神経代謝生物学

研究概要

1. 大脳辺縁系が操るこころとからだのバランス

  喜び,悲しみ,怒り,恐怖,不安といった感情の動きの中でも,特に,急に発生し,短期間で終始する,反応の大きい一過性の感情状態のことを『情動』と呼ぶ。この『情動』は,ある期間持続する,ゆるやかな心持ち『気分』とは区別できる。『情動』や『気分』を総称して感情と呼ぶが,特に『情動』は,ある感覚刺激が入ると,その感覚刺激に対して反応する,生理的な反応や行動が表出することで認知できる。『情動』は,マウスの怒り,恐怖,不安といった基本情動から,ヒトの高揚、共感、困惑、罪悪感,嫉妬といった高次の社会的感情を含む。 心が生まれる場である脳の内側に,情動脳と言われる大脳辺縁系が位置し,扁桃体(情動中枢),海馬(記憶中枢),視床(感覚入力を大脳皮質へ中継),視床下部(自律的機能)を含む。感覚刺激の中継核である視床のニューロンを中心とした神経回路に注目し,モデルマウスを用いた研究を進めている。 「情動の成り立ち」と「情動がもたらす代謝への影響」について,神経回路を軸に分子レベルで明らかにすることを目指している。

(1) 情動行動に影響するシアル酸転移酵素St3gal4の脳における機能解明 

  シアル酸は、糖たんぱく質や糖脂質などの糖複合体の末端に結合する酸性糖である。細胞膜上に広く発現しているため、細胞間の相互作用、細胞接着や転移などの様々な生命現象の調節に関与している。シアル酸修飾を受けた糖たんぱく質や糖脂質は、糖転移酵素がCMP-シアル酸からシアル酸を受容体基質である糖に転移することで合成される。このシアル酸転移酵素は、哺乳類で20種類が同定されており、α2, 3–シアル酸転移酵素(ST3GalⅠ~Ⅳ),α2, 6–シアル酸転移酵素(ST3GalⅠ、Ⅱ)、α2, 8 –シアル酸転移酵素(ST8SiaⅠ~Ⅵ)、GalNAc2, 6 –シアル酸転移酵素(ST6GalNAcⅠ~Ⅳ)の4つのファミリーに分類され,各酵素は,糖受容体である基質に対する特異性が異なる。 

 マウスST3Gal Ⅳはα2, 3-シアル酸転移酵素に分類され、脳では、視床の感覚系中継核ニューロンに局在し、刺激に応じてその発現が亢進する。このST3Gal Ⅳを欠損したマウスはてんかん誘導刺激に反応を示さないてんかん抵抗性を持つモデルである。このモデルマウスを用いて,以下のような研究を進めている。 

★シアル酸修飾の変化がもたらす情動行動と代謝負荷 

 情動行動の変化を客観的に測る行動実験をおこない,代謝酵素や代謝物の変化を観察する。以下の行動実験より,ST3Gal Ⅳを欠損したマウスは,環境への不適応,社会性の低下,音手がかり記憶の亢進,あきらめの亢進を示したことから,うつ不安症モデルマウスである。

  最近,St3gal4を欠損すると,St3gal4を発現する脳(視床)ニューロンが,アリカリフォスファターゼ (ALP)の発現を低下し,血中ALP値の上昇を示すことがわかってきた。 

 *以下の行動実験から情動行動を観察している: オープンフィールド試験(Open field test):環境への不適応を測定 高架式十字迷路(Elevated plus maze test):探索行動を測定 ソーシャルインターラクションテスト(Social interaction test):社会性を測定 恐怖条件付け試験(Delayed-fear conditioning test):文脈記憶,音手がかり記憶 強制水試験(Forced swim test),尾懸垂試験(Tail suspension test):あきらめを測定 睡眠計測(Sleep test) 驚愕反応試験(Startle test),プレパルス抑制試験(Prepulse inhibition test)

 ★シアル酸修飾の変化がもたらす大脳辺縁系神経回路における可塑的変化 ST3Gal Ⅳ exon3にmCherryを挿入したノックインマウスを利用し,St3gal4を発現しているニューロンを可視化し神経回路の変化を捉えている。  

 


てんかん発作を獲得したSt3gal4mCherry/+ノックイン(KI)マウス(St3gal4-KIWT)とSt3gal4mCherry/-KI(St3gal4欠損,St3gal4-KIKO)マウスの透明化脳観察 (光シート顕微鏡撮影,基生研野中茂紀氏と共同研究)


(2) 情動中枢の扁桃体に発火点を持つ側頭葉てんかんモデルマウスの併存症−肥満,糖尿病の発症機序 

    てんかんを発症すると,肥満,糖尿病といった代謝疾患を併存するリスクが高くなることが知られている。扁桃体外側基底核の刺激が誘導する側頭葉てんかんモデルマウスは、てんかん発作の獲得後に伴い、1週間で体重に差が出始め、3週間で耐糖能の低下が観察され、7週間で空腹時の血糖値とインスリン濃度が上昇し、HOMA-IR値(Ⅱ型糖尿病の重篤化指標)の亢進および著しい肥満を示す。扁桃体刺激誘導型のてんかんモデルマウスを用いて、てんかん発作による高血糖・肥満誘導メカニズムの解明を目指している。 

 

2. 匂いとフレイル

 病気に連動した匂いが存在することが知られている。『情動』に関わるモデルマウスの研究から,脂質代謝への関わりがわかってきた。そこで,脂質の最終代謝産物と揮発する匂いとの関連性を疑い,研究を進めてきた。これまでに,モデルマウスを用いた研究から,マウスで見つかってきた尿中の匂い物質(揮発性有機化合物,Volatile organic compounds, VOCs)から見える代謝経路がヒトに外挿できることがわかってきた。

★マウスのてんかんバイオマーカーとうつ・不安症バイオマーカーの発見から,高齢者のフレイルバイオマーカーの検出を試みている。(Scientific Reports 9:10586, 2019;PLOS ONE 15:e0229269, 2020;Discover Mental Health. 2, 1, 20, 2022) 

   

★高齢者のうつ・不安症を検出する尿中の新規バイオマーカーの発見と影響を受ける代謝経路の推定  

てんかんバイオマーカーが,メチオニンーホモシステイン経路に関連することが推定され,マウスとヒトのうつ・不安症バイオマーカーが関連する代謝経路の合流点が予測できる。 

 (Scientific Reports 9:10586, 2019)から図を抜粋した。

 ★ヒトとマウスの精神的フレイルと油脂の効果 一般的な餌(8%油脂)を食べたマウスと18%油脂を含む餌を食べたマウスを比べると,18%油脂を含む餌を食べたマウスは,音恐怖記憶を低下させることを報告した。(PLOS ONE 10:e0120753, 2015)うつ・不安症を示す高齢者は,バイオマーカーの数値が高い人ほど,油脂の摂取頻度が低いことがわかった。(Discover Mental Health. 2, 1, 20, 2022)