砂川事件
跳躍上告審判決

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件
最高裁判所 昭和34年(あ)第710号
昭和34年12月16日 大法廷 判決

上告人 東京地方検察庁検事正 野村佐太男

被告人 坂田茂 外6名
弁護人 海野普吉 外282名

検察官 清原邦一 村上朝一 井本台吉 吉河光貞

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官田中耕太郎の補足意見
■ 裁判官島保の補足意見
■ 裁判官藤田八郎、同入江俊郎の補足意見
■ 裁判官垂水克己の補足意見
■ 裁判官河村大助の補足意見
■ 裁判官石坂修一の補足意見
■ 裁判官小谷勝重の意見
■ 裁判官奥野健一、同高橋潔の意見

■ 検察官東京地方検察庁検事正野村佐太男の上告趣意


 原判決を破棄する。
 本件を東京地方裁判所に差し戻す。


 東京地方検察庁検事正野村佐太男の上告趣意について。

[1] 原判決は要するに、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法9条2項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約3条に基く行政協定に伴う刑事特別法2条が、憲法31条に違反し無効であるというのである。

[2]、先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および98条2項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
[3] そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

[4]、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条、98条2項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
[5] しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和27年4月28日条約5号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約6条(a)項但書には「この規定は、1又は2以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される2国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国60箇国中40数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。
[6] ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

[7]、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその3条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約1条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに1または2以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。
[8] 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和27年2月28日その調印を了し、同年3月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和27年3月25日に行政協定が憲法73条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月26日に行政協定は安全保障条約3条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法73条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約3条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。)

[9] しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法2条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。
[10] よつて刑訴410条1項本文、405条1号、413条本文に従い、主文のとおり判決する。

[11] この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官田中耕太郎の補足意見は次のとおりである。

[1] 私は本判決の主文および理由をともに支持するものであるが、理由を次の二点について補足したい。

[2]、本判決理由が問題としていない点について述べる。元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によつて立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入つたということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法2条を適用するだけで十分であつた。しかるに原判決は同法2条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法9条2項に違反するものとし、刑事特別法2条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたつた。
[3] 私は、かりに駐留が違憲であつたにしても、刑事特別法2条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。
[4] およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであつても、一応その事実を承認する前提に立つて法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向つて排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによつて、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存するが、その最も簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であつても、国内に在留するかぎり、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや。
[5] 本件において、もし駐留軍隊が国内に現存するという既定事実を考慮に入れるならば、国際慣行や国際礼譲を援用するまでもなく、この事実に立脚する刑事特別法2条には十分な合理的理由が存在する。原判決のふれているところの、軽犯罪法1条32号や住居侵入罪との法定刑の権衡のごとき、結局立法政策上の問題に帰着する。
[6] 要するに、日米安全保障条約にもとづくアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題は、本来かような事件の解決の前提問題として判断すべき性質のものではない。この問題と、刑事特別法2条の効力との間には全く関連がない。原判決がそこに関連があるかのように考えて、駐留を違憲とし、従つて同法2条を違憲無効なものと判断したことは失当であり、原判決はこの一点だけで以て破棄を免れない。

[7]、原判決は一に指摘したような誤つた論理的過程に従つて、アメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性に関連して、憲法9条、自衛、日米安全保障条約、平和主義等の諸重要問題に立ち入つた。それ故これらの点に関して本判決理由が当裁判所の見解を示したのは、けだし止むを得ない次第である。私は本判決理由をわが憲法の国際協調主義の観点から若干補足する意味において、以下自分の見解を述べることとする。
[8] およそ国家がその存立のために自衛権をもつていることは、一般に承認されているところである。自衛は国家の最も本源的な任務と機能の一つである。しからば自衛の目的を効果的に達成するために、如何なる方策を講ずべきであろうか。その方策として国家は自国の防衛力の充実を期する以外に、例えば国際連合のような国際的組織体による安全保障、さらに友好諸国との安全保障のための条約の締結等が考え得られる。そして防衛力の規模および充実の程度やいかなる方策を選ぶべきかの判断は、これ一つにその時々の世界情勢その他の事情を考慮に入れた、政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。法的に認め得ることは、国家が国民に対する義務として自衛のために何等かの必要適切な措置を講じ得、かつ講じなければならないという大原則だけである。
[9] さらに一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従つて一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。
[10] およそ国内的問題として、各人が急迫不正の侵害に対し自他の権利を防衛することは、いわゆる「権利のための戦い」であり正義の要請といい得られる。これは法秩序全体を守ることを意味する。このことは国際関係においても同様である。防衛の義務はとくに条約をまつて生ずるものではなく、また履行を強制し得る性質のものでもない。しかしこれは諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的な道徳秩序すなわち国際協同体の理念から生ずるものである。このことは憲法前文の国際協調主義の精神からも認め得られる。そして政府がこの精神に副うような措置を講ずることも、政府がその責任を以てする政治的な裁量行為の範囲に属するのである。
[11] 本件において問題となつている日米両国間の安全保障条約も、かような立場からしてのみ理解できる。本条約の趣旨は憲法9条の平和主義的精神と相容れないものということはできない。同条の精神は要するに侵略戦争の禁止に存する。それは外部からの侵略の事実によつて、わが国の意思とは無関係に当然戦争状態が生じた場合に、止むを得ず防衛の途に出ることおよびそれに備えるために心要有効な方途を講じておくことを禁止したものではない。
[12] いわゆる正当原因による戦争、一国の死活にかかわる、その生命権をおびやかされる場合の正当防衛の性質を有する戦争の合法性は、古来一般的に承認されているところである。そして日米安全保障条約の締結の意図が、「力の空白状態」によつてわが国に対する侵略を誘発しないための日本の防衛の必要および、世界全体の平和と不可分である極東の平和と安全の維持の必要に出たものである以上、この条約の結果としてアメリカ合衆国軍隊が国内に駐留しても、同条の規定に反するものとはいえない。従つてその「駐留」が同条2項の戦力の「保持」の概念にふくまれるかどうかは――我々はふくまれないと解する――むしろ本質に関係のない事柄に属するのである。もし原判決の論理を是認するならば、アメリカ合衆国軍隊がわが国内に駐留しないで国外に待機している場合でも、戦力の「保持」となり、これを認めるような条約を同様に違憲であるといわざるを得なくなるであろう。
[13] 我々は、その解釈について争いが存する憲法9条2項をふくめて、同条全体を、一方前文に宣明されたところの、恒久平和と国際協調の理念からして、他方国際社会の現状ならびに将来の動向を洞察して解釈しなければならない。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持つていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない。
[14] 憲法9条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まつて不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによつてわが国が平和と安全のための国際協同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去つて普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法9条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。
[15] かような観点に立てば、国家の保有する自衛に必要な力は、その形式的な法的ステータスは格別として、実質的には、自国の防衛とともに、諸国家を包容する国際協同体内の平和と安全の維持の手段たる性格を獲得するにいたる。現在の過渡期において、なお侵略の脅威が全然解消したと認めず、国際協同体内の平和と安全の維持について協同体自体の力のみに依存できないと認める見解があるにしても、これを全然否定することはできない。そうとすれば従来の「力の均衡」を全面的に清算することは現状の下ではできない。しかし将来においてもし平和の確実性が増大するならば、それに従つて、力の均衡の必要は漸減し、軍備縮少が漸進的に実現されて行くであろう。しかるときに現在の過渡期において平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法9条2項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない。
[16] 要するに我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立つて、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、真の平和主義に忠実なものとはいえない。
[17] 我々は「国際平和を誠実に希求」するが、その平和は「正義と秩序を基調」とするものでなければならぬこと憲法9条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち「法の支配」と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。
[18] 以上の理由からして、私は本判決理由が、アメリカ合衆国軍隊の駐留を憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断した原判決を、同条項および憲法前文の解釈を誤つたものと認めたことは正当であると考える。


 裁判官島保の補足意見は次のとおりである。

[1] 日本国憲法9条はわが国の自衛権そのものを否定するものではないこと、同条2項にいう戦力とは、わが国の指揮管理下にある戦力を意味し、かかる状況にない外国軍隊の戦力をいうものでないと解すべきことについては、多数意見に同調するものである。
[2] 憲法9条2項を以上の趣旨に解する以上、わが国がその指揮管理下に戦力を保有すること以外のいかなる手段方法によつてわが国の存立をまつとうすべきかということ(従つて、わが国の指揮管理下に立たない外国の軍隊に依存してその自衛をまつとうすべきかということ)については、わが憲法は、直接これを規定することなく、政治部門の裁量決定に委ねる趣旨と解さざるを得ない。もとより、わが憲法の基本精神が平和主義・国際協調主義にある以上、政治部門がこのことを決定するに当つては、できるかぎりこの精神に忠実でなければならないことは当然であり、この意味において、平和主義・国際協調主義の精神が政治部門の政策決定の基本方針ないし裁量決定の基準となるものと解さねばならない。従つて、この点に関する政治部門の裁量権には一定の限界があり、明白に平和主義・国際協調主義の精神を裏切るような決定は許されないものと解すべきであるが、その反面において、いやしくも、政治部門の政策決定が裁量権の限界を超えるものではないと認められる以上、本来政治に関与すべきでない裁判所が、右政策決定の当否に立ち入つてこれを問議すべきでないことは当然である。
[3] そこで、本件の問題は、わが国の政治部門が安全保障条約(以下安保条約という。)を締結してアメリカ合衆国軍隊をわが国に駐留させることによりわが国の存立をまつとうしようと決定したことが、平和主義・国際協調主義の精神に明白に反し、裁量権の限界を超えるものと認められるかどうかということにある。この観点から考えてみるに、この条約は、軍国主義がまだ世界から駆逐されていないのにわが国が武装を解除され、固有の自衛権を行使する有効な手段をもたなくなつたので、その防衛のため暫定措置を講ずる必要があるとの見地に立つて締結されたものであり、同条約は、国際連合軍による日本区域における安全保障措置が効力を生じた時にその効力を失うものであることは、その明文上明らかである。これによつてみれば、わが国の政治部門は、国際社会になお侵略戦争の危険があるとの認識を基礎として、世界の平和と安全を維持するための機構である国際連合がなお理想的機能を発揮し得ない国際情勢にかんがみ、わが憲法の平和主義・国際協調主義の精神にできるかぎり添いつつわが国の存立をまつとうする手段として、さし当り、安保条約を締結して合衆国軍隊を駐留させることが最も適切な方法であるとの決定に到達したものであることは明らかである。されば、右決定の基礎となつた世界情勢の判断をもつて、明白に誤りであると断定し得ない以上、この判断を基礎としてなされた政治部門の決定が明白に平和主義・国際協調主義の精神に反し裁量権の限界を超えるものと断定し得ないことも当然である。もとより、世界情勢の認識については、右と異なる判断もあり得ないわけではなく、右と異なる政治的判断を基礎として、わが国にいずれの外国軍隊をも駐留させないことがかえつてわが国の平和と安全を維持する所以であると説くことは、一の政策論として、必ずしも不可能ではないであろう。しかし、われわれは、世界情勢についての互に相異なる二つの判断のうちいずれか一方が明白に誤りであると断定すべき根拠を発見し得ないし、現下の世界情勢の下で、何人も、わが国にいずれの外国の軍隊をも駐留させないことによつてわが国の平和と安全を保持し得ることを疑を容れないまでに明確に論証することは不可能であろう。問題は、現下の世界情勢の下で、できるかぎり平和主義・国際協調主義の精神に添いつつわが国の平和と安全とをまつとうする方法として、いずれの外国の軍隊をもわが国に駐留させない方式と、安保条約を締結して合衆国軍隊を駐留させる方式と、いずれの方式がいつそう有効適切であるかということにあり、われわれは、後の方式が前の方式に比して明確に不適切なものであると断定すべき手掛を発見し得ない以上、わが国の政治部門が後の方式を決定したことをもつて、裁量権の限界を超えるものと断定することは許されないものといわねばならない。しかも、この点の決定は、わが国の運命に関する重大な政治的決断を含むものであり、内閣が成規の手続により条約としてこれを締結し、国会の承認を得、さらに数次の選挙を通じて大多数の国民の支持を得ているところである。してみれば、政治部門の右決定は、憲法によつて委された裁量権の範囲内における最終決定として尊重さるべきことは当然であり、本来政治に関与すべきでない裁判所がかかる政策決定の当否に立ち入つてこれを審査することは、わが憲法の期待しないところと解さざるを得ない。以上の理由により、わが政治部門が安保条約を締結して合衆国軍隊を駐留させたことが違憲といい得ない以上、これが違憲であることを前提として本件刑事特別法2条の規定が無効であると判断した原判決は失当であり、破棄を免れない。


 裁判官藤田八郎、同入江俊郎の補足意見は次のとおりである。

[1] われわれは多数意見に同調するものであるけれども、左に補足意見として多数意見に同調する所以を明らかにする。

[2]、日本国憲法は、立法、行政、司法の三権の分立を確立し、司法権はすべて裁判所の行うところとした(76条1項)。また、裁判所法は、裁判所は一切の法律上の争訟を裁判するものと規定し(3条1項)、民事、刑事のみならず行政事件についても、事項を限定せず概括的に司法裁判所の管轄に属するものとせられ、さらに、憲法は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを審査決定する権限を裁判所に与えた(81条)。これらの結果、国の立法、行政の行為は、それが法律上の争訟となるかぎり、違憲審査を含めて、すべて裁判所の裁判権に服することとなつたのである。これがいわゆる司法権の優位として、司法権に、立法、行政に優越する権力をみとめるものとせられ、日本国憲法の一特徴とされるところである。
[3] しかしながら、司法権の優位にも限度がある。憲法の三権分立の構想において、その根幹を為すものは三権の確たる分立と共に、三権相互のチエツク(check)とバランス(balance)であつて、司法権優位といつても、憲法は決して司法権の万能をみとめたものでないことに深く留意しなければならない。たとえば、直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為は、たとえ、法律上の争訟となる場合においても、従つてこれに対する有効無効の法律判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものといわなければならない。この司法権に対する制約は、結局三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきである。
[4] そして、このことは、その沿革、理論上の根拠、これが対象となる行為の範囲等については、区々たる免れないけれども、ひろく欧米諸国において、すなわち、フランスにおいてはアクト・ド・グーベルヌマン(acte de gouvernemant)、イギリスにおいてはアクト・オブ・ステート(act of state)又はマター・オブ・ステート(matter of state)、アメリカ合衆国においてはポリチカル・クエスチヨン(political question)として古くから判例上みとめられ、戦後西独においてはボン憲法19条に関連し、レギールングスアクト(Regierungsakt)又はホーハイツアクト(Hoheitsakt)として学説上是認せられるところである。わが国においても、日本国憲法施行後、多くの公法学者によつて統治行為なる観念の下にみとめられるに至つたことは周知のとおりである。

[5]、本件において原判決は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法」2条は違憲無効の法律であるとして、これが適用を求める検察官の請求を斥けて被告人等に無罪の言渡をしたのであるが、原判決が刑事特別法2条を無効とする理由を原判文について検討すれば、同法同条は、わが国に駐留するアメリカ合衆国軍隊の施設又は区域内の平穏に関する法益を保護するために設けられた規定であるが、わが国が「合衆国軍隊の駐留を許容していることは、憲法9条2項前段によつて禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するもの」であつて「わが国に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるもの」であるから、その施設又は区域内の平穏に関する法益保護のため特に設けられた刑事特別法2条は究極するところ憲法31条に違反することとなり無効であるというに帰する。すなわち、原判決はわが国に合衆国軍隊の駐留を許容する行為が憲法違反であることを前提として、刑事特別法2条を無効としているものであることはあきらかである。そして、わが国が合衆国軍隊の駐留を許容する行為として、その基幹を為すものは、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」であつて、合衆国軍隊の駐留は右条約の履行として為されているのであるから、当審において原判決の当否を審査するにあたつては、まず右安全保障条約自体が憲法に違反するかどうかの点を審査しなければならないものであることは、多数意見の説示するとおりである。

[6]、日米安全保障条約は、日本国と連合国との間に昭和26年9月8日調印された「日本国との平和条約」(昭和27年条約第5号)と同日に署名され、平和条約第6条(a)但書の規定に基いて、平和条約発効後におけるわが国の安全のための措置として、アメリカ合衆国との間に締結されたものであつて、平和条約と不可分の関係に立つものである。そして、この保障条項は、いわゆる対日講和7原則の第4「安全保障」に由来するものであり、武装解除後防衛力をもたぬわが国の真空状態を、いかにしてその安全を保障するかに関して、かねて、アメリカ合衆国政府が来るべき平和条約の一要綱として各連合国と折衝したところにもとづくものであつて、実質的には平和条約の一内容を為すものといつても必ずしも過言ではないのである。
[7] 平和条約は日本国と連合国との間の戦争状態を終了せしめ、日本国の完全な主権を回復し、日本国をして今後独立国として世界各国の間に伍して国際社会において名誉ある地位を占めることを得しめる、わが国にとつて、国の興廃にも関するきわめて重要な条約であることはいうまでもないところであつて、かくの如き条約こそ、国家統治の根本に触れた最も高度の政治性を具有する条約であるといわなければならない。そして、わが国は敗戦国であり、当時なお、被占領の状態にあり、独立の国家間の条約のごとく、自由対等の立場において、平和条約を締結し得る場合でなかつたこともこの条約の性格を検討するにあたつてはとくに考慮すべき事柄である。変転きわまりなき複雑な国際情勢下において、かかる条約の折衝にあたることは多分に高度の政治的考慮を要するものであることはもとより、いうまでもないところであろう。以上の意味において、平和条約ならびにこれと一体不可分の関係にある日米安全保障条約は、その政治性はきわめて高度であるといわなければならない。

[8]、われわれは日本国憲法の下においても、司法権の本質に由来する司法権の限界としていわゆる統治行為の観念を是認すべきものと考えるのであるが、統治行為の観念については、これをみとめるべき範囲に関し、諸種の問題はあるとしても、いやしくも統治行為なる観念をみとめる以上、本件日米安全保障条約のごときものこそこれに該当するものと考えざるを得ないのである。もとより政府がかかる条約を締結し、国会がかかる条約を承認するにあたつては、その自らの責任においてこれが合憲性を審査判断すべき国法上の義務あることは勿論であるが、裁判所としては、かくのごとき国家行為については、原則として、これら政治部門の判断を容認すべきであつて、換言すれば、かかる条約の違憲性のごときは裁判所の審査権の埓外にありと結論せざるを得ないのである。そして、このことは本件におけるがごとく、安全保障条約の有効無効が、直接訴訟の対象として判断をもとめられているのでなく、本件適用法条たる刑事特別法2条の有効無効を判断するにつきその前提問題として取り上げられている場合であつてもその理由は同じであつて、ひとしく裁判所の審査の外にあり、その結果、裁判所としては右条約は合憲有効であるとの前提に立つて審査をすすめるほかはないのである。(われわれは安全保障条約は条約なるが故に裁判所の審査権の外にあるというのではない。条約は憲法と並んで、若しくはこれに優位する国の最高法規であるから違憲審査の対象にならないとか、或は条約はすべて国際的性質を有するものであるから、一国の裁判所の審査権に服さないとかいう説はわれわれの左袒しないところである。条約も、その国内法的効力は原則として裁判所の審査に服するものと考えるのであるが、本件安全保障条約のごとき、前述のごとく最も政治性の高いもの、いわゆる統治行為に属する条約は、統治行為なるの故をもつて、その国内法的効力もまた裁判所の審査権の外にあると考えるものである。)
[9] なお、最後に考えるべき問題がある。統治行為は右に述べたごとく裁判所の審査権の外にあるとしても、問題となる行為がいわゆる統治行為の範疇に属するかどうかは、もとより裁判所の判断によつて決すべきであるのみならず、当該行為が統治行為の範疇に属するものとせられた場合においても、若しその行為が実は実体上不存在であるとか、またはその行為があきらかに憲法の条章に違反するがごとき、一見明白にその違憲性が顕著なる場合には、(かくのごときことは実際問題としては、ほとんど考えられないことであろうけれども)例外として、裁判所によつて、その不存在、若しくは違憲を宣明することができるということである。かくのごとき場合にも、尚かつ裁判所の審査を除外すべき何等の合理的理由はないからである。多数意見が本件安全保障条約については原則として裁判所に審査権なしとしながら、以上の限度において、同条約について、右のごとき意味における違憲の点のない旨を判示したのはこの考え方によるものであると理解する。

[10]、しかるに、原判決は如上説示のごとき裁判所の審査権の範囲を超えて、本件安全保障条約について、その条項に立入つて違憲性を審査し、ひいて同条約にもとづく合衆国軍隊の駐留を違憲なりと断定し、その前提に立つて刑事特別法2条の無効を判示したのは、いわゆる統治行為に対する裁判所の審査権の限界に関する解釈をあやまつたことによるものであつて、原判決はこの点において破棄を免れないものである。

[11](行政協定の承認について。「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定」が性質上条約であつて憲法73条3号但書により国会の承認を必要とするものであることは論を待たないところである。そして、これが承認は、事前にせよ事後にせよ、国会において、協定の内容について十分に検討した上でなさるべきことは、まさに憲法の要請するところであると信ずる。――アメリカ合衆国上院が本件安全保障条約を承認するにあたつて、特に右行政協定の内容を検討した上で条約の承認をしたことは、もつて範とすべきであろう。――しかしながら、この行政協定の承認に関しては、政府は行政協定の根拠規定たる安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては参議院においても、衆議院においても、行政協定は特に国会の承認を経べきものであるとする決議案を否決したことは多数意見の説明するとおりであり、殊に本件において問題とされているのはアメリカ合衆国軍隊駐留の施設、区域に関するものであるが、この事項に関するかぎり行政協定は安全保障条約3条に対する国会の承認によつて包括的に承認されているとの解釈もあながち不当とはいえないのであつて、裁判所としては国会の承認というがごとき国会の行為に関しては、政府および国会の右見解を容認することが結局、三権分立の趣旨に沿う所以であると思料する。)

[12] 以上の理由によりわれわれは多数意見に同調するものである。


 裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。

一、争点と本判決理由の構成

[1] 原判決は次のような趣旨のことをいう「わが国が日米安全保障条約(その国内法的部面)により米軍の駐留を許容していることは憲法9条2項前段の禁止する戦力の保持に当たる。だから駐留米軍は右憲法の条項上存在を許されないものである。ほかならぬ憲法がその存在を許さないものであるということこそ、駐留米軍の施設または区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益以上の厚い保護を受けるべき合理的理由がないとされるべき唯一の、しかし何よりも有力な根拠である。すなわち、原判示の刑事特別法2条は駐留米軍を保護するため軽犯罪法1条32号所定の一般の場合よりも特に重い刑をもつて臨むものであるから、結局、右特別法2条は何の合理的理由もないのに駐留米軍を特に厚く保護するものであり、「何人も「適正な」(垂水註、この3字に注意)手続によらなければ刑罰を科せられない」ことを趣旨とする憲法31条に違反し無効なものである。被告人らが起訴状記載通りの行為をした事実は証拠により認められるが、これに対しては違憲無効な刑事特別法2条は適用すべき限りでない。彼等の行為は起訴状に明示された訴因としては犯罪を構成しない。」と。
[2] これに対し、上告趣意はいう「右刑事特別法2条は駐留米軍の施設、地域内の平穏に関する法益を一般のそれよりも厚く保護すべき数個の合理的理由があるから憲法31条に違反しない(第一点)。米軍の駐留を許容する日米安全保障条約も憲法9条2項前段に違反しない(第二点)。のみならず、元来、同条約(その国内法的部面)についても、またこれに関する政府の締約行為や国会各院の承認行為についても、それらが憲法に適合するか否かを判断することは、憲法上、司法裁判所の違憲審査権の限界外にある。原判決が同条約とこれに基く米軍の駐留を違憲とした判断は憲法の解釈を誤り裁判権の限界を越えた失当のものである(第三点)」と。
[3] であるから、本判決において判断されるべき主要問題は、刑事特別法2条は原判示のような理由で憲法31条に違反するといえるかどうかである。
[4] では、先ず大前提である憲法31条の趣旨如何。これについてはわが国に2つの説があると思う。第1説は大体次のような説である「同条の趣旨は、何人も国会を通過した法律(手続法)に定めた手続によらなければ、刑罰その他これに近似する刑事、民事もしくは行政上の不利益な裁判、処分、措置を受けない、のみならず、裁判所が刑罰手続等において準拠すべき裁判規範としての実体法(刑法等)も不適正、不正義な、すなわち、憲法の人間尊重、人権、自由尊重の基本的精神に背くことが明白なものであつてはならない、かような意味で明白に不適正な刑罰法規は憲法の他の条項に直接違反しなくても憲法31条違反となる、というのである」と。(原判決はこのような説に属すると解される。)
[5] 第2説はいう「憲法31条は単に刑罰その他これに近似する不利益措置は国会を通過した手続法によらなければ科せられない、というだけで、実体法(刑罰法規等)が第1説のいう意味で明白に不適正、不合理的なものでないことをまで必要とする趣旨ではない」と。
[6] そこで、もし、本判決がこの第2説を採るなら、次のようにいえば足り、それでおしまいである。「憲法31条は、決して実体的刑罰法規が明白に合理的理由を欠くものであつてはならないという趣旨を含むものではない。原判決が刑事特別法2条は合理的理由を欠くものと判断し、その故に同条を憲法31条に違反する無効のものと断定したのは、その合理的理由を欠くとした法的理由の如何にかかわりなく憲法31条の解釈を誤つたものである」と。
[7] ところが、本判決はこのような趣旨を判示していない。だからといつて、本判決は第1説の適正手続説に従つた趣旨の判示もしていない、と解される。ただ、第2説に従うなら、訴訟法上不必要な、否、むしろ、してはならない判断までしている(裁判所は法律に従つて裁判しなければならない)ということになるところから見て、第1説の見地に立つていると解される余地はあるかも知れないが、私の解釈では、本判決が第1説の見地に立つことを暗黙に判示していると見るのも早計だと思う。
[8] 本判決は、私の解釈によると、次の趣旨に結論する。
[9] 「わが国の平和と安全ひいてはわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する条約については、一般の条約と異り、その内容が違憲なりや否やの法的判断は純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則として適しない性質のものであり、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは(憲法81条所定の)裁判所の審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべきものである。昭和32年7月8日当時砂川町所在立川飛行場内の土地を使用していた空軍を含む米国軍隊の駐留の基礎である日米安全保障条約およびその3条に基く行政協定は右のような高度の政治性を有する条約と解すべきであるから、その内容が違憲なりや否やの判断をすることは裁判所の審査権の範囲に属しない。(尤も右のような条約でも一見極めて明白に違憲無効と認められる場合には裁判所は違憲審査権を有するところ、右安全保障条約および行政協定は一見極めて明白に憲法9条2項前段に違反するものとは到底認められない。)原判決が同条約に基く米軍の駐留を憲法9条2項前段に違反し許すべかざるものと判断したのは、裁判所の審査権の範囲を逸脱し同条および憲法前文の解釈を誤まつたものであり、従つてこれを前提として本件刑事特別法2条を違憲と判断したことも失当である。(なお、右行政協定は、右特別法2条の関係においてこれをみても、右条約3条に基き米軍の配備を規律する条件を定めるもので、日米安全保障条約と同様の性質の条約であるから、しかる以上それが国会の承認を欠く違憲無効のものであるか否かの審査権も前同様の理由で裁判所には属しない)」と。
[10] 本判決によれば、原審が刑事特別法2条を憲法31条違反とした理由であるところの、右安全保障条約が憲法9条2項に違反するという判断は、裁判権の範囲を逸脱した憲法上従つてまた訴訟法上許されない判断である、故にこの無権限判断の上に立つて刑事特別法2条を合理的理由を欠くものとした原判決は、(a) 前記第1説的見地からいえば、「無権限判断に基いて右特別法2条を憲法31条違反と断じた違憲、違法(憲法81条の違憲審査権の解釈の誤、刑事特別法2条の解釈方法の誤)があるもので、その憲法9条2項前段の解釈が実体的に正当か否かは問うべき限りでなく、この最後の点は、上告審といえども審査しえないところである」といわねばならない。(b) もし、第2説的見地からいえば、当審としては、「右特別法2条は合理的理由を欠くという理由からは憲法31条違反とはいいえないから、原判決が右特別法2条は合理的理由を欠くから憲法31条に違反すると結論したのは、その合理的理由を欠くとした判断が無権限のものか否か、その内容が如何なるものかを問うまでもなく憲法31条の解釈を誤まつたものである」と判示して、それだけで原判決を破棄してよい筈である。
[11] 本判決は第1説、第2説いずれの見地に立つかを明らかにしないが、いずれの見地に立つにせよ原判示の理由からは右特別法2条が憲法31条違反といえない点では一致するのであつて、この結論的理由においては反対意見はないと解される。
[12] 本判決が、日米安全保障条約については裁判所は違憲審査権なしといいながら、これが憲法9条2項前段に適合するか否かについて判断し、そのために、わが国が固有の自衛権を有することから説き起こして憲法の右条項の趣旨を判示し、平和目的のため自らを防衛する手段として、わが国が主体となつて指揮管理権を行使しえない外国部隊に頼る途を選んで締結した日米安全保障条約およびこれに基いてわが国内に米軍を駐留させることは、少くとも「一見極めて明白に」憲法の右条項に違反するといえないという実体的憲法判断をまでしたのは、いうまでもなく、かような性質の条約であつても裁判所に違憲審査権のある場合に当らないかどうかを審査するためであつたと解される。
[13] 本判決は、本件刑事特別法の基く行政協定が形式的に国会の承認を欠く違憲無効のものか否かの点についても裁判所に違憲審査権がないことを念のため判示した。この判示は傍論ではあつても、わが訴訟法上は差戻後の裁判所を拘束する規範となろう。

二、裁判所の違憲審査権

[14] 裁判所は、国内法としての一般条約を含む一般の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する(憲法81条)。これが原則である。しかしわが憲法の三権分立の理念、司法権の性質、行使の仕方、その効果に照らし、例外として、ある種の国会各院の行為または政府の行為で、裁判所によつてそれが違憲であると決定されるに適しないため裁判所の審査権の対象から除外されるべきものがある。私は欧米の憲法上「統治行為」「裁判所の審査に服しない高権行為」もしくは「政治問題」などと呼ばれるものについて知るところがないが、わが国には、統治行為の観念はこれを定義しまたは悉く列挙する方法で明らかにすることは困難であるとしつつもこの名の下に国会の行為または政府の行為のうちには裁判所の違憲審査の対象とされるべきでないものが存するとの学説もあり、上告趣意第三点は明らかにこれを主張する。本判決は、この点を検討し、国内法としての日米安全保障条約(および同条約3条に基く行政協定)が「わが国の平和と安全ひいてはわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであつて裁判所の違憲審査には適しない性質のものである」と判定し、その故に、両条約が違憲なりや否やを審査することは憲法81条に定める裁判所の権限の範囲外のことであるとして司法権の一つの限界を示し、法律にも例外として裁判所の違憲審査に服しないものがあることを判示したのである。(本判決において、一般に条約とは、条約がその文言ないし趣旨どおり国法としての効力をも持つものとして公布されたものを指す。従つて一般国内法律と同じく憲法に違反するときは無効とされるのを原則とする。)この両条約の国際法上の効力を裁判所は否定できないが、すでに両条約についての政府の締約行為および国会の承認行為の違憲審査が司法権の限界外にある以上、これらに基いて出来上つた両条約の国内法的部面の違憲審査も権限外であるという訳である。裁判所の違憲審査権の限界を決定することも裁判所の権限であると考える。
[15] ところが、原判決は、「日米安全保障条約とこれに基く米軍の駐留が憲法9条2項前段に違反するから刑事特別法2条は憲法31条に違反する」と判決したのに対し、本判決は、「原審が権限なくして同条約を違憲であるとした判断に基いては右特別法2条を憲法31条違反と判断することは許されない。けだし、前記のような高度の政治性を持つ条約については、一般の条約その他一般の法律と異り、その内容が違憲か否かの判断は一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは裁判所の審査権の範囲外のものであつて、それは内閣および国会の判断に従うほかないからである。これは国内法律でも裁判所が例外として違憲審査権を持たない場合である。右安全保障条約および行政協定の内容は憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合しこそすれこれらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて無効であるとは認められない。」という。
[16] 思うに、条約内容が前記のような高度政治性のものであることが判つたら裁判所はその違憲審査権がないとの理由でそれが憲法9条2項に抵触するか否かについて判示せずその条約規定を遵守適用するほかないことを判示すれば足る筈である。思考の論理上条約内容を審査することによつてのみ、それが「違憲無効」、しかも「違憲無効であることが一見極めて明白だ」という判断が生まれるのだから、本判決は違憲か否かの実体的審査権があるかどうかの形式的審査(裁判所の権限審査)のためにその実体的審査をすることを認容するものの如くであるが、これは本件では必要でない判断であるとしても、判断しても差支ないであろう。(私は、判示のような高度政治性の法律についても、裁判所は、合憲か違憲かの実体的審査はしなければならず、する権限を持つのではないか、ただこの場合、かような高度政治性法律については、裁判所はこれを違憲と考えても、違憲と考えたことを理由としてこれを無効としてその適用を拒否する権限を持たないという制限を受けるのではないか、違憲審査権というものはそういうものではないか、という疑問は検討に値すると考える。)

三、刑事特別法2条と憲法31条

[17] 原判決のいうような理由では刑事特別法2条は憲法31条に違反するとはいえない。というのが訴訟法上本判決の主たる理由である。裁判所が前記第1説(適正手続説)の見地に立つて判決するとしても、このような場合判決理由中に右特別法2条の持つ合理的理由を一々判示する必要はないと考える。けだし、幾千に上る法律の中の一規定について憲法の全条項や他のすべての法律の規定との関連においてその合理的理由の総てを示すことは至難の業である。それほど個々の法条とその集積である全法体系の趣旨は含蓄に富みかつ流動的でもある。が、今、本件刑事特別法2条を是認すべき理由の一、二について触れてみよう。第一に、同法条に違反する犯罪行為は日米安全保障条約および行政協定3条に基いて米軍が日本国内およびその附近に具体的に配備され許されて特定の施設または地域を使用する状態が現実に発生したのでなければ起りえない。しかるに、米軍がわが国に駐留し特定の施設または地域を使用するのは右両条約に基くのであり、この両条約のわが憲法上の違憲性は国際法上米国に対抗できないから、両条約の違憲、合憲に拘らず、駐留米軍の使用する施設または地域の平穏を、軽犯罪法1条32号をもつて、一般の内外公私の施設または地域の平穏よりも少しく厚く保護することは一概に理由なしとなしえない。(かく保護しなければならないことはないが保護してもよい。立法政策の問題である。)第二に、刑事特別法2条が保護しようとする施設または地域というのは(a)条約に基き(b)わが国の平和と安全を防衛することを一の重要目的として駐留する(c)外国の(d)軍隊が使用するものである点において、わが国内に存する一般の内外公私の施設または地域と異る全く独特の存在である。軍隊は非常事態の勃発に際しては敏速機宜の組織的な広範囲の活動を出来る限り他人に阻害されないで行わなければならない。そのためには演習、移動の際その他平時においても軍隊ないしその従属者によるその施設、地域の使用の自由(軍人、軍属、家族等の組織的生活におけるその使用の自由)が特に十分に確保されていることが適切であつて、そこにみだりに人々がはいつたり障害物が持ち込まれたりしてはならない。(地域内の教会、家庭、映画館にいる軍人が軍務のため至急そこを飛び出し地域内の空地に集合しなければならない場合もあろう。)このことはわが国の安全にも関係する。また駐留軍使用の施設、地域には危険物がありうる。また、わが警察力はここに充分に及ばない。第三に、わが国を防衛するための駐留軍である以上、その使用する立入禁止の施設、区域にみだりに立ち入るために相互の誤解等によるトラブルなどが起り両国の友交関係に悪影響を及ぼすようなことがあつてはならない。そのために、あるいは単なる国際礼譲として、駐留米軍の法益を特に重く保護すべき理由も成立する。刑法92条が、外国に対し侮辱を加える目的でその国の国旗、国章を損壊、除去などする行為を処罰し、自国の国旗、国章の損壊について同様の処罰をしない(外国にも同様の立法例を見る。)のと同様の意味で、かような法益の保護も妥当とされよう。
[18] とに角、日米安全保障条約および行政協定がたとえ違憲であつても、わが政府がこれを理由として米軍の駐留を拒否せずこれを現実に国内に駐留させたからには、米軍は国際法上の大義名分すなわち権利があつて駐留しているのであるから、その面からみて、これを条約に基かないわが政府の単純な同意によつて一時的に滞在する外国軍隊と区別しそれよりも少しく厚く保護する刑事特別法2条のような立法をしても、これを適正でないことの明らかな憲法31条違反の刑罰法規とはいえないのではないか。


 裁判官河村大助の補足意見は次のとおりである。

[1] わたくしは多数意見に同調するものであるが、ただ日米安全保障条約(以下安保条約と略称する。)に対する判断につき、その理由簡に失する嫌いがあるので、この点についてのみ補足意見を述べる。

[2]、憲法9条において戦争を放棄し、戦力の保持を禁止したわが国が、その生存と安全を全うするために如何なる措置を講じ得るかの点については、憲法に特別の明文はないが、わが国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために適当な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能であつて憲法の趣旨精神にも適合するものであることについては多数意見の述べるとおりである。

[3]、ところが、わが国の平和と安全を維持し、その存立を全うするという国家最高の目的を達成するために如何なる国政方針を採用すべきかについては、法は一義的の国政方針を予定していないのであるから、結局政治部門の合目的考慮に基く裁量判断に委ねられたものと解するを相当とする。すなわち、前記の如き国家目的達成のために、他国と安全保障条約の取極をなすべきか又は永世中立主義を採用すべきか等の国政方針の選択は、いずれが合目的的であつて国家目的によりよく適合するかの裁量判断により決せられる問題であると考えられる。ことにかかる国政方針に関する政治的判断においては一方の政策に絶対の真理があり、他方の政策には一面の真理も含まれないとする客観的基準は存しないし、なお政治の実際に見られるように国政方針に関する政治的価値判断は多くの場合に多元性をもつものであつて、価値観の対立は免れないものであるから、そのいずれを採用すべきかは原則として政治部門の政策的乃至裁量的決定の権限に委ねられているものと解するを相当とする。すなわちその判断に当不当の問題は生じても直ちに違法の問題を生ずることはないものというべきである。しかしながら政治部門が如何なる方式内容の条約を取結ぶべきかの裁量決定に当つては、わが憲法の基本原則である平和主義、国際協調主義を基準として、前記国家目的達成に相応しいものをとるべきであることもまた当然であるから、政治部門の裁量権はこれを尊重すべきではあるが、その裁量権には一定の限界があり、その限界を踰越し又は裁量権の濫用により、明白に憲法の平和主義、国際協調主義その他憲法の条章に反する措置に出た場合、たとえば、攻げき目的のため駐留を許容したものと認められるような明白な違反が存する場合においては、当該措置は司法裁判所における違憲判断の対象となるものと解するを相当とする。

[4]、以上の見地に立つて合衆国軍隊の駐留の根拠となつている安保条約を見るに、同条約は国際連合等による十分な安全保障措置が成立するまでの暫定的措置として締結したものであつて(前文4項、4条)その前文には「平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。これらの権利の行使として、日本国はその防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻げきを阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある」とあり、すなわち日本の防衛のためとアメリカ合衆国の平和と安全のために軍隊の駐留に関する取極を行うことが宣言されているのである。

[5]、ところで同条約第1条においては合衆国軍隊駐留の目的として、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに1または2以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻げきに対する日本国の安全に寄与するために使用する旨定められているのであるが、右目的中「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するということは、これによつてわが国が自国の防衛と直接関係のない戦争に巻き込まれる虞れがあるとの違憲論が生じている。しかしかかる虞れがあるかどうかは条約の内容だけでは判定し得ないものであつて、この点は、むしろ、極東情勢乃至世界情勢の評価認識いかんによつて左右される問題である。別個の立場から見れば、極東の平和はわが国の平和と安全の維持に密接な関係があり、米軍が前記の目的をもつてわが国に駐留することが、かえつて、極東における侵略を未然に防止し、その平和を維持することにより、ひいてはわが国の平和と安全を守ることになるといえないこともなく、少くともかような見地に立つて条約を結んだと認められる政治部門の評価判断が、前記反対論に比し明らかに事態の認識を誤つた違法あると認むべき根拠はない。又米軍を駐留させることは共産圏諸国を仮装敵国に廻すこととなり、わが憲法の平和主義、国際協調主義の精神に反するとの説がある。勿論出来得べくんば「対立する可能性ある諸国民を含んだ」国際連合軍の援助に期待することがわが憲法の趣旨からいつて望ましい方式であることは疑いないが、かような安全保障の方式は国際連合の現状では不可能であること明らかである以上、わが国がいずれの外国軍隊の駐留をも認めない他の方式をとることが、安保条約の形で米軍の駐留を認めることに比し、真に平和主義、国際協調主義の要請に副つてわが国の自存を全うする唯一の方法であると断定すべき明白な根拠は存在しない。要するに安保条約は、その明文の示すようにわが国の平和と安全を維持しその存在を全うするために締結されたものであつて、その内容においても政治部門の裁量判断に明白な違憲違法の廉は認められない。

[6]、次に安保条約が国際連合憲章に抵触するときは、憲章優位の原則により(国際連合憲章103条)憲法98条2項違反の問題をも生ずるものと考えられるので、右憲章と安保条約との関係についても、ここに簡単に触れておく。安保条約と同日に締結された日本国との平和条約によれば日本国は国際連合憲章に基く義務を受諾し(5条(a))かつ「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する」と定められている(5条(c))。そして安保条約は右平和条約で認められた安全保障取極を締結する権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、合衆国軍隊の駐留を希望することによつて締結されたものと認むることができる(前文3、4項)。その後日米両国は駐留軍隊の軍事行動は、すべて国際連合憲章に反しない範囲においてなさるべきものである趣旨を確認している(昭和32年6月21日発表の内閣総理大臣と大統領の共同声明及び昭和32年9月17日付日米安全保障条約と国際連合憲章との関係に関する外務大臣とアメリカ大使間の日米交換公文)。すなわち、安保条約に基く合衆国軍隊の軍事行動は、国際連合の機関の決定又は勧告に基く場合と国際連合憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の行使として認められる場合に限り許されるものと解すべきであつて、換言すれば安保条約は、国際連合憲章乃至平和条約を逸脱するものでなく、却つてこれらの基本的条約に定められた枠の中で軍事行動をとり得るという制約を受けているものと解するを相当とする。されば安保条約乃至合衆国軍隊の駐留は国際連合憲章に抵触するものでなく又憲法98条2項に違反するものとも認められない。


 裁判官石坂修一の補足意見は次の通りである。

[1] わたくしは、多数意見に賛同するものであるけれども、次の通り補足意見を述べる。

[2]、自衛権と日米間の本件安全保障条約との関連についての多数意見の説明は、わたくしには十分理解し難い点があるので、若干の見解を附加する。
[3] わが国が平和と安全と生存とを維持し、専制と隷従と偏狭とを除去し、国際社会において名誉ある地位を占めるため、急迫不正の侵害に対し、これを排除するため自ら衛る権利を有することについては、異論があるとは考へ得られない。正義と秩序とを基調とする国際平和を希求しない国家或は集団に、屈服すべしとする者はないであらう。自衛権は、急迫不正の侵害に対し已むを得ざる場合、わが国自らこれを行使し得ること当然であつて、若しその行使が禁止せられて居るとするならば、自衛権を以つて無内容となし、単なる画餅とするに外ならぬ。わが国自ら自衛権を行使し得るものとする以上は、これに即応する有効適切なる手段をも持ち得るものとすべき結論に帰着する。
[4] 憲法9条は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争解決の手段としては、永久に放棄し、右の目的を達成するため、戦力を保持しないことをこそ規定すれ、わが国が自ら右の如き自衛権行使の手段即ち防衛手段を保有することを、全面的に禁止して居るものとは、到底解し得られない。
[5] 蓋し、国際紛争解決の手段としての、国権の発動なる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、勝敗により事を決する意図の下に、いづれもこれにより相手方を制圧、屈服せしめ、以つて国家の一方的利益に国際紛争を終局に導くことを目的とするものであり、憲法9条はかかる目的のために戦力の保持せられることを禁止したものと解すべきである。これ等は、既に述べたるが如き自衛権の行使及びそのための防衛手段とは、全く法的意義を異にし、彼此の間は、峻別せらるべきものであつて、混淆を許されぬ。
[6] 往々、右防衛手段について、原始的或は粗笨なる武器に類するものの名を挙げ、かかる器具のみは、機に臨み変に応じ国民それぞれの工夫において、その使用を許さるるが如く論ずる者もないではないけれども、時態にかんがみれば、かくの如き方法は、国家のための防衛手段中に算へる値があるとは考へ得られない。されば、自衛権行使のため有効適切なる手段を、国家が予め組織整備することも亦、法的に可能であるとせざるを得ない。
[7] 而して、前記の如き侵害は、時と場合とによつて、その様相千差万別であり、予め容易にこれを想定し難かるべく、従つて、これに即応する有効適切なる防衛手段の形態をも亦、予め容易に想定し難いであらう。思ふに、右の如き侵害に対する有効適切なる防衛手段を、国家が現実に持つべきか持たざるべきか、持つとすればその形態、規模を如何にすべきか等は、国家内外の情勢及びその推移を勘案して始めてその判断がよくせらるべき所である。(固より、その形態、規模は、侵さず、侵されざるの限界を保つべく、その防衛行為は、侵害より生ずる紛争が、国際連合憲章に従つて解決を見るに至る迄の間における当面の措置たるべきものと解すべきである。)かかる事項は、元来政治に干与すべからざる裁判所の判断になじまないものである。これは専ら、政府及び国会の政治上の責任において決定せらるべきものであつて、裁判所の審査すべき法的領域ではない。このことは、わが憲法が、三権分立を基本として居ることよりする極めて当然なる帰結である。
[8] 前述の如く、わが国が憲法上、防衛手段保有の可能なることに基き、この手段を持たない場合或はその不十分なる場合、政府が、わが国の安全を保障するため外国と条約を締結し、以つて防衛のための軍事的協力を受けることを決定し、国会がこれを承認する以上、かかる条約を違憲であるとはなし得ない。わたくしの意見は、この点に関する島裁判官の補足意見及び河村(大)裁判官の補足意見第二乃至第四点と出発点において若干の差はあるにしても、結局合流して居ると信ずるが故に、これ等を引用する。
[9] かかる見解に立つときは、日米間の本件安全保障条約は、憲法に違反しないものとならざるを得ない。従つて、この条約に基いてアメリカ合衆国軍隊がわが国に駐留することは、憲法上許すべからざるものであるとする原判決は、これを維持しないこととなる。

[10]、最高裁判所が、条約に対する違憲審査権を有するや否やについて、多数意見がこれを明確にして居るとは、必ずしも解し得られない。
[11] 若し、違憲審査権を規定した憲法81条に、「条約」の語が現はれて居らないことより出発して、これに対する最高裁判所の違憲審査権を否定する結論に至るならば、甚しき誤謬に陥るであらう。
[12] 仮にわが国の根本組織、国民の基本的人権等に関し、憲法に抵触する条約の締結を見たる場合、最高裁判所は、これを座視すべきものではあるまい。
[13] わたくしは、最高裁判所に、条約に対する違憲審査権ありとしつつ、本件安全保障条約は違憲でないとする奥野裁判官及び高橋裁判官の意見に賛同し、なほ右両裁判官の意見と相容れる限り、この点に関する小谷裁判官の意見を支持する。

[14]、多数意見において説明を省略せられた上告論旨に言及する。
[15] わたくしは、田中裁判官の補足意見第一点及び垂水裁判官補足意見第三点に賛同し、なほ若干の見解を附加する。
[16] 原判決は、一面アメリカ合衆国軍隊がわが国に駐留することを憲法上許すべからざるものとしつつ、他面「安全保障条約及び行政協定の存続する限り、わが国が合衆国に対しその軍隊を駐留させ、これに必要なる基地を提供しまたその施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であるとしても」と判示して居る。少くとも、アメリカ合衆国の立場としては、その軍隊をわが国に駐留せしむる権利があり、わが国の立場としては、その権利を尊重すべきことを承認するものの如くである。想ふに、条約が国内法上無効であつても、国際法上は直ちにその効力を失ふものではないとする見解に基くものであらう。
[17] この見解よりすれば、現にアメリカ合衆国の軍隊が、わが国の同意を得て、国際法上、わが国に駐留して居る以上、それが国内的に違憲であると否とに拘りなく、いやしくも右駐留の事実が、国際法上適法に解消せらるるまでは、この軍隊のための施設の平穏を保護する目的を以つて刑事立法を行ふことは、憲法の精神に反する虞れがあるとも考へ得られない。しかもこれは、刑法の住居侵入罪並に軽犯罪法違反とは全くその法益を異にする事項である。これがため如何なる刑事立法を行ふやは、政府及び国会の政治上の責任に帰する立法政策の問題であり、これらの機関が、その政治的裁量に従ひ、刑法130条より軽く、軽犯罪法1条32号より重き刑罰を規定した刑事特別法2条を目して、原判決が、合理的理由がないのに国民に対し特に重い刑罰を以つて臨んだとするのは、諒解し難い所である。(記録に依れば、アメリカ合衆国軍隊の使用する本件施設は、有刺鉄線の柵等を以つて囲繞せられ、兵舎、宿舎、兵器庫、航空滑走路等を含む地域であつて、本件侵入行為のあつたのは、右滑走路最先端に至近なる場所であつたこと及び何人かが前記の柵を破壊した箇所より、本件侵入が行はれたことに留意すべきである。)
[18] いづれにせよ、原判決が刑事特別法2条を直ちに憲法31条に違反するものと結論したのは、甚だ早急に過ぎるといはねばならない。


 裁判官小谷勝重の意見は次のとおりである。

[1]、わたくしは、多数意見の「主文」には同一意見であるが、その「理由」については「本件日米安全保障条約はわが国の存立に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものであるから、該条約に対しては、一見極めて明白な違憲無効と認められるものの外は違憲審査権は及ばない」との趣旨の一連の部分につき反対する。
[2] そして、わたくしの本件に対する判断の要旨は、憲法9条はわが国が主権国として有する固有の自衛権それ自体はこれを否定したものではなく、また同条2項前段は右自衛権行使のためわが国自体が保持する戦力をも禁止しておるものであるか否かは別論として、少なくともわが国に駐留する外国軍隊で、わが国に指揮権も管理権もないものは、それが憲法9条1項で禁ぜられておる目的のために駐留するものでない限り、かかる外国の戦力はこれを含まないものと解すべく、そして本件日米安全保障条約によるアメリカ合衆国のわが国駐留軍隊は、右憲法9条1項で禁じておる侵略等のために駐留しておるものではなく、極東における平和の維持とわが国の安全に寄与するために駐留しておるものであることは、本件安全保障条約の前文及び本文1条並びに日本国との平和条約5条c項6条a項及び国際連合憲章51条52条等に照して明らかであつて、憲法9条2項前段に禁ずる戦力には該当しないものといわなければならない。されば右駐留米軍の安全を保護するための、安全保障条約に基く行政協定に伴う刑事特別法2条の規定は何ら憲法31条に違反するものでないことは明白である。それ故原判決はその前提たる憲法9条の解釈を誤つた違法であつて、検察官上告の論旨は理由があり、原判決は破棄のうえ差戻すべきものであるとの意見である。

[3]、以下、わたくしが、多数意見に対する反対点である、「条約と違憲審査権」に関し、わたくしの意見と多数意見に対する反対の理由を述べる。
[4] 憲法76条3項は「すべて裁判官は、……この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、また憲法81条は、裁判所は「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」、すなわちいわゆる違憲審査権を有することを規定している。そこで「条約」に対しては違憲審査権を有しないであろうか。まずこの問題の前にその前提となる二、三の事柄について考えておく必要がある。第一の事項は条約は国と国との国際法上の契約であるが、これを大別して国だけに対して拘束力を持つものすなわち国際法的効力だけを有するものと、国民に対しても拘束力を持つものすなわち国内法的効力をも有するものとの2つに分けることができるであろう。そして条約の解釈及び条約の国際法的効力に関する事項についての当事者間における法律的紛争は、国際司法裁判所の管轄に属するが(昭和29年条約第2号国際司法裁判所規程36条等参照)、しかし右国際法的効力の部分でも、それがわが国内における或る争訟においてその部分が争点となつておる場合には、依然わが裁判所の違憲審査の対象となるものとわたくしは考える。次に国内法的効力を有する条約についてみると、その条約の目的の全部一部が条約自体に直接規定されておるものと、そうでなく別に国内法律の制定によつてその条約の目的の全部一部を実施するものとがある。そしてこの場合の国内法律は当然憲法76条3項及び81条の「法律」に当り、したがつて違憲審査の対象となることは論を俟たないであろう。また条約自体そのままが実施されるものも、右国内法律によつて実施されるものと同様の効力を有するものといわなければならない。けだし右両者の国民に対する拘束力すなわち法的効力は全く同一であり、何らの差異がないからである。前提事項の第二は憲法98条の規定は、はじめ憲法改正草案要綱93として「此ノ憲法並ニ之ニ基キ制定セラレル法律及条約ハ国ノ最高ノ法規トシ基ノ条規ニ矛盾スル法令、詔勅及其ノ他ノ政府ノ行為ノ全部又ハ一部ハ其ノ効力ヲ失フコト」とあり、右要綱は占領軍司令部の示唆そのままを政府が採択してこれを制憲議会に提出したものであつて、このことは今や公知の事実である。ところで右要綱はアメリカ合衆国憲法6条2項の「この憲法、これに準拠して制定せられる合衆国の法律及び合衆国の権能をもつてすでに締結せられ、また将来締結せられるすべての条約は、国の最高の法である。各州の裁判官は、各州憲法又は州法律中に反対の規定がある場合でも、これらによつて拘束せられる」とあるものと同旨であることが観取できる。ところで、合衆国の如く、各州の憲法及び法律の上に、連邦としての憲法、法律及び条約がある国家においては、連邦憲法及びそれに基いて制定された法律及び条約が各州に対してはその最高の法規となるべく、したがつてこれらに反する各州憲法及び法律の全部一部はその限度において効力なきものと定められるのは当然であるけれども、単一国家であるわが国においては右要綱の如く、如何に法律も条約も憲法に基きたるものであるとはいえ、この三者(憲法、法律、条約)を最高の法規とすと規定することはその必要がなく(即ち条約はしばらくおき、わが国では憲法を最高法規とし、法律は憲法の範囲内、命令は法律の範囲内において制定せられるものであることは周知のとおりであり、ただ憲法に抵触する法律が制定された場合、旧憲法下ではいわゆる違憲審査権はないものとせられて旧憲法50余年の時代を経過して来たのである)、また「此ノ憲法並ニ之ニ基キ制定セラレタル……条約」と規定することは、違憲の条約が締結せられることを予定する如くにて好ましからずとされ、もつて新憲法制定議会の衆議院において前示要綱案は修正せられ、結局現行98条の如く第1項と第2項に分ち、第1項においては先ず憲法のみが最高法規であることを宣明し、もつてこの憲法に反する法律・命令・詔勅及びその他の国務行為の全部一部はその効力なきことを規定したのであるが、右はむしろ当然のことなるも、その設けた精神は憲法の最高法規性を強調して次の99条憲法遵守義務の規定を重からしめんとしたること(なおこの点については旧憲法76条参照)にあり、次に第2項において、条約及び確定された国際法規の誠実遵守を規定したのであるが、これも自明の規定なるも(旧憲法にはかかる規定はない)、過去わが国が不戦条約、9箇国条約並びに国際法規等に違反したとの世界的非難に対し、爾今これらの遵守を世界に誓約宣言したものと解すべきである。右の如く法律と条約を別項に分けたからといつて、国の基本法たる憲法に抵触する条約を認容しそれの遵守義務を規定したものと解すべきでないことは勿論である。要するに条約は内閣によつて締結され、国会によつて承認された後公布され、公布によつて国民を拘束する効力を生ずることは法律と全く同様であるのである。前提事項の第三は条約と法律とが抵触する場合、何れが優先適用されるかの問題である。結論としては条約が優先すると解するを正当と信ずる。けだし条約はその締結時、既成の国内法律を意識して締結されるのであるから、前法後法の関係に立ち後法たる条約が優先するものと解すべく、また条約締結後国内法律に変更があつたときは、国内法律は条約相手国の意思にかかわりなく立法されるのであるから、この場合もまた条約が優先すべきであることは信義の原則に照して明らかであるからである。

[5]、条約と違憲審査権についてわたくしの意見の本論に入る。憲法76条3項及び81条には何れも「条約」の文詞がないから、条約には違憲審査権がないとの説をなすものがある。しかし上記説明のとおり、条約は公布(法例1条及び現在は廃止されたが明治40年勅令第6号公式令8条参照)によつて国及び国民を拘束する効力を生ずること、法律と全く異なるところがないのであるから、右憲法76条3項及び81条に「条約」の文詞がなくても、右は両条中の「法律」の文詞に当然包含されているものと解するを相当とする(このことは憲法94条の「条例」について言えば、憲法81条に何ら条例の文詞なきも、条例が違憲審査の対象たることは毫も疑を容れない)。すなわち条約は公布により国内法と同様、憲法76条3項により裁判官を拘束すると同時に、同81条の違憲審査権の対象となるものと言わなければならない(憲法81条は違憲審査権賦与の直接の規定ではなく、憲法及び法律に拘束される裁判所としての本質にすでに内在する当然の権能であると説く説がある。この説によれば憲法81条は、最高裁判所は違憲審査に関する最終裁判所であることを示したに過ぎない規定となる)。ただ違憲判決の効力は、わが現在の裁判所は憲法裁判所でなく司法裁判所であるから、当該争訟事件につき本来ならば適用ある法律または条約の全部一部を違憲としてその適用から排除する(もしくは適用を拒否する)旨の宣言と解すべきであつて、違憲とする法律または条約それ自体の無効を宣言するものと解すべきではないのである。そして該判決の確定力の及ぶ範囲は当該当事者及び当該事件並びに当該判決の主文に包含するものに限られるのであつて、いわゆる対世的効力は有しないのである。ただ内閣及び国会は裁判所の当該違憲判決を尊重し判決の趣旨に添う適正措置を講ずべき政治的義務を負担するものと解すべきである。もしその条約には違憲審査権が及ばないとするときは、憲法96条の定める国民の直接の承認を必要とする憲法改正の手続によらずして、条約により憲法改正と同一目的を達成し得ることとなり、理論上、その及ぶところは、或は三権分立の組織を冒し或は基本的人権の保障条項を変更することも出来ることとなるのである。わが憲法は果してこのような結論を認容するものであろうか。
[6] 多数意見は理由二の後段において、「ところで、本件安全保障条約は、前述の如く、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、従つて一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委せらるべきものであると解するを相当とする」、と判示し、更に理由の三冒頭に「よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその3条に基く行政協定の示すところをみると、」との書き出しで、以下安保条約に関し憲法上の判断を下した後、理由の三中段「果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは到底認められない。」といい、理由三最後段において「しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法2条を違憲無効としたことも失当であつて、」(以上圏点はわたくしが付した)と、判示するところである。以上多数意見を要約すると、安保条約は、わが国の存立に重大な関係を有する高度の政治性を有するものであること、かかる条約の違憲なりや否やの判断は司法裁判所の判断には原則としてなじまないものであること、したがつてかかる条約の違憲審査権は「一見極めて明白な違憲無効」と認められるものに限られ、「それ以外」は裁判所の違憲審査権の範囲外であるということに帰着するのである。多数意見は以上の如く判示しながら、その次には安保条約及びそれに基く駐留軍隊の本質内容等につき解釈を下し、次に相当詳細に憲法的判断を加えたうえ、「アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは到底認められない。」との結論を下し、したがつて安保条約に基く米軍隊の駐留が憲法9条2項前段に違反すると判断した原判決は、「裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し」た違法がある。と、判示しておるのである。

[7]、わたくしは、以上指摘した多数意見一連の判旨には到底賛同し難い。先ず条約に限らず法律のうちでも国の存立に極めて重大な関係を持ち、したがつて高度の政治性を有するものは数多くあることは言うをまたないのであるが、多数意見はこの場合も条約の場合と同様、違憲審査権の行使は一見極めて明白な違憲の場合に限るというのであろうか。そうでなければ論理が一貫しないこと明らかである。何となれば条約は内閣が締結し、国会が承認するのであるが、法律もまた全くそれと同様であるのである。要するに多数意見の到達するところは、違憲審査権は立法行政二権によつてなされる国の重大事項には及ばない、とするものであつて、わが新憲法が指向する力よりも法の支配による民主的平和的国家の存立理念と、右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命とに甚だしく背馳するものであることは明らかである。かくてわが憲法上の三権分立のうち、立法行政二権に対する司法権唯一の抑制の権能たる違憲審査権は、国の重大事項には全く及ばないこととなり(多数意見のいう「一見極めて明白なる違憲無効」というようなものは殆んどあるものではない。すなわち有名無実のものである)、わが三権分立の制度を根本から脅かすものと思う。また多数意見のいう本件安保条約に対しては違憲審査権は原則としてなじまないものであるとするのは如何なる法的根拠によるものであるのか、少しもその理由が説明されておらず、理由不備の判決といわなければならない。或は統治行為説または裁量行為説等、内閣または国会の行為のうちには違憲審査権が及ばないものがあるとの説があるけれども、元来三権分立の制度からくる内閣または国会の地位権限に照して、これら各機関固有の権限行為または固有の裁量行為は当該機関の専権に属し、他機関がこれを冒すことはできないけれども、その専権に属する権限行為または裁量行為の内容に違憲が存在するときは、それは裁判所の違憲審査の対象となることは、力よりも法を優位とし法の支配を実現せんとする違憲審査の制度に照して疑いないばかりでなく、憲法81条の「……裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」との明文に照して明らかであるというべきである。(もつとも、「降伏文書」、または無条件降伏した「敗戦国としての平和条約」の如きは、その本質上、違憲審査の対象とならないことはいうまでもなかろう。)さればわたくしは、統治行為説または裁量行為説には、少なくともわが憲法上は到底賛同することができない。次に違憲審査権は、「憲法に適合するかしないかを決定する権限」、すなわち「憲法適否の審査権」と解すべきであるところ(憲法81条)、多数意見は本件条約の場合「違憲の審査」については「一見極めて明白なる違憲無効」のものに限ること、「それ以外は裁判所の司法審査(私註、ここに司法審査とは違憲審査の意味と解する)の範囲外である」と判示する。而して本件条約の場合右にいう「一見極めて明白な違憲無効」と認むべきものはなく、そして「それ以外は違憲審査権の範囲外」であるというのであるから、本件はこれのみで「違憲の審査」は終了し、爾余は適憲とも違憲とも判断してはならないものとわたくしは考える。再言すれば、「一見極めて明白な違憲無効」のものに限り「それ以外は審査の範囲外」であるというのであるから、一切憲法に適合するものとも適合しないものとも判断すべきではないのである。もし判断したらそれは権限外の行為であつて違法なのである。このことは上級審の判断の下級審に対する拘束力(裁判所法4条参照)の点を考えれば明瞭である。また「一見極めて明白な違憲無効」とは「ひと目見てすぐ判る違憲無効」の意と解せられるが、智能をあつめ日月をかけて締結し、衆智によつて承認された条約に「ひと目見てすぐわかる違憲無効」のような瑕疵が果してあるであろうか。ひつきよう多数意見は違憲審査権に対する自慰的な言い訳けの言に外ならないと考えられる。したがつて多数意見の究極するところは条約(精確にいえば、本件安保条約)に対しては違憲審査権は及ばないとしたものと同一に帰着する。或は条約と憲法との関係は、努めて条約を憲法に適合するように解釈すべきであるとの説がある。この説は前提において条約に対しても法律同様の完全な違憲審査権があることを前提とするものであつて、本件多数意見とは根本的にその立場を異にする。次に多数意見は本件には一見極めて明白な違憲はないと断定しながら、違憲審査の範囲外であるとする「それ以外」の事項について相当詳細に憲法的判断を下したうえ、その結論として、「アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、憲法98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、」と判示し、最後に原判決に対して「司法審査権の範囲を逸脱し」た違法ありと断定しておるのである。そもそも条約と違憲審査権の問題は最高裁判所発足以来本件がはじめての案件ではあるが、多数意見理由三の冒頭以下本件安保条約及びその駐留軍の性質を論じて本条約の適憲性を判断しておるように、本条約は十分に違憲審査に耐えるものであることは多数意見自体それを証拠立てているものであつて、特に本件において、「条約(精確にいえば本件安保条約)に対しては一見極めて明白な違憲無効以外のものは違憲審査権はない」なぞとの重要判示をしなければならない法律上ないし審判上何らの必要を認めない案件であることは明らかである。

[8]、おもうに、新憲法が違憲審査権を裁判所に賦与した主たる理由は、裁判官は「憲法及び法律にのみ拘束され」(憲法76条3項)、したがつて法の解釈適用を強制される裁判所の本質に内在する固有的な機能を認めて、これに賦与したものと解すべく(アメリカ合衆国は違憲審査権につき何ら憲法上に規定なきにかかわらず、独立以来裁判所がこの権能を行使して今日に及んでおるのである)、そして本権につき憲法が企図するところは、力よりも法の優位であること、法の支配による正義の行われる社会の実現を期し、かくて憲法前文のいう「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努め」るための普遍的原理の実現にあるものと考える。そして本制度の効果は、しばしば違憲判決の下されるよりも、本制度のあることそれ自体によつて、力による違憲行為の発生を未然に防止する消極的効果にむしろ期待を寄せているものと考える。多数意見は「国の存立に重大な関係あり、したがつて高度の政治性を有する条約」については、原則として違憲審査権の及ばないことを判示するものであつて、国の重大事項と憲法との関係において、憲法を軽視するものであつてそれはやがて力(権力)を重しとし法(憲法)を軽しとする思想に通ずるものといわなければならない。かつて旧憲法において、法的にはその責任は不明確であつたが、彼の枢密院が天皇の諮詢機関として存在し、もつてすべての条約(前掲公式令8条参照)及び重要なる法律並びに勅令案は皆同院における憲法適否の審査を経たものであつて、同院は実質上憲法擁護の任にあつたことは今更いうまでもないところである。また憲法は国の基本法として条約よりも優位であることの法理確認の事例としては、昭和4年条約第1号「戦争放棄ニ関スル条約」、すなわちいわゆる不戦条約第1条中の文言に、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」とあるうちの「人民ノ名ニ於テ」なる文詞は、憲法に反するものとして右文詞のみはわが国に適用なき旨留保宣言(その留保宣言は「帝国政府ハ……条約第1条中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」ナル字句ハ帝国憲法ノ条章ヨリ観テ日本国ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス」)を付して該条約を批准した事実は、歴史の明証するところである。新憲法の違憲審査の権能は明治憲法よりも劣弱であるというのであろうか。更にまた国の存立に重大関係あり高度の政治性ある条約というべき、第二世界戦争勃発の原動力となつた日独伊三国同盟条約の如きは、「一見極めて明白な違憲」と認められないようにその体制を整えることができると思うのであるが、多数意見は違憲審査権の範囲外としてその効力を認容するであろうか。けだし世界状勢は変転極まりなく、国の権力にも変遷推移あることに想到すれば、国の基本法たる憲法の護持擁護は不抜のものでなくてはならないことが痛感されるのである。わたくしは平和の維持と基本的人権の擁護のため、違憲審査権の健在を祈つてやまないものである。


 裁判官奥野健一、同高橋潔の意見は次のとおりである。

[1] 憲法9条1項は、わが国の、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としてはこれを放棄したものであり、従つて、同条2項の戦力の不保持も、わが国が自ら指揮権管理権を有する戦力の保持を禁じたものと解すべきが当然であり、わが国が指揮管理し得ない外国軍隊に関するものではない。従つて、安全保障条約により、わが国に駐留する米国軍隊は、わが国が指揮権管理権を有するものでないことは明らかであるから、右9条2項に直接違反するものといい得ないことは明白である。しかし、右米国軍隊の駐留が、憲法9条2項の精神又は憲法の前文の趣旨に反しないかは、更に、検討する必要がある。
[2] 米国軍隊がわが国に駐留するのは、安保条約に基き、その実行としてするのであるから、米国軍隊の駐留の違憲性を判断するには、先ずその前提として、安保条約が違憲であるか否かを判断する必要がある。然るに多数意見は安保条約の違憲性については裁判所に審査権がない旨判示する。その趣旨が、一般に条約の違憲性については裁判所の審査権が及ばないというのであるか、或いは条約については審査権があるが、本件安保条約はいわゆる統治行為に属するから審査権がないというのであるか、明らかではないが、その何れにしても、われわれは異見を有する。元来、条約は国と国との国際法上の契約であるが、同時に条約そのままが国内法的効力を有する場合があり、又条約が直ちに国内法規としての効力を有しないで、別に国内法律を制定して、これにより条約を実施する場合とがある。条約がそのまま国内法規として国民を拘束する場合は、その国内法的効力は、原則として最高法規である憲法の下位に立つものであつて、この場合国内法律と同様、憲法81条により憲法に適合するかしないかの裁判所のいわゆる違憲審査の対象になるものと解する。このことは、条約を前提問題として判断する場合も同様である。また、条約実施のための国内法律が右憲法同条の法律として裁判所の違憲審査に服すべきことは勿論である。あるいは、右81条中に「条約」なる文字がないから、条約については、裁判所に違憲審査権がないと論ずる者があるが、たとえ、裁判所が条約を違憲であると判断しても、それは条約の国内法的効力を否定するに止まり、国際法上における条約の効力を否定するものではなく(政府としては、かかる場合、条約の廃棄、修正の手続を採るか又は条約実施の義務違反の国際法上の責任を生ずるかは別問題として)、依然国際法上は条約として有効なものであつて、裁判所は国際法上の条約自体の有効、無効まで審査判断するものではない。この意味において、右81条中に特に「条約」なる文字を挿入しなかつたものと解すべく、条約の国内法的効力について裁判所の違憲審査権を否定する趣旨と解すべきではない。繰り返していうなれば、憲法81条は憲法の下位にある一切の国内法規についての司法審査権を規定したものであつて、同条に規定していない憲法94条の「条例」なども当然司法審査の対象となることは疑を容れないところであり、条約も右81条に列挙されていなくても、その国内法的効力については当然司法審査の対象になるものであり、この意味において条約は国内法規としては右81条中の「法律」のうちに包含されているものと解せられる。このことは、また、憲法76条3項及び98条1項の「法律」のうちに国内法規としての条約も包含されていると解すべきであると同様である。従つて、98条1項の「条約」の文字がないからといつて、条約が憲法の下位には立たぬとか、或いは裁判所の違憲審査の対象にならぬとかという根拠にはならないし、また、98条2項の条約遵守の義務から、当然に憲法に違反する条約でもすべて国民を拘束し、裁判所の違憲審査権が及ばないとする根拠にはならないと考える。また、若し条約に違憲審査権が及ばないとすれば、他国との間に憲法の条章に予盾・背反する条約を結ぶことによつて憲法改正の手続を採ることなく、容易に憲法を改正すると実質上同様な結果を生ぜしめることができることとなり甚しく不当なことになる。
[3] また、司法審査権の限界について、われわれは、いわゆる統治行為ないし政治問題として審査権の及ばない或る部面のあることは必ずしも否定しない。しかし、問題が政治性が高いとか、国の重大政策に関する問題であるからというだけの理由で、当然これに該当するとすることには、われわれは賛同できない。けだし、元来、法律の制定とか条約の締結の如き行為は、概ね国の重大政策に関する政治性の高い事項であり、従つて、これに対する違憲審査は当然政治性の高い判断を必要とするものであるから、単に、政治性が高いとか、国の重大政策に関する問題であるというだけの理由で裁判所の違憲審査権が及ばないとすると、政治的問題となつた重要法律等の多くは裁判所が違憲審査ができないこととなり、わが憲法が、特に81条の明文を設けて、裁判所に法律以下の一切の国内法規並びに処分についての違憲審査権を賦与し、以つて、国会や政府の行為によつて憲法が侵犯されないように配慮した憲法の精神に副わないのみならず、同76条、99条により特に憲法擁護の義務を課せられた裁判官の職責を完うする所以でもないと信ずるからである。これを要するに、多数意見は条約には裁判所の違憲審査権は及ばないという意見と本件安保条約は統治行為に属するから審査権がないという意見とを最大公約数的に包括したものと思われるが、何れにしても本件安保条約は裁判所の司法審査権の範囲外のものであるとしながら、違憲であるか否かが「一見極めて明白」なものは審査できるというのであつて、論理の一貫性を欠く(殊に若し条約には始めから司法審査権なしという意見者もかかる理論を是認しているものとすれば、甚だ理解に苦しむところである)のみならず、安保条約はわが国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものであるから、一見極めて明白な違憲性についてだけ審査するに止め、更に進んで実質的な違憲審査を行わないというのであつて、この態度は矢張り前述のようにわが憲法81条、76条、99条の趣旨に副わないものと考える(しかも、多数意見は結語として安保条約は一見極めて明白な違憲があるとは認められないといいながら、その過程において、むしろ違憲でないことを実質的に審査判示しているものと認められる)。われわれは、安保条約の国内法的効力が憲法9条その他の条章に反しないか否かは、司法裁判所として純法律的に審査することは可能であるのみならず、特に、いわゆる統治行為として裁判所がその審査判断を回避しなければならない特段の理由も発見できない。
[4] そこで、安保条約が果して憲法9条の精神又はその前文の趣旨に反しないか否かを審査するに、憲法9条1項は「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段とする」ことを禁止しているのであつて、その趣旨は不戦条約にいう「国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄する」というのと同趣旨に解すべきものであり、かくて、また国連憲章2条4項の趣旨とも合致するものと考える。従つて、憲法9条1項は何らわが国の自衛権の制限・禁止に触れたものではなく、「国の自衛権」は国際法上何れの主権国にも認められた「固有の権利」として当然わが国もこれを保持するものと解すべく、一方、憲法前文の「……われらの安全と生存を保持しようと決意した」とか「……平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とかとの宣言によつても明らかなように、憲法はわが国の「生存権」を確認しているのである。然るに、今若しわが国が他国からの武力攻撃を受ける危険があるとしたならば、これに対してわが国の生存権を守るため自衛権の行使として、防衛のため武力攻撃を阻止する措置を採り得ることは当然であり、憲法もこれを禁止していないものと解すべきである。けだし、わが国が武力攻撃を受けた場合でも、自衛権の行使ないし防衛措置を採ることができないとすれば、坐して自滅を待つの外なく、かくの如きは憲法が生存権を確認した趣旨に反すること明らかであるからである。そして、かかる場合に、わが国の安全と生存を保障するためには、国連憲章39条ないし42条による措置に依拠することは理想的であるけれども、国連の右措置は未だ、適切有効に発揮し得ない現況にあることは明らかであるから、次善の策として、或る特定国と集団安全保障取極を締結し、もつて右特定国の軍隊の援助によりわが国の安全と生存を防衛せんとすることは止むを得ないところであつて、その目的のために右特定国軍隊をわが国の領土に駐留することを許容したからといつて、それはわが国の自衛権ないし主権に基く防衛措置に外ならないのであるから、憲法前文の平和主義に反するものではなく、また、憲法9条2項の禁止するところでもない。而して、安保条約は平和条約5条(c)と6条(a)但書に則りわが国と米国との間に締結された条約であつて、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので」、日本には武力攻撃を受ける危険があることを前提として(かかる「危険」があるか否かの国際情勢の判断については、いわゆる政治問題として裁判所の審査判断すべきところではなく、既に、政府と国会が安保条約の前文において、かかる判断を下している以上裁判所としてはこれに従う外はないものと考える)、わが国は、国連憲章の承認しているすべての国の固有する「個別的及び集団的自衛権の行使」として、わが国に対する武力攻撃を阻止するため、日本国内及びその附近に米国軍隊を維持することを希望し、米国に対しその軍隊を右地域に配備する権利を許与し、米国はこれを受諾し、その配備した軍隊を「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため等に使用することができる」ことを協定したものであつて、国連憲章の制約と国連の一般的統制の下に、国連憲章51条の「個別的、集団的自衛の固有の権利」に基き、専ら「武力攻撃が発生した場合における」自衛のための措置を協定した集団的安全保障取極である(昭和32年6月21日の共同コミニユケ、昭和32年9月14日交換公文、参照)。すなわち、右条約は各国の固有する自衛権に基く防衛目的のための措置を定めたものであつて、固より侵略を目的とする軍事同盟であるとはいい難く、従つて前記説明の趣旨において憲法9条の精神にも、その前文の趣旨にも反するものとはいいえない。(なお、安保条約が米国軍隊が極東における国際の平和と安全の維持に寄与するためにも使用せられることを規定しているところから、米国軍隊が極東平和のため行動することにより、わが国がその防衛に関係のない戦争に巻き込まれ、わが国に再び戦争の惨禍を招く危険があるから憲法前文に反するとの議論について一言する。米国軍隊が安保条約の右規定によつて出動し得るのは、国際連合の機関の決定または勧告に従う場合の外は、国連憲章51条に従つてその要件の下においてのみ行動すべきものであることは、前記交換公文により日米両国間に確認せられているところである。従つて、この場合には、極東において現実に「武力攻撃が発生した場合」であることを要するのはいうまでもない。そしてこの武力攻撃の発生は、極東の平和と安全が日本の平和と安全と極めて密接不可分の関係を有するものであるから、同時に日本の平和と安全をも脅かすものであり、従つてかかる米国軍隊の行動はわが国の平和と安全をも保障するものであるとの議論も成立し得るのである。このような、日本の平和と安全とが極東の平和と安全と密接不可分であるとの判断の是非は、国際情勢ないし軍事情勢等に対する判断の如何にかかるものであつて、政府や国会の判定すべきいわゆる政治問題に属し、それらの機関において既に右のような判断を下して前記の如き規定を設けた以上は、司法裁判所としては右判断に介入審査し得べき限りではないと考える。)
[5] 以上述べたように、安保条約は憲法9条及びその精神並に憲法前文に反するものとはいいえない。(なお、行政協定は、特に国会の承認を経ていないが、既に国会の承認を経た安保条約3条の委任の範囲内のものであると認められるから違憲とは認められない。)従つて、右安保条約及び行政協定に基く米国軍隊の駐留も、また、違憲とはいいえない。よつて、これが受入国たるわが国が、その軍事施設の安全につき保護を与えることは、当然であり、米国軍隊の施設及び区域内の平穏を保護するため本件刑事特別法を制定しその違反行為に対し、軽犯罪法1条32号所定の法定刑よりも重い刑を定めたからといつて、立法機関の裁量に任された範囲における立法政策の問題であつて、憲法31条に違反するものとは勿論いいえないし、また、両者の法定刑に差異を設けたからといつて、その法益を異にするものであるから、これを以つて不合理な差別的取扱をしたものとして、憲法14条に違反したものともいえないことは勿論、憲法13条に反するものでもない。されば、原判決は憲法の解釈を誤つたものであり、本件上告はその理由があつて、原判決は破棄を免れない。よつてわれわれは多数意見の主文にはもとより同一意見であるが、その理由は以上の如く異にするものである。(なお、憲法9条が自衛のためのわが国自らの戦力の保持をも禁じた趣旨であるか否かの点は、上告趣意の直接論旨として争つているものとは認められないのみならず、本件事案の解決には必要でないと認められるから、この点についてはいまここで判断を示さない。)

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斉藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 入江俊郎  裁判官 池田克  裁判官 垂水克己  裁判官 河村大助  裁判官 下飯坂潤夫  裁判官 奥野健一  裁判官 高橋潔  裁判官 高木常七  裁判官 石坂修一)


[1] 原判決は、憲法の解釈を誤り、不当に法律を憲法に違反すると判断した違法があつて、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れないものと思料する。
[2] 原判決は、被告人坂田茂、菅野勝之、高野保太郎、江田文雄、土屋源太郎および武藤軍一郎が、共同して、昭和32年7月8日午前10時3、40分頃から午前11時頃までの間に、正当な理由がないのに、アメリカ合衆国軍隊の使用する施設(原判決に「区域」とあるのは「施設」の誤記と認める。昭和27年7月26日外務省告示第34号、検察官論告要旨第一章第一参照)であつて入ることを禁じた場所である東京都北多摩郡砂川町所在立川飛行場内に、深さ約4、5メートルにわたつて立入り、被告人椎野徳蔵が同日午前10時30分頃から午前11時30分頃までの間に、正当な理由がないのに、右立川飛行場内に深さ約2、3メートルにわたつて立入つた事実を認定し、右事実は日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法(以下刑事特別法と略称する)第2条に該当すると判示しながら、日米安全保障条約に基く合衆国軍隊の駐留は憲法上許すべからざるものであることを理由として、刑事特別法第2条の規定は憲法第31条に違反する無効な法律であると判断し、被告人等に対し無罪を言渡した。しかし、原判決の判断は、次の諸点において憲法の解釈を誤つたものであり、いずれの点からするも不当であるといわなければならない。
[3] 原判決は、刑事特別法第2条を軽犯罪法第1条第32号と特別法、一般法の関係にあるものと解し、両者の法定刑の差異は、法が合衆国軍隊の施設または区域内の平穏に関する法益を特に重要と考え、一般国民の同種法益よりも一層厚く保護しようとする趣旨に出たものとみるべきであるとし、合衆国軍隊の駐留が違憲であると判断した上、これを理由として、合衆国軍隊の施設または区域内の平穏に関する法益が一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何等存在しないから、国民に対して軽犯罪法の規定よりも特に重い刑罰をもつて臨む刑事特別法第2条の規定は、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し、無効なものといわなければならないと判示する。しかしながら、原判決は、同時に合衆国軍隊の駐留が違憲でないとするのであれば、刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法のそれより重く定められていることは、敢えて問題とするに足りないともしているのである。従つて、憲法第31条につき、原判決のような解釈をとるとしても、後に述べるように、合衆国軍隊の駐留が憲法に違反しない以上、原判決の判断は、既に、この点において、その前提を欠き誤つているのである。
[4] 元来、刑事特別法第2条の法定刑の当否を、合衆国軍隊の駐留の合憲性と関連させて判断すること自体誤であつて、同条は、合衆国軍隊の駐留が憲法上許されるかどうかに関係なく、憲法第31条に違反しないというべきであつて、その理由は次の通りである。

一、刑事特別法第2条の法定刑の合理性
[5] 刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法第1条第32号より重く定められていることについては、次の2点よりその合理性のあることは明らかである。
(一) 外国軍隊の地位
[6] そもそも一国の軍隊は、所属国の国家機関であつて、受入国の同意を得て駐留する外国軍隊は、国際法上その威厳保持および軍紀維持のため、受入国内において、一定の特権および免除を享有するものである。従つて、受入国において、その安全につき特別の保護を与えることは、国際的な慣行であり、少くとも国際礼譲に照し、当然であるといわなければならない。ところで、原判決は、日米安全保障条約および日米行政協定の存続する限り合衆国軍隊の施設等の平穏を保護しなければならない国際法上の義務を負担することは当然であると判示している。すなわち、原判決も認める通り、わが国は、国際法上日米安全保障条約に拘束されるのである。従つて、合衆国軍隊が国際法上日本国の同意を得て駐留する外国軍隊であることは否定できない。かような外国軍隊の施設内の平穏の保護につき、わが国が充分な措置をはかることは、右に述べた国際的な慣行に従うものであり、少くとも国際礼譲にそう所以であつて、国際協調主義を基調とする日本国憲法の精神からも、当然に要請されるところである。そうであるとすれば、既存の法令によつては、外国軍隊の施設内の平穏の保護に充分でないと認められる場合に、特別立法をもつて保護の措置を講ずることは当然是認されるところであり、本件において受入国であるわが国が、軽犯罪法第1条第32号によつては、合衆国軍隊の施設および区域内の平穏の保護に充分でないと認め、刑事特別法第2条を設けたことには、充分な理由が存するというべきである。
(二) 行為の客体の差異
[7] さらに、刑事特別法第2条の法定刑が軽犯罪法第1条第32号のそれより重く定められている理由としては、両者における行為の客体である「入ることを禁じた場所」の客観的性質の差異を看過してはならないのである。軽犯罪法第1条第32号の行為の客体は、「入ることを禁じた場所又は他人の田畑」とされているが、軽犯罪法は比較的軽微な反道義的違法行為を取締るために制定されたもので、同法の法定刑および犯罪類型によつても窺えるように、法益保護の必要の程度が比較的低い性質のものである。これに反し、刑事特別法第2条の行為の客体は、「合衆国軍隊が使用する施設又は区域(行政協定第2条第1項の施設又は区域をいう。)であつて入ることを禁じた場所」と定められ、兵舎、飛行場、演習場、射撃場等多種多様のものを含んでいる。これらの演習場または射撃場の中には、常時使用されず、必要に応じ一般人の出入が禁止されているに過ぎないものがあり、これらのものについては、その平穏を保護する必要の程度が比較的低く、軽犯罪法の法定刑をもつて保護の目的を達することができるであろう。しかし、飛行場等の施設の中には、常に軍隊によつて警備され、その内部に多数の兵員等が生活あるいは行動し、兵器、弾薬等の危険物が存在し、情報秘匿の必要がある等、施設内の平穏を保護する必要の程度は著しく高いものもある。このような施設内の平穏を保護する必要性は、むしろ住居侵入罪のそれに近い。このことは、刑事特別法第2条が、住居侵入罪と同じく、立入だけでなく不退去をも処罰の対象としていることによつても肯認される。従つて、刑事特別法第2条の法定刑が合理的であるか否かは、軽犯罪法の法定刑ばかりでなく、住居侵入罪の法定刑とも比較して判断しなければならない。このように考察するとき、刑事特別法第2条の法定刑が、軽犯罪法第1条第32号のそれより重く、また住居侵入罪のそれより軽く、定められていることは、充分に合理的理由が存するのである。

二、憲法第31条の保障の範囲
[8] 憲法第31条は、ある刑罰法規の法定刑が他の刑罰法規の法定刑と均衡を保つていることまでも保障する規定と解すべきではない。
[9] 日本国憲法においては、刑罰法規の法定刑を如何に定めるかは立法政策に属し、憲法上人権保障に関する他の規定に違反しない限り、立法機関の裁量に委ねられているものというべきである。この場合、立法機関が立法するに当り他の法定刑との均衡をも考慮しなければならないことは当然であるが、それは立法機関の裁量権の範囲内における当不当の問題であつて、憲法第31条の問題ではない。もつとも、法定刑に著しい不均衡を生じ、何人もその不均衡を是認できないことが一見明白な場合には、裁量権の範囲を逸脱するものとして、憲法第31条の問題となることは考えられる。しかし、もし、憲法第31条が右の程度に至らない法定刑の均衡までも保障していると解するならば、裁判所は刑罰法規の適用に当り、常に立法政策の当否に立入り、他の刑罰法規の法定刑との均衡を考慮し、違憲の有無を判断しなければならない結果となるであろう。かかる結果の不当なことは明らかである。従つて、本件における刑事特別法第2条の法定刑と軽犯罪法第1条第32号のそれとの差異の如きは、本来憲法第31条において問題とせらるべき事項ではないといわなければならない。

[10] 以上一、二いずれの観点よりするも、刑事特別法第2条が憲法第31条に違反する無効な法律であるとした原判決の判断は不当のものといわざるを得ない。
[11] 原判決は、わが国政府が合衆国軍隊の駐留を許容しているのは、実質的にみれば、わが国自身が憲法第9条によつて禁止されている戦力を保持することとなるものとし、その前提として、憲法前文の二、三の文言を引用し、これを根拠に、わが国が自衛のための戦力の保持をも許されないものと解し、結局、わが国に駐留する合衆国軍隊は、憲法上その存在が許されないとするばかりでなく、合衆国軍隊の駐留は憲法の精神にもとるところがあるかのように判示する。しかしながら、原判決の右判示は、合衆国軍隊の駐留を許容していることが、直ちにわが国自身の戦力の保持になるとする点において、憲法の解釈を誤つているばかりでなく、その前提として、憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨である根拠として引用する憲法前文の理解にも誤があり、また、日米安全保障条約による合衆国軍隊の駐留が憲法の精神にもとるとする点においても誤つている。いずれの点よりみてもわが国内に駐留する合衆国軍隊を違憲の存在とする理由はなく、従つて、かかる合衆国軍隊の施設または区域内の平穏を保護する目的で制定された刑事特別法第2条もまた、違憲であるとする理由はない。

一、合衆国軍隊の駐留と憲法第9条との関係
(一) 憲法第9条第2項前段の戦力の保持
[12] 原判決は、憲法第9条第2項前段の解釈として、そこで禁止されている戦力の保持の主体が日本国であることを前提とし、わが国は日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊に対して指揮権、管理権を有しないことを是認しながら、単に、合衆国軍隊がわが国政府の要請に応じ、わが国の防衛に使用される現実的可能性の頗る大であること、およびわが国政府が合衆国軍隊の駐留を許容し、これを可能ならしめる施設および区域の提供その他の協力をしていることをとらえ、これらのことを実質的に考察すれば、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、憲法第9条第2項前段で禁止されている戦力の保持に該当し、結局、わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものであると判示する。しかしながら、憲法第9条第2項前段の戦力の保持とは、わが国が自ら管理支配する戦力を持つことをいう。従つて、地域的にわが国の国家権力の及ぶ範囲内に外国軍隊が駐留することをわが国政府が許容するとしても、わが国がその外国軍隊を指揮管理し得ないものであれば、戦力の保持に該当しないことはもちろん、わが国政府の要請に応じて駐留外国軍隊がわが国防衛のため軍事行動をとる現実的可能性がいかに大であつても、その外国軍隊に対してわが国政府が指揮管理権を有しない以上、これをもつて、わが国が戦力を保持しているといい得ないことは明らかである。もつとも、かように解すると、わが国政府が指揮管理し得ない外国軍隊であれば、それがたとえ侵略のためのものであつても、その駐留を許容することが憲法に違反しないこととなり、かような解釈は憲法の基調とする平和主義に背反するものであるとの疑念が生ずるかも知れない。しかし、わが国政府が侵略のための外国軍隊の駐留を許容する行為は、憲法第9条第2項前段に違反するのではなく、第98条第2項に違反するのである。すなわち、「戦争放棄ニ関スル条約」および国際連合憲章に徴して明らかなように、侵略のための武力の行使が不法であるとすることが、既に確立された国際法規となつているのであるから、侵略のための外国軍隊の駐留を許容することは、憲法第98条第2項にいう確立された国際法規を遵守すべき義務に違反することとなるのである。従つて、戦力の保持を右に述べたように解釈し、外国軍隊をすべて憲法第9条の対象外としたからといつて、憲法の基調とする平和主義に背反しないことは明らかである。この点からも、右に述べた解釈の正当であることが肯認されよう。そうであるとすれば、日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊が、わが国政府の要請に応じて、外部からの武力攻撃に対しわが国の防衛に使用される現実的可能性が頗る大であること、およびかかる合衆国軍隊の駐留をわが国政府が許容し、その駐留を可能ならしめる協力をしていることを、いかに実質的に考察するとしても、このことから、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容しているわが国政府の行為が、憲法第9条第2項前段で禁止されている戦力の保持に該当するという結論は、到底これを導き出すことができない。従つて、原判決は、既にこの点において憲法第9条の解釈につき重大な誤を犯しているものといわざるを得ないのである。
(二) 自衛のための戦力の保持と憲法前文との関係
[13] 原判決は、憲法第9条につき、「この規定は『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに』(憲法前文第1段)しようとするわが国民が『恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想(国際連合憲章もその目標としている世界平和のための国際協力の理想)を深く自覚』(憲法前文第2段)した結果『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持しよう』(憲法前文第2段)とする……決意に基くものであり、単に消極的に諸外国に対して、従来のわが国の軍国主義的、侵略主義的政策についての反省の実を示さんとするに止まらず、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものといわなければならない。従つて憲法第9条の解釈はかような憲法の理念を十分考慮した上で為さるべきであつて、単に文字の形式的、概念的把握に止まつてはならない」と判示し、右に引用する憲法前文の文言をもつて憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さないとする原判決の解釈の重要な根拠としている。しかしながら、これは憲法前文の右の文言の明らかな誤解といわざるを得ない。先ず、原判決の引用する憲法前文第1段の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という文言は、日本国民が平和主義を保障する国家体制として国民主権主義を採るに至つた動機として述べられているに過ぎない。すなわち、過去における戦争の惨禍は国民の意思とかかわりなく行動した政府の行為によつて招いたものであつたことにかんがみ、将来にわたつてその禍根を断つために、「主権が国民に存することを宣言」するというのであつて、右の戦争とは国家の政策の手段としての戦争を指すことはいうまでもない。従つて、右の文言を拡張して政府の行為としてのあらゆる武力の行使を放棄する趣旨と解することはできない。いわんや、憲法第9条が自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨と解する根拠とすることの誤であることは明らかである。また、原判決は、憲法前文第2段のわが国民が「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言を引用しているのであるが、この文言は、原判決の理解するように、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」を「最低線」としてわが国の安全を保持しようとする決意を示したものとは到底考えられない。右の文言にいう「平和を愛する諸国民」が具体的に国際連合のみを指すものとは解し難いばかりでなく、むしろ、右の文言は、国際連合がその機能を充分に果し得ないとき、日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそい、他の諸国の協力を得てわが国の安全を保持することを当然に許容するものと解すべきである。わが国は、いやしくも独立国家である以上、外部からの武力攻撃が現実に発生した場合に自ら防衛する権利を有するばかりでなく、その根底に、国家に固有な権能として国家存立の前提たる自国の安全を保持する権能を有すること、いい換えれば、わが国は、自国を、外部からの武力攻撃や侵略のおそれのない状態におき、もし外部からの武力攻撃が発生すればこれを防衛し得る状態におく国家に固有な権能を有することは当然である。これは、自ら自国の安全を保持し、また、他国の協力を得て自国の安全を保持することができるということである。憲法前文は、わが国が国家としてかかる固有な権能を有することをいささかも否定していない。否、むしろ、憲法前文第2段のさきの文言は、わが国にかかる安全保持の権能が存することを前提とするものである。憲法前文の右の文言は、憲法が平和主義をとる一つの根拠とされているのであるが、その平和主義は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」を「最低線」とし、それ以外は、たとえ、わが国が武力攻撃を加えられることがあつても、わが国民はこれを甘受し、自国の安全を犠牲にして、結局、戦禍に劣らぬ悲惨な状態に陥ることをも顧みないとするような諦観した「悲壮な」平和主義をいうものではない。従つて、憲法を解釈するにあたり、徒らに平和主義の理想のみを追い、戦力不保持の趣旨を強調し、わが国の安全を危くするが如きは、かえつて憲法の念願する平和主義の本旨をゆがめるものといわざるを得ない。かくして、原判決が憲法第9条の解釈につき引用する憲法前文のいずれの文言も、憲法第9条をもつて、自衛のための戦力の保持をも許さないとする原判決の前記解釈を導き出す根拠となるものではない。この点においても、原判決は憲法前文の解釈を誤つたものといわざるを得ない。

二、合衆国軍隊の駐留と憲法の精神
[14] 日米安全保障条約による合衆国軍隊の駐留は、わが国の安全保持のための措置としてとられたものであるが、かような措置が日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそうものでなければならないことはいうまでもない。しかるに、原判決は、合衆国軍隊の駐留に関し、憲法の精神にもとるかのような見解を表明するので、原判決が「最低線」とする国際連合の安全保障機能の現状を述べ、次いで、日米安全保障条約による安全保障措置が平和主義と国際協調主義にそい、憲法の精神にかなう所以を明らかにする。
(一) 国際連合の集団安全保障
[15] 国際連合は、国際の安全と平和の維持のため最もその活動が期待されている国際組織である。しかしながら、その中枢機関たる安全保障理事会は、国際連合の総会の1946年12月13日付の決議や1949年4月14日付の決議等に徴しても明らかなように、一部の常任理事国によるいわゆる拒否権の頻繁な行使によつてその機能が阻害され、安全保障理事会による軍事措置を含む強制措置による安全保障は、現在においてはその実効性を期待することが困難となつているのである。そこで、朝鮮動乱を契機として1950年11月3日国際連合の総会は、「平和のための統合」決議を採択し、安全保障理事会が拒否権の行使等によつて集団安全保障の機能を果し得ず、紛争または事態の解決に関する事項の取扱をしないときは、総会が平和の破壊および侵略行為に対し軍事措置を含む安全保障措置を加盟国に対して勧告することができるものとした。しかし、かような措置をとるためには、総会に出席し、かつ投票する加盟国の3分の2の賛成が必要であるから、決議の成立をみるに至るまでには幾多の困難が予想されるのである。また、この総会の勧告に従うことは加盟国の義務ではなく、任意に勧告に従う加盟国によつて軍事措置がとられる可能性があるに過ぎないから、果してどれだけの加盟国が集団措置に加わるか、確実にこれを予測することも困難である。従つて、「平和のための統合」決議に基く総会の安全保障措置のみに頼ることも、安全保障としては、必ずしも充分でないのである。従つて、わが国は、憲法制定当時に予想された原判決のいう「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的措置等」のみによつては、自国の平和と安全を維持するに足る集団安全保障を確保することができないことは明らかである。
(二) 日米安全保障条約と国際連合憲章との関係
[16] 日米安全保障条約は、国際連合憲章第51条を前提として結ばれた集団安全保障取極である。
[17](イ) 先ず、国際連合憲章第51条による個別的ならびに集団的自衛権、およびこれを前提とする集団安全保障取極について述べる。国際連合憲章は、安全保障理事会のとる安全保障のための軍事措置がいかに確実かつ迅速に行われるとしても、なお、その実施には相当な日時を必要とするため、加盟国に対し、一朝武力攻撃が開始された場合には、当初から有効にこれを防禦し得ないことを予想し、第51条によつて加盟国に個別的または集団的自衛権のあることを承認し、加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、加盟国が一定の制限の下にこれらの自衛権の行使として武力による自衛行動に訴えることを承認している。ここにいう集団的自衛権とは、一般に、自国が武力攻撃の対象である場合だけでなく、他国の安全や独立が自国の安全や独立に死活的であると認められるとき、その他国に武力攻撃が加えられた場合にも、自衛措置に訴えることが許される権利であり、国際連合憲章において、その正当性が承認されているのである。このような集団的自衛権が認められていることは、国際社会において平和の維持される利益が窮極には共通であることの適切な表現であるということができよう。この個別的または集団的自衛権の行使は、あらかじめ安全保障理事会の決定を経ないでとり得る軍事措置であるが、その軍事措置は、国際連合の集団安全保障の場合と違つて、武力攻撃が発生した場合に限られ、単に、武力攻撃の脅威があつたり、武力攻撃が切迫したというだけではとることができないのである。しかも、その軍事措置は、自衛権の行使としてとられるものであるから、その範囲は、自衛のためやむを得ない措置として必要かつ相当な限度に止まらなければならないことも当然である。また、かような軍事措置をとつた場合には、当事国は、直ちに安全保障理事会にこれを報告しなければならないとともに、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持のために必要と認める行動をとつたときは、当事国は、右の軍事措置を停止しなければならないとされている。しかも、安全保障理事会は、当事国の自衛権の行使がその限界を逸脱していると認めた場合には、これを不当として国際連合憲章第39条により停止を勧告し、または、第40条により必要と認める暫定措置に従うよう関係当事国に要請し、さらに、自衛権の行使と称してとつた行動を平和の破壊と決定して、第42条による軍事措置によりこれを鎮圧することもできるのである。そして、安全保障理事会の決定が、いわゆる拒否権の行使等によつて不可能となるような場合には、国際連合の総会が、既に述べた「平和のための統合」決議に従い、安全保障理事会に代つて、当事国に対し限界を逸脱した自衛権の行使を停止することを勧告するとともに、他の加盟国にこれに対する必要な措置をとることを勧告することができるのである。従つて、加盟国の個別的または集団的自衛行動に対しても、安全保障理事会および総会の調整的機能が存することに留意しなければならない。このように、加盟国の個別的または集団的自衛権の濫用に対しては、国際連合が事後にこれを阻止し、是正する法的保障が存するのであるから、これら個別的または集団的自衛権の行使も窮極的には国際連合の一般的統制の下におかれ、かくして国際社会における法の支配が維持される建前となつているのである。
[18] 国際連合憲章は、右に述べたような個別的および集団的自衛権を前提として、加盟国等が集団安全保障取極を結ぶことを禁じていない。そして、この集団安全保障取極が、その性質上、国際連合の集団安全保障に奉仕し、これを補充すべきものであることはいうまでもない。
[19](ロ) 次に、日米安全保障条約と国際連合憲章第51条との関係について述べる。日米安全保障条約によつて駐留する合衆国軍隊の軍事行動は、条約第1条によれば、極東における国際の平和と安全の維持に寄与するとともに、外部からの武力攻撃に対するわが国の安全に寄与するためにとられるものとされている。従つて、条約の文言からは、合衆国軍隊の行動が国際連合憲章第51条の範囲にとどまるべきことは、必ずしも明らかでなく、特に合衆国軍隊が日本国以外の極東において軍事行動をとる場合は、その行動範囲が一見極東全域にわたつて広汎かつ無制限であるかの如き印象を受けるかも知れない。しかし、合衆国は、国際連合の加盟国として国際連合憲章第2条の行動の原則および第103条による憲章上の義務が一般条約上の義務よりも優先する原則によつて、何よりも先ず国際連合憲章の制約に従わなければならないのであるから、憲章の許す範囲内においてのみ軍事行動をとり得るのである。従つて、合衆国としても、その自衛権の行使につき、国際連合憲章第51条の適用を免れないことはいうまでもない。このことは、「昭和32年6月21日に発表された岸日本国総理大臣とアイゼンハウアー合衆国大統領との共同コミユニケ」の2に右の趣旨が記載されていることからも明らかである。また、昭和32年9月14日付の「日米安全保障条約と国際連合憲章との関係に関する交換公文」に「安全保障条約に基いて執られることがある措置」(安全保障条約に基いて締結された行政協定に基いて執られることがある措置を含む。)は、国際連合憲章第51条の規定が適用されるべきものであるときはいつでも、同条の規定に合致しなければならない」とされていることは、右の趣旨を確認したものに外ならない。従つて、合衆国軍隊の行動は、国際連合憲章の許容する範囲内にあつて国際連合の一般的統制に服し、合衆国軍隊が侵略のために出動したり、自衛権を濫用したりすることがない法的保障が存するのである。しかも、日米安全保障条約の締結が必要であつたことは、条約の前文に、「日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」にもかかわらず、「無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある」とされていることから明らかである。右にいう侵略の危険の存在は、国際連合の安全保障理事会の1950年6月25日付、同月27日付および同年7月7日付の各決議ならびに総会の1951年2月1日付および同年5月18日付の各決議によれば、朝鮮動乱をめぐつて極東において平和の破壊または侵略行為が存在したと判断されていることからも認められるのである。しかるに、原判決は、極東において合衆国軍隊が、かかる軍事措置をとる際には、「わが国が提供した国内の施設、区域は勿論この合衆国軍隊の軍事行動のために使用されるわけであり、わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく、従つて日米安全保障条約によつてかかる危険をもたらす可能性を包蔵する合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に悖るのではないかとする疑念も生ずる」と説示する。しかし、わが国内に駐留する合衆国軍隊が、極東における国際の平和と安全の維持のため出動するのは、国際連合の機関の決定または勧告に基いて出動する場合の外は、国際連合憲章第51条によつて合衆国の個別的または集団的自衛権の行使として行動する場合に外ならない。この場合には、現実に武力攻撃が発生しているのであるから、極東における国際の平和と安全を脅威することは明らかである。従つて、わが国の平和と安全に対しても脅威を及ぼすものであることは、これを否定し得ない。しかも、かような侵略を防止することは、わが国が加盟している国際連合の使命であるが、その安全保障の機能が充分に発揮されないので、これを補充するため合衆国軍隊が出動するものであることも看過してはならない。このように考えれば、原判決が、合衆国軍隊の駐留を許容した政府の行為をもつて、わが国が「自国と直接関係のない武力紛争の渦中」に巻き込まれる虞がある行為とするのは誤である。
[20] 以上(一)および(二)に述べたように、日米安全保障条約により駐留する合衆国軍隊は、専ら、侵略を防止することにより、わが国の平和と安全の維持、およびこれと密接な関連のある極東における国際の平和と安全の維持に寄与するためにのみ使用され、それ以外の目的に濫用されない法的保障が存する。そして侵略が不法で許されないとされていることは、さきに述べた如く、確立された国際法規であつて、憲法第98条第2項も確立された国際法規を遵守すべき義務を規定しているばかりでなく、侵略を防止することは、国際の平和と安全の維持に寄与する所以でもある。従つて、合衆国軍隊の駐留を許容したわが国政府の行為は、日本国憲法の基調とする平和主義と国際協調主義にそいながら、わが国の平和と安全の維持をはかるものであつて、憲法第98条第2項に違反しないことはもちろん、憲法の精神にもとるものではなく、むしろ、その精神から許容されるべきものと解するのが相当である。

[21] 以上いずれの観点よりするも、わが国内に駐留する合衆国軍隊を違憲の存在とする理由はない。従つて、かかる合衆国軍隊の施設または区域内の平穏を保護する目的で制定された刑事特別法第2条が違憲無効であるとした原判決の判断は不当なものといわざるを得ない。
[22] 原判決は、直接、日米安全保障条約が憲法に違反するとは述べていないが、合衆国軍隊の駐留がわが国政府の要請と協力によつて始めて可能となるものであることを理由に、その駐留はわが国政府の行為によるということを妨げないとし、そうであるとすれば、政府が合衆国軍隊の駐留を許容していることは憲法第9条第2項前段に違反し、その結果わが国に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許されないと判示する。しかしながら、その判文を仔細に検討すると、条約の国際法上の効力は別として、その国内法上の効力と憲法との優劣問題については憲法優位の立場をとり、裁判所の違憲審査権は条約に及ぶものとし、日米安全保障条約を合衆国軍隊の駐留を許容する点において憲法第9条第2項前段に違反する無効なものと判断したと解する外はない。けだし、合衆国軍隊の駐留は日米安全保障条約に基くのであつて、その駐留に対するわが国政府の要請は同条約を成立せしめる行為であり、その駐留に対するわが国政府の協力は同条約による義務の履行として行われる行為であり、これを欠けば、同条約の成立を否定しまたはその存在を無意義ならしめるものであるから、これら政府の行為によつて合衆国軍隊の駐留を許容していることが憲法に違反し、その結果としてわが国に駐留する合衆国軍隊が憲法上その存在を許されないとすることは、とりもなおさず、日米安全保障条約を違憲無効と判断したことに帰着するからである。原判決が、かように、日米安全保障条約を違憲としたことは、憲法第81条の解釈を誤り、かつ、いわゆる統治行為または政治問題につき裁判所の裁判権が及ぶものとした不当な判断といわざるを得ない。

一、条約と違憲審査権
[23] 原判決が、右のように、条約についても裁判所の違憲審査権が及ぶとの見解に立つて日米安全保障条約を違憲と判断したことは、憲法第81条の解釈を誤つた不当な判断といわざるを得ない。いうまでもなく、裁判所の違憲審査権の憲法上の根拠は、憲法第81条である。しかし、同条は、法律、命令、規則および処分が憲法に適合するかどうかの審査権のみを規定していて、本件で問題となつている条約については、何も触れていない。さらに、憲法第98条第1項は、憲法をもつて国の最高法規であるとし、憲法に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しないとしながら、憲法と矛盾する条約の効力については規定するところなく、かえつて同条第2項において、日本国が締結した条約および確立された国際法規は誠実に遵守することを必要とすると規定し、条約は、憲法との関係において、法律、命令、規則または処分とは別個に取扱われるべきことを明らかにしている。従つて、日本国憲法の下においては、裁判所は、条約が憲法に適合するかどうかの審査権を有しないものと解すべきである。もとより、かように解したからといつて、憲法と矛盾する条約の締結を憲法が是認しているというのではなく、かかる条約の締結は避けなければならないのは当然であるが、条約の性質と司法裁判所の性格および機能にかんがみ、憲法は、条約の合憲性の判断を内閣と国会、すなわち国の最高の政治部門に委ねたものと解するを相当とする。かように考えれば、原判決が日米安全保障条約を憲法に違反すると判断したのは、条約に対する裁判所の違憲審査権が憲法上否定されているにもかかわらず、それに違反してなされた不当な判断といわざるを得ないのである。条約について裁判所の違憲審査権がないと解する以上、原判決のいう合衆国軍隊の駐留を許容する政府の行為についても裁判所の違憲審査権の及ばないことはもちろんである。

二、統治行為
[24] 条約一般につき違憲審査権があるかどうかにかかわらず、日米安全保障条約は、その特殊な性格にかんがみ、司法裁判所において憲法に適合するかどうかを審査することはできない。思うに、社会に生起するあらゆる問題は、それが法律上の争を含むものである限り、訴があれば、裁判所においてこれに法律的解決を与えるべきであるとすることは、原則として正しい。日本国憲法も、それを理想とし、裁判所に広汎な権限を認めているのである。しかしながら、諸外国の例に徴しても、また、多くの学説の説くところに徴しても、右の原則にはおのずから例外があるのであつて、その例外を如何なる理論の下に如何なる範囲に認めるかについては諸説必ずしも一致していない現状にあるが、少くとも、いわゆる統治行為または政治問題という観念をもつて表わされる司法裁判所の裁判権の及ばない問題のあることについては、殆んど争がない。もとより、かかる問題のあることを認めることは、その限度で、国民の有する裁判所の裁判を受ける権利を奪うこととなるので、その範囲の徒らに拡大されることは許されないのであるが、高度の政治性を有する問題、殊に現在の複雑微妙な国際情勢の下において侵略の危険に曝されることをできるだけ避け、国の安全を保持するためにとられる政府の措置にかかる問題については、司法裁判所が純法律的に処理することなく、政府または国会の処理に委ねるべきである。この制約は、憲法上司法権の本質に由来するというべきであつて、このことは、司法裁判所の組織および訴訟手続の構造、殊に裁判が法廷に顕出される限られた資料のみに基いてなされなければならないことに徴しても明らかであろう。日米安全保障条約の合憲性の問題は、まさに、かような司法裁判所の裁判権の限界を越えた問題である。日米安全保障条約を違憲と判断することが司法裁判所の裁判権の限界を越える不当な判断である限り、原判決のいう合衆国軍隊の駐留を許容する政府の行為についても、また同様である。

三、前提問題
[25] 条約について、あるいは統治行為または政治問題について、憲法上裁判所に裁判権がないことを是認しながら、前提問題としてならばその審査をすることを妨げないと説く者もあるようである。しかし、憲法が条約を司法裁判所の違憲審査権の範囲外においたのも、統治行為または政治問題の観念をもつて表わされる司法裁判所の裁判権の及ばない問題があることを認めるのも、条約および統治行為または政治問題の性質が、そもそも司法裁判所の裁判権に服させることを適当としないためである。従つて、前述したところは、日米安全保障条約または同条約に関する政府の行為が前提問題となつている場合であると否とにかかわらないこと論をまたない。

[26] 以上いずれの観点よりするも、司法裁判所の裁判権の限界を越えて日米安全保障条約を違憲とし、従つて、刑事特別法第2条が違憲無効であるとした原判決の判断は不当なものといわざるを得ない。

[27] 右第一、第二、第三のいずれの点よりするも、原判決は、到底破棄を免れないものと思料する。

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