ノンフィクション「逆転」事件
第一審判決

慰藉料請求事件
東京地方裁判所 昭和55年(ワ)第7695号
昭和62年11月20日 民事第10部 判決

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由


一 被告は原告に対し、金50万円及びこれに対する昭和53年8月20日から支払済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを6分し、その5を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は第一項に限り、仮に執行することができる。

1 被告は原告に対し、金300万円及びこれに対する昭和53年8月20日から支払済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
1 当事者
[1](一) 原告は、沖縄がアメリカ合衆国の統治下にあった昭和39年8月16日、沖縄県宜野湾市において、同僚3名と共にアメリカ軍兵士2名と口論し、殴り合いの喧嘩をしたが、その喧嘩が原因であったかどうかは不明であるがアメリカ軍兵士の1人はその夜死亡した(以下「本件事件」という。)。そして、原告は、同年9月4日、アメリカ軍兵士2名に対する傷害致死及び傷害の罪名により、アメリカ合衆国琉球列島民政府高等裁判所第3大陪審によって起訴され、同年11月6日、同裁判所から懲役3年の実刑判決の言渡しを受けた者である(以下「本件裁判」という。)。
[2](二) 被告は、本件裁判に陪審員として関与した者であり、著述業を営む者である。

2 被告による原告のプライバシーの侵害
(一) 原告のプライバシーの存在
[3] 原告は、右実刑判決により服役し、昭和41年10月ころ(未決勾留を含め2年3ケ月後)には出所(仮出獄)したが、自己の右前科を早く忘れて人生の再出発を期するため、沖縄を離れて上京した。そして、原告は、やがて訴外甲田電鉄株式会社(以下「甲田」という。)にバス運転手として就職することができたが、右会社には、右前科は秘匿していた。また、現在の妻と結婚したが、妻にも右前科は秘匿していた。こうして、原告は、10年余の間、平穏な社会生活、家庭生活を送ってきたが、原告の右前科は、人に知られたくない事実であり、この事実を公表されないという利益は、プライバシーの権利として、法的に保護されるべきものである。
(二) 被告による「逆転」の出版
[4] 被告は、右刑事裁判における陪審員としての体験に基づき、本件事件及び本件裁判(特に陪審評議の経過)について「逆転」というノン・フィクション作品を著作し、昭和52年8月20日、これを訴外株式会社新潮社(東京都新宿区矢来町71番地所在、以下「新潮社」という。)から営利の目的をもって刊行した。被告は、右「逆転」の中で本件事件及び本件裁判を記述するにあたって、原告の実名を使用し、公然と原告の前科を公表したものである。

3 損害
[5](一) 訴外日本放送協会(以下「NHK」という。)は、昭和53年9月上旬ころ放映の予定で「逆転」に基づきテレビドラマを作成することとなり、その過程で、原告は、「逆転」の存在、その中で原告の実名が使用されていること、NHKも原告の実名を使用して放映しようとしていることを知った。そして、原告は、被告の著作である「逆転」が広く読まれるようになったり、NHKで原告の実名を使用して放映されることにでもなって原告の前記前科前歴が広く知られるようになれば、勤務先である甲田には原告の前科を知らせずに就職していることから経歴詐称ということで馘首されるのではないかとの強い不安を持ったし、また、前科を知らせることなく結婚した妻からは離婚を申し出られるのではないかとの恐れを抱いた。
[6] そして、原告は、NHKによる「逆転」のテレビドラマの放映及び今後の出版に当って原告の実名が使用されないようにするため、東京法務局人権擁護部に相談してNHK、被告、新潮社に対して原告の実名を使用しないように働きかけてもらったりしたが、昭和53年9月13日にはNHKを相手方として東京地方裁判所にテレビ放映禁止の仮処分を申請した。そして、翌14日、右裁判所の審尋期日において原告とNHKは、NHKが「逆転」の放映に当って原告の実名を用いず桝孝次(マスコウジ)の文字と音声を使用するということで和解した。
[7](二) 以上のような一連の出来事に巻き込まれたのも被告が「逆転」を著作し、刊行したことがその原因であって、そのため、原告は多大の精神的苦痛を蒙った。さらに、それまで原告の前科を知らなかった多くの人々にその事実を知られるに至ったことは、それ自体原告にとっては甚大な精神的苦痛をもたらすものである。したがって、原告の精神的苦痛を慰藉するには、金300万円の慰藉料をもって相当とすべきである。

[8] よって、原告は被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、金300万円及び不法行為の日以降の日である昭和53年8月20日から支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
[9] 請求の原因1の事実は認める。

[10] 請求の原因2(一)の事実のうち、原告が甲田に就職していることは認めるが、その余の事実は知らない。同(二)の事実のうち、被告が「逆転」の刊行にあたって営利の目的を持っていたことは否認し、その余の事実は認める。

[11] 請求の原因3(一)の事実のうち、NHKが昭和53年9月上旬ころ放映の予定で「逆転」に基づきテレビドラマを作成しようとしたこと、その過程で、原告が「逆転」の存在、その中で原告の実名が使用されていること、NHKも原告の実名を使用して放映しようとしていることを知ったこと、原告がNHKによる「逆転」のテレビドラマの放映及び今後の出版に当って原告の実名が使用されないようにするため、東京法務局人権擁護部に相談してNHK、被告、新潮社に対して原告の実名を使用しないように働きかけてもらったこと、原告が昭和53年9月13日にNHKを相手方として東京地方裁判所にテレビ放映禁止の仮処分を申請したこと、翌14日、原告とNHKが右裁判所の審尋期日において「逆転」の放映にあたって原告の実名を用いず仮名を用いることで和解したこと、以上の各事実は認める。

[12] 被告による「逆転」の刊行が原告の前科を記載したものであっても、以下の点からプライバシーの侵害には当らないというべきである。
[13](一) 人の私生活は社会生活の中にしかなく、私事が公けになることは不可避的であるという側面は否定できないから、プライバシーの侵害があったというためには、一般人の感受性を基準にして「きわめて重大な侵害」があったことを要するというべきであるが、本件においてはこれを認めることはできないというべきである。そして、被告はアメリカ合衆国占領下の沖縄の刑事裁判の犠牲者ともいうべき原告に同情し、「逆転」によって事件当時流布された原告に関する誤まった評価を正し、もって原告の名誉、信用の回復を図らんと企図したのであり、「逆転」の記述はそのようなものになっていること、他の被告人であった乙山春夫、丙川夏夫の両名が実名の使用に快く応じたばかりか、前記放映のNHKテレビに出演しさえしたこと、また、右両名は原告も実名使用を了解するだろうと被告に答えたこと、「逆転」は第9回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、文学者を含む多くの読者に読まれたが、原告の実名使用に疑問を感じた者はなかったと思われること、NHKも「逆転」の前記テレビドラマ化に際して、当初は原告の実名使用に問題がないと考えていたこと、新潮社は原告から実名を使用しないようにとの申し出があった後も「逆転」を原告の実名を用いて出版したこと、本件において原告には現実的・具体的被害が生じていないこと、以上の事実からすると、一般人の感受性を基準とするかぎり、「逆転」において原告の実名を使用したことをもってプライバシーの侵害と評価すべきではない。
[14](二) 本件事件及び裁判は、事件発生当時において新聞等によって原告の実名を使用して報道されていたわけであり、原告においても、その当時原告の実名を使用して報道がなされることはやむをえないとした上で、時の経過によって原告の前科(懲役3年の実刑判決を受けたこと)はプライバシーとして保護されるに至ったとしているのであるが、かかるプライバシーの回復が認められるかどうかは諸般の事情を考慮して検討すべきものである。本件事件及び裁判は、アメリカ合衆国占領下の沖縄における陪審裁判として記録に値するものであったこと、原告を含む4名の被告人について表現方法が穏当なものであることなどを考えあわせると、原告につきプライバシーの回復を認める必要はないというべきである。
1 事後承諾
[15](一) 原告は、NHKによる「逆転」のテレビドラマ化に際して、原告の実名を使用しないようにと申し出ていたが、昭和53年8月22日、原告は、NHKの玉井勇夫、鈴木肇及び被告に対して、NHKから自己の勤務先である甲田に事情説明をしてくれるのであれば本当に助かる、甲田の方で了解してくれるのであればテレビで原告の実名を出していただいても結構である、乙山・丙川の両名も協力していることだし自分もテレビに出てもよい、などと意思表示をした上、このころ、原告は被告に対し、「いや、本の方は問題ないんです。私が心配したのは、テレビで実名で放映されて勤務先の会社に分かると、馘になるのではないかと心配したんです。本のことは良いのですよ。」と述べ、「逆転」における原告の実名の使用に対し明確に事後承諾をした。
[16](二) NHKは、「逆転」のテレビドラマ化に当って原告を含む被告人らのインタビューの場面を放映することを企画し、原告の所在を調査し、原告には事情を知らせることなくNHKに呼び出し、昭和53年8月8日、いきなり原告を被告に対面させてその場面をカメラで撮影しはじめた。原告は、これに怒りNHKとの間で紛争が生じた。原告は、そのころ、原告の顔をテレビで放映されると勤務先の会社に知られて経歴詐称ということで馘になったら困るということで、被告に対してもNHKの方にその旨を申し伝えてくれるように言ってきたが、その際、被告に対し、「本の方はよろしいんだ。」と述べ、被告が「逆転」において原告の実名を使用したことに明確な承諾をした。

[17] 仮に、被告が原告のプライバシーを侵害したとしても、いわゆる「公共の利益の法理」ないし「公共の関心事の法理」により被告は免責されるべきである。すなわち、公表された事実が公共の利害に関する事実であるか、もしくは、一般の正当な関心事に属する事実であり、かつ、公表の目的が公益を図る目的であるときはプライバシーの侵害を理由として表現の自由が制約されてはならないと解すべきであり、次に述べるように、被告による「逆転」の著作はこの要件を満たすものであるから免責されるべきである。
[18](一) 被告が「逆転」を執筆した動機は、第一に、陪審制度のすばらしさを多くの人に知ってもらうことであり、第二、原告を含む被告人らが傷害致死について有罪、すなわちアメリカ兵殺しの真犯人であるという世間の誤った印象を正すことにあり、第三に、アメリカ合衆国による沖縄統治の実態を記録として残すということにあったのであるが、これらの動機からすると、被告は公益を図る目的で「逆転」の執筆をなしたものというべきである。
[19](二) 本件事件及び裁判それ自体は公共の利害に関する事実であることは明らかである。そして、一般論として、刑事事件あるいは裁判それ自体が公共の利害に関する事実と認められる場合は、事件関係者特に被告人本人の実名も、特段の事情のない限り、論評に必要なものとして、公共の利害に関する事実であるというべきであって、犯罪報道についても、事件そのものの公表と当事者の氏名・住所等の身元の公表とを区別して、前者しか公表することは許されないとする立場は採用されていないし、また、原告の実名を使用することが「逆転」を執筆する上で次に述べるように必要不可欠であったから、本件事件及び裁判のみならず原告の実名も公共の利害に関する事実であるというべきである。すなわち、被告は「逆転」をノンフィクション作品として著作し、事実を記録しようとしたものであり、そのためには、実名を使用することは不可欠であり、例えば、新聞記事を引用しながら実名を仮名に訂正して使うということになると、読者にも事実なのか虚構なのか分からなくなってしまう筈であり、また、仮名を使用すれば虚構も自由になり、かえって真実性が薄らぐという危険があるというべきで、原告の実名の使用は不可欠であった。

[20] 原告は、本件事件あるいは本件裁判を通じて「著名人」ないしは「公的人物」になったものというべきであるから、原告は、本件事件あるいは本件裁判に関する報道ないし論評に必要な限度で実名を使用されることを受忍しなければならず、その限りで原告は自己のプライバシーを主張できないというべきである。

[21] 被告が「逆転」を著作する過程でなした本件事件及び本件裁判への論評、ないし原告に対する論評は前記のとおり公正なものであり、また、原告に対する現実的悪意もなかったから、被告は免責されるべきである。
[22] 抗弁1(一)の事実は否認する。
[23] 同(二)の事実のうち、NHKが「逆転」のテレビドラマ化にあたって原告を含む被告人らのインタビューの場面を放映することを企画し、原告の所在を調査したこと、NHKが原告には事情を知らせることなくNHKへ呼び出し、昭和53年8月8日、いきなり原告を被告に対面させてその場面をカメラで撮影しはじめたこと、原告がこれに怒りNHKとの間で紛争が生じたことは認め、その余の事実は否認する。

[24] 抗弁2ないし4の主張は争う。

[1] 請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。

[2] 請求の原因2(二)の事実(被告による「逆転」の出版)のうち、被告が本件裁判における陪審員としての体験に基づき、本件事件及び本件裁判(特に陪審評議の経過)について「逆転」というノン・フィクション作品を著作し、昭和52年8月20日、これを新潮社から刊行したこと、被告が「逆転」の中で本件事件及び本件裁判を記述するに当って、原告の実名を使用し、公然と原告の前科を公表したことは、当事者間に争いがない。
[3] 以上の事実に《証拠略》を総合すると「逆転」の記述・内容・構成はおおよそ次のようなものであったと認めることができる。

[4] 「逆転」の副題は、「アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判」とされ、まず、「はじめに」として、「本書に現われる人物には架空のキヤラクターはいない。不明の米兵ひとりと陪審員を除けば、他の固有名詞を含めてみな実名である。陪審員だけに仮名を用いたのは、陪審員評議の内容を外部に洩らすことを禁じる法律的及び道徳的な制約からである。」と記載されている。そして、「逆転」は、「第一部 被害者と加害者たち」、「第二部 裁判」、「第三部 陪審評議」、「第四部 判決」からなっている。

[5] 「第一部 被害者と加害者」は、「一 発端、二 ウイリアムス1等兵とオズボーン伍長、三 4人の沖縄青年、四 遭遇」から構成されている。「一 発端」においては、昭和39年8月16日付の琉球新報夕刊の記事(後記三2(一)に認定するもの)を引用して本件事件を紹介した。そして、当時の宜野湾市の様子とくに基地の町としての状況につき触れながら、さらに本件事件についての新聞の続報を引用して、「8月18日付の沖縄タイムスは、騒然とした模様を次のように伝えている。米兵殺し犯行自供、マリン兵がしかえしの噂〔普天間〕16日午前3時ころ、宜野湾市普天間で発生した米兵殺しを捜査中の普天間署では傷害致死の容疑で逮捕した普天間532、乙山春夫(29)、同776、甲野太郎(28)、同459、丁原秋夫(28)、同578、丙川夏夫(29)の取調べを進めていたが、4人とも犯行を自供した。」として、原告が本件事件につき被疑者として逮捕されたことを実名をもって明らかにした。「二 ウイリアムス1等兵とオズボーン伍長」では、2人の米兵のひととなりについて記述し、「三 4人の沖縄青年」においては、原告らのひととなりについて記述し、原告については、「甲野太郎は、夜勤あけの休日には必ず柔道の道場に通った。単身徳之島から出稼ぎのような形で沖縄に渡ってきてから、ずっと普天間に住みついているが、独身の無聊を慰めるには柔道は格好のスポーツであった。……しかし、甲野がつき合っている米兵たちは、皆気のおけない、まじめな青年たちであった。金銭的なけじめや、親しくはしていても節度のあるところなど、むしろ職場の同僚たちとくらべて、ずっとしっかりしているように思えた。……」などと客観的事実のほか原告の主観にわたる事柄についてまで記述している。「四 遭遇」においては、米兵2人と原告ら4名の事件発生直前の状況について記述している。

[6] 「第二部 裁判」は、「一 陪審員への厳しい注意」、「二 白い影の男」、「三 記憶喪失12時間」、「四 マダムたちの証言」、「五 追徴金―もう一つの問題」、「六 供述書をめぐる疑惑」、「七 検察側の豊富な証拠」、「八 キャラウエイ旋風の余波」から構成されている。「一 陪審員への厳しい注意」では、被告(「逆転」のなかでは「伊礼仁」という仮名が用いられている。)がアメリカ合衆国琉球列島民政府高等裁判所に出頭を命じられたこと、4日をかけて行われた本件裁判についての陪審員の選任手続の様子、被告が本件事件の陪審員に選任されるに至った経緯、裁判官の本件裁判の陪審員たちに対する説示の内容などが、事実に即して英語の法廷用語を使用しながら極めて詳細に記述されている。この場面では、裁判官の冒頭の説示、起訴状の朗読、陪審員選定の手順についての裁判官の説明において、原告の氏名が実名で登場する。「二 白い影の男」では、本件裁判の様子が極めて詳細に記載されている。すなわち、検事による冒頭陳述(オープニング・ステートメント)の様子(もちろん原告の実名は多く出てくるし、現場の図面も付されている。)、弁護人による冒頭陳述の様子、休憩の間の他の陪審員との対話の様子(これによって他の陪審員のひととなりを紹介している。)、証人ジーン・コリンズ(憲兵隊の陸軍伍長)の証言(事件発生直後に現場に駆けつけたときの状況について。)、証人ハリー・タケット(軍曹)の証言(ウイリアムスが病院に運ばれたときの状況について。)、証人トーマス・デンプシー(曹長)の証言、証人ジョン・フランクリン(大尉)の証言(医師であって被害者である米兵2人の傷害の状況について。)について詳細に記述している。「三 記憶喪失12時間」では、被害者の1人であるオズボーン伍長の証言の様子が記述されている。同人は、肝心の事件発生当時の状況については泥酔していたため何も記憶していないと供述したというのがその要点である。「四 マダムたちの証言」においては、証人丁原菊子の証言の内容(事件発生直前に原告ら4名が飲食していたいわゆる「18番通り」に所在するバー「クイーン」で働く女性で、丁原秋夫と原告が本件事件の被害者であるウイリアムスやオズボーンと出会ったときの様子について。もっとも、喧嘩自体は目撃していない。)、休憩の間に被告が陪審制度について調査した内容(これによって読者に陪審制度の沿革などについての知識を提供している。)、証人戊田竹子の証言(原告らが18番通りで最初にウイリアムスやオズボーンと出会った場所付近において飲食店を営んでいた者であって、丁原秋夫、原告が米兵にからまれているのを目撃して乙山春夫、丙川夏夫を呼びに行った。)、被告が経営するオリエンタル・ジエムス社に琉球政府コザ税務署から9万7千ドルの税の追徴を命じられたこと、それはアメリカ合衆国民政府財務部のフリーマンという人物の指示による不当なものであること、当時の琉球政府はアメリカ合衆国民政府に対しては無力であったことなどが記述されている。右の証人尋問では原告の実名は頻繁に出てくるし、以下においても同様である。「五 追徴金―もう一つの問題」においては、先の追徴金の問題について被告が対応に苦慮し、被告の小学校時代の恩師である琉球政府行政副主席に相談することに決めたこと、証人甲山梅子の証言の内容(18番通りに居住していて原告が下駄に手にして米兵と喧嘩しているのを目撃したこと、現場にはもう1人沖縄人ともう1人の米兵がいて、あとから2人の沖縄人がやってきたこと、沖縄人らが「やみれー」「やなアメリカやーちらちけー」「くるせーくるせー」といっていたこと、「くるせー」は沖縄の方言では「懲らせ」「ぶん殴れ」という意味であるのに通訳が「kill them」と訳していたこと、米兵2人はやがて逃げていったが「カム・ヒヤ、カム・ヒヤ」などといって原告らを挑発したこと、アメリカ人の1人がこん棒を持っていたこと。)、証人戊田松夫の証言の内容(事件直後に乙山春夫と原告が同人の自宅にきたこと、2人が米兵と喧嘩したと言っていたこと、原告らは「死ぬわけがない」と言っていたこと、原告に頼まれてシャツをとりに行ってきたこと。)、証人戊田竹子に対する反対尋問続行の様子、証人池宮義夫(普天間警察署の巡査)の証言の様子、証人又吉久栄の証言の内容(普天間派出所の巡査であり、甲山梅子からの通報によって他の警察官やMPとともに18番通りの現場に行ったこと、その後付近一帯を捜索して消防署付近に行ったところ白いコートの男が逃げて行ったこと、その男を追跡したときにウイリアムスが倒れていて冷たくなっているのを発見したこと、現場付近で丙川夏夫を発見、逮捕したこと、丙川夏夫は2人の白人を追ってきたと言っていたこと。)、証人金城重男の証言内容(普天間派出所の巡査で丁原秋夫を現行犯逮捕したこと、丁原秋夫は逮捕されたとき逃走して行った氏名不詳の2人の沖縄青年がいたと訴えていたこと。)などについて記述されている。「六 供述書をめぐる疑惑」においては、証人仲村教永(普天間警察署巡査部長)の証言の内容(原告を逮捕したときの状況、そのときズボンを押収したこと、原告の供述に基づき原告の履いていた下駄を発見したところ、下駄の裏側に数カ所の血痕及び毛髪が付着していたこと、原告からの供述録取書を作成したときの様子。)、供述書の信用性を判断するために陪審員が別室で待機している間に原告の尋問がなされたこと、原告の供述録取書及び下駄が証拠として採用されたこと、追徴金の問題について琉球政府行政副主席に面会して助力を頼んだこと、証人砂川健二(普天間警察署巡査部長)の証言の内容(丙川夏夫から供述録取書を取ったときの様子、同人もオズボーン伍長の供述書を読んだことがないこと、丙川夏夫は米兵との喧嘩においてこん棒を使用したと供述したこと。)、丙川夏夫が着ていた血痕の付着したシャツとこん棒が証拠物として採用されたこと、証人古波蔵誠規(丁原秋夫を担当した普天間警察署の巡査部長)の証言がなされたこと、証人宮里蔵正(普天間警察署巡査部長)の証言(乙山春夫は原告と米兵の喧嘩を仲裁しようとして間に入ったところ米兵の1人に蹴られ、そこで防御のために古い角材を拾って相手の腕を打ったと供述していたこと、同人は消防署の裏手付近で外人を追いかけ、さらに殴りつける目的をもって鉄棒を拾ったが、結局、殴らないうちにサイレンの音が聞こえたので付近に投げ棄てたと供述し、さらに、原告と丙川夏夫が倒れていたウイリアムスを交互に殴っているのを目撃したと供述したこと、鉄棒には血痕のようなものは付着していなかったこと。)、右の証言中原告と丙川夏夫についての部分は採用されなかったことなどが記述されている。「七 検察側の豊富な証拠」においては、乙山春夫が手にしていたとされる鉄棒が証拠として採用されなかったこと、乙山春夫について共謀に基づく責任が認められるかどうかについての検察側と弁護側の応酬の様子、前記証人宮里の証言(丁原秋夫は原告、丙川夏夫らが消防署裏の現場においてウイリアムスを打ち据ているのに加わり鉄棒でウイリアムスを2度ほど殴打したこと、その鉄棒は2度殴ると「く」の字になったことを自供したこと。)、その鉄棒が証拠物として採用されたこと、昼食中の陪審員間のやりとり(1人の陪審員が、傷害致死ではなまぬるく殺人罪で起訴されてしかるべきであると言い、これをめぐって議論があったこと。)、原告ら4被告人の供述調書がすべて証拠として採用されたこと、採用された供述調書の朗読、検察側の主張する「acting jointly」ということ対する被告の疑問、警察に対する被告の懐疑の念、琉球警察の捜査及びオットー検事の公訴の追行に米軍などから様々な圧力が加わったとの被告の推測、証人ロークス(ウイリアムスの解剖にあたった軍医少佐)の証言の内容(死因は脳髄裂傷に伴う蜘蛛膜下脳溢血、頭蓋骨折であること、何によって傷害が生じたかは分からないこと、こん棒も鉄棒も凶器となり得るが鉄棒の方にはその線が薄いこと、下駄によって致命傷が生ずる可能性は薄いこと。)などが記述されている。「八 キャラウエイ旋風の余波」においては、琉球民政府高等弁務官のキャラウエイ中将による不正金融取締などで沖縄の政界・財界が混乱したこと、その余波で琉球商工会議所会頭の竹内和三郎が逮捕されたこと、証人大城盛昌の証言の内容(同人は警察本部科学捜査研究所長であり、各証拠物に血液が付着しているか、その血液型は何かについて検査したこと、原告についてのみ検査の結果を示すと、シャツにO型の人血が付着しており、ズボンには人血の付着は認められたが血液型は不明であり、下駄にはB型の人血の付着が認められ、下駄についていた毛髪とウイリアムスの毛髪とは著しく類似していることが認められたこと、また、鑑識を依頼されたもののうち、証拠物として提出されていないコンクリートの塊と板きれの束がありこれらにはルミノール反応が認められたこと。)、証人金城国昭の証言(同人は警察医であり、原告ら4名の受傷について診断したこと、いずれの傷も鈍体の作用によるものと推測されること。)、弁護側は前記のコンクリートの塊と板きれの束を証拠物として提出して、検察側が何故この証拠物を隠していたかについて疑問を提起したこと、検察側のセイリエント・ポイント(我国でいう論告にあたるもの)が陳述されたこと、その要点の一つとしてクルー・アクション論(共謀共同正犯論)が主張されたこと、弁護側の反論もなされたが迫力に欠けていたことなどが記述されている。

[7] 「第三部 陪審評議」は、「一 紛糾また紛糾」、「二 1対10の絶望的戦い」、「三 共謀共同正犯」、「四 逆転」からなっている。
[8] 「一 紛糾また紛糾」の内容は次のようなものであった。まず、陪審長が選任された。ついで、陪審全員(12名)が、25項目にわたる裁判官の説示(タイプされたもの。)を熟読したが、被告は、説示第5「複数の被告人が共犯として起訴されている場合、検察側にとって被告人の一人一人が実際に犯罪を行ったか否かの立証は必要でない。(以下略)」と説示第6「共同のプランが2人以上の人によって計画された場合、それが明白な同意であっても、暗にほのめかされた以心伝心的なものであっても、その後の連帯行動が共同意思の実現を証拠づけるのならば、計画に参加したものの一人一人が犯した違法行為はすべて計画に参加したもの全員が実行した違法行為とみなされる。」に最も注意をひかれた。そして、被告の提案で原告ら4名の供述調書を評議室に取り寄せて読んでいたところ、陪審員の1人が倒れ入院騒ぎとなったため翌朝まで陪審評議は中断した。翌朝、残り11名によりふたたび陪審評議が再開されたが、冒頭から全被告人が公訴事実一(ウイリアムスに対する傷害致死)同二(オズボーンに対する傷害)ともに有罪とする意見が支配的であった。そして、それらの意見は被告から見ると証拠に基づかない偏見による抽象論に見えたが、陪審長が採用された証拠をひとつひとつ取りあげて証拠の証明力について再評価するように提案し、評議は軌道に乗った。こうして、陪審員らは、ディスカッションを通じ証拠を再評価しながら、事実を確認していった(但し、被告はこの段階では自己の意見を言うのを控えていた。)。陪審員らが記録に基づき評議認定していった内容の中で原告に関する部分の骨子は、「それからのこの2人のオキナワンの行動は理解に苦しむ。横丁の手前を右に曲れば、道はそのまま甲野や丁原の家に通じるのにそうしなかったのは、2人が家路につくことを欲しなかったからだ。「よーし、それじゃ、おれがいって対決してやる!」甲野はそう勇ましく叫ぶや、直ちに丁原にアメリカ人のところへと案内させた。丁原の供述である。甲野は空手にも柔道にも心得があり、アメリカ兵2人ぐらいを相手に渡り合う自信は充分持っていた。というよりは、(クレージーアメリカンはおれがやっつけてやる!)とばかり、自分から求めてトラブルを起したのである。甲野こそ喧嘩の張本人―彼が喧嘩を売りさえしなければ、あるいは酔っぱらいの悪ふざけなど無視して、反対側の道からおとなしく家路をたどっていれば、何事も起りはしなかったはずである。少なくともこの惨劇は起る余地がなかった。甲野は下駄をぬぎ、相手の肩や腕のあたりを打った。……」、「被告人甲野が消防署裏でウイリアムスを発見し、最初に襲ったであろうことは想像に難くない。下駄には血痕があるし、ウイリアムスのものを断定される毛髪までついている。」「物証とそれらに付着している血液が、次のように、被害者と被告人たちを結びつける。公訴事実一―ウイリアムスB型の血液だけが我如古のシャツ、ズボン、それに甲野の下駄から検出された。毛髪サンプルは下駄にくっついていたものとマッチする。証拠は検察側の主張と首尾一貫している。公訴事実二―オズボーン……O型の血液は……甲野のシャツにも認められた。」というものであった。
[9] 「二 1対10の絶望的戦い」では、右のディスカッションの結果をふまえて、陪審長が評決を採ろうとしたところ、被告がこれに異議を述べ、被告人らが無罪であると主張した様子が描かれている。その主張の要点は、本件事件を引き起したのが原告であるかのように丁原の供述調書ではなっているが(甲野が「よし、おれが行って対決してやる。」と言ったとされている。)、これは捜査官が勝手に創作したものであり、事件を引き起し、「カム・ヒヤ、カム・ヒヤ」などと言いながら原告らを挑発したのは米兵2人であること、最初に米兵らと出会った後、原告は米兵らを追い、丙川夏夫も原告を助けに行ったが、怪我をした丁原秋夫と乙山春夫は、米兵らが行った方向とは逆の方向に行ったのであり、4人の間に意思の連絡(共謀)があったとは認められないこと、ウイリアムスに致命傷を与えたであろう凶器について、ロークス少佐は原告の下駄も丁原秋夫の鉄棒も否定していること、丙川夏夫のこん棒にはその可能性があるとされたが、それにしては少量の血液しか付着していなかったこと、コンクリート・ブロックという血液の付着していたものを検察側が隠していたことに疑問が残ることなどであった。このような被告1人の反対のため、議論は紛糾し、ハング・ジューリーの危機に至り、陪審長は、裁判官に対し、「陪審員の意見は絶望的に不一致であります。」との報告をした。そこで、裁判官は、陪審員らに説示をし、再度の評議を命じた。しかし、評議は、その夜、午後11時55分まで続けられたが、評決には至らなかった。
[10] 「三 共謀共同正犯」では、被告が、前記の追徴金の問題で琉球政府副主席に面会したところ、沖縄の日本復帰を望むような言動を慎み、アメリカ民政府に対する忠誠のしるしとして3万ドル程度の金員を自民党に政治献金すれば、すべての問題を解決してやるという提案を受けたこと、被告はこれを即座に拒否したことなどが記述された後、共謀共同正犯理論についての説明(被告はこの理論に対して批判的見解を展開している。)、乙山春夫の経歴、そして陪審評議の様子が記述されているが、それは以下のようなものであった。陪審長は、公訴事実一(ウイリアムスに対する傷害致死罪)については意見が平行線のままなので、公訴事実二(オズボーンに対する傷害罪)について最初に評決を採ることとした。被告は、オズボーンに関しては証拠が不充分であり、また、オズボーンの負った程度の軽傷は被告人らも負っているのだから喧嘩両成敗とすべきであり、被告人らだけの責任追及は片手落ちであると強く主張した。そして、これが受け入れられて、公訴事実二については、無罪の評決・答申がなされた。そして、その際、裁判官から、公訴事実一(ウイリアムスに対する傷害致死罪)については、それに吸収されているより軽い罪(レサー・インクルーデッド・オフェンス)である傷害罪についても検討するように注意が喚起された。そして、原告の経歴、事件についての原告の考え方などが紹介されているが、原告の主観にわたる事柄についてまで記述されている。この後も、陪審評議は共謀の成否をめぐって紛糾していたが、その間に乙山春夫の言い分が紹介され、被告の主張の正当性(共謀は存在しなかったこと)を裏づけるような記述がなされ、また、丙川夏夫の経歴が紹介されている。
[11] 「四 逆転」においては、公訴事実一について評決に至る様子が記述されているが、その概要は次のとおりである。陪審長は、傷害致死(205条)については意見が一致しそうもないので、まず、レーサ・インクルデッド・オフェンスである傷害罪(204条)について評決を採ろうとした。被告は、これに反対したが、他の10人の陪審員たちは、裁判官の説示を尊重するべきであるとした上で、原告、丁原秋夫、丙川夏夫の3人がウイリアムスを殴打し傷害を負わせていることは明らかであり、乙山春夫は手こそ出していないが共謀の事実が認められる以上有罪であると主張した。被告は、これに対し、ここで有罪を認めてしまうと、傷害致死罪についても同様の結論になってしまう恐れがあったので抵抗したが、やむなく同意した。しかし、被告は、「205条の評決がとまらぬとき、204条に乙山を有罪とする私の決定を撤回する権利を保留しておきたいのです。」と念を押した。そして、傷害致死罪についての最終評議がなされるのだが、被告の「作戦」は乙山春夫を傷害致死について有罪とすることに難色を示す者をできるだけ被告の側へ引き戻すことであった。そして、被告は、熱弁をふるって無罪論を展開したところ、「乙山に同情するものは伊礼(被告)の願い通り増えてきた。他の3被告人はともかく、彼ひとりは無罪にしたら―という動議までが起された。」という状況になってきた。そして、陪審長から乙山春夫は無罪、他の被告人は有罪とする評決をしたいとの提案がなされた。被告は、ここで、「乙山ひとりだけが無罪だというのは」「全く矛盾した話です。先ほど204条の討論のさい、私は乙山が無罪だとずっと主張してきました。しかしみなさんは事件がどうしても共謀共同正犯であるとして、たとえ乙山が犯行に手を下していなくとも、彼は有罪なのだと我を通されました。私は長い間考えたすえ、ついにみなさんに譲歩したのです……」「今度はみなさんが私に譲歩してくださってよいのではありませんか。他の3被告人が有罪だから、乙山も同罪だとするさっきの論法を使えば乙山が無罪なら他の3人も無罪だという理屈が成り立ちはしませんか?……」「どうしても受け容れていただけない場合には、まことに遺憾ながら私は先ほどの乙山にかかる204条の決定―彼を有罪とする評決―を直ちに撤回させていただきます。」などと述べた。その場の状況は被告に有利であった。すなわち、「おそらくこれが朝のフレッシュな評議であったなら、議論はもっとも尽くされたであろうし、紛糾を重ねたに違いない。しかし、今は陪審員は連日連夜の論争に疲れていた。口を開くのも大儀であり、一方、時間の切迫に評決をこのあたりでまとめるのが妥当と考えたのも無理はなかった。そして、とうとう伊礼(被告)の執拗なねばりに根負けしてしまったのである。」そして、被告人ら4人について、公訴事実一(ウイリアムスに対する傷害致死罪)のうち、傷害致死罪については無罪、傷害罪については有罪の評決答申がなされた。

[12] 「第四部 判決」においては、判決の言渡しを中心に記述がなされている。判決の内容は、原告、丁原秋夫、丙川夏夫がそれぞれ懲役3年の実刑、乙山春夫が懲役2年、執行猶予2年であった。これは、被告にとっては、予想外の重い判決であり、「見せしめの刑」であるとの感じを持った。被告の感想は、伊礼(被告)の「民政府の裁判官に圧力などかける必要はありませんよ」「もともと彼らは、理非曲直を正し、正邪を判決する法の番人ではなく、民政官と同じように、高等弁務官の意に従う、いわばポリシー(政策)・メーカーに過ぎないのですから……」という言葉にあらわれている。

[13] 「あとがき」において、被告は、「事件後13年も経て、被告人たちの古傷にふれるようなことはしたくなかったし、本名を出すことも少なからぬ躊躇を覚えたのだが、乙山、丙川の両氏とも相談の上、許可を得た。陪審評決が無罪であったにもかかわらず、3年という実刑から一般は被告人たちが傷害致死に有罪―彼らが真犯人であったかのように錯覚を起してしまったのである。……誤ったその印象を本書が少しでも払拭することに役立てば、幸いである。」と述べている。

[14] 請求の原因2(一)の事実(原告のプライバシーの存在)について判断する。

[15] 右事実のうち原告が甲田に就職していることは当事者間に争いがなく、この事実に《証拠略》を総合すると、以下の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。
[16] 原告は、本件裁判により懲役3年の実刑判決(昭和39年11月6日言渡し)に処せられ、そのまま服役したが、およそ2年2ケ月後の昭和41年10月ころには出所(仮出獄)し、出所後事件前に勤務していた乙田タクシー(経営者は原告と共犯であるとされた乙山春夫の兄一夫である。)に再び勤務するようになった。しかし、原告は、本件事件を起したということで周囲と必ずしもうまくいかず、おもしろくないということで、ここに2ケ月ほど勤務しただけで本土に渡り、昭和42年1月ころ、神奈川県川崎市所在の丙田興業に勤務するようになり、昭和43年10月16日に甲田にバス運転手として勤務するようになった。原告は、甲田に就職するに際して、また、その後、現在の妻と結婚するに際しても、本件事件及び本件裁判のことは秘匿していたし、原告の周囲にこのことを知っている人はいなかった。

[17] 本件事件及び本件裁判についての報道の状況についてみるに、《証拠略》によれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。
[18](一) 琉球新報は、昭和39年8月16日、「米兵2名を殺傷」という大見出しの下で「16日午前2時ころ、宜野湾市普天間の市消防署裏で米兵2人と沖縄人数人が乱闘。米兵1名は死亡、1人は重傷を負った。」「……米兵2名は逃げたが、宜野湾消防署裏に畑の追い込まれ、1人が殺され、重傷を負った1人は軍病院に運ばれた。普天間署では、ただちに刑事を非常招集し現場一帯を捜索したところ、横丁付近で丁原秋夫、丙川夏夫の2人を容疑者としてつかまえ、取り調べたところ、犯行を自供した。」と報道した。
[19](二) 沖縄タイムスは、右同日、「米兵をコン棒で殺す」「沖縄青年4人と乱闘」との見出しの下で「普天間署は、……容疑者として丁原秋夫と丙川夏夫を緊急逮捕、ついで乙山春夫、甲野太郎をつかまえた。」と報道した。
[20](三) 沖縄タイムスは、同年8月17日、「米兵殺し犯行自供」「マリン兵しかえしの噂」の見出しの下、「……普天間署では傷害致死の容疑で逮捕した……乙山春夫、……甲野太郎、……丁原秋夫、……丙川夏夫の取り調べを進めていたが、4人とも犯行を自供した。」「……普天間では外人兵の集団的なしかえしがあるらしいとのうわさが流れており、……」と報道をし、また、合衆国軍隊要員に対する重罰を定めている集成刑法2・2・2を紹介して原告らに対し適用される可能性を示唆している。
[21](四) 琉球新報は、右同日、「4人とも自供」「わけもなくケンカ」との見出しで普天間署が原告、乙山春夫、丁原秋夫、丙川夏夫を傷害致死の疑いで逮捕したこと、取り調べに対し4人とも犯行を自供したこと、喧嘩のいきさつを報道し、さらに、喧嘩の状況について「米兵2人は市消防署裏の畑まで逃げたが、追ってきた4人が持っていた下駄、棒切れでめった打ちにし、1人を死亡させ1人に重傷を負わせた。」と報道した。
[22](五) 沖縄タイムスは、同年8月18日、「仲裁に入ってケンカ」「米兵殺し慎重な調べ」との見出しで、容疑者の家族の話として喧嘩の状況について「さいしょ、米兵2人と沖縄青年2人がけんかをしていた。これを見た容疑者4人のうち1人が、仲裁に入ったところ逆になぐり倒された。残り3人はこれを助けようとしてけんかになった。その間に2人組の青年は姿をくらました。」という話を紹介している。
[23](六) 沖縄タイムスは、同年8月19日、「隊員の外出を禁ず」「米兵殺し 動機は単純?」「犯行の裏付け急ぐ」との見出しで、負傷した米兵は酩酊していたので何も覚えていないと言っていること、容疑者は米兵が先に手を出したので対抗して喧嘩になったと供述していること、米軍側では死亡した米兵が所属する部隊の隊員全員に対し事件のほとぼりがさめるまで外出禁止の措置をとったことなどを報道し、そして、事件発生の状況について目撃者の話として「4人が……酒を飲み、うち丁原秋夫……甲野太郎……の2人がさきに店を出て帰る途中、……米兵2人とけんかをした。これをみた乙山春夫……、丙川夏夫が加わり乱闘になった。」と伝え、さらには、推測として「米兵2人はそこから逃げ出し、約60メートル離れた長堂材木店裏で石を投げて応酬、4人組の1人が顔面に傷を受けた。さらに約120メートルほど離れた同市消防署裏側のキビ畑ちかく農道に追いつめ、めちゃくちゃに殴り、死亡させたようだ。」と報道した。
[24](七) 沖縄タイムスは、同年9月5日、「米兵殺し4人起訴」との見出しで、「……米兵殺害事件の被疑者……甲野太郎、乙山春夫、丁原秋夫、丙川夏夫の4人にかかる米民政府高等裁判所の大陪審が……開かれ、表決の結果4被疑者の起訴を決定した。大陪審は、……検事側の訴因1 4被告が共謀して米兵……レイモン・D・ウイリアム2等兵を傷害によって死にいたらしめた事実 刑法205条の傷害致死罪を適用し 訴因2 4被疑者が共謀して……ユージン・R・オズバーン2等兵を殴打によって傷害を負わせた事実 刑法204条の傷害罪を認めた。」と報道した。
[25](八) 沖縄タイムスは、同年11月6日、「3被告に懲役3年」との見出しで、原告、丁原秋夫、丙川夏夫らに懲役3年の実刑判決が、乙山春夫に「懲役2年執行猶予」の判決がそれぞれ言い渡されたこと、事件の内容につき「被告らは……レイモン・D・ウイリアム2等兵、……ユージン・R・オズボーン代理伍長らと……口論しけんか、鉄筋や下駄、棒きれ、石などを持ち出して2人のマリン兵に暴行、ウイリアム2等兵は……死亡、オズボーン代理伍長は重傷で……病院に収容された。」と紹介し、さらに、「被告らは陪審法廷で全員無罪を主張していたが、陪審表決でウイリアム2等兵に対する傷害致死罪の傷害の部分について有罪宣告を受けていた。」と報道した。
[26](九) 琉球タイムスは、同日、「傷害で4人に懲役3年」の見出しで、原告、乙山春夫、丁原秋夫、丙川夏夫の4人が傷害罪で「いずれも懲役3年」(うち1人は執行猶予2年)の判決の言い渡しを受けたこと、事件の内容が「被告人4人は……レイモン・E・ウイリアム1等兵とユージン・R・オズボーン兵長とささいなことでけんか、米兵2人は逃げたが……追いかけ2人をなぐりこのためウイリアム1等兵は死亡、オズボーン兵長は傷害を負わされたもの」であること、小陪審員は被告4人に対し傷害罪のみを有罪として傷害致死罪は認めていないことなどを報道した。
[27] 右に認定した新聞報道はいずれも沖縄におけるものであり、当時、本土において本件事件ないし本件裁判について報道した新聞等があったとする証拠はなく、弁論の全趣旨からすると、本土においては本件事件ないし本件裁判については当時何ら報道されなかったものと認めることができる。

[28] 右1及び2の事実を前提として原告について前科(すなわち本件事件及び本件裁判の被疑者ないし被告人が原告であること)を知られないよう保護される法的利益が存在するかどうかにつき検討する。
[29] 憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めており、この個人の尊厳は、相互の人格が尊重され、不当な干渉から自我が保護されることによってはじめて確実なものとなるのであり、そこで右条項は個人の尊厳を保障する上で必要不可欠な人格的利益を広く保障する趣旨のものであると解される。そして、その一環として、他人がみだりに個人の私的事柄についての情報を取得することを許さず、また、他人が自己の知っている個人の私的事柄をみだりに第三者へ公表したり、利用することを許さず、もって人格的自律ないし私生活上の平穏を維持するという利益(以下、「プライバシーの権利」という。)は、充分尊重さるべきである。もちろん、かかる人格的利益は多義的かつ抽象的であるから、ただちにそのすべてが右条項により実定法的保護が与えられるものとは解されないが、社会通念上その保護すべき対象、内容が成熟したものとなっていて、保護の必要性について社会的な合意が得られているような人格的利益については、右条項を根拠として実定法的保障を与えることは可能であるというべきである。そして、右の人格的利益のひとつの内容である「他人に知られたくない私的事柄をみだりに公表されないという利益」に法的保護を与えるべきことについては、今日、社会的な合意があることは明らかである(東京地裁昭和39年9月28日判決・下民集15巻9号2317頁参照)。
[30] ところで、このように私生活上の事柄がみだりに公表されないという法的保護が与えられるためには、公表された事柄が、私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること、一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められる事柄であること、一般の人に未だ知られていない事柄であることが必要であると解されるところ(前記東京地裁判決参照)、本件において被告により公表された事柄は、原告が米兵に対する傷害罪で懲役3年の実刑判決を受け服役したということ(前科)であり、まさに原告の私生活上の事実であり、一般人が原告の立場に立った場合に公開を欲しない事柄であることは明らかである。そして、原告の前科、換言すれば、本件事件及び本件裁判については、前記2の認定によれば、沖縄以外の人々にとっては未だ公表されていない事実であり、また、沖縄に居住する人々には公表されていた事実ではあるが、一旦公表された右事実であるからといって、いつまでも公表されてもよいというものではないというべく、次に述べるように時の経過によって再び法的保護の対象となると解される。すなわち、本件に即し犯罪報道と時の経過との関係につき検討するに、一般に犯罪に関する事実(捜査の状況や裁判の状況についてのもので、被疑者・被告人が誰であるかということをも含む。)は社会秩序に関する事柄であるから、公共の利益に関する事実というべきであり、また、報道の自由は国民の知る権利を保障するために重要であるから、事件発生当時または裁判継続中において、これを報道することは、原則として適法というべきである(但し、不必要に当事者の人格的利益を侵害してはならないし、被疑者でない事件関係人についての報道や少年である被疑者についての報道などについては問題があり、報道機関においてもこの点について一定の配慮がなされていることは公知の事実である。)。このことは刑法第230条の2第2項が「未タ公訴ノ提起セラレサル人ノ犯罪行為ニ関スル事実ハ之ヲ公共ノ利害ニ関スル事実ト看做ス」と定めていることからも窺うことができる。したがって、本件事件及び本件裁判に関する事実は、昭和39年当時においては公共の利益に関する事実であったものと考えられる。しかし、犯罪についての報道価値すなわち社会の犯罪に関する正当な関心というものは時の経過によって失われていくものであり、他方、犯罪者の社会における更生を阻害しないためにも、原則として、犯罪者が社会の中で更生をすべき状態に至ったとき(本件においては原告が仮出獄した後)は、その者の前科などを故なく公表することは許されないものというべきである。少年法第61条は、少年の更生のために「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年令、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」と定め、事件発生ないし捜査、裁判の当時において、犯罪について報道することによって社会的利益と、将来性のある少年の人格的利益ないし少年の更生という利益の調整(社会生活上の資格に影響を及ぼさないための配慮)を図っているが、成人の犯罪者についても社会の中で更生を図るべき段階に至った場合には同様の考慮がなされるべきである。また、最高裁昭和56年4月14日判決・民集35巻3号620頁は、市区町村長が「漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたる。」としているが、今日、犯罪行為の多くが何らかの形で国民の一部または全部に対して報道されていることに鑑みれば、右判決は有罪判決の言渡しを受けたこと(前科があること)を知られないようにするという利益が時の経過によって法的に保護され得るということを前提としているものと考えられる。一度報道の対象になった事柄は時の経過にかかわりなく法的保護の対象とならないという見解は到底採用できないものである。
[31] 右に検討したところによれば、被告が「逆転」を出版する直前の昭和52年ころにおいては、原告の前科を他人に知られないようにするという人格的利益は法的な保護に値する状況にあったものというべきであり、したがって、被告が「逆転」を著作することによって原告の前科(原告が懲役3年の実刑判決を受けたこと)を公表したことは、他に正当な理由がないかぎり、原告の人格的利益を不当に侵害したものと解すべきである(しかし、このことは、報道価値が時の経過によって減少することを意味するにすぎないから、別な社会的価値が存在するときにすべて公表を否定するものではない。この点は後記五ないし七の抗弁についての判断で検討する。)。

[32] 抗弁1(原告による事後承諾)について判断するに、抗弁1(一)の事実を認めるに足る証拠はない。かえって、被告本人は、昭和53年8月22日に原告と被告は会っていないと供述し、また、同年8月21日に原告と新潮社の社員南政範と一緒に面会したときには、たんに一緒に食事することが目的で本またはテレビにおける実名の使用というような問題は話題にはなっていなかったとし、結局、そのころに事後承諾を得たとは供述しておらず、また、《証拠略》によっても、NHKの玉井勇夫と鈴木肇が原告に面会したのはNHKによる「逆転」の放映について原告の了解を得るためであって、本については話題になっていなかったことが認められるから、そのころに被告の「逆転」の出版について事後承諾があったと認めることはできない。
[33] 抗弁1(二)の事実について判断するに、被告本人は、これに副う供述をしている。すなわち、被告は、
「昭和53年8月8日か9日に原告から電話があり、原告は、8月8日にNHKで撮影されたが、顔を出されるのは困る、会社に入るときに本件の前科については秘匿していたから、テレビ放映がなされて会社に前科が知られると馘になるかもしれないなどと述べて、被告の方からNHKに原告の顔を放映しないようにしてもらうよう働きかけてほしいと申し入れたが、テレビにおける実名の使用については何も言っていなかったし、本の方はよろしいんだと述べた。」
と供述している。そして、被告は、その間接証拠として、原告がNHKに対し「逆転」のテレビ・ドラマの放映について原告の顔を放映することを承諾していたとし、証人玉井勇夫の証言を援用する、すなわち、同証人は、
「同年8月22日に原告と面会する前に部下の鈴木肇から、テレビに原告の実名を使用することについて原告の承諾が得られたとの報告を受けていたが、念のため原告の意思を確認するべく原告に面会した。その場で玉井は番組の内容、番組の制作がすでに最終段階に入っていること、原告の実名が登場すること、乙山春夫や丙川夏夫が出演することなどを原告に説明し、番組において原告の実名を使用することについて了解を求めた。そうしたところ、原告は、何らかの形で自分も番組に参加しなければというような申し出さえするようになり(もっとも、番組の制作はこのころにはかなりすすんでいて原告の登場する部分は放映しないことで確定していた。)、番組において原告の実名を使用することは結構ですよと言った。その際、原告は、甲田に就職するときに本件事件については秘匿していたので、もし会社にこのことが知られたらどうなるかわからないということを心配していたので、玉井のほうで甲田本社の了解を得るようにするということになり、玉井は翌23日に甲田本社の丁田課長に面会して事情を説明して了解を得た。また、原告の妻の了解については、原告のほうで話をするということになった。」
と供述している。
[34] これに対し、原告本人は、実名使用について事後承諾をしたことを否定し、
「原告は、昭和53年5月17日、NHKの鈴木から連絡を受け、田舎から出てきて都会でまじめにやっている人を取りあげてテレビ放映をしたいとの申し出を受けた。そこで、同年8月8日、原告は、柔道着を持参してNHKに行ったところ、いきなり被告と面会させられた上テレビの撮影が開始された。そこで、原告は強く抗議し、撮影は中止された。この時には、NHK側からはテレビの台本が渡されたわけではなく本の一部のコピーを渡されたにすぎなかった。原作についてはその日のうちに本の一部につきさっと目を通し、その日、原告は、被告に電話してテレビで原告の実名を使用して放映されるのをやめさせてほしいと申し入れた。同年8月21日に被告、新潮社の南と新潮社のクラブで面会したが、その時の話題は、本の中で225頁から229頁のことは事実と違うことなどであった。また、テレビが放映されて会社に原告の前科が知られると経歴詐称で馘になるのではないかという不安があると言ったところ、南は、新潮社の社長と甲田の社長は知り会いで、社長を通じてよく頼んでもらうから心配しないようにと言った。また、原告が、この問題について会社の上司のうち2、3人に相談していると言ったところ、被告は、8月23日にその人達と面会して話をしてみると述べた。しかし、本における実名使用の問題は話題に出なかった。原告は、同年8月22日、NHKの玉井と鈴木に面会したが、原告の実名を使用して放映しないようにしてほしいとの原告の申出に対し、玉井らは、実名で放映しても違法ではないから仮名で放映することはできないとの説明をした。同年8月24日、玉井は、原告に電話をして、甲田本社の方に行って原告に不利益が生じないように話してきたから、実名を放映すると通告した。そこで、原告は、世田谷区の人権擁護委員の松島某を通じて東京法務局人権擁護部に相談し、同部のほうからNHKの方に実名を使用して放映しないようにとの勧告をしてもらい、また、この時に本における実名使用も問題にし、新潮社の方にも以後に出版する分については原告の名前を仮名にするように勧告してもらった。さらに、原告は、同年9月13日、NHKを相手方として東京地方裁判所にテレビ放映禁止の仮処分申請をして原告の実名を使用しないことで和解が成立した。」
と供述している。
[35] そこで右3名の供述を検討するに、昭和53年8月8日に、原告は事情を知らされずにいきなり被告と対面させられたうえ撮影されたことで怒り、NHK側では撮影を途中で中止せざるを得ない状況になったこと(ここまでの事実は当事者間に争いがない。)、原告はテレビで「逆転」が放映されると、前科を秘匿して就職したということで会社を馘になるのではないかということと事情を知らせてなかった妻がどのような態度を取るかということを心配したこと、そこで、被告に電話して原告を撮影した部分の放映をやめてもらうようにNHKに働きかけてほしいと申し入れたこと、この段階では原告は「逆転」のドラマ化がどのようになされるのか(台本の内容、とくに原告の実名が使用されるということ)、どの程度すすんでいるかについてNHK側から説明を受けてはいなかったこと、その後NHKの鈴木肇は番組について原告に何度か説明しその了解を得ようとしたこと、8月22日に原告に玉井勇夫と鈴木肇が面会した目的は、ドラマにおいて原告の実名を使用することについて原告の了解を得ることであって、原告の顔の放映についてはNHKの側ですでに放映しないことに確定していたこと、原告の会社に対する問題は右玉井が8月23日甲田本社の丁田課長に面会してはじめて最終的な決着がついたことなどの事実は、右3名の供述からさほど問題なく認定することができる。この事実関係からすると、原告は、8月8日ころは自分の顔がいきなり撮影され、これが自分の前科とともに放映されることを一番の問題としていたものと認められ、本のことはまだ通読しておらず問題意識をもっていなかったものと考えられるし、テレビ放映における実名使用の問題について8月22日の段階に至ってもまだ決着していなかったのであれば、本についての実名使用についても承諾はなかったと見るのが自然であること(顔がでないテレビ放映であれば実名使用によって原告の蒙る不利益にさほどの違いはないものと考えられる。)、原告の前科が明らかにされることによって原告に生じるかもしれない不利益(会社と妻の問題)について何ら最終的な解決をしていなかったことからしても、被告本人の供述中、原告が「本のことはよろしいんだ。」と言ったという供述部分はたやすく採用することはできない。また、仮に、原告がそのような発言をしたとしても、それはただちに解決しなければならないのはテレビの問題であって本のことではないという程度の意味かも知れず、「逆転」の著作についての事後承諾の趣旨で発言したものと受け取るのには、「本のことはよろしいんだ。」という言葉自体が不明確にすぎるというほかない。結局、被告の抗弁1(二)も採用することはできない。

[36] 抗弁2について判断する。

[37] 私的事柄をみだりに公開されないという人格的利益(いわゆるプライバシーの権利のひとつの内容である。)に法的保障が与えられるべきであるとしても、この権利は無制約なものではなく、とくに言論、表現等の自由との間では慎重な調整が必要であり(国民の知る権利の保障との関係の調整が重要である。)、社会の構成員が一定の事実を知ることに正当な関心をもち、それを知ることが社会全体の利益になるような場合に公益を図る目的でその事実(私的事柄)を公表したときには、私的事柄の公表が公の利益になるものとして右の公表する行為は許容されるべきである。そして、ある事実が公共の利害に関係する事実かどうかは、公表された事実自体の内容・性質を中心として客観的に判断されるべきであり、これを公表する際の表現方法や事実調査の程度などは公益を図る目的かどうかの判断にあたって考慮されることがあるにすぎない(刑法230条の2第1項に関する最高裁昭和56年4月16日判決、法曹時報33巻8号186頁表照)。さらに、事実の公表が著作によってなされたときは、原則として、目的の公共性の要件は著作の目的によって決せられるのではなく、当該事実の公表それ自体に公共の目的があることが必要であるし、ある事実が公共の利害に関するものであるかどうかも著作自体に公の価値があるかどうかではなく、当該事実自体が公共の利益に関する事実であるかどうかによって決すべきである。但し、もちろん、右の判断をするにつき著作の目的ないし著作の価値を参考とすることを否定するわけではない。
[38] 本件において原告が秘匿していた私的事柄というのは、「原告が米兵を傷害したということで懲役3年の実刑判決を受け服役したこと」である。この事実そのものは、事件発生から12年余も経過した昭和52年当時においては、原則として、公の利益に関するものとはいえないことは前記三、3の判断のとおりである。しかし、当該著作の目的及び著作に公の価値が認められる場合で、その著作の目的を達成するために当該事実の公表が必要不可欠である場合には、当該事実の公表それ自体も公共の利益に関するものということができる。そこで、以下では「逆転」の著作の目的、「逆転」の社会的価値について一応の検討をし、その著作の目的ないし社会的価値を実現するに当って原告の実名を公表することが必要不可欠であったかどうかを検討することとする。なお、ここで実名使用の必要性だけを問題とするのは、事情によっては実名を使用しなくても読者に原告と登場人物の同一性を認識することを可能ならしめることがあり得るが、本件事件は前記三2の認定のとおり沖縄でしか報道されなかったものであり、それほど大きな社会的関心を呼んだ事件ではなかったと認められ、また、12年余という年月も経過していることに鑑みると、原告の実名を公表しないかぎり、原告をモデルとして著作がなされたとしても、原告の前科が公表されたという効果をもたらさないことが明らかであり、原告が問題としているのも実名使用の点だからである。

[39] 前記二の認定事実に、《証拠略》を総合すると、被告が「逆転」を著作した目的は次のようなものであったと認めることができ、これに反する証拠はない。すなわち、
[40] 執筆の目的は、第一に、国民が裁判に参加する陪審制度の長所、民主的意義を読者に訴えること、第二に、一般の人々は、原告に懲役3年の実刑判決が言渡されたことから、これに目を奪われてしまい、本来の公訴事実であるウイリアムスに対する傷害致死罪、オズボーンに対する傷害罪については陪審の評決はいずれも無罪であったのに、全面的に有罪であるかのような誤った印象を当時の沖縄の人々は持ったので、原告らのためにもこれを是正する必要があること、第三に、アメリカ合衆国による沖縄統治の実態がどのようなものであるかを本件裁判のあり方やその外の事実の紹介を通じて明らかにすることにあった。

[41] 次に社会が「逆転」にどのような価値を認めていたかを書評、新聞記事などによって明らかにする。
[42] 《証拠略》によれば、沖縄タイムスは、昭和53年7月の記事で被告が「逆転」により大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したことを報道したが、「逆転」について「占領時代の在沖米軍軍事法廷の事態を陪審制度のありようなどを通じて記録、えぐり出したもの」と評価している。《証拠略》によれば、琉球新報は、同年4月8日の記事で「逆転」は「米軍統治時代の沖縄で米軍法会議の陪審員になり米軍のひどい県民差別、べっ視を軍法会議の動きに会わせてまとめた作品」であると評価した。《証拠略》によれば、大宅壮一ノンフィクション賞の選者である開高健氏は、「逆転」について「欧米の陪審制については無数の推理小説で教えられたつもりだったけれども、まるで初学のように一気通貫で読まされた。10人の無関心の国籍さまざまの陪審員を向うに回してたった1人で情を理をつくして説きつけていくその二枚腰、三枚腰の粘りづよさ。……この本を読むとこういうあっぱれな日本人もいるんだなと、しばらく思いにうたれる。」と評価している。《証拠略》によれば、読売新聞の昭和52年9月5日の紙面に掲載された書評は、「真実追求がもつ劇的な重み」と題して、綿密な取材とデータに基づいて構築された作品であって、裁判の経過及び沖縄の特殊事情がていねいに描かれていることを評価している。《証拠略》によれば、昭和52年9月の毎日新聞の書評は、「過酷な占領の実態」という題のもとに「逆転」を紹介し、原告らの実名を用いながら「逆転」の内容を要約した上で、「11人の陪審員のほとんど親米的立場から被告たちに冷淡だったが、1人の陪審員の熱心な追求により、ついに無罪の陪審評決にこぎつける。だが、裁判長は意外にも実刑判決を下したのである。占領というものの過酷な実態を、あらためて思い知らされるドキュメントである。」と評価している。《証拠略》によれば、読売新聞の昭和52年9月の紙面の書評は、「ただ1人の戦い えぐられた占領の実態と本質」という表題で、正確に「逆転」の内容を要約した上で、「沖縄占領の実態と本質をえぐると同時に、裁判一般の内包する危険性を証明した作品である。」と評価している。《証拠略》によれば、昭和52年10月31日の朝日新聞は、「ほとんどの固有名詞は実名であるというのだから、きわめて記録性の強い作品となっている。」「陪審員による裁判には馴染みの薄いわれわれには、法廷でのその正式選定に至るまでの手続の描写なども、……興味深い。」「アメリカの支配下にある沖縄人がどれほど不平等で屈辱的な日々を生きることを強いられたかが、ここでも明らかにされているのだが、その実態が冷静で知的な裁判劇に近い形をとって描き出されているところに本書のなによりの特長がある。」と評価している。《証拠略》によれば、昭和52年9月に東京新聞に掲載された書評は、「12人の恐れる男たち」は絵空事だと信じていた筆者は、現実に映画どおりのスジが、しかもより劇的な形で展開されたことを知って、言いしれぬ感動を覚えた。」と評価している。
[43] 右の書評等からすると、「逆転」に対して社会一般が与えた評価は、アメリカ合衆国占領下の沖縄の状況(裁判においても企業経営においても沖縄人が不当な差別を受けていたこと)を紹介したものとして意義があること、一般になじみの薄い陪審制度を、裁判手続を通じて詳細に紹介してその具体的内容を明らかにし、陪審制度のもつ長所を紹介したものとして意義があること、ち密で詳細な記述が真実の持つ重みを出していることなどである。

[44] 前記二に認定した「逆転」の内容と右2及び3に認定した事実を総合すると、「逆転」の主題のうち、陪審裁判制度が良いものであること、それにもかかわらずアメリカ合衆国の占領下における陪審裁判のあり方は歪められていたこと、アメリカ合衆国占領下の沖縄人が政治・経済活動において不当な制約を受けていたことなどの事柄については、公の利益に関するものであるといってよく、「逆転」を執筆した原告の目的(右2に認定したもののうち第二のものを除いたもの)は公益を図る目的に出たものと評価することができる。
[45] しかし、原告が執筆の目的としたもののうち、第二の目的、すなわち、一般の人々は、原告に懲役3年の実刑判決が言渡されたことから、これに目を奪われてしまい、本来の公訴事実であるウイリアムスに対する傷害致死罪、オズボーンに対する傷害罪については陪審の評決はいずれも無罪であったのに、全面的に有罪であるかのような誤った印象を当時の沖縄の人々は持ったので、原告らのためにもこれを是正する必要があるということについては、これを公益を図る目的であると認められないし、この目的のために記述した部分は公の利益に関する事実ということはできない。すなわち、このような目的が公益を図るものと認められ、そのために記述した事実が公の利益に関する事実と認められるためには、当該被告人とされた人物(本件でいえば原告ら)にとって、事実関係を明らかにされることによって受ける不利益よりも得る利益の方が大きいことが必要であるというべきである。本件につき検討するに、まず、被告は世間の誤った印象を正すというが、原告が生活している本土においては本件事件ないし本件裁判についての報道はなされなかったから、そもそも誤った印象すら存在しなかったし、沖縄においても、12年余を超える年月を経て事件のことを記憶している人がどの程度いるかは疑わしく、また、前記三2、(八)、(九)において認定したように、事件当時の沖縄タイムスも琉球タイムスも、見出しはともあれ、その本文において原告らが有罪とされたのはウイリアムスに対する傷害致死のうちの傷害の部分についてだけであることを正確に報道しており、したがって、誤った印象を正す必要性があるとは言い難い(新聞記事すら正確に読めない人は、詳細かつち密に記述された「逆転」を正確に理解することはできないであろうし、読者になるかどうかも疑問である。)。さらに、前記二4において認定した「逆転」の内容によれば、「第三部 紛糾また紛糾」において被告を除く他の10人の陪審員の認定では、原告らは完全に有罪であること、原告こそ喧嘩の張本人とまで認定されていたこと、下駄(致命傷を与えられるものではないが)についていた毛髪などから原告が死亡したウイリアムスの頭部を殴打したことは動かしがたい事実であることなどが明らかにされ、「二 1対10の絶望的戦い」では、被告も、米兵に挑発されたとはいえ原告が4人の中では最も喧嘩に積極的であると認定していることが明かにされ、「三 共謀共同正犯」では、オズボーンに対する傷害罪について無罪の評決がなされるが、それは被告人らが殴っていないから無罪なのではなく、乙山春夫以外の3名の被告人も受傷しているのであるから、喧嘩両成敗とすべきところ、オズボーンを不問に付し被告人らだけの責任追及は片手落ちであるということを主な論拠として無罪とされたことが明らかにされ、「四 逆転」では、ウイリアムスに対する傷害致死の公訴事実のうち、まず、傷害罪について有罪の評決を決めたこと、被告も乙山春夫以外の3人については傷害行為は否定し難いと考えていたこと、次いで傷害致死についての評決においては、被告は他の陪審員の中にある乙山春夫に対する同情論を挺子にし、ハング・ジューリーを避けようとする他の陪審員の心理状態を利用して粘り、さらには、ウイリアムスについて一応成立している傷害罪についての有罪の評決への同意を撤回することをちらつかせて、ついに全員について無罪の評決を得たことが明らかにされている。そして、被告を除く他の10人の陪審員は、本当は原告ら全員を有罪と思っていたということや、原告が下駄を使用して4人の中ではかなり積極的に米兵と殴り合ったが明らかにされることは、原告にとって明らかに不利益であると考えられる(いわゆる灰色無罪の場合において生じるこのような事態を避けるためにも陪審評議の内容は秘密とされるのであり、被告は陪審員の名前さえ仮名にしておけばよいと考えたようだが、全くの誤解というべきである。)。被告の訴える本件裁判の不当性は最刑の不当につきるのであり、全く何もしていないから無罪であるとされる場合と異って事実関係を明らかにされることによる原告ら(但し、乙山春夫の場合はやや事情が異なる。)の利益はほとんどないというべきである。原告らが不服を申し立てなかった量刑不当の裁判につき服役が終って10年余近くも経過してからその不当性を個別的に非難することが原告らの利益になるとは言い難い。さらに、前に認定したところによると、被告による「逆転」の著作、それに基づくNHKのテレビドラマ化の過程で原告の職場の人々や原告の妻が原告の前科を知ることとなったのであり、そのことによる原告の精神的苦痛は大きいものというべきである。結局、被告が「逆転」著作の目的としたもののうち、原告らに対する誤った印象を是正するという目的は、公益を図るためのものとは言い難たい。

[46] 次に被告の「逆転」著作の目的のうちで公益を図るものと認められる前記第一、三の目的との関係で、あるいは主題としている事柄のうち公の利益に関するものについて記述するために、原告の実名を使用することが必要不可欠であったかどうかについて検討する。
[47] まず、アメリカ合衆国占領下において沖縄人の政治・経済活動が不当な制約を受けていたことを記述するために原告の実名を使用する必要性のないことは明らかである。また、陪審制度の長所を知らせるためであれば、原告については仮名であっても何の差し支えもない筈である。さらに、本件裁判がアメリカ合衆国の占領下にあるという特殊事情によって歪められたということを訴えるためにも、原告の実名を使用する必要はなかったものと認められる。被告は、実名使用の必要性について、世間の誤った印象を正す必要があるということのほかに、仮名を使用すると虚構が自由になり真実性が失われること、「逆転」は記録という性格を持った著作であるから実名の使用は不可欠であることなどを挙げるが、被告が「はしがき」において明らかにしているように、「逆転」においてもっとも重要な登場人物である陪審員(被告を含む)についてはすべて仮名にしていることからして、被告の主張は何らの説得力を持ち得ないものというべきである。被告は、陪審員について仮名にしたのは、「陪審評議の内容を外部に洩らすことを禁じる法律的及び道徳的な制約からである」(「はじめに」の部分参照)とするが、前記のとおり、陪審評議の内容を暴露したのが「逆転」なのであって、陪審員の名を仮名にすればすむというものではなく、到底採用できない主張である。さらに、証人玉井勇夫もNHKのドラマについて述べているが、承諾が得られていた丙川夏夫と乙山春夫について実名を使用できるのであれば、作品のもつ真実性には何の影響もなかったというべきである。以上によれば、原告の実名を使用する必要性が認められないのであるから、「逆転」自体に一定の公益的価値が認められるとしても、原告の実名を使用して原告に前科があることを公表することは、公の利益に関するものとして許容することはできないというほかない。

[48] 以上1ないし5によれば、被告の抗弁2には理由がない。

[49] 抗弁3につき判断するに、人はそのたずさわる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に又ぼす影響力の程度いかんによっては、その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として必要とされるために、私的な事柄であっても公共の利害に関する事実とされ、その公表を受忍しなければならないことがあるが(前記の最高裁昭和56年4月16日判決参照)、原告について、かかる地位を認むべき事実関係は証拠上窺うことはできない。被告は、自発的意思によらないで民衆の正当な関心の的になった者も「公の人物」といって差し支えないと主張するが、かかる見解を採用するとしても、本件に関していえば、単に犯罪者として新聞に報道されたというだけでなく、世間を驚かせるような犯罪の実行者であることを要するとすべきであり、原告についてはそのような事実はなく、さらに、前記のとおり、新聞報道がなされたのは沖縄だけであり、しかもその時から12年余という月日が経過していたことを考えれば、原告が昭和52年当時において「公の人物」であるとすることはできない。抗弁3は失当である。

[50] 抗弁4につき判断するに、「公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事であるような事柄については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ、論評が公正であるかぎりは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない。」という原則が本件についても適用されるべきであると被告は主張するが、右の考え方自体がそもそも一定の事実(それ自体公表を否定されないものである。)を前提として、意見・批判の自由を確保するためのものであって、事実の公表自体が問題となっている本件事案には適用の有無を論ずる余地はないというべきである。また、不法行為の成立については過失で足りるとするのが現行法(民法第709条)の態度であるから、「現実的悪意」がないかぎり免責されるべきであるとの被告の主張は到底採用できない(そもそも、「現実的悪意」がなければ免責されるという考え方は、誤りを含む陳述は自由な討議においては避け難いものであるとの考慮から出てきたものであって、本件のように、事実が事実であることを前提として責任の追求をしているような場合には適用の余地はないというべきである。)。また、被告は「逆転」のあとがきにおいて、原告らの古傷にふれるようなことはしたくなかったし、本名を出すことにも少なからぬ躊躇を覚えたと自陳しているのであるから、善意のつもりであったにせよ、被告には重大な過失がある。
[51] 被告の抗弁4は主張自体において失当であるというほかない。

八 原告の損害

[52] 請求の原因3(一)の事実のうち、NHKが昭和53年9月上旬ころ放映の予定で「逆転」のテレビドラマを作成しようとしたこと、その過程で原告が「逆転」の存在、原告の実名が使用されていること、NHKも原告の実名を使用して放映しようとしていることを知ったこと、原告がNHKによる「逆転」の放映及び今後の出版にあたって原告の実名が使用されないようにするため、東京法務局人権擁護部に相談してNHK、被告、訴外株式会社新潮社に対して原告の実名を使用しないように働きかけてもらったこと、原告が昭和53年9月13日にNHKを相手方として東京地方裁判所にテレビ放映禁止の仮処分を申請したこと、翌14日、原告とNHKが同裁判所の審尋期日において和解したことは当事者間に争いがなく、これに《証拠略》を総合すれば、原告の前科はそれまで原告の勤務先の人も、原告の妻も、近隣の人々も誰も知らなかったのに知るところとなったこと、その過程で原告は、会社から経歴詐称ということで馘首されるのではないかと不安に苛まれたり、妻に離婚されるのではないかとの恐れを持ったこと、しかし、NHKの玉井勇夫などの助力もあって会社から馘首されるようなことはなかったこと、妻はこのことを知って困惑したが理解してくれたこと、結局、原告に具体的不利益はあまり生じていないこと、右の問題が生じたのは「逆転」の本それ自体によるというよりもNHKによるテレビドラマ化が直接の原因であることなどの事実が認められる。また、前記五の認定によれば、被告自身は原告にとって利益となると判断して実名を使用した面がある。以上の事情を総合判断すると、原告の「逆転」の出版に伴なう精神的苦痛を慰藉するには金50万円をもって相当であると認める。

九 結論

[53] 以上によれば、原告の本訴請求は金50万円の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第89条、第92条を、仮執行の宣言につき同法第196条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第10部
    裁判長裁判官 根本久
    裁判官    斉木敏文
 裁判官飯島悟は退官につき署名捺印することができない。
    裁判長裁判官 根本久

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