在宅投票制度廃止違憲訴訟
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 昭和53年(オ)第1240号
昭和60年11月21日 第一小法廷 判決

上告人 (被控訴人 原告) 佐藤享如
          代理人 山中善夫 外4名

被上告人(控訴人  被告) 国

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人山中善夫、同横路孝弘、同江本秀春、同横路民雄、同馬杉栄一、同黒木俊郎の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係はおおむね次のとおりである。
[2] 公職選挙法の一部を改正する法律(昭和27年法律第307号)の施行前においては、公職選挙法及びその委任を受けた公職選挙法施行令は、疾病、負傷、妊娠若しくは身体の障害のため又は産褥にあるため歩行が著しく困難である選挙人(公職選挙法施行令55条2項各号に掲げる選挙人を除く。以下「在宅選挙人」という。)について、投票所に行かずにその現在する場所において投票用紙に投票の記載をして投票をすることができるという制度(以下「在宅投票制度」という。)を定めていたところ、昭和26年4月の統一地方選挙において在宅投票制度が悪用され、そのことによる選挙無効及び当選無効の争訟が続出したことから、国会は、右の公職選挙法の一部を改正する法律により在宅投票制度を廃止し、その後在宅投票制度を設けるための立法を行わなかつた(以下この廃止行為及び不作為を「本件立法行為」と総称する。)。
[3] 上告人は、明治45年1月2日生まれの日本国民で、大正13年以来小樽市内に居住し、公職選挙法9条の規定による選挙権を有していた者であるが、昭和6年に自宅の屋根で雪降ろしの作業中に転落して腰部を打撲したのが原因で歩行困難となり、同28年の参議院議員選挙の際には車椅子で投票所に行き投票したものの、同30年ころからは、それまで徐々に進行していた下半身の硬直が悪化して歩行が著しく困難になつたのみならず、車椅子に乗ることも著しく困難となり、担架等によるのでなければ投票所に行くことができなくなつて、同43年から同47年までの間に施行された合計8回の国会議員、北海道知事、北海道議会議員、小樽市長又は小樽市議会議員の選挙に際して投票をすることができなかつた。

[4] 上告人の本訴請求は、在宅投票制度は在宅選挙人に対し投票の機会を保障するための憲法上必須の制度であり、これを廃止して復活しない本件立法行為は、在宅選挙人の選挙権の行使を妨げ、憲法13条、15条1項及び3項、14条1項、44条、47条並びに93条の規定に違反するもので、国会議員による違法な公権力の行使であり、上告人はそれが原因で前記8回の選挙において投票することができず、精神的損害を受けたとして、国家賠償法1条1項の規定に基づき被上告人に対し右損害の賠償を請求するものである。

[5] 国家賠償法1条1項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別に国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを規定するものである。したがつて、国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であつて、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきであり、仮に当該立法の内容が憲法の規定に違反する廉があるとしても、その故に国会議員の立法行為が直ちに違法の評価を受けるものではない。
[6] そこで、国会議員が立法に関して個別の国民に対する関係においていかなる法的義務を負うかをみるに、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであつて、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする。さらにいえば、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解があり得るのであつて、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあるのである。憲法51条が、「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。」と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであつて、その性質上法規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといつて、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。
[7] 以上のとおりであるから、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであつて、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。

[8] これを本件についてみると、前記のとおり、上告人は、在宅投票制度の設置は憲法の命ずるところであるとの前提に立つて、本件立法行為の違法を主張するのであるが、憲法には在宅投票制度の設置を積極的に命ずる明文の規定が存しないばかりでなく、かえつて、その47条は「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」と規定しているのであつて、これが投票の方法その他選挙に関する事項の具体的決定を原則として立法府である国会の裁量的権限に任せる趣旨であることは、当裁判所の判例とするところである(昭和38年(オ)第422号同39年2月5日大法廷判決・民集18巻2号270頁、昭和49年(行ツ)第75号同51年4月14日大法廷判決・民集30巻3号223頁参照)。
[9] そうすると、在宅投票制度を廃止しその後前記8回の選挙までにこれを復活しなかつた本件立法行為につき、これが前示の例外的場合に当たると解すべき余地はなく、結局、本件立法行為は国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではないといわざるを得ない。

[10] 以上のとおりであるから、上告人の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく棄却を免れず、本訴請求を棄却した原審の判断は結論において是認することができる。論旨は、原判決の結論に影響を及ぼさない点につき原判決を非難するものであつて、いずれも採用することができない。

[11] よつて、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 和田誠一  裁判官 谷口正孝  裁判官 角田礼次郎  裁判官 矢口洪一  裁判官 高島益郎)
目次
第一、憲法解釈の誤り
 一、本件在宅投票制度廃止の違憲性
  (一) 法の下の平等
  (二) 選挙権保障の絶対性
  (三) 結論
 二、地方選挙に関する在宅投票制度廃止の違憲性
  (一) 地方選挙と国会議員選挙に分けることの可否
  (二) 地方選挙についても本件在宅投票制度廃止は違憲である
 三、本件公選法一部改正法適用違憲論
 四、立法不作為と請願
第二、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違反
 一、不法行為理論に関する違法
  (一) 原因行為と結果
  (二) 故意解釈の誤り
  (三) 合議性機関の故意過失について
 二、過失否定における経験則違反

 原判決には以下詳細にのべるとおり、憲法解釈の誤り、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違反があり、破棄を免れない。
(一) 法の下の平等
[1] わが憲法上、日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動するものであり、国政は国民の厳粛な信託によるもので、主権は国民に存するものである。しかもこれは人類普遍の原理なのである。(以上いずれも前文1項)。そして国権の最高機関である国会は、全国民を代表する選挙された議員で組織する衆議院及び参議院で構成するものとされ(41条、42条、43条1項)、地方公共団体には住民によつて直接選挙された長及び地方議会議員が置かれ(93条2項)、この議員等の公務員を選挙する権利は、国民固有の権利として成年である国民全てに保障され(15条1項、3項)、国会議員の選挙人資格については、人種・信条・性別・社会的身分・門地・教育・財産又は収入により差別してはならない(44条但し書)のみならず、国民はすべて法の下に平等であつて、人種・信条・性別・社会的身分又は門地その他不合理な理由によつて、政治的関係において差別されない(14条1項)のである。
[2] 最高裁判所昭和51年4月14日大法廷判決(いわゆる議員定数配分規定違憲判決)はいう。
「元来、選挙権は、国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として、議会制民主主義の根幹をなすものであり、現代民主国家においては、一定の年齢に達した国民のすべてに平等に与えられるべきものとされているのが一般であるが、このような選挙権の平等化が実現されたのは、必ずしも古いことではない。平等は、自由と並んで、近代国家における基本的かつ窮極的な価値であり理念であつて、特に政治の分野において強く追求されてきたのであるが、それにもかかわらず、当初においては、国民が政治的価値において平等視されることがなく、基本的な政治的権利というべき選挙権についても、種々の制限や差別が存しており、それが多年にわたる民主政治の発展の過程において次第に撤廃され、今日における平等化の実現をみるに至つたのである。国民の選挙権に関するわが憲法の規定もまた、このような歴史的発展の成果のあらわれにほかならない。ところで、右の歴史的発展を通じて一貫して追求されてきたものは、右に述べたように、およそ選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、各自の身体的、精神的又は社会的条件に基づく属性の相違はすべて捨象されるべきであるとする理念であるが、このような平等原理の徹底した適用としての選挙権の平等は、単に選挙人資格に対する制限の撤廃による選挙権の拡大を要求することにとどまらず、更に進んで、選挙権の内容の平等、換言すれば、各選挙人の投票の価値、すなわち各投票が選挙の結果に及ぼす影響力においても平等であることを要求せざるをえないものである。そして、このような選挙権の平等の性質からすれば、例えば、特定の範ちゆうの選挙人に複数の投票権を与えたり、選挙人の間に納税額等による種別を設けその種別ごとに選挙人数と不均衡な割合の数の議員を選出させたりするような、殊更に投票の実質的価値を不平等にする選挙制度がこれに違反することは明らかであるが、そのような顕著な場合ばかりでなく、具体的な選挙制度において各選挙人の投票価値に実質的な差異が生ずる場合には、常に右の選挙権の平等の原則との関係で問題を生ずるのである。本件で問題とされているような、各選挙区における選挙人の数と選挙される議員の数との比率上、名選挙人が自己の選ぶ候補者に投じた1票がその者を議員として当選させるために寄与する効果に大小が生ずる場合もまた、その一場合にほかならない。
 憲法は、14条1項において、すべての国民は法の下に平等であると定め、一般的に平等の原理を宣明するとともに、政治の領域におけるその適用として、前記のように、選挙権について15条1項、3項、44条但し書の規定を設けている。これらの規定を通覧し、かつ、右15条1項等の規定が前述のように選挙権の平等の原則の歴史的発展の成果の反映であることを考慮するときは、憲法14条1項に定める法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向するものであり、右15条1項等の各規定の文言上は単に選挙人資格における差別の禁止が定められているにすぎないけれども、単にそれにとどまらず、選挙権の内容、すなわち各選挙人の投票の価値の平等もまた、憲法の要求するところであると解するのが、相当である。」
[3] このように、わが憲法上、選挙権の内容の平等、すなわち各投票が選挙の結果に及ぼす影響力においても平等であることが要求されているとすれば、投票の機会もまた全ての国民にとつて平等に保障されなければならないことは明らかである。
[4] いや投票の機会が全ての者に平等に保障されるべきことは、右の選挙権の内容の平等以前の問題でさえある。即ち右最高裁判決において問題とされたのは、投票の機会は保障されているけれども、その投票をしてもある選挙区の1票は他の選挙区の5分の1票にしか相当しないというケースなのである。そしてこのようなケースが平等原則に反するとされるならば、それ以前の問題である投票の機会の平等を保障しないことは平等原則に違反することは自明の理である。投票の機会が保障されなければ、その選挙人の投票が選挙の結果に及ぼす影響力は零である。投票の機会を保障された他の選挙人の1票は前者の1票に対し無限大の価値を有するのである。
[5] 本件訴訟は正にこの投票の機会の保障の平等に関するものである。
[6] 昭和27年法律307号公職選挙法の一部を改正する法律(以下本件公選法一部改正法という)によつて、不在者投票手続の一として従前認められていた「疾病、負傷、妊娠若しくは不具のため、又は産褥にあるため歩行が著るしく困難な者」(以下在宅選挙人という)について選挙人の現在する場所における投票方法(以下在宅投票制度という)は廃止されたのであるが、これによつて在宅選挙人は不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所に行かなければ投票できない(投票日当日本来の投票所に行けば投票できるがそれは不可能なこと勿論である)ものとなつた。
[7] 在宅選挙人は前記の如く身体的理由の故に歩行が著るしく困難であり、従つて投票所に行くことが著るしく困難な者である。それは投票日当日は勿論、選挙期間中のその他の日でも同じことであるから、不在者投票管理者の管理する投票記載場所にも行くことは著るしく困難なのである。そうとすれば本件公選法一部改正法によつて在宅選挙人は選挙権を有しながら、その行使の機会即ち投票の機会を失わしめられたということになることは明らかである。
[8] ところで、憲法は先にのべたように、国会議員、地方公共団体の長・議員の選挙につき、その選挙権を国民固有の権利として認め、普通平等選挙を保障しているが、選挙権というものは具体的な選挙の機会においてこれを行使することに大きな意味があり(国民は選挙の時のみ主権者であるとの格言はこの意味に用いられている訳ではないが、言い得て妙である)、従つて行使の機会の保障されない選挙権は全く無意味である。権利は不断に行使することによつて権利たりうるといわれる。だからこそ、憲法も、この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない(12条)と定めているのである。そして選挙権というものは、他の権利と異り、具体的な選挙の時にのみ行使しうるものであつてそれ以外には行使の場は存しないのである。いかに憲法が、国民の不断の努力によつて権利を保持せよと説いてみたところで、その努力の唯一の機会を奪われては国民はどうにもならないのである。
[9] 要するに、憲法上の選挙権の保障は、その行使の機会の保障なくしては成り立たず、論理必然的に行使の機会の保障つまり投票の機会の保障を含んでいるのであつて、投票の機会を保障しないことは即選挙権を否定したことになるといわなければならない。
[10] そして本件在宅投票制度の廃止により、在宅選挙人は投票の機会を失わしめられたのであるから、正に本件公選法一部改正法により身体的条件により通常の歩行可能な人と異なる扱いを受け、つまり選挙権(の行使)を否定されたことになるのである。
[11] 身体的条件の違いによりある者には選挙権(の行使)を認め、ある者にはこれを認めないということは憲法14条1項及び44条但し書に反することは多言を要しない。
[12] 原判決は在宅投票制度の廃止或いはその後の立法をしないことによる不作為について合理的と認められる止むを得ない理由の有無を検討している。
[13] 成程、法の下の平等に関しては、合理的理由があるか否かが重要であり、合理的理由のある差別的取扱いは許されるものであるけれども、原判決自身も認めるように、
「国民は各自の身体的、肉体的、社会的条件に基づく属性の相違に拘らずすべて平等に選挙権が与えられ、且つ右相違に応じた取扱いにより平等にその行使の機会が与えられるべき」
であるとすれば、身体的条件の違いにより在宅選挙人の選挙行使を否定する立法が、何の根拠で合理的とされるのであろうか。後述(二)の3にのべるように、選挙権の絶対性を考えれば尚更である。
[14] 原判決は地方選挙についてはその廃止は合理的であつたというが、仮りに、在宅選挙人が有権者の30%~40%を占めていたらどうであつたろうか。この場合にはいかに国民の自覚が低く、悪用が多発したとしても廃止はできなかつたであろう。国民の基本的人権を奪うものとして猛反対を受けたであろう。またそのようなケースでは廃止に合理的と認められる止むを得ない事情はないとされるであろう。
[15] ところが、本件のように在宅選挙人が有権者の1割にもみたず、しかも永久的な在宅選挙人(一時的な負傷・疾病・妊娠・産褥を除く在宅選挙人)は有権者の1%にも満たないとなれば、廃止は止むをえないとして、省りみられないのである。原判決は少数意見を尊重しない民主主義は真の民主主義ではないという。しかしその言の何と空疎なことか。原判決自身在宅選挙人は少数だから悪用されたなら廃止したつて仕方ないという意識が働いたのであろう。いかに原判決が地方選挙における在宅投票の廃止は合理的だと強調してみても、在宅選挙人が有権者の3、4割を占めていれば合理的だとは判断できないし、在宅選挙人の多少により結論を異にする理由は全くない。
[16] 在宅選挙人の数が多ければ多い程、在宅投票の廃止が違憲だということが、国民の権利侵害に鈍感な者にもはつきりと感じられてくるだけであつて、それは理論的に違憲性が強くなるというものではないのである。極端にいえば、たつた1人の国民が指名されてお前には選挙権の行使は認めないとの扱いをされた場合でも平等原則違反には変りない。ただ国民の多くは自分に無関係だから無関心で、その違憲性に気づかないで終る可能が高いだけである。
[17] 正に本件在宅投票制度の廃止は、在宅選挙人が少数であつた為に、非在宅選挙人の無知と思い上りがまかり通つてしまつたのであり、平等原則違反が阻却されるものではない。
[18] 憲法は、すべて国民は個人として尊重されると規定する。しかしながら、身体的条件の違いにより選挙権を行使させないとすれば、それはその者を国民として認めないことであり、人間として認めないことに他ならない。
[19] 今日に至るまで、身体障害を有するものはあらゆる場面において不利な扱いを受けて来た。正に人間扱いを受けてこなかつたのである。戦時には戦争に行けない故をもつて非国民呼ばわりを受け、平時には産業経済活動に従事できない故をもつて邪魔者扱いをされて来た。
[20] のみならず選挙に関しても、投票所に行けない故をもつて選挙権の行使さえ否定されたのである。これでも国民として認められているというのであろうか、個人として尊重しているというのであろうか。
[21] 本件在宅投票制度の廃止が憲法13条に違反することもまた明白である。

(二) 選挙権保障の絶対性
[22] 先にのべたように、憲法は主権在民を基本的な柱とし、政治組織としては議会制民主主義をとり入れ、国会議員、地方自治体の長・議員を選定罷免する権利を国民固有の権利として保障している。
[23] 前文において、主権在民を人類普遍の原理とし、この憲法はかかる原理に基づくものであるとし、われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除するとうたわれているように、この主権在民の考えは憲法の幹であり、背骨である。従つてその具体的表現である選挙権の保障もまた憲法の背骨である。(選挙権を保障しない主権在民などというものはありえない。)
[24] そして先にのべたとおり選挙権を保障することは即選挙権行使の機会を保障することにつながるのであるから、選挙権行使の機会の保障は、わが憲法上絶対的な要請である。他の憲法上の諸原則に優越する至高の要請である。
[25] だから犯罪人であつても破産者であつても選挙権の行使の機会は保障されなければならない。(但し選挙権はかほどに重要な権利であるが故に、これを不正に行使した者に対しては厳しい制裁のあることは当然であろう。……勿論個別的制裁であり、例えばある地域で不正行使者が多発したとしても一律にその地域住民全て制裁を科すことができないのはいうまでもない。)
[26] この憲法の至高の原理に基づき、現実の選挙制度が設定されなければならないのであるから、憲法44条が国会議員の選挙人の資格は法律で定めるといい、また47条が国会議員の選挙に関する事項は法律で定めるとし、更に92条が地方公共団体の組織及び運営に関する事項は法律で定めると規定し、具体的な選挙制度の内容については法律に全て委任されているけれども、右の憲法原理に基づき、具体的選挙制度を立法しなければならず、その内容はこの原理に合致するものでなければならないのである。
[27] もし、国会が選挙制度につき何らの立法をしないで放置するならば、それは憲法違反であり、選挙権を違法に侵害したことになるのはいうまでもないことである。正に国会は憲法によつて選挙制度を立法すべきことが義務づけられているのであつて、立法するか否かまで自由になしうるものではない。
[28] しかも、その立法の内容についても右の憲法原理を貫ぬくものでなければならないのであり、これに反する内容を盛り込み或いはこれを盛り込まない制度とすることは憲法違反であり、それによつて選挙権及びその行使が否定される場合には違法な権利侵害となることも勿論であろう。
[29] そこで本件公選法一部改正法をみると、従前の「現在する場所における投票」に関する規定は排除され、通常の投票所における投票の外は「不在者投票管理者の管理する投票所における投票」が認められているにすぎない。
[30] そうすると選挙人は投票所(通常の投票所であれ、不在者投票所であれ)に行かなければ投票できないことは明らかである。つまり右改正法は投票所投票主義に立ちその例外は設けていないのである(不在者投票は、投票日投票主義に対する例外にすぎない)。この結果投票所に行くことのできない者は選挙権の行使はできないものとなつたのである。つまり投票所に行けない選挙人は選挙権行使の機会はないこととなつたのである。
[31] これは前述の憲法原理に反することは明白であろう。憲法上選挙権が一部の者に保障されなくてよいとする根拠はどこにもない。憲法は選挙権行使の方法、即ち投票の方法について何も規定せず法律に委ねているけれども、その法律に対し全ての成年に達した国民が投票の機会を保障されることは要求しているのである。従つて法律が投票日当日投票所において投票する方法を採用するならば、投票日当日投票所に行けない国民に投票の機会を保障する方法(例えば不在者投票)は勿論、投票日当日のみならず常に投票所に行けない国民にも投票の機会を確保する方法も併せ採用することが要求されるのである。
[32] 正に投票所投票主義をとる法律においては、一審における今村鑑定が指摘するように、その例外手段を設けることが「憲法上必須不可欠」なのである。
[33] 投票所に行くことのできない選挙人の投票の機会を保障しないで主権在民を説いても、凡そ空虚な念仏に過ぎない。
投票所 月より遠く 寝たつきり
[34] この言葉にその空虚さを感じない者は民主主義の何たるかを理解しないものである。大多数の者に投票の機会が与えられれば良しとするのは多数の横暴である。投票の機会を与えられない少数者の声は政治に反映する手段を持たないものである。正に民主主義の「復元」の手段がないのである。
[35] 原判決は本件公選法一部改正法による在宅投票制度の廃止に合理的な理由があつたか否かを検討している。しかしながら、既にのべたことから明らかなように、選挙権行使の機会の保障は絶対的なものであり、憲法上至高の原理であるから、廃止を合理化する理由がありえようはずもない。平等原則のみからみるならば不合理な差別は許されないが、合理的理由による異なる扱いは許容されるものであるけれども、選挙権の行使の機会の保障という点ではこれを否定する合理的理由は存しえないのである。
[36] 単に原判決のいうように、選挙権の行使の機会の保障は他の憲法上の原則によつて軽々に犯されてはならないというだけではなく、選挙権をひいてはその行使を否定する憲法上の原則はありえないのである。
[37] 投票の秘密保障の原則にしても、選挙権の行使が可能な状態において論じられるものであつて、概念必然的に選挙権行使が可能な制度を前提にしていることは、常識である。従つて投票の秘密が守れないからということで投票の機会を保障しないのは本末転倒である。現行制度であつても投票の秘密を侵害しようとすることは、いかに投票管理者がいようとも可能なことである。管理者によつて投票の秘密が侵害されるケース(小投票所を考えてみよ)はいくらでもありうるのである。それでも現行の投票所での投票という方法を止め、選挙制度を廃止することはできないのである。
[38] 選挙の自由公正も同じことである。前文には「正当に」選挙された代表者を通じて行動しとあり、従つて選挙は自由公正に行なわれなければならないとされているが、これまた選挙権の行使の機会が保障されていることが論理必然的に前提となつている。
[39] 即ち選挙権の行使が不可能な制度下では選挙そのものが不可能なのであつて、選挙を自由公正に行わしめようとしても意味のないことである。従つて選挙の自由公正もまた選挙権の行使を可能ならしめる制度をつくり、その中で選挙の自由公正の担保を考えるべきであり、選挙の自由公正を保つために選挙権の行使を否定するのは本末転倒である。
[40] 当該投票制度が悪用されたことを理由にして選挙権行使を一般的に否定することが許されるのであろうか。原判決は、地方選挙については在宅投票制度は制度外要因による悪用が多く、かつそれが決定的であつたので制度を改善しても悪用の危険が大きいので廃止したことは合憲であつたという。
[41] しかしながら既にのべたとおり、憲法の基本原理上選挙権の重要性からいつていかに制度外の要因が大きく作用しても選挙権行使を一般的に封殺する理由はない。個人の自覚が不足であるために悪用をまねくとしても、悪用した当の個人の選挙権行使が一定期間停止されることは是とされるであろうが、選挙制度そのものを廃止することができないことは誰しも認めるであろう。買収事犯がいかに多発しようとも国民の選挙権行使を一般的に否定することはできないのである。(買収は正に制度外の個人の自覚に負うところが大きい)。
[42] 勿論、投票の方法についてどのような方法をとるかは国会に委されているけれども、前述のとおり国民の選挙権行使を不可能にすることは許されないのであるから、ある投票方法が悪用を生みやすく、或いは投票の秘密等の他の憲法原則を達成することが困難だというのであれば、その投票方法をやめる場合には別の投票方法を採用して、廃止される投票方法を利用していた国民の選挙権行使が可能な状況を作り出さない限り憲法違反たるを免れないものである。
[43] 従来施行されて来た在宅投票という方法をやめてしまい、しかもこれに代る投票方法を案出しないとすれば、在宅選挙人は他にいかなる方法により選挙権を行使する方法があるというのであろうか。
[44] 原判決は地方選挙については廃止は合憲であつたというが、そうすると在宅選挙人は地方選挙に関しては選挙権の行使を永久に否定されてよいということになる。このようなことが憲法のどこから引き出されてくるのであろうか。
[45] 原判決の判示からすれば「民主主義的自治の理念を理解し選挙民としての自覚」を有しない者には永遠に選挙権をも否定してもよいことになる。原判示からすれば、国民固有の権利である選挙権の保障も右のような括弧付の条件付適用ということになるのである。
[46] 一体誰がそのような自覚があるか否かを判定するのであろうか。
[47] かのウインストン・チヤーチルは
「民主主義ほど時間のかかる非能率なものはない、だがこれに勝る制度もない、だから我々は民主主義体制をとる。」
といつた。そこには国民に対する信頼がある。正に国民の自覚が民主主義を支えるものではあるけれども、国民の自覚が不足だから国民の権利を奪おうとするのは民主主義は時間がかかるから独裁にしようというのと何ら変りない。少くともその考えに通ずるものである。
[48] 国民は所与として国家の構成員とされている(後に国籍を取得するものは別である。)のであつて、最初から国家の構成員とされながら、生れながらにして選挙権の行使を否定される者(生れながらの歩行不能者も存する)が生じても可とする民主主義がどこにあろうか。
[49] 歴史的にみても、選挙権についてはいろいろな制約がなされていたが、それは正に国民に対する不信の現れであつた。その不信から解放したのが民主主義であり、普通平等選挙であつた。わが憲法はその歴史の流れに従い人類普遍の原理としてこれを取り入れたものである。その憲法の下において民主主義を、選挙権を否定する「自覚が足りないから選挙権を行使させない」という法改正がいかに容認されようか。
[50] 原判決の論理は民主主義を理解しない思い上つた態度という他ない。
[51] 要するに、わが憲法上は選挙権行使の保障は絶対的なものであり、一般的に投票の機会が失わしめられるような投票方法を定めることはできないのであつて、そのような投票方法を定めた立法が合憲とされる理由はありえない。

[52](三)以上のとおりであるから、原判決が立法不作為の違憲性をのべる中で本件公選法一部改正は地方選挙に関しては合憲であつたと判示したのは憲法13条、14条1項、15条1項、3項、44条但書、47条、93条1、2項の解釈を誤つたものである。
[53] 尚、原判決は「被控訴人に対しては違憲違法でない」旨判示しているが、違憲か否かは一般的な問題であり、彼に対しては違憲であるが、此に対しては違憲ではないということはありえない。違憲であるか否かは裁判所において客観的にかつ一般的に判断されるのであり、別の事件においても当該法規の違憲性が問われれば、同じ結論とならなければならない(最終審たる最高裁判所において統一される)のであつて、当事者の異なるごとに違憲合憲の分れるものではない。
(一) 地方選挙と国会議員選挙とを分けることの可否
[54] 原判決は、地方選挙に関しては悪用の実態を分析したうえで制度外の要因が決定的であつたので、制度を改善しても悪用の危険は去らず、従つて廃止したのは合憲であるとしている。
[55] しかしながら、既にのべたとおり、わが憲法の基本原理上在宅投票制度の廃止は違憲なのであるから、地方選挙に関して合憲だとする理由はない。地方選挙における選挙権の行使の保障について憲法原理の異なる根拠がどこにあろうか。(第一の一参照)
[56] 悪用の故に廃止するとせば、国民の選挙権行使を別の手段によつて保障しなければならないはずではないか、別の手段を設けなかつた以上、地方選挙のみを別異に解する理由はない。
[57] 国会議員選挙、地方選挙を問わず違憲と解すべきは第一の一にのべたところを全て参照されたいが、更に、本件改正前公選法における在宅投票の方法は国会、地方によつて方法に差異を設けず、全く同じに運用されたものであり、本件改正法も地方選挙と国会議員選挙とを意識することなくなされたものであることを無視することはできない。また、制度外的要因である自覚或いは選挙戦の激しさというような曖昧な基準で違憲性を左右させるならば、国会議員選挙の場合であつても選挙の度毎に或いは選挙区毎に在宅投票制度の存しないことの合憲違憲が異なり、法的安定性を欠くことを指摘しておきたい。
[58] そして憲法の選挙権(行使)の保障は国民の中に自覚のたりない者がいようといまいと、またいかに激しい選挙であろうと無風選挙であろうと関係がないのである。

(二) 地方選挙についても本件在宅投票制度廃止は違憲である。
[59] 更に、原判決が合憲の理由としている「制度内的な悪用の原因及び制度外の悪用の原因」(原判決は特に後者が決定的な原因であり、制度を改善しても悪用の危険が大であるので廃止したのは合理的止むをえないものだとする)についてみれば、まず、制度に内在的な欠陥として原判決の指摘する、投票の秘密確保の困難性、選挙人の意思による投票であるか否かの確認困難性、代理記載可否認定の困難性、などの問題については通常の投票所における投票においてさえ大なり小なりつきまとうことであるし、原判決のいうように自覚によるしかないとしても罰則の強化、啓もうなどにより悪用を減らすことが可能なのである。また原判決により「決定的」とされている、1票を争う激しい選挙であつたこと、民主主義的自治についての自覚不足、選管の不備・不慣れなどにいても、国の啓もうの不足、制度の不備が指摘されなければならない。激しい選挙や、自覚不十分が違反を誘発することは事実であるが、それは在宅投票でなくても多発するのであり、現に昭和26年の統一地方選で買収が激増し全体の8割を占めていることでも明らかである。在宅投票制度がこの時悪用されたからといつて一人その責めを負ういわれはない。
[60] 加えてその悪用について、啓もう不十分なためにおきたことを取締当局も認めている(乙1号証の4、130頁、133頁、151頁等)くらいであり、制度外的要因といつても改善不能だつた訳ではない。
[61] まして原判決が制度外的要因の一として挙げる選管の不備、不慣れの如きは、在宅投票制度に限らず、国自身の重大な手落ちではないか。国が選挙制度の一環として選管を設けながら、それが十分な機能を発揮しなかつたことの責任を、在宅投票の制度外の悪用原因の一として挙げ、それが在宅投票制度を改善しても悪用の危険の消えない決定的要因の一つだとの論理で、転嫁してくるのは一体どのような神経であろうか。選管の体制が不十分であればこれを整備するのは国の責任ではないか。
[62] つまり、原判決がいかに強弁しようととも、在宅投票制度につき、国が国民に対する政治教育、啓もうに力を入れ、悪用に対する罰則を新設(医師の証明書をやめて診断書にすれば罰則を新設しなくとも虚偽証明は処罰できるが、)強化、同居親族の介入の再検討、選管の体制強化等の策を構ずれば悪用が激減することは明らかなのである。
[63] そして原判決が最も強調しているのが、
「いかなる措置を講じたとしても、少くとも地方選挙に関する限り、民主主義的自治の理念を理解した選挙民を前提としない限り、悪用の危険から免れることはできない。」
ということである。これは正に愚民思想の現れであり、これ程国民を馬鹿にした話はない。「国民は己にふさわしい政府しかもちえない。」という。原判決流にいえば、国民が馬鹿だつたから、政府もそれにふさわしい選挙制度を与えたのだということになろうか。
[64] だがしかし、原判決の判示に従えば、民主主義を理解しない選挙民は選挙制度を悪用するから全ての選挙制度を廃止しても良いということになるのであつて、あの三浦証人の
「正当に選挙された代表者でなければ、真の民主制ではない。従つて悪用されれば(正当に選挙されていないのだから)廃止してもよい」
という考えと何ら異なるところはない。
[65] 原判決は、少くとも地方選挙に関する限りとの限定をつけているが、その論理からすれば、国会議員選挙についても異なる理由はなくなるであろうし、在宅投票制度に限る必要もなくなつてしまうではないか。
[66] 原判決は前記大法廷判決にならい、選挙権の保障を高らかに宣言したかに見えながら、ここで馬脚を現わしてしまつたのである。
[67] 以上のとおりであるから、地方選挙に関し原判決が在宅投票制度の廃止を合憲としたのは憲法13条、14条、15条1項、3項、93条1、2項の解釈を誤つたものである。
[68] 本件公選法一部改正法は、
選挙人で左の各号の一に掲げる事由により選挙の当日自ら投票所に行き投票することができないものの投票については、…《中略》……不在者投票管理者の管理する投票を記載する場所において行わせることができる。
一、二号略
三、選挙人が疾病、負傷、妊娠、老衰、不具若しくは産褥にあるべきこと……以下略
と規定する(49条)。
[69] この規定に該当しない選挙人は、選挙の当日、自ら投票所に行つて投票する(44条)。
[70] そうすると在宅選挙人については49条3号が適用され、従つて不在者投票所に行つて投票する訳であるが、それは既にのべたように不可能又は著しく困難であり、在宅選挙人が選挙権を行使しえない制度となつている訳である。
[71] ここに、在宅選挙人に本件改正法を適用するのであれば同法は違憲ではないかが問われなければならない。そして既に検討したところからすれば、右改正法49条及び44条を在宅選挙人に適用することは違憲だという結論になる。
[72] 憲法の法の下の平等、選挙権の保障等々の原理からして、在宅選挙人にその選挙権行使を投票所に行つてなせと要求することはできないのである。つまり右改正法を在宅選挙人に適用することはできない。にもかかわらず右改正法を在宅選挙人に適用するのは明らかに違憲である。
[73] さすれば右改正法が、改正前公選法49条を前記のように改正すると規定したのは違憲無効であり、在宅選挙人の投票方法にいては改正がなかつたと解すべきものである。そうすれば在宅選挙人は従前の方法(在宅投票制度)によつて投票することが法的には可能だつたのである。
[74] 上告人は昭和30年以降は投票することができない状態であつたが、右改正法が違憲無効である以上改正前公選法により法的には投票ができたはずである。
[75] ところが、国権の最高機関であり、唯一の立法機関である国会が、改正法という形で、在宅選挙人にも同法44条49条を適用すると宣言したために、選挙管理委員会は上告人の選挙権の行使について各選挙の度に投票所を小樽市の最上小学校と指定し入場券を送付してくる措置しか講じないようになつたのである。
[76] 選挙管理委員会としては国会の議決がある以上止むを得ないことではあろうが、上告人としては右国会の議決により昭和30年以降の各選挙において選挙権行使が(法的には改正前公選法によりなしうるが、現実には改正法という形での国会議決があるために)できなかつたのである。
[77] これは国会が昭和27年公選法一部改正法という一部(44条49条を在宅選挙人にも適用するという限りで)違憲無効の法律を制定施行し、効力あるものとして、これにもとづいて選挙が執行されて来たからである。
[78] そうとすれば上告人は右改正法の適用を受けて、選挙権行使の機会を現実に奪われて来たことについて損害賠償請求権を有するものである。
[79] よつて、原判決が右改正法の適用につき違憲性を判断しなかつたのは憲法解釈の誤りがある。
[80] 原判決は立法不作為が存するだけでは、いかに立法義務が存する場合でも、裁判所は当該不作為につき憲法適合性の判断をすべきでないと判示する。
[81] しかしながら、事は選挙権という憲法上至高の権利に関するものである。選挙権の行使が認められずに、国家の構成員といえるはずがない。国民であることを否定されているのである。試みに選挙権の行使を認められない者が過半数を超える場合を考えてみよ。それらの者が不平はいつても請願もしなければ、裁判所はいつまでも憲法適合性の判断を回避するのであろうか。
[82] 更に挙げれば、選挙権の行使方法について全く立法をしなかつたらどうであうか。国民は選挙権を有しながら誰一人として国民固有の権利を行使しえないのである。そのような場合に請願もせずに直ちに裁判所に権利侵害に対する損害賠償請求を訴えても、憲法判断を回避すべきだというのであろうか。
[83] 選挙権の行使方法について全く立法をしないことは現実にはありえないことであろうが、だからといつて理論的に異なるものではない。
[84] 国家の基本原理として、憲法が要求していることにつき、立法義務あるものとされていながら、立法せずに放置しているときに、請願をしていないからとして権利侵害の救済ができないとするのは、民主主義国家の墓穴をほるものである。
[85] 国会が国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であるとしても、憲法上明文をもつて立法が義務づけられ或いはそれが憲法解釈上明白な場合に、立法をしないで放置している以上、国会は当該立法をしないという態度を明白にしているというべきであり、従つて裁判所が具体的紛争について当該立法不作為の憲法適合性を判断できるものである。そう解したからといつて三権分立の建前に何らふれることはありえない。
[86] 裁判所の違憲立法審査権は事後的なものであるといわれているけれども、立法に関する不作為が、未だ立法がなされていないのであるから、それについての違憲審査は全て事後的なものとはいえないという考え方は誤りである。もしそのように考えるのであれば立法府が怠慢であればある程、国民の権利は侵害されても救済が全くなされないことになるのである。
[87] 法律を定めなければならないとされており、かつ法律を定めなければ権利行使がなしえないものについては、その権利侵害にいての紛争において直ちに違憲立法審査がなされるのでなければ権利の救済の実効性がないのである。
[88] しかも憲法は、違憲立法審査権の発動に関し、請願を要件とした規定は全くおいていない。
[89] 原判決の論理をもつてすれば、立法不作為に対し請願をなし、そこからこれに対する国会の関係委員会の態度決定があり、そのときから1年を経るまでは損害がいくらあろうと賠償は否定されることになる。これは憲法が国家賠償責任を規定した趣旨にも反する。請願がなければ永遠に損害賠償は認容されないし、甚大な損害を被ろうと泣寝入りを迫らることになる。そこまでは憲法は国会を絶対視してはいないはずである。
[90] 以上の次第で原判決は、憲法81条及び17条の解釈を誤つたものである。
(一) 原因行為と結果
[91] 原判決は「被控訴人(上告人)に対しては違憲違法ではない。」と判示するけれども、違法性判断は一般論であり、特定の人間との関係で違法・合法を異にするものではない。人を殺傷した場合、その行為は一般的に違法と判断され、殺傷されなかつた者は被害がない為に損害賠償を求めることができないというだけのことである。
[92] もし原判決が、真実違法性がないと考えたとすれば損害賠償法理論を誤解したということになろうが、損害がないので請求を認めないという趣旨に善解して、論を進めることとしよう。
[93] さて原判決の事実認定に従えば、上告人は昭和28年の参議員議員選挙には投票所に行つて投票した。昭和30年頃からは歩行が著るしく困難になり投票所に行くことも命がけの状態になつたので、昭和30年頃から所謂在宅選挙人となつたというのである。この事実に立つて原判決は前記判示をなしたのであるが、それは在宅選挙人となる前は、権利侵害が発生していないとの解釈に立つものと思われる。
[94] 右解釈が正しいとしても、上告人が昭和30年以降権利侵害を受けていることは明らかであり、原判決もそれは認めている(だからこそ昭和30年以降の立法不作為の違法性を検討しているのである)。
[95] その場合の権利侵害の内容について、原判示からは必ずしも明らかではないが、各選挙において権利行使をなしえなかつたことが権利侵害の内容とされているものと思われる。選挙権というものは具体的な選挙の場において行使することに意味があるのであるから、上告人が昭和30年以降の各選挙において投票しえなかつたことを権利侵害としてとらえることは正しいものである。別の言い方をすれば、上告人は昭和30年以降の選挙の度毎に選挙権を行使できず、精神的な苦痛をその度毎に受けていたのであつて、選挙の度毎に損害が発生していたものである。
[96] ところで、その権利侵害(損害の発生)の原因行為は本件公選法一部改正法による在宅投票制度の廃止である。原判決は権利侵害の原因行為として立法の不作為を考えているが、その前提には法改正という原因行為による結果発生は改正時点で完了している、つまり逆にいえば法改正による不法行為は改正時点で完成しているという考えがあるものと思われる。しかしながら、法改正がなされ、その改正法の効力は施行の時から発生するけれども、それによつて権利行使ができなくなるのは選挙人によつて異なるのである。上告人のように昭和30年以降の選挙において権利行使ができないものもいれば、昭和28年の参議院選挙で権利行使のできない者もいるし、ずつと後の選挙で権利行使ができなくなつた者もいる。現実に権利侵害が発生するのは人によつて一律ではないのである。
[97] 試みに、昭和27年に法改正がなされ、昭和30年に再改正されて元に戻つたが、その間選挙がなかつたとしよう。この場合に損害は認められるであろうか、権利侵害があつたと認められるであろうか。(昭和27年から以後投票所に行くことのできない在宅選挙人にとつても具体的な権利侵害はないはずである。)
[98] また例えば尊属殺人の規定は違憲であるけれどもその適用を受けなければ(普通殺人で処理されれば)被害はないのである。
[99] 本件についていえば前述のように本件法改正によつて在宅投票制度が廃止されたことは原因行為であり、その結果は選挙の時に発生するのであるから、選挙の時に「在宅選挙人」の状態になつている者はその選挙において権利を侵害されたことになるのであつて、被控訴人(上告人)も昭和30年以降「在宅選挙人」となり、同年以降の選挙の度毎に権利行使を侵害されて来たのである。
[100] 法改正と同時に在宅選挙人の権利侵害がなされるとの考えは選挙権の性質を考えない曲説である。この考えでは前述のように法改正後選挙のないうちに再改正された場合であつても損害の発生(権利侵害)を認めなければならなくなる。
[101] 殺害行為のように死んでしまつた後に何も残つていないのとは全く異なるのである。否殺害の場合でも加害行為が直ちに結果(死)に至らず、時を経て結果発生に至ることはいくらでもある。結局原因行為があり、権利侵害があれば、その間に何年の歳月が流れようとあとは因果関係が存するかだけの問題である。
[102] 本件では、在宅投票制度廃止の法改正行為があり、時を経て上告人の権利侵害の結果が発生したものであり、その間の因果関係の存在については争う余地なく明白である。
[103] そうとすれば、原判決は右原因行為たる本件公選法一部改正法の違法性(違憲性)につき検討すべきであつたのである。にもかかわらずこれを検討しなかつたのは損害賠償法理論の誤りがあり、後にのべる過失に関する法令違反と相俟つて判決に影響を及ぼすこと明らかである。
[104] 尚付言するに、上告人の権利侵害、即ち昭和30年以降の各回の選挙において選挙権行使をなしえなかつたことは、本件公選法一部改正の結果であるとともに、本件公選法一部改正法が上告人にも適用されるものとされた結果でもあり、更に在宅投票制度を立法しない不作為による結果でもあると考えられるのであり、正しくは右3つの原因行為の共同の結果と考えるべきであろう。この場合にも判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違反であることはいうまでもない。

(二) 故意解釈の誤り
[105] 原判決は、国会議員の故意過失につき、大略次のような理由で否定した。
(1) 本件法改正の審議は在宅投票制度廃止も含めて慎重に行なわれ、当時の国会議員は違憲問題が生ずるとは考えていなかつた。
(2) 昭和41年までに在宅投票制度復活の請願はなく、国会で同制度復活が議論されたこともなかつた。
(3) 昭和42年に復活請願がなされたが、憲法上復活すべきだという請願ではなかつたし、復活しないと憲法違反だと考えた議員は極く少数であつた。
(4) 昭和47年12月10日までの間に、(3)を除き、復活請願も国会での論議もなかつた。
(5) 昭和42年政府は研究を約したが、前同日までに研究されたとは認められない。
(6) よつて昭和44年から昭和47年12月10日までの間に、国会議員であつた者の殆んど大部分の者は違憲性を認識していなかつた。
(7) 昭和47年末頃までに、違憲論を展開した学説判例はなかつた。
(8) 外国では1902年オーストラリアを最初として、昭和27年までに米の一部の州、英、豪、ソ連で採用され、その後採用したのは蘭、西独、仏、スイス、ベルギー、加州、ノルウエイ、ニユージーランド、スエーデンなどであるが、後に廃止したところ(米の一部州)もある。米及び西独の判例では在宅投票は権利ではなく恩典とされている。
(9) よつて昭和44年以降47年12月10日までのどの時点でも大部分の国会議員は違憲であることを予め知りえなかつた。
(10) よつて国会の意思としても予め知りえなかつたので過失はない。
[106] 要するに、殆んど大部分の国会議員が、本件在宅投票制度復活立法をしないことについて、違憲であることを認識していなかつたのだから故意はないし、予めしることもできなかつたのであるから過失もないという結論である。前記(1)乃至(5)が故意を否定する間接事実として認定され、(7)及び(8)が過失を否定する間接事実として認定(勿論(1)乃至(5)も過失判断の基礎になつているが、予見可能性の有無に関しては(7)及び(8)が中心である)されている。
[107] 思うに(1)乃至(5)の事実、(7)及び(8)の事実が正しいとしても、((1)の事実中、在宅投票制度廃止についても慎重に審理されたとする点は甚だ疑問であることは、原審及び一審でもるるのべたとおりであるが、それはさておき)、これらのことから故意過失を否定することは早計である。
[108] 即ち、国会の故意過失を判断するに当つては、その審議過程において、国の最高法規である憲法の精神と各条規が国会議員らにおいて十分理解され、それが国会議員の判断基準となつていることを前提としなければならない。換言すれば、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負い、国会は国権の最高機関であつて、国政調査権を有するのであるから、立法に当つては、常に憲法に違反することのないよう配慮すべき高度の注意義務を負うのであり、しかも選挙権は国民の権利の中でも国家の構成員の立場から最も重要な権利であり、憲法の背骨であり、国会議員の存立の基盤でもあるのであるから、憲法論議も殆んどなかつたという事実は、前記国会議員の職責に対する真向からの挑戦であり、故意以外の何ものではない。
[109] 損害賠償法において、違法の認識がなかつたとしてもある行為をなす意思があつて、それ(客観的には違法な行為)をなせば、故意ありとされるのである。自らの行為の違法であることを認識している必要は全くない。例えば人を殺そうとすれば故意ありということになり、故意ありとするには、殺人行為が違法であることを知つている必要はない。これは民法の不法行為に関する多数説である(注釈民法22頁)。
[110] 本件において、国会議員の殆んど全てが、在宅投票制度を廃止しようとの意思で、これを廃止したことを争う余地がない。そしてその廃止は前記の如く違法(違憲)だつたのである。従つて故意による損害賠償を否定すべき理由はない。不作為の場合であつても、国会議員は復活立法をしないという意思であつたからしなかつたのであり、その不作為は違法(違憲)である以上故意による損害賠償を否定する理由がない。
[111] 講学上の故意を定義すれば、「自己の行為によつて一定の結果(誰かが権利侵害を受ける)が発生するであろうことを認識しながら、その結果発生を容認して、その行為をあえてする」ことだとされる。
[112] 従つて、本件では「法改正をすれば、それによつて在宅選挙人が投票できなくなることを認識しながら、これを容認して法改正をした」か否かが問題なのである。
[113] 原判決挙示の事実からしても、法改正をすれば、それによつて在宅選挙人が選挙権を行使しえなくなることは衆院法制局の予想していたところであり、しかし廃止しても違憲ではない旨の説明をしていたというのであるし、そして在宅投票制度廃止の法改正をすれば、在宅投票制度を利用していた在宅選挙人は投票所に行かなければ権利行使ができなくなることは通常人なら誰でもわかることであるから、当時の国会議員が在宅投票制度廃止の法改正によつて、在宅選挙人の投票が不可能になることを知らなかつたとは凡そいい難い。
[114] そうとすれば権利行使(投票)が不可能になることを知りながら在宅投票制度廃止の法改正をなしたのであつて、これは故意と評価されて当然である。
[115] 原判決は不法行為法における故意の解釈を誤り、故意を否定したものであり、これが判決に影響を及ぼすこと明らかである。

(三) 合議制機関の故意過失について
[116] 更に国会の立法(不作為も含めて)による国家賠償において、故意過失をどう考えるべきかの問題と関連させて、本件における具体的な故意過失を論ずるならば、原判決もいうように、合議制機関の故意過失についてはそれを構成する公務員(国会議員)の故意過失を一々問題にする必要はなく、国会の意思そのものを問題にすべきであることは当然である。
[117] その場合、先にのべたように、国会議員は憲法を尊重し擁護する義務を負い、国会は国権の最高機関であつて、国政調査権を有するのであるから、立法に当つては常に憲法に違反することのないよう配慮すべき高度の注意義務を負うのであり、しかも選挙権は国民の権利の中でも国家の構成員の立場から最も重要な権利であり、憲法の背骨であり、国会議員の存立の基盤でもあるのであるから、違憲立法が制定されたこと自体の中に故意過失を認めるべきであり、右の高度の注意義務違反は即故意過失の要件を充足するというべきである。
[118] 構成員たる公務員の故意過失を抽出して論じないということは、合議制の機関の場合妥当でもないし不可能なことである以上、合議制機関の故意過失については客観化し、違法即故意過失とするかまたは合議体としての注意義務違反即故意過失と評価すべきである。
[119] 原判決は合議制機関の故意過失に関し、国会の意思そのものを問題にすべきだとしながら、現実には(二)の1記載の如き判断をなしたのは個々の国会議員の故意過失を論ずるのと同じ誤りを犯しており、結局国家賠償法の故意過失に関する解釈を誤つたもので、判決に影響を及ぼすこと明らかである。
[120] 過失ありとするためには、単に客観的に違法な結果の発生(何ぴとかに対する権利侵害の発生)を知りうべきであるのに、不注意にも知らずにその行為をしたというだけでは足りず、その行為ないしその行為によるその結果が違法とされることを知り得べきであるのに、不注意にも知らないでその行為をしたことが必要だといわれている。
[121] 従つていい換えれば違法性の予見可能性が要求されるのであるが、原判示の前記(7)及び(8)(更に(1)乃至(5)の事実を加えても)の事実によつて予見可能性を否定することは経験則上困難である。
[122] 即ち、在宅投票制度を廃止する法改正をなせば、在宅選挙人の選挙権行使が不可能になることは、本件法改正当時既に予測されていたことは原判示のとおりであり、在宅選挙人の選挙権行使が専ら在宅投票制度によつてなされていたのであるから、これを廃止すればその選挙権行使が不可能になることは誰の目にも明らかである。従つて、廃止当時の国会議員の全てが、本件法改正をなせば在宅選挙人の権利侵害をひき起すことは十分知りえたことである。さてそこで問題はその権利侵害が違法(違憲)であることを知りえたか否かである。
[123] 思うに、選挙権は国民固有の権利として憲法上保障され、普通平等選挙が保障されている。これは常識である。そして選挙権は具体的な選挙の場において行使されることに意味があり、選挙権を保障することは選挙権の行使を保障することに他ならないことも通常人の常識であり、通常の思考能力を有するものにとつては、これを否定する論拠は何もない。そうすれば、憲法の精神、各条規につき深く研究せずとも、身体の故障により投票所にいけない選挙人(在宅選挙人)の選挙権行使をできなくすることが憲法に違反するとの結論になるのは常識内のことである。
[124] これが常識でないというのなら、一体何が常識であろうか、右の論理過程で特別の理論を構築しなければ違憲の結論が出ないというならば別であろうが、事は全く単純明快である。上告人は違憲論を一審以来詳細に主張展開したが、それは訴訟技術として詳細にしたにすぎず、その基本は全く単純であり、「憲法は選挙権を国民固有の権利として保障し、普通平等選挙を保障している。選挙権の保障は選挙権の行使の保障を意味する。在宅選挙人は在宅投票制度を廃止することにより選挙権行使を侵害される。従つて在宅投票制度の廃止は違法(違憲)である。」というに尽きるのである。これ程常識的なことはない。この裁判が「道理」の確認を求める裁判だといわれるのも当然であろう。
[125] 違憲か否かの議論が過去になされようとなされまいと、請願があろうとあるまいと、請願が憲法論に基づこうと基づくまいと、政府が復活を研究しようとしまいと、学説判例があろうとあるまいと、外国でどうなつていようといまいとに拘らず、常識は常識である。
[126] 「制度廃止は勿論その後制度を立法しなければ、在宅選挙人は選挙権を行使できない。」「憲法は選挙権行使を保障している。」この2つが常識なら、「制度廃止及び制度を立法しないことによる在宅選挙人が選挙権を行使できないのは憲法に違反する」という結論も常識ではないか。この結論が常識である以上、この結論を予見することは十分可能であつたのであり、違法性の予見は可能だつたのである。
[127] 選挙の自由、公正或いは投票の秘密のことも考慮しなければ憲法違反かどうか結論がでないという者があるかもしれない。だが選挙の自由公正も投票の秘密保障も選挙権行使の保証が前提ではないか。それも常識ではないか。
[128] 常識の中には気づかない常識もある。客観的にみようとしなければ常識も非常識になる。群盲象を撫ぜれば象も象でなくなつてしまう。
[129] 原判決は前記(二)の(1)乃至(5)及び(7)、(8)という木をみて、森にはあらずとの結論を出した。だが客観的に全体をみれば森であることはすぐにわかるはずであつた。
[130] 右にのべたことから明らかなように、原判決が違法性の予見可能性なしとして過失なしとしたのは過失の有無の判断に当り最も大事な常識を見落しているものであり、これは重大な経験則違反であり、その結果認容されるべき損害賠償請求を棄却したものであるから、判決に影響を及ぼすことは明らかである。
[131] 尚付言するに、原判決は三浦証言の
「悪用により選出された代表者は真の代表者ではないから、憲法前文の、日本国民は正当に選挙された代表者を通じて行動云々の表現に反するので、悪用された本件制度を廃止しても憲法に違反しない。」
との説明をした旨の証言を何の疑問もなく採用しているけれども、これが詭弁であることは誰の目にも明らかである。これを詭弁でないというなら、憲法は不要である。御都合主義でどうにでもなるからである。
[132] このような詭弁をもつて国会議員らが納得したというなら国会議員の思考能力は通常人以下であろう。これが詭弁であることは、そのような説明があつたことさえ否定するに十分であり、この証言を採用し、国会が廃止問題につき十分な審議をしたと認定したのは重大な採証法則違反というべきである。しかも原審の三浦証人尋問において裁判長自ら
「ちよつと不思議なんですよ。わずか2年ですよ。2年後に廃止するときにあなたの証言を聞いても、憲法論がそれほど深刻にやられたという感じ受けないんですがね。」
と審議不十分の心証を露呈しているにも拘らず、十分な審議をしたと認定したことは採証法則違反の感をより深くするものである。以上をもつて上告理由となすものであるが、貴裁判所が記録を精査し、虚心に森をみて道理を道理たらしめんことを期待し、真に民主主義国家の国民にふさわしい裁判所を持つたと国民が誇れる判決をされるよう祈念する。

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