岐阜県青少年保護育成条例事件
上告審判決

岐阜県青少年保護育成条例違反被告事件
最高裁判所 昭和62年(あ)第1462号
平成元年9月19日 第3小法廷 判決

上告申立人 被告人
被告人 朝鹿自販機株式会社
弁護人 青山学 外1名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官伊藤正己の補足意見

■ 弁護人青山学、同井口浩治の上告趣意


 本件上告を棄却する。


[1] 弁護人青山学、同井口浩治の上告趣意のうち、憲法21条1項違反をいう点は、岐阜県青少年保護育成条例(以下「本条例」という。)6条2項、6条の6第1項本文、21条5号の規定による有害図書の自動販売機への収納禁止の規制が憲法21条1項に違反しないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和28年(あ)第1713号同32年3月13日判決・刑集11巻3号997頁、昭和39年(あ)第305号同44年10月15日判決・刑集23巻10号1239頁、昭和57年(あ)第621号同60年10月23日判決・刑集39巻6号413頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法21条2項前段違反をいう点は、本条例による有害図書の指定が同項前段の検閲に当たらないことは、当裁判所の各大法廷判例(昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日判決・民集38巻12号1308頁、昭和56年(オ)第609号同61年6月11日判決・民集40巻4号872頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。同上告趣意のうち、憲法14条違反をいう点が理由のないことは、前記昭和60年10月23日大法廷判決の趣旨に徴し明らかである。同上告趣意のうち、規定の不明確性を理由に憲法21条1項、31条違反をいう点は、本条例の有害図書の定義が所論のように不明確であるということはできないから前提を欠き、その余の点は、すべて単なる法令違反、事実誤認の主張であって、適法な上告理由に当たらない。

[2] 所論にかんがみ、若干説明する。

[3] 本条例において、知事は、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとされ(6条1項)、右の指定をしようとするときには、緊急を要する場合を除き、岐阜県青少年保護育成審議会の意見を聴かなければならないとされている(9条)。ただ、有害図書のうち、特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物については、知事は、右6条1項の指定に代えて、当該写真の内容を、あらかじめ、規則で定めるところにより、指定することができるとされている(6条2項)。これを受けて、岐阜県青少年保護育成条例施行規則2条においては、右の写真の内容について、「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二 性交又はこれに類する性行為」と定められ、さらに昭和54年7月1日岐阜県告示第539号により、その具体的内容についてより詳細な指定がされている。このように、本条例6条2項の指定の場合には、個々の図書について同審議会の意見を聴く必要はなく、当該写真が前記告示による指定内容に該当することにより、有害図書として規制されることになる。以上右6条1項又は2項により指定された有害図書については、その販売又は貸付けを業とする者がこれを青少年に販売し、配付し、又は貸し付けること及び自動販売機業者が自動販売機に収納することを禁止され(本条例6条の2第2項、6条の6第1項)、いずれの違反行為についても罰則が定められている(本条例21条2号、5号)。

[4] 本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。さらに、自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること、昼夜を問わず購入ができること、収納された有害図書が街頭にさらされているため購入意欲を刺激し易いことなどの点において、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。しかも、自動販売機業者において、前記審議会の意見聴取を経て有害図書としての指定がされるまでの間に当該図書の販売を済ませることが可能であり、このような脱法的行為に有効に対処するためには、本条例6条2項による指定方式も必要性があり、かつ、合理的であるというべきである。そうすると、有害図書の自動販売機への収納の禁止は、青少年に対する関係において、憲法21条1項に違反しないことはもとより、成人に対する関係においても、有害図書の流通を幾分制約することにはなるものの、青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約であるから、憲法21条1項に違反するものではない。

[5] よって、刑訴法408条により、主文のとおり判決する。
[6] この判決は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

[1] 岐阜県青少年保護育成条例(以下「本件条例」という。)による有害図書の規制が憲法に違反するものではないことは、法廷意見の判示するとおりである。いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているところであるが、本件において有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる価値のない又は価値の極めて乏しい出版物がもっぱら営利的な目的追求のために刊行されており、青少年の保護育成という名分のもとで規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至っている。そして、本件条例のような法的規制に対しては、表現の送り手であるマス・メディア自身も、社会における常識的な意見も、これに反対しない現象もあらわれている。しかし、この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであって、所論には検討に値する点が少なくない。以下に、法廷意見を補足して私の考えるところを述べておきたいと思う。
[2](一) 本件条例によれば、6条1項により有害図書として指定を受けた図書、同条2項により指定を受けた内容を有する図書は、青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(6条の2)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法21条1項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和63年(オ)第436号平成元年3月8日大法廷判決・民集43巻2号89頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない。
[3] 青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。以上のような観点にたって、以下に論点を分けて考察してみよう。

[4](二) 青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
[5] 西ドイツ基本法5条2項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によって制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもってする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといってよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。

[6](三) すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によって制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであっても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
[7] しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあっても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴って当然に附随的に生ずる効果であって、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例6条2項によって有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によってこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。

[8](四) 本件条例による規制が憲法21条2項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決(民集38巻12号1308頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、6条1項による個別的指定であっても、また同条2項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であっても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない。
[9] もっとも憲法21条2項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条1項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和56年(オ)第609号同61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもっている。しかし、それが受け手の知る自由を全面的に閉ざすものではなく、指定をうけた有害図書であっても販売の方法は残されていること、のちにみるように指定の判断基準が明確にされていること、規制の目的が青少年の保護にあることを考慮にいれるならば、その事前抑制的性格にもかかわらず、なお合憲のための要件をみたしているものと解される。

[10](五) すでにみたように、本件条例は、有害図書の規制方式として包括指定方式をも定めている。この方式は、岐阜県青少年保護育成審議会(以下「審議会」という。)の審議を経て個別的に有害図書を指定することなく、条例とそのもとでの規則、告示により有害図書の基準を定め、これに該当するものを包括的に有害図書として規制を行うものである。一般に公正な機関の指定の手続を経ることにより、有害図書に当たるかどうかの判断を慎重にし妥当なものとするよう担保することが、有害図書の規制の許容されるための必要な要件とまではいえないが、それを合憲のものとする有力な一つの根拠とはいえる。包括指定方式は、この手続を欠くものである点で問題となりえよう。
[11] このような包括指定のやり方は、個別的に図書を審査することなく、概括的に有害図書として規制の網をかぶせるものであるから、検閲の一面をそなえていることは否定できないところである。しかし、この方式は、法廷意見の説示からもみられるように、自販機による販売を通じて青少年が容易に有害図書を入手できることから生ずる弊害を防止するための対応策として考えられたものであるが、青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なって心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によっては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる「一夜本」のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとってきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもっては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。私としては、つぎにみるように包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえないものと考える。
[12] およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いっそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もっとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限っての規制であることからみて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても、通常の表現の自由の制約に比して多少ゆるめられることも指摘しておくべきであろう。
[13] 右の観点にたって本件条例の有害図書指定の基準の明確性について検討する。論旨は、当裁判所の判例を引用しつつ、合理的判断を加えても本件条例の基準は不明確にすぎ、憲法21条1項、31条に違反すると主張する。本件条例6条1項では指定の要件は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされ、それのみでは、必ずしも明確性をもつとはいえない面がある。とくに残忍性の助長という点はあいまいなところがかなり残る。また「猥褻」については当裁判所の多くの判例によってその内容の明確化がはかられているが(そこでも問題のあることについて最高裁昭和54年(あ)第1358号同58年3月8日第3小法廷判決・刑集37巻2号15頁における私の補足意見参照。)、本件条例にいう「著しく性的感情を刺激する」図書とは猥褻図書よりも広いと考えられ、規制の及ぶ範囲も広範にわたるだけに漠然としている嫌いを免れない。しかし、これらについては、岐阜県青少年対策本部次長通達(昭和52年2月25日青少第356号)により審査基準がかなり具体的に定められているのであって、不明確とはいえまい。そして本件で問題とされるのは本件条例6条2項であるが、ここでは指定有害図書は「特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物」と定義されていて、1項の場合に比して具体化がされているとともに、右の写真の内容については、法廷意見のあげる施行規則2条さらに告示(昭和54年7月1日岐阜県告示第539号)を通じて、いっそう明確にされていることが認められる。このように条例そのものでなく、下位の法規範による具体化、明確化をどう評価するかは一つの問題ではあろう。しかし、本件条例は、その下位の諸規範とあいまって、具体的な基準を定め、表現の自由の保障にみあうだけの明確性をそなえ、それによって、本件条例に一つの限定解釈ともいえるものが示されているのであって、青少年の保護という社会的利益を考えあわせるとき基準の不明確性を理由に法令としてのそれが違憲であると判断することはできないと思われる。
[14] 条例による有害図書の規制が地方公共団体の間にあって極めて区々に分かれていることは、所論のとおりである。たしかに本件条例は、最もきびしい規制を行う例に属するものであり、他の地方公共団体において、有害図書規制について、単に業界の自主規制に委ねるものや罰則のおかれていないものもみられるし、みなし規制を含め、包括的な指定の方式を有するところは10余県で必ずしも多くはなく、自販機への収納禁止を定めながら罰則のないところもある。このようにみると、青少年の保護のための有害図書の規制は地方公共団体によって相当に差異があるといってよいであろう。
[15] しかし、このように相当区々であることは認められるとしても、それをもって憲法14条に違反するものではないことは、法廷意見の説示するとおりである。私は、青少年条例の定める青少年に対する淫行禁止規定については、その規制が各地方公共団体の条例の間で余りに差異が大きいことに着目し、それをもって直ちに違憲となるものではないが、このような不合理な地域差のあるところから「淫行」の意味を厳格に解釈することを通じて著しく不合理な差異をできる限り解消する方向を考えるべきものとした(法廷意見のあげる昭和60年10月23日大法廷判決における私の反対意見参照。)。このような考え方が有害図書規制の面においても妥当しないとはいえないが、私見によれば、青少年に対する性行為の規制は、それ自体地域的特色をもたず、この点での青少年の保護に関する社会通念にほとんど地域差は認められないのに反して、有害図書の規制については、国全体に共通する面よりも、むしろ地域社会の状況、住民の意識、そこでの出版活動の全国的な影響力など多くの事情を勘案した上での政策的判断に委ねられるところが大きく、淫行禁止規定に比して、むしろ地域差のあることが許容される範囲が広いと考えられる。この観点にたつときには、本件条例が他の地方公共団体の条例よりもきびしい規制を加えるものであるとしても、なお地域の事情の差異に基づくものとして是認できるものと思われる。
[16] このことと関連して、基本的人権とくに表現の自由のような優越的地位を占める人権の制約は必要最小限度にとどまるべきであるから、目的を達するために、人権を制限することの少ない他の選択できる手段があるときはこの方法を採るべきであるという基準が問題とされるかもしれない。すなわち、この基準によれば、他の地方公共団体がゆるやかな手段、例えば業界の自主規制によって有害図書の規制を行っているにかかわらず、本件条例のようなきびしい規制を行うことは違憲になると主張される可能性がある。しかし、わが国において有害図書が業界のいわゆるアウトサイダーによって出版されているという現状をみるとき、果して自主規制のようなゆるやかな手段が適切に機能するかどうかも明らかではないし、すでにみたように、青少年保護の目的での規制は、表現の受け手が青少年である場合に、その知る自由を制約するものであっても、通常の場合と同じ基準が適用されると考える必要がないと解されることからみて、本件条例のようなきびしい規制が政策として妥当かどうかはともかくとして、他に選びうるゆるやかな手段があるという理由で、それを違憲と判断することは相当でないと思われる。

[17] 以上詳しく説示したように、本件条例を憲法に違反するものと判断することはできず、これを違憲と主張する所論は、傾聴に値するところがないわけではないが、いずれも採用することができないというほかはない。

(裁判長裁判官 伊藤正己  裁判官 安岡満彦  裁判官 坂上寿夫  裁判官 貞家克己)
[1] 岐阜県青少年保護育成条例(以下、本条例という)は、憲法に違反した条例であると思慮され、本条例を適用した原判決は破棄を免れない。
[2] 以下、本条例の違憲性について挙示する。
[3] 表現の自由は「個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、立憲民主主義の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に『表現の自由』の『優越的地位』が帰結される。」(佐藤幸治・憲法351頁)。すなわち、個人の自己実現にとって不可欠であるというのは、精神的・知的な存在である人間にとって言いたいことを言うというのはその本性ともいうべきものであり、また、自己の精神活動の所産を外部に表明し、あるいは人のそれをうけとることによって、人格的な発展を遂げることができるのであり、表現の抑圧それ自体が人間性そのものに対する抑圧にほかならないという意味である。国民の自己統治にとって不可欠であるというのは、国民主権原理にたつ政治的民主主義にとって主権者である国民が自由に意見を表明し討論しあうことによって政策決定に参加することがその本質的要素であるという意味である。
[4] 従って、このような内容を内包している表現の自由は、個人の幸福追求権(13条)を中核とする憲法の人権保障体系の中で、それが真に実現されるための有効な手段として保障される必要性が一段と高いものであり、それゆえにその他の権利との抵触が生じた場合においても優先的に判断されるという意味において優越的地位が認められるものである。
[5] 性的表現の自由も、表現の自由に含まれ、同様にその優越的地位をあたえられることは言を待たないものである。

[6]二(1) 表現の自由も、全く無制約に行使されるものではなく、「公共の福祉」による制約を受けるものではあるが、「公共の福祉」については人権の特性に応じた観点から考慮されなければならない。
[7] そこで、表現の自由に対する制約を考えてみるに、表現の自由はその重要性から前述のような「優越的地位」が認められるので、形式的平等に伴う弊害を除去し多数の人々の生活水準の向上をはかるという積極目的のための原理による制約(政策的制約)になじむものでなく、個人の基本的人権の共存を維持するという消極目的による制約、つまり、表現の自由が外的行為にかかるために他人又は社会の利益との抵触の問題を生じる場合にのみ、制約が許されることになる(内在的制約)。
[8](2) そして、制約が行われている場合、裁判所は、右の「優越的地位」に鑑みてその制約法規について合憲性を判定しなければならないが、そこでは通常の合憲性推定の原則が排除され、むしろ違憲性推定の原則が働くことになる。つまり、制約法規を制定する側において、その合憲性を基礎付ける主張及び立証が必要となってくるわけである。その場合、違憲性審査基準はまず目的審査の基準によって検討することが必要である。
[9](3) 目的審査の基準とはもとより制約の目的についての審査である。前述のように表現の自由の制約が内在的制約によるものに限られることから、当該制約法規が制約の対象としている一定の表現行為が、放置されるとしたら他人又は社会に対して害悪をもたらすであろうことが検証されてはじめて、その目的が合憲であるといえるのである。すなわち、表現行為と害悪発生との間の関連性(因果関係)が問題となる。具体的には、条例の合理性・必要性を支える「立法事実」(すなわち、立法以前に存在した状態、それを改善するあたらしい立法の実効性、それから生ずる損失、より少ない犠牲で同じ利益を達成できる可能性等というような事実)を検討することが必要となる。
[10] ところが、本条例の制定前後を通じて、その立法事実についての検討は何ら行われていない。前述したところからも、この検討の責任は制定者である岐阜県にあるものといわざるをえない。
[11](4) 今日において性的表現を検討してみると、テレビをはじめとするマス・メディアにおいていわゆる風俗産業(ソープランド、ストリップ劇場、ポルノ映画、ビニール本、ビデオテープ等々)に関する情報が日常茶飯事に伝達されていることは周知のことである。
[12] 確かに、無秩序な性的表現が社会に氾濫することは必ずしも好ましいことではないが、現実としては、青少年にとって本件において規制の対象となった自動販売機より、より多くの青少年に対しはるかに利用が容易であるテレビ等において、むしろ、より「著しく性的感情を刺激」するような情報が与えられているのである。
[13](5) そうすると、「著しく性的感情を刺激」するような情報と青少年の健全な育成の阻害との間には、単純に因果関係を肯定することはできない。つまり、現代の青少年は、日常的に性に関する情報にさらされているのであり、日々それを取捨選択せざるをえない環境に置かれているのであるが、その中で大半の青少年は健全に成長しているという現実が存在しているのである。仮に、そのような因果関係が認められるとして、本条例が真に青少年を「著しく性的感情を刺激」する情報から隔離したいのであれば、単に一部の出版物を有害指定図書としてその販売を制限または禁止するだけでは到底その目的を達成できないのである。
[14](6) 従って、いわゆる有害指定図書が、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあるものであるという因果関係は余りに短絡的な論法であり、およそ是認できないものである。

[15] 以上、検討したところから明らかなように、本条例はその規制目的において表現の自由を制約するだけ合理性を有せず、憲法21条1項に違反するものといわざるをえない。

[16] ところが、原判決はこの点につき、
「一般に、青少年はその心身の未成熟等から精神的に未だ十分に安定していないため、著しく性的感情を刺激する等の有害指定図書等を自由に購入して閲読するにまかせると、その精神に悪影響を受け易いこと等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認める有害図書等を自動販売機に収納すること等を禁止しているものであることが明らかであつて、このような本条例の規定の趣旨に徴すると、本条例の前記各規定は、公共の福祉に適合するものであって、所論のように右の各規定が合理性及び明確性に欠けるとは解されず(なお、本罪は、抽象的危殆犯であつて、所論のごとき有害指定図書等と青少年の非行化との間に具体的因果関係を必要とするものではない)」
とし、本条例が憲法21条に違反するとは解されないと判示している。

[17]五(1) 原判決は、「公共の福祉」をどのような内容のものとして理解しているのか全く明らかにされていない。現在の憲法解釈においては、「公共の福祉」それ自体が基本的人権の制約の正当化事由とする考えは、もはや有りえないと言っても過言ではなく、正当化事由は各基本的人権の性質に応じて具体的に引き出すものとする考えが通説と言えよう。その場合に前述のように大別して内在的制約と政策的制的とに分けて考えることになるのである。このことは、政策的制約においてであるが、「個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当」(昭和47年11月22日最高裁判所大法廷判決・刑集26巻9号586頁)として既に認められているところである。また、昭和44年10月15日最高裁判所大法廷判決中の田中裁判官の少数意見或いは昭和58年10月27日最高裁判所第1小法廷判決中の団藤裁判官の補足意見においては、「表現の自由や……学問の自由は、……『公共の福祉』の要請という名目のもとに、立法政策的な配慮によって、自由にこれを制限するがごときことは許されない……絶対的な自由とも称すべきものである。内在的制約のみがこれらの自由に対する制約として承認され得る限界」とか、「表現の自由は単純に『公共の福祉』によって制限されうるものではなく、表現の自由が憲法上保障されている趣旨からの内在的な制約の見地によってはじめて制限されうるものと考える。」と明確に述べられている。
[18] 従って、原判決がその規制内容が内在的制約を超えるものであるか否かの点につき何ら検討することなく、ただ単純に「公共の福祉」による制約を認めている点、憲法の解釈を誤ったものと言わざるを得ない。
[19](2) 原判決は、本罪が抽象的危殆犯であるとの理由から有害指定図書等と青少年の非行化との間に具体的因果関係が必要ではないとしているが、もとより当該行為を構成要件に当てはめて犯罪と評価する上において抽象的危殆犯であれば結果との具体的因果関係は不要であるが、弁護人の主張は当該行為の構成要件上の犯罪評価を問題としたものではなく、構成要件自体の合憲性を審査する上での具体的因果関係を問題としているのである。
[20] すなわち、表現の自由の規制につき、内在的制約がその正当化事由とされる以上その規制とその目的とする保護法益との間に合理的な因果関係の存在が当然に必要となってくるのである。例えば、国民の射倖心を抑制することを保護法益とし(刑法上賭博罪等によって保護されている)、そのためにテレビの競馬中継を禁止するという内容の法律の制定するものとしよう。仮に、合理的な因果関係が不要であるとするならば、この法律も十分に制定可能といえよう。しかし、実際に競馬中継をテレビが放映したからといって国民の射倖心が必要以上にあおられるという因果関係は認められるものではないであろう。従って、このような法律によって表現の自由を規制することは到底是認出来ないものと言わざるを得ないのである。つまり、表現の自由を規制する場合においてはその規制根拠として保護法益との間に合理的な因果関係が絶対に必要とされるのであって、表現の自由が優越的地位にあることにかんがみてその合理性は相当程度の具体性を有することが必要となるのである。
[21] 原判決は、右の弁護人の主張を誤解したものであり、本罪制定自体における目的と手段との因果関係を全く判断しなかった点、憲法の解釈を誤ったものと言わざるを得ない。
[22] 本条例は、事前の全面的な出版禁止を定めるものではないが、事後においてしかも18歳未満の青少年に対してのみの有害図書と指定された出版物の販売禁止及び自動販売機への収納禁止をその内容としているものである。
[23] そこで、本条例が検閲に該当するか否かが問題となる。

[24] 検閲の概念には争いはあるが、表現行為がなされるに先立ち公権力が何らかの方法で抑制すること、および実質的にこれと同視できるような影響を表現行為に及ぼす規制方法をいうものと考えるべきである。なぜなら、検閲の禁止されている趣旨を鑑みるに、情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、手続き上の保障や実際上の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いこと、等にある。

[25] 本条例は青少年に害悪を与えるであろうとされる書籍・雑誌(以下、有害図書類という)を青少年のみから遠ざけようとするものであるが、その目的を実現することは極めて困難であることが明白である。すなわち、有害図書類を18歳未満の青少年の目に触れる場所に陳列することを禁止するとすれば、成人の読む自由に対する不当な干渉になるであろうし、仮に、成人向けの書架またはコーナーを作っても却って禁断の果実に対する青少年の関心をいたずらに助長するばかりになる。
[26] 従って、取締当局からの要請に忠実に応えようとすれば、全面的な販売禁止の措置に踏み切る事になる。有害図書類が存在する以上、それを青少年から遠ざけるために販売を禁止する以外にどんな方法がありえようか。

[27] 結局本条例は、その目的を達成するためには結局全面的な販売禁止を引き起こすことになり、検閲に該当するものといえるのである。

[28] 原判決は、この点何ら判断を行っておらず、原判決に重大な影響を及ぼす判断遺脱と言わざるを得ない。
[29] 本条例第6条1項、同2項において規定されている有害図書の指定要件は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」、「特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真」とされている。さらに、この要件を補足するものとして、別途審査基準及び写真の内容の指定が定められている。

[30] しかし、これらの要件は全て基準の明確性を欠くものといわざるをえない。
「刑罰法規の定める犯罪構成要件が、あいまい不明確のゆえに憲法31条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられている。しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりではなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為の識別を可能ならしめる基準といっても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることは免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによってこれを決定すべきである。」(最高裁昭和50年9月10日大法廷判決
という基準に立って判断するに、本条例では、一般人における通常の判断能力によって、具体的な書籍・雑誌が、青少年に対して「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」あるいは「特に卑わいな姿態若しくは性的行為を被写体とした写真」に該当するものとそうでないものとの識別が可能か否かが問題となる。
[31] ところで、本条例は青少年の健全な育成を目的としており、刑法における「猥褻」に該当する書籍・雑誌をその対象とするものではない。そうすると、一般人に要求される判断とは、「猥褻」に該当しないで尚且、青少年に対してのみその育成の上で不健全となるような書籍・雑誌を他から区別する判断ということになる。
[32] 本条例の有害図書の指定要件が、果たして前述のような判断を可能にするような基準といえるであろうか。そもそも、前述のような判断それ自体が可能なのであろうか。

[33] 実際において、同一内容をほぼ同一の文言によって規定している他の条例における判断の基準を比較してみると、例えば三重県青少年保護育成条例第8条1、2項は、本条例第6条1、2項とほぼ同一の文言による規定であるが、本件で摘発されたオレンジ通信2月号等について、三重県においては指定の対象とはならなかったものである(三重県条例の一般指定の基準は「総紙面の3分の1以上」であり、岐阜県より厳しい基準でさえある。)

[34] 以上のとおり、本条例はその目的があまりにも抽象的にすぎ、そのために規制の基準も不明確となり、合理的な判断をもってしてもその不明確性はうめきれないものであり、実際に判断を行うと区々にならざるを得ないものであって従って憲法31条に違反するものといわざるをえない。

[35] また、条例の規制基準が漠然不明確であって、どのような行為を規制しようとしているのか、一義的にあきらかでない場合、本来制限すべきでない行為をも規制対象に含む結果となるので、行為者は処罰を恐れて、本来許されるはずの行為をも自己抑制してしまうといういわゆる「萎縮効果」をもたらすことになり、この点で憲法21条1項に違反するものである。

[36] 原判決は、この点においても判断を放棄している。すなわち、弁護人の主張するところは、刑法上の「猥褻」と青少年にとってのみ「有害」との区別をどういう基準においておこなわれているものであるかという点、或いは、同一の雑誌について同一の文言による条例を有する別々の地方公共団体において「有害」の指定の有無が区々となっていることがそもそも基準としての明確性に欠けることになるのではないかという点であるのにもかかわらず、原判決は「漠然・抽象的」に本条例の基準が具体的であると述べるにとどまっているのみであり、重大な判断遺脱と言わざるを得ない。
[37] 本条例と同種の青少年保護育成条例は、長野県においては条例自体の設定が行われておらず、設定されている場合においても、例えば大阪府のように、有害図書の規定がないところもあり、各都道府県における規制の方法が余りにも区々であるといわざるを得ないのであるが、これに対して原判決は昭和33年10月15日最高裁大法廷判決を引用する昭和60年10月23日最高裁大法廷判決を引用して、この点は憲法14条に違反していないものであると判断している。その趣旨とするところは、「社会生活の法的規律は通常、全国にわたり画一的な効力をもつ法律によってなされているけれども、中には各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するためにこれを各地方公共団体の自治に委ねる方が一層合目的的なものもあ」るということにある。

[38] それでは、本条例が果たして各地方の特殊性に応じその実情に即して規律する必要が有るのであろうか。以下、検討する。
[39](1) 現代においては情報通信網及び交通網が高度に発達しており、日本国内における書籍・雑誌の出版及び販売状況が各地方によって全く異なっているとは到底考えられないものである。(例えば、岐阜県にのみおいて出版及び販売されており、愛知県・三重県等では出版及び販売されない書籍等が存在するであろうか。)
[40](2) 書籍・雑誌から受ける影響を考えてみるに、個人の主観的レベルの問題として個人差の生ずることはもちろんであるが、この個人差が各地方の特殊性によって格差が生ずることはおよそ有りえないことである。(例えば、同じ高校生で有りながら、岐阜県に住んでいる高校生が愛知県に住んでいる高校生より居住地域の違いが原因で、同一書籍からより強い性的刺激を受けるということが有りえるであろうか。)
[41](3) 以上、有害図書の指定要件及びその規制方法は、各地方の特殊性に応じその実情に即して規律する必要は何らないのであって、却って、各地方において区々となることには何らの合理性が見いだせないものである。

[42] 本条例の運用において他の条例との間で差異が生ずることも、憲法14条に違反する。被告人らは、本件で摘発されたものと同一の書籍・雑誌を他に愛知県、大阪府、三重県、奈良県でも販売を行っていたものであるが、これらの地域においては有害図書としての指定は全く受けていなかったものである。岐阜県のみが摘発するのであれば、当然に他の地域との合理的な区別を必要とする理由を実情に応じてあきらかにしなければならないものである(表現の自由を規制するものであるから、前述の「優越的地位」より、規制側に規制根拠を明らかにする責任が生ずる。)。
[43] ところが、岐阜県からは特に他府県より厳しく取締りを行う必要性について何ら説明が無いままであり、本条例の運用において合理的区別がおこなわれたものということは到底できないものである。

[44] 原判決は、この点についても判断を放棄している。原判決の掲げる最高裁判所判例はいずれも出版物に関するものではなく、個々人の行為を規制する条例に関するものである。出版物については前述のとおり日本国内において同一のものが販売されているところに特殊性が存するのであり、従前の判例と同一には解せないものである。何故同一の出版物について地方公共団体毎の取り扱いが区々になってもこれが合理的区別に該たるのかは十分な説明を要するところである。原判決の判断遺脱は判決に重大な影響を与えるものと言わざるを得ない。
[45]一(1) 同条1項は、知事が、当該図書等が「著しく性的感情を刺激し、または著しく残忍性を助長するため青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるとき」に有害図書等に指定する、いわゆる個別指定の規定である。
[46](2) 同条2項は、1項の個別指定をうけるべき図書のうち、「卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした」写真が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物を1項の指定に代えてあらかじめ規制で指定する、いわゆる包括指定の規定である。
[47](3) 1項の個別指定を行うためには、本条例施行規則第7条、同条の7により岐阜県青少年保護育成審議会(以下、審議会という)の審議を経なければならない。審議会は毎月1回開催されるので、結果的には、自動販売機収納後1、2ヶ月間は自由に販売ができ、且つ、その間に開催された審議会を経て県からの1項図書指定通知を受けて初めて自動販売機からの抜取を行って販売を中止すればよいことになる。本条例自体には、前述のような違憲性が多分に存する以上、本条例の実際の運用面においては少なくとも、このような限定的な運用が必要とされるものである。
[48](4) ところが、2項の包括指定は、その運用において実際には、県青少年課(当時課長岩田三郎以下6名)によりなされていたものである(証人岩田三郎の証言)。本条例の規定自体の判断基準・内容の不明確さと相俟って、判断者個々人の年齢・経験の違いによる有害図書に対する認識や理解の程度、判断能力の差異等々を考え併せると、6名の判断によって全てを決することの違憲性は言うまでもない。さらに、2項の包括指定は、本条例施行規則第2条より、写真の内容の指定がなされそれが過半を占める場合には、県からの事前の行政指導や通知等が全くないまま当初から一切自動販売機による収納販売が禁止されることになり、すでに収納している場合にはその抜取の余地さえ与えられずに、直に犯罪者とされてしまう。個別指定における処理に比べて著しく取扱いを異にするものであり、その運用において憲法21条に抵触するものである。
[49](5) 2項の包括指定は、指定写真が編集紙面の過半を占める場合に行われるものであり、そうすると、例えば、100頁の雑誌において指定写真が51頁であると包括指定を受けることになるが、50頁であれば、個別指定しか受けないことになる。包括指定と個別指定の運用上の差異が前述のように大きいもので有ることからすると、わずか、1頁の違いで受ける扱いが全く異なることになり、著しく不合理である。実際においても、本条例自体に違憲性の疑いがあるためか、岐阜県においては未だかつて一度も包括指定による摘発を行ったことはないのである。また、岐阜県は昭和61年10月28日告示にてギャルズキッス8月号(総ページ数100頁)を有害図書の個別指定したが、岩田証人が当公判廷で述べた判断基準によれば、ギャルズキッスにおいては卑わいな写真が60頁あり、本来包括指定を受けるはずであるが、あえて個別指定にとどめたものと評価できよう。
[50](6) 以上のように、包括指定を定めた2項は表現の自由を過度に制約するものであり、これを適用した原判決は違憲といわざるを得ないものである。

[51] 原判決は、この点について、全く判断を行っておらず破棄を免れない。
[52] 公訴事実は、本件条例第6条第2項において、有害図書指定(包括指定)を受けた雑誌を自動販売機に収納したというものである。本件図書を有害図書として包括指定をするために、本件条例第6条第2項の規定による写真の指定(昭和54年7月1日告示第539号――以下、写真指定基準という)が制定されている。

[53] 被告会社及び被告人は、昭和55年頃から自動販売機による雑誌販売を行ってきており、右写真指定基準の存在及びその内容を十分に熟知していたものであり、従来からその基準に従ってきたものである。そして、過去において包括指定を受けたことは一度としてなかった。本件雑誌についても、写真基準に従った従来からの被告人の判断によって自動販売機に収納したものであった。

[54] ここにおいて写真指定基準について、被告人側と岐阜県との間に初めて見解の相違が生じたのであった。写真指定基準は、そもそも一般社会人において理解しうる明確性を有するはずのものであり、右のような見解の相違が生ずることがあること自体問題となるわけであるが、一度見解の相違が生じた以上本件雑誌を有害図書として刑罰を課そうとする裁判所において、本件雑誌を写真指定基準に基づいて編集紙面1頁ずつ判断しなければならないものである。さもないと、裁判所における写真指定基準の実際の当てはめが、どのようになされたものであるか全く分からず、そればかりか恣意的な当てはめが行われる危険性が非常に高くなるからである。

[55] ところが、原判決においても本件雑誌についての個々的な有害性の判断を何ら行わず、あたかも本件雑誌が有害図書として包括指定に該当するものであるかのごとき前提において判断を行っているのみである。この点に原判決における審理不尽及び事実誤認が生じているものと言わざるを得ない。

■第一審判決 ■控訴審判決 ■上告審判決   ■判決一覧に戻る