高田事件
第一審判決

住居侵入、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、爆発物取締罰則違反、放火予備、邸宅侵入、放火、放火未遂、傷害、行進又は集団示威運動に関する愛知県条例及同条例の特例に関する名古屋市条例違反被告事件
名古屋地方裁判所 昭和27年(わ)第1134号等
昭和44年9月18日 刑事第3部 判決

被告人 松尾繁一こと 朴鐘哲 外15名

■ 主 文
■ 理 由


 被告人権龍河に対する昭和27年9月17日起訴にかかる爆発物取締罰則違反、放火予備の公訴はこれを棄却する。
 被告人朴鐘哲、同金炳根、同金億洙、同安旭鎬、同安日秀、同金英吾、同権一、同金茂一、同鄭★恢、同柳政一、同申南春、同権龍河(但し前記公訴棄却の分を除く)、同張哲洙、同横井一夫、同全正守、同趙顕好に対し各頭書の被告事件につきいずれも免訴する。

右事件につき起訴された者(算用数字は特記なきものはそれぞれの起訴された年月日を示す。以下これにならう。)
 朴鐘哲(27・8・15)、金炳根(27・8・15)、金億洙(27・8・28)、安旭鎬(27・8・28)、横井政二(27・8・28)、盧洪錫(27・8・28)、安日秀(27・8・28)、趙在奎(27・8・28)、金英吾(27・8・28)、安俊鎬(27・8・28)、李弼建(27・8・28)、権一(27・8・28)、金茂一(27・9・3)、鄭★恢(27・9・3)、崔永権(27・9・4)、申南春(27・9・4)、権龍河(27・9・4)、張哲洙(27・9・6)、平井春雄(27・9・9)、李正泰(27・9・10)、井上信秋(27・9・16)、柳政一(27・9・26)、林学(27・10・21)、横井一夫(27・11・17)、全正守(27・11・29)、金泰杏(28・2・6)、李寛承(28・6・20)、趙顕好(28・10・31)、金永哲(27・8・28但し同人は30・3・4死亡)、趙大権(27・10・20但し同人は精神分裂症にて治療中のため公判手続停止決定44・4・15)

〔右公訴事実の要旨〕
 被告人など約40人は大韓民国居留民団愛知県本部元団長神農こと姜末律方及び附近の瑞穂警察署高田巡査派出所に対し石塊、火焔瓶等を以て襲撃破壊せんことを企て昭和27年6月26日午前5時30分頃名古屋市瑞穂区平郷町5丁目4番地旧朝連瑞穂支部事務所に集結し共謀の上
(一) 同日午前5時40分頃右約40名と共に大挙して同区平郷町3丁目18番地の右姜末律方に到り表入口格子戸西側勝手口戸板を破壊して屋内に侵入し、多衆の威力を以て夫々石塊、煉瓦等を投げ付け因て
(1) 玄関硝子格子戸    2本(硝子8枚)
(2) 表六畳の間硝子戸   5本(硝子8枚)
(3) 中二畳の間硝子戸   8本(硝子50枚)
(4) 奥六畳の間南側硝子戸 4本(硝子18枚)
(5) 便所中窓硝子戸    2本(硝子4枚)
(6) 2階中窓硝子戸     2本(硝子4枚)
(7) 裏出入口板戸     1本
等を損壊し
(二) 次いで午前5時50分頃同区直来町3丁目20番地高田巡査派出所に押し寄せ右約40名と共に多衆の威力を以て夫々石塊、煉瓦等60数個を投げ付け因て
(1) 派出所標識赤色門燈  1個
(2) 派出所入口硝子戸   2本(硝子2枚)
(3) 事務室中窓硝子戸   5本(硝子13枚)
(4) 休憩室硝子戸     4本(硝子11枚)
(5) 警察電話受話器    1個
(6) 事務室柱時計     1個
(7) 事務室内電燈笠    1個
等を損壊し且つ治安を妨げ右派出所を焼燬する目的を以て爆発物たる火焔瓶6本を同派出所内に投入使用して放火し因て人の現在する右派出所事務室南側中央柱及び天井板の各一部並びに巡査用雨外套1枚等を焼燬し
(三) 更に午前6時頃同区宝田町2丁目8番地鈴木泰助方に前記姜末律が救を求めて逃げ込むや之を追跡して同家屋内に侵入し多衆の威力を以て同家中2畳の間にあつた
(1) 茶碗類        3個
(2) 灰皿         1個
(3) ニューム製鍋     1個
等を損壊し且同所に逃避していた右姜末律の頭部顔面其の他を石塊、手挙等にて数回殴打又は足蹴にして因て同人に全治約10日間を要する頭部顔面挫創を負わしめて傷害し
たものである。
――右事実を以下高田事件と呼ぶこととする。
右事件につき起訴された者
27・9・17付にて
 朴鐘哲、安日秀、金英吾、李弼建、金茂一、鄭★恢、申南春、権龍河
27・10・20付にて
 趙大権(但し同人については44・4・15公判手続停止決定)

〔公訴事実〕
 被告人など10数名は昭和27年5月30日火焔瓶等を以て名古屋市北警察署大杉巡査派出所を襲撃焼燬せんことを企て同日午後7時過頃名古屋市北区東大曾根町上2丁目951番地民主愛国青年同盟名東支部事務所に集結し共謀の上その頃治安を妨げ人の現存する前記派出所に投擲焼燬する目的を以て爆発物である火焔瓶計4本を携帯して同事務所より右派出所附近の同区水切町4丁目54番地安陵スギ子方に至る迄之を所持し右派出所に投入の機を窺い以て放火の予備をなしたものである。
――右の事実を以下大杉事件と呼ぶ。
右事件につき起訴された者
27・10・21付にて
 盧洪錫、鄭★恢、平井春雄

〔公訴事実〕
 被告人など数名は石塊、火焔瓶を以て在日大韓民国居留民団愛知県本部を襲撃焼燬せんことを共謀し、昭和27年6月25日午後9時30分頃名古屋市東区長塀町6丁目10番地の前記民団本部事務所前に到り多衆の威力を以て交々石塊数個を右事務所に投げ付け因て
(1) 事務所表入口大硝子  1枚
(2) 同  表西側窓硝子  4枚
(3)    表天窓硝子   1枚
を損壊し且治安を妨げ右事務所を焼燬する目的を以て人の現在する建造物である同事務所内に爆発物である火焔瓶1本を投入使用して放火し事務所内において爆発燃焼させたが直ちに同事務所員に消止められたため焼燬の目的を遂げなかつたものである。
――右事実を以下民団事件と呼ぶこととする。
右事件につき起訴された者
27・9・17付にて
 金炳根、安旭鎬、安俊鎬
28・7・14付にて
 閔南採

〔公訴事実〕
 被告人など数名は昭和27年6月25日名古屋市北区東大曾根町上2丁目951番地民主愛国青年同盟名東支部事務所に於て、火焔瓶を以て同市中区南外堀町7丁目所在の米駐留軍宿舎を襲撃焼燬せんことを共謀し、同日午後8時30分頃外4名と共に治安を妨げ、前記宿舎を焼燬する目的を以て、爆発物である火焔瓶3本を携帯して同所より前記宿舎附近に至る迄所持し、人の現在する右宿舎に投入の機を窺い以て放火の予備をなしたものである。
――右事実を以下米軍宿舎事件と呼ぶこととする。
右事件につき起訴された者
 金億洙(27・8・28)
〔公訴事実〕
 被告人は昭和27年6月25日朝鮮人及び自由労組員等によつて行なわれた所謂朝鮮動乱勃発2周年記念日行事に参加したところ
第一、同日約300名の朝鮮人等が名古屋市中村区国鉄名古屋駅裏広場に予めプラカード等を携帯して参集し演説会を開いて気勢を挙げた上同市公安委員会の許可を受ける事なく同日午後5時頃右広場により隊伍を整え旗、プラカード等を押立て或はスクラムを組み「ワツシヨイ、ワツシヨイ」と口々に喚声を発して集団示威行進を開始し、同駅構内を通り駅前道路に出で南進し同市同区下広井町1丁目9番地名古屋中公共職業安定所笹島労働出張所前に至り、同所より更に広小路通りに出で車道上を東進して同市中区広小路通り4丁目附近路上まで示威行進を敢行した際其の情を知り乍ら前記名古屋駅裏広場より之に加わつて前記広小路通り4丁目附近迄行進を為し以て右集団示威行進に参加し
第二、右示威行進の途上広小路通り2丁目5番地先に差しかかるや被告人は他の参加者と共に同所々在の日本駐留米空軍第314師団所属の米空軍大尉ロバート・オー・ニツキオンの管理下にあるPX構内駐留軍関係者専用の自動車駐車場に小石、プラカード等を携帯して不法に侵入した上、多衆の威力を示して右構内をジグザグ行進をなしつつ折柄同所内に駐車して居つた米空軍大尉ジエームス・エフ・パーマー外3名夫々所有の乗用自動車4台及び米国領事館所属のジープ「領0225号」1台の風除けガラス、扉ガラス及び車体等に向つて投石し或は所携のプラカードの柄又は旗竿の先にて突く等の所為に出で因て自動車5台の風除けガラス等十数枚及び車体数ケ所を夫々損壊したものである。
――右事実を以下PX事件と呼ぶこととする。
 本件公判審理の概況を述べると、当初昭和27年11月13日朴鐘哲、金炳根、金億洙、安旭鎬、横井政二、盧洪錫、安日秀、趙在奎、金英吾、安俊鎬、李弼建、権一、金茂一、鄭★恢、崔永権、申南春、権龍河、張哲洙、平井春雄、李正泰、井上信秋、柳政一、林学及び趙大権(精神分裂病のため公判手続停止中)、金永哲(死亡のため既に公訴棄却の決定を受けた)25名に対する高田事件並びに朴鐘哲、安日秀、金英吾、李弼建、金茂一、鄭★恢、申南春、権龍河及び趙大権(精神分裂病のため公判手続停止中)9名に対する大杉事件、金億洙に対するPX事件に関する併合審理の第1回公判が開かれ(以下便宜上これを統一組と呼ぶこととする)、その後同年12月2日の第3回公判期日において、横井一夫(同人に対しては既に同年12月1日第1回公判が開かれていた)全正守に対する高田事件が、同年12月9日の第4回公判期日において、平井春雄、鄭★恢、盧洪錫3名に対する民団事件及び金炳根、安心鎬、安俊鎬3名に対する米軍宿舎事件(以上6名に対する右2つの事件については、既に右同日併合して第1回公判が開かれていた)が、昭和28年3月12日の第12回公判期日において、金泰杏に対する高田事件(同人に対しては既に同年3月5日第1回公判が開かれていた)が、順次右統一組公判に併合されて審理を進められたが(なお不出頭の被告人に対する関係では、その都度弁論の分離併合がなされている。以下同様)、後記の如く実質的な証拠調は昭和28年6月11日の第22回公判期日のそれを最後として中断され、その後同月18日の第23回公判期日において検察官の証拠調の請求及びそれに対する弁護人の意見の表明等があつた後、次回期日として指定された同年8月6日の公判期日が同月3日に取消されてからは、昭和44年6月10日に至つて当裁判所が朴鐘哲、金億洙、安旭鎬、横井政二、盧洪錫、安日秀、安俊鎬、李弼建、権一、金茂一、鄭★恢、崔永権、申南春、権龍河、平井春雄、井上信秋、柳政一、横井一夫、全正守、金泰杏に対する各関係被告事件について(なお金炳根、金英吾、張哲洙については昭和44年9月18日に)新に公判手続を更新して事件を引継ぐ迄の約16年間というものは、全く公判期日が開かれることなく過ぎ去ってきたものであり、又以上の各事件に対する審理とは別に、閔南採に対する米軍宿舎事件及び李寛承に対する高田事件に関する併合審理の第1回公判は昭和28年9月10日に開かれその後昭和29年2月18日の第3回公判期日において、趙顕好に対する高田事件(同人に対しては既に昭和28年11月19日第1回公判が開かれていた)が、次いで昭和29年3月4日の第4回公判期日において、平井春雄に対する高田事件及び民団事件が(同人については統一組第11回公判より分離。)順次右公判に併合されて審理を進められたが、これ又後記の如く実質的な証拠調は昭和29年2月18日の第3回公判期日のそれを最後として中断され、その後同年3月4日の第4回公判期日において検察官の証拠調の請求及びそれに対する弁護人の意見の表明等があった後、次回期日は追つて指定とされたまま、昭和44年6月10日当裁判所が李寛承、閔南採、趙顕好、平井春雄に対する各関係被告事件について新に公判手続を更新して事件を引継ぐ迄の15年余りの間は、全く公判期日が開かれることなく過ぎ去つてきたものである。
(表省略)
 少年につき公訴を提起するにあたつては、少年法第42条同法第20条に規定する手続を履むことを必要とするところ、被告人権龍河が大杉事件につき起訴された昭和27年9月1日当時においては、昭和8年8月25日生の同被告人は少年であつたのであるから、その公訴提起にあたつては前記少年法所定の手続を履践すべきにかかわらず、これをなしたと認めるに足る証跡がない。従つて同被告人についての大杉事件の公訴の提起は刑訴法第338条第4号所定の公訴提起の手続がその規定に違反し無効なる場合に該当するので同法条を適用し公訴棄却の言渡をすることとする。
(一) 当裁判所が事件を引継ぐまでの公判審理の経過は第二に摘示した如くであり、高田事件、民団事件については昭和28年6月11日の第22回公判期日(但し李寛承、被告人趙顕好については昭和29年2月18日の第3回公判期日)に行われた最後の実質的証拠調までの間に民団本部、姜末律方、高田巡査派出所、鈴木泰助方の襲撃乃至被害の状況等犯罪の客観的、外部的側面及び被告人横井一夫の高田事件についてのアリバイの証拠調がわずかになされているのみで、右2つの事件にその関係被告人等が実際に参加したという最も肝心な点をはじめとして、この種事件において各被告人の刑事責任を究明するにあたつて非常に重要な共謀の事実及び各被告人の各事件における具体的行動等についての証拠調は全くなされておらず、また大杉事件、米軍宿舎事件、PX事件については起訴状朗読、起訴状についての釈明、被告人、弁護人の被告事件に対する陳述、検察官の冒頭陳述(但し大杉事件については未だ冒頭陳述はなされていない)及びわずかに閔南採に対する米軍宿舎事件の関係において検察官から証拠調請求があつたのみで、未だ何らの証拠調もなされていない。かくて被告人朴鐘哲、同金★根、同金億洙、同安旭鎬、同安日秀、同金英吾、同権一、同金茂一、同鄭★恢、同申南春、同権龍河、同張哲洙、同柳政一、同横井一夫、同全正守、横井政二、慮洪錫、安俊鎬、李弼建、崔永権、井上信秋、金泰杏の22名については昭和28年6月18日の第23回公判期日以来、平井春雄、李寛承、閔南採、被告人趙顕好の4名については昭和29年3月4日の第4回公判期日以来昭和44年6月10日(但し被告人金★根、同張哲洙、同金英吾の3名については同年9月18日)当裁判所が新に公判手続を更新して事件を引継ぐまでの15年余りの間いずれも1回の公判期日も開かれることなく、公判期日外において証拠調がなされるなどということもなく打ち過ごされて来たものである。

(二) 而して右の如き長年月の経過により、今日では既に本件発生当時とは社会情勢も著しく変化し、事件の背景となつている所謂朝鮮動乱勃発2週年記念日を中心とする朝鮮解放救国闘争月間中における闘争なるものの有する政治的、社会的意味も今や遠く過去のものとなつたと言つても過言ではなく、それとともに右犯罪の社会的影響も非常に微弱化したものと謂わざるを得ず、殊に本件では一応公訴が提起され少々の実体審理がなされたとはいえ、その後15年間余も、放置され続けたことにより、時の経過による可罰性の減少には著しいものがあるとせざるを得ない。

(三) 他方かかる時の経過による証拠の散逸について考察するに、本件犯行の現場や附近の地理的状況等についてはその発生当時とは相当様相の変化があつたであろうことは否み難く、このことは検察官側がかねてより申請していた高田事件の共謀場所であるとする旧朝連瑞穂支部事務所や、民団事件の犯行現場である大韓民国居留民団愛知県本部事務所の検証について、当裁判所の公判手続更新の際に至り、右両事務所消滅の故を以てその申請を撤回せざるを得なくなつたことにおいて如実に窺われるのであるが、例えば右旧朝連瑞穂支部事務所について被告人側から同事務所は狭隘で検察官が主張するほどの多数を収容する能力がなかつたとの主張がなされて来たものである。或は現在は存在しなくなつてしまつた建物や或は事件発生当時とくらべてすつかり変つてしまつた地理的状況の中にも、場合によつては被告人側に有利な証拠となるものもあるのではないかと危惧されるのである。次に人証についてこれをみるに、17年余もの長年月の経過によって、事件と直接関係のない目撃証人やアリバイ証人はもとより被告人自身の記憶すら曖昧不確実なものとなり、そのため今から仮に証人尋問や被告人質問をしたとしても、記憶の錯誤や憶測等が混入されたり、或はまた肝心な点が全く忘却されていたりして、真実追究のために正確にして説得力のある供述を得ることは非常に難かしいことは、吾人の経験則上明らかであると言つても過言ではないであろう。ところで刑事訴訟法は憲法第37条第2項の刑事被告人の証人審問権の保障の精神に則り、両訴訟当事者の公判廷における論争、弁論と、証人に対する尋問及び反対尋問によるその弾劾を通じて法廷において事案の真相を追及する当事者主義乃至直接口頭弁論主義を基調としており、そのため原則として伝聞証拠排除の建前をとり供述証拠に関しては、証人、相被告人等の公判廷における直接の供述によるべきものとしているのである。然るに右に述べた如き裁判審理の長期に亘る空白期間の存在によりもたらされた証人、被告人等の全般的な著しい記憶の喪失現象は、いきおい捜査段階において採集された供述調書に事実認定の多くを頼らざるを得なくする結果、右刑事訴訟法の原則の遵守は事実上著しく阻害されるおそれが多分に存するのである。而して、一般に被告人に対して訴追者側の如くに自己に有利な証拠を書面等の形で確保しておくよう期待することは無理なことである(刑事訴訟法に規定する証拠保全の手続を、このような裁判が遅延した場合にまで、被告人に要求することは相当ではない)ので、右のように供述調書中心の裁判となると、その結果しばしば被告人に不当に不利益となることは明らかであるといえよう。今これを具体的に本件について眺めると、多数の被告人らが彼らのアリバイを主張しているが、それを立証するためにそのアリバイ証人の現在の居所を探し出し、その記憶を喚起させることは今となつては極めて困難なことは容易に推察し得るところであるが、当然のこととして被告人らのうち誰一人としてそのアリバイ証人の供述録取書等をあらかじめ作成していた者はないのである。このようにして、時の経過による証拠の散逸によつて被告人側の受ける不利益には甚大なものがあるのである。さらにまた検察官側証人に対する被告人側の反対尋問権も、その証人が既に記憶を著しく喪失している状況のもとでは、有効に行使し得ないこと言うまでもない。その結果として右証人の供述調書が証拠として採用されることになれば、憲法上保障されている被告人の証人審問権は事実上画餅に帰することにもなりかねない。なお本件の事実のほとんどは、その事案の性質上、共謀の事実や各被告人の行動の分担等につき、各被告人の検察官に対する各供述調書がその被告人自身及び相被告人らに対する関係で非常に重要な役割を果すことが予想されるが、検察官の右各調書の証拠申請に対しては、被告人らは当初よりすべてその任意性を争い、ことに多数の被告人らにおいて右任意性の有無の判断の一資料となりうる取調警察官による被告人らに対する暴行脅迫があつた旨の事実を強く主張しているのであるが、事件発生当時より既に17年余を経過した今となつては右警察官の証人尋問を行つても果してどの程度真実を引出し得るかは甚だ疑問とせざるを得ず、被告人らが右暴行脅迫の事実を立証することは非常に困難となつたものといえるが、このことは、供述調書の任意性の立証責任がいずれの側にあるかという点についての純理論上の問題はさておき、実際に右暴行脅迫の事実があつたことを立証し得た場合とそうでない場合とでは、任意性の判断にあたつて大いに実質上の差異が生じるであろうことは認めざるを得ないであろう。従つてこの点においても被告人らは、時の経過により大きな不利益を受けるものといわざるを得ない。

(四) ところで、一件記録から知られる統一組については昭和27年11月13日審理が開始され、第7回公判期日から証拠調が行われ昭和28年6月11日の第22回公判期日までの間に検察官申請証人21人、弁護人側申請の証人2人が取調べられ、同年6月18日以降その審理が中止され、統一組に遅れて審理の開始された閔南採、李寛承、被告人趙顕好及び病気のため統一組から分離され審理の遅れていた平井春雄についても昭和28年9月10から同29年3月4日までの間に延6回の公判期日が開かれ証拠の面で統一組と進度を合わせたうえで同年3月4日以降その審理が中止されている。本件につき何故かかる措置が採られるに至つたのか、その間には種々の事情があつたものと推量されるが少くとも本件裁判記録上からは全く不明である。而して右記録を精査しても、被告人らが殊更に裁判の長期化を目指して公判審理の妨害乃至引延しを図つた等専ら被告人等の責に帰すべき原因で本件訴訟が遅延したものと認むべき資料も発見できないし、この遅延が何らかの特別の事情により真に己むを得ないものであつたとも認めることもできない。而して当裁判所としては今本件訴訟についてその遅延が訴訟法上有する意味乃至効果を考察するのをその使命とするところ、右考察にあたつては、この訴訟遅延が専ら被告人の責によるものではなく、かつ已むを得ない事由によるものでないことが認定されればそれで十分であるものと思料する。なるほど検察官主張の如く、昭和27年7月7日発生し、本件関係者中の金炳根、安旭鎬、横井政二、安日秀、趙在奎、金英吾、安俊鎬、鄭★恢、崔永権、張哲洙、平井春雄、井上信秋、趙大権(公判手続停止中)、林学、全正守、金泰杏、李寛承、閔南採及び趙顕好の19名ほどがその被告団に加わつている所謂大須事件を優先して審理しその審理の終了を待つた上で本件の審理に入つてもらいたい旨の要望が弁護人側からなされたことも本裁判遅延の一因であつたであろうことは、当裁判所もこれを認めるに吝かではないが、右大須事件と共通になつていないその他の被告人も10名もいることであるし、また共通被告人の中にも当初より分離して早期終結を希望しているものがあることも記録上明かであるのであるから、よしかかる弁護人側の要望があつたからといつて、裁判所がこのように長い間事件を審理しないで置いて良いものではなく、また仮に右の如き弁護人の要望が本件遅延の一つの有力な原因となつたとしても、それをもつて、直ちに遅延の責めを被告人に帰し、遅延から生ずる不利益を被告人に甘受せしめるまでの事由とはならないものと判断する。

(五) 以上に述べてきた如くに、本件公判審理は、被告人にさしたる責むべき事由もなく、また他にやむをえない合理的な理由もないのに拘らず、この15年余の間全く進行されないまま放置され来つたものであつて、かような事態は実質的審理を継続して行いつつも、事案の複雑さ、多数被告人の関与その他諸般の事情からやむをえず裁判が長期に及んだ場合とその性質を異にし、刑事訴訟法の全く予想だにしていない異常な事態というの外ないものである。而して、現行刑事訴訟法は旧刑事訴訟法とは異り、公訴時効につき中断の制度をとらず、その停止のみを認めるため、一旦公訴の提起がありさえすれば、裁判が如何に長期にわたろうとも時効は完成し得ないことになるのではあるが、こゝで少しく公訴時効制度の本来の趣旨に思いを至すならば、本件の如く全く証拠調が行われず、また行われた事案についてみても肝心な部分について実質審理を残したままいたずらに長期間を経過したような事態が生じた場合には、実質的には公訴の時効が完成した場合と同様の効果を生ずることを認めざるを得ないのであり、現に本件において犯罪の社会的影響の微弱化、真実究明のための証拠の散逸及び被告人の反対尋問権に対する不当な侵害等の効果が生じていることについては、先に詳細に述べたとおりである。(なお本件公訴事実のうち、その法定刑の最も重いものは現住建造物放火罪であるが、これとても公訴時効の期間は15年に過ぎないことをここに附言しておきたい)。

(六) ところで、憲法第37条第1項は、すべて刑事事件において、被告人は迅速な裁判を受ける権利を有する旨規定し、またこれを受けた刑事訴訟法第1条にも、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現すべき旨明記されている。この刑事事件における迅速な裁判の要請という観点から本件を眺めるならば、以上縷々述べ来つた本件裁判の実態は、まさに右迅速な裁判の要請に真向から反対するものといえよう。必要以上に長期にわたつて刑事被告人という極めて不安定な地位に置かれたことにより、被告人らに与えられて来た精神的不安乃至苦痛、結婚、就職等社会経済生活上における支障、被告人らの家族、親類等にまで及ぼしたであろう長期にわたる暗い陰、更には朝鮮人である被告人らが裁判継続中であるがためにその母国へ帰ることもできなかつた――所謂北朝鮮帰還は本件係属中にその実現をみたのであるが――こと等その不利益は計り知れないものがあるものと認められ、被告人らがこのように長期間放置された裁判のために既に支払つて来た犠牲はあまりにも大きいものがあるといわざるを得ない。而して当裁判所は、迅速な裁判を保障した右憲法第37条第1項の規定が、単なるプログラム規定に留まらず、刑事被告人(右規定によつて保護されるべき被告人の中には、外国人も当然に含まれるものと解する)の具体的権利を保障した強行規定と解するところ、右権利の侵害の有無について判断するにあたつては、その対象となる当該事件の性格、難易、遅延の程度、証拠の性質や量、証拠調の実施の点についての難易、事件の処理にあたる裁判所その他の訴訟関係人の人的物的体勢、遅延の主たる原因とその態様、即ち公判審理がどのようなやり方でどの程度まで進められているか等諸般の事情を綜合勘案したうえ、事案の真相究明の要請、被告人の人権保障の必要性など刑事訴訟法第1条に規定している目的や利益を十分に比較衡量して判断すべきであるが、右基準に照すときは、本件はまさに右憲法によつて保障された被告人の迅速な裁判を受ける権利を著しく侵害するに至つたものといわざるを得ないのである。而して当裁判所において今後本件につきさらに実質審理を進めるならば、さらに相当の日時を必要とされることは当然予測さるべきところであるが、これ以上の訴訟の継続はますます被告人らにのみ過大の苦痛と犠牲とを強いる結果となり、刑事被告人の右憲法上の権利をますます侵害し、もつて憲法に謳われた被告人の人権保障の精神を無視し去ることにもなりかねないのである。

(七) 以上の如くであるから、当裁判所としては、これ以上本件訴訟を進行させることはもはや許されないものと解せざるを得ない。なるほど憲法に違反する訴訟遅延が生じた場合の被告人の救済方法について現行刑事訴訟法上は何らの具体的な明文規定を設けていないが、そのことから直ちにそのような訴訟遅延に対して裁判所が何らの訴訟法的措置を採らなくてよいとか、採るべきでないということにはならないのであつて、場合場合に応じて、憲法の理念を全うするべく、個個の法条を合目的的にかつ時にはある程度弾力性をもたせて解釈し、もつて妥当なる結論に到達するようつとめなければならない。本件においては、先きに述べた如く、その実体は正しく公訴時効が完成したかの如き効果が発生しているのであり、刑事訴訟法第1条に掲げられた刑罰法令の適正且つ迅速な適用実現の理念は同法各条文を解釈運用する際の指針となるべきものであることを考えると、結局本件においては公訴時効が完成した場合に準じ、刑事訴訟法第337条第4号により被告人らをいずれも免訴するのが相当であると思料する。

(八) なお最後に附言するなら「裁判が迅速を欠き憲法第37条第1項の趣旨に反する結果となつたとしても、場合により司法行政上の責任問題が生ずるのみで、そのため判決破棄の理由とはならない」ものとする確立した最高裁判所の判例(昭和23年(れ)第1,071号同年12月22日大法廷判決刑集2巻14号1,853頁、昭和24年(れ)第238号同年11月30日大法廷判決刑集3巻11号1,857頁、昭和38年(あ)第1,998号同年12月27日第二小法廷判決判例時報359号62頁)もあるが、これは「裁判に迅速を欠く違法があるからといつて、原判決を破棄すべきものとすれば、差戻すのほかはなく、そうなれば裁判の進行は一層阻害されて、憲法の保障はいよいよ裏切られることになるという矛盾を生ずる」(右刑集2巻14号1,853頁)ということを専らの理由として迅速を欠くことが上告理由にならないものとしているのであつて、破棄差戻の結果を考慮せざるを得ない上告審の特殊性によるところが大きく、第一審において判断すべき場合とは自ら立場を異にするものがあるし、右判例も、如何なる訴訟遅延も絶体に訴訟法的な効果を生じないものと断じ、よつて憲法第37条第1項が迅速な裁判を受けることを被告人の権利として保障した趣旨を全く有名無実なものと解しているものとは、未だ解し得ないのである。一口に迅速を欠く裁判といつても、その内容、程度において事件毎に千差万別であることは勿論であるが、本件の如きは現行憲法及び刑事訴訟法のもとでは全く予想だにし得ない遅延の事例であつて、この遅延を黙過し、これ以上裁判を継続することは当裁判所の到底容認し得ないところであるので、公訴時効が完成した場合の規定を準用し主文第二項記載の如く被告人等を免訴する次第である。

 以上の理由により主文の通り判決する。

  (名古屋地方裁判所刑事第3部)

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