「バイク三ない原則」違反退学事件
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 平成元年(オ)第805号
平成3年9月3日 第三小法廷 判決

上告人 (控訴人  原告) 甲野一郎
    右訴訟代理人弁護士 北光二 滝沢繁夫 田中三男

被上告人(被控訴人 被告) 学校法人鎌形学園
    右代表者理事    鎌形浩史
    右訴訟代理人弁護士 天野武一 野村昌彦

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人北光二、同滝沢繁夫、同田中三男の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人の負担とする。

[1] 所論は、いわゆる三ない原則を定めた本件校則(以下「本件校則」という。)及び本件校則を根拠としてされた本件自主退学勧告は憲法13条、29条、31条に違反する旨をいうが、憲法上のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であって、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和43年(オ)第932号同48年12月12日判決・民集27巻11号1536頁)の示すところである。したがって、その趣旨に徴すれば、私立学校である被上告人設置に係る高等学校の本体校則及び上告人が本件校則に違反したことを理由の一つとしてされた本件自主退学勧告について、それが直接憲法の右基本権保障規定に違反するかどうかを論ずる余地はないものというべきである。所論違憲の主張は、採用することができない。そして、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、原審の確定した事実関係の下においては、本件校則が社会通念上不合理であるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。右判断は、所論引用の判例と抵触するものではない。原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
[2] 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯することができる(なお、所論は、原判決は上告人が自発的に退学願を提出した旨認定したとしてこれを非難するが、原判決の認定判示するところは、被上告人は上告人に対して自主退学を勧告したもので退学処分をしたものではないというにとどまるのであって、右非難は当たらない。)。そして、上告人の行為の態様、反省の状況及び上告人の指導についての家庭の協力の有無・程度など、原審の確定した事実関係の下においては、上告人に対してされた本件自主退学勧告が違法とはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

[3] よって、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 園部逸夫  裁判官 坂上壽夫  裁判官 貞家克己  裁判官 佐藤庄市郎  裁判官 可部恒雄)
一、憲法の基本権規定の適用について
[1] 従来最高裁は、三菱樹脂事件昭和48年12月12日判決において、
「一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超えた場合にのみ、法がこれに介入しその調整をはかるという建前がとられているのであって、……基本権保障規定をそのまま私人相互間の関係についても適用ないしは類推適用すべきものとすることは決して当を得た解釈ということはできないのである」
として、人権規定から直接に私権が成立するのではなく、人権規定の効力は、個々の私法規定を解釈する際、その意味内容を人権規定の価値・精神でみたすことによって間接的に私人間にも及ぶという、いわゆる間接適用説を取ることを明らかにしたとされている。
[2] 本件の如き私立学校における子どもの人権については、人権規定の趣旨の導入については積極的な解釈を採るべきであり、結論として、国公立学校の在学関係におけると同様に貫かれるべきである。
[3] なぜなら、私立学校は、国公立とならんで、教育基本法で同等に扱われている(教育基本法第3条、6条など)だけでなく、私立学校に対する多岐にわたる独自の法規を有し(私立学校法、私立学校振興助成法など)、法律上その公共性を高めることとされているからである(私立学校法第1条)。
[4] さらに、私立学校を等しく規律する教育基本法自身も「ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」と、前文においてこのことを明言している。
[5] 思うに、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われ」るという教育基本法1条の理念から言って、子どもたちに何よりもまず人権尊重の大切さを教えることこそ教育の第一次的目的と言うべきであるから、その教育の場においてまず学校が子どもたちの人権を保障してやることこそが右各理念に沿う教育と言わねばならない。従って、教育の場においては憲法が直接適用されるべきである。

二、上告人の侵害された権利について―上告人の権利、自由を侵害することの合理性
[6] 上告人は、国民の一人として幸福追求権(憲法第13条)、財産権(同29条)、適正手続を要求する権利(同31条)を有しており、憲法の上ではバイクを所有する自由、免許を取得する自由、バイクに乗る自由、そしてこれらの自由を不合理に恣意的に侵害されない権利を有している。更に免許取得については、道路交通法88条によって当時16才以上であった上告人にはその取得の自由が保障されていた。
[7] ところでこうした国民の自由・権利が公共の福祉との調和を図る見地から一定の制度を受ける可能性のあることは、憲法の定める通りである。
[8] 従って、上告人には国民としてのバイクに関する右諸自由があることは自明であるので、本件三ない原則ないしは、「退学の勧告」なる被上告人の措置が、上告人の右諸自由を不合理に恣意的に侵害したか否かを検討する必要がある。
[9] 国民の財産権の保障(所有の自由)が一定限度制限されることはあり得る。禁制品の所有を考えれば自明のことである。しかしそれ以外には国民は所有の自由が認められている。法律による所有の自由の制限としては、右のような禁制品以外にはないといってよい。
[10] それでは、国民の権利・自由を私人間の契約によって一般的に制限してしまうことは、如何に評価されるべきであろうか。即ち、国民の権利・自由を一般的に制限するような私人間の契約はこれを有効と評価すべきであろうか。この点の判断については、憲法の私人間の適用について直接適用説を採ろうと間接適用説を採ろうと、結論に差はないというべきであろう。間接適用説を採用するならば、憲法秩序は民法90条にいう「公の秩序」に該当するからである。
[11] 国民は、もし勤労者であれば、その自由な時間と体力を提供し、その対価として賃金を得る。そこにおいては、国民の自由な判断に基づく労働力提供が合理的なものと判断され、何ら国民の権利・自由の侵害の問題を生じない。しかし、国民のその労働力提供が、奴隷的拘束ないしは、それに準ずるような内容のものであった場合、これを「契約自由の原則」の建前の下に適法・有効としてしまってよいものであろうか。答は明らかに否である。かように奴隷的拘束のように極端に走らないケースであっても、「契約自由の原則」が種々制限され、合理的な範囲内でのみ有効性を保持しうることは多くの労働判例が示すところである(従ってこの分野においては、「著しく不合理でない限り」契約自由の原則に基く契約が有効であると判断されることはない)。
[12] 例えば、兼職・アルバイトの制限・禁止規定を有する就業規則を解釈するに際しても、これを辞句通り適用して、兼職従業員の解雇を認める例は稀である。殊に、勤務時間外に競業的でないアルバイトをした場合、右のような就業規則があっても解雇されることはないといってよいであろう。
[13] 兼業禁止規定違反のケースを論じた小西教授は、その結論において次のように締めくくっている(季刊労働法124号86頁「兼職・アルバイトの制限・禁止」)。
「すなわち、労働者は、「社員は、会社の……許可なくして他社に勤務もしくは自ら営業を行なってはならない」などの抽象的な就業規則の規定の存在する場合において、それにより当然に一律的な兼職禁止義務を負担するものと解すべきではなく、また、「従業員の会社に対する労務提供が不能若しくは困難になる〔ごとき兼職〕」の禁止義務を負担するものと解すべきでもなく、労働者は使用者の利益を不当に侵害するごとき兼職(一般的には競業的性質を有するそれ)をなしてはならないという内容・範囲の兼職禁止義務を負担するものと解すべきである」。
「そして、労働者が「従業員の会社に対する労務提供が不能若しくは困難になる〔ごとき兼職〕」の禁止義務を使用者に対して負担するものとされるためには、その旨の明白な労働協約・就業規則の規定や労使の個別的合意等の存在することが必要である」。
[14] 次に、国民は、契約によって拘束された時間以外の時間は、その意思に基いて自由に使えるものであり、このことは憲法13条の当然予定するところである。この理は、労働関係において、企業外の非行は原則的に懲戒解雇事由とならないとする一連の判例の示すところである。即ち、使用者の信用を毀損することがない限り解雇事由にならないのである(松田保彦・季刊労働法124号98頁「企業外の行為と懲戒」参照)。
[15] かように、労働法の分野では契約自由の原則ないしは就業規則の効力を当事者双方の利益を比較衡量しながら、その合理的な範囲内で有効性を認め、また、憲法13条に基く「自己決定権」ないしはプライバシーを最大限尊重しているのである。
[16] ところが、長時間に亘る継続的契約、支配従属関係という同様な属性をもつ私立学校の在学関係について、原判決は、共通性、類似性を無視して、殊更上告人に不利益な判断に終始した。
[17] 国民は、前述の通り、憲法13条、29条、31条に基き、バイクを所有し、この免許を取得し、これに乗車する自由を有し、これらの自由を不合理に、恣意的に侵害されない権利を有している。国民のこうした権利・自由は、自己のみに関する事項につき、他人に危害を及ぼさない限り、他人特に公権力から制約を受けないで、自己のみによって決定しうる権利として「自己決定権」と呼んでもよいであろう。即ち、本件では、上告人はバイクの所有、免許取得、運転によって、被上告人に具体的には何らの危害を与えることもないのであるから、上告人は前述のような権利・自由を享受し得るのである。それでは、上告人のこうした権利・自由を制約するような校則ないしはその校則に基く処分・措置はどのような場合に許されるのであろうか。
[18] 原判決は、この点、「著しく不合理でない」校則によって定められている限り、その校則に基く生徒の権利・自由の侵害は是認されるという。これは前述のように労働法分野において、兼職禁止の就業規則の解釈適用と比較して見る時、異様な感を抱かざるを得ない。即ち、兼職禁止の就業規則を論ずる場合には、使用者、労働者の具体的利益状況を判断し、それぞれの利益調整をはかった上で兼職禁止規定の効力の範囲を定めたものであった。ところが本件の審理はこれとは全く異っている。原判決は、三ない原則を、その制定の動機を論じた上で、これを「著しく不合理でない」とて、その適用範囲を論ずることなく一律に有効なものと判断し、そのまま、本件処分、措置の有効性への判断に至っている。しかし、ここでも、労働法におけると同じく「人権・自由」を取扱っているのであり、分野が異っているからといって別異に扱う合理性はない。即ち、本件においても上告人、被上告人の具体的利益状況が証拠によって認定され、被上告人のとった個別的処分・措置の当否が判断されるべきであったのである。そうすれば、本件証拠を総合しても被上告人の具体的利益はほとんど見当たらないのであり、本件三ない原則が合理的妥当な範囲で適用され、妥当な結論として被上告人の本件処分・措置の効力が否定されたものである。
[19] 原判決は、校則の有効、無効についての一般的基準について
「高等学校は公立私立を問わず、生徒の教育を目的とする公共的な施設であり、法律に別段の規定がない場合でも学校長は、その設置目的を達成するために必要な事項を校則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的な権限を有し、生徒は教育施設に包括的に自己の教育を託し生徒としての身分を取得するのであって、入学に際し当該学校の規律に服することが義務づけられる。
 もとより以上のような包括的権能は無制限なものではないがその内容が社会通念に照らして著しく不合理でない限り生徒の権利自由を害するものとして無効とはならないと解すべきである。」
と判断をした。
[20] この原判決は、昭和49年7月19日第3小法廷判決(いわゆる昭和女子大事件)を基礎にしながらも、その内容は著しく後退している。
[21] 昭和女子大判決は「その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものである」と判断したのに、原判決は「著しく不合理でない限り」有効であるという。
[22] この原判決は、いまだ人権意識の確立していなかった昭和20年代の頃の特別権力関係論と同じである。つまり「社会観念上著しく妥当を欠くものと認められる場合を除き」学校の包括的権能を認めるというので、その代表的なものが京都府立医大事件最高裁判決(昭和29年7月30日)である。
[23] この原判決の判断は、人権についての判断を歴史的に後退させたばかりか、きわめて不当なものである。
[24] まず、原判決の「著しく不合理でない限り」無効とはならないという基準で校則を見た場合、無効となる校則など全くなくなってしまう。
[25] 例えば、勉強をしなくなるから、目が悪くなるからテレビを見てはいけないとか、危険だからスキー、登山は禁止するとか、健康にいいからとか、中学生らしさをとかで、名目はいくらでもつけられるから、子供の人権は無に等しいものとなる。
[26] 基本的人権の尊重という憲法上の大原則を教え、それを学習する教育現場において、子供の人権がほとんどなくなってしまう校則を一般的に是認する原判決の不当、違法なことは明白である。
[27] 最近、異常ともいえる細かい校則を生徒に押しつけ、その校則を遵守させるために中学校では体罰、高校では退学処分(そのほとんどは自主退学の形式で強制されて)をして威嚇し、生徒の人権、学習権の尊重などという発想はほとんどないというのが実状である。生徒は管理の客体であり、人権の主体などと考えられていないのである。
[28] 熊本地裁昭和60年11月13日判決は、丸刈り校則につき
「丸刈りが現代においてもっとも中学生にふさわしい髪型であるという社会学的合意があるとはいえず、スポーツをするのに最適ともいえず、また、丸刈りにしたからといって清潔が保てるというわけでもなく髪型を規制することによって直ちに生徒の非行が防止されると断定することもできない」
と述べ学校側の言い分をすべて否定した。
[29] しかし、多くの学校では違反者に対し、みせしめのため強制的に髪を切り、さらしものにして一罰百戒の取締効果を狙う。
[30] そこには、校則の不合理さへの反省はもとより「さらし者」、「みせしめ」にされた生徒のこころの傷の深刻さについての教育の視点は欠落しているのである。
[31] 三ない原則については、教育的配慮に基づいたもので、社会通念上著しく不合理であるとは到底言い難いと原判決は判断した。
[32] この判断は経験則に反して証拠の取捨選択並びに事実の認定を行いその結果重大な事実誤認および理由不備を犯したものであって違法であり判決に影響をおよぼすこと明らかであるから原判決は破棄を免れない。
[33](一) 原判決は三ない原則の合理性について
「全国的に行なわれていること、その目的は是認でき、自動二輪の事故は減少していること」
等から不合理ではないという。
[34] しかし、全国的に行なわれていることから是認されるという考えならば、体罰さえも肯定されてしまう。既成事実を追認するだけならば人権救済の裁判所の役割はなくなってしまう。
[35] まだ、バイクを禁止すれば事故は減るのはあたり前だから危険なものはすべて取上げ、事故が減ったから正しいというはあまりにも子供じみた議論である。
[36](二) 原判決は、三ない原則の弊害について、交通教育の欠如から自転車事故の増加を招来しているという上告人の主張に対して、
「その対策は別に考えられるべきであり、このことが三ない原則の不合理を示すものとはいえない」
という。
[37] 三ない原則が自転車事故の原因であるとすれば、それだけですでに「三ない原則の不合理を示すもの」と考えるのが常識である。
[38](三) 三ない原則によって、大学生のバイク事故が増加したという主張に対して、大学生のバイク通学者が増加したからにすぎないという。この理由は上告人の主張になんら答えていない。
[39] 三ない原則はその効果として、高校生時代に免許がとれず交通教育が行なわれず大学生になってから免許を取る。そして事故は、免許取得後1年以内が多いためにおこることなのであって単純にバイク通学者が増えたためなどというものではない。
[40](四) 原判決は、文部省の
「一定の年令にすれば、自動車運転免許取得の資格が法律上も認められる。したがって、自動車は危険であるから運転免許を取得しないようにと指導するだけでは真の解決にならない」、「高等学校においては高校生の二輪車による事故の防止に資するため、警察署、二輪車安全普及協会等の関係機関、団体と連携しながら、課外指導等において安全運転の実技指導を行なうなど、生徒の二輪車の安全に関する意識の高揚と実践力の向上を図ること」
等の三ない原則の批判的な指導理念を曲解し、三ない原則の合理性を全く否定するものではなく、また不採用とすべきことを提案したりするものではないと判断した。きわめて不当な判断である。
[41] 文部省は、「真の解決」のため、最も重要なことは実技指導を行なうなどを提案しているのであって、結局三ない原則の合理性には疑問を投げかけているのである。
[42] それなのに、どのようにしたら三ない原則の合理性を全く否定していないなどと解釈して読めるのであろうか。明白な理由不備である。
[43](五) 原判決は、高校生がバイクに乗ることと暴走族加入について関連性を全く否定することはできないと判断している。
[44] その理由として、昭和55年をピークに暴走族が減少していること、守屋証言が関連性を肯定していることをあげている。きわめて理由不備な論理である。そもそも暴走族の減少は、警察の取締りの強化とマスコミの対応であることは常識である。守屋証言は、「子供の心理として集団を好むからバイクに乗れば集団化し暴走族化しやすい」という単純な想像であってきわめて主観的な証拠に基づかない判断である。
[45](六) 原判決は、校外活動について、親の家庭教育の権能が制約をうけるとして、その基準として「学校生活と密接な関係を有し学校生活に重大な影響を与えるもの」、「学校の教育内容の実現に関連する合理的な範囲の事項」をかかげている。
[46] 問題なのはその具体的な内容である。生徒の自己決定権や親権を侵害しかねないからである。
[47] 校則や懲戒権のおよぶ範囲を無制限に拡大してしまうおそれがあるからその歯止としては、校則は校外活動については原則として助言指導の対象であり、懲戒処分は及ばないと考えるべきである。
[48] 原判決は、
「バイク事故は自他の死傷の結果を招来し、その結果、学校教育に重大な支障を生じるおそれがあり、またバイクの乗車が他の生徒に与える影響は甚大であること」
を理由に校外の活動を規律する校則を有効とした。
[49] 原判決の論理はバイクに乗ることは事故につながり、バイクに乗ることが他の生徒に与える影響が甚大であるとするがバイクに乗るには適正試験が必要なこと、満16才なれば道路交通法上免許をとれること、それが交通安全教育上有効であることは文部省でさえ「真の解決」につながること等を全く無視している論法である。
[50] バイクの乗車が何故に他の生徒に与える影響は甚大などとヒステリックに断言できるのであろうか、不注意な一部のライダーのわずかな事故数を理由に安全運転に心掛けている真面目な一般の生徒のバイクを一律に禁止する理由にはならないはずである。
[51] 一審の判決では、学校の自主退学勧告を一種の学校長の懲戒処分であると判断した(判例時報1266号81頁)。
[52] ところが、東京高裁は、自主退学の勧告は懲戒処分としての退学または、それに準ずる処分に当らないと判断した。
[53] 右高裁の判断は前提として、学校側に退学を強制した事実はないこと、上告人やその保護者が自主退学の勧告について数日間にわたり家族間で相談するなどその勧告の趣旨や効果を十分に理解したうえで自発的に退学願いを提出したものという事実認定をした。
[54] 右事実認定は重大な事実誤認であって、右判断は経験則に反し違法であり、この違法は判決に影響を及ぼすこと明らかで原判決は破棄を免れない。
[55] 以下理由を述べる。
[56] 自主退学は今日、広範囲に行なわれ正式の退学処分をするケースはほとんどない。
[57] 本来の自主退学は、生徒の正確な判断と自発的な自由意思に基づくものでそれさえも教師としては生徒の学習権を保障するため向学心を燃やすように助言指導を試みるのが正しい。
[58] 学校の方から自主退学を勧告し、学習権を奪いあとはチンピラにでもなんにでもなれというのは邪道であり、きわめて例外的な場合である。
[59] そもそも学校が自主退学の形式をとるのは、本人に与える影響を緩和しようという配慮である一面、法廷の争いになることを回避できるというメリットもある。
[60] いずれにしても、自主退学の形をとることによって安易に処分が行なえる。自主退学を勧告し、もし勧告を拒否すれば退学処分となり、もはや転校はもちろんのこと、再入学ですら危うくなる。全高等学校から排除されてしまうことになりかねない。それは生徒や親にとってはかり知れない恐怖を感じさせることは容易に想像のつくことである。
[61] したがって、生徒が拒否できる、学校に残ることもできるということが明示されないかぎり、また勧告を承諾しなければ正式の退学処分もありえるという一般的観念におののくままにしておくかぎり退学の強制があったと理解しなければならないはずである。
[62] 本件事件の場合、バイクによるひき逃げ事件があって、その取調べがなされ、親が呼び出され、学校の代表者から学校の決定を申し渡されるという異常な状況を考えるならば特別な説明、例えば「拒否できます」とか「嫌なら白紙にもどす」等の説明がないかぎり強制であり、拒否すれば正式の懲戒退学処分になると考えるのは常識である。
[63] しかるに、原判決は十分に理解したうえ「自発的」に退学願を提出したなどと認定しているのは、経験則に反して証拠の取捨選択並びに事実の認定を行ない、その結果重大な事実誤認を犯したものであって明らかに違法である。
[64] この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから原判決は破棄を免れ得ない。
[65] 原判決は、結論として、原告に改善の見込みがなく、これを学外に排除することが社会通念からいって教育上やむを得ないと認められると判断している。その理由はとうてい納得できるものではない。
[66] 原判決は、結果の重大さとして
「本件事故は警察官に重傷を負わせそのまま逃走したというものであり、社会および他の生徒にあたえた衝撃は少なくない」
と。
[67] 結果を重視するのは教育的なものでないことは少年法の精神などから多言を要しないところであるが、何よりも、本件重大な結果は上告人がおこしたものではない。
[68] 上告人は免許を有する友人に貸しただけなのである。無免許の者にバイクを貸すことは許されないが、上告人は、無免許の者に又貸しされて事故をおこされた、いわば信頼を裏切られた被害者なのであって、事故との法的因果関係は全くない。
[69] さらに、原判決は、報告義務違反をあげている。
[70] 生徒が学校を、先生を信頼していれば自主的に報告したであろう。なによりも判決が密告すべきであるとする理由はあまりにも非常識である。密告というのは生徒の仲間で最も非難され軽蔑されることだからである。
[71] さらに、原判決は
「明確な反省の態度を示さなかった」
と認定している。また
「たとえ1、2回の面接であったとしてもそこに弁明、反省の機会はあったはずである」
と判断しているが、あまりにも独断である。
[72] いったいわずか2回の面接の時に生徒が時々うなずくだけであったからといって改善の見込みなしと断定し、学外に放逐する学校があるというのは論外である。
[73] 反省態度は一時的な様子や言葉だけでなく日常の行動で示されなければならない。そのため懲戒は初めは軽く、何度か罪を重ねて最後の手段として退学処分にするのである。本件の場合、先生になりたての未経験で興奮しやすい教師の生徒に対する接し方などを抜きにして、生徒のみを判断することもできないはずである。
[74] 次に原判決は、
「花子も真向から学校の教育方針に対立する態度を示した」
と認定し母親を一方的に非難している。
[75] しかし、母親が自分の子供がバイクの又貸し責任や事故隠しを追求されても子供は被害者であって因果関係がないと必死に弁明するのは当然のことであり、特異な状況でわずか2回、しかも短時間で話しあっただけでは双方の誤解、エキサイト、感情の対立がおきるのは当然のことである。
[76] この点を全く理解せず
「将来家庭の教育を得て学校の方針どおり原告の指導をすることが不可能といえる状態であったことが認められる」
などという認定は独断であり,理由不備、経験則違反なのである。
[77] そもそも家庭教育が崩壊していたり親が悪いときこそそれを懲戒の理由にできないはずである。
[78] そのような生徒ほど、気の毒に思って、いっそう手厚い保護を加えようとするのが教育ではないのか。

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