蓮華寺事件
上告審判決

建物明渡、代表役員等地位確認請求事件
最高裁判所 昭和61年(オ)第944号
平成元年9月8日 第2小法廷 判決

【上告人】控訴人 第2事件原告  久保川法章
右訴訟代理人弁護士 小見山繁 河合伶 小坂嘉幸 川村幸信 山野一郎 弥吉弥 江藤鉄兵 富田政義 片井輝夫 伊達健太郎 竹之内明 加藤洪太郎 華学昭博 仲田哲 山本武一

【被上告人】被控訴人 第2事件被告  蓮華寺
右代表者代表役員 早瀬義雄
右訴訟代理人弁護士 色川幸太郎 川島武宜 宮川種一郎 松本保三 松井一彦 中根宏 中川徹也 猪熊重二 桐ケ谷章 八尋頼雄 福島啓充 若旅一夫 漆原良夫 小林芳夫 今井浩三 大西佑二 堀正視 春木實 川田政美 稲毛一郎 平田米男 松村光晃

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人小見山繁、同河合伶、同小坂嘉幸、同川村幸信、同山野一郎、同弥吉弥、同江藤鉄平、同富田政義、同片井輝夫、同伊達健太郎、同竹之内明、同加藤洪太郎、同華学昭博、同仲田哲の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 本件においては、被上告人の包括宗教法人である日蓮正宗(以下「日蓮正宗」という。)が上告人に対してした僧籍剥奪処分たる擯斥処分(以下「本件擯斥処分」という。)について、上告人が被上告人に対し、本件擯斥処分は日蓮正宗の管長たる地位を有しない者によってされ、かつ、日蓮正宗宗規(以下「宗規」という。)所定の懲戒事由に該当しない無効な処分であるとして、上告人が被上告人の代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求めている。

[2] 当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである。その理由は、被上告人・上告人間の当裁判所昭和61年(オ)第943号事件の判決において詳述しているとおりであるから、これを引用する。

[3] これを本件についてみるに、原審の適法に確定するところによれば、要するに、日蓮正宗の内部において創価学会を巡って教義、信仰ないし宗教活動に関する深刻な対立が生じ、その紛争の過程においてされた上告人の言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説であるとして、日蓮正宗の管長阿部日顕が責任役員会の議決に基づいて上告人を訓戒したが、上告人が所説を改める意思のないことを明らかにしたことから、宗規所定の手続を経たうえ、昭和56年2月9日付宣告書をもって、上告人を宗規249条4号所定の「本宗の法規に違反し、異説を唱え、訓戒を受けても改めない者」に該当するものとして、本件擯斥処分に付した、というのである。
[4] そして、本件においては、上告人が本件擯斥処分によって日蓮正宗の僧侶たる地位を喪失したかどうか、すなわち本件擯斥処分の効力の有無が被上告人の代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求める上告人の請求の前提をなし、その効力の有無が帰するところ本件紛争の本質的争点をなすとともに、その効力についての判断が本件訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものであるところ、その判断をするについては、上告人に対する懲戒事由の存在、すなわち上告人の前記言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうかの判断が不可欠であるが、右の点は、単なる経済的又は市民的社会事象とは全く異質のものであり、日蓮正宗の教義、信仰と深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のものであるから、結局、本件訴訟の本質的争点である本件擯斥処分の効力の有無については裁判所の審理判断が許されないものというべきであり、裁判所が、被上告人ないし日蓮正宗の主張、判断に従って上告人の言説を「異説」であるとして本件擯斥処分を有効なものと判断することも、宗教上の教義、信仰に関する事項について審判権を有せず、これらの事項にかかわる紛議について厳に中立を保つべき裁判所として、到底許されないところである。したがって、本件訴訟は、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである。

[5] 以上のとおり、本件訴えは不適法として却下を免れないというべきであり、これと同旨の原審の判断は、結論において正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、ひっきょう、右と異なる見解に立って原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。
[6] よって、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香川保一  裁判官 牧圭次  裁判官 島谷六郎  裁判官 藤島昭  裁判官 奥野久之)

[1] 原判決は、日蓮正宗宗制宗規、宗教法人法ならびに裁判所法第3条の解釈適用を誤り、かつ、後記各判例に違反し、ひいては憲法第32条の違反する判決であって、破棄されるべきである。
[2] 以下、その理由を詳述する。
[3] 具体的権利義務関係あるいは法律上の地位存否の判断の前提として宗教上の地位の存否の判断がなしうることは確立した判例であり、原判決も認めるところである。そして、本件紛争が具体的権利義務関係もしくは法律上の地位に関する請求訴訟ならびに確認訴訟であることについても争いがなく、このような具体的争訟解決の前提として、訴外阿部が日蓮正宗法主として、適法に選任を受けたかどうかについての判断が必要不可欠であることはいうまでもない。
[4] ところで、原判決は、右争訟解決のために、訴外阿部が懲戒権を取得するにつき、その前提として日蓮正宗法主の地位を取得したかどうか、すなわちその選任準則の内容および右準則に相応する選任行為があったか否かについては、教義信仰に密接に関連するので法令の適用によって解決することが不可能であるとして、上告人および被上告人双方の訴えを却下した。
[5] そこで、上告人は、「具体的権利義務関係あるいは法律上の地位存否判断の前提として認定判断すべき地位」(以下「前提たる地位」という)の持つ意味を明確にしたうえで、「前提たる地位」につき、どのような準則を認定すべきかについて論じ、また、過去の判例理論を明確にし、規範的選任準則の認定判断がなんら教義信仰にかかるものではないことを明らかにする。そして、日蓮正宗宗規14条の規範的選任準則が何であるかを述べて、原判決が、適用すべき法令を誤り、法令以外のものを適用しようとして、結果的に実体判断を回避した誤りがあることを明らかにする。
[6] 「前提たる地位」自体は、法律上の地位ではないのであるから、それ自体が確認の対象となることがないとするのは、すでに確立した判例である。しかし、「前提たる地位」は、それ自体は法律上の地位ではないといっても、自然人が自然人を選任する地位であるから、当然、選任の規範的準則が存在すべきものとなる。そして、その選任準則は、自然人の選任準則である以上、選任制、世襲制、選挙制(協議制を含む)、輪番制などという法規範的選任準則として類型化される準則として発現するのである。したがって、裁判所が右規範的選任準則を認定する場合は、まず内部規則を含む法令から、それがない場合は慣習から、それもない場合は条理のうちからも抽出が可能なのである。つまり、それが規範である以上、通常、裁判所が行う法規範の抽出と同じ作業をもって抽出できるのであって、そこには何ら教義信仰と関連する部分は存在しない。
[7] そして、裁判所が、法律上の地位存否の判断の前提として「前提たる地位」を判断する場合は、右規範的選任準則を抽出し、右選任準則に相応する選任行為があったか否かだけを認定判断すれば足り、右以外の宗教上の地位に関する信仰上の要件を判断する必要は全く存在しない。このことは、以下のとおり、宗教法人法の立法趣旨、憲法32条、同20条からも明らかである。

1 宗教法人法との関係
[8] 宗教法人法は、宗教法人が1個の権利主体として財産上の行為をなしうるようにするために制定されたものであり、そのために、宗教法人法は、法人格を付与する前提として宗教団体に代表役員等法人執行機関の資格任免に関する事項を規則で明定することを義務づけ、右規則を定めた宗教団体にのみ法人格を付与している。宗教法人法第12条が、代表役員等の資格任免に関する規則を設けることを義務付けたのは、当然、このような法人機関上の地位に関する規範的選任準則の明定を義務付けたものであり、世俗的判断が不可能な信仰上の準則をもって、世俗的地位たる代表役員の地位の得喪が行われることまでを容認したものと解する余地はない。ところで、多くの宗教法人は、一定の宗教上の地位にある者が当然に一定の法律上の地位に就任する旨の規則を定めているが、この場合は、宗教上の地位の法規範的選任準則がそのまま、法律上の地位の選任準則となっているのであって、そのような「前提たる地位」の選任準則の内容および右選任準則に基づく選任行為の有無は当然に世俗裁判所の認定判断できるものでなくてはならないことを意味するのである。このように、団体機関の選任である以上、そこには、法規範的選任準則が存在するものであり、その法規範的選任準則に基づく選任行為により一定の機関の地位が取得され、これが世俗的権限の根拠となるのである。

2 憲法第32条、裁判所法3条との関係
[9] 国民は、憲法第32条によって裁判を受ける権利を保障されている。これを受けて裁判所法第3条は、法律上の争訟について裁判することを規定している。そして、法律上の争訟とは、具体的法律関係に関する争訟であり、かつ法令の適用により解決されるものをいうことはいうまでもない。このことは、換言すると、裁判所に対して、争訟解決のために、法令の適用を義務付けていることを示している。
[10] ところで、宗教法人蓮華寺代表役員の地位は、宗教法人法という法令が与えた地位であり、そもそも、法令が与えた地位について、法令の適用ができないとする余地は全く存在しないはずである。そして、その適用すべき法令とは、まさに法規範でなければならないはずである。原判決は、本件は法令の適用によって解決できない争訟であるとするが、原判決によると、宗教法人法という法令によって与えた地位につき、裁判所が右法令の適用により解決できないことを認めることとなる。
[11] 原判決は、法令によって与えた地位存否判断につき、法令すなわち法規範を抽出認定すべきであるのに、法規範以外のものを認定しているに過ぎないのである。また、原判決を前提にすると、事実上、宗教的主宰者たる地位を僣称した場合には、もはや、誰もその代表役員たる地位を争えなくなり、しかも、僣称代表役員の専横によって、法人運営がなされる結果となり、いわば、宗教法人に治外法権を認めることになろう。

3 憲法第20条との関係
[12] 「教主」「法主」「門主」「住職」などいかなる名称で呼ばれるものかを問わず、宗教的主宰者は、強弱の差はあれ、いわば「神仏」に匹敵する超自然的な宗教的力を持っているものとされ、あるいは、宗祖の悟りを余すところなく承継した者であることが必要とされるというような当該宗教団体の教義信仰から一定の宗教的資質を求められる場合がある。また、たとえば、「神の啓示を受ける」というような前記の宗教的資質の獲得の契機となる一定の信仰的事実の存在が求められる場合もある。そして、このような信仰上の要件を充足することによって、宗教的力あるいは宗教的権能を取得するものとされている。このように、当該宗教団体の教義信仰から宗教的主宰者に一定の宗教的資質が要求され、あるいは宗教的資質の獲得の契機として一定の信仰的事実を要するというような準則を、以下「信仰上の準則」といい、その「信仰上の準則」を充たす事実を「信仰上の要件事実」といい、このような要件を充足した地位を「カリスマ的地位」という。
[13] このような信仰上の準則というのは、各教団の教義信仰に基づくものであるが故に、極めて非科学的、神秘的、非定型的なものであって、世俗人が、各教団の宗教的主宰者に求められる信仰上の準則の内容を明らかにすることは不可能というほかない。さらに、信仰上の要件事実(たとえば、『ヨ』の御霊を授かるとか、天啓を受けるとか、血脈を授かるとかの事実)は、科学的客観的事実ではなく、超自然的、非科学的事実であって、信ずるところに存在する信仰上の事実なのであり、世俗人にとって認識できる性質のものではない。
[14] また、右信仰上の準則によってたつところの宗教的権限の存否について裁判所に確認を求めることはできないし、その判断の前提として、当該人がカリスマ的地位にあるのかについての判断をなすことはできない。それは、単に宗教的権限が法律上の権限ではないからというだけでなく、特定人についてカリスマ性があるか否か、あるいは宗教的力を含む宗教的権能を有するか否かについての判断をなすこと自体が信教の自由を侵すことになるからである。
[15] このように、信仰上の準則――信仰上の要件事実の充足――カリスマ的地位の取得――宗教的権限の取得、いずれの場面においても、裁判所の審判の対象たり得ないものなのである。このような宗教的主宰者に求められる要件は、すべて、信仰世界のものであって、そもそも、法律上の地位の前提たる地位とは全く無縁のものであって、そのような要件が「前提たる地位」の要件に含まれることは全くない。
[16] したがつて、裁判所は、代表役員の地位存否の前提として宗教上の地位存否の判断をなす場合は、そういう信仰上の要件の存否の判断は一切してはならないものであり、あくまで規範的選任準則についてのみ判断することにより、当該宗教団体の宗教的主宰者が持つとされる宗教的資質に関する信仰者の信仰は完全に保障されることとなるのである。すなわち、理由中の判断であれ、ある特定人を特別の宗教的力を有する、いわば「神」として認定することにはならないのである。
[17] 同様に右のような信仰次元での準則によって法律上の地位あるいは具体的権利義務関係が左右されるものでもない。すなわち、このような「カリスマ性」の有無によって、法律上の地位あるいは具体的権利義務関係が左右されることを許容することこそが、憲法第20条に違反することとなるのである。そして、「前提たる地位」あるいはその選任準則の中に、信仰上の準則――信仰上の要件事実――カリスマ的地位という全く次元の異なるものを混同させてしまうと、原審のように法律上の争訟であるにもかかわらず、宗教法人を巡る一切の紛争を審判権の対象外に置いてしまうという誤りを犯すか、または、本件第1審判決のように、客観的事実認定を装ってはいるものの、当該人がカリスマ的地位にあると信じられているというような信仰的既成事実によって法律上の地位を認定判断するという誤りを犯すこととなるのである。

[18] このように、具体的法律関係存否の判断の前提として宗教上の地位の選任の有無の判断をなす場合においては、規範的選任準則だけを抽出して判断する手法は、信教の自由と裁判を受ける権利とを調和させる最も妥当な手法であるといえる。
[19] そこで、判例が、具体的法律関係に関する紛争解決のための「前提たる地位」の選任準則をどのようにとらえているかについて、教団主宰者に関連した事例に限定して検討を加える。

[20]1 本門寺事件判決(最高裁判所昭和55年4月10日判決 判時973号85頁)は、つぎのように判示している。
「……裁判所は、特定人が当該宗教法人の代表役員等であるかどうかを審理、判断する前提として、その者が右の規則に定める宗教活動上の地位を有する者であるかどうかを審理、判断できるし、また、そうしなければならないというべきである。もっとも、宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるから、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべく、本来その自治によって決定すべき事項、特に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入って実体的な審理、判断を施すべきものではないが、右のような宗教活動上の自由ないし自治に対する介入にわたらない限り、前記のような問題につき審理、判断することは、なんら差支えのないところというべきである。これを本件についてみるのに、本件においては、被上告人寺の代表役員兼責任役員たる地位を有することの前提として適法、有効に上告人寺の住職に選任せられ、その地位を取得したものかどうかが争われているところ、その選任の効力に関する争点は、被上告人の住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうかというような、本来当該宗教団体内部においてのみ自治的に決定せられるべき宗教上の教義ないしは宗教活動に関する問題ではなく、専ら上告人寺における住職選任の手続上の準則に従って選任されたかどうか、また、右の手続上の準則が何であるかに関するものであり、このような問題については、それが前記のような代表役員兼責任役員たる地位の前提をなす住職の地位を有するかどうかの判断に必要不可欠なものである限り、裁判所においてこれを審理、判断することはなんらの妨げはないといわなければならない。」
[21] 本門寺判決をみると、法律上の地位判断の前提として宗教上の地位の存否を判断する場合は、「本来その自治によって決すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入って実体的な審理、判断を施すべきではない」としながら、住職選任の手続上の準則が何か、また、右手続上の準則に従って選任されたものかについては判断することを妨げないとしているのである。そして、同判決が、まずは寺院規則を含む法令、それがないときは慣習、それもないときは条理をもって手続上の準則としているのであるから、右にいう住職選任の手続上の準則とは、法規範的選任準則を意味していることは明らかである。そして右規範的選任準則の問題と対比して述べた「住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうか」という問題、控訴審判決の表現でいうと「教義上誰が住職としてふさわしいかという問題」が、いわば、前記信仰上の要件として教義信仰の解釈なくして判断できないものとして例示されたものなのである。
[22] そして、右事件上告審は、右事件控訴審判決は、血脈相承に関する教義上の解釈をなしたものであり、かつ、血脈相承を受けているにもかかわらず、他の者が法灯を承継することが教義上許されるかについて判断したものであるとの上告理由を排斥した。
[23] このように、本門寺判決は、宗教的主宰者に要求される信仰上の準則と規範的選任準則とを概念的にも区別している。そして、信仰上の準則あるいはその準則をみたした者であるかの判断については判断を差し控える一方、規範的選任準則については、明文の内部規範が存在しえない場合であっても、慣習、条理によってこれを抽出して実体判断をするという強い意思が読み取れるのである。このことは、換言すると、宗教的主宰者であっても、自然人の選任準則である以上、世俗裁判所が判断可能な客観的規範的選任準則が存在するという確信が見えるのである。本門寺事件は、住職選任の手続上の準則が内部規則において全く定められていなかったという点で特殊であるが、このことがかえって、住職選任の規範的準則とは何かを明確にしたといえる。

2 世界真光文明教団事件判決(東高昭和52年3月31日判決、最高裁昭和52年9月22日判決、いずれも、宗教関係判例集成5巻579頁、同588頁)
[24] 世界真光文明教団の代表役員を主張する者が2名いて、その間で代表役員の地位が争われた事案である。一方は先代教え主の娘であり、その後右教団の代表役員登記がなされていたが、これに対し、先代教え主から指名を受けたとする者が、代表役員の職務執行停止を求めた。教団規則では、「代表役員は、この法人の教え主をもって充てる。後任の教え主は、現在の教え主があらかじめ指名した者をもって充てる。あらかじめ指名していない場合は責任役員会の互選により選定する。」とされていた。
[25] 右事件において、被控訴人(先代教え主の娘)は、「教団規則の上では、教え主の指名は、先代教え主のその旨の意思表示によって行うこととなっているが、被控訴人教団が宗教団体であり教え主が霊媒であることから初代教え主の『ヨのみ霊』の授受によって行われるのである。それ故、神示によって指名され、『ヨのみ霊』を受け継いだ被控訴人岡田甲子こそが、唯一の正統な2代教え主である。」と主張し、さらに右判決中に「本件神示が、被控訴人らの主張するごとく、6月13日に啓示されたものであり、且つ、同日被控訴人岡田が神意によって被控訴人教団の2代教え主に任命されたことを意味するものとすれば……」とあることから、被控訴人の主張の中に「神示」(『ヨのみ霊』の授受をいうがそれがいかなるものかは明らかではない)そのものが教団規則上の「指名」に該当する旨の主張があり、反対に控訴人は、「教団の規則の上では、教え主の指名は、先代教え主のその旨の意思表示をもって足りるのであって、教義上の神示によるとか、おみ霊を授受することが要件となっているわけではない。」と主張している。このように、右事件では、「教え主」の選任準則が何であるかが争点となったのであり、右事件被控訴人は、右教団の教義信仰から教え主は霊媒であるから、「指名」という規範的選任準則に基づく行為以外にヨのみ霊の授受を必要とし、あるいは「指名」はヨのみ霊の授受をいうと主張したものである。右事件被控訴人の主張は、規範的選任準則と信仰上の準則とを混同させている点では本件被上告人の主張と全く同様である。
[26] 右争点部分について、右判決はつぎのとおり述べている。
[27] 
「ところが、神示は、たとえ宗教団体の内部にあっては批判を許されない絶対的権威を有するものであるとしても、司法裁判所の訴訟において、それが役員の任免その他地位に関する当事者の主張事実を裏付ける証拠となりうるためには、裁判所の判断に服さなければならないことは当然であって、単に神示であるという一事をもって裁判所の判断を排除しうるものではない。」
とし、
「さらに、被控訴人らは、被控訴人岡田が控訴人に手渡したおみ霊は、代理用のおみ霊であって教え主用の『ヨのみ霊』ではない、と主張する。しかし、おみ霊の意味とか価値とかは、宗教団体の本質的活動領域に属する事柄であって、本来裁判所の判断に親しまないところであるが、仮に、被控訴人らの右主張が事実であるとしても、前叙認定によって明らかなごとく、教団の規則上、2代教え主の指名は初代教え主のその旨の意思表示があれば足り、『ヨのみ霊』の授受を要件とするものではないので、被控訴人らの主張のごとき事実の有無は、前記発表の内容と真実性の判断には無縁のものであるといわざるを得ない」
として、教え主として必要とされる「ヨのみ霊」の授受が当代教団にとっては信仰上極めて重要な意味を持つものとしても、世俗裁判所としては、右宗教的資質の有無の判断はそもそも裁判所の判断になじまないものであり、世俗裁判所としては、規範的選任準則である「指名」の存否の判断をなすだけで足り、また、「神示」と称される宗教行為を「指名」を窺わせる証拠力を有するものかの判断をなすべきであるとした。
[28] 右判示から推測するに、世界真光文明教団においては、霊媒たる教え主は、先代教え主から「ヨのみ霊」と呼ばれる霊の授受を要するものと教義上認識されているようである。そして、被控訴人は、先代教え主から「しばし仮にヨ丈けて密かにもちて(ヨのみ霊もちて娘に与えよ)」との「重大神示」と書かれた文書を所持していたのであるが、右裁判所は、信仰上の準則ではなく、規範的選任準則の観点からその主張を排斥し、控訴人の請求を認めた。

3 甘露台事件判決(大高昭和40年7月12日判決、高裁民集18巻4号364頁)
[29] 甘露台事件は、宗教上の地位である甘露台の地位そのものの確認を求めた訴訟であり、法律上の地位に関する争訟でないとして本案前却下された事案であるが、規範的選任準則と信仰上の準則の関係について注目すべき判示事項がある。
[30] すなわち、右裁判所は、
「控訴人の援用する前記教憲第5条(甘露台と天より定められた人は甘露台1人に限り、永久不変のこの道の真柱である。)もその文言自体からみて甘露台の右宗教上の地位を表現する以外のなにものでもなく、右教憲の規定をもって、かりに、控訴人主張のように、甘露台の選任方式として、先任甘露台が後任甘露台を指名し、先任甘露台の死亡により被指名者がその地位を取得することを定めたものと解しうるとしても、そのことから前記のとおり本来天より定められたとする甘露台の地位自体が法的性格を帯びるものとは解せられない。」
と判示している。右教憲第5条は、あくまで信仰上の準則であって、これとは別に自然人の規範的選任準則として、先任甘露台からの指名制度を採用していると考えられる余地があるとしているのである。しかし、右裁判所は、そのような規範的選任準則が認定されるとしても、甘露台の地位自体は法律上の地位ではないために確認の利益がないと判示したのであって、甘露台の地位が代表役員などの法律上の地位の前提となっている場合は、なお、甘露台に関する規範的選任準則の抽出を行うことを暗に示したものといえるのである。

4 日蓮正宗事件第2審判決(東高昭和60年11月21日判決、判時1173号14頁)
[31] 右事件は、日蓮正宗管長代表役員に就任したとしている阿部日顕に対して、日蓮正宗所属僧侶の約3分の1にあたる僧侶が、阿部日顕は宗規14条2項の選定を受けていないとして、その地位を争った事案であり、本件の懲戒権の問題と争点を共通にしているばかりか、右事件の訴訟提起圧殺の目的で本件懲戒処分がなされているところからも、極めて密接な関係にある事件である。
[32] 右事件の第1審判決は、「右認定の事実によれば、宗規14条2項にいう選定とは、法主が次期法主となるべき者に血脈相承を授けることを意味」するとしたうえで、本件原判決と同じく、教義・信仰の判断なくして管長・代表役員の地位存否の判断ができないとして代表役員地位不存在確認請求の訴えを本案前却下した。
[33] 右事件は、その後東京高裁に控訴され、右控訴審判決は、控訴人の当事者適格を否定して、原判決を維持した。右事案において、原告適格の存否の点については省略するが、注目すべき判示事項がある。すなわち、右控訴審判決は、法主の選任準則につき、血脈相承という宗教上の要件と、規範的選任準則とをなお混同していると見られるが、その点を措いても、「血脈相承とは、社会的事実としての側面があり、必ずしも、その存否の判断が審判の対象外であると言い切れない部分がある。」とし、「教義信仰の判断なくしてその存否を認定することができない。」とする第1審の判断を排斥し、法主選任の有無について裁判所が実体判断が可能であるとしているのである。右事件は現在御庁昭和60年(ネ)第531号事件として継続中である。
[34] 本門寺判決を中心とする判例の手法を整理するとつぎのようになる。
 宗教上の地位そのものの地位確認訴訟については裁判所はこれをとりあげない。それは、宗教上の地位そのものは法律上の地位ではなく確認の利益がないからである。
 しかし、宗教上の地位が法律上の地位あるいは具体的権利義務関係の前提となっている場合は、法律上の争訟判断の前提として宗教上の地位の存否の判断が可能であり、またそうしなければならない。
 その場合、当該人が「選任の手続上の準則」(法規範的選任準則を意味する。)に基づいて選任されたかどうか、また、その法規範的選任準則がなにかについての判断を行う。
 右法規範的選任準則は宗教団体内部規則を含む法令、慣習、条理から抽出することが可能である。なぜなら法規範的選任準則である以上裁判所がこれを抽出するについて教義解釈をすることは有り得ず、また宗教的主宰者のカリスマ性の存否判断に及ばないものであるから、信仰の自由を侵害することはないからである。
 右の法規範的選任準則の宗教的主宰者に求められる教義上の要件あるいはカリスマ性に関する点は、代表役員の地位判断の前提としても裁判所は判断しないし、また判断してはならない。そもそも、カリスマ性は「前提たる地位」の要件足り得ないからである。
[35] 右に述べた手法は、代表役員の地位存否の事案だけではなく、建物明渡などの給付請求事件など具体的法律関係に関する紛争の前提として、宗教上の地位が争われている場合にも同様に適用されると考えられる。甘露台事件は、前記1の事案であるが、3まで言及しており、世界真光文明教団事件は、前記3までの事案であり、本門寺判決は前記4までの事案であるが、傍論として5について言及していると評価できるのである。
[36] つぎに、上告人は、右に述べた観点から宗規第14条が規定する法主の規範的選任準則を明らかにする。

1 宗制宗規における「選定」の意義
[37] 宗規第14条における「選定」の意義を明らかにするため、日蓮正宗宗制宗規において用いられている「選任」と「選定」の用語の用法について検討したうえ、宗規第14条における「選定」が選任と同意義であることを明らかにする。
イ 日蓮正宗宗制宗規における「選定」と「選任」の用法
[38] 日蓮正宗宗制宗規における「選定」と「選任」の用語がいかなる場合に用いられているかについて検討する。
[39](1) まず、「選任」という用語は上位機関が下位機関を選任する場合に用いられており、右以外の用法はない。
[40] そして、「選定」の第1の用法として、下位機関が上位機関を選任する場合又はある機関がそれと同位機関を選任する場合に「選定」という用語が用いられている。

宗制第11条1項 宗会が代表役員の代務者を選任する場合は「選定」
        代表役員がその代務者を選任する場合は「選任」
    同2項 代表役員または代表役員の代務者が責任役員の代務者を選任する場合は「選任」
    同3項 代表役員または代務者が重役の代務者を選任する場合は「選任」
  第14条1項 参議会が仮代表役員を選任する場合は「選定」
    同2項 参議会が仮責任役員を選任する場合は「選定」
宗規第93条   総監が参議会主事を選任する場合は「選任」
[41] これは、下位機関が上位機関を選任する場合は「選任」なる用語がもともと上位機関が下位機関を選任すなわち「選び任ずる」ことを意味する響きがあるため、これを避け、敬語的用法によって「選定」なる用語を用いているものである。
[42] しかし、この場合の「選定」は文理的にも選任を意味し他に何等の行為を必要とせず、直ちに就任の効果が発生するものである。
[43] たとえば、宗制第11条1項は同一条項の中で「選任」という用語と「選定」という用語を区別して用いられているのであるが、同項の「選定」はそれによって、直ちに代表役員の代務者として、就任するという意味で用いられている。なぜなら、この場合の「選定」は本来の選任権者である代表役員が死亡その他の理由により欠けた場合の規定であって、宗会の「選定」行為以外の他の行為あるいは条件を予定していないからである。
[44] また、宗制第14条1、2項の規定は、代表役員の利益相反行為に関する事項については代表役員が行為できないため、仮代表役員あるいは仮責任役員を選任する場合であり、参議会での「選定」は選定があれば、当然に仮代表役員等に就任することを意味すると解するほかない。
[45] このように、「選定」は下位機関が上位機関を選任する場合に用いられ、その場合は、条文上もそのほかに任命、認証、承認等の行為が予定されておらず、文理上も選任を意味することが明らかである。
[46](2) つぎに、「選定」の第2の用法としては、「選定」が他の行為とあいまって選任の効果をもたらす場合に「選定」という用語が用いられる場合がある。この用法による「選定」は選出と同義であって、この場合は、必ず他の行為を要することが各条文に明記されている。
[47] そして、この場合は前記第1の用法の「選定」と異なり、上位機関が下位機関を選出する場合にも用いられている。

宗制第 6条2項 宗会が重役たる責任役員を選定し、管長が認証する。
 同第43条2項 寺院の責任役員は規則によって選定し、代表役員が認証する。
 同第59条4項 理事は会長が選任し、総裁が認証する。
宗規第147条  総監が全国布教師を選定し、管長が任命する。
 同第171条  住職が副住職を選定し、管長が承認する。
[48] これらはいずれもなんらかの機関によって選出された者に任命、認証、承認の各行為を必要とし、それとあいまって就任の効果を生ずるのであって、その意味は選任ではなく選出である。
[49] このように、「選定」が第2の用法で用いられる場合は、必ず他の行為がなされることが条文上明確となっている。したがって、「選定」が使用されている場合で任命、認証、承認等の行為が予定されていない「選定」はその「選定」があることによって、直ちにその地位機関に就任する選任を意味していると解せざるを得ない。
ロ 宗規第14条2、3項の「選定」の解釈
[50] 宗規第14条2、3項はつぎのように規定している。
第14条2項 法主は、必要を認めたときは、能化のうちから次期法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することができる。
3項 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役、能化が協議して、第2項に準じて次期法主を選定することができる。
[51] 法主は日蓮正宗における最も高い宗教上の地位であるので、これを選任する場合に、「選び任ずる」あるいは「任ずることを命ずる」との語感がある「選任」あるいは「任命」というような用語を用いることは適当でない。このことは、他の宗教法人においても、「選任」あるいは「任命」なる用語を避け、「指名」「推戴」「選定」等という用語が用いられていることからも是認できる事柄である。
[52] そして、宗規第14条2項には「選定」以外の任命、認証、承認等の定めは全くないし、右以外の死亡、退職などを条件とすることは何ら規定されていない。
[53] また、宗規第14条3項は能化、総監、重役による協議によって、次期法主を選定することとなっているが、これは法主が死亡、その他の理由で次期法主を選任できない場合の規定であって、右「選定」行為によって、当然に法主に就任することを意味すると解するほかなく、この場合も任命、認証、承認等の行為を全く予定していない。
[54] 前記のとおり、「選定」と「選任」に関する宗制宗規の用語の用法を仔細に検討すれば、宗規第14条2項の「選定」は前記イで述ベている他の行為を全く予定していない「選定」であって、右「選定」は選任と同義であることが明らかであり、文理的にもそう解するほかない。

2 宗規第14条1項の意味
[55] 日蓮正宗宗規には「血脈相承」に関する記述として、つぎの規定がある。
宗規第2条 本宗の伝統は、外用は法華経与証の上行菩薩、内証は久遠元初自受用報身である日蓮大聖人が建長5年に立宗を宣したのを起源とし、弘安2年本門戒壇の本尊を建立して宗体を確立し、二祖日興聖人が弘安5年9月及び10月に総別の付嘱状により宗祖の血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。
同第14条 法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号、上人号、阿闍梨号を授与する。
[56] 日蓮正宗宗規第14条1項は、本尊の書写、日号の授与というような法主の宗教上の権限を定めるについて、法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承した権威あるものであるとの宣言をなしているのである。
[57] 文理解釈としても、「法主は……本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する。」として、法主の宗教的権限を定めるに際し、法主のカリスマ性の宣言として規定されており、「血脈を相承した者は法主となる。」という趣旨の規定にはなっていない。したがって、同項の主語である「法主」とは同条第2項以下の法主選任準則に基づいて適法に選任された法主の存在が前提となっている規定である。これは、宗規第2条において、本宗の伝統として前記のとおり規定していることからも明らかである。

3 法主選任準則に関する宗規第14条の統一的解釈
[58] 上告人は、宗規14条における法主選任準則に関して、同条2項、3項、4項、5項との関係を明らかにして、その法主選任準則を明確にする。
[59] 宗規の定める法主選任準則としては、つぎの3つがある。
[60] 一つは、宗規第14条2項による選任であり、この場合は、法主は退座して、決期法主が直ちに法主に就任する。つぎに当代法主が不慮の事故などによって次期法主を選任できない場合をおもんばかって、法主が退座することなくかつ次期法主となるものを自らの意思においてあらかじめ決めておきたい場合には同条4項の学頭を選任する。最後に学頭(次期法主候補者)としての人材が育っておらず、法主自身も能力的にも体力的にも当分の間法主として職責を果たし得るものと考えている間に、不測の事故などによって死亡その他の事由で次期法主を選任できない事態が発生すれば、補完的に総監、重役および能化の協議によって次期法主を選任する。
[61] そして、法主が同条2項によって選任する場合は、当代法主自ら宗教的権威付けの儀式たる相承の儀式を行い得るが、同条3項、4項の場合は、法主に就任する者は、宗教的権威付けがなされていないこととなるため、その宗教的権威付けのため、同条5項の規定を設けているのである。
[62] 宗規14条5項は「退職した法主は前法主と称し、血脈の不断に備える。」と規定する。右規定の方法は、同条2項、3項が次期法主選任権者と選任要件について明確な規定を設けていることに比べると、その表現方法は極めて宗教的である。そして、同条5項が、協議制による選任規定である同条3項、および次期法主候補者規定である同条4項に引続き規定され、また前法主の宗教的権限を規定した同条6項の前に規定されていること、ならびに前法主に選任権限を与えたものであれば、同条3項および4項の存在は必要ないことからすれば、右5項の規定は、同条3項の場合、すなわち、法主が死亡その他の事由で次期法主を選任できず、総監、能化および重役の協議によって次期法主を選任した場合、および同4項により、学頭が選任されている状態で法主が死亡した場合に、宗教的権威付けを前法主が次期法主に行う旨の宗教的権威の承継に関する規定であるというほかない。
[63] このように、規範的選任準則に基づく次期法主選任権者は、原則として当代法主であり、補完的に総監重役能化が次期法主選任権者となっている。これに対して、宗教的権威付の儀式あるいはその宗教儀式によって具現されるとする宗教的カリスマ性付与の主体は、原則として当代法主、補完的に前法主と規定されているのである。このように選任の主体とカリスマ性付与の主体は規定上からも明確に分離されているのである。
[64] このように解することが、前記詳述のようにカリスマ性に関する信仰上の要件と法主の規範的選任準則とを明確に分離している宗規第14条の規定に合致する解釈となる。

4 宗規第14条2項の「選定」と「社会的事実行為たる血脈相承の儀式」との関係
[65] 日蓮宗富士派宗制寺法が制定された明治33年以降昭和49年までの日蓮正宗宗規では、管長は選任制度と選挙制度の混合形態を採用し、少なくとも、「相承」の儀式と規範に基づく選任行為とは事実行為としても別個の行為として行われたものであることは明らかであり、かつ現在の日蓮正宗宗規第14条の「選定」制度下での先例は全くなく、「選定」という具体的選任行為と「血脈相承」という宗教儀式が一体としてなされたものであるという合理的理由はないし、宗教儀式の挙行という事実そのものが選任の意思表示ではない。それよりも、むしろ宗規自体が、「宗教儀式としての血脈相承」と法規範的選任準則に基づく「選定」とを明確に分離しているといわなければならない。なぜなら、日蓮正宗においては「血脈相承」という宗教用語が存在しているのに宗規第14条2項、3項の具体的選任準則を定める条項においてあえて「選定」なる法的な用語を用いている。これは、日蓮正宗宗規自体が前記の宗教的資質に関する信仰要件と法規則的選任準則とを概念的にも分離しているからにほかならず、また「法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、……」「退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。」との規定の方法からも、それが宗教的規定として規定されていることを如実にうかがわせるものである。「宗教儀式としての血脈相承」は、あくまで、前述のとおり、法主の宗教的資質承継を擬制するための宗教儀式であって、そのことと「選定」の意思表示とは別個の概念であって、「選定」を受けた者に対して、法主の宗教的資質承継を擬制する宗教儀式が行われるのである。右宗教儀式の存在は、選任の意思表示を推認せしめる間接事実としての意味を持つもの以外のなにものでもないのである。
[66] 原判決は、本来、前記詳述のとおり、法律上の地位(管長の地位)存否判断の前提としての地位(法主の地位)を判断するに際しては、その前提たる地位の規範的選任準則(本門寺判決のいう手続上の準則)を抽出して認定判断すべきであった。しかるに、原判決は、本件の場合、宗規第14条2、3項において明確にその選任準則が規定されているにもかかわらず、規範的選任準則と全く次元を異にする被上告人のいう血脈相承という信仰上の準則を、法律上の地位あるいは具体的権利義務関係存否の判断の「前提たる地位」の選任準則の中に取り入れ、教義信仰と密接に関連するなどとして、その判断を回避したものであることが明らかである。これは、原判決が「日蓮正宗の最高権威者である宗祖日蓮聖人が悟った仏法の一切の精髄を承継しているものとして信仰の対象とされるべき法主の選任準則がなにか、また、右準則にしたがって法主選任行為が行われたかの認定判断をすることを避けることができない。」としていることからも明白である。原判決は、法律上の地位存否の判断の前提たる地位を「信仰の対象とされるべき法主」すなわち「カリスマ的地位」と置いたうえで、その選任準則の抽出を試みようとしたものであるが、そのような立論に立つ以上、その地位の規範的選任準則など抽出することができないのはむしろ当然のことなのである。すなわち、原審が「適用」しようとしたのは「法令」すなわち規範的選任準則ではないのであって、自ら「法令」以外のものを適用しようとして、それを「法令」ではないから適用できないとしているに過ぎないのである。
[67] このように、原審は「前提たる地位」の規範的選任準則の抽出を怠り、法令以外の信仰上の準則を混同して適用しようとして、実体判断を怠った誤りがある。

[68] これを実質的にみても、原判決は自家撞着に帰していることは明白である。
[69] すなわち、懲戒権の存否については裁判所の審判の対象とならないということは、末寺住職の任命権をも有する管長の地位をも審判の対象とならないとすることにほかならず、末寺住職は、末寺代表役員の地位の確認すらできないこととなる。なぜなら、任命権を持つ管長の地位について争われた場合は、任命権者であることの認定判断もできないということになるからである。
[70] このことの不合理さは、被上告人のいう血脈相承を授かったと主張する者が2名いて、それぞれが管長・代表役員を争っている事例、あるいはそれら2名から任命されたとする末寺住職が各末寺の代表役員登記すらできずに、その地位を争っている事例を想定すれば明らかである。原判決によれば、宗教法人を巡るこのような法律的紛争はことごとく審判の対象とならないというに帰することになり、宗教法人法の立法趣旨を根底から覆す結果となることは明白であろう。

[71] 以上のとおり、原判決は、宗教法人法、裁判所法3条の解釈を誤り、かつ、前記各判例に違反し、規範的選任準則の抽出を怠って法令以外のものを適用して実体判断を回避したものであり、ひいては国民の裁判を受ける権利を保障した憲法第32条に違反した判決であることは明らかであって破棄を免れない。
[72] 原判決は、日蓮正宗の法主選任準則が如何なるものであるかを具体的に認定することなく、直ちにこれが日蓮正宗の教義、信仰の問題と密接不可分の関係にあり、右教義、信仰の問題に立ち入ることなくしてその内容を判断することはできないとする点において判決に影響することが明らかな理由不備の違法がある。
[73] すなわち、本件日蓮正宗の場合のように、宗教的主宰者たる法主の地位が宗教法人の機関たる管長、代表役員の地位と連動する場合にあっては、法主の選任準則は、それ自体裁判所の審判の対象となるべき法規範性を持ったものでなければならないことは、上告理由第一点に詳述したとおりである。しかし、この点を措いても、右選任準則が教義信仰問題と密接不可分の関係にあるか否か、またこれらの問題に立ち入ることなくその内容を認定することができるか否かを判断するためには、その前提として、選任準則の内容を確定することが不可欠である。換言すれば、何が選任準則であるかが分からずにそれが教義、信仰と密接不可分の関係にあるなどと云えるはずがないのである。
[74] ところで、原判決は「当事者の主張するところによれば、これらの点は……」(原判決第12丁表1行目)として、法主選任準則が教義、信仰と密接不可分であると認定した根拠を、上告人および被上告人の主張に求めている。なるほど、宗教団体をめぐる訴訟において、当事者の双方がこぞって信仰上の準則を選任準則として主張した上、右信仰上の準則に基づく選任行為の存否の判断を裁判所に求めたような場合においては、原判決がいうように、当事者の主張を根拠として裁判所がその審判を拒絶することも、あるいは許容されるかもしれない(この場合に、法規範的選任準則の主張を当事者に釈明すべきであることおよび、訴却下の理由は選任準則が教義性を有することではなく、当事者がを主張しないことに求めるべきであること等については、本件と直接の関係がないので詳述しない)。しかし、本件訴訟において上告人は、第1審、原審を通じて一貫して法主選任準則は、裁判所が認識することができ、また認識すべき内容を有する法規範的選任準則であって、日蓮正宗の教義、信仰の問題とは無関係であると主張しているのである。この点に関する上告人の主張の要旨は、上告理由第一点において述べたとおりであるが、ここで上告人が主張する選任準則の内容が教義性を一切帯びない純粋に法規範的性質を有するものであることは、一見して明らかである。このような上告人の主張に対し、被上告人は右選任準則が日蓮正宗の教義と密接な関係を有し、教義解釈を抜きにしてはその内容を確定することができない旨を縷々主張している。したがって、原審が「当事者の主張するところによれば」というのは、とりもなおさず被上告人の主張するところによればというに外ならない。しかし、対立当事者の一方が前記のように教義との密接不可分性を主張したからといって、そのことから直ちに選任準則が教義と密接不可分の関係があることを「当事者の主張により」認定することが許容されるものでないことは明らかである。このような認定方法が許されるのであれば、裁判所の審判を望まない当事者は、いかなる場合であっても、教義との密接不可分性を主張することによって容易にその目的を達することができることに帰着し、かかる結果の不当なることは論を矣たないところである。
[75] このように、法主の選任準則の内容に関する当事者の主張が真向から対立する場合においては、仮に裁判所が日蓮正宗の法主選任準則が同宗の教義、信仰と密接不可分の関係にあると判断する場合であっても、少なくとも、何が右選任準則であるかを確定した上、そのうちのどの部分が如何なる理由によって教義、信仰と密接不可分であるのかを具体的に指摘すべきものである。しかるに、この点を看過して、何ら具体的根拠を示すことなく、「当事者の主張」のみを根拠にかかる認定を行った原判決には、理由不備の違法があることは明らかである。
[76] 原判決は十分な審理を尽すことなく上告人の懲戒権濫用の主張を排斥した点において審理不尽の違法がある。
[77] 上告人が本件懲戒処分を懲戒権の濫用であると主張する根拠は、擯斥処分が上告人の宗教人としての人格を全面的に否定し、かつ、世俗的側面においても生活の根拠を根底から奪い去る極めて重大な処分であることに鑑み、阿部日顕の日蓮正宗代表役員の地位不存在確認請求訴訟の提起に対する報復目的をもって、上告人からの事情聴取の機会を与えることなく、かつ上告人の歴史的事実についての見解表明を一方的に異説と決めつけた上なされた本件懲戒処分は懲戒権を濫用した違法な処分であるというものである。
[78] しかるところ、これらの点についての判断を行うためには、本件懲戒処分に至る経緯、上告人の見解発表の動機、意図、日蓮正宗総監名による「訓戒」と題する書面とこれに対する上告人の「答弁書」の真意、日蓮正宗が被上告人の懲戒処分を決定した理由等の点につき、上告人本人および阿部日顕らの関係者を尋問してその証言、供述を得ることが不可欠である。
[79] しかるに、原判決は上告人が申立てた右両名の尋問申請を却下し、一切の人証取調べを行うことなく、「本件懲戒処分が懲戒権の濫用に当たると認められないことは原判決理由説示のとおりである」(原判決第11丁裏3行目)として、上告人の前記懲戒権濫用の主張を排斥した。
[80] これは、当然なすべき証拠調べを格別の根拠もなく排斥したものであり、この点において原判決に審理不尽の違法があることは明らかである。
[81] 以下は原判決に対する直接的上告理由を構成するものではないが、原判決および第1審判決の理由説示に鑑み、懲戒権の存否の主張・立証責任、阿部日顕の法主の地位取得原因事実についての被上告人の法律上の主張の有無および法主選任行為の存否の認定方法につき念のため附言しておく。
[82] 原判決は、懲戒処分の有効性についての主張、立証責任の問題につき、「ところで本件懲戒処分は……右のような限度においてのみ裁判所の審査に服すべきものと解される」(原判決第6丁裏2行目以下)として、懲戒処分の効力を争う者がその無効事由についての主張・立証責任を負担するものと解しているごとくである。しかし、この点については第1審判決が正しく指摘するとおりで、宗教団体を他の団体と区別する理由は全く存在しない。したがって、懲戒処分の有効性については私法の一般原則に従い、その効力を主張する者(すなわち被上告人)が懲戒処分の効力発生要件事実を主張・立証すべきものである。また、懲戒処分権者の地位そのものが争われている場合においては、その地位にあると主張する者が、当該地位の取得原因事実を主張・立証すべきものである。何故なら、その者が正しい選任手続に従って適式にその地位に就いたものであるか否かは、本件処分が処分権者の裁量権の範囲内にあるかの問題等とは異質のものであって、そこに当該団体の自律性を持ち込む余地がない問題であるからである。
[83] したがって、本件訴訟における上告人に対する擯斥処分の有効性は、被上告人においてこれを主張、立証すべきものである。
[84] 被上告人は、阿部日顕が日蓮正宗の法主に就任したと主張するが、右地位取得原因事実については、上告人の再三の求釈明にもかかわらず、ついに法律上の事実主張は一切これを行っていない。すなわち、被上告人が右地位の取得原因として主張するところは、「血脈相承という宗教的事実」および「日蓮上人の遷化の事実」の2点に尽きる。このように被上告人は、自ら裁判所が審理、判断すべきではないと主張する宗教上の事実を陳述するのみであって、訴訟法上は全く無意味な主張を繰り返しているに過ぎないのである。換言すれば、被上告人はその主張、立証責任に属すべきところの、規範的選任準則に基づく法主の地位取得の要件事実につき、訴訟法上の事実主張を行うことを一切放棄しているのである。
[85] 日蓮正宗の法主選任に関する規範的選任準則の内容が裁判所において確定された場合には、次に当然、右選任準則に従った適式の選任行為の存否が問題となる。ところで、被上告人において日顕が「血脈相承」を受けたと主張する昭和53年4月15日は、前法主日達上人遷化の日である昭和54年7月22日より1年以上も前のことであり、この間の日達上人の精力的活動を見れば、当時、日蓮正宗宗規第14条2項但書にいう「緊急やむを得ない場合」に該当する事情はなく、したがって、能化の地位を有しない日顕には次期法主の被選定資格がないことは明らかであるから、昭和53年4月15日の「選定行為」の存否を云々することは無意味である(仮に選定行為があったとしても、選任準則の不適式なものであり無効である)。しかし、この点を措いて、仮に同日選定行為があったか否かを認定すべきものとした場合において、これを日蓮正宗内部の「自治的決定結果」に基づいて認定し、あるいは、第1審判決のごとき方法により認定することの誤りを指摘しておく。

1 信仰的自律結果論
[86] 法規範的選任準則に基づく選任行為の存否の判断は、正に客観的事実の存否の判断に外ならない。一方、被上告人が縷々主張する自治的決定結果とは、要するに、日蓮正宗内部の多数の者が日顕が宗祖の仏法の一切を承継した法主であると信じ、そのように振舞っているということに過ぎない。このように、被上告人は、法主就任の要件として、宗祖の仏法の一切を授かる意味での血脈相承を受けなければならないという信仰上の準則のみを主張し、これを充足する事実は信仰上確知されたか否かによって決せられるとして、その実体判断を裁判所に求めているのである。すなわち日蓮正宗内部では日顕が宗祖の仏法の一切を承継したものと信仰されているから、裁判所は日顕が法主であることを実体的に認定せよというに等しいのである。その意味では被上告人の主張は信仰的自律結果論であると言える。仮に、被上告人の主張が、信仰上の事実ではなく、客観的事実の存否を認定するに際し、被上告人のいう「自治的決定結果」に依拠せよとの主張であるとしても、かかる「自治的決定結果」に依拠することは、裁判所が自らの判断権を放棄して他の者の判断に身を委ねるに等しい。これは、例えば、会社の設立無効確認訴訟において、会社の内部者がこぞって設立が有効であると信じかつそのように振舞っていることを根拠として、会社設立に必要な法定の諸手続の具備の点を吟味することなく、会社が適法に設立されたと認定することと同様であり、かかる認定方法が許されないことは火を見るよりも明らかである。さらに、本件において被上告人が主張するところの「自治的決定結果」なるものは、日蓮正宗の僧侶の約3分の1に達する反対者を排斥して得られた「結果」であって、かかる多数の反対者を排除した「自治的決定結果」なるものは、そもそも自治的決定結果の名にも価しないものである。

2 第1審判決の認定方法について
[87] 第1審判決は、阿部日顕が日蓮正宗の法主に就任したことを、一応は事実として認定したかのごとくである。しかし、第1審判決が右認定の根拠として挙げる諸事実は、いずれも昭和54年7月22日の日達上人遷化後の事実であって、昭和53年4月15日になされたとされる選任行為の存否を正面から根拠づける事実には一切触れていない。さらに、第1審判決が挙げる諸事実は、正に日蓮正宗内部において右日達上人の遷化の日以後、日顕が法主として振舞い、そのように取り扱われてきたことを示す事実、換言すれば、被上告人のいうところの「自治的決定結果」なるものを示すものに過ぎない。すなわち、第1審判決は、「自治的決定結果」という文言の使用をあえて回避してはいるものの、その実質は「自治的決定結果」に基づき選任行為の存否を認定したものに外ならないのである。かかる第1審判決の事実認定方法が誤りであることは、前述のところから明らかである。

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