東京都公安条例事件
上告審判決

昭和25年東京都条例第44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反被告事件
最高裁判所 昭和35年(あ)第112号
昭和35年7月20日 大法廷 判決

控訴人 検察官 東京地方検察庁検事正代理 岡崎格

被告人 甲野一郎(仮名) 外3名
弁護人 中田直人 外68名

検察官 村上朝一 井本台吉 吉河光貞 中村哲夫

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官藤田八郎の反対意見
■ 裁判官垂水克己の反対意見

■ 東京地方検察庁検事正代理検事岡崎格の控訴趣意

(被告人の表示省略)

 右の者らに対する昭和25年東京都条例第44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反被告事件につき、昭和34年8月8日東京地方裁判所が言い渡した無罪の判決に対し、検察官から東京高等裁判所に適法な控訴の申立があつたところ、同裁判所において刑訴規則247条、248条に従いこれを当裁判所に移送したので、当裁判所は同249条に則り次のとおり判決する。


 原判決中、被告人らに関する部分を破棄する。
 本件を東京地方裁判所に差し戻す。

[1] そもそも憲法21条の規定する集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由が、侵すことのできない永久の権利すなわち基本的人権に属し、その完全なる保障が民主政治の基本原則の一つであること、とくにこれが民主主義を全体主義から区別する最も重要な一特徴をなすことは、多言を要しない。しかし国民がこの種の自由を濫用することを得ず、つねに公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うことも、他の種類の基本的人権とことなるところはない(憲法12条参照)。この故に日本国憲法の下において、裁判所は、個々の具体的事件に関し、表現の自由を擁護するとともに、その濫用を防止し、これと公共の福祉との調和をはかり、自由と公共の福祉との間に正当な限界を画することを任務としているのである。
[2] 本件において争われている昭和25年東京都条例第44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下「本条例」と称する)が憲法に適合するや否やの問題の解決も、結局、本条例によつて憲法の保障する表現の自由が、憲法の定める濫用の禁止と公共の福祉の保持の要請を越えて不当に制限されているかどうかの判断に帰着するのである。
[3] 本条例の規制の対象となつているものは、道路その他公共の場所における集会若しくは集団行集、および場所のいかんにかかわりない集団示威運動(以下「集団行動」という)である。かような集団行動が全くの自由に放任されるべきものであるか、それとも公共の福祉――本件に関しては公共の安寧の保持――のためにこれについて何等かの法的規制をなし得るかどうかがまず問題となる。
[4] およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事をのぞいては、通常一般大衆に訴えんする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によつて保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によつてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。従つて地方公共団体が、純粋な意味における表現といえる出版等についての事前規制である検閲が憲法21条2項によつて禁止されているにかかわらず、集団行動による表現の自由に関するかぎり、いわゆる「公安条例」を以て、地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に入れ、不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることは、けだし止むを得ない次第である。
[5] しからば如何なる程度の措置が必要かつ最小限度のものとして是認できるであろうか。これについては、公安条例の定める集団行動に関して要求される条件が「許可」を得ることまたは「届出」をすることのいずれであるかというような、概念乃至用語のみによつて判断すべきでない。またこれが判断にあたつては条例の立法技術上のいくらかの欠陥にも拘泥してはならない。我々はそのためにすべからく条例全体の精神を実質的かつ有機的に考察しなければならない。
[6] 今本条例を検討するに、集団行動に関しては、公安員委員会の許可が要求されている(1条)。しかし公安委員会は集団行動の実施が「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」の外はこれを許可しなければならない(3条)。すなわち許可が義務づけられており、不許可の場合が厳格に制限されている。従つて本条例は規定の文面上では許可制を採用しているが、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない。集団行動の条件が許可であれ届出であれ、要はそれによつて表現の自由が不当に制限されることにならなければ差支えないのである。もちろん「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」には、許可が与えられないことになる。しかしこのことは法と秩序の維持について地方公共団体が住民に対し責任を負担することからして止むを得ない次第である。許可または不許可の処分をするについて、かような場合に該当する事情が存するかどうかの認定が公安委員会の裁量に属することは、それが諸般の情況を具体的に検討、考量して判断すべき性質の事項であることから見て当然である。我々は、とくに不許可の処分が不当である場合を想定し、または許否の決定が保留されたまま行動実施予定日が到来した場合の救済手段が定められていないことを理由としてただちに本条例を違憲、無効と認めることはできない。本条例中には、公安委員会が集団行動開始日時の一定時間前までに不許可の意思表示をしない場合に、許可があつたものとして行動することができる旨の規定が存在しない。このことからして原判決は、この場合に行動の実施が禁止され、これを強行すれば主催者等は処罰されるものと解釈し、本条例が集団行動を一般的に禁止するものと推論し、以て本条例を違憲と断定する。しかしかような規定の不存在を理由にして本条例の趣旨が、許可制を以て表現の自由を制限するに存するもののごとく考え、本条例全体を違憲とする原判決の結論は、本末を顛倒するものであり、決して当を得た判断とはいえない。
[7] 次に規制の対象となる集団行動が行われる場所に関し、原判決は、本条例が集会若しくは集団行進については「道路その他公共の場所」、集団示威運動については「場所のいかんを問わず」というふうに、一般的にまたは一般的に近い制限をなしているから、制限が具体性を欠き不明確であると批判する。しかしいやしくも集団行動を法的に規制する必要があるとするなら、集団行動が行われ得るような場所をある程度包括的にかかげ、またはその行われる場所の如何を問わないものとすることは止むを得ない次第であり、他の条例において見受けられるような、本条例よりも幾分詳細な規準(例えば「道路公園その他公衆の自由に交通することができる場所」というごとき)を示していないからといつて、これを以て本条例が違憲、無効である理由とすることはできない。なお集団的示威運動が「場所のいかんを問わず」として一般的に制限されているにしても、かような運動が公衆の利用と全く無関係な場所において行われることは、運動の性質上想像できないところであり、これを論議することは全く実益がない。
[8] 要するに本条例の対象とする集団行動、とくに集団示威運動は、本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包しているものであり、従つてこれに関するある程度の法的規制は必要でないとはいえない。国家、社会は表現の自由を最大限度に尊重しなければならないことももちろんであるが、表現の自由を口実にして集団行動により平和と秩序を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じ得るようにすることはけだし止むを得ないものと認めなければならない。もつとも本条例といえども、その運用の如何によつて憲法21条の保障する表現の自由の保障を侵す危険を絶対に包蔵しないとはいえない。条例の運用にあたる公安委員会が権限を濫用し、公共の安寧の保持を口実にして、平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきこともちろんである。しかし濫用の虞れがあり得るからといつて、本条例を違憲とすることは失当である。
[9] 以上の理由によつて、上告人の主張は結局正当なるに帰し、本条例を違憲、無効とする原判決は破棄を免れない。

[10] よつて刑訴410条1項本文、405条1号、413条本文に従い、主文のとおり判決する。
[11] この判決は、裁判官藤田八郎、同垂水克己の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官藤田八郎の反対意見は次のとおりである。

[1] 憲法21条の規定する表現の自由の完全な保障が民主政治の最も重要な基本原則の一つであること、国家、社会は表現の自由を最大限に尊重しなければならないことは多数意見の説くとおりであり、新憲法の保障する表現の自由は、旧憲法下におけるそれと異なり、立法によつてもみだりに制限されないものであることは、つとに当裁判所の判例の示すところである。そして、本件東京都条例の規制の対象となつている「道路その他公共の場所における集会若しくは集団行進および場所のいかんにかかわりない集団示威運動」はすべて憲法の保障する表現の自由の要素をもつものであることは多数意見のみとめるところである。(ただし、「集会の自由」は、憲法21条が直接明文をもつて保障するところであるのみならず、本件はいわゆる集団行動に関する事案であつて、単なる「集会の自由」は直接関係するところではないから、憲法の「集会の自由」を許可にかからしめる制度の合憲なりや否やの論議は、これを省く。)ただ、憲法上の基本的人権といえども、国民はこれを濫用してはならないのであり、常に公共の福祉のために利用する責任を負うのであるから、新憲法下における表現の自由も公共の福祉によつて調整されなければならないことも、既に当裁判所の判例とするところである。されば、地方公共団体が、「いわゆる公安条例をもつて地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に入れ不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることはけだしやむを得ない」ところであり、本件において争われている東京都条例が憲法に適合するや否やの問題も、本条例の定めている措置が、憲法の保障する表現の自由に対する「必要にしてやむを得ない最小限度」の規制として許されるものであるかどうかに帰着するのである
[2] 最高裁判所大法廷は、さきに、新潟県条例の合憲性に関して15名の裁判官全員一致の意見をもつて、「行列行進又は公衆の集団示威運動は、公共の福祉に反するような不当な目的又は方法によらないかぎり、本来国民の自由とするところであるから、条例においてこれらの行動につき単なる届出制を定めることは格別、そうでなく一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許されないと解するを相当とする」と判示して、この種自由とその規制に関する根本原則をあきらかにした。(昭和26年(あ)第3188号同29年11月24日大法廷判決)この意は、かくのごとき表現の自由に関する行動を行政庁の一般的な許可にかからしめて、行政庁の許可というごとき行政行為があつてはじめて自由が得られるものとし、許可を得ないでした行動は違法であつてこれを処罰するというがごとき制度は、表現の自由の本質と相容れないものであつて、憲法上許されないとの趣旨を宣明したものと理解すべきである。これに反して届出制なるものは、行政庁の行為を前提とするものでなく、表現せんとする者自身に届出なる行為を要求するにとどまるものであるから、表現の自由の本質を害するものではなく、しかも届出に対応して、予め不測の事態の発生を防止すべき諸般の処置を講ずることができるのであるから、この程度の規制は現下の情勢においてやむを得ない措置であるとの意を表わしたものである。(最高裁判所大法廷はさきに、貸金等の取締に関する法律の合憲性に関し、何人でも届出をすれば自由に貸金業を行うことができるのであるから、届出を怠つて貸金業を営んだ者が、これがため同法の罰則の適用を受けるに至るとしても、これをもつて職業選択の自由を不当に圧迫するものとはいえない旨を判示した。昭和26年(あ)第853号、同29年11月24日大法廷判決)
[3] 如上新潟県条例に関する大法廷判例に示された自由とその規制に関する根本原則は、あくまでもこれを堅持しなければならない。けだし憲法の保障する基本的人権の本質的な理解にもとづくものであるからである。これを単に概念乃至用語の問題として一蹴さるべきものではない。これが西独、仏、伊の立法例がこの種行動規整の制度としてひとしく届出制をとり、許可制を採らない所以であり、また、アメリカ連邦最高裁判所が多年数次に亘つて表現の自由に関連する行為について、許可制を採る各州の州法又は市条例をもつて、アメリカ憲法に違反するものと判決した根本理念の因つて来るところでもあろう。多数意見といえども、今日たやすく前示新潟県条例に関する大法廷判決に表明された基本原則に変更を加える意図あるものとは思われない。
[4] しかるに、多数意見は、東京都条例がその第3条において、「公安委員会は集団行動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外はこれを許可しなければならない。すなわち許可が義務づけられており、不許可の場合が厳格に制限されている。従つて本条例は規定の文面上では許可制を採用しているが、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない」という。しかし許可が義務づけられていること、不許可の場合が厳格に制限されているという、ただそれだけでこの許可制が実質的に届出制と異るところがないといえないことは多言を要しないであろう。その自由の本質に関する理念の相違は別としても、行動そのものに対する許可不許可の裁量が公安委員会の権限に委ねられている以上、直にこれを届出制と同視することのできないことは当然である。多数意見はまた「本条例中には公安委員会が集団行動開始日時の一定時間前までに不許可の意思表示をしない場合に許可があつたものとして行動することができる旨の規定が存在しない」点に関しても「かような規定の不存在を理由にして本条例の趣旨が許可制を以て表現の自由を制限するに存するもののごとく考える」ことは「本末顛倒」の論であるとしている。しかし、およそある法規の内容が憲法に違反するか否かを判断するにあたつては、その法規の趣意に対する全般的な考察を必要とすると共に、その法規の内容を為す各条項の意義を、各条項について個々に検討する要あることは勿論であつて、如上の規定の存否は、条例が文面上許可制をとつていてもその実質は届出制とことならないといえるかどうかを判定するについて重要な一要素を為すものと解する。さきに新潟県条例に関する大法廷判決の多数意見が同条例が許可制であるにかかわらず、なおかつ、これを合憲と判断した一つの重要な要素は、同県条例にはこの種の規定が存在しこれらの規定を「有機的な一体として考察」したによるものであることは、同判決における多数意見とその補足意見とを対照して判続すればたやすく理解し得るところである。許可制でありながら、これを届出制と同視し得るとするがためには、少くともこの種の規定の存在は、最小限度に必要と解すべきである。本件東京都条例にはかかる規定は存在しないのである。
[5] さらに本条例において許否決定の基準が、公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められるかどうかとせられていることは、この許否は道路交通取締上の見地からするものでなく、また公共の場所等に関し営造物管理等の必要からするものでもなく(これらに関しては、それぞれ別個に取締法規が制定されている)もつぱら治安保持の必要に出たものであることを表わしているのであり、この治安上、明白現在の危険の有無の判定が、行動の事前、しかも、おそくとも行動開始の24時間以前において、一に公安委員会の裁量に委ねられ、これにもとづいて行動の自由が左右せられるとするところに、制度上、事前抑制のおそれなしとすることはできないのである。多数意見も「本条例といえども、その運用の如何によつては憲法21条の保障する表現の自由の保障を侵す危険を絶対に包蔵しないものとはいえない」という。「しかし濫用の虞れがあり得るからといつて、本条例を違憲とすることは失当である」という。しかし、ある法規が適憲であるかどうかの判断は、その法規自体に濫用を防止するに足る内容の条項が備わつているかどうかにかかるところ大である。そして表現の自由を制限するごとき法規にあつては、規定の内容自体に濫用を防止すべき最大限の考慮が払われていなければならないことは勿論であつて、運用の如何に責を帰せんとするがごときは法規の規範性を無視するものである。本条例が事前許可制をとるかぎりにおいて、如上の基準は決してその濫用を防止するに最大限の考慮を払つたものとはいえず、この基準あるの故をもつて、本件許可制を実質は届出制と異るところないものとすることは到底できないのである。(その他本条例の許可制をもつて、たやすく、届出制と同視し得ないとする点に関する原判決のもろもろの説示は十分に首肯し得るところである。)
[6] 以上の理由により、自分は原判決と共に、本条例の許可制は、表現の自由に対する必要にしてやむを得ない最小限の規制とはみとめ難く、憲法の趣意に沿わないものと断ぜざるを得ない。
[7] なお、多数意見は、検察官と同じく、この種行動が容易に動員されて不測の災害を惹起する危険性のあることを強調する。しかし、取締の必要に急なるのあまり、憲法の保障する自由の本質を見失うようなことがあつてはならない。取締の安易に堕して、憲法上の大義に対する考慮をゆるがせにすることは許されない。アメリカ連邦裁判所のロバーツ判事は、ハーグ対CIO事件の判決(1939年)において「意見表明の特権を官憲が無制約に抑圧することをもつて、意見表明の権利行使に関し生じ得る混乱から社会秩序を維持する官憲の義務に代えることは許されない」といつている。またセイア対ニユーヨーク事件の判決(1947年)において、その多数意見は「……本件のごとき性格の条例の憲法上の効力を審案するにあたつては種々の社会の利益が衡量されなければならない。しかしその過程において、修正第1条による自由権に優位を与えるよう常に留意されなければならない」と。こころすべきである。
[8] これを、治安対策の見地からみても、内容に疑義を包蔵する法規をもつてしては、その実効は期し難い。憲法上疑義のない法規を整備して、事態に対処することこそ今日の急務であると信ずる。


 裁判官垂水克己の反対意見は次のとおりである。

[1](一) 本条例1条のうち集団示威運動のみに関する「場所のいかんを問わず」の文言を削り、かつ、新潟県条例4条のような「申請を受理した公安委員会が当該行列行進、集団示威運動開始日時の24時間前迄に条件を附し又は許可を与えない旨の意思表示をしない時は許可のあつたものとして行動することができる。」旨の規定を設けないかぎり、本条例中集団示威運動を許可制とし、無許可又は許可条件違反の集団示威運動の指導者等を処罰する規定は憲法21条1項に違反すると考える。
[2] 私は、「場所のいかんを問わず」とは「公共の使用に供する」公園等もしくは「一般交通の用に供する」道路の外は精々、これらの場所に隣接する私有地(例えば、駐車場、空地)ぐらいを意味すべきものと考える。また、所定時限までに許可、不許可の処分がないときは申請者と彼の集団は(申請書記載どおりの)集団示威運動をして差支ないとするのが多数意見の趣旨であるか否かは必ずしも明らかでないが、万一この趣旨であるとすれば、それも理解できないことはない。けれども、条例の明文上かような真意が示されていないなら、一般民衆は許可処分を受けないかぎり集団示威運動をあきらめ、一方、若しこの場合集団示威運動が行われたら、警察は不法な無許可示威運動としての取締、検挙等の措置を屡々とることなきを保し難い。
[3] 現に、昭和32年6月1日だけで東京都公安委員会の許可した例をみても、某火災映画愛好会の東電銀座サービスステーシヨンにおける会員親睦座談会、東京厚生教育協会主催の某寺境内における映画試写会、某高等学校第8回卒業3年D組の東京サービスステーシヨンにおけるクラス会、本所保健所主催の某氏方での栄養講習会、某睦会某氏主催の同氏方庭での映画の夕が本件昭和25年東京都条例44号に基いて申請され許可されている。(これは本件被告人己川外1名に対する別件につき昭和34年10月13日東京地方裁判所刑事第4部の言渡した判決(己川無罪)が証拠によつて認めた事実である。)誰がこれを驚かないでいられよう。同時に我々はこれを見のがしてはならない。
[4] 通常人が見たら道が塞がれているように見せかけておいたら、多くの人は通行を差控えるだろう。通行をあきらめた人に後になつて通行できたのだというのは公正でなく、一般人をまどわすものである。計画した示威運動が時機を失してしまつた後で、許可、不許可処分をしなかつたことを訴訟で争つてみたところで、判決では、嘗ての大法廷判決(昭和27年(オ)1150号同28年12月23日判決、集7巻13号1561項)のように「昭和27年5月1日メーデーのために皇居外苑使用不許可処分の取消を求める訴は右期日の経過により判決を求める法律上の利益を喪失する」との理由から請求を棄却されるのが落ちで、救済手段はないのである。だから、本条例中集団示威運動に関する規定は不明確な基準で示威運動の自由を許可によつて抑圧する結果を是認し憲法21条に違反するものと解するのを相当と考える。所定時限内に許可、不許可処分がないため予定の集団示威運動を行つた場合にその指導者が処罰されないのは、私をしていわしめるならば、条例が不備違憲なためである。表現の自由の制限に関するかぎり、多数意見の考える程度にまで合憲になるよう解するのは当を得ない、すべからく自由を制限する右規定を改正して明確にすべきである。
[5] それよりも私が心配することは、多数意見が本条例を合憲と判断するに当り、本条例が厳守する「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」という基準をさえ若しかすると一擲したのではないか、すなわち、多数意見が拡大解釈の自由な抽象的で随分広い基準を新たに持ち込んだのではないか、と疑われないか、という点である。多数意見が判示する「不測、不慮の(思いがけない・予見できないの意味であろう)事態に備え」というのは「直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」というよりは遥かに広い概念であり、また、「法と秩序の維持の必要」、「平和と秩序を破壊するような、またはさような傾向を帯びた行動」という判示も同様のように思われる。多数意見は恐らくこれを新らしい基準とするとは言わないのだろう。が、もしかような基準をもつてすれば集団表現行動の自由は法律、条例をもつてすれば殆んどいくらでも制限でき、これでは多数意見は憲法21条の軌道から離れて「法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とした明治憲法に接近するのではあるまいか。多数意見を私が誤解し心配し過ぎているなら幸である。多数意見の判示するように、国民は憲法の保障する自由と権利を常に公共の福祉のために利用する責任を負うが(憲法12条)、表現の自由の制限は「公共の福祉のために」という抽象的尺度ではいけない、それぞれの範疇の表現、集団表現行動なら集団表現行動に即した合理的な明確な基準によつてなされなければならない。それほど表現の自由は他の自由、権利とは異る憲法上大切な性質のものなのである。
[6] 私は、本条例中集団示威運動に関する規定は憲法21条1項に違反するから第一審判決が被告人甲野、丙川、己川、庚田の判示所為につき本条例を結局違憲として適用せず無罪を言い渡したのは相当であつて、本件上告は理由がない、と考える。
[7] 以上の結論に到達した理由を次に少しく述べたい。
[8] すべての人はその資性能力に応じて精神的または肉体的労働に従事するとともに、十分な精神的・物質的生活の糧をえることができるが、他人の労働の所産を搾取し、働かないで食うことは許されない、人が悲惨窮乏のうちに生涯を終るようなことはなくせねばならぬ。ということは、今日の人類、世界のすべての憲法や「人権に関する世界宣言」の主義とするところである。しかし、個人が侵すべからざる尊いものであることに目醒めた国民が、如何に物質的幸福(いや、ある種の精神的幸福さえも)が十分に与えられても、自由殊に精神的自由ないし政治的自由が奪われた社会は殆んど生きるに値しない位に考えるとしても、むしろ当然であろう。そして一人一人の人間から奪われてならない、侵すことのできない基本的自由のうち表現の自由こそは最も大切なものの一つであるとする精神はわが憲法を一貫している。その精神は何か。一人一人の個人は尊い、誇り高い存在である。国民の各人は何が真理であり、善であるか、美であるかを宗教、信条、道徳、学問、世界・人生観の分野において、また社会、政治、経済、文化、芸術等あらゆる分野において、自由に考え、考えたところを自由に公表することができるとともに、自分の考と異る他人の考を知ることができ、彼と互いに腕力でなく活溌自由な言論や芸術的表現の交換によつて深思反省切瑳琢磨するときは各人は各自の個性を開発成長洗錬させ自己を完成し生き甲斐のある尊い一生を送ることができるのみならず、その総合的成果は次代への遣産となり全人類の進化に貢献することが大きいのである。法律や政府が言論統制をしないで表現の自由競争を認めるなら、逐には真理が勝ち、あるいは百花共に咲き実のるであろう。一億一心は排される。若し、言論、表現の自由競争が抑圧統制されるなら、恰かも一切の運動競技が禁ぜられた世の中で人間の運動競技のレコードの更新進歩が期待できないのと同様に、国民の精神そのものが正統派なりに固定、萎縮沈滞して終うのである。更に国民個人は日常起つた出来事を公表しかつ真の事実を知らされなければならない。国民が多数人の内心の声を聞き、苦言や悲しむべき事実の報道をも聞いてこそ、実情に適い民意に副う明るい政治が可能となるのである。十分な報道のないところでは流言、虚報によつて国民はだまされうる。国民は官報のような制限されたニユースばかりあてがわれるなら、何時の間にかめくら、つんぼになり、また、会議での討論が活溌に行われない仕組になるなら盲従するおし(唖者)になつてしまうであろう。歴史についても国民は真実を知らせ又知らされなければならない。特定のイデオロギーから取捨選択し一部の事実を抹殺したり誇張したりした歴史だけを知らされるような統制はされてはならない。同時に、重要なことは、各人は或る事を表現しない自由、見聞しない自由をも持つということである。だからわが憲法下では、どんな宗教、信条でも、また、現憲法をやめよという無政府主義、共産主義、独裁主義、あるいは男女不平等主義でも公表することは一般に自由なのである。これは自由主義憲法の弱点であるとともに、これこそがその強味なのである。されば、この自由は、政府はもちろん国会や地方議会が如何なるイデオロギーや綱領を持つ場合でも、立法や行政をもつて抑圧されないことが憲法上保障され、抑圧された場合には裁判所の判決によつて違憲無効とされるのである。
[9] 共産主義ないし共産社会主義は、要するに、次のようなものなのであろうか。すなわち、土地、建物、工場、交通通信機関その他一切の重要生産手段はすべて私人から没収して社会有とし、生産は個人の自由でなく計画に従つて万人の労働によつてなされ、各人に対する物質的・精神的生活の糧の分配も計画的に分に応じてなされなければならない、かような社会組識を全世界を一つのものとして実現することが終局的のねらいであり、一国共産主義は否定される、国家は封建制度と同様に人類進歩の歴史の必然からいずれ解消すべき運命にある、とはいえ、今日の資本主義制の国家の下では資本家階級は労働者・無産者階級を搾取しつつあり、彼らの所有する財産が没収されることに(憲法改正の方法によるにせよ)同意する筈はないから、これをすべて没収して社会有、少くとも先ず国有とするためにはこれら被圧迫階級による暴力革命(広範囲の多数人の生命、身体、自由および殆んどの重要財産の奪取破壊を含む)の手段によるしかない、この革命が全世界において成就した暁からこそ階級闘争なく国家なく戦争のない恒久平和の社会が続く、この恒久平和をめざす勢力が人類進歩の運命に道を開く進歩的、平和愛好勢力であり、これに反対する者は反動であり、資本家階級のする戦争は(先に手出しをしたか否かを問わず)すべて侵略戦争である、平和愛好勢力は世界革命の達成、反革命の完全鎮圧までは矛をおさめてはならない、平和愛好勢力は革命前にも資本主義の法律組織や官憲の権威を失墜させ手段を選ばず革命の契機をつくらなければならない、というようなものであろうか。とすれば、かような教はわが憲法の理念と著しく相反するものであるが、この教を主張公表し、傾聴することの自由は憲法上保障されており、十分傾聴してよいことである。それが自由主義憲法における思想に対する寛容性というものである。
[10] けれども、もし、革命後の社会においては、職業の自由、住居移転の自由が抑圧されるのはまだしも、人身の自由や信教、学問、集会、結社、言論、出版その他あらゆる表現の自由、政治的自由が抑圧され、むしろ、会議では自由な発言権なく、国民は真実を知らされず、言論思想の統制が強度に行われうる組織になるなら、かような社会状態は独立自尊の精神に富む目醒めた個人の多数からなる国民がどうしてこれを生き甲斐ある社会と考えることができよう。万人がひとしく窮乏に苦しみあるいは洩れなく豊富な物資を恵まれることは確かに結構なことであるが、表現の自由を奪われ(頂上にある優れた指導者達はよいとして)無数の下部指導者達(人間だから弱点の多いものである)の政治的判断、措置に一般民が服従すべく鉄の規律(これは新らしい鉄鎖になり兼ねない)に縛られるとするなら、人は共産社会主義の彼岸に自由主義世界を渇望したくならないだろうか。いずれにしても、憲法は憲法改正手続によらないで改められ、無視されることを許さない。わが国民は、殊に裁判官はわが自由主義憲法を守らなければならない、イデオロギーの異る国の裁判官がその憲法を守らなければならないように。
[11] これらの点に関し、多数意見が示されないのは当然であるが、ここで私見を述べたのは多数意見との間のくいちがいを想像したからではなく、以下の私見の出発点を示したいためであつた。
[12] 憲法20条が「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない。……国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」同21条2項が「検閲は、これをしてはならない。」とするのは、国やその機関が法律、条例によつて、ないし、官憲が公権力によつて、宗教を支持又は牽制したり、思想の表現を事前に検閲したりしてはならない、が、私人が或る宗教を信じ支持し又は排斥し、私立学校が宗教教育をすることはむしろその自由として保障することを眼目とするのである。(尤も、憲法は年少者等に選挙権を与えない立法を是認する(44条)と同様に、官公立学校で年少者等に何が真、善、美であるかを教育するについては、現行憲法の理想、民主的自由の精神や憲法の条規を否定する自由を是認するものではないと考える。)だから、私人である新聞社、雑誌社、放送局が記事や放送内容を事前に「検査」し取捨選択し欲するものだけを公表することは当然その自由であり、これは「検閲」ではない。要するに、国民、住民の総意の現われである法律、条例をもつてしても、況んや官憲の裁量をもつてして、個人の表現の自由を制限することは極力避けられなければならない。でなければ、結果において、官憲の専断恣意(それは悪意に基くものでないとしても)による自由が抑圧される社会になるであろう、とするのが憲法21条の意味するものである。これは議会も公安委員会も信用するに足りないというよりは、表現の自由は、彼らが過誤を犯さないような仕組で保障されねばならぬほどに大切なものだということである。一体、立憲制度というものが国やその機関ないし官憲の行為を法で規律し義務づけるという形で個人の人権、自由を保護しようとするものであることは、裁判官を法で金縛りにする裁判制度を見ても明らかではなかろうか。憲法は、特に表現の自由に関しては、公権力の濫用がないだけでは満足せず、官憲が事実・法律上の過誤を犯さないことの保障をできるだけ合理的で明確な基準によつて規律すべきことを要求するものと考えねばならない。けだし、個々の国民、住民が自己の意見に叶つた自分らの法律、条例を設け行政機関、官憲も自分らとともにこれに従うこととする民主的な政治的自由の社会は、自分らの意見、思想を表現する自由が抑圧されては成り立たないからである。
[13] 憲法21条の「集会」「言論」「その他一切の表現」は、平隠に行われるのを本質とし、他のエレメントが加わらないものを意味するので、本来、平隠に行われるものだけを指す。これは同16条の「請願」が「平隠に」なされるべきものとするのと同様である。集団行動を論ずるに当つては先ずこの認識の上に立たなければならない。(米憲法修正1条「平隠に集会し……請願する権利」、西独基本法8条「平和的に且つ武器を持たないで集会する権利」、イタリヤ憲法17条「平隠に、且つ武器を持たないで集会する権利」)。侵入、傷害、暴行、汽車電車交通妨害、公務執行妨害、建造物侵害等々を伴う集団行動を本来の示威運動と解する見解に立つて、一部の者はこれを正当な「実力行使」だと主張し、一部の者は逆にこれを全部取締りうると解するかも知れないが、共に誤である。尤も、集会が単に「騒々しい、やかましい」だけで平隠でないとはいえない。(祭礼の騒ぎやスポーツ応援団の騒ぎとくらべれば明らかである。)
[14] また、市場、広場に集まつて売買取引、求職、広告宣伝をするが如きは経済的活動であつて憲法21条にいう「表現」から除外される。経済的自由は表現の自由よりも強く制限されてよい。歓送迎集団や旅行、通学のための勢揃い、運動会、娯楽の集りや消防演習のような業務上の集団行為も、一般に何らの「表現」ではない。これに反し、芸術としての音楽の発表会、演劇、映画の集会は「表現」に属するであろう。
[15] つまり、憲法にいう「集会」とは或る場所で信条、知識、情操、意見、要望、思想を互いに交換し、またこれらを来会の聴衆に表明し訴えんとする多数人の集合である。本条例にいう「集団示威運動」および「集団行進」も集会と同じく本来平隠な集団のする思想の表現ではあるが、その表現はもはや集団のメンバー相互間の交換でなく具体的問題についての集団全員の一致した意見の対外的表明であり、それは政府、国民又はその一部あるいは特定人に対し要望、反対、抗議、賛成しあるいは実情を訴え、もつて政府、各界、世人の心をとらえ集団の念願を実現せんとする意図を持つものである。そして集団示威運動は一定の場所に停止してでもなされるが、集団行進と同様に公園、広場、道路の如き公共用の場所又は一般交通の用に供された場所を行進して行われることが多い。これらの示威運動、行進はプラカード、旗等をかかげたり、声を出したりして、場合により、拡声器を用い行われる。行進は徒歩又は車輛で、時には騎馬、舟行によつて行われる。注意すべきは本来の示威運動はデモンストレーシヨンの意味であつて、その「威」とは刑法234条、96条ノ3、暴力行為等処罰ニ関スル法律1条にいう「威力」の「威」でなく、「威光」「威風」「権威」の「威」であり、示威とは有力なことを示す意味だということである。
[16] さて、集団示威運動、行進が右の如き意図を持つものである以上公園、道路など一般人の耳目などに触れるところで行われるのが多いのは当然であり、そこでは他の反対の意図を持つ集団示威と同時同所で競合し、或は多数第三者の反感を買うことがあることは考えられる。
[17] そして、集団は、体積、重量、エネルギーを持つ生物としての人間の集合(人垣、人海)であり、かつ予定の方針、指導者の指令等に従い組織的、集中的、効果的にその物理的力を正当に又は破壊的に行使することができ、又、多数意見のいう如く「突発的に内外からの刺激、せん動等によつて容易に動員され、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ」あるいは自ら収拾できない混乱に陥り、遂には生命、身体、自由、財産等の破壊を惹起するに至る抽象的おそれが絶対にないとはいえない。もし、集団示威が多数自動車を用いて行われる場合はなお更らである。
[18] かように、集団が一つの主張、要求をかかげて一般公衆の立ち入り通行できる公園、道路を大きい物理的力をもつて占拠、通行する場合には、集団行動の規模、目的、やり方、その他の情況によつては、若しかすると計画的又は偶発的な生命、身体、自由、財産等の破壊(誰の過失とも判らない遭難を含む)が起こるかも知れない、遠い抽象的な虞を生ずること絶無とはいえない。集会もこれに準ずる関係がある。これこそ集団行動が、公園、道路のような公共財産を利用しない新聞、出版、ラジオなどによる「表現」と異り、また、遠足、広告宣伝行列、葬礼の如き「非表現」と異る特性といわねばならない。人、或は尋ねるかも知れぬ、「同じく自分らの車を列ねて道を行くのに、観光のためなら交通法規に服するだけでよく、法律改正要求のためならその外に許可を要するとするのは「表現」なるが故に余計な束縛を受けることになり、話はアベコベではないか。」と。しかし、集団行動はどんな時刻、どんな道で数万人、十数万人でも自由に行われてよいとすることが常識、条理上許されないことは明らかである。ここに、合理的かつ明確な基準の下に、集団行動を届出制ないし許可制によつて軽く制限することの許されるべき理由があるのである。
[19] 要するに、集団行動は本来の姿で平穏に行われるのが普通である。しかし、それは、集団の内部的殊に心理状態や外部的状態如何によつては、それが外部に対する又は外部からの、或は集団内部における暴力的破壊を惹起する蓋然性があるかも知れない。その蓋然性(危険)が明白でかつ差迫つているか否かを法規又は公権力によつて決定し、それが認められる場合には集団行動は事前に制限、禁止され、そのために届出制、許可制を採用してもその基準が合理的かつ明白な以上憲法21条に違反するものでなく、むしろ公共の福祉のために必要なことである。
(1) 一般公共用の場所
[20] 国有財産法にいう「公園又は広場として公共の用に供し、又は供するものと決定した公共用財産」(13条)は大蔵大臣(又はその事務分掌者)の管理に属し、道路法にいう「一般交通の用に供する」「道路」(2条、3条)のうち、国道は建設大臣もしくは知事の、都道府県道は都道府県の、市町村道は市町村の各管理に属する(12条ないし16条)が、以上は、すべて公共の用に供し、又は一般交通の用に供することを目的として開放されているものであるから、普通地方公共団体がその区域内の事情や住民の理想に従い、以上の道路、公園等を一般公衆が使用する権利を条例で規制することは、道路、公園等の公共用目的を没却せず、また管理権者の権限を害しない限り許されてよい。ただ、かような場所での集団行動については規制の方法、限度が憲法21条の問題となるのである。地方自治法では「普通地方公共団体は」「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持する」(地方自治法2条3項1号)「公園、運動場、広場、緑地、道路、橋梁、河川、運河、溜池……を設置、管理又は使用する権利を規制する」事務を処理することができる(同条項2号)が、この場合においても同様である。尤も、ここに公園、運動場、道路等というのは、無制限には一般公衆の利用に開放されていないもの(例えば有料遊園地)をも含むとすれば、そこでの集団行動のための使用権の規制方法にも限界があり、それは次に述べる私有場所の場合と大体同様になるのであろう。
(2) 私有場所
[21] 私人である所有者ないし使用権者の使用する土地、建物(事務所、工場、デパート、私立の学校、病院、体育館等の各構内で屋上、駐車場を含む)のなかで、集団行動をしてよいかどうか。これは所有者、使用者が決定する権利を有するので(構内での従業員の集団行動の制限は労働者の権利を害することはできないが)、たとえ集団行動が公開される場合でも、条例でこれを規制し、許可制にかからしめる如きは私人の使用権を無視するもので越権である。許可又は不許可の処分は使用権者の意思に反することを許されない。かような場所では一般公衆は場所使用の権利もしくは自由を有しないのである。
[22] ここで注意すべきは、一般に、私立の学校、病院、デパートなどはその構内を公共の用に、又は一般交通の用に供しているものではないということである。(これは個々の場合に判断されるべき事実問題、法律問題であるが。)これらの構内はその施設に赴くべき公用、私用のある人に出入りすることを許しており、デパートなら商品を見るだけに来ることにも開放されているが、これらの構内で部外の人達がどんな競技、集会、合唱をやつてくれてもよいという意思は表明していないのである。公共の道路、公園と異り、これら施設の構内を使用権者が何時、何日間閉鎖しても部外一般公衆の権利ないし自由を害しないのである。
[23] 私人の所有する道路で一般交通の用に供されていないものは、単に公衆が事実上通行していても、概ねこの範疇に属すといえよう。
(3) 官公署の構内
[24] 国又は地方公共団体が所有権ないし使用権を持つ国会、裁判所、官公署、国公立学校等の庁舎および構内も、決して公園、道路などと同様に公共の用に、もしくは一般交通の用に供されているものでないのが一般である。これらの構内で無断で集会、貼紙、示威運動をすることは概ね管理使用権の侵害であつて、条例を用いず庁舎管理者の権限でこれを禁止し、貼紙ならはぎ取つて貼紙人に返すなどしてもよく、その集会、示威運動は住居侵入不退去罪となろう。だから、かような場所で集団行動を許可する権限はその管理者にあるが、管理者でない地方公共団体にはない。ただ公安委員会は自己に許可する権限のないことを集団行動申請者に知らせれば足りる。(かような場合に、申請者に許可、不許可の処分をしなかつたら、勝手に集団行動をやつてよろしいということにはならない。)
(4) 公園や道路の特性
[25] 前述の公共の用に供された公園、広場などは、一般人が1人又は数人で自由に出入りし、観光、レクリエーシヨン、会合、社交、談笑、論議などに平穏、快適に時を過ごすことができるために造られている。一般交通の用に供された道路も1人又は数人で自由に通行し右と同様にまた、いろいろの用を足すのにここで時を過ごすことができるために存在する。これらの場所で時を過ごすには定められた用法に従わねばならないと思う。公園の花壇やテニスコートを踏みにじり破壊することはこれによつて楽しむ一般人の利用を害し、また公園を損傷するものであるから、表現の自由は財産よりも大切だからといつて示威運動のためにはこれらを破壊してもよいとはいえまい。
[26] 私達のグループが公園、道路にいることは他の人達の邪魔になるが、それが公園、道路の利用というものである。およそ、かような場所の利用は一過性を原則とすべき筋合であつて、特定の非常に多数の人の集団で公園、道路を広範囲に、長時間、独占使用するが如きは合理的に禁止、制限されてよいことはむしろ明らかであろう。しかし、この道理は集団行動の場合に限つたことでなく、歓送迎のために集会し、遠足旅行、葬式、貨物輸送のために多数のバス、トラツクをつらねて行進する場合にも大部分は(即ち思想の表現であると否とに拘わりなく集団の物理的行動という面では)妥当するといつてよい。が、だからといつて思想表現としての集団行動も交通法規で取締れば足りるとはいえない。この点は後に述べる。
(5) 「場所のいかんを問わず」
[27] 本件東京都条例1条は「場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするとき」は公安委員会の許可を要するとする。たとえ秩父多摩国立公園(東京都部分2万9千余ヘクタール)が条例にいう公園に当るとしたところで、その人跡稀な場所で示威運動をする人はなかろうし、したければ許してよく、罰してはならないに決まつている。会社、商店、住宅の密集するなかの私有ビルの屋上や道路に直面する私有駐車場での示威運動を制限することは、通行の公衆が屋上や駐車場を利用する自由を有しない以上彼らの自由を害する筈なく、前述の如く本来所有者が決定する事柄である。尤も、かような場所での示威運動は喧騒を極め近隣の公務、業務の従事者に妨害を与えたり、その場所から道路にハミ出すようなことがあるかも知れないが、前の場合には、それが、警察官職務執行法5条、6条の場合に当るなら警察官が適正に制止し、また昭和29年東京都条例1号騒音防止に関する条例で処置し、後の場合には無届集団示威運動として処置すれば足りよう。
[28] 川や湖の水面あるいは長い年月の間事実上一般の利用に任せられて来た国公有土地(海水浴場、河川堤防内の安全な広場の如き)は前述の公共の用に供された公園等又は一般交通の用に供する道路ではない他の場所といつてよかろう。本条例によると、かような水面では多数ボートを集めての集会や行列舟行は差支えないが、集団示威運動には許可が要ることになる。
[29] また港湾法にいう港湾の管理者は地方公共団体又はその設立した港務局であり、港務局は「水域施設の使用に関し必要な規制を行う」(12条4の2号)がこれら港湾特有の利用管理方法に関する規制と本件東京都条例1条とは互に抵触せず両立するものと考えられる。
[30] 「場所のいかんを問わず」というのは東京都の管理権の及ばない公私有の建物内や屋外の私有有料野球場内の如きを含むものとは解されない。私は、この文言に関する多数意見には賛成できない。
附言。
[31] わが国で、公園、広場又は道路などがあらゆる人の風物鑑賞、レクリエーシヨン、会合、社交、談笑、政見公表などのために快適に利用されるべきものとされてからまだ百年に満たない。それまでは鎌倉幕府(西紀1194年)以降将軍による封建武断道義的専制政治が支配していたから民衆が広場で意見を公表できたことは極めて稀であり公衆にアツピールすることは無駄で役人に秘かに嘆願するほかなかつた。だから紀元前数世紀から広場が社交や意見の公表に利用されて来た西欧諸国と異り、今日のわが国では釈迦、キリスト、孔孟の教その他の信条にも従わない人々、又、未だ広場を他人の自由や私的秘密(プライヴアシイ)を尊重しつつ自分達のために利用することの快適さの味を知らない人々が極めて多いこと、殊に公徳心の欠け無法無秩序にわたる行動をする人々、あるいは、自分のことを他人に考えてもらい無自覚に上部の指図通りに行動する人々の多いこと(これは敗戦にも影響されていよう)に鑑みれば、いろいろ無秩序の取締を厳にすべしという説は理解できるが、表現の自由の制限は慎重に最小必要限度に止めなければならないという憲法の至上命令は守らなければならない。これがなおざりにされると立法、司法、行政は全体主義に傾く危険が生ずる。
[32] (イ)すでに(五)で述べた「公共の用に供する公園又は広場」(国有財産法13条)、「一般交通の用に供する道路」(道路法2条)あるいは「港湾」(港湾法)の特定の一部で、特定の時間に、特定の方法、態様による集団行動を禁止制限する法律、条例(後者については地方公共団体が条例制定権を有する場所)を立法することはそれが合理的である以上憲法21条に違反しない。(ロ)また、集団行動につき、場所を右の場所の特定の一部に限り、その時間、方法、態様を特定限定した上、届出制、許可制を定め、そして、公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすことが予見されるときは警察がこれを許可せず又は禁止することができる旨の法律、条例を設けても憲法同条に違反するとはいえない、と私は考える。(これが昭和26年(あ)3188号同29年11月24日大法廷判決の基本原則と考えたところではなかつたのか。)
[33] だから、「何人も議会の一院の開会、招集、停会されている日に又は大法官裁判所、王座裁判所がウエストミンスターホールで開廷される日に、教会、国家に関する事項の変更を求めて国王又は一院に対し抗議、宣言その他の要請を考慮もしくは提出することを目的又は口実として同ホールの門から1マイルの範囲内のウエストミンスター市……内の街路又は公開の場所で50人以上の集会を招集し又は50人を越える人が集合することは違法である(略摘)」とする如き(英1817年不穏集会法23条)、あるいは「連邦立法機関についての禁制区域の限界はボン市内のウエーバー通からロイター通の下のガードまでのカイザー通、……とする(略摘)」(西独1955年禁制区域法1条)、あるいは「集会は公道で行うことはできない、夜の11時を超えて延長することはできない。」(仏1881年公共の集会に関する法律6条)とする如きは、合理的明確で殆んど争う余地がない。
[34] 私は、集団行動を午前0時から4時までは安眠のために禁止し、道路は全幅何メートル以下もしくは歩車道の区別のない部分では、幅何メートルの隊列、集団で行進し、車を利用して行い、あるいは一定の堪重能力を欠く指定された橋では一定重量の一定数の集中自動車行列をし、駅、埠頭、飛行場の特定の隣接広場、道路やその他交通、通信施設、発送電施設などの特定の隣接広場道路では、例えば、4時間以上出入交通を阻止するような多数の人、車による特定場所の独占的集団行動、車道全幅に亘る絶え間なき40分以上のスクラム集団行動の如きを法律、条例で禁止することは適憲と考える。
[35] 集団行動のためには、公園、広場、道路を利用し交通する自由権を持つ一般公衆や隣接地の官公署、会社、事務所、商店で従業や娯楽する人々が無制限にこれを甘受しなければならないものではない。集団のメンバーや見物人の誰かが卒倒したり、隣接商店の家族が急病にかかつた場合、救急車、医師が通行できず、消防車も立往生しなければならないものではない。
[36] 右の場所を利用する集団員と一般人との生命、身体、健康、自由又は重要な財産の損壊を防ぐためには以上のような基準を法律、条例が定めてこれを禁止することは適憲である。
[37] 次に、「公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすこと」を警察が認定することは、変動常なき現実直接の自然的(颱風・水害等)、社会的現象や集団や反対集団、第三者民衆の動向、心的状態を捉えなければ至難であるから、法律、条例でこの「明白切迫危険」の内容を更に逐一規定しなくても、違憲ではないと私は考える。これはけだし避けられないであろう。
[38] しかし、具体的にいえば、刑法所定の内乱罪、外患罪、国交ニ関スル罪、公務執行・審判妨害罪、被拘禁者奪取罪、騒擾罪、放火・失火・溢水罪、往来妨害罪、住居侵入罪、礼拝所不敬罪、職権濫用共犯罪、殺傷罪、逮捕監禁罪、脅迫罪、略取誘拐罪、名誉毀損罪(個人の尊厳を傷つける)、強窃盗・恐喝罪、建造物公文書・重大な財産を毀棄損壊する罪や暴力行為等処罰ニ関スル法律違反罪は自由人権の侵害であるから集団行動によつてこれらが行われる明らかな差迫つた危険が認定される場合には警察が集団行動を許可せずこれを禁止する旨の規定を設け、これによつて警察がこれを禁止する処分をしても適憲であるこというまでもない。
[39] 右犯罪のうち過失犯でないものでも、或る種のものは過失によつて不法結果が惹起される場合でも禁止処分をしてよいであろう。また、誰の過失とも判らない多数人の混乱による死傷が起る明白切迫危険の存する場合(弥彦神社事件、二重橋事件、歌謡大会事件等の多数死傷遭難事件の如き)も同様である。わが国民が、公園、広場、道路を安全快適に、きれいに利用することの味を知らないうちに、始終暴力的、破壊的、一方的集団行動にここが使用されるとすれば憲法の理想は失なわれてしまう。
[40] なお、前述の如く、集団行動の場合でもこれらの場所の利用はその用法に従つて行われなければならない。数千、数万人による占拠はひどく芝生を荒らし紙屑を残すかもしれないが、これは行動拒否の理由とならない。ただ、花壇やテニスコート、竹木、垣根が全く破壊されるようなことは用法に従つた使用とはいえないのではないか。それはこれらの場所を設けた国民、住民の意思を同時に踏みにじることにならないだろうか。が、この場合、これが集団行動不許可の理由になるかは、なお問題であろう。起つた結果に対して賠償責任は生ずるとしても。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 入江俊郎  裁判官 池田克  裁判官 垂水克己  裁判官 河村大助  裁判官 下飯坂潤夫  裁判官 奥野健一  裁判官 高橋潔  裁判官 高木常七  裁判官 石坂修一)

[1] 原判決には法令の適用の誤があり、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

[2]、原判決は被告人等に対する昭和25年東京都条例第44号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下本件条例と称する)違反の公訴事実について、右条例が日本国憲法第21条に違反する無効の条例であるとの理由の下に被告人等を無罪とした。しかし乍ら本件条例については既に東京高等裁判所が昭和27年6月10日、同31年7月10日及び同32年7月20日各言い渡した判決において、本件条例の規定する制限は公共の福祉のため必要やむを得ない限度を超えていないものであるとの理由の下に憲法に違反しないとの判断を為しているのであつて、原判決の本件条例を違憲とする判断は右各判例と相反し、法令の適用を誤まつたものである。
[3] 原判決が本件条例を違憲とする理由を要約すれば、集会、集団行進及び集団示威運動は憲法によりその自由を保障せられたものであるから、これらの行動に対する一般的許可制を定めてこれを事前に抑制することは許されない、また公共の福祉のため規制する場合にも「真にやむを得ない場合において、必要最小限度で合理的明確な基準の下で画一的かつ人的無差別の原則」に従いなされねばならないものであるところ、本件条例は、(一)その規制対象が広汎に過ぎ、然も公安委員会が第3条第2項に違反して許可の通知を怠つた場合、不許可処分をした場合及び許否の処分そのものを放置した場合に救済の途がないところよりみて、本件条例の規制はこれらの行動の一般的禁止を前提とした方式のものと解さねばならず、(二)許否基準が漠然とした抽象的のものであるので、憲法に違反するものといわざるを得ないとするのである。
[4] しかしながら右理由は正当でない。

1 本件条例の規制方式が集会等の行動に対する一般的禁止を前提とする方式であるとの点について、
[5] 本件条例は、その第1条において「道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず、集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会の許可を受けなければならない。但し次の各号に該当する場合はこの限りでない。一、学生、生徒その他の遠足、修学旅行、体育、競技 二、通常の冠婚葬祭慣例による行事」と規定しているので、道路その他公共の場所における集会並びに集団行進及び場所のいかんを問わない集団示威運動にして但書該当のものでない限り、公安委員会の許可を受けないで行うことが出来ないことが明らかであり、従つて第1条のみを見るときは、本件条例は、これらの行動に対する一般的禁止を前提とし、特定の場合に右禁止を解除することを規定したものであるとの形式をとつていることを否み難い。しかしながら本件条例は第3条第1項本文において、「公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない」と規定し、その但書においては「但し次の各号に関し必要な条件をつけることが出来る」として第1号乃至第6号に亘る公共の福祉に関する事項を掲記している。即ちこれらの行動に対する許可の申請が為されたときは、公共の安寧の保持上必要やむを得ない場合の外は無条件で許可を与えなければならず、特に必要ある場合において右第1号乃至第6号の事項に関する条件を附して許可を与えることが出来るものであることが明らかである。であるから第1条及び第3条を綜合して考察するときは、所謂「許可」申請は本質において届出であり、「許可」処分は届出に対する確認行為であることが明らかである。従つて第1条の立言方式のみをとらえ、本件条例がこれ等の行動に対する一般的禁止を前提とし特定の場合に禁止を解除する方式の規制を規定したものとすることの誤であることは明白である。なお、原判決のいう本条例第1条の規制の対象が広汎にすぎるとの点については、昭和28年8月21日名古屋高等裁判所金沢支部が
「道路その他公共の場所で行われる集会、集団行進は、公共の場所を相当長時間に亘り多数人の集団によつて占拠壅塞するものであるから、或は公衆をして安全に交通させるため或は消防、衛生その他公共機関の活動を妨げないため、公共の福祉の要請より……一定の制限を遵守せしめる必要があることは言うまでもなく、また、集団示威運動は、前記の集会または行進に、さらに勢威の加わつたものであつて、勢の余るところ、ややもすれば適正な限度を逸脱し、公共の秩序を紊すおそれなしとしないので、その行われる場所のいかんを問わず、前記同様の制限を遵守せしめる必要がある」
とした判旨が実体に即したものというべきであつて、単に条例の規定の形式をとらえて、規制対象が広きに過ぎるものとは為し得ないのである。特に近時東京都において行われる集会等の行動は、その大多数が東京都心及びその附近の地域において行われていること及び右地域においては交通が混雑輻輳をきわめていることを考慮すれば、東京都において行われる集会等の行動につき公共の福祉上これを禁止しまたは条件を附する必要の有無を公安委員会をして検討せしめる機会を得しめることは絶対に必要であつてこの点から見ても第1条の規定する規制対象を以て広きに過ぎるものと為し得ないことは明らかなのである。また、本件条例に許可処分の通知を怠つた等の場合に救済手段がないことは原判示の通りであるが、比の点については東京地方裁判所刑事第9部が昭和33年8月29日所謂巣鴨事件に対する判決において、集会等の行動が一般的に禁止せられていないことを認める立場に立ち、
「本件条例は許可処分をするときの告知義務と時限しか規定していないけれども、公安委員会は右時限までに許否いずれかの裁決をする義務があるものと解すべきであつて、不許可の裁決をした場合は許可の裁決をした場合と同様の時限内に申請者に告知する義務があり、かりに時限内に何等の告知をも行わない場合には黙示の許可処分があつたものと解すべきである」
との趣旨の判示をしている。この判示は一個の法律見解として傾聴に価するのであつて、本件条例に新潟県条例におけるが如き明文の規定がないことを理由に、直ちに救済せられる途がないとした原判決の右判示は必らずしも正当であると為し難い。一般に法が権限規定を置く場合その権限が通常正当に行使されると予想されるときは、義務規定を置かないのが慣例であり、殊に公務員が権限を付与される場合にその法律の中に権限の行使を義務づける規定を置くことは少い。これは公務員がその身分上自己に付与せられた権限を正当に行使すべき一般的義務を負つているからである。従つて、個々の法律に権限行使の時期、方法に関する規定またはその違法不当な行使に対する救済規定がないからといつて、直ちにその法律を不備であるとするのは誤であるといわなければならない。本件条例においても、公安委員会は許可申請が為された場合は、本件所定の時限までにこれに対する裁決を了し且つその結果を申請者に通知すべきことは、公務員としての当然の責務に属することであるから、右裁決乃至通知を懈怠するが如きは、本来、本件条例の予想しない、稀有の事がらであつて、本件条例中にかかる稀有な場合の救済に関する明文が欠如しているということを捉えて、本件条例を不備であると非難するのは失当であり、況んや、かかる不備があるとの理由の下に本件条例がこれらの行動の一般的禁止を前提とした規制方式のものであると断ずるのは失当である。もつとも本件の証拠によれば許可申請に対する裁決事務の執行手続が、事実上公安委員会の下僚によつて行われ、且つ裁決結果が所定の時限内に申請者に通知せられなかつた事実のあることを認め得る如くであるが、かかる事実は裁決事務の執行の現時の状況がたまたま当を得ていないとの結論を出すには役立ち得るとしても、本件条例の規制方式の本質いかんを左右する事実ではないのである。

2 許否の基準が漠然としているとの点について、
[6] 本件条例第3条第1項において定める許否の基準は「集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」と云うのであつて、この基準の趣旨そのものがきわめて正当であり、集会等の行動の許可申請に対しこの基準に当る場合に不許可処分を為すことが公共の福祉のため必要やむを得ない措置であることは云うまでもない。而してすでに昭和29年11月24日最高裁判所大法廷判決において合憲とせられた新潟県条例第4号行列行進集団示威運動に関する条例は、許否基準に関し、第4条第1項において「公安委員会はその行列又は示威運動が公安を害する虞がないと認める場合……許可を与えなければならない」と規定しているに過ぎないのであつて、これに比すれば本件条例の規定する許否基準は遥かに明瞭且つ具体的である。更に本件条例においては前記の如く第3条第1項に但書を設けて公共の福祉のために必要な最少限度の許可の条件を示しているが、これにより不許可の処分をする場合を能う限り少からしめているのである。然るに原判決は道路交通、公園等公共の場所の管理乃至静穏保持の観点から一般公衆の利益との調整を目的とすることを明示した上で、本件条例のような抽象的基準を掲げるのであればその規制も是認されるが、本件条例には右の如き目的を明示して居らず、また「公共の安寧」と云う概念はきわめて伸縮性に富み安易に解釈される危険があるから、結局本件条例の許否基準は具体性を欠き不明確なものと言わねばならないとしているのであるが、本件条例の全趣旨を通覧すれば本件条例は集会等の行動がややもすれば一般公衆の権利と衝突するためその権利を保護する目的を以て制定されたことは、自ら明らかであり、かかる場合の利益の衝突を調整する基準としての「公共の安寧」と言う概念は妥当なものというべきであり、原判決の右非難は失当である。結局此の点においても本件条例の規制方式が公共の福祉のため必要やむを得ない限度を超えたものであると為す原判決の理由を肯認するに足りないのである。なお、原判決は道路交通取締法及び昭和29年東京都条例第1号騒音防止に関する条例の存在をあげて、本件条例による規制を待つまでもなく右2法令により所要の規制を賄い得ると為しているが、騒音防止に関する条例はその性質及び内容に照し本件条例に代わり得るものではなく、道路交通取締法関係法令は、交通の安全を保持する目的をもつて制定されたものであるから、当然その目的の範囲内においてのみ活用されるべきものであり、これに反し、本件条例の規制対象たる集会又は集団行進は時に数千数万に及ぶ多数の人々によつて行われるため、交通に障害危険の生ずる虞があるばかりでなく、群集心理の赴くところ如何なる事態の発生を見るかも知れない危険を包蔵しているのであつて、かかる観点からの規制は、道路交通取締法関係法令の予想するところではない。従つて、原判決が前掲2法令により本件条例による規制を賄い得るとするのは独断といわなければならない。集団行進等の行動が時の権力者に対し少数派がその主張を社会に訴える手段であり、本件条例がこの少数派の表現の自由を弾圧する手段として制定せられたものではないかとする原判決の疑念はいわれなきこと多言を要しないのである。

[7] 以上の如く原判決の掲げるいかなる理由も失当であり、他に本件条例の規制が不当なものであり本件条例が違憲であるとすべき何等の理由もないのであつて、本件条例は冒頭記載の東京高等裁判所判決の判断の通り憲法に違反しないものであるに拘らず、違憲であるとして被告人等を無罪とした原判決は違法であり、破棄せらるべきものである。

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