徳島市公安条例事件
上告審判決

集団行進及び集団示威運動に関する徳島市条例違反、道路交通法違反被告事件
最高裁判所 昭和48年(あ)第910号
昭和50年9月10日 大法廷 判決

上告申立人 検察官

被告人 甲野学
弁護人 杉本昌純 外2名

検察官 大石宏  外3名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官小川信雄、同坂本吉勝の補足意見
■ 裁判官岸盛一の補足意見
■ 裁判官団藤重光の補足意見
■ 裁判官高辻正己の意見

■ 検察官の上告趣意


 原判決及び第一審判決を破棄する。
 被告人を罰金1万円に処する。
 被告人において右罰金を完納することができないときは、金1000円を1日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。
 第一審における訴訟費用は被告人の負担とする。

[1] 本件公訴事実の要旨は、
「被告人は、日本労働組合総評議会の専従職員兼徳島県反戦青年委員会の幹事であるところ、昭和43年12月10日県反戦青年委員会主催の『B52、松茂・和田島基地撤去、騒乱罪粉砕、安保推進内閣打倒』を表明する徳島市藍場浜公園から同市新町橋通り、東新町、籠屋町、銀座通り、東新町、元町を経て徳島駅に至る集団示威行進に青年、学生約300名と共に参加したが、右集団行進の先頭集団数10名が、同日午後6時35分ころから同6時39分ころまでの間、同市元町2丁目藍場浜公園南東入口から出発し、新町橋西側車道上を経て同市新町橋通り1丁目22番地豊栄堂小間物店前付近に至る車道上において、だ行進を行い交通秩序の維持に反する行為をした際、自らもだ行進をしたり、先頭列外付近に位置して所携の笛を吹きあるいは両手を上げて前後に振り、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動し、かつ、右集団示威行進に対し所轄警察署長の与えた道路使用許可には『だ行進をするなど交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと』の条件が付されていたにもかかわらず、これに違反したものである。」
というのであり、このうち被告人が「自らもだ行進をした」点が道路交通法(昭和35年法律第105号)77条3項、119条1項13号に該当し、被告人が「集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動した」点が「集団行進及び集団示威運動に関する条例」(昭和27年1月24日徳島市条例第3号、以下「本条例」という。)3条3号、5条に該当するとして、起訴されたものである。
[2] 第一審判決は、道路交通法77条3項、119条1項13号該当の点については被告人を有罪としたが、本条例3条3号、5条該当の点については、被告人を無罪とした。右無罪の理由とするところは、
道路交通法77条は、表現の自由として憲法21条に保障されている集団行進等の集団行動をも含めて規制の対象としていると解され、集団行動についても道路交通法77条1項4号に該当するものとして都道府県公安委員会が定めた場合には、同条3項により所轄警察署長が道路使用許可条件を付しうるものとされているから、この道路使用許可条件と本条例3条3号の「交通秩序を維持すること」の関係が問題となるが、条例は「法令に違反しない限りにおいて」、すなわち国の法令と競合しない限度で制定しうるものであつて、もし条例が法令に違反するときは、その形式的効力がないのであるから、本条例3条3号の「交通秩序を維持すること」は道路交通法77条3項の道路使用許可条件の対象とされるものを除く行為を対象とするものと解さなければならないところ、いかなる行為がこれに該当するかが明確でなく、結局、本条例3条3号の規定は、一般的、抽象的、多義的であつて、これに合理的な限定解釈を加えることは困難であり、右規定は、本条例5条によつて処罰されるべき犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を備えているといえず、罪刑法定主義の原則に背き憲法31条の趣旨に反する
というのである。
[3] 原判決は、本条例3条3号の規定が刑罰法令の内容となるに足る明白性を欠き、罪刑法定主義の原則に背き憲法31条に違反するとした第一審判決の判断に過誤はないとして、検察官の控訴を棄却した。
[4] 検察官の上告趣意は、原判決の右判断につき憲法31条の解釈適用の誤りを主張するものである。
[5] 道路交通法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的として制定された法律であるが、同法77条1項は、「次の各号のいずれかに該当する者は、それぞれ当該各号に掲げる行為について」所轄警察署長の許可を受けなければならないとし、その4号において、
「前各号に掲げるもののほか、道路において祭礼行事をし、又はロケーシヨンをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法により道路を使用する行為又は道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしようとする者」
と規定し、同条3項は、1項の規定による許可をする場合において、必要があると認めるときは、所轄警察署長は、当該許可に道路における危険を防止しその他交通の安全と円滑を図るため必要な条件を付することができるとし、同法119条1項13号は、77条3項により警察署長が付した条件に違反した者に対し、これを3月以下の懲役又は3万円以下の罰金に処する旨の罰則を定めている。そして、徳島県においては、徳島県公安委員会が、右規定により許可を受けなければならない行為として、徳島県道路交通施行細則(昭和35年12月18日徳島県公安委員会規則第5号)11条3号において、
「道路において競技会、踊、仮装行列、パレード、集団行進等をすること」
と定めており、本件集団示威行進についても、主催者から所轄徳島東警察署長に対し、道路交通法77条1項4号、徳島県道路交通施行細則11条3号により道路使用許可申請がされ、徳島東警察署長から、
「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足又はおそ足行進、停滞、すわり込み、先行てい団との併進、先行てい団の追越し及びいわゆるフランスデモ等交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと」
等4項目の条件を付して、道路使用許可がされている。
[6] 他方、本条例は、1条において、道路その他公共の場所で集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするときは、同条1号、2号に該当する場合を除くほか、徳島市公安委員会に届け出なければならないとし、3条において、
「集団行進又は集団示威運動を行おうとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。
一 官公署の事務の妨害とならないこと。
二 刃物棍棒その他人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと。
三 交通秩序を維持すること。
四 夜間の静穏を害しないこと。」
と規定し、5条において、3条の規定等に違反して行われた集団行進又は集団示威運動(以下、「集団行進等」という。)の主催者、指導者又はせん動者に対し、これを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する旨の罰則を定めている。
[7] 本件1、2審判決は、憲法94条、地方自治法14条1項により、地方公共団体の条例は国の法令に違反することができないから、本条例3条3号の「交通秩序を維持すること」とは道路交通法77条3項の道路使用許可条件の対象とされる行為を除くものでなければならないという限定を付したうえ、本条例5条の罰則の犯罪構成要件の内容となる本条例3条3号の規定の明確性の有無につき判断しているのであるが、まず、このような限定を加える必要があるかどうかを検討する。
[8] 道路交通法は、前述のとおり、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ること等、道路交通秩序の維持を目的として制定されたものであり、同法77条3項による所轄警察署長の許可条件の付与もかかる目的のためにされるものであることは、多言を要しない。
[9] これに対し、本条例の対象は、道路その他公共の場所における集団行進及び場所のいかんを問わない集団示威運動であつて、学生、生徒その他の遠足、修学旅行、体育競技、及び通常の冠婚葬祭等の慣例による行事を除くものである。
[10] このような集団行動は、通常、一般大衆又は当局に訴えようとする政治、経済、労働問題、世界観等に関する思想、主張等の表現を含むものであり、表現の自由として憲法上保障されるべき要素を有するのであるが、他面、それは、単なる言論、出版等によるものと異なり、多数人の身体的行動を伴うものであつて、多数人の集合体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とし、したがつて、それが秩序正しく平穏に行われない場合にこれを放置するときは、地域住民又は潜在者の利益を害するばかりでなく、地域の平穏をさえ害するに至るおそれがあるから、本条例は、このような不測の事態にあらかじめ備え、かつ、集団行動を行う者の利益とこれに対立する社会的諸利益との調和を図るため、1条において集団行進等につき事前の届出を必要とするとともに、3条において集団行進等を行う者が遵守すべき事項を定め、5条において遵守事項に違反した集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対し罰則を定め、もつて地方公共の安寧と秩序の維持を図つているのである。
[11] このように、道路交通法は道路交通秩序の維持を目的とするのに対し、本条例は道路交通秩序の維持にとどまらず、地方公共の安寧と秩序の維持という、より広はん、かつ、総合的な目的を有するのであるから、両者はその規制の目的を全く同じくするものとはいえないのである。
[12] もつとも、地方公共の安寧と秩序の維持という概念は広いものであり、道路交通法の目的である道路交通秩序の維持をも内包するものであるから、本条例3条3号の遵守事項が単純な交通秩序違反行為をも対象としているものとすれば、それは道路交通法77条3項による警察署長の道路使用許可条件と部分的には共通する点がありうる。しかし、そのことから直ちに、本条例3条3号の規定が国の法令である道路交通法に違反するという結論を導くことはできない。
[13] すなわち、地方自治法14条1項は、普通地方公共団体は法令に違反しない限りにおいて同法2条2項の事務に関し条例を制定することができる、と規定しているから、普通地方公共団体の制定する条例が国の法令に違反する場合には効力を有しないことは明らかであるが、条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の対象事項と規定文言を対比するのみでなく、それぞれの趣旨、目的、内容及び効果を比較し、両者の間に矛盾牴触があるかどうかによつてこれを決しなければならない。例えば、ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がない場合でも、当該法令全体からみて、右規定の欠如が特に当該事項についていかなる規制をも施すことなく放置すべきものとする趣旨であると解されるときは、これについて規律を設ける条例の規定は国の法令に違反することとなりうるし、逆に、特定事項についてこれを規律する国の法令と条例とが併存する場合でも、後者が前者とは別の目的に基づく規律を意図するものであり、その適用によつて前者の規定の意図する目的と効果をなんら阻害することがないときや、両者が同一の目的に出たものであつても、国の法令が必ずしもその規定によつて全国的に一律に同一内容の規制を施す趣旨ではなく、それぞれの普通地方公共団体において、その地方の実情に応じて、別段の規制を施すことを容認する趣旨であると解されるときは、国の法令と条例との間にはなんらの矛盾牴触はなく、条例が国の法令に違反する問題は生じえないのである。
[14] これを道路交通法77条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則と本条例についてみると、徳島市内の道路における集団行進等について、道路交通秩序維持のための行為規制を施している部分に関する限りは、両者の規律が併存競合していることは、これを否定することができない。しかしながら、道路交通法77条1項4号は、同号に定める通行の形態又は方法による道路の特別使用行為等を警察署長の許可によつて個別的に解除されるべき一般的禁止事項とするかどうかにつき、各公安委員会が当該普通地方公共団体における道路又は交通の状況に応じてその裁量により決定するところにゆだね、これを全国的に一律に定めることを避けているのであつて、このような態度から推すときは、右規定は、その対象となる道路の特別使用行為等につき、各普通地方公共団体が、条例により地方公共の安寧と秩序の維持のための規制を施すにあたり、その一環として、これらの行為に対し、道路交通法による規制とは別個に、交通秩序の維持の見地から一定の規制を施すこと自体を排斥する趣旨まで含むものとは考えられず、各公安委員会は、このような規制を施した条例が存在する場合には、これを勘案して、右の行為に対し道路交通法の前記規定に基づく規制を施すかどうか、また、いかなる内容の規制を施すかを決定することができるものと解するのが、相当である。そうすると、道路における集団行進等に対する道路交通秩序維持のための具体的規制が、道路交通法77条及びこれに基づく公安委員会規則と条例の双方において重複して施されている場合においても、両者の内容に矛盾牴触するところがなく、条例における重複規制がそれ自体としての特別の意義と効果を有し、かつ、その合理性が肯定される場合には、道路交通法による規制は、このような条例による規制を否定、排除する趣旨ではなく、条例の規制の及ばない範囲においてのみ適用される趣旨のものと解するのが相当であり、したがつて、右条例をもつて道路交通法に違反するものとすることはできない。
[15] ところで、本条例は、さきにも述べたように、道路における場合を含む集団行進等に対し、このような社会的行動のもつ特殊な性格にかんがみ、道路交通秩序の維持を含む地方公共の安寧と秩序の維持のための特別の、かつ、総体的な規制措置を定めたものであつて、道路交通法77条及びこれに基づく徳島県道路交通施行細則による規制とその目的及び対象において一部共通するものがあるにせよ、これとは別個に、それ自体として独自の目的と意義を有し、それなりにその合理性を肯定することができるものである。そしてその内容をみても、本条例は集団行進等に対し許可制をとらず届出制をとつているが、それはもとより道路交通法上の許可の必要を排除する趣旨ではなく、また、本条例3条に遵守事項として規定しているところも、のちに述べるように、道路交通法に基づいて禁止される行為を特に禁止から解除する等同法の規定の趣旨を妨げるようなものを含んでおらず、これと矛盾牴触する点はみあたらない。もつとも、本条例5条は、3条の規定に違反する集団行進等の主催者、指導者又はせん動者に対して1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金を科するものとしているのであつて、これを道路交通法119条1項13号において同法77条3項により警察署長が付した許可条件に違反した者に対して3月以下の懲役又は3万円以下の罰金を科するものとしているのと対比するときは、同じ道路交通秩序維持のための禁止違反に対する法定刑に相違があり、道路交通法所定の刑種以外の刑又はより重い懲役や罰金の刑をもつて処罰されることとなつているから、この点において本条例は同法に違反するものではないかという疑問が出されるかもしれない。しかしながら、道路交通法の右罰則は、同法77条所定の規制の実効性を担保するために、一般的に同条の定める道路の特別使用行為等についてどの程度に違反が生ずる可能性があるか、また、その違反が道路交通の安全をどの程度に侵害する危険があるか等を考慮して定められたものであるのに対し、本条例の右罰則は、集団行進等という特殊な性格の行動が帯有するさまざまな地方公共の安寧と秩序の侵害の可能性及び予想される侵害の性質、程度等を総体的に考慮し、殊に道路における交通の安全との関係では、集団行進等が、単に交通の安全を侵害するばかりでなく、場合によつては、地域の平穏を乱すおそれすらあることをも考慮して、その内容を定めたものと考えられる。そうすると、右罰則が法定刑として道路交通法には定めのない禁錮刑をも規定し、また懲役や罰金の刑の上限を同法より重く定めていても、それ自体としては合理性を有するものということができるのである。そして、前述のとおり条例によつて集団行進等について別個の規制を行うことを容認しているものと解される道路交通法が、右条例においてその規制を実効あらしめるための合理的な特別の罰則を定めることを否定する趣旨を含んでいるとは考えられないところであるから、本条例5条の規定が法定刑の点で同法に違反して無効であるとすることはできない。
[16] 右の次第であつて、本条例3条3号、5条の規定は、道路交通法77条1項4号、3項、119条1項13号、徳島県道路交通施行細則11条3号に違反するものということはできないから、本条例3条3号に定める遵守事項の内容についても、道路交通法との関係からこれに限定を加える必要はないものというべく、したがつて、この点に関する原判決の見解は、これを是認することができない。
[17] 次に、本条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定が犯罪構成要件の内容をなすものとして明確であるかどうかを検討する。
[18] 右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。全国のいわゆる公安条例の多くにおいては、集団行進等に対して許可制をとりその許可にあたつて交通秩序維持に関する事項についての条件の中で遵守すべき義務内容を具体的に特定する方法がとられており、また、本条例のように条例自体の中で遵守義務を定めている場合でも、交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがあるといわなければならない。しかしながら、およそ、刑罰法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる。しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。
[19] そもそも、道路における集団行進等は、多数人が集団となつて継続的に道路の一部を占拠し歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通秩序を必然的に何程か侵害する可能性を有することを免れないものである。本条例は、集団行進等が表現の一態様として憲法上保障されるべき要素を有することにかんがみ、届出制を採用し、集団行進等の形態が交通秩序に不可避的にもたらす障害が生じても、なおこれを忍ぶべきものとして許容しているのであるから、本条例3条3号の規定が禁止する交通秩序の侵害は、当該集団行進等に不可避的に随伴するものを指すものでないことは、極めて明らかである。ところが、思想表現行為としての集団行進等は、前述のように、これに参加する多数の者が、行進その他の一体的行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆等に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値があるものであるから、これに対して、それが秩序正しく平穏に行われて不必要に地方公共の安寧と秩序を脅かすような行動にわたらないことを要求しても、それは、右のような思想表現行為としての集団行進等の本質的な意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならないのである。そうすると本条例3条が、集団行進等を行おうとする者が、集団行進等の秩序を保ち、公共の安寧を保持するために守らなければならない事項の1つとして、その3号に「交通秩序を維持すること」を掲げているのは、道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解されるのである。そして、通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしようとする行為が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたつては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであり、例えば各地における道路上の集団行進等に際して往々みられるだ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しく平穏な集団行進等に随伴する交通秩序阻害の程度を超えて、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為にあたるものと容易に想到することができるというべきである。
[20] さらに、前述のように、このような殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為は、思想表現行為としての集団行進等に不可欠な要素ではなく、したがつて、これを禁止しても国民の憲法上の権利の正当な行使を制限することにはならず、また、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為であるかどうかは、通常さほどの困難なしに判断しうることであるから、本条例3条3号の規定により、国民の憲法上の権利の正当な行使が阻害されるおそれがあるとか、国又は地方公共団体の機関による恣意的な運用を許すおそれがあるとは、ほとんど考えられないのである(なお、記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例3条3号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない。)。
[21] このように見てくると、本条例3条3号の規定は、確かにその文言が抽象的であるとのそしりを免れないとはいえ、集団行進等における道路交通の秩序遵守についての基準を読みとることが可能であり、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠き憲法31条に違反するものとはいえないから、これと異なる見解に立つ原判決及びその維持する第一審判決は、憲法31条の解釈適用を誤つたものというべく、論旨は理由がある。

[22] よつて、刑訴法410条1項本文により第一審判決及び原判決を破棄し、直ちに判決をすることができるものと認めて、同法413条但書により被告事件についてさらに判決する。
[23] 第一審判決の認定によると、
被告人は、昭和43年12月10日徳島県反戦青年委員会主催の「B52、松茂・和田島基地撤去、騒乱罪粉砕、安保推進内閣打倒」を表明する徳島市藍場町2丁目藍場浜公園から同市新町橋通り、東新町、籠屋町、銀座通り、東新町丸新デパート前路上に至る集団示威行進に、青年労働者、学生ら約300名とともに参加したが、右集団示威行進に対しては、所轄徳島東警察署長がその道路使用を許可するにあたり、「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足又はおそ足行進、停滞、すわり込み、先行てい団との併進、先行てい団の追越し及びいわゆるフランスデモ等交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと」との条件を付していたのに、右集団示威行進の先頭集団約80名が同日午後6時36分ころから同6時38分すぎころまでの間、県道宮倉徳島線上の同市元町2丁目藍場浜公園南東出入口付近の車道から同市新町橋西側車道南詰付近までの約70メートルの区間において最大幅約8メートルの右車道幅員一杯の、また、同日午後6時39分ころ、同県道上同市新町橋通り1丁目八百秀食料品店前横断歩道北側端から同豊栄堂小間物店前付近までの約35メートルの区間において、右車道幅員の約3分の2程度の部分を占める最大幅約5メートルの、それぞれだ行進をし交通秩序の維持に反する行為をした際、みずから右先頭集団直近の隊列外に位置して断続的に右先頭集団とともにだ行進をしたり、笛を吹いたり、両腕を前後に振つて合図する等し、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動し、かつ、右徳島東警察署長の付した道路使用許可条件に違反したもの(第一審判決の証拠の標目掲記の各証拠及び証人山伏義市、同福井俊博、同林利憲、同米崎芳幸の各第一審公判廷における供述による。)
であり、右事実に法令を適用すると、被告人の右所為のうち、先頭集団直近の隊列外に位置して、だ行進をしたり、笛を吹いたり、両腕を前後に振つて合図する等して、集団行進者にだ行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動した点は、本条例3条3号、5条(刑法6条、10条により罰金額の寡額は、昭和47年法律第61号による改正前の罰金等臨時措置法2条1項所定の額による。)に、被告人がみずからだ行進をし徳島東警察署長の付した道路使用許可条件に違反した点は、道路交通法77条1項4号、3項、119条1項13号、徳島県道路交通施行細則11条3号(罰金額の寡額につき前に同じ。)に、それぞれ該当するが、右は1個の行為で2個の罪名に触れる場合であるから、刑法54条1項前段、10条により1罪として、重い本条例3条3号、5条の罪の刑で処断することとし、所定刑中罰金刑を選択し、その金額の範囲内で被告人を罰金1万円に処し、被告人において右罰金を完納することができないときは、刑法18条により金1000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、第一審における訴訟費用は、刑訴法181条1項本文によりこれを被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

[24] この判決は、裁判官小川信雄、同坂本吉勝の補足意見、裁判官岸盛一、同団藤重光の各補足意見、裁判官高辻正己の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官小川信雄、同坂本吉勝の補足意見は次のとおりである。

[1] われわれは多数意見に同調するものであるが、左の点について念のため補足的に意見を述べておきたいと思う。
[2] 集団行進等は、多数の人が、社会、政治、経済等の問題につき、公然とその主張、要求、観念等を力強く表示し、一般公衆に訴えてその賛成をえようとする集団的行動であるから、その性質上常に粛然とした行進であるにとどまらず、ある程度これを超える行進形態にわたることは、当然これを容認しなければならない。
[3] したがつて、多数意見が徳島市公安条例3条3号にいう「交通秩序を維持すること」とは「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているもの……」と解するといつている意味は、正常な集団行進等に通常伴うであろう程度を超えた殊更な交通秩序阻害行為、すなわち集団行進等がその本来の性質上粛然とした行進の程度を何程か超える行進形態にわたりうるものであることを容認しながら、さらにその程度を超えた殊更な交通秩序阻害行為を避止すべきことを命じているという意味であると理解して、その意見に同調するものである。
[4] 事は、憲法の保障する国民の表現の自由にかかわる重要な問題であるので、この点を誤解した行過ぎの取締りのないことを願うものである。
[5] 右の点を付加するほかは、われわれは裁判官団藤重光の補足意見に同調する。


 裁判官岸盛一の補足意見は次のとおりである。

[1] わたくしは、多数意見に同調する者として、集団行動と表現の自由の制約の点について、いささか意見を補足しておきたい。

[2](一) 表現活動に対して、法令による規制がなされる場合に、それが憲法21条に違反するか否かを判断するにあたつては、その目的が、表現そのものを抑制することにあるのか、それとも当該表現に伴う行動を抑制することにあるのかを一応区別して考察する必要があると考える。もとより、すべての表現活動は、なんらかの意味において行動を伴うものともいいうるのであるから、この区別は、表現活動を表現そのものと行動を伴う表現とに截然と2分して憲法上の保障に差等を設けようとするものではない。それは、規制の目的を重視し、表現そのものがもたらす弊害の防止に規制の重点があるのか、もしくは表現に伴う行動がもたらす弊害の防止が重点であるのかを識別したうえで、規制の合憲性を厳密に審査する必要があるとの見地から、右の区別をしようとするものである。そして、そのことは、判断を正確にし、かつ、理解を容易にするために極めて有意義なことであると思うのである。

[3](二) 規制の目的が表現そのものを抑制することにある場合には、それはまさに、国又は地方公共団体にとつて好ましくない表現と然らざるものとの選別を許容することとなり、いわば検閲を認めるにひとしく、多くの場合、基本的人権としての表現の自由を抑圧するものであつて、違憲の判断をうけることはいうまでもない。当裁判所の判例が、例えば、国民の重要な法的義務の不履行を煽動すること(昭和24年5月18日大法廷判決・刑集3巻6号839頁、同37年2月21日大法廷判決・刑集16巻2号107頁など)、猥褻文書を頒布すること(昭和32年3月13日大法廷判決・刑集11巻3号997頁、同44年10月15日大法廷判決・刑集23巻10号1239頁)、故なく他人の名誉を毀損すること(昭和33年4月10日第1小法廷判決・刑集12巻5号830頁、なお同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁)を犯罪として処罰する規定につき、利益較量の手法によることなく、それらの表現活動は、表現の自由に内在する制約を逸脱し、それ自体憲法上の保障をうけるに値しないことを根拠として、憲法21条に違反するものではないとしたのは、これらの規制が右のような性質を有し、これらを合憲とすることには、本質的、根源的な理由を必要とするとの考えがあつたものと解される。ちなみに、右に摘示した従来の判例の中には、「公共の福祉に反する」という語句が用いられているものがあるとはいえ、その真意は、決して安易に公共の福祉論を展開しているのではなく、表現の自由にもそれに内在する制約のあることを説いているものであることは、判文全体を通じて理解することができるのである。
[4] アメリカの連邦最高裁判所の判例が、違憲審査にあたり、いわゆる「明白かつ現在の危険」の原則を適用しているのも、規制の目的が表現そのものの抑制を志向している場合であつて、そのような規制については厳しい基準で合憲性を判断しようとする努力にほかならない。この原則は、当初は、国が憲法上阻止することが許されるような実質的害悪をもたらす行為の教唆、煽動を処罰することが違憲であるか否かの審査について用いられたものであつて、その抑制の根拠は、このような実質的な害悪が発生するさしせまつた危険を生じさせるような表現は、そのような害悪を発生させる行動にひとしく、自由な表現の交換による自然的な抑制を待ついとまがないということにあつた。この原則は、特に1930年代以降広く適用され、表現活動に対する規制を違憲とする場合の決り文句のように判例に登場したが、次第にそれが妥当する範囲につき思索が重ねられ、1950年には、この原則はあらゆる型態の表現活動にあてはまるものではなく、規制の目的が行動のもたらす重大な弊害の防止ということにある場合には適用されないことが明示され、翌1951年には、この原則が従来は保護される利益が非実質的で規制を合憲とするに足りない場合について広く適用されてきたことが指摘されたうえ、たとえ表現そのものがもたらす弊害の防止を目的とする規制であつても、保護される利益が極めて重大である場合には、規制の巾が拡大されることもありうるとされ、この原則の適用については利益較量による吟味が必要であることが明らかにされたのである。さらに、1965年には、集団行進やピケツテイング等の表現活動は行動と表現との混合であり、行動の面がもたらす実質的な弊害を防止するために裁判所近くでの集団示威運動を処罰することは合憲であるとされ、1968年には、公衆の面前で徴兵カードを焼却したいわゆる象徴的行動の事件について、言論と非言論とが同一の行動に結合している場合に、非言論の面を規制することにつき十分な国の利益が認められるならば、これに付随した表現の自由が制約されても違憲ではないとされた。そしてさらに、公務員の政治行為の禁止を合憲とした1973年の判例においても、純粋な言論と行動を伴う言論との区別が重視されている。
[5] もとより、わたくしは、アメリカの判例に教条的に追随しようとするものではない。右に略説した判例のなかにも傾聴すべき反対意見が述べられているものもあるし、また、事案の内容が、わが国で問題とされている性質のものと必ずしも同様とはいえないものもあるのである。それにもかかわらず、あえてこれを引合いに出したのは、前述のような判例にみられるこの原則の適用についての変遷は、単なる論理の演繹によるものではなく、経験に基づく帰納の結果であること、その裁判過程において合理的な価値の選択が重視されていること、そしてさらに、この原則の適用範囲が拡大された時代があつたとはいえ、今日では自覚的に表現そのものの規制が合憲であるか否かの判断基準として用いられていることに注目したいと思うからである。

[6](三) ところが、規制の目的が表現を伴う行動を抑制することにあるときは右と事情を異にする。この場合の規制は、国又は地方公共団体による検閲にひとしいような性質のものではない。そればかりでなく、表現を伴うあらゆる行動が、表現という要素をもつということだけの理由で憲法上絶対的な地位を占めるものとするときは、利益較量による相対立する利益の調和(それは、単なる平均的な調和ではなく、いわば配分的なそれというべきであろうか)という憲法解釈の要諦を忘れたものとの譏を免れないであろう。当裁判所の従来からの判例が、このような類型の規制について、適正な利益較量の手法により、大阪市屋外広告物条例(昭和43年12月18日大法廷判決・刑集22巻13号1549頁)、他人の家屋その他の工作物にはり紙をすることを禁止する軽犯罪法1条33号(昭和45年6月17日大法廷判決・刑集24巻6号280頁)、公務員の政治活動の禁止(昭和49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁、694頁、743頁)などを合憲と判断したことは、このような考慮がめぐらされたものと解されるのである。
[7] また、その行動を伴うことが、当該表現活動にとつて唯一又は極めて重要な意義をもつ場合には、行動それ自体が思想、意見の伝達と評価され、表現そのものと同様に憲法上の保障に値することもありうるが、そのようなときでも、規制の真の目的が行動による思想、意見の伝達を抑制することにあるのではなく、行動自体のもたらす実質的な弊害を防止することにある限りは、これを直ちに違憲であるということはできない。
[8] ところで、集団行動の規制について、しばしば、一定の時間、場所、方法の規制あるいは一定の態様の行動(一定の属性をもつた行動)の規制であれば合憲であるとされるのは、その規制が概して当該行動のもたらす弊害の防止を目的とするものであると認められるからであつて、その真の根拠は前述したところに存するのである。換言すれば、ある一定の態様の集団行動についていうならば、一定の態様に限定された規制であるが故に直ちにそれが合憲とされるのではなくて、実質的な弊害をもたらすような当該行動の規制であり、しかも、それに伴う表現そのものに対する制約の程度も適正な利益較量として許容されるものであるからにほかならない。一定の態様による集団行動を禁止する規制であつて、他の態様による表現活動の余地が残されている場合であつても、規制の目的が表現そのものを抑制することにあるならば、その規制は矢張り違憲であるとされなければならない。

[9](四) 本件におけるような集団行動の規制を目的とするわが国の公安条例について、上述した見解をあてはめてみるに、もし表現そのものが国又は地方公共団体にとつて好ましくないものとしてこれを規制しようとするのであれば、違憲であるといわざるをえない。しかしながら、本件の徳島市条例がそのような規制を目的とするものではなく、行動のもたらす弊害の防止を目的とするものであることは明白である。そしてまた、蛇行進うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠して行進するいわゆるフランスデモ等の殊更な道路交通秩序の阻害をもたらす虞のある表現活動が表現の自由の名に値するものであるかは別論としても、上述のような見地からすれば、その規制は合憲であるとすることには異論はないと考えるものである。

[10](五) 以上の次第で、わたくしは、表現そのものと行動に伴う表現とを一応区別して考える当裁判所の従来の判例を維持したいと考えるとともに、そのような考えに立つて本件を処理する多数意見を支持したいと思うのである。


 裁判官団藤重光の補足意見は次のとおりである。

[1] わたくしは多数意見に同調するものであるが、左の諸点について補足的に意見を述べておきたいと思う。

[2](一) 第一は、表現の自由の制約の問題である。これについては、表現そのものと表現の態様とを区別して考えなければならない。単に表現の態様にすぎないようなもの、換言すれば、問題となつている当の態様によらなくても、他の態様によつて表現の目的を達しうるようなばあいには、法益の権衡を考えた上で、単なる道路交通秩序のような、それほど重大でない法益を守るためにも、当の態様による表現を制約することができるものと解するべきであろう。多数意見が「道路交通秩序の維持をも内包」する広い概念としての「地方公共の安寧と秩序」ということを持ち出しているのは、表現の態様に関するかぎりにおいて、理解されうる。本件は、被告人らのとつたような態様の行動によらなくても表現の目的を達しえたであろう事案であつたとみとめられるのであつて、多数意見の判示するところは正当であるとおもう。これに反し、表現そのものについては別論であつて、万が一にも本条例の濫用によつて単なる「交通秩序の維持」のために、表現そのものを抑圧するような処分が行われたならば、その処分はあきらかに違憲だといわなければならない。本条例が、そのような表現の自由の抑圧を容認するものでないことは、いうまでもない。
[3] ちなみに、ここにわたくしが表現そのものと表現の態様とを区別するのは、表現の中に「純粋な言論」と「行動」とを区別する見解とは同一ではないことを、念のために、あきらかにしておく必要がある。表現はしばしば行動を伴うのであり、もしその行動によらなければ当の表現の目的を達成することが客観的・合理的にみて不可能なようなばあいには、その行動は表現そのものと考えられなければならない。日本国憲法が単に「言論」だけでなく、「言論、出版その他一切の表現」についてその自由を保障するものとしているのは、このような含蓄をも有するものと解するべきであろう。

[4](二) 第二は、犯罪構成要件の明確性に関する問題である。本条例5条は、3条とあいまつて、本件で問題となつている犯罪構成要件を規定しているが、3条3号は単純に「交通秩序の維持」としているだけであつて、同条本文の「公共の安寧を保持するため」とあわせてみるにせよ、「立法措置として著しく妥当を欠くものがある」ことは多数意見もみとめるとおりである。罪刑法定主義が犯罪構成要件の明確性を要請するのは、一方、裁判規範としての面において、刑罰権の恣意的な発動を避止することを趣旨とするとともに、他方、行為規範としての面において、可罰的行為と不可罰的行為との限界を明示することによつて国民に行動の自由を保障することを目的とする。後者の見地における行動の自由の保障は、表現の自由に関しては、とくに重要であつて、もし、可罰的行為と不可罰的行為との限界が不明確であるために、国民が本来表現の自由に属する行動さえをも遠慮するような事態がおこれば、それは国民一般の表現の自由に対する重大な侵害だといわなければならない。これは不明確な構成要件が国民一般の表現の自由に対して有するところの萎縮的ないし抑止的作用の問題である。もちろん、本件についてかような問題に立ち入ることが、司法権行使のありかたとして許されるかどうかについては、疑問がないわけではない。
[5] けだし、一般国民(徳島市の住民および滞在者一般)が本条例の規定によつて表現の自由の関係で萎縮的ないし抑止的影響を受けていたかどうか、また、現に受けているかどうかは、本件の審理の対象外とされるべきではないかとも考えられるからである。しかし、このような考え方は、裁判所が国民一般の表現の自由を保障する機能を大きく制限する結果をもたらす。わたくしは、これは、とうてい憲法の趣旨とするところではないと考えるのである。
[6] かようにして、わたくしは、本条例3条、5条の構成要件の明確性の問題を検討するにあたつては、それが表現の自由との関連において国民一般に対して有するかも知れないところの萎縮的・抑止的作用をもとくに考慮に入れたつもりである。そうして、わたくしは、多数意見もまた、同じ見地に立つものと理解している。第一に、多数意見がとくに、「記録上あらわれた本条例の運用の実態をみても、本条例3条3号の規定が、国民の憲法上の権利の正当な行使を阻害したとか、国又は地方公共団体の機関の恣意的な運用を許したとかいう弊害を生じた形跡は、全く認められない」ことを付言しているのは、実際にこうした萎縮的・抑止的作用が認定されえなかつたことをあきらかにするものであるとおもう(現に、記録上、弁護側から、かような点についてのなんらの立証活動もされていない)。第二に、規定じたいをみても、その適用の有無について、「通常の判断能力を有する一般人が具体的場合に」「通常その判断にさほどの困難を感じることはないはず」であることは、これまた、多数意見の説示するとおりである。およそ公安条例の規定する罪には一定の型があつて、本条例の罪にはとくに明示的な例示はないが、その内容がどのようなものであるかは、一般国民にとつてほぼ周知のことといえよう。純粋に文理的には疑問があるとはいえ、こうしたことを考慮に入れれば、多数意見の説示するところは、結局において、正当であるといわなければならない。ただ、本条例のような構成要件の規定のしかたは、かろうじて合憲とはいえるものの、立法措置としてはなはだ妥当を欠くものであることを繰り返して指摘しておかざるをえない。

[7](三) なお、第三に、多数意見は、本条例3条3号の趣旨について、同号に「交通秩序を維持すること」が掲げられているのは、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」としているが、ここに「集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合」といつているのは、いうまでもなく、正常な集団行進等のことを念頭に置いているものにほかならないであろう。この意味において、わたくしは小川、坂本両裁判官の補足意見にも同調するものである。


 裁判官高辻正己の意見は、次のとおりである。

[1] 私は、原判決破棄の多数意見の結論には同調するが、本条例3条3号、5条の犯罪構成要件としての明確性の点については、多数意見と見解を一にすることができない。この点を明らかにしながら、私の意見を述べる。

[2] いうまでもなく、刑罰法規の定める犯罪構成要件が明確であるかどうかの判断は、主として、裁判規範としての機能の面ではなく、その行為規範としての機能の面に着目し、裁判時を基準とするのではなく、行為者の行為の当時を基準として、されなければならない。その判断が、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すぺきである」ことは、多数意見のいうとおりである。そして、そのような基準が読みとれるかどうかについて最も重視されるべきものが、当該規定の文言自体であることは、多言を要しない。

[3] ところが、本件で問題とされる本条例3条3号の規定は、多数意見も自らいうように、「その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない」ものである。もとより、法規の適用には解釈がつきものであつて、その解釈については、規定の文言だけではなく、その規定と法規全体との関係、当該法規の立法の目的、規定の対象の性質と実態等が、考慮されてよい。多数意見は、そのような諸点について考慮を重ねた上、本条例3条3号の規定は、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているもの」と解釈するのである。それは、一個の解釈としては間然するところがないが、そのような解釈をもつて、直ちに、通常の判断能力を有する一般人である行為者が、行為の当時において、理解するところであるとすることができようか。「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」を読みとるについて行為者に期待されるところは、通常の判断能力を有する者が規定の文言から素ぼくに感得するところの常識的な理解であつて、多数意見にあるような考慮を重ねて得られる解釈ではあるまい。

[4] たとえ、通常の判断能力を有する一般人である行為者に対し、多数意見にあるような考慮を重ねた解釈を期待することができるとしても、その解釈の成果が、異たして、「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」を示すにつき欠けるところがないといえるであろうか。本条例3条3号の規定が避止すべきことを命じているのは集団行進等における「殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為」であるといつたところで、そこから具体的な行為としての限定を見出すことはできず、これをもつて「禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準」であるとすることができないことに、変わりはない。確かに、多数意見の掲示する「だ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ」が、その種の「殊更な………行為」の典型的なものであるとは解されよう。そして、そのような典型的なものは、それが典型的なものであればこそ、本条例3条3号の避止すべきことを命じている行為に当たると「容易に想到することができる」のであり、そうした理解は、通常の判断能力を有する者が、その常識において、規定の文言から素ぼくに感得するところのものであるということができるのである。しかし、そのような典型的な行為ではないが集団行進等において粛然とした形態にとどまらない形態をもたらすような行為については、どのような程度のものまでがその種の「殊更な………行為」に当たるとされるのか、「通常その判断にさほどの困難を感じることはない」といいきるには、疑問が残る。禁止行為に例示を設け、それによつて、禁止される行為が、例示の行為のほかには、それと同等程度の行為だけに限られるとする基準が示されている場合とは、場合が違うのである。

[5] このようなわけで、私は、本条例3条3号の規定が集団行進等における道路交通の秩序遵守についての基準を読みとることを可能とするものであり、犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠くものではないとする一般的見解には、多分に疑問があると考える。それにもかかわらず、私が原判決破棄の結論に同調しようとするのは、次の理由による。
[6] さきにも述べたように、本件におけるだ行進が、交通秩序侵害行為の典型的のものとして、本条例3条3号の文言上、通常の判断能力を有する者の常識において、その避止すべきことを命じている行為に当たると理解しえられるものであることは、疑問の余地がない。
[7] それ故、本件事実に本条例3条3号、5条を適用しても、これによつて被告人が、格別、憲法31条によつて保障される権利を侵害されることにはならないのである。元来、裁判所による法令の合憲違憲の判断は、司法権の行使に附随してされるものであつて、裁判における具体的事実に対する当該法令の適用に関して必要とされる範囲においてすれば足りるとともに、また、その限度にとどめるのが相当であると考えられ、本件において、殊更、その具体的事実に対する適用関係を超えて、他の事案についての適用関係一般にわたり、前記規定の罰則としての明確性の有無を論じて、その判断に及ぶべき理由はない。もつとも、刑罰法規の対象とされる行為が思想の表現又はこれと不可分な表現手段の利用自体に係るものであつて、規制の存在すること自体が、本来自由であるべきそれらを思いとどまらせ、又はその自由の取返しのつかない喪失をもたらすようなものである場合には、憲法がその保障に寄せる関心の重大さにかんがみ、別異の配慮を加えるべき憲法上の合理性とそれに由来する要請があるというべきである。しかし、本件において規制の対象とされる行為は、表現手段としての集団行進等をすることそれ自体ではなく、集団行進等がされる場合のその態様に関するものであつて、本件の場合は、右に述べたような特段の配慮を加えるべき場合には当たらないのである。

[8] 要するに、私は、本条例3条3号の規定は犯罪構成要件の内容をなすものとして明確性を欠くものとはいえないとする多数意見には賛成することができないが、本条例3条3号、5条の定める犯罪構成要件に当たることの明らかな本件事実については、上述の理由によつて、それらの規定の適用が排除されるべきではないと考えるのであつて、この点において、結局、原判決は破棄を免れないのである。

(裁判長裁判官 村上朝一  裁判官 関根小郷  裁判官 藤林益三  裁判官 岡原昌男  裁判官 小川信雄  裁判官 下田武三  裁判官 岸盛一  裁判官 坂本吉勝  裁判官 岸上康夫  裁判官 江里口清雄  裁判官 大塚喜一郎  裁判官 高辻正己  裁判官 吉田豊  裁判官 団藤重光)
目次
第一 序説
 一 公訴事実
 二 一審判決の要旨
 三 原判決の要旨
第二 上告理由
 原判決には、憲法31条の解釈適用に誤りがある
 一 本件条例3条3号は、同条例5条の犯罪構成要件の規定として明確である
 二 本件条例3条3号は、本件に適用する限りにおいて明確性を欠いていない
第三 結語
[1] 本件公訴事実は、
 被告人は、日本労働組合総評議会の専従職員兼徳島県反戦青年委員会の幹事であるところ、昭和43年12月10日県反戦青年委員会主催の「B52、松茂、和田島基地撤去、騒乱罪粉砕、安保推進内閣打倒」を表明する徳島市藍場町2丁目藍場浜公園から同市新町橋通り、東新町、籠屋町、銀座通り、東新町、元町を経て徳島駅に至る集団示威行進に青年、学生約300名と共に参加したが、右集団行進の先頭集団数10名が、同日午後6時35分ごろから同6時39分ごろまでの間、同市元町2丁目藍場浜公園南東入口から出発し、新町橋西側車道上を経て同市新町橋通り1丁目22番地「宝栄堂」小間物店前付近に至る車道上において、蛇行進を行ない交通秩序の維持に反する行為をした際、自らも蛇行進をしたり、先頭列外付近に位置して所携の笛を吹き、あるいは両手を上げて前後に振り、集団行進者に蛇行進をさせるよう刺激を与え、もつて集団行進者が交通秩序の維持に反する行為をするようにせん動し、かつ右集団示威行進に対し所轄警察署長の与えた道路使用許可には「蛇行進をするなど交通秩序を乱すおそれがある行為をしないこと。」の条件が付されていたにもかかわらず、これに違反したものである。
というにある(罪名は、集団行進及び集団示威運動に関する徳島市条例違反《以下右条例を「本件条例」という》および道路交通法違反、罰条は、同条例3条3号、5条、道路交通法77条3項、119条1項13号、徳島県道路交通施行細則《昭和35年徳島県公安委員会規則第5号、ただし昭和40年徳島県公安委員会規則第6号による改正後のもの》11条3号)。
[2] 一審の徳島地方裁判所は、右公訴事実のうち道路交通法違反の事実のみを認定して被告人を罰金5,000円に処する旨を言い渡したが、本件条例違反の点については、
 集団行進等を行なう者が守るべき遵守事項を定めた本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定は、一般的、抽象的、多義的であつて、その内包する意味内容が明瞭でないばかりでなく、その外延もまた不明確であつて、合理的に限定して解釈することも困難であり、同5条によつて処罰の対象とされている犯罪構成要件としては、その明確性を要請する罪刑法定主義の原則に背馳し、憲法31条の趣旨に反するものといわざるをえず、本件条例違反の点は、罪とならないが、前記道路交通法違反の罪と1個の行為で2個の罪名に触れるとして起訴されたものであるから、主文において無罪の言い渡しをしない。
と判示した。
[3] 右一審判決の無罪部分に対し、検察官から「同判決は本件条例3条3号、同5条の解釈適用を誤り、ひいて憲法31条の解釈適用を誤つたものであつて、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。」として控訴したところ、高松高等裁判所第3部は、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定の趣旨については、
 本件条例が集団行動参加者らに対し遵守事項を定める根拠として、その3条本文に集団行動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するためと明示していること、集団行動とくに集団示威運動は第三者に対する何らかの働きかけを必然的に伴うところから、平穏に秩序を保つてなさるべき純粋な表現の自由の行使の範囲を逸脱し、集団的な暴力に転化する危険性を内包するので、地方公共団体において法と秩序を維持するため必要かつ最大限度の法的規制を設けることが不必要とはいえないこと、道路における危険防止その他、交通の安全と円滑を図るだけであれば道路交通法77条1項4号、3項、徳島県道路交通施行細則11条により徳島県公安委員会は道路における集団行進等につきこれを所轄警察署長の許可にかからしめ、警察署長は必要な条件を付することができると規定されていることにかんがみると、単なる道路における交通秩序の保持のみでなく、これを超えた当該地域における社会公共の安寧保持の目的に出たものであつて、それは同条1、2、4号の遵守事項(1号、官公署の事務の妨害とならないこと。2号、刃物棍棒その他人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと。4号、夜間の静穏を害しないこと)がかかる目的に立つ規定と解せられるのと同様である。そうすると、本条例3条3号の規定を目して「平穏な集団行動が必然的にもたらす交通秩序阻害の程度をこえて、ことさらに交通秩序をみだすおそれのある、すなわち交通秩序に具体的な危険を生ぜしめる行為を一切しないこと」という意味内容をもつものとして、制限的に解釈すべきものであり、かつそのように解釈できるとの検察官の主張は、その限りでは一応理解できる。
としながら、
 しかし、それにもかかわらず、同号の「交通秩序を維持すること」という規定の意味内容は依然不明確といわなければならない。すなわち「平穏な集団行動が必然的にもたらす交通秩序阻害の程度をこえて」といつてもその程度がはつきりしないし、「ことさらに交通秩序をみだすおそれのある行為」といつてもいかなる行為がそれに当るか明確でない。結局このような解釈では、まだ集団示威運動等を行なう者の遵守すべき規範内容を明示したこととはならず、例えば本件のように車両10台位が1分ないし4分程度停車を余儀なくされた案件が、果して右3号違反に該当するかどうかを判定するにつき何等明確な規準を示し得ず、集団行動を行なう側としてはまだこの程度なら許された行動と考えているのに、取締側はすでに程度を超えた違法行為としてこれを検挙するというような混乱を生ずる場合のあることが十分考えられるのである。結局右解釈の結果は、集団行動により或る程度交通秩序がみだされ、それが取締側の目からみて、平穏な集団行動が必然的にもたらす交通秩序阻害の程度をこえたものとみられる限り、その行為形態がいかなるものであろうとも、すべて右3号違反として直ちにこれを検挙できるということになり、集団行動を行なう者としては許された行動の限界が判らず、勢い原判決も指摘するように集団行動自体がいしゆくし、集団の示威により自己の意思を表現し、何物かを訴えようとする集団行動の目的が阻害されるという不当な結果を避け得ないものというべきである。
 おもうに、この種の集団行動は憲法の保障する表現の自由に直結するものであるから、それを規制するについては、その犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を要するのである。本条例3条2号には「刃物棍棒その他、人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと」とし、対象となる器具を例示することによつてその内容を明確にしているのであつて、同条3号についても禁止される行為を例示する等の方法によつて明確化するなり、あるいは委任規定をおいて、その都度、具体的な条件を設定するなどして、可罰的な行為内容が適式かつ具体的に補充されることが必要であり、それがない限り、刑罰規定としての明確性に欠けるといわなければならない。
としたうえ、検察官の「本件条例3条3号の遵守事項にはだ行進、ことさらなかけ足行進等の例示はないが、それは同号がその規定の文言において『交通秩序を乱さないこと』という表現を用いずに『交通秩序を維持すること』という表現を用いたからであり、しかも、右のような交通秩序を乱す典型的な行為はあえて例示をまつまでもなく、交通秩序をことさら乱す点で、本来許さるべき集団行動の限界を逸脱するものであることは社会通念上も明らかなところであるから、これら行為の例示がないからといつてその内容が不明確になるものではないのである。さらにあらゆる集団行動に対して適用できる遵守事項を定めるとするならば、どうしてもある程度一般的抽象的な文言を用いなければならず、このことは立法技術上やむを得ないところである。」とする主張に対しては、
 しかし、右主張は、あらゆる集団行動はすべて集団的な暴力に転化するという不信感の表明であり、従つてあらゆる規制をこれに加える必要があり、そのためには一般的抽象的規定でこれを一網打尽にしなければならないとの思考につながるものであり、いちじるしく公共の安寧秩序という方向に傾斜し、表現の自由という基本的人権との均衡を破る虞れのあるものである。おもに表現の自由として憲法21条で保障された集団行動に対する規制は、法と秩序を維持するため必要かつ最小限度の措置に限るべきであり、それには従来の各地における経験等に徴し、右にいう必要かつ最小限度の措置としてこれだけは規制しなければならないという行為類型が判つている筈であるから、たとえばだ行進、ことさらなかけ足行進等として、条文上に例示することが可能であり、又そうすべきものと思料する。そしてそれが前記集団行動に対する規制は最小限度の措置に限るべきである、という要請に副うものである。右の次第で立法技術上の困難に藉口し、「交通秩序を維持すること」というような一般的抽象的な文言で遵守事項を定め、それが単なる訓示規定ならともかく、そのまま犯罪の構成要件になるというが如きは全く不当というべきである。
とし、さらに検察官の「『交通秩序を維持すること』という文言が一般的抽象的な規定であつても、本件において被告人らのだ行進等が集団として一般の交通を阻害したことは明らかであるから、少なくとも本件条例3条3号を本件事案に適用する限りにおいて何ら法文の明確性に欠けるところはない。」との主張に対しては、
原判決が本条例違反の公訴事実につき冒頭で詳細に認定したとおり、被告人は原判示県道宮倉徳島線上で行なわれた集団示威行進に参加し、先頭隊列の直前付近で被告人が自らだ行進をしたり、笛を吹いたり手で合図することによつて、右先頭隊列から数10名の行進者らがだ行進をしたり一時路上に停止したりしたこと、このため折柄、同県道を北進中の乗用自動車、バス等合計約10台の車両が右だ行進等の通過するまで約1分ないし4分間程度の停車を余儀なくされたことがそれぞれ認められる。しかしながら右程度のだ行進等による交通の阻害は道路交通法令による取締のみによつても十分に規制できることが明らかであるうえ、これが本条例の制定目的である公共の安寧保持に対し危険な状態を惹起するおそれがある程の可罰的行為類型であると断定しうるか否かは必らずしも明白でないから本条例3条3号、5条を本件に適用する限りにおいて何ら明確を欠くところはないと言いきれるか疑問というべきである。
と判示し、結局、「原判決が本条例3条3号の規定が刑罰法令の内容となるに足る明白性を欠き、罪刑法定主義の原則に背馳し憲法31条に違反するとして、同条例5条の罰則を被告人の所為に適用できないとした判断に過誤はない。」として本件条例違反の点について無罪を言い渡した一審判決を支持しているのである。
[4] しかしながら、原判決は、以下に詳記するとおり,本件条例3条3号の解釈適用を誤り、ひいて憲法31条の解釈適用を誤つたものであつて、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、刑事訴訟法405条1号、410条1項により、当然破棄さるべきものと思料する。
1 本件条例3条3号は、条文の規定自体、内容が明確である。
[5](一) 原判決は、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定の趣旨について
「道路における危険防止その他、交通の安全と円滑を図るだけであれば道路交通法77条1項4号、3項、徳島県道路交通施行細則11条により徳島県公安委員会は道路における集団行進等につきこれを所轄警察署長の許可にかからしめ、警察署長は必要な条件を付することができると規定されていることにかんがみると、単なる道路における交通秩序の保持のみでなく、これを超えた当該地域における社会公共の安寧保持の目的に出たものであつて、それは同条1、2、4号の遵守事項(1号、官公署の事務の妨害とならないこと。2号、刃物棍棒その他、人の生命及び身体に危害を加えるに使用される様な器具を携帯しないこと。4号、夜間の静穏を害しないこと。)がかかる目的に立つ規定と解せられるのと同様である。」
としており、さらに検察官の本件条例3条3号は本件に適用する限りにおいて明確性を欠くことはないとの主張に対し、
「しかしながら右程度のだ行進等による交通の阻害は道路交通法令による取締のみによつても十分に規制できることが明らかであるうえ、これが本条例の制定目的である公共の安寧保持に対し危険な状態を惹起するおそれがある程の可罰的行為類型であると断定しうるか否かは必ずしも明白でない。」
と判示しているので、両者を伴せ考えれば、原判決が、本件条例3条3号の遵守事項により規制処罰の対象としうる行為の範囲は、道路交通法により規制処罰の対象となる行為の範囲を越えた公共の安寧秩序に対し、危険な状態を惹起するおそれがある行為に限るものと限定解釈していることが明らかである。そして右の解釈を前提として、原判決は、本件条例3条3号の規定を犯罪構成要件として不明確であるとしているものと解される。
[6] しかしながら、右の解釈は道路上の集団行動に対して公安条例にもとづいてする規制と道路交通法77条3項にもとづいてする規制との関係について重大な誤りを犯しており、また、高等裁判所判例にも相反するものであるので、とうてい納得しがたいものであるといわねばならない。
[7] すなわち、本件条例のようないわゆる公安条例が対象とする集団行動、とくに集団示威運動は、昭和35年7月20日最高裁判所大法廷判決(刑集14巻9号1243頁)が示すように「本来平穏に秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包している」ものであつて、それ故にこそ「表現の自由を口実にして集団行動により、平和と秩序を破壊するような行動、またはさような傾向を帯びた行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じうるようにする」ことが法的に必要であるとして、公安条例上の規制の合憲性、合理性が認められているのであり、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的とする道路交通法とその規制目的において相違があるばかりでなく、保護法益においても異なるほか、その結果として、その処罰の対象者についても本件条例においては主催者、指導者、せん動者に限定しているのである。
[8] 原判決は、この規制目的、保護法益の相違に留意することなく道路交通法により規制しうる程度の交通阻害であることを理由として本件条例の適用を否定しているが、右大法廷判決が指摘するように、本件条例は、平和と秩序を破壊するような行動、または、さような傾向を帯びた行動を事前に予知し、あらかじめ適切な措置を講じようとするものであるから、その規制対象は、必ずしも道路交通法のそれより程度の高い交通阻害を必要とするものではない。およそ、集団行動によつて、交通阻害を惹起するような交通秩序の破壊が行なわれ、または行なわれようとしているときは、まさにその集団行動の内包する物理的力が公共安寧の危険を生ぜしめる程度に及んでいるのであつて、これをその時点において規制することが平和と秩序の破壊に至る蓋然性の高いこの種集団行動を効果的に抑止しうるところなのである。この観点から、本件条例は平和と秩序を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動そして交通秩序に相反する行動を犯罪構成要件として設定したのである。したがつて、集団行動により交通阻害の結果が生ずるような場合、道路交通法は、交通の円滑を図る観点からこれを規制するのに対し、本件条例は、右のようにその集団行動の内包する物理的力に着目して、規制すべき可罰的行為類型か否かを決するのであつて、道路交通法による規制があるからといつて直ちに本件条例の規制が不能となるものでなく、また逆に本件条例で規制しうるからといつて、道路交通法の規制を不要とするものではないのである。
[9] 次に、原判決のこの点に関する解釈は左記高等裁判所の判例に相反することも明らかである。
[10](1) 昭和44年3月19日福岡高等裁判所第3刑事部判決(判例時報576号94頁)は、
道路交通法は、公共の安寧秩序を維持するため集団行動を規制することを目的として制定された各地の公安条例とは異質のもので、その目的は同法第1条が示すように道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることにある。
と判示しており、
(2) 昭和45年6月22日東京高等裁判所第5刑事部判決(高裁判例集23巻3号424頁)は、
道交法は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的としているが、本件条例の規制の目的は単なる道路交通秩序の維持にとどまらず、集団行動の実施によつてひき起されることのあるべき不測の事態に伴う混乱を未然に防止するため適宜の処置を講ずることによつて、公共の安寧を保持し、社会の秩序を維持しようとするものであつて、その目的において、道交法76条4項とは別個のものであるばかりでなく、その主体も本件条例は主催者、指導者およびせん動者に限定されているのであるから、牴触無効を論ずる余地はない。
と判示しているほか、昭和45年12月22日東京高等裁判所第4刑事部判決(昭和44年(う)2202号)も右の東京高等裁判所判決と全く同旨の判示をしている。
[11] これらの判決からも明らかなように、道路交通法と公安条例は、同一の行為に対し同時に規制を及ぼすことがあつても、それは、それぞれの異なつた趣旨、目的からなすものであるから相互に牴触するものでないと解されるのである。
[12] 以上述べたところによれば、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定の明確性の判断は、その文言自体に即して行なうべきであることが明らかであつて、原判決のように道路交通法による規制との関係から、本件条例3条3号の規定に限定解釈をほどこしたうえ、その明確性を判断するのは誤りであるといわねばならない。
[13] しかるに、原判決は、前記のように、道路交通法による規制対象以上の危険な行為であることを必要とするという前提のもとに「交通秩序の維持」という言葉からは、そのような行為を明確に認識しえず、「集団行動を行なう側としては、まだこの程度なら許された行動と考えているのに、取締側は、すでに程度を超えた違法行為としてこれを検挙するという混乱の生ずる場合のあることが十分考えられる。」として、客観的にきわめて明確な内容を持つ「交通秩序の維持」という規定を内容不明確とするのである。
[14] 原判決がこのような結論に至つたのは、ひつきよう本件条例のような公安条例と道路交通法とが、その規制の目的と保護法益の相違から同一行為に対しても異なる角度から規制している現実を無視し、交通秩序の維持というきわめて一般的、常識的に明確な内容を持つ規定を独自の解釈で内容を限定したうえ、これを不明確とするものであつて、とうていとることのできない見解である。

[15](二) 原判決は、本件条例3条3号が、犯罪構成要件としての明確性を欠くことの根拠として、「おもうに、この種の集団行動は憲法の保障する表現の自由に直結するものであるから、それを規制するについては、その犯罪構成要件の内容として合理的解釈によつて確定できる程度の明確性を要するのである。」とし、この種の集団行動が表現の自由の保障を受けることを挙げ、検察官の、本件条例3条3号はだ行進等の例示を待つまでもなく明確であるとの主張は、「いちじるしく公共の安寧秩序という方向に傾斜し、表現の自由という基本的人権との均衡を破る虞のあるものである。」としている。
[16] しかし、公共の安寧秩序と表現の自由との均衡調和を図るうえからも、本件条例3条3号が、公共の安寧を保持するための必要最小限度の範囲を逸脱しているものではないと解されるので、この点についてふえんする。すでに述べたところからも明らかなように、道路等における集団行動に対し、本件条例3条各号のごとき各遵守事項が規定されており、あるいは、許可制の公安条例において、通常、だ行進、ことさらなかけ足行進等の禁止の条件が許可に付随して付与されるのは、集団行動が多数人の集合体の潜在的、物理的力に支持されていることから、集団の行動によつて交通阻害を惹起するような交通秩序の破壊もしくはそのおそれのある行為が行なわれた場合には、右潜在的、物理的力が現実化し、地方公共の安寧秩序を保持するうえで通常の警察力をもつてしても対処するに困難な事態にまで発展するおそれが顕在化するものであることから、そのような事態が発生する前にあらかじめ抑止しようとするところにある。この観点から、本件条例が、「交通秩序を維持すること」を集団行動の遵守事項として定めていることには、単なる個人の行為としてならともかく、集団による表現の自由の保障との関係からは、十分合理的な理由があるものというべきである。
[17] もとより集団行動がそれ自体表現の自由の行使として保護されるべき要素を有していることはいうまでもないが、およそ、このような遵守事項をもつて規制処罰しようとしている対象は、表現の自由の行使の一手段としての集団行動そのものではなく、右集団行動に付随して発生し、しかも、右集団行動の実施自体にとつて必要的とはいえない他の法益侵害行為なのである。このことは、昭和48年4月4日東京高等裁判所判決(昭和42年(う)2057、2058号、集未登載)が東京都公安条例3条1項但書によつて条件をつける基準につき、「集団行動を許可しないことは、まさに一定の表現をすること自体を禁止するものであるから、憲法21条の保障との関係上きわめて慎重でなければならず、例外的な場合としてその要件を厳重に定める必要があるのに対し、許可処分につけられる条件は、表現行為そのものはこれを認め、ただその実施の際の行動的側面に対してある程度の制限を加えるのにすぎないから、その条件をつける基準は、不許可の基準とは趣きを異にし、一般的にいえばそれよりゆるやかであつて差支えない」としている趣旨によつても明らかである。
[18] 付言するに、本件条例3条3号のごとき、公安条例にもとづく遵守事項の内容は、地方公共の安寧秩序を保持するうえに、直接の危険を及ぼすことが明白であるものに限られるものではなく、右危険発生の予防のためのものであつても差支えないことはいうまでもない。この点を通常の許可制をとり、許可に際して条件を付する型の公安条例についてみると、許可に際し付しうる条件の内容および範囲は、そもそもそれら許可条件が「集団行動の自由とこれによつて直接侵害の危険にさらされる反対利益との矛盾、衝突を調整する手段として機能し、集団行動がその本来の姿であるべき平穏裡に秩序を維持して行なわれることを担保するために付与されるべきものであるから、公共の危険の発生が明らかに認められる場合は勿論、このような危険発生の虞れのある場合にも、またその予防のためにも必要最小限度の条件を付与することが許されると解すべきである。このように解しても、前記(注、昭和35年7月20日)大法廷判決の趣旨に反するとも考えられないし、むしろ同判決が『表現の自由を口実にして集団行動により平和と秩序を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じ得るようにすることはけだし止むを得ないものと認めなければならない』と述べている趣旨に添うものと考えられる。」(昭和48年1月16日東京高等裁判所判決昭和42年(う)1352号集未登載、なお、昭和46年9月14日東京高等裁判所判決刑事裁判月報3巻9号1145頁参照)のである。したがつて、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」の遵守事項は、前項において述べたように、交通秩序の破壊がひいては公共の安寧秩序に対する危険に発展しうる性質のものであることにかんがみ、公共の安寧秩序を維持するため、それに対する危険発生の予防のための措置として、必要最小限の範囲内で規制を図るものであつて、表現の自由との均衡調和を破るおそれのあるものでないことは明らかである。
[19] なお、公安条例にもとづいて付与された許可条件の解釈については、許可条件に違反したうえ、公共の安寧もしくは住民の安全等に具体的危険を及ぼす事態になつた場合にはじめて、許可条件違反としての犯罪の成立を認める考え方があり、原判決が、前記のように「右程度のだ行進等による交通の阻害は道路交通法令による取締のみによつても十分に規制できることが明らかであるうえ、これが本条例の制定目的である公共の安寧秩序に対し危険な状態を惹起するおそれがある程の可罰的行為類型であると断定しうるか否かは必ずしも明白でない」と述べている趣旨からすれば、原判決も右と同様の考え方に立つものと理解される。しかしながら、公安条例にもとづく許可条件違反の犯罪の構成要件としては、条件違反行為が存することのほか公共の安寧、住民の安全等に対する具体的危険の発生は必要とされておらず、また、そもそも公安条例は、そのような具体的危険が発生する事態に立ち至る前の段階において秩序ある集団行動の実施を確保しようとするものであり、そしてまた、その段階において規制しない限り、集団の物理的エネルギーを的確に沈静させないものであることから、それら許可条件違反の犯罪の成立に、右具体的危険の発生は必要としないと解すべきである。この理は、昭和46年2月26日名古屋高等裁判所判決(高裁刑集24巻1号145頁)、昭和47年5月31日大阪高等裁判所判決(集未登載)および昭和48年2月2日仙台高等裁判所判決(集未登載)により明らかにされているところである。
[20] これらは、本件条例と異なり、形式的には許可制をとつている公安条例に関する許可条件の付与および付与された許可条件の解釈に関する判例であるが、それらの判示の内容は、届出制を採用し、条例において遵守事項をあらかじめ定めている本件条例の規定の解釈にも等しく妥当するものであると思料する。
[21] けだし、本件条例3条3号と許可制公安条例により付与される許可条件の文言には、若干の差異があるとしても、実質的に考察すれば、それらの条例は、いずれもいわゆる公安条例として趣旨、目的を同一にするものであり、また、本件条例3条3号およびそれら許可条件が集団行動の規制のうえで果たすべき役割と機能は、同一のものであるからである。
[22] このように、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」との遵守事項は、公共の安寧秩序を保持するため、それに対する危険発生の予防のための措置として必要最小限度の範囲を越えるものではなく、その規制する範囲は、表現の自由を不当に侵害するものでないことは明らかであり、右遵守事項違反の犯罪の成立要件として、公共の安寧保持に対し具体的に危険な状態を惹起するおそれがあることを必要とするとの立場にたつて、本件遵守事項を不明確とした原判決の見解が誤りであることもまた明らかである。

[23](三) 次に本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という概念が、それ自体内容が明確である点についてさらに詳説する。
[24] およそ一定の行為について異なる法規により別別の趣旨でこれを規制しようとする場合、その行為を表現するについて、社会通念上明確な概念があるときには、右の概念を共通の用語として使用することは単なる立法技術の問題として、その巧拙は別として法律的、論理的には十分許容しうるところであり、本件条例が、その規制対象を表現するに際して、道路交通法令を前提としているとはいえ社会通念上熟成している「交通秩序の維持」という用語を用いても、なんらそれをもつて用語の内容が不明確であるとすることはできないし、さらに、その点を論拠として逆に規制が同一であることの証拠であるということもできないのである。
[25] 以上の観点から本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という規定を検討すると、まず、「交通秩序の維持」という言葉が一般的、抽象的に意味しているところは、社会通念上まことに明確である。そして、この交通秩序を維持すること」という表現に限定文言が付されていないとはいえ、右表現の解釈にあたつては、公安条例の趣旨、目的等ばかりでなく、それが憲法上の表現の自由を制約するおそれのあるものであること等が考慮せられるべきことは当然であり、その結果、右の表現により規制しようとする範囲も微細な交通秩序の違背を除いたものとしておのずから明らかになるのであつて、特に、本件のように多数のものが特段の必要性も認められないのに、車道内でだ行進を行なうがごときは「交通秩序を維持すること」との遵守事項に反していることは、きわめて明らかである。
[26] なお、原判決は、本件条例3条3号が不明確であるとの判断に際し、「従来の各地における経験等に徴し、右にいう必要かつ最小限度の措置としてこれだけは規制しなければならないという行為類型が判つている筈であるから、例えば、だ行進、ことさらなかけ足行進等として、条文上に例示することが可能であり、又そうすべきものと思料する。そしてそれが前記集団行動に対する規制は最小限度の措置に限るべきである、という要請に副うものである。」として、本件条例3条3号にだ行進、ことさらなかけ足行進等の例示を欠くことを、その判断の論拠としている。しかし、そのような例示を欠くことが、はたして、本件条例3条3号の合憲、違憲を左右するほどの重要な要素なのであろうか。
[27] たしかに、だ行進、ことさらなかけ足行進等の例示をすれば、その限度で「交通秩序を維持すること」という構成要件が限定されることは誤りないところであろう。しかしながら、それは、そのような例示によつて、もともと明らかな内容を持つ「交通秩序を維持すること」を限定したにとどまるのであつて、「交通秩序を維持すること」だけではその内容が不明確であつたということではないのである。もし、この「交通秩序を維持すること」の内容が当初から不明確であるとすれば、この種の中心的行為についての例示があつたからといつて、その外延部までがそれによつてにわかに明らかになるものではないのである。結局構成要件の範囲を明確にするのは、「交通秩序を維持すること」という文言の持つ客観的意味なのである。そして、右にみたように一般的、抽象的概念として、社会通念上「交通秩序を維持すること」の内容は明確であり、しかもそれが集団に対して、公共の安寧秩序を保持するためこれに対する危険発生の予防の措置として規定されている以上、ことさらに、この種の例示を行なわなくても、その内容はおのずから明確なのである。
[28] そして、本件条例の「交通秩序を維持すること」による規制の対象は、これを集団示威行進についてみれば平穏な集団行動が必然的にもたらす交通秩序阻害の程度を越えてことさらに交通秩序を乱すおそれのあるだ行進、かけ足行進等の行為をいうのであつて、このことは、他の公安条例の諸規定、条件、その運用の実情からいつても明らかであり、さらには、表現の自由と公共の安寧秩序の維持との較量の面からおのずとその限界が画定されるのであつて、本件条例による現実の規制もこれらの行為を対象としているのである。これらの規制対象は、本件と異なる公安条例あるいは、条例を付しうる公安条例のもとにおけるそれと全く同一であり、現実の運用面においても差異はないのである。したがつて、本件条例における「交通秩序を維持すること」の意味内容は、他の公安条例におけるそれと特に異なるところはないのであるから、内容的にも明確であるといえる。
[29] かりに、原判のいうように、この種の例示がないため、「交通秩序を維持すること」という規定の内容がだ行進、ことさらなかけ足行進に類するような交通秩序を乱すことがきわめて明らかな行為についてはともかく、この程度に至らない、いわば底辺ないし外延部に属する交通秩序違反行為について、構成要件の範囲に属するのか否か不明確な場合があるとしてもそれは、抽象的、一般的な表現をせざるをえない法文の宿命にすぎないのであつて、直ちにそのことからこの規定全体が内容全く不明の構成要件といえないことは明らかである。
[30] 特に本件のようなだ行進の行為については、それら例示の有無にかかわらず、右犯罪構成要件の範囲に含まれることは明らかであつて、その限りにおいて明確性になんら差異を生じないというべきである。
[31] 以上、いずれにしても、原判決が、本件において、本件条例3条3号が、だ行進、ことさらなかけ足行進等の例示を欠くことをもつて、同条同号の不明確性の論拠としていることは納得しがたいものといわねばならない。

2 本件条例3条3号は、法文の明確性に関する最高裁判所および高等裁判所の各判例に徴しても、明確性に欠けるところはない。
[32] 最高裁判所は、構成要件の表現の不明確性による憲法31条違反という上告理由につき判断を求められた事例について、いまだ法文が不明確であるとの理由で法律を違憲無効とした事例は見当らない。いまその裁判例を類型的にあげると次のとおりである。
(一) 条文それ自体において、または文義上明確であるとするもの。
(ア) 軽犯罪法1条31号の「他人の義務に対して悪戯などでこれを妨害した者」は、それ自体において犯罪の構成要件を明らかにしている(昭和29年6月17日第1小法廷決定、刑集8巻6号881頁)。
(イ) 刑法106条の騒擾罪の規定につき、犯罪の構成要件は文義上明確である(昭和35年12月8日第1小法廷判決、刑集14巻13号1818頁)。
(ウ) 公職選挙法148条の2第3項の「編集その他経営上の特殊の地位を利用して」ということは、文理上その意味は明らかであり、かつ冒頭に掲げられている目的との関係において自ら限界があつて、その概念があいまいであるとはいえない(昭和37年3月27日第3小法廷判決、刑集16巻3号312頁)。
(エ) 破壊活動防止法39条および40条はその犯罪構成要件が不明確なものとは認められない(昭和45年7月2日第1小法廷決定、刑集24巻7号412頁)。
(二) 解釈上、あいまいであつたり漠然としてはいないとするもの。
(ア) 地方税法12条1項にいう煽動とは、同条項に掲げた行為を実行させる目的で文書または言動によつて他人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめるような、または既に生じている決意を助長させるような勢のある刺戟を与えることをいうものと解するのを相当とするから、煽動という概念はあいまいであり漠然としているものとは言い難い(昭和37年2月21日大法廷判決、刑集16巻2号107頁)。
(イ) 公職選挙法には選挙運動の定義規定は見当らないけれども、同法を通読すれば、同法における選挙運動とは、特定の選挙の施行が予測せられ或いは確定的になつた場合、特定の人が立候補することが確定し、または予測されるとき、その人に当選を得しめるため投票を得若しくは得しめる目的で直接または間接に必要かつ有利な周旋若しくは誘導その他諸般の行為をなすことをいうものであると理解せられ、このことは、大審院以来判例の趣旨とするところでもあり、不明確であるとはいえない(昭和38年10月22日第3小法廷判決、刑集17巻9号1755頁)。
(三) 当該事案に適用する限りにおいては、明確を欠くところはないとするもの。
(ア) 旧所得税法70条10号の刑罰規定の内容をなす同法63条の規定は、検査を行なおうとした職員の職務上の地位および行為が旧所得税法63条所定の各要件を具備するものであることは明らかであるから、それが本件に適用される場合に、その内容になんら不明確な点は存しない(昭和47年11月22日大法廷判決、裁判所時報606号1頁)。
(イ) 職業安定法63条2号の「公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で」という規定は、売春を業とする接客婦の雇用をあつ旋したという事実を本件に適用する限りでは明確を欠くことはない(昭和36年12月6日第2小法廷決定、裁判集刑事140号375頁)。
(四) 例示の方法で具体化しているばかりでなく他の条号を総合勘案すれば構成要件は明らかであるとするもの。
(ア) 団体等規正令2条7号の暴力主義云云の規定は、「暗殺その他の暴力主義」とあつて、例示の方法で、ある程度具体化し、1条の政令の目的や2条の他の号との関係で概念は明確である(昭和36年12月20日大法廷判決、刑集15巻11号2017頁)。
(イ) あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法12条にいう医療類似行為の概念は、1条に掲げる行為をその例示とみることができないわけではないから明確性を欠くものとは認められない(昭和39年5月7日第1小法廷決定、刑集18巻4号144頁)。
[33] 右のような最高裁判所の法文の明確性に関する見解からすると、本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」という遵守事項は、同条例の立法目的およびその規定の文言自体からしてその概念の内容、限界は明確であつて、同条例5条の罰則の構成要件としても明確性に欠けるところはなく、これを類型的にいうと、前掲(一)の諸判例の範ちゆうに属するものと認められるのである。
[34] また、立法技術上、法令の規定がある程度抽象的になされなければならないことを摘示した判例として次のようなものがある。
[35](一) 前掲の昭和35年7月20日最高裁判所大法廷判決は、東京都公安条例1条が「道路、その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行なおうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行なおうとするときは、公安委員会の許可を受けなければならない。……」と規定している点について、
次に規制の対象となる集団行動が行なわれる場所に関し、原判決は、本条例が集合若しくは集団行進については『道路その他公共の場所』、集団示威運動については『場所の如何を問わず』というふうに、一般的にまたは一般的に近い制限をなしているから、制限が具体性を欠き不明確であると批判する。しかし、いやしくも集団行動を法的に規制する必要があるとするなら、集団行進が行なわれるような場所をある程度包括的にかかげ、またはその行なわれる場所の如何を問わないものとすることは、やむを得ない次第であり、他の条例において見受けられるような、本条例よりも幾分詳細な規準(例えば、『道路公園その他公衆の自由に交通することができる場所』というごとき)を示していないからといつて、これを以て本条例が違憲無効である理由とすることはできない。なお、集団的示威運動が『場所のいかんを問わず』として一般的に制限されているにしても、かような運動が公衆の利用と全く無関係な場所において行なわれることは、運動の性質上想像できないところであり、これを論議することは全く実益がない。
と判示し、
(二) 昭和47年10月5日仙台高等裁判所秋田支部判決(判例時報694号115頁)は、秋田県道路交通等保全に関する条例4条3項の「公安委員会は、第1項に規定する許可をする場合において参加者が秩序を紊し又は暴力行為をなすことによつて生ずべき公衆に対する危害を予防するため必要と認める条件を付することができる。」との規定が不明確であつて憲法31条に違反するとの一審判決に対し、
およそ法文の不明確性を理由にその適用を拒否することは、一面において立法権の侵害となることから、その判断は、当該条項の文言のみを形式的に解釈して決すべきものではなく、条項の性質および立法趣旨、目的や同一法令中の他の条項との関係等をも考慮した全体的解釈によつて決すべきものであることは他言を要しない。原判決は、右4条3項のうち『秩序を紊すことによつて生ずべき公衆に対する危害』という要件について秩序を紊すということが具体的に多種多様な状態がありうるため右規定がいかなる態様・程度の制限事項を付しうるか明らかでないから具体性、明確性に欠けると判示する。しかし、右条項における『秩序を紊す』という文言は或る種の広がりをもち、さまざまな形態のものを包含しうるという意味で広義的ないし抽象的な概念であることは否定しえないけれども、右文言は特殊な法律用語ではなく、日常用語に近いもので、しかも一定の行為態様を指向するものであるから、その予想する行為の内容を形態面から確定することはさして困難ではなく、しかも本条例制定の趣旨、目的や4条1項における不許可基準等との関連において解すれば、右文言の予想する行為内容は、要するに参加者が集団となつて道路等における社会公共の秩序を乱すような言動をとることにほかならず、これと異質の事態を包含するものとは解されないから、多義的な概念ということはできず、また右の条項は、かかる文言の包含する多様な形態のうち、放置すれば公衆に対する危害が予想されるような形態に限定しようとの趣旨に出たもので、公衆に対し危害を及ぼす蓋然性の全くない単なる秩序違反行為をも含める趣旨に出たものでないことは、右条項が『秩序を紊す』行為を『暴力行為』と併列的に規定し、しかもこれらの行為に『よつて生ずべき公衆に対する危害』と規定していることに徴し明白であるから、右文言によつて予想する行為の外延ないし限界は明白であるというべく、右の程度に内容が特定され、これと異る意味に解されるおそれがない以上、これをもつて不明確な概念ということはできないのである。
と判示している。
[36] このように、これらの判決は、立法技術上法令の規定文言がある程度抽象的表現をもつてなされることはやむを得ないこと、また、その抽象的表現を用いた規定文言の内容を客観的に判断することが可能である限り、内容は明確であるということができるから、違憲無効の問題を生じないことを説示しているのである。
[37] こうして、この観点からも本条例の「交通秩序を維持すること」という規定が法文として決して内容不明確とはいえないことが明らかであるといえよう。
1 法令の規定の不明確性を判断する場合の準則について
[38] 原判決は、本件条例3条3号が、犯罪構成要件としての明確性を欠き、罪刑法定主義の原則に背馳し、憲法31条に違反する旨判断したものであるが、およそ憲法判断をすること自体慎重を期し、また、その結果においても軽々に法令を違憲と判断すべきではないことはいうまでもないところであり、原判決は、この点において広く認められている準則に違背していることが明らかである。
[39] これらの準則は、主としてアメリカ法において発展し確立してきたものとされているが、わが国の裁判所においても認められているものが少なくない(横田喜三郎「違憲審査」)。すなわち、違憲審査権の行使にあたつては、憲法問題を判断せずに事件の処理を決定することができるときは、憲法判断を回避すべきであるとされており(回避の原則)、わが国の判例にも右原則にのつとり、他の点について判断して事件を処理し、あるいは原審で違憲の主張判断がない等の理由により、憲法判断を回避したとみられるものが多いのである(たとえば昭和28年1月16日最高裁判所大法廷決定民事判例集7巻1号12頁、昭和29年4月26日最高裁判所大法廷決定民事判例集8巻4号848頁、昭和33年3月12日最高裁判所大法廷判決刑事判例集12巻3号501頁、昭和35年10月19日最高裁判所大法廷判決刑事判例集14巻12号1574頁など)。また、事件の解決のため、憲法問題について決定しなければならない厳格な必要性が認められるときにはじめて憲法問題を判断すべきものである(必要の原則)。さらに、法令の規定は、「可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであり」(いわゆる都教組事件および仙台全司法事件に関する昭和44年4月2日最高裁判所大法廷判決刑事裁判集23巻5号310頁および692頁)、規定の表現のみに拘泥して直ちに違憲と判断すべきではないとされている(合憲的解釈の原則)。(右最高裁判所大法廷判決のうちいわゆる仙台全司法判決は、昭和48年4月25日最高裁判所大法廷判決により変更されているが、同判決は右原則までをも否定するものとは解されない。)さらにまた、法令を違憲無効と判断するのは、それが明白である場合に限るともされている(明白の原則)。これらの準則は、法令が国民の代表者で構成される議会によつて制定されるものであり、また、違憲審査制の認められている趣旨に徴し、民主主義的要請もしくは三権分立の原理にもとづくものであるといいうるのであつて、違憲審査権行使の際、十分考慮すべきものであるといわなければならない。
[40] これらの準則にのつとり、法文の不明確性が憲法問題となつている場合を考えると、その不明確性をとり上げることが当該事件の解決のため、回避できないものであり、どうしても必要であると認められる場合にはじめて、右不明確性を判断の対象となしうるものといわなければならない。すなわち、かりにある法文が不明確である疑いがあつても、当該事件の審判の対象である具体的事実が、その法文の取締り処罰の対象としようとする行為の範囲内に明らかに含まれると認められるならば、右法文は、当該事件に適用する限りにおいて明確性を欠くとはいえない。前記の昭和36年12月6日最高裁判所第2小法廷決定(裁判集刑事140号375頁)および昭和47年11月22日最高裁判所大法廷判決(裁判所時報606号1頁)の各判例は、右と同様の前提に立つて、法文の不明確性に関する憲法判断をする場合の準則を明らかにしたものと認められる。そこで、本件においても、本件被告人の行為が、本件条例3条3号に違反することが明らかであるか否かが、問題とされなければならない。

2 本件における右準則の適用について
[41] 本件集団示威行進の諸状況をみると、原判決の支持する一審判決も認定しているとおり、昭和43年12月10日午後6時ころから徳島市藍場町2丁目藍場浜公園に青年労働者、学生約300名が集まつて集会を行ない、これに徳島大学の学生を中心とする一団が参加し、同日午後6時35分ころ、右集会を終つたうえ、行進の隊形を整え集団示威行進に移つたこと、右集団示威行進ははじめ右公園内の円形噴水を中心としてだ行進をまじえて行なわれ、同日午後6時36分ころ、右公園南東出入口から県道宮倉徳島線の道路上に出て先頭集団からだ行進を始め、同日午後6時38分すぎころ先頭集団が新町橋南詰の付近に到達するまでほぼ連続して幅員約8メートルの同橋西側車道いつぱいにわたつてだ行進が行なわれたこと、同日午後6時38分すぎころにはその速度がきわめてゆるいものに変り右新町橋南詰のあたりで一時停止し、間もなく同日午後6時39分ころ同所で交差する西船場通りを渡りきり、同市新町橋通り1丁目「八百秀食料品店」前横断歩道の直前(北側端)付近から再びだ行進を始め、「宝栄堂小間物店」前までの約35メートルの区間を幅員約8メートルの車道の西端から約3分の2程度の幅でだ行進したこと、その後東新町入口方向へ左折し、同所で警察機動隊の規制がなされるとともに先頭隊列の4人が逮捕されたこと、ここで右集団示威行進は混乱したが、そのまま東新町、籠屋町、銀座通りを経て再び丸新デパート前まで行進を続け、同所で警察機動隊に対する抗議集会をした後解散し、その後は参加者中の学生を中心とした約40名程度の者が右集団示威行進の予定コースをたどつて徳島駅前にいたり解散したこと、被告人は総評オルグであり、徳島県反戦青年委員会の幹事であつたところから右集会および集団示威行進に参加したこと、前示藍場浜公園内で行なわれただ行進において、集団の先頭隊列が噴水の周囲を行進し始めた直後に、被告人は先頭隊列の前方にきて手で合図をしたり自らもジグザグに走つたりし、それによつて右先頭隊列からだ行進が始まつたものであること、右先頭集団が県道宮倉徳島線上に出た直後には被告人は先頭隊列付近の新町橋北詰付近車道上にあつて自ら笛を吹き、これとともに右集団は先頭隊列から順次だ行進を始め、被告人も先頭隊列の直前に位置して自らゆるやかなだ行進を行ない、右先頭集団が新町橋南詰手前にやつてきたところ、被告人が右先頭隊列の直前にあつて笛をやや長く吹き、それとともに右先頭集団からゆるやかな速度の行進に移つたこと、間もなく右先頭集団が新町橋南詰に達し、東西に通ずる西船場通りとの交差点の手前で一時停止した後、被告人が右先頭隊列の直前にあつて両腕を胸付近まであげ、肘より先の部分を同時に前後に振つて合図をし、短く笛を吹き、これによつて集団は右先頭隊列から再びだ行進を始め、被告人自ら先頭隊列直前に位置してゆるやかなだ行進を行なつたこと、このように被告人が自らだ行進をしたり、笛を吹いたり、手で合図をすることによつて、右集団示威行進の先頭集団に属していた数十名の者がだ行進をしたり、一時停止したりしたものであることなどが明らかであり、また、以上の県道宮倉徳島線上におけるだ行進の通過を待つため、北進する乗用車、バス等合計約10台の車両が約1分ないし3、4分程度の間停車しなければならなかつた事実も明らかなところである。右のような交通阻害を伴う被告人らのだ行進およびその指導、せん動の行為は、まずそれがだ行進である点において本件条例3条3号の「交通秩序を維持すること」との遵守事項に違反することが明らかであるといわなければならない。すなわち、だ行進は、道路上における集団行動が集団の気勢を昂揚しその集団として有する潜在的物理的力の現実化により交通を阻害してでも示威の効果を高めようとする場合に、もつとも広く一般的に行なわれる公安条例違反の形態の最たるものであつて、道路上における集団行動に際し、だ行進が禁止されていることは、社会的常識ともいいうるのである。現に、原判決も、「従来の各地における経験等に徴し、右にいう必要最小限度の措置としてこれだけは規制しなければならないという行為類型が判つている筈であるから、例えばだ行進、ことさらなかけ足行進等として、条例上に例示することは可能であり、又そうすべきものと思料する」としており、この種行為が、公安条例の規制対象である交通秩序違反行為の典型的存在であることを認めているのである。このように、だ行進の禁止が本件の前記遵守事項に含まれることは、明らかであるといわなければならない。また、右遵守事項の規制目的から実質的に考察しても、だ行進は、その行為そのものが、集団が内包する潜在的物理的力の顕在化をもたらしその集団自体の持つエネルギーを沸騰させるばかりでなく、それに巻き込まれる一般市民にもそれが拡大して暴力的な行動に発展し、ひいては、法不在の無秩序と混乱とをもたらす危険性を秘めている行為であるから、公安条例をもつて規制する必要性がもつとも強く認められる行為の一類型であり、この点からも、だ行進が、本件の右遵守事項により禁止されていることは明らかであるといわなければならない。次に、本件被告人らの行為は、乗用車、バス等合計約10台の車両が約1分ないし3、4分程度の間停車しなければならなかつた程の交通阻害を現実にもたらしただ行進等であつたという点において、前記「交通秩序を維持すること」との遵守事項に反することが明らかである。すなわち、右のような交通阻害が、交通秩序を乱しており、交通秩序を維持しなかつたものであることは、文義上まことに明白であつて、これに反する判断が不当であることは、何人にも明らかなところと思料されるのである。
[42] ところで、原判決はこの点について、
「一審判決が本件条例違反の公訴事実につき冒頭で詳細に認定しているとおり、被告人は原判示県道宮倉徳島線上で行なわれた集団示威行進に参加し、先頭隊列の直前付近で被告人自らだ行進をしたり、笛を吹いたり手で合図することによつて、右先頭隊列から数10名の行進者らがだ行進をしたり一時路上に停止したりしたこと、このため折柄、同県道を北進中の乗用自動車、バス等合計約10台の車両が右だ行進等の通過するまで約1分ないし4分間程度の停車を余儀なくされたことがそれぞれ認められる。しかしながら右程度のだ行進等による交通の阻害は道路交通法令による取締のみによつても十分に規制できることが明らかであるうえ、これが本条例の制定目的である公共の安寧保持に対し危険な状態を惹起するおそれがある程の可罰的行為類型であると断定しうるか否かは必らずしも明白でないから本条例3条3号、5条を本件に適用する限りにおいて何ら明確を欠くところはないと言いきれるか疑問というべきである。」
と判示し、本件条例3条3号の規定は本件事実に適用するについて明確を欠くものでないとする検察官の主張は疑問であるとする。しかし、原判決の右のような見解は、前記のように道路交通法の規制と公安条例の規制と異なることを看過している誤つた考え方によるものであつて、被告人らの集団がだ行進を行ない、そのため現実に相当な交通阻害の結果が発生している本件事例の場合においては、それが本件条例3条3号が規制しようとしている交通秩序維持に違反することは明らかであるから、本件条例3条3号、5条を適用すべき場合に該当することは当然であるといわなければならない。

[43] 以上のとおり、本件条例3条3号の規定は、いかなる観点からしても、明確性を欠くものではなく、したがつてまた、同5条によつて処罰の対象とされる犯罪構成要件としても、その明確性に欠けるところはないというべきであるから、原判決の右規定は憲法31条に違反し無効である旨の前記判断は、誤りであるといわなければならない。
[44] 以上詳記したとおり、原判決は、本件条例3条3号の解釈適用を誤り、ひいて憲法31条の解釈適用を誤つたものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、刑事訴訟法405条1号、410条1項により、原判決を破棄すべきものと思料し、上告に及んだ次第である。

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