[BCN This Week 2010年7月12日 vol.1341 掲載](週刊BCN編集長の谷畑良胤さんの許可を得て記事を掲載)
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作ったプログラムは自分のものだろうか…

私は大学時代に大阪府立肢体不自由養護学校(現在、大阪府立茨木支援学校)で研修(教育実習)を行った。事故や病気で身体の一部を失ったり、脳性麻痺、サリドマイド、筋ジストロフィーなどを患ったりしている生徒たちに理科を教えながら、実に多くのことを学んだ。

大学を出て、ソフトウェア開発会社の技術者となり、大学教員となった今でも、そのときの体験が物を言う。正常と異常の境を見極めるとき、普通とは何だろうと考えるとき、所有や私有に対して所与や公有に思い至るとき、必ず頭をもたげてくる。

長い間、もたげてくるものを言葉にできなかったのだが、十年前にそれを上手に述べている良書に出会った。ラマチャンドランさんが著した「脳のなかの幽霊」という本である。目から鱗がボロボロと落ちたので、皆さんにも奨めたい。

あなたの身体および意識が幻であり、ヒトの脳がまったくの便宜上、一時的に構築したものであると明快に記されている。まさに異常から正常を知る方法がたくさん収録されている。そして、当該の本に序文を寄稿しているサックスさんの著作も示唆に富む。

サックスさんの「妻と帽子をまちがえた男」の第三章「からだのないクリスチーナ」も読んでいただきたい。自分の身体を自分のものだと確信するための固有感覚(プロプリオセプション)を失ってしまう。くしくもクリスチーナさんはコンピュータの仕事をしている。それゆえだろうか、彼女の発言(自己同一性の確保)がまことに論理的である。

プロプリオセプションはラテン語のプロプリウスに由来しており、特別な所有を意味している。ラマチャンドランさんの言葉を借りれば、所有も固有感覚も幻影であり、この世の中に一切無く、ヒトの脳がご都合で作り出したのだとわかる。知財権を振りかざして争うことの愚かしさを得心できるであろう。

物が人に付属するかのように所有を考えがちだが、そうではない。他人がいないところでは、所有自体が成立しない。使用を禁ずる他者が存在して、はじめて所有が発生する。文字通りの独り暮らしには所有のへったくれもない。

事物をめぐる人間排除の関係、それが所有の正体である。「これは自分のものだ」と所有権を主張するとき、他人の締め出しが根底に潜んでいるのだから、争いごと(異常)になるのは必定である。むしろ、公有や所与を主張するほうが正常(理にかなっているの)ではないだろうか。私がオープンソースソフトウェアに尽力する由縁である。


Updated: 2010/07/15 (Created: 2009/10/19) KSU AokiHanko