在宅投票制度廃止違憲訴訟
控訴審判決

損害賠償請求事件
札幌高等裁判所 昭和49年(ネ)第299号
昭和53年5月24日 第4部 判決

控訴人 (被告) 国
   指定代理人 渡辺剛男 外3名

被控訴人(原告) 佐藤享如
     代理人 山中善夫 外5名

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由
■ 別紙 当事者の陳述
■ 別表 関係規定の対照表


 原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。
 被控訴人の請求(当審での新らたな請求を含む)を棄却する。
 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

一 控訴人
「(一) 原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。
 (二) 被控訴人の請求を棄却する。
 (三) 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」
との判決を求めた。

二 被控訴人
「(一) 本件控訴を棄却する。
 (二) 訴訟費用は、第一、二審とも控訴人の負担とする。」
との判決を求めた。
 当事者双方の主張は、別紙記載のとおりであるほか、原判決の事実摘示と同一(原判決書2枚目表末行から同13枚目表1行目まで)であるから、これを、ここに引用する。
[1] 被控訴人は、先ず、控訴人が原審口頭弁論において立法行為に国家賠償法(以下「国賠法」と略称する)の適用があることを争わない旨明言したにもかかわらず、控訴審において、突如として前言を翻えし、国会議員の立法行為については国賠法の適用がない旨主張するのは、攻撃防禦の方法を時期に遅れて提出したものであつて、信義に反し、且つ徒らに争点を複雑、多岐にして、審理を混乱させ、訴訟の完結を遅延せしめるものであるから、右主張は民訴法139条により却下されるべきものである旨主張する。よつて案ずるに、
[2] 控訴人は、原審において国会議員の立法行為に国賠法の適用があるとする被控訴人の主張については敢えて争わなかつたこと、しかし当審に至つて被控訴人の右主張を争い、国会議員の立法行為に国賠法の適用がない旨の主張をするに至つたことは本件訴訟の経過に照らし明らかであつて、控訴人の右主張の提出の遅延については、控訴人に責られるべき点がないとはいえないが、そもそも国会議員の立法行為又は立法不作為について国賠法の適用があるか否かは国賠法の解釈にかかわる、裁判所のいわゆる職権調査事項であつて、その点についての当事者の主張の有無にかかわらず、裁判所はその職責上当然にこれを審理、判断しなければならないものであるから、国会議員の立法行為について国賠法の適用がない旨の控訴人の主張は、民訴法139条の制限に服さないものと解すべきである(最高裁判所昭和42年(行ツ)第11号、同年9月14日第一小法廷判決、民集21巻7号1807頁参照)。よつて、被控訴人の右主張は失当である。

[3] そこで国会議員の立法行為又は立法不作為について国賠法の適用があるか否かについて判断する。

[4](イ) 国会は、国権の最高機関として日本国憲法(以下「憲法」と略称する。なお、以下、単に「ヽヽ条」というときは憲法のそれをいう。)上国の唯一の立法機関であるが(41条)、その構成員である国会議員は、法律案を発案し、議決することによつて法律の制定という国の公権力行使の最たるものに直接たづさわるものであることはいうまでもない。

[5](ロ) 国賠法は、憲法17条に基づいて制定された法律であるから、国賠法にいう「公務員」は、憲法17条にいう公務員と同義に解すべきであるが、憲法上公務員という文言は、国会議員を含む意味で用いられているのであつて、憲法15条、99条の場合はそのことが文理上明白であり、憲法17条の場合も、これを別異に解さなければならない理由はない(73条4号にいう「官吏」と比較対照のこと)。それゆえ国賠法にいう「公務員」には国会議員も含まれるものと解される。

[6](ハ) 国賠法1条1項にいう「その職務を行うについて」とは、公務員が公権力を積極的に行使するについてという意味だけではなく、公務員が一定の公権力を行使すべき義務があるのにこれを行使しないことについてという意味をも有するものと解するのが相当であるから、国会議員が憲法上一定の立法をなすべき義務があるに拘らず当該立法をしないときは、当該立法不作為については、国会議員の「その職務を行うについて」に当たる。

[7](ニ) 国賠法1条によつて国又は公共団体に対して損害賠償責任を追求するには、公務員に「故意又は過失」のあることが要件とされる。公務員の「故意又は過失」が一定の意思を前提とするものであることはいうまでもないが、国会の立法行為又は立法不作為のように、公権力行使の主体が公務員の集合体である機関の場合は、なに人のいかなる意思を以つて右にいう公務員の意思と見るべきかが問題になる。若し、右機関構成員各自の個別的、主観的意思を問題にすべきものとすれば、国会のようにその構成員が多く、而も一定期間を置いてのその入れ替わりも少くはない機関にあつては、「公務員」の「故意又は過失」の有無を判断することは、理論上は可能であるとしても、実際上は至難といわざるを得ない。さればと言つて公務員の集合体としての機関とこれを構成する各個の公務員とは同一ではないのであるから、機関意思即公務員の意思と即断することもできない。思うに、国会のような公務員の集合体である立法機関における立法のための意思形成は、その構成員の個々の意見、判断の単なる寄せ集めによるものではなく、構成員各自の意見、判断の開陳、相互批判ないし討論、反省等の過程を経て行われ、最終的には多数決原理によつて機関としての意思決定を見るものであるから、かかる機関の意思は、その構成員各自の意思から、その個別性、主観性を捨象したものとみることができる。それゆえ、国会のような公務員の集合体である立法機関による立法行為については、当該立法機関の機関意思を、当該立法機関を構成する個々の公務員に、各自の意思として投影せしめたものを以つて国賠法1条にいう公務員の意思とみることが可能であり、従つて国会の立法行為又は立法不作為における公務員としての国会議員の「故意又は過失」も、各個の国会議員の個別的、主観的な意思を前提とする必要はなく、結論的には国会の意思即各国会議員の意思と前提して、これを判断すれば足りるものと解することができる。

[8](ホ) 国会議員が違憲の法律を制定したとすれば、違法行為をしたことになるが、裁判所は、憲法上、法律の憲法適合性を判断しうる(81条)のであるから、国家賠償請求事件の審判においてもこれをなしうることはいうまでもない。問題は、裁判所が国家賠償請求事件の審判において、国会議員による或る一定の立法不作為について、その憲法適合性を判断することができるか否かである。若しこれが否定されるならば、国会議員による立法不作為については、国賠法を適用し得ない法的障碍が存することになる。しかしながら国会議員による或る一定の立法不作為についても違憲問題が生ずることがあり、且つ裁判所がその憲法適合性判断をなしうる場合があり得ることは、後に詳しく説示するとおりであるから(後記第三の四、五参照)、国会議員による立法不作為については、常に、国賠法を適用し得ない法的障碍があるということはできない。

[9](ヘ) 控訴人は、憲法51条によれば、両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問われないものとされているから、仮に国会議員が憲法に違反する法律案に賛成し違憲の法律を制定したとしても、民事上の責任を問われることがなく、これにより他人の権利を侵害し損害を生ぜしめたとしても、右表決に加わつた議員が賠償責任を負うことはないから、代位責任者としての国も国賠法による損害賠償責任を負う理由はない旨主張する。よつて案ずるに、国会議員が違憲の法律案に賛成し、違憲の法律を制定したとしても、憲法51条により、院外で民事上の責任を問われることがないことはいうまでもない。これは、公務員としての国会議員が違法に公権力を行使したにかかわらず個人として民事上の責任を負わない場合であることを意味する。しかしながら、違法に公権力を行使した公務員(国会議員に限らない)が、個人として賠償責任を負わないとしても、それは、国又は公共団体が国賠法1条1項によつて賠償責任を負うことの妨げになるものではない。蓋し、憲法17条に基づく国賠法1条1項の規定は、公務員の不法行為による損害につき、国又は公共団体の賠償責任を認め、被害者の救済を実効的たらしめることを目的としたものであることに鑑みれば、違法に公権力を行使した公務員の故意又は過失が、国又は公共団体において賠償責任を負うための要件とされているとは言え、国又は公共団体の右賠償責任は、当該公務員個人の賠償責任を当該公務員に代つて負担するものというよりは、寧ろ国又は公共団体の自己の責任というべきものであつて、違法な公権力行使をした当該公務員個人の賠償責任とは別個独立に存しうるものと解するを相当とするからである。現に、公権力の行使に当たる公務員がその職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたため国又は公共団体が賠償責任を負う場合であつても、当該公務員個人としては賠償責任を負うものでないことが判例上も確立しているのである(最高裁判所昭和28年(オ)第625号、同30年4月19日第三小法廷判決、民集9巻5号534頁、最高裁判所昭和39年(オ)第1394号、同40年4月1日第一小法廷判決、裁判集民事78号485頁、最高裁判所昭和40年(オ)第401号、同年9月28日第三小法廷判決、裁判集民事80号553頁参照)。そもそも憲法51条が国会議員の院内で行つた演説、討論又は表決について院外における責任免除の特権を認めたのは、国会における国会議員の言論の自由を最大限に保障し、もつて国会議員がその職務を行うにあたつてその発言について少しでも制約されることがないようにすることを目的としたものであつて、同条の中に、国会議員が院内で行つた演説、討論又は表決は本来違法なものであつても、適法とみなされるとか或いは国会議員が違憲の立法を行つたこと或いは憲法上の義務に違背して立法を行わないことによつて他人に損害を加えたとしても、国は賠償責任を負わないというような趣旨が含まれているものとは到底解することができない。現行の国家賠償制度において、憲法51条の有する意味は、国会議員は、議院において演説、討論又は表決をなすにあたり故意又は重大な過失によつて違法に他人に損害を加えたとしても、国から国賠法1条2項によつて求償を受けることのないことが憲法上保障されているというだけである。これを要するに、憲法51条の規定を根拠として、国会議員の立法行為又は立法不作為によつて国が国賠法による賠償責任を負うことはないとする控訴人の前記主張は失当であつて採用できない。

[10](ト) 違憲、違法な立法行為又は立法不作為によつて人が損害を被ることのありうることはいうまでもない。

[11](チ) 叙上検討したところによれば、国会議員による立法行為又は立法不作為についても、国賠法1条1項の適用はあるものと解するのが相当である。
[12] 控訴人が、明治45年1月2日生まれの日本国民たる男子であつて、大正13年以来小樽市に居住し、大正14年5月法律第47号の衆議院議員選挙法改正法律5条に基づき昭和11年1月2日選挙権を取得し、その後の同法改正法、昭和22年4月法律第67号の地方自治法18条及びその後の同法改正法、昭和22年2月法律第11号の参議院議員選挙法3条、昭和25年法律第100号の公職選挙法(同年4月15日公布、同年5月1日施行、以下、単に「法」と略称することがある。)9条によつても、衆議院議員、参議院議員、その属する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有してきたことは、当事者間に争いない。

[13] 公職選挙法は、原則的な投票の方法として、選挙人は、選挙の当日、自ら投票所に行き、投票所において、投票用紙に自ら当該選挙の公職の候補者1人の氏名を記載して、これを投票箱に入れて投票しなければならないものと定め(法44条1項、46条1項)、いわゆる投票所投票自書主義を採用しているが、昭和27年法律第307号公職選挙法の一部を改正する法律(同年8月16日公布、同年9月1日施行、以下これを「本件公職選挙法一部改正法」と略称する。)による改正前の公職選挙法49条は、投票所投票自書主義の例外として選挙人であつて同条所定の事由により選挙の当日自ら投票所に行つて投票することができない旨を証明するものの投票については、政令で特別の規定を設けることができる旨を定めていわゆる不在者投票制度の制定を政令に委任し、これを受けて昭和27年政令第347号公職選挙法施行令の一部を改正する政令(同年8月16日公布、同年9月1日施行、以下これを「本件公職選挙法施行令改正令」と略称する。)による改正前の公職選挙法施行令(昭和25年政令第89号同年4月15日公布、同年5月1日施行、以下単に「令」と略称することがある。)は、不在者投票の一環として、本件公職選挙法改正法による改正前の公職選挙法49条3号前段所定の、選挙人が、疾病、負傷、妊娠、若しくは不具のため又は産褥にあるために歩行が著しく困難であるべきことを事由とする不在者投票につき、かかる選挙人は、郵便をもつて若しくは同居の親族によつて、当該選挙人名簿の属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対して、投標用紙及び投票用封筒の交付を請求し、その現在する場所において投票の記載をなし、若し身体の故障に因つて自ら候補者の氏名を記載することができないときは他人に投票の記載をさせ、これを右選挙管理委員会の委員長に対し、選挙の期日の前日までに到達するように郵便をもつて送付し、又は同日までに同居の親族によつて提出させることができるという制度即ち一種のいわゆる在宅投票制度を採つていたものであるが(本件公職選挙法施行令一部改正令による改正前の令50条4項、58条)、国会は昭和26年12月10日から開催された第13回国会において、同年4月に行われた統一地方選挙において、右の在宅投票制度が悪用されて多数の選挙違反がなされたことを理由に、本件公職選挙法一部改正法による改正前の公職選挙法49条を、選挙人であつて同条所定の事由により選挙の当日自ら投票所に行き投票することができない旨を証明するものの投票については、政令の定めるところにより不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所においてのみ投票させることができると改めることを含む本件公職選挙法一部改正法を可決成立させ、その結果、前記在宅投票制度が廃止されたこと(以下において「本件公職選挙法一部改正法による在宅投票制度の廃止」というときは、上述の如き関係をいうものとする。)、而して本件公職選挙法施行令改正令によつて、これによる改正前の令50条4項、58条は当然に削除され、その結果、選挙人で疾病、負傷、妊娠、不具若しくは産褥にあるため歩行が著しく困難であつて、選挙の当日投票所に行つて投票することができない者のうち、都道府県の選挙管理委員会が指定する病院に入院中の者だけが右改正令によつて改正された令55条、59条によつて、不在者投票管理者としての当該病院の院長が管理する投票の記載をする場所において投票することができることになつたことは、公職選挙法及び同法施行令の改正経過及び弁論の全趣旨によつて明らかである。
[14] 右のとおりとすると、疾病、負傷、妊娠、不具若しくは産褥にあるため歩行が不能又は著しく困難であつて、選挙の当日その意に反して投票所に行き投票することができない者であつて且つ不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所において投票することができない者(以下かかる者を「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」と略称する。)は、本件公職選挙法一部改正法の施行に因り、衆議院議員、参議院議員の各選挙(以下「国会議員選挙」ということがある。)、その属する地方公共団体の議員及び長の各選挙(以下「地方選挙」ということがある。また、以下、単に「選挙」というときは国会議員選挙と地方選挙の双方をいうものとする)において、選挙権の行使、即ち投票をすることが事実上不可能になり、実質上選挙権を奪われたに等しいものとなつたものというべきであるから、かかる者に対する関係で本件公職選挙法一部改正法によつて在宅投票制度を廃止したことが憲法に違反し違法なものか否かが問題となり得る。

[15] しかしながら、成立に争いない甲第10号証の各記載、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果を総合すれば、被控訴人は、昭和6年6月ごろ、自宅の屋根の雪降し作業をしていた際、屋根から転落し腰部を打撲したため、同年6月ころから足が重く感じ運動が緩慢になるなどの症状が出はじめ、翌昭和7年9月北大病院で脊髄前角炎、圧迫性脊髄炎症と診断され、直ちに同病院に入院し、同年10月手術を受けたけれども、予後の経過は思わしくなく、手術後はかえつて膝の関節が麻痺して1人で歩行することが困難になり、同年12月退院した後も快方に向わず、自宅で寝ていることが多くなつたこと、それでも、昭和10年ごろ、被控訴人の兄が車椅子を製作してくれたので、被控訴人は、他人の介添があれば車椅子を使つて外出することができるようになり、昭和11年に選挙権を取得して以後初めての選挙では、介添えを頼んで車椅子を押してもらい投票所のある潮見台小学校へ赴いて投票したこと、その後被控訴人は、小康を得て昭和16年に結婚し、古物商の免許を得て貸本屋を開業し自活の生活を始めたが、昭和20年8月の終戦を迎えるまで投票をしたことはなかつたこと、戦後初めて行われた選挙の際には、男女同権ということで被控訴人の妻にも選挙権が与えられたので、妻と一緒に車椅子を使つて投票所のある奥沢小学校へ赴いて投票したこと、その後昭和24年に行われた衆議院議員選挙、翌昭和25年に行われた参議院議員選挙の際にも、被控訴人は在宅投票制度を利用せず、車椅子を使つて投票所へ赴いて投票したが、昭和26年4月に行われた統一地方選挙の際には投票したかどうか不明であること、その間被控訴人は、昭和25年4月1日から施行された身体障害者福祉法(昭和24年12月法律第283号)の下で、昭和25年12月18日北海道知事から、両下肢運動不全麻痺、両膝関節50度屈曲位硬直の障害により第2種身体障害者手帳の交付を受けたが、昭和28年に行われた参議院議員の選挙の際には、車椅子を使つて投票所へ赴き投票したことが認められ、右認定に反する証拠はない。
[16] 右認定の事実によると、被控訴人は、在宅投票制度を廃止することにした本件公職選挙法一部改正法が施行された昭和27年9月1日当時においては、両下肢運動不全麻痺等の身体障害により歩行が困難であつて、選挙の当日投票所に行つて投票することが困難であつたということはできるが、しかし介添えを得て車椅子を使用すれば投票所へ赴き投票することができ、現に昭和28年の参議院議員の選挙の際には投票所へ行つて投票しているのであるから、本件公職選挙法一部改正法による在宅投票制度の廃止は、それが「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」に対する関係で違憲、違法なものか否かを問うまでもなく、被控訴人に対する関係で違憲、違法なものでなかつたことは明らかであり、従つてこれと反対の前提に立つ被控訴人の本訴請求は、爾余の判断をまつまでもなく失当である。
[17] 被控訴人は、本訴において、昭和43年7月7日以降昭和47年12月10日までの間に実施されたその主張の合計8回の選挙の際に選挙権を行使することができなかつたことによつて精神的苦痛を被つたとして慰藉料請求をしているのであるが、国会が昭和27年8月に、本件公職選挙法一部改正法によつて前記在宅投票制度を廃止して以降少くとも昭和47年12月10日までの間に「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」も投票ができるようにするための在宅投票制度(以下単に「在宅投票制度」というときは、専らかかるものとしての在宅投票制度をいうものとする。)を設ける立法をしなかつたこと(以下、これを「本件立法不作為」という。)は、公職選挙法の改正経過に照らし明らかである。

[18] ところで被控訴人の身体障害歴ないし病歴及び被控訴人が昭和28年に行われた参議院議員の選挙の際に、車椅子を使つて投票所に赴き投票したことは前述のとおりであるが、前示甲第10号証、成立に争いのない甲第14号証の各記載及び原審及び当審における被控訴人本人の供述によれば、被控訴人は、昭和30年頃からは、それまで徐々に進行していた下半身の硬直が悪化して歩行が著しく困難になつたのみならず、車椅子に乗ることも著しく困難になり、担架か何かを使用して運んでもらえば投票所へ行くことは全く不可能ではないが、長年寝たきりで外気にあたつていないため、少し風にあたるだけで風邪をひき、直射太陽光線に僅かにあたるだけでも顔面に湿疹ができ、顔の皮膚が傷んでしまい、投票所に行くことは命がけのこととなつたため、選挙に際し、投票したいと思つても、選挙の当日、投票所へ行つて投票することができなくなり、「疾病等のため投票所へ行くことができない在宅者」に該当するに至つたこと、それでその主張の8回の選挙でも投票することができなかつたこと、なお被控訴人は、昭和48年6月18日北海道知事から両下肢運動麻痺及び知覚鈍麻両股関節両膝関節及び両足関節硬直の障害により第1種身体障害者手帳の交付を受けたことがそれぞれ認められる。右認定に反する証拠はない。
[19] 因みに、昭和49年法律第72号公職選挙法の一部を改正する法律(同年6月3日公布、同年政令第393号により昭和50年1月20日施行)による公職選挙法の改正により、重度身体障害者(これは「疾病等のため投票所へ行くことができない在宅者」よりも範囲が狭い。)のために郵便による投票を認める一種の在宅投票制度が設けられたが、当審における被控訴人本人の供述によれば、被控訴人は、右法律による公職選挙法の改正により、重度身体障害者として郵便による投票ができることになり、その後に行われた選挙では、これによる投票をしていることが認められる。

[20]三 叙上認定の事実によれば、被控訴人が昭和30年以降「疾病等のため投票所へ行くことができない在宅者」として選挙の当日投票所に行つて投票することができず、その主張の各選挙でもその意思に反して投票することができなかつたのは、原則的な投票の方法として前記のような投票所投票自書主義を採る公職選挙法のもとにおいて、国会が前判示のとおり前記在宅投票制度を廃止し、その後在宅投票制度を設ける立法をしなかつたことに因るものであることは明らかであるが、右二前段で判示の事実関係によれば、本件立法不作為のうち昭和29年までのものは、既に判示のように、前記在宅投票制度の廃止が被控訴人に対する関係でなんら違憲、違法でないと同様に、被控訴人に対する関係ではなんら違憲、違法なものでないというべきであるから、本件立法不作為のうち、被控訴人に対する関係で、その違憲、違法が問題になる(その憲法適合性判断をなしうるか否かが問題になることをも含む)のは、昭和30年以降のもののみである。

[21] そこで先ず、憲法における選挙権の行使の保障と国会が投票の方法を立法するについての憲法上の制約について考察する。

[22](一) 憲法は、その前文1項において、主権が国民に存することを宣言し、国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使するものであることを明らかにしているのであるが、この基本原理を受けて、憲法は、国権の最高機関である国会は、全国民を代表する選挙された議員で組織する衆議院及び参議院で構成するものとし(41条、42条、43条1項)、公務員を選定することは、国民固有の権利であるとして、公務員の選挙については成年者による普通選挙を保障している(15条1項、3項)。また、地方公共団体の長、その議会の議員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものとしている(93条2項)。
[23] 右のように、憲法が保障する選挙権(以下単に「選挙権」という。)は、憲法の最も基本的な原理である国民主権に基礎を置くものであつて、憲法上国民の有する権利のうち最も基本的な権利である。それは国民主権の憲法のもとにおいては、背骨的な政治原理ともいうべき、いわゆる国民による政治(Government by the people)を保障するものである。即ちそれは、国民が主権者として国政に、又は地方住民として地方自治に参加する機会を保障するものであつて、その意味において議会制民主主義の根幹をなすものであり、又は地方自治の基礎をなすものである。選挙権の保障なくしては、主権在民は空文に帰してしまうし、議会制民主主義も地方自治も砂上の楼閣と化してしまうことは火を見るよりも明らかである。
[24] 而して投票は、選挙権の行使にほかならないから、選挙権の保障の中には、当然に投票の機会の保障を含むものというべきであり、投票の機会の保障なくして選挙権の保障などあり得ない。投票の機会の保障されない選挙権の保障があるとすれば、それは正に、被控訴人のいうとおり、絵に画いた餅というべきであろう。選挙権を有する国民は、直接にか間接にかは別として、その手が投票箱に届くことが憲法上保障されているものといわなければならない。固より、選挙は正当、公正に行われなければならないことは当然であつて、これは憲法の要請するところでもある(憲法前文1項冒頭参照)。また、選挙人が自由に候補者を選べるようにするため投票の秘密が保障されなければならず、これ亦憲法の保障するところである(15条4項)。しかしながら選挙が正当、公正に行われるべきことの要請とか選挙の自由のための投票の秘密の保障とかは、投票の機会が与えられることを前提とするものであつて、憲法における選挙権ないしその行使としての投票の機会の保障は、憲法における選挙が正当、公正に行われるべきことの要請ないしは選挙の自由のための投票の秘密の保障とは謂わば次元を異にした保障であつて、原則として、後者よりも優越した保障であり、従つて、後者の名においてそれが軽々に犯されるようなことがあつてはならない。

[25](二) 憲法が公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障している(15条3項)ことは前述のとおりであるが、他方、憲法は、すべての国民は、個人として尊重される(13条前段)としたうえ、国民は、法の下に平等であつて人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されないとし(14条1項)、特に両議院の議員及びその選挙人の資格については、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならないとしている(44条但し書)。これによれば、憲法上、選挙権は、成年に達した国民のすべてに平等に保障されているものと解される。而して選挙権の保障に投票の機会の保障が含まれることは(一)で説示のとおりであるから、憲法上、選挙権行使としての投票の機会は、成年に達した国民のすべてに平等に保障されているものといわなければならない。投票の機会の点で「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」が差別されなければならないいわれは全くない。右について敷衍すれば、次のとおりである。
[26] 平等は自由と並んで、近代国家における基本的且つ窮極的な価値ないし理念として、特に政治の分野において強く追求されてきたのであるが、歴史的に見ると、当初においては、国民が政治的価値において平等視されることがなく、基本的な政治的権利というべき選挙権についても、種々の制限や差別が存しており、それが多年にわたる民主政治の発展の過程において次第に撤廃され、今日における平等化の実現をみるに至つたのである。国民の選挙権に関する我が憲法の規定もまた、このような歴史的発展の成果のあらわれにほかならない。而して右の歴史的発展を通じて一貫して追求されてきたものは、右に述べたように、凡そ選挙という国民参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、各自の身体的、精神的又は社会的条件に基づく属性の相違はすべて捨象されるべきであるとする理念であつたが、選挙権についてのこのような平等原理の主張を徹底していけば、選挙権の平等は、単に選挙人資格に対する制限の撤廃ないしそれによる選挙権の拡大の要求に止まらず、選挙権の内容の等価値化の要求ないし選挙権行使の機会の平等な確保の要求に至らざるを得ないものであり、これが選挙権についての平等原理展開の歴史的すう勢の赴くところと認めざるを得ない。
[27] 他方、主権在民の基本原理に立ち、各個の国民が個人として尊重されることを理念としつつ議会制民主主義制度を採る憲法のもとにおいては、一定の年令に達した国民のすべてに対して平等に選挙権ないしその行使を保障することは、次に述べるとおり、右制度の論理必然の帰結でもある。
[28] 議会制民主主義は、全国民の意思を代表する議会が三権分立主義を基調とする国家統治機構の中で、他の機関の行為の準則を定める立法権を行使する政治体制を指称するが、議会は、多数決の原理によつて運営され、右原理に基いて決定された議会の意思が政治的には国民多数の意思であるとされ、法的には国家意思とされる。国民多数の意思としての議会の意思は、その時々の歴史的、社会的状況に応じて一定の選択を採る。しかし一つの選択への固執は許されない。一つの選択への固執は各個の国民が個人として尊重されるべきことと矛盾する。多数の名においてある一つの選択への固執がなされたとき、仮令それがいかなる目的、いかなる動機のもとになされるにせよ、民主主義は終焉する。民主主義が生きていると言い得るためには、異なつた選択への可能性が常に留保されていなければならない。今日の少数意見は明日の多数意見となる可能性を秘めるものであり、異つた選択の可能性を保障するものである。民主主義のもとで少数意見が尊重されなければならない根本理由はここに在る。少数意見の尊重されない民主主義は真の民主主義ではない。而して少数意見を尊重しながら多数決原理で運営される議会制民主主義を保持するためには、国会の構成員たる議員が選挙権を有するすべての国民から等しく選挙されたものであることが絶対不可欠の条件である。このことは、その名に値する民主主義ないし議会制民主主義を保持するためには、いくら強調しても強調しすぎにはならない。この条件を充たすには、或るいは手間のかかるまどろこしい、或るいは費用のかかる選挙制度が要求されることになるかも知れない。しかし、我々は少数意見を尊重する民主主義ないし議会制民主主義を守護しようとするならば、そのまどろこしさや費用のかかることをおそれて、それからの逃避を考えてはならない。
[29] 叙上のような選挙権の平等の原則の歴史的発展の経過ないしすう勢と憲法の採る議会制民主主義制度の論理的帰結の示すところによれば、憲法14条1項の定める法の下の平等は、選挙に関して言えば、国民は各自の身体的、肉体的、社会的条件に基づく属性の相違に拘らずすべて平等に選挙権が与えられ、且つ右相違に応じた取扱により平等にその行使の機会が与えられるべきであることを意味するものといわなければならず、憲法44条但し書も国会両議院の議員の選挙に限つてではあるが、少くとも右と同趣旨を含んでいるものと解することができる。
[30] 控訴人は、憲法14条1項は、すべて国民は法の下に平等であつて差別されないと規定しているのであるから、それは国民に対する法の適用における形式的な平等を意味するにすぎないものである旨主張する。しかしながら、そもそも法の下の平等の原則が、近代国家において神の前における人間の平等の如き宗教的原理や個人の価値を高く評価する近代人倫思想を母胎として歴史的に生成発展してきた普遍的な原理であることを考慮するならば、これを採り入れた憲法14条1項の定める法の下の平等の原則は、形式的な平等ではなく、実質的な平等を意味し、従つて国民各自における身体的、肉体的、社会的条件に基づく相違に対しては、当該相違に応じた合理的差別扱を許容するものであるのみならず、進んで当該相違に応じた合理的差別扱を命ずる原理でもあると解するのが相当であり、従つてそれは単に法の適用においてのみならず、法の定立の場においても働らくべき原理であると解するのが相当である。よつて控訴人の前記主張は、当裁判所の採らないところである。

[31](三) 憲法は、投票の方法につき、地方選挙については、特に定めるところはないが、国会議員の選挙については議員の定数、選挙区等と共に選挙に関する事項の一つとして、法律でこれを定めるものとしている(47条)。投票の方法を定めることは、事柄の性質上、必然的に投票の機会の保障と密接に関係する。それはまた必然的に、それによつて選挙が正当、公正に行われうるか否か、或いは投票の秘密は保障され得るか否かにも関係する。国会が選挙に関する事項の一つとして投票の方法をどのように定めるか、若しくは、或る一定の投票方法を採用するか否かについては広汎な裁量権を有するものであることは、憲法解釈上明らかであるが、しかしながら、それについては既に述べたように、憲法が一方において成年に達した国民すべてに選挙権ないしその行使を平等に保障していること、他方において憲法が当該投票の方法は選挙が正当、公正に行われるようなものであるべきことを要請し且つ選挙人が候補者を自由に選べるようにするため投票の秘密を保障していることの双方に由来するところの制約を免れないものである。而して前者の憲法上の保障は、後者の憲法上の要請ないし保障よりも原則として優越するものであること前述のとおりであるから、若し前者の憲法上の保障に由来する制約と後者の憲法上の要請ないし保障に由来する制約とが衝突するときは、原則として前者の憲法上の保障による制約を優先させるべきであつて、選挙が、正当、公正に行われ、選挙人による候補者の自由選択のための投票の秘密が犯されないようにするために(これを抽象化すれば、公共の福祉のために、ということになる)、合理的と認められる已むを得ない事由(以下、単に「合理的と認められる已むを得ない事由」というときは、専ら右のような見地よりするそれをいうものとする)のない限りは、選挙権ないしその行使の平等な保障は立法上貫徹されなければならず、国会はそのように立法すべきことを憲法によつて義務付けられているものというべきである。なお、叙上のとおりとすると、選挙権の平等な行使は、憲法によつて保障されているとはいつても、選挙の公正、自由のため合理的と認められる已むを得ない事由のあるときは、制約を免れないことになるから、それは憲法における選挙権そのものの保障とは、趣を異にするものであることは、これを認めざるを得ない。
[32] 以上のとおりであるから、国会の制定する投票の方法についての法律は、合理的と認められる已むを得ない事由のない限りは、すべての選挙人に対して投票の機会を確保するようなものでなければならず、若し投票の方法についての法律が、選挙権を有する国民の一部の者につき、合理的と認められる已むを得ない事由がないに拘らず投票の機会を確保し得ないようなものであるときは、国会は投票の方法についての法律を改正して当該選挙権を有する国民が投票の機会を確保されるようにすべき憲法上の立法義務を負うものといわなければならない。

[33] ところで、前段説示のとおりとしても、現に行われている投票の方法についての法律が選挙権を有する国民の一部の者につき、投票の機会を確保し得ないようなものであるに拘らず、国会が当該選挙権を有する国民に投票の機会を確保させるような立法をしないでいることの憲法適合性について、裁判所が、国会議員の右立法不作為を違憲、違法なりとする国家賠償請求事件において、これを判断することができるか否かが問題となる。
[34] この点に関し、控訴人は、国会は、全国民を直接代表する議員によつて構成された国権の最高機関であり、且つ唯一の立法機関であつて、立法するか否か、立法するとしてその範囲、内容、方法等をいかにするかを決定するにつき広範な裁量権を有するものであるから、その政策的、技術的考慮に基づく裁量は裁判所によつても最大限に尊重されるべきであり、従つて、裁判所が本件におけるように国会の特定の立法不作為までも違憲、違法としてこれに基づく損害賠償請求を認容するが如きことは、正に国会固有の立法についての裁量にまで立入つてその権限を犯すことになるものであり、憲法のいわゆる三権分立の原則に反するものであつて許されない旨主張する。よつて案ずるに、
[35] 憲法は、国民主権の原理のもとに、国民の信託にかかる国権の三権のうち、立法権を国会に(41条)、行政権を内閣に(65条)、司法権を裁判所に(76条1項)それぞれ独立に分属せしめ、互に他を抑制し、均衡を保つように仕組んでいわゆる三権分立制を採つているのであるから立法は国会の権限に属するこというまでもなく、一般的に言つて国会が或る立法をするか否か、また立法をするとして何時如何なる内容の立法をするかは、その裁量によるものであり、国会は広範な政治的、社会的情勢をふまえて、政治的、政策的或いは技術的な見地からこれを決するものである。而して投票の方法についての立法について言えば、前述のとおり憲法は、地方選挙については、特に定めておらず、国会の両議院の選挙については議員の定数、選挙区等と共に法律でこれを定めるべきものとしている(47条)のであるが、投票の方法をどのように決めるか、或る一定の投票方法を採用するかどうかは、原則としては、一般の場合と同様、国会の裁量に委ねている。従つて、国会が或る一定の投票方法を定めた立法をしたこと若しくはそれをしないことによつて、選挙権を有する国民の選挙権行使に、何程かの不都合が生じるとしても、国民が裁判所に対して、国の法的責任を追求して救済を求めることは、通常の場合できるものではないし、また裁判所としても憲法の採る前述の三権分立の原則上、立法府が或る一定の立法をするか否かの裁量的判断にみだりに介入すべきものではないことはいうまでもない。のみならず、裁判所は、憲法79条2項による最高裁判所裁判官に対する国民審査の制度は別として、国民に対して直接には責任を負うことのない国家機関であり、而も広範な政治的、社会的諸情勢をふまえたうえ、如何なる立法をなすべきかなすべからざるかを判断して立法活動をしている立法府の立法判断の当否を常に的確に判断することができるような組織、機構をもたないから、立法府の右のような立法活動に対して司法審査をすることは、一般的に言つて、適当でもないのである。
[36] しかしながら、憲法上、国政は、国民の厳粛な信託に基づき、国民の代表者が行うものであり(前文1項)、国民の基本的人権は、公共の福祉に反しない限り立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするものであり(13条)、国会議員は憲法尊重擁護の義務を負つている(99条)のであつて、これに憲法が国の最高法規である(98条)ことを合せ考えると、国会の立法ないし国会議員の国会に対する法律の発案権、議決権は、全くの無制約な自由裁量に委ねられたものと解することはできず、あくまで憲法を頂点とする現行法秩序の許容する範囲内においてのみ自由裁量たりうるものといわなければならない。憲法81条が裁判所にいわゆる違憲立法審査権を与えているのも、右のような理解を前提とするものであることはいうまでもない。従つて、国会が或る一定の立法をなすべきことが憲法上明文をもつて規定されているか若しくはそれが憲法解釈上明白な場合には、国会は憲法によつて義務付けられた立法をしなければならないものというべきであり、若し国会が憲法によつて義務付けられた立法をしないときは、その不作為は違憲であり、違法であるといわなければならない。
[37] しかし、国会が憲法によつて義務付けられた立法を唯単にしないというだけでは、裁判所は国会の当該立法不作為の合憲性判断をすべきではない。蓋し、国会が憲法によつて義務付けられた立法を単にしないというだけで裁判所が国会の当該立法不作為の合憲性判断をするのは、なお憲法の採る三権分立の原則に反するものと考えられるし、仮りに然らずとしても、それは国権の最高機関にして国の唯一の立法機関である国会に対する礼譲に悖るものというべきだからである。国会が憲法によつて義務付けられた立法をしない場合、それによつて損害を被る者は、国会に右立法をなすべく請願することができ(16条)、かかる請願を受けたのを契機として、国会が憲法によつて義務付けられた立法をすることを期待することができなくはないから、かかる請願もなされていないような段階で、右損害を被る者に、裁判所が救済の手を貸すのは時期尚早ということもできる。
[38] 問題は、国会が憲法によつて義務付けられた立法をするのを故意に放置する場合であるが、国会が憲法によつて義務付けられた立法をしないことにしたとき若しくは憲法によつて義務付けられた立法を少くとも当分の間はしないことにし且つその後合理的と認められる相当の期間内に当該立法をしなかつたときは、国会は憲法によつて義務付けられた立法を故意に放置するに至つたものということができる。当該立法をしないことが憲法に違反するものであることを国会議員が認識していたことは必要ではない。国会が憲法によつて義務付けられた立法を少くとも当分の間はしないことにした場合について言えば、それは、衆、参両議院でそれぞれそのように決定されなければならないことはいうまでもないが、しかし当該立法のための法律案が否決されるという形をとることは必ずしも必要ではなく、また、それが衆、参両議院の会議即ちいわゆる本会議(以下「本会議」という。)で決定されるということも必ずしも必要ではない。蓋し国会法56条3項本文、80条2項本文によれば、各議院の委員会がその付託された案件につき、当該議院の本会議に付するを要しないと決定したときは、当該案件を本会議に付さないこととされているが、これによれば、各議院の委員会がその付託された案件についてなした、当該案件を本会議に付さない旨の決定や本会議に付するのを留保する旨の決定は、国会法上、当該各議院の意思決定と解することができるからである。従つて例えば、衆、参両議院に対して一定の立法をなすべきことを求める請願がなされ(憲法16条、国会法79条)、右請願にかかる立法をなすことが憲法によつて義務付けられている場合に、各議院の然るべき委員会が右請願について審査をし(国会法80条1項)、本会議に付するのを留保すると決定したとすれば、これにより当該議院がそれぞれ右請願にかかる立法を少くとも当分の間はしないことに決定したことになり、衆、参両議院がそれぞれ右のように決定したことになる以上、結局、国会が右のように決定したことになるといわざるを得ないから、その後合理的と認められる相当の期間内に国会が当該立法をしないときは、国会は憲法によつて義務付けられた立法をすることを故意に放置するに至るものということができる。
[39] ところで、国会が憲法によつて義務付けられた立法をしないで故意に放置するときは、その不作為が違憲、違法であることはいうまでもないが、この場合の立法不作為は、それによつて立法府が既に特定の消極的な立法判断を表明しているものということができるから、裁判所が、国家賠償請求事件の審判に当たり、当該立法不作為につき、それが憲法に適合するか否かを判断したとしても、それは、立法府の特定の消極的な立法判断に対して爾後的な審査をしたという性格をもつものであつて、裁判所が立法府に対して当該不作為にかかる立法をなすべきことを指示するものではないから、裁判所が憲法81条によつて既に制定された法律の憲法適合性を判断することと本質的に径庭のあるものではない。また、右のような場合裁判所が具体的事件において、国会の立法不作為の憲法適合性について判断し、何が正しい憲法秩序であるかを判示すると共に、かかる立法不作為によつて損害を被つた者に対する国の賠償責任の有無の審判をしてやることは、憲法17条の趣旨によく適うものと考えられる。更にまた裁判所が右のような特殊な場合の立法不作為につき、その憲法適合性を判断することは、司法府としてのその職能に親しむものであつて、その任に堪えることができるものである。以上のとおりとすると、裁判所は、国会によつて故意に放置された立法不作為については、恰も憲法81条によつて既に制定された法律の憲法適合性を判断しうると同様に、その憲法適合性を判断しうるものと解するのが相当であり、このように解したとしても、なんら憲法の採る三権分立の原則に違反するものではないというべきである。
[40] ところで成年者たる国民に選挙権を保障した憲法の前示諸規定は、単なる宣言的綱領規定でもなければ単に立法指針を示しただけの規定でもない。憲法の保障した選挙権は、これを有する各個の国民の具体的な権利であり、国法上の最も基本的な権利であることは明白である。而して憲法による選挙権の保障にはその行使の保障即ち投票の機会の保障が含まれるものであること、国会が投票の方法を定める法律を制定するに当つては、合理的と認められる已むを得ない事由のない限りは、選挙権を有するすべての国民に対して等しく投票の機会を与えるように立法すべきことが憲法上義務付けられているものと解すべきことは前判示のとおりであり、憲法における選挙権保障の具体性、明白性及びその圧倒的な重要性に鑑みるならば、右のような憲法解釈は明白であるといわなければならない。
[41] 叙上説示したとおりとすると、現に行われている投票の方法についての法律が選挙権を有する国民の一部の者につき投票の機会を確保し得ないようなものであるに拘らず、国会がこれを故意に放置し、当該選挙権を有する国民に投票の機会を確保するような立法をしないでいる場合は、裁判所が具体的事件において、右立法不作為の憲法適合性を判断しうる場合に当たるものといわなければならない。
[42] 更に、前段の結論の正当性は、次のような理由によつてもこれを裏付けることができる。即ち国会の営む立法過程に積極又は消極の過誤が存する場合、国民は、通常は、選挙によつて国会議員を選び直すことによつて、その過誤の是正として、不適当な法律の改正、廃止又は適当な法律の制定を期待することが可能である。この意味において議会制民主主義は、通常は、謂わば自己復原力ともいうべき機能を備えている。しかしこれは、選挙権を有する国民のすべてが等しく選挙権を行使しうる限りにおいて具有する機能である。若し選挙権を有する国民のうちの一部の者に投票の機会を確保し得ないような選挙制度が採られたままになつているとすれば、当該国民の一部の者は、選挙に訴えてその是正ないしその権利、利益のための立法を期待する道は閉ざされているし、議会制民主主義の政治過程における前記の自己復原力も当然のことながらその作用不完全なものとならざるを得ない。蓋しそのような場合は、選挙によつていくら国会議員を選び直してみても、投票の機会が確保されていない少数者国民の権利、利益を侵す結果を招いている立法過程の是正を国会に期待することは全く不可能ではないにしても、それには自ら限度があるといわざるを得ないからである。言うまでもなく裁判所は、憲法の保障する基本的人権を擁護することをその重大な使命の一つとしている国家機関であるが、憲法が裁判所に期待しているかかる役割に鑑みるならば、右のような場合に、裁判所が具体的事件において、国会が選挙権を有する国民のうちの一部の者につき、投票の機会が確保されていない選挙制度をそのままにして故意に放置し、当該国民の一部の者が選挙権を行使できるような立法をしないでいることの憲法適合性を審査することは、寧ろ憲法の要請するところと解することができる。若しかかる場合にまで、裁判所が国会の立法不作為についての憲法適合性審査を差し控えるときは、却つて、憲法の基本原理たる民主政の基礎を損う虞れがあるのみならず、憲法が国民に保障した基本的人権としての参政権をも危うくすることにもなるのであつて、憲法秩序を実質的に維持する見地からみて相当でないといわなければならない。

[43] ところで国会が昭和27年8月に本件公職選挙法一部改正法によつて在宅投票制度を廃止して以降、昭和42年に、すぐ後に述べるような請願が衆、参両議院に対してなされたときまでの間に、衆、参両議院に対して「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度復活のための請願がなされた形跡や国会において在宅投票制度復活の可否の問題について質疑や討論がなされた形跡は証拠上全くない。
[44] ところが原本の存在及び成立について争いのない甲第2、第3号証の各記載及び原審及び当審における被控訴人本人の各供述並びに弁論の全趣旨を総合すると、昭和41年以降、身体障害者の団体を含む約百の団体が中心となつて在宅投票制度の復活を求める署名運動を起こし、新聞、ラジオ、テレビ等を通じて在宅投票制度復活のキヤンペンを行い、昭和42年に右署名運動に参加した全国多数の身体障害者から衆議院と参議院とに対して、重度身体障害者、自宅療養者、老人、妊産婦、49床以下の小病院(これは公職選挙法施行令55条2項2号にいう都道府県選挙管理委員会の指定を受けられない小病院を指すが、右指定基準については選挙法規上規定を欠き、当時は自治省の行政指導により、都道府県選挙管理委員会は50床以上を有する病院を、同令同条同項によつて指定していた。)の入院患者(これは、老人を除けば、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」とほぼその範囲を同じくする。老人について言えば、昭和38年法律第133号老人福祉法附則12条によつて改正された公職選挙法49条は、老衰のため歩行が著しく困難であつて、選挙の当日投票所に行つて投票することができない旨を証明する選挙人も、疾病、負傷、妊娠等のために選挙の当日投票所に行つて投票することができない旨を証明する選挙人と同様に、不在者投票管理者の指定する投票を記載する場所で投票をすることができるように改正されたが、老衰のため歩行が著しく困難であつて、選挙の当日、その意に反して、投票所に行つて投票することができない者であつて、且つ不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所において投票することができない選挙人は、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」と全く同様に取扱われるべきものである。)のため、在宅投票をすみやかに復活してもらいたいという趣旨の請願がなされたこと、それで参議院では第57国会開会中の昭和42年12月22日に公職選挙法改正に関する特別委員会において同院に対してなされた岡山県の有安茂外1万5777名、岐阜県の安藤静雄外5780名、大阪府の藤森幸男外4800名、岡山県の有安茂外11万5000名よりの計4件の前記趣旨の請願について討論して審査のうえ、右請願を本会議に付するのを留保することに決定したことが認められ、右認定の事実に成立に争いのない甲第11号証の記載及び前示被控訴人本人の供述を総合すると、衆議院に対してなされた前記請願についても、右と同じ頃、同院の公職選挙法改正に関する調査特別委員会がこれを審査し、本会議に付するのを留保することに決定したものと推認される(第57回国会衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会議録第3号昭和42年12月20日の部参照)。
[45] 前段認定のとおり、衆、参両議院の前記各委員会が、それぞれ前記各請願について審査のうえこれを本会議に付するのを留保することに決定したとすると、五で説示したところにより、衆、参両議院は、それぞれ前記請願にかかる立法を少くとも当分の間はしないことに決定したものというべく、衆、参両議院がそれぞれ右のように決定した以上、結局国会が右のように決定したものといわざるを得ない。
[46] 他方、若し国会が前記請願を受けたのを契機として「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度を設ける立法をしようとしたとすれば、昭和27年8月に前記在宅投票制度を廃止するに至つた後述のような経緯、前記在宅投票制度の廃止を伴つた本件公職選挙法一部改正法の成立に至るまでの後述のような国会審議の経過等に鑑み、在宅投票制度の技術的な問題点は国会に判明していたものと考えられるから、その準備ないし審議等のために必要とする期間としては1年もあれば十分であつたと推認される。
[47] 以上のとおりであるから、本件立法不作為のうち、昭和42年末頃までのものについては、国会が唯単に在宅投票制度を設ける立法をしなかつたというだけであつて、これを、故意に放置したものとは認め得ない。また、その後、衆、参両議院が前判示の請願を受けたのを契機として国会が在宅投票制度を設けるための立法をすることにしたとして、そのために必要とする1年の期間即ち合理的と認められる相当の期間が経過する前である昭和43年末頃までのものについても、右同様である。しかし、本件立法不作為のうち、少くとも昭和44年以降のもの即ち国会が昭和44年以降昭和47年12月10日までの間において、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度を設ける立法をしなかつたことについては、国会はこれを故意に放置したものといわざるを得ない。
[48] 右のとおりとすると、五で説示したところに従い、国会の本件立法不作為のうち、当裁判所がその憲法適合性を判断しうるのは、昭和44年以降のもの(以下、これを「昭和44年以降の本件立法不作為」ということがある)に限られるのであつて、それ以前のものについては、その憲法適合性判断はなし得ないものである。

[49] 右のとおりであるから、国会議員が在宅投票制度を設ける立法をしないことを理由とする被控訴人の本訴請求中、被控訴人が昭和43年7月7日の衆議院議員選挙において自己の意思に反して投票することができなかつたことを理由とするものは、被控訴人が投票することのできなかつた原因である、本件立法不作為中の昭和43年以前のものについて、これを違憲、違法とする余地がないので、爾余の判断をなすまでもなく、失当といわなければならない。

[50] 進んで、昭和44年以降在宅投票制度を設ける立法をしなかつたことが違憲、違法なものであつたか否かについて判断する。

[51](一) 公職選挙法は、投票の方法についての原則的な方法として、選挙人は、選挙の当日、自ら投票所に行き、投票所において、投票用紙に自ら当該選挙の公職の候補者1人の氏名を記載して、これを投票箱に入れ、投票しなければならないものとするいわゆる投票所投票自書主義を採用していることは前述のとおりであるが、この方法は、選挙の公正と自由を確保しつつ、選挙人に対し平等に投票の機会を与えるための投票方法として、汎く是認されるところの原則的な方法であつて、その一般的な合理性に疑を差しはさむ余地は全くない。
[52] そこで、叙上説示して来たところに従つて昭和44年以降の本件立法不作為が憲法に違反するものであるか否かを判断する方法として、国会が、原則的な投票の方法として右のような投票所投票自書主義を採用している公職選挙法のもとにおいて、昭和44年以降昭和47年12月10日までの間に、例外的な投票の方法としてのいわゆる不在者投票制度の一環としての「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度を立法しないでこれを故意に放置したことについて、合理的と認められる已むを得ない事由があつたか否かを検討する。
[53] 先ず、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」であつても、選挙の当日又はその直前に急病、負傷等のため歩行が不能又は著しく困難になつて投票所に行つて投票することができなくなつた者については、かかる者にまで投票の機会を確保してやることは選挙の管理執行上殆んど不可能というべきであるから、かかる者が選挙の機会を与えられなくなつたとしても、それには合理的と認められる已むを得ない事由があること明らかである。問題は、被控訴人のように、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」であつて、選挙の当日に投票所に行つて投票することのできないことが、予め判明している者についてである(以下において「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」というときは、専らかかる者をいうものとする。)。
[54] 国会が昭和44年以降昭和47年12月10日までの間に在宅投票制度を設ける立法をしなかつたことにつき、合理的と認められる已むを得ない事由があつたか否かは、本件公職選挙法一部改正法によつて前記の在宅投票制度を廃止したことにつき、合理的と認められる已むを得ない事由があつたか否かと密接な関係がある。よつて先ず、本件公職選挙法一部改正法によつて前記在宅投票制度を廃止したことについて合理的と認められる已むを得ない事由があつたか否かから検討してみることにする。
[55](1) 先ず、我が国におけるいわゆる在宅投票制度の沿革を見てみる。
[56] 憲法公布以前における地方公共団体議会議員及び地方公共団体の長の任命、選挙についての規定は多種多様であつたが、昭和22年4月16日、昭和22年法律第67号として制定され、翌同月17日公布された地方自治法によつて、普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とすることが定められ(同法1条)、普通公共団体の議会の議員及び長は、選挙人が投票によりこれを選挙するものと定められる(同法17条)と共に、同法34条において、選挙人で疾病その他政令の定める事由により選挙の当日自ら投票所に行き投票することができない者については、命令で特定の規定を設けることができるとされ、昭和22年政令第16号による地方自治法施行令35条ないし40条において、疾病、負傷、妊娠、若しくは不具のため又は産褥にあるため歩行が著しく困難であつて、選挙の当日自ら投票所へ行つて投票することができない選挙人については、選挙の期日の前日までに、自ら当該市町村の選挙管理委員会の委員長に対し、郵便をもつて投票用紙及び投票用封筒の交付を申請し、その交付を受けた後、その現存する場所において投票の記載をなし、選挙の期日までに、その属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対し郵便をもつて送付して投票することが認められることになつた。これが我が国におけるいわゆる在宅投票制度の嚆矢である。
[57] 衆議院議員選挙法は、明治22年2月11日明治22年法律第3号として、大日本帝国憲法と同日附をもつて制定公布されたのであるが、その後同33年法律第73号、大正8年法律第60号、同14年法律第47号、昭和20年法律第42号、同22年法律第43号によつて、改正が加えられ、昭和23年法律第195号による改正法律(同年7月29日公布、次の総選挙から施行)27条ノ2において、選挙人にして疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため又は産褥にあるため歩行著しく困難であつて、選挙の当日自ら投票所へ行つて投票することができない者については特別の定めができるものとされ、昭和23年政令第190号による衆議院議員選挙法施行令の一部を改正する政令(同年7月29日公布、次の総選挙から施行)26条ないし30条において、法33条の定める事由により選挙の当日自ら投票所へ行つて投票することができない選挙人については、選挙の期日の前日までに自らその属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対し、郵便をもつて投票用紙及び投票用封筒の交付を申請してその交付を受けた後、その現存する場所において投票の記載をなし、選挙の期日までにその属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対し郵便をもつて送付して投票することが認められることになつた。
[58] 参議院は、現行憲法の制定に伴い、大日本帝国憲法34条の規定に基づいて設けられていた貴族院に代つて設けられたものであつて、その議員は衆議院議員と同様に、国民による選挙によつて選出されるべきことが憲法43条1項に明記された。そこで、これらの規定に基づいて、参議院議員選挙法は、昭和22年2月22日昭和22年法律第11号として制定公布されたのであるが、同法28条には、投票については、別段に規定するものの外、衆議院議員の選挙の投票の例によるものと規定され、昭和22年2月22日、勅令第58号として制定され、同月24日公布された参議院議員選挙法施行令10条には、投票については、別段に規定するものの外、衆議院議員の選挙の投票の例によるものと規定されたため、昭和23年法律第195号による衆議院議員選挙法の一部を改正する法律及び同年政令第190号同法施行令の一部を改正する政令の公布、施行により、参議院議員の選挙についても、衆議院議員の選挙と同様、いわゆる在宅投票制度が認められることになつた。
[60] 戦後における選挙制度の改正整備は、右のように、昭和22年に地方自治法、同施行令、衆議院議員選挙法、同施行令、参議員議員選挙法、同施行令が制定ないし改正されたことによつて一応完成したのであるが、その当時から昭和25年4月30日まで有効であつた選挙関係の法令は、そのほか選挙運動等の臨時特例に関する法律(昭和23年法律第196号)、同施行令(昭和23年政令192号)、衆議院議員選挙人名簿等の臨時特例に関する法律(昭和21年法律第30号)、選挙運動の文書図画等の特例に関する法律(昭和22年法律第16号)などの諸法令があつて、複雑多岐に亘り、而も準用規定もすこぶる多く混乱をきわめていたので、国会議員、普通地方公共団体の議会の議員及び長等の選挙に関する法規を単一に統合すべきであるという気運が次第に高まつた結果、昭和25年4月15日昭和25年法律第100号をもつて、衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の議会の議員及び長並びに教育委員会の委員(地方公共団体の議会において選挙する委員を除く。)の選挙に適用される公職選挙法が制定され、同年5月1日から施行されることになつた(但し、昭和31年法律第163号による地方教育行政の組織及び運営に関する法律の施行に伴う関係法律の整理に関する法律7条、附則1によつて昭和31年6月30日から右公職選挙法の規定が教育委員会の委員の選挙に適用されないようになつた。)。これとともに、昭和25年4月15日公職選挙法の施行及びこれに伴う関係法令の整理等に関する法律が制定され、それが同年5月1日に施行されたことによつて、従来存していた前記衆議院議員選挙法、参議院議員選挙法等の各種の選挙関係法規が廃止され(同法1条)また、地方自治法第4章選挙中第1節から第9節(17条ないし73条)までが削除された(同法3条)。
[61](2) ところで、成立に争いない乙第48号証の1、2の各記載、原審証人千葉武及び当審証人三浦義男の各証言を総合すると、戦後、昭和22年4月25日施行の第1回衆議院議員選挙に次いで昭和24年1月23日に実施された第2回衆議院議員の選挙は、いわゆる在宅投票については衆議院議員選挙法によつて認められた前述の在宅投票制度(以下、「旧在宅投票制度」ということがある。)の下に行われた選挙であつたが、右選挙において、選挙争訟として発生した件数は、全国で選挙無効事件が8件、当選無効事件8件の合計16件で、その内いわゆる不在者投票の不適正を理由とするものは僅かに1件(但し、これが在宅投票に関するものであるかどうか不明)にすぎなかつたこと、昭和22年4月20日施行の第1回参議院議員選挙に次いで、昭和25年6月4日に実施された第2回参議院議員の選挙は、いわゆる在宅投票については公職選挙法において認められた前述の在宅投票制度(以下、「新在宅投票制度」ということがある。)の下に行われた選挙であつたが、右選挙において、選挙争訟として発生した件数は全国で僅かに1件(但し、その内容は不明)であり、右2回の選挙においていわゆる在宅投票制度が悪用されたということが国会や政府においては勿論、世間においても問題とされたことがなかつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
[62] なお、成立に争いない乙第9号証の1、2の各記載によれば、公職選挙法施行後昭和26年4月のいわゆる統一地方選挙の施行までの間に教育委員会委員の選挙が1回実施されたことが認められるが、右選挙においても、いわゆる新在宅投票制度が悪用されたと認められる証拠はない。
[63](3) しかしながら、いわゆる在宅投票について、公職選挙法による新在宅投票制度の下に行われた昭和26年4月23日(市区町村選挙)、同月30日(都道府県選挙)実施のいわゆる統一地方選挙において新在宅投票制度が悪用され、その違反による選挙ないし当選無効の事件が続出したことは当事者間に争いがない。
[64]i 先ず、右統一地方選挙における新在宅投票制度の利用状況を見るに、前示乙第9号証の1、2、成立に争いない乙第9号証の3の各記載によれば、在宅投票によつて投票した選挙人の選挙別の投票数、不在者投票総数に対するその割合、在宅投票における本人記載と代理記載の投票数は、次のとおりであつたことが認められる。
[65](i) 知事選挙においては、在宅投票によつて投票した投票数は47万7457票で不在者投票総数に対するその割合は51パーセントであり、その内本人記載が39万5263票、代理記載が8万2194票である。
[66](ii) 都道府県議会議員選挙においては、在宅投票によつて投票した投票数は65万401票で不在者総数に対するその割合は51.2パーセントであり、その内本人記載が54万5758票、代理記載が10万4643票である。
[67](iii) 市区町村長選挙においては、在宅投票によつて投票した投票数は35万1630票で不在者投票総数に対するその割合は57.1パーセントであり、その内本人記載が35万1630票、代理記載が6万6940票である。
[68](iv) 市区町村議会議員選挙においては、在宅投票によつて投票した投票数は72万584票で不在者投票総数に対するその割合は55.3パーセントであり、その内本人記載が60万1763票、代理記載が11万8821票である。
[69]ii 次に前示乙第9号証の1、2の各記載によれば、右選挙において幾多の選挙犯罪が発生し、選挙期日後1か月間における検挙件数3万1528件、検挙人員6万3116名にも及んだが、その主なる罪種別内訳は、買収2万2588件(5万775人)、戸別訪問2184件(2879人)、詐偽登録及び不正投票等2045件(2293人)、文書図画に関する制限違反1479件(1904人)、選挙の自由妨害604件(889人)、運動期間の違反410件(631人)、飲食物提供禁止違反392件(702人)、利害誘導336件(721人)、投票の秘密侵害75件(81人)であることが認められる。
[70]iii 前示乙9号証の1、2の各記載によれば、右選挙に関して提起された選挙争訟総数は、全国で1124件で、そのうち不在者投票手続の違法を争うものが241件(23.5パーセント)、代理投票手続の違法を争うものが106件(10.4パーセント)であつたことが認められる。
[71]iv 成立に争いない乙第13号証の1、2、同第14号証、同第15号証の1、2、同第16号証、同第17号証の1、2、同第18号証の1ないし4、同第19号証の1ないし3、同第20号証の1ないし6、同第21号証の1、2、同第22号証の1、2、同第23号証、同第24号証の各記載によれば、右選挙で生じた選挙争訟における選挙管理委員会の異議決定や裁決に見られる、新在宅投票制度悪用の事例は、次のとおりであつたことが認められる。
[72](i) 昭和26年9月4日の長野県選挙管理委員会裁決は、飯田市議会議員選挙における不在者投票数1204票のうち、在宅投票861票、このうち、在宅投票の規定に違反した投票は、316票と認定し、いわゆる潜在無効投票の処理につき、各選挙人の得票数からかかる無効投票を控除した場合、最高位落選者即ち次点者と同数又はそれ以下となる者は当選を失うとされていた当時の選挙法の解釈に従い(なお、本件公職選挙法一部改正法によつて新設された公職選挙法209条の2によつて、潜在無効投票があるときは、開票区ごとに各候補者の得票数に応じて按分して得た数をそれぞれ差し引いて、当該選挙における各候補者の有効投票を計算する旨定められた。)、当選者全員の当選を無効としたが、違反内容として、選挙人が現在する場所で記載したと称して、市の嘱託員、選挙運動員と推定される者、或いは同居でない親族、知己等が、選挙人の疾病(白痴その他の精神異常者で、意思能力のない者を含む。)、産褥、文盲、盲人、老衰或いは旅行中等の諸理由で、投票ができない事情にあることを知悉して、これを勝手に利用したこと、その方法は、予め市選挙管理委員会から配付された投票所入場券を、当該選挙人若しくはその家族から入手し又は医師、助産婦と共謀し或いはこれらを偽つて、その証明書の発行を得、同居の親族を装つて投票用紙を請求し、一切の交付を受けてから、その者が自由勝手に記載したり、或いは、本人やその家族を訪問、誘導して記載させたり、又は他人に記載させこれを受取り、その者や他人の手によつて、選挙管理委員長に提出するなどしたこと、また、代理記載することができない者であるにかかわらず、これを記載し且つ、その記載に当つてはその大部分が選挙人の現在する場所以外において行なわれ、更に甚だしいのは旅行中の者を疾病者にしたり、18歳の未成年者を選挙人と偽り、これを疾病者として代理記載をしたことなどを挙げている。
[73](ii) 同年10月30日の埼玉県選挙管理委員会裁決は、大里郡花園村長、同村議会選挙における不在者投票数446票のうち、在宅投票396票につき、
「その請求及び申立に当つては文書をもつて郵便又は同居の親族によりこれをすることになつているが、文書をもつてこれが行われているのは1名もなく、従つてこの一事をもつてしても右396票はその請求の手続に違法があり無効」
と認め、当選者全員の当選を無効としたが、なお、右に加え、違法事由として、請求の手続に違法のあるもの110票、送致の手続に違法のあるもの56票、投票の記載の手続に違法のあるもの232票、不在者投票の事由に該当しないと認められるもの96票、医師等の証明書に瑕疵があると認められるもの131票を挙げている。
[74](iii) 同日ごろの栃木県選挙管理委員会裁決は、藤岡町長、同町議会議員選挙における在宅投票の規定に違反する投票は、183票と認め、選挙無効とし、違反内容として、投票日の当日に投票所に行つて投票することができない事情のある選挙人につき、同人の投票所入場券を当該選挙人若しくはその家族から入手した選挙運動員が医師と共謀したり、或いはその事由を偽つて証明書の発行を受け、甚だしい場合は町選挙管理委員会において便宜印刷して配布した証明書用紙に勝手に病名を記入し、医師は単に捺印したにすぎないものや、すでに証明されたものに勝手に選挙人の氏名や病名等を書き加えたものを町選挙管理委員会に提出し、投票用紙及び不在者投票用封筒の交付を受け、不在者投票を行なつたが、この大部分は各候補者の選挙事務所等において投票の記載が行なわれたことを挙げている。
[75](iv) 同年11月1日、香川県選挙管理委員会は、高松市議会議員選挙につき、選挙無効の裁決をなしたが、その理由として、在宅投票の処理にあたつた選挙管理委員会の担当者が不在者投票事務に慣れない全くの未経験者であつたため、その処理にあたり、(イ)在宅投票に関し不在者投票用封筒及び投票用紙を同居の親族でない者に交付したもの約43件、(ロ)在宅投票に関し同居の親族でない者より提出された不在者投票封筒を受理したもの約50件、(ハ)公職選挙法所定の指定病院でない病院を指定病院と誤認して患者の不在者投票に関し一括交付または受理をしたもの約11件等の過失をおかして約65票の無効投票を生ぜしめたこと、不在者投票のすりかえ、不在者投票送致手続を怠慢したためこれを焼却したことなどの不正行為があつたことなどを挙げている。
[76](v) 昭和27年2月13日の広島県選挙管理委員会裁決は、広島市議会議員選挙における有効投票総数13万8738票のうち、在宅投票の規定に違反した投票は、632票あると認定し、当選者全員の当選を無効としたが、違法事由として、(イ)選挙人と全然意志の連絡がなく選挙人の知らない間に投票が行なわれたもの49票、(ロ)選挙人の同居の親族もしくは選挙運動員と認められるものまたはその他の者が、選挙人から一応投票の手続の依頼をうけたのではあるけれども、投票用紙等の請求より投票の提出までの一連の投票行為を選挙人の不知の間に行なつたもの168票、(ハ)投票用紙等の請求を、選挙人の同居の親族でない者が行なつたもの20票、(ニ)投票用紙等の請求及び投票の提出を、選挙人の同居の親族でないものが行ない、且つ文盲の選挙人が身体の故障はないにもかかわらず他人が投票の記載をしたもの45票、(ホ)投票用紙等の請求及び投票の提出を選挙人の同居の親族でないものが行なつたもの209票、(ヘ)投票用紙等の請求を選挙人の同居の親族でないものが行ない、且つ文盲の選挙人が身体の故障はないにもかかわらず他人が投票の記載をしたもの7票、(ト)文盲又は盲目の選挙人が身体の故障はないにもかかわらず他人が投票の記載をしたもの81票、(チ)投票用紙等の請求及び投票の提出を、選挙人の同居の親族でないものが行ない、且つ選挙人の現在しない場所において他人が投票の記載をしたもの8票、(リ)文盲の選挙人が身体の故障はないにもかかわらず他人が投票の記載をし、且つ選挙人の同居の親族でないものが投票の提出をしたもの1票、(ヌ)投票の提出を選挙人の同居の親族でないものが行なつたもの16票、(ル)選挙人の現在しない場所で他人が投票を記載したもの22票、(オ)同一選挙人の投票が二重に行なわれたもの3票、(ワ)法49条第3号に掲げる事由に該当しないのに令58条第1項の規定によつて投票したもの3票などを挙げている。
[77](vi) その他、横須賀市議会議員選挙、鹿児島県、新潟県、岐阜県、愛知県及び山形県下の各地方選挙、山口県熊毛郡勝間村議会議員選挙においても、同様の事例があつた。
[78] 以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
[79] 右認定の事実及び成立に争いのない乙第4号証の1、2、同第5号証の1ないし3、第6ないし第8号証の各記載及び原審証人千葉武、当審証人三浦義男の各証言を総合すると、昭和26年4月に実施されたいわゆる統一地方選挙においては、新在宅投票制度がひどく悪用され、選挙違反ないし違反による当選或いは選挙無効の争訟も多発したものということができ、それを、積極的に悪用したのは、主として市の嘱託員、選挙運動員、選挙人と同居でない親族、知己、或いはこれらと共謀して証明書を発行した医師、助産婦であつたが、選挙人であつて「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」の中にも、自らが選挙管理委員会から配布を受けた投票所入場券を選挙運動員等に交付して不正の投票をさせたり、或いは、自宅に訪問して来た運動員等の誘導にたやすく乗つて投票を記載したり、或いはその現在する場所でない候補者の選挙事務所等で他人に投票の記載をさせたりするなどして不在者投票制度を悪用し、或いはその悪用に加担した者も少くなかつたものと認めることができる。
[80](4) そこで、昭和26年4月に実施された統一地方選挙において、新在宅投票制度が右のように悪用され或いは不正が多く続発した原因が奈辺にあつたかについて検討してみる。
[81]i 先ず、本件公職選挙法一部改正法による改正前の公職選挙法のもとにおける在宅投票制度即ち新在宅投票制度の制度的な欠陥によるものがあつたか否かについて見てみる。
[82](i) 本件公職選挙法施行令一部改正令による改正前の公職選挙法施行令58条によれば、在宅投票をなしうる者に該当する事由を証明して投票用紙及び投票用封筒の交付を受けた選挙人は、その現在する場所において、自ら又は他人をして投票用紙に被選挙人の氏名を記載し、これを特別投票者証明書と共に投票用封筒に入れ封緘し、投票用封筒の表面にその氏名、投票記載の年月日、場所、他人をして記載させた場合においては記載人がその旨及びその住所、氏名をそれぞれ記載し、更にこれを封筒に入れ封緘し、その表面に投票在中の旨を明記しその裏面に氏名を記載し選挙の期日までに選挙管理委員会の委員長に対して郵便をもつて送付すべきものと規定されている。なお、前掲昭和23年政令第190号衆議院議員選挙法施行令の一部を改正する政令30条4、5項にも、選挙人の現在する場所における不在者投票の方法について、右公職選挙法施行令58条と同趣旨の規定が設けられていた。従つて選挙人で「疾病等のため投票所へ行くことができない在宅者」は、その現在する場所、特に自宅において、自ら投票用紙に候補者を記載し、若し身体の故障に因つて自ら候補者の氏名を記載することができないとき(文盲に因つて自ら候補者の氏名を記載することができないときを含まない。)は、他人に投票を記載させることができたのであるが、選挙の公正を期すための投票管理者の管理の下で投票が行われないため、買収、利害誘導等の不正が介入する余地があり、また選挙人が自由に投票するように憲法15条4項によつて保障された投票の秘密が犯されることにもなり兼ねないものであつた。また、投票が「疾病等のため投票所へ行くことができない在宅者」の真意によるものであるかどうかの確認については、右のように投票を記載した投票用紙を入れた投票用封筒の表面にその者の氏名等を記載し、それを他の封筒に入れて封をし、その裏面に署名することとされてはいたが、投票管理者の管理、立会の下での記載でないため、その確認は困難であつたし、また前記の投票代理記載については、果してそれが選挙人の身体の故障に因つてなされたものかどうかを確認することも困難であつた。前記統一地方選挙において不在者投票について前述のような不正が多発したことについては在宅投票における右のような投票の秘密確保の困難性、選挙人の意思による投票であることの確認の困難性、投票の代理記載につきこれをなしうる場合に当たることの確認の困難性が原因の一つであることは事の性質上容易に推認しうるところであるが、右のような各種の困難性は、いずれも選挙人の現在する場所、殊に自宅においてなされる在宅投票制度そのものに謂わば内在する欠陥ともいうべきものであつて、窮局的には、選挙人の自覚による以外には、これを克服し得ないものといわざるを得ない。なお、右の制度的欠陥は新、旧いずれの在宅投票制度たるを問わないものであることは前判示したところによつて明らかである。
[83](ii) 本件公職選挙法施行令一部改正令による改正前の公職選挙法施行令50条、52条によれば、疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため又は産褥にあるため歩行が著しく困難であるべき選挙人がその現在する場所で投票を記載するため選挙管理委員会の委員長に対して投票用紙及び不在者投票用封筒の交付を申請する場合には、疾病、負傷、妊娠若くは不具のため又は産褥にあるため歩行することが困難であることの事由について、医師、歯科医師又は産婆の証明書を提出することを要するものと規定されていたが、医師、歯科医師又は助産婦が虚偽の証明書を発行した場合につき選挙法規上罰則がなかつた(刑法160条参照)。なお前掲の衆議院議員選挙法施行令の一部を改正する政令27条にも、投票用紙及び投票用封筒の交付を申請する場合には、在宅投票をなしうる者に該当する事由に関して、医師、歯科医師又は助産婦の証明書を提出することを要するものと規定されていたが、医師、歯科医師又は助産婦が虚偽の証明書を発行した場合については選挙法規上罰則がなかつた点も右同様であつた。ところで、前示(3)のivに認定した事実並びに成立に争いない乙第2号証の1ないし3、同第4号証の1、2、同第5号証の1ないし3の各記載及び原審証人千葉武、当審証人三浦義男の各証言によれば、前記統一地方選挙においては、選挙人或いは選挙人の親族等が、選挙人が疾病、妊娠又は産褥にある等の事由によつて投票所に行つて投票できない者でないのにかかわらず、医師、助産婦に対し、その旨偽つて在宅投票をなしうる者に該当する事由の証明書の交付を申請してその証明書を受けたり、また、在宅投票をなしうる者に該当する事由についての証明書の交付の申請を受けた医師、助産婦が証明書の交付申請を求めに来た者の言を鵜呑みにし、必要な調査もせずに証明書を発行するということがあつたのみならず、医師、助産婦が選挙人、その親族、選挙員と共謀して虚偽の証明書を発行したりしたことが、本来在宅投票をなし得ない者による投票用紙等の入手、本人若しくは他人によるその悪用という不正を多発させた原因の一つであつたことが認められる。而してこの点については、前判示のとおり在宅投票をなしうる者に該当する事由についての証明書を発行する医師、助産婦等が虚偽記載の証明書を発行した場合につき選挙法規上罰則がなかつたことが医師、助産婦等による証明書の安易な発行やその虚偽の記載を招いた一つの原因であつたと推認され、従つて右の場合につき選挙法規上罰則のなかつたという制度的な欠陥が前示のような不正を多発させた一つの原因であつたと認めざるを得ない。なお、右の制度的欠陥は、新、旧いずれの在宅投票制度にも共通のものであることは前判示したところによつて明らかである。
[84](iii) 本件公職選挙法施行令一部改正令による改正前の公職選挙法施行令50条4項によれば、疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため、又は産褥にあるために歩行が著しく困難であるべき選挙人がその現在する場所で投票の記載をしようとする場合は、同居の親族によつて、選挙管理委員会の委員長に対し、文書をもつて投票用紙及び不在者投票用封筒の交付を申請することができると規定され、同令53条1項2号によれば、右委員長が同居の親族から投票用紙及び不在者投票用封筒の交付の請求を受けた場合には、これを同居の親族に交付するものと規定されていた。また、同令58条1項によれば、現在する場所で投票を記載した選挙人は、投票用紙を郵便でもつて送付し又は同居の親族によつて提出させなければならないものと規定されていた。これは旧在宅投票制度には存しないものであつた。ところが、新在宅投票制度における右の同居の親族関与の制度においては、投票用紙等の交付を申請する同居の親族であることの証明のために米穀通帳、住民票等の資料を提出することは要求されず、従つて同居の親族と称する者の言辞だけで、これを信用すれば投票用紙等を交付してよい取扱であつたため、在宅投票をなし得る者の同居の親族以外の者に安易に投票用紙等が交付され、更には(ii)で述べた医師等の証明書悪用と相まつて、本来在宅投票をなし得ない者の同居の親族以外の者にまで投票用紙等が交付されてしまい、これが不正に利用されるという危険が多大であつた。そして前示(3)のivに認定の事実並びに前掲乙第2号証の1ないし3、同第4号証の1、2、同第5号証の1ないし3の各記載、原審証人千葉武、当審証人三浦義男の各証言によれば、前記統一地方選挙においては、右の危険が現実化し、選挙人の同居の親族でない者が疾病等のため在宅投票をすることができる選挙人の同居の親族である旨偽つて選挙人の知らない間に投票用紙等の交付を申請し、その交付を受けた後選挙人の意思によらないで適宜それに候補者の氏名を記載して選挙管理委員会に提出して投票するという不正投票が多数発生し、それが当選無効ないし選挙無効の事由とされた選挙争訟も多数発生したことが認められる。これによれば、新在宅投票制度における在宅投票者の同居の親族関与の制度は、前記統一地方選挙における在宅投票の悪用多発の原因の一つであつたことは明白であつて、右の制度は、在宅投票をなしうる選挙人のための便宜に走りすぎたため、不正に利用され易いものであつたといわざるを得ない。
[85]ii 次に、昭和26年4月に実施された統一地方選挙において、在宅投票制度が悪用され、不正が発生したことについて制度外の原因があつたか否を見てみる。
[86](i) 成立に争いない乙第5号証の1、2、同第52号証の1、2、同第60号証の各記載、当審証人三浦義男の証言及び弁論の全趣旨を総合すると、昭和26年4月に実施された統一地方選挙は、昭和22年4月に新地方制度下に初めて行われた地方選挙によつて選出された地方公共団体の議会の議員及び長の任期が昭和26年4月をもつて終了するため施行されたものであつたこと、この選挙は、過去4年間の地方自治行政に対する住民の批判と将来の地方自治行政に対する住民の希望が示されるという地方選挙本来の意義に加えて、その後に控えた連合国との講和条約締結に対する各政党の態度が国民の批判を受ける機会として国政に対する中間選挙的意義をも有していたため、内外の視聴をあつめて行われたものであること、この地方選挙に先立つて、選挙法制の整備、即ち地方公共団体の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律(昭和26年法律第2号)によつて、地方選挙の期日が4月23日と30日に全国的に統一され、公職選挙法の一部を改正する法律(昭和26年法律第25号)によつて、公務員の立候補制度の緩和、選挙運動の制限の合理化、選挙公営の拡充及び選挙手続の合理化等の改正が行われたこと、改選すべき定数は、告示日現在において知事34名、都道府県議会議員2617名、市区町村長7010名、市区町村議会議員17万333名であつて、その地域は全国にわたり、被選挙権者の定数、立候補者も多数に及んだこと、投票当日は好天に恵まれたことと地方選挙の特色として1票をも争う激しい選挙戦が展開されたこととがあいまつて、投票率は、市区町村長選挙において90.14パーセント、市区町村議会議員選挙において91.02パーセント、知事選挙において82.58パーセント、都道府県議会議員選挙において82.99パーセントと未曽有の好成績を収め、国民がいかに地方政治に対し深い関心を寄せているかが示されたが、その反面、狭い区域を選挙区として多くの候補者が立候補して1票、2票を争うという激しい選挙であつた結果、選挙運動や選挙手続の面において幾多の違反ないし不正行為が発生し、選挙争訟も多数提起されたこと(このことは既に判示したところである。)、選挙管理の事務は、もともと一般行政事務として、知事又は市町村長の所管とされていたが、昭和21年の第1次地方制度の改正によつて、新たに都道府県と市町村に都道府県知事及び市町村長から独立した合議制の執行機関たる選挙管理委員会が設置され、昭和22年には内務省の廃止に伴つて全国選挙管理委員会(これは昭和27年法律第261号による自治庁設置法附則2によつて廃止され、同法23条によつて新らたに中央選挙管理会が設置された。)が設置されて、これが、選挙事務の中枢的管理執行機関となり、選挙の民衆化と政治的中立性が確保されることになつたのであるが、昭和26年4月当時には選挙管理委員会は機構的に未だ充分には整備、充実していなかつたうえ、選挙施行直前に選挙関係法規の改正があつたため選挙法規の研究に不充分な点がありまた手続に不馴れであつたこと、選挙管理委員会としては、新憲法施行以来、国民も相当選挙に対する関心も高まり、新しい選挙のあり方についても理解を得たものと考えたうえ、選挙違反の防止という点に重点を置くと選挙が非常に暗くなると考えたので、正しい選挙の推進、選挙違反の防止という点よりは寧ろ、棄権の防止、地方公共団体の長、議員に相応しい人物の選択という点に重点を置いて啓発宣伝を行つたものであること、昭和20年8月14日のポツダム宣言の受諾後、「日本国国民の間に於ける民主主義傾向の復活強化に対する一切の障碍の除去」と「言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重の確立」(ポツダム宣言10項)という要請に即した我が国の民主化の諸施策が連合国によつて遂行され、昭和22年5月3日から施行されることになつた憲法は、民主主義をその前文において確認し宣言したが、もともと、民主主義は、日本国民が自主的な立場から、自ら進んで、過去の行為を反省し祖国の再建のためこれを採用したというよりは、寧ろ、連合国の要求という外的な要因から採用したものであつて、いわば与えられた民主主義とでもいうべきものであつたうえ、昭和26年4月当時は、未だ連合国の占領下にあつたため、個人主義思想を基調とする国民の自治、自律という民主主義の理念が国民各層の間に未だ十分には滲透しておらず、また民主的政治における選挙の重要性ないし選挙民としての自覚も未だ必ずしも十分でなかつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
[87](ii) 右に認定の事実に当審証人三浦義男の証言を合せ考えれば、昭和26年4月に実施された統一地方選挙において在宅投票制度が悪用された原因は、すでに説示した制度自体による原因のほか、右の選挙が狭い区域を選挙区として多くの候補者が1票をも争う激しい地方選挙であつたこと、発足後間もない選挙管理委員会が所管の事務に不慣れであつたこと、更には当時の国民が民主主義国家の選挙民として自覚が十分でなかつたことに因つたものといわざるを得ない。右挙示のさいごの原因について付言すれば、終戦以来連合国による、我が国の民主化、非軍事化をめざす諸般の施策によつて、国民は制度上は非民主的な絆からは解放されたが、それは国民自らの力で内発的に解放したものではなかつたから、国民の気風、即ちその思惟形式や行動様式は容易には変らず、個人の主体性よりは国家社会の全体性を優越せしめ、個人の自由よりは人間関係における情誼を重んずる終戦までの国民の一般的、支配的意識傾向が、その是非は別として、選挙民の間になお根強く残つていて、これが、とかく個人の自由よりは情誼関係が重んぜられ易い狭い居住区域を選挙区とする激しい地方選挙で強く現われたことに因るものと考えられる。
[88](iii) 昭和24年1月23日に実施された衆議院議員選挙(在宅投票については旧在宅投票制度によつたもの)及び昭和25年6月に実施された参議院議員選挙(在宅投票については新在宅投票制度によつたもの)においては、在宅投票制度が悪用されたということが、国会や政府においては勿論、世間においても問題にされたことがなかつたのは前判示のとおりであるが、この事実に鑑みると、昭和26年4月の統一地方選挙において在宅投票制度が前示のように悪用された原因としては、前示の制度的原因よりは前示の制度外的原因の方が、より重要であり、より決定的なものであつたと認めざるを得ない。
[89](5) 在宅投票制度を廃止した本件公職選挙法一部改正法の国会における立法経過は、後述のとおりであるが、右法律案の審議過程において、在宅投票制度につき、これを全面的に廃止せずに、その欠陥に是正措置を講ずることによつて「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のために、より制限的でない他の選びうる方法を採ることの可否が検討された形跡は、証拠上全くない。
[90](6) 昭和26年4月に実施された統一地方選挙において、在宅投票制度が悪用され、多数の選挙違反がなされたことを理由として、本件公職選挙法一部改正法によつて前記在宅投票制度を廃止したものであることは、既に述べたとおりであるから、前記在宅投票制度の廃止は、その弊害の除去を目的としてなされたものであることは明らかである。
[91] しかしながら、昭和24年1月23日に実施された衆議院議員選挙(在宅投票については旧在宅投票制度によつたもの)及び昭和25年6月4日に実施された参議院議員選挙(在宅投票については、新在宅投票制度によつたもの)においては、不在者投票制度が悪用されたという事例は僅かに1件(但し、これが在宅投票に関するものであるかどうか不明)にすぎなかつたこと、在宅投票制度の悪用が国会や政府においては勿論、世間においても問題にされたことがなかつたことは前判示のとおりであり、昭和26年4月実施の統一地方選挙において在宅投票制度の悪用が多発したとしても、既に見たとおりその原因は制度外的な地方選挙特有の原因によるところが多大であつて、将来行われる国会議員選挙においても在宅投票制度が右統一地方選挙のときと同様に悪用されたのであろうとは、必ずしも断ずることはできない。前記統一地方選挙において在宅投票制度が悪用された原因について検討したところによれば、在宅投票制度殊に新在宅投票制度即ち本件公職選挙法一部改正法による改正前の公職選挙法の採つていた在宅投票制度にはそれが悪用され易い制度的欠陥があつたことは明らかであるから、前記統一地方選挙において在宅投票制度の悪用多発を見たのを機会に、国会議員選挙のために、新在宅投票制度の欠陥を是正してその悪用を防止するために必要な立法措置(例えば、在宅投票をなしうる者に該当することを証明する医師等が作成する証明書につき、虚偽記載をした場合の罰則を設けること、在宅投票をなしうる者の同居の親族が在宅投票に関与しうる制度を廃止すること等が考えられよう。)を講ずるというのであれば、それは賢明な措置であつたというべきであるが、新在宅投票制度そのものの廃止が「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」の選挙権行使の機会を事実上奪つてしまうものであることに思いを至すならば、新在宅投票制度が悪用されたという事例があつたという確証がなく、将来におけるその悪用多発も必ずしも必至とは言い難いところの国会議員選挙について、より制限的でない他の選びうる手段についての検討をなんらなすことなしに、前記在宅投票制度そのものを全面的に廃止してしまつたのは、仮令その立法目的の点において合理的なものであつたとしても、立法目的実現のための手段としての適合性の点において合理的なものであつたとは到底言い難く、従つて已むを得ないものであつたとは認め難い。
[92] これに反し、地方選挙について言えば、昭和26年4月に実施された統一地方選挙において在宅投票制度が悪用されて選挙違反や当選又は選挙無効争訟が多発したのでその弊害を除去するために、本件公職選挙法一部改正法により在宅投票制度を廃止することにしたのは、先ず、その立法目的の点で合理的なものであつたことは明らかである。蓋し地方選挙において選挙違反、当選又は選挙無効争訟が多発するような制度を放置するときはおのずから選挙の自由公正が損われ、そのため選挙によつて選出された代表者に住民の意思や利害が公正に反映されているか否かについて疑念を招く虞れがあり、右代表者に対する住民の信頼が損われることを免れないのみならず、そのような疑念が拡大すれば、本来住民の代表者となつて住民全体のために奉仕すべき責務を負う議員や市町村長等に対する不信感を醸成し、能率的・効果的で安定した地方自治の運営が阻害されることにもなるからである。問題は、右立法目的実現の方法としてそれが合理的なものと認めることができるか否かである。思うに、昭和26年4月実施の統一地方選挙において多発した新在宅投票制度の悪用は、前判示の如く、主として市の嘱託員、選挙運動員、選挙人と同居していない親族、知己、或いはこれらと共謀して証明書を発行した医師、助産婦等によつて行われたものではあるが、選挙人であつて「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」の中にも自ら選挙管理委員会から配布を受けた投票所入場券を選挙運動員に交付して不正の投票をさせたり、或いは自宅に訪問して来た運動員の誘導によつて投票を記載したり、本人の現在する場所ではなく候補者の選挙事務所等で他人に投票の記載をさせたりしたものも決して少くはなく、従つて「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」の中にも謂わば受働的、消極的な形においてではあるが、在宅投票制度を悪用した者が少くなかつたこと、前記統一地方選挙において在宅投票制度が悪用された原因については既に見たとおりであるが、その制度そのものの欠陥によるものもさることながら、その除去が一朝一夕にしてはなし得ないところの制度外の原因即ち、前記統一地方選挙が選挙民の居住区域である狭い区域を選挙区として行われる、1、2票を争うような激しい地方選挙であつたこと、選挙管理担当者が未だ選挙管理事務に十分に習熟していなかつたこと、当時住民の自治、自律という民主主義的自治の理念が国民各層の間は未だ十分には滲透しておらず、住民における選挙民としての自覚が未だ十分ではなかつたこと等が前記統一地方選挙において、新在宅投票制度の悪用多発を招いた、より重要で、より決定的な原因であつたことに鑑みるならば、仮令、本件公職選挙法一部改正法による改正前の公職選挙法が定めていた新在宅投票制度に、その悪用防止のために必要ななんらかの是正措置を講じたとしても、右制度そのものを存続させる限り、本件公職選挙法一部改正法が施行された昭和27年9月1日当時から、少くとも向後暫らくの間は、その間に行われる地方選挙において、「疾病等によつて投票所に行くことができない在宅者」を含む選挙民の一部の者によつて、是正後の在宅投票制度が悪用される危険はあつたものと考えざるを得ない。郵便による在宅投票制度は、不正防止のために仮令いかなる方法を講じたとしても、少くとも地方選挙に関する限り、民主主義的自治の理念を理解して選挙民としての自覚をもつた選挙民を前提としない限り、悪用の危険から免れることはできないものである。叙上のとおりであるから、本件公職選挙法一部改正法が在宅投票制度を全面的に廃止したのは、前記の立法目的実現の方法としても合理的なものであつたと認めざるを得ない。してみると、結局において、地方選挙に関する限りは、国会が昭和27年9月1日施行の本件公職選挙法一部改正法により、在宅投票制度を全面的に廃止したことには合理的と認められる已むを得ない事由があつたものというべきである。
[93] ところで、前示甲第2、第3号証の各記載、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、憲法施行後20有余年を経過した昭和44年頃は、終戦来のわが国民の真摯な復興への願望と努力の成果として国民経済の高度成長を遂げ、一般的に言つて国民の暮し向きは明るくなり、精神的にも安定するに至つていたこと、また右の頃には戦後の民主教育の普及と徹底によつて国民の知識、教育程度は向上し、憲法施行時に出生した国民も、既に成年に達して選挙権を得ており、国民一般の政治に対する目も肥え、民主主義国家の選挙民としての意識も著しく向上していたこと、殊に昭和27年以降、事実上投票の機会を奪われた重度身体障害者その他の「疾病等によつて投票所に行くことができない在宅者」は、選挙を通じて自らの意思を代弁する者を国会又は地方議会に送り込み、社会福祉の向上を企ろうとする意識を強くもつようになり、特に政治への関心、民主主義社会における選挙の意義への自覚を著しく高め、昭和41年以降、身体障害者の団体を含む約百の団体が中心となつて在宅投票制度の復活を求める署名運動を起し、新聞、ラジオ、テレビ等を通じて在宅投票制度復活のキヤンペンを行い、昭和42年には右署名運動に参加した全国多数の身体障害者から衆、参両院に対して重度身体障害者、自宅療養者、老人、妊産婦、都道府県管理委員会の指定を受けられない小病院入院患者のため、在宅投票をすみやかに復活してもらいたいという趣旨の請願がなされ、参議院では第57回国会開会中の昭和42年12月22日公職選挙法改正に関する特別委員会において、右請願についての審査がなされたが、右委員会において、秋山長治委員から、昭和26年4月の地方選挙において、在宅投票制度が悪用され、弊害があつたとしてこれが廃止されたとしても、それ以降すでに16年近くもたつて、世帯人数すべて相当変つているし、特に近年身体障害者に対する国及び地方公共団体の施策、一般社会の身体障害者に対する認識も相当前進し、また身体障害者の政治意識も相当進歩してきていると思われるので、重度身体障害者約25万人を含む少くとも百万人単位の人数の身体障害者が投票の機会を失つてしまうような制度をそのままにしておくことのマイナスの方が在宅投票制度のもたらす弊害よりも問題にならないほど大きいものであることが指摘されていること、昭和44年3月29日の参議院予算委員会第4分科会においても、さきに参議院で留保されていた前記請願に関して、竹田現照委員から選挙人の政治意識は向上し、選挙管理委員会の機構は充実、管理能力も向上したから在宅投票制度は復活すべきであり、
「こういう人達(前記請願の趣旨にかかる重度身体障害者等を指す)の希望を入れさせてやるという方向で検討していかないと、それは重要な公民権の制約だから憲法違反です。」
との意見が述べられ、また、答弁に立つた国務大臣野田武夫も、在宅投票制度を昭和27年にやめて後、逐年選挙人の意識がだんだんと向上していると我々はみております云々と述べたこと、が認められる。
[94] 右のとおりとすると、憲法施行後20有余年を経過した昭和44年当時においては、「疾病等のため投票所に行くことのできない在宅者」を含めて、全般的に国民の政治への関心や政治意識は向上し、民主主義国家の選挙民としての自覚も大いに高まり(憲法の保障する選挙権の行使に対する制約に合理的と認められる已むを得ない事由があるか否かを判断するに当つては、国民の選挙民としての自覚の浅深も一つの重要な資料となるべきものである。憲法12条参照)、また選挙の管理執行を掌る選挙管理委員会の機構も充実しその選挙管理能力は充分なものとなつていたものと推認されるから、遅くとも昭和44年以降においては、国会議員選挙について「疾病等のため、投票所に行くことができない在宅者」に対し実際に投票の機会を与えるための立法をしないでいることについて合理的と認められる已むを得ない事由がないのは勿論のこと、地方選挙についても、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」に対し実際に投票の機会を与えるための立法をしないでいることについての合理的と認められる已むを得ない事由はもはやなくなつていたものと認めるのが相当である。

[95](二) 以上説示のとおりとすると、国会が、原則的な投票方法として投票所投票自書主義を採る公職選挙法のもとにおいて、被控訴人のような「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のために実際に投票の機会を与えるための在宅投票制度を設ける立法措置を講ずることを故意に放置していた昭和44年以降の本件立法不作為は、被控訴人のような「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」に対する関係において、そのうちの国会議員選挙についてのものは憲法13条、14条1項、15条1、3項、44条但し書、47条に、そのうちの地方選挙についてのものは憲法13条、14条1項、15条1、3項、93条2項にそれぞれ違反するものといわなければならない。従つて国会の昭和44年以降の本件立法不作為は、その間の国会議員選挙及び地方選挙において選挙権を行使することのできなかつた被控訴人に対してその選挙権を侵害したものとして違法なものであつたといわざるを得ない。

[96] そこで昭和44年以降の本件立法不作為についての国会議員の故意又は過失の存否について判断する。

[97](一) 国会議員の立法不作為につき国賠法1条1項を適用する前提としての、国会議員の故意又は過失については、各個の国会議員の個別的、主観的な意思を前提とする必要はなく、国会の意思を、国会を構成する各国会議員の意思に投影したものが各国会議員の意思であると前提してこれを判断することができるものであることは、既に説示したとおりである。それゆえ昭和44年以降の本件立法不作為における国会議員の故意又は過失の有無を判断するには、昭和44年以降の本件立法不作為についての国会の意思が当時の各国会議員の意思であると前提すれば足りるものであつて、当時の国会議員各自の主観的、個別的意思を前提とする必要はない。

[98](二) そこで、右の見地に立つて、国会議員が昭和44年以降の本件立法不作為に因つて違憲、違法に被控訴人の選挙権を侵害したことについて故意又は過失があつたか否かを検討する。
[99] 国会議員の右の故意又は過失の有無を判断する事情としては、先ず、在宅投票制度を廃止した本件公職選挙法一部改正法の制定の経緯ないし右法律案の国会における審議経過が重要である。よつてこれについて見てみるに、いずれも成立に争いない乙第1号証の1ないし16、同第2号証の1ないし3、同第3号証の1ないし3、同第27号証の1ないし4、同第29号ないし第31号証、同第56号証の1ないし9、同第57号証の1、同第58号ないし第69号証、同第70号証の1、2、同第71号証、同第72号証、同第73号証の1、同第74号ないし第89号証、同第90号証の1、2、同第91号ないし第93号証、同第94号証の1ないし13、同第95号証の1ないし9、原本の存在及び成立に争いない同第57号証の2、同第73号証の2の各記載、原審証人千葉武及び当審証人三浦義男の各証言を総合すると、次の(1)ないし(9)の各事実を認めることができる。
[100](1) 本件公職選挙法一部改正法による公職選挙法の改正作業は、第10国会から第13国会に跨つて行われたものであるが、先ず第10国会において、昭和26年4月に施行された統一地方選挙で、徹底的な事前運動、戸別訪問、買収、在宅投票の悪用等の不正行為が続発し、自由、公正な選挙が損われたことに鑑んがみ、当時行われていた公職選挙法の欠陥を是正し、選挙の公明刷新、選挙運動の適正な制限、選挙運動費用の縮減、選挙の管理執行態勢の整備等による自由公正なる選挙を目的として、その改正について審議するため、昭和26年5月8日衆議院に公職選挙法改正に関する調査特別委員会が設置された。そして同年5月23日には同委員会の中に専ら選挙法改正要綱案の作成に当らしめるために、公職選挙法改正調査小委員会が設置された。
[101](2) 昭和26年5月11日の右調査特別委員会では、先ず、各政党から、戸別訪問、街頭演説、選挙運動期間、立会演説、不在者投票、罰則等の諸項目についての改正意見が述べられたが、各党の不在者投票、代理投票に関する意見として、自由党からは、本人が旅行その他の支障のために投票所に行つて投票することができない場合以外の不在者投票は廃止すべしとの意見及び代理投票及び病気その他の理由による自宅での投票は弊害があるので廃止すべしとの意見、社会党からは代理投票は弊害があるので廃止すべきだが不在者投票については不正を防止して行きたいとの意見が述べられた。しかし、共産党からは、不在者投票、代理投票についての意見は述べられなかつた。同年同月25日の右調査特別委員会では、過般の統一地方選挙につき、全国選挙管理委員会事務局長から、不在者投票、代理投票が悪用された向きが相当多いとの意見が述べられ、国家地方警察本部刑事部長及び法務府検務局総務課長から、不在者投票、代理投票の悪用(詐欺投票、偽造投票)、買収、利害誘導、饗応等の選挙違反事件についての中間報告がなされた。
[102](3) 同調査特別委員会は、過般の統一地方選挙の実情を調査し、合わせて各地の選挙管理委員会並びに地方議会等と公職選挙法改正に関する意見の交換を行い、もつて公職選挙法改正案の立案に資するため、委員8名を、第1班東北、北海道方面、第2班関東、信越、東海方面、第3班近畿、四国方面、第4班中国、九州方面の4班に分け、委員をそれぞれの方面に同年7月2日又は7日から10日間派遣し、派遣された委員において、各地の選挙管理委員会、地方議会、道府県当局、検察庁、公安委員会等と公職選挙法改正に関する意見の交換を行つた。そして、同年7月26日の右調査特別委員会において、衆議院法制局第1部長から、委員派遣地における公職選挙法改正に関する主要意見が報告されたが、そのうち不在者投票に関しては、その1は、自宅等における投票には弊害があるから病人等の在宅投票制度を廃止すること、その2は在宅投票制度は存置するとしてもその場合の投票の代理記載は認めないことにすること、その3は、医師等の不正証明に対する罰則を設けるか又は証明書の交付にかえ診断書を交付させることにすること、その4は、不在者投票も場合によつてはその必要があるので、弊害を除去し是正するという意味において再検討すること、などの意見があつたことが報告された。なお、同調査特別委員会は、同年10月イギリスに委員を派遣して同国の選挙法制及び選挙の実情を調査、視察させた。
[103](4) 公職選挙法の立案に参画した衆議院法制局では、在宅投票制度を廃止すると、「疾病等のため投票所へ行つて投票することができない在宅者」が選挙権を行使することが不可能となることは当然予想していたが、在宅投票制度を廃止するか否かはあくまでも選挙権それ自体の制限とは関わりのない、選挙権行使の便宜の問題であるから、これを廃止しても憲法違反の問題は生じないという見解を持つていた。それで、衆議院の公職選挙法改正調査小委員会において、委員の誰かから在宅投票制度を廃止しても憲法上問題はないかとの質問を受けたとき、衆議院法制局第1部長は、法制局の見解として、憲法では、公務員の選定罷免権、普通平等秘密選挙が保障されているが、投票の方法、例えば在宅投票制度の採否については、憲法47条で法律によつてこれを定める旨規定されているから、それは第一次的には国会の裁量に委ねられているうえ、憲法の前文によれば、国民が正当に選挙された国会における代表者を通じて行動することが民主主義の基本であり、不正な選挙によつて選出された代表者というのは国民の真の意思を反映した者でなくその者を通じて行動することは偽りの民主主義であり憲法の精神に反するものであるから、不正の多発する在宅投票制度を廃止することは、憲法全体の構造の上から許されるものであると述べた。
[104](5) 昭和26年10月8日の同調査特別委員会においては、前記改正調査小委員会が5回に亘つて協議した結果決定した公職選挙法改正案要綱が中間報告として報告されたが、右改正案要綱には、既に決定のものとして、選挙に関する区域、選挙期日の公示又は告示、代理投票、不在者投票等36項目に亘つて改正意見が表示され、未決のものとして、公務員の選挙運動の禁止、選挙運動員制度等8項目が指摘されていたが、不在者投票に関しては、
「疾病等のため歩行が著しく困難であるべきことを事由とする不在者投票(所謂在宅投票)は、これを廃止し、不在者投票管理者が管理する一定の投票記載場所においてする場合に限り認めること。(在宅投票の廃止に伴い医師の証明書制度は不用となる。又在宅投票の場合の代理投票も認められないことになる。)」
との改正意見(前記改正案要綱4項)が表明され、その改正の理由として、衆議院法制局第1部長は、
「不在者投票は過般の選挙等におきまして、病気というようなことの事由によりまして、非常に多くの医師の証明書等が出されまして、その意味による不在者投票が行われまして、結果において非常な弊害を伴つたという実例もございますので、それらの弊害が伴いますような在宅投票制度を廃止いたすことにしようというわけでございます。しかしながら、不在者投票制度は、制度自体といたしましては、そうゆう弊害が除かれ得るならば必要な制度でありますのでこれをいかして行く、こうゆうことでこの4が要綱としてあげられておるわけであります。」
と説明した。
[105](6) 一方、総理府設置法(昭和24年法律第127号)15条により、かねて、内閣総理大臣の諮問に応じて国会議員の選挙及び地方公共団体における選挙に関する制度について調査審議するため選挙制度調査会が総理府の附属機関として設置されていたが、同調査会は、昭和26年5月22日内閣総理大臣から、最近行われた各種の選挙の実際に鑑み、選挙制度の上に改正すべきものがあると認めるので、調査のうえ、これに対する要綱案を示すようにとの諮問を受けた。そこで、同調査会は、審議事項を、選挙法の基本的観念に関する事項その他8項目に分け、これを第1ないし第3委員会の審議に付したのであるが、「不在者投票及び代理投票についての再検討」は、第1委員会(委員長宮沢俊義)の審議に付せられた。右第1委員会は、同年6月4日の第1回を始めとして7回の委員会を開催し、付議事項につき審査し、各委員から私案も提出されて意見の交換、討論もなされたが、不在者投票に関しては、第4回の委員会において、古井喜実委員から、病人等の不在者投票は過般の選挙において多くの弊害をもたらしたが、不在者投票を広く認めるということは事柄として歓迎すべき点があるので、これを廃止しなければならないほどの弊害があるのか或は他の方法がないかどうかの意見を伺いたい旨述べたのに対し、関口泰副会長は弊害を除去することを考えて不在者投票を存続させることが好ましいと述べ、加藤大謳委員は、不在者投票が悪用されて弊害が多く選挙無効の争訟なども多発しているから廃止すべきだとする意見が多いと述べたのに対し、右古井委員は、不在者投票の悪用は、選挙の浄化をはかる啓蒙運動や浄化の国民的機運を醸成することによつて或る程度防止することができるから、不在者投票の折角の道を狭めて行くことに少し気残りがする旨述べ、使用者の介在を許さない本人による郵便投票だけ認めてはどうかという意見を出した。宮沢俊義委員長は、もともと選挙を最も簡単明瞭に且つ弊害を少くするためには、本人が投票所へ行つて投票する制度が好ましいものであるが、長年の経験からして、そのような制度にすると、投票ができないという非常に気の毒な場合が生じるので、それを補正するため不在者投票制度を設けたのであるが、その制度自体に濫用されるという弊害が内在しているから、弊害を強調するとこれをなるべく制限しようとする方向になり、便宜ということを強調すると弊害の生ずる余地が広くなるから、政治教育その他の方法で補いながら不在者投票制度を継続するということも相当の理由があることと思われるが、病院以外で寝ている場所で記載するということは危険の多いことである旨述べた。しかし、同委員らの右意見も在宅投票制度を存続させることが憲法上の要請でありこれを廃止することが憲法の保障する普通平等選挙の原則に反するからというのではなく、専ら政策的に、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」の便宜を図るという趣旨から、在宅投票制度の廃止に疑義を述べたものであつた。
[106](7) 選挙制度調査会は、第1ないし第3委員会に対し、選挙法の基本的観念に関する事項その他の事項の審議を付託すと共に、合わせて調査会の総会をも開催して審議し、昭和26年6月4日の第3回総会においては、地方の選挙管理委員会の委員長の出席を求め、意見を聴取したところ、不在者投票の80パーセントまで悪用されたので、病院のような不在者投票管理者の管理する一定の場所を不在者投票所として設置することには支障がないが、家庭における病人等の不在者投票は廃止し制限すべきであるとの意見が多く表明された。同調査会は、その後も3回にわたる総会での審議と委員会の連合審議を経たうえ、同年8月28日内閣総理大臣に対し、衆議院議員選挙制度改正要綱を答申した。右答申は、不在者投票に関しては、
「病人等の不在者投票は、都道府県管理委員会の指定する病院等においてする場合に限ること。」
という内容のものであつた。そして、右改正要綱は、昭和27年2月13日の衆議院の公職選挙法改正に関する調査特別委員会に提出され、同委員会において選挙制度調査会の会長牧野良三から、右改正要綱作成経過についての説明がなされた。同会長は、右改正要綱の基本的特色として、選挙に関する各種の基本観念を明らかにしたこと、選挙手続を改善したことなど5つの特色を明らかにすると共に、不在者投票に関し、
「不在者投票というものは、いろいろな面の便宜を図るために親切に行わんとする結果として、却つて大きい弊害を来しておる。従つてこれは大所高所から、何人も正しいと見る思い切つた方針を定めようというのが主なる点である。」
旨説明した。
[107](8) 昭和27年6月4日衆議院の公職選挙法に関する調査特別委員会において、第10ないし第13回国会と約1年間にわたつて公職選挙法改正について検討した結果公職選挙法改正調査小委員会が成案を得た改正案要綱が報告されたが、不在者投票については、
「疾病等のため歩行が著しく困難であるべきことを理由とする不在者投票(所謂在宅投票)はこれを廃止し、不在者投票管理者が管理する一定の投票記載所においてする場合に限り認めること。」
とされていた。右委員会において、衆議院法制局第1部長は、不在者投票の改正理由として、
「不在者投票は御承知の通り、この前の地方選挙におきまして、いわゆる在宅投票制度につきましてこれを悪用せられました結果、その間に不正投票が行われたような現状でありますので、この際やめまして、特別の投票管理者を置きまする病院等につきまして、この不在者投票制度を認めるということに致したのであります。」
と説明した。右改正案要綱に対しては、自民党、改進党、社会党は全会一致で賛成し、共産党だけは一部反対の意向を示したが、それは選挙運動期間の短縮、未成年者の選挙運動の禁止、署名運動の禁止、選挙葉書の枚数制限等についてであつて、在宅投票制度の改正については特に異論を述べなかつた。同調査特別委員会は、翌6月5日の会議において、「政党その他の政治団体の選挙運動」に関する規定の一部を修正したうえ、小委員会の改正案を同委員会の成案とすることを可決した。そして、同日衆議院本会議に公職選挙法の一部を改正する法律案(公職選挙法改正に関する調査特別委員会委員長提出)として提出され、賛成多数で可決され、参議院に送付された。
[108](9) 他方、参議院でも、第10回国会の会期中である昭和26年5月16日公職選挙法改正に関する特別委員会が設置され、同特別委員会は、政府委員から過般実施された地方選挙の実情の報告を受けると共に、各党派から改正の必要ある事項についての意見を聴取した。次いで、同委員会は、衆議院の前記特別委員会と同様、委員を4班に分け全国各地に派遣し、派遣された委員において各関係当局から事情を聴取し意見を交換してその結果の報告を受けたが、不在者投票制度については、弊害が多いので廃止するという意見が多数であつた。同特別委員会は、立案について詳細に検討させるため、小委員会を設置し、改正要綱の作成に当らせたが、昭和26年10月9日の右特別委員会で報告された小委員会での審議の結果は、不在者投票については、
「病気等の事由による不在者投票は、都道府県の選挙管理委員会の指定する病院等において行う場合に限りこれを認めること。」
というものであつた。参議院における公職選挙法改正案件は、第13回国会から地方行政委員会に付託されたが、参議院地方行政委員会は、昭和27年3月6日に選挙制度調査会委員長牧野良三から右調査会の作成した前記の衆議院議員選挙制度改正要綱の説明を受けた。同年7月14日衆議院提出の公職選挙法の一部を改正する法律案が同委員会に付託されたので、同委員会では、衆議院における公職選挙法改正に関する調査特別委員会の当時の委員長であつた衆議院議員小沢佐重喜から、右改正法律案の提案理由の説明を受け、政府委員の出席をも得て質疑、討論した結果、同年7月29日の前記委員会で右改正法律案は賛成多数で可決され、同月30日参議院本会議に公職選挙法の一部を改正する法律案として提出され、賛成多数で右改正案は一部修正(この修正はかなり多岐に亘つたが、在宅投票制度には関しないものである)されたうえ可決され、右修正案は同日衆議院に回付されて、同日衆議院本会議でこれが可決された。本件公職選挙法一部改正法は、このようにして成立した。
[109](10) 以上認定のとおりとすると、国会における、在宅投票制度を廃止することを含む本件公職選挙法一部改正法案の審議は、慎重に行われたものと認められ、当時の国会議員や選挙制度調査会の委員は、同法案が成立しても、それが「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」に対する関係で違憲問題を生ずるなどとは全く考えていなかつたものと認められる。
[110] 昭和27年8月に本件公職選挙法一部改正法によつて在宅投票制度が廃止されて以降少くとも昭和41年までの間において、衆議院又は参議院に対して「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度の復活を求める請願がなされたとか、国会において在宅投票制度の復活について論議がなされたとかについては、証拠上その形跡が全くない。
[111] 昭和41年以降身体障害者の団体を含む約百の団体を中心とする在宅投票制度の復活を求める動きがみられたが、昭和42年には全国に亘る多数の身体障害者から衆、参両院に対して、重度身体障害者、自宅療養者、老人、妊産婦、都道府県選挙管理委員会の指定を受けられない小病院の入院患者のための在宅投票制度復活を求める請願がなされたことは前判示のとおりであるが、右請願が憲法上当然要請されるべき在宅投票制度の復活を要求するというものであつたと認めるに足りる証拠はない。昭和42年12月22日に参議院の公職選挙法改正に関する特別委員会で右請願について審査をし、秋山長治委員が在宅投票制度の復活を前向きの気持で検討したらどうかと述べるなどして討論したこと、衆議院の委員会でもその頃右請願について審査したこと、その後昭和44年3月29日の参議院予算委員会第4分科会において、竹田現照委員が参議院で留保されていた前記請願に関して、
「こういう人達(前記請願の趣旨にかかる重度身体障害者らを指す。)の希望を入れさせてやるという方向で検討していかないとそれは憲法上重要な公民権の制約だから憲法違反です。」
と述べたことは前判示のとおりである。しかし当時において右の竹田委員のような意見をもつていた国会議員が他にもいたことについては、確たる証拠がなく、前示甲第2、第3号証の各記載及び弁論の全趣旨によれば、仮りに右のような意見を持つた国会議員が他にもいたとしても、それは極く少数であつたと推認される。
[112] 前段に述べたところのほかに、昭和42年以降昭和47年12月10日までの間に、国会に対して、「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」のための在宅投票制度の復活を求める請願がなされた形跡は証拠上なく、また右の間に国会において在宅投票制度の復活について論議された形跡も証拠上ない。
[113] 前示甲第2号証の記載によれば、政府は昭和42年12月の参議院公職選挙法特別委員会において、在宅投票制度の復活について将来研究することを約したことが認められるが、その後、少くとも昭和47年12月10日までの間に政府によつて右約束の研究がなされたことを認めるに足りる証拠はない。
[114] 以上のとおりなので、昭和44年以降昭和47年12月10日までの間に、国会議員であつた者の殆んど大部分の者は、昭和44年以降の本件立法不作為が前述のように、被控訴人のような「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」たる選挙人に対する関係で違憲、違法なものであることを全く認識してなかつたものと認められる。
[115] 昭和47年末頃までに発行された文献の中には、憲法による普通平等選挙の保障には、選挙権行使の機会平等の保障も含まれ、従つて、「疾病等のため投票所へ行つて投票することができない在宅者」に投票の機会を与えるような立法をしないことは憲法に違反するとした学説は見当らず、また、そのような判例もなかつた。
[116] 因みに、諸外国において、身体障害者等のための特別な投票制度がどのように取扱われており、それが憲法上の普通平等の選挙の原則との関係についてどのように理解されているかについて検討してみるに、成立に争いない甲第4ないし第7号証、乙第96号証の1ないし5の各記載、当審証人三浦義男の証言によれば、次のとおり認めることができる。
[117](1) 身体障害者等のための特別な投票手続を選挙制度に最初に導入したのは、1902年のオーストラリア(後に一時廃止)であり、その後1917年のアメリカ合衆国のインデイアナ州(後に一時廃止)、1923年の同じくネバダ州、アイダホ州、デラウエア州等のアメリカ合衆国の各州、1948年のイギリスと続き、具体的な採用年月日は不明であるが遅くとも1950年までにはソ連でも採用されていた。従つて昭和27年(1952年)当時身体障害者等のための特別な投票手続を採用していた国は、アメリカ合衆国の一定数の州、イギリス、オーストラリア、ソ連である。
[118] そして特別な投票手続としては、郵便による投票、使送による投票、代理人による投票及び選挙管理機関の訪問による投票があつた。
[119](2) 昭和27年(1952年)以降特別な投票手続を採用した国としては、アメリカ合衆国の一定数の州(具体的な州と年月日不詳)、オランダ(1954年)、西ドイツ(1956年)、フランス(1958年)、スイス(1965年)、ベルギー(1970年)、カナダ(1971年)、ノールウエー(1971年)があり、遅くとも1954年までには実施していたとみられる国としてはニユージーランドがあり、同じく1956年までに実施していたとみられる国としてはスエーデンがある。
[120](3) 身体障害者等のための特別な投票手続を一旦採用した後これを廃止した例としては、オーストラリア(1911年)、アメリカ合衆国ケンタツキー州(1918年)、同ペンシルバニア州(1925年)、同ニユージヤージ州(1926年)、同インデイアナ州(1927年)がある。そして、このうち、アメリカ合衆国のケンタツキー州及びペンシルバニア州の例は、特別投票手続が州憲法に定める投票所投票主義と抵触し憲法違反であるとされたため廃止されたものであり、同ニユージヤージ州及びインデイアナ州の例は、弊害が多発したため廃止したものである。なお、身体障害者等のための特別投票手続の採用または復活のための法案が選挙の純粋さ(Purity of election)に対する危険等の理由で議会によつて否決された例としては、イギリス(1925年)、スイス(1936年及び1947年)、オーストラリア(1913年)があり、同じく実行不可能ないし管理の困難等の理由で否決された例としては、スイス(1956年)、オーストラリア(1956年)がある。
[121](4) 次に、身体障害者等のための特別な投票手続の憲法との関係についてみると、アメリカ合衆国の判例では、不在者投票制度は法律によつて選挙人に認められた特典(privilege)であつて、絶対権(absolute right)ではなく、それは、もともとは軍役に従事する者に投票の特典を可能にすることを目指したものにすぎないとされ、西ドイツ連邦憲法裁判所1961年2月7日の判例は、一身上又は職務遂行上の理由から、自らの意思により又はその意に反して投票所で選挙権を行使することのできない選挙人のための郵便投票の採用は、立法者の法的義務としてではなく、政治的裁量として行われるもので、これを採用しないからといつて基本法の保障する選挙の普通、平等の原則には違反しないものとしている。
[122] 以上に説示したところによれば、昭和44年以降昭和47年12月10日までの間のどの時点をとつてみても当該時点における全部若しくは殆んど大部分の国会議員は、昭和44年以降の本件立法不作為が前述のように、被控訴人のような「疾病等のため投票所に行くことができない在宅者」たる選挙人に対する関係で、違憲、違法なものであることを予め知ることはできなかつたものと認めるのが相当であり、従つて右の間の国会の意思としても、それを予め知ることはできなかつたものというべきである。
[123] 国会議員の違憲、違法な立法行為又は立法不作為を理由とする国家賠償請求において、国賠法1条1項にいう公務員としての国会議員の故意又は過失は、国会の意思を、国会を構成する各国会議員の意思に投影したものが各国会議員の意思であると前提してこれを判断することができるものであることは前述のとおりであるが、前段認定のとおりとすると、昭和44年以降の本件立法不作為については、それが被控訴人の選挙権を侵害するものであることにつき、前記の間国会の構成員であつた各国会議員に故意又は過失があつたものということはできない。よつてこれと反対の被控訴人の主張は失当である。

[124]一〇 以上のとおりであるから、国会議員が在宅投票制度を設ける立法をしないことを理由とする被控訴人の本訴請求中、被控訴人が昭和44年12月27日から昭和47年12月10日までの間に行われた被控訴人主張の前後7回の選挙において、自己の意思に反して投票することができなかつたことを理由とするものも亦、爾余の判断をなすまでもなく失当である。
[125] 被控訴人は、当審でした本判決別紙二の(五)の主張の中で、国会に対して法案提出権を有する内閣の構成員が、昭和49年6月3日同年法律第72号による公職選挙法の一部を改正する法律が施行になつた以前において、在宅投票制度を設けるべき内容を有する法律案を国会に提出しなかつたのは、憲法違反であることが明らかであるから、控訴人は、右改正法によつて選挙権行使が可能となつた在宅選挙人(被控訴人がこれに当たることは前述のとおりである。)に対しても、過去において選挙権行使が保障されていなかつたことの責任を免れるものではない旨主張する。これによると、被控訴人は、訴の追加的変更として、内閣の構成員たる国務大臣が右主張の法律案を違法に国会に提出しなかつたことを請求原因とする新らたな請求を当審でしたものと解されるが、内閣の構成員たる国務大臣が右主張の法律案を国会に提出しないことによつて被控訴人の選挙権を侵害することにつき故意又は過失のあつたことについては、被控訴人においてなんら主張立証をしないところであるから、右の当審での新らたな請求は爾余の判断をまつまでもなく失当である。
[126] 以上のとおりであるから、被控訴人の本訴請求(当審での新らたな請求を含む。)は、いずれも失当であつて棄却を免れないものである。
[127] よつて、被控訴人の本訴請求(当審での新らたな請求を除く。)のうち、国会議員が在宅投票制度を廃止する立法をしたことを不法行為とするものの一部を認容した原判決主文1項は不当であるから、民事訴訟法386条に則つてこれを取消したうえ、被控訴人の請求(当審での新らたな請求を含む。)をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について同法96条、89条を適用して、主文のとおり判決する。

  裁判長裁判官 宮崎富哉  裁判官 塩崎勤  裁判官 村田達生
[1] 控訴人は、次のとおり陳述した。
[2] 被控訴人は、いわゆる在宅投票制度を廃止した昭和27年法律第307号「公職選挙法の一部を改正する法律」を制定したこと(以下同法による在宅投票制度の廃止を「本件改正」という。)及びその後同制度を復活させる措置をしないこと(本件改正と合わせて「本件改正等」という。)が違憲であるとして、本件改正等による損害賠償を請求し、原判決は、国会の立法行為も国家賠償法(以下「国賠法」という。)1条1項の適用を受ける旨を格別の理由を付することなく判示しているが、国会の立法行為に基づく国家賠償請求が許容されるべきでないことは、以下に述べる理由により明らかである。

[3]1(1) 国賠法1条1項は、国又は公共団体がその公務員の違法な職務行為による損害について賠償の責めに任ずる旨定めているが、右は、本来違法行為を行つた公務員が負うべき損害賠償責任を国又は公共団体が代わつて負う旨、即ち、代位責任を規定したものと解するのが相当であつて、このような解釈は判例・通説が採用するところである。けだし、同条2項は、国又は公共団体に故意又は重過失があつた公務員に対する求償権を認めており、また、同条に基づく責任は、民法715条の使用者責任とその性格を同じくするものであると解されるからである。そして、この代位責任説によれば、国の賠償責任が成立するためには、当該公務員について民法709条所定の不法行為の成立要件を具備しなければならないのであつて、当該公務員について何らかの免責事由が存すれば、国も免責されることになるのである。
[4] ところが、憲法51条は「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」と規定しているから、国会議員は、法律案に関し賛否の表決をしたことについて、たとえそれが違法なものであつても、一切の法的な責任、即ち、刑事上及び民事上の責任を問われることなく、従つて、これにより他人に損害を被らせた場合でも、右表決に加わつた国会議員が損害賠償責任を負うことはないわけである。
[5] してみると、仮に、国会議員が違法行為に当たる表決を行い、他人に損害を与えたとしても、そもそも国が代位して負うべき公務員たる当該国会議員の損害賠償責任が発生しないのであるから、国が右表決による損害賠償責任を負う理由はないというべきである。
[6] また、もし国が国会議員のこのような行為について代位責任を負うと解するとすれば、国会議員に右行為について故意又は重過失があつた場合には、国は更に当該国会議員に対して求償すべきことになるが、国会議員がこのような求償権に基づく民事上の責任を問われるべきでないことは、憲法51条に照らして明らかであるから、この点からしても、そもそもこのような行為について国に賠償責任を負わせることは相当でないのである。
[7] 更に、憲法51条の規定は、国会議員の国会における言論、表決等の自由を保障しようとする趣旨に出たものであるから、国会議員の表決等によつては国も法的責任を負うことはないとの前記解釈は、右の趣旨に適合するものということができる。
[8](2) そもそも国会は、全国民を直接代表する議員によつて構成された国権の最高機関であり、かつ、唯一の立法機関であつて、こと立法に関しては、立法するか否か、その範囲、内容、方法等を決定するにつき広範な裁量権を有するものであるから、その政策的・技術的考慮に基づく裁量が裁判所によつても最大限に尊重されるべきことは、後に(二)の2の(1)において詳論するところである。従つて、裁判所は国会の立法行為を原因とする賠償責任を安易に肯認すべきでないことはいうまでもない。まして、本件におけるように国会が特定の立法をしない不作為までも違憲・違法としてこれに基づく損害賠償請求を許容することは、正に国会固有の立法についての裁量権にまで立ち入ることになり、三権分立の原則に反する結果になることは明らかである。また、法律案は、議院に発議ないし提出されると、原則として委員会に付託され、これについて趣旨説明、質疑、討論、必要に応じて公聴会の開催、参考人の意見・証人の証言の聴取等が行われ、これに対する修正案があるときはそれも審査された上、委員会の表決に付された後、当該法律案は本会議に上程され、本会議において、委員長の報告、少数意見者の報告、質疑、討論、修正案の審査等を経て、表決に付され、更に他の議院において同様の審議を経由して表決されるという慎重な審議を尽くした結果、法律として成立するのである。従つて、このような過程を経て成立する法律の立法行為について、国会議員の過失責任を問題にする余地は全くないものというべきである。
[9](3) 結局、このような国会議員の議院内で行つた表決等の行為によつて生じた結果については、専ら選挙等により国民からその政治的責任を問われるのみであるというほかない。

[10]2(1) ところで、従来の判例をみると、東京高等裁判所昭和34年4月8日判決(下級民集10巻4号713頁)は、我が国が連合国の占領軍兵士による不法行為につき、日本国との平和条約19条(a)項により国民の権利を含めて損害賠償請求権を放棄したため、このような内容を含む平和条約の締結が国賠法1条所定の違法な公権力の行使に当たるかどうかが争われた事案について、
「凡そ占領軍と雖も占領地の住民の名誉、身体、財産を尊重し、侵害してはならないことは、国際法ないし国際慣例条理でもあるから、日本国が連合国軍隊に占領されていた間でも、日本国政府としては連合軍当局に対し本件のような不祥事の発生を未然に防止するため適当な方法を以て交渉要求することができ、この要求をなすこと及び自国警察職員に対しても、常に警戒態勢を以て臨むよう措置し、以て国民の生命財産を保護することは一般国民に対する義務でもあろう。しかし控訴人主張の政府の首長たる内閣総理大臣の国民に対するこの保護義務は、いわゆる政治上道義上の性格をもつに止るもので、個々の国民の権利に対応した法律上の義務ということはできない。本件において政府が占領軍に対し如何なる方法で、如何なる程度に控訴人主張のような要求をなすべきか、また占領軍将兵の違法行為に対し如何なる態勢でこれを防止すべきか等、一般的な方針は、専ら国の外交ないし国内政治問題としてその是非が論ぜられるべき性質のもので、その可否については内閣が国会に対し政治上の責任を負うことはあれ、それ以上に被害を受けた個々の国民から不作為による法律上の義務違反として国家賠償法による不法行為上の賠償義務を追求せらるべき筋合はないといわねばならない。」
と判示し、また、広島高等裁判所昭和41年5月11日判決(訟務月報12巻7号1050頁)は、我が政府が右平和条約により国民の損害賠償請求権を放棄したにもかかわらず被害国民に対する救済手段を立法により講じないことが違法であるとして国家賠償を請求した事案について、
「立法行為も公権力の行使と認められるにしても、その不作為は政治上の責任を生ずるにとどまり、個々の国民の権利に対応した法的作為義務の違反となるものではないから、これをもつて国家賠償法による損害賠償義務の根拠とすることはできない。」
と判示している。これらは、内閣或いは国会に広範な裁量権が与えられている条約の締結、立法等の可否は、すべて政治上の責任の問題を生じ得るにすぎず、国家賠償請求の原因とはなり得ないことを明らかにしたものということができる。
[11](2) また、学説上も、立法行為による不法行為は、観念的には認め得るとしても、国会制定法の場合、違憲立法についての国会議員の故意・過失を問題とすることは、裁判所の権能外のことであり(今村成和「国の不法行為責任」(公法研究11号60頁、76頁)、特に代位責任説に立つ場合、理論的にも実際的にも不可能であるといわれている(今村成和「国家補償法」102頁注(1)、雄川一郎「日本の国家責任法(下)」ジユリスト305号28頁)。

[12] 以上の次第で、国会の立法行為が損害賠償の対象となり得ないものであることは明らかというべきである。
[13] 仮に、国会の立法行為による国家賠償請求が許容されるとしても、本件改正等が憲法44条、14条1項、15条1項、3項に違反する旨の被控訴人の主張及びほぼ同旨の原判決は、以下の理由により失当である。

1 「より制限的でない他の選び得る手段」の基準について
[14] 原判決は、本件改正が違憲であるか否かを判断するについて、「同じ立法目的を達成できるより制限的でない他の選びうる手段」の基準によるべきである旨を判示した。しかし、本件改正等の違憲性を審査するについての判断基準として右の基準を用いることが当を得ないことは、以下の理由により明らかというべきである。
[15](1) 右判示は、いわゆる「より制限的でない他の選び得る手段」("Less Restrictive Alternatives")という基準(以下「LRAの基準」という。)を採用したものと思料されるが、このLRAの基準は、アメリカ連邦最高裁判所の判例において、個人の基本的人権を制限する法律の違憲性について判断する基準としてしばしば用いられてきた原則である。そして、この基準は、当初は経済的自由(財産権の不可侵と契約の自由)の制限に関して用いられ、経済的自由を制限する法律について、その制限が「必要最小限度」のものであることを要し、「より制限的でない他の選び得る手段」がある場合には、その法律は違憲であるとされたのである。しかし、1930年代後半には、アメリカ連邦最高裁判所は、経済的自由を制限する法律の合憲性について、立法府の判断を尊重し、その制定した法律をたやすくは違憲としないという態度を採るようになるとともに、経済的自由を制限する法律との関係においては、LRAの基準を用いなくなり、その後は、LRAの基準は専ら個人の基本的自由を制限する法律の違憲性を判断する基準として用いられるようになつたとされている。
[16] のみならず、アメリカの連邦最高裁判所の判例は、個人の自由を制限する法律の違憲性を判断するについても、すべてLRAの基準に立つているわけではないのである。即ち、連邦最高裁判所は、連邦政府職員に対して政治的事項又は政治的運動への積極的な関係を一切禁止するハツチ法9条a項の違憲性が争われた事案につき、
「政府職員と私企業の従業員との間にどのような差異があろうとも、それらは、憲法上の権限の審査に関する限り細目における差異である。そのような差異があるかどうか、またそれらの差異に対していかなる比重を置くかは、すべて議会にゆだねられた細目の事項である。当裁判所は、連邦職員の人数が増大するであろうか、減少するであろうか知らないし、また連邦職員の政治的活動規制の必要性が増大するであろうか、はたまた縮小するであろうかも知らない。規制する憲法上の権限の行使は、裁判所ではなく議会にゆだねられている。仮に、当該規制が足かせを除かれ自由にされた政治的行為をある程度まで侵害するとしても、議会は政府職員の政治的行為を合理的な制限の範囲内で規制し得るものと、当裁判所は述べてきた。政府職員の政治的活動が規制されるべき程度を決定する権限は、第一次的に議会にある。裁判所は当該規制が政治的権限の一般概念を逸脱するときに限り干渉するであろう。」(United Public Workers v. Mitchell, 330 U.S.75,102[1947])
と判示しているが、これはむしろ後記2において述べる「合理性」の基準を採つているものとみることができるであろう。そして、右のミツシエル事件の判例理論は、その後も、同種の事案であるレターキヤリアーズ事件についての同裁判所の判決(United States Civil Service Commission v. National Association of Letter Carriers, 413 U.S.548[1973])によつて再確認されているのである。従つて、アメリカ合衆国においても、精神的自由の規制立法についてはその違憲性の判断基準として専らLRAの基準が用いられているということはできない。
[17] また、LRAの基準を適用したとされているアメリカ連邦最高裁判所の判例の具体的事案を見ると、ロベル事件の判決(Lovell v. City of Griffin, 303 U.S.444[1938])は、いかなる場所、時間及び方法において配付する場合でも、回状、便覧、広告その他いかなる種類の文書であれ、配付前に市当局から許可を受けなければならない、という一般的な禁止を定めていたグリフイン市条例が連邦憲法修正14条に反するものとして、当該条文自体を無効と判示し、タリー事件の判決(Talley v. California, 362 U.S.60[1960])は、ビラを準備し配付し又は広告した者の住所、氏名が表示されていないビラをいかなる場所、状況においても配付することを禁止したロサンゼルス市条例が連邦憲法修正14条に反するものとして、当該条文自体を無効と判示し、シエルトン事件の判決(Shelton v. Tucker, 364 U.S.479[1960])は、州立小学校教師の雇用条件として、毎年、それ以前5年間会員であり、又は会費を支払い、若しくは定期的にきよ金したことがあるすべての団体をリストした宣誓供述書を1年の任期終了ごとに提出すべきことを定めたアーカンソー州の法律が連邦憲法修正14条に反し、無効と判示している。要するに、これらの判例からみれば、連邦最高裁判所は、表現の自由を規制する立法であるという理由から直ちにLRAの基準を適用して違憲の判断を導き出しているものとは考えられず、むしろ、規制自体が対象において一見して明らかに広範に過ぎ、方法においても違反者に対し刑事罰を科していることから、立法目的を等しく達するために他により適切な選び得る手段が明白に推定し得る場合に限定して、この基準を適用しているものと理解すべきである。
[18] 更に、アメリカの憲法判例上、LRAの基準が適用されているのは、既に述べたように、言論、信教、結社、旅行の自由などの基本的な個人の自由を侵害する公権的規制に限定されているといわれている。これは、このような自由権が、後記(三)の(1)において述べるように他の憲法上の権利と異なる地位、性格を有することに基づくものであつて、それ以外の権利に右基準を適用すべき根拠はないと解されるからである。
[19](2) ところで、法令の違憲審査において、LRAの基準は、以下に述べるように有効、適切な基準ということはできず、本件改正等の違憲性の判断についてこれを用いるのは相当でない。
[20] まず、LRAの基準により違憲判断をするに当たつては、同一法目的を達成するために他にどのような手段が存在するかを探究する必要があるばかりでなく、数個の選択し得る手段が存することが判明した場合でも、更に、それぞれの手段が法目的の達成に役立つ能率性、当該手段を採ることに伴い要する経費、その他当該手段の採用による社会的影響及びそれが自由に対して及ぼすべき抑圧的効果の程度等を勘案して、当該規制よりもより人権の保障の上で優れた規制方法が他に存在するかどうかを判断しなければならないことになるのである。しかし、このような調査、探求をし、これを的確に判断することは、裁判官自身専門性を備えているとは限らず、もともと政策的判断には適しない上、専門家たる補助職員を十分にもたない裁判所の組織、機構からして容易になし得るところではない。
[21] また、仮に裁判所において、ある立法目的を等しく達成することができると同時に人権に対し「より制限的でない他の選び得る手段」を調査、探究することができたとしても、立法府がこの手段を採用していないのに、裁判所がそのような他の手段が存することを理由に当該立法による規制を違憲であると判断し得るとすれば、それは裁判所が立法府に代わつて、自ら実質的に立法作用を行うに等しく、立法府にゆだねられた立法権を侵害する結果となり、三権分立の原則にももとることになりかねないのである。
[22](3) ところで、アメリカ憲法判例上、LRAの基準の適用が言論、信教、結社、旅行の自由などの基本的な個人の自由を侵害する公権的規制に限定されていることは、前述のとおりである。
[23] しかし、本件改正は、投票の方法について、従来存していた在宅投票制度を廃止したものであるが、本件改正等は、何人の有する選挙権の内容にも消長を来したり、その行使に制限を付したりするものではなく、ただ一定の選挙権を有する者に認められていた便宜的、例外的な特別措置を廃止し、それらの者についても一般の選挙権を有する者と同様の扱いにしたというにすぎない。したがつて、被控訴人は本件改正によつて選挙権を行使するにつき何ら法律上の規制を受けたものではないから、本件改正等についてはそもそもLRAの基準を適用すべき前提が欠如しているのである。
[24](4) そもそもLRAの基準は、アメリカ憲法判例上採られてきた違憲性の判断基準の1つであるが、政治的、社会的基盤の全く異質な我が国において、法律の違憲性を判断するに際し、かかる基準をそのまま持ち込んできて、これによらなければならないいわれはない。いわゆる猿払事件に関する最高裁判所昭和49年11月6日大法廷判決(民集28巻9号393頁)は、
「各国の憲法の規定に共通するところがあるとしても、それぞれの国の歴史的経験と伝統はまちまちであり、国民の権利意識や自由感覚にもまた差異があるのであつて、基本的人権に対して加えられる規制の合理性についての判断基準は、およそ、その国の社会的基盤を離れて成り立つものではないのである。」
と述べ、社会的諸条件を無視してLRAの基準その他外国の立法例等を
「そのままわが国にあてはめることは、決して正しい憲法判例の態度ということはできない。」
と戒めている。我が国において違憲審査を行うに当たり、最高裁判所が採つてきた後記2の「合理性」の基準をこの際放棄してまでも、アメリカ連邦最高裁判所がある種の事案について採つてきた判断基準たるLRAの基準によらなければならない根拠を見出すことは、極めて困難というべきである。
[25](5) 以上の次第で、裁判所において本件改正等が違憲であるかどうかを審査するに際し、LRAの基準を採用することは、全く当を得ないものというほかはない。
[26](6) なお、原判決は、本件改正にLRAの基準を適用するに当たり、在宅投票制度に伴う
「弊害の是正という立法目的を達成するために在宅投票制度全体を廃止するのではなく、より制限的でない他の手段が利用できなかつたとの事情について、被告の主張・立証はない」
から、本件改正は前記立法目的達成の手段としてその裁量の限度を超え憲法15条等に違反する旨判示する。
[27] しかし、右判示は、控訴人に対し法改正が違憲でないことについて主張・立証責任を負担させることに帰するのであるが、そもそも法律には合憲性推定の原則があるのであるから、むしろこれを違憲であると主張する者(本件では被控訴人)が明白な反証を挙げてこの推定を破らなければならないのであつて、これとは逆に合憲性を主張する控訴人にこの点の主張・立証責任を負わせた原判決は、LRAの基準の適用の上で重ねて誤りを犯したものというべく、この点からも失当といわなければならない。

2 合理性の基準について
[28](1) ところで、憲法47条は、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」と規定して、選挙の具体的実施方法等については法律の定めに委任している。けだし、選挙の具体的方法については、性質上、技術的考慮を要すること等の理由から、憲法は、これを立法府の裁量にゆだねたのである。従つて、立法府の右の選挙方法等に関する立法の結果、選挙権を有する国民が実際に選挙権を行使するにつき、何らかの制限を受ける結果になつた場合に、当該立法が違憲であるか否かを判断すべき基準としては、その制限が明らかに合理性を欠き、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められる場合に限りこれを違憲とするという、いわゆる「合理性」の基準によるべきである。ちなみに、以上の原則を原判決は「明白の原則」と呼んでいる。
[29] 思うに、国会は、主権者たる国民によつて直接選挙された議員により構成された国権の最高機関であるとともに、国の唯一の立法機関である。従つて、このような国会が定めた法律に対しては、選挙民に責任を負つていない裁判所としては、違憲審査権の行使において極めて慎重でなければならず、軽率に違憲と断定すべきでないことはいうまでもない。
[30] そして、選挙の実施方法の問題は、技術的に複雑な要素が微妙に関連する選挙につきその円滑な運営を確保する上での要請と、一方において選挙の自由・公正を害してはならないという要請とを比較考量するなどして、価値選択の上政策決定すべき問題であつて、何が便宜であり、何が適切であるかに関する裁量事項であるから、正しく政策決定を行うことをその本来の使命とする立法府たる国会において決定するのが最も適切である。しかも、このような立法を行うに当たつては、国会は立法を基礎付ける事実状態を調査した上、いかなる実施方法が最も現実的に適切・妥当な方法であるかを探究して立法をすべきものであるが、裁判所は、前記(一)の(2)において述べたように、その調査能力において国会に著しく劣るものである。また、立法府は社会状態の変化に対応して時宜にかなうよう自由に立法を訂正し得るのに対し、裁判所の判断は論理判断であるため性質上当然に硬直なものにならざるを得ず、立法のように容易に改めることが困難である。その上、いつたん違憲判決が下された場合には、立法府は当該判決における公権的解釈に事実上拘束され、社会状態の変化に即応して修正することが実際上不可能な事態に立ち至るのである。従つて、裁判所は、このような問題を決定するについて適切な機関ということはできない。
[31] また、アメリカにおける違憲立法審査の在り方についていわゆる司法消極主義の基礎理論を樹立したといわれるJ.セイヤーの次のような論述は、右の合理性の基準のよつて立つ基盤を理解する上で有益である。
「単に正当かつ正確な解釈によれば法律は違憲であると結論されるという理由だけで、裁判所は当然のこととして法律を無視することはできない。……裁判所は、法律を作る権限をもつ者が、単に誤りを犯しただけでなく、極めて明白な――合理的に疑問の余地のないほど明白な――誤りを犯したときにだけ、法律を無視し得るにすぎない。これが裁判所の〔法律審査の際の〕基準である。……このルールは、大きくて複雑な、常に広がる政治の要請を顧慮して、一人の人又は一団の人にとつて違憲と思われる多くのものが、他の人には合理的にそう思われない可能性があること、憲法はしばしば異なる解釈を認めること、しばしば選択と判断には一定の幅が存在すること、そのような場合に憲法は議会に何か一つの特殊な意見を課するのではなく、右の選択の幅を開かれた状態にして残していること、そして、選択が合理的であるものは何でも合憲であることを認めるのである。」(J.Thayer, The Origin and Scope of the American Doctrine of Constitutional Law, 7 Harvard Law Review 129,144)
 議会の行為がその権限内かどうかは裁判官によつて決定されなければならないが、「そのような場合に、裁判上の問題は第二次的な問題であることが常に記憶されるべきである。議会は、何を実行するか、何が実行するのに合理的であるかを決定する際、裁判官とその職務を分かつわけではないし、何が慎重な立法又は合理的な立法であるかについての裁判官の観念に従わなければならないわけでもない。司法機能は、ただ、合理的な立法行為の外側の境界、すなわち課税権、公用収用権、警察権及び立法権一般が、憲法の禁止を犯したり、又は憲法の授権した線を踏み越えたりすることなしには行くことのできない限度を定めることである。」(Thayer, supra 148)
「裁判所が単にある文章の真の意味を確かめたり適用したりするためにそれを解釈しようとする場合には、なるほど許される意味はただ一つしかない。すなわち、裁判所は何がその真の意味かを判定する。しかし、このことは、究極の問題が右のような問題ではなく、他の部門、職員又は個人の一定の行為が合法的であるかどうか、また許されるかどうか、という問題である場合には、当たらない。我々が検討してきた種類の事件においては、究極の問題は何か憲法の意味であるかではなく、立法を支持することができるか否かなのである。……裁判官にとつての問題は、単に賛否の理由のうちいずれが重さにおいて勝るかの問題ではなく、何が極めて明白――つまり合理的な疑いをいれないほど明白――であるかの問題である。このことを裁判官が絶えず宣言することは、実に、法律の合憲性を支持する彼らの判決が、いうまでもないことながら、憲法の真の解釈に関する彼ら自身の意見を意味するものではないこと、そして、彼らがある法律を合憲と判定したときには、その判決文言の厳格な意味はただ次の点、すなわち合理的な疑いをいれないほど違憲ではないという点にあることを確実に示すものである。」(Thayer, supra 150-151)
[32] 以上詳述した理由からすれば、裁判所は、この種の違憲立法審査権を行使するに当たつては、選挙権の行使に付される制限の程度等について、国会の技術的、政策的配慮に基づく裁量的判断を尊重し、それが著しく不合理な場合に限りはじめてこれに干渉すべきものと解されるのである。
[33](2) そして、我が最高裁判所も、国民の憲法上の権利を制限するにつきこの「合理性」の基準に依拠しているのである。即ち、先ず、最高裁判所昭和40年7月14日大法廷判決(民集19巻5号1198頁)は、地方公務員法52条1項の合憲性が争われた事案について、
「憲法28条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することを許さないものであるが、絶対無制限のものではなく、公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないこと、当裁判所の屡次の判決の示すところである(昭和28年4月8日大法廷判決、刑集7巻4号775頁、昭和25年11月15日大法廷判決、刑集4巻11号2257頁参照)。そして、右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでないかぎり、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である。」
と判示し、また、最高裁判所昭和47年11月22日大法廷判決(刑集26巻9号586頁)は、小売商業調整特別措置法3条1項、同法施行令1条、2条の所定の小売市場の許可規制の合憲性について、同趣旨の判示をしている。更に、最高裁判所昭和49年4月25日第1小法廷判決(判例時報737号3頁)は、参議院地方区選出議員の各選挙区に対する議員数の配分が不均衡であり、かかる不均衡な状態でなされた参議院議員選挙は憲法14条1項に違反し無効であるか否かが争われた事案について、
「参議院地方選出議員の各選挙区に対する議員数の配分は、選挙人の選挙権の享有に極端な不平等を生じさせるような場合は格別、そうでない限り、立法府である国会の権限に属する立法政策の問題であつて、それが選挙人の人口に比例しないという一事だけで、憲法14条1項に反し無効であると断ずることができないことは、当裁判所大法廷判決(昭和38年(オ)第422号同39年2月5日判決・民集18巻2号270頁)の判示するとおりであり、現行の公職選挙法別表第二が選挙人の人口数に比例して改訂されないため、所論のような不均衡を生ずるに至つたとしても、その程度ではいまだ右の極端な不平等には当たらず、したがつて、立法政策の当否の問題に止まり、違憲問題を生ずるとまで認められない」
と判示し、本件と同じ国会議員の選挙に関する事項について極端な不平等を生じさせるような場合を除き、立法府の立法政策の問題であるとしている点で、前記の合理性の基準と軌を一にする見解を採ることを明らかにしている。また、前掲の最高裁判所昭和49年11月6日大法廷判決(いわゆる猿払事件の判決)も、国家公務員法102条1項及び同項の委任に基づく人事院規則14-7の合憲性について、
「公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。」
と述べ、前記法規の合憲性の判断基準として一種の「合理性」の基準を採るべきことを示している。
[34](3) ところで、原判決は、選挙権について、
「司法審査の及ぶ範囲を……極めて限定的に解するに至るならば、選挙権の行使を不当に制約する疑いのある立法がなされた場合に、その復元について選挙に訴えることそのものが制約され、民主政の過程にこれを期待すること自体不可能とならざるを得ない」
と述べて、明白の原則すなわち合理性の基準を採用し難いと判示する。
[35] 右の判示は一見もつともらしく聞こえるけれども、かかる論法をもつてすれば、選挙に訴えること以外に復元する手段のない法改正は、たとえその法改正が憲法上許容され立法政策としても望ましく、立法裁量の範囲内のものであつてもすべて司法審査に服することになるが、これは、我々の法常識に著しく反するのみならず、立法に対し裁判所が余りにも立ち入りすぎることを意味するものである。しかも、前記(一)で述べたように本件改正は何人に対しても選挙権行使につき法律上制約ないし規制を加えたものではなく、また、実際上も後記(三)の(2)で述べるように在宅投票以外の方法によつて選挙権を行使することも可能であるから、選挙に訴える以外に復元の手段はないとの右判示は、この点においても誤つている。
[36](4) それゆえ、本件改正等が違憲であるか否かを審査するに当たつては、右にみたような「合理性」の基準によるべきものといわなければならない。

3 合理性の基準の適用について
[37] 既に前記(一)で述べたごとく、被控訴人は本件改正等によつて選挙権を行使するにつき何ら法律上の規制を受けたものではないから、本件改正等が違憲と判断される余地はないのであるが、仮に、本件改正等が被控訴人の有する選挙権の行使を制限するものと解されるとしても、右の「合理性」の基準によつて判断するとき、本件改正等は合憲というべきである。その理由は、以下に述べるとおりである。
[38](1) 日本国憲法上国民に保障されている基本的人権には種々のものがあり、講学上、自由権、参政権、受益請求権、社会権等に分類されている。そして、自由権は、憲法上、国民の利益を保障するためある種の国法の定立が禁止される関係(消極的な受益関係)に立つ場合の国民の地位であり、参政権とは、国民が国法の定立その他の国家活動に参加する関係(能動的な関係)に立つ場合の国民の地位とされている。したがつて、言論の自由、信教の自由等の自由権は、国家が存立する以前から人民が有していた、いわば天賦の人権であり、前国家的権利であるのに対し、参政権は、国家の存立を前提として認められ、かつ、国家の規律を本来予想している権利であるから、参政権の行使方法については、各国の歴史的、社会的諸条件により規制されるところが決して小さくない。従つて、権利の行使に対して加え得る規制については、参政権の行使方法についての規制の場合には、自由権についての規制の場合よりも立法府にゆだねられた裁量の範囲が広くあつてしかるべきである。
[39](2) 本件改正前には在宅投票制度が認められていたのであるが、既に控訴人が原審において指摘したように、その在宅投票の方法は、投票の記載が選挙管理委員会の管理が行われていない家庭内等で行われるため、投票の秘密保護が著しく害されるほか、選挙人以外の者が不正に選挙人に代わつて投票用紙を入手して投票するなど選挙の自由・公正を期し難いという弊害を本質的に含んでいた。現に、昭和26年4月に施行された統一地方選挙では、在宅投票制度に関連して数多の法律違反の投票が行われた。そして、これらの違法な投票により、個々の当選者の当選取消事例にとどまらず、選挙全体が無効とされた事例が相当数続出し、その影響するところは極めて重大であつた。
[40] そもそも、投票の秘密保護は、選挙人が自由な意思で投票することができるようにするために絶対に必要な制度であることは、諸国の永年の経験の示すところであつて、秘密選挙制は、普通・平等・直接選挙制と並んで議会議員の選挙についての近代選挙法の基本原理であるとされており、憲法15条4項も「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」として秘密投票制度を保障している。そして、これを受けて公職選挙法は、投票の秘密を確保する方法として、無記名投票(46条2項)を規定するほか、投票用紙公給主義(45条、68条1号)、投票記載場所の施設規制(39条、公職選挙法施行令32条)、混合開票主義(66条2項)、投票の秘密侵害に対する罰則(226条2項、227条)など多数の規定を設けているのである。
[41] それゆえ、秘密投票の確実な履行の保障は、選挙が自由、公正に行われるための基本的な前提条件であることは、前記の諸規定からしても明らかであり、それは選挙権の行使の保障に劣らず重要なものということができる。そして、本件改正は、このように秘密投票制度を保護するとともに、選挙人以外の者が不正投票をする弊害を防止し、もつて選挙の自由・公正を図るために已むを得ず行われたものであるから、本件改正の目的は合理的なものとして是認されるべきである。
[42] また、本件改正によつて、従来在宅投票制度の恩恵に浴していた身体障害者らは自宅において投票する便宜を喪失したのであるが、都道府県の選挙管理委員会が指定する病院、老人ホーム、身体障害者更生援護施設、保護施設、国立保養所等に起居している者に対しては一定の場所における不在者投票を認めることなどにより、これらの者に対し投票を行うについての便益を供与するよう配慮されている。更には、これら施設に入所していない者も、車椅子、担架、自動車等の手段を利用し、あるいは補助者を介して投票所に自ら赴いて投票するみちは残されているのであつて、選挙権ないしその行使の機会を奪われたわけでなく、我が国の現在の社会的条件に照らして、本件改正等は合理的制限の程度を著しく超えたものとはいえないのである。
[43](3) 以上に見たとおり、本件改正等は、合理性を欠き、立法府が選挙の実施方法等を立法により定めるべくゆだねられた裁量権を著しく逸脱したものとは到底いえないから、何ら憲法に抵触するものではない。
[44] 被控訴人は、憲法14条1項及び44条の保障する平等は国民の各々の置かれた状況に応じて異なる取扱いが必要とされる実質的・機能的平等であつて、投票所に行くことが不可能ないし困難な者については、その身体的状況を考慮した投票方法を定めることを要請するものであるところ、衆参両議院の議員がかかる趣旨にのつとつたいわゆる在宅投票制度を廃止する昭和27年法律第307号を制定したこと及びその後右制度を復活させる措置をとらなかつたことは、憲法14条1項及び44条に違反する旨を主張し、原判決も右と同様の見解の下に、本件改正が被控訴人のような身体障害者の投票を事実上不可能又は著しく困難とするものであり、かつ、これを已むを得ないとする合理的理由もないとの理由に基づき、本件改正は憲法の右各条規等に違反する旨判断している。
[45] しかしながら、被控訴人の右主張及び原判決の右判断が理由がないことは、以下に述べるとおりである。

1 平等原則の形式性
[46](1) 近代憲法における平等主義の原則は、人間生来の平等を措定する近代の合理主義的自然法思想、神の前の平等を説く宗教的思想、身分的要素を脱落させ抽象的人格を措定した近代法の性格、平等価値を実現しようとする近代的政治原理としての民主主義の理念等の近代的諸要因の下に、アメリカ・フランス等を始めとする近代国家の憲法の中に規定されるに至つたものであつて、前近代的な差別的法制度を撤廃し、法的取扱いにおける一切の非合理的差別を禁止する趣旨に出たものであることはいうまでもない。しかし、右に述べた近代民主政治の理念としては、平等の観念と相並んで自由の観念が存するのであつて、かかる自由と結びついた近代民主政治の理念としての平等は、実質的な平等ではなく、形式的な平等にとどまらざるを得ないのである。けだし、
「『法の前の平等』を育成したものは、各個人の生活条件を平等にし、各個人を自由な人格とするも、実質的不平等に手をふれないという平等の観念にほかならなかつた。」(伊藤正己・「法の前の平等」・法の支配176頁)
からである。
[47](2) 憲法14条1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人格、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定して、国民が法の与える利益の面においても、また、法が課する不利益の面においても、均等の取扱いを受けるべき旨を定めているのであるが、右規定は「差別されない」という消極的文言を用いており、また、我が国が自由主義を基調とする民主政治体制を採つている以上、前記(1)の近代憲法について見たのと同じく、国民のあらゆる生活面での均等化ということは国政の指導目標とされていないのである。従つて、右規定は、国民に対し現実の不平等を是正して実質的平等を実現するよう国家に要求し得ることまで保障したものではなく、消極的に国家による不平等取扱いを禁止するという形式的な平等を保障するにとどまるものと解すべきである(伊藤・前掲176、191頁、法学協会・註解日本国憲法上巻352頁、田上穣治・憲法要説72頁、小林直樹・憲法講義(改訂版)上306頁、芦部信喜・「法の下の平等」法律学演習講座憲法102頁、有倉遼吉・憲法感覚と憲法解釈117頁、中村哲・日本国憲法の構造178頁等参照)。そして、憲法44条ただし書の規定についても、この点において右と別異に解すべき理由はない。
[48](3) 次に、従来の判例を見ると、この点について直接判断を示したものは見当たらないが、最高裁判所は、臨時物資需給調整法4条が罰金刑を定め、刑法18条が罰金を完納することができない者に対する労役場留置の換刑処分を定めていることは、財産の有無により実質上の懲役刑を科せられるか否かを決めることになるし、罰金刑自体財産を有する者とこれを有しない者に対して与える苦痛が異なるから、憲法14条に違反すると主張して上告した事件について、
「憲法14条の規定する平等の原則は、……法的平等の原則を示しているのであるが各人には経済的、社会的その他種々な事実的差異が現存するものであるから、一般法規の制定又はその適用においてその事実的差異から生ずる不均等があることは免れ難い」
とし、結局
「罰金刑が受刑者の貧富の程度如何によつてその受刑者に与える苦痛に差異があることは貧富という各人の事実的差異から生ずる必然的な差異であり刑罰法規の制定による社会秩序維持という大局からみて已むを得ない差異である」
旨判示し、憲法14条1項が形式的な平等の保障にとどまり、事実上の不平等を是正するものでないことを明らかにした(昭和25年6月7日大法廷判決、刑集4巻6号956頁)。また、同裁判所は、民訴法398条、民訴規則50条が上告理由書提出期間につき到達主義によることとしている点が平等原則に反するか否かが争われた事案について、
「民訴398条同規則50条による上告理由書提出期間は、当事者のすべてに、等しく上告受理通知書の送達を受けた日から50日と定められておつて、人によつて利益不利益の差別を設けているのではない。論旨の主張する裁判所への遠近の差異とこれによつて生ずる当事者の利益不利益とは、たまたま当該当事者の置かれる地理的条件からくる単なる個人的事情に過ぎない。されば民訴規則50条の定める上告理由書提出期間の計算が到達主義によるものであるからといつて、これをもつて憲法の所論条規に違反するものといえない」(昭和34年7月8日大法廷決定・民集13巻7号955頁)
として、形式的平等の観点から、事実上の差異を考慮することなく、右規定を平等原則違反でないと判断している。
[49](4) ところで、更に、我が国の憲法体制の下において憲法14条及び44条がいわゆる実質的平等を保障するものであると解するとすれば、被控訴人の主張するように異なる社会的状況に置かれている者については国がその状況に応じて異なる取扱いをしなければならないことになるのであるが、このような解釈をとり得るかどうかについて、若干の具体的事例に即して検討することによりその具体的意味を明らかにすることにする。
[50] まず、国民の教育を受ける権利に関して、国は、能力の等しい者に対し完全に等しい教育の機会を与えるべく、各人の個別的事情の差異に対応する財政的その他社会的条件を整備することが現実に可能であろうか。また、仮にそれが可能であるとしても、そうしないと憲法の平等原則に反することになるというべきであろうか。また、仮に、公務員の定年退職制を採用するとすれば、その場合には画一的な年令による定年を定めることは平等原則上許されず、労働能力とか家族の要扶養状況その他もろもろの個人的差異に対応した規定を設けなければならないことになるのであろうか。更に、選挙権に限定してみても、例えば、設置し得る投票所の数には限度がある以上、選挙権を有する者の間に投票所の遠近による利益・不利益の差異が生ずることは不可避であるが、この不均等についても何らかの形で補う措置(例えば、必要な交通費の補償、日当の支給等)をとらなければ違憲になるのであろうか。また、選挙人中の経済的窮迫者に対しては投票に要する時間において失うべき労働賃金その他の逸失利益の補償をしなければならず、選挙当日病気中の者に対しては自動車や介助者の便あるいは医療等を提供しなければ、いずれも平等原則違反になるであろうか。
[51] 公務員を選挙する権利は、同じく民主主義を支える権利であつても、他の古典的な生まれながらにして奪われることのない自由権とはその本質において差異があり、自己の属する国家、社会における政治への積極的参加という個人の自発性がより強調され、重視されるべき性質のものとされている(久保田きぬ子・「最新判例批評626」判例時報486号149頁参照)ことに照らして考えると、右に掲げたような設問について肯定の結論を出すこと、すなわち選挙権行使について実質的平等保障の原則が貫撒されなければならないとすることがいかに非現実的であるのみならず、選挙権の本質にもそわないものであるかが明らかになろう。もちろん以上に掲げた設例は、被控訴人の主張する場合と全く同じとはいえないにしても、しよせんは程度の差にすぎないのである。人の政治的、経済的及び社会的諸条件における差異はほとんど無限といえるから、仮にそのうち重要なものに限るにしても、すべてこれらに対応して実質的に平等な取扱いをすることは、自由主義を基調とする日本国憲法の下においては、不可能であるとともに不相当というほかない。むしろ、このような実質的平等は、ある程度憲法上の社会権の保障その他の規定によつて実現されることが予定されているものと考えるべきであり、これはもはや憲法14条、44条の規定の妥当する範囲外の問題というべきである。

2 平等原則の相対性と立法裁量
[52](1) ところで、既に前記1において見たように、人は本質上相互に平等であり、その限りにおいて法的平等の取扱いを要求し得るのであるが、具体的な人間は事実上多くの差異を有するのであるから、このような差異を前提とせざるを得ない場合があり、それに相応した法的取扱い(相対的平等)が必要とされることがあるのである。従つて、かかる差異に基づく合理的な法的差別は平等原則に反しないものと解され、このような見解(相対的平等説といわれる。)は、通説、判例であるとされている(伊藤正己・「法の下の平等」公法研究18号18頁、阿部照哉・「平等原則の適用」法学論叢63巻2号78頁参照)。
[53](2) しかし、判例の立場は、例えば
「憲法14条は法の下の平等の原則を定めているが、各人には経済的・社会的その他種々の事実関係上の差異が存するものであるから、法規の制定またはその適用の面において、右のような事実関係上の差異から生ずる不均等が各人の間にあることは免れ難いところであり、その不均等が一般社会観念上合理的な根拠に基づき必要と認められるものである場合には、これをもつて憲法14条の法の下の平等の原則に反するものとはいえない」(最高裁昭和39年11月18日大法廷判決・刑集18巻9号579頁)
という判示に代表されるように、事実上の差異に応じた法的取扱いの要求といつても、かかる差異に基づく合理的な差別は平等原則によつて禁止されることはないという消極的な趣旨にとどまるのであつて、その域を超えて、国はこのような合理的差別を積極的に行うべき義務があり、かかる差別をしないことが平等原則に反するということまでは意味しないのである。そして法の下の平等の保障が右の後者のような積極的な意味まで含むことを肯定した判例はなく、かえつて、既に実質的平等の保障に関して指摘したとおり、このような平等の積極的保障の必要性は判例上否定されているのであつて、それが理論的にも正当であることは既に前記1において明らかにしたとおりである。
[54](3) してみると、結局、憲法14条1項の規定は、国は国民を法律上形式的に平等に取り扱うべきであるが、当該国民の間に実質的な差異がある場合にはこれに対応する合理的取扱いをすることを妨げないとの趣旨に解すべきであつて、後者の実質的差異による合理的差別取扱いをするか否か、又はどの程度これを行うかは、直接憲法14条、44条の規定の関知するところではなく、右の合理性の存する限り、政治的、経済的又は社会的関係における立法政策の問題に属するものというべきである。
[55] 思うに、憲法47条によつて投票の方法その他衆参両議院議員の選挙に関する事項が立法府たる国会の裁量にゆだねられていることは、既に詳論したところであつて、国会がこの憲法の授権に基づき、これら選挙に関する事項を立法するに当たり、複雑多岐にわたる社会組織の下で多数の選挙人によつて行われる選挙を混乱なく公正かつ能率的に執行するため、その裁量内の範囲において、一定の投票方法を選択することはもとより許容されるところである。そこで、ある種の選挙人について一般の者と同様に投票所投票主義の原則を貫くか、それとも特に郵便投票、巡回投票その他の投票のための便宜供与制度を設けてその事実上の差異に対応した取扱いをすべきかは、選択の余地のないほど明らかな事柄ではなく、結局前記のような選挙制度全体の適正な運営の確保等の観点から総合的に判断して決定すべき立法政策上の問題というべきである。そして、本件改正に基づく在宅投票制度の廃止により原則として投票所における投票しか認められなくなつたため、身体障害等という事実上の差異によつて選挙権の行使が困難となる者が生ずるとしても、本件改正等が形式的平等の保障ないし相対的平等の消極的保障を定めていると解される憲法14条1項及び44条の規定に反するものでないことはいうまでもなく、更に本件改正が、大量の不正投票を防止し、かつ、投票の秘密を確保することなどのために必要かつ已むを得ないものであつたことにかんがみ、それは合理的な裁量の範囲内の立法であるといわなければならない。
[56] 仮に、原判決が判示するごとく国会の違憲立法等について国家賠償責任が論ぜられる余地があるとしても、本件改正等に当たつた国会議員には故意又は過失がないから、控訴人はそれによつて生じた損害について賠償責任を負わないものというべきである。

[57] 国賠法1条1項によつて国がその公務員の行つた不法行為について国家賠償責任を負担すべきものとされるには、当該公務員個人について民法709条に規定する不法行為の成立要件を具備すべきことは、既に述べたとおりであり、本件改正等についても国会議員の故意又は過失が存することを要するのである。このことは国賠法1条1項が明記するところであつて、国家賠償の本質につき代位責任説を採るかどうかによつて結論を異にするものではない。
[58] ところで、国会のように多数の構成員からなる合議体の行為について故意・過失を検討する場合に、個々の構成員の故意・過失を問題とすることなく合議体たる国会自体のそれを論ずるをもつて足りるとする原判決のような見解は、国賠法1条1項の明文の規定に反する上、そもそも構成員の故意・過失を離れて組織体自体のそれはあり得ないこと、また、同条2項に当該公務員に対する求償規定が存在することに照らして失当というほかない。
[59] しかし、仮に、この点について原判決のような立場を採るとしても、合議体の個々の構成員について故意ないし過失が存しない場合には合議体自体のそれも存しないものと解するほかないところ、本件改正等に当たつた当該国会議員には、以下に述べるとおり故意はもちろん、過失も存しなかつたものである。

[60]2(1) 原判決は、国会が立法をするに当たつては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議・検討すべき高度の注意義務を負うのに、本件改正については、その審議経過から見て、右注意義務に違背する過失があつた旨判断している。ところで、原判決は、右のような過失を認定するについては本件改正に関する国会の審議経過等を検討しているのであるが、その検討の仕方は、いわゆるLRAの基準を採用した上でその立場からしたものであり、在宅投票制度の悪用による弊害を除去するという「同じ立法目的を達成できるより制限的でない他の選び得る手段」が存しなかつたか又はこれを利用することができなかつたかという点について国会が十分な審議・検討を尽くしたか否かという観点のみから検討を加えているにすぎないのである。かかる検討の結果、原判決は、
「結局、国会において、在宅投票制度全体を廃止することなく上記弊害を除去する方法がとりえないか否かについて十分な検討がなされた形跡は見あたらないし、投票制度に伴う技術的問題を含む諸種の事情を検討して右方法がとりえないものであつたことを窺わせるような論議ないし資料が右審議過程に提出された形跡も見あたらない。」
と結論しているのであるから、この点から国会の過失を認定したものと見るほかない。
[61](2) ところで、右判示は、国会が本件改正当時既にその合憲性の判断に当たりいわゆるLRAの基準を採用し、そのような見解の下に「より制限的でない他の選び得る手段」の存否について審議・検討し得たことを前提としているものであることは、判文の上からもまたこれに先行する判示からも明らかであるところ、本件改正当時においては、LRAの基準の考え方はいまだ我が国には導入されておらず、国会がそのような法的見解に達すべき客観的条件は全くなかつたのであるから、原判決における過失の認定は、その前提を欠き失当というべきである。
[62](3) そして、右のような当時の法解釈の状況からすれば、国会が本件改正に及び、原判決によつて違憲立法であるとの指摘を受けるに至つたのは、在宅投票制度に伴う弊害を除去するためのより制限的でない他の選び得る手段の存否についての審議・検討が十分でなかつたためではなく、むしろ選挙の方法に関する本件改正につき原判決の指摘する憲法15条、44条、14条違反の事態があるなどとは全く考えなかつたからであると見るのが相当である。
[63] してみると、国会の本件改正における過失の有無は、原判決のようにより制限的でない他の選び得る手段についての審議・検討が尽くされたか否かの観点からではなく、その当時の国会が本件改正を合憲と解したことについて、その表決に当たつた国会議員がその職務上要求される注意力をもつてすれば原判決の指摘する問題点に気付くことができたか否かの点から判定すべき事項というべきである。
[64](4) そこで、右のような観点から本件改正当時における在宅投票制度廃止をめぐる憲法解釈の状況を見ると、判例・学説上当時この問題に関する見解を明らかにしているものは見当たらない。また、本件改正に先立ち昭和26年5月衆議院に設けられた公職選挙法改正に関する調査特別委員会においては、本件改正を含む問題点について各政党の改正意見が述べられ、続いて同委員会は全国選挙管理委員会、国家地方警察本部及び法務府の関係者から改正意見等を聴取し、更に各地の選挙管理委員会、地方議会、公安委員会及び検察庁等と選挙法改正に関する意見の交換を行つたほか、同委員会の調査小委員会においても本件改正その他について審議が続けられたが、これらのあらゆる過程を通じて本件改正のような立法が違憲であるとかその疑いがあるとかの意見が表明された形跡はない。更には、同年同月に多数の学識経験者から構成された内閣総理大臣の諮問機関である選挙制度調査会(会長―牧野良三全国選挙管理委員長)は、不在者投票制度等について各地の選挙管理委員会の関係者から意見聴取を行つたが、本件改正についてその合憲性を問題にする者はなく、また、不在者投票及び代理投票について検討した同調査会第1委員会(宮沢俊義委員長)においても、憲法学の権威者を含む一部の委員から制度の早急な廃止について問題点の指摘がされたが、それも制度存続の妥当性に関するものにとどまり、本件改正の合憲性について疑義を差しはさむものは全くなかつた。そして、結局、同調査会は、本件改正に沿う趣旨で、
「病人等の不在者投票は、都道府県の選挙管理委員会の指定する病院等においてする場合に限ること」
と答申し、右答申要綱は、衆議院の前記特別委員会に提出されたのである。
[65] また、本件改正に係る法律案の衆・参両議院の審議過程においても、本件改正について合憲性の観点からする問題点の指摘等が行われたという形跡は全くない。
[66](5) 以上検討したような本件改正当時における在宅投票制度の廃止をめぐる憲法解釈の状況からすれば、本件改正の表決を行つた当該国会議員らが、その職務上要求される知識と能力に基づく注意力をもつてしても、本件改正が原判決の指摘する違憲という結果を生ずると認識して、これを避け得たものとすることは到底なし得ないのである。したがつて、右国会議員らが本件改正について過失があつたとすることはできず、結局、原判決のように国会に過失があつたものと断ずるのは、誤りであるといわなければならない。
[67](6) なお、被控訴人は、国会が本件改正後在宅投票を復活させる立法をしないことを違憲として、このような結果を生じたことについても国会議員に過失があつた旨主張する。
[68] 確かに、昭和43年3月25日旭川地方裁判所がいわゆる猿払事件の第一審判決において政治活動の自由の制限についてLRAの基準と同趣旨の基準を適用して(下級刑集10巻3号293頁)以来、この基準を政治活動の自由や労働基本権の制限について適用する見解が現れ(右猿払事件の第二審判決である札幌高裁昭和44年6月24日判決・判例時報560号30頁のほか、東京地裁昭和46年10月15日判決・判例時報645号29頁、東京地裁同年11月1日判決・行裁例集22巻11・12号1755頁等)、学界の論議も呼んだのであるが、LRAの基準ないしはこれと類似の見解が特に在宅投票制度の廃止・復活その他選挙方法に関する問題について論ぜられたことは原判決言渡しまではほとんどなかつたのである。また、前記(二)においてみたように、そもそもLRAの基準には、種々の難点がある上、最高裁判所の判例も国民の憲法上の権利の制限については「合理性」の基準を用いているのである。したがつて、仮に、国会が在宅投票制度を復活しないことが違憲であるとしても、その基礎理論であるLRAの基準の可否について学説・判例が区々に分かれ、解釈に疑義があり、また、本件改正等の合憲性自体についてはこれを問題とする学説・先例がほとんどなく、結局定まつた解釈もない状況の下にあつては、国会議員が本件改正等が合憲であるとの見解を採つて特に在宅投票制度を復活する立法を行わないことに過失があるといえないことはいうまでもない。

[69] ところで、原判決が本件改正における国会の過失を認定するに当たり、国会がLRAの基準の立場に立つて在宅投票制度に伴う弊害を除去するためにより制限的でない他の選び得る手段を採り得ないか否かについて十分な検討をしたかどうかとの観点から判断していることが理論上不当なことは既に述べたところであるが、仮に右の判断の方法が相当であるとしても、右の点を専ら国会の審議経過のみから判断するのは、不十分といわなければならない。けだし、法改正の問題点のうちでも、審議前に各議員が既に了解している事項もあろうし、国会の審議外の場において論議され各政党の意見の調整が図られることもないとはいえないから、これらの問題点がすべて審議の表面に現出するとは限らず、さりとて、これらの問題点が等閑視されているとは限らないからである。
[70] 現に、選挙制度調査会の第1小委員会においては、病人等の在宅投票制度の改正の妥当性の観点からではあるが、弊害を除去しながら同制度を存続させる方法として郵便投票制度のみの存続が検討されたのであり、このような検討を経た上で作成された同調査会の答申の要綱が衆議院の調査特別委員会に提出されたのであるから、右のような問題点について国会議員が認識してこれを検討したことはないと、一概にきめつけることはできないわけである。

[71] よつて、本件改正等に当たつた国会議員に故意はもとより過失も存しなかつたことは明らかである。
[72] 被控訴人は、次のとおり陳述した。
[2] 控訴人の主張の骨子は、「国会の構成員である両議院の議員は院内で行つた演説・討論・評決について院外で責任を問われない(憲法51条)。従つて国会議員は院内での表決等の結果第三者に損害を加えても不法行為責任は問われない。そして国家賠償法は公務員個人の不法行為の要件を充足しない以上適用されることはない。だから国会の立法行為により第三者はいかなる損害を生ぜしめようとも国家賠償は認めえない。」というにある。

[2]1(1) 今日まで国賠法と立法行為について多くの論稿があるが、憲法51条を理由として立法行為に国賠法の適用がないと主張した例はいずれの論稿にも、判例にも見当らない。そのような主張は余りに荒唐無稽であつた。国賠法の立法趣旨と憲法51条との立法趣旨からいつてそれは結びつくはずのないものであつたからこそ、誰もそのような説を唱えたことがなかつたのである。
[3] 法理論は理屈が形式的にとおつていればよいというものではない。官僚法制の下ではともすれば文字の形式的な解釈が中心となる。我国はその伝統にのつてきたが、法律家にとつて大事なのは「リーガルマインド」であることは今更いうまでもない。
[4] だが右の主張には、明らかにこの欠如をみない訳にいかないし、「良き法律家」の典型を眼のあたりにした感が深い。
[5](2) しかもこの主張は、原審口頭弁論において、立法行為に国賠法の適用があることは争わないと明言したにもかかわらず、これをひるがえしてなされているのである。この点は、準備手続まで行つた原審においても争点にしようとすればなしえたところであるにもかかわらず、控訴人は終始これを争点にしないとの態度をとつてきたのであり、当審に至り突如としてこれを争点の第一となし、原判決を攻撃するのは信義に反し、徒らに争点を複雑多岐にするものであつて、審理を混乱させるもとともなるのであるから、時期に遅れた攻撃防禦方法として却下されるべきものである。
[6] 成程、右争点は事実問題に関するものではなく、法律問題に係るところであるから、訴訟法上裁判所は当事者が争わないと述べたからといつて拘束されないという理論はありうるところである。だが当事者が原審で気づかなかつた法律上の争点について控訴審において主張を追加する場合や、特に重大な争点でもなく、それによつて結論が大きく左右されるものでない争点を追加するとか、原審で争点にするかしないか特に問題とされていなかつた法律上の争点の追加の場合ならいざしらず、本件争点は原審においても争点となすか否かが大きな問題となり、再々釈明を求め控訴人は熟慮の末これを争わないと答弁したのである。されば控訴人の原審における準備書面にも本件主張は全くなく、被控訴人においても参考のためにふれたのみだつたのである。ちなみに原審で採用された今村鑑定人の鑑定意見には立法行為と国賠法との関係についての意見が記載されているけれども、これも参考のため鑑定事項に加えられたものにすぎず、右鑑定書提出後の口頭弁論においても控訴人が争わない旨答弁しているのである。
[7] そして他方、学説・判例上も立法行為に国賠法が適用されること自体についてはこれを認めるものが通説・判例であつた。
[8] このような経過からすれば控訴人自身、立法行為に国賠法が適用されると判断されることは覚悟の上であつたものであり、これを今更批判することは誠に当をえないところである。また裁判所としても学説、判例上も争いなく当事者間にも右経過で争いない法律上の争点につき格別詳細に論ずることもなく肯認することは何ら責められるべきことでもないし、控訴審裁判所としても、右事情に鑑み、不誠実きわまりない、審理の引延し戦術ともいうべき本件主張に耳を貸すべきではない。

[9] 参考までに右主張がいかに牽強付会の論であり、「良き法律家」の理屈であるかを述べる。
[10](1) そもそも国賠法は、現代社会において国又は公共団体の機能が拡大し、これに伴い国又は公共団体による私人の権利侵害の機会も増加しかつ被害額も巨額に達することに鑑みその損害を被害者個人に甘受させることも加害公務員個人の責任に委ねることも妥当を欠き、国又は公共団体自身が損害賠償責任を負うことが公の負担の平等という観点からも妥当であるという考え方と、戦前の苦い経験とから憲法17条にその賠償責任をもりこみ、これに基いて立法されたのである。
[11] そしてその第1条の規定の性質については、代位責任説・自己責任説等々説が分れているところであるが、その立法趣旨からいつても自己責任説が有力になりつつあるところであるし、代位責任説をとりながらも公務員の故意・過失を組織化し、客観化するようになりつつあるのであつて、控訴人主張の如き代位責任説の考え方は次第に少なくなりつつある現状にある。
[12] そして立法行為に対する国賠法の適用については、抽象的にはこれを肯定するのが通説であるが、現実には困難であろうとされている。しかしながらどの学説をみても具体的或いは現実に立法行為に国賠法の適用をすることが困難であろうということについて何ら理由を説明していないし、分析もなされていない。まして控訴人主張の如き憲法51条を不適用の根拠となす学説判例は全く存在しない。
[13] 思うに憲法51条は、議員が議院でその職務を行なうに当り、自由に発言・表決できることは民主主義代議制における不可欠の要件であることに鑑み、一般国民に保障される言論の自由以上の保護を与えたものに外ならない。従つてそれは議員の職務としての言論の自由を確保し、議員の職責を全うさせる為のものでありこそすれ、国家賠償制度と何ら敵対関係にあるものではない。前記憲法17条及び国賠法の立法趣旨と憲法51条の立法趣旨とは何ら相反するものではなく、それぞれ別個の目的のために設けられているのであるから、一方の規定が他方を否定することはありえないのである。国賠法1条の性質につき諸説がありながら、そして代位責任説が通説判例ともいわれておりながらも立法行為に対する同法の適用を肯定するのが通説であるということは、正に憲法51条と17条及び国賠法とがその立法趣旨を異にし、互いに否定しあうものではないことを認めているのである。さもなくば、憲法51条を根拠として、抽象的にも立法行為に対する国賠法の適用を拒否する考え方が控訴人の主張を待つまでもなく存在し通説となつているのであろう。憲法51条を根拠として立法行為に対する国賠法の適用を拒否する考え方は誠に憲法各法条の立法趣旨を無視した牽強付会の官僚的法解釈の最たるものである。
[14] 勿論、憲法51条の存在を、憲法17条及び国賠法の解釈に当つて無視してしまうつもりは被控訴人においても毛頭ない。即ち両制度をその制度目的に照して解釈する限りは、国会による立法行為も国家賠償の対象となりうるが、その立法に関与した国会議員個人は民事上の賠償責任を負わないということになる。国家賠償の構成は、公務員の故意過失により第三者に損害を与えた場合(少なくとも軽過失の場合には)当該公務員の個人責任は追及させないこととし、国又は公共団体が責任を負うものとし、もし当該公務員に故意又は重過失があつた場合には求償できるものとしているが、これとの関係でいえば、現行国賠法の下においても、国会議員でない公務員も(少なくとも軽過失の場合には)その個人としての不法行為責任はないのである。ただ一定の場合に求償権があるにすぎない。従つて個人としての不法行為責任が免責されていることは国賠法不適用の根拠とはなりえないのである。
[15] 確かに代位責任説の下においては、国等の賠償責任が肯定されるには当該公務員について不法行為の成立要件を具備しなければならないが、成立要件と有責性とは厳密に区別されるべきものである。刑法的表現を用いるならば構成要件該当性と有責性とは別個のものであり、国賠法の解釈においても当該公務員に不法行為の構成要件該当性が肯定されるならば有責性を備えずとも国等の賠償責任は肯定されてしかるべきである。国賠法が公務員個人の責任追求を否定し(少なくとも軽過失の場合)国又は公共団体の賠償責任を肯定していることは正しく国家の有責性と個人の有責性を区別しているものと考えるべきことを意味している。このことをつきつめていけば代位責任説は崩壊し、自己責任説に至るであろうが、それはさておき、代位責任説に立とうとも、国賠法の立法趣旨に照し、同法が民法原理に修正を加えていることからいつても国等の有責性と個人の有責性とは別個のものとして把え、国等の賠償責任が肯定されるためには、当該公務員の不法行為の成立要件即ち構成要件該当性を具備しなければならないが、それで必要十分であつて当該公務員の有責性は不要であると考えるべきである。
[16] そして代位責任説をとろうがとるまいが、憲法51条が存在しない場合であつても国会議員個人は(少なくとも軽過失の場合には)損害賠償責任を有しないことは国賠法の規定上(他の公務員と同様に)当然のことであるが、51条が存在することにより、国会議員は院内での表決等の場合には法律上ではなく憲法上個人としての賠償責任は存在せず加えて故意重過失の場合でも国からの求償を受けないこととなるのである。
[17] このようにしてみれば院内における国会議員の表決等(本件に則していえば立法行為)は、国家賠償の関係においては個人責任の免責根拠を憲法に有し、かつ求償権をも憲法で否定されているという特殊性をもつ(その他の場合の国会議員の行為の場合には、個人責任の免責根拠は国賠法にあり、求償権についても国賠法によるのであつて、他の公務員の場合と同一ということになる)ということであつて、憲法51条が国賠法の適用を否定する根拠となりえないことは明らかである。
[18] 控訴人は、国が国会議員の立法行為について賠償責任を負うことになれば求償の問題を生ずるが憲法51条により求償しえないことをもつて国に賠償責任を負わすべきでない論拠とするが、しからば一般公務員の場合にも軽過失の場合には求償規定がないので国に賠償責任を負わせるべきでないと論結するのと同じになつてしまう。そもそも求償できる範囲と賠償責任の範囲とが異なることは国賠法自らが肯定していることであつて、求償できないことが賠償責任否定の論拠となりえないことは多言を要しないところである。
[19] 更に控訴人は憲法51条の立法趣旨を云々するが、既に述べたように同条と国賠制度のそれぞれの趣旨は一方が他方を否定するものではなく、立法行為について賠償責任を肯定しても51条の立法趣旨が侵されることはありえないのである。
[20] 翻つて思うに、議員個人の免責が保障される以上、国家賠償の原因となりうる行為についてこれによる侵害を救済せずに放置することは、「国家は悪をなさず」という絶対主義国家の下ならいざしらず、民主主義国家においては許されざることであり、多数の横暴から少数の権利を守る為には残された唯一つの道である国賠法により、違法行為を糾弾することが肯定されなければならない。それによつて議員の表決等の不正は是正されこそすれ、何ら言論の自由は侵されず、むしろ正しい方向へ向うことが期待できるのである。
[21](2) 被控訴人も、国会が立法するに当つて裁量権を有することを否定するものではない。だがその裁量権が絶対のものでないことは明らかであり、限界の存することは控訴人自ら認めるところである。そして裁量権があるからといつてこれを最大限に尊重しなければならないと直ちに論結できるものではない。
[22] 裁量権がある場合にこれを尊重する必要はあるにしても、その裁量権を限界付けている憲法上の諸原理がどのようなものであるのかを十分考察し、そこから裁量権の幅がどれだけあるのか、そしてどの程度裁量権を尊重すべきかを考えるのでなければならない。本件について裁量権を限界付けているのは法の下の平等でありまた国民主権の原理である。これらの憲法上の原理は民主主義国家にとつて欠くことのできないものであり、それだけに立法府たる国会の裁量権を厳しく限定されざるを得ないものである。原判決も判示するように民主主義国家として、民主制への「復元」を不能ならしめるような行為まで裁量権の名において正当化することはできないのである。
[23] また全くの技術的規定の場合と国民主権等の原理に結びつく面を有する技術的規定とでは同じ選挙に関する規定でも裁量の範囲は後者の方がはるかに狭くて当然であり、本件は投票の方法という技術的な面を有する規定に関することでありながら、その定め方によつては参政権の保障を侵害する可能性もあるのであつて単なる技術的規定よりも裁量の幅は、はるかに狭いのである。
[24] 従つて裁判所は国会の立法行為を原因とする賠償責任を、少なくとも本件のような民主主義国家の根幹をなす選挙権の侵害が問題とされる事案においては、裁量権の存在の故に安易に否定することは許されないところである。
[25] そしてこのことは立法しないことの不作為を考えても全く同じことである。成程、立法に関しては第一次的判断権は国会にあるので、立法という形でその判断が示された場合と比べて、未だ国会が立法という形の判断を示していない場合には、裁判所が違憲審査権を行使する場合に慎重な態度が要求されるのが一般であろうが、憲法上立法が義務付けられている場合とそうでない場合とでは自ずと取扱いが変らなければならない。憲法上特定の立法が義務付けられている場合、即ち「法律をもつてこれを定める」というような規定がある場合や、憲法解釈上特定の法律を定めることが予定されているような場合には、国会はその法律を定立する義務を有しているのであり、従つてこれを立法しないのであれば国会は第一次判断権を自ら放棄したか或いは憲法違反を承知しながらあえて憲法違反のまま放置して第一次判断権を消極的に行使したものとみてよいのである。
[26] 従つてこのような場合には、裁判所がその立法しない不作為の是非について論ずるのは何ら三権分立に反するものではない。
[27] そして本件については、憲法上、投票の方法等については法律で定めるものとされ、その際には国民主権の原理、法の下の平等の原則による限界付を守らなければならないことが憲法上予定されているのであり、国会がこれに反して国民主権・法の下の平等の原理に適う投票方法の立法をしないという消極的な第一次判断をしている以上、この可否を司法の場において論ずることは何ら国会の立法権を侵すものではない。
[28] 一般に法律案がいかに慎重な審議のうえで法律として成立するものであろうとも、そのことのみで立法行為における瑕疵(故意・過失)の不存在を証明するものでないことは法律論として明らかなことであり、個々具体的な立法に則してその瑕疵の有無を検討すべきものであるし、本件のように原審指摘のとおり十分な調査検討もなされないまま弊害根絶の目的を一挙に果そうとし少数者の権利への配慮を忘れた立法の如きは正に瑕疵(故意とはいわないまでも重大な過失)のあつた立法といわなければならない。
[29](3) もし控訴人主張のように立法の結果について国会は政治的責任を問われるのみであるとしたならば、憲法の保障する人権は絵に画いた餅となり、民主制は砂上の楼閣と帰し、三権分立は一権独裁となることは、ナチス議会・大政翼賛議会の例をみるまでもなく、必定であろう。
[30](4) 尚控訴人掲記の判例についていえば、いずれも「政治上の責任のみを生ずる」ことの理由付けを全くしておらず、判例としての価値は全くないのみならず、広島高判の上告審判決においては立法行為と国家賠償については全くふれられていないので(昭和44年7月4日最高裁判決)あるから先例としての価値もない。ちなみに立法の不作為が国家賠償の原因となることを肯定した判例として東京地裁判決昭和49年12月18日(判例時報766号76頁)がある。
1 「より制限的でない他の選びうる手段」の基準について
[31](1) 控訴人の主張によれば、米国判例上LRAの原則は、当初経済的自由の制限についての違憲性判断基準として用いられ、後には前国家的権利である個人の基本的自由権制約についての法理とされ、しかもそれが全ての場合に用いられているのではなく、時には合理的制限の範囲内か否かという考え方を用い或いは他によりよい選択可能な手段があると明白に推定できる場合に限つて用いられているという。
[32] 思うに、右主張が仮りに正しいとしても、だからといつてLRAの原則を本件に適用してはならないということはできない。法律(憲法も含めて)解釈の態度として、一つの法原理のよつて来たる経過・背景を知りその適用の限界を画することは必要なことであるけれども、法律解釈は何よりも条理常識に適つたものでなければならないことを忘れてはならない。その法解釈の手法がどの国でどのような時代にどういう意図の下に考案され、どういう場合に適用されて来たのかは大いに参考とすべきものであるが、同時にそれが我々の条理常識に適うものかが重要である。一般に、他にもつとよい方法があるか、そしてそれが選択可能であるかということは、どの時代、どの国、どの民族、どの世代にとつても、行動基準・判断基準として適用することである。
[33] 人間は常に合理性・効率性を追及するものであり、特に近代社会においてそうである。特に目的を有する行為の際に他にもつとよい方法はないか(しかも実現可能な)と考え、それがあればそれによるのが通常であり、それによらない時には批判されるのもまた当然である。目的が複数の場合にも、どの目的をも満足するよりよい可能な方法をと考えそれによろうとするのである。
[34] このような考え方は合理性の考え方と何ら変るところはない。いつてみれば合理性の具体的一内容を表現しているといえるであろう。
[35] 従つてこの考え方を人権制約の場合にも適用することは全く不思議はない。即ち人権制約の場合には、その人権の保障の要請と別個の要請とを調整しなければならないのであるが、双方の要請を満足するよりよい可能な方法をとるべきであるとするのは最も合理的なことである。それはどのような人権の場合でも異なることはない。人権の種類によつてこの考え方をとりえないとするどのような根拠がありえようか。勿論双方の(或いは複数の)要請のどれを重視するかにより、どの方法がよりよくかつ可能かは異なりうるところであるが、それは憲法上どの要請が重視されるべきかの解釈問題であり、どの方法がよりよくかつ可能かという考え方をとりえないことを示すものではない。
[36] 尚合理性基準については合理的かつ必要最少限度(或いは已むを得ない)の制約というような表現がとられるが、これとても合理的か否かという基準に必要最少限度か否かという基準を付加しただけのことであり、より良く可能かという基準に必要最少限度かという基準を付加すれば同じことになるのである。
[37] LRAの原則というのは、より制限的でない他の選択可能な手段の原則ということであるが、これは正に右に述べた、よりよい実現可能な手段というのを人権制約の論理らしく表現しているにすぎないのであつて、右に述べたことから明らかなように、この基準によつて判断することに何ら不都合は生じないし、人間の自然の条理常識として人権制約の論理の場において通用するし、合理性基準と異なる結果を生むものでもないのである。必要最小限度というような要件が足りないことをいうのなら合理性基準と同じくこれを付加すれば済むことであり、結局は、LRAの原則というのも人権制約の是非を考える一つのアプローチの仕方であり、合理性基準と同様のものと考えても(或いは合理性という言葉を広く考えるなら)、当該制約が合理的か否かを考える場合の一手法と考えてもよいのである。このような意味において、控訴人の批判は当らないものであり、原判決判示第四の認定部分をよく読んでみれば本制度廃止に合理的な已むを得ない理由があつたか否かを検討しているのであつて、他により制限的でない選びうる手段という表現をしたことは言葉の問題にすぎないといつてもよいであろう。
[38] 尚本件については原判決も述べているように、廃止までしなくても、つまり権利を奪うところまでいかなくても、権利を生かしつつこれを改善する方法がありえたことは明らかであつて、廃止までするだけの合理的已むを得ない理由は証拠上全く認められなかつたことが明らかな事案である。
[39](2) 更に、控訴人はLRAの原則は違憲審査基準としても不適切であるという。即ちそのような方法の有無を調査判断する能力は裁判所になく、また能力があつたとしても立法権侵害をひきおこすというのである。
[40] だがこの論もまた成り立ちえない。即ち、そもそも条理として当然の基準が裁判所において採用できない理由はないし、裁判所は事後審査を行なうものであつて、裁判所がなすべきことはその訴訟にあらわれた証拠によつて判断するのであるから、裁判所自らが調査機関をもつ必要もなく、また調査しなくても当事者が全資料を提供すればよいのである。そして裁判所は正に判断はよくなしうるところであり、右のように全資料が提出されるならば裁判所が判断なしえないとする理由はない。また、当該規制が合理的理由がないと判断する場合であつても、即ち合理性の基準で判断する場合であつても、結局は裁判所は立法政策の当否を問題にせざるをえないのであつて、何ら変るところはない。
[41] 更に、立法府がある規制方法を採用するという形において既に立法府の判断を示しているのであつて、それが憲法上許されるか否かを裁判所が判断するのは第二次的・事後的判断であり、特定の規制方法を採用せよと判断するのではないのであつて、単に立法府の採用した規制が他の規制方法と比較して制限的にすぎるので合理性を欠き憲法上許されないというにすぎないものであるから、何ら立法権の侵害になるものでもない。立法しない不作為を問題とする場合にも、権利が侵害されていてこれを回復するために立法が必要であるのにこれをしないという立法府の消極的判断が既に示されているのであり、裁判所はやはり第二次的・事後的な判断をなすにすぎず、その権利回復のための立法をしていないことを違法と判断するだけで、特定の規制方法を採用せよと判断するものではない。従つてこの場合にも立法権侵害の問題は起りえない。
[42](3) 控訴人は、本件改正は選挙権行使について何ら法律上の規制を加えたものではないので、LRAの原則を適用すべき前提を欠くと主張する。だが、既に述べたようにLRAの原則というものは本来条理上当然のことをいつているにすぎないのであり、そうとすればその適用範囲を限定しなければならない理由もない。
[43] また、成程本件改正は形式上は選挙権を被控訴人から取り上げたものでもなく、その行使に制限を付したものでもない。だがそれはあくまで法形式上のことにすぎないのであつて、原審においてるる説明したように、選挙権は行使即ち投票ということを当然に予定しており、いかに抽象的に選挙権が保障され、その行使について法形式上の制限はないとしても、現実の投票制度の下で具体的にその行使即ち投票が事実上不可能又は著るしく困難とされる場合には、その投票制度によつて選挙権を奪われたことになることは万人の常識であり、控訴人の主張は事実を直視しない空理空論の類である。
[44] このような場合には正に選挙人の資格もしくは選挙権の行使について法律上の規制を受けた場合と同視しうるものであることは原判決も認めるところである。
[45](4) 控訴人は最高裁判所の「合理性」の基準を引用して、これを放棄してまでLRAの原則を採用しなければならない理由はないと主張する。
[46] 原判決も決して単に本件法改正による在宅投票制度の廃止について他により制限的でない選びうる手段が存するということだけから違憲だといつているのではなく、廃止について合理的な已むを得ない理由が有つたか否かを検討しているのであり、第一に投票の秘密保持というだけでは制度を廃止してしまうことまで合理化する理由がないこと、第二に選挙の自由公正の保障という面からみても、制度の一部に欠点はあつたが改善可能であつたので廃止するまでの合理性は認められないこと、第三に、従つて廃止までを必要已むを得ない合理的理由があるとするためには、他に手段もなくどうしようもない場合であると認められなければならないとして、本件廃止が人権制約の場合の要請として必要最少限度の合理的理由のある規制と認められるか否かを考察しているのである。
[47] 従つてその態度は何も従来の判例の「合理的必要最少限度」の考え方と特に矛盾するものでもなく、これをより具体的に展開し規制の内容を詳細に検討したものということができるのであつて、全く新しい考え方を採用したものという必要はない。
[48] 加えてLRAの原則の考え方自体従来の合理的必要最小限度論と対立するものではなく、その一内容であり、同じことを表現を変えていつているものであり、条理上も当然のことにすぎないことは既に述べたとおりである。よつてこの点に関する控訴人の主張も全く理由がない。
[49](5) そもそも人権を制約する立法について合憲性の推定が存在すると考えること自体問題であることはつとに指摘されているところである。
[50] 人権を制約する立法というものは憲法で保障する人権の侵害の危険性をはらんでいることはいうまでもないことであり、これに合憲性の推定をするならば、憲法は自ら自己否定の道を開いていることになり、矛盾である。むしろ人権制約立法については「違憲性の推定」を与え、立法者において合憲性を裏付けない限り違憲と判断されなければならないというのが事物の当然の理であろう。
[51] 更に合憲性の推定といつても、それは訴訟法上の推定ではなく、単に事実上の推定にすぎないものというべきである。ある事実の存在を証明することはたやすいが、不存在を証明することは容易ではない。だからこそ訴訟法は一般に事実の存在を主張するものに主張立証責任を負わせているのである。まして本件のように国が権利侵害をなしたことについての合理性の存否の争いという場合、単に抽象的に合理性の存在と不存在の証明のしやすさという点だけからでなく、一方は一私人であり、他方は強大な権限を有しあらゆる組織を動員し資料をそろえることのできる国であるということを考慮に入れなければならない。「国家は悪をなさず」という絶対主義国家ならばともかく、民主主義国家において国家も悪をなしうることを前提とする以上、立法に合憲性の推定をなすことは矛盾であり、更にその推定を訴訟法上の推定にまで高めるとすれば、訴訟法の主張立証責任の分配原理は根底から覆えされることとなる。訴訟法の主張立証責任は公平の観念によつて裏打ちされているところに意味がある。右に述べた合理性の存否の立証の難易及び当事者の証拠収集能力の決定的相違を考えるならば、主張立証責任についてどう扱つたら公平かは自ずと明らかであろう。
[52] 従つて少なくとも人権制約立法には合憲性の推定は認められるべきではなく、仮りに合憲性の推定があるとしても、それは訴訟法上の推定として主張立証責任を転換するものではなく、事実上の推定であり反証によつて簡単に覆えされ、本来の主張立証責任としては国がその合憲性についての主張立証責任を負うと解すべきである。
[53] そうとすれば本件訴訟において被控訴人が本件制度廃止の違憲性について反証を挙げその合憲性をぐらつかせた以上、控訴人においてその合憲性を主張立証すべきは当然のことである。
[54] 仮りにこの点をさておくとしても、本件訴訟において被控訴人は本件改正による制度廃止が合理的理由のないことを原審において主張し十分に立証したのであり、原判決もこれを認めたのである。即ち被控訴人は、本件制度の廃止が憲法14条、15条、44条、47条等に反し、廃止を必要最小限度の合理的措置だとする理由は全くないことを主張し、投票の秘密保持・選挙の自由公正の保障を考慮しても廃止するまでの合理性の存しないことを明らかにし、立証としても今村鑑定書その他の証拠により、また控訴人提出の書証等を有利に援用して明白に右主張を立証したものであり、裁判所もこれを認めたのである。
[55] さてそうなれば、控訴人において被控訴人の右主張立証を打ち破る主張立証をしなければ敗訴に至るのは理の当然である。そして現実の訴訟の中において、控訴人は被控訴人の主張立証を覆えすだけの主張立証を提出しえなかつたのである。そればかりか控訴人の提出する立証は却つて被控訴人の主張を裏付けていくばかりだつたのである。
[56] 訴訟法的にみれば、右のような場合の控訴人の主張立証は単なる積極否認、反証であるという考え方もありえないでもない。そうだとしても、その場合原判決が「被告の主張立証はない」とした記載は訴訟法的には誤りとなろうがそのことによつて結論が変るものでないことは明らかである。

2 合理性の基準について
[57](1) 控訴人は、選挙の方法については、立法府の裁量にゆだねていること及び国会は国権の最高機関であり、唯一の立法機関であり、他方裁判所は選挙民に対し責任を負つていないこと、更に裁判所は調査能力、社会状勢への適応力において国会より劣ることを理由として、明白に違憲いいかえれば人権の制限が著るしく不合理な場合に限り違憲の判断をすべきであると主張する。しかしながら、これに対しては原判決が第三の四において述べているところで必要十分であるけれども、更に付け加えるならば、憲法は三権分立の建前をとり相互に抑制させることとし、立法権も事後的、第二次的には司法による違憲立法審査権の行使の対象となること、また違憲立法審査権を最終的に行使する最高裁判所裁判官は、国民投票の形において選挙民に対し責任を負つていること、更に国会が裁判所より調査適応能力においてすぐれていると仮定してもそれならば司法の場において、その立法当時の調査内容を全て明らかにし、また立法当時の社会情勢下においてその立法が何故必要であつたかを主張立証すれば(ここで主張立証といつているのは訴訟法的意味ではなく広義にというより常識用語としてである)司法府においてもその合理性を首肯するはずであることなどから、控訴人がのべる理由は全く根拠がないのである。
[58](2) 次に最高裁判例の態度であるが、控訴人引用の判例の外、人権制約の合憲性が問われたケースは数多くあるが、そこにおいて共通なのは、その制約が合理的で必要最少限度(あるいは已むを得ない限度)にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるというにあり、明白に不合理でない限りは、合憲であるという考え方は採用していない。
[59] 公安条例に関する最高裁判例、全逓中郵事件判決、都教組事件判決、猿払事件判決また然りである。
[60] そして被控訴人は正に本件制度の廃止が合理的必要最小限度の範囲を超えたものであることを主張したものであり、原判決もまた右制度廃止について合理的理由があつたか否かを立法目的・必要性及び目的達成のための手段の面から検討し、結局合理的必要最小限度の制約の範囲をこえたと認定したのであり、その際、他により制限的でない選びうる手段があるか否かを必要最小限度の制約であるか否かの一指標に用いたにすぎない。
[61] 従つて原判決は従来の最高裁判所の各判例に共通した「合理的必要最小限度」論を逸脱しているものではなく、控訴人こそ従来の判例を我田に引水して曲解しているものといわなければならない。
[62](3) また控訴人は「たとえその法改正が憲法上許容され、立法政策としても望ましく、立法裁量の範囲内のものであつてもすべて司法審査に服するということは、立法に対し、裁判所が余りにも立入りすぎることを意味する」と主張するが、このような場合司法審査に服しても結局違憲でないとされることは明らかであり、従つて立法権が侵害されることもありえない。更に在宅投票以外の方法により選挙権を行使しうるというに至つては余りに現実を無視した空論である。それは在宅者に死ねというに等しい。体温の調節のできない脊つい損傷者、いつどこで転倒するかもしれない歩行困難者、わずかの起転で産気づくとも知れぬ妊産婦、わずかのことで容態の悪化する重病人、重傷者に厳寒あるいは酷暑の中をあるいは交通地獄の中を投票所に行けということは余りに非人間的であり、冷酷、無情である。投票所に莫大な費用をかけて、危険を睹して出かけて、その費用は誰がみるのか。万一のことがあつたら誰が責任を負うのか。費用の面でいえば正に経済的不平等選挙になるであろう。
[63] 加えて少数者の権利が侵害された時、選挙に訴えることで権利が復元されえようか。いかに正当な権利主張であつても少数者の票は少数である。例えば、ある県居住者についてのみ投票所をその県庁とする旨の投票方法を定めたとする。その時これを不当として選挙に臨んでその県の選挙人全員が時の政権担当党以外の候補者に投票したところで復元は不可能である。世論は動かされる可能性があるとしても法的な復元の保証はどこにもないではないか。くどいようだが更に例をあげよう。ある1人の者のみが在宅投票を否定されその為投票権行使が不可能になつたとしよう。その者が選挙において自からの権利の回復をはかるために控訴人主張のような方法で1票を行使しても復元は不可能である。他の在宅者は自からの権利行使が在宅投票によつて可能であり、一般の人は投票所において投票が可能である時に、たつた1人のみが名指しで故なく法律によつて在宅投票からはずされたことに不服をとなえその在宅者と同一歩調の投票をする保証はどこにもない。その1名に同情しても1票はそのためにだけ行使されるものではなく諸々の政治的意見を体現して行使されるからである。

3 合理性の基準の適用について
[64](1) 参政権というものが後国家的権利であるにしても、民主主義国家においては参政権なき国家というものは存在せず、参政権は民主主義国家においては欠くべからざる権利である。そして民主主義国家としては憲法上普通平等選挙を保障することも当然のことであり、参政権といえば普通平等選挙を意味するといつても過言ではない。従つて民主主義体制を有する限り普通平等選挙は国家が存立するために必須不可欠の権利であることは万国共通である。それ故にこそ民主主義国家においては憲法で普通平等選挙制での選挙権を国民固有の権利として保障するのであり、日本国憲法また然りである。
[65] 勿論国により普通平等選挙制における選挙権の取得年令を何歳にするかというような違いはあるものの、普通平等選挙制での選挙権を保障する点において異ならない。そしてその具体的な行使方法については国情に応じて種々の態様がありえよう。だが具体的行使方法を定めるに当つて、参政権が民主制の基盤であり、普通平等選挙という形で固有の権利として保障されていることに反しないような定めをしなければならないということも万国共通の原理である。
[66] 従つて選挙人の資格や投票方法などを法律で規定する場合にも一部の者を投票の方法について合理的理由なく差別したり、一部の者の選挙人としての資格を合理的理由なく否定したり、一部の者の投票の機会を合理的理由なく奪つたりすることは、民主主義国家においてどこでも許されてはいないのである。
[67] だからこそ、原審において被控訴人が主張立証し、原判決も認めたように、民主主義体制を有する諸外国においては投票所に行くことが不可能又は著るしく困難な者の投票の機会を確保する為の制度を設けているのである。
[68] 技術的側面についてはいろいろな規定のしかたがありうるところであり、立法府の裁量の幅が広いとしても、こと参政権の保障従つて選挙権行使の機会の保障という問題に関しては、いずれの国も立法に当つてその保障を実効あらしめるよう努力しているのであつて、裁量の範囲も厳しく限定されるものである。参政権の保障そのものに関する規定については裁量がありえないのは勿論であるが、技術的規定の場合でもそれが参政権の保障にどれだけ深いつながりを有するかにより裁量の幅は異つてくるのであり、例えば選挙運動期間を20日間にするか3週間にするかというようなことについては参政権の保障にとつてさほど重要なことではないが、投票所投票主義をとるか否かとか自署主義をとるか否かなどということは参政権の保障に直接つながつてくるのであり、後者のような場合には参政権保障の趣旨に適合するよう慎重に配慮することが要請されるのであり、それだけ裁量の幅が狭くなるのである。
[69] これは各国においてそうだというだけでなく、参政権保障の規定を有する民主主義憲法の解釈として当然のことであり、日本国憲法においてもまた当然である。
[70] 本件に則して具体的にいえば、投票の方法については法律に委ねられているから立法府の裁量の働く余地がある。従つて投票所投票主義をとろうと選挙人現在地投票主義をとろうと自由である。だが投票所投票主義をとつた場合には、全選挙人の選挙権行使の機会を保障しえなくなる虞れが多分にあるから参政権保障の規定に反しないためにはそのたりないところを補う制度がなければならない。これをつくらねばならないという点においてはもはや裁量の余地はないということになる。
[71] だから国情による違いなどは多少ありうるにしても、基本的な参政権保障に関連する限りにおいては、どの国においても立法の裁量ははつきり限定されているのであつて、民主主義体制である限り、他の自由権に勝るとも劣らぬ権利として保障されていることを忘れてはならないのである。
[72](2) 投票の秘密保持・選挙の自由公正と本件廃止の関係については既に原審においてるる主張したところであるので、それをそのまま引用することにする。
[73] 尚不在者投票の手続は単なる便宜上のものではなく、投票所投票主義のたりないところを補い選挙権行使の機会を保障する不可欠の制度であること、これによつても選挙権行使の機会を保障されえない者が多数存在すること、従つて在宅投票制度も選挙権行使の機会保障のために不可欠の制度であることは既に原審においてのべたとおりである。
[74] また、車椅子、担架、自動車等を利用し、あるいは補助者を介して投票所に行つて投票するみちは残されているという控訴人の主張に至つては、常軌を逸した狂気の沙汰であることは既に述べたとおりである。費用の面で若干付言すれば選挙人によつては医師、看護人付で特殊装置付(振動をなくし、室温、湿温調整可能な装置をつけるなど)の特殊車輛で、しかも乗降には何人もかかりきつてという形でなければ投票しえない者もいるが、これに要する費用は莫大なものであるところ、これを選挙人が負担するならば、正に経済的不平等を強いることになるであろう。
[75] 死の危険を睹し、病状の悪化を覚悟し、多大な経済的負担をおして、蛮勇を振つて行使しなければ行使できない状態の権利は行使を保障された権利ではない。そのような蛮勇を期待する権利は少くとも民主主義国家には存しない。そこまでいけばそれは絶対主義国家ではなく非人道的国家と呼ぶに値いしよう。被控訴人はこのような非人道的国家に生を受けたことをこのうえもなく悲しむものである。
[76](3) 最高裁判所は、昭和48年4月4日(尊属殺人違憲判決)、昭和50年4月30日(薬事法違憲判決)、昭和51年4月14日(定数配分違憲判決)と相次いで重要な違憲判断を打ち出した。
[77] これらの判決に共通なことは、司法審査と立法府の裁量の問題につき、裁判所が積極的に司法審査をする必要を肯定し、立法目的とその達成手段の均衡を詳細に検討し、従来立法政策の問題として違憲判断を回避して来た事柄について、その規制の不合理性が憲法の許容する限度を超え立法府の裁量の範囲を逸脱するとして違憲判断をしていることであり、そこではその不合理性の明白性を要求していないことである。
a 尊属殺人違憲判決
[78] 右判決における岡原補促意見は、「しかし、ことがらによつては、憲法上の効力が争われる特定の法規の内容が、立法の沿革、運用の実情、社会の通念諸国法制のすう勢その他諸般の状況にかんがみ、かなりの程度に問題を有し、その当否が必ずしも立法政策当否の範囲にとどまらないのではないかとの疑問を抱かせる場合がないとはいえない。……このような場合、裁判所は、もはや前記謙抑の立場に終始することを許されず、憲法によつて付託されている違憲立法審査の権限を行使し、当該規定の憲法適合性に立ち入つて検討を加えるべく、その結果、もし当該規定の不合理性が憲法の特定の条項の許容する限度を超え、立法府の裁量の範囲を逸脱しているものと認めたならば、当該規定の違憲を宣明する責務を有するのである。」と述べている。
[79] そして右判決は、刑法200条の憲法適合性の判断につき、同条の立法目的の合理性(立法の必要性)および同条所定の立法目的達成の手段の合理性(規制方法と立法目的の関連性)の2段階に分けて考察し、後者の点で同条は合理性を欠き違憲であるとする。
[80] このような目的と手段の2段構えで法律の合憲性を検討する例は下級審ではかなり見受けられるところ、最高裁が明確な形で意識的にこれを用い、しかも手段の点で結論を出したはじめての例といわれる(尚この手法は、次の薬事法違憲判決においてより精緻化されている。)。
[81] ところで司法審査の判断基準において、規制の対象が経済的自由であるか、精神的自由であるかによつて扱いが異なるものとされている。即ち、立法目的が経済的自由の規制にある場合、規制方法については立法府の裁量に委ねざるを得ない範囲が大きく、それが著しく不合理であることが明白なため違憲とすべきときを除いては、原則として立法政策の問題として処理すべきものであるのに(尚薬事法違憲判決は経済的自由の規制についても、この明白性の考え方をとらないことは後述する。)、表現の自由その他精神的自由の規制が立法目的である場合には、米最高裁の態度にならつて合憲性の推定すら認めず、常に憲法適合性を精査すべきものと解すべきであるといわれているところ、刑法200条は右のいずれにも属さず、いわばその中間にあるが、どちらかといえば後者に近いと考えられ、右尊属殺人違憲判決が、刑法200条の手段は、「上記の如き立法目的……のみをもつてしては……納得すべき説明がつきかね……正当化できない」から違憲であるとしており、「著しく不合理なことが明白」であるから違憲、としていないのは、右のようにみる立場に立つているものと思われる(以上は尊属殺人違憲判決の判例解説昭和48年刑事篇143頁、144頁から引用したものである。)
b 薬事法違憲判決
[82] 同判決はいう。「職業は、本質的に社会的なしかも主として経済的活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力の規制の要請が強く憲法22条1項が公共の福祉に反しない限りという留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。」しかし、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、千差万別でその重要性も区々にわたるので職業の自由に対する規制もその事情によつて各種各様である。従つてその規制が合憲として是認されるか否かは、「一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定しなければならない。」「この場合、右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまる限り、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照して、これを決すべきものといわなければならない。」そして、「一般に許可制は、単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて、狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課するもので、職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、」またそれが、「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。」
[83] 右判決においては、経済的自由の規制の問題であるのに、立法府の裁量の不合理性が明白であることは、憲法適合性の判断要件として全く要求されていない。既にのべたように、従来、経済活動の規制については、精神的自由に比して、立法の裁量の範囲の広いことが強調され、その規制の手段、程度が「明白に不合理」な場合のみ違憲であるというのが最高裁の傾向であつたが、右判決はこのような立法政策への安易な追随をすてて、経済活動規制の立法府の裁量にも限界があることを明らかにし、「明白性」の考え方をとらないことを宣明するとともに、「LRAの原則」の考え方を導入したといつてよい。このことは、他の精神的自由或いは国家の構成員としての国民の最も基本的な権利である参政権特に選挙権に対する規制の憲法適合性を判断するに当つて、大いに参考に値する。
[84] しかも、本件在宅投票制度廃止立法の目的は弊害防止にあつたのであるから、右判決のいう「弊害防止のための消極的規制」という要件に該り、右判決の法理はそのまま妥当するし、本件は経済活動以上に立法府の裁量が厳しく限定されるべき選挙権に関する規制なのである。
c 定数配分違憲判決
[85] この判決の判示するところは、正に、本件訴訟における国側の平等論、裁量論、違憲審査基準等に対する痛烈な批判といつてよい。即ち、「元来、選挙権は、国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として、議会制民主主義の根幹をなすものであり……」「平等は、自由とならんで、近代国家における基本的かつ窮極的な価値であり、理念であつて、」「右の歴史的発展を通じて一貫して追求されて来たものは、……およそ選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、各自の身体的、精神的又は社会的条件に基づく属性の相違は全て捨象されるべき……」であり、「更に進んで、選挙権の内容の平等、換言すれば、各選挙人の投票の価値、すなわち各投票が選挙の結果に及ぼす影響力においても平等であることを要」し、「殊更に投票の実質的価値を不平等にする選挙制度がこれに違反する」事は勿論、「具体的な選挙制度において各選挙人の投票価値に実質的な差異が生ずる場合には、常に右の選挙権の平等との関係で問題が生ずる。」そして「……法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向する」ものであり、憲法の「文言上は単に選挙人資格における差別の禁止が定められているにすぎないけれども、単にそれだけにとどまらず、選挙権の内容、すなわち各選挙人の投票価値の平等もまた憲法の要求するところである。」「国会がその裁量によつて決定した具体的な選挙制度において現実に投票価値に不平等の結果が生じている場合には、それは、国会が正当に考慮することのできる重要な政策的目的ないしは理由に基づく結果として合理的に是認することができるものでなければならない。」「具体的選挙制度は、それが憲法上の選挙権の平等の要求に反するものでないかどうかにつき、常に各別に右の観点からする吟味と検討を免れることができない。」「結局は、国会の具体的に決定したところがその裁量権の合理的な行使として是認されるかどうかによつて決するほかなく、……投票価値の不平等が、国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の裁量の限界を超えているものと推定されるべきであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかない。」
[86] 右判示は、投票が選挙の結果に及ぼす影響の平等性を要求しているが、そのことは、その結果を生ずるための投票権の行使つまり投票の機会そのものが平等に保障されていることを前提としていることはいうまでもないし、投票の機会を不平等ならしめる選挙制度(在宅投票制度を認めない選挙制度)が「殊更に投票の実質的価値を不平等にする選挙制度」であることも疑いない。
[87] 右判決は選挙権についての平等原則は形式的なものではなく、実質的な平等であることを高らかに宣言しているのである。しかも、この事案では形式的には1票の価値はあるが実質的には5分の1票の価値しかないものを実質的にも1票に高めようというものであるが、本件では投票の機会が保障されていないために、1票は絵に画いた餅にすぎず、形式的にも1票の価値さえない状態といつてよいのであるから、右判決の場合以上に強い理由で平等原則違反というべきである。
[88] 加えて右判決は、具体的な選挙制度が右の如き平等原則に反しないかは、常に司法審査の対象となり、その規制の合理性を検討すべきであり、もしその不合理性が甚しい場合には違憲性が推定され、不合理性を正当化する特段の事情が主張立証されない限り、違憲判断を免れないというのである。
[89] 結局、右3判決を通覧して本件を考えれば、議会制民主主義の根幹をなす選挙権の行使における平等がそ上にあげられているのであるから、経済活動より以上に国民の権利行使を十分にしなければならないのであり、弊害是正という立法目的は正当であつても、その目的達成の手段としては罰則の強化、親族の介入禁止、選管委の執行体制の強化などの措置により十分この目的を達成できたのであつて、在宅投票制度の廃止により、在宅選挙人の投票権の行使は不可能又は著しく困難となり、選挙の結果に及ぼす影響力は零になつてしまうのであるから、目的と手段の均衡を失し、平等原則の点においても本件制度の廃止は憲法違反といわなければならない。
[90]しかも、右各判決は不合理性の明白性を全く要求していないけれども、本件制度の廃止の不合理性は明々白々であり、前記cの判示よりすれば、このような場合は国側において、制度廃止を正当化する特段の事情を主張立証しない限りは違憲と判断されるのである。
[91] 従つて、原判決は右各判決にならい(aの判決)、或いは先取り(b、cの判決)したものであり、最高裁判例の趣旨にそいこそすれ、何ら反するものではない。
1 現代における平等思想
[92] 平等思想は、歴史的には古代ギリシヤの哲学思想にまで遡ることができ、中でもアリストテレスの正義の概念(平均的正義と配分的正義)中、配分的正義の思想は、人間の社会生活における各個人の本質的差異を認め、これに比例した配分をもつて正しい配分とする考え方であり、これは現代的平等ないしは生存権の保障を思想的に基礎づけるものとして、現代の平等理念の解明に決定的影響を与えているといわれている。
[93] そしてストア学派、ローマ法思想を経て形成された近代の自然法思想の下での平等思想は、一つには絶対無条件の平等思想であるとともに、二つには形式的平均的平等思想であつた。それは封建社会から近代社会への移行の過程において形成されたものであり、それが故に万人の平等と人間解放とを抽象的な理念として唱えたものであつた。そこにおける人間は抽象的な人格であつたといつてもよい。
[94] ところが現代の思想は、現実の社会生活の中にみられる具体的な不平等に目を向け、これを是正しようとしているのであり、具体的な人格を考えている。現代の平等思想は、従つて、前記のアリストテレスの配分的正義の理念に基づく実質的平等を内容とするものであり、昨今強調されている福祉国家観は、このような実質的平等・配分的正義の理念を思想的根拠としている。その意味では現代は近代国家と社会体制を異にするといつても過言ではない。
[95] このような実質的平等の思想は、まずワイマール憲法によつて憲法の中に確立されたのであり、第2次大戦後に制定された諸国の憲法は、この思想の影響を受けて、日本国憲法も含めて、いずれも、近代的な抽象的形式的な平等思想をのりこえて、社会生活の現実に即した実質的平等の実現に重点を置くようになつたものである。従つて日本国憲法の平等規定を解釈するに当つても、右の平等思想の発展と現代における平等思想の意義とを正しく認識しなければならないことはいうまでもない。

2 憲法14条1項の法の下の平等
[96] 同条項は「すべて国民は法の下に平等であつて」「……により差別されない」と積極的表現と消極的表現とを併せ用いている。後段の差別禁止は例示であることは争う余地がない。後段は過去にそのような差別が存したが故にこれを禁じたものであり、消極的表現を用いているからといつて形式的平等を宣言していることを証するものではない。
[97] 何よりも日本国憲法が、右にのべた平等思想の発展とこれに裏うちされたワイマール憲法以下の実定憲法の流れの中において制定されたものであり、生存権などの実質的平等確保の規定も置かれている憲法であるということは、14条1項の解釈に反映せざるを得ないのである。このことを忘れた解釈論は法の生成発展を無視したものといわざるを得ない。
[98] 思うに、控訴人自らも平等原則の相対性を承認しているのであつて、平等原則の相対性は近代平等思想における絶対性と相反するのであり、具体的事実の差異に応じた取扱いを要求するものであるから、平等原則の実質性・配分的正義の観念にこそ合致するものなのである。
[99] 形式的に不平等であつても実質的に合理性があることから不平等ではないとされる例は枚挙にいとまがない。例えば同じ人間でありながら女子労働者の夜勤を禁止するというのもそうであろう。形式的に不平等であるのみでなく実質的にも合理性がないならば不平等とされることもいうまでもない。形式的にも平等であり、実質的にも合理的であれば平等原則に合致するとされるのも当然である。更に形式的には平等であるが、実質的に合理的でないならばやはり平等原則違反とされるであろう。
[100] つまりは具体的に生成する事象が平等原則に合致するか否かは形式的平等に合致するか否かによるのではなく実質的に合理性があるか否かによるのである。このことは殆んど全ての憲法学説において承認されていることであり、具体的事例の検討において、取扱いを異にする合理的理由が実質的に存在するのか、それが正義に合致するのかを個々具体的に目的、手段、必要性、事実の経過等詳細に明らかにして検証し、そのうえで判断されているのである。判例においても同様である。
[101] 控訴人引用の諸学説、判例においても、この実質的合理性の有無を詳細に検討することによつて平等原則を実質化していることは一見して明らかである(例えば小林、憲法講義上306頁下段)。
[102] そしてこれらの学説判例においても、このような実質的合理性の有無、即ち事物の差異に応じて異なる取扱いをすることが正義と認められるか否かの判断は社会通念によつて決せられるものであり、更にいいかえれば実質的平等をどこまで確保すべきかの判断を国民の一般常識(理性的な)によつて行うことに外ならない。勿論具体的事象は千差万別であるから、それにピツタリ合致するように扱いを変えることは不可能であるが、国民の通念としてどの程度まで「等しいものは等しく、異るものは異つた扱い」をすべきかということである。
[103] 従つて平等原則に関する14条1項はその中に実質的平等確保の要請をもつており、それ故にこそ、個々具体的な事象について判断する場合に実質的平等の現われとしての合理性の観念が出てくるものといつてよいのであつて、それが平等原則の内容を決定しているといつてよいのである。
[104] だから控訴人の引用する諸々の学説判例も決して平等原則を形式的にのみ理解しているものでないことは明らかである。
[105] そしてその事象が立法(改正・廃止も含めて)であつても事は同じであり、その立法の目的・必要性・立法目的達成の為の手段等の面から詳さに検討して実質的合理性の有無を判断しなければならないのである。その結果社会通念上不合理と認められればその立法は不平等取扱として憲法14条1項違反となるのである。
[106] 本件はもともと国民の実質的差異に対応する取扱い(在宅投票制度)をしていたのであり、それは国民の一般常識上も許容される扱いであつたにもかかわらず、弊害是正という美名にかくれて合理的理由なく廃止されたものであり、正義に反することは明らかである。
[107] 合議体の不法行為が問題となる場合に、その合議体を構成する公務員の故意過失をいかに考えるのかという点については、その合議体の意思決定が違法と考えられる場合には、とりもなおさず、その意思決定に関与した公務員の判断に瑕疵があつたものであり、そのことによつて国賠法でいう公務員の故意過失が存在したものと認めることができるのであつて、個々具体的な特定の公務員がいかなる判断をいかなる理由でしたかまで問題とする必要はないということは、多くの裁判例の一致して認めるところであり、各種合議制機関の過失がその個々のメンバーの判断内容を問題にすることなく認定されて来ていることも衆知の事実である。
[108] 控訴人主張の如き論理は学説判例上全く他に例のない珍説であつて考慮に値しない。

[109]2(1) 原判決は確かに、過失認定に当り国会の審議経過を検討しているが、過失認定の判示部分においては単に国会の審議経過は既にみたとおりであるとしているにすぎない。国会の過失を認定するには、その審議経過に照し当該法改正という国会の意思決定が違法と判断されればよいものであるから、LRAの原則をとるとらないに全く関係ないものである。LRAの原則をとるにせよとらないにしても、過失を認定するには国会の審議経過を検討しその中で廃止することが権利行使を不可能又は著るしく困難にさせることを知りえたか、制度の改善という方策をとらずに廃止にまでふみきらなければならない合理的理由があつたのか、廃止ということが必要最小限度の制約であるか否かなどを十分に検討したのかが問題にされなければならないのであり、原判決の検討した内容と実質的に異なりはしないのである。
[110](2) 既にのべたように、LRAの原則というから目新しい基準と考えられるが、これは条理常識上ごく当り前のことであり、人権の制約立法をする場合に合理的必要最小限度の制約に留めようとすれば他にもつとよい方法はないかと考えるのが通常であろう。他にもつとよい制約の少ない方法があるのにこれを採用しないならば必要最小限度の制約をこえたといわれるのは当り前のことではないか。
[111] 従つて本件改正当時において国会が「LRAの原則」という形で考えていなかつたとしても、条理常識上もつと制約の少ないより合理的な制約の方法がなかつたか否かを検討しなかつたことの責任を免れるものではない。
[112](3) 表決に当つた国会議員がその職務上要求される注意力をもつてすれば原判決の指摘する問題点に気付きえたかということは正に、制度の改善ではすまないのか、どうしても廃止しなければならない事情があるのか、選挙権行使の保障という面からみて必要最小限度の制約とはなにかということを検討したうえで廃止することが権利行使を不可能又は著しく困難ならしめる結果となることを知りえたかということに外ならないのであつて、原判決が検討したのと同じことになるであろう。
[113](4) 本件改正当時、判例学説上在宅投票問題を扱つたものがなく、国会や選挙制度調査会における調査審議の過程において憲法論議がなかつたとしてもそのことによつて過失が否定されるものではない。判例学説がなくとも、本件制度を廃止すれば投票所に行くことが不可能又は著しく困難な者の投票権行使が不可能又は著しく困難となり結局選挙権の保障の趣旨に反することになることは常識的にわかることであるし、少くとも在宅選挙人らの意見聴取を行えば直ちにわかることであつたにもかかわらず、国会はこれをしなかつたのである。また、国会等の審議過程において憲法論議がなかつたということは、正に少数者の権利に対する無知・無理解と職務怠慢、更には身障者等に対する差別意識を示すものに外ならない。
[114](5) 立法当時の憲法解釈の状況がどのようであつたかは過失認定にあたつて一般論としては一つの参考になりえようが、本件のようにだれが考えても制度を廃止すれば在宅選挙人の権利行使が不可能又は著しく困難となることは目にみえているのであつて当時の立法関係者や有識者達がこれに思を至さなかつたということは、選挙権保障の視点が欠落していたことを示すものであり、明らかに重大な過失があつたと言わなければならない。
[115] 本件改正は、公職選挙法一部改正のまた一部であり、当時の立法関係者らは他の改正部分に目を奪われて、本件改正部分にもともと大きな注意を払つていなかつたともいえるのであり、そのことは過失認定の根拠とはなりえても、過失否定の根拠たりえないことは明らかである。
[116](6) 立法の不作為について過失を問題とする場合、廃止が合理的必要最小限度をこえるものとして違憲とされる以上、選挙権行使の実質的保障をする立法をしないことも違憲とされるのは当然のことであり、そのような立法をしないことについて過失ありとされるのも当然のことであつて、それはLRAの基準の採否には関係のないものであるのみならず、条理上も当然のことである。
[117] 被控訴人は、国会が憲法上の国民主権等の原理によつて限界付られ、立法を義務付けられているのに選挙権行使の保障の立法(投票所に行けないか行くことが著しく困難な者の選挙権行使の機会を確保するための立法)をしないことが合理的理由を欠き憲法に違反するものであつて、このような立法をしないことにつき国会議員の故意又は過失があると主張しているのである。
[118](7) 国会の審議経過のみが過失判断の資料となるものではないとしても、これが最も重要であるということはいうまでもなく、更にこの外に国会の意思決定に係わりのあるものがあるならばそれも過失判断の際の検討資料とされるであろうが、それは証拠として裁判所に提出されなければならない。裁判所は証拠として提出されないものを斟酌のしようがない。そして原審においても、国会の審議経過以外の資料、例えば選挙制度調査会議事録や、雑誌等も証拠として提出され、原判決はこれらのものも過失判断の材料に用いていることは明らかである。これでも不十分だというのであれば必要と考えるものを控訴人において提出すればよいことである。
[119] 既にのべたとおりの経過で在宅投票制度は廃止され、昭和49年に至つて極く一部について復活されたものの、大部分の在宅選挙人は選挙権を行使することが不可能又は著しく困難な状況におかれている。
[120] 即ち昭和49年6月3日公選法一部改正法案が可決成立し(昭和49年法律第72号)、在宅選挙人の一部が投票所に行かずに在宅のまま投票することが可能となつた。だが自治省推計によつてもその該当者は僅か9万人余りというものであり、在宅選挙人総数の極く一部にすぎない。右改正法によれば、公選法第49条第2項として、
「選挙人で身体に重度の障害のあるもの(身体障害者福祉法第4条に規定する身体障害者又は戦傷病者特別援護法第2条第1項に規定する戦傷病者であるもので政令で定めるものをいう)の投票については、前項の規定による外、政令で定めるところにより、第42条第1項但書、第44条、第45条、第46条第1項、第50条及び前条の規定にかかわらず、その現在する場所において投票用紙に投票の記載をし、これを郵送する方法により行なわせることができる。」
との条項が加えられた。そしてその「重度身体障害者」の範囲を定めた政令(公選法施行令)によると、身障者福祉法第4条に規定する身体障害者については、同法第15条第4項の規定により交付を受けた身体障害者手帳に両下肢、体幹、心臓、じんぞう、若しくは呼吸器の障害の程度が両下肢若しくは体幹の障害にあつては1級若しくは2級、心臓、じん臓若しくは呼吸器の障害にあつては1級若しくは3級である者として記載されている者……をいうのであり、更に具体的にいえば、
(下肢)両下肢の機能を全廃したもの 両下肢を大腿の2分の1以上で欠くもの 1級
    両下肢の機能の著しい障害 両下肢を下腿の2分の1以上で欠くもの 2級
(体幹)体幹の機能障害により坐つていることができないもの 1級
    体幹の機能障害により坐位又は起立位を保つことが困難なもの 2級
    体幹の機能障害により立ち上ることが困難な者 2級
(心臓)心臓の機能の障害により自己の身辺の日常生活活動が極度に制限されるもの 1級
    心臓の機能の障害により家庭内での日常生活活動が著しく制限されるもの 3級
(じん臓)じん臓の機能の障害により自己の身辺の日常生活活動が極度に制限されるもの 1級
    じん臓の機能の障害により家庭内での日常生活活動が著しく制限されるもの 3級
(呼吸器)呼吸器の機能の障害により自己の身辺の日常生活活動が極度に制限されるもの 1級
    呼吸器の機能の障害により家庭内での日常生活活動が著しく制限されるもの 3級
に限定するというのである。
[121] 従つて右改正法及びこれを受けて制定された政令のもとにおいては身体障害者手帳を有しない者は投票できず、右列挙の機能障害を有しない者は除かれるのであり、ねたきり老人、長期療養者、難病による歩行困難者、盲人、リウマチ患者、松葉杖によつてようやく歩行できるものなどは勿論、一時的な負傷・疾病・妊産婦なども、投票権行使ができない又は著しく困難であることは従前と全く変りがない。しかしながら、憲法上投票の方法等は法律で定めるものとされ、これが定められなければいかに抽象的に選挙権を保障されていても、(選挙権の保障はその行使の保障即ち投票の保障を概念必然的に予定しているものであるから)ただしく選挙権が保障されたことにはならないのであり、従つて投票の方法について立法することは憲法上の義務である。そしてこの立法をする場合には、憲法に適合するような立法をしなければならないことも憲法上当然の義務である。投票の方法についてどのように定めるかについて立法に委ねられている訳であるけれども、従つてその限りにおいては例えば投票所投票主義をとるか否かは自由であるけれども、そのことによつて憲法違反を招来する結果を来してはならず、投票所投票主義をとるならば、その欠を補い選挙人の選挙権行使の機会をあまねく保障するてだてを講ずべきことが憲法上要求されている訳である。そのてだてが従前行なわれていた昭和25年4月15日法律第100号での制度であろうと、昭和23年改正衆議院議員選挙法33条における制度であろうと、また別の制度であろうと問うところではない(その意味ではここでも立法者の裁量の余地は存在する)が、とにかく右のような手だては憲法上必須不可欠なのである。ただ右のような手だては、投票所に行くことができず又は著しく困難な者(在宅選挙人)の選挙権行使の機会を投票所投票主義の欠を補うものとして考えられ保障されるものであるから、その内容が在宅のまま投票権行使をさせる制度であることは変りなく、その意味で在宅投票制度と総称することは許されよう。この意味において、投票の方法については憲法上立法に委ねられているが、立法の裁量として投票所投票主義を採用するならば、憲法上在宅投票制度の採用が義務付けられるのである。
[122] そして内閣及び国会並びにその構成員は、憲法の尊重擁護義務を負い(憲法99条)、内閣及び各議員が法案提出権を有することは確定された憲法解釈である。
[123] 従つて投票方法について投票所投票主義を採用しているのに、右のような意味での在宅投票制度が採用されていない以上は、内閣及び各議院の議員は、在宅投票制度を設けるべき内容を有する法律案を国会に提出し、国会においてこれを可決成立させる義務がある(可決成立の関係では内閣は除く)のであつて、これをしないことは憲法違反であることは明らかである。
[124] 確かに昭和49年6月3日には前記公選法一部改正法の成立により、一部の在宅選挙人が在宅投票をすることは可能になつたが、これによつても、尚選挙権行使が不可能又は著しく困難な者が多数いることは右改正法案審議の際に指摘されていたことは明らかであり、右改正法の成立施行によつても尚憲法違反の状態は払しよくされず、依然としてその他の在宅選挙人の選挙権行使が保障されていないという立法の不作為による違憲状態が作出され続けているし、右改正法によつて選挙権行使が可能となつた在宅選挙人に対しても、過失において権利行使が保障されていなかつたということの責任は免れうるものではない。
在宅投票制度に関する衆議院議員選挙法、同法施行令、公職選挙法、同法施行令の関係規定の対照表
(但し、傍線《省略》は当裁判所が付したものである。)
衆議院議員選挙法
昭和23年7月29日改正(法律第195号)
公職選挙法
昭和25年4月15日公布(法律第100号)
第33条 選挙人ニシテ左ノ各号ニ掲グル事由ニ因リ選挙ノ当日自ラ投票所ニ到リ投票ヲ為シ能ハサルヘキコトヲ証スル者ノ投票ニ関シテハ第25条、第26条、第27条第1項、第29条但書及第31条ノ規定ニ拘ラス政令ヲ以テ特別ノ規定ヲ設クルコトヲ得
一 選挙人其ノ属スル投票区所在ノ郡市ノ区域外(選挙ニ関係アル職務ニ従事スル者ニ在リテハ其ノ属スル投票区ノ区域外)ニ於テ職務又ハ業務ニ従事中ナルベキコト
二 前号ニ掲グルモノヲ除クノ外選挙人已ムコトヲ得ザル用務又ハ事故ノ為其ノ属スル投票区所在ノ郡市ノ区域外ニ於テ旅行中又ハ滞在中ナルベキコト
三 前号ニ掲グルモノヲ除クノ外選挙人疾病、負傷、妊娠若ハ不具ノ為又ハ産褥ニ在ル為歩行著シク困難ナルベキコト
第49条 選挙人で左に掲げる事由に因り選挙の当日自ら投票所に行き投票をすることができない旨を証明するものの投票については、第42条第1項但書、第44条、第45条第1項、第46条第1項、第50条及び前条の規定にかかわらず、政令で特別の規定を設けることができる。
一 選挙人がその属する投票区のある都市の区域外(選挙に関係のある職務に従事する者にあつてはその属する投票区の区域外)において職務又は業務に従事中であるべきこと。
二 前号に掲げるものを除く外、選挙人がやむを得ない用務又は事故のためその属する投票区のある都市の区域外に旅行中又は滞在中であるべきこと。
三 前号に掲げるものを除く外、選挙人が疾病、負傷、妊娠、不具若しくは産褥にあるため歩行が著しく困難であるべきこと又は監獄若しくは少年院に収容中であるべきこと。
衆議院議員選挙法施行令
昭和23年7月29日改正(政令第190号)
公職選挙法施行令
昭和25年4月20日公布(政令第89号)
第26条 選挙人衆議院議員選挙法第33条ニ掲グル事由ニ因リ選挙ノ当日自ラ投票所ニ到リ投票ヲ為シ能ハザルベキトキハ選挙ノ期日ノ公示又ハ告示アリタル日ヨリ選挙ノ期日ノ前日迄ニ自ラ其ノ属スル市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長ニ就キ又ハ之ニ対シ郵便ヲ以テ其ノ旨ヲ証シテ投票用紙及投票用封筒ノ交付ヲ請求スルコトヲ得
 前項ノ請求ヲ為ス者其ノ現ニ職務若ハ業務ニ従事スル地若ハ現ニ旅行シ若ハ滞在スル地ノ市町村ニ於テ投票ヲ為サントスルトキ又ハ其ノ現在スル場所ニ於テ投票ノ記載ヲ為サントスルトキハ同項ノ請求ヲ為スト同時ニ其ノ属スル市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長ニ対シ其ノ旨ヲ申立ツベシ
(以下省略)
第50条 選挙人は、法第409条に掲げる事由に因つて選挙の当日自ら投票所に行つて投票をすることができないと認められる場合においては、選挙の期日の公示又は告示があつた日から選挙の期日の前日までに、その登録されている選挙人名簿の属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対して、直接に、又は郵便をもつて、その旨を証明して、投票用紙及び不在者投票用封筒の交付を請求することができる。
 前項の請求をする者は、その現に職務若しくは業務に従事し、旅行し、若しくは滞在している地の市町村において投票をしようとする場合、船舶、病院、監獄、代用監獄若しくは少年院において投票をしようとする場合又はその現在する場所において投票の記載をしようとする場合においては、同項の請求をする際に、同項の選挙管理委員会の委員長に対し、その旨を申し立てなければならない。
(省略)
 疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため、又は産褥にあるために歩行が著しく困難であるべき選挙人は、その現在する場所において投票の記載をしようとする場合においては、同居の親族によつて、第1項の選挙管理委員会の委員長に対し、文書をもつて同項の請求及び前2項の申立をすることができる。
(以下省略)
第27条 選挙人前条ノ請求ヲ為ス場合ニ於テハ併セテ其ノ証スル事項ニ付各左ニ掲グル者ノ証明書ヲ提出スベシ
一 衆議院議員選挙法第33条第一号ニ掲グル事由ニ関シテハ……(以下省略)
二 同条第二号ニ掲グル事由ニ関シテハ……(以下省略)
三 同条第三号ニ掲グル事由ニ関シテハ医師、歯科医師又ハ産婆
 前項ノ規定ニ依ル証明者同項ノ証明書ノ交付ノ請求ヲ受ケタル場合ニ於テ該当事項アリト認ムルトキハ直ニ証明書ヲ交付スベシ
 選挙人正当ノ事由ニ因リ第1項ノ証明書ヲ提出スルコト能ハザルトキハ其ノ旨ヲ当該市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長ニ疏明スベシ
第52条 第50条第1項若しくは第4項又は前条第1項に規定する請求をする場合においては、選挙人は、法第49条各号に掲げる事由について、それぞれ左に掲げる者の証明書をあわせて提出しなければならない。
一 法第49条第一号に掲げる事由に関しては、……(以下省略)
二 法第49条第二号に掲げる事由に関しては、……(以下省略)
三 法第49条第三号に掲げる事由に関しては、医師、歯科医師若しくは助産婦又は監獄の長、代用監獄の管理者若しくは少年院の長
 前項各号に掲げる者は、同項の規定によつて証明書の交付の請求を受けた場合において、その事由があると認めるときは、直ちに証明書を交付しなければならない。
 選挙人は、第1項第1号の者がない場合又は正当な事由に因つて第1項の証明書を提出することができない場合においては、その旨を当該市町村の選挙管理委員会の委員長に疎明しなければならない。
第28条 市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長第26条及前条第1項又ハ第3項ノ規定ニ依リ投票用紙及投票用封筒ノ交付ノ請求ヲ受ケタル場合ニ於テハ直ニ其ノ選挙ニ用フベキ選挙人名簿ニ対照シ当該選挙人ガ衆議院議員選挙法第33条ニ掲グル事由ノ一ニ因リ選挙ノ当日自ラ投票所ニ到リ投票ヲ為シ能ハズト認ムルトキハ投票用紙及投票用封筒ヲ直ニ選挙人ニ直接ニ交付シ又ハ郵便ヲ以テ発送スベシ
 選挙管理委員会ノ委員長第26条第2項ノ申立ヲ受ケタル場合ニ於テハ当該選挙人ノ氏名、選挙人名簿調製期日ニ於ケル住所及生年月日並ニ其ノ職務若ハ業務及其ノ職務若ハ業務ニ従事中ナルベキ地、旅行中若ハ滞在中ナルベキ地又ハ病院其ノ他選挙人ノ現住地等ヲ記載シタル特別投票者証明書ヲ作製シ之ヲ封筒ニ入レ封緘シ封筒ノ表面ニ特別投票者証明書在中ノ旨ヲ表示シ其ノ裏面ニ署名捺印シ之ヲ前項ノ投票用紙及投票用封筒ト共ニ選挙人ニ交付シ又ハ発送スベシ
(以下省略)
第53条 市町村の選挙管理委員会の委員長は、第50条第1項、第4項又は第5項の規定によつて投票用紙及び投票用封筒の交付の請求を受けた場合においては、直ちにその選挙に用いるべき選挙人名簿又はその抄本と対照して、その請求をした選挙人が法第49条各号に掲げる事由の一に因つて選挙の当日自ら投票所に行つて投票をすることができないと認めたときは、投票用紙及び投票用封筒の交付又は発送について、直ちに左の各号に定める措置をとらなければならない。
一 第50条第1項の場合にあつては、選挙人に直接に交付し、又は郵便をもつて発送する。
二 第50条第4項の場合にあつては、同居の親族に交付する。
三(省略)
 選挙管理委員会の委員長は、第50条第2項又は第4項の規定によつて他の市町村又は選挙人の現在する場所において投票又は投票の記載をしようとする旨の申立を受けた場合においては、その申立をした選挙人について氏名、選挙人名簿の調製期日における住所及び生年月日並びに職務若しくは業務及びその職務若しくは業務に従事中であるべき地、旅行中若しくは滞在中であるべき地、船舶、病院、監獄、代用監獄若しくは少年院の名称又は選挙人の現在する場所を記載した不在者投票証明書を作製し、これを封筒に入れて封をし、封筒の表面に不在者投票証明書が在中する旨を表示し、その裏面に署名して印をおし、これを前項の投票用紙及び投票用封筒とともに、選挙人又はその同居の親族に交付し、又は郵便をもつて発送しなければならない。
(省略)
 第1項第2号又は第3号に掲げる者は、投票用紙及び投票用封筒並びに不在者投票証明書(第1項第3号に掲げる者の場合を除く。)を受け取つた場合においては、直ちにこれを選挙人に渡さなければならない。
第29条 衆議院議員選挙法第33条ノ規定ニ依ル投票ニ付テハ当該選挙人ガ同条ニ掲グル事由ノ何レニ関シ投票用紙及投票用封筒ノ交付ヲ受ケタルカニ依リ各左ニ掲グル者之ヲ管理ス(之ヲ特別投票管理者ト称ス)
一 同条第一号ニ掲グル事由ニ関スルトキハ……(以下省略)
二 同条第二号ニ掲グル事由ニ関スルトキハ……(以下省略)
三 同条第三号ニ掲グル事由ニ関スルトキハ選挙人ノ属スル市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長
第55条 法第49条の規定による不在者投票管理者(以下「不在者投票の投票管理者」という。)は、選挙人が投票用紙及び投票用封筒の交付を受けた事由に従つて、それぞれ左の各号に掲げる者とする。
一 法第49条第一号に掲げる事由に因つて交付を受けた場合は、……(以下省略)
二 法第49条第二号に掲げる事由に因つて交付を受けた場合は、……(以下省略)
三 法第49条第三号に掲げる事由に因つて交付を受けた場合は、選挙人が登録されている選挙人名簿の属する市町村の選挙管理委員会の委員長(以下省略)
第30条(第1ないし第3項省略)
 衆議院議員選挙法第33条第二号ニ掲グル事由ニ関シ投票用紙及投票用封筒ノ交付ヲ受ケタル選挙人ニシテ疾病、負傷、妊娠若ハ産褥ニ在ル為歩行著シク困難ナルモノ又ハ同条第三号ニ掲グル事由ニ関シ投票用紙及投票用封筒ノ交付ヲ受ケタル選挙人其ノ現在スル場所ニ於テ投票ノ記載ヲ為サントスルトキハ自ラ投票用紙ニ被選挙人1人ノ氏名ヲ記載シ之ヲ特別投票者証明書ト共ニ投票用封筒ニ入レ封緘シ投票用封筒ノ表面ニ其ノ氏名並ニ投票記載ノ年月日及場所ヲ記載シ更ニ之ヲ他ノ封筒ニ入レ封緘シ其ノ表面ニ投票在中ノ旨ヲ明記シ其ノ裏面ニ氏名ヲ記載シ選挙ノ期日迄ニ其ノ属スル市町村ノ選挙管理委員会ノ委員長ニ対シ郵便ヲ以テ送付スベシ
 前項ノ場合ニ於テ身体ノ故障ニ因リ自ラ被選挙人ノ氏名ヲ記載スルコト能ハザル選挙人ハ他人ヲシテ被選挙人ノ氏名ヲ記載セシムルコトヲ妨ゲズ比ノ場合ニ於テハ記載人ハ投票用封筒ノ表面ニ其ノ旨及其ノ住所氏名ヲ記載スベシ
(以下省略)
第58条 法第49条第2号又は第3号に規定する事由に該当する者で、疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため、又は産褥にあるために歩行が著しく困難であるべきことを理由として投票用紙及び投票用封筒の交付を受けた選挙人(第55条第2項各号に掲げる選挙人を除く。)は、その現在する場所において投票の記載をしようとする場合においては、前2条の規定にかかわらず、投票用紙に自ら当該選挙の候補者1人の氏名を記載し、これを投票用封筒に入れて封をし、投票用封筒の表面にその者の氏名並びに投票の記載の年月日及び場所を記載し、更にこれを不在者投票証明書の入つている封筒とともに他の適当な封筒に入れて封をし、その表面に投票が在中する旨を明記し、その裏面に署名し、その選挙人が登録されている選挙人名簿の属する市町村の選挙管理委員会の委員長に対し、選挙の期日の前日までに到達するように郵便をもつて送付し、又は同日までに同居の親族によつて提出させなければならない。
 前項の場合において、身体の故障に因つて自ら候補者の氏名を記載することができない選挙人は、他人に投票の記載をさせることができる。この場合において、投票の記載をする者は、投票用封筒の表面にその旨並びにその者の住所及び氏名を記載しなければならない。

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