『四畳半襖の下張』事件
上告審判決

わいせつ文書販売被告事件
最高裁判所 昭和54年(あ)第998号
昭和55年11月28日 第二小法廷 判決

上告申立人 被告人ら

被告人 佐藤嘉尚 外1名
弁護人 伊達秋雄 外5名

■ 主 文
■ 理 由

■ 弁護人中村巌の上告趣意
■ 弁護人三宅陽の上告趣意
■ 弁護人佐藤博史の上告趣意


 本件各上告を棄却する。

[1] 所論は、憲法21条違反をいうが、原判決は、所論のように本件「四畳半襖の下張」を春本と断じたものでないことがその判文上明白であるから、所論は、原判決の結論に影響を及ぼさないことの明らかな点に関する違憲の主張であり、適法な上告理由にあたらない。
[2] 所論は、原判決の解釈が憲法21条に違反するというが、結局のところ、原判決が刑法175条の合憲性を肯定したことを論難するに帰するものであつて、その理由のないことは、わいせつ文書の出版を同法条で処罰しても憲法21条に違反しないとする当裁判所大法廷判例(昭和28年(あ)第1713号同32年3月13日判決・刑集11巻3号997頁、同39年(あ)第305号同44年10月15日判決・刑集23巻10号1239頁)の趣旨に徴し明らかである。
[3] 所論は、憲法31条違反をいうが、刑法175条の構成要件は、所論のように不明確であるということはできないから、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。
[4] なお、文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和32年3月13日大法廷判決参照)といえるか否かを決すべきである。本件についてこれをみると、本件「四畳半襖の下張」は、男女の性的交渉の情景を扇情的な筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めており、その構成や展開、さらには文芸的、思想的価値などを考慮に容れても、主として読者の好色的興味にうつたえるものと認められるから、以上の諸点を総合検討したうえ、本件文書が刑法175条にいう「わいせつの文書」にあたると認めた原判断は、正当である。
[5] 所論のうち、刑法175条の規定がその構成要件の不明確性の故に憲法31条、21条に違反するという点は、刑法175条の構成要件が所論のように不明確であるということのできないことは、すでに説示したとおりであるから、所論は前提を欠き、原判決には手続的にも憲法31条違反があるという点は、実質は単なる法令違反の主張であり、その余の違憲(憲法31条、32条違反)をいう点は、原判決の結論に影響を及ぼさないことの明らかな点に関する違憲の主張であり、いずれも適法な上告理由にあたらない。

[6] よつて、刑訴法408条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 栗本一夫  裁判官 木下忠良  裁判官 塚本重頼  裁判官 塩野宜慶  裁判官 宮崎梧一)
[1] 原判決は本件について控訴を棄却して第一審の有罪判決を支持した。そして、その言うところは、原審の本件が正当行為にあたらない、故意は阻却されないとした判断等は正当であり、理由は異なるけれども、本件「四畳半襖の下張」を刑法第175条によつて処罰することが憲法第21条、第31条に違反するとの主張は採用できないとする判断も結果的には肯認できるということである。憲法違反の主張を採用しない理由として、第一審は刑法第175条を同判決のいわゆる調和の要請、明確性の要請を充足するように合憲的に解釈するならば、同条は憲法第31条にも抵触せず、憲法第21条の表現の自由を侵害するものでもないのであつて、「四畳半襖の下張」は右のようにして解釈された刑法第175条に該当するからであるとするのに対し、原審は、「四畳半襖の下張」のごときいわゆる春本は、もともと憲法第21条による表現の自由の保障をうけないのであり、被告人らによつて販売されたこの春本は刑法175条にいう「わいせつ」にあたることが明らかであるから、被告人らは右刑法の規定について不明確な刑罰法規だとして憲法第31条違反を主張する適格を有しないからであるとする。この2つの理由の間には大きな違いがあるが、いずれも第一審、原審での弁護人らの主張すなわち本件「四畳半襖の下張」も憲法21条によつて保障された「表現」であるから、これを処罰することは違憲であり、処罰法規たる刑法第175条は不明確な刑罰法規であるから、憲法第31条に反し無効であるという考え方を否定してしまつたのである。
[2] しかしながら、正当行為にあたらない、あるいは故意は阻却されない等の判断についてはこれを措くも、一審判決および原審判決の憲法第21条および第31条についての解釈は全くの誤であつて到底これを看過することはできない。よつて、以下これらの判決の憲法解釈の誤を指摘し、あわせて本件「四畳半襖の下張」が春本でないことを明らかにして上告理由としたい。
[3] 憲法第21条第1項はあらためていうまでもなく、表現の自由を保障するものであり、出版という形態の表現もまた保障されている。そうだとすると、出版という形態での表現がなされた場合、すなわち出版物が世にあらわれた場合、その出版物の内容がどんなものであろうと、これを出版する行為(もとより領布、販売を含む)に対し、刑罰を科する等してこの行為を禁止することは本来許容されない筈である。
[4] ところが、この出版が刑罰法規をもつて処罰されることがありうる。例えば、その出版物中に他人の名誉を毀損する部分があり、刑法の名誉毀損罪が成立する場合である。その場合、結局当該出版物については憲法第21条第1項の保障が及ばないわけである。そこで、出版物のうちどのようなものについて右の保障が及び、どのようなものについてそれが及ばないかが問題となる。

[5] 一般に、表現の自由の保障は無条件的であるといわれる。しかしながら、このことは表現が他人の権利を侵害したり、社会の存立を危くするものである場合にも、これについてなお保障があるということを意味しない。表現はその性質上外的世界とかかわるため、それが他人の権利を侵害したり、社会の存立に対して危険を及ぼしたりすることがありうるし、このような表現には表現の自由の保障は及んでいないとしなければならない。
[6] しかしながら、このことは表現の自由は多くの表現のうち特定のもののみを保障しているというのとは全く違う。
[7] 表現の自由の保障は無制限的であるけれども、特定の表現についてそれが、個別的実質的な制約の正当化事由に該るときは、その表現はもともと表現の自由の保障下にはなかつたとするのである。
[8] そして、右の個別的実質的な制約の正当化事由たりうるものは、個人の権利の侵害もしくは社会の存立を危胎ならしめることであつて、それ以外にはない。特定の表現の自由を憲法の保障から除外すべき正当化自由として右以外のものを認めることは、現行憲法の体系上ありうべからざるところである。

[9] 右のような理論体系のもとで、出版物の内容が世の中から価値あるものであると認められているか、価値が低く、低俗なものとされているかは保障をうけるか否かと全く関係がない。
[10] たしかに、他の憲法条規との関連からいえば、憲法は思想、信条、信教、学問などの表明を重視していることは事実である。しかしながら、憲法第21条第1項の解釈として同条が思想等の表明とその他の非思想的、非信条的、非信教的、非学問的な表明との間に差別を設けているとすることはできない。同条項は、その限りではすべての表現に対して表現そのものの価値にかかわりなく一律平等に臨んでいるのであつて、それが春本であり、いわゆる価値体系上低位に位置づけられるものであるとしても、そのことの故に右条項の保障のそとにあるということにはならない。その点で、原判決の
「春本は精神的自由として憲法の価値体系上高位の価値を認められている思想、信条、信教、学問などの表明とは明らかに無関係のものであるから……憲法第21条第1項の保障をうけるものでな」い
との判示は誤りである。

[11] のみならず、原審判決の本件「四畳半襖の下張」は春本であるとする前提そのものが誤りである。原審は、春本とは性器または性的行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述があり、その描写叙述が情緒、感覚あるいは官能にうつたえる手法でなされているという2つの外的事実に当り、この描写叙述に終始し、あるいはその余の描写、叙述がいわば枝葉にすぎないものであつて、その文書の支配的効果が専ら読者の好色的興味にうつたえ、普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ、性的羞恥心を害するいやらしいものを言うとし、そのうえで本件「四畳半襖の下張」は明らかに春本であるとしている。
[12] しかしながら、原審判決も認めるように、性器または性行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述があり、それが情緒、感覚あるいは官能にうつたえる手法でなされている著作物があつたとしても、それは必ずしも春本とは言えないのであつて、右叙述が真摯な思想表明のためになされていると認められれば春本ということができない。そうだとすれば、本件「四畳半襖の下張」こそまさにこの種の著作物であり、戯作と題され、小説的手法で性行為を具体的に描いているものではあるが、これによつて作者は真摯な思想表明を意図したのである。
[13] そうであるゆえんについては、第一審の際、本件についての特別弁護人であつた丸谷才一(本名根村才一)氏の“「四畳半襖の下張」裁判第二審判決を批判する”(雑誌“世界”昭和54年9月号257頁以下)に詳細である。よつて、右の文章全文を本趣意書に添付して全部これを引用する。特に、別添文書の10頁目12行目以降24頁目14行までの部分は、「四畳半襖の下張」が真実、真摯な思想表明を意図したものであることを詳細に説いている。

[14] 一審判決が、「四畳半襖の下張」が憲法の保障下にないとする理由は、それが高位の価値を認められているものの表明と無関係だからというのではない。一審判決のいうところの調和の原則、明確性の原則に基づいて、刑法第175条を正しく解釈したうえでなお右法条に該当するところの文書は、
「善良な性道徳、性風俗を害し、性秩序を乱し、ひいては社会全体の利益を損うのであつて、公共の福祉に反するものであること(が)明らかであ(る)」
から憲法第21条第1項の保障を排除されるというのである。
[15] しかし、この考え方は転倒している。憲法の下位の実定法規である刑法第175条は、憲法がその保障のもとにないとする表現のみについて処罰しうるのであつて、まず始めに憲法の解釈としていかなる種類の表現が、何故に憲法の保障下にないのかを明らかにしなければならず、そのうえにたつて刑法第175条自体の解釈論を展開すべきなのである。
[16] そしてその場合、「性行為非公然性の原則」などというものは、特定の表現が憲法の保障下にないことの理由にはなりえない。このような当為法則が人類普遍のものとして確立されているとの証拠もないし、何よりもまず、すでに述べたように、憲法の保障の制約を正当化する事由としては、個人の権利が侵害されること、社会の存立が危胎ならしめられること以外にありえないところ、性行為を公然と表現することは一般的には個人の権利を侵害するものでもなく、社会の存立を危胎ならしめるものでもないからである。

[17] なお、アメリカ合衆国の連邦最高裁の判例も、表現の自由の保障の範囲外にある表現を決定するためには、極めて慎重であるということができる。純粋なコマーシヤル広告についてさえ1つの表現としてこれが禁止が合憲的であるためには相応のテストを経なければならないとしている(1967年のヴアージニア・ステート・ボート・フアーマシー対ヴアージニア・シチズンズ・コンシユマー・コンスル、インコーポレツト事件)いわゆる文書にかかる事件については、幾多の変遷を重ねつつその厳密な定義化をはかつている。
[18] ただ、わいせつ事件に関する最近の判例(ミラー対キヤリフオルニア・ステート)は、作品の主要テーマが好色的興味に訴えることにあり、それが性的行為を嫌悪感を伴うような方法で描写しており、かつその作品には重大な文学的、芸術的、政治的または科学的価値がかけている場合、それはわいせつとなると定義したうえ、その作品が人の反社会的行動を惹起せしめるかどうかについて終局的立証がなくても、州はこれを“合理的”判断で認定しうるとしている。この州の“合理的判断”を許容する点では、アメリカのわいせつ事件判例は、現在、表現の自由確保という観点から若干後退しているといわなければならない。

[19] 性器、性行為をある程度具体的に叙述した文書が広く世間に流通しても、それが直ちに一般人に対し性犯罪を誘発するような効果をもたらすものでないということは、今日すでに事実をもつて立証されているといつてよい。しかも、長期的にみても、原判決もいうように、性の道徳、風俗あるいは秩序に対して何らかの有害な影響を及ぼすという実証的な観察調査結果は見あたらない。
[20] そうだとすれば、本件「四畳半襖の下張」のごとき小説は、憲法第21条第1項の解釈上、表現の自由の保障の範囲内にあると解さなければならず、この点に関して、原審および第一審判決は憲法の解釈を誤つたものである。
[21] 罪刑法定主義は刑事制裁の行使を制約する第一の原則であるが、この罪刑法定主義はその帰結の1つとして、犯罪の内容は法文上具体的かつ明確でなければならないことを要請する。
[22] 憲法第31条は右の要請を含めて、さらに憲法上の基本的人権就中、表現の自由等の優越的地位を有する人権との関係ではこれらの人権の制約となるべき刑事制約は過度に広汎にわたつてはならないことをも要請している。従つて、これらの要請に反する刑罰法規は、その程度によつては法文上無効とされなければならない。
[23] アメリカ合衆国の憲法論、連邦最高裁の判例においても同様の理は認められており、アメリカではこれを「明確性の理論もしくは不明確による無効の理論」ならびに「過度の広汎性の理論」と呼び、これらの理論のもと問題の刑罰法規を単に厳格、限定的に解釈するにとどまらず、不明確、広汎な法文の存在自体が表現の自由等に及ぼす萎縮的効果に鑑みて法文自体を無効とする場合が多い。明確性を欠き、過度に広汎な刑罰法規を無効とするのはデユー・プロセスの一適用であり、いわば実体的デユー・プロセスを認めるものである。

[24] 刑法第175条は、「猥褻ノ文書図画其他ノ物ヲ領布、若クハ販売シ……タル者ハ2年以下ノ懲役又ハ……」と規定する。しかしながら、右規定はまず第一に「わいせつ」なる用語が抽象的で不明確である故に明確性を欠く、刑罰法規であり、さらに立法目的その関連において制限すべからざる表現をも制限しうるが如く、立法であるが故に過度に広汎にわたる刑罰法規である。

[25] 「わいせつ」なる用語が抽象的、不明確であることについては、従来最高裁判所の判例はこれを否定して来、また本件原審、第一審の判決もまたこれを否定している。しかし、わいせつ概念は決して明確でないのであつて、原審判決が従来の判例を肯定しながらも、これによつては足らずとして、わいせつ性の判断を客観的なものにするためには、わいせつ性の判断方法およびわいせつ性判断の基準をより具体化することによつて構成要件をさらに明確にする必要があるとしていることは、このことの表れである。原判決は、2つの外的事実ならびに文書の支配的効果が好色的興味に訴えるものと評価され、かつその時代の社会通念上普通人の性欲を著しく刺戟、興奮させ、性的羞恥心を害するいやらしいものであるという条件を充たすとき、文書はわいせつであるとし、かつ支配的効果を判断する基準として4つのものがあるとする。このような複雑な条件を組み合せてできるところの「わいせつ」概念なるものがどうして明確といえるのか。のみならず、人は「わいせつ」という用語のうちにこのような複雑な内容を読みとることができないのである。もともと憲法上明確性が要請されるのは国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知し、法適用機関の恣意を防ぐためである。しかるに、右のようにして始めて「わいせつ」概念の内容が明らかにされるというのでは、国民にあらかじめ刑罰対象行為が告知していないに等しく、萎縮的効果を与えることはなはだしいものがあるのである。

[26] 刑法第175条はまた過度に広汎な立法である。法にはそれぞれその立法目的があるが、ある法が憲法第31条に反しないというためにはその立法目的が憲法的に正当であつて、その正当性を達成するに足る最小限度の法文をもつて立法がなされていなければならない。ところが、刑法第175条の場合にはまず立法の正当性が明確でなく、法文そのものがそれに応じたものであるかどうかが全くさだかではない。
[27] いわゆる一般の文書のなかから特にいわゆるわいせつ文書をとり出して処罰することを正当ならしめるためには、この文書の有害性がきわだつていることを必要とし、かつきわだつて有害なる文書のみが処罰されるように法規が作られていなければならないが、わいせつ概念の不明確性を別としても、特に今日わいせつ文書とされるものが特に有害であるとする立法事実はない。
[28] 原判決は、
「わいせつ文書の公表が……善良なものと観念される性の道徳、風俗あるいは秩序に対して、長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題」ならびに「日常生活の質の向上、社会の品格の維持、わいせつ物の未成年者からの隔離などの国民的利益に対しても、長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題」
が識者に広く信じられていることがわいせつ文書処罰を正当づける根拠であり、有害性が実証されていなくてもかまわないとする。しかし、これは誤りである。第一に、この2つの事実命題なるものは言葉の正当な意味での事実命題ではなく、判決自体認めるように、単に人々が信じている内容にすぎないのである。第二に、わいせつ物の未成年者からの隔離なる目的はわいせつ文書一般の処罰という方法によらずしても達成しうるものであり、日常生活の質の向上や社会の品格の維持が表現を制限する理由たりうるものとすれば、今日の状態よりはるかに広範囲な表現を処罰の対象とすることが正当化されてしまう。第三に、わいせつ文書の公表が性の道徳、風俗あるいは秩序に対して、長期的に何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があると広く識者が信じているということ自体が事実でなく、有害な影響を及ぼす蓋然性なるものは、判決もいうとおり実証されていないのであるからかく信ずる筈がないのである。
[29] そうだとすれば、原判決が立証事実とするものは在存しないというべく、存在しない事実との「関連性」で立法を正当化することはできないのであつて、現行の刑法第175条は、わいせつの物の未成年者にとつての有害性といつた若千の事実に支えられる立法目的を越えて広汎な処罰を可能ならしめる法規となつている。

[30] 原判決は、規制をうける当事者の行為それ自体が不明確あるいは過度の広汎な規制の場合に該当するものでない限り、その法律を不明確、広汎として攻撃する適格性は認められないとの法理を採用している。この法理自体はアメリカ合衆国において認められたものであるが、本件「四畳半襖の下張」は「わいせつ」に関し如何なる解釈をとろうがわいせつとされる類の文書でなく、法規の不明確性、広汎性の故にわいせつとされるおそれのある文書であるから、被告人らは攻撃の適格性を有するのみならず、右の法理自体が不当である。表現の自由等の重要な権利が侵害されるか、危険にさらされている場合は、自己の権利救済とともに広く一般の権利侵害の状態をも除去しうるものとしなければならない。自己の事件の事実関係を超えた時点で侵害の事実を攻撃することが許されないならば、明確性の理論、過度の広汎性の理論は十分に機能しえないこととなる。
 上井荷風作の短篇小説「四畳半襖の下張」を雑誌「面白半分」に掲載したせいでの野坂昭如さんと佐藤嘉尚さんの事件が、いよいよ最高裁判所で審理されることになつたと聞く。そこでこの機会に二審判決を読み返して、感想を記しておきたいと思ひます。わたしはこの裁判の一審の際に特別弁護人でしたから(二審および最高裁では特別弁護人といふ制度はない)、二審判決に対する態度を明らかにしておく社会的責任を感じますし、それにたとへさういふ因縁はなくとも、1人の作家兼批評家として、ぜひ一言述べておきたい。これはわれわれの文明にとつて非常に重大な問題ですから。
 二審判決はわたしをいろいろな意味で驚かせました。その一つは、性行為非公然の原則なるものがとつぜん雲散霧消したことである。しかも何の説明もなしに。これにはすつかりびつくりしました。
 ところで性行為非公然の原則とはどういふものなのか。一審の判決のなかから、それを主張してゐるくだりを引きませう。ただし原文そのままでは頭にはいりにくいので、段落をつけながら適当に要約します。
A 人間の社会には、性道徳ないし性風俗がある。その根幹をなすものが性行為非公然性の原則で、これは、人間が他の動物にはない羞恥感情を持つことのせいで生じた。
B 「この原則は、性器を公然と露出したり、性交やこれに関連する性戯(以下これらを含めて「性的行為」という)を公然と実行したりしないことを基本的な内容とする。」(ここのところは、大事なところなので、そのまま引きます。)
C なぜ公然とおこなはないかと言へば、もし公然とおこなふならば、それを見る者を性的に刺戟、興奮せしめ、理性によつて抑制することをむづかしくし、性的羞恥心を失はせ、性秩序をみだす振舞ひをさせるかもしれないからである。
D それゆえ文書・絵画・写真などでも、現実に性器が露出されたり、性的行為がおこなはれたりするのを見るのとほぼ同じくらゐ露骨かつ詳細な描写を発表すれば、それが見る者に与へる効果は、実際の性器露出や実際の性行為とまつたく変らない。
という考へが性行為非公然の原則です。これは例のチヤタレー裁判のとき、最高裁の判決で述べられたもので、サド裁判のときにも主張された。検察側も裁判所も、エロチツクな文学芸術を取締るときには、もつぱらこの性行為非公然の原則をよりどころにしてきたのです。それがとつぜん、あつさりと引込められた。
 この性行為非公然の原則がをかしな代物であることは、これまでさんざん言はれてきましたが、まあとにかく無茶なんですね。たとへばAについて言へば、人間以外の動物に性的羞恥心がないと断定するのは、今の動物心理学の進み具合から言つて乱暴すぎるのぢやないでせうか。わたしはまつたくの素人ですけど、そのくらゐは見当がつく。何しろ動物生態学だつて緒についたばかりなんですから。つまり学問的根拠がない。Cの、人間が性行為を公然とおこなはない理由にしても、本来は羞恥心のせいかどうか判つたものではない。あれは無防備の状態ですから、身の安全を守るためだつたと考へるほうがむしろ正しいでせう。Cで言つてゐることは、話の順序が逆で、結果の一つとしてさうであるのかもしれないことを、理由ないし原因として、恣意的に言ひ立ててゐるにすぎない。そして、さらにさかのぼれば、Aの前半で述べてあることにしても、人類全体の文化に適用できるかどうか、かなり問題がある。二審の証言で石川栄吉教授が述べてゐるやうに、ポリネシアの伝統社会(つまりキリスト教的ヨーロツパ文化によつて影響を受けてゐない社会)では、性の秘匿は考へられないことである。また、これは石川教授の証言ではありませんが、たとへばエスキモーは家族全員が一室で暮すため、両親の性生活を幼い子供たちが知つてゐるといふ。エスキモーの社会においてはそれでいつこう差支へないわけで、別に風儀は乱れない。またたとへば、折口信夫が昭和10年に慶応大学でした講義によると、われわれの習慣からすると、男と女の媾うことは厳粛なことで、神事として、神の前で媾うことがあつた。(中略)物語がだんだん勢力を得てくるのと反対に、そうした祭は隠れていつて、おおつぴらには行なわれなくなつてくる。台湾の蕃人の間では、粟の穂祭のとおりに、神聖な男と女とが神事として実際にそういう行為をしてみせた。神事としてするので、誰も不思議とも恥とも思わなかつた。
 これでも判るやうに、単に密室でおこなふことをもつて性的倫理の重要な基盤とするのは筋違ひの意見、為にする考へ方と思はれます。
 が、しかし一番ひどいのはDですね。実生活における性行為非公然といふ約束事(これはまあ、いちおう認めていいことにしますが)を、まつたく別の次元である芸術表現の世界に持ち込んでゐる。これはアリストテレスの『詩学』のいはゆる、行為と行為の模倣とを区別しないもので、この調子でゆけば、実際にある男が他の男を殺すことと、芝居のなかである役者が他の役者を殺す演技をすることとが同質になり、つまりその役者は殺人犯といふことになる。6代目菊五郎もハンフリ・ボガードも死刑にしなければならない。そんな馬鹿な話があるものかといふのが、チヤタレー裁判以後のあらゆる文芸裁判における、被告側の言ひ分でありました。わたしも一審の特別弁護人としての弁護においては、特にここのところに重点をかけた。が、一審の判決には、
……文書等による表現はそれが現実の行為そのものではなく模倣であるにしても、その表現の仕方によつては、現実に性器の露出ないし性的行為が公然と行われたと同様あるいはそれ以上の心理的影響を見聞する者に与えることがあり、また、その性質上現実の行為によるものよりも広範囲に認識されうるものであることにかんがみれば、このような文書類を公表することもまた禁止されるべきで、右原則〔性行為非公然性の原則〕はこのことをも包含するのである。
などと言つてゐる。つまり、文学原論のごく初歩のところがちつとも判つてゐない。
 ところが、二審の判決は、性行為非公然性の原則を一言も言ひ立てなかつた。この原則を論拠とする立場をだしぬけに捨ててしまつたわけです。かういふ理窟に合はないものを見捨てた態度はたしかに賢い。しかしそれなら、今まで何十年、日本の裁判所がもつともらしく振りかざしてきた大原則を、東京高等裁判所第6刑事部はどうして急に放棄したのか、きちんと説明してもらひたかつた。あの原則はなぜいけないと判断したのか、どういふわけで間違つてゐると考へたのか、その理由を一通り論じてもらひたかつた。あれはちよつと具合が悪いからちよつと引込めた、なんて調子では、裁判所として卑怯でせう、それに、今度また最高裁判所があの原則を持ち出さないといふ保証はないわけで、つまり被告側としては対応策がややこしくなる。
 いや、単に被告側の対応策の都合だけではない。一体、裁判といふのは、いろいろの問題に対して社会がどう考へてゐるかといふのは、いろいろの問題に対して社会がどう考へてゐるかといふ、いはば全社会的な答案を作りあげる作業だと思ひます。だからあれだけの国費をかけ、時間をかけるのだし、ジヤーナリズムもあれこれと報道するのである。そして判決といふのは、個々の例を通じての、その問題に対するさしあたりの全社会的合意……であるといふのが、裁判の理想のあり方でせう。ところがエロチツクな作品に対する裁判の基本原則として長いあひだ奉られてゐたものが、何かの拍子にポイと捨てられてしまひ、一言の説明もないのでは、裁判所は社会に対して義務を怠つてゐると言はなければならない。これでは税金の無駄づかひである。単に二審に費した費用だけではなく、これまで何十年間の文芸裁判にかけた費用が無駄になる。といふのは、これでは在来の判決と今度の判決との関連が判らなくなる、判決が法の伝統とは無関係な、つまり歴史性を欠いた、孤立した、一通の文書にすぎないことになつてしまふからであります。
 二審の判決はこの意味では一審の判決に対する無言の批判になつてゐます、そして無言の批判といふのは、普通、社交的な配慮によつてなされるものですが、この場合はおそらく、一審の裁判官にではなくチヤタレー裁判以来の最高裁の判例に気兼ねして、沈黙を守つてゐると思はれます。だが、二審の裁判官たちは、かういう形で自分の同業者たちに礼節を守ることによつて、実は自分の職業的責務を怠る、不備で疎漏な判決文を書くことになつた。この失態はきびしく責められても仕方がないとわたしは考へます。
 そして、二審の判決で第二にわたしを驚かせたのは、小説の読み方についてまつたく無知であり、現在の文化的状況がどういふものなのか、ちつとも判つてゐない、といふことでした。かういふ裁判官に文芸裁判を受持つ資格があるとはとても思へません。
 二審判決は「文書がわいせつと評価される」条件として、
「性器または性的行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述」と「その描写叙述が情緒、感覚あるいは官能にうつたえる手法でなされている」こと、
といふ2つが最小限度必要で、さらにつづけて、
「その支配的効果が好色的興味にうつたえるもの」で、「その時代の社会通念上普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ性的羞睦心を害するいやらしいもの」であること、
の2条件を補足し、合計4つの条件をあげてゐる。そしてそのあとですぐ、ただし「その支配的効果がむしろ性についての真摯な思想表明」にあるもの、および、好色的興味に訴へる部分がごく一部にすぎないものは猥褻文書ではないとしてゐる。伊藤整訳『チヤタレー夫人の恋人』(小山書店)と渋沢竜彦訳『悪徳の栄え(続)』(現代思潮社)は現在の時点では猥褻とすることに疑問があるといふ、最高裁判例に対する控へ目な論難は、おそらくこの2つの補足的な条件を具体的に説明するものと考へられます。
 念のために断つておきますが、わたしは『チヤタレー夫人の恋人』と『悪徳の栄え(続)』を解禁することに不満なのではない。大賛成である。しかし、なぜD・H・ロレンスとサドだけがいいのか、どうして『四畳半襖の下張』はいけないのか、といふのがわたしの言ひたいところなのです。
 ロレンスやサドなら差支へなくて『四畳半襖の下張』は困るといふ理由として、二審の判決は2つの理由をあげてゐるらしい。つまり『チヤタレー夫人の恋人』や『悪徳の栄え(続)』には「性についての真摯の思想表明」があるのに、『四畳半襖の下張』にはこれがない。『チヤタレー夫人の恋人』や『悪徳の栄え(続)』はエロテイツクな箇所が一部分にすぎないのに、『四畳半襖の下張』は全篇がさうである。さう言ひたいらしい。だが、この考え方は果して正しいだらうか。
 まづ「思想的表明」とは何かといふことが問題である。二審の裁判官はどうやら、むづかしい観念語をあしらつての深刻な理窟を小説に求めてゐるらしい。もちろんさういふ箇所がふんだんにある小説もあります。しかしその手の作品は小説史の長い流れにおいては、むしろ傍流であり例外であつた。本流をなすごく普通の小説では、登場人物たちをしつかりと実在させ、彼らが出会つたり別れたり、愛したり憎んだり、行動したり休息したりして形づくる模様によつて、その作の主題を提示するといふ具合になつてゐました。このへんの事情は、たとへば『源氏物語』や『ハツクルベリー・フインの冒険』や『クレーヴの奥方』や『梅ごよみ』や……これはいづれも思ひつくままにあげた傑作ですが、それらの諸作品のことを考へれば、すぐに了解できると思ひます。たとへばドストエフスキーの後期の長篇小説を小説概念の中心部に据ゑて小説一般を論ずるやうな態度は、特殊な文芸評論家には許されるかもしれません。その歪みそれ自体が主張であり、芸だからであります。しかしさういふ偏向は裁判官には許されない。裁判官はもつと、広い公正な眼で、小説史全体、小説形式全体を見わたさなければならない。
 ここでわたしは思ひ出すのですが、哲学者、西田幾多郎が谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んで、人生いかに生くべきかが書いてないから詰まらない、と言つたといふ話が敗戦直後、評判になつたことがある。その通り、その通り、だから日本の小説は駄目だ、などと、しきりにもてはやされたのであります。が、そのすこしのちに、明らかにそれを意識しながら、小説家兼批評家の伊藤整(チヤタレー裁判の被告であります)が、谷崎潤一郎論を書いて彼を擁護した。
 伊藤は、「谷崎文学には感覚のみがあつて思想がない」といふ通念がはびこつてゐることを指摘したあとで、しかし果してさうだらうか、谷崎は「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」、「肉体上の惨忍から反動的に味ひらるる痛切なる快感」(これはいづれも永井荷風が初期の谷崎を評して言つた言葉です)を描き出す作家であつて、谷崎はそこから出発して人間の恐怖といふ主題を描いたのである、と伊藤は考へた。ここは一つ、伊藤自身の言葉を引くことにしませう。
階級思想が思想であるのと殆ど同じ強さと神聖さにおいて、一人の個人にとつては、彼の生涯に与へられた肉体の条件を基にして自己の存在を考へることが思想である。それはその存在の対象として異性にも同性にも対比させられ、その対比の間に自己の、従つて人間性それ自体の実在を考へ味ふ土台となる。階級思想が、この一個人に与へられた絶対の条件である肉体の場に起る思想に較べて、必ずしもより重いとは言はれないものである。物質の条件において人間を考へることが現代では思想であり、倫理である。とされてゐる。それは当然である。しかしそれのみが思想ではない。肉体の条件において倫理的であることは、如何にすれば可能であるか、また如何に不可能であるか。これが谷崎潤一郎といふ作家の本来の思想の問題であつた。
 かういふふうに論ずる伊藤にとつては、『春琴抄』は、「この肉体の中から新しい兇暴な自我を掘り出すかはりに、その自我をそこに埋めて意志によつて肉体的な兇暴な真実を抑圧し、保存するといふ形の作品」系列のなかの一つとしてとらへられた。そして主人公、佐助は、師であり妻であるお琴の美しいイメージを永遠に保つため、自分の眼をつぶす、意志的でストイツクな男といふことになるのです。つまり谷崎潤一郎の文学には思想がぎつしり詰まつてゐるし、『春琴抄』には、人生いかに生くべきかが充満してゐるわけだ。話はすつかり逆になつてしまつた。
 大哲学者の小説論は完膚なきまでに叩きつけられたわけですが、西田幾多郎がかういふ谷崎論を述べるのも無理がない、といふふしはあります。まづ、あの哲学者はおそらく、性とか恋愛とかいふことに対して、あまり好意的でなかつた人にちがひない。実生活ではどうであつたか知りませんが、その哲学体系においてはこの種の問題を重視してゐないし、といふよりもむしろ無関心であつたやうに見受けられる。これがたとへば九鬼周造のやうな型の哲学者なら、話はずいぶん違つてゐたでせう。次に、日本語では生活の言語と思考の言語とが隔絶してゐますから、小説家は日本人の風俗に忠実であらうとする限り、登場人物の会話の部分ではもちろん、他の文においても、どうも観念語を使ひにくい。その点で、観念性はあらはになりにくい。さらにまた、西田が小説類を読むことに慣れてゐなかつたし、論ずることにはもつと慣れてゐなかつたといふこともあげなければならない。小説といふ文学形式は19世紀になつてやうやく認められた、格式の低いもので、従つて小説批評もまだまだ成熟してゐない。そのせいで社会・経済論的視点の批評が横行したり、小説の文体が軽視されたりしてゐる。玄人でもかういふ調子なのですから、第一流の知性の持主である代表的哲学者が頓珍漢な読み方をしたつて仕方がないとも言へるでせう。
 が、さうであればあるほど、伊藤の批評的業績は偉大なものでした。彼はこの評論によつて、谷崎についての評価を不動のものにしたし、谷崎論の定石を作りあげた。後年、フランスの作家兼批評家兼哲学者サルトルは、谷崎の『痴人の愛』を読んで、西洋文化によつて脅されてゐる現代日本人の恐怖と不安がよく表現されてゐると述べたさうですが、このサルトルの考へ方にしても伊藤の谷崎論の延長線上にあると言つて差支へないのであります。といふよりもむしろ、伊藤は小説批評として本筋のことをしたからこそ、サルトルの先駆者となることができた。あるいは、サルトルは哲学者でありながらも、小説についてさんざん苦労してゐたからこそ、もう一人の哲学者、西田のようなあやまちを犯さなくてすんだのである。
 ここで『四畳半襖の下張』に戻りますが、わたしに言はせればこの短篇小説に「思想的表明」を見ることができない二審の裁判官は、『春琴抄』に対する西田幾多郎によく似てゐます。と言つても、褒めたわけでは決してないので、小説の読者として幼稚で単純だといふことであります。かういふ幼稚で単純な読者が、法の名の下に、一つの文芸作品を裁く事態をわたしは悲しむ。
 わたしに言はせれば、『四畳半襖の下張』といふ短編小説は、人間が生きてゆくに当つて性がどんなに基本的な、力強い、恐しい作用をするものであるかといふ思想を、小説独特の表現の仕方で表現したものである。ここにあるのは性的人間の人生観、世界観の表明にほかならない。われわれにつきつけられてゐるのは、女は男の玩弄物であり、そしてまた逆に男は女の玩弄物であるといふ残酷な認識である。われわれ読者は(もし読む能力が備はつていゐるならば)『四畳半襖の下張』といふ極めて短い短篇小説において、性こそは人間の根本であり、人間は男女を問はず肉体といふ条件によつて囚はれてゐる悲しい存在であるといふ観念を読みとることができる。もちろん人生をかういふ具合に要約するのは不快なことかもしれないし、断じて賛同できないと反対することも可能でせう。すくなくとも、人生にはもつと別の価値もあると主張することは、奇をてらつた態度ではないとわたしも思ひます。しかし、それにもかかはらず、
「その文書の表明する思想や主題が性に関する道徳や風俗あるいは性秩序を攻撃するもので、それがあるいは反道徳的、非教育的と非難されるものであつたとしても、これをわいせつ性の判断に当り考慮に入れることは許されない。」
これは二審判決からの引用でありますが、判決のこの部分はまことに妥当なもので、わたしはこの考へ方に双手をあげて賛成します。
 そして、『四畳半襖の下張』がかういふ思想を表明してゐるとすれば、エロチツクな部分が作品の大部分を占めるのはむしろ当然ではないでせうか。人生でいちばん大事なのはこのことだと思ひつめてゐる以上、はじめから終りまでそのことばかりの短篇小説を書いたとて、別に怪しむには当らない。小説家がそれほどその主題に憑かれてゐただけだ。たとへばアメリカの小説家メルヴイルは、はじめから終りまで鯨のことばかりといふ長篇小説『白鯨』を書いた。鯨といふイメージが彼のオブセツシヨンだつたからである。たとへば帝政ロシアの小説家ゴンチヤロフは、主人公がベツドの上で寝てばかりゐる長篇小説『オブローモフ』を書いた。無為の生活を送る怠惰な人間を研究することが彼の主題だつたからにほかならない。長丁場の長篇小説でさへこんなことができるのですから、ごく短い短篇小説が一つことばかり扱つてゐてほかのことに触れないのは、充分に可能なことである。いや、まことに筋が通つてゐると感心することさへできる。そしてそれは、問題の短篇小説が思想の表明をなほざりにしてゐる証拠には決してならない。むしろ逆に、それほど熱心に主題を追求してゐるのだと考へるほうが正しいでせう。
 が、かう言へば、二審の判決は単なる思想を言つてゐるのではない、「真摯な思想表明」を肯定してゐるのだ、ところが『四畳半襖の下張』は不真面目な筆致で書いてある、戯作である、とても「真摯な」小説とは言ひにくいといふ反論がただちになされるかもしれない。わたしの議論は、その重要な限定を忘れたふりをすることで四畳半襖の下張を容認しようとする、トリツキーな論法だと咎められるかもしれない。
 しかしそれならわたしもまた問ひ返しますが、文学や思想において「真摯」とは一体どういふことか。もつともらしく構へて大真面目に振舞ふ態度は、非常にしばしば、低劣な偽善、表面だけの形式主義、悪質な猫つかぶりに陥りやすいものではないか。われわれは文学について語る場合、一見、道徳的な美談や、表面、健全で善良な倫理的主張が、実は最も頽廃した劣悪な精神の所産であることが多いといふ事情を忘れてはなりません。ところが逆に、ふざけちらした、与太ばかり飛ばしてゐるやうに見える作品が、実は純粋で厳密な、従つて極めて誠実な、文学であることもある。つまり「真摯」とは何かといふことは、人生一般でももちろんさうですが、文学では特にややこしい。それは一筋縄ではゆかない厄介な美徳なのです。たしかにここにあると思つたところにはなくて、思ひがけないところにひつそりと存在する、と言つてもいい。文学史においては、不真面目に見えるものが真面目、真面目に見えるものが不真面目といふことは、しよつちゆうでした。つまり文学における誠実さ、真摯さとは、ずいぶんこみいつた構造の、高度に逆説的なものなのですから、さういふむづかしいものを、教養の乏しい硬直した頭脳で雑に判断されては、迷惑千万なのであります。『四畳半襖の下張』がしやれのめした筆づかひで書いてあるから、「真摯な思想表明」でないなどとあつさり断定するのは、とんでもない読みちがひと言はなければならない。一審の証人である石川淳氏は、この戯作には実は永井荷風の家の学である儒の精神がうかがはれると述べましたが、さう考へれば、これは、サドの淫蕩なゴシツク小説が何のことはないカトリツクの神学の陰画であるといふ仕組と好一体をなすものでありませう。
 といふ説明の仕方は、原論的な角度からのものですが、歴史的に論ずれば、二審判決の考へ方はいつそうひどいことになる。1960年代の風俗革命以後、日本人全体の精神風俗が大きく改まつたことはよく知られてゐる通りですが、その特質の一つとして、もつともらしく構へて偉さうな顔をする、くそ真面目な態度への痛烈な反撥といふことがある。われわれは、明治維新以来の富国強兵的・軍国主義的・教育勅語的な欺瞞に我慢できなくなつて、もつと自由な生き方、考へ方、感じ方にこそ人間の真実があると、人生の新しいスタイルを手さぐりで探しだしたのであります。ほとんど全国民的と言つてもいいくらゐの、道化への関心も、パロデイへの愛着も、ブラツク・ユーモアへの執着も、みなかういふ気持のあらはれと見るのが正しい。さらに、江戸の風俗をなつかしむ風潮が急激に高まり、その関係の出版物が持続的に好評を博してゐるのも、現在の日本人が、自分たちの生の様式の師匠兼先輩として江戸時代をとらへてゐることの証拠となるでせう。その江戸時代の後期は、町人の文化としては戯作が代表であるやうな時代でしたが、当時、戯作といふのはまつたく無価値な、ただ軽蔑されるだけの文学であつた。それが今では、たとへば中村幸彦のやうな尊敬すべき学者の研究の対象となり、井上ひさしのやうな有能な作家の、創造の源泉となつてゐる。戯作はそれくらゐ高度な文学的達成であつたし、この評価は今後もいつそう高まるに相違ない。このことでも判るやうに、戯作といふのは、戯作者たちの戯作者たちなりの、一種特異な真摯さによる表現形式であつたのであります。それはD・H・ローレンスやサドの小説における真摯さに劣るものではかならずしもなかつた。そして永井荷風の『四畳半襖の下張』は、この江戸の戯作をなぞりながら、しかし同時にフランス自然主義文学に深く学んだ、彼独特の文学作品のうち、この傾向を最も露骨に示した、小さな傑作なのである。そこに思想がない、誠実さが見られないなどと軽軽しく論断しては、大変な間違ひを犯すことになるでせう。
 つまり文学作品を論評するには、ある程度以上の感受性と学殖と経験が必要なのですが、二審の裁判官たちにはさういふ資格の持合せがなかつた。まことに残念な話であります。素人だから仕方がないと言ふかもしれませんが、もし素人と自認するのなら、なぜ、もつと謙虚に玄人の言ふことを聞かないのか。たとへば医学関係の事件、化学関係の事件の際、裁判官たちは通例、その道の専門家の意見を重視するのではないか。それに耳を傾けて従ふではないか。それと同じやうに、たとへば国文学者、吉田精一、作家、石川淳、批評家、中村光夫のやうな一審証人の証言を全面的に受入れることをなぜしないのか。さういふ大事なことを怠りながら、しかも一知半解の、時代おくれな、俗論的文学論をなぜホイホイと口走るのか。わたしが二審判決を読んで驚いたことの第三は、裁判官たちのかういふ思ひ上りでありました。
 ここで話は憲法問題にはいるのですが、しかしわたしはこのことについての二審判決の意見にはすこしも驚かなかつた。きつとかういふふうに言ふだらうなと思つてゐた通りのことを述べてあつたからであります。つまり、言論表現の自由に関する裁判官の見解はわたしの予測通りに間違つてゐた。
 判決は、
春本は「精神的自由として憲法の価値体系上高位の価値を認められている思想、信条、信教、学問などの表明とは明らかに無関係」
と主張する。(しかし春本には春本なりの思想があることは、前にわたしが『四畳半襖の下張』の思想性について述べたことからの類推で判るはずである。一般に人間の著作にはすべて思想が含まれてゐる。たとへば春本中の春本であるクレランドの『フアニー・ヒル』がどういふ思想を表現してゐるかについては、ブルジツド・ブローフイの『1750年のマージー・サウンド』――新潮社刊『ポケツトの本 机の本』所収、出渕博訳――を参照。)そして判決は、この種のものは憲法21条1項の表現の自由の保障を受けるものではないとする。これは明らかに、春本が無思想だからといふのがその論拠ですから、論拠が崩れた以上、意味をなさない考へ方である。
 また、二審判決はこれにつづけて、猥褻文書を公表することは、「性の道徳、風俗、あるいは秩序」に対して有害な影響を及ぼすし、「日常生活の質の向上、社会の品格の維持、わいせつ物の未成年者からの隔離などの国民的利益」にも有害な影響があると述べ、この二つのことは「我が国を含む自由主義国憲法原理を採る諸国家において識者の間にかなり広く信じられている。」そしてこの二つの説については、「未だ利用に価する実証的長期的な観察調査結果は見当らず」、これらの説は「実証されていないがさりとて否定もされてはいないものの、不合理なものとはいまだ認められていない」と、ずいぶん心もとない、あやふやなことを言つてゐる。
 しかし、「我が国を含む自由主義国憲法原理を採る諸国家」においては、たいていの国でポルノは解禁されてゐるのである。皮肉なことにポルノを認めてゐないのは、ソビエトや中国のやうな社会主義的憲法原理を採る諸国家においてなのである。ここから判るのは、二審の裁判官が自由主義諸国の法の実際の運営に注目しないで、まことにいい加減な作文に励んでゐるといふことでありませう。これでは、妙な具合に引合ひに出された自由主義諸国家の識者こそ、いい面の皮とは言はなければならない。
 それに、「未だ利用に価する実証的長期的な観察調査結果は見当らず」といふのもをかしいでせう。なるほど判決の論旨にとつて具合のいい観察調査結果はありませんが、しかし裁判官の説を真向から否定するものなら、日本史のなかに厳然と存在するからです。わたしが言つてゐるのは江戸時代のことで、あの時代はときどき申しわけに取締りがあつたけれど実際は野放しに近く、春本や春画の刊行は事実上、認められてゐた。それでゐて社会は今よりずつと安穏で平和だつた。さういふことが300年間(これはかなりの長期でせう)つづいたのである。東京高等裁判所の判事である知識人たちが江戸期のかういふ様相を知らないほど、日本歴史に暗いとは思へませんから、これはやはり故意に忘れたふりをしたものにちがひない。
 といふ調子で、二審判決のくだりは粗雑きはまるものなのですが、なかんづくをかしいのは、高度にエロチツクな作品が世に及ぼす(のではないかとおづおづと推量したあげく、つひに勇ましく断定する)悪影響ばかり言ひたてて、その刊行が社会に貢献するプラスの面を、いささかも考慮に入れようとしないことである。彼らの心配する悪影響が問題にならないことは、先程の江戸時代の例でも、また最近の自由主義諸国の場合を見ても見当がつきます。それに、この種の作品の流布においては、読みたくない人、読みたくないときに、無理やり読まされることがないやう、適当な処置を取らなければならないことはもちろんである。(たとへばダイレクト・メイルで送りつけたりすることの禁止。)また、未成年者が入手しにくいようにすることも必要だらう。(たとへば自動販売機による販売の禁止。)だがかういふ末端的なことは、技術的にいろいろ工夫することができる。判決はさういふ末の末のことを正面に押し出すだけで、この種の作品が積極的に寄与するものを見ようとしなかつた。片手落ちもはなはだしいと言はなければなりません。
 一般に文学は、人間についての研究なのですが、高度にエロチツクな文学作品は人間の性的な局面についての研究にほかならない。そして人生にかういふ局面が存在することは、誰にも否定できないでせう。さういふ研究はたとへば医学書に任せておけばいい、などと考へるのは間違ひで、それでは医学的に限定された狭い部分だけしか関心の対象にならないし、敢へて言へばその狭さだけ嘘になつてしまふ。情緒的な要素、感覚的な要素も含めての、もつと全体的・包括的な研究がなされなければならない。そのことにかけては、小説といふ形式が最も有能なので、これは18世紀以来、人間を総体的にとらへるのに最もふさはしい記述の方法でありました。もちろん小説では、たとへば医学論文にどうしてもかなはない側面もあるでせうが、しかし医学論文が切捨てざるを得ない要素をかなりの程度すくひあげることができる、その意味でこれは包括的な研究に近ひと言へるのです。また、小説は、文芸作品としての効果をあげるため、誇張したり省略したり、あの手この手を使ひますが、これとても、研究の成果を発表するに当つての技巧と考へればいいので、咎める必要はちつともない。普通の読者は、ごく自然に、ここは誇張、ここは省略と、呑込めるはずである。
 すなはち『四畳半襖の下張』の刊行を禁止しようとする態度は、人間の政治的局面の研究ならいい、経済的局面の研究なら差支へない、しかし性的局面の研究だけは困るといふ趣旨のものである。人間の性的局面についての証言、考察、思想を、医学者が医学論文的な書き方で書く、冷やかで客観的で静的な、それゆゑ全体的とはかならずしも言ひにくい、さういふ記述だけに限定しようといふものである。これは、人類全体がヴイクトリア朝的なお上品ぶりから抜け出し、もつと卒直に性の問題と対決しようとしてゐる世界の大勢に逆行するものですが、それよりももつと重大なのは、言論表現の自由を拘束するといふことである。私見によれば、二審判決は憲法違反を支持する、由々しい性格のものといはなければならない。
 言論表現の自由は一国の精神にとつて非常に貴重なもので、もしこれが妨げられるならば、国民はおのづから与へられた枠のなかでものを考へるやうになり、生き生きした感受性を失ふことにさへなる。この例はいはゆる社会主義国において、現在よく見受けられるところなのですが、自由主義的憲法原理を奉ずると称する裁判官は、どこかで変に勘ちがひした結果、むしろ社会主義国の施政方針を信奉して、わが国における言論表現の自由を制約しようとしてゐるらしい。このやうな錯誤は早く改められなければなりません。
 ほかにも言ひ添へたいことはいろいろありますが、あまり長くなりますのでこのへんで切上げませう。わたしの論旨に多少の関心をお持ちの方は、わたしが一審の際、特別弁護人として述べた、起訴状に対する意見、および弁論要旨(いづれも、朝日新聞社刊『四畳半襖の下張裁判・全記録』および筑摩書房刊『コロンブスの卵』所収)を参看していただければ幸甚です。
[1] 原判決は控訴を棄却したものの、刑法175条にいう「わいせつ」概念について、それが表現の自由の保障という憲法的要請にかかわるものとして、その精緻化・厳密化に意を用い、被告人・弁護人らの主張に応えようとの姿勢を示している点は十分評価に値するものが認められる。原判決は、わいせつ文書の意義自体について基本的にはチヤタレイ事件やサド事件の最高裁大法廷判決の示しているところに則るものであるといいながら、わいせつ概念の具体化・限定化をはかることによつて実質的には最高裁判所の判例の流れを修正している。そしてそれをもとにかつて有罪とされた「チヤタレイ夫人の恋人」や「悪徳の栄え」のわいせつ性について多大の疑問を投げかけた態度には敬意を表しうるものがある。その意味でわが国の裁判所のわいせつ文書規制の判例の中で一つのエポツクメイキングな判決といえる。
[2] しかしながら、刑法175条にいう「わいせつ」概念はいかに精緻に定義づけようとも(原判決の行つた定義をもつてしても)、本質的にその主観性・恣意性を免れることはできず、構成要件としての明確性を欠き、右法条に基づき文書の規制を行うことは、以下に述べるように憲法21条および31条に違反し、合憲的には行いえないものである。原判決も「わいせつの概念が明確でないときには本来合憲的には規制しえない表現の公表」を制約することになるとの前提から出発しているのであるから、いかにしても概念の不明確性は避けられないとの率直な結論が導き出されるべきであつた。もつともそれは蜀を望むの類かもしれないが。スタートは同じであつても、奥平康弘教授が指摘されるように、原判決はそもそも
「構成要件の限定化、具体化を通じて、現にある法の枠を狭めることによつて、しかし法そのものの持つている正当性を肯定しようとするアプローチ」(法律時報1979年7月号)
に立脚しているのであるから。
[3] わいせつ概念の不明確性、それによる文書規制の違憲性については一審以来詳細に論述してきたところであるから、本趣意書では、原判決の解釈・定義づけをもつてしても、それによる規制が憲法21条および31条違反を免れない所以を述べるにとどめる。
[4]一、原判決は春本なるものを定義づけたうえ、
「春本は精神的自由として憲法の価値体系上高位の価値を認められている思想、信条、信教、学問などの表明とは明らかに無関係のものであるから……憲法21条1項の表現の自由の保障をうけるものではな」い
とする。他方
「何らかの観念、思想などの表明がなされていると客観的に読みとれるものは憲法21条1項の表現の自由の保障をうける余地」がある
としている。
[5] しかし文書というのは、それが多数の読者を前提として本や雑誌という出版物として存在するかぎりすべて何らかの観念ないし思想の表明である。たとえそれがいわゆる春本といわれるものであろうとすべて精神的価値の世界に属する事物であることにかわりなく、それはすべて憲法21条の保障の範囲内にあるものである。それをある文書は憲法の保障を受ける価値あるものとし、他の文書は憲法の保障を受けるだけの価値がないとするのは、文書に対する国家による価値づけを行うことに帰着する。本来表現にいかなる価値があろうとなかろうとその表現のもつ価値とは関係なく無差別にその自由を保障しようというのが憲法21条の趣旨である。さもないと文書のもつ精神的価値への国家の判断の介入を招き、ひいては表現ないし思想に対する差別をもたらす危険へと導くからである。このことは人類長年の歴史の教えるところであり、原判決のいう「自由主義的憲法原理の基礎」である。
[6] それに春本の定義づけ自体、かならずしも客観的に明確なものとはいえず、ことに具体的文書への適用にあたつては判断する者の如何により判定を異にする可能性が十分に存在していることである。それかあらぬか原判決は春本だけがわいせつ文書として規制の対象となるともいつておらず、春本でなくともその文書の支配的効果が主として好色的興味にうつたえるものであれば、実質上春本と大差なく、憲法21条1項の本来の保障をうけるものに比しその憲法的価値において著しく低いものとして規制の対象となると、いわば準春本ともいうべき領域までとりこんでその規制範囲を不明確にしている。
「多分、これは春本取締りが一番合憲論を組みやすいものにしているという事情から……より広い射程範域をねらつた合憲論の説明の道具にもちいられている」(奥平・前掲)
にすぎない。
[7] そして肝心の本件の対象たる「四畳半襖の下張」そのものに対する判定となると、判決がこの作品を春本とみているのかどうか、春本ではないが、わいせつ文書にあたるとみているのかどうか全く不明確になつてしまつている。ただ判決が本作品について
「その全篇を通して男性観、女性観あるいは男女間の生理の差などについての或種の観念ないし感想の表明がなされていると客観的に読みとれないわけのものではないが、前記の閨房痴戯の叙述部分が量的にも質的にも作品の中枢をなしており、その全体の構成や展開の仕方を考え、戯作の手法、エロチツク・リアリズムとしての文芸的価値を指摘する見解を考慮に入れても、その作品は客観的にみて、全体の支配的効果が好色的興味に主としてうつたえるものであ」る
と述べていること、結論としてわいせつ文書との文書との判断を下していることからみてその思想的ないし作品的価値が著しく低く憲法の保障に値しないものと評価していることは間違いなかろう。ところで文芸評論家の丸谷才一氏は、本作品について、
この『四畳半襖の下張』といふ短篇小説は、人間が生きてゆくに当つて性がどんなに基本的な、力強い、恐しい作用をするものであるかといふ思想を、小説独特の表現の仕方で表現したものである。ここにあるのは性的人間の人生観、世界観の表明にほかならない。われわれにつきつけられてゐるのは、女は男の玩弄物であり、そしてまた逆に男は女の玩弄物であるといふ残酷な認識である。われわれ読者は『四畳半襖の下張』といふ極めて短い短篇小説において、性こそは人間の根本であり、人間は男女を問はず肉体といふ条件によつて因はれてゐる非しい存在であるといふ観念を読みとることができる。」といい、(D・H・ローレンスやサドの小説における真摯さに劣らない)「江戸の戯作をなぞりながら、しかし同時にフランス自然主義文学に深く学んだ、彼独特の文学作品のうち、この傾向を最も露骨に示した、小さな傑作なのである。そこに思想がない、誠実さが見られないなどと軽軽しく論断しては、大変な間違ひを犯すことになるでせう。」(世界1979年9月号)
とみているのである。このように本件における直接の対象である作品についても判断する者によつてその評価が異なつている。そのような人によつて評価を異にする判断によつて規制が行われるとすれば、裁判官=国家による価値づけが優先する、それが絶対的な基準となる、ということは極言すれば基準はなきに等しい結果をもたらすというわけだ。そうなればいきおい「処罰を警戒するあまりその公表がはばかられたりする余地」が現実化し、原判決が春本についてすら認めている、事前の検閲に服さないとの憲法上の保障さえ実質的にそこなわれることになつてしまう。このような規制を招来する可能性のある解釈は憲法21条の許容するところではない。

[8]二、次に原判決は、わいせつ文書については憲法的価値が存在しないか、著しく低いのであるから、規制根拠としてはいわゆる合理的関連性テストで足りるとし、わいせつ文書の公表が、長期的にみて、性の道徳や風俗・秩序に対して、あるいはまた、社会の品格の維持、日常生活の質の向上といつた社会的環境に対して、有害な影響を及ぼす蓋然性があるとの事実命題が信じられているとの事実が存在する以上、右命題は刑法175条の規定と合理的関連性を有するものといえるからその規制は合憲であるという。
[9] しかし判決のいう右の“事実命題”では文書による表現行為に対する規制根拠としては不適当である。先ず右の事実命題は、判決もいうように、その存在が実証されているのでなく、識者の間にかなり広く信じられているものにすぎないから、言葉の正確な意味では事実命題ではなく、人々の意識(更にいえば人々がそう意識しているであろうと考える裁判官の主観)の領域に属するもので客観的裏づけのあるものではない。第二に、判決は右の事実命題について「未だ利用に値する実証的長期的な観察調査結果は見当ら」ないというが、わいせつに関するアメリカ大統領委員会の報告書(1970年)をはじめとして権威ある調査報告書は右事実命題に対し否定的ないし懐疑的である。第三に、右のとおりであるにもかかわらず右事実命題を根拠づけに使用した判決の思考の根底には、チヤタレイ事件の最高裁判決が
「裁判所は……社会を道徳的頽廃から守(り)、……病弊墜落に対し……臨床医的役割を演じなければならない」
と述べたすぐれて観念的な論理と共通するものが認められる。そこには、
「『性道徳の守護神』と『成人市民の保護者』という意識が牢固として息づいているように思われてならない」し、(宮沢浩一・LAW School 1979年5月)、
「この種の社会環境を保全するために国家は、環境破壊に関係する文書を規制していいんだということになれば、現行法ではたまたま、環境破壊文書として春本その他のわいせつ文書を取り締つているにすぎないけれども、もう少し広く環境保全という観点を拡げて、さらに広く取り締ろうということもできないではない」
結果に導くことになる(奥平・前掲)。したがつて判決の主張する規制根拠では、
「少なくとも表現の自由のような高次の基本権の場合、はなはだ不適当なテスト」(清水英夫・ジユリスト692号104頁)
であり、これをもつて合憲性を根拠づける正当事由とはなりえない。出版という表現の自由を規制するには、より厳格なテスト、すなわち当該出版物が現実の行動に直結する危険性を具有すること、つまり当該出版物が読者の反社会的行動の引き金になるということが証明されていなければならないという表現と行動の区分テストないしは明白かつ現在の危険のテストを適用すべきである。これと異なりよりゆるやかな規制基準を適用した原判決の法解釈は憲法21条に反するものといわなければならない。
[10] なお、付言すると、右の表現と行動の区分テストを適用する場合、表現と行動との間の関連性について具体性がそなわつていなければならないことである。例えば、一審判決が
「文書等による表現はそれが現実の行為そのものではなく模倣であるにしても、その表現の仕方によつては、現実に性器の露出ないし性的行為が公然と行なわれたと同様あるいはそれ以上の心理的影響を見聞する者に与えることがあり」、その結果これを読む者の「性的本能に訴えて過度に性欲を刺戟、興奮させ、理性による抑制を困難にするとともに、性的羞恥心を失わしめて、ついには性秩序を無視するような振舞を誘発する危険を内在している」
と述べているがごとき抽象的・観念的な関連性であつてはならない。本件作品は、その内容からいつても文体からみても行動との間に右のような具体的関連性をもつものでないことは誰の目にも明らかであろう。
[11]一、(一) 刑法175条もそれが刑罰法規であるからには、犯罪構成要件が明確にされていなければならないことはいうまでもない。それは恣意的な処罰を避止するためと、国民にいかなる行為が処罰されるかの予測を与えその行動の基準とさせんがためである。ことにそれが表現の自由にかかわる場合であるからより一層その構成要件の明確化が要請される。さもないと国民の基本権たる表現の自由は不当な処罰やそれをおそれての自己規制によつて侵害され萎縮し、単なる文言上の存在と化してしまうからである。
[12](二) ところで刑法175条に規定する「わいせつ」の意義について、原判決は、最少限度必要な2つの外的事実(性器または性的行為の露骨かつ詳細な具体的描写叙述があり、その描写叙述が情諸、感覚あるいは官能にうつたえる手法でなされていること)の存在という第1基準を設け、それに加えて、
文書の「支配的効果が好色的興味にうつたえるものと評価され、かつその時代の社会通念上普通人の性欲を著しく刺戟興奮させ性的差恥心を害するいやらしいものと評価されるものであること」
という第2基準を設定する。さらに右にいう支配的効果を判断するにあたつての具体的基準として、
「(イ)前記の2つの外的事実に当る描写叙述が、その文書の全部または大部分を占るかあるいはその一部に含まれているにすぎないか、
(ロ)右の外的事実に当る性表現が、その文書に含まれている思想などを伝えるうえで必然性もしくは合理的関連性を有するかどうか、
(ハ)当該性表現の読者に与える性的刺戟ないし印象が、文書全体の構成や展開の仕方などとの関連で減少、緩和されているかどうか、
(ニ)その文書の内容に芸術的、思想的、学問的等の重大な社会的価値が認められるものである場合には、その芸術性、思想性などにより当該性表現の性的刺戟ないし印象が昇華、克服されているかどうか」
という点を示し、これらの点を総合考慮しなければならない、としている。
[13] 右の基準には苦心のあとがみられるものの、その適用にあたつて客観的に確定できる部分は少なく、判断する者ないし裁判官の主観的判断に委ねられている部分が多くを占めている。例えば、第二基準にいう「支配的効果が好色興味にうつたえるもの」であるか否かは、判断する者の主観によつて相違をもたらす可能性が十分にある。本件作品についての原判決の判断と丸谷才一氏の判断とがくい違つているように。さらに右の支配的効果を判断するにあたつて掲げられた4つの基準にしてもそのうちの(ロ)ないし(ニ)の点については読み手がどのように受け取るかのすぐれて主観的な判断の問題といえる。ことに価値観の多様化した現代ではなおのことである。したがつて第1基準に該当する事実が存在していて、第2基準の支配的効果が好色的興味にうつたえるものと評価される場合とされない場合との区別は非常に漠然たるものとなろう。第2基準が構成要件の明確化に機能するところは現実には乏しい。ただ裁判官がアプリオリに判断したものをあとから合理化するための基準にすぎない。そのうえ極言すれば、外的事実の存在という第1基準にしても、性器または性的行為をどこまでどのように描けば「露骨かつ詳細な具体的描写叙述」となるのか、その基準はかならずしも明確なものとはいえない。また、「その描写叙述が情諸、感覚あるいは官能にうつたえる手続でなされている」かどうかの判断にも主観の入る余地はある。
[14](三) また原判決は、右の基準を適用する場合は、社会通念に基づいて判断することとなるが、社会通念とは
「智的にも情的にもかたくなでなく、人間の態度、考え方などが多種多様であることをも容認している人々のもつ集団意識をいうものであり、その性質上主観を超え客観的なものにより近いものであ」る
という。
[15] しかし社会通念というのはそのように客観的なものといえるであろうか。少くとも国民が被告人という立場におかれた場合に安閑としてそれによりかかりうるだけの客観性はもつていないのではないか。判決も社会通念は変遷しそれによつて法の適用の範囲が変動することを認める。それゆえ同時代の価値観が多元化していればそれに応じて社会通念なるものも多元的に存在する。したがつて裁判においては当該裁判官が社会通念と考えたものが社会通念であると考える方が無難であろう。社会通念とはこのように主観的で変幻自在な観念ではなかろうか。全農林警職法斗争事件の最高裁大法廷判決(昭和48・4・25)中の岸盛一、天野武一両裁判官の追加補足意見において、
「『社会の通念に照らし』という一般条項を構成要件のなかにとりこんでいることは、却つてその不明確性を増すばかりである」
と述べられていることも社会通念というもののあいまいさを裏づけるものといえよう。したがつて原判決のいうように社会通念が客観的なものであるという保障は全く存在しない。
[16](四) このように、「わいせつ」の基準ならびにその基準に適合するか否かの判断の依拠する「社会通念」なるものが右のとおりであるからには、原判決の行つた定義をもつてしても刑法175条の構成要件が明確になつたとは到底いいきれない。それというのも同条の「わいせつ」という構成要件がきわめて漠然、広範、概括的であるゆえに、その性質上いかなる定義をもつてしても明確化をはかることは不可能だからである。つまりいかに精緻な定義づけをしたところで憲法31条に適合する合憲性を得ることはできないのである。「わいせつの意義は合憲的に制限しえない表現の公表を処罰する余地を現実的かつ実質的にとどめない程度にまで可能な限り限定」することは、所詮、不可能なのである。

[17]二、かりに原判決の掲げるわいせつの基準が客観的に明確なものとしても、清水英夫教授が指摘されるとおり、
「他の法廷もまた同じ基準・方法を採用するかどうかの保障はまつたくないのである。これと異なつたアプローチの可能性はいくらもあるし、現にチヤタレイ以来の基準・方法とは大きな懸隔がある。そのようなへだたりを可能にしている以上、刑法175条の規定は法の正当手続という憲法的要請に反しているとみるほかないのではあるまいか」(前掲)
ということになり、同条の違憲性を否定することにはならない。(ちなみに、本件の第一審判決の定義も原判決と異なつているし、第一審判決が定義づけの前提とした「性行為非公然性の原則」なるものは、適切でないと判断されたからであろう、原判決では全く触れられていない。かように裁判官の考え方の如何によつて変化するのが「わいせつ」という概念なのである)。
[18] 以上述べたとおり刑法175条の規定についての原判決の解釈は、憲法21条および31条に違反するものであり、そしてそれは同条の違憲性に基づくものであるから、原判決を破棄されたうえ自判により無罪の判決を下されんことを求める次第である。
[1]一、刑法175条にいわゆるわいせつの概念について、最高裁が従来説いてきたところのものは、必ずしも明確なものではない。
[2] ことに、判例が、わいせつ性の判断基準を「一般社会において行われている良識すなわち社会通念」であるとし、これが時代とともに変遷するものであることを承認するからには、わいせつの問題は、判例の立場に立つても、常に現在の問題であり続けることになる。
[3] そして、現代社会における性をめぐる表現の激しい変貌、その結果現出した性表現の解放的状況を卒直に認めるものにとつて、最高裁判例の説くところはあまりに抽象的にすぎ、わいせつ性判断の具体的基準たり得なくなつている。わいせつの概念が不明確で、その判断基準が抽象的すぎる場合には、本来刑罰をもつて規制し得ない表現行為が抑止されてしまうという効果(いわゆるチリング・イフエクト)を生じるから、そこで、結局わいせつ概念あるいはその判断基準の明確化こそが、現在における最も重要な課題といわねばならない。

[4]二、さて、本件第一審判決が、わいせつ概念について最高裁判例に忠実に従いつつも、わいせつ文書販売罪に刑法35条の正当行為が成立する余地のあることを説き、あるいは故意が阻却され得ることを認めたのは、いうまでもなく、同罪の成立を制限的に認めようとする努力のひとつであつた。しかし、第一審判決は、ここでの批判の対象ではない。
[5] それでは、原判決は、わいせつとは何かという現代の問いかけにどう答えたのか。むろん、その詳細は原判決の判文自体を検討するしかないが、原判決が「わいせつ文書の意義自体について」は、「チヤタレイ」事件の昭和32年3月13日大法廷判決(刑集11巻3号997頁)および「悪徳の栄え(続)」事件の昭和44年10月15日大法廷判決(刑集23巻10号1239頁)の示しているところに「基本的には……則るものである」としながら、具体的に説いたところのものはといえば、右最高裁判決とはなはだ趣きを異にするものだつたことを確認しておきたい。原判決は、最高裁判例に基本的には則るとしながら、これを換骨奪胎し、全く新たなわいせつの概念を呈示したのである。
[6] その証左は、原判決のそこここに見出すことができる。
[7] 例えば、原判決が
「性的差恥心を害するいやらしいものに当るかどうかの判断においては閲読の場や周囲に対する気兼ねというような付加的事情を考慮に入れるのは相当でない」
とした部分は、「チヤタレイ」事件の大法廷判決が
「それは……家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に差恥感情を害するものである」
と判示したことへの批判であつた。また、社会通念を説明して
「これを平明にいえば、智的にも情的にもかたくなでなく、人間の態度、考え方などが多種多様であることをも容認している人々のもつ集団意識をいうものである」
との原判決の判示は、同じく「チヤタレイ」事件の
「かりに一歩譲つて、相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは、社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病的墜落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである」
という大法廷判決の態度へのおだやかな否定なのだつた。いや、その何よりの証左は、原判決が、
「伊藤整訳『チヤタレイ夫人の恋人』(小山書店)や渋沢竜彦訳『悪徳の栄え(続)』(現代思潮社)などの文書が現時点においてなおわいせつと断定されるかどうかについては多大の疑問がある」とし、
さらに「前記の判断基準によれば、刑法175条のわいせつ性を有するとされる一方、芸術、思想、学問などの著しい社会的価値を備えるとされる文書の存在する余地は著しく減縮されることとなり、その結果として刑法175条のわいせつ文書に当るとされるものは、多くの場合みるべき社会的価値をもたないもののみとなる筋合である」
とした点にある。
[8] こうして、原判決の示す見解には画期的とも評価すべきものがあることは、弁護人といえども認めないわけにはいかない。

[9]三、だがしかし、原判決は、では一体いかなる根拠で、現時点では「チヤタレイ夫人の恋人」や「悪徳の栄え(続)」のわいせつ性に多大の疑問がある、というのか。「チヤタレイ夫人の恋人」の大法廷判決からは22年、「悪徳の栄え(続)」のそれからはわずかに10年しか経つていないのである(なお、本件は、今から7年前の昭和47年に起きた)。原判決は、一方でわいせつ文書の公表がもつかもしれない「長期的にみて何らかの有害な影響」に言及するが、そのことと、原判決の「チヤタレイ夫人の恋人」や「悪徳の栄え(続)」に対する態度は矛盾していないか。
[10] 原判決の「チヤタレイ夫人の恋人」や「悪徳の栄え(続)」についての見解が誤つているというのではない。原判決がそこまで言うのなら(そして、それはそれ自体としては正しい)、むしろ、わいせつの概念自体あるいはその判断基準が曖昧かつ不明確であることを原判決は承認すべきではなかつたか、と考えるのである。
[11] しかも、原判決は
「刑法175条のわいせつ文書に当るとされるものは、多くの場合みるべき社会的価値をもたないもののみとなる筋合である」
といい、本件「四畳半襖の下張」は
「その全篇を通して男性観、女性観あるいは男女間の生理の差などについての或種の観念ないし感想の表明がなされていると客観的に読みとれないわけのものではない(し)」「その全体の構成や展開の仕方を考え、戯作の手法、エロチツク・リアリズムとしての文芸的価値を指敵する見解を考慮に入れ(る)」
としながら、しかしそれは当代における刑法175条のわいせつ文書だというのである。
[12] 「チヤタレイ夫人の恋人」や「悪徳の栄え(続)」と本件「四畳半襖の下張」とはどう違うのか、みるべき社会的価値のないいわゆる春本と本件「四畳半襖の下張」とは、どこが異なり、しかし、どうして同じわいせつ文書なのか、ひとは答えに窮するに違いない。

[13]四、要するに、原判決が、わいせつ概念・その判断基準の明確化を求めて払つた努力には敬意を表するが、しかし、結果的には、その明確化に成功し得ていないのであつて、結局、原判決には刑法175条の違憲性を看過した違法があるといわなくてはならない。

[14]五、ところで、原判決の特徴としていまひとつのことを指摘しておかなくてはならない。
[15] それは、原判決が、いわゆる性行為非公然性の原則を捨てたことである。
[16] いうまでもなく、性行為非公然性の原則は、最高裁判例の支柱であり、多くの下級審判例もこの原則を(より正確にいえば、かかる原則が存在することを)かたくなに信じ続けてきたのである。本件第一審判決も、性行為非公然性の原則について多くを語つている。そして、同判決は、性行為非公然性の原則が性道徳ないし性風俗の根幹をなしてきたといつた。そこにいわゆる性行為非公然性の原則とは、いわば自然法的不動の命題なのであつて、議論の余地のないものとして説かれてきたことに注意しなくてはならない。
[17] だが、原判決は、わいせつ文書の頒布・販売行為の当罰性を説いて、かかる大上段からの、あるいはまたかかる神託めいた、議論は一切しなかつた。
[18] 原判決はいつた。
「いうまでもなく、自由主義的憲法原理の基礎は、すべての国民が個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求の権利について最大の尊重をうけるということにある。わいせつ文書の公表が、右の憲法的価値の実現に資するゆえに善良なものと観念される性の道徳、風俗あるいは秩序に対して長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題並びに日常生活の質の向上、社会の品格の維持、わいせつ物の未成年者からの隔離などの国民的利益に対しても長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性があるという事実命題は、我が国を含む自由主義的憲法原理を採る諸国家において識者の間にかなり広く信じられている。そしてこれらの命題については、未だ利用に値する実証的長期的な観察調査結果は見当らず、右の命題は、実証されていないがさりとて否定もされてはいないものの、不合理なものとはいまだ認められない。従つて、現時点ではこれらのかなり広く信じられている命題と刑法175条の規定とが合理的関連性を有しないものと断ずるわけにはいかず、それゆえ刑法175条は憲法21条に反するとはいえないものであり、この種文書の入手を欲する成人に頒布販売することを刑法175条により規制しても、これまた憲法21条に反するものではない。」
[19]六、原判決が、人類不変の原理としての性行為非公然性の原則なるものに依拠することを放棄し、実証的レベルでの議論を展開しようとしていることは、高く評価すべきである。
[20] だがしかし、
「実証されていないがさりとて否定もされてはいないものの、不合理なものとはいまだ認められない」ところの「長期的にみて何らかの有害な影響を及ぼす蓋然性」
という、曖昧さの表現においてこれ以上のものはないともいうべき「被害」を根拠に、ある種の表現行為(それは、いうまでもなく優越的地位を認められた憲法上の権利である)を処罰し得るのか。
[21] かつて最高裁は、HS式無熱高周波なるものが、「いささかも人体に危害を加えずまた保健衛生上なんら悪影響がない」とすれば、たとえ無許可で行なつたとしても処罰することはできないとして、原判決を破棄・差し戻したことがあつた(最判昭和35年1月27日刑集14巻33頁)。無害な行為を処罰することは憲法31条に違反するのである(実体的デユー・プロセスの理論)。「被害」のないところに刑罰はないのである。
[22] 本件において、原判決は、被告人らの行為があるいは無害な行為であるかもしれないことを認めつつ、しかし、その有害性が「かなり広く信じられている」ことを理由に、そこにいう事実命題の正否の探究を抛擲してしまつている。その意味で原判決には手続的にも憲法31条のデユー・プロセス違反を犯した違法があるといわなくてはならない(なお、原判決が、わいせつ文書の公表による影響の関する命題を「事実命題」と呼んだことは正しい。つまり、かかる命題の正否は、証拠により立証されることを要し、その判断は、事実認定に属するのである)。

[23]七、しかも、原判決のいう2つの事実命題が仮に正しいとしても、そのための法的規制(とくに刑罰を用いての規則)は、必要最少限であるべきであつて、成人の見たくない自由・読みたくない自由と、青少年の健全な成長という2つの観点からの法的規制のみがかろうじて合憲性を獲得し得るというべきであろう。
[24] 成人の性表現に対する自己の態度決定は、いまや個々人の自由な判断に委ねるべきであり、成人の見る自由・読む自由をも幸福追求の権利あるいは表現の自由(知る権利)として憲法上保障されている、と解すべきである。また、そうだとすれば、本件被告人らが、第三者たる読者の右の如き憲法上の権利をも援用して刑法175条の違憲性を争い得ると解さねばならない(法律上、わいせつ文書を入手した者あるいはこれを入手しようとした者が訴追され得ない以上、わいせつ文書の頒布・販売行為者が、これらの第三者の権利を援用しなければ、その憲法判断を裁判所に仰ぐすべがない)。
[25] 原判決は、本件被告人らにかかる意味での当事者適格もないとする趣旨と解される。しかし、これは上告人らにあるべき憲法訴訟の道を封ずるものであつて、憲法31条、32条に違反する態度といわなくてはならない。

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