在外国民選挙権制限違憲判決
上告審判決

在外日本人選挙権剥奪違法確認等請求事件
最高裁判所 平成13年(行ツ)第82号、第83号、平成13年(行ヒ)第76号、第77号
平成17年9月14日 大法廷 判決

(行ツ)第83号、(行ヒ)第77号 上告人(控訴人 原告) 高瀬隼彦  ほか10名
(行ツ)第82号、(行ヒ)第76号 上告人(控訴人 原告) 岡村弘之  ほか1名
                      代理人 喜田村洋一 ほか

被上告人(被控訴人 被告) 国
          代理人 大竹たかし ほか

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官福田博の補足意見
■ 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見
■ 裁判官泉徳治の反対意見

■ 上告代理人喜田村洋一ほかの上告理由(平成13年(行ツ)第82号)
■ 上告代理人喜田村洋一ほかの上告受理申立て理由(平成13年(行ヒ)第76号)
■ 上告代理人喜田村洋一ほかの上告理由(平成13年(行ツ)第83号)
■ 上告代理人喜田村洋一ほかの上告受理申立て理由(平成13年(行ヒ)第77号)


 原判決を次のとおり変更する。
 第1審判決を次のとおり変更する。
 (1) 本件各確認請求に係る訴えのうち,違法確認請求に係る各訴えをいずれも却下する。
 (2) 別紙当事者目録1記載の上告人らが,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることを確認する。
 (3) 被上告人は,上告人らに対し,各金5000円及びこれに対する平成8年10月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 (4) 上告人らのその余の請求をいずれも棄却する。

 訴訟の総費用は,これを5分し,その1を上告人らの,その余を被上告人の各負担とする。

[1] 本件は,国外に居住していて国内の市町村の区域内に住所を有していない日本国民(以下「在外国民」という。)に国政選挙における選挙権行使の全部又は一部を認めないことの適否等が争われている事案である(以下,在外国民に国政選挙における選挙権の行使を認める制度を「在外選挙制度」という。)。

2 在外国民の選挙権の行使に関する制度の概要
[2](1) 在外国民の選挙権の行使については,平成10年法律第47号によって公職選挙法が一部改正され(以下,この改正を「本件改正」という。),在外選挙制度が創設された。しかし,その対象となる選挙について,当分の間は,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙に限ることとされた(本件改正後の公職選挙法附則8項)。本件改正前及び本件改正後の在外国民の選挙権の行使に関する制度の概要は,それぞれ以下のとおりである。
(2) 本件改正前の制度の概要
[3] 本件改正前の公職選挙法42条1項,2項は,選挙人名簿に登録されていない者及び選挙人名簿に登録されることができない者は投票をすることができないものと定めていた。そして,選挙人名簿への登録は,当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の日本国民で,その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされているところ(同法21条1項,住民基本台帳法15条1項),在外国民は,我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため,選挙人名簿には登録されなかった。その結果,在外国民は,衆議院議員の選挙又は参議院議員の選挙において投票をすることができなかった。
(3) 本件改正後の制度の概要
[4] 本件改正により,新たに在外選挙人名簿が調製されることとなり(公職選挙法第4章の2参照),「選挙人名簿に登録されていない者は,投票をすることができない。」と定めていた本件改正前の公職選挙法42条1項本文は,「選挙人名簿又は在外選挙人名簿に登録されていない者は,投票をすることができない。」と改められた。本件改正によって在外選挙制度の対象となる選挙は,衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙であるが,当分の間は,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙に限ることとされたため,その間は,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙はその対象とならない(本件改正後の公職選挙法附則8項)。

[5] 本件において,在外国民である別紙当事者目録1記載の上告人らは,被上告人に対し,在外国民であることを理由として選挙権の行使の機会を保障しないことは,憲法14条1項,15条1項及び3項,43条並びに44条並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和54年条約第7号)25条に違反すると主張して,主位的に,(a)本件改正前の公職選挙法は,同上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において,違法(上記の憲法の規定及び条約違反)であることの確認,並びに(b)本件改正後の公職選挙法は,同上告人らに衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において,違法(上記の憲法の規定及び条約違反)であることの確認を求めるとともに,予備的に,(c)同上告人らが衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙において選挙権を行使する権利を有することの確認を請求している。
[6] また,別紙当事者目録1記載の上告人ら及び平成8年10月20日当時は在外国民であったがその後帰国した同目録2記載の上告人らは,被上告人に対し,立法府である国会が在外国民が国政選挙において選挙権を行使することができるように公職選挙法を改正することを怠ったために,上告人らは同日に実施された衆議院議員の総選挙(以下「本件選挙」という。)において投票をすることができず損害を被ったと主張して,1人当たり5万円の損害賠償及びこれに対する遅延損害金の支払を請求している。

[7] 原判決は,本件の各確認請求に係る訴えはいずれも法律上の争訟に当たらず不適法であるとして却下すべきものとし,また,本件の国家賠償請求はいずれも棄却すべきものとした。所論は,要するに,在外国民の国政選挙における選挙権の行使を制限する公職選挙法の規定は,憲法14条,15条1項及び3項,22条2項,43条,44条等に違反すると主張するとともに,確認の訴えをいずれも不適法とし,国家賠償請求を認めなかった原判決の違法をいうものである。
[8] 国民の代表者である議員を選挙によって選定する国民の権利は,国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として,議会制民主主義の根幹を成すものであり,民主国家においては,一定の年齢に達した国民のすべてに平等に与えられるべきものである。
[9] 憲法は,前文及び1条において,主権が国民に存することを宣言し,国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動すると定めるとともに,43条1項において,国会の両議院は全国民を代表する選挙された議員でこれを組織すると定め,15条1項において,公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利であると定めて,国民に対し,主権者として,両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を保障している。そして,憲法は,同条3項において,公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障すると定め,さらに,44条ただし書において,両議院の議員の選挙人の資格については,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によって差別してはならないと定めている。以上によれば,憲法は,国民主権の原理に基づき,両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障しており,その趣旨を確たるものとするため,国民に対して投票をする機会を平等に保障しているものと解するのが相当である。
[10] 憲法の以上の趣旨にかんがみれば,自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として,国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず,国民の選挙権又はその行使を制限するためには,そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして,そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り,上記のやむを得ない事由があるとはいえず,このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するといわざるを得ない。また,このことは,国が国民の選挙権の行使を可能にするための所要の措置を執らないという不作為によって国民が選挙権を行使することができない場合についても,同様である。
[11] 在外国民は,選挙人名簿の登録について国内に居住する国民と同様の被登録資格を有しないために,そのままでは選挙権を行使することができないが,憲法によって選挙権を保障されていることに変わりはなく,国には,選挙の公正の確保に留意しつつ,その行使を現実的に可能にするために所要の措置を執るべき責務があるのであって,選挙の公正を確保しつつそのような措置を執ることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合に限り,当該措置を執らないことについて上記のやむを得ない事由があるというべきである。

2 本件改正前の公職選挙法の憲法適合性について
[12] 前記第1の2(2)のとおり,本件改正前の公職選挙法の下においては,在外国民は,選挙人名簿に登録されず,その結果,投票をすることができないものとされていた。これは,在外国民が実際に投票をすることを可能にするためには,我が国の在外公館の人的,物的態勢を整えるなどの所要の措置を執る必要があったが,その実現には克服しなければならない障害が少なくなかったためであると考えられる。
[13] 記録によれば,内閣は,昭和59年4月27日,
「我が国の国際関係の緊密化に伴い,国外に居住する国民が増加しつつあることにかんがみ,これらの者について選挙権行使の機会を保障する必要がある」
として,衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を第101回国会に提出したが,同法律案は,その後第105回国会まで継続審査とされていたものの実質的な審議は行われず,同61年6月2日に衆議院が解散されたことにより廃案となったこと,その後,本件選挙が実施された平成8年10月20日までに,在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかったことが明らかである。世界各地に散在する多数の在外国民に選挙権の行使を認めるに当たり,公正な選挙の実施や候補者に関する情報の適正な伝達等に関して解決されるべき問題があったとしても,既に昭和59年の時点で,選挙の執行について責任を負う内閣がその解決が可能であることを前提に上記の法律案を国会に提出していることを考慮すると,同法律案が廃案となった後,国会が,10年以上の長きにわたって在外選挙制度を何ら創設しないまま放置し,本件選挙において在外国民が投票をすることを認めなかったことについては,やむを得ない事由があったとは到底いうことができない。そうすると,本件改正前の公職選挙法が,本件選挙当時,在外国民であった上告人らの投票を全く認めていなかったことは,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するものであったというべきである。

3 本件改正後の公職選挙法の憲法適合性について
[14] 本件改正は,在外国民に国政選挙で投票をすることを認める在外選挙制度を設けたものの,当分の間,衆議院比例代表選出議員の選挙及び参議院比例代表選出議員の選挙についてだけ投票をすることを認め,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙については投票をすることを認めないというものである。この点に関しては,投票日前に選挙公報を在外国民に届けるのは実際上困難であり,在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達するのが困難であるという状況の下で,候補者の氏名を自書させて投票をさせる必要のある衆議院小選挙区選出議員の選挙又は参議院選挙区選出議員の選挙について在外国民に投票をすることを認めることには検討を要する問題があるという見解もないではなかったことなどを考慮すると,初めて在外選挙制度を設けるに当たり,まず問題の比較的少ない比例代表選出議員の選挙についてだけ在外国民の投票を認めることとしたことが,全く理由のないものであったとまでいうことはできない。しかしながら,本件改正後に在外選挙が繰り返し実施されてきていること,通信手段が地球規模で目覚ましい発達を遂げていることなどによれば,在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達することが著しく困難であるとはいえなくなったものというべきである。また,参議院比例代表選出議員の選挙制度を非拘束名簿式に改めることなどを内容とする公職選挙法の一部を改正する法律(平成12年法律第118号)が平成12年11月1日に公布され,同月21日に施行されているが,この改正後は,参議院比例代表選出議員の選挙の投票については,公職選挙法86条の3第1項の参議院名簿登載者の氏名を自書することが原則とされ,既に平成13年及び同16年に,在外国民についてもこの制度に基づく選挙権の行使がされていることなども併せて考えると,遅くとも,本判決言渡し後に初めて行われる衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の時点においては,衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙について在外国民に投票をすることを認めないことについて,やむを得ない事由があるということはできず,公職選挙法附則8項の規定のうち,在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するものといわざるを得ない。
[15] 本件の主位的確認請求に係る訴えのうち,本件改正前の公職選挙法が別紙当事者目録1記載の上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えは,過去の法律関係の確認を求めるものであり,この確認を求めることが現に存する法律上の紛争の直接かつ抜本的な解決のために適切かつ必要な場合であるとはいえないから,確認の利益が認められず,不適法である。

[16] また,本件の主位的確認請求に係る訴えのうち,本件改正後の公職選挙法が別紙当事者目録1記載の上告人らに衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えについては,他により適切な訴えによってその目的を達成することができる場合には,確認の利益を欠き不適法であるというべきところ,本件においては,後記3のとおり,予備的確認請求に係る訴えの方がより適切な訴えであるということができるから,上記の主位的確認請求に係る訴えは不適法であるといわざるを得ない。

[17] 本件の予備的確認請求に係る訴えは,公法上の当事者訴訟のうち公法上の法律関係に関する確認の訴えと解することができるところ,その内容をみると,公職選挙法附則8項につき所要の改正がされないと,在外国民である別紙当事者目録1記載の上告人らが,今後直近に実施されることになる衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において投票をすることができず,選挙権を行使する権利を侵害されることになるので,そのような事態になることを防止するために,同上告人らが,同項が違憲無効であるとして,当該各選挙につき選挙権を行使する権利を有することの確認をあらかじめ求める訴えであると解することができる。
[18] 選挙権は,これを行使することができなければ意味がないものといわざるを得ず,侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない性質のものであるから,その権利の重要性にかんがみると,具体的な選挙につき選挙権を行使する権利の有無につき争いがある場合にこれを有することの確認を求める訴えについては,それが有効適切な手段であると認められる限り,確認の利益を肯定すべきものである。そして,本件の予備的確認請求に係る訴えは,公法上の法律関係に関する確認の訴えとして,上記の内容に照らし,確認の利益を肯定することができるものに当たるというべきである。なお,この訴えが法律上の争訟に当たることは論をまたない。
[19] そうすると,本件の予備的確認請求に係る訴えについては,引き続き在外国民である同上告人らが,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることの確認を請求する趣旨のものとして適法な訴えということができる。

[20] そこで,本件の予備的確認請求の当否について検討するに,前記のとおり,公職選挙法附則8項の規定のうち,在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するもので無効であって,別紙当事者目録1記載の上告人らは,次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において,在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあるというべきであるから,本件の予備的確認請求は理由があり,更に弁論をするまでもなく,これを認容すべきものである。
[21] 国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するものである。したがって,国会議員の立法行為又は立法不作為が同項の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって,当該立法の内容又は立法不作為の違憲性の問題とは区別されるべきであり,仮に当該立法の内容又は立法不作為が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえに国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに違法の評価を受けるものではない。しかしながら,立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国会議員の立法行為又は立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上,違法の評価を受けるものというべきである。最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁は,以上と異なる趣旨をいうものではない。
[22] 在外国民であった上告人らも国政選挙において投票をする機会を与えられることを憲法上保障されていたのであり,この権利行使の機会を確保するためには,在外選挙制度を設けるなどの立法措置を執ることが必要不可欠であったにもかかわらず,前記事実関係によれば,昭和59年に在外国民の投票を可能にするための法律案が閣議決定されて国会に提出されたものの,同法律案が廃案となった後本件選挙の実施に至るまで10年以上の長きにわたって何らの立法措置も執られなかったのであるから,このような著しい不作為は上記の例外的な場合に当たり,このような場合においては、過失の存在を否定することはできない。このような立法不作為の結果,上告人らは本件選挙において投票をすることができず,これによる精神的苦痛を被ったものというべきである。したがって,本件においては,上記の違法な立法不作為を理由とする国家賠償請求はこれを認容すべきである。
[23] そこで,上告人らの被った精神的損害の程度について検討すると,本件訴訟において在外国民の選挙権の行使を制限することが違憲であると判断され,それによって,本件選挙において投票をすることができなかったことによって上告人らが被った精神的損害は相当程度回復されるものと考えられることなどの事情を総合勘案すると,損害賠償として各人に対し慰謝料5000円の支払を命ずるのが相当である。そうであるとすれば,本件を原審に差戻して改めて個々の上告人の損害額について審理させる必要はなく,当審において上記金額の賠償を命ずることができるものというべきである。そこで,上告人らの本件請求中,損害賠償を求める部分は,上告人らに対し各5000円及びこれに対する平成8年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し,その余は棄却することとする。
[24] 以上のとおりであるから,本件の主位的確認請求に係る各訴えをいずれも却下すべきものとした原審の判断は正当として是認することができるが,予備的確認請求に係る訴えを却下すべきものとし,国家賠償請求を棄却すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。そして,以上に説示したところによれば,本件につき更に弁論をするまでもなく,上告人らの予備的確認請求は理由があるから認容すべきであり,国家賠償請求は上告人らに対し各5000円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し,その余は棄却すべきである。論旨は上記の限度で理由があり,条約違反の論旨について判断するまでもなく,原判決を主文第1項のとおり変更すべきである。

[25] よって,裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見,判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官福田博の補足意見がある。


 裁判官福田博の補足意見は,次のとおりである。

[1] 私は,法廷意見に賛成するものであるが,法廷意見に関して,在外国民の選挙権の剥奪又は制限に対する国家賠償について,消極的な見解を述べる反対意見が表明されたこと(泉裁判官)と,在外国民の選挙権の剥奪又は制限は基本的に国会の裁量に係る部分があり,現行の制度はいまだ違憲の問題を生じていないとする反対意見が表明されたこと(横尾裁判官及び上田裁判官)にかんがみ,若干の考えを述べておくこととしたい。

1 選挙権の剥奪又は制限と国家賠償について
[2] 在外国民の選挙権が剥奪され,又は制限されている場合に,それが違憲であることが明らかであるとしても,国家賠償を認めることは適当でないという泉裁判官の意見は,一面においてもっともな内容を含んでおり,共感を覚えるところも多い。特に,代表民主制を基本とする民主主義国家においては,国民の選挙権は国民主権の中で最も中核を成す権利であり,いやしくも国が賠償金さえ払えば,国会及び国会議員は国民の選挙権を剥奪又は制限し続けることができるといった誤解を抱くといったような事態になることは絶対に回避すべきであるという私の考えからすれば,選挙権の剥奪又は制限は本来的には金銭賠償になじまない点があることには同感である。
[3] しかし,そのような感想にもかかわらず,私が法廷意見に賛成するのは主として次の2点にある。
[4] 第1は,在外国民の選挙権の剥奪又は制限が憲法に違反するという判決で被益するのは,現在も国外に居住し,又は滞在する人々であり,選挙後帰国してしまった人々に対しては,心情的満足感を除けば,金銭賠償しか救済の途がないという事実である。上告人の中には,このような人が現に存在するのであり,やはりそのような人々のことも考えて金銭賠償による救済を行わざるを得ない。
[5] 第2は,――この点は第1の点と等しく,又はより重要であるが――国会又は国会議員が作為又は不作為により国民の選挙権の行使を妨げたことについて支払われる賠償金は,結局のところ,国民の税金から支払われるという事実である。代表民主制の根幹を成す選挙権の行使が国会又は国会議員の行為によって妨げられると,その償いに国民の税金が使われるということを国民に広く知らしめる点で,賠償金の支払は,額の多寡にかかわらず,大きな意味を持つというべきである。

[6] 在外国民の選挙権の剥奪又は制限は憲法に違反せず,国会の裁量の範囲に収まっているという考えには全く賛同できない。
[7] 現代の民主主義国家は,そのほとんどが代表民主制を国家の統治システムの基本とするもので,一定年齢に達した国民が平等かつ自由かつ定時に(解散により行われる選挙を含む。以下同じ。)選挙権を行使できることを前提とし,そのような選挙によって選ばれた議員で構成される議会が国権の最高機関となり,行政,司法とあいまって,三権分立の下に国の統治システムを形成する。我が国も憲法の規定によれば,そのような代表民主制国家の一つであるはずであり,代表民主制の中核である立法府は,平等,自由,定時の選挙によって初めて正当性を持つ組織となる。民主主義国家が目指す基本的人権の尊重にあっても,このような三権分立の下で,国会は,国権の最高機関として重要な役割を果たすことになる。
[8] 国会は,平等,自由,定時のいずれの側面においても,国民の選挙権を剥奪し制限する裁量をほとんど有していない。国民の選挙権の剥奪又は制限は,国権の最高機関性はもとより,国会及び国会議員の存在自体の正当性の根拠を失わしめるのである。国民主権は,我が国憲法の基本理念であり,我が国が代表民主主義体制の国であることを忘れてはならない。
[9] 在外国民が本国の政治や国の在り方によってその安寧に大きく影響を受けることは,経験的にも随所で証明されている。
[10] 代表民主主義体制の国であるはずの我が国が,住所が国外にあるという理由で,一般的な形で国民の選挙権を制限できるという考えは,もう止めにした方が良いというのが私の感想である。


 裁判官横尾和子,同上田豊三の反対意見は,次のとおりである。

[1] 私たちは,本件上告をいずれも棄却すべきであると考えるが,その理由は次のとおりである。

[2] 憲法は,その前文において,「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,……ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。」として,国民主権主義を宣言している。
[3] これを受けて,「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。」(憲法15条1項),「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する。」(同条3項)と規定し,公務員の選挙権が国民固有の権利であることを明確にしている。
[4] 一方,国会が衆議院及び参議院の両議院から構成されること(憲法42条),両議院は全国民を代表する選挙された議員で組織されること(憲法43条1項)を規定するとともに,両議院の議員の定数,議員及びその選挙人の資格,選挙区,投票の方法その他選挙に関する事項は,これを法律で定めるべきものとし(憲法43条2項,44条,47条),両議院の議員の各選挙制度の仕組みについての具体的な決定を原則として国会の裁量にゆだねているのである。もっとも,議員及び選挙人の資格を法律で定めるに当たっては,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によって差別してはならないことを明らかにしている(憲法44条ただし書)。
[5] そして,国会が両議院の議員の各選挙制度の仕組みを具体的に決定するに当たっては,選挙人である国民の自由に表明する意思により選挙が混乱なく,公明かつ適正に行われるよう,すなわち公正,公平な選挙が混乱なく実現されるために必要とされる事項を考慮しなければならないのである。我が国の主権の及ばない国や地域(そこには様々な国や地域が存在する。)に居住していて,我が国内の市町村の区域内に住所を有していない国民(在外国民。在外国民にも二重国籍者や海外永住者などいろいろな種類の人たちがいる。)も,国民である限り選挙権を有していることはいうまでもないが,そのような在外国民が選挙権を行使する,すなわち投票をするに当たっては,国内に居住する国民の場合に比べて,様々な社会的,技術的な制約が伴うので,在外国民にどのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかということも国会において正当に考慮しなければならない事項であり,国会の裁量判断にゆだねられていると解すべきである。
[5] 換言すれば,両議院の議員の各選挙制度をどのような仕組みのものとするのか,すなわち,選挙区として全国区制,中選挙区制,小選挙区制,比例代表制のうちいずれによるのかあるいはいずれかの組合せによるのか,組合せによるとしてどのような方法によるのか,各選挙区の内容や区域・区割りはどうするのか,議員の総定数や選挙区への定数配分をどうするのか,選挙人名簿制度はどのようなものにするのか,投票方式はどうするのか,候補者の政見等を選挙人へ周知させることも含めて選挙運動をどのようなものとするのかなどなど,選挙人の自由な意思が公明かつ適正に選挙に反映され,混乱のない公正,公平な選挙が実現されるよう,選挙制度の仕組みに関する様々な事柄を選択し,決定することは国会に課せられた責務である。そして,そのような選挙制度の仕組みとの関連において,また,様々な社会的,技術的な制約が伴う中にあって,我が国の主権の及ばない国や地域に居住している在外国民に対し,どのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかということも,国会において判断し,選択し,決定すべき事柄であり,国会の裁量判断にゆだねられた事項である(この点,我が国の主権の及ぶ我が国内に居住している国民の選挙権の行使を制限する場合とは趣を異にするといわなければならない。我が国内に居住している国民の選挙権又はその行使を制限することは,自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として,原則として許されず,国民の選挙権又はその行使を制限するためには,そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならず,そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り,上記のやむを得ない事由があるとはいえず,このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは,憲法に違反するといわざるを得ない,とする多数意見に同調するものである。)。

[6] 両議院の議員の各選挙制度の仕組みについては,公職選挙法がこれを定めている。従来,選挙人名簿に登録されていない者及び登録されることができない者は投票することができないとされ,選挙人名簿への登録は,当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の国民で,その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされており,在外国民は,我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため,両議院議員の選挙においてその選挙権を行使する,すなわち投票をすることができなかった。
[7] 平成6年の公職選挙法の一部改正により,それまで長年にわたり中選挙区制の下で行われていた衆議院議員の選挙についても,小選挙区比例代表並立制が採用されることになった。そして,平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正により,新たに在外選挙人名簿の制度が創設され,在外国民に在外選挙人名簿に登録される途を開き,これに登録されている者は,両議院議員の選挙において投票することができるようになった。もっとも,上記改正後の公職選挙法附則8項において,当分の間は,両議院の比例代表選出議員の選挙に限ることとされたため,衆議院小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙はその対象とならないこととされている。このように両議院の比例代表選出議員の選挙に限って在外国民に投票の機会を認めたことの理由につき,12日ないし17日という限られた選挙運動期間中に在外国民へ候補者個人に関する情報を伝達することが極めて困難であること等を勘案したものであると説明されている。

[8] 上記のとおり,我が国においては,従来,在外国民には両議院議員の選挙に関し投票の機会が与えられていなかったところ,平成10年の改正により,両議院の比例代表選出議員の選挙について投票の機会を与えることにし,衆議院小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙については,在外国民への候補者個人に関する情報を伝達することが極めて困難であること等を勘案して,当分の間,投票の機会を与えないこととしたというのである。
[9] 国会のこれらの選択は,選挙制度の仕組みとの関連において在外国民にどのような投票制度を用意すれば選挙の公正さ,公平さを確保し,混乱のない選挙を実現することができるのかという,国会において正当に考慮することのできる事項を考慮した上での選択ということができ,正確な候補者情報の伝達,選挙人の自由意思による投票環境の確保,不正の防止等に関し様々な社会的,技術的な制約の伴う中でそれなりの合理性を持ち,国会に与えられた裁量判断を濫用ないし逸脱するものではなく,平成10年に至って新たに在外選挙人名簿の制度を創設し,それまではこのような制度を設けていなかったことをも含めて,いまだ上告人らの主張する憲法の各規定や条約に違反するものではなく,違憲とはいえないと解するのが相当である。

[10] 私たちは,本件の主位的確認請求に係る訴えは不適法であり,予備的確認請求に係る訴えは適法であるとする多数意見に同調するものであるが,公職選挙法附則8項の規定のうち在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定している部分も違憲とはいえないと解するので,本件の予備的確認請求は理由がなく,これを棄却すべきものと考える。本件の予備的確認請求に係る訴えを却下すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることになるが,本件の予備的確認請求を求めている上告人らからの上告事件である本件においては,いわゆる不利益変更禁止の原則により,この部分に係る本件上告を棄却すべきである。
[11] また,在外選挙制度を設けなかったことなどの立法上の不作為が違憲であることを理由とする国家賠償請求については,そのような不作為は違憲ではないと解するので,理由がなく,その請求を棄却すべきであるところ,原審はこれと結論を同じくするものであるから,この部分に関する本件上告も棄却すべきである。


 判示第4についての裁判官泉徳治の反対意見は,次のとおりである。

[1] 私は,多数意見のうち,国家賠償請求の認容に係る部分に反対し,それ以外の部分に賛同するものである。
[2] 多数意見は,公職選挙法が,本件選挙当時,在外国民の投票を認めていなかったことにより,上告人らが本件選挙において選挙権を行使することができなかったことによる精神的苦痛を慰謝するため,国は国家賠償法に基づき上告人らに各5000円の慰謝料を支払うべきであるという。しかし,私は,上告人らの上記精神的苦痛は国家賠償法による金銭賠償になじまないので,本件選挙当時の公職選挙法の合憲・違憲について判断するまでもなく,上告人らの国家賠償請求は理由がないものとして棄却すべきであると考える。
[3] 国民が,憲法で保障された基本的権利である選挙権の行使に関し,正当な理由なく差別的取扱いを受けている場合には,民主的な政治過程の正常な運営を維持するために積極的役割を果たすべき裁判所としては,国民に対しできるだけ広く是正・回復のための途を開き,その救済を図らなければならない。
[4] 本件国家賠償請求は,金銭賠償を得ることを本来の目的とするものではなく,公職選挙法が在外国民の選挙権の行使を妨げていることの違憲性を,判決理由の中で認定することを求めることにより,間接的に立法措置を促し,行使を妨げられている選挙権の回復を目指しているものである。上告人らは,国家賠償請求訴訟以外の方法では訴えの適法性を否定されるおそれがあるとの思惑から,選挙権回復の方法としては迂遠な国家賠償請求を,あえて付加したものと考えられる。
[5] 一般論としては,憲法で保障された基本的権利の行使が立法作用によって妨げられている場合に,国家賠償請求訴訟によって,間接的に立法作用の適憲的な是正を図るという途も,より適切な権利回復のための方法が他にない場合に備えて残しておくべきであると考える。また,当該権利の性質及び当該権利侵害の態様により,特定の範囲の国民に特別の損害が生じているというような場合には,国家賠償請求訴訟が権利回復の方法としてより適切であるといえよう。
[6] しかしながら、本件で問題とされている選挙権の行使に関していえば,選挙権が基本的人権の一つである参政権の行使という意味において個人的権利であることは疑いないものの,両議院の議員という国家の機関を選定する公務に集団的に参加するという公務的性格も有しており,純粋な個人的権利とは異なった側面を持っている。しかも,立法の不備により本件選挙で投票をすることができなかった上告人らの精神的苦痛は,数十万人に及ぶ在外国民に共通のものであり,個別性の薄いものである。したがって,上告人らの精神的苦痛は,金銭で評価することが困難であり,金銭賠償になじまないものといわざるを得ない。英米には,憲法で保障された権利が侵害された場合に,実際の損害がなくても名目的損害(nominal damages)の賠償を認める制度があるが,我が国の国家賠償法は名目的損害賠償の制度を採用していないから,上告人らに生じた実際の損害を認定する必要があるところ,それが困難なのである。
[7] そして,上告人らの上記精神的苦痛に対し金銭賠償をすべきものとすれば,議員定数の配分の不均衡により投票価値において差別を受けている過小代表区の選挙人にもなにがしかの金銭賠償をすべきことになるが,その精神的苦痛を金銭で評価するのが困難である上に,賠償の対象となる選挙人が膨大な数に上り,賠償の対象となる選挙人と,賠償の財源である税の負担者とが,かなりの部分で重なり合うことに照らすと,上記のような精神的苦痛はそもそも金銭賠償になじまず,国家賠償法が賠償の対象として想定するところではないといわざるを得ない。金銭賠償による救済は,国民に違和感を与え,その支持を得ることができないであろう。
[8] 当裁判所は,投票価値の不平等是正については,つとに,公職選挙法204条の選挙の効力に関する訴訟で救済するという途を開き,本件で求められている在外国民に対する選挙権行使の保障についても,今回,上告人らの提起した予備的確認請求訴訟で取上げることになった。このような裁判による救済の途が開かれている限り,あえて金銭賠償を認容する必要もない。
[9] 前記のとおり,選挙権の行使に関しての立法の不備による差別的取扱いの是正について,裁判所は積極的に取り組むべきであるが,その是正について金銭賠償をもって臨むとすれば,賠償対象の広範さ故に納税者の負担が過大となるおそれが生じ,そのことが裁判所の自由な判断に影響を与えるおそれもないとはいえない。裁判所としては,このような財政問題に関する懸念から解放されて,選挙権行使の不平等是正に対し果敢に取り組む方が賢明であると考える。

(裁判長裁判官 町田顯  裁判官 福田博  裁判官 濱田邦夫  裁判官 横尾和子  裁判官 上田豊三  裁判官 滝井繁男  裁判官 藤田宙靖  裁判官 甲斐中辰夫  裁判官 泉徳治  裁判官 島田仁郎  裁判官 才口千晴  裁判官 今井功  裁判官 中川了滋  裁判官 堀籠幸男)
   目  次
第1 国家賠償請求に関する原判決の判断
第2 昭和60年最高裁判決の一般論について――昭和60年最高裁判決自体の憲法解釈の誤り 第3 本件に対する昭和60年最高裁判決の先例無価値性――本件で昭和60年最高裁判決に依拠することによる憲法解釈の誤り
第4 原判決による昭和60年最高裁判決の基準適用の誤り――昭和60年最高裁判決の基準によっても本件は違憲とされるべき例外的事案に該当することについて
第5 人権規約違反
第6 原判決が付加した理由について――昭和60年最高裁判決の例外的事案に本件は該当しないとする原判決の理由付けには根拠がないことについて

[1] 原判決は、憲法17条、市民的及び政治的権利に関する国際規約25条及び国家賠償法1条の解釈を誤り、理由不備の違法がある
[2] 原判決は、第一審判決と同様、最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1512頁、以下「昭和60年最高裁判決」という。)が述べる一般論に完全に依拠し、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法第1条第1項の適用上、違法の評価を受けない」
とするとともに、
「国会議員の立法不作為が違法となる場合の基準も同様であることは原判決が正当に判示するとおりである」
とした。
[3] しかし、昭和60年最高裁判決の一般論自体、後述するとおり(第2)、極めて問題がある。日本において「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)のであり、米国とは違って先例拘束性は認められないのであるから、最高裁判例といえども、憲法解釈の誤りがあるなど内容的に不適切な点があれば、それに依拠することは許されないはずである。この点、原判決は昭和60年最高裁判決の一般論に安易に依拠した点において、そもそも不当であると言わざるを得ない。
[4] 後述するとおり(第2)原判決は、国会の立法裁量を極めて広範に解し、違憲状態にあった公職選挙法を放置した国会の立法不作為を適法と判断した点において、憲法解釈の誤りがある。

[5] さらに原判決は、第一審判決の判断に加え、
(1)「平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正によって衆議院議員及び参議院議員の選挙を対象にして在外日本人の選挙権の行使に関する在外選挙制度が創設され、当分の間は衆議院又は参議院の比例代表選出議員の選挙に限られてはいるものの、平成11年5月1日から在外選挙人名簿への登録が、平成12年5月1日以降実施される衆議院議員総選挙又は参議院議員通常選挙から在外投票が、それぞれ実施されることとなっていること」
(2)「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
を示した上で、
「国会が、公職選挙法を改正して在外日本人について国政選挙における選挙権の行使を行わせるための特別な措置を設けることをせず、あるいは右措置を設けたものの、衆議院小選挙区選出議員選挙及び参議院選挙区選出議員選挙において選挙権を行使できるようにする措置を設けなかったことが、前記の例外的な場合に該当しないことは、明らかなところといわなければならない」
と判示した。
[6] しかし、後述するとおり(第6)、上記(1)はむしろ、在外投票制度創設が可能であること、ひいては、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示す事実であって、これを国家賠償請求を否定する方向で援用することは許されないというべきである。また、上記(2)は基本的人権である外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめる方向で立法裁量を広範に解したものであるうえ、かかる原判決の論理を国内住所地に適用するならば、一票の投票価値の平等の問題に関連してこれまで集積されてきた最高裁の違憲判決は成り立たなくなってしまうものであって、明らかに憲法解釈に誤りがある。

[7] このように、原判決には憲法解釈の誤りがあるから、破棄を免れない。
[8] 以下、詳述する。
[9] 以下に詳述するとおり、昭和60年最高裁判決が定立した一般的基準には何ら合理性はなく、同判決自体、憲法解釈を誤っているものである。かかる判決の一般的基準に依拠した点において、原判決は憲法解釈を誤っている。
[10] 原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下、同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきものである」
との第一審判決を引用し、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とを区別することを前提に、その他の理由を付加したうえで、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けない」
と結論付け、結果的に立法行為を国家賠償で争う道を極めて狭めてしまっている。
[11] 確かに、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とは、観念上区別することができるであろう。しかし、昭和60年最高裁判決が、上記区分論から、結果的に国家賠償による救済の道を極端に狭める結果を導いたことに対しては批判が多い(なお、上記最判はその他の理由も付加したうえで上記結論に至っているが、それらの理由がいずれも妥当性を持たないことについては後述)。
[12] この点、長尾一紘教授は、
「〔上記最判〕の『区分論』が、このような違法性の対概念を前提として、立法内容の違憲性=『結果不法』、立法行為の違法性=『行為不法』としているものとしても、この『区分』自体からは、判決の論旨を根拠づけるような特段の法的効果が生ずるわけではない。立法者が立法するにあたってのもっとも重要な行為規範は憲法規範であり、立法内容に違憲性が認められる場合には、原則的に立法行為に違法性があるものと考えることが可能であるからである。」(判例批評、民商法雑誌1986年272頁、273頁)
と述べ、的確に上記最判の理由付けを批判している。また、棟居快行教授(執筆時は神戸大学助教授)も、
「『区別論』は〔上記〕のような結果の将来を正当化しうるほど説得力ある理由を伴っているであろうか。この点につき〔区別論〕は明らかに不十分である。違憲内容の立法をすることが即ち国会議員の『職務上の法的義務に違背』するものと言うこともできるのである。一審判決が過失の認定についてではあるが、『立法をなすにあたっては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議、検討すべき高度の注意義務を負う』として、立法内容違憲即ち注意義務違反という見方を示していた(参照、遠藤博也『国家補償法上巻』450頁)ことに注目すべきである」(判例評釈、判例時報1194号204頁)
として、昭和60年最高裁判決の理由付けを論難している。
[13] さらに原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係において政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであ〔る〕」
との第一審判決を引用する。上記判示事項を導くにあたって昭和60年最高裁判決が掲げた理由のすべてを原判決は挙げていないものの、次に述ぺるとおり、昭和60年最高裁判決が挙げる理由はいずれも根拠となるものではない。
[14] 昭和60年最高裁判決は、国会議員が原則として個別の国民の権利に対して法的義務を負わないという結論を導くにあたって、(a)議会制民主主義の要請、(b)憲法における免責特権条項、(c)立法行為の政治的性格という3つの理由を挙げている。以下、これらの理由ごとに分説する。

(1) 議会制民主主義の要請
[15] 理由の第一は、議会制民主主義の要請であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする」
と判示する。
[16] しかし、この点について、長尾教授が上記最判を適格に批判している。すなわち、
[17] 第一に、議会制民主主義原理との関連においては、個々の国会議員の国民総体に対する責任が問題にされる。ところが〔上記最判の事案〕で問題にされているのは、国会議員総体(ないし機関としての国会そのもの)の個々の国民に対する義務の内容である。前者について「政治的責任」が妥当するとしても、後者については法的義務が妥当しうるのである…。判旨においては、この点について論理の転倒があるものといわざるをえない。国会議員総体の個々の国民に対する関係においては、その立法行為が、たとえ「立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるもの」についても、たんに国民の「政治的評価」にゆだねられているものとは解されないのである。
[18] 第二に、判旨においては、国会が合議制機関たることへの配慮が十分なされていないように思われる。国賠法1条1項の「公務員」に合議制機関の構成員が含まれることは学説・判例の一致して認めるところであるが、合議制機関にあっては、当該機関の意思決定が、のちに違法であるとされたなら、それはとりもなおさず、意思決定に関与した公務員である構成員(個々の具体的特定の構成員ではない)の判断に瑕疵があったものと解される。合議制機関たる国会に関しても、違法行為の主体について上記のような把握がなされるべきものと解される。ところが、上記判旨は、原子的に分解された個々の国会議員こそが違法行為の主体であると把握しており、この点において立論の前提が妥当を欠くものと思われるのである。
[19] 第三に、判旨は、国会議員は憲法解釈に関する国民の「多様な見解」を立法過程に反映させるべき立場にある」とするが、このような立論は、自由委任を原則とする憲法秩序の下において、国賠法の違法性を問題にする場にあっては、ほとんど無意味な議論のように思われる。(強調は原文)(長尾前掲評釈275、276頁)
[20] また、棟居教授が端的に指摘するとおり、
「判旨は、民主主義の下で国会は、憲法解釈に対する国民の多元的意見を多数決原理により立法過程に公正に反映させる役割をになう、と説く。しかしながら、国民多数が支持したとしても違憲行為が合憲化されるわけではない。」(棟居前掲評釈205頁)
[21] 憲法81条は裁判所に違憲審査権を与えているが、その際に裁判所に期待されている役割が少数者の基本的人権の擁護にあることは広く受け入れられている理解であろう。上記判旨は、多数決によっても奪うことのできない少数者の基本的人権が侵害されている場面において、本来期待されている役割を裁判所が放棄する結果を招来することを容認するものであり、到底とりえない。また、(本件のように)そこで侵害されている権利が少数者の選挙権に関わるものである場合(ことに本件では選挙権行使が全否定されている)、それらの者は政治的過程に自らの意見を反映させるルートを一切持だないこととなるのであるから、上記判旨のいう「選挙による政治的評価」も機能しえないのである。
[22] よって、議会制民主主義の要請が、法的効力を原則的に否定する根拠だりえないことは明らかである。

(2) 免責特権
[23] 第二の理由は免責特権であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法51条が、『両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。』と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。」
と判示する。
[24] しかし、
「51条の規定は、国会議員の自由な言論を保障し、その職務の遂行にあたって制約をうけることのないようにしたものであり、『同条の中に、国会議員が院内で行った演説、討論又は表決は本来違法なものであっても、適法とみなされるとか或いは国会議員が違憲の立法を行ったこと或いは憲法上の義務に違背して立法を行わないことによって他人に損害を加えたとしても、国は賠償責任を負わないというような趣旨が含まれているものとは到底解することができない』(本件二審判決)と解すべきである。学説の多数および下級審判例もこのように解している。」(長尾前掲評釈276頁)
[25]「そもそも免責特権は議員の特別の地位と任務のための政策的配慮から出たものであるから、議員を責任無能力者と同様に責任阻却する制度とみるべきではなく、実体法上一たんは成立する損害賠償責任を議員個人から政策的に免除するものとみるべきであろう。そのように解すれば、代位責任説を前提としても、国の代位すべき損害賠償責任は実体法上成立しているので、国家賠償で立法行為の違憲性を争うことができることとなる。この意味で『立法不作為の国家賠償に、憲法51条の出る幕がない』(古崎慶長「立法活動と国家賠償責任」判時1116号20頁)とさえ言えよう。「免責特権が仮に問題になるにしても議員個人の賠償責任ないし求償が追及される最終段階で論じれば足り(る)」(野中俊彦「『在宅投票制度復活訴訟』控訴審判決の意義と問題点」ジュリ670号121頁注(10))のである。」(棟居前掲評釈205頁)
[26] したがって、免責特権も理由となるものではない。

(3) 立法行為の政治的性格
[27] 第三の理由は立法行為の政治的性格であり、昭和60年最高裁判決は、
「国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといって、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。」
と論ずる(一部を原判決も引用)。
[28] この点については、長尾教授が加えている以下の批判が妥当する。すなわち、
[29] 第一に、「政治的なもの」が性質上法的規制の対象になじまないとすることには、論理の飛躍があるものと思われる。憲法問題のほとんどすべてが「本質的に政治的なもの」としての性格をそなえている。「政治的なもの」が法的規制の対象だりえないとするならば、法律内容についての司法審査もすべて許されないものといわざるをえないのではなかろうか。憲法81条は、憲法問題がすべて「政治的なもの」であることを前提に、裁判所に対して、それを「政治的に」ではなく、「法律的に」解決する任務を与えたのである。「政治的なもの」と「法的規制の対象になじむもの」とは、矛盾する関係にあるのではないのである。
[30] 第二に、判決は、「あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないもの」とする。判旨においては、「あるべき立法行為」と「具体的立法行為」が対比されている。しかし、ここでは、具体的立法行為が違法か否かが問題とされているのであり、これは、「あるべき」か否かとはまったく別個の法律的判断である。(長尾前掲評釈276、277頁)(強調は原文)
[31] 昭和60年最高裁判決は、結論的に、
「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
という極めて限定的な基準を採用している。
[32] しかし、
「いわば内容違憲に関する『故意重過失』の立法ミスに際して〔のみ〕国賠法上の法的責任を問いうるとする〔判旨は、〕立法行為について、国賠法上の責任要件を違憲性の認識においては故意重過失に限定し、文理をこえて加重したもの」(棟居前掲評釈205頁)
という批判が妥当する。また、
「〔上記〕判旨は、国賠訴訟に限って『違法性』の要件を加重することにより、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否認するものであり、81条の趣旨に反するものと思われる」(長尾前掲評釈280頁)
のである。
[33] 以上は、昭和60年最高裁判決の個々の理由付けに即した分析的な学説による批判を整理したものであるが、昭和60年最高裁判決については、総論的にも次のような批判がある。
[34] すなわち、野中俊彦教授は、昭和60年最高裁判決について次のように 述べる。
 憲法17条や国家賠償法1条の趣旨が、国家活動による国民の権利・利益の損害を実質的に救済することにあるとすれば、そのような状況の下では、「公権力の行使」を狭く行政活動に限定しなければならない理由はない。立法活動や司法活動による国民の権利・利益の侵害がありうるならば、それらに対しても国家賠償請求が認められてしかるべきである…(中略)…〔上記最判により〕実質的な立法不作為による権利・利益の侵害に対して国家賠償請求訴訟で争う道はほぼ完全に閉ざされてしまったことになる。しかし立法不作為や立法の不備による権利・利益の侵害ということがそもそもありえないというのであればともかく、その可能性が否定できない以上、それについての損害賠償請求の道も開かれていることが憲法17条の要請するところであろう。(「在宅投票制事件最高裁判決の検討」法律時報58巻2号90、91、92頁)
[35] また、中村睦夫教授は次のように述べている。
 立法行為に対して国家賠償法の適用を認めて、国家賠償請求訴訟を憲法訴訟として活用するということは、およそ憲法上の権利の侵害に対してできるだけ救済の道が開かれなければならないという憲法上の要請に応えるためである。最高裁自身も、昭和51年大法廷判決で、議員定数配分の合憲性を公職選挙法上の選挙無効訴訟によって争えることを認める理由として、『およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請』があることを明らかにしているところである。在宅投票廃止の合憲性を争う訴訟形態として、選挙無効訴訟や、あるいは立法不作為違憲確認訴訟が可能であるかもしれない。しかし、本件訴訟で第一小法廷判決が国家賠償請求訴訟を利用する道を認めなかったことは、先の昭和51年の大法廷判決の要請にも応えなかったものである。(「在宅投票制度廃止違憲訴訟最高裁判決」ジュリスト855号89頁)
[36] これまで述べてきたとおり、昭和60年最高裁判決の基準には、何ら妥当性が認められない。これに代わる基準としては、台湾人元日本人兵の求めた損失補償請求事件で二審(東京高裁昭和60年8月26日判決・判例時報1163号41頁)が示した条件、すなわち、(a)立法をなすべき内容が明白であること、(b)事前救済の必要性が顕著であること、(c)他に救済手段が存在しないこと、に加えて、(d)相当の期間の経過、の要件が存すればよいと解するべきであろう(芦部信喜『憲法新版補訂版』347頁)。
[37] そして、本件においては、
(a) 立法すべき内容は、「海外に居住する日本国民に国政選挙における選挙権の行使を認める」というものであり、明白である、
(b) 国民主権の下では選挙権は至高の権利であり、事後的救済にはなじまず、事前救済の必要性が顕著である、
(c) 本件上告人らは、国民主権を保障する選挙権の行使を認められず立法過程への関与を拒絶されているのであるから、他の救済手段が存在していない、
(d) 昭和59年には在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出され、これが昭和61年に廃案になって以降、本件提訴に至るまで何らの改正もなされないままだったのであり、相当の期間が経過している、
のであるから、上記の要件は全て満たされている。
[38] したがって、上告人らの請求が認容されるべきである。
[39] なお、議論を進める前提として昭和60年最高裁判決の定立した一般論に意義を認めるとしても、上記判決が前提とした事件と本件は全く事実関係が異なり、上記判決に本件との先例としての価値を認めることはできない。この点については、既に第一審における原告準備書面第二において詳述したとおりであり、ここでもこれを引用する。
[40] そのうえで、結論だけを再録すると、昭和60年最高裁判決の基となった在宅投票事件の原告は車椅子で投票所へ赴けば投票することができたが、本件の上告人らはたとえ投票日に帰国して投票所へ赴いたとしても、投票することができなかったのである。このように、昭和60年最高裁判決では、選挙権の行使を容易にする在宅投票制度の廃止が問題とされたのに対し、本件では選挙権の行使を不可能にする投票制度が問題とされているのである。すなわち、在宅投票制度の廃止は「在宅投票人の選挙権を奪っているということはできない」(昭和60年最高裁判決に対する泉徳治調査官の判例解説)のに対し、本件の公職選挙法の規定は、海外在住日本人の選挙権を奪っていることが明らかなのである。したがって、昭和60年最高裁判決は本件において先例たる価値を有しない。それにもかかわらず昭和60年最高裁判決に依拠した点において、原判決は結果的に憲法解釈を誤っている。
[41] 以下に詳述するとおり、本件は昭和60年判決の基準によっても違憲とされるべき例外的事案に該当する。原判決はこの点に関する当てはめを誤っているものであり、結果的に憲法解釈を誤っているものである。

[42] 原判決は、
「…憲法上、これ以上に、選挙に関する細則にわたる規定を置いていないことからすれば、上記規定は、選挙に関する事項の具体的決定を、憲法上正当な理由となり得ないことが明らかな前記の人種、信条、性別等による差別を除き、原則として立法府である国会の裁量に委ねる趣旨であると解される」
と述べた第一審判決を引用する。
[43] しかし最高法規たる憲法が抽象的規定しか置いていないのはむしろ当然のことであって、細則を定めた明文規定がないからといって、ただちに44条但書列挙事由以外の事項については国会の立法裁量の問題になると結論づけてよいものではない。
[44] 44条但書が、
「選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、…」「…徹底した平等化を志向するもの…」
であることは、第一審判決が引用する昭和51年4月14日大法廷判決が明確に宣言したところである。
[45] 44条但書列挙事由は、
「多年にわたる民主政治の発展の過程において(選挙権に関する種々の制限や差別が)次第に撤廃され(てきたという)歴史的発展の成果のあらわれにほかならない」(最判55年4月14日)。
憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。
[46] そのような事項として最高裁で認められたのは、住所に基づく差別である。これは、従来選挙区割りの問題とされていたことであるが、福田最高裁判事が述べるとおり(最高裁平成8年9月11日大法廷判決・民集50巻8号2283頁)、住所に基づく差別が許されるか否かという問題である。そして、この点については、衆議院議員選挙においては、3倍以上の格差は許されないということが判例上確立している。つまり、衆議院議員選挙において3倍以上の格差を生じる法律の制定あるいはそのような状態の放置(立法の不作為)は、国会の立法裁量の範囲外の問題として、違法の評価を受けると解すべきである。
[47] 本件で原告が受けている差別は、選挙権行使の機会を完全に奪われているというもので、憲法15条1項および3項の権利を全否定されているに等しいものであるから、3倍以上の格差という量的な差別を遥かに凌駕している。したがって、その状態を放置する立法の不作為が違法の評価を受けることは明白である。

[48] 仮に、本件で原告が受けている差別が国会の立法裁量の問題になるとしても、国会の裁量が無制限に認められるものでないことは当然のことである。
[49] 原判決は、昭和39年判決および昭和51年判決を単に並列して引用しているが、これら2つの最高裁判例においても、立法裁量の限界の捉え方には大きな違いがあるとされている。すなわち、
「昭和39年大法廷判決も、…国会の裁量に一定の限界があることは認めていたと考えられるが、それは、憲法上の要請としてではなく、立法裁量の一般的限界として考えられていたものと思われる。(他方、昭和51年)判決は、選挙制度の仕組みの具体的決定に関し差別(不平等)をもたらす国会の裁量権の行使につき、憲法の投票価値の平等の要請がその合理的な限界を圉するものとして働くことを明らかにし、国会が決定した具体的選挙制度に合理的に是認することができないような投票価値の不平等が生じている場合には、その選挙制度は違憲になるものとした点に意義があると考えられる」(昭和51年判決の最高裁判例解説)
のであって、昭和39年判決から昭和51年判決へ憲法理論の進化がみられる。
[50] 上記昭和51年最高裁判例では、投票価値の平等の要請が国会の裁量権行使の限界となることが指摘されていたが、本件において、あらゆる住所地にいる者に対して選挙権行使の機会を付与すべきという要請が国会の裁量権行使の限界となるべきことは当然認められてしかるべきである。もっとも、投票価値の平等の場合には、「数字的に完全に同一であることまで要求すること」(51年判決)が現実的に不可能であることから、選挙区間の人口偏差の許容限度という量的概念によって裁量権行使の限界が緩和され、その許容限度は、現在では衆議院議員選挙で3倍以内の格差という数値とされている。しかし、住所地が海外にある者に対し選挙権行使の機会を付与することは十分可能なのであるから、本件の場合には国会の裁量権行使の限界をさらに緩和する理由は何ら存しない。

[51] 昭和51年最高裁判例解説は、
「選挙制度の仕組みの具体的決定が原則として国会の裁量にゆだねられ、投票価値の平等は国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解した場合、衆議院議員の選挙に関する選挙区及び議員定数の配分の決定について、国会が正当に考慮することのできる目的、理由(考慮要素)とはどのようなものであるかまた、その考慮要素をどの程度までしんしやくすることができるのかということが次に問題となる」
と述べる。ここで指摘されているように、国会の立法裁量の合理性を判断するにあたっては、(a)考慮要素の妥当性および(b)考慮要素斟酌の程度が吟味されなければならない。しかし、原判決は、この点の検討を十分に行っていない。
[52] 原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の(立法)裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる上記の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれているというべきである」
との第一審判決を引用する。しかしながら、これらの考慮要素はいずれも、原判決の引用する第一審判決自体が「多数の選挙人によって行われる」と述べているように、国民が選挙権を行使できることを当然の前提に、各人の権利行使を十全たらしめるために認められている要素に過ぎない。これらの考慮要素を理由に、例えば、海外在住の選挙人は国内在住の選挙人の場合よりも遠方にある投票所まで自ら赴く必要があるとすること、あるいは本人確認のために権利行使の際にはパスポートの呈示が必要であるとする等、権利行使のために国内の選挙人の場合よりも手続上の負担が課されることなどは正当化できるかもしれない。しかし、それを超えて、選挙権の行使それ自体を完全に否定するためにこれらの考慮要素を斟酌することは、本末転倒の議論である。多数の選挙人の効率等のために少数者から選挙権を行使する権利そのものを奪うことを正当化する理論は、初期の「公共の福祉論」的なものであり到底許されるべきではない。
[53] さらに、原判決の掲げるような点を顧慮すべきであるとしても、少なくとも在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出された昭和59年の時点では上記のような問題点については解決しうると判断されていたものと推認されるから、それ以降はこれらの顧慮を理由として公職選挙法の改正を放置してよい理由は存在しない。
[54] したがって、本件においては、原判決の掲げる点を考慮しうるとしても、これを基として海外在住の日本国民に選挙権を行使させなくてもよいとの結論は到底導くことができないのである。

[55] 原判決は、
「世界各国の各地方に居住する在外日本人について、その所在を把握し、これらの者に対して当該選挙における立候補者の氏名、経歴、政見等を周知させ、投票や開票などの選挙の執行作業を行う場合には、選挙を公正かつ能率的に執行するについて、国内における場合とは異なる様々な実施上の問題点が想定されるところであるから、国会が選挙制度を定めるに当たって、在外選挙制度を設けるか否か、設けるとすればどのような仕組みでどのような時期からこれを実施するかなどの具体的決定は、国会の右の裁量に委ねられている…国会には、在外選挙制度を設けるなどして在外日本人の選挙権行使を確保すること以外に立法上の選択が許されていないとまではいえない」
との第一審判決を引用する。
[56] しかし、原判決が実施上の問題点として挙げている事項は、いずれも在外日本人を単なる選挙実施の際における客体として捉える観点からのものであって、在外日本人が選挙権という重要かつ基本的な権利の享有主体であるという観点が欠落している主客転倒の議論である。例えば、選挙に関する情報は権利者が主体的に収集すれば足ることであるし、権利者がそれでよいと考えているにもかかわらず、情報が不足しているはずであるという推測に基づいて選挙権の行使それ自体を否定する考えは悪しきパターナリズムにほかならず、選挙権の行使それ自体を全否定する根拠とはなりえない。
[57] 加えて、後述するように(第6)、現に公職選挙法が一部改正されて在外投票制度が創設されていることからすれば、上記記載の実施上の問題点は容易に解消できることを国自身が認めているものであり、そもそも上告人らの選挙権を剥奪する理由足り得ない。
[58] また原判決は、「在外選挙制度を設けるか否か」も国会の裁量の範囲であるとする。しかしながら、具体的にいかなる実施方法によって選挙権行使の機会を確保するかを判断することは国会の裁量の範囲であるとしても、在外選挙制度を設けないことにするという裁量は国会にはない。また、実施時期については、在外選挙制度が設けられなければ選挙権という重大な権利を在外日本人は行使できない以上、国会に時期を遅らせる権限はなく、可及的速やかに実施すべきであるということになる。

[59] 訴状において上告人らか主張したとおり、
「成年の国民に対して、等しく国政選挙の選挙権が与えられるべきことは憲法及び人権規約が何らの留保も置かずに規定しているものであるところ、現行の公職選挙法が、憲法及び人権規約の一義的文言に違反していることは明らかである」(20頁)。
さらに、その際に検討対象とすべきなのは、条文の文言それだけではなく、憲法制定後に発展し確立した解釈によって補充された意味内容を踏まえたものと解すべきであって、そのような憲法条文に照らして、一義的に違反しているか否かが検討されるべきである。「立法の内容が憲法の一義的文言に違反している」場合を文字通りに理解すれば、立法行為が国家賠償法上違法の評価を受けることは事実上ありえないことになる。「憲法解釈上明らかに違反していると解される場合も含まれる」と解するべきである(中村睦男「立法の不作為に対する違憲審査」佐藤孝治=中村睦男=野中俊彦『ファンダメンタル憲法』294頁、只野雅人一橋大学大学院法学研究科助教授意見書甲第21号証11頁)。この観点からすると、本件での一義的違反はさらに明らかである。
[60] なお原判決が引用する第一審判決は「一義的に明白に」という表現を用いているが、「明白」までは前記最高裁判決の一般論の中にも含まれていない。何の根拠もないところで要件を過重するかのごとき表現を使っている点も相当でない。

[61] 本件で上告人が受けている制約は選挙権行使の機会の完全な喪失であって、単なる平等原則違反にとどまらず、憲法15条1項3項違反の問題も生じている。しかし、原判決は平等原則違反の点を論じるだけで、15条1項3項に即した憲法判断(判断基準の確定・その当てはめ)を一切行っていない。

[62] 原判決は、
「諸外国においても、在外に居住する自国民の大多数の者の選挙権の行使を可能にする在外選挙制度などが設けられたのは比較的近年に至ってのことである」
との第一審判決を引用する。しかし、そこで列挙されている諸国で一般の国民にも在外選挙権が認められるようになったのは、イギリス(1985年)、フランス(1975年―ただし元老院に関する在外選挙権類似の制度は1958年)、ドイツ(1985年)、カナダ(1993年)、オーストラリア(1983年)であり、原判決が触れていない米国は1975年である。カナダを除けばいずれも1985年以前であって、
「このことは、国外に居住する自国民に対して選挙権を否定することが国民主権に反するものであることを少なくとも先進各国が一致して認めていることを示している」(訴状12頁)
[63] 原判決が引用する第一審判決は、人権規約第25条の条文を引用のうえ、
「右の文言から明らかなとおり、同条が、条約締結国の立法府に対し、在外に居住する自国民の選挙権の行使を可能にする立法措置を構すべきことを一義的に明白に命じているとは解されない」
と一言でかたづけており、否定する理由がまったく示されていない。
[64] 条約も法律より上位の規範であり、憲法と人権規約が別個の法であることも明らかである。したがって、人権規約との適合性存否の検討は、憲法との適合性存否の検討と別個になされなければならない。憲法に適合しているから人権規約に適合していると即断することはできず、これを論証するためには、まず、憲法の保障と人権規約の保障が同等のものであることを示さなければならない。なぜなら、人権規約が憲法の下位法であるとしても、下位法が上位法より厚い保護を与えることは稀ではない(その適例は、憲法38条2項と刑事訴訟法319条2項)。この場合には、上位法に適合していても下位法に違反することはありうるのであるから、本件においても原審裁判所は、参政権に関する憲法の規定と国際人権規約の規定が同等の保障しか認めていないことを論証しなければならない(東澤靖「法曹実務家による国際人権法の実現」国際人権11号49頁、喜田村洋一「国際人権法の国内における実施」国際人権10号参照)。
[65] しかし、この関係で原審裁判所は人権規約の条文を掲げただけで結論を出したものであり、条約の解釈を参照した形跡は窺われない。そして、この点については第一審で上告人らか提出したノバックの注釈書に明らかなとおり、人権規約では海外居住者を含む全ての市民が現実に選挙権を行使できることが保障されていなければならないとされているのであり(甲3・439頁)、原判決の人権規約の解釈が誤っていることは明白である。
[66] したがって、公職選挙法の規定が人権規約に違反することは明らかであり、上告人らの請求が認められるべきである。
[67](1) 確かに、原判決が指摘するとおり、公職選挙法が一部改正されて、比例選挙区に限り在外選挙制度が創設されたことは事実である。しかしながら、何故、公職選挙法が改正されたことをもって、上告人らに選挙権を行使させていなかった法制度の適法性が導かれるのか不明である。
[68] そもそも上告人らは、平成8年10月20日に行われた衆議院議員選挙において選挙権を行使できなかった点についての慰謝料を請求しているのであり、その後にいかなる改正・立法がなされようが、平成8年10月20日当時の違法状態が遡って解消されることはあり得ない。

[69](2) 他方、前述したように原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる右の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれている」
としている。しかしながら、在外選挙を「混乱なく、公正かつ能率的に執行する」ことが容易かつ可能であるからこそ、在外選挙制度が創設されたものにほかならない。とすれば、原判決が国会の広範な立法裁量を根拠づける理由として挙げた点は、既に理由足り得なくなっているものというはかない。そもそも、在外選挙制度が創設されたのは、取りも直さず、国自体が在外選挙制度創設の必要性を認めたからである。裏を返せば、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示しているとさえいえるのである。
[70](1) 原判決は、
「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
と判示した。
[71] もし、上記「国内」を「1票の価値が重い選挙区」と置き換えた場合、上記論理を煎じ詰めると、「1票の価値が重い選挙区に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得る」こととなり、「生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきである」、ひいては、1票の格差が何倍になったとしてもすべて立法裁量の範囲内である、とされることにもなろう。

[72](2) しかしながら、従来から最高裁で問題とされている定数不均衡訴訟においては、可能な限り住所による差別を撤廃すべく、衆議院議員選挙においては3倍以上の格差は許されないとの判例が確立しており、「自己の選択の結果」を理由として、居住地故に差別的取り扱いを許容することはあり得ない。原判決の論理は、かかる最高裁判決の流れをないがしろにするものであって、到底取りえない。

[73](3) 前述したように、憲法第44条但書列挙事由は、多年にわたる民主政治の発展の過程において選挙権に関する種々の制限や差別が次第に撤廃されてきたという歴史的発展の成果にほかならない。そして、憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項(住所による差別)については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。

[74](4) また、そもそも国民は、居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)を保障されており、居住地故に基本的人権の行使を制限あるいは剥奪されることはあってはならないはずである。にもかかわらず、選挙権の剥奪という差別的取り扱いを許容するとすれば、基本的人権であるはずの居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめることになる。
[75] このように立法裁量を広範に解することは許されず,原判決には明らかに憲法解釈の誤りがある。
   目  次
第1 国家賠償請求に関する原判決の判断
第2 昭和60年最高裁判決の一般論について――昭和60年最高裁判決自体の憲法解釈の誤り
第3 本件に対する昭和60年最高裁判決の先例無価値性――本件で昭和60年最高裁判決に依拠することによる憲法解釈の誤り
第4 原判決による昭和60年最高裁判決の基準適用の誤り――昭和60年最高裁判決の基準によっても本件は違憲とされるべき例外的事案に該当することについて
第5 人権規約違反
第6 原判決が付加した理由について――昭和60年最高裁判決の例外的事案に本件は該当しないとする原判決の理由付けには根拠がないことについて

[1] 原判決は、憲法17条、市民的及び政治的権利に関する国際規約25条及び国家賠償法1条の解釈に関する重要な事項を含むものであり、貴裁判所が上告審として事件を受理すべき場合に該当する
[2] 原判決は、第一審判決と同様、最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1512頁、以下「昭和60年最高裁判決」という。)が述べる一般論に完全に依拠し、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法のー義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法第1条第1項の適用上、違法の評価を受けない」
とするとともに、
「国会議員の立法不作為が違法となる場合の基準も同様であることは原判決が正当に判示するとおりである」
とした。
[3] しかし、昭和60年最高裁判決の一般論自体、後述するとおり(第2)、極めて問題がある。日本において「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)のであり、米国とは違って先例拘束性は認められないのであるから、最高裁判例といえども、憲法解釈の誤りがあるなど内容的に不適切な点があれば、それに依拠することは許されないはずである。この点、原判決は昭和60年最高裁判決の一般論に安易に依拠した点において、そもそも不当であると言わざるを得ない。
[4] 後述するとおり(第2)原判決は、国会の立法裁量を極めて広範に解し、違憲状態にあった公職選挙法を放置した国会の立法不作為を適法と判断した点において、憲法解釈の誤りがある。

[5] さらに原判決は、第一審判決の判断に加え、
(1)「平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正によって衆議院議員及び参議院議員の選挙を対象にして在外日本人の選挙権の行使に関する在外選挙制度が創設され、当分の間は衆議院又は参議院の比例代表選出議員の選挙に限られてはいるものの、平成11年5月1日から在外選挙人名簿への登録が、平成12年5月1日以降実施される衆議院議員総選挙又は参議院議員通常選挙から在外投票が、それぞれ実施されることとなっていること」
(2)「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
を示した上で、
「国会が、公職選挙法を改正して在外日本人について国政選挙における選挙権の行使を行わせるための特別な措置を設けることをせず、あるいは右措置を設けたものの、衆議院小選挙区選出議員選挙及び参議院選挙区選出議員選挙において選挙権を行使できるようにする措置を設けなかったことが、前記の例外的な場合に該当しないことは、明らかなところといわなければならない」
と判示した。
[6] しかし、後述するとおり(第6)、上記(1)はむしろ、在外投票制度創設が可能であること、ひいては、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示す事実であって、これを国家賠償請求を否定する方向で援用することは許されないというべきである。また、上記(2)は基本的人権である外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめる方向で立法裁量を広範に解したものであるうえ、かかる原判決の論理を国内住所地に適用するならば、一票の投票価値の平等の問題に関連してこれまで集積されてきた最高裁の違憲判決は成り立だなくなってしまうものであって、明らかに憲法解釈に誤りがある。

[7] このように、原判決には憲法解釈の誤りがあり、ひいては理由不備の違法があるものであるから、破棄を免れない。
[8] 以下、詳述する。
[9] 以下に詳述するとおり、昭和60年最高裁判決が定立した一般的基準には何ら合理性はなく、同判決自体、憲法解釈を誤っているものである。かかる判決の一般的基準に依拠した点において、原判決は憲法解釈を誤っている。
[10] 原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下、同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきものである」
との第一審判決を引用し、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とを区別することを前提に、その他の理由を付加したうえで、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けない」
と結論付け、結果的に立法行為を国家賠償で争う道を極めて狭めてしまっている。
[11] 確かに、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とは、観念上区別することができるであろう。しかし、昭和60年最高裁判決が、上記区分論から、結果的に国家賠償による救済の道を極端に狭める結果を導いたことに対しては批判が多い(なお、上記最判はその他の理由も付加したうえで上記結論に至っているが、それらの理由がいずれも妥当性を持たないことについては後述)。
[12] この点、長尾一紘教授は、
「〔上記最判〕の『区分論』が、このような違法性の対概念を前提として、立法内容の違憲性=『結果不法』、立法行為の違法性=『行為不法』としているものとしても、この『区分』自体からは、判決の論旨を根拠づけるような特段の法的効果が生ずるわけではない。立法者が立法するにあたってのもっとも重要な行為規範は憲法規範であり、立法内容に違憲性が認められる場合には、原則的に立法行為に違法性があるものと考えることが可能であるからである。」(判例批評、民商法雑誌1986年272頁、273頁)
と述べ、的確に上記最判の理由付けを批判している。また、棟居快行教授(執筆時は神戸大学助教授)も、
「『区別論』は〔上記〕のような結果の将来を正当化しうるほど説得力ある理由を伴っているであろうか。この点につき〔区別論〕は明らかに不十分である。違憲内容の立法をすることが即ち国会議員の『職務上の法的義務に違背』するものと言うこともできるのである。一審判決が過失の認定についてではあるが、『立法をなすにあたっては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議、検討すべき高度の注意義務を負う』として、立法内容違憲即ち注意義務違反という見方を示していた(参照、遠藤博也『国家補償法上巻』450頁)ことに注目すべきである」(判例評釈、判例時報1194号204頁)
として、昭和60年最高裁判決の理由付けを論難している。
[13] さらに原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係において政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであ〔る〕」
との第一審判決を引用する。上記判示事項を導くにあたって昭和60年最高裁判決が掲げた理由のすべてを原判決は挙げていないものの、次に述べるとおり、昭和60年最高裁判決が挙げる理由はいずれも根拠となるものではない。
[14] 昭和60年最高裁判決は、国会議員が原則として個別の国民の権利に対して法的義務を負わないという結論を導くにあたって、(a)議会制民主主義の要請、(b)憲法における免責特権条項、(c)立法行為の政治的性格という3つの理由を挙げている。以下、これらの理由ごとに分説する。

(1) 議会制民主主義の要請
[15] 理由の第一は、議会制民主主義の要請であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする」
と判示する。
[16] しかし、この点について、長尾教授が上記最判を的確に批判している。すなわち、
[17] 第一に、議会制民主主義原理との関連においては、個々の国会議員の国民総体に対する責任が問題にされる。ところが〔上記最判の事案〕で問題にされているのは、国会議員総体(ないし機関としての国会そのもの)の個々の国民に対する義務の内容である。前者について「政治的責任」が妥当するとしても、後者については法的義務が妥当しうるのである…。判旨においては、この点について論理の転倒があるものといわざるをえない。国会議員総体の個々の国民に対する関係においては、その立法行為が、たとえ「立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるもの」についても、たんに国民の「政治的評価」にゆだねられているものとは解されないのである。
[18] 第二に、判旨においては、国会が合議制機関たることへの配慮が十分なされていないように思われる。国賠法1条1項の「公務員」に合議制機関の構成員が含まれることは学説・判例の一致して認めるところであるが、合議制機関にあっては、当該機関の意思決定が、のちに違法であるとされたなら、それほとりもなおさず、意思決定に関与した公務員である構成員(個々の具体的特定の構成員ではない)の判断に瑕疵があったものと解される。合議制機関たる国会に関しても、違法行為の主体について上記のような把握がなされるべきものと解される。ところが、上記判旨は、原子的に分解された個々の国会議員こそが違法行為の主体であると把握しており、この点において立論の前提が妥当を欠くものと思われるのである。
[19] 第三に、判旨は、国会議員は憲法解釈に関する国民の「多様な見解」を立法過程に反映させるべき立場にある」とするが、このような立論は、自由委任を原則とする憲法秩序の下において、国賠法の違法性を問題にする場にあっては、ほとんど無意味な議論のように思われる。(強調は原文)(長尾前掲評釈275、275頁)
[20] また、棟居教授が端的に指摘するとおり、
「判旨は、民主主義の下で国会は、憲法解釈に対する国民の多元的意見を多数決原理により立法過程に公正に反映させる役割をになう、と説く。しかしながら、国民多数が支持したとしても違憲行為が合憲化されるわけではない。」(棟居前掲評釈205頁)
[21] 憲法81条は裁判所に違憲審査権を与えているが、その際に裁判所に期待されている役割が少数者の基本的人権の擁護にあることは広く受け入れられている理解であろう。上記判旨は、多数決によっても奪うことのできない少数者の基本的人権が侵害されている場面において、本来期待されている役割を裁判所が放棄する結果を招来することを容認するものであり、到底とりえない。また、(本件のように)そこで侵害されている権利が少数者の選挙権に関わるものである場合(ことに本件では選挙権行使が全否定されている)、それらの者は政治的過程に自らの意見を反映させるルートを一切持たないこととなるのであるから、上記判旨のいう「選挙による政治的評価」も機能しえないのである。
[22] よって、議会制民主主義の要請が、法的効力を原則的に否定する根拠たりえないことは明らかである。

(2) 免責特権
[23] 第二の理由は免責特権であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法51条が、『両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。』と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。」
と判示する。
[24] しかし、
「51条の規定は、国会議員の自由な言論を保障し、その職務の遂行にあたって制約をうけることのないようにしたものであり、『同条の中に、国会議員が院内で行った演説、討論又は表決は本来違法なものであっても、適法とみなされるとか或いは国会議員が違憲の立法を行ったこと或いは憲法上の義務に違背して立法を行わないことによって他人に損害を加えたとしても、国は賠償責任を負わないというような趣旨が含まれているものとは到底解することができない』(本件二審判決)と解すべきである。学説の多数および下級審判例もこのように解している。」(長尾前掲評釈276頁)
[25]「そもそも免責特権は議員の特別の地位と任務のための政策的配慮から出たものであるから、議員を責任無能力者と同様に責任阻却する制度とみるべきではなく、実体法上一たんは成立する損害賠償責任を議員個人から政策的に免除するものとみるべきであろう。そのように解すれば、代位責任説を前提としても、国の代位すべき損害賠償責任は実体法上成立しているので、国家賠償で立法行為の違憲性を争うことができることとなる。この意味で『立法不作為の国家賠償に、憲法51条の出る幕がない』(古崎慶長「立法活動と国家賠償責任」判時1116号20頁)とさえ言えよう。「免責特権が仮に問題になるにしても議員個人の賠償責任ないし求償が追及される最終段階で論じれば足り(る)」(野中俊彦「『在宅投票制度復活訴訟』控訴審判決の意義と問題点」ジュリ670号121頁注(10))のである。」(棟居前掲評釈205頁)
[26] したがって、免責特権も理由となるものではない。

(3) 立法行為の政治的性格
[27] 第三の理由は立法行為の政治的性格であり、昭和60年最高裁判決は、
「国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといって、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。」
と論ずる(一部を原判決も引用)。
[28] この点については、長尾教授が加えている以下の批判が妥当する。すなわち、
[29] 第一に、「政治的なもの」が性質上法的規制の対象になじまないとすることには、論理の飛躍があるものと思われる。憲法問題のほとんどすべてが「本質的に政治的なもの」としての性格をそなえている。「政治的なもの」が法的規制の対象たりえないとするならば、法律内容についての司法審査もすべて許されないものといわざるをえないのではなかろうか。憲法81条は、憲法問題がすべて「政治的なもの」であることを前提に、裁判所に対して、それを「政治的に」ではなく、「法律的に」解決する任務を与えたのである。「政治的なもの」と「法的規制の対象になじむもの」とは、矛盾する関係にあるのではないのである。
[30] 第二に、判決は、「あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないもの」とする。判旨においては、「あるぺき立法行為」と「具体的立法行為」が対比されている。しかし、ここでは、具体的立法行為が違法か否かが問題とされているのであり、これは、「あるべき」か否かとはまったく別個の法律的判断である。(長尾前掲評釈276、277頁)(強調は原文)
[31] 昭和60年最高裁判決は、結論的に、
「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
という極めて限定的な基準を採用している。
[32] しかし、
「いわば内容違憲に関する『故意重過失』の立法ミスに際して〔のみ〕国賠法上の法的責任を問いうるとする〔判旨は、〕立法行為について、国賠法上の責任要件を違憲性の認識においては故意重過失に限定し、文理をこえて加重したもの」(棟居前掲評釈205頁)
という批判が妥当する。また、
「〔上記〕判旨は、国賠訴訟に限って『違法性』の要件を加重することにより、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否認するものであり、81条の趣旨に反するものと思われる」(長尾前掲評釈280頁)
のである。
[33] 以上は、昭和60年最高裁判決の個々の理由付けに即した分析的な学説による批判を整理したものであるが、昭和60年最高裁判決については、総論的にも次のような批判がある。
[34] すなわち,野中俊彦教授は,昭和60年最高裁判決について次のように述べる。
 憲法17条や国家賠償法1条の趣旨が、国家活動による国民の権利・利益の損害を実質的に救済することにあるとすれば、そのような状況の下では、「公権力の行使」を狭く行政活動に限定しなければならない理由はない。立法活動や司法活動による国民の権利・利益の侵害がありうるならば、それらに対しても国家賠償請求が認められてしかるべきである…(中略)…〔上記最判により〕実質的な立法不作為による権利・利益の侵害に対して国家賠償請求訴訟で争う道はほぼ完全に閉ざされてしまったことになる。しかし立法不作為や立法の不備による権利・利益の侵害ということがそもそもありえないというのであればともかく、その可能性が否定できない以上、それについての損害賠償請求の道も開かれていることが憲法17条の要請するところであろう。(「在宅投票制事件最高裁判決の検討」法律時報58巻2号90、91、92頁)
[35] また、中村睦夫教授は次のように述べている。
 立法行為に対して国家賠償法の適用を認めて、国家賠償請求訴訟を憲法訴訟として活用するということは、およそ憲法上の権利の侵害に対してできるだけ救済の道が開かれなければならないという憲法上の要請に応えるためである。最高裁自身も、昭和51年大法廷判決で、議員定数配分の合憲性を公職選挙法上の選挙無効訴訟によって争えることを認める理由として、『およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請』があることを明らかにしているところである。在宅投票廃止の合憲性を争う訴訟形態として、選挙無効訴訟や、あるいは立法不作為違憲確認訴訟が可能であるかもしれない。しかし、本件訴訟で第一小法廷判決が国家賠償請求訴訟を利用する道を認めなかったことは、先の昭和51年の大法廷判決の要請にも応えなかったものである。(「在宅投票制度廃止違憲訴訟最高裁判決」ジュリスト855号89頁)
[36] これまで述べてきたとおり、昭和60年最高裁判決の基準には、何ら妥当性が認められない。これに代わる基準としては、台湾人元日本人兵の求めた損失補償請求事件で二審(東京高裁昭和60年8月26日判決・判例時報1163号41頁)が示した条件、すなわち、(a)立法をなすべき内容が朋白であること、(b)事前救済の必要性が顕著であること、(c)他に救済手段が存在しないこと、に加えて、(d)相当の期間の経過、の要件が存すればよいと解するべきであろう(芦部信喜『憲法新版補訂版』347頁)。
[37] そして、本件においては、
(a) 立法すべき内容は、「海外に居住する日本国民に国政選挙における選挙権の行使を認める」というものであり、明白である、
(b) 国民主権の下では選挙権は至高の権利であり、事後的救済にはなじまず、事前救済の必要性が顕著である、
(c) 申立人らは、国民主権を保障する選挙権の行使を認められず立法過程への関与を拒絶されているのであるから、他の救済手段が存在していない、
(d) 昭和59年には在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出され、これが昭和61年に廃案になって以降、本件提訴に至るまで何らの改正もなされないままだったのであり、相当の期間が経過している、
のであるから、上記の要件は全て満たされている。
[38] したがって、申立人らの請求が認容されるべきである。
[39] なお、議論を進める前提として昭和60年最高裁判決の定立した一般論に意義を認めるとしても、上記判決が前提とした事件と本件は全く事実関係が異なり、上記判決に本件との先例としての価値を認めることはできない。この点については、既に第一審における原告準備書面第二において詳述したとおりであり、ここでもこれを引用する。
[40] そのうえで、結論だけを再録すると、昭和60年最高裁判決の基となった在宅投票事件の原告は車椅子で投票所へ赴けば投票することができたが、本件の申立人らはたとえ投票日に帰国して投票所へ赴いたとしても、投票することができなかったのである。このように、昭和60年最高裁判決では、選挙権の行使を容易にする在宅投票制度の廃止が問題とされたのに対し、本件では選挙権の行使を不可能にする投票制度が問題とされているのである。すなわち、在宅投票制度の廃止は「在宅投票人の選挙権を奪っているということはできない」(昭和60年最高裁判決に対する泉徳治調査官の判例解説)のに対し、本件の公職選挙法の規定は、海外在住日本人の選挙権を奪っていることが明らかなのである。したがって、昭和60年最高裁判決は本件において先例たる価値を有しない。それにもかかわらず昭和60年最高裁判決に依拠した点において、原判決は結果的に法令解釈に関する重要な事項を誤っている。
[41] 以下に詳述するとおり、本件は昭和60年判決の基準によっても違憲とされるべき例外的事案に該当する。原判決はこの点に関する当てはめを誤っているものであり、結果的に昭和60年最高裁判決と相反する判断を行っているものである。

[42] 原判決は、
「…憲法上、これ以上に、選挙に関する細則にわたる規定を置いていないことからすれば、上記規定は、選挙に関する事項の具体的決定を、憲法上正当な理由となり得ないことが明らかな前記の人種、信条、性別等による差別を除き、原則として立法府である国会の裁量に委ねる趣旨であると解される」
と述べた第一審判決を引用する。
[43] しかし最高法規たる憲法が抽象的規定しか置いていないのはむしろ当然のことであって、細則を定めた明文規定がないからといって、ただちに44条但書列挙事由以外の事項については国会の立法裁量の問題になると結論づけてよいものではない。
[44] 44条但書が、
「選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、…」「…徹底した平等化を志向するもの…」
であることは、第一審判決が引用する昭和51年4月14日大法廷判決が明確に宣言したところである。
[45] 44条但書列挙事由は、
「多年にわたる民主政治の発展の過程において(選挙権に関する種々の制限や差別が)次第に撤廃され(てきたという)歴史的発展の成果のあらわれにほかならない」(最判51年4月14日)。
憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。
[46] そのような事項として最高裁で認められたのは、住所に基づく差別である。これは、従来選挙区割りの問題とされていたことであるが、福田最高裁判事が述べるとおり(最高裁平成8年9月11日大法廷判決・民集50巻8号2283頁)、住所に基づく差別が許されるか否かという問題である。そして、この点については、衆議院議員選挙においては、3倍以上の格差は許されないということが判例上確立している。つまり、衆議院議員選挙において3倍以上の格差を生じる法律の制定あるいはそのような状態の放置(立法の不作為)は、国会の立法裁量の範囲外の問題として、違法の評価を受けると解すべきである。
[47] 本件で原告が受けている差別は、選挙権行使の機会を完全に奪われているというもので、憲法15条1項および3項の権利を全否定されているに等しいものであるから、3倍以上の格差という量的な差別を遥かに凌駕している。したがって、その状態を放置する立法の不作為が違法の評価を受けることは明白である。

[48] 仮に、本件で原告が受けている差別が国会の立法裁量の問題になるとしても、国会の裁量が無制限に認められるものでないことは当然のことである。
[49] 原判決は、昭和39年判決および昭和51年判決を単に並列して引用しているが、これら2つの最高裁判例においても、立法裁量の限界の捉え方には大きな違いがあるとされている。すなわち、
「昭和39年大法廷判決も、…国会の裁量に一定の限界があることは認めていたと考えられるが、それは、憲法上の要請としてではなく、立法裁量の一般的限界として考えられていたものと思われる。(他方、昭和51年)判決は、選挙制度の仕組みの具体的決定に関し差別(不平等)をもたらす国会の裁量権の行使につき、憲法の投票価値の平等の要請がその合理的な限界を画するものとして働くことを明らかにし、国会が決定した具体的選挙制度に合理的に是認することができないような投票価値の不平等が生じている場合には、その選挙制度は違憲になるものとした点に意義があると考えられる」(昭和51年判決の最高裁判例解説)
のであって、昭和39年判決から昭和51年判決へ憲法理論の進化がみられる。
[50] 上記昭和51年最高裁判例では、投票価値の平等の要請が国会の裁量権行使の限界となることが指摘されていたが、本件において、あらゆる住所地にいる者に対して選挙権行使の機会を付与すべきという要請が国会の裁量権行使の限界となるべきことは当然認められてしかるべきである。もっとも、投票価値の平等の場合には、「数字的に完全に同一であることまで要求すること」(51年判決)が現実的に不可能であることから、選挙区間の人口偏差の許容限度という量的概念によって裁量権行使の限界が緩和され、その許容限度は、現在では衆議院議員選挙で3倍以内の格差という数値とされている。しかし、住所地が海外にある者に対し選挙権行使の機会を付与することは十分可能なのであるから、本件の場合には国会の裁量権行使の限界をさらに緩和する理由は何ら存しない。

[51] 昭和51年最高裁判例解説は、
「選挙制度の仕組みの具体的決定が原則として国会の裁量にゆだねられ、投票価値の平等は国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解した場合、衆議院議員の選挙に関する選挙区及び議員定数の配分の決定について、国会が正当に考慮することのできる目的、理由(考慮要素)とはどのようなものであるかまた、その考慮要素をどの程度までしんしやくすることができるのかということが次に問題となる」
と述べる。ここで指摘されているように、国会の立法裁量の合理性を判断するにあたっては、(a)考慮要素の妥当性および(b)考慮要素斟酌の程度が吟味されなければならない。しかし、原判決は、この点の検討を十分に行っていない。
[52] 原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の(立法)裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる上記の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれているというべきである」
との第一審判決を引用する。しかしながら、これらの考慮要素はいずれも、原判決の引用する第一審判決自体が「多数の選挙人によって行われる」と述べているように、国民が選挙権を行使できることを当然の前提に、各人の権利行使を十全たらしめるために認められている要素に過ぎない。これらの考慮要素を理由に、例えば、海外在住の選挙人は国内在住の選挙人の場合よりも遠方にある投票所まで自ら赴く必要があるとすること、あるいは本人確認のために権利行使の際にはパスポートの呈示が必要であるとする等、権利行使のために国内の選挙人の場合よりも手続上の負担が課されることなどは正当化できるかもしれない。しかし、それを超えて、選挙権の行使それ自体を完全に否定するためにこれらの考慮要素を斟酌することは、本末転倒の議論である。多数の選挙人の効率等のために少数者から選挙権を行使する権利そのものを奪うことを正当化する理論は、初期の「公共の福祉論」的なものであり到底許されるべきではない。
[53] さらに、原判決の掲げるような点を顧慮すべきであるとしても、少なくとも在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出された昭和59年の時点では上記のような問題点については解決しうると判断されていたものと推認されるから、それ以降はこれらの顧慮を理由として公職選挙法の改正を放置してよい理由は存在しない。
[54] したがって、本件においては、原判決の掲げる点を考慮しうるとしても、これを基として海外在住の日本国民に選挙権を行使させなくてもよいとの結論は到底導くことができないのである。

[55] 原判決は、
「世界各国の各地方に居住する在外日本人について、その所在を把握し、これらの者に対して当該選挙における立候補者の氏名、経歴、政見等を周知させ、投票や開票などの選挙の執行作業を行う場合には、選挙を公正かつ能率的に執行するについて、国内における場合とは異なる様々な実施上の問題点が想定されるところであるから、国会が選挙制度を定めるに当たって、在外選挙制度を設けるか否か、設けるとすればどのような仕組みでどのような時期からこれを実施するかなどの具体的決定は、国会の右の裁量に委ねられている…国会には、在外選挙制度を設けるなどして在外日本人の選挙権行使を確保すること以外に立法上の選択が許されていないとまではいえない」
との第一審判決を引用する。
[56] しかし、原判決が実施上の問題点として挙げている事項は、いずれも在外日本人を単なる選挙実施の際における客体として捉える観点からのものであって、在外日本人が選挙権という重要かつ基本的な権利の享有主体であるという観点が欠落している主客転倒の議論である。例えば、選挙に関する情報は権利者が主体的に収集すれば足ることであるし、権利者がそれでよいと考えているにもかかわらず、情報が不足しているはずであるという推測に基づいて選挙権の行使それ自体を否定する考えは悪しきパターナリズムにほかならず、選挙権の行使それ自体を全否定する根拠とはなりえない。
[57] 加えて、後述するように(第6)、現に公職選挙法が一部改正されて在外投票制度が創設されていることからすれば、上記記載の実施上の問題点は容易に解消できることを国自身が認めているものであり、そもそも申立人らの選挙権を剥奪する理由足り得ない。
[58] また原判決は、「在外選挙制度を設けるか否か」も国会の裁量の範囲であるとする。しかしながら、具体的にいかなる実施方法によって選挙権行使の機会を確保するかを判断することは国会の裁量の範囲であるとしても、在外選挙制度を設けないことにするという裁量は国会にはない。また、実施時期については、在外選挙制度が設けられなければ選挙権という重大な権利を在外日本人は行使できない以上、国会に時期を遅らせる権限はなく、可及的速やかに実施すべきであるということになる。

[59] 訴状において申立人らが主張したとおり、
「成年の国民に対して、等しく国政選挙の選挙権が与えられるべきことは憲法及び人権規約が何らの留保も置かずに規定しているものであるところ、現行の公職選挙法が、憲法及び人権規約の一義的文言に違反していることは明らかである」(20頁)。
さらに、その際に検討対象とすべきなのは、条文の文言それだけではなく、憲法制定後に発展し確立した解釈によって補充された意味内容を踏まえたものと解すべきであって、そのような憲法条文に照らして、一義的に違反しているか否かが検討されるべきである。「立法の内容が憲法の一義的文言に違反している」場合を文字通りに理解すれば、立法行為が国家賠償法上違法の評価を受けることは事実上ありえないことになる。「憲法解釈上明らかに違反していると解される場合も含まれる」と解するべきである(中村睦男「立法の不作為に対する違憲審査」佐藤幸治=中村睦男=野中俊彦『ファンダメンタル憲法』294頁、只野雅人一橋大学大学院法学研究科助教授意見書甲第21号証11頁)。この観点からすると、本件での一義的違反はさらに明らかである。
[60] なお原判決が引用する第一審判決は「一義的に明白に」という表現を用いているが、「明白」までは前記最高裁判決の一般論の中にも含まれていない。何の根拠もないところで要件を過重するかのごとき表現を使っている点も相当でない。

[61] 本件で申立人らが受けている制約は選挙権行使の機会の完全な喪失であって、単なる平等原則違反にとどまらず、憲法15条1項3項違反の問題も生じている。しかし、原判決は平等原則違反の点を論じるだけで、15条1項3項に即した憲法判断(判断基準の確定・その当てはめ)をー切行っていない。

[62]   原判決は、
「諸外国においても、在外に居住する自国民の大多数の者の選挙権の行使を可能にする在外選挙制度などが設けられたのは比較的近年に至ってのことである」
との第一審判決を引用する。しかし、そこで列挙されている諸国で一般の国民にも在外選挙権が認められるようになったのは、イギリス(1985年)、フランス(1975年―ただし元老院に関する在外選挙権類似の制度は1958年)、ドイツ(1985年)、カナダ(1993年)、オーストラリア(1983年)であり、原判決が触れていない米国は1975年である。カナダを除けばいずれも1985年以前であって、
「このことは、国外に居住する自国民に対して選挙権を否定することが国民主権に反するものであることを少なくとも先進各国が一致して認めていることを示している」(訴状12頁)
[63] 原判決が引用する第一審判決は、人権規約第25条の条文を引用のうえ、
「右の文言から明らかなとおり、同条が、条約締結国の立法府に対し、在外に居住する自国民の選挙権の行使を可能にする立法措置を構ずべきことを一義的に明白に命じているとは解されない」
と一言でかたづけており、否定する理由がまったく示されていない。
[64] 条約も法律より上位の規範であり、憲法と人権規約が別個の法であることも明らかである。したがって、人権規約との適合性存否の検討は、憲法との適合性存否の検討と別個になされなければならない。憲法に適合しているから人権規約に適合していると即断することはできず、これを論証するためには、まず、憲法の保障と人権規約の保障が同等のものであることを示さなければならない。なぜなら、人権規約が憲法の下位法であるとしても、下位法が上位法より厚い保護を与えることは稀ではない(その適例は、憲法38条2項と刑事訴訟法319条2項)。この場合には、上位法に適合していても下位法に違反することはありうるのであるから、本件においても原審裁判所は、参政権に関する憲法の規定と国際人権規約の規定が同等の保障しか認めていないことを論証しなければならない(東澤靖「法曹実務家による国際人権法の実現」国際人権11号49頁、喜田村洋一「国際人権法の国内における実施」国際人権10号参照)。
[65] しかし、この関係で原審裁判所は人権規約の条文を掲げただけで結論を出したものであり、条約の解釈を参照した形跡は窺われない。そして、この点については第一審で申立人らが提出したノバックの注釈書に明らかなとおり、人権規約では海外居住者を含む全ての市民が現実に選挙権を行使できることが保障されていなければならないとされているのであり(甲3・439頁)、原判決の人権規約の解釈が誤っていることは明白である。
[66] したがって、公職選挙法の規定が人権規約に違反することは明らかであり,原判決は法令解釈に関する重要な事項について誤りを含んでいる。
[67](1) 確かに、原判決が指摘するとおり、公職選挙法が一部改正されて、比例選挙区に限り在外選挙制度が創設されたことは事実である。しかしながら、何故、公職選挙法が改正されたことをもって、申立人らに選挙権を行使させていなかった法制度の適法性が導かれるのか不明である。
[68] そもそも申立人らは、平成8年10月20日に行われた衆議院議員選挙において選挙権を行使できなかった点についての慰謝料を請求しているのであり、その後にいかなる改正・立法がなされようが、平成8年10月20日当時の違法状態が遡って解消されることはあり得ない。

[69](2) 他方、前述したように原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる右の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれている」
としている。しかしながら、在外選挙を「混乱なく、公正かつ能率的に執行する」ことが容易かつ可能であるからこそ、在外選挙制度が創設されたものにほかならない。とすれば、原判決が国会の広範な立法裁量を根拠づける理由として挙げた点は、既に理由足り得なくなっているものというほかない。そもそも、在外選挙制度が創設されたのは、取りも直さず、国自体が在外選挙制度創設の必要性を認めたからである。裏を返せば、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示しているとさえいえるのである。
[70](1) 原判決は、
「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
と判示した。
[71] もし、上記「国内」を「1票の価値が重い選挙区」と置き換えた場合、上記論理を煎じ詰めると、「1票の価値が重い選挙区に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得る」こととなり、「生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきである」、ひいては、1票の格差が何倍になったとしてもすべて立法裁量の範囲内である、とされることにもなろう。

[72](2) しかしながら、従来から最高裁で問題とされている定数不均衡訴訟においては、可能な限り住所による差別を撤廃すべく、衆議院議員選挙においては3倍以上の格差は許されないとの判例が確立しており、「自己の選択の結果」を理由として、居住地故に差別的取り扱いを許容することはあり得ない。原判決の論理は、かかる最高裁判決の流れをないがしろにするものであって、到底取りえない。

[73](3) 前述したように、憲法第44条但書列挙事由は、多年にわたる民主政治の発展の過程において選挙権に関する種々の制限や差別が次第に撤廃されてきたという歴史的発展の成果にほかならない。そして、憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項(住所による差別)については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。

[74](4) また、そもそも国民は、居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)を保障されており、居住地故に基本的人権の行使を制限あるいは剥奪されることはあってはならないはずである。にもかかわらず、選挙権の剥奪という差別的取り扱いを許容するとすれば、基本的人権であるはずの居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめることになる。
[75] このように立法裁量を広範に解することは許されず、原判決には明らかに法令解釈に関する重要な事項の誤りがある。
    目  次

第1点 原判決は憲法14条、15条1項、3項、22条2項、43条及び44条に違反する
 第1 序
 第2 憲法における参政権の意義
 第3 本件差別(住所地による差別)と司法審査
 第4 救済
 第5 結論

第2点 原判決は,憲法17条、市民的及び政治的権利に関する国際規約25条及び国家賠償法1条の解釈を誤り、理由不備の違法がある
 第1 国家賠償請求に関する原判決の判断
 第2 昭和60年最高裁判決の一般論について――昭和60年最高裁判決自体の憲法解釈の誤り
 第3 本件に対する昭和60年最高裁判決の先例無価値性――本件で昭和60年最高裁判決に依拠することによる憲法解釈の誤り
 第4 原判決による昭和60年最高裁判決の基準適用の誤り――昭和60年最高裁判決の基準によっても本件は違憲とされるべき例外的事案に該当することについて
 第5 人権規約違反
 第6 原判決が付加した理由について――昭和60年最高裁判決の例外的事案に本件は該当しないとする原判決の理由付けには根拠がないことについて
[1] 本件は、日本国外に居住する日本国民が国政選挙においてに選挙権を行使しえないことの違法性を問うものである。
[2] 選挙権が国民主権を支える最も重要な権利であることは明らかであり、日本国民である上告人らかこの権利を行使しえないことは、主権者たる地位を否定されたことに等しい。
[3] そして、憲法が保障する権利が、その名に値するためには、これが侵害された場合に司法的な救済が与えられなければならない。行使を阻まれても何らの救済がないものは権利と呼ぶことはできず、そのような空虚なものを、憲法が「侵すことのできない永久の権利」(11条、97条)と呼ぶことはありえないのである。
[4] しかるに、本件訴訟では、第1審判決及び原判決とも、選挙権の行使をなしえない上告人らの請求を全て棄却した。上告人らは、選挙権を侵害され、司法的救済を拒否されたことにより、主権者たる地位を完全に否定されているのである。これによって問われているのは、単に上告人らの権利だけでなく、三権の一翼を担う司法府が、憲法の定めを無視する立法府に対し、チェック機能を果たすことができるか否かなのである。
[5] したがって、貴裁判所が、憲法が保障する最も重要な権利である選挙権の行使が阻まれた状態を違法と解することは、上告人らの権利を認めるにとどまらず、憲法秩序の中での裁判所の権威を高めるものである。不幸にして、下級審の判断が維持されるようなことがあれば、それは司法府が自らのあり方を否定するものと理解されざるを得ず、他の同種案件についての判断と並んで、司法審査の現状に対する批判をさらに高める結果をもたらすであろう。
[6] 上告人らは、貴裁判所が、司法府の最高位の裁判所として、憲法と叡智に基づく判断を下されることを切に期待するものである。
[7] 憲法は、主権が国民に存することを宣言する(前文第1段落。1条)と共に、国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動するとしている(前文第1段落)。
[8] そして、両議院は全国民を代表する選挙された議員で組織し(43条1項)、両議院の選挙人の資格は法律で定めるが、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならないとしている。
[9] 憲法のこれらの規定は、公務員の選定・罷免が国民固有の権利であり(15条1項)、公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障し(15条3項)、また、国民が法の下に平等であること(14条1項)から生まれた当然の要請である。
[10] すなわち、参政権は憲法が規定する国民主権を支える最も重要な権利であり、憲法が予定する代表民主制も、参政権を保障することによって初めて成立しうるのである。憲法が保障する基本的人権は、「侵すことのできない永久の権利」(11条、97条)と呼ばれているが、それらの基本的人権のうちでも、参政権は、表現の自由と並んで、最も高い地位を占めると言うべきである。
[11] 上記の理は、貴裁判所においても数次にわたる判決の中で確認されているところであり、最高裁1976年4月14日大法廷判決(民集30巻3号223頁)は、
「選挙権は、国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として、議会制民主主義の根幹をなす」
ものであると述べ、最高裁1995年2月28日第3小法廷判決(民集49巻2号639頁)は、
「〔憲法15条1項〕の規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならない」
と述べたのである。
[12] そして、このような高い意義を有する選挙権が、日本国民全体に平等に保 障されなければならないことは当然である。憲法44条但書の規定も、それまで多く見られていた制限や差別を例示的に列挙したに過ぎないのであり、これ以外の差別も許されないことは明らかである。蓋し、上記の憲法の規定は、
「選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、各自の身体的、精神的又は社会的条件に基づく属性の相違はすべて捨象されるべきであるとする理念」(民集30巻3号242頁)
を表したものであり、
「憲法14条1項に定める法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向するもの」(上同243頁)
であって、同条が規定する平等原理は選挙権の平等において最も徹底されなければならないのである。
[13] 本件では、そのような意義を有する参政権に対する制限の合憲性が問われているが、表現の自由の制限が合憲であるかを判断するにあたっては「厳格な基準」によらなければならないとされていること(最高裁1989年3月8日大法廷判決・民集43巻2号89頁)との対比からしても、参政権の制限の合憲性も、「厳格な基準」によって判断されなければならない。
[14] 表現の自由は人権のカタログにおいて「優越的地位」を占めると言われるが、その根拠は、いわゆる民主政治のプロセス理論にある。すなわち、
「表現の自由があってはじめて選挙の自由が確保され、国民の意思が公正かつ民主的に国会に反映され、代表されるわけですから、その前提が崩れれば、民主政治のプロセス自体が傷つけられてしまう。そうしますと、不当な違憲と考えられるような立法その他の規制を国会によって矯正していくことが事実上非常にむずかしい、あるいは不可能となる場合も考えられる。そこで、それに代わって裁判所が違憲審査を求められた場合には、積極的に介入して民主政治のプロセス自体をもとどおりに回復する必要がある。それには厳格な審査が必要である」(芦部信喜『憲法判例を読む』99頁)
というのが、表現の自由について厳格な基準があてはまる理由である。そして、本件で制限されている参政権は、「国民の意思を公正かつ民主的に国会に反映さ〔せる〕」という民主政治のプロセスそのものであって、表現の自由を通じて形成された政治意思の発現それ自体の問題なのであるから、表現の自由に適用されるべき厳格な基準、あるいはそれよりも厳格な基準がここでもあてはまるべきは当然である。
[15] 本件において、上告人らは、本件提訴時は全ての国政選挙において、そして現在では国政選挙のうち比例区以外の選挙において、選挙権の行使をすることができない状態に置かれている。選挙権の行使に対するこのような制限は、たとえば選挙運動に対する規制のような間接的・付随的規制ではなく、正に参政権の行使そのものに対する直接的・中心的規制である。
[16] 上記のように、上告人らは、参政権という、憲法典の中で最も高い位置を占める権利を行使できないのであり、しかも、その規制は憲法上、認められる他の目的を達成するためのものではない。このような場合には、当該規制が合憲であるとされるためには、当該規制が「やまにやまれぬ利益」(compelling interest)を実現するために必要不可欠であり、かつ、当該規制がこれを達成するために最小限のものであることが証明されなければならず、その証明責任は、基本的人権を制限しようとする被上告人が負うべきものである。
[17] 上告人らか、日本国籍を有しているにもかかわらず、国政選挙において全面的に選挙権を行使できず(平成10年法律第47号による改正前の公職選挙法の時期)、あるいは衆議院議員小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙権を行使できない(上記法律による在外投票に関する規定の施行〔2000年5月1日〕後)のは、上告人らか日本国外に居住しているためである。すなわち、改正前の公職選挙法においては、永久選挙人名簿(同法19条1項)に登録されていない者は投票をすることができない(同法42条本文)とされていたところ、選挙人名簿の登録は住民基本台帳に記録されている者について行なう(同法21条1項)とされていたため、3箇月以上日本に居住せず、住民基本台帳に記録されていない者は、日本国民であっても投票できなかったのである(現行の公職選挙法では、在外選挙人名簿が調製されているが、衆議院議員小選挙区選出議員及び参議院選挙区選出議員の選挙権を行使できないという点において、日本国内に居住する日本国民との間で大きな差別を受けている)。
[18] 上告人らに対するこのような差別は、日本の主権の及ばない地域に居住することからくる結果ではない。このことは、G7と呼ばれる先進国において、イタリアを除いては、等しく在外選挙の制度を有していることからも明らかである。何よりも、1984年4月に、国外に居住する日本国民について選挙権行使の機会を保障するために、在外選挙人名簿の登録制度及び在外投票制度を創設するための「公職選挙法の一部を改正する法律案」(甲2)が国会に提出されていたことは、上告人らに対する差別が日本の主権の範囲とは無関係であることを明瞭に示している。
[19] 上記のとおり、上告人らに対する差別は、主権の問題とは関わりなく、上告人らが日本国外に居住しているという一事から生じているのである。すなわち、上告人らに対する差別は、住所地による差別なのである。言うまでもなく、海外に居住することは憲法においても認められた権利であり(22条2項)、上告人らはこの権利を行使したことによって不利益を蒙るべき理由はない。したがって、本件における核心は、
「日本国民に対し、その住所地がどこであるかによって、選挙権の行使を認めないことが、憲法上許されるか」
ということである。
[20] このように、本件における中心的問題が、「選挙権行使における住所地差別の許否」であることを認識すれば、本件が、これまで貴裁判所で多数の判決を生み出している、いわゆる定数訴訟と基本的には同じものであることが理解される。貴裁判所の福田裁判官が正しく指摘されているとおり、
「いわゆる定数格差の存在は、結果を見れば選挙人の選挙権を住所がどこにあるかで差別していることに等し〔い〕」(最高裁1996年9月11日大法廷判決〔民集50巻8号2283頁〕における福田裁判官の追加反対意見)
のであり、この指摘は、本件においても全く同様にあてはまるのである。
[21] そして、いわゆる定数訴訟においては、選挙区における議員1人当たりの選挙人数の最大格差が1対3である、あるいは1対6である等と争われていることからも判るとおり、これらの事件の原告は、不平等ではあるにしても、ともかくは投票ができたのに対し、本件の上告人らは、そもそも選挙権行使の機会すら奪われていたのであるから、上告人らはより強い差別を受けていたものである。そして、本件では、海外在住の日本国民が何十万人いても、この者たちが選出に関与できる議員の数は0なのであるから、本件は定数訴訟がその極限にまで達した場合とみなすことができるのである。
[22] このように、本件が、定数訴訟に見られる住所地差別の到達点であるとすれば、本件の判断にあたっても定数訴訟における貴裁判所の先例を参照すべきことは当然である。
[23] そして、この問題について貴裁判所は、
「国会は、その裁量により、衆議院議員及び参議院議員それぞれについて公正かつ効果的な代表を選出するという目標を実現するために適切な選挙制度の仕組みを決定することができるのであるから、国会が新たな選挙制度の仕組みを採用した場合には、その具体的に定めたところが、右の制約や法の下の平等などの憲法上の要請に反するため国会の右のような広い裁量権を考慮してもなおその限界を超えており、これを是認することができな場合に、初めてこれが憲法に違反することになるものと解すべきである」(最高裁1999年11月10日大法廷判決・民集53巻8号1441頁)
と述べている。そして、具体的にどの程度の格差までが許容されるかについては、貴裁判所は、寛大にすぎるとの相当数の反対意見を生みながらも、概ね衆議院議員選挙において1対3(最高裁1976年大法廷判決・民集30巻3号223頁参照)、参議院議員選挙においては1対6(最高裁1996年9月11日判決・民集50巻8号2283頁参照)程度の格差が生じた場合には、これを違法と判断していると理解される。
[24] これを本件と比較するならば、本件における上告人らに対する差別が違法とされるべきことは明らかである。まず、上告人らに対して、日本国内に居住する日本国民と区別して、選挙権を行使させないという差別的取扱いをすること憲法上正当化するだけの目的が存在しない。定数訴訟においては、都道府県や市町村等の行政区画、面積の大小、人口密度、住民構成、交通事情、地理的状況等諸般の事情を考慮して、平等原則から逸脱する選挙区割り・議員定数配分を決めることが許される(但し、その逸脱の程度は上記の範囲内でなければならない)とされているが、本件では、何らかの事情を考慮して選挙権を行使させないとしているのではなく、住民票との連動という選挙人名簿調製の便宜のために、上告人らの選挙権行使が認められなくなったのであり、このような便宜が憲法上の基本的人権を実質的に剥奪する根拠となりうるものでないことは明白である。
[25] また、在外選挙を実施することに実務上の不便がありうるとしても、選挙を実施する側の不便によって国民の権利を剥奪することができないのは自明である。何よりも、1984年に公職選挙法改正案が提出されたという事実は、少なくともこの時期から在外選挙が実施できる状態になっていたことを示すものであるから、本件訴訟を提起する契機となった1996年10月の衆議院議員選挙の時点で、在外選挙を不可能とするような不便は存在していなかったものである。
[26] このように、そもそも上告人らに選挙権を行使させないための理由は、憲法上、正当と認められないものであるから、定数訴訟におけるような格差の程度を論ずるまでもなく、上告人らに対する差別は違法である。
[27] 次いで、差別的取扱いの程度を見るに、上記のとおり定数訴訟では、衆議院議員選挙では概ね1対3で違法とされるのに対し、本件では上告人らの国外居住日本国民は、何十万人いても国会議員を1人も選出することができないのであるから、上告人らはいわば無限倍(1対∞)の差別を受けていることになる。このような極端な差別を正当化しえないことは、定数訴訟の先例における法廷意見によっても明らかである。
[28] 以上のように、上告人らに対する差別は、憲法14条、15条1項、3項、43条、44条に違反するものであるが、原判決はこれらの条項の解釈を誤り、上告人らに対する差別は憲法に違反しないとしたものである。同様に、上告人らに対する差別が違法であることは、上に引用した最高裁大法廷判決に照らして明らかであるにも関わらず、原判決はこれを違法でないとしたものであるから、原判決はこれらの最高裁判決にも違反する。
[29] 次に、原判決は、
「〔上告人ら〕が国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきである」(原判決30頁)
と述べるが、この判示も誤りである。原判決は、上告人らが国内に住所を持たないことは上告人らの選択の結果であると述べるが(これ自体はそのとおりである)、そのことが、なぜ「選挙権行使の面における取扱いの区別」をしてよいという結論に結びつくのか、何の論証もなされていない。原判決は、この「取扱いの区別」は、「生来の人種、性別、門地や信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なる」とするが、なぜ性質が大きく異なるのかの説明もない。前述のとおり、憲法44条が掲げるこれらの事項に基づく区別はそれだけで許されないが、それ以外の事項に基づく区別であっても、不合理なものが許されないのは当然であり、「徹底した平等化の志向」(1976年大法廷判決)に照らせば、むしろ全ての区別は「疑わしい」と推定されるべきであり、この推定を崩すだけの特別の論拠がない限り、違憲違法とされなければならないのである。
[30] 原判決は、海外の住所は上告人らか選択したものであることを挙げ、あたかもこのことが憲法44条但書で掲げられた事項に基づく差別と異なる論拠たりうるかのように述べているが、この論理も成立しえない。憲法44条但書は、「人種、性別、門地」という、生得の属性であり、後天的に変更できない事項に基づく差別を禁止しているだけでなく、「信条、社会的身分、教育、財産、収入」という、後天的に獲得した属性、本人が選択しうる性質に基づく差別も、等しく禁止しているのである。先天的か後天的かという原判決の分類に基づけば、たとえば「信条」にまで至らない程度の「感じ方、考え方」は本人が自由に選択したものであるから、ある「感じ方、考え方」を有している期間中、この状態に対応した選挙権行使の面における取扱いの区別がされても違憲の問題は生じないということにもなりかねないのであって、このような分類が意味を持だないことは明らかである。問題は、先天的か後天的かではなく、端的に、当該事項に基づく差別に合理性があるかということなのである。本件で言えば、海外に住所地があることにより選挙権を行使させないということに合理性があるかということなのであり、これに一片の合理性も見出せないことは、これまで述べてきたところから明らかである。
[31] 次に、原判決は、
「住所や居所の定め方を含む当該人の行動等諸般の事情次第で、特定の選挙において実際にどのようにして選挙権を行使することができるかが左右される」(原判決32~33頁)
と述べ、どこでどのように選挙権を行使するかは本人次第であるから、海外に住所を有することによって選挙権が行使できなくとも、法律問題は生じないかのように述べている。
[32] しかし、このような論理も成り立ちえない。問題は、選挙権を行使するために、ある住所(たとえば国内の住所)に移転することが許されているかどうかということではない。憲法は、日本国民であれば、住所がどこであっても、他の国民と平等に選挙権を行使できることを保障しているかどうかなのである。これが肯定されるのであれば、「他の住所へ行けば投票できるから、ここで投票できなくともよい」という論理は成立しえず、「この住所で投票できないのはおかしい」という結論にしかならないのである。原判決の論理に従えば、定数訴訟においても、「議員1人当たりの人口の多い地の住人も、特定の選挙の前に、議員1人当たりの人口の少ない地に移動できるのであるから、特定の選挙において実際にどのようにして選挙権を行使することができるかは本人の選択によって左右される」と判断することも可能ということになる。しかし、このような判断が成り立つのであれば、定数訴訟が成立する余地はないのであり、上記のような判断が誤っていることは自明とも言うべきことである。
[33] 原判決は、この点においても定数訴訟に関する貴裁判所の先例を正解しないものである。さらに、原判決の上記のような判断は、日本国民が海外に居住することによって、参政権という最も重要な権利行使にあたって差別されても違憲でないとするものであるから、憲法22条2項に違反するものである。
[34] 序において述べたように、憲法上の権利が侵害された場合には、これに対して救済が与えられなければならない。特に本件で問題とされている参政権は、国民主権を支える最も根本的な権利であるから、その行使が妨げられるようなことがあってはならず、立法府も行政府もこの行使を確保する義務を負っているのである。しかし、不幸にして、何人かの行為によってその行使が妨げられた場合には、最低限、事後的救済として司法府による救済が与えられなければならないのである。
[35] かつて、貴裁判所は、公職選挙法204条の選挙の効力に関する訴訟の中で議員定数配分規定そのものの違憲性を理由として選挙の効力を争うことができるかどうかについて疑いが残りうることは認めながらも、
「しかし、右の訴訟は、現行法上選挙人が選挙の適否を争うことのできる唯一の訴訟であり、これを措いては他に訴訟上公選法の違憲を主張してその是正を求める機会はないのである。およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請に照らして考えるときは、前記公選法の規定が、その定める訴訟において、同法の議員定数配分規定が選挙権の平等に反することを選挙無効の原因として主張することを殊更に排除する趣旨であるとすることは、決して当を得た解釈ということはできない」
と判示して、訴えの適法性を認めた(最高裁1976年4月14日大法廷判決・民集30巻3号223頁)。
[36] ここに見られる「およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請」は、本件においても妥当する。そして、上述のように本件の上告人らか定数訴訟の原告らよりも厳しい差別(選挙権行使そのものが阻害されている)を受けていることに鑑みれば、「是正、救済の途が開かれるべきである」との指摘は、本件において、より強くあてはまると言うべきである。
[37] 原判決は、上告人らか求める公職選挙法の違法確認請求について、
単に在外日本人であるということを理由に、公職選挙法の規定の一部の違法確認を求める訴えと解さざるを得ないから、このような訴えは、具体的紛争を離れて、抽象的、一般的に法令等の違憲あるいは違法性等に関する判断を求めるものといわなければならず、裁判所法第3条第1項にいう『法律上の争訟』に該当しないので、不適法である」
と判示した(原判決33頁)。
[38] しかし、ここにいう「具体的な紛争」が、特定の国政選挙において選挙権を行使できないことを意味するのであれば、告示から選挙までの期間内に司法審査を受けることは不可能であるから、上記のような判示は、司法救済の途を塞ぐものである。
[39] 公職選挙法は、在外投票を認めないという点に関する限り、1950年の制定以来、一度たりとも改正されないまま、ようやく1998年の改正で一部選挙について在外投票が認められるようになったのである。このような改正の経過を見ても、この問題に関する限り、公職選挙法が容易に改正されないことは明らかである。したがって、遠い将来は別としても、2001年7月頃に予定されている参議院議員選挙や、次回の衆議院総選挙などにおいて、上告人らか一部の選挙権を行使しえないことは明らかであり、このような状態にある場合には、紛争は現在のものとみなされるのである。
[40] また、原判決は、
「住所や居所の定め方を含む当該人の行動等諸般の事情次第で、特定の選挙において実際にどのようにして選挙権を行使することができるかが左右される」
ことから、上告人らの訴えは抽象的、一般的に法令等の違憲あるいは違法性に関する判断を求めるものであると述べる(原判決33頁)が、この論理も成立しえない。もし、このような考え方が通用するのであれば、人格権に基づき近隣の工場が有害廃棄物を排出することを差し止める裁判を提起しても、「当該工場の近隣から退去するなど、原告の行動等諸般の事情次第で、将来の時期に実際にどのように身体への損害を蒙るかが左右される」のであるから、損害発生が不確定な将来の行為を差し止めるものとして、不適法と判断されることになる。同様の例はいくつでも考えられるのであって、かくては私法の分野で、将来にわたる行為の差し止めは、「原告の行為次第で被害が発生しないかもしれない」との理由で、全て不適法ということにもなりかねないのであるが、このような結論が受け入れられるべきものでないことは明らかであろう。
[41] 将来に発生する事象であっても、これまでの原告、被告間の関係から、その発生の蓋然性が高いものについては、紛争は現に存在すると見られるのであり、そうであるからこそ、将来に起こりうる事象についても差し止めが可能とされるのである。
[42] 本件も同様である。上記のとおり、上告人らは近く行なわれることが確実な国政選挙のうち重要な部分について選挙権を行使できないことが確実なのである。原判決は、日本国内に帰国すれば問題は全て解決すると言わんばかりであるが、上告人らは憲法上の人権である外国移住の自由(憲法22条2項)を行使して、海外に居住しているのである。この権利を行使したことによって、最も基本的な権利である参政権を剥奪されるに等しい結果を甘受しなければならない理由はない。ごく短期間(3ヶ月未満)滞在している人は別として、海外に定住している者にとっては当該地が生活の本拠なのであり、これを軽々に変えることなどありえない。私法事件での差し止め訴訟におけると同じく、原告は、特段の理由がなければ現在地にとどまっていると推定されるのであり、それを基準として将来の被害発生の蓋然性が高いか(差し止め事件)、将来、選挙権を行使できない蓋然性が高いか(本件)が判断され、これが認められる場合にはその訴えは適法とされるのである。
[43] そして、私法事件では、裁判所が差し止めを命じることに問題はないが、行政事件では、裁判所の判決の宛先が、三権分立において同等の地位を占める(co-equal branch)立法府ないし行政府であるために、差し止めないし義務づけに問題がありうるとしても、上告人らか求める違法確認請求ないし選挙権を行使する権利の確認には、そのような問題はない。
[44] すなわち、これらの請求は、いずれも上告人らか選挙権を行使できないことが違憲であることを認定し、これに基づき違法であることを確認するか、選挙権を行使する権利があることを確認するにとどまるものであって、上告人らはこれによって直ちに特定の国政選挙で選挙権を行使することができるようになるわけではない。選挙権を行使するためには、当該判決の趣旨を踏まえた新たな法律を立法府が制定し、行政府がこれを実施することが必要になるのであり、どのような法律にするかは判決の趣旨に抵触しない程度で立法府が自由に定めることができるのであって、司法府が立法府に過度に介入することにはならない。同様に、行政府も、判決の趣旨に抵触しない限り、法の執行は自由に行ないうるのであり、司法府が行政府を縛ることにもならない。
[45] 過去の事例を見ても、貴裁判所が違憲判決を下し、あるいは違憲状態との判断を下した場合には、立法府と行政府はこれに従った法改正ないし法適用を行なってきた。たとえば、貴裁判所が、尊属殺の規定が違憲と判断した(1973年)後は、検察官は尊属殺による起訴を行なわず、国会は尊属殺の規定を削除した(1995年)。同様に、定数訴訟では、貴裁判所の違法判断を受けて立法府は数次にわたり、定数規定を変更してきたのである。
[46] このように、行政事件においては貴裁判所の判断は、立法府及び行政府が誠実に遵守すべき対象なのであり、貴裁判所の判決が他の二権によって尊重されることは、現在では既に憲法秩序を構成していると考えられる。貴裁判所の判断についてのこのような取り扱いは、司法府の法的判断は尊重されると共に、法律の改廃は立法府の専権であり、法律の執行は行政府の専権であることを定めた憲法の下で、三権の望ましい関係を模索してきた先人たちが作り出してきたものであり、十分な尊重に値する。
[47] そして、このことは、司法府は、行政事件においても、国民の基本的権利が侵害されていると認めたときには、その旨を認定すべきであり、そのことに躊躇するようなことがあってはならないことを意味している。貴裁判所の判断は司法府の権威を有するものであり、いったんこれが下されれば他の二権の判断・行動の前提となる一方、下されるべき判断がなされない場合には司法府の権威が問題とならざるを得ないのである。
[48] 上記のとおりであり、上告人らの求める違法確認又は選挙権を行使する権利の確認が、行政事件として適法なものであることは明らかである。原判決は、
「個別具体的な選挙において国民の選挙権が侵害された場合には、その態様により、抗告訴訟、国家賠償請求訴訟、あるいは選挙訴訟等の手段が考えられるのであって…すべて司法的救済の道が閉ざされているということはできない」(原判決33~34頁)
と述べるが、少なくとも本件上告人が受けているような態様での侵害の場合にはこれらの司法的救済を受けることができないのであるから(原判決自身、国家賠償請求を否定している)、原判決とは逆に、本件では「すべて司法的救済の道が閉ざされている」のである。原判決の右説示は本件において無意味である。
[49] 以上に詳述したように、上告人らか日本国民でありながら、日本国外に居住しているために選挙権の行使ができない状態にあることは、憲法14条、15条1項、3項、22条2項、43条及び44条に違反する。
[50] 権利侵害、特に基本的権利の侵害があった場合には、司法的救済が与えられなけれぱならないから、上告人らに何らかの救済手続を保障することは憲法が要請するところである。そして、上告人らか求める公職選挙法の違法確認、あるいは選挙権を行使する権利があることの確認は、三権分立の理念に反するものでなく、逆に三権の固有の役割に配慮した適切な救済方法であり、適法なものである。
[51] そして、上告人らの上述の状況が憲法の各条項に違反することは、これまで述べてきたところから明らかであるから、原判決は憲法の解釈を誤り、上告人らの請求を却下したものであり、これは破棄されるべきである。
[52] 付言するに、基本的人権の問題は関係者の多寡によって判断が左右されるものでないことは言うまでもない。しかし、現在、日本国外に居住する日本国民は60万人を大きく超えているのであり、公職選挙法の規定により、国政選挙において選挙権の行使ができず、あるいは一部の選挙で行使できない国民の数は何十万人という数にのぼる。このような莫大な数の国民が、最も重要な選挙権を行使できない状態に置かれ、しかもこれに対して司法が何らの手を差し伸べないというのは驚くべきことである。
[53] 僅か数百票の有権者の投票が国政を左右する可能性があることは、昨年の米国大統領選挙の例を見ても明らかである。数十万人の投票機会を奪うことは、その国民から、選挙に参加し、国政を左右する権利を剥奪することである。国民主権の下で、これほど明白な憲法違反は稀有と言うべきものであり、ここにおいてこそ、貴裁判所の明言する「徹底した平等化」が最も要求されるのである。
[54] 原判決は、第一審判決と同様、最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1512頁、以下「昭和60年最高裁判決」という。)が述べる一般論に完全に依拠し、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法のー義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法第1条第1項の適用上、違法の評価を受けない」
とするとともに、
「国会議員の立法不作為が違法となる場合の基準も同様であることは原判決が正当に判示するとおりである」
とした。
[55] しかし、昭和60年最高裁判決の一般論自体、後述するとおり(第2)、極めて問題がある。日本において「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)のであり、米国とは違って先例拘束性は認められないのであるから、最高裁判例といえども、憲法解釈の誤りがあるなど内容的に不適切な点があれば、それに依拠することは許されないはずである。この点、原判決は昭和60年最高裁判決の一般論に安易に依拠した点において、そもそも不当であると言わざるを得ない。
[56] 後述するとおり(第2)原判決は、国会の立法裁量を極めて広範に解し、違憲状態にあった公職選挙法を放置した国会の立法不作為を適法と判断した点において、憲法解釈の誤りがある。

[57] さらに原判決は、第一審判決の判断に加え、
(1)「平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正によって衆議院議員及び参議院議員の選挙を対象にして在外日本人の選挙権の行使に関する在外選挙制度が創設され、当分の間は衆議院又は参議院の比例代表選出議員の選挙に限られてはいるものの、平成11年5月1日から在外選挙人名簿への登録が、平成12年5月1日以降実施される衆議院議員総選挙又は参議院議員通常選挙から在外投票が、それぞれ実施されることとなっていること」
(2)「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
を示した上で、
「国会が、公職選挙法を改正して在外日本人について国政選挙における選挙権の行使を行わせるための特別な措置を設けることをせず、あるいは右措置を設けたものの、衆議院小選挙区選出議員選挙及び参議院選挙区選出議員選挙において選挙権を行使できるようにする措置を設けなかったことが、前記の例外的な場合に該当しないことは、明らかなところといわなければならない」
と判示した。 [58] しかし、後述するとおり(第6)、上記(1)はむしろ、在外投票制度創設が可能であること、ひいては、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示す事実であって、これを国家賠償請求を否定する方向で援用することは許されないというべきである。また、上記(2)は基本的人権である外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめる方向で立法裁量を広範に解したものであるうえ、かかる原判決の論理を国内住所地に適用するならば、一票の投票価値の平等の問題に関連してこれまで集積されてきた最高裁の違憲判決は成り立たなくなってしまうものであって、明らかに憲法解釈に誤りがある。

[59] このように、原判決には憲法解釈の誤りがあるから、破棄を免れない。
[60] 以下、詳述する。
[61] 以下に詳述するとおり、昭和60年最高裁判決が定立した一般的基準には何ら合理性はなく、同判決自体、憲法解釈を誤っているものである。かかる判決の一般的基準に依拠した点において、原判決は憲法解釈を誤っている。
[62] 原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下、同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきものである」
との第一審判決を引用し、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とを区別することを前提に、その他の理由を付加したうえで、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けない」
と結論付け、結果的に立法行為を国家賠償で争う道を極めて狭めてしまっている。
[63] 確かに、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とは、観念上区別することができるであろう。しかし、昭和60年最高裁判決が、上記区分論から、結果的に国家賠償による救済の道を極端に狭める結果を導いたことに対しては批判が多い(なお、上記最判はその他の理由も付加したうえで上記結論に至っているが、それらの理由がいずれも妥当性を持だないことについては後述)。
[64] この点、長尾一紘教授は、
「〔上記最判〕の『区分論』が、このような違法性の対概念を前提として、立法内容の違憲性=『結果不法』、立法行為の違法性=『行為不法』としているものとしても、この『区分』自体からは、判決の論旨を根拠づけるような特段の法的効果が生ずるわけではない。立法者が立法するにあたってのもっとも重要な行為規範は憲法規範であり、立法内容に違憲性が認められる場合には、原則的に立法行為に違法性があるものと考えることが可能であるからである。」(判例批評、民商法雑誌1986年272頁、273頁)
と述べ、的確に上記最判の理由付けを批判している。また、棟居快行教授(執筆時は神戸大学助教授)も、
「『区別論』は〔上記〕のような結果の将来を正当化しうるほど説得力ある理由を伴っているであろうか。この点につき〔区別論〕は明らかに不十分である。違憲内容の立法をすることが即ち国会議員の『職務上の法的義務に違背』するものと言うこともできるのである。一審判決が過失の認定についてではあるが、『立法をなすにあたっては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議、検討すべき高度の注意義務を負う』として、立法内容違憲即ち注意義務違反という見方を示していた(参照、遠藤博也『国家補償法上巻』450頁)ことに注目すべきである」(判例評釈、判例時報1194号204頁)
として、昭和60年最高裁判決の理由付けを論難している。
[65] さらに原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係において政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであ〔る〕」
との第一審判決を引用する。上記判示事項を導くにあたって昭和60年最高裁判決が掲げた理由のすべてを原判決は挙げていないものの、次に述べるとおり、昭和60年最高裁判決が挙げる理由はいずれも根拠となるものではない。
[66] 昭和60年最高裁判決は、国会議員が原則として個別の国民の権利に対して法的義務を負わないという結論を導くにあたって、(a)議会制民主主義の要請、(b)憲法における免責特権条項、(c)立法行為の政治的性格という3つの理由を挙げている。以下、これらの理由ごとに分説する。

(1) 議会制民主主義の要請
[67] 理由の第一は、議会制民主主義の要請であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする」
と判示する。
[68] しかし、この点について、長尾教授が上記最判を適格に批判している。すなわち、
[69] 第一に、議会制民主主義原理との関連においては、個々の国会議員の国民総体に対する責任が問題にされる。ところが〔上記最判の事案〕で問題にされているのは、国会議員総体(ないし機関としての国会そのもの)の個々の国民に対する義務の内容である。前者について「政治的責任」が妥当するとしても、後者については法的義務が妥当しうるのである…。判旨においては、この点について論理の転倒があるものといわざるをえない。国会議員総体の個々の国民に対する関係においては、その立法行為が、たとえ「立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるもの」についても、たんに国民の「政治的評価」にゆだねられているものとは解されないのである。
[70] 第二に、判旨においては、国会が合議制機関たることへの配慮が十分なされていないように思われる。国賠法1条1項の「公務員」に合議制機関の構成員が含まれることは学説・判例の一致して認めるところであるが、合議制機関にあっては、当該機関の意思決定が、のちに違法であるとされたなら、それほとりもなおさず、意思決定に関与した公務員である構成員(個々の具体的特定の構成員ではない)の判断に瑕疵があったものと解される。合議制機関たる国会に関しても、違法行為の主体について上記のような把握がなされるべきものと解される。ところが、上記判旨は、原子的に分解された個々の国会議員こそが違法行為の主体であると把握しており、この点において立論の前提が妥当を欠くものと思われるのである。
[71] 第三に、判旨は、国会議員は憲法解釈に関する国民の「多様な見解」を立法過程に反映させるべき立場にある」とするが、このような立論は、自由委任を原則とする憲法秩序の下において、国賠法の違法性を問題にする場にあっては、ほとんど無意味な議論のように思われる。(強調は原文)(長尾前掲評釈275、276頁)
[72] また、棟居教授が端的に指摘するとおり、
「判旨は、民主主義の下で国会は、憲法解釈に対する国民の多元的意見を多数決原理により立法過程に公正に反映させる役割をになう、と説く。しかしながら、国民多数が支持したとしても違憲行為が合憲化されるわけではない。」(棟居前掲評釈205頁)
[73] 憲法81条は裁判所に違憲審査権を与えているが、その際に裁判所に期待されている役割が少数者の基本的人権の擁護にあることは広く受け入れられている理解であろう。上記判旨は、多数決によっても奪うことのできない少数者の基本的人権が侵害されている場面において、本来期待されている役割を裁判所が放棄する結果を招来することを容認するものであり、到底とりえない。また、(本件のように)そこで侵害されている権利が少数者の選挙権に関わるものである場合(ことに本件では選挙権行使が全否定されている)、それらの者は政治的過程に自らの意見を反映させるルートを一切持たないこととなるのであるから、上記判旨のいう「選挙による政治的評価」も機能しえないのである。
[74] よって、議会制民主主義の要請が、法的効力を原則的に否定する根拠たりえないことは明らかである。

(2) 免責特権
[75] 第二の理由は免責特権であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法51条が、『両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。』と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。」
と判示する。
[76] しかし、
「51条の規定は、国会議員の自由な言論を保障し、その職務の遂行にあたって制約をうけることのないようにしたものであり、『同条の中に国会議員が院内で行った演説、討論又は表決は本来違法なものであっても、適法とみなされるとか或いは国会議員が違憲の立法を行ったこと或いは憲法上の義務に違背して立法を行わないことによって他人に損害を加えたとしても、国は賠償責任を負わないというような趣旨が含まれているものとは到底解することができない』(本件二審判決)と解すべきである。学説の多数および下級審判例もこのように解している。」(長尾前掲評釈276頁)
[77]「そもそも免責特権は議員の特別の地位と任務のための政策的配慮から出たものであるから、議員を責任無能力者と同様に責任阻却する制度とみるべきではなく、実体法上一たんは成立する損害賠償責任を議員個人から政策的に免除するものとみるべきであろう。そのように解すれば、代位責任説を前提としても、国の代位すべき損害賠償責任は実体法上成立しているので、国家賠償で立法行為の違憲性を争うことができることとなる。この意味で『立法不作為の国家賠償に、憲法51条の出る幕がない』(古崎慶長「立法活動と国家賠償責任」判時1116号20頁)とさえ言えよう。「免責特権が仮に問題になるにしても議員個人の賠償責任ないし求償が追及される最終段階で論じれば足り(る)」(野中俊彦「『在宅投票制度復活訴訟』控訴審判決の意義と問題点」ジュリ670号121頁注(10))のである。」(棟居前掲評釈205頁)
[78] したがって、免責特権も理由となるものではない。

(3) 立法行為の政治的性格
[79] 第三の理由は立法行為の政治的性格であり、昭和60年最高裁判決は、
「国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといって、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。」
と論ずる(一部を原判決も引用)。
[80] この点については、長尾教授が加えている以下の批判が妥当する。すなわち、
[81] 第一に、「政治的なもの」が性質上法的規制の対象になじまないとすることには、論理の飛躍があるものと思われる。憲法問題のほとんどすべてが「本質的に政治的なもの」としての性格をそなえている。「政治的なもの」が法的規制の対象たりえないとするならば、法律内容についての司法審査もすべて許されないものといわざるをえないのではなかろうか。憲法81条は、憲法問題がすべて「政治的なもの」であることを前提に、裁判所に対して、それを「政治的に」ではなく、「法律的に」解決する任務を与えたのである。「政治的なもの」と「法的規制の対象になじむもの」とは、矛盾する関係にあるのではないのである。
[82] 第二に、判決は、「あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないもの」とする。判旨においては、「あるべき立法行為」と「具体的立法行為」が対比されている。しかし、ここでは、具体的立法行為が違法か否かが問題とされているのであり、これは、「あるべき」か否かとはまったく別個の法律的判断である。(長尾前掲評釈276、277頁)(強調は原文)
[83] 昭和60年最高裁判決は、結論的に、
「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
という極めて限定的な基準を採用している。
[84] しかし、
「いわば内容違憲に関する『故意重過失』の立法ミスに際して〔のみ〕国賠法上の法的責任を問いうるとする〔判旨は、〕立法行為について、国賠法上の責任要件を違憲性の認識においては故意重過失に限定し、文理をこえて加重したもの」(棟居前掲評釈205頁)
という批判が妥当する。また、
「〔上記〕判旨は、国賠訴訟に限って『違法性』の要件を加重することにより、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否認するものであり、81条の趣旨に反するものと思われる」(長尾前掲評釈280頁)
のである。
[85] 以上は、昭和60年最高裁判決の個々の理由付けに即した分析的な学説 による批判を整理したものであるが、昭和60年最高裁判決については、総論的にも次のような批判がある。
[86] すなわち、野中俊彦教授は、昭和60年最高裁判決について次のように述べる。
 憲法17条や国家賠償法1条の趣旨が、国家活動による国民の権利・利益の損害を実質的に救済することにあるとすれば、そのような状況の下では、「公権力の行使」を狭く行政活動に限定しなければならない理由はない。立法活動や司法活動による国民の権利・利益の侵害がありうるならば、それらに対しても国家賠償請求が認められてしかるべきである…(中略)…〔上記最判により〕実質的な立法不作為による権利・利益の侵害に対して国家賠償請求訴訟で争う道はほぼ完全に閉ざされてしまったことになる。しかし立法不作為や立法の不備による権利・利益の侵害ということがそもそもありえないというのであればともかく、その可能性が否定できない以上、それについての損害賠償請求の道も開かれていることが憲法17条の要請するところであろう。(「在宅投票制事件最高裁判決の検討」法律時報58巻2号90、91、92頁)
[87]また、中村睦夫教授は次のように述べている。
 立法行為に対して国家賠償法の適用を認めて、国家賠償請求訴訟を憲法訴訟として活用するということは、およそ憲法上の権利の侵害に対してできるだけ救済の道が開かれなければならないという憲法上の要請に応えるためである。最高裁自身も、昭和51年大法廷判決で、議員定数配分の合憲性を公職選挙法上の選挙無効訴訟によって争えることを認める理由として、『およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請』があることを明らかにしているところである。在宅投票廃止の合憲性を争う訴訟形態として、選挙無効訴訟や、あるいは立法不作為違憲確認訴訟が可能であるかもしれない。しかし、本件訴訟で第一小法廷判決が国家賠償請求訴訟を利用する道を認めなかったことは、先の昭和51年の大法廷判決の要請にも応えなかったものである。(「在宅投票制度廃止違憲訴訟最高裁判決」ジュリスト855号89頁)
[88] これまで述べてきたとおり、昭和60年最高裁判決の基準には、何ら妥 当性が認められない。これに代わる基準としては、台湾人元日本人兵の求めた損失補償請求事件で二審(東京高裁昭和60年8月26日判決・判例時報1163号41頁)が示した条件、すなわち、(a)立法をなすべき内容が明白であること、(b)事前救済の必要性が顕著であること、(c)他に救済手段が存在しないこと、に加えて、(d)相当の期間の経過、の要件が存すればよいと解するべきであろう(芦部信喜『憲法新版補訂版』347頁)。
[89] そして、本件においては、
(a) 立法すべき内容は、「海外に居住する日本国民に国政選挙における選挙権の行使を認める」というものであり、明白である、
(b) 国民主権の下では選挙権は至高の権利であり、事後的救済にはなじまず、事前救済の必要性が顕著である、
(c) 本件上告人らは、国民主権を保障する選挙権の行使を認められず立法過程への関与を拒絶されているのであるから、他の救済手段が存在していない、
(d) 昭和59年には在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出され、これが昭和61年に廃案になって以降、本件提訴に至るまで何らの改正もなされないままだったのであり、相当の期間が経過している、
のであるから、上記の要件は全て満たされている。
[90] したがって、上告人らの請求が認容されるべきである。
[91] なお、議論を進める前提として昭和60年最高裁判決の定立した一般論に意義を認めるとしても、上記判決が前提とした事件と本件は全く事実関係が異なり、上記判決に本件との先例としての価値を認めることはできない。この点については、既に第一審における原告準備書面第二において詳述したとおりであり、ここでもこれを引用する。
[92] そのうえで、結論だけを再録すると、昭和60年最高裁判決の基となった在宅投票事件の原告は車椅子で投票所へ赴けば投票することができたが、本件の上告人らはたとえ投票日に帰国して投票所へ赴いたとしても、投票することができなかったのである。このように、昭和60年最高裁判決では、選挙権の行使を容易にする在宅投票制度の廃止が問題とされたのに対し、本件では選挙権の行使を不可能にする投票制度が問題とされているのである。すなわち、在宅投票制度の廃止は「在宅投票人の選挙権を奪っているということはできない」(昭和60年最高裁判決に対する泉徳治調査官の判例解説)のに対し、本件の公職選挙法の規定は、海外在住日本人の選挙権を奪っていることが明らかなのである。したがって、昭和60年最高裁判決は本件において先例たる価値を有しない。それにもかかわらず昭和60年最高裁判決に依拠した点において、原判決は結果的に憲法解釈を誤っている。
[93] 以下に詳述するとおり、本件は昭和60年判決の基準によっても違憲とされるべき例外的事案に該当する。原判決はこの点に関する当てはめを誤っているものであり、結果的に憲法解釈を誤っているものである。

[94] 原判決は、
「…憲法上、これ以上に、選挙に関する細則にわたる規定を置いていないことからすれば、上記規定は、選挙に関する事項の具体的決定を、憲法上正当な理由となり得ないことが明らかな前記の人種、信条、性別等による差別を除き、原則として立法府である国会の裁量に委ねる趣旨であると解される」
と述べた第一審判決を引用する。
[95] しかし最高法規たる憲法が抽象的規定しか置いていないのはむしろ当然のことであって、細則を定めた明文規定がないからといって、ただちに44条但書列挙事由以外の事項については国会の立法裁量の問題になると結論づけてよいものではない。
[96] 44条但書が、
「選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、…」「…徹底した平等化を志向するもの…」
であることは、第一審判決が引用する昭和51年4月14日大法廷判決が明確に宣言したところである。
[97] 44条但書列挙事由は、
「多年にわたる民主政治の発展の過程において(選挙権に関する種々の制限や差別が)次第に撤廃され(てきたという)歴史的発展の成果のあらわれにほかならない」(最判55年4月14日)。
憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。
[98] そのような事項として最高裁で認められたのは、住所に基づく差別である。これは、従来選挙区割りの問題とされていたことであるが、福田最高裁判事が述べるとおり(最高裁平成8年9月11日大法廷判決・民集50巻8号2283頁)、住所に基づく差別が許されるか否かという問題である。そして、この点については、衆議院議員選挙においては、3倍以上の格差は許されないということが判例上確立している。つまり、衆議院議員選挙において3倍以上の格差を生じる法律の制定あるいはそのような状態の放置(立法の不作為)は、国会の立法裁量の範囲外の問題として、違法の評価を受けると解すべきである。
[99] 本件で原告が受けている差別は、選挙権行使の機会を完全に奪われているというもので、憲法15条1項および3項の権利を全否定されているに等しいものであるから、3倍以上の格差という量的な差別を遥かに凌駕している。したがって、その状態を放置する立法の不作為が違法の評価を受けることは明白である。

[100] 仮に、本件で原告が受けている差別が国会の立法裁量の問題になるとしても、国会の裁量が無制限に認められるものでないことは当然のことである。
[101] 原判決は、昭和39年判決および昭和51年判決を単に並列して引用しているが、これら2つの最高裁判例においても、立法裁量の限界の捉え方には大きな違いがあるとされている。すなわち、
「昭和39年大法廷判決も、…国会の裁量に一定の限界があることは認めていたと考えられるが、それは、憲法上の要請としてではなく、立法裁量の一般的限界として考えられていたものと思われる。(他方、昭和51年)判決は、選挙制度の仕組みの具体的決定に関し差別(不平等)をもたらす国会の裁量権の行使につき、憲法の投票価値の平等の要請がその合理的な限界を画するものとして働くことを明らかにし、国会が決定した具体的選挙制度に合理的に是認することができないような投票価値の不平等が生じている場合には、その選挙制度は違憲になるものとした点に意義があると考えられる」(昭和51年判決の最高裁判例解説)
のであって、昭和39年判決から昭和51年判決へ憲法理論の進化がみられる。
[102] 上記昭和51年最高裁判例では、投票価値の平等の要請が国会の裁量権行使の限界となることが指摘されていたが、本件において、あらゆる住所地にいる者に対して選挙権行使の機会を付与すべきという要請が国会の裁量権行使の限界となるべきことは当然認められてしかるべきである。もっとも、投票価値の平等の場合には、「数字的に完全に同一であることまで要求すること」(51年判決)が現実的に不可能であることから、選挙区間の人口偏差の許容限度という量的概念によって裁量権行使の限界が緩和され、その許容限度は、現在では衆議院議員選挙で3倍以内の格差という数値とされている。しかし、住所地が海外にある者に対し選挙権行使の機会を付与することは十分可能なのであるから、本件の場合には国会の裁量権行使の限界をさらに緩和する理由は何ら存しない。

[103] 昭和51年最高裁判例解説は、
「選挙制度の仕組みの具体的決定が原則として国会の裁量にゆだねられ、投票価値の平等は国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解した場合、衆議院議員の選挙に関する選挙区及び議員定数の配分の決定について、国会が正当に考慮することのできる目的、理由(考慮要素)とはどのようなものであるかまた、その考慮要素をどの程度までしんしやくすることができるのかということが次に問題となる」
と述べる。ここで指摘されているように、国会の立法裁量の合理性を判断するにあたっては、(a)考慮要素の妥当性および(b)考慮要素斟酌の程度が吟味されなければならない。しかし、原判決は、この点の検討を十分に行っていない。
[104] 原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の(立法)裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる上記の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれているというべきである」
との第一審判決を引用する。しかしながら、これらの考慮要素はいずれも、原判決の引用する第一審判決自体が「多数の選挙人によって行われる」と述べているように、国民が選挙権を行使できることを当然の前提に、各人の権利行使を十全たらしめるために認められている要素に過ぎない。これらの考慮要素を理由に、例えば、海外在住の選挙人は国内在住の選挙人の場合よりも遠方にある投票所まで自ら赴く必要があるとすること、あるいは本人確認のために権利行使の際にはパスポートの呈示が必要であるとする等、権利行使のために国内の選挙人の場合よりも手続上の負担が課されることなどは正当化できるかもしれない。しかし、それを超えて、選挙権の行使それ自体を完全に否定するためにこれらの考慮要素を斟酌することは、本末転倒の議論である。多数の選挙人の効率等のために少数者から選挙権を行使する権利そのものを奪うことを正当化する理論は、初期の「公共の福祉論」的なものであり到底許されるべきではない。 [105] さらに、原判決の掲げるような点を顧慮すべきであるとしても、少なくとも在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出された昭和59年の時点では上記のような問題点については解決しうると判断されていたものと推認されるから、それ以降はこれらの顧慮を理由として公職選挙法の改正を放置してよい理由は存在しない。
[106] したがって、本件においては、原判決の掲げる点を考慮しうるとしても、これを基として海外在住の日本国民に選挙権を行使させなくてもよいとの結論は到底導くことができないのである。

[107] 原判決は、
「世界各国の各地方に居住する在外日本人について、その所在を把握し、これらの者に対して当該選挙における立候補者の氏名、経歴、政見等を周知させ、投票や開票などの選挙の執行作業を行う場合には、選挙を公正かつ能率的に執行するについて、国内における場合とは異なる様々な実施上の問題点が想定されるところであるから、国会が選挙制度を定めるに当たって、在外選挙制度を設けるか否か、設けるとすればどのような仕組みでどのような時期からこれを実施するかなどの具体的決定は、国会の右の裁量に委ねられている…国会には、在外選挙制度を設けるなどして在外日本人の選挙権行使を確保すること以外に立法上の選択が許されていないとまではいえない」
との第一審判決を引用する。
[108] しかし、原判決が実施上の問題点として挙げている事項は、いずれも在外日本人を単なる選挙実施の際における客体として捉える観点からのものであって、在外日本人が選挙権という重要かつ基本的な権利の享有主体であるという観点が欠落している主客転倒の議論である。例えば、選挙に関する情報は権利者が主体的に収集すれば足ることであるし、権利者がそれでよいと考えているにもかかわらず、情報が不足しているはずであるという推測に基づいて選挙権の行使それ自体を否定する考えは悪しきパターナリズムにほかならず、選挙権の行使それ自体を全否定する根拠とはなりえない。
[109] 加えて、後述するように(第6)、現に公職選挙法が一部改正されて在外投票制度が創設されていることからすれば、上記記載の実施上の問題点は容易に解消できることを国自身が認めているものであり、そもそも上告人らの選挙権を剥奪する理由足り得ない。
[110] また原判決は、「在外選挙制度を設けるか否か」も国会の裁量の範囲であるとする。しかしながら、具体的にいかなる実施方法によって選挙権行使の機会を確保するかを判断することは国会の裁量の範囲であるとしても、在外選挙制度を設けないことにするという裁量は国会にはない。また、実施時期については、在外選挙制度が設けられなければ選挙権という重大な権利を在外日本人は行使できない以上、国会に時期を遅らせる権限はなく、可及的速やかに実施すべきであるということになる。

[111] 訴状において上告人らか主張したとおり、
「成年の国民に対して、等しく国政選挙の選挙権が与えられるべきことは憲法及び人権規約が何らの留保も置かずに規定しているものであるところ、現行の公職選挙法が、憲法及び人権規約の一義的文言に違反していることは明らかである」(20頁)。
さらに、その際に検討対象とすべきなのは、条文の文言それだけではなく、憲法制定後に発展し確立した解釈によって補充された意味内容を踏まえたものと解すべきであって、そのような憲法条文に照らして、一義的に違反しているか否かが検討されるべきである。「立法の内容が憲法の一義的文言に違反している」場合を文字通りに理解すれば、立法行為が国家賠償法上違法の評価を受けることは事実上ありえないことになる。「憲法解釈上明らかに違反していると解される場合も含まれる」と解するべきである(中村睦男「立法の不作為に対する違憲審査」佐藤幸治=中村睦男=野中俊彦『ファンダメンタル憲法』294頁、只野雅人一橋大学大学院法学研究科助教授意見書甲第21号証11頁)。この観点からすると、本件での一義的違反はさらに明らかである。
[112] なお原判決が引用する第一審判決は「一義的に明白に」という表現を用いているが、「明白」までは前記最高裁判決の一般論の中にも含まれていない。何の根拠もないところで要件を過重するかのごとき表現を使っている点も相当でない。

[113] 本件で上告人が受けている制約は選挙権行使の機会の完全な喪失であって、単なる平等原則違反にとどまらず、憲法15条1項3項違反の問題も生じている。しかし、原判決は平等原則違反の点を論じるだけで、15条1項3項に即した憲法判断(判断基準の確定・その当てはめ)を一切行っていない。

[114] 原判決は、
「諸外国においても、在外に居住する自国民の大多数の者の選挙権の行使を可能にする在外選挙制度などが設けられたのは比較的近年に至ってのことである」
との第一審判決を引用する。しかし、そこで列挙されている諸国で一般の国民にも在外選挙権が認められるようになったのは、イギリス(1985年)、フランス(1975年―ただし元老院に関する在外選挙権類似の制度は1958年)、ドイツ(1985年)、カナダ(1993年)、オーストラリア(1983年)であり、原判決が触れていない米国は1975年である。カナダを除けばいずれも1985年以前であって、
「このことは、国外に居住する自国民に対して選挙権を否定することが国民主権に反するものであることを少なくとも先進各国が一致して認めていることを示している」(訴状12頁)
[115] 原判決が引用する第一審判決は、人権規約第25条の条文を引用のうえ、
「右の文言から明らかなとおり、同条が、条約締結国の立法府に対し、在外に居住する自国民の選挙権の行使を可能にする立法措置を構ずべきことを一義的に明白に命じているとは解されない」
と一言でかたづけており、否定する理由がまったく示されていない。
[116] 条約も法律より上位の規範であり、憲法と人権規約が別個の法であることも明らかである。したがって、人権規約との適合性存否の検討は、憲法との適合性存否の検討と別個になされなければならない。憲法に適合しているから人権規約に適合していると即断することはできず、これを論証するためには、まず、憲法の保障と人権規約の保障が同等のものであることを示さなければならない。なぜなら、人権規約が憲法の下位法であるとしても、下位法が上位法より厚い保護を与えることは稀ではない(その適例は、憲法38条2項と刑事訴訟法319条2項)。この場合には、上位法に適合していても下位法に違反することはありうるのであるから、本件においても原審裁判所は、参政権に関する憲法の規定と国際人権規約の規定が同等の保障しか認めていないことを論証しなければならない。
[117] しかし、この関係で原審裁判所は人権規約の条文を掲げただけで結論を出したものであり、条約の解釈を参照した形跡は窺われない。そして、この点については第一審で上告人らか提出したノバックの注釈書に明らかなとおり人権規約では海外居住者を含む全ての市民が現実に選挙権を行使できることが保障されていなければならないとされているのであり(甲3・439頁)、原判決の人権規約の解釈が誤っていることは明白である。
[118] したがって、公職選挙法の規定が人権規約に違反することは明らかであり、上告人らの請求が認められるべきである。
[119](1) 確かに、原判決が指摘するとおり、公職選挙法が一部改正されて、比例選挙区に限り在外選挙制度が創設されたことは事実である。しかしながら、何故、公職選挙法が改正されたことをもって、上告人らに選挙権を行使させていなかった法制度の適法性が導かれるのか不明である。
[120] そもそも上告人らは、平成8年10月20日に行われた衆議院議員選挙において選挙権を行使できなかった点についての慰謝料を請求しているのであり、その後にいかなる改正・立法がなされようが、平成8年10月20日当時の違法状態が遡って解消されることはあり得ない。

[121](2) 他方、前述したように原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる右の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれている」
としている。しかしながら、在外選挙を「混乱なく、公正かつ能率的に執行する」ことが容易かつ可能であるからこそ、在外選挙制度が創設されたものにほかならない。とすれば、原判決が国会の広範な立法裁量を根拠づける理由として挙げた点は、既に理由足り得なくなっているものというほかない。そもそも、在外選挙制度が創設されたのは、取りも直さず、国自体が在外選挙制度創設の必要性を認めたからである。裏を返せば、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示しているとさえいえるのである。
[122](1) 原判決は、
「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
と判示した。
[123] もし、上記「国内」を「1票の価値が重い選挙区」と置き換えた場合、上記論理を煎じ詰めると、「1票の価値が重い選挙区に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得る」こととなり、「生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきである」、ひいては、1票の格差が何倍になったとしてもすべて立法裁量の範囲内である、とされることにもなろう。

[124](2) しかしながら、従来から最高裁で問題とされている定数不均衡訴訟においては、可能な限り住所による差別を撤廃すぺく、衆議院議員選挙においては3倍以上の格差は許されないとの判例が確立しており、「自己の選択の結果」を理由として、居住地故に差別的取り扱いを許容することはあり得ない。原判決の論理は、かかる最高裁判決の流れをないがしろにするものであって、到底取りえない。

[125](3) 前述したように、憲法第44条但書列挙事由は、多年にわたる民主政治の発展の過程において選挙権に関する種々の制限や差別が次第に撤廃されてきたという歴史的発展の成果にほかならない。そして、憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項(住所による差別)については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。

[126](4) また、そもそも国民は、居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)を保障されており、居住地故に基本的人権の行使を制限あるいは剥奪されることはあってはならないはずである。にもかかわらず、選挙権の剥奪という差別的取り扱いを許容するとすれば、基本的人権であるはずの居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめることになる。
[127] このように立法裁量を広範に解することは許されず、原判決には明らかに憲法解釈の誤りがある。
   目  次
第1 国家賠償請求に関する原判決の判断
第2 昭和60年最高裁判決の一般論について――昭和60年最高裁判決自体の憲法解釈の誤り
第3 本件に対する昭和60年最高裁判決の先例無価値性――本件で昭和60年最高裁判決に依拠することによる憲法解釈の誤り
第4 原判決による昭和60年最高裁判決の基準適用の誤り――昭和60年最高裁判決の基準によっても本件は違憲とされるべき例外的事案に該当することについて
第5 人権規約違反
第6 原判決が付加した理由について――昭和60年最高裁判決の例外的事案に本件は該当しないとする原判決の理由付けには根拠がないことについて

[1] 原判決は、憲法17条、市民的及び政治的権利に関する国際規約25条及び国家賠償法1条の解釈に関する重要な事項を含むものであり、貴裁判所が上告審として事件を受理すべき場合に該当する
[2] 原判決は、第一審判決と同様、最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1512頁、以下「昭和60年最高裁判決」という。)が述べる一般論に完全に依拠し、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法第1条第1項の適用上、違法の評価を受けない」
とするとともに、
「国会議員の立法不作為が違法となる場合の基準も同様であることは原判決が正当に判示するとおりである」
とした。
[3] しかし、昭和60年最高裁判決の一般論自体、後述するとおり(第2)、極めて問題がある。日本において「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)のであり、米国とは違って先例拘束性は認められないのであるから、最高裁判例といえども、憲法解釈の誤りがあるなど内容的に不適切な点があれば、それに依拠することは許されないはずである。この点、原判決は昭和60年最高裁判決の一般論に安易に依拠した点において、そもそも不当であると言わざるを得ない。
[4] 後述するとおり(第2)原判決は、国会の立法裁量を極めて広範に解し、違憲状態にあった公職選挙法を放置した国会の立法不作為を適法と判断した点において、憲法解釈の誤りがある。

[5] さらに原判決は、第一審判決の判断に加え、
(1) 「平成10年法律第47号による公職選挙法の一部改正によって衆議院議員及び参議院議員の選挙を対象にして在外日本人の選挙権の行使に関する在外選挙制度が創設され、当分の間は衆議院又は参議院の比例代表選出議員の選挙に限られてはいるものの、平成11年5月1日から在外選挙人名簿への登録が、平成12年5月1日以降実施される衆議院議員総選挙又は参議院議員通常選挙から在外投票が、それぞれ実施されることとなっていること」
(2) 「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
を示した上で、
「国会が、公職選挙法を改正して在外日本人について国政選挙における選挙権の行使を行わせるための特別な措置を設けることをせず、あるいは右措置を設けたものの、衆議院小選挙区選出議員選挙及び参議院選挙区選出議員選挙において選挙権を行使できるようにする措置を設けなかったことが、前記の例外的な場合に該当しないことは、明らかなところといわなければならない」
と判示した。
[6] しかし、後述するとおり(第6)、上記(1)はむしろ、在外投票制度創設が可能であること、ひいては、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示す事実であって、これを国家賠償請求を否定する方向で援用することは許されないというべきである。また、上記(2)は基本的人権である外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめる方向で立法裁量を広範に解したものであるうえ、かかる原判決の論理を国内住所地に適用するならば、一票の投票価値の平等の問題に関連してこれまで集積されてきた最高裁の違憲判決は成り立たなくなってしまうものであって、明らかに憲法解釈に誤りがある。

[7] このように、原判決には憲法解釈の誤りがあり、ひいては理由不備の違法があるものであるから、破棄を免れない。
[8] 以下、詳述する。
[9] 以下に詳述するとおり、昭和60年最高裁判決が定立した一般的基準には何ら合理性はなく、同判決自体、憲法解釈を誤っているものである。かかる判決の一般的基準に依拠した点において、原判決は憲法解釈を誤っている。
[10] 原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下、同じ。)が同項の適用上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきものである」
との第一審判決を引用し、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とを区別することを前提に、その他の理由を付加したうえで、
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらずあえて当該立法を行うといった例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けない」
と結論付け、結果的に立法行為を国家賠償で争う道を極めて狭めてしまっている。
[11] 確かに、立法内容の違憲性と立法行為の国家賠償法上の違法性とは、観念上区別することができるであろう。しかし、昭和60年最高裁判決が、上記区分論から、結果的に国家賠償による救済の道を極端に狭める結果を導いたことに対しては批判が多い(なお、上記最判はその他の理由も付加したうえで上記結論に至っているが、それらの理由がいずれも妥当性を持たないことについては後述)。
[12] この点、長尾一紘教授は、
「〔上記最判〕の『区分論』が、このような違法性の対概念を前提として、立法内容の違憲性=『結果不法』、立法行為の違法性=『行為不法』としているものとしても、この『区分』自体からは、判決の論旨を根拠づけるような特段の法的効果が生ずるわけではない。立法者が立法するにあだってのもっとも重要な行為規範は憲法規範であり、立法内容に違憲性が認められる場合には、原則的に立法行為に違法性があるものと考えることが可能であるからである。」(判例批評、民商法雑誌1986年272頁、273頁)
と述べ、的確に上記最判の理由付けを批判している。また、棟居快行教授(執筆時は神戸大学助教授)も、
「『区別論』は〔上記〕のような結果の将来を正当化しうるほど説得力ある理由を伴っているであろうか。この点につき〔区別論〕は明らかに不十分である。違憲内容の立法をすることが即ち国会議員の『職務上の法的義務に違背』するものと言うこともできるのである。一審判決が過失の認定についてではあるが、『立法をなすにあたっては違憲という重大な結果を生じないよう慎重に審議、検討すべき高度の注意義務を負う』として、立法内容違憲即ち注意義務違反という見方を示していた(参照、遠藤博也『国家補償法上巻』450頁)ことに注目すべきである」(判例評釈、判例時報1194号204頁)
として、昭和60年最高裁判決の理由付けを論難している。
[13] さらに原判決は、昭和60年最高裁判決に依拠して、
「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係において政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであ〔る〕」
との第一審判決を引用する。上記判示事項を導くにあたって昭和60年最高裁判決が掲げた理由のすべてを原判決は挙げていないものの、次に述べるとおり、昭和60年最高裁判決が挙げる理由はいずれも根拠となるものではない。
[14] 昭和60年最高裁判決は、国会議員が原則として個別の国民の権利に対 して法的義務を負わないという結論を導くにあたって、(a)議会制民主主義の要請、(b)憲法における免責特権条項、(c)立法行為の政治的性格という3つの理由を挙げている。以下、これらの理由ごとに分説する。

(1) 議会制民主主義の要請
[15] 理由の第一は、議会制民主主義の要請であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものである。そして、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるものは、これを議員各自の政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とする」
と判示する。
[16] しかし、この点について、長尾教授が上記最判を的確に批判している。すなわち、
[17] 第一に、議会制民主主義原理との関連においては、個々の国会議員の国民総体に対する責任が問題にされる。ところが〔上記最判の事案〕で問題にされているのは、国会議員総体(ないし機関としての国会そのもの)の個々の国民に対する義務の内容である。前者について「政治的責任」が妥当するとしても、後者については法的義務が妥当しうるのである…。判旨においては、この点について論理の転倒があるものといわざるをえない。国会議員総体の個々の国民に対する関係においては、その立法行為が、たとえ「立法行為の内容にわたる実体的側面に係わるもの」についても、たんに国民の「政治的評価」にゆだねられているものとは解されないのである。
[18] 第二に、判旨においては、国会が合議制機関たることへの配慮が十分なされていないように思われる。国賠法1条1項の「公務員」に合議制機関の構成員が含まれることは学説・判例の一致して認めるところであるが、合議制機関にあっては、当該機関の意思決定が、のちに違法であるとされたなら、それはとりもなおさず、意思決定に関与した公務員である構成員(個々の具体的特定の構成員ではない)の判断に瑕疵があったものと解される。合議制機関たる国会に関しても、違法行為の主体について上記のような把握がなされるべきものと解される。ところが、上記判旨は、原子的に分解された個々の国会議員こそが違法行為の主体であると把握しており、この点において立論の前提が妥当を欠くものと思われるのである。
[19] 第三に、判旨は、国会議員は憲法解釈に関する国民の「多様な見解」を立法過程に反映させるべき立場にある」とするが、このような立論は、自由委任を原則とする憲法秩序の下において、国賠法の違法性を問題にする場にあっては、ほとんど無意味な議論のように思われる。(強調は原文)(長尾前掲評釈275、276頁)
[20] また、棟居教授が端的に指摘するとおり、
「判旨は、民主主義の下で国会は、憲法解釈に対する国民の多元的意見を多数決原理により立法過程に公正に反映させる役割をになう、と説く。しかしながら、国民多数が支持したとしても違憲行為が合憲化されるわけではない。」(棟居前掲評釈205頁)
[21] 憲法81条は裁判所に違憲審査権を与えているが、その際に裁判所に期待されている役割が少数者の基本的人権の擁護にあることは広く受け入れられている理解であろう。上記判旨は、多数決によっても奪うことのできない少数者の基本的人権が侵害されている場面において、本来期待されている役割を裁判所が放棄する結果を招来することを容認するものであり、到底とりえない。また、(本件のように)そこで侵害されている権利が少数者の選挙権に関わるものである場合に(ことに本件では選挙権行使が全否定されている)、それらの者は政治的過程に自らの意見を反映させるルートを一切持たないこととなるのであるから、上記判旨のいう「選挙による政治的評価」も機能しえないのである。
[22] よって、議会制民主主義の要請が、法的効力を原則的に否定する根拠たりえないことは明らかである。

(2) 免責特権
[23] 第二の理由は免責特権であり、昭和60年最高裁判決は、
「憲法51条が、『両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。』と規定し、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうものである、との考慮によるのである。」
と判示する。
[24] しかし、
「51条の規定は、国会議員の自由な言論を保障し、その職務の遂行にあたって制約をうけることのないようにしたものであり、『同条の中に、国会議員が院内で行った演説、討論又は表決は本来違法なものであっても、適法とみなされるとか或いは国会議員が違憲の立法を行ったこと或いは憲法上の義務に違背して立法を行わないことによって他人に損害を加えたとしても、国は賠償責任を負わないというような趣旨が含まれているものとは到底解することができない』(本件二審判決)と解すべきである。学説の多数および下級審判例もこのように解している。」(長尾前掲評釈276頁)
[25]「そもそも免責特権は議員の特別の地位と任務のための政策的配慮から出たものであるから、議員を責任無能力者と同様に責任阻却する制度とみるべきではなく、実体法上一たんは成立する損害賠償責任を議員個人から政策的に免除するものとみるべきであろう。そのように解すれば、代位責任説を前提としても、国の代位すべき損害賠償責任は実体法上成立しているので、国家賠償で立法行為の違憲性を争うことができることとなる。この意味で『立法不作為の国家賠償に、憲法51条の出る幕がない』(古崎慶長「立法活動と国家賠償責任」判時1116号20頁)とさえ言えよう。「免責特権が仮に問題になるにしても議員個人の賠償責任ないし求償が追及される最終段階で論じれば足り(る)」(野中俊彦「『在宅投票制度復活訴訟』控訴審判決の意義と問題点」ジュリ670号121頁注(10))のである。」(棟居前掲評釈205頁)
[26] したがって、免責特権も理由となるものではない。

(3) 立法行為の政治的性格
[27] 第三の理由は立法行為の政治的性格であり、昭和60年最高裁判決は、
「国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点から、あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないものといわざるを得ない。ある法律が個人の具体的権利利益を侵害するものであるという場合に、裁判所はその者の訴えに基づき当該法律の合憲性を判断するが、この判断は既に成立している法律の効力に関するものであり、法律の効力についての違憲審査がなされるからといって、当該法律の立法過程における国会議員の行動、すなわち立法行為が当然に法的評価に親しむものとすることはできないのである。」
と論ずる(一部を原判決も引用)。
[28] この点については、長尾教授が加えている以下の批判が妥当する。すなわち、
[29] 第一に、「政治的なもの」が性質上法的規制の対象になじまないとすることには、論理の飛躍があるものと思われる。憲法問題のほとんどすべてが「本質的に政治的なもの」としての性格をそなえている。「政治的なもの」が法的規制の対象たりえないとするならば、法律内容についての司法審査もすべて許されないものといわざるをえないのではなかろうか。憲法81条は、憲法問題がすべて「政治的なもの」であることを前提に、裁判所に対して、それを「政治的に」ではなく、「法律的に」解決する任務を与えたのである。「政治的なもの」と「法的規制の対象になじむもの」とは、矛盾する関係にあるのではないのである。
[30] 第二に、判決は、「あるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的に許されないもの」とする。判旨においては、「あるべき立法行為」と「具体的立法行為」が対比されている。しかし、ここでは、具体的立法行為が違法か否かが問題とされているのであり、これは、「あるべき」か否かとはまったく別個の法律的判断である。(長尾前掲評釈276、277頁)(強調は原文)
[31] 昭和60年最高裁判決は、結論的に、
「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
という極めて限定的な基準を採用している。
[32] しかし、
「いわば内容違憲に関する『故意重過失』の立法ミスに際して〔のみ〕国賠法上の法的責任を問いうるとする〔判旨は、〕立法行為について、国賠法上の責任要件を違憲性の認識においては故意重過失に限定し、文理をこえて加重したもの」(棟居前掲評釈205頁)
という批判が妥当する。また、
「〔上記〕判旨は、国賠訴訟に限って『違法性』の要件を加重することにより、立法行為に対する司法審査の可能性を原則的に否認するものであり、81条の趣旨に反するものと思われる」(長尾前掲評釈280頁)
のである。
[33] 以上は、昭和60年最高裁判決の個々の理由付けに即した分析的な学説による批判を整理したものであるが、昭和60年最高裁判決については、総論的にも次のような批判がある。
[34] すなわち、野中俊彦教授は、昭和60年最高裁判決について次のように述べる。
 憲法17条や国家賠償法1条の趣旨が、国家活動による国民の権利・利益の損害を実質的に救済することにあるとすれば、そのような状況の下では、「公権力の行使」を狭く行政活動に限定しなければならない理由はない。立法活動や司法活動による国民の権利・利益の侵害がありうるならば、それらに対しても国家賠償請求が認められてしかるべきである…(中略)…〔上記最判により〕実質的な立法不作為による権利・利益の侵害に対して国家賠償請求訴訟で争う道はほぼ完全に閉ざされてしまったことになる。しかし立法不作為や立法の不備による権利・利益の侵害ということがそもそもありえないというのであればともかく、その可能性が否定できない以上、それについての損害賠償請求の道も開かれていることが憲法17条の要請するところであろう。(「在宅投票制事件最高裁判決の検討」法律時報58巻2号90、91、92頁)
[35] また、中村睦夫教授は次のように述べている。
 立法行為に対して国家賠償法の適用を認めて、国家賠償請求訴訟を憲法訴訟として活用するということは、およそ憲法上の権利の侵害に対してできるだけ救済の道が開かれなければならないという憲法上の要請に応えるためである。最高裁自身も、昭和51年大法廷判決で、議員定数配分の合憲性を公職選挙法上の選挙無効訴訟によって争えることを認める理由として、『およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請』があることを明らかにしているところである。在宅投票廃止の合憲性を争う訴訟形態として、選挙無効訴訟や、あるいは立法不作為違憲確認訴訟が可能であるかもしれない。しかし、本件訴訟で第一小法廷判決が国家賠償請求訴訟を利用する道を認めなかったことは、先の昭和51年の大法廷判決の要請にも応えなかったものである。(「在宅投票制度廃止違憲訴訟最高裁判決」ジュリスト855号89頁)
[36] これまで述べてきたとおり、昭和60年最高裁判決の基準には、何ら妥当性が認められない。これに代わる基準としては、台湾人元日本人兵の求めた損失補償請求事件で二審(東京高裁昭和60年8月26日判決・判例時報1163号41頁)が示した条件、すなわち、(a)立法をなすべき内容が明白であること、(b)事前救済の必要性が顕著であること、(c)他に救済手段が存在しないこと、に加えて、(d)相当の期間の経過、の要件が存すればよいと解するべきであろう(芦部信喜『憲法新版補訂版』347頁)。
[37] そして、本件においては、
(a) 立法すべき内容は、「海外に居住する日本国民に国政選挙における選挙権の行使を認める」というものであり、明白である、
(b) 国民主権の下では選挙権は至高の権利であり、事後的救済にはなじまず、事前救済の必要性が顕著である、
(c) 申立人らは、国民主権を保障する選挙権の行使を認められず立法過程への関与を拒絶されているのであるから、他の救済手段が存在していない、
(d) 昭和59年には在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出され、これが昭和61年に廃案になって以降、本件提訴に至るまで何らの改正もなされないままだったのであり、相当の期間が経過している、
のであるから、上記の要件は全て満たされている。
[38] したがって、申立人らの請求が認容されるべきである。
[39] なお、議論を進める前提として昭和60年最高裁判決の定立した一般論に意義を認めるとしても、上記判決が前提とした事件と本件は全く事実関係が異なり、上記判決に本件との先例としての価値を認めることはできない。この点については、既に第一審における原告準備書面第二において詳述したとおりであり、ここでもこれを引用する。
[40] そのうえで、結論だけを再録すると、昭和60年最高裁判決の基となった在宅投票事件の原告は車椅子で投票所へ赴けば投票することができたが、本件の申立人らはたとえ投票日に帰国して投票所へ赴いたとしても、投票することができなかったのである。このように、昭和60年最高裁判決では、選挙権の行使を容易にする在宅投票制度の廃止が問題とされたのに対し、本件では選挙権の行使を不可能にする投票制度が問題とされているのである。すなわち、在宅投票制度の廃止は「在宅投票人の選挙権を奪っているということはできない」(昭和60年最高裁判決に対する泉徳治調査官の判例解説)のに対し、本件の公職選挙法の規定は、海外在住日本人の選挙権を奪っていることが明らかなのである。したがって、昭和60年最高裁判決は本件において先例たる価値を有しない。それにもかかわらず昭和60年最高裁判決に依拠した点において、原判決は結果的に法令解釈に関する重要な事項を誤っている。
[41] 以下に詳述するとおり、本件は昭和60年判決の基準によっても違憲とされるべき例外的事案に該当する。原判決はこの点に関する当てはめを誤っているものであり、結果的に昭和60年最高裁判決と相反する判断を行っているものである。

[42] 原判決は、
「…憲法上、これ以上に、選挙に関する細則にわたる規定を置いていないことからすれば、上記規定は、選挙に関する事項の具体的決定を、憲法上正当な理由となり得ないことが明らかな前記の人種、信条、性別等による差別を除き、原則として立法府である国会の裁量に委ねる趣旨であると解される」
と述べた第一審判決を引用する。
[43] しかし最高法規たる憲法が抽象的規定しか置いていないのはむしろ当然のことであって、細則を定めた明文規定がないからといって、ただちに44条但書列挙事由以外の事項については国会の立法裁量の問題になると結論づけてよいものではない。
[44] 44条但書が、
「選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、…」「…徹底した平等化を志向するもの…」
であることは、第一審判決が引用する昭和51年4月14日大法廷判決が明確に宣言したところである。
[45] 44条但書列挙事由は、
「多年にわたる民主政治の発展の過程において(選挙権に関する種々の制限や差別が)次第に撤廃され(てきたという)歴史的発展の成果のあらわれにほかならない」(最判51年4月14日)。
憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。
[46] そのような事項として最高裁で認められたのは、住所に基づく差別である。これは、従来選挙区割りの問題とされていたことであるが、福田最高裁判事が述べるとおり(最高裁平成8年9月11日大法廷判決・民集50巻8号2283頁)、住所に基づく差別が許されるか否かという問題である。そして、この点については、衆議院議員選挙においては、3倍以上の格差は許されないということが判例上確立している。つまり、衆議院議員選挙において3倍以上の格差を生じる法律の制定あるいはそのような状態の放置(立法の不作為)は、国会の立法裁量の範囲外の問題として、違法の評価を受けると解すべきである。
[47] 本件で原告が受けている差別は、選挙権行使の機会を完全に奪われているというもので、憲法15条1項および3項の権利を全否定されているに等しいものであるから、3倍以上の格差という量的な差別を遥かに凌駕している。したがって、その状態を放置する立法の不作為が違法の評価を受けることは明白である。

[48] 仮に、本件で原告が受けている差別が国会の立法裁量の問題になるとしても、国会の裁量が無制限に認められるものでないことは当然のことである。
[49] 原判決は、昭和39年判決および昭和51年判決を単に並列して引用しているが、これら2つの最高裁判例においても、立法裁量の限界の捉え方には大きな違いがあるとされている。すなわち、
「昭和39年大法廷判決も、…国会の裁量に一定の限界があることは認めていたと考えられるが、それは、憲法上の要請としてではなく、立法裁量の一般的限界として考えられていたものと思われる。(他方、昭和51年)判決は、選挙制度の仕組みの具体的決定に関し差別(不平等)をもたらす国会の裁量権の行使につき、憲法の投票価値の平等の要請がその合理的な限界を画するものとして働くことを明らかにし、国会が決定した具体的選挙制度に合理的に是認することができないような投票価値の不平等が生じている場合には、その選挙制度は違憲になるものとした点に意義があると考えられる」(昭和51年判決の最高裁判例解説)
のであって、昭和39年判決から昭和51年判決へ憲法理論の進化がみられる。
[50] 上記昭和51年最高裁判例では、投票価値の平等の要請が国会の裁量権行使の限界となることが指摘されていたが、本件において、あらゆる住所地にいる者に対して選挙権行使の機会を付与すぺきという要請が国会の裁量権行使の限界となるべきことは当然認められてしかるべきである。もっとも、投票価値の平等の場合には、「数字的に完全に同一であることまで要求すること」(51年判決)が現実的に不可能であることから、選挙区間の人口偏差の許容限度という量的概念によって裁量権行使の限界が緩和され、その許容限度は、現在では衆議院議員選挙で3倍以内の格差という数値とされている。しかし、住所地が海外にある者に対し選挙権行使の機会を付与することは十分可能なのであるから、本件の場合には国会の裁量権行使の限界をさらに緩和する理由は何ら存しない。

[51] 昭和51年最高裁判例解説は、
「選挙制度の仕組みの具体的決定が原則として国会の裁量にゆだねられ、投票価値の平等は国会が正当に考慮することのできる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものと解した場合、衆議院議員の選挙に関する選挙区及び議員定数の配分の決定について、国会が正当に考慮することのできる目的、理由(考慮要素)とはどのようなものであるかまた、その考慮要素をどの程度までしんしやくすることができるのかということが次に問題となる」
と述べる。ここで指摘されているように、国会の立法裁量の合理性を判断するにあたっては、(a)考慮要素の妥当性および(b)考慮要素斟酌の程度が吟味されなければならない。しかし、原判決は、この点の検討を十分に行っていない。
[52] 原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の(立法)裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる上記の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれているというべきである」
との第一審判決を引用する。しかしながら、これらの考慮要素はいずれも、原判決の引用する第一審判決自体が「多数の選挙人によって行われる」と述べているように、国民が選挙権を行使できることを当然の前提に、各人の権利行使を十全たらしめるために認められている要素に過ぎない。これらの考慮要素を理由に、例えば、海外在住の選挙人は国内在住の選挙人の場合よりも遠方にある投票所まで自ら赴く必要があるとすること、あるいは本人確認のために権利行使の際にはパスポートの呈示が必要であるとする等、権利行使のために国内の選挙人の場合よりも手続上の負担が課されることなどは正当化できるかもしれない。しかし、それを超えて、選挙権の行使それ自体を完全に否定するためにこれらの考慮要素を斟酌することは、本末転倒の議論である。多数の選挙人の効率等のために少数者から選挙権を行使する権利そのものを奪うことを正当化する理論は、初期の「公共の福祉論」的なものであり到底許されるべきではない。
[53] さらに、原判決の掲げるような点を顧慮すべきであるとしても、少なくとも在外投票制度を創設するための公職選挙法改正案が国会に提出された昭和59年の時点では上記のような問題点については解決しうると判断されていたものと推認されるから、それ以降はこれらの顧慮を理由として公職選挙法の改正を放置してよい理由は存在しない。
[54] したがって、本件においては、原判決の掲げる点を考慮しうるとしても、これを基として海外在住の日本国民に選挙権を行使させなくてもよいとの結論は到底導くことができないのである。

[55] 原判決は、
「世界各国の各地方に居住する在外日本人について、その所在を把握し、これらの者に対して当該選挙における立候補者の氏名、経歴、政見等を周知させ、投票や開票などの選挙の執行作業を行う場合には、選挙を公正かつ能率的に執行するについて、国内における場合とは異なる様々な実施上の問題点が想定されるところであるから、国会が選挙制度を定めるに当たって、在外選挙制度を設けるか否か、設けるとすればどのような仕組みでどのような時期からこれを実施するかなどの具体的決定は、国会の右の裁量に委ねられている…国会には、在外選挙制度を設けるなどして在外日本人の選挙権行使を確保すること以外に立法上の選択が許されていないとまではいえない」
との第一審判決を引用する。
[56] しかし、原判決が実施上の問題点として挙げている事項は、いずれも在外日本人を単なる選挙実施の際における客体として捉える観点からのものであって、在外日本人が選挙権という重要かつ基本的な権利の享有主体であるという観点が欠落している主客転倒の議論である。例えば、選挙に関する情報は権利者が主体的に収集すれば足ることであるし、権利者がそれでよいと考えているにもかかわらず、情報が不足しているはずであるという推測に基づいて選挙権の行使それ自体を否定する考えは悪しきパターナリズムにほかならず、選挙権の行使それ自体を全否定する根拠とはなりえない。
[57] 加えて、後述するように(第6)、現に公職選挙法が一部改正されて在外投票制度が創設されていることからすれば、上記記載の実施上の問題点は容易に解消できることを国自身が認めているものであり、そもそも申立人らの選挙権を剥奪する理由足り得ない。
[58] また原判決は、「在外選挙制度を設けるか否か」も国会の裁量の範囲 であるとする。しかしながら、具体的にいかなる実施方法によって選挙権行使の機会を確保するかを判断することは国会の裁量の範囲であるとしても、在外選挙制度を設けないことにするという裁量は国会にはない。また、実施時期については、在外選挙制度が設けられなければ選挙権という重大な権利を在外日本人は行使できない以上、国会に時期を遅らせる権限はなく、可及的速やかに実施すべきであるということになる。
[59] 訴状において申立人らが主張したとおり、
「成年の国民に対して、等しく国政選挙の選挙権が与えられるべきことは憲法及び人権規約が何らの留保も置かずに規定しているものであるところ、現行の公職選挙法が、憲法及び人権規約の一義的文言に違反していることは明らかである」(20頁)。
さらに、その際に検討対象とすべきなのは、条文の文言それだけではなく、憲法制定後に発展し確立した解釈によって補充された意味内容を踏まえたものと解すべきであって、そのような憲法条文に照らして、一義的に違反しているか否かが検討されるべきである。「立法の内容が憲法の一義的文言に違反している」場合を文字通りに理解すれば、立法行為が国家賠償法上違法の評価を受けることは事実上ありえないことになる。「憲法解釈上明らかに違反していると解される場合も含まれる」と解するべきである(中村睦男「立法の不作為に対する違憲審査」佐藤幸治=中村睦男=野中俊彦『ファンダメンタル憲法』294頁、只野雅人一橋大学大学院法学研究科助教授意見書甲第21号証11頁)。この観点からすると、本件での一義的違反はさらに明らかである。
[60] なお原判決が引用する第一審判決は「一義的に明白に」という表現を用いているが、「明白」までは前記最高裁判決の一般論の中にも含まれていない。何の根拠もないところで要件を過重するかのごとき表現を使っている点も相当でない。

[61] 本件で申立人らか受けている制約は選挙権行使の機会の完全な喪失であって、単なる平等原則違反にとどまらず、憲法15条1項3項違反の問題も生じている。しかし、原判決は平等原則違反の点を論じるだけで、15条1項3項に即した憲法判断(判断基準の確定・その当てはめ)を一切行っていない。

[62] 原判決は、
「諸外国においても、在外に居住する自国民の大多数の者の選挙権の行使を可能にする在外選挙制度などが設けられたのは比較的近年に至ってのことである」
との第一審判決を引用する。しかし、そこで列挙されている諸国で一般の国民にも在外選挙権が認められるようになったのは、イギリス(1985年)、フランス(1975年―ただし元老院に関する在外選挙権類似の制度は1958年)、ドイツ(1985年)、カナダ(1993年)、オーストラリア(1983年)であり、原判決が触れていない米国は1975年である。カナダを除けばいずれも1985年以前であって、
「このことは、国外に居住する自国民に対して選挙権を否定することが国民主権に反するものであることを少なくとも先進各国が一致して認めていることを示している」(訴状12頁)
[63] 原判決が引用する第一審判決は、人権規約第25条の条文を引用のうえ、
「右の文言から明らかなとおり、同条が、条約締結国の立法府に対し、在外に居住する自国民の選挙権の行使を可能にする立法措置を構ずべきことを一義的に明白に命じているとは解されない」
と一言でかたづけており、否定する理由がまったく示されていない。
[64] 条約も法律より上位の規範であり、憲法と人権規約が別個の法であることも明らかである。したがって、人権規約との適合性存否の検討は、憲法との適合性存否の検討と別個になされなければならない。憲法に適合しているから人権規約に適合していると即断することはできず、これを論証するためには、まず、憲法の保障と人権規約の保障が同等のものであることを示さなければならない。なぜなら、人権規約が憲法の下位法であるとしても、下位法が上位法より厚い保護を与えることは稀ではない(その適例は、憲法38条2項と刑事訴訟法319条2項)。この場合には、上位法に適合していても下位法に違反することはありうるのであるから、本件においても原審裁判所は、参政権に関する憲法の規定と国際人権規約の規定が同等の保障しか認めていないことを論証しなければならない(東澤靖「法曹実務家による国際人権法の実現」国際人権11号49頁、喜田村洋一「国際人権法の国内における実施」国際人権10号参照)。
[65] しかし、この関係で原審裁判所は人権規約の条文を掲げただけで結論を出したものであり、条約の解釈を参照した形跡は窺われない。そして、この点については第一審で申立人らか提出したノバックの注釈書に明らかなとおり、人権規約では海外居住者を含む全ての市民が現実に選挙権を行使できることが保障されていなければならないとされているのであり(甲3・439頁)、原判決の人権規約の解釈が誤っていることは明白である。
[66] したがって、公職選挙法の規定が人権規約に違反することは明らかであり、原判決は法令解釈に関する重要な事項について誤りを含んでいる。
[67](1) 確かに、原判決が指摘するとおり、公職選挙法が一部改正されて、比例選挙区に限り在外選挙制度が創設されたことは事実である。しかしながら、何故、公職選挙法が改正されたことをもって、申立人らに選挙権を行使させていなかった法制度の適法性が導かれるのか不明である。
[68] そもそも申立人らは、平成8年10月20日に行われた衆議院議員選挙において選挙権を行使できなかった点についての慰謝料を請求しているのであり、その後にいかなる改正・立法がなされようが、平成8年10月20日当時の違法状態が遡って解消されることはあり得ない。

[69](2) 他方、前述したように原判決は、
「憲法の授権に基づく国会の裁量の中には、短期間に極めて多数の選挙人によって行われる右の選挙を、混乱なく、公正かつ能率的に執行するために、国民の選挙権行使に必要な制約を加えることも、当然に含まれている」
としている。しかしながら、在外選挙を「混乱なく、公正かつ能率的に執行する」ことが容易かつ可能であるからこそ、在外選挙制度が創設されたものにほかならない。とすれば、原判決が国会の広範な立法裁量を根拠づける理由として挙げた点は、既に理由足り得なくなっているものというはかない。そもそも、在外選挙制度が創設されたのは、取りも直さず、国自体が在外選挙制度創設の必要性を認めたからである。裏を返せば、在外投票制度を設けない従前の公職選挙法が違憲状態にあったことを如実に示しているとさえいえるのである。
[70](1) 原判決は、
「控訴人らか国内に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得るものであり、このような国内に住所を有せず住民登録もないという状態の継続している期間中、右状態に対応した選挙権行使の面における取り扱いの区別がされることは、生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきであること」
と判示した。
[71] もし、上記「国内」を「1票の価値が重い選挙区」と置き換えた場合、上記論理を煎じ詰めると、「1票の価値が重い選挙区に住所を有せず住民登録をしていないことは、自己の選択の結果であって、日時の経過により変わり得る」こととなり、「生来の人種、性別、門地や、信条、身分、財産等により不合理な差別がされることとは、大きく性質の異なるものと解すべきである」、ひいては、1票の格差が何倍になったとしてもすべて立法裁量の範囲内である、とされることにもなろう。

[72](2) しかしながら、従来から最高裁で問題とされている定数不均衡訴訟においては、可能な限り住所による差別を撤廃すべく、衆議院議員選挙においては3倍以上の格差は許されないとの判例が確立しており、「自己の選択の結果」を理由として、居住地故に差別的取り扱いを許容することはあり得ない。原判決の論理は、かかる最高裁判決の流れをないがしろにするものであって、到底取りえない。

[73](3) 前述したように、憲法第44条但書列挙事由は、多年にわたる民主政治の発展の過程において選挙権に関する種々の制限や差別が次第に撤廃されてきたという歴史的発展の成果にほかならない。そして、憲法が、選挙権に関する権利の内容を憲法制定時点で固定し、それ以降の民主政治のさらなる発展を否定する趣旨であるとは到底解されないから、選挙権に関する種々の制限や差別のうち、その後の判例を通じて撤廃されるべきことが確立した事項(住所による差別)については、国会の立法裁量の問題とする余地はなく、当該制限や差別を存置する立法あるいはその不作為は違法の評価を受けるべきである。

[74](4) また、そもそも国民は、居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)を保障されており、居住地故に基本的人権の行使を制限あるいは剥奪されることはあってはならないはずである。にもかかわらず、選挙権の剥奪という差別的取り扱いを許容するとすれば、基本的人権であるはずの居住・移転の自由(憲法第22条第1項)、外国移住の自由(憲法第22条第2項)の保障を無に帰せしめることになる。
[75] このように立法裁量を広範に解することは許されず、原判決には明らかに法令解釈に関する重要な事項の誤りがある。

■第一審判決 ■控訴審判決 ■上告審判決   ■判決一覧