福岡県青少年保護育成条例事件
上告審判決

福岡県青少年保護育成条例違反被告事件
最高裁判所 昭和57年(あ)第621号
昭和60年10月23日 大法廷 判決

上告申立人 被告人

被告人 甲野真(仮名)
弁護人 立田広成

検察官 鈴木義男 外1名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官牧圭次の補足意見
■ 裁判官長島敦の補足意見
■ 裁判官伊藤正己の反対意見
■ 裁判官谷口正孝の反対意見
■ 裁判官島谷六郎の反対意見

■ 被告人の上告趣意
■ 弁護人立田広成の上告趣意


 本件上告を棄却する。


[1] 被告人本人の上告趣意第一部の二ないし四及び第二部の一ないし四は、福岡県青少年保護育成条例(以下、「本条例」という。)10条1項、16条1項の規定は、13歳以上、特に婚姻適齢以上の青少年とその自由意思に基づいて行う性行為についても、それが結婚を前提とする真摯な合意に基づくものであるような場合を含め、すべて一律に規制しようとするものであるから、処罰の範囲が不当に広汎に過ぎるものというべきであり、また、本条例10条1項にいう「淫行」の範囲が不明確であるから、広く青少年に対する性行為一般を検挙、処罰するに至らせる危険を有するものというべきであつて、憲法11条、13条、19条、21条の規定に違反すると主張し、弁護人立田広成は、当審弁論において、被告人の右主張は憲法31条違反をも併せ主張する趣旨である旨陳述するとともに、その上告趣意第一において、右の「淫行」の範囲に関し、青少年を相手とする結婚を前提としない性行為のすべてを包含するのでは広きに過ぎるから、「淫行」とは、青少年の精神的未成熟や情緒不安定に乗ずること、すなわち、誘惑、威迫、立場利用、欺罔、困惑、自棄につけ込む等の手段を用いたり、対価の授受を伴つたり、第三者の観覧に供することを目的としたり、あるいは不特定・多数人を相手とする乱交の一環としてなされる性行為等、反倫理性の顕著なもののみを指すと解すべきであると主張する。
[2] そこで検討するのに、本条例は、青少年の健全な育成を図るため青少年を保護することを目的として定められ(1条1項)、他の法令により成年者と同一の能力を有する者を除き、小学校就学の始期から満18歳に達するまでの者を青少年と定義した(3条1項)上で、「何人も青少年に対し、淫行又はわいせつの行為をしてはならない。」(10条1項)と規定し、その違反者に対しては2年以下の懲役又は10万円以下の罰金を科し(16条1項)、違反者が青年少者であるときは、これに対して罰則を適用しない(17条)こととしている。これらの条項の規定するところを総合すると、本条例10条1項、16条1項の規定(以下、両者を併せて「本件各規定」という。)の趣旨は、一般に青少年が、その心身の未成熟や発育程度の不均衡から、精神的に未だ十分に安定していないため、性行為等によつて精神的な痛手を受け易く、また、その痛手からの回復が困難となりがちである等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を図るため、青少年を対象としてなされる性行為等のうち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のものを禁止することとしたものであることが明らかであつて、右のような本件各規定の趣旨及びその文理等に徴すると、本条例10条1項の規定にいう「淫行」とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきでなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいうものと解するのが相当である。けだし、右の「淫行」を広く青少年に対する性行為一般を指すものと解するときは、「淫らな」性行為を指す「淫行」の用語自体の意義に添わないばかりでなく、例えば婚約中の青少年又はこれに準ずる真摯な交際関係にある青少年との間で行われる性行為等、社会通念上およそ処罰の対象として考え難いものを含むこととなつて、その解釈は広きに失することが明らかであり、また、前記「淫行」を目にして単に反倫理的あるいは不純な性行為と解するのでは、犯罪の構成要件として不明確であるとの批判を免れないのであつて、前記の規定の文理から合理的に導き出され得る解釈の範囲内で、前叙のように限定して解するのを相当とする。このような解釈は通常の判断能力を有する一般人の理解にも適うものであり、「淫行」の意義を右のように解釈するときは、同規定につき処罰の範囲が不当に広過ぎるとも不明確であるともいえないから、本件各規定が憲法31条の規定に違反するものとはいえず、憲法11条、13条、19条、21条違反をいう所論も前提を欠くに帰し、すべて採用することができない。
[3] なお、本件につき原判決認定の事実関係に基づいて検討するのに、被告人と少女との間には本件行為までに相当期間にわたつて一応付合いと見られるような関係があつたようであるが、当時における両者のそれぞれの年齢、性交渉に至る経緯、その他両者の付合の態様等の諸事情に照らすと、本件は、被告人において当該少女を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性行為をした場合に該当するものというほかないから、本件行為が本条例10条1項にいう「淫行」に当たるとした原判断は正当である。

[4] 被告人本人の上告趣意第二部の五(1)は、青少年に対する淫行につき地域により規制上差異があることを理由に本件各規定が憲法14条の規定に違反すると主張するが、地方公共団体が青少年に対する淫行につき規制上各別に条例を制定する結果その取扱いに差異を生ずることがあつても憲法14条の規定に違反するものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和29年(あ)第267号同33年10月15日判決・刑集12巻14号3305頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。

[5] 被告人本人の上告趣意第二部の五(2)は、本件各規定は18歳未満の者のみに対する性行為を禁止処罰の対象とし、18歳未満の者と18歳以上の者との間で異なる取扱いをしているところ、右年齢による差別に合理的な理由はないから、憲法14条の規定に違反すると主張するが、この点は、青少年の範囲をどのように定めるかという立法政策に属する問題であるにとどまり、憲法適否の問題ではないから、所論は前提を欠く。

[6] 被告人本人の上告趣意第二部の六は、児童福祉法34条1項6号は「児童に淫行をさせる行為」のみを規制し、その適用範囲を児童の自由意思に属しない淫行に限つているにもかかわらず、本件各規定は青少年に対し淫行をする行為のすべてを規制の対象としていて明らかに法律の範囲を逸脱しているから、本件各規定は憲法94条の規定に違反すると主張するが、児童福祉法34条1項6号の規定は、必ずしも児童の自由意思に基づかない淫行に限つて適用されるものでない(最高裁昭和29年(あ)第399号同30年12月26日第3小法廷判決・刑集9巻14号3018頁参照)のみならず、同規定は、18歳未満の青少年との合意に基づく淫行をも条例で規制することを容認しない趣旨ではないと解するのが相当であるから、所論は前提を欠く。

[7] 被告人本人の上告趣意第二部の七は、本条例は憲法95条にいう特別法であるところ、同条所定の制定手続を経ていないから、本件各規定は憲法95条の規定に違反すると主張するが、本条例が憲法95条にいう特別法に当たらないことは明らかであるから、所論は前提を欠く。

[8] 弁護人立田広成及び被告人本人のその余の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であつて、いずれも適法な上告理由に当たらない。

[9] よつて刑訴法414条、396条、181条1項但書により、主文のとおり判決する。

[10] この判決は、裁判官牧圭次、同長島敦の各補足意見、裁判官伊藤正己、同谷口正孝、同島谷六郎の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官牧圭次の補足意見は、次のとおりである。

 本条例10条1項の規定にいう「淫行」の意義に関する多数意見の解釈の結論に私も賛成であるが、右解釈を相当とする理由として私の考えているところを一言付け加えておきたい。

 青少年との淫行の禁止及び処罰に関して、各都道府県条例が現状においては全体として著しく不均衡、不統一であり、これが憲法14条に違反するといえないまでも、合理的な実質的理由に乏しく、一国の法制度として甚だ望ましくないものといわざるを得ないこと、それ故に、各条例の青少年との淫行処罰規定の解釈及び運用においては、処罰に対し抑制的態度をとることが相当であることについては、いずれも、伊藤裁判官が反対意見の中で詳しく説かれているとおりであり、私も本条例の淫行処罰規定の構成要件の解釈にあたり、右のような観点から、当該規定における用語の意味からかけ離れない限度内で、できるだけ処罰対象をその行為の当罰性につき他の都道府県住民を含む国民多数の合意が得られるようなものに絞つて厳格に解釈するのが妥当であると考える。

 ところで、「淫行」の意義について、従来は、
「淫行とは、みだらな性行為のことであり、健全な常識を有する一般社会人からみて、結婚を前提としない、専ら情欲を満たすためのみに行う不純とされる性交又は性交類似行為をいう。」
との解釈又はこれと同趣旨に帰する解釈が、いくつかの高裁判決等で示されており、本条例の立案当局の説明(福岡県民生部発行・福岡県青少年保護育成条例の手引27頁参照)も、同じ見解を示している。しかし、右の解釈にいう「専らの情欲を満たすためのみ行う」との点は、性行為の範囲を限定する作用をほとんど営まず、従って、右の解釈では、結婚を前提としない性行為のうちどの範囲のものが不純とされる性行為に当たるのかは必ずしも明確でなく、もし、青少年を相手とする結婚を前提としない性行為のすべてがこれに当たるとするのでは、やはり現在の社会通念からみて、余りにも処罰の範囲が広きに過ぎるといわなければならないと思われる。

 性に関する社会通念は、時代とともに変つていくものであるが、現在のわが国において、国民の多数から強い社会的な非難を受け、処罰に値すると考えられている青少年に対する性行為の類型は、第一に、青少年の無知、未熟、情緒不安定等につけ込んでなされる形態の性行為であり、すなわち、誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等の不当な手段を用いて行う性行為がこれに当たり、第二に、(その多くは右第一の形態にも当たることになると思われるが)相手方である青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められない形態の性行為であるといつてよい。伊藤裁判官は、右の第一の形態のものに限つて国民の多数から当罰性が肯認されるとみられるのであるが、不当な手段を用いたといえないまでも、行きずりの青少年を単に自己の性欲を満足させるための対象としてのみ考えてその場限りで行う性交にその典型例を見るように、青少年を全く自己の性欲満足のための道具として弄ぶものと目し得る性行為は、青少年の育成・保護の精神に著しく背馳し、現在における一般社会通念からして、到底許容できないものとして当罰性も肯認されるものと考えられる。そして、右第二の形態に当たる性行為であるかどうかは、青少年及び相手方の年齢、性行為に至る経緯及び行為の状況等を基にして、健全な常識を有する一般社会人の立場で判断するときは、その判定が特に困難であるともいえないものと思われるから、これを「淫行」の概念の中に含ませることが刑罰法規の中に曖昧、不明確なものを持ち込むことになるという批判も当たらないと考える。

 青少年に対する性行為のうち、現在の一般の社会通念上特に強い非難に値することが明らかであると考えられる右の2つの形態の性行為に絞つて、これが「淫行」に当たると解することは、「淫行」ないしは「みだらな性行為」の語義からもかけ離れたものではなく、また、青少年の健全育成という本条例の目的にも合致するものと考える。

 以上の理由により、私は、本条例10条1項の「淫行」の意義についての解釈に関する多数意見の説示に同調するものである。


 裁判官長島敦の補足意見は、次のとおりである。

[1] 私も、多数意見と同じく、本条例10条1項の規定にいう「淫行」とは、性行為一般を指すのではなくて、青少年を相手とする性交又は性交類似行為のうち、当該青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段によつて行うもの、その他青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないようなものをいうと解するのを相当と考えるのであるが、その論拠について、補足的に若干の意見を述べておくこととしたい。

[2] 「淫行」という用語は、既に古くから、「営利ノ目的ヲ以テ淫行ノ常習ナキ婦女ヲ勧誘シテ姦淫セシメタル者」を処罰する刑法182条の規定に用いられているほか、児童福祉法34条1項6号の規定は「児童に淫行させる行為」を禁じ、同法60条1項は、右規定に違反した者は10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処するものとしている。このように、本条例で用いる「淫行」という用語は、目新しいものとはいえず、それが広く性行為一般をいうのでなくて「淫らな」性行為を意味することはその用語自体及びそれが用いられているこれらの条項の文脈からみて明らかであるといえる(もつとも、刑法ではその性行為を性交に限つているのに対し、児童福祉法ではそこに性交及び性交類似行為を含めて理解するのが一般であるが、それは、刑法が、「姦淫セシメ」ること、つまり、「性交させること」をその犯罪の実行行為としているところから、その行為の客体である「淫行ノ常習ナキ婦女」を「淫らな性交の常習性のない婦女」と解するのであつて、児童福祉法及び本条例においては、性交そのものと同視できるような性交類似行為を除外する理由はない。)そうとすれば、「淫行」には、正常な性行為、例えば婚姻中の夫婦(実質上の夫婦と認められる内縁関係を含む。)間の性行為が含まれないことはいうまでもない。しかし、このことから逆に、右の正常な性行為以外のそれがすべて淫行に当たるものということはできない。例えば、刑法にいう「淫行ノ常習」は、その罪の客体たる婦女が淫行の常習者であるかどうかが問題となるのであるから、その淫行にはいわば貞操観念ないし性的倫理観に反するものを広く含むものと解することができるが、児童福祉法や本条例においては、淫行がそこに定める犯罪の実行行為の中に包含され又は実行行為そのものとされているのであるから、右にいう正常でない性行為であつても、それが行為当時の社会通念によつて許容されると認められるか、少なくとも、刑罰制裁を加えるに当たらないと評価されるものであるかぎり、犯罪の構成要件行為としての「淫行」ということはできないこととなる。つまり、この意味での「淫行」概念は、当該刑罰法規の趣旨、目的、その保護しようとする法益等を考慮に容れつつ、当該行為がなされた当時における社会通念を基準として価値的な評価・判断を加えることによつて決せられるのである。もとより、社会一般の価値観は多様化し、また、社会通念は、長期的にみれば、時代とともに変遷することは否み得ないが、問題とされる当該行為がなされた当時における最大公約数としての社会通念それ自体は、通常の判断能力を有する一般社会人にとつて把握することは困難ではない。同様のことは、「猥褻」概念についても問題となるが、このような価値的評価・判断を必要とするいわゆる規範的構成要件要素を含む犯罪構成要件であつても、これによつて処罰される行為が何であるかを通常の判断能力をもつ一般人において社会通念に照らして識別し理解することが可能であるかぎり、当該構成要件は明確性に欠けるところはないというべきである。

[3] そこで、刑法及び児童福祉法中の関連諸規定に論及しながら、本条例の本件各規定の趣旨、目的、保護法益について検討を進めることとする。
[4] まず、刑法177条、178条は13歳以上の婦女に対し暴行又は脅迫を用い、或いはその心神を喪失させ、若しくはその抵抗を不能にさせ、又はその心神喪失若しくは抵抗不能の状態にあるのに乗じてこれを姦淫した者を2年以上の有期懲役に処することとし、他方、13歳に満たない婦女については、右のような手段を用いず、また同意を得ていたとしても、これを姦淫した者は、同様に処罰されることとしている。刑法のこれらの規定は、つまるところ、13歳に満たない婦女は、いまだ性的行為の意義を理解できず、したがつて、これに対する同意能力を欠いているし、13歳以上の婦女であつても、その自由意思を抑圧し又はそれが欠けている前記のような特殊な事態のもとでこれを姦淫することは、いずれにしても、性的な行為についての自由な自己決定権を侵害するものであつて、被害者個人の性的な自由を保護法益するものと解される。しかしながら、13歳以上の女子であつても、年齢的に、心身の未成熟又は身体と心の発達の不均衡の故に、性的行為の意義について正しい十分な理解をもたず、したがつて、これに対する同意ないし積極的な欲求そのものが完全な自由意思に基づく自由な自己判断によるものとは認めることのできない年齢層の女子が存在することは顕著な事実である。刑法は、このような性的な無知に乗じて前記のような手段によらないでこれらの少女を性的行為の対象とするような行為を直接処罰する規定を設けていないが、そのことによつて、刑法が、そのような行為は社会一般の倫理観に反するとはいえず、およそ刑事罰の対象とすべきでない、とする価値判断を示したものと即断することはできない。いわんや、児童の保護と健全育成という社会的見地から、このような性的被害にかかりやすい年齢層にある青少年を保護するための立法が、刑法と抵触しないことは明白である。
[5] 児童福祉法は、「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。」(1条1項)、「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。」(2条)、「前2条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたつて、常に尊重されなければならない。」(3条)と高らかに宣言している。もとより、右第1条が定める国民の努力義務は、法の規定を待つてはじめて生ずるものではなくて、およそ国民が児童の心身ともに健やかな成長を待ち望むことは人間自然の情であつて、その健全な育成を阻害することが社会一般の人道的な倫理・道徳観念に反することはいうまでもない。国及び地方公共団体が児童の保護者と相並んで児童を心身ともに健全に育成する責任を負うものとされているのは、このような児童の健全育成に対するすべての国民の願望からしても当然のことであり、その健全育成を阻害する行為、特に性的行為について正しい十分な理解をもたず、その故に、性的経験による衝撃が将来にわたつての心身の健全な育成に継続的かつ重大な障害となるおそれの強いと認められる一定の年齢層の少女を対象とする特定の性的な侵害行為に対し、国が児童福祉法において厳罰で臨んでいるのは、まさに責務の一端を果しているものといえる。
[6] ところで、児童福祉法は、児童とは18歳に満たない者をいうとし(そのうち小学校就学の始期から満18歳に達するまでの者を「少年」と名づけている。)(4条)、「児童に淫行をさせる行為」を一般的禁止事項の一として掲げ(34条1項6号)、しかも、その違反に対する刑は、同法の罰則の中でずば抜けて重く定められている(60条1項)。そこには、その行為が児童の福祉を害すること特に著しく、児童の心身ともに健全な育成を望む社会的な公共の法益を甚だしく侵害するものであるとする立法者の評価が示されている。
[7] 本条例における本件各規定は、「何人も、青少年に対し、淫行又はわいせつの行為をしてはならない。」とし、その違反者に対し、2年以下の懲役又は10万円以下の罰金を科することとしている(10条1項、16条1項)。それは、児童福祉法の精神、特に同法2条に定める地方公共団体の責任に照らし、前述の国家の法である児童福祉法の一般的禁止行為の中から漏れている青少年(児童福祉法の「少年」に該当する。以下、適宜「少女」と呼ぶ。)を相手として自分自身で行う性交及び性交類似行為のうち、青少年の健全な育成を阻害するおそれのあると認められるものを対象として補充的に県条例で処罰することとしたものと認められる。この種の行為は、もともと、青少年の性的行為についての判断・同意能力が劣つていることを知り、又はこれに乗じて行われるかぎり、それ自体として、社会一般の倫理観に反するものと認められるが、それは、児童福祉法の規定が児童に対し事実上の影響力を及ぼし、児童をして第三者と性交又は性交類似行為を行わせ又は児童が第三者とこのような性行為をするのを助長し促進する行為を対象するのに対し、自ら青少年を相手方として行うこの種性行為を対象とする点で、犯罪の態様、したがつてその社会的意義を著しく異にする。すなわち、前者にあつては、そのような性的に未熟な少女を第三者の性的行為の対象にするという行為は、たとえ行為者が営利の目的に出でず、また、当該少女がもともとそれに同意していたとしても、明らかに当該少女の福祉を害し、その健全な育成を著しく阻害するものであつて、社会通念上その当罰性を肯定するに十分の根拠があり、また、その少女の性行為そのものも、客観的にみて、淫らな性行為として淫行の概念に当たると評価することができる。これに反し、後者にあつては、自ら青少年を相手に性行為に出る場合であるから、その性行為に至る経緯とその背景事情、性行為に出た動機、意図、両者の間の心理的精神的緊密性、将来の結婚へ向つての意図とその実現の可能性など、個々の事件ごとに異なる各般の要素が含まれており、前者のようにその典型的な事例につき犯罪社会学的な一つの犯罪定型を想定することさえ困難である。しかも、他面、性行為の相手方である少女の心身の発達状況に照らして、その性行為に関する自己の判断をどの程度まで尊重すべきかという問題も含まれている。
[8] 本条例は、「青少年の健全な育成を図るため青少年を保護することを目的とする。」(1条)と定め、本件各規定が既に述べたように児童福祉法の趣旨に則り、これを補充して青少年の健全育成を全うしようとするにあることを明らかにしている。そうとすれば、本件各規定の「淫行」概念は、一方では、このような条例の趣旨、目的、被害法益という観点、すなわち、18歳未満の青少年は性的行為についての自己判断能力が一般的になお未熟であり、そのような状態に乗ずるような性的な侵害行為からこれを保護する必要があるとともに、その自己判断能力の未熟さとも関連して、性的行為の体験が心身両面の健全な成育に継続的かつ深刻な悪影響を及ぼすおそれが一般的に認められ、その健全な育成に対する重大な阻害要因となること、つまり、この種の性的侵害が社会的、倫理的非難に値することを考慮しつつ、他方では、具体的場合におけるその性行為につき、その各般の事情に照らし、青少年の健全な育成という目的からみても、これを本件各規定による刑事制裁の対象とすることが相当でないか、少なくとも刑罰制裁を加えるまでもないと認められる事由があるかどうかを検討することによつて決めなければならない。

[9] 以上のような考慮のもとに、多数意見は、本件各規定で禁止、処罰する「淫行」の概念につき、
「青少年の健全な育成を図るため、青少年を対象としてなされる性行為等のうち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のもの」
をいうとして、その解釈の一般的基準を示したものと考える。そして、淫行の概念を定める解釈・評価の基準としてこのような社会通念を用いる以上、それは既述のとおり、当該行為のなされた当時の社会における最大公約数たる共通の倫理的、道徳的、人道的価値観によるべきものと解される。多数意見が、右の一般的基準を敷衍して、「淫行」の概念を説明し、まず、
「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為」
を掲げ、一般的にいつて性的行為に対する判断・同意能力の劣るとされる青少年に対し、このような手段を用いて性的な侵害行為に出るという点で、性的自由の侵害という観点からも、青少年の健全な育成の阻害という点からも、社会通念上非難に値することが極めて明白である性行為等をとりあげ、次いで、
「青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為」
を掲げて、前記のような手段によらない場合であつても、青少年を自己の性的欲望を満足させるためだけの対象物として扱うという点で、およそ青少年の心身の健全な育成への配慮の見られない、これまた社会通念上倫理的な非難に値することに異論の考えられないような性行為等をとりあげていることは、本件性行為のなされた当時の社会通念の理解の仕方として適切であり、「このような解釈は通常の判断能力を有する一般人の理解にも適うもの」ということができる。

[10] なお、本条例16条1項は、法定刑の長期として、条例で定めることが許されている最高刑の懲役2年を定めており(地方自治法14条5項)、他の同種の大多数の県条例の法定刑に比し著しく重い刑罰制裁を科しうることとしているが、右に述べたような「淫行」概念を前提とするかぎり、児童福祉法の法定刑と対比しても、その刑が不当に重いとはいえないのみならず、本条例は選択刑として10万円以下の罰金を定めており、裁判官の刑の量定における適切な裁量を期待していることがうかがえるから、この点からも右規定は不当とはいえない。
[11] また、児童福祉法は「児童」の年齢を18歳に満たない者と定め、本条例が同じく青少年を18歳に満たない者と定めているところ、その年齢層の中には、婚姻能力の認められている満16歳以上の女子が含まれており(民法731条)、これらの16歳以上の女子については性行為についての完全な判断・同意能力が法的に是認されているというべきであるから、本条例の罰則で保護すべき法益が欠けている、とする考え方があるが、満20歳に達しない未成年の子が婚姻するには父母の同意が必要とされている(民法737条)ことからみても、婚姻能力の規定が性的行為についての完全な判断・同意能力を推定させるものと解することは当を得ない。青少年の年齢を何歳までとするかは、合理的立法裁量に委ねられているところであり、現在の状況において、性的行為から保護される年齢の上限を満18歳に達しないものとすることは、明らかに不合理であるとはいえない。その反面として、これらの年齢層の少女は、「淫行」に該当する性行為等の対象者となることを制約され、その意味でその性的行動の自由に対する事実上の制限を受けることとなるが、18歳に満たない少女に対しては、その性的行動の自由を保障することよりも、一般的に性的な判断・同意能力の劣ると考えられるこれらの少女を性的経験から受ける悪影響から保護することを重視することも、立法政策として許容される範囲内に属するものと考えるのが相当である。
[12] 最後に、本条例は、青少年の中から、「他の法令により成年者と同一の能力を有する者」を除外し(3条1項)、また「違反者が青少年であるときは、これに対して罰則を適用しない。」(17条)こととしている。既に婚姻している女子等を保護の対象から除外する一方、18歳に満たない少年が同じく18歳に達しない少女を淫行の対象としたときは、互いに性的行為についての判断・同意能力に欠陥があると法的にみなされている者同士の間における性的行為等として当罰性を欠き、また、相互に健全育成についての努力義務を負うとは考えられない者に刑罰制裁を科することは適切でない、としているものと考えられる。いずれも、本条例罰則の適用範囲を適切に限定するものとして行き届いた立法上の配慮というべきである。もつとも、本条例の右罰則にふれない性的行為等であつても、「自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること」(少年法3条1項3号)に当たる状況にあるときは、少年非行としてその健全な育成を期し、性格の矯正に関する保護処分を行うため(同法1条)に、家裁の審判に付することができることはいうまでもない。


 裁判官伊藤正己の反対意見は、次のとおりである。

[1] 本条例10条1項の規定につき、多数意見は、処罰の範囲が不当に広がり、その適用が恣意にわたることを防ぐため、同規定にいう「淫行」の意義を明確にする限定解釈を行つているが、このような多数意見の考え方には共感するところが少なくない。しかし、そこで示された解釈が右規定から導き出されうるものとし、これによつて同規定による処罰の範囲が不当に広すぎるとか同規定が不明確であるとはいえないから、それが憲法31条の規定に違反しないとする多数意見の結論には、私は左袒することができず、本条例10条1項の規定は、刑罰法規に対して要求される明確性を欠くものであつて、違憲といわざるをえないと考える。以下に、その理由を述べることとする。

[2] 本条例のように青少年の健全育成、保護を目的とする条例は、現在、長野県を除く各都道府県において制定されている(なお全国十余の市町にも同種の条例があるが、以下都道府県条例についてのみ言及する。)。しかし、右の都道府県条例における青少年との淫行及びわいせつ行為に対する規制は、余りにも区々であるといわざるをえない。まず、青少年との淫行及びわいせつ行為の禁止並びに処罰に関する規定(以下、「淫行処罰規定」という。)の有無についてみると、東京都、千葉県にはこれがなく、他の道府県はこれを設けており、淫行処罰規定をおくものについてその構成要件の定め方をみると、多くの条例は、青少年に対する淫行(みだらな性行為又は不純な性行為とするものを含む。)又はわいせつ行為を構成要件とするのに対し、京都府、大阪府、山口県では、性行為及びわいせつ行為を手段又は目的等によつて厳格に限定しているのが目立つている。また、法定刑についてみても、各道府県とも罰金刑を定めているが、その上限は10万円(24例)、5万円(14例)、3万円(6例)と分かれており、これに選択刑として懲役と科料を定めるもの2例、同じく懲役刑のみを定めるもの25例、同じく科料のみを定めるもの2例、他の選択刑を定めないもの15例となつており、懲役刑を定めている27府県における上限は、6月(6例)、1年(16例)、2年(5例)と分かれていて、法定刑の差は著しく顕著である。さらに、本罪を親告罪とするもの(4例)とそうでないものがあり、また、行為者が青少年であるときには罰則を適用しないと規定するのが通常であるが、そのような例外規定をおかないもの(5例)もあり、なお、行為の対象となつた青少年の年齢についての認識に関し、故意の推定規定をおくもの(26例)とそうでないものとがある(ちなみに、本条例10条1項及びその罰則を定める16条1項は、昭和52年の改正にかかるもので、青少年に対する淫行又はわいせつ行為に対して2年以下の懲役又は10万円以下の罰金という、地方自治法の許容する最高限度の刑罰を定めている。)。
[3] 以上に示したように、青少年に対する淫行の処罰に関する各都道府県の条例における規定は、処罰規定の有無、処罰規定における構成要件の精粗、法定刑の種類と軽重、告訴の要否、処罰対象者限定の有無及び故意推定規定の有無について顕著な異同がみられ、全体として、著しく不均衡かつ不統一なものとなつているのが実情である。
[4] 所論は、このような地域差のあることを理由に本条例10条1項の規定が憲法14条に違反すると主張するが、憲法94条が地方公共団体に条例制定権を賦与した以上、一定の行為について処罰するかどうかにつき、また処罰の態様につき、各地方公共団体の条例における取扱いに差異を生ずることがあつても、このような地域差のあることをもつて直ちに憲法14条に違反するとはいえないことは、多数意見の引用する当裁判所の判例の示すところである。結論としてこの点の論旨を採用することができないことは、多数意見のいうとおりであろう。
[5] しかし、わが国のように、性及び青少年の育成保護に関する社会通念についてほとんど地域差の認められない社会において、青少年に対する性行為という、それ自体地域的特色を有しない、いわば国全体に共通する事項に関して、地域によつてそれが処罰されたりされなかつたりし、また処罰される場合でも地域によつて科せられる刑罰が著しく異なるなどということは、きわめて奇異な事態であり、地方公共団体の自主立法権が尊重されるべきものであるにせよ、一国の法制度としてはなはだ望ましくないことであるといわなければならない。もとより、このような地域による不均衡があつても、これを正当化しうるだけの実質的な理由があれば別であるが、すでに述べたような顕著な差異について、国民を納得せしめるに足りる合理的理由をみいだすことはできないと思われる。例えば、日本の人口の1割を超える住民をもつ東京都において、青少年の育成保護の必要度は決して他に比して低いと考えられないにもかかわらず、淫行処罰規定が設けられていないこと、また東京都や千葉県において処罰の対象にならない青少年に対する淫行が隣接する神奈川県や埼玉県では処罰の対象になることについて、これを合理的ならしめる実質的な理由をあげることは不可能であろう。刑法の強姦罪、強制わいせつ罪などが被害者の名誉を顧慮して親告罪とされているのに対し、たとえ保護法益を異にする面があるにせよ、多くの条例が淫行罪について被害者の告訴を要件としていないことも、問題として指摘されてよいと思われる。このようにみると、青少年との淫行の処罰に関し各都道府県の条例の間に存する前述のような著しい不均衡は、きわめて不合理なものであることが明らかであるといわなければならない。
[6] すでにみたように、このような不均衡が憲法14条に違反するといえないとしても、かかる著しく不合理な地域差を解消する方向を考える必要がある。そうでないと、淫行処罰に関する条例の規定の文面上における著しい不均衡がそのまま右規定による検挙、公訴の提起及び処罰という実際の運用面にあらわれ、延いては国民に右規定の合理性に対する強い疑問や不公正感を抱かせるに至ることがおそれられる。したがつて、右規定の解釈及び運用において、処罰に対して抑制的な態度をとることが相当であると考えられ、とくに本条例10条1項にみるような、淫行処罰規定の構成要件の明確性を欠く場合には、処罰対象を国民多数の合意が得られるようなものに絞つて、厳格に解釈することが憲法の趣旨からも要請されるといつてよい。

[7] 次に問題となるのは国法との抵触である。いうまでもなく、条例は「法律の範囲内で」制定することが許されるのであるから(憲法94条。地方自治法14条1項は、「法令に違反しない限りにおいて」制定できるとする。)、国の法令と矛盾抵触する条例は無効である。もとより、いかなる場合にこの矛盾抵触があるとすべきかは、微妙な判断となることが少なくない。ある事項について国の法令中にこれを規律する明文の規定がないからといつて、当然に条例がこれについて規律することが許されることにはならないし、また特定事項について国の法令と条例が併存するときにも、矛盾抵触があると考えられない場合もある。条例が国の法令に違反するかどうかは、両者の規律対象や文言を対比するのみでなく、それぞれの目的、内容及び効果を比較して決定されることになる(最高裁昭和48年(あ)第910号同50年9月10日大法廷判決・刑集29巻8号489頁参照)。
[8] ところで、淫行処罰規定に関連のある国の法令として、児童に淫行をさせる行為に重罰を科する児童福祉法の規定及び売春の相手方を不可罰としている売春防止法もあるが、ここでは刑法の強姦罪の規定を検討することとしたい(なお、条例の淫行処罰規定にいう青少年とは男女を問わないものであるが、実質上年少の婦女を主眼とするものであることは疑いをいれないところであるから、それを前提として考えてみる。)。
[9] 刑法177条及び178条の規定によれば、13歳未満の婦女については、いかなる手段方法によるかを問わず、また完全な合意がある場合であつても、これを姦淫することを強姦罪とするとともに、13歳以上の婦女については、暴行、脅迫をもつて又は抗拒不能や心神喪失に乗ずるなどの所定の手段方法によつてこれを姦淫した場合に限定して、強姦罪に当たるとされている。これは13歳に満たない婦女は性行為の意義を理解することができず、その同意の能力を欠くものとされるからであるが、無限定に姦淫を処罰することを相当とする年齢の上限を何歳とすべきかは、国法のレベルにおける裁量によるもので、その変更は法律をもつてしなければならないことは明らかであろう。
[10] 本条例10条1項の規定は、小学校就学の始期より前にある者を除き18歳未満の者である青少年に対して淫行をした行為を処罰するものである。かりにこの淫行の意義をゆるやかに解し、例えば「淫行」すなわち姦淫と解釈するとすれば、何らの限定なく処罰する姦淫(性交)行為の対象となる年少婦女の年齢の上限を18歳にひきあげるに等しいこととなる。この点は、条例の淫行処罰規定と刑法177条及び178条の規定とがその保護法益を異にする面があることを考慮に入れても、なお看過し難いところであつて、右にいう「淫行」を性行為一般と解するときは、結局「法律の範囲」外に逸脱する疑いを免れず、この点においても、憲法の趣旨からいつて、そこに何らかの要件を付加することにより限定をすることが求められるのである。そして、このような限定を付するにあたつては、刑法の規定との調和が当然に考慮されるべきこととなろう。

[11] 以上に述べたところからみて、「淫行」の意義について、どのような解釈をとれば、著しい条例間の不均衡を生ずることを免れ、また、国法とくに刑法との整合性を保ち、かつ、憲法の要求する明確性を充たすことになるのであろうか。
[12] 本条例10条1項にいう「淫行」を広く青少年に対する性行為一般を指すと解したり、また単に反倫理的ないしは不純な性行為と解したりするのでは、あるいは広きに失し、あるいは不明確となるのは多数意見の説示するとおりであるし、私のすでに述べたところからもきわめて不適当といわざるをえない。これまで高裁判決などで多く示された解釈によれば、
「淫行とはみだらな性行為のことであり、健全な常識を有する社会人からみて、結婚を前提としない、専ら情欲を満たすためにのみ行う不純とされる性交又は性交類似行為をいう」
とされる。この解釈は、一見して限定を付しているようにみえるが、性行為そのものは、自己の性欲を満足させるために行われるのが通常であるから、それはほとんど限定の作用をいとなまず、結婚を前提としない青少年を相手方とする性行為のすべてを包含することに近いと考えられ、適当と考えられる限定とはいえないであろう。
[13] 私の見解によれば、現在のわが国において、青少年に対する性行為であつて社会的な非難を受け、国民の多数が処罰に値するものと考えるのは、青少年の無知、未熟、情緒不安定などにつけ込んで不当と思われる手段を用いてする性交又は性交類似行為であると考える。すなわち、刑法のような、暴行、脅迫をもつて、あるいは心神喪失、抗拒不能に乗じて行うという程度には達しないが不当と考えられる手段を用いて行う性行為がそれに当たるというべきであり、具体的にいえば、まさに多数意見のいう
「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等……不当な手段により行う性交又は性交類似行為」
ということになる。多くの淫行処罰規定は、本条例を含めて、「淫行」とか「みだらな性行為」とか「不純な性行為」というように、むしろ安易に構成要件を定めていたといえるのに対し、近年制定された京都府の条例21条1項、大阪府の条例18条、山口県の条例12条1項が、多少表現及び範囲を異にするが、ほぼ私見のような限定をおいて禁止処罰の対象を定めていることが注目されよう。淫行処罰規定についてこのように処罰の範囲を限定することによつて、はじめて顕著な地域差の解消、国法との調和の保持という憲法の趣旨に沿つた運用がなされることになるのである。
[14] なお、多数意見は、右にあげたところに付加して、
「青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為」
をも「淫行」に当るとするが、これは、後述の明確性の点で問題があるのみでなく、以上に述べた国法との関係からいつても、処罰範囲の限定として適切なものとはいえないであろう。

[15] 問題となるのは、前叙のように
「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により」
という限定を加えることは、単に「淫行」とのみ規定する本条例10条1項の解釈として可能であるか、ということである。
[16] 当裁判所は、すでに、前記の大法廷判決において、ある刑罰法規があいまいで不明確である理由でもつて憲法31条に違反すると認めるべきかどうかは、通常の判断力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつて決定すべきであるとし、また最近では、いわゆる税関検査に関して、右の大法廷判決を参照しつつ、
「表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許されるのは、その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない」
と判示している(最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁)。
[17] 以上の判例は、いずれも表現の自由にかかわるものであり、表現の自由の特質からその規制の立法はとくに明確性が憲法上要求されることはたしかであるが、刑罰という最もきびしい法的制裁を科する刑事法規については、罪刑法定主義にもとづく構成要件の明確性の要請がつよく働くのであるから、判例の説示するところは、憲法31条のもとにあつて、刑罰法規についてもほぼ同様に考えてよいと思われる。
[18] この判断基準にたつて本条例10条1項の規定が憲法31条の要求する明確性をそなえているかどうかを考えてみるに、多数意見の示すような限定解釈は一般人の理解として「淫行」という文言から読みとれるかどうかきわめて疑問であつて、もはや解釈の限界を超えたものと思われるのであるが、私の見解では、淫行処罰規定による処罰の範囲は、憲法の趣旨をうけて更に限定されざるをえず、「誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等」の不当な手段により青少年との性交又は性交類似行為がなされた場合に限られると解するのである。しかし、このような解釈は、「淫行」という文言の語義からいつても無理を伴うもので、通常の判断能力を有する一般人の理解の及びえないものであり、「淫行」の意義の解釈の域を逸脱したものといわざるをえない。このように考えると、「淫行」という文言は、正当に処罰の範囲とされるべきものを示すことができず、本条例10条1項の規定は、犯罪の構成要件の明確性の要請を充たすことができないものであつて、憲法31条に違反し無効というほかはない。原判決及びその支持する第一審判決は破棄を免れず、被告人は無罪であると考える。


 裁判官谷口正孝の反対意見は次のとおりである。

[1] 憲法31条の規範内容としての罪刑法定主義は、犯罪構成要件の明確性を要請する。この明確性の要請は、一方、裁判規範としての面において、刑罰権の恣意的な発動を避止することを趣旨とするとともに、他方、行為規範としての面において、可罰的行為と不可罰的行為との限界を明示することによつて国民に行動の自由を保障することを目的とするものである(最高裁昭和50年9月10日大法廷判決・刑集29巻8号515項、徳島市条例違反等事件における団藤裁判官の補足意見参照)。そして、裁判規範の面における明確性と行為規範におけるそれとは表裏一体の関係にあるものであつて、前者の面において犯罪構成要件の意味内容において明確性を欠くときは、公権力の恣意的発動を招来するものであつて、国民に対し拠るべき行為基準を示しえないばかりでなく、その法的地位の安定性を損なうことになる。この趣旨は、前記大法廷判決も明示するところであり、同判決は、刑罰法規が明確性を欠くか否かの判断基準として、
「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」
と、判示している。行為規範の面に即しての提言であるが、裁判規範の面についても同じというべきである。さて然らば、本条例10条1項(罰則は16条1項。以下、罰則を含めての趣旨で単に「10条1項」という)は、「何人も、青少年に対し淫行又はわいせつの行為をしてはならない」と規定しているが、右規定は前記大法廷判決に示す明確性の基準を充たしているといえるであろうか。

[2] ところで、刑罰法規の構成要件が、記述的要素だけではなく、規範的要素をも用いて定められている場合、その解釈について、規定の文言だけではなく、その規定と法規全体との関係、当該法規の立法目的、規定の対象の性質等を総合的に考察して当該規定の内容を明確にする作業が許されることは、解釈の方法としては当然である。右10条1項にいう「淫行又はわいせつの行為」が評価をともなう規範的構成要件要素であることは明らかである。
[3] そこで、多数意見は、前記のような解釈の作業を重ねたうえ、同条項にいう「淫行」概念についていわゆる限定解釈の手法を用いることにより同意見に示すような解釈を施し、明確性の要請が充たされるものとしているのである。
[4] そして、限定解釈を必要とする理由について説明を加えているのであるが、そこで説かれている理由は、右の「淫行」の意義を広く青少年に対する性行為一般を指すものと解するときは、「淫らな」性行為を指す「淫行」の用語自体の意義に添わないということと、これを無限定に解釈するときは社会通念上およそ処罰の対象として考え難いものを含むこととなつて広きに失するということである。
[5] 思うに、「淫行」とは、「淫らな行い」のことであつて、行為それ自体の性質を示す用語であり、行為の態様について意味づけを与えるだけの概念であるが、問題は、本条例10条1項が、「淫行……をしてはならない」という禁止文言を掲げ、その禁止に違反する行為それ自体を犯罪の構成要件要素としている点である。私は、「淫行」とは性行為、すなわち性交及び性交類似行為を意味する概念であると考える(多数意見のいうように、「淫らな性行為」を意味するものではない)が、犯罪の構成要件要素としての機能を果すためには、右「淫行」の用語が違法行為の類型を示すについて必要にして十分なものといえるかどうかである。「淫行」概念の内包としての性交及び性交類似行為は、人間の営む行為として、もともと違法・適法の価値判断に親しまない価値中立的行為である。かかる行為をして違法行為の類型を示す犯罪構成要件要素とするためには、他に何らかの要素が加わることが必要である。さればこそ、児童福祉法34条1項6号の規定の如きも、「児童に」という限定と「淫行をさせる」という使役形を用いることにより、「淫行」についての違法性を与えているのである。「淫行」の概念のうち「淫らな」という用語を取り出して、行為の違法性を示す要素とすることは無理である。(性行為それ自体を取り出して「淫らな」それと、「淫らでない」それとを類別することが果して可能であるかを考えよ)。「淫行」概念について、行為の違法性を示すためには、行為の相手方、動機、目的、行為について用いられた手段・方法、行為の行われた当時の附随事情等を示すことによりはじめて可能となるものと考える。そして、私は、後記三に示すとおり、本条例にいう青少年のうち相手方の年齢のいかんによつては、「淫行をする」という用語自体により行為の違法性を示す構成要件要素として必要にして十分なものであると考えうる余地があると思うのであるが、その点は暫く措くとして、ここでは右条例10条1項の規定文言から、多数意見の示すような規範内容を「通常の判断能力を有する一般人の理解」において読みとることができるかどうかについて検討することにする。
[6] 多数意見は、同規定にいう「淫行」とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではないとし、その一つの場合として、まず誘惑、威迫等の手段・方法に違法性のある場合を挙げるのであるが、一般人の理解として、行為自体の性質を示す「淫行」という概念から右のような手段の違法性までを導くことは、むしろその理解を超えるものというべきである。法令、特に刑罰法規の定め方として、手段・方法の違法性を加えて行為の違法性を示すためには、特にそのことを明示するのが一般である。
[7] 次に、多数意見は、右の手段・方法の違法性のある場合のほか、ないしはこれを含めて、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような場合をいうとしているのであるが、この定義も実にあいまいであり、融通無碍の概念規定である。性行為一般がもともと性的欲望の充足を目的とする人の営為であることを思えば、右のように「単に」といい(愛情その他の人格的結合の欠如を要件とする趣旨であろう)、また、性的欲望を満足させるための「対象として扱つているとしか認められないような場合」といつてみても、これを緩やかに解すれば、前記のような性格をもつ性行為一般を限定するものとしての機能を果すことを期待することはできず、また、反対に、これを厳しく解するとすれば、その点の立証は現実に著しく困難なものとなろう。(愛情その他人格的結合を欠く場合といつてみても、その運用は極めて微妙である。例えば、本条例にいう青少年を当初単に性的欲望を充たすための対象として扱つているとしか認められないような性的交渉を重ねた後、結婚意思を生じたというような場合、多数意見によれば果して処罰の対象となるのであろうか。)
[8] 私は、そもそも右のように愛情その他人格的結合の欠如を要件とし、あるいはまた、特定の動機、目的の存在を「淫行」の違法性を示すための必要な要件とするならば、条例の規定それ自体にそのことを明示すべきであり、そのことなくしてこれらの要件を右の「淫行」概念の中に取り込んで理解するということは、やはり一般人の理解を超えるものと思う。
[9] もつとも、多数意見が「淫行」概念について限定解釈を施し、処罰範囲が不当に拡大することを防止しようとしていることは、私としても理解するに吝かではない。しかし、多数意見の示す誘惑、威迫等性行為にいたる手段の違法性の如きは、これを加えることにより「淫行」の違法性を限定するというのであれば、私はすでに解釈の作業を超え新たな立法作業の範ちゆうに属するものと考える。そしてまた、多数意見の示す右の手段の違法性を除いた場合の概念規定も、通常人の理解をもつてしては、とうていその意味内容を把握するに困難なものだと思う。
[10] 以上の次第で、私は本条例10条1項にいう「淫行」概念は、犯罪の構成要件、すなわち違法行為の類型を示すものとしては明確性の基準に欠けるものとの非難を免れないものと考える。これまで下級審裁判例の実際において、同種の淫行処罰の規定を設けている各道県の条例の解釈につき、各裁判所の見解が必ずしも一義的でなく帰一するところのない現状は、私の批判が当たつていることを裏書しているものと思うのである。

[11] 次に、私は、憲法31条はその規範内容として実体的適正処罰の原則をも含んでいるものと考えている。刑罰法規が人の行為を犯罪として処罰するためには、その行為は法益侵害を伴うものであつて、まさに一般人の見解を規準にして可罰相当性の評価を受けるものでなければならない。社会倫理上もしくは道徳上の価値規準からみて好ましくない行為であるというだけの理由で法律(ここでは条例)を構えて人を処罰するが如きことは許されるはずがない(刑法の脱道徳化、道徳に対する罪の非犯罪化という最近の刑事法の動向を考えよ)。
[12] ところで、私も青少年を性的に汚染された環境から保護しその健全な育成を図るという本条例制定の趣旨は十分に理解することができる。そして、本条例にいう青少年のうち年少者(例えば、16歳未満の者。便宜これを「年少少年」という)に対する性交又は性交類似行為の如きは、そこにいたる手段・方法のいかんを問わず青少年の健全な育成を阻害する行為であつて、条例を以てかかる行為を一律に処罰することには相応の合理性があるものと考える(もつとも、これら年少少年に対する場合、通常誘惑の手段が用いられるであろう)。刑法176条、177条各後段の規定は、性的自由に対する侵害の観点から13歳未満の者に対するわいせつ、姦淫行為をすべて強制わいせつ罰又は強姦罰として処罰しているが、そのことと青少年の健全な育成という社会的法益の侵害とは自ら別異の規制に服するものと考えてよい。両者は保護法益を異にしているものといえるからである。
[13] 然し、本条例にいう青少年のうち年長者(例えば、16歳以上の者。便宜これを「年長青少年」という)に対する性交又は性交類似行為については年少少年に対する場合と同一に扱うわけにはいかない。身体の発育が向上し、性的知見においてもかなりの程度に達しているこれら現代の年長青少年に対する両者の自由意思に基づく性的行為の一切を罰則を以て一律に禁止するが如きは、まさに公権力を以てこれらの者の性的自由に対し不当な干渉を加えるものであり、とうてい適正な処罰規定というわけにはいかないであろう。なお、ここで、民法が16歳以上の女子に対する婚姻能力を認めていることも考えておいてよい。
[14] 私は、これら年長青少年に対する淫行(性交又は性交類似行為)を禁止処罰するためには、これらの行為を違法たらしめる特別の要素が備わることが必要であると考える。これら青少年の性的知識・経験の未熟なことに乗じて誘惑、威迫等の手段を用いて性交又は性交類似行為に及んだ場合の如きがそうである。多数意見も又そのような考慮を働かせたからこそ、「淫行」概念について限定解釈の道を選択したものと理解する。然し、私としては、そのような限定解釈が解釈の限界を超えると考えることは、先に述べたとおりである。そして、私の考えるところによれば、限定解釈の必要性は専ら右の年長青少年について生ずるわけであるが、限定解釈の道を認めない私の考えによれば、本条例10条1項の規定は右の年長青少年に対する関係において適正処罰の原則に反するものということになる。そして、年少少年に対する性交又は性交類似行為を一律に可罰相当と考える私の見解をもつてすれば、本条例は、右年少少年と年長青少年とを区別せず(同条例3条1項)、これらをすべて青少年の概念でひつくるめ、これらの者に対する「淫行」の一切を一律に可罰行為としている点において適正処罰の要請からとうてい是認できないものと思う。(なお、本件において被告人と性的関係を持つた女性は満16歳の者であつたことを記しておこう。)

[15] 以上のほか、本条例10条1項の憲法適合性についてはなお検討を要する問題点を残すが、私は上記二及び三に述べた理由により、右規定は少なくも年長青少年との淫行を処罰する限りにおいて、刑罰法規の明確性、適正処罰の観点から考えて憲法31条に違反し無効と考える。従つて、この理由により原判決及び第一審判決は破棄を免れず、被告人は無罪と考える。


 裁判官島谷六郎の反対意見は次のとおりである。

[1] 一般に、刑罰法規は、その規定が明確であることを要求される。その法規により、何が犯罪として処罰され、したがつて、また何が処罰されないのか、明確でなければならない。犯罪構成要件の明確性は、近代刑法の基調をなす罪刑法定主義の要請するところである。そうでなければ、国民一般は、自己がどのように行動しなければならないのか、又どのように行動してはならないのか、行動の基準を明確に知ることができない。罪刑法定主義の下においては、刑罰法規は国民に対する告知機能を有するのである。
[2] ところで、福岡県青少年保護育成条例10条1項にいう「淫行」とは、何を意味するのか、はなはだ不明確である。もとより、「淫行」の意義について、これを広く性行為一般を指すものとする解釈の採り得ないことは、多数意見の説示するとおりである。条例制定者の意図は、おそらく、同条例の目的とする青少年の保護育成上有害と考えられる、青少年に対する性的行為を禁止し、これを処罰の対象にしようとするものであろう。しかし、いかなる場合のそれを処罰の対象とするのか、具体的明示が全くなされていない。単に「淫行」というのみである。このように、はなはだ漠然として不明確な表現をもつて犯罪を定め、処罰の対象とすることは、刑罰法規として、犯罪構成要件の明確性を欠くものであり、罪刑法定主義の要請に反するものであるといわざるを得ない(青少年に対する何らかの性的行為が青少年の保護育成上有害であるとして、これを禁止すること自体は、条例制定者の政策決定の問題であるが、刑罰をもつて臨む以上は、禁止しようとする行為、そして処罰の対象となる行為を、条例上明確に規定すべきである)。
[3] そして、このように犯罪構成要件が不明確であることは、取締りにあたる捜査機関にとつても、取締りの対象領域がはなはだしく曖昧となり、場合によつては、取締りの行過ぎを招来する危険性があることを指摘しておかなければならない。そうなつては、国民の人権保障の観点からも、看過し得ない事態が生ずるおそれがある。捜査機関の恣意防止のためにも、犯罪構成要件の明確性が要求されるのである。罪刑法定主義の下においては、刑罰法規が、前述のように国民に対する告知機能をもつとともに、刑罰権の恣意的発動の抑止機能をもつといわれる所以である。
[4] 多数意見は、「淫行」という概念を限定解釈することにより、右条項を合憲ならしめようとするのであるが、そこに示された解釈は、「淫行」という言葉から通常の判断能力を有する一般人が想到し得る範囲をはるかに超えているのであつて、私はこの解釈に与することができない。
[5] よつて、福岡県青少年保護育成条例10条1項の規定は、犯罪構成要件の不明確性の故に、憲法31条に違反して無効であり、同条項違反をもつて起訴された本件被告人には無罪を言い渡すべきである。

(裁判長裁判官 寺田治郎  裁判官 木下忠良  裁判官 伊藤正己  裁判官 谷口正孝  裁判官 大橋進  裁判官 木戸口久治  裁判官 牧圭次  裁判官 和田誠一  裁判官 安岡満彦  裁判官 角田礼次郎  裁判官 矢口洪一  裁判官 島谷六郎  裁判官 長島敦  裁判官 高島益郎  裁判官 藤島昭)
[1]一、原判決は、刑事訴訟法等に規定する、自由心証主義の範囲を、逸脱しており、正当な法定手続と言えないので原判決は破棄されるものである。

(刑事訴訟法第411条の該当理由)
[2] 被告人及び検察側の訴訟当事者相互の合意による書面は公判廷で証拠書面として採用され、しかもその書面の内容につき、証明力が争そわれていない場合、その書面の内容は全て真実証明されたものと、みなされるのであるから、被告人作成の上申書、申述書(昭和56年11月30日小倉簡易裁判所において、同意書面として証拠採用される。)に、明記している事項である
「適当な時期が来るまで、結婚を前提に真剣に交際して、彼女を暖かく見守つていくつもりでした。」
は、証明された事実として、とらえるべきであり、たとえ心証として採用しないとしても、これに反する認定は刑事訴訟法上許されないものである。
[3] 然し乍ら、原判決では司法警察員作成の供述調書での、被告人に不利な部分のみを、一方的に抜粋採用し、これによつて
「被告人が同女を単なる性欲の対象としてしか、扱つていない。」
などと、証拠書面の内容と明らかに反する認定を、推定によつてなしているからして、この認定は裁判官の自由心証主義の範囲を、超えたものとして許されない。
[4] 換言するとお互い裁判の当事者である検察、被告相方の何ら争そわれていない合意事項を、裁判官の心証によつて排斥し、更にその合意事項に反する認定は、著しく正義に反するものであつて無効となり、この無効の認定によつて「淫行」を被告人に適用しているから、刑事訴訟法第411条第1項により、原判決の破棄は免れないものである。
[5] なおこれを付言するのに、原判決は司法警察員作成の供述調書を、心証として採用しているが、右供述調書は、公訴事実を公判において、有利に維持できるように警察側が必要とする同女との、性交場面を主体にとらえているから、被告人が同女を単なる性欲の対象としてしか扱つていないなどと、はなはだ不利な印象を与えたものと思われるが、しかし公判廷において検察側は、本件被告人の、みだらな性交のように受け取れる動機の心情関係については全て撤回しており、また被告人にしても、司法警察員作成の供述調書の不同意部分の、撤回の要求が認められ且つ申述書、上申書等が同意を得て証拠として採用されたことによつて、被告人と同女との行為が婚姻を前提の性交であることを証明する必要がなくなり、同女に対する証拠調べ申請等も、簡易裁判所において撤回していた訳であり、合意事項や争そわれていない事項等は、被告人に有利に解釈するのが、裁判の本質であると思料する。

〔刑事訴訟法第405条第1項に該当する理由〕(省略)

(原判決の憲法第11条違反の理由)
[6]二、原判決では被告人と青少年(N)との性行為を、罪悪視したり、不自然なもの、不健康なものと解しているが、婚姻能力を有する両当事者が、本心から好きで行なつた場合右の理由は何ら理由と、ならないものであり、むしろ神聖なるもの、大切にされるべきものとすることが基本的人権の理に、かなつていると言えるが、原判決のように、右のような行為に、社会的制裁(本条例)を加えることを、妥当とした憲法解釈は被告人の人間性を否定したものであつて、憲法第11条に規定する被告人の基本的人権を侵している。

(原判決の憲法第13条違反の理由)
[7]三、本件事件において被告人は、相手方青少年と半年間の交際過程における性交渉が本条例違反となつているが本件は、(1)お互いが末長い交際を望みしかも、(2)相手方青少年は被告人を処罰する意思は全く有していない、(3)被告人は相手方青少年と結婚する意思を有していた等の事情に鑑みると、婚姻の明確な約束を有していないとしても、交際が継続している以上、将来婚姻等に発展する高度の可能性があるのであるから、本件被告人は憲法第13条より保護を受けることは明らかなところである。
[8] しかるに刑罰を適用することを、妥当とした原判決は、幸福追求権及び人格権等を保護した憲法第13条に違反している。なお原判決について偏見を指摘するに、婚姻については明示の約束などを有していないとしても、交際当事者間に信頼関係が存在していれば、婚姻が実現できる状況に至つてからでも、結婚の話しは遅くなく、また短時日に青少年と性交を行なつた経緯を、みだらな性交の認定材料にしているが、お互い相手から受ける第一印象に好意を抱いて、このような経緯に至つたのであり、個人的感情や人格権が尊重されている現代において、裁判官の主観によつてこのような犯情に結びつかない個人的感覚を、刑罰の認定材料とするのは、許されないものである。

(原判決の憲法第19条及び第21条違反の理由)
[9]四、被告人と相手方青少年の性行為が被告人の良心によつて、その愛を表現するために性交を行なつたという事実は、証拠書類(申述書・上申書)によつて証明されている以上、右行為が憲法により保護を受けることは明らかであるから、同条例の適用は避けるべきにもかかわらず、敢えて適用しておきながら被告人の良心による愛の表現行為に、社会的制裁を必要とするだけの具体的な特段の事由を何ら列挙していないので、原判決の憲法第19条及び第21条違反は、免れないものである。

[10] 以上の理由によつて原判決は破棄せられ、被告人は無罪であると思料する。
[11] 右被告人は、福岡県青少年保護育成条例違反被告事件について、昭和57年4月5日、上告申立を行なつていたものですが、当該適用条例自体が、憲法違反の条例と思われますので、憲法第81条に基づいて福岡県青少年保護育成条例第10条1項第16条第1項(以下「本条例」という。)が、左記に論拠する憲法に全て適合するかの、法令審査をお願いします。

(憲法第11条違反の主旨)
[12]一、婚姻能力を有する青少年との性愛は、人間の本性にかかわる自然的行為であり、これら両男女間の積極的合意に基づく性行為は、歴史上認められた永久不可侵の奪うことのできない権利であるが、本条例はこの人間として永久不可侵の権利に対し社会的制裁を加えて一律に禁止し、奪いせしめているので、憲法第11条を侵している

(憲法第13条違反の主旨)
[13]二、(1) 本条例は、青少年との性行為について禁止行為犯として、酒・タバコ・シンナーなどと同様の取扱いをなしているが、性行為そのものは、人格を有して行なうものであり、人格の存在しない物件などと、同様の取扱いをなすのは人格の存在を、無視するものであつて個人としての尊重を侵している。
[14](2) 本条例は、青少年と性交を行つた場合、親権者の明確な同意を得ていなければ、その青少年との交際期間中の者まで、本条例の適用を受けるので、将来の婚姻等への発展・期待が阻害されること、明らかであり幸福追求権を侵している。
[15](3) 本条例では、青少年との性交を行なつたとする一因でもつて公訴事実とすることを許しているため、18歳以上の者で青少年と交際している者は全て本条例の捜査対象となり、かような当事者の知られたくないプライバシーが、捜査機関によつて侵される可能性が強くプライバシーの権利を侵している。
[16](4) 本条例は、合意の性交を相手が青少年というだけで、犯罪行為としているが、罪の程度としては合意なので軽微なものであると言える反面、これによつて受ける対象者の社会的名誉の損害程度は、漠大なものであり不均衡であるので、個人の人格権を侵している。

(憲法第19条違反の主旨)
[17]三、本条例が統制の対象としている、13歳以上の者との合意の性交は年令から考察しても、ある程度の責任能力や思慮分別を有しての合意に基づく性行為であるから、行なう動機となるのは、自己の良心によつて、そのような経緯に至る場合が多いことなどに察するとこれは当事者が互いに自己の責任において自由に行動することを許すべき行為であり、これを敢えて禁止することは、良心による感情作用や愛情作用を否定するものであり、憲法で保障した最も大切な良心の自由を侵すものであると、言わざるを得ない。

(憲法第21条違反の主旨)
[18]四、本条例「淫行」の解釈が過度に広汎的で、これにより青少年との善良な目的での、愛の表現行為としての性行為まで抑圧し、禁止しているが、これは合理的な制限、範囲を超えているので、表現の自由を保障した憲法第21条を侵しているものである。

(憲法で保障する基本的人権体系侵害の理由)
[19] 本条例が、青少年が媒介となる性行為について保護の対象としているのを考えてみるに、まず青少年の中で13歳未満の者は刑法で保護されてあり、しかも青少年の自由意志によらない性交は児童福祉法で保護されているので、本条例は13歳以上の青少年との合意の性交又は積極意思による性交を保護の対象としているのである。
[20] そこで法律が何ら規制していない、これら13歳以上の者との自由意志による性行為を、一律に禁止し社会的制裁を加える必要性があるかについて考えると、まず本条例が存在しない場合において、青少年が淫行によつて何らかの悪影響を受けた場合、個人的には相手方に対して親権者の同意を得ていないとする不法行為責任を、民法上の運用によつて追求できる訳で、個人的被害や制裁はここで解決される訳であるから、ここで本条例の合憲性について問題となるのは、婚姻能力や責任能力を有したこれら青少年との自由意志に基づく性行為に、はたして個人的制裁にもまして、社会的制裁まで加える公共の福祉上の要請や利益が、あるかについて考えてみることとする。(ここでいう公共の福祉上の要請とは、青少年の健全な育成を指すものである。)そこで合意で行なう性行為につき、その起因となる要素や動機として、あげられるのに通常、2通りに大別され、それは善意の性交(ここでいう善意の性交とは、良心による性交・純粋な目的の性交・人格の結びつきを媒介とした性交・将来の婚姻が予見される性交・恋愛に基づく交際期間中の者の性交などを、言うこととする。)と悪意の性交(ここでいう悪意の性交とは、みだらな性交・何ら人格の結びつきの媒介としない性交・公序良俗に反する性交等などを、言うこととする。)とであるが、前者の善意の性交は、相手方青少年が婚姻適令に達していれば、程度の差こそあれ、憲法での基本的人権体系により保護を受けることは、疑いのないところである。ところが本条例は、善意の性交をも、処罰対象としているので犠牲となる基本的人権と保護される公共の福祉との相互の社会的利益の較量によつて、本条例の合憲性を考究するに、まず本条例の存在理由というのは、
「青少年は、心身が未だ未成熟であり、思慮分別などに乏しいため、一時期の感情にかられたり甘言や誘惑・強引さなどに負けたりして性交為を行なう場合が多く、これが青少年の発育に悪影響を与える」
と、言うもののようであるが、しかし青少年の年令が婚姻適令に達していれば、ほとんど社会人に近い思慮分別・性的適合能力を有しており、心身が未成熟という理由や思慮分別に乏しいと言う理由は小さなものと言え、本条例適用対象者の基本的人権を制限してまで保護を必要とする公共の福祉上の要請にしては、社会的利益が少なく、反面本条例の存在によつて失なわれる社会的利益をあげると、いかなる事情での性行為まで全て禁止しているので、青少年に性行為全てが犯罪行為のような罪悪感を与え、青少年の自由や独立としての成長を妨げるだけでなく、婚姻の自由や恋愛活動まで、制限・萎縮され更に、本来立法趣旨から言つて、みだらな性交を処罰するために制定された条例が、みだらな性交なのか純粋な目的の性交なのかの明確な判断が困難な為、善意の目的で性交を行なつた者まで犠牲となつて、一律に逮捕・処罰されているので、本条例の存在によつて失なわれる社会的利益は、公共の福祉上の社会的利益より大であると言わなければならず、よつて本条例は憲法第11条・同13条・同19条・同21条を侵しているものである。

(憲法第14条違反の主旨及び理由)
[21]五、(一) 本条例は、被告人が居住する福岡県など特定地域民にのみ青少年との合意に基づく性交を禁止し、一部の地域では何ら禁止されていない地域もあり、地域によつて青少年との健全な恋愛活動まで制限しているが、本来お互いの個人が法律で許された自由意志で行なう行動に対して、刑罰が及んだり及ばなかつたりするのを地域によつて、差別するのは、地域の実情と性行為とがほとんど因果関係がないことからも明らかに不合理であり、これは国が統一した見解のもとに、必要であれば国会によつて制定されるべき重要な人権を含んだ問題であり、地域によつて青少年との性交を一律に禁止・処罰することは憲法第14条を侵すものである。
[22](二) 本条例は、青少年としての取扱いを満18歳未満者と定義づけて青少年との性交を一切禁止するなど、年令によつて性行為を、差別しているが基準となつている18歳未満は民法上や平均結婚年令が低下している現況においての兼ね合いから言つても合理性を欠いており、義務教育課程者などに、改めるべきであり、現基準は年令によつて不合理的な取扱いを受けるので憲法第14条に違反している。

(憲法第94条違反の主旨及び理由)
[23]六、児童福祉法では、青少年の意思を尊重して、青少年の自由意志に属さない淫行のみに適用範囲を限定しているが、本条例は青少年の自己の意思を無視して全ての淫行を処罰対象としているので、法律の範囲を超えていることは明瞭であり、しかも前述の如く、国家が何ら規制を加えていなく自由にしている事案を地方自治法によつて敢えて厳しく取り締まる合理的必要性があるかについて考察してみても、理由となる児童福祉法第2条は、各都道府県に対して青少年を心身ともに健やかに育成する責務を負わしている訳でこの場合、地域の実情に応じて青少年に関する風俗営業などを厳しく取り締まることは、児童福祉法などの範囲外であつても、地域の特性による事情が大きいので合理的な範囲内であれば必要性が認められ許されるであろうが、しかし本条例のように性交に対して何ら限定を加えないで、善良な意志で行なつた性交まで含む性交自体を一律に処罰することは、児童福祉法第2条も、そこまで要求していないと考えられ、また地域の実情という漠然とした理由づけだけでは到底許されないことであり、許されるとすればこれにつき地域住民の過半数の要請があつた場合など強度の必要性が認められた場合にのみ、合理的な範囲内(公序良俗に反する青少年との性交など適用範囲に限定を加えた範囲内)で、許されるのであつて、以上の点で本条例は憲法第94条を侵していると確信しており、しいては三権分立の存在までおびやかすものである。

(憲法第95条違反の主旨及び理由)
[24]七、本条例は、児童福祉法の範囲外の13歳以上の者との、両当事者間合意による性交が処罰されるのであるから、これは特別法としてみなされ、更に特定の地方公共団体のみ、このような特別法が適用されるのであるから本条例は、その適用を受ける地域の住民の投票に問い、その過半数の同意を得なければ、ならないものであるが、本条例は全く住民投票を経ずに制定されているので、憲法第95条に違反している。なおこれにつき付言するに、本条例違反で逮捕された場合、「少女に暴行をした。」あるいは「少女に、いたずらをした。」など等マスコミに報道されているため、一般市民に本条例は青少年に性交を強要して行なつた場合にのみ、適用されるものと誤解を招いているが、現行のように青少年と交際中の当事者まで性交を行なつた一因でもつて、しかも相手方が全く処罰を望んでいなくても、本条例が適用されると知れば、本条例には地域住民の賛同は到底得られていないものと、思われる。

(違憲判決の必要性及び相当性)
[25](1) 本条例は、相手方の告訴をもつて論じていないので、第三者の告発等による恐喝の手段にも用いられる可能性がある。
[26](2) 本条例は、青少年との性交自体が、公訴事実となつているため、青少年との善意の性交の場合も本条例によつて社会的制裁が避けられない結果であり、仮に裁判で婚姻前提の状況を明確に証明でき、裁判官によい心証を与え解釈運用の裁量規定によつて淫行から除外され無罪となつたとしても、この証明責任を被告側に課している以上、性交を行なつた一因で不当逮捕や勾留を招くことは必至であり、しかも善意の性交が罰つせられないとする明文の規定や、悪意の性交に限定すると言つた項目が本条例では何ら設けられていなく必要以上に不当逮捕を誘発する危険性があり、その結果これまで認められてきた青少年との婚姻前提活動や恋愛の自由等が大きく萎縮される懸念があるので、少なくとも本条例の適用範囲が公序良俗に反する性交・もしくは青少年の年令を義務教育課程者などにとどめる明文の規定を設けるまでは、違憲判決が必要である。
[27](3) 本条例の裁判において被告人となる者は性交自体が公訴事実となつているため善意の性交を主張して争そつても公訴事実である性交自体に含まれているので、争う利益がないかのようであるが、しかし判決理由説示では、裁判官の自由心証主義により淫行の適用に関して自由な認定が、なされており善意で行なつた性交が無罪に相当するのであれば裁判所はこれに対して証拠でもつて争そう機会を設けるのが正当であるし、検察側は悪意の性交に限定する必要があり、本条例は裁判面においても被告側を著しく不公平な立場に追い込んでいるので違憲判決が相当である。
[28](4) 青少年が性行為によつて健全な発育に悪影響を受けるのは、何ら人格の結びつきを媒介としない性交などであつて、当事者がお互い本心から好きで交際して行なう性交は、人間として自然の成り行きであつてかような性交為まで処罰する理由なきものと思われ、それよりもむしろ地方公共団体は青少年の性教育等を充実させて未婚者の妊娠などを防ぐ方策を指導することが本当の青少年の健全な育成や保護につながるものである。
[29](5) 善良な目的で行なう性交は、お互いの人格の結びつきを深めたり将来の幸福追求などに果たす役割が大きいと言える。
[30](6) 本条例では公共の福祉が必要最少限度に抑えられていなくそのために基本的人権が最大限に尊重されていない結果をもたらしており、総合的に判断しても違憲である。

[31] 以上の理由によつて本条例が違憲であると信ずるしだいでありますので迅速かつ綿密な憲法適合審査を大法廷によつてなされることを望みます。
[32] 右被告人は、右事件につき、昭和57年4月5日、上告申立を行なつているものであるが、上告趣意書第一部、第二部に続いて、原判決には淫行の認定に関して、判決に影響する重大な事実誤認があり、これは刑訴訟411条3号に該当する上告理由で、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると思われるので、左記にその上告趣意を申し述べる。

[33]一、まず淫行の解釈に関して各公的機関の見解を精査すると、
[34] 福岡県民生部青少年対策課は、福岡県青少年保護育成条例第10条1項、第16条第1項(以下「本条例」という。)の
(1) 制定の原因及び、(2)淫行の解釈に関して以下のように説明している。(福岡県公報資料より抜粋)
[35](1) 青少年を淫行又はわいせつの相手方とした場合、青少年が13歳未満のときは刑法によつて処罰されるが、それ以外の者に対しては訓示規定は、あつても処罰規定を設けた法令はなく、青少年の福祉を阻害する最も反社会的な少女売春等の防止策が講じられていないために設けられた規定である。
[36](2) 淫行とはみだらな性交為のことで、健全な常識を有する社会人からみて、結婚を前提としない、専ら情欲を満たすためにのみ行う不純とされる性交又は性交に類する行為をいうと説明している。
 本条例案審議の際の法務省の見解(県公報資料より抜粋)
[37](1) 売春の場合は風記取締条例で取締ることにしても別段さしつかえない。
[38](2) 「淫行」とは何かということが問題となる。淫行概念は漠然としているが、社会通念上性交を含む広い概念であり、しかも反社会的なものとして非難されるものとなつている。
[39] 親の反対する性行為も必ずしも反社会的にならない場合もある。
 検察側の淫行の解釈
[40] 起訴状及び訴訟記録でも明らかなように、婚姻前提の有無を問わず青少年として適用を受ける者と性交を行なつた場合、その性交は全て淫行としてみなされると解している。
 小倉簡易裁判所においての淫行の解釈
[41] 判決謄本などの一件記録でも明らかなように性交自体を全て一律に淫行と解している。
 福岡高等裁判所第2刑事部の淫行解釈
[42] 婚姻に準ずる内縁関係や父母の同意を得て婚約中の青少年など以外の青少年との性行為(性交)は全て淫行に該当すると判示している。

[43]二、以上右に述べたことが各公的機関の淫行に関しての見解であるが、被告人が考えるに、淫行の解釈は、相手方青少年の年令、性交の動機及び目的、性交に至る経緯、青少年の相手方に対する意思、両当事者の性交に対しての意思、人格等の媒介の有無、交際の有無及びその期間等の事案を考察して、その性行為が社会の存立、発展を脅かす反社会的行為でありしかもその事が単に各年代層の信念や倫理感に反するというだけでは足りず、その時代の社会一般の認識として確立されていて、更に当事者の意思に反して合理的な疑いをいれない程度に社会通念上否定されている性交を、淫行と解釈するのが正論であつて、被告人の右正論に基づいて各事案を弁明すると相手方青少年は婚姻能力を有した16歳であり、お互いの人格の結びつきを目的、媒介とした性行為であり、性行為に至つた経緯についてもお互いの第一印象に好感を感じての、自然的感情であり、その他に半年間にもわたる交際期間中の性行為であること等に鑑みると、被告人と青少年との性行為は前記に述べた公序良俗に反する性行為に該当する所以はなく、淫行に該当しないので原判決は淫行の認定に関して判決に影響する重大な誤りがあるものである。

[44]三、次に検察側は主張する公訴事実の訴因について、淫行に該当するみだらな性交の、みだらな意思を何ら包含していないので公訴棄却が妥当であると言わざるを得ない。

[45]四、以上の理由によつて、原判決は破棄されるものである。
[1] 原判決は、被告人は、Nを単なる自己の性欲の対象としてしか扱つておらず、本件性交は福岡県青少年保護育成条例10条1項にいう「淫行」に該当するという。しかし次の理由により本件性交は右の「淫行」に該当しない。
[2] そもそも性交為は人間の根源的な欲求に根ざすもので人間の行為の中で最も個人的判断が尊重されるべき行為であり、本来当事者の自由にまかせられるべきものである。これを刑罰を科して抑止しようとするためには、合理的根拠があり、その抑止は必要最小限に止めなければならない。このことは原則として一方の当事者が青少年であつても同様であつて、性行為の自由は、青少年の健全な育成と調和する限り尊重されなければならない。
[3] 従つて右条例にいう「淫行」とは、青少年を相手とする結婚を前提としない淫行のすべてを包含する趣旨と解すべきではなく、それよりも、もつと狭く、たとえ結婚を前提としなくても人格の結びつきを媒介とする性交渉は、これに含まれないと解すべきである。
[4] 具体的にいえば、右「淫行」とは青少年の精神的未熟さ、情緒不安定に乗ずること、つまり、誘惑、威迫、立場利用、欺罔、困惑、自棄につけこんだり、対価の授受や、第三者の観覧に供することを目的としたり、あるいは不特定多数人を相手とする乱交の一環としてなされる場合など、反倫理性の顕著な性交渉のみを指すと解すべきである。
[5] 本件では、被告人は別件の右条例10条1項違反など逮捕され罰金3万の刑に処せられて、昭和56年7月12日釈放された。その日の午後、被告人は再び右条例違反をしてはならないと深く反省し、Nに電話で別れようと申し入れた。これに対し、Nは「あんたがいなくて、とても心配で淋しかつた、早く帰つてこられてよかつた」、「あんたが刑務所へ行つても手紙を出していい、今日はもう会えないの」などと別れたくない旨を答えた。被告人は一たんは電話を切つたが、それ程に被告人を思つてくれていたと考えると、会いたくなり再度「少しだけ会おう」と電話した。Nは嬉しそうに「じや、今から迎えに来て」というので、被告人は車で行き、本件性交にいたつたというのである。
[6] 右のような経緯を考えると両名は互に好意をもち、仲のよい男女として互いに意思の疏通があつたと認められる。そうであればその程度の人格的結びつきがある以上、その間に生じた本件性交は、刑罰をもつて抑止するほどに反倫理性の顕著なものとはいい難く、被告人としては、16歳のNとの性交をさけるのが賢明であつたとは言い得ても本条例にいう「淫行」にはあたらず、被告人は無罪というべきである。
[7] 原判決は、被告人を罰金5万円に処した第一審判決を是認した。しかしこの量刑は次の理由により不当に重い。
[8] 本件性交にいたる動機、経緯は前記にのべたとおりであり、両名は互いに好意をもつていたこと、被害者Nが積極的に、働きかけ、別れ話を出した被告人を本件性交にひきこんだこと、さらにNは婚姻適令(父母の同意は必要)に達していること、Nは被告人と性交渉をもつ以前にすでに他の男性と性交渉をもつていたばかりでなく、被告人と知り合つた以後も被告人以外の男性と性交渉をもつたこと、などを総合判断すれば罰金5万円の刑は不当に重いといわねばならない。

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