労働基本権の意義とから、真剣に考えなければならない。

第一(公務員は憲法28条の勤労者か)
[118] 本章の課題であるところの、地公法61条4号が憲法28条に違反するか否かという問題を論ずるには、その前提として、公務員が憲法28条にいうところの「勤労者」に当たるかどうかというところから出発しなくてはならないわけであるが、かつて論争のあつたこの問題も、今日ではすでに過去の問題となつてしまつたといつて差支えない。
[119] 最高裁判例は早くから、公務員も28条の勤労者であるという前提に立つていたが(政令201号事件判決)、最近の和教組専従事件判決においても「もともと教育公務員を含む地方公務員(職員)は、労務を提供し賃金を得て生活する者であるから、一般私企業の労働者と同様、憲法28条の『勤労者』に該当する」と明示しており、判例は確立されている。
[120] 学説においても、かつては、宮沢、清宮両教授が否定説であつたが、いずれも現在では肯定説であり(註)、今日なお否定説を説くものとしてはわずかに大石教授があるが、これについては先に述べた(第一節第一(一)(3))のでそれ以上論ずる実益もないであろう。
(註) 清宮・要論142頁。宮沢・全集415頁「ここにいう『勤労者』が主として私企業における労働者を眼中におくことは明らかであるが、公務員に対しても、その従事する公務の性質が許すかぎり、同様の権利をみとめるべきであろう。」
 なお公務員の労働者性については、野村・形成過程244頁以下第1部第7章団結権及び団体行動権の主体としての公務員と公共企業職員、ことに254頁以下の三公務員の労働者性に関する問題の所在、四公務員の労働者性。
第二(公務員が労働者である事実)
[121] 以上のように法律解釈としては、公務員が「勤労者」であることは争いないが、その実質においても公務員は一般私企業における労働者と全く変りはない。政府と公務員との間には一般と同じ労使関係の対立がある(これについては後述第四節第三(四))。
[122] また、経済的にも公務員は一般私企業の労働者と変りはない。かつては、公務員、ことに官吏は、特権階級であつたが、今日ではそうではない。その地位においても「天皇の官吏」から「公僕」に変わり国民の上に立つものとはされなくなつたし、その経済的条件においても公務員の給与の低さは常識となつている。公務員の給与は民間の賃金を考慮して定められることになつており(国公法64条2項、地公法24条3項)、人事院は給与を増減する必要が生じたと認められるときは国会及び内閣に適当な勧告をしなければならない(国公法28条2項、地公法26条では「勧告することができる」)。ところが実際にはその勧告は、民間の賃金の後を追つて、それよりも必ず低くなされることになつており、しかも、政府はしばしば勧告に従わず、殊にその実施時期についてはほとんど勧告を守つたことがない。公務員の給与が一般私企業よりも低いことは、このようにして争議権の保障がないことによつて、制度的に固定化されてしまつている。こういう状態では公務員が一般私企業の労働者より以上に、労働基本権を要求するのは当然である。公務員が労働者意識をますます強くせざるをえないのは当然であろう。公務員が労働基本権を保障されるべき労働者であるのは、単に法文の上でそうなつているのではなく、社会的事実としてそうなである。

第三(労働基本権の意義)
[123] 憲法28条が団結権、団体行動権を保障した意義については、一般論として、誰の考えもそんなに違いがない。それほど明白だということである。
[124] たとえば、公務員の争議禁止を合憲とする佐藤教授も、憲法28条で「定める3つの権利はいわゆる自由権的基本権ではなく生存権的基本権であり、しかも25条の生存権とならんで、その中心をなすものである。」「何故にこれら3つの権利が生存権的基本権として認められるに至つたかについては特に詳説する必要はないであろうが、それは要するに資本主義経済の発展の必然の結果として使用者に対して経済的弱者たる地位にある労働者に団結して交渉する権利を与えることによつて、労使間の契約締結の際の実質的不平等を除去し実質的対等の関係を確保せしめようとするにある。」という(ポケツト190頁)。このような権利であるから和教組専従事件判決のいうように「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものである。」ところが同判決はそういいながら、その制限を立法府の裁量権に委ねてしまつたのは、全く労働基本権について真剣に考えてはいないというほかはない。わが憲法が労働基本権をわざわざ保障したということ、公務員も勤労者であるということの趣旨を、ただことばの上だけでなく、それは現実の社会的実態の上に築かれているのだということを深く考えなければならない。
[125] 労働者の団結権、ことに争議権は、かつてはどこの国においても長い間国家権力によつて激しい弾圧を受けてきたが、いかに厳しい弾圧をもつてしても争議を根絶させることはできなかつた。そうしてついに今日では、かつての弾圧者であつた国家によつて権利として保障されるに至つた。この歴史的事実は、何よりも雄弁に、争議行為が労働者の生存にとつて、他にかけがえのないことを物語つている。このこと自体は、いまさら証明するまでもないであろう。ただ、この生存のためのかけがえのない権利であるということを、真剣に考えてほしいのである。

第四(労働基本権の制限、剥奪、刑罰)
[126] 和教組専従事件判決もいうように、労働基本権はみだりに制限することを許さないものである。したがつて、制限が許される場合でも、制限の限界、態様については個々に合憲性が検討されなければならない(註)。制限でさえ、みだりにすることを許さないのに、公務員法のそれは、制限ではなくて、完全な剥奪である。よほどの理由がない限りこれが許されないのは当然であろう。ましてこれに対して刑罰を科するということになればなおさらである。
(註) 外間・行政法講座5巻233頁「これらの議論はいずれも、職員の基本的人権が特別の制約に服することの一般的な根拠およびその制約の一般的な限界を提供するに止まるものであつて、ここから直ちに右の諸規定による個々の制約の合憲性が肯定されることにならないことはいうまでもない(しかし判例は概して、右の一般的な根拠から直ちにこれらの個々の規定の合憲性を支持する態度を示している)。個々の制約が合憲性の限界をこえるものでないかどうかは、もちろん個別的に判定されなければならないであろう。」同旨、横川・労働者の権利137頁。
[127] また、「かような制限は争議権の本質を毀損しない限度における、単なる政策的ないし技術的なものでなければならない。同時にまた、かような制限法規に違反する争議行為は、その法規が追求する当の政策的ないし技術的目的に違反する限度において違法とされるにすぎない」(片岡・浅井記念188頁)。かような単なる政策的ないし技術的な制限として、労調法の定める公益事業の争議行為の予告(37条)緊急調整(38条)調停の解釈・履行に関する争議行為の制限(26条)条がある。また旧労働法38条の考え方もこれに近いものであつたことについては序論第二節第二。
[128] このように、
「憲法28条の規定する労働基本権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであり、公務員であるからといつて、容易にその団体行動権を制限剥奪することの許されないことも又当然である。殊に公務員の争議行為に対し刑罰を科することによつてその争議権を制限剥奪することは、かりにその必要があるとしても、その範囲程度は必要最低限度にとどむべく、いやしくもこれを越えるようなことがあつてはならない。けだし、争議権確立の歴史に徴しても、争議行為に対し、民事責任を負担させ、労働者の雇用上の権利を奪うにとどまらず、これに刑罰をもつて臨むことは最も原始的にして徹底的な争議権の剥奪方法であり、かりに争議行為を禁止すべきやむを得ない事由があるとしても、それが直ちにこれに刑罰を科することを正当化する理由とはなり難いのであつて、これ又憲法31条の要請するところである。」(大教組判決)。
[129] 学説は刑罰を科していることにふれているものが少ない。それは恐らくは、公務員法の争議禁止を不当とする説にあつては、刑罰の不当はあまりにも明らかであるからであろう。しかし、仮に争議禁止が許されるという立場に立つ場合には、さらに進んで、刑罰の当、不当を別に考えなければならない。従来の学説・判例で合憲説をとるもののほとんどが、さらに進んで刑罰を科することの正当性を検討することをしていない。政令201号事件判決は公務員が「団結権団体交渉権等についても、一般に勤労者とは違つて特別の取扱を受けることがあるのは当然である。」「本件政令201号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法28条に違反するものということはできない。」というだけで、どのような特別の取扱が合理的か、ことに刑罰を科することの合理性についてもただ憲法18条に違反しないというだけで一言もふれていない。
[130] このような態度は人権感覚を全く欠いている。その意味で反憲法的な態度といわなければならない。争議権の保障の意義を考えるならば、仮に争議の禁止までは許されるとしても、これに関与することに刑罰を科することの行きすぎは明らかである(註)。
(註) 註解548頁「制限は可能であるといつても、制限違反に対して刑罰をもつて臨むことは問題で、その労働関係からの放逐が限度であろう。従つて、公務員について、刑罰を科している点は憲法違反の疑がある。」和田・体系159頁「ストライキが労働者の生存の維持のためのものであること、そして、公務員は『公務執行者』の面と『労働者』の面との2つを併有しているということ、を考えるのが、より妥当なものといえよう。この点からみれば、いわゆる公務員労働者に対して、一律にスト権剥奪を以て臨んだことは、――とくに国家がそれに対して生存権保障の機構の役割を現実に果さないとき――なお検討の余地があろう。なお、労働権の制限が可能だとしても、制限違反に対して刑罰を以て臨むことは正当でなく、その労働関係からの放逐が限度とされるべきであろう(この点で国家公務員法110条6号で刑罰を科していることは憲法違反の疑いがある)。」
(なお序論第三節第二(二)ILO105号条約の項参照)。
第一(問題点)
[131] すでに何度か述べたように、公務員の争議禁止の根拠として従来主張されているのは、公共の福祉と、全体の奉仕者である。しかし、単なる制限でなく、公務員法のような全面一律的禁止の根拠を公共の福祉に求めることはできないので、もしそれを他に求めるとすれば、全体の奉仕者以外にはありえない(佐藤・鶴海381頁)。政令201号事件判決も「公共の福祉」とはいつているが、「公共の福祉」とは単なる呪文であつて、実質は「全体の奉仕者」にほかならないことも、すでに述べたとおりである。したがつて合憲説をとるものは、原判決を含めて、ほとんどがその根拠を全体の奉仕者に求めている。
[132] ところで、なぜ全体の奉仕者だつたら争議ができないかという説明の仕方が、ひとによつて若干異なる。たとえば、政令201号事件判決では公共の利益と職務専念義務が、原判決では使用者が住民であることが、大きな理由とされている。すなわち、政令201号事件判決は「国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法15条)、公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国公法96条1項)性質のものであるから、団結権、団体交渉権等についても、一般の勤労者とは違つて特別の取扱をうけることがあるのは当然である。」といつているが、原判決は「公務員は国または地方公共団体の住民に対して労働力を売り渡すのであつてその使用者は住民である。しかも公務員は全体の奉仕者としてその住民に奉仕するものである。そこで、公務員の勤務条件は、法律または条例によつて適正なものを保障され、使用者たる住民に対抗して労働不売の闘争が禁止されるのである。公務員の勤務条件は、公務員が奉仕する住民との闘争によつて勝ち取るべきものではないのである。地公法37条1項が、地方公務員は、地方公共団示の機関に代表する使用者としての住民に対し争議行為をなし得ないことを定めている所以である。」といつて、「使用者としての住民」ということを強調する。
[133] また、佐藤教授は
「右の相違とは、公務員の労働関係は、一般私企業の労働者のような資本家または企業経営者との間の労使対抗の関係ではなくして、公務員の労働関係の相手方たる使用者は憲法上は究極的には国民であり、国民と公務員の関係は憲法にいう信託奉仕の関係であるということであるということである。したがつて、労働条件の決定についても、憲法は一般労働者の場合とは異なつた原理と取扱を認めているものと解されると思う。すなわち、外見上は公務員の使用者は政府であるという形で現われてはいるが、その政府に対して公務員は、一般労働者が使用者に対する場合と同じ関係に立つものではない。そこに一般労働者が憲法に与えられている諸権利も公務員の勤務関係の特殊性から制約を受ける理由がある。
 すなわち、公務員はその労働の対価としての給与および経済的利益の向上についても、一般の労働者と同じ団体交渉権および争議権を手段として外見上使用者たる政府に要求することはできない。なぜなら、政府は国民を代表する立場において、形式上、使用者たる地位にあるが、究極においての使用者は国民なのであるから、それは政府自身の決定しうるところではないからである。すなわち、もしも国民の意思が現われるところといえば、それは国会であるが、国会を相手方として公務員が争議を行なうということはありえない。また政府に対し争議を行なうとすれば、その結果は政府のみに不利益を与えることではなくて、政府の活動能力を低下阻害するということは、政府が憲法上国民に対して負うている信託関係に反することであると同時に、それはまた公務員自身が国民に対して負うている信託奉仕関係を否認することとなり、『全体の奉仕者』たる本質に背くこととならざるをえない。」
という(佐藤・鶴海382頁)。
[134] 引用が長すぎたようだが、それというのも、論旨に私の理解できないところがあり、要約を誤るおそれがないとはいえないからである。すなわち、ここでは、「使用者は国民」ということと並んでか、あるいはその結果なのかわからないが、「また」として信託奉仕関係ということをいい、公務員の争議行為はその否認となるということをあげている。ところが、すぐその後には次のような要約が続いている。「要するに、公務員の勤務条件は国民の意思により決定され、それは法律によつて定められる。そしてその法律を制定する国会に対して、公務員は争議をなしえず、その法律を変更させることは立法への参加という形においてのみなされる。そこに公務員の争議権が認められない理由が求められる。」といい(383頁2行)、また最終の結論として「必らずしも『公共の福祉』に反するとはいえないような場合でも、公務員が『全体の奉仕者』として国民を使用者とし、したがつて政府はその労働条件を本来決定しえないものであるというその勤務関係の特殊性によつて、本条による三権の制限を説明しうると解される。」という(383頁終行以下)。とすると、使用者が国民ということが決定的具体的理由だということであつて、信託奉仕関係の否認はどこかへ行つてしまう。それは単なるつけたりだつたのかもしれない。
[135] いずれにせよ、公共の利益といい、職務専念義務といい、使用者が国民であるといい、また、信託奉仕関係といい、いずれも全体の奉仕者ということから出てくる観念であつて全然別物ではない。佐藤教授がみずからこれを「全体の奉仕者」として総括されていることによつても、このことは明らかであろう。
[136] そこで以下に、まずその基本である「全体の奉仕者」という考え方を検討し、ついでその具体化というか支分化というかわからないが、その説明論証として現われる「職務専念義務」等々の考え方についても順次検討を加え、それらがいずれも公務員争議禁止の根拠となりえないことを明らかにする。

第二(全体の奉仕者)
(一)(全体の奉仕者という意味と争議権)
[137] (1) まずはじめに、本節の基本たる、公務員は全体の奉仕者である、という考え方について検討する。憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と規定する。学説・判例が、公務員は全体の奉仕者であるというのはこれに基づく。原判決は、公務員が全体の奉仕者であることの根拠を特に示していないが、これと異なる趣旨ではないであろう。
[138] 憲法15条2項の趣旨は必ずしも明らかではない。通説と思われる説によると、
「明治憲法時代の官吏は『天皇の使用人』といわれたが、日本国憲法の下の公務員は、公共の利益のみをその指針として行動すべく、私的利益のためにその地位を利用してはならない。ワイマアル憲法の『官吏は全体の奉仕者であり、一党の奉仕者ではない』という規定(同法130条)は、議員を除いた『官吏』についての規定であるが、その趣旨は、これとちがわないと思う」(宮沢・全集423頁)
とか、
「ここに『全体の奉仕者』というのは、公務員が旧憲法の官吏のごとく天皇に奉仕するいわゆる『天皇の官吏』たるべきではなく、国民に奉仕する『国民の公僕』たるべきことを示す。『全体』とは国民の全体を意味し(国公法96条1項は『国民全体の奉仕者』と定めている。地方公務員法30条は単に『全体の奉仕者』とするが、直接には当該地方公共団体の住民全体を指す)、後段の『一部』すなわち国民の中の一部を占める社会勢力・政治勢力・階級等と区別され、それらを包括する国民全体を指す。すなわち、公務員が国民全体に奉仕するということは、国民全体の利益、国民全体の幸福のために奉仕するものであることをいい、国民の中の一部の利益、幸福のために奉仕するものでないことをいう(公務員が自己の利益・幸福のためのみに専念してはならないということも当然に含まれる)。」(佐藤・ポケット124頁)
といわれ、おおむね同趣旨である。
[139] 本項の意味するところがこれだけであるならば、それは職務遂行に当たつての公務員の心構えを明らかにしたもので、国公法96条第1項、地公法30条が「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し」と定めているのも全く同趣旨であつて、あまりにも当然のことである。
[140] 「全体の奉仕者」ということばは、教育基本法6条2項にもあり「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、……」と定めるが、ここにいう教員は私立学校の教員を含むので(註)、「全体の奉仕者」であることということは、争議権をもつとかもたないとかいうことに関係がない。
(註) 住藤・鶴海365頁は、教育基本法6条2項は憲法15条を承けたというが、誤りである。同項にいう「法律に定める学校」とは、国・公・私立を問わない(有倉遼吉・天城勲・教育関係法Ⅱ98頁)。
[141](2) 「全体の奉仕者」の意味が、以上述べたようなものであるとすると、その趣旨は、公務員がその職務を遂行するに当たつて、誰の利益のために行なうかということを示したにとどまるのであるから、それは、「公務員の団結権や団体行動権の制限とも直接の関連はない。」「全体の奉仕者であることと、団結権や団体行動権をもつこととは、両立しないことではない。」(宮沢・全集424頁、大西・要論115頁、室井・公務員の基本権142頁)(註)。結局、全体の奉仕者というだけでは争議行為が許されないという根拠としては充分ではない。そこでさらに職務専念義務とか、使用者は国民とかいう説明をつけ加えるようになるのであろう。
(註) 判決例として、大阪府教組事件、大阪中央郵便局事件の判決が同旨であることはさきに引用した(第一節第二(二)(1)全体の奉仕者)。
(二)(全体の奉仕者という考え方の由来)
[142] 外国でどういう意味をもつているかということは直接関係はないが一応検討してみよう。
[143](1) さきに引用したように、宮沢教授は、憲法15条2項とワイマアル憲法130条1項とは同じような趣旨であるという。これに対して、ワイマアル130条1項の全体の奉仕者とは「官吏関係に労働者と使用者との関係を類推してはならない」ことをも意味していたとの批判がある(註一)。
[144] ドイツにおいて、そういう有力な学説があることは事実だが、官吏に争議権が認められないとする根拠にはいろいろな説があつて、必ずしも憲法130条1項を根拠としているわけではないようだし、また、官吏に争議権を認めようとする有力な学説も存在した(註二)。したがつて、ワイマアル憲法の解釈においても、全体の奉仕者と争議権とは両立しないものではない。
(註一) 川上・体系150頁註(11)151頁註(14)。もつとも川上教授も日本国憲法15条の解釈については宮沢説と変らない(同書144頁)。
(註二) 杉谷・独逸官吏の罷業権。
[145](2) また、いまの公務員法の争議禁止規定の直接の源となつたマ書簡も、フランクリン・ルーズベルトの言葉を援用して、公務員の最高の義務は国民全体に奉仕することであり、その故に公務員の争議行為が許されないとする。アメリカにおける労働立法のおくれていることについてはさきに述べたが(序論第三節第一(四))、1937年という時代になされたこのルーズベルトの声明は、その国と時代との関連なしに考えることはできない。マ書簡はルーズベルトを「労働者の権利の唱導者として第一人者であつた」といつているが、この声明ですら当時にあつては「労働者の権利の唱導」として意味があつたのであつて、これを28条の存する日本国憲法下のわが国に機械的に輸入することは全くの場違いであるというべきであろう(坂本・公務員の労働基本権の法構造258頁、297頁)。また占領軍当局内においても、公務員の争議権を全面的に否認すべきでないとして、マ書簡に反対する強い意見もあつたことは、さきに述べた(序論第二節殊に第二、第五)。
(三)(信託奉仕関係)
[146] またこういう主張がある。
「政府に対して争議を行なうとすれば、その結果は政府のみに不利益を与えることではなくて、政府の活動能力を低下阻害するということは、政府が憲法上国民に対して負うている信託関係に反することであると同時に、それはまた公務員自身が国民に対して負うている信託奉仕関係を否認することとなり、『全体の奉仕者』たる本質に背くこととならざるをえない。」(佐藤・鶴海382頁)。
[147] しかし、「公務員自身が国民に対して負うている信託奉仕関係」とは、いまの引用からも明らかなように「全体の奉仕者」と同じ意味である。信託とは奉仕を受ける側からいつただけである。そうだとすると、すでに(一)で説明したように、公務員が争議権をもつことと矛盾するものではない。
[148] また、「政府の活動能力を低下阻害するということは、政府が憲法上国民に対して負うている信託関係に反することである」ということは半面の真実である。政府としては公務員の争議行為によつて政府の活動能力を低下阻害することのないようにする責任を国民に負つていることはまちがいない。しかしこの責任を、公務員の争議行為を一律全面的に予め禁止しておくことによつて果たすべきではなく、まず何よりも、充分な団体交渉を行なうことによつて、未然に争議に至らないようにし、また争議行為に入つたときにおいてもなるべく早く解決することに努力するという、通常の労使関係におけると同様な努力によつて果たすべきなのである(沼田・労働法論171頁)。これが労働基本権が保障されている下での政府の責任であり,政府だけがこの使用者としての拘束を免れることは許されないのである(稲田・撮要185頁)。
(四)(公共の利益)
[149] 政令201号事件判決は、公務員が「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務」するものであることを、争議禁止の理由の一としてあげている。この言葉は国公法96条の引用であるが、「公共の利益のために勤務し」ということは、全体の奉仕者であるということと全く同じことである(佐藤・鶴海366頁)。したがつて全体の奉仕者であることと別に公共の利益のためということが、争議禁止の根拠となるわけではない。ただ公共の利益ということを公務員の職務の内容である具体的実質的な利益を意味するように考えるならば、それは当然各公務員について具体的に考えなければならないことになる。全体の奉仕者を争議制限の根拠としながら、その制限の要否、程度は具体的に職務によつて考慮しなければならないと考える説は、このように公共の利益を解するからである。そうしてこのように解する限り、それは公共の福祉論であつて、公務員の争議によつて国民の被る不利益と公務員の団結権とを具体的に比較衡量すべきだということになるだけである。すでに、佐教組、北川村教組判決はこういう考え方に向かつている(註)。
(註) 鵜飼・憲法150頁は「公務員は全体の奉仕者であるという規定も、右のような制限の根拠とはなり得ない。なぜなら、全体といつても抽象的なものではなくて、具体的な個人の集合したものに過ぎず、したがつて、公務員の権利と、それらの個人の権利の比較という方法が、ここでもいぜんとして適用するからである。」という。
(五)(職務専念義務)
[150] 「国民全体の奉仕者として……職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない(国公法96条1項)性質のものであるから、団結権、団体交渉権等についても、一般の勤労者とは違つて特別の取扱をうけることがあるのは当然である」というのは、政令201号事件判決の一節である。しかし、これは形式的にも実質的にも争議禁止を合憲とする理由にはならない。これを争議禁止の根拠とするのはあまりにもお粗末である。
[151](1) 第一に、「職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない」というのは法律の定める義務である(註)。それを根拠に公務員の職務はかくかくだから、憲法に定める団結権について特別の取扱いを受けるというのでは、逆である。もし国公法96条1項が争議行為を禁止しなければならないような義務を定めているとすれば、この条項自体が憲法28条に違反していることにならざるをえない。したがつて、法の形式から見ても、争議禁止を合憲するわけにはいかない(鵜飼・公務員法85頁)。
(註) 佐藤・鶴海によれば、国分法96条1項のうち、「公共の利益のために勤務し」ということは「全体の奉仕者」であることと同じ次元の観念であるが、「職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」というのは同じでない(366頁)。この後者の方は、「職員がその職務の遂行にあたつて最大の能率を発揮しうるように各般の根本基準を定めることが、この法律の目的であるわけであるが(1条1項)、本項では、右の最大の能率の発揮ということの前提として、まず職員が全力を挙げて職務に専念することが要請されるとし、それを服務の根本基準として挙げた。」ものである(370頁)。
[152](2) 第二に、この義務は争議権をもつことと矛盾するものではない。現在の公務員は、かつての天皇の官吏のような絶対無定量の忠実義務を負うのではない。したがつて、ここに規定されていることは、その定量の職務を遂行するその時には全力を挙げて専念しなければならないということ、すなわち、最大の能率の発揮ということの基本を示したにすぎない。職務専念義務ということばは公務員について使われていることばであるが、一般私企業の労働者もまた勤務すべき時には職務に専念すべき義務を負うのであつて、その点においては何ら差異はない(註)。私企業の労働者ではこれが労働契約上の労働者の義務である。この義務があるのに、義務違背の責任を負わずに職務の放棄ができるところに、争議権を権利として保障することの法律的な効果があるわけである。したがつて、このことを強調するならば、職務専念義務があるからこそ、争議権が権利として保障されることの意味があるのだということになる。したがつて、公務員に職務専念義務があることは、公務員が争議権をもつことと、いささかも矛盾しない。
(註) 園部・講座209頁。川上・体系159頁。
(六)(公務員であることによつて争議を禁止することの矛盾)
[153] すでに述べたように、「全体の奉仕者」を争議権剥奪の根拠とすることは、公務員という身分にあることによつて争議権が失われるという考え方である。このことを最も明白にうたつているのが原判決である。原判決は憲法28条論の第1段において「勿論地方公共団体の職員と雖も、その公務員たる地位を離れて勤労者としてあるときは、憲法28条の規定により他の勤労者と団結して争議行為を行なう権利を享有することは言うまでもない。しかしながら、それが公務員たる地位にある限り、公共の福祉のためにその争議権を失うものと解しなければならない。」すなわち、「公務員たる地位にある限り……争議権を失う」というのである。
[154] しかし、このように公務員という身分にあるという理由だけで争議権を失うという考え方は、すでに破綻を示している(石井・総論346頁)。公労法によつて争議行為を禁ぜられた職員の中には、三公社の職員のように公務員でないものと、五現業のように公務員の身分を有するものとがある。公労法には公務員でないものがあるので、その争議禁止の根拠は公共の福祉に求めざるをえないが、そうすると、五現業の職員は公務員の身分にあるというだけで争議権を失つたのではないということになる。公労法の立法の趣旨はそのところを区別するにあつたわけである。公務員である限り争議権を失う、という考え方は実定法と相いれない。

第三(使用者が国民であるということ)
(一)(その意味)
[155] 地公法37条1項は「使用者としての住民に対して」争議行為をすることを禁じ、国公法98条5項は「使用者としての公衆に対して」争議行為をすることを禁じている。また原判決や佐藤教授も公務員の使用者が国民であることを、公務員に争議行為が禁じられることの理由としていることは、すでに本節第一で述べた。
[156] 使用者が国民であるということは、国民主権の下の公務員であるということ、すなわち、国の主権者は国民であり、公務員はその国民全体に奉仕するものであるから、公務員の使用者は国民である、ということを、意味するだけならそれなりに意義がある。憲法15条1項2項は、その趣旨によるものであつて、公務員は国民によつて任免され、その国民全体に公務員は奉仕しなければならない、というわけである。しかし、それはあまりにも当然のことであつて、いわば、国民主権の下における公務員の理念を明らかにしたというだけである。ここに「だけ」というのは、理念をおろそかにする趣旨ではなく、その理念は最大限に尊重されなければならないことはいうまでもないが、特定の法的効果をもつものではない。
[157] すなわち、これによつて国民が法律上労使関係の当事者としての使用者となるわけではない(片岡・浅井記念202頁)。
[158] 憲法15条1項は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定めているが、これは狭義の公務員、すなわち、職員である公務員についていえば、個々の公務員につき、国民が直接にその選定罷免の権をもつとする趣旨ではない。また、国民の代表である議会がその選定罷免の権をもつとする趣旨でもない。実際にもそのような制度はないし、また考えようもない。このように、この規定は公務員の選定および罷免は、間接的には、主権者たる国民の意志にもとづくように仕組まれるべきだという意味であり、実際には、公務員を選定・罷免することは、政府の権限と責任においてなされるのである。そうしてその政府が、主権者たる国民の下にあるということだけが、実際の仕組なのである。この規定は、国民主権の理念を表明するだけの規定である(宮沢・全集423頁)。憲法15条2項もまた、同様に理念を表明する規定であることは、さきに第二で述べた。このように、公務員が、国民によつて任免され、国民に奉仕するということは、国民主権の理念の表明でしかない。
(二)(公務員の勤務条件は議会で決定されるということ)
[159] また原判決は、公務員の使用者は住民であるので「そこで、公務員の勤務条件は、法律または条例によつて適正なものを保障され、……」といい、佐藤教授も「究極においての使用者は国民なのであるから、それは政府自身の決定しうるところではないからである。すなわち、もしも国民の意思が現れるところといえば、それは国会であるが、国会を相手方として公務員が争議を行なうということはありえない。」という(佐藤・鶴海382頁)。ここに公務員関係と一般私企業における労使関係とが異なるというわけである。
[160] 公務員の勤務条件が法律で定められるものであるから政府がこれを自由に定めることができず、それは国民の代表である議会によつて定められるということは、形式的には、形式というのがいい過ぎなら制度としては、まさにそのとおりである。そうして、議会は国民全体の代表として、その決定が適正でなければならないということもまた、理念としてはそうあるべきであろう。
(三)(議会で公務員の勤務条件の適正が保障されるか)
[161] しかし公務員の勤務条件が法律または条例によつてきめられるということ、すなわち、議会によつてきめられるということは、必ずしもそれが適正であることを保障されることにはならない。
[162] 近代国家においては政府は国民の財政上の負担すなわち納税によつて維持されるものであるから、政府は安くて能率的であることが国民にとつて望ましい。したがつてその政府を構成する公務員制度もまた安くて能率的であることが求められるのは当然である。したがつて、国民が公務員の使用者であるとしても、国民と公務員との間にはこのような利害の対立がある。これは一般に使用者と労働者との間における利害の対立と根本的に異なるものではない。もとより、理念としては、国民、またはその代表である議会は、同時に公務員の勤務条件が適正であることを考慮しなければならないのは当然であるが、しかし、現実に右のような利害の対立があり、また安くて能率的な公務員制度を求めることは納税者としての国民の当然の権利でさえあるのだから、この利害の対立は、単に現実というより、国民主権の下における公務員制度にとつて免れがたい矛盾とさえいえるであろう。これは単に、適正でなければならないという観念だけで解決されるわけではない。
(四)(使用者は政府である)
[163] さきに述べたように、「使用者が国民である」というのは1つの理念であつて、実際の使用者は政府である。佐藤教授は「政府は国民を代表する立場において、形式上、使用者たる立場にあるが」といつているが、事実は反対で、使用者が国民であるということこそ理念であつて、法律上も事実上も政府が使用者としての立場にある。
[164] 公務員を雇い入れ、あるいは、解雇すること、公法的考え方でいえば任免、これを指揮命令下において勤務させ、これに賃金を払うのは、法律上も、また社会的な事実としても、それは政府であつて国民ではない。
[165] 政府は国民のために、政府を安く能率的にすること、すなわち、公務員制度もまた、安く能率的にすることの責任を負つている。したがつて、労使としての利害の対立は、そつくりそのまま政府と公務員の間に存する。すでに引用したように、大教組判決が、「その雇用関係の実態に着目するとすれば、そこには使用者である地方公共団体の当局と使用人である地方公務員とがそれぞれの利害をもつて対立し、使用者としての実質と雇用労働者としての実体とが厳として存在し、それは紛れもない近代的な使用者と労働者との関係にほかならない」といつているのはまことに正しい。
[166] このように政府と公務員との間に一般の労使と同様な利害の対立があるとする以上、これらの解決には、一般私企業における労使関係の解決のための手段をできるだけここにも適用させることにほかならない。憲法28条が公務員にも適用される理由はここにある。それは単に、勤労者ということばの解釈上そうなるのではなく、このような事実の上に立っている。このように、公務員の使用者は国民であり、国民の代表である議会によつて、公務員の勤務条件がきめられるということは、その勤務条件が適正であることを保障させるものではなく、その保障は労働基本権の保障によつて達成されるのである。なおドライヤー報告書は「政府としての政府」と「使用者としての政府」を区別すべきことを説いている(報告書2133項)。
(五)(政府との争議)
[167] さきに(二)で述べたように、佐藤教授は、公務員の勤務条件は、議会できめられるので、政府がこれを自由にきめることができない。したがつて、議会を相手方として争議することはありえないというのであるが、公務員の勤務条件についての争議と団体交渉の相手方は議会ではなくて政府であり、それは争議・交渉として充分意味をもつている。
[168] 公務員の勤務条件は最終には議会できめられるのであるが、それについて、案を作成し、議会に提出して承認を求め、それを執行するのは、いうまでもなく実際の使用者たる政府である。したがつて、その政府を相手方として団体交渉をするということは、勤務条件を決定するについて充分に意味のあることである。たとえば条約締結についての外交交渉を考えれば、その趣旨は明らかである。まして実際には憲法が予定している政党内閣制度の場合には、政府の提案は実際には議会の承認を得られることが予想されるはずである。また労使間の問題の解決の大道として、議会も政府と労働組合との間の協定を最大限に尊重すべきであろう。これを承認するか否かは議会の権限ではあるが、労働者との交渉によつて勤務条件についての使用者と労働者との合意点を求めて原案を作成する権限と能力とは、挙げて政府にある。この任務を果たすことは国民に対する政府の責任である。勤務条件についての公務員労働組合の団体交渉の相手方は政府であり、したがつて、その裏付けとしてなされる争議行為の相手方も政府である。その承認がえられるかどうか、また承認を与えるかどうかは政府および議会の政治的責任において決定される。
[169] このようにして、国民主権と労働基本権との調整調和が保障される。「公共の福祉の理念」なるものがもし原判決のいうような性質のものであるならば、その「公共の福祉の理念」は、公務員の争議権の剥奪によつて達成されるのではなく、かえつて、争議権を含む労働基本権の保証によつて達成されるのである。法が公衆・住民に対する争議行為といつたり、これを解説して、公務員の勤務条件は政府自身で決定できない、それを決定するのは議会である、議会を相手に公務員が争議を行なうということはありえない、などという言い方は議会政治における政府の任務と権限に目をつぶつた全くの詭弁である。国公法98条(地公法37条)は、国民が公務員の使用者であるという国民主権の一般的な理念を、政府と公務員との間の勤務条件とりきめのための具体的手続の場にまで、機械的に持込んでいるところに、論理の混乱、あえていえばごまかしがある。

第四(結論)
[170] 以上合憲論のいうところを逐一検討してきたが、全体の奉仕者であるということは、いかなる意味においても、争議行為を禁止する理由とはなりえないことが明らかである。
[171] 序論で詳細に述べてきたが、旧労組法は、警察官等を除き、公務員の争議行為を全面的に認めていたし、また旧労調法でも現業公務員については争議権を認めてきた。このことは、公務員であることと、争議権をもつこととは決して矛盾しないことを事実をもつて示している。
[172] 政令201号事件判決は、全体の奉仕者を根拠に公務員を特別に取扱うことができるとして、その証拠として「従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。」といつているが、これはむしろ反対である。旧労組法や旧労調法は一部公務員の争議行為を禁止しているのであつて、その理由については序論で詳しく説明したが、一部の禁止だということでもわかるように、公務員だからというだけの理由ではなく、すなわち判例のいう「この故」ではなく、その職務の性質によつて区別しているのである(佐伯・野村記念293頁以下)。
[173] また、ひとりわが国の実定法がそうであつたというだけでなく、諸外国の立法例を見ても、公務員の争議権を認めている立法例が多いし、またILOに代表される国際的な傾向も公務員に争議権を解放する方向を示している。このことは、公務員に争議権を認めることが、国際慣行ないし国際労働法として確立しているか否かという問題を離れても、公務員であることは必ずしも、争議権をもつことと矛盾しないことを示している。
[174] 和教組専従判決によつて暗示されたように、最高裁も、機械的に全体の奉仕者を理由に全面一律の争議行為禁止の合憲性を主張することをあきらめつつあるように思われる。全体の奉仕者説はもはや過去のものとなつたのかもしれない。そうすると問題は公共の福祉である。
第一(問題の所在と私たちの結論)
(一)(問題の所在)
[175] 公務員の争議行為を刑罰をもつて禁止することができるとする根拠としては「全体の奉仕者」と、「公共の福祉」がこれまであげられてきた。しかしながら、「全体の奉仕者」論については、前節において、もはや使用に耐ええないものであることが明白になつたので、本節においてはさらに、「公共の福祉論」が、憲法28条による労働基本権の保障規定の存在にもかかわらず、公務員の争議行為を刑罰をもつて全面かつ一律に禁止する地公法61条4号の規定を合憲とする根拠とすることができるかについて検討を加えるものである。
(二)(私たちの主張するところ)
[176] そのために、私たちは、まず公共の福祉とは何かについて、学説、判例をもとにしながら検討を加え、公務員の争議行為禁止を合憲とした政令201号最高裁判所判決の公共の福祉論が、もはや批判にたええないものであることを明らかにしたい(第二「公共の福祉とは何か」)。
[177] 公共の福祉を明らかにしたうえで私たちは争議権と公共の福祉の関係、ことに争議権制限の限界を検討し(第三「公共の福祉と争議権」)、さらにその一般原則を公務員の争議権に適用して考えるならば、公務員の争議権の制限・禁止の限界をどこに求めるべきであるか、とくに地公法61条4号の、争議行為を全面かつ一律に刑罰をもつて禁止する規定が憲法28条の許容するところとなりうるか、という本件の主題について明らかにすることとなろう(第四「公共の福祉と公務員の争議権」)。
[178] 教育公務員の争議行為禁止処罰の合憲性の有無もまた、第四における論旨を教育公務員に適用して具体化するならば、おのずから明らかとなる(第五「公共の福祉と教育公務員の争議権」)。
(三)(私たちの結論)
[179] 以上の検討を通じて私たちの到達した結論的見解をまず明らかにしておきたい。
[180] 争議権は労働者にとつては固有・不可欠な基本的権利なのであるから、その制限もまた慎重でなければならず、公共の福祉を理由としても、その制限が許される限度は公共の利益を高度に侵害する危険のある具体的な場合に限られ、その制限はまた、必要・最少限度にとどめなければならない。したがつて、公務員の争議行為について、その職種・争議行為の規模などを具体的に検討することなく、公務員であるという抽象的・形式的な理由から出発して、全面かつ一律に禁止し、あまつさえ、刑罰を科するという、争議権発達の歴史からみて、苛酷であり、かつ原始的な禁圧方法をもつて臨んでいる公務員法の規定は、明らかに違憲だと判断せざるをえない。公務員の争議行為が制限・禁止されること、が妥当とされる場合のあるという前提に立つても公務員の争議行為だからといつて、特殊に扱うべきでなく民間労働者の場合と同様その争議行為がいかなる影響を具体的にもたらすか、という実質からのみ判断すべきであり、その争議行為が公共の困苦を著しくもたらす場合に、制限が許されると考える。したがつて教育公務員の職務は、到底刑罰をもつて争議行為を禁止してまで、その停滞を防ぐべき性格のものとすることができない、という結論に到達するのである。
[181] 以下私たちは以上の結論が導き出された論理過程を明らかにしていくのであるが、私たちの論証批判の中心は一貫して、争議行為の単なる制限、禁止ではなく、刑罰をもつてしてまで、全面・一律に禁止していることにむけられる。

第二(「公共の福祉」とは何か)
(一)(「公共の福祉」をめぐる問題の所在)
[182] 公務員法の争議行為禁止(処罰)規定の合憲性を明らかにした政令201号事件最高裁判決は、公務員法の右の規定に関するリーデイングケースとなつており、原判決もまた、右最高裁判決の系譜に属する。したがつて私たちが公務員法の争議行為処罰規定が違憲であることを明らかにしていく際、政令201号判決批判を中心に展開せざるをえず、まず私たちは、学説・判例の公共の福祉論を検討しつつ、政令201号判決の公共の福祉論を批判することから出発したい。
[183] 「公共の福祉」とは何か、憲法の精神に忠実に従いながら解釈するとき、政令201号判決や、原判決の公共の福祉論は到底採用することはできないのであつて、事実これらの判決は、学説・最高裁判例の動向に反する、異端の判例とみざるをえない。しかも、公務員法違反事件に関する、最近の一連の下級審判決の到達した公共の福祉に関する論旨によつて、もはや完全に克服されてしまつた、ともいえるのである。
[184] 私たちが、第二(「公共の福祉」とは何か)で明らかにしようとするのは、以上の点についてである。
(二)(「公共の福祉」と学説の動向)
(1)(学説)
[185] 憲法解釈上、「公共の福祉」とは何かという点に関するほど、多くの学説の対立しているところはない。この多くの学説を一つ一つ紹介し、批判することは本件の論点から直接必要とはされないので、諸説を類型的に整理し、またその内容の紹介と批判についても私たちの立場を明らかにする上で必要な限度にとどめておきたい。
(イ)(無条件制限説)
[186] 基本的人権は「公共の福祉」の制約内においてのみ認められるから、「公共の福祉」のために必要があれば、基本的人権を制限することは可能である、とする。きわめて少数説である。この説においては、「公共の福祉」とは、結局のところ、政策上の必要性ということになろう。
(ロ)(限定制限説)
[187] 公共の福祉による制限は可能であると一般的にしながらも、その制限に何らかの限定を加えるものであつて判例・通説の立場である。
[188] この立場はさらに、多様な見解にわかれるが、そのなかで最も代表的なものは、公共の福祉を人権相互間の調整の原理であり、人権を実質的公平に保障しようとすることを目的とするものである(たとえば、宮沢・全集224頁以下)。この見解は近時、判例のなかでも、次第に有力になりつつある。
(ハ)(制限不可能説)
[189] 公共の福祉による到限を一般的に認めることは、「法律の留保」を認める旧憲法の場合と、同一に帰するとし権利、自由に内在する制的によるほかの制限はとくに規定のある憲法22条・29条のほかは、原則的に否定する(たとえば、註解、295頁)。
(2)(批判)
[190] 私たちが本件で問題としているのは、公共の福祉による争議権の制限・禁止がどこまで許容されるのか、とするところにある。したがつて,ここでは、私たちの立場からは、(ハ)の制限不可能説については、とくに批判の対象とする必要はない。
(イ)((イ)説批判)
[191] 私たちは、基本的人権の尊重を第一義とする日本国憲法のもとにおいて、人権の無限定な制限を許容する(イ)の説は到底とることはできえない、と考える。この見解は学説のひとしく批判しているところであるから。その批判の理由については、詳述することをさけるが、憲法を貫く全体の精神を基にして考察するとき、憲法は基本的人権を永久不可侵の権利として保障し、基本的人権の尊重を基本原理としているのであり、憲法の条項について検討するも憲法22条、29条にとくに「公共の福祉」の定めがあるのみであつて他の条項には特段の定めのないこと、12条、13条は単に宣言的意味をもつとのみ理解されること、などをあげることができよう。
(ロ)((ロ)説批判)
[192] (イ)説に比較するならば、公共の福祉による人権の制限を一般的には認めつつも、その制限には限界を画するべきだと考える(ロ)説は、人権尊重の憲法の精神により一歩近づいたものといえよう。
[193] しかしながらこの見解も、人権の制限には限度があるとしながらも公共の福祉とは何かの理解について、誤りがあり、あるいは不十分な場合には、その具体的適用に当たつては、実際上、公共の福祉による人権の制限を拡大させていく危険がある。
[194] ことに、公共の福祉を、「国家・社会全体の利益」と理解する場合には、事実上(イ)説との限界は不明確になつてしまう。この立場をとる政令201号判決に代表される、判例に基本的に問題があるのは、このためである。したがつて、こうした立場に立つて、公共の福祉による人権の制限を考える際には、「国家・社会全体の利益」というものを、単なる「政策上の必要のある場合」(これでは、無限定・制限説――(イ)説――と全く同様である)、と解したり単なる抽象的理念(これも「政策上の必要のある場合」と同様である)としてとらえてはならないのである。具体的なケースごとに、いま、いかなる実態をもつ、いかなる公共の利益を守ろうとしているのか、公共の福祉の具体的内容を明らかにし、その上にたつて、その利益を守るため、人権を制限することは合理的かつ必要であるのかを厳密に検討し、制限する合理性、必要性のある場合においても人権の本質的侵害とならないよう必要かつ最小限度に人権の制限をとどめるべきことになる。後述する最高裁判所判例の一般的傾向は、(具体的適用が妥当であるか否かは別にしても)このような立場に立つているものと思われる。しかしながら、以上のような限定を附したとしても、公共の福祉とはなにかという命題それ自体が、あいまいであるため、具体的な適用にあたつて、人権制限の必要性、合理性があるか、その制限は必要かつ最少限度であるか、という2つの規制の原理が、ルーズに扱われる危険性があるのである。最高裁判所が公共の福祉の具体的適用に当たりとかく、人権の制限の必要性およびその限度について、ルーズでありすぎると批判されるのもそのためである。
(3)(私たちの見解――「人権相互の調整の原理」――の正当性)
[195] 私たちは、公共の福祉を人権相互間における対立・衝突を調整する原理である、と理解するものである。
[196] これまで述べてきたように、公共の福祉を「政策上の必要」とみることも、「国家社会全体の利益」と理解することも、人権の上にあつてこれを制限する理念としてとらえるものであり、それは際限ない、人権制限の拡大となりがちである。
[197] したがつて、基本的人権は永久不可侵の権利であり、その尊重は憲法上の基本原理である、と憲法をすなおに理解するならば、人権の上にあつてそれを制限する「公共の福祉」なるものを認めることはできない。
[198] ところで人権が尊重されるといつても人権相互間に対立・抗争を生ずる場合がありうるのであつて、この場合においては、公平の観点から人権相互間の調整をはからざるをえないのであり、この調整原理こそ、公共の福祉の理念であると私たちは考える。
[199] この見解は、今日においては、学説上も有力であり、また判例上も、後述のように次第に支配的になりつつある。
(三)(最高裁判所判例と「公共の福祉)
(1)(最高裁判所判例の「公共の福祉」論の特徴)
[200](イ) 最高裁判所の公共の福祉に関する基本的立場について、宮沢教授は次のように、述べている(全集218頁~219頁)。
「……最高裁判所は、公共の福祉の内容をどんなものと考えているだろうか。
 最高裁判所が、公共の福祉の内容を具体的に明らかにしようとすることなしに、ただ漫然と公共の福祉を援用することによつて、すべての人権の制限を是認していると解するのは、正確ではない、最高裁判所は、公共の福祉によつて人権の制限が是認されるという原理を承認しつつ、その公共の福祉の内容をできるだけ具体的に規定しようと努力しているように思われる。その場合、最高裁判所は、すべての場合に通ずる公共の福祉の内容を具体的に規定しようとはしないで、各人権につき個別的に公共の福祉の内容を規定しようとしているように見える。……各種の人権について個別的に、しかも、個々の具体的な事件に即して、いわばケイス・バイ・ケイスに、公共の福祉の具体的な内容を定めようとしていると解される。」と。
[201] 宮沢教授も述べているように、個々の判決について検討を加えてみるとき(次項参照)、最高裁判所は、「公共の福祉の内容をできるだけ具体的に規定しようと努力しているように思われる。」のであり、また、その制限は具体的に必要な限度にとどめようとする努力もみられる。そして最近では公共の福祉を人権相互の調整の原理とする見解も次第に支配的になりつつあるのである。
[202] このような判例の動向からみると政令201号判決はきわめて異質なものであり、またこの判決の「公共の福社」論は、その後の最高裁判所の判決の新たな「公共の福祉」論(たとえば(2)(イ)判決)によつて、実質的には破棄されたにひとしい。
[203](ロ) このように最高裁判所の各事件にあらわれた「公共の福祉」とは何か、についての見解は、一般的にいえば、それなりに、公共の福祉の具体的実態を明らかにしようと努力していることがうかがわれるのである。それにもかかわらず、
「その判例にあらわれたところでは、公共の福祉の統一的な意味内容はまだかならずしも明確にされたということはできない。その結果は、ともすると、与えられた人権を規制する法律に対し、まずその規制が妥当かどうかを常識的――前論理的――に決定し、その後に、そうした規制の対象となるべき行動を公共の福祉に反するとする、という論法に帰着してしまう。こうなれば、公共の福祉をもち出す必要はまつたく失われてしまう。公共の福祉をもち出すとすれば、人権に対する規制をそれによつて根拠づけるのでなくてはならない。」(宮沢・全集223頁)
と批判されるのである(同旨の批判。奥平康弘「公共の福祉に関する立法及び判例の傾向」25頁以下――清宮・佐藤編「憲法講座」第2巻)。
[204] このように最高裁判所の判例の傾向は、具体的事件に関する結論としては、安易に合憲性を導きだしやすいのである。公共の福祉に関する一貫した見解のないまま、人権の制限について常識的にその必要性を考えそれを公共の福祉と述べがちな傾向、ここにみられる便宜主義的な最高裁判所の弱さこそ、政令201号判決のような判決を生み出す一つの基盤があつたともいえる。公共の福祉による人権の制限を限定的に理解しようとしても、人権相互間の調整原理として解しない限り危険があるのだ、と私たちが(二)(2)(ロ)で批判したところが、まさしく当たつているのである。
(2)(最高裁判所判例)
(イ)(新潟県公安条例違反事件大法廷判決)――(昭29・11・24刑集8・11・1868)
[205] この判決は、最高裁判所の公共の福祉に関してなされた一連の判決のなかでも、最も画期的な意義を有するものであつた。
[206] 同判決で多数意見は、「行列行進又は公衆の集団示威運動は、……本来国民の自由とするところであるから、……単なる屈出制を定めることは格別、そうでなく一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許されないと解するを相当とする。」と。 [207] この判例によると人権の抑制が可能なのは、一般的に行動を制限するのでなく、「公共の秩序を保持し、又は公共の福祉が著しく侵されることを防止するため、特定の場所又は方法につき、合理的かつ明確な基準の下に」予め許可をうけさせ、又は屈出させることができるのであり、また、禁ずる場合とは「公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすことが予見されるとき」でなければならない、とする。
[208] この判決は、公共の福祉という概念による抽象的な理由づけの下で、包括的、一般的な権利制限の行われることを禁じ権利を事前に制限するにあたつては、具体的な条件の下で、合理的かつ明確な基準で審査し、これを禁ずるためには、「公共の安全に対し明らかな差迫つた危険」がなければならないとし、「明白かつ現実の危険」の考え方に近い見解を展開している。
[209] 前述のように((二)、(2)、(ロ)最高裁判所は従来、公共の福祉による人権の制限については、限定をつけつつもどちらかといえば「国家、社会全体の利益」と解する傾向が強かつたが、以上述べてきたようにこの判決は人権を「制限しうる場合を原則的に相当明確に規定した点で、まつたく新しい内容をもつにいたつた。」(長谷川・研究194頁)のである。
(ロ)(職業安定法違反事件大法廷判決)――(昭25・6・21刑集4・6・1049)
[210] しかしながら、(イ)の判決以前においても最高裁判所は、職業安定法32条が有料職業紹介事業を一般的に禁止または制限したことが憲法22条に違反しないと判断したなかにおいて、有料職業紹介を禁止する公共の福祉とは、労働者の利益であることが、歴史的・具体的にのべられ、それが職業選択の自由にはつきりと対立するものとしておかれている。すなわちここでは、在来の自由有料職業紹介が「労働者の能力、利害、妥当な労働条件の獲得、維持等を顧みることなく、労働者に不利益な契約を成立せしめた」が故にこのことから労働者の利益を守ることが、公共の福祉であるとされる。(昭25・6・21大法廷判決、刑集4・6・1049)
[211] ここでは公共の福祉は、まさしく、人権相互間の調整原理として登場しているのである(正確にいえば単なる調整を越えて労働者の基本権が職業選択の自由に優位することが示されている)。
(ハ)(公職選挙法違反事件大法廷判決)
[212] 公職選挙法146条は、選挙運動期間中に限り、文書図画の頒布、掲示につき一定の規制を定めているが、これは「公職の選挙につき文書図画の無制限の頒布、掲示をみとめるときは、選挙運動に不当の競争を招き、これがためかえつて選挙の自由公正を害し、その公明を保持し難い結果をきたす恐れがあるとみとめて、かかる弊害を防止するために」定められたものであり、「この程度の規制は、公共の福祉のため、憲法上許された必要且つ合理的な制限と解することができる」(昭30・3・30、刑集9・3・635)。
[213] 「ここでは、選挙運動に不当の競争を招き、そのため選挙の自由公正を害し、その公明を期しがたい結果を来たす恐れがあることが公共の福祉に反するとされる」(宮沢・全集221頁)。したがつて、「公共の福祉の内容は、基本的人権相互の調節にあることが指示されている。」(長谷川・研究217頁)と理解される。
[214] この判決のなかでは「憲法21条は言論出版等の自由を絶対無制限に保障しているものではなく、公共の福祉のため必要ある場合には、その時、所、方法等につき合理的制限のおのずから存するものであることは、当裁判所の判例とするところである。(昭25・9・27、刑集4・9・1799)。とし、公選法の制限は「公共の福祉のため、憲法上許された必要且つ合理的な制限と解することができる」とする。
[215] ここでは公共の福祉による権利の制限は「必要且つ合理的な制限」の範囲にとどめられるべきことが明らかにされている。
(ニ)(判例の立場)
[216] 以上のように、最高裁判所の判例を分析してみると、次のようにいえるであろう。
[217] 第一に公共の福祉による人権の制限を認めつつ、その制限の根拠としては、保護すべき具体的な利益・権利をあげていること――職安法違反事件における、労働者の基本権保障、公選法事件の選挙の自由、公正の保障がそれである。こうして、最高裁判所の公共の福祉論は、必ずしも明確性、一貫性を有するとはいえないものの、次第に人権相互間の調整の原理であるとの方向をしめしつつあり、さらに新潟県公安条例事件ではつきりこの立場にたつた。
[218] この立場に立つとき人権を何のために制限しなければならないか、おのずから明確となり、したがつて公共の福祉を大命題として人権を無制限に、あるいは制限の限度を具体的に考慮せず、抽象的・包括的・無限定に制限することはできなくなる。
[219] 第二に、公共の福祉によつて追求する権利・自由の保障のために、「必要且つ合理的な制限」(公選法違反事件)の範囲に、人権の制限はとどめられるべきであり、また人権の保障の観点から、権利制限は慎重であり、最少限度でなければならないとする。これは、公共の福祉を人権相互の調整原理として明確にとらえていない場合においてもそうであることに留意しなければならない。したがつて、調整原理と解するときはますますその制限はきびしいものとなる。たとえば、新潟県公安条例違反事件では、集団示威運動の、一般的な許可制による事前抑制は違憲であり、「公共の安全に対し、明らかな差迫つた危険」がなければ、禁止できない。このように一般的事前抑制は禁止され「特定の場所又は方法につき、合理的かつ明白な基準」で審査し、右の要件があるときに限つて禁止するのだ、としているのである。
[220] したがつて、この判例による限り権利は具体的特定の場合にのみ制限できるのであり、その制限の根拠は、「公共の安全に対する明らかな差迫つた危険」が予見されることなのである。
(四)(政令201号判決および原判決批判)
(1)(政令201号判決批判)
[221](イ) 以上のような最高裁判所の判例の流れと比較するとき、政令201号判決は異質の判決であるといえよう。
[222] この判決はまず最高裁判所の、公共の福祉によつて人権が制限できるとする一般的見解を述べ、労働基本権についても同様であるとしたうえで公務員が一般の勤労者に比較し、「特別の取扱い」を受けるのだとする。その理由とするところは公務員が「全体の奉仕者」であること、「公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行にあたつては全力をあげてこれに専念しなければならない」ことをあげる。しかしながら、公務員がこのような職務上の地位にあるとしても、同時に公務員といえども労働者であるから、労働者としての側面において、労働基本権が制限される理由となるのか、全く説明はなされていない。
[223] 「全体の奉仕者」とは何か、それが何故に、争議権禁止の理由となりうるか、についてはすでに述べたところであるから、しばらくおくが「公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当つては全力を挙げてこれに専念しなければならない。」ことから、争議権剥奪の必然性が導き出される根拠はどこにもない。(この点について、第四で詳述)
[224] したがつて、これまで述べてきた一連の判例の傾向からみるときに、本来説明されるべき労働基本権を制限する根拠となる、具体的な利益が何であるのか、また、制限を認めるに足る、必要性・合理性がどこにあるのか、については全く述べられていない、ということになる。
[225](ロ) 続いてこの判決は、さらに次のように述べる。「従来の労働組合法又は労働関係調整法において非現業官吏が争議行為を禁止され、又警察官等が労働組合結成権を認められなかつたのはこの故である。同じ理由により、本件政令201号が公務員の争議を禁止したからとて、これを以て憲法28条に違反するものということはできない。」と。
[226] この判決は、「公務員は特別の取扱いを受けることがあるのは当然である。」とした上で、右のように従来非現業官吏が争議行為を禁止されていたのは「この故である。」とする。そして、同じ理由で政令201号による公務員の争議禁止は憲法28条違反にはならないのだ、とする。
[227] これには論理の著しい飛躍がある。「公務員が特別の取扱いを受けるのは当然である」という前提を仮に承認したとしても、その「特別の扱い」すなわち争議権の制限は、どの場合にどのような範囲において何故必要かつ合理的であると解せられるのか、検討されなければならないのであつて、この判決のようにこの点についての説明は全くなく、ただちに、「特別の扱い」の正当性を導き出し、そこから飛躍させて争議行為の禁止の正当性へと発展させていくところに、問題がある。さらにまた、従来の旧労組法・旧労調法による争議行為の禁止と「同じ理由で」政令201号は合憲であるというのである。
[228] しかしながら後に述べるように(第四、(三))旧労組法、旧労調法の公務員の争議権に対する扱いには、それなりに争議権を尊重し、争議権の禁止の範囲を限定しようとする努力がみられるのであつて、政令201号とは本質的に異なるのである。
[229] このように政令201号が合憲であるとするためには、公務員が「特別の取扱い」を受けるからである、とするだけでは、全く説明がないといつてもよい。本来労働基本権を有するべき労働者について公務員なるが故に特別の取扱いをしなければならない、ということからどうして全ての公務員について、全面一律に争議行為を禁止するにとどまらず、さらに刑罰まで科さなければならないのかという点についてである。
[230](ハ) 最高裁判所の今日到達した見解に立てば、公共の福祉とは権利調整の原理であり、したがつて、権利の全面剥奪・処罰はすることはできない。また権利調整の原理とみないまでも判例上、人権の制限は必要かつ最少限度の合理的な範囲にとどめるべきだとするのが一貫した見解である。ところが、ここでは何のために公務員の争議権を制限、禁止されねばならないのか、公共の福祉の具体的内容も明らかにされず、したがつてどこまで制限することが、必要かつ合理的な最少限度の範囲であるか、全く検討も加えられないまま全面的一律に公務員であるという特別の地位にあることからのみ争議行為は禁止され処罰されるのである。このような公共の福祉論なるものは、これまでの判例の一貫した立場からは到底理解することができない。
[231] この点について長谷川正安教授も、この判決は「公共の福祉のためにせよ、基本的人権を部分的に、ある場合にかぎつて制限するのではなく、全面的に、しかも一般的に禁止してしまうことが、判例が新しく到達した原則(たとえば、新潟県公安条例事件判決の原則)に一致するかどうか、はなはだしく疑問である。」(長谷川研究289頁)と述べている。
[232](ニ) 以上のように、きわめて問題のある公共の福祉論を展開してまでも、最高裁判所が政令201号を合憲としたのはなぜであろうか。基本的には、最高裁判所が占領中の公務員のストライキが禁止されていた既定事実と、占領軍による数々の公務員のストライキに対する非難攻撃に影響されるなど、公務員のストライキ権について無理解であつたこと、ならびに、講和直後という、万能の権力であつた占領軍の支配から解放されてまもなく、したがつて占領下の特殊の支配体制――占領法規――への反省が、いまだ確立されていない時代だからであつた。
[233] 事実、政令325号違反事件の免訴判決が最高裁判所から出されたのは、この判決の出されたあとのことであつた(昭28・7・22大法廷判決、刑集7・7・1562)。
[234] 以上のように、政令201号判決がきわめて問題が多いだけに、その後の公務員労働運動の前進、ILO問題の登場などとあいまち、この数年の間に出された公務員法違反事件の一連の下級審判決のなかでは、政令201号判決とは対立する傾向のものがむしろ多く、公共の福祉論の基調において政令201号判例の系譜に属する判決ですら、前述のような代償措置論を採用するなど、忠実に従うものは、ほとんどみられないくらいである。
(2)(原判決)
[235] 政令201号事件判決の存在にもかかわらず、前述のように下級審の一連の判決は、公務員の争議行為処罰条項に対する批判を展開してきたのであるが、このような流れのもとにおいて、原判決はふたたび政令201号事件の系譜にもどり、公務員の争議行為を処罰するために、ふたたび前時代的な公共の福祉論を展開するのである。
[236] 原判決においてまず問題なのは公共の福祉としてあいも変らず「国家、社会全体の利益」なるものが登場することであろう。公共の福祉について確立されつつある「権利相互の調整の原理」とは全く異なる見解であることはもとより、全体の利益の名のもとに、人権を無制限に制約する可能性をもつ概念がふたたび登場するのみならず、その具体的な実態が全く明らかにされてもいない。
[237] さらに進んで原判決は「争議権は勤労者が適正な労働条件を確保するために、労働力取引においてその実質上の対等を維持するために必要な権利である。勤労者はこの団結して労働を売らない権利を持たなければ、その生存を支えるために適正な労働賃金その他の労働条件を取得、維持し得ないのである。」という。
[238] この限りでは、原判決も争議権が労働者の生存にとつて、不可欠の権利であることを認めざるをえない。
[239] ところが次に原判決は、「(公務員)の使用者は住民である。しかも公務員は全体の奉仕者としてその住民に奉仕するものである。そこで公務員の勤務条件は法律または条例によつて適正なものを保障され、使用者たる住民に対抗して労働不売の闘争が禁止されるのである。」とする。
[240] 結局、使用者は住民であり、公務員は全体の奉仕者なのだ、ということに原判決の公共の福祉の内容はつきる(この限りでは、実質的にはこの公共の福祉論は「全体の奉仕者」論と全く同様なのであつて「全体の奉仕者」論についてすでに反論したところであり、また、「公共の福祉」の内容が抽象的であり、実質がない点においては基本的には政令201号判決を批判した部分で述べたところと同様のことがいえるであろう。)
[241] 一体、公務員がこのような地位にあることを前提として認めたとしても、原判決もいうように、「国家社会全体の利益」というもののなかに公務員が入り、その利害調整が公共の福祉であるというのであれば、争議による住民の不利益と公務員の争議権否認による不利益とを具体的の場合について比較衡量することもなく、公務員がこのような地位にあることから、何故に「すべての公務員について一律かつ全面的に」禁止しなければならない合理性・必要性があるというのであろうか。また、「争議行為によつて実際に発生する支障実害の大小、ことにこれと争議行為を禁止されることによつて公務員が蒙る損害の大小を比較して、争議行為の適否、許可、不許可を定めることができない。」と断定できるのであろうか。
[242] ここまでも一律、全面に禁止しなければならない理由は、全く述べられていないのである。
[243] 原判決は公務員については、適正な勤務条件を法律・条例によつて保障しているという。しかしながら、公務員の争議権を奪いつつ、原判決は法律・条例の勤務条件が適正であるか否か、何一つとして検討を加え説明するところもない。またそれが争議権を奪つた代償となりえているかも、説明するところもない。基本的には、後述のように法律では労働者の労働条件を定めえないという自覚の上にこそ争議権が保障された、という歴史的事実には、ふれようともしない。
[244] 結局、原判決は、公務員は全体の奉仕者であり、国家、社会全体の利益の観点からみて、このような地位にあるものには争議権は認めえないとする、判例の流れに全く逆行した、空虚な、そして国家主義的な異端の公共の福祉論のただ、その結論部分のみを展開しているにすぎないといえる。
(3)(総括的批判)
[245] 以上みてきたように,政令201号事件最高裁判所判決や原判決の「公共の福祉」論は、表現はいろいろと異なるものの、結局のところ共通した立場にたつているといえる。
[246] 基本的には、公共の福祉を「全体の利益」「社会・国家の利益」と解し、公務員の特殊性を強調する。これは個に対する全体とみて、基本的人権の個に対し、全体の立場である公共の福祉は個人の人権に優位するものと理解されているのである。公務員の争議権の尊重の精神は全くみられない。このような見解をとるかぎり、「公共の福祉」なるものを「人権を制限する政策上の必要のある場合」と理解する立場と実質的に同一であるといつても過言ではなく、したがつて人権に対する一般的・包括的制限が容易に合憲性を承認されるに至ることはいうまでもない。
[247] 現憲法の基本的人権を制限する理念である「公共の福祉」を以上のように展開する立場にたつとき、旧憲法にあつた「法律の留保」と「公共の福祉」とは、どこに違いがあろうか。旧憲法下において、国民の自由を法律によつて制限する場合にあつても、その法律は「国家・社会の利益」をはかるとの名のもとに制定されたのであろう。公務員の特殊性が強調されるあまり、そのもとにおいて、公務員の全ての権利は否定されかねないのである。
[248] ただ唯一の違いは、このような法律が現憲法のもとでは、裁判所の違憲審査権の対象となることにすぎない。しかしこの点についても、「公共の福祉」をこれまで述べたように漠とした「国家・社会の利益」「全体の利益」として、すなわち結局は「政策上の必要性」があるか否かとして判断される限り、全く自由裁量的なものであり、違憲判断の基準ともいえるものは存在せずに等しく、したがつて「公共の福祉」概念の濫用による基本的人権の侵害から、基本的人権を守ることは不可能なのである。
[249] 違憲審査権は現憲法上司法権の一内容として、新たに設けられたものであつて、現実には人権が問題とされる場合が多いであろう。しかしながら直接には、人権条項について定められたものではない。そうであるとすると、現憲法はその基本的人権保障の側面において比較するとき、旧憲法と何が異なるといえるのであろうか。以上のような「公共の福祉」論は、もはや日本国憲法のもとにおいて到底認めることのできない、アナクロニズムなのであり、人権否認の理論なのである。
[250] 公共の福祉を「国家・社会全体の利益」と解し、公務員の地位の特殊性をいかに強調したとしても、そのことと、公務員の争議権をどこまで制限・禁止できるかということとは、また別の問題であるはずである。
[251] 繰り返し述べてきたように、公務員の地位の特殊性から、その争議行為の制限・禁止を導きだすためには、公務員の争議行為によつて、国民(住民)のいかなる権利(利益)が侵害されるのか、したがつて、その制限・禁止はなぜに合理的かつ必要であるのか、そしてまた、現行法の全面・一律の禁止規定は、どうしてその制限の必要性からみて最少限度のものであるといえるか、十分に説明されなければならない。とくに、なぜ刑罰をもつてしてまで全面・一律に禁止するのか、これこそ問題の核心であつた。それにもかかわらず、以上の諸点について、ついに答えるところはなかつたのである。
(4)(和教組専従事件・最高裁判決)
[252] 政令201号事件判決と原判決の公共の福祉論が、全く批判にたえないものであることは、これまで述べてきたところであるが、当然のことながら、最近に至り和教組専従事件において、最高裁判所みずからが政令201号判決の公共の福祉論の破綻を認めざるをえなくなつてしまつた。
[253] すなわち、和教組専従判決は、
「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと、当裁判所の屡次の判決の示すところである(昭和28年4月8日大法廷判決・刑集7巻4号775頁、昭和25年11月15日大法廷判決・刑集4巻11号2257号等参照)。」
[254] ここでは、政令201号判決等をひいて、労働基本権は制限をうけるのだと説明されているほか、労働基本権は「最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さない」という点が強調されていることに注目されなければならない。これは、まことに当然の事理を述べているのにすぎないが、政令201号判決にはみられない点である。
[255] 続いてこの判決は、
「右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきである。」
として最高裁大法廷山田鋼業事件判決を援用する。ここでは、公共の福祉と団結権等の尊重すべき必要との比較衡量をはかり、両者が適正な均衡を保つよう決定すべきだとする均衡論があらわれているのであつて、公共の福祉をふりかざすことにより、公務員の争議権の全面・一律禁止の合憲性を承認した政令201号判決の論旨は、明らかに否定されたものとみるほかはない。
[256] この和教組専従事件判決が、公共の福祉と労働基本権の適正な均衡を問題とするかぎり、ここからは争議権の全面一律禁止の合憲性は到底認めることはできないものである。
[257] もつとも、この判決は、制限の程度が許容される限度は、立法府の裁量にまかせられるとするのであり、われわれは、後にこの点を全面的に批判したいと思う(第六節参照)。しかし、この判決は「制限の程度が著しく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理で」あるときは格別であるとしているのであつて、このことからも明らかなように、単なる争議権の制限の限度が問題にされるにとどまらず、刑罰による全面・一律禁止にまで及んでいる地公法61条4号の場合には、この判決によつても司法判断の対象たりうることはもとより、単なる「制限の程度」の問題にとどまらず、権利の全面否認であるがゆえに、この点からも違憲とみるほかはない。
[258] こうして、以上の検討のなかから、政令201号事件判決が破綻してしまつたことは、もはや疑いをいれる余地は全くなくなつてしまつた。
(五)(公務員法違反事件に関する下級審の一連の前進的判決)
(1)(全般的特徴)
[259] 公務員法違反事件について出された一連の下級審判決は、政令201号判決の存在にもかかわらず、「公共の福祉」論をめぐつて大きな前進をとげるにいたつた。政令201号判決の抽象的な公共の福祉論(それから導き出される全面・一律禁止論)にとつてかわり、公共の福祉を人権相互間の調整の原理としてとらえ、したがつて争議行為制限の合理性と限界を具体的に検討しようとする傾向がみられるのである。
[260] その突破口は本件一審判決がきり開いたのであるが、その論旨にはまだまだ限界があつた。そのあとをついで、大別して公共の福祉によつては一律全面に公務員の争議行為を禁止する合理性は見出せないという考え(大教組)、あるいは、争議行為といつても公共の福祉に反するものもあるかも知れないが、同時に公共の福祉に反しないものもあるのではないかという個別に考えようとする考え(佐教組、高知教組判決)このような2つの見解があらわれてきたのである。
[261] そして先にもふれたごとく、争議権の無条件剥奪については問題があり、したがつて代償措置がとられるべきだとする点においては、ニユアンスの相違あるいは結論の相違はあるものの、ほとんどすべての判決が一致したのである。
[262] また、公共の福祉を国家・社会全体の利益と解しつつも人権の制限には、必要・最少限度にとどめるべきだと解すべきであり、したがつて、単に禁止するにとどまるならともかくとして公務員法の規定のように刑罰という、きわめて苛酷な処罰をもつてのぞむことは、憲法上問題があるという、きびしい批判を加える全農林判決があらわれてきたのも当然であつた。
(2)(本件一審判決)
[263] 本件の一審判決は合憲論の立場にたちつつも、もはや古めかしく、説得力のない、政令201号判決の論理を採用することはできなかつた。そこでこの判決は、教育公務員労働者の争議権と、国民の教育を受ける権利の衝突する場合としてとらえ、「いずれの権利を優越させるかは、その権利の性質により、どのように決するのが国民全体の利益にもつとも合致するかを考慮して決すべきである。」と判断した。一審判決の「公共の福祉」論とは、人権相互間の調整原理ではあつても、基本的人権の上にあつて、これを個に対する全体の立場から人権を制限する政令201号事件判決流の「公共の福祉」論ではなかつたのである。
[264] このように、公共の福祉の理論の提起の仕方においては、正しい展開をとげながらも、本件一審判決は、教育権の前において争議権の譲歩を承認し、教育公務員の争議権の制限・禁止を合憲としたのである。すなわち「元来争議権は、労働者の適正な労働条件を確保する目的で認められるものであるから……」教職員の争議行為が禁止されても、他に適正な労働条件が確保される手段があれば、これを禁止し、国民の教育を受ける権利を保障することが国民全体の利益になるのだ、という見解であつた。われわれは、この判決が争議権行使の目的が他の手段によつて容易に代りうると、安易に考えていること、ならびに、たとえ教育を受ける権利が重要であるとしても、このような、国民の生命・身体に対する侵害など「公共の困苦」をもたらさない法益侵害を理由として、争議権禁止の結論を導き出したことについては、大きな不満と批判をもつている。(この判決は結局、あおりの限定解釈を通じて無罪の結論を出したのであるが、われわれは、ここに一審判決の公務員法の争議行為処罰の規定に対して、強い批判をもつてなしたとみるのである。なお、本件一審判決批判については、第五、(一)参照。)
[265] しかしながらこの判決は個別的権利相互間の具体的な対立のなかで、権利相互の調整を図ろうとした。その結果、この判決は必然的にその論理の展開過程において、抽象的・一般的な公務員の争議権を「全体の奉仕者」という身分から問題にするのではなく、具体的に教育公務員の争議権を、その教育という職務から個別に判断しようとし、また争議権の全面・無条件禁止ではなく、禁止に代わる代償措置の確保を検討するに至つたのである。こうして政令201号事件の最高裁判決の「公共の福祉」論を全面的にふみこえて前進する、新たな理論の展開がみられるに至つた。
(3)(佐教組・北川村教組判決)
(イ)(佐教組判決)
[266] 続いて佐教組判決は「憲法にいう『公共の福祉』とはまさにこの人権相互間の矛盾衝突の実質的に公平な調整すなわち人権相互の統合的な調和の原理そのもの」であると述べたうえで、人権を制限・剥奪する法規の合憲性の判断にあたつては、「人権に加えられている制限の内容を具体的に検討して、それが人権の実質的に公平な保障すなわち統合的な調和を確保するために必要な制限剥奪であるかどうかを断じなければならない。」とした。このような見解にたつて争議権を考えてみたとき、「勤労者にとつて争議行為は、その団結の力で使用者と対等の立場に立ち、有利に団体交渉を展開し、適正な労働条件を確保するための唯一の効果的な手段であるから、その手からこれを剥奪するには相当効果的な代償措置が施されなければならない。」とした。ここにおいては、本件一審判決と同じ立場に立ちつつも、争議権の重要性が強調され、安易に代償理論を持ち出さないという正しい現実認識がみられるに至つたのである。そしてこの判決は争議権を奪つたにもかかわらず「代償措置は争議権に代るには必ずしも十分であるとはいえない。」と批判を加えている。さらに、この判決は、本件一審判決が単に教育公務員だけをとりあげたのに対し、地方公務員を全般的に問題とし地方公務員といつても多岐多様であり、その争議行為も各種の態様がある。したがつて、「地方公務員が争議権を剥奪されたことによつて具体的に蒙る不利益と住民が地方公務員の具体的な争議行為によつて受ける不利益とを比較考慮するとき住民の受ける不利益よりもはるかに少ない場合もあるうる」とし、公務員の争議行為であつても公共の福祉に反しない場合もあると判断したのである。
[267] 都教組判決の公共の福祉論を、さらに深く具体的、実証的に展開したのが、この佐教組判決であつた。
(ロ)(北川村教組判決)
[268] 北川村教組判決もまた、佐教組判決と同じような見解にたつて次のように述べている。
「地公法61条4号につき考察するに同規定を先に見たように、一般的一律的にすべての争議行為につき、その参加者をほとんどすべて処罰するものと解するならば、憲法28条・18条・31条に違反し、違憲の規定であると断ぜざるを得ない」「それで本条の処罰規定が合憲性を取得するには、先ず、その目的たる争議行為の可罰性そのものが合憲性を許容される場合に限定されるものと解するを妥当とする」「地公法61条4号の違法な行為とは、結局同法37条1項前段の争議行為中右の可罰的違法性ある争議行為を指称するものと解するを妥当とする」と。
[269] (ハ) 以上のような見解にたつて、佐教組、北川村教組判決は、いずれも無罪の結論を生み出していつた。
[270] 公共の福祉とは何かについて、これを正しく理解し、その上で公務員法を検討するならば、公務員の争議行為を全面・一律に、しかも刑罰をもつて禁止する合理性、必然性はどうしても見出すことはできない。そこで、違憲であるといいきることをさけるためには、公務員法上も処罰されない場合もあるのだ、と解釈せざるをえない。それが、佐教組・和教組判決である。ところが、実定法上、このような区別がないのに、区別をつけることそのものが不自然なのであつて、以上の判決のように、無理をして合憲性を維持するよりは、全面・一律に刑罰をもつて禁止するようなことは、公共の福祉でも説明できない、だから違憲なのだ。とした方が、すなおな解釈であつた。大教組判決は、こうした立場をとつた。
(4)(大教組判決)
[271] 大教組判決は、
「公務員のそれであろうと一般企業のそれであろうとも、およそ争議行為である限り、直接の使用者ばかりでなく、一般の公衆にまで多かれ少かれ迷惑を及ぼすのが通例である。」「われわれの現実の社会においては使用者による強制労働を容認するか、さもなければ労働者の争議権を承認するか、そのいずれかを選択しなければならないのが実際であつて、労働者にしてみれば憲法28条の保障する争議権は、自己の経済的地位の維持向上のための有効な唯一の手段といつても言い過ぎではないであろう。」
[272] ところが、地公法61条4号はこのような公務員の争議行為を処罰するのである。そして、公務員といえども多種多様なのである。
ところが、「(公務員の)争議行為によつて地方住宅の蒙るべき不利益も一様でなく、中にはその不利益のとるに足らぬと思われるものも存在する。かように多種多様の職員の争議行為を一律かつ全面的に刑罰をもつて禁止しようとすることは、公共の福祉を基本的人権相互間の矛盾衡突調整原理と解する立場から到底是認し得ないものといわなければならない」と。
[273] こうして、大教組判決は地公法61条4号の憲法28条違反を明らかにしたのである。争議権を正しく理解し、また、公共の福祉とは何かについて直ちに憲法にのつとつて解釈するかぎり、このような結論が導き出されるのは、まさに必然でもあつた。

第三(公共の福祉と争議権)
(一)(生存権的基本権と公共の福祉)
[274] 生存権的基本権は、公共の福祉によつて制約される権利ではなく、逆に公共の福祉の理念を生存権的基本権が権利としてその存在を主張するために、それと対立する自由権を制限せしめる機能を生みだしていることに注目しなければならない。
[275] すなわち、すでに述べたように、公共の福祉は権利相互間の調整原理として登場した。それは、当初においては自由権相互の関係であつた。しかし、やがて権利の平等は形式的なものにとどまり、経済生活の側面から、各人の自由と権利に実質的には著しい不平等が生ずるに至つたとき、国家が国民の生活に積極的に関与し、実質的な平等を期するため社会権の確立を図るのである。社会権の確立・発展は必然的に財産権をおかしていく。これこそ、社会権の登場の段階における公共の福祉の理念なのである。
[276] 憲法29条がとくに「公共の福祉」を規定したのは、日本国憲法に社会的基本権が保障されたその反面であるといつてもよい。
[277] 労働基本権についてみれば、すでに最高裁判所の職安法違反事件についてのところで述べたように、有料職業紹介事業という職業選択の自由を禁止する公共の福祉とは、まさしく労働者の利益そのものであつた。また「財産権一般ではなく、資本家の財産権の制限が、憲法第28条が勤労者の諸権利を認めたことにすでにある程度内在している」(長谷川研究261頁)のであり、「団結権の実現自体が、市民的自由、市民権利の制限の上に成立つものなのである」(註解上537頁)。
(二)(争議権の歴史的・社会的性格)
[278] 争議権確立の歴史をみるとき、それは周知のように、激しい弾圧との闘いの連続であつた。労働者の団結・争議行為は、国家権力や使用者の弾圧によつて、破壊され、刑事罰が大量に加えられ、大量の首切りが行なわれた。それにもかかわらず、労働者の団結は必ず、日ならずして再建され、争議行為参加者の数もまた次第に増加していつた。
[279] この歴史的事実こそ、争議行為が労働者にとつて生活を擁護し向上させるための唯一、不可欠の効果的手段であることを物語つている。その実行に対し刑事罰・民事罰がどんなに加えられようとも、争議行為を行なうことなくして、労働者は自らの生活を守りえなかつたのである。それを誰よりも知つているのは労働者であつた。いうまでもなく、労働者階級によつて唯一の商品は労働力なのであり、それはまた唯一の財産でもある。この商品を適正な価格で売却すること、そのために存在する手段が争議行為であり、これを権利として承認することこそ、公共の福祉に合致すると、憲法は考えているのである。争議行為の行使による労働力の適正な価格決定、それによつて実質的平等が実現されるのであり、したがつて、財産権を制限する公共の福祉の一内容として、争議権の承認もまた予定されているのである。
[280] いうまでもなく、労働基本権は、憲法25条の生存権規定の具体化であり、生存権規定が真に実効をあげうるか否かは、労働基本権に大きくかかつている。このことは、最近に至り、労働者階級が全産業入口の過半数を占めたことからみても明白であろう。かくて労働基本権が正当に保障され行使されているかは、国民の過半数の生活と利益にかかつているといえるのであり、労働基本権の保障こそが公共の福祉に合致するといわれるゆえんである。
[281] われわれは、その際次のことに留意しなければならない。すなわち、労働基本権の保障が真に実効あるためには、一部の労働者にだけ保障されているのではなく、すべての労働者について保障されているのでなければならない、ということである。労働力という商品をとりあげてみた場合、それ自体は普遍的性格をもつ、抽象化された価値である。したがつて、労働力という商品の価値は、結局のところ一般的には社会的水準によつて影響されるのであつて、ある企業における経営者と当該組合の団交においてのみ決定されるのではない。だから、一部に労働基本権の保障されていない労働者が存在すれば、それは社会的な価値である労働力の評価にマイナスをもたらすのである。したがつて、公務員の争議行為の禁止は、公務員の労働条件を低下させるにとどまらず、民間産業の労働者の労働条件の低下をも必然的にもたらすのである。
(三)(争議行為と代償措置)
(1)(争議権と労働条件の決定の機能)
[282] これまで争議行為は労働者の生活を擁護し向上させる唯一・不可欠の手段であると、われわれは主張してきた。しかしながら、本件一審判決などにみられるように、争議行為が適正な労働条件を確保する目的で認められるのだという前提から出発して、他に適正な労働条件が確保される方法があれば、争議権と他の自由との比較調整の観点から、争議行為を禁ずることもできる、との見解も決して少なくはない。公務員の争議行為を禁止するに当たつて、代償措置理論は、今日錦の御旗として使用される危険をもつに至つている。
[283] しかしながら、はたしてそうであろうか。われわれは、争議権の機能に実質的に代わりうる代償措置なるものは、いかにそれが完備しようとも、ありえないと考える。労働者が争議権を背景にした交渉をしなくても適正な労働条件が決定されうるのだとすれば、すべて立法によつて決定すればよく、その代わりとしてすべての労働者から争議権を奪うべきだという暴論すら登場しかねないであろう。(そのような意見が、民主国家では、ナチス・ドイツのように強力なものとして出てこないのは、そのようなことがあまりにも無理だとわかつているからである。ところがその無理が公務員についてだけ、堂々と押しつけられているのである。)事実、国家が労働者の争議行為を鎮圧する目的をもつて、いく度か労働条件を含めた社会立法を制定した。それにもかかわらず、争議行為が消滅することはなかつたのである。
[284] 歴史的事実が、適正な労働条件は労働者が力を背景にして使用者と交渉してこそ獲得されうるのだ、という平凡な真理を教えている。
[285] 憲法27条2項が「賃金・就業時間・休息・その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」としつつ、なおかつ憲法28条で労働基本権の保障をしているのは、この歴史的事実に学び、法律で定めた勤労条件の基準すらも、労働基本権の存在があつてこそ、守り抜かれるものだ、と考えているからにほかならない。
[286] 労働基準法が、労働者の労働条件の保障を規定しつつ、2条において、労働条件は労使対等できめるべきだと定めているのも、このためである。さらに極言すれば、労使の力関係のなかで決定される労働条件こそ、適正な労働条件であり、第三者がいかに客観的な条件を定めようとしても適正な労働条件になるわけがないのである。
(2)(団結の日常的機能)
[287] ところで、団結活動は日常的活動である。単に、1年に1度賃金その他の労働条件を決定するにとどまらないからこそ、団結体を組織する意義がある。そして団結体は、一度決定された労働条件が職場の末端においても適正に実施されているか日常的に点検し、実施されていない場合においては実施をせまり、あるいは新たに発生した作業条件に対応する労働条件をその都度決定させるのである。さらにまた、日常不断に発生する使用者の手による団結侵害と闘わなければならない。そしてこれらの闘いは短期間に適確に処理されねばならない。このように、労働組合が使用者との関係にはたすべき機能は複雑多様なものである。
(3)(争議権の現実的機能)
[288] このような労働組合の闘いにおいて、労働組合はあるときはストライキを現実に実施してその要求の実現をはかる。だが、労働組合のはたすべき役割は日常的に限りなくあるわけだから、その都度ストライキに訴えるわけにはいかない。にもかかわらず、争議権が存在していること自体が、使用者に対する圧力となつて、要求は実現されるわけである。「抜かれざるスト権」が日常の労使関係において、使用者側の専断をチエツクしているのである。したがつて行使すべきストライキ権がなければ、使用者が労働者の要求をはねつけがちであることはいうまでもない。
[289] 以上のようにストライキ権は、それが現実に行使されると否とにかかわりなく、労働者の利益を守る唯一の武器として機能していることをみた。そして、このように、多様な日常的に次々に発生する諸要求をその都度短期間に解決するのが、争議権を背景にした団結の機能だとすると、これに代わるべき要求の適正な方法などというものは考えられる余地がない。
(四)(労働基本権の社会的意義)
[290] すでに述べたように、わが国の産業人口の過半数を占める労働者階級,この階級は現実的に(組織されている場合)あるいは潜在的に(未組織労働者)労働基本権のにない手である。
[291] 未組織労働者が相当多数存在し、みずからの権利を主張しえない結果、それはわが国の労働市場全体に大きな影響を及ぼし、組織労働者もまた低賃金、低い労働条件に押えられている。そのうえ、日本の組織労働者は、その相当部分を占める、スト権を奪われた公務員、公共体の労働者に対する第三者機関の低額の賃金決定に影響されている。日本の労働者階級の低賃金構造の主要な原因はここにもある。また、日本の産業人口の過半数を占める労働者の貧困が、日本の社会全体に及ぼしている影響力は図り知れないものがある(国内購売力の貧困が日本産業の不安定性の一原因でもあるといわれている)。
[292] 以上の点から明らかなように、労働基本権は、労働者が唯一の財産であり商品である労働力を適正に処分し、人間らしく生きるための不可欠な条件なのである。労働者の人間としての解放の第一歩は、労働基本権を具有することから始まる。労働者は、そのときにこそ、憲法上の自由権を行使することができるのである。人間としての生活の最少限度も確立していない状況下にあつて、自由権参政権の自覚された行使は期待できるものではない。
[293] そうしてみると、労働者階級にとつて、労働基本権を奪われるということは、国民の憲法上の自由権参政権などの諸権利をも実質的に奪われるということなのであり、労働者階級が国民の多数を占める状況のもとで、このようなことは日本の民主主義にとつて大変由々しい問題だともいえるのである。
(五)(労働基本権の不可分的な一体性)
[294] 団結権・団交権・争議権は、総称して労働基本権、あるいは一口に団結権と一般によばれているように、それぞれが独立の権利であるとともに、相互に関連した不可分一体の権利としての実態をもつている。憲法上の労働基本権の保障とは、団結権・団交権・争議権をこのように不可分・一体の権利として保障したものにほかならない。
[295] したがつて、団結権・団交権を保障したとしても、争議権を制限・剥奪するならば、それは労働基本権を保障したことにはならないことはもとより、団結権・団交権についても真に保障したことにはならない。
[296] すなわち、労働者が団結するのはその要求を貫徹するためにある。その要求は使用者との交渉(団交権の行使)によつて実現される。けれども団体交渉が他の単なる交渉と異なるのは、争議権という労働者の実力行使を背景にしていることにあり、労働者がその実力行使を背景にして、はじめて労使が対等の立場――交渉力――にたつ、とするのが労働基本権保障の理念である。
[297] したがつて、団体交渉権が保障されないもとにおいて、どんなに団結権が保障されていたとしても、その団結権は交渉権を欠くがゆえに、真に保障されたことにもなるものではない。さらにまた、争議権の保障のない団交権は、団交権の本質的特性である労働者の実力行使(争議権の行使)の背景を欠くものであるから、交渉力は弱体なものとなつて、交渉権は真に保障されたことになるものではない。
[298] このように、争議権の制限・剥奪は実質的には、団結権・団交権をも制限・剥奪するにひとしく、したがつて、労働基本権そのものが、一体として制限、剥奪されるに至る。
[299] 労働基本権は、労働者が人間としての生存するうえにおいて不可欠・唯一の権利として歴史的、社会的に形成・確立せられた権利であるから、争議権の制限・剥奪は、労働者の人たるに不可欠の権利そのものの制限・剥奪を招来するのである。
[300] そうしてみるとき、地方公務員法は労働協約の締結権を奪うものであつて(地公法55条2項)、交渉権そのものを制限するのみならず、刑罰をもつて争議権の行使を全面的に禁止するものである。
[301] ここに至つては、もはや地方公務員法は単に争議権の禁圧法制たるにとどまらず、地方公務員労働者の労働基本権を実質的には全面的に抑圧するにひとしい。
[302] 私たちが、地方公務員法の公務員の争議行為に対する刑罰の規定を問題にするのは、以上のような労働基本権の特性にも基づくものである。
(六)(争議権の制限は許されるか)
(1)(労働基本権の重要性)
[303] これまで述べてきたように、労働基本権は労働者が人間として生存するうえにおいて、唯一・不可欠の権利として、歴史的・社会的に形式され確立されてきた権利であり、そのような事実のうえにたつて、憲法28条が保障した権利である。その権利は、また労働者が憲法上の諸権利を行使し、自由を享受する実質的な前提をなす。
[304] したがつて、基本的人権が「侵すことのできない永久の権利」(憲法11条)として保障され、「最大の尊重を必要とする」(同13条)とされている、わが憲法のもとにおいては、労働基本権の保障については、とくに留意され、尊重されなければならない。
(2)(争議権の特性)
[305] 労働基本権、ことに争議権は歴史的にみても、その確立の過程において、幾多の苦難に直面してきた。それは争議権の行使の及ぼす社会的な影響が決して少なくなかつたことに基づく。
[306] すなわち、それは、使用者の利益・自由を制約し、また第三者に対しても多かれ少なかれの影響を及ぼしたからでもあつた。こうして争議行為は、常に非難中傷をあびせられてきたのである。
[307] このように争議権は、使用者と第三者の利益・自由と対立する宿命をもち、その結果、争議権の行使に対する非難と抑圧の意欲との対決のなかで、形成され、確立されてきた権利なのである。「公共の利益を害する、したがつて、制限・剥奪せよ」との声が常にあびせられやすい権利なのである。だからこそ、逆に労働基本権の保障もまた、常に強調されなければならないのである。
[308] 争議行為は、多かれ少なかれ、第三者や広く公衆に迷惑をかける行為である。このような理由から争議行為は制限され、禁止されてきた。しかしながら、歴史の過程において争議行為がそのようなものであるとしても、労働者の生存にとつて唯一・不可欠の権利である以上、権利として認めざるをえなくなり、争議権の確立をみるに至つたのである。
[309] 以上のような争議権確立の歴史をみるならば、争議権はその行使が一般公衆に対して迷惑をおよぼすことのありうることを当然の前提として予定し、そのような権利として承認されたものであることが明らかとなる。
[310] 日本国憲法が争議権を保障するかぎり、日本国憲法下の国家・社会の体制のもとにおいて、争議権が行使される結果、社会・公共に対する影響が生ずることをも容認されているのである。
(3)(争議権制限の原則)
[311](イ) このように、争議権は労働者にとつて唯一・不可欠の人権として尊重されるべきであり、その行使が他の利益を害することのありうることを前提として承認された権利である。
[312] 争議権とはこのようなものであるから、その制限にはつとめて慎重でなければならないのであつて、単に公衆が迷惑をする、第三者が困惑する、というだけでは本来的に制限できない。
[313] すでに述べたように、公共の福祉とは、人権相互の調整の原理であるから、争議権といえどもその行使が、単に公衆に迷惑をかけるという限度をこえて他の自由・人権を著しく侵害する場合には、その本質的な権利が害されない範囲において必要・最少限度の制限を受けることは、まことにやむをえないところである。
[314](ロ) それでは、どんな場合に制限されうるのであろうか。
[315] 私たちは次のように考える。
「国民の日常生活に不可欠の事業であつて、かつ、その事業における争議行為が、具体的に国民生活に著しい支障を与え、あるいは支障を与えることが明白な場合」であると。
[316] その制限の態様も、程度・方法・範囲において、必要・最少限度にとどめるべきであり、したがつて、一律・全面禁止はもちろん許されないことはいうまでもない。
[317] 学説上も、労働基本権を公共の福祉によつて制限できるか否か争いはあるものの、争議権の禁止を許容するものはないといつてもよい(蓼沼・新講座参照)。
(4)(労調法の争議制限)
[318] 以上の点について参考となりうるのは、民間労働者の争議行為に関する規制としてある、労働関係調整法に基づく、公益企業に関する争議規制の規定である。
[319] すなわち労調法8条は次のように定める。
 この法律において公益事業とは、左の事業であつて、公衆の日常生活に欠くことのできないものをいう。
一 運輸事業
二 郵便、電信、電話の事業
三 水道、電気、瓦斯供給の事業
四 医療又は公衆衛生の事業
 内閣総理大臣は前項の事業の外、国会の承認を経て、業務の停廃が国民経済を著しく阻害し、又は公衆の日常生活を著しく危くする事業を、1年以内の期間を限り、公益事業として指定することができる。
[320] この制限の根拠が「公共の福祉」であることはいうまでもないが、労調法はこのように公共性の強い事業を具体的に列挙し、あるいは新たな公益事業としての認定にあたつては厳格にその要件を定めているのである。
[321] 労調法はまた、公務員法のように全面的・絶対的に争議行為を禁止し、これに違反する行為を処罰するものではなく、予告期間の制度(同法37条)、緊急調整中の争議行為の禁止(同法38条)等の方法、程度で、争議権に若干の制約を加え、これに反した場合にはじめて処罰され、しかも、その処罰は原側として団体罰であり、罰金であること(同法39条、40条)に特に留意されねばならない。このように同法は争議行為について一般的に承認しながら、その公共性の故に行使にあたつて予告せしめ、また、緊急に調整を必要とする具体的な理由のある場合に限つて、しかも調整の間のみ争議行為を禁止するのである。
[322] 以上のように、公益事業の認定は「公衆の日常生活に欠くことのできないもの」であるかどうかの公共の利益に対する具体的必要性からなされ、しかも争議行為は一般的・原則的には承認され、ただ、公共の福祉の観点から、その行使にあたつて、一定の制限が附与されているにすぎない。
[323] そして、すでに述べたように争議行為が禁止されるのも、具体的な個々の争議が、国民生活を著しく危くするおそれあるとき、一定期限に限つており、その罰則も団体罰(罰金)なのである。
[324] 私たちは、労調法が憲法28条との関係において、憲法の許容する争議権制限の限界内にあるか、疑問をもつている。しかしながら、労調法はそれなりに、以上みてきたように、争議権の制限には慎重な配慮を行なつているのであつて、公共の福祉による制限の限界は、少なくとも、労調法の線にとどめられるべきである、と考える。(公務員の場合といえども、全く同様であることは後述するところである。)
(5)(ドライヤー報告の争議制限の見解)
[325] 争議権を制限するに当たつて、その根拠となる「公共の福祉」とは、単なる抽象的理念であつてはならず、争議権を制限する具体的・合理的な必要性があることを要するというのは、単に労調法だけではなく、ストライキ権の制限に関する国際的な見解でもある。
[326] すなわち、ドライヤー委員会の報告書も、ストライキを禁止できるのは「真に必要不可欠であり、ストライキが国民の正常な生活に重大な障害を与える経済分野」(2136項)、あるいは「公共の困難を惹起するが故に、真に不可欠な事業」(2139項)においてのみ、ストライキを禁止することができるものとしている。以上は、今日における労働基本権に対する合理的制限の基準についての国際的水準を示すものであつて、憲法28条の解釈においても、これに反するような基準が合理性をもつと考えることは到底できない。

第四(公共の福祉と公務員の争議権)
(一)(公務員の争議権の制限を考えるうえでの基本的前提)
[327](1) これまで、争議権は歴史的・社会的に形成・確立されてきた権利であり労働者にとつては、不可欠の基本的権利であることを明らかにしてきた。公務員も労働者である限り、争議権がそのような本質をもつものであることには変りはない。
[328] 争議権行使は公務員の争議行為であれ、民間労働者の争議行為であれ、単に使用者との関係をもつにとどまらず、第三者に対しても、一定の影響を及ぼすことには、全く変りはない。その影響の程度――ある場合には一般第三者の受ける迷惑――もまた、公務員、民間労働者の争議行為のいずれであるかによつて異なるものではなく、どのような業務に従事する労働者の争議行為であるか、によつて異なるだけなのである。
[329](2) したがつて、公共の福祉に基づき争議権の制限が検討されるとき、その対象となる争議行為の主体が公務員であるか、民間労働者であるかによつて本質的に異なるところはなく、ただいかなる業務に従事する労働者の争議行為であるか、それによつて、人権がどのように侵害されあるいは侵害されようとするのかが本質的問題なのである。
[330] もとよりわれわれもまた、民間労働者と比較するときに、公務員労働者の場合においては、職務の性質上争議行為を何らかの意味で規制されてもやむをえないとみられる労働者が、相対的に多いことを否定するものではない。
[331] しかしながら、われわれが基本的にまず問題とするのは、大教組判決も指摘するように、一般職地方公務員のなかには、「警察消防職員もあれば、市営運動場の管理人も含まれるというように、本来の地方行政作用を担当或いは補助する者だけでなく、所謂現業公務員に至るまで、職務の種類と責任を問わず」多種多様だという点なのである。そうであるのに、いかなる業務に従事する公務員労働者による争議行為であり、したがつて地方住民がどのように具体的な不利益をこうむつたか(あるいはこうむらなかつたか)を検討することなく、公務員であるがゆえに、全面・一律にその争議行為を禁止し、あまつさえ、刑罰を加えていることについてなのである。
[332] 一方の極にいる公務員労働者が、その生存にとつて必要・不可欠な基本権を刑罰をもつて禁止され、しかも後述のように、その代償として適正な勤務条件を確保するための有効な手段も講ぜられていない、それなのに、刑罰で一律・全面に争議行為を禁止してしまうならば他方の極にある住民の側では、不利益を受けたともいえない、あるいはそれが軽微である場合もありうるのに、ただ公務員のみが争議権を奪われるという一方的結果となるのである。このような一方の権利のみがいちぢるしく、害される権利の規整などということは公共の福祉を人権相互間の調整原理とみる観点からは、到底許されるべきものではない。
[333](3) それでは、われわれがこれまで一貫して批判してきた、公共の福祉を個に対する全体、あるいは「国家・社会の利益」と解する立場からは、当然に、公務員法の争議行為処罰の規定は許されるとみるべきなのであろうか。われわれは、このような公共の福祉論をとつたとしても断じて許されるべきではない、と考える。
[334] すなわち、すでに述べたように、どのような公共の福祉論にたつても、基本的人権の尊重が憲法の基本原理であることを出発点として考えるべきなのであるから、原判決ですら認めるように、労働者の争議権は十分に尊重しなければならないのである。したがつて、「国家・社会全体の利益」を尊重しつつ、また一方、争議権を尊重するということになれば、相互の関係においては、互譲の精神を貫くことが必要となり、他方を一方に、全面的に優越させることはできない。そのためには、抽象的・画一的に両者の関係を決定することなく、具体的・実質的に考察を加え、争議権尊重の本質を害することのないよう、全体の利益が侵害される程度に応じて、争議権に対して必要・最少限度の規制を加えれば足りるのである。こうしてみると、公務員法の争議行為の処罰規定は、以上のような公共の福祉論に立つても、全面・一律に禁止した点においてまず基本的に問題があり、さらにすすんで、互譲をせまつた一方の権利である争議行為に処罰まで加えるに及んでは、到底合憲とは解しえない。
(二)(公務員であることは、争議行為を制限・禁止する理由となるか)
(1)(問題の出発点)
[335] 先にも述べたように原判決は、公務員の争議行為処罰の理由として、「公共の福祉」をあげる。けれども、公務員の争議行為を禁止する実質的な根拠――必要性・合理性――については全くふれることなく(ふれることができなかつたというのが正確であろう。そこにふみいれるかぎり、原判決は根底からくずれさるからである)、結局のところ、公務員である身分にその理由を求めざるをえなかつた(身分に求めること、それは結局全体の奉仕者論に帰着するのであつて、ここでは批判するかぎりではない)。
[336] しかし私たちは、公務員としての身分にあるがゆえに、公務員労働者の争議行為が公益を常に侵害するものであり、全面・一律に禁止し処罰しなければならない実質をもつものであるのか、公共の福祉論の基盤にたちかえつて、検討しておかなければなるまい。私たちは、今日の政府はどのような役割をはたしているのか、したがつてそこに働く公務員は一体どのような業務に従事しているのかをまず明らかにしたい。その上にたつてさらに私たちは、公務員の業務が民間産業に比較し、常に公益性の強度なものといえるのか、検討を加えなければならない。
[337] 以上の検討のなかからこそ、公務員なるがゆえに、いかなる業務に従事するとにかかわりなく全面・一律に刑罰をもつてその争議行為を禁止される必然性・合理性を有するかは、おのずから明らかになるであろう。
(2)(今日の公務員の業務の多様性)
[338] もともと近代国家は、初期の段階において、夜警国家思想に基づき、国家の機能を最少限度の治安・行政作用にとどめることを本来の使命としていた。国民の自由権を侵害しないよう配慮することこそ国家の責務であつた。したがつて、この段階においては、公務員は直接・間接・権力的行政に関与していたのである。今日の公務員に例をとるならば、警察・消防・刑務所などに勤務の治安関係の公務員および国家・地方各官庁の行政作用を担当・補助する公務員がそれである(以下、これらの業務を治安・行政作用とよぶことにする)。
[339] しかしながら、20世紀に入るとともに、国家は積極的にその機能を拡大し、社会生活の広般な分野にまで介入するに至つた。ことに、経済活動における国家の積極的な関与・介入は著しく、国家が経済活動に積極的に介入するとともに、巨大な産業も国家との結合を積極的につよめ、ここに経済学上、国家独占資本主義段階といわれる時代を生み出すに至る。
[340] さらに国家は、経済生活のみならず、教育・文化・体育・科学研究など、さまざまな分野にまで積極的に進出し、高度に発達した文化社会における国民の期待に答えるに至る。
[341] ここにおいて、国家は、国民生活のすみずみに至るまで、その機能を及ぼすのであり、治安行政作用にとどまることなく、その機能は、経済・教育・文化等にまで及んでいるところに、現代国家の特質がある。
[342] このような現代国家の機能は、そのうち本来国家のみがはたしうる治安・行政作用を除き、本来、民間産業がになつていた分野であり、したがつて国家機能の拡大によつて民間産業は必ずしも排除されるものではない。したがつて、経済・文化・教育・体育・科学研究などの分野において、官・民の競争・混在を生ずる。
[343] 国鉄に対する私鉄が、公立学校に対する私立学校が、公立の公会堂・体育館・科学研究所・美術館に各民間のそれが対応する。そして、留意すべきことは非営利的社会団体の発展とともに、これらの民間諸施設は、必ずしも公立の非営利性に対し、営利性を基調とするものではないということである。逆に、公立諸機関は、今日独立採算の側面を強化しているのである。したがつて、官・民の両企業体は公共性や営利性の有無では区別できなくなる。
[344] 今日の公務員とは、単に治安・行政作用に従事する者のみならず、以上あげた国家機能のあらゆる分野において従事する労働者を全て包含するのである。
[345] 以上のような治安・行政作用を除く諸分野における政府の諸機関に働く公務員には争議権はなく、民間労働者にある、という差別を合理的なものとして認める必然性は全くない。一方が公益を害し、他方が害さないということはありえないのである。そして事実、そのほとんどの分野の諸活動は、その停滞が公益に重大な侵害を及ぼすものではない。
[346] したがつて、私たちは次のように考えざるをえない。
[347] 公務員といえども、今日そのはたしている分野は多種多様であり、かなりの公務員が、民間産業でも行なつていると同種の業務(鉄道・教育・各種研究機関・文化諸施設など)あるいは本来民間産業として行ないうる業務(政府の監督のもとに行えば足りるもの――専売、郵便、電信・電話など。酒造販売は民間企業が行ない、税金のみを徴収しているが、これと同様の形態で行ないうるであろう)に従事している。少なくともこれらの公務員の場合には、争議行為の制限はなしえず、仮に制限はできても、全面禁止はできない、と考える。(三)で述べる、旧労調法の公務員の争議行為の規制もこのような見解にたつものであつた。
(3)(政府関係・労働者の身分の多様性・公共性)
(イ)(多様性)
[348] 以上のように、政府が国民生活の経済・文化等の諸分野に積極的に進出し、介入する際、関与する形態は必ずしも一様ではない。
[349] 政府(または自治体)の各部署が直接になう場合(たとえば、教育、厚生各省附属の研究所)、公社が設置さめる場合(電々公社・専売公社・国鉄など)、あるいは、各設置法案に基づき、また政府投資による公団、公庫、特殊法人が設置され担当する場合(日銀、道路公団、住宅金融公庫、住宅公団)などがあり、いずれも政府の統轄のもとに運営される。
[350] これらの諸機関の大部分が政府直轄であり、あるいは公社、公団、公庫のいずれかである必然性は全くない。たとえば、郵便事業は郵政省に属しているが、郵便に関する公社、あるいは公団であつても、差しつかえるところはない。あるいは、酒税のように、民間委託の場合も考えられる。逆に住宅公団のになうべき住宅政策の一環としての住宅建設・供給は、建設省の現業部門としても成り立ちうる。
[351] そうしてみるならば、政府の文化・教育・経済的諸側面にわたる活動をどのような機関にゆだねるかは、結局のところ、政策上の理由によるものであり、必然性をもたないということになる。
[352] 以上のように、いかなる業務を、政府直轄にするか、公企体にゆだねるか、公庫・公団の業務にするかが政策上のものだとすると、ある業務につく労働者は政策次第で公務員になり、公企体職員になり、あるいは争議権のある政府関係団体職員となる。このように、労働者の身分は政策上の便宜で変るのであり、それとともに争議権の扱いも全く変わる。
[353] このようなものである以上、公務員だから、公共の福祉によつて争議権を奪うのだ、という主張が合理性をもたないことは明白である。
(ロ)(公務員の業務の公共性)
[354] これまで、治安・行政作用を除く、政府の諸施策については、政府が政府直轄の業務とするか、公企体、あるいは公団・公庫・特殊法人の業務とするかは政策上のものにすぎず、必然性はないことを明らかにしてきたのであるが、どの機関にまかせるかの政策決定に当たり、公益性の強弱は必然的なものとして反映されているのであろうか。もし反映されているとするならば、それらの諸機関に働く労働者の争議行為の扱いに段階をつける、それなりの合理性があるといえるかもしれない。しかしながら現実には以下のごとく全く反映されていないといつてよい。
[355] たとえば、日本銀行は特殊法人であり、したがつてその職員のストライキは自由であるが、日本銀行の業務の停止に比較すれば、国家・社会に及ぼす影響の大きさは、公立体育館、美術館、研究所の職員の場合などには、問題にはならないのである。また鉄道、水道等の労働者のストライキの影響とは全く比較にならない。
[356] したがつて、公務員であることから、その業務が一般に公共性が強く、公共の福祉の観点から、全面・一律にとくに強く争議行為を禁圧しなければならない必然性はない。
(4)(公務員の業務と、民間公益事業の公共性の比較)
[357] 公務員の業務だからといつて常に民間の公益企業に比較して、公共性が強いとはいえない。このことは、電力・ガスなどの企業における争議行為の公共に及ぼす影響と、公立の教育・文化・研究施設における争議行為と比較しただけでも、おのずから、明白であろう。
[358] 大阪中央郵便局事件大阪地裁判決も、次のように郵便事業におけるスト禁止について批判を加えている。
「郵政事業は国家の権力作用を担当するものではなくて、郵便、貯金、保険等の、私企業においても本来なしうるもつぱら経済的行為を内容とするものであり、これに従事する労働者の労働内容は、本来は一般私企業の労働者のそれと何等異なるところがないはずである」
と私たちが、(2)(3)で述べたと同様の論旨を展開したうえで、さらに
「郵政事業において特徴的とされる右事業の高度の独占性、公共性は公益事業であるガス、電力事業等についても程度の差こそあれ(一方が国家の独占であり、他方が私企業のそれである点で)、ほぼ同じようにみられるところであり、そこに見られる労働関係は右郵政事業における労働関係と一応質的には異らないものと考えられるから、郵政事業の労働関係は一応公益事業の労働関係として把握し、右程度の差をも考慮しこれにふさわしい規制を加えれば足るものと考えられる。」
「以上の観点からすると、郵政職員の争議行為を禁止する公労法第17条は、憲法28条に違反する疑が十分に存するものといわなければならない。」
[359] このように、民間公共事業が、高度の公益性をもちつつ、争議行為については制限されるにとどまるのに対し、公務員なるがゆえに、その業務の如何を問わず、全面・一律に刑罰をもつてしてまでも禁止される合理的理由は到底見出しえないのである。
(三)(旧労調法と、公務員の争議行為の規制)
[360] 公務員の労働基本権に対する規制がはじめて行なわれたのは、旧労調法によつてであつた(旧労調法については序論第二節第二、参照)。
[361] われわれは、公務員(ことに教育公務員)の争議行為の規制の限界を考えるとき、旧労調法の諸規定については十分参考に供することが必要であると考える。
[362] 同法は、公務員について次のような特例を設けた。
第38条 警察官吏、消防職員、監獄において勤務する者その他国又は公共団体の現業以外の行政又は司法の事務に従事する官吏その他の者は、争議行為をなすことができない。
第39条 前2条の規定の違反があつた場合においては、その違反行為について責任のある使用者若しくはその団体、労働者の団体又はその他の者若しくはその団体は、これを1万円以下の罰金に処する。
 前項の規定は、そのものが法人であるときは、理事、取締役その他法人の業務を執行する役員にこれを適用する。
[363] 右の38条の適用範囲については「労働関係調整法38条の適用範囲の認定基準」(厚生省労政局長名労働関係調整法解釈例規第1号)によつて次のように定められた。
一 本来の行政及び司法の事務の遂行に不可欠の補助事務に従事する者は適用を受けるものとする。
二 国又は公共団体の行なう企業の中、同様のものが現に民間企業として行なわれているもの、及び企業の性質上民間において行なうことのできる事業に従事する者は適用を受けないものとする。
三 右により第38条の適用の有無の認定が困難なものについては、国又は公共団体の行政又は司法の事務に従事する官公吏その他の争議行為により国政の停廃することを防ぐ労働関係調整法の立法趣旨と勤労者の団体行動を保障する憲法第28条の精神とに基いて、その認定を行なうものとする。
 右の基準により大体左の者が38条の適用のないものとする。
(二) 左に掲げる官公署及び官公署所属施設
 (1) 官公署
   (略)
 (2) 官公署所属施設
  (イ) 試験所、研究所その他調査研究施設
  (ロ) 学校、講習所その他の教育養成施設
   (以下略)
[364] 以上のように、労調法は、公務員の争議行為を禁止するに当たつて、厳格に禁止の適用される公務員の範囲を限定しているのであつて、公務員の争議行為の制限、禁止の限界を考えるに当たり、十分に参考に値するのである。
[365] なかでも、認定基準二、によつて、同種の企業が民間で行なわれており、あるいは民間で行なうことのできる場合が除外されていること、また、問題のある場合は認定基準三、により「国政の停廃すること」を防ぐ立法趣旨と、労働基本権尊重の趣旨とを考慮して決定すべきだ、としているは注目に値する。
[366] 旧労調法はまた、団体罰を原則とし、また罰金にとどまつていることに留意しなければならない。
[367] 公務員法の刑罰による争議行為の全面・一律禁止の法制とは、その規制は質的に相違するのである。旧労調法では、基本的には公務員といえども争議権が保障されなければならず、その制限は具体的かつ合理性ある公益上、やむをえない場合にかぎり必要・最少限度にとどめるべきだとする、私たちの主張する原則が採用されているのである。
(四)(ILOの見解)
[368] 公務員法・公労法のごとき、全面・一律禁止の規定は、必要的に国際的見解によつて批判されるところでもある。
[369] ドライヤー報告は、ILO「結社の自由委員会」のうちたてた一連の官公庁におけるストライキ権についての原則は次のとおりであるという。
「すべての公有企業が、公共の困難を惹起するがゆえに真に不可欠な事業と、この基準によれば不可欠でない事業とを、関係法律上区別することなく、ストライキ権の制限に関して同一の基盤で取り扱われることは適当でない」(2139項、a)
[370] ドライヤー報告はまた、
「ストライキの絶対的禁止が、その業務の中断によつて社会に対してより小さな困難をもたらす公務及び企業の場合に緩和され、かつ、多くの工業国におけると同様に、ストライキの予告という要件及び(または」公平でかつ効果的な調停および仲裁手続きの進行中はストライキ権の行使を禁止することによつて置きかえられるならば……」(2141項)
と、争議行為の制限の態様について、一定の注目すべき示唆を与えている。
(五)(公務員の争議行為と刑事罰)
(1)(公務員の争議行為処罰の特殊性)
[371] これまで述べてきたところによつて、公務員法が公務員の争議行為を全面・一律に禁止していること、それ自体が、違憲であることが明らかとなつた。ところが公務員法は、のみならずさらに加えてその違反に対して処罰を加えるのであつて、公務員法の違憲性はますます明白であるといわなければなるまい。私たちが本件で問題とする中心はそこにある。
[372] ことに、地公法61条4号の処罰の規定は、原判決のような解釈をとるかぎり、共謀処罰の規定の存在とあいまつて、争議行為参加者のほとんどが処罰される可能性をもつている。その処罰規定はしかも、決して軽微のものではなく、「3年以下の懲役又は10万円以下の罰金」(地公法61条)である(一連の公務員法違反事件における検察官の求刑も、いずれも懲役刑を選択してなされている)。懲役三年以下という処罰規定を、こころみに刑法上の処罰と比較すると公務執行妨害罪、住居侵入罪、業務上過失致死傷罪などと等しく、犯人蔵匿罪、公務員職権濫用罪、脅迫罪(いずれも2年以下)よりも重い。それほど、反社会性は強いというべきであろうか。
[373] 私たちは、公務員の争議行為は、本来的には公務員にとつて基本的人権であるのに、公共の福祉を理由に、全面的・一律に禁止され、あまつさえ右のような刑をもつて処罰されていることについて、基本的人権のなかでも、きわめて特殊な扱いを受けているものと考えざるをえない。
[374] すなわち、人権といえども、その行使が処罰される場合のあることは、決して少なくない。たとえば言論の行使が名誉毀損となる場合、デモ行進が道交法違反とされる場合、一定の刀剣所持が処罰される場合、などがそれである。ところが、右の場合はいずれも、人権の全てが規制され、人権そのものが否定されているのではなく、人権の具体的部分的な発動形態が、違反とされているのにすぎない。人権の部分的制限なのである。ましてある範囲の地位にある者について、ある人権の行使が一律・かつ全面的に禁止され、しかも処罰される場合は、原則として存在しない。
[375] 公務員の争議行為の処罰規定とは、全面・一律禁止を前提にするが故に、人権の制限のなかでは、きわめて例外的な位置をしめる。
[376] したがつて、その特殊性が承認されるためには、よほどつよい、合理性・必要性がなければなるまい。
(2)(公務員の争議行為の処罰の意味)
[377] 争議権発展の歴史は、刑罰からの解放の歴史であつた。全農林判決もいうように、「世界の文明各国における労働運動の歴史に徴しても明らかなとおり、最初は争議行為は勿論、労働者が団体を組織することをも処罰していたが、やがて労働運動は刑罰から解放され、次いで民事制統を免かれるに至り、最後に不当労働行為制度の確立によつて雇傭上の不利益処分からも保護されて今日に及んでいる」のである。
[378] ところで争議行為が権利性を承認されたということは、一体どういうことなのであろうか。これは社会的事実として行なわれていた争議行為――使用者の圧迫を覚悟しなければならない――を権利として承認し、それに加えられる圧力を、国家の手によつて排除することないしは禁止することにあつた。
[379] したがつて争議権を制限するということの意味は、その保障を行なわないという、ただそれだけのことにすぎないはずである。争議行為はこうして、法の世界から事実の世界に放逐され、権利としてではなく、社会的事実としてのみ存在するにとどまる。この場合には、争議行為を理由とする解雇も救済されることはない。
[380] このように、もともと争議権が権利としての側面において公共の福祉によつて制限・剥奪されることがあつたとしても、権利としての保障を奪われたにすぎず、社会的事実としては存在しうるのに、これに刑罰を科するというがごときは、公共の福祉の原則の著しい濫用であり、争議権の、右に述べてきたような本来的性格に反するのである。
[381] 公共の福祉とは、これまでも述べてきたように人権相互間の調整の原理であり、したがつて人権相互間の対立があるとき、その調整を図るために、ある人権の制限を図る。争議権と公共の福祉の関係においても、公共の利益のため、争議権を公共の利益の侵害とならないよう制限するのである。公共の福祉のため、もともとあつた争議権に譲渡をせまる、ただ、それだけのはずである。それがさらに全面的・一律に禁止した上で処罰まで加えらるにまで至るということは、人権の抑制ではなく、人権の犯罪視にほかならない。
[382] これまでも述べてきたように、公務員といつても多様であり、その争議行為の結果は必ずしも公共の利益を侵害するものではない。そうしてみると、公共の利益の侵害の有無にかかわらず公務員の争議行為が全面・一律に禁止され、しかも刑罰を科せられていることの根拠は、実質的な公益侵害、またはその可能性にはなく、禁止規定に違反したというただそれだけにすぎなくなる。
[383] 公務員から基本的な権利――争議権――を全面・一律に剥奪し、しかも全く不完全な代償しか与えず、このような条件のもとに争議行為の禁止規定に反したという、ただそれだけのことで、本来、公務員労働者にとつても権利であつた争議行為の実施に対して処罰を加えるというがごとき公務員法の規定は、基本的人権の尊重と公共の福祉の理念に著しく反した、あまりにも苛酷な人権抑圧の規定であるというほかはない。
(3)(処罰の限界)
[384] 前述のように、旧労調法は公務員のうち争議行為の禁止される者の範囲を限定したにもかかわらず、その禁止に反した場合の処罰も、団体罰を原則とし、また罰金にとどめていた。
[385] また、現行労調法でも、高度に公共性を有する民間公益事業等の争議行為について、これを制限するにとどめ、しかもその違反に対しては、これまた、罰金の団体罰を科するにとどめている。
[386] 以上の立法例と比較するとき、公務員法の処罰規定がいかに苛酷なものであるか、一見明白であろう。
[387] これまでも述べたように、ILOによつて確立された、争議行為の制限は、公共の困苦をもたらす場合に限られるべきだとする見解や、旧労調法の争議行為禁止の範囲の制限、あるいは公務員の業務が必ずしも一律に民間公益企業に比較し、公益性が高いとはいえないことなどからするならば、公務員法の争議行為の全面・一律禁止の規定は、公共の福祉の要請に基づく、必要かつ最少限度の制限の範囲をはるかに越え、違憲であることはきわめて明白である。
[388] 仮に、全面・一律禁止そのものの違憲性をしばらくおくとしても、われわれは、全面・一律処罰の規定そのものの違憲性を問題にせざるをえない。業務の内容、業務停滞によつて生ずる公共の危険などを全く考慮することなく、公務員であるが故に全面・一律に処罰するというのであれば、もはや公共の福祉によつてはその合理性を到底説明できるものではない。
[389] したがつてわれわれは、仮に公務員の争議行為を全面・一律に禁止することが許容されるとしても、単なる禁止規定の違反に対しては、民事罰を加えるならともかく、刑事罰を科することは許されないと考える。
(4)(下級審判決の一連の見解)
[390] 公務員法違反事件に関する一連の下級審判決の多くは、公務員法の争議行為の一律・全面処罰規定について、つよい批判を加えているが、私たちは、これらの判決の論旨について、基本的には積極的意義を見出すものである。
(イ)(大教組判決)
[391] もつとも代表的なものは、大教組判決であつて、
「多種多様の職員の争議行為を一律かつ全面的に刑罰をもつて禁止しようとすることは、公共の福祉を基本的人権相互間の矛盾衡突の調整原理と解する立場から到底是認し得ないものといわなければならない」
とする。
(ロ)(全農林判決)
[392] 全農林判決は、「公共の福祉」の内容については原判決とほぼ、同様の立場にたつて、公務員の究極の使用者は国民であり、
「公務員の争議行為は主権者たる国民の公務員に対する期待に背くこととなり……国民との間の信託関係に背く結果を招くに至るものである」と。
[393] それにもかかわらず、全農林判決は、前述のように労働運動の歴史は、刑罰から解放され、やがて民事制裁から免がれ、さらに進んで不当労働行為制度の確立をみるに至つた歴史であつたと述べたあと、次のごとくいう。
「しかしながら公共の福祉の要請によるこれらの権利(弁護人註、争議権をさす)の制限・禁止に反する制裁も真にやむを得ない最少限度に留まるべきは当然であつて、いやしくもその限度をこえ苛酷であつてはならない。特にある行為に可罰的評価を加え、刑罰を科すには雇傭上の不利益処分や民事制裁を科す場合よりもさらに刑罰を必要とする公益上の合理的根拠が存在しなければならない。」
[394] したがつて、公務員が争議行為を行なつた場合でも、
「公務員たる身分を失わしめ、もつて爾後国民全体の奉仕者たる資格を剥奪することによつて信託関係を持ち得ないようにすれば、その目的を達するに十分であると解される。従つて単に争議行為を実行したにすぎない者を処罰することは、も早真にやむを得ないとされる必要性の限度を越えるものであつて、合理的な根拠を失うに至るものといわなければならない。」
という。
[395] すなわち、この判決は政令201号判決や原判決の公共の福祉論と同一の立場に立ちながらも、公務員の争議行為に刑罰を科することは公共の福祉による制限の必要性の限度をこえ合理的根拠をかくことになるときわめて明確にいいきつているからである。
(ハ)(北川村教組判決)
[396] したがつて、公務員の争議行為に対して刑罰が科せられる場合が仮にあるとしても、それは単に争議行為禁止の規定に反するというだけでは足りず、少なくともそれ自体処罰に値する他の実質的な法益侵害のある場合、すなわち
「職務の性質上争議行為により住民の生命身体財産に対し明白な侵害を及ぼすか、争議の手段方法が常軌を逸し、地方行政を撹乱させ住民の福祉に直接且つ明白な著しい損害を与え、その争議参加者に対し公務員の資格を剥奪して住民全体との信託関係を排除しただけでは争議禁止の目的を達せられない限度の違法争議である」
場合に限定されるという見解もあらわれてくるのである。
(六)(争議行為の禁止と代償措置)
(1)(代償措置の限界)
[397] これまで私たちは、労働者にとつて、争議権は基本的な権利であり、その生存のために必要不可欠の権利であり、歴史的に形成されてきたところと、社会的にはたしている機能からみるならば、争議権は他の何物をもつてきても、代置できない権利であることを明らかにしてきた。
[398] 争議権の行使により達成できるところを実質的に同様な成果をかちとる代償制度というものは、もともと考えられるものではなく、そこに争議権が不可欠・固有の権利として保障されてきた意義もあつた。したがつて安易に代償制度があれば争議権を奪つてもよいのだとか、あるいは代償制度が完備されれば労働者の実質的な利益が守られるとか、考えてはならない。
[399] 私たちがここで代償措置を問題にするのは、公共の利益のために、争議権を制限する必要かつ合理的な理由があり、最少限度の範囲において制限される場合を前提とするのであつて、このような場合でもなおかつ、完備された代償制度を必要とするのだということを明らかにするためにほかならない。
[400] したがつて、公務員法の規定のように、争議権の制限・禁止が著しく不当な場合においては、それ自体が問題なのであつて代償制度が完備しているかどうか、ことあらためて、検討を加えるまでもない。それにもかかわらずわれわれがここで公務員法の代償措置を問題とするのは、公務員法の争議行為の禁止が合理性の限度を著しく越えているにもかかわらず、代償措置も全く不十分であつて、いかなる点からみても公務員法の違憲性がますます明白であることを明らかにするためにほかならない。
(2)(代償措置の必要性)
[401](イ) 生存権的基本権が憲法上の保障とされている20世紀的憲法(ことに日本国憲法の場合)のもとにおいては、財産権は政策遂行上の理由によつても制限される。日本国憲法29条2項がとくに「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。」とするのは、この理を宣言したものにほかならない。財産権は、政策上の理由によつても制限できることからみても、他の基本的人権に比較し、その保障の限度は低いものといわなければならない。
[402] このような財産権であつても、憲法29条3項は私有財産を公共のために用いるには無償で没収するものであつてはならず、「正当な補償」が支払われることを保障しているのである。
[403] したがつて財産権と比較し、より強い憲法上の保障のもとにある争議権が、他の人権との調和の関係においてまことに止むをえず制限・禁止される場合にあつても、一方的に譲歩をせまられるだけではなく、制限・禁止を受けたことにかわる代償措置を受けることを必要とするのである。
[404] そしてこの理は、公共の福祉を人権相互の調整原理とみず、「社会全体の利益」と理解する場合においても同様であつて、争議権が労働者の人権である以上、その制限・禁止は必要最少限にとどめるべきであり、また、かりそめにも労働者の本質的な権利が侵されてはならないのであるから、制限・禁止に代わる代償措置を必要とすることになる。
(ロ)(下級審判例と代償措置)
[405] 公務員法違反事合に関する下級審判決もまた、一致して代償措置を必要としているのであつて、このことは、政令201号判決との大きな違いというべきであろう。
[406] すなわち、全農林判決、福教組判決、和教組判決、原判決、仙台高裁前事件仙台高裁判決等のように公共の福祉を国家社会全体の利益と解する立場においても、これを必要としているのである。
[407] まして、公共の福祉を人権的相互間の調整原理とみる大教組判決、佐教組判決、北川村教組判決では全く当然のことであつて、たとえば大教組判決は「職員の争議行為を禁止し、これに刑罰をもつて臨むためには単に地方住民の利益を保護すべき合理的な事由が存在するだけでは足りず、その代償として、適正な勤務条件を確保するための有効な手段が講ぜられなければならない」と述べている。
(ハ)(ILOと代償措置)
[408] 争議行為が制限禁止された場合においては、代償措置が完備されるべきことは、国際的常識であり、ドライヤー報告もまた次のように述べている。
「真に必要不可欠であり、ストライキが国民の正常な生活に重要な障害を与える経済分野においては、公共の利益を保護するための特別措置が必要かも知れない。一般公衆はこれを要求しかつ期待する。このような場合には、解決または救済の十分な代償手段が設けられ、かつ実際に満足に機能することを条件としてストライキ権を禁止することができる」(第2136頁)。
「……労働者のストライキが制限または禁止されるところでは、かかる制限または禁止には、職業上の利益を守るうえに不可欠な手段をこのようにして剥奪された労働者の利益を完全に保護する十分な保障が伴うべきである。」(第2139項、b)
[409] この原則は、ILOの確立された見解である。
(3)(公務員法の代償措置の不完全性)
[410] 公務員の争議行為を全面・一律に禁止し、しかもその違反に対しては刑罰をもつて臨んでいる地方公務員法は、このように公務員の争議行為に対しては、苛酷な処罰を加えながら、他方、最少限度の要請ともいうべき代償措置については、きわめて不完全な措置を講ずるにとどまつている。
[411] ところがこの点について、原判決は、
「公務員が全体の奉仕者として誠実、公正に住民に対しその職責を果たすために、それにふさわしい勤務条件が法律または条件により適正に保障されなければならない」
と述べるのみで、勤務条件が法律・条例により、現実に適正に保障されているか、あるいは適正に保障しうる客観的しくみを有しているかについては全くふれるところがない。
[412] しかしながら、公務員法の代償措置がきわめて不完全なものであることについては、ドライヤー報告も認めるところであつて、同報告は次のように指摘している。
「地方庁(Local public service, administrations publiques locales)においては、ストライキは絶対的に禁止されている。この部門において設置されている機関は、ストライキ権の否定に対してのみならず、労働協約が締結できないという事実及び団結権の保護に関し比較的明細でない規定が法律中に含まれている事実に対しても、代償とならなければならない」(2149項)
「労働協約の締結は、地方公務員が法令による雇用条件等を享受しているとの理由により拒否されている。この点に関して、本委員会は、多くの場合において、労働協約締結権の否認に対する代償の役を果たすべき条例が全く存在しないか、かたは不十分もしくは不完全な形でしか存在していないことに注目する。とりわけ、法律が意図する通り、条例により給与表を定めることを怠つている場合が広般にわたつて存在している」(2150項)
「(人事委員会・公平委員会の公正を確保する保障措置がとられていない。その中立性が一般の信頼を博し、且つ労働者の団体も委員の任務に発言権を有することを確保するよう配慮しなければならないのである。ところが法律上そのような手続きではない)この手続きが結社の自由委員会の勧告に適合したものと認めることはほとんど不可能である」(2152項)
「労働組合は、組合自体として委員会に対し、労働条件に関する措置を要求する権利を有していない」。「この点に関する現状は変更されなければならない」(2153項)
「地方公務員法の下では、ストライキも労働協約も存在しえないので、この部門における労働者は、代償保障を人事委員会及び公平委員会の勧告の完全かつ迅速な実施に依存している。証拠は、これらの勧告の大部分は実施されずに放置されていたか完全もしくは迅速に実施されなかつたことを示している」(2154項)
[413] このように,ドライヤー報告は、公務員法上の代償措置といわれるものが、あらゆる点において不完全きわまりないことをあますところなく、詳細に明らかにしている。
[414] 労働条件を定めるべき条例は全くないか不完全、給与表を定めることをも怠つている(2150項)、しかも最も重要な機能をはたすべき人事委員会の構成の公正・中立の保障もなく(2152項)、労働組合の本来もつべき措置要求権もない(2153項)。代償保障の中心は、人事委員会の勧告の完全かつ迅速な実施であるのに、「勧告の大部分は実施されずに放置されていたか完全もしくは迅速に実施されなかつた」(2154項)というのであるから、代償措置は単に不完全であるというにとどまらず、形式的な規定にすぎず、代償措置としての実態を全く有していない、といつても過言ではない。
[415] 大教組判決もまた、代償措置について詳細な分析を加えたうえ、「地公法の規定する各種の代償措置は職員の争議権剥奪の代償として十分に有効な措置であると認めることができない」と断定している。
[416] これに対し、代償措置がとられているのだとする判決もあるが、いずれも代償措置のとられるべき必然性とその確実に保障されるべき意義について十分な理解もなく、またその検討において不十分なためそのような結果となつたのであるが、どれ一つとつてみても、原判決を除き、不十分な点のあることを認めないものはないといつてもよい。
[417] 争議権剥奪の代償として、このように、不完全きわまりない代償措置が、存在するにとどまる以上、それ自体をもつてしても、争議権剥奪は違憲と解せざるをえない。
(七)(公務員の争議行為禁止の影響)
[418] 公務員の争議行為が禁止された結果、代償措置がきわめて不十分なこととあいまつて、公務員の労働条件は一般水準に比較し低いものとされており、これがまた、民間労働者の労働条件をも低いものに押えるという影響を与えている。
[419] 毎年出される人事院勧告は、民間産業の労働者の賃金と公務員の賃金とを比較し、その差が5パーセント以上となつたとき、はじめてなされるが、その勧告自体低いものに押えられているのにもかかわらず、人事院勧告どおり実施されることはなく、実施される場合にも、5月からさかのぼつて実施すべきだとする勧告は常に9月、または10月実施とされている。人事委員会の勧告の実施状況もまた人事院と同様か、それ以下なのである。
[420] このような公務員労働者の低賃金が、また民間労働者の賃金を押え、民間労働者の低賃金を人事院勧告は反映するのであつて、日本の低賃金構造の一つの原因は公務員労働者に争議権のないことに基因している。
[421] そしてまた、教員の超過勤務手当が支給されるよう各地の人事委員会から勧告されているのに支払われていないように、賃金のみならず、その他の労働条件もまた劣悪なまま押えられているのもそのためである。
[422] また露骨な不当労働行為が公務員の組合に加えられているのであるが(この点はドライヤー報告2168項も、当局の不当労働行為が教員に加えられていることを認めている)争議権のない結果、組合は有効に実力をかけて反撃しえず、これが当局の介入を助長している。それにもかかわらず、地公法は不当労働行為については、不利益取扱いを禁止(56条)するにとどまり、労組法7条のような交渉拒否、支配介入については規定せず、人事委員会に救済を求めてもその公正が保障されず、また、審理は長期にわたるという状況にある。

第五(教育公務員の争議権と公共の福祉)
(一)(本件一審判決の教育を受ける権利と教員の争議権の比較論、批判)
[423] 本件一審判決は、国民の教育を受ける権利と、教育公務員の争議権との比較論のうえにたつて、次のように、教職員の争議行為を禁止することは、憲法上許されるとする。すなわち
「学校の教職員が争議行為を行うときは、児童生徒の教育に支障が生じ、憲法により保障される国民の教育を受ける権利が侵害されることは疑いない。このように教職員の争議権と国民の教育を受ける権利が衝突する場合、いずれの権利を優越させるかは、その権利の性質により、どのように決するのが、国民全体の利益にもつとも合致するかを考慮して決すべきである。」
[424] ところで、教員の争議行為を禁止しても、なお他の方法により教員の適正な勤務条件が確保されるなら、国民の教育を受ける権利を保障することが、教育の重要性からみて国民の利益に合致するのであるが、地方公務員法上、適正な勤務条件は確保されているから、国民全体の利益の調和という観点から、教員の争議行為を禁止することは許されるのであるという。
[425] このように、一審判決が争議行為の禁止が許されるというのは、地公法によつて職員の適正な勤務条件を確保されていることを前提としているのであるが、すでに第四(六)で述べたように、地公法が職員の適正な勤務条件を確保すること――代償措置の完備――から、およそ、ほど遠いものがあるから、一審の判決の合憲論はこの点において、すでにくずれさつてしまつた。
[426] 右の点は、しばらくおくとしても、教職員の争議行為が国民の教育を受ける権利を侵害することから、ただちに、教育公務員の争議行為を制限・禁止しなければならない、とするところに、以下述べるように、基本的な問題があるといわなければならない。
(二)(教員の争議行為と公共の福祉)
[427] たしかに、教育は民主国家の発展の基礎であつて、その重要性はきわめて大きいものがあり、教職員の争議行為が、教育を一時停滞させることのありうることを、われわれも否定するものではない(われわれは、教員の短期間の争議行為は、長期にわたる教育の本質からみて、本質的に教育の停滞をもたらさないと考える)。しかしながら、教育が重要な仕事であること、ならびに、教員の争議行為が教育の一時的停滞をもたらすことから、ただちに教員の争議行為の禁止を認めることにはならない。
[428] すなわち争議行為は、これまで述べたように、もともと第三者の利益や公共の利益を侵害する可能性のある行為である。それにもかかわらず、争議行為は権利性を承認されたのである。したがつて、争議行為を制限・禁止し、さらに処罰を加えることが認められるのは、単に公共の利益を害するものでは足りず、住民の生命・身体財産に危険を及ぼす場合でなければならない。
[429] 教育は重要な事業であるが、教育の一時的停滞が住民の生命身体に直接危険を及ぼすものでもない。このようにみるかぎり教育公務員の争議行為を処罰するべき必然性・合理性は全くない。民間産業の電力、ガス、私鉄、病院等の労働者の争議行為が許されているとき、その業務から比較するならば教員の争議行為を禁止しなければならないとする理由は、全く考えられない。あるいは、これに対し教育の一時的停滞は、住民の生命・身体に直接危害を加えるものでないにしても、一国の文化の発展に著しい影響を及ぼすから禁止されるべきであるとの反論があるかもしれない。
[430] しかしながら、争議行為はもともと業務の一時的停滞であつて、長期にわたることは一般には予想されないのであり、仮に予想される場合においては、それに応対する規制処置(たとえば、労調法の緊急調整のごとき)が考慮されるべきならともかく、地公法のように、いかなる争議行為であれ、全面・一律に禁止し処罰するというような苛酷な扱いを、教育公務員に対しても区別なくしていることを、われわれは基本的に問題にするのである。
[431] 今日の教育は、公立学校であれ、私立学校であれ、その区別なく教育基本法6条1項により「公の性質をもつもの」と規定され、また同条2項により教員は「全体の奉仕者」とされている。
[432] 教育という業務の面からみれば、全く同質の公共性をもつのに、私立学校の教員には争議権があり、公立学校の教員にはそれがない。その区別は、どこに求めることができようか。
[433] とすると、またしても公務員であるから、という理由しか残らないのである。公務員であることは、それ自体で争議権剥奪の理由とはなしえないのであり、公立学校の教員の場合、必ずしも公務員として扱わなければならない必然性もまたないものといわなければなるまい。
[434] このように、教育公務員については、いかなる点よりみても、その争議行為を全面・一律に刑罰をもつて禁止すべき理由は見出しえないのである。
(三)(旧労調法と教員の争議行為)
[435] 前述のように旧労調法は公務員の争議行為の禁止から、教員を明確に除外していた(第四、(三)参照)のであるが、これは教員の場合、公共の福祉の観点からみても、禁止すべき合理的理由が見出しえなかつたからにほかならない。
[436] すなわち、教員の場合は、認定基準二、の除外事由である同種の企業が民間で現に行なわれており、あるいは民間で行うことのできる場合に当たり、また、認定基準三、による「国政の停廃すること」のある争議行為にも当らないからである。
[437] もつとも当初、政府は官公立学校の教員の争議行為を禁止することを閣議決定していたが、連合国側がこれを承認しなかつたという経過があつた。その理由は、
「第38条で、警察官吏や消防職員の争議行為を禁止しているのは、若しそういう者が、争議行為をなすならば、政府が顛覆して、国家が崩壊するおそれがあるからである。教員が争議行為をしても、直ちに、国家が崩壊するおそれはない。現に教員は、食糧休暇として、3ケ月も休んでいるのではないか」、「アメリカで、各州においても、教員の争議行為を禁止していない」、「教員は、公益事業にも入らない。公益事業の争議行為の制限は日常生活に著しく障害を与えることを抑える趣旨であるが、教員の争議行為はわれわれの日常生活に著しい障害を与えると思われない」
等であつた(松岡・労働行政154-5頁参照)。
[438] 旧労調法のもとにおいて、以上のように教員については「公益事業」にも入らないとして、争議行為を禁止することすらなかつたのにもかかわらず、地公法は刑罰をもつて禁止するのであつて、このような規定が著しく合理性を欠くことは明白である。
[439] また、序論第二節(八)において述べたように、ユネスコ特別会議は最近、教員について、「教員団体はその正当な利益を守るため通常他の団体に認められている手段をとる権利を有する」という勧告案に対する日本政府の修正案を否決した(朝日・昭和41年9月29日夕刊)のであつて、これは明らかに教員の争議権を認める方向を示すものである。
[440] したがつて、教育公務員の争議行為については、地公法上処罰されないと解しないかぎり、地公法の処罰規定そのものを違憲の条項であると断ぜざるをえない。

第六(結び)
[441] 私たちは、公共の福祉を理由にして、地公法61条4号が、公務員の争議行為を刑罰をもつて全面・一律に禁止することができるかと問題にしてきたが、いかなる観点にたつても、地公法の右の規定が違憲であることは明白であるとの結論に達せざるをえないのである。
第一(以上の総括)
[442] 以上で詳細に検討してきたように、全体の奉仕者という考え方によつても、また公共の福祉という考え方によつても、すべての公務員について一律に、かつ全面的に、争議行為を禁止し、これに刑罰を科することの合理性を見出すことはできない。ことに教員についてその合理性を見出すことは全くできない。したがつて地公法61条4号が憲法28条に違反することはまことに明らかである。このことは「国家の機関としておこなう仕事が全体の奉仕者としての仕事であるからといつて、公務員が自己の承認しえない条件で働くことを強制せられるということにはならない」「使用者が国家であれ神であれ、働いて飯を食うほかはない生ける人間は、自己が働くための条件について有利な交渉をするために、集団的に労働を拒否するという根源的な自由をもつ。その自由は、労働条件の集団的な決定が資本制社会の基本的要素として承認せられている今日では疑いないことであろう」(沼田・法論171頁)という単純な、しかしそれ故に常にまげられない、思想の勝利である。有泉教授が「憲法制定以来たつた4年余しかたつていない今日、いかに多くの憲法変遷が行なわれようとしているかをみる時、従来のそれが超憲法的権力の存在する占領下という特殊事情の下におけるそれであることに想到せざるを得ない。このような事情から労組法、労調法更に国家公務員法等と憲法28条との関係を徹底的に検討することが怠たられたと考えられる。ここに問題を提起する意味で、敢えて不完全な小論を公にする次第である」(有泉・研究115頁)と書かれたのは1952年であつた。それから14年たち、学説はもちろん、下級審判決例もこの問題に答えてきた。しかし、こと最高裁判例に関する限り、検討のための何ほどの努力がなされたろうか。最近の判例は検討を怠るどころか検討を真正面から回避してしまつたのである。

第二(立法府の裁量権ということについて)
(一)(和教組専従判決の問題点)
[443] 和教組専従事件の意義についてはさきに第二節第二(一)(3)で述べたが、最高裁は次のように判示した。
「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと、当裁判所の屡次の判決の示すところである。そして、右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権を逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である」。
[444] 要するに、労働基本権の制限の必要がある場合には、その制限の程度の合理的であるか否かは原則として司法審査の対象とはしない、というのである。この原則がもし本件にも適用されるとしたら、本件の場合にも違憲という判断をなしえないという結果になる恐れがないでもない。しかし、この判決の考え方について、またこれを本件に適用することについても、問題がある。
(二)(和教組判決の考え方の誤り)
[445] 第一に、この判決の司法審査制についての考え方に大きな誤りがある。「適正な均衡」という言葉は一見美しく見えるが、その実質は憲法の保障にとつて大変危険である。なぜなら、如何に「適正」であろうとも「均衡」であるならば、それは憲法の保障ということとは遠い方え方である。判決がみずからいうとおり「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものである」このように「最大の尊重を必要とし」「みだりに制限することを許さない」ものであるならば、その制限は必要かつ最少限のものでなければならないのは当然である。その制限の限度は如何に適正であろうとも均衡ではなくて、必要最少限すなわち、どうしてもこの程度の制限をしなければ公共の福祉が維持できないということでなければならない。そうでないならば、これらの権利は公共の福祉の名の下に、容易に制限されることを許す結果となるであろう。そうだとすると、労働基本権を制限する立法の合憲性は、制限をする必要があり、かつ、その必要のための制限がその必要のために最少限であるときに、はじめて認められるものである。学者が「労働基本権等を規制する立法の合憲性は、立法目的とその目的を達成する手段とが『合理的』であるか否かによつて判定される。立法目的の合理性は、一般に、立法の必要性を裏づける事実に合理的根拠があるか否かの問題をいい、立法目的達成手段の合理性は、その手段が目的を達成するために必要な最少限であることを基礎づける事実に合理的根拠があるかの問題をいう」(芦部・法協83頁)といわれるのも大体同趣旨であろう。
[446] そうだとすれば、制限の程度すなわち制限が必要最少限のものであるか否かという問題は、当然司法審査の対象でなければならない。もちろん、この必要最少限の範囲においてどのようないい方法を選択するかということは立法府にゆだねられることであろう。よくいわれるように、いかなる手段が賢明であるかということはこれは立法府にまかせられることである。その意味では立法府の裁量権というものは認められよう。しかし、それは制限の程度についてではなくて、制限の範囲内においてである。この判決の考え方は、裁判所に附託された基本的人権擁護の重大な権限をみずから放棄し、基本的人権の不当な制限を許すこととなろう(芦部・法協83頁、法律時報16頁・18頁)。
(三)(争議権制限の必要がない)
[447] 第二に、すべての公務員の争議権を制限しなければならない必要、制限の程度ではなく、必要それ自体が認められないことは、すでに前各節で詳しく述べたところである。したがつて、制限の程度については立法府の裁量にまかせられるとしても、制限の必要の有無すなわち、芦部教授のいわゆる立法の目的は立法府の裁量にまかせられないので、当然裁判所の判断がなさるべきである。
(四)(争議禁止は明らかに不合理)
[448] 第三に、仮にこの判決の司法審査についての考え方を前提としても、本件の場合は、「制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理」である場合に当る。地公法・国公法による公務員の争議権の制限は、すべての公務員について、争議行為を全く禁止してしまうものであつて、これ以上の制限はありえない。制限というより剥奪というべきである。このような極度の制限、一律・全面の禁止が合理的であるためには、当然それに相当する強度の必要性がなければならない。しかしそんな必要性があるなどということは到底考えようがない。その詳細は前各節で詳細に説明したことなので、ここにはくりかえさないが、すべての公務員に一律にかつ全面的に争議行為を禁止する必要は全くない。ないというよりありえないのである。この点でも、この判決の場合と本件とを同日に語ることはできない。
(五)(刑罰を科することの不合理)
[449] 第四に、刑罰という手段が必要かどうかということまでも、制限の程度ということで立法府の裁量にゆだねられるとは考えられない。いうまでもなく、刑罰は人の自由に対する最大の侵害である。日本国民は、憲法に違反して刑罰を科せられることはない。「いちじるしく均衡を破り、明らかに不合理でなければ」違憲の刑罰法令によつて処罰されてもいいなどという、とんでもない司法の自己抑制などということはありえないであろう。この判決の場合と異なり、本件は刑罰を科することの合憲性が問題なのである。裁判所もこの判決の原則を機械的に本件に適用するなどということは万が一にもないであろうと信ずる。
(六)(おわりに)
[450] 「この種の論旨は(弁護人註、立法事実論のアプローチから是認することのできる論旨)、とくに経済的自由の規制立法に関する最近の判例には、かなり見られるが、しかし一般的には、なお法規中心の形式論理で事件が処理されるケースが少なくない。やや古い例であるが、公務員の争議権を否定した政令201号の合憲性を……というような、条文を引用しただけの形式的な理由づけで簡単に支持した判例などは、その典型といつてよいだろう。」(芦部・法律時報17頁)。公務員争議禁止についての最高裁の判例は、その内容もさることながら、そのアプローチ自体がその悪しき典型とされていたのである。しかしこの和教組判決はこの「やや古い例」と何ほど違つているだろうか。弁護人(佐伯)も同じ雑誌に次のように書いた「憲法裁判に対するこの関心はますます高まりつつある」「しかも、そのような政府の違法行為に対し、最高裁判所が憲法の番人としての役割を果したために関心が高まつたのではなく、逆に何ら憲法の番人の役割を果さないところに強い関心が向けられているという状況なのである」(佐伯・憲法裁判について・法律時報41年1月号)。この辺でこのような非難をふきとばすように大きな転回をして、本当に憲法の番人になつて頂きたいものである。
(第一章の補註)
事件名をもつて引用した判例
 最高裁
   山田鋼業   25・4・11  大法廷、刑集4・11
   政令201号   28・4・8   大法廷、刑集7・4
   三鷹     30・6・22  大法廷、刑集9・8
   和教組専従  40・7・14  大法廷、民集19・5
 高裁
   仙台高裁前二審   仙台 41・3・29 労働法律旬報596、597号
 地裁
   佐教組       佐賀 37・8・27  判時310号 下刑4・3
   福教組       福岡 〃 12・21  〃 334号 〃 〃・11
   仙台高裁前一審   福島 38・3・27        〃 5・3
   全農林       東京 〃 4・19  〃 338号 〃 〃 〃
   和教組勤評     和歌山〃 10・25       〃 〃・9
   大教組       大阪 39・3・30  〃 385号 〃 6・3
   長崎機労      長崎 〃 4・20        〃 〃 3
   北川村教組     高知 〃 11・28  〃 422号 〃 〃 11
   大阪中央郵防局   大阪 40・4・30  労働法律旬報563号
略称を以て引用した文献
   芦部信喜  法協  地方信方公務員の専従休暇に関する処分と裁判所の審査権(判批)(法学協会雑誌83巻3号)
   〃     法律時報  憲法裁判の問題点(法律時報41年1月号)
   有泉享   研究  労働争議権の研究
   石井照久  総論  労働法総論(法律学全集)
   稲田正次  提要  憲法提要
   鵜飼信成  憲法(岩波全書)
   〃     公務員法(法律学全集)
   大石義雄  講義  憲法講義
   〃     論叢  憲法と公務員の職場離脱の自由(法学論叢77巻1号)
   大西芳雄  要論  憲法要論
   片岡曻   浅井記念  法律による制限(浅井記念・労働争議法論)
   川上勝已  体系  特別権力関係における基本的人権(宮沢記念・日本国憲法体系8巻)
   川口是   憲法論  日本国憲法論
   清宮四郎  要論  全訂憲法要論
   黒田了一  学習  学習憲法学
   〃     講座  公務員(憲法講座3巻)
   小林孝輔  要論  憲法学要論
   小林直樹  講義  憲法講義
   坂本重雄  公務員の労働基本権の法構造(都立法学3巻1・2号)
   佐藤功   ポケット  憲法(ポケット註釈全書)
   佐藤功・鶴海良一郎  公務員法(コンメンタール)
   佐伯静治  野村記念  旧労働組合法労働関係調整法と公務員の争議権(野村記念・団結活動の法理)
   清水伸   審議録  日本国憲法審議録
   杉谷浜男  独逸官吏の罷業権(岡山大学法経学会雑誌2号)
   杉村章三郎 要義  行政法要義
   杉村敏正  判例百選  公務員と憲法28条
   鈴木安蔵  概論  日本国憲法概論
   園部逸夫  講座  公務員の権利義務(行政法講座5巻)
   〃     憲法判例百選  公務員の団結権、団体行動権
   田上穣治  撮要  憲法撮要
   田畑忍   講義  憲法学講義
   蓼沼謙一  新講座  争議権の制限(新労働法講座1巻)
   沼田稲次郎 法論  労働法論 上巻
   野村平爾  形成過程  日本労働法の形成過程と理論
   長谷川正安 研究  憲法判例の研究
   橋本公亘  原論  憲法原論
   法学協会  註解  註解日本国憲法
   外間寛   講座  公務員の政治的行為(行政法講座5巻)
   三宅太郎  体系  公務員(宮沢記念・日本国憲法体系4巻)
   宮沢俊義  全集  憲法2(法律学全集)
   峯村光郎  全集  公務員労働関係法(法律学全集)
   〃     労働判例百選  労働基本権の制限
   室井力   公務員の基本権(小林・星野編 日本国憲法史考)
   柳瀬良幹  教科書  行政法教科書
   横川博   労働者の権利(総合判例研究叢書 憲法1)
   和田英夫  体系  憲法体系
 なお労働法学者の労作から日頃多く啓発を受けているが、かえつてそのため、時間的に整理引用する余裕がなかつた。
 地公法37条、61条4号およびその本件への適用の、ILO87号条約8条2項ならびに結社の自由、労働組合権保護に関する確立された国際法規違反。
[451] 国際労働機関(ILO)は、1919年署名されたヴエルサイユ平和条約の13編労働(387条から427条まで)によつて、設置された。わが国は平和条約を批准し、国際連盟の原連盟国であつて、ヴエルサイユ平和条約387条2項によつて、当然ILOの締盟国であつた。わが国は、1940年、ILOを脱退した。
[452] 1944年フイラデルフイアで開催されたILO第164回総会で、「国際労働機関の目的に関する宣言」(いわゆるフイラデルフイア宣言)が採択された。1945年第27回総会で、憲章改正文書が採択されて、それまでのヴエルサイユ条約13編を国際労働機関憲章(ILO憲章)という呼称することになつた。1946年の憲章改正文書で、フイラデルフイア宣言を憲章の附属書とし、また憲章1条を、「この憲章の前文およびこの憲章の附属書となつている1944年5月10日にフイラデルフイアで採択された国際労働機関の目的に関する宣言に掲げた目標を達成するために、ここに常設機関を設置」すると改正した。
[453] わが国は、戦後憲法98条2項で、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定め、1951年11月26日ILOに再加盟した。また、「団結権および団体交渉権についての原則の適用に関する条約(98条)」について、1953年10月20日その批准を登録し、昭和29年条約10号として公布、同年10月20日発効させ、また、「結社の自由および団結権の保護に関する条約(87号)」について、1965年5月17日批准し、同年6月14日批准を登録し、昭和40年条約7号として公布、同41年6月14日発効させた。
[454] わが国は、第1次世界大戦の戦勝国であり、ヴエルサイユ平和条約13編労働(後のILO憲章)を準備した国際労働法制委員会でも5大国の1としての役割を与えられた。それにもかかわらず、当時のわが国の実情は労働条件が極度に劣悪であり、労働運動は危険視され、苛酷な弾圧のもとにおかれていたので、日本政府は、ILOの目的と活動をひどく軽視しないし敵視した。たとえば、第1回ILO総会(1919年)は、最初のILO条約として、「工業的企業における労働時間を1日8時間且1週48時間に制限する条約(1号)」を採択したが、わが国は、その特殊性を主張し、その9条で、「本条約の日本国に対する適用に付ては、左の変更及び条件を加えらるべし」として、(a)から(h)まで、詳細にわたる適用の変更、および条件を規定させた。(こうした適用の一部または全部の除外は日本のほか、英領印度、支那国、波斯国、希臘国にみとめられた)そして、他の締盟国に、それほどまでに日本に特別の譲歩をさせたこの条約を、わが国は批准せず、その後今日まで批准しなかつた。また、ILO総会は、三者構成(政府代表2、使用者および労働者をそれぞれ代表する代表各1)の原則がその重要な特長であるが、「使用者又は労働者をそれぞれもつとも代表する産業上の団体がある場合には、それらの団体と合意して」使用者、労働者代表を、選ぶべきであるのに、日本政府は、日本には最も代表的な労働団体は存在しない、として、友愛会など当時の労働者団体の納得の得られない方法で、労働者代表を指名し、総会に出席させた。このため、第1回総会から第5回総会まで、海事総会として特殊であつた第2回総会を除き、毎回日本の労働者代表について、他国の労働者代表その他から異議が申立てられ、第3回総会では、日本政府によつて労働代表として指名された松本圭一(岡山県孤児院理事・農業技師)代表自身が、総会において、日本政府の労働者代表の指名方法は憲章に違反するとみてみずからその資格を否認した。総会は、松本氏の資格を承認したが、将来における指名方法の改善を表明した。これら経緯も経て第6回以後代表指名の協議に労働組合だけを参加させることになつたのである。(註)
(註) この経過の詳細は、飼手真吾、戸田義雄・「ILO」・69-74頁参照。
[455] 右の2つの事例に典型的に表われているような日本政府のILO軽視の一かんした態度は、結局1940年、日本をILOから脱退させた。これと前後して、ドイツ(1935年)、イタリヤ(1939年)、ソ連(1939年)その他合計13の国がILOせ脱退し、ILOは第2次世界大戦中事実上その機能を喪失した。
[456] 今日わが国でILO問題を考えるうえで、戦前のILO歴史をふりかえつてそこから得なければならない重要な教訓の第一は、日本のような有力な「大国」が、ILOの示す労働条件についての国際水準を卒先してその国内に実施するようでなければ、ILOはなりたち得ないということである。日本のような「大国」が、ILOの示す国際水準を乱暴に無視し、これをあからさまにじゆうりんするようでは、ILOは存立の意義を失い、事実上崩壊し、そのことは、国際競争の激化、ひいては世界に惨禍を及ぼす戦争を招来するということである。1945年の改正によるILO憲章が、「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができるから、そして、世界の平和及び協調が危くされるほど大きな社会不安を起すような不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在し、且つ、これらの労働条件を、たとえば、1日及び1週の最長労働時間の設定を含む労働時間の規制(中略)の措置によつて改善することが急務であるから、また、いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となるから(中略)国際労働機関憲章に同意する。」としたのはこのためである。
[457] また、戦後日本が憲法98条2項で「わが国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めて、不戦条約などとともにILO諸条約のわが国による無視、じゆうりんを反省したのも、このためである。(註)
(註) 現行憲法制定議会における金森国務大臣の答弁――分類帝国憲法改正審議録 戦争放棄編472頁。後述第四節参照。
[458] 今日のILO問題を考えるうえで戦前のILO歴史からうける重要な教訓の第二は、結社の自由の原則承認、労働組合権の擁護こそILO存立の土台であるということである。結社の自由の原則の承認等がなければ、ILO運営上最も重要な役割を果たすべき総会を構成する代表を選出する母体がはつきりせず、総会の構成に疑義が生じ、ILOの権威は、国際的信頼を失うに至ることになる。このことは、前述の、ILO第1回ないし第5回総会における経緯からも明らかである。ILOが、第6回総会において、日本の労働者代表鈴木文治氏の提案によつて、理事会に対し、結社の自由に関する各国の法制を調査し、調査完了のうえはこれを総会の議題とするよう要請する決議をし、また、1935年の総会で、日本の労働者代表八木信一氏の提案により、「労働者が労働組合に加入しまたはこれから援助をうけたことを理由として、労働者を解雇しまたはこれに不公正な待遇を課することを防止するため、労働者の団結権の問題を総会の議題とすべきである」との決議を採択し、これらがILOで結社の自由および団結権擁護が条約化される端緒となつたのは、このためである。
[459] また、戦後ILOが、87号条約、98号条約が採択されたばかりでなく、国連経済社会理事会との合意で1950年、「結社の自由に関する実情調査調停委員会」を設立したのも、このためである。
[460] わが国は、1951年のILO復帰後1958年98号条約を批准したが、87号条約は長くこれを批准しなかつたばかりでなく、現実に結社の自由、労働組合権の侵害を続けた。87号条約を批准しなかつたのは、おもに98号条約が公務員について国内法で特別の定めをすることを容認しているのに、87号条約にそのことがなかつたからである。日本政府の結社の自由、労働組合権侵害政策のために、昭和33年の動力車労組のILO提訴にはじまつて、その後日本の労働組合の一連のILO提訴が相つぎ、これらは理事会の結社の自由委員会の最も重要な事件の一つとなつた。そして、179号(日本)事件は、数次にわたる結社の自由委員会の報告ののち、1964年4月21日の日本政府の同意を経て、結社の自由に関する実情調査調停委員会の調査に付され、1965年9月1日「日本における公共部門に雇用される者に関する“結社の自由実情調査調停委員会”の報告書」(ドライヤー報告)として発表された。この報告は、理事会によつて記録にとどめられ(take note)、かつILO公報によつて公表された。
[461] これらの経緯は、日本の裁判所が、ILO諸条約の条項を解釈し、結社の自由、労働組合権に関し確立された国際法規の存在を認識してこれを適用するにあたつて、考慮しなければならない重要な事情である。
第一(問題の所在)
[462] 87号条約8条2項は、「国内法令は、この条約に規定する保障を阻害するようなものであつてはならず、また、これを阻害するように適用してはならない」と定めている。
[463] そこで、第一に、右87号条約8条2項にいう「87号条約に規定する保障」の範囲、とくに、争議行為の禁止が右保障と抵触するかどうかが問題である。そして第二に、争議行為の禁止が、87号条約に規定する保障と抵触する可能性があるとすれば、このような87号条約に規定する保障が、その公務員あるいは教職員への適用において何らかの特殊な考慮をうけるかどうかが問題である。なぜなら、87号条約に規定する保障が、争議行為の禁止と抵触する可能性があり、また87号条約に規定する保障の公務員あるいは教職員への適用が、労働者一般への適用と何ら差別がないものであるならば、地方公務員の争議行為を禁止した地公法37条および同条を構成要件上前提とする地公法61条4号、ならびに右各条項を地方公務員である教職員の組合の一斉休暇闘争に適用した本件起訴は、87号条約8条2項と抵触する可能性があるからである。のみならず、87号条約に規定する保障の具体的範囲いかんによつては、地公法37条、61条4号とその本件への適用は、87号条約8条2項と抵触することになるからである。そこで、これら論点について、以下で検討する。

第二(争議行為の禁止と87号条約に規定する保障との抵触)
[464] 87号条約8条2項にいう「この条約に規定する保障」とは、同条約2条に規定する労働者および使用者の結社の自由の保障、同条約3条ないし7条に規定する労働者団体および使用者団体ならびにそれぞれの連合および総連合の結社の自由の保障、同条約11条に規定する労働者および使用者の団結権の自由な行使の保障をいう。ただし、団結権の保障については、87号条約は、同条約11条で原則を保障するだけで、この原則の具体的適用については、「団結権および団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第98号)」の規定がこれを保障している。
[465] ところで、87号条約10条は、「この条約において『団体』とは、労働者又は使用者の利益を増進し、かつ、擁護することを目的とする労働者団体又は使用者団体をいう」と定め、また、3条1項は、「労働者団体および使用者団体は、その規約および規則を作成し、自由にその代表者を選び、その管理及び活動について定め、ならびにその計画を策定する権利を有している」と定めている。そして、争議行為は、労働者団体が、労働者の利益を増進し、かつ、擁護するため通常用いる手段であるから、その目的を達するための他の有効な手段の保障のない情況のもとで争議行為の手段を奪うこと、またとくにさほど不可欠でない事業または職業であらゆる争議手段を全面的かつ一律に奪うことは、労働者団体の活動を不能または著しく困難にし、結局、労働者団体から、その管理および活動について定めならびにその計画を策定する自由を奪う結果になる。そこで、争議行為の禁止は、一定の範囲や事情のもとでは、87号条約に規定する保障に抵触するのである。87号条約に規定する保障のうちには、結社の自由から独立した権利としての争議権の直接の保障はふくまれない、ということがいわれている。この見解は、87号条約の規定に、結社の自由および団結権の保障の規定から独立して争議権の保障をとくに規定していないこと、87号条約案作成のためILO事務局が各国政府におくつた質問書のなかに、公務員の結社の権利は公務員の争議権を含むものでない旨条約に明記することが望ましいと考えるか、という1項目があつたのに対し、政府回答の多くは、この条約はもともと争議権の保障を目的とする条約ではないのだから、公務員について、とくにそのような規定をおく必要はないとし、こうした回答も考慮して、87号条約の採択にあたつては、公務員について特別の規定をおかなかつた経緯が(註)あること、などから、一応首肯することもできる。
(註) 1948年ILO事務局作成にかかる「結社の自由と団結権の保護」(31回国際労働総会報告VII)67頁は、各国政府の回答を要約して次のように述べる。「オランダもスエーデンもこの条約がストライキ権問題について関係づけらるべきでないと考え、アメリカ合衆国も肯定的回答(公務員のストライキ禁止について――弁護人註)をおこないながらも、この問題をこの条約によつて解決しようと試みることは望ましくないだろうと考えている。
 したがつて、多くの国々は公務員の結社権を、ストライキ権問題にたいする予断なしに、暗黙に承認するが、後の問題、すなわちストライキ権問題について、多くの国々は、提案されているこの条約に関係がないと指摘している。」
[466] しかしながら、右のことは、87号条約に規定する保障が、争議行為と無関係であることを意味しない。前にのべたとおり、87号条約に規定する保障としての労働者団体の結社の自由は、労働者団体が、外部からの干渉をうけることなく、争議行為を含めてみずから適当と考える活動を定め、計画をたてる自由を含むから、他の有効な手段の保障のない場合の争議行為の禁止、さほど不可欠でない事業や職業でのストライキ禁止、また、ストライキ以外の争議行為の全面的かつ一律の禁止などは、労働者団体にとつては、その活動可能性を相当に制限し、87号条約に規定する結社の自由の侵害となるのである。この理は、ILO98号条約が、争議権の保障を直接規定してはいないが、争議行為を実行したことを理由とする差別待遇が同条1条2項(d)にいう「労働時間外に組合活動に参加したことを理由とする差別待遇」にあたると解されており、そのことによつて、98号条約に規定する団結権の保障は争議行為と深くかかわつているのと同じである。
[467] そこで、争議行為の禁止が、いかなる場合に87号条約に規定する結社の自由の保障と抵触するかを、以下やや具体的にのべる。
[468] 第一に、真に必要不可欠であり、ストライキが国民の正常な生活に重大な障害を与えるような経済分野または職業で、ストライキを禁止することがあり得るにしても、このような禁止は、職業上の利益を守るうえに不可欠な手段をこのようにして奪われた労働者の利益を保護するための十分な代償手段を労働者団体に保障することを伴い、かつこの手段が実際に満足に機能することを条件としなければならない。そして、このような代償手段は、労働者団体および使用者団体が、すべての段階に参加することができ、異なつた(労働者団体および使用者団体の)利益が委員の数的構成にも公平に反映している、という意味において、不偏不党の調停、仲裁手続の利用を労働者団体に保障することでなければならず、またこのような不偏不党の調停、仲裁手続は、そこでの決定が一たん下されたときは、両当事者を拘束し、迅速、完全に実施されるという意味で適切、迅速なものでなければならない。このような代償手段を欠くストライキの禁止は、労働者団体がその管理および活動について定め、ならびに計画を策定する自由――労働者団体の活動可能性――を阻害し、87号条約に規定する保障と抵触する。
[469] 第二に、ある種の事業または職業で、ストライキが制限または禁止されることがあるにしても、このような事業または職業におけるストライキの禁止について、公共の困難を惹起するがゆえに真に不可欠な事業または職業と、この基準によればそれほど不可欠でない事業または職業とは同一の基盤で取扱うことはできない。公共部門(国、公共団体およびそれらの代行機関の活動の分野)に属するというだけで、常に必ず真に不可欠な事業または職業ということはできない。真に不可欠な事業または職業とくらべて、公共の利益とのかかわりがそれほどではない分野で組織されている労働者団体に対して、真に不可欠な分野における労働者団体とひとしくストライキを禁止することは、これら労働者団体の活動可能性を相対的、差別的に制限することになるので、この限度で87号条約に規定する保障と抵触する。
[470] 第三に、真に不可欠であり、ストライキが国民の正常な生活に重大な障害を与える分野でストライキが禁止される場合でも、ストライキだけでなく、その他の争議行為を区別なしに一律に禁止することは、禁止の範囲、程度によつては、これら分野で組織される労働者団体の活動性を相当に阻害し、87号条約に規定する保障と抵触する可能性がある。

第三(87号条約に規定する保障の公務員への適用)
[471] 87号条約に規定する保障を軍隊および警察に適用する範囲は、国内法令で定めるが、この制限を課した上で、同条約は、国およびその代行機関の活動に対しても、民間産業に対すると同様に適用される。地方公共団体およびその代行機関の活動に同様適用されることはもちろんである。
[472] 87号条約に規定する保障、とくに結社の自由の保障が、公務員について特別の制限が課されていないことは、その旨の明文の規定がないこと、また前述の条約採択の経緯すなわち、この条約作成のためにILO事務局が各国政府におくつた質問書のなかに、とくに公務員の結社の権利は公務員の争議権を含むものでないと条約に明記することが望ましいと考えるか、との1項目があつたのに対し、多くの政府回答は、この条約が争議権の保障を目的とする条約ではないのだから、公務員について特別にそのような規定をおく必要はないとし、このため87号条約には公務員について何等特別の規定は設けられなかつたこと、などによつてまことに明らかである。ただ87号条約に規定する保障のうちで、同条約11条に規定する団結権の保障は、同条約と、原則と適用の関係にあるとされる「団結権および団体交渉についての原則の適用に関する条約(98条)」が、その6条で、「この条約は、公務員の地位を取扱うものではなく、また、その権利又は分限に影響を及ぼすものと解してはならない」としているので、87号条約11条に規定する団結権の保障についても、公務員に適用がないのではないかとの疑いがあり得る。しかし、この点については、98号条約の審議に際し、ILOの事務局長補佐ジエンクス(現事務局次長)が、98号条約は、87号条約11条による団結権の一般的保障に附加し、団結権の一特定面で具体的保障をしたものであるから、この具体的保障において公務員を除外しても87号条約11条の一般的保障において公務員を含ませていることと何ら矛盾しない、との趣旨をのべ、多くの代表によつてこの意見がうけいれられた(註)ことを想起すれば十分である。のみならず、ここで直接問題にしているのは、87号条約11条に規定する団結権の保障ではなく、同条約3条1項に規定する労働者団体の結社の自由の保障の範囲如何であるから、同条項の規定の適用上は、公務員の労働者団体を労働者団体一般から区別すべき何らの根拠もない。
(註) なお教職員に対する87号条約の規定の適用も、87号条約上明分の除外規定がないから、労働者一般から区別すべき根拠はない。
第四(この節のまとめ)
[473] 以上によつて、87号条約に規定する保障は、結社の自由から独立した権利としての争議権の直接の保障は含まないとしても、87号条約に規定する結社の自由の保障、とくにその3条1項に規定する労働者団体の管理、活動について定め、ならびに計画を策定する権利の保障は、争議行為が労働者団体がその目的を達成するため通常用いる手段であるという意味で、争議行為と深くかかわりをもつていること、したがつて、他に有効な手段の保障がなくて争議行為を禁止するなど、前記第二に三項にわけてのべたような場合は、労働者団体の活動可能性を相当に制限し、87号条約に規定する保障、とくに同条約3条1項に牴触し、またはその可能性があること、これらのことは、公務員であると、教職員であると、民間の労働者であると、何ら適用を異にしないこと、などを明らかにした。
[474] 87号条約が、右のような内容をもつた国際法規範であることは、後に第二節で引用するように、理事会の結社の自由委員会、条約勧告適用専門家委員会、結社の自由に関する実情調査調停委員会が、その報告や意見がくりかえし指摘しているところであるが、しかし、このような報告や意見をまつまでもなく、87号条約の規範自体が、もともと右のような内容のものであることを、ここで強調したい。
[475] 条約の解釈にあたつては、まずその条項の自然的意味によつて解釈すべきことがいわれている。(註)したがつて、87号条約が、その規定の適用上、公務員とその他の労働者とを区別していない点については、同条約の条項の自然的意味において明瞭であるから、これにより解釈すべきである。同条約3条1項にいう、労働者団体のその管理および活動について定め、ならびに計画を策定する権利、とは何であるかについていえば、その条項の自然的意味においては、労働者団体の通常の活動可能性を保障したものである、という程度にしか一見明瞭ではないといわれるかも知れない。しかし、今日の国際社会にあつては、労働者団体の活動可能性が、通常争議行為に依存していること、争議行為が制限または禁止されるところでは、これにかわる公平、適当、迅速な代償手段が労働者団体に保障されるのが通常であること、その他前述の諸原則は、通念として確立しており、したがつて、87号条約3条1項の労働者団体のその管理、活動について定め、ならびにその計画を策定する権利の保障は、言葉の自然的意味においても右の諸原則を含むというべきである。
(註) 常設国際司法裁判所のギリシヤ対連合国事件(マーイー事件)の1924・9・12の判決、「その自然の意義で解した」
同裁判所のダンチヒにおけるポーランドの郵便事務に関する事件の1925・5・26の判決、「不合理や無意味のないかぎり、文言は、その文脈において普通に有する意味に解釈される」
国際司法裁判所の国連加入問題に関する1950・12・3の勧告的意見、「条約の規定を解釈し適用することを要請される裁判所の第一の任務は、規定の存する文脈中で、その自然普通の意義において効果を与えるように努めることである。関係ある用語が文脈中で、その自然・普通の意義において、意味をなすものであるときはそれで問題は解釈する」
[476] のみならず、後に第三節、第三、で詳述するが、ILO条約のように国際機関(ILO総会)により作成された条約にあつては、その国際機関によつて公式に表明された解釈決議やそこで承認された解釈は、その条約を通用する諸国においても尊重さるべきであつて(註)、このことを考慮して87号条約3条1項を解釈すれば、前記のようになることを否定することはできない。
(註) 国際司法裁判所の政府間海事協議機関に関する事件の1960・6・8の勧告的意見、「法規の有権的解釈を与える権利が、その法規を改廃する権能をもつ個人ないし機関に専属することは,確立された原則である。」
第一(概観)
[477] ILOの理事会の結社の自由委員会、条約勧告適用専門家委員会、理事会の諮問機関である「公務員の労働および勤務条件に関する専門家会議」、結社の自由に関する実情調査調停委員会などの一連の報告や意見は、87号条約に規定する保障が、争議行為と深くかかわつており、一定の事情のもとでは、争議行為の制限、禁止は、公務員に対するそれを含めて、結社の自由、労働組合権(ILOのいわゆる労働組合権の意義、とくに87号条約に規定する結社の自由との異同をどう解すべきかについては、後に第三節で詳述したいが、ここで一口にいえば、ILOのいわゆる労働組合権は、87号条約3条ないし7条に規定する労働者団体の結社の自由の保障を中心とするが、これと関連して、同条約11条に規定する団結権の保障、98号条約に規定する団結権および団体交渉権の保障、91号および92号勧告にいう協約締結権、調停、仲裁手続に参加する権利の保障などを含むものと解される。)侵害となることを指摘している。

第二(争議行為と結社の自由・労働組合権との関係について、理事会の結社の自由委員会が初期に示した見解)
[478] 理事会の結社の自由委員会は、その設置(1951年11月の第117回理事会)後の初期において、一連の報告で、争議行為とくにストライキが、労働者団体がその組合員の利益を増進、擁護するための欠くことのできない中核的手段であり、このためその制限、禁止は、労働者団体がすべての段階で当事者として参加することを保障されている調停、仲裁制度などのような有効な代償手段を伴う必要があること、を指摘している。たとえば、
(1) 第2次報告28号事件(ジヤマイカ)
67、英国政府は1947年に結社権(非本土地域)条約をジヤマイカについて批准している。68、ストライキ権および労働組合の集会権は、労働組合権の不可欠な要素である。したがつて当局が法の遵守を確保するためにとる措置は、労働争議中の組合集会を妨げる結果をもたらすべきではない。……
(2) 第4次報告5号事件(インド)
27、……委員会は、ストライキが平和的に行なわれ、かつ、それに対して課される一時的な制限(たとえば調停、仲裁手続中ストライキをやめることや労働条約に違反するストライキを差控えること)を守つて行なわれる限り労働組合が自らの組合員の利益を促進するたるの合法的な武器として、殆んどの国々で承認されていることを指摘することが適当だと考える。……
(3) 第6次報告47号事件(インド)
724、ストライキ権は、労働者およびその団体が彼らの経済的利益を防衛するためにもつ一般的な権利のうちで中核的な部分として一般に承認せられている。しかしながら鉄道のような不可欠な事業の場合には、ストライキ意思の適当な予告が通常要求され、また現存する交渉、調停もしくは仲裁に関する諸措置が終るまでの間、一時的に制限することがありうる。……
(4) 第6次報告第50号事件(トルコ)
864、明らかに、87号条約は争議権を取扱うものではないが、委員会は、一般的に、争議権が、労働者の集団的な経済的な社会的利益を擁護する権利の必要不可欠の部分として、労働者およびその団体に与えられていると考える。争議権の行使に際して、時に部分的で一時的な制約が、両団体が当事者としてすべての段階において参加することができることを保障した調停、仲裁手続は付託中、果せられる場合があるにしてもである。
(5) 第6次報告11号事件(ブラジル)
75、しかしながら理事会が政府に対して不可欠な事業においてストライキが禁止される場合、それによつて職業的な利益を防衛するための基本的な権利を奪われた労働者らの利益を完全に保障するための適当な保障を確保することについて理事会がおいている重要性について政府の注意を喚起するよう勧告する。
[479] 同様の趣旨は、第6次報告12号事件(アルゼンチン)、第13次報告82号事件(レバノン)、第15次報告103号事件(イギリス領南ローデシア)、第24次報告146号事件、第26次報告134、141、153、154号事件(チリー)、第26次報告134、135、136号事件(チリー)などでくりかえされ、また引用されている。
[480] これら理事会の結社の自由委員会の一連の報告は、87号条約は争議権を取扱うものでないことを留保しながらも、争議行為が、労働者団体が労働者の利益を増進、擁護するため用いる通常の(ないしかくのことのできない)手段であり、したがつて、結社の自由、労働組合権を保障するためには、争議行為が制限、禁止される場合には、手続のあらゆる段階に労働者団体の当事者としての参加を保障する調停、仲裁制度など有望な代償手段の保障が必要であることをくりかえし言明している。
[481] また、この時期の理事会の結社の自由委員会のいくつかの報告には、刑罰法規が労働組合の指導者の通常の任務遂行に適用されることによる結社の自由、労働組合権侵害の可能性、争議行為が制限、禁止される場合、にその制限、禁止が刑罰による苛酷な制裁を伴うことによる結社の自由・労働組合権侵害の可能性に言及しないし示唆している。たとえば、
(6) 第6次報告12号事件(アルゼンチン)
281、ないし284(要旨)、アルゼンチンでは、「国家の安全に反する犯罪阻止に関する1945年1月15日法」によつて、(1)政治的争議行為、(2)公共事業における争議行為、(3)当局によつて違法と判断された争議行為の教唆、せん動等が犯罪とされ、体刑を科される。
286、ないし288(要旨)、以上の規定は、「スパイ、怠業および反逆抑止に関する1950年10月11日法」の規定によつて、さらに強化される。
296、委員会は、公安にかんする法規に含まれているストライキにたいしこれらの規定を適用する必要性を、これまで見出せなかつた旨の政府陳述に留意するとともに、これら規定を、職業上の利益を増進擁護するため労働組合の指導者が自己の通常の任務を遂行した場合に、これに対しては適用することができないような態様で上記諸規定を改正することが望ましい旨、政府の注意を喚起するよう、理事会に勧告する。
(7) 第6次報告55号事件(ギリシヤ)
919、……結社の自由の原則は、公務員の場合においてすら承認されるべきであると本委員会は考える。しかしながら、この権利は必ずしもまた争議権を含むものではない。
 この関係において、本委員会は、公務員の場合、争議に訴えることがギリシヤ法(ギリシヤ刑法247条のこと)によつて禁止されてはいるものの、他方、公務員は結社をなす権利が賦与され、事実、職業的結社をなしていると考える。
 さらに、公務員のストライキへの参加は、ギリシヤ刑法の規定に基づく罰則の適用をうける可能性があるが、これらの規定は、実際適用されているようには思われない。政府は、新刑法典の発効以来、争議に参加した公務員に何の罰則を科したことのない旨指摘する。
921、以上の状況にてらし、本委員会は、政府が公務員のストライキにかんする刑法典の規定を適用することを決定し、この措置は労働者のストライキ権を剥奪することにより労働組合団体を解散させることを意図するものであるとする、中立団体等の告訴は、十分な証明を提供していないと考える。したがつて、本事件のこの側面については、これ以上の審議を必要としない旨、決定するよう理事会にたいして勧告する。
(8) 第26次報告5、134、141、153号事件(チリー)
78、これらの状況により、本委員会は事案が特別の規制をうける公務員(パブリツク・オフイシヤルズ)のストライキに関するもののなかで先例を確認する。しかしながら恒久民主主義擁護法が公務規則によれば単に行政懲戒処分をするための懲戒理由にすぎないものを苛酷な刑罰によつて、処置しうる刑事犯罪としているので、委員会はこの点につきチリー政府が恒久民主主義擁護法3条4項を改正することがのぞましいことを考慮するよう注意を換起する。
第三(ストライキの禁止と87号条約8条2項との牴触の可能性に関する条約勧告適用専門家委員会の意見)
[482] 条約勧告適用専門家委員会は、87号条約に関する「一般意見」(ジエラル・リマークス)の中で、ストライキの禁止と87号条約2項との牴触の可能性について次のようにのべている。
団体がその活動を定めおよびその計画を策定する権利
65、多数の国においては、団体が自由にその活動を定めおよびその計画を策定する権利に対し、何等の制限を存在しないように思われる。
(1) これらの国においては、労働者団体および使用者団体はもちろん「その国の法律を尊重すること」の義務を負うがしかしこのコモンローの規則は、団体の活動可能性に対する制限となるような方法では、方式化されていないように思われる。さらには団体の活動に対するコントロールは事後(aposteriori)においてのみ、かつ司法機関によつて、またはそのコントロールの下においてのみ、これを加えることができる。
66、若干の国においては特定のカテゴリーの労働者で構成する団体は、その活動能力の点からみて、他の団体よりも一層制限されている。かかる制限は、その雇用条件が団体交渉の余地を残さない状態で定められる公務員の場合には理解できるものである。公務員規則、法令または裁判所の決定により課される公権力の機関として行動する公務員はストライキに参加することはできないとする制限についても同様である。
68、公権力の名において行動する公務員以外の労働者によるストライキの禁止の問題は、しばしば複雑かつデリケートな問題を提起する。かかる禁止が、時として労働組合の活動可能性を相当に制限することは確かである。これが若干の国において、若干の場合においては、性格的には暫定的なものに過ぎず、かつすべての調停手段がつくされることを目的とする。この禁止が、不可欠の業務に対してのみ適用される理由である。しかし、不可欠の業務の概念の範囲は、若干の国においては著しく制限されている一方、他の国においては、それは時としては農業をさえ含む、多数の経済活動を包含するように思われる。他の国においては、ストライキ開始前につくさなければならない強制的調停手続きは、すべての経済活動の分野に適用される。最後に若干の国では、団体はストライキの武器を使用する権利を有せず、3カ国においては、この禁止は一定の労働者に対してのみ適用され、他の3か国においては、この禁止はすべての労働者に対して適用されるように思われる。
 いずれにせよ、この禁止は結社の自由および団結権擁護条約(1948年、第87号)の第8条第2項に反する可能性がある(第8条第2項によれば「その国の法律は、この条約に規定する保障上特に職業上の利益を防衛するための労働組合の行動の自由を阻害するようなものであつてはならず、またこれを阻害するような方法で適用してはならない」。)
 それゆえ、一定の労働者がストライキを禁止されるすべての場合においては、これらの労働者に対して、その利益を十分に保護するため、適切な保障を与えることが必要である(註)。かかる原則は、多くの機会にILO理事会が「結社の自由委員会」の勧告に基づいて強調してきたところである。
(註) たとえば理事会の結社の自由委員会25次報告124頁、308頁および128頁、319項(e)ILO公報40巻2号1957年参照。
[483] 右の意見は、それまで理事会の結社の自由委員会が、前引用のような一連の報告で積み重ねてきた結社の自由・労働組合権と争議行為の制限、禁止との関係に関する見解を基礎とし、これを集約、整理したものであり、同時に、その後におけるこの問題についてのILOの立場の基本となつたものである。
[484] 右の意見は、第一に、87号条約が、規定のうえでは、結社の自由から独立した権利としての争議権の直接の保障をしていないことと、争議行為は労働者団体が労働者の利益を増進しおよび維持するため用いる手段の不可欠な一部となつているという争うことのできない事実およびこのことを理事会の結社の自由委員会がくりかえし言明してきたこととの関連を、87号条約3条1項が労働者団体の活動可能性を保障していることに注目することによつて、争議行為の禁止と87号条約8条2項との牴触の可能性の問題とし説明した点に重要な意義がある。
[485] 右の意見は、第二に、公権力の名において行動する公務員やその他の不可欠な業務に従事する労働者について、ストライキの禁止があり得ることを是認したうえで、不可欠な業務の概念の範囲が国によつて著しく異なり、したがつて、不可欠な業務であることを理由とするストライキの禁止が、その業務が真に不可欠でないため、時として労働者団体の活動可能性の相当の制限となり、87号条約8条2項と牴触する可能性のあることを示唆した点に意義がある。
[486] 右の意見は第三に、すでに理事会の自由委員会によつてくりかえし表明されていたことではあるが、一定の労働者がストライキを禁止されるすべての場合(公権力の名において行動する公務員を含む)においては、これら労働者に対し、その利益を十分に保護するため適切な保障を与える必要があることを、委員会の名で、あらためて明確にした点に意義がある。「一般意見」の65ないし68項を、公権力の名において行動する公務員については、代償手段を伴わずに争議行為等を制限、禁止しても、87号条約8条2項との牴触の可能性がおきないとしているように解する見解(後にのべるように、原判決も右の意見を右のように解した)があるが、これは、右意見の理解を誤つたものと解する。

第四(結社の自由の保障が公務員労働者に無差別に適用されることに関する公務員専門家会議の見解)
[487] 1963年に理事会の決定により開かれた「公務員の労働および勤務条件に関する専門家会議」の報告書には、次の意見がのべられている。
2、専門家は、それに対する管理が中央機関の直接的責任である公共労働に従事する職員に考察を限定しなければならなかつた。専門家は、地方機関の官吏や、自治的であるか否かにかかわりなく、その活動と活動の管理が民間部門の実際と酷似している商業的又は工業的性格を有する公共企業に従事する官吏を検討のなかに加えることはできなかつた。専門家は、ここに記録される結論の大部分が行政のすべて、ことに、地域的または地方的段階における行政のような下位段階の行政に対しても有効である。と考える。法体系上の差異は、専門家が次のような合意に達することを阻げなかつた。
3、結社の自由および団結権保護に関する第87号条約(1948年)は、65ケ国によつて批准されている。これらの国は、いかなる差別もなしに、また、事前の認可を受けることなしに自らの選択する団体を結成し、これに加入する権利を労働者に保障する義務を負つている。この条約は公共労働に従事する労働者を含むすべての労働者に差別なしに適用される。他の個人または組織化された集団と同様に、労働者およびその団体を規制する国内法を尊重することはさておいて、この条約に規定されている唯一の制限は、国の法律または規則が軍隊もしくは警察の構成員について結社の自由に加える制限だけである。
6、専門家は、第43回会期(ジユネーブ、1959年)において国際労働委員会の総会が条約および勧告の適用に関する委員会の報告書を受理したことに注目した。この報告書は、他の事項とともに、主として結社の自由、団結権および団体交渉に関する一連の国際的文書の適用を扱つたもので、実質的には加盟国が国際労働憲章第19条および第22条にもとづいて提出するよう求められていた資料を基にしていた。
7、専門家は、国際労働機関の加盟国による前述の文書の実施に関するこのような全面的調査は、これらの国が条約を批准しているか否か、また、当該勧告を適用しているか否かにかかわりなく、もし定期的に実施されるならば、この重要な分野において達成された進歩を評価するための準備となる、と考える。
8、専門家は、このような調査の機会に、適当な場合には、これらの基準を公務員に対して適用することが強調されるべきであると、という意見を表明する。この調査の結果は、理事会がこれらの文書のあるものが修正されるべきか否かを考慮することを可能にするものでなければならない。
9、それ故、専門家は、国際労働機関事務局の事務局長が、理事会に対して、近い将来の理事会が結社の自由と団結権保護に関する第87号条約(1948年)、団結権と団体交渉に関する第98号条約(1949年)、結社の権利(非本土地域)に関する第84号条約(1947年)、労働協約に関する第91条勧告(1951年)および任意調停および任意仲裁に関する第91号勧告(1951年)に関するこの種の新たな調査を求めることを提案することを要求する。
39、これらの諸問題の検討を基礎として、専門家は任意的調停および仲裁に関する第92号勧告(1951年)に定義されたような任意的調停および仲裁手続が、公共労働における集団的関係に関する各国の立法上の機構や、慣行を考慮に入れながら、すべての適切な行政段階に設けられるべきであると考えた。
[488] この報告にあらわれた専門家の意見の意義は、第一に、87号条約に規定する保障が、公共労働に従事する労働者に差別なしに(87号条約9条1項が、この条約に規定する保障を軍隊及び警察に適用する範囲は、国内法令で定める、とすることを唯一の例外として)適用されることを明言したことである(報告書、結論3項)。
[489] そして、ここにいう公共労働に従事する労働者とは、右報告の結論、2項で明らかなように、「それに対する管理が中央機関の直接的責任である公共労働に従事する職員」に限定して考察されており、「地方機関の官吏」や、「自治的であるか否かにかかわりなく、その活動と活動の管理が民間部門の実際と酷似している商業的または工業的性格を有する公共企業に従事する官吏」を検討の中に加えていないのであるから、1959年の条約勧告適用専門家委員会の「一般意見」の66項、68項にいう、「公権力の名において行動する公務員」に近い概念であることは明らかである。そして、公務員専門家会議の報告にあらわれた専門家の意見の意義の第二は、右の意味での公務員に、87号条約に規定する保障が差別なく適用されることの論理的帰結として、公務員専門家会議が、条約勧告適用専門家委員会が1959年の「一般意見」で87号条約8条2項の解釈基準を示したことを注目し、とくにその69項が、右の意味での公務員(公権力の名において行動する公務員)について、87号条約の適用上若干の差別をしているとも解する余地のあることを考慮し、理事会に対し、憲章19条5項および22条の報告を87号条約について求めるよう、また、その報告を審議する機会に87号条約が公務員に無差別に適用されることが強調されるよう、また、右「一般意見」66項におけるような疑義が生ずることを防ぐため国際文書の修正、とくに98号条約6条の削除が考慮されるよう、示唆した点による(前引用の公務員専門家会議の結論、6項ないし9項参照)。
[490] 公務員専門家委員会の報告にあらわれた意見の意義の第三は、一定の制約のもので92号勧告に定義されたような任意的調停仲裁制度を右の意味での公務員の労働関係に確立すべきことを明らかにしたことである(報告書、結論39項参照)。
[491] 公務員専門家会議は、理事会の諮問機関であるから、その意見は、理事会を拘束しない。まして、条約の解釈に関する条約勧告適用専門家委員会や総会の権限、条約の修正に関する総会の権限を左右することはできない。しかし、公務員専門家会議は、権威ある専門家の会議であるので、そこでの結論は、事実上これら諸機関に一定の影響を与えた。とくに次にのべるとおり、理事会の結社の自由委員会は、公務員専門家会議以後、同会議の意見を考慮し、結社の自由についての87号条約の規定の適用については、公務員を区別しなくなつた。

第五(争議行為の制限、禁止と労働組合権の保障との牴触に関し理事会の結社の自由委員会の結社の自由に関する実情調査調停委員会がその後示した見解)
[492] ここで1959年の条約勧告適用専門家委員会の「一般意見」と1963年の公務員専門家会議以後の理事会の結社の自由委員会のいくつかの報告を引用したい。これら報告では、明らかに右の両文書が考慮されている。
[493] 「一般意見」後、次のような報告が行なわれた。
(1) 54次報告179号(日本)事件
91、現在提出されている証拠からは、ストライキ権を否定された地方公務員の利益が正確にどの程度まで地公法の規定によつて保護されているかは当委員会には明確でないように思われる。教員を含めてかかる者は、日本では公務員として分類されており、その雇用は国の法律(National statute, Statute Nationale)ではなく、市町村又は都道府県の条例または規則の適用を受けている。かかる条例または規則の適用を受ける地方公務員は、公共被用労働者と同一の地位にあるものではないが、それにもかかわらず大多数の国においては、地方当局の公務員が粉争処理のため適当かつ公平なあつせん、および仲裁機関の設置によつて保護されるのが通例である。
92、当委員会はまた政府に対して、人事委員会が当局を拘束する決定を下し得ない場合、地方当局とかかる当局の発する規則の適用を受ける職員との間の粉争を解決するためには、ほかにどの様な仲裁機関が――もし上記の人事委員会以外にあるとするならば――あるかを報告するよう要請する。
(2) 58次報告175号(日本)事件
267、このような事情にかんがみ、本委員会は、理事会に対し次のことを勧告する。(1)理事会が常に重要性を置いている原則すなわちストライキが禁止されている場合には、救済のための手段がなければならないという原則を承認すること、地方公共団体の職員について、裁定が拘束力をもつような仲裁機構を設置するよう地方公務員法を改正することを考慮しているとの政府の陳述を記録すること、地方公務員を類似の機構の中に含ませるという一般化している慣行を採用すること、が望ましい。(2)人事委員会の数的構成の上にいろいろ利益を正しく反映するよう、同委員会の中立若しくは公益委員のすべてがその不偏性につき一般の信頼を得ることを確保するためにいかなる措置をとり得るかを考慮すること……(3)政府に対して関係当事者のそれぞれが人事委員の任命について平等な発言権をもつべきであることを設定するのが望ましいものがあることについても考慮することを示唆すること。
[494] 公務員専門家会議以後、次のような報告が行なわれた。
(3) 74次報告363号(コロンビア)事件
220、本委員会は、ストライキ権にかんする告訴は、それが労働組合権の行使に影響するばあい、かつその限りにおいてのみ、本委員会の管轄内にあるとの原則を、常に維持してきている。また、数多くの機会に、労働者とその団体が、その職業的な利益を防衛する合法的な手段として、ストライキ権を認められていることを指摘してきた。これとの関連において、本委員会は、ストライキが禁止され、もしくは制限の対象とされるばあい、その職業的利益を防衛する不可欠な手段をそのように剥奪された労働者の利益を、完全に保護するための適当な保障を確保することにおいている重要性について、強調してきている。また、制限が、両当事者がすべての段階において参加することができるような適当な、不偏不党の、かつ迅速な調停、仲裁手続が併用さるべきであり、その結果としての裁定が、あらゆる場合において、両当事者を拘束すべきことを指摘してきた。
(4) 76次報告294号事件(スペイン)
284、1964年4月29日付の追加通信において(スペイン)政府はスペイン法において定められている調停、仲裁手続にかんする、以前の諸報告に言及し、これら手続が、結社の自由委員会の勧告に適合していると述べる。政府は68次報告152項に言及し、本委員会の勧告がストライキの制限は適当な不偏不党の、かつ迅速な調停、仲裁手続を併用すべきことを勧告していることに留意している。
285、右にとりあつかわれている勧告は、かかるストライキ権の制限について言及しているのではなくて、ストライキ権の不可欠な事業または公務における制限にかんし、それとの関連で労働者の利益をまもるために適当な保障が定められるべきであると述べたものであることを、この点にかんし、本委員会は説明しなければならない。
(5) 第78次報告364号事件(エクアドル)
79、本委員会は、ストライキ権にかんする告訴は、労働組合権の行使に影響するかぎりにおいて、管轄外ではないという原則を常に適用してきている。また、労働者とその団体の、職業的利益を防衛する合法的な手段としてのストライキをする権利が、一般に承認されていることを指摘してきている。本委員会はまた、不可欠な事業または公務においてストライキが禁止または制限されている場合、保障の存在についておいている重要性をも常に強調してきている。その保障とは、いつも指摘してきているように、職業的な利益を防衛する不可欠な手段をそのようにして剥奪された労働者の利益を保全するための適当なものであるべきであり、また、制限は、適当、公平かつ迅速な、両当事者がすべての段階において参加することができ、さらにそれによる裁定がいかなる場合においても両当事者を拘束するような、調停および仲裁手続とともにあるべきである、ということである。
80、ストライキの絶対的禁止については、結社の自由委員会は、条約勧告適用専門家委員会の、かかる禁止が労働組合の活動可能性に対する相当の制限を構成することがありうるという趣旨の見解を是認してきている。
―、条約勧告適用専門家委員会報告、報告3(第4部)、第43回国際労働総会、1959年ジユネーヴ、114頁68項。
(6) 79次報告346号事件(アルゼンチン)
26、1964年5月27日付の回答でアルゼンチン政府は(従前の事件におけると同様)、それらの労働者たちが国営公共事業に雇用されるものであつたこと、ならびに彼等のストライキ権は、国際法と国際慣行により、また結社の自由委員会自身によつて、一般的に承認されてきたような制限の対象となるものだと述べた。政府は、結社の自由委員会が、労働者とその団体が彼等の職業的な利益を擁護する合法的な手段としてストライキをおこなう権限をもつているという一般原則は不可欠な事業および公務員(シビル・サービス)の場合、ともに制限の対象となりうることをくりかえし承認してきたと指摘した。これらの事件において、本委員会は、職業的な防衛のための不可欠な手段――合法的ストライキの如き――を奪われた労働者が適当な保障をうることができるように、かかる争議の平和的解決を確保するための、なんらかの手続を設けることの重要性を強調してきた。
[495] 結社の自由に関する実情調査調停委員会の報告は、次のようにのべている。
2102、これらの保障が軍隊および警察に適用される範囲は、国内法令で定められることになつている(9条1項)が、この制限を課した上で、同条約は国およびその機関の活動に対しても民間産業に対すると同様に適用される。
2136、真に必要不可欠であり、ストライキが国民の正常な生活に重大な障害を与える経済分野においては、公共の利益を保護するための特別措置が必要かも知れない。一般公衆はこれを要求しかつ期待する。このような場合には、解決または救済の十分な代償手段が設けられ、かつ、実際に満足に機能することを条件として、ストライキ権を禁止することができる。他方において、すべての公共企業体及び国有事業ならびに地方公営企業の活動は等しく必要不可欠であると言うことは認めることはできない。比較的に重要でないものにおいては公共の利益はすべてのストライキが等しく禁止されることを要求してはいない。
2137、同様に、公共部門において、ストライキだけでなく、あらゆる争議行為を区別なしに一律に禁止してきたこれまでの政策にも批判的な論評を加えなければならない。ストライキ権の禁止を正当化する程に公共の利益と密接な関係を有する一定の公益事業に分野においてさえも、労働者によるその他のあらゆる種類の団体行動がおしなべて禁止されるべきだということにはならない、公共部門において、起訴され、解雇され、戒告を受けその他の懲戒処分を受けた者の数がいちじるしく多くなつていることには、この頑固な態度が寄与している。
2139、日本における労働関係の将来は、政府および労働組合がともにこの原則を誠意をもつて受入れることに大きく依存している。官公庁におけるストライキ権の範囲を定めた条約、勧告、その他国際労働総会の決定は存在しないが、理事会の結社の自由委員会はこの問題について、一般に受入れられている一連の原則を打ち出している。これらの諸原則は本質的には左の通りである。
(a) すべての公有企業が、公共の困難を惹起するがゆえに真に不可欠な事業と、この基準によれば不可欠でない事業とを、関係法律上区別することなく、ストライキ権の制限に関して同一の基盤で取り扱われることは適当でない。
(b) 不可欠な業務または職業に従事する労働者のストライキが制限または禁止されるところでは、かかる制限または禁止には、職業上の利益を守るうえに不可欠な手段をこのようにして剥奪された労働者の利益を完全に保護する十分な保障が伴なうべきである。この目的のために公平な不偏不党の機関を設立すべきであつてそこでの決定はいつたん下されたときは完全かつ迅速に実施さるべきである。
 本委員会はこれら原則を支持するものである。日本においては、これらの諸原則はいまだに受入れられていない。
2149、地方庁(local public service, administrations publiques locales)においては、ストライキは絶対的に禁止されている。この部門において設置されている機関は、ストライキ権の否定に対してのみならず、労働協約が締結できないという事実および団結権の保護に関し比較的明細でない規定が法律中に含まれている事実に対しても、代償とならなければならない。
2151、設立されている代償機関は、各都道府県および6大都市の場合は人事委員会、その他の自治体の場合は公平委員会からなる。人事委員会は3つの関連のある機能をもつている。第一に、人事委員会は、みずからのイニシアテイブによつて、現行給与及び勤務条件に関する報告を、必要とあれば勧告と共に、毎年地方公共団体に提出しなければならない。第二に、職員の要求があれば、人事委員会は、その適当と考える勧告をすることができる。第三に、人事委員会は、例えば解雇のような不利益処分についての職員の申立てについて命令を下すよう請求される。第三の場合のみに人事委員会の決定は拘束力をもつ。公平委員会は、これらのうち第二および第三の機能のみを果たす権限を有する。
2152、これらの委員会は、小数の例外を除き、3名より構成されており、証拠によれば、これら委員会の委員に選ばれた委員が必要な不偏不党性を有しかつ一般にそれを有すると認められることを確保するための実質的なまたは実際的な保証措置が、とられていないように思われる。結社の自由委員会が指摘したとおり、これらの委員会の構成がたんに公平であるというだけでなく委員会の中立性が一般の信頼を博し、かつ労働者の団体も委員の任命について発言権を有することを確保するように配慮しなければならないのである。法律は、各委員会のすべての委員が地方議会の同意を得て地方公共団体の長により任命されることを規定しているが、この手続きが結社の自由委員会の勧告に適合したものと認めることはほとんど不可能である。本委員会は、これらの委員会の公平性を確保する問題を公務員制度審議会に付託することが望ましいことを指摘する。
2153、労働組合は、組合自体として委員会に対し、労働条件に関する措置を要求する権利を有していない。証拠によれば335名の者が同時に労働条件に関する措置につき、委員会に別々の要求を提出しなければならなかつた1つの例が明らかであるが、これは、集団の代表としての資格における組合に委託されることが通常期待される職務である。この点に関する現状は、変更されなければならない。故に、本委員会は、組合が組合員のために賃金およびその他の労働条件に関する措置を要求する権利を有すべきことを勧告する。
2154、地方公務員法の下では、ストライキも労働協約も存在しえないので、この部門における労働者は、代償保障を人事委員会及び公平委員会の勧告の完全かつ迅速な実施に依存している。証拠は、これらの勧告の大部分は実施されずに放置されていたか完全もしくは迅速に実施されなかつたことを示している。
2155、本委員会は、右に述べてきた考え方にてらして地方公共団体における雇用条件等に関する条例の制定の手続きならびに人事委員会、公平委員会の任務遂行の方法を含む制度全体の改正について緊急に考慮するように勧告する。
第六(この節のまとめ)
[496] この節のまとめとして、ILO諸機関が、その報告や意見で、争議行為の禁止と87号条約に規定する保障および労働組合権の保護との関係をどう解していたかを要約したい。
[497] はじめ、つまり1959年までは、理事会の結社の自由委員会は、ストライキを労働組合の不可欠の、また中核的な手段と考え、それゆえ、不可欠な事業においてストライキを禁止する場合には、このような禁止には、職業的な利益を防衛する不可欠な手段をこのようにして奪われた労働者の利益を完全に保護するため、両当事者がすべての段階において参加することができるような適当な、不偏不党の、かつ迅速な調停、仲裁手続が伴うべきであり、その結果としての裁定が、あらゆる場合において、両当事者を拘束すべきことを指摘してきた、また、刑罰法規は、労働者団体の指導者が、労働者の利益を増進、擁護するための自己の通常の任務を遂行した行為に適用すべきでなく、不可欠な事業または職業で争議行為が禁止される場合でも、刑罰など苛酷な制裁が伴うべきでないことも指摘してきた。
[498] 理事会の結社の自由委員会は、後にのべるように、1947年3月の国連の経済社会理事会が、WFTUとAFLの要請により、「労働組合権の行使および発展に対する保障」の問題を審議したことに端を発し、国連とILOとの協議によりILOに設置された、結社の自由に関する実情調査調停委員会に付託される調査の予備審査を行なう機関である。このため、そこで行なわれる審査では、87号条約、98号条約、91号、92号、94号勧告が重要な文書として考慮されるが、厳密な意味で条約を解釈、適用するものではない。こうして、理事会の結社の自由委員会の活動には、「労働組合権の行使および発展の保障」を考える場合に、これら条約と勧告を一体のものと考え、このため、ストライキを、労働組合の不可欠の、また中核的手段として重視するなど積極的な側面があつたが(92号勧告などは、明文の規定で、ストライキ権に言及している―III・7項)、反面98号条約が、公務員について団結権の保障上差別を規定していることを、事実上労働組合権全体に及ぼす結果におちいるなど、理解に若しむ点を残した。しばしば引用される第12次報告60号(日本)事件における見解などは、こうした弱点を反映した一例である。
[499] ストライキ禁止の問題を労働組合権侵害の問題から、87号条約3条1項の労働者団体の自主的活動可能性の権利の侵害、したがつて87号条約8条2項違反であることを明確にしたのは、1959年の条約勧告適用専門家委員会の「一般意見」である。これは、条約勧告適用専門家委員会が条約、勧告の適用の監視、したがつて条約、勧告の解釈の権限をもつ以上当然であつたといえる。しかし、ストライキの制限、禁止が87号条約3条1項の問題と解した以上、87号条約は、公務員について9条1項を唯一の例外として何らの差別を規定していないのだから、「一般意見」の66項は、もともといわずもがなのことだつたといえるのである。公権力の名において行動する公務員であろうとなかろうと、争議行為の制限、禁止がやむを得ないものとして許容されるかどうかは、当該労働者が真に不可欠な事業または職業に従事するものであるかどうかが唯一の基準となるべきであつて、公権力の名において行動する公務員は、通常真に不可欠な職業に従事するものといえるにすぎないからである。また、公務員であろうと、その他の不可欠な事業または職業に従事する労働者であろうと、その争議行為が制限、禁止されるならば、その労働者団体の活動可能性が相当に制限されるのは当然であつて、したがつて公平で、拘束力ある代償手段が、当該労働者団体に(個々の労働者にではない)保障されねばならない点では何らかわりがない。「一般意見」は、この点では、68項において、「一定の労働者がストライキを禁止されるすべての場合において、これら労働者に対して……適切な保障を与えることが必要である」とし、12次報告60号(日本)事件での理事会の結社の自由委員会の見解をかえたように思われる。もつとも、右引用の表現が、おもに公権力の名において行動する公務員以外の労働者によるストライキの禁止の問題を検討した68項に記載されているので、やはり若干のあいまいさが残る。179号(日本)事件に関する54次報告と58次報告が、事実上地方公務員について代償手段の必要性を指摘しながら、その根拠の一つとして、地方公務員が国の法律ではなく、市町村の条例、規則の適用をうけていることをあげているのは、「一般意見」のこうしたあいまいさの影響をうけて、不必要な論拠をあげたものといえるのである。
[500] 「一般意見」の矛盾とあいまいさを指摘したのは、1963年の公務員専門家会議の意見である。これ以後、前引用のとおり、76次報告294号(スペイン)事件、78次報告364号(エクアドル)事件、79次報告346号(アルゼンチン)事件など、一連の事件では、常に、「不可欠な事業および公務」と並列して、代償手段の問題を論じている。
[501] こうして、ドライヤー報告の前引用のような見解は、理事会の結社の自由委員会が積み重ねてきた労働組合権を保障するための諸原則、条約勧告適用専門家委員会の87号条約3条1項、8条2項の解釈に関する見解、公務員専門家会議の示唆などを考慮したものであつて、今日の国際社会における労働組合権保障の到達点を示したものといえるのである。
第一(問題の所在)
[502] 前節で、ILO諸機関の報告や意見を、おおむねその歴史的時期に区分して引用した。これら報告や意見のあるものは、第一章でのべた87号条約8条2項の解釈論を補充するものである。また他のものは、労働組合権の保護に関する国際慣習法を確立させている。いずれも、相関連しながら国際法規範の内容をなしている。そのことを以下論証する。

第二(ILO諸条約の解釈、適用に関するILO総会、条約勧告適用専門家委員会の権限)
[503] ILO憲章、憲章前文および附属文書(国際労働機関の目的に関する宣言)に表明された目的を達成するための国際法規範の定立について、ILOと加盟各国とが有している権限の分配を一口にいえば、ILOは、法規範定立(立法)機関であり、各国の権限ある機関は、それを、その国について妥当させる(効力を発生させる)条件を付与させる機関である、ということができる。ILOは、超国家機関ではないが、同時にまた、各国の主権に従属する機関でもない。ILOは各国に対し、その定立する国際法規範――条約――を、各国が部分的に留保して自国に適用したり、また、変更、修正して自国に適用したりすることを許さない点で、完全な専属的な立法機関(註)であり、また、各国は、批准しないことによつて条約の義務の受諾を拒否し、その適用を自国について拒否できる、こうした意味で、ILOと各加盟国とは、各独立している。ILOが、国家と同じ特権、免除を有する(憲章40条)のも、このためである。
(註) ILO総会は、準立法的また先立法的機能を営む、という説明の仕方がある(1946年第29回総会報告書2(1)35頁)。しかし、これは、条約が総会の採択だけで加盟国に条約上の義務を発効させないことを表現したにすぎないのであつて、条約は、総会の採択によつて条約として法の定立を完結し、ただその効力発生を一定の条件にかからせているにすぎないのであるから、立法機関と呼ぶのが正確である。1946年の第29回総会は、憲章を改正して、従前総会で採択されいまだに発効に必要な数の批准を得ていない文書を「条約案」と表現していたのを「条約」と改めるとともに、最終条項改正条約(80号)を採択して、25回総会までに採択された条約中に用いられている「条約案」という表現を「条約」と改めた。
[504] なお、ILO総会の立法権が専属的なものであり、加盟国に留保を認めないことについては、1951年1月12日の国際司法裁判所の要請に基づいたILO事務局の覚書に、次のように指摘されている。
[505] すなわち、国際法上一般に留保は、すべての他の当事国の同意が得られる場合には、これを認めることができるとされている。しかしこの原則は、ILO条約には適用することができない。
 ILO条約は、三者構成の総会によりILO憲章に定める手続により採択される。この点でILO条約は、すべての他の国際文書と異なる(もし条約の内容を制限し、その効果を滅殺するごとき留保を付するのに、政府だけの同意で十分であるとすれば、ILO条約の採択について労使代表がILO憲章によつて与えられている権利は、否定されることになるからである)。
 ILO憲章は、総会で採択された条約を各国の権限のある機関(通常立法府)に提出し、権限のある機関の同意を得たときは、条約の正式の批准を通知すべきこととしている。
 ILO憲章により、労使団体は条約の規定の適用に関して(申立または苦情の)手続を開始する権利を与えられると共に、この適用の監督を担当する国際的な機構において重要な地位を与えられている。個個のILO条約にも、一定の問題を各国の自由裁量に委ね、これに関する規定の適用について労使団体と協議すべきこととしているものがある。政府のみと協議が行なわれる留保を認めるならば、すべてのこれらの規定の目的は失われるであろう。留保を認めるべきか否かを検討し、決定する特別の手続は、条約に規定されていないから、必要な労使代表の同意を得る唯一の方法は、留保の趣旨を織り込んだ改正条約をILO総会で採択することである。
 ILO条約は、労働条件の画一性を実現することが不可能であるとか望ましくないという理由で、一定の事項を個個の条約において各国の自由裁量に委ねる場合を除き、当事国間に画一的な労働条件を促進することを目的とするものである。従つて留保を認めることはこの目的と両立しない。
 ILO憲章は、第19条第3項により、各国の特殊事情について事前に考慮を払い、これに応ずるため条約の規定を修正する手続を規定しているが、個個の条約もまた、各国の事情に応ずるための手続について規定している。すなわち憲章及び総会は、留保以外の手続によつて条約に必要な弾力性を与えるための規定を設けることを明らかに認めている。
 ILO憲章は、加盟国が条約の義務の全部を受諾することのできない場合について、国際的な義務の受諾に代わるものとしての現況報告の制度を設けている。
[506] ILO総会が、ILO条約の立法機関である以上、ILO条約について、専属的に有機的解釈をなし得ることについては、先に引用した国際司法裁判所の勧告的意見によつて明らかである。ILO条約について、総会がし、または承認した解釈は、憲章37条1項による国際司法裁判所の決定、同裁判所の判決または勧告的意見と矛盾しないかぎり、専属的に有権的なものである。だから、加盟国は、憲章および国際司法裁判所規定の規定に従つた手続によらないかぎり、総会の行なう有権的解釈を争うことはできない。
[507] ILO加盟国は、当事国となつた条約の規定を実施するためにとつた措置について、ILO事務局に年次報告をすることを、憲章22条で受諾している。理事会には、この報告を審議し、条約がこれを批准した当事国において完全に適用されているかどうかの意見を理事会に通知するため、条約勧告適用専門家委員会が置かれている。また、加盟国は、条約を批准しなかつた場合にも、条約で取扱われている事項に関する自国の法律および慣行の現況を、理事会が要請する適当な問隔をおいて、ILO事務局長に報告する義務を憲章19条5項で受諾している。この報告についても、条約勧告適用専門家委員会は、これを審議し、意見を理事会に通知する。条約勧告適用専門家委員会の右両意見は、総会の条約勧告適用委員会の審議を経て、最終的には承認のため総会に付託される。右の条約勧告適用専門家委員会の機能からすれば、同委員会は、総会の承認を条件として、ILO条約について有権的に解釈する権限をもつことは明らかである。

第三(条約勧告適用専門家委員会が1959年の「一般意見」でした87号条約の規定の解釈についてした見解とこれに対する総会の承認の国際法規範性)
[508] 1959年の条約勧告適用専門家委員会の「一般意見」は、憲章19条5項により87号条約に関し求められた報告について同委員会がしたものである。とくにその68項は、明らかに87号条約の規定の解釈に関する意見であつて、加盟国の立法についての示唆ではない。そして、右委員会がした、「一般意見」の右部分での87号条約の規定の解釈は、総会の条約勧告適用委員会でとくにこれに対する異議はなく、総会においても承認された。そして、さきにのべたとおり、ILO条約の解釈に関する条約勧告適用専門家委員会の権限は、総会の承認を条件として専属的なものであるから、これについて憲章や国際司法裁判所規程による手続によつて国際司法裁判所の決定や判決、勧告的意見が求められていない以上、右の解釈は、すでに、87号条約そのものの内容となつており、国際法規範として妥当していると解するのが相当である。
[509] 「一般意見」の68項によれば、不可欠でない業務にあつては、ストライキの禁止は、労働組合の活動可能性(団体がその活動を定めおよびその計画を策定する権利)を相当に制限する。この禁止は、87号条約8条2項に反する可能性がある。それゆえ、一定の労働者がストライキを禁止される場合においては、これらの労働者に対して、その利益を保護するため、適切な保障を与えることが必要である。
[510] 「一般意見」68項の右の命題は、87号条約そのものの内容であり、87号条約を批准したものは、右のようなものとしての87号条約の規定する保障を阻害してはならない拘束をうける。
[511] 「一般意見」の66項は、その雇用条件が団体交渉の余地を残さない状態で定められる公務員および公権力の名において行動する公務員について、ストライキの制限は理解できる、としている。右にいう公務員が、68項にいう不可欠な業務に従事する労働者の一形態なのであれば、87号条約の明文に、その保障の公務員への適用について特別の規定のないことと矛盾しないが、真に不可欠ではない業務に従事する者が、その雇用条件が団体交渉の余地を残さない状態で定められる公務員に含まれるということでストライキを禁止されることが許容されることを意味するとすれば、87号条約の規定の文言の文脈における自然的意味に反し,その限度では、条約の解釈を誤つたものということができる。そして、条約勧告適用専門家委員会は、条約上明文の規定にない規範を解釈の名で創設する権限はないから、右の限度では、右解釈は規範的意義をもたない。
[512] 「一般意見」は、ストライキ以外の争議行為の禁止について言及するところがない。しかしながら、不可欠な業務においてサボタージユその他ストライキと同様な公共の困苦を公衆にもたらす争議行為があり得るにしても、それほどでない争議行為のあることも明らかだから、このような争議行為までおしなべて一律に禁止することは労働者団体の活動可能性を相当に制限するものとして87号条約8条2項に違反する可能性があることは、「一般意見」の見解において暗黙に示唆されているものと解することができる。
[513] 「一般意見」は、どのような代償手段が、ストライキを禁止された労働者に対してその利益を十分に保護するため適切なものであるか、直接言及していない。しかし、「一般意見」は、結社の自由委員会の先例原則を引用しているから、そこで繰返された原則、すなわち、両当事者が手続のあらゆる段階で参加することを保障された、公平、不偏不党な調停、仲裁制度、かつ、そこでの決定は完全かつ迅速に実施される制度、を前提としていることは明らかである。
[514] 「一般意見」は、一定の労働者がストライキを禁止されるすべての場合について、代償の必要に言及する。これは、団体交渉の余地を残さない、および公権力の名で行動する、公務員の場合を含む趣旨であると解される。もしそうでないとすれば、それが87号条約が、公務員について特別の規定をしていないことと矛盾し、その限度で解釈を誤つたものといえること、先にのべたことと同じである。

第四(理事会の結社の自由委員会と結社の自由に関する実情調査調停委員会の権限)
[515] 結社の自由に関する実情調査調停委員会は、国連との協議により、1950年1月の理事会で、ILOに設立することが決定され、同年2月の国連経済社会理事会で承認されたものである。
[516] 国連の経済社会理事会は、経済的、社会的、文化的その他の国際事項等について、発議し、ならびにこれらの事項に関し総会、国連加盟国および国際専門機関に勧告することができる(国連憲章62条1項)。また、すべての者のための人権および基本的自由の尊重および遵守を助長するために、勧告をすることができる(同条2項)。「人権に関する世界宣言」は、1948年国連総会で採択されたが、その23条4項は、「何人もその利益の保護のために労働組合を組織し、および、これに加入する権利を有する」と規定した。国連加盟国は、人権宣言前文で、人権および基本的自由の世界的な尊重および遵守の促進を国際連合と協力して達成すること、を誓約した。また、ILO憲章前文は、結社の自由の原則の承認をILOの目的に掲げている。
[517] 国連の経済社会理事会は、1947年、AFTUとAFLの要請により、「労働組合権の行使および発展に対する保障」の問題を審議した。経済社会理事会は、審議のうえ、ILOに対して、労働組合権の問題を次回総会の議題とするとともに、その審議結果を報告するよう要請する決議を採択した。ILOは、1948年の総会で、87号条約を、49年の総会で98号条約を採択するとともに、「結社の自由を保障するための国際的機構に関する決議」を総会で採択し、これが、結社の自由に関する実情調査調停委員会として結実したのである。結社の自由に関する実情調査調停委員会は、国連との合意に基づき、付託される労働組合権侵害に関する申立事件を調査し、申立事実を確認し、合意により困難の調整をはかることを目的として関係政府とその事態を討議するため、ILOに設置されたものである。つまり、実情調査調停委員会は、労働組合権の確立、結社の自由の擁護のため国連とILOが活動する権能に、その根拠をおくものである。
[518] また、右のことの帰結であるが、労働組合権を確立し、結社の自由を擁護する目的で、実情調査調停委員会が、付託された事件を調査し、事実を確証し、関係国と事態を協議する権能は、すべてのILO加盟国および国連加盟国に及ぶのである。すなわち、ILO加盟国は、87号条約、98号条約を批准していない場合でも、自国において結社の自由、労働組合権を侵害する場合は、所定の手続を経て、結社の自由に関する実情調査調停委員会の調査等をうけ、また、同委員会と協議しなければならない。87号条約、98号条約を批准していない加盟国は、自国に対する申立事件についての委員会の活動に同意しないことができるが、この場合ILO理事会は、結社の自由に関する権利を保護するため申立事件にかかわる結社の自由に関する権利を保護するため他の何らかの措置をとる目的で、かかる拒否に対して考慮を払わねばならない。さらにILOに加盟していない国連加盟国が、結社の自由、労働組合権を侵害したときは、国連事務総長は、経済社会理事会に代わつて、関係政府の同意を得、ILO理事会を通じて結社の自由に関する実情調査調停委員会に申立を付託し、また、関係政府が同意しない場合、結社の自由に関する権利を保護するため、経済社会理事会が、結社の自由に関する権利を保護するため、申立事件にかかわる結社の自由に関する権利を保護するため他の何らかの措置をとる目的で、かかる拒否に対し考慮を払わねばならない。
[519] 実情調査調停委員会に付託する労働組合権侵害に関する提訴は、先づ第一に理事会の結社の自由委員会で審査される。受理した提訴の予備審査を行なうために、理事会は1952年、9人の正委員及び9人の副委員より成る結社の自由委員会を設置した。結社の自由委員会の予備審査には関係政府の承認を要しない。

第五(理事会の結社の自由委員会および実情調査調停委員会が労働組合権保障に関する国際慣習法規範を確立するうえで果たす役割)
[520] 理事会の結社の自由委員会と結社の自由に関する実情調査調停委員会が、一連の報告を通じて確立してきた前記の原則は、単に、これら委員会が活動するにあたつて準拠する先例原則にすぎないものではなく、87号条約、98号条約そのものであるか、そうでないとしても、国際慣習法規範の一部をなすものである。そのことは、次の諸点から明らかといえよう。
[521] 第一に、実情調査調停委員会(その予備審査機関としての結社の自由委員会もまた同じ、以下本項において同様である)の活動は、国連の経済社会理事会が国連憲章において有し、また、ILO理事会がILO憲章において有する権限に基礎をおくものである。しかも、人権に関する世界宣言22条4項は、労働組合権を宣言し、ILO憲章は、「結社の自由の原則の承認」をILOの目的として宣言している。労働組合権と結社の自由の擁護、助長は、国連およびILOに加盟する各国の義務である。
[522] 第二に、労働組合権、結社の自由の擁護助長の義務が、単なる原則の承認だけでなく、方法の設定により、具体化され、常設の機構によつて、その実効的遵守が担保されていることである。労働組合権、結社の自由の侵害は、主権国の同意を条件としてではあるが、所定の手続により、事件として、実情調査調停委員会に調査に付される。さらに、委員会の調査に付することの拒否にも、一定の効果が約束されている。こうして委員会の活動が準拠する実体的原則は、法規範にほかならない。国家は、この原則によつて直接の支配はうけないにしても、これを尊重すべく拘束される。これは、法規範としての存在の一形態である。
[523] 第三に、この規範が効果を及ぼす範囲は、普遍的である。87号及98号条約の当事国でなくても、またILO加盟国でなくても、この規範の拘束をうけることはすでにのべた。
[524] 第四に、明文の規範としては、労働組合権の行使および助長の保障、結社の自由の原則の承認など抽象的なものがあるだけであるが、その具体的内容は、委員会の報告に繰返し確認され、先例としての拘束性をもつて、その後の具体的事案における判断の基準となる点で、明確なものとして確立される。
[525] これらの理由によつて、労働組合権の保障について、理事会の結社の自由委員会、結社の自由に関する実情調査調停委員会がその報告で繰返し明らかにした原則は、国際慣習法の一部をなすことは明らかである。これと牴触している国に対するこの規範の効果は、一般的には、所定の手続をとられるということにとどまるが、わが国のように、条約のみならず、確立された国際法規に国内法を改廃する効力を憲法上付与している国にあつては、その憲法の規定を媒介として、直接国内法を改廃する効果を及ぼすのである。
[526] 理事会の結社の自由委員会、結社の自由に関する実情調査調停委員会が国際慣習法規範として確立したものの主なものは、大部分は87号条約の規定する規範と重複するけれども、はんをいとわずここでのべれば、
ストライキ権は、労働組合権の不可欠の、また中核的な部分であること、
それゆえ、真に不可欠な事業または業務においてのみ、これを禁止することができること、また、真に不可欠な事業または業務でストライキが禁止される場合でも、その他の争議行為を一律に禁止することはできないこと、
真に不可欠な事業または業務でストライキが禁止される場合には、このようにして不可欠な権利を奪われた労働者の利益を防衛するため、これにかわる適切な保障が必要であること、このような保障は、両当事者が手続のあらゆる段階に参加でき、また、委員の数的構成に異つた利害が同等に反映するよう考慮されておる、調停、仲裁制度でなければならず、またそこでの決定は、完全にかつ迅速に実行されるものでなければならないこと、
また刑罰法規は、労働組合の指導者が、その通常の任務を遂行した行為に適用されてはならず、不可欠な事業または職業でストライキが禁止される場合でも、これに対し刑罰の制裁を伴つてはならないこと、
などである。
[527] 条約に牴触し、なおかつ、明文をもつて廃止されていない従前の国内法に及ぼす条約批准の効果は、それぞれの国が、条約の国内法的効力をどのように定めているかによつて異る。
[528] わが国では、この問題点について明文の規定のなかつた旧憲法のもとでも、政府の公式の解釈は、国内法上の立法事項を定めた条約は、これを公布することにより、直ちに国内法としての効力を生じ、国民を拘束し、あらためて立法手続を要しないとの解釈をとつていた。
[529] たとえば、海難救助条約、ベルサイユ条約、ILO(戦前の)条約について、政府はこれらの公布によつてそれぞれ関係国内法の規定が当然変更されたものと解釈したことが指摘されている(現行憲法制定議会における金森国務大臣の答弁――帝国憲法改正審議録、戦争放棄編474頁、また同476、485、486頁)。判例も同様の見解をとり、(昭和3・12・28・大審院・民集7巻12号1128頁)、また、有力な学説がこれを支持していた。(美濃部達吉・逐条憲法精義273頁以下、宮沢俊義、憲法略説286頁以下)
[530] 以上のように、わが国では、明文の規定のない旧憲法のもとでも伝統的に右のように解されてきたのであるから、憲法98条2項が条約および確立された国際法規の遵守を規定している以上現行憲法のもとでは、条約および確立された国際法規は、国内法に優越する効力、少なくとも同等の効力を有することは明らかである。このことは、憲法98条の立法の経過からも明らかにすることができる。憲法98条は、はじめ憲法改正草案要綱93に「此ノ憲法並ニ之ニ基キテ制定セラレタル法律及ビ条約ハ国ノ最高法規トシ其ノ条規ニ矛盾スル法律、命令、詔勅及ビ其ノ他ノ政府ノ行為ノ全部又ハ一部ハ其ノ効力ヲ失フコト」とあり、憲法改正草案94条、「この憲法並びにこれに基いて制定された法律及び条約は、国の最高法規とし、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」としていたのである。これについては、たとえば高木八尺「憲法改正草案に対する私見」(国家学会雑誌60巻5号13頁以下、新憲法の研究341頁とくに345頁以下)などは、この法規は、合衆国憲法6条2項「この憲法及びこれに基いて制定される合衆国の法律並に合衆国の権能により既に締結され又は将来締結されるべきすべての条約は国の最高法規であり、各州の裁判官は、各州憲法又は州法中に反対の規定がある場合でも、これらによつて拘束される」をほとんどそのままの形でとりいれたものであるが、アメリカと違つて単一国家であるわが国には、このような規定を設ける意義がないばかりでなく、規定の意味が不明瞭であると指摘した。衆議院の修正は、右の意見も考慮してか、現在のような形で第1項を規定して国内法における憲法の最高法規制を表現し、第2項を設けて、条約をここに移し、条約および確立された国際法規の遵守を明らかにしたものである。もともと改正草案94条の趣旨は、高木氏が指摘したような、合衆国憲法6条2項をそのままとりいれたわが国の実情に合わない無意味な規定ではない。憲法は国の最高法規であり、憲法に違背する法令及び処分が無効であることは、明示の規定をまたなくても理論上当然であるが、なおこれを明確にするため、憲法の明文上、改正草案94条のような規定を設ける意義があつたのである(旧憲法にも76条1項の規定があつた)。さらに、条約は憲法の他の規定で、内閣が締結し、国会が承認し、天皇が内閣の助言と承認を得て公布することとされているのであるから、明文の規定をまたなくても、批准され、公布された条約は、法律と同等の効力を有し、立法事項を内容とする条約は、前法後法の関係で、前に制定された法律は、これと牴触する限度で改廃されることは、理論上当然であるが、なおこのことを憲法の規定上明確にするため、改正草案94条のような規定を立案する意義があつたのである。だから、合衆国憲法6条2項をまねたと誤解される表現をかえただけで、右の趣旨は、憲法98条1項、2項として残されたのである。ただ、衆議院での修正にあたり、右の草案の趣旨(理論上当然のことを明文上明確にする)に加えて、わが国が従来、とくに満州事変以後不戦条約、9カ国条約等の諸条約に違反し、国際法を尊示しなかつたとの世界的非難に鑑み、特に条約及び国際法規を尊守する国際協調主義を宣言する趣旨からも98条2項を規定したのである。
[531] 憲法改正審議における金森国務大臣の答弁も、
「衆議院において修正されました条約及び国際法規尊重の規定は、日本が在来執つて居りました行動に付て世界の批判もあり、又国内法に於ける外国の(傍点部分は「条約の効力について」の意か――弁護人注――)疑義もありますが故に、之を設けますことは、是は実質的意義があるものと思つて居る次第であります。従来の考へ方に於て、日本の現行の秩序に於て、条約と法律とはどういう関係にあるか、或は条約というものは果して国内法として、或は国内の法秩序に於て、如何なる程度に之を尊重すべきかと言う点に付ては、可なり不明の点があるものとして取扱はれて居つたやうに存じて居るのであります。此の規定を置きますことに従つて相当明白になつて来るものと思ふ訳であります」(前記審議録・戦争放棄編472頁)
としている。
[532] 以上のことから、条約と確立された国際法規とは、いずれも98条2項があるわが国では、立法事項について規定したものは、法律に優越して妥当することは明らかである。ただ、批准された条約が法律と同等の国内法上の効力を有し、公布によつて前法後法の関係でこれと牴触する法律をその限度で改廃することは98条2項をまたなくても理論上いえることであるから、98条2項が国際協調主義の観点からとくに創設した実質的意議は、条約を法律に優越させたこと(後に制定法律によつてすでに国内法上の効力を有している条約をこれと牴触する限度で改廃することはできないこと)と、確立された国際法規にも条約と同じ国内法的効力をもたせたこと、の2点にある。このことは、98条2項を、右のように解さない説をとるとしても、批准され、公布された条約が、法律と同等の国内法的効力を有することは否定できないことを意味するのである。
[533] 条約と確立された国際法規とは、法律に優越する国内法的効力を有する点で同じであるが、国内法の改廃の仕方に差異があるのは事実である。条約は成文の文書でその存否が明白であり、かつ国内に公布する手続があるから、条約による国内の改廃の時期は公布のときである。確立された国際法規は、国際慣習法として確立されたものをいうが、その確立された時期は必ずしも条約の公布ほど明白でないから、事実上は裁判所がこれを法律に優越するものとして適用するときに国内法を改廃することになるのである。
[534] なお、87号条約について、ドライヤー報告は、「本委員会は、日本政府当局が国会において、この規定(憲法98条2項)並びに日本における確立された慣行により、この条約(87号条約)の批准は、それが日本に対し発効するとき、牴触するすべての法令が暗黙に廃止されるという保証を与えたことに留意する」とのべている。
[535] 地公法37条は、そのストライキが公共の困難を惹起するがゆえに真に不可欠である職務に従事する者と、この基準によれば不可欠でない職務に従事するものとを、区別することなく一様にストライキを制限している。また同条は、ストライキだけでなく、あらゆる争議行為を区別なしに一律に禁止している。
[536] 人事委員会は、委員の任命について職員団体の発言権を確保するよう制度化されていない。
[537] 人事委員会は、職員団体と当局との労働条件について調停、仲裁する機関ではない。
[538] 人事委員会は、職員団体が、団体自身として、労働条件に関する措置を要求する権利を有していない。
[539] 人事委員会が、職員の労働条件についてする報告や勧告には当局に対する拘束力がない。
[540] 地公法61条4号は、職員団体の幹部が、団体が決定した行動を団体の執行機関として構成員に指令し、および指令を伝達し、その他団体の幹部として当然行なうべき任務を遂行した場合に、これに適用されないことの明確な保障がない。
[541] 地公法61条4号は、実質上争議行為に刑罰の制裁をもつてのぞむものである。
[542] 以上の諸点は、これまでのべてきた、87号条約3条1項、8条2項に規定する保障と牴触し、ないし、労働組合権保証に関し確立した国際慣習法規に違反する。
[543] よつて地公法37条、61条4号は憲法98条2項に違反して無効である。
[544] 本件は、教職員の休暇闘争にかかわるものであるが、教職員は、ILOの基準によれば、不可欠な職業ではない。そのことは、ILOとユネスコの教師の地位に関する勧告に明らかである。また、休暇闘争は、ストライキではない。さらに、本件は、組合幹部である被告諸君が、組合大会の決定に基づく指令を伝達し、ないし、指令の趣旨を説明したことを公訴事実とし、これに刑罰を科そうとするものである。地公法61条4号の本件への適用も、87号条約3条1項に規定する保障を阻害し、8条2項に違反し、ないし、労働組合権保証に関し確立した国際法規に違反するものである。
[545] よつて、本件起訴は、憲法98条2項の違背して無効である。
[546] 地公法61条4号は憲法18条に違反しないとした原判決は、憲法18条の解釈を誤るものである。
[547] 原判決は、刑罰をもつて争議行為を禁止することは、刑罰の威嚇をもつて労働の提供を強制するものであつて、憲法18条の「意に反する苦役」からの自由を侵害する旨の弁護人の主張について、つぎのように判示している(判決理由第四、三)。
「憲法の保障する苦役からの自由は、自由を拘束してこれに苦役を強制することを禁ずる趣旨と解すべきである。公務員は、その公務員たる地位にあると否とはその自由であり、自ら公務員たる地位にある限り、自らが構政員である国または地方公務団体の住民に対抗して、勤労不売の闘争を禁止されているにすぎない。その結果公務員が就労執務を余儀なくされても、それは公務員が公共の福祉を実現するための責務であつて、苦役からの自由を奪われるものと解することはできない。
 また、公務員の争議行為を禁止することが憲法に違反しないのは、地方公務員法61条4号が、右禁止違反に対して刑罰を科していないからではない。
 もし公務員に対し争議行為を禁止することが、意に反する苦役の強制に該当するならば、仮に刑罰をもつて禁止しなくても右憲法の規定に違反するものと解しなければならない。公務員は法律によつて争議行為を禁止され、またその、争議行為の遂行を共謀、慫慂、せん動する者等がすべて刑罰によつて処罰されるため、公務員は就労執務を余儀なくされることがあつても、それは公務員が自ら公務員たる地位を保持する限り、全体の奉仕者としての公務員の地位に当然附随する公共の福祉実現のための責務であつて、憲法が禁止する苦役の強制とは全く異質のものといわなければならない」と。
[548] 原判決は、公務員は、その地位にあると否とは自由であると言い、公務員にも退職の自由があることを挙示している。しかし、労働者のいわゆる退職の自由は、使用者の解雇の自由に対応する労働契約上の自由であるにすぎない。
[549] 問題なのは、そして原審における弁護人の論旨は、かかる自由なるべき労働契約関係において、退職の自由と同質的原理におかれている労働放棄を刑罰の威嚇をもつて規制することが憲法18条に違反しないのか、ということであつたのである。
[550] また、原判決は、「もし公務員に対し争議行為を禁止することが、意に反する苦役の強制に該当するならば、仮に刑罰をもつて禁止しなくても右憲法の規定に違反するものと解しなければならない」と言つている。
[551] 争議行為の禁止そのものが意に反する苦役の強制に該当するなどと、いつたい誰がどこで主張しているというのであろうか。
[552] 右によつて明らかなように、原判決は、争議行為禁止一般論と刑罰の威嚇による争議行為の禁止形態論を混同して論旨を展開しているのである。
[553] これについで、また、つぎのように論断し、ますます論理の混迷をさらけだしている。
「争議行為の遂行を共謀、慫慂、せん動する者等がすべて刑罰によつて処罰されるため、公務員は就労を余儀なくされることがあつても、それは公務員が自ら公務員たる地位を保持する限り全体の奉仕者としての……責務であつて、憲法が禁止する苦役の強制とは全く異質のもの」
というのである。
[554] しかしながら、公務員が全体の奉仕者として職務に専念する義務を有するということと争議行為の共謀等が刑罰によつて処罰されるため就労執務を余儀なくされることとは決して同一のことがらではない。
[555] 前者は、公務員の争議権制限の根拠一般に関する論点であり、後者は、右の制限を前提したうえでもなお残されている論点として、刑罰の威嚇による執務の強制の問題である。
[556] 前者の論点が認容されるというだけでは、後者の論点につき憲法18条とは異質のものとする結論が当然に導かれるものでないことは多言を要しない。
[557] 要するに、この点に関する原判決の判断は、憲法18条と地公法61条4号についての厳密な法理的検証を欠き、その論旨は全く矛盾と撞着に充ちており、到底首肯しうる限りではない。
[558] 地公法61条4号は、同号所定の各行為を処罰することによつて、実質上刑罰をもつて争議行為を禁止するにとどまらず、争議行為を実行した職員そのものをほとんどすべて処罰する規定であつて、憲法18条に違反するものである。その理由は以下のとおりである。
第一(強制労働禁止と労働契約違反)
(一)(米法におけるInvoluntary servitude禁止の法理)
[559] わが憲法18条が米国憲法修正13条に由来することはよく知られているとおりである。(宮沢俊義・憲法II・法律学全集327頁)。
[560] 修正13条は,奴隷制の廃止にとどまらず一切の形態の強制労働の禁止を目的とし、米国憲法解釈の歴史のうえでは、時代の推移のなかで豊かな意味づけをかさねてきたが、その一貫する理念は、市民の人格的自由・独立を保障する重要な側面として、何人も自己の欲しない労務を他人に提供することを強制されない権利、完全に自由かつ任意的な労働の制度(a system of completely free and voluntary labour)の確立維持におかれていると解されている。
[561] 判例上involuntary servitudeの意義は、個々の具体的事例に即して展開されているが、報酬の支払いをうけると否とを問わず、威力(force)・強制(coercion)・拘禁(imprisonment)により、かつその意に反して他人の為に労働を強制される人の状態をいうとするもの、単にforced labourもinvoluntary servitudeに当るとするものもある。
[562] このようなinvoluntary servitudeからの自由は、公の必要に基づく公的役務、兵役、航海中の船員労務のごとく古くから例外的に承認されてきた伝統的な事例を除いては、すべての場合に絶対的に保障されるのである。
[563] したがつて、労働関係においては、労働者が労働を放棄すること自体は、いかなる意味においても犯罪となり得ないし、各州は、労働を欲しない労働者をして労働につかしめるために刑罪的制裁を用いることを禁止される。したがつて、労働者が労働契約に基づく自己の義務を履行せず、または履行を拒むことを直接犯罪として禁止する法律は許されない。
[564] 労働契約違反に対する救済方法も制限され、債務履行の救済は認められないと解されている。(片岡「意に反する苦役の禁止と労働者の権利)季刊労働法33号)。
(二)(憲法18条の「意に反する苦役」の禁止)
[565] 「意に反する苦役」とは、米法のinvoluntary servitudeと同義に解され、労働者の意思に反して他人のために強制される労働をいい、報酬支払の有無を問わず、また通常の労務であつても、本人の意思に反して強制される隷属性をもつ場合はすべて含まれる(宮沢・前掲328頁)。
[566] したがつて、米法において確立されているように、労働者の契約違反、すなわち労働関係から離脱することないし労務の提供を行なわないことに対して刑罰を科することは、国家権力による労働の強制として強制労働の禁止に反することは疑いない(本件第一審37・4・18判決、佐賀地裁37・8・27判決、東京地裁38・4・19判決、大阪地裁39・3・30判決、高知地裁39・11・28判決)。
[567] 私人による労働の強制も禁止される。労働基準法5条は、「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」と定め、また、職業安定法63条1号は、労働者の強制募集、強制供給を禁止している。
[568] 暴行、脅迫、監禁等身体の自由に対する直接の拘束手段はもとより、長期労働契約、賠償予定契約、前貸金相殺等の足止め策も不当な拘束手段として許されない(松岡三郎・条解労働基準法63頁)。
[569] 右労働基準法および職業安定法の両条が憲法18条と1930年のILO「強制労働に関する条約」29号(1932年批准)の原則によつて、人格の自由、基本的人権尊重の理念に基づく近代的な労働関係を確立するため、強制労働の禁止をすべての労働関係に保障したものであることはいうまでもない。

第二(強制労働禁止と争議行為)
(一)(司法的抑制措置の限界)
[570] 問題は、労働者が個別的に労働契約に違反した場合ではなく、争議行為として集団的に労務を放棄した場合に憲法28条が適用されるかどうかということである。
[571] すでに述べたように憲法18条は、米国憲法修正13条に由来する自由権的権利であり、ここに保障されているのは、人身の自由と労働者個人の労働放棄の自由である。
[572] これに対して、労働者が団結して行なう争議行為は単なる個人の労働放棄の集合、総和ではなく、争議権もまた労働放棄の自由権を超える生存権的権利としてより積極的内容をもつものである。
[573] したがつて、強制労働禁止の法理と争議権とは決して同質的なものではない。
[574] しかしながら、両者はその法理を異にするといつても、こんにちの民主主義秩序のなかでは相互に密接な関連をもつているものであつて、労働者の団結と争議権は労働放棄の自由、集団行動の自由という自由権の基礎のうえに立ち、人格の自由という抽象的自由を労働者としての人間の社会的地位に即した具体的自由にまで高める手段として確立されているのである。
[575] この2つの権利の相互関係は憲法における28条の位置、人権に関する世界宣言における23条4項の体系的位置からみて一般に承認されているところといつてよい。
[576] 周知のように米法では、争議行為の権利性ないし合法性は、退職の自由という契約理論の基礎のうえで構成され、もつぱらストライキの中止を命ずる裁判所のインジヤンクシヨンに関連する判例のなかで展開されてきた。
[577] Arthur case(Arthur V. oakes, 1894)いらい確定した判例の理論によれば、裁判所は、組合または組合役員に対し、その組織上の統制力に期待して、組合員に対するストライキの指令、せん動、助成を止めるよう命じうるにとどまり、目的によるストライキの適法、違法にかかわらず、差止命令によつて争議中の組合員に労働義務の履行を強制することは、衡平法の歴史的制約ならびに憲法修正13条のinvoluntary servitudeの禁止に違反し許されない、とされている。(片岡・前掲13・14頁、野村平爾・日本労働法の形成過程と理論50頁、F.B.Sayre's Case on Labour. 1923.)
[578] この理論は、労働者の争議権を根拠づけるものとしてではなく、争議行為に対する司法的抑制措置の限界に関する確定理論として承認されているのである。
[579] ILO・強制労働廃止条約105号(c)項は労働規律labour disciplineの手段としての強制労働、(d)項は同盟罷業に関与したことに対する制裁としての強制労働を禁止するが、ストライキに対する刑罰制裁を対象とする(d)項は、労働契約や就業規則によつて科される義務違反に対する刑罰その他の強制労働を対象とする(c)項の一場合であるとする主張が西独の政府委員によつて強調され、それが一応の根拠をもつものであることが承認されている事実にも留意する必要がある(Record of proceedings, 1956. p.513, 片岡・国際労働条約における強制労働の禁止・季刊労働法34号21頁)。
[580] わが国内法の体系について考えると、労働組合法8条が争議行為に対し、不法行為および債務不履行からの民事上の免責を規定している趣旨に徴し、争議行為が団結体の行動の一部としての意味をもつと同時に具体的には個々の労働者の義務の不履行ないし義務違反として現われる事実を実定法もまた予定していることは否定できない。
[581] 争議行為のもつこの2つの側面を正しく把握し、地公法61条4号に憲法18条の法理を適用した大阪地裁判決(39・3・30)は、この意味できわめてすぐれた判断を示している。
[582] すなわち、
「争議権がいかに積極的内容をもつ生存権的権利であるといつても、それはあくまで自由権としての労働放棄の自由と集団行動の自由の基礎の上に立つものであつて、人身の自由と無関係の権利ではなく、したがつて、争議行為に対し、労働者の団体に対する団体罰を科することは格別、争議行為をなした個々の労働者に争議行為に参加したことを理由として刑罰を科することは原則として憲法18条に違反して許されない」。
高知地裁判決(前掲39・11・28)も同旨である。
[583] このように、争議行為に対する刑罰規定は、憲法18条の適用の対象となるものであり、その合憲性が問われなければならないものと信ずる。
(二)(ILO条約105号の意義)
[584] 「国際連合憲章に掲げられ、かつ世界人権宣言に述べられている、人間としての権利の侵害となるある種類の強制労働の廃止」を目的として採択された条約105号は、憲法18条と争議行為との関係を判断するためには看過することのできない重要な国際的基準である。
[585] 同条約第1条は、「この条約を批准する国際労働機関の加盟国は、次に掲げる手段、制裁または方法としてのすべての種類の強制労働(forced or compulsory labour)を禁止し且つこれを利用しないことを約束する」として、「(c)労働規律の手段、(d)同盟罷業に関与した(having participated in strike)ことに対する制裁」を禁止の対象においている。
[586] 強制労働の概念には懲役刑が含まれることはいうまでもない。
[587] ILO・専門家委員会が1962年4月理事会に提出した報告書は、条約の適用を免れる場合として、一般にストライキが違法とされる事情を具体的に提示した。
[588] その一は、国民の全部又は一部の生存を脅かすという条件のもとで、緊急事態に不可欠の労働、その二は、純然たる軍事的性格の労働、その三は、一般刑法犯罪に対する有罪判決による監獄労役、その四は、住民またはその代表者により決定された共同的奉仕労働に対するものとされている。
[589] また別の側面から(d)項に抵触しない場合の具体的基準を提示したが、これによると、第一に、ストライキ開始に先立つ法定手続に違反した場合(この手続は、ストライキを現実にはく奪するものでないこと)、第二に、任意的な調停、仲裁手続中のスト禁止に関する法律上の義務に違反した場合、第三は、基幹的事業(その中断によつて非常事態――国民の全部又は一部の生存を脅かすもの――の発生する事業)のストライキ禁止違反の場合である。
[590] この報告書に述べられている見解は、結社の自由委員会に対する提訴事件を通じて形成されつつある国際的労働規範を集約し代表するものであることに留意しなければならない。
[591] 現行公務員法の争議行為関与者に対する包括的な、業務の特殊性を問わぬ一般的刑罰的制裁(国公法110条17号、地公法61条4号)が、本条約1条(d)項に抵触するものであることは論議の余地がないほど明白であろう。
[592] 国際的にみて、もはや労働争議に国家が刑罰権をもつて介入する時代ではない。
(三)(公務員関係と強制労働禁止の法理)
――昭和28・4・8大法廷判決批判――
[593] 原判決は、憲法18条の保障は、自由を拘束して苦役を科することである。公務員は、「自ら公務員たる地位にある限り、自らが構成員である国又は地方公共団体の住民に対抗して、勤労不売の闘争を禁止されている」が、公務員たる地位にあると否とは自由である。だから意に反する苦役を強制されてはいない、という形式論理を憶面もなく判示している。この三段論法は論理学にいわゆる論点無視の誤りをおかしていることは、一見して明白であろう。すでにふれたように、「勤労不売の闘争を刑罰によつて禁止する」という問題を「闘争の禁止」一般にすりかえているのである。
[594] この論旨が最高裁昭和28・4・8大法廷判決への盲従と踏襲であることは、あらためて指摘するまでもあるまい。
[595] 右大法廷判決は、
「公務員は、本件政令201号により、その2条1項に該当するいわゆる職場離脱を禁止されたけれども、人格を無視してその意思にかかわらず束縛する状態におかれるのではなく、所定の手続を経れば、何時でも自由意思によつて雇用関係を脱することも出来るのである。それ故所論のように同政令が憲法18条にいわゆる奴隷的拘束を公務員に加え、その意に反して苦役を科するものであるということは出来ない」
というのである。
[596] 政令201号2条1項は、「公務員は何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなしその他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならない」と規定し、同政令3条は、「前条に違反したものは、これを1年以下の懲役又は5千円以下の罰金に処する」と定めていた。
[597] 前記判決は、「何時でも自由意思によつて雇用関係を脱することも出来る」のであるならば、何故に「自由意思によつて」職場離脱が許されないのか、それが公務員の職責に反するのであるなら懲戒処分による制裁ないし免職処分で足りるのに、何故に刑罰の制裁が科されるのか、そのことは、「人格を無視してその意思にかかわらず束縛する状態」におくことではないのか、という上告趣意に答えてはいない。判文上あきらかなように同政令3条の刑罰の問題は完全に疎外されたかたちで立論されている。
[598] あるいはいうかもしれない。判文の趣旨は政令3条の刑罰による禁止を含んだものである。ただ判示の表現がまずかつたのだ。そして、雇用関係からの離脱が自由である限り、雇用関係ないし職員の地位を維持したうえで行なわれる職場離脱のみを刑罰で禁じても憲法18条には反しないのだ、と。
[599] しかし、このような発想は、個人の自由意思にのみ基づいた完全に任意的な労働の制度の実現を目的としてきた米国憲法修正13条とわが憲法18条との理念的伝承を断絶におくことになろう。
[600] 「労務の遂行を約した労働者が当該労務を放棄する権利は、使用者が労働者を解雇する権利と同一の基礎のうえにあり、また衡平法が労働者による労務の現実的かつ積極的な履行を強制することなく、また同様に使用者に対し、彼のうけ入れがたい人間を彼の労務にとどめるよう強制することをしないという規則には、例外は存しない」のである(Arthur V. Oakes. 前掲、片岡・前掲11頁)。
[601] 判決は他の箇所(理由第四・一)で、住民が地方公務員の使用者であること、公務員は全体の奉仕者としてその住民に奉仕するものであることによつて、使用者たる住民に対抗して労働不売の闘争が禁止される旨判示している。
[602] この点に対する反論はすでに他の論点でなされた。ここでは、前記判示のような争議権一般の制限の論理のもとでもなお残されている課題として、強制労働禁止の原則は公務員関係を除外するものであるかどうかを考察する。
[603] 公務員が憲法28条にいう勤務者であることについては、学説・判例上争いはない。
[604] 原判決も、使用者たる「地方公共団体の住民に対して労働を売り渡す」のであると判示しているほどである。(正しくは労働力を売り渡すのであるが)。ともあれ、使用者たる地方公共団体と職員との間の現実に否定し難い労働・契約関係の存在と地方公共団体の職員に労働基準法5条が適用されていることからすれば、公務員わけても地方公務員を憲法18条の保際から除外する根拠は存しないといわねばならない。
[605] チリーの「恒久的民主々義擁護法」の3条4項が、公共部門の争議行為を全面的に禁止し、その違反に対し、懲戒、禁錮、追放および罰金の刑を法定していたことを理由とする申立事件についてのILO・結社の自由委員会の裁定は参考に値しよう。
「恒久民主々義擁護法が公務規則によれば単に行政懲戒処分をするための懲戒理由にすぎないものを苛酷な刑罰によつて、処置しうる刑事犯罪としているので、委員会はこの点につきチリー政府が恒久民主々義擁護法3条4項を改正することを考慮するよう注意を喚起する」(Twenty sixth Report of the C.F.A. para 78. ILO official Bulletin  vol XI NO 2. 1957. pp160)
[606] なお、ILO条約勧告適用専門家委員会の105号条約に関する報告書(前掲)が同条約の無差別適用の原則を強調し、「相当多数の国において非合法ストライキの場合に適用される制裁は刑事罰ではなく、またなんらかの形の強制労働も含んでいないということを留意する必要がある。これらの制裁は単なる民事上の制裁である」と指摘していることは国際労働通念の現状を反映するものとして注目する必要がある(International Labour conference forty third sesion. Geneve 1962 Report II part IV)。

第三(憲法18条と公共の福祉)
――現行実定法における諸規定の検討――
[607] 公共の福祉の問題は、憲法28条の保障との関係で詳しく論じた。
[608] 憲法18条の保障する強制労働の禁止・意に反する苦役からの自由は、人身の自由に関する根源的権利であるから、人権相互の調整の原理としての公共の福祉に基づいてこれを制限しうるのは、住民ないし一般公衆の生命、身体、財産に直接の危害を及ぼし、または日常生活を著しく危くする場合に限られると解するのが至当である。
[609] この点については、すでにふれたところであるが、ILO105号条約に関する1962年の専門家委員会報告をあらためて想起する必要があろう。
[610] そこで、現行実定法の体系において、公務員以外の労働関係に関する制限規定を考察してみよう。
[611] 労調法は、「事件が公益事業に関するものであるため、又はその規模が大きいため若しくは特別の性質の事業に関するものであるために、争議行為により当該事業が停止されるときは国民経済の運行を著しく阻害し、または国民の日常生活を著しく危くすると認める事件について、そのおそれが現実に存するときに限り」緊急調整が行われること(35条の2)、調整中50日間は争議行為を禁止されること(38条)、公益事業の争議行為については労働委員会等に10日前の予告を行なうこと、(37条)事業場における安全保持の施設については争議行為をなしてはならないこと(36条)等を定めるが、右37条および38条違反については、労働者個人ではなく労働者の団体に対して罰金刑が科されるにとどまる(39条・40条)。36条違反については罰則はない。
[612] スト規制法と呼ばれる電気事業および石炭鉱業における争議行為の方法に関する法律は、電気の正常な供給を停止し、直接に障害を生ぜしめる行為、石炭鉱業の保安業務を停廃する行為であつて、人に対する危害、資源の滅失、損壊、重要施設の荒廃または鉱害を生ずる行為は、争議行為の方法として禁止する(2条、3条)。「国民経済および国民の日常生活に対する重要性にかんがみ、公共の福祉を擁護するため」(1条)両産業の争議行為の方法を規制したが、いずれも罰則はない。
[613] 船員法は、船舶に急迫した危険のある場合に、船長の許可なく船舶を去ること、異状気象等の条件下に船長の人命、船舶等の救助に必要な命令を拒むこと、人命、船舶、積荷の応急救助に必要な作業に服しないこと、外国に於て脱船することを刑罰で禁止する(128条)。しかし争議行為は、船舶が外国の港にあるとき、人命、船舶に危険がおよぶようなときには禁止されるが、違反に対する罰則はない(30条)。事業法をみると、郵便法はことさらに郵便の取扱をせず、遅延させること(79条)、鉄道営業法は、旅客又は公衆に危害を及ぼすおそれのある行為をすること(25条)、公衆電気通信法は、正当な理由がないのに通信役務の取扱をしないこと(110条)、電波法は、遭難通信の取扱をしないこと(105条)、電気事業法は、正当な理由がないのに電気工作物の維持、運行の業務をとり扱わず発送電に障害を及ぼしたとき(115条3項)、ガス事業法は、同じく正当な理由がないのに工作物の維持、運行の業務をとり扱わずガスの供給に障害を生ぜしめたとき(53条3項)、航空法は、航行中の危難に際し、機長が必要な措置をとらず航空機を去ること(152条)をいずれも罰則をもつて禁止している。いずれも従業員の労働契約上の義務違反に対して刑罰を科する趣旨である。
[614] したがつて、労働規律維持のための強制労働を禁止するILO条約105号1条(c)項および憲法18条と関連するところである。
[615] しかしながら、これらの諸規定は、事業の公共性ないし公益性に基づき、一般公衆の利用に供するため、事業体そのものに事業の維持、継続を義務づけ、このために事業体内部における従業員の服務を必然的に規制したものと考えられる。この点は、公務員関係にもいえると考えられがちであるが、事業と業務の特殊性を看過してはならない。
[616] しかも、その規制の限度は、人命、財産の救助、危難の回避、業務の特殊性から公衆の日常生活への重大な支障を防止することを必要とする範囲におかれ、正当な理由を欠く義務違反の所為にとどめられている趣旨からみて、人権相互の矛盾、衝突の実質的に公平な調整という公共の福祉の原理に照らせば、憲法18条の強制労働禁止の精神に違反しないと解すべき余地がある。
[617] また、これらの規定を争議行為に適用することについては、通説は否定的である(松岡三郎・郵便法と労働運動、労働法律旬報312号、片岡・前掲論文、同・団結と労働契約の研究、藤木英雄・労働刑法における違法性の概念・法律時報30・9)。
[618] ところで、地公法61条4号における争議行為の可罰的禁止は、原判決の判示するところによると、「当該公務員の職務が特に重大であつて、その争議行為によつて国家、社会の存立を危殆ならしめるという理由ではない。したがつて、きわめて低い地位にある公務員であつて、その職務も余り重要でなく、その公務員が争議行為をしても、それほど支障がない場合でも、それは禁止される」ものと解されている。そうすれば、法61条4号が公共の福祉の要求により処罰の根拠を正当化されているものでないことはあまりにも明白である。
[619] 上述したところによつて、憲法18条の「意に反する苦役」の禁止によつて、争議行為に対し刑罰を科することは、公務員関係にあつても許さるべくもないことを明らかにした。
[620] しかし、地公法61条4号の構成要件の解釈いかんによつては、この規定が必ずしも憲法18条に違反しないともいいうるのであるから、最後にこの問題を明確にし、この上告趣意の論点の結語を示すことにする。
[621] 本件第一審判決は、団体行動の組織的一体性に着眼し、争議行為の主体である職員団体の構成員の行為であつて、争議行為に通常随伴する行為は法61条4号の対象とならない旨判示し、適用の範囲をきわめて限定的に解釈した。(東京地裁38・4・19判決も同旨)。
[622] これに対し、原審は、争議行為に参加する一般組合員と、これを指導して争議行為を誘発、助成する原動力となる者との行動を全く同一視する謬論であるとしてこれを斥け、つぎのように判示している。
「地公法61条4号が、争議行為の実行者を処罰しないで、これを共謀し、そそのかし、せん動した者、またはこれらの行為を企てた者を処罰するのは、争議行為の原動力となり、これを誘発、指導、助成するその共謀者、慫慂者、せん動者あるいはこれを企てた者だけを処罰することによつて、このような集団的組織的な違法行為を禁遏しうると考えたからである。違法行為が実行に移される前の段階において、その原動力となりこれを誘発、指導、助成する行為を禁遏することによつて、未然に違法行為の実現を防遏し得るし、……その違法行為を実行した者……一人一人を処罰する必要はない」。
[623] 原判決によると、法61条4号は、争議行為の実行者すなわち争議参加者とこれの首謀者、慫慂者、せん動者、企画者いわゆる原動力グループとを区別し、後者のみを処罰する規定である、というのである。
[624] この行為者ないし行為類型の区別の点について、和歌山地裁判決(38・10・25)は、「単なる組合活動の実態という社会現象としての結合的評価ではなくして、現行法体系上いわゆる可罰的行為の個別的評価の可能の問題、換言すれば法律的評価の問題として考察されなければならないのである。」と一見もつともらしい立論を前提したうえで、「ある事実行為の一系列が社会現象として全く結合しており、これを分割して価値判断することが無意味となるようなものであれば格別、いわゆる争議行為なるものと、その企画立案行為、争議行為の討議、決定について関与行為、争議行為の指令、指示行為、さらに争議行為の説得,激励行為は、社会通念上明らかに峻別しうるものであり、又峻別すべきものである」と述べている。原判決も、おそらく同一の峻別評価説に立つものであることは、判文の全趣旨から明らかに推認できるところである。この行為類型峻別説は、特に原動力行為類型該当者が常に少数であるという仮構にたつて、少数原動力処罰の合憲性の心証を底においている。
[625] しかしながら、地公法61条と憲法18条(28条も同じ)との関係で問題となることの一つは、2つの行為類型が峻別しうるかどうかということにつきるのではない。最も決定的なことは、それぞれの行為類型とされるものによつて補捉される対象者が、団結体のいかなる構成員の範囲にまで波及する可能性をもつているのか、ということである。それは、すぐれて同法のもつ可罰的効果の検証の問題なのである。
[626] 団結の運営ないし団体行動の集団的性格と労使間の対抗関係における団体活動の流動性に着目すれば、団結体の構成員のすべてが前記原動力行為類型において把えられることは疑いがない。そこに把えられるのは、ひとり組合幹部だけではないのである。
[627] 学説もつぎのように適切な指摘を行なつている。
「地公法が端的に『同盟罷業その他の争議行為を罰する』といわないで、その『共謀』等を罰する、という書き方をしているのは、これは英法以来のコンスピラシーの考え方というか、法技巧というか、の伝統に立つものだと解せられる。
 Crimial conspiracyは、刑事共謀とか共謀罪とか訳されるが、その概念の核心は、「ひとりでやつたのでは罪にならないことでも共謀してやれば罪となる場合がある」という点にあるもののようである。……そして、コンスピラシーの考え方というか、法理というか、それは現代のアメリカ法(ないし法思想)の中にも、なお命脈を保つているようである。私は地公法の問題の条文は、アメリカの法律家のドラフトにかかるものだと諒解しているが、こうした背景の前に問題を据えてみるとき、私としては、上記のように、地公法61条4号は、ストライキそのものを犯罪とする趣旨である――ただ、その趣旨をこのように表現しただけである――と理解せざるを得ないのである。」(磯田進・公務員の争議禁止と憲法・季刊労働法45号18頁。)
ここでは、少数原動力処罰説の法イデオロギー的偽瞞性が端的に摘発されている。
[628] 大阪地裁判決(39・3・30)が、
「特殊な場合を除き、およそ争議行為の実行者はすべて何等かの形において争議行為遂行の謀議に関与しているものといわなければならない。まして争議行為の遂行を共謀する行為を企てた者を処罰するにおいては、争議行為参加者にして処罰を免れる者は殆どないといつてもいい過ぎではないであろう」。
 したがつて、地公法61条4号は、同号所定の各行為を処罰することによつて実質上刑罰をもつて争議行為を禁止するにとどまらず、ひいては争議行為を実行した職員そのものを、ほとんどすべて処罰するに至る規定であることが明白である」
と判示したのは至当な解釈というべきである。
[629] そうであれば、法61条4号は、同号所定の構成要件の形で争議行為の遂行そのものを処罰するものであり、憲法18条の保障する意に反する苦役からの自由(ILO条約105号1条(c)項(d)項の保障)を侵害し、違憲、無効の規定といわなければならない。
[630] 地公法61条4号は、憲法31条に違反しており、これを合憲として適用した原判決は、法令の解釈適用を誤つたものである。
第一(憲法31条が要請する合理性とはどのようなものか)
[631] 憲法31条は、何人も、法律の定める手続によらなければ刑罰を科せられない旨を定めているが、ここにいう「法律に定める手続」が、手続法ばかりでなく、実体法をも含むこと、また単に法律が定められているばかりでなく、それが実質的に合理性を備えていることが要求されていると解することは、異論のないところであろう。
[632] そして、そこにいう合理性とは、憲法第3章の人権保障の各規定及びその精神ないし憲法全体の精神に適合することであり、さらにさかのぼつては基本的な正義と合理性の観念に適合することをいうのである(団藤重光・法律実務講座刑事編1巻33頁同旨)。
[633] 憲法31条が、とくに刑罰法規について、このような合理性を要求している根本の論旨は、そのことによつて国家の刑罰権の発動をできるだけ限定しようということにある。国家の刑罰権の濫用を戒めようとすることにあるのである。
[634] けだし、刑罰は、国家の権力的な作用のなかでも、とりわけ強力な作用であり、それだけに、治安維持、違法行為の取締りの手段として安易に濫用されやすい危険をはらんでいる。しかし刑罰は、違法行為取締りに役立つ反面で、これを受ける側の国民の権利・自由に重大な影響を与える。だから、国民の権利・自由が国政上最大の尊重をうけるべきものとされ、また国民が個人として尊重されなければならないとする憲法秩序(同法13条)のもとにおいては、刑罰を科することは、真に必要な最少限度にとどめられるべきであり、むしろ可能な限り手控えられなければならないのである(いわゆる刑罰法規の謙抑主義)。
[635] この意味で、刑罰を科するためには、当該行為に刑罰を科するだけの実質が存することを、明白に指摘しうる場合に厳密に限られなければならない。刑罰を科する論拠には、異論をはさむ余地のないほどの確かさがなければならない。どうとでもいえるような、あいまいな論拠によつて刑罰を科してはならない。このような明確さ、厳密さこそが、刑罰法規の人権保障機能の基礎となるのである。
[636] しかも、一概に違法行為といつても、その違法性の程度はさまざまである。だからこそこれに対抗する手段も、強弱さまざまなもの(たとえば懲戒処分と刑罰)が設けられているのである。そのなかで刑罰は最も強力な手段である。ことに争議行為については、それがまづ刑事罰から解放され、次で懲戒処分から解放されたという歴史的経過から明らかなように、争議行為に刑罰を科することは、争議行為禁圧の手段のなかでも、もつとも苛酷で、もつとも原始的な手段である。だから違法行為であれば、当然にこれに刑罰を科しうるというわけではない。事実、公務員の規律違反行為についてみても、国公法、地公法に明らかなように、そのすべてに対して刑罰を科しているわけではない。刑罰を科するためには、刑罰に値するほどの高度の違法性が存することが必要とされるのである(秩序罰程度の行政罰を科するのを相当とする場合に、重い刑罰を科することは憲法31条に違反する。昭和37・2・21最高裁大法廷判決刑集16・2・119、河村意見参照)。
[637] だから違法行為だというだけでこれに刑罰を加えることを容認し、あるいはもつぱら取締りの必要のみを強調することは、憲法31条の精神を真向から否定するものといわねばならない。

第二(争議行為が権利であるとされていること(憲法28条)と矛盾し不合理である)
(一)(地公法61条4号の基本的不合理性)
――原判決の基本的誤り――
[638] 地公法61条4号は、公務員の争議行為を刑罰をもつて禁圧することを目的としたものである。この規定が直接に処罰の対象としているのは、争議行為を「あおる」等の前段階的行為であるが、この規定の目的は、あくまでも、そのことを通じて、争議行為を禁圧することにある。したがつて、地方公務員の争議行為を刑罰をもつて禁圧するという点に基本的に合理性が存しなければ、この規定が刑罰法規としての合理性を保持することは、そもそも不可能である。
[639] 原判決は、「あおり」行為等は、争議行為の原動力であるから、これを処罰することには合理性があると述べているが、原判決のこの議論は、明らかに、公務員の争議行為は刑罰をもつて禁圧するに値するものであることを大前提としている。原判決は、このことを前提とした上で、争議行為を刑罰をもつて禁圧するには、その実行行為を処罰するよりも、その前段階的「あおり」等を処罰する方が合理的であるとしているのである。しかし、原判決が依拠しているこの大前提そのものが、誤つているのである。原判決の基本的な誤りは、まさにこの点にある。
(二)(争議行為の権利性とその全面的禁圧との矛盾)
[640] 地公法61条4号が禁圧の対象としている地方公務員の争議行為は、本来は権利として憲法上の保障をうけている行為である(憲法28条)。地公法61条4号は、まさにこのような行為を刑罰をもつて禁圧しようとしているのである。
[641] ところが権利と刑罰法規との一般的な関係について考えてみると、実定法が、ある行為を権利として保障することは、国家がその行為を社会的に価値のある行為と認め、その行為の実現に何らかの保護を与える旨を明らかにしたという意味をもつ。すなわち、権利侵害に対しては常に損害賠償請求権が認められるし、場合によつては刑法的保護をうけることになる(たとえば刑法193条)。権利行使の結果、他人の法益を侵害することがあつても、それが権利行使の内容としてもともと予定されている限りでは、違法性を有しないと評価されることになる(同法35条)。少なくとも、実定法が、ある行為を権利として保障することは、その行為が刑罰を加えるべき反社会性を有しないことを、国家みずからが確認したという意味をもつ。これが権利保障の大前提であり、その最低限の内容でもある。このことは、とくに争議権確立の歴史に大変明確な形で現われている。争議行為は、かつては犯罪行為とされたが、争議権の確立によつて、それは犯罪行為から適法行為へとかわつた。争議権の確立は、刑罰からの解放、犯罪扱いからの解放という実質をもつているのである。
[642] だから、実定法上権利とされている行為を処罰することは、一般的にいつて、それ自体で矛盾しており、許されないことはいうまでもない。権利行使を処罰しうるのは、それが権利濫用にわたり、他の権利、利益を過大に侵害するという例外的な場合のみである。だから、実定法上も、権利行使の時期、方法等に部分的、例外的な制約を加え、その禁止違反に刑罰をもつて臨む(たとえば労調法39条、40条等)という例や、権利行使が刑法に触れる場合に権利の濫用としてこれを処罰する(たとえば脅迫による債権行使等)という例はあつても、権利行使のすべての場合を細大もらさず処罰するという例は、他に存しない。
[643] ところが、地公法61条4号は、地方公務員もまた労働者であり、憲法28条の争議権の保障をうけるという前提に立ちながら、地方公務員のすべての争議行為(のみならず怠業的行為まで)を刑罰によつて禁圧している。地方公務員に関する限り、争議権という権利は、跡形もなく奪われており、逆に権利を行使すること自体(より厳密にはその前段階的行為)が犯罪行為とされているのである。
(三)(争議行為の影響と刑罰を科することとの不均衡)
[644] 他方、すでに述べたように、実定法上権利とされていない行為についてさえ、これに刑罰を科するためには、当該行為が刑罰を科するに値するだけの実質的な害悪をひきおこすものであることを疑う余地がないほど明白に指摘しえなければならないのである。いわんや、権利、ことに憲法上の基本的人権として保障されている行為に刑罰を科するためには、それがよほど重大な害悪と結びついていることを明白に指摘しえなければならない。
[645] ところが、地公法61条4号の場合についてみると、禁圧の対象となつている地方公務員の争議行為が地方住民に与える影響は、決して一様なものではない。それは、職種や争議行為の態様、方法によつて多様にわかれてくる。なかには、地方住民に与える影響がきわめて軽微な場合のあることは否定できない。
[646] しかも、職員の地位、職種からみて地方住民に真に重大な影響を与える争議行為とそうでないものとを区別し、禁止の範囲を前者のみに限定するということは、決して不可能ではない。それにもかかわらず同条は、軽微な影響しか与えない場合をも含めて、地方公務員の争議権行使のすべての場合を、懲戒処分のみにとどまらず、さらに刑罰までも加えて禁圧しようとするものである。このことは原判決も認めている。原判決は、次のように述べている。
「以上の如くすべての公務員は、その地位にある限り、いかなる争議行為をもなし得ないのである。当該公務員の職責が特に重大であつて、その争議行為によつて国家、社会の存立を危殆ならしめるという理由ではない。したがつて極めて低い地位にある公務員であつて、その職務もあまり重要でなく、その公務員が争議行為をしても、それ程支障がない場合でも、それは禁止されるのである。すべての公務員について一律かつ全面的に禁止するものである。……また、争議行為によつて実際に発生する支障実害の大小、ことにこれと争議行為を禁止されることによつて公務員が蒙る損失の大小を比較して、争議行為の適否、許可、不許可を定めることもできない。」
[647] 人権保障の観点から国家の刑罰権の発動はできるだけ抑制されなければならないとされている憲法体制のもとで、しかも、憲法上の保障をえている権利行為について、「それ程支障がない場合でも」、また「実際に発生する支障実害の大小」を問うこともなく、権利行使のすべての場合を、細大もらさず刑罰をもつて禁圧するということが、一体どうして刑罰法規としての合理性をもつといいうるであろうか。それはまさに国家の刑罰権濫用の典型といわねばならない。

第三(憲法18条の精神に反し不合理である)
[648] 争議行為に参加したこと及び争議行為の「あおり」等に対する制裁として刑罰を科することが、憲法18条に直接に違反するものであることは、すでに述べた通りである。しかし、仮に、憲法18条が直接に禁じているのは、争議参加行為に対する制裁としての刑罰のみであるとしても、地公法61条4号は、憲法18条の精神に反し、その点で合理性を欠くものといわねばならない。
[649] すなわち、実定法上争議行為の実行行為が不可罰とされているのは、原判決がいうように、単にそれが刑罰を科するほどの違法性をもたないとか、同情すべき面があるといつた政策的考慮によるものではなく、憲法18条によつてこれに刑罰を科することが許されないとされているからである。刑罰をうけないことが、国民(公務員)の側の権利として保障されているからである。したがつて、争議行為の実行行為をあおつたからといつてこれに刑罰を科することになれば、それは実行行為に対して刑罰を科されないことが権利として保障されていることと矛盾することになる。
[650] のみならず、地公法61条4号は、争議行為に当然随伴し、それなしには争議行為を行うことが困難であるような指令の発出等の行為を、「あおり」等として処罰するものであるから、実質的にみれば、刑罰によつて労働放棄を禁圧しているものというべきである。それは、いわば憲法18条の脱法行為である。同条はこの点でも合理性を欠いている。

第四(憲法21条の精神に反し不合理である)
(一)(地公法61条4号と憲法21条との関連)
[651] 地公法六一条四号の規定は、公務員の争議行為を禁圧する方法として、争議行為の前段階をなす「あおり」行為等を処罰するという方法をとつている。ところがこれらの行為は、いずれも言論活動としての性格をもつている。とくに「あおり」「そそのかし」はそうである。したがつて、このような争議行為禁圧の方法をとるときは、当然に憲法21条の言論の自由の保障が、重要な関連をもつてくることになる。憲法21条との関連を考慮することなしに、この規定の刑罰法規としての合理性の有無を判断することはできない。
[652] そして、この規定は、以下に述べる通り、必要最少限の範囲を超えて言論活動に刑罰を加えようとするものであり、憲法21条との関連で刑罰法規としての合理性を有するとは、到底認めがたいのである。
[653] 原判決は、この点について言及していないが、しかし、地方公務員の争議行為が禁圧するに値するものである以上、この目的のために、その実行行為を処罰するという方法をとるか、その前段階的行為を処罰するかは、多分に立法政策上の自由に属する問題であるとみているように思われる。福岡地裁の判決(昭和37・12・21)には、この考え方が明瞭に現われている。しかし、「あおり」等の前段階的行為を処罰するという方法をとる場合には、それが言論活動であるところから、憲法21条との関連で一定の制約が存するのであつて、これを立法政策上の自由に属する問題とみることは、妥当ではないのである。
(二)(言論に刑罰を科しうる基準)
[654] 言論活動を処罰することと憲法21条との関連については、憲法21条による言論の自由の保障も絶対的なものではなく、それが公共の福祉を害する場合には制限を加え刑罰を課することも違憲ではないとする説が存する。従来の最高裁判決も、こうした立場をとつている(たとえば最高裁大法廷昭和29・11・24刑集3・6・839等)。しかし、言論の自由が絶対的なものではなく、一定の場合には制限をうけるべきものであるとしても、公共の福祉の概念は、それ自体きわめて抽象的なものであつて、どのような場合に言論の自由に制限を科することが許容されるか、またどの程度まで制限を科すことが許されるかという問題が、この概念を抽象的に持出すだけで明白となるわけではない。それだけでは、言論の自由に制限とくに刑罰を科しうる場合と科しえない場合とを、厳密に区別することは不可能である(昭和28・12・16最高裁判決刑集7・12・2457の小林裁判官の補足意見同旨)。
[655] したがつて言論の自由の場合に即して、これを制限しうる公共の福祉の内容実質を明らかにし、言論活動に対して刑罰を科しうる場合とそうでない場合とを厳密に区別しうる合理的な基準を明確にすべきである。
[656] この意味で、右の基準について考えてみると、言論活動がどのような実質的害悪と結びついているか、またその結びつきの緊密さの程度の如何が問題とされなければならない。しかも、言論の自由が、民主政治存立の基本的条件として、憲法上きわめて高い地位を占めていることを考えるならば、右の実質的害悪は、このような貴重な価値である言論の自由を制限しうるほどに重大なものでなければならず、またその結びつきの程度は、明白で差迫つたものでなければならない。
[657] アメリカにおいても、これと同趣旨の「明白にして現在の危険」の原則が存することは、周知の通りである。ことに、言論と結びつく害悪が重大なものでなければならないことにつき、たとえばホイツトニー事件で、ブランダイス判事は、「さらにまた、切迫した言論であつても、おそれられる害悪が比較的重大なものでなければ、効果ある民主政に必須のこれらの機能(言論や集会の自由)の禁圧手段に訴えることを正当化しえない。言論や集会の自由の禁圧は、きわめてきびしい手段であるから、社会に対する比較的軽微な害を避けるための方法としては不適当である」と述べている(伊藤正己・言論出版の自由227頁参照)。また、ブリツジス事件でのブラツク裁判官による多数意見は、「相当の害悪の生ずる可能性がいかに大であつても、それのみでは言論出版の自由の制約を正当化することはできない。その害悪自体が実質的なものでなければならず、それは重大なものでなければならない」と述べている(伊藤前掲243~4頁参照)。
[658] 伊藤正己教授もまた、「明白かつ現在の危険」の原則の内容を分析しながら、「実質的害悪」との結びつきをこの原則の一要素として指摘し、「実質的」(substantive)とは、ブランダイスのいうように重大な(serious)という意味であり、「単に社会的に不便を生ずるとか民衆が多少の迷惑を蒙るがごときは重大な害悪とはいえない」と解説し、「『明白にして現在の危険』の基準が、対立する社会利益の較量のための基準であることが明瞭に示されているといえよう。言論を制約してまでも維持しようとする社会的利益の重大性が、言論の自由の保障そのもののうちに含まれる重要な社会的利益と比較されつつ判断されてゆくことになるのである」と述べている(伊藤前掲282~3頁)。
[659] これは、きわめて妥当な見解であつて、わが国の憲法21条の解釈にこれをとり入れることを否定すべき理由はみ出し難い。現に、最高裁は、集団示威運動に対する制限につき、「公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすことが予見されるときは、これを許可せず又は禁止することができる……」と述べて(昭和29・11・24大法廷判決刑集8・11・1868)この原則を採用しているほか、いくつかの下級審判決にも、この原則を援用したものがあらわれている(昭和29・9・15釧路地裁判決等の破防法関係事件判決)。
(三)(実定法上犯罪とされていない行為を唱導する言論を処罰することの危険性)
[660] 地公法61条4号の規定のように、実定法上犯罪とされていないが法が禁止している行為を唱導する言論に刑罰を加えることは、違法行為取締りの便宜には資するが、その反面で以下に述べるような危険性をもつものであるから、とりわけ厳密に限定されなければならない。
[661] このことを他の場合と比較しながら明らかにしてみよう。このために、実定法上言論が処罰される場合はいくつかの類型に区分してみると、次のように、類型化することができる。
(1) 言論自体が刑罰法規が保護している法益を直接に侵害する場合
(2) 言論自体は直接に法益を侵害することなく、他人に一定の行為を唱導し、その他人の行為が法益を侵害するという場合
 (イ) 犯罪行為の教唆、せん動
 (ロ) 犯罪行為ではないが法が禁止している行為の教唆、せん動
[662] 以上の各類型に即して、刑罰を加えることの合理性あるいはその危険性がどこにあるかをみてみよう。
[663] 第一に、言論自体が直接に法益を侵害する場合。わいせつ、名誉毀損、脅迫、詐欺等の言論がこれに当たる。この場合の言論は、犯罪の実行行為そのものであつて、これに刑罰を加えることは不合理ではない。
[664] 第二に、犯罪行為を教唆、せん動する場合。刑法上の教唆や破防法上の教唆、せん動がこれに当る。このうち前者は、教唆の結果、相手方が犯罪実行の意思をもち、犯罪を実行した場合であるから、犯罪の実行(正犯)に準じて(刑法61条1項)これに刑罰を加えることは合理的である。後者は、言論を独立に処罰する点で第三の類型と同様の問題をかかえているが、しかしそれは実定法上犯罪――しかも重大犯罪――とされている行為の唱導を処罰するものである点で、第三の類型と異なつている。その可罰性の根拠は、第三の場合に比べれば、まだしもはつきりしているといえる。
[665] なお、犯罪行為の唱導の場合においてさえ、教唆を処罰してもせん動を処罰しないのが通例であることに、注意を向けるべきである。たとえば、なぜ刑法が教唆を処罰してせん動を処罰していないのかを考えてみるべきである。教唆は従属的に処罰される場合は犯罪を実行せしめた行為であるとされ、独立して処罰される場合にも、それは、実行の決意を生ぜしめるに足る慫慂行為と定義づけられている。これに対してせん動は、実行の決意を生ぜしめまたはすでに生じている決意を助長させるような刺戟を与えることをいう。明らかに両者は相手方に与える影響力の点で違うのであり、教唆の方が犯罪行為との結びつきが強いのである。せん動はそれよりもさらに前段階的な行為なのである。(大塚仁、特別刑法52頁同旨)だから刑法は、かかる行為に対してまで刑罰を拡げることは、妥当ではないとみているのである。
[666] 第三に、実定法上犯罪とはされていないが、法が禁止している行為を教唆、せん動する場合。地公法61条4号はこの場合に当る。しかし、この場合は、刑法上の教唆に対比してみると、処刑の根拠の確かさという点では、大きな問題をかかえている。
[667] 第一に、刑法上の教唆の場合には、実定法上犯罪とされている行為の唱導である。ここでは唱導される行為が刑罰に値するものであることが,実定法自体によつて明白にされている。だからその教唆行為が刑罰に値すると断定することには確かさがある。ところが、この場合はそうではない。
[668] この点について、法の禁ずる行為ないし国民の法律上の義務の不履行を唱導することは、言論の自由を逸脱したものであるとして、これに刑罰を加えることを肯定する説がある(昭和27・8・29最高裁第2小法廷判決刑集6・8・1053、昭和24・5・18最高裁大法廷判決刑集3・6・839参照。なお後者の判例は、「国民として負担する法律上の重要な義務の不履行」というふうに「重要な」という限定を付している。この点が重要な意味をもつこと後述の通り)。あるいはまた、唱導される行為が可罰性を有することは必ずしも必要ではないとする説が存する(昭和37・12・12福岡地裁判決)。しかし、実定法上、法の禁ずる行為のすべてについて、これを唱導する言論が処罰されているわけではない。
[669] 実定法は、法の禁ずる行為を、ある場合には処罰し、ある場合には処罰していないのである。したがつて、唱導される行為が実定法上可罰であることを要しないと仮定してみても、法が禁止する行為の唱導のうちで、刑罰を加えうる場合とそうでない場合とを明確に区別しうる客観的で合理的な基準が存しない限り、違法行為の唱導に武する処罰が、立法者の恣意によつて無制約に拡大される危険を排除することはできない。立法者が違法行為の取締りの便宜を優先させるあまり、言論に対する処罰を不当に拡大する危険が存するのである。また、かかる刑罰法規の合理性の有無を判断する場合においても、唱導される行為が本来は刑罰に値する行為であり、唱導された行為を処罰するか、それとも唱導行為を処罰するかは、立法政策上の問題であると説明することも、議論自体としては不可能ではないが、しかし、実定法がこれを可罰なものと定めているわけではないから、それを本来可罰であるとみるか否かはどうしても判断者の揣摩憶測が混入せざるをえない。判断者の主観によつて結論がかわつてくるという不確かさを免れえない。
[670] この点では、第二の類型のうちの破防法の場合に比してさえ、当該当論が刑罰に値すると断定することには、一そう確かさに欠けていること前述の通りである。
[671] 第二に、刑法上の教唆の場合には、さきにみたように、相手方が実行の決意を生じかつ実行した場合にはじめて処罰される。だからこの場合の言論が、法益侵害と結びついていることは、きわめて確かなことである。相手方が教唆によつて実行の決意を生じなければ、法益侵害との結びつきは確かなものとはいい難いし、相手方が決意を生じたか否かは、人の内心の問題であるから、現実に実行行為がなされた場合に、もつとも確かなものとなる。取締りの強化を急ぐ者の眼からみれば、これはあまりにももどかしいものにみえるであろう。しかし、刑罰を加えるだけのもつとも確かな根拠が存する場合にはじめて刑罰を科そうという、刑法のこの石橋を叩いて渡る式の手がたさこそは、刑罰法規の人権保障的機能の真髄であり、こうした手がたさを軽視し、あるいは省略する態度は、人権保障にとつてきわめて危険な傾向であるといわなければならない。
[672] ところが、犯罪行為とされていない単なる違法行為を唱導する言論を処罰することは、どうしても言論を独立に、しかも言論のみを処罰することにならざるをえないのである。実行行為との結びつきの点では、刑法上の教唆に比べて、はるかに弱いものとならざるをえないのである。
[673] このように、実定法上明確に犯罪とされている行為については、それとの結びつきがきわめて明確な言論のみが処罰されているのに、実定法上犯罪とされていない行為については、それとの結びつきがはるかに弱い言論まで含めて広く処罰されるという、まるで逆の現象が現われているのである。ここにも大きな矛盾がある。
[674] 以上第三の類型の言論処罰には、どうみても不確かさや矛盾がつきまとうのであるから、人権保障(言論の自由の保障)の観点からいつて、この場合の言論処罰は、前述の言論処罰が許される場合の基準に従つてよほど明確な処罰の根拠が存すると認められる場合のみに厳密に限られるべきである。
[675] 前掲の昭和24年5月18日の最高裁判決も、「国民として負担する法律上の重要な義務の不履行を従慂し、公共の福祉を害するもの」と述べ、重大性を要件として掲げている、ただ、国民として負担する義務が重要なものであるか否かを観念的に論ずるとすれば、やはりそこに判断者の主観が混入してくる危険がある。だから、当該義務の不菱行が実際に生ずべき実質的害悪という、より確かなものを基準として、重要か否かを論ずべきである。
(四)(地公法61条4号は右の基準に適合しない)
[677] 以上のことを前提として、地公法61条4号の規定を検討してみると、同条が禁圧の対象としているのは、地方公務員の争議行為を唱導する言論である。つまり同条が防止しようとしている実質的害悪は、地方公務員の争議行為によつて地方住民がこうむるべき支障である。
[678] ところがこの害悪は、常に重大であるとはいえず、「それ程支障がない場合」があること、同条は、「争議行為によつて実際に発生する支障実害の大小」を問うことなく、およそすべての地方公務員の争議行為を全面的に禁圧しようとするものであることはすでに述べた通りである。つまり同条が処罰の対象としている言論は、この点ですでに常に重大な害悪と結びついているとはいえないのである。強いていえば、同条は、重大な害悪発生の危険性――それもきわめて拡大された危険性――を禁圧するものでしかないのである。
[679] 他方、言論と害悪との結びつきの程度についてみると、同条にいう「あおり」は、一般に相手方に実行の決意を生ぜしめ、あるいはすでに生じている決意を助長させるような言動を指すものと解されており、相手方に実際に決意を生ぜしめあるいは決意を助長させたという結果の発生は必要ないものとされている。ここでも、決意を発生、助長せしめたことでなく、その危険性が問題とされているにすぎない。したがつて、重大な支障を生ずる争議行為という実質的害悪を基準にしてみれば、同条は、その危険性の危険性という、きわめてあいまいなものに対して刑罰を加えるものだといわなければならない。同条は、軽微な支障しか生じない争議行為を唱導したにすぎない言論、しかも実際にはそれによつて相手方が決意を生ずることも、助長されることもなかつた言論までを、処罰しようとするものである。
[680] このようなことが、憲法21条の基本精神と両立しうるものとは到底考えることはできず、この点で同条は、刑罰法規としての合理性を欠くものといわなければならない。

第五(前段階的行為の処罰に関する一般原則に反し不合理である)
(一)(一般原則と地公法61条4号の異例性)
[681] 地公法61条4号が、争議行為の実行行為を処罰しないで、「あおり」等の前段階的行為を処罰している点は、わが国の刑罰法体系にみられる、前段階的行為の処罰に関する原則からみても、明らかに異例のものである。しかも同条はかかる異例な取扱いをなすについて、特段の合理的理由が存するとは認められないから、同条は、この点においても刑罰法規としての合理性を欠くものといわなければならない。その理由は、以下に述べる通りである。
[682] わが刑法典においては、犯罪の既遂行為を処罰することを原則としている。これは、法益を現実に侵害する点で、既遂行為が最も違法性が大きいからである。
[683] そして未遂を処罰するのは、既遂行為の違法性の大きい犯罪に限られており、予備、陰謀にまでさかのぼつて処罰するのは、既遂行為の違法性がとくに重大であると認められる内乱、外患、殺人、放火等に限定されている。その犯罪が実行されると重大な法益侵害をひきおこすということが、実行行為の前段階的行為にさかのぼつて刑罰を加えることを、合理的なものとしているのである。また共謀、教唆、幇助については、共犯従属性の原則から、正犯が犯罪行為をした場合に限つて可罰性を有するものとしている。教唆についていえば、他人を教唆して犯罪を実行せしめた場合にはじめて処罰するものとしているのであり(刑法61条1項)、他人に犯罪を実行する危険性を与えただけでは刑罰に値しないものとしているのである。その根拠はすでに述べた通りである。
[684] 特別法のなかには、たとえば破防法の如く、実行行為がなされない場合にも、その教唆、せん動を独立して処罰する例があるが、これは、右の原則からみれば異例なものであり、実行行為がとくに重大な違法性をもつのでなければ、合理性をもつとは認め難い。
[685] したがつて、実定法上犯罪とされていない争議の実行行為を「あおる」ことを独立に処罰する地公法61条4号の規定は、二重の意味で異例の規定であるといわなければならない。ところで右の一般原則は、それ自体合理性をもつたものであり、またそれは憲法の人権保障の要請にそつたものであるから、この一般原則の例外をなすことは、よほど明白な合理的根拠がなければ容認しえないものといわなければならない。
(二)(他の立法例)
[686] 検察官は、実行行為が処罰されないのに「あおり」、「そそのかし」を独立に処罰することは、実定法上他にも立法例が存するのであつて、不合理なことではないと主張している(控訴趣意書三、(三)、(2)、(二))。
[687] しかし、弁護人が控訴趣意書に対する答弁書(第二分冊三、(2)、(二)、一、(d)参照)のなかですでに指摘したように、売春防止法6条、11条、道路交通法121条1項2、3号の規定の場合は、いずれもそれ自体が悪(実行行為)とされている場合であり、かつその点に合理性が存するのであつて、地公法61条4号(教唆、せん動)と類型を異にする。また国税犯則法22条、地方税法22条の場合は、納税義務者が税を納付しないことと他人に対して国法上重要な義務である納税義務の不履行を慫慂することでは意味が違うのであり、通常の場合の実行行為と教唆、せん動の関係とは異なるのであつて、いずれも本件に適切な例とはいい難い。さらに、義務教育諸学校における政治的中立性確保に関する臨時措置法に至つては、それ自体著しく合理性の疑わしいものであり、合理性の有無について、厳密な吟味を経ることを要する立法例である。すなわちこの法律は、当初から日教組が主催する現場教師の自主的な教育研究集会に嫌悪を示し、これに介入して抑制を加えようという、きわめて不当な政治的意図を立法動機とするものであり、また、立法の口実を作りだすために、警察官をして隠密裡に教師の授業内容を調査せしめる等のいまわしい事態をひきおこしたものである。このため、同法は政治的教養を高めるための教育(教育基本法8条1項参照)が自由かつ達に行なわれることを阻害するという重大な危険性をもつものとして、強い世論の非難を浴びたものであつた。このため同法が定める構成要件も、「学校の職員を主たる構成員とする団体の組織又は活動を利用し」て教唆せん動した者のみを処罰するというふうに、もつぱら日教組の教育研究集会の取締りに焦点を合わせた、不自然に歪曲されたものとなつており、かつ不明確なものとなつている。また、「特定の政党を支持させ、又はこれに反対させる教育」を行なつた者を処罰しないで、これを教唆、せん動した者のみを処罰するという理由も不明である。
[688] 地公法61条4号と類似の規定が、このようなものであることは、翻つてこの程度の、実行行為を処罰しないでその教唆せん動のみを処罰する立法が、いかに民主主義にとつて危険な傾向をもつ政治的立法であるかを示すものである。
[689] いずれにしろ、検察官のあげる他の立法例は、それぞれの場合に即して個別的に合理性の有無を吟味するのが正しい態度であつて、他に類似の立法例が存するというだけのことでは、地公法61条4号の合理性を基礎づけることができないことはいうまでもない。つまり地公法61条4号自体に即して合理性の有無を吟味することが肝心なことなのである。
(三)(原判決の原動力論の誤り)
[690] 原判決は、この点について、「あおり」行為等は、争議行為の原動力であるから、これに刑罰を加えることには、合理性があると述べている。この議論では、地方公務員の争議行為は、刑罰で禁圧するに値するとみていることが前提となつており、そうであれば、実行行為を処罰すると、その「あおり」行為を処罰するとは多分に立法政策上の問題であるとする考え方がひそんでいること、これらの点にこの議論の基本的な誤りが存することは、すでに述べた通りである。また、実行行為が実定法上不可罰であるばかりでなく、本来的に可罰となしえないものであることもすでに述べた。
[691] そうだとすれば、残る論拠は、「あおり」行為等の前段階的行為が、実行行為以上に違法性が高いということ、しかも一方を処罰し他方を処罰しないとするほどの決定的な差があるということだけである。
[692] この点に関連して原判決が述べていることは、単なる争議参加者の個々の行為は、「可罰的価値を有しない」が、共謀、教唆、せん動者は多衆を結合せしめる中核であり、反社会性の大きい集団行動としての全体の争議行為実現の原動力であるから、全くその可罰的評価を別にするということである。
[693] しかしながら、第一に、仮に「あおり」行為等が争議行為の原動力としてみたところでその違法性が法益を直接に侵害する実行行為よりもまさるとは、至底認め難い。少なくとも異論を排斥しうるほどはつきりした根拠をもつて断定することはできない。
[694] 第二に、「原動力」という言葉は、きわめてあいまいである。実行行為に原因を与える、それを誘発する危険があるという意味ならば、すべての教唆、せん動がこれに当たることになる。ところが実定法は、すべての教唆、せん動を独立に、さらにはそれのみを処罰しているわけではない。一般原則はむしろその逆である。そしてここでの問題は、まさにそのような一般原則の例外をなしうるだけの合理的根拠が存するかということであつたはずである。そうだとすれば、そのような合理的根拠を示すためには、一般の教唆、せん動と実行行為との関係にみられる以上に、争議行為の教唆、せん動は重大な役割を果たしているといえなければならない。原判決が、「多衆を結合せしめて争議行為に動員した者」、「動員指令を発動した者」、「組織指導者の共謀、教唆、せん動の所為」という表現を使つているのも、争議行為において「あおり」行為等の果たす役割がいかに重大なものであるかを、強調するためであつたに違いない。
[695] しかし、この議論は、「あおり」行為等はすなわち組合幹部の行動であるというすりかえの上に成り立つているのである。地公法61条4号は、幹部の「あおり」行為等のみを処罰する規定ではない。一般組合員が、1人の他の組合員を「そそのかし」ても、同条によつて処罰されるのである。だから、地公法61条4号の「あおり」、「そそのかし」行為が、通常の教唆、せん動以上に大きな役割を果たしていると一般的にいうことは、到底できないのである。
[696] のみならず、第三に、幹部の行為のみに限定してみても、それを右のような意路での原動力とみるのは誤りである。この点で原判決には、いわゆる集団犯罪理論の影響がみられる。集団犯罪理論は、周知のように、近時、人々が集団行動に頼つてその要求を実現しようとする傾向が強まつたために、新しいタイプの集団的犯罪行動が激発しているとみ、これに対処するために、従来の個人犯罪を前提とした刑罰法規を改めるべきだというのである(たとえば安平政吉・「集団犯理論の新構成」刑事法の理論と現実227~231頁参照)。
[697] しかし、この理論は、暴力団の如くもともと違法な集団行動と民主運動、政治運動など憲法の集会、結社、言論、表現の自由あるいは労働基本権の行使としてのきわめて正当な集団行動を同一に論じている点で基本的な誤りを犯している。否むしろ、労働運動、政治運動等本来は憲法上の保障をうけている行動に主として眼が向けられ(安平前掲にこの趣旨がよく現われている)これを恐れ、危険視している点で(荘子邦雄「集団犯の構造」刑法講座5巻1~4頁は、批判的意味をこめてこのことを明らかにしている)、民主主義にとつて、きわめて危険なものを内包しているといわねばならない。
[698] つぎに、この理論の内容についてみても、それは、集団犯罪においては、群集に働きかける少数の積極分子と、この働きかけを受動的にうけて行動する多数の群集とが存在しているとみ、群集は、少数者の働きかけやいわゆる群集心理の影響をうけて、理性的抑制を失つて思いがけない行動に走るのであるから、こうした群集を軽く罰し、働きかけを行う少数者を重く罰するべきであるということを提唱している点で共通である。
[699] ところが、争議行為の場合はどうか。争議行為は、労働者の高度の団結がなければできないものである。労働者の団結は、組合員各人の積極的な熱意がなければ成り立たない。そのためには、なによりもまず、組合員の総意を結集するための民主的な組合運営が必要である。だから、法自体も、最低限の民主的運営を規定し(地公法53条3項、労組法5条等)、組合もまた、みずから自主的に民主的運営の方法を定め(組合規約)、実際にもそのように運営されている。本件の休暇闘争と同様である。大会以下の集団討議を長期にわたつて積み重ねていくなかで、勤評がきわめて不当なものであること、当局の実施の意図が強硬であること、したがつて、これを防ぐには休暇闘争以外に方法がないことが、多数の組合員の意識となり、そのことが基本的な力となつて休暇闘争が実現されるのである。一般の組合員が、幹部から働きかけをうけて行動するだけの受動的な存在とみることはできないし、いわんや幹部の働きかけによつて一般組合員が理性的抑制を失つて少数幹部の呼びかけに同調したとみることはできない。原判決自体、都教組の組合運営が民主的になされ、本件休暇闘争が組合員多数の意思に基づくものであることを認めている。つまり、原判決は、組合員多数が組合の民主的運営を通じて、組合意思確定のために積極的に関与し、その結果、組合員多数によつて、本件休暇闘争を実現するという組合意思を確定したことを認めているのである。本件休暇闘争を実現した基本的な力は、まさにここにある。だから、組合幹部の指令の発生、伝達等の行為が、本件休暇闘争実現の上で決定的に重大な役割を果たしたとみることは皮相な見解であり誤りであり、また一般組合員が、自分の担当業務を放棄しただけの役割しか果たしていないとみることも、明らかに事実に反している。したがつて、集団犯罪理論によつて、地公法61条4号の合理性を説明することはできないものといわなければならない。
第一(憲法31条が構成要件の明確性を要求する趣旨)
[700] 原判決は、地公法61条4号の構成要件が不明確であるとの弁護人の主張に対して、
「法解釈の問題は残る。しかもその法解釈の極めて困難であることは、これを否定し得ない。しかし法解釈の問題、その困難性はどの法律においても程度の差こそあれ、避けられないのであつて、これを克服することが裁判所の任務であつて、法解釈の困難なことから直ちに法律の定める構成要件が不明確であるとは言えない」
と述べている。
[701] 一体、原判決は、憲法31条が要請している刑罰法規の明確性の要件の内容を、どのように解しているのであろうか。明確性の意味内容を明らかにしないで、地公法61条4号の定める構成要件が不明確でないと断定することはできないはずである。のみならず、原判決のように、明確性の問題を裁判所の解釈可能性とすりかえてしまうならば、明確性の要件は無いに等しいことになろう。
[702] 問題は、裁判所が当該法規について、なんらかの解釈を付することが不可能か否かにあるのではない。問題は、構成要件があいまいなために、裁判所の解釈もまた空漠たるものとなり、刑罰を科する範囲が不当に拡大される危険はないか、あるいは裁判所の解釈が大きくわかれ、適用をうける側の国民が著しく不安定な立場に立たされることはないかという点にある。
[703] 憲法31条が、構成要件の明確さを要求しているのは、まさに右の如き不安定さを排除することを目的としたものである。つまり刑罰法規は、裁判所の裁判規範である前に、まず国民の行為規範なのである。刑罰法規は、それがなにを処罰しようとしているかを、国民が明確に読みとることができるものでなければならない。そうでなければ、刑罰法規は、国民に対する人権保障的機能を失うのである。だから、裁判所においてさえ、法解釈がきわめて困難であるということは、それだけですでに、刑罰法規としての妥当性を疑わせるに充分である。

第二(「あおり」の不明確性)
[704] ここでは、地公法61条4号の構成要件のうちで本件に直接関連のある「あおり」のみをとつてみよう。
[705] 「あおり」は、せん動と同義だとされている。そのせん動については、破防法4条2項で法律上定義づけられている。しかし、それにもかかわらず、「あおり」ないしせん動に関する解釈(学説判例)は大きくわかれている。その詳細は、後に「あおり」の解釈に関連して述べる通りであるが、一言にしていえば、「あおり」ないしせん動は、「感情を興奮高掲させるもの、感情を特に刺戟するような激越なもの」、「感情に訴え自由な決定を迷失せしむる行為」、「中正な判断を失わせる」ものというふうにその方法が限定されていると解する説と、方法の如何を問わないと解する説に大きく分れている。判例のうち、本件の一審判決、前掲福岡地裁判決、東京地裁判決(昭和38・4・18)大阪地裁判決(昭和39・3・30)等は前者に属し、原判決、前掲和歌山地裁判決等は後者に属している。その結果、ほとんど同様の行為につき、一方では無罪(尤も福岡地裁判決では一部有罪)とされ、他方では有罪とされている。また同一の事件においても、本件のごとく一審では無罪とされ、二審では有罪とされている。このように、同様の事案について、有罪と無罪という決定的な解釈のわかれを生みだすような刑罰法規、全く逆の結論を導びくほどに幅広い解釈の余地をもつ刑罰法規は、到底国民に対する保障的機能をもつということはできず、不明確なものといわねばならない。
[706] ことに、立法者の意思は、前者の解釈論と同趣旨なのである、すなわち、第13回国会参議院法務委員会において、岡原昌男政府委員は、破防法のせん動について、中正な判断を失わしめるような、その場の空気であおりたてて相手方にひよつという間に決意を生ぜしめるような勢いをもつ刺戟をいうと述べ、あるいは、「相手方に対し感情に訴える方法を以つて中正な判断を失わしめる」手段、方法でなされるものをいうと述べている。法規の解釈は、必ずしも立法者意思に拘束されることなく客観的に行なえばよいのであるが、しかし、少なくとも刑罰法規については、立法者が処罰しようとしている範囲よりもさらに刑罰を拡大する如き解釈をとることは妥当ではない。立法者が、構成要件を限定する意思であるのにその限定をとりはらうような解釈をとることは正しくない。ところがすでに述べたように実際には、そうした解釈が出現しているのである。そしてそのような解釈がなり立つているとすれば、それはとりもなおさず、せん動においてはその方法が限定されているとする立法者の意思にもかかわらず、そのことが構成要件上明確に表示されていないからにほかならない。この意味においても、地公法61条4号の構成要件は明確性を欠くものといわなければならない。
[707] 原判決は地方公務員法61条4号にいわゆるあおりの解釈適用を誤つたものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかで、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する結果となるので、到底破棄を免れない。
第一(第一審の「あおり」解釈)
[708] いうまでもなく地方公務員法61条4号は、「共謀」または「そそのかし」等とともに,争議行為の「あおり」を独立罪として処罰する旨を明らかにしているが、この解釈につき、第一審裁判所は、次のような判断を示した。
[709] すなわち、裁判所はまず「あおり」の一般的意義として、伝統的解釈にしたがい、「特定の行為を実行させる目的で文書もしくは図画または言議によつて、他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺戟を与えることを意味する。」とし、ここで「刺戟を与えるというのは、感情に対する作用を中心とすることを意味するから、主として被煽動者の感情に訴える方法により、その興奪高ようを惹起させることを意味すると解すべきである。」と述べた上、さらにこの解釈を前提としながら、右4号の刑罰体系上の特異性に着目しその刑罰理論上の不合理を回避するため、これを「争議行為の遂行を煽動した者が争議行為の実行者よりも一段と違法性が強いと解される3つの場合」のせん動に限るとして、右の一般的意義を限定解釈する立場をとつたのである。
[710] これを要するに、第一審裁判所は、「あおり」解釈にあたつて二段構えの論理をとり、その字義ないし一般的意義については判例や立法例に共通する伝統的定義にしたがつた上、さらに憲法や刑罰理論に照らし右4号を矛盾なく理解するため限定解釈を行なつたものである。

第二(原判決の判断)
[711] これに対し、原判決は、右にいう勢いある刺戟とは「実行々為への具体的な危険性ある刺戟」あるいは「被煽動者の意思に影響力を及ぼすような刺戟」であれば足り、これを主として感情に訴え、被せん動者の興奪・高揚を来たさせる刺戟と解する第一審の解釈は独断的見解にすぎないとする検察官の主張に全面的に左袒して、次のごとく判示している。
[712] すなわち、まず「あおり」の一般的意義について、原判決は「煽動とは、違法行為実行の決意を生ぜしめ、あるいはすでに生じている決意をさらに助長する可能性、危険性のある勢いある刺戟を与えること、換言すれば被煽動者の違法行為実行の決意に影響力ある刺戟を与えることを言う。」と前提した上、「一方で刺戟であるから感情に作用することはもちろんであるが、同所に被煽動者の意思決定に必要な刺戟であるから意思作用を動かす刺戟であり、むしろその意思作用を動かす面の強い刺戟である。」といい、他方で「被煽動者をして違法行為の実行を決意させる影響力ある刺戟となり得るかどうかは、煽動者と被煽動者との関係、被煽動者がその違法行為実行についてどのような意向をもち態度をとつているかによつて一律ではない。すでに違法行為実行の気運が盛り上つている被煽動者に対し、その実行を決意させるためには、もはや激越な言動をもつてその感情を興奮高揚させる必要はないのである。」と述べ、畢竟「法律上は、違法行為を誘発・助長する虞れのある一切の行為を処罰することによつて、これを禁遏せんとしているのである」から、「この犯罪構成の重点は、いうまでもなく『違法行為実行に対する影響力』であつて、『被煽動者に刺戟を与えること自体』ではなく」前述の「勢いのある刺戟」とは、違法行為実行の決意に影響力ある強い刺戟をいうものと解するとして、第一審の判示を否定し、さらに、第一審裁判所が右61条4号を憲法31条や刑罰理論に照らし合理的に解するため行なつた限定解釈についても、「争議行為の企画立案、指令指示、説得激励はいずれも争議行為の原動力であつて、これらを禁遏することによつて争議行為は未然に防遏できるし、また既に争議行為が実行された後でもこれら原動力となつた者を処罰すれば、個々の実行々為者を処罰する必要はないから、争議行為の共謀・慫慂・煽動者等のみを可罰とする右4号は合理性を有している。」などの理由をあげて、これを批判したのである。
第一(はじめに)
[713] しかしながら、原判決の前記61条4号の「あおり」の解釈は、その判示自体に明白なように、争議行為防遏という立法目的に忠実であり、かつその結果実現に性急なあまりに、せん動についての伝統的理解を逸脱し、憲法31条や刑罰法理に対する慎重かつ適正な顧慮を欠いたとのそしりを免れないものといわなければならない。いいかえれば、原判決は第一に、右「あおり」罪の解釈にあたつて、その立法目的である争議行為の禁遏にのみ忠実な目的的解釈を展開し、「あおり」の意義を争議行為実行の決意に影響力ある強い刺戟を与える一切の言動を指すとまで拡大することによつて犯罪構成要件がもつ人権保障的機能を脅かした点において、また第二に、「あおり」を独立罪として処罰する右四号が実行々為を不処罰としていることについて、すこぶる政策論的な「原動力論」で割り切り、第一審裁判所が行なつたような憲法31条や刑罰法理の観点からの慎重な司法審査を怠つた点において、決定的な誤りをおかしたものといわざるをえないのである。
[714] そこで以下、項を分つて右の2つの点につき原判決の批判検討を行なうわけであるが、これに先立つて、本件で問題となる地方公務員法61条四号の「あおり」罪の法的性格、なかんづく刑事法上の特異性について触れておくことが有用であろうと考える。

第二(「あおり」は広義の共犯の特別形式であること)
[715] 一般にある基本的犯罪行為に共同加功する行為を「共犯」といい、刑法総則に定められた教唆(61条)や幇助(62条)等を「総則における共犯」もしくは「共犯の一般形式」と呼ぶとすれば、違法な争議行為の「あおり」は、いわば「共犯の特別形式」というべきものである。共犯とはそれ自体で自足的な概念ではなく、ある基本的な犯罪概念に附随し、その存在をまつてはじめて完結する犯罪概念であるとすれば、右の「あおり」は違法な争議の実行々為という基本概念に依存し、これと相まつてはじめて自足する犯罪概念であるという意味で、まさしく共犯形式の1つというこができる。
[716] ところで立法者が集団的な犯罪行為を規制しようとする場合にはいろいろな法的規制の方法があり、実定法のなかでも、(1)当該集体の社会的存在(団体性)に着目してこれを集団(団体)そのものの犯罪行為と観念し、当該集団ないしはその代表者を直接処罰の対象とする場合(たとえば労働関係調整法39条)、(2)当該集団犯罪の集団的特性に着目して関与者をその関与の態様に応じて類型化し、犯罪遂行への関与の比重にしたがつてこれを処罰しようとする場合(たとえば内乱罪、騒擾罪)、(3)当該集団犯罪を関与者個々人の行為に分解し、たとえばこれを基本的実行々為者と共犯的行為者とに類別して処罰しようとする場合(たとえば本件地方公務員法61条4号)などが指摘される。
[717] 本件地方公務員法61条4号の場合は基本的な集団行為である争議行為が可罰的違法行為とされていないために、右(1)や(2)の立法形式をえらぶことができず、やむなく(3)の法的規制の方式をとり、周辺的行為を不可罰的な基本的実行々為から切り離して処罰する建前をとつたものと思われるが、そうである以上、いかに同号が集団的違法行為を取締るための立法であるといつても、同号が採用した広義の「共犯」形式の法的制約を免れることができないのは当然であるし、また「あおり」そのものの決意についても、一般に共犯が犯罪の構成要件の修正形式といわれることからも窺われるように、一定の明確な構成要件性を具備するものであることは自明であるから、これを無視またはほしいままに緩和して解釈運用することの許されないのも理の当然といわなければならない。われわれが右61条4号を理解するにあたつて、第一に留意すべきはこの点である。

第三(「あおり」は共犯を独立に処罰する立法であること)
[718] つぎにわれわれが右61条4号の解釈にあたり留意しなければならないのは、右の「あおり」が基本的実行々為たる争議行為が不可罰とされているのに、あえてこれと無関係に独立に可罰とされている点である。
[719] 周知のように、一般に「共犯」は、(1)ある独立の特別構成要件に従属して存立し、基本的実行々為が可罰的違法行為であるときにはじめて犯罪として成立するとされ(それゆえに、共犯はその規定があつてはじめて処罰が可能となる違法類型であり、元来に正犯行為のみを処罰の対象とする刑罰法規が、さらにその外郭に属する行為にまで処罰の範囲を拡張しようとするという点で「刑罰拡張原因」とさえ呼ばれるものである)、(2)かつはそれが処罰されるためには基本的実行々為者がその実行に出たことが条件とされ(刑法61条、62条参照)、(3)責任の点でも、共犯者は共犯者が可罰的な実行々為に出るであろうこと、または出たことを認識し、かつ認容してその行為にでたときに、はじめて故意ありとされる(小野博士「刑法講座」総論197頁以下他)。
[720] この理は、実定刑法を離れて考えても、共犯がもともとそれ自体で自足的な犯罪概念ではなく、一定の独立な犯罪概念に依存し、従属してはじめて存立しうる概念であることから論理必然的に導かれる帰結であるとさえいえるが、それはしばらくおくとして、少なくとも実定刑法における「共犯」の右のような通則からすれば、地方公務員法61条4号が「あおり」を可罰的違法な行為とするためには、基本的実行々為たる争議行為そのものが可罰とされ、かつ被「あおり」者が争議行為の実行に出たことが処罰の必須の前提条件とならなければならないはずである。
[721] しかるに右61条4号は、これらの通則にことごとく反して、そもそも基本的行為たる争議行為自体が可罰的とされていないのに、これとはかかわりなく独立に争議行為の「あおり」を処罰することとしているのであつて、この点に右4号の刑罰法理上のきわだつた特異性が存することは、第一審判決の指摘をまつまでもなく、何びとの目にも明らかなところである。
[723] たしかに実定刑事法のなかには、検察官があげるような、共犯を独立に処罰するものが存在する。その法規の個別的な吟味はすでに原審(答弁書第2分冊223頁以下および弁論要旨51頁以下)および第四章において弁護人が詳細に行なつてきたので、ここでは繰りかえさないが、それらの実定法規を参考に、立法者が共犯行為を独立に処罰することが許容される場合を考えてみると、およそ次の2つの場合が考えられるであろう。
(一) 基本的実行々為が可罰的違法行為とされているが、とくにその実行なくしても共犯行為を処罰する合理的な必要が認められる場合
(二) 基本的実行々為が当罰的ではあるが刑事政策上可罰されていないときに、あえて共犯行為を処罰する合理的必要が認められる場合
[724] 前者の場合は比較的問題が少ないであろうが、それでも「共犯」処罰の通則を逸してなお独立に処罰が許容されるためには、正犯とされる違法行為の反社会性がとくに強度であつて、そのためその実行をまたずしても前段階でこれを防止することが、それ自体高度の社会的合理性もつことが必要とされよう。後者の場合は、正犯行為が可罰的とされていない場合であるだけに、すこぶる問題がある。刑事政策の観点から正犯行為(ということさえ不自然となる)がその性質上当罰的ではあるが、あえて可罰とされないのであるから、刑罰理論上正犯にくらべより反価値性が低いとされる共犯行為は、同じ刑事政策的な観点からすれば、当然に不可罰とされてよいはずである。したがつてこのような場合、そもそも共犯行為だけを独立に処罰することが許されるかが問題であるし、にもかかわらず共犯行為が独立に可罰とされるためには、よほど特別かつ高度の合理的必要が認められる場合、たとえば共犯行為自体が強度の反社会性・反公序性をもち、正犯行為を処罰するよりも、むしろ事前の段階で共犯行為を取締ることの方が社会的にみて有効適切だというような場合に限られよう。
[725] なお、基本的実行々為が当罰的ですらなく、本来的に不可罰的であるときに、それに共同加功する周辺行為が可罰とされることがありえないことはいうまでもあるまい。本件で問題となる前記61条4号は、すでに弁護人がる述したところから明らかように、まさに右の場合に属すると確信するが、かりに百歩を譲つて前記(二)の場合に属するとしても、なおさきに述べた特別の合理的必要の存在が不可欠の前提となる。したがつてこの点について第一審判決が、厳密な検討を加えたことは理の当然であり、まことに正当であつたといわなければならない。これにひきかえ、原判決は、「違法行為が実行される前の段階において、その原動力となり、これを誘発・指導・助成する行為を禁遏することにより、違法行為の実現を未然に防遏できるし、たとえ実行された後においても、これらの者を処罰すれば、違法行為の実行者一人一人を罰する必要はない。」と右4号の合理性を説いているが、「しかしこの見解では、違法行為の実行を処罰しないでそのせん動のみを処罰することを理由づけることにはならない。」こと、第一審判決の言をまたずとも、論理上あまりに明白である。

第四(結び)
[726] 以上述べきたつたところから明らかなように、本件公訴の罰条としてあげられている地方公務員法61条4号は、
(一) 争議行為という集団的行為を規制するのに共犯形式を用いた点において、
(二) しかもその共犯行為を基本的実行々為からは独立に処罰しようとしている点において、
(三) さらに加うるに、基本的実行々為が実定法上不可罰とされているのに、あえてこれと無関係に、共犯行為自体を処罰しようとしている点において、
見逃がすことのできない顕著な特異性をもつている。一般に共犯が、その可罰性そのものをそもそも基本的実行々為の可罰性に依存し、処罰の条件も基本的違法行為の実行にかからしめられ、犯意の成立も基本的違法行為の認識・認容をまつて論じられることとされていることに鑑みれば、右4号の「あおり」が、基本的実行々為たる争議行為が不可罰とされているにかかわらず独自に可罰性あるものとされ、争議行為の実行はもとより、被「あおり」者に実行の決意を生じ、もしくは助長されたという結果を生ずることすらなくとも処罰されることとされているのは、あまりに重大な特異性といわなければならないであろう。
[727] この点の根本的検討は他に譲るとして、右のことからわれわれは、右4号の解釈運用にあたつて、少なくとも次の2つの点を確認しておくことが必須とされよう。すなわち、
第一に、同号が争議行為の禁遏の立法技術として広義にもせよ共犯形式を採用している以上、その解釈運用にあたり共犯形式より導かれる法的制約を免れることはできず、集団行為の禁遏が立法目的とされているという一事から、この法的制約をほしいままに緩和し解消することは許されないこと。
第二に、同号が叙上のごとき特異性ないし疑義をもち、ことに一切の具体的結果の発生なくしても処罰が可能とされている以上、「あおり」の解釈適用はとりわけ厳密に行なわれなければならないこと。
第一(原判決の基本的な誤り)
(一)(構成要件の人権保障機能否定の拡大解釈の誤り)
[728] ところで第一節に摘示したように、第一審判決が憲法31条の趣意をふまえ、かつは叙上のごとき地公法61条4号の刑罰法理上の特異性に着目して、厳正な「あおり」解釈の態度を持したのに対し、原判決はこれらへの顧慮をことごとく捨てて、あおりの概念規定については、一見大審院以来の伝統的解釈の立場に立つかのように説示しながら、その実、言動の恣意的操作によつて、たとえば「中正ナ判断ヲ失シテ」とか「勢のある刺戟」など、いわば「あおり)(言論活動)にとつてきわめて本質的な行為類型上の特徴をすべて捨て去り、ただ結果たる争議行為に対する「影響力」と「誘発への危険」などを問題にし、すでに法令用語として慣用されてきている「せん動」からは、およそほど遠い、社会心理学上も熟していない「原動力」とか、争議行為にとつての「支柱」である幹部とか、偏見にみちた新造語を乱用して、その著しく恣意的な拡大解釈を正当化しようとしている。
[729] このような原判決の解釈態度は、罪刑法定主義の原則の否定である。なぜならば、右罪刑法定主義の意味内容たる刑罰法令の明確性の要件は、つまるところ、近代国家における刑罰法令の人権保障的機能に根ざすものであること一点の疑いもないものであるにもかかわらず、「あおり」概念の不当な拡大解釈は、ひたすら取締りないし組合弾圧目的を達成するに容易な、しかも一方に偏した目的的解釈であつて、組合員たる職員ないし、組合幹部にとつては、その地位にもとづく争議行為への関与のすべてが犯罪とせられ可罰性をもつこととならざるを得ないような解釈であること、あまりにも明白であるからである。
(二)(原判決のいわゆる「せん動の余地存在論」における予断と偏見)
[730] 原判決が判文の理由冒頭に、まず事実論とも法律論とも分明しがたい形でいわば「せん動の余地存在論」を展開していることは判文上明らかである。ところで本件において原判決が第一審の全員無罪の結論を変更して、全員有罪の結論を導いた直接の理由となつているものが、地公法61条4号にいう「あおり」の法解釈における第一審と第二審の相違にあることも多言を要しない。
[731] したがつて、本来ならば、原判決が判文の理由の第一にとり上げてその見解ないし判断を示しているこの部分は、右の「あおり」の法解釈にとつて論理的にいつても、内容からしても本来きわめて重要な意味をもつものでなければならない。
[732] ところが、すでに(一)において指摘したように、原判決のこの「せん動の余地存在論」はきわめて非論理的であるばかりでなく、以下のべるように本論たる判文第三の「せん動の法解釈とその適用」にとつては、むしろ無意味な組合運営に対するいわれのない揚げ足とりが多く、裁判所みずから偏見をさらけ出して余すところがない。
[733] したがつて、われわれは、この項の判示部分に対しては独立の上告趣意論点としてその判断の当否を論ずる必要を認めない。しかしながら、原判決がこのせん動の余地存在論はあまりにももつともらしくあれこれ判示しているので、原判決全体に連なるゆがみの根源を明らかにする次第である。
(1)(第一審判決に対する誤読ないし曲解)
[734] 原判決は判示(第一)の冒頭に、第一審判決が「都教組の勤務評定反対闘争の経過によると、都教組においては……中略……都教委において、勤務評定規則の決定される4月23日に本件同盟罷業を行なうよう指令したにすぎない」と判示している、との判文引用をあげて、これをこの項での判断対象たるせん動の余地の存否論を展開する前提としている。ところが、この引用は形式実質ともにきわめて重大な誤りを含んでいる。まず形式的にいつて、第一審判決のこの部分の判断は理由五の(三)の(1)、すなわち、すでに五の(一)においてせん動の概念規定を行ない、(二)においては地公法61条4号におけるせん動の意義(合憲解釈をとる上での制約)を明らかにした上で、この(三)において、右のような一般的あおり概念と、地公法61条4号に特有の「あおり」の解釈からして、はたして本件における被告人らの行為が「あおり」罪に該当するかどうかという法の適用に関する判示部分である。いいかえれば、一定の法律判断からきた具体的事実への当てはめにおける論理的帰結としての結論部分である。原判決はこれと順序を逆にして、この法の適用部分の論難から出発する。つまり原判決は第一結審にいきなり非難の矢を向ける不当をあえてしているのである。
[735] 次に原判決は、第一審判決の右にあげた判示部分につづく「4月23三日に本件同盟罷業を行なうよう指令したものにすぎないものであつて特に刺戟的な内容を含むものとは認められない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」という、この傍点部分を故らにカツトしてみずから論旨をすすめようとしている。この点は単に形式的な省略の問題ではない。まさに第一審判決の「あおり」の解釈論からすれば、さきに引用した部分中の「単に被告人ら都教組幹部の煽動等の結果実行されたものと認めることはできない」というくだりは、闘争経過を素直に直視する限り、指令3号の発出は組合の総意をふまえて行なわれた執行責任者らの行為であつて、外部第三者の使嗾や働きかけによる自主性のないものではなかつたことを判示したものであり、決して原判決がいうように、「煽動の余地はなかつたものである」というような趣旨の判旨ではない。また、この最後の指令の内容をみても特に刺戟的でなかつたというくだりは、組合内部における働きかけの通常性を失つていないものとして、可罰的な違法を認むべき参加慫慂ということはできない。とする意味であることは一点の疑いもない。そしてこの部分こそが、第一審判決の無罪理由の核心なのである。
[736] しかるに、原判決は第一審判決のいわば結論中最も意味のある、さきにあげた傍点部分の刺戟性の有無に関する判示部分をカツトし、しかも第一審判決が判示していない「せん動の余地の存否」について、勝手な断定を下して、その「せん動余地存在論」の出発点としているのである。その不当にして、的外れなことはいうまでもない。
[737] 出発点においてこのような誤りを犯した原判決がさらにその判旨をすすめる中でも、したがつてまた結論においても重大な誤りに陥つたのはけだし当然といわなければならない。
(2)(無用な組合運営に対する干渉と非難)
[738] 原判決は第一審以来の検察官の主張であり、とくに原審の検察官が問題にしようとした、都教組の本件勤評闘争における大会の模様、賛否の意見、その他各級機関における討議の状況からして、指令第3号の発出や、これにもとづく本件一斉休暇闘争がはたして3万有余の組合員の総意にもとづくものであるかどうか、という問題に対しては、大綱において確たる証拠の前には弁護側の主張を斥けることができず、検察官側の主張を排しているものと思われる。
[739] にもかかわらず、一方では多くの紙幅をさいて、あれこれ組合運営について些細な欠点をあげつらい、かつ説論訓戒の類にぞくする感懐をのべている。たとえば、大会、委員会における規約に従つた議決がなされても、法の禁止行為を決定する権限をもつかどうか疑問であるとか、(判文4頁末段以下)全組合員の総意を問うべき組合大会において、「全組合員一人一人の意思がどれだけ忠実に反映されたか、をもつと冷静に反省しなければならない」とか、「休暇戦術の規模、内容の基本」というような休暇闘争についての重要な基本事項は、「予め組合員一人一人に討議させ、各自のとるべき態度についてもつと冷静に検討する機会を与えなければならない筈である」とか、いうのがその典型的な部分である。
[740] またいわゆる先制攻撃論に関して、「先制攻撃論は、単に支部委員のみに限らず、組合員の中にも強硬戦術に対し極めて積極的なものがいたことは明らかである。」とする認定につづいて、原判決が、「勤務評定反対阻止のための休暇闘争を訴える組合大会であれば、これら強硬論者によつて指導権を奪われることは当然である。」(判文5頁11行以下)というような恐るべき独断を下しているのはもはや理性と証拠にもとづく近代における裁判の本質に反することはなはだしい事例といわなければならない。
[741] 弁護人は原判決のこれらの欠陥指摘が実は証拠にもとづかない原判決の独断に発するものと考えるが、その事実の真否にかかわらず原判決のこのような説示部分をあえて無用と断じてはばからないものである。
[742] なぜならば、原判決が第三のせん動の法解釈論においてとるような「あおり」の拡張解釈をとるならば、組合の民主的運営の徹底も、休暇権行使の指令がいかに全組合員の総意にもとづくものであつても、また指令の文言がいかに冷静穏健妥当なものであつても、さらにその伝達が事務的にして淡々たる発言であつても、いわゆる「あおり」罪の成否に消長はない、というのであるからである。
[743] したがつて原判決は、第一審判決の「あおり」の解釈論をみずからとらないことをその立場としながら、第一審判決の立場においてのみ意味のある組合運営における民主主義の貫徹状況に関して、全く見当外れの判断説示を試みているにすぎない。
[744] 弁護人があえて無用な組合運営に対する干渉と非難という所以である。
(3)(有罪断定が先行した原判決の偏見)
[745] 原判決は,右のような無用な組合運営に対する非難のあと、結論として勝手な推測として、組合員の総意を問うべき組合大会や各委員会が、先制攻撃の強硬論者によつて指導権を奪われたとか、下部討議に付すべき議案もただ形だけの筋書に過ぎないために、本件指令第3号の発出段階に至つても、去就に迷つていた相当数の組合員や分会が存在したとか断定している。(判文6頁末行から7頁3行目まで)
[746] このような事実問題が原判決がとる「せん動」の法解釈にとつて何ら意味をもつものでないことはすでに指摘したところであるが、問題は原判決が他方において、都教組の本件勤評反対闘争が組合員の大多数による強い勤評制度への反対意思にもとづくものであり、その阻止のためには休暇闘争以外に方法がないとしていたのであつて、いわゆる幹部独走の闘争でなかつたことを背認しながら(判文中とくに7頁7行以下、5頁8行以下)第一審と反対の結論を導いているという点である。
[747] そしてその判断の道筋は「煽動は違法行為の実行の決意を生ぜしめ、またはすでに生じている決意を助長するような勢いのある刺戟を与える所為と解されているのであつて、実行の決意を新たに生ぜしめる場合に限らず、すでに生じている決意を助長するためにも行なわれるのである」とし、またそのせん動と違法行為との間に因果関係のあることを要しない趣旨を説き、さらに「本件指令第3号および被告人らの訴因指摘の言動が、組合員をして本件同盟罷業に参加する決意を新たに生ぜしめ、また、既にこれに参加することを決意したものに対して、さらにその決意を助長せしめたかどうか、その結果組合員各員が本件同盟罷業に参加実行したものかどうかは、煽動罪に成否に関係がない」と独立罪たる地公法61条4号のあおり罪にとつては、いずれも当然の事理をのべているのはともかく、つづく第一審判決批判は全然その前提を欠くいわれのない非難といわなければならない。
[748] すなわち、原判決は(判文8頁6行以下)第一審判決があたかも「本件同盟罷業は組合員多数の意思により実行されたもので、被告人らの煽動行為の結果実行されたものでないから、煽動罪は成立しない」としているとの前提に立つて、右の因果関係の存在は要件でないとする理由から、第一審判決が「煽動行為の法解釈を誤つたもの」と断定している。これら明らかに原判決の第一審判決に対する誤読ないし曲解であつて、第一審判決のいかなる部分にもこのような判旨を発見することはできない。(原判決のこの誤りと関連するかと思われる部分については、すでにこの1項において指摘したところである)
[749] 弁護人が原判決のこの部分の判旨に関して重要であると考えることは、むしろ独立罪たる地公法61条4号のせん動罪において、その危険犯であるところから、せん動と争議行為参加実行との間に因果関係の存在を問わないというのであれば、それだけに、そのせん動が犯罪とされ、参加実行が犯罪とはされない合理的理由として、強調されなければならないのは、せん動の方法における強い違法性のほかは考えられないということである。
[750] ところが原判決は、この方法における強い違法性ということを真正面から否定し、「せん動」の意義として出てくる「勢のある刺戟」とは、違法行為実行の決意に対する影響力そのものであるとする趣旨の見解をとり、しかも影響が現実にあつたか否かが問題なのではなく、影響があるような言動があればせん動罪は成立するというである。このようにみてくると、原審の裁判所は都教組の本件闘争の経過からして、組合員の意識の高揚と休暇戦術行使に対する圧倒的多数の賛成の中で、規約が遵守されて、正式機関から発出された本件指令第3号をもつて、せん動文書とし、それへの関与者とその伝達者を犯罪人として処断するためには、もはや伝統的「せん動」概念をすて、また地公法61条4号の特異性にも眼をおおい、結局せん動の概念を無限定に拡張解釈して方法における違法性の強さなどを問題にしない立場をとるほかはなかつたものと思われる。
[751] つまり、原判決は有罪の結論を先行させて、後にその理由づけとして、せん動概念の無限定説をとつたものとしか考えられない。

第二(原判決の「あおり」解釈は、一般的、伝統的定義に明らかに反している)
[752] さきにも述べたように、原判決は、「あおり」ないしせん動に関する一般的定義そのものについて、すでに第一審判決とは異なる見解をうち出し、検察官にならつて、「あおり」の概念から「主として被せん動者の感情に訴え、その感奮、昂揚をきたさせる」という手段的要素を除いてしまつた。
[753] しかしながらかかる原審の「あおり」解釈は、明らかにこれらに関する伝統的理解をゆがめ、通説判例に反するものといわなければならない。
(一)(「あおり」ないしせん動に関する一般的、伝統的見解)
[754] 「あおり」ないしせん動に関する立法例、判例、学説等については、原審までにすでに弁護人、検察官双方からかなり詳細な紹介や解明がなされている(たとえば原審における弁護人の論述については、答弁書三の(二)項、第2分冊197頁~205頁、弁論要旨第二章13頁~75頁)。
[755] しかしながら原判決によつて、「あおり」の一般的定義に関しても既述のようなかなり独見の見解が示されるに至つたので、この点に焦点をあわせ、従来の立法例、判例を整理し、それらを通ずる「あおり」解釈の大勢を探つて、そこから原判決の見解を吟味検討することとしたい。
(1)(代表者な立法、解釈例)
[756] 戦前戦後を通じ、「あおり」ないしせん動を独立罪として規定した立法としては、本件罰条のほか爆発物取締罰則4条、治安警察法17条、治安維持法5条、12条、国防保安法12条、食糧緊急措置令11条、国税犯則取締法22条、地方税法21条、破壊活動防止法38条、国家公務員法110条1項17号などがあるが、なかでも国民の間に強い関心と論議をよびせん動に関して豊富な解釈例を擁した代表的な立法は、戦前で治安警察法、治安維持法であり、戦後では破防法である。これら三者の場合を検討すれば、ほぼ全体のせん動解釈の流れを知ることができよう。
(イ)(治安警察法17条1項の場合)
[757] 同条項2号は、
「同盟罷業ヲ遂行センガ為メ労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ、若シクハ労務者トシテ雇傭スルノ申込ヲ拒絶セシムル目的ヲ以テ、他人ヲ誘惑、若シクハ煽動スルコトヲ得ス」
と規定した。この法律は制定こそ明治33年と大変古いが、他の立法例と比較した場合、内容が同盟罷業のせん動の禁止である点で、本件罰条に最も類以した立法例である。
[758] ところで同条項にいわゆる「煽動」の解釈例として判例中には見るべきものが乏しいが、当時の治安当局者(内務事務官川村貞四郎、警視庁警視有光金兵衛)が公けにした有権解釈ともいうべき解釈例が存する(両氏共著「治安警察法論」243頁)。これによれば、
「誘惑トハ主トシテ理性ニ訴ヘ、自由ナル意思ノ決定ヲ迷失セシムル行為ニシテ、煽動トハ感情ニ訴ヘ、自由ナル意思ノ決定ヲ迷失セシムル行為ヲ謂フ。従ツテ単ニ罷業ヲナサシムルコトヲ勧誘シ、又ハ協議スルガ如キ、又、演弁会ヲ開キテ同盟罷業ノ必要ヲ論ズルガ如キハ、誘惑又ハ煽動ト謂フ能ハザルナリ。即チ誘惑タリせん動タル為メニハ、尠クトモ相手方ノ意思ノ自由ナル決定ヲ妨害スル程度ノ行為ヲ為スコトヲ必要トスルモノト解スベキナリ。」
とされ、同盟罷業の「せん動」が成立するには、[1]それが被せん動者の感情に訴えるものであること、[2]そしてそれによつて被せん動者の自由な意思決定を妨害するに足るものであることが不可決の要因であると強調されている。
[759] 右17条が同盟罷業の実行自体は処罰していないこと、また右解説が大正12年刊行のものである(後述の治安維持法に関する大審院判例は昭和5年に出されている)ことをあわせ考えるとき、基本的実行々為が不可罰とされている場合のせん動について右の2つの要因を不可欠とする見解は、わが国当局者の古くからの伝統的立場であつたことを知ることができ、はなはだ注目に値するものといわなければならない。
(ロ)(治安維持法5条等の場合)
[760] 同条は、国体変革または私有財産制度否定の実行のせん動を禁止するものであるが、これについてはすでにしばしば引用された有名な判例(大審院昭和5・11・4判決、新聞3210号14頁)があり、
「煽動とは、不特定又は特定多数の者に対し、中正の判断を失して実行の決意を創造せしめ、又は既存の決意を助長せしむべき勢を有する刺戟を与ふる意思表示である。」
と定義されている(ほかに大正9・5・19選挙法疑義に関する司法省刑事局長通牒も同旨。)
[761] ところでこれについて三宅正太郎判事が詳しい解説を試みておられるが(「治安維持法」・現代法学全集38巻所収211頁・214頁)これによると、
「右判例の定義にしたがうと、
(1) 煽動は不特定の人又は特定多数の人に対してなされなければならない。故に例えば特定の一人又は数人に対して煽動しても――教唆となるは格別――本罪は構成しない。
(2) 煽動は意思表示である。もとより言語によると文書によると、また明示たると黙示たるとを問わない。
(3) 煽動は相手方をして中正の判断を失わしめて特定の行為を実行する決意を創造せしめ、又は少くとも既存の決意を助長せしめるものなることを意識してなす意思表示たることを要する。
 犯罪煽動の場合は、それが相手方の中正の判断を失わしめるものたる勿論であるが、本罪(国体変革、私有財産制度否定の実行)の如きは、煽動する行為は必ずしも犯罪でないから、少くとも中正の判断を失つてなされた行為たるを要する。けだし、法律は煽動行為自体に既に危険性を認むるものであつて、その危険は人をして中正の判断を失わしめる程度に至つて、初めて之を認むべきであるからである。……(略)……
(4) 煽動は、相手方をしてその意思表示により中正の判断を失はしめ、実行の決意を創造し又は助長せしむるに足る力を有しなければならない。意思表示の内容が荒唐無稽で何等他人に刺戟を与える力のないものは、煽動にはならない。
 煽動がかかる力を有することが、煽動を流布又は宣伝と区別せしめる。流布宣伝の如きはある事項を公衆に伝達するにすぎない。もとよりこの程度の伝達であつても、相手方の心理の如何によつては刺戟されることがありうるけれども、煽動はその行為の中に既に右の力が存しなければならない。
(5) 煽動と教唆はその観念を異にする。……(略)……」
とされている。
[762] 右解説のなかで注目すべきことは、[1]せん動の対象とする実行々為がそれ自体可罰的違法行為とされていない場合にあつては、せん動の内容程度は少なくとも被せん動者の中正の判断を失わせるに足るものであることを要するとされていること、[2]せん動が独立罪とされている場合は、せん動はそれ自体で被せん動者の中正の判断を失わしめ、実行の決意を創造・助長させるに足る力、すなわち勢いある刺戟性をもつものでなければならないとされていること、の2点である。
(ハ)(破壊活動防止法38条の場合)
[763] 同条は内乱、騒擾等の教唆、せん動を処罰しようとする規定であるが、そこにいう「せん動」の意義については、同法4条2項が、明文をもつて、
「この法律で『せん動』とは、特定の行為を実行させる目的をもつて、文書、若しくは図画又は言動により、人に対し、その行動を実行する決意を生ぜしめ、又は既に生じている決意を助長させるような勢ある刺戟を与えることをいう。」
と定義づけている。
[764] ところでこの規定は、同法案を審議した第13回国会の、参議院において、「せん動」罪の拡大適用の弊を憂えて当時の緑風会が提案者となり修正加入されたものであるが、その内容は前記大審院判例を踏襲したものであり、右判例のいう「中正の判断を失して」の語句が省かれたのは、それが白明の理に属するからで、とくにこれを排除した趣旨でないことが、右参議院本会議における中山福蔵議員(提案者の1人で、緑風会所属)の説明で明らかにされている(法務府特審局監修「破壊活動防止法遂条解説」30頁~32頁)。
[765] そして右にいう「せん動」とは、当時の国会における政府当局者の答弁にも再三示されているように「教唆とは他人をして一定の犯罪を実行する決意を新たに生じさせるに足る行為でなければならない。ところがせん動とは、中正の判断を失わせて犯罪実行の決意を創造させ、又は既存の決意を助長させるような勢いを有する刺戟を与えるということになつておりまして、行為の態様が異るのであり」(右国会参議院法務委員会会議録55号14頁上段、昭和27・6・13)、「この教唆並びにせん動という行為は、ある面ではダブる点が確かにあり得るのでございますが、又、相当広範囲においてこの概念が違つてお」り、せん動の場合は「相手方に対して影響力を与えようとするその行動の手段方法が、せん動的である。相手方に対し、感情に訴える方法を以て中正な判断を失わしめる、さような手段方法というものは、一般にその影響力が非常に大きい。」(右会議録43号15頁3段、同27・5・23)「せん動のほうは、中正な判断を失わしめるような手段方法と申しますから、まあ俗にいう、やれやれとか、その場の空気で煽り立てて、結局相手方にひよつという間に決意を生ぜしめるというふうな方法……を以つてやるという、この手段・方法で(教唆と)区別がついて参る」(右会議録48号2頁2段、同27・6・4)のであつて、せん動の手段的特徴が被せん動者の感情に訴える点にあることは、当局者もこれを肯認せざるをえなかつたのである。
[766] また当時同じ当局者の立場にあつて同条の解説を公けにしている神山欣治法務省検務局公安課長も、その著書(「逐条破壊活動防止法解説」137頁~141頁)において、
「『せん動』の中には、中正の判断を失わせる、即ち感情的傾向を利用する要素が大である……(略)……要するに『教唆』は犯罪の実行の決意(犯罪)を創造させるに足る説得の行為であるのに対し、『せん動』は、犯罪実行の決意を創造させ、又は既存の決意を助長させるような勢いのある刺戟を与える、主として感情に訴える行為(中正の判断を失わせるものと解することは前述のとおり)で足る……。」
と再三にわたつてせん動の感情刺戟的特性を強調しているのである。
(2)(「あおり」ないしせん動の一般的意義――その手段的特性)
[767] 以上、戦前戦後の代表的な立法例解釈例を通観して明らかなように、「あおり」ないしせん動の伝統的、一般的解釈はほぼ定まつており、その内容はおおむね次のごとくとなる。
(イ) まず対象者の点で、教唆が特定・少数を対象とするものであるに対し、せん動は不特定または特定多数の者を対象とするものに限られること、
(ロ) つぎに手段方法の点で、「そそのかし」ないし教唆が対象者に実行の決意を生ぜしめるに足る慫慂行為をいうとされるに対し、「あおり」ないしせん動は、対象者の感情に訴えて、その中正な(理性的な)判断を迷失させるに足る働きかけを行なうものでなければならないこと、とりわけ対象となる実行々為がそれ自体可罰的とされていない場合は、この手段的特性は不可欠であること、
(ハ) さらに内容・程度の点で、「あおり」ないしせん動は、対象者がその感情刺戟的な働きかけの結果、基本的行為実行の決意を生ずるか、または助長されるに足るだけの具体的、客観的な勢いをもつものであることを要すること、せん動に関する伝統的な見解が、その概念(構成要件)の要素としてこのような点を指摘するのは、これらが単にせん動の文理として論理必然に導かれるというだけにとどまらず、治安警察法の当時からいわれてきたように、このせん動なる概念がきわめて漠としており、そのためにこれが当局官憲によつて濫用され、国民の基本的人権、とりわけ政府批判のための貴重な言論活動の自由にとつて危険な犯罪概念であるという認識から、自覚的にこれを明確化しようとする考えに根ざしていることを知らなければならない。
(3)(参考として――一連の下級審判例と外国の立法例)
[768] すでに弁護人が詳細に指摘紹介したように、本件と同種または類似の事案で、一連の下級審判例――都教組判決、福教組判決、大阪教組判決、名古屋高裁食糧緊急措置令違反事件判決、ほかに全農林事件判決、蒲田事件差戻一審判決もほぼ同旨――が、いずれも「あおり」ないしせん動の感情刺戟的要素を指摘しているが(原審弁論要旨17頁~25頁参照)、これらはまさに叙上のごとき伝統的解釈に忠実な判断に立つたものであり、かかる見解はかくして今日、ますますその普遍性を強めているということができる。
[769] また外国の立法例は、その法理的背景を抜きにして同列には論じられないけれども、にもかかわらずドイツ刑法では、対象者の知識に訴え、その者の犯罪実行の意思に直接かつ具体的に働きかける慫慂行為としてAufforderungなる観念があるのに対し、対象者の感情に漠然と訴え、犯罪実行の決意の創造について間接的な働きかけをなす行為としてAnreizungなる観念が存すること(右要旨26頁~28頁)、また往時のイギリスの労働争議禁遏立法のなかには、違法なせん動の要素としてつねに慫慂行為が「故意かつ悪意をもつて」(wilfully and maliciously)なされることがあげられていたこと(片岡曻「英国労働法理論史」)は、参考とされてよいであろう。
(二)(原判決の「あおり」解釈の誤り)
[770] ところで原判決は、冒頭に摘示したように、一応「あおり」ないしせん動に関する伝統的見解に同調するごとき態度を示しながら、そこからその不可欠な要素である感情刺戟的特性を抹殺するために、一方では、「『刺戟』であるから、感情に作用することは言うまでもないが、同時にこの『刺戟』は被せん動者の意思決定に必要な刺戟であるから、むしろその意思作用を動かす面の強い刺戟である」とし、地方で「『勢いある刺戟』となりうるかどうかは、煽動者と被煽動者の関係、被煽動者の態度意向によつて一律ではない」といい、そうすることによつて、結局あおりとは、違法行為実行の決意に影響力ある強い刺戟」であれば足りると断定してしまつている。
[771](1) しかしながら、まず前者についていえば、過失犯を除いて、あらゆる犯罪が行為者の意思にもとづいて実行されるのであるから、これに対する働きかけは常に行為者の意思作用に対する働きかけであり、この点においては「そそのかし」も「あおり」もなんらえらぶところはない。両者の相違、なかんづくあおりにおいて勢いある刺戟性が問題とされるのは、究極において「あおり」行為が対象者の意思作用に影響を及ぼすか否かの点にあるではなく、その意思に影響を及ぼす手段方法が対象者の感情を主として刺戟するものであることを要するか否かという点にかかつているのであつて、このことは言うをまたぬほど自明のことに属する。原判決がさきに引用したように、「刺戟であるから、感情に作用することは言うまでもないが、同時にそれは違法行為実行の決意に影響力ある刺戟であるから、むしろその意思作用を動かす方面の強い刺戟である。」と判示するのは、なにをいわんとする趣旨かはなはだ理解に苦しむが、もしそれが、「あおり」行為は対象者の感情を刺戟挑発することを通してその意思作用に働きかけるものであることを指摘・強調する趣旨にとどまるならばあまりに当然のことをいうに過ぎず、またもしそれが、究極において対象者の意思作用に影響を及ぼすものであるということから、この点にすべてを解消し、「あおり」罪が対象者の意思に働きかける手段の点で、その感情を刺戟し興奮・高揚を来たさせるという特性をもつことを無視してよいとする趣旨であるならば、それは「あおり」のみならず、あらゆる共犯的行為の構成要件上の個別性を無に帰するにひとしい暴論といわなければならない。
[772](2) つぎに後者についていえば「あおり」行為はもともと対象者や働きかけの場を予想する観念であるから、「あおり」が対象者に犯罪実行の決意を生ぜしめ、または助長せしめるに足る勢いをもち得るか否かは、単なる「あおり」者の言動の態様だけでなく、原判決のいうごとく「煽動者と被煽動者との関係や、被煽動者が違法行為実行についてどのような意向をもち態度をとつているかによつて」影響され、一律ではないことは、弁護人もこれを肯認するにやぶさかでない。
[773] しかしここでも問題なのは、そこから先の論旨であつて、原判決が判示全体で示しているように、右のような被せん動者の態度ないし場との関連で、「あおり」行為の内容が相対的にいかように変化しても「あおり」罪は成立しうるとするがごとき見解は、既述のような「あおり」ないしせん動の定義に照らして到底容認されるところではなく、まさに三宅判事が指摘されるように、「煽動は、その行為の中に既に右の力「勢ある刺戟性を指す――弁護人註)存しなければならない」のである。このことは、「あおり」ないしせん動が、一切の結果発生をまたずして行為自体で処罰されるものとされていること、とくに基本的実行々為が可罰的違法行為とされていない場合は、あおり行為自体で犯罪とされるに足る強度の反社会性を存していなければならないことに徴して、容易に理解されるところである。いいかえれば「あおり」行為の内容・程度は、対等者等との関係で、無限定に相対的なのではなく、これらと関連し、影響されながらも、あくまでその行為自体の中に、対象者の決意創造(助長)と実行への具体的な危険性が認められるものでなければならないのである。
[774] 原判決は納税拒否のせん動や供米拒否のそれを引例しながら、せん動内容の相対的可変性を説いているが、そのもつともらしい装いにもかかわらず、原判決の論理が根本的に誤つていることは、もしその論理を進めてゆけば、結局対象者が理論的な集団であればあるほど些細な働きかけにも強く刺戟され易くなり、あるいは団体員の下からの盛り上がりが強ければ強いほど、指導者の「あおり」罪が成立しやすくなるといつた、奇怪きわまる結論に到達することを避けられないという一事に徴しても明らかである。
[775](3) このように原判決が「あおり」罪の手段的特性を削り去るためにあげつらうところはいずれも理由がなく、かえつて原判決のプリミテイヴな誤りを露呈したにとどまることが明らかであるが、要するに原判決がいわんとするところは、「法律は違法行為の共謀のみ、慫慂、煽動およびこれらの諸行為を企てる行為等、違法行為を誘発・助長する虞れのある一切の行為を処罰することによつて、これを禁遏せんとしているのである」から、せん動の定義にいわゆる「勢いのある刺戟を与えること」というのは、違法行為実行の決意に影響力ある強い刺戟を与えること」と解すれば足るというにあるごとくである。原判決はこの点をさらにふえん、強調して、「この犯罪構成の重点は、言うまでもなく『違法行為実行に対する影響力』であつて、被煽動者に刺戟を与えること自体ではない。」といい、そそのかしもあおりも「いづれも『違法行為実行に対する影響力、危険性』に可罰の重点をおいていることが諒解しうる。」と述べ、危険即処罰という、それこそ危険な治安思想の展開にひたむきな熱情をほとぼらせている。
[776] 原判決のいう影響力とか危険性という観念がいかにあいまいかつ広漠たる概念であるか、いかに国民の基本的人権にとつて「危険」な概念であるかは、多言を要しないであろう。そこに見られるのは、むき出しの治安官憲の意識であり、治安立法の濫用による侵害から人権を守ろうとする司法裁判所の思想ではない。原判決のこのような「あおり」解釈は、治安警察法以来、当局ですらその危険を慮つて営々とつみ重ねてきた伝統的解釈を一挙につき崩すものであり、刑事法規の人権保障的機能、ひいては憲法上の法理である罪刑法定主義の原則に、真向から挑戦するものというほかはないのである。
[777] 原判決が,あるいは「『そそのかし』行為は、……そそのかされるものの意思作用、心理作用に触れる必要がない」(被教唆者の意思作用に働きかけ、触れうるものでなくして、どうしてそそのかし行為が成り立ちうるのか)といい、あるいは「この犯罪構成の重点は、いうまでもなく、違法行為実行に対する影響力であつて、被煽動者に刺戟を与えることを自体ではない」(「犯罪構成の重点」とは一体何を意味するのか、また被せん動者に刺戟を与えることを自体が犯罪構成の重点ではないとは、一体どういうことなのか)とのべ、あげくの果てに「第一審判決や弁護人の所論は、『違法行為実行に対する危険の排除』ということに思いをいたさず、『違法行為実行の決意に影響力のある勢いある刺戟』という字句の中から、ただ、『勢いある刺戟』という字句を切り離して、被煽動者に強力な感情的刺戟を加えること自体が、しかにも煽動罪のすべてであるかのように誤解するものである。」(弁護人のこれまでの主張のどこに右のごとき「誤解」が指摘できるというのだろうか、ここまでくると、もはや原判決は語るに落ちたという以外に評する言葉を知らない)などと論断して、随所に粗暴な独断とプリミテイヴな背理とをあえてしているのは、決して故なきことではない。
(三)(原判決の「あおり」適用の誤り)
[778] 以上に述べたごとく、原判決の「あおり」解釈はその一般的、伝統的理解に反する謬見であること疑う余地がないが、その必然の結果として被告人らの本件所為に対する「あおり」罪の適用も誤りと評されることを免れない。
(1)(本件指令の配布・伝達等は「あおり」に当らない)
[779] 原判決は、「事実の認定」において、被告人長谷川・藤山・高橋・中根・竹藤および小松が多数組合員に対して本件指令第三号を配布し、その趣旨を伝達した事実を認定した。 [780] しかしながら原判決は同時に、右指令の内容について、「右指令第3号の文言を仔細に吟味しても、それが特に組合員の感情を興奮・高揚させるような激越な言辞を用いたものとは認められない。」と明言し、それが「事実を事実として記載し、組合として当然なすべき正当な抗議と、その抗議を理由づける正当な評価を掲げたもの」であることを否定しなかつたし、また被告人らの指令の趣旨伝達の際の発言内容についても、「その言辞一つをとらえて、激越だとか、組合員の感情を高ぶらせたとは言えない。」と明確に断定している。
[781] さらに右のような直接的な指令の文辞・発言内容のみならず、これが多数組合員に伝えられた際の客観的状況についても、原判決は、あるいは
「本件指令第3号が組合の大会=最高議決機関の決定に従い、正規の手続を踏んで発出されたこと、被告人らの指令配布趣旨伝達等がすべて組合組織における正規の行動であることは否定しないが、これら指令・指示は組織の規律統制が堅固であればあるほど、強力・絶大な力となるものであるから、この規律統制を違法な争議行為の実行に利用するときは、それがたとえ感情刺戟的な内容をもたない指令であつても、組合員をして実行の決意を創造助長させるに足る強力な刺戟となりうるのである。指令の内容が事実を事実として記載し、組合の立場の正当性を指摘する程度のものであつても、その『正当性』の指摘こそ、かえつて積極的な組合員の闘争意識を高揚させ、また消極的な組合員にはその再考ないし決断をうながす大きな刺戟力となるのであつて、結局全組合員に対しその意思作用を動かす強力な刺戟を与えることになる。」
と判示し、あるいはまた
「被告人らの指令伝達とこれに伴う発言は、闘争を成功させるために当然用いられる言辞であつて、これにより組合員の感情を興奮高揚させるものとは言えないが、しかしこれらの発言が闘争実施日の直前に指令を伝達確認するための組織の会合の席上、最高指導者という立場でなされていることに鑑みると、多数組合員の意思決定の上に大なる影響力をもつ刺戟を与えたものと言わなければならない。」
と述べ、結局右のような具体的状況のもとでも、指令の配布伝達等が組合員多数の争議実行の意思決定の上に大なる影響力をもつ刺戟を与えたというだけで、それ以上に、組合員の感情を刺戟し、興奮高揚をきたすに足る勢いをもつものとはいえないとしているのである。
[782] 原審の認定にして叙上のごとくであるから、被告人らの本件指令の配布、趣旨伝達の所為が「組合員らに中正な判断を失して実行の決意を生ぜしめ、または既存の決意を助長せしむべき勢いある刺戟を与えること」にあたらないことは、おのずから明らかであろう。
(2)(被告人藤山・竹本・高橋・小松の本件各オルグ行為は「あおり」に当たらない)
[783] 原判決はまた「事実認定」において、被告人藤山の京橋昭和小、常盤小両分会における闘争参加要請等の発言、同竹本の練馬支部拡大闘争委員会における闘争参加要請の発言、同高橋の勤務評定反対要求の同支部集会における同趣旨の発言、および同小松の品川支部の同種集会における同旨の発言の各事実を認定し、これを「あおり」行為にあたるとした。
[784] しかしながら右の各発言についても、原判決は前同様、「その内容は、組合員全員が4月23日の一斉休暇闘争に参加するよう慫慂し、本件休暇闘争が合法的であることを説明したもの」に過ぎず、「これら各被告人の発言は、組合員ないし分会の中で、とかく組合意識の低調な者や反対の者に一致団結して闘争に参加するよう呼びかけたものであるから、いきおい『足並を揃えて』とか『結束をみださず一致して』などといつた言葉が使われているが、それは、このような落伍者脱落者を一人でも少くするためには当然用いられる言葉であつて、その言辞一つをとらえて、激越だとか組合員の感情を高ぶらせたとは言えない。」と述べて、これらの各発言が組合員の感情に訴え、興奮高揚をきたす性質のものでないことを明瞭に認めている。とくに被告人藤山の発言については、「同被告人の人となりから考えても、同被告人が声を大にして語調を強め、組合員の感情をかき立てるようなアジ演説をしたとは思われない」し、「殊に常盤小学校においては、一斉休暇闘争を実施しなければならない理由を説明した程度で」あつたことを認定しているのである。
[785] このように原判決は、被告人らの発言がいづれも闘争参加の慫慂ないし闘争意義の説明の域を出ず、感情挑発性を全く欠くことを肯認しながら、にもかかわらず、これらの発言を「それだけ切り離して判断することは正鵠を失する」として、これが闘争実施日の直前に、組合各級の最高指導者たる各被告人によつて、行なわれたという情況のもとでは、「組合員の決意をうながす強い刺戟を与えた」、「その態度意思をきめる上に大なる影響力をもつ刺戟を与えたと結論し、とくに被告人藤山の場合に至つては、同被告人の訪問はそれ自体訪問をうけた学校における組合員にとつて大きな刺戟となつた」としているのである。
[786] しかしながら、ここでも注目すべきことは、原判決の認定、判断によつても、結局各被告人の言動は多数組合員の感情に訴え、その興奮・高揚をきたさせ、中正かつ冷静な判断力を失わしめる手段的特性をもつものでなかつたことが確認されていることである。
[787] したがつてもはや多くを言うまでもなく、これら各被告人の言動が「あおり」の一般的、伝統的定義に該当しないことは明白であり、原判決はこの一般的定義を逸脱して、全く独自の、不当に拡大された「あおり」解釈によつて、有罪の認定に出たに過ぎないというほかはないのである。

第三(原判決の「あおり」解釈は、地方公務員法61条4号の合憲的限定解釈に反している)
(一)(原判決と第一審判決の対立点)
[788] 原判決は、第一審判決が、地公法61条4号を憲法31条に違反しない、適正さと合理性をもつ刑罰法令であるというためには、単に文理解釈にとどまることなく、さらに深く掘り下げてその規定の合理性と適正性を考察して解釈しなければならないとの当然の基本的前提に立つて、地公法37条1項前段に規定する争議行為の性質が、単なる個人の職務放棄その他これに準ずる行為の集合にとどまるものではなく、それは職員団体を主体とする組織的な集団的行動であつて、個々の職員はその争議行為に参加するという地位に立つこと、したがつて、職員が争議行為を企画、立案することも、争議行為について指令指示を発することも、争議行為について説得、激励することも、また職務放棄等をなすこと自体も、すべて右争議主体の行なう争議行為に職員が参加するその一態様にすぎない以上、この中で争議行為の実行行為自体を処罰する規定がないにもかかわらず、そのせん動行動のみを処罰する規定をおくためには、それだけの合理的根拠を要するが、地公法の立法趣旨が、せん動行為の原動力となり、これを誘発するおそれのある行為であるから、これを争議行為の実現前に刑罰によつて禁止し、争議行為を防止しようとするものとする見解(おおむね、検察官および原判決の立場といつてもよい)も、さらに実行行為者中、他人からせん動された単純な参加者は処罰の必要性がないのだとする見解(検察官も原判決もこの処罰の要否という観点からしか論じておらない。)も、右のせん動行為の独立処罰の合理性を説明しえないが、一定の場合争議行為のせん動者が、実行者よりも一段と違法性が強いと解される場合のあることも否定できないとして、原判決もあげている3つの場合にはじめてせん動者処罰が適正であり合理性をもつとする趣旨の判旨に対して、次のような観点からそれを誤りであるとする。
[789](イ) 地公法61条4号が争議行為の実行者を処罰しないで、これを共謀、そそのかし、せん動した者等を処罰するのは争議行為の原動力となり、これを誘発・指導・助成する、その共謀者・慫慂者・せん動者あるいはこれを企てた者だけを処罰することによつて、このような集団的組織的な違法行為を禁遏し得ると考えたからである。(原判決37頁3行目以下参照)
[790] 違法行為実行以前の段階において、右の原動力となり、これを誘発・指導・助成する行為を禁遏することによつて、未然に違法行為を防遏し得るし、争議行為を実行された場合もこれらの者を処罰すれば、違法行為の実行者の一人一人を処罰する必要はない。
[791] (ロ) 第一審判決が、本件の指令第3号の発出や被告人ら幹部の行動を一斉休暇闘争に参加した2万数千人の組合員の行動と同列に評価しているのは正しくなく、指令3号も指示激励も争議行為に随伴するというようなものではなく、争議行為の原動力であり、その支柱である。
[792] したがつて、参加した組合員一人一人を処罰しないでその原動力・支柱となつた被告人らを処罰する合理的根拠は十分存在する。
[793] (ハ) 第一審判決は、団体の構成員以外の第三者によるせん動は構成員のせん動より違法性が強いというが、組織と無関係な第三者の行動は、むしろその影響力、指導力に乏しい。団体の共同意思に基かないせん動についても同様である。
[794] (ニ) 第一審判決のように、団体の構成員によるせん動が、争議行為に通常随伴する方法より一段と違法性の強い方法によらなければ、せん動にならないと解するならば、同じく団体の構成員による共謀、慫慂、あるいはこれを企てる行為も同様に解すべき筋合となるが、通常随伴する方法によるものと一段とそれより違法性の強いものと区別すべき基準につき疑いなきを得ない。
[795] 原判決はこれらの諸点から第一審判決の判旨をすべて誤りであるとするのである。
[796] しかしながら、原判決のあげる右(イ)から(ニ)までの4点にわたる指摘は、ことごとく的外れの非難であつて、第一審の制限解釈をとる判旨は、その大綱において正当であるといわなければならない(この点につき原審弁論要旨34頁以下参照)。
(二)(原判決の争議行為不処罰とせん動処罰の合理性に関する判断の誤り)
(1)(原判決の判示はその前提を誤つている)
[797] まず前記原判決の(イ)の判旨についてであるが、ここで原判決がのべていることは、第一に地公法61条4号の立法趣旨ないし目的が、争議行為という集団的組織的な違法行為を禁遏にあること、そして第二に実行行為者を処罰しなくても共謀者、慫慂者、せん動者等のように争議行為の原動力となり、指導・誘発する分子を処罰すれば、未然にこれを防遏できると考えたこと、したがつて実行行為一人一人を処罰する必要がないというに帰着する。
[798] 右説示の中、第一の立法目的については、治安ないし取締りという一面的観点ではそのとおりであろう。しかしそれだからといつて、その一面的な取締り目的のためには、憲法上の人権保障をも無視して、その法の解釈や適用が行なわれることを許すものではない。また第二の論旨は2つの仮説に立つており、そのいずれも誤つているといわざるを得ない。
[799] すなわち、その一つは、争議行為等団体行動の原動力(その意味も不正確なことすでに指摘したが、一応客観的にみた決定的な発生の要因とそれを支える持続力を意味するものであろう)が、幹部や幹部の構成する機関における共謀、そそのかし、せん動であるとする仮説であり、その二は、右の仮説に由来するわけであるが、争議行為はこれら幹部を処罰する規定をおくことによつて起こりえないものだとする仮説である。
[800] 右の中、その一にあげた争議行為の「原動力」なるものを幹部やその構成する組合機関の共謀、慫慂、せん動等に求める原判決の裁判官の発想は、労働組合たる職員団体の組織上、運営上の原理については、全く無知なためか、そうでなければ、右に関して重大な誤解があるか、さもなければことさらなる曲解に由来するというほかはない。
[801] 労働組合という、経済的および社会的な連帯感によつて結ばれ、使用者との関係では利害と立場を共通にする対等にして平等な労働者の結合体における組織と運営とは、文字どおり民主主義をその原理とするほかに統一と団結を保つことはできない。闘争目標をたてるにしても、その目的達成の戦術方法を策定するにしても、幹部各級機関が組合員の個別要求を洞察しこれを吸い上げ、さらに組合員に引き戻してこれを練り上げて、真に闘争意識が全体のものとなつてはじめていわゆる統一行動に発展するものである。
[802] したがつて争議行為の「原動力」は強いていうならば、組合員の抱いている要求の深刻さと、その要求貫徹に対する意欲にみちた行動力ということができる。もとより幹部各級機関の指導性も統一組織への努力もその闘争を成功させる要素であることを否定するものではない。さればといつて、組合幹部等の言動を重要視するあまり、彼等の言動にそのすべてを帰せしめるのは、社会学的にみて正しくないこというまでもないが、さらにここで問題とすべき行為の法的価値評価として、一般組合員の参加による争議行為の成立、その結果としての何程かの社会的影響の発生そのものと、右の組合幹部等の言動を比較した場合、一般的に幹部の事前における予備段階の言動を可罰的違法とし、後者を放任行為とすることの不合理性も一見明瞭である。
[803] すなわち、原判決のように、幹部の共謀、そそのかし、せん動が争議行為の原動力であると一般的にきめつけ、その故に幹部らの言動に可罰的違法性を認めようとすることは、論理の飛躍ともいうものである。
[804] また、これら幹部の誘発、指導、助成を刑罰を以て威嚇すれば、争議行為の発生を未然に防ぐことができるという仮説ほど、歴史の事実に目をおおい(詳しくは第一点憲法28条論参照)、組合員大衆を衆愚視する見方はない。そして、それは意識すると否とを問わず、支配権力層や、これに盲従し時にはこれを使嗾さえする官僚の陥り易い、独断にみちた刑罰万能主義の謬見に根ざすものである。
[805] およそ争議行為のごとき団結の力による要求貫徹のための組識的行動は、組合員大衆に耐えがたい不満が絶えない限り、そしてその不満が政治的であれ経済的であれ、はたまた本件のように教育的な良心の自由と団結への侵害に対する抵抗の場合であれ、起こるべくして起きるものであつて、到底幹部への刑罰による威嚇がこれを抑えうるものではない、これと反対に組合員大衆に不満もなく、貫徹すべき要求について深刻さもなく、したがつて、統一行動への意欲もないところに、いかに幹部の共謀、慫慂、せん動があつても、争議行為が起こされ遂行される道理のないことも自明である。
[806] はたしてそうであるならば、原判決の判旨の2つの仮説はいずれもそれ自体誤つた労働組合観にもとづくものとして真正には成り立ち得ない。
[807] なお原判決の判旨は、右の共謀者、慫慂者、せん動者を処罰すれば、一人一人の参加者を処罰する必要がないとものべている。
[808] ここに処罰の必要がないというのは、第一審判決に対する批判としては全く無意味な説示といわなければならない。争議行為の実行行為によつて、地公法が防止しようとした実害が現実のものとなるであろうその実害を与える行為を処罰しないで(つまり可罰的違法類型とせず)、その予備段階の従犯的せん動を独立に処罰すること、すなわち右の予備的従犯的行為を可罰的違法類型として、構成要件を定立することの不合理性を問題にしているのが、第一審判決なのである。これに対する処罰の要否を云々しても的外れの議論というほかはない。原判決は、ここでも犯罪論における構成要件論と責任論ないし量刑論ないしは公訴提起の当否の問題とを混同しているのではないかを疑わしめる。
(2)(原判決の組合幹部観の誤りと偏見)
[809] 次に原判決の指令3号の発生および被告人ら幹部の言動と一斉休暇闘争に参加した2万数千人の組合員の行動とを対置して、法的評価を同列にするのは不当であり、これら被告人らの指令発出や指示激励行為は争議行為の原動力であり、その支柱であるからこれのみを処罰することは合理的であるとする判旨についてである。
[810] まずこの部分においても、原判決は第一審判決の判旨を正解していない。単に問に答えるに問をもつてしたにすぎず、第一審判決が提起した問題に何ら答えないで、ただ右両者の間に評価に相違がある限り一方を処罰することに合理的根拠ありと断言するのみである。
[811] いうまでもないことであるが、争議行為を職務放棄など、業務阻害行為そのものとしてことを論ずる限り、その以前の準備段階における、幹部、組合員間にすすめられる各級機関を通じての争議に関する提案、討議、説得、組合総意の決定、指令発出、その通知連絡、徹底方説明などは一般的にいつていわば右狭義の争議行為に伴つて通例行なわれることであること、そして構成員がその立場に応じてこれらの事前の準備活動に携わることは、集団的組織的な団体行動を成立させるものとして、それ自体広い意味で争議行為参加の一態様であること、その意味において幹部の職務上の地位にもとづく前記諸種の関与と一般組合員の参加(実行々為)との間には、団体法理上何ら本来的な差違はなく、ただ立場に即応して関与の仕方が異なるのみであること、したがつて、一般的に(個々の言動の可罰的違法性の有無を論ずることなく)、幹部のそれは可罰的とされる違法行為であり、他はしからずということはきわめて不合理である。むしろ実行行為を原型として可罰性を認めるのが通例であつて、共犯中従犯は軽く、未遂は特別の規定をまつて、さらに予備は重大犯罪につき例外的に可罰性を認めるというのが、わが国の刑罰体系の原則であるのに、地公法61条がこの争議行為の実行を不処罰としながら、その予備段階のしかも従犯的なせん動のみを、独立罪とするのは、それ相当の合理的根拠を必要とする、というのが第一審判決の判旨であり、また弁護人の第一審以来の主張である。その点原判決は右の判旨をはなれて、「被告人ら幹部の行動」と「組合員の行動」を同列に評価しているのは正しくない、などと的外れの論難をあえてしている。
[812] 右の「同列に評価」の意味は、不明確で捕捉し難いが、ここで問題としているのは、まさに刑法的評価でなければならない。そして原判決は明らかにその刑法的評価を異にしていること(一方が可罰的で他方はしからず)を問題にしているのである。同列どころか、むしろ法益の現実侵害に直接つながる実行行為を不可罰として、その前段階的にして従犯的なせん動や教唆を独立に可罰的とするのはおかしいといつているのである。
[813] なお、原判決は幹部の諸言動を争議行為の原動力とも、「支柱」とも断ずるわけであるが、「原動力」についてはすでにのべたところであり、この「支柱」については、法律用語として不適切なばかりでなく、社会心理学的にも、指令や指示激励が争議行為にとつて、重要な1モメントであるということは言いえても、それが「支柱」だというのは全く理解に苦しまざるを得ない。
[814] 法令の解釈、特に人権侵害ないし、国民の生命、身体の自由や財産を奪い、または制限することが不可避的な刑罰法令の解釈用語としては、すでに法曹および国民に定着しているところの、わかり易く、多義的でない明確な用語を使用すべきであつて、原判決のようにいたずらに珍奇な用語を用いるのは国民を惑わすものである。
(3)(法理を離れた的外れの現実論)
[815] 次に、第一審判決のせん動者を限定する解釈に対する原判決の批判についてである。原判決はここでも結果への影響力に眼を奪われて第一審判決の判旨とは無関係に「組織と無関係な第三者の行動は、その影響力、指導力に乏しい」などと的外れの非難を浴びせている。いうまでもなく、地公法61条4号は争議行為の共謀をも可罰的とする。およそ争議行為に「共謀」の伴わないということは考えられない。そして指令指示の発せられるのも通例である。その上、もし共謀、あおり、そそのかし等を原判決のように無制限に解釈し、適用するならば実行行為としての争議行為にも加わつた組合員や幹部にしてみれば、不可罰的なしかし行政的には違法とされている禁止行為を共同で遂行したばかりでなく、「共謀」の共同行為者同志である。その相互間に一般的にいつて教唆やせん動を問題にする余地があるであろうか。機関責任を問うのならば格別、本件のように具体的な説得活動や、指令指示の発出伝達などを問題にして、これをあるいは教唆としたり、せん動としたりして処罰をもつてのぞむ段になれば、そこにはそれ自体、つまりその行為が国家刑罰権の発動を正当化するだけの強い違法性を帯びるものであることを要することは、実行行為不処罰という厳然たる事実からして当然の事理である。
[816] ここにおいて、争議行為の主体たる団体(もとより連合体や共闘関係に立つ組合を含む)の役員、および構成員以外の第三者による、その団体の主体性をそこなうような働きかけ、その他形成されている団体の意思に反するような撹乱的な働きかけ、などが、その団結体内部の相互働きかけに比して強い違法性を認めてしかるべきものといつてよい。
[817] このような論理に立つているのが第一審判決である。ところが原判決は、これを正解せず、実行行為の不可罰に対して、教唆、せん動の独立処罰が不合理とせられるのが一般であるにもかかわらず、この刑罰体系上異例な右のせん動等の独立処罰を合理的だとする根拠を探究せず、部外の第三者のせん動は、組織内の者のそれよりも「影響力や指導力が乏しい」などと的外れの現実論をもつて、批判をしているにすぎないのであるから、その不当なことは多言を要しない。
(4)(「あおり」罪の特徴を無視した原判決の判旨)
[818] さらに原判決は、第一審判決がせん動に関して、団体内部のせん動が争議行為に通常随伴する方法より一段と違法性の強い方法によることを要するとしている以上、共謀、教唆、企てについても同様に解すべきであろうが、その違法性が一段と強いものとしからざるものと区別すべき基準が問題ではないかともいつている。
[819] この点、第一審判決にはたしかにふれるところがない。それは本件公訴事実が指令の発出伝達と、その後の被告人らの言動を「あおり」罪にあたるとした法律構成がとられており、当面「せん動」の独立処罰の合理性を考究することに眼が向けられていたからであつて、何ら異とすべきではない。
[820] 第一審判決のこの点に関する問題意織は、いうまでもなく、地公法61条4号という刑罰法規の特異性を出発点とし,その特異性にもかかわらず、これを適正合憲な刑罰法令と解釈するための努力の一つとして、「せん動」については、その方法、行為態様における特徴に鑑みて、組合内部における通常の呼びかけや、慫慂行為一般とすることなく、違法性の一段と強い方法により慫慂行為とし、その例として3つの場合をあげたものである。
[821] したがつて「共謀」「教唆」および「これらの行為の企て」については、右の違法性の強さをいかなる点に求むべきかはおのずから別論といわなければならない。それらの行為類型については別の観点からする憲法との牴触問題が生ずるであろうから、もしその合憲解釈を導こうとすれば、それはそれなりの調和点を求めることになるであろう。
[822] たとえば、福岡地裁第3刑事部判決(昭和37・12・21言渡)が「共謀」についても一定の制限を試み、同判決がさらに「企て」については、それが「明白現在の危険」の基準に照らして違憲の疑いありとしているのも、また高知地裁刑事部判決(昭和39・11・28言渡)が「共謀」に関連して、その対象たる争議行為そのものの可罰的違法性を認めうる一定の場合に限るとしているのも、結局右の努力のあらわれといつてよく、原判決が第一審判決の「せん動」について、右と同様の立場から合憲解釈の論理としてその根拠を「せん動」という行為類型の方法的特徴に求めたにすぎないものと理解すべきである。
[823] この意味において、原判決のように、第一審判決が、「せん動」について、特に強度の違法性を認めうる場合に限つてこれを可罰的違法行為とすべきであると判示していることを、ことさらに一般化して方法自体について違法の強弱を論ずべき余地の少ないかと思われる他の類型における、違法の強弱を判断する基準の不明確性について、云々してみてもそれ自体無意味であるばかりでなく、第一審判決の論理の正当性をいささかもそこなわしめうるものではない。
[824] まさに原判決は顧みて他をいうのそしりを免れないものである。
[825] 以上検討を加えたところから明らかなように、原判決の第一審判旨に対する論難はすべて理由がない。
[826] かえつて原判決は、せん動罪の構成要件につき解釈によつて、その可罰性の範囲を不当に拡大し、労働問題を一概に治安問題視して取締目的の達成と治安維持のためには、刑法の人権保障機能をも無視して、争議行為を実質的には犯罪視し、組合幹部を集団犯罪の首謀者ないし「支柱」としてとらえる時代錯誤に陥つた解釈論を展開しているものであつて、その誤りであることは一点の疑いもない。
(三)(原判決の指令第3号のせん動性に関する判断の誤り)
(1)(判断に一貫性を欠く)
[827] 原判決は、本件指令第3号が、その「文言を仔細に吟味しても、それが特に組合員の感情を興奮高揚させるような激越な言辞を用いたものとは認められない」としながら、むしろ事実を事実として記載し、組合として当然なすべき正当な抗議とその抗議の理由づけを行つている点で、ますます組合員の抗議意識を高揚し、その違法行為の決意を助長せしめるものである、旨判示する。そしてこのような文書は、未だ同盟罷業の遂行に逡巡する者、あるいはこれに批判的な組合員の決断、再考を促す大きな刺戟となる、とも判定する。
[828] そして、このような抗議の正当性、評価の正当性が組合員の認識と合致するものだということは、少しもそのせん動性を阻却するものでないとものべている。指令第3号が日教組指令第12号を添付したことも、それは組織関係としては正しい方法であろうが、これによつて指令第3号の権威を高められたことも否定できず、これによつて、「組合員の意気を高め、感動を呼びこれを発奮せしめることは明瞭であるから、本件同盟罷業という違法行為の実行についての意思決定に大きな刺戟を与えるこというを俟たない」と結論する。
[829] 右のような原判決の説示を一続して直ちに気付くことは、第一に、原判決は「せん動」の概念規定の説示部分では、その感情に対する刺戟の要素を否定しないまでも、これをせん動概念の本質的要素とすることに消極的であつたはずのところ、この指令第3号に対する評価においては、とくに最後の部分では、その感情興奮高揚をせん動の特徴点とする第一審判決と同様な立場をとつているやに見うけられ、論理が首尾一貫していないということである。
[830] 第二に、原判決は指令第3号自体の非感情刺戟性を認めながら、その「抗議の正当性」の故に、かえつて組合員を一斉休暇に駆り立てるものだという、その文書の作用面から、しかも独自の主観的推断にもとづいた刺戟性肯定論を導くのである。
[831] これは明らかに詭弁であつて、この考え方によれば、指令に、何をいかに書いてあろうと要するに、一斉休暇に関する行動指示であれば、その発出はもはやせん動たるを免れえないものである。したがつて原判決のように「あおり」と、その結果たる争議行為との因果関係を形式的には問題にしないかのように説きながら、その実、何ら決定的でない条件的意味での因果関係でも認めうるならば、あるいはこれを争議行為実行の決意に対する影響力、あるいは実行誘発の危険性あるものとしてせん動罪の成立を認めようとするのは、あまりにも得手勝手な裁判の名による新たな刑罰立法という非難を免れないであろう。
(2)(組合指令の性質に対する独断)
[832] 原判決は、このような指令による組合員の統一行動への参加は、「団体の規律、統制」を法律をもつて禁止された違法行為の実行に利用することとなつて、きわめて重大であり、この場合の指令や被告人ら幹部の指示は全組合員に対し、「一種の至上命令」とさえなり得るのであつて、組織の規律、統制が堅固であればあるほど、強力、絶大な力となるとものべている。だから本件においても、指令第3号の内容および各被告人の言動のうちにとくに各組合員の感情を興奮、高揚させるような激越な文言も言辞も必要とせずに、強力な刺戟たりえたのであるとする。そしてさらに本件都教組組合員のすべてが、学校の教職員という教育者であつて、一般の筋肉労働者に比較して、その言葉使いも紳士的であつて、繊細、敏感な感受性をもつ教養人であればなおさらであるとも附言する。
[833] この最後の部分は、何のための説示かその真意の理解に苦しまざるを得ないが、要するに原判決の組合観の基調として、幹部と一般組合員とを対置させ、一方を他方の教唆せん動の対象視し、組合員みずからの発意による争議行為はありうるはずはないという独断に立つて、一方が他方を動員するものと観念していることは明らかである。
[834] したがつて組合員の指令にもとづく行動を、あたかも警察や軍隊の指揮官に対する部下の、絶対的上命下服と同視する誤りを犯すこととなる。
[835] しかも、「団体の規律」としてこれにしたがつて行動するのは当然であるとの弁護人や第一審判決の考え方に対しても、これを素直に受取ることができず、その「団体の規律」を利用する違法行為の慫慂が、組合員にとつて至上命令として服従させることになるから、それは、その指令指示の内容に感情的刺戟性を含まなくても、実行の決意をさせ、またこれを助長させる「強力な刺戟」となるのだという、循環論となるわけである。
[836] ここで問題とすべきことは、組合の正式機関における正規の討議を通じて、後に発せられるべき組合の総意(団体意思)としての統一行動の目標、内容方法の大綱がすでに全組合員のものになつている状況のもとにおいて、その決意にもとづく執行機関の発する指令指示なるものが、一体組合員の当該統一行動参加にとつて、あらためて特段の法的評価に値するだけの意味をもちうるものであるかどうかである。
[837] 真に組合の団結を支え、統一行動を成功させるものは事前の全組合員による徹底した討議以外の何ものでもないことは、少しでも労働組合の実態にふれ、またはそのあるべき組織と運営について素直な眼を向ける観察者にとつて容易に理解できるはずのものである。
[838] したがつて、徹底した討論をへてたてられた方針と具体的方法が、相手方(当局)との流動する関係をふまえて一定の時機にしかるべき機関から指令として発出されたとしても、組合員にとつては、みずから関与して(直接分会会議などで、または間接ながら職場、支部の機関や代表を通じて)決定し予定された行動に移るだけのことであつて、この場合の指令によつてことさら自己の行動を決するというようなものでは決してない。またその決意が助長されるというようなものでもない。
[839] この意味において、一つの比喩をもつてすれば、指令は行動の合図、シグナルではあつても、決して行動の原動力や誘発力ではない。大まかな言い方を許されるならば、この場合の原動力は、さきにも強調したように、組合の誰もが抱いている要求や不満であり、その打開、解決への欲求にほかならない。その意味において、本件休暇闘争における都教組の闘争方針ならびに戦術決定の過程および、指令発出にいたる手続における民主的討議の実践には一点の疑いもない。
[840] したがつて人権擁護をすてて治安維持に傾いている原判決は、本来成立の余地のないせん動の成立を認めるためにも、せん動の伝統的概念からいくつかの特徴的要素をぬき去り、「中正ノ判断ヲ失シテ」とか「勢のある刺戟」からはおよそほど遠いところの「意思作用への影響力」という法的価値としては無内容な概念規定を選んだものとみるほかはない。
[841] これを要するに原判決のこの部分の判旨も、もはや論理の帰結というにはあまりにも政策的であつて、その誤りは冒頭に掲げたその基本的解釈態度の偏頗性に由来するものといわなければならない。
(四)(原判決の法適用に関する判断の誤り)
(1)(地公法61条4号にいう「あおり」の正しい解釈)
[842] おもうに地公法も国公法も、職員の争議行為への参加(個々の職員による実行行為)そのものを犯罪としていない。
[843] いうまでもないことであるが、実定法上犯罪とされない行為は、いかなる意味でも法律上刑事責任を生ぜしめることはない。つまり刑法上適法な行為といわなければならない。
[844] われわれの立論はここから出発する。問題はその法理的根拠であるが、くりかえしていうならばまず第一に、もしこれをも犯罪とする法制をとるならば、憲法28条の保障する労働基本権の行使に刑罰をもつて臨むこととなる一方、その刑罰から免れようとすれば意に反する苦役に服することとなつて憲法18条に真向うから違反するものとならざるを得ない。
[845] 換言すれば、わが国において、公務員の争議行為に対して直接刑罰の制裁をもつて臨まないのは、単なる立法政策上の便宜の問題ではなく、国際的な労働法理と現行憲法上の原理的要請によるものである。
[846] ところが地公法61条4号は、右のように憲法体系上、反価値的な評価を受け得ないところの犯罪とされていない争議行為(それへの参加という共同実行行為)に対する「共謀、そそのかし、あおり、又はこれらの行為の企て」を犯罪としてこれに刑罰をもつてのぞむのであるから、その異例さは多言を要せず明らかといわなければならない。この異例な刑罰立法は、当然憲法31条の適正条項違反が問題となるものであつて、この点に関する原判決の判断の誤りはすでに論じたとおりである。
[847] しかし、第一審判決のように、裁判所がこの異例な刑罰法令を、解釈によつて憲法に反しない適正なものとする努力を払つて、人権保障と刑罰権の発動による取締り目的達成との調和を図ろうとすることも、一定の範囲で許されるであろう。そしてわれわれは、第一審判決とともに、本件について問題とされているせん動について、それが単なる「争議行為への呼びかけ」と解されるならば、そのような行為は争議行為の主体が職員団体そのものであり、争議行為が集団性をその本質とする以上、ごくありふれたむしろ不可欠の行為であつて、社会現象としては争議行為参加の一態様にすぎず、したがつてこのような単なる「争議行為への呼びかけ」をも、「あおり」なり「そそのかし」にあたるとして犯罪視するならば、右の国際労働法理および現行憲法違反を免れないと考えるものである。
[848] ここにおいてわれわれは、第一審以来、地公法61条4号の刑罰法規としての特異性に着目して、かつ「せん動」概念の特徴に照らして、唯一の合憲的解釈として、現行憲法秩序のもとで許容される合憲的制限解釈(むしろ、適正解釈)を考究してきたのである。
[849] 第二に、われわれは、すでに指摘したように(第四点、憲法31条論)この地公法61条4号の立法経過として、地公法37条2項による職員に対する懲戒解雇も、部外者とくに当時懸念された共産系分子からの働きかけを禁遏するにはその効果をもち得ず、そのような部外者の組織撹乱に対しては間接的な形で、争議行為実現に対する強力な「呼びかけ」「働きかけ」を禁ずる趣旨で、職員相互には認められない刑事責任をあえて問うこととした立法者意思にもその合理的解釈の一つの基準を求めることができるものと考える。
[850] そして第三には、まさに「あおり」の独立処罰という刑罰体系上の特異性と、「あおり」概念の手段・方法における特徴からの帰結として、争議行為の主体たる団体の構成員はもちろん、その連合体の構成員や、共闘組織を構成している場合には、その役員および構成員等相互間における「争議行為への参加呼びかけ」や「働きかけ」の中で、刑事法上違法視されてもやむを得ないのは、争議主体たる団体の団体意思から難れた個人的動機に発する異常性をもつ場合、および右の団体意思にもとづきながらも、その手段方法が特に激越であつて、組合活動としての通常性を失しているため、社会的にみても、争議行為の参加実行行為の一態様としての、慫慂、通知、伝達などと同一評価を下し得ないものに限るのを至当と考えるものである。
[851] この点原判決はさきにも指摘したように、右に近い第一審判決の適正な解釈に対して、何ら正当な反対の論証もなく、労働組合運動や組合幹部に対するいわれのない予断と偏見に出発し、結局刑罰による取締万能の権力主義をむき出しにした独自の説をたてて、この刑罰法規の構成要件を実質上突きくずしてしまうほどの、拡張を試みているのである。その許されないことはいうまでもない。
(2)(被告人らの本件行為に対する法適用の誤り)
[852] 原判決の破棄自判部分における「法令の適用」のところをみると、きわめて簡単に、「被告人7名の判示行為は、地公法61条4号に該当する」として全員に対して懲役刑を言渡しているが、このような判断のよつて来たる論理過程は判文33頁の17行目以下36頁5行目までに一応明らかにされていると思われる。
[853] しかしてこの実質的な法の適用判断部分の判旨の要点は次のごとくである。
(イ) 本部役員の指令の配布、伝達行為、支部責任者の諸会議、集会における指令の伝達やこれに伴う発言、特定の小学校に赴いての発言のすべては、結局都教組傘下約3万名の組合員を4月23日午前8時を期して一斉休暇闘争に動員するためにとつた行動であること。
(ロ) いわゆるオルグ行為に関して、第一審判決や弁護人らは、どうも各被告人の個々の場所における個々の言動の一部分を切り離してそれがせん動行為に該当するか否かを判断しようとしている傾きがあるが、これらの諸行動のすべては、「指令第3号による同盟罷業への動員」という一連不可分の所属としてみなければならないこと。
(ハ) その意味で被告人藤山の常盤小学校における発言は、その「人となりから考えても、同人が声を大にして語調を強め組合員の感情をかき立てるようなアジ演説をしたとは思われない」し、殊に右小学校では、一斉休暇闘争を実施しなければならない理由を説明した程度で、特に他の場合のように、明らさまに、『一斉休暇闘争に参加せよ』とか『して貰い度い』という発言はしていないのであるが、同人の小学校訪問の経緯から考察して、同人の同校訪問、その発言は、本件同盟罷業に組合員を動員するため、その決意を促す強い刺戟を与えたものであること。
(ニ) 各支部責任者や本部役員の4月21日の各支部緊急委員会、支部拡闘における指令の伝達やこれに伴う発言、および4月22日の支部集会における発言も、すべて本部役員との共謀にもとづく行為であり、指令第3号によつて組合員を本件同盟罷業に動員するための一連不可分の所為であつて、その発言の対象人員との関係でその音声、語調、態度におのずから差異があることも当然であろうし、その用語などによつて、激越かどうか、感情を高ぶらせたとはいえないもので、「行政措置要求だから合法的だ」という説明も、支部の責任者としては当然なすべき説明であろうが、これらの呼びかけは、「指令第3号と相俟つて組合員をして迫る一斉休暇闘争への決意を助長し、あるいは去就に迷う者、消極の立場にある者に対して、その態度意思決定をきめる上に、大なる影響力をもつ刺戟を与えるもの」であること、というにある。
[854] われわれは、右のような原判決の(イ)から(ニ)にわたる判旨について、次のような根本的な誤りを指摘せざるを得ない。すなわち、
[855] 第一に、原判決は本件統一行動の主体が都教組という法認された団結体であることを無視しているということである。原判決はあたかも都教組の本部、支部の役員らが、その個人的野望達成のために3万余名の組合員を動員すべく働きかけたものとみているかのようである。
[856] 争議行為の主体が法的にも社会的にも団結体そのものであるという、労働関係の最も初歩的認識に欠けているのが原審裁判所の発想における致命的欠陥である。
[857] もし「動員」という言葉を用いることが許されるならば、まさに一定の目的貫徹に向つて行なわれる団結体自身の組織過程それ自体を意味するものである。決して、少数幹部が組合大衆を「動員する」というような性格のものではない。
[858] 第二に、原判決は、刑事責任の個別主義の原理を蹂躪してはばからないものである。本件の休暇戦術行使に対して検察官が訴迫しているのは、被告人各人を都教組の一定の役職にあるからという機関責任を問うためのものでないことは多言を要しない。
[859] したがつて、その刑責の有無、犯罪の成否はあくまで厳密に、公訴事実たる個々の訴因につき事実点と法律点にわたつて、各個にかつ厳密に司法判断が下さるべきである。この点、原判決はむしろ一蓮托生ないし“連坐式”発想をとつて個別責任の原則をあいまいにしている。その典型的な例が上記(ロ)、(ハ)に要約した判旨、とくに藤山被告の常盤小訪問をもつて「あおり」罪にあたるとする妄断である。
[860] 「切捨御免」なる言葉をもつて評するに最もふさわしいのが、原判決のこの判断部分である。
[861] 第三に、原判決は、「あおり」「せん動」など、すでにわが国法曹の間に定着している行為概念をこえて、特にその手段方法における特徴としての感情刺戟的要素を捨て去つて、あたかもその手段方法にかかわりなく、法が「争議行為の実現にとつて、何らかの影響をもつような一切の関与行為」と規定するのと同一の拡張解釈にもとづく法の適用をあえてしている。ここには犯罪構成要件の犯人保護的機能など全く眼中にない原判決の反憲法的の態度を看取しないわけにはいかない。
[862] その誤りであることはきわめて明白であるといわなければならない。
[863] われわれは、以上のような誤つた法解釈と法の適用に関する原判決の判断は、到底、人権の最後の砦であり、憲法の番人たることを至上最高の使命とする最高裁判所の容認するところとはならないことをかたく信ずるものである。
[864] かくして原判決のこのような法解釈の誤りと法適用の誤りは、判決に影響を及ぼすこと、したがつて原判決を破棄しなければ著しく正義に反する結果となることもきわめて明白であるから、その破棄は免れない。
[865] 原判決が公訴事実に関する証拠調をせず第一審の無罪判決を破棄し自判によつて有罪判決をしたのは憲法31条、37条に違反し、また最高裁判所の判例に反する判断をしたものであり、この判断は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから破棄を免れない。
第一(はじめに)
[866] 原判決は、のちに詳細に述べるように(第二節参照)第一審判決が言渡した無罪判決を破棄し、自判によつて有罪の判決をなしたものであるが、右破棄自判によつて有罪の判決をなすにつき公訴事実に関する証拠調を何ら行なわなかつたものである。このことは憲法31条、37条の保障する被告人の諸権利を侵害したものであり、到底破棄を免れない。以下にその理由を述べる。

第二(憲法31条、37条の内容および法理)
(一)(憲法31条の内容)
[867] 憲法31条の保障の内容については、すでに第四章で詳細に論じられているのでここでは省略する。
[868] ただ、本論点との関係で一言すれば、学説が指摘するように、被告人の弁解を十分聴取しないで、処罰することは、憲法31条に違反するものといわなければならない(法学協会編註解日本国憲法上巻583頁以下特に588頁、宮沢コンメンタール・日本国憲法284~5頁)。したがつて同条は、裁判所の手続が合憲的な法律(本件では後述するごとく刑訴法400条但書)に違反し、かつ適正を欠く場合、本条に違反することを定めた規定でもある。
(二)(憲法37条の内容)
[869] 憲法37条1項は、被告人に公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を保障しているが、これは単に公開や迅速のみを保障したのではなく「公平」の文理からみても、口頭、直接の審理や、そして、当事者の十分な弁論の機会を与えることも当然に保障したものであることは明らかであり、また、同条第2項の規定は、被告人はすべての証人に対して審問する機会を与えなくてはならないとしているのは証人尋問等に対する当事者としての権利保障を主眼としたものであつて、これらの原則は、刑訴の基本構造――人権尊重――であるとともに、憲法上不可侵の権利としてわが国民に保障されているのである。

第三(刑訴法の基本原則と憲法との関係)
(一)(刑訴法上の原則)
[870] 刑事訴訟法は、刑事裁判の基本原則として公開主義、口頭主義、直接主義、弁論主義(当事者主義)を採用している。これは右の憲法上の要請と深くかかわつており、この憲法上の原理に立脚している。このうち、弁論主義は、当事者の弁論に基づいて審判を行なうことであり、現行刑訴の当事者主義ときわめて深い結びつきを有するものであつて刑訴法43条1項、293条、および276条、297条、299条2項等々はその趣旨を手続上貫徹せんとするものである。また直接主義は、公判廷で直接に取調べられた証拠に限つて裁判の基礎にせんとするので、これは裁判官に正確な心証を形成させる強い要請と、それと併行して被告人に証拠について直接弁解と防禦の機会を与えることを主要な目的としたものである。
[871] これらは、いずれも現行刑訴の手続全体を、通じて、一貫して流れる憲法上の原理に基づく刑事裁判の基本原則であつて、これらに違反することは、単なる法令違反にとどまらず、原則として憲法31条、同37条違反に該当するものである。つまりこれらの原則を裁判所が放棄することは、人権尊重を基本とする現行刑訴や、その基盤となる憲法の基本的人権についての諸条項ならびに精神の自殺にほかならないからである(とくに戦後全面的に改変された刑訴制度は従来の職権主義を基調とする大陸法からの影響を抑制して、人権尊重を主体とする基本法の刑訴法原理を大幅に取り入れ、抜本的に当事者主義を基調としたのは明らかであるが、このことは右の点を考える上でとくに重要である)。
[872] そしてこれらの基本原理は原則として第一審のみならず、控訴審、上告審の場合でも妥当するものであり、かかる原則を上訴審であるからといつて、放棄することは許されないことは言をまたない。
(二)(憲法31条、37条と、刑訴の基本原則との関係)
[873] 刑訴の各条項違反が、常に憲法違反となるものでないことは、勿論である。たとえば、上告審の公判期日の通知書に庁印も、裁判所の署名捺印もないとか(最判昭和25・6・16、刑集4・6・1010)、あるいは、判決言渡期日の変更について弁護人に通知がない場合(最判昭和25・5・30、刑集4・5・882)等は、たしかに訴訟手続上は重要な違反だが、そのことだけで、直ちに憲法31条、37条に違反するものといえないことは、たしかである。
[874] しかし、さきに述べた現行刑訴のよつて立つ基本原理、公開、口頭、弁論、直接主義および当事者主義といつたような、それを否定しては刑事訴訟制度の基盤を失わしめるような、原則的なものの違反については、これを単に法律違反にとどめるわけにはいかないのである。
[875] これをいいかえれば、刑事手続の基本的構造に関するもの、あるいは、被告人の重要な利害に関する事項についての違反は、単なる法律違反ではなくて、憲法31条の法の適正手続の違反あるいは憲法37条違反となるのである。

第四(刑訴法400条と憲法31条、37条との関係)
(一)(控訴審の構造と刑訴法400条本文)
[876] 現行刑訴法の控訴審は、戦前の旧刑訴が純然たる復審制度を採用していたのと異なり、控訴裁判所が、原裁判所の立場に立つて(かつ原則として原判決の時点を判断の基点として)、原判決を事後的に審査する審級つまり事後審であるとされている。
[877] これは、事実審理は第一審に限られ控訴審はもつぱら事後審を原則とする英米法の刑事訴訟制度を、わが国にとり入れたものにほかならない。
[878] つまり、わが国の刑訴法は、第一審を重視し、伝聞法則を排除し、証人に対する反対尋問権確保を重視し、とくに自白だけで有罪を認定することを禁止する等、当事者主義を基調として、被告人の人権尊重を第一義としているのである。そして事実審たる第一審を強化した反面、控訴審は、これを事後審として、法律点、事実点、量刑等について、“第一審判決の当否を審査判断”する審級なのであつて、第一審のごとく、原則的には事実審理の裁判所ではないのである。
[879] つまり、控訴審は事後審として原判決を審査するのであるから、原則として原裁判所の判断の基礎となつた資料に基づいて、その当否を審査するのである。そしてその限度では、まさに事後審は原裁判所の訴訟記録を書面審理すれば、少なくとも本来の事後審としての原判決の正否を判断しうるわけである。
[880] そして原判決のなした判断が、たとえば、犯罪事実の存在を否定した無罪の判断が誤りであると判断した場合は、これを刑訴400条本文によつて、事件を原裁判所またはこれと同等の他裁判所に差戻し、または移送すべきであつて、控訴審みずから自判してはならないのである。そのことがまさに事後審の原則的な、しかも、正しい機能を果たす所以である。
[881] つまり、差し戻しまたは移送を受けた第一審裁判所は事実審理裁判所として公開の法廷で、直接、口頭、弁論、当事者主義の原則に戻つて、再び犯罪の成否を判断することになり、このことは、まさに前記、刑訴の基本原則や、憲法の刑事手続についての保障を全うする所以である。
[882] ところが、逆に事後審としての書面審理のみでしかも原審証拠をそのまま使用して控訴審としての公判廷における事実審理つまり証拠調等を経ないで、無罪を有罪に認定し自判することは、控訴審自身が他に多少の事実を取調べたとしても、右直接、口頭弁論主義、および憲法31条、37条に違反するのである。
(二)(刑訴400条但書と憲法31条37条との関連)
[883] 刑訴法400条但書についても、憲法31条、37条の規定を基本において考えると、破棄自判できる場合には、被告人の権利を実質的に侵害しない範囲内においてのみ、許容されるものといわなければならない。事実、400条但書の規定が控訴審において、証拠調が行なわれなかつたことを前提としているのは、この意味である。すなわち、直接主義弁論主義等被告人に対して訴訟上の攻撃、防禦の機会が手続のなかで十分に保障されてはじめて例外的に自判することを認めた規定と解すべきである。もしそうではなく、一審の事実認定につき、控訴審が何ら証拠調をすることなく、破棄し有罪の判決をするようなことになると、被告人に対し十分に防禦の機会を与えないまま、審級上の権利を奪う結果となり、憲法上の適正な手続の下に裁判を受ける権利を失うことになる。したがつて、かかる手続が行なわれた場合には、その手続そのものが憲法違反として、破棄事由を構成するものといわなければならない。(刑訴400条但書の意味については本章第二節を参照されたい)

第五(原審における審理は憲法31条、37条に違反する)
[884] 被告人らに対する、原審における訴訟手続は、刑訴法400条但書の規定に違反することは第二節で詳細に述べられている。
[885] 原審は、本件事件の公訟事実となつている各被告人の訴因摘示の行為について、一審判決においてその証明がないとした、無罪判決に対し、公訴事実について、何ら証拠調をしないばかりでなく、被告人の本人質問の申請、その他公訴事実に関係する証拠をすべて却下し、第一審が信ぴよう性がないとした証拠(殆んどが検察官調書)に独自の信ぴよう性を賦与して、破棄自判による有罪判決をなしたものである。
[886] 被告人の側としては、被訴審で、破棄自判による有罪判決を受けた場合、最高裁に対して「事実誤認」を理由とする上告が法律上許容されていない以上、また、関係証拠等に対して十分防禦する機会がないまま有罪判決を受けるに到り、しかも、事実について、もはやそれ以上争う余地がないのであつてかかる原審の手続は、すでに述べてきた憲法31条、37条の原則に違反するものといわなければならない。

第六(結論)
[887] 原判決は、原審手続において公訴事実に関し証拠調をせず自判によつて有罪判決をしたものであるから、憲法三一条、三七条に違反するので破棄を免れない。
第一(はじめに)
[888] 原判決は、犯罪の証明がないとして無罪を言渡した第一審判決を破棄し有罪判決をなした。第一審判決の内容は、被告人長谷川および同藤山に共通する訴因について、指令の趣旨を役員らを介して組合員に対して伝達したことは認められるがせん動した事実を認める証拠はないとし、被告人藤山に固有の訴因については中央区立京橋小学校及び常盤小学校において訴因指摘の言動をなした事実を認めるに足る証拠がないとし、被告人高橋、同竹本に共通する訴因すなわち豊玉第二小学校での言動についてもその証拠がないとし、また高橋に固有の旭カ岡中学校の関係についても訴因指摘の言動をなした事実は認められないとし、被告人中根の訴因、同竹藤の訴因、同小松の訴因についても、それぞれ指摘の言動をなした事実は証拠上認められないとしているものであり、結局刑事訴訟法336条後段により被告事件について犯罪の証明がないものとして無罪の判決をなしたことは判文上明白である。原審判決はのちに詳細に論じるように、第一審がその証拠について信ぴよう性を否定した証拠を独自の見解のもとに、これに信ぴよう性を附与し(主として検察官に対する供述調書)、これに基づいて事実を認定している。
[889] これに対して原審判決は、訴因に関する事実について、何らの証拠調もなさず(前述のように全く関係のない若干の証拠調は行なつたが)破棄しかつ自判して有罪の判決をなしているのである。
[890] ところで刑事訴訟法400条は、「前2条に規定する理由以外の理由によつて原判決を破棄するときは、判決で事件を原裁判所に差し戻し又は原裁判所と同等の他の裁判所に移送しなければならない。但し控訴裁判所は、訴訟記録並に原裁判所及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて直ちに判決ができるものと認めるときは被告事件について更に判決をすることができる。」と規定している。したがつて、控訴裁判所が原判決を破棄し自判によつて有罪の判決をするときは、必ず証拠調が必要であるにもかかわらず、これを行なわずしたものであつて、原判決は右刑訴法の規定に違反するのみならず、この点について最高裁判所の判例と相反する判断をしている違法があるから到底破棄を免れない。

第二(判例違反の基礎となる判例)
(一)(刑訴法400条但書に関する判例)
[891] 刑訴法400条但書規定の解釈について、従来判例は区々であつたが、昭和31年7月18日の大法廷判決は次のように判示して、それまでの判例を整理変更した。
「……公訴事実中、同被告らが免許を受けないで船舶を台湾に輸出しようと企てた点について第一審判決は、何ら右公訴事実の存在を確定することなく、ただ本件に適用ある旧関税法31条76条にいわゆる『貨物』中には『船舶』を含まないと解し、船舶は密輸出入罪の対象とならないとして無罪の言渡をした。しかるに原審は検察官の船舶も『貨物』に含まれるとの控訴趣意を入れ何等事実の取調をしないで刑訴400条但書により、訴訟記録及び第一審裁判所で取調べた証拠だけによつて直ちに右被告人等が免許を受けないで船舶を輸出した事実を確定し被告人等に対し有罪の判決を言渡したのである。……
 しかし第一審判決が公訴事実の存在を確定していないのに、原審が何ら事実の取調をすることなく、刑訴400条但書にもとずき訴訟記録及び第一審裁判所において取調べた証拠だけに書面審理によつて公訴事実の存在を確定し有罪の判決を言渡すことが適法か否かについて按ずるに、刑事法における控訴裁判所は当事者の申立により又は職権によつて、第一審判決に、同法377条乃至382条及び383条に規定する事由、すなわち破棄事由があるかどうかを調査する事後審査の裁判所であつて、右の調査をするについて必要があるときは、控訴裁判所は自ら事由の取調をすることができるのであり、又同法393条第1項但書の場合は必ず事実の取調をしなければならないのである。そして右事実の取調を含めた右調査の結果、第一審判決に破棄事由があると思料した場合には、控訴裁判所は、原判決を破棄し、被告事件を管轄裁判所に移送するか若しくは、原裁判所に差し戻し又は原裁判所と同等の他の裁判所に移送し第一審裁判所をして被告事件について再審査させるのを原則とするのである、刑訴400条但書は、この原則に対し、右調査の結果、第一審判決に破棄事由があると思料した場合でも、訴訟記録並びに第一審裁判所において取調べた証拠のみにより、又はこれと前記破棄事由が存在するか否かを調査するため控訴裁判所が事実の取調をしたときは、その取調べた証拠と相俟つて、被告事件について判決をするに熟している場合は例外として控訴裁判所自ら被告事件について判決をすることを許した規定と解すべきである。……
 事件が控訴審に係属しても被告人等は、憲法31条、37条の保障する権利は有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受けるものといわなければならない。……それゆえ本件の如く、第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取調べた証拠のみによつて直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、被告人の前記憲法上の権利を害し、直接審理主義口頭弁論主義の原則を害することになるから、かかる場合には刑訴400条但書の規定によることは許されないものと解さなければならない。してみれば、本件第一審判決は被告人の犯罪事実を確定しないでただ法令の解釈として罪とならないとしているのであるから原審が右第一審判決の法令解釈に誤りがあると思料したときは、第一審判決を破棄し被告事件を第一審裁判所に差し戻し若しくは移送するかまたは自ら事実の取調をすべきにかかわらず原審は何ら事実の取調をしないで直ちに訴訟記録及び第一審で取り調べた証拠のみにより被告事件につき有罪の判決をしたのは違法であつて、原判決はこの点においても破棄しなければ著しく正義に反するものと認むべきである。そして刑訴400条但書に関する従来の判例は右解釈に反する限度においてこれを変更する」(昭和26年(あ)第2436号、同31・7・18 大法廷判決、最高裁刑集10・7・1147)
と判示して、右判示事項に関係ある被告人に対する事件全体を第一審裁判所に差戻した。この判決は控訴審が事後審である建前から、原則的に原判決を破棄する場合には移送すべきであり、破棄自判は例外であることを認めたものである。しかも第一審判決が証拠不十分で無罪となつた場合、控訴審が、単に書面審理のみで公訴事実の存在を確定することは憲法31条、37条の要請にも反するものであることを明確にした点である。ただこの判決によつても破棄自判する場合の証拠調の必要性の範囲については必ずしも明白ではない。
[892] その後の若干の判例のなかには次のようなものがある。 「……第一審裁判所は起訴にかかる公訴事実を認めるに足る証拠はないとして無罪の判決を言渡した……原審は第一審判決を破棄し、自ら何ら事実の取調をすることなく、ただ訴訟記録及び第一審裁判所で取調べた証拠のみによつて直ちに被告人に対し有罪の判決を言渡したものであることは、本件記録に徴して明らかである。
 しかし本件の如く第一審判決が犯罪事実の存在を確定せず、犯罪の証明なしとして無罪を言渡した場合に控訴裁判所が右判決を破棄し、何ら事実の取調をすることなしに訴訟記録及び第一審裁判所で取調べた証拠だけで直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し、有罪の判決をすることは、刑訴400条但書の許さないものであることは昭和26年(あ)第2463号昭和31年7月11日大法廷判決の示すところである。従つて自ら何ら事実の取調をすることなくして無罪の第一審判決を破棄して……有罪の判決を言渡した原判決は違法であつて……」
(昭和27年(あ)第5877号事件昭和31年9月26日大法廷判決)
(二)(証拠調の範囲に関する判例)
[893] 証拠調の範囲に関し、刑訴法400条但書に違反するものとして、収賄事件についてであるが、第一審判決が数個の各収賄に関する公訴事実中の行為につき、犯罪の証明がないものとして無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、右各行為のうちの1つについて、被告人の職務権限の点についてのみ、事実の取調をなし、金員の授受についてなんら事実の取調を行なわず、訴訟記録及び第一審で調べた証拠のみによつて犯罪事実を確定した事案につき昭和34年5月22日最高裁第2法廷判決は次のように述べて原判決を破棄している。
「記録によれば第一審判決は、被告人に対する起訴状記載の第一の(一)ないし(五)の各収賄の公訴事実中(三)の所為(被告人が昭和27年5月下旬頃渡辺学から金8万円を職務に関して収受したとの点、被告人が公判廷において金員の授受自体もその趣旨を争つていたもの)については、犯罪の証明が十分でないとして主文において無罪を言渡したところ、右は事実を誤認したものであるとして、検察官から控訴の申立があり原審は右控訴趣意を入れて、第一審判決を破棄し右金員授受の点につきなんらの事実の取調をすることなく訴訟記録及び第一審で取調べた証拠である被告人の検察官に対する第2回供述調書、渡辺学の検察官に対する第2、3回供述調書、天野治郎の検察官に対する供述調書、第一審証人小野寺義夫の供述及び被告人の職務関係の事実のみを綜合して被告人と渡辺学との間に金8万円の授受のあつた事実を確定し有罪の判断をなしたものであることがわかる(尤も被告人の職務権限に関しては、原審において事実の取調が行なわれているけれども事件の核心をなす右金員の授受自体については何ら事実の取調が行なわれていない)。
 かように第一審が起訴にかかる公訴事実を認めるに足る証明がないとして被告人に対し無罪を言渡したばあいに控訴審が右判決は事実を誤認したものとしてこれを破棄し、自ら事実の取調をすることなく訴訟記録及び第一審で取調べた証拠のみによつて直ちに被告事件について犯罪事実の存在を有罪の判決をするのは、刑訴400条但書の許さないところであることは当裁判所(大法廷判決昭和26年(あ)2436号同31年7月18日言渡、昭和27年(あ)第5877号同31年9月26日)の示すところである。(なお昭和30年(あ)第456号同32年12月27日第2小法廷判決、昭和31年(あ)第1761号同34年2月13日第2小法廷判決各参照)……」(最高裁刑集13・5・773)

第三(右判例の意義)
[894] これらの判例は、憲法31条、37条の要請から当然のことといえるが、刑訴法の事後審の構造との関連から、これら判例の意義内容を明確に位置づけることは、原審判決の違法性を理解するうえで必要であると考える。
(一)(右判例の位置づけ)
[895] 現行刑訴法は、被告人に対する犯罪事実の有無の決定に際して、公開の法廷における被告人の面前において直接、証人、書証その他の証拠を法定の手続きにより適法に証拠調をなし、被告人の公訴事実および証拠に対する意見弁解を聞いたうえで、その直接得た心証によつて判決する手続を保障している。これは、いわゆる直接審理主義、口頭弁論主義の要請であり、憲法31条、37条の規定によつて保証されている被告人の人権擁護の要請でもある。
[896] ところで、刑訴法上控訴裁判所の構造は事後審であつて、原判決に何らかの過誤があるかどうかを審査する裁判所であるから、原裁判所の判断の基礎となつた資料と同じ資料に基づいて審査するの原則である。だから、事後審の本来の任務は、原裁判所の訴訟記録の審理によつて、原判決の判断の当否が検討されるものである。原判決の事実認定に対しても、原判決の犯罪事実の存在および不存在(犯罪の不証明および罪とならない事実の認定)に対してもそれが正しいかどうかを一応書面審理によつてその当否を判断することになる。ただ、原判決が犯罪事実の存在は認められないとした判断は控訴審が誤りであると認めた場合は、事件を原裁判所またはこれと同等の他の裁判所に差戻すべきであつて自判すべきではないのである(なお控訴審は、みずから犯罪事実を認定する機関ではないから、刑訴382条の解釈として、事後審たる控訴審が、事実誤認を理由とする破棄理由のなかで、一審判決の事実認定が誤認であると断言することができるかどうかはきわめて疑問である。控訴審が犯罪事実を認定するものでない以上――この仕事は、第一審の基本的任務である――誤認を疑わせる十分な理由があるというにとどめるべきであろうと考える)。事件の破棄差戻しよつて、移送を受けた第一審裁判所は、前と同様に、再び公開の法廷で、被告人の面前において、直接証人書証その他の証拠の取調をなし、それによつて得た心証に基づいて、さらに犯罪の証明のつかない場合は無罪を言渡せばよいのである。これが、直接審理主義、口頭弁論主義の原則を貫いた態度であり、また前記憲法の要請にも合致するものと考える。控訴審が、原審の訴訟記録および原審で取調べた証拠を控訴審の公判廷で証拠調をせず、そのまま使用して第一審の無罪判決を破棄し自判することは、被告人の面前で証拠の取調をしない裁判所が犯罪事実を確定することに帰着し、とりもなおさず直接審理主義、口頭弁論主義に反し憲法31条、37条の趣旨にも反することになる(刑訴390条――被告人の出頭義務の免除、同388条――弁論能力等の規定もこれを裏付けるものといえよう。岩田誠、刑訴第400条但書と破棄自判の判決、ジユリストNo.116 5~6頁、高田卓爾、判例評論No.7 21頁等参照、昭29・6・8最高裁第3小法廷判決中の小林俊三裁判官の少数意見等)。このことは控訴審が、事後審であつて覆審ではないこととの対比においてむしろ当然のことといえるのであろう。
[897] これをさらに敷衍すれば、
「刑事訴訟においては、被告人の面前で直接証人その他の証拠調をなし、被告人の弁解を聞いた裁判所でなければ、被告人の犯罪事実の存在を確定し得ないものとすることは第一審において開廷後裁判官が変つたときの手続において……現行刑訴ばかりでなく旧刑訴も、必ず公判手続を更新することを要する旨規定しており(刑訴第315条、旧刑訴第354条)そして公判手続の更新とは、本来は公判手続を最初からやり直すことであつて、検察官は少なくとも起訴状に基いて公訴事実の要旨を陳述しなければならず、被告人には被告事件について、陳述する機会を与えなければならず……としている(刑訴規則第213条の2、刑訴308条、第309条)のに徴しても明らかである。故に事後審たる控訴裁判所が原判決に事実認定上の過誤があるかどうかを判断するため訴訟記録を調査して得た心証は、被告人の面前で適法な証拠調をして得た心証ではないから、これを以て又はこれに新たな事実の取調をして得た心証を加えても、それで直ちに被告人の犯罪事実を認定して被告事件について自判することは刑訴法の大原則たる直接審理主義、口頭弁論主義の原則に反し、憲法の精神にも反するのであつて許されないところである。してみれば現行刑訴第400条但書は控訴審が原判決を破棄すべきものと認め、しかも訴訟記録及び第一審で取調べた証拠により得た心証により、又はこれに原判決の当否を決定するため控訴審が事実の取調として取調べた証拠により得た心証を加えれば、直ちに判決することができるように思えても破棄理由の如何によつては、本件但書にいわゆる『直ちに判決をすることができる』場合、即ち判決に熟している場合には当らないと解すべき」(前掲岩田6頁)
である。 (二)(控訴審の構造との関連)
[898] それでは、このような控訴審の構造との関連で刑訴400条但書によつて破棄自判できるのはどんな場合であるか。結論的には「控訴審が原判決につき破棄事由の有無を認定するために行なわれた調査等により被告事件につき判決するに熟しているときは例外的に自判することを許した」(高田卓爾前掲21頁)規定と解される。前掲の最高裁判決もこの趣旨であると考えられる。とくに400条但書の「及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて」という言葉の意味は、控訴審において、自判をするには必ず、証拠調を必要とする原則を定めたものと考える。ことに控訴裁判所が事実問題について少なくとも積極的な判断をするには直接証拠を取調べたうえでする必要があり、ことに第一審が公訴事実そのものを確定しない場合には控訴審が積極的に事実の認定をするに当たつては、その必要性が大なるものがあるといわなければならない。前記昭和31・7・18判決が「第一審判決が被告人の犯罪事実を確定せず無罪言渡した場合」としているのはこのような理論的前提に立つているものと考えられる。(単なる法律適用の問題や刑訴383条の場合など第一審で取調べた証拠および訴訟記録だけによつて第一審判決の誤りが指摘できる場合には破棄自判できるとする考え方がある(前掲岩田5頁以下、前掲高田21頁)。前掲小林裁判官の少数意見もつぎのようにいう。
「原判決の挙示する証拠は、第一審の裁判官にとつて有罪の証明力を生じなかつたのであり、控訴が提起されたときは、単に第一審において適法に証拠調が行なわれたという手続上の価値が成立しているだけであり、控訴審の裁判官にとつてはその証明力は全く白紙の状態にあつたわけである。したがつて控訴審の裁判官は、これらの証拠を新たに有罪の証拠と判断する過程は証明力に関する限り、独自の新しい審判を行なう道に入るのであり、これは第一審の当否の判断に止まらず、独自の創造的形式を行なう段階に入るわけである。事後審の性格から調査の範囲は限定されるが、一旦有罪の疑が生ずるや、単なる調査の段階を超えたものになるのであつて、この段階における被告人の地位は、一審の被告人の地位と同様である。」
だから、控訴審みづから公訴事実の認定を行ない判決まで進む場合には、第一審に差し戻すのが正しいし、破棄自判する場合には新たに証拠調を行なうことによつて被告人に対し防禦権を行使しうる地位におかなければ、いちじるしく、刑訴の本旨とする保護を与えられないこととなる旨述べているのは、前記と同趣旨のものと解される。なお大法廷判決は,この点について明白にしていないが、判文全体の趣旨から刑訴400条但書をかように解しているものと考えられる)。
[899](三) そこで、第一審が証明不十分として無罪を言渡した場合に、破棄自判するには、必ず事実について取調をする必要があるのであるが、その取調の範囲について、前記7・18の大法廷判決は明示していない。この点については、何らかの取調をすればよいとする考え方も判例のなかにはないではないが、これでは右の400条但書の趣旨が全く没却されてしまうであろう。たとえば極端な場合には、控訴審において単に精状関係の証人のみを調べ第一審の無罪判決を破棄し自判することもできるということになるが、その不合理であることは、論ずるまでもないであろう。あるいはまた、第一審が数個の公訴事実を無罪となしたうち、控訴審がそのうち一つについてのみ証拠調をなし、全体について破棄自判することも可能なわけであつて、7・18最高裁判決が、このようなことを許容しているとは考えられない。
[900] 昭和34年5月22日の前記最高裁第2小法廷判決は、右の意味で大法廷判決の趣旨を証拠調の範囲について明確にしたものと考えられる。すなわち、この判例からみると控訴審において破棄自判するには何らかの証拠調だけでは足りず、第一審判決が公訴事実について証明なしとして無罪の判決をした場合には、少なくとも公訴事実の存否についての証拠調を必要とすることを明示した点である。これはすでに述べた控訴審の性格や、刑訴法、憲法の要請からしても当然であろう。したがつて控訴審において破棄自判する場合には公訴事実について、第一審が犯罪の証明なしとした主要な部分についての証拠調を必要とするものといわなければならない。これを地方公務員法61条4号の場合についてみると、「あおり行為」の法解釈については一応別としても、第一審判決があおり行為の内容(構成要件事実)について顕出された証拠の証明力を否定し、結局、犯罪の証明なしとして無罪の判決をしている場合には、その構成要件事実の有無についての証拠調を行ない、直接心証を形成したうえで、破棄自判するならば格別、そうでない限り第一審判決に疑いをもつ程度であるならば、むしろ破棄差戻しの判決をなすべきである。
[901] 控訴審が事実認定の審級でないところからみても、この理は当然であろう。

第四(原判決ならびに第一審判決の判断の内容)
(一)(第一審判決の内容)
[902] 第一審判決は「六、結論」で、
「以上詳論したことにより明らかなように、被告人らの行為が地方公務員法61条4号に該当するという証明はないから……本件については犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法336条後段により被告人らに対し無罪の言渡をすることとする……」
と判示している。
[903] これを各被告人についてみると次のとおりである。
(1)(被告人長谷川、同藤山について)
[904]「同月3日前記都教組本部において、他の本部役員、各支部長と共に戦術委員会を開き指令第3号を決定したが、さらに同夜同都特別区内の各支部毎に開かれた緊急委員会、分斗長会議等において、都教組各支部役員らを介し、同都特別区内公立小中学校の教職員である都教組分会役員らに対し、前記指令第3号を配布すると共にその頃同都各特別区内において、同分会役員らを介し、都教組組合員である同学校の教職員合計約3万名に右指令の趣旨を伝達した」
としほぼ公訴事実と同様の事実を認定している。ただし、せん動についての法解釈の面から、せん動の事実は証明がない旨判示している。
(2)(被告人藤山について)
[905] 公訴事実は4月22日京橋昭和小学校において、同校職員約13名に対し団交が決裂し、23日には行政措置要求のための一斉休暇闘争を実行することになつた。足並は必ずしも揃つていないが、全組合員足並を揃えて、闘争に参加してもらいたい旨申し向けて前記集会への参加を強調し、また同日、常盤小学校において、教職員約20名に対し、一斉休暇闘争には全組合員の結束を乱さず一致して参加してもらいたい旨申し向けたというものであるが、第一審判決は、昭和小学校の件については、ほぼその事実を認定しながら常盤小学校の事実については公訴事実指摘の言動を認めるに足る証拠はないと認定している。
(3)(被告人高橋、同竹本関係について)
[906] 公訴事実は4月21日夜、豊玉第二小学校において、支部役員らに対し一斉休暇に対し、弾圧や首切りがあつた場合の責任は都教組本部で負うことになつているから組合を信頼して指令に従つて一緒に行動されたい旨強調し、足並が揃わないときは執行部が出かけて説得する等申し向けて、「同人ら……を介し約千名の組合員に指令の趣旨を伝達した」というものであり、第一審の認定事実は、右事実の基礎となつている唐木嶺の検察官に対する供述調書は他の証拠と比較し信ぴよう性がなく、「被告人高橋、同竹本に対する公訴事実のような豊玉第二小学校における言動を認めるに足る証拠はない」と判断している。
(4)(被告人高橋関係について)
[907] 第一審判決によれば、
「被告人高橋に対する公訴事実第四によれば、同被告人は同大会の席上同掲記のような激励をし、また指令第3号を朗読したというのであるが、(4月22日旭ヶ丘中学校において……指令を朗読したうえ23日一斉休暇を実施し団結して闘争を勝利に導くべきである旨の発言――弁護人)同被告人が右のような激励をしたことを認めるに足る証拠はなく、前掲各証拠を綜合すると、同大会の席上指令第3号を朗読したのは稲岡副支部長であることが認められ、同被告人が指令第3号を朗読したとする唐木嶺の検察官に対する供述調書は……同人の証言に徴し、これを信用することができない旨」
判示している。
(5)(被告人中根関係について)
[908] 第一審判決によれば、4月21日柳町小学校において、文京支部役員らと共謀して、同支部各分会役員らに対し、指令を配布しかつこれは地公法第46条に基づく行政措置要求であつて合法的なものであるから各分会ともこの指令に基づいて、全員が一斉休暇闘争に参加するよう足並を揃えて貰いたい旨を強調して同人らを介し、その頃支部所層組合員約977名に指令の趣旨を伝達したとする公訴事実につき、佐川顕の検察官に対する供述調書には、右趣旨の発言をなした旨の記載はあるが
「しかし第27回、及び第28回公判調書中証人佐川顕の供述記載部分、第32回公判調書中証人品田賢二の供述記載部分による佐川の検察官に対する供述の趣旨は指令第3号を朗読し右のような説明をしたのが被告人中根であつたか、或はその他の者であつたか不明であるというものであつたことが明らかであり……同供述調書のみによつて、同被告人が公訴事実第五掲記のような発言をしたと認めることはとうていできず、他のこの事実を認めるべき証拠はない」
と認定している。
(6)(被告人竹藤関係について)
[909] 公訴事実は要するに、4月21日北区教育会館において指令を配布したうえ、都教育庁との団体交渉は、決裂して指令が発出された。これは地公法46条に基づく合法的なものであるから、各分会員にこの指令を伝え全員闘争に参加されたい旨述べたというものであるのに対し、指令の趣旨伝達は認めたが右の事実の有無について、同趣旨の記載のある小松長次ならびに清藤義夫の検察官に対する供述調書のうち前者については、右事実が被告人の発言にかかるものかどうか断定せずまた、後者については同証人の証言によつても、右趣旨の発言が同被告人であるかどうか断定しておらず、右供述調書のみによつて、公訴事実のような発言をしたとは認めることができず他にこの事実を認める証拠はない旨判示する。
(7)(被告人小松関係について)
[910] 公訴事実は、4月21日中延小学校において、品川支部各分会役員らに対し、都教組から指令が出たから全員一致して、23日には一斉休暇をとつて、大会に参加してもらいたい旨強調して同役員らを介し、支部所属組合員約1500名に対し指令の趣旨を伝達したこと、および同月22日戸越公園において、支部所属組合員約1000名に対し、全組合員一致結集して右闘争に突入されたい旨強調したというものであるが、判決では、指令配布の事実のみを認め、右の事実のうち22日の件については、中村喜八郎、河元輝喜、橋本末三の各検察官に対する供述調書には右同旨の記載はあるが、甲斐正、中川千里、中村喜八郎、相沢圭一、大八木達夫等の証言では右の事実を認めることはできない。結局公訴事実を認定する証拠はないと判断している。
[911](8) 以上述べてきたように第一審判決は公訴事実にその証拠(検察官に対する供述調書がほとんど全て)につき詳細に検討したのちこれについて信ぴよう性がないとして排除しているのである。
(二)(原判決の証拠調手続関係)
(1)(原審における証拠調)
[912] 原審における第2回乃至第8回公判における証拠調は次のとおりである。
(表 省略)
[913] 証人と証言内容の要旨は右のとおりであるが、ほかに証拠書類として、秀平美和子、田辺章の検察官に対する供述調書が取調べられている。この内容は、右田辺、秀平の証言を多少詳細にした程度のものであつて、それ以外の事実に触れているものではない。
(2)(右証拠の内容の概要と要約)
[914] 右証拠の内容は同人らに対する証人申請書記載の立証趣旨ならびに証言をみれば一見して明白であるように、本件事件の公訴事実に摘示されている各被告人の諸会合、会議等における発言内容――この事実の有無が第一審以来の公判での争点であつた――に関する証言ではなく、いわゆる弱い分会、つまり指令第3号を分会でどのように受けとめたのか、あるいは、勤評反対闘争に対する職場討議の内容、4月23日の行動に関するものであつて、第一審判決が前述のように、証明がなかつたとする部分についてのものではない。この部分の証拠は検察官弁護人とも多数の証人を申請したがいずれも却下されたことは、記録上明白である(原審第8回公判)。いわゆる弱い分会或は支部分会の特定の証人を申請したのは、勤評反対闘争が、組合員の大多数によつて決意されていたものかどうか、また、4月23日の行動が同様に多数組合員の意思によつて行われたものかどうかという点の立証にあつたものである。したがつて、各被告人らの行動そのものの有無を判断でき得るための間接証拠あるいは情況証拠ですらない。また、秀平美知子および田辺章の検察官に対する供述調書についても、右と全く同様の証拠であることは、右調書の記載内容によつて明白である。
[915] したがつて原審は、公訴事実の有無ならびに第一審判決が犯罪の証明がないと認定した部分に関する真接、間接の証拠は、一つも調べていないことに帰着する。
(三)(原判決の認定と証拠関係)
(1)(原判決の内容)
[916] 原判決は、原審で調べた証拠が、公訴事実に関する部分について全くなかつたにもかかわらず、
「(一)被告人長谷川、同藤山は、他の本部役員及び各支部長らと共謀して、右指令の決定された4月21日夜都内特別区各支部ごとに開催された……緊急委員会、分闘長会議等において、都教組合各支部役員らを介し同都特別区内公立小中学校の教職員である都教組分会役員らに対し右指令第3号を配布するとともに、その頃……分会役員らを介し、都教組組合員である教職員3万名に、右指令の趣旨を伝達し、
(二)同日午後8時頃、被告人高橋は、練馬区立豊玉第二小学校に、被告人中根は、文京区柳町あおば学園に、被告人竹藤は北区教育会館に、被告人小松は品川区立中延小学校にそれぞれ開催された前記『指令の確認』を目的とする当該支部における拡大闘争委員会、分闘長会議、緊急委員会、緊急分闘長会議と称する各分会にいづれも前記指令第3号を携えて出席し本部役員支部長らと共謀し、右席上各支部所属の各分会役員らに対し右指令を配布すると共に、被告人高橋は、一斉休暇に対して地方公務員法違反により弾圧や首切りがあつた場合の責任は都教組本部で負うことになつているから組合を信頼して、指令に従つて一緒に行動されたい旨、被告人中根はこれは地方公務員法第46条に基づく行政措置要求であつて、合法的なものであるから、各分会ともこの指令に基づいて全員が4月23日の一斉休暇闘争に参加するよう足並を揃えてもらいたい旨、被告人竹藤は都教育庁との団体交渉は決裂してしまつた、そこで愈々4月23日反対闘争として行政措置要求大会を実施する指令が出たから、この指令に従つて大会に参加して貰いたい。これは地方公務員法46条に基く措置要求権を行使する権利であるから合法的なものである旨、被告人小松は都教組から指令が出たから全員一致して来る23日には一斉休暇をとつて、大会に参加されたい旨……右指令第3号の趣旨を伝達し、
(三)被告人竹本は、被告人高橋よりやや遅れて前記練馬支部拡大闘争委員会に出席し、本部役員各支部長らと共謀し、会場の支部分会役員らに対し大田支部ほか1支部は全員足並を揃えて参加することになつている。都教組本部の決定に従つて全員がまとまつて闘争に入るべきだという趣旨の発言をなし、
(四)翌22日午後3時頃より、被告人高橋は、練馬区旭ケ丘中学校に、被告人小松は、品川区戸越公園に、それぞれ開催された指令第1号に基づく当該支部主催の……支部集会に出席し……会場の当該支部所属組合員各数百名に対し、翌23日の一斉休暇闘争には全員が結束して参加すべきである旨要請し、
(五)被告人藤山は、中央支部において4月21日夜の指令確認等を目的とした拡大闘争委員会にも不参加の分会があつてその脱落が憂慮されたところから……翌22日午前中最後の説得をなすため……京橋昭和小学校および……常盤小学校を歴訪し、同校職員数名ないし10数名に対し前校においては都教育庁との団交が決裂し、23日には行政措置要求大会のため一斉休暇闘争を実行することになつた。組合全体の足並は必ずしも揃つていないが、全組合員が足並を揃えて闘争に参加してもらいたい旨、また後校においては勤務評定反対の理由を説明し、教育を守つてゆくためには一斉休暇をやらなければならない旨それぞれ申し向けた」
と認定している。
(2)(原審の認定と証拠関係)
[917] 右の認定のなかで第一審の事実認定と共通する部分は、最初の被告人長谷川および藤山に関する部分と藤山の京橋小学校における発言部分のみである。その余の部分の原審の認定のうち、各被告人の発言内容は、第一審判決がことごとくこれを否定し、これらにこれにそう検察官に対する供述調書は、証言等と対比して信ぴよう性がないとして排除したものであつた。したがつて、原審が前記の各事実を認定するには、第一審が排除した証拠、具体的には、原判決13頁以下で検討されているように、被告人高橋につき唐木嶺、被告人中根につき佐川顕、被告人竹藤につき小松長二、清藤義夫、被告人小松につき中村喜八郎、橋本未三、河元輝喜の検察官に対する供述調書によつて事実の認定をなしておりそれ以外には存在しない。
[918] また右の各検察官に対する供述調書を信用した理由は一応述べられているけれどもそのような心証を得るについて新たに証拠によつて心証を形成したものでないことはあきらかである。すでに述べたように原審の証拠調中証人11名、検察官に対する供述調書2通が取調べられたが、これらは原審の認定した罪となるべき事実中の被告人らの言動に関する部分でないことはもちろん、罪となるべき事実の有無にも全く関係のない証拠である。だから、原判決の「証拠の標目」のなかで、原審が調べた証拠が全く上つていないのである。
[919] 以上のべてきたように原判決は、「罪となるべき事実」の認定について何ら証拠調べをせず、第一審判決を破棄し自判したものであつて、刑訴法400条但書についての最高裁判所の判例に違反する判断をした違法が存在しこれが判決に影響を及ぼすことは明白であるので破棄を免れない。
[920] 原判決には判断い脱の違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすべき法令違反であるから破棄しなければ著しく正義に反する。 [921]第一 刑事訴訟法335条2項は、法律上犯罪の成立を妨げる理由がある場合には、これに対する判断を示すことを要請している。

[922]第二 ところで法律上犯罪の成立を妨げる理由とは一般に、実体法上の構成要件該当性、違法性および責任の各阻去事由を指すものと解されている(たとえば浦辺衛、柏井康夫・綜合判例研給叢書、刑事訴訟法(7)178頁および同書に引用されている学説、旧法360条2項に対する大判昭2・7・12刑集6-266等)。右にいう判断を必要とする違法性阻却事由に該当するものとしては、正当行為(刑法35条)、正当防衛(同36条)、緊急避難(同37条)あるいは、正当な争議行為(労働組合法1条2項)などが含まれることはあきらかである(浦辺、柏井前掲184頁等)。
[923] 判例もこれを認めている。(註)
(註) 最高昭26・3・9(最刑集5・4・500)は、正当防衛に関するものであるが、薪木窃取の犯人に対し、犯人が殴りかかろうとして生木をふりあげた、その生木を奪い、更になぐりかかろうとしたので、右生木で頭部をなぐり、致死せしめた事案で、「何ら特段の事情を示すことなく、該事実に照らし被告人の右反撃行為をもつて、正当防衛に該当しないとしたのは、理由齬齟の違法がある」と判示している。
 また緊急避難に関するものとして仙台高裁昭24・12・21刑特報3・112、同25・6・9刑特報10・121等。
 責任阻却事由に関するものとして、期待可能性の主張につき「かかる事情は、旧刑訴法360条2項にいわゆる犯罪(過失犯)の成立を阻却すべき原由の範疇に該当するものと考えるのを相当とする。従つて原審において被告人又は弁護人から、これについて主張のあつた場合に限つて判断が示さるべきものである」(最高判昭24・3・17刑集3・3・311、名古屋高裁昭26・2・9、刑集4・2・114参照――刑事訴訟法411条に関するもの)
[924]第三 右にのべたように、刑事訴訟法335条2項は、違法性阻却事由、あるいは責任阻却事由に該当する主張のあつた場合は、必ずこれに対する判断を示すことを裁判所に義務づけているのであり、同法404条は控訴審においてもこの手続が準用されるから、控訴審において少なくとも当事者から主張された事実のうちで違法性阻却あるいは責任阻却に該当する事実については必ず判断を必要とするものといわなければならない。
[925] 法392条は、控訴裁判所は、控訴趣意書に包含された事項はこれを調査しなければならないこと、および377条ないし382条、383条に規定する事由については職権で調査することもできる旨定めており、刑事訴訟規則243条は控訴趣意書に対する答弁書の提出を規定していて、当事者が事実上法律上の主張をする機会を与え、また弁論の機会を与えているのであるから、これらの機会に控訴裁判所に提出された当事者の主張で前述の事項に該当するものは、判断を示すことが必要となるのである。これは、憲法31条、32条、37条等の被告人の裁判を受ける権利の保障の観点からみても当然のことであり、刑事訴訟法はかかる憲法の趣旨から右規定をおいているものと解される。
[926]第一 原審において(第一審においてもそうであるが)弁護人は、弁論要旨343頁以下において、「第七章 わが国教育の現状と勤評反対闘争の意義」および「第八章 正当行為に関する法律問題」(371頁以下)として、本件勤評闘争および昭和33年4月23日都教組が行なつた休暇届提出による行政措置要求大会への参加は、正当な行為である旨主張した。

[927] 第二 このいわゆる正当行為論の主張は、次のような法律構成に基づくものである。
[928] すなわち、被告人の行為は、その目的において、当時の政府、文部省および東京都教育委員会が反動文教政策の一環として勤務評定を強行することによつて憲法的秩序をみだしその基本的柱である民主教育とこれを支える教師の教育的諸権定を侵害しようとしたのに対し、これを守ろうとした点で正当である。そのための手段方法においても、すでにそのはるか以前より公にこれを予告し、児童の学習に混乱ないよう前日に指示を行ない、当日は年次有給休暇権を行使する等周到な配慮の下に、しかも右都教委が、慎重に行なうべきだとの内外の要望にもかかわらず、ついに勤評規則を強引に制定したぎりぎりの日に、わずか1日の授業を休んで措置要求その他の方法でこれに抗議し、また、国民に民主教育の危機を訴え、政府・文部省・都教委をして反省せしめるため当時それが緊急に必要とされていた点において相当である。さらに、その行為により守ろうとした法益(民主教育とそれを支える教育的諸権利)は、その行為によつて侵害されたとする法益(児童の1日の学習権、それも侵害されたとみるには問題があるが)と比較してはるかにこれを超えたものであつて、これらをあわせて考えれば、そこに超法規的違法阻却事由を認定しうることはあきらかで、本件行為は刑法35条により正当と評価されなければならない、というものである。この理論は、超法規的違法阻却の理論として学説は勿論、判例においても認められているところである(たとえば東京高裁35・12・12いわゆる舞鶴事件判決、同31・5・8、東大劇団ポポロ事件判決等)。これらの理論は、たとえば右舞鶴事件判決のいうように、「刑罰法上構成要件該当行為であつて、刑法35条前段の法令による行為……に該当しない場合においても、刑法35条の趣旨に照らし正当行為とせられる場合の存することはこれを認めなければならない。」としているのである。
[929] そして、この点に関する弁護人の論点に対しては、検察官も原審における意見要旨追加の三(16丁)において反論していた点なのである。

[930]第三 原審における当事者の主張が右のとおりである以上、これが刑訴法335条2項の違法性を阻却する理由に該当することは明白であつて裁判所はこれに対する判断を示さなければならないことはあきらかである。
[931] ところで原判決は、右のように第一審以来争点となつており、主張ならびに立証が行なわれたにもかかわらず、これに対する判断を何ら示していないことは判決書を一見して明白である。しかも原審判決書3頁によれば、弁護人の答弁書および弁論要旨を引用してその主張のあつたことを認めているのである。

[932]第四 以上であきらかなごとく、原判決は、弁護人の主要な主張の一つである超法規的違法性阻却事由について、判断を怠つたことは明白である。

第五 (結論)
[933] 判断い脱の違法は刑事訴訟法411条1号の「判決に影響を及ぼすべき法令違反」に該当し、破棄しなければ著しく正義に反するものと認めなければならない。よつて、原判決は破棄されるべきである。

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