『北方ジャーナル』事件
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 昭和56年(オ)第609号
昭和61年6月11日 大法廷 判決

上告人 (控訴人  原告) 株式会社北方ジヤーナル

被上告人(被控訴人 被告) 国 外2名
          代理人 菊池信男 外8名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官伊藤正己の補足意見
■ 裁判官大橋進の補足意見
■ 裁判官長島敦の補足意見
■ 裁判官谷口正孝の意見

■ 上告人の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 憲法21条2項前段は、検閲の絶対的禁止を規定したものであるから(最高裁昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁)、他の論点に先立つて、まず、この点に関する所論につき判断する。
[2] 憲法21条2項前段にいう検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきことは、前掲大法廷判決の判示するところである。ところで、一定の記事を掲載した雑誌その他の出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差止めは、裁判の形式によるとはいえ、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるとされているなど簡略な手続によるものであり、また、いわゆる満足的仮処分として争いのある権利関係を暫定的に規律するものであつて、非訟的な要素を有することを否定することはできないが、仮処分による事前差止めは、表現物の内容の網羅的一般的な審査に基づく事前規制が行政機関によりそれ自体を目的として行われる場合とは異なり、個別的な私人間の紛争について、司法裁判所により、当事者の申請に基づき差止請求権等の私法上の被保全権利の存否、保全の必要性の有無を審理判断して発せられるものであつて、右判示にいう「検閲」には当たらないものというべきである。したがつて、本件において、札幌地方裁判所が被上告人五十嵐の申請に基づき上告人発行の「ある権力主義者の誘惑」と題する記事(以下「本件記事」という。)を掲載した月刊雑誌「北方ジヤーナル」昭和54年4月号の事前差止めを命ずる仮処分命令(以下「本件仮処分」という。)を発したことは「検閲」に当たらない、とした原審の判断は正当であり、論旨は採用することができない。
[3] 論旨は、本件仮処分は、「検閲」に当たらないとしても、表現の自由を保障する憲法21条1項に違反する旨主張するので、以下に判断する。

[4](一) 所論にかんがみ、事前差止めの合憲性に関する判断に先立ち、実体法上の差止請求権の存否について考えるのに、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法710条)又は名誉回復のための処分(同法723条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである。

[5](二) しかしながら、言論、出版等の表現行為により名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法13条)と表現の自由の保障(同21条)とが衝突し、その調整を要することとなるので、いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。
[6] 主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される。もとより、右の規定も、あらゆる表現の自由を無制限に保障しているものではなく、他人の名誉を害する表現は表現の自由の濫用であつて、これを規制することを妨げないが、右の趣旨にかんがみ、刑事上及び民事上の名誉毀損に当たる行為についても、当該行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為には違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを事実であると誤信したことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべく、これにより人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものであることは、当裁判所の判例とするところであり(昭和41年(あ)第2472号同44年6月25日大法廷判決・刑集23巻7号975頁、昭和37年(オ)第815号同41年6月23日第一小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)、このことは、侵害行為の事前規制の許否を考察するに当たつても考慮を要するところといわなければならない。

[7](三) 次に、裁判所の行う出版物の頒布等の事前差止めは、いわゆる事前抑制として憲法21条1項に違反しないか、について検討する。
[8](1) 表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。
[9] 出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであつて、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法21条1項の趣旨(前記(二)参照)に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない。ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許されるものというべきであり、このように解しても上来説示にかかる憲法の趣旨に反するものとはいえない。
[10](2) 表現行為の事前抑制につき以上説示するところによれば、公共の利害に関する事項についての表現行為に対し、その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのである(前記(二)参照)から、事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。ただ、差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解される(最高裁昭和23年(マ)第3号同年3月3日第一小法廷決定・民集2巻3号65頁、昭和25年(ク)第43号同年9月25日大法廷決定・民集4巻9号435頁参照)から、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。

[11] 以上の見地に立つて、本件をみると、

[12](一) 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
[13](1) 被上告人五十嵐は、昭和38年5月から同49年9月までの間、旭川市長の地位にあり、その後同50年4月の北海道知事選挙に立候補し、更に同54年4月施行予定の同選挙にも同年2月の時点で立候補する予定であつた。
[14](2) 上告人代表者は、本件記事の原稿を作成し、上告人はこれを昭和54年2月23日頃発売予定の本件雑誌(同年4月号、予定発行部数第1刷2万5000部)に掲載することとし、同年2月8日校了し、印刷その他の準備をしていた。本件記事は、北海道知事たる者は聡明で責任感が強く人格が清潔で円満でなければならないと立言したうえ、被上告人五十嵐は右適格要件を備えていないとの論旨を展開しているところ、同被上告人の人物論を述べるに当たり、同被上告人は、「嘘と、ハツタリと、カンニングの巧みな」少年であつたとか、「五十嵐(中略)のようなゴキブリ共」「言葉の魔術者であり、インチキ製品を叩き売つている(政治的な)大道ヤシ」「天性の嘘つき」「美しい仮面にひそむ、醜悪な性格」「己れの利益、己れの出世のためなら、手段を選ばないオポチユニスト」「メス犬の尻のような市長」「広三の素顔は、昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる凶賊で、云うならばマムシの道三」などという表現をもつて同被上告人の人格を評し、その私生活につき、「クラブ(中略)のホステスをしていた新しい女(中略)を得るために、罪もない妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」とか「老父と若き母の寵愛をいいことに、異母兄たちを追い払」つたことがあると記し、その行動様式は「常に保身を考え、選挙を意識し、極端な人気とり政策を無計画に進め、市民に奉仕することより、自己宣伝に力を強め、利権漁りが巧みで、特定の業者とゆ着して私腹を肥やし、汚職を蔓延せしめ」「巧みに法網をくぐり逮捕はまぬかれ」ており、知事選立候補は「知事になり権勢をほしいままにするのが目的である。」とする内容をもち、同被上告人は「北海道にとつて真に無用有害な人物であり、社会党が本当に革新の旗を振るなら、速やかに知事候補を変えるべきであろう。」と主張するものであり、また、標題にそえ、本文に先立つて「いま北海道の大地に広三という名の妖怪が蠢めいている。昼は蝶に、夜は毛虫に変身して赤レンガに棲みたいと啼くその毒気は人々を惑乱させる。今こそ、この化物の正体を……」との文章を記すことになつていた。
[15](3) 被上告人五十嵐の代理人弁護士菅沼文雄らは、昭和54年2月16日札幌地方裁判所に対し、債権者を同被上告人、債務者を上告人及び山藤印刷株式会社とし、名誉権の侵害を予防するとの理由で本件雑誌の執行官保管、その印刷、製本及び販売又は頒布の禁止等を命ずる第一審判決添付の主文目録と同旨の仮処分決定を求める仮処分申請をした。札幌地方裁判所裁判官は、同日、右仮処分申請を相当と認め、右主文目録記載のとおりの仮処分決定をした。その後、札幌地方裁判所執行官においてこれを執行した。

[16](二) 右確定事実によれば、本件記事は、北海道知事選挙に重ねて立候補を予定していた被上告人五十嵐の評価という公共的事項に関するもので、原則的には差止めを許容すべきでない類型に属するものであるが、前記のような記事内容・記述方法に照らし、それが同被上告人に対することさらに下品で侮辱的な言辞による人身攻撃等を多分に含むものであつて、到底それが専ら公益を図る目的のために作成されたものということはできず、かつ、真実性に欠けるものであることが本件記事の表現内容及び疎明資料に徴し本件仮処分当時においても明らかであつたというべきところ、本件雑誌の予定発行部数(第1刷)が2万5000部であり、北海道知事選挙を2か月足らず後に控えた立候補予定者である同被上告人としては、本件記事を掲載する本件雑誌の発行によつて事後的には回復しがたい重大な損失を受ける虞があつたということができるから、本件雑誌の印刷、製本及び販売又は頒布の事前差止めを命じた本件仮処分は、差止請求権の存否にかかわる実体面において憲法上の要請をみたしていたもの(前記1(三)(1)参照)というべきであるとともに、また、口頭弁論ないし債務者の審尋を経たものであることは原審の確定しないところであるが、手続面においても憲法上の要請に欠けるところはなかつたもの(同(2)参照)ということができ、結局、本件仮処分に所論違憲の廉はなく、右違憲を前提とする本件仮処分申請の違憲ないし違法の主張は、前提を欠く。

[17] 更に、所論は、原審が、本件記事の内容が名誉毀損に当たるか否かにつき事実審理をせず、また、被上告人五十嵐らの不法に入手した資料に基づいて、本件雑誌の頒布の差止めを命じた本件仮処分を是認したものであるうえ、右資料の不法入手は通信の秘密の不可侵を定めた憲法21条2項後段に違反するともいうが、記録によれば、原審が事実審理のうえ本件記事の内容が名誉毀損に当たることが明らかである旨を認定判断していることが認められ、また、同被上告人らの資料の不法入手の点については、原審においてその事実は認められないとしており、所論は、原審の認定にそわない事実に基づく原判決の非難にすぎないというほかない。

[18] したがつて、以上と同趣旨の原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違憲、違法はないものというべきである。論旨は、採用することができない。

[19] よつて、民訴法396条、384条、95条、89条に従い、裁判官伊藤正己、同大橋進、同牧圭次、同長島敦の補足意見、裁判官谷口正孝の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。


 裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

[1] 私は、多数意見に示された結論とその理由についてともに異論がなく、これに同調するものであるが、本件は、表現行為に対して裁判所の行う事前の規制にかかわる憲法上の重要な論点を提起するものであるから、それが憲法によつて禁止されるものであるかどうか、また憲法上許容されうるとしてもその許否を判断する基準をどこに求めるか、というこの問題の実体的側面を中心として、私の考えるところを述べて、多数意見を補足することとしたい。

[2] 多数意見の説示するとおり、当裁判所は、憲法21条2項前段に定める検閲とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物について網羅的一般的に、発表前にその内容を審査したうえ、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解し、「検閲」を右のように古くから典型的な検閲と考えられてきたものに限定するとともに、それは憲法上絶対的に禁止されるものと判示している(昭和57年(行ツ)第156号同59年12月12日大法廷判決・民集38巻12号1308頁)。この見解は、憲法の定める検閲の意味を狭く限定するものであるが、憲法によるその禁止に例外を認めることなく、およそ「検閲」に該当するとされるかぎり憲法上許容される余地がないという厳格な解釈と表裏をなすものであつて、妥当な見解であるといつてよいと思われる。
[3] しかし、右の判示は、表現行為に対する公権力による事前の規制と考えられるもののすべてが「検閲」に当たるという理由によつて憲法上許されないと解することはできない、とするものであつて、一般に表現行為に対する事前の規制が表現の自由を侵害するおそれのきわめて大であることにかんがみると、憲法の規定する「検閲」の絶対的禁止には、憲法上事前の規制一般について消極的な評価がされているという趣旨が含まれていることはいうまでもないところであろう。そして、このような趣旨は、表現の自由を保障する憲法21条1項の解釈のうちに、当然に生かされなければならないものと考える。もとより、これは同項による憲法上の規律の問題であつて、同条2項前段のような絶対的禁止のそれではないから、事前の抑制であるという一事をもつて直ちに違憲の烙印を押されるものではないが、それが許容されるかどうかについての判断基準の設定においては、厳格な要件が求められることとなるのである。
[4] そもそも表現の自由の制約の合憲性を考えるにあたつては、他の人権とくに経済的な自由権の制約の場合と異なつて、厳格な基準が適用されるのであるが(最高裁昭和45年(あ)第23号同47年11月22日大法廷判決・刑集26巻9号576頁、昭和43年(行ツ)第120号同50年4月30日大法廷判決・民集29巻4号572頁参照)、同じく表現の自由を制約するものの中にあつても、とりわけ事前の規制に関する場合には、それが合憲とされるためにみたすべき基準は、事後の制裁の場合に比していつそう厳しいものとならざるをえないと解される。当裁判所は、すでに、法律の規制により表現の自由が不当に制限されるという結果を招くことがないよう配慮する必要があるとしつつ、「事前規制的なものについては特に然りというべきである」と判示している(前記昭和59年12月12日大法廷判決)。これは、表現の自由を規制する法律の規定の明確性に関連して論じたものではあるが、表現の自由の規制一般について妥当する考え方であると思われる。もとより、事前の規制といつても多様なものがあるから、これを画一的に判断する基準を設定することは困難であるし、画一的な基準はむしろ適切とはいえない。私は、この場合には、当該事前の規制の性質や機能と右に示された「検閲」のもつ性質や機能との異同の程度を図つてみることが有益であろうと考えている。

[5] 本件で問題とされているのは、表現行為に対する裁判所の仮処分手続による差止めである。これは、行政機関ではなく、司法裁判所によつてされるものであつて、前示のような「検閲」に当たらないことは明らかである。したがつて、それが当然に、憲法によつて禁止されるものに当たるということはできない。しかし、単に規制を行う機関が裁判所であるという一事によつて、直ちにその差止めが「検閲」から程遠いものとするのは速断にすぎるのであつて、問題の検討にあたつては、その実質を考慮する必要がある。「検閲」の大きな特徴は、一般的包括的に一定の表現を事前の規制の枠のうちにとりこみ、手続上も概して密行的に処理され、原則として処分の理由も示されず、この処分を法的に争う手段が存在しないか又はきわめて乏しいところに求められる。裁判所の仮処分は、多数意見も説示するとおり、網羅的一般的な審査を行うものではなく、当事者の申請に基づいて司法的な手続によつて審理判断がされるもので、理由を付して発せられ、さらにそれが発せられたときにも、法的な手続で争う手段が認められているのであつて、単に担当の機関を異にするというだけではなく、その実質もまた「検閲」と異なるものというべきである。
[6] しかしながら、他面において、裁判所の仮処分による差止めが「検閲」に類似する側面を帯有していることも、否定することはできない。第一に、それは、表現行為が受け手に到達するに先立つて公権力をもつて抑止するものであつて、表現内容の同一のものの再発行のような場合を除いて、差止めをうけた表現は、思想の自由市場、すなわち、いかなる表現も制限なしにもち出され、表現には表現をもつて対抗することが予定されている場にあらわれる機会を奪われる点において、「検閲」と共通の性質をもつている。第二に、裁判所の審査は、表現の外面上の点のみならず、その思想内容そのものにも及ぶのであつて、この点では、当裁判所が、表現物を「容易に判定し得る限りにおいて審査しようとするものにすぎ」ないと判断した税関による輸入品の検査に比しても、「検閲」に近い要素をもつている。第三に、仮の地位を定める仮処分の手続は、司法手続とはいつても非訟的な要素を帯びる手続で、ある意味で行政手続に近似した性格をもつており、またその手続も簡易で、とくに不利益を受ける債務者の意見が聞かれる機会のないこともある点も注意しなければならない。

[7] このように考えてくると、裁判所の仮処分による表現行為の事前の差止めは、憲法の絶対的に禁止する「検閲」に当たるものとはいえないが、それと類似するいくつかの面をそなえる事前の規制であるということができ、このような仮処分によつて仮の満足が図られることになる差止請求権の要件についても、憲法の趣旨をうけて相当に厳しい基準によつて判断されなければならないのである。多数意見は、このような考え方に基づくものということができる。私として、以下にこの基準について検討することとしたい。
[8] まず考えられるのは、利益較量によつて判断する方法である。およそ人権の制約の合憲性を判断する場合に、その人権とそれに対立する利益との調整が問題となり、そこに利益較量の行われるべきことはいうまでもないところであろう(憲法制定者が制定時においてすでに利益較量を行つたうえでその結論を成文化したと考えられる場合、例えば「検閲」の禁止はそれに当たるが、かかる場合には、ある規制が「検閲」に当たるかどうかは問題となりうるとしても、それに当たるとされる以上絶対的に禁止され、もはや解釈適用の過程で利益較量を行うことは排除されることとなる。しかし、これはきわめて例外的な事例である。)。本件のように、人格権としての名誉権と表現の自由権とが対立する場合、いかに精神的自由の優位を説く立場にあつても、利益較量による調整を図らなければならないことになる。その意味で、判断の過程において利益が較量されるべきこと自体は誤りではない。しかし、利益較量を具体的事件ごとにそこでの諸事情を総合勘案して行うこととすると、それはむしろ基準を欠く判断となり、いずれの利益を優先させる結論に到達するにしても、判断者の恣意に流れるおそれがあり、表現の自由にあつては、それに対する萎縮的効果が大きい。したがつて、合理性の基準をもつて判断してよいときは別として、精神的自由権にかかわる場合には、単に事件ごとに利益較量によつて判断することで足りるとすることなく、この較量の際の指標となるべき基準を求めなければならないと思われる。
[9] 表現行為には多種多様のものがあるが、これを類型に分類してそれぞれの類型別に利益較量を行う考え方は、右に述べた事件ごとに個別的に較量を行うのに比して、較量に一定のルールを与え、規制の許される場合を明確化するものであつて、有用な見解であると思われる。本件のような名誉毀損の事案において、その被害者とされる対象の社会的地位を考慮し、例えば公的な人物に対する批判という類型に属するとき、その表現のもつ公益性を重視して判断するのはその一例であるが、この方法によれば、表現の自由と名誉権との調和について相当程度に客観的とみられる判断を確保できることになろう。大橋裁判官の補足意見はこの考え方を支持するものであつて、示唆に富む見解である。そして、このような類型を重視する利益較量を行うならば、本件においては、多数意見と同じ結論になるといえるし、多数意見も、基本的にはこの考え方に共通する立場に立つものといつてもよい。ただ、私見によれば、本件のような事案は別として、一般的に類型別の利益較量によつて判断すべきものとすれば、表現の類型をどのように分類するか、それぞれの類型についてどのような判断基準を採用するか、の点において複雑な問題を生ずるおそれがあり、また、もし類型別の基準が硬直化することになると、妥当な判断を保障しえないうらみがある。そして、何よりも、類型別の利益較量は、表現行為に対する事後の制裁の合憲性を判断する際に適切であるとしても、事前の規制の場合には、まさに、事後ではなく「事前の」規制であることそれ自体を重視すべきものと思われる。ここで表現の類型を考えることも有用ではあるが、かえつて事前の規制である点の考慮を稀薄にするのではあるまいか。
[10] つぎに、谷口裁判官の意見に示された「現実の悪意」の基準が考えられる。これは、表現の自由のもつ重要な価値に着目して、その保障を強くする理論であつて、この見解に対して深い敬意を表するものである。そして、同裁判官が本件における多数意見の結論に賛成されることでも明らかなように、この見解をとつても本件において結論は変ることはなく、あえていえば、異なる視角から同じ結論に到達するものといえなくもない。ただ私としては、たとえ公的人物を対象とする名誉毀損の場合に限るとしても、これを事前の規制に対する判断基準として用いることに若干の疑問をもつている。客観的な事実関係から現実の悪意を推認することも可能ではあるが、それが表現行為者の主観に立ち入るものであるだけに、仮処分のような迅速な処理を要する手続において用いる基準として適当でないことも少なくなく、とくに表現行為者の意見を聞くことなしにこの基準を用いることは、妥当性を欠くものと思われる。私は、この基準を、公的な人物に対する名誉毀損に関する事後の制裁を考える場合の判断の指標として、その検討を将来に保留しておきたいと思う。
[11] 多数意見の採用する基準は、表現の自由と名誉権との調整を図つている実定法規である刑法230条ノ2の規定の趣旨を参酌しながら、表現行為が公職選挙の候補者又は公務員に対する評価批判等に関するものである場合に、それに事前に規制を加えることは裁判所といえども原則として許されないとしつつ、例外的に、表現内容が真実でなく又はそれが専ら公益に関するものでないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれのある場合に限つて、事前の差止めを許すとするものである。このように、表現内容が明白に真実性を欠き公益目的のために作成されたものでないと判断され、しかも名誉権について事後的には回復し難い重大な損害を生ずるおそれのある場合に、裁判所が事前に差し止めることを許しても、事前の規制に伴う弊害があるということはできず、むしろ、そのような表現行為は価値において名誉権に劣るとみられてもやむをえないというべきであり、このような表現行為が裁判によつて自由市場にあらわれえないものとされることがあつても、憲法に違背するとは考えられない。そして、顕著な明白性を要求する限り、この基準は、谷口裁判官の説かれるように、不確定の要件をもつて表現行為を抑えるもので表現の自由の保障に対する歯止めとなりえない、ということはできないように思われる。

[12] 以上のような厳格な基準を適用することにすれば、実際上、立証方法が疎明に限定される仮処分によつて表現行為の事前の差止めが許される場合は、著しく制限されることになろう。公的な人物、とりわけ公職選挙の候補者、公務員とくに公職選挙で選ばれる公務員や政治ないし行政のあり方に影響力を行使できる公務員に対する名誉毀損は、本件のような特異な例外的場合を除いて、仮処分によつて事前に差し止めることはできないことになると思われる。私も、名誉権が重要な人権であり、また、名誉を毀損する表現行為が公にされると名誉は直ちに侵害をうけるものであるため、名誉を真に保護するために事前の差止めが必要かつ有効なものであることを否定するものではない。しかし、少なくとも公的な人物を対象とする場合には、表現の自由の価値が重視され、被害者が救済をうけることができるとしても、きわめて限られた例外を除いて、その救済は、事後の制裁を通じてされるものとするほかはないと思われる。なお、わが国において名誉毀損に対する損害賠償は、それが認容される場合においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けており、関係者の反省を要することについては、大橋裁判官の補足意見に指摘されるとおりである。またさらに、このような事後の救済手段として、現在認められているよりもいつそう有効適切なものを考える必要があるようにも考えられるが、それは本件のような仮処分による事前の規制の許否とは別個の問題である。


 裁判官大橋進の補足意見は、次のとおりである。

[1] 私は、表現行為に対する差止請求権の成否の判断基準についても、多数意見に賛成するものであるが、その理由について私の考えるところを補足しておくこととしたい。
[2] 憲法21条1項によつて保障されている表現の自由と13条によつて保障されている個人の名誉は、互いに衡突することがあるのを免れない。しかし、真実を公表し、自己の意見を表明して世論形成に参加する自由が保障されていることは、自由な討論を通じて形成された世論に基づいて政治が行なわれる民主主義社会にとつて欠くことのできない基盤である。憲法21条1項の規定には、このような表現行為による世論形成への参加の自由を保障する機能があるのであり、この機能がみたされるためには、公共の利害に関する事項については、表現行為をする側において知らせたい事実、表明したい意見を公表する自由が保障されているとともに、表現行為を受け取る側においても知りたい情報に自由に接することのできる機会が保障されていなければならない。また、裁判所が人格権としての名誉権に基づく表現行為の差止請求権の存否を判断して、その事前差止めを命ずることは、本案訴訟による場合はもとより、仮処分による場合であつても、多数意見のいうとおり検閲に当たらないのであるが、検閲を禁止した憲法21条2項前段の趣旨とするところは、表現の自由との関係においても十分に考慮されなければならない性質のものであり、事前差止めは、当該表現物が公表され読者ないし聴視者がこれに接することのできる状態になる前にその公表自体を差し止めるという点において、すでに極めて重大な問題を含んでいるものといわなければならない。したがつて、たとえ個人の名誉を毀損する表現行為であつても、それが公共の利害に関する事項にかかるものであるときは、個人の名誉の保護よりも表現の自由の保障が優先すべきこととなり、また、その事前差止めは、事後制裁の場合に比較して、実体上も手続上もより厳格な要件のもとにおいてのみ許されるものというべきこととなる。
[3] このような観点から、どのような場合に差止請求権を肯定してよいかについて考えてみると、基本的には、互いに衡突する人格権としての個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和と均衡をどのような点に求めるべきかという問題なのであるが、結局は、当該表現行為により侵害される個人の名誉の価値とその表現行為に含まれている価値とを比較衡量して、そのいずれを優先させるべきかによつて判断すべきものということができよう。そして、比較衡量にあたり考慮の対象となりうる要素としては、表現行為により批判の対象とされた人物の公的性格ないし事実の公共性、表現内容の公益性・真実性、表現行為者の意図、名誉侵害の程度、マス・メデイアの種類・性格などのさまざまな事情が考えられ、これらの諸事情を個別的な事件ごとにきめ細かく検討して利益衡量をすれば、当該事件について極めて妥当な結論を得ることができるとも考えられる。しかしながら、事前差止めにあつては、これらの諸般の事情を比較衡量するといつても、事前であるために不確定な要素も多く、また、右のような諸般の事情を考慮することになれば、その審理判断も複雑なものとなり、これに伴う判断の困難性も考えられること、更には、事前差止めの効果が直接的であり、被害者にとつては魅力的であるため濫用される虞があるとともに、表現行為者の受ける影響や不利益は大きいのに、右のようなさまざまな事情が個々の事件ごとに個別的具体的に検討され比較衡量されるのでは、その判断基準が明確であるとはいいがたく、これについて確実な予測をすることが困難となる虞があり、表現行為者に必要以上の自己規制を強いる結果ともなりかねないことなどを考慮すると、事前差止めがそれ自体前記のような重大な問題を含むものであることにかんがみ、比較衡量に当たり諸般の事情を個別的具体的に考慮して判断する考え方には左袒することができない。そして、このような個別的衡量による難点を避けるためには、名誉の価値と表現行為の価値との比較衡量を、表現行為をできるだけ類型化し、類型化された表現行為の一般的利益とこれと対立する名誉の一般的利益とを比較衡量して判断するという類型的衡量によるのが相当であると考えられる。類型的衡量によるときは、個別的衡量の場合のように個別的事件に最も適した緻密な利益衡量には達し得ないかも知れないが、その点を犠牲にしても、判断の客観性、安定性を選ぶべきものと考えるからである。
[4] 多数意見は、表現行為が公共の利害に関する事項にかかるものである場合には、原則として事前差止めが許されず、その表現内容が真実でないか、又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞のあるときに限つて例外的に差止めを求めることができるとしているのであるが、私は、以上述べるような見地に立つて、この多数意見に賛成するものである。

[5] 次に、多数意見の言及する手続的側面について、以下のとおり付言しておきたい。
[6] 多数意見は、右のような見地に立ちつつ、事前差止めを命ずる仮処分は、実定法の規定(民訴法756条、741条1項)にかかわらず、発令にあたり口頭弁論又は債務者審尋を経ることを原則とすべきものとし、ただ、口頭弁論を開き又は債務者審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、債務者審尋等を経ることなく差止命令を発したとしても、憲法の趣旨に反するものとはいえない、とした。
[7] 思うに、ここに「債権者の提出した資料によつて」とは、債務者側の資料を含まないとの趣旨であつて、公知の事実又は裁判所に顕著な事実を排斥する趣旨でないことはいうまでもないところであろう。本件において差止めの対象となつたのは、北方ジヤーナル昭和54年4月号中の記事であるが、それ以前数次にわたり被上告人五十嵐を含む公職の候補者に関する記事について札幌地方裁判所より頒布・販売等禁止の仮処分命令を受け、特に同被上告人に関する本件類似の記事を掲載した同誌昭和53年11月号の販売・頒布等禁止の仮処分については、仮処分裁判所より本件上告人に対し日時の余裕を置いて書面による反論の機会を与えられている(すなわち、最も丁重な方式による債務者審尋が行われたものである)ことが、本件記録上窺われるのであつて、本件記事の表現内容並びに疎明資料及び以上のような仮処分裁判所に顕著な事実に徴し、本件において事前差止めの仮処分命令が債務者審尋等を経ることなく発せられたとしても(この点は原審の確定しないところである)、そのことの故に本件仮処分が憲法の要請に反するものでないことは明らかであるといわなければならない。

[8] 以上、私は、事前抑制につき厳しい態度をとる多数意見(この点は谷口裁判官意見も同様である)に全面的に賛同するものであるが、反面、「生命、身体とともに極めて重大な保護法益であ」る名誉を侵害された者に対する救済が、事後的な形によるものであるにせよ十分なものでなければ、権衡を失することとなる点が強く指摘されなければならない。わが国において名誉毀損に対する損害賠償は、それが認容される場合においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けているのが、実情と考えられるのであるが、これが本来表現の自由の保障の範囲外ともいうべき言論の横行を許す結果となつているのであつて、この点は、関係者の深く思いを致すべきところと考えられるのである。

 裁判官牧圭次は、裁判官大橋進の補足意見に同調する。


 裁判官長島敦の補足意見は、次のとおりである。

[1] 刑法上の名誉毀損罪につき、その刑責を免ずるいわゆる事実証明に関する刑法230条ノ2の規定が、民法上の名誉毀損の成否、ひいては名誉権の侵害に対する事前差止めの許否とどのようにかかわるかについて、私の考えるところを補足しておくこととしたい。

[2]一1 多数意見がこの点に関して引用する2つの判例は、次のとおり判示している。昭和41年6月23日第一小法廷判決は、
「民法上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係りもつぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし、右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには、右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは、刑法230条ノ2の規定の趣旨からも十分窺うことができる。)。」
とし、ついで、同44年6月25日大法廷判決は、刑法の名誉毀損罪につき、
「刑法230条ノ2の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法21条による正当な言論の保障との調和をはかつたものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法230条ノ2第1項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である。」
としている。これら2つの判例を総合すると、刑法230条ノ2は、人格権としての個人の名誉の保護と憲法21条による正当な言論の保障との調和を図つた規定であり、その解釈に当たつては、これらの2つの憲法上の権利の調和と均衡を考慮すべきこと、このような考慮の上に立つて解釈される刑法230条ノ2の規定の趣旨は、真実性についての誤信に相当の理由があるときに不法行為責任が免責される点を含めて、民法上の不法行為としての名誉毀損の成否の判断においても妥当することを明らかにしたものと解することができる。不法行為としての名誉毀損の成否を判断するこの基準を、以下「相当性の理論」とよぶこととする。
[3] ところで、刑法の「名誉ニ対スル罪」の中には、名誉毀損罪(刑法230条)のほか侮辱罪(同231条)が設けられており、同230条ノ2の規定は名誉毀損罪の免責規定として置かれているが、民法上の不法行為としての名誉毀損は人格権としての名誉が違法に侵害を受ければ成立し、当該侵害行為が刑法の定める構成要件のもとで名誉毀損罪に当たるか、侮辱罪に当たるか、はその成立には直接の関係をもたないといえる。
[4] 刑法では、右の2つの罪が同じく「名誉ニ対スル罪」の章下に設けられ、かつ、両者とも公然性を要件とするところから、両者を区別する構成要件要素は、一般に、事実の摘示の有無であると解されている。又、その保護法益は、両者とも、人が社会から受ける客観的な評価としての名誉であるとされている。尤も、侮辱罪の中には、被害者の面前において、公然、一過性の罵詈雑言が加えられた場合のように、被害者の名誉感情が主たる法益であると解される事例もありうるが、多少とも永続性のある文書、録音・録画テープ等に収録された侮辱的な表現は、具体的な事実の摘示をともなわなくても、人の客観的な名誉を損なうことのあることはいうまでもない。

[5] このようにして、不法行為としての名誉毀損にあつては、客観的な名誉が違法に侵害されたかどうかが重要であつて、その侵害行為たる表現行為が事実の摘示をともなうかどうかは、その成立のための要件ではないことが明らかとなつた。しかし、このことは、それが事実の摘示をともなう場合に、刑法230条ノ2の規定の趣旨に基づき免責を受けうることを否定するものではなく、却つて、具体的な事実の摘示がなくても客観的な名誉を毀損する場合に、やはり、その表現行為が公共の利害に関しもつぱら公益を図る目的に出た相当な行為と評価できるときは、相当性の理論のもとで免責されうることを意味するものと解することの妨げとはならない。角度を変えて論ずれば、政治、社会問題等に関する公正な論評(フエア・コメント)として許容される範囲内にある表現行為は、具体的事実の摘示の有無にかかわらず、その用語や表現が激越・辛辣、時には揶揄的から侮辱的に近いものにまでわたることがあつても、公共の利害に関し公益目的に出るものとして許容されるのが一般である。この意味での公正な論評は、既に述べて来た相当性の理論という判断基準の中に、その一つの要素として組み入れることができると考えられる(ここでは、このような論評の基づいている事実が真実でなかつたときには、一般的にいつて、真実と信ずるについて相当の理由のあつたことがやはりフエア・コメントとして許容されるための要件の一つになることを前提としている。尤も、論評それ自体の公共性、公益性が強ければ強いほど、「相当性」の判断は、それだけ、論評者に有利になされ、相当性の不存在の立証の必要性が相手方の肩に重くのしかかることとなろう。)。しかし、その内容や表現が文脈上、主題たる論評と全く無関係であつて明らかに公共の利害に関しないと認められるものや、表現行為の重点が侮辱・誹謗・軽蔑・中傷等に向けられ、仮りになんらかの事実の摘示がそこに含まれているとしても、その指摘がその事実の真実性を主張することに意味をもつのではなくて、たんに人身攻撃のための背景事情として用いられるにとどまつているような侮辱的名誉毀損行為として社会通念上到底是認し得ないものは、いずれも公正な論評に含まれず、公共性、公益性をもたない言論として、相当性の理論からも名誉毀損の成立を肯認すべきことは当然である。

[6]三1 本件雑誌に掲載が予定されていた本件記事は、それ自体、一方では、被上告人五十嵐の支持母体であるとされている政治団体の政治的立場、政策等をとりあげて批判を加え、それが北海道の将来にとつて有害であることを論評し、他方では、同被上告人の人物、その生い立ち、私生活、行動様式等にわたり、ことさらに下品で侮辱的な言辞による人身攻撃を加えることにより、同被上告人は北海道知事として不適格であるとの論旨を展開しようとするものと認められるところ、前者の政治問題に関する論評と後者の人物論等に関する記述との間に脈絡を欠き、後者は、政治問題の論評とは無関係に、くり返して、もつぱら人身攻撃に終始する内容表現をもつて記述されている点に、特色をもつている。分量的に本件記事の大半の部分を政治問題に関する論評が占めているという事実は、それが公正な論評に当たるかどうかを論ずるまでもなく、これと無関係に展開されている不必要に侮辱的、中傷的な記述部分について、名誉毀損の成立を認めることの妨げとならないことはいうまでもない。
[7] ところで、被上告人五十嵐は、本件雑誌の発売が予定されていた頃には、北海道知事選挙に立候補する予定になつていたが、立候補届出前であつて公職選挙の候補者たるの身分をもつていなかつたものの、立候補が確実視されていたものと認められるのであつて、その人物、生い立ち、行動様式等が広い範囲にわたつて報道され、一般の評価、批判にさらされることは、一般に、公共の利害にかかるものと解されるところであるが、原審の確定した事実関係として引用摘示されている本件記事の該当部分は、そこには引用されていない、引用することさえはばかられる「父は、旭川では有名な馬方上りの逞ましい経済人であつた。その父が晩年溺愛した若く美しい女郎がおり、2人の傑作がすなわち」同被上告人である、などという蔑視的、差別的なことばとともに、その記述自体からみて、社会通念上到底是認し得ない侮辱的、誹謗的、中傷的な、いわば典型的な侮辱的名誉毀損文書ということを妨げず、それ自体で、その作成が公益を図る目的に出たものでないことが明らかであるというべきである。それが出版され公にされたときは、過去十年余にわたり公選市長として旭川市長の地位にあり、既に一度、北海道知事選挙にも立候補した経歴をもつ同被上告人が社会から受けている客観的評価としての名誉を、著しく害されることは見易い道理である。

[8] 刑法230条ノ2の条文を手掛りに、憲法上の言論の自由と人格権としての名誉の保護との調和と均衡を図つてみちびき出された前記の相当性の理論が、公正な論評の理論と相俟つて、名誉権の侵害の事前差止めを求める仮処分についてどのように妥当するか、が最後に論ずべき点である。
[9] 私も、多数意見の説示するとおり、出版物の頒布等の事前差止めは、事後的な刑罰制裁、損害賠償、原状回復措置の場合に比し、その許容につきより慎重であるべきであり、とりわけ、その表現が公共の利害にかかわるときは、表現の自由が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み、憲法上特に保護されるべきものであることにかんがみ、原則としてこれを許さないものと解すべきことについて、そこに示されている理由をも含めてすべて同調するものである。
[10] しかし、前記の相当性の理論は、不法行為としての名誉毀損の成否を判断する基準として、同時に、それが名誉権そのものの存在を確認するための基準ともなりうることはいうまでもない。ただ、ここでは、表現行為が公共の利害にかかわるときに、憲法上特に優先的に保護されるべきものとされる表現の自由とこれに対抗する名誉権との間の調和と均衡が問題となつているのであるから、その間に均衡を回復するためには、その名誉権について特にこれを保護すべき特別の事由が存在していなければならないこととなる。このような観点から、まず相当性の理論によつて判断基準とされる公益目的及び事実の真実性のテストをとりあげて検討すると、当該表現行為が明らかに公益目的に出るものでないこと、又は摘示事実が明らかに真実でないことが先決問題となり、又このように名誉権の侵害が明白に認められうることにつき、事前差止めを請求する側においてその立証を果しうることが、必要な要件となると解される。これを仮処分についていえば、仮処分債権者の側でその疎明資料によつて右の証明を果しうることが必要である。裁判所が口頭弁論又は債務者の審尋を行ない、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものとする多数意見は、債権者の提出する疎明資料等によつて右の証明が果されていることが明らかなような例外的な場合を除いては、裁判所が右の証明が果されたかどうかを慎重に吟味すべきことを要求するものと解される。より重要な実質的な特別の事由としては、名誉権の侵害が一般の場合に比し特に重大なものであり、しかも、事前の差止めをしなければ、その重大な損害の回復が事後的には著しく困難であることを挙げるべきであろう。この2つは、憲法上の要請にかかる言論の自由と人格権としての名誉の保護との間に均衡と調和を保ちつつ、公共の利害にかかわる表現行為につき、事前の差止め請求を許容することができると考えられる実体的要件であつて、それが事実上、事前差止めの仮処分を許すための要件と重なり合う面があるとしても、そのことのために、これらの要件が憲法上の要請でなくなるわけではない。
[11] これを本件についてみると、大橋裁判官の補足意見でも指摘されているとおり、本件記事については、仮処分手続で債権者の提出した資料及び裁判所に顕著な事実によつて、その表現内容が真実でなく、かつ、それが専ら公益を図るものでないことが明白に認められるのであつて、その出版による被害の特別の重大性にかんがみ、本件仮処分決定には、その実体面においても、手続面においても、違憲、違法の廉はないとする多数意見に異論はない。ただ、私は、本件記事の名誉毀損に該当するとされる部分は、それ自体において、社会通念上、到底許容し難い侮辱的名誉毀損の典型的なものと認められるから、その僅か一部に抽象的な事実の指摘ともみられるものがあるとしても、その部分の表現内容が真実であるかどうかに立ち入るまでもなく、その部分をも含めて事前差止めの仮処分をすることが許容される、と解しうるのではないかと考えていることを念のため付言しておくこととする。


 裁判官谷口正孝の意見は、次のとおりである。

[1]第一 公的問題に関する雑誌記事等の事前の差止めの要件について、私は、多数意見の説くところと些か所見を異にするので、以下この点について述べることとする。

[2] 憲法21条2項、1項は、公的問題に関する討論や意思決定に必要・有益な情報の自由な流通、すなわち公権力による干渉を受けない意見の発表と情報授受の自由を保障している。そして、この自由の保障は、多数意見に示すとおり活力ある民主政治の営為にとつて必須の要素となるものであるから、憲法の定めた他の一般的諸権利の保護に対し、憲法上「優越的保障」を主張しうべき法益であるといわなければならない。この保障の趣旨・目的に合致する限り、表現の自由は人格権としての個人の名誉の保護に優先するのである。
[3] したがつて、雑誌記事等による表現内容が公務員、公選による公職の候補者についての公的問題に関するものである場合には、これを発表し、討論し、意思決定をするに必要・有益な情報の流通を確保することの自由の保障が右公務員、公選による公職の候補者の名誉の保護に優先し、これらの者の名誉を侵害・毀損する事実を摘示することも正当とされなければならず、かかる記事を公表する行為は違法とされることなく、民事上、刑事上も名誉毀損としての責任を問われることはない。

[4] そこで、進んで、人格権としての個人の名誉と表現の自由という2つの法益が抵触する場合に、公的問題に関する自由な討論や意思決定を確保するために情報の流通をどの限度まで確保することが必要・有益か、特に、真実に反する情報の流通をどこまで許容する必要があるかが問われることになる。
[5] 思うに、真実に反する情報の流通が他人の名誉を侵害・毀損する場合に、真実に反することの故をもつて直ちに名誉毀損に当たり民事上、刑事上の責任を問われるということになれば、一般の市民としては、表現内容が真実でないことが判明した場合にその法的責任を追及されることを慮り、これを危惧する結果、いきおい意見の発表ないし情報の提供を躊躇することになるであろう。そうなれば、せつかく保障された表現の自由も「自己検閲」の弊に陥り、言論は凍結する危険がある。
[6] このような「自己検閲」を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、真実に反した言論をも許容することが必要となるのである。そして、学説も指摘するように、言論の内容が真実に反するものであり、意見の表明がこのような真実に反する事実に基づくものであつても、その提示と自由な討論は、かえつてそれと矛盾する意見にその再考と再吟味を強い、その意見が支持されるべき理由についてのより深い意見形成とその意味のより十分な認識とをもたらすであろう。このような観点に立てば、誤つた言論にも、自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、真実に反する言論にも、それを保護し、それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない。公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めの要件を考えるについては、先ず以上のことを念頭においてかからなければならない。(誤つた言論に対する適切な救済方法はモア・スピーチなのである。)

[7] そこで、事前差止めの要件について検討する。
[8] さて、表現の自由が優越的保障を主張しうべき理由については、先に述べたとおりである。その保障の根拠に照らして考えるならば、表現の自由といつても、そこにやはり一定の限界があることを否定し難い。表現内容が真実に反する場合、そのすべての言論を保護する必要性・有益性のないこともまた認めざるをえないのである。特に、その表現内容が真実に反するものであつて、他人の人格権としての名誉を侵害・毀損する場合においては、人格権の保護の観点からも、この点の考慮が要請されるわけである。私は、その限界は以下のところにあると考える。すなわち、表現の事前規制は、事後規制の場合に比して格段の慎重さが求められるのであり、名誉の侵害・毀損の被害者が公務員、公選による公職の候補者等の公的人物であつて、その表現内容が公的問題に関する場合には、表現にかかる事実が真実に反していてもたやすく規制の対象とすべきではない。しかし、その表現行為がいわゆる現実の悪意をもつてされた場合、換言すれば、表現にかかる事実が真実に反し虚偽であることを知りながらその行為に及んだとき又は虚偽であるか否かを無謀にも無視して表現行為に踏み切つた場合には、表現の自由の優越的保障は後退し、その保護を主張しえないものと考える。けだし、右の場合には、故意に虚偽の情報を流すか、表現内容の真実性に無関心であつたものというべく、表現の自由の優越を保障した憲法21条の根拠に鑑み、かかる表現行為を保護する必要性・有益性はないと考えられるからである。多数意見は、表現内容が真実でなく、又はそれらが専ら公益を図る目的のものでないことが明らかな場合には、公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めが許されるというが、私は、この点については同調できない。思うに、多数意見も認めているように、記事内容が公務員又は公選による公職の候補者に対する評価、批判等であるときは、そのこと自体から公共の利害に関する事項であるといわなければならないわけで、このような事項については、公益目的のものであることは法律上も擬制されていると考えることもできるのである(刑法230条ノ2第3項参照)。したがつて、かかる表現行為について、専ら公益を図る目的のものでないというような不確定な要件を理由として公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めを認めることは、その要件が明確な基準性をもたないものであるだけに、表現の自由の保障に対する歯止めとはならないと考えるからである。

[9]第二 次に、裁判所が行う仮処分手続による表現行為の事前差止めの要件について考える。
[10] 多数意見がこの点について、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、憲法21条の規定の趣旨に照らし、手続的保障において十分であるとはいえず、事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、債務者の審尋を行いその意見弁解を聴取するとともに、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則としたこと、しかしながら、差止めの対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等、公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を聞き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて明白に事前差止めの要件を充すものと認められる場合には、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の規定の趣旨に反するものということはできないとしたことについて、私としても同意見である。もつとも、私は公的問題に関する雑誌記事等の事前の差止めについては、表現内容が真実に反することにつき表現行為をする者に現実の悪意のあることを要件とすると考えるので、この種の記事について、裁判所が事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、多数意見を多少修正する必要がある。
[11] 私としては、裁判所が事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、多数意見に示すとおり口頭弁論を開き、債務者を審尋し、主張、立証の機会を与えなければならないことは、憲法21条2項、1項の規定の趣旨に照らし当然の要件となるものであつて、その場合、債務者に対し、表現内容にかかる事実の真実性を一応推測させる程度の相当な合理的根拠・資料があり、表現行為がそのような根拠・資料に基づいてなされたことの主張、立証の機会が与えられなければならないものと考える。そのことが、現実の悪意がなかつたことの債務者の抗弁を許し、事前の差止めを求められている裁判所に対し仮処分命令を出させないための必要不可缺の要件であるからである。なお、多数意見は、表現行為の事前差止めの要件として、名誉権の侵害・毀損の場合について、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があることを実体的要件としているが、私はこの要件は、仮処分命令を発するについて、保全の必要性についての要件として考慮すれば足りると考える。
[12] 以上、裁判所の仮処分手続による公的事実に関する差止命令を発するための手続的要件を述べたわけであるが、この手続的要件を充足しない場合、すなわち、口頭弁論ないし債務者の審尋を経ないで発した裁判所の仮処分手続による差止命令が常に必ず憲法21条2項、1項の規定の趣旨に反するものと断じ切ることはできないと思われる。
[13] 差止めの対象が公務員又は公選による公職の候補者に対する評価、批判等、公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、極めて例外的な事例について、口頭弁論を開き債務者の前記抗弁の当否の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、それが債務者の現実の悪意をもつてなされたものであることが表現方法、内容に照らし極めて明白であるときは、以上の手続要件を充足せず差止めの仮処分命令を発したとしても、前記憲法の趣旨に反するものとはいえないであろう。その理由については、多数意見の述べるとおりである。そして、本件仮処分命令を発した裁判所に提出された疎明資料によれば、上告人が本件雑誌記事を掲載するについて現実の悪意のあつたことは明白であつたものというべきである。
[14] 私も、上告論旨にいう憲法21条2項違反の主張の理由のないことは多数意見に示すとおりであり、その余の違憲の主張もすでに見たとおり理由がないものと考えるので、本件上告は棄却されるべきものと思料する。

(裁判長裁判官 矢口洪一  裁判官 伊藤正己  裁判官 谷口正孝  裁判官 大橋進  裁判官 牧圭次  裁判官 安岡満彦  裁判官 角田礼次郎  裁判官 島谷六郎  裁判官 長島敦  裁判官 高島益郎  裁判官 藤島昭  裁判官 大内恒夫  裁判官 香川保一  裁判官 坂上寿夫)
[1] すなわち本件は、被上告人五十嵐広三、同阿部昭らが、発行前の雑誌「北方ジヤーナル」の「ある権力主義者の誘惑」と題する記事内容(昭和54年4月号予定)を傘下労組組織を使つて印刷所たる山藤印刷(株)手稲工場から秘かに事前入手((株)北方ジヤーナルと山藤印刷(株)との秘密厳守の契約関係からいつて、合理的に考えて、不法な手段によらざれば、絶対に入手不能なもの)し、かかる犯罪にかゝわる資料を基礎に印刷、製本並びにその販売、頒布禁止の仮処分申請を行つたが、札幌地裁は(株)北方ジヤーナルに対し、雑誌「北方ジヤーナル」(4月号予定)が未発行の印刷製本段階で、この申請を即日決定、即日執行し、よつて(株)北方ジヤーナルに多大の損害を発生せしめたものであるが、一、二審とも、かゝる仮処分決定を適法とし、(株)北方ジヤーナルの損害賠償請求を棄却している。

[2]だが次の点で違法である。
(1) 本件にかゝわる「ある権力者の誘惑」と題する記事内容は、刑法に定める名誉毀損罪(第230条、第230条ノ2)に当らない。一、二審が名誉毀損に当るか否かの事実審理をせずにして判断しているのは、憲法第21条第1項に違反する。
(2) 憲法第21条第1項は、不法な手段で入手した資料を土台とする言論制限を容認していると解することは出来ない。
(3) 憲法第21条第1項は、言論の事前差止を認めたものと解することは出来ない。
(4) 憲法第21条第2項は、言論の事前検閲を禁じているが、裁判所の仮処分決定は、この事前検閲に当る。
(5) 憲法第21条第2項は、通信の秘密の不可侵を定めているが、被上告人五十嵐広三、同阿部昭らの「北方ジヤーナル」記事の不法入手は、仮りに窃盗、業務上横領贓物収受に当らないとしても、少くともこの通信の秘密を犯したものである。以上いずれの論点よりするも、原判決は(事実と)憲法に反する違法なものであるので、破棄されるべきものである。

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