堀木訴訟
上告審判決

行政処分取消等請求事件
最高裁判所 昭和51年(行ツ)第30号
昭和57年7月7日 大法廷 判決

上告人 (被控訴人・附帯控訴人 原告) 堀木フミ子
              代理人   井藤誉志雄 外51名
被上告人(控訴人・附帯被控訴人 被告) 兵庫県知事 坂井時忠
              代理人   柳川俊一  外9名

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同前哲夫、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同木下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子の上告理由
■ 上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同前哲夫、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同木下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子、同田中峯子、同門井節夫、同金井清吉の上告理由(補充書)
■ 上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同前哲夫、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同木下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子、同田中峯子、同門井節夫、同金井清吉の上告理由(再補充書)
■ 上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同前哲夫、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同木下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子、同田中峯子、同門井節夫、同金井清吉の上告理由(再々補充書)


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係は次のとおりである。
[2] 上告人は、国民年金法別表記載の一級一号に該当する視力障害者で、同法に基づく障害福祉年金を受給しているものであるところ、同人は内縁の夫との間の男子堀木守(昭和30年5月12日生)を右夫との離別後独力で養育してきた。上告人は、昭和45年2月23日、被上告人に対し、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当の受給資格について認定の請求をしたところ、被上告人は、同年3月23日付で右請求を却下する旨の処分をし、上告人が同年5月18日付で、被上告人に異議申立てをしたのに対し、被上告人は、同年6月9日付で、右異議申立てを棄却する旨の決定をした。その決定の理由は、上告人が障害福祉年金を受給しているので、昭和48年法律第93号による改正前の児童扶養手当法4条3項3号(以下「本件併給調整条項」という。)に該当し受給資格を欠くというものであつた。

[3] そこで、まず、本件併給調整条項が憲法25条に違反するものでないとした原判決が同条の解釈適用を誤つたものであるかどうかについて検討する。
[4] 憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定が、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものであること、また、同条2項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しているが、この規定が、同じく福祉国家の理念に基づき、社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきことを国の責務として宣言したものであること、そして、同条1項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条2項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきことは、すでに当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和23年(れ)第205号同年9月29日大法廷判決・刑集2巻10号1235頁)。
[5] このように、憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。
[6] そこで、本件において問題とされている併給調整条項の設定について考えるのに、上告人がすでに受給している国民年金法上の障害福祉年金といい、また、上告人がその受給資格について認定の請求をした児童扶養手当といい、いずれも憲法25条の規定の趣旨を実現する目的をもつて設定された社会保障法上の制度であり、それぞれ所定の事由に該当する者に対して年金又は手当という形で一定額の金員を支給することをその内容とするものである。ところで、児童扶養手当がいわゆる児童手当の制度を理念とし将来における右理念の実現の期待のもとに、いわばその萌芽として創設されたものであることは、立法の経過に照らし、一概に否定することのできないところではあるが、国民年金法1条、2条、56条、61条、児童扶養手当法1条、2条、4条の諸規定に示された障害福祉年金、母子福祉年金及び児童扶養手当の各制度の趣旨・目的及び支給要件の定めを通覧し、かつ、国民年金法62条、63条、66条3項、同法施行令5条の4第3項及び児童扶養手当法5条、9条、同法施行令2条の2各所定の支給金額及び支給方法を比較対照した結果等をも参酌して判断すると、児童扶養手当は、もともと国民年金法61条所定の母子福祉年金を補完する制度として設けられたものと見るのを相当とするのであり、児童の養育者に対する養育に伴う支出についての保障であることが明らかな児童手当法所定の児童手当とはその性格を異にし、受給者に対する所得保障である点において、前記母子福祉年金ひいては国民年金法所定の国民年金(公的年金)一般、したがつてその一種である障害福祉年金と基本的に同一の性格を有するもの、と見るのがむしろ自然である。そして、一般に、社会保障法制上、同一人に同一の性格を有する2以上の公的年金が支給されることとなるべき、いわゆる複数事故において、そのそれぞれの事故それ自体としては支給原因である稼得能力の喪失又は低下をもたらすものであつても、事故が2以上重なつたからといつて稼得能力の喪失又は低下の程度が必ずしも事故の数に比例して増加するといえないことは明らかである。このような場合について、社会保障給付の全般的公平を図るため公的年金相互間における併給調整を行うかどうかは、さきに述べたところにより、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。また、この種の立法における給付額の決定も、立法政策上の裁量事項であり、それが低額であるからといつて当然に憲法25条違反に結びつくものということはできない。
[7] 以上の次第であるから、本件併給調整条項が憲法25条に違反して無効であるとする上告人の主張を排斥した原判決は、結局において正当というべきである。(なお、児童扶養手当法は、その後の改正により右障害福祉年金と老齢福祉年金の2種類の福祉年金について児童扶養手当との併給を認めるに至つたが、これは前記立法政策上の裁量の範囲における改定措置と見るべきであり、このことによつて前記判断が左右されるわけのものではない。)

[8] 次に、本件併給調整条項が上告人のような地位にある者に対してその受給する障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁じたことが憲法14条及び13条に違反するかどうかについて見るのに、憲法25条の規定の要請にこたえて制定された法令において、受給者の範囲、支給要件、支給金額等につきなんら合理的理由のない不当な差別的取扱をしたり、あるいは個人の尊厳を毀損するような内容の定めを設けているときは、別に所論指摘の憲法14条及び13条違反の問題を生じうることは否定しえないところである。しかしながら、本件併給調整条項の適用により、上告人のように障害福祉年金を受けることができる地位にある者とそのような地位にない者との間に児童扶養手当の受給に関して差別を生ずることになるとしても、さきに説示したところに加えて原判決の指摘した諸点、とりわけ身体障害者、母子に対する諸施策及び生活保護制度の存在などに照らして総合的に判断すると、右差別がなんら合理的理由のない不当なものであるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。また、本件併給調整条項が児童の個人としての尊厳を害し、憲法13条に違反する恣意的かつ不合理な立法であるといえないことも、上来説示したところに徴して明らかであるから、この点に関する上告人の主張も理由がない。

[9] 以上の次第であるから、論旨は、いずれも採用することができない。
[10] よつて、行政事件訴訟法7条、民訴法95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 服部高顕  裁判官 団藤重光  裁判官 栗本一夫  裁判官 藤崎万里  裁判官 本山亨  裁判官 中村治朗  裁判官 横井大三  裁判官 木下忠良  裁判官 塩野宜慶  裁判官 伊藤正己  裁判官 宮崎梧一  裁判官 寺田治郎  裁判官 谷口正孝  裁判官 大橋進)

上告代理人目録
井藤誉志雄 藤原精吾 前哲夫 佐伯雄三 宮崎定邦 堀田貢 前田修 木村治子 高橋敬 吉井正明 田中秀雄 持田穣 野田底吾 原田豊 中村良三 羽柴修 山崎満幾美 野沢涓 小牧英夫 山内康雄 宮後恵喜 大音師建三 田中唯文 伊東香保 前田貢 山平一彦 古本英二 前田貞夫 川西譲 木下元二 垣添誠雄 上原邦彦 足立昌昭 木村祐司郎 岩崎豊慶 橋本敦 西元信夫 松本晶行 新井章 大森典子 高野範城 渡辺良夫 四位直毅 池田真規 金住典子 田中峯子 門井節夫 金井清吉 吉田武男 加藤文也 内藤功 斉藤豊

指定代理人目録
柳川俊一 高橋正 上野至 松永栄治 山田紘 末次彬 柿山青谷 足利聖治 三上肇 藤本実
第一、序論
  一、第一審における審理経過
  二、第一審判決と世論、学界の支持
  三、被上告人の控訴に至る経過
  四、原審における審理経過と問題点
第二、総論――原判決の根本的誤り
  一、上告人の主張の要点
  二、原判決の根本的誤り
第三、原判決の憲法25条解釈適用の誤り
  一、憲法25条解釈の誤り
   (一) 憲法25条1、2項を分断する解釈の誤り
    (1) 原判決の25条解釈
    (2) 原判決の憲法解釈が誤てる所以
    (3) 障害福祉年金、児童扶養手当と憲法25条
   (二) 憲法25条の裁判規範性にかんする解釈の誤り
    (1) 原判決の解釈
    (2) 25条の裁判規範としての内容
   (三) 原判決には判断遺脱、理由不備の違法がある
  二、憲法25条適用の誤り
   (一) 併給禁止条項が憲法25条1項に違反しないとした誤り
    (1) 「生活保障」「経済保障」論の誤り
    (2) 最低生活保障と年金
   (二) 併給禁止条項の現実的意味とその違憲性
    (1) 障害者福祉年金受給者の生活実態と障害福祉年金の役割
    (2) 母子家庭の生活実態と児童扶養手当の役割
    (3) 重度障害者母子世帯の生活実態と併給禁止のもたらす現実的不合理
    (4) まとめ
   (三) 併給禁止条項の違憲性
    (1) その違憲性
    (2) 生活保護の存在は併給禁止の違憲性をいささかも軽減しない。
    (3) 「財源の限界」を併給禁止の理由とすることの誤り
第四、原判決の憲法14条解釈・適用の誤り
  一、原判決の判示
  二、憲法14条解釈の誤り
  三、憲法14条適用の誤り
   (一) 合理性判断の基準
   (二) 各理由の検討
    (1) 原判決は児童扶養手当制度の趣旨を誤解している
    (2) 「稼得能力低下喪失」論の誤り
    (3) 無拠出制を理由に本件併給禁止を合理的とする誤り
    (4) 「国民感情」を併給禁止の理由とする誤り
    (5) 他の社会福祉制度の存在を併給禁止の合理性の根拠にすることの誤り
    (6) 生活保護制度があることを併給禁止の合理的理由とする誤り
  四、結論
第五、児童扶養手当法の解釈の誤り
  一、原判決の性格づけとその理由
  二、「立法の経緯」についての誤解
  三、母子状態=稼得能力低下喪失論の誤り
  四、法の明文の極端な軽視
  五、上告人の根拠づけについての判断の欠落
  六、児童扶養手当は家族手当=児童手当の一種である
  七、児童扶養手当は防貧的給付ではない
第六、原判決の憲法13条解釈・適用の誤り
[1](一) 生別母子世帯などに支給される児童扶養手当の制度が始まつたのは昭和37年である。小さい頃病気で失明し、夫とも離婚した後、女の細腕で2人の子供を養つていた上告人は、児童扶養手当のことを教えられ、よろこんで申請した。ところが窓口である福祉事務所で受付けてもらうこと自体がなかなかできず、一人歩きも不自由な身体で何回も通つて、やつと受付けてもらつた結果が一片の不支給通知であつた。上告人は子供の将来のこと、法律の矛盾していること、今までの苦労などを考え、何回もためらつたあげくついに裁判を起す決意を固めたのである。

[2](二) こうして始まつた堀木訴訟は、昭和45年10月8日を第1回として、同47年6月14日の結審まで11回の口頭弁論が開かれ、その間、口頭主義をつらぬき、録音機の使用を認め、障害者がひとしく持つているはずの裁判を受ける権利を具体的に保障することとなつた。
[3] 第一審において、上告人側は、苦しい障害者や母子家庭の生活実態を明らかにすることに力を入れ、上告人側の証人の殆んどは、障害者ならびに母子家庭の生活実態を明らかにするためのものであつたが、それらの証言が、判決の中に結実されている。
[4] 第一審判決は国民の要求に合致した画期的な内容であつた。障害者、母子家庭の生活実態をつぶさに検討し、
「原告は自己の障害それ自体と、児童の監護という二重の負担を負つているもので、法律によつて手当の支給を拒否されている当該女性の被差別感は、極めて大なるものであることが容易に感得されるとともに、その被差別感は、一般社会人をしてたやすく首肯させ、同感させるに足るものである」
として児童扶養手当法の本件併給禁止条項を違憲であると判断した。判決当日の夕刊には各社が第1面で第一審判決を報じ、第一審裁判官の勇断をたたえていた。

(一) 世論の支持
[5] 昭和45年7月、兵庫視力障害者を守る会の人たちに支えられ、全盲の1人のお母さんの訴えによつて始まつた本件訴訟は、第一審判決を契機に、全国に支援の輪が広がつていつた。兵庫、大阪、京都、名古屋、東京等と各地で「堀木訴訟支援する会」が結成され、昭和49年9月1日、支援運動の中央組織である「堀木訴訟中央対策協議会」が結成された。右中央対策協議会は、昭和50年2月末より3月10日の控訴審の第12回公判にむけて、東京、神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、兵庫、大阪と「堀木訴訟勝利、国民の福祉を守る大行進」が行われ、各地で集会のとり組みが行われるなど成功に終つた。行進へのとり組みから、日教組が、運動への支援を決議し、公正裁判を求める署名も、個人署名約7万、団体署名も、中央団体約40、地方団体約200も集まつた。
[6] 第一審判決直後の昭和47年10月11日には、社会保障関係の学者134名からなる原判決支持、控訴取下げのアツピール(甲第27号証)が採択され、同50年9月26日に、兵庫県に在住、在勤する医師、弁護士、作家、牧師、作曲家、バレリーナなど巾広い文化人130氏が、「堀木訴訟の控訴棄却を求める兵庫県文化人アツピール」を発表し、続いて、名古屋の知識人、文化人が同旨のアツピールを発表した。
[7] 一方、兵庫県議会は、昭和47年10月9日、全会一致で1審判決を支持し、
「この判決を広い視野にわたつて受け止め、福祉政策全体について再検討するとともに、各種年金、手当の併給制限について法律改正を含む改善をおこなわれるよう強く要望する」
決議をなし、昭和50年3月15日、京都府議会においても、原判決を支持し、政府はすみやかに控訴を取下げるべきであるとする決議を採択し、地方自治法99条2項による意見書として、内閣総理大臣、法務大臣および厚生大臣に提出したのである。
[8] このように、第一審判決に対する国民の支持は、形に残るものだけをみても圧倒的なものである。原判決が、「一般国民感情が未だ併給を当然視する迄に至つていないこと」を差別の合理性の根拠の一つにしているが、国民感情は明らかに第一審判決を支持しているのであり、右のような判示をなしたということは控訴審の裁判官の目が、被上告人側にのみ向けられ、上告人の主張を真面目に検討しようとする意思を、当初より持つていなかつたのではないかと疑わせるものがある。
(二) 学説の支持
[9] 第一審判決に対する法律学者による評論ならびに解説は次のとおり数多くあるが、第一審判決の結論を支持しないものはない。
森 順次 ジユリスト昭和47年度重要判例解説9
今村成和 判例評論685号 169頁
佐藤 進 ジユリスト522号 92頁
河野正輝 法律のひろば25巻 16~20頁
角田 豊 季刊労働法86号 73頁
林 弘子 日本労働法学会誌41号 139頁
我妻 栄 法律学会集「法学概論」 350頁
[10] このように第一審判決が、世論ならびに学界の支持が得られたのは、何といつても併給が国民のニードに合致し、第一審裁判官が、障害者、母子家庭の生活実態に素直に耳をかたむけ、裁判官の良心と独立を守り、裁判所が「憲法の番人」であるということを国民の前に明らかにしたからである。
[11](一) 被上告人は控訴期限の最終日に控訴の手続をとつた。その経過は次のとおりである。
[12] 被上告人は、第一審判決に対する世論、学界の支持に押されてか、法務大臣に対しても控訴したくない旨の意思を次のようにのべている。
「障害福祉年金を受給している者に対して児童扶養手当を支給することが、その後の社会情勢の推移等からみても必要であり、また、他の公的年金の併給制度のあり方についても再検討を加えられるとともに、これらの公的年金が併給できるような法改正等を行う必要があると考えられる。
 判決内容からみてもわかるとおり、この事件は堀木文子個人の経済的な事情を考慮した判決であり、実情もそのとおりであるので、控訴をしないことが社会のニードにもあい、かつ、一審判決をもつて確定させたとしても、児童扶養手当法第4条第3項第3号の規定全部が憲法違反となるものではなく、現行制度が根本的にくつがえることとはならないので、控訴しないことが適当と思料される。」(乙第10号証)
[13] しかし、被上告人は、控訴期限の最終日に、法務大臣の指揮権発動により、右控訴したくない真意に反し、やむなく控訴の手続をとつたのである。そして、控訴の手続をとつた日、堀木訴訟に関する知事談話を発表し、
「県としては、この事務が国の機関委任事務である以上、国の意思に従い止むを得ず控訴にふみ切らざるを得なかつた。憲法上の問題は別として、こうした障害者に対する福祉を充実する観点から児童扶養手当と障害福祉年金との併給についてはひきつゞき国に対し強く法律の改正を要望してまいりたい。県としては、法改正までの措置として見舞金を支給することとする。」(甲第28号証)
とのべ、自らの控訴したくないという意思がふみにじられたことを県民の前に明らかにし、その後も、被上告人は随想の中で、法務大臣の控訴の指示に従わざるを得なかつた心境を
「盲目の障害者である堀木さんが、かよわい女手ひとつで子供を育てなければならない実情は、まことに同情にたえないものがあつた。なんとか救済の方法はないものかと、真剣に思案した。……この問題を本質的に解決するにはどうしても法の改正を求める以外にないと判断して、政府に対し、強くその要望をつゞけたが、実現しないうちに、この判決となつてしまつた。判決を受けた当事者として、なんともやりきれない複雑な感情の交錯を、どうすることもできなかつた。一審判決に対し“控訴すべきか否か”についても、ずいぶん悩んだ。法務省、厚生省には、強硬に県の意向を述べて善処方を迫つたが、“国会の議決を経て制定された法律が、違憲だとの判決には、控訴せざるをえない”との政府見解を覆えしえず、万やむをえず、その指示に従わざるを得なかつた。」
とのべている。
[14] このように、被上告人自身の真意に反し、本件控訴審ははじまつたのである。

[15](二) このようにして本件控訴は始まつたが、被上告人は、控訴したその日の知事談話(甲第28号証)で述べたように一審判決後直ちに兵庫県は「児童扶養見舞金支給要綱」(甲第30号証)を制定し、実質的に手当の併給を認める措置をとり、立法府においても、一審判決後3ケ月を経ずして併給禁止を一部撤廃する旨を発表し(甲第31号証)、法案作成のうえ昭和48年通常国会へ上程され(甲第32号証)、同年9月26日法改正が成立し同年10月1日より施行されるようになつた。被上告人はもとよりのこと、立法府においても、一審判決の内容を正当と認めたうえで、一審判決の意をうけ、単に上告人との関係だけでなく、広く一般に一審判決の趣旨を実現させたわけである。併給禁止を定めた法律そのものが改正により消滅し、制度全体としてみれば、既に問題が解決してしまつていると考えられるのに、ひとり上告人の受給資格のみを争うというのは、被上告人自身が、広く世間に表明してきた態度と明らかに矛盾するのみならず、公益を代表する機関のとるべき態度として許されるべきものではない。
[16] しかるに被上告人は違憲の判断を受けたという形式的面子にのみこだわり、実質的には争う利益もないのに無用な争いを続け控訴の取下げに応じようとせず、貧困と差別に耐え、1日も早い問題の解決を望んでいる上告人を今日まで不当に苦しめてきたのである。
[17](一) 原審では、昭和48年2月14日を第1回として、昭和50年7月14日の結審まで、14回の口頭弁論が開かれ、第一審と同様、口頭主義をつらぬき、大法廷の使用、録音機の使用、盲導犬の入廷、手話通訳も認められた。しかし、裁判所の審理態度は、まさに控訴人側にのみ顔を向けたようなものであつた。
[18] 被控訴人側は、第一審と同様、障害者、母子家庭の生活実態を明らかにし、その中で併給禁止条項がどのような役割を果しているのかを明らかにすることを中心的に立証してきた。ところが堀木さんと同じように全盲で子供を育てている飯田ますみ証人の申請に際しては、控訴人側の態度を気にし、採用をしぶり、採用にあたつては時間を制限し、尋問に際しては、時間ばかり気にして、あげくのはては尋問を制限するという有様であつた。裁判所のこのような態度から原判決は予測できないことではなかつた。果して原判決は、生活実態には一べつもくれないものであつた。

[19](二) 原判決は後に詳述するように、障害者、母子家庭の生活実態から目をふさぎ、財源を理由に時の政府の都合を重視するもので、政府の低福祉政策を追認するものである。
[20] 判決の日の各新聞は、「弱者に厳しい判決――福祉恩恵論に立つ」(朝日新聞)「渦巻く怒り、失望……」(神戸新聞)「身障者に冷たい壁」(読売新聞)と、既に法改正され、争う利益がなく、国自身も第一審判決の正当性を認めているのに、原判決が第一審判決をくつがえしたことは、その内容の官僚的思弁と相まつて世論の支持するところではないことを報じている。
[21] 上告人自身も原判決に対し、
「法廷で裁判長の読まれる判決を聞いていて、私は冷酷で胸にこたえるものを感じました。同じ負かすにしてももう少しやり方があるはずです。『年金と手当を併給すると、二重三重の支給になり、かえつて不公平になる』といわれたことに、私はどうしても納得できません」
と悲しみの中から、非人間的な原判決に対し上告する決意をしたのである。上告審においては、憲法の精神を守りなる程と納得のできる判決をしてほしいというのが、上告人をはじめ国民の切なる願いである。
[22] 上告人は本訴提起以来、児童扶養手当が健常な母子には支給され、上告人のような障害母子には支給されないということが、一片の合理性も見られない不合理な差別であることを一貫して訴えてきた。本件併給禁止がきわめて不合理な差別的取扱いであることは、常識的にも生活実態からも、万人の認めるところである。これを一審判決は正当に認め、憲法14条1項に違反すると判示したのであつた。また、このような併給禁止は個人の尊重、幸福追求の権利(憲法13条)に発する生存権(憲法25条)に対する侵害であるというべきである。しかるに原判決は、法の明文と、健全な常識に反し、多くの証人や書証によつて明らかにされた障害者、母子家庭のきびしい生活実態に敢えて目をつぶり、併給禁止は立法裁量の問題にすぎないと判示したのである。
[23](一) 原判決は憲法25条の解釈にあたり、独自の1、2項分断的解釈論を採り、同条2項の法規範性を骨抜きにし、無制約に等しい立法裁量を認めてしまつたこと。
(二) 上告人ら重度障害者の生活実態と、そこにおける障害福祉年金、児童扶養手当の実際的な意味、効用を全く顧みず、現実離れの抽象的な建前論のみで、本件併給禁止の「合理性」を認定してしまつたこと。
(三) 法の明文にもさからつて、児童扶養手当が児童が健やかに育てられる権利を保障するものであることを否定し、児童扶養手当の性格についての認識を誤つたこと。
において根本的な誤りを犯している。
[24] もちろん法律が違憲であるということは重大なことである。しかし、法律によつて国民の基本的人権が侵害されることは、もつと重大なことである。貴裁判所は基本的人権尊重を原理とする憲法に従い、一切の法令の審査をなす終審裁判所であることに鑑み、本件においても虚心に憲法の意を体して、明快なる判断を賜りたい。
(一) 憲法25条1、2項を分断する解釈の誤り
(1) 原判決の25条解釈
[25] 原判決は、憲法25条1項では国民が生存権を有することを総則的に規定し、同条2項は1項から生ずる国の義務として、各種の社会立法によつて国民の健康で文化的な最低生活を保障すべきことを規定しているとの上告人の主張を排斥し、同条1項の総則的性格を否定し、
「本条第2項は国の事前の積極的防貧施策をなすべき努力義務のあることを、同第1項は第2項の防貧施策の実施にも拘らず、なお落ちこぼれた者に対し、国は事後的、補足的且つ個別的な救貧施策をなすべき責務のあることを各宣言したものである」
と解している。
[26] そして、25条1項=救貧=公的扶助(生活保護)、25条2項=防貧=公的年金制度(および児童扶養手当制度その他)と図式的に二分し、前者については国のなすべき程度について憲法の要請にもとづく絶対的基準が存するが、福祉年金や児童扶養手当については国がその内容を定めるについて憲法上の基準は何ら存しないから、それがどのように定められようと憲法25条違反の問題は生ぜず、また憲法14条違反の有無の審査にあたつても国(立法府)の裁量が尊重されるべきである、という。
[27] しかしながら、このような解釈は、憲法25条1、2項の趣旨に対する根本的な誤解にもとづくものであり、民事訴訟法394条に基き破棄を免れない。
(2) 原判決の憲法解釈が誤てる所以
[28] 原判決の憲法25条にかんする右のような解釈は、本件併給禁止条項が憲法25条に違反しないという結論を導かんがために考案せられた全く独自の所説であつて、最高裁判所の判例にも抵触し、その誤りは、同条にかんする学説や同条の立法経過に照らしても明らかである。
(イ) 判例
[29]最判昭23・9・29・刑集2巻10号1235頁
東京地判昭35・10・19・判時241号2頁
東京地判昭43・7・15・判時523号21頁
東京地判昭49・4・24・判時740号25頁
(ロ) 学説
[30] 「註解日本国憲法」(上巻490~491頁)は、
「本条第1項は、すべての国民に生存権を保障しているが、……『直接』に本条により生存権確保のための国の責務として――すべてがその本源を、ここにもつことは当然のことであるが――、問題となることは、一方においては、労働能力のないものに対する国の責務であり、他方においては、必ずしも当然に労働と結びつかないでも考えられるところの、国民一般について生存権の保障である。本条第2項は、かかる意味の生存権保障のため、国のとるべき措置と責務とを明らかにしたものと解すべきである。」「そこで直接的な生存権の確保のために、本条第2項の『社会福祉』の向上及び増進としては、両親がこれを扶養しえぬ場合、及び扶養者がない場合ということになる。かかる場合の生活扶助・医療等については、生活保護法(……)がすでに定められており、」
と述べ、宮沢俊義「憲法」コンメンタール(266頁)もまた、
「本項(憲法第25条第2項)は、第1項と相まつて、憲法が社会国家の理念に立ち、国民生活の保障をもつて国の任務であり、責務であるとしていることを宣明したものと解される。」「生活保護法(……)や、社会福祉事業法(……)や、児童福祉法(……)や、優生保護法(……)は、いずれも、かような(憲法第25条第2項にいう)『社会福祉』の『向上及び増進』を目的とする法律である。」
とし、清宮四郎・佐藤功編「憲法演習」(60頁)は、より明瞭に、
「いうまでもなくこの両項は一体不可分の関係にある。すなわちすでに説明したように、第1項の権利は当然に第2項の趣旨を内包するものであり、第1項の権利が権利たる所以は国が第2項の努力を義務づけられていることにある。すなわち仮りに第25条が第1項のみより成り、第2項を欠いているとしても、国は当然に第2項の定める努力をしなければならないのである。」
と説いているのである。
[31] ほかにも同旨の学説としては、
佐藤功 「ポケツト註釈」憲法177頁
有斐閣双書 「社会保障法」85頁
林 古賀 「現代社会保障法論」24頁
などがある。
[32] 要するに、これらの学説は一致して、同条1、2項が不可分一体に把えられるべきことを指摘し、同条2項にもとづいて定立された「社会福祉、社会保障及び公衆衛生」などのすべての施策について、同条1項の理念や趣意が妥当すべき所以を明らかにしているのである。
(ハ) 立法の経過
[33] また、右の理は、同条項の立法の経緯からも十分に裏づけられるところである。すなわち、前記「註解」によれば、
「政府の原案第23条においては、『法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障及び増進のために立案されなければならない』とあつたのが衆議院において、本条のように改められ、その修正案が認められたものである。修正の理由としては、原案第25条で勤労の権利を認め、この勤労権は『民衆に一定の生活水準を保障し、ひいては国民の文化生活水準を高めようとするもの』であり、この点については、原案第23条があるが、その辞句には『多少意をつくさない憾がある如く考えられる』ので、『一層明白に個人の生活権を認める趣旨』であるとされている。即ち原案は、将来における立法の指針としてのみ生存権の保障を宣言していたのに対し、修正案は、これを正面から、すべての国民の側について規定し且つ国が、単に立法のみならず『すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならぬ』として、国家の側における保障的裏づけを定めている点において、前述の積極的意味内容をもつた生存権の概念を認めるものであることを明確にしている。」(484~485頁)
というのである。
[34] 右の経緯からも明らかなように、憲法第25条2項(ただし原案では23条)のみでは「意をつくさない憾がある如く考えられる」ので、一層その趣旨を明白にし、国民個々人の生存権を明確に保障する意味合いから、同条1項を挿入することとなつたのであつて、その意味で両項は一体不可分であり、原判決のごとく両項がそれぞれ相掩わぬ独自の意義をもつものと解する余地はないといわねばならない。
(3) 障害福祉年金・児童扶養手当と憲法25条
[35] 以上のごとくして、憲法25条2項にいわゆる「社会保障」の措置の一として定立された障害福祉年金や児童扶養手当の制度に対しても、同条1項の趣旨や理念が及ぶことはもはや疑いを容れぬところであつて、国が右制度を定立することについてはなんらの憲法的基準は存在せず、いかにそれが定立されようとも同法25条違反の問題は生ずる由がないとする原判決の判示が同条の趣旨を解せぬ暴論たることは明らかである。
[36] 児童扶養手当制度について、厚生省児童家庭局長も次のように述べ、上告人の主張する解釈が正当であることを裏づけている。
「この法律は、憲法25条に規定する理念に基づく旨の明文規定はないが、同条第1項の規定の趣旨を第2項の規定に基づいて実現したものといえる。」(甲第66号証「児童扶養手当法、特別児童扶養手当等の支給に関する法律の解釈と運用」12頁)
それ故、これらの制度は、憲法25条1項の定める生存権保障の理念を具体的に実現するための社会的施策の一つであるから、これが同条項にいわゆる国民の健康で文化的な最低限度の生活の保障を制度本来の目的として定立されていると解して、何らの不都合はない。また、そうとすれば、右手当制度の運営がかかる制度本来の目的に副うべくなされるのは、理の当然であつて、手当の支給対象額、支給方法などすべての面にわたり、国民の生存権保障の趣旨に照らした点検や改善の努力が払われるべきことは多言を要しない。もつとも憲法25条にもとづいてなされる社会的諸施策は多岐多様にわたつており、その中には、施策の必要の緊急度や性格内容からして直ちにかつ自足的に最低生活の保障の実現を目的としたもの(たとえば生活保護制度)もあれば、比較的長期の見透しのもとに定型的な給付を通じて最低水準以上の生活保障の実現を目的とするもの(たとえば国民年金制度)もあり、その性質は決して一様ではない。しかしながらさればといつてこれらの施策のうちで、憲法25条1項の定める理念と関わりなしに運営することが許されるものは存しないのであつて、原判決の判示に則していえば、障害福祉年金や児童扶養手当が障害者や母子家庭の最低生活の保障を『直接の目的として』いようといまいと、これが憲法25条を指導理念としてこれら国民の健康で文化的な生活の保障の実現を本来の目的としており、この目的にそつて運営されるべき性格のものであることに、変りはないのである。原判決は上告人の主張の意味をはき違え、それが指摘した問題点について正しくこたえていない。というのは、上告人は本件障害福祉年金ならびに児童扶養手当の目的について、それが憲法25条の理念にもとづいて障害者及び母子家庭の児童に健康で文化的な最低限度の生活を保障しようとすることにあると主張してきたが、その趣旨は、右年金がかような生活の保障を本来の目的として設定されたものであること、そして少なくともかような生活の保障を目指して運営されるべきことの指摘にあつたのであつて、それ以上に直ちにかつ自足的に右の生活を保障することを制度の目的とする旨を主張したことはなかつた(原審第八準備書面124頁以下参照。)

(二) 憲法25条の裁判規範性にかんする解釈の誤り
(1) 原判決の解釈
[37] 原判決は前項で述べたとおり憲法25条の1項と2項とを分断する独自の解釈を展開するのであるが、その上に立つて、1項にかんしては「健康で文化的な最低生活の保障」という絶対的基準の確保を直接の目的とした施策をなすべき責務があるのに対し、2項は「生活水準の向上につき、財政との関連において、できる限りの努力」をすればよいのだから、同条に基づいて定立される法律制度については、その給付要件、対象、額などをいかに定めるかはすべて立法政策の問題であるという。そしてこのような立法政策に属する事項については、原則として違憲問題を生じる余地がなく、ただ例外として立法府の判断が恣意的なものであつて、国民の生活水準を後退させることが明らかなような施策をし、裁量権の行使を著しく誤り裁量権の範囲を逸脱したような場合のみ憲法25条2項に反し、司法審査に服する、という。
[38] しかし右解釈は、憲法25条の裁判規範性を誤解したものであり、かつ同条1項が公的扶助(生活保護)を除く他の社会保障制度には及ばないとした点でも誤つている。
(2) 憲法25条の裁判規範としての内容
[39] 法令や処分が憲法25条に違反して無効となるのは、法令や処分の内容が恣意的で明らかに合理性を欠き、立法府が裁量権の行使を著しく誤つた場合はもとよりであるが、それだけにとどまらない。
[40] もし国が憲法25条の規定するところに従いとるべき施策をとらなかつたり、その施策として定め又は行なうすべての法律、処分等がこの条規の意味するところを正しく実現するものでないときは本条の要請をみたさないものとして憲法25条に違反するものと考えられるし、もし国あるいは立法府が、この生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような法令を制定し、あるいは行為をするときは、かかる法令や行為は憲法25条に違反し、無効と解しなければならない(東京地判昭35・10・19・朝日訴訟第一審判決、註解日本国憲法(上)、541頁、佐藤功「日本国憲法概説(全訂新版)」220頁、同「憲法演習」63頁など多数。)
[41] 原判決は右の点においても、憲法25条の解釈を誤つている。

(三) 原判決には判断遺脱、理由不備の違法がある。
[42] 原判決は、憲法25条1、2項を分断し、障害福祉年金や児童扶養手当が、障害者や母子家庭の最低生活保障を「直接の目的としていない」とすることによつて、併給禁止の違憲審査(憲法25条1項適否)を実質的に回避し、併給禁止による手当受給権の一方的はく奪を正当化した。
[43] しかし、右判決の判断過程において原判決は、第一に、憲法25条の解釈を誤つたのみならず、右法解釈を誤つた結果、「本件併給禁止は同条1項にはなんら関りがない」と手当の併給禁止が憲法25条1項に違反するや否やの判断をなさず、判断遺脱、理由不備の違法(民訴法395条6号)をも犯している。
[44] 原判決は本件併給禁止条項の違憲性を判断するにあたつて、児童扶養手当制度にかんしてはそもそも憲法25条1項が適用されず、右併給禁止条項は同条同項に違反する余地がない、とする点において、及び、併給禁止条項の法制上および実際上の意義を見誤まり、憲法25条に違反しないとした点において、憲法25条の適用を誤まつている。

(一) 併給禁止条項は、憲法25条1項に違反しないとした誤り
(1) 「生活保障」「経済保障」論の誤り
[45] 原判決の右誤まりの沿源は、前述した憲法25条1、2項分断論に由来するのであるが、一方、併給禁止条項の違憲性を判断するにあたつて、社会保障制度を「生活保障」と「経済保障」に二分し、障害福祉年金や児童扶養手当を「経済保障」なる範疇に区分し、これにかんしては憲法25条1項の適用を否定した点においても重大な誤りを犯している。
[46] 判決のように社会保障制度を「生活保障」と「経済保障」に二分する考え方は、学問上もまた実際上も全く根拠がない。判決は、健康で文化的な「最低生活保障」の役割を担うのは救貧施策としての生活保護の制度であり、かつそれのみであるという国際的にも通用せず、また現実的にも容認し難い前提を固執したうえこれを「生活保障」の制度と名づける。そしてこれ以外の所得保障の制度、主として公的年金、手当の制度は「経済保障」と名づけることによつて、「健康で文化的な最低生活保障とは無関係」として、憲法25条1項の適用を排除したのである。
[47] 原判決の右の結論は、社会保障制度、とりわけ最低生活保障の制度にかんする事実ないし経験則につき重大な誤りに基づくものである。
(2) 最低生活保障と年金
[48] 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の解釈にあたつて、「最低生活の保障」を直ちに公的扶助と結びつけ、それが永久不変の建前であるとすることは誤りである。
[49](イ) 国の施策による最低生活保障の制度は、イギリスの社会保険の制度としてはじめて本格的に具体化された。「最低生活保障水準」とは「社会福祉辞典」(誠信書房刊中村優一ほか編)によると、
「社会保障制度によつて国家的に最低生活を保障する水準で、この意味では、単に人間の肉体的生理的水準でなく、社会的文化的生活を維持できるものでなければならない。出発点は、ベバリツジ・プランによるイギリス国家が国民に対して保障しようとした水準を示す。」
とされる。さらに、同辞典の「ベバリツジ報告書」の項を参照すると、
「社会保障とは窮乏に対する闘いであり、所得の喪失、中断および特別の出費に対し、均一拠出均一給付の原則に基づき全国民に権利として、最低生活を保障する。その方法は基本的ニードに応える総合的社会保険、その補充として国家扶助で行なう。さらには包括的な医療サービス、児童手当および完全雇用制度を前提条件とし、それらによつてナシヨナル・ミニマムを確保しようとした」
と述べている。
[50](ロ) 原審における角田証言およびそこで触れられたILO47号および60号勧告(甲第62号証)においても、年金が最低生活を保障するに足るべきものであることが述べられており、国際的に見ても、年金の制度こそが最低生活保障制度の根幹をなすものであることを否定する余地はない。
[51] 即ち、1933年のILOの「障害・老令ならびに寡婦および孤児保険の一般原則に関する勧告」(43号)が、まず拠出制年金について、老令年金の額・障害年金および遺族年金の最低額は、いずれも「生活費を正当に考慮して定め」なければならないとした(同勧告II年金のうち、B老令年金13(a)、C障害年金17(a)、D遺族年金22(a))うえ、年金の停止又は減額に関する規定について
「障害又は老令年金が他の年金に対する競合的権源の存在以外の理由に依り停止せられる場合においては、年金を停止せらるる者の被扶養者たる家族は、年金の全部又は一部に均しき生計手当を支給せらるべし」(同勧告、II年金、E年金の停止又は減額に関する規定29)」
と定めた。
[52] そして、1944年には、ILOの「所得保障勧告」(67号)は無拠出制年金(勧告では(特別)生活維持手当と呼ぶ)について、次のような、一般指導原則および適用のための提案を示した。
「障害者・老令者および寡婦であつて、自身又はその夫が強制的に保険にかけられない故に、社会保険給付を受けず、かつその所得が所定水準を超えない者は、所定率の特別生活維持手当を受ける権利を持たなければならない。(以上一般指導原則)、……生活維持手当は、長期間の生活維持を充分に確保するに充分でなければならない。生活維持手当は、現在の生活費に従つて変化すべく、且つ都会と地方との間に差別を設けることができる(以上、適用のための提案)」(同勧告、適用のための提案を伴う指導原則、II社会扶助(社会救済)、B貧困な障害者・老令者および寡婦の生活維持29)。
[53] 以上にみたように、国際的には、ILO43号、67号勧告によつて拠出制のみならず、無拠出制の年金についても生活保障の原則がうちだされたのである。そして、現在においては、経済大国となつた日本ももちろん含めて、先進工業国は、ILO条約だけでなく、ILO勧告のレベルまで関係国内法規の水準を改善することが当然の責務となつていることは、わが国自身、昭和49年6月7日、業務災害給付条約(1964年、121号)の批准手続きをとりながら、昭和49年12月、大体121号勧告レベルにまで、労災保険法の改正を行なつたことでも明らかであろう。
[54] 更に、1953年に59カ国が参加した国際社会保障会議で採択された国際社会障害綱領を具体化した、1961年の社会保障憲章においても、「保障すべき水準は、必要にしてかつ充分なものでなければならない」旨を宣言するのである(児島証言)。
[55] このように、年金などの生活保障の原則は、国際常識として、ILO勧告などに規範化されており、年金、手当の給付要件、内容が、憲法25条1項によつて規律されねばならないことを、この面からも裏づけている。
[56](ハ) わが国の社会保障制度も、右の歴史的および国際的な制度のすう勢と無縁ではあり得ない。たしかに、戦後の混乱期において、生活保護の制度が特段の緊急性をもつて創設(昭和21年)された後、国民皆年金の制度が一応確立する昭和35年まで、相当のずれがあつたが、それ以後数次の答申や改善を経て、次第に年金制度の生活保障における比重は増してきたのであつた(その間、生活保護制度の方は、後述するように、相対的な比重を低めてきた)のである。
[57] 昭和48年の社会保険制度審議会の答申に示された考え方として、年金額は就業労働者の標準報酬月額の6割を確保すべしとして、「生活できる年金」によつて、年金制度を国民の生活保障の中軸に位置づけられるにふさわしい額にしようという努力がなされている。
[58] 現実に、厚生白書(昭和47年版16頁、乙第14号証)によると、厚生年金について、年金受給者の約70%までが年金の大部分を日常生活費にあてていることが明らかとなつている。家計費5万円未満の世帯では、この割合が80%にものぼる。他の年金についてはまだこのような調査は見あたらないが、厳しい所得制限によりとりわけ低所得者を対象にした福祉年金受給者については、より一層この傾向が強まり、年金は受給者の日常生活費の不可欠の一部を占めるものであろうことは想像に難くない。
[59] 社会保障法の学者は、児童扶養手当や福祉年金の制度を、資力調査を要件としない、無拠出制の定額給付を定める点で「社会手当」とか「社会援護」とか「社会扶助」とか呼んで、社会保険と公的扶助の中間に一つの範ちゆうを設けてこれに分類する。
角田 豊 「社会保障法の課題と展望」13頁68頁
佐藤 進 「社会保障の法体系・上」209頁
林・古賀 「現代社会保障法論」195頁
小川他編 「現代法と労働」(岩波現代法講座10)中の佐藤論文
成田 他 「行政法講座・下」163頁
[60] 社会保障学者である近藤文二氏も、大内兵衛編「戦後における社会保障の展開」のなかで、無拠出制の年金や手当は、防貧(社会保険の性格)というよりはむしろ、救貧(公的扶助の性格)の制度であり、それは生活保護の延長というべきものであるとさえ主張される。
[61] また厚生省年金局編「国民年金の歩み、昭和34~36年」においても「無拠出制の年金は、いわば公的扶助的色彩のきわめて強い制度であるということができる」(同書165頁)と卒直に認めている。
[62] 老令福祉年金の夫婦受給制限の合理性をめぐつて争われた、いわゆる牧野訴訟で、国側は老令福祉年金が「防貧」的性格のものであることを理由に夫婦受給による減額を根拠づけようとしたが、裁判所は、
「(老令福祉年金は)老令者に対する公的扶助的性格の強いものであることは否定できず、被告の主張は、憲法25条2項の理念ならびに老令者の生活の実態に照し、正当でないというべきである」
と判示した(東京地判昭43・7・15、判時523号21頁)。
[63] 無拠出制の年金や手当を国が支給するのは、きわめて不十分な給付額であつても、それがなければ「健康で文化的な最低限度の生活」を営み得ない国民の生活実態があるからである。
[64](ニ) このような動向と関連して、生活保護制度を解体する次のような動きもある。
[65] 1971年5月、社会福祉事業法改正研究作業委員会から出された、「福祉事務所の将来はいかにあるべきか――昭和60年を目標とする福祉センター構想」は公的扶助の今後の展望について、次のように指摘している。
「15、わが国における年金制度の成熟は昭和90年をまたなければならないとされているが、それ以前の段階においても年金を中心とする所得維持の政策が広がり、公的扶助は年金給付を受けてもなお最低生活を維持できない人たちのための補助給付的な制度に変つていくことがまず考えられる。」
「16、第二に基本的な方向として考えられることは、現行公的扶助の内容を各種所得維持制度に分解し、制度上解体していく方向である。」
「……将来の基本的な方向としては生活困難者を一括して生活保護法で取り扱うよりも老令、母子、障害者等対象別にナシヨナル・ミニマムを設定し、各々の実情に即した年金、手当を中心とする所得保障体系を整備する方が対象者にとつて望ましいと考えられる。つまり実質的には生活保護制度の解体ということになるであろう。」と。
[66] われわれは、ここで示唆された生活保護解体論を支持することはできない。しかし、公的年金や手当の制度が国民の最低生活保障の根幹をなしつつある現状がここには明確に述べられている。
[67](3) 以上のように、生活保護制度と年金手当制度とを分断し、後者を「経済保障」と名づけて憲法25条1項にいう「最低生活保障」と何らかかわりがないなどという原判決の誤りは明白である。従つて本件併給禁止条項が憲法25条1項に違反するか否かが、年金・手当の趣旨およびこれを受ける国民の生活実態に照らして審査されなければならない。
[68] しかるに原判決は、本件にはそもそも憲法25条1項を適用する余地がないとして、右審査を省略し、合憲判断をなした。この点において原判決には明確な憲法適用の誤りがある。

(二) 併給禁止条項の現実的意味とその違憲性
[69] 本件併給禁止条項の憲法適否の判断をなすには、すでに述べたような憲法25条の裁判規範性を検討すると共に、障害福祉年金受給者で、かつ(併給禁止条項該当の点は別として)児童扶養手当受給の資格を備えている国民の生活実態に照らし、併給禁止が果たして憲法25条の定める規範に反するや否やを検討しなければならない。
[70] すなわち、憲法25条により本件併給禁止の適否を判断するには、併給禁止の合理性を裏づける立法事実の存否が審理の対象となり、重度障害者および母子家庭の生活実態を検討することを避ける余地はない。
[71] また原判決のように、「給付行政にかんする法律を違憲無効であると判断するためには、立法府が恣意によるなどして判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白」である必要があるというならば、なお更、右の生活実態における本件併給禁止のもつ現実的意味ないし効果を顧みることが重要である。
(1) 障害福祉年金受給者の生活実態と障害福祉年金の役割
[72] 障害福祉年金は、次の場合に支給される。
[1] 拠出制の障害年金の支給要件を満たすために必要な保険料を納付しなかつた被保険者等であつて、保険料免除期間等所定の要件を満たした者が、日常生活の用を弁ずることが不能な程度の廃疾の状態にあるとき。
[2] 20歳に達する前に障害にかかつた者が[1]に掲げる程度の廃疾状態にあるとき。
[3] 昭和34年11月1日前に障害にかかつた者が同日若しくは同日以後において[1]に掲げる程度の廃疾の状態にあるとき、又は同日以後昭和36年4月1日前に障害にかかつた者が同程度の廃疾の状態にあるとき、又は昭和36年4月1日において50歳をこえる者が同日以後障害にかかり同程度の廃疾の状態にあるとき。
[73] [1]及び[2]は補完的障害福祉年金といわれるものであり、[3]は経過的障害福祉年金といわれるものである。
[74] 拠出制の障害年金のいわば裏にあたる補完的障害福祉年金の対象に、[2]のように20歳前に障害にかかつた者を含めた趣旨は、次の理由による。すなわち、若年において重度の障害にあることは、通常その障害が回復することはきわめて困難であり、したがつて稼働能力はほとんど永久的に奪われていると考えるのが常識的である。他方、年齢的にみても親の扶養を受ける程度をできるだけ少なくしなければならないし、この意味から所得保障の必要度はこのような者にこそ最も高い。しかもかかる事例は、恒常的に発生するのである。
[75] 障害福祉年金受給者であるということは、障害者のなかでも重度の障害をもち、かつ極めて低い所得水準にあるということをものがたる。障害福祉年金受給者の生活実態の具体的な理解に資するため、まず身体障害者全般の生活実態についてのべ、ついで、重度障害者の生活実態についてのべる。
(イ) 身障者の生活実態について
[76][1] 肉体に障害があることによつて生じる社会的ハンデイキヤツプとしては、大きくわけて、3種類のものに分けられる。すなわち、第一に身障者は、働く機会が保障されておらぬか、或いはその機会が著しく狭められている。第二にその必然的結果として、所得が低くきわめて生活が困難である。第三に経済的以外の面で人手をかりなければ、自立してゆけない(児島証言)こうしたハンデイキヤツプに対し、社会的配慮がなされることが、社会保障の原点といえる。
[77][2] 昭和45年、厚生省が行なつた全国身体障害者(児)実態調査によると、同年10月1日現在の身体障害者(児)は140万7800人で、このうち18才以上の身体障害者は131万4000人、18才未満の障害児は9万3800人と推計されている。
[78] これら障害者を主な障害別にみると、肢体不自由が76万3900人と全体の半数を占め、次いで視覚障害が22万3600人(うち障害者21万8000人、児は5600人)で、全体の約16%となつている。
[79] そして、これら視覚障害者(18才以上)のうち、両眼の視力の和が0.01以下の一級障害者が7万5000人、両眼の視力の和が0.02以上、0.04以下の二級障害者は3万8000人で、重度障害といわれるこれら障害者が視覚障害者全体の約51.9%を占めているのである。
[80] 更に障害福祉年金受給対象者である、一~二級の身障者は、34万9000人であり、全障害者の26.5%を占めている(甲第38号証)。前記厚生省の調査によれば、前回昭和40年調査比において、総数で26万6000人増加(25.4%増加率)しており、その増加分の障害原因を調べると、交通事故によるものが著しく、前記5年間に増加した身障者の10人に1人は交通事故によるものといえ(甲第9号証)、もはや身障者問題が、国民の一部の問題としてではなく、社会問題化した一つの必然的要素がある。
[3] 身障者の就業状況について
[81] 身障者で就業しているものは、57万9000人で、全体の44.1%にすぎず、一般の就業率は68.8%(総理府労働力調査昭和45年10月)と比べると24.7%も低くなつている。しかも就業といつても常用労働者として就業している比率は、身障者の場合38%にすぎず、一般の59.6%よりはるかに低い状態である(甲37号証の3)。身障者の就業上の地位別に見た場合、全体では雇い人なしの自営業主が35.4%に達し一番多い。すなわち、身障者1人で仕立業とか小売販売といつた細々とその日の生計をたてていると考えられる。さらに家族従事者が11.3%にものぼり、この方面でも零細な家内労働に従事しているのであつて、身障者の就業率が44.1%といつても実際には、一般との格差がもつと大きいと考えられる。一方、1000人以上の企業又は官庁に勤務するものは、全体の7.8%にすぎない(以上甲第38号証)。わが国の身障者の雇用に関しては、身障者雇用促進法がその中心的な制度であり、同法により官庁企業は一定率の身障者を雇用することを要求されているが(国、地方公共団体に対し、1.7%、3公社従業等1.6%、特殊法人1.6%、民間企業1.3%)、しかしこの比率は、それ自体西欧諸国と比べ著しい低水準にある。例えば、英国では3%、ドイツに至つては重労働部門4%、軽労働部門では24%と定めておりしかもそれらの国においては、わが国が雇用促進法の雇用率を単に努力目標にしているのに比べ、いづれも罰則でその強制をしていることが特色である(甲第37号証、児島証言)。
[82] しかも前記のごとき低水準の雇用率さえもほとんど企業・官庁において遵守されておらず、神戸職業安定所の調査(甲第43号証)によれば、48年9月現在で、民間企業の達成率は僅か50.5%にすぎず、しかも鉄鋼・造船といつた大手企業の場合、自社の労災事故者を多数かかえることにより雇用率が高くなつているのみで、実際身障者の新規採用といつたことは、零に等しい。このことは神戸市のみでなく全国的傾向といえる。例えば、京都では1000人以上の企業では、83%が身障者を新に雇うことはしないという内規を持つている(第一審における田中証言)。
[4] 身障者の所得が低く生活が苦しい実態
[83] 前記のごとき身障者の劣悪な就業状況は、その結果として必然的に所得が極度に低いという生活苦の問題を引き起こす。原審法廷において上告人本人がのべた「結局お金さえあつたら……」という悲痛な叫びの中にわが国の社会保障と、身障者の苦しい生活現状に対する鋭い告発があるといえる。
[84](i) 身障者の収入、支出の面については後記「重度身障者の生活実態」において詳しく述べるので、ここでは身障者の生活保護受給の現状についてふれる。
[85] 全国の身障者のうち生活保護を受けているものは、前記昭和45年の厚生省の調査によれば8万7000人で、全障害者の6.6%である。これは、調査日現在における全国民の保護率が1.29%(人口100人対比)約5倍の高率であり、しかも全国の保護率は昭和40年から45年にかけて、1.63%から1.29%と低下しているのに対し、身障者の場合逆にその期間に6.0%から6.6%に増加しており(以上甲第91号証)、一層窮乏化が進んでいるといえる。ちなみに生保受給者において、身障者、母子、老令、傷病者世帯が昭和43年で全体の73.8%、同50年における厚生省の見通しは87.8%に及ぶものと見られ(甲第39号証の1)、このことからも身障者、母子世帯の貧困化が増々深刻になつてきていると云える。被保護世帯の消費水準を一般勤労世帯の消費水準と対比すると1965~69年東京都の場合で、前者は後者の約半分の水準にしかすぎない。(厚生省の調査による。甲第10号証の3、99頁、甲第16号証の2、351頁)
[86](ii) 年金受給者数についてみると、身障者全体の約16%(昭和45年現在)が、障害福祉年金を受給しているが、実際は受給権者は当時一級障害者に限られており、その中では50%が受給している。当時の本人収入の所得制限が年間僅か32万円にすぎず、それにもかかわらずこのような高率になること自体、生活保護受給者層と障害福祉年金受給者層が原判決がいうように別個なものでなく交錯していることが明らかである。
[5] その他、身障者の経済面以外のハンデイキヤツプ
[87] 身障者の場合、経済的な面以外に自立的に生活を営むことが困難であるというハンデイキヤツプが多数ある。例えば、上告人のような視力障害者の場合、最近のように街の構造が変化すると1人歩くこと自体困難であるし、あるいは車いすなどの使用者が街を歩くことになると歩道橋は大きな壁となり、乗物に乗るにも人手をかりねばならないというごとくである。
(ロ) 重度身体障害者世帯の生活実態――一~二級の障害福祉年金支給対象者を中心にして――
[1] 重度障害者の就業状況について
[88] 重度障害者の定義としては、一応国民年金法別表一級~二級とし、〔甲第57号証(重度身体障害者の実態―京都市重度身体障害者実態調査報告)を援用する場合は、特に三級障害者をも含めていることに注意〕身体障害者手帳の給付を受けている者に限る。
[89] わが国全体で重度障害者は、前記昭和45年10月現在身障者のうち、34万9000人で、全身障者の26.5%を占めている(甲第38号証の1)。
[90] これ等の就業率は当然のことながら、前記身障者一般のそれより更に低く、昭和47年3月末現在、30.5%にすぎず、東京都の調査によれば27.3%と更に低下する(昭和47年7月現在)(甲第54号証57頁上段)
[91] 身障者問題は重度障害者も含めて基本的には労働問題といえる。それにもかかわらず、身障者の「働きたい」という希望が社会的に押しつぶされているのが現状である。
[92](i) さて、業務内容を見ると、職域が極度に狭く、しかも零細企業に固定されていることが特徴である。
[93] 視力障害者の場合、“あんま・マツサージ・はり灸”といつたいわゆる三療従事者が、就業者の全体の80%を超えており(甲第52号証表9)、そのほとんどが自営業であるが、最近の交通ラツシユ等からその職場からしめだしをくつているのが実情であり、三療の仕事の需要地域が観光地に変つてきた場合、視力障害者はその地域に住居移転あるいは通勤の困難性のためにそうした職場からも追われることになり、又特に最近晴眼者の三療進出により圧迫されている。国立視力障害センターの報告によれば、1960年2万8000人の三療従事者が、1965年には1万9000人に減少しており、この5年間にほぼ3人に1人が仕事を追われている状況である。そうした人達にとつて新たな就職先は何ら保障されていないことが更に重要な問題である。(第一審における田中証言)
[94] このことは視力障害者のみならず、肢体障害者等についても当てはまる。極零細業種ともいえる服の仕立て、ミシン縫製加工、タイプ写植等に限られ、職域が非常に狭い(甲第52号証第9表)
[95](ii) 労働条件も悪く、賃金についてみると、「東京都における重度視覚障害者の実態」(甲第12号証の2、45頁)によれば、昭和43年現在で視力障害者就業者の1カ月収入状況は、2万円以上3万円未満の者が全体の26.8%、1万円以上2万円未満の者が20%、1万円未満の者が4.4%となつている。就業者全体の半数以上が3万円未満という低い収入である。この調査が指摘するように他の障害者と比べて比較的安定した収入を得ている視力障害者においてこの有様である。
[96] また、京都市重度身体障害者実態報告(甲第57号証)によれば、昭和48年2月現在においても右の傾向は変つていない。すなわち右報告書61頁によれば、3万円以上5万円未満が全体の26.4%で一番多く、次いで5万円以上7万円未満が19.6%、1万円以上3万円未満が16.6%等で、結局全体の半数が昭和48年2月現在5万円未満の収入しか得ていない。ちなみに生活保護基準についてみると1級地(京都市)で標準世帯(4人世帯、35才男子、30才女子、9才男児、4才女児)の場合、同時期をとれば5万575円となつており、身障者の収入の低さを物語る。
[97](iii) しかも単に低賃金というのみならず、重度身障者に対する差別的低賃金であることが特色である。第一審岡村証人の場合、そのことを何より明確にあらわしている。
「岡村さんは重症やからうちでしか働かれへん。簡単によそへ変るわけにもいかんだろう……ということでボーナスが勤めて4年になるのに僅か3000円だつたのです。ところがちよつと障害の軽い人がその年の4月に入つてきたのですが、7000円支払つて、岡村さんは少々少なくてもがまんしよるやろう……」
と差別されて、同証人はそこをやめたという。この事実一つみても重度障害者の劣悪な労働条件をうかがうに充分である。
[98] 身障者は特別な権利を要求しているのではなく、ただ人間として平等に生きたい、働きたい、学びたいということを求めているのであるが、それすらも実現されていないのが現状である。
[2] 重度障害者の経済面以外のハンデイキヤツプ
[99](i) わが国においては、重度身障者はその他の身障者の持たされているハンデイキヤツプを集中的に担わされているといえる。たとえば、住宅問題一つをとつた場合について、身体障害を理由に入居拒否された事例が約16%にものぼつている(甲第52号証表76)。入居を認められる場合でも視力障害者に対する偏見から「火を使わない」とか「炊事をしない」あるいは兄弟が近くに居て見張りをすることを条件とするといつた不当な要求をされている(甲第53号証4頁)。また風呂、便所等は身障者の利用にはなんら考慮がはらわれないまま放置されているのが実情である。
[100] 一歩街にでれば、交通事情の悪さ、或いは、街の構造自体身障者に対して従来何の考慮もはらわれていなかつた。甲第57号証の京都市実態調査報告によれば(99頁)、1カ月中に外出を全くしない者14.4%、1~3回16.5%となつており、30%以上の人が1カ月に3回以下の外出しかしていないのである。しかも外出時の支障では「人の目が気になる」(8%)というよりも階段45%、陸橋44%、乗物38%が支障として大きく、外出しない人は外出したがらないのではなく、街の構造が外出の妨げとなつている(同26頁)。ここにも貧困な社会保障と身障者の実態が浮きぼりになつている。
[101](ii) 重度障害者については、日常生活において介護が必要になつてくるが、その範囲は食事から歩行に至る広範囲に及んでいる。前記の京都市の実態報告書(甲第57号証93頁)により、比較的一、二級の身障者の多い脳性マヒについて、全面介護の必要のある人の比率をみると、「食事」14.5%、用便19.6%、衣服着脱22.5%、入浴27.9%、歩行30.5%、筆記38.0%、話文章の理解26.6%、言語25.3%となつている。同報告書によれば、その他の障害者も含めて全体の59%の人が介護を必要としている。一方介護の状況を見ると80%が家族の介護を受けており、しかも全体の14%の人が介護を必要としながら、介護者が全くいないといつた状態におかれている(甲第57号証24頁)。
[102](iii) 同報告書24頁によれば、重度障害者は、劣悪な生活条件の下で健康状態まで侵されている。内部障害者では72%、複合障害者では40%が「病弱」と答えており、肢体障害者・複合障害者のそれぞれ24%、34%が治療中であり、しかも治療が必要だが治療さえも行えないものが肢体障害者18%、複合障害者で19%の高率を示しており(甲第57号証24頁)、一般国民について厚生白書によれば92.1%が病気がないといつているのに(田中証言)比べれば、ここでも身障者の“いのち”の保障がなされていない現実がある。
[103](iv) わが国の遅れた社会保障制度の中で、結局そのしわよせは身障者とその家族に集中的にあらわれている。国際通念からいつても社会保障は相互扶助ではないとの考え方が定着しているにもかかわらず、わが国の場合依然として家族の相互扶助に身障者の生存を依存させている。しかも、1960年代高度経済成長政策の中で、一方では人口の都市集中、核家族化による大家族制度の崩壊現象の中で身障者家族の貧困は更に倍加している。
[104] その行きつくところが、“障害者殺し”という悲惨な形で集約される。
「盲の夫(73才)病妻(72才)を絞殺」(甲第46号証)
「寝たきり41年の息子ふびん――母が殺す。自分も後を追う」(甲第47号証)
「昭和47年の10月にやはりこれも東京北区で高根藤吉さんというおじいさんが37才の脳性マヒの息子さんのふだん世話していたお母さんが入院してしまつたのでやはり自分も老令になる、息子はもう大きくなつて運んだりするのにもいちいちトイレなんかにつれていかなければならないのですから体力も弱まつているし、経済力も弱つているということで首をしめて殺してしまつた事件」(児島証言)
といつた事例は枚挙にいとまがない。こうした事件が年間60件程度あると推定されている(右同)。しかるに責任を問われるのは、子殺しの親のみであり、真の原因である社会保障の立ち遅れは常に免罪されているのである。
[105] このような重度障害者の生活状況に対して障害福祉年金はどのような役割を果しているか。あるいは果すことを期待されているか。
(ハ) 障害福祉年金受給とその役割について
[106] 前記東京都の報告書(甲第12号証の2、33頁)によれば、視力障害者のうち51.7%が障害福祉年金を受給しており、京都市の調査(甲第57号証表4~14を一、二級身障者の数で割る)によつても一、二級障害者の44.6%が受給していることになる。
[107] 生活の苦しい身障者の障害福祉年金に対する期待はきわめて大きい。出生時に脳性マヒとなり、以後41才に至る今日まで全く歩いたことのない重度身障者である宮尾修氏の、昭和49年12月13日付朝日新聞投書欄に掲載された三木総理大臣に対する訴えは、全身障者の切実な声を代弁している。
「……(私は)日常生活のすべてにわたり介護されないと生きられない状態にある。……歴代の自民党政府はこれらの身体の不自由な人たち、周囲から厄介視され、偏見と窮乏の中にあえぐ人たちにいつたい何をしてくれたか。
……中略……
 私はこの10月妻を得て独立した。だが生活を維持していくにはそれを支える収入が必要である。しかし私には、1万1300円の福祉年金以外、自分の収入といえるものは全くない。やむなく親の援助を受けているが、その親自身いつ死ぬかわからない老人である。せめて福祉年金でも増額されれば救われるのだが、政府は毎年支給額を常に低水準にとどめたままだ、昨年末福祉予算の充実を要求した身障者の代表を迎えた大蔵省主計官は「無拠出の福祉年金が少ないのは当然である」厚生大臣すら「これ以上出せぬ。へんな期待はやめた方がいい」と答えている……政治家も役人も私達身障者を虫けら同然に考えているということであつた。うわべは何といおうと内心では福祉に税金をつかうのはむだだと思つているのだ。
――中略――(三木氏の福祉優先の言葉にウソがないならば)先ず第一に身障者の窮状に目を向けていただきたい。そして、福祉年金の引き上げ(最低月額3万円)と介護手当の支給だけでも予算で実施してもらいたい。……いかなる重い障害者といえども国民として当然の権利は保障されなければならないはずだ。……この程度の対応がなされなかつたならば、身障者の怨と不信、そして深い絶望感は消えないであろう」(甲第56号証抜スイ)
[108] これは当面三木総理に向けられた訴えであると同時に身障者の生きる権利を求めているこの堀木訴訟を審議しておられる裁判所に対する問いかけでもある。
[109] ちなみに障害福祉年金額は、昭和34年2月発足時月額1500円、提訴時2900円であり、昭和50年10月以降でも一級障害者月額18000円、二級障害者12000円である。
[110] 上記のごとき身障者の生活状況を考えあわせるとき、障害福祉年金と児童扶養手当の併給が「二重三重の保障になる」などという原判決の判断が事実に眼をそむけた空論であることは、今さら論議するまでもないことといえよう。
[111] 原判決は、障害福祉年金(児童扶養手当についても同様)を身障者(児のときは母子状態)の稼得能力の喪失低下の面においてのみとらえているが、身障者の経済生活を見る場合単に稼得能力の面からのみ把握することによつては決して真実の生活実態を見ることはできない。身障者は前記のごとく低所得の現実にみられるごとく稼得能力を喪失或いは低下させられているが、他方障害があるために、余分な支出を余儀なくさせられており、その意味では身障者は稼得能力の面と必要経費の面でのハンデイは倍加された苦しい経済生活を強いられている。
[112] 甲第51ないし53号証の身障者調査委員会の調査によつてもそのことは明確に指摘できる。甲第52号証表36によれば「障害があるための余分な支出があるか」の問いに対し「なし」と答えたものがわずか15.9%で他は何かの形での支出増を訴えている。そのなかで支出の多いのは「タクシー代」63.8%、「電話代」43.5%、「補助具・補装具」の費用27.5%、その他「医療費」「手引・代筆など他人への謝礼」等が支出増の原因としてあげられている。第一審における糸洲証言によれば
「結局ぼくらの場合は、ちよつとでると目的地をなかなか捜すことができないということで目的地までタクシーに乗つて運転手さんに捜してもらわねばいかんことが多いので、そういう面の出費があります」
また岡村証言も
「市場に行くにも近所の人に頼んだりいろいろ近所のお世話があるからやはりお礼をせなあかんし」「電話代に毎月5、6000円はいります」「補装具についても3年に1回はかえる必要があり現在の収入では自己負担がある」
と具体的事実をあげてそのことを述べている。この点に関し、被上告人側証人として立つた安藤証人は「一般世帯の実支出金額よりも心身障害者のおられる世帯の平均値のほうが低い実支出が出ている」統計をもとにして、前記のごときタクシー代による出費のかさむ面は認めながら、逆に「支出のかさまない面があるのではないか」との推定の下に「日常生活費については相殺される」といつた暴論を吐いている。しかし、前記実態調査によれば「ほんとうは支出したいががまんしているもの」として「営業のための施設・器機の改善」「テープレコーダー・ラジオ・ステレオの購入」(視力障害者)といつたものから「衣類」「入浴」「医療費」(同30表)といつた生存の最低条件ともいえるものにまで及んでいる。「収入がないからがまんしている状況を余分な支出がないとはとうてい私は言えない」との住谷証言を待つまでもなく、こうした非人間的発想が根底となつて防貧的施策と救貧的施策の峻別を云々する原判決の誤りはますますあきらかになつている。
[113] 福祉年金等の使途についても前記身障者委員会の調査によれば(甲第52号証表42)、もつとも多いのが「生活費の一部に当てる」で57%、「ふだん買えないものを買う」14%、「貯金」をしているものが26%と案外多いが、貯金をしているのは決して余裕があるからではなく脳性マヒによる障害者とか女子の障害世帯など障害者の中でも低所得層において高率を占めており、「収入が不足している場合貯金を引出して使う」が40%もあつたことと対比して考えると社会保障給付が余りにも劣悪なため自衛措置として一時貯金しているにすぎないのである(甲第54号証65頁)。以上のことからみても障害福祉年金は、一般の貧困世帯とはまた違つた特徴を持つ重度身障者層に対して、最低生活保障の一部としての役割をはたしているということができ、原判決のように「障害福祉年金と児童扶養手当を併給することは二重三重の保障になる」といつた余裕のある給付ではまつたくないことが明らかである。
(2) 母子家庭の生活実態と児童扶養手当の役割
[114](イ) 死別もしくは離別によつて夫を失つた母子家庭は、厚生省「全国母子世帯実態調査」(昭和48年)によれば全国で、62万6200世帯であり、全世帯の1.9%を数える(甲第71号証婦人白書)。これは、昭和42年の同じく厚生省の行つた実態調査によれば、全国に約52万3000世帯で全世帯の1.57%(甲第16号証の3)となつているからこの間に10万3200世帯約20%増加していることがうかがわれる。
[115](ロ) 昭和48年の右調査によれば母子家庭において、母親が就労の中心となつている世帯は、全体の86.7%であり、わが国の婦人の賃金が男子に比べ著しく低く、全世帯の63.5%が年収60万円以下(月額5万円以下)である。この金額は昭和42年の調査のとき約50%が月額5万円以下であつたことと対比すれば(甲第16号証の3)この6年間に、物価の上昇率を考えるとむしろ後退しているといえる。
[116](ハ) 従つて生保受給率も昭和48年の調査によれば12.3%(昭和42年は10.6%)と増加傾向にあり、子供をかかえた母子世帯の生活は貧困状態を超えて極貧状態であるといえる。
[117] これらの母子家庭の生活は、昭和44年12月1日現在京都府が行つた母子世帯実態調査報告書(甲第14号証)によれば「やや苦しい」者39.8%、「とても苦しい」者が24.1%あり、生活の苦しさを訴えている者が全体の63.9%にも及んでいる。
[118] 母子家庭の母の職業は、小規模の企業につとめるものが多く、常用率は43.5%にすぎず、日雇・パートなどの不安定な状態の雇用が、全体の4分の1に達しており、低収入・子供の育児等のため母親の3人に1人は健康に問題があるという結果がでている(甲第71号証)。
[119](ニ) こうした母子家庭において子供を育てるうえでは当時2100円と額は少ないといえ児童扶養手当(支給額は昭和49年9月から児童1人の場合月額9800円、第2子には800円加算、第3子以降は400円加算)は欠くことのできないものといえる。
[120] 原判決は児童の扶養のためには児童手当があるというが、わが国の児童手当制度は昭和47年1月から実施されたが、現在第3子以降の児童(義務教育終了前)のみを対象に支給されることになつており、わが国において義務教育前の子供を3人以上育てることのできる世帯はかえつて所得に余裕のある世帯が多いといわれており、その意味では母子世帯にとつて児童手当を受給することの可能な世帯は極少数に限られており、かかる実態から見ても児童扶養手当が児童手当の役割を現実にはたしていることが明らかである。
[121] 児童扶養手当制度の趣旨については、別項で述べるところであるが、立法理由として
「政府はかねて児童の福祉政策の充実に努めてまいつたのでありますが、父母の離婚後父と生計を異にしている児童、父と死別した児童、父が廃疾である児童等については、社会的経済的に多くの困難があり、これらの児童を育てる家庭の所得水準は、一般的にいつて低い場合が多く、児童の扶養の資に困難をみる事例がみられるのであります。
 政府といたしましては、このような事情に対しまして社会保障制度の一環として母子家庭の児童及びこれに準ずる状態にある児童について、一定の手当を支給する制度を設け、これによつて児童の福祉の増進を図りたいと存じ、この法案を提出した次第であります」(乙第2号証)
とのべられたことからみても、重度障害者に対する年金給付とは全く異なつた必要性(ニード)に着目してなされる給付であることは疑う余地がない。
(3) 重度障害者母子世帯の生活実態と併給禁止のもたらす現実的不合理
――重度障害者母子世帯のハンデイはそれぞれのハンデイを単にプラスしたものをはるかに上まわるものである。――

[122](イ) 以上身障者、就中重度身障者世帯の生活実態があらゆる面で貧困なことおよび母子家庭の生活実態もそれに匹敵するほどの生活苦に充ちていることについて詳述したところであるが、さてそうした2つの事故が重つた場合、その生活実態は単なる倍加以上の劣悪な生活状況に陥つている。原判決が本件併給を認めることは「特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることになり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失する」とのいわゆる「やりすぎ論」となるものがいかに実態を無視したものかは明らかにする。但し、身障者・母子世帯の経済生活の苦しいことについて既に詳しく主張しているので再説を避け、前記2つの事故が重つた場合の特徴点に限り論じる。
(ロ) 重度身障者の母親が子供を育てる場合
[123](i) 身障者は社会的に差別を受けている。身障者まして重度障害者が母親になることはそれ自体大きな壁を乗り超えた結果である。
[124] 事実前出京都市の調査報告(甲第57号証表4の2)によつても、重度身障者中18才以上の女性の有配偶者率が僅か38.4%にすぎず、京都市全体の20才以上の女性の60.0%と比較して、障害をもつ女性の結婚が著しく難しいことがわかるし、一般国民の30才台の既婚率が92.2%(田中証言)であることと比べた場合、身障者女性はそもそもの出発点から不利な立場におかれている。
(ii) 重度障害者が子供を育てるうえでの苦労について
[125] 自分の子供を自分の力で育てそこで子供とともに喜びや困難を切り開いてゆく中でお互いが成長し合つてゆくということは、すべての人間にとつて必要欠くべからざることである。このことは重度身障者にとつてもまつたく同様である。
[126] しかしながら、重度障害者就中上告人のような視力障害者が子供を育てるには、健常者が想像もできない困難がつきまとう。
[127] たとえば経済的に見た場合でも余分の費用が通常の親子の場合に倍して必要である。この一つの田中証人自身が体験的に証言されている事実はそのことをよく物語る。
「これは最近私が大阪で知つております例ですけれども、全盲のご夫婦の方が6畳余の部屋で生活しております。近所が危いので外に子供を連れだせません。九州のお母さんに預けていらつしやいます。奥さんは労働条件(三療)が大変苛酷で賃金が安く、その中で健康を害しておられるんです。筋肉リユウマチになつておられましたが、40才のとき結婚して子供が1才半で動きまわるわけです。この子を自分のところで育てたいが、保育所がないし、又自分の狭い家の中に置いておくこともできない。親元でお姉さんが見ておられますけれども、5万円の収入のうち2万円をお姉さんのところへ仕送りしております。そして家賃等大変安く提供していただいているんですけれどもお礼として5000円出し、かつ、電話代が親元なんかとの連絡も含めて2500円かかるというふうなこと、それからご自分が健康を害しておられますので車なんかを世話してもらつて病院へ通つたりする費用が大変困難な、子供を手離すしか道がないような状況で悩んでおられる実態がございます」(田中証言)
[128] これは子供を手離して生活しなければならない重度障害者家庭の実態であるがこのことは、子供を手元において養育する場合も全く同様のことが云える。例えば子供について右と同じ理由につき近所とか知人に頼る場合が多く、そうした場合やはり金銭の出費が重なることは見易い道理である。
[129] また甲第53号証15頁(同号証の右下角の数字)による「子供を育てるうえでの困難性」の調査によつても、原告と同じ視力障害者の人達は勉強を教えることができない、勉強はなにをしているのかわからない、従つてすぐ塾に通わせると訴えている。これは経費が非常にかかる(住谷証言)ということに通じるものがある。また子供が病気したときなど顔色がわからず、しかも体温計の目盛も読めず、すぐ医者につれてゆく(飯田証言)、しかも子供をつれての医者通いは交通機関として、タクシーに依存せねばならず、そのこともまた余分な費用がかかる。こうした負担を数えあげればきりがないのである。
[130] しかし、重度障害者の母親が子供を育てる上において、倍加する負担は経済的なものに尽きない。日常生活全般にわたつての苦労が、母親のうえにのしかかつている。
[131] 前記甲第53号証13頁以下によると「入浴の時一緒に入れない」「外出時子供が先に飛びだすのを止めることができない」「子供と野外で遊んでやれない」「子供の運動会に出てやれない」といつたことから「病気の時夜中に病院に連れていけなかつた」「子供に投薬するときその分量方法に困難を感じた」等々と広範囲に子供を育てる上での苦痛を答えている。しかし、子供を持つ重度障害者は、人間として母親として、その智恵と愛情により工夫し、子供を健やかに育てているのが救いである。「子供の腰にスズをつけて居所をみわけた」「(全盲の両親は)子供がボタンとかいろんなものを喉に詰め込まないかというので、まず朝起きたら小さなものが部屋の中にないように掃除をする――中略――子供が外へ飛びだしてしまわないように柵を作つたり」(田中証言)「子供の熱の高さを唇で計る」(飯田証言)。なんと母親らしい、やさしい子供に対する愛情であろうか。こうした貧しい人達の生きざまは決して社会保障の低劣さを免罪しない。
[132] 以上の他にも、身障者の親にとつての精神的負担は大きい。特に学習指導・しつけ上の不安と、差別の問題がその中心をなす。前出の甲第53号証によれば、「字をおしえられない。宿題を見てやれない」「学校の参観日に行けなかつた」かといつて「参観日に私達がいつていいものか、自分は身障者だから行くことによつて子供にどういう影響を与えるか心配である。だからいつもいかない」と身障者の母親の悩みは深い。また、「両親が不自由なために子供が他の子供からいじめられ『あんまの子』といわれ、貧しいため“毎日コロツケばかり食べている”と子供が学校の先生からまでいやがらせを受けている」ともいわれる。
[133](ハ) このことは児童の立場から見ても全く前記のことを裏がえした形であてはまる。
[134](i) 児童が教育を受ける上でも、身障者を親に持つ子供のハンデイキヤツプは大きい。例えば高校進学率の調査結果にもあらわれる。身障者調査委員会のまとめたものによれば(甲第52号証表32)重度身障者世帯の子弟の中学校卒業後の進路をみるに、全日制普通高校への進学が61.9%にすぎない。通常京都市の場合95~98%が高校進学をしており(住谷証言)、大巾に低い割合といえ、その原因としては、家庭の経済的な問題、学習不足、それからどうしても働いて欲しいという親の子弟に対しての期待といつたものがその原因として強く働いている(同証言)といえる。
[135](ii) 更に、この子供らは或いは、子供の頃母親から絵本を読んでもらえず、山や海にもつれて行つてもらえず(甲第53号証17頁)、学校では「あんまの子」と差別され、或いはコロツケばかり食べているといやがらせをいわれて大きくなり、就職・結婚においても差別を受けなければならない事例も少なくない。
[136](iii) 児童憲章は「すべての児童は心身ともに健やかに生まれ、育てられ、その生活を保護される」べきことを定めている。児童が、その親が身体障害者であるか否かによつて前記のごとく不利益を受けるいわれは全くないことであり、憲法14条の法意も同旨であることは何人も疑わないところであろう。しかるに、前記のごとき重度障害者を親にもつ児童の受けている差別的な生活実態は、それ自身社会正義に著しく反するところのものであることがはつきりしている。
(4) まとめ
[137] 以上のごとく、身障者の生活実態からはじめ重度身障者を母に持つ児童の生活実態に及び論じてきたものであるが、これを大きくまとめると、身障者就中重度身障者母子世帯の生活実態は、[1]著しい貧困層あるいはいわゆるボーダーライン層に位置すること [2]従つてそこでは、生活保護受給者と年金受給者といつた被上告人がいうように一方が「救貧」施策を求める階層であり、他方が「防貧」施策を求める階層であるといつた明確な階層区分が可能ではなく、生活保護や障害福祉年金や児童扶養手当等々によつてやつとの思いで生存を維持しているといつた方が実情に合致しており、そのことは、当時児童扶養手当額が僅か月額2~3000円といつた少額のものであつてもそれを受給する層に対する影響は想像を絶するぐらい重大な意味を持つこと [3]更には単に経済的面のみでなく生活全般にわたつて困難を強いられていること [4]特に上告人のごとく重度身障者母子世帯は単に重度身障者世帯と母子世帯をプラスしたものというものではなく、生活困難の度合いは複合的に加重する。第一審田中証人は、次の如く証言する。
「視力障害者の方の中で男性より女性の人のほうが苦しくなつてゆくということが、一層強いということ、そして女性の方が結婚することも困難であり、結婚して子供を持つということになればたいへんな問題である。しかし子供を育てていくということを通じてお母さんが本当によかつたと、自分の子供は自分たちの生きた道をしつかりと乗り越えて、社会を作つていつてくれるようにしていこうと、子供を育てることによつて視力障害のお母さんが、障害者から人間としての生き方というのをつかみとつてゆく……このようなとき障害者に対する福祉年金というのは必要であると同時にそこで子供がしつかりと成長していき、子供と共に育つということ……の意味というのを重視して考えてゆく必要があると思うわけなのであります。(そこでは)併給をするか、しないかということのみならず障害者が子供を育てるということになりますとむしろもつとプラスされていかなければならない施策が必要なんじやないでしようか」(同証言42頁)
[138] すなわち、生活実態の面から検討した結果は、重度の障害を有する母が女手一つで児童を養育するについては、障害福祉年金によつてその需要が満たされているどころか、むしろ逆に、児童養育の糧をとりわけ必要とする状態におかれていることを否定することができない。
[139] 原判決が「廃疾という事故による稼得能力の低下、喪失と、母子状態を事故とする稼得能力の低下、喪失と、事故は複数であつてもその結果は同一である」と軽々に判断したことは、全く何の根拠もなく、事実に反する暴論である。
[140] 児童扶養手当が稼得能力の低下、喪失に対応する給付か、または支出負担の増加に対応する給付かということは、この際問題とならない。要するに障害(廃疾)と母子という2つの事故が現に重複する者に対して、児童扶養手当の支給を禁止するという立法をなした合理的な理由は見あたらないのである。

(三) 併給禁止条項の違憲性
(1) その違憲性
[141] 児童扶養手当法4条3項3号(改正前)の併給禁止条項は、通常の母子家庭の母親なら受給できる手当を、上告人のように、重度障害者で、障害福祉年金受給者であると、その支給をしない旨定めるのである。ところが、これまで検討してきたところによると、重度障害者母子世帯に対して、すでに障害福祉年金を支給している故をもつて、児童扶養手当を支給しないという立法の合理性を裏づける事実はなく、むしろ逆に、手当の支給がなければ、健康で文化的な最低生活の維持すら脅かされている状況がある。このような場合、児童扶養手当が稼得能力の低下喪失に対応するものだと仮定しても、さきにのべた憲法25条の規範的意味内容からして、憲法違反の立法たるを免れない。すなわち、
[142](イ) 一定の所得水準以下の状態にある母子家庭の児童や、身体障害者に対して、児童扶養手当や障害福祉年金を支給するのは、まさに憲法25条の命ずるところによる。にもかかわらず、他の理由によるわずかな公的年金を受給しているという一事でもつて、その者に年金や手当の支給を全面的に拒否することは、国民年金法や児童扶養手当法の実現しようとする目的に反し、これらの支給を必要とする母子家庭や障害者の生活実態に照らして、憲法25条の命ずるところに反する。そして公的年金受給者に、手当の支給をすることを妨げているのが併給禁止条項であつてみれば、同条項は憲法25条に違反するという以外にはない。
[143](ロ) 国あるいは立法府が、生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような法令を制定し、あるいは行為をするときは、かかる法令や行為は憲法25条に違反し、無効と解すべきところ、本件併給禁止条項はここにいう「生存権の実現に障害となるような法令」に該当し、違憲無効である。
[144] 原判決は、「本件併給禁止条項は、一旦賦与された手当受給権を後に奪つたものではなく、もともと手当の受給権を与えないというものであるから、憲法25条に違反しない」という。しかし、問題は、手当を「一旦与えた後に奪つたかどうか」という時間的前後関係にあるのではなく、手当受給を認める立法があるにも拘らず他方で、手当受給の障害となる規定(立法)を置いた、そのことの当否にあるのである。「もともと手当の受給権を与えていない」といつても、本件併給禁止条項が違憲無効であるとするならば、別段の立法を要せず、手当の支給は開始されるのである。その意味において、本件は、何らの立法がなされていない段階において、生存権実現のための立法行為を求める給付請求の訴とは異ることを認識するべきである。原判決がいう手当受給の「障害事由」を立法によつて制定したことに対し、かかる立法が、国会の積極的な行為による生存権実現の「障害」となる立法であるといつているのである。
(ハ) 立法裁量権逸脱
[145] 原判決は本件併給禁止をなすことは、「原則として立法政策の問題であつて、立法府の裁量に任せられている」が、「只例外として立法府の判断が恣意的なものであつて、」「裁量権の範囲を逸脱したような場合であれば、憲法25条2項に違反する」と解したうえ、財源上の理由と、稼得能力喪失に対する給付が重複することになるという理由から、本件併給禁止条項は、裁量権の逸脱、濫用といえないという。
[146] しかし、仮りに憲法25条の法意を原判決の如く解したとしても、本件併給禁止条項は、合理的な根拠なくして恣意的に立法されたものであつて、裁量権の範囲を逸脱していることは明白である。なんとなれば、児童扶養手当は後述の如く、稼得能力喪失とは別個の理由で支給されるものであり、仮りに手当支給の趣旨が原判決のとおりであつたとしても、現実に手当制度の果している役割、機能に鑑みると、これとは別個の事由と必要性に基づいて支給される障害福祉年金があるからといつて、一率に児童扶養手当の支給を禁止したことは、明らかに合理性を欠き、恣意的な立法であつて、立法裁量権の逸脱によるものといわざるを得ない。
[147] 本件併給禁止条項は、本来実質的平等の実現を目的とする社会保障立法において、障害福祉年金受給者である母と、そうでない母とを差別し、かえつて不平等な結果を作り出している。このような結果を招来する立法は、憲法25条の理念に全く相反するものであつて、かかる立法が立法裁量権の逸脱でないとすれば、ほかに何が裁量権の逸脱といえるであろうか。
(2) 生活保護制度の存在は、併給禁止の違憲性をいささかも軽減しない。
[148] 原判決は、上告人のような母が重度の身体障害者である生別母子世帯の生活実態が劣悪で、「健康で文化的な最低限度の生活」に及ばないとしても、本件併給禁止がなされてもなお生活保護をうける途は残されているから、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止をもつて、憲法25条に違反するとはいえない、という。
[149](イ) しかしながら、このような主張が本末顛倒の論であることは国民年金法の立法当局者も認めるところであつて(乙第15号証178頁)生活保護法4条1項「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」2項「民法に定める扶養義務者の扶養および他の法律に定める扶養義務者の扶養および他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする」の定める公的扶助の補足性の原則に鑑みれば、むしろ年金によつてまず最低限度の生活の維持が図られるべく、それでもなお足らざるときに公的扶助が適用されるべきが筋合であり、公的扶助制度の存在を理由として年金の生活保障性を奪つたり、弱めたりすることは許されない。むしろ原判決自身の論拠とするところの国民年金や児童扶養手当は事前的、積極的な防貧施策であり、公的扶助は事後的、消極的な救貧施策であるという点からしても、後者の存在を理由に前者の給付水準の低いことを合理づけようとする考え方は問題だということになるはずである。いずれにせよ、このような見解がすべての国民に安定した老後の生活を保障していこうとする国民皆年金の理念にそぐわないことは疑う余地がないであろう。
[150](ロ) さらに現実の問題として、必ずしも常に、すべての国民に生活保護による最低生活保障の途が開かれているとはいえないのが現状である。
[151](i) 生活保護の引きしめ、いわゆる「適正化政策」の動きと関連して、生活保護の「世帯単位の原則」が教条的に適用される結果、自己の力で最低生活を維持できない障害者であつても、生活保護を受けられないことが一般的に存在する。
[152] 新聞報道によれば(甲第34号証)小児マヒで寝た切りの四男(24才)をかかえた68才の老人が、将来を悲観して、マヒの子を殺害し、自らも死のうとした事件が発生した。殺された小児マヒの四男は、親の扶養を受けているという理由で生活保護を受給できず、わずか月額5000円の障害福祉年金を支給されていたに過ぎなかつた。そのことがいかに本人および両親の生活を圧迫していたかは想像に難くない。
[153] 右は単に1例に過ぎないが、現在の生活保護制度とその運用の実際は、本来、生活保護の対象となるべき多数の国民を制度の適用から閉め出しているため、それらの者は、辛うじて公的年金や手当でその場をしのいでいる実情があるのを無視するわけにはいかない。(児島証言)
[154](ii) 生活保護をはじめとして各種社会保障の施策の効用を享受することは国民の権利である。しかしながら、わが国の場合権利としての社会保障という考え方は全般に欧米諸国に比して著しく薄弱で(甲49号証「ヨーロツパ車いす一人旅」の全編にわたつてそのことが読みとれる)あり、そのことよりしても生活保護を恥しいこととして、受けとられる社会的意識のあることは、否定できない。行政当局はそうした国民の中の遅れた意識を助長しているように見受けられる。原判決が本件において福祉年金等が無拠出制であり、全額国庫負担である点を強調する中で一般納税者たる国民とそれを受給するものとを分断するいわゆる“血税論”についても右の意図が露骨にあらわれているのである。
[155] 行政当局のみならず司法当局においてさえ生活保護に対する偏見が存在する。
[156] かつて朝日訴訟最高裁判決傍論において田中二郎裁判官は
「生活保護法によつて保障される保護程度は社会生活において近隣の者に対し、見劣りや引け目を感じさせない程度の生活を営み得るまでに潤沢なものではありえない」
としている。これを逆に云えば生活保護受給者の生活は近隣の者に対して、見劣りし、引け目を感じさせる程度のものにとどめておくことが生活保護法の規定だといつていることになる。こうした中で、他の面で多くの差別を受けている身障者がいかに生活が苦しくても、生活保護だけは取るまいと考えたとしても決して責められるべきものではなく、そのことが前記の身障者の収入、支出の低劣さに比して生活保護受給率が低いといつた現象に結びついている。
[157](iii) 昭和47年に、東京都の依頼により、都内の代表的平均的区であるN区をとりあげ、区民全体の生活水準調査がおこなわれた。その結果(甲第74号証)によれば、生活保護基準と同じか、それ以下の所得水準の世帯が全世帯の26.2%という巨大な量に達することが報告されている。厚生白書(昭和48年版356頁)によると、昭和47年度の全国被保護世帯数は70万世帯(138万人)であるが、わが国の総世帯数が約3000万世帯であるから、世帯あたりの保護率は約2.3%である。
[158] すなわち、生保水準と同じかそれ以下の生活を営んでいる世帯のうち、1割に満たない世帯しか、現実には生活保護の適用を受けていない。(右報告は、念のため、生活水準の6割の水準をも基準にして調査しているが、この水準以下の世帯数でも、全世帯の12.1%に達する。その場合、現実の生活保護適用世帯は、2割に満たない。)
[159] 生活保護の適用を受けても然るべき国民の階層のうち、実に8割から9割までが、保護を受けることなく存在するのが事実である。
[160](ハ) このような現状は、右(イ)でのべたように、「世帯単位の原則」による適用の排除、(ロ)でのべたような「生活保護受給は恥」という意識を作り出している当局の制度運営、なかでも「血税論」、に由来しさらに、生活保護受給にともなう「資産調査」「収入調査」その他による私生活への介入と干渉が、国民に、生活保護受給をちゆうちよさせている。
[161] 国民が、まず福祉年金はじめ公的年金に期待するのも故なしとはしないわけであり、年金が最低生活保障の中心的役割を果たすべきことが、国際的にも常識となつていることは前に述べたとおりである。
[162] 前記「補足性の原則」のもとでは「生活保護があるから、年金はがまんせよ」といつた議論は通用しない。原判決ですら、
「(証拠)から窺われる重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法的根拠にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえない」
と言わざるを得なかつた程である。(もつともそれは制度運営の問題だとして、本質的なところをごまかしている。)
[163] 以上のべたように、「本件併給禁止がなされても、なお生活保護を受ける途が残されている」ということを、併給禁止の合憲判断の理由に挙げることは、社会保障法制度の体系からいつても、制度の現実からいつても誤まりであり、原判決がこの点において憲法25条の解釈適用を誤つていることは明白である。
(3) 財源の限界を本件併給禁止の理由とすることの誤り
[164](イ) 本件併給禁止を撤廃することによつて必要とされる財源は極めてわずかである。原判決は、本件併給禁止を理由づける大きな拠りどころとして「財源の限界」を再三繰りかえすのであるが、それは抽象的、一般的に記述されるのみであつて、何ら具体性がない。本件併給禁止を撤廃することが、果して、「財源の限界」によつて阻まれていたのであろうか。答は「否」である。
[165] すでに昭和48年9月に本件併給禁止条項が改正され、老令福祉年金および障害福祉年金と、児童扶養手当との併給が認められるに至つたが、その予算案によれば、右併給に要する費用は初年度においてわずか1424万3000円にすぎず、昭和48年度一般会計の総予算額14兆2840億7300万円のわずか0.0000997%にすぎない。
[167](ロ) 併給禁止の理由を財源の限界に求めることはできない。
[168](i) 財源があるかないかという問題は、「何のために使う財源があるのかないのか」という問題であり、それは絶対的なものではなく、相対的なものであり、「出す意思があれば出てくるもの」なのである。
[169] そして財源を何に使用するかは決して国や国会が自由に定めうるものではなく、最高法規である憲法の趣旨に則して定められなければならないことは当然である。
[170] 憲法25条において、国がすべての国民に対して健康で文化的な最低限度の生活を保障する規定が存する以上、これが国民に具体的請求権を保障したものかどうかの議論はともかく、国は国民の生存権の確保のために最大の努力をすることが義務づけられているのであつて、国は軽々に財源に限界があるとの理由をもつて右の義務を怠ることは許されない。
[171](ii) ところが、わが国はGNP世界3位の経済大国としてその経済力を誇りながらも社会保障の現状は極めて貧弱であつて、国際的にも、児島証言などから明らかなように、1人当りの社会保障給付費からみても、国民所得或いは国民総生産に対する社会保障給付費の割合からみても、その他あらゆる観点からみても、欧米先進国とは比較にならない程低劣である。
[172] 他方、過日札幌地方裁判所民事部の長沼事件第一審判決において明確に憲法違反と断定されたほど、その合憲性に深刻な疑義の存する自衛隊に対して、政府はぼう大な国費を投入してきた。具体的にみると昭和33年度からの第1次防の総予算が4,530億円、同37年度からの第2次防が1兆1,500億円、同42年度からの第3次防が2兆3,400億円、同47年度からの第4次防が5兆2,000億円であり、これを各年平均すると第1次防は1,510億円、第2次防は2,300億円、第3次防は4,680億円、第4次防は1兆0400億円にも達しているのである。(昭和48・9・7札幌地裁長沼判決参照)。
[173] 憲法上、国が国民に対して最大の保障をすることの要請される社会保障に対する国家予算の支出が極めてわずかであるのに対して、裁判所においてその存在自体が憲法違反と判定された自衛隊に関する防衛費にかくも尨大な国家予算を支出しているという極めて奇妙な現実をみる時、国家財政上の理由をもつて社会保障費の支出ができないことを合理化することは到底許されないといわざるをえない。
[174](iii) 従来の社会保障関係の訴訟事件においても、国側は、しばしば財政上の限界を実質的な理由として社会保障給付を制限する法令の合憲性を主張してきたが裁判所は以下のように国側の主張をとり上げていない。
[175] すなわち、経過的老齢福祉年金について夫婦受給制限規定の違憲性が問われたいわゆる牧野訴訟判決は、
「……国家予算の都合から老齢福祉年金の受給対象者が夫婦者であるか単身者であるかによつてその支給額を差別することまでも許されるというべきではない……」「……夫婦者の老齢者を単身者の老齢者と差別し、夫婦者の受給者に支給される老齢福祉年金のうち、さらに金3000円(月額250円)の支給を停止するがごときは、国家財政の都合から、あえて老齢者の生活実態に目を蔽うものであるとのそしりを免れない……」
と判示し、夫婦受給制限規定を違憲とした(東京地裁昭43・7・15判決)。
[176] さらに財源と社会保障費との関係について明確に判示したのがいわゆる朝日訴訟第一審判決である。判決は最低生活水準を判定するについて注意すべきこととして
「その時々の国の予算の配分によつて左右されるべきものではない……最低限度の決して予算の有無によつて決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである。」
と判示している(東京地裁昭35・10・19判決)。この見解こそが憲法25条の理念に沿つた正しい見解というべきであろう。そしてその控訴審である東京高裁の判決(昭38・11・4判決)も、右一審判決より後退して、
「……保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれを無関係に定めうるものではなく……」
と判示して生活水準の確定の要素として国家財政を考慮することを肯定しつつも、
「生活保護行政が……予算の配分に従つたというだけの理由で、該基準の設定が適法であるということにはならない」
と判示して、基本的には叙上の理を支持している。
[177] 以上のような判例の趨勢からみても、一方で重度障害者母子家庭の悲惨な生活実態が存し、他方で併給のため財源が十分に存する本件の場合において、財源の限界を理由として本件併給禁止に「合理性」を導こうとすることは、到底許されないものといわなければならない。
[178] 原判決は、本件併給禁止条項が憲法第14条第1項に違反しないとして、次のとおり判示する。
(一) 憲法第14条第1項は国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきである。
(二) 本件併給禁止条項による差別的取扱いが合理的なものであるか否かを判断するにあたつては、(1)財源には限度があるため、限られた財源をいかに効率よく公平に活用するかという見地、と(2)国民各層のニードに対応した給付をしなければならないという見地、(3)これらを全体的な立場からいかに調和せしめるかという見地、に立つことが必要である。
(三) そして本件にかんして合理性の有無を検討するにあたつては、
[1] 障害福祉年金も児童扶養手当も母の稼得能力低下喪失に対する給付という点では共通であり、同一人に稼得能力の低下、喪失を来たす事故が複数重なつても結果は、同じである。併給を認めると二重・三重の保障となり、かえつて不公平となること。
[2] 両制度とも、無拠出で行なわれる給付なので、一般国民感情が併給を当然視するまでに至つていないこと。
[3] 身体障害者・母子には、他の社会福祉施策もあるのでそれらを総合すれば不合理でないこと。
[4] 最終的には生活保護制度により生活が保障されること。
[5] 家族給付以外は併給禁止しても国際常識にもとるものではないこと
を掲げ、本件併給禁止には合理的根拠があると述べた。
[179] 原判決は「財源の限界」を憲法14条1項適否の重要な基準としたが、このような解釈は誤りである。「財源の限界」の有無は、併給禁止の合理性の有無とは本来次元を異にする性質の事柄である。なぜなら、財源の有無により、支給の必要性の有無や根拠が左右されるものではないからである。したがつて、「財源の有無」を合理性判断の尺度として使用することは許されない(すなわち、併給すべきであるが、財源がないため併給できない、というのは、決して併給禁止の合理性そのものを認めることではない)。
[180] 原判決は、本件併給禁止条項による差別的取扱いには合理的理由があるとして、「財源の限界」および前記[1]ないし[5]の理由を掲げている。
[181] まず、判決の「合理性」判断の基本的態度に問題がある。

(一) 「合理性」判断の基準
[182] 憲法14条1項の法意に照らし、差別取扱いに合理性があるか、どうかの判断は、「問題となりうる限界線上の個々のケースについて、果して実質的に人間を尊重する憲法の精神に照らして「合理的」と認めうるかどうかをテストしてゆく必要があり」(小林直樹、憲法講義上306頁)・「それぞれの要請の名において、合理的な差別であるという考え方が濫用されることがあつてはならない」(佐藤功、コンメンタール憲法117頁)。そしてその場合に、「差別の理由は厳密に必要最少限度に止め」(佐藤、前掲117頁)ることが必要であり、あるいは「『合理的な差別』をつねに狭く解する原則的態度が必要」(小林、前掲307頁)である。
[183] 原判決は児童扶養手当の性格を誤解し、また差別取扱の対象である身体障害者母子世帯の実態を無視し、差別を形式的にしか扱わないという、2つの重大な誤り等を犯し差別の合理性判断を誤り、憲法14条の適用を誤つた。

(二) 各理由の検討
[184] 次に、原判決の掲げた理由について逐次検討する。
(1) 原判決は児童扶養手当制度の趣旨を誤解している。
[185] 児童扶養手当法を正しく解釈すれば、児童扶養手当は、児童の心身の健やかな成長を直接の目的として給付されるものである事が明白である。(その理由については後記第五をあわせて参照されたい)
[186] ところが、原判決は、児童扶養手当を死別母子世帯に給付される母子福祉年金を補完するものと誤解し、障害福祉年金と同じ、稼得能力低下・喪失に対する所得保障であるから、重度身体障害というハンデイと生別母子状態というハンデイの2つが重つても、稼得能力低下・喪失は同じであるとした。そのために上告人が障害福祉年金を受給していることを、差別の合理的理由の一つであるとして、憲法14条1項の適用を誤つた。
(2) 「稼得能力低下・喪失」論の誤り
[187] 原判決は、児童扶養手当支給の原因たる事故と障害福祉年金支給原因たる事故は、事故は複数であつても、それによる稼得能力の低下・喪失という結果は同一であり、それぞれに年金を支給すると、二重・三重の保障となるから本件差別取扱いには合理性があると断じている。
[188] しかし、児童扶養手当の趣旨を如何に解するにせよ、本件上告人のような場合に「事故は複数であつても、結果は同一」という余地はない。原判決は「稼得能力喪失」という抽象的概念を持ち出すことによつて、「結果は同一」という結論を導き出す手品をやつてのけたのであるが、その仕掛けは白日の下では簡単に見やぶることが出来る。すなわち、原判決が「稼得能力喪失の点では同一」という重度障害者、母子家庭、さらに重度障害者母子家庭(上告人の家庭)の生活実態を、それぞれ検討した(第三の二(二))ところを再び参照していただきたい。現実の厳しさは、「稼得能力喪失」という共通項を使用したからといつて、加重こそすれ、決して軽減しないのである。
[189] 本件併給禁止条項の憲法14条適否を判断するにあたつては「稼得能力云々」を抽象的に論ずるのではなく上告人を含め重度障害者母子世帯の生活実態に照らし、かかる差別を合理的なものとして容認しうるかどうかを実証的に検討することが不可決である。そして前記第三、二(二)に掲げたような生活実態および本件併給禁止のもつ現実的意味に照らし、併給禁止はとうてい合理性を有し得ないものである。
(3) 無拠出制を理由に本件併給禁止を合理的とする誤り
[190](イ) 国がすべての国民の生存権を確保する義務があることは憲法25条の規定から明らかなところであり、本件手当もかかる憲法25条の趣旨から生活に困窮した母子家庭が現実に多数存在する現実を直視して、かかる母子家庭の生活を保障するために支給することにしたものであり、その性格は既に述べたように社会保障の範ちゆうに属するものではなく、いわゆる第3の型といわれる社会手当(社会扶助)としての性格を有するものである。
[191] 児童扶養手当が右のような性格を有するものと考えるならば、受給権者がその基金を拠出しているのか否かによつて取扱いを異にする根拠は見い出せない。けだし、生活に窮乏した母子家庭の生活を確保することは憲法25条から導かれるところのいわば至上命令ともいうべきものであつて、このためには受給権者が基金を拠出しているのか否かは何ら問題とすべきことではないからである。
[192] にも拘らず拠出の有無を問題にして取扱いを異にするのは、憲法25条による国の社会保障施策、本件手当の支給をもつて、国民の生存権の確保に基づくものとはみずに、単に国が恩恵として国民に施すという前近代的な社会保障観に基づくものといわなければならない。
[193] このような社会保障観が現行憲法下で存在しえないことは余りにも明白なことであり無拠出制を理由にして本件併給禁止の理由とすることは憲法25条の理念および児童扶養手当の性格にも反するものであつて、到底合理性を有しない。
[194](ロ) そして、原判決の右のような考え方は、社会保障制度の発展方向並びに社会保障についての国際的常識からみても合理性を有しない。
[195] かつて、社会保障の方式としては拠出制の社会保険の方式と厳格な資産調査を伴う無拠出制の公的扶助の方式の2つの方式が代表的であるとされてきた。そして社会保険の場合には何らかの形での拠出が受給要件の一つと考えられていた。しかしこのような社会保険のタイプは「古典的ないし旧型」の保険といわれ、「社会保障体系の下における社会保険の新しい考え方は、社会保険給付の受給資格は、被保険者の保険料払い込みと関係ないと考えようとするところに成り立つ」(角田豊「無拠出制所得保障について」社会保障法の課題と展望39頁~40頁)といわれるようになつた。
[196] 他方生活保護に代表される公的扶助の場合には、厳格な資産調査が行われるために、受給者の名誉、プライバシーの侵害等が常に伴う弊害が存した。
[197] そこで今日では、無拠出制で、しかも公的扶助のような厳格な資産調査を必要とせずに単に一定の所得調査のみで支給する方式、すなわちいわゆる社会扶助の形式が今後の社会保障制度の進むべき道であると指摘されているのである。
[198] こうした社会保障制度の発展方向からするならば、児童扶養手当や、障害福祉年金の制度は特に最先端をいく制度と考えられる。
[199] 国は他の社会保険についても被保険者の拠出額を減額又はこれを必要としない方向に進むために努力することが要請されることがあつても、障害福祉年金や児童扶養手当が無拠出制であることを理由に併給禁止をすること等は右に述べた社会保障制度の発展方向に背馳するものであつて合理性を有しない。
[200] 右に述べたことは社会保障についての国際常識ともいうべきものである。1966年のILOの第50回総会での報告書には、拠出制か無拠出制かによつて区別するのは妥当でない旨記されており、今や拠出の有無によつて給付の質、量に影響を及ぼす方法は妥当しないのである。
[201](ハ) 更に本件併給禁止の対象となる者は、いずれも拠出制年金の被保険者から除外された者であり、年金や手当をうけるために拠出をしようとしてもこれをなしえなかつた者であることを考えれば、無拠出を理由に併給禁止をすることの不合理性はより明らかである。
[202] このように拠出しようとしても自らの意思とは関係なく制度上の問題から拠出することのできなかつた者に対してまで、無拠出であることを理由にして公的年金との併給を認めないとすることは到底合理性を有するものではない。
[203] また、「財源の限界」を本件併給禁止の根拠となし得ないことについて、第三、二、(三)、(3)を参照されたい。
(4) 「国民感情」を併給禁止の理由とする誤り
[204] 原判決のもちだす「一般国民感情」が如何なるものであり、何によつて表示されるのかは不明である。併給禁止を違憲とした本件第一審判決には、圧倒的国民世論の支持が寄せられた。それは、必ずしも形となつて残るものではないが、一般に顕著な事実である。
 例えば
[205][イ] 第一審判決以後には、社会保障学者134名からなる第一審判決支持、控訴取下げのアピール(甲第27号証)が採択された。
[206][ロ] 国民世論の動向を一方でリードする学説においても第一審判決に対する法律学者による評論ならびに解説で、本件併給禁止条項を違憲であると判断した第一審判決を支持しないものはなく、すでに多数の文献がでており、本件訴訟に関与した学者以外の手による代表的なものをあげると、[1]森順次、ジユリスト535号(昭和47年重要判例解説9頁)甲79号証、[2]今村成和、判例時報685号169頁甲78号証、[3]佐藤進、ジユリスト522号92頁甲77号証などがある。
[207][ハ] 我国では議会を通じて国民の声を政治に反映させようという制度が採られているが、昭和47年10月9日兵庫県議会は全会一致で第一審判決を支持し
「この判決を広い視野にわたつて受けとめ、福祉政策全体について再検討するとともに、各種年金・手当の併給制限について法律改正を含む改善を行われるよう強く要望する」
決議をなし、昭和50年3月15日京都府議会においても、右判決を支持し、政府はすみやかに本件控訴を取下げるべきであるとする決議を採択し、地方自治法99条2項による意見書として、内閣総理大臣、法務大臣および厚生大臣に提出したものである。
[208] さらに国権の最高機関である国会においても、昭和48年には本件併給禁止を撤廃する法案が審議され(甲第32号証)同年9月には法改正が成立している。
[209][ニ] 厚生省の下で児童扶養手当支給に関する事務を担当してきた者にも、本件併給禁止の不合理性が意識され、近畿6府県児童扶養手当主管部長らは、厚生省に対して、併給禁止の不合理性と併給の必要性について要望書(昭和45年5月16日付)(甲第5号証)を提出している。
[210][ホ] 最後に国民世論を最も鋭敏に反映するマスコミは、原判決当日の昭和50年11月10日の夕刊の解説で、「弱者に厳しい判決」(朝日新聞)「基本的人権空文に」(毎日新聞)「福祉見直し消極的な判断」(読売新聞)「福祉裁判に水」(神戸新聞)と、いずれも併給禁止を合憲とした原判決を厳しく批判している。
[211] 以上のように本件併給禁止を違法、不当とする国民世論は顕著な事実であり、それを反映する事実が第一、二審の審理に多く提出されているのにかかわらず、何らの証拠を示すこともせずに「一般国民感情が併給を当然視しない」とした原判決はあまりに偏見に満ち、独断としかいいようがない。さらに言えば、一般国民感情という極めて莫然としたものを併給禁止の根拠として持ち出さざるを得ない原判決の不当性が浮き彫りにされたといえよう。
(5) 他の社会福祉施策の存在を併給禁止の根拠にすることの誤り
[212][1] 原判決は、本件年金・手当以外の社会福祉施策の標目を掲げている。しかし、右各制度が存在するといつて、本件併給禁止による差別取扱の性格に何らの変化が生じるわけでない。また、重度身体障害者は社会福祉施策により、そのニードが満たされているという事実もない。それにもかかわらず、いくらかの社会福祉の施策があるから、国民が年金、手当問題に何ら憲法を根拠に権利主張が許されないとすれば、年金、手当のみならず、他の施策自体に差別取扱があつても、同じようにそれ以外の施策の存在を理由に合理性が認定され、国民の社会保障に関する権利主張は一切封じられることになつてしまう。
[213][2] 原判決もさすが社会福祉施策の標目のみを掲げただけでは、論旨に説得力がないと考えたのか、重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法根拠にあげられている諸施策が十分それぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえないけれども……と事実に裏付けられた立法的根拠ではないことを自認しながら、つづけて、これらはこうした施策の運用において適切なものが欠けている故であるから合理性は欠かないと言う。
[214] 原判決によつても、本件併給禁止により差別的取扱いをうけている、重度身体障害者母子の母が極めて困難な状況におかれ、原判決の掲げる施策の標目も大して実のない標目にすぎないことが認められるのであるから、差別の合理性の根拠とはなし得ない。
[215][3] 原判決の掲げる諸施策の実態からも原判決の論旨の誤りは明白である。
[216] 身体障害者の雇用安定制度に関する身体障害者雇用促進法の基準自体が運用におとらず著しく低劣であることはすでに明らかにしたとおりである。
[217] また昭和45年の兵庫県における身体障害者手帳交付者55,623人、神戸市における同交付者14,635人に対する身体障害者相談員は前者が130人、後者が30人(甲第11号証)であり、これらの者が毎日出勤し毎日1人の障害者を訪問しても1年間にすべての障害者を1度訪問することはできないのである。
[218] 在宅の重度身体障害者の介護をする市町村派遣の身体障害者家庭奉仕員は、昭和45年10月現在349,000人の在宅重度身体障害者に対し、昭和48年の予算定員によつても、僅か967人にすぎない(甲第37号証の3)。また厚生省の昭和48年の国民福祉の動向によれば、身体障害者更生援護施設(収容)状況は、施設数が215、収容定員が12,627人であるが、同年の厚生省社会局「社会保障関係問答集」によれば、要入所者は約8万とみこまれるとされている(甲第37号証の3)。
[219] 以上のように原判決が掲げている社会福祉施策は、運用において適切なものが欠けているばかりか、施策自体の致命的欠陥、不備が著しく右施策の標目が、本件差別取扱の合理的理由にはなりえない。
[220][4] 原判決は、国民のニードにかけはなれた低劣な年金・手当、欠陥、不備だらけの福祉施策など、それぞれは非常に問題が多くても総合すれば、国民のニードに対応すると判断しているのかも知れない。
[221] ところが前記の(3)[1]のとおり、年金、手当が生活保障の原則をみたす、西欧先進国の福祉施策は、石坂直行著「ヨーロツパ車いすひとり旅」(甲第49号証)で著わされているように日本とは格段の差のある充実したものであることが明らかで、これらを総合して考察すれば、日本の状況が身体障害者母子のニードからおよそかけはれたものであることがわかる。
[222] 本件では、重度身体障害者母子家庭の母と健全な母子家庭の母の差異が対比されているのに、母子家庭に対する一般的社会福祉施策や、一般国民が傷病事故にあたつて給付をうける健康保険や国民健保の医療制度などの社会福祉施策を本件併給禁止による差別取扱の合理的理由とするに至つては国民のニードを真剣に検討するのでなく、字面だけを合わせることに汲々する原判決の態度をまのあたりに見せつけられるのである。
(6) 生活保護制度があることを併給禁止の合理的理由とすることの誤り
[223] (これについては、第三、二、(三)、(2)と同一であるから、これを引用する。)
[224](一) 原判決は、以上のとおり、本件差別取扱の実態を無視し、合理性の判断を誤り、本件差別取扱いが著しく不合理なものであることが明白なのに、差別取扱いに合理性あるものとして、憲法14条1項の適用を誤つたものであり、破棄を免れない。

[225](二) 原判決は、
「立法府の立法裁量に属するものである場合、これを違憲であると判断するがためには、立法府が恣意によるなどして判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない。」
とする。このような憲法解釈は憲法14条を実質上空文化してしまうものであつて誤りであるといわざるを得ないけれども仮に百歩譲つて考えるとしても、前記障害者、母子家庭の生活実態と、併給禁止のもつ現実的な意味に徴し、本件は「立法裁量権の逸脱」であり、本件差別は著しく不合理なものであり、憲法14条に違反することは明白である。
[226] 原判決には、児童扶養手当の性格を論ずるに当つて、経験則に違反した非論理的な判断をなすことによつて、右手当の性格を誤まるという、判決に重大な影響を及ぼす法令違背がある。
[227] 原判決は手当を、
「防貧施策としての年金制度(母子福祉年金制度)を補完する性質のものであり、夫(父)と生別という原因による稼得能力の低下、喪失に対する所得保障としての手当を支給する制度である。」(原判決37丁裏)
と断じる。その理由とするところは、立法の経緯及び同法第1条に『父と生計を同じくしていない児童について』とあり、また同法第4条第1項に手当は『母又はその養育者に対し』支給する旨の規定の存することに尽きている。しかしこの根拠づけは、全く理由にならない理由づけである。以下反論を述べる。
[228] 先ず、右に云う「立法の経緯」は単なる当初の立法の動機にすぎぬものであり、野党側からの“国民年金法の一部改正によつて生別母子世帯にも母子福祉年金を”という要求をふりきつて単独立法化される中で、社会保障の考え方としては、国民年金とは切断され、立法段階においても児童手当の萌芽と考えられるに至つたことは、甲第6号証(甲第36国会衆議院社会労働委員会議事録第8号)にみられる「拠出制国民年金と関係のない福祉年金を設けることはできない」との政府委員の答弁、甲第7号証(社会保障審議会の「社会保障制度の総合調整に関する基本方策についての答申および社会保障制度の推進に関する勧告」)259頁の
「生別母子家庭等に対する児童扶養手当制度がはじめられたけれども、これだけでは多子による貧困は防止しがたく、西欧諸国に対して大きなたちおくれがある。いまや、本格的な児童手当制度を発足させるべき時期であろう」
との記載、当時の厚生省児童家庭局長が著わしたところの甲第18号証の
「児童扶養手当は、父や母に事故がある場合の児童をもつ世帯に対する援助措置であるから、これらの事故があろうとなかろうと普遍的に児童の生計費を大巾に保障しようとする本格的な児童手当でないことはもちろんである。しかし、扶養手当制度は中小零細企業等における収入によつて生計を営んでいる母子世帯等に対するものであるから、極く限られた分野ではあるが、児童手当制度の属性を具えているものと考えられ、この意味ではわが国の児童手当制度の萌芽ともいえよう」
との記載、後記の実務の取扱い、並びに第一、二審における角田証言から明らかである。
[229] 第二に、原判決は、母子福祉年金―死別母子世帯、手当―生別母子世帯という図式を短絡的に結びつけ、手当も亦稼得能力の低下、喪失に対応する給付であるとする点で大きく誤つている。一般に稼得能力の低下・喪失を招来する原因と考えられているのは、老令・廃疾・生計中心者の死亡であることは原判決も認めるところ(37丁表~裏)である。だからこそ、母子年金にも母子福祉年金にも「夫によつて生計を維持していた」という要件が付されているのである。即ち、「生計を維持していた」者が死亡したことが、いわば、遺族の享有していた扶養の喪失=遺族の稼得能力の喪失ととらえられるから、年金の対象となつているのである。ところが、手当にはこのような生計維持要件は要求されていないのである。
[230] 原判決は
「死別母子については、国民年金法による母子年金あるいは母子福祉年金又は年金関係各法による同様の給付を受けられるようになつたのであるが、夫と生別した場合には、右のような給付は受けられない。……死別と生別とを問わず、よつて生じた母子世帯の社会的、経済的実態は同じであるため、これと死別母子世帯とくらべてその公平を図り、生別母子世帯について母子福祉年金に準ずる所得保障を実施することにしたのが、児童扶養手当法の制定である。」(27丁裏)
とするが、これは極めて不正確な表現であり母子年金、母子福祉年金の受給権者は、死別母子一般ではなく、夫によつて生計を維持していた場合の死別母子世帯の母親である。母子年金、母子福祉年金をこれらの対象たる死別母子世帯と同種の生別母子世帯にも拡げようとするなら、当然生計維持者たる夫と生別した場合の母子世帯のみが対象となるはずである。つまり死別、生別を問わず生計維持者たる夫が不在となつたかそうでないかは、その母子世帯につき稼得能力の低下喪失を論ずる余地があるか否かの決定的な差異があるのである。それにもかかわらず「母子世帯の社会的、経済的実態は同じである」とするなら、その社会的、経済的実態の共通性はもはや稼得能力の喪失、低下に求められるものではなく、一般的に社会的弱者と考えられている女性しか稼ぎ手のない家庭においては、児童の養育が極めて困難であるということにしか求めることはできない。原判決はこの点を全くあいまいにし、母子年金、母子福祉年金の生計維持要件を「保険的方法により所得保障をしようということから、規定上受給権者を制限特定する上で必要であるため、入れられているものにすぎない」(30丁表)というが、生計維持要件をはずしたところで、受給権者は特定しうるのであり、とりわけ生計維持要件を必要としたのは、正にそれがあつた場合にのみ稼得能力の低下、喪失を論じることができたことを全く看過しているのである。
[231] 第三に、原判決は、児童扶養手当の性格を論ずるにあたつて最も重要な根拠となるべき法の明文を極端に軽視している。即ち原判決は児童扶養手当法第1条、第2条、第14条3号を引用したうえ「児童扶養手当は児童の健全な養育に資するという目的で支給されるものであることは明らかである」ことを認めながら、「稼得能力の低下、喪失に対し、母(又は養育者)を受給権者とする所得保障の性格をもつと解することと矛盾するものではない」としたうえ、「母子年金、母子福祉年金も最終的には全く同じ効用をもつものであると考えられる」(29丁)と強弁する。しかし、右法の明文は、児童扶養手当が、「児童の福祉の増進を図ることを目的」(同条1条)とし、「児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給されるものである」(同法2条前段)ことを明言しているのであり、被上告人もこのような児童扶養手当の趣旨を認めているものである(被告答弁書、請求の原因に対する答弁第3項)。そして更に同法同条後段は、「その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない」と、社会規範として、目的外使用を禁止し、(甲第66号証15頁)、同法14条3号はこれを受けて「受給資格者が、当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は「その額の全部又は一部を支給しないことができる」と定めている。
[232] これらの規定は、手当支給の趣旨・目的が、「児童の心身の健やかな成長」にあり、その他のどこにも存在しないことを物語つて余りあるものである。右の14条3号にあたる規定は、国民年金法には全く存在しない。この点に関し、母子福祉年金・児童手当・児童扶養手当の趣旨・目的等に関する各法律の明文を表にして掲げれば左のとおりである。
手当の名称 目的 趣旨及び使途の制限 目的外使用の制裁
母子福祉年金 国民生活の安定がそこなわれることを国民の共同連帯によつて防止し、もつて健全な国民生活の維持及び向上に寄与すること(国民年金法1条) なし なし
児童手当 家庭における生活の安定に寄与するとともに次代の社会をになう児童の健全な育成及び資源の向上に資すること(児童手当法1条) 前条(1条)の目的を達成するために支給されるものである趣旨にかんがみ、これをその趣旨に従つて、用いなければならない(同法2条) なし
児童扶養手当 児童の福祉の増加を図ること(児童扶養手当法1条) 児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給されるものであつて、その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない(同法2条) 「受給資格者が当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は、「その額の全部又は一部を支給しないことができる」(同法14条3号)
[233] 右表を一見して明瞭なとおり、児童扶養手当は、母子福祉年金はおろか、児童手当よりも一層、児童の養育のための手当であることが、法の明文によつて性格づけられているのである。原判決の論旨は、このような法の明文を極端に軽視したものであつて、通常の常識をもつてしては到底首肯しえないものである。
[234] 第四に、原判決は、上告人が、右以外に挙げた児童扶養手当が稼得能力の喪失、低下とは関係がないとする根拠についてほとんど判断をしていない。即ち、上告人は、養育者に手当が支給される場合や、父が廃疾の場合には稼得能力の低下を論ずる余地のないことを指摘してきた。養育者に支給される場合には、養育者であることには何の制約もないのであるから、夫婦そろつている家庭であろうとその家庭に養育者の子供がいようといるまいと関係はない。手当対象児童を養育することによつて養育者にもたらされるのは、稼得能力の喪失、低下ではなく、その児童の養育に要する支出の増加である。原判決はこの点について全く触れようともしない。
[235] 又、父が廃疾の状態にある場合には、父の廃疾状態に対応する公的年金給付は、児童加算の部分を除いては児童扶養手当と併給される(児童扶養手当法4条2項5号)が、この場合稼得能力の低下、喪失たる父の廃疾に対応する給付は別に支給されているのであるから、手当について稼得能力の低下・喪失を論ずる余地は全く存在しないのである。この点についても原判決は全く論じていない。
[236] 最後に、原判決は、上告人が指摘した第2子からの加算制度につき、
「児童扶養手当は、生別母子ということから一般的に予測される稼得能力の低下・喪失によるその所得の一部を保障するものであつて、一挙にそれによる所得の低下・喪失の全額を保障するものではないから、技術的に、児童数によつて支給額を按分していく方法をとつているものと考えられないことはない。……生活実態にある程度見合つた給付をすることが適当であるという考え方に基づくものであることが認められるので、右加算制度のあることをとらえて……稼得能力の低下・喪失とは関係ないなどと断定するわけにはいかない。」(30丁裏~31丁表)
というが、児童数が増加した場合に別に稼得能力が低下するわけではない。「生活実態」が異つてくるのは児童扶養のための支出が増加するためであつて、それにある程度見合つた給付が適当とする考え方は、手当を稼得能力の低下・喪失からではなく、児童扶養のためととらえることからはじめてでてくるものであつて、原判決のこの点についての判断は全く矛盾したものである。
[237] 第五に、原判決は、手当が家族手当―児童手当であることを否定し、その根拠としてILO第102号条約に関する条約、勧告適用専門委員会の報告書を引用する。しかし、右報告書の記載は両親が離婚、別居あるいは死亡した場合等の子に対して一定の給付を支給する法律が、家族給付の性格を有することを前提に、それのみではこの条約が要求する最低基準を満たしていないという趣旨の記載であつて、何ら手当の家族手当―児童手当性を奪うものではない。そして、原審における角田証言において明らかにされたように、家族手当―児童手当が母子家族における児童養育からハンデイキヤツプを負つた家族における児童養育へと発展していく過程の中で、現に、ニユージーランド、ドイツ連邦共和国、ベルギー、アイルランド、ノルウエー等で、両親もしくは片親のない児童に対する手当が、様々の形で、一般の家族手当―児童手当とは別に支給されているのである(甲第65・69号証)。右のような手当も亦家族手当―児童手当であることに争いはないことは、甲第69号証の表題(「家族手当についての一般基準」)からも明白である。
[238] この点に関し、原判決は
「成立に争いのない乙第55号証の4・5によれば、〈児童手当あるいは家族手当〉は、世界各国の例をみても、子女の扶養を要件として一般家庭における平均的生活状態に着目して給付を行うのが普通で「扶養」以外の両親の一方が欠けているとか、児童が心身障害児であるとかいう特別の事由について支給要件、給付額を変えることをしているものではないことが認められる。いずれにしても児童扶養手当をもつて、児童手当の一であるとはいい難い。」
とのみ論じているが、乙第55号証は、アメリカ合衆国という1国(それもILO脱退を噂されている国である)のなしたアンケート調査であつて、これをもつて甲第65、69号証など国際的に最も権威のある国際社会保障協会の報告・論文に優位させるという原判決の判断の仕方は我田引水以外の何ものでもない。
[239] 例えば、荒木誠之教授の著した「現代の社会保障」(同文館)においては、家族手当―児童手当を児童扶養ととらえ、わが国における「最初の児童扶養給付立法は昭和36年に成立した児童扶養手当法であつた。」(同書320頁)と述べているが、わが国においてもこのような考えが通例であつて、原判決の立場は独自の見解としかいいようがない。手当を、遺族給付に近似したものという原判決は、各国における家族手当―児童手当の発展の歴史を覆そうというのであろうか。
[240] なお、原判決は、「児童扶養手当と児童手当」と題する項で、右2手当の関係について論じているが、その論旨は、先に児童扶養手当の性格を稼得能力の低下・喪失に着目した所得保障制度と決めつけたうえで、児童手当との差異を強調するものにすぎない。しかしながら、児童扶養手当が、児童の養育のための手当――従つて支出の増加に対応する手当であることは、前記法の明文の比較からも明らかであり、現に実務の左のような取扱いも、児童扶養手当と児童手当の本質的同質性に根ざすものである。即ち、甲第61号証、によれば、児童扶養手当の所管は、児童手当と同じく厚生省児童家庭局であり、母子福祉年金のそれが厚生省年金局であるのと全く異つている。
[241] 又、甲第67号証(兵庫県の発行した、児童扶養手当・特別児童扶養手当のしおり)は、「手当の対象となるのはどのような児童ですか」という項目を設け、児童扶養手当の支給の対象が児童であることを認めている。そして、甲第60号証(特別児童扶養手当等の支給に関する法律等の一部を改正する法律案)によれば、児童扶養手当の支給額は、特別児童扶養手当、児童手当と共に一括して、1つの法律で改訂され、しかもその提案理由として「児童扶養手当及び児童手当の支給対象児童の福祉の向上を図るため」となつていることから、児童手当・児童扶養手当・特別児童扶養手当という同一の所管に属する3制度が歩調を同じくしていること、児童扶養手当が児童手当と同じく、児童福祉のために支給されていることを厚生省をはじめ、政府当局も認めているのである。
[242] 甲第5号証にみられるように、近畿6府県(特別)児童扶養手当事務研究会において、6府県の児童扶養手当主管部長らが検討した結果、昭和45年5月16日付で、
「児童扶養手当を請求しようとする者が、国民年金法(昭和34年法律第141号)による障害福祉年金をうけることができるときは、法律第4条第3項第3号の規定により、手当は支給されないことになつているが、前者は障害者、後者は児童というようにその目的を異にしている。このため同一受給者に対する重複支給が認められるよう図られるとともに、将来、すべての公的年金(児童を対象にするものは除く)との重複支給についても改善を考慮されたい」
と厚生省児童家庭局長に要望したのも、かかる実務の取扱いがなされているからである。
[243] 第六に、原判決は、手当を防貧的なものであつて、憲法第25条第1項の保障には直接関しない旨判示する。
[244] 右は憲法第25条についての信じ難い曲解に基づくものである。この点については既に詳述するところであるので、ここでは手当の性格につき、それが所得水準による支給制限によつて生活保護法の適用をうけるかどうかのボーダーラインにある母子家庭の扶助という機能を担い、一面で生活保護法の扶助に近い性格をもつていることを指摘するにとどめる。(荒木前掲書320頁・323頁参照)。
[245] 原判決は、「本件併給禁止は個人主義にもとるなどとは到底いい得ない」ので、併給禁止は憲法13条に違反しないという。しかし、右は憲法13条の解釈を誤つたばかりでなく、上告人の主張に対する判断を遺脱し、判決に理由を付さない違法がある。
[246] すなわち、上告人は従来、本件併給禁止が憲法13条に違反する理由として、児童扶養手当は児童の心身の健やかな成長に寄与するために支給されるものであるのに、この目的とは全く関係のない母が障害福祉年金を受給しているという事実により、同手当の受給資格を奪う本件併給禁止条項は、児童を個人として尊重しないものであり、憲法13条に違反する、とのべ、合理的理由もなしに、児童扶養手当の受給資格を奪うことは、国民を個人として尊重せず、ならびに幸福追求の権利を侵すものであり、憲法13条に違反すると主張したのであつた。
[247] しかるに原判決は、憲法13条が個人の尊厳ならびに幸福追求権を定めたものであることを看過し、単に「個人主義」の問題であるとして、同条の解釈を誤り、かつ、上告人の主張に対して判断をなさず、かつ判決に理由を付さなかつた。
[248] 右違法は民事訴訟法394条及び同395条第6号に該当し、原判決は破棄を免れない。
第一、「第二 総論―原判決の根本的誤り」についての補充
  一、はじめに
  二、独自の憲法25条理解をあえて採用して判決全体を誤らせたこと
  三、違憲審査にあたり敢えて実態を無視した結果、判決全体を誤らせたこと
第二、「第三 原判決の憲法25条解釈適用の誤りの一、(二)憲法25条の裁判規範性にかんする解釈の誤り」の補充
  一、原判決の「憲法25条の裁判規範性」に関する解釈
  二、原判決解釈の誤り
   (一) 立法権にたいする憲法の拘束
   (二) 憲法第25条の規範内容
   (三) 憲法25条の裁判規範性
   (四) 具体的法的権利説
   (五) まとめ
第三、「第三の二 憲法25条適用の誤り、(一)併給禁止条項が憲法25条1項に違反しないとした誤り」の補充
  一、併給禁止条項が憲法25条1項に違反しないとした誤り
   (一) 「生活保障」「経済保障」論の誤り
   (二) 最低生活保障と年金
   (三) 社会保障制度の「総合考量」
第四、「第四の三、(二)(1)原判決は児童扶養手当制度の趣旨を誤解している、(2)『稼得能力低下喪失』論の誤り」の補充
  一、はじめに
  二、家族手当制度の意義と変遷
  三、手当は「扶養の喪失」を要件としないことについて
  四、手当は、実質上児童を対象として支給される
  五、受給権者が児童ではなく、母(養育者)と定められていることについて
  六、「児童手当」の類型に該当するか否かについて
  七、まとめ
第五、「第三の二 憲法25条適用の誤り」に関する補充
――原判決の立法裁量論の誤り――
  一、はじめに
  二、判例の傾向からみた原判決の立法裁量論の特異性――判例からみた立法裁量論の軌跡
  三、原判決の立法裁量論の憲法適合性
   (一) 立法裁量論の憲法上の根拠と限界について
   (二) 憲法25条と立法裁量について
  四、本件併給禁止規定と立法裁量の問題
  五、本件併給禁止規定は立法府の裁量を逸脱している場合にあたる
第六、「第四 原判決の憲法14条解釈、適用の誤り」に関する補充
  一、憲法14条に関する司法審査のあり方
   (一) 本件併給禁止条項の憲法的評価に関する基本的視点
   (二) 憲法14条の意義と差別の例外性
   (三) 差別の合理性判断の方法と基準
   (四) 原判決の憲法14条適合性審査のあやまり
  二、本件において検討されるべき差別
   (一) 児童が実質的受給権者であり、母が形式的な受給権者であるとした場合の差別
   (二) 実質的にも形式的にも母が受給権者であるとした場合に問題となる差別
   (三) 右差別と憲法14条違反の存否
  三、本件における差別の合理性の存否
   (一) 本件は本来「併給」禁止規定の合理性が問題になる場合ではない
   (二) 併給調整の合理性の有無
[1] この「総論」の論述は、それ自体が独立の上告理由をなすものではないが、「各論」で述べられている個々の上告論旨の基礎をなすものであり、その意味で実質的に上告人の上告論旨の一部となるものである。
[2] すなわち、上告理由は通常原判決の法令解釈や事実認定のそれぞれをめぐつて個別的な瑕疵を取りあげる仕方で構成されるが、いうまでもなく判決は全体として一つのものであり、その中における個々の瑕疵や問題点は相互に深くかかわると同時に、全体の中に必然的に位置づけられていて、決してそれだけが孤立して他と脈絡なしに存在しているわけではない。これを本件についてみるならば、原判決の憲法14条適用の誤りはその憲法25条解釈の誤りとほとんど必然不可離の関連でかかわつており、また原審が上告人ら重度身体障害者の生活実態を無視ないし軽視する態度をとつたことは、原判決の憲法25条解釈適用における判断遺脱や理由不備という瑕疵を生ぜしめると同時に、憲法14条解釈適用の誤りを導く、共通の原因となつているのである。
[3] もとより上告審の審理と判断は、個々に摘示された上告理由の成否をめぐつてなされるものではあるが、それら個々の上告理由のもつ意味をより的確に把握し、その採否に誤りなきを期するためには、上告理由に即した直接的、個別的検討とあわせて、その判決全体の中での位置や脈絡、また上告理由相互の関係などをも顧ることが有効であることは確かであろう。
[4] 以下の論述は、そのような趣旨においてなされるものである。
[5](一) 原判決を一見して気付くことは、その憲法25条解釈の特異性である。すなわち、同判決は、
「……憲法第25条第1項は国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運用すべき国の責務を宣言したものであり、又同条第2項は国民の社会生活水準の確保向上に努めるべき国の責務を宣言しているものであるが、同第2項に基づいて国の行う施策は、結果的には国民の健康で文化的な最低限度の生活保障に役立つているとしても、その施策がすべて国民の生存権確保を直接の目的とし、その施策単独で最低限度の生活の保障を実現するに足りるものでなければならないことが憲法上要求されているものとは解されない。……結局同条第2項により国の行う施策は、個々的に取りあげてみた場合には、国民の生活水準の相対的な向上に寄与するものであれば足り、特定の施策がそれのみによつて健康で文化的な最低限度という絶対的な生活水準を確保するに足りるものである必要はなく、要は、すべての施策を一体としてみた場合に、健康で文化的な最低限度の生活が保障される仕組みになつていれば、憲法第25条の要請は満たされているというべきである。」(判決理由第二、その一、二、3、(一))
「……そうして、国が右のような努力を続けることによつて、国民の生活水準が相対的に向上すれば、国民の最低限度に満たない生活から脱却する者が多くなるが、それでもなお最低限度の生活を維持し得ない者もあることは否定することはできないので、この落ちこぼれた者に対し、国は更に本条第1項の『健康で文化的な最低生活の保障』という絶対的基準の確保を直接の目的とした施策をなすべき責務があるのである。すなわち、本条第2項は国の事前の積極的防貧施策をなすべき努力義務のあることを、同第1項は第2項の防貧施策の実施にも拘らず、なお落ちこぼれた者に対し、国は事後的、補足的且つ個別的な救貧施策をなすべき責務のあることを各宣言したものである……。」(同右)
「憲法第25条第2項には同第1項のような『健康で文化的な最低限度の生活』の保障という絶対的基準はなく、而も国は『生活水準の向上につき、財政との関連において、できる限りの努力』をすればよいのだから、国が同条同項に基づき、具体的にどのような内容の法律を定立し、どのような施策をし、これにどのような性格を与えるか、これによりどの程度の生活水準の向上を図るか……は、いずれも立法施策の問題であつて、立法府の裁量に任せられているといわなければならない。」(同(四))
というのであるが、このような憲法25条1、2項の徹底した切りはなし解釈は、学説判例にも類例を見出すことのできない、文字どおり原判決に独自の見解である。
[6] 憲法学界の通説が、同条項を「一体不可分」のものと解し、「第1項の権利は当然に第2項の趣旨を内包するものであり、第1項の権利が権利たる所以は国が第2項の努力を義務づけられていることにある。」としていることは既に上告理由書(34頁以下)で触れたところであるが、最近の下級審判例もまた、この理に立つて、
「憲法第25条第1項は、すべての国民に対していわゆる生存権を保障したが、この生存権の保障は、国が、国民の生活水準の向上をはかるために、社会的立法を制定し、社会的施策を実施拡充することによつて、はじめて実現されるものである。そこで、同条第2項、国民の生活水準の向上を図るために国が実施すべき施策のうち重要な事項を別記して、国がこれらの施策を実施するよう努力する責務を負うことを明らかにしたものである。憲法第25条の趣旨は、このように理解される。」
と判示している(東京地裁昭和49・4・24老令福祉年金訴訟事件判決、判例時報740号37頁)。のみならず、本件被上告人でさえ、
「控訴人がとくに強調しておきたいのは、憲法25条1項が被控訴人の主張するとおり、『国民が生存権を有することを総則的に規定し』ていることはそのとおりであるとしても、同時に右条項は、すべての国民に保障されなければならない生存権の程度についても規定し、その下限は、『健康で文化的な最低限度の生活』であるとしていることである。これに反し、国民の生活水準がさらに向上すればするほど望ましいことはいうまでもないから、憲法25条は、その上限についてはなんら基準を示していない。……すなわち、憲法25条が定める生存権のうちにも、すくなくとも『健康で文化的な最低限度の生活』を維持しなければならないという要請と、この生活水準をさらに向上、増進させなければならないという要請が含まれていることは否定できない。」(控訴人第二準備書面)
と述べて、原判決のような分断論をとつてはいないのである。
[7] このように、原判決の憲法25条解釈は、他のいかなる見識からも孤絶した独自のものであることは明らかである。

[8](二) それのみではない。原判決の憲法25条解釈(適用)の独自性は、次のような社会保障制度の理解についても顕著である。
[9] すなわち、原判決は、社会保障制度を
「[1]主として……保険的方法又は直接公の負担においてなす防貧施策としての経済保障と、[2]生活困窮に陥つた者に対する国家扶助による健康で文化的な最低限度の生活を保障する救貧施策としての生活保障の2本建てから成る」
とし、生活保護制度にみられる補足性の原則等のような規定の有無が憲法25条1項に直接関係する制度であるか否かの判定のメドとなるとした上で、
「憲法第25条第1項にいう『健康で文化的な最低限度の生活』(生存権)の達成を直接目的とする国の救貧施策としては、生活保護法による公的扶助制度がある。そして、国民年金法による障害福祉年金、母子福祉年金及び児童扶養手当法による児童扶養手当……などは憲法第25条第2項に基づく防貧施策であつて、同条第1項……と直接関係しない」
と大胆な断定をしている。
[10] しかしながら、原判決がかような断定の資料として挙げる乙第14号証の1ないし3(昭和47年版厚生白書)によつても、さような断定を裏付けるデータは一切見出さぬばかりか、かえつて同号証によれば、
「年金給付水準の考え方は各国必ずしも一義ではないとしても、年金制度が老後等の生活保障を目的としている以上、生活水準の向上や物価の上昇によつて当初予定していた所得保障の実を上げえなくなるような事態が生じた場合には、年金額もこれに応じた調整が加えられなければならない。」(37頁)
とされ、あるいはまた、
「所得保障の2つの大きな柱は年金制度と公的扶助制度であるが、……国民の所得保障を年金を中心として行なうか、公的扶助を中心として行なうかについては、それぞれの国の体制、伝統、国民感情等により異なり、長所短所もあるので、どちらが望ましいかについては一概には言えないことであるが、最近世界各国において年金の公的扶助化あるいは公的扶助の年金化といつた形で両者の接近が認められる」(47頁)
と説かれているのである。
[11] また、同じく原判決が援用する原審・安藤哲吉証言も、
「通説におきましては社会保障というのは、その公的扶助と、それから社会保険からなる、あるいは体系的には所得保障と医療保障の二つの体系からなるというのが、これが通説です。」としたうえで、「……所得保障と言いますと、……それは社会保険の中で公的年金制度と言われるものと、それから公的扶助の中の、医療扶助以外の扶助、これがやはり所得保障の中心である」
と述べ、公的扶助も公的年金もともにいわゆる所得保障の類型に属することを明言していて、いずれの証拠に照らしても、原判決の挙げつらう生活保障・経済保障二分論に合理的な論拠を見出すことは到底できないのである。
[12] このほか、公的年金は国民の生活水準の相対的向上に資すれば足り、国民の「健康で文化的な生活」の絶対的保障はあげて公的扶助に委ねられるとする原判決の見解が、公的年金の制度的意義、これと公的扶助との相関関係などについて本末を顛倒した謬見であることは、右安藤証言が、
「古くは公的扶助は貧民対策であり、社会保険は……社会政策、労働政策的な面からできあがつてきたものですが、これが第二次大戦後、社会保障の形成の機運の中で、……やはり社会保険でまず貧困を防止し、そしてその網の目からもれてきたのを公的扶助でもつて救いあげる、というのが、これが……イギリスのベバリツヂ報告の基本的な性格だつたと思います。……わが国の場合においても……考え方としては、基本的にはこれと同じ形でできあがつているのではないかと……考えております。」
と指摘していることに照らしてもすでに明らかであり、また原判決の防貧・救貧論がいかに社会科学的な根拠をもたぬ安易な見解であるかは後に詳述するとおりである。
[13] いずれにしても、原判決の社会保障制度の理解が根本的に、それゆえまた全般的に誤つていることは蔽うべくもない事実である。

[14](三) 以上に述べた原判決の独自な憲法25条解釈とこれにかかわる社会保障制度観は、原判決を一見して明らかなように、原判決の憲法14条論(「憲法第14条第1項と本件併給禁止条項」)にも深くかかわつており、むしろその論旨の前提をなしているといえるのであつて、その意味で、原判決の独自の憲法25条見解は判決全体の基調をなしているということができる。
[15] したがつて原判決の叙上のごとき憲法25条等理解の誤りは、そのまま原判決の基調の誤りを意味しており、ここに原判決の根本的な誤りが存することは明らかといわねばならない。
[16] 原判決が、なにゆえに、通説判例に背いてまでもこのような独自の見解をうち出したかについては種々の推察が可能であるが、少なくともかような分断的理解が立法府の広汎な裁量を導くに容易であり、それだけ本件併給禁止立法への違法性批判をかわすのに便宜・有効であつたことは確かである。すなわち、原判決は憲法25条2項を1項から切り離し、
「結局同条第2項により国の行う施策は、個々的に取りあげてみた場合には、国民の生活水準の相対的な向上に寄与するものであれば足り、特定の施策がそれのみによつて健康で文化的な最低限度という絶対的な生活水準を確保するに足りるものである必要はない」
とした上で、国民年金法による障害福祉年金や児童扶養手当のごときは「憲法第25条第2項に基づく防貧施策であつて、同条第1項……直接関係しない」と断ずるのであるが、かかる見解がとられることによつて、本件併給禁止立法が立法府の裁量の範囲内に属し合憲であるとの結論が著しく容易となつたことは明白であり、むしろ原判決のかような独自解釈は、原審が選択した合憲の結論を支えるための「理由づけ」として選ばれたとさえいつて過言でないであろう。そうすれば、原判決の誤りのより根本的な原因は、原審が本件併給禁止立法の違憲審査という、司法裁判所に課せられた職責の重大さに圧されて、違憲判断を回避しようとしたところに存するといわねばなるまい。
[17](一) 一般に法令の違憲審査が問われる際には、当該法令そのものの文理的ないし論理的内容と憲法条項との論理的関係を吟味するだけで結論が示される場合もあるが、通常は、当該法令がその適用対象に対して……個別的または一般的に……具体的にいかなる意義や効果を発揮しており、かかる意義・効果が憲法条項の価値基準に照らしていかなる評価を与えられるかを検討するという仕方で行なわれる。いいかえれば、法令の違憲審査とは“紙の上の法律”に対してだけではなく、現実社会の中に投ぜられ、そこに息づいている“生ける法律”に対してもその憲法適否を審査するものである。なぜならば、そのように法令のもたらす現実の違法状態を排除することこそ、違憲立法審査制度を通じて国政のすみずみにまで憲法の支配を貫徹しようとするこの制度の目的に沿うものである。ましてや本件併給禁止立法のごとき給付(制限)立法については、それが対象国民の現実生活にいかなる意味や影響をもたらすかの具体的検討を抜きにして、当該立法の憲法25条適合性などを的確に審査することができないことは多言を要しない。
[18] さればこそ、上告人は第一審以来、上告人およびこれと同様の重度身体障害を負う者が、その貧窮な生活実情のなかで子どもを養育するにあたり、月額わずか4000円程度(昭和43年当時)の障害福祉年金の受給を理由として、月額2100円程度の児童扶養手当の給付を拒まれることが、憲法25条や14条に照らしていかに評価されるべきかについて、裁判所に具体的、実証的な審理判断を求めてきたのであり、第一審裁判所もまた、この事理をふまえて、
「……本件条項の違憲性の有無を判断するに当つては、原告と同じ境遇にある者がその生活実態において極度に困窮し、これに対し障害福祉年金と共に、(児童扶養)手当をも支給することが、社会保障制度の趣旨である所得保障の観点から見て、極めて切実かつ緊迫した必要性があることが前提とされる」
とし、上告人のごとき視覚障害者世帯や母子世帯の生活実態を証拠によつて仔細に認定したうえで、本件立法の憲法14条適否を判断した次第であつた。(また、かつて老令福祉年金の夫婦受給制限の合憲性につき司法審査したケースとして知られる牧野訴訟の第一審判決〔東京地裁昭和43・7・15判決、判例時報523号21頁〕も、
「……かような老令者の生活の実態にかんがみると、夫婦者の老令者の場合に理論のうえで生活の共通部分について費用の節約が可能であるといいうるからといつて、支給額が……最低生活費のほとんど半額にすぎず、……老令福祉年金制度の理想からすれば余りにも低額である現段階において、夫婦者の老令者を単身の老令者と差別し、夫婦者の老令者に支給される老令福祉年金のうち、さらに金3000円(月額250円)の支給を停止するがごときは、……到底、差別すべき合理的理由があるものとは認められない。」
として、老令福祉年金受給者の生活実態やその中で低額の年金が果たす役割を証拠資料によつて具体的にふまえたうえで、夫婦受給制度規定の憲法適否を判断している。)

[19](二) しかるに原審は、既引のような独自の憲法25条1、2項分断論に立つて、
「児童扶養手当法が障害福祉年金と児童手当との併給を禁止したとしても、生活保護法による公的扶助たる生活保護制度がある以上、憲法第25条第1項違反の問題を生ずるものではない。すなわち、その被保障者の生活実体がもし右併給を受けなければ、なお貧困の域を脱することができないというのであれば、当該被保障者には生活保護法による生活保障の途が残されているのであつて、本件併給禁止条項は憲法第25条第1項とかかわりがない」(判決理由第二、その一、二、3、(三))とし、「……したがつて、被控訴人のような母が重度の身体障害者である生別母子世帯の生活実態が劣悪で『健康で文化的な最低限度の生活』に及ばないとすれば、その救済は、本来救貧施策である生活保護制度に依存されるべきこととなる。」(同(五))
として、制度間の建前がちがうことを理由に、本件併給禁止条項の適用対象者の悲惨な生活実態を顧慮の外に放擲するとともに、他方、本件併給禁止立法が立法府に与えられた裁量権の範囲を逸脱したものか否かの判断にあたつても、
「その判断をなすに際しては国の財政、社会保障制度全般、各制度の目的、役割、国民感情などを考慮して、これを総合してなされるべきである」
と述べて、対象国民の生活実態を考慮の対象に加えることなしに、
「……以上の認定によれば立法府が障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁止したことが、右のような点に立法府が考慮を払わず、恣意によるなどして裁量権の行使を著しく誤り、またはその濫用の結果に出たものとは認め難いから、……本件併給禁止条項は憲法第25条第2項に違反するものとはいえない。」(同(四))
とし、さらには、
「本件併給禁止条項はいずれも憲法第25条第2項に由来するもの同志の間におけるものであるから右生活実態を理由に、『健康で文化的な最低限度の生活』の保障を目的としない障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止をもつて、憲法第25条に違反するとはいえない。」(同(五))
とまで述べて、結局本件併給禁止条項の憲法25条適否の審理判断のすべての過程において、適用対象国民の生活実態を顧慮の外に放逐してしまつたのである。憲法14条にかかわる違憲審査の過程についても、事情はいささかも変るところがない。
[20] わずかに1ケ所だけ原判決が生活実態に触れたところも、
「もつとも、……から窺われる重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右……にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえないけれども、これらはこうした施策の運用において適切なものが欠けている故であると認められるから、これをもつて、本件併給禁止が合理性を欠くことが明らかであるとする根拠とはなしがたい。」
というに止まるが、これも叙上のごとき原審の判断姿勢からすれば、けだし当然の帰結といえよう。

[21](三) このように原審が、上告人をふくむ対象国民の生活実態を顧みることなしに本件併給禁止条項の違憲審査をすすめたため、原審は障害福祉年金と児童扶養手当との併給禁止それ自体の一般的抽象的な合憲法性の検討をするにとどまり(たとえば、原判決が、「事故が複数であつてもそれによる稼得能力の低下・喪失という結果は同一であること……、複数の所得低下・喪失を招来する事故が発生しても、所得低下・喪失の程度は必ずしも比例的に加重されるものではないこと、同一人について2つ以上の事故が生じた場合にそれぞれの年金を支給することは、特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることにな……ること、」などを本件併給禁止立法の合理的理由として肯認しているごとき、その典型例といえよう)、本件当時具体的に月額金4000円の障害福祉年金と月額2100円の児童扶養手当との併給を禁止することの憲法適合性や、ましてそれぞれそのような低額の年金等を、上告人らをふくむ重度身体障害者の母子家庭に対して併給禁止することが具体的・現実にいかなる意味をもつか、憲法25条や14条に照らしいかに評価されるべきかについては、全く審理・判断を加えずに終つたのである(このような具体的なデータを投入してみるならば、右に引用したような原判決の判示は、たちどころに成り立たないことが判明しよう。たとえば、視力障害という事故と母子状態という事故とがかりに判決のいうようにともに「稼得能力の低下」をもたらす要因だとしても、視力障害者たる単身の婦人の稼得能力の低下ないし生計維持の困難と、視力障害者たる母が扶養すべき子を擁している場合のそれとが「結果において同一」といえぬことはきわめて明白であり、後者の場合所得低下の程度が「必ずしも比例的に加重されるものではない」からといつて、相当程度の加重要因となることもまた否定しえぬところであり、そのような場合に、月額わずか4000円の障害福祉年金に同じく月額2100円程度の児童扶養手当を支給することが「特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることになる」などといえないことは、ほとんど自明のことに属するからである。)。かくして原審は、本件併給禁止立法の違憲審査をするにあたり、該立法の具体的内実や適用対象国民の生活実態を度外視した結果、原審自らが当然と認める違憲立法審査を実質上放棄し、少なくとも途半ばにしてこの職責を放てきすることとなつたのである。
[22] 原判決は、憲法25条1項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運用すべきことを国の責務として宣言し、また、同2項は、社会生活の推移に伴う積極主義の政治である社会的施策の拡充増強により、国民の社会生活水準の確保向上に努力すべき国の責務を宣言したもの、とした上、
「憲法第25条の第1項第2項を通じ、国はこれに対応して国民一般に対して概括的にかかる責務を負担し、これを国政上の任務としなければならないのであるけれども、個々の国民は、直接これにより、国に対し、具体的、現実的な権利を有するものではない。国民の本条による具体的権利は、本条の規定の趣旨を実現するために制定される個々の法律によつて、はじめて与えられるのである。」とし、「憲法第25条には同第1項のような健康で文化的な最低限度の生活の保障という絶対的基準はなく、而も国は生活水準の向上につき、財政との関連において、できる限りの努力をすればよいのだから、国が同条同項に基づき、具体的にどのような内容の法律を定立し、どのような施策をし、これにどのような性格を与えるか、これによりどの程度の生活水準の向上を図るか、更には一の施策と他の施策との関連をどうみるか、個々の施策について、その給付要件、対象を如何にするか、支給額をどの程度にするかは、いずれも立法政策の問題であつて、立法府の裁量に任せられているといわなければならない。そして、このような立法政策に属する事項については、政治上その当不当の批判を受けることは格別、原則として、違憲問題を生じる余地がない。只例外として、立法府の判断が恣意的なものであつて、国民の生活水準を後退させることが明らかなような施策をし、裁量権の行使を著しく誤り、裁量権の範囲を逸脱したような場合であれば、憲法第25条第2項に反することが明白となり、司法審査に服することになる。」
と説いている。
(一) 立法権にたいする憲法の拘束
[23] もともと、生存権のプログラム規定論を前提とする、原判決にみられるような立法裁量論は、実質的には憲法規範性の否定の機能を果し、立法府の意思と判断に対する司法府による尊重を内容とするものである。たしかにワイマール憲法に至るまでの立法者は、至上にして独裁的な地位を有し、憲法解釈権はすべて立法者に委ねられており、立法者に特定の作為をもとめる請求権は、本来問題になり得なかつた。それを与えていたものは、法を制定する国家意思は完全に独立しており、法規範的な作為強制は受忍し得ないという法律実証主義の理論と、立法者は個人の利益ではなく共同の利益のために活動するものであり、共同の利益から立法者の特定の活動をもとめる権利は導きだされえないという考え方であつた。しかしボン基本法はこのような見解を意識的に放棄し、立法の憲法による拘束の原理を確立し、その結果立法権も、行政権・司法権と同様に憲法規範のなかに組みこまれることになつた。日本国憲法においてもこの原理は確立されており、基本的人権を立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨の憲法13条、権利制度に関する31条、憲法の最高法規性をうたつた98条、これを実効あらしめるため、裁判所による違憲立法審査権を定めた81条の各規定を設けた。したがつて、立法権が憲法をはなれて自由に裁量することは認められず、憲法による立法拘束と、立法裁量との関係が明らかにされなければならない。そのことは、憲法の裁判規範性(司法拘束)を一層明らかにする。
大須賀明「生存権のプログラム論と立法裁量論の問題性」法律時報昭51・2月号第576号
(二) 憲法第25条の規範内容
[24] 憲法条項が如何なる程度にせよ、立法・行政・司法を拘束する以上、まずその条項の規範内容を正しく理解する必要がある。
1 生存権の由来
[25] 生存権を人間が生きるためのぎりぎりの要求とみれば、中世紀頃より何らかの形で問題にされてきたといわれる。中世の神学者トーマス・アクイナス、近世自然法の父グロテユウスや、自然法思想家プーフエンドルフらによつて窮極権的生存権思想の誕生をみることができるが、今日の生存権思想と共通の基礎を見出すのは18世紀以降である。基本的人権は、18、9世紀においては、国民が個人の生命・自由・幸福を追求することに対する国家権力の干渉を排除すること、とくに個人の財産権を保障することをもつて基本的人権の主要な内容となし、国家からの自由をその本質とするものと考えられていたが、他方、18世紀のなかば頃、すでに私有財産制の確立にともなつて増大する富の不平等を批判し、フランスではモレリー、イギリスではゴドウインなどをはじめ、多くの生存権の主張がみられるようになつた。そしてやがて20世紀に至り、単に国家の干渉からの自由の保障のみでは、国民による真の生命・自由・幸福の追求の目的達成のためには不十分であり、国家権力の積極的な配慮・関与による、国民の「人間に価する生存」の保障が不可欠であるという考え方が強くなり、ワイマール憲法の中に「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生存を保障する目的をもつ、正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は、確保されなければならない(151条1項)とはじめて規定された。この生存権的基本的人権の規定はその後各国の憲法や世界人権宣言に継承発展された。20世紀における資本主義憲法として成立した日本国憲法第25条もまたその流れの中にあることは前にものべた。
阿部照哉・池田政章編 憲法(3)基本的人権II 有斐閣双書39頁以下。朝日訴訟第一審判決。
2 規範的意味内容
[26] 憲法第25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」第2項は「国はすべての生活部面について、社会福祉・社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定している。第1項は、第2項の生存権、教育をうける権利(第26条)、勤労の権利(第27条)、労働基本権(第28条)など社会権の諸規定に関する総則的規定であり、憲法25条はこれらの26条以下の諸規定によつて生存が保護されえない国民(労働能力や財産を有しないために生存を維持できない国民)に対してその生存を保護するために設けられたものである。
(1) 憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する。
[27] 「健康で文化的な最低限度の生活」とは肉体的・精神的側面を含めて、全体として人間としての生活といわれるに足る程度をいゝ、一定の水準が予想される。最低限度といつても、文字通りの最低の意味ではなく、「人間の尊厳にふさわしい生活」(世界人権宣言23条3項)、「人間に値する生存」(ワイマール憲法151条)と同趣旨と解せられる。そしてその保障の内容は単に国民の所得保障のみならず医療保障や社会福祉、サービス給付にも及んでいることは、25条2項が「国がすべての生活部面における、社会福祉、社会保障、公衆衛生などの向上増進につとめなければならない。」といつているところからも明らかである。また最低限度の生活水準はたえず発展すると考えられるが、単なる修飾ではなく、理論的には特定の国における特定の時点において、一応客観的に決定すべきものであり、しうるものであつて、低賃金、低収入のいわゆるボーダーライン層の現実の生活水準をたゞちに「健康で文化的な生活水準」と解してはならず、また、この水準は予算の有無によつて決定されるのではなく、むしろこれを指導支配すべきものといえる(朝日訴訟第一審判決)。
(2) 憲法第25条は生存権を無差別平等に保障する。
[28] およそ、生存権は何人も人と生まれた以上、誰しも等しく人間たるにふさわしい生活が保障されねばならないものであり、そしてそれは何よりも働らく者の階級の権利である。職員・公務員・小作農・手工業者・自営業者・自由職業者等、およそ自分の労働によつて生活するほかないすべての人々の権利であり、性別・年令・信条・人種・国籍等を理由として差別してはならない。このことは1948年の世界人権宣言にも、1953年のウイーン会議の決議にも明らかにされている。憲法14条は人種・信条・性別・社会的身分・門地等を理由に差別してはならないと規定しているが、人間たるにふさわしい生活とは、合理的理由なく差別されないことを内包するものである。
[29] イギリスの社会保障学者R.テイトマスは「社会保障における公平、適正および改革」の中で
「公平さの考察は、給付の適正さの考察がより重要になつている同じ時代に、現代の社会保障制度の中で、ますます重要となつてきている。人々はたゞ高い給付のみならず、個々の人間、グループ間、階層間およびカテゴリー間において、より公平な扱いを期待しつゝある。私はエクイテイを公平と定義づける。すなわち同様のニードにあり、同様の資格要件をみたす人々(人々の階層)は社会保障制度において同じように扱われるべきであるということ。それは正義の原則(社会法)であると思われる」
とのべている(Equity, Adequacy and Innovation in Social Security, Richard Titmuss, ISSA Review 1970, No.2)。
[30] 生活保護法も保護の要件をみなす者は無差別平等に保護を受けることができる(法2条)と定めたのも、社会保障制度審議会が、昭和37年の「答申」において、
「皆保険、皆年金の時代となつた以上は、不当な落ちこぼれの存在は許されない。各制度がそれぞれ筋を通して発展することは必要であるが、同時にそのことのために国民のなかに保障を受けない者を生ずることとなつては問題である」
とのべているのも、同様に理解されるのであつて、無差別平等ないしは公平の原則は、憲法第14条それ自体の重要な規範であると同時に、それは、生存権の規範内容でもあるのである。
(3) 憲法第25条は、最低生活の向上増進を保障する。
[31] 国は、25条2項の文言に照らしても、国民の生活水準の確保向上をはかるために社会的立法を制定するのはもとより、社会的施策を実施拡充することによつて最低生活を向上増進する責務を負うものである。

(三) 憲法25条の裁判規範性
[32] 従来、学説が生存権の法的性格を論ずる場合、憲法25条がプログラム規定であるか、あるいは法的権利であるかといつた問題の提起がなされてきた。およそ憲法の規定である以上、プログラム的性格ないし鋼領的性格を否定することはできないけれども、すでにのべたような歴史的経過をへて憲法で裁判所に違憲法令審査権を与えている以上、これらの性格は憲法条項の裁判規範性を否定する理由にはなり得ないのである。最近、憲法25条の法的性格についてプログラム規定論をとる立場でも、あるいは法的権利説をとる立場のものも、いずれの場合にあつても、内容の差はあれ、憲法の生存権条項に裁判規範性をみとめている。
1 立法および法解釈の基準
[33] 生存権規定のプログラム規定論議はドイツのワイマール憲法下で形成され、通説となつた。プログラムとは立法者にたいする解釈基準ということである。しかし、当時のドイツにあつても、生存権規定が、法適用に際しての解釈基準としての法的性格を有することをも認めていた(高田敏「生存権保障規定の法的性格」公法研究26号)。
[34] わが国のプログラム規定説とされている学説でも、法律の解釈上の基準として効果をみとめているものがある(伊藤正己「憲法入門」有斐閣)。
[35] 朝日訴訟の最高裁判決も傍論において
「厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない」
と判示し、憲法25条が少なくとも生活保護法の解釈基準になることを明らかにしている(民集21巻5号)。
山下健次「生存権の裁判的保障」法学教室(第2期)3号。
中村睦男「生存権の法的性格」法律時報48巻5号。
2 生存権規定の自由権的効果を前提とし憲法規定の直接適用
[36] 生存権の自由権的効果については通説もほゞ認めるところである。
「生存権の実現は、これを阻害してはならぬことは当然のことであり、国は生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような行為をなすときは、その立法もまた無効となり、その処分も違法であるというべく、そのような個人間の契約や団体内の規約も無効と解すべきである(注解日本国憲法)」
とするものである(同旨我妻栄「民法研究VIII憲法と私法」長谷川正安「憲法判例の研究」)。朝日訴訟第一審判決も
「もし国がこの生存権の実現すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような行為をするときはかかる行為は無効と解しなければならない」
とのべている。右は生存権規定の自由権的効果として憲法規定の直接適用される場合であると説かれている(前掲山下論文・中村論文)。
[37] さらに生存権の自由権的側面としては環境権や人格権があり、前者の場合は憲法25条のほか、13条の幸福追及権がその根拠となつているものであり(小林直樹「憲法と環境権」ジユリスト492号)、さらに同じく13条、25条に基礎をおく人格権によつて騒音の差止請求を容認している(大阪空港訴訟控訴審判決昭和50年11月27日判例時報797号)。
3 生存権の実体的権利の実現に対して加えられた法令上の受給制限条項の憲法適合性を争う場合
[38] 憲法第25条の理念を具体化した法律に基づく国民の権利ないし利益は、憲法に由来するものであり、また、憲法第25条は、国の文化経済の発展に伴つて右理念に基づく施策を絶えず充実拡充して行くことをも要求していると考えられるから、右理念を具体化した法律によつてひとたび国民に与えられた権利ないし利益は、立法によつてもこれを奪うことは許されず、合理的理由がないのに右権利ないし利益の実現の障害となる法律を制定する行為は、憲法第25条の趣旨に反することになる、という理由で、憲法第25条の裁判規範性を肯定する。いつたん法律により国民に権利が与えられた場合には、それは憲法に由来する権利として合理的理由なしに、立法によつても奪うことができないということである(宮訴訟一審判決、行裁例集25巻4号274頁)。もつとも、法律によつて定められた要件に該当しない者が、当該法律の合憲性を争う場合には立法裁量となり、違憲判断には明白の原則を持ち出しかねない(前掲宮訴訟一審判決)。
[39] 以上の2と3の裁判規範性についてみると2では生存権の自由権的側面にたいする、3では、憲法に由来する具体化された権利にたいする、各侵害について憲法25条はその違憲性を問いうるというのであるが、その関係は非常に近くまた相当部分重なり合つているように思える。2についていえば、「生存権の実現に障害となるような行為をなすとき」とは、環境権や人格権侵害のような典型的な自由権的側面の生存権侵害に限らず、立法過程の中で生存権の実現に障害となるような行為を当然含むものと解されるし、3についていえば、法律によつて具体化された生存権を、合理的理由なしに制限する立法をなすことは、2にいう「生存権の実現に障害となるような行為」でもあるわけだからである。プログラム規定論の立場に立ちながら
「国が積極的に本件に違反する立法をなした場合、たとえば法律により、困窮者に対し通常の国民よりも高額の税を課し、また一定の期間一切の生活保護行政を停止することを定めた場合などにおいては、これらの法律は直接に本条に違反する法律である。この場合は、個々の国民は裁判所に対し、直接に本条を根拠として、この法律が違憲であることを主張することができる(佐藤功「憲法演習」有斐閣63頁、我妻「新憲法と基本的人権―新憲法大系」)
という説は、右2、3いずれの類型にもかかわつているのである。
[40] したがつて、憲法25条が一般的・原則的立法裁量の枠としての意味だけではなく、生存権制限に関する厳格な合理的理由の存在を必要とするという意味での直接適用をみる要件としては、環境権・人格権といつた明確な自由権的側面における生存権侵害や、一旦法律によつて具体化された社会保障上の権利を、時間的・論理的にのちの法律の条項などによつて制限する場合に限らないのであつて、特定の社会の中で、一定の要件(甲)を備える者にたいし一定の社会保障給付(A)がなされることが社会的に形成せられつゝあるとき、あるいは立法によつて設定されようとするとき、その中のある要件(乙)を備えるものにたいして一定の社会保障給付(A)を制限する場合には、たとい同一法律の中でこれらの要件が定められるのであつても、その厳格な合理的理由の存在が必要であり、それなくしては、第25条違反の故に無効と考える。「生存権の実現の障害」になるかどうか、生存権の「理念を具体化した法律によつて……与えられた権利ないし利益」のみに限らず、生存権の理念を具体化した法律によつて……与えられるべき権利ないし利益を含めるべきかどうかは、その具体的内容に即して決められるべきで、法形式や時間のあとさきで左右されるものではないからである。
[41] このように、下級審の判例や学説のなかで、憲法25条がプログラム規定か否かの議論にとゞまらず、生存権規定の裁判規範としての効力について具体的な違憲審査基準が形成されつゝある。

(四) 具体的法的権利説
[42] 具体的法的権利説の立場から立法の不作為による生存権侵害にたいし、違憲確認訴訟の可能性を説く立場がある(大須賀明「憲法上の不作為」早稲田法学44巻1、2号)。この立場にたてば、抗告訴訟の中で、その前提となる社会保障給付制限の法律に、生存権条項を直接適用して無効を主張しうる場合のあることは当然である。

(五) まとめ
[43] 国が憲法第25条にいう生存権の具体化として各種法律を制定する場合、その内容は憲法第25条の制約を受けることはもとよりであり、事柄に応じてある範囲での立法府の裁量にまかされる部分もあるであろうが、生存権に特有な憲法上の要請から、第25条は次の場合には裁量の余地なく可なり厳格な意味での憲法適合性が問われるものである。
1 社会保障立法が憲法第25条の規範内容である、無差別平等の保障、いゝかえれば公平の要件を欠く場合、
2 社会保障立法が「生存権の実現の障害になる場合、生存権の「理念を具体化した法律によつて与えられたあるいは与えられるべき権利ないし利益」を制限する場合、社会的に形成されつゝある生存権具体化による権利ないし利益制限する場合、
[44] そして、右の1についていえば、差別の合理性、2の制限の合理性の存否は実態に即して判断されなければならない。
[45] いわゆる立法裁量における違憲判断の基準としても右の、公平の原則、ならびに権利制限の合理性が重視されなければならないが、最低生活保障、向上増進の保障もまた裁量を規制する重要な柱であるが、この点については他にゆずる。
(一) 「生活保障」「経済保障」論の誤り
[46] 判決は、[1]憲法25条の趣旨を具体化する社会保障制度の体系を、保険的方法又は直接公の負担による防貧施策としての経済保障と、国家扶助により最低生活を保障する救貧施策としての生活保障の2本建てから成るとしたうえで、[2]右2本建てのうち、最低生活を保障する救貧施策として、憲法25条1項の趣旨を直接実現する目的をもつて制定されているのは生活保障制度だけであり、[3]憲法25条1項に直接関係する法律であるかいなかの判断の主要なメドは、補足性の原則等のような具体的、個別的な保障施策としての規定を備えるか否かである、とする。判決は一面の論理整合性をもち、俗耳に入りやすい明快さを有するが、反面、社会保障制度の歴史的形成と諸施策の有機的な関係についての科学的な検討にはたえがたいものがあり、一面的な制度理解で割り切つている部分も少なくない。論ずべき問題点は多岐にわたるが、判旨の右3点に即して検討を加えていくこととする。
[47] まず、原判決が「生活保障」「経済保障」の2本建ての論拠として用いている原判決挙示の各証拠がいづれもその根拠たりえぬことは既に述べたが、そのほか関連資料として考えられる社会保障制度審議会の「社会保障制度に関する勧告」(昭和25年10月)もまた、実は同勧告はそうした二分説や、最低生活保障を公的扶助に限定する考え方にたつていないのである。保障方法としての社会保険と国家扶助、保障機能をさす防貧施策と救貧施策、保障内容をさす経済保障と生活保障という3つの観点を異にする概念[3]が判決では短絡的に2本建てに組み合わされているところに、原判決の制度理解の安易さがあるといわねばならない。たとえば同勧告において「経済保障」概念は、公衆衛生・医療の保障および社会福祉(サービス)の保障に対応して、いわば所得保障を意味する概念であつて、その具体的な制度としては、社会保障のみならず、これを補完する国家扶助を含めているのである。他方、「生活保障」とは、以上4部門の制度を総合してこれを生活保障と解しているのであつて、公的扶助のみをさしているのではない。
[48] しかし問題の中心は、「生活保障」「経済保障」なる用語のつかい方にあるのではない。それらは2本建ての制度のいわば修飾語であつて、重要なのは原判決が防貧・救貧という保障機能の区分にそくして社会保障法体系をとらえた点である。
[49] 一般に講学上の便宜として社会保険は防貧的機能を有し、公的扶助は救貧的機能を有すると説明されることは多い。おそらくその意味は、社会保険が保険という事前の拠出による危険分散制度であること、およびその事前の拠出ゆえに、保険給付は現実の困窮の有無およびその程度いかんにかかわりなく保険事故発生とともに支給されるものであることにあり、また、公的扶助は、現実に困窮に陥つた者を対象として、補足性の原則により給付を行なうゆえに「救貧」とされるのであろう。
[50] もしそうだとするならば、社会保障の進展とともに社会保険における保険的要素が稀薄化するにつれて、すなわち、拠出と給付の対応関係がくずれ、拠出の期間および額にかかわりなく給付は最低生活を維持せんとするにつれて、社会保険から防貧的色彩はうすくならざるをえない。そうした社会保険の公的扶助化をおし進めた一つの具体例が、まさに本件訴訟で対象となつた国民年金法上の無拠出年金であつて、その保障機能は、事前の拠出によらずに所得制限により一定の貧困状態にある者を対象として支給されることの一事を顧みても、簡単に防貧として片づけられないものがあるといわねばならない。
「要するに、社会保障の進展がもたらしたその構造変化や新たな型の給付の出現によつて、防貧、救貧の区別の根拠は次第にその基礎を失いつつあるのである。しかし、ここまで論ずるまでもなく、従来の観念で一見防貧にみえる給付も、現実には救貧として機能していることが多いことは、堀木第一審判決でもいわれているとおりである。たとえば『失業』という生活事故を迎えた労働者は、大部分それに対する備えもなく、もし失業保険制度なかりせばたちどころに困窮に陥るのが通常の姿であり、『防貧』としての失業保険は、機能的にはまさにその『救貧』にほかならないのである。」(高藤昭「判例にあらわれた社会保険法の体系――堀木訴訟第二審判決を中心に――」判例タイムス333号19頁)
つまり防貧か救貧かという保障機能によつて社会保障制度体系をとらえ、それを社会保険と国家扶助の2本建てにするのは、あまりにも非科学的な、現実から遊離した空理空論というほかはない。
[51] しかし問題は「防貧」「救貧」という保障機能上の概念の社会保障制度体系論としての有動性いかんにのみあるのではない。原判決の趣旨を善意に解すれば、防貧、救貧という用語自体は制度体系区分の本質的なメルクマールなのではなくて、説明の便宜上、これらの用語を用いて、要するに社会保障制度のうちには、憲法25条1項にいう「健康で文化的な最低限度の生活」の達成を直接目的とする法制(救貧)とそうでないもの(防貧)とがあり、前者にあたるものは生活保障制度のみであると言うにあるがごとくである。
[52] 憲法25条の保障する社会保障の権利については、それ以上値切ることのできない最低生活の保障を要求する権利のみならず、国民の社会生活水準の確保向上を要請する権利をも定めたものと解することができる。そのかぎりで社会保障の権利の規範的構造を緊急的生存権と生活権とにわけて理解するという立場には相当の理由があるといつてよいであろう。
[53] 問題は、右の最低生活の権利に対応して、その保障を直接目的とする制度を生活保護制度に限定してしまうことの可否であり、その判断の主要なメドを補足性の原則等のような規定の有否におくという原判決流の見解の是非である。
[54] 結論から先に述べれば、どの制度・どの給付が最低生活保障を直接目的とする法制であるかは、それがいずれも最低生活の権利の保障を目指すべきものである以上、右の両者、とくに後者の権利の内容をいかに解するかによつて決定される筋合である。そして後者の権利は、保障内容および保障方法にわけて戦後の国民経済の進展、文化の発達に伴つて形成されてきたそれぞれの内容に即してとらえられなければならない。たとえば保障内容からみれば、昭和50年度厚生白書(総論)に示されているように、最低生活の権利とは単に所得保障のみならず、医療および社会福祉サービスの3部門を含むと解される。
[55] このうち、障害児等の発達障害(それは金銭の支給のみでは満たされえない。人間らしい生存のためには専門職員による指導・訓練・介護等が不可欠である)に対する社会福祉サービス部門については、たとえばかつての生活保護制度において行なわれていた、保育に欠ける児童の託児所(旧生活保護法における援護施設)への入所、介護を要する老人の養老施設への入所、精神薄弱者の救護事業が、それぞれ社会福祉立法の整備によつて、後者の福祉措置に移行されてきている。少なくともその移行部分に関しては、生活保護制度のみによつては自足的に社会福祉サービス給付を行なえなくなり社会福祉立法との有機的な綜合によつてはじめて、最低生活が満たされうることとなつているのである。保障内容の観点からみたこの一事をもつてしても、最低生活保障の保障を単純に生活保護制度のみに限定することができないことは自明のことがらに属する。
[56] にもかかわらず、原判決のごとく最低生活保障を生活保護制度のみに限定するときは、つぎの不合理を生ずることを避けられない。
[57] 第一に、憲法25条1項の最低生活保障の内容はすなわち最低限度の「所得保障」にせばめられ、医療保障および社会福祉サービス給付はそれとしては同条項の最低保障の内容から除外されることとなる。けだし、現行生活保護法制の下では所得が生活保護基準以下になければ、医療扶助、教育扶助、生業扶助等による医療・社会福祉サービスも給付されることはないのであり、これらの給付がまかなう独自のニードも実定生活保護基準をはなれては充たされることがないからである。第二は、そうしたことの結果、わずかな資産ゆえに保護を受けえない低所得者層にあつては、保護受給者と同様のニード(たとえば医療扶助の必要)をもつにもかかわらず、権利としてその保障を受け、現実の救済に浴しえないという不合理極まる差別をもきたしやすいことになる。

(二) 最低生活保障と年金
[58] つぎにより重要な問題は、かりに最低生活保障の内容を所得保障にかぎるとして、その保障方法は公的扶助のみに限定されるか、という問題である。言いかえれば、年金給付は最低生活保障に直接関しないか否かという、国民年金制度ないし児童扶養手当制度と憲法25条(1項)の要請する「最低生活保障」との関連如何の本件訴訟の問題である。
[59] 右の問題を戦後の立法の生成展開に即してみると、そこに最低生活保障方法の前進を認めることができる。たしかに敗戦直後の生活窮乏状態のもとでは、最低生活保障の方法は現に窮乏にあるものの救済すなわち公的扶助にほかならなかつた。昭和21年旧生活保護法は敗戦直後の事態収拾という性格を強く担つて生まれたのであつた。しかし、当時からすでに最低生活保障を公的扶助に短絡してとらえるのではなく、最低生活保障のための有機的な制度体系を求める動きがなかつたわけではない。昭和21年3月設置された社会保険制度調査会の「社会保障制度要綱」はイギリスのビヴアリツジ報告を参考にしつつ、それ以上に徹底した姿勢・内容のうかがわれるものであつたし、先述の社会保障制度審議会の昭和25年勧告も、基本的構想として、定型的な貧困原因(危険)に対して所得保障を行なう社会保険を中心として、扶助制度をその補完におき、さらに公衆衛生および社会福祉の向上を加えて、これらの制度が相互の関連をもちつつ統合一元的に運営され、もつてすべての国民が文化的社会の成員たるに値いする生活を営むことができるようにするという構想を現にかかげていた。したがつて憲法25条制定当時においてすら最低生活保障を公的扶助に限定するという考え方が支配的であつたわけでは決してない。むしろILOの「社会保障への途」(昭和17年)、ビヴアリツジ報告書(昭和17年)の戦後のわが国への影響のもとで、いわゆる普遍主義の方向が追求されてきたのであるが、たまたま当時の異常な社会状況下でそれが実らなかつたというだけのことである。かくして、社会保障制度審議会の昭和25年勧告にもられた全国民を包含する年金制度が実現したのは結局昭和30年代後半に入る時期であつて、昭和34年国民年金法の制定によつて、ここにともかく皆年金体制の形が整うことになつたのである。さらに昭和40年代後半には、その形に最低生活保障的要素がこめられ始めた。すなわち、年金給付法の中核をしめる厚生年金(老令年金)の標準的な給付水準が直近の男子の平均標準報酬の60%と基準化され、かつこれにある程度連動して国民年金水準が決定されるとともに、老令福祉年金の生活保障的要素が強められてくるのである。といつても、老令福祉年金の給付額は生活保護基準との水準比でみた場合、後者の42%(昭和49年)にとどまることも事実である。ただ拠出制年金のなかに最低年金保障があらわれ……わが国に年金額についての最低保障の思想があらわれたのは、昭和29年改正後の厚生年金における定額部分の設定である。……かつ拠出制に参加しえなかつた者にも老令福祉年金などの経過的年金のみならず、恒常的な保険料免除期間(生活保護受給期間を含む、すなわち被保護者も年金権を有することに注意すべきである)対応給付も含めて、これらの無拠出年金を通じ最低年金を保障せんとする法形式が形成されると、それはまさに「年金の形をとおした最低生活の保障」の生成にほかならない。そこに最低生活保障方法としては、これを公的扶助に限定する考え方から社会保険(年金給付)を優位せしめる考え方への立法上の転換が容易に認められるであろう。
[60] 周知のごとく最低所得保障の方法としては選別主義と普遍主義の2つの方法が対立している。このうち選別主義の考え方にたつ公的扶助では、個人的ミーンズ・テストを使うことによつて貧困者を選別し、暗黙のうちに貧困者の烙印をおし、結果的に新たな社会的差別をきたしやすいことは看過しえない問題点である。そのために受給者は人間の尊厳を傷つけられやすく、他方受給資格者の何割かはあえて受給を拒むという結果にもなる。人間の尊厳を根源的要請として含むところの最低生活保障の方法としては、より普遍的な社会保険(年金給付)制度こそ第一義的のものとして把えられねばならないのである。
[61] 以上要するに、年金給付はその施策単独で憲法25条第1項にいう最低生活保障を行なうよう現行制度でこそ規定されてはいないものの、公的扶助と同様直接にかつ公的扶助より優先性をもつて最低生活保障を行なう制度として地位づけられるべき性格のものであることは看過してはならない。年金給付の地位はあたかも他の個人的資力と同じように間接的ないしは事実上最低生活維持に寄与することがあるなどというものでは決してない。またその優位性は単にどちらが先に最低生活維持に利用されるかという手続的先後をさすものでもない。ただ補完的な給付においては、それが最終の救済手段であるが故に絶対的基準「確保」というぎりぎりの決着の要請が支配するのに対し、優位的給付においては、絶対的基準「先取り」の一般的亜流の下にはあるとしても、その給付要件、水準が憲法25条1項により一義的に覇束されないという事情が存するにすぎない。しかしそれらの基準はまさに立法において形成されているのであつて、補完的かつ劣位の地位にある公的扶助の存在を理由に、この基準性や優先性をないがしろにしもしくは否定するなどという原判決流の考え方は、本末顛倒、思わざるの甚しきものというほかはないのである。

(三) 社会保障制度の「総合考慮」
[62] ところで、原判決は一方で、最低生活保障を生活保護制度に限定しながら、他方で、
「憲法第25条は、すべての生活部面についての社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進を図る諸施策の有機的な総合によつて国民に対し健康で文化的な最低限度の生活保障が行われることを予定しているものと考えられる」とか、「すべての施策を一体としてみた場合に、健康で文化的な最低限度の生活が保障される仕組みになつていれば、憲法25条の要請は満たされている」とか、あるいはさらにすすんで「社会保障施策は多岐にわたつているが、これらが総合作用して、はじめて憲法25条の趣旨が具体的に実現されるよう仕組まれている」
などと述べて、社会保障制度の多彩さとその相互補完性を強調する。そして、
「個々の社会保障施策については、各々どのような目的を付し、どのような役割機能を分担させるかは立法政策の問題として、立法府の裁量に委ねられている」のであり、したがつて「年金や手当の併給調整又は禁止をしても、そのことだけをとりあげて、一概に国民のニードに応じない施策をしたものであるとはいえない」
と結論づけるのである。
[63] しかしながら、こうした立論は一見、綜合的な見地に立脚しているようで、実は、社会保障制度の体系と個々の部門・施策の役割をあいまいにする議論であつて、防貧・救貧の二分論とはちがつた意味で、やはり社会保障制度の体系の正当な認識を欠く議論というほかないものである。
[64] 第一に、この立論は防貧・救貧の二分論と矛盾する。すなわち、生活保護制度によつて憲法25条1項の最低生活が満たされるとするのであれば、さらにそれは加えて、「すべての施策を一体として」もしくは「総合作用してはじめて」健康で文化的な最低生活が保障される仕組みとなつていることを憲法25条の要請とすることは明らかに論理矛盾である。
[65] むしろ、生活保護制度によつて最低生活が満たされるというのであれば、その余の施策は、25条の要請としては、極論すれば全くなくてもよく、「一体として」保障するとか、「有機的な総合」とかはどうでもよいことになるであろう。しかしこれが、社会保障制度体系の歴史的形成とその意義の理解を明らかに誤つていることは前述のとおりである。
[66] 第二に、憲法25条の趣旨を具体化しようとする施策は年金や手当制度の外に、数多くの施策がなされているとはいえ、それらはそれぞれ各種の生活事故・ニードに対応しているのであつて、性格上、相互に代替しうるものではない。たとえば、本件の身体障害者である母が児童を養育している場合の養育費の出費(ニード)に対応する給付は児童扶養手当であつて、
「身体障害者福祉法等に基づき公的機関による相談指導、身体上の障害を軽減し、あるいは除去して日常生活能力、職業能力の向上を図るための厚生医療の給付、身体上の欠陥を補うための補装具の交付、特別の医学的治療、生活訓練を必要とする者を対象にリハビリテーシヨンを行うための身体障害者更生援護施設への収容の措置」
ほか、原判決が列挙する給付はすべて、この児童扶養手当に代替しうる性質のものでないことは言うをまたない。要するにこれらの施策があれこれあつても、またそれらの観念的な「綜合」によつても、児童養育に必要な本来のニードが充たされるわけでは決してないのである。
[67] 本件事案をめぐつて社会保障制度の綜合考察をすすめるとすれば、まさに年金・手当が生活事故の発生に即して所得保障を行なう給付であり、生活保護に比して優先的地位にたつこと、児童扶養手当は児童養育に固有のニードに対応する給付であつて、本件の場合、この給付に代わりうる給付がないこと、そして国際的にも、わが国でも(本件の併給禁止規定をのぞけば)、児童養育ニードに対応する給付と年金とは、その性質上併給が原則であることなどの諸事情こそがふまえられねばならないのである。
[68] 原判決は併給禁止を正当化する最大の論拠を次のところに求めている。
[69] すなわち、児童扶養手当も障害福祉年金も「稼得能力の低下、喪失に対する所得保障」という面において同一であり、同一人に対して両者を支給することは、「二重三重の保障をすることになり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失することになる」、というのである。
[70] しかしながら、原判決が児童扶養手当を「母又は養育者の稼得能力の低下、喪失に対する給付」であると解したのは、原判決が社会保障制度にかんする十分な認識を欠き、児童扶養手当制度の意義を誤解し、同法の解釈を誤つた結果である。
[71] 右については、すでに上告理由書第五(176頁以下)において一部のべたところであるが、さらに次のとおり論旨を補充する。
[72] 原判決は、自らの解釈の正当性を根拠づけるものとして
[1] 児童扶養手当法立法の経緯
[2] 同法第1条「父と生計を同じくしていない児童について」の文言
[3] 同法第4条第1項「母又はその養育者に対し」支給する旨の文言
を挙げている。
[73] しかし、その何れも論拠となり得ないばかりでなく、むしろ原判決とは逆の結論を導くべき根拠である。
[74] 右については、上告理由書177頁以下にのべたので、以下[2]および[3]について順次のべることとする。
[75] まず、どのような立場をとるにせよ、家族手当制度の一般的な意義とその変遷についての理解を抜きに本件を論ずることはできない。
[76] そこで、左に家族手当制度の意義と歴史について、簡単にふれておく。
[77] 児童の養育が家計を圧迫し、同時に、貧富の差格差のある家庭環境で児童が育つ不平等を是正するために、家族手当制度が社会保障制度にとり入れられたのは、ニユージーランド(1926年)、ベルギー(1930年)、フランス(1932年)などが最初であつたが、1973年現在では65カ国に増加している。
「家族手当制度についてはILOの条約勧告においても、「所得保障勧告」(1944年、67号)では、II、社会救済、A、子女の生活維持、として、第28(1)~(5)までに規定され、「社会保障最低基準条約」(1952年、102号)では、その第7部に「家族給付」として40条~45条の規定がおかれている」
[78] ところで、家族手当制度は、戦前および第二次大戦直後の頃までは、多子のために家計が圧迫され、またそのような家庭環境で育つために、児童が差別的処遇の下におかれるのを緩和するという点に、制度のおもな趣旨がおかれていた(とりわけ、1944年「所得保障勧告」)。しかし、その後1970年代までに制度の普及をみるうち(現在65カ国)、家族手当制度は、その多様化・一般化の点で、新しい展開を示すに至つている。
[79] 第一に、第1子から手当を支給する制度をもつ国がますます増加しており(55カ国)、最近では西ドイツも1974年8月改正法公布、75年1月1日から実施した。
[80] このように、第1子からの手当支給が一般化することは、児童養育の家計への圧迫を、多くの国々が、多子のみを原因とは考えなくなつたことを意味する。さらにまた、低所得・低賃金の世帯、児童が18歳をこえて職業訓練・高等教育を受ける場合、障害者の子など、その世帯または子が広義のハンデイキヤツプを受けている場合に、その多様性に応じて、手当を支給する国際動向がみられ、さらに、フランスの共かせぎをしていない低所得労働者の妻に対する主婦手当や、イタリアの家族手当制度における児童以外の扶養家族に対する手当のように、家族手当支給の目的が、児童の養育ばかりでなく、さらに広い家族的扶養に対する社会的給付となつた場合もでてきている。
[81] わが国に家族(児童)手当制度がとり入れられたのは、諸外国にはるかにおくれて、戦後も高度成長時代になつてからのことである。児童手当の先駆的属性をもつといわれる児童扶養手当(昭和36年)、特別児童扶養手当(39年)は特殊・限定的な性格をもつていたが、ついで、全児童を一率に対象とする児童手当法が成立(46年)するに至る。(小山路男、山本正淑編「社会保障法教室」有斐閣78頁以下参照)
[82] 右にのべたような一般的理解を前提にして児童扶養手当の要件から逆に手当の性格を考えてみる。
[83] 原判決は、
「母子年金及び母子福祉年金の場合には支給条件として、『夫によつて生計を維持していた』者ということになつているのに対し、児童扶養手当の場合には、支給要件規定のうちに同旨の文言がない」けれども、「児童扶養手当法第1条に『父と生計を同じくしていない』との文言が入れられてあることによつてみれば、児童扶養手当も、母子年金、母子福祉年金と別異に解すべき理由はない」
という。すなわち、母子(福祉)年金における「夫によつて生計を維持していた」の要件と、児童扶養手当における「父と生計を同じくしていない」の要件とを同一視している。

[84](一) ところで、「生計を維持していた」ことを要件とするのは、夫の死亡によつて、扶養を喪失した母子に対して、またこれのみに対して給付を開始するという趣旨であり、扶養の喪失=「遺族の稼得能力の喪失」と擬制するのである。
[85] これに対し、「父と生計を同じくしていない」とは、右とは異なる概念であつて、“父の扶養を(現に)受けていない”ことのみを要件とする趣旨である。そして“父の扶養を(現に)受けていない”理由については、父の死亡、父母の離婚などの理由を問わず、あらゆる場合を含むのであるから、そこでは“(従来受けていた)扶養の喪失”を問題にしていないことが明らかである。すなわち「父と生計を同じくしていない」ことを以て“扶養の喪失”=遺族の稼得能力の喪失と言いかえる余地はない。
[86] そうだとすれば、「夫によつて生計を維持していた」という要件によつてではなく、たんに「父と生計を同じくしていない」ことを要件として支給される児童扶養手当を、原判決のように、稼得能力喪失に対する給付であると解すべきではない。少なくとも、母子(福祉)年金と同一の性格をもつと断定する余地は、全くない。

[87](二) 同様に所得保障の類型として、『失つた所得に対する補償』と……子女の扶養という事故がある限り、支給されるべきもので、『所得への恒常的な補給』という区別があることは、国際的に理解されている」ことは原判決も承認する。この理解を前提にする限り、「夫の死亡による稼得能力の喪失」に対する母子(福祉)年金の制度と、「父の不在による扶養の困難ないし不能」に対する児童扶養手当の制度とは区別して考えられるべきであり、この前提から「児童扶養手当は遺族給付に近似したもの」という原判決の結論は出てこない。
[88] 児童扶養手当法4条1項によれば、手当を支給されるのは、児童を監護する母もしくは、児童を養育する者である。即ち、手当受給の母が、児童を第三者に養育してもらうようになつた段階では、もし遺族給付であれば、母親がひきつづきその給付を支給されるものであるのに対し、児童扶養手当においては、母は給付を受けられなくなり、現実に児童を養育している者に支給されるのである。このように、児童扶養手当は、児童と共に移動する……児童についてまわる手当である(原審・河野証言・角田証言)。そしてこのようなる場合、「養育者」であことには何の制約も定められていないのであるから、「養育者」の稼得能力の低下を論ずる余地はない。
[89] 又、同項3号によれば、父が廃疾の状態にある児童の母もしくは養育者にも手当が支給されるのであるが、かかる場合に、父の廃疾状態に対応する公的年金給付は、児童加算の部分を除いては児童扶養手当と併給される(同条2項5号)のであるから、これまた稼得能力の低下を論ずる余地はない。
[90] 更に、同法5条によれば、手当の額は第2子から加算をされることになつている。これまた、稼得能力の低下とは無関係のものであり、坂本証言も、「児童の数と関連をした給付」であることを認めるとおりである。
[91] 受給権者にかんする法第4条第1項の定めは、児童扶養手当の家族手当としての性格をいささかも損なうものではない。
[92] なぜなら、国際的にも、家族手当―児童手当の受給権者は父母(又は養育者)とされるのが原則であつて、母(又は養育者)が受給権者になつているからといつて、家族手当―児童手当でないということはできない。手当は母(養育者)が受託者として交付を受けるものであつて、母(養育者)の収入と認定してはならない(ドイツ連邦共和国、連邦行政裁判所1965、1、27判決、Fuersorgerechtliche Entscheidungen der Verwaltungs und Sozialgerichte Bd.12 S.81)
[93] 児童扶養手当は、母なるが故に受給しうるものではなく、児童を監護する母・養育をする者が、児童の監護・養育をするためにのみ受給しうるのである(児童扶養手当法1条・2条・4条1項・14条3号)。その手当の使用方法が右の趣旨・目的に拘束される社会規範が存在することは既に述べたとおりであり、実務上も「支給対象児童」なる言葉が用いられているのである。つまり、児童の養育を受ける権利(児童福祉法1条・2条参照)に対応して支給される手当である。かかる性格の手当については端的にその児童に対して与える(従つて親権者に支給する)よりも、監護・養育する者に支給する方がより確実にその目的を達しうることは明らかであろう(民法830条1項参照)したがつて、手当が「母又は養育者に対し支給」されるから、稼得能力喪失に対応するものであるという原判決の見解は、全くの独断論という外はない。
[94] 原判決は
「児童扶養手当は法第4条第1項所定の母又は養育者にこれを支給し、その所得保障をすることによつて最終的には児童の福祉の増進が図られ、児童の心身の健やかな成長に寄与することになるのである。母子年金、母子福祉年金も最終的には全く同じ効用をもつものであると考えられる」
と判示したが、法第1条、および第2条は、手当が「児童の福祉の増進」ならびに「児童の心身の健やかな成長に寄与すること」を直接の目的として支給されるものであると規定しており、右目的外の手当使用が支給停止の理由となる(同法14条3号)ことは既にのべたとおりである。
[95] 原判決は、手当が「母又は養育者の稼得能力の低下、喪失に対する給付」であると定義づけたが、それでも「児童の福祉の増進」等を目的としていることを否定しきれなかつたため、後者を「最終的な目的」とコジツケたのである。しかしこの結論は法文と矛盾する。
[96] 右判示から、われわれは、手当と母子(福祉)年金とは、“最終的にのみ同じ効用をもつ”ことを読みとることが可能である。
[97] 原判決は、
「児童手当は『多子』による負担増加に着目し、すべての世帯にこれが手当を一律に支給する」制度であり、また「児童手当あるいは家族手当は、世界各国の例をみても、子女の扶養を要件として一般家庭における平均的生活状態に着目して給付を行うのが普通で「扶養」以外の両親の一方が欠けているとか、児童が心身障害児であるとかいう特別の事由について支給要件、給付額を変えることをしているものはないことが認められる。」
から「いずれにしても児童扶養手当をもつて、児童手当の一であるとはいい難い。」という。
[98] しかし、国際的にみて、第1子から手当を支給する制度をもつ国がますます増加していることは既にみたとおりであり、要するに、児童手当は「児童養育の家計への圧迫」を軽減ないし解消するための制度となつている。
[99] 次に、欠損家庭における児童手当の制度については、国際社会保障評論第24年度第1号の第2論文(甲第65号証)に記載されているようにニユージーランドにおいては、家族手当―児童手当の制度として、わが国の児童手当に相当する「フアミリー・ペネフイツト(家族手当)」と、わが国の児童扶養手当に相当する「フアミリー・メインテナンス・アロウアンス(家族扶養手当)」とが併存している。又、国際社会保障協会会報第18年度、7・8・9月合併号の第17報告(甲第69号証)415ページ以下には、ドイツ連邦共和国・ベルギー・アイルランド・ノルウエー等で、両親もしくは片親のない児童に対する手当が様々の形で、一般の家族手当とは別に支給されていることが明らかにされている。
[100] 「国際社会保障評論」第28年度第1号、1975年掲載の論文「片親家族の所得維持……イギリスの片親委員会のため、国際社会保障協会事務総長がおこなつた調査プロジエクトの報告」15頁以下には、次のような事実がのべられている。
「特に興味があるのは、片親家族の児童に対する特別家族手当の支給である。ノールウエイにおいては、片親(寡婦も、離婚者も別居者も未婚の者も)は、扶養している児童の実際の数より児童1人分多く手当を受給する資格がある。(16才以下)。そこで、2人の児童をもつ、生活保障(支え)のない母親は、児童3人分の手当を受ける。そしてそのことは、各児童に対する手当支給が、児童数が多くなるほど増額されるので、総額は倍になるのである。
 デンマークの制度においては、片親家族は、家族手当制度から、かなりの額を受けとる。
 その選択される方法は、片親の(18才までの)児童に対して、特別家族手当を支給することである。通常の家族手当より、50%近く高い、増額された家族手当が、寡婦、未婚、離婚又は別居の母親に支給される。さらに、片親家族は、その家族における児童数にかかわらず、定額の、特別家族手当(extra family allowances)を受ける。
 この増額及び特別の家族手当に加えて、特殊家族手当(special family allowances)からの、一定のデンマークの片親に対する給付は、両親家族に対する通常の家族手当の率の倍になる。この特殊家族手当は、寡婦又は男やもめの各児童及び父である者の地位が確立しなかつたか又は確立できなかつた私生児に対してだけ支給される。」
[101] また、イギリスにおいては、夫と離婚した婦人に対する特別の児童手当(Child's special allowance)が支払われる。(W.E.Baugh, Introduction to the Social Services)
[102] 以上のように、諸外国においては片親ないし両親のいない児童に対し、増額されたあるいは特別の児童手当の制度がある。
[103] 右事実を看過した原判決の前記判示は、従つて、前提において失当である。
[104] わが国における児童扶養手当に類似した制度は既に諸外国において存在し、これらは国際的に家族手当ないし、児童手当の一類型として承認されている。
[105] 原判決はかかる事実についての認識を欠き、その結果、児童扶養手当は国際的にみても児童手当とはいえないとの誤つた帰結に到達した。右は正さなければならない。
[106] 以上の諸点において原判決が、児童扶養手当を母又は養育者の稼得能力喪失に対する給付であり、遺族給付類似の給付であるとしたことの誤りが明らかとなつた。
[107] 右手当は、児童扶養手当法第1条、2条、14条3項など法の明文を無視しない限りは、受給権者の児童の養育という負担に対するもので、稼得能力喪失とは全くかかわりのない給付であることが明らかである(上告理由書185、186頁の表参照)。
[108] したがつて、手当と、障害福祉年金とは、その支給の趣旨、目的において、いささかも重複することがない。
[109] 原判決は本件併給禁止規定の違憲・合憲についての判断をするにあたつて、被上告人側の主張をほぼ全面的に採用している、特異な判決である。原判決は、そもそも違憲立法審査権を行使するにあたつては、当該の係争の法令条項が違憲にあると判断するがためには「立法府が恣意によるなどして、判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない」と判旨し、更に憲法25条の解釈・適用についても、後述するように、特異な立法裁量を理由にして、本件併給禁止規定を全面的に合憲としている。

[110](一) ところで原判決の立法裁量論は、前述した判旨――恣意的でなければ違憲審査はすべきではないとした判旨――によれば、当該併給禁止条項によつて禁止されている上告人のような立場にあるものまで、禁止することが、事実に即して(別言すれば生活実態に即して)恣意的であるか否かを検討しなければならないのにもかかわらず、何らかの検討、検証もなく安易に立法裁量論によつて併給禁止規定の合憲性を承認している。
[111] これは、ことさら事実に目をつぶる立法裁量論であつて、後述する判例の立法裁量論――具体的規制の目的・必要性・制限される権利の性質等について検討を必要とするところの合理的立法裁量論――からみても、到底相いれない立法裁量論といわなければならない。

[112](二) また憲法は一般に国会がある法令を制定するにあたつて(例えば憲法47条)、ある範囲内において、立法府の裁量を認めていると解されるのであるが、司法府は、違憲審査をするにあたつて、前述した立法府の裁量権を尊重する必要があるといわなければならない。
[113] 同様なことは、行政府の裁量問題についてもいえる。
[114] しかし行政府の裁量にあたつてキ束裁量及び自由裁量があるように、立法府の裁量についても、広狭があるといわなければならない。ある場合には、立法府の裁量の範囲は極めて狭く、法を制定することも、制定した法の内容も憲法によつて強く拘束をうけることがある。どの場合が、右の場合にあたるかは、一律に論ずることができないが、憲法の明文の規定等を参考にしながら、右の場合を確定することはできる。
[115] 本件に即していえば憲法25条の規範的意義は、立法府にどのような拘束を与えているか、立法府の裁量の限界はどこにあるのかということが問題となる。
[116] 以上(一)、(二)のことがらが、本件で問題とすることがらである。そして結論を述べるならば、原判決のような立法裁量論の絶対化というべき、立法裁量論は、憲法の解釈としても、判例の到達点からみても、到底相いれない特異な立法論である。
[117](一) 原判決は違憲立法審査権の行使及び憲法25条の1項、2項について分断して解釈をし、同条2項については、全面的に立法裁量が働き、本件併給禁止の問題は、憲法25条2項の問題であるから、違憲の問題は生じる余地はないとした。原判決のように、憲法25条1項、2項を分断して、2項については全面的に立法裁量論が及ぶとした、社会保障の判例は、原判決が初めてである。そしてまた、何故、原判決のような形での特異な立法裁量論が憲法上許容されるのかについて十分な理論的根拠の展開のない判決も原判決が初めてである。
[118] そこで原判決の立法裁量論と判例に現われた立法裁量論のどこが異なるのか原判決の立法裁量論はどのような意味で特異なのかについて、明らかにしたい。

[119](二)(1) わが国の判例で早い時期に立法裁量論を展開している最高裁判例としては、和教組専従事件(最判昭40・7・14)がある。同判決は
「右の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考慮し、両者が適正な均衡を保つことを目的として、決定されるべきであるが、このような目的下に立法がなされる場合においては、具体的に制限の程度を決定することは、立法府の裁量権に属するものというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでないかぎり、その判断は合憲・適法なものと解するのが相当である」
とした。同判決は、公務員の労働基本権についてもその制限ないし禁止立法の合憲性の目的を比較衡量論を用いて安易に肯定したうえに、その規制の程度は立法政策に関するものとした点で特異であつた。この意味で、前記和教組判決は、当初の立法裁量論の先駆的意味をもつ判決となり、その後の立法裁量論に一定の影響を与えることになつた。
[120] しかし、右の判旨にもかかわらず、労働基本権という、基本的人権の規制手段が何故あげて立法政策に関するものとして、憲法判断の対象の外にあるのか、憲法28条労働基本権保障の趣旨の並びにその歴史的意義に照して、立法府は多くの拘束をうけるのではないか、憲法28条と立法裁量の関係はどうなつているのか、等々について多くの批判が学界より集中した。その後、これらの問題に答えるかのように、最高裁は、全逓中郵事件判決(最判昭41・10・26)で、労働基本権の制約に関する、有名な4条件の提示ということを行ない、間接的にではあるが労働基本権問題には、立法政策論を、基本的人権制約の法理としてとらないことを表明するに至つた。
[121](2) また経済的自由に関する、その意味では最も立法政策になじみ易い分野とされていた事件である小売市場許可制合憲判決(最判昭和47・11・22)では
「憲法は国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ」るとしたうえで「社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかはない」としながらも国が個人の経済活動に対して立法により、一定の規制措置をすることは「それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り」許されるのであり、その「規制の対象、手段、態様等においても、自ら一定の限界」がある
とした。これは、立法政策論に一定の歯止めをかけようとする傾向を示したものであり、立法政策論の限界が明らかにされるのは、もはや時間の問題となつていた。
[122] その後最高裁は同様の経済的自由に関する薬局距離制限に関する事案(最判昭50・4・30)
「これらの規制措置が憲法22条1項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容及び制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考慮したうえで、慎重に決定されなければならない」
と一般論を述べ、これらの検討と考量は「第一次的に立法府の権限と責務」としながらも、
立法府の判断の「合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照して、これを決すべきものといわなければならない」
として、当該規制措置を違憲と断定して、立法政策と個人の経済活動の自由の関係、国の介入の限界、規制の手段の合理性等についてまでふれるという画期的な判断を示して、立法政策論と基本的人権との間に存する問題に正面から答えるという立場をとるに至つた。
[123](3) 最後に立法裁量論ないし立法政策の問題の判決としても有名であつた国会議員の定数配分に関する事件を紹介しながら、一定の問題について、立法政策が固有なものでもなければ、必然でもないこと並びに立法政策の問題と基本的人権の衝突という場合に立法政策の限界、限界を示す基準は何かということについて、明らかにしたい。
[124] 従来最高裁は、最大判昭39・2・15をはじめとして、最判昭41・5・31、最判昭49・4・25に至るまでは各選挙区に如何なる割合で議員数を配分するかは、立法府である国会の権限に属する立法政策の問題であるとしていたのであるが、昭51・4・14日に最高裁は、画期的な判例変更を行つた。即ち前記判決は、憲法14条と15条、43条2項、47条との有機的関連にふれて投票価値の平等については
「国会がその裁量によつて決定した具体的な形における実現を必要とするものではないけれども、国会がその裁量によつて決定した具体的な選挙制度において現実に投票価値に不平等の結果が生じている場合には、それは国会が正当に考慮することのできる重要な政策的目的ないしは理由に基づく結果として合理的に是認することのできるものでなければならない」
とされ、国会で決定した具体的選挙制度であつても、それが憲法上の選挙権の平等の要求に反するものでないかどうかにつき、常に格別の吟味及び検討が必要であるとした。そして合理的に是認されるか否かの具体的基準としては
「具体的に決定された選挙区割と議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかはないというべきである」
とした。この判決は、議員定数配分に関する前述した最高裁判決と対比してみるとき、次の点で画期的な意味をもつているというべきである。まず第一に、憲法14条の要請する平等原則を正しくふまえたことである。第二は、裁量権の行使が合理的でなければならないことを前提として、その裁量の限界を超えた場合には、特段の理由が示されない限り裁量の限界を超えたものと推定していること。第三に、前記の限界を超えたか否かの基準について抽象的ながら「国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしても、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度」という基準を設定したこと。第四には、いうまでもないが、従前の判例にこだわらず、違憲審査権を行使したことである。
(一) 立法裁量論の憲法上の根拠と限界について
[125] いうまでもないことであるが立法裁量ないし立法政策(以下立法裁量論という)についての憲法上の明文の規定があるわけではない。しかし憲法上の明文の規定があるわけではないが、立法裁量論が憲法の解釈、法令の合憲性の一つの基準として用いられていることもほぼ争いのないところである。
[126] 立法裁量論の根拠を憲法にみい出すとすれば三権分立主義に求められる。三権分立主義は、立法・行政・司法の相互抑制をその本質的機能として有するから、司法権が憲法上、違憲立法審査権が認められているとしても、立法府の固有の領域を侵すことができないというところにある。
[127] 立法府は、憲法上議会制民主々義に基づいて運営され、憲法上の例外を除いて立法府のみが法律制定の権限を与えられている。この権限は立法府に固有なものであり、司法権といえども侵すことができない。
[128] 他方立法府は、法律制定の権限を与えられているとしても、如何なる法律を制定することも、しないことも自由であるわけではない。立法府の法律制定にあたつては、憲法上各種の制約があるといわなければならない。例えば、立法府は基本的人権を侵害する立法をなすことは、憲法上できないし、また憲法で一定の立法を講ずべき義務があるのに、これを立法しない不作為の自由があるわけでもない。前者の場合には、司法府の違憲立法審査権によりテストをうけることになるし、後者の場合には、明文の規定がなければ提訴等の争訟方法を原則としてもたないだけであるが、憲法違反の状態がつづくことには変わりがない。
[129] 憲法と立法府の裁量との関係について一般的にいえば「国会が法律で制定しようとするその事項について、憲法がどのような規定を設けているかによつて定まる」と考えるべきであり、これを類型化するとすればある事項について国会が法律を制定しようとする場合に憲法が[1]全く規定を設けていない場合[2]多少規定を設けているが詳細は法律に委ねている場合[3]抽象的に所謂多義的概念あるいは不確定概念を使用し、それについての規定を設けている場合に分けることができる。(阪大法学(40・41)88頁以下の覚道豊治論文による)これらのうち特に[2]、[3]の場合には、憲法の規定の仕方により、どの程度まで国会に裁量の巾を認めているかがわかる。
[130] しかし、憲法が何らの規定を設けていない場合でも憲法の根本原則――主権在民、平和主義・基本的人権の尊重――や憲法の全体の精神からくる法律へのキ束があるのであつて、その意味では全ての法律が憲法のキ束下にあるということができる。従つて憲法との関係において立法府の裁量の問題を考える場合には、裁量の広狭が問題となつても、無原則の裁量が問題となるわけではない。立法府の裁量の問題を安易に考慮したり、裁量の巾を広げたりすることになれば前述した憲法によるキ束の意味はなくなり、そのことは同時に司法府の違憲審査権を無意味なものにしてしまうことになる。一般論としては、立法府の裁量事項は右に述べたように、憲法上多くの制約を伴なうことになるが、問題は、何が立法府の裁量にあたるか否か及び立法裁量論の範囲・限界等がどこにあるのか、その判断の基準を具体的にどのようにみい出すかというところに立法裁量論ないし立法政策論と違憲立法審査との内に存する労苦がある。
[131] 原判決のように立法裁量論を安易に認めてしまうことになれば違憲立法審査権の憲法上の意義を実質上抹殺することになり、ひいては憲法上の諸人権を空洞化することにも連なるといわなければならないであろうし、このようなことでは憲法によつて与えられた司法府の使命を放棄することにもなりかねないといわなければならない。
[132] そしてまた重要なことは何が立法府の裁量の範囲内かは憲法上の明文の規定がないからその範囲の確定は司法府の憲法解釈に委ねられていることである。二で述べた立法裁量に関する判例の流れを検討したのも、右のことを確認するためであつた。このことを前述した議員定数配分規定違憲判決に至る軌跡をみれば明白である。高裁、最高裁、高裁、最高裁・高裁で数回にわたり「立法政策の当否の問題に止まり違憲問題を生ずるとまで認められない」とされていたものが前述したように画期的な判例変更を行うまでに至つていることはこのことを端的に物語つている。
[133] 以上のことがらを前提とするかぎり村上前最高裁長官の憲法記念日での談話
「五法政策のような、立法府の裁量にまかされた事項にしいて介入すべきでないことは、三権分立の建前上明らかだが、国民の権利擁護のため必要があるときは、当然その権限(違憲審査権)を行使すべきである」
とか前述の薬事法判決についての同長官の
「立法府の裁量権とのかねあいで、違憲審査がどこまで踏み込んでいくべきか、という点に苦心があつた」(公法研究37号36頁)
と語つたということは、一つの意見として傾聴に値する。

(二) 憲法25条と立法裁量について
[134](1) 立法裁量が問題となる場合、例えば前述の議員定数の配分の事件では、憲法14条と同43条2項の関係が問題となり、議員定数は法律で定めるとなつているから、その定め方の問題は、原則として立法府の権限であることが明白であるのに反して憲法25条に関しては、右のような憲法上の明文による法律の定めがないことに大きな特徴がある。
[135] がしかし、憲法25条の趣旨を実現するためには、具体的な法律の定めを待たなければならず、かつまた法律を実施するためには国会の議決を経なければならない点で、立法府の関係がでてくる。その意味で憲法25条の場合にも、立法裁量ないし立法政策の問題がでてくることになる。
[136] 憲法25条と立法政策の一般的関係は右のようなものであるが、憲法25条と立法政策、立法裁量論の問題を考える場合には、次の点の検討が不可欠である。
[137] それは、憲法25条の規範的意味は、立法府をどのように拘束するのか、立法府の裁量の範囲の限界はどこにあるのか否か(勿論前述したところから明白のように、立法府の裁量自体が合理的なものでなければならないことを前提にしてではあるが)という点である。
[138] そこで憲法25条と立法府の裁量の問題で当面考えられる、次の3つの場合を検討して、原判決の前記の記述が全く憲法上の根拠をもたないものであることを明らかにする。
(2) 憲法25条の規範的意味からくる立法府の裁量の限界について
[139] 原判決は国が憲法25条2項に基づき、具体的にどのような内容の法律を定立し、どのような施策をし、これにどのような性格を与えるか、これにより、どの程度の生活水準の向上を図るかは……いずれも立法政策の問題であつて、立法府の裁量に任せられている。ところで憲法25条と立法府の裁量の問題については、当面次の[1]から[3]の問題を考えてみただけでも、原判決の前記記述は誤りであることが明白となる。
[140][1] 憲法25条は、健康で文化的な最低限度の生活を保障すべき義務を国に課している。そしてこの義務は憲法上の義務である以上、国に当該義務を果たすべき法令を制定すべき義務をも課しているといわなければならない。更に国の義務は、当該法令を制定すべき義務ばかりでなく、この法令の内容が、憲法25条の根本精神、意義に合致するようなものでなければならないことをも憲法25条は定めているといわなければならない。それ故
「かかる法律の内容については、ある範囲で国会の自由裁量に委ねられるとしても、適切な法律を制定し、国民のかかる権利を正当に実現せしめることは憲法上の義務であるといわねばならないのであつて、制定するか否かの点まで国会の自由裁量に属するものではない」(阪大法学40・41前掲覚道論文、憲法における自由裁量の概念107頁以下)
ことは、もはや明白である。
[141][2] 次に
憲法25条は「国民が自らの力で行つている健康で文化的な最低限度の生活を、法律その他の国家行為が阻害することを禁止するものである。」それ故「国民自らの行つている、かかる生活を阻害するようなことを定める法律、或は一般にこの規定の定めることがらに反するような状態を発生せしめるような法律はこの規定に違反する」(前掲阪大法学109頁)
ことになる。これは社会権のもつ自由権的効果というか、社会権の自由権的側面よりする当然の要請ともいうべきものである。この問題の側面に関する限り、立法府の裁量が働く余地は極めて限定されるといわなければならない。
[142][3] 第三に
「憲法25条の趣旨、理念を具体化した法律に基づく国民の権利ないし利益は、憲法に由来するものであり、また憲法25条は国の文化経済の発展に伴なつて右理念に基づく施策を絶えず充実拡充して行くことをも要求している」から「右理念を具体化した法律によつてひとたび国民に与えられた権利ないし利益は、立法によつてもこれを奪うことは許されず、合理的な理由がないのに、右権利ないし利益の実現の障害となる法律を制定する行為は、憲法25条の趣旨に反する」(東地裁判49・4・24)
とのそしりを免れないものである。
[143] この場合には、立法府の裁量の範囲は極めて小さいものとなり、前記[1]、[2]のとき以上に、立法府に対する拘束の度合いが強く働くことになる。
[144](一) いままで述べてきたところから明白のように、立法府の裁量は憲法の規定によつて制約されること、そして立法府の裁量は合理的なものでなければならず、合理的裁量の範囲を超えると違憲問題を生ずることがわかつた。合理的裁量の範囲内か否かは、立法府が通常考慮しうる要素をしんしやくしなければならず、かつまた、不合理を正当化すべき特段の理由が存在するか否かが、一つの目安になることがわかる。
[145] いずれにしても、原判決のように立法府の裁量が恣意的な場合でなければ違憲問題が生じないとする立場は、憲法及び判例によつて集積されてきたところの立法裁量問題とは無縁である。

[146](二) そこで本件の併給禁止規定を設けることが立法府の裁量の限界を超えていなかつたか否か、別言すれば上告人のような立場にある者まで含んで併給禁止規定を制定することが立法府の合理的な裁量といえるか否かである。
[147] まず併給禁止規定の制定にあたつて立法府はどのような事情を考慮しなければならなかつたのかという問題である。次の問題は、立法府は諸般の事情を考慮したとして、その事情は、国会の考慮しうる合理的な裁量の限界を超えていないかということである。
[148] そして更に、合理的な裁量の限界を超えるにあたつて、これを正当化すべき特段の理由が示されているか否かである。
[149] 右の検討にあたつて本件問題が憲法25条にかかわる問題であることを考慮にいれて、三で述べた立法府の裁量の広狭も同時に検討しなければならない。
1 原判決の考慮した諸般の要素はどのような問題があるか
[150](1) 前述した議員定数配分事件に関する最高裁の判決は立法府の裁量の合理性の判断にあたつて「国会において通常考慮しうる諸般の要素」をしんしやくしなければならないとしたが、このことを参考にしながら本件併給禁止規定の裁量の合理性の有無、程度について考えれば次のようになる。
[151] 即ち、併給禁止の諸般の要素とは、目的、対象、方法等の性質と内容及び障害者の生活実態等をいい、これらの要素をしんしやくした結果、上告人のような立場にあるものまで、併給禁止規定の中にとりこむことが許されるか否かが本件の問題である。
[152] 原判決では、本件併給禁止の理由について[1]児童扶養手当も福祉手当も無拠出で全額国庫負担であること[2]両者とも稼得能力の低下喪失に対する所得保障であり、稼得能力の低下が事故数に必ずしも比例するものではないから、そのうち最も重大な事故に対応する給付のみを行うことにしても不合理でないことをあげ、[3]母が重度の身体障害者である生別母子世帯の生活実態が劣悪であれば、そしてそのために、最低生活を送ることができないとすればその「救済」は「本来救貧施策である生活保護制度に依存されるべき」であるという、諸般の要素をしんしやくした結果、合理性ありとしている。
[153] しかし、原判決の前記理由は[1]憲法25条についての誤つた理解を前提としている[2]社会保障制度についての根本的理解に欠ける[3]片面的事実をことさら拡大して、事実を直視し、素直にかつ公平にみる目をもたず、最も重要な要素をしんしやくすることをせず判決の随所にその誤ちが散乱しているということを前提にしてのみ成立つ理由である。
[154](2) まず、原判決の陥いつた誤りのうちで最も大きなものは上告人のような障害者の生活実態について形式的な制度理解しか、もたず、制度の本質的、内在的欠陥にことさら目をつぶつたことである。
[155] 原判決の
「重度障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法的根拠にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえない」としながら、これでは「こうした施策の運用において適切なものが欠けている故である」
ということは、右の表われの一つである。
[156] しかし、原判決が摘示したような欠陥は施策の運用で解決するものではなく、上告理由書の第三の二の(二)併給禁止条項の現実的意味とその違憲性(1)、(2)、(3)で述べた母子家庭の障害者の生活実態を無視して制定している、その意味では、最もしんしやくしなければならなかつた諸般の要素である上告人のような立場にある障害者の生活実態を踏まえずに本件併給禁止の立法をしたところに本質的な問題があつたのである。
[157](3) 次に、右の(1)と関連するが、原判決が併給禁止にすべきでないにもかかわらず併給禁止を承認した理由は、併給調整のしかたを含む社会保障制度の理解を誤つたところにある。
[158](イ) 併給禁止をすべき場合を含む併給調整のあり方、合理性については、後述する第六の補充の三本件における差別の合理性の存否のところで詳細に述べられるので、くりかえしは避けるが、本来児童手当のような(児童扶養の法的性格は第四の補充を参照)の給付と障害福祉年金の給付は、その支給の目的、性格、支給される金額、支給をうけるところの障害者の生活実態からしてむしろ併給が原則であつて、その逆ではない。
[159] またこのことは、三の(二)の憲法25条と立法裁量の関係の際に述べたところからも容易に理解できるものである。即ち本来併給されてしかるべき立場にあるものに対して、併給禁止をすることはその者の生活を破壊することに連なるからである。
[160](ロ) 原判決は、最低生活を目的とするものとして生活保護制度があるから、併給禁止して、生活できないものが生じたとしても可であるとしている。
[161] しかし、原判決の前記判旨は[1]最低生活を生活保護に限定している点で、[2]最低生活保障のあり方として年金と生活保護の関係を見誤つている点で、二重の誤ちを侵している。
[162] 原判決の右の[1]、[2]の誤りは、原判決の憲法25条、1、2項分離論に源を有し、更にこれに基づいて独自の「生活保障」「経済保障」論を展開し、前記二分論を支える論拠として(逆にいうと、前記二分論に誤るもととなつたものとして)最低生活保障と社会保障の「総合考量」論があるが、これらが誤りであることは、第三の補充で詳細に述べているのでくりかえさない。
[163](4) 原判決は両給付が全額国庫負担で無拠出であることをあげている。しかしこの点については上告理由書第四の三の(二)(3)で述べ、後述する第六の補充でも、理由たりえないことを述べているのでくりかえさない。ただ原判決の理由を前提にする限り、次の場合は全く説明がつかないことになる。
[164] 第一に手当法4条3項の併給禁止の措置は、拠出制、無拠出制を問わず、一律無差別に、他の公的年金との併給を禁止していることである。従つて原判決の判旨は無拠出制年金の禁止の理由にはなりえても拠出制年金との併給をも禁止している児童手当法4条3項の理由には、なりえないことである。
[165] 第二に例えば老令年金のような拠出制年金の場合においても国は拠出した本人の拠出とは別個に、年金を支給する場合には、国庫負担をしているのであり(例えば10年年金でも本人の拠出した額の数十倍以上の国庫負担をしているのが現実である)その国庫負担額は、全額無拠出の場合よりも、はるかに巨額になることである。支給額そのものを問題にしただけでも、原判決の理由は一面的であつて、到底とりえないことがわかる。
[166](5) 最後両者とも稼得能力の低下喪失に対する所得保障にあるという点は第四の補充のところで児童手当の性格について述べたところで詳細に述べかつまた一審判決も判旨しているところからして明白のように、両者は「その保険事故というべきものが全く別個独立であつて、カバーする範囲が少しも重複しない」わけであるから両者を併給することが不合理であるとするのは、全く理由がないといわなければならない。
[167] まして併給を避ける理由として、「そのうち最も重大な事故に対応する給付のみを行うことにしても不合理ではない」ということを付加しているが、事故が重大であることが、何故手当を排除することになるのか、その説明が十分でない。事故が重大であるから、その事故に対応する給付も十分になされており、従つて手当を支給するまでもないというのであれば、合理性がまだ説明がつくだろうが、実際は、障害福祉年金それ自体は拠出年金よりもはるかに低く、まして併給をしなくても十分最低生活が保障できるということからは、遠く離れている。
2 本件併給禁止規定を正当化すべき特段の理由が示されているか
[168] 1で詳細に述べたところから明白のように、本件併給禁止規定は、考慮すべき要素を考慮せず、考慮すべきでない要素を考慮した点で、合理的な裁量の範囲をはるかに超えたことになるが、それでは、この不合理な状態を正当化すべき理由が本件の場合に示されているか否かである。
[169] 結論からいえば否である。そうであるからこそ、第一審判決後に兵庫県会では全会一致、国会においても直ちに立法の改正がなされている。
[170] そして右の立法改正にあたつては原判決の全額無拠出云々の議論が根拠のないものであるかを雄弁に示すように、障害福祉年金との併給は勿論、老令福祉年金との併給まで含んでいることである。これらの立法の改正の動向をみても原判決の前記理由は全く机上の空論であることがわかるというものである。
[171] 児童扶養手当と障害福祉年金とを併給したとしても、最低生活保障の一つの目安である生活保護基準に遠く及ばない現実を直視するとき、本件併給禁止規定の不合理性はあまりにも明白とならざるをえない。そして右の立法改正からみると手当法4条3項で禁止しようとしていた併給禁止は、所得の十分に支えるもの、即ち、最低生活をはるかに上廻つているか、これに近いものに対しての措置であつたことが理解できる。そうであれば、上告人のような障害者で母子世帯に対しては、法律で一律に併給禁止という手段をとることは妥当を欠くものでそのことは、明らかである。従つて上告人のような立場にあるものまで含んで法律禁止することをしなくても、より制限的でない方法、例えば併給を認めて、最低生活を上廻る、その意味で所得の多い者には所得制限をすれば立法の形式としては十分であつたわけである。(しかし現実には、前述した意味で所得の多い者は皆無に近い)
[172] 以上の諸事実に照すとき、本件併給禁止規定は、立法府が合理的裁量をはるかに上廻り、そのため(不当な裁量の行使のために)上告人のような立場にあるものは、憲法25条で保障されている健康で文化的な最低生活をする権利を侵されたことになる。
[173] 立法府としては、上告人のような立場にある障害者の生活を併給禁止という形で奪わないようにする、憲法25条に基づく義務があつたのに、これを怠つたということになる。
[174] 憲法25条は第二の補充の二の(一)で述べた立法権に対する拘束(同様なことは前述した三の(二)で述べたことにもあてはまる)力があるわけで、立法府としては、この拘束の下に立法をしなければならなかつたということになる。
[175] 以上いままで述べてきたところからすれば、上告人のような障害福祉年金を受給している場合まで、児童手当法で併給を一律に禁止することは立法裁量の限界をはるかに超えるものであることは明らかになつたが、仮に本件禁止規定が立法府の裁量の範囲内であるとしても、本件は次に述べる事情からして立法府の裁量の範囲を逸脱したというべきである。(この内容は上告理由でも述べた。)
[176] 第一に、本件併給禁止規定は低劣な生活の状況におかれている障害者の生活実態を著しく無視し、併給禁止することによつて、障害者の生活を一層困難にしていることである。第二に上告理由書で述べたように世論が本件併給禁止規定の苛酷性について、厳しい判断をしている。一審判決後これを支持するものはあつても併給禁止規定の必要性を主張するものは皆無である。第三に立法府も本件併給禁止規定の不合理性を認めて、立法の改正をなしたことになる。立法府は一審判決後、県の不当な控訴にもかかわらず、併給禁止のうちから無拠出性年金である老令年金と障害福祉年金を削除している。
(一) 本件併給禁止条項の憲法的評価に関する基本的視点
[177] 上告人の本件手当給付申請当時の改正前児童扶養手当法第4条第3項第3号は「当該母が公的年金給付を受けることができるときは支給しない」と規定している。
[178] この「公的年金給付」とは、厚生年金保険法、船員保険法、思給法、国家公務員共済組合法、地方公務員共済組合法、私立学校教職員共済組合法、公共企業体職員共済組合法、農林漁業団体職員共済組合法、国会議員互助年金法等に基く年金給付、国民年金法第5条第2項第2号乃至第6号に挙示する年金給付、国民年金法所定の老令年金、通算老令年金、障害年金、母子年金、準母子年金、遺児年金、寡婦年金、死亡一時金、障害福祉年金、母子福祉年金、準母子福祉年金、老令福祉年金等、極めて多くの各種年金給付をいうのである。
[179] これらの多種多様の年金給付は、それぞれ給付要件たる事故の内容を異にし、又その給付額は千差万別であり、一定の共通の水準で統一されているものでもない。
[180] このように多種類の公的年金給付の受給権者に対し、これを一括して本件手当との併給を禁止する前記条項はそれ自体後述する如く異常であり憲法25条との関係でも問題となるが、本項では右の併給禁止条項に対する憲法14条にもとづく憲法的評価を加えることとする。
[181] この憲法的評価に当つて、次の点を特に注意しなければならない。
[182] 第一に、本件は、被上告人兵庫県知事が昭和45年3月23日付でなした児童扶養手当認定請求却下処分の取消を求めるものであるから、本件の憲法的評価の対象は、却下処分された時点における手当法の併給禁止条項とこれより生ずる本件差別の合理性の存否である、ということである。従つて、本件差別の合理的理由を論ずるに当り、手当法や障害福祉年金の給付額につき将来の改善に待つべきものとするが如き制度論を持出すことは論理的に許されない。
[183] 第二に、本件差別の憲法的評価は、現実に存在する差別に対する評価であるから、かりに百歩譲つて原判決の如く、財源に限度があることを考慮にいれる立場をとつたとしても、その限られた財源の範囲で併給調整を余儀なくされる場合でもなお、当該併給禁止措置が憲法14条に抵触しないように措置することが憲法上の要請であるということを忘れてはならない。
[184] 第三に、本件差別に対する憲法14条にもとづく憲法的評価は、抽象的な制度論或は形式論理をもつて論ぜられるべきものでなく、具体的な差別の実態の中で検討さるべきものである。何となれば、裁判所に救済を求めている国民の1人である上告人は、本件差別の結果、人権の侵害を受けその侵害は生活困窮という具体的事実となつて現われているから、救済を求めているのである。
[185] 換言すれば、上告人が昭和45年3月当時受給していた障害福祉年金の給付額が、全盲障害者が健康人と同水準の生活を維持できる程度の金額に、更に母子家庭における生活水準の低下をカバーできる程度の金額を合わせた金額の給付水準に達していたならば、上告人とても本件差別による権利侵害=生活困窮意識は生じなかつたであろうし、従つてその場合、本件差別を理由に児童扶養手当の併給を求めて裁判所に救済を求めなかつたということになる。
[186] 以上の観点に立つて、本件差別の合理性の存否につき具体的に検討されなければならない。

(二) 憲法14条の意義と差別の例外性
[187] 日本国憲法第14条第1項は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定し、いわゆる平等原則を憲法の明文によつて採択している。
[188] この平等原則、すなわち、何びとも国家によつて法律上平等に取扱われなければならない、という原則の思想的系譜は、神の前における平等(Gleichheit vor Gott)という中世ヨーロツパのキリスト教の原理にさかのぼり、個人の自由と共に、17、8世紀の自然法思想によつて、世俗的な国家生活においても強く主張されるにいたつた。次いでアメリカの独立宣言、それに次ぐアメリカ諸州の憲法ならびにフランス人権宣言とそれらに相次ぐ数次のフランス諸憲法において、この平等原則が実定憲法にとり入れられ、その影響の下に、以来、基本権を保障する諸国の憲法においてほとんど例外なく規定されることとなつたのであり、まさにこれは、近代的民主国家の重要な統治原則の一つとなつている。
[189] 従つて、近代国家においては、人は他の人と法の下に平等な取扱をうけることが正義であり、あらゆる立法、行政、司法を通じてこの正義が貫かれていることが、法秩序の大原則とされているのである。
[190] ただし、法のすべてが常に社会構成員全体に均一に適用されるものではなく、特定の者のみが法の規制をうけ、また異なる規制をうけることは不可避でありそこに区別があらわれることは避けがたい。従つて、右平等原則は、かかる法の現実の諸相をみるならば、「事実上均しい状態にある者が均しい法的取扱をうける」(1)原則といいかえてもよい。一般に憲法14条の禁止している差別的取扱とは「不合理な差別」であるとされるのも右の趣旨に基づくものである。ところで、このようにしてある差別的取扱の憲法14条、適合性が問題とされる場合、「合理的な差別」といえるか否かが問題の焦点となるのであるが(2)この合理性の判断が、安易になされるならば、「合理性」に藉口して差別的立法を合憲とし、結局憲法14条の存在意義そのものを喪失させることにもなりかねないのであつて、平等原則を前述のような歴史的背景をもつ人類普遍の原理として後世に承継するには差別的取扱が例外であつて、差別は厳密に必要最少限度に止められなければならないという基本的立場で、右「合理性」の意味内容を理論的に分析し、法技術的に「合理性」の論証が客観化され、その判断の基準が明確化されなければならない。

(三) 差別の合理性判断の方法と基準
1 憲法14条の意義から導かれる平等原則に関する司法審査のあり方
[191] 以上にのべたところから自ら明らかとなるように、平等原則に違反するか否かが問われている事案においては、差別の合理性の有無に関する判断は何よりも事実関係の精密な論証に裏づけられた客観的判断でなければならない。法の前の平等は、事実上均しい状態におかれた者に対する法的取扱が均等であることを要求する原理であるから、現実の規制対象が、法の予定したとおりの状態であるか否か、それに対する法の規制を加えた結果は、法の予定したとおりの実質的平等といえる状態にあるか否かがまさに事実に即して検討されなければならないのである。例えば、老令福祉年金の受給について、夫婦で生活している場合は、一人もので受給する老人よりも生活費はより低廉であるということを前提に夫婦受給制限を行つていた昭和  年の改正前の国民年金法第  条の規定について、東京地方裁判所は、現実には夫婦で生活している方が1人よりも生活費がかかることを事実に基づいて認定した上、右受給制限規定を憲法14条違反とした(3)
[192] このように事実関係の精密な論証にうらづけられる客観的判断を行うことによつて、合理性の判定が恣意的に流れるという非難を免れることになるのである(4)
[193] そして、平等な取扱いこそが原則であり差別はあくまで例外であつて、差別の合理性が認められるのは必要最少限度の例外的場合に限られるとの考え方からすれば、当然差別的取扱についてそれを合理性のある差別であり憲法14条に違反しないとの立場をとる者が、そうすることの合理的なる根拠を立証すべきこととなる。
[194] しかもこのようにして主張され立証された差別を合理的とさせる事実のもとに、当該差別的取扱が憲法14条に合致するか否かの判断は「実質的に人間を尊重する憲法の精神に照らして」厳密に(5)検討し、「差別の理由は厳密に必要最少限度に止め」(6)る基本的立場において、審査がなされなければならないのである。
2 アメリカの憲法訴訟における合憲性の推定と立法事実の主張
[195](1) 以上のような平等条項に関する違憲審査の方法は、アメリカ連邦最高裁の長年の違憲審査の判例の集積の中でも理論化され、日本にも紹介されているところである。
[196] すなわち、アメリカにおいては、一般に議会で正当に成立した法令は憲法に適合しているとの推定より厳密にいえば当該法令を合憲ならしめる事実状態が存在するとの推定(合憲性の推定)をうけるので、当該法令が違憲であると主張して争う者は右合憲性の推定をくつがえす事実の主張立証を行う責任を負うとされている。そしてこの合憲性推定の原則は権力分立原理に基礎をおき、広い意味での司法の自己制限の重要な一内容となつている(7)。すなわち、この合憲性の推定が強く働く分野においては司法審査は極めて明白に違憲の場合だけ働くとされたり「合理的人間なら、その法律が専断的で気まぐれでないことを、何らかの考えられる事実状態にもとづいて信ずることができるであろう場合」には法律を合憲として支持するとされたりしているように、右合憲性推定の原則は議会の判断に合理的な事実の基礎が存在することを推定しその推定が合理的な疑いの余地を残さないほど明白にくつがえされない限り、当該法令は違憲とは宣言されないという「明白の原則」をも成り立たせてきた(8)
[197] しかしながら、この合憲性の推定原則とこれに伴う明白の原則はすべての領域の憲法事件に画一的に適用されるルールではなく、合理性の基準が妥当する経済的自由の規制立法に関する準則であることが忘れられてはならない(9)。このことは明白性の原則のような司法消極主義が1920年から30年代にかけて、価格・賃金・労働時間その他労働条件を定める多くの社会経済立法を最高裁が違憲とし、きわめて保守的な機能を営むに至つたとき、ホームズ、ブランダイズ、ストーンなどの自由主義的な裁判官の中から説かれるようになつたという歴史的背景に徴しても右明白性の原則その歴史性は明らかといわねばならない(10)
[198] 右ルール確立後今日に至るアメリカの憲法判例の形成の中で優越的自由とされる精神的自由の規制立法並びに人種差別に関する立法については右のような合憲性の推定は働かず、むしろ当該法令を合憲であると主張する側に、その立法を合憲ならしめる事実状態の主張立証の責任があるとされ、その合違憲の判断は明白の原則によらず、厳格な基準によつて「特別に注意して精査されなければならない」(11)とされているのである。
[199] 特に平等保護条項に関する立法については、かつて前述のような合憲性の推定が働き立法府の決定が「専断的」「不合理」もしくは「不当」だといえるほど明らかに誤りである場合でない限り、裁判所はこれを尊重する義務があると考えられていた時期がある。しかしながら、このような広汎な立法府の裁量を前提とする「最小限度の合理性」(minimum rationality)の基準は、事実上違憲審査を放棄するに等しい結果を招来したので平等保護条項に関する新しい判例は、人種・性別・宗教等を理由とする差別のように「違憲の疑いのある差別」ないしは投票権・刑事手続に関する諸権利のような憲法上保障された「基本的権利」に影響を与えるような差別は、それを正当化する重い挙証責任が規制権力側に負わされ、「厳格な審査」に服せしめられなければならないとされるに至つている(12)
[200](2) ところが、わが国の違憲審査の中では、前述のように、一つの歴史的背景を背負い、従つて一定の限界をもつて生まれてきた法令の合憲性推定の原則あるいは「明白の原則」が、いかなる領域に関する違憲審査にも妥当する不動の原則であるかの如く主張され、精神的自由の規制立法や「厳格な審査」を必要とすると考えられる平等権に関する事件、あるいは労働基本権を制約する立法の合憲性が争われる事件において、経済的自由の規制措置の場合とほぼ同様の広汎な「立法府の裁量」を認め、いわゆる「明白の原則」が妥当することを主張する見解が、今なお根強くみられる。
[201] そして特に、本件で問題となつている生存権の保障に関する立法における平等原則の適用についても、原判決に代表されるように、憲法25条の適用について広汎な立法府の裁量を認め、そこから憲法14条違反に関する審査について、厳格な事実に基づいた審査を行なわず、当該法令を合憲とすることがしばしばみられる(13)
[202](3) しかしながら、社会における実質的不平等を是正し社会的に弱者とされる者にもひとしく「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障することとした憲法25条の趣旨、あるいはその目的に鑑み、生存権保障のための諸法令においては、規定された内容において差別が許されないのはいうまでもない。アメリカの判例にいう人種、性別、宗教等を理由とする差別のように、社会保障の受給権に関する差別も合憲性の推定は働かず、その差別を正当化する重い挙証責任が合憲を主張する規制権力側に負わされ、厳格な審査に服せしめなければならないのである。

(四) 原判決の憲法14条適合性審査のあやまり
1 差別の合理性を基礎づける事実の検討の不存在
[203] 本件差別につき、原判決は、様々な理由を挙げてその合理性を強調する。この点につきすでに上告人は、従来反論をのべているので若干補足するにとどめるが、いづれにしても原判決の挙げる理由は、本件差別の合理性を裏付けるものではない。
[204] 原判決は、本件差別の合理性の有無の判断につき、次の理由を列挙した。要約すると、
第一、財源に限度があるから、これを効率よく公平に活用する見地から併給調整又は禁止は相当である。
第二、趣旨、目的、役割の異なる年金や手当間の併給調整の合理性の判断は憲法25条の趣旨の具体化としての国の社会保障施策の全体系を考慮に入れて綜合的に考察すべきである。
第三に、同一人の事故が複数生じても稼得能力の低下・喪失という結果は同一であり、所得低下・喪失の程度は必ずしも比例的に加重されない。
第四、併給を認めることは特定人にのみ二重・三重の保障をすることになり事故が重複しない者との間に不均衡を生じる。
第五に、一般国民感情が未だ併給を当然視するまでに至つていない。
第六に、手当や年金制度以外に憲法25条の趣旨を具体化しようとする施策が数多くなされている。
第七に、こうした施策にもかかわらずなお生活困窮に陥つた者には最終的には、生活保護制度がある。
[205] 以上が原判決が本件差別に合理性ありとした理由である。ここで先ず明白なことは、右に挙げた理由は、第三の点を除きすべて一般的な併給を禁止又は制限することを合理化するための理由であつて、どの理由をとつてみても、本件訴訟で上告人が争点として提示した「本件差別の合理性」の理由としては全く理由になつていないのである。極端にいうならば、百歩譲つて原判決が挙示した右のすべての理由を前提としても、なお、併給調整に当つては憲法14条に抵触しないように併給調整がなさるべきであり、上告人の如き立場の者に健全な母親と差別して本件手当の支給を拒否するような制度を目的とした立法をすることは憲法14条の趣旨から許されないことである。
[206] 本件では後に第三で詳細にのべるように、差別的取扱が問題となるそれぞれの局面において例えば現実の母子家庭の生活実態がどのような状況にあるか、児童扶養手当はどの程度に必要を満たしているか、あるいはどの程度不十分にしか満たしていないか、又母子家庭のうち障害者の母親についてはさらにどの程度の稼得能力の低下があり障害福祉年金はそのニードをどの程度カバーしているのか、母親が健全な母子家庭と母が障害者である母子家庭とでは、その生活実態においてどの程度の差があるか等々が、就職率の対比、平均所得の対比、平均生計費の対比、生活保護受給率の対比等によつて具体的に吟味検討されなければならないのである。
[207] 原判決の前記7つの理由のうち、第三の点を除いた他の6点にわたる事実の指摘は、併給制限の一般的な理由をのべるにすぎないものであつたり(第一、第二、第四、第五(国民感情が判決のいうとおりであるか否かは一応措くとしても))、第六、第七の理由のように併給制限の合理性ともいい難い、いわば、行政の側においてある制度の不十分さを弁解するためにひき出される議論にすぎないものであつたりし、いずれも本件差別の合理性を基礎づける理由としてはほとんど無意味の事実といわざるをえない。(しかもこれらの数点にわたる指摘そのものも、上告理由154頁以下に指摘したように全く根拠のないものである。)
[208] そして本件差別の合理性の有無に関する唯一の指摘である第三の点(稼得能力の低下、喪失は事故が重なつても結果は一つであるとする点)については、本章第三においていかに、その指摘が誤つているか詳しく指摘するとおりである。
2 「明白の原則」によつて厳格な司法審査を行つていないことのあやまり、
[209] 前述のように、本件のような事案においては、法規制の結果の具体的な実態にもとづいて、実質的差別がいささかでも看取されるときは、直ちに当該法規制の違憲が制せられなければならないのである。
[210] しかるに原判決は、この点についても安易にいわゆる「明白の原則」に従つて本件併給禁止規定を看過したものとのそしりを免れないのである。
[211] すなわち、原判決は、
「立法府は財源の公平且効率的活用のため、複数の事故のうち、最も重大な事故(本件の場合は廃疾)に対する給付のみを行うことにし併給を禁止したり、又その調整を行うことには合理的理由があるとの見解に依拠したものであることが認められる。……而して当裁判所も右併給禁止に合理性があるものとした右見解を是認できるのであつて……本件併給禁止条項が、立法府の恣意によるなどして、その合理性の判断を著しく誤つたものであるとは到底認め難い。したがつて前記のような差別扱いが合理性を欠くこと明らかであるとはいえない。」
[212] 右判示は、明らかに前記第一、三、(二)でのべた「明白の原則」によつているものと考えられる。しかしながら、本件のような社会保障法の分野において、本来経済活動の規制を行う立法の合憲性の審査に用いられる「明白の原則」が用いられてはならないことは前述のとおりである。
[213] 原判決自身、右引用部分におけるような断定を行つた後
「もつとも、……から窺われる重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると右立法的根拠にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているか疑問がないとはいえないけれども……これをもつて、本件併給禁止が合理性を欠くことが明らかであるとする根拠とはなし難い。」
とのべ、事実に基づけば差別の合理性に疑のあることを表明している。判決のいうように、差別に「合理性を欠くことが明らかである」とする場合あるいは「立法府の恣意によるなどして、その合理性の判断を著しく誤つた」場合のみ司法権は憲法14条違反の判断を行うものとすれば、本件のように社会的な弱者として苛酷な生活の重荷の下に、せめて他の人が受けている給付は支給してほしいと切に要求している多くの国民の権利はいつ救済されるということになるのであろうか。又、そもそも日本国憲法の平等保護条項は、実質的な意義を持ちつづけることになるであろうか。
[214] 上告人は一審以来、本件において問題とされるべき差別の内容として、児童扶養手当支給の実質的対象である児童の立場と、形式上の対象者とされている母親の立場の両面において、それぞれ右手当の支給をうけられない者との間で問題とされるべき差別があることを主張してきた。ここでもう一度本件において検討されるべき差別は何と何との間の差別であるかを明確にし、従前の主張を整理することとする。

(一) 児童が実質的受給権者であり母が形式的受給権者であるとした場合の差別
[215] すでに一審以来詳細にのべてきたように、児童扶養手当の形式的な受給権者は母親ないし養育者とされているが、手当受給の実質的な権利者は児童であると考えるべきである。
[216] 従つて、右手当受給の実質的権利者たる児童の立場からみて同じ母子家庭で父がおらず母に養育されている児童でありながら、母が健全であれば右手当の支給をうけるのに、母が障害者で障害福祉年金を受給していれば右手当をうけられないという差別が存在する。
[217] さらに、児童扶養手当法4条1項は、一定の条件にある児童について母又は母以外でその児童を養育する者に右手当を支給すると定め、養育者として、当該「児童と同居して、これを監護し、かつその生計を維持する」者をいうとしている。すなわち右手当法は「父と生計を同じくしていない児童について児童扶養手当を支給することにより、児童の福祉の増進をはかることを目的と」して制定され(同法1条)、同手当は「児童の心身の健やかな成長に寄与する」ために支給されるものであるが(同法2条)、現実には児童は母又は前述のような養育者と生計を一つにして、その家計の中で養育をうけるものであるところから、健全な父と同居し、父によつて生計を維持できない世帯に属する児童に対し、その児童が健全に成長できるような経済的基盤を保障するために、児童の養育に現実に当つている生計の主たる維持者に対し支給されることとなつているのである。被上告人もこの間の事情を「児童が養育される基礎である母子世帯を単位とした所得保障施策である」とのべている。
[218] 以上のようにみてくると、右手当法では同じように「父と生計を同じくしていない児童」とされている児童でも健全な母親と共に同法別表二に定める程度の廃疾の状態にある父親がいる家庭の児童は、父親に対する障害福祉年金とともに本法による手当の支給をうける家計のもとに養育されることになるに対し、右父親と同程度に廃疾の状態の母に養育されている児童は、右障害福祉年金を母が受給することによつて右手当の支給をうけられない家計のもとに養育されることになる。
[219] すなわち後者の場合、障害福祉年金を受給しているとはいえ、母親は児童を養育するための最低の生活費は自ら働いて得なければならず、上告人はまさにそのようにしてこどもを養育してきたところ、同じように障害者であつてもそれが父親であつて健全な母がいる場合は上告人の場合の収入に加えて母が他で働き収入を得、さらに本件手当をうけるということになる。この現実の家計における差違は極めて大きなものであり前述のような法の趣旨に照らすと、健全な母と障害福祉年金を受給している父を同一世帯にもつ児童と、障害福祉年金を受給している母のみを同一世帯にもつ児童との間の差別が当然問題とされなければならない。
[220] そして、これら実質的受給権者における差別は形式的受給権者の母の立場において争うことが適切であり、又これ以外に方法がないのであつて、右2つの観点における差別の合理性の存否が審査されなければならない。

(二) 実質的にも形式的にも母が受給権者であるとした場合に問題となる差別
[221] 被上告人は、児童扶養手当の趣旨を、国民年金法による母子福祉年金を補完する制度であつて、実質的にも母が受給権者であると主張してきた。
[222] 上告人も一審以来、実質的な手当の受給権者たる児童に着目した差別のみを主張してきたわけではない。法文の上で支給対象者とされている母親(あるいは養育者)にも着目して、同じ生別母子家庭であつても健全な母(養育者)であれば手当が受けられ、障害福祉年金の受給者であれば手当がうけられないという差別の存在を主張してきた。
[223] さらに、右のように児童を養育する義務を負つている母親ないし養育者の立場において前記一、(二)のように、現実に児童を養育するための経済的基盤すなわち家計として本件手当についてみると、廃疾の状態にはあつても、障害福祉年金を受給している夫をもつ健全な母親と、自ら廃疾の状態にあり障害福祉年金を受給しつつ児童を養育している母親との間の差別が問題とされなければならない。すなわち前者の場合、夫の障害福祉年金と夫自身の収入に加えて、自ら他に働きに出た収入と児童扶養手当を含めた家計の中で児童を養育することになるのに対し、後者の場合、上告人のように自らのあんま針灸等による収入と障害福祉年金のみによつて家計を維持し、児童を養育しなければならないからである。

(三) 右差別と憲法14条違反の存否
[224] 以上のような各観点からみた本件手当支給に関する諸差別については、すでにのべたように、右それぞれの場合について、具体的、現実的な生活実態その他の事実に基づいて、合理的な差別といいうるか否かの判断がなされなければならない。その際に被上告人において一審以来くり返し主張し、原判決もそれを容認している差別の合理性の存在についての主張は、同一人に対する障害福祉年金と児童扶養手当の併給を認めず手当の支給を制限することの合理性の存在についての主張であつて、この主張に基づき差別の合理性の存否が判断されうるのは前記二、(一)の場合に限ることが留意されなければならない。すなわち、(一)の場合は、もともと、障害福祉年金と手当の受給権者が異なるという前提であつて「併給」が問題になる場合ではないからである(ちなみに(一)の場合に併給が問題となるとすれば、当該児童が手当法4条2項2、3、4号等により児童自身が他の給付をうけている場合である)。
[225] 又、(二)の場合であつても、形式的には母という同一人格に対する障害福祉年金と手当の「併給」の問題のように見えても、手当の趣旨が、単なる母親の所得保障というに止まらず、児童の養育のための経済的援助という趣旨をも含むものであるとすれば、障害福祉年金とは本来趣旨を同じくしない別個の給付となり、真の意味の「併給」とは異なるといわざるをえなくなる。
[226] そこで以下第三において、具体的に本件の右各差別が憲法14条に違反しないか否か、換言すれば右差別が合理的な理由と限界における差別といえるかを検討する。
(一) 本件は、本来「併給」禁止規定の合理性が問題になる場合ではない。
[227] 前記第二、一にのべたように、児童扶養手当は、本来児童の健全な育成のために生別母子家庭の児童に対して支給されるものであつて、法律上の形式的な受給権者は母又は養育者となつているが、実質的な受給権者は児童である。そして然りとすれば、母個人の障害に対し、母の稼得能力の低下をカバーするために支給される障害福祉年金と児童扶養手当は、支給対象者の異なる2つの別個の給付であつて右2つの給付のうち一方を他方の支給があるからその理由で支給停止するという措置は許されないものといわなければならない。
[228] 又仮りに児童扶養手当は、児童を養育している生別母子の稼得能力の低下に対応するものとして、実質的にも母に対して支給されるものだとしても、右手当はあくまで母個人の生計にのみあてられてはならず、母に支給することによつて、児童の生育のための費用にあられることが予定されているのであるから(14)、母個人の生計費にあてられる障害福祉年金とは、支給の趣旨、目的を異にするのである。
[229] もちろんこのように解した場合観念的には右両給付は母の生計を維持するという一定の範囲で趣旨目的を同じくすることになるから、その範囲では併給を調整して差しつかえないということになる。しかしながら、後に詳述するように、障害福祉年金そのものが、障害者の稼得能力の低下の極く一部に充てるにすぎない低額で、それのみで障害者の生計が維持できないことはもとより、児童扶養手当も母子の生計維持の必要の極めて一部をおおうにすぎない。従つて、現実の実態をみるならば、部分的な併給調整でさえ合理性を有しないことは明らかであろう。
[230] さらに百歩を譲つて母子福祉年金の補完的制度としての児童扶養手当は、母の稼得能力の低下にのみ対応するものであり、譲つて、複数の保障事故が同一人について発生した場合と考える場合、被上告人は、かかる場合についても受給資格者の稼得能力の低下または喪失の程度が、事故に比例した単純に倍加されることにはならないと主張し、併給禁止を合理的であると主張する。
[231] しかしながら、もともと「併給」とは同一人の同一事故に2つ以上の給付が重なる場合(例えば、厚生年金による障害年金と労災保険による障害年金の如し)を意味し、同一人の異なる事故に対する別個の給付が重なる場合を意味しない。同一であつても、それぞれの事故で異なるニードが発生するのであつて、それに対し別個の給付がなされることは当然のことであるからである。
[232] 本件の場合、全盲という「障害」の事故により生ずる稼得能力の低下の内容は、男女の別なく身体障害(全盲)ということによる日常生活行動及び就業自体の困難性、就業可能の場合でも職種が限定されるというハンデイキヤツプからくる稼得能力の低下であり、一方、「母子家庭」の母の稼得能力の低下の内容は、男女賃金格差の慣行の存する現在の社会の現実の下で、夫のいない母親の就職の困難性、かりに就業した場合でも女性に対する職種の限定(単純労働、事務的労働、臨時雇、内職等に片寄る)、男性との賃金格差、女性賃金の一般的低水準、更に、子供の扶養のため労働時間に限界(保育園の保育時間内しか勤務できないこと或は、夕刻児童の帰宅時間までに帰宅せねばならぬなど)があるために時間外勤務が困難なこと等による稼得能力の低下であつて、「障害」の事故による稼得能力の低下とは低下の理由及びその程度は全く異なる。
[233] 従つて、この点からみても、本件手当法の併給は当然に認められるべき筋合のものであり、論理的に障害福祉年金との併給禁止の問題は生ずる余地はないものである。
2 本件差別の実態
[234] 右のような併給に関する前提問題をさしおいても本件差別が不合理であることはその実態からみて明らかである。
[235] 上告人は、視力障害一種一級の全盲障害者であり、その上夫と離婚し、次男守を養育している母子家庭である。全盲障害による稼得能力の低下は、健康人の稼得能力の水準の50%を下廻るものと推定さるべきこと前述のとおりである。しかも上告人は、夫と離婚しているのであるから、全盲障害者の就業の困難性(就業そのものの限界と、就業の場合の職種の限定及び就業行動の不自由性)に加えて、女性の職場進出の限界、賃金格差という稼得能力低下要因を負担している。更にこれに加うるに、母子家庭の下で児童の扶養という負担を背負い、就業時間の制約、子供の養育時間の附加、養育費用の加算という特別の出費の負担まで予儀なくされている実情である。
[236] このうち、全盲障害に対する社会保障として上告人は障害福祉年金を受給しているのであるが、昭和46年現在でその給付額は月額にして僅か3400円である。前に述べた全盲障害による稼得能力の低下分すなわち障害事故によるニード、約2万円乃至1万円をカバーするには程遠い低水準の金額であり、右給付額の絶対額の低水準は極めて明白である。
[237] ここにおいて上告人は、本件手当の支給認定を申請したところ、被上告人によつて却下処分をうけたのであるが、その請求にかかる手当額は、申請当時において月額僅か2100円であつた。上告人にとり全盲障害という大きな負担の上に更に母子家庭における児童の扶養費用をどのようにして調達するかということは切実な問題である。母子家庭の母親の稼得能力の低水準の実態はすでに前述したとおりであり、両親健在の世帯の稼得能力に比し遥かに低水準にあること明白であり、この格差は僅か2100円の本件手当をもつてしては、その極く一部をカバーするにすぎない。前述の検討からするならば格差は2万円乃至1万円とみられるのであるからせいぜい格差の1割乃至2割しかカバーしえない額である。
[238] ところで、その僅少な額でさえ、母子家庭の上告人にとつてはなくてはならない程その生活水準は悲惨なまでに低水準なのである。
[239] ところが、本件併給禁止条項は、上告人に対し、右の僅か2100円の児童扶養手当の支給を拒否するのである。しかも、母親たる上告人が全盲障害でなく健全であれば支給され又障害福祉年金を受給する者が母親ではなくて父親であるならば、本件手当が支給される仕組みになつているのである。母親は健全であれば、全盲の障害者より遥かに自由に就業し育児することもできるのであつて、その稼得能力の格差は、全盲障害者が受給する障害福祉年金の給付額である月額3400円を遥かに超えるものであろうことは自明のことである。にもかかわらず、全盲障害者であり、しかも僅かな障害福祉年金を受給しているという遇然にして不幸な立場にあるという、まさにそのことを理由に、健全な母親の場合に支給される本件手当を支給しないという本件差別は、まさに残酷という外はない。又児童の立場からみても母親が全盲障害のために障害福祉年金を受給しているという不幸な境遇に生れたことの故に、当該児童のすこやかな成長のために出費さるべき本件手当が支給されず、健康な母親をもつ母子家庭の児童と明らかにみじめな差別を受ける結果となつているのである。
[240] 前に検討した如き障害者及び母子家庭の極めて悲惨な生活実態の中で全盲障害の事故によるニードをカバーするには余りにも少額の障害福祉年金を受給している上告人が、健全な母親と差別されて、僅か月額2100円の本件手当の支給を拒否されるということは、
上告人において「受ける被差別感がかなり大なるものであろうということは、一般社会人として、容易に感得し得るところであり、一国を構成する国民相互の社会連帯の理念に照らし、一部の国民の右のような被差別感に苦悩していることを放置してよいか否かということが問われなければならない」(第一審判決)
のである。

(二) 併給調整の合理性の有無
1 併給制限の立法例よりみた併給調整の個別的調整の原則と調整の基準
[241] 本件差別の合理性の有無の検討は、抽象論や制度論ではなく、現実に存する障害福祉年金並に児童扶養手当の給付額と現実の生活実態の中で具体的に検討さるべきことは前述したが、その検討に入る前に、本件差別をもたらした本件併給禁止条項(手当法第4条第3項第3号)が、我国における各種公的年金制度の中でとられている併給調整における個別調整の原則に反している事実を明らかにし、かつ、調整の基準を示しておきたい。
[242] 各種年金間の併給調整を必要とする場合は第一に同一人につき複数の保障事故が発生した場合、第二に、同一の事由により同一人に複数の保険給付の受給権が発生した場合である。
[243] 右の第一の場合の併給調整は、老令・廃疾・死亡の事故による各年金給付の組合わせ毎に個別的に全部併給、一部併給、支給停止のいづれかに個別的に調整される。この場合、論理的には複数のニードが生じたのであるから、それぞれのニードに対応する給付がなされるべきであり、つまり併給が原則であるべきである。国家公務員共済組合法は、おおむねこの原則に従つている。
[244] 右の第二の場合も、傷害(廃疾)、死亡等の事故により同一人に複数の給付受給権が発生した場合、個別的に併給調整が行われる仕組みになつており、各立法毎に具体的に全部併給、一部併給、支給停止等の調整がなされる。ところで、これらの個別的併給調整は、如何なる調整基準によるべきか。これは次の2つの基準が考慮されねばならない。
[245] 第一に、調整される各給付が相互に併給調整されて然るべき程度の平均化した水準に達していること(相対的条件)が併給制限のなされる第一の要件である。
[246] 例えば双方の給付が、事故による稼得能力喪失よりくるニードをカバーできる程度の水準に達しているときは、併給によつてニードをカバーしてなお余剰が出る結果となるから当然に併給制限されて然るべきである。ところが一方の給付が極めて低く、他方の給付が当該事故によるニードをカバーするに足る一定の水準に達しているときは、一部併給乃至併給禁止となるであろう。又、双方の給付がいづれもニードをカバーするのに満たないときは、その程度により全部併給乃至は一部併給となるであろう。
[247] 第二に、双方の給付の絶対額が事故によるニードをカバーするには到底及ばない程度に低水準の場合は、併給制限はなされるべきでない(絶対的条件)。つまり併給制限がなされるには、給付の絶対額が事故による稼得能力の喪失からくるニードをカバーし、かつ併給制限をされてもやむを得ない程度の水準に達していなければならない。
[248] 第三に、別個の事故にもとづく給付間では併給制限はなさるべきでない。各種年金間の併給調整は、これらの基準に従つて個別的にきめられねばならない。ところが、本件手当法は、その給付要件及び給付額において種々異なる各種の公的年金を受給している者に対し、一率かつ画一的に手当の支給を停止するのである。ここでは、障害福祉年金の給付要件及び給付額が当該障害事故によるニードをカバーするに足る程度の水準に達しているか否か、又、児童扶養手当が母子家庭における母親の稼得能力の低下の下で児童の健全な成長に必要なニードをカバーする程度の水準に達しているかどうか又、この両者の給付は別個の事故によるニードに対応するものではないか、についての個別的配慮は一切無視される結果となつているのである。
[249] その結果、併給調整における個別的調整の原則と調整における前記の基準は全く無視された上に、本件の場合、更に、障害福祉年金を受給していない健康な母親が本手当を受給できるのに、障害者である母親は障害福祉年金を受給しているが故に本件手当の受給権を奪われるという不当な差別を生ずるに至つているのである。
2 被上告人の却下処分の時点において現実に存する本件併給禁止措置による差別に合理性があるか
(1) 障害福祉年金の実態
[250] 昭和46年当時の障害福祉年金の給付額は年額4万800円、月額にして3400円である。上告人は、全盲の女性であり夫と離婚して次男守を養育し、障害福祉年金を受給している。
[251] 障害福祉年金は、障害(本件上告人の場合は視力障害一種一級)の事故により低下した稼得能力及び特別の出資による生活水準の低下分をカバーすることを目的とする。
[252] 上告人の如き全盲者は、第一に、就業が困難であり、その就業率は53.8%・就業の職種も限定され就業者のうち74.5%が、はり・きゆう・あんまの三療に従事している(甲12号証)第二に、約半数の就業者でも平均月収は、就業者の26.8%が2万円以上3万円未満は就業者の24.4%である(甲12号証)、第三に、日常生活において、外出歩行、硬貨紙幣の取扱い、電話の取扱、洗濯、電気機器の取扱いなどにおいて健康人では想像もつかない困難乃至不能を強いられている(甲13号証)等の事情は、稼得能力の殆ど完全な喪失に近い状況にあり、僅か半数の就業者にしても健康人の平均月収を遥かに下廻つているのが実情である。すなわち前記の甲12号証の調査は、昭和43年3月現在における実態調査であるが、同年4月現在の国家公務員の平均給与をみると、3万9775円(昭和44年版厚生白書厚生省編202頁)である。以上の如く、視力障害という事故による稼得能力の絶対的低下の内容は、その半数は就業不能で稼得能力はゼロであり、あとの半数の就業者のうち24.4%は健康人の平均的稼得能力(3万9775円)50%以下(2万円未満)であり、同様に26.8%は、75%以下(2万円乃至3万円)である。金額にして約2万円乃至約1万円の低下である。
[253] 障害福祉年金額3400円が、障害の事故による稼得能力の低下分をとうていカバーしてない実態は極めて明白である。しかも、以上の実態考察には、障害の事故による特別の出費(例えば杖、眼鏡、外部との連絡のための電話、外出のさいの自動車の利用など)は全く考慮されていないのである。
(2) 児童扶養手当の実態
[254] 母子家庭の実態が昭和42年8月の調査で、その50%が平均月収3万円以下であり、生活保護を受けている者は全体の10.6%という高率で(全国の保護率1.51%)であることは(甲16号証の3)如何に母子家庭の母の稼得能力が低下しているかを示している。これを前述の障害者の稼得能力の低下の実態を検討したのと同様に昭和43年4月現在の国家公務員の平均給与と比較すれば、母子家庭の母親の稼得能力の低下分は、その過半数が両親揃つた家庭の平均的稼得能力の25%以上、金額にして1万円以上の格差があるものと推定できるのである。
[255] この25%及び1万円は格差の最小限であり、これ以上の格差をもつものが大部分を占めるこというまでもない。
[256] しかして、児童扶養手当の給付額は、本件却下処分当時月額にして金2100円であつた。これが前述の母子家庭の稼得能力低下分をとうていカバーできないことも極めて明白である。
[257] しかも、この場合、母子家庭における児童の扶養のための特別の出費については何ら考慮していないのであるから、右の稼得能力の低下による生活水準の低下は、児童の扶養のための出費を必然的に伴うのであるから更に大きく低下するのが母子家庭の実態であることに特に注意すべきである。
[258](3) 「母子家庭」の稼得能力の低下内容と「障害」の事故による稼得能力の低下内容とは共通の内容ではない。
[259] 右のそれぞれの低下内容が共通であれば、その場合、併給を認めるか、禁止するか、という問題が生じ、併給制限をするとすればその合理性の問題が検討されることとなるが、異質の場合は、併給制限の根拠が論理的になくなる。けだし別個の事故に対する別個の給付と同様に論ずべきものであるからである。
[260] 本件の場合全盲という「障害」の事故により生ずる稼得能力の低下の内容は男女の区別なく、右で明らかなように、母子年金(母子福祉年金)は子が18才に達すれば母子ともに受給資格を失うのであつて、子供を養育している母に対し、母の生活の維持と子供の養育の2つの目的を含めて支給されるものである。
註(1) 伊藤正己「法の下の平等」公法研究18号21頁
 (2) わが国における通説・判例は、このようにいわゆる「相対的平等説」をとるのであるが、この説には「絶対的平等説」の立場から「合理性の判断基準が抽象性を免れず、経験的に『一般に妥当する社会通念』とか『社会の法意識、法本能によつて承認される根拠』とかいいかえてもその限界は不明確であつて、十分内容を明かにしたとはいえない」とか「不確定な概念を解釈内容としてもちこみ、実定憲法上の平等という明確な概念とすりかえ、しかも違憲審査権を通じて裁判所がその決定機能を行うとき、客観的基準をもたない裁判所の恣意又は主観化された合理性の支配を認めることとなる」等の厳しい批判が加えられている。この批判者の立場も、基本的には前述のような平等原則の近代国家における重要な意義をふまえた立場からの指摘であつて、通説もこれに対して「合理性」判断の厳格化の必要性を強調している。
 (3) 東京地方裁判所 昭和43年7月15日判決(いわゆる牧野訴訟一審判決)
 (4) 伊藤・前掲書25頁
 (5) 小林直樹「憲法講義」上306頁
 (6) 佐藤功「コンメンタール憲法」117頁
 (7) 芦部信喜「合憲性推定の原則と立法事実の司法審査」『憲法訴訟の理論』131頁
 (8) 芦部「違憲審査権と司法消極主義」前掲書252頁
 (9) 芦部、前掲書253頁
 (10) 芦部「司法審査性の理念と機能」前掲書35頁
 (11) 芦部、前掲書257頁
 (12) 芦部「憲法訴訟の理論と技術」『公法研究』32頁以下
 (13) 東京地裁昭和49年4月29日判決判例時報740号25頁(いわゆる宮訴訟一審判決)
 (14) 母子福祉年金の趣旨は母子年金と同一と考えてよいが、国民年金法における母子年金は、類似の制度である厚生年金保険における遺族年金に比較して次のような特質を有している。
 「遺族年金」は、被保険者であつた生計中心者の死亡による稼得喪失に対する所得保障であるが、厚生年金保険は被保険者が就労していたことが制度の基本であるから、
1 労働に従事していた被保険者によつて今後とも継続して扶養されるべき関係において将来に渡り得べかりし利益の喪失への所得保障である。
2 遺族の順位が相続順位と酷似しており、保険料に対する遺産相続性が濃厚で、遺族年金給付としての特色をもつ。
3 遺族についてみると「子」は18歳に達すれば加給対象者とならないが「妻」は子が18歳になり失権した後も、婚姻せぬ限り死亡時まで給付対象となる。
 その点、遺族年金は、妻への生活保障を極めて重視していることがわかる。
 それに比し「母子年金」は、夫(被保険者)が死亡したとき、夫に扶養されていた妻(同じく被保険者)が、18歳未満の子又は20歳未満の障害児を扶養しているとき、妻自身の保険料拠出に基づいて支給される。被保険者である夫又は妻が就労しているか否かは問題とされていず、妻が未成熟の子を育てていることだけが問われる。
 「子」は、当然のことながら、18歳に達すれば加給対象とならぬが「妻」も子が18歳に達すれば給付は失権するから(妻自身被保険者であり、遺族年金のように、夫を通じて受ける年金的保護のような不安定・不十分さはなく、一見、独立した主婦の年金権のようにみえるが)母子世帯への所得保障である。但し、死亡した夫が就労していたか否かを問わないから、死亡による稼得能力の喪失に直接対応する所得保障とはいえない。
はじめに
一、原判決の憲法14条に関する判旨とその問題点
  (一) 原判決における併給禁止条項の違憲審査過程
  (二) 右判旨における問題の所在
二、アメリカ連邦最高裁における平等保護原則に関する司法審査の推移
  (一) 伝統的平等保護原則
  (二) 新しい平等保護原則
   1 厳格な審査を要求する「疑わしい分類」
   2 基本権益の侵害
  (三) 「厳格な合理性」基準による実質的審査
   1 手段志向型
   2 目的志向型審査
  (四) 小括
三、本件における審理のあり方
  (一) 「厳格な審査」基準
  (二) 「厳格な合理性」基準
[1] 上告人は、すでに上告理由書(昭和51年2月5日付)及び、同補充書(昭和52年1月24日付)において、原判決の憲法14条違反の主張に対する司法審査の方法ならびにその結論の誤りを詳細に主張した。
[2] 本書面においては、原判決もそれに依拠していると思われるアメリカ連邦最高裁判所の平等保護条項に関する司法審査の方法あるいは内容を参照しつつ、原判決の憲法14条に関する審査のあやまりを明らかにしようとするものである。
(一) 原判決における併給禁止条項の違憲審査過程
[3] 原判決は、法令の合憲性審査にあたつての基本的な態度として次のようにのべた。
「法律について、違憲無効と判断することは重大なことであるから、違憲立法審査権の行使にあたつては慎重でなければならず、殊に係争の法令条項が国民に対し権利、利益を賦与するような、いわゆる給付行政に関するもので……(中略)……これを違憲であると判断するがためには、立法府が恣意によるなどして、判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない」。
[4] そして、本件併給禁止条項が憲法14条に反するや否やについては、まず、(イ)財源の効率的活用、(ロ)社会保障施策全体の総合的考察、(ハ)他の年金制度において同様の規定があること、を強調したうえ、
「立法府が右のような併給調整又は禁止をした立法的根拠は」
(ニ) 事故が複数であつても、それによる稼得能力の低下喪失という結果は同一であること。
(ホ) 同一人について2つ以上の事故が生じた場合にそれぞれの年金を支給することは、特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることになり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失することになること。
(ヘ) 障害福祉年金も児童扶養手当もいずれも全額国庫負担であつて、一般国民感情が未だ併給を当然視する迄に至つていないこと。
(ト) 社会保障施策は他に数多くなされており、年金や手当の併給禁止しても、そのことだけをとりあげて、一概に国民のニードに応じない施策をしたものであるとはいえないこと。
(チ) こうした施策にかかわらずなお生活困窮に陥つた者に対しては最終的には個別的な救貧施策としての生活保護制度が設けられていること。
などをあげ、
「以上のようなことから、立法府は、財源の公平且効率的活用のため……併給を禁止したり、又その調整を行うことには合理的理由があるとの見解に依拠したものであることが認められる。而して当裁判所も右併給禁止に合理性があるものとした右見解を是認できるのであつて、これによれば、……本件併給禁止条項が、立法府の恣意によるなどして、その合理性の判断を著しく誤つたものであるとは到底認め難い。」
とのべている。

(二) 右判旨における問題の所在
[5] 原判決は、右に摘示したように、本件のような国民の生存権に対応する給付行政の場面では憲法25条、14条等の違反の有無という違憲立法審査は大幅に緩められるべきであつて、「憲法に違反することが明白な場合でなければならない」という原則(明白の原則)をのべ、憲法14条に関する判断部分においては、立法府が当該立法についてとつた一定の合理的根拠ありとの立場を是認できれば、それを合憲と判断するという手法をとつている。
[6] 右のような立場は、アメリカの連邦最高裁において、経済的自由の規制立法の司法審査において、かつてしばしばとられてきた“合理性の原則”をそのままとり入れたものと思われる。
[7] しかしながら、そもそも今日アメリカにおいては、伝統的な“合理性の原則”そのものが、旧来のままの形で適用されることは純粋に経済活動の自由の規制立法が問題とされているケースでもみられなくなつているといわれているのであり、ことにアメリカ憲法修正14条の平等原則違反が問われるケースではほとんどなくなつているといつてよい。
[8] そして特に平等保護条項に関しては、多くのケースにおいて右“合理性の原則”にかえて“厳格な審査”の原則が適用されているとされているのである。
[9] そこで、以下において、上告人はまずアメリカにおける平等保護条項違反の問題領域における司法審査の傾向を明らかにし、次いで、そこで明らかにされた原則に照らして原判決のあやまりを明らかにしようと考える。
(一) 伝統的平等保護原則
[10] アメリカにおいては精神的自由に対する規制立法の合憲性審査と経済的自由に対する規制立法の合憲性審査は異なつた基準で審査されるべきであるという「二重の基準」の考え方がとられてきた。そしてその考え方の最も著名な展開は、United States v. Carolene Products Company (304 U.S.144)(1938)におけるストーン判事の法廷意見及びそれに付された脚注の見解であるとされてきた。
[11] 右法廷意見によれば、
「普通の商業取引に影響を与える規制立法は、既知の事実もしくは一般に想定された事実に照らしてみて、これが立法者の知識と経験の範囲内の、ある合理的基礎に基づいているという仮定を排除するような性格のものでない限り、違憲の宣告は下されるべきではない」
とのべられ、経済的規制立法に対する大幅な合憲性の推定を認めている。そして、右の原則は、その後ますます強調され、「理論上は最少限の審査、事実上は審査皆無も同然」、あるいは司法の「無干渉(hands-off)」といわれる状態が現出したが、そこでは、
「法律が合憲であるためには、議会において規制手段が矯正を要する害悪を除去するのに『合理的方法だと考えられたであろうということで十分なのである』」
とされるに至つた(1)
[12] そして、従来平等保護条項が争われたケースが、いわゆる経済的自由の領域における問題であつたことが多かつたこともあつて、わが国では、合衆国での平等保護条項の審査基準は右のような合理性の基準であると考えられてきた傾きがある(2)

(二) 新しい平等保護原則
[13] 右にみたような「二重の基準」の考え方は、経済的権利と市民的権利とが複雑にからみあつて問題とされる現代国家――特に経済的権利が生存権との関係で新しい重要性を持つてきた状況のもとでは大きな問題点にぶつかることとなつた(3)。そして単純な二分論に対する反省の中から、ウオレンコートにおいて、新しい平等保護原則にかかわる司法審査の基準がうち出されることとなつた。すなわち、人種・血統・国籍による差別のような違憲の「疑いのある類別(suspect classification)」及び投票権・刑事手続に関する諸権利・州間の旅行の自由のような憲法上保障された「基本的権利ないし利益」に影響を与える類別については厳格な審査の基準が適用されるようになつたのである。
1 厳格な審査を要求する「疑わしい分類」
[14] 平等保護条項が問題になる法律においては、常にある者に法が適用され、他の者にはそれが適用されないということが問題とされ、法の適用対象の分類が問題となる。この分類が人類・血族・国籍・貧富等を根拠としてなされる場合、その分類は「疑わしい分類」とされ厳格な司法審査が行なわれなければならないとされた。これは右のような分類が多くは、先天的な個人の力ではコントロールできないことを根拠とするものであり、又通常これらの分類特性には劣等性の烙印がつけられるということが特別な扱いを求める根拠となつている。そして人種、国籍、性等による分類はこの「疑わしい分類」に含まれるとされ、又富による分類も
「州がこの法律を制定し適用する際『富者』と『貧者』そのものの間に差別をすることは平等保護条項によつて当然禁ぜられている」
とされているように(Douglas v. California 372 U.S.353, 361(1963)判決の法廷意見)、富による分類についても基本的には同様に考えられているといつてよい。
[15] そして、このような分類がある場合には、その法律の合憲性の推定が働かないので、いわゆる“厳格な審査”が行なわれなければならないとされている。すなわち当該法律の合憲性を主張する側で[1]立法目的が正当であること、[2]手段がその目的を達成するという、やむにやまれぬ強度の利益(compelling interest)を促進するのに不可欠であること、を挙証する責任があるとされている。
2 基本権益の侵害
[16] 厳格な審査がなされるもう1つの類型は、法律が設けた分類が憲法上保障された基本権ないし基本的利益に不利な影響を与える場合である。この類型の典型的なケースとして著名なShapiro v. Thompson (394 U.S.618)(1969)判決によれば、公的扶助の請求をする者は、その管轄区域内に少なくとも1年以上居住することを要するということを決めた州法の合憲性が争われたケースで、最高裁は、
「州間を移動するという基本的権利に法律が触れるのであるから、その法律の合憲性はその法律がどうしても必要な州の利益を助長するか否かという、より厳格な基準によつて判断されねばならない」
と判示した。
[17] 最高裁は、これまでに選挙権、結婚や出産に関する権益、刑事裁判上の権利、移動の自由などに関して、同様の考え方を示してきた(4)
[18] アメリカにおいては、日本と異なり憲法上生存権に関する規定がないために、福祉受給権を直ちに憲法上の基本的権利又は利益であると解する見解は少ない。しかしC.ライク教授をはじめ有力な学説において、現代社会の貧困が個人と関係のない複雑な産業社会における巨大な力の結果と解され、資本主義経済機構の不可避の産物である以上、貧しき者には最少限の分けまえを求める権利があると主張され、福祉受給権が恩恵ではなく権利であること、しかも、福祉を求める人々にとつての基本的な権利であることが指摘されている(5)
[19] そしてこのような学説の動向を背景に、判例においても、福祉受給権を基本的権益として厳格な審査を及ぼそうとする傾向がみられる。
[20] 1970年に出されたGoldberg v. Kelly (397 U.S.254)判決において、ブレナン法廷意見は、公的扶助を受ける憲法上の権利の存在は認めなかつたものの、福祉の重要性を強調し、
「公的扶助は単なる慈善ではなく、『一般の福祉を促進し、われわれ自身およびわれわれの子孫に自由の恵沢を確保する』手段である」
として、そのような「生きる手段そのもの」ともいえる福祉給付を受給者に聴聞の機会を与えないで打ち切ることはできないという、他の経済的利益には認められない特別のデユー・プロセスの保護が与えられる旨の立場を打ち出した。
[21] 又右判決と同じころ出されたDandridge v. Williams (397 U.S.471)は、有扶養児童家庭援助計画に基づく扶助額を家族員数の多寡にかかわらず1ケ月250ドルに制限したメリーランド州の措置が平等保護条項に違反しないかが争われたケースであるが、法廷意見が、公的扶助を受ける利益と一般の営業規制によつて損われる利益との間には大きな事実上の相違があることを認めながら、結論においていずれも経済的規制であるとして合理性の基準を用いたことに対して、マーシヤル(ブレナン同調)の反対意見は、次のようにのべて多数意見を批判した。
[22] すなわち、憲法上の権利か否かという権利の定義づけに力点をおくのでなく、当該事件で争われている差別的措置の性格、つまり差別を受けたクラスにある人々にとつての福祉給付の相対的重要性と差別的措置を支える公権力側の利益との衡量によつて審査の基準を検討すべきだという考えに立つて、福祉給付が生活を維持するのに不可欠なものであれば、かりに「恩恵的」給付であつても、それを奪う場合には合理性テストよりも厳しい憲法的基準を適用してきたのが従来の判例であると述べ、本件では扶助最高額制限を正当化する根拠を見出すことはできないとのべたのである。
[23] このような傾向は、その後の判例で順調に発展していつたわけではないが、次にのべるように、1970年以後のバーガーコートの時代になつて、「厳格な合理性」基準と呼ばれる新しいタイプの基準による実質的な厳格審査によつて、受け継がれるに至つている。

(三) 「厳格な合理性」基準による実質的審査
[24] バーガーコートになつてからも、ウオレンコート期の厳格な審査の基準はしばしば適用された(6)。しかしバーガーコートの特徴は、従来の「基本的権利」も違憲の「疑のある類別」も含まない立法の憲法訴訟において、いわゆる“二重の基準”として使われた伝統的な「合理性の原則」を適用しながら、実は司法の介入をより強く認める審査の方法がとられていることに見られる。
[25] そして、その新しい合理性の原則、いいかえれば「厳格な合理性の基準」はおよそ2つの形をとつている。すなわちその1つは、規制手段が立法目的を実質的に促進するものであるか否かを問う型(芦部教授のいわゆる手段志向型)であり、もう1つは、争われている差別がある正当なはつきり表現された目的を合理的に促進するかどうかを問う型(同じく目的志向型)である。
1 手段志向型
[26] 第一の手段志向型は、審査の重点を立法目的達成手段におき、立法目的の正当性をほぼ認めた上で、その目的が手段によつて合理的に促進されることを事実に基づいて証明することを、合憲性を主張する側に要求するものである。この手法による実質的審査が行なわれた典型的な例は、Reed v. Reed (404 U.S.71)(1971)とされているが、遺産の管理人に選任される資格のある者が2人もしくはそれ以上存在する場合には男性に優先権を与える旨のアイダホ州法の合憲性が争われたこの事件で、バーガー法廷意見は次のようにのべ、原告を勝訴させた。
相争う申請人のうちいずれに資格があるかを考量して決定する際の聴聞の必要性を排除することによつて「遺言検認裁判所の業務負担を軽減するという目的は、一定の正当性がないわけではない」。しかし、「決定的な問題は、法律がその目的を平等保護条項の命ずるところに従つた方式(manner)で促進するかどうかである」。本件の場合、「実体に関する聴聞を排除するために、一方の性のメンバーを他の性のメンバーより当然に優先させることは、〔平等保護〕によつて禁止されている専断的な立法府の選択そのものを構成することになる」と。
2 目的志向型審査
[27] 右のような一定の立法目的を達するための手段を専ら重視する方法に対して、この方式は、はつきり表現された実際の目的を重視し、その目的の合理性と共にその目的達成の手段の合理性を基礎づける事実の有無を問題にする違憲審査の方式である。
[28] 夫を失つた母子世帯の場合には収入に応じ寡婦年金と児童扶養手当を支給するが、妻を失つた父子世帯には児童扶養手当のみを支給する旨を定める規定の合憲性が争われたWeinberger v. Wiesenfeld (420 U.S.636)(1975)事件で、法廷意見は、右条項は寡婦が取得しうるであろう賃金を補足し、またはそれに代替する給付を行うことにより、男性より低い女性の経済的地位を補うことを目的とするものであるという政府の主張に対し、立法目的を詳細に審査した上で、
「法律の建前とその沿革にあらわれている右条項の「はつきり表明された」実際の目的は、恩恵的な婦人の救済ではなくむしろ配偶者を失つた親(男女を問わず)が幼ない遺児の養育のために家庭にとどまる道を選ぶことを可能にする」ことである。この立法目的は、「決して婦人の特別の不利な立場を前提としているものではないから、働く婦人に対する保護を減少させるような性による区別を正当化する助け」とはなり得ない。ところが実際はこの規定は婦人は従属的な社会的役割しかもたないとする機械的な一般化に基づくものであつたこと、そしてこれが働く男性と働く女性に与えられる給付に不平等を生み、女性勤労者とその遺族に対する差別を生むこととなつていることからすれば、この規定は「全く不合理」であり修正5条に反し違憲である
と判示した。
[29] 従来判例は、政府が立法目的は「救済的(remedial)」なものであると主張した場合には、表面的な審査を行うにとどまつていた。しかし、右の判例にみるように
「従来『無干渉(hands-off)』のアプローチが採られてきた社会経済立法の領域で、生存権ないし平等保護にかかわる一定の事件について、最高裁が二分法で割切らず積極的かつ実質的審査を行う方向に踏み出していること自体が、ここでは注目されるのである」(7)
(四) 小括
[30] 以上のべてきたように、原判決がとつたようないわゆる合理性の基準は、今日の新しい社会的経済的状況のもとでアメリカ合衆国でも克服されており、特にアメリカと異なり生存権が憲法上の権利として明記されているわが国においては、より強い根拠で厳格な審査が行なわれるべきであるといえるのである。
[31] 前述のようなアメリカにおける判例の変化を検討してきた芦部教授もわが国の憲法訴訟の実情をふまえて、次のように指摘している。
「以上の考察で明らかにされた最近の『二重の基準』の理論に起こつた変化、それをもたらした主要な理由、その結果生れた新しい司法審査基準の意義は、決してアメリカ特有の問題ではなく、そこには、西欧型民主制をとる現代福祉国家が共通して当面する重要な問題点が含まれており、日本国憲法下の憲法訴訟のあり方に大きな示唆を与えるのではないか、と考える。
……私は、かつて小論で触れたことがあるが、新しい『厳格な合理性』基準によつて修正された二重基準説の考え方を憲法14条の法の下の平等に関する憲法訴訟に取り入れ、わが国の通説がいう『合理的な差別』の論証を、広汎な立法府裁量論を前提とする『明白の原則』と結びついて説かれる『合理性』基準と区別するために、準則化し客観化してゆくことがきわめて重要な課題であることを指摘したい。」
 そして「生存権については、それが『自由と生存』というスローガンに象徴されているように、自由権と不即不離の関係を保ちつつ現代国家の人権のカタログに最も貴重な法価値として座を占めているという立場を採れば(私はそう解するが)、生存権に関する裁判で行なわれる憲法判断は、自由権的側面はもとより社会的側面についても、……アメリカの『厳格な合理性』のアブローチと同じ厳しさと実質的審査を認めるものでなければならないであろう。また、立法府の裁量との関係で具体的には微妙かつ困難な問題も生ずるので一律には考えることはできないにせよ、福祉受給に関する一定の領域の平等保護事件も、積極的な司法審査を行なう最近のアメリカ憲法判例のアプローチが参照されてしかるべきであろう。」(8)
[32] そこで、以下、これまで検討してきたアメリカにおける平等保護原則に関する司法審査の方式を本件に適用した場合の審理のあり方について、具体的にのべることとする。
(一) 「厳格な審査」基準
1 本件は、ある立法(国民年金法等)によつて対象国民の憲法上の「基本的権益」の侵害の有無が問われている事案である。
[33] 前記二において詳細にみたように、アメリカ連邦最高裁における平等保護原則に関する司法審査では、憲法上の基本的権利又は利益に抵触するおそれのある法適用対象の分類が問題になる場合は、いわゆる「基本権益侵害」型として厳格な審査が行われることとなつている。
[34] わが国においても、在宅投票制度廃止の合憲性をめぐつて判決をなすにあたり、札幌地裁小樽支部は、
「選挙権のもつ国民の基本的権利としての重要性を十分に考慮しつつ慎重、厳格に判断する必要があ」り、「本件のような選挙権そのものの実質的侵害が問題にされている事案においては、被告主張の明白の原則は採用しがたい。」
と明言した(昭和49年12月9日同支部判決、判時762号8頁)。
[35] その後、最高裁判所大法廷においても、
「職業選択の自由が憲法によつて基本的人権の一つとして保障されているゆえん」に照らし、これに対する規制を定めた法律の定めが「公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。」(薬事法6条2項、4項の違憲判決、昭和50年4月30日、判例時報777号8頁)
とのべ、憲法上の基本的人権にかかわる制約にかんしては、「厳格な審査」を行なうべきことを示している。
[36] これを本件についてみれば、本件が憲法25条の生存権の具体的内容に対する制限にかかわるものであることは、いうまでもない。
2 本件は「疑わしい分類」を行うものである。
[37] 前述のように、法の適用対象をそれ以外のものと区別する分類について、人種、血族、国籍、貧富等を根拠とするものは、「疑わしい分類」とされている。本件において問題となつている児童扶養手当法4条3項3号は、障害福祉年金等公的年金を受給している母と受給していない母とを分類し、前者には扶養手当を支給しないとするものであつて、右分類は、公的年金を受給しているか否か――本件に即していえば障害福祉年金を受給しているか否かを分類の根拠としている。そして障害福祉年金を受給しているということは、障害者という社会的な弱者の地位にあることを意味するのであつて、かかる少数者の権利については、厳格な審査が要求されるのである。
3 本件における「厳格な審査」の内容
[38] 以上いずれの見地よりみても、本件は、前記二、(二)にのべたようにいわゆる「厳格な審査」がなされなければならないのである。そして右「厳格な審査」の具体的内容は、前述のように[1]立法目的が正当であること、[2]手段がその目的を達成するという、やむにやまれぬ強度の利益(compelling interest)を促進するのに不可欠であることを政府の側で立証しないかぎり当該規定は違憲と判断されるという原則である。
[39] 右原則を本件に即してのべるならば、[1]本件併給禁止規定の目的は合理的か、[2]その目的を達成するために併給禁止という手段をとることが、行政庁にとつてやむにやまれぬ強度の利益を促進するために不可欠であるかが被上告人において主張・立証されないかぎり、本件併給禁止規定は違憲とされなければならないのである。本件においては一、二審を通じて、被上告人は右のような立証を一切していない。
[40] しかるに原判決は、併給禁止の合理性について、たんに被上告人主張に沿つて立法府の見解を列挙するにとどまり、右見解の根拠に遡つて、個別的かつ具体的にその当否を審査することなく、漫然、「当裁判所も、右併給禁止に合理性があるものとした右見解を是認できる」と言い捨てた。
[41] 立法府の見解として、列挙されたなかでも最も中心的で、かつもしこれが認められなければ、他の諸論拠の有無にかかわらず、併給禁止は合理性を欠くという結論に達せざるを得ないと思われる、前記(ニ)および(ホ)の根拠にかんして、なんらの司法審査をも行なわなかつたことは、致命的ですらある。
[42] この点、第一審判決が
「原告のような全盲の女性の生活実態は、後記記載の統計事実からも明らかなとおり、最早、喪失または減少すべき如何程の生活上の余裕もない状況にあると認められるのであるから、年額金4万8,000円程度の少額の障害福祉年金が支給されているとの一事により、稼得能力の喪失または減少すべき程度云々を論じることは、本件条項の合理性を説明する根拠としては、薄弱であるのみならず、本件の場合においては、障害福祉年金によつて補わんとするのは、原告個人の身体障害であつて、原告において養育中の児童については、右年金は何ら関知するところがないのであり、右障害年金と手当とは、その保険事故というべきものが全く別個独立であつて、カバーする範囲が少しも重複しないわけであるから、これら両給付を併せて行なうことが、不合理であり、不当な結果を招来するという議論は、とうてい首肯し得ない」
とのべ、前記(ニ)および(ホ)の論拠にかんする審査を行なつたうえ、結論を示しているのと顕著な対照をなしている。しかも、原判決は、右第一審判決の結論を覆したのであるから、その判断過程が示されず、従つて、前記稼得能力喪失等の主張の当否について、なんら個別的かつ実質的な審査がなされなかつたことは、司法審査を全く放棄したといつても過言でない。
[43] 再び前記薬事法にかんする大法廷判決を参照すれば、この判決では、被上告人主張の地域制限立法の根拠につき、
「確かに観念上はそのような可能性を否定することができない。しかし、果たして実際上どの程度にこのような危険があるかは、必ずしも明らかにされていないのである。」として実質審査に入り、その上で「このようにみてくると、競争の激化―経営の不安定―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険が……発生する可能性があるとすることは、単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたい」
という風に審理を進め、判断を示しているのである。

(二) 「厳格な合理性」基準
[44] 本件について、「厳格な審査」基準が適用されないとしても、前記二、(三)にのべたように、少なくとも「厳格な合理性」基準による実質的審査がなされなければならないのである。そして前述の手段志向型の審査によると目的志向型審査によるとを問わず、一定の目的達成のための手段が目的との関連で合理的であるか否かが審査の重点となる。
[45] 本件において、右の意味での手段の合理性は、一度も審査されたことがなく、また被上告人からこの点にかんしてなんらの主張、立証もない。
[46] 本件併給禁止条項が上告人の児童扶養手当受給権を全面的に奪つてしまう規定であることはいうまでもないが、上告人のような境遇にある者にとつて、手当の不支給が、生活上のみならず精神的にも深刻な打撃となること、原判決ですら
「役割の違う年金や手当相互間において、併給調整したり、併給禁止をしたりすることは、これを必要とする国民層のニードに対応した給付をしないことに帰し、正当なことではない」
とのべていることに照らし、たとえ立法目的が正当だとしても、併給を全面的に禁止することが妥当かどうかを審査しなければならないのである。
[47] 前記薬事法にかんする大法廷判決においても、「目的と手段の均衡」を明言しており、また、さきの在宅投票制度廃止事件の判決でも
「しかしながら、立法目的が正当であつても、……一部の者の選挙権の行使を不可能あるいは著しく困難にするような選挙権の制約は、……最小限度にとどめなければならない」、「右措置が合理性があると評価されるのは、右弊害除去という同じ立法目的を達成できるより制限的でない他の選びうる手段が存せずもしくはこれを利用できない場合に限られるものと解すべきであつて、被告において右のようなより制限的でない他の選びうる手段が存せず、もしくはこれを利用できなかつたことを主張、立証しない限り、右制度を廃止した法律改正は、違憲の措置となることを免れないものというべきである。」
とのべている。
2 本件併給禁止という手段の不合理性
[48] 他のいくつかの年金制度をみてみると、同一人に複数の保険事故が発生したばあいにおいて、一率に併給禁止をしているわけではなく、それはむしろ例外で、多くのばあいに一部ないし全部の併給を認めているのである(別表(イ))。
[49] さらに、1の保険事故により、異なる制度において、同一人に複数の年金受給権が発生したばあいにおいてすら、一部ないし全部の併給が認められる定めも存在する(別表(ロ))。
[50] 原判決が、国民年金法20条その他、併給を全面禁止した規定のみ援用しているのは、片手おちのそしりを免れない。(乙第31号証、河野証言参照)
註(1) 芦部信喜「憲法訴訟と『二重の基準』の理論」田中二郎記念「公法の理論」下I所収1539~40頁
 (2) 戸松秀典「平等保護と司法審査(一)―合衆国憲法の平等保護条項に関する司法の役割の研究―」『国家学会雑誌』90巻第7・8号1頁
 (3) 芦部前掲書1558頁。そこでものべられているように、1972年のリンチ判決によつて、「これまで支配的であつた〔二分法〕方式に注目すべき変化をもたらした」(ガンサー)とされている。
 (4) 戸松前掲書47頁
 (5) 芦部前掲書1552頁
 (6) 戸松「平等保護と司法審査(二)」『国家学会雑誌』91巻第1・2号4頁
 (7) 芦部前掲書1570頁
 (8) 芦部前掲書1572頁
別表
(イ) 同一人に複数の保険事故が発生した場合
[1] 同一制度内において
厚生年金のばあい(厚年法38条2項)
 老令と死亡 老令年金と遺族年金の一部併給
 廃疾と死亡 障害年金と遺族年金の一部併給
 死亡と死亡 遺族年金と遺族年金の一部併給
 廃疾と廃疾 併合による障害年金の増額(同法48条1項)
国公共済のばあい
 老令と死亡 退職年金と遺族年金の全部併給
 廃疾と死亡 廃疾年金と遺族年金の全部併給
 死亡と死亡 遺族年金と遺族年金の全部併給
 廃疾と廃疾 併合による廃疾年金の増額
[2] 他の制度にまたがるばあい
老令と廃疾 厚生年金と国民年金 全部併給
厚生年金と国公共済 同右
国民年金と国公共済 同右
老令と死亡 厚生年金と国民年金 全部併給
厚生年金と国公共済 同右
国民年金と国公共済 同右
廃疾と死亡 厚生年金と国民年金 同右
厚生年金と国公共済 同右
国民年金と国公共済 同右

(ロ) 同一の事由により同一人に複数の受給権が発生したばあい。
制  度 事  由  
老齢 廃疾 死亡
厚生年金と国民年金 一部併給 一部併給 一部併給 国年法41条2項
厚生年金と労災年金   一部併給 一部併給 労災法15条1項、16条の3第1項
国民年金と国公共済 全部併給 全部併給 一部併給 国年法41条2項
福祉年金と他の年金 一部併給 一部併給 一部併給 国年法65条3・4・5項
[1] わが国の社会保障の法制は各分野に広くわたつているものの、その内容においては、極めて低劣であり、いまだ憲法25条の生存権の要請をみたしていない。現に上告人のように年額4万8,000円の少額の障害福祉年金をしかもらつていないものが、健全な母親が受給できるところの月額2100円児童扶養手当を求めたところが、併給禁止という立法の故に拒否されるという事態が生じているのがわが国の社会保障の現状である。このような不合理な差別と著しい貧困から上告人が少しでも脱却しようとした場合には、裁判で勝訴判決を得、更に立法の改正がなされるという結果を導かない限り、無理である。さいわいにして堀木さんの場合には、一審の勝利判決後に立法の改正がなされたので、幾分かの満足を得ることができた。
[2] それにもかかわらず、最近一部の社会保障の現状を全く知らない富裕な論者より、「福祉見直し」「高福祉・高負担」「バラマキ」福祉は、財源の無駄使い、あるいは、低劣な社会保障の現状を無視して社会保障を充実させることは怠ける人間を作り「社会の進歩」に役立たないという、およそ社会保障に対する無知でも前提にしない限り、その主張を理解することが困難な主張が叫ばれている。
[3] そこでわが国の社会保障の現状がいかなる状況にあるのかを概観して、前記の主張がわが国の場合、特に、上告人のような立場にある者の場合には全く妥当しないものであることをのべる。
[4](一) 憲法25条では、最低限度の生活を営む権利を保障しているものの、1978年現在、約73万世帯の人々が生活保護の適用をうけ、それらの人々は1人1食当り平均170円の生活を余儀なくされている。しかも1970年度平均65万世帯が75年度70万世帯、78年度73万世帯と着実に増加していることである(社会保障ハンドブツク6頁1979年版)。更に重要なことは実際は「飢餓状態」におかれていながら種々の事情から生活保護をうけないで生活している層が大量に存在することである。更にまた生活保護が憲法上保障された権利であるにもかかわらず、戦前以来のお上よりの「恵み」「ほどこし」ととらえる人々がまだ多数存在する一方で、政府は生活保護の要件を厳しくして、実際には要保護状態にあるにもかかわらず生活保護をうけられない人々を多数作り出している。このような状況を考えるならば、78年度現在で73万世帯という数字は、相当の重みをもつたものとして把握されなければならない。

[5](二) 一方戦前、戦後の困難な時期を体験して老後を迎えた高令者、年金受給者の生活は今日深刻なものがある。いまわが国で老令年金をもらつている人たちは、約1000万人はいるとされ、そのうち、70%を越える人々は、1ケ月最低1万6500円から高くても2万5000円の年金しかもらつてないという現状がある。前記の年金額は、いずれも生活保護の基準をはるかに下回る水準にある(前掲書6頁)。前記の老令年金のほかに上告人らが受給しているところの福祉年金は「拠出」をしないということの故に低いところの前記の拠出制年金より更に低い金額しか受給していないのが現状である。
[6] このような国民生活の貧困な現状や生活基盤の根本的相違に故意に目をつむり「円高」という一時的現象をもつて、世界各国の年金を計算して、わが国の賃金や年金が国際的水準に近づいたということを主張している一群の人々がいる。この人々はそのようなことをいいながら一方では大企業にまわすところの金(設備投資金)を作り出すために、国民年金とのバランスを主張して厚生年金を現行の55才から65才に支給時期を引上げて、その10年間の金を活用しようと企図さえしたり、戦前の家族制度を社会保障の分野に利用して、世帯単位の原則を主張して、家族の責任を拡大して、国の社会保障費用を軽減しようとさえ策謀している。これが「自助と相互扶助の調和」論「社会連帯」論者の主張のねらいでもある。このような人々の社会保障に対する考えはもともと貯蓄などの私的努力が期待できないのが一般国民の状況であるということから社会保障が成立してきたという基本的な考えと根本的に矛盾するものにならざるを得ない(障害者問題研究1978―10・16号 小川政亮「社会保障政策の今日的特徴と堀木訴訟の意義」7頁)。
(一) 社会保障裁判の現状
[7] 社会保障の現状が前述したように極めて低劣であるだけでなく年金相互間あるいは収入が年金であるかそれ以外の本人自身の所得であるかによつて著しい差別的取扱いがなされているがために、今日まで多くの人々より年金の併給を求めて訴えが提起されている。宮公の恩給と老令福祉年金との併給裁判、牧野老人の夫婦受給制限の裁判、岡田あやさんの併給裁判等々が全国的に起されており、それも、極めて低額の福祉年金と他の年金、手当との併給を求めて訴えが起されているのが社会保障、特に年金裁判の特徴である(ジユリストNo.572 273頁 河野正輝「老人福祉をめぐる訴訟」)。本件堀木訴訟もその一つである。高令者や障害者が文字どおり、自己の生存をかけて単独で訴えを起すということが如何に大変であるかは、訴え提起者の相当部分の人が最終の判決をみることなく死亡していることからも推測がつくであろう。これがわが国の社会保障の水準の現状であつて、「基本的な年金は、公的に確実に保障する一方、貯蓄、私的年金、財産形成などの自主努力も大いに奨励助長し、ゆとりや快適さを加えさせるべきである」という一部の保守政党の主張とは全く離れたというべきか異なる次元で国民は年金裁判を起していることがこのことを通じてもよくわかるものである。

(二) 社会保障裁判と立法・行政の動向
[8] 各種の年金裁判の提起及び判決は今日まで多くの成果をおさめてきている。例えば、昭和43年7月15日東京地裁で判決のあつた牧野訴訟の場合国民年金法の夫婦受給制限が憲法14条に違反するとされ、その後、国民年金法の夫婦受給制限の条項は、立法改正されて削除になり、本件の堀木訴訟の場合にも一審判決後に障害福祉年金及び判決の対象外の老令福祉年金との併給が認められて、今日に至つていることは周知のとおりである。また一審判決では敗訴した宮公さんの場合には、訴え提起後、毎年のように老令福祉年金及び併給限度額が引上げられ、その金額は、訴え提起時から9年後の今日で対比してみると老令福祉年金そのもので、9.9倍、併給限度額で15倍に引上げられていることである。更に、最近東京地裁で一審の勝訴判決のあつた高田馬場での盲人の転落事故についてみると、事故当時点字ブロツクのなかつた駅に点字ブロツクが不十分ながら設置されるということが行われるに至つているのである。更にまた本件の堀木さんの場合には、一審判決後、兵庫県議会では全会一致で福祉年金と手当との併給を実質的に認める児童養育見舞金要綱が制定されたり、兵庫県知事は、
「この事件は堀木文子個人の経済的な事情を考慮した判決であり、実情もそのとおりであるので、控訴しないことが社会のニードにもあい、かつ控訴しないことが適当と思料される」
旨の意思表明(乙10号証)をしているのである。これが社会保障裁判に対する現在の立法・行政の動向である。この点で一言するならば、最高裁大法廷の違憲判決がでても、その後何ら立法改正もされない尊属殺の事件の立法府の対応と社会保障裁判の判決動向は著しい相違があるといえよう。それだけ社会保障裁判の場合は救済の必要が緊急であり、深刻であり、そのことは政党・政派を超えて確認されているという意味で国民世論との関係でも重要な意義を判決はもつてきたといえる。

(三) 社会保障裁判における司法権の役割と国民世論
[9] このようにみてくると社会保障の分野では裁判は重要な役割をはたしてきたことがわかる。これを概観すれば訴え提起そのものによつて、低劣な社会保障水準をわずかながら打開する役割をはたし、違憲判断をなすことによつて、立法改正が現実になされたことによつて原判決がいうような財源の問題や国民感情の問題が何ら合理的理由になりえないことを立法府みずからが判断していることを示している。裁判所はその本来の職責である違憲立法審査権を行使し、その結果、立法府がどう考えるかは、三権分立の精神よりして立法が考えることであると自明なことを事実をもつて一連の社会保障事件経過及び裁判(判決)が示していることである。そしてわが国の低劣なる社会保障の現状からすれば当然なことであるが、違憲判断、これに基づく立法府による立法改正が圧倒的多数の国民より支持されているということは特に注目すべきことがらである。本件訴訟を通じて年金問題で初めてするところの最高裁の判断はこの点よりしても全国民の注目を集めずにはおかない。
(一) 原判決の論旨
[10] 原判決は、本案に関する判示の冒頭部分第二、二、2において、裁判所の行使する違憲立法審査権は慎重に行使されなければならないとのべ、
「殊に係争の法令条項が国民に対し権利・利益を賦与するようないわゆる給付行政に関するもので、立法府の立法裁量に属する事項に属するものである場合、これを違憲であると判断するがためには、立法府が恣意によるなどして、判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない。」
とのべる。
[11] そして、原判決は右判示部分にひきつづき、「3 憲法第25条と本件併給禁止条項」において、憲法25条2項に基づいて国が行う施策は立法府の裁量に委ねられているものであるとの25条解釈を行ない、本件係争の児童扶養手当の併給禁止規定も右憲法25条2項にかかわるもので立法裁量の範囲に属するとして、違憲でないとの結論を導いている。
[12] 然る後に原判決は、「4 憲法第14条第1項と本件併給禁止条項」の部分で、併給禁止条項によつて差別が生じたとしても、それは合理的理由があるという見解に立法府は依拠したものであり、裁判所もその見解を是認することができるとのべ、「本件併給禁止条項が立法府の恣意によるなどして、その合理性の判断を著しく誤つたものであるとは到底認め難い。」とする。
[13] すなわち、原判決は右にみたように、まず違憲立法審査権の行使は憲法25条に関してであれ、14条に関する場合であれ給付行政の場面あるいは立法裁量の領域では極めて慎重でなければならないとするのである。
[14] しかしながら、右にみたように、違憲立法審査権一般についてのべられているかの如きこの立論は、その直後に本件係争法令が給付行政ないし立法裁量であるとの論を用意しているところと合わせみれば、要するに、憲法14条に関して、「立法府が恣意によるなどして判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない。」とするための立論であるといわざるをえない。
[15] すなわち、本件係争の法令条項について憲法25条と同14条がそれぞれに含んでいる法意ならびに法規範性によつて違憲審査をしようというのではなく、25条の解釈にもとづく同条の審査基準によつて14条の審査をも行なおうとするものであつて、右判決はこの点において、まず基本的な誤りを犯すものであるといわざるを得ない。

(二) 憲法14条違反の審査のあり方
[16] 憲法条項はそれぞれにその規定する対象領域が異なり従つて、違憲審査に関する法規範の働き方も異なつてくることは当然のことであつて、ある法令条項がいくつかの憲法条項に違反するとして問擬されている場合には、それぞれの憲法条項の法意と規範性に即して別個の基準から審査されるべきが当然である。
[17] 特に憲法14条はあらゆる法領域において法の下の平等を保障するものであるから、憲法14条が問題となる場合に、他の憲法又は法令条項との関わりでも違憲違法が問題となることは極く一般的に起りうる問題状況であるところ、原判決のように、憲法14条の法意ないし法規範性以前に、どの領域における問題であるかによつて、憲法14条の違憲審査の厳格さが異なつてくるようであつては、憲法14条の意義が没却されるものといわざるを得ない。
[18] 上告補充書第六においてのべたように、法の下の平等という法原則は近代憲法の人権規定の中核ともいうべきもので、法の下での差別的取り扱いを例外的なものとし、その差別の合理性の存否については厳格な審査を及ぼすものとしては、すでに確立した原則といつてよい。従つて、本件について憲法14条違反の存否の審査をする場合も、原判決の如き審査態度でなく、本件一審判決がのべているように、
「憲法第14条は、国民の生活面における実質的な平等を保障する趣旨をも有するものであるから、憲法第25条第2項に基づく社会保障施策においても、合理的な理由なくして、一般人をして著しい差別と感じさせる取扱がなされてならないことは勿論である」
という原則に従つて審理判断なされなければならないのである。一審判決は右のような原則を前提に、併給禁止条項によつて生ずる差別が合理的なものか否かを具体的事実に即して厳格に審査を行つた結果、本件併給禁止条項の違憲の結論に至つている。しかるに原判決は前述のように形式的には14条違反に関する判断も行つているかの如き体裁をとりながら、その審査の実質は、憲法25条違反に関する審査とほぼ同内容で憲法14条独自の審査は行つていないといつても過言でない。すなわち原審判決は右のように本件併給禁止条項について憲法14条の角度から本来なすべき審査を行つていないがために合憲という結論に至つているのであつて、一審判決との結論における差異は、憲法14条に関する審査態度の相違に起因するといつてもよい。
[19] 上告理由再補充書において詳述したように、長年経済的領域にかかわる平等保護条項は緩かな司法審査でよいとしたアメリカにおいてさえ、近年平等保護条項に関する審査について「厳格な審査」あるいは「厳格な合理性」の基準による審査が行なわれているのであるから、本件を審理する上告審裁判所は、上告理由書、同補充書、再補充書でのべたように、具体的事実に基づき、厳格に、憲法14条違反の有無の審判をなさなければならないのである。
[20](一) 原判決が児童扶養手当を「母又は養育者の稼得能力の低下、喪失に対する給付」であると解し、この意味で障害福祉年金と趣旨、目的を同じくするものであると判示したことについては、右判示が児童扶養手当制度の意義を誤解した謬論であることは既に上告理由書第五(176頁以下)、上告理由補充書第四(33頁以下)で詳論したところである。
[21] ところで上告人は児童扶養手当の実質的な受給権者である児童に着目しての差別の不合理性のみを主張してきたのでなく、法文の上で支給対象者とされている母親(あるいは養育者)にも着目して、同じ生別母子世帯であつても健全な母(養育者)であれば児童扶養手当が受けられるのに障害福祉年金の受給者であればこれが受けられないという差別の不合理性を指摘してきた。
[22] これに関して原判決は「複数の所得低下、喪失を招来する事故が発生しても、所得低下、喪失の程度は必らずしも比例的に加重されるものではない」と判示して、これを本件差別の合理性の論拠の一つにあげている。この原判決の判示が上告人と同じ境遇にある障害母子世帯の生活実態を無視した誤まつたものであることは既に上告理由書、同補充書で詳論したところであり(例えば上告理由補充書7頁以下、同75頁以下)、改めて論ずるまでもないことであるが、原判決の根本的誤まりは生活実態を無視して差別の合理性を判断したところにあると考える。

[23](二) さらに、上告人が上告理由再補充書において詳細にのべたように、本件は、アメリカにおける「厳格な審査」基準にも、また「厳格な合理性」基準にも該当し、いずれの場合も本件併給禁止が合憲であるためにはその目的および手段の合理性を被上告人側において厳格に証明することを義務づけられている(上告理由再補充書12頁以下)。
[24] ここで目的の合理性とは、生別母子世帯で全盲の母が障害福祉年金を受けている場合、子の児童扶養手当の給付を制限する必要があるかであり、手段の合理性とは、併給制限という立法目的が正当であつても、併給による弊害除去という立法目的を達成できる、より制限的でない、他に選びうる手段が存せず、もしくはこれを利用できないか否かである。
[25] 右の審理は立法を必要とする制度や生活実態などいわゆる社会的事実によるべきものであり、上告人は一、二審において右のような立法事実の存在しない所以を明らかにしてきたし(上告理由書65頁以下)、とくに、「重度障害者母子世帯の生活実態と併給禁止のもたらす現実的不合理」――重度障害者母子世帯のハンデイはそれぞれのハンデイを単にプラスしたものをはるかに上まわるものである――(107頁以下、上告理由再補充書の「本件併給禁止という手段の不合理性」(20頁以下)で述べたところによれば、目的および手段の合理性の存在しないことは明らかになつたと考える。
[26] しかし、最近の実態調査があるので、原判決のあやまり上告人の主張の正しさを補充する。
[27](一) 学者・実務家より構成されている社会保障研究会のメンバーは、厚生省児童家庭局「母子世帯等実態調査」(1973年8月)、労働省婦人少年局「寡婦等就業実態調査(1977年6月)、交通遺児育英会「交通遺児の母親の職業調査(1976年10月)、同会「交通遺児の母親と医療に関する調査(1977年8月)などの8つの実態調査の結果を資料として母子世帯の生活実態を分析し、更に上告人と同じ条件の母親が視力障害をもつ母子世帯の3事例を実際に調査し、その生活実態がどのようなものであるかを報告している。この報告は「資金と社会保障」ナンバー756(1978年10月下旬号)に掲載されており是非一読願いたい。

[28](二) 右報告によると、母子世帯の生活実態は、生活保護水準程度かそれ以下の世帯が多いことが明らかにされている。すなわち、1973年の厚生省児童局の調査によると母子世帯の86.7パーセントが月額8万3,000円以下の収入しかなく、同年の一般勤労者3人世帯の消費支出の平均月額が11万2,000円と大差があり(右論文第3表参照)、また1977年の労働省婦人少年局調査によると母子世帯の36.6パーセントが当時の標準母子世帯の生活保護費11万0873円以下で生活しているということである。しかもこの36.6パーセントの世帯のうち生活保護をうけているのは9パーセントであり、これを除いた27.6パーセントの人々が生活保護基準以下で保護をうけずに生活していることが明らかにされている。
[29] そして、母子世帯の母親の就業状態については、職種は販売、サービス分野が多く勤務先も小規模事業所であり、従つてまた就労も不安定であり、賃金形態も日給、時間給などが多く、しかも賃金が極めて低いことが指摘されている。例えば1976年の交通遺児育英会の調査によると母親の賃金は全体の84.4パーセントが月11万未満であり、その多くは4~7万円の間であるとされている。
[30] また賃金以外でも特に母親の健康が損なわれている実態が明らかにされているほか住宅問題、子供の養育・教育問題等で深刻な悩みを多くの母子世帯が共通にかかえていることが明らかである。

[31](三) 母子世帯における右のような生活実態の深刻さは、母親が上告人のように視力障害者である場合に二重、三重に倍加する。右報告はこれを実際の視力障害者母子世帯を訪ね調査した結果によつて裏づけている。
(イ) 稼得能力の低下喪失
[32] すなわち、視力障害のために職種の制約をうけマツサージ師にしかなりえないし、マツサージ師の中でも子供がおりその育児のために夜間の出張マツサージが不可能となり収入が必然的に少ない、更に全盲であつて子供の世話をすることによる精神的肉体的疲労などから、母が健全な母子世帯よりも深刻な稼得能力の低下・喪失が存在することを指摘する。そして夜間の出張マツサージをして収入を得ようとするには、子どもを親に預けるなどをせざるをえなくなり、親子が一緒に生活するという人間としてのごく当然の要求さえをも放棄せざるをえないことを明らかにしているのである。また各種会社保険や退職金もなく発病によつてただちに退職せざるを得ない職場に勤務している要因に、障害者母子世帯があげられる。
(ロ) 特別の出費の増大
[33] ところで、二重の障害は稼得能力を減少させるのみならず他方で特別の出費の増大を必然化させる。子どもが乳幼児であるためその養育にかんし他人に部分的にあるいは全面的に援助してもらうことにたいする謝礼、子どもの安全な養育のための特別な設備等の出費、母親の外出介助にたいする謝礼、二重の障害にともなう悩みについて相談するために外出する際の交通費、別居している子どものところへの交通費や電話代などをあげることができよう。
[34] これらの事例において以上の経済的な困難以外の困難もまた生じている。
[35](ハ) 子どもの保育・教育上の問題としては、保育所の入所・通所にともなう無理解や不当とも考えられる条件付けをされるなどの困難、子どもと遊んだり教えたりできないことから、近所の人々に気をつかいながら世話を受けていること、保育に多くの労力と時間とを要すること、更に、逆に母親を世話する立場に立つている場合など修学や成長のための時間と精神的ゆとりが犠牲になることなど、二重の障害は子どもの乳幼児期、学童期、青年期からさらに成人になつてからも多様な影響を与えている。
[36](ニ) 母親の側では以上述べてきたことによる苦悩が大きく、また精神的身体的な疲労が激しいといえる。苦悩は今後の就労や子どもの養育などの生活設計にかかわる不安、みずからの健康についての不安などにもとづくものであり、適切な相談や指導が得にくいことによつて増大しているといえよう。疲労は過度の緊張を強いられ、仕事や育児のために、また障害(病気)のために生じている。こうした心身の状況はまた就労を困難にし、子どもとの同居を困難にし、子どもの養育を困難にしている。
[37] 二重の障害をもつこれらの人々は経済的非経済的な多くの困難をかかえていること、それぞれの困難は相互に他の要因ともなつており、単独の側面からは把握しきれない重さをもつている。

[38](四) 以上のような社会保障研究会の調査結果をみれば、同報告も指摘するように「複数の所得低下、喪失を招来する事故が発生しても、所得低下、喪失の程度は必ずしも比例的に加重されるものではない」との原判決の判示が、如何に実態から遊離しているかが明白であろう。
[39] 原判決のいうように2つの障害があれば所得能力が2倍に低下し、3つの障害があればそれが3倍に低下するものではないどころか、右のような実態をふまえればむしろ、2倍・3倍を上廻つて――それも極めて深刻な形で――稼得能力の喪失、低下、出費の増大を加重することは疑いない事実である。目の見える母親と目の見えない母親を考えればその稼得能力、育児の困難さは容易に予測しえよう。児童扶養手当の給付制限の必要性(目的)は存在しない。さらにこのような実態の中で月額わずかに4000円の障害福祉年金を受給していることを理由にして、一律に月額2100円の児童扶養手当を全く支給をしないことの不合理性は一層明らかである。

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