蓮華寺事件
上告審判決

建物明渡、代表役員等地位確認請求事件
最高裁判所 昭和61年(オ)第943号
平成元年9月8日 第二小法廷 判決

上告人 (被控訴人 第1事件原告) 蓮華寺
             代理人  色川幸太郎 外21名

被上告人(控訴人  第1事件被告) 久保川法章
             代理人  小見山繁 外14名

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同宮川種一郎、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同中川徹也、同猪熊重二、同桐ヶ谷章、同八尋頼雄、同福島啓充、同若旅一夫、同漆原良夫、同小林芳夫、同今井浩三、同大西佑二、同堀正視、同春木實、同川田政美、同稲毛一郎、同平田米男、同松村光晃の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 本件においては、上告人が被上告人に対し、包括宗教法人日蓮正宗(以下「日蓮正宗」という。)が被上告人を僧籍剥奪処分たる擯斥処分(以下「本件擯斥処分」という。)に付したことに伴い、被上告人が蓮華寺の住職たる地位ひいては上告人の代表役員及び責任役員たる地位を失い、上告人所有の第1審判決添付の物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)の占有権原を喪失したとして、本件建物の所有権に基づきその明渡を求めるのに対し、被上告人は、本件擯斥処分は日蓮正宗の管長たる地位を有しない者によってされ、かつ、日蓮正宗宗規(以下「宗規」という。)所定の懲戒事由に該当しない無効な処分であると主張して、上告人の右請求を争っている。

[2] 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することができるものに限られ、したがって、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であっても、法令の適用により解決するに適しないものは、裁判所の審利の対象となり得ないというべきである(最高裁昭和51年(オ)第749号同56年4月7日第三小法廷判決・民集35巻3号443頁)。
[3] しかるところ、宗教法人法は、宗教団体に法律上の能力すなわち法人格を与えるものであるが、その趣旨は、「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること」(同法2条)を主たる目的とし、固有の組織と活動の主体として存在する宗教団体について、その「礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営する」(同法1条1項)という、いわば経済的及び市民的生活にかかわる部分のために法人格を認めることにあるのであって、宗教団体は、法人格を取得して宗教法人となった後においても、それに包摂されない宗教活動の主体として存在するものであることはいうまでもない。そして、同法12条1項5号に規定する宗教法人の代表役員及び責任役員の地位はもとより法律上の地位であるが、宗教団体と宗教法人とが右のような関係にあることから、本件においても、宗教団体内部における宗教活動上の地位としての宗教上の主宰者である法主、管長又は住職たる地位(これらの地位が法律上の地位でないことについては、最高裁昭和51年(オ)第958号同55年1月11日第三小法廷判決・民集34巻1号1頁参照)にある者が、宗教法人の代表役員及び責任役員となるものとされており、したがって、住職たる地位を喪失した場合には、当然代表役員及び責任役員の地位を喪失する関係にある。
[4] そして、宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきであることは、憲法20条のほか、宗教法人法1条2項、85条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである(最高裁昭和52年(オ)第177号同55年4月10日第一小法廷判決・裁判集民事129号439頁、前記昭和56年4月7日第三小法廷判決参照)。かかる見地からすると、特定人についての宗教法人の代表役員等の地位の存否を審理判断する前提として、その者の宗教団体上の地位の存否を審理判断しなければならない場合において、その地位の選任、剥奪に関する手続上の準則で宗教上の教義、信仰に関する事項に何らかかわりを有しないものに従ってその選任、剥奪がなされたかどうかのみを審理判断すれば足りるときには、裁判所は右の地位の存否の審理判断をすることができるが、右の手続上の準則に従って選任、剥奪がなされたかどうかにとどまらず、宗教上の教義、信仰に関する事項をも審理判断しなければならないときには、裁判所は、かかる事項について一切の審判権を有しない以上、右の地位の存否の審理判断をすることができないものといわなければならない(前記昭和55年4月10日第一小法廷判決参照)。したがってまた、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(前記昭和56年4月7日第三小法廷判決参照)。

[5] これを本件についてみるに、原審の認定するところによれば、要するに、日蓮正宗の内部において創価学会を巡って教義、信仰ないし宗教活動に関する深刻な対立が生じ、その紛争の過程においてされた被上告人の言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説であるとして、日蓮正宗の管長阿部日顕が責任役員会の議決に基づいて被上告人を訓戒したが、被上告人が所説を改める意思のないことを明らかにしたことから、宗規所定の手続を経たうえ、昭和56年2月9日付宣告書をもって、被上告人を宗規249条4号所定の「本宗の法規に違反し、異説を唱え、訓戒を受けても改めない者」に該当するものとして、本件擯斥処分に付した、というのであり、原審の右認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして、首肯するに足りる。
[6] そして、本件においては、被上告人が本件擯斥処分によって日蓮正宗の僧侶たる地位を喪失したのに伴い蓮華寺の住職たる地位ひいては上告人の代表役員及び責任役員たる地位を失ったかどうか、すなわち本件擯斥処分の効力の有無が本件建物の明渡を求める上告人の請求の前提をなし、その効力の有無が帰するところ本件紛争の本質的争点をなすとともに、その効力についての判断が本件訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものであるところ、その判断をするについては、被上告人に対する懲戒事由の存否、すなわち被上告人の前記言説が日蓮正宗の本尊観及び血脈相承に関する教義及び信仰を否定する異説に当たるかどうかの判断が不可欠であるが、右の点は、単なる経済的又は市民的社会事象とは全く異質のものであり、日蓮正宗の教義、信仰と深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくして判断することのできない性質のものであるから、結局、本件訴訟の本質的争点である本件擯斥処分の効力の有無については裁判所の審理判断が許されないものというべきであり、裁判所が、上告人ないし日蓮正宗の主張、判断に従って被上告人の言説を「異説」であるとして本件擯斥処分を有効なものと判断することも、宗教上の教義、信仰に関する事項について審利権を有せず、これらの事項にかかわる紛議について厳に中立を保つべき裁判所として、到底許されないところである。したがって、本件訴訟は、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである。

[7] 以上のとおり、本件訴えは不適法として却下を免れないというべきであり、これと同旨の原審の判断は、結論において正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、ひっきょう、右と異なる見解に立って原判決の不当をいうか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
[8] よって、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香川保一  裁判官 牧圭次  裁判官 島谷六郎  裁判官 藤島昭  裁判官 奥野久之)
一 原判決が大前提として掲げる判断命題
[1] 原判決は、本件訴訟が「法令の適用により終局的に解決することができるものであるか否か」を問題とし、それを判断するための大前提として、6丁裏3行目以下において、次の4つの判断命題を掲げている(以下の論述の便宜上、判旨の内容を分割して、それぞれの命題にABCDの符号をつけることにする)。
【A】「宗教団体……がその内部規律に則って団体の構成員……に対して行なった懲戒処分……の効力が争われそれについての判断が必要とされる場合においては当該団体の自律的決定の結果を原則として尊重すべきものであり、処分に付された手続が著しく正義にもとるか、それが全く事実上の根拠に基づかないか、又は内部規律に照らしても処分の内容が社会観念上著しく妥当性を欠き公序良俗に反すると認められるような場合を除いて右処分を有効なものとして取り扱うべきものであって、その効力は右のような限度においてのみ裁判所の審査に服すべきものと解される。」
【B】「しかしながら他面宗教法人が宗教活動を目的とする団体であり、その宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されていることに鑑みると、団体の自治によって決定されるべき宗教上の教義、信仰にかかわる事項については裁判所はおよそ一切の審判権をもたないといわなければならず、」
【C】「したがって宗教団体内部における懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題として争われている場合であっても、それに対する判断が教義内容に深くかかわり紛争の実体が宗教上の争いであるために当該紛争自体が全体として法律の適用による終局的解決に適しないときには法律上の争訟とはいえず、訴えは不適法として却下されるべきものと解するのが相当であり、」
【D】「このようなときにもさきにみたように団体の自律的結果尊重の観点から処分の効力を是認することは結果として裁判所が宗教上の対立抗争に介入しその一方の立場に立つことになり相当ではないと解される。」
[2] 原判決は、右の4つの命題を大前提として定立して、これを本件事案に適用し、結論として、本件訴訟は「法律上の争訟」に当たらないと判断している。
[3] しかしながら、【A】【B】命題から【C】【D】命題に至る論理の過程には、理由齟齬ないし理由不備の点がある。以下その理由を述べる。

[4] 【A】命題は、宗教団体内の懲戒処分の効力について判断する必要がある場合には、裁判所は「自律的決定の結果を原則として尊重すべき」であって、司法審査を加えることなしに「処分を有効なものとして取り扱う」べきであるとし、右の原則に対する例外――すなわち裁判所の審査の対象――となるのは、(1)処分手続が著しく正義にもとるとき、(2)処分事由が全く事実無根のとき、(3)処分内容が社会観念上著しく妥当性を欠き公序良俗に反するとき、という3つの場合に限られるとする。すなわち、【A】命題によれば、懲戒処分が右の3つの例外的場合に該らない限り、裁判所は、処分理由の内容や処分手続に立ち入ってその是非を審理判断することなく、当該団体の自律的決定の結果を尊重して当該懲戒処分を有効として取り扱うべきことになるのである。
[5] 右【A】命題と同趣旨の基準は、幾多の裁判例の採用するところであり〈注1〉、憲法20条からの要請として、広く一般に承認されている法理であるといってよく、もとより上告人としても何らの異論もない。

[6] 【B】命題は、「宗教法人が宗教活動を目的とする団体であり、その宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されている」とし、これを論拠として、「団体の自治によって決定されるべき宗教上の教義、信仰にかかわる事項」について裁判所は審判権をもたないとする。すなわち、【B】命題の拠って来たる所以もまた、憲法20条にあるのである。したがって、憲法20条を正しく解釈するならば、【A】命題に述べられている法理と【B】命題に述べられている法理とは、もともと相互に排斥し合うような関係にはないのであるから、【B】命題は、決して【A】命題にいう法理の適用を否定ないし制限する趣旨と解すべきではない。すなわち、【B】命題は、既に【A】命題の中に当然の前提として組み込まれていると解すべきものであり、それゆえ、懲戒処分の効力が問題となっている場面においては、教義・信仰上の事項についても【A】命題の法理によって処理すべきであるし、また、処理し得るのであって、【B】命題をことさら論ずる必要はないのである。
[7] もっとも、ここで疑問を生ずるのは、原判決が、【B】命題の冒頭に「しかしながら他面」という接続詞を用い、【C】命題に対し「したがって」という接続詞で結んでいることである。この点に意味を認めるとすれば、原判決は【B】命題を【A】命題の適用を否定ないし制限するものとして理解しているのかも知れないが、もしそうだとするならば、懲戒処分の場合に認められる【A】命題の法理(自律結果の尊重)が、何故に教義・信仰上の事項について否定ないし制限されることになるのか、そこには何らの合理的根拠も見出せないのであって、この点において原判決の理由齟齬ないし不備を指摘せざるを得ないのである(のみならず、原判決が、【B】命題をこのように解しているとするならば、そこには憲法の解釈の誤りが存するといわざるを得ない。この点については後述「第三点」参照)。

[8] 【C】命題は、懲戒処分の効力に対する判断が「教義内容に深くかかわり紛争の実体が宗教上の争いである」ときは、その処分を前提とする訴えは却下される、というのであるが、何故に【A】命題の結論がここに至って全く逆転するのか、その間には何らの合理的根拠も見出せないのである。おそらく原判決は、【B】命題をもって【C】命題を導き出す論拠とするつもりだったのかも知れないが、前述のごとく、【B】命題は、【A】命題を否定ないし修正するものとは解せないのであるから、かかる【B】命題から【C】命題を導き出すことは到底できないのである。しかるに、【B】命題から【C】命題を導き出した原判決には、理由に齟齬ないし不備があるという他はない。

[9] のみならず、【C】命題は、その内容自体においても極めて不明確かづ曖昧である。
[10] 【C】命題は、法律上の争訟性を否定すべき場合の基準として、次のごとき判断命題を掲げている。
(a) 「それ〔請求の当否を決する前提問題たる懲戒処分の効力〕に対する判断が教義内容に深くかかわり」
(b) 「紛争の実体が宗教上の争いであるために」
(c) 「当該紛争自体が全体として法律の適用による終局的解決に適しない」
[11] しかしながら、右(a)(b)(c)の論理的関係は全く不明確である。
[12] すなわち、右(c)は、「紛争自体が全体として」という曖昧かつ不明確な修飾語を除けば、“法律上の争訟性がない”ということと同義なのであって、右論理の結論部分というべきであるが、右(a)および(b)は、(c)の結論を導く理由ないし要件とされているところ、
(イ) (a)であるがゆえに(b)になり、その結果として(c)になるのか
(ロ) (a)と(b)の2つの要件が備わってはじめて(c)になるのか
(ハ) (a)または(b)のどちらかの要件を充たせば(c)になるというのか
そのいずれとも一義的に解することができないのであって、いかなる要件が存すれば具体的権利義務に関する紛争が法律上の争訟性を欠くに至るというのか、この点に関する判旨は全く不明確である。
[13] また、用語自体も極めて曖昧かつ不明確に用いられており、その概念を一義的に把握することができない。すなわち、
(1) (b)でいう「紛争の実体」とは何か。原判決12丁表でいうところの「本件紛争の実質」と同じ意味か否か。同じなら何故に違う用語を用いたのか。
(2) (b)でいう「宗教上の争い」とはどういう意味か。教義解釈や信仰上の価値判断にういての見解の対立を意味するのか、もっと広い概念なのか。
(3) (c)でいう「当該紛争」とはどういう意味か。当該訴訟という意味か、それとも当該訴訟の背景にある社会的紛争をも含めた意味か。前者だとすると、(b)でいう「紛争」も同じ意味か否か、また原判決12丁表で「紛争の実質」といっている場合の「紛争」と同じ意味なのか否か。後者だとすると、そもそも社会的紛争につい て法律上の争訟性を論ずること自体がナンセンスなことではないか。
[14] (a)は、裁判所が審判権を有しない場合として「教義内容に深くかかわリ」という基準を立てているが、右基準によれば、教義内容に深くかかわるか浅くかかわるかを判断しなければ法律上の争訟性を判断できないことになろうが、そのようなことこそ裁判所が審判権を有しないことであろう。
[15] 以上の諸点においても原判決には理由不備ないし理由齟齬があるとせざるを得ないのである。

[16] 【D】命題には、それ自体に論理矛盾がある。すなわち、【D】命題は、訴訟の実体が宗教上の争いであるときには訴えを却下しなければ対立当事者の一方に加担することになる、という理由らしきものを挙げているが、建物明渡の訴えを却下したならば結果において不法占拠者の側に加担したことになるのであって、【D】命題の挙げる理由は理由になっていない。
[17] 原判決は、【D】命題をも、【C】命題を導き出す論拠としているようであるが、宗教団体とその構成員とを対等の対立当事者と見る【D】命題は、宗教団体の自律的決定の結果を尊重すべしとする【A】命題と明らかに矛盾するのであって、かかる【D】命題は【C】命題の論拠となり得るものではない。

[18] 以上、いかなる観点からしても、原判決の判示する理由から【C】命題は導き出せないのであって、【A】命題と明らかに矛盾する【C】命題を合理的な論証なしに定立した原判決には、理由齟齬ないし理由不備の違法がある。
〈注1〉 その何例かを挙げると次のとおりである。
(1) 大阪高裁昭和52年5月26日「生野カトリック教会事件」判決(判例時報861号76頁)
 同判決は、「〔懲戒処分の〕効力について考えるに際しては憲法で保障された信教の自由を有する被控訴人司教区がその教義に従ってなす処分につき教義批判の上に立って当不当の判断をなすことは許されず(憲法20条、宗教法人法1条2項、85条の趣旨参照)、したがって、本件解任については、その内容および手続に関し公序良俗に反する等これを容認することが我が国の国家秩序に照らし許されぬと認められるような特段の事情がないかぎり、これを有効と解すべきである。」と判示している。
(2) 名古屋高裁昭和55年12月18日「聖心布教会事件」判決(判例時報1006号58頁)
 同判決は、「本件除名処分の理由とされるものが三誓願違反であり、カトリック教の教義に違反したかどうか、また違反内容の重大性、緊急性の程度をどのように評価するか等宗教上の教義の内面仁わたる解釈、評価、判断の問題に関するものである点からして、世俗裁判所がこれに関与することは、まさに宗教裁判所の裁判を代行することにほかならず、それは世俗裁判所が本来宗教団体内部の自治に委されるべき宗教上の教義に介入することを意味し、許されないものと解される(憲法20条、宗教法人法1条2項、85条参照)。したがって、本件除名処分の効力の判断に当っても、除名理由がカトリック教の教義にかかわりをもっていることに鑑み、その適用法規範、その処分内容及び手続について、カノン法及び典範の各法条の解釈、適用を行うものではなく、専らこれについて公序良俗違反等これを容認することが我が国の国家秩序維持の面からみて許されないと認められるような著しい裁量権の逸脱があったかどうかの観点からその効力を判断すべきものと考える。」と判示している。
(3) 京都地裁昭和53年2月27日「近松別院事件」判決(安武敏夫「宗教団体内部の懲戒処分と裁判所法第3条第1項」龍谷大学宗教法研究会編『宗教法研究』第1輯119頁)がある。
 同判決は、「本件懲戒処分が法律上の争訟の対象となり得るものとしても、宗教団体の自律性の観点から裁判所がこれに介入できるか否かが問題となる。一般に民法は私人間の法律関係についてはできる限りその意思を尊重し、公序良俗もしくは公共の福祉に反しない限りこれに干渉しないことを立前としており、このことは私人の自由な意思に基づいて構成される団体内部の法律関係についても同様にあてはまるところである。従って、自律的な規範をもつ団体の内部規律の問題である懲戒処分については、裁判所はそれが公序良俗もしくは公共の福祉に反しない限り干渉することはできず、具体的には、当該懲戒処分が適正な手続に従って行なわれていないと認められる場合か、もしくは、処分の基礎とした事実の重要な部分に誤認があると認められる場合か、もしくは処分が社会観念上妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を越えるものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解するべきである。ところで、右の団体が宗教団体である場合には、憲法20条、宗教法人法1条2項は信教の自由を保障し、とりわけ同法85条は裁判所が宗教上の人事に干渉してはならない旨を規定しているところ、本件懲戒処分は右宗教上の人事にあたり裁判所がその処分内容を深く詮索し直接もしくはそれに近いかたちでその適否を判断することとなれば、実質的には国家による宗教の統制を導きかねないことを考慮すると、懲戒権者に任された裁量の範囲は一層広く、具体的には、当該懲戒処分が手続上著しく適正を欠くと認められる場合か、もしくは全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合か、著しく妥当を欠き裁量権者に任された裁量権の範囲を越えるものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。」と判示している(同事件の仮処分事件である京都地裁昭和52年5月20日決定〈判例時報869号88頁〉も同旨である)。
一 原判決の判示
[19] 原判決は、
「裁判所がその固有の権限に基づいて審判することができる対象は、裁判所法3条にいう『法律上の争訟』すなわち、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否についての紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することのできるものに限られるというべきである」
と判示する。これは「法律上の争訟」の要件として判例によって確立されている解釈であって、上告人としても異論はない。
[20] 原判決は、右要件の本件事案への適用において、本件は、所有権に基づく建物明渡請求訴訟であるからその形式においては「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否についての紛争」には当たるとしつつ、その実体ないし実質においては宗教上の争いにはかならないから「法令の適用による終局的な解決の不可能なもの」である、として本件訴訟は「法律上の争訟」に当たらないとした。しかしながら、これは裁判所法3条の解釈および適用を誤ったものである。以下、本件事案への具体的適用に即してその誤りを指摘する。

[21] まず、原判決は、理由「一、3」(11丁表7行目以下)において、
「控訴人は右懲戒処分の無効事由として、(1)……日顕は日蓮正宗の法主したがって管長としての地位を有せず、……本件懲戒処分をなす処分権限を欠如している……と主張するのであるが、……本件懲戒処分の効力について判断するためには(1)の点についての判断が不可欠であるといわなければならないが、この点については、……法主の選任準則がなにか、また、右準則にしたがった法主選任行為が行なわれたか否かの認定判断をすることを避けることができないところ、……これらの点は日蓮正宗の教義、信仰の問題と密接不可分の関係にあり、右教義、信仰の問題に立ち入ることなくして判断することはできないものといわなければならず、いずれもことがらの性質上法令を適用することによっては解決することのできない問題である」
と説示する。
[22] しかしながら、右判示は、以下に述べるとおり、誤りである。
[23] 日蓮正宗における法主選任準則の内容および法主の選任行為の存否について争いのある本件において、これらの問題を裁判所が内容に立ち入って実質的に審理判断しようとすれば、日蓮正宗の教義・信仰に関する判断が不可欠となることは原判決認定のとおりである。したがって、原判決が日顕上人の法主の地位の存否を日蓮正宗の教義・信仰の内容に立ち入って判断することを回避したのは、その限りにおいて正当である。
[24] しかしながら、請求の当否を決する前提問題として懲戒処分の効力を判断するに際して、教義・信仰と密接に関連する争点が存在するからといって、そのことから直ちに裁判所が請求の当否を決し得なくなるというものではない。すなわち、宗教団体内における懲戒処分の効力を判断する方法として、多くの裁判例が原判決の前記【A】命題と同趣旨の基準を設けているのは、懲戒処分の効力を否定し得る事由を国家秩序ないし市民社会秩序維持の面からみて許されない事由に限定し、裁判所が宗教上の教義・信仰に関する判断を必要とするような事由は懲戒処分の効力を判断する事由として取り上げないとしているからにほかならないのである(前記〈注1〉、特に大阪高裁「生野カトリック教会」判決、名古屋高裁「聖心布教会」判決参照)。それゆえ、教義・信仰上の判断を必要とする事項を被処分者が懲戒処分の効力を争うために主張したとしても、かかる事項について裁判所は審判権を有しないのであるから、裁判所は、かかる点についての審理判断をすることなく懲戒処分を有効なものとして取り扱い、それを前提として本案判決をすることができるのであり、かつ、しなければならないのである。
[25] このような考え方からすれば、被上告人が日顕上人の法主の地位を否定する根拠として主張するところのものが、原判決の認定するとおり、専ら「日蓮正宗の教義、信仰の問題に立ち入ることなくして判断することはできない」ものである以上、そもそもそれは本件懲戒処分の効力を判断するためには審理する必要のない事項であった〈注2〉。
[26] したがって、本件においては、右のような無効事由を取り上げることなく、前記【A】命題の法理に従い、国家ないし市民社会秩序維持の面からみて許容し得ない事由の存否のみを審判し、それが存しなければ本件懲戒処分を有効なものとして取り扱うという方法によって請求の当否を決することができるのであって、また、そうしなければならないのである。この点において、「本件懲戒処分の効力を判断するためには(1)の点についての判断が不可欠である」とした原判決には、誤りがある。
[27] また、仮りに何らかの意味において、裁判所が法主の地位の存否を認定する必要があるとしても、裁判所は、教義・信仰の内容に立ち入った判断をすることなく、右地位を認定することができるのである。すなわち、日顕上人が法主であるか否かは、その点にういて自治的に決定・確定された結果(宗教団体内部において自治的に決定・確定された結果を、以下「自律結果」という)が存在するか否かを審判することにより判断し得るのであり、かつ、自律結果の存否は、裁判所が客観的に認定し得る社会的事実なのである(このことは後記「第三点」で再述する)。
[28] このことは、原判決のように「法主の選任準則がなにか」「右準則にしたがった法主選任行為が行なわれたか否か」についての各認定判断を経なければならないとしても全く同様であり、右各事項について日蓮正宗における自律結果を認定判断すれば足りるのである。
[29] すなわち、日蓮正宗における法主の選任準則がなにかという点に関して言えば、日蓮正宗における法主の選定準則は同宗の根本教義と密接に結びついているものであるが、法主の選定行為が「血脈相承」と呼ばれる特別の宗教行為であり、そのような宗教行為によって代々の法主の地位が承継されてきているという程度のことならば、同宗が公刊している同宗の概説書ないし歴史書等を通観しただけで明らかに認定できることであって、その認定に際しては、特に教義解釈や宗教上の価値判断を必要としないのである。また、日蓮正宗における法主の選定行為である「血脈相承」が行なわれたか否かの判断は、原判決が判示するとおり、同宗の教義・信仰の内容に深く立ち入ることなしにはできないことであるから、日蓮正宗が自律的に決定すべきことであり、その点に関する自律結果を裁判所は尊重すべきものである。しかして、その自律結果の存否は、裁判所が客観的に認定し得る社会的事実なのであり、かつまた、本件においては、当事者間に争いのない事実によって明らかにその存在を認定できるのである。それゆえ、裁判所は、自ら教義を解釈したり信仰上の価値判断をすることなしに、日顕上人の法主の地位を認定し得るのである(これらの点については、後記「第三点」において再述する)。
[30] 以上のとおり、原判決は、懲戒処分の無効事由として考慮する必要もなければ考慮すべきでもない教義・信仰上の事項を無効事由として取り込み、かつまた、日蓮正宗の自律結果を認定しさえすれば本件懲戒処分の効力を審判し得る場合であるにもかかわらず、これを審判し得ないと誤解した結果、法律上の争訟性の判断を誤った違法がある。

[31] 次に、原判決は、理由「一、3」(12丁表7行目以下)において、
「それのみならず、そもそも本件紛争の実質は、……現に宗派を二分して展開されている正信覚醒運動とこれに批判的な日顕及び宗務院によって代表される創価学会に対して協調和合していこうとする立場をとる者との間の宗教上の紛争のあらわれのひとつとみるのが相当であり、……控訴人らは正信覚醒運動こそが日蓮正宗の正統の立場であり日顕や宗務院に賛同する者はその教義に反する異端の徒であると非難して右懲戒処分の効力を否定するとともに遂には日顕の法主たる地位の正統性を争うに至ったものと認められるものであるから、結局本件訴訟は、その実質において宗教上の争いにほかならないといわざるをえず法令の適用による終局的な解決の不可能なものであって、裁判所法3条にいう法律上の争訟に当たらない」
と判示する。
[32] しかしながら、右判示は以下に述べるとおり誤りである。
[33] 原判決は、本件訴訟の社会的背景事情にすぎない、いわゆる「創価学会問題」の具体的事実を認定し(その認定自体が採証法則に違背しもしくは経験則に反する違法なものであることは後述する)、かかる背景事情の存在を理由として本件訴えを却下したのであるが、このように訴訟の背景に宗教的紛争があることを理由として当該訴訟の法律上の争訟性を否定するなどということは、過去の裁判例にも見当たらないところであり、原判決が一体いかなる法理論に基づいてこのような判断をなすに至ったのか合理的な理由は全く示されていない。
[34] そもそも、裁判所は、宗教上の紛争を解決すべき職責も能力も持ち合わせていないのであり、また、正続か異端かの争いについて国家は一切関与してはならず、これを当該宗教団体の自治ないし自律に委ねなければならない、というのが憲法20条の要求するところなのである。
[35] それゆえ、いやしくも具体的な私法上の権利義務ないし法律関係の存否についての争いが存在する限り、裁判所は、宗教上の争いの帰趨は宗教団体の自治ないし自律に委ね、一方、当該訴訟において解決を求められている具体的な権利紛争という国家法の次元の問題についてのみ、国家法に準拠して裁判する責任を全うすべきである。宗教紛争が存するからとて、国家法がふみにじられ国家法の秩序が破壊されるのを、裁判所が座視傍観することは許されないはずである。もし、宗教人が宗教紛争の陰で国家法を無視して行動することが容認されるとするならば、宗教紛争の規模が大きければ大きいほど国家法無視の行動の規模も大きくなるであろう。
[36] したがって、裁判所は、訴訟の背景に宗教紛争が存在している場合であっても、自らの職責外の宗教紛争には目を奪われることなく、私法上の具体的な権利紛争を解決すべき責任を負っているのであり、訴訟の社会的背景に宗教上の争いがあるとの理由で当該訴訟の法律上の争訟性を否定するなどということは、到底肯認され得ないはずである。
[37] もとより、宗教団体が当事者となっている訴訟にあっては、その背景に宗教上の紛争が存在する場合が多いのであって、まして本件のように異説を唱えたことを理由に懲戒処分がなされた場合であるならば、それが社会的現象としては「宗教上の争い」であることは当然である。もし、宗教上の対立が背景に存在するという一事をもって訴訟がすべて法律上の争訟に当たらないとされるならば、宗教団体は裁判を受ける権利を否定されたにも等しい不当な結果となる。
[38] 本件は、懲戒処分を受けて日蓮正宗の僧籍を喪失したにもかかわらず同宗に所属する上告人所有の寺院を不法に占拠している被上告人に対し、その建物の明渡を求める訴訟であって、訴訟の背景にある宗教上の争いに対する裁定を裁判所に求めるものではないのである。その処分理由である異説を被上告人が唱えるに至った縁由が創価学会問題にあったにせよ、創価学会問題なるものは、あくまでも本件訴訟の社会的背景にすぎず、本件訴訟上の請求の内容となっていないことはもとより、主要争点ともなっていない。そうであるからこそ、第一審以来、当事者双方は同問題に関する立証活動を全く行なっていないのである。
[39] かつまた、創価学会問題なるものが、本件懲戒処分の無効を招来するものでないことは、懲戒権濫用の主張に対して原判決が第一審判決を援用して説示するところであり、したがって、創価学会問題などは、本件訴訟の法律上の争訟性を判断する上においても全く考慮する必要のない事情であることは明らかである。

[40] ところで、教義・信仰上の判断を要する事項を請求原因として供養金の返還を請求した訴えを「法律上の争訟」に当たらないとして却下した判決例として、最高裁昭和56年4月7日第三小法廷判決(民集35巻443頁以下)がある。原判決は、右最高裁判決の判旨を念頭においたものではないかと思われる節もあるので、念のため、この点について論じておく。
[41] 右最高裁判決は、当該事件が「法律上の争訟」に当たらないと判断した理由を、次のごとく述べている。
「本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとっており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教聶に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるか、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となっていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであって、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらない」
[42] しかし、この判決は、いかなる意味においても、本件にとって何らの先例的意義をもつものではない。
[43] すなわち、右最高裁判決の事案は、宗教団体に「供養金」を納めた者が後になってその返還を請求したものであるが、そもそも「供養」なるものは、仏に対して捧げものをするという特殊の宗教上の意義を有する「宗教行為そのもの」であって、本来その返還などは教義ないし信仰の上からはもとより常識的にも考えられない性質のものであり、その返還を請求するというがごときは、まさに前代未聞のことに属するのである。しかも、その返還を求める理由たるや、信仰の対象の価値または宗教上の教義解釈についての錯誤を理由として宗教行為の無効を主張するというものであって、かつまた、原告の主張立証活動もその点に終始していたというものであり、訴訟提起の目的が裁判所に教義解釈や宗教的価値判断を求めることにあったということは、記録上客観的に明らかな事案であった。
[44] 本件請求は、私法上の所有権に基づく妨害排除(明渡)請求であり、かつ、それのみを求めているものであって、右最高裁事件とは全く事案を異にするものであることは、明白である。

五 結論
[45] 本件訴訟は、以上に述べたとおり、前提問題たる懲戒処分の効力を判断するにつき教義解釈や宗教的価値判断を必要とせず、上告人は、そのような点を争点としたことも主張立証の対象としたこともないのであって、本件訴訟が純然たる法律上の争訟であることは明らかである。
[46] しかるに、原判決は、法律上の争訟性の判断に関して誤った基準を定立したうえ、本件訴訟を「全体として法律の適用による終局的解決に適しない」と判断したものであって、裁判所法3条の解釈ないし適用を誤ったものであり、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
[47] そして、右誤りによって、原判決は、結果的に宗教団体たる日蓮正宗の自律権を否定したものであって、これが憲法20条に違背することは明らかである。
〈注2〉 日顕上人の法主の地位を否定する被上告人の主張が訴訟戦術のための言いがかりにすぎないことは第一審判決および原判決の認定するところからも明らかであり、このような被上告人の主張は、そもそも本件懲戒処分の無効事由としてまともに取り上げるに値いしないものでもある。
 たとえば、本件と同様に日顕上人の懲戒処分権限が争われていた横浜地裁小田原支部昭和60年6月4日判決(判例時報1172号94頁)においては、懲戒処分の無効事由として日顕上人の管長の地位を争っていた被処分者の佐々木秀明白身が、管長たる日顕上人によって小田原教会の主管に任命されたものであるため、同裁判所は、右無効事由の主張を主張自体失当として判決釈明により事実整理からも排除しているのである。本件訴訟における処分権者の地位をめぐる争いも、その程度のものなのである。
[48] 前記【C】命題および右命題を本件事案に適用した具体的説示部分(11丁裏6行目から12丁表6行目まで)が裁判所法3条の解釈および適用を誤ったものであることは前述したとおりであるが、右解釈・適用の誤りは、原判決が憲法20条の法理を正解しなかったことに基づくものである。以下その理由を述べる。
[49] 憲法20条は、個人の信仰活動の自由のみならず、宗教団体の結社および活動の自由をも保障するものであるが、その最大の眼目は、宗教団体が国家から干渉を受けずに当該団体内部の事項(なかんずく教義・信仰にかかわる事項)を自治的に決定しうる権利を保障すること、すなわち、宗教団体に宗教的自律を保障するところに存するといわなければならない。ところで、この宗教的自律の保障は2つの側面から考察することができる。第一に、宗教団体においてその内部事項について自治的に決定・確定された結果(自律結果)に対しては裁判所を含めた国家権力が不当に介入・干渉することができないという側面であり、第二に、国家権力は宗教団体における自律結果を尊重しなければならないとする側面である。むろんこの両者は表裏の関係にあるものであるが、前者はいわば宗教的自律保障の消極的側面、後者はいわば宗教的自律保障の積極的側面といえよう。
[50] 宗教的自律保障の消極的側面の具体的内容は以下のとおりである。すなわち、裁判所が宗教団体のなした教義・信仰上の価値判断の当否を判断したり自律結果を否定・変更したりすることは、――それが明らかに国法秩序と相容れない内容でない限り――宗教団体の自律権ないし信教の自由に対する不当な介入・干渉として許されないことになるのである。
[51] 次に、宗教的自律保障の積極的側面の具体的内容は以下のとおりである。すなわち、宗教団体の内部事項が訴訟上の請求の前提をなしており、請求の当否を決するために当該事項を審理・判断する必要がある場合には、右事項について当該宗教団体の自律結果が存在する以上、裁判所は、当該自律結果が存在するという事実を認定し、それに基づいて裁判すべきことになるのである。教義・信仰にかかわる事項が、宗教団体の自律により決定すべき事項の典型であることはいうまでもない。したがって、教義・信仰にかかかる事項について自律結果が存在する場合には、裁判所は右に述べたような処理をなすべきであり、教義・信仰にかかわる事項であることを理由として自律結果の存在に眼を閉ざすことは、宗教団体の自律権を否定することになるのであって、許されないのである。
[52] 教義・信仰にかかかる事項について、右にいう宗教的自律の消極的側面を説示した裁判例は数多く存在する〈注3〉。積極的側面に関しては、宗教団体のなした懲戒処分について原則として自律結果を有効なものとして取り扱うべきであるとする裁判例が少なくないのであって(前記〈注1〉参照)、この法理は【A】命題として原判決も認めているところである。そして、そのような裁判例のいくつかは、教義・信仰上の事項にかかわる懲戒処分について、教義批判の上に立って処分の無効をいう被処分者の主張を排斥している。前述のごとく、教義・信仰にかかわる懲戒処分についても【A】命題の法理によって処理しうるのであり、右法理によって本案判決をしたのが、これらの裁判例なのである〈注4〉。
[53] なお、我が国と同様の信教の自由条項を持つ、アメリカ合衆国、西ドイツ、フランス等の諸国においては、宗教団体の内部事項――とりわけ教義・信仰にかかわる事項――について、右の積極的側面を援用し、自律結果を所与の事実として裁判をなすべきことは、宗教団体の自律の当然の帰結として、数多くの裁判例や学説において承認されているところである(甲第26号証〔コンラート・ツヴァイゲルト教授作成の鑑定書〕、同第27号〔ウルリッヒ・ショイナー教授作成の鑑定書〕、同第51号証〔コンラード・ツヴァイゲルト教授作成の鑑定書〕に詳しい。なお、右各国における裁判例、学説などについては、追って補充する予定である)。
[54] 日蓮正宗の法主の地位は、いうまでもなく同宗の教義・信仰に密接に関連する事項である。したがって、裁判所が法主の地位を、その取得要件にまで遡って実質的に判断しようとすれば、教義解釈および信仰上の価値判断にわたらざるを得なくなるのは当然である。裁判所が、かかる判断をなし得ないことは勿論であるが、懲戒処分の効力の問題としては、【A】命題の法理に従って処理し得るのであるから、かかる判断を必要としないことは前述した。
[55] 仮りに日顕上人の法主の地位の存否を判断する必要があるとしても、日顕上人が法主であるか否かを判断するためには、その点についての自律結果が存在するか否かだけを審判すれば足りるのであり、そして、それこそは裁判所の審理・判断し得る客観的事実なのである〈注5〉〈注6〉。
[56] 言い換えれば、裁判所は、右のような客観的事実の存否を審判することによって日顕上人が法主であるか否かを認定し得るのである。しかるに、原判決が、法主の地位をめぐる争点(原判決のいう(1)の点、11丁裏)について、宗教的自律保障の積極的側面を看過ないし誤解し、これを「性質上法令を適用することによって解決することのできない問題」であると判断したのは、憲法20条の要請するところを誤解したものである。

[57] なお、このような自律結果の存在を認定したからといって、その内容となっている宗教上の事項について裁判所が実質的に宗教判断を加えたことにならないことは勿論であり、したがってまた、宗教上の対立抗争に介入したことにもならないのである。このような取り扱いこそ、法律上の紛争を解決するという裁判所本来の任務を放擲することなく、しかも憲法20条およびこれを受けた宗教法人法1条、85条等の要請に応えるところなのである。
[58] 以上の次第であるから、前記【D】命題も全くナンセンス極まる議論なのである。教義上の異説を唱えたことを理由として懲戒処分が行なわれた場合であれば、そこに正統と異端の宗教上の争いが常に存在するのは当然のことである。もし、異説を唱えて懲戒処分を受けた者がこれを争った場合に、【D】命題のようなドグマから、宗教団体の自律結果の存在を無視し、司法的救済を拒絶するということになれば、結局において宗教団体は最も重要な教義の面における自己統一の自治機能を否定された結果に等しい。これは憲法20条の保障する宗教団体自律権を否定するものである。
[59] そもそも原判決のごとく、宗教団体の立場を、その統制に違反した者と対等に見て、対立抗争の一方当事者にすぎないかのように考えること自体が、宗教団体の自治権を否定するものといわなければならない。けだし、宗教団体にとって、教義・信仰の統一こそは、その命脈なのであって、構成員が自己の所属する宗教団体の定める教義と相容れなけ思想信条を持つに至った場合には、自ら当該教団を脱退するか、または教団から排除されざるを得ないのである。またそうであるからこそ、宗教団体の自治および信教の自由とともに、これと信条を異にした個人の信教の自由が確保され得るのである。

[60] 宗教団体の自治的決定の結果によってその法律関係に変動を生ずることは多々あるのであって、自治の結果によって発生した権利が実力で他から妨害されている場合にも権利の司法的救済が得られないということになると、自力救済が認められない以上、宗教団体の自治は全くの画餅に帰することになる。かかる結論は、宗教団体の自治を保障した憲法20条に違反するものである。
[61] また、かかる解釈は、宗教団体の裁判を受ける権利を否定し、宗教団体の財産権の行使を否定するものであって、憲法29条および32条に違反する。もとより、宗教団体の有する財産権が一般の財産権と別異に扱われる理由はないのであって、その権利が侵害された場合には、司法的救済が当然保障されなければならない。【B】命題のいう「宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されている」という意味は、決して、宗教団体を無法状態にさらしたまま放置するということを意味するのではないのである。
〈注3〉 たとえば、いずれも専ら手続的適否に関する問題が争われた事案につき、宗教団体に対する裁判所の介入は教義・信仰の判断にわたらない限りにおいてのみ許されることを明示する次の2つの最高裁判決がある(後者は懲戒処分に関する直接の判例ではないが、宗教上の事項一般に対する裁判所の審判権の範囲を画する基準を示すものとして参考となるものである)。
 すなわち、最高裁昭和55年1月11日「種徳寺」判決(民集34巻1頁)は、懲戒処分の効力仁関し、「その判断の内容が宗教上の教義解釈にわたるもの」、同昭和55年4月10日「本門寺」判決(判例時報973号85頁)は、住職選任の効力に関し、「本来、その自治にようて決定すべき事柄、殊に宗教上の教義にわたる事項」という基準を設け、これらの事項につき裁判所が審判権を有しない旨を判示している。
 また、前掲大阪高裁「生野カトリック教会」判決は、「憲法で保障された信教の自由を有する被控訴人司教区がその教義に従ってなす処分につき教義批判の上に立って当不当の判断をなすことは許されず」と判示し、前掲名古屋高裁「聖心布教会」判決は、「本件除名処分の理由とされるものが三誓願違反であり、カトリック教の教義に違反したかどうか、また違反内容の重大性、緊急性の程度をどのように評価するか等宗教上の教義の内面にわたる解釈、評価、判断の問題に関するものである点からして、世俗裁判所がこれに関与することは、まさに宗教裁判所の裁判を代行することにほかならず、それは世俗裁判所が本来宗教団体内部の自治に委ねられるべき宗教上の教義に介入することを意味し、許されない」と判示し、いずれも懲戒事由が教義・信仰上の事項と関連する懲戒処分の効力が争われた事案につき、教義批判の上に立ってなす懲戒処分の無効の主張をすべて排斥している。
〈注4〉 前掲大阪高裁「生野カトリック教会」判決、名古屋高裁「聖心布教会」判決。
 なお、前掲「種徳寺」と「本門寺」の両事案においては、教義・信仰にかかわる事項が現実に争点となっていなかったため、前掲の両最高裁判決は、裁判所の審判が許されない宗教上の事項が法律上の前提問題となっている場合に裁判所がいかなる対応をなすべきかについて具体的に明示していないが、「本門寺」判決は、「宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるから、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべく、本来その自治によって決定すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入って実体的な審理、判断を施すべきでない」と判示し、このような問題については、当該宗教団体の自律結果を基礎として裁判すべきことを示唆している。
〈注5〉 このことについては、上告人が原審被控訴人第三準備書面で主張したとおりであり、ここに再述すれば、次のとおりである。
「裁判所は、『血脈相承』そのものの存否についての判断をなしえなくとも、日顕上人が管長および法主の地位にあることを認定することはできるのである。
 すなわち、――
 一般にカリスマ的最高統率者を戴く宗教団体においては、その最高統串者(本件では『法主』)が誰であるかということは、その正統の教義が何であるかということと並んで、当該宗教団体が同一性をもって存続することができるか否かにかかわる宗教上の重大問題なのであって、当該宗派内のすべての構成員に対し、それを明確に告知し周知させることは、当該宗教団体にとって最重要の課題なのである。それゆえ、そのような宗教団体においては、そのための特別の公式的・権威的・要式的な行為ないし手続を定めて忠実にそれを履践するのを常とする。具体的に言うと、それは、一定の機関によって当該宗教団体の行為として行なわれる、という意味において、『公式的』(official)であり、また、一定の権威ある機関により権威を印象づける方式を伴って行なわれる、という意味において『権威的』(authoritative)であり、さらにまた、誰が最高統率者に就任したかを印象づけるための一定の外形(衣服・持ち物・着座・呼称・敬語等)を伴うべきものとされる――『要式的』(formal)である――のが普通である。したがって、その性質上、その存在は、宗派内のすべての人々にとって極めて印象的かつ顕著である。
 日蓮正宗もその例外ではない。何びとが血脈相承を受け法主に就任したかは、同宗が同一性をもって存続するための最重要の問題であって、血脈相承を受けたものが法主に就任したことを宗派の全構成員に周知させるために告知する公式的・権威的かつ要式的な独特の行為ないし手続が存在しており、日顕上人の法主就任に際しても、それら(訓諭・院達等の公式的発表、御座替式・御代替法要等の伝統的儀式)が厳格かつ権威的にとり行なわれ、日顕上人の宗教上の地位(法主の地位)が全宗派内で極めて確然たる事実となっていることは、公然かつ明確な客観的事実なのである。それゆえ、裁判所は、これらの社会的諸事実に基づいて、『日蓮正宗において、日顕上人は日達上人から『血脈相承』を受けて法主に就任したとされている』という社会的事実を審理・判断できるのである。」
〈注6〉 この点につき、上告人は端的に「日顕上人が法主である」という点についての自律結果の存否を認定すればよいと思料するが、さらに原判決のように「法主の選任準則がなにか」「右準則にしたがった法主選任行為が行なわれたか否か」について各認定判断する必要があるとしても、そのおのおのについて日蓮正宗における自律結果の存否を認定判断すれば足りる(前記第二、二、2参照)。
[62] 原判決は、「控訴人が本件懲戒処分に処せられるに至った経緯、右処分をめぐる紛争の実体をみるのに、」と称して、。いわゆる「創価学会問題」についての事実認定を行なっているが、右は、証拠に基づかない恣意的な一種の創作である。
[63] そもそも、創価学会問題なるものは、本件訴訟において全くの付随事情にすぎないものであって、被上告人も、同問題を懲戒権の濫用と血脈相承の間接反証という形で主張していたにすぎない。しかも、これが本件懲戒処分の無効を招来するものでないことは前述したとおりであり、したがって、本件訴訟において当事者双方とも右問題を重要視しておらず、それゆえ、同問題を立証するための証拠は、いずれの側からも提出されていなかった。ちなみに、本件全証拠中、創価学会問題について触れている証拠としては、甲第24号証(東京地裁昭和58年6月23日判決・妙真寺事件)が唯一存するだけである。右事件においては、被処分者が同問題を争点のひとつとして争い、当事者双方から膨大な書証が提出され、当事者尋問および証人尋問においても同問題が焦点の一つになった。したがって、右判決は同問題の推移を詳細に認定しているのである。しかるに、原判決は、唯一の証拠となった前示判決の事実認定部分に依拠しながら、しかも、右判決の認定事実からは到底認定しえないような事実認定を行ない、本件事案を重要な点において意図的に歪曲しているのである。
[64] その顕著な例を指摘すると以下のとおりである。
[65] 原判決は、理由「一、2、(2)」(9丁表10行目以下)において、
「日顕は、昭和54年4月に池田大作が会長職を北条浩に譲って自らは名誉会長に就任したころから、創価学会が過去の教義上の逸脱行為などを反省していると評価して、創価学会に対する批判をやめなければならないと判断し、いわゆる僧俗和合協調路線をとるようになり、控訴人ら正信覚醒運動の活動家との対立を深めるようになった。」
と説示しているが、かかる事実は、甲第24号証からは絶対に認定しえないところであるし、およそ弁論の全趣旨からも認定できることではない。
[66] すなわち、昭和54年4月に池田会長が辞任したことを契機として、日蓮正宗が創価学会に対する批判をやめなければならないと判断して僧俗和合協調路線をとるようになったことは原判決認定のとおりであるが、それを決定したのは、先代法主の日達上人である。日達上人が昭和54年7月22日に遷化するまで現職の法主であったことは当事者間に争いのない客観的事実であって、僧俗和合協調路線は日達上人が法主の立場で日蓮正宗の基本方針として決定したことである。日顕上人は、故日達上人の確立した宗内秩序を忠実に踏襲したにすぎないのである。しかるに、それを決定したのが日顕上人であるとした原判決の認定は、いかなる証拠にも基づかず、もとより客観的事実にも反するものである。
[67] 右事実誤認の点は措くとしても、僧俗和合協調路線が日蓮正宗として公式に決定された宗内秩序であることを捨象し、単にそれが法主と宗務院によって代表される一派の立場にすぎないと見ている原判決は、宗教団体の自律権および自治の結果を否定するものであって、これを容認することはできない。
[68] 原判決は、理由「一、2、(3)」(9丁裏5行目以下)において、
「控訴人ら正信覚醒運動の活動家僧侶らは……第1回ないし第4回大会と同一の趣旨、目的のもとに第5回全国檀徒大会を開催しようとした」
と認定しているが、これは唯一の証拠である甲第24号証を読み誤ったものである。
[69] すなわち、第1回から第4回までの大会は、日蓮正宗総本山大石寺において開催されたものであって、全国から檀徒が総本山に参詣する「登山会」(宗教行事)として行なわれていたものであり、その際には、法主の臨席を仰いで教義・信仰上の指南を受けている。これに対し、第5回大会は、「学会問題を社会に訴えかける」と称し、日本武道館を借り切ってデモンストレーションのために多数の報道関係者を集めて行なったものであって、それまでの檀徒大会と全く性格を異にすることは明らかである。以上の相違は、甲第24号証を正しく読めば容易に分かることなのである。
[70] 原判決は、理由「一、2、(3)」(9丁裹末行以下)において、
「日顕は、同年9月24日、右大会に関与した僧侶201人を罷免処分を含む懲戒処分に付し、」
と判示する。
[71] しかしながら、右懲戒処分は、日蓮正宗が行なったものであって、日顕がというのは正確ではない。これは単に言葉だけの問題ではない。原判決は“日顕と活動家僧侶との宗教上の対立抗争”という図式を描き出そうとするに急なる余り、随所において無理な認定を重ねているのであるが、事実を歪めてまでも自ら描いた構図に合わせようとする意図が、右のごとき判示からも明白に読み取れるのである。何度でも言うが、右懲戒処分は、宗教団体としての日蓮正宗が所定の手続に則って自律的に決定したものである。ちなみに、懲戒処分手続において管長の関与する役割は、責任役員会の構成員として懲戒処分の議決に加わる点と、管長の名をもって作成された宣告書を裁可する点であるが、右懲戒処分は、管長だけでなく、総監・重役・参議会・宗務院等のしかるべき諸機関の手を経て、日蓮正宗の行為としてなされたものなのである。上告人としては、宗教団体の自律的決定ということを無視ないし軽視する原判決の態度を絶対に容認することができないのである。
[72] 原判決は、理由「一、2、(5)」(10丁裏8行目以下)において、
「本件懲戒処分は以上のような日蓮正宗内部の創価学会対策をめぐる一連の紛争の過程において日顕及び宗務院の採る立場に対立し、遂には日顕の法主としての地位をも否定するに至った正信覚醒運動の活動家僧侶らに対する大量処分の一環としてなされたと目すべきものである。」
と総括しているが、これまた何らの証拠にも基づかない独断的評価である。
[73] 原判決のいう「大量処分」が何を指すのか明確ではないが、もしそれが血脈不断の根本教義ないし血脈相承に関する金口嫡々唯授一人の根本教義を否定する異説を唱えたことを理由とする擯斥処分を指しているのだとすれば、それは、昭和57年2月に至って初めて11名に対して行なわれたものであり、本件懲戒処分とは処分理由も処分時期も異なっており、本件懲戒処分とは直接の関連性が存しないことは明らかである。また、被上告人は、日顕上人の法主の地位を否定したから擯斥されたのではなく、「戒壇の本尊」が究極の本尊であることを否定する異説および歴代法主間の「血脈相承」行為を否定して「金口嫡々唯授一人の血脈」が随所において断絶している旨の異説を唱えたから擯斥されたのであって、処分理由も処分時期も異なる他の処分と本件懲戒処分を同一視することは許されないし、かかる事実から本件懲戒処分を「大量処分の一環としてなされたと目すべきもの」とするのは全くの独断である。
[74] 原判決は、理由「一、3」(12丁裏4行目以下)において、
「日蓮正宗の宗派に属する全僧侶の約3分の1に達する控訴人ら正信覚醒運動の活動家僧侶201名が宗務院の中止命令に違背して第5回全国檀徒大会に関与した故をもって日顕により懲戒処分に処せられた」
と認定するが、この「約3分の1」とあるのは、何らの証拠にも基づかない空虚な数字である。
[75] すなわち、第5回全国檀徒大会の開催に関与したことを理由とする懲戒処分がなされたのは昭和55年9月23日であるが、その当時における日蓮正宗の全僧侶の数は954名(うち教師資格を有する者は674名)であった。そのうち201名が懲戒処分を受けたが、その全員が正信覚醒運動の活動家であったわけではない。
[76] なお、日蓮正宗の懲戒規定は、宗務院命令違反に対する懲戒処分を、住職または主管の罷免と一律に規定しているが(宗規248条2号)、実際に住職または主管を罷免された者は、18名の大会主催者のうちでも首魁と認定された5名だけであって、残り13名の主催者については降級処分に減軽され、それ以外の参加者および支援者は、いずれも停権ないし譴責という軽微な処分にとどめられた。
[77] また、昭和56年1月21日、日蓮正宗の僧侶181名が日顕上人の代表役員等地位不存在確認の訴えおよび職務執行停止の仮処分申請を静岡地裁に提起したが、これらの者は第5回全国檀徒大会の開催に関与して懲戒処分を受けた者と基本的に一致しており、彼らは右懲戒処分を不満とし、それに対する対抗手段として法廷闘争に訴えたが、それが右訴訟なのである。しかし、その後、一時の感情から訴状等に名を連ねたものの、その非を悔いて訴訟を取り下げる者も出て、現在上告審に係属している段階で当事者となっているのは165名である。なちみに、擯斥された者を除いた、現時点における日蓮正宗の全僧侶の数は、905名(うち教師資格を有する者は575名)である。
[78] 原判決は、理由「一、3」(12丁表末行)において、創価学会問題をめぐって「現に宗派を二分して展開されている」宗教上の対立が存するかのごとき説示をしているが、「宗派を二分して」というのは、およそ判決の文章とも思えない、具体性を欠き修辞的にすぎる表現である。なお、いかなる状態にあれば宗派二分と見るのか、原判決の考えは明らかではないが、その前提をなしているところの「約3分の1」という数字が全く証拠に基づかない過大な数値であることは前項で指摘したとおりである。
[79] ところで、右の説示が法律上の争訟性に関する判断としてなされていることからすれば、「現に宗派を二分して」というのは、口頭弁論終結時を基準としているものと考えざるを得ない。しかし、原判決は、いかなる資料に基づいて本件口頭弁論終結時における現状を認定したのであろうか。創価学会問題なるものは昭和54年5月には終局的な決着がつけられ、その時点で、創価学会を含めた日蓮正宗全体にわたる明確かつ具体的な宗内規律が確立されているのである。右宗内規律を不服としてそれに従おうとしない者たちも、右宗内規律の存在自体は承認しているのであって、かかる者たちが何人いようとも、ひとたび確立された規律が消滅するということは事実の上でもあり得ないことである。
[80] ところで、日蓮正宗の全信者のうち、擯斥された僧侶を支持している者は、僅か1パーセントにも満たないのであって、99パーセント以上の信者は、日顕上人を血脈付法の法主と仰いで信伏随従しているのである。しかして、信者を抜きにして宗派を語ることなどできないのであって、99パーセント以上の信者と僧侶が一枚岩のごとく結束している日蓮正宗の現状を目して宗派二分などと評価することは、絶対に許されない。

[81] 原判決には、「創価学会問題」以外に関しても、証拠に基づかずに事実を認定した採証法則違背、あるいは当事者の主張しない事実を取り上げた弁論主義違背がある。その数例を指摘すると次のとおりである。
[82] 原判決は、理由「一、3」(11丁裏10行目)において、日蓮正宗の法主が同宗において「信仰の対象とされるべき」存在である旨説示するが、これまた何らの証拠にも基づかないものである。法主は、血脈相承によって宗祖の血脈を承継したとされ、それゆえ、教義裁定権および本尊書写権等の特別の権能を有し、かつまた、宗祖が在世中そうであったのと同様に一宗の統率者として仰がれ高い尊崇を受ける立場にあるが、信仰の対象とされることはない。「人本尊」として信仰の対象とされるのは宗祖だけであって、二祖以降の法主は信仰の対象ではない。以上の点は当事者間に争いがなく、これに反する証拠もない。原判決は、準備書面すらまともに読んでいない、という非難を受けてもやむを得ないというべきである。
[83] 原判決は、理由「一、3」(11丁表7行目以下)において、
「控訴人は右懲戒処分の無効事由として、(1)……日顕は日蓮正宗の法主したがって管長としての地位を有せず、右教義に関して正否を裁定する権限……を欠如している……と主張する」
と被上告人の主張を要約しているが、記録上明らかなごとく、被上告人は、懲戒処分権限の不存在という観点から日顕上人の管長・法主の地位不存在を主張しているだけであって、教義裁定権の不存在という観点からは主張していないのであり、原判決の右説示は当事者の主張に基づかないものである。右のごとき争点整理の仕方にも、予断を持って本件訴訟を宗教上の争いと決めつけようとする原判決の不当な態度が顕著に現れているのである。
[84] 原判決は、理由「一、3」(12丁裏8行目以下)において、
「控訴人らは正信覚醒運動こそが日蓮正宗の正統の立場であり、日顕や宗務院に賛同する者はその教義に反する異端の徒であると非難して」
と説示するが、これは、いかなる証拠にも基づかないものである。
[85] まず、被上告人が、本件訴訟の内外を問わず、そのような主張をしたことがないことは記録上明らかである。また、正信覚醒運動の活動家僧侶と称する者たちが、日蓮正宗の他の僧侶を「異端の徒」と非難して攻撃したという事実もない。これらの者たちは、自分たちは異端の徒ではない、宗門側と自分たちとの間に教義上の説の対立はない旨の弁解を繰り返しているのであり、仮りに彼らが宗門の側を異端と攻撃したならば、それこそ自らの異端であることを自認するようなものであって、いかに彼らが無謀であろうとも、日蓮正宗の伝統的教義を信奉している圧倒的大多数の僧侶に対して、「異端の徒」などという攻撃を加えられるはずがないことは、常識からして明らかである。

[86] 以上のとおり、原判決の事実認定には採証法則違背および経験則違背があるところ、原判決は、右認定事実を前提として、本件紛争の実質が宗教上の争いにほかならないと評価し、本件訴訟を法律上の争訟に当たらないと判断したのであるから、右採証法則違背ならびに経験則違背は、判決に影響を及ぼすことが明らかであって、原判決は破棄されるべきである。
[87] 以上の次第であって、原判決は破棄を免れないものであるが、既に述べたとおり、本件については更に事実審理を要せず、法令の適用のみによって、本件懲戒処分を有効として上告人の請求を認容し得るものと思料する。

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