「板まんだら」事件
上告審判決

寄附金返還請求事件
最高裁判所 昭和51年(オ)第749号
昭和56年4月7日 第三小法廷 判決

上告人(被控訴人 被告) 創価学会
         代理人 色川幸太郎 外7名

被上告人(控訴人 原告) 松本勝弥  外16名
         代理人 中西彦二郎 外3名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官寺田治郎の意見

■ 上告代理人色川幸太郎、同川島武宜、同奥野彦六、同米田為次、同柏木千秋、同松本保三、同松井一彦、同中根宏、同桐ケ谷章の上告理由


 原判決を破棄する。
 被上告人らの控訴を棄却する。
 控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。

[1] 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和39年(行ツ)第61号同41年2月8日第三小法廷判決・民集20巻2号196頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
[2] これを本件についてみるのに、錯誤による贈与の無効を原因とする本件不当利得返還請求訴訟において被上告人らが主張する錯誤の内容は、
(1) 上告人は、戒壇の本尊を安置するための正本堂建立の建設費用に充てると称して本件寄付金を募金したのであるが、上告人が正本堂に安置した本尊のいわゆる「板まんだら」は、日蓮正宗において「日蓮が弘安2年10月12日に建立した本尊」と定められた本尊ではないことが本件寄付の後に判明した、
(2) 上告人は、募金時には、正本堂完成時が広宣流布の時にあたり正本堂は事の戒壇になると称していたが、正本堂が完成すると、正本堂はまだ三大秘法抄、一期弘法抄の戒壇の完結ではなく広宣流布はまだ達成されていないと言明した、
というのである。要素の錯誤があつたか否かについての判断に際しては、右(1)の点については信仰の対象についての宗教上の価値に関する判断が、また、右(2)の点についても「戒壇の完結」、「広宣流布の達成」等宗教上の教義に関する判断が、それぞれ必要であり、いずれもことがらの性質上、法令を適用することによつては解決することのできない問題である。本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
[3] そうすると、被上告人らの本件訴が法律上の争訟にあたるとした原審の判断には法令の解釈適用を誤つた違法があるものというべきであり、その違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。なお、第一審の準備手続終結後における被上告人らの仮定的主張(詐欺を理由とする贈与の取消あるいは退会により本件寄付は法律上の原因を欠くに至つたとの主張)は、民訴法255条1項に従い却下すべきものである。したがつて、その余の上告理由について論及するまでもなく被上告人らの本件訴は不適法として却下すべきであるから、これと結論を同じくする第一審判決は正当であり、被上告人らの控訴はこれを棄却すべきである。

[4] よつて、民訴法408条、396条、384条、96条、89条、93条に従い、裁判官寺田治郎の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。


 裁判官寺田治郎の意見は、次のとおりである。

[1] 被上告人らが本件訴訟において寄付金名義の金銭給付契約(被上告人らの主張する贈与)における意思表示の無効原因として主張する要素の錯誤の内容は、多数意見の述べるとおりであり、その錯誤の成否の判断に際しては、信仰の対象についての宗教上の価値ないし教義に関する判断が必要であつて、これらはいずれもことがらの性質上法令を適用することによつては解決することのできない問題であるゆえ、裁判所の審判の対象となりえない、とする点については、私も、多数意見と見解を異にするものではない。
[2] しかし、被上告人らの本訴請求は、前記契約により給付した金銭につき、当該契約の錯誤による無効を原因として右金銭の返還を求める不当利得返還の請求、すなわち金銭の給付を求める請求であつて、前記宗教上の問題は、その前提問題にすぎず、宗教上の論争そのものを訴訟の目的とするものではないから、本件訴訟は裁判所法3条1項にいう法律上の争訟にあたらないものであるということはできず、本訴請求が裁判所の審判の対象となりえないものであるということもできない(最高裁昭和30年(オ)第96号同35年6月8日大法廷判決・民集14巻7号1206頁参照)。前提問題である宗教上の問題が実際上訴訟の核心となる争点であり、その点の判断が訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものであるとしても、その理を異にするものではない、と考える。
[3] そして、このように請求の当否を決する前提問題について宗教上の判断を必要とするため裁判所の審判権が及ばない場合には、裁判所は、当該宗教上の問題に関する被上告人らの錯誤の主張を肯認して本件金銭の給付が無効であるとの判断をすることはできないこととなる(無効原因として単に錯誤があると主張するのみでその具体的内容を主張しない場合、錯誤にあたらない事実を錯誤として主張する場合等と同視される。)から、該給付の無効を前提とする被上告人らの本訴請求を理由がないものとして請求棄却の判決をすべきものである。
[4] 本件においては、第一審の準備手続終結後における被上告人らの仮定的主張を却下すべきことは多数意見の説くとおりであり、また、記録上窺われる本件訴訟の経緯にかんがみれば、新たな主張をする余地はないものと認められるから、結局、被上告人らは、本件金銭給付契約の無効原因たる錯誤の内容としてもつぱら宗教上の判断を必要とする事項のみを主張することに帰する。そうすると、本件金銭の給付が無効であることを前提とする被上告人らの本訴請求は、あらためて事実審理をするまでもなく理由のないことが被上告人らの主張自体に徴し明らかであるから、かような場合には、原審としては、民訴法388条の規定を適用して事件を第一審に差し戻すのではなく、ただちに自ら請求棄却の判決(後述の趣旨においては、控訴棄却の判決)をすべきであつたのである。しかるに、原審が錯誤の主張の成否について審理を尽くさせるため本件を第一審に差し戻すべきものとしたのは、結局、裁判所の審判権に関する法令の解釈を誤つたか、又は民訴法388条の規定の解釈適用を誤つたものというべきであり、この点において原判決は破棄を免れない。
[5] 以上の次第で、当裁判所としては、原判決を破棄し第一審判決を取り消して、被上告人らの本訴請求を棄却すべきところであるが、ただ、本件において、第一審裁判所がした訴却下の判決に対しては、第一審の原告である被上告人らのみが控訴し、第一審の被告である上告人は控訴していないから、いわゆる不利益変更禁止の法理(民訴法385条参照)により、第一審判決の結論を維持するほかなく、被上告人らの控訴を棄却するにとどめざるをえない(最高裁昭和28年(オ)第737号同30年4月12日第三小法廷判決・民集9巻4号488頁参照)。
[6] 以上述べた趣旨において、私も、多数意見と結論を同じくするものである。

(裁判長裁判官 横井大三  裁判官 環昌一  裁判官 寺田治郎)
[1]、原判決の判旨は、必ずしも分明でない部分もあるが、要するに、
(1) 本件事案は、要素の錯誤に基づく不当利得返還請求であるから、当事者間の権利義務の存否に関する争いであり、
(2) そうして、要素の錯誤の成否は、(イ)被上告人らの「動機を含めた意思表示の内容と内心の意思との間に不一致があるかどうか」、(ロ)上告人が「募金の際に右の寄付金の交付の動機となるような事実を表示して募金したかどうか」、(ハ)「右の不一致が宗教上の信仰の対象の真否、教義の解釈説明、堂宇の意義等に対して見解の相異が〔での誤りか〕あるからといつて直ちに……要素の錯誤により寄付が無効……となるかどうか」等によつて定むべきであり、
(3) したがつて、このような私法上の請求権の要件事実の成否は、法律の適用によつて終局的に判断できる。それ故本件は、裁判所法第3条の「法律上の争訟」にあたり、これに対し裁判所は審判権を有する、
というのである。
[2] しかしながら、右のような抽象的な論理から直ちに、本件の具体的事案が純粋の財産上の請求であつて法律の適用により終局的に解決できるものだ、という結論を引き出すことは誤りである。その理由は次のとおりである。

[3]、まず第一に、被上告人らが錯誤の成否を問題としている本件供養は、単なる経済的な財貨の移転ではなく、高度に宗教的意義を有する「正本堂建立のための供養」である。
[4](1) 「供養」とは、報恩謝徳のために仏法僧の三宝に真心をもつて諸物や身命をささげる行為を言い、ひとつの宗教行為それ自体である(なお供養の意義について、「供養の方法は仏に香華灯明又は時の果物其他の食物を供へ或は仏像仏堂等を建立し其他仏に奉仕する僧侶に衣食を給する等種々あるべしと雖も要するに供養の功徳に因り成仏せんとするもの」という説示をした判決がある。東京地方裁判所大正2年(ワ)第922号所有権確認請求訴訟事件・法律新聞第986号25頁)。
[5] しかして、供養は、その行為自体で完結したものであつて、この点を看過して法律構成をした上、返還請求を命ずることは、問題の性質を見誤るものと言わざるをえないのである(東京地方裁判所の前記判決及び大審院大正4年10月19日判決・民録21輯1661頁の実質的な理由となつているのは、供養――「寄進」は財産をもつてする供養を意味する――がその相手方たる寺院の反対給付ないし一定の宗教的行為を条件とするものではなく、信仰に基づく「捧げもの」であり、それゆえ裁判所は、供養の宗教的条件の論議に立ち入ることは適当でない、と考えたことにあると考えられる。この点については、川島武宜・法律学全集「民法総則」248頁参照)。
[6](2) そうして、本件において被上告人らが主張しているのは、次項以下(三、四)に述べるように、供養の宗教的側面に関する錯誤なのであるから、まさに日蓮正宗の教義に基づく供養の意義づけが問題とされているのであり、したがつて、教義の解釈や信仰の本質についての判断をすることなしに、その法律効果を定めることはできない。特に、錯誤の前提としての供養の内容が何であるかがまず問題であるところ、それは日蓮正宗の宗教的教義ないし信仰と結びついた特殊な宗教的行為であつて、日蓮正宗の教義と宗教的慣行によらずしてはこれを知ることができないのである。

[7]、第二に、被上告人らは、「戒壇」の意義に関して錯誤を主張しているが、本件供養は「正本堂建立のための供養」として募財され、それに対して被上告人らが応募したものであつて上告人はその供養金を「正本堂建立」の費用として使用し、その結果正本堂が現実に完成し、「戒壇の本尊」がそこに安置されたのであるから、供養の法律行為的内容に関するかぎり、内心の意思と表示とは完全に一致しており、錯誤は存在しない。被上告人らがこの供養に応募する際に「広宣流布の達成」とか「事の戒壇」とかについて信じていたことは、法律行為の内容の宗教的意味づけにすぎない。それゆえ、このような点の思い違いによつて、供養が法律上無効となるか否かが、そもそも問題なのである。しかし、今はこの点をさておき、そのような教義上の意味づけの思い違いについて判断するには、まず第一に「広宣流布達成」とか「事の戒壇」等の用語の教義解釈に基づく意味づけを理解することを必要とし、さらに第二に、そのようにして明らかにされた事項が、日蓮正宗の信仰にとつてどの程度重要であるかという、教義ないし信仰の次元での判断を必要とする。具体的にいうならば、日蓮正宗の教義の根幹は「本門の本尊」・「本門の題目」・「本門の戒壇」の「三大秘法」の義を顕わすことにあり、そうして「戒壇」なるものは教義の内容そのものである。この「戒壇」は「事の戒壇」と「義(もしくは理)の戒壇」とにわけられるのであるが、この「事」および「義」ないし「理」という概念は、日蓮正宗の教義体系の中において宗教の浅深・高低を判別する原理を示す、きわめて「深秘」かつ難解なものである。同様に「戒壇建立」は、「広宣流布」およびその「達成」と密接な関係にあり、この「広宣流布」およびその「達成」なる概念も教義の内容をなし、高度に宗教的かつ多義的な概念である。
[8] 要するに、「事の戒壇」がいかなる意義・内容を有するのか、それは「広宣流布」およびその「達成」といかなる関連をもつて建立されるべきであるのか、ということは、日蓮正宗教義の最も深渕な部分に位置しているのである。そうして、被上告人らの主張にかかる「『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇の完結」、「御遺命の達成」、「広宣流布の達成」などのことばは、教義ないしその解釈そのものであり、信徒においても信仰心なくしては理解できないもの(以信得入)とされているのである。
[9] 結局、被上告人らが錯誤の理由として主張するところは、日蓮正宗の教義を正確に理解した上、さらに日蓮正宗の一般信者にとつての信仰上の重要性を判断することなしには、その成否を判断することはできないものなのである。

[10]、第三に、被上告人らは、「本尊の真偽」を問題としているが、これまた前項に述べたところと同様に、供養の宗教的ないし教義的意味づけに関するものである。被上告人らは信仰の対象物としての本尊を安置するために正本堂建立供養をしたのであるから、もし仮に本件供養の法律上の効力について錯誤が問題になるとしても(前述したように上告人は、供養という信仰行為の性質上、また本件供養における法律行為的内容上、錯誤が問題となり得ないと解するが)、被上告人らの言うような本尊の真偽(信仰と関係のない真偽)は、そもそも問題になりえない。被上告人らの言うような意味での「真偽」は、仏像を美術骨董商との取引とか、博物館への寄付の目的物とする場合に問題となり得るものであつて、信仰対象物としての本尊安置のためにした被上告人らの供養にとつて重要なのは、本尊の信仰対象物としての価値であり、それは、教団の教義・信仰によつて決定されるものでしかありえないのである。宗教の「本尊」とか「御神体」と言われるものには、教義として「由来」とか「縁起」とかが伝えられるのを常とするが、それら自体がそれぞれの教団の教義体系の一部を構成するものであり、歴史ないし科学に関する記述と同視するのが滑稽至極であることは、世界のどの宗教についても言えることである。

[11]、以上に述べたところを要約すると、(イ)供養は、本来は信仰行為であり、その中に含まれることがある(常に含まれるわけではないが)財産権の移転(「寄進」)は、前述したような特殊な信仰上の意味づけをもち、信仰上は一種の無条件の「捧げもの」であり、被上告人らの言うような事由による返還請求は問題となりえないものであり、(ロ)被上告人らが錯誤の理由として主張する「戒壇」に関する主張は、これまた宗教上の教義ないし信仰上の判断に関するものであり、(ハ)また被上告人らの主張する本尊の「真偽」は、信仰対象物としての本尊の性質上、本件供養の錯誤については本来問題となり得ない性質のものである。そうして、「正本堂建立のための寄進」の法律行為的要素に関するかぎり、本件供養には何らの錯誤も存在しない。まさにそれゆえにこそ、被上告人らは、その法律行為的要素の信仰的教義的意味づけを問題として錯誤を主張しているのである。
[12] 以上を要するに、被上告人らの主張する錯誤の成否は、日蓮正宗の信仰・教義に関する理解と判断なしには判断できないことは明らかであり、したがつてまた、本件が裁判所法第3条に言う「法律の適用によつて終局的に解決できる争訟」(最高裁判所昭和29年2月11日第一小法廷判決・民集8巻2号419頁、最高裁判所昭和41年2月8日第三小法廷判決・民集20巻2号196頁参照)でないことも明らかである。
[13] しかるに原判決は、本件を「法律の適用により終局的に解決できる事件」と解して裁判所がこれを裁判する権限を有するとしたのであるから、裁判所法第3条の解釈・適用を誤つたものであり、この誤りが判決に影響をおよぼすことは明らかである。
[14] なお、以上の点については、次の資料を参照されたい。
資料(1) 東京大学法学部教授・法学博士・三ケ月章作成による鑑定書
[15]、原判決は
「〔憲法第20条の〕規定の趣旨は、信教の自由を保障することを目的とし、これにともない国が宗教に対し中立的な立場にあること〔を〕明らかにしたものであつて、宗教上の行為であるからといつて、これにともない財産上の権利の存否に紛争が生じた場合に国すなわち裁判所が財産上の存否を判断する権限がないとしその司法上の救済の途をふせぐこと、ないしはその宗教団体内部の自治に任せるということは、宗教団体に政治上の権力の行使を認める結果となり同条1項後段の規定の趣旨にも反することとなる」
と判示している。
[16] 右判示部分の意味するところは必ずしも分明ではないが、先に述べたように、宗教上の教義・信仰についての判断を避けることができない本件争訟のような事案についても、いやしくも財産上の権利の存否が問題とされる限り、裁判所の介入することを認めると言うのであるならば、憲法第20条第1項及び第3項の解釈を誤るものである。その理由は次のとおりである。

[17]、そもそも憲法第20条は、フランス革命以来基本的自由権の核心をなすものの一つとされてきた信教の自由及びその制度的保障としての政教分離の原則を規定するものである。
[18] 信教の自由の内容は、個人の内心における信仰の自由、宗教表現の自由、宗教宣伝の自由、宗教行為の自由と共に、宗教結社の自由を含んだものであり、それに基づき宗教団体の自由すなわち宗教団体の宗教活動や宗教団体内の宗教的事項に関する自律権をも当然に含むものである。また政教分離の原則は、信教の自由を実質的に確保する手段として歴史的に形成されてきた原則であり、その基本的理念は、国家は国民の世俗的・現世的生活の問題だけに自己の要求を限るべきであつて、国民の内面的信仰的要求に関する問題は、国民の自律に委ねるべきであるというのである。
[19] そうしてこの原則は、国家機関が国民の宗教的信仰の問題に介入したときは、国民の精神生活上の課題を根本的には解決できなかつたばかりでなく、必ず政治の非民主化ひいては人権の抑圧をもたらし、また宗教団体の破滅ないし腐敗をもたらした、という人類の歴史の反省の上に確立されてきたものである。日本国憲法においては、この原則は、国が特定の宗教団体に特権を与えたり(第20条第1項)国民に宗教行為を強制したり(同条第2項)国が宗教活動を行なつたり(同条第3項)することを禁ずるという形で規定されているのである。
[20] したがつて、右の規定は、国の機関たる裁判所が、特定の宗教の教義や信仰対象物に干渉することを禁止するところであることは言うまでもない。もし、裁判所が、特定宗派の教義や信仰対象物に関する紛争を裁判することが許されるとすれば、裁判所は、対立する教義解釈や信仰対象の正統性の争いに判定を下すことによつて宗教論争に介入し、その一方当事者に国の強権による保護を与えることになるのであるから、憲法第20条が言うところの、国が「宗教活動」を行ない(同条第3項)ないしは国が特定の宗派に「特権」を与える(同条第1項)ことに帰着するのである。その結果、本来宗教者の良心に任せられるべき領域に裁判所という国家権力が干渉することにより、宗教の教義ないし信仰の自由な展開は阻害され、宗教団体の自発性が失われるばかりでなく、ひいては、裁判所が宗教論争に巻きこまれ、さらにはこれと結びついた政治上の争いに巻きこまれることは、人類の歴史が示すとおりであるからである。

[21]、前記第一点で述べたとおり、本件紛争を解決するためには、信仰行為それ自体であるところの「供養」について裁判所が審理判断しなければならないのみならず、「広宣流布」、その「達成」、「戒壇」等の意味内容や本尊の真偽及びその重要性について裁判所が判断するのでなければ、「終局的な解決」はできないのであるから、もし裁判所が本件訴訟を裁判するならばその結果として宗教教義に介入し、また信仰対象物そのものにつき介入することになり、憲法第20条第1項、第3項に違反することは明らかである。

[22]、かくして、憲法第20条は、裁判所がかかる判断を示すこと自体を禁止するものであるから、それは上記の如き宗教教義や信仰の対象物についての争いが直接訴訟の目的となつた場合のみならず、訴訟物こそ財産法上の権利ではあるが、その存否を決する前提として教義の解釈如何が判断の対象となる場合にも許されないことは当然である。
[23] この法理は、いわゆる政治問題をめぐる訴訟について、衆議院の解散を無効として議員資格確認並びに歳費請求をした苫米地事件について最高裁判所が当然の前提として採つている立場である(最高裁判所昭和35年6月8日大法廷判決・民集14巻7号1206頁。なお、前記最高裁判所昭和41年2月8日判決も同様の論点を含んでいる)。
[24] なお、付言するならば、仮りに裁判所が財産上の請求権の存否を判断する前提としてならば、かかる宗教問題に介入することができというのであれば、財産上の紛争の形をとつて、あらゆる宗教の教義や信仰対象物の真偽の争いが裁判所の審理の場に持ち込まれることが可能となり、その結果裁判所は、特定宗派に対する政治的ないし宗教的争いに巻き込まれ抜き差しならない立場に置かれることになるであろうことは容易に想像できるところである。たとえば、伊勢大神宮の御造営の費用に寄進した者が、「三種の神器」はほんものでないから錯誤であつたと主張して寄進した金員の返還請求の訴を提起してきた場合も、裁判所はこれに対し、裁判権限を有するものとして「三種の神器」の真偽を審理し――或いは考古学者、歴史学者等の鑑定を得て――返還請求権の有無につき裁判しなければならないこととなり、神社神道に対する政治的ないし宗教的争いに巻き込まれる結果となる等このような例は枚挙にいとまがない。

[25]、以上に述べてきた法理は憲法第20条とその思想的背景および立法趣旨を共通にする米国憲法修正第1条の下でも、長い年月の曲折と試練を経て確立された原則となつている。
[26] 教義問題にからむ教会財産の帰属をめぐる紛争に関し1969年、米国連邦最高裁判所は全米長老教会対メアリ・エリザベス・ブルー・ハル・メモリアル長老教会事件(393, U.S.440, 450)において次のような多数意見を述べている。
「教会財産をめぐる訴訟の結果が、宗教上の教義並びに行為についての意見の対立に関する国の裁判所Civil Court〔教会の裁判所に対立するもの、という意味で〕の判断にかかつている場合、憲法修正第1条の保護しようとしている信仰の自由に関する諸権利は明らかに侵害の危険にさらされることになる。裁判所がそのような財産上の紛争の法的解決のため、そのような意見の対立を裁定しようとするならば、宗教教義の自由な発展を妨げるばかりでなく、純粋に宗教団体内部に関する事柄に世俗的利害をからませる危険性がつねに存在することになる。この危険のゆえに、修正第1条は、宗教上の目的のために政府機関を使用することを基本的に禁止しているのである。…したがつて、この修正第1条は、国の裁判所が教会財産に関する紛争の基底に存在する教義上の論争を解決することなしに判決することを命じているのである。…ジョージア州裁判所の適用した黙示信託(Implied Trust)論における基本的教義からの逸脱という要件は、全米教会のための黙示的信託が終了したと宣言することができる程度に、各地方教会が〔全米教会に〕帰属した当時の信仰と実践に関する教義からの『基本的な逸脱』を全米教会の行動が示しているか否かを判断することを国の裁判所に求めるものである。この判断は2つの点においてなされる。まず、国の裁判所は、問題となつている全米教会の行動が基本的に教会の従前の教義から逸脱しているか否かを決定しなければならない。その決定をなすためには、国の裁判所は必然的に過去の教義と現在の教義とを解釈分析しなければならない。もし、国の裁判所がそこに基本的逸脱があると判断するならば、次に、国の裁判所は、その逸脱が黙示的信託の終了を求め得る程度に宗教上重要な意味を有するか否かを判断しなければならない。国の裁判所は、教義逸脱のその宗派の教義における相対的重要性を判定してはじめて事件につき裁判をなすことができるのである。このようにして、ジョージア州判例法にみられる黙示的信託論における教義逸脱の要件は、国の裁判所に宗教の核心に関する事項、すなわち、特定宗派の教義を解釈すること及びその教義のその宗派における重要性についての判断を強いるものである。憲法修正第1条は、明らかに国の裁判所がそのような役割を果すことを禁じている。」
[27] また、同裁判所は、1970年、同種の事件である、メリーランド及びバージニア教会対シャープスバーグ教会事件(369,U.S.367)の補足意見の中で、裁判所は紛争解決のためといえども「宗教上の規則または慣習に立ち入つた調査」または「宗教組織に立ち入つた大がかりな調査」を回避すべく細心の注意を払わなければならないことを強調している。
[28] このような原則は、現在、米国憲法上の原則として確立されているものであるが、すでに修正第1条が各州に適用される以前においても、米国連邦最高裁判所の確立してきたところであつた。
[29] すなわち、1871年のワトソン対ジョーンズ事件(13, Wall 679)において、同裁判所は
「…法はいかなる異端も知らず、あえていかなる教義を支持するものでもなく、また一宗派を樹立しようとするものでもない」
として、その後に宗教団体が宗教事項について自律権を有することを論及した後、
「もしそのような団体の決定の一つによつて権利を侵されたとする者が、誰か1人でも、裁判所に訴えてその決定を破棄させることができるとすれば、そのような宗教団体は完全に破壊されるに至るであろう」
と判示したのである。そうして、このような判例の基礎の上で、憲法の修正第1条が各州に適用されるに至つた後は1952年のケドロフ対ロシア正教事件の判決(344, U.S.94)において右のワトソン事件の原則が憲法上の原則にまで高められ、前記全米長老教会事件で、確立した憲法上の判例法としての地位を確立するに至つたのである。

[30]、なお前述したように原判決は、
「宗教上の行為であるからといつて、これにともない財産上の権利の存否に紛争が生じた場合に国、すなわち裁判所が財産上の権利の存否を判断する権利がないとしその司法上の救済の途をふせぐこと、ないしはその宗教団体内部の自治に委せるということは、宗教団体に政治上の権力の行使を認める結果となり同条1項後段の規定の趣旨にも反する」(引用文中の傍点は上告人による)
と判示しているので、その点に言及しておきたい。
[31] そもそも、原判決が右の説示において「政治上の権力の行使を認むる結果となる」というのは何を意味するものか分明でないが、恐らくその趣旨は「宗教上の行為であるからといつて」財産上の権利の存否の争いについて、裁判所が裁判しないこととすると、その争いは結局当該教団の内部で事実上の力で処理される結果となる、ということを言おうとするものではないかと思われる。もしそうだとすると、これは憲法第20条の趣旨を全く理解しないものと言うほかはない。というのは、もし財産権に関する当該の争いが教義・信仰に関する争いによつて決せられるものであるなら教義・信仰に関する争いには国が介入すべきでない以上、それを「信仰の自由」の世界における解決に委ねよ、というのがそもそも憲法の大原則なのであり、教団内部での信仰・教義の争いの解決を「政治権力の行使」になるとして排撃するいわれはないのである。
[32] なお、以上の点については、次の資料を参照されたい
資料(2) 上智大学法学部教授・法学博士・相沢久作成による「宗教団体に対して出捐した寄付金の返還等請求に対し裁判権が及ぶかに関して」と題する鑑定書
資料(3) アメリカ合衆国連邦最高裁判所、1969年1月27日判決・全米長老教会対メアリ・エリザベス・ブルー・ハル・メモリアル長老教会事件
資料(4) アメリカ合衆国最高裁判所元判事・弁護士・アーサー・J・ゴールドバーグ作成による鑑定書
資料(5) ハーバード大学法律学教授・ローレンス・H・トライブ作成による鑑定書
資料(6) シカゴ大学法学部教授・フイリップ・B・カーランド作成による鑑定書
資料(7) スタンフオード大学法律学教授・ウイリアム・コーエン及びカンサス大学法学部教授ロバート・C・カサド作成による鑑定書
[33]、以上を要約すると、次のとおりである。原判決は2つの点で過誤を犯している。第一に本件は、宗教の教義・信仰に関する問題について、審理判断しなければ、終局的に解決できない争訟であるのに、原判決は「法律の適用によつて終局的に解決できる」争訟と解し、裁判所法第3条の解釈・適用を誤り、また第二に、その結果として、宗教上の信仰・教義に関する争いを、審理判断することによつて、宗教上の信仰・教義に介入することを認めることとなり、憲法第20条の解釈を誤つたのである。

[34]、以上の次第により、原判決は、憲法第20条第1項および第3項の解釈を誤り、また裁判所法第3条の解釈・適用を誤り、その結果が判決に影響をおよぼすことが明らかであるから、破毀を免れないと信ずる。

(添付資料省略)

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