「よど号」新聞記事抹消事件
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 昭和52年(オ)第927号
昭和58年6月22日 大法廷 判決

上告人 (控訴人  原告) 甲野春子 外5名
          代理人 近藤勝 外3名
被上告人(被控訴人 被告) 国
          代理人 柳川俊一 外6名

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人近藤勝、同小泉征一郎、同古瀬駿介、同川端和治の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人らの負担とする。

[1] 所論は、未決勾留によつて拘禁された者に対する新聞紙の閲読の自由を制限しうる旨定めた監獄法31条2項、監獄法施行規則86条1項の各規定、昭和41年12月13日法務大臣訓令及び昭和41年12月20日法務省矯正局長依命通達は、思想及び良心の自由を保障した憲法19条並びに表現の自由を保障した憲法21条の各規定に違反し無効である、というのである。
[2] 未決勾留は、刑事訴訟法の規定に基づき、逃亡又は罪証隠滅の防止を目的として、被疑者又は被告人の居住を監獄内に限定するものであつて、右の勾留により拘禁された者は、その限度で身体的行動の自由を制限されるのみならず、前記逃亡又は罪証隠滅の防止の目的のために必要かつ合理的な範囲において、それ以外の行為の自由をも制限されることを免れないのであり、このことは、未決勾留そのものの予定するところでもある。また、監獄は、多数の被拘禁者を外部から隔離して収容する施設であり、右施設内でこれらの者を集団として管理するにあたつては、内部における規律及び秩序を維持し、その正常な状態を保持する必要があるから、この目的のために必要がある場合には、未決勾留によつて拘禁された者についても、この面からその者の身体的自由及びその他の行為の自由に一定の制限が加えられることは、やむをえないところというべきである(その制限が防禦権との関係で制約されることもありうるのは、もとより別論である。)。そして、この場合において、これらの自由に対する制限が必要かつ合理的なものとして是認されるかどうかは、右の目的のために制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである(最高裁昭和40年(オ)第1425号同45年9月16日大法廷判決・民集24巻10号1410頁)。
[3] 本件において問題とされているのは、東京拘置所長のした本件新聞記事抹消処分による上告人らの新聞紙閲読の自由の制限が憲法に違反するかどうか、ということである。そこで検討するのに、およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法19条の規定や、表現の自由を保障した憲法21条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法13条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。そしてこのことは、閲読の対象が新聞紙である場合でも例外ではない。この見地に立つて考えると、本件におけるように、未決勾留により監獄に拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止という勾留の目的のためのほか、前記のような監獄内の規律及び秩序の維持のために必要とされる場合にも、一定の制限を加えられることはやむをえないものとして承認しなければならない。しかしながら、未決勾留は、前記刑事司法上の目的のために必要やむをえない措置として一定の範囲で個人の自由を拘束するものであり、他方、これにより拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。したがつて、右の制限が許されるためには、当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。
[4] ところで、監獄法31条2項は、在監者に対する文書、図画の閲読の自由を制限することができる旨を定めるとともに、制限の具体的内容を命令に委任し、これに基づき監獄法施行規則86条1項はその制限の要件を定め、更に所論の法務大臣訓令及び法務省矯正局長依命通達は、制限の範囲、方法を定めている。これらの規定を通覧すると、その文言上はかなりゆるやかな要件のもとで制限を可能としているようにみられるけれども、上に述べた要件及び範囲内でのみ閲読の制限を許す旨を定めたものと解するのが相当であり、かつ、そう解することも可能であるから、右法令等は、憲法に違反するものではないとしてその効力を承認することができるというべきである。
[5] 論旨は、採用することができない。
[6] 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過程に所論の違法はない。そして、具体的場合における前記法令等の適用にあたり、当該新聞紙、図書等の閲読を許すことによつて監獄内における規律及び秩序の維持に放置することができない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が存するかどうか、及びこれを防止するためにどのような内容、程度の制限措置が必要と認められるかについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝にあたる監獄の長による個個の場合の具体的状況のもとにおける裁量的判断にまつべき点が少なくないから、障害発生の相当の蓋然性があるとした長の認定に合理的な根拠があり、その防止のために当該制限措置が必要であるとした判断に合理性が認められる限り、長の右措置は適法として是認すべきものと解するのが相当である。これを本件についてみると、前記事実関係、殊に本件新聞記事抹消処分当時までの間においていわゆる公安事件関係の被拘禁者らによる東京拘置所内の規律及び秩序に対するかなり激しい侵害行為が相当頻繁に行われていた状況に加えて、本件抹消処分に係る各新聞記事がいずれもいわゆる赤軍派学生によつて敢行された航空機乗つ取り事件に関するものであること等の事情に照らすと、東京拘置所長において、公安事件関係の被告人として拘禁されていた上告人らに対し本件各新聞記事の閲読を許した場合には、拘置所内の静穏が攪乱され、所内の規律及び秩序の維持に放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があるものとしたことには合理的な根拠があり、また、右の障害発生を防止するために必要であるとして右乗つ取り事件に関する各新聞記事の全部を原認定の期間抹消する措置をとつたことについても、当時の状況のもとにおいては、必要とされる制限の内容及び程度についての同所長の判断に裁量権の逸脱又は濫用の違法があつたとすることはできないものというべきである。これと同趣旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

[7] よつて、民訴法396条、384条、95条、89条、93条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 寺田治郎  裁判官 団藤重光  裁判官 藤崎万里  裁判官 中村治朗  裁判官 横井大三  裁判官 木下忠良  裁判官 塩野宜慶  裁判官 伊藤正己  裁判官 宮崎梧一  裁判官 谷口正孝  裁判官 大橋進  裁判官 木戸口久治  裁判官 牧圭次  裁判官 和田誠一  裁判官 安岡満彦)
[1]一、原判決は、「当裁判所も、控訴人(上告人)らの本訴請求を棄却すべきものと考える。その理由は、原判決(第一審判決)理由説示と同一であるからこれを引用する」として、監獄法31条等が、憲法19条、21条に違反しないとした。
[2] 即ち、原判決は、
「刑事被告人を拘置所に収容し、その自由を拘束するのは拘禁の目的たる逃亡及び罪証隠滅の防止にあることはいうまでもないが、右目的のために収容せられた多数の在監者を集団として規整管理するにあたつては、在監者の生命、身体の安全の確保、衛生及び健康管理等の観点からはもとより、施設内の平穏の確保の観点からも拘置所長が必要かつ合理的な限度において在監者の身体的自由以外の自由についても制限を加えることもやむをえないことといわなければならない。
 従つて、未決拘禁者の新聞図書等の閲読についても絶対にこれを制限できないとする理由はないというべきである。」
「新聞等閲読の自由の制限は、できるかぎり、これを避けるべきものであることは言を俟たないところであるから、右の制限が許されるためには、単に一般的、抽象的に拘置所内の紀律を害するおそれがあるというのでは足りず、当該未決拘禁者の行状、拘置所内外の情勢からする拘置所の保安状況、看守の人員配置等の管理状況、その他諸般の具体的状況下において当該内容の新聞図書等の閲読を許すことが監獄内の紀律を害する結果を生ずるといいうる程の相当の蓋然性が認められる場合において初めてその必要が認められるべきであり、しかもその目的を達するための合理的な範囲内においてのみ許されると解するのが相当である。」
 従つて、監獄法31条等、訓令並びに通達は、「いずれも前述したような監獄内における未決拘禁者の新聞図書等閲読の制限の実質的根拠及びその範囲等に関する基本的観点を前提として、その制限の範囲を順次具体的に定めたものと解せられるのであり、かつ右の基本的観点からこれらを解釈すべきであるから、そうとすれば右法令等は憲法19条、21条に違反するものではないことは前記説示に照らし明らかというべきである。」
とした。

[3]二、しかしながら、原判決も認めているように新聞閲読の自由は、憲法19条の保障する思想及び良心の自由並びに同法21条の保障する表現の自由に属するものであり、右の自由は民主主義社会の根幹をなす基本的原理の一つであることはいうまでもないのみならず、未決拘禁者にとつては一般社会に関する情報を得るための殆んど唯一の手段として格別の意味を有するものであり、しかも新聞図書等は兇器等のようにそのものの存在自体が拘置所内における紀律違反を惹起する直接的手段となりうるものではない以上、制限できないものである。まして、新聞閲読の自由は、新聞を読む各人の内心の問題(即ち、新聞を読み、それをどう感じ、どう思う、どう考えるかという個人の内面の問題)であつて、法が個人の内心に立入らないと同様に、立入ることのできないところであり、制限さるべきものではない。

[4]三、原判決は、その制限の認められる範囲について、
「当該未決拘禁者の行状、拘置所内外の情勢からする拘置所の保安状況、看守の人員配置等の管理状況、その他諸般の具体的状況下において当該内容の新聞図書等の閲読を許すことが監獄内の紀律を害する結果を生ずるといいうる程の相当の蓋然性が認められる場合において初めてその必要が認められるべきであり、しかもその目的を達するための合理的な範囲内においてのみ許される」
として、その制限について、厳格なしぼりをかけたとして、合憲性を与えているが、これは全くの誤りといわざるをえない。新聞閲読の自由が内心の問題でしかないことを全く見落して、新聞を読む個人以外の事由にもとづき制限しているのは許されない。原判決では、結局、拘置所側や看守らの保安、監理状況の下において監獄内の紀律を害するかどうかによつて、閲読の自由が認められるということになる。これでは、拘置所側の都合(看守、施設等の人的物的施設如何)によつて閲読の自由が左右されるという結果になる。極論すると閲読の自由は、国の予算によつて制限されるということになる。このようなことが憲法上認められた内心の自由たる新聞閲読の自由を侵害すること明らかである。
[5] 従つて、原判決は、厳格な制限をもうけることによつて、監獄法31条等を合憲化しようとしながら、何ら制限していないことになる。
[6] 閲読の自由が問題になる場合は、絶えず、原判決のいう「制限」との真向うから対立しているギリギリの場合であるから、拘置所側の都合によつて、制限しうるか否かを制限基準とすれば、全く制限しないと同じでしかない。

[7]四、次に、東京拘置所は、本件新聞記事が、文書図画の許可基準を定めた監獄法令、訓令、通達等に示す「犯罪の手段方法を詳細に伝えたもの」であつて、拘禁の目的に反し所内の紀律を害するおそれがあるものに該当すると判断し、4月2日配付の3月31日付夕刊紙、4月1日付朝刊紙、同日付夕刊紙および4月3日朝配付の4月2日付朝刊紙については、右日航機乗つ取り事件に関する記事を全面抹消するという処置をとつたというのであるが、本件処分の根拠たる昭和41年12月20日法務省矯正局長の取扱規程の運用についての依命通達は、未決拘禁者に対する文書、図画等の閲読の許可規準について二の1において「(一)未決拘禁者に対しては、(4)風俗上問題となるようなことを露骨に描写したもの、(5)犯罪の手段、方法等を詳細に伝えたもの、(6)通信文又は削除し難い書込みのあるものあるいは故意に工作を加えたもの(中略)などは、その閲読を許さないこと。」としていることは、憲法19条、21条に反すること明らかである。

[8]五、右通達の(1)ないし(4)、(6)は、少なくともそれなりの合理的理由があつて合憲性を有しても、(5)の犯罪の手段方法等を詳細に伝えたものについては、全くその合理的理由がない。
[9] 新聞の記事は、いわば「犯罪の手段方法等を詳細に伝えたもの」であるから、右条項に新聞記事はすべて該当し、抹消されるということになる。新聞記事は、事件が発生し、より犯罪の手段方法等を詳細に伝えれば伝える程その価値が高く評価される。
[10] 新聞記事の抹消を認めることは、新聞という社会の公器、読む自由、報道の自由等の民主主義原理を全く否定することと同一である。このようなことが許されないのはいうまでもないことである。

[11]六、原判決のように、新聞閲読の自由について監獄法等の「制限」しうることを合憲とすることは、まさに未決拘禁者の人権をより認める世界の流れに逆行するものである。
[12](一) 1955年8月30日、ジユネーブで開催された犯罪予防及び犯罪者処遇に関する第1回国連会議において決議され、ついで1957年7月31日国連経済社会理事会において承認採択された「被拘禁者処遇最低基準規則」は次のように定めている(法務省矯正局の訳による)。
「被拘禁者は、新聞紙、定期刊行物もしくは施設の特別刊行物を閲読し、ラジオ放送を聴取し、講演をきき、または当局が許可し、もしくは監督するその他の類似の手段によつて、比較的重要なニユースを、定期的に、知らされなければならない。」(第39条)
「すべての施設は、娯楽的及び教育的な図書を十分に備えた、あらゆる種類の被拘禁者の使用に供する図書室を設け、かつ被拘禁者には、十分にそれを利用するように勧めなければならない。」(第40条)
[13] 国連では、「制限」を付すのではなく、未決拘禁者らにより自由を認め、いわば「解放処遇」の一環として、積極的に拘置施設当局に対し便宜供与を義務づけているのである。
[14](二) また日本弁護士連合会においても昭和50年9月20日「刑事拘禁法要綱」を明らかにし、法務省に対し監獄法改正についてその実現を訴えたものである。その内容は次のとおりである。
「(ニユースの提供)被収容者に対しては、新聞、雑誌、放送その他の手段により必要なニユースを知らせなければならないこと。
 一般社会の動向から耳目を閉ざされてあることを、受刑者に対する拘禁目的の一つにかぞえてはならない。受刑者の収容目的がその者の社会復帰ということにある限り、むしろ、必要なニユース・情報は進んで知らしめることが必要である。問題は、その必要性の認定にかかる。
 未決拘禁者に関しては、ニユースを秘匿すべき理由は一層乏しいとしなければならない。
 ニユースの媒体としては、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどがある。
 これらのニユースの媒体については、しかし、事前検閲の問題と、不許可又は一部抹消などの問題がある。社会一般へ何らの制限なく公開されている情報を、被収容者に対しては秘匿するということは、一般的にいつて、無用のわざというべきである。
 矯正処遇上悪影響があるかどうかを判断するためのものであつても、検閲は、その制度そのものが望ましい制度ではないのであるから、検閲の方法についても、抹消・不許可などの基準についても、具体的で狭い明確な定めをしておかなければならない。すくなくとも、それらが検閲担当官の恣意に委ねられてあるというようなことは、絶対に禁止しなければならない。」
[15] 更に、日本弁護士連合会は、昭和47年5月4日、本件について、「よど号事件」の新聞記事の抹消は憲法19条を実質的に侵し未決拘禁者の新聞閲読の自由を侵害したとして、東京拘置所長等に対し次の理由に基づき警告を発している(甲第23号証)。
「図書、新聞等は、何人もそれを自由に読む権利があることは疑う余地のないところである。しかもその自由は、憲法第19条の保障する思想の自由から必然的に導き出される基本的人権(思想形成のための知る権利)であり、これは民主主義の根幹をなす国民の精神的自由を確保するため、厳格に保障されなければならない法理である。それ故、この自由保障は、原則として未決拘禁という特別権力関係下にある被拘禁者にも当然及ぶべきものである。何故かと云えば、未決拘禁者は、右の自由を奪われるために拘禁されているのではない。それは、有罪判決あるまでの間、刑訴法第60条に定める理由(逃亡・証拠隠滅)による勾留目的の範囲内で一時、人権の制約を受ける関係にすぎず、しかも、その間は無罪の推定を受け、当事者として自由な訴訟活動が保証され、やがては社会へ帰る地位(権利保釈等)にある。この意味で未決拘禁者は一時的勾留目的の限度で身体の自由を制限されるが、それ以外の自由は、一般社会人と何ら異なる差別を受ける理由は全くない。従つて、未決拘禁者の図書・新聞の購読は本質的に自由であり、拘置所長の許可によりはじめて閲読できるという性質のものではないし、また、そのようなことがあつてはならない。殊に新聞(主として、いわゆる全国紙や有力な日刊地方紙)については、このことは一層明確である。現代の新聞はもはや社会の公器たる性質を有し、敏速、的確に政治・外交・経済・社会・文化等の報道をなし、それによつて民衆に判断の基礎となる材料を提供することを使命としている。まさに新聞は民衆の知識の糧である。社会活動の切断を余儀なくされた拘禁者と云えども、その拘禁期間の長短によつてその必要の度合が低下するとは考えられず、むしろ一般社会から隔離されることによつて、一層切実な購読欲をそそるものと思われる。そして新聞はその性質上その日その日に供給されてこそ意義と価値を有するものである。そこで未決拘禁者の勾留目的と新聞閲読の関係を考えてみると、まず前述の如く、未決拘禁者は知識を得る自由まで奪われる理由はないし、当該未決拘禁者の犯罪が詳細に報道され、それを読んだからといつて逃亡や証拠隠滅のおそれをどれだけ招来するであろうか、机上では新聞広告を利用して、逃亡とか証拠隠滅ができないとは限らないといえるかも知れないが、およそ不可能なことである。拘禁と戒護が厳重である限り、勾留目的すなわち逃亡と証拠隠滅についてはなすすべもないはずであるし、また紀律を害することもとうてい考えられない。また拘置所は刑罰を執行する監獄ではない。ただ拘禁だけを目的として設置されているのである。したがつて未決拘禁者に受刑者に対する如く、刑罰の機能或は社会保安の機能をもたすことは断じて許されない。刑罰的効果や、将来の犯罪防止の目的を導入することも制度の趣旨に反すること明白である。このように考えると、未決拘禁者に対し新聞の閲読を禁止することは勾留目的に差しせまつた危険が明白でない限り憲法に違反し許されないものと解する。
 したがつて本事件で東京拘置所が主張する監獄法施行規則第86条以下の適用法令は、この点に関し違憲性が明白で無効といわざるを得ない。
 なお、この精神は下級審判例、例えば、津地方裁判所昭和36年(行)第4号昭36・10・21民1部判決(判例時報279号6-10頁)、大阪地方裁判所昭和29年(行)第79号昭33・8・20民3部判決(右同159号6-45頁)その他多数の判例により司法判断の分野ですでに確立されつつあるといつても過言ではあるまい。」
[16](三) 法務省は、法制審議会に於いて監獄法改正作業を進めているが、そこに於いてもより被収容者の処遇を認める方向にある。従つて、監獄法等の新聞閲読の自由について「制限」を付することを合憲とする解釈はもはやとられるべきでない。裁判所も判断を改めるべきである。明治41年制定の監獄法を合憲化して古き時代に逆行するのでなく、新しき憲法に則り、監獄法改正の方向に進路を与えられるべきである。

[17]七、よつて、憲法19条、21条に違反する監獄法31条等にもとづき、東京拘置所長の上告人らに対してなした本訴新聞記事の抹消処分は、違憲無効といわざるをえない。
一、本件新聞記事の内容について
[18](一) 原判決は、本件新聞記事の内容について、
「昭和45年3月31日午前7時40分ごろ、東京羽田発福岡ゆき日本航空351便ボーイング727型機「よど号」(乗務員7人乗客130人が同乗)が静岡県富士山頂付近を飛行中、赤軍派と称する学生15人が「航路を変更して北朝鮮の富寧に行け。いうことをきかないと持つている爆薬を爆破させる。」とピストルや日本刀などでおどし、乗客の両手をしばつて監禁して同機を乗つ取つた事件について、その犯行の手口、犯行の成行き、監禁されている乗客の健康状態、犯人らに対する説得工作の難航等の模様を詳細に報道したものである。」
と認定しているが、これは、昭和45年3月31日付夕刊の第1面(乙第3号証の1)の新聞記事のみを引用したものである。
[19](二) 原判決は、3月31日付夕刊の第1面以外の新聞記事の内容については全く触れていない。これは、理由不備である。
[20] もし前同様とするなら事実の誤認である。
[21] 即ち、3月31日夕刊第2面(乙第3号証の2)は、「世界もビツクリ」という大見出しで、米、異例の刻々速報″日本まで汚染か″、首相指示再犯防止に万全をという記事であつて、何ら犯行の手口、犯行の成行き等の報道でないこと明らかである。
[22] 同第3面(同号証の3)(甲第19号証)は「奪われた翼」の見出しで飛行機の写真等の内容であるが、これも原判決認定の報道の内容でない。
[23] このように、事件そのものと全く関係ない記事まで、「その犯行の手口、犯行の成行き等」と認定しているのは、事実の誤認といわざるをえない。その他例えば、テレビ番組欄の「日航機乗取り事件」(乙3号証の12)、「国際無法時代日航機乗つ取りに世界の心配」の見出しによる外国の乗つ取り事件を解説した記事(乙第4号証の3)、社説の「許せぬ日航機乗つ取り事件」(同号証の5)、「日航機乗つ取り国会で追及」(乙5号証の2)、「よど号事件日本外交の重荷」(乙6号証の3)等の解説や批判記事、週刊誌の宣伝見出し(乙第6号証の7)など、どのように類推しても原判決の「犯行の手口」等に該当しない。いわば、日航機乗つ取り事件を「極めて前代未聞の兇悪な事件」と認定の下にそれも3月31日付夕刊の第1面の記事のみをもつて、すべてをそれと同一と判断した誤りからくるものである。
[24] 「事件」そのものと「記事」そのものとを混同しているという他ない。
[25] 新聞記事は、批判的に報道しているものであつて、それを読んで「快哉を叫び、これに呼応して何らかの意思表示をする」内容では決してない。もしそうだとしたら、新聞という社会の公器に対する非常な侮辱であり、読者に対する偏見という他ない。

二、所内秩序維持困難の蓋然性について
[26](一) 原判決は、本件記事の閲読を許した場合に所内秩序に困難を来たす蓋然性が相当程度存していたとして、
「赤軍派の未決拘禁者を含め公安事件関係者は一般に拘置所及び同所の職員を敵視し、連帯感ないし同調性をもつて紀律違反行為を繰り返し、拘置所内外の情勢に応じて事を構えては看守と抗争し監獄内における特異な生活環境において互いに刺戟し、激励鼓舞し合い、これを国家権力に対する獄中闘争と称してそこに精神的昂揚をはからんとする者が少なくなかつたのであるから、かかる状況下においては、これらの者が、本件新聞記事を読んで、前記のような航空機乗つ取り事件が赤軍派学生により敢行され、成功したとの事件を知れば、快哉を叫び、これに呼応して公安事件関係在監者が何らかの意思表示をするであろうこと及びそのようなデモンストレーションがなされれば、それによつて他の一般在監者に対しても心理的動揺を与え、かくては拘置所内の静ひつが攪乱され、秩序維持が著るしく困難となる事態の生ずることは避けられないとみるべき相当の蓋然性があつたものというべきである。」
と認定しているのは、事実の誤認、理由の不備である。
[27](二) そもそも、これは、上告人丁海冬子の尋問結果に反する認定である。乙第7号証によつても、新聞記事を読んで騒いだ事例ではなく、本件日航機乗つ取り事件を知つて、拘置所内の未決拘禁者が騒ぎ、大声で叫び、シユプレヒコール、拍手等をしたことはない(証人藤井憲城、証人笠原正義、証人川島正美、証人谷照代の各証言)。
[28] また、当時の上告人らの女子の在監していた女区は、男子棟と隔離され、人数も100名位(証人谷照代の証言)と全体数の1695名の僅か16分の1以下であり、公安事件関係者、新聞購読者は、もつと少数であつた。ところが当時の拘置所の看守や警備は厳格を極め、常時行われていたのである。とすると、本件記事、それも、批判的否定的な事実の報道内容を閲読したところで、所内の静ひつが攪乱され、秩序維持が著るしく困難となる事態の生ずる相当の蓋然性があつたとの原判決の認定は誤りである。
[29] 拘置所内では、拘禁、戒護が厳重であり、一般社会では問題にされない本件新聞記事がそれも事件の批判的記事や論説、解説記事が「犯罪の手段、方法」に触れるということにより閲読を許されないというのは、在監者を「よらしむべし、知らしむべからず」の封建時代の状態におくものといわざるをえない。

[30]三、従つて、原判決は、本件新聞記事の内容をすべて、前代未聞の兇悪な「事件」と「犯罪の手段方法」であると誤認し、上告人ら未決拘禁者に右記事の閲読を許した場合に、所内の静ひつが攪乱され、秩序維持が困難となる蓋然性があると誤認して、前記認定をした誤りがあり、右事実を誤認しなければ、原判決は、上告人らの勝訴したという明らかに影響があるものである。

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