「君が代」起立斉唱拒否事件(東京都立高校再雇用拒否)
上告審判決

再雇用拒否処分取消等請求事件
最高裁判所 平成22年(行ツ)第54号
平成23年5月30日 第二小法廷 判決

上告人 (控訴人・被控訴人 原告) 甲野太郎(仮名)
              代理人 津田玄児 ほか

被上告人(被控訴人・控訴人 被告) 東京都

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官竹内行夫の補足意見
■ 裁判官須藤正彦の補足意見
■ 裁判官千葉勝美の補足意見

■ 上告代理人津田玄児ほかの上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 本件は,都立高等学校の教諭であった上告人が,卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること(以下「起立斉唱行為」という。)を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったところ,その後,定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員及び常時勤務を要する職又は短時間勤務の職の採用選考において,東京都教育委員会(以下「都教委」という。)から,上記不起立行為が職務命令違反等に当たることを理由に不合格とされたため,上記職務命令は憲法19条に違反し,上告人を不合格としたことは違法であるなどと主張して,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償等を求めている事案である。

[2] 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
[3](1) 学校教育法(平成19年法律第96号による改正前のもの。以下同じ。)43条及び学校教育法施行規則(平成19年文部科学省令第40号による改正前のもの。以下同じ。)57条の2の規定に基づく高等学校学習指導要領(平成11年文部省告示第58号。平成21年文部科学省告示第38号による特例の適用前のもの。以下「高等学校学習指導要領」という。)第4章第2C(1)は,「教科」とともに教育課程を構成する「特別活動」の「学校行事」のうち「儀式的行事」の内容について,
「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」
と定めている。そして,同章第3の3は,「特別活動」の「指導計画の作成と内容の取扱い」において,
「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」
と定めている(以下,この定めを「国旗国歌条項」という。)。
[4](2) 都教委の教育長は,平成15年10月23日付けで,都立高等学校等の各校長宛てに,「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(以下「本件通達」という。)を発した。その内容は,上記各校長に対し,(a)学習指導要領に基づき,入学式,卒業式等を適正に実施すること,(b)入学式,卒業式等の実施に当たっては,式典会場の舞台壇上正面に国旗を掲揚し,教職員は式典会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱するなど,所定の実施指針のとおり行うものとすること等を通達するものであった。
[5](3) 上告人は,平成16年3月当時,都立A高等学校に勤務する教諭であったところ,同月1日,同校の校長から,本件通達を踏まえ,同月5日に行われる卒業式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命令」という。)を受けた。しかし,上告人は,本件職務命令に従わず,上記卒業式における国歌斉唱の際に起立しなかった。そのため,都教委は,同月31日,上告人に対し,上記不起立行為が職務命令に違反し,全体の奉仕者たるにふさわしくない行為であるなどとし,地方公務員法29条1項1号,2号及び3号に該当するとして,戒告処分をした。
[6](4) 定年退職等により一旦退職した教職員等について,都教委は,特別職に属する非常勤の嘱託員(地方公務員法3条3項3号)として新たに任用する制度を実施するとともに,常時勤務を要する職(同法28条の4)又は短時間勤務の職(同法28条の5)として再任用する制度を実施している。
[7] 上告人は,平成19年3月31日付けで定年退職するに先立ち,平成18年10月,上記各制度に係る採用選考の申込みをしたが,都教委は,上記不起立行為は職務命令違反等に当たる非違行為であることを理由として,いずれも不合格とした。

[8]3(1) 上告人は,卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について,日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人,在日中国人の生徒に対し,「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての良心が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。
[9] しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。

[10](2) もっとも,上記の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
[11] なお,上告人は,個人の歴史観ないし世界観との関係に加えて,学校の卒業式のような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体との関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するが,そのような信条との関係における制約の有無が問題となり得るとしても,それは,上記のような外部的行為が求められる場面においては,個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的な制約の有無に包摂される事柄というべきであって,これとは別途の検討を要するものとは解されない。
[12] そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

[13](3) これを本件についてみるに,本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。
[14] 他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。これらの点に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。
[15] 以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。

[16](4) 以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。
[17] 以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁,最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。所論の点に関する原審の判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用することができない。
[18] 論旨は,違憲をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの又はその前提を欠くものであって,民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない。

[19] よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官竹内行夫,同須藤正彦,同千葉勝美の各補足意見がある。


 裁判官竹内行夫の補足意見は,次のとおりである。

[1] 私は,本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることを前提とした上で,このような制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が本件職務命令に認められるか否かの点について,これを肯定的に解するものとする法廷意見のアプローチ及び結論に賛同するものであるが,若干の意見を記しておきたい。
[2] 思想及び良心の自由は個人の内心の領域に係るものであり,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人のような個人の歴史観ないし世界観は,内心にとどまる限り,絶対的に自由であり法的に保護されなければならない。そして,一般的,客観的に見た場合には,卒業式における起立斉唱行為は儀礼的な所作であって,上記のような個人の歴史観等を否定するものではなく,また,そのような個人の歴史観等を直ちに露顕させるものであるとも解されないとしても,そのようないわば第三者的な見地だけから本件職務命令が思想及び良心の自由についての制約に当たらないとの結論に到達し得るものではない。思想及び良心の自由は本来個人の内心の領域に係るものであるから,当該本人自身において起立斉唱行為が敬意の表明の要素を含む点において自己の歴史観等に由来する行動と相反する外部的行為であるとして心理的矛盾や精神的な痛みを感じるのであれば,そのような状態は思想及び良心の自由についての制約の問題が事実上生じている状態であるといわざるを得ない。そして,そのような間接的な制約が許容されるか否か,許容される場合があるとすればなぜ許容されるかということについて,審査が行われなければならない(この点において,私はいわゆるピアノ伴奏事件判決(最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁)における那須弘平裁判官の補足意見の基本的視点に共感するものである。)。
[3] 個人の歴史観ないし世界観が,内心にとどまる限り,社会規範等と異なるところがあっても,その間の抵触が問題とされることはない。他方,人がその歴史観ないし世界観に基づいて行動する場合には,その外部的行動が社会による客観的評価の対象となり社会規範等に抵触することがあり得るのであり,そのような場面においては,外部的行動が社会規範等により制限されることがある。この場合において,制限の対象はあくまでも外部的行動であるが,そのような外部的行動に対する制限を介して,結果として,歴史観ないし世界観についての間接的な制約となることはあり得るところである。本件はそのようなケースであり,本件職務命令により制限の対象とされるのは,上告人の卒業式において起立斉唱をしないという行動であって,その歴史観ないし世界観ではない。
[4] このような場合に,表見的には外部的行動に対する制限であるが,実はその趣旨,目的が,個人に対して特定の歴史観等を強制したり,あるいは,歴史観等の告白を強制したりするものであると解される場合には,直ちに,思想及び良心の自由についての制約の問題が生ずることになるが,本件職務命令がそのようなものであるとは考えられない。
[5] なお,以上に述べたような外部的行動に対する制限を介しての間接的な制約となる面があると認められる場合においては,そのような外部的行動に対する制限について,個人の内心に関わりを持つものとして,思想及び良心の自由についての事実上の影響を最小限にとどめるように慎重な配慮がなされるべきことは当然であろう。
[6] また,本件のような思想及び良心の自由についての間接的な制約に関して,その必要性,合理性を審査するに当たっては,具体的な状況を踏まえて,特に慎重に較量した上での総合的判断が求められることはいうまでもない。このこととの関連で,一言触れておくと,思想信条等に由来する外部的行動について,当該行動と核となる思想信条等との間の関連性の程度には差異があるとの見方を採用した上で,本件上告人の起立斉唱行為の拒否は本人の歴史観等と不可分一体なものとまではいえないと解し,そのような解釈に立って合憲性の審査を進めるという見解があるが,そのようなアプローチは私の採るところではない。人の外部的行動が歴史観等に基づいたものである場合に,当該行動と歴史観等との関連性の程度というものはおよそ個人の内心の領域に属するものであり,外部の者が立ち入るべき領域ではないのみならず,そのような関連性の程度を量る基準を一般的,客観的に定めることもできない。あえてこれを量ろうとするならば,それは個人の内心に立ち入った恣意的な判断となる危険を免れないこととなろう。本件上告人があえて起立斉唱をしないという行動を採ったのは,それが自己の歴史観等に基づく行動と両立するものではないと確信しているからであると解されるのであり,私は,本件上告人の起立斉唱行為の拒否が,その内心の状態に照らして,上告人の歴史観等と不可分一体なものではないとの判断を下す何らの根拠も有していない。
[7] 法廷意見が本件職務命令による上告人に係る制約が許容され得るとした判断に賛同するに当たり,次の二つの点を特記しておきたい。
[8] 第一は,国旗及び国歌に対する敬意に関することである。一般に,卒業式,国際スポーツ競技の開会式などの種々の行事や式典において国旗が掲揚されたり,国歌が演奏されたりするが,そのような際に,一般の人々の対応としては,通常,慣例上の儀礼的な所作としてごく自然に国旗や国歌に対する敬意の表明を示しているものと考えられる。そして,国際社会においては,他国の国旗,国歌に対する敬意の表明は国際常識,国際マナーとされ,これに反するような行動は国際礼譲の上で好ましくないこととされている。先年,ある外国における国際サッカー試合の前に慣例により「君が代」が演奏されたとき,その国の観客が起立をしなかったということがあり,これが国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判されたことがあったのは記憶に新しい。他の国の国旗,国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも,まず自分の国の国旗,国歌に対する敬意が必要であり,学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然であると考える。
[9] 第二に,上告人は教員であり,学校行事を含めて生徒を指導する義務を負う立場にあるという点が重要である。国旗,国歌に対する敬意や儀礼を生徒に指導する機会としては種々あるであろうが,卒業式や入学式などの学校行事は重要な機会である。そのような学校行事において,教員が起立斉唱行為を拒否する行動をとることは,国旗,国歌に対する敬意や儀礼について指導し,生徒の模範となるべき教員としての職務に抵触するものといわざるを得ないであろう。本件職務命令による上告人に係る制約の必要性,合理性を較量するに当たっては,このような観点も一つの事情として考慮される必要があると考える。


 裁判官須藤正彦の補足意見は,次のとおりである。

[1] 私は,法廷意見に同調するものであるが,その理由について以下のとおり補足する。
[2](1) 特定の思想の強制や禁止,特定の思想を理由とする不利益の付与は,憲法19条で保障された思想及び良心の自由を侵すものとして絶対に許されない。また,この趣旨から,特定の歴史観ないし世界観(以下「歴史観等」という。)又はその否定と不可分に結び付く行為の強制も、特定の思想又はその否定を外部に表明する行為であると評価される行動や特定の思想の有無についての告白の強制も,いずれも許されない(この点につき,最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁参照)。

[3](2) この意味で,内心における思想及び良心の自由の保障は絶対であるが,特定の思想が内心にとどまらない場合は,外部的行動との関わりにおいて他の利益と抵触するため,それは常に絶対というわけではない面がある。例えば一夫多妻制や一妻多夫制が正しいとの歴史観等を有することは絶対に自由であるが,これに従って重婚に及んだ者は処罰される(刑法184条)。この場合,国家はその者の歴史観等に対する否定的評価を刑法に取り込んでいるとみることも可能であるように思われ,そうすると,その疑いもなく少数の者は外部的行為の介在によって思想及び良心の自由につきいわば直接的制約を受ける(以下では,このような直接的制約を「いわゆる直接的制約」と呼ぶことがある。)こととなるが,憲法19条は明らかに刑法184条を許容しているといえる。

[4](3) 一般に,外部的行為を,社会一般の規範等が個人に要求する場合,それが元来ある歴史観等や信条などについて否定的評価をするものではなく,その趣旨,目的が別にあるにもかかわらず,ないしは,その外部的行為の要求が一般的,客観的にも歴史観等や信条などを否定するような意図を含んでいるとはみられないにもかかわらず,その外部的行為が,個人の歴史観等やそれに基づく信条などに由来する外部的行動と異なり,その者はそれには応じ難いというときがあり得る。この場合,外部的行為を要求することを通じて,結果として個人の思想及び良心の自由(内心の自由)についての制約を生じさせることになる。これは,前記のいわゆる直接的制約に対して,間接的制約と呼ぶことができるが,本件は主として社会一般の規範等に当たる本件職務命令による間接的制約の問題といえる。
[5] もっとも,このように一般的,客観的観点からは間接的制約と評価されても,それを受ける者にとっては,当該外部的行為を要求されることで,自己の歴史観等の核心部分を否定されたものと,あるいはその外部的行為を自己が否定する歴史観等を外部に表明する行為と評価されるものと受け止めて,精神的葛藤を生じることがある(直接的か間接的かという区別は,当人自身の主観としては無意味であろう。)。
[6] また,外部的行為の要求が一律に強制される場合,当該要求が一律に強制されるべきではないという信条を有する者にとっては,その信条の直接的な否定となり,これはそのような信条に係るいわば直接的制約ともいえる。その信条に賛否が分かれているような問題が含まれる場合は,特に精神的葛藤を避けられないのであるが,本件はその信条に係る制約の問題をも付随的に含む(以下では,このような信条に係る制約を「信条の制約」と呼ぶことがある。)。
[7] もとより,憲法における思想及び良心の自由の保障は,個人の尊厳の観点からして,あるいは,多様な思想,多元的な価値観の併存こそが民主主義社会成立のための前提基盤であるとの観点からして,まずもってその当人の主観を中心にして考えられるものであり,このような憲法的価値の性質からすると,間接的制約や信条の制約の場面でも,憲法19条の保障の趣旨は及ぶというべきである。思想及び良心の自由は,少数者のものであるとの理由で制限することは許されないものであり,多数者の恣意から少数者のそれを護ることが司法の役割でもある。思想及び良心の自由の保障が戦前に歩んだ苦難の歴史を踏まえて,諸外国の憲法とは異なり,独自に日本国憲法に規定されたという立法の経緯からしても,そのことは強調されるべきことであろう。

[8](4) しかしながら,外部的行為が介在する場面での思想及び良心の自由の保障は,必ずしも絶対不可侵のものとしての意味のそれではない。けだし,社会一般の規範等に基づく外部的行為の要求が間接的制約を生ずるがゆえに絶対的に許されないのであれば,結局社会が成り立たなくなってしまうと思われ,憲法は社会が成り立たなくなってしまう事態まで求めるものとは思われないからである。したがって,このような外部的行為を介しての間接的制約の場面では,その規範等に間接的制約を許容し得る程度の必要性,合理性がある場合には,憲法自身が,それを内在的制約としてなお容認しているものとみるのが相当であると考える。信条の制約の場合も同様であり,その信条が歴史観等に由来するものであればそれとその信条とが不可分一体であるという意味において,また,それが単なる社会生活上の信条であれば正にそのことのゆえに,間接的制約に準じて,その制約を許容し得る程度の必要性,合理性がある場合には,なお容認しているものと思われる(以下では,「間接的制約等」を間接的制約と信条の制約とを併せた意味で用いる。)。なお,この制約を許容し得る程度の必要性や合理性は飽くまで憲法論におけるそれである以上,その必要性,合理性の根拠はできるだけ憲法自体に求められるのが望ましいと思われる。同時に,必要性や合理性は広い意味に捉え得るので,特に外部的行為の方法,態様などの点に関しては,憲法論で捉えるよりも,裁量統制の観点から,当該外部的行為の拒否を理由とする不利益処分が裁量の範囲を逸脱するものとして違法と評価されるか否かとの判断方法で捉える方が適切であるという場合も現実には多いと思われ,その意味で一種の棲み分けがなされることになろう。もっとも,例えば,対象となる当人の歴史観等に係る間接的制約等が容易に予見される状況であるのに,これを最小限にとどめるような慎重な配慮を著しく欠くという場合や,違反に対する制裁が初めから過度に重いものしか定められていないような場合などは,憲法的価値そのものを否定するものとして,制約を許容し得る程度の必要性,合理性は認められないといえよう。

[9](5) 上記の判断枠組みについていえば,それは,思想及び良心の自由が外部的行為の介在によって社会一般の規範等と抵触する場合の調整の在り方として,一般的,客観的な見地の下に,その規範等の趣旨,目的や思想及び良心の自由についての制約の有無に加え,制約の直接性,間接性,思想及び良心の核心部分との遠近,制約の程度等をも検討し,それらを前提とした上で,間接的制約等についての必要性,合理性を考量すべきものとする考え方である。これについては,思想及び良心の自由の保障が元来当人の主観を中心にして考えられることとの整合性が一見問題となるように思われないでないが,この判断は,飽くまで法的判断として主観を前提とした上での客観的な評価を行う作用であって,その判断方法自体は異とするに足りない。思想及び良心の自由につき,外部的行為の介在による規範等との抵触の場合の調整の在り方としては,前記のいわゆる直接的制約のような場合には,いわゆる厳格な基準などによるべきことと思われるが,間接的制約等の場合には,上記の判断枠組みは,必要性,合理性の考量が安易になされないことを必須の条件として,適切な方法と考える。この場合の制約は,憲法自身が容認する内在的制約であるが,憲法13条の公共の福祉による制約と趣旨において共通するといえよう。今後は,その必要性及び合理性の内容について深く掘り下げていくことが現実的であると思われる。
[10] 本件の起立斉唱行為は,一般的,客観的にみて,卒業式等の式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであるが,国旗,国歌への敬意の表明の要素を含むものであることから,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等に由来する外部的行動(国旗,国歌への敬意の表明の拒否)と矛盾抵触し,その歴史観等の核心部分を否定されるものと,あるいは自己が否定する歴史観等を外部に表明する行為と評価されるものと受け止められるであろうから,精神的葛藤を生じ,上告人の歴史観等に係る制約となる面があるところ,社会一般の規範等である本件職務命令は,後にも述べるが,特定の歴史観等は前提とせず,いわんやこれを否定するようなことは予定されておらず,一般にそのようにみられるものでもないから,上記の制約は,結果としての間接的制約となるものである。また,「日の丸」,「君が代」は賛否が分かれている問題を含むのであり,学校の卒業式における起立斉唱は本来一律の強制でなされるべきでなく,したがって起立斉唱してはならないという信条を有しているということで,その信条の制約ということも考えられる。そうすると,本件職務命令が憲法に違反するか否かは,これらの間接的制約等を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かによって定まることとなる。
[11](1) まず,本件職務命令の趣旨,目的は,高校生徒が,起立斉唱という国旗,国歌への敬意の表明の要素を含む行為を契機として,日常の意識の中で自国のことに注意を向けるようにすることにあり,そのために,卒業式典という重要な儀式的行事の機会に指導者たる教員に,いわば率先垂範してこれを行わしめるものといえる。けだし,「日の丸」,「君が代」は国旗,国歌であるので(国旗及び国歌に関する法律。以下「国旗国歌法」という。),それが日本国(以下,適宜,「国」又は「自国」と称する。)をメッセージしているからである。
[12] 制約を許容し得る程度の必要性,合理性の根拠はできれば憲法自体に求められることが望ましいという前述の視座から検討するに,我々は,「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持」(憲法前文)しなければならないが,益々国際化が進展している今日こそ,自国の伝統や文化に対して正しい理解をした上で,他国を尊重し,柔軟な国際協調の精神を培って国際社会の平和と発展に寄与することがあるべき姿であろう。教育基本法(平成18年法律第120号による改正前のもの。以下同じ。)1条は,教育は,「平和的な国家及び社会の形成者として」の国民育成を期して行わなければならないと規定し,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として,「郷土及び国家の現状について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと」と,同法36条1号及び42条1号は,それぞれ,中学校教育,高校教育の目標として,小学校,中学校の教育の基礎の上に,「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」,「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと」と規定しているところである。実際,高校生は,やがて,国の主権者としての権利を行使し社会的責務を負う立場になるのであり,また,自らの生活や人生を国によって規定されることは避けられない。公共の最たるものが国であり,国は何をする存在なのかを知り,国が自分のために何をしてくれるのかを問いかけることも,自分が国のために何をなし得るのかを問いかけることも,大切なことと思われる。そして,そのためには,自国の歴史の正と負の両面を虚心坦懐に直視しなければならない。そうすると,職務命令において,高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然のことともいえる。他方,国民は普通教育を受けさせる義務(責務)を負うところ(憲法26条2項),上告人が従事していた高校教育も,その段階の一つである(学校教育法50条)。そして大切なことは,その義務(責務)を果たすことの前提として,国民は,教育を受ける権利を基本的人権として保障され(憲法26条1項),法律に定められた内容において普通教育,専門教育についての高校教育の提供を要求する権利を有するものである。そうすると,国民は,日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える教育について,その提供を受ける権利を有するということができ,国はこれに対応してそのような教育の提供をする義務があるともいえるのであるから,教育関係者がその実践に及ぶことはその観点からしても当然のことといえる。さらに,都立高校の教諭たる上告人は,公務員として,また,教員として,「全体の奉仕者」であるところ(憲法15条2項,地方公務員法30条,教育基本法6条2項),平和的な国家及び社会の形成者として新しい世代を育成し,国民の教育を受ける権利を実現する上での上記の契機を与えるための教育は,国民全体の関心事でもあるから,そのような教育を行うことは,全体の奉仕者としての当然の責務であるともいえる。そうすると,特定の国家観を前提とせず,普通教育の従事者たる教員に,自国のことに注意を向けるための契機を与えようとする教育を行わしめることは,教育を受ける権利や全体の奉仕者という観点においても,憲法上の要請ということも可能である。
[13] 以上のように,本件職務命令は,その趣旨,目的自体において,十分に必要性や合理性が認められるというべきである。

[14](2) 上記の契機を与えるための教育の手段としては,様々なものがあり得るから,「日の丸」や「君が代」を用いてこれに対して敬意の表明の要素を含む行為をさせることは唯一の選択肢ではないものの,これらは,国旗,国歌として国を象徴するものであるがゆえに,直截で分かりやすく,これに敬意の表明の要素を含む行為をすることが,日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機となるものと思われる。教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の中であれば,他にも様々な方法が考えられるが,進行上のめり張り,厳粛性,統一性などが要求される卒業式などの全校的な統一的集団行事としての儀式的行事において,みるべき代替案あるいは拮抗する対案が提唱されていることもうかがわれない。のみならず,自国の国旗,国歌に敬意の表明の要素を含む行為をすることは,他国の国旗,国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為を行うことにつながり,他国の国旗,国歌を尊重することは他国を尊重することを含意すると思われるところ,さきに述べたところからして他国を尊重するように教育をすることは大切なことである。以上によれば,本件の卒業式において,「国」のことに注意を向ける契機を与えるための教育の手段として,「日の丸」や「君が代」を用い,教員をして,いわば率先垂範してこれに対する敬意の表明の要素を含む行為をさせることには,必要性及び合理性が認められるといえる。
[15] しかして,仮にこの「日の丸」,「君が代」が特定の歴史観等や反憲法的国家像を前提とするのであれば,本件のような職務命令は,公権力が思想教育ないしは特定の思想について一定の価値判断を教員に教え込ませようとするものとして許されないことになろうが,国旗国歌法上,国旗たる「日の丸」も国歌たる「君が代」も,特定の歴史観等や反憲法的国家像が前提とされているわけではないから,本件職務命令はそのような前提には立っていないというべきである。仮に,このような職務命令によって,実は一定の歴史観等を有する者の思想を抑圧することを狙っているというのであるならば,公権力が特定の思想を禁止するものであって,前記のとおり憲法19条に直接反するものとして許されないことになろうが,本件職務命令はそのような意図を有しているものとも認められない。
[16] もっとも,「日の丸」,「君が代」については,かねて国民の間に少なからぬ議論のあるところであり,様々な考え方があるのも現実である。「日の丸」,「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等からすれば,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,その過去の「国」であるということなのであろう。しかし,他方において,それは,負の歴史をも踏まえた上での現在の「国」,つまり,国民主権主義,基本的人権尊重主義,平和主義といった基本原理を有する日本国憲法の秩序の下にある国である,あるいはそのような国であるべきだとの考え方もあり得るところであろう。むしろ,一般的には,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,特定の国家像などが前提とされていない国であり,したがって,本件におけるような卒業式典における起立斉唱も,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものと捉えられるといえる。

[17](3) 以上のとおり,本件職務命令は,その趣旨,目的において,必要性,合理性の根拠を憲法上に求めることができる。ところで,間接的制約等を許容し得る程度の必要性,合理性が認められるためには,進んで具体的な方法,態様においても,必要性,合理性が要求されるものであるので(その方法,態様自体が憲法的価値そのものを否定するものであれば,必要性,合理性を認めることができない。),この観点から更に考察するに,起立斉唱という方法は,国旗,国歌への敬意の表明の要素を含む行為としては,唯一の選択肢ではないであろうが,それが直截的であり,これに代替し又は拮抗する方法は容易に見いだし難いように思われ,この方法を採ることには必要性,合理性が認められる。また,卒業式典は,全校的な統一的集団行事であり,教育的観点から重要な儀式的行事として位置付けられるという性格からして,厳粛かつ効果的に執り行われるべきことが要求されるので,会場の雰囲気を損なってその円滑な進行に水を差したり,生徒をして日常の意識の中で自国に注意を向ける契機を与えるという教育の効果を一部減殺するなどの事態を招かないようにするために,いわば率先垂範的な立場にある教員に一律に強制し,そのための制裁手段としての懲戒処分(過度に重いものしか定められていないというものではない。)を設けるという方法を採ることも必要性,合理性が認められるというべきである。そして,本件職務命令の対象たる起立斉唱の形式,内容,進行方法,所要時間,頻度等をみても,起立斉唱に付加して,例えば,国家への忠誠文言の朗誦とか,愛国心を謳った誓約書への署名などの行為を求めるものではなく,しかも,短時間で終了し,日を置かずして反復されるようなものでもなく,その結果,慣例上の儀礼的な所作の域にとどまるといえる。また,上記の点よりすると,本件職務命令は,少なくとも,その間接的制約等を最小限にとどめるような慎重な配慮を著しく欠いているとはいえない。そうすると,本件職務命令は,その態様においても,必要性,合理性が認められる(これらの方法,態様自体は憲法的価値そのものを否定するものとも思われない。)。

[18](4) ところで,上告人が起立斉唱拒否行為(不起立)を行うことは,「日の丸」,「君が代」にまつわる前記歴史観等が正しいとの強い確信を基にして,起立斉唱はなすべきではないとする信条を,結果的にであるにせよ,表示することになる一面も否定できない。自己の良心に忠実かつ真摯な態度との側面もあるといい得るし,上告人がそのような歴史観等や信条を有するのは絶対に自由であるが,他方で,上告人の歴史観等とは異なる考え方などもあり得ると思われる。高校生活の目標は,歴史認識を含め,物事には多様な考え方,正反対の見方があることを知り,自主独立の精神の下に自分自身の価値観,人格を形成させ,主体的に判断する能力を身に付けることであり,教育はそれを支援することであろう。ところが,卒業式という学校にとって最も重要でしかもやや劇的な場面で,上告人が,そのことを特に意図するものではないにせよ,強固な信条を表示するのであれば,それは,結局,対立する考え方を公平かつ平等に紹介するというよりも,自己が絶対視した価値観を一方的に教育の場に持ち込むということになろう。その結果,担任クラス,担当教科,クラブ活動などで緊密な信頼関係で結ばれている生徒らを中心に,上記の考え方が一義的に正しいものとして受け取られるなどで強い影響力,支配力を及ぼすことにもなり得ると思われる。しかし,高校生徒の側では,学校や教員を選択する自由も乏しく,また,大学生などとは異なり,一般に教員の教授内容について批判する能力がいまだ十分備わっているとはいい難いことに照らすと,それは,高校生徒の自由な思想の形成を損なうことになりはしないかと懸念されるのである。上告人は,地方公務員として全体の奉仕者であり(憲法15条2項,地方公務員法30条),かつ法律で定める学校の教員として全体の奉仕者であって(教育基本法6条2項),そのことからすると,公立学校の教員として生徒への教育において公正中立でなければならないと思われるが,それに反することになるようにも思われるのである。また,国民の教育(普通教育)を受ける権利は特定の価値観ではなく,国民が一般に共通に願う基礎的かつ均質な内容の教育の提供を要求できる権利であろう。そのような意味においては,憲法上の疑念も生ずるところである。職務命令による要求が一律であることには,上記の点からも必要性,合理性が基礎付けられよう。

[19](5) なお,前記のような歴史観等とは離れて,単に一律の強制で起立斉唱するというような方法で行うべきではないという社会生活上の信条もあり得るところである。上告人は,卒業式は生徒と教師が作り上げるべきであり,他者から一律に強制されるべきではない旨の主張をしているところであり,本件職務命令はこのような信条の制約である旨を主張するものとも理解し得る。もとより,そのように考えることは全く自由であるし,また,起立斉唱を強制されることにより,精神的葛藤を生じるであろう。この信条の制約の場合,間接的制約の場合と同様にその制約を許容し得る程度の必要性,合理性があるかどうかという判断枠組みがなお用いられるべきであるということは,既に述べたとおりであるが,その比較考量においては,前記の歴史観等に係る間接的制約の場合と異なり,特段の事情がある場合は別として,その許容性が一般に容易に肯定されるであろう。もちろん,思想内容に立ち入ってその価値の軽重について外から序列を付けることは適切でないとしても,そのような社会生活上の信条は歴史観等の核心部分からやや隔たるといえるし,また,その種の社会生活上の信条は甚だ広範にわたるのであって,特に公教育にあっては,自己の社会生活上の信条に反するからという一事で,一般に拒否する自由が認められれば,公教育(特に普通教育)そのものが成り立たなくなり得るし,教育公務員が全体の奉仕者であることと端的に矛盾することになると思われるからである。本件の社会生活上の信条に関しては,特段の事情は認められず,その制約を許容し得る程度の必要性,合理性が認められるといえよう。

[20](6) なお念のために付言すれば,以上は飽くまで憲法論であって,職務命令違反を理由とする不利益処分に係る裁量論の領域で,日常の意識の中で国のことに注意を向ける契機を与えるために,起立斉唱がどれほど必要なのか,卒業式はその性格からしてそれを行う機会としてふさわしいのかなどの方法論や,不起立によってどのような影響が生じその程度はいかほどか,不利益処分を行うこととその程度は行過ぎではないかといった点を考量した上で,当該処分の適法性を基礎付ける必要性,合理性を欠くがゆえに,当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となるということはあり得る。
[21] このことに関連して更にいえば,最も肝腎なことは,物理的,形式的に画一化された教育ではなく,熱意と意欲に満ちた教師により,しかも生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされることであろう。本件職務命令のような不利益処分を伴う強制が,教育現場を疑心暗鬼とさせ,無用な混乱を生じさせ,教育現場の活力を殺ぎ萎縮させるというようなことであれば,かえって教育の生命が失われることにもなりかねない。教育は,強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって,上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらないであろう。その意味で,強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。のみならず、卒業式などの儀式的行事において,「日の丸」,「君が代」の起立斉唱の一律の強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると,たとえ,裁量の範囲内で違法にまでは至らないとしても,思想及び良心の自由の重みに照らし,また,あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれるところである。


 裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。

[1] 私は,法廷意見に補足して,本件職務命令に対する合憲性審査の視点について,また,本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて,私見を述べておきたい。
[2](1) 憲法19条が保障する「思想及び良心の自由」の意味については,広く人の内心の活動全般をいうとする見解がある。そこでは,各人のライフスタイル,社会生活上の考えや嗜好,常識的な物事の是非の判断や好悪の感情まで広く含まれることになろう。もちろん,このような内心の活動が社会生活において一般に尊重されるべきものであることは了解できるところではあるが,これにも憲法19条の保障が及ぶとなると,これに反する行為を求めることは個人の思想及び良心の自由の制約になり,許されないということになる。しかしながら,これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない。したがって,ここでは,基本的には,信仰に準ずる確固たる世界観,主義,思想等,個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうものと解すべきであろう。本件の上告人についていえば,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観(以下「上告人の歴史観等」という。)がこれに当たるであろう。そして,このような思想及び良心の自由は,内心の領域の問題であるので,外部からこれを直接制約することを許さない絶対的な人権であるとされている。これを直接制約する行為というのは,性質上余り想定し難いところではあるが,例を挙げれば,個人の思想を強制的に変えさせるために思想教育を行うことなどがあろう。
[3] このように,個人の思想及び良心の自由としての歴史観ないし世界観は,内心の領域の問題ではあるが,現実には,それにとどまらず,歴史観等に根ざす様々な外部的な行動となって現れるところである。その中には,各人の歴史観等とは切り離すことができない不可分一体の関係にあるものがあり,これも歴史観等とともに憲法上の保障の対象となり,これを直接的に制約しあるいはこれに直接反する行為を命ずること(例えば,本件では上告人の歴史観等を否定しあるいはこれに直接反する見解の表明行為に参加することを命ずることなど)も,同様に憲法19条により禁止されると解してよいであろう。
[4] そうすると,この歴史観等及びこれと不可分一体の行動(以下これらを「核となる思想信条等」という。)が憲法19条による直接的,絶対的な保障の対象となるのである。

[5](2) 次に,核となる思想信条等に由来するものではあるが,それと不可分一体とまではいえない種々の考えないし行動というものが現実にはあり(以下,これが外部に現れることから「外部的行動」という。),これが他の規範との関係で,何らかの形で制限されあるいはこれに反する行為を命ぜられることがあろう。このような制限をする行為(以下「制限的行為」という。)がどのような場合に許されるのかが次に問題になる。
[6] 本件において,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動は,特に在日朝鮮人・在日中国人の生徒に対し,「日の丸」・「君が代」を卒業式に組み入れて強制するべきでないと考え,教師の信念として起立斉唱行為を拒否する考えないし行動であるところ,これは,上告人の「日の丸」・「君が代」に関する歴史観等そのもの,あるいはそれと不可分一体のものとまではいえないが,それに由来するものである(仮に,これも不可分一体であるとなると,それはおよそ制限を許さない不可侵なものということになるものと考える。)。他方,本件職務命令は外部的行動に反する制限的行為となるから,その許否が検討されることになる。

[7](3) 一般に,核となる思想信条等に由来する外部的行動には様々なものがあるが,本人にとっては,そのような外部的行動も,すべて核となる思想信条等と不可分一体であると考え,信じていることが多いであろう。そのような主観的な考え等も一般に十分に尊重しなければならないものであり,この内心の領域に踏み込んで,その当否,評価等をすべきでないことは当然である。もっとも,憲法19条にいう思想及び良心の自由の保障の範囲をどのように考えるかに際しては,このような外部的行動を憲法論的な観点から客観的,一般的に捉え,核となる思想信条等との間でどの程度の関連性があるのかを検討する必要があるというべきである。これが客観的,一般的に見て不可分一体なものであれば,もはや外部的行動というよりも核となる思想信条等に属し,前述のとおり,憲法19条の直接的,絶対的な保障の対象となるが,そこまでのものでないものもあり,その意味で関連性の程度には差異が認められることになる。これを概念的に説明すれば,この外部的行動(核となる思想信条等に属するものを除いたもの)は,いわば,核となる思想信条等が絶対的保障を受ける核心部分とすれば,それの外側に存在する同心円の中に位置し,核心部分との遠近によって,関連性の程度に差異が生ずるという性質のものである。そして,この外部的行動は,内側の同心円に属するもの(核となる思想信条等)ではないので,憲法19条の保障の対象そのものではなく,その制限をおよそ許さないというものではない。また,それについて制限的行為の許容性・合憲性の審査については,精神的自由としての基本的人権を制約する行為の合憲性の審査基準であるいわゆる「厳格な基準」による必要もない。しかしながら,この外部的行動は核となる思想信条等との関連性が存在するのであるから,制限的行為によりその間接的な制約となる面が生ずるのであって,制限的行為の許容性等については,これを正当化し得る必要性,合理性がなければならないというべきである。さらに,当該外部的行動が核心部分に近くなり関連性が強くなるほど間接的な制約の程度も強くなる関係にあるので,制限的行為に求められる必要性,合理性の程度は,それに応じて高度なもの,厳しいものが求められる。他方,核心部分から遠く関連性が強くないものについては,要求される必要性,合理性の程度は前者の場合よりは緩やかに解することになる。そして,このような必要性,合理性の程度等の判断に際しては,制限される外部的行動の内容及び性質並びに当該制限的行為の態様等の諸事情を勘案した上で,核となる思想信条等についての間接的な制約となる面がどの程度あるのか,制限的行為の目的・内容,それにより得られる利益がどのようなものか等を,比較考量の観点から検討し判断していくことになる。
[8] なお,さきに述べたように,このような比較考量は,本人の内心の領域に立ち入って,本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付けたり,ランク付けしたりするものではなく,飽くまでも外部的行動が核となる思想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的,一般的な判断に基づくものにとどまるものである。例を挙げれば,最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁における事案のように,本件の上告人と同様の歴史観等(核となる思想信条等)を有する市立小学校のピアノ教師が,自己の信念として卒業式等で「君が代」のピアノ伴奏をすべきではないとし,それを拒否するという外部的行動と,本件の起立斉唱行為の拒否という外部的行動を比べると,各人の内心における信念としては,いずれも各人の歴史観等と不可分一体のものと考えているものと思われ,そのこと自体は,十分に尊重に値するが,核となる思想信条等としての歴史観等との憲法論的な観点からの客観的,一般的な関連性については,本件起立斉唱行為の拒否の方が,後述のとおり,「日の丸」・「君が代」に対する敬意の表明という要素が含まれている行為を拒否するという意味合いを有することなどからみて,関連性がより強くなるものということになろう。

[9](4) 本件の上告人の上記の「日の丸」等に関する外部的行動(起立斉唱行為の拒否)は,上告人の歴史観等(核となる思想信条等)に由来するものであるが,上記(3)で述べた趣旨において,それとの関連性は強いが不可分一体とまではいえないというべきである(なお,この外部的行動は,上告人の内心において,起立斉唱行為をすべきでないし,しないという強い信念となっているとしても,この内心の信念と起立斉唱行為の拒否とは表裏の関係にあり,前者は不可侵の領域で後者は外部的な事象,というように両者を分けて憲法上の意味を考えることはできないところであると考える。)。
[10] また,上告人は,儀式的行事において行われる「日の丸」・「君が代」に係る起立斉唱行為のように,公的な式典において本人が意図せぬ一定の行為を他の公的機関から強制されるのは自己の信念に反し苦痛であるという趣旨の主張もしているが,これは,いわゆる反強制的信条(前記最高裁判決における藤田裁判官の反対意見参照)というべきものの一つであろう。このような反強制的信条は,それが,上告人の個人的な卒業式の在り方についての観念や,そもそも教育の場で教師として一定の行動を他から強制されることへの強い嫌悪感ないし否定的な心情のようなものである場合もあろう。そうであれば,これらは,前記のとおり,個人の内心の活動に属する問題であり,一教師としてあるいは個人としての立場から尊重され得る事柄ではあるが,憲法上の絶対的な保障の対象となる思想及び良心の自由の領域そのものの問題ではない。もっとも,このような観念等は,上告人の歴史観等の核となる思想信条等と関連性があり,それに由来するものであると解する余地がある。その場合には,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動と同じ観点から制約の許容性が検討され,その結果,同様の判断となるのである。

[11](5) ところで,本件職務命令が求める起立斉唱行為は,国旗・国歌である「日の丸」・「君が代」に対し多かれ少なかれ敬意を表する意味合いが含まれており,その点において,本件職務命令は,上告人の歴史観等それ自体を否定するような直接的な制約となるものとはいえないが,その間接的な制約となる面があり,また,その限りにおいて上告人の上記の反強制的信条ともそごする可能性があるものである。しかしながら,法廷意見の述べるとおり,起立斉唱行為は,学校行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し,外部から見ても上告人の歴史観等自体を否定するような思想の表明として認識されるものではなく,他方,起立斉唱行為の教育現場における意義等は十分認められるのであって,本件職務命令は,憲法上これを許容し得る程度の必要性,合理性が認められるものと解される。
[12](1) 職務命令として起立斉唱行為を命ずることが違憲・無効とはいえない以上,これに従わない教員が懲戒処分を受けるのは,それが過大なものであったり手続的な瑕疵があった場合等でない限り,正当・適法なものである。しかしながら,教員としては,起立斉唱行為の拒否は自己の歴史観等に由来する行動であるため,司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが、必ずしもこの問題を社会的にも最終的な解決へ導くことになるとはいえない。

[13](2) 一般に,国旗及び国歌は,国家を象徴するものとして,国際的礼譲の対象とされ,また,式典等の場における儀礼の対象とされる。我が国では,以前は慣習により,平成11年以降は法律により,「日の丸」を国旗と定め,「君が代」を国歌と定めている。入学式や卒業式のような学校の式典においては,当然のことながら,国旗及び国歌がその意義にふさわしい儀礼をもって尊重されるのが望まれるところである。しかしながら,我が国においては,「日の丸」・「君が代」がそのような取扱いを受けることについて,歴史的な経緯等から様々な考えが存在するのが現実である。
[14] 国旗及び国歌に対する姿勢は,個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題であって,国民が心から敬愛するものであってこそ,国旗及び国歌がその本来の意義に沿うものとなるのである。そうすると,この問題についての最終解決としては,国旗及び国歌が,強制的にではなく,自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要であるということを付言しておきたい。

(裁判長裁判官 須藤正彦  裁判官 古田佑紀  裁判官 竹内行夫  裁判官 千葉勝美)
[1]第1 本件は,平成19年3月31日に東京都立高等学校教諭の職を定年退職した上告人が,再雇用職員及び再任用職員の採用選考の申請をしたのに,東京都教育委員会が上告人を不合格としたのは,裁量権の逸脱,濫用に該当すると主張して,本件不合格処分の取消又は無効確認,再雇用職員又は再任用職員として採用せよとの義務付け及び国家賠償法に基づく損害賠償を求めている事案である。
[2] 上告人は,卒業式において,職務命令に違反して1度だけ起立せず,戒告処分を受け,再発防止研修を受講したが,その後は,学校の混乱を避けるため,きちんと起立していた。ところが,定年退職後の再雇用職員及び再任用職員の選考において,3年も前のかかる一度の不起立行為を理由に,任用を拒否され,定年退職後,年金を受給するまでの5年間の職を奪われてしまった。上告人は来年63歳となり,再雇用期間は残り約2年に迫っている。
[3] 本件第1審は,相手方の不合格処分は裁量権の逸脱,濫用であり,違法である旨判示したのに対し,原審は,相手方には裁量権の逸脱,濫用はないと判示し,さらに,処分性についてもこれを否定した。
[4] しかし,原判決は,以下のとおり,憲法19条,14条1項及び22条1項の解釈を明らかに誤っている。
[5] 原判決は,
「日の丸と君が代が過去の我が国において有した役割に関する第1審原告の歴史観ないし世界観及びこれに由来する心情と信念が憲法19条によって保障されるものであるとしても,そのような心情と信念を持つことと学校の儀式的行事である卒業式において国歌斉唱の際に不起立に及ぶ行為とは必ずしも不可分に結びつくものとはいえないから,本件職務命令が第1審原告の思想及び良心の自由を侵害するものとはいえないものである(最高裁第三小法廷平成19年2月27日判決・民集61巻1号291頁参照)。」
などと判示した。

[6] しかし,そもそも国旗国歌法を制定した立法者は,日の丸掲揚,君が代斉唱を強制したわけではない。野中広務元内閣官房長官も
「法制化されたからといって,必ず,卒業式とか入学式に掲揚して斉唱しなければならないといった強制をする筋合いのものではないと考えておりました。私は,国会の審議でも,そのことを何度か答えております。日の丸については,日本という国家を象徴するシンボルとして考える人もいれば,戦争の傷跡を引きずって考える人もいるであろうし,国旗を持つことに反対という人もいるであろうし,思いは人それぞれだと思います。」
と述べている(甲8)。また,東京都以外の他府県で,不起立による処分を受けた教師が,再雇用あるいは再任用されなかった例は存在しないようである。さらに,神奈川県個人情報保護審査会は,国歌斉唱時における不起立という行為は,思想信条に基づく行為であると認め,県教委は,不起立者に対し,都教委のような懲戒処分はしないとしている(甲7の1,7の2)。国歌斉唱時の起立を職務命令により強制し,違反者に対して,懲戒処分を行い,再雇用・再任用の採否についてこれを理由に不採用とする呆れた行政運営をしている地方公共団体は,全国でも東京都だけであり,上告人は東京都の教員であるが故にかかる不利益処分を受けたものである。

[7] また,上告人が第1審から主張しているのは,職務命令が19条に違反するということのみならず,当該職務命令違反を理由に再雇用・再任用を拒否したことが,上告人の信条を理由とした不利益処分であり,19条に違反するというものである。

[8] 原判決が引用した最高裁判決の後に言い渡された東京高判平成19年6月28日は,
「学校の校長から上記のような指示又は命令を受けた教諭でその思想,良心又は信教に忠実であろうとするために当該指示又は命令に従うことに耐え難い苦痛を受ける者があり得ることまでも否定することはできないから,仮に上記の教諭が自己の思想,良心又は信教を優先させて当該指示又は命令に従わなかった場合において,そのことを理由に不利益な処分がされたときにはじめて,上記の教諭個人の思想及び良心の自由,信教の自由との関係において当該処分が裁量権の範囲を超える違法なものかどうかを検討することとなるが,これを検討するに当たっては,裁判所は,上記の教諭が自己の思想,良心又は信教を大切にするために真摯に当該指示又は命令を拒否したものであることを確認した上で,当該指示又は命令により達成されるべき公務の必要性の存在及びその程度,代替措置の有無,当該不利益処分により上記の教諭が受ける不利益の程度等を総合考慮して判断すべきである(最高裁平成7年(行ツ)第74号同8年3月8日第二小法廷判決・民集50巻3号469頁参照)。そこで,本件においても,まず,控訴人がM校長の前記指示を拒否したことにより不利益な処分を受けたかどうか,受けた処分が不利益な処分であるとはいえなくてもこれに伴って看過することができないような不利益を控訴人が受けたかどうかを検討し,これを肯定することができる場合には当該不利益処分等が裁量権の範囲を超える違法なものかどうかを検討すべきである。」
と判示し,国歌斉唱時の起立の強制が違法となる場合がある旨判示した。

[9] そもそも原判決が引用した最高裁判例の事案である音楽教師にピアノを弾くことを強制するということと,国歌斉唱の際に教師に起立を強制するということは,異質なものと言え,直ちに,当該最高裁判例を引用できるのか疑問がある上,仮に,職務命令及びその後の上告人への戒告処分が19条違反を構成しないとしても,再発防止研修を受講し,その後の3年間は,学校を混乱させたくないとの思いから職務命令を忠実に遵守してきた上告人に対して,不起立を理由に再雇用・再任用を拒否し,定年退職後の職を奪うことは,著しい不利益処分であり,前記東京高裁判例が指摘する「当該不利益処分により上記の教諭が受ける不利益の程度」が甚大であることに鑑みると,裁量の範囲を明らかに逸脱,濫用しており,ここまでくると,もはや19条違反を構成することは明らかである。上告人は,第1審から,(a)10.23通達,(b)これに基づく職務命令及び(c)職務命令違反による戒告処分の違憲,違法を強調しているわけではなく,(c)その3年後に行われた被上告人の行為の違憲,違法性を強く主張しているのである。

[10] 原判決は,都立高校の教諭という職業を選択した以上,自己の信条は後退させるべきであり,再雇用されないのも当然のことのように判示しているが,上告人の信条を理由に免職にしたのと同様の結果を招来した再雇用拒否処分を擁護する原判決は,憲法19条の解釈を明らかに誤っている。
[11] 上告人は,再雇用・再任用された懲戒処分歴のある他の教師との関係では,その信条に基づき,不利益な差別的扱いを受けたといえ,被上告人の本件処分は,憲法14条1項に違反する。

[12] 原判決は,
「第1審原告が不合格となった平成18年度採用選考では,戒告処分よりも重い減給処分や停職処分を受けた者で採用された者がいるが,その処分事由は本件のような職務命令違反ではない」
などと判示しているが,職務命令違反を重大な非違行為と考えるのであれば,当然に重い懲戒処分となるはずであり,軽い懲戒処分を受けた教師が不合格で,重い懲戒処分を受けた教師が合格というのは,常識では到底考え難いことであり,差別以外の何ものでもないことは明白である。

[13] 被上告人は,国旗国歌法の制定を契機に,日の丸・君が代を強制するために,わざわざ通達を出し,これを徹底するべく職務命令を発令するよう校長を指導し,命令違反者に対して,免職処分にはできないため,とりあえず戒告処分とし,再発防止研修を強制し,その挙げ句,再雇用あるいは再任用の選考において,当該処分歴を理由として,報復的に任用を拒否して制裁を与え,もって,日の丸・君が代を教師に強制しているわけである。都教委は,不起立者は全員再雇用・再任用を拒否するといういわば「裏基準」とでも言うべき独自の選考基準を設けているのであって,上告人の任用を拒否することは申込みの時点で既に決定していたものと推測される。
[14] このような被上告人の態度に,違憲・違法判決を言い渡している裁判所が既に存在するにもかかわらず,また,多くの上告人の教え子やその保護者が裁判所に駆けつけ,毎回裁判を傍聴し(第1審においては裁判所の都合で法廷が確保できず弁論準備手続期日が開かされた際も裁判所の配慮により大きめの部屋で行われたため多くの支援者が傍聴することができた),上告人が再雇用されないのはおかしいと強く訴えているにもかかわらず,被上告人は未だにかかる態度を改めずに,都民の多額の税金を裁判費用に費やし,自己の主張を正当化しようと躍起になっている。
[15] 本件は,典型的な権力の濫用の事案であって,既述の上告人の信条に基づき不利益な取扱を受けないという思想・信条の自由(憲法19条),平等権(憲法14条1項)及び次に述べる都立高校の教師の職を全うしたいという上告人の職業選択遂行の自由(憲法22条1項)を保障するためには,被上告人に対する最高裁判所による司法権の行使による是正が必要不可欠であり,かかる違憲状態は早期に解消されるべきである。
[16] 上告人は,平成19年3月31日付けで東京都高校教諭の職を定年退職したが,都教委は,上告人と同様の定年退職の教諭を,一定期間再雇用あるいは再任用し,定年退職後も従前の職を「選択」し,「遂行」する自由を事実上保障しているにもかかわらず,上告人が希求する再雇用・再任用による東京都高校教員の職の申し込みについて,既述のとおり,上告人の信条を理由に,採用拒否処分をなし,上告人に対して,他の定年退職者に事実上保障している公立高校の教師という従前の職を「選択」し,「遂行」する自由を認めない差別的取り扱いをなした。

[17] 本件処分は,憲法22条1項が保障している上告人の都立高校教師としての職業選択遂行の自由を侵害する違憲処分である。すなわち,「職業選択の自由」は経済活動の自由であるとはいっても,人の人格価値ないし精神生活と密接な関係を有する「自由」であることが留意されなければならず(佐藤幸治『憲法・第三版』556頁・青林書院),最高裁大法廷昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁・薬局開設の距離制限事件)判決も,職業は「各人が自己のもつ個性を全うすべき場として,個人の人格的価値とも不可分の関連を有するもの」と捉えており,学説も職業選択の自由について,
「この自由は,経済的自由の側面に重要な意義があるが・・・人の生活のあり方に基本的に関わるのであるから,各人の人としての価値,個人の尊厳といった人権の基本原理との結びつきをも過小に評価してはならない」(伊藤正己『憲法』341頁・弘文堂)
と説いている。改めて指摘するまでもなく「職業選択の自由」は,(a)職業を「選択」する自由のみならず,(b)職業を「遂行」する自由をも保障していると解されている。

[18] 上告人は,上記のとおり教育に携わることに使命感を抱き,教師の職を「選択」し,定年後もその職を継続して「遂行」することを希求している者であり,その上告人の人としての価値,個人の尊厳は尊重されなければならない。

[19] 原判決は,
「第1審原告が都立高校の教諭という職業を選択した以上,そのような心情や信念を後退させることを余儀なくされることは当然にこれを甘受すべきである。」
と判示し,結果的に,上告人の職業選択遂行の自由を後退させて,再雇用・再任用拒否処分も裁量の範囲内である旨判示した。
[20] しかし,被上告人の本件処分が,憲法19条ないし14条に違反し,裁量権の逸脱,濫用であることは明らかであり,本来,上告人は,再雇用ないしは再任用され,現在教壇に立っていたはずである。上告人の再雇用ないしは再任用期間は最長で,平成19年4月から平成24年3月までであり,残りの期間は約2年と迫っている。本来,都立高校の教師としての職を選択し,遂行できたのに,これを拒否した被上告人の本件処分は憲法22条1項違反である。本件処分を是認した原判決は憲法22条1項の解釈を明らかに誤っている。

[21] 憲法で保障された上告人の職業選択遂行の自由を保障するには,上告人を直ちに再雇用ないしは再任用し,教壇に復帰させる必要がある。そこで,本件採用拒否処分を「行政庁の処分」(行政事件訴訟法3条2項)にあたると解釈し,本件申込みを法令に基づく申請に準じる条理上の申請権と構成して,行政事件訴訟法3条6項2号を類推適用し,上告人を,再雇用職員ないしは再任用職員として早急に採用するべきである。

■第一審判決 ■控訴審判決 ■上告審判決   ■判決一覧