昭和女子大事件
第一審判決

身分確認請求事件
東京地方裁判所 昭和37年(行)第23号
昭和38年11月20日 民事第3部 判決

【原告】甲野恵美子(仮名) 外1名
【被告】学校法人 昭和女子大学

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由


 原告らがいずれも昭和女子大学の学生としての身分を有することを確認する。
 訴訟費用は被告の負担とする。

一 原告ら
 主文同旨の判決を求める。

二 被告
「原告らの請求を棄却する。
 訴訟費用は原告らの負担とする。」
との判決を求める。
[1] 原告らはいずれも昭和34年4月1日昭和女子大学文家政学部に入学し、同大学3年生として在学中のところ、原告甲野については、原告らが入学に際し学校から配布された学生手帳に掲記の「生活要録」6の6の規定に違反して、学校当局に届出をすることなく昭和36年10月20日頃から数日にわたり学内で政治的暴力行為防止法案(以下、政防法という。)反対請願の署名をしゆう集したこと及び、同要録8の13の規定に違反して、学校当局の許可を受けないで民主青年同盟(以下、民青同という。)に加入していることを理由として、原告乙川については、同じく無許可で民青同に加入していることを理由として、いずれも同年11月8日原告らの所属学級の補導主任戸谷三都江教授から、事実上、登校禁止を言い渡された。原告らは、その後同月30日まで大学当局から、補導と称して呼出しを受け取り調べられたが、翌年になつて、原告乙川が昭和37年1月20日発売の「週刊女性自身」に、林の仮名を使つて、右事件について日記を掲載したこと、原告両名が同月26日麻布の公会堂の学生集会や、同年2月9日の東京放送「朝のスケツチ」の時間に事件について発言したことなどから、反省の実があがらないものとして、同年2月11日付で、学長玉井幸助から原告らが同大学学則第36条第4号にいう「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反したもの」に該当するものとして退学処分を受けた。

[2]、原告甲野の政防法反対の署名しゆう集活動が、大学当局にわかつたのは昭和36年10月28日頃であるが、この事件の発端から退学処分が行われるまでの間に大学当局が補導の名目の下に原告らに対しとつた措置の内容はおよそ次のとおりである。
(一) 原告甲野について。
[3] 原告甲野は昭和36年10月30日政防法の反対署名しゆう集活動が問題となつたので、補導主任戸谷教授に指導を受けるため面会したが、その際の同補導主任の態度は指導というには値しないものであり、同原告の政治的な思想などについて午後2時半頃から6時半頃まで問いただされたのみで同原告がどのような態度をとるべきかについてはなんらの指導は与えられなかつた。翌10月31日にも戸谷補導主任と面談したが、なんの補導もなかつた。これらの面談で心身ともに疲労した原告甲野は11月4日まで下宿で休んでいたが、この間クラスの総務委員である訴外丙田、同丁山の両名が登校を禁止され、また、被告大学の学監兼補導部長人見円吉教授からは学生達に対し被告大学の学生で民青同に加入している者が3名あり学校を破壊しようとしているなどの発言があつた。11月8日には戸谷補導主任小川まつ学生議長と面会し、その際原告甲野は同補導主任らに、正式には民青同に加入していない旨を申し出たが信用されず、かえつて署名者の名前を提出するよう要求されるとともに「問題が片づくまでしばらく休んでいるように」との申し渡しを受け、事実上の登校禁止処分を受けたが、この間本来の訓育指導としての補導はまつたく施されていない。
[4] 11月11日には右戸谷補導主任及び被告大学日本文学科4年級の補導主任である保坂都教授に呼び出され署名しゆう集の件、及び原告らがどのような思想を有しているかを問われ、民青同での学習内容や、民青同との精神的なつながりについて聞かれた上、郷里である九州へ行つてしばらく静養するよう申し渡された。しかし、甲野は九州へ帰るわけにはいかないので、藤沢在住の代理保証人の所で11月15日まで過した。
[5] 甲野はそれまで退学の意思表示をしたことがないのに、戸谷補導主任から11月16日原告ら所属の日本文学科3年のクラスで原告両名及び訴外戊川が責任を負つて自発的に退学した旨の報告があつたこと、及び出席簿の原告らの氏名が朱で抹消されていることを聞知したので、11月17日登校したところ、同補導主任によつて教室から出された。翌18日に登校すると出席をとられることなく人見学監から学監室に呼び出され、民青同の思想、政治問題などについて聞きただされた。
[6] 甲野は昭和37年2月初旬頃、玉井学長が原告らを処分したことがないのに学校に寄りつかないと全学生に話したということ、及び原告らの氏名につき出席がとられていることを聞知したので、同月7日登校したところ、学長室に呼ばれ、同学長から「何故登校したか」「絶対に許すことはできない」などといわれ、その後登校できないまゝで遂に同月12日退学処分を受けた。
(二) 原告乙川について。
[7] 原告乙川は政防法の反対署名運動には参加していない。乙川の民青同加盟が問題とされたのは11月6日近代文学の時間に人見学監が行つた「大学は民青同に狙われている。このクラス3人の学生と1人の教師の細胞ができている。10年間大学は全学連や民青同に狙われている。」と学生に訓話をしたときからであり、乙川はクラスの総務委員、甲野らに大学当局から乙川のことが聞かれていることを知り、11月8日戸谷補導主任にその間の事情を相談したいと考え面会したが、同補導主任からなんらの理由もつげられることなく「あなたとはまだ話す段階ではない、呼出しがあるまで家にいるように」といわれ、事実上の登校禁止を受けた。
[8] 11月15日夕刻戸谷補導主任から呼出しを受け、学内の「温考館」において戸谷、保坂両補導主任から、午後8時半頃まで学則に違反した責任を追求され、戊川の書いた「責任を負つて退学する」旨の書面を示され、紙片に責任をとつて退学する旨を書かされた。この間乙川は、学則に違反したことを反省し、今後一生懸命勉強する旨の申出をし、これに対する戸谷、保坂両補導主任の補導を求めたが、同補導主任らは、乙川の行為が「殺人と同じ」だとか「あなたの思想はこの学校の方針に合わないから、外の学校にいつたらよい」などといつてとり合つてくれなかつた。
[9] その後11月30日人見学監から呼出しを受け、乙川の思想が主として追求され、そのいだいている思想を変えるよう要求された。
[10] 昭和37年2月7日に原告甲野とともに、先に同原告について述べたと同じ理由で登校したところ、同様に学校から帰されたほか、出席簿の氏名の抹消と復活に関する経緯は甲野とまつたく同じである。

[11]、以上のとおりであつて、大学当局が原告らに対して行つたという補導は、その実、責任の追求と思想の調査であり、要するに原告らの思想や、民青同への加入を問題とし、原告らを大学から追放しようとしたものにほかならず、誠実な学生の生活指導ないし訓育といい得るものでないのはもとより一片の教育的配慮すらもみられず、大学の公共性を無視した措置といわねばならない。
[12] 原告らは可もなく、不可もない、いわば平凡な女子学生であり、当時は大学当局においてすら、補導によつて立ち直るかも知れないと考えていたことは明らかである。そして、本来の補導が行われていたならば、本件の如きは社会問題となることなく処理され、原告らは有意義な学生生活を送り得たはずである。大学当局のかたくななまでの原告らの思想に対する嫌悪が問題をこじらせ、紛糾させ、雑誌、放送等の「マスコミ」によつて取上げられる原因となつたもので、これらの責任はいずれも大学当局にあるものというべきである。

[13]、原告らに対する退学処分は、次の理由によつて無効である。
[14](一) 本件の退学処分は、原告らの思想を嫌悪してなされたものであるから、思想信条による差別的取扱いであり、公序良俗に違反する無効のものである。
[15] すなわち、大学当局は、原告らが民青同に加入していることを「生活要録」8の13に違反するものとして、原告らに対し民青同からの脱退と思想の変更を要求したに対し、原告らが、民青同から脱退することは了承したが、思想を変更することは不可能である旨を申し立てたところ思想が変えられるまで自宅で反省するよう命ぜられた。これは、「生活要録」違反をあくまで形式的な理由として、真意は原告らが共産主義思想をもち、かつ、これを放棄しなかつたことを嫌悪して退学処分をしたことをうかがわせるものである。原告らは被告大学に入学することにより一定の思想を維持することを自己の自由な意思によつて認めていたものとは解されないし、内心の自由がいかなる理由によつても制限されないことは憲法の保障するところであるから、本件退学処分は思想、信条の自由を認めた憲法の精神にもとり、公序良俗に反するものとして無効なものである。
[16](二) 仮りに、本件退学処分が、原告らの思想、信条を嫌悪してなされたものでないとしても、「生活要録」6の6、8の13に違反するものとしてされた退学処分は無効である。
[17] すなわち、原告らは入学に際し、「生活要録」の各項を充分に認識、理解していたものとは認められず、その限りにおいて原告らは、学外団体に加入することの禁止や、学内外を問わない署名運動の事前届出制を了承し、これに従う合意をしていたものではない。
[18] また、たとえ原告らが「生活要録」の各項を了承していたとしても、右のような学外団体への加入禁止や、署名しゆう集活動の事前届出制は、政治活動の自由及び思想、信条の自由を不当に制限するもので、人間性の尊重を原理とする憲法の精神と矛盾するものである。従つて、「生活要録」6の6及び8の13は憲法の精神にもとり、公序良俗に違反する内容をもつものというべきであり、これに違反したことを理由とする退学処分は無効である。
[19](三) 以上の主張が理由がないとしても、本件退学処分は、教育機関に任された懲戒権を濫用して行われた無効のものである。すなわち、原告らが「生活要録」に違反したとしても、それはさ細な形式的な違背であつて、その後に惹起された事情はすべて、前述のような大学当局の誤つた補導に起因するもので一方的に原告らの責に帰することのできないことがらである。従つて、右の事情のすべてが原告らの責に帰するものとしてなされた本件退学処分は、教育機関に任された裁量権を濫用したものとして無効のものである。
一 請求原因に対する答弁
[20] 原告らの請求原因一の事実のうち、大学当局が昭和36年11月8日原告らの登校を事実上禁止したとの点を否認し、その余の点は認める。二の事実については、被告学校当局が原告らに対し行つた補導が原告らの主張するような趣旨、内容のものであることは争う。被告の行つた補導の趣旨内容は次に述べるとおりである。三、四についてはいずれも争う。

二 処分までの経緯
(一) 事件の発端
[21] 原告甲野及び訴外戊川千代子は、入学に際して交付される学生手帳に記載され、学則の細則としての性質をもつ「生活要録」の6の6に、「学内外を問わず署名運動……をしようとする時は事前に学生課に届出その指示をうけなくてはならない。」と定められているにもかゝわらず、昭和36年10月20日頃から数日にわたり政防法反対の署名用紙をひそかに学内に持込み、それぞれクラス内の学友に要請して、甲野は14名、戊川は7名の署名者を集めた。学校側としては、同月27日一父兄から学監人見円吉に対し「大学日本文学科3年の学生が教室で政防法反対の署名運動を行つている。同クラスに在学している自分の娘から聞いたことであるが、こんなことでは父兄として安心していられない。非常に心配である。」との電話連絡があり、このとき初めて右のような事実のあることを知つた。
[22] 被告大学当局は、在学中は学生を左右いずれの政治活動にも参加させない方針であり、右のような事実が学内にあつたとすれば、大学の方針にも反し、また学生手帳に掲記の「生活要録」に定めるところにも違反するわけであり、このことは学内の秩序維持の上からも許されないと同時に、将来他の学生に及ぼす悪影響とか、学内規律の弛緩が憂慮されたので、事実調査の必要を感じた。
(二) 学生手帳記載の規律違反の事実判明までの経過
[23] そこで大学は同年10月28日補導部長人見円吉教授、署名運動の行われたクラスの補導主任戸谷三都江教授(当時助教授)、日本文学科4年の補導主任保坂都教授、および学生課長小川まつ助教授の4名が協議の上、まずクラスの総務委員(クラス内の互選により選ばれる。)を呼んで事情を聴取することにした。ところが10月30日に原告甲野が戸谷補導主任に面会を求め、同人が学生課に無断で学内に署名用紙を持ちこんだこと、右用紙に学友3名の署名を得たことを述べ、全責任を負いたい旨を申し出てきた。戸谷補導主任としては、突然のことで事件の全貌もわからず、また甲野が責任を負うべきかどうかも判定しかねたので、慎重にするようになだめて同人を帰した。
[24] 翌31日甲野は校庭で出会つた戸谷補導主任に対し再び「退学します」と強硬にくり返したので、同主任はとまどい、退学ということは一身上の重大な問題だから両親と相談もなく、独断で軽々しく扱うことはよくない旨さとした。
[25] 翌11月1日学校側の連絡により甲野の代理保証人である同人の叔父が来学し、小川課長、戸谷補導主任が面談して事情を話したところ、代理保証人は、本人を政治運動に関係させないで学業に専念させたいので、本人によく話してみたいと述べた。11月3日から学校側は明確な事実を知るために総務委員である2名の学生を各別に呼び事情聴取に当つたが、両名ともすなおに答えることを拒み事実を隠蔽しようとする態度が見えた。しかし、その後の調査により、前述の署名用紙が甲野および戊川により学内に持ちこまれたこと、署名者が十数名に及んだこと、署名用紙の出所が民青同という政治団体であること、および甲野、戊川、原告乙川の3名が民青同に加入していることが判明した。当初学校側としては、無届の学内署名運動とのみ単純に考えていたが、こゝに学生3名が前述の学生手帳の「生活要録」の8の13に違反し、補導部の許可もなく民青同という学外の政治団体に加入している事実を知り、ことがらの重大さを知つた。
[26] 被告大学当局としては、学生が政治活動に類する運動の渦中に身を投じ、これに時間と精力をついやすことによつて学業をおろそかにすることを常々憂慮し、学生を研修本位に指導するべく努力していたところでもあつたので、なんとかして右3名を学生本来の姿に戻し、大学の教育方針に則り勉学する心境に導きたいと考えていた。
(三) 原告らに対する補導の経過
[27] ところで原告甲野は11月6日頃から欠席届を出すこともなく登校しなくなつたので、学校側では不審を感じていたが、同月8日に登校したので戸谷補導主任及び小川学生課長が面談したところ、戊川に誘われて民青同に入つたこと、署名用紙は民青同から持つてきたものであること、週に1回民青同の学習会に加わつて共産主義活動について勉強していることを自ら述べ、「以上の行動についての自分の判断は間違つていないと確信している。先生方こそ認識を改めるため勉強すべきである。」旨を昂然と言い放つ状態で、学則を守つて学生として勉学する意思など到底考えられず、面談した両教師はかゝる心境にまで立ち到つている甲野に対しては補導の目的を達することが困難であることを感じる有様であつた。翌11月9日になつて前述の甲野の代理保証人が来学し、小川学生課長に会い、学校から沙汰があるまで本人を責任をもつて預りたい旨申出たので、学校側はこれを了承した。
[28] 同月10日事情聴取のため甲野を呼び出し、戸谷補導主任および保坂教授が面談したところ、甲野は「退学します。すべて学校にお委せします。」とくり返し、学校の方針に従つて勉学する色はいささかも見られなかつた。学校側は、事実の把握に誤りのないように同月13日頃までクラス内の署名者について事情を聴取したところ、前述の無届署名運動の概貌、民青同の加入者が甲野、乙川、戊川の3名であることが再確認されたので、同日全学補導主任会議にはかつて、補導方針を協議し、結論として原告らの将来を慮つて処分を見送り、以後学則を守つて勉学させるという方針の下に父兄と連絡をとつて原告らの補導に努力しようということになつた。
[29] そこで同月15日から同月末頃までの間原告両名に対する補導が行われたが両名ともあくまで反省の色を示すことなく、かえつて補導に当る教師に反抗的な態度を示すばかりであつた。この補導の間、学校側は原告らの父兄と懇談し、原告らの指導監督に助力を求めたが、甲野の父は同月20日甲野を郷里へ連れて帰り転校させたい旨を希望するに至つたので、学校側はこれを了承した。甲野の郷里は九州であつたので学校側は転校の便宜をはかるため、九州方面で国文学科のある大学を調査し、その後の連絡を待つたが以後何の音沙汰もなく不審に思つていた。一方乙川については、同人の姉夫妻、ついで母、次兄が来学し学校側と面談したが、大学の意のあるところをどうしても解さず、一方的に学校を非難するばかりであつた。乙川自身も「私は私の道を歩みます。」と強硬にいゝ張り態度を変えないので、止むを得ず学校側はしばらく反省の時間を与えて様子をみることにした。
[30] 他方、訴外戊川についても11月15日から12月2日にわたり補導が行われた。その結果、同人については、本人ならびに父が非を認め、大学の方針と秩序に従つて勉学することを誓つたのでなに一つ譴責を受けることもなく、12月4日から従前どおり通学することとなつた。無届署名運動の主謀者の1人である戊川について、学校側が本人の反省一つでこのような措置をとつたことは、学校側の補導方針を明確に示すものであり、原告らについても学校は同様の補導結果を望んでいたのである。
(四) 事件の発展
[31] 戊川については右のとおりであるが、乙川については本人が、あくまでも自分の道を歩むというのでさらに反省と再考を促している状態であり、また甲野については同人の父の本人を郷里の大学に転校させたいという希望を学校側がいれた状態になつていたが、12月4日頃になり「学生3名退学処分さる」という事実と相違するビラがまかれた。これを契機として新聞記者が取材のため来学して学校当局者に面会を強要した。このため学内の空気は攪乱され、一部の学生は動揺していたずらに混乱の度を増すばかりであつた。
[32] 同月15日40名を越える労働者を混じえた学外団体が守衛の阻止を強引に突破して大学構内に侵入するという事態が発生したが、この侵入直後甲野がハイヒール姿にハンドバツク携帯という学生らしからぬ風体で学内に姿を見せ、学外の人間と一見して分る男に対して先に侵入した学外団体の方向を指示してその団体の中に加わらしめた。このような奇怪な行動は学校に対して不信の念をうえつけるに充分であつた。
[33] 昭和37年1月20日発売の雑誌「女性自身」に乙川が林という仮名で事実を歪曲した手記を発表し、世間に昭和女子大学について不当な印象をうえつけた。
[34] 同月26日麻布の公会堂における全都学生集会において、原告両名が演壇に立ち、事実無根のことを聴衆に訴え学校側を誹謗し、いかにも大学が正当な教育を行つているところではないかのように語り、今後も闘争を続ける旨宣言した。
[35] 2月7日になり原告らが突然そろつて登校したので両名の心境を確めるため,玉井学長と坂本文家政学部長が面談し「外部でいろいろと学校を誹謗しているのはどういうつもりであるのか。」と理由をただすと「事実を述べただけです。」とうそぶき、およそ学校と融和する態度ではなく、さらに今後も自己の信念に徹し過激運動を推進するという趣旨のことを挑戦的に述べたので、その不心得を懇切にさとしたが聞きいれる様子はなかつた。
[36] 2月9日東京放送の「朝のスケツチ」の時間に「荒れる女の園」というその題名からもわかる興味本位に構成された番組に原告両名が出て煽動的なアナウンサーの解説づきで歪曲した事実の数々を述べ学校を誹謗した。

三 退学処分
[37](一) 大学の学生に対する懲戒処分は、教育施設としての大学の内部の規律を維持し、教育目的を達成するために認められる自律作用にほかならない。そして、懲戒権者たる学長が学生の行為に対して懲戒処分を発動するに当り、その行為が懲戒に値するものであるかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決するについては、当該行為の軽重のほか、本人の性格及び平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人及び他の学生におよぼす訓戒的効果等諸般の要素を考量する必要があり、これらの点の判断は、学内の事情に通ぎようし、直接教育の衝に当る者の裁量に任すのでなければ、適切な結果を期することのできないのは明らかである。従つて、学生の行為に対し、懲戒処分を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決することは、その決定がまつたく事実上の根拠に基づかないと認められる場合であるか、もしくは社会観念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任かされた裁量の範囲を逸脱するものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。(最高裁昭和29年7月30日判決民集8巻7号1501頁、同1463頁)
[38](二) しかも、私立大学はそれぞれ独自の教育方針ないし校風を樹立してきているのであるが、そもそも、教育は大学と学生の信頼関係に基づき、大学の制定する教育方針と秩序に従つて遂行されてはじめて可能となるのである。多数の私立大学の中から特定の大学を選択して入学した学生は、当該大学の教育方針や学則に服従して勉学すべきことを当然に義務づけられているのである。
[39] しかして、昭和女子大学は穏健中正な教育を施すことを基本方針として、この線に沿つて、学生に対し勉学と人格の涵養を第一とし、政治活動等には関係しないよう指導することを基本的教育方針として採用しているのである。原告らはこの教育方針ないし大学の学則を遵守すべきことを誓約して入学したのである。
[40] しかるに、先に述べたように原告甲野は「生活要録」に違反して大学に無届で政防法反対の署名運動を行い、大学の許可なく民青同なる政治団体に加入し、原告乙川も同様に無許可で民青同に加入した。この原告らの行動が大学の基本的教育方針に背き、かつ大学の学則に違反し、教育秩序を乱すものであることは明らかである。
[41] このような原告らの行動に対し、前述のように、学校側としては約3ケ月の間原告らの補導に努力を重ね、なんとか学生の本分に戻つてもらうよう専心指導したのであるが、原告らはこれを一顧だにせず、戊川が反省して12月4日から登校し勉学をはじめた後も、頑強に反省の色も見せず、学校側の期待を裏切り、前述のように次々と学校を誹謗する行動に出て、大学の信用を公然傷つけ、その不心得をさとされてもいささかも改悛の情をあらわさなかつた。そこで学校としてはこれ以上補導を続けても無駄であると考え、原告らの行為の他の学生に与える影響、学内の静粛維持の必要等諸般の事情を考慮して、2月10日の教授会にはかり、原告らの学則違反の行為にはじまる一連の行為が、昭和女子大学学則第36条第4号にいう「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した者」に該当するものと認め、全員一致で退学処分の決定をし、それぞれ通知をしたのである。
[42](三) 原告らは、本件退学処分が原告らの思想及び信条を嫌悪してなされたものであると主張するが、大学の退学処分の事由は、以上述べたとおりであつて、原告らの主張はなんら根拠のない、いいがかりに過ぎないものである。
一 署名運動について。
[43] 政防法反対の署名運動をしたのは、原告甲野のみであるから、原告乙川についてはこの点は問題とならない。原告甲野の署名運動は昭和36年10月24日から27日までの4日間、日本文学科3年のクラスの友人から得たものであり、その数は教師1名を含む16名である。この署名は、当時立法が行われようとして国会内外で問題とされていた政防法反対請願の署名であり、国会に対する請願行動として行われたものである。従つて、これは法律の制定に関するという点で政治的意味をもつが、請願という憲法上の権利行使として何人からも拘束を受けない性質のものである。しかも、これらの請願署名は、休み時間、放課後に限つて行われたものであり、原告甲野はこの署名運動を行うため学校を欠席したとか、授業を放棄したなどのことはまつたくなかつたのである。同原告としては、街頭、駅頭などで通常行われている請願署名運動についても、それほど重大なものとは考えてもいなかつた。10月28日に訴外丁山から右の署名が大学当局で問題となつていることを聞き、戸谷補導主任と面会してはじめて、大学当局において重大視していることを知つたものである。被告の主張は本件の署名運動が憲法上の権利の行使であることを無視しているものというべきである。

二 学外団体加入について。
[44] 原告乙川が10月当時民青同に加入していたこと、同甲野が加入手続中(加入していた事実は否認する。)であつたことは認めるが、原告らの民青同加入は、これに加入して組織的活動をするというよりはむしろ、民青同で行われる読書会、研究会等に出席し、自己の人生観や、社会科学に関する知識を深めるためのもので、これによつて学校を欠席したり、授業にさしつかえのある行動をしたことはまつたくなかつた。
[45] 原告らが民青同に加入するについて、大学当局の許可を得なかつたことは認めるが、穏健中正を標榜する昭和女子大学において、その後の事情等からみても民青同に加入することを許可するはずはなく、右の許可制によつて、結局は、学生の思想を統制することを目的としているもので、かような思想自体の統制が許されないことは先に述べたとおりである。

三 雑誌、放送、会合における原告らの言動について。
[46] 原告乙川が「週刊女性自身」の昭和37年1月29日号に日記を掲載したことは認めるが「良妻賢母か自由の園か」と題する記事は、編集者が適宜「タイトル」をつけて構成したもので、原告らはこれにいずれも関係していない。また、記事の内容になつている乙川の日記は同原告の経験した事実のありのまゝであつて、事実をわい曲したり、虚偽の事実を附加したことはない。そればかりでなく「女性自身」がこの記事を出したのは大学当局が原告らの学校復帰をほとんど考慮していない時期であつて、これを退学処分の1つの事由とするのは口実に過ぎない。
[47] 昭和37年2月9日の東京放送「朝のスケツチ」もその放送の編集や構成について原告らのなんのかゝわりもない。右の放送は原告らの発言があるだけではなく、昭和女子大学の他の学生の声も聞かれ、その内容はことごとく原告らの主張を裏書するものである。
[48] 同年1月26日の麻布公会堂の会合における原告らの発言はいずれも学生としての節度を守つて行われたもので、この内容は事実ありのまゝを述べたに過ぎないものである。そればかりでなく、この会合は、前述したように、大学当局の原告らに対する扱いが余りにも不当であるため、これを撤回する運動をしていた「不当処分反対共斗会議」が主催し、組織したものである。
[49] なお、被告は原告甲野が学内に「デモ」隊を誘導したものの如く疑つているけれども、同原告は「デモ」に参加、誘導した事実はなかつたばかりでなく、それとは全く別の方向にいたものである。
一、退学処分までの経過。
[1] 当事者間に争いのない事実に、成立に争いのない乙第1、第2号証、第4号証の1、2、第6号証、第8号証の1、第12号証の1、及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める第10、第11号証、証人戸谷三都江、同保坂都、同玉井幸助、同丙田加代子、同内藤恭子の各証言、原告両本人尋問の結果ならびに録音テープ検証の結果を合せ考えると、次の事実を認めることができる。すなわち、
[2] 被告大学文家政学部日本文学科3年に在学していた原告甲野及び訴外戊川千代子の両名は、原告甲野が民青同所属員からもらい受けた、政防法反対のための署名用紙を学校当局に無届で学内に持ち込み昭和36年10月20日頃から数日にわたり十数名の級友らの署名を集めた(たゞし、署名のしゆう集は休けい時間や放課後を利用して行われたもので、このため原告甲野らが学校を欠席しまたは学業を放棄することはなかつた。)。たまたま一父兄から右署名しゆう集の事実について学監の人見円吉に対し電話連絡があつたところから、学校側がこれを知り、ことを重大視した学校側としては、同大学の教員によつて構成されている補導担当者会議を開き、右の事実が学生手帳(被告学校当局が作成し、学生の遵守すべき事項を集録したものとして、入学に際し全学生に配布したもの。乙第2号証)の「生活要録」6の6「学内外をとわず署名運動、投票………などしようとする時は事前に学生課に届出その指示を受けなければならない」の規定に違反するものとして調査が開始され、署名運動に関係した学生に対し個別的な取調べが行われることとなつた。
[3] 右のような事実が大学当局で問題とされていることを知つた原告甲野は、同月30日、31日の両日にわたり原告ら所属クラスの補導主任である戸谷助教授(現在教授)を訪ね署名運動について謝罪するとともに、他に処分者を出さないならば自分が責任を負う旨申し出た。学校側はこの頃から同年11月13日頃までの間、日本文学科3学年の署名をした者及びクラスの総務委員らを取り調べた結果、右の政防法反対の署名運動の外、原告甲野と原告乙川及び前記戊川が民青同に加入しているとの情報を入手し(たゞし、原告甲野についての学校側の認識は正確でなく、同人は当時民青同に加入申請中であつたことが事実の真相である。)、従来、学生の思想の穏健中正を標榜し、いわゆる左傾学生なるものを出していないことを誇りとしてきた同大学としては、原告らが学校当局に無断で、世上左翼思想的政治団体と目されている学外の団体に加入した事実が、前記「生活要録」8の13「学生は補導部の許可なくして学外団体に加入することができない」の規定に違反するものとして、このことを一層重視したが、同月13日の補導主任会議においては、保坂教授(日本文学科4年級の補導主任)から経過が報告されただけで、穏便にことを解決することとした。
[4] この間11月8日には戸谷補導主任と小川学生課長が原告甲野と会い、補導の名目の下に、事実上同人の登校を禁止し、また同日戸谷補導主任は、面会を求めてきた原告乙川に対しても、同様の措置をとつた。同月15日には戸谷補導主任と保坂教授が原告乙川を呼び出し、3時間余にわたつてその責任を厳しく追求した結果、同原告は、戸谷補導主任の差し出したメモ用紙に「昭和女子大学の校則に反した責任として退学致します」と記載してこれを同主任に渡した。そして翌16日同主任は、原告らのクラスにおいて、原告らが責任を負い自発的に退学した旨を報告するとともに、出席簿(科目別の出席簿)の原告らの氏名を朱線で抹消し、爾後出欠点検の際原告らの氏名を呼び上げないこととした。その後、原告らの父兄が11月20日及び29日に学校側と話し合いをし、なお翌30日には人見学監が乙川を呼び出し、話し合いをした。ところが同年12月に入つて事件について学内でビラがまかれるなどのことがあり、また大学に「デモ」隊が来るとの情報が学校側に入り、通常12月19日に行われる終業式が12月15日に繰り上げて行われたが、この日外部の11団体から成る「デモ」隊が原告らに対する不当処分に抗議すると称して学校におしかけて来た。その際、学内にいた甲野が遅れて来た「デモ」参加者に「デモ」隊のいる方向を指示したことから、学校側としては同人がデモ隊を誘導したとの嫌疑をいだくにいたつた。しかし、同月18日に開かれた教授会においては、なお原告らについて補導主任会議の結論と同じく穏便な解決方法をとることとした。昭和37年1月18日の教授会でも同じような意見があつたが、同月20日発売された週刊女性自身に「良妻賢母か自由の園か」という見出しで、事件の発端以来被告大学当局が原告らに対してとつた一連の措置を「古さと新しさ、自由と封建性。その断層が生んだ悲劇。」として、批判的に記載した記事中に、乙川が林という仮名を用いて事件について戸谷補導主任、保坂教授から受けた取調べの状況についての日記を発表したこと、及び同月26日麻布の公会堂において都内各大学の学生自治会、民青同、その他の団体の主催によつて行われた「戦争と教育反動化に反対する討論集会」において、原告らがそれぞれ署名運動の発端から原告らが登校を禁止された後の経過を述べたことを、学校としては原告らが外部で学校を誹謗したものと認めて後に原告らに対する処分の決定的要素とした。
[5] 同年2月初旬頃原告らは、出席簿の原告らの氏名の抹消が復活され再び原告らの氏名が呼び上げられている旨を級友から聞知したので同月7日に原告らが登校して講義を受けたところ、同日の午後それぞれ玉井学長から呼ばれ、その際原告らに反省の誠意がなくその態度が挑戦的であると認められ、なお登校を禁止された。同月9日東京放送の「朝のスケツチ」の時間に原告らの事件が「荒れる女の園」という題名で放送され、その中で原告らが戸谷補導主任や保坂教授に取調べを受けた模様を述べたことが、学校側としては事実を歪曲し、大学を誹謗したことにあたるものと認めて、ここに至つて、右の事件の発端から学校側のいう補導の過程を経て、2月9日のできごとに至るまでの一連の原告らの行動、態度が昭和女子大学の学則第36条第4号の「学校の秩序を乱しその他学生の本分に反した者」に該当するものとして、同月10日教授会において退学を決議し、同月12日付で原告らを退学処分に付した。以上の事実を認めることができる。証人戸谷三都江、同保坂都、同玉井幸助の各証言中以上の認定に牴触する部分は当裁判所の措信しないところであり、他に右認定のさしさわりとなるような証拠はない。

二、補導の過程。
[6] 以上に認定したところが、事件の発端から退学処分が行われるに至るまでの経過事実の要領であるが、後に述べるように、本件においては、被告のいう補導の過程なるものの適否が問題となり得るので、この点に関する事実をさらに詳細に検討してみると、当事者間に争いのない事実及び前掲各証拠を総合して、次の事実を認めることができる。
(一) 原告甲野について。
[7] 前述のように、原告甲野は、署名しゆう集について学校側が問題としていることを知り昭和36年10月30日、31日の両日にわたり戸谷補導主任を訪ね、無届で署名運動をしたことにつき謝罪したところ、同主任から、署名用紙の出所や署名者の氏名を問いたゞされ、この事件が学校の伝統校風からみて、あたかも三面記事に「スキヤンダル」が出たのと同程度に学校の名誉をけがすこととなり、原告らの責任が重大である旨の説諭があつた。同原告はこれに対し、署名用紙は国会に提出されるもので、学校名を表示して署名したものではないから学校の名誉を傷つけることとはならない旨の弁解をしたところ、戸谷主任は、署名が必ず国会に提出されるとの保障はないのみならず、この事件が被告大学内に共産党細胞が存在するとの印象を世間に与えることともなり、原告らの責任が極めて重大である旨をくり返し強調したところから同原告としても、学校側が予想外にこの事件を重視していることをさとり、署名運動については自分が責任者であるからこの事件についてこれ以上追求せず他に処分者を出さないならば自分が責任を負う旨を申し出た。これに対し戸谷主任から現在の段階では、原告甲野のみが責任を負うべきものかどうか事情が十分明らかでないから慎重に行動するようにとの説諭があつた。
[8] 右のいきさつがあつてから、原告甲野は心身の疲れからしばらく学校を休んでいたところ、その間学校を訪れた同原告の叔父(代理保証人)から、学校側では、署名運動のほか、民青同加入の事実を重視しており、民青同をやめれば処分しない方針であるとの趣旨を聞かされ、また同月6日人見学監が「近代文学」の時間において「この学校は10年間左翼団体から狙われており、現在、教師1名と学生3名からなる民青同の細胞が存在しているので、これを根こそぎに退治する必要があり、もし民青同加入者がこれを脱退して謝罪するならば許さぬでもない」との趣旨を述べた旨を級友からの連絡で知つた。そこで、原告両名及び署名に関係した学友らが同日学級委員の1人である訴外丙田加代子方に集合し、対策について相談したが、その際、戊川はまず父母の意向や家庭の事情から民青同を脱退せざるを得ない旨を述べ、原告ら両名も、他の級友らから「民青同をやめて一緒に学校を続けてほしい」旨の懇請を受け、とくに親しい級友から、もし原告らが民青同をやめないために退学となるならば自分らも一緒に退学する旨を泣いて訴えられたこと、原告らの父兄からもまた、原告らの思想、信条はともかく、この際、無事学校を卒業するため少くとも残りの1年数ケ月だけは民青同をやめてもらいたい旨の懇請を受けており、原告ら自身もまた学業を続けることになお強い執着をもつていたこと等の事情から、結局、原告ら両名も在学中は民青同との関係をたつ旨の意思を表明した。
[9] そこで、原告甲野は、同月8日学校に戸谷補導主任と小川学生課長とを訪れ、署名用紙の出所及び署名者の氏名のほとんど全部(署名者のうちに含まれていた被告大学の教員1名の氏名とその際思い出せなかつた学生1名の氏名を除く全署名者の氏名)を打ち明けるとともに、同原告は現在民青同に加入手続中であるが、民青同に加入することが問題であるならばこの際加入をとりやめる旨の申し出をしたところ、戸谷主任から、一旦組織にはいつた以上簡単にやめられるものではない旨の発言があり、民青同加入者の氏名やその活動状況を洗いざらい申し述べるよう要求された。しかし、同原告は他に迷惑を及ぼすことをおそれ、これを拒んだところ、戸谷主任は、それでは民青同をやめるといつても精神的なつながりは断ち切れてない旨を述べたので、同原告は、「精神的なつながりぐらいはあります」旨を答えたところ、戸谷主任から、しばらく家で謹慎しているよう申し渡され、事実上登校を禁止された。
[10] そこで、原告甲野は、藤沢市在住の代理保証人方で謹慎していたところ、同月11日学校側の呼び出しで、戸谷主任及び保坂教授に会つたが、その際、まだかくしていることがある旨を追求されたので、前回申し述べなかつた2名の氏名を述べた。次いで同月15日原告乙川から、同原告と戊川とが退学の文書を書かされた旨の報告を受け、翌16日には、級友から、戸谷主任がクラスにおいて原告ら両名及び戊川の3名は責任を負つて自発的に退学したとの報告があつた旨及び出席簿の原告らの氏名が朱で抹消されている旨の連絡を受けたので、同月17日戸谷主任の報告は事実に反する旨をクラスで報告する目的で登校したが、戸谷主任から教室から出るよう命ぜられた。翌18日にも同じ目的で登校したところ人見学監から、「君は退学すると言いながら何故登校したか」との難詰を受けたので、これに対し、同原告は10月31日に自分が責任を負う旨を申し出たのは、これ以上外の者を追求せず他に処分者を出さないならば自分が責任を負うとの趣旨で申し述べたもので、任意に無条件で退学する旨を申し出た事実はない旨を述べたが、人見学監はこれをとりあわなかつた。その後11月20日原告の父と代理保証人とが人見学監を訪れ謝罪したが、なお復学につき確約を得ることができなかつた。
[11] 右のような経過で、学校当局は、原告らにつき事実上の退学の取扱いをする一方、原告らの学友につき原告らの思想的傾向を調査するとともに、11月10日頃から以降原告らを他の学友から隔離する方針をとり、原告甲野と同じ下宿に下宿していた学友を他に転居させる等の方法をとつた。以上のような一連の措置は、同原告をかえつて反抗的態度へと追いやり、外部団体との接触を一層深めさせる機縁となり、その結果、同原告は、同年12月中民青同に正式に加入するに至つた。その後原告甲野が正式に退学処分を受けるまでの経過事実は前述一、において認定したとおりである。
(二) 原告乙川について。
[12] 原告乙川は、署名運動には関係しなかつたが、民青同にはすでに加入していたところ、昭和36年11月6日「近代文学」の時間において人見学監から「この学校は10年間左翼団体から狙われている云々」の発言があつた際に同原告も出席していたところから、学校側が同原告の民青同加入の事実を問題としていることを知り、同日、前記(一)で述べたように、対策を協議するため、原告甲野らとともに丙田加代子方に集合し、その席で前述のような事情から原告甲野とともに在学中は民青同との関係をたつ旨の意思を表明した。そして同月8日戸谷補導主任に面会を求めてその旨を申し出る積りであつたが、同日は、同主任から面会を拒絶され、「まだあなたとお話しする段階ではないからしばらく家で勉強しているように」との申し渡しを受け、事実上登校を禁止された。同月15日戸谷補導主任から午後5時に学校に出頭するように、との連絡を受けてその時間に出頭したところ、8時半頃までの間約3時間半にわたつて同主任と保坂教授から厳しく同原告の責任を追求されたが、その際保坂教授から「本学は創立以来かつて1名の左傾学生やデモ参加学生を出したことはない」旨の記載のあるパンフレツトを示され、原告乙川がこのような学校の伝統と誇りを傷つけた責任は重大であり、単に泥棒をしたとか「カンニング」をしたという程度にとどまらず、殺人に匹敵するもので、いくら謝つても殺した人が生き返らないと同じように一旦傷つけられた信用は取り戻すことはできないものであるから、同原告が学生として責任をとることが当然である旨を説諭された。これに対し同原告は今後は学則を守つて勉学に専念したい旨申し出たが、保坂教授はまつたくとりあわず、今は、過去に犯した責任をどうするかが問題である旨を強調し、原告甲野と戊川とは立派に責任をとつた旨を述べ、「校則に反した責任として退学致します」と記載された戊川の署名のある紙片を示して、暗に同原告にも同旨の意思表示をするよう示唆した。そこで、同原告としては、他の学友にも迷惑をおよぼすことを阻止し長時間の説諭から解放されるためには、ひとまず退学の意思表示をするほかはないというような気持に追い詰められて、戸谷主任の差し出したメモ用紙に戊川と同趣旨の記載をしてこれ(乙第8号証)を差し出した。 [13] 翌16日戸谷主任から原告らが責任を負い退学した旨の報告があり、出席簿の氏名が抹消され、爾後、事実上退学の取扱いを受けたことは(一)において述べたとおりであるが、同月17日同原告の父が学校を訪れ小川学生課長に会い、日頃1日の欠席についても父兄の印鑑を要求するほどの被告大学当局が、父兄に連絡する機会も与えず長時間の説諭の末退学文書を書かせたことについて学校側の措置を難詰するとともに、今一度退学の意思表示前の状態に戻して話し合いの機会を作つてもらいたい旨を懇請したが、同課長は原告乙川がすでに気持よく退学したと称して、まつたくとりあわなかつた。同月30日人見学監から呼び出され、どんな本を読んでいるかなどと聞かされたが、その際、何とか学業を続けるようにとの父の切望もあつたところから、民青同に加入していることが問題であるならばこれを脱退する旨を申し出たが、同学監から「組織というものはそう簡単にやめられるものではない。頭の中の思想まで変えられるのか」といわれたので、同原告が、自分の考え自体はそう簡単に変えられない旨を答えると、同学監は、それでは反省が足りない、反省ができるまで学校に来なくてもよい旨を同原告に申し渡した。以上のような学校側の措置が同原告を一層反抗的態度へと追いやり、外部団体との接触を一層深めさせる機縁となつたことは、原告甲野について述べたところと同様であり、その結果、同原告も、民青同脱退の決意を実行に移すに至らずに終つた。その後同原告が正式に退学処分を受けるまでの経過事実は、前述一において述べたとおりである。

三、訴外戊川について。
[14] 戊川は民青同に加入し原告甲野とともに署名のしゆう集に従事し、出席簿の氏名を抹消されて事実上退学の取扱いを受けたことは原告ら両名と同様であるが、思想、信条に対する確信の度合について、原告らと程度を異にしていたところから、昭和36年12月2日付で「一、民主青年同盟をはじめ今後いかなる組織団体にも関係いたしません。一、今回の不始末に関しては今後一切他言いたしません。一、万一民主青年同盟の人から話しかけられたり手紙及びその他の連絡を受けた場合は両親を通じて学校に報告します。一、いろいろ疑問を生じた場合自分1人で判断せず補導主任の先生や両親に相談いたしその上で解決して行きます。一、今後は学則に違反するような事は絶対に致しません。」と記載した誓約書(乙第9号証の1)を学校に差入れ登校を許された。
[15] 被告が補導の過程と称するものの内容は、おおよそ、以上のとおりであつたと認められる。右認定に反する証人戸谷三都江、同保坂都、同玉井幸助の各証言は当裁判所の措信しないところである。
一、在学関係の法的性質。
[16] 学生が入学を認められることによつて大学と学生との間に生ずる法律関係の性質をいかに解するかについては、いろいろの見解があり得るが、いずれの見解をとるにせよ、大学が学生の集団に対し教育を行う施設であり、学生が入学を求める行為は、かような教育施設に包括的に自己の教育を託し、学生としての身分を取得することを目的とする行為であるということの本質から、学校当局は、その施設を管理運営し、教育を実施するため必要があるかぎり、とくに法規上の根拠がない場合でも、一方的に学則を制定し、学生に対し具体的指示命令を発することができ、入学を認められた学生は、入学に際して、学則の内容を具体的に知つていたかどうかにかかわらず、学校当局の制定する学則やその発する具体的指示命令に拘束される学生としての身分を取得するに至るものと解すべきことにおいては、かわりはないものといわねばならない。とくに、私立大学は、独自の校風と教育方針とによつて、その存在理由を認められるものであるから、学則をもつてその校風ないし教育方針を具体化し得るのはもとより、学則の解釈適用に当つても、その校風や教育方針をしんしやくし、これを基準とすることが許されるものと解さねばならない。従つて、かような私立大学に入学を認められた者は、入学に際し、学生の政治活動等が学則によりいかなる範囲において規制を受けるかについて具体的に知るところがなく、また、学則違反の行為が学校の教育方針上いかなる程度において軽重の評価を受けるかについて具体的に知るところがなかつたとしても、(学則等を具体的に知らなかつたことが、これに違反する行為の情状の評価にあたつてしんしやくされることのあるのは格別)入学と同時に、学則の定めるところに従つて政治活動等の自由につき規制を受け、その犯した学則違反の所為につき、校風ないし教育方針を基準として軽重の評価を受けることとなることも一応是認されなければならない。(これらの点については、思想、信条の自由の保障との関連において一定の制限があることは後に述べるとおりであるが、ここでは、以下の判断に必要なかぎりにおいて一般的な考え方を述べるにとどめる。)学生が入学を認められることによつて学校当局との間に発生する法律関係の性質を以上のように解すべきことと、さきに認定したように問題の学生手帳が被告学校当局によつて作成され、学生の遵守すべき事項を集録したものとして入学に際し全学生に配布されていることを考え合せれば、右の学生手帳に集録された条項は、学校の教育方針等を具体化したものとして、学則の細則としての性質をもつものと解するのが相当である。

二、学生の政治活動に対する規制の限界。
[17] 学生の本分が勉学ということにあり、大学が学生の集団に対し教育を行う施設である以上、学生が在学中はできるかぎり外部社会の政治活動等に影響を及ぼされることなく勉学にいそしむことが望ましいことであると同時に、学校当局が、外部の政治状勢等によつて学内の平穏な教育的環境が害されることのないよう適当な配慮をすることは、教育機関としての当然の責務といわねばならない。ただ、学生が市民社会の一員として当然しなければならない政治的行為(選挙権の行使等)や憲法上保障された請願権の行使等を許されないとすることのできないことはもとよりであるが、それを越える学生の政治活動に対し、いかなる方法、程度により規制を加えることが教育上適切かつ合理的であるかを決定することは困難な問題であり、各学校の学風、教育方針等によつても異なり得ることを認めざるを得ない。学生の自由に対する制限を最少限度にとどめる教育方針からいえば、学外における政治活動を学内に持ち込むことによつて学内の秩序を現実に害することを許さないとする限度において、これを規制することが適当であるともいい得るであろう。けれども、学外の政治活動と学内の政治活動とを厳密に区別することは困難であるのみならず、たとえ学外の政治活動であつても、学生がこれに没頭することは学業をおろそかにし、また学外の政治活動を学内に持ち込む危険を伴うことも否定し得ないところであつて、世の父兄のうちには、学生の学外における政治活動に対しても、教育的見地から適切な規制が加えらるべきことを望む者も少くないことは、成立に争いのない乙第12号証の1、2及び前掲証人戸谷三都江、同保坂都、同玉井幸助の各証言によつてこれを推認することができる。この見地から考えれば、比較的保守的な教育方針をとる学校が、政治団体によつて指導された政治的「デモ」の手段としての署名運動(単純な請願権の行使としての署名活動とは一応区別することができる。)に学生が参加することを許さないとする方針の下に、学則をもつて、学生がこの種の署名運動に参加するについては学校当局にこれを届け出て指示を受くべきものとし(学生手帳「生活要録」6の6参照)、また政治活動を目的とする学外の団体に学生が加入することを許さないとする方針の下に、学則をもつて、この種の団体に加入することを許可制とし(「生活要録」8の13参照)、かような基準(以下保守的基準という。)によつて学生の政治活動を規制することが、いちがいに、学生の自由に対する不合理な制限であると断定することはできないものといわねばならない。このことと、(一)において前述したところとを考え合せると、かような教育方針をとる学校に入学を認められて学生となつた者は、たとえ入学に際し学則の内容を具体的に知らなかつたとしても、右保守的基準の限度において政治活動や学外の団体に加入することにつき制限を受けることとなつてもやむを得ないところであり、自らその学校を選んで自己の教育を託した以上、これをもつて、不合理な自由の制限として非難することはできないものといわねばならない。

三、学校教育法施行規則第13条第3項第4号、学則第36条第4号により退学処分を行い得るための要件。
[18] ところで、被告大学の学則の細則としての性質をもつ「生活要録」の6の6「学内外をとわず署名運動、投票……などしようとする時は事前に学生課に届出その指示をうけなければならない」及び同要録8の13「学生は補導部の許可なくして学外の団体に加入することができない」の条項は、その表現において、前記保守的基準に照らしてもなお広きに過ぎることは明らかであるのみならず、これらの条項の実際の適用にあたつても、右の保守的基準に照らして適法とされる限度において合理的に運用されていたかどうかについても疑いがないではないが、それはともかく、さきに認定した事実によれば、原告甲野が学内で政防法反対のための署名用紙に署名をしゆう集した事実は動かし難いところであり、また、原告乙川が世上左翼思想的政治団体と目されている民青同に加入し、原告甲野もまた事件発端当時これに加入手続中であり、しかも、原告乙川本人の供述によれば、同原告は、民青同に加入することが規則上許されないことを知つていたというのであり、原告甲野本人の供述によれば、同原告もまた、学校の教育方針上前記の所為が許されないものであることは知つていたというのであるから、これらの事実に(一)において前述したところを考え合わせてみると、被告学校当局が、原告らの右所為を、学校の教育方針にそむき、学則に反する行為として重視したことは、一応理由がないことではない。
[19] しかしながら、学生に対する懲戒処分は、本来、教育目的と学内の教育的環境の保持のために認められるものであつて、各種懲戒処分のうち退学処分は、当該学生にもはや教育的改善の余地が認められず、これを学外に追放することが学内の教育的環境を保持するために真にやむを得ないと認められる場合になさるべき最後的手段であり、これを受ける学生にとつては、入学を許可されることによつて認められた教育を受ける権利を奪われる結果となるものであるから、懲戒退学処分は、それが認められた本来の趣旨に従い、最も慎重に行われなければならないことは当然である。学校教育法第11条に基づく同法施行規則第13条第3項は、私立大学も国公立の大学も、ともに、社会公共のために教育という公的任務を引き受ける施設として共通の性格をもち、そこで行われる懲戒作用もまた共通の性質をもつことを前提として、懲戒退学処分が右述の趣旨において慎重に行使されねばならないとの見地から、これを実施し得べき場合を限定的に列挙したものと解すべきであり、右施行規則と同内容の被告の学則第36条も同趣旨に解するのが相当である。
[20] この見地から考えれば、前記施行規則第13条第3項第4号にいう「学校の秩序を乱し、その他学生の本分に反した」行為があつたものとして懲戒退学処分を行い得るためには、学生の犯した行為が学校の秩序を現実に著しく乱し、若しくは著しく学生の本分に反するようなものであつて、これに教育的見地から反省を促す余地がないと認められる程度に情状の重いものである場合は格別、そうでないかぎり、原則として、教育機関にふさわしい方法と手続により本人に反省を促す過程を経る必要があり、この反省過程を経た後においてもなお反省の情が認められず、再び同種の行為を犯す具体的危険が存在すると認められる場合に初めて退学処分を断行し得るものと解さねばならない。(この点において、教育機関が学生に対して行う懲戒退学処分は、一般企業における懲戒解雇や公務員に対する懲戒免職処分が、必ずしも、教育的見地において本人に反省を促す過程を経る必要がないのとは、趣を異にするものがあるものといわねばならない。)これを本件についていえば、被告大学の保守的教育方針と伝統を尊重する立場から、原告らの犯した前記所為をもつて、学則第36条第3号にいう「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した」行為に当るものと評価することが許されるとしても、これらの行為が、その情状において極めて重く、教育的見地から反省を促す余地がないと認められるようなものでないかぎり、一応、教育機関にふさわしい手続と方法により反省を促す過程を経る必要があり、この課程を経た後においてもなお原告らに反省の実が認められず、依然、同種の行為を犯す具体的危険が存在すると認められる場合にかぎつて原告らを退学処分に付し得るものといわねばならない。ことに現代の社会的、政治的、教育的環境の下において、精神的に動揺しやすく、外部社会の政治状勢等に影響されやすい年令層の学生の教育を引受ける教育機関としては、思想問題に対する理解を伴う適切な方法と手続により本人に反省を促す過程を経由すべきことは、単に道義的責任であるにとどまらず、法的義務に属するものといわねばならない。

四、私立大学と思想、信条の自由の保障との関係。
[21] さて、私立大学は、さきにも一言したとおり、独自の校風と教育方針とによつて存在価値を認められるものであつて、国公立の学校が宗教教育を行ない得ない(憲法第20条第3項、教育基本法第9条第2項)のとは異なり、学生の信教の自由を害しないかぎり宗教教育を実施することが自由であると同様に、いわゆる左翼思想なるものを好ましくないとする見地において「穏健中正な思想」をもつて教育の指導精神とし、保守的教育態度をもつて伝統的校風として鼓吹することもまた一応自由である。従つてまた、学校当局が学校の教育方針にそわない所為のあつた学生に対し反省を促すに当つて「穏健中正な思想」ないし保守的校風をもつて説得のよりどころとすることもまた一応自由である。
[22] しかしながら、他面、わが憲法第19条は思想の自由を保障し、同法第14条は信条のいかんによつて差別待遇をすることを許さないとする原則を掲げている。これらの規定は、直接には、国家対国民個人との関係において、個人がいかなる思想、信条をもつかによつて、国家からいかなる干渉も受けず、またなんらの不利益な取扱を受けることもないとの趣旨を宣言したものではあるが、同時にまた、これらの規定は、個人相互間の社会生活においても、いかなる思想、信条をもつかによつて、なんらの干渉ないし不利益を受けることのないような社会を理想社会として予想していることは疑いをいれないところであり、この意味においては、憲法のこれらの規定は、社会生活における個人相互間においても、思想、信条が互に尊重され、思想、信条のいかんによつて互になんらの干渉、不利益を及ぼされることがないことを、社会の公の秩序として尊重すべきことを要請する趣旨を含むものと解さねばならない。しかも、教育基本法は、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して……教育の基本を確立するため」に制定されたものであつて、同法第3条が、信条のいかんによつて教育上差別待遇を受けることはない旨の原則を掲げ、同法第6条が、法律(すなわち学校教育法)に定める学校(私立学校を含む。学校教育法第2条参照)は「公の性質をもつ」旨を明記しているのは、教育の作用が社会公共のためのものとして公の性質をもつことを前提として、私立学校もまた、国公立の学校とともに、社会公共のために教育の作用を分担すべき責務を負う点において公的性質をもつものであるとの見地に立つものと解すべきであつて、教育基本法及び学校教育法が、私立学校を国公立の学校と並んで、これらの法律の規制に服させることとし、私立学校法第1条が私立学校が「公共性」をもつ旨を明らかにしているのも、すべて、右の見地を裏書きするものと解すべきである。これらの点から考えれば、私立大学もまた、それが教育基本法、学校教育法及び私立学校法の適用を受ける学校である以上、個人がいかなる思想、信条をもつにせよ、単にそれだけの理由でこれに対し教育の門戸を閉すことは許されないとともに、学生が学校の教育方針とする思想と異なる思想をいだくに至つたとしても、これに基づき現実に学内の教育環境を乱し、その他学生の本分にもとる具体的行為が行われるに至らないかぎり、単にかような思想をいだいているということだけで、その学生の教育を受ける権利を奪うことは許されないものと解すべきである。このかぎりにおいては、私立大学もまた、国公立の大学と同様、学生の思想に対して寛容であることが法律上要求されているものといわねばならない。
[23] 従つて、被告大学当局が、原告らに反省を促す方法として、左翼思想の好ましくないゆえんを説き、「穏健中正な思想」ないし保守的校風をもつて説得のよりどころとすることのできることは前述のとおりであるが、その説得が原告らの思想を改変させることにおいて効を奏するに至らなかつた場合においても、原告らが学校当局の好ましくないと考える左翼思想をいだき、差し当つてこれを改変する意思がないと認められることが、それだけで当然に「学校の秩序を乱しその他学生の本分に反した者」に該当し、退学事由に当るものとし、退学を免れるための条件が思想自体を改変することにあるものとして、どこまでも思想の改変を要求することは、思想の問題につき公的教育機関(社会公共のために教育の作用を分担する機関である点において公的性質をもつ機関の意。以下この意義に使用する。)に要求される寛容の基準を越えるものとして許されないところといわねばならない。換言すれば、学校当局が好ましいと考える思想や校風をよりどころとする説得が効を奏しない場合において、公的教育機関に許される説得の基準は、在学中は、思想とこれに基づく実践的政治活動とを区別し、学生であるかぎり、現実の政治活動によつて学内の平穏を害しその他学生の本分に反するような具体的行動に出ることなく、学則を守つて学業に専念すべきことを誓わせることをもつて限度とすべきであり、たとえ、思想自体の改変が誓われない場合においても、右の基準に照らして反省の実が認められ、もはや、現実の政治活動によつて学校の秩序を乱しもしくは学生の本分に反する現実的行為に出る具体的危険が存在せざるに至つたと認められる場合には、退学事由は存在せざるに至つたものと認められねばならない。

五、事実関係についての考察。
[24] 以上の見地から前認定の事実関係を考察してみると、原告甲野の署名しゆう集活動は、そのしゆう集した署名の数が十数名程度で休けい時間中や放課後にこれを集めたものであつて、このため学校を欠席しまたは学業を放棄する等の事実はなかつたこと、原告らの民青同加入に関する事実は、原告甲野に関するかぎり事件発端当時なお加入手続中であり、両名とも加入の動機は実際的政治活動を目的とせず主として読書研究会等に出席して自己の人生観や社会科学に対する理解を深めたいという比較的純真な動機から出たものであつて(加入の動機がこのようなものであつたことは、両原告本人の供述によりこれを認めることができる。)、原告らが他の学友らにとくに民青同への加入を勧誘したことや、前記署名しゆう集の点を除いて、とくに民青同の政治活動と目すべきものを学内に持ち込んだ形跡は証拠上うかがわれないこと、以上の諸点から考えれば、学校当局が、事件の発端の段階における原告らの右所為を、保守的校風と伝統を尊重する立場から「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した」行為に当るものと評価することが許されるとしても、その情状は、比較的軽いものであつて、教育的見地から反省を促す余地がないと認められる程度にその情状が重大なものであるとは到底認められず、このことは、学校当局が、補導と称して原告らに対し反省を促す措置をとつていることからもうかがわれるところである。
[25] そこで、進んで、被告のいう補導の過程なるものが教育機関にふさわしい適切な方法、手続によつて行われたかどうかを検討してみると、前認定の事実関係から推せば、被告学校当局の原告らに対する補導の方法は、まず、事件の発端の段階における原告らの前記所為が、従来左傾学生等を1人も出したことのない学校の伝統と校風を傷つけた意味において原告らの責任は重大であるとし、その責任を自覚させる意味において、一応原告らに責任を負つて退学する旨の意思表示をさせ(原告甲野については、たまたま自ら責任を負う旨の意思を表示していたことをとらえて)出席簿から原告らの氏名を抹消して登校を禁じ、事実上退学の取扱いをした上で、一定の反省期間をおき、反省の情が認められた場合には登校を認めるという方針の下に行われたものと認められるのであるが、その間戸谷補導主任や保坂教授の原告らに対する説得の設例がいたずらに原告らの感情を刺戟し人格を侮辱するようなものであつて教育者の発言として適切を欠くうらみがあつたこと、原告乙川に対し長時間にわたるしつような説得の末、父兄らに相談するいとますら与えず「責任を負つて退学する」旨の書面を差し入れさせ、原告甲野については、他に処分者を出さないならば同原告が独り責任を負つて退学する旨の申出をとらえて直ちに同原告が任意、無条件に退学の意思表示をしたものとして、戸谷補導主任において、前述のように出席簿から原告らの氏名を抹消して原告らが責任を負い任意退学した旨をクラスにおいて報告するとともに、爾後、原告らと級友らとの接触を断ち原告らの孤立化を図つたこと等の措置は、いずれも補導の方法として適切を欠き教育的配慮を疑わせるものがあることは否定し得ないところである。(被告の主張では、出席簿の氏名削除は、クラスの学生に刺戟を与えることを避け、原告をさらし者にしないようにとの配慮から出たものであるとのことであるが、この主張は、右認定の戸谷補導主任の言説等からみても採用できない。)
[26] そればかりでなく、とくに重要なことは、補導の全過程を通じて被告学校当局が、思想の問題について公的教育機関に要求される寛容の基準を守り、思想とこれに基づく現実の政治活動ないし反秩序的活動とを区別し、在学中は思想を直ちに現実的政治活動と結びつけることなく学業に専念すべきであるとの基準において、原告らに対し誠実に反省を促す努力をした形跡は、本件に現われた全証拠を検討しても遂にこれを発見することができないということである。かえつて、(イ)被告学校当局が原告らの責任の重大性を強調し、原告らが任意退学の意思表示をしたものとして原告らの氏名を出席簿から抹消した態度自体がすでに被告学校においては左翼的思想を持つ学生の存在を許さないとする断固たる態度の表明と解されること、(もつとも一旦出席簿から抹消された原告らの氏名はその後昭和37年2月初旬頃から復活されたことは、前述のとおりであるが、それは学校当局が、氏名削除の措置が父兄らの非難を受けることをおそれてとつた措置であつて、これによつて右認定の学校当局の態度を改めるに至つたものでないことは、その後においても原告らがなお登校を認められなかつたという前認定の事実からみてもこれをうかがうことができる。)(ロ)補導の過程において原告らが一旦は民青同を脱退し若しくは加入手続を中止して今後は学則を守り勉学にはげむ旨の申し出をしている事実があるにかかわらず(この申出は、原告らが民青同からの脱退を決意するに至つた事情としてさきに認定したところから推して真情を吐露したものと認められる。)原告らが思想自体を改変するに至らないとしてこの申出を真面目にとりあげず、少くとも、この機会をとらえて思想の問題に対する寛容の基準に従つて誠実に反省を促す努力を傾けた形跡がないこと、(ハ)原告らの氏名を出席簿から抹消し事実上の退学の取扱いをした後の学校当局の措置は、前認定のように補導とはいうものの、実質は、原告らを他の級友らと分離し孤立化をはかるとともに、その思想的傾向を調査することに終始していること、(ニ)成立に争いのない乙第9号証の1、2、原告両本人の供述を合せ考えれば民青同に加入し、原告甲野とともに署名のしゆう集に従事した戊川が、原告らと区別され、退学処分を免れたのは、主として、同人が学校当局から、思想、信条において原告らほどに確信的でなく、結局、思想自体を改変したものと認められたことによるものと推認されること、(ホ)前認定からうかがわれるように学校当局が日頃から左翼思想なるものを極端に嫌忌し、学外の左翼団体が被告学校を攻略目標としているものとして警戒していたこと、以上の諸点を考え合せると、被告学校当局が補導と称して原告らに反省を促すに当つては、思想の問題について公的教育機関に要求される寛容の基準を守らず、左翼的思想をいだくことが、当然に学内の秩序を乱し若しくは学生の本分に反することに該当し、当然に退学事由に該当するものとし、退学を免れるための条件が思想自体を改変することにあるものとして、原告らに対し思想の改変を誓わないかぎり反省の実が認められないとする態度をもつて臨んだ結果、本来、寛容の基準に従えば、反省の実があつたと認めらるべかりしものをそうでないと誤認したか、少くとも、右寛容の基準に従つて誠実に原告らに反省を促す努力を怠つたものと認めざるを得ない。
[27] もつとも、被告学校当局は、原告らに反省の実が認められなかつたことの根拠として、補導の過程でおこつた原告甲野の「デモ」隊誘導嫌疑に関する事件、原告乙川が週刊誌にとく名で日記を掲載させた事件、原告らが麻布公会堂において学外の団体により開催された集会に参加して事件の経過を報告した事件、東京放送「朝のスケツチ」において原告らの発言を録音放送させた事件等をあげ、これらの掲載内容や発言内容が事実を曲げ、学校当局を誹ぼうするものとして、これらの事件を原告らの退学へと踏み切る決定的要素としたものであることは前認定のとおりであり、また、原告乙川がその後なお民青同を脱退せず、民青同への加入手続中であつた甲野がその後これに加入したことも前認定のとおりである。
[28] しかし、これらの事件のうち、原告甲野が「デモ」隊を誘導したとの嫌疑について、当日下級生から事件について報告を聞きたいとの連絡を受けて校門附近に居合せた同原告が、たまたま遅れて来た「デモ」隊の一員に、デモ隊の所在方向を指示したことは認められるとしても、同原告がデモ隊と予め連絡の上これを誘導したりこれに参加したという事実は、本件に現われた全証拠を検討しても、これを認めることができない。その他の事件は、原告らが本来、学内で処理解決すべき問題を学外の団体や集会に訴え、週刊誌や放送に資料を提供した点で、原告らの側にも責められるべき点がなかつたとはいい得ないとしても、週刊誌の記事のうち日記の内容、麻布公会堂の発言内容、録音放送中の原告らの発言内容は、いずれも、おおむね、原告らの経験した事実を述べたもので、少なくとも悪意の歪曲を含むものとは認められない。そればかりでなく、これらの事件は、主として、被告学校当局が思想の問題につき公的教育機関に要求される寛容の基準を守らず、原告らに対し退学を免れるための条件として、どこまでも思想の改変を要求する態度をもつて臨んだことが、前認定のような教育的配慮を欠く学校当局の言説や補導上の不適切な措置と相いまつて、原告らをかえつて反抗的態度へとおしやるとともに、原告らを孤立化することによつて外部団体との接触を深めさせる結果を招来し、また学校当局の右のような態度、措置により、粉争が長期化し、原告らの処分問題が一の社会問題として「ジヤーナリズム」の注目をひく結果を招来したことによるものであつて、被告学校当局が原告らの思想につき公的教育機関に要求される寛容の態度をもつて臨み、適切かつ誠実な補導を怠らなかつたとすれば、これらの事件は、本来さけ得たはずのものであり、このかぎりにおいて、事件の発端後における前記のような一連のできごとは、主として、被告学校当局の責に帰すべき事由により惹起されたものと認めるのが相当である。
[29] このことと、前述のように、原告らが補導の過程において一旦は民青同を脱退し学則を守つて学業に専念する旨の真情を吐露していること、及び、原告らが現在においてもなお学業を放棄する意思がないこと(このことは、原告両名の供述及び本件口頭弁論の全趣旨によりこれを認めることができる。)を考え合せると、事件の発端後における前記のような一連のできごとがあつたということだけで、本件退学処分当時において、原告らが思想の問題についての寛容の基準に照らして反省の実がなかつたとは直ちに認めることはできないのみならず、現在においてもまた、被告学校当局が若し従来の態度を反省し、思想の問題につき寛容の基準を守るとともに、学生の政治活動に対する規則につき少なくとも前記保守的基準をもつて臨むならば、この学校当局の態度に対応して、原告らがしかもなお学則を守つて勉学にいそしむ真しな意思をまつたく放棄するに至つたとみることも、なお早計であるといわねばならない。そればかりではなく、適切な方法と手続とにより学生に反省を促すことは、学生の教育を引受けた教育機関の法的義務に属し、退学処分は学生に教育的改善の余地がないと認められる場合になし得る最後的手段であることから考えれば、主として学校当局の誤つた補導方法に起因して惹起されたと認められる事実をあたかも原告らの側に主たる責任があるもののように錯覚し、これをとらえて退学事由とすることは、そもそも、許されないところといわねばならない。
[30] なお、被告の引用する最高裁判所の判例は、退学処分の基礎とされた事実が教育機関にふさわしい適切な方法と手続に基づき認定されたことを前提とするものであつて、本件の場合のように、退学処分の基礎となつた事実の認定が公的教育機関にふさわしくない手続と基準に従つて行われたと認められる場合には、右判例は適切なものとは認められない。
[31] 以上を要するに、原告らに対する被告の退学処分は、被告学校当局が思想の自由につき公的教育機関に要求される寛容の基準を守らず、原告らが学校当局の好ましくないと考える左翼思想をいだくことが当然に「学校の秩序を乱しその他学生の本分に反する」場合に該当し、当然に退学事由に該当するものとし、この見地において誤つた補導を行つた結果、思想の問題について寛容の基準に照らせば、本来、反省の実があつたと認めらるべきであつたにかかわらず、その実があがらなかつたものと誤認するか少くとも右寛容の基準に従つて誠実に原告らに反省を促す努力を怠るとともに、主として学校当局の誤つた補導の方法に起因して生じたできごとをとらえて退学処分の根拠としたものであつて、わが国法が公的教育機関に思想の自由につき寛容の態度を要求する趣旨にもとるとともに、学校教育法施行規則第13条第3項第4号、被告の学則第36条第4号により退学処分をなし得べからざる場合になされたものとして、無効のものといわねばならない。してみると、原告らは、なお被告学校の学生としての地位を有することは明らかであつて、被告が現に右地位を否定していることは本件口頭弁論の全趣旨に徴し疑いをいれないところであるから、原告らの本訴請求は理由があるものといわねばならない。

[32] よつて、原告らの請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第89条を適用して主文のとおり判決する。

  (裁判官 白石健三 浜秀和 町田顕)

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