厚生労働省課長補佐赤旗配布事件
第一審判決

国家公務員法違反被告事件
東京地方裁判所 平成17年(特わ)第5633号
平成20年9月19日 刑事第11部 判決

被告人 X 昭和23年○○月○○日生
   職業 無職(元国家公務員)

■ 主 文
■ 理 由


 被告人を罰金10万円に処する。
 その罰金を完納することができないときは,金5000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
 訴訟費用は被告人の負担とする。

 被告人は,厚生労働省大臣官房統計情報部社会統計課長補佐として勤務する国家公務員(厚生労働事務官)であったが,日本共産党を支持する目的で,平成17年9月10日午後0時5分ころ,東京都世田谷区<以下略>の警視庁職員住宅であるS住宅1ないし4号棟の各集合郵便受け合計32か所に,同党の機関紙である「しんぶん赤旗2005年9月号外」合計32枚(平成20年押第131号の1ないし32)を投函して配布し,もって,政党のために,人事院規則で定める政治的行為をしたものである。
[1] 弁護人は,検察官が証拠調べ請求した証拠書類及び証拠物のほとんどについて,重大な違法捜査に基づいて収集された証拠であるから証拠能力はないと主張する。
[2] 当裁判所は,検察官請求証拠のうち,捜査関係事項照会回答書3通及びビラ32枚を証拠として採用した(なお,そのうち,当裁判所が前記「罪となるべき事実」認定の用に供したのは,捜査関係事項照会回答書2通とビラ32枚である。)。
[3] 以下,当裁判所がこれらについて証拠能力を認めた理由を説明する。
[4] 弁護人は,被告人の弁解に依拠して,被告人が判示S住宅敷地内(以下「本件現場」ということもある。)で警察官に現行犯人として逮捕された事実はないとした上で,本件においては,(1)被告人には住居侵入の嫌疑が存在しない,あるいは被告人のS住宅への立入行為は住居侵入罪の構成要件には該当しないのに,被告人を住居侵入の被疑事実で身柄拘束したこと,(2)被告人を世田谷警察署に強制連行したこと,(3)事後的に,本件現場において被告人を現行犯逮捕したとして逮捕手続を偽装したこと,(4)被告人とその弁護人になろうとする者との接見を妨害したこと,(5)以上の違法手続を利用して,逮捕の被疑事実ではない国家公務員法及び人事院規則違反で起訴する目的で証拠収集が行われたこと,の重大な違法捜査があったとして,検察官請求証拠の証拠能力は否定されるべきであると主張する。
[5] しかし,検察官請求証拠のうち,ビラ32枚は,本件犯行当日である平成17年9月10日から同月12日までの間に,配布を受けたS住宅住人から任意提出されて領置されたものであるし,捜査関係事項照会回答書3通も,被告人の身柄が釈放された後に厚生労働省大臣官房人事課長あるいは同統計情報部長に対してなされた捜査照会に基づく回答書である。このようにビラ32枚及び捜査関係事項照会回答書3通は、いずれも被告人以外の者に対する任意捜査の結果として収集されたものであって,被告人の身柄拘束状態を利用するなど,弁護人が違法だと主張する捜査に基づいて収集されたものではない。したがって,弁護人の主張は,その余を判断するまでもなく,理由がないことが明らかといわなければならない。
[6] もっとも,弁護人は,被告人に対する身柄拘束の根拠とされた住居侵入罪の嫌疑の有無,本件現場での現行犯逮捕の有無,接見妨害の有無等を強く争い,本件審理においても,検察官及び弁護人の双方から,これらについて主張,立証がなされてきたから,以下,念のため,当裁判所の判断を示すこととする。
1 住居侵入罪の嫌疑(構成要件該当性)の有無
[7](1) 弁護人は,(1)被告人が本件現場に立ち入った目的は,S住宅敷地内の集合郵便受けに日本共産党の機関紙(以下「本件ビラ」という。)を投函すること,すなわち,被告人あるいは日本共産党の政治的見解を表明することにあったのであるから,表現の自由の行使として,刑法130条前段にいう「正当な理由」があり,被告人の立入行為は,同条所定の「侵入」には該当しない,(2)被告人が立ち入ったのは,S住宅正門から各号棟出入口に設置された集合郵便受けに至る通路部分にすぎないから,住居侵入罪により保護される客体には当たらない,などと主張する。
[8] しかし,以下に説示するとおり,弁護人の主張はいずれも採用することができない。
(2) S住宅の状況等
[9] 関係証拠によれば,次の事実が認められる。すなわち,本件現場であるS住宅は,警視庁が管理する職員宿舎で,警視庁職員及びその家族等が居住する4棟からなる集合住宅である。1ないし4号棟はいずれも4階建ての建物で,1,3号棟が正門から見て奥側に,2,4号棟が手前側に位置し,1ないし3号棟には各8戸,4号棟には16戸の合計40の住戸が存在する。同住宅敷地の東側及び北側の一部は公道に接し,それ以外の西側,南側及び北側残部はいずれも民家等に接し,敷地周囲は塀等で囲まれている。敷地東側には長さ約6ないし7メートルのアコーディオン門扉の設置された正門が,北西側には長さ約85センチメートルの金属製門扉の設置された裏門が存在する。もっとも,裏門は民家の敷地と接している上,正門からは裏門を見通すことができないため,S住宅の住人等を除いた部外者は,同住宅内を通り抜けのために使用できるとは考えつかない構造となっている。西側に存する隣家数軒との間にも門扉等が設置されていて,自由に行き来することはできない。正門及び裏門の門扉にはロック用の金具が取り付けられているが,錠前は取り付けられていない。正門左右の塀にはそれぞれ管理人名義の看板が設置されており,看板には,それぞれ「ビラ・チラシの投函,訪問による勧誘・斡旋その他許可のない方の立入りを禁止します 管理者」,「ビラ配り,押売り,その他許可のない方の立入りを禁止します。管理人」と記載されている。各号棟1階にはそれぞれ東西に1か所ずつドアのない出入口があり,これらの出入口の建物内部(階段下部分)にはそれぞれ集合郵便受けが設置されている。各号棟は,1階出入口を通って階段を上ると,各住戸玄関につながる構造になっている。
[10] なお,同住宅正門は通常門扉が閉められているか,開いていても住人等が通行できる程度の幅しか開けられていない。被告人が本件ビラを配布した1号棟及び3号棟の各西側の集合郵便受け(正門から最も奥側に位置する集合郵便受け)は,同住宅の正門から約48メートルほど敷地内に入った場所に存在する。
(3) 弁護人の主張(1)について
[11] 前記認定のとおり,S住宅は,周囲が塀等によって囲まれていた上,部外者がその敷地を通り抜けのために利用するような構造とはなっていなかったこと,正門はせいぜい住人等が通行できる程度の幅しか開いておらず,その両脇の塀には管理人名義でビラ,チラシの投函目的等による立入りを禁止する旨の看板が設置されていたことに加え,住人からは同看板の記載内容について異論や苦情が出された形跡のないこと,現に同住宅の住人であるAやBが,被告人が同住宅敷地内で本件ビラを配布しているのを見とがめ,「ここで何をしているんですか。正門に立入禁止と書いてあるのにどうして入ったんですか。」などと問いただしていることなどを総合すると,同住宅の管理権者及び住人は,住人を訪問しにやってきた親族,友人のほか,郵便,宅配便あるいは新聞等の配達員や電気,ガス,水道の検針員等一般的,定型的に同住宅敷地内への立入りを認められた者以外の者が,同住宅敷地内に立ち入ることを容認していなかったと認めるのが相当である。そして,S住宅の管理権者及び住人が,治安・防犯上の見地から部外者の同住宅敷地内への立入りを禁止することが不合理といえないことも明らかである。
[12] したがって,被告人のS住宅敷地内への立入行為は,同住宅の管理権者及び住人の意思に反したものであったと認められるから,刑法130条前段所定の「侵入」に該当すると解される。
[13] なお,弁護人は,オートロック式のドア等居住者以外の立入りを一般的かつ実効的に禁止するシステムを採っていない集合住宅の場合,その共用部分へのビラ配布目的の立入りは原則として許されており,例外的に立入りを拒否するためには,拒否することが居住者の総意であることに加え,立入拒否の意思が明示され,かつ立入拒否の意思が実効的に執行されていなければならないなどと主張する。
[14] しかし,前記認定のとおり,S住宅正門左右両脇の塀にはビラ,チラシの投函目的等による立入りを禁止する旨の看板が設置されていた上,住人からは同看板の記載内容について異論や苦情が出された形跡はないのであるから,同住宅の管理権者及び住人が,その総意としてビラ配布目的による同住宅敷地内への立入りを拒否する意思を明示していたことは明らかであるし,その構造,管理状況等に照らしても,無関係の部外者が自由に同住宅敷地内に立ち入れるようなものでなかったことも明らかである。弁護人の主張及びその依拠する市川正人教授の証言及び同意見書(弁54)は,ビラ配布行為(ポスティング)の意義ないし有用性を重視するあまり,建設時期や費用などからオートロックシステム等を採用できない集合住宅の住人の意思等を不当に軽視するものであって採ることができない(仮に,市川証人の見解を採用する余地があるとしても,それが司法関係者の間では確立した考え方でないことは明らかであるから,C巡査部長らの逮捕行為の適法性に影響を及ぼすものでないことは明らかである。)。
[15] そして,政治的見解を記載したビラの配布行為が,表現の自由の一環として尊重されなければならないことは,弁護人の指摘をまつまでもなく当然ではあるが,他方で,表現の自由といえども,無条件に他の権利に優越するわけではなく,これを不当に侵害する場合には制限を受けることもいうまでもない。
[16] 前記認定のとおり,被告人は,S住宅の正門から約48メートルほど敷地内に立ち入ったのであるが,このような被告人の立入行為は,同住宅の管理権者及び住人の意思に反したものであって(なお,このような住人等の意思が合理的であって,尊重されなければならないことは前記説示のとおりである。),管理権者の管理権及びそこで生活を営む住人の私生活の平穏を侵害するものであったといわなければならない。そうすると,被告人の目的が,政治的見解を記載した本件ビラを配布することにあったほか,ポスティングの意義ないし有用性等を考慮しても,被告人の立入行為が「正当な理由」によるものとして,当然に違法性を阻却するとか,社会生活上相当な行為であるとかいうことはできない。
(4) 弁護人の主張(2)について
[17] 被告人が立ち入ったのが,S住宅正門から各号棟1階出入口に設置された集合郵便受けに至る通路部分及び集合郵便受けが設置された各号棟1階出入口付近であることは証拠上明らかである。
[18] S住宅が警視庁職員とその家族が居住する職員住宅であって,周囲は壁等によって囲まれて外部と明確に区別され,出入口となるべき正門及び裏門についても,いずれも門扉が設置されていて勝手に部外者が立ち入れない構造になっていること,現に正門は通常門扉が閉められているか,開いていても住人等が通行する程度の幅しか開けられていないことは前記認定のとおりである。このようなS住宅の構造等に照らすと,被告人が立ち入った上記通路部分は,もっぱら同住宅の住人の通路として利用されていると認めるのが相当である。
[19] そして,前記認定のS住宅の居住状況,各号棟の1階出入口部分の状況等によれば,各号棟の1階出入口部分は,居住用の建物であるS住宅の各号棟の建物の一部であり,宿舎管理者の管理に係るものであるから,居住用の建物の一部として刑法130条前段にいう「人の看守する邸宅」に当たると認められる。また,被告人が立ち入った上記通路部分は,正門に施錠がされておらず,住人等が通行可能な程度に開いていることがあることを考慮しても,各号棟の建物の付属地として,建物利用のために供されるものであることを明示していると認められるから,「人の看守する邸宅」の囲にょう地として,邸宅侵入罪の客体になると認められる(なお,後記のとおり,C巡査部長は,被告人を住居侵入罪の嫌疑により現行犯逮捕しているが,被告人の侵入部分を「住居」と評価した点は,刑法130条前段の同一構成要件内での誤りにすぎないから,逮捕の適法性には影響しないというべきである。)。
(5) 結論
[20] 以上説示したところによると,被告人の本件立入行為が住居(邸宅)侵入罪の構成要件に該当するとともに,被告人には現行犯逮捕に際し必要とされる犯罪の嫌疑があったと優に認められる。
[21] なお,弁護人は,C巡査部長らは,被告人が住居侵入罪を犯したとの嫌疑を有していなかったのにもかかわらず,被告人のビラ配布行為あるいは日本共産党の政治活動の妨害を目的として被告人の身柄を拘束したと主張する。確かに,弁護人が指摘するとおり,同巡査部長らは,S住宅の管理人等に被告人の立入行為に対する許可の有無等を確認していない。しかし,他方,同住宅正門両側にはビラ配布目的による立入りを禁止する前記看板が設置されていた上,後記認定のとおり,被告人は,許可の有無に関する同巡査部長らの質問に対して応答しなかったのであるから,同巡査部長らは,被告人の本件立入行為が同住宅の管理権者及び住人の意思に反するもので,被告人には住居侵入罪の嫌疑が明白に存在すると判断したものと優に認められる。そして,当時の状況に照らせば,同巡査部長らの上記判断が合理性を欠くとはいえない(なお,後記認定のとおり,被告人が人定に関する質問にさえ答えていないことからすると,逮捕の必要性も十分肯定できる。)。弁護人の指摘を考慮しても,C巡査部長らが,被告人のビラ配布行為あるいは日本共産党の政治活動の妨害を目的として被告人の身柄を拘束したとは認められない。
[22] 弁護人の主張は採用できない。

2 本件現場における現行犯逮捕の有無について
[23] 弁護人は,被告人はS住宅敷地内で現行犯逮捕されたのではなく,強制的に連行された世田谷警察署において逮捕されたのにもかかわらず,捜査の指揮に当たっていた警視庁公安総務課のD警部は,被告人をS住宅敷地内で現行犯逮捕したように偽装したと主張する。
(1) 前提となる事実
[24] 関係各証拠によれば,世田谷警察署に連行される前後の被告人の言動,その後の捜査状況等について,以下の事実が認められる(被告人の公判供述もこの限度ではおおむね符合している。)。
[25] 被告人は,平成17年9月10日午後0時5分ころ,S住宅東側正門から同住宅敷地内に入った。被告人が所持していた日本共産党の機関紙(本件ビラ)には,「日本共産党はこんな政党です。政党を選ぶ参考にして下さい。」「こういう政党がのびてこそ,政治を変える確かな道が開けます。」などの見出しの下に,郵政民営化や税負担に関する同党の政策等が,他党のそれと比較する形で記載されていた。被告人は,所持していたビラのうち合計32枚(本件ビラ)を同住宅1ないし4号棟1階出入口に設置された集合郵便受け合計32か所に投函した(なお,被告人は,2号棟の集合郵便受けにビラを投函したことについては,はっきりしないなどと弁解しているが,証人Eの公判供述によれば,同人は2号棟の住人から被告人が配布していたのと同内容が記載されたビラを回収したことが認められるから,被告人が2号棟の集合郵便受けにビラを投函したことは明らかである。以下,被告人による本件ビラの投函行為を「本件ビラ配布行為」ということがある。)。同住宅の住人であるAは,その状況を目撃して被告人に声を掛け,同住宅敷地内に勝手に入ってきてよいのかと詰問した上,被告人の住所や氏名を問いただしたが,被告人は,氏名等を答えることはせず,正門に向けて歩き出した。Aは,被告人の前に立ちはだかってとどめようとしたが,被告人が歩みをやめなかったため,2人はその体勢で正門付近まで移動した。Aは,携帯電話を取り出して110番通報をしようとしたがうまくいかなかったため,他の住人が来てくれるよう大声で叫んだところ,これを聞きつけた同住宅の住人であるBが,Aの下に駆けつけた。Bは,Aから頼まれて110番通報をし,被告人も,携帯電話で緊急連絡先にトラブルが発生した旨の連絡を入れた。
[26] その後,世田谷警察署地域課地域第2係のC巡査部長ら複数の警察官が,Bからの110番通報を受けてS住宅に臨場し,A,B及び被告人に事情聴取を行った。被告人は,C巡査部長から立入許可の有無や氏名等について質問をされても,「仲間が来たら話をする。」と答えるだけであった。そこで,C巡査部長らは,被告人をパトカーに乗せ,世田谷警察署まで連行した。その際,被告人は,「なぜ警察署に行かなければならないのか。」「任意じゃないのか。」などと述べたことを除いて,パトカーへの乗車前後を通じて,それ以上の強い抗議ないし抵抗をしなかった。他方,C巡査部長らは,被告人を連行するに際し,手錠等を使用せず,被告人の身体検査も行わなかった。また,パトカーに乗車後,被告人の携帯電話に電話がかかってきた際,被告人がこれに応答したことに対し,C巡査部長らが電話を切るように言い,被告人が通話をやめたということがあった。その際,C巡査部長らは携帯電話を取り上げたりはしなかった。
[27] 世田谷警察署に到着後,被告人は,同署警備課公安係のF警部補による弁解録取及び取調べを受けた。被告人は,弁解録取書については署名指印を拒否したが,身上調書の署名指印には応じた。身上調書が作成されたのは同日午後2時40分ころのことであった。F警部補は,身上調書作成後,被告人から所持していたビラ等の任意提出を受けたが,身分証明書,共済組合員証等の提出は拒否された。F警部補は,引き続き事実関係の取調べを行い,午後4時30分ころ,その取調べを終了した。なお,被告人が任意提出を拒んだ身分証明書,共済組合員証等については,その後同日午後7時過ぎに令状に基づいて差し押さえられた。
[28] なお,この間,同日午後2時30分ころ,萩尾弁護士が世田谷警察署を訪れ,弁護人になろうとする者として被告人との接見を申入れ,後に同警察署に到着した小林弁護士も同様の申入れをしたが,被告人との接見が実現したのは同日午後5時30分ころのことであった。
(2) C証言の内容とその信用性
[29] C巡査部長は,公判廷において,110番通報を受けてS住宅に臨場した後,相勤者であるG巡査から,AやBからの事情聴取の結果を聞いた上,自ら被告人に立入許可の有無や氏名,住所等について質問したものの,被告人が「仲間が来たら話をする。」と答えるだけであったため,本件現場で被告人を住居侵入罪の現行犯人として逮捕し,その旨を明確に被告人に伝えたなどと証言している。
[30] C証言の信用性について検討すると,前記認定のとおり,被告人には住居(邸宅)侵入罪の嫌疑が存在した上,被告人は,C巡査部長らの職務質問に対しても,立入許可の有無だけではなく,氏名,住所等の人定事項さえ明らかにしなかったのであるから,同巡査部長が被告人を住居侵入罪の現行犯人として逮捕することは,当時の状況等に照らして自然で合理的であったといえる。また,その場に居合わせたAとBも,「C巡査部長が被告人に対し,『住居侵入の現行犯人として逮捕する。』と言った」旨C証言を裏付ける証言をしている。確かに,弁護人が指摘するとおり,AとBは,共にC巡査部長と同じく警視庁の警察官であるが,その証言内容には信用性に疑念を抱かせる不自然あるいは不合理な点はうかがわれない。加えて,被告人が世田谷警察署に連行された後,同署を訪れた萩尾弁護士及び小林弁護士においては,被告人が本件現場で逮捕されたとの認識を有していたことが認められる(両弁護士作成名義の意見書《甲140,141》には,被告人がS住宅に立ち入った嫌疑で現行犯逮捕されたと聞いて午後2時30分ころ世田谷警察署に駆けつけた旨の記載がある。)が,本件証拠から推認できる両弁護士が同署を訪れた経緯等に照らすと,意見書作成までの間に打合せをする十分な時間がなかった旨の被告人の弁解を考慮しても,両弁護士の上記認識は,被告人が本件現場で逮捕されたことを裏付けるに足りるというべきである。
[31] 以上のほか,後記説示のとおり,世田谷警察署に連行される前後を通じての被告人の言動等が,本件現場で現行犯逮捕されたことを前提にすれば合理的に説明できることを勘案すると,本件現場において被告人を住居侵入の容疑で現行犯逮捕した旨のC証言は,十分に信用できる。
[32] 弁護人は,C巡査部長らが,被告人を連行するに際し手錠を掛けていないこと,逮捕に伴う身体検査及び所持品の押収をしていないこと,被告人が携帯電話で通話をしたこと,それなのに同巡査部長は被告人から携帯電話を取り上げようとしなかったことを指摘して,C証言の信用性を否定する。
[33] しかし,C巡査部長は,手錠については被告人が暴れなかったので不要だと考えて使用しなかった,身体検査等についても,被告人の仲間が本件現場に来れば混乱するので,速やかに世田谷警察署へ引致することを優先したため実施しなかったと証言しており,その証言内容には,相応の合理性がある。また,携帯電話についても,被告人はかかってきた電話に出たのであって,C巡査部長が被告人に対して切るように言うと,被告人が直ちに通話をやめたというのであるから,被告人が通話をしたことや,同巡査部長がその場で携帯電話機を取り上げなかったことが特に不自然とはいえない。
[34] したがって,弁護人の上記指摘は,C証言の信用性に関する前記判断を左右するものではない。
(3) 被告人の弁解の信用性
[35] 被告人は,本件現場で住居侵入の容疑で現行犯逮捕されたことはないし,逮捕すると言われたこともない,世田谷警察署に連行されるときは,身体をつかまれたり押されたりしたことはないが,複数の警察官から,両脇やや後ろからにじり寄られ,無理矢理パトカーに乗せられた,世田谷警察署に到着後,F警部補から所持品を見せてくれと言われて了承したところ,所持品のうち共済組合員証を見た同警部補が,いったん室外に出てしばらくして戻ってきたが,その際,同警部補から建造物侵入容疑で逮捕すると言われた,逮捕されたのは世田谷警察署に着いて2,30分くらい経ったときのことである,などと弁解する。
[36] しかし,被告人が本件現場で現行犯逮捕されていなかったとした場合,世田谷警察署に連行されるまでの,あるいは連行後の被告人の言動が不合理であることを指摘しなければならない。すなわち,前記認定のとおり,被告人は,C巡査部長らから氏名等について質問をされても,「仲間が来たら話をする。」との態度を貫き通していたところ,現に公判廷でも,連絡を入れた支援者らが応援に駆けつけてくれると考えていたと述べている。また,現行犯逮捕されていないのであれば,警察署への同行を求められてもこれに応じる義務がないことも知っていたと供述している。このような被告人が,C巡査部長から現行犯人として逮捕する旨を伝えられていないのに,しかも,警察官から身体や衣服をつかまれたり押されたりしたこともないのに,「なぜ警察に行かなければならない。」「任意じゃないのか。」などと口頭で抗議をしただけで,それ以上の強い抗議や特段の抵抗に出ることもなく,パトカーに乗車してそのまま世田谷警察署まで赴いたり,警察官からの制止を受けて,パトカー内で携帯電話での支援者との通話をやめたりするなどとは到底考え難い。そして,被告人によれば,世田谷警察署に到着してからも,F警部補に逮捕されるまでの間,同警察署からの退去や外部の者との連絡を求めてはいないというのである。被告人が長年労働運動に従事し,こうした事態に直面した場合の対処の仕方等を認識していたと考えられることからすると,このような被告人の言動等は,本件現場で被告人が逮捕されたことを前提にして初めて合理的に説明できるといわなければならない。
[37] 次に,被告人によれば,被告人は,弁解録取書に署名を求められた際,これを拒否したというのであるが,このような法的知識があり,冷静な対応を取り得た被告人が,F警部補から逮捕すると言われたのにもかかわらず,令状の提示を求めるなどしなかったというのも不合理だといわなければならない。加えて,被告人自身,任意提出を拒んだ身分証明書,共済組合員証,名刺等については,逮捕当日の夜,差押許可状により差し押さえられたことを自認しているが,被告人が弁解するような経緯でF警部補が世田谷警察署において被告人を逮捕したというのであれば,証拠としての重要性に照らしても,F警部補は,逮捕に際して被告人の身分証明書等を差し押さえたはずであって,あえてその場で差し押さえずに,その後わざわざ差押許可状の発付を受けて差し押さえたというのも,はなはだ不合理といわなければならない。
[38] 以上のほか,弁護人の主張を考慮しても,D警部やF警部補ら本件捜査に当たった警察官らが,被告人を真実は世田谷警察署で逮捕したのにもかかわらず,本件現場で逮捕したと,逮捕した時間を遡及させるなどの偽装工作を施さなければならない合理的な理由が見いだせないことを勘案すると,本件現場では現行犯逮捕されていないとの被告人の弁解は信用できない。
(4) 結論
[39] 以上によれば,被告人は,本件現場において,C巡査部長らから住居侵入罪の容疑で現行犯逮捕されたと優に認めることができる。そうすると,同巡査部長らによる被告人の世田谷警察署への連行に違法不当なところはないし,本件において,逮捕手続が偽装されたこともなかったといえるから,これらに関する弁護人の主張は理由がないというべきである。

3 接見妨害の有無について
[40] 弁護人は,世田谷警察署の警察官らは,弁護人となろうとする者と被告人との接見交通権を侵害し,被告人の防御権を侵害したと主張する。
[41] 接見等に関する経緯を見ると,前記認定のとおり,萩尾弁護士が,本件当日午後2時30分ころ,世田谷警察署を訪れ,弁護人になろうとする者として,被告人との接見を求め,その後,小林弁護士も同警察署に到着し,接見の申出をしたが,実際に被告人が萩尾,小林両弁護士と接見できたのは,萩尾弁護士が接見を求めてから約3時間後の同日午後5時30分ころのことであった。また,被告人に対する捜査の経緯を見ても,F警部補は,同日午後1時40分ころから開始した身上関係の取調べを午後2時40分ころには終え,被告人が所持していたビラ等の任意提出を受けた上,引き続き事実関係の取調べを開始し,同取調べも午後4時30分ころには終了している。加えて,F警部補及び被告人の公判廷における各供述によれば,被告人が,弁護士が接見に訪れていることを知ったのは,事実関係に関する取調べが終了した後であることも認められる。
[42] ところで,司法警察職員は,「捜査のため必要があるとき」には接見の日時、時間等の指定をすることができるとされている(刑事訴訟法39条3項本文)が,ここに「捜査のため必要があるとき」とは,弁護人等から接見の申出を受けたときに,捜査機関が現に被疑者を取調べ中である場合や,実況見分,検証等に立ち会わせている場合など,接見を認めると取調べの中断等により捜査に顕著な支障が生ずる場合に限られると解すべきである。とりわけ逮捕直後の初回の接見は,身体を拘束された被疑者にとっては,弁護人の選任を目的とし,かつ,今後捜査機関の取調べを受けるに当たっての法的助言を得るための最初の機会であるから,被疑者の防御の準備のために重要なものである。
[43] こうした観点から本件の接見までの経緯を検討すると,被告人と小林,萩尾両弁護士との接見は,萩尾弁護士が弁護人となろうとする者として被告人との接見を申入れてから約3時間後にようやくにして実現したものである。しかも,被告人に対する取調べは,午後4時30分には事実関係の取調べが終了していたのであるから,その後留置手続にある程度の時間を要することを考慮しても,午後5時30分より早い時間に接見させることが十分に可能であったと認めるのが相当である。
[44] そうすると,被告人と小林,萩尾両弁護士との接見を午後5時30分ころまで認めなかった世田谷警察署側の措置は,初回接見の重要性を看過したもので妥当性を欠くというべきであるが,その時間的な遅滞は,長くてもせいぜい1時間に満たないものであるから,本件捜査手続自体を違法と評価させるほどのものとはいえない(なお,仮にこれを違法だと解したとしても,本件ビラ等は,いずれも被告人と弁護人となろうとする者との接見を遅滞させたこととは無関係に収集されたものであるから,その証拠能力には何らの影響も及ぼさない。)。
[45] 弁護人の主張は採用できない。

4 違法な手続を利用しての証拠収集であるとの主張について
[46] 弁護人は,警察は,違法な捜査手続を利用して,逮捕に係る住居侵入罪とは無関係に,被告人を国家公務員法,人事院規則違反の罪で起訴する目的で証拠収集を行ったと主張する。
[47] しかし,以上に説示したとおり,本件捜査手続に違法とされるところはないから,弁護人の主張はその前提を欠くといわなければならない。
[48] その上でなお検討すると,弁護人は,S住宅住人からの本件ビラの回収(任意提出,領置)は執拗で,住居侵入罪の捜査としては異常であって,国家公務員法,人事院規則違反の捜査であると理解して初めて納得できると主張する。しかし,本件ビラの回収は,被告人によるS住宅立入目的及びその間の行動を裏付けるという意味で,本件住居侵入の犯罪行為の全容を解明するのに必要な犯情に関わる事実として,捜査上必要なものであったと認められる。本件ビラの回収が住居侵入罪の捜査として執拗で異常であったとは到底いえない。加えて,捜査の進展いかんによっては,当初の犯罪の嫌疑がその後他の罪の嫌疑に変化することがあるのも,異とするには当たらないのであって,回収された本件ビラが,逮捕後の捜査の進展に伴い国家公務員法違反の犯罪事実を立証するための証拠として利用されたとしても,そのためにこれが違法となるものでないのは明らかである。
[49] 本件ビラの回収等,本件捜査における証拠収集過程には何ら違法な点はない。本件捜査が,警視庁公安総務課が主体となって行われたとの弁護人の主張を考慮しても,この結論は全く左右されない。
罰   条   (包括して)国家公務員法110条1項19号,102条1項,人事院規則14-7第6項7号
刑種の選択   所定刑中罰金刑を選択
労役場留置   刑法18条1項,4項(金5000円を1日に換算)
訴訟費用の負担 刑事訴訟法181条1項本文
[50] 弁護人は,本件捜査手続には重大な違法が存在するから本件公訴は棄却されるべきであると主張しているほか,本件ビラ配布行為を禁止する国家公務員法(以下「国公法」と省略する場合がある。)102条1項,人事院規則14-7第6項7号が,表現の自由を保障する憲法21条に,あるいは国際人権規約(B規約)19条2項,3項に違反して無効である,国公法102条1項は,刑罰の対象となる「政治的行為」を人事院規則に包括的,白紙的に委任しているが,これは憲法31条,73条6号等に違反し無効である,本件ビラ配布行為は,法益侵害の危険性が存在しないから国公法102条1項の構成要件には該当しないなどとして,被告人は無罪であると主張する。その理由は多岐にわたり,かつ詳細なものであるが,当裁判所は,これを検討しても,結局のところ,弁護人の主張はいずれも採用できないと判断した。
[51] 以下,弁護人の主張のうち主要なものについて,採用できない理由を簡潔に説明するとともに,国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号の合憲性に関する当裁判所の考えを示すこととする。
1 弁護人の主張の概要
[51] 弁護人は,(1)検察官が本件公訴事実を立証しようとする証拠は,いずれも前記のような違法捜査に基づいて収集されたものであり,これら違法捜査がなければ本件起訴はあり得なかったし,(2)本件捜査は,日本共産党に対する差別的意図に基づくものであって,検察官はそれを漫然と受け入れて起訴したのであるから,検察官が公訴権の裁量を逸脱したものとして,公訴提起自体違法であると主張する。

2 違法収集証拠を不可欠の前提とする公訴提起であるとの主張について
[52] 弁護人は,違法に収集した証拠がなければ本件起訴はあり得なかったとして公訴棄却を求めている。しかし,既に実体審理を終了した本件においては,仮に弁護人の主張するように,検察官の主張を支える主要な証拠が違法収集証拠と評価されるものであれば,その証拠能力を否定し,端的に無罪判決を下せば足りる。そして,その方が,一事不再理,既判力等の点でも被告人に利益となるのだから,公訴を棄却すべきだという弁護人の主張は採用の限りではない。
[53] さらに,前記説示のとおり,本件捜査に係る証拠収集過程においては,違法と評価されるところはないから,弁護人の主張はこの点でも失当である。

3 公訴権濫用の主張について
[54] 本件事案の概要は,厚生労働省大臣官房統計情報部社会統計課長補佐として勤務していた被告人が,衆議院議員総選挙投票日の前日に,S住宅1ないし4号棟の各集合郵便受け合計32か所に政党機関紙である本件ビラを配布したというものであって,前掲各証拠によれば,この事実を優に認めることができる。そして,F警部補の公判証言によれば,被告人は,更に511枚の政党機関紙(本件ビラと同内容が記載されているもの)を所持していたことが認められる。
[55] このような本件事案の内容,被告人が本件ビラと同内容のビラを他に多数所持していたという犯情などに加え,後記認定のとおり,被告人が厚生労働省本省の総括課長補佐として管理職に準ずる地位にあったこと,職務内容も政策の企画立案の基礎資料を収集するなどといったものであったこと,本件ビラ配布行為が公務員の政治的中立性と強く抵触するものであったことなどを総合すると,被告人の本件犯行は,この種事犯(公務員による政治的行為の制約に違反する行為)の中では,相応の捜査価値,起訴価値を有するということができる。
[56] そうすると,本件起訴が,捜査機関の日本共産党に対する差別的な取扱いに基づくとか,検察官が公訴提起に当たり,これを漫然と看過したとかいうことはできないから,検察官には公訴提起を無効ならしめる程の訴追裁量権の逸脱があったと評価することはできない。本件捜査が警視庁公安総務課が主体となって行われたとの弁護人の指摘を考慮しても,この結論は左右されない。
1 弁護人の主張の概要と当裁判所の基本的な考え
[57] 弁護人は,国家公務員法102条1項,人事院規則14-7第6項7号(政党機関紙の配布の禁止等)について,(1)公務員の政治活動も憲法21条の表現の自由の保障を受けるところ,これを刑事制裁を科して制約する国公法102条1項,人事院規則14-7(以下「国公法による政治的行為の制約」ということがある。)が憲法21条に違反しないというためには,公務員の政治的行為を禁止しなければ,民主主義国家にとって最も重要な国民の政治的意見表明の自由を制約しなければならない程度に重大な害悪が発生する現実の危険が存在すること,政治的意見表明の自由の制限が,この害悪の発生防止に厳密に一致し,真に必要最小限の制限にとどまっていること,が具体的に立証されることが必要であるのにもかかわらず,これらはいずれも立証されていないから,国公法による政治的行為の制約が憲法21条に違反していることは明らかである,(2)国公法102条1項は人事院規則に,憲法が禁止している刑罰の包括的,白紙委任をしており,また,懲戒処分と刑事制裁とを区別せず一律に委任しているから,憲法15条1項,16条,21条,31条,41条,73条6号に違反する,と主張する。
[58] しかし,国公法による政治的行為の制約,その違反に対し罰則を科す国公法110条1項19号が憲法21条に違反しないこと,禁止される政治的行為の内容を人事院規則に委任する国公法102条1項が,刑事制裁を委任している点も含めて憲法31条等に違反しないことは,最高裁昭和49年11月6日大法廷判決(刑集28巻9号393頁。以下「猿払事件判決」という。)が判示するところである。
[59] 弁護人は,政治的行為の制約を規定する国公法の制定経緯のほか,猿払事件判決が採用した合憲性審査基準など種々の観点から同判決を論難する。確かに,同判決には4人の裁判官の反対意見が付されている上,有力な学説からも厳しい批判が加えられていることは弁護人が指摘するとおりであるが,以下に説示するとおり,同判決が合理性を欠くとはいえないこと,同種事案の解決の指針として確立していること,弁護人の指摘する同判決後の事情の変化も同判決の解決指針としての価値を失わせるものではないことなどを考慮すると,下級審裁判所である当裁判所としては,公平性,法秩序の安定性等の観点からも,同判決を尊重することが,その採るべき基本的な立場であるといわなければならない。そして,猿払事件判決は,直接には人事院規則14-7第5項3号,6項13号が憲法21条等に違反しないことを判示したものであるが,その趣旨に照らせば,政党機関紙の配布等を禁止する人事院規則14-7第6項7号が憲法21条に違反しないこと,その違反に対し罰則を科す国公法110条1項19号が憲法21条に違反しないことは明らかというべきである。

2 猿払事件判決の合理性等
[60] 弁護人は,猿払事件判決の合憲性審査は極めてずさんであるとして種々論難する。そこで,以下,その主要な主張について検討し,同判決が合理性を欠くとはいえない理由を説明する。
[61](1) 弁護人は,猿払事件判決が,国公法による政治的行為の制約の目的を「行政の中立的運営の確保」という当然の原則以外に,「これに対する国民の信頼」という極めてあいまいな概念を持ち出し,これを公務員の「政治的中立性の維持」に結びつけて基本的人権の制約を合理化している点で根本的な誤りがあると主張する。
[62] 公務は,国民の一部に対する奉仕としてではなく,国民全体に対する奉仕として運営されるべきものであるが(憲法15条2項参照),とりわけ行政の分野における公務は,議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な実行を期し,国民全体に対する奉仕を旨とし,政治的偏向を排して運営されるべきものである。行政の中立的運営の確保が,国民全体の重要な利益であることからすると,国民にとっては,行政が公平,中立に運営されることが重大な関心事であるということになる。したがって,国民が行政の中立的運営に対して疑念,不信を抱くなど,行政の中立的運営に対する国民の信頼が失われるような事態に陥れば,行政の能率的で安定した運営にも支障が生じることになる。換言すれば,行政の能率的で安定した運営のためには,行政の中立的運営に対する国民の信頼が不可欠ということができる。
[63] そうすると,「行政の中立的運営に対する国民の信頼」は保護に値する利益といえるから,これを「行政の中立的運営の確保」とともに国公法による政治的行為の制約の目的と解することに疑問は生じないというべきである。また,このように解釈できる以上,弁護人の指摘を考慮しても,公務員の政治的行為の制約の合憲性審査に際し,これを表現の自由(公務員の政治的行為の自由)と対立する1つの利益として考慮することに問題はないといえるし,もとより,そうしたからといって,一方的,恣意的な制約を表現の自由に課することにはならないというべきである。
[64](2)ア 弁護人は,合憲性の審査基準は,制約される人権の性質から振り分けられるべきであるから,表現の自由が問題とされる公務員の政治的行為の制約に関しては,厳格な審査基準(民主主義国家にとって最も重要な国民の政治的意見表明の自由を制約しなければならないほど重大な害悪発生の現実的な危険が存すること,制限が害悪発生防止に厳密に一致し,真に必要最小限度の制限にとどまっていることを,制約を正当化する側が立証するというもの)が用いられるべきであって,猿払事件判決が「合理的関連性の基準」を採用したことは誤りであると主張する。
[65] 確かに,弁護人の主張及びその依拠する高橋和之教授,佐々木弘通准教授等の憲法学者の見解は,民主主義国家における表現の自由,とりわけ政治的意見表明の自由の優位性を立論の根拠とするもので,傾聴に値するものであることは否定できない。
[66] しかし,表現の自由,とりわけ政治的意見表明の自由が,基本的人権の中でも特に重要で優越的地位に立つとしても,そのため,これを制約する法律等の合憲性審査に際し,直ちに弁護人が主張するような厳格な審査基準が採用されなければならないことにはならない。表現の自由も,無制約ではなく,一定の限界を内在しているのであるから,その限界を検討するに当たっては,対立する他の憲法上の要請ないし価値と規制の手段,方法に応じてこれを行うことが相当である。
[67] 国公法による公務員の政治的行為の制約は,国民一般を対象とするものではなく,公務の中でも行政の分野に携わる一般職の国家公務員だけを対象とするものである。また,表現の自由と対立する憲法上の要請ないし価値は,行政の中立的な運営とこれに対する国民の信頼確保という国あるいは国民にとって本質的に重要なものである上,規制の手段,方法も,表明される意見の内容に着目するのではなく,行政の中立的運営等を損なうおそれのある一定類型の行動を,その行動のもたらす弊害の防止を目的として,規制するにすぎないのであるから,表現の自由に対する抑制の効果も間接的,付随的でその程度も軽いといえる。
[68] 他方,弁護人が主張する厳格な審査基準によった場合,結果的に国あるいは国民にとって本質的に重要な利益ないし価値が損なわれかねない危険がある上,その判断に際し,裁判所にとって複雑かつ微妙で困難を伴う事実認識が要求されることになる。こうした点を勘案すると,裁判所の判断を立法府の判断に優先させるのではなく,表現の自由を制約する目的の正当性のほか,目的を達成するのに立法府が採用した手段に合理的な関連性があるかどうかを審査する限度でチェックするという方法にも合理性が認められる。
[69] 以上によると,猿払事件判決が,国公法による公務員の政治的行為の制約の合憲性を審査するに当たり,弁護人の主張する厳格な審査基準によらず,規制の目的と手段との間に合理的関連性があるかどうかの限度でチェックする,いわゆる合理的関連性の基準を採用したことが合理性に欠けるということはいえない(なお,合理的関連性の基準は,戸別訪問を禁止した公職選挙法138条1項が憲法21条に反しないとした最高裁昭和56年6月15日第二小法廷判決(刑集35巻4号205頁)においても,合憲性審査の方法として用いられている。)。
[70] また,弁護人は,公務員の政治的行為の制約に違反する行為に対し,刑事制裁を科するか否かは立法裁量とされるべきではなく,その合憲性審査は,厳格な審査基準によらなければならないと主張する。
[71] しかし,国公法による公務員の政治的行為の制約は,行政の中立的な運営とこれに対する国民の信頼確保という国あるいは国民にとって本質的に重要な利益ないし価値を擁護するという正当な目的によるものであるから,これに違反する行為は,国民全体の共同利益を害することになり,その弊害は決して軽微ということはできない。そうすると,国公法による政治的行為の制約が公務員によって破られた場合,その制裁として,公務員組織の内部秩序を維持するための見地から科される懲戒処分にとどめるか,国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰をもって臨むかかは,立法政策の問題であるとすることが合理性を欠くとはいえない。また,政治的行為の制約に違反する行為がなされた場合,これに対する懲戒処分には公務員組織からの排除を意味する懲戒解雇処分がある一方,刑罰には懲役刑のほか罰金刑が選択刑として定められていて,違反行為に対しては懲役刑が科されることはほどんどないという実務の運用等を勘案すれば,懲戒処分の方が刑罰より軽いとは断じ得ない。
[72] こうしたことを勘案すると,刑事制裁を科する場合であっても,弁護人が主張するような厳格な審査基準によらなければならないことにはならない。
[73] さらに,弁護人は,猿払事件判決が国公法による政治的行為の制約を「意見表明自体の制約を目的としていない」「間接的・付随的な制約にすぎない」としていることに対し,この制約が対象とする行為は政治的な意見の表明にほかならないから,直接規制と評価しなければならないと主張する。
[74] しかし,国公法による政治的行為の制約は,意見内容に着目し,特定の意見に限って制約するもの,あるいは特定の政党に向けられたものではなく,定められた類型の政治的行為を,その行為がもたらす弊害の防止を目的として制約するもので,そうした行為にすべて平等に適用されるものである。政治的行為が問題とされる以上,その内容が政治的なものであることは当然の前提となるのであって,その限度で内容に着目するにすぎないのである。このように政治的行為の制約は,表明される意見の内容いかんによって意見表明を規制するわけではないから,間接的,付随的な制約にすぎないということができる。
[75](3) 弁護人は,猿払事件判決が,公務員の政治的行為を自由に放任した場合の弊害として,公務員の政治的中立性が損なわれ,そのため職務の遂行ひいては公務員の属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあること,公務員の政治的偏向は,政治的党派の行政への不当な介入を容易にし,行政の中立的運営が歪められる可能性が一層増大するだけでなく,そのような傾向が拡大すれば,行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し,行政の能率的で安定した運営が阻害されるなどのおそれがあること,を指摘していることに対し,これは単に観念上の可能性にすぎないと主張する。
[76] しかし,公務員の政治的行為を自由に放任した場合,公務員の政治的中立性が損なわれ,公務の運営に党派的偏向を招くことが必然的ではないとしても,そのおそれが生ずることは十分肯定できる。また,公務員の政治的偏向が,政治的党派の行政への不当な介入を容易にし,行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し,結局は行政の能率的で安定した運営が阻害されるおそれが生じるというのも,合理的な因果の流れとして具体的に想定できる。
[77] そうすると,猿払事件判決が公務員の政治的行為を自由に放任した場合に生じるおそれがあるとする弊害は,単なる観念上の可能性にとどまるものとはいえない。
[78] なお,弁護人は,公務の中立性は,「法律による行政の原理」や決裁制度等によって担保されるとか,公務が個々の公務員の政治的主張によって左右されることはないと主張する。確かに,弁護人の指摘する「法律による行政の原理」等が公務の中立性を担保する機能を一定程度果たしていること,個々の公務員の政治的主張によっても公務の中立性が損なわれない場合があることは否定できない。しかし,他方,それらによっておよそ公務の中立性が損なわれるおそれが生じないとまでいえないことも明らかである。加えて,公務員の政治的行為を放任した場合の波及的,累積的効果や,1人の公務員にとどまらず,多数の公務員が時期を同じくしてあるいは異にして政治的行為を行った場合について想定される事態も考慮すれば,弁護人の主張する事情によっては,公務の中立性が損なわれるおそれを防げない可能性が一層増大するといわなければならない。
[79] 以上のとおり,猿払事件判決が,公務員の政治的行為が自由に放任されると,公務員の政治的中立性が損なわれ,公務の運営に党派的偏向を招き,行政の能率的で安定した運営が阻害されるなどの弊害が生ずるおそれがあるとしたことに合理性を欠くところはないというべきである。
[80](4) 弁護人は,公務における党派的偏向を招くおそれは,裁量性のある公務についてのみその可能性があるから,猿払事件判決が公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を問わずに一律に政治的行為を制約することを容認したことは誤りであると主張する。
[81] しかし,公務員によって国公法による政治的行為の制約に違反する行為がなされた場合,その公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等の事情は,公務員の政治的中立性を維持することにより,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国公法102条1項の目的を害する点で差異をもたらすものではない。すなわち,有機的統一体として機能している行政組織における公務全体の中立性を問題とすべきことや,公務員の政治的行為を放任した場合,それが累積的,波及的効果をもたらすことを考慮すると,公務における党派的偏向を招くおそれは,裁量性のある公務についてのみその可能性があるということはできないし,違反行為が勤務時間外に,国の施設を利用することなくなされた場合であっても,それが公務員によってなされた以上,行政の中立的運営やこれに対する国民の信頼が損なわれるおそれのあることも否定できないのである。また,公務員の具体的な職種・職務権限等に応じて規制の在り方に差異を設けるべきとの主張については,公務員の職種等が複雑で多岐にわたっていることを勘案すれば,立法技術上多大な困難が伴うことを指摘しなければならない。
[82](5) 弁護人は,猿払事件判決が刑罰の対象となる政治的行為に関する国公法102条1項による人事院規則への委任を白紙委任ではないとしたことに対し,同項による委任は刑罰の対象となる行為の範囲と基準を具体的に明示しているとはいえないと主張する。
[83] 確かに,弁護人が指摘するとおり,国公法102条1項自体には委任の基準,内容等が明示されているとはいえない。しかし,委任の基準,内容等は,委任規定自体に明示されている必要はなく,法律の目的,趣旨等に照らしてこれを合理的に解釈できるのであれば,いわゆる白紙委任とはならないというべきである。国公法102条1項は,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保することが憲法上の重要な国ないし国民の利益であることを前提として,これを達成するのに必要な政治的行為の具体的な内容を人事院規則に委任したものと合理的に解釈することができるから,憲法が禁止する白紙的,包括的委任をしたものとはいえない。
[84](6) 以上説示したとおりであって,弁護人の主張を検討しても,猿払事件判決が合理性を欠くとはいえないというべきである。

3 猿払事件判決が解決指針として確立していること
[85] 猿払事件判決は、最高裁大法廷による判断であるとともに,国公法102条1項に基づく人事院規則への委任のうち,処罰の対象となる禁止規定の委任が憲法31条等に違反して無効であるとの4人の裁判官の反対意見が付せられているものの,他の11人の裁判官全員の一致した安定的多数によるものである。また,猿払事件判決と同日に出された総理府統計局事件最高裁大法廷判決(刑集28巻9号743頁)及び徳島郵便局事件最高裁大法廷判決(刑集28巻9号694頁)においても,猿払事件判決を引用して国公法による政治的行為の制約の合憲性等が確認されているほか,最高裁昭和52年7月15日第三小法廷判決(裁判集刑事205号97頁),最高裁昭和55年12月23日第三小法廷判決(民集34巻7号696頁)(全逓プラカード事件判決),最高裁昭和56年10月22日第一小法廷判決(刑集35巻7号696頁)(高松簡易保険局事件判決)が,いずれも猿払事件判決を引用して国公法による政治的行為の制約の合憲性等を確認している。そして,以後は一般職の公務員の政治的行為制約の合憲性が争点となった事案は存在しないが,平成に入った後も,特別職の公務員である自衛官について最高裁平成7年7月6日第一小法廷判決(裁判集民事176号69頁)が,裁判官について最高裁平成10年12月1日大法廷決定(民集52巻9号1761頁)(寺西判事補事件決定)が,いずれも猿払事件判決の趣旨を引用した上で,その政治的行為の制約を合憲と判示し,特に寺西判事補事件決定は,猿払事件判決とほぼ同一の基準を用いて合憲の結論を導いている。さらに,公務員の政治的行為の制約自体の合憲性が争われた事案ではないものの,県立高校校長の職務命令が憲法21条に違反するものかどうかが争点となった最高裁平成16年7月15日第一小法廷判決が猿払事件判決を引用して上記職務命令の合憲性を判断しているし,広島市暴走族追放条例が憲法21条,31条等に違反するかどうかが争われた最高裁平成19年9月18日第三小法廷判決(刑集61巻6号601頁)は,合憲性の審査に際し,猿払事件判決を引用し,同判決と同一の方法を採用して合憲との判断をしている。なお,下級審ではあるが,社会保険庁に勤務する厚生労働事務官が衆議院選挙に際し,政党機関紙を配布したという本件と同種の事案について,猿払事件判決の指導的先例としての機能を肯定して国公法による政治的行為の制約の合憲性を確認したものもある(東京地裁平成18年6月29日判決)。
[86] このような猿払事件判決以降の裁判例の状況等に照らせば,猿払事件判決は,判決後相当期間が経過していることを考慮しても,国公法による政治的行為の制約の合憲性等の判断に関し,確定した先例として機能しているということができる。なお,弁護人は,いわゆる「泉佐野市民会館事件」判決(最高裁平成7年3月7日第三小法廷判決)を挙げて,最高裁の合憲性判断方法の変化を主張するが,問題となる自由の内容,対立する利益,規制の目的,態様等の本件との相違を考慮すれば,弁護人主張のとおりに理解することはできない。

4 猿払事件判決以降の事情の変更
[87] 弁護人は,猿払事件判決以降の事情の変更として,(1)いわゆる米国ハッチ法が改正されたこと,(2)国際人権規約が批准されたこと,(3)ILO151号条約が採択されたこと,(4)従来公務とされてきた事業に民間が参入するようになってきていることなどを指摘し,同判決はもはや先例としての価値を喪失していると主張する。
[88] しかし,以下に説示するとおり,猿払事件判決を変更しなければならないほどの事情の変化があったとは認められない(なお,弁護人の指摘する(2),(3)については後に説示するとおりである。)。本件が,社会保険庁職員による政党機関紙配布事件とともに30年ぶりの国家公務員法違反の公訴提起であるとの弁護人の指摘を考慮しても結論は左右されない。
(1) 米国ハッチ法の改正
[89] 外国の立法例は,それぞれの国の歴史的経験,伝統,国民の権利意識や自由感覚等,その国の社会的基盤を離れて成り立つものではない。弁護人の指摘するとおり,政治的行為を制約する国公法102条1項の制定に当たり参考とされた米国ハッチ法が,その後勤務時間外,勤務場所外の公務員の政治活動について,原則として自由とするなどの内容に改正がなされたことを前提としても,米国と我が国とは国民の権利意識,政治的行為に対する意識,歴史的・社会的・教育的諸条件,公務員の自制力に対する国民の信頼度等その社会的な基盤を異にするのであるから,同法の改正が,一つの考慮要素となり得る余地はあるものの,猿払事件判決の先例的価値を失わせ,判例変更を不可避とする事由になるとまではいえない。
(2) 民間参入の拡大
[90] 弁護人は,近年,従来公務とされてきた事業が相次いで民営化されており,これに伴い,当該職場の労働者は当然に政治的行為に対する制約から解放されているが,こうした流れは,これまで公務員の政治的行為を制約するために強調されていた公務の特殊性やそれを担う公務員の特殊性が十分な根拠を持つものでなかったことを明らかにしていると主張する。
[91] 確かに,いわゆる郵政民営化により,郵便,保険,貯金等の業務に従事していた二十数万人にも及ぶ郵政事務官(国家公務員)が民間労働者に移行したこと,独立法人化やいわゆる市場化テストにより,従来公務とされてきた業務が民営化され,それに伴い,こうした業務に従事していた公務員の非公務員化が進められていることは,弁護人の指摘するとおりである。しかし,公務,とりわけ行政の分野における公務が,憲法の定める統治組織の構造に照らし,議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し,国民全体に対する奉仕を旨とし,政治的偏向を排して運営されなければならないという特殊性を有すること,それを担う公務員が民間労働者とは異なった立場におかれていることは何ら変化していない。そして,公務員に対し政治的行為の制約がなされる理由は,このような公務一般のもつ特殊性やそれを担当する公務員の特殊性に着目しているからにほかならず,公務員の担当する具体的な職務内容に着目したことによるものではないから,従来公務とされてきた業務が民営化され,それに伴い関係する公務員が政治的行為の制約から解放されるという近時の動向を考慮しても,政治的行為を制約する根拠が失われたということにはならない。加えて,こうした公務の民営化やこれに伴う公務員の民間労働者化は,他面において,国家公務員の従事する業務を,国家としてのより本質的な事業又は全国的なあるいは長期的な視野から行われねばならない事業に限定する試みでもあり,このような観点からいえば,公務の民営化の流れにもかかわらずなお国家に留保される業務については,政治的中立性の確保がより強く要請されることになるともいえる。また,いわゆる郵政民営化法等業務の民営化の根拠となる法律に関する国会の審議過程においては,国公法による政治的行為の制約を改廃することは議論されていないのであるから,なおその必要性に関する国会の意思は変わっていないと評価することも可能である。
[92] 以上によると,公務の民営化等弁護人の指摘する事情は,猿払事件判決の先例的価値を失わせる事由になるとまではいえない。

5 本件政治的行為制約の合憲性等
[93] 以上説示したところによると,国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号の合憲性等については次のように解すべきである。
(1) 政治的行為制約の合憲性
[94] 表現の自由は基本的人権の中でもとりわけ重要なものであり,法律によってもむやみに制限できないことはいうまでもない。政治的行為のうち,政治的意見の表明の要素を有するものは憲法21条の保障を受けること,公務員であっても,憲法21条による表現の自由が保障されていることは,いずれも明らかである。
[95] しかし,表現の自由も憲法上の他の要請により一定の制約を受ける場合がある。国公法による政治的行為の制約は,国民一般に向けられているものではなく,国家公務員に対してのみ向けられているものである。他方,憲法15条2項は,公務員を「全体の奉仕者」と規定しており,公務が国民全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを要請していると解することができるが,特に行政の分野における公務は,憲法の定める統治組織の構造に照らし,議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し,国民全体に対する奉仕を旨とし,政治的偏向を排して運営されなければならず,そのためには,個々の公務員が,政治的に中立の立場を堅持してその職務の遂行に当たることが必要となる。行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼の確保はいずれも憲法の要請にかなうものであり,公務員の政治的中立性の維持は,国民全体の重要な利益である。
[96] したがって,公務員の政治的中立性を損なうおそれのある政治的行為を禁止することは,合理的で必要やむをえない限度にとどまる限り憲法上許容されるのであって,その限度にとどまるか否かは,禁止の目的,この目的と禁止される政治的行為との関連性,政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の3点から検討すべきである。
[97] 人事院規則14-7第6項7号が規定する政党の機関紙たる新聞その他刊行物の配布行為は,特定の政党のために,その政党の機関紙等を配布する行為であって,公務員の政治的中立性と強く抵触する,政治的偏向の強い行為類型に属するものである。このような行為が自由に放任されるときは,おのずから公務員の政治的中立性が損なわれ,そのため,その職務の遂行ひいてはその属する行政機関の公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり,行政の中立的運営に対する国民の信頼が損なわれることを免れない。また,そのような公務員の党派的偏向は,政治的党派の行政への不当な介入を容易にし,行政の中立的運営がゆがめられる可能性が一層増大するばかりでなく,その傾向が拡大すれば,本来政治的中立を保ちつつ一体となって国民全体に奉仕すべき責務を負う行政組織の内部に深刻な政治的対立を醸成し,そのため行政の能率的で安定した運営が阻害され,ひいては議会制民主主義の政治過程を経て決定された国の政策の忠実な遂行にも重大な支障を来すおそれがある。このようなおそれは行政組織の規模の大きさに比例して拡大するものであって,かくては,組織の内部規律のみによっては弊害発生を防止しえない事態に立ち至る。したがって,このような弊害の発生を防止し,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため,公務員の政治的中立性を損なうおそれのある政党の機関紙等の配布行為を禁止することは,憲法の要請に応え,公務員を含む国民全体の共同利益を擁護するための措置にほかならないのであって,その目的は正当なものというべきである。
[98] また,このような弊害発生のおそれは,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無,職務利用の有無やその公正を害する意図を有していたか否かによって失われるものではなく,さらには,有機的統一体として機能している行政組織における公務全体の中立性が問題とされるべきものである以上,当該公務員の職種・職務権限によって失われるものでもない。したがって,前記弊害の発生を防止するため,公務員の政治的中立性を損なうおそれがあると認められる機関紙等の配布行為を禁止することは,公務員の職種・職務権限,勤務時間の内外,国の施設の利用の有無等を区別していなくとも,あるいは行政の中立的運営を直接,具体的に損なう行為のみに限定されていないとしても,前記の禁止目的との間に合理的関連性がある。
[99] 利益の均衡の点についてみても,民主主義国家においては,できる限り多数の国民の参加による政治が行われることが国民全体の重要な利益であるから,ひとしく国民の一員である公務員の政治的行為を禁止することによって,この利益が失われる結果になるのを軽視することはできない。しかし,政党の機関紙等の配布行為の禁止は,公務員の政治的中立性を損なうおそれのある行動類型に属する当該政治的行為を,これに内包される意見表明そのものの制約を目的としてではなく,あくまでその行動のもたらす弊害防止を目的としてするものであるから,同時に意見表明の自由を制約することにはなるものの,その制約は行動の禁止に伴う限度での間接的,付随的なものにすぎない。また,このような制約は,禁止されている手段,方法以外の手段等による意見表明の自由を制約するものではないのに対し,禁止により得られる利益は,公務員の政治的中立性を維持し,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するという国民全体の共同利益であるから,得られる利益は失われる利益に比して更に重要というべきであり,その禁止は利益の均衡を失するものではない。
[100] したがって,国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号は,合理的でやむを得ない限度を超えるものとはいえないから,憲法21条に違反するものではない。
(2) 本件行為に対する罰則の合憲性
[101] 刑罰は国権の作用による最も厳しい制裁であるから,特に基本的人権に関連する事項について罰則を設けるには,慎重な考慮を要するというべきで,刑罰規定が罪刑の均衡等の観点から著しく不合理で到底許容しがたいという場合は,違憲の判断を受けなければならない。
[102] しかし,国公法による政治的行為の制約は,前記説示のとおり,公務員の政治的中立性を維持することにより,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼確保という国民全体の重要な共同利益を擁護するためのものである。したがって,この禁止に違反して国民全体の共同利益を損なう行為に出る公務員に対する制裁として刑罰を用いるか否かは,この共同利益を擁護する見地からの立法政策の問題であって,前記説示のとおり,国公法による政治的行為の制約が表現の自由に対する合理的で必要やむを得ない制限であると解される以上,刑罰を違憲とする特別な事情のない限り,立法機関の裁量は尊重されるべきである。
[103] そして,その保護法益の重要性,禁止される政治的行為の性質等にかんがみると,罰則制定の要否及び法定刑についての立法機関の決定がその裁量の範囲を著しく逸脱しているものであるとは認められない。特に,政党機関紙等の配布行為は,公務員の政治的中立性と強く抵触する,政治的偏向の強い行動類型に属するものであって,公務員の政治的中立性を損なうおそれが大きく,このような違法性の強い行為に対して国公法の定める程度の罰則を設けたとしても不合理とはいえない。
[104] したがって,国公法による政治的行為の制約は,これに違反した場合に刑罰を科する点についても,憲法21条に違反しないのはもちろん,憲法31条にも違反しない。
(3) 国公法102条1項による人事院規則への委任の合憲性
[105] 国公法による政治的行為の制約の目的等に照らせば,国公法102条1項は,禁止される政治的行為を人事院規則に白紙委任したものではなく,公務員の政治的中立性を損なうおそれのある行動類型に属する政治的行為を具体的に定めることを委任したものと合理的に解釈することができる。そして,そのような政治的行為が,公務員組織の内部秩序を維持する見地から科される懲戒処分を根拠づけるに足りるものであるとともに,国民全体の共同利益を擁護する見地から科される刑罰を根拠づける違法性を帯びるものであることからすると,国公法102条1項が,懲戒処分の対象及び刑罰の対象となる政治的行為の定めを一様に委任するものだからといって,憲法の許容する委任の限度を超えるものとはいえない。
[106] したがって,国公法102条1項は,憲法15条1項,16条,21条,31条,41条,73条6号に違反しない。
[107] 弁護人は,(1)被告人の職務の性質や職場の状況等からすると,被告人の本件ビラ配布行為によっては職場に何らの影響もなかった,(2)本件ビラ配布行為は,勤務時間外の休日に,職場又は被告人の自宅と離れた場所で,職務と全く関係のない相手に対して行った行為であり,(3)その行為態様も,相手方と対面せずに行われ,外観だけからは政治的ビラの配布とは認識できないものであって,被告人の服装も,外観からは公務員であると認識不可能なものであったから,本件ビラ配布行為によって公務の政治的中立性及びそれに対する国民の信頼が損なわれる危険は全くなかったとして,このような本件ビラ配布行為に国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号を適用することは,その限度で憲法21条等に違反すると主張する。

[108] しかし,被告人の本件ビラ配布行為が勤務時間外に職場等と離れた場所で行われ,これによって,被告人の属する公務の中立性が具体的に害されなかったとしても,本件ビラ配布行為に国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号を適用することが憲法21条,31条等に違反するものでないことは,前記説示したところから明らかというべきである。

[109] その上で更に検討する。
[110](1) 関係証拠によれば,被告人の地位,立場等として,次の事実が認められる。すなわち,被告人は,本件ビラ配布当時,厚生労働省大臣官房統計情報部社会統計課において,同課として最終決定を下す権限を有する課長を補佐する課長補佐の地位にあった者である。しかも,被告人は,庶務係,企画指導係及び技術開発係担当の課長補佐として,部下である各係職員を直接指揮するとともに,同課に存する8名の課長補佐の筆頭課長補佐(総括課長補佐)として,他の課長補佐等から業務の相談にあずかるなど課内の総合調整等を行う立場にあった。また,被告人は,国公法108条の2第3項ただし書所定の管理職員等に当たり,職員団体への加入資格が認められていなかった。
[111] このように被告人は,本件ビラ配布当時,管理職の地位にはなかったものの,それに準じる地位にあった者であり,単なる機械的な業務に携わる職員とは明らかに異なる立場にあったということができる。
[112] 一方,関係証拠によれば,被告人が所属していた統計情報部社会統計課の業務は,厚生労働省の施策である児童福祉,社会福祉あるいは老人福祉等に関わる統計調査等であって,政策の企画立案それ自体ではないものの,その基礎資料を収集するという企画立案をサポートするものであったことが認められる。統計調査の業務には,担当者の主観的判断が入ることは比較的少ないとしても,各種調査の結果を分析,評価することも含まれるのであるから,そこには主観的な判断が入り込む余地がないとまではいえない。
[113] なお,弁護人は,被告人の所属する統計情報部は企画立案部門ではなく,具体的な職務内容も恣意の入る余地がないと主張するが,前記説示のとおり,被告人は,厚生労働省本省の社会統計課の筆頭課長補佐として,管理職に準ずる立場にあったものである上,その業務の内容も,政策の企画立案の基礎資料を収集するもので,収集した調査結果の分析評価を伴うものであったから,およそ主観的な判断が入り込む余地がなかったという弁護人の主張は当たらない。
[114](2) 被告人が行った本件ビラ配布行為は,政党機関紙の配布行為であるが,翌日施行される衆議院議員総選挙に向けて,特定政党を支持する目的で,当該政党の機関紙相当枚数を配布したというものである。そうすると,本件ビラ配布行為は,具体的な選挙における特定政党のためにする直接かつ積極的な支援行為であって,その行為自体が,その性質上公務員の政治的中立性に強く抵触する政治的偏向の強い行為類型に属するものであったといわなければならず,強い違法性を有するものと認めることができる。
[115](3) 以上のような被告人の地位や職務内容及び本件ビラ配布行為の性質等にかんがみれば,本件ビラ配布行為に国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号を適用することが,憲法21条,31条等に違反することになるとはおよそ解されない。
[116] 弁護人は,国公法102条1項所定の罪は具体的危険犯と解すべきであるところ,本件ビラ配布行為によっても法益侵害の可能性はないから,本件ビラ配布行為は構成要件該当性,あるいは違法性を欠くと主張する。
[117] しかし,国公法102条1項の趣旨や保護法益等に照らせば,同項に違反する罪が成立するためには,抽象的な危険が発生すれば足り,具体的な危険が発生するまでの必要があると解することはできないから,弁護人の主張はその前提を欠いているというべきである。また,被告人の地位や職務内容及び本件ビラ配布行為の性質等にかんがみれば,本件ビラ配布行為によって,行政の中立性やこれに対する国民の信頼の確保という保護法益が侵害される抽象的な危険が発生したことは,これを優に認めることができる。
[118] したがって,本件ビラ配布行為は,国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号の構成要件を充足するとともに,処罰に値する違法性を有することは明らかである。

[119] 弁護人は,国公法による政治的行為の制約が合憲とされるためには,規制される行為が主導的・組織的・計画的又は継続的な行為あるいは職務関連性のある行為に限られるべきであるし,「配布」も組織的に配布する行為に限定して解釈をする必要があるなどとした上で,被告人の行為はその限定された構成要件に該当しないと主張する。
[120] 弁護人の主張は,国公法による政治的行為の制約の合憲性に多大な疑問があることを前提とするものであるが、同規定が限定解釈をするまでもなく憲法21条等に違反しないことは,これまで説示したところから明らかであるといわなければならないから,弁護人の主張はその前提を欠いている。公務員の政治的行為を制約する国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号の制定経緯や地方公務員法36条との対比等,弁護人の指摘を考慮しても,国公法による政治的行為の制約に関する構成要件の解釈について,弁護人の主張するような限定解釈をしなければならない理由は見いだせない。
[121] 被告人の本件ビラ配布行為が国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号の構成要件に該当することは明らかである。
1 国際人権規約違反の主張について
[122] 弁護人は,国公法による政治的行為の制約は,国際人権規約(B規約)19条2項,3項に違反するから無効である,仮に無効でないとしても,本件事案に国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号を適用することは国際人権規約19条2項,3項の解釈適用から許されないと主張する。
[123] 国際人権規約は,我が国において批准の上公布されたものであるから,当然に国内法としての効力が認められること,その効力が法律に優位すること,具体的な裁判規範としての効力を有することは,弁護人の指摘するとおりである。
[124] しかし,国公法による政治的行為の制約(そのうち,本件で問題となるのは政党の機関紙等の配布行為である。)が,国際人権規約19条3項に定める法律という形式(前記説示のとおり,人事院規則に対する委任もいわゆる白紙委任ではない。)により,行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼の確保という「公の秩序」の保護のために加えられるものであって,しかも,規制目的とそのための手段が均衡を失するものではない,すなわち同項にいう必要性を充足することは,これまで説示したところから明らかである。そうすると,国公法による政治的行為の制約は,国際人権規約19条2項,3項に違反するものではないというべきであって,高松簡易保険局事件についての最高裁判決の趣旨からも容易に同様の結論を導くことができる。
[125] なお,弁護人の主張・立証に照らしても,国際人権規約19条2項,3項に関して弁護人が主張する解釈が,国際社会で確立したものとなっているとまでは認められない。
[126] 加えて,前記認定の本件事案の内容等に照らせば,本件ビラ配布行為に国公法102条1項,人事院規則14-7第6項7号を適用することが,国際人権規約19条2項,3項の解釈から許されないと解する余地もない。

2 ILO条約違反との主張について
[127] 弁護人は,ILO151号条約9条は「公的被用者は,その地位と職務の性質から生ずる義務にのみ従うことを条件として,他の労働者と同様に,結社の自由の通常の行使に不可欠な市民的及び政治的権利を有する。」と規定しているところ,我が国がILOに加盟し,ILO87号条約,98号条約を批准している以上,ILO151号条約9条についても当然に裁判規範性を有するとして,本件国公法,規則は同条に違反するなどと主張する。
[128] しかし,我が国がILO151号条約を批准していないことは弁護人自身が認めるところである上,その主張を検討しても,同条約9条が裁判規範性を有しているとは到底認められない。したがって,弁護人の主張はその前提を欠いているといわなければならない。
[129] 以上説示したとおりであって,弁護人の主張は,いずれも採用できない。
[130] よって,主文のとおり判決する。

(求刑 罰金10万円)
(検察官阪井博,同市原久幸及び同石島正貴各出席)

  平成20年10月17日
    東京地方裁判所刑事第11部
    裁判長裁判官 小池勝雅  裁判官 品川しのぶ
    裁判官高橋明宏は差し支えのため署名押印することができない。
    裁判長裁判官 小池勝雅

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