『悪徳の栄え』事件
上告審判決

猥褻文書販売、同所持被告事件
最高裁判所 昭和39年(あ)第305号
昭和44年10月15日 大法廷 判決

上告申立人 被告人

被告人 石井恭二 外1名
弁護人 大野正男 外3名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官下村三郎の補足意見
■ 裁判官岩田誠の意見
■ 裁判官横田正俊の反対意見
■ 裁判官奥野健一の反対意見
■ 裁判官田中二郎の反対意見
■ 裁判官色川幸太郎の反対意見

■ 弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章の上告趣意


 本件各上告を棄却する。

[1] 論旨は、原判決が、文書の猥褻性と芸術性・思想性とはその属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的に価値の高い作品でも、刑法175条の猥褻罪の適用の対象となる旨判示し、本件「悪徳の栄え(続)」を猥褻の文書にあたるものとしたのが、刑法175条の解釈適用を誤り、憲法21条および23条に違反するというのである。
[2] しかし、右論旨は、左記(一)ないし(五)に記載するところにより、理由がないものといわなければならない。
[3](一) 原判決が、刑法175条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について、当裁判所昭和28年(あ)第1713号同32年3月13日大法廷判決(刑集11巻3号997頁)(いわゆるチヤタレー事件の判決)の見解にしたがうことを明らかにしたうえ、猥褻と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法175条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である旨判示したことは、原判決の記載によつて明らかである。そして、所論の点について、前記大法廷判決は、右同趣旨の理由のほか、なお、
「芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使途の遂行において、羞恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。」
と判示しており、当裁判所も、また、右各見解を支持すべきものと考える。そして、右各見解によれば、芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。
[4](二) 刑法175条は、文書などを猥褻性の面から規制しようとするもので、その芸術的・思想的価値自体を問題にするものではない。けだし、芸術的・思想的価値のある文書は、猥褻性をもつていても、右法条の適用外にあるとの見解に立てば、文書の芸術的・思想的価値を判定する必要があるであろうが、当裁判所がそのような見解に立つものでないことは右(一)において説示したとおりであるからである。原判決が、
「現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。」
と判示したのは、措辞に妥当を欠く点がないではないが、要は、裁判所は、右法条の趣旨とするところにしたがつて、文書の猥褻性の有無を判断する職責をもつが、その芸術的・思想的価値の有無それ自体を判断する職責をもつものではないとしたのであつて、なんら不当なものということはできない。
[5](三) 以上のような考え方によると、芸術的・思想的価値のある文書でも、猥褻の文書として処罰の対象とされることになり、間接的にではあるが芸術や思想の発展が抑制されることになるので、猥褻性の有無の判断にあたつては、慎重な配慮がなされなければならないことはいうまでもないことである。しかし、刑法は、その175条に規定された頒布、販売、公然陳列および販売の目的をもつてする所持の行為を処罰するだけであるから、ある文書について猥褻性が認められたからといつて、ただちに、それが社会から抹殺され、無意味に帰するということはない。
[6](四) 文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味をもつものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならないものである。したがつて、特定の章句の部分を取り出し、全体から切り離して、その部分だけについて猥褻性の有無を判断するのは相当でないが、特定の章句の部分について猥褻性の有無が判断されている場合でも、その判断が文書全体との関連においてなされている以上、これを不当とする理由は存在しない。したがつて、原判決が、文書全体との関連において猥褻性の有無を判断すべきものとしながら、特定の章句の部分について猥褻性を肯定したからといつて、論理の矛盾であるということはできない。
[7](五) 出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものであることは、前記当裁判所昭和32年3月13日大法廷判決の趣旨とするところである。そして、芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められるから、これを目して憲法21条、23条に違反するものということはできない。
[8] 原判決が、本件「悪徳の栄え(続)」のうち原判決摘示の14個所の部分を右訳書の内容全体との関連において考察し、右部分は、性的場面をあまりにも大胆率直に描写していて、情緒性に欠けるところがあり、その表現内容も非現実的・空想的であるうえに、その性的場面が、残忍醜悪な場面と一体をなし、あるいはその前後に接続して描写されているなどの理由で、いわゆる春本などと比較すると、性欲を興奮または刺激させる点において趣を異にするものがあるが、なお、通常人の性欲をいたずらに興奮または刺激させるに足りるものと認め、これらの部分を含む右訳書を刑法175条の猥褻の文書にあたるものとしたのは正当であり、したがつて、原判決に所論憲法の違反があるということはできない。
[9] 論旨は、まず、原判決が、
「本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審(第一審)において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法(刑訴法)第400条但書により更に判決する。」
と判示し、第一審判決が犯罪事実の存在を確定していないのに、なんら事実の取調をすることなく第一審判決の認定判断をくつがえし、無罪の判決を変更して有罪の判決を言い渡したのは、当裁判所昭和26年(あ)第2436号同31年7月18日大法廷判決(刑集10巻7号1147頁)その他同旨の各判例に違反し、かつ、憲法31条、37条に違反すると主張する。
[10] よつて、右論旨を検討すると、所論引用の判例のうち、昭和33年2月11日の第3小法廷判決(刑集12巻2号187頁)を除く、その余の各判例の判旨は、所論のとおりであり、いずれも法律判断の対象となる事実そのものの存否について争いがあり、それさえも認定されていない事案についてのものである。しかるに、本件第一審判決によると、その理由の冒頭に公訴事実を掲げ、次いで、
「当裁判所において取り調べた証拠によれば、右公訴事実のうち、『悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―』と題する単行本(以下単に「本件訳書」という。)が、刑法第175条にいう『猥褻ノ文書』に該当するかどうかの点を除く、その余の事実は、概ねこれを認めることができるのであるが、以下猥褻の文書の意味、要件、判断基準等の諸点につき、本件訳書の猥褻性を判断するに必要な限度で順次当裁判所の見解を明らかにするとともに被告人等の本件所為が、いずれも罪とならない理由を説明する。」
と判示しており、記録を検討すると、第一審が適法に取り調べた証拠により右公訴事実は猥褻性の判断を除きすべて十分にこれを認定することができ、ことに、被告人らは、第一審公判において猥褻性の点を除き公訴事実を認めているのであるから(原審が破棄自判した場合において掲げた証拠の標目参照)、本件は、右各判例がいう「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず、無罪を言い渡した場合」に該当しないものといわなければならない。したがつて、右昭和33年2月11日の第3小法廷判決を除くその余の所論引用の各判例は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている本件には適切ではないといわなければならない。
[11] これに反し、右昭和33年2月11日の第3小法廷判決は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている事案について、第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所がみずからなんら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録および第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、ただちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴法400条但書の許さないところである旨判示しているのであるから、前記原判決の判断は、右判例に相反するものというべきである。しかし、法律判断の対象となる事実そのものの存在について争いがあり、それが認定されていない場合には、その事実の存否について当事者に争う機会を与え、事実の取調をして、判決をすることが直接審理主義、口頭弁論主義の原則に適合するものであることはいうまでもないが、法律判断の対象となる事実が認定されており、裁判所の法律判断だけが残されている場合には、事実について当事者に争わせ、事実の取調をする意義を認めることができないから、このような場合には、改めて事実の取調をするまでもなく、刑訴法400条但書によつて、控訴裁判所がみずから有罪の判決をすることができるものと解するのが相当である。そこで、同法410条2項により、右判例を変更し、原判決を維持することとする。
[12] したがつて、右判例違反の論旨は理由がなく、原判決に訴訟手続上の違反があるものとは認められないから、その違反があることを前提とする右違憲の論旨も、その前提を欠き、理由がないものといわなければならない。
[13] なお、右論旨に関連するその余の論旨は、左記(一)および(二)に記載するとおりであるが、その各項において説示するところにより、いずれも理由がないものといわなければならない。
[14](一) 論旨は、原審が、本件「悪徳の栄え(続)」の猥褻性を判断するにあたり右文書に対する社会一般人の読後感あるいはそれへの影響の有無、程度につき事実の取調をしなかつたのは、前記昭和31年7月18日の大法廷判決等に違反すると主張する。
[15] しかし、現行法の下においては、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官がその文書自体につき社会通念にしたがつて判断するところに任されていて、この判断は法律判断というべきであり、前説示によれば、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合であると認むべく、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるし、もともと、右のとおり、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官が社会通念にしたがい判断するところに任されているのであるから、裁判官が、社会通念がいかなるものであるかを知るために、一般人の読後感等を知ることは好ましいことではあるが、それは、あくまでも参考としての意味をもつに過ぎないものである。したがつて、右判例違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
[16](二) 論旨は、原審が、(イ)文書の猥褻性の判断につき、第一審裁判所よりさらに明確に相対的猥褻の概念を認めながら、猥褻性を認めるについて関連がある社会的事実である文書の出版および販売方法、読者層の範囲やその程度、階層等につき公開の法廷で直接事実の取調をせず、また、(ロ)文書のうち猥褻性ありとされる部分と文書全体との関係について、いわゆる全体説の立場を採りながら、文書の猥褻性の判断の前提となる事実である文書の芸術性・思想性の有無、程度、作者の問題を取り扱う真面目な態度等につき、公開の法廷で直接事実の取調をしなかつたのは、それぞれ、猥褻性の判断について適法な証拠によらず、ないしは適正な手続を経なかつたものであつて、憲法31条および37条に違反すると主張する。
[17] しかし、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、また、前説示のとおり、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合と認めるべきであるから、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるわけである。したがつて、右各憲法違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
[18] 論旨は、原判決が、文書の個々の章句の部分の猥褻性は、文書全体との関連において判断すべきものであるとしながら、本件「悪徳の栄え(続)」について、その芸術性・思想性、作者・訳者の執筆態度、原判決摘示の14個所の部分の位置関係などについて、なんらの判断も示していないこと、および本件「悪徳の栄え(続)」が猥褻性をもつものであるとしたのは、刑法175条の解釈適用を誤つたものであるというのであるが、右後段は、論旨第一点に関連して既に判断したところであり、右前段は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法405条の上告理由にあたらない。

[19] よつて、同法408条により本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
[20] この判決は、裁判官下村三郎の補足意見、裁判官岩田誠の意見および裁判官横田正俊、同奥野健一、同田中二郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官下村三郎の補足意見は、次のとおりである。

[1] わたくしは、田中裁判官がその反対意見で、多数意見の判示と昭和32年3月13日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー事件の判決)のとつた基本的立場との関係について表明しておられる疑問に対し、わたくしなりの意見を述べておきたいと思う。
[2] 田中裁判官は、
「刑法175条にいう猥褻の概念は、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法との関係で、どのように理解されるべきであるかの問題……について、多数意見は、原審が、昭和32年3月13日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー事件の判決)に従つて、猥褻性と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法175条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。……ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、『もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を取消させる場合があることは考えられる』としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チヤタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チヤタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、2つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。」
と主張されるのである。
[3] 原判決が刑法175条の文書の猥褻性と芸術性・思想性との関係について、前記チヤタレー事件の大法廷判決の見解にしたがい、多数意見もこれを支持していることは、田中裁判官の所説のとおりである。
[4] しかし、わたくしは、多数意見は、チヤタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しながら、結論において、チヤタレー事件の大法廷判決にしたがつた原判決を支持しているというような思考の混淆を犯していることはないと考えるし、また、多数意見は、猥褻概念の相対性を認めたものであるといいうるかどうか、にわかに断定できないものと考える。以下にその理由を説明する。ただ、ここで付言しておきたいことは、多数意見および以下の説明において、「猥褻性」という用語は、猥褻な性質を帯有する一般の場合と刑法175条によつて処罰の対象とすることができる程度の猥褻な性質を帯有する場合とを包含して用いられているということで、その区別は、行文上おのずから明らかになつているものと考える。また、多数意見および以下の説明において、芸術的価値があるとか、思想的価値があるとかいうのは、たとえば、東西を通じ文学史あるいは思想史の研究に不可欠の価値がある古典的作品であるとか、それほどでなくても、ある国ある社会で最高の声価を得ている文芸書とかいう場合のように、一定の評価を与えられている場合をいい、単に、芸術性があるとか、思想性があるとかいう場合と異なる用語であるということである。

(一) 多数意見がチヤタレー事件の大法廷判決のとつた基本的立場を一歩踏み出しているとの点について。
[5] チヤタレー事件の第二審判決(昭和27年12月10日東京高等裁判所判決、高等裁判所刑事判例集5巻13号2429頁)の理由のうちには、文学書と猥褻の文書との関係について、
「尤も、文学書の芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめて、猥褻性を解消せしめ、或いは、その哲学又は思想の説得力が性的刺戟を減少又は昇華せしめて猥褻性を解消せしめる場合があり得ることは考えられるのであつて、かかる場合には、多少の性的描写があつても、『猥褻文書』に該当しないこととなるのである。しかし、文学書の芸術性やその哲学又は思想の説得力が未だその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめるに足りない場合もあり得べく、かかる文学書は、未だもつて『猥褻文書』の域を脱しないものというべきである。」(前記判例集2448頁)
との記載があり、起訴の対象となつた「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳本について、
「もとより、本件訳書は、その原作品ロレンスの序文や翻訳者たる被告人伊藤整のあとがき等によつて明らかなとおり、その内容全体から見れば、ロレンスの真摯なる探究心の下に性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく理解せしめる意図をもつて書かれていることを知り得るのであり、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異り全体の10分の1程度に過ぎず、いわゆる春本程の極度の猥褻性がないことは認められるけれども、本件訳書中の性的描写は余りにも露骨詳細であるためこれによる過度の性的刺戟が解消又は昇華されるに至つておらず、その芸術的価値又は原作者の意図の如何にかかわらず、文学において許される前記説明の一定の限界をも越えているものと解することができる。」(前記判例集2451頁)
として、猥褻の文書にあたるものと判断しているのである。
[6] チヤタレー事件の上告審においては、弁護人らは、もとより、「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳本の猥褻の文書と判断した第二審判決の結論が違憲違法であることを上告趣意としたが、第二審判決のうち、右に引用した「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳本の猥褻性を判定するにあたりその芸術性・思想性を考慮した部分については、被告人らに有利な判断であるためか、その部分に不合理ないし違法があるとして上告趣意で取り上げていない。したがつて、チヤタレー事件の大法廷判決でも、具体的にはその部分を肯認する判示はないが、「原判決が本件訳書自体を刑法175条の猥褻文書と判定したことは正当であ」るとして、起訴の対象となつた「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳本を猥褻の文書と判断した第二審判決を支持しているし、進んで、「チヤタレー夫人の恋人」は、全体として芸術的・思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることを認めた上、作品の芸術性と猥褻性との関係について、「高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。」、「芸術的作品は客観的、冷静に記述されている科学書とことなつて、感覚や感情に訴えることが強いから、それが芸術的であることによつて猥褻性が解消しないのみか、かえつてこれにもとずく刺戟や興奮の程度を強めることがないとはいえない。」と判示している(右大法廷判決は、作品の芸術性のみを挙げているが、思想性についてもあわせて説示していると考えてよいであろう。以下同じとする。)したがつて、チヤタレー事件の大法廷判決は、右判示部分の反面の理を説明した第二審判決のうちの前記引用部分の趣旨もこれを是認しているものと解しても、誤りはないものということができるであろう。そして、本判決の多数意見の判示のうち、田中裁判官がその一部を引用されている
「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。」
との部分は、チヤタレー事件の第二審判決のうちの前記引用部分とその趣旨を同じくするから、多数意見の右判示のうち田中裁判官が引用されている前記部分は、同裁判官所説のようにチヤタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しているものということはできないであろう。

(二) 多数意見が思考の混淆を犯しているとの点について。
[7] 多数意見の判示がチヤタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しているものでないことは、右(一)において明らかにしたところである。したがつて、一歩踏み出していることを前提とし、思考の混淆を犯しているとされる田中裁判官の多数意見に対する非難は当たらないものと考えるが、念のため、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分につき、多少の説明を加えておきたいと思う。
[8] 刑法175条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について原判決がその見解にしたがうことを明らかにした前記チヤタレー事件の大法廷判決は、
「本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることは上述のごとくである。本書の芸術性はその全部についてばかりでなく、検察官が指摘した12箇所に及ぶ性的描写の部分についても認められないではない。しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。猥褻なものは真の芸術といえないというならば、また真の芸術は猥褻であり得ないというならば、それは概念の問題に帰着する。……芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではない……。我々は作品の芸術性のみを強調して、これに関する道徳的、法的の観点からの批判を拒否するような芸術至上主義に賛成することができない。」
と判示したが、次元という用語がいささか難解であるため、右引用の判示もいささか難解であるが、この場合、次元とは、ある事物を観察して判断評価を下すについて基礎となる立場と解するのを相当とし、右引用の判示も、要は、芸術的面においてすぐれた作品であつても、その作品が猥褻性をもつものと評価されるならば、その猥褻性に着眼して、猥褻の文書として処罰の対象とすることができるとの趣旨を明らかにしたものと解されるのである。多数意見が、チヤタレー事件の大法廷判決の見解によれば、「芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえないものと解せられる。」と判示したのは、右の趣旨にもとづくものである。
[9] 右のように、猥褻性と芸術性・思想性とは別異の次元に属する概念であると考えられるが、その間なんらの関係がないわけではない。芸術性・思想性をもつ文書のうちに猥褻性が存するとき、その猥褻性は、芸術性・思想性によつて減少・緩和される場合もあるし、却つて増大・亢進する場合もありうるのである。たとえば、猥褻に関する事項の描写についていえば、素描・寓意の手法によれば、多くの場合猥褻性が減少・緩和されるであろうし、密描・写実の手法によれば、多くの場合猥褻性が増大・亢進するであろう。多数意見が、
「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。」
と判示したのは、右説示の理の一部を明らかにしたものである。
[10] 文書の猥褻性と芸術性・思想性は、右のように密接な関係にはあるが、文書の芸術性・思想性ないし芸術的・思想的価値を強調して、これらにもとづいて猥褻の文書であるかどうかを決すべしとするような諸説は、多数意見の採用しないところである。多数意見が、
「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」
と判示したのは、右の説示を明らかにしたものである。
[11] 前記(一)および以上の説示によつて、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分には、田中裁判官が説示されるような思考の混淆を犯しているようなところはないと考える。

(三) 多数意見が猥褻概念の相対性を認めているとの点について。
[12] 右(一)で説示したとおり、本判決の多数意見の判示のうち、前記田中裁判官が引用されている「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」という部分が、チヤタレー事件の大法廷判決の基本的立場を一歩踏み出しているものとは認められず、また、右(二)で説示したとおり、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分に思考の混淆を犯しているようなところがないと認められる以上、右引用部分が猥褻概念の相対性を認める趣旨かどうかについて意見を述べる必要もないように思われるが、わたくしの一応の意見を述べておきたいと思う。
[13] 田中裁判官は、チヤタレー事件の大法廷判決は、猥褻概念の相対性を認めていないことを前提としておられるようであるが、右大法廷判決は猥褻概念の相対性を認めるとも、認めないとも判示していない。また、本件における弁護人らの上告趣意その他をみても、猥褻性を判定するにつき当該文書の内容をどういう事項と相対的に考察すべきかということについては、種々の主張があるようである。さらにまた、これらの所説は、主として猥褻の文書の頒布または販売行為に向けられているように思われるが、本件でも起訴されている販売の目的をもつてする所持の行為に適用される場合も同様であるのかどうかも、明らかにされていない。本判決の多数意見の判示中、弁護人らの上告趣意第二点に対する判断のうちに、「原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、」という部分があるが、これは、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり、弁護人らの主張するような相対的猥褻の概念による立場を採つていないという趣旨を明らかにしたに過ぎないものと考える。
[14] ただ、各種の所説をみて、わたくしの考えるところでは、猥褻概念の相対性を認める、すなわち、猥褻性を相対的に考察するということは、その文言の意義から推して、当該文書につき、その文書外に存する事実あるいは評価との関連においてその文書の猥褻性を考察するものと解するのが相当ではないかと思う。この見地からすれば、少なくとも、前記田中裁判官が引用されている判示部分は、猥褻性を相対的に認めたものということはできないのではないかと思われる。けだし、本件においては、本件訳書が猥褻性を有するとともに芸術性・思想性を有するものであることは、当事者の間に争いがなく、多数意見も、本件訳書が芸術性・思想性を有するものであることを否定するものではない。そして、この3者は、本件訳書のうちに融合一体をなしているものというべく、3者相互にその影響を受けて生成され、存続するのであつて、かように相互に影響を受けてもなお、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させるに至つていないと判断するのである。すなわち、いわば処罰の対象とされた文書自体のなかに存する各要素を統合的に考察する、むしろ統合的に考察せざるをえない状態にあるからである。これをも猥褻概念の相対性を認めたものとするならば、それは猥褻概念の相対性という用語の相違に帰することとなるであろう。したがつて、前記田中裁判官が引用されている判示部分が猥褻概念の相対性を認めた趣旨であるかどうかの断定は、差し控えたいと思う。


 裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。

[1] 私は、結論において多数意見に同調するものであるが、弁護人大野正男ほか3名の上告趣意第一点および第三点について、私かぎりの意見を述べたい。
[2] ある文書が芸術的・思想的若しくは学問的に価値があるものであつても、同時に刑法175条にいう猥褻の文書であり得ることは、多数意見の判示するとおりである。しかし、右のような文書が少しでも猥褻性を有するとき、これを頒布し、販売し、公然陳列することは、その方法の如何を問わず、刑法175条の罪となるとする見解は、芸術的・思想的若しくは学問的に価値ある文書の発表を一律に禁止することになり、表現の自由を侵害することになる虞があるから不当であるとともに、その文書が芸術的・思想的・文学的に高い価値があれば、そのために猥褻性が全く解消される場合は格別、なお同時に猥褻性があつても、常に刑法175条の罪を構成することはないとの見解も不当である。
[3] 芸術・思想・学問等社会的価値あると同時に猥褻性をも有する文書を頒布、販売その他公表する行為が刑法175条の罪を構成するか否かは、この文書の公表により猥褻性のため侵害される法益と、これが公表により、社会が芸術的・思想的・学問的に享ける利益とを比較衡量して、猥褻性のため侵害される法益よりもその文書を公表することにより社会の享ける利益(公益)の方が大きいときは、その社会の利益(公益)のためにその文書を公表することは、刑法35条の正当な行為として猥褻罪を構成しないものと解すべきものと思う。
[4] したがつて、右のような文書が芸術的・思想的・学問的価値の高いものであることが立証されても、それを公表することにより、社会が芸術上・思想上・学問上享ける利益(公益)がその文書の猥褻性のため侵害される法益(社会に与える弊害すなわち不利益)より大きいことが立証されなければ、右文書の公表は猥褻罪を構成するものといわなければならない。そして、右のような文書を公表することが社会の利益であるか否か、また、右文書の公表により生ずる公益と侵害される法益との比較衡量は、その文書の有する価値性並びに猥褻性の度合、その公表の方法その他諸般の事情に基づき、社会通念に従つて判定すべきことである。
[5] これを本件について見るに、本書「悪徳の栄え(続)」が、サドの代表作の訳本であつて、本書を全体として見た場合、思想的・文学的に価値ある作品であることは、検察官においてもこれを争わず、第一審判決もこれを認めているのであるが、本書「悪徳の栄え(続)」はこれを全体として読んだ場合においても、刑法175条にいわゆる猥褻の文書たる性質を有することは、多数意見のいうとおりである。
[6] ところで本書は、普通の文芸書として一般普及を目的として出版・販売され、読者層も特に限定されていなかつたものであり、現実にも本書の読者が社会一般の各層に亘り、その年令も広い世代に及んでいることは、第一審判決および原判決の肯定しているところであつて、本書は何人でも容易に入手できるものである。しかも、原判決摘示の本書の14ケ所の部分は、これを本書全体との関連において見ても、性交・性戯に関する露骨で具体的かつ詳細な性的場面の描写記述であり、一般普通人の性慾を徒らに興奮または刺戟し正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものであつて、これが一般読者に及ぼす弊害は、これを軽視し得ないものがあることに鑑みると、本書の出版販売により社会が享ける利益をもつては到底右弊害を償うに足りないと思料する。それ故、本書を前記のような出版方法により販売した被告人らは刑法175条の罪責を免れることはできない。したがつて、被告人らに右罪責を問うたからといつて、所論憲法に違反するものでないことは多数意見の判示するとおりである。


 裁判官横田正俊の反対意見は、次のとおりである。
[1]、刑法175条が、わいせつの文書を頒布もしくは販売した者、または販売の目的をもつてこれを所持した者を処罰することとしているのは、過度な性的刺戟を伴う文書が、人間の本能に由来する性的欲求に迎合し、性的道義観念に悪影響を及ぼし、正常な性的社会秩序を乱すおそれが多いことにかんがみ、刑罰をもつてその頒布、販売および販売の目的をもつてする所持(以下、頒布行為等という。)を禁止するにあるものと解される。しかし、人間と性欲の関係には深刻かつ微妙なものがあるので、正常な性的社会秩序の維持は、究極的には宗教、道徳その他社会的良識にまつべきものであることに思いを致すならば、性的刺戟を伴う文書(以下、性的文書という。)についても、処罰の対象となる行為は厳にこれを制限することが望ましいものというべきである。また、言論、出版その他一切の表現の自由は憲法21条の保障するところであり、性的文書の頒布行為等といえども右保障の例外ではなく、しかも、この表現の自由は憲法の保障する自由のうちでもきわめて重要な地位を占めるものであることにかんがみれば、性的文書についても、表現の自由を必要以上に制限することがないよう十分な配慮がなされなければならない。そして、以上述べたところは、刑法175条の適用範囲を判定するに当つても、また違反行為の可罰性を論ずるに際しても、考慮されるべきであると考える。

[2]、刑法175条にいうわいせつの文書とは、抽象的には、また他の要件を問題外とすれば、昭和32年3月13日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー判決)にしたがい原判決が判示するように、読者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させる性質をもつ文書をいうと定義してよいであろう。そして、そのわいせつ性の有無は、本件訳書のごとき一般向けの出版物については、正常な一般社会人を基準にこれを判断すべきであるとする原判決の判断も正当である。問題は、本件訳書が、(い)右にいうわいせつの文書に該当するかどうかということ、および(ろ)被告人らの本件行為に可罰性を認めることができるかどうかということである。これらの点について、私は、次のとおりに考える。

(い) 本件訳書のわいせつ性について。
[3] まず、留意しなければならないことは、本件訳書がわいせつの文書に該当するかどうかは、検察官がとくに指摘する14か所の部分だけでなく、作品全体を通じてこれを判定する必要があるということである。すなわち、わいせつの概念は相対的なものであるから、その作品の一部分のみを摘出すればわいせつ性を帯びていると認められる場合においても、作品の他の部分との関連においてそのわいせつ性が減殺され、結果において、読者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させることとならないときは、その作品をわいせつの文書ということはできない。この点について原判決もほぼ同様の見地に立つていると認められるが、それにもかかわらず、原判決は、本件訳書は、検察官指摘のわいせつ性のある部分があるため作品全体としてわいせつの文書たることを免れないものとしている。しかし、私は、次に述べる理由により、本件訳書をわいせつの文書と断定するについて大きな疑義をもつものである。
[4] 本件出版物は、フランス18世紀の作家マルキ・ド・サドの著作である「ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え」の抄訳の後半部であるが、その内容のうち問題となりうる部分を、第一審判決が要領よく判示しているところにしたがつて左に摘録するならば、
(イ) 検察官指摘の14か所は、主人公ジユリエツトを中心に、法王、貴族、警察長官、大盗賊その他さまざまな登場人物の間で次々に繰りひろげられる奇矯な姿態、方法による乱交、鶏姦、獣姦、口淫、同性愛等の性的場面であるが、
(ロ) これら性的行為の最中に、またはその前後に殺人、鞭打、拷問、火あぶり、集団殺戮等の残虐、醜悪な場面の描写が繰り返えされており、さらに
(ハ) 以上の一場面、一場面の間に、原著者マルキ・ド・サドは、ジユリエツトその他の登場人物の口を通じて、自然の法理とか、政治や宗教についての彼一流の思想、哲学を語るのであるが、それは、18世紀のヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値感を打破して、人間性の本質に迫ろうとするものである(これがため、本書は思想小説ともいわれている。)
[5] ところで、作品は全体としてこれをみるべきであるとの前示見解にしたがい、右のごとき内容をもつ本件訳書がわいせつの文書に該当するかどうかを判断するに、本件訳書の内容のうち前示(イ)に摘録した部分(訳書中に占める部分は10分の1程度。)のうちには、それのみを摘出すればわいせつ性を帯びているもののあることは否定しえないが、それとても、その内容は概して空想的、非現実的、異常的であり、その表現方法も幼稚で古くさく、硬く無味乾燥であつて、わいせつ的情緒性に乏しいばかりでなく、右(イ)の部分と同時的に、またはこれに前後して、前示(ロ)に摘録した残忍、醜悪な場面が描写されているため、一般読者にわいせつ感とは異質の強い不快の念を抱かせ、そのために、(イ)の描写により一般読者に与えられるはずのわいせつ感が著しく減殺されていると認められる。性行為に伴う異常さ、醜悪さ、残虐さなどは、それが適度に止まる場合には、通常人を基準にした場合においても、性欲を刺戟し、興奮させる効果を伴うが、本件訳書におけるそれらは、その限度をはかるにこえているものと思われる。そればかりでなく、本件訳書の前示(ハ)に摘録した部分、すなわち、原著者マルキ・ド・サドが登場人物の口を通じて彼一流の思想、哲学などを語る部分が本件訳書中の相当部分を占めていることも、本件訳書をいわゆる春本のたぐいとは著しくその趣を異にするものにしており、本件訳書を全体としてみた場合に、そのわいせつ性を減殺することに大いに役立つていることを見逃すことはできない(むしろ、前示(イ)および(ロ)の部分が(ハ)の部分と不可分的に結び付いていることが、本件訳書の思想性、芸術性を高めていると認められること、後述のとおりである。)
[6] 要するに、前示(ロ)および(ハ)の部分の存在によつて、本件訳書は、これを読む者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させることとはならないものと認められるので、本件訳書を刑法175条にいうわいせつの文書と断定することは困難である。
[7] しからば、本件訳書をわいせつの文書と認め、被告人らを有罪とした原審は、刑法175条の解釈、適用を誤つたものであるから、論旨は理由があり、原判決は刑訴法411条1号により破棄を免れない。

(ろ) 被告人らの行為の可罰性について。
[8] 本件訳書がわいせつ文書に該当しないとすれば、進んで被告人らの行為の可罰性を論ずる要はないこととなるが、わいせつの概念は相対的なものであるから、多数意見のように、本件訳書はわいせつの文書に該当するという見解も必ずしも成り立ちえないではない。しかし、仮りにそのような見解をとつたとしても、私は、本件の場合においては、被告人らの行為の可罰性を否定するのが相当であると考える。その理由は、次のとおりである。
[9](イ) ある作品の一部にわいせつ性を帯びた部分があるが、その作品に思想性、学術性、芸術性などが認められる場合において、そのわいせつ性のある部分を除外しても、その作品の思想性等が損なわれないときは、わいせつ性のある部分を削除することにより、表現の自由が不当に制限されるという問題は起らないものと思われる。しかし、わいせつ性のある部分を除外することによつてその作品の思想性等が損なわれるときは、わいせつ性のある部分を削除することは、その作品自体についてその表現の自由がおのずから制限されることになるものといわなければならない。すなわち、後の場合には、わいせつの文書の頒布行為等を許してはならないとする要請と、思想性等のある文書についての表現の自由の要請をいかに調整すべきかが重大な問題となる。そして、私は、抽象的にいえば、前の要請を後の要請に優先させるのを相当とする場合には、思想性等のある文書といえども、その頒布行為等を禁止すべく、これに反し、後の要請を前の要請に優先させるのを相当とする場合には、わいせつの文書の取締りということを犠牲にしても思想性等のある文書の頒布行為等を許し、その可罰性を否定するのが相当であると考える。そして、具体的事案において、いずれの要請を優先させるべきかは、諸般の事情、とくに左の点を十分にしんしやくしてこれを判定すべきものと考える。
[10](1) わいせつの概念は抽象的かつ相対的なものであるから、性的文書にわいせつ性のあるものとないものとの区別があるように、わいせつ性のある文書にも、わいせつ性の強いものと弱いものとの区別があると思われる。わいせつ性が強いとは、抽象的には、読者の性欲を著しく刺戟し、興奮させる性質を伴うことをいうが、この度合は、本件訳書のごとき一般向けの出版物については正常な一般社会人を基準にしてこれを決定すべきである。そして、わいせつ性の強い部分を含む作品については、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することを已むをえないものと考える。いわゆるチヤタレー裁判の対象となつた作品のごときは、この部類に属するものではないかと思われる。
[11](2) わいせつ性の弱い部分を含む作品については、それが作品のうちで占める重要度が作品のもつ思想性等の重要度より高いときは、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することも已むをえないものと考える。これに反し、作品のもつ思想性等の重要度がわいせつ性のある部分の占める重要度より高いと認められる場合には、表現の自由に対する要請を優先させ、その作品の頒布行為等を許し、その可罰性を否定すべきものと思う。そして、この重要度が高いかどうかは、単に分量的にではなく、作品全体を通じて質的にこれを判定しなければならず、ことに表現の自由の保障は、われわれ個人が価値ありと信ずるところを自由に表現することができ、したがつて他人にそれを知る自由が与えられるところにその意義があるのであつて、その表現される内容が真に価値のあるものであるかどうか、真に優秀なものであるかどうかは必ずしも問うところではないことに留意しなければならない。したがつて、裁判所は作品のもつ思想性等の重要度を判断するに当つても、必ずしもその作品の真の価値や優秀性を判定する要はないのであつて、表現の自由を保障する憲法の趣旨にかんがみ、弱いわいせつ性のある部分とともに、その作品全体を公表することに意義が認められる程度の思想性等が具備しているかどうかを判断すれば足り、また、この程度の判断をすることは必要である。以上のようにして、裁判所は、作品の真の価値や優秀性を判定する必要はなく、また、作品に思想性等が認められたからといつて、その頒布行為等を許容しなければならないものではない。たとえば、いわゆる春本にも思想性等を伴うものがありえようが、そのような思想性等が作品において占める重要度は、通常、わいせつ性のある部分の占める重要度より高いとは考えられないから、その頒布行為等は許されるべきではない。また、わいせつの文書としての取締を免れるためことさらに思想性等のある部分を付加したようなものも同様であり、作品がそのようなものであるかどうかは、著作者の作品に対する態度、発行者の販売方法その他の事情から容易にこれを知ることができるであろう。
[12] 要するに、以上に述べた程度の判断は、裁判所としてこれをしなければならず、また、よくすることができるものと信ずる。この意味において、原判決が、裁判所は文書のわいせつ性を判断する職責を有するが、文書のもつ思想性等を判断する職責はないと判示しているのは、いわゆるチヤタレー判決に倣つたものであるが、右に説示したところにてい触する限度において正当ではなく、憲法21条の表現の自由の要請を過少評価したものというほかはない。
[13](ロ) これを本件につきみるに、本件訳書の原著「ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え」が一般に思想小説といわれ、右著作を初めとするサドの著作が、フランス文学史の空白を埋めるものとして高い評価をえつつあるばかりでなく、その革命思想ないしユートピア思想は、社会思想史的分野でも、また医学心理学的領域でも、さらにシユールリアリズム、実存主義のごとき今世紀に抬頭した芸術運動、思想運動中でも、きわめて重要な意義を認められつつあること、および本件訳書の原著作は、サドの思想を最も完全な形で現わしたものであつて、サドの研究にとつて欠くことのできないものであることは、第一審におけるいわゆる専門家証人の証言に基づき第一審判決が認定判示しているとおりである。そして、本件訳書の右のような思想性、芸術性は、前示(い)の摘録(ハ)の部分によつて明らかにされているのであるが、同摘録(イ)の部分(および(ロ)の部分)は、右(ハ)の部分と不可分的に結びついて作品の思想性、芸術性を高めていると認められるから、(イ)の部分を削除すれば本件作品の前示のような思想性、芸術性はおのずから損なわれることとなるものといわなければならない。しかも、本件訳書の前示摘録(イ)の部分につき仮りにわいせつ性が認められるとしても、さきに(い)において説示したところに照せば、そのわいせつ性は弱いものというほかはなく、本件訳書において右わいせつ性のある部分の占める重要度は、思想性、芸術性のある部分の占める重要度に比し低いものといわなければならない。そうであれば、表現の自由を尊重する立場から、本件訳書は、いわゆる専門家に対してはもちろん、一般社会人に対しても、これに接する機会を与えることが相当であり、したがつて、本件訳書を販売し、または販売の目的でこれを所持した被告人らの行為に可罰性を認めることは相当なこととは思われない。しからば、被告人らの右行為に対し刑法175条を適用して有罪の判決をした原審は、憲法21条の解釈を誤つた結果、刑法175条の適用を誤つたものと認められるから、所論は理由あるに帰し、原判決は破棄を免れない。

[14]、よつて、原判決を破棄し、刑訴法413条但書に則り、被告人らに対し無罪の判決をするのが相当であると思料する。

 裁判官大隅健一郎は、裁判官横田正俊の右反対意見に同調する。


 裁判官奥野健一の反対意見は、次のとおりである。
[1] 刑法175条の猥褻物に関する罰則は、主として所謂春画、春本、ヱロ映画の類を取締の対象として規定されたものと思われる。しかし、芸術的、思想的、文学的の文書、図画等であつても、同時に猥褻性を有するもののあることも否定できないところである。本書「悪徳の栄え」の内容には、各所に性欲を刺戟、興奮せしめる場面の記述があり、読者をして性的道義観を頽廃せしめる虞なしとしないと思われる点のあることは認めざるを得ない。従つて、この点より観れば、本書は猥褻文書に該当する面のあることは否定できないところである。なお、本書には性的場面の描写と一体として、または、その前後に接続して、残忍、醜悪なる場面の描写がなされているが、これがため猥褻性を抹消、消失せしめるものではなく、却つて、性欲の刺戟、興奮を助長せしめる結果となつている。
[2] しかし、本書「悪徳の栄え」は、サド文学の代表的思想小説であるとされており、本書を全体的にみた場合に、思想的、文学的に価値ある作品であることは検察官においても、これを争わず、また、第一審判決も本書の芸術的、思想的意義のあることを認めている。作品が、猥褻的であることと芸術的、思想的、文学的であることとは、必ずしも相排斥する二者択一的なものではなく、芸術的、思想的、文学的作品であり、それ故、それが社会的価値あるものでありながら、同時に猥褻的なものである場合があり得るのである。かかる場合に、その作品の猥褻性の面のみに着目して、その出版、販売を禁止し、その違反行為を処罰することは、その作品の持つ芸術的、思想的、文学的の価値について、一般人のこれを享受する権利を奪うことになり、延いては、著作者の表現の自由を侵害することになる。従つて、外国の立法例、判決例において、芸術、思想、科学等社会的価値ある作品は猥褻罪として処罰しない、とする例が多く見られる所以である。
[3] わが刑法230条ノ2は、人の名誉を毀損する言動であつても、それが公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的でなされた場合に、事実の真実であることが証明されたときは、名誉毀損罪として、これを処罰しない、と規定している。かかる法理は、表現に関する犯罪と、その表現の持つ社会的価値ないし公益性との関係について、一般に妥当する超法規的違法阻却の事由であると考えられる。すなわち、ある作品が猥褻性を帯びるものであつても、同時に、それが芸術的、思想的、文学的に価値があり、公共の利益に合致するものであることが、証明されたならば、最早猥褻罪として処罰すべきものではないと考えるのである。
[4] 尤も、苟も、少しでも芸術的、思想的、文学的の価値ある作品であれば、常に猥褻罪としての処罰を免れ得るものと解すべきものではなく、その作品の猥褻性によつて侵害される法益と、芸術的、思想的、文学的作品として持つ公益性とを比較衡量して、なおかつ、後者を犠牲にしても、前者の要請を優先せしめるべき合理的理由があるときにおいて、始めて猥褻罪として処罰さるべきものであると解する。
[5] 然るに、原判決が「裁判所の権能と職務は文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的、思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。結局裁判所においては、芸術的、思想性の評価が猥褻性に関する法的評価に優先するとすることができないことは当然といわなければならない。」として、本書の芸術的、思想的、文学的価値について全然目を蔽い、その公益性について、何ら考慮、判断することなく、専ら猥褻性にのみ着目し、その芸術的、思想的、文学的価値の公益性のために、猥褻罪としての処罰を免れ得る可能性の有無について、何ら審理、判断を遂げなかつたことは、刑法175条の解釈を誤つた違法があるか、審理不尽の違法があるものというべきであつて、原判決は、他の論点の判断をまつまでもなく、刑訴法411条1号、413条により、破棄、差戻を免れない。


 裁判官田中二郎の反対意見は、次のとおりである。

[1] 弁護人大野正男ほか3名の上告趣意第一点および第三点について判示する多数意見に対して、私は、種々の疑問を感じるのであるが、中でも、憲法の保障する言論出版その他の表現の自由や学問の自由およびこれらの自由の制限に関する基本的な考え方、したがつてまた、刑法175条の定める猥褻の概念の捉え方に対しては、にわかに賛成しがたい。以下、その理由について述べることとする。

[2]、多数意見も、「出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものである」ことを承認している。しかし、多数意見は、それは、「絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものである」とし、この見地に立つて、「芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められる」ことを理由として、これらの自由に対する制限禁止やこれに対する違反の処罰が、憲法21条、23条に違反するものということはできない旨判示している。
[3] 右の論理は、一見、もつともと思わせるものがあるが、この考え方の根底には、言論出版その他の表現の自由や学問の自由も、「公共の福祉」の見地からみて必要がある場合には、これを制限することができることは当然であるという、従来、最高裁判所がとつてきた伝統的な考え方が流れているように思われる。この点に、私は、まず第一の疑問を抱かざるを得ない。
[4] 私も、もとより、言論出版その他の表現の自由や学問の自由が絶対無制限のものと考えているわけではなく、したがつて、刑法175条が違憲無効であるとまで考えているわけでもない。しかし、言論出版その他の表現の自由や学問の自由を保障する憲法の規定(21条・23条)のもつ意味の評価の点において、したがつて、これらの自由に対する制約の限界に関する考え方の点において、多数意見とは見解を異にする。すなわち、憲法21条の保障する言論出版その他一切の表現の自由や、憲法23条の保障する学問の自由は、憲法の保障する他の多くの基本的人権とは異なり、まさしく民主主義の基礎をなし、これを成り立たしめている、きわめて重要なものであつて、単に形式的に言葉のうえだけでなく、実質的に保障されるべきものであり、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、立法政策的な配慮によつて、自由にこれを制限するがごときことは許されないものであるという意味において、絶対的な自由とも称し得べきものであり、公共の福祉の要請に基づき法律によつて制限されることの予想されている職業選択の自由や居住移転の自由などとは、その性質を異にするものと考えるのである。表現の自由や学問の自由の保障は、これを裏がえしていえば、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由の保障を意味するのであつて、国会の多数の意見や政府の見解によつて、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、言論の表現の自由がたやすく制限され得たり、学問の自由に制限が加えられ得たり、ひいては、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由が抑制されたりしたのでは、民主主義の基本的原理が根底からゆすぶられ、社会文化の発展や真理の探究が不当に抑圧されることになるおそれを免れ得ないからである。
[5] 右のようにいつたからといつて、私も、決して、これらの自由が絶対無制限のものであることを主張するのではない。これらの自由にも、必然的にこれらに伴うべき内在的な制約が存することは、これを否定することができない。何がこの意味でのこれらの自由の内在的制約であるかについては、後に述べるが、この意味での内在的制約のみがこれらの自由に対する制約として承認され得る限界とみるべきであつて、この限界を超えて、「公共の福祉」の要請に基づくというような名目のもとに、立法政策的ないし行政政策的見地から、外来的な制限を課することを目的とする法律の規定やその執行としての処分のごときは、憲法の保障するこれらの自由に対する侵害として許されないところというべきである。
[6] ところで、右にいう内在的制約とは何か、どういう制約が内在的制約として承認され得るか等の問題は、頗るむずかしい問題であり、一般的・抽象的な基準を立ててこれに答えることは困難であるが、それは、これらの自由を保障している憲法の趣旨から汲みとられるほかはない。これらの自由は、元来、これを主張する者が相互に他の自由を尊重し合い、自由の共存を認め合うことを前提とし、それが濫用にわたることなく、社会の通念を基準として、社会一般の正義道徳の観念に違反し、ひいてはこれに現実の危険を及ぼすようなことのない規律を伴う自由としてのみ保障されたものと解すべきであろう。したがつて、これらの自由を各人に保障するために必然的に伴う規律は、その内在的な制約として、これを尊重しなければならず、これに違反するのは、自由の濫用にほかならないのである。しかし、この意味での制約は、政策的見地から外来的に定められ得べきものではなく、まさに自由に内在する制約である限りにおいて、自由の制約として承認されるのである。そして、具体的に、これらの自由の内在的制約として承認されるべきものであるかどうかは、最終的には、具体的事案に即して、裁判所によつて判断されなければならない。
[7] 言論表現の自由にしろ、学問の自由にしろ、右に述べたような意味における内在的制約に服すべきものであることは、これを認めなければならないのであつて、他人の名誉を毀損する行為とか猥褻文書を販売・頒布する行為とかを処罰の対象としているのも、右の意味での内在的な制約に反する行為を対象としている趣旨と解すべきであり、また、そう解し得る限りにおいて、その合憲性が承認されるべきものと考える。
[8] 刑法175条の定める猥褻罪の処罰規定も、右の言論表現の自由や学問の自由に内在する制約を具体化したものと解し得る限りにおいてのみ、違憲無効であるとの非難を免れ得るのであつて、若し、その規定が、「性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致する」という理由のもとに、外来的な政策的目的実現の手段としての意味をも、あわせもたしめられるべきものとすれば、それは、もはや、自由に内在する制約の範囲を逸脱するおそれがあり、したがつて、右規定も違憲の疑いを生ずるものといわなければならない。
[9] しかし、法律の規定は、元来、可能な限り、憲法の精神に即し、これと調和し得るように合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、刑法175条の猥褻罪に関する規定は、憲法の保障する表現の自由や学問の自由に内在する制約の一つの具体的表現にすぎないものとして、憲法の諸規定と調和し得るように解釈されなければならない。そうとすれば、刑法175条にいう猥褻の概念も、おのずから厳格に限定的に解釈されるべきものであり、その規定の具体的適用にあたつても、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法の精神に背馳することのないように配慮されなければならないのである。

[10]、そこで、次に刑法175条にいう猥褻の概念は、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法との関係で、どのように理解されるべきであるかの問題に移ることとする。
[11] この点について、多数意見は、原審が、昭和32年3月13日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー事件の判決)に従つて、猥褻性の芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法175条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。
[12] いわゆるチヤタレー判決およびこの判決の趣旨に従つた本件原判決は、猥褻性の概念は、その文書の芸術性・思想性とは次元を異にするもので、法的な面においては独自に判断され得べきものとしており、多数意見も、基本的には、この見解を支持していることは前叙のとおりである。ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チヤタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チヤタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、2つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。
[13] それでは、猥褻の概念は、どのように理解されてきたか、また、理解されるべきであろうか。
[14] 最高裁判所は、従来、猥褻というのは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、これを具体的事件にあてはめ、右の3要素を有する文書は猥褻文書であると判断してきた。猥褻概念そのものの定義として、右の3要素をあげることに、私は、別段、反対するつもりはない。しかし、このような概念を絶対的なものとして、これを一律にあてはめ、これに該当する文書をすべて猥褻文書として処罰の対象とすべきものとする考え方が果たして妥当であるかは、頗る疑問としなければならない。
[15] およそ文書等が性若しくは性行為を題材としているときは、それが科学的・思想的・芸術的性格をもつものであつても、見方によつては、猥褻の要素を有するものが少なくないことは、通常見かけられるところであつて、この猥褻の要素を抽出し、当該文書等を直ちに猥褻文書等と断定し、これを処罰の対象とすべきものであるかどうかが、まさに問題とされなければならないのである。
[16] この問題をどのように処理すべきかは、言論表現の自由や学問の自由の保障との関連において、内外に通じ、多年にわたつて苦悩してきたところであるから、内外の学説判例を通して、その苦悩を跡づけ、その判断を下すにあたつては、十分に慎重を期さなければならない。こういう見地に立ち、私は、次に述べるような種種の観点から、――理論上には、一応、次のような種々の観点を区別することができるが、実際上には、相互に関連性をもつており、全体を総合して判断しなければならないことはもちろんである。――猥褻概念の相対性を認めるべきものと考えるのであつて、この点において、多数意見とその見解を異にすることを明らかにしなければならない。
[17](1) まず第一に、猥褻文書等にあたるかどうかを判断するにあたつては、文書等そのものの面からみて、猥褻性の強弱ということが問題とされなければならないし、これを受けとつてこれを評価する人間の面からみて、どういう人間を基準とすべきかが問題とされなければならない。
[18] 猥褻という概念は、抽象的には、一応、チヤタレー判決が判示しているように、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」といつて差支えないであろう。しかし、具体的に性若しくは性行為を題材とする文書等についてみると、多かれ少なかれ、右の猥褻概念の要素をもつものが多いのであつて、猥褻性があるといつても、その猥褻性の程度には、強弱さまざまのものがあることを否定し得ない。およそ猥褻の要素が少しでも含まれておれば、処罰の対象とされるべき猥褻文書等に該当するとはいえないであろう。また、これを受けとつてこれを評価する人間の面からいえば、普通一般には、普通人、すなわち一般社会の平均人を基準として、これを判断すべきであろうが、この場合でも、人間の性情そのものが、所によつて異なり、時とともに推移するものであり、人間をとりまく環境の相違や変化に応じて、一律には断じがたいものがある。ある時・所において猥褻文書等と判断されるべきものが、別のある時・所においては、環境等の差異に基づき、猥褻かどうかの判断に差異を生ずることも決してないわけではない。殊に、当該文書がその表現方法等からみて、科学者や文学者等、特定の者を対象としている場合のように、その向けられている対象の相違によつても、それを猥褻文書とみるべきかどうかの判断が変つてこなければならないであろう。ということは、右にあげた猥褻の定義も、これを実質的・内容的にみると、絶対不変の固定的な尺度又は基準を示すものではなく、相対的可変的なものとみるべきことを示しているものといつてよいであろう。
[19] なお、特定の文書等の猥褻性の有無を判断するにあたつては、当該文書等を全体として判断の対象としなければならないことはいうまでもない。このことは、多数意見も、一応、これを承認しているので、ここでは、詳述することは差し控えることとする。
[20](2) 第二に、本件で特に重要な問題として注意すべきは、特定の文書等が有する科学性・思想性・芸術性――これらの点についても、その程度・態様等に種々ニユアンスの差があることはいうまでもない。――と当該文書等の猥褻性とは、次元を異にする問題と解すべきか、それとも、当該文書等の猥褻性は、その科学性・思想性・芸術性との関連において、相対的に判断されるべきかという問題である。この点について、最高裁判所は、さきにチヤタレー判決において、文書等の科学性・思想性・芸術性と猥褻性とは、次元を異にするとして、ここでいう猥褻概念の相対性を否定してきた。ところが、本件の多数意見は、さきにも引用したように、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」として、一見、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現をしているが、これに続けて、「右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない、」といい、「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、……文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」と判示し、結局、チヤタレー判決に従つて、芸術的・思想的価値の有無と猥褻性の有無とは次元を異にする問題だとする原審の判断を支持しているのである。
[21] 右の多数意見は、一見、猥褻概念の相対性を否定しないかのような説示をしながら、その実は、チヤタレー判決の趣旨を踏襲し、これから一歩も出てはいないようにも解されるのであつて、却つて、チヤタレー判決に比して首尾一貫を欠く嫌いを免れず、この多数意見の論理および結論については、疑問を抱かざるを得ない。
[22] もともと、性若しくは性行為を題材とする芸術作品や思想作品(科学作品も同じ。)は、色川裁判官が指摘されているように、人間の根源的な欲求の一つである性欲を追求して人間心理の深層にメスを入れ、その点にひそむ人間性を描こうとするものであるから、平凡な一般社会人の生活や感情とは相容れない事象をも題材とせざるを得ないことが少なくなく、その限りにおいて、多かれ少なかれ、猥褻性の要素を帯びることがあることも否定し得ないのであるが、他面、それによつて、人間の真の欲望や心理を浮彫りにし、時には、社会の罪悪に対する鋭い批判のメスを加えることによつて、人間性や人間関係の本質の自覚を促し、社会文化の発展の契機を与えることともなるのであつて、そうした芸術作品や思想作品等の価値を無視したり看過したりすることはできない。若し、これらの作品が猥褻性の要素をもつているというだけの理由で、その発表が禁圧されることになれば、価値の高い芸術作品や思想作品等の少なからざるものが抹殺されることになり、表現の自由や学問の自由が不当に抑圧され、文化的価値を享受する途も閉ざされることにならざるを得ないであろう。
[23] このような点を総合して考えると、右に述べたような芸術作品や思想作品等については、それらが、たとえ猥褻性の要素をもつているとしても、作品全体としてこれを評価し、刑法175条にいう猥褻文書等に該当しないと解すべき場合が多いというべきであろう。この意味において、刑法175条にいう猥褻の概念は、一般社会の平均人を基準として判断する場合においても、その社会の文化の発展の程度その他諸々の環境の推移に照応し、その作品等の芸術性・思想性等との関連において、評価・判断されるべきもので、この意味においても、猥褻概念の相対性が認められなければならないと、私は考えるのである。
[24](3) 第三に、猥褻文書として処罰の対象とされるべきものかどうかは、当該文書等に客観的に現われている作者の姿勢・態度や、その販売・頒布等にあたつての宣伝・広告の方法等との関係においても、相対的に判断されなければならない。若し、その作品が、猥褻の要素にもつぱら焦点をあわせ、人間の好色心をそそることに中心を置いたような場合であれば、仮りに文書等そのものとしては科学性・思想性・芸術性が認められ、これらの点において相当の価値のあるものであつても、刑法175条にいう猥褻文書に該当するものといわなければならないことが多いであろうし、文書等の販売・頒布等にあたる者が、猥褻性の要素を特に抽出し、そこに焦点をあわせて宣伝・広告・陳列し、ために、当該文書等が低俗な興味の対象としてのみ受け取られるような場合には、そのことの故に、元来、科学性・思想性・芸術性をもつた、相当に価値のある作品の販売・頒布等であつても、刑法にいう猥褻文書の販売・頒布等として処罰を免れないこととなるであろう。したがつて、刑法175条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、右の諸点との関連において、相対的に判断されなければならないのである。
[25] これを要するに、刑法175条にいう猥褻文書として処罰の対象とされるべきかどうかの問題は、猥褻の概念を絶対普遍のものとして、一律的に判断すべきではなく、右に述べたように、種々の意味におけるその概念の相対性を承認し、そのような観点を総合的に考察して、なおかつ、猥褻文書に該当するといえるかどうかについて、慎重に判断されなければならないと考える。

[26]、次に、具体的に本件についてみるに、本訳書の原著「悪徳の栄え」は、マルキ・ド・サド(1740-1814)の代表作ともいうべき作品であつて、「18世紀ヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとする思想小説である」とされている。本件訳書はその抄訳であつて、原著を約3分の1につづめたもので、正続2編に分かれるが、本件で起訴されたのは、その続編「悪徳の栄え(続)―ジユリエツトの遍歴―」である。
[27] この作品を全体としてみた場合に、思想的・文学的に価値のある作品であることは、検察官においても、これを争わず、第一審判決も、この作品の芸術的・思想的意義を認めている。ところで、この作品を全体としてみて、猥褻性を有するものといえるかどうか、その芸術性・思想性にもかかわらず、その猥褻性の故に刑法175条にいう猥褻文書に該当するといえるかどうか、が問題である。
[28] この作品のうちには、ある部分だけを抽出すれば、猥褻性を帯びているもののあることは否定し得ないが、それとても、横田裁判官の指摘されているとおり、その内容は、概して、空想的・非現実的・異常的であり、むしろ、その前後に残忍・醜悪な場面の描写が続き、一般読者に猥褻感とは異質の強い不快の念を抱かせ、そのため、一般読者に与えるはずの猥褻感が著しく減殺されており、さらに、サドが登場人物の口を通じて彼一流の思想・哲学を語らせている部分が相当に多いことも、その猥褻性を減殺するうえに大いに役立つている。このような見地からいつて、本訳書は、刑法175条にいう猥褻の要素を十分に具有するものと断定することに大きな疑問を抱かざるを得ない。
[29] しかし、この点はしばらくおいて、この作品が仮りにいくらかの猥褻の要素をもつているとしても、刑法175条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、その作品のもつ芸術性・思想性およびその作品の社会的価値との関連において判断すべきものであるとする前叙の私の考え方からすれば、これを否定的に解しなければならない。すなわち、この作品は、芸術性・思想性をもつた社会的に価値の高い作品であることは、一般に承認されるところであり、原著者については述べるまでもないが、訳者である被告人渋沢竜雄は、マルキ・ド・サドの研究者として知られ、その研究者としての立場で、本件抄訳をなしたものと推認され、そこに好色心をそそることに焦点をあわせて抄訳を試みたとみるべき証跡はなく、また、販売等にあたつた被告人石井恭二においても、本訳書に関して、猥褻性の点を特に強調して広く一般に宣伝・広告をしたものとは認められない。
[30] 以上の諸点を総合して判断すると、この作品の中に猥褻の要素が含まれているとしても、作品全体としてみた場合に、その芸術的・思想的意義が高く評価され、百数十年の長きにわたつて、幾多の波乱をまき起こしながらも、あらゆる批判に打ち克つてきた原著の抄訳たる本件訳書は、今にわかに、その猥褻性を強調して抹殺し去られるべきものではない。さきに述べたように、表現の自由や学問の自由を尊重する憲法の趣旨に照らし、国民文化の発展の程度や人間をとりまく生活環境の推移に鑑み、本書公刊の諸条件のもとに予想され得た読者層から考えて、本件訳書は、直ちに、刑法175条による処罰の対象としてとりあげられるべきものではなく、その販売・頒布・所持の自由は、保障されて然るべきであると考える。
[31] 然るに、本件訳書が刑法175条にいう猥褻文書に該当するものとして、被告人らの刑事責任を肯定した原審の判断は、憲法21条、23条の解釈を誤つた結果、刑法175条の解釈適用を誤つたものと認められるから、所論は理由があるに帰し、原判決は破棄を免れないと、私は考える。
[32] 前叙のような見地から、私は、原判決を支持する多数意見の結論のみならず、その理由についても、賛成することができない。


 裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
[1]、本件訳書は小説であるから、そのジヤンルに属する読物のいかなるものが刑法175条にいう猥褻の文書に該当するかを考えてみるのに、大きくわけて2つになると思う。一つは端的な春本であり、他は猥褻性(猥褻とは何かが実は終局的な問題なのであるが、ここではさしあたり、原判決の依拠したいわゆるチヤタレー事件最高裁大法廷判決の示すところによる。猥褻の文書の意義に関する私見は後に説くごとくである。)はあるけれども、春本のたぐいには属しないところの誤楽作品及び文芸作品である。春本は、性を玩弄享楽の具とする立場で書かれた、もつぱら性的興味をそそることを狙いとする、淫猥のための淫猥の書であつて、全篇を通ずる内容及び表現の形式から容易にその春本たる所以を知ることができるものである。春本は、もしそれが広く公衆に提供されるときは、社会の健全な性的秩序の腐敗・堕落を招来する危険を内蔵し、而も埋合せとなるべき何らの社会的価値をも有しないものであるから、まぎれもない猥褻の文書であつて、その頒布、販売が刑罰を以て禁止されるのは当然といわねばならない。これに反し前述の後者は、性を素材とし、性的行為に関する叙述を含むとはいえ、好色、淫奔な興味や関心をそそることを作品の基調とするものではない点で異質であるというべく、また、それぞれ、大なり小なりの社会的価値を有する点において春本とは決定的にその類を異にする。たとえ低俗な娯楽作品であつても、およそ娯楽が大衆社会における必須の要求である以上(娯楽のない社会がいかに索莫たるものであるかは多言を要しない。)そこに何がしかの社会的価値の存在を認め得るのであるが、文芸作品にいたつてはなおさらであつて、質と量とにおいては作品によつてそれぞれ差異はあるにしても、そこに社会的価値の存在することは何びとも否定し得ないところであろう。小説が猥褻性をもつているからといつて、そのために帯びる反価値と、作品そのものの具有する社会的価値とを慎重に比較衡量することなく、ただちにこれを刑法175条にいう猥褻の文書であると判断することは許されないところと考えるのである。
[2] ところで本件訳書は、マルキ・ド・サドの創作にかかる「悪徳の栄え」の抄訳であるところ、原著は、一審判決の認定するように「18世紀ヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとする」本格的な思想小説である。そうである以上、本件訳書は、端的な春本でないのは勿論、娯楽のための読物でもないわけであるから、本件においては、文芸作品と猥褻性との関係を論ずれば足りるのであるが、同時にまた、これを問題としないわけにはいかないのである。

[3]、多数意見は、芸術的・思想的な価値のある文書であつても、猥褻性を有する以上、猥褻の文書としての取り扱いを免れることはできないとする。性を素材とする文芸作品は、人間の根源的な欲求である性慾を追求して人間心理の深層にメスをいれ、その奥にひそむ人間性を描かんとするものであるから、姦通、同性愛、強姦、近親相姦等およそ平凡な市民生活とは相容れぬ事象をも題材とせざるを得ないことが多く、もし、筆がそれらの行為の露骨な描写に及ぶにいたつては、その作品に猥褻性が存在することを否定することはできないのであつて、一般的にいえば、多数意見の説示するごとく、芸術的な作品であると同時に猥褻の文書でもありうるわけである。しかし、およそ、世俗への妥協を拒み、神と道徳と法とを無視乃至否定し、現実の世界では許されない悖徳、乱倫の諸相を描いて、人間の真実をたずね、苦渋に満ちた悩みの底から、読者の感動をゆるがす何ものかをくみ出そうとすることこそが、近代文学の手法のひとつの特質ではないかと思われる。もしそうだとすると、露骨な形で性が扱われているというだけの理由でかかる作品が禁圧されるならば、文学の名に値する文芸作品の少なからざるものの抹殺へと途が通ずることになるのである。而して、もし、その作品が、主題において真摯、誠実であり、叙述においても、性の描写が、主題に剴切、緊密であつて抜きさしならぬ関係にあり、而も芸術としての価値が高い場合には、作品を全体として観察する以上、猥褻性昇華の現象も見られないわけではあるまい。そうである限り、かかる作品は、形の上での猥褻性の存在にもかかわらず、刑法175条にいう猥褻の文書ではないということができるであろう。仮に猥褻性の昇華ということが認められないにしても、かかる作品につき、猥褻性があるからといつて、その頒布、販売、ひいては事実上、その閲覧、鑑賞までも刑罰法規を以て制約することは、一国の文化領域における重大な問題であるというべきであり、その是非は、表現の自由を尊重する限り、否定的に答えられなければならないこと後に説くごとくである。
[4] ところで、上記の如き要件は欠くにしても、とにかく一応文芸作品と認められるものについてはどうであろうか。この場合には猥褻性が昇華すると見る余地はないとしても、かかる作品における性の描写は、春本と様相を異にし、それ自体が目的ではないのであつて、多かれ少なかれ作品の主題に従属し、作者の文学的主張の展開のために必然的、もしくは相当の関連があるのである。
[5] したがつてこれらを猥褻性があるの故を以てただちに否定し去ることは、表現の自由との関係において少なからず疑問の存するところである。

[6]、憲法21条にいう表現の自由が、言論、出版の自由のみならず、知る自由をも含むことについては恐らく異論がないであろう。辞句のみに即していえば、同条は、人権に関する世界宣言19条やドイツ連邦共和国基本法5条などと異なり、知る自由について何らふれるところがないのであるが、それであるからといつて、知る自由が憲法上保障されていないと解すべきでないことはもちろんである。けだし、表現の自由は他者への伝達を前提とするのであつて、読み、聴きそして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである。情報及び思想を求め、これを入手する自由は、出版、頒布等の自由と表裏一体、相互補完の関係にあると考えなければならない。ひとり表現の自由の見地からばかりでなく、国民の有する幸福追求の権利(憲法13条)からいつてもそうであるが、要するに文芸作品を鑑賞しその価値を享受する自由は、出版、頒布等の自由と共に、十分に尊重されなければならないのである。当該作品が芸術的・思想的に価値の高いものであることについて、それが客観的に明白でほとんど異論あるを見ないときはもちろん、通常一般の作品にあつても、特段の事情のない限り、これらが自由に出版、頒布され且つ自由に読まれてこそ、文化の進展が期待されるのである。かかる作品の頒布等が社会の性秩序に何らかの好ましからざる影響を及ぼすものであるとしても、その作品を出版し、これを鑑賞せしめることに、より大なる社会的価値がある限り、その頒布等をとらえて、これを刑法175条に問擬することは、結果において表現の自由を侵すことになるというべきである。そうである以上、かかる行為を刑法175条に問うことは憲法上許されないところであり、したがつて、上記の作品も同条にいう猥褻の文書には当たらないということになるであろう。

[7]、多数意見は「出版その他表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものである」となし、「芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象にすることが国民生活全体の利益に合致する」ものだという。たしかに、表現の自由は、思想及び良心の自由などと異なり、必然的に対外的な言動を伴なうものであるから、濫用されるときは、社会公共の利益を害し、或は他人の権利乃至自由と相剋を来すわけであつて、本来無制約であるべきでないことは多数意見の前示説示のとおりである。しかしとりたてていうまでもなく、自由な言論、自由な出版は、民主々義の基礎であり、文化の全領域にわたる発展の根本的な条件であるから、これを制約するにあたつてはいやが上にも慎重でなければならないのである。公共の福祉による制約はこれを免れないとしても、その場合における公共の福祉とは何であるかに思いをひそめ、その概念を深化し、具体化する努力を払うことが憲法の精神に副う所以であろう。公共の福祉という抽象概念を安易に駆使して表現の自由を一刀両断的に切りすてる態度は、厳に避けなければなるまい。この点について多数意見が何ら言及するところがないのを遺憾とするものである。

[8]、ついでながらここでふれておきたいことがある。多数意見は、ある文書について猥褻性を認めても、頒布・販売を処罰するだけのことであるから、それがただちにその文書を社会から抹殺することにはならないという。はたしてそうであろうか。もともと文芸作品は一般人に理解可能な言語を媒体とし、読者の想像力を刺戟し、その感情に訴えんとするものである。読者を全く予定しない小説はそもそもあり得ないのではあるまいか。原稿だけしか存在しないような作品、上梓はされても、手当り次第押収もしくは没収せられ、辛くも残つた僅かの部数が好事家の筺中深く蔵するところとなり、秘密裡にしか閲読されない作品、こういうものは文芸作品としてはほとんど意味をなさないのである。かかる事態に陥つた作品はもはや社会的存在としては抹殺されたにも等しいことになるであろう。ところで確定判決にもとづく没収ならば、慎重な手続を重ねた上のことであるからともかくとして、捜査の段階において逸早く社会から放逐される(しかもそれはその後確定判決により猥褻の文書でないと判定されることさえあり得るのである。)ようなことがもし頻発するとしたならば、由々しい問題でなければならない。捜査における押収にしても、原則としては裁判所の令状を必要とし、その限りでは「司法官憲」によるチエツクを経るわけではあるが、その手続はいわば密室の作業であり、反証提出の機会を与えられることもなく、その上、嫌疑の一応の確からしさがあれば発布されるのであるから、慎重さにおいて、判決手続に比すべくもないことは明らかである。もしまた現行犯と目しうるときであるならば、裁判所による何らの審査もない。場合によつては捜査官による当該押収が、司法警察の域を越えた、行政警察的予防措置の役割さえも演じかねないのである。のみならず、警察官憲による警告等の事実上の心理的強制、もしくは検挙の暗示におびえた似て非なる自主規制などによつて、事前に創作、出版、頒布等が、そのいずれかの段階において抑止せられ、折角の、文化財にもなり得べき作品が、闇から闇に葬られることさえもあり得るであろう。而も以上の如きそれぞれの抑止が、やがて連鎖反応を起し、その影響が場所的にも時間的にもひろがりをもつにいたるならば、現在及び将来にわたる出版文化の発展に大きな障害をもたらすという憂慮すべき事態を招来する危険があるのである。

[9]、猥褻性のある箇所を保有する作品であつても、その作品の有する社会的価値が、猥褻性のもつ反社会的価値に優越する以上、その頒布等を刑法175条に問擬すべきでないことは前に述べたとおりである。しかし、たとえそれが名作とよばれ得るものであるにもせよ、かかる作品を改ざんしそのなかよりきわどい箇所を抜すい編集したり、その部分を特に浮びあがらせるような操作を施こして作成されたような文書は、作品の核心をなす主題を葬り去り、性行為の描写自体を自己目的とするものにほかならないから、これを猥褻の文書としてその頒布等を処罰しても表現の自由を侵すことにならないことはいうまでもあるまい。この場合は原作から遊離した、ほとんど春本にも近い別箇の文書とも見られるわけであるが、これに反し、作品には改ざんを施こさずそれをそれとして上梓した場合でも、なおつぎのような問題は残るのである。即ち、出版、頒布、販売にあたり、商業的な利潤追及を主眼とし、印刷製本の体裁や、宣伝、広告、販売の方法その他が明らかに、読者の低俗な好色淫蕩な興味、関心をかきたて、その性的な興奮を狙つたものであると認められるときは、作品が社会的価値を有しているとしても、猥褻の文書の頒布等としてこれを処罰してもこれまた憲法上の問題ではないと解すべきである。けだし、作品の猥褻性の有無と社会的価値は、一般読者が作品全体に含まれる思想や主題を追つて、真摯にこれを通読した場合の影響如何によつて判断さるべきであるところ、上記の如きいわゆるパンダリングとよばれる頒布等のあり方こそは、正にかかる読書態度の否定を意図するものであつて、その結果作品の猥褻性がどぎつく浮び上り、作品の社会的価値も低俗に堕するにいたるものと考えざるを得ないからである。
[10] ところで、原判決は、本件訳書の社会的価値については何ら判定するところがなく、またその出版、販売に関する前記の如き諸般の重要なる周辺的事情についてもまたほとんどふれるところがない。私の見解とはその前提を異にするのでやむを得ないのであるが、私見に即するかぎり、原審には審理をつくさざる違法があることは明らかであり、したがつて原判決を破棄しこれを原審に差し戻すのが相当だというべきである。しかしながら、本訳書を通読しこれを全体として観察すると、本訳書は、後述のとおり、もともと一般読者の性的欲求を過度に刺戟し興奮せしめる文書ではないと見ることもできないわけではない。そうだとすれば、敢えて審理を重ねるまでもなく、本件は猥褻文書販売、同所持罪として処罰すべきものではないことになるわけである。

[11]、本件訳書の原著は、マルキ・ド・サドが人間性の探究とその特異な思想を展開するために小説の形式を用いて創作したものであるが、いま問題とされている訳書についてみると、芸術的に果して高い地位を占めるものかどうか、少なくとも私には疑問とせざるを得ないものがあり(もつとも芸術的な価値いかんは鑑賞者の主観に依存することが多いのであるし、裁判所がこれを判定することは特別の場合のほか適当でないのみならず、その任務にも属しないと考える。)しかも、本書には必要を越えて露骨な性的行為の描写があるとの感を禁じ得ない。原判決摘示にかかる本件訳書中の14ケ所は、一審判決のいう如く、いずれも同性または異性相互の間で行われる淫蕩にして放埓な性的場面の描写であつて、性的行為の姿態方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて、相当露骨且つ具体的なのである。しかし、性器や醜悪なる性行為については、今は全く死語となつた江戸時代の隠語を用いる等の用意がなされており、人間の性的興味に迎合することにより読者を酔わすとかその官能をくすぐるとかの意図は到底これを見出すことはできないのみならず、虚心に通読すれば、読者に原作者の思想と主題とを忠実に伝えようとする訳者の誠実な執筆の姿勢をうかがうことができる。篇中特に注目すべきは、男女による正常な性行為についての表現がないことであつて、その描くところは、わが国の読者にとつて無縁である非現実的な行為の数々であり、露骨ではあつてもほとんど情緒的なものを欠いているのである。指摘されている箇所及びその前後には倫理や宗教を否定し神を冒涜する言葉や事実が繰り返し述べられているが、すべては荒唐無稽のことに属し、而もそれはグロテスクの極、ほとんど嘔吐を催さしめるほどの不潔さであつて、通常人としては全篇の通読をむしろ苦痛とせざるを得ない底のものである。部分的には性慾を刺戟する要素があつても、全体として見る限り、その効果は全く減殺消滅せしめられているといつても過言ではあるまい。作品の猥褻性の有無の判断は、恣意的にその一部を抽出し、これを拡大して検討するごとき方法をもつてすべきものではないのであるから、本件訳書は結局において、性的快感をくすぐり、性慾を刺戟興奮せしめるものではなく、猥褻性の定義を、前記チヤタレー事件における最高裁判所の判決の示す見解によつたとしても、これを刑法175条の猥褻の文書とすることは誤であるといわねばならないのである。

(裁判長裁判官 横田正俊  裁判官 入江俊郎  裁判官 奥野健一  裁判官 草鹿浅之介  裁判官 城戸芳彦  裁判官 石田和外 裁判官  田中二郎 裁判官  松田二郎 裁判官 岩田誠  裁判官 下村三郎  裁判官 色川幸太郎  裁判官 大隅健一郎  裁判官 松本正雄)
[1]第一点 原判決が、いわゆるチヤタレイ事件の最高裁判決を正当とし、猥せつ性と芸術性、思想性は次元を異にする概念であり、芸術的思想的に価値の高い作品でも刑法175条のわいせつ罪の適用の対象になる旨判示した上、本件「続悪徳の栄え」を猥せつ文書であるとしたことは、刑法175条の解釈適用を誤まり、憲法21条(言論出版その他一切の表現の自由の保障)及び憲法23条(学問の自由の保障)に違反する。そして、チヤタレイ事件の最高裁判決(大法廷昭和32年3月13日)は、その后の世界における法と文明の基準に照らし是正せられるべきものであると信ずる。
[2] チヤタレイ事件の最高裁判決は、原判決引用の通り、猥褻性と芸術性思想性は次元を異にする概念であり、いかに芸術的価値の高い作品であつてもこれが法的にみて猥褻である限り、猥褻文書として処罰の対象となる旨判示している。そして、原判決は、相対的猥褻概念や、全体説を部分的に採用しつゝ、なお猥褻性と芸術性の問題に関しては全面的にチヤタレイ事件の最高裁判決を引用しこれに依存して、弁護人の所論を排斥している。
[3] 蓋し、猥褻罪の適用において、文書の芸術性、思想性等の社会的価値をいかに考えるかは、本問題の中心であり、又古来欧米においても、論争の的になつてきたところである。そしてこの問題こそは法と文化の根本にあるものを如何に考えるかという、最も基本的な問題に通ずるのである。
[4] わが国においては、猥褻罪が、春本春画の類、つまり「猥褻のための猥褻な」文書に適用され(戦前は思想書芸術書中、政府の忌諱に触れるものは、風俗壊乱等の認定の下に、発禁処分となり、刑事裁判以前の行政処分で処理されてしまつた)、判例学説もこの種の問題を殆んど意識することなく、猥褻概念を論じたのである。僅かに先例として存するのはチヤタレイ事件のみである。それ故に、チヤタレイ事件の最高裁判決は余りに旧来の観念を墨守し過ぎ、事案の本質、歴史、及び世界の法と文明の動向を考慮すること余りに少なかつた。最高裁が「チヤタレイ夫人の恋人」をわいせつ文書として以后、合衆国の裁判所においても、イギリスの裁判所においても同じ本が猥褻文書でないと判断され、今日一般に広く流布されるに至つている。そして、各国の判例は今日殆んどすべてわが国のチヤタレイ判決と内容において相反する判断を示すに至つている。
[5] そもそも、法における猥褻概念は文書の社会的価値とは全く別個のものであるとする考えは、チヤタレイ判決を俟つまでもなく古くから存在し、欧米の裁判所においてもとられてきた。しかしその結果はどうであつたろうか。果して、猥褻罪の規定をかように解釈し適用することは、言論出版の自由、学問の自由に牴触しなかつたであろうか。それは果して法の権威を高めてきたであろうか。
[6] かつて、このような考えの下に多くの文学上、思想上価値ある文化的資産が「わいせつ」の名において、法の名によつて禁止措置をうけ、或いは処罰されてきた。その歴史的意味を今日もう一度考えてみたい。
[7]例を文学のみにとつても、古くはダンテの「神曲」は焚書の刑をうけ、ボツカチオの「デカメロン」は禁書となつた。これは1、2の例にすぎない。近代にしてもまたそうであつた。
[8] ホーソンの「緋文字」、ホイツトマンの「草の葉」、マーク・トウエインの「トム・ソーヤー」は“わいせつ”ということで発売禁止になつた。トルストイの「クロイツエル・ソナタ」も1890年米国郵政省で、郵送禁止処分をうけたが、その際セオドール・ルーズベルトはトルストイを「性的かつ道徳的変質者」と非難した。かつてボストン市では、ヘミングウエイの「武器よさらば」が“わいせつ”として発禁になつた。しかしヘミングウエイが最近不慮の死を遂げたとき、合衆国大統領は、彼をもつとも代表的なアメリカ人とたたえてその死を悼んだ。
[9] フランスにおける、フローベルの「ボヴアリイ夫人」、ボードレエールの「悪の華」もその発行当時、「善良な性的道義心に反し、善良な風俗を害した」として処罰されたことも有名な事実である。
[10]これらの判決や処分は果して、その后の歴史と社会によつて支持され承認されたであろうか。
[11]ロス事件(Roth v. U.S. 354 U.S.476)において、合衆国連邦最高裁長官ウオーレン判事は、次のような章句をもつて、その意見を書き始めている。
「わいせつなものを取締る法律がいかに適用されてきたかという歴史をみれば、偉大な芸術、文学、科学論文、そして社会に議論をまきおこした作品をやつつけるために政府の権力が利用されてきたことは明らかである」
[12] また、同じくダグラス判事は、その著「基本的人権」のうちで次のように述べている。
「わが国のわいせつ性に関する法律に内在する、表現の自由への危険は、文学や芸術を検閲しようとする政府の企図に内在する危険と同じ種類のものである。大衆をわいせつ性から保護するという外装の下で、大衆はどんな書籍を読むのが安全か、大衆はどの映画を見るのが安全かを、政府が決定することがありうるのである…セツクスに関する文学を、その全体の文学的ないし教育的価値の如何を問わず、それがいかがわしい叙述を含むという理由で禁止することは、われわれの社会にしかつめらしい、ビクトリア朝的体制を課するものであろう」(奥平康弘訳68~69頁)
[13] 今日、このような歴史的事実、及びその評価をもう一度虚心に考え直す必要があるのではあるまいか。法は文化の抑圧者であつてはならない。それは決して芸術至上主義的見解ではない。いな、法の権威、法の支配の実質的意義は、法が文明と自由を権力の恣意的行使から守るところにこそあると信ずるが故である。
[14] チヤタレイ事件の最高裁判決は、両立説と呼ばれ、猥褻性と芸術性、思想性は両立すると判示しているけれども、果して真に“両立”しうるであろうか。どのような社会的価値があろうとも、それを法的判断から除外して刑罰を適用するというのであれば、それは結局無条件に法的評価を優先させることとなり、いかに優れた芸術的、思想的作品でも処罰の対象となり従つて発行不能となる。その作品は結局世に観覧、販布しえなくなる。現実に世に現れえないものを、別の次元でいかに芸術的、思想的に優れているといつてみてもそれは結局無意味である。“あの世の芸術”“あの世の学問”なるものは存在しえないし、文化を享受し発展せしめるべき母胎である民衆の手に触れることは不可能である。いわゆる両立説は言葉の綾に過ぎない。その作品は“別の次元”という芸術・学問の世界でも生存を許されないことになる。
[15] そもそも、法がある行為に刑罰を課するのは、その行為が社会的にみて違法である場合に限ることは当然である。そして、違法とは、単に形式的にでなく実質的に、全体としての法秩序に反することである。(団藤教授刑法綱要131頁)。社会の倫理的規範、文化的規範が全体として考察され、価値規準となるべきことは、およそ法の本質に由来するものであり、決して芸術至上主義的見地ではない。
[16] 社会的価値ある作品にわいせつ罪を適用すべきか否かは、まさにこの法の本質の問題として考慮されるべきであるし、法は所詮文化的、社会的価値と無縁なものではなく、それへの評価を常に根底にふまえているべきものである。
[17] 原判決は「裁判所は文書の芸術的、思想的の価値を判定すべきでなく、それに適当な場所でない」と述べているけれども、裁判所が芸術的、思想的価値の判定者でないということと、裁判所が既に世になされている芸術的、思想的価値評価を法的判断に際し度外視するということとは全く別個な問題である。世には、例えば古典的作品のように、長い歴史の上において、社会的に価値を是認されてきた多くの作品がある。この客観的評価の存在を認めることは、文芸評論をすることとは全く別の事柄であることを原判決も、そしてチヤタレイ事件の最高裁判決も見逃し、ないしは混同しているのである。本件においては、検察官も「続悪徳の栄え」が全体的にみた場合文学的、思想的に価値ある作品であることを争うものでない旨明言している(第一審検察官論告21頁)このような場合すら、作品に社会的価値の存することを裁判所が認定できないとするいかなる理由があろうか。もし、それが不可能であり、裁判所の機能に本質的に属しないとするならば、后に詳述するように、何故に今日の文明国の法及び裁判所が作品の社会的価値を含めて猥褻性の判断をすべきことを命じ又現に行つているのであろうか。
[18] 例えばこの点に触れた合衆国の判例としてPeople v. Gotham Book Mart(285 N.y.S 563. 1936)の判決およびこの中に引用されている例のユリシーズ事件の判決がある。これによると、
「すべての文学および芸術にある範囲の自由が与えられていること、好みは人によつて異ることの2つを認識しながら、或る過去の時代ではなく現代の生活条件にとりかこまれている合理的で慎重で分別ある人が、或る章句ではなく、その作品の主目的および構成においてその本がわいせつ、卑わいなものであること並びにその刊行が有益な目的のためではなく人間性の最低でかつ最も官能的な部分に迎合するだけの目的でなされたものであると信ずることが正当であるか否かゞ答えられるのである。これらの規準を適用するに当つて、いかゞわしい部分のテーマへの関連性、その本が近代のものであるなら広くうけいれられている批評のうちで評価されたその本の名声、古いものなら過去の意見等々が説得力ある証拠になる。」
[19] 英国1959年法4条2項が明文をもつて専門家証人が採用されねばならないことを定めているのもこの趣旨に他ならない。
[20] その作品が、歴史的、社会的にどのように価値あるものとされてきたか否かを調べかつ判定することは、裁判所の職責であり、かつ法の本質より要請されるところである。それを拒否し、作品の芸術的、思想的価値等に目をおゝい、専らある章句が、性欲を刺戟するか、羞恥心を害するか、性的道義観念に反するかの3点のみを法的判断なりとしこれをもつて断罪することは、一見謙虚に似て、実は極めて倨傲な法的態度といわざるをえない。
[21] そして「わいせつ」という規範的要素を構成要件中に含み文化的規範性こそが構成要件的に考慮されなければならない刑法175条の解釈適用において、何故に、作品の社会的価値を“法的判断”から除外しなければならないのか誠に理解に苦しむのである。
[22] 作品の社会的価値を度外視して猥褻性を判断することが、いかに不合理であるかは、実は原判決も他の論点においてこれを認めているところなのである。
[23] 原判決は弁護人の主張に対する判断(五)において、わいせつ性の捉え方は部分的に観念されるとする外はないとしつつ、他方、
「問題となる性的描写の部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前后の状況等によりその猥褻性が影響され、また文書(作品)そのものの有する芸術性、思想性の故に、更にその作品自体から窺われる作者の問題を扱う真面目な態度等により、その問題の部分の猥褻性の判断が影響されるということは、もとよりあり得るところである」
と判示し、結果的には、作品は全体として読んで判断すべきであるとのいわゆる全体説に著しく接近しこれと同一の結果に帰着している。(原判決がこの説をとりつつ、本件の具体的判断に際しては、何ら右の如き諸点について判断せずいたずらに問題の章句部分を抜すいして判決文に添附しているのはその判示と矛盾している)
[24] 又、更に原判決は、いわゆる相対的猥褻概念をわが国実定法の解釈について取り入れる余地があると判示している。
[25] しかしながら、そもそも作品は全体として読むべきであるとか、相対的猥褻概念とかいう理論が、広く欧米の立法、判決、学説に取り入れられ支配的になつている所以は、結局社会的に価値ある作品に猥褻罪を適用することを制限し、それらを保護しようとする観念に基くものなのである。つまり作品の社会的価値を法的判断に取り入れようとする努力の一なのである。この基本的観念を排斥して、解釈技術のみを部分的に採用しようというのは、まさに木に竹をつぐようなものであり、法の解釈技術の基にある法の精神を没却するものといわざるをえない。
[26] 作品は個々の章句によつてではなく、全体として読まねばならぬというのは、原判決も認めるとおり、その作品の社会的価値を重視し、個々の章句がたとえ性的刺戟を与えるものであつても、なお全体としてその作品が芸術的、思想的に価値を有し、問題の章句が全体のテーマに不可欠ないし必要なものである限りは、猥褻文書とはいえないとの考え方に基くものである。(原審における答弁書63頁~73頁に詳述)又相対的猥褻概念なるものは、原審答弁書において詳述した通り(原審答弁書81頁~88頁)作者の意図や販売方法、販売環境を重視することにより、いわゆる「わいせつのためのわいせつな」文書、春本春画の類を販売流布する者を処罰することに限定しようとする意味をもつているのである。つまり、文書そのものを絶対的基準として考えるのではなく、その文書の性格をおかれた環境や意図との関連において判断しようというのである。
[27] 作品自体の客観的性格を規定し、いかなる環境で、何人によつてどのように読まれるかにかかわらず猥褻か否かが決定されるという絶対的猥褻概念は、結局のところ、一方において作品の社会的価値を無視ないし軽視する結果となり、他方において、いかがわしい人達による芸術や科学的作品の抜萃その他不当な利用を制限することを困難にする。そこで価値ある作品が正当な方法で流布せられることを保護し、それが邪悪な意図の下に不当な方法で流布されることを制限するために、相対的猥褻概念が広く採用されてきたのである。
[28] 原判決は、このような観念の正当性を部分的承認しつつ、なおその根幹にある作品の社会的価値の点については、チヤタレイ判決を楯に頑としてその採用を拒んでいるのである。これは、全体の法理念からみれば、まさに矛盾であるが、既に、わが国の既成概念では本問題を理論的に処理しえなくなつていることを示しているとみられるのである。
[29] 本問題は古くから世界の文明国において論ぜられてきたところである。社会的秩序をすべてに優先させる独裁主義国家においてはいざしらず、自由主義の立場にたち、殊に言論、出版の自由、学問の自由の保障に最高の価値を置く国家においては、まさに猥褻罪を芸術性、思想性等の価値高い作品に適用すべきか否かは、その社会理念の根幹にかかわる問題であつた。そして、特に近年この分野において、立法、判例、学説の何れの面でも著しい発展がみられたのである。これを跡づけることは、わが国における本問題の解明に当つても、極めて有益であると考える。

(一) イタリー刑法
[30] わいせつ罪の適用において、芸術的、科学的その他社会的価値を評価しなければならないことを、立法をもつて明示しているのは、イタリーと英国である。
[31] イタリー刑法529条は、「芸術の作品又は科学の作品は之を猥褻と看做さず。但し研究とは異なる動機に因り18才未満者の販売に供し、販売その他の方法を以て取得せしめたる者はこの限りに非ず」としている。これは、芸術、科学作品を無条件に保護している点で注目される。

(二) 英国1959年法と判例
[32] 英国の1959年法4条1項は次のように定めている。
「問題とされた文章の出版が、科学、文学、芸術、学術又は他の公共の一般的関心事の利益にあるとの理由で、公共の利益に合するものであるということが証明されれば、何人も本法第2条違反で有罪とされることはない」
[33] この立法の特色は、わいせつか芸術かという二者択一の考えではなく、芸術作品、科学作品であつてもわいせつ(読者を堕落腐敗させる傾向)でありうるが、しかも尚社会的価値(public good)が存する場合は処罰しえないとしたところにある。これは芸術や科学でもわいせつでありうるとした点でわが最高裁と同じ前提にたつているが芸術、科学等の価値をわいせつ性に優先させた点において、わが最高裁チヤタレイ判決とは、全く逆な結論に達している。
[34] そして1959年法の考え方は、立法によつて始めて可能になつたのではなく、同一の考えは、それ以前既に判例においてとられてきた。
[35] 例えば1954年のフイランダラー事件において、ステイブル判事は起訴の対象が小説であることを決して過少評価してはいけない。小説は過去の世紀における人間生活について多くの知識を与えるし、現実の人々の思想と行動を画こうとしている。又他の国の同時代の人々がいかに生きいかに考えているかを示してくれるとのべ、性がいみかくされるのは時代遅れであるとした上で、スタンレイ・カウフマン作の「女たらし(Philandeler)」について次のように説示している。
「小説の主人公の性愛遍歴についていえば、この本は人間の性愛と性交とを卒直に――或いは露骨にといつた方がいゝかもしれないが――画いている。それは確にそのとおりであり、検事はこの本はだからくだらぬ春本だといつている。陪審員諸君、果してそうであるか。性的欲望による行動は、くだらぬわいせつか? そのようなことを書くことは悪趣味であるかもしれない。しかしそれはくだらぬわい本であるか。」
[36] この説示に対して陪審は無罪の評決をした。この説示中でステイブル判事は、くだらぬわい本(sheer filth)と文学とをはつきり区別している。「若し著者が真面目な意図をもち、思想を真面目に取扱つているなら、そしてそれが取締当局に対し露骨さをかくすためのカムフラージュでないならば、その本はわいせつではない」(Konvitz. Fundamental Liberties of a free people P.165)
[37] なお学説も1959年法の以前から文学作品は社会的利益(public good)であるから処罰されないといつている。(Stephen. Digest P.456: John-Stevas. Obscenity and the Law P.134)

(三) 合衆国の判例
[38] 合衆国においても、1930年頃までは100年前英国でなされたヒツクリン・テストがこの分野における支配的判例であつた。しかし20世紀の初頭から、特にニューヨークでは、このヒツクリンテストを無視する裁判官が相当でてきたようである。(Lockhart & Macclure "Law and Contemporary Problems" Duke Univ. Vol.XX Autumn 1955)その代表的なものが1913年の合衆国対ケンナレイ事件の判決である。オーガスタス・ハント判事はこの中で「ヴイクトリア中期のモラルは、現在の理性と道徳律に解答を与えることはできない」として、「われわれは好色な人の興味を想定して、われわれの性に関する取扱を子供の図書館の規準並に引きさげて満足してしまうほど怠惰ではありえない。」と判示している。(U.S. v. Kennerley 209 F 119)そして1930年代近降、アメリカの法廷は一般的にヒツクリンテストを適用するのを拒否してきた。その代表的なものが1934年連邦ニユーヨーク地裁、ラーネツド・ハント判事によるユリシーズ事件である。ユリシーズの輸入を禁止した税関は敗訴し、更に連邦高裁でもウールゼイ判事によつて、ジヨイスのこの作品はわいせつ文書でないとされた。(代表的ケースとしてU.S. v. One Book Called Ulysses 5 F.Supp. 182. 1933: U.S. v. Levine 83 F.2d 156, 1936 Commonwelth v. Isenstadt 318 Mass. 543.62 1945等、ロス判決以前の合衆国の判例の傾向については時国康夫「アメリカにおける猥褻な書籍に関する法と判例」法律時報29巻6号9号参照)
[39] 合衆国の裁判所においては、屡々この種の事件が問題となり、言論の自由との関係において論ぜられてきたが、連邦最高裁がこの問題を正面からとりあげたことは1957年のロス事件までなかつた。1957年以降、連邦最高裁は、猥褻法の規定と適用に関する重要な判例を次々と出し、その統一的見解がほぼ明らかにされるに至つた。蓋しそれはわが国最高裁のチヤタレイ判決以后のことである。
[40] ロス・アルバート事件(Roth v. U.S. 354 U.S. 476)において、連邦最高裁は、猥褻罪と憲法の関係を論ずると共に、「読者の淫わいな興味にアツピールする文書」と「性を取扱つた作品」とを区別し憲法上の適用に差を設けたのである。
[41] まずロス・アルバート事件を考えるに当つて、そのケースの内容を考えておく必要がある。
[42] ロス事件ではわいせつな文書の郵送を禁止し処罰した連邦法の合意性が争われ、アルバート事件ではわいせつ図書等の販売やわいせつな広告の出版を処罰したカリフオルニア州法の合憲性が争われた。こゝで注意しなければならないのは両事件とも法律の合憲性が問題とされたのであつて原審で有罪とされた文書がわいせつではないとか、法の適用の誤りを主張した上告理由はないし、もちろんそれについての判断はされていないことである。両事件で問題となつた文書の内容は具体的には分らないが、このような上告論旨からみて、社会的に価値のある作品と主張できないような性質のものであつたことは間違いない。それは被告になつたロスとアルバートについてウオレン長官がのべていることからも明らかである。ウオレン判事は、ロスもアルバートも、読者のエロテイツクな興味をそそるために、広く広告した書物やグラフ類を取扱つていることを有罪の理由にあげている。つまり彼らはエロ的な際物出版のみを扱う業者であつた。
[43] ロス事件の判決内容については第一審において伊藤教授が詳しくのべられたところであるが、これを整理すると、
(1) わいせつ文書は修正1条による言論の自由の保障はうけないから、その処罰法規は違憲ではない。
(2) しかし性とわいせつとは同義語でない。性は人間と社会の重大な関心事である。
(3) わいせつな作品とは淫わいな興味にアツピールするような仕方で性を取扱つた作品をいう。
(4) わいせつの判断は、個々の章句ではなく、作品全体としての、支配的なテーマを対象とすべきである。
(5) わいせつの判断は青少年や感受性の強い人ではなく、平均的な人を規準とすべきである。
(6) (4)と(5)の規準に反するヒツクリン規準を適用することは違憲である。
[44] これは、ブレナン判事を始めとする5人の判事の多数意見である。
[45] ところで、この(1)の判旨については、ダグラス、ブラツク両判事が、わいせつの概念内容が不明確であり、言論の自由を侵害するものだから、その取締法規は違憲であるとして反対意見をのべている。またウオーレン判事は結論は多数意見と同じであるが、論旨は全く異つている。(3)(4)(5)(6)の諸点は、別にそれぞれ詳しくのべることにしこゝでは直接憲法問題についてみると、ロス事件ではいかにも、わいせつは憲法の保障をうけないと云い切つているようにみえる。しかし、わいせつと性とを峻別し、性に関する論述には、完全に修正1条の保障を与えている。しかし、現実に“わいせつ”と“性の論述、描写”とは区別できるものであろうか。ドイツの学者でさえ、この両者は密接に触れ合うものだといつている。(Frank. Strafgesetzbuch fuer das Deutsch Reich 3u4 Aufl. S.249)
[46] ロス・アルバート事件の場合、どちらの被告も社会的価値を主張できないような種類の文書が対象となつたから、この困難に正面からぶつからないですんだのであるが、果して“わいせつ”と“性の論述”との中間領域にあるもの、例えば性文学についてはどうなるのであろうか、ということが、ロス事件以后の重大な問題であつた。そしてこの領域にこそ、本件問題の焦点がある。連邦最高裁も、次第にこの問題に直面した。
[47] ロス事件に引続いて連邦最高裁は4つのケースについてパーキユリアムの判決をした。その何れもが控訴裁判所で有罪とされたものを連邦最高裁がロス事件の先例をひいて破棄し無罪としたものである。
[48] 判決の対象となつたのは
一は「愛欲の遊戯」と題する映画のケース。
二は多くの裸体写真がのつているヌーデイストとモデル嬢の写真集。
三は「一体(One)」という同性愛の雑誌。
四はヌーデイストの「日光と健康」という雑誌。
であつた。これは連邦最高裁がロス事件にいう「読者の淫わいな興味にアツピールする作品」という定義をいわゆる「わいせつのためのわいせつな(dirt for dirt sake)作品」に限定し、憲法上の保障の対象となる「性を取扱つた作品」をできるだけ広く解している証左である。(尚この最近の連邦最高裁の判例の意義と傾向については、Lockhart & macclure: The Developing constitutional Standard: Minnesota Law Review 5,1960に詳細な解説がある)
[49] そして1959年有名な「チヤタレイ夫人の恋人」の無削除版の発行と、この映画をめぐつて、合衆国の裁判所は、次々と劃期的な判決をするに至つた。まず「チヤタレイ夫人の恋人」無削除版は例によつてニユーヨーク郵政長官によつて「わいせつ文書」であるとして郵送が拒否された。この処分の取消を求めて、出版社のグローヴ書店が郵政長官を相手として訴えた。この訴訟は、連邦地裁および高裁において何れも「チヤタレイ夫人の恋人」は「わいせつ文書」ではないとして出版社が勝訴し、郵政長官は上告を断念して、事件は確定した。
[50] 特にブライヤン判事の起草したニユーヨーク連邦地裁の判決は、従来の判決を整理し、正面からこの問題を詳述している。(Grove Press Inc. v. Postmaster of the City of New York. July 1959. 判決全文はMaccormick & Macinnes. Versions of Censorship P232以下に収録されている)その主要な点は、それぞれの箇所でのべるが、憲法上の問題として注目されるのは、「チヤタレイ夫人の恋人」における性描写のすべてが婚姻外の性関係すなわち姦通の描写であり、しかもローレンスはこれを肯定的に書いていることが論争の一つの重要なポイントになつたことである。この点についてブライヤン判事は次のように判示した。
「わいせつか否かは、この本やその章句が悪趣味であるとか、シヨツクであるとか、個人の感性、あるいは社会の主要な構成員の感性すらも傷けるかどうかということできめられるのではない。またわれわれは、コンスタンス・チヤタレイのモラルを社会が承認するかどうかということとも無関係である。この法(わいせつ文書の郵送を禁じた法)は、この小説の中で書かれているモラルや表現されている理念が一般社会に承認されているモラルに反するかどうかを考えて、その理念やモラルを規制するものではないし、そのようなことをするのは憲法違反である。…
 思想の伝達を妨げるかもしれない拘束を最も厳格に制限することは、自由な社会を維持するために本質的なことである。その思想が政治文書や政治的、経済的、社会的理論或いはその批判のための著作によつて現わされていようと、芸術的方法を通して表現された思想であろうといさゝかの差別もない。定評ある出版社によつて通常の方法で発行され販布された文学作品は、汚れた心をくすぐることによつて利益をうることを目的としてひそかに販売される春本(Pornography)とは根本的に異つている。裁判所では偉大な芸術や文学作品を抑圧するために『わいせつ物取締法』(Obscenity Statute)が用いられることを、深刻かつ正当に懸念してきたのである。……“わいせつ”を理由として『チヤタレイ夫人の恋人』の郵送を禁止するような法は自由な社会にとつて有害である。わいせつ物取締法をそのように解することは、その適用において法を違憲ならしめるものであり、言論出版の自由を保障した修正1条に違反する。」
[51] 「チヤタレイ夫人の恋人」に関する第2の事件は、日本でも上映されたその映画の上映禁止処分をめぐる事件であつた。これはまず映画の上映が禁止され、更に訴願をうけたニユーヨーク大学の評議会もその上映禁止処分を支持したのであるが、その理由の主たるものは、この小説のシーンが性的に不道徳であり、特に姦通を好しい、正当な行為として表現しているというところにあつた。
[52] ニユーヨーク地裁は大学評議会の決定を無効としたが、控訴裁判所は、地裁の判決をくつがえした。そこで事件は連邦最高裁へ上告された。
[53] 連邦最高裁は1956年6月全員一致で高裁判決を破棄し、映画会社勝訴の判決を言渡した。(Kingsley International Pictures Corp. v. Regents of the Univ. of N.Y. 360 U.S. 684(1959))
[54] この理由は判事によつて分れているが、多数意見は、不道徳な観念を唱道するような性的イデオロギーも憲法の保障をうけるということが述べられている。マツクルアー教授のいう「イデオロギー的わいせつ」(Ideological obscenity)が全面的に言論出版の自由の保障をうけることを確言した点においてまさに劃期的な判決であつた。(Lookhart & MacClure, Opcit)そしてこゝに、ロス判決において不明確であつた、処罰の対象となる「淫わいな興味をそゝる作品」と、憲法の保障をうける「性を取扱つた作品」との区別を実際の例において最高裁がいかに考えているかが明らかにされた。
[55] このように合衆国の裁判所は、猥褻取締法の適用について、芸術的その他の社会的価値を尊重すべきであるとの態度を次第にはつきり示すようになつてきた。殊にその性的描写が、性に関する思想の表現としてなされたものであるとき、正面から表現の自由の保障を与えている。この点原判決は、性的描写と性的に不道徳なイデオロギーの唱導とを峻別し、后者なる故に猥褻とするものではないとのべているが、これはむしろ当り前である。性的描写が性的イデオロギーの表現としてなされているものである以上その性的描写についても憲法上の保障が与えられねばならないというのが、判決の趣旨であり、観念自体にわいせつ罪の適用がないことを指しているのではない。
[56] 単なる読者の興味をそゝるための性的描写と、性的イデオロギー等社会的に価値ある観念の表現としての性的描写とでは、憲法上の保障とわいせつ罪の適用を異にするという点に、最近の合衆国の判例の極めて重要な特色が存するのである。

(四) ドイツの学説
[57] 最后にドイツ刑法184条(これはわが国刑法175条と同趣旨の規定である)に関する学説を検討する。
[58] 最も代表的なものはビンデイングであるが、彼はこのようにのべている。
「真正な学術的作品は、たとえその資料がいかに淫猥であろうとも、わいせつではない。又真正の歴史的資料はわいせつではないし芸術作品は、以下の傾向が作者の意図に基くものであろうと反する場合であろうと、観察者又は読者の性的興奮に向けられた場合にのみわいせつである。
 個々のわいせつな附加的部分は、その文書或いは表現をわいせつとするものではない。」(Binding, Lehrbuch des Gemeinen Deutschen Strafrechts, B-2Aufl. S 215)
[59] このビンデイングの見解はわが国においてもつとに団藤教授が紹介されており、その相対的わいせつ概念は、ドイツの支配的学説であり判例にも取り入れられている。
[60] 芸術的作品を春本などと同じように取扱つてならないということは、何もビンデイングに限らず、殆んどの学者の指摘するところである。
[61] ヴエルツエルは、
「平均的、標準的(正常な)性的羞恥心を粗野に(groeblich)傷つけ、性的興奮をおこされるのはわいせつである。
 羞恥心を傷けるという単に客観的な性格だけでは十分でない。なぜならこのような性格は真面目な科学的、芸術的作品ももつているし、その科学的、芸術的目的が客観化されて作品に現れている限りは、わいせつではありえないからである。芸術的作品の定義は難しいが全体が芸術的に筋が通つていることが基準とされ、感覚的刺戟のみを目指しているものは芸術的構成が欠けている」(Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 5Aufl. S 351)
[62] メツツガーは、
「わいせつな作品は、科学的、教育的、芸術的性格をもつ作品とは区別される。芸術的表現も性的興奮をよびおこすことはありうるが、しかしそのことのみによつて、いまだこの表現をわいせつということはできない。」(Mezger, Strafrecht II 5Aufl. S.94)
[63] ライプツイガー・コンメンタールは、
「一箇の文書が本質的に科学的又は芸術的興味に奉仕する場合には、一定の目的のために猥褻な説明が組み入れてあるということによつて猥褻文書となるものではない」(Leipziger kommentar, 2Bd 6-7Aufl. S.110)
[64] フランクは、
「この意味での性的意図と対象をなすものとし学問的、芸術的意図が存する。しかし後者の意図も性的意図と非常に密接に関係することがありうる。何故なら、全ての芸術作品は、そこに表現された状況の心理描写や追感、追体験を予期している故に、芸術的意図は性的興奮をよびおこすこともあるからである。しかし、そこに区別はある。芸術的意図は芸術的美の喜びのために性的興奮をよびおこそうとするのに対し、性的意図は単にそれ自体を目的として性的興奮をよびおこそうとするものである。換言すれば、性的刺戟が単に芸術的目的の手段であるならばその意図は芸術的であり、性的刺戟のかなたに理念目標が存在しなければその意図はわいせつである。支配的学説はこの点について、表現は異つているが本質的には一致している」(Frank, Strafgesetzbuch fuer das Deutsch Reich, 3u4 Aufl. S.249)
[65] フランクがいうように、芸術的作品を、わい本と同じように取扱う、同じように処罰の対象とするような説は、少くとも支配的学説としては存在していないのであり、芸術や科学作品をいかにわい本と区別して法的保護を与えるかに、この問題の中心があるのである。
[66] このように、世界の文明国の立法、判例、学説は、芸術的、学問的に価値ある作品に対し猥褻罪を適用することに制限的であり、常にその社会的価値を法的判断の重要な資料としているのである。両者を別個の問題であるとするような考えは、今日存在していないといつてよい。
[67]原判決はこのような事実を認めつつもなお
「これ等の諸国における動向は、わが国の法解釈に多くの示唆を与えるものではあるが、これ等はいずれも、その国特有の性的倫理観念、猥褻に関する一般的ならびに法的観念に基くものであり、にわかに事情の異るわが国の法解釈の指針とすることはできず、本件においても、その考え方は採用できなかつた」
旨判示している。弁護人は何も外国がそうだから、わが国でも同じにしろなどと軽卒に論じているのでは決してない。しかし、本件はまさに、言論出版の自由、学問の自由に関する問題である。法と文化の原理に通ずる問題である。それは事柄の本質において、国境を超え、人種を超えて、共通するところが多い問題である。到底「にわかに事情の異るわが国の法解釈の指針とすることはできず」などと言い切れる問題ではない。一体具体的に、猥褻罪の規定を社会的価値のある作品に適用するについて、どこにわが国の特殊事情があるのであろうか。性的観念においても、法の解釈においても、わが国のみひとり百年前の規準を墨守すべき特殊事情があるとは到底考えられない。もしそう考えるとすればそれは余りに卑下した考えである。諸外国においても、百年前のヒツクリン・テスト時代は、チヤタレイ最高裁判決のような考えが支配していた。それが歴史的、社会的に否定され克服されて、今日共通して先にのべたような立法、判決、学説が支配するに至つたのである。わが国において、もし困難があるとすれば、それは7年前のチヤタレイ事件の最高裁判決に他ならない。しかしこれとて、今日の法と文明の基準の前には絶対とはいゝ難い。又絶対であつてはならないと信ずる。いたずらに抽象的思考法による「わが国の特殊事情」なるものを強調することなく、問題に共通する本質からして、再検討されるべきであると考える。
[68] そこで、果して、現在、自由主義を建前とする文明国が採用している右の如き理論が、わが国憲法及び刑法の下では採用しえぬものであるか否かを検討したい。
[69] 第一に、作品の社会的価値を尊重し相対的わいせつ概念を認めるドイツの判例、通説は、ドイツ刑法184条に関するものであるが、この条項は、わが国刑法175条と同一のものである。184条1項1号の全文は次のとおりである。
「184条――次に記す者は1年以下の軽懲役及び罰金又はこれらの2つの刑の1つをもつて罰する。
 猥褻な文書、図画又は表現物を販売に供し、販売し、分与し、公衆の出入りすることのできる場所に陳列し、若しくは貼り出し又はその他販布し、販布の目的で製作し、若しくは同じ目的で貯蔵し、広告し若しくは推賞する者」
[70] これはわが国刑法175条と全く同趣旨である。然るにドイツの学説、判例はこの答弁中でふれるすべての点において、わが国最高裁チヤタレイ判決と全く異つた見解をとつている。その相違をわが国刑法175条とドイツ刑法184条の相違の故にすることができるであろうか? その不可能なことは2つの条文を対比しただけでも明らかである。
[71] 第二に、合衆国の判決は、わいせつな(Obscene)本の郵送を禁止する連邦法或いは青少年などにわいせつな本や写真等を売ることを処罰した州法に関するものであるが、こゝでは常に“Obscene”という言葉が問題となつているのである。これはわが国語に訳せばまさに「わいせつ」である。フランスの1939年法(これによつてサドの作品の出版が処罰された)の如く、「善良な風俗に違反する」という「わいせつ」とはカテゴリーを異にする文言についての判例ではない。又合衆国には、イタリー刑法529条或いは英国1959年4条1項のような趣旨を定めた明文の規定は何もない。「わいせつな」本や図画を取締る法が存するのみである。にもかかわらず、合衆国憲法修正1条との関係において、イタリー刑法、英国1959年法と同趣旨の問題が提起され、同法の下と同じように解釈適用が行われている。すなわち、このことはわいせつ文書の取締法の文言がいかにあろうとも、憲法において、言論出版の自由を保障している以上、必然的に生じてくる問題ということができよう。それは決して刑法などの下位法規にこゝでのべる問題について明文の規定が有るか無いかという末梢的問題ではない。
[72] 合衆国のこの種判例は常に修正1条をめぐつて展開されてきた。それは修正1条と同趣旨の規定であるわが国憲法21条の解釈適用として、重大な関連がある。
[73] 合衆国憲法修正1条に基く重大な問題がわが国憲法21条の場合は問題にならないなどということがあつてもよいであろうか。それほど、わが国の憲法および憲法の精神に基く法解釈が合衆国のそれに比して劣つていると考えてよいであろうか。若しその間に決定的差異を見出す人があるとすれば、それはまさに自由の本質を見失つた者といわざるをえない。
[74] 第三に、英国の1959年法にしても然りである。いうまでもなく英国には成文憲法はない。しかし言論出版の自由は社会的に広く承認され尊重されている。1959年法は立法として非常な進歩であるが、英国の有為なる裁判官たちは、既にそれ以前にこの法と同一の見解の下に法を解釈、運用してきたのである。このことは、既にステイブル判事等の例でのべたとおりである。1959年法の立法により法的安定性と法の運用解釈の劃一性が保障されたことは確かであるが、このわいせつ罪に関する見解は、立法によつてのみなしえたものでないことは銘記する必要がある。
[75] 以上の点をみるならば、原判決の如く「わが国の特殊事情」によつてこれを排斥すべきものではなく、わが国憲法及び刑法秩序の下においても、これら諸外国の理論を取り入れることは優に可能であり、又取り入れる必要が積極的に存するのである。そしてわが国の有力な学説もこれを肯定し主張しているのである。
[76] わいせつ性の法的判断をなすに当り、その作品の社会的価値を尊重すべきであるとの議論は、わが国の刑法解釈理論としても、最近の学説において、強く主張されているところである。
[77] 現に第一審の証人として供述した伊藤正己教授によれば、
「本来憲法上評価できるような価値のないものについて、これを押えることを目的としている猥褻罪法は違憲ではない。しかし逆に、わいせつ罪が広く解釈され適用されて社会的価値のある文書に適用された場合には当然憲法上の問題が提起される。わいせつ罪の適用上は、当然憲法の表現の自由の制限を受けねばならない。」
とし、詳細に英米において、法律上、社会的に価値ある作品が保護されている所以をのべた上、わが国憲法上もその考え方を入れるべきである旨論述している。(第一審記録中、証人伊藤正己の証言調書参照)
[78] 奥平康弘助教授も同趣旨のことを繰返しのべておられる。(法学セミナーNo.77号、法政論集20号)
[79] 又、刑法理論としても、団藤重光教授は、チヤタレイ事件の最高裁判決に反対し、「まじめな思想的主張をもつた、しかも芸術的価値の高い作品の発表を罰則でもつておさえるということは、表現の自由との関係でいつたい許されるものであろうか」とされ、正当に扱われた科学書、芸術書を保護し、他方その不当な取扱を防ぐために、相対的猥褻概念を採用すべきことを強調される。(「チヤタレイ裁判の批判」中央公論昭和32年6月号)
[80] 井上正治教授は「芸術性と猥褻性とは原則として両立しがたい。芸術作品に表現された場合は全体としての芸術的価値のため浄化され、猥褻性を失う」とされる。(刑法各論226頁なお判例評論54号参照)
[81] 前田信二郎教授も、チヤタレイ判決を頂点とするわが国裁判所の伝統的な考えに強く反対して、その理論を展開される。(刑法講座5巻「猥褻の意義」)
[82] 古くは美濃部達吉博士も、夙にこの問題を指摘して警世の言をなしておられる。すなわち大正12年の改造7月号に掲載された藤森成吉の小説「犠牲」が風俗壊乱で発売禁止の処分を受けた時、美濃部博士は次のように論評された。
「『風俗壊乱』について禁止せらるべきは、唯学問的又は芸術的に存在の価値なきものに止まらねばならない。このことは特に注意を要する。男女の関係は人生の最も重要な事実であつて、それが学問上の研究の対象となり、芸術品である限りは、禁制品たるべき理由はない。禁制品たるべきものは唯学問的著作又は芸術品を以て目することの出来ない、単に猥褻そのものを目的とする作品に限らねばならない。」(「改造」大正12年8月号)
[83] 美濃部博士のこの言をもつて、芸術至上主義ないし学問至上主義として片付けることはできないであろう。博士の言は、単に学問、芸術を尊重するのみならず、法の精神をこそ尊重する考えによるものである。
[84] このように、わが国の学説は、猥褻罪を社会的に価値ある作品に適用するについて否定的ないし慎重である。少くも作品の社会的価値を法的判断から除外するという非文化的な法思想に強く反対しているのである。
[85] 又、チヤタレイ事件の以前において、わが国の判例は殆んどが春本春画に関するものであるが、多少なりとも芸術的に価値ある作品が問題になつたとき、大審院はこれに対し春本春画と同じく法の適用をするようなことはしなかつたことも注目に値する。
[86] 文展へ出品した朝倉文夫氏の婦人全裸像の写真を「平民愛知新聞」が紙面に掲載したところ、右の写真は風俗を害するから、新聞紙法41条違反であるとして、その新聞発行人が起訴された事案につき原審名古屋地裁は「一見人をして羞恥厭悪の情を惹起せしむべき風俗を害する妙令婦人の全裸体像写真を掲載したるものなり」として有罪を言渡した。弁護人よりの上告に対し、大審院は原判決を破棄し無罪の言渡しをした。(大正6年12月14日法律新聞1370号34頁)
「所論妙令婦人の全裸体像写真は原判決所掲の如く文展へ出品の朝倉文夫氏作品と題せるを以て即ち文部省美術展覧会彫刻部の審査員朝倉文夫の製作物にして本年度同会の陳列品たることを一般公衆に知悉せしむる為に掲載し其の目的は主として芸術奨励の趣旨に出でたるものと為すべく、之に対する読者の観念も亦自から芸術品たることの認識に外ならずと認むべく又写真自体も亦芸術美たる彫刻の影照にして肉体其のものの影照にあらざるを以て、仮りに其の技巧或いは実物に近く殆ど其の真に逼れるものありとするも之に対する読者の感受する刺戟も自ら微弱なりと認むべきものなれば、未だ人をして羞恥厭悪の念を惹起する虞ありと為すに足らず、随て風俗を害するの程度に到らざるものと謂わざる可らず」
[87] この当時においてさえわが裁判所は決して芸術的作品に対し無感覚でもなければ、その社会的価値を無視していたわけではない。「其の技巧は実物に近く殆んど其真に逼れる」物であつたとしても、なおその作品が全体として芸術的価値のある場合には、羞恥嫌悪の情をおこさせないとしているのである。
[88] 然るに、この問題を正面から論ずべきチャタレイ事件において、かつて最高裁は前述の如く、猥褻の法的判断と作品の社会的価値とは別個のものであるとし、原判決もこれに従つた。
[89] しかし、他面新憲法の司法権優位の理念に基き、刑罰法規の適用に際しても、裁判所は行為の違法性を単に形式的に解することなく倫理文化規範の根底にさかのぼつてこれに実質的な検討を加えようとする傾向が強く生じてきた。
[90] 例えばその行為が形式的に構成要件に該当する場合であつても、健全な社会の通念に照らしてみて、動機目的が正当であり、そのための手段方法が相当であり、緊急やむをえない事情が存し、その内容において、行為により保護される法益と行為の結果侵害されるべき法益との間に失われていないか、どうかの点が判断されてきたのである。このように、法益の均衡を考える場合においても、常に社会の倫理的、文化的規範が裁判所の判断の対象とされてきた。又、他方、名誉毀損の法理においても、人の名誉を毀損する表現は原則として憲法の保障をうけないけれども、しかしそれが公共の利害に関する場合には、真実証明が許され、構成要件阻却事由とされてきた。刑法230条の2はこの旨の規定であるが、このような明文の存否にかかわらず、この法理は広く世界的に認められるところである。このように、人の名誉を害する表現であつても、公共の利害に関する事項であつて真実であるならば、処罰の対象とならないのは、その表現が「人の名誉」という次元と別の次元において高い価値をもつからであり、その価値が表現の自由の本質に由来し、社会的に肯認されるべきものだからである。これとて、法は別の次元に属する問題として、てん然としているわけでは決してない。
[91] 人の名誉を毀損するような言動、つまり明らかにそのことによつて人を傷つける表現の場合であつても、なおそれが、一定の真面目な目的のもとに、公共の利益を増加させるようなものであるならば、刑事上の制裁を科することはできない。このことは重要な一般的法理を含んでいる。すなわち名誉毀損の表現は、一方では、たとえ真実であれ、否真実であればあるほど、被害者に重大なシツヨクを与える。近代社会においては、それは社会的致命傷を意味する。にもかかわらず、それが尚真実であり公共の利益を増進するものであるならば、敢てそれを刑法の枠外におこうとするのである。そこには明らかに法益の権衡が考慮されている。殊に、表現による公益の増進に対する高い評価が含まれている。蓋し、社会的に価値ある表現を保障することは、わが国法秩序の至上の要請とするところであり、刑罰法規の上でも、最大の考慮が払われねばならないからである。この考えは、決して、わが国刑法230条の2の条文をまつて始めて可能なのではない。合衆国及び英国では明文の有無にかゝわらず、表現の自由の本質に由来するものとして右と同一の見解がとられている。
[92] 猥褻な作品そのものが憲法上の保障をうけるかどうかは別としても、同じく原則として憲法上の保障をうけないとされる名誉毀損の表現についてこのような考え方は、わいせつ文書、特に社会的に価値あるわいせつ文書の場合にも、当然考慮されるべきであろう。このようにわが国の学説・判例の傾向をみても、猥褻罪の適用に際してのみ、対象となる作品の社会的価値を別次元であるとして犯罪の成立に影響を与えないとする考を裁判所がとることはむしろ奇異の観がするのである。
[93] そこには、合理的な理由を発見できない。
[94] 本件について最后に残る疑問は、検察官もその文学的、思想的価値を認めるのにやぶさかでない作品を翻訳出版したことによつて、裁判所は2人の市民を処罰してよいのか、ということである。
[95] 以上の点よりすれば、猥褻性と芸術性、思想性は次元を異にする概念であるとし、猥褻に関する法的判断から、作品の社会的価値の存在を除外する原判決の判断及びその引用するチヤタレイ事件の最高裁判決は、わが国憲法が表現の自由、学問の自由を保障する趣旨に相反するものであり、刑法175条の解釈適用を誤まるものである。

[96]第二点 原判決が何ら新しい証拠調べをすることなく、原審の認定を覆し、無罪判決を変更して有罪判決を言渡したことは、最高裁大法廷昭和31年7月18日判決に違反し右は同時に憲法第31条(適正手続の保障)および第37条(公開裁判の原則)にも違反する。

[97]、原判決は、第一審裁判所が
「本件訳書は、これを全体としてみた場合、その内容が、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な道義観念に反するものと認められるにもかかわらず、性欲を徒らに刺戟または興奮せしめるものとは解されず、したがつて、刑法第175条にいう『猥褻の文書』に該当するものではないので、被告人両名が、これを販売し、または販売の目的をもつて所持した行為は罪とならない」(第一審判決39~40頁)
として、被告人両名を無罪とした判決を変更し、
「本訳書の問題部分は、原判決ならびに弁護人の見解にかかわらず、徒らに(過度に)性欲を刺戟せしめるに足る記述描写であると認められる。」(判決7丁裏なお傍点弁護人)
として右の第一審判決を破棄し、
「本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審において取り調べた証拠により直ちに判決することができるものと認められるから、同法第400条但書により更に判決する」
と判示し、いわゆる破棄自判の有罪判決をしていることは判文上明らかなところである。
[98] また原審が如何なる意味でも、控訴審としての刑訴第393条の事実の取調べを行うこともなく、従つて当事者には全く弁論の機会も与えられずに終始した事実も、公判調書によつて明瞭である。
[99] つまり本件では、第一審裁判所は、本書は徒らに公訴性欲を刺戟または興奮せしめるものではないと認定した上、法律判断としての「文書の猥褻性」を否定して被告人等をいずれも無罪としたのに対し、控訴審たる原審は、全く事実の取調べをなすことなく、第一審判決を被告人等の不利益に変更して有罪としている場合なのである。このような原審の訴訟手続は、結局原審が根拠とした刑事訴訟法第400条但書の解釈適用を誤つた結果であるが、それは右規定に関する昭和31年7月18日の最高裁大法廷判決をはじめとする、同判決以来重ねられている同旨判例に真向から違反するものといわなければならない。
[100] 右昭和31年の大法廷判決(最高刑集10巻1147頁以下)によれば、
「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が何ら事実の取調べをすることなく第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取調べた証拠のみによつて、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑事訴訟法第400条但書の許さないところ」
なのである。
[101] この大法廷判決には、田中(耕)斎藤(悠)、岩松、木村などの各裁判官が反対の少数意見をのべているが、それにも拘らず、多数意見たる右判旨は、その後も昭和31年9月6日の大法廷判決をはじめ、例えば、32、2、12(3小)、32、4、26(2小)、32、6、21(2小)、32、12、27(2小)、33、2、11(3小)、33、3、18(3小)、34、5、22(2小)、34、6、16(3小)、の判決などにみられるとおり各小法廷に受け継がれて、いまや確立された判例法上の定説となり、かつ学説上も殆ど異論をきかないものである。
[102] それは、まさにこの多数意見が、刑事裁判の大原則たる直接審理主義と口頭弁論主義を控訴審においても貫くのでなければ、憲法第31条の適法手続条項および同第37条の刑事被告人の防禦権保障の条項ないしその精神に悖るとの正しい立場に立つて、刑訴第400条但書を制限的に解釈し、その運用を志向しているからに他ならない。
[103] 原判決はその意味において、右に掲げた昭和31年7月18日言渡の大法廷判決および、これと同旨の多くの最高裁の裁判例に反して、事実の取調も証拠調べも、従つて又被告人の弁解も弁護人の最終意見も何ら直接に公開の法廷で聴くことなく、第一審の無罪を覆して原審で取調べた証拠の一部にもとづき、文字通りの書面審理に終始して、有罪認定をしたものであつて、明らかに刑訴第400条但書の解釈適用を誤つた違法ありといわなければならない。

[104]、ところで、右昭和31年7月の大法廷判決の判旨に関連して本件の場合次のような反論が考えられるであろう。すなわち、右判旨が明記しているように、問題の場合は、「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡している」が、果して本件の場合はどうか、ということである。この点原判決は「なお本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり……」という理由を附して「訴訟記録並びに原審において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められる」といつている(判決文14頁)が、右説示中前段はたしかにそのとおりであろう。しかしながら、本件訳書の猥褻性の判断が唯一の争点であるからと言つて、そのことが直ちに事実の取調をなすことなく、破棄自判して有罪認定を可能にする法律上の理由となるものではない。
[105] 何故ならば、第一審裁判所は、刑訴第336条前段の「被告事件が罪とならないとき」、つまり構成要件不該当を理由に被告人らの無罪を宣言したものであるが、いかなる意味でも、前記大法廷判決にいう「犯罪事実の存在を確定している」ものとは言い得ないからである。
[106] なるほど、特定の文書が「猥褻ノ文書」であるか否かは法的判断を含む。「猥褻」という概念は構成要件の規範的要素であるから、単なる事実判断のみではなく、法的価値意識を含んでいることは確かである。
[107] しかしながら、それは、裁判官が恣意的に判断すべきものでないことも論を俟たない。又純粋に法解釈のみの問題でもない。この点第一審判決は次のように判示している。
「作品が『徒らに性欲を興奮または刺戟せしめる』ものにあたるかどうかの判断は、事実認定の問題ではなく、裁判所が社会通念に従つてなすところの法的価値判断の問題であるけれども、作品の持つ性的刺戟の程度、存否については、これを審理に顕われた証拠によつて検証することは、無益でないばかりか、裁判所に、正常な社会人の良識という立場に立つ社会通念によつて客観的に判断すべきことが要求されるものである以上、無視しえないところと考える。よつて、審理に顕われた証言によつて本件訳書の読後感を検討すると……」
として、詳細に第一審で検察官、弁護人双方から申請され取調べられた証人の供述を分析し判断しているのである。
[109] この態度、判断方法は裁判所として極めて正当なものである。
[110] すなわち、本件の如き裁判において、最も危惧されるのは、社会通念の名において、裁判官の個人的な趣向、感受性による主観的判断がなされることである。裁判官の判断が最終的なものであるにせよその基盤前提には、証拠に基く社会一般人の読後感、或いはそれへの影響の有無、程度の検討がなされねばならない。それこそが、構成要件の規範的要素に対する裁判官の恣意的判断を防ぐ唯一の途であり、適正な裁判の要請に応える途である。
[111] 社会一般人への影響、その読後感に対する事実認定を無視して、法的判断の成り立たないところに、本件の如き裁判の重要な特徴が存する。
[112] 本件訳書が、これを読んだ社会の一般人にどのような読後感を与えたかは、まさに事実認定の問題である。(植松教授「猥褻の概念」総合判例研究叢書刑法(19)27頁、同「悪徳の栄え事件所感」法律のひろば16巻1号23頁)
[113] さればこそ、英米における刑事裁判の手続においても、当該文書が猥褻文書であるか否かは陪審の決するところとされている。(荒瀬豊、英国版チヤタレイ公判ノート、法律時報資料版3号51頁)このことは、猥褻性の判断すなわち、構成要件の規範的要素の判断が法の解釈のみに関するものでなく、陪審が決すべき事実認定及びそれを基にする事実判断の問題であることを端的に示しているのである。
[114] 本件においても第一審裁判所は、以上の如き見解の下に、詳細にその取調べた証人の供述を分析、検討した上、その認定した読後感を基盤にして
「その描写は、普通人である一般読者にとつては、殆んど性欲を刺戟興奮させるいとまのないほど、醜悪残忍な情景描写の連続であつて、本件訳書を通読することは相当の精神的苦痛と忍耐を要するものといわなければならない。……こうした描写から一般読者の抱く不快感ないし嫌悪感は、過度の性的刺戟に対して人間がその精神的面すなわち理性から反撥を感ずるところの性的羞恥感や性的嫌悪感ではない。……その加虐方法の徹底したあくどさ、陰惨さ、醜悪さに対して目を覆わんとする生理的な嫌悪感、不快感であつて、美にあこがれ、醜をしりぞける人間の自然的面すなわち本能に由来するものである。」
旨判断しているのである。
[115] もし、原判決が、これらの証言や、これに基く第一審判決の認定に疑問をもち、更にはこれを否定するのであるならば、須らく新らたに証拠調を行い、当事者のこの点に関する意見を公開の法廷において聴取すべきである。然るに、原判決は、全く突如として、何らの証拠調を行わず、第一審判決の基礎となつた引用の各証言の批判や再検討も行うことなく、その認定と正反対な認定をした上、本件訳書を「猥褻ノ文書」と判断し有罪を宣告したのであつて、かくの如きは、まさに冒頭掲記の最高裁判所の判例に違反するものといわざるをえない。

[116]、さらに原判決に示されている、猥褻性の判断基準、およびその判断に当つて考察すべき諸要素との関連において、右のような原判決の手続上の欠陥が招来する矛盾ないし適正裁判に対する実質的阻害について論及しておきたいと考える。
[117] あらためて指摘するまでもなく、原判決は第一審判決よりもさらに明確に、相対的猥褻性を認め(判決文12丁裏)、部分と全体との関係についても一種の全体説の立場に立つて(同文13丁表)いると思われる。そして右前段については、
「作品の特殊な性格、(学術書、科学書、医学書というような)出版方法(限定出版等)販売広告の方法如何により読者層が自から限定され、あるいは、一定の読書環境が想定される場合があることは争えず……中略……猥褻性の判断を如何なる人を基準として定めるかによつて、文書の猥褻性が相対的に認定されることになる」
としながら、
「ただ、これは前述のような特殊の場合に考えられることであつて、本訳書のように、普通の文芸書として出版され、一般に販売され、読者層も特別限定されていたとは認められないものについては、一般の普通人を基準としてその猥褻性が判断されるべきであつて、相対的猥褻の考え方をとるか否かはこの点の判断に影響はない。」
と断じている。
[118] 右説示中に指摘されている本書の出版および販売方法、読者層の範囲、程度等が純然たる事実問題であるということについては、恐らく何人も異論はないであろう。従つて少くともこゝで言いうることは、原判決のいう意味での相対的猥褻性であつても、右のような社会的事実との関連において猥褻性が決定されるものとすれば、当然第一審がそうしたように、出版方法や販売広告の方法等について被告本人の供述或いは第三者の供述ないし証言を公開の法廷で問題として取り上げられるべきであり、さらに裁判所は、読者層の範囲やその程度、階層などについて、読者カードの外、その読者中から抽出された証人の証言などを直接聴き、かつ弁護側の反対尋問にさらして公正な判断を期すべきことは当然の義務とされなければならない。
[119] 更に原判決は、猥褻性の捉え方は部分的に観念されるとする外はないとしながら、
「しかしながら、その部分も文書全体の一部としてその意義があり表現がなされているのであつて、問題となる性的描写の部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前後の状況等により、その猥褻性が影響され、また文書(作品)そのものの有する芸術性、思想性の故に、更にその作品自体から窺われる作者の問題を扱かう真面目な態度等により、その問題の部分の猥褻性の判断が影響されるということは、もとよりあり得るところであり、問題の部分を機械的に他の部分と切離し、全体を離れた断片として観察されるべきでないことは当然である」
と判示している。
[120] この判示は重要である。この原判決の論理によれば、本作品の芸術性、思想性の有無、程度、作者の問題を扱う真面目な態度等が、猥褻性の判断の前提となる「事実」として当然確定されねばならない。ところが、原判決は自ら、必要であるというこれらの事実を全く確定することなく、単に、
「本訳書の内容を通読検討した結果によれば、原判決のいうような関係で、当該性的場面の人に与える刺戟、興奮が、全く消失するか、或いは、社会通念に照し問題とならない程度に萎縮されているとは到底考えられないのである」
として、僅か数行で猥褻性を認定している。
[121] これでは、一体原判決が、判断に必要である思想性、芸術性の存否をいかに認定したか、作者の真面目な意図等を認定したか一切不明であるのみならず、何ら確定していない事実を基にして、第一審と異なり一挙に猥褻性を認定したことになる。
[122] このように、相対的猥褻概念をとり、又いわゆる全体説を採用して、猥褻性の判断をしようとする以上は、それ以前に確定しなければならない事実問題が多く存在しているのである。
[123] 原判決がこれらの諸点に関して第一審と同じ判断に達し、被告人に不利益な結果をもたらさない場合ならば格別、第一審の判断と反対の結論を導くには、適法に法廷に顕出された証拠にもとづくべきであつた筈である。つまり原判決は、いわゆる全体説に立ち、更に限定的ながら相対的猥褻性の理論を採りながら、右のよう具体的に本件訳書の猥褻性判断に当つては、適正な証拠によらず、ないしは適正な手続を経ない違法を犯している。これがために、被告人および弁護人側は、この重要な争点の判断からは、手続上シヤツトアウトされ、しかも無罪から一転して有罪の認定を受けるに到つたものである。到底承服できないばかりでなく、この違法は最高裁における破棄判決によつてしか是正され救済される途はないのである。
[124] よつて原判決は破棄さるべきものである。

[125]第三点 原判決が、本件訳書をもつて、猥褻文書と判断したことは、刑法第175条の適用を誤つたもので判決に影響を及ぼすべき法令違反があり、破棄しなければ、著しく正義に反するものである。

[126]、すなわち、原判決は、猥褻性の判断は作品全体を通じてなさるべきか、あるいは一部分でも猥褻なら全体として猥褻なるか、について「文書の一部に猥褻部分があるときは文書の一体性からその文書が全体として刑法第175条の猥褻文書となるのである」と述べた上で、
「しかしながら、その部分も文書全体の一部としてその意義があり表現がなされているのであつて、問題となる性的描写の部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前後の状況等によりその猥褻性が影響され、また文書(作品)そのものの有する芸術性、思想性の故に、更にその作品自体から窺われる作者の問題を扱かう真面目な態度等により、その問題の部分の猥褻性の判断が影響されるということは、もとよりあり得るところであり、問題の部分を機械的に他の部分と切離し、全体を離れた断片として観察さるべきでないことは当然である。」
と説示し(13丁表)、猥褻性の判断が、当該部分の全体における位置関係、前後の状況、作品の芸術性、思想性、作者の執筆態度等により影響されるべきものであることを明らかにしている。しかるに、原判決が本件訳書において、その芸術性、思想性、作者訳者の執筆態度について、何らの判断を示していないし、又、当該箇所の全体における位置関係等についても判断を示していないこと、前述のとおりである。そこで本件訳書の猥褻性の判断に影響すべき本件訳書の芸術性、思想性、当該箇所の全体との関連性等について、説明すると、次のとおりである。

(一) サドの著作特に本件訳書の文学的思想的価値
[127] 第一に本書の作者サドの著作がその芸術的、思想的価値において人類の貴重な文化遺産であり、「悪徳の栄え」がサドの理解に欠くことのできない重要な作品であるということを強調しなければならない。
(1) サドの思想特に「悪徳の栄え」のもつ位置と意味
[128] 1740年6月、フランスの貴族の家に生れたサド侯爵は、1789年のフランス革命とそれにひきつづく動乱期に遭遇し、さまざまの数奇にみちた体験を経て、1814年、75才で死んだ。サドの著作が多くの分野ではたしてきた先駆者的役割は、今日高く評価されているが、それはたんに文学史的な評価にとどまるものではなく、その革命思想ないしはユートピア思想の社会思想史的見地からも又、医学的、心理学的立場からも、さらに又シユールレアリスム、実存主義のような20世記の芸術運動、思想運動の中でも、あるいは又、キリスト教ことにカトリツクの立場からもきわめて重要な意味を認められているのである。
[129] このサドの思想は、いわば18世紀啓蒙思想に対するアンチ・テーゼである。啓蒙思想が素朴な進歩主義、人間性の性善説に立つものであるのに対し、サドは人間性に本来的にひそむ悪、言いかえれば、暗黒面の徹底的な摘発者なのである。サドは既成の社会秩序や道徳観念をその根底から疑い、あらゆる世俗的価値観念を検証し、これを破壊し、こうすることによつて人間性の本質に迫ろうとした。
[130] こういう意味で、本件の対象である「悪徳の栄え」は、その正篇をふくめた作品の全体として、サドの思想の理解に不可欠な重要性をもつ。すなわち、この作品は「美徳の不幸」と副題されている作品と切つても切れない関係に立つもので、「美徳の不幸」は敬神と純潔を愛する娘ジユスチーヌが、生涯をつうじて美徳への信仰をすてなかつたがために、かえつてさまざまな怖しい不幸に出会い、最後は雷に撃たれて悲惨な死をとげるというテーマをもつのに対し、この「悪徳の栄え」は、ジエスチーヌの姉であるジユリエツトをヒロインとするもので、涜神と悪徳の権化のようなジユリエツトが、生涯をつうじて悪の道に精進したがために、栄耀栄華をきわめる、というテーマをもつ。つけ加えて言えば、ここにはたんにいわゆる勧善懲悪思想の裏返しがあるのではない。世俗的道徳の根本からの否認がこの作品のテーマなのである。
[131] それ故、この作品に典型的にみられるようなサドの思想が、今日のわが国においてもなお、一見きわめて反道徳的、反教育的にみえるかもしれない。しかし、反道徳的、反教育的な作品であつても言論、出版の自由の範囲内にあることは、われわれが多くの不満をもつチヤタレー最高裁判決すら明言するところである。
(2) サド文学が歴史的、社会的背景――サドの文学史上の価値
[132] このようなサドの思想は、いうまでもなく、18世紀フランスの歴史的、社会的背景の理解なくして十分に理解できないものであるが、同時にこのようなサドの思想の理解なくして逆に、18世紀フランスの社会的、歴史的状況も又理解しがたいのである。
[133] これまで18世紀フランスは「ヴオルテールの世紀」といわれてきた。これは、フランス革命の思想的基盤を準備したヴオルテール、デイドロ、エルヴエシウス、ダランベール、ルソー等の啓蒙思想家たち、いわゆるフイロゾーフたちの文学思想が18世紀を代表すると考えられてきたからであり、さらにこれら啓蒙思想家の思想はコンデイヤツク、コンドルセ等のいわゆるイデオローグたちに承継され、これらイデオローグたちは1789年の革命ののち、1794年のテルミドール反動から1799年のブリユメール18日のクーデターにいたるいわゆる総裁時代の時期に、ひとつの政治的かつ思想的グループとして活躍した。これらイデオローグの研究は、ごく最近になつてわが国では問題になりはじめたが、かれらはあくまで政治思想家であり、一方、ルソーやヴオルテールらのフイロゾーフからは革命直前までの文学しか示されない。言いかえれば、フランス革命の時期及びその後の文学については、殆んど空白のまゝ研究がなされてこなかつたと言つてよい。
[134] サドはこの点で極めて特異な位置を占めている。サドは貴族の家に生れながら、革命前の絶対王朝政府により13年余の監獄生活に余儀なくされ、さらに革命後も修道院での監禁、投獄、さらに精神病院での監獄等、その生涯のじつに27年間を社会から隔絶された状態でおくり、絶対王朝権力に対しても、又、ブルジョワ革命政府に対しても、要するにあらゆる外的権力に対する徹底的な反抗者として生きたのであり、現代フランスの哲学者作家アルベール・カミユはサドをもつて反抗思想の歴史的な最初の人物として論じている。
[135] いわば、サドの作品研究とは、フランス18世紀研究にさいして1789年の革命前後の動乱期の所産としてもつとも独自の位置にありながら、これまで不問にふされたままにあつた領域に、光明をもたらすものなのである。
(3) サド文学の現代的意義
[136] こうした18世紀フランスにおいてサドが占める特異な位置に加えて、今日のわが国においてなお、サドが読まれることの必然性、その現代的意義を明らかにする必要がある。
[137] それは第一に、すでに述べたように、サドはフランス革命の前後をつうじて、社会秩序に、又これをささえていたキリスト教文明や啓蒙思想に、又こうした社会秩序がもたらしたもろもろの道徳的、宗教的固定観念に、徹底的な反抗をおこなつたのであるが、こういうサドの姿勢は第2次大戦を経て苛烈な社会的情況の下におかれた現代の知識人にとつて、決して無縁なものではないからである。
[138] さらに又、サドは「性」の追求によつて、人と人との関係、自己と他者との関係、主人と奴隷との関係の本質的なものを探究し、支配=被支配という現代的問題を予感し、実存主義その他の現代的思想に重大な影響を与えているのであり、さらにはサドが牢獄その他の監獄状況で殆どの作品を書いたいわば牢獄文学者であることから、事実上又精神上同様の監禁状態におかれた20世紀の多くのすぐれた文学者の注目するところとなつているのである。
(4) サド文学の現代思想および文学に及ぼしている影響
[139] サドは19世紀の間殆ど埋れていたとは言え、以上に述べたようなサドの思想的、文学的重要性を考えれば、サドが現代文学に大きな影響を与えていることは決してふしぎではない。
[140] まずヨーロッパについて言えば、第一に「19世紀中黙殺されていたかに見えたこの人物サドは20世紀を支配するであろう」と述べた詩人アポリネールを先駆者とするシユールレアリスムのグループがあげられる。シユールレアリスムすなわち超現実主義はフロイドの無意識や夢の学説を芸術の領域に導入し、同時に道徳や社会的抑圧や政治的疎外を完全に撤廃することを主張した20世紀前半、第1次大戦後の芸術運動であつて、アレドレ・ブルトン、ポール・エリユアール、ロベール・テスノス、サンヴアドール・ダリその他がこれに属し、文学及び絵画の20世紀的発展に大いに貢献した。
[141] 次にはジヤン・ポール・サルトルを代表とする実存主義のグループがあげられる。実存主義は第2次大戦後の代表的思想であつて、その哲学は自己と他者との関係を出発点とするので、サドが提起したさまざまな人間の関係、サデイズムとよばれ、マゾヒズムとよばれる人間関係を存在論としてとらえ、又、従来の哲学がとかく等閑視してきたエロテイシズムの問題にも鋭い関心を示している。サルトルの他、シモーヌ・ド・ボオヴオワール、ジヨルジユ・バタイユ、モーリス・ブランシヨ、ピエール・クロソウスキーらのこのグループの哲学者文学者はそれぞれサドに関する重要な発言をしている。
[142] 又文学史家としても、たとえばオクスフオード大学教授マリオ・プラーツは、サドをロマン主義につうじる重要な源としての位置づけを試みている。
[143] わが国について言えば、人肉食を主題とした作品「野火」で知られる大岡昇平、生体解剖事件に取材した「海と毒薬」で知られる遠藤周作、多くの監禁状況を主題とする作品を書いている大江健三郎、その他埴谷雄高、三島由紀夫、武田泰淳等わが国の代表的な多くの文学者からサドは重大な関心を寄せられている。
(5) サド文学の宗教的意味
[144] 前項においてわれわれは主として文学的芸術的領域におけるサドの意味と影響について述べたが、サドは又キリスト教ことにカソリツクの側からも極めて注目されている。本件訳書「悪徳の栄え」(続)においても、ローマ法王に対する甚だしい冒涜的表現がみられることは事実である(92頁以下)が、しかも、サドはあらゆる教義から解放された人間性の徹底的な追求者として、裏返しにされたキリスト教徒、神をみなかつたカソリツクとして、「悪の華」の作者シヤルル・ボードレール等と同様に、重大な関心を寄せられているのである。
(6) サド文学の社会思想史上の意味
[145] さらに社会思想史におけるサドの位置とその重要性について言えば、さきにもふれたように、サドの生きた時代はフランス革命にまたがる啓蒙主義の時代であり、フイロゾーフとイデオローグの時代であつた。モンテスキユー、コンデイアツク、エルヴエシウス、ヴオルテール、デイドロ、ダランベール、ルソー、ドルバツクらの啓蒙思想家たちは、デカルト的唯心論の面を排除し、イギリス経験主義を採用した合理主義的実証主義という唯物論的立場を採りながら、ある者は理神論の立場にあり、ある者は無神論の立場にあつた。サドはこれら啓蒙思想の影響をうけながら、より徹底的な方向に向つたと言いうる。啓蒙主義の自然観には、自然は善であり、自然に従うことが幸福であるという共通概念があつた。しかし、サドはこのような自然観は採らない。サドはルソーの社会契約論を神話にすぎないと考え、法律は土地の気候や人口や風習のいかんに係わるというモンテスキユーの「法の精神」における説に対し、サドは、個人はそれぞれ異つているが故に普遍的道徳もありえず、普遍的法律も不可能であり、さらに相対的法律も相対的であるが故に架空のものにすぎないとして却けたのである。かゝる意味においてサドは近代無政府主義その他の政治思想に密接な関係があると評価されている。
[146] 以上その一端を述べたが、かようにしてサドの作品は、社会思想史的にみても、看過しえない特異性と重要性をもつている。
(7) サドおよびサド文学が近代医学心理学に及ぼした影響
[147] 次に近代医学、心理学の分野について言えば、サドその人から名つけられた言葉サデイズムが示すように、サドの生涯とその著作は、1887年ソルボンヌ大学知覚生理学実験所長チヤールス・ヘンリーが研究に着手して以来、多くの医学者、心理学者に貴重な資料を提供してきたのであり、ハヴエロツク・エリスやフロイトの所説に対してサドが決定的な影響を与えていることも周知のとおりである。
(8) 第一審判決の認定
[148] 右に述べた点について、原判決が何らの判断を示していないこと前記のとおりであるが、第一審判決はまことに正確かつ正当な認定を示しており、訂正変更の必要を認めがたいのである。
[149] すなわち、第一審判決は第20頁13行目以下において次のとおり述べている。
「本件訳書は、変態的猟奇的性格および反権力的行動から、しばしば投獄され、遂には精神病院でその生涯を閉じたと伝えられるフランス18世紀の作家マルキ・ド・サドの著作である『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』の抄訳の後半部であつて、その標題が示すように、被告人渋沢の抄訳にかかる『悪徳の栄え』正編に続く、主人公ジユリエツトのヨーロツパにおける遍歴の物語であり、彼女が、その生涯を通して悪徳と涜神の限りを尽したがゆえに、かえつて栄燿栄華を極めるというテーマをもつ作品である。検察官が指摘する14箇所は、主人公ジユリエツトと法王、貴族、警察長官、大盗賊その他さまざまな登場人物との間に奇矯な姿態、方法による乱交、鶏姦、口淫、同性愛等が次々とくりひろげられる性的場面であるとともに、こうした性的行為のさ中に、あるいはその前後に稀代な道具を用いる、殺人、なぶり殺し、鞭打、拷問、火あぶり、集団的殺戮等が情容赦もなく繰り返えされる残虐な場面であつて、これらの場面は、すべて作者が奔放な空想で描いた乱痴気騒ぎともいうべき情景である。そして、この一場一場の間に、原著者マルキ・ド・サドは、ジユリエツトその他の登場人物の口を通して、自然の法理とか、政治や宗教について彼一流の哲学を語るのである。それは、18世紀ヨーロツパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとするものであつて、これが本書をして思想小説ともいわれているゆえんである。また、前記『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』を始めとするサドの著作が、フランス文学史の空白をうめるものとして高い評価を得つつあるのみならず、その革命思想ないしユートピア思想は、社会思想史的分野でも、また医学心理的領域でもさらにシユールレアリズム、実存主義の如き今世紀に抬頭した芸術運動、思想運動の中でも、極めて重要な意義を認められつつあること、および『ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え』は、サドの思想を最も完全な形で現わしたものであつて、サドの研究にとつて欠くことのできないものであることは、証人大岡昇平、同奥野健男(以上は、第5回公判調書中の各供述記載)、同吉本隆明、同大井広介、同森本和夫(以上は、第6回公判調書中の各供述記載)、同針生一郎、同大江健三郎(以上は、第7回公判調書中の各供述記載)同中村光夫こと木庭一郎、同栗田勇、同中島健蔵(以上は、第8回公判調書中の各供述記載)、同埴谷雄高および同白井健三郎(以上は、当公判廷における各供述)のいわゆる専門家証人の証言によつて認められるところであつて、本件訳書が、人間の低俗な興味に訴えることのみを目的とする春本等とは、全然類を異にするものであることはいうまでもない。」
[150] さらに付言すれば、右の第一審判決の認定について検察官の控訴趣意といえども、いささかの非難も加えていなかつたのであり、原判決といえども、右認定に反する判断をしたとは到底考えられないのである。

(二) 本件訳書の性描写と全体との関連性
[151] 又、前述のとおり、原判決は、当該部分の全体における位置関係、前後の状況が、猥褻性の判断に影響を及ぼすべきことを説示している。そこで、原判決摘示の当該部分が前述の本件訳書の芸術性、思想性、いいかえれば、作者が意図したテーマ、それによつて現代にまで深刻な影響を与えている本書の芸術的、思想的価値と、密接かつ十分な関連性を有していることを、以下に説明する。
[152] まず、原判決摘示の当該箇所とは次の14箇所である。すなわち、
第1の場面、ジユリエツトとオランプとの女性同志の同性愛、および、これにひきつづくジユリエツト、オランプ及び5人の娘たちをまじえた7人の女性たちによる集団的な同性間の性行為
第2の場面、ジユリエツト、オランプの2人の女性とギイジ、ブラツチアーニの2人の男性との組合せによる2組の男女による相互的な性行為
第3の場面、ジユリエツトとリユシフエルとよばれる犬との性行為すなわち獣姦
第4の場面、ジユリエツトとローマ法王ピオ6世プラスキとの肛門性交
第5の場面、右第4の両名に加え、6人の青年と3人の娘とによる集団的性行為
第6の場面、ブリザ・テスタとジユリエツト、クレアウイルとスブリガニの2組の男女が入り乱れて行う性行為
第7の場面、ソフイーとエンマおよび2人の娘による女性同志の集団的同性愛
第8の場面、ブリザ・テスタと北欧秘密結社の結社員たちによる男女入り乱れての性行為
第9の場面、ジユリエツト、クレアウイルらによる娘4人、妊婦4人、青年4人をまじえこれらをなぶりものにして行う性行為
第10の場面、前の場面にひきつゞいてそれらの男女入り乱れて行う性行為
第11の場面、ジユリエツトとデユランという2人の女性間の同性愛
第12の場面、ゼノ、ジユリエツト、ロザルバが少女ヴイルジニを虐待しながら互いに入り乱れて行う性行為
第13の場面、ジユリエツト、フリネエ、4人の女中、フオンタンジユら女性たちによる同性愛
第14の場面、ジユリエツトとノアルスイユがその娘や息子達に残虐行為を加えながら行う乱交
の描写である。
(1) 性描写の全般とサドの性思想の特異性
[153] 右の指摘からただちに明らかなことは、ここにはたゞひとつも1組みの男女がその性器によつておこなういわゆる正常性交為の描写がないということである。
[154] サドの性思想を要約することは極めて困難であるが、正篇を含めた本書「悪徳の栄え」にあらわれたところだけからも次のような性思想を抱いていたことを窺い知ることができる。
[155] すなわち、まず、同性愛に対する偏執であり、賛美である。わが国では一般に性的道義観念が同性愛について西欧諸国よりもはるかに寛容である。このため、本書にくりかえしあらわれた異常性行為の描写のもつ反社会的意義がややもすれば看過され易く、たんなる好奇心の対象になりがちである。しかし、サドの生活した時代環境では、異常性行為は法律で処罰さるべき犯罪行為であつた。何故これが処罰されなければならないか、サドが本書で表現したものは、そのきわめて深刻な、急進的な反省であり、批判であつた。一方、サドには、極端な女性蔑視の性向があつたし、サドの思想に18世紀的自然観、極端な専制主義的傾向、快楽至上主義的性向が影響していることも争えない。
[156] このようなサドの性思想の当否はともかくとして、本書の性描写は、こうした作者の性思想の必然的な結果なのであつて、この性思想を具体的に理解するためにこうした性描写は必須なのである。
[157] ここには女性器に対する嫌悪、肛門性交(鶏姦)に対する甚だしい偏執、同性愛を擁護する烈しい感情、総じて異常性行為に対する執着が、極めてヴイヴイツドに描かれており、その結果として、正常性行為の描写はひとつも存在しない、と言つても過言ではない。
[158] このように、描写の対象そのものが、サドの性思想と密接ないし十分な関連性をもつていることにまず留意すべきである。
(2) 原判決摘示の第1、第2の場面
[159] 勿論本書は、前後2篇で一体をなす書物の後篇の部分であるから、この前篇をきりはなしては十分な理解はできない。この点について、第一審証人栗田勇は本書の巻頭にあらわれる「洗練」という観念が前篇の終りにあらわれる「野蛮」と対比される観念であり、この観念や「裏切り」「自然」「罪」というような観念をめぐつて、論議がなされ、又それらの観念の実際的な例証として性的交渉あるいは残虐行為が行われ展開していく必然性を説明している。栗田証人の証言をさらに原判決摘示の14ケ所に関連してふえんすると、次のように考えられるのである。
[160] まず、第1の場面についていえば、これはジユリエツトとオランプとの同性愛とそれにひきつづく5人の娘たちをまじえた集団的な同性愛の行為の描写であるが、この第1の場面は、第2の場面すなわち、ジユリエツト、オランプ、ギイジ、ブラツチアーニの4人の男女による乱交場面と対応しており、そのことは、この2つの場面にはさまれた議論から明らかに示されている。ここで、オランプは第1の場面の終つて後に、ジユリエツトに対してこう言うのである。(52頁以下)
「ジユリエツト、淫売しましよう、身を売りましよう、耽溺しましよう……実の話、あたくしはね、間もなく恐ろしい放蕩に飛び込んでしまいそうな気がするの。すべての偏見があたしの眼から消え失せ、すべての束縛があたしの前で断ち切られてしまつたのよ。つまり目隠しが外されてしまつたので、あたしは最大の罪悪に耽り込むことに肚をきめなければならなくなつてしまつたというわけね。あたしは深淵を目にしつつ、恍惚としながらそこに落込んで行くことでしよう。」
[161] オランプはさらに名誉とか世論とかは最も卑しいものとして軽蔑すべきであり、「精神の気まぐれと享楽こそ、名誉の観念が与えるあらゆる贋物の快楽より、千倍もすぐれたもの」だと語るのである。これに対し、ジユリエツトはこう答える。(54頁)
「あなたがあたしに見せてくれた、その才気と決意をもつてすれば、いずれあなたは非常な極端まで走つて行くことが出来るでしよう。でもあたしは、あなたがあたしの期待している地点まで来ているかどうか、疑問に思うわ。たぶんあなたは淫蕩のあらゆる錯乱を御存知でしよう、けれど、淫蕩から派生されるすべての錯乱をあなたが知つているとは思えないのよ。」
そして、ジユリエツトは淫蕩がどういう恐怖を惹き起りうるものであるか、と言い、オランプが彼女の最初の夫を毒殺したというのに対し、その犯罪は計画された犯罪、必要な悪事にすぎず、ジユリエツトがオランプに要求するのは「無動機の犯罪」であると話し、「罪の焔」と「淫欲の焔」との2つの情欲を結びつけることを2人は約束しあうのである。
[162] したがつて、第1の場面の性描写はたんなる淫蕩の錯乱を示すための描写なのであり、これにひきつづく、第2の場面との対応上、どうしても描かれねばならなかつたのである。それ故、第2の場面は、当然単なる「淫蕩の錯乱」にとどまることはできない。第2の場面は、警察長官ギイジと物理学者ブラツチアーニの2人の男とジユリエツト、オランプの2人の女の、2組みの男女による乱交であるが、これは前にもふれたようにコルネリイとその母親とその弟との3人の処刑という犯罪行為と同時的に行われるのであり、まさしく「罪の焔」が「淫欲の焔」に燃えついているのである。
[163] しかも、第2の場面は、たんに第1の場面との対応をなすばかりでなく、作者サドの法に対する考え方の具体的な例証となつている。この性描写に先立つて警察長官ギイジはジユリエツトに対してこう語つている。(64頁以下)
「情欲と法律と、どちらがより多くを幸福にしたか。……発明や芸術上の傑作が生れるのも、一にこれ激しい情欲の賜物でしかない。……国家の統治に法律は必要ないか、必要ない。人間は自然の状態に還つた方が、愚かしい法律の軛の下にあるよりも、はるかにずつと幸福なのだ。……専制主義にみちびくものは、法律の濫用だ。専制君主とは、法律をつくる者、法律をして語らせる者、あるいはまた、自己の利益のために法律を利用する者のことだ。……暴君は法律の蔭からのみ頭をもちあげ、法律によつてのみ自らを権威づける。……自然状態における人間ほど純粋なものはない。自然から離れると、たちまち人間は堕落する。……落着いた心でいられないのは、美徳の中にいる連中だ。なぜなら美徳は明らかに、自然と矛盾した状態だからだ。そして人間のおびただしい悪によつてのみ、自然はそのエネルギーを保存し、絶えず生れ変り、存在して行くことが出来るからだ。だからわしらの為し得る最上のことはわしらのために、あらゆる人間の悪徳を美徳として採用し、あらゆる人間の美徳を悪徳として排斥するよう努力することだ。」
[164] このような思想は明らかに18世紀的な自然観、法律観をその極端にまでおしすすめた作者サド独得の思想である。そして、法律の執行者であり、権力の所有者であるローマの警察長官ギイジのお膳立てで、第2の場面、すなわち、少女コルネリイ、その母親とその弟との3人を無実の罪によつて処刑するという残虐行為と絡みあつた性的交渉が、ギイジ、ジユリエツトら4人によつて、呈開されることになるのである。それ故、ここでは第1の場面のようなたんなる淫蕩の錯乱が描写されるのではなく、法律と権力とに結びついた淫蕩の錯乱、そしてその恐怖が語られているのであつて、この描写がその直前のギイジの演説に示された作者の思想、ひいては本書のテーマと密接な関連性をもつているのである。
(3) 原判決摘示の第3の場面
[165] 原判決摘示の第3の場面はジユリエツトとリユシフエルという犬との獣姦場面であるけれども、この場面は、男女の正常な性行為に対する憎悪、ことに女性器に対する侮蔑、そしてもつと一般的にいえば作者サドの性に対する否定的な思想と密接な関連性をもつているのである。
(4) 原判決摘示の第4、第5の場面
[166] 原判決摘示の第4、第5の場面がローマ法王の権力と特権に対する作者サドの批判、いいかえれば反カソリツク思想の実証として描かれたものであることは、何人の目にも明らかである。
[167] この描写に先立つて本書の93頁以下で、ジユリエツトはローマ・カソリツクが、清貧と平等と富の憎悪とを基礎にした原始キリスト教からすでに全く変質してしまつており、封建君主と民衆との無智にこそ法王の権力のみなもとがあると指摘し、ついで贄沢と淫蕩とに堕落した多くの高僧たちを例にあげてローマ法王ピオ6世ブラスキを面責し、「ああ、今日まで混乱と貧窮と、不幸をしかもたらさなかつた、この法王という名の偶像に対して、すべての民衆が一刻も早く目を覚ましてもらいたいものだ」とさけぶのである。このジユリエツトのさけびが作者サドその人の思想に他ならず、本書の重要なテーマの一つであることはくりかえすまでもない。
[168] こういうジユリエツトの非難に対して、ピオ6世ブラスキは「お前の前では猫をかぶつていても仕方がないと、わしはつくづく悟つたよ。わしは仮面をかなぐり棄てるぞ」と答えて、第4、第5の場面につづいていく。したがつて、この第4、第5の場面は当然、ローマ・カソリツクに対する侮辱、ローマ法王の権力に対する非難、反キリスト教思想の例証として、具体的なイメージを読者に与えるために、書かれており、それ故に、この性的交渉のクライマツクスは、「法王に裁尾され、イエス・キリストの肉体を自分の尻の中に押し込められるとは、おお皆さま、何という素晴しい快楽でしよう」というジユリエツトの歓声に至つて、終るのである。この歓声の中で、快楽とジユリエツトがよぶものは、たんなる性的快楽でなく、ローマ・カソリツク信仰を冒涜することの快楽であり、当時の18世紀フランス社会で考えられる悪徳の極致を実行することの快楽なのである。
(5) 原判決摘示の第6の場面
[169] 又、原判決摘示の第6の場面についてテーマとの関連は次のとおりである。
[170] 第6の場面に先立つて、ジユリエツトは、「奥さまのお説によれば、罪悪が勝利し、美徳が辱しめられるのが、自然の永遠の法則なのでございましよう」という召使レイモンドの言葉に答えて、
「あたしの理論はそんなに単純なものじやない、罪悪の総量がその重さにおいて美徳の総量に勝るということを疑いえないように、もし人間におけるエゴイズムが人間の情欲の結果でしかないとすれば、ほとんどすべての情欲が罪悪に向う傾向をもつている。ところで、罪悪の関心は美徳を辱しめるということだ。だから、ほとんどすべての人生の局面において、あたしは美徳のために賭ける」 と語つている。(126頁)
[171] この対話の場面で彼女たちは強盗ブリザ・テスタの一味に捕えられて明日の生命も分らぬ状況なのである。しかも、ジユリエツトはたんに自然法則にたよつて助かろうと思つているのではない、美徳に賭けるよりは悪徳に賭けるという「賭け」、すなわち人間の自主的な選択にたよつているのである。その結果、ブリザ・テスタの妻がじつはジユリエツトの親友クレアウイルであつたという偶然に出会い、「罪悪と放蕩の只中にも、優しい友情は厳として存在する」(132頁)がために、第6場面の乱痴気騒ぎがはじまるのである。つまり、悪徳のくりかえしになるわけで、第6の場面はそういう意味をもつている。
(6) 原判決摘示の第7、第8の場面
[172] 又、第7、第8の場面についていえば、
「いつも弱く、いつも愚かなのが民衆というもので、一方からは王様、他方からは共和国といつた餌にうまうまと引つかかり、2つの体制の煽動家たちから、いつもうまい相談を持ちかけられているのだが、どんなうまい相談にせよ、それが煽動家たちの利己心もしくは情欲によつてねつ造された面影にすぎない」(171頁)
という思想の例証がこの第7及び第8の場面である。すなわち、一方でオランダ宮廷の王女ソフイーの淫蕩と残酷を語ることは、次にスエーデンの秘密結社団の淫蕩と残酷を描写することと対照をなしているものであり、この王室と煽動家たちの双方のエゴイズムと情欲を描写したのがこの2つの場面なのである。
(7) 原判決摘示の第9ないし第13の場面
[173] ところで、人間の残酷ということと裏切りないし盗みということは、性の問題とならび、あるいはこれに関連して、本書の正篇以来もつとも重要なテーマである。第9の場面はナポリ王フエルナンドの残酷な処置によつて虐殺された数百人の遺骸の上で行われる性的交渉であり、第10の場面では性行為と残酷との結びつきが、その極端にまでおしすすめられている。それは「無秩序な淫蕩のなかに、つねに残酷の精神が支配」している(240頁)ことの例証である。一方、裏切りと性的交渉を描写しているのが第11、第12、さらに第13の場面である。すなわち、第11の場面はクレアウイル、デユラン、ジユリエツトの3人がたがいにだましあい、嘘をつきあい、結局はジユリエツトがクレアウイルを毒殺してその財産を横領するという、二重三重の裏切りの上で、デユランとジユリエツトの間で行われる同性愛なのであり、第12の場面は、ヴエニスの大法官ゼノが処女ヴイルジニイをだまし、裏切つて、徹底的な不幸におとしこむために行われる集団的性行為であり、第13の場面はジユリエツトがその死んだ友人ドニ夫人の遺子であるフオンタンジユを裏切りその財産を横領した上で侮辱のかぎりをつくす場面なのである。これについて作者サドはいわば裏切りの哲学ともいうべき議論を第13の場面に先立つて展開している。まず、義務の方が好ましいか、享楽の方が好ましいか、この世に生を享けたのは快楽の満足のためだ、と言い、又、故人の意志を裏切るということはどんなことかと問い、死人を傷つけることは不可能だから、遺言を果そうなどということは滑稽至極で、自然法則と良識に反すると述べている。そして、幸福とは不幸な人をみて、かれらと自分とを比較することから生じるので、快楽は他人から奪うことにこそあるのだ、とこうノアルスイユはその快楽主義哲学をジユリエツトに話して聞かせるのである。(324-329頁)。勿論こうした思想あるいは哲学思想に賛成するかどうかは全く別の問題である。たゞ、これも又一つの思想であり考え方であり、ことに歴史的、思想的に価値あるとされている思想と十分な関連性をもつて第11ないし13の場面が描写されていることは銘記されるべきである。
(8) 原判決摘示の第14の場面
[174] 原判決摘示の第14の場面は、こうしたサドの思想のあらゆる側面を集大成的に具体化したものと言うべきである。ここではこれまでのあらゆる場面と比較して、もつとも極端な残酷、もつとも卑劣な裏切りが、集団的な性的交渉をつうじて描写されており、又、親子、夫婦という家族制度に対する根本からの疑問が投げられている。そして、悪徳の人ジユリエツトが、政府の大権を手にしたその夫ノアルスイユと共にパリに昇つて赫々たる栄誉につゝまれる、という大団円につながるのである。
[175] 以上で明らかなとおり、検察官指摘の14ケ所は、いずれもサドの思想の具体的な表現として十分な、あるいは必然的な関連性をもつて描かれているもので、サドの本書の文学的思想的価値を認める以上、これらを削除することも、又無視することもできないのである。

[176](三) したがつて、原判決が説示した部分と全体との関係にしたがつて、上如の本件訳書の芸術的、思想的価値、又、当該箇所の全体における位置、本書全体の芸術性思想性との密接ないし十分な関連は、当然刑法第175条の猥褻性の判断に影響を及ぼすべきものであり、これらを無視した原判決は同条の適用を誤つた違法があるものである。

[177]、次に、原判決が、本件訳書が刑法第175条のわいせつ文書に該当するものと判断した理由は、結局、次の点のみにあり、他にはない。
「本訳書の内容を通読検討した結果によれば、原判決のいうような関係で、当該性的場面の人に与える刺戟、興奮が全く消失するか、あるいは社会通念に照し問題とならない程度に萎縮されているとは、到底考えられないのである。本訳書の問題部分は原判決ならびに弁護人の見解にかかわらず、徒らに(過度に)性欲を刺戟せしめるに足る記述描写であると認められる。さらに、それは原判決も認めているように、普通人の正常なしゆう恥心を害し、且つ善良な性的道義観念に反するものと認められ、かような記述描写を含む本訳書は、結局刑法第175条にいうわいせつの文書にあたるものといわなければならない。」(7丁裏)
[178] 上記原判決の説示からまことに明らかなように、原判決は「本訳書の内容を通読検討した結果によれば」とのみ述べて、何ら検討の経過、理由を示すことなく、第一審において取調ベられ、第一審判決における判断の基礎となつた数多くの証人、殊に非専門家証人の証言の証拠価値について判断したり言及したりすることもなく、全く恣意的にその結論だけを示したもので、到底承服し難いものである。
[179] そこで、本件訳書の性描写の性質を以下に述べ、これが徒らに性欲を刺戟せしめるに足る記述描写とはいえない所以を説明する。

(一) 第一審判決の認定
[180] まず、この点について、第一審判決が、いかなる認定をしたかというと、原判決は「要するに、本件訳書を現代の社会一般の持つ良識、すなわち社会通念に照らして判断すれば、明らかに普通人の正常な性的しゆう恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書というべきである」と判断しながらも、(「わいせつ性についての当裁判所の判断」の項、二、(三)末尾、30頁)なお、ひきつゞき
「しかしながら、本件訳書は、全体が異常に大胆、卒直な性的場面の描写で貫ぬかれているにもかかわらず、一般的にその内容は空想的、非現実的であり、その表現は無味乾燥であつて、読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所もないではないが、これらは、いずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺りくなど極度に残忍醜悪な場面の描写が性的場面の描写と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため、一般読者に極めて不快な刺戟を与え性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮させられる性質のものと認められる。」(前記判断の項、二、(四)、30-31項)
(二) 性描写の非現実性空想性
[181] まことに第一審判決が正当に認定したとおり、本書の性的場面の記述は空想的であり、非現実的である。
[182] すでに述べたとおり、本書で展開される性的場面はすべていわゆる異常性行為の描写であつて、本来の性器によつて行われるべき正常性行為は殆んど1件も存在しないと言つても差支えない。そしてこのことがサドの極めて特異な性思想にもとずくものであることも又、前述のとおりである。
[183] 異常性行為ということ自体が、わが国の読者にとつては、非現実的、非日常的であるのみならず、描写の一々を検討した場合、本書の性行為の描写の非現実性・非日常性は一層顕著である。
[184] まず原判決指示の第1の場面を例にとるならば、ここには次のように書かれている。
「オランプが女たちのグループを配列することになりました。娘たちの1人はあたしの頭上にうずくまり、きれいな可愛い玉門をあたしに吸わせました。あたし自身は、黒繻子を張つた一種の革帯のハンモツクに身を横たえ、2番目の娘の顔の上に尻を置きました。彼女はあたしの尻の孔をなめる役目でした。あたしの身体の上に寝そべつた3番目の娘は、あたしの前門を何する役目でした。あたしも両方の手を使つて彼女たちをそれぞれ千鳥しました。この光景を喰い入るようにながめていたオランプは、手に1本の絹紐をもつてゆるやかに揺すぶつておりましたが、この絹紐はあたしが寝ているハンモツクに結びついて、彼女が紐を引いたりゆるめたりするたびに、舌の運動が永びいたり速くなつたりし」
た、というのである。
[185] この描写におけるジユリエツト、オランプ、それに3人の娘の関係位置はとうてい具体的には想像できない。たゞ本の中だから書けるだけのことである。こうした非現実性、非日常性は、この本の性描写の大きな特徴であつて、すべての性描写がこのような現実性日常性の無視、非写実主義で貫かれていると言つてよい。
[186] これがたんなる特殊な例でないことを示すために、なお2、3の例について述べれば、第5の場面では
「法王が欲望を身分に抱くや否や、雛壇の階段に坐つていた6人の助手が、すぐさま彼を満足させるべく飛んできました。3人の娘が求められました。法王は娘の1人の顔の上に腰をおろして、若気を何することを命じました。2番目の娘は一物を吸うのでした。3番目の娘はふぐりを軽くなでるのでした。そして、その間あたしの尻が法王の接吻の対象になりました。」
「聖体のパンが祝聖されると、たゞちに侍者がパンを持つて壇の上にやつて来て、法王の陽物の頭の上に、うやうやしく置きました。すると法王がパンをのせたまま、あたしを裁尾するのです。6人の少女と6人の侍童が、そのとき、それぞれの陽物と尻をともども法王の前に差し出すのでした。」
[187] これらの描写における登場人物の関係位置を具体的に想像することも又、到底不可能である。もう1つだけ例をあげれば、第13の場面は、
「早速フリネエは長椅子の上にあたしを屈み込ませると、自分もそのそばに坐つて胸の上にあたしの頭をのせ、あたしの雛尖を千鳥しはじめました。……フリネエが千鳥しているあいだ、あたしの胸の上に腰かけたライスは、あたしの口までお尻を突き出して、その小さな香箱をあたしに親嘴させました。テオドオルはあたしの尻を千鳥し、美しいアスパジイは、フオンタンジユにこの有様を見物させながら、彼女の気分をほぐしてやるために千鳥してやつておりました。」
[188] このような描写の関係位置を想像することも又到底できない。性描写は、これが写実的、現実的であつてはじめて読者の想像力をかきたて性的刺戟を与えられるといいうる。ところが、一般の読者はおおむね想像力が豊かではない。したがつて、いわゆる春本は読者をして性的交渉の場合を十分具体的に想像させるよう、しつようなまで具体的な描写をおこなうのである。戦後のカストリ雑誌とよばれたもの、あるいは第一審において弁護人が取調請求した第30号以下のいわゆる風俗雑誌などにあつては、そうした読者の貧しい想像力をおぎなうために、挿画を加えているのである。読者は挿画の助けをかりて、作中人物のイメージをつくり、性的興奮を感じるのである。いづれにしても、画としてイメージを描きうるような描写でなければ、決して読者を刺戟したり昂奮させたりすることはできない。イメージが描けないような描写を前にすると、読者はたゞ途迷うばかりで、時としてはむしろ滑稽に感じるのである。前に引用した第3の場面で、「部屋の真ん中に、あたしは四つん這いにさせられました」とあるのや、又、第5の場面で、「6人の少女と6人の侍童が、そのとき、それぞれの陽物と尻をこもごも法王の前に差し出すのでした。」というような描写は、あまりの非現実性のためにかえつて滑稽感を感じさせる例である。このような読後感は第一審の証人、大岡昇平、中村光夫、中島健蔵、大井広介等が証言したところであるが、かりにこれらの証人がすぐれた文学者であり高級な読者であるがために滑稽感を感じたのだと言えるとしても、そして通常の一般読者がこれらの描写を滑稽に感じえないとしても、それら一般通常の読者はこれらの描写にとまどい、具体的なイメージを描きえぬもどかしさを感じても、絶対に性的興奮は感じえないということだけは確実である。何となれば、具体的なイメージを描くことによつて、はじめて性的興奮は生じるのであり、具体的なイメージなくして文字からじかに性的興奮は生じないからである。

(三) 性描写の非情緒性
[189] 本件訳書の性描写は、作者サドの思想の表現であり、観念を人間の行為におきかえて描写したものである。それ故、作者サドにとつては、正確に彼の思想なり観念なりが表現されれば足りるのであつて、性行為の描写はそのための道具にすぎない。このために前述のような非現実性、非日常性も全く意に介しなかつたのであり、写実主義とは正反対の観念小説なのである。
[190] その結果この本の性描写では、情緒性というものが全く無視されており、第一審判決認定のとおり、読者の情緒や官能に訴える要素が極めて乏しい。
[191] いつたい、読者の性欲を刺戟するには、描写は情緒的でなければならない。たとえば女の裸体を例にとつても、裸女そのものを美しいと感じることと、その女性に性欲を感じることとの間には甚だしい距離がある。性行為あるいは性に関係した事柄を文章で表現する場合でも、全く情緒的な要素をとりさつて表現した場合がたとえば性科学書の記述なのであり、これらの記載にわいせつ感がないことはいうまでもない。すなわち、性描写は、情緒的であつてはじめて読者の官能をゆさぶり、性的刺戟を与えうるのである。それは、性的衝動が、あくまで官能的なものであつて、理性的なものではないからである。
[192] ところで、本書では文学としてあるいは小説として成立つ最低限まで情緒的要素が排除されている。
[193] 本書の性行為の描写には、およそ秘事めいたふんい気がない。常識的に考えれば、性的な交渉は、夜の、男女2人の秘密な結びつきである。それ故、春本にあつても、こうした秘事としてのふんい気を高めるような情緒的な描写がなされるのである。しかし、本書では、原判決摘示の14ケ所もすべて白昼であるか、白昼と明らかに考えられる時に性的交渉が行われている。しかも、この性的交渉の場所といえば、密室、日本でいえば四畳半というような場所とは全く異なる。何十人かの人が入れるような広間で、ほとんどすべてが集人監視の中で性的交渉が行われるのである。表現の中には「秘密の小部屋」と表現している場合もあるけれどもこれもしさいに読めば、20人もの男女が入れるような「小部屋」だということが了解されるのである。
[194] そして又、性的交渉の描写はきわめて直接的である。たとえば検察官指摘の第4の場面は、そのもつとも肝心な交渉場面は
「反対すべき理由もないので、あたしはお尻を差し出しました。ブラスキは即座に抜きました。」
というのであり、第6の場面は
「さしあたり、あたしたちの欲望は別に刺戟物がなくとも燃えあがつているのでした。ブリザ・テスタは5人の女をぼつ立て尻にして、広いソフアーの上に一列に並べると、スブリガニと2人で交る々々鎚先を入れました。1人が前門を何すると、もう1人が後門を何するのです。かくて最後にスブリガニはクレアウイルの若気に、ブリザ・テスタはオランプの若気に、それぞれらちをあけました。」
[195] このような直接的、かつ非暗示的な描写が読者の官能に訴えることができないことは確実である。読者の官能はあるていど暗示的な、間接的な描写によつて、より強く動かされるものであり、あまりにあからさまな直接的な性的描写からは、性行為の空しさしか感じないであろう。
[196] そして、通常の性的行為の描写にあつては、性的快感のクライマツクスに向つて、どのように誘惑し、あるいは誘惑されて性的交渉を行い、クライマツクスにまで達するか、という経過が露骨詳細に描かれるのが普通であり、そういう経過を追うことによつて、読者の官能が刺戟されるのに対し、本書の場合には、そういう経過は全く示されてはいない。哲学論議からまつすぐに性的交渉に直行し、誘惑も情緒もぬきに性行為が始り、又終るのである。

(四) 性描写と不可分に結合し、接続している極度の残酷性
[197] 以上のように、本書の性描写はたんに非情緒的であり、直接的であり、非暗示的であるのみならず、極度の残酷さが性的交渉と密接不可分に描かれている。
[198] この意味において、第一審判決が
「これらは、いずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺りくなど極度に残忍醜悪な場面描写が性的場面の描写と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続しこのため一般読者に極めて不快な刺戟を与え、性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか殆んど萎縮させられる性質のものと認められる」
と判断したのはまことに正当である。
[199] これを詳細に各場合について説明すると次のとおりである。
[200] 第1の場面は、前述のように、罪悪と結びつかない、たんなる淫蕩の場面を描写したものであるので残虐行為が描写されていないのであり、これは本書のテーマとの関連上已むを得ない、例外的場面である。
[201] 第2の場面は、これにすぐ接続して
「ギイジが、さつき自分の鞭打を受けなかつた方の娘をテーブルの上に腹這いに寝かせて、その尻の上で揚げ立てのせんべいを喰うことにしようではないか、と提案しました。直ちに実行され、じりじり生身を焼かれたあわれな子供は、恐しい悲鳴をあげました。けれども会食者たちは物ともせず、血まみれな尻の上に勢いよくフオークを突き刺してはむしやむしや食べ散らかしました」(本書74頁末から80頁)
という残酷場面の描与がなされている。
[202] 第3の場面は、犬との獣かんを描いた、それ自体醜悪な描写であるがこれも、ブラツチアーニが、「その半陰陽を私が裁尾し得るような工合に、姿勢をとることもできるだろう。それから又、私自身は去勢男に裁尾されつつ、つい私の鼻に老婆の尻を拝んでいたいな。老婆は私の顔の上に糞を垂れるわけさ」と言い、ギイジが「わしは猿に若気を抜かれよう。少年の腰の上には、一寸法師を跨がらせて、わしの鼻先に尻を突き出させよう」と言い、「こうして、総計9人と4匹の一組が形作られました。これほど、奇々怪々な淫蕩の図は前代見聞でしたろう。それでもあたしたちはみんなで気をやりました。子供はちようどよい時に首をはねられました」という極度の醜悪場面の描写に接続して、一体をなしている。(本書90・91頁)
[203] 第4の場面は鞭打ちの習慣をもつ法王ピオ6世に苦痛を与えながら行う交渉場面である。
[204] 又、第5の場面は、
「あたしはしばしば彼の食べたいと思うものを、あたしの口の中でそしやくしてやらねばなりませんでした。あたしの唾液でぐちやぐちやにして口移しに食べさせるのです。あたしの口をゆすいだ酒を、彼は飲もうとしました。そうかと思うと、あたしの若気を洗滌して、その水を飲むのでした。たまたま糞なんかが混つていたりすると、大喜びでした。」
という法王ピオ6世ブラスキが、「おゝ、ジユリエツト―わしが血にまみれない日は1日もないのだ」と叫んで、聖ペテロ教会の祭壇で、本書の女主人公ジユリエツトを含めて集団的性的交渉を行う場面で、これは
「階段と雛壇の間の四隅には、どの隅にも、いけにえ用のギリシヤ風小祭壇が築かれ、第1の小祭壇の近くには15才の少女が1人、第2の小祭壇の近くには20才ばかりの妊婦が1人、第3の近くには14才の少年が1人、第4の近くには太陽のように美しい18才の青年が1人、それぞれ眺められました。3人の司祭が祭壇の正面で犠牲を執行する用意をしており、素はだかになつた6人の唱歌隊児童が、助手の役目をする準備をしておりました」(117頁末から118頁)、
と描かれているようにいけにえを前にして行う性的交渉場面である。
[205] 第6の場面は「鉄のいばらのついたむちで尻を打ち、あたしたちの腎水に血の流れを混ぜ合わせましよう」と叫びつつ、ロオマの美人を血祭に上げることによつて快楽を得ようとする描写である。
[206] 第7の場面は鞭打の乱打で女の尻が血まみれになるのを見ながら行う交渉場面である。
[207] 又、第8の場面は
「最も怖るべき放埓が僕らの楽しみなのだ。僕らが喜んで身を捧げないような放蕩は、この世に一つもない。僕らは時によると、盗みをしたり、街頭で人殺しをしたり、井戸や川に毒を流したり、放火をしたり、食糧の欠乏を惹き起したり、家畜に伝染病を広めたりするといつたような、怖ろしいことまでする」
というブラヘの言葉に対して、ブリザ・テスタが「たとえ僕の手によつて全宇宙が崩壊するとしても、一滴だつて涙なんぞ流すものか」と答えて、はじまる乱ちき騒ぎの描写で、これにひきつゞいて、
「10人の屈強な兵士に付き添われて、おれたちは気違いみたいに街中を走りまわり、出遭う者すべてに見境いなく打つてかかつた。犠牲者が盗まれ殺される度に、おれたちはそいつらを海のなかに放りこんだ。捕えられた連中は拷問を受けねばならず、おれたちは彼らを楽しんでから血祭にあげた」
という残虐行為が描写され(本書170頁)、ブリザ・テスタがその妻エンマを裏切つて告発し、エンマに対して、
「最も残酷な刑罰に処することを満場一致で決議した。エンマはこの思いがけない弾がいにすつかりうろたえて、おれに対して非難し返そうとしたが、誰も耳を藉さなかつた。かくておれの手に委ねられた不幸な女は、処刑のためにその場に建てられた火刑台のまわりで淫わいな場面が繰り広げられている間、生きながら皮をはがされ、おれが少しずつ皮を剥ぐそばから、その剥がされた肉体のあらゆる部分をじりじり焼かれることになつた」
という場面が接続しているのである。
[208] さらに第9の場面は、
「あたしたちがこの舞台に一わたり目を走らせると、たちまち2発目の轟砲が鳴り響きました。この合図と共に、今まで群衆を制止していた警官たちのピケツト・ラインがさつと開かれ人々は雪崩を打つて足場のまわりに殺倒しました。……フエルヂナンドの残酷な処置によつて舞台がいつぱいになり7、800人もの人間が足場の上にのぼつたと見るや、突然足場がひつくり返り、400人以上の人間が押しつぶされて死ぬという事態が起りました。」(230頁)
という描写がひきつゞいて、「この大悪の犠牲となつた不幸な人たちの遺がいの上で、」行われる淫蕩行為の描写なのである。
[209] 第10の場面においては、さん殺された妊婦や胎児が血まみれになつて転がつているのを見たり、鞭打ちを行い、真赤に焼けた釘抜きで少女を切りこまきながら、又犠牲者の乳房を解剖刀で切りとり、あらゆる拷問を加えつつ、行われる性的交渉が描写されている。
[210]  又、第11の場面は鞭打ちの結果、虐待の挙句、相手が床に突伏してしまうまでの残虐せいさんな行為を実行しつつ行われる性的交渉の場面である。
[211] 第12の場面ではいうことを聞かなければ父親と恋人とを断頭台へ送るぞと脅迫しつつ、大法宮ゼノや主人公ジユリエツト等が多勢で処女ヴイルジニイを犯してしまう場面であり、しかも犯して後に、その父親と恋人とを殺害し、彼等の首をヴイルジニイに示して卒倒させてしまうという、残虐かつ破廉恥な描写と接続している。
[212] 第13の場面は、主人公ジユリエツトが親代りになつている親父の娘フオンタンジユを誘惑し、その挙句に、その財産をうばい淫売にでもなれといつて絶望させるという非道な仕打を行う場面である。
[213] 第14の場面は、第13の場面にひき続いて、フオンタンジユに対し指の一本々々がぱつくりと口をあけ、玉門は血まみれになり、硫黄の煙を吹きかけられて両耳をもぎ取られる等の残虐行為が加えられ、その他数々の残虐行為を前にしつつ行われる性的交渉を描写しており、本書のあらゆる背徳、残虐がその極致にまで至つている。
[214] 以上のように、本書の性的描写は、そのあまりの残虐、せいさんな行為の描写と不可分に一体をなし、又前後に接続しているため通常の読者にとつては、性的刺戟が萎縮消失しまう程のものである。

[215](五) したがつて、こうした本書の性描写からみて、当然通常の読者に対し、過度の性的刺戟を与えるものとは考えられない。勿論、原判決といえども、全くこれらを無視したものでないことは、
「なるほど本訳書は全体が異常に大胆卒直な性的場面の描写で貫かれているに拘らず、一般にその内容が空想的、非現実的であり、その表現は、無味乾燥であり、これがため、いわゆる春本等に比し、読者の情緒や官能に訴える要素が薄いことはこれを認めざるを得ない。また問題の性的場面で、残忍醜悪な場面と一体をなして描写せられ、あるいはこれと前後に接続して描写されたため、その性的場面の描写による性的刺戟の程度が、残忍、醜悪な場面に対する不快感により影響を受けていることも認められるのである」
と説示した(7丁)ことからみて明らかである。しかも原判決はこのように本書の性描写の特質とそれによる性的刺戟の程度の低減を認定したにも拘わらず、全く恣意的に検討の経過も証人の証言を検討することもなく、たんに本書を「通読検討した結果によれば」とのみ述べて「徒らに(過度に)情欲を刺戟せしめるに足る記述描写であると認められる」と判断したのである。かかる原判決の恣意的判断が全く誤りであることは上述した本訳書の性描写の特質からみて明らかであり、結局原判決は、刑法第175条に該当しない本訳書を以て同条に該当するとした法令適用の誤りを冒しているものである。

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