朝日訴訟 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
控訴審判決 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生活保護法による保護に関する不服申立に対する裁決取消請求控訴事件 東京高等裁判所 昭和35年(ネ)第2511号 昭和38年11月4日 第5民事部 判決 控訴人 (被告) 厚生大臣 被控訴人(原告) 朝日茂 ■ 主 文 ■ 事 実 ■ 理 由 ■ 控訴人第一準備書面 ■ 控訴人第二準備書面 ■ 控訴人第三準備書面 ■ 被控訴人第一準備書面 ■ 被控訴人第二準備書面 原判決を取り消す。 被控訴人の請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。 [1]一 控訴人訴訟代理人は、原判決を取り消す、被控訴人の請求を棄却する、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。 [2]二 被控訴人訴訟代理人は、第一次請求につき、請求原因として、 [3]「被控訴人は、十数年前から国立岡山療養所に入所して国の生活扶助及び医療扶助を受けている単身の肺結核患者である。津山市社会福祉事務所長は、被控訴人に対し、昭和28年9月1日付で月額600円の生活扶助及び現物による全部給付の給食付の医療扶助を併給する旨の保護変更決定をしたところ、昭和31年7月18日付で、同年8月1日以降、被控訴人に月額1500円の収入を生じたことを理由に右生活扶助月額600円を廃止し、医療扶助については医療費の一部として月額900円を被控訴人に負担させて該部分の扶助を廃止しその余の部分に限り扶助を行う旨の保護変更決定(以下「本件保護変更決定」という。)をした。と陳述し、控訴人の主張に対し、 [5]「控訴人がその主張のとおり生活保護法第8条に基く保護の基準を定めてこれを告示し、その主張の各通知により保護の実施要領を定めて通達したこと、右基準によれば、病院又は療養所に引続き3か月をこえて入院入所している単身患者に対しては、生活扶助として月額600円を支給することになつていたこと及び被控訴人がその兄から控訴人主張のとおりの仕送りを受けるようになつたことは認めるが、と陳述し、 [10]「保護基準は、単なる生存の水準でなく、複雑な生活の基準であるから、算数的明確さで明らかにされる性質のものではないけれども、社会的・経済的な意味では客観的・一義的に存在するし、特定の国の特定の時期的段階における生活状況のなかでは科学的・合理的に算定可能のものであつて、年々の予算額や政治的努力のいかんによつて左右されるべきものではない。保護基準の設定は、生活保護法第8条第2項及び第3条の要件のもとにおける覊束裁量に属し、右各条に違反するかどうかの問題は、司法裁判所の判断に服する。また、最低所得層の昭和31年8月当時自力で維持していた生活水準が同法にいう健康で文化的な最低限度の生活水準に達するものとはいえないから、これら階層の者に対しても最低限度の生活を保障しなければならない。要保護者数の激増をおそれて保護基準の引上げをためらうことは許されない。保護基準の引上げによつて被保護者層からやがて脱却して生産に寄与しまたは最低所得層の生活の向上も実現されるから、その引上げは、終局的には要保護者数の激増をきたさない。なお、本件日用品費600円の基準の内訳は、費目の選択において非合理的・形式的で、最低限度の生活に必要不可欠な品目を落しているし、単価・数量においても少なきに失するものがある。」と付加した。 [11]三 被控訴人訴訟代理人は、予備的請求につき、 「本件裁決の以上の違法事由はいずれも同時にその無効事由でもあるから、第一次請求が理由のない場合には本件裁決の無効確認を求める。」と陳述した。 [12]四 控訴人訴訟代理人は、第一次請求につき、答弁として、 [13]「被控訴人が十数年前から国立岡山療養所に入所し国の生活扶助及び医療扶助を受けている単身の肺結核患者であること、津山市社会福祉事務所長が被控訴人主張の理由により本件保護変更決定をなしたこと、被控訴人がその主張の各不服申立をなし、これに対し岡山県知事及び控訴人がそれぞれ被控訴人主張のとおり不服申立却下の決定又は裁決をしたことは認めるが、被控訴人に生活扶助として給付すべき日用品費を月額600円としたことは違法でない。すなわち生活保護法第8条によれば、保護は厚生大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基として同条の定めるところに従つて行うべきものとされており、控訴人は右規定に従い保護基準(昭和28年7月1日厚生省告示第226号)を定め、これによる保護の実施要領(昭和28年6月23日社発第61号厚生次官通知、同年7月9日社発第415号、昭和29年9月9日社発第713号各厚生省社会局長通知)を通達し、入院期間3か月をこえる要保護者で給食を受けている無収入の単身患者大人1人の日用品費(被服費、保健衛生費、雑費)を月額600円の範囲内で支給するものとしたのであり、その支給額の計算方法は原判決末尾別表記載のとおりであつて、右金額は生活保護法の要件に合致するものである。しかるに、被控訴人は、昭和31年8月1日以降兄朝日敬一から月額1500円の仕送りを受けるようになつたから、その後は従前の月額600円の生活扶助及び月額900円に相当する部分の医療扶助を必要としなくなつた。したがつて、本件保護変更決定は適法であり、これを維持した原裁決もまた適法である。元来保護基準の設定には、幾多の不確定要素についての専門・技術的判断及び財政その他国政全般についての配慮のもとに行われる政治的判断が必要であるから、裁判手続によるその当否の判断は、きわめて困難であり、したがつて、このような事項についての司法審査は、その性格上自己抑制しなければならない。すなわち、保護基準設定についての控訴人の判断は、その行政的責任においてなされるもので、該判断が漫然と恣意的になされたものでなく、かつ法の要請に明らかに反する著しく不合理なものでない限りは、それが国会において予算の配分を通じて承認を得たものであることを考えあわせ、裁判所としても当然その判断を尊重すべきである。また、健康で文化的な生活水準を決するに当つては、最低所得層の生活や国の財政事情を考慮すべきである。昭和31年8月当時最低所得層の人口は国民全体の約1割に当り、被保護者が保護を受けつつ現に維持していた生活と同程度の生活を自力で維持していたから、その水準が健康で文化的な生活水準に達しないとはいえない。かような最低所得層に対しても保護を与えるべきかという均衡上の問題、したがつて、また、保護の基準の引上げが要保護者数の激増をきたすという予算上の問題と無関係に保護基準を設定することはできない。控訴人は、これら諸般の事情を考慮して、最低所得層の生活水準と同程度において生活扶助の一般的基準を設定し、入院入所生活という観点からこれに必要な追加削除を施して基準費目・基準数量を積み上げ、さらに「その他」の項目を設けて特定費目以外の需要に対する若干のゆとりを認めた上、本件日用品費の基準を算出した。右基準の各費目・数量のすべてが入院入所患者のすべてにとつて必要不可欠ないし同一の必要度を示すものではないのであつて、個々の患者についてみれば、各費目を真に必要とする度合に個人差のあることは当然であり、とくに重症患者にとつては不必要な費目もあり、また施設の状況その他によつても不必要なものもあるのであつて、仮にある費目・数量・単価について多少不足するものがあつたとしても、患者の創意と工夫によりこれを相互に流用し補うことは当然可能であり、むしろそれが現状であつて、この費目・数量どおりに費消していると考えるべきではない。したがつて、本件日用品費の基準は、昭和31年8月当時において、要保護患者に対し生活保護法の保障する生活水準を維持するに足りるものといわなければならない。また、補食の問題は、日用品費の問題とは別個に医療扶助の一部としての給食の問題であるのみならず、国立療養所においてはいわゆる完全給食が実施され補食の必要性はなかつたのであり、本件岡山療養所の給食状態もその例外ではなかつた。そして、国立療養所の生活保護患者は、給食を含めて医療については、一般の社会保険患者と同一の待遇を受けていた。なお、被控訴人は、生活保護法第9条は基準を上回る保護の実施をも要請するものであると主張するけれども、同条は保護の基準の範囲内での運用の原則を規定したにすぎない。」と述べ、さらに、 [14]「仮に本件日用品費の基準月額600円が違法であつたとしても、昭和31年8月当時、被控訴人自身においては、月額600円でその日常の身の回りを弁ずるに足りていたのみならず、誤つて適用されたものではあるが、軽費制度により月額400円の医療費減免措置を受けその額だけ医療費の自己負担を免れ、そのため月額1000円を自己の手許にとどめ日用品費に不足しなかつた。したがつて、結局において本件保護変更決定は適法である。」と陳述し、予備的請求につき、 [15]「以上のとおり本件裁決にはなんらの違法がないから、これを無効とすることもできない。」と述べた。 [16]五 当事者双方は、以上の各主張を敷衍するため互に法律上及び事実上の陳述をしたが、その詳細は、控訴人訴訟代理人において別紙第一ないし第三各準備書面(写)のとおり陳述し、被控訴人訴訟代理人において別紙第四及び第五各準備書面(写)のとおり陳述したほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、その記載をここに引用する。 [17]六 (証拠省略) [1]一 被控訴人が十数年前から国立岡山療養所に入所して国の生活扶助及び医療扶助を受けている単身の肺結核患者であること、津山市社会福祉事務所長が被控訴人に対し、昭和28年9月1日付で月額600円の生活扶助及び現物による全部給付の給食付の医療扶助を併給する旨の保護変更決定をしたところ、昭和31年7月18日付で、同年8月1日以降右生活扶助月額600円の全部を廃止し右医療扶助については医療費の一部として月額900円を被控訴人に負担させて該部分の扶助を廃止しその余の部分に限り扶助を行う旨の本件保護変更決定をしたこと、被控訴人において右8月1日以降兄朝日敬一から月額1500円の仕送りを受けるようになつたこと並びに被控訴人主張の経過により本件保護変更決定に対する被控訴人の不服申立、これに対する知事の却下決定、その決定に対する被控訴人の不服申立及びこれを却下して本件保護変更決定を維持する旨の本件裁決があつたこと等の事実は、いずれも当事者間に争いがない。 [2]二 被控訴人は、本件裁決によつて維持された本件保護変更決定について、種々の理由を掲げてその違法を主張するので、以下順次検討を加える。 [3](一) 控訴人において生活保護法第8条に基き同法による保護の基準を定めその後改訂を加えてきたこと、昭和31年8月1日当時の右基準によると、病院又は療養所に引き続き3か月をこえて入院入所している単身患者に対しては生活扶助として月額600円を支給することとなつていたこと、右金額を算出するに当つてはマーケツト・バスケツト方式を採用し、この方式を用いて定めた一般の生活扶助の保護基準を基礎とし、そのうち入院入所生活に不必要と思われるものを除き必要と思われるものを加え、原判決別表記載の内訳のとおり、患者の身の回りの用を弁ずるため一般的に需要度の高いと思われる標準的な費目を積み上げて算出したこと等の事実は、当事者間に争いがない。 [4] 被控訴人は、右日用品費の基準は3か月をこえる入院入所中の単身患者の最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつたとはいえないから、生活保護法第3条、第5条及び第8条第2項に違反するものであり、このように基準自体が違法である以上、本件保護変更決定もまた違法であると主張する。生活保護法第2条は、「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる。」と規定し、同法のその他の規定と相俟ち国民の保護受給権を定めている。これは、日本国憲法第25条に規定する理念を具体化し、同条による国の責任を展開して個々の国民の国に対する具体的権利を定めたものであり、これにより当該国民の受ける利益は、決して国の恩恵ないし社会政策上の施策に伴う反射的利益に過ぎないものではない。 [5] ただ、その権利の具体的内容は、同法の規定だけでは明示されず、同法第8条は、控訴人(厚生大臣)の定める基準により測定した要保護者の需要を基として保護を行う旨を規定しているところ、その基準の定め方については、これまた同条第2項に抽象的多義的な規定をしてあるものの、その内容を明確な一義的概念をもつて示してはいない。その意味において同条は一般的方針を規定するにすぎないけれども、そのゆえをもつて、同条を訓示規定と解し、同条に基き控訴人の設定した保護基準に対し司法審査が及ばないとすることはできない。けだし、それでは、憲法第25条の理念に基いて生活保護法が国民の保護受益権を定めた趣旨を没却することになるからである。 [6] 次に、保護基準と保護の開始又は変更の決定との関係を考えるために、同法第8条の沿革を検討すると、旧生活保護法(昭和21年法律第17号)においては、「保護は、生活に必要な限度を超えることができない」(第10条)という制限的な規定を設けているのみであつて、保護の基準に関する明確な法的規定を欠いていたところ、成立に争いのない甲第137号証の1、2並びに原審証人尾崎重毅及び当審証人小沼正・小川政亮の各証言によれば、右旧法当時においても保護基準の設定という行政上の措置はあつたけれども、これは単なる一応の基準にすぎず、具体的な保護は保護の担当者が要保護者の実情に即して認定するところに従つて実施するものであり、最低生活をこの基準によつて定めようとするものではなかつたこと、ところが、保護基準についてのかような考え方に対し、次第に反省と批判が加えられ、保護の実施機関の主観を排除すべきであるという要請のもとに、保護基準は控訴人がこれを定めることとしたのが前記現行法第8条の規定であることを認めることができる。同条が設けられた以上のような経過及び無差別平等の原則を規定した同法第2条に徴すれば、すべての国民は、少なくとも、同法第8条に基き控訴人が定める基準までの生活は現実に営むことができるのであり、国民生活は、この保護の基準を最下限としそれを下回ることがあつてはならない。このことは、旧法当時と比較すると、保護基準に対する基本的な考え方の発展を示すものであり、旧法当時のように保護の内容をその実施機関の主観的判断に委ねることなく、控訴人の定める保護基準が保護の内容を規定するわけである。それゆえ、保護の実施機関は、保護を開始し又は変更するに当り、個々の要保護者の生活が保護の基準を上回ることもなければ下回ることもないという同一水準の最低生活を維持できるように保護の決定をしなければならないのであり、その意味において具体的な保護処分は覊束裁量行為と解すべきである。したがつて、もし保護基準そのものが違法であれば、保護の開始又は変更の決定は、法律上の根拠を失い、違法であることを免れない。これを本件についてみるに、本件日用品費の基準が違法であるときは、本件保護変更決定もまた違法となるわけである。ところで、生活保護法第8条第2項によれば、保護の基準は、「要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない」のであり、ここにいう「最低限度の生活」とは、同法第3条により、「健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。」 [7] ところが、右各規定にいう「健康で文化的な生活水準」という概念は、抽象的な概念であつて、その具体的な内容は控訴人の積極的に確定するところにまつほかはない。このように、生活保護法が保護基準の設定につき控訴人を拘束する具体的決定的な規定を設けなかつたのは、そもそも健康で文化的な最低限度の生活水準そのものが、文化の発展、国民経済の進展等に伴つて絶えず進展向上すべきものであり、決して固定したものではなく、しかも多数の不確定要素の把握総合の上に定立されなければならないものであつて、これを固定的拘束的概念で狭い範囲内に膠着させることが不適当なため、その設定に関する具体的判断を実質上控訴人の裁量に委ねたものと解すべきである。もつともここに裁量というのは、行政庁の完全に自由な選択を許す自由裁量の意味ではない。この場合も行政庁は同法の理念に従い最も妥当な客観的一線を探求決定してこれに従うべきではあるが、前記のような事情から、その選択が、ある範囲内で行われる限り、当不当の論評を加えることはできても、その違法を論証することができない結果行政庁の当該判断に基く措置がその効力を否定されないことをいうに過ぎない。行政庁の判断が法の定める抽象的要件より逸脱し、もはや当不当の問題をこえて、その法律上の要件が満たされたものと思考される余地を失つたときは、右判断に基く措置は違法とされなければならない。本件日用品費の基準についても、その違法か否かを明らかにするためには、単にその当不当を論ずるだけでは足りないものというべきである。 [8] 本件において3か月をこえる入院入所中の単身患者の最低限度の生活の需要を満たす合理的な日用品費の基準を定めることは、多数患者の多様な経済的需要の実態を調査把握した上生活科学たる生計費理論をこれに適用するという専門・技術的検討を要する事項である。したがつて、本件日用品費の基準の設定が違法であるというためには、一べつしただけでこれを無効視できる場合のほかは、単なる素人的感覚又は判断にのみ頼ることは許されないのであつて、専門・技術的分野にわたる事項もすべて司法審査の対象としなければならない。また、生活保護行政が予算を伴うことはいうまでもないが、国の財政その他国政全般についての政策的考慮を経て定められた予算の配分に従つたというだけの理由で、該基準の設定が適法であるということにはならない。 [9] しかしながら、反面、生活保護のための費用は、納税を通じて国民が負担するものである以上、保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれと無関係に定め得るものではなく、また、その時期における国民の生活水準、文化水準の程度も当然対照されなければならず、国民感情も無視することはできない。本件日用品費の月額600円という基準額は、3か月をこえる入院入所中の単身患者の日用品費としてかなり低額であるとの感を免れないけれども、内容の検討をまたずにその額を一見しただけで確定的に違法であると断定できるほど極端に低いものではないから、その検討を行わないで直ちに結論を下すことはできない。 [10] 成立に争のない甲第137号証の1ないし3によれば、本件日用品費計算の基礎となつた一般の生活扶助基準額は、行政庁がなんらの資料にも基かず恣意的に定めたものではなく、昭和23年8月の第8次改訂から採用された理論生計費方式いわゆるマーケツト・バスケツト方式を推進し、東京都の区部における標準世帯について実際にマーケツト・バスケツトを組み、これを基礎として、性別、年齢別に個人に分解し、これを各種の世帯に適用できるような組合せ方式をとり、さらに地域差に従い展開し、しかもその後数次の実態調査の結果等を参酌して修正を施したものであることが認められるから、かような方式を採用したことが違法でない限り、また、その方式により金額を算出する過程に違法がない限り、一応適法なものと推認すべきである。よつて以下それらの点の違法の有無を検討する。 [11] 被控訴人は、マーケツト・バスケツト方式を採用したこと自体問題であると主張する。思うに最低生活水準を定めるには最低生活費を算出しなければならないところ、マーケツト・バスケツト方式はいうまでもなくその算出方式の一である。この方式は、最低生活に必要と思われる費目・数量を個別的・具体的に選び出し、これに単価を乗じて金額を計算し、それを積み重ねて一定の生活費を算出するものである。これは、長年にわたる伝統を有し、欧米諸国の一部において今日でも採用されている方式ではあるけれども、費目・数量の選出に主観的要素がはいりやすく、また非現実的に流れやすいという欠陥を伴うものである。この方式のほかにも、例えばエンゲル方式があり、これは、合理的な計算に親しみやすい飲食物費の最低限度をマーケツト・バスケツト方式で算出し、その他の生活費はエンゲル係数(総生活費中に占める飲食物費の割合)を用いてその最低限度を算出するわけで、マーケツト・バスケツト方式の短所を補うものではあるが、なお十分なものとはいいがたく、しかも適切なエンゲル係数を決定することが困難であり、当審証人小沼正の証言によれば、昭和31年8月当時は右エンゲル係数決定の基礎資料たる家計調査が不十分であつて、この方式の採否についてはまだ研究段階にあつたことが認められる。また、成立に争いのない甲第22号証及び乙第17号証、当裁判所が真正に成立したものと認める甲第23号証並びに原審証人藤本武、当審証人小沼正の各証言を総合すれば、財団法人労働科学研究所においては、昭和27年から昭和29年にかけて、厚生省の委託により、同研究所所員藤本武を中心とし、東京都及び一部の農村における最低生活費の共同研究を行つたこと(甲第22号証は、その研究成果のうち東京都を対象としたものである。)、右研究で採用した方式は、生活水準が人間の身心に及ぼす影響を考慮し、ある限界をこえて生活水準が低下すれば身心の状態が格段に悪化するという遷移点に最低生活水準を求め、これに該当する世帯の現に支出する生活費を最低生活費とするものであるところ、この方式は従前に例のない画期的な方式ではあつたが、この方法による研究はようやくその緒についたばかりでこれを採用して一般的基礎を定めるには時期尚早であつたこと、なお、この方式以外にも昭和31年8月当時までに学者によつて新しい方式による2、3の研究がされていたこと等の事実を認めることができる。以上の各認定を左右する証拠はない。このようにみてくると、マーケツト・バスケツト方式は、前示のような欠点があるけれども、昭和31年8月当時社会保障の先進国でも採用されていて、実用段階にあるものとしての権威をいまだ失つていなかつたものというべきである。したがつて、本件日用品費の基準を設定するについてこの方式を採用したことに合理性がないとはいえないから、この方式を採用したことを直ちに違法であるとはなし難い。 [12] 次に、マーケツト・バスケツト方式を適用して本件日用品費の基準額を算出したその過程に誤りがあるかどうかにつき考える。控訴人が右基準額を算出するに当り、マーケツト・バスケツト方式により定めた一般の生活扶助の基準を基礎とし、入院入所生活という特殊事情に鑑み、右の一般基準に追加削除をして本件日用品費を算出したことは、前示のとおりであるけれども、一般的な基準を基礎とするという方法は入院入所患者の日用品費をマーケツト・バスケツト方式で算出するための一方法にすぎないから、かような方法をとつたこと自体には特に問題はなく、かようにして基準算出の基礎となつた内訳(原判決別表)自体に即し、これに組まれている個々の費目・数量・単価につきそれぞれその過不足を検討し、その総合された結果に基き、3か月をこえる入院入所中の単身患者の健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するための日用品費としての適法・違法を判断すべきものである。こうした個別的検討をしないで、右内訳表中の2、3の項目だけをとらえ、本件基準によれば肌着は2年に1枚、パンツ1年1枚、チリ紙毎月1束という月600円の生活を繰り返すだけであるとして、これを違法と断定することはできない。 [13] 被控訴人は、最低限度の入院入所生活に必要不可欠であるのにかかわらず本件内訳表に組まれていない費目として被服費・身回品費・保健衛生費・雑費を通ずる約20の費目及び補食費を指摘するほか、内訳表の数量・単価も少なすぎると主張するのに対し、控訴人は、右内訳表中の費目によつては数量・単価にゆとりのあるものもあり相互流用の余地もあり、また補食費は日用品費として計上すべきでないと主張する。 [14] 本件日用品費の基準の定められた時期が昭和28年7月であることは当事者間に争いがなく、前記甲第137号証の1、2及び乙第17号証、成立に争いのない甲第133号証、原審証人中吉昭の証言により真正に成立したものと認める甲第48号証並びに当審証人小沼正の証言によれば、昭和21年2月にはすでに生活困窮者緊急生活援護のための基準が設けられたが、旧生活保護法、現行生活保護法へと法制上の改革が行われるとともに、生活保護の基準一般についても昭和31年8月まで前後13回にわたる改訂が行われてきたこと、本件日用品費の基準は昭和32年4月に行われた第14次の基準改訂とともに本判決別表記載の内訳のとおり改訂され、合計額において月額640円に引き上げられたこと、その間にあつて、控訴人は、国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し基準の適正化に研究と努力を続けてきたこと(その努力の結果が満足すべきものかどうかは別として)等の事実を認めることができ、この認定を妨げる証拠はない。このように本件日用品費の基準は昭和31年8月当時において基準設定以来3年余を経過していて、その後わずか8か月にしてその改訂をみたわけであり、後記のように昭和28年以降昭和30年度までは国民の生活水準、消費水準にそれほど顕著な変動は認められなかつたとはいえ、国民経済は、昭和30年度中既に大きな発展を示し、昭和31年度特にその後半期に至つて著大な進展を遂げ、同時に昭和31年度には前年度と異り物価の上昇をも伴つたのであるから、この実勢の変化を把握して基準額を改訂実施することができたのは昭和32年4月1日からではあるけれども、実際には昭和31年8月1日当時も実情は既に改訂を必要とする段階に来ていたものと推認すべく、当時これをいかなる額にまで改訂するのが相当であつたかは、本件に現われた限りの資料だけによつてはたやすくこれを確定することはできないけれども、少くとも昭和32年4月1日実施の右改訂基準と一致しない限度では改訂前の基準は本件で問題となつている昭和31年8月1日当時には既にある程度不相当となつていたものと推認することはできる。すなわち、右改訂基準を昭和31年8月1日当時の本件日用品費の基準に比較すると、肌着2年1着が冬シヤツ3年2着及び夏シヤツ2年2着に増えており、ズボン下又はシミーズ3年2着・敷布2年2着・枕カバー1年2枚・櫛2年1本・安全カミソリ1年12枚・インク1年1個がそれぞれ加わり、体温計1年1本が削られ、補修布1年4ヤールが1年0.8ヤールに、縫糸1年30匁が1年20匁に、洗濯石けん1年24個が1年12個に、その他雑費月額8円96銭が月額4円57銭にそれぞれ減つているほか、なお、単価においても多少の変更がみられる。 [15] ところで、被控訴人の主張は、右改訂後の基準でもなお不十分であるというに帰するところ、被控訴人が具体的に指摘する費目で右改訂基準にも挙げられていない費目は、丹前、病衣又は寝巻、衿布、肩掛、箸、男性のクリーム又はメンソレータムの類、女性のパーマネントウエーブ代、ペン、ノート、便箋、修養娯楽費、交際費、交通費、患者自治会費及び補食費ということになり、なお、体温計も改訂基準では削られているから、これも右に準じて考えるべきである。以下、日用品費の計算上これらの費目をも計上する必要があるかどうか順次検討する。 [16]1 丹前及び病衣又は寝巻について、成立に争いのない乙第14号証の1ないし3、当審証人高津益治、横田洋、町田武一、村山ミチ子、小林昭、檜尾春恵及び小野範昭の各証言の一部並びに当審における被控訴人本人の供述の一部を総合すれば、昭和31年8月当時病院又は療養所のなかには寝具・病衣・寝巻・丹前・外套・毛布・包布等を備え付け、全部の希望者までには行き渡らなくても被控訴人その他の者には貸与していたことを認めることができ、この認定を動かす証拠はない。右各品目は、このように一部の範囲ではあるが貸与されていた例もあるのみならず、耐用年数においてシヤツやパンツにくらべると比較的に長くかつその年数を的確に把握することがむずかしく、価格も比較的高額であるから、月々経常的に支出する一般的な基準には組み入れないで、従前のものが使用にたえなくなつたとか災害その他の理由で所持しない場合においてしかも病院又は療養所からも貸与を受けられないという真に必要なときに限り臨時の特別扱いを講ずるということも、基準という制度を設ける限り、その運営技術上やむをえないところである。生活保護法第8条もこのような措置を禁ずる趣旨ではなく、ただ、かような特別の事情のあるときでも必ず特別基準を設定しこれによつて保護の行われるべきことを要請するにとどまると解すべきである。基準というからには、あらゆる場合に対処できるような基準を定めることは事実上不可能であり、ある種の場合については、基準設定上の技術上の制約に基き、またはそれが臨時的・例外的事例に属するという理由により、一般基準とは別の特別基準に譲るという弾力的な取扱も許されるわけである。右に掲げた各品目についても、その需要の特殊性や価格の高いことに徴すると、これを一般的な基準に組み入れるかどうかは控訴人の決すべきところであつて、控訴人が右に掲げた各品目については、その一時支給に関する特別基準を設けてこれによつて給付を行つていることは、成立に争のない甲第149号証及び弁論の全趣旨によりこれを認めることができるから、これらが一般的な日用品費の内訳の中に組込まれていないという理由で本件日用品費の基準を争うことは当を得ない。被控訴人は、この種品目については一時支給の取扱があつても実際には一時支給されることがほとんどないと主張するけれども、それは、一時支給の取扱という特別基準の運用上の問題であつて、一般的な日用品費の基準そのものを争う理由とはならない。 [17]2 衿布以下患者自治会費までの費目及び体温計について。これらの費目は、そのどれを取つて見ても決して無用のものとは断定できないが、しかし、衿布は使い古した衣料で間に合わせたり手拭で代用する途があるし、入院入所中の生活保護患者のため肩掛及びパーマネントウエーブ代まで考慮しなければならないほど生活保護法の保障する生活水準が高いものとは解されず、箸は前から所持しているのが通常でかつ金額も僅かで半ば永久的に使えるものであるからその毎月の消耗分は別表所掲の「その他雑費」月額4円57銭中に含ませるのが相当であり、クリーム又はメンソレータムの類は、皮膚の健康を守るに必要なものではあるがむしろ医療の面で考慮すべきであり、予防用の少量のものは右の「その他雑費」でまかなえるし、体温計も同様病院又は療養所において医療用器具として備え付け検温すべきであり、ペンは単価がごく低いので右の「その他雑費」でまかなうべく、ノートや便箋は別表所掲の「用紙代」名義月額20円のなかに含めて考えるべきである。教養娯楽費、交際費、交通費及び患者自治会費については、療養に専念すべき患者のための日用品費として計上すべきであるかどうか疑問であるのみならず、教養娯楽の面において新聞まで読めないようでは他の一般患者にくらべとくに見劣りがするけれども、その面の費用として別表には「新聞代」名義で月額165円が計上されているから一応の最低限度の水準は保たれているし、交際費・交通費については入院入所中の生活保護患者である以上その支出は基準額の範囲内で彼此節約してできる限度にとどめるべきであり、最低限度の生活として日用品費のなかにこれらをとくに取り上げなければならないものとは考えられず、なお、入院入所中の患者の自治活動は病院又は療養所が施設管理や医療目的を考慮して許した範囲内においてのみ認められるべきであつて、生活保護患者から一般費目の節約によつては捻出できない程の額の会費を徴収してまで活躍しなければならないものとは思われない。 [18]3 補食費について、被控訴人は、療養所の給食では健康で文化的な食生活を維持することができないから、栄養の不足を補うための補食費を日用品費として計上すべきであると主張する。しかしながら、本件のように医療扶助として給食付の医療を給付する以上、仮に給食が不完全なため、補食を必要とするとしても、それは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取り上げ基準額を算出する費目の一に掲げるべき筋合ではない。したがつて、補食を必要とすることは、医療扶助に関する基準を争う事由としてはともかく、日用品費に関する基準を争う理由とはならないから、被控訴人の右主張は採用できない。ちなみに、本件における医療扶助に関する基準の適法・違法を考えてみるに、そのうちの純粋の診療面に関する限り違法と断定できるほどの格別の事由を認めるに十分な証拠はなく、給食についてみても、成立に争いのない甲第21号証によれば、治療上必要な給食を行うことを療養所自身に委ね、その具体的内容については別段の基準を設けず、その運用面において行政指導や予算的措置によつて給食内容が適当であるようはかることとしていたことが認められる。そして、療養所での給食は、医療の一環として専門家である医師の判断により患者の症状に応ずるようされるのが当然であるから、治療上必要な給食を行うことを療養所自身に委ねることは少しも違法でない。もつとも、現実の給食においては、給食用の設備・器具の状況、調理・保温・盛付、患者の症状・嗜好の違い、材料費・人件費その他諸般の事情から治療上必要な栄養が十分摂取できない事態の起るであろうことを否定できない。しかし、これは運用上の改善にまつほかなく、そのことゆえに医療扶助に関する基準そのものを違法視することはできない。各人の嗜好を全面的に満足させるためには、各人別の献立・盛付によるほかはないが、これは療養所の提供する集団給食では到底不可能であるし、生活保護法のもとでの給食水準はそれほど高度のものでもない。右の集団給食に伴う欠陥を補食という方法で各自各様に解決しているわけであるが、このような解決が医学上好ましいかどうか問題であるし、かような集団給食に伴う欠陥を解決するための別途の補食ということは一般の社会保険でも給付の対象としていないのであるから、その費用としての補食費を生活保護患者に給付すべきものとすることも疑問である。症状・嗜好の違いに応ずる複数献立を作るなり、食器・盛付・給食時間等に工夫をこらすなど、集団給食という制約のもとにおいてできる限りの給食を行うときは、同法の要請が満たされたということができる。もし、こうした努力を怠るときは、当該療養所の責任、ひいては国の不履行責任の問題を生ずることもあるが、基準自体の適法・違法とは関係がない。また、右のような給食上の配慮を十分につくしてもなお極度の食欲不振その他のため給食によつて治療上必要な最低限度の栄養すら摂取できない例外的場合は、食欲増進剤や栄養剤を投与するなどの臨床的措置を講ずるのほかなく、単なる給食の問題ではない。要するに、療養所に対し治療の一環として給食を委ねている限り、その給食とは別個に補食費を現金で給付することは、生活扶助(日用品費)としてはもちろん医療扶助としても考えられない、というほかはない。 [19] したがつて、費目の点から基準が違法であるとする被控訴人の主張は採用できないところ、原審証人沢田栄一の証言により真正に成立したものと認める甲第15号証、第16号証及び第27号証、原審証人中吉昭の証言により真正に成立したものと認める甲第48号証及び第52号証、原審証人小野超三の証言により真正に成立したものと認める甲第58号証、当審証人野村実の証言により真正に成立したものと認める甲第78号証、原審証人佐藤市郎・中吉昭及び当審証人横田洋・野村実・村山ミチ子・梅津つや子・小林昭・江草昌・寺坂隆・松本千秋・小野範昭の各証言並びに原審における被控訴人本人の供述中には、患者又は医師、看護婦その他患者に接する者の経験又はこれに基く意見として、被控訴人の指摘する各費目のほかに入院入所中の生活に必要な日用品として多様な費目が挙げられており、それは、数の上でも数十に及び内容において各種日用品のほとんど全般にわたつている。これら各費目を検討するに、なかには、褌・鋏・ボタンその他の補修用材料・マスク・石けん箱・カミソリ器・ペン軸等のように入院入所中の日常生活に最低限度必要な費目もあるけれども、褌は別表所掲の「パンツ」代で補修用材料・マスクは同じく「その他雑費」でまかなうべきであり、鋏・石けん箱・カミソリ器・ペン軸は従前から所持しているのが一般である。また、手術や喀血の際に必要となる衣料その他も挙げられているけれども、これは日常の身の回りの用を弁ずるための日用品というよりはむしろ医療用品として病院・療養所の側で準備すべきであり、一般的な日用品費として取り上げなければならないわけでなく、補聴器及びその電池代・修理代も挙げられているけれども、これらは身体障害者福祉法第20条により交付又は支給されるもので生活保護法に基く保護の限りではない(同法第4条第2項)。なお、補食のための炊事用具・食器類も挙げられているけれども、前示のように補食費を支給すること自体認められないから、補食のための器具・食器代も計上すべきでない。さらに、社会復帰に備えての作業療法及びこれとは趣を異にするが治療の一環として作業による精神的指導を旨とする転換療法のための材料費も挙げられており、これら療法が治療に好影響をもたらし患者に社会復帰への意欲を盛り立てることは理解できるけれども、それはむしろ医療給付としてその要否を定むべきであり、また以上のほかにも多様な日用品の費目が挙げられていてこれら各費目によつてより快適な生活を享受できることはいうまでもないけれども、別表記載の内訳をみると入院入所中の生活に必要なものが最低限度に近いとはいいながら一応そろつているから、その上に右に掲げた各費目を要求するほど生活保護法の保障する入院入所患者の生活が高度の水準を意味するものとは解されない。以上のとおりであつて、前掲各甲号証の記載、各証人の証言及び本人の供述はたやすく採用することができない。 [20] 次に数量について考えるに、浮浪者のように使用にたえない衣類を身に着けるだけでほかには何も持たずに入院入所した場合は、別表所掲の数量では、ことに衣料につき、不足するということもできるけれども、かような場合は特別基準の設定その他別途の対策によるべきであり、3か月をこえる入院入所生活にとつての日用品の所要数量を検討するに当つては、最少限の衣料と身回品を一応持つているという通常の場合を前提としなければならない。この前提に立つて考えてみても、前掲甲号各証、各証人の証言及び本人の供述の各一部並びに原審証人児島美都子・沢田栄一・天達忠雄・瀬尾康夫及び当審証人高津益治の各証言の一部を総合すれば、入院入所患者は、発熱に伴う寝汗や化学療法に伴う汚れのためパンツの着替えを余分に準備しなければならない場合が多く別表所掲の1年1枚では足りないし、痰の出るときはその処理のためチリ紙の消費数量も多くなり別表所掲の月1束では足りないこと及びこれらの不足を補うため少くとも更にパンツ2年1着・チリ紙月1束程度をそれぞれ別表所掲数量に加えるのが相当であると認めることができ(当審証人横田洋・同小林昭は、パンツは2年に3着が必要である旨、当審証人高津益治は、チリ紙は月2束が必要である旨、当審証人高津隆は、チリ紙は月1束半が必要である旨それぞれ供述している。)、この認定を覆えすに十分な証拠はない。なお、右に掲げた各証拠は、その多くは右のパンツやチリ紙にしても右認定の程度では足らずその他の費目についてもその不足を訴える趣旨の記載又は供述であるけれども、なかには同じ費目でも別表所掲と同程度か又はこれを下回る数量で足りるとする趣旨の証拠もあつて、しさいに検討すると実際に消費したという数量や必要であるといつている数量はきわめてまちまちである。その上、日用品費の消費のしかたにはかなりの個人差があり、また、できる限り補修をし扱い方にも注意すれば相当長期間の使用に耐えることは日常しばしば経験するところであるし、さらに、日用品の消費数量は品物の品質、強度したがつてその単価に左右されるものである。このように日用品の消費数量は各個人による節約の程度・当該品目の品質・単価その他複雑多岐にわたる諸般の要素に影響されこれらを切り離して検討できないものであるところ、以上の各証拠はいずれもかような要素を明らかにしていないから、まちまちの各証拠のどれを取りどれを捨てるべきかを一概に決することができない。要するに、これら証拠を総合して認定できるところは、別表改訂基準に掲げられた数量ではかなりの窮屈を忍ばなければならないという程度にとどまり、さらに進んで右数量では入院入所患者の日常の身の回りの用を弁ずるには決定的に不足することを認定すべき証拠としては、これら証拠は、いずれも、いまだ十分なものとはいいがたい。 [21] 最後に単価について考える。前掲各証拠には別表内訳は単価の点でも低すぎるという趣旨の記載又は供述が多いけれども、なかには費目によつて別表所掲と同額かこれより低額の単価を出しているものもある。そのほか、甲第49号証、第55号証及び第62号証並びに乙第9号証及び第10号証には、昭和31、32年頃の岡山療養所の職員厚生会購買部又は患者自治会における日用品の販売価格が記載されているけれども、その単価にも別表所掲と同額のもあればこれより高額又は低額のもある。これら各証拠に出ている単価は右のようにかなり相違しているばかりでなく、日用品の単価は品質によつて異るのにかかわらず、右各証拠にはその間の事情が具体的に出ていないから、これらまちまちの証拠のいずれを採用してよいか、にわかにきめることができない。その上、生活保護患者に支給すべき日用品費は健康で文化的な最低限度の生活の需要を満たすもので足りるから、各日用品の単価は安くて丈夫なものが手にはいる程度の最低の価格に、理髪や洗濯の場合は最も簡単にすませる最低の料金に、それぞれとどめるべきところ、以上の各証拠に出ている単価で別表所掲を上回るものがいずれもかような最低の価格又は料金によるものであることを認めるべき証拠はない。このように検討してみると、別表記載の単価ではその消費数量にたえる程度の品質のものを入手することができないことを認めるべき証拠としては、以上の各証拠はいずれも十分でないといわざるをえない。 [22] 以上のとおりであつて、別表改訂基準によつてもなおパンツ2年1着及びチリ紙月1束程度は不足するというべきである。しかし、そのほかには、費目・数量・単価において右基準額では入院入所生活における日常身の回りの最低限度の需要を満たすことができないことを認めるに十分な証拠はない。右のパンツとチリ紙の不足分を別表記載の単価で計算すると月額30円程度となり、これを右基準額に加えると、入院入所患者の日用品費として月額670円程度という数字が得られ、本件日用品費の基準月額600円はこれを約1割下回ることとなる。1割程度の不足とはいつても、最低に近い必要額と比較してのことであり、また毎日の生活に直結する日用品費のことでもあり、しかも療養所という隔離された環境の生活では、たとえ僅少の不足額でも逐月確実に累積し他より補充の見込が少いから、本件日用品費の基準が頗る低いものである以上、それになお若干の不足があるということになると、それは直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚であるということも考えなければならない。しかしながら、一般の生活費についても算数的明確さをもつて必要額を算定することはむずかしく、ことに日用品費の場合的確な指標に乏しいためそのような算定がますますむずかしく、右の月額670円程度という額の内訳をみても節約や相互流用の余地が皆無なわけでなく(そうした余地の全然ない合理的な最低限度を定めることは到底不可能である。)、結局月額670円というのも相当の幅をもつた金額というべく、1円でも下回ることを許さない趣旨での最低限度の金額ではない。その上、前にも説示したように昭和31年8月当時本件日用品費の基準は早晩改訂しなければならない段階にきていたものであり、基準の改訂には調査・研究のためある程度の時間を要するから、改訂直前の時期において1割程度の不足の生ずることはやむをえないところである。したがつて、1割程度の不足をもつて本件保護基準を当・不当というにとどまらず確定的に違法と断定することは早計である。 [23] 以上本件日用品費の基準がマーケツト・バスケツト方式を採用したこと自体及び右方式を適用して基準額を算出した過程を順次検討した結果、いまだ右基準を違法とするまでには至らなかつた次第である。しかしながら、マーケツト・バスケツト方式には個々の費目につき合理的に算定できるという長所がある反面前示のように非現実的に流れやすいという短所もある。ことに社会生活を営む限り一見不合理なむだとも思われる生活様式があつてこれからまつたく離れることはむずかしく、これに伴う支出を理論的に積み上げることも容易でない。したがつて、内訳たる個々の費目・数量・単価を理論的な検討した結果違法でないとされた保護基準でも、その総額において実態生計費からあまりにもかけ離れるときは、現実を無視した架空な基準として違法になる場合も起りうる。よつて以下に前掲費目の内容を離れて直接に昭和31年8月1日当時における月額600円という数字を対象としてその当否を他の観点から吟味検討する。本件に現われた証拠の上では、比較的多数の入院入所患者を対象とし、昭和31年頃又はその前後に行われた日用品費の実態調査又はこれに基く患者の要求・希望として、いずれも月額であるが、前記甲第15号証によれば平均738円を支出していること、前記甲第16号証によれば生活保護患者で概ね500円ないし900円を支出し900円ないし1,100円への基準増額を希望していること、成立に争いのない甲第17号証の1ないし10によれば生活保護患者で平均887円を支出していること、前記甲第27号証によれば東京都患者同盟では日用品費として1,000円を要求していること、原審証人児島美都子の証言により真正に成立したものと認める甲第31号証によれば生活保護患者で補食費を含めて平均1,729円(併給患者につき)又は2,046円(単給患者につき)を支出していること、原審証人小野超三の証言により真正に成立したものと認める甲第6号証によれば補食費を含めて平均1,330円(生活保護患者につき)ないし2,500円(社会保険患者につき)を支出していること、当審証人浅賀ふさの証言により真正に成立したものと認める甲第68号証の8によれば平均1,281円(男子重症患者につき)ないし2,657円(男子軽症患者につき)を支出していること(ただし、補食費を含むかどうか不明)、同証言により真正に成立したものと認める甲第68号証の9によれば平均1,274円(生活保護患者につき)ないし2,019円(社会保険患者につき)を支出していること(ただし、昭和36年9月の調査でかつ補食費を含むかどうか不明)、当裁判所が真正に成立したものと認める甲第151号証の1、2によれば平均796円(生活保護重症患者につき)ないし1,989円(一般社会保険重症患者につき)を支出していること(ただし、昭和36年6、7月の調査)をそれぞれ認めることができる。甲第48号証及び第150号証は費目ごとの数量・単価についての調査で支出総額の調査ではなく、ほかには多数患者を対象とした支出の実態調査に関する証拠はない。右認定の各事実に徴しても、本件日用品費の基準が低額であることは否定できない。しかし、右の実態調査の結果のうちで補食を含めない純粋の日用品費に関するもので月額1,000円をこえるのはわずかに甲第151号証の1、2の例が1つあるにすぎず(それも、昭和31年8月から約5年経過後の調査である。)、また、要求額・希望額についてみると、甲第27号証の患者同盟の要求額ですら、前示のように臨時的支出としてむしろ特別基準でまかなうべき丹前・病衣という費用を含みながら(このことは同証の記載上明白である。)、なお月額1,000円にとどまつている。その上、現実に支出した額は実収入によつて決定的な影響を受けるもので若干のむだをも含めたやむをえない最低限度の支出にとどまるわけではなく、また、要求額・希望額というのは主観的要求に左右される傾向がある。このように考えてくると、実態調査の結果や要求額・希望額が右の程度であることは、本件日用品費の基準600円(月額)が低いことを示すものではあつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分でないといわなければならない。 [24] 成立に争のない甲第97号証、同第98号証、同第100号証、同第133号証、当審証人木村禧八郎の証言及び同証言により真正に成立したものと認める甲第99号証、同第103号証によれば、日本経済は、昭和30年度において大いに発展し、昭和31年度特にその後半期においては予想を遥に超える大成長を遂げ、これに伴い国税の自然増収も昭和29年度より昭和31年度まではその前の昭和28年度に遥に及ばず低迷していたのが昭和32年度に至つて前年の好況を原因として俄に激増し、又物価も昭和30年度はほぼ安定していたのが昭和31年度には上昇に転じたこと、昭和25年度より昭和30年度までは日本経済にとり資本蓄積経済復興の段階であつたところ昭和31年度以降は経済は回復を遂げ生産水準も消費水準も戦前の水準を抜いたものと考えることができること、そして昭和31年度以降は経済の興隆に伴い労働力ある者の中からは貧困者が減少したが物価の上昇、一般消費水準の向上に伴い、労働による収入増加の期待できない老幼病者については生活保護の必要が一段と増大したこと、この昭和31年度中の変動は、それを実際に知ることができたのは翌年度になつてからであるけれども兎に角客観的には本件において問題となつた昭和31年8月1日現在という時期はあたかもこの変動による転換期に当つていたことを認めることができるのであり、かような特殊な時点における妥当な生活扶助基準を知ることは極めて困難であるとともに、その後生活扶助基準額が逐年増額されて今日に至つたその今日の水準より見て昭和31年8月1日当時の保護基準が著しく低額に感ぜられることからこれを過少と評価することはその点からもまた困難といわなければならない。 [25] 成立に争のない甲第39号証、乙第11号証並びに当審証人河野一之、同今井一男の証言によれば、昭和31年当時生活扶助を受けていた者は140万人程度であつたにかかわらず国民中1,000万人に近い数の者が生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいたこと、又その頃生活保護を受けている一部の者の生活が保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの国民感情も一部に存在していたこと、当時の国家財政中における社会保障に充てられた金額は当時の政府における当該行政担当者及び財政担当者が検討の上他の各種財政上の支出との間に均衡が保たれるように考慮して立案されたものであることが認められ、特に社会保障費につき一定の必要額を認めながら、ことさらにそれを必要以下に削減したものとは、証拠上は認められない。なお生活扶助の額はその基準額が定まつた以上義務費として必要に応じ支出され年次歳出予算の総額には拘束されることなく、予算に拘らず受給権者は国に対するその権利を失わないのであつて、これらの点もまた当時の生活扶助基準額、延いては本件日用品費の額を違法とまで断定することの困難な事由となる。 [26] なお成立に争のない甲第154号証、原審及び当審証人木村禧八郎、当審証人今井一男の各証言によれば、昭和31年当時のわが国の国民所得及び歳出予算に対する社会保障費(但し形式上社会保障に分類できるものの形式的な金額)の比率は欧米の若干の国々におけるものよりも比較的少いことが認められるけれども、これとても、それぞれの国の社会保障の内容やその背景をなす国情等を明らかにしないで直ちにわが国の社会保障額が違法であると断定することのできる資料とはなし難いものである。 [27] 以上のように詳細に検討を重ねてみても、当裁判所は、本件保護基準を違法とは決しかねるのであるが、しかしなお概観的に見て、本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得ない。ただ、さきにも示したように、入院入所患者の日用品費の額は、一般生活扶助の水準と同程度の生活を営むことを前提として、これに入院入所という特殊事情に基づく部分的補正を行つて定められたものであるから、本件日用品費の水準の引上の要否を考慮するためには、一般生活扶助基準の引上の要否が不可分的に考慮されなければならないところ、昭和31年当時生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいた国民だけでも1,000万人に近かつたことは既に示したとおりであるから、右生活扶助水準をさらに引上げるということになれば、納税を通じて一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼすことは否定てきないものであり、このような場合に生活扶助のため一般国民がどの程度の負担をするのが相当かということは容易に決められない問題であつて、また、さきに示したような国民感情が一部に存在することをも参酌するとき、本件日用品費の基準が、単に頗る低額に過ぎるとの比較の問題をこえて、さらにこれを違法としてその法律上の効力を否定しなければならないことを、裁判所が確信をもつて断定するためには、その資料は、被控訴人側の熱心な立証にもかかわらず、本件口頭弁論に顕出された限りにおいては、なお十分でないといわなければならない。 [28] なお、以上の説示は、本件で具体的に争点となつた3か月をこえる入院入所中の単身患者に対する本件保護基準について、しかも本件保護変更決定の適法・違法に直接関係する限度において、昭和31年8月1日当時として右基準が違法であるかどうかを判断した結論にすぎず、入院入所患者の生活保護についてその後に改訂された基準や現在の基準を是認したり否定したりする趣旨でもなければ、各種生活保護の基準の全般にわたつて論及するものでない。 [29] このように本件保護基準を違法とすることができない以上、その違法を前提として本件保護変更決定もまた違法であるとする被控訴人の前記主張は採用できない。 [30](二) 被控訴人は、次に、長期療養の重症の要保護患者とくに被控訴人にとつては一般的な本件保護基準ではまかなえないような特別の事情があつたから、特別基準を設定してその健康で文化的な療養生活を保障するよう処置すべきであつたのにかかわらず漫然と本件保護基準を適用してした本件保護変更決定は違法であると主張する。そして、生活保護法第8条が一般的な保護基準をそのまま適用できない特別の事情のあるときはその範囲にだけ適用すべき特別基準を設定することを認めていることは前に説示したところである。 [31] そこで、まず重症の要保護患者一般についてかような特別基準を設定する必要があるかどうかを考える。本件日用品費の基準額の内訳はその掲げた費目・数量に徴しても主として中・軽症患者の需要を考えて構成されているものというべきところ、重症患者の需要は必ずしも中・軽症患者の需要と一致しない。ことに、原審証人児島美都子・佐藤市郎・中吉昭及び当審証人寺坂隆・草野庄市・松尾春恵の各証言並びに原審及び当審における被控訴人本人の供述の各一部を総合すれば、重症患者は、中・軽症患者にくらべ、発汗が多いため衣類の着替えを余分に必要とし、痰も多く血痰の出ることもあつてチリ紙の消費量も大きく、したがつてこれら費目に関する限り右内訳表所掲の数量では足りないことを認めることができる。しかしながら、重症患者は、安静を旨とし終日臥床し又は床上で生活し歩行も運動も控えなければならないから、右内訳表中足袋・下駄・ぞうりの類の消耗はほとんどなく、石けんの消費も少量で、その他の費目においても中・軽症患者より少くてすむものがあり、これらの支出に予定された額は他に流用できるわけである。右流用できる余裕をもつてしてもなお重症患者の衣類及びチリ紙の不足その他の特殊の需要を補うことができなければ重症患者についての特別基準の設定の必要性も考えられるところ、当審証人江草昌の証言中には重症患者は軽症患者よりも多くの費用を必要とする旨の部分があるけれども、右は、その内訳が明らかでないのみならず当審証人小野範昭の証言の一部に照らしても直ちに採用することができず、ほかには、右流用できる余裕をもつてしてもなお重症患者の特殊の需要を補いえないことを認めるべき証拠はない。かえつて右証人小野の証言の一部によれば、重症患者と軽症患者を比較して日用品費の必用額のちがいはまずないことを認めることができる。なお、補食費については生活扶助(日用品費)としても医療扶助としても考慮すべきでないことは前示のとおりであるから、重症患者であることのゆえに特別の基準を設けて補食費を支給するという理由はなく、むしろ特別食を給するとか食欲増進のための臨床的措置を講ずるとかの対策に譲るべきである。以上のほか、長期療養の重症患者であるため一般的な本件保護基準ではまかなえないような特別の事情を認めるべき証拠はない。 [32] 次に、被控訴人に関する限りの特別基準を設けるべき個人的な特別の事情があつたかどうかにつき考えるに、前掲甲第52号証及び乙第14号証の1ないし3、成立に争いのない甲第53号証及び乙第12号証・第16号証、原審証人今村保、市村丑雄、高田ヒサヨ、田中英夫及び岡本玉樹の各証言並びに原審及び当審における被控訴人本人の供述(一部)を総合すれば、被控訴人は、昭和30年9月13日喀血し、以来血痰持続し、昭和31年8月当時両側混合性肺結核のため床上生活を旨とする安静度2度の重症で栄養不良の状態にあつたこと、岡山療養所では本件保護変更決定後被控訴人に対しその医療費一部負担金月額900円のうち400円につき日用品費及び嗜好品費の必要を理由に療養費軽費の措置をとつたこと、この措置というのは国立療養所入所費等取扱細則に基くものであるが生活保護患者には適用できないものであること、被控訴人は昭和31年8月当時岡山療養所から病衣・毛布・敷布・かや各1の貸与を受けていたがそのうち病衣は厚地のため寝巻としては必ずしも適していなかつたこと、そのほか発汗のため着替え用衣類をとくに余分に必要としたこと、なお、被控訴人の昭和30年6月から昭和33年5月までの3年間の日用品費の支出額は右軽費の扱いや臨時の収入があつたため平均月額1,040円48銭に及んだこと等の事実を認めることができる。このように被控訴人は昭和31年8月当時まず寝巻に不自由していたものというべきところ、病衣の貸与を受けていたのでありそれが多少厚地ではあつても寝床の上で着用できないものであることは証拠上認められないから、そのほかに寝巻まで考慮しなければならないほど生活保護法の保障する生活水準は高度のものではない。また、被控訴人は、当時右の寝巻以外にも着替え用衣類をはじめ日用品を忍ばなければならなかつたものということができるけれども、他方、右乙第16号証(不服申立書)によれば、被控訴人は、本件保護変更決定に対する不服申立を却下した知事の決定に対する不服の事由として、重症に陥つているため嗜好品的栄養の補食費として月400円(内訳、果物甘味料200円、卵10個110円、バター4分の1ポンド90円)を日用品費の追加として認めてもらいたい旨もつぱら主張し、日用品費自体については格別不足を訴えていなかつたこと、また、右甲第52号証によれば、昭和30年6月から昭和33年5月までの3年間にとくに臨時的・例外的な日用品費の支出の見るべきものがなかつたことをそれぞれ認めることができる。そうすると、療養所の側で療養費軽費の措置をとつたことや被控訴人の実際の支出額が1,000円をこえていたことを考慮に入れても、一般の生活保護患者なかでも重症患者と比較して、昭和31年8月当時被控訴人のため日用品費の特別の基準を設定しなければならないような個人的な特別の事情があつたものと認めることはできない。なお、補食費については特別基準を設けてこれを支給するということのできないことは前段に説示したとおりであり、被控訴人の栄養補給のためには特別食の支給又は臨床的措置にまつほかはない。ほかには、右の当時被控訴人個人につき一般的な本件保護基準ではまかなえないような臨時的・例外的な特別の事情のあつたことを認めるべき証拠はない。 [33] よつて、特別基準を設けないでされたことを理由として本件保護変更決定を争う被控訴人の主張もまた採用できない。 [34](三) 被控訴人は、さらに、生活保護法第9条は要保護者の実際の必要に即応して保護の基準を上回る保護の実施をも要請しているという見解のもとに、本件においては被控訴人の実際の必要に即応して一般的な本件保護基準を上回る適切な処置に出るべきであつたのにかかわらず本件保護変更決定はかような措置をとらなかつたから違法であると主張する。 [35] しかしながら、具体的な保護の実施は生活保護法第8条第1項にいう厚生大臣(控訴人)の定める基準(保護基準)をこえて行うことはできないのであり、これは前に詳細説示した同法第8条の法意に照らし明らかである。もつとも個々の場合に一般的な保護基準をそのまま適用できない特別の事情があれば該基準を機械的に適用すべきでないことはいうまでもないが、かような場合でも前示のように必ず特別基準を設定しこれによつて保護を実施しなければならないわけである。同法第9条は、保護の種類に応じ必要な事情を考慮して定められた保護基準(同法第8条第2項参照)の範囲内でもつとも効果的と思われる種類の保護をもつとも適切と考えられる方法で行うべきことを定めた保護基準の運用に関する規定であつて、保護基準を上回る保護の実施まで認めた趣旨の規定と解すべきでない。このことは、保護の程度の決定については前示のように保護の実施機関の自由裁量に委ねるべきでないことからも当然である。したがつて、被控訴人の右主張は、右各条の誤解に基くものというほかはない。のみならず、昭和31年8月当時被控訴人個人について一般的な本件保護基準でまかなえないような特別の事情のあつたことが認められないことは、前示のとおりである。よつて、被控訴人の右主張は採用の限りでない。 [36](四) 被控訴人は、最後に、被控訴人においては昭和31年8月当時栄養補給のため補食を不可欠とした以上生活保護法第34条第1項但書により医療扶助の金銭給付という形で右の補食費を支給されるべきであり、したがつてこの補食費相当額を被控訴人の医療費自己負担額から控除しなければならなかつたのにこれをしなかつた本件保護変更決定は違法であると主張する。 [37] しかしながら、前にも説示したとおり、本件のように給食付の医療扶助を行うときは、当該医療機関の給食とは別個に補食費を現金で支給する余地はない。右条項但書も、保護の目的を達するため必要がある場合に即応して、医療扶助の原則的な方法である現物給付(同項本文)の全部又は一部に代えて金銭給付によることができる旨を定めたにすぎない。もし生活保護患者に対する当該医療機関の医療(給食付の場合は給食を含む。)の実施が不十分であるときは、それは保護の事実行為の問題であつて、かような場合右但書の規定を根拠として金銭給付の方法による医療扶助を行うという二重の保護決定をすることはできない。被控訴人の栄養補給のためには、医療の一環として、特別食の充実その他給食の改善又は食欲増進剤や栄養剤の投与等の臨床的措置によつて解決すべきである。よつて、被控訴人の右主張も採用できない。 [38]三 以上要するに、生活保護として月額600円の生活扶助と現物による全部給付の医療扶助とを併給されていた被控訴人が昭和31年8月1日以降月額1,500円の仕送りを受けることとなつたため、同日以降右生活扶助の全部を廃止し右医療扶助については医療費中月額900円を被控訴人に負担させることとした本件保護変更決定は、当時設けられていた本件保護基準に照らしても、違法とすべき瑕疵はない。したがつて、右決定を維持した本件裁決もまた違法でないというべきである。 [39] 被控訴人は、予備的請求として本件裁決が無効であることの確認を求めているが、第一次請求について説示したように本件裁決を違法とすべきでない以上、これを無効とすべき余地のないことはいうまでもない。 [40] 以上のとおりで、被控訴人の本訴各請求はいずれも理由がないからこれを棄却するのほかなく、その第一次請求を認容した原判決は不当であるからこれを取り消すべきものとし、民事訴訟法第386条、第96条、第89条に従い、主文のとおり判決する。 裁判官 小沢文雄 中田秀慧 賀集唱 [1]第一 原判決は生活保護法が憲法第25条の理念に基き何人にも健康で文化的な最低限度の生活の保障をうくべき保護請求権を賦与するものであり、生活保護法第8条により厚生大臣の定める保護基準が右の程度に達しない場合には裁判所において違法無効と判断さるべきであることを説いた上本件保護基準における基準費目、その数量、単価等を細目にわたり詳細に逐一検討してこれをもつて違法と判定されているのであるが、その判断において自ら一定の測定尺度を用い、その尺度が国内の最低所得層の生活水準であつてはならないとするほかにも、特定の固定的絶対的水準を想定されてこれと厚生大臣の定める基準とを比較して後者の適否を一義的に断定されているものと解される。 [2] もとより、憲法第25条が国に対しその列記する積極的施策を講ずべき政治的責務を課し、また生活保護法がこの憲法の理念を具体化して国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障するために制定されているものであることは原判決の説かれるとおりであり、さらにその生活水準がそれ自体としては社会の高度化とともにできるだけ高度であることが望ましく、また絶えず社会文化経済と共に進展向上すべきものであることも異論のないところである。しかしながら、この保護基準たる最低限度の生活水準というものは原判決の考えられているように或る特定の絶対的水準を客観的に予定し、これから一義的に算定されるべき性質のものと解することができるものであろうか、この点において先ず控訴人としては原判決の判断の基底にある考え方に対して多大の疑問を抱かざるを得ないのである。すなわち、憲法の理念とする健康で文化的な最低限度の生活水準は原判決も説かれるように、当該時点における社会的文化的発達程度、就中国民経済力、国民所得水準、国民生活感情等によつて左右され、その内容も決して固定的なものではなく、従つてその具体的な認定はこれらの諸要素の認識の上に立つての専門的技術的検討を要する微妙な価値判断の問題である。かようにその認定は不確定的な諸多の要素の認識、分析、検討に基く極めて容易ならざる評価の結果であるばかりでなく、それは社会の経済的文化的発達に伴いこれに即応して漸次進展向上すべき性質のものなのである。従つて右の評価の結果得られる結論は事柄の性質上自ら相対的可動的なものであつて、決して一定の理念なり概念なりから絶対的確定的に導き出され得るようなものではない。しかもこの生活保護に支出すべき国費は国民全体の負担に帰するものであるから、国の財政能力との振りあいを考慮することの必要なことは勿論他の一般社会保障制度その他国政全般に亘る配慮をも無視することのできない政治的、行政的判断の問題でもあるのである。原判決は国の予算の配分によつて左右さるべきではないとされるが、予算のないことの故に最低限度の生活を保障しないでよいとはいえないとしても前述のような相対的可動的性質の具体的水準の決定は国会の決定した予算の配分を政府において考慮外においてよいといえるものではなかろう。むしろこの基準の是正、向上は国会と政府において政治の課題として一歩一歩解決してゆくべきものであり、従つてその当否については先ず政治的批判の対象たるべき性質のものというべきである。 [3] もとより控訴人としても右の結果得られた基準が司法審査の対象外であると主張するものではないこと勿論であるが、しかしこの具体的決定に至つた基準が前記のような諸多の不確定的要素についての専門的技術的判断と財政その他国政全般への配慮の下に行われる政治的判断とに基く結論なのであるから、裁判手続によるその当否の判断は極めて至難な事柄に属し、従つてこれに対する司法審査において当然慎重であるべき筈であるし、またかような事項についての審理判断においては司法審査の性格上自ら自己抑制され、そこに一定の限度があつて然るべきものと思うのである。すなわち、先に述べた諸般の事情を勘案し、政治的行政的見地に立つての認定についてはその結論が法の要請に明らかに相反する著しい不合理のない限りは、裁判所としても当然その判断を尊重すべきものと考える。ところが、原判決は自ら一定の確定的絶対的な判断の尺度をもち、これを基礎にして一義的に結論を導き出されているのであつて、これはひつきよう原判決が保護基準決定についての右のような特質を考慮外におき他の一般の行政処分と同列に考えた結果というべきであり、控訴人の到底承服し得ないところである。 [4]第二 次に原判決の具体的判断につき控訴人の見解を述べて本件処分の違法を結論することの失当な所以を明らかにしよう。 [5](一) 先ず原判決は現に極めて低い所得ではあるが、とにかく自力で生活を維持している階層すなわち低賃金の日雇労働者、零細農漁業者等いわゆるボーダーラインに位する人々に対して直ちに生活保護を与えるか否かの問題を回避し、とにかくこの階層の生活水準は健康で文化的な最低限度の生活水準に達していないとする。しかし、いかなる程度に健康的で、かついかなる程度に文化的な生活水準が生活困窮者の最低限度の生活水準として保障さるべきかについては、その事柄の性質上具体的には右ボーダーライン層の全人口に占める割合、その階層の営んでいる生活内容等まさにこの階層に対する評価、これとの比較考量こそ最も重視さるべきものである。控訴人の推計によれば昭和31年4月現在右階層の人口は、被保護者を除いて約922万人であり、すなわち国民全体の約1割に当るものが被保護者が保護を受けつつ現に維持している生活水準とほゞ同程度の水準を維持しているのである。右ボーダーライン層の維持している生活内容の現実は都会と僻地とにおける著しい格差を論ずるまでもなく、多種多様であつて、原判決のいわゆる何年に1枚の肌着に安んじ、はだしで走りまわり、歯みがき、歯ブラシを使わず、用を便ずに紙を使わないという表現(末高証言は僻地の現状の例示にすぎない)によつて必ずしも的確にその生活水準をとらえたものとはいえないばかりでなく、この表現から窺える生活水準自体が我が国全体の現状からみて人間に値する生活でないとみることはできないのである。右評価に当つて注意すべきは、近年特に急速度の発展向上をみせている我が国民経済、国民生活水準の時期的差異及び依然として存する地域差を充分考慮に入れずして本件当時の生活水準一般を推すの誤りを犯してはならないことである。そしてこの階層の現実に維持している生活水準が法の保障する生活水準に達しているか否かはこの階層に直ちに保護を与えるか否かの問題と切離して論ずることを許されないものである。けだし、かりに原判決のいう如くこの階層の現実の生活水準に達していないものとするならば、自力でこのような生活を維持している限り保護を与えずにおく反面、これを自力で維持できない者にだけこの生活水準以上の保護を与えることになり、保護をうけない者の労働意欲を阻害することともなり、その均衡を失することは明らかである。自力でこのボーダーライン層の生活水準を維持できず現に保護をうけている者は全国人口の約2パーセントに達するのである。保護水準を引上げることは必然的に引上げられた生活水準を自力で維持できない者に対して保護を与えねばならない結果となり、全人口の約1割にも相当する保護水準人口の更に大幅な増加、従つて被保護者数の激増を招来する惧れがある。ボーダーライン層の現実の生活水準と無関係に、また予算の有無、財政の如何に拘らずこれを支配すべき絶対的な保護水準なるものなど到底ありえない筈である。 [6](二) 控訴人はこのような諸般の事情を勘案のうえ法の要請に合する妥当な生活扶助の一般的基準を設定し、ついで入院入所中の要保護患者に対し入院入所によつて不要に帰した費目(飲食物費、入浴費、家具什器費、水道料光熱費等)を控除し、反面入院入所によつて必要の生じた費目(草履、湯呑、洗濯代、封筒等)を加え、患者の身のまわりの用を弁ずるため一般的に需要度の高い標準的な品目を積み上げ(いわゆるマーケツト・バスケツト方式)、さらに「その他」の項目を設けて特定品目以外の需要に対する若干のゆとりを認めたうえ、日用品費の基準を算出したのである。 [7] 原判決は右基準の各品目がすべて必要不可欠であるとする。しかし個々の患者について見れば各品目を真に必要とする度合に個人差のあることは、重症患者における下駄や、多くの療養所(本件療養所を含めて)で診療上備えつけられていた体温計等を挙げるまでもなく当然窺えるところである。 [8](三) 原判決は入院患者のうち多数の者が要求する費目を直ちに(パーマ代を除き)もつてすべての患者にとり法の保障する生活水準を維持するに必要不可欠なものであるとする。しかし、修養娯楽費についていえば、長期療養の被保護患者といえども果して精神的修養に関する読書、ラジオテキストによる聴講等を必要不可欠とする程これらの者に対して保障される生活水準が高度のものでなければならないとみるべきか甚だ疑問であるばかりでなく、このような活動は重症患者にとつては治療上かえつて好ましからざる場合があり、せいぜい新聞の閲覧程度が許容されるにすぎないのであり、若干の書物は療養所に備付けがあり、工夫次第では(例えば現に行われているように同室又は隣室の患者が共同で)新聞、週刊誌等数種の購読も可能である。しかも一般的に社会復帰のための技能修得費は退院後の生活需要として処理さるべきものであつて(同法第17条)療養に専念すべき入院患者の生活需要として認めるべきではないのである。 [9](四) 原判決の挙げるペン、インク、ノート、クリーム(又はメンソレ)等も敢えて必要不可欠とはいい難いし、クシ、カミソリ、箸等は生活保護に含めるまでもなく本来自ら所持して入所するのが一般であり、しかも耐用年数の長い、かつ安価なもの(被控訴人の要求するカミソリ刃代は月8円)であるから、たとえ損耗の場合にも日用品費のうちの「その他」の項目に入れて処理しうる筈である。 [10](五) 原判決の挙げる寝巻(病衣)、敷布、枕カバー等については、これらのものが耐用年数の長いものであるところから一般基準費目とは別箇に生活扶助の一時支給として支給されることになつており、日用品費とは無関係に決すべきものであるが、その支給手続は格別煩雑でもなく、真にこれを必要とする場合需要に応じえなかつた実情にもなかつたのである。しかも国立療養所によつてはこれらのものを患者に貸与しているところがあり、現に被控訴人も本療養所からこれらのものを貸与されていたので、一時支給を要しなかつたにすぎない。なお、患者が新しい隣室患者等の遺品を譲受ける例があるとしても、むしろ異とするに足りないのであり、遺品といえども入手できた以上さらに一時支給をなすべきでないこと当然である。 [11](六) つぎに原判決は基準消費数量のうち肌着、パンツ、チリ紙及び通信費が不足するとしているが、その根拠は明らかでない。むしろ補布によつて修理もできるわけであつて、入院患者の実状からは2年に1着の肌着(本件売店の単価によれば2年間に夏及び冬シヤツ各1枚ずつ)、1年に1枚のパンツは決して最低限度の需要を満たしえないものとはいえないのである。また、原判決が重症患者においてチリ紙の必要不可欠量が多いとするのも理解し難いところである。我が国の比較的低い所得層一般の生活水準の現実に照らし、チリ紙で足りぬところは古新聞紙を当てることは何ら難きを求めるものではない筈である。 [12](七) さらに原判決が基準単価について、それが現実の(本件療養所売店における)最低単価よりは殆んどすべての品目(下駄、体温計を除いて)について高く余裕がある(中等品でもなお相当品目に亙つて然り)ことに触れず、洗髪代、病室出張代等についての僅少額の不足分だけを非難するのは失当といわねばならない。洗髪は重症患者については看護婦の業務となつているとともに、軽症患者は自ら行えば足るわけであり、また理髪屋の病室出張をうけねばならない重症患者が、1月に必ず1回散髪する必要も認め難い。病室出張代ぐらいは散髪の周期を多少(数日間)延し、或は「その他」の項目等からの流用により直ちに賄いうる筈である。 [13](八) これを要するに、本件基準はその品目、数量のすべてが入院患者のすべてにとり必要不可欠ないし同一の必要度を示すものではないのであつて、かりに品目、数量、単価について多少不足するものがあるとしてもこれを相互に流用し補うことは当然可能であり、むしろそれが現状であつて、この品目、数量どおりに費消していると考えるべきではない。右基準は、本件療養所売店の単価に照し、結局これによつて当時における被保護患者に対し法の保障する生活水準を維持するに足るものといわねばならない。 [14](九) なお、原判決は軽費制度の実際面から日用品費の不足を裏付けようとする。しかし入所中の被保護患者(但し医療費の一部自己負担をしている者)に対し右制度を適用した若干例があるのは、国立療養所側に右制度が被保護患者に適用すべからざるものであること及び被保護患者に保障さるべき生活水準に関する充分な認識に欠けていたため、ともに入所中である私費患者との安易な比較、同情によつて右制度が誤用されたにすぎないのであつて、判示は失当である。 [15](一〇) つぎに原判決は、医療機関が給食上の配慮を充分に尽くしてもなお極度の食欲不振等のため、給食によつて治療に最少限度必要な栄養量を摂取できない少数の例外的患者には臨床的措置によるべく、給食の内容を決する上には考慮を要しないと認めて、正当にこれを除外しながら、個々の患者の嗜好の略最大公約数をとることによつて、各患者の嗜好にできる限り応じつつ、しかも治療に必要な最少限度の栄養量を確保したとしても、なお集団給食の限界として各人の嗜好に差があり、すべての患者に漏れなく受け容れられる給食は期待できないから、補食は不可避であり、医療扶助として補食費相当額を支給すべきであると判示する。 [16] しかし、そもそも病院給食は医療の一環としてなされるものであつて、患者の症状に応ずべきは当然であるが、一方、或程度個人の恣意的嗜好(偏食)を抑制し、栄養管理をなす効用も無視さるべきでなく、各人の嗜好を全面的に満足させることは医学上必ずしも好ましくないものであつて、集団給食による制約の積極的価値は看過さるべきではない。 [17] 治療上均衝のとれた病院給食を総て摂取したうえ、さらに栄養分を補給し、或は給食に含まれる栄養分に劣らない代替物を摂るものがあるとすれば、そのこと自体栄養管理上少くとも有害とはいえないであろう。しかし、このような補食が治療上必要不可欠でないことは明らかであるし、これを病院の衛生管理の面からみれば、むしろ好ましからざるものであることも否定できない。従つて問題は個々の患者の嗜好に全面的に副いうるか否かにあるのではなく、どの程度まで副うべきかにあるのであつて、被保護患者についていえば、個々の嗜好の略最大公約数をとつて各患者の嗜好にできる限り応じつつ治療に必要な最小限度の栄養量が確保されれば、法の要求する医療扶助としては全きものといわざるをえない。一部の患者の嗜好に完全には副いえない部分があるからとて、残飯を見越して予め栄養量を増しておくことなど、およそ医療扶助の趣旨に反するものといわねばならない。そして個々の医療機関の給食事務処理方法に何らかの欠陥がある場合には、これを改善するのは当該医療機関の責務でこそあれ、直ちにもつて医療扶助一般の補食費を肯定する根拠となしえないこというをまたない。 [18](一一) ところで、本件療養所においても入所患者の摂取率を重視し、給食担当者等の努力により限られた材料費を充分に活用し、私費患者、医療保険患者、及び生活保護患者の区別なく一律に全患者の嗜好の最大公約数に沿い、各症状に即応すべく変化に富んだ給食が良好な配慮、運営のもとになされており、治療に必要な最少限度の栄養量が確保されているのであるから、給食の大部分を摂取することは決して難きを求めるものではなく、またこれによつて結核の治療に何ら差支えない状態にあつたものである。原判決は右の細食状況を肯定したうえでなお、現に補食がなされており、他方残飯が存在するとして本件療養所の給食によつても一部の患者にとつては補食が不可欠であるとする。 [19] しかし、補食及び残飯の事実自体から直ちに補食の不可欠性をひき出すことは妥当でない。けだし、日用品費についてさきに述べたとおり、各人によりその各品目、数量に対する必要度に差異があり、一部を節して一層大きな楽しみを食に求め、或は見舞品、アルバイト、その他諸種の原因によつて、給食以外の食物を口にする機会は避けえないところであり、現実に行われている補食には、このような恣意や偶発的動機が大きな比重を占めているのである(甲第12号証によつても補食の理由の4分の3にも当る)。かかる補食によつて必然的に本来摂取しえた筈の給食を残す結果となることは経験則上当然の事理といわねばならない。このことは、本件療養所における被保護患者の現実の食生活水準が法の保障する水準を上廻るということにほかならない。 [20] 被保護患者と私費患者とにおいて給食摂取率が殆ど相等しいとすれば、それはまさにこの間の事情を裏書きするものであつて、原判決がこれを無視したのは失当である。また、本件当時現に生じていた残飯量はせいぜい1割前後であり、かつこの程度の残飯量は集団給食の個人差に鑑み医学的経験則上敢て治療上の支障と認むべからざること原審証人原実、同佐藤章、同市村丑雄の各証言に徴し明らかである。原判決が残飯量認定の根拠とした甲第44及び45号証は大ざつぱな目測によるものであるから摂取不能部分(魚骨その他)も含まれているであろうし、本訴提起後作成されたもので、その客観的信憑力の薄弱なことは多言を要しない。原判決がこれを採り、かれを排したのは採証の原則を誤つたものといわざるをえない。 [21] 原判決が重視する一部の患者の嗜好や症状については本件療養所においても治療上必要な限度において現に充分配慮されているのである。現に行われている補食は、たとえ栄養上有益な部分があるとしても、それは治療上必要不可欠なものとは認められないのであつて、かかる嗜好は当然無視して差支えないものといわざるをえない。原判決が現に行われている補食を治療上不可欠視せんがため、るる説示するところは、いずれも患者の給食に対する恣意、欲望を示すにとどまり何ら結論を理由あらしめるに足るものではない。 [22](一二) 原判決は、被控訴人が昭和31年当時、平均して2分の1ないし3分の2程度の給食摂取率であつたと認めているが、右摂取率は病院給食のみについてのものであつて、原告が当時行つていた補食を計算に入れていないのである。補食を含め原告の現実の総摂取量はせいぜい例外的に短期間摂取不良の状態が介在したが、ほぼ良好な状態が継続したものと認むべきである(原審証人岡本玉樹の証言)、被控訴人は安静度1度ないし2度の重症患者であつて比較的所要栄養量の少い状態にあつたのであり、栄養量を比較的多量に要する回復期患者の所要量をも満たす給食量(当時カロリー2500、蛋白質約90グラム、脂肪約40グラム)との間に相当のゆとりがあり、一時的食欲不振にも拘らず、通観すれば給食だけで治療上必要不可欠な栄養量は、充分維持できたものといわねばならない。 [23] 原判決は、被控訴人が重症患者であるからとて、その嗜好、症状を重視する。しかし、本件療養所の給食はさきに述べたとおり、個々の患者の嗜好の略最大公約数をとり、各患者の嗜好にできる限り応じ、各患者の症状にも即応して何ら間然するところはない。けだし、嗜好が個々の患者により、また時を異にするに従い差のあること重症患者と否とによつて格別異るものではなく、或程度以上の嗜好の差は医療扶助としての給食の性質上無視してしかるべきであり、もし、極度の食欲不振等のため給食の摂取不良が治療上必要な栄養量を欠くに至るときは、原判決も認めるとおり、食欲増進剤、栄養剤の投与等臨床的措置に譲るべきだからである。被控訴人にこの措置を要しなかつたのは、同人の給食摂取率が治療上必要不可欠な最低限度を欠くに至らなかつたことを裏付けるものである。被控訴人の補食に対する強い要求は、諸種の手段によつて得た恣意的補食による生活水準の高度化に由来するものであつて、その現実の給食摂取量如何は、治療上必要な限度とは無関係なものといわざるをえない。 [24]第三 これを要するに、原判決は法の保障する健康で文化的な最低限度の生活水準を極めて高いところに想定し、これを前提として、日用品費及び給食の現状を否定する。控訴人としても、我が国民所得水準、国民経済力の向上により、原判決のいうが如き生活水準を最低限度のものとして保障しうるのであれば、これを共に希望するものであることはいうまでもなく、理想論としては原判決の右見解に反対するものではない。しかしながら、右水準の具体的認定は、さきにも述べたとおり、事柄の性質上、数多の要素に対する専門技術的検討と、政治的行政的配慮に基いて処理されるものであつて、原判決のこの点に関する認識が充分であるか甚だ疑わしいものといわざるを得ないのである。理想は理想としても、現実から遊離することは許されないし、政治の課題として解決されるべき限度の問題は、当然それにゆだねらるべきである。 [1] 被控訴人の昭和36年5月10日付準備書面に対し、控訴人は左のとおり主張する。 [2]一、被控訴人は、右準備書面第一の一において、原判決がその判断の前提として想定する生活水準に対する控訴人の批判を反駁される。しかし原判決は、特定の時点において保障さるべき最低限度の生活水準が予算の有無・配分によつて左右されるのではなくして、これを指導支配すべく、その意味で決して相対的ではないと前置きしたうえ、本件保護基準の細目の検討において現に固定的絶対的生活水準を想定し、これをその判断の基礎としているのであつて、国民所得水準、国民経済力、国民の生活感情等諸要素による制約が右水準の具体的決定に影響を及ぼすことを認めながら、結論においてはこれを無視していることは疑う余地のないところである。特定の時点における右決定は既に述べたとおり諸多の社会的経済的文化的不確定要素を認識、分析、検討し、かつこれらを綜合しての価値判断の結果として導き出されうるものであり、事柄の性質上その結論に或程度の巾のあることは当然である。被控訴人は右水準が「生活」の水準であることを理由としてその概念やその経済的数値をそのいわゆる「生活」外的事情から切り離し観念的一義的に割り切ろうとする。しかしかかる単純な方法のみによつては具体的結論を出しえないこと既に述べたところから明らかである。 [3]二、被控訴人は右準備書面第一の二において、ボーダーライン層において自力で生活を維持している者の生活は、健康で文化的な最低限度の生活水準に達していないのであるからこれらの者に対しても均しく保護を与えるべきであると主張される。もとより健康で文化的な最低限度の生活が国民の全てに保障されるべきことは言うをまたないところであるが、既に述べたとおりボーダーライン層の自力で維持している者の生活が右水準に達しないものとは必ずしもいいえず、一般的にはその水準に達しているものと解されるのであつて、従つて右水準の生活を自力で維持しえない者に対してこれとほぼ同程度の生活水準を保障することをもつて法の要請を満たすものというべきである。なお、被控訴人がそこで非難されている控訴人の主張の趣旨は、原判決がボーダーライン層の自力で維持している生活水準の正当な評価を誤り、かつこの階層に生活保護を与えるか否かの問題を回避してこれとは別個に右水準の決定がなされうるかの如く説示されているので、その判示の趣旨がボーダーライン層において自力で生活を維持している限りたとい右の水準に達しない者に対してもこれに保護を与えないというにあるとすればその失当である所以を敷衍したにとどまるのであるから、被控訴人の非難は当らないというべきである。 [4] また被控訴人は保護水準を引き上げても終局的には被保護者数の激増を来たさないと主張される。しかし被控訴人の主張されるとおりに被保護階層から脱却して生産に寄与し、或はボーダーライン層の生活の向上が実現されるか否かは、ひとえに社会、経済、財政等諸般に亘る生活保護以外の事情に依るところであり、本件処分当時そのような事態の急速な改善は期待できなかつたのであるから、保護水準の引上げが被保護者数の激増を招来しないとは断じ得なかつたわけである。従つて右の生活保護以外の諸事情の進展改善を予定して、本件処分当時に被保護者数の激増を招来しないとされる被控訴人の主張は首肯し難い。 [5]三、さらに被控訴人は、右準備書面第二において、一般的保護基準では賄えない結核の長期療養患者に対して漫然と一般的基準額をあてて保護の決定を行つた点においても違法であると主張される。しかし、本件処分の基準は、入院入所3ケ月以上のもの、すなわち内容的にはまさに結核等の長期療養患者を対象として、原判決事実摘示のとおりの告示及び通知に基き定められた、包括的ではあるがあくまで特別の保護基準であるから、被控訴人の右主張は失当である。なお、被控訴人は生活保護法第8条により定められた保護基準を上回る基準により保護を実施することが可能であり、かつそのことが要請されているとされるが、しかし保護は同条1項にいう厚生大臣の定める基準を越えて行うことはできないのであつて、同法第9条も右法条に定められた範囲内で運用さるべきことを規定したにとどまる。このことは保護の額の決定が実施機関の自由裁量に委ねらるべきでないことからも当然であつて、被控訴人の主張は同法条の誤解によるものという外はない。 [1]一、被控訴人は日用品費の基準額600円が先づ右金額を決めたうえこれに合うように基準費目、数量、単価を考えて埋め合せたものであると主張する。しかし右基準金額は既に述べたとおり(昭和36年2月20日付準備書面第二(二)参照)必需品目、数量の積上げ方式によるものであるから被控訴人の主張は理由がない。以下被控訴人においてさらに不足するとされる費目等について反駁する。 [2]二、被控訴人は体温計代金分を他に流用できる可能性は少いと主張する。しかし療養所備えつけの体温計を破損した場合、損害の補填を患者に求めた例は希有であり、むしろかかる事例はないといえるのであるから、右代金分の流用に支障はない。 [3]三、被控訴人は読書、文化サークル活動の制限されるのは極めて特殊例外の場合に限られ、一般的には修養娯楽費が不足すると主張する。しかし安静度1度、2度の重症患者においては読書等の制限されるのがむしろ常態である。患者に対し修養娯楽の効用の無視すべからざることは当然であるが、そのことから直ちにその費用を増額せねばならないことにはならない。新聞、備付図書等の閲読自体修養娯楽の目的に沿わしめうるし、俳句和歌等工夫次第では費用のかからぬ方法は容易に発見できるのであり、それ以上に高度な一般的基礎的知識教養等が療養生活のために、または社会復帰のために必要不可欠であるとは到底解し難いのである。精神的支え、希望の喪失という事態は諸多の原因によるものであつて右費用の増額と直接の相関々係がないのであるから、かかる事態を防ぐために右費用を増額すべきものとはいいえない。なお医療扶助に欠けるところもないのであるから、被控訴人の主張するような療養雑誌の必要性も認めえない。 [4]四、被控訴人はペン、インク、便箋、カミソリ、パーマ代及びラジオ、時計等の維持修理費が欠けていると主張する。しかし、便箋は葉書で代用できるし、葉書には鉛筆書きで足り、必ずしも、ペン、インク書きを要しない。カミソリは月8円を要するわけではなく、使用間隔如何により、或いは研磨によつて相当長期間の使用に耐えうるところから特定品目として計上しなかつたのである。また、生活保護患者にとつてパーマ代が必要不可欠でないことは原判決も認めるとおりであり多言を要しないものと思われる。さらにラジオ、時計のごときは被保護患者の入院生活に必要不可欠であるとは認めえないのであるから、たとえこれらの物を所持して入所する場合にもその維持修理費を日用品費中に計上すべからざることは当然である。 [5]五、被控訴人は寝巻(病衣)、敷布、枕カバー、丹前、毛布、肩掛、股下及び襟布を日用品費に計上すべきであると主張する。しかし寝巻、毛布、敷布、枕カバーが日用品費に計上されていないのは、これらの物品は比較的耐用年数が長いため真に被保護患者が必要とする際に一時支給の方法により支給するのを相当とするから、既述のように衣料寝具に関する一時支給の措置を定める反面、その重複を避けて日用品費から除外したのである。また療養所においてはかかる物品は供用(貸与)品として備えつけられることも期待され、現に被控訴人が既に述べたとおり寝巻、敷布のほか毛布、外套をも療養所から貸与されていたのであるから、その支給を受ける必要もなかつたのである。丹前、肩掛、股下、襟布は療養所における療養生活においては防寒的にも必要不可欠なものとはいいえない実情にある。 [6]六、被控訴人はチリ紙及び通信費が不足すると主張する。しかし重症患者の痰の処理に当つて古新聞紙、痰コツプによりえないとの点は事実を誇張するものであり、また日用品費における通信費は入院患者が被控訴人の主張するような他人からの世話を受けることを前提にしてはいないのであり、入院入所により通常必要と認められる通信費としては欠けるところはないと考える。 [7]七、被控訴人は交通費、謝礼、交際費及び患者自治会費が必要であると主張する。しかし療養所内の売店等で日用品を購入するに当つては隣室者等相互の工夫、看護婦への申出等によつて何ら特段の出費を要せず解決されうるのであり、他人の冠婚葬祭に対する支出等は療養に専念すべき被保護患者の立場から必要不可欠とはいいえない。患者自治会の会費(被保護患者に対し会費を免除しているところもある)についても同様であつて、同会自体任意団体であり、被保護患者にとつて入会が交際上、療養上必要不可欠であるとは到底考えられない。 [8]八、被控訴人の洗髪、散髪に関する主張も失当である。看護婦の定員不足から洗髪に支障を生ずる事態は未だ発生していないし、散髪の周期を1月につき数日延すことが不潔であるというのは実情に即さないし、これにかえて丸刈にすることもできるわけである(本療養所内では丸刈は40円であり20円の余剰を生ずる)。 [9]九、被控訴人は軽症患者の普段着、身体障害者の補聴器修理のための送料を欠くと主張する。しかし軽症患者といえども外出を常とするわけではなく、日常起居のためには病衣で足りる。また補聴を要するのは全患者中極く僅少の者に過ぎず、補聴器修理の送料について一般的な日用品費にそのための項目を計上するのは適当でない。 [10]一〇、被控訴人は死期の近づいた患者の例を引用して重症者の食欲が極めて不安定であると主張する。死期の近づいた患者が日頃口にしなかつたものまで所望する場合、その需要量は些細なものであり、人道上も可能な限りこれに応じるのが好ましい(現に本療養所でも励行されている)。しかしこれは治療食の問題とは無関係であり、重症者の嗜好といえども1日のうちにそれが変るほど実際上極端なものではありえない。かかる事態がかりにあるとすればそれはむしろ治療上無視すべき恣意によるものといわざるをえないのである。 [11]一一、被控訴人は重症患者の補食を強調する。しかし重症患者においても偶々食欲が出たときにこそ給食の摂取率は向上し、給食摂取により栄養的にも欠けるところはない。被控訴人の挙示する補食の類は嗜好に対する配慮として既に給食の献立に織り込んでいるのであるから、これによつて給食を排する恣意を正当づけることにはならないし、また補食をもつて給食率の向上に資する理由ともなしえない。なお、被保護患者の補食は治療上不必要であること既に述べたとおりであり、原審証人佐藤章の証言もこれを敷衍したに過ぎないのである。 [12] 以上の次第であるから、被控訴人の主張はいずれも理由がないものと考える。 [1]一、右理由第一項の趣旨は争う。 [2] 控訴人は、原判決が憲法第25条、生活保護法第3条にいうところの健康で文化的な最低限度の生活水準について固定的絶対的の水準の存在を前提し、これを以つて一義的な結論を導いたと論難するが、原判決はその判決理由に明示する如く、それ自体は本来諸多の要素に応じて変動し発展するものではあるが、それが人間としての生活の最低限度という一線を有する以上、理論的には特定の国の特定の時期段階においては、それとの相対において一応客観的具体的にその内容が決定されうると説いているのである。従つてその意味において控訴人の批難は筋違いであり理由がない。また控訴人の論難は右の如き意味での相対的決定も可能でないとする趣意であるとすれば、それはついに右最低水準についての政治的行政的な立場からの認定すら不可能とするものであり、主張自体理由を失うことは明らかである。原判決もいう如くなるほど右水準の決定は容易ならざる性質のものではあるが、その水準自体は、あくまで健康で文化的な生活の水準なのであるから、その概念や、それを可能とする経済的数値は科学的なアプローチによつて充分に可能であり、決して時々の財政事情などの「生活」外的事情によつて左右されるものでないことは自明というべきである。 [3] 問題は、右の意味における人間としての生活の最低水準を国が国民に対して義務的に覊束的に負うたものと解すべきか、はたまた右水準は水準としてそれに近付けるという方向を持しながら、国が裁量的に保護を行うものと解すべきかにある訳である。そして既述の如くわが生活保護法はその立法趣旨、立法経過、外国の立法例等に徴して、国が覊束的に右保護の責務を負うたものであること疑いを容れないから、控訴人の主張は理由がないと言わなければならない。 二、前記理由第二項のうち、 [4](一) 同項(一)は争う。 [5] 控訴人のいうボーダーライン層の推計や、その人達の維持している生活水準についての主張は控訴人の独断である。又生活困窮のために「何年に1枚の肌着に安んじ、はだしで走りまわり、歯みがき、歯ブラシも使わず、用を便ずるに紙を使わない」という表現から窺える生活水準自体が、どうして憲法や生活保護法で保障する健康で文化的な生活に達しているといえるのであろうか。 [6] 又控訴人は「自力で生活を維持できない者にだけボーダーライン層の生活水準以上の保護を与え」、「(自力で維持している)保護を受けない者の労働意欲を阻害することともなり、その均衡を失することは明らかである」と述べているが、之は凡そ社会保障の何たるかを理解しない暴論である。原判決も述べているように、健康で文化的な生活水準は国民の何人にも全的に保障されねばならないのであつて、自力で生活を維持しているものと雖も右水準に達しない国民に対しては等しく保護を与えられるべきものである。控訴人の主張が働いても働かなくとも同じ水準を保護されることが均衡を失するという意味であれば社会保障制度そのものを否定するものであろう。 [7] 保護水準の引上げは大幅な被保護者数の激増を招来するという考え方は偏頗な議論である。成程、保護水準を引上げることによつて、或る程度の被保護者数が増加するかのように見える。然し乍ら第一に生活保護法の目的である、国民に対し、最低限度の生活を維持し、その自立を助長するに必要な保護を行えば、その被保護者は間もなく自力で生活を維持するに至り、却つて被保護者は減少し、その者が生産に加わることによつて社会的な生産量は増加し、予算や財政の面でもプラスする結果となる。第二に、国が働らく能力のある者に対して仕事を与え、生産に加われるような積極的な施策を行うことによつて、控訴人のいうボーダーライン層は、直ちにより高度の生活水準を維持することができるようになるのであつて、敢えて生活保護法による保護を待つまでもなく、或は間もなく被保護者の列を離れてゆくことができるものである。憲法は、主権在民の立場で戦争を放棄し、すべて国民は、勤労の権利を有し義務を負い(憲法第27条1項)、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、と規定している。その趣旨は基本的人権の中でも、国民の生活権の確立を最も重要なものとして、憲法第27条は自力で働ける者の生活保障につき国と国民の積極的な勤労関係を明らかにし、同法第25条は自力で生活を維持できない者に対しても国と国民の間の所謂生活保障を明らかにしたものである。従つて国の全体的な施策の面で先ず右の生活権の確立を第一義とすべしということが憲法上の基本的な要請であると理解すべきである。然りとすれば現在のボーダーライン層を固定的に考え被保護者の増加を惧れて保護基準の引上をためらうことは憲法の理念の上でも、現実の上でも全く誤りであろう。 [8](二) 同項(二)乃至(一二)は争う。 [9] 尚附言するに、控訴人が、生活保護法第8条に基いて定めた保護基準による保護実施要領は、生活保護法による医療の適用を受け病院又は療養所に入院入所中の患者に対する生活扶助の支給額(但し入院入所3ケ月以上の大人)600円を定めるについて、計算の根拠として、原判決別表記載の費目、数量、単価等を挙げている。 [10] 右費目は、一般の生活扶助基準において定められている費目から、入院入所によつて一応不要に帰したものとして、飲食物費、入浴費、家具什器費、水道料、光熱費等を控除して定められている。 [11] 然し乍ら抑々一般の生活扶助基準額そのものが、憲法及び生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活を営むには甚しく不足する低廉な額であり、このような一般基準額を基本として算出された本件入院等患者に対する生活扶助の支給額も亦患者の最低限度の生活を維持するのに遠く及ばない額である。 [12] 一般の生活扶助基準額や之を基本としてできた入院等患者に対する生活扶助の支給額の算出方法も、共に予想される生活必需品を拾い上げる、所謂マーケツト・バスケツト方式を用いているのであるが、右方式は生計費算出の一方式ではあつても、如何なる品目を拾いあげるかによつていろいろ差がでて来るところから、生活費の決定については問題があるところである。 [13] 入院等の患者にとつて現実に必要不可欠なものとして原判決別表記載の費目以外に、修養娯楽費、ペン、インク、ノート、便箋、箸、男性のクシ、カミソリ、クリーム又はメンソレ、女性のパーマ代等がある。丹前、肩掛、病衣、股下、襟布等も同様である。寝巻、敷布、枕カバー等についても生活扶助の一時支給として現物で支給されることになつているとしても実際には殆んどその支給を受けることができない状態であるから之亦当然生活扶助の支給額の中に組み入れらるべきである。又社会生活を営むにとつて、右のような特定の費目の何れにも入れ難くしかも必要不可欠の支出がある。広く予備費とでも云うべきであろうか。入院入所患者の患者自治会のための会費、他人に買物その他用事を頼んだ場合の交通費や謝礼、患者の外出時の交通費、他人の冠婚葬祭における最低限度の支出、その他の支出は社会生活の面で欠くことができないことは自明であろう。 [15] 別表記載の年間消費数量は、肌着、パンツ、チリ紙、葉書、切手、封筒等が余りにも少きに失しているばかりでなく、石けんその他の費目についても十分とはいえない。 [16] 基準単価についてみても、総じて、昭和31年当時一般物価に比して著しく低く過ぎる。理髪、洗髪の料金にとどまらず本件基準が定められた昭和28年当時に於てすら甚だしく低い価額を定めている。一般人にとつて、その価額の商品は入手し難く、仮りに入手出来たとしても極端な粗悪品であり、そのようなものを購入した場合には通常の効用をなさず、従つて耐用期間にも影響し、消費数量を多くすることとなる。 [17] 被控訴人の主張は原判決摘示の「原告の主張」の通りであり、かつ同判決理由中本件保護変更決定の違法を説示する部分(三の(二)乃至(五))を援用するものであるが、なお右を補足して以下に主張する。 [18](一) 本件保護変更決定において津山市社会福祉事務所長が被控訴人への仕送金額のうち600円をその日用品費として控除することを認めたのは、控訴人が生活保護法第8条に基き、入院入所期間が引続き3カ月をこえる要保護患者に対し、生活扶助として支給すべき日用品費を最高月額金600円と定めた生活保護の基準に基いて、その最高額である月額600円を認めたものであることは当事者間に争いがない。 [19] ところで生活保護法第8条第1項及び第2項の趣旨よりすれば、具体的な保護の実施は厚生大臣の定める基準(により測定した要保護者の需要)の範囲内でなされるべく、かつ本件保護変更決定はこれに従つてなされたものと解されるところ(乙第3号証参照)、右基準自体が既に一般の入院入所3カ月以上の要保護患者に対して右第2項、同法第3条の要請する最低限度の生活水準に決定的に不足すること既述の如くであるから、被控訴人の如き入院入所期間の著しく長い重症の結核患者に対して、右の限度内でなされた本件保護変更決定が第3条に違反することは明らかである。 [20] かりに右の点は暫く措くとしても、右第8条第1項及び第2項は、一般的な保護基準で賄えないような特別の事情ある場合にはその範囲にだけ個別的に適用されるべき特別規準を設定してその趣旨に沿うことを要請しているとみるべきところ(乙第1号証参照)、本件においては被控訴人の如き重症の要保護患者に対して特別の基準を設定してその健康で文化的な療養生活を保障しうるよう処置すべきであつたにも拘らず、漫然と一般的な基準額を宛てて保護変更の決定に出たのであるから、この意味においても同条及び第3条に違反すると言わなければならない。 [21] またかりに第8条所定の保護基準にも拘らず、同法第9条によつて要保護者の実際の必要に即応して右基準を上廻る保護の実施が可能であり、かつそのことが要請されていると解すべきだとすれば(少くとも同条の文理からはさような解釈が可能であり、また第8条第1項も制限的規定とのみ解せられないし、むしろ同法全体の趣旨から言えば、右のように解するのが正しいと思われる)、前同様の事情から被控訴人に対してその実際の必要に即応して一般基準を上廻る適切な処置に出ることなく、本件保護変更決定を行つたことは、明らかに右第9条、第3条に違反するものである。 [22](二) ところで既に縷説した如く、生活保護法は憲法第25条の規定する生存権保障の理念を具体化し、同条によつて国が負うた政治的責務を法的義務にまで高めたものであり、同法第2条は単なる国の努力の反射的利益を保障したに止らず、有資格の国民に対して積極的に国に対する保護請求権を保障したものと、また第3条は同法による保護の最低限を画し、他のすべての規定の解釈運用を律する対力的な基準を定めたもの(第5条参照)と解するのが相当であり、また一般である。 [23] そして更に同法第8条第1項及び第2項並びに第9条は、いずれも同法による保護の原則を規定したものであるが、それぞれの文理及びその趣旨とするところが同法による保護の実施に不可欠でありこれに反しもしくは沿わない取扱いは考えられないていのものであること(第7条、第10条も併せて参照されたい)からすれば、右両条が厚生大臣または保護の実施機関に対して自由な裁量権を賦与し、そこに挙げる諸要素は単に裁量に当つての訓示的な指標を意味するものと解すべきではなく、両条はそれらを裁量の要件とする覊束裁量と解すべきである(小山進次郎編、社会保障関係法コメンタール、「生活保護法」篇参照)。 [24] 従つて右第8条もしくは第9条及び第3条に違反する本件保護変更決定(ひいてこれを認容した本件裁決)は違法無効のそしりを免れず、またさような意味合いにおいて右各条に違反するか否かの問題は司法裁判所の判断に服すべきこと明らかである。 [25](三) その他の本件保護変更決定に対する違法の主張は従前の通りである。 [1] 被控訴人の主張(昭和36年5月10日付準備書面記載)を補充して左のとおり陳述する。 [2] 生活費の計算の方法として、マーケツト・バスケツト方式を採用することの問題点については既に述べた(昭和36年5月10日付準備書面第一の(二))。而して別表(原判決)基準費目の選択は、極めて非合理的、形式的である。「縫針」のごとき、金額の甚しく少額のものを教えあげ(そのこと自体は結構なのであるが)、いかにも綿密な考慮の下に費目の選択がなされているかのように見えるのであるが、その反面健康で文化的な最低生活に必要不可欠な多くの費目を殊更に落している。これは控訴人において生活扶助基準額を決定するに際し、先ず600円という数字を決め、この金額に合うように基準費目、数量、単価を考えて埋め合せたということに起因するものである。 [3] 「体温計」については、たとい備付のものがあつたとしても誤つてこれを破損した場合、被保護患者と雖も、その代金相当の損害金を支払つていたものであり、従つて体温計分の流用の可能性はむしろ少くなる。そればかりか体温計の破損は一般には意外に多いのである。 [4] 控訴人は、法の保障する最低生活は、長期療養の被保護患者について、精神的修養に関する読書をし、ラジオ・テキストによる聴講等を保障するほど高度ではない旨主張する。右のような考え方は、健康で文化的な生活に対する根本的な誤りを犯しているばかりでなく、国の施策として修養費等を与えないか又は取り上げることによつて、多くの国民に対して無知を強いるものであり、「知らしむべからず」として愚民政策を強行した封建政治と何ら選ぶところはない。 [5] 又、「重症患者にとつては、せいぜい新聞の閲覧程度が許容されるにすぎない」とは、結核患者の実態を知らざるも甚しい。ひとくちに入院等3ケ月以上の結核患者、或は重症患者といつてもその態様は様々であるが、治療上読書や文化サークル活動の制限を受けるのは、手術直後や、シユープ(急激な病巣の拡がり)で高熱を発しているとき、大量喀血の直後など、特殊な場合に限られむしろ極く例外に属する。 [6] 控訴人のいう「一般的に社会復帰のための技能修得費は、退院後の生活需要として処理さるべきものであつて療養に専念すべき入院患者の生活需要として認めるべきでない」との主張は正しくないだけでなく、原判決の判旨すら曲解している。生活保護法第17条に規定する困窮のため最低生活を維持することのできない者、又はそのおそれのある者に対してなされる「生業に必要な資金、器具又は資料、生業に必要な技能の修得、就労のために必要なもの」であつて、生業或は就労に関してより具体的、より直接的なものである。原判決が述べている「自己を高め、もしくは他日の社会復帰にそなえて相当の知識教養を身につけ」るという意味での修養費とは、前述の具体的、直接的な生業扶助を指すものでは勿論ない。社会復帰にそなえての、一般的・基礎的な知識教養、或は療養生活に於て許される範囲での専門的な知識技能の修得を考えることは被保護者の自立を助長する生活保護法第1条の目的からいつても当然と申さねばなるまい。 [7] 「療養雑誌」も亦必要である。生活保護法に於ける制限診療が被保護者の壁となつている今日、問題解決のためにも殊更そうである。 [8] そもそも控訴人は、修養娯楽等がそれのもつ本来的な目的の他に、長期療養者にとつて、医学上の適切な処置と相俟つて、闘病のための重要な要素になつているという一面を看過している。宗教その他精神的修養に関する読書、文化サークル活動その他適当な広義の修養娯楽は単調な療養生活者の精神的支柱となり、或は社会復帰にそなえての知識技能教養の修得が患者に希望と勇気を与え、このことが治療上重大な意義を持つているのである。精神的支えを、そして希望を失つた患者がいかに悲惨な道を辿らねばならなかつたか。その責任の一半は、控訴人の修養娯楽費等軽視の結果にあるとも云えなくはなかろう。 [9] 「はがき」の必要を認めながら、ペン、インクを認めないことの不合理は今更云うまでもないが、箸、カミソリ、櫛などを自ら所持して入所するとは限らないし、それはさて措き、之等は長期療養中屡々磨滅、破損するのが普通である。 [10] 又カミソリの刃月8円を安価であるというが、縫針を基準費目にあげていながらカミソリを落していることは矛盾している。月8円の金額は月何万円の生活費の中での負担なら兎も角、僅か600円の中でのやりくりであり流用の困難さはおおうべくもない。 [11] 被保護者と雖も自ら所持して入所等することがあるラジオ、時計等の維持、修理費も当然日用品費の中に考量さるべきであるのにこれらが何等計算されていない。 [12] 結核患者にとつて、寝巻、敷布、枕カバーの耐用年数が長いというのは事実に反する。これらは患者が殆んど終日臥床し、発汗等を伴うなど、一般家庭とは全く異る条件の下におかれていることを無視して決めることはできない。 [13] 経験上も之らは長袖半袖シヤツの耐用年数と比べて決して長くなく、むしろ短いとさえいえるのである。 [14] これらの貸与がなされたとしても、これを希望する者の数に比し、貸与数が少なすぎて、抽籖で当つた者だけしか貸与をうけることができなくなるのが実情である。 [15] 幸運にして貸与の機会を得たとしても、病衣は数年に1度、毛布も落綿で2枚を合せて1枚分となるような半端ものが多く、丹前なども病人としては使用に堪えないような甚だ粗悪なものが少くない。 [16] これらの品と雖も必要の際に手続に従つて貸与一時支給がなされるものでないことはすでにのべた。「とにかく今着ているから」という理由で拒否されたり、或はどうしても支給されないでいるうち、年末助け合いの古着を患者の出身地域の婦人会より送らせてしのいだという例も少くないのである。 [17] 日用品の中でも特に重要なものであるばかりでなく耐用年数などでも、特に他と区別すべき実質的な根拠に乏しいにも拘らず、殊更に寝巻等を貸与又は一時支給品として基準費目より除外した理由は、専ら生活扶助費を600円に押えるための方便にすぎなかつたのであるが、控訴人がこれら貸与又は一時支給についての責務の遂行に努力しない結果、多くの患者が一時支給等の手続方法を知り得ないこと、その手続が著しく煩雑なこととも相俟つてすべて被保護患者にシワ寄せがなされるに至る。 [18] パンツの消耗度合は前項寝巻等のところで述べたと全く同じ理由で意外に早く1年1枚ではとても足らず、着がえもなくなる仕末である。 [19] 重症者の痰は粘りがあり、痰コツプを使用したとしても痰コツプと口とを糸のように連なる痰を紙で拭わねばならない。更に重症者や病状によつては幾度も身を起して痰コツプへ痰を吐くことが困難な場合もあり自ら或は附添人の手で痰をチリ紙を用いてとらねばならない。この際古新聞紙を用いると次第に唇がこすれ、赤くただれてしまうのである。 [20] 従つてこのような場合にはなる可く上質のチリ紙多数を必要とする。 [21] 通信費については、病人であるが故に物心両面でいろいろと他人の世話になることが多く、その依頼や礼状、就中存在を忘れられないための時候のあいさつなど、病人で動けないことから却つて通常の健康人より多くの通信費を必要とする面も生じてくる。 [22] 洗髪は看護婦の業務であつたとしても、定員不足に伴う看護力の低下は、さらでだに労働過重に陥つている看護婦に対し、控訴人がいうが如き洗髪の余裕を仲々生ぜしめないであろう。附添廃止と定員不足は患者にとつて大きな悩みの種なのである。 [23] 散髪の周期を延ばすことは好ましくない。病人はできるだけ清潔にし快適な環境にしておくべきである。周期を40日(現在は出張料共100円であるからほぼ2ケ月に近いとも云える)等に延ばすことは不快であるばかりでなく、夏は暑く、冬は風邪の原因となりやすい。 [24] 控訴人は基準費目が入院患者のすべてにとつて同一の必要度をもつものでないこと従つてそこに生れる多少のゆとりを相互に流用することで不足分を賄うことができると述べている。 [25] 然し乍ら必要度に個人差があることは事実としても控訴人のいうゆとりの根拠が全くひとりよがりであり認められないばかりでなく却つて必要不可欠な費目を落し、或は、数量、単価を少なくしていることによつて、僅少のゆとりやその他の項目を越えて多くの不足を生ずる所以についてはさきにそれぞれ解れた。更に附言すると、軽症患者の普段着については何等考慮されていない。 [26] 又補聴器を必要とする身体障害者(ストマイ等化学療法を行つた結核患者には、その副作用によつて聴覚障害を起しているものが少くない)にとつて、補聴器の修理費はみてくれるが、修理へ送る小包、荷造り、送料等は患者負担であり、電池代など新年度まで待つてくれといわれて自費で電池を買わざるを得なくなる。これらは益々費用の相互流用を不能にしてしまうこと明らかである。 [27] 控訴人のいう偏食抑制、栄養管理の効用はなるほど病院給食の一つのねらいではあろう。然し入院入所は結局において患者個人個人の病気の治療が最終にして最大の目標である以上集団給食の教育的・管理的価値は、患者自身の特殊事情を充分に考慮し修正されたものでなければ、之を見出すことはできないのである。 [28] 重症患者の食欲はきわめて不安定で1日のうちにもその嗜好は変化するほどで、病院給食が数種の献立を選択的に作つたとしても集団給食の制約もあり治療上十分なまで患者の要求を満たすことにはならない。 [29] 某私立病院は死期の近づいた患者にはそのときの食事に対する希望をきいて、その望むものをあたえるようにしている事例があり、この重症患者の食欲嗜好が如何に不安定であるかを物語つているとも云えるであろう。 [30] 重症患者は比較的少い栄養量で足りるとは限らない。 [31] 発熱やせき、痰、喀血の伴う場合には之を補わなければなるまい。何等かの理由で必要な栄養量がとれなかつた場合は当然衰弱を招くが、皮肉なことに益々食欲がなくなる傾向がある。そこで喀血が止つたときとか、たまたま食欲がでたときに栄養豊富な食品をできるだけ多く摂取する方法をとつて衰弱を防ぎ、体力の回復をはかる。これに対し集団給食は十分なものを与えてくれない。又食欲といつても単に増進減退という面でだけ考えるべきでなく食欲自体の中に複雑なものがあり、これは食べられないがあれは食べたいという問題があるだけでなくこれはしばしばそのときになつてみなければわからず予め測ることができない。これは患者のわがまゝとはいえない。治療上重要な点である。 [32] 補食といわれているものに更に概念の上で2つに分けることができるのではなかろうか。 [33] 1つは給食で出される食事が食べられないために、代りに栄養豊富で食べやすいものを補食する場合である。この場合補食の量と残飯の量はある照応関係に立つ。もう1つの場合には給食で出される食事を全部もしくはできるだけ多く摂取するためにする補食である。この場合の補食はもちろん主食や菓子類ではなくて、おかずであり、卵、肉、魚の類から、焼海苔、ホーレン草のしたし、めざし1、3匹、ふりかけ、ごま塩、佃煮類漬物等々であり、ことに貧困患者の不足勝な日用品費を削つての補食は後者が特に重要である。 [34] いうまでもなくこの後者の場合は補食することによつて、残飯の量は全体として減りこそすれふえることはなく、控訴人が補食によつて、必然的に本来摂取し得たはずの給食を残す結果となることは経験上当然の事理と断定していることは誤りである。「一部の患者の嗜好に完全に副いえない部分があるからとて残飯を見越して予め栄養量を増しておくことなど、およそ医療扶助の趣旨に反する」との反論は的はずれであり、嗜好の違いや、残飯の存在は直ちに残飯を見越しての栄養量の増加の必要には結びつかない。 [35] 問題は食品に含まれている栄養量の合計ではなく、設備、予算、定員よりうける病院集団給食の制約をのりこえて、患者が必要栄養量を摂取するために前に述べたような補食が必要であるという点にある。補食はし意的ではなく必要的なのである。 [36] 被控訴人の主張するような補食をしなければ患者は病気の回復の不可能であることは申すまでもなく、それは死を意味する。健康人であれば補食を含めて最低生活が満たされなければ病気になり、ここで一応の時間的余裕がある。 [37] 然し患者にとつては待つたなしであり最低生活ができないとすれば、それが仮りに予算上の理由であれ何であれ、そのことは直ちに患者を死の淵に突き落すことを意味するのである。原審証人が補食をすれば治療上、よりベターであると述べたことは(証人佐藤章)この辺の事情を明らかにしたといえよう。
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