チャタレー事件
上告審判決

猥褻文書販売被告事件
最高裁判所 昭和28年(あ)第1713号
昭和32年3月13日 大法廷 判決

上告人 被告人

被告人 小山久二郎 外1名
弁護人 正木ひろし 環直彌 環昌一

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官真野毅の意見
■ 裁判官小林俊三の補足意見

■ 弁護人環直彌の上告趣意
■ 弁護人環昌一の上告趣意
■ 弁護人正木ひろしの上告趣意


 本件各上告を棄却する。


[1] 被告人小山久二郎、同伊藤整両名の弁護人正木ひろし、同環直彌、同環昌一の各上告趣意は後記のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
[2] 「チヤタレー夫人の恋人」は英文学界において名前が通つているD・H・ロレンスの長編小説であり、芸術的観点からして相当高く評価されている作品である。それは小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめるものがある。次にこの小説は思想、文明批評等に関する諸問題を含んでいる。これらの点において著者は一般的にいえば伝統的な、ことに英国において支配的な観念に対し反抗的革新的な自己の理想を卒直に表明している。
[3] 話の発端は第一次大戦において負傷し、性的機能を失つた若い貴族のクリツフオードとその妻コニーとの、中部イングランドのラグビー邸における彼女にとつて不自然で退屈な生活である。そのうちにコニーとクリツフオードの雇人で、その領地内に住んでいる、妻と別居していたメラーズという森番の男との間に恋愛および肉体的関係が発生、発展し終に両人ともに社会的拘束をふり切り、離婚によつて不自然と思われる婚姻を清算して恋愛を基礎とする新生活に入ろうとする。これがこの小説の構造のあらましである。そしてこの構造は思想的、社会的、経済的の主題によつて肉附がなされているのである。それらは貴族階級の雰囲気に対する批判、工業化による美しい自然の破壊、農村の民衆の生活に及ぼす影響、鉱業労働者の悲惨な境遇、人心の荒廃、非人間化等の事実を指摘し、また著者自身が真に価値のある生活と認めるものおよび著者のもつ社会理想を暗示している。そしてその主題の中で全篇を一貫する最も重要なものは、性的欲望の完全な満足を第一義的のものとし、恋愛において人生の意義と人間の完成を認めるかのような人生哲学である。
[4] かような人生哲学からして著者は彼の祖国のみならず他の国々においてもあまねく承認されているところの、性に関する伝統的な、彼のいわゆる清教的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新な倫理と秩序を提唱しているものであること本書の内容、著者自身の序文、その他の著書および原判決において引用するロレンスの書翰からして推知できるのである。この点から見て本書がいわゆる春本とは類を異にするところの芸術的作品であることは、第一審判決および原判決も認めているところである。しかしながらロレンスの提唱するような性秩序や世界観を肯定するか否かは、これ道徳、哲学、宗教、教育等の範域に属する問題であり、それが反道徳的、非教育的だという結論に到達したにしても、それだけを理由として現行法上その頒布、販売を処罰することはできない。これは言論および出版の自由の範囲内に属するものと認むべきである。問題は本書の中に刑法175条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれているかどうかにかかつている。もしそれが肯定されるならば、本書の頒布、販売行為は刑法175条が定めている犯罪に該当することになるのである。
[5] しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。従来の大審院の判例は
「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして差恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており(例えば大正7年(れ)第1465号同年6月10日刑事第二部判決)、
また最高裁判所の判決は
「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている(第一小法廷判決、最高裁判所刑事判例集5巻6号1026頁以下)。
そして原審判決は右大審院および最高裁判所の判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。
[6] 要するに判例によれば猥褻文書たるためには、差恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。
[7] およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。
[8] 羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人間または特定の社会において欠けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
[9] ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法175条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
[10] しからば本被告事件において問題となつている「チヤタレー夫人の恋人」が刑法175条の猥褻文書に該当するか否か。これについて前提問題としてまず明瞭にしておかなければならないことは、この判断が法解釈すなわち法的価値判断に関係しており事実認定の問題でないということである。
[11] 本件において前掲著作の頒布、販売や翻訳者の協力の事実、発行の部数、態様、頒布販売の動機等は、あるいは犯罪の構成要件に、あるいはその情状に関係があるので証人調に適しているし、また著者の文学界における地位や著作の文学的評価ついては鑑定人の意見をきくのが有益または必要である。しかし著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。社会における個個の人について、また各審級の裁判官、同一審級における合議体を構成する各裁判官の間に必ずしも意見の一致が存すると限らない事実は、他の法解釈の場合と同様である。これは猥褻文書であるかどうかの判断の場合のみではなく、これを以て裁判所が社会通念の何たるかを判断する権限をもつことを否定し得ないのである。従つて本著作が猥褻文書にあたるかどうかの判断が一部の国民の見解と一致しないことがあつても止むを得ないところである。この場合に裁判官が良識に従い社会通念が何であるかを決定しなければならぬことは、すべての法解釈の場合と異るところがない。これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。これらの場合に裁判所が具体的の事件に直面して判断をなし、その集積が判例法となるのである。
[12] なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
[13] さて本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法175条の猥褻文書と判定したことは正当であり、上告趣意が裁判所が社会通念を無視し、裁判官の独断によつて判定したものと攻撃するのは当を得ない。

[14] 次に本訳書の猥褻性の判定に関し二、三の点に立ち入つて説明する。
[15] 本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることは上述のごとくである。本書の芸術性はその全部についてばかりでなく、検察官が指摘した12箇所に及ぶ性的描写の部分についても認め得られないではない。しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。猥褻なものは真の芸術といえないというならば、また真の芸術は猥褻であり得ないというならば、それは概念の問題に帰着する。これは我々が悪法は法と認めることができるかどうかの問題と類似している。実定法の内容が倫理的に悪であり得るごとく、我々が普通に芸術的作品と認めるところのものでも猥褻性を有する場合があるのである。いわゆる春本の類はおおむねかような芸術性を欠いているから、芸術性を備えている本件訳書はこれを春本と認めることができないこと第一審以来判定されてきたところである。しかしそれが春本ではなく芸術的作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。何となれば芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではないからである。我々は作品の芸術性のみを強調して、これに関する道徳的、法的の観点からの批判を拒否するような芸術至上主義に賛成することができない。高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。芸術といえども、公衆に猥褻なものは提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使命の遂行において、羞恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。
[16] 芸術性に関し以上述べたとほぼ同様のことは性に関する科学書や教育書に関しても認められ得る。しかし芸術的作品は客観的、冷静に記述されている科学書とことなつて、感覚や感情に訴えることが強いから、それが芸術的であることによつて猥褻性が解消しないのみか、かえつてこれにもとずく刺戟や興奮の程度を強めることがないとはいえない。
[17] 猥褻性の存否は純客観的に、つまり作品自体からして判断されなければならず、作者の主観的意図によつて影響さるべきものではない。弁護人は猥褻文書とは
「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ未成年者をして恢復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」
と定義し本件訳書が誠実性をもつていることを理由として、原判決を非難する。しかしこの定義によれば、いやしくも芸術的、学問的その他の意図を有する文書は極端に猥褻なものといえども猥褻文書から除外され、猥褻文書はいよゆる春本の類に限局されることになる。作品の誠実性必ずしもその猥褻性を解消するものとは限らない。従つてこの上告論旨は採用することができない。
[18] 次に論旨は本件訳書の出版「警世的意図」に出たことを主張して、被告人等の犯意の成立を否定し以て原判決を攻撃する。
[19] しかし刑法175条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものでない。かりに主観的には刑法175条の猥褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観的に猥褻性を有するならば、法律の錯誤として犯意を阻却しないものといわなければならない。猥褻性に関し完全な認識があつたか、未必の認識があつたのにとどまつていたか、または全く認識がなかつたかは刑法38条3項但書の情状の問題にすぎず、犯意の成立には関係がない。従つてこの趣旨を認める原判決は正当であり、論旨はこれを採ることを得ない。
[20] 論旨は猥褻文書たるためには未熟な未成年者のみの好奇心に触れるもので、未成年者に恢復しがたい心身の損失を招かしめるものであることを要するものとしている。猥褻文書の普及は未成年者の心身に悪影響を及ぼすから、その禁止は未成年者にとつて極めて重要な意義を有することもちろんである。しかし何が猥褻文書なるかの判定については、一定の読者層に対する影響のみを考えるべきでなく、広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきである。論旨が読者層を未成年者のみに限局して論じているのは独断であつて採用することができない。
[21] 上告趣意(弁護人環昌一)は次のように主張する。
憲法21条の表現の自由の保障は無制限に近いものであり、かりに「公共の福祉」の名の下に制限できるにしても許否の判断の基礎が事前に明白でなければならない。従つて検閲制度が禁止された新憲法の下では「公共の福祉」に反するか否かは各人の自主的判断に委ねられなければならない。ところが原判決は本件訳書に対する自主的判断の誤を取り上げて被告人等を処罰したから、憲法21条に違反する、
と。しかし本件訳書の許否についての判断の基礎は一般社会において行われている良識または社会通念として存在しているから、事前に不明白であるとはいい得ない。また公共の福祉に反するか否かは、客観的に判断すべきものであり、各人の自主的判断に委ねられるべきものではない。この故に論旨はこれを採用することができない。
[22] 上告趣意(弁護人環直弥)は、
憲法21条の保障する表現の自由が他の基本的人権に関する憲法22条、29条の場合のように制限の可能性が明示されていないから、絶対無制限であり、公共の福祉によつても制限できないもの
と主張する。しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである(昭和22年(れ)第19号同23年3月12日大法廷判決、昭和23年(れ)第743号同年12月27日大法廷判決、昭和24年新(れ)第423号同25年10月11日大法廷判決、とくに憲法21条に関するものとしては昭和23年(れ)第1308号同24年5月18日大法廷判決、昭和24年(れ)第2591号同25年9月27日大法廷判決、昭和25年(ク)第141号同26年4月4日大法廷判決、昭和24年(れ)第498同27年1月9日大法廷判決、昭和25年(あ)第2505号同27年8月6日大法廷判決)。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり、論旨は理由がない。また論旨は、右に述べた立場から、刑法175条の適用を受ける場合があるとするならば、あらゆる立場から見て有害無益な場合例えば春本類に限るべきものとするが、その理由がないこと前に述べたごとくである。
[23] 上告趣意(弁護人正木ひろし)は、基本的人権の尊重の面のみから公共の福祉を観念し、また本書が性の問題を真面目に取り扱つているから公共の福祉に適合するものとなし、これについて刑法175条の罪の成立を認めた原判決を攻撃する。しかしこれは基本的人権が無制限でなく、公共の福祉によつて制限されることに関し前掲判例と異つた独自の見解に立つものである。また本件訳書が誠実性を備え、内容的に見て公共の福祉に適合するものをもつていても、それは猥褻性を相殺解消するものではない。この故に論旨は理由がない。
[24] 上告趣意(弁護人正木ひろし)は旧憲法下における出版法が廃止され、同法27条の「風俗を壊乱する文書、図画」が現在処罰の対象となつていないことを援用して原判決を非難する。上告趣意の主張のごとく、以前には出版法が存在し、風俗壊乱文書を処罰し、そしてその中にふくまれる猥褻文書の出版に関しては出版法に準拠し、刑法175条の適用が排除されていたことはこれを認めることができる。それは猥褻文書に関してこの2法が特別法と普通法の関係にあることによるものである。しかし特別法たる出版法が廃止されている現在の状態の下では猥褻文書の出版は刑法175条の適用を受けるにいたつたものと認めなければならない。従つて論旨は理由がない。
[25] 上告趣意(弁護人環昌一)は憲法21条が検閲を禁止していることを援用して、
何が公共の福祉の名の下に許されないかは事前に知ることができず、被告人等の自主的判断に委ねられているのに、その判断の誤りを取り上げて被告人等を処罰した原判決は憲法21条に違反するもの
と主張する。しかし憲法によつて事前の検閲が禁止されることになつたからといつて、猥褻文書の頒布販売もまた禁止できなくなつたと推論することはできない。猥褻文書の禁止が公共の福祉に適合するものであること明かであることおよび何が猥褻文書であるかについても社会通念で判断できるものである以上、原判決には所論のごとき憲法違反は存在しない。
[26] 上告趣意(弁護人正木ひろし)は原判決理由が故意に論理の法則を無視逸脱してなされた不正な判断にもとずく非良心的のものであるとして、原判決の憲法76条3項違反を主張する。しかし同条の裁判官が良心に従うというのは裁判官が有形無形の外部の圧迫ないし誘惑に屈しないで自己の内心の良識と道徳感に従う意味であることは判例(昭和22年(れ)第337号同23年11月17日大法廷判決)の認めているところである。所論は結局原判決が弁護人の見解と異るものがあることを以て、原審裁判官を非良心的と非難するに帰着する。従つて所論憲法76条3項違反の主張はもとより、これを前提としたその他の違憲の主張もすべて理由のないものといわなければならない。

[27] よつて刑訴408条により主文のとおり判決する。
[28] この判決は裁判官真野毅、同小林俊三の後記各意見のあるほか裁判官全員一致の意見である。


 本件に関する裁判官真野毅の意見は、つぎのとおりである。

[1]第一 小山久二郎の上告に関する多数意見の結論及び左記を除く理由にも大体賛成である。
[2] 本件では、本訳書が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかが、最も主要な問題となつている。わたくしは、本来猥褻であるかどうかは、絶対的なものでもなく、不変不動のものでもなく、時代と民族と社会の風俗、習慣、伝統、道徳、民族意識、民族感情、宗教、教育等の相違によつて異なり、また次第に歴史的の変化を重ねていくものであると考える。裁判上からいつてもそれは結局、裁判官が社会通念と認めるところに従つて判定しなければならぬ問題であり、そしてその社会通念は基盤たる社会の推移変遷によつて変化せざるをえないものである。それ故、猥褻であるかどうかは、その必然の結果として時と所とによつて異り、流動し変転すべき概念であることは、多言を要しないはずのものである。しかるに、多数意見は恰も時と所とにより変化する猥褻と時と所を超越して変化することのない猥褻の2段階ないし2類型があるかのような表現をし、その上本訳書の描写はその後者に属するかのような表現をしている点は、非科学的であつて、とうてい賛同することができない。
[3] わが国の古典である古事記、日本書紀、万葉集、風土記等に現われる上代結婚の風俗習慣として、男女が配偶者を選ぶ方法は、はなはだ自由なものであつて、後代封建制度の下における堅苦しい選定の様式とは全く相反するのであつた。ことにその上代の歌垣またはかがいという習俗においては、多数の青年男女の集団が手を携えて平常神聖視している山などに登り、そこでは飲食、歌舞、音曲を共にし、歓楽の興趣きわまるところ、性行為の実行が公然としかも集団的に行われエクスタシーの境に入つたということである。この行事には未婚の男女ばかりでなく既婚の男女も参加したという。万葉集では歌垣について「かがふかがひに人妻に吾も交らむ。わが妻に人も言問え。」とまで歌われている。だがこれは、聖域において神に許されたものとして行われる春秋などの行事であつて、今日の単なるエロとか猥褻とかの感覚で律すべきものではなく、これを超えた当時の集団感情・集団意識にもとづく結婚習俗の一端を示すと共に、他面において宗教感情的農業的祭典の色彩が濃厚であるように思われる。ことごとしく諸外国の事例を挙げるまでもなく、ただこの一事によつても、多数意見のごとく時代と民族を超越した絶対的の猥褻の限界を設けようとする考え方は、厳然たる歴史的事実を無視した観念論たるのそしりを免れえざるものである。のみならず、それは本件の判断には全く必要のない議論といわなければならぬ。わたくしの見解では、猥褻であるかどうかは、常にその社会のその時代における相対的な社会通念を規準として判断すべきものと考えるのである。米国における同種の事件において、ハンド判事は、羞恥心が末永く、人間性の最も大事で美しい面を十分描写することを妨げるだろうなどということは、実際ありうべからざることの様に思われるといつているのは注目の値いがある。
[4] 1923年6月12日ジユネーブにおいて締結された猥褻出版物の流布及び取引の禁止のための国際条約を、修正する1947年11月12日附議定書によれば、猥褻なる字句の定義を国際的に定めるかどうかが問題となつたが、各国の風俗、道徳標準、民族意識等の相違により猥褻の定義を国際的に定めることを困難かつ不必要であるとした。これによつても時代と民族と社会を超越した固定不動な猥褻はありえないことを理解する一助となるであろう。
[5] 総じて性に関する考え方、思想、感覚、感情等は、外部社会の変動につれ個人的にも変化を生ずる。その変化は、あるいは急転歩に、あるいは徐々に運ばれるが、固定するものではない。ことに世界が狭くなり、また一層そうなつていく傾向にある現代においては、異る民族・社会の習俗が相触れ相交渉し互に影響し合う機会が著しくしげくなると共に、性に関する科学等の探究は日進月歩に行われているのであるから、性に関する社会的変化は、歴史的見地からいつて昔の時代とは比較にならない短かい年月の間にも実現され得る可能性があるように考えられる。
[6] 次に、本件におけるようないわゆる文芸訴訟(リテラツール・プロチエス)において、文学的・芸術的の主張、思想、価値、誠実性がある場合においては、猥褻性が減殺され、浄化され、醇化され、払拭されることがありうるのであつて、考慮すべき重要な因子とは認められるが、常に決定的にそうあるべきわけのものではない。そこで、本訳書のいわゆるホツト・パートである性交の場面の描写表現の程度は、性的感覚の露出が過度であつてわが国現時の社会通念に照らして判断すると、これをも寛容に包容し得る社会の現状とは認められず、猥褻の法解釈たる定義に掲ぐる事柄に該当し、本訳書は猥褻文書と判断するを相当とする。

[7] なお、多数意見に賛成しがたい二、三の点について述べる必要を感ずる。
[8] 多数意見は、
「しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていづれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。」
と説く。そして、その前に述べたというのは、
差恥感情は、「人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも、性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの差恥感情の当然の発露である。」
といつているに過ぎない。だから、いうところの「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである。「性行為の非公然性の原則」というといかにもいかめしく聞えるが、その中味はただこれだけのことである。多数意見は、一方において性一般に関する社会通念は、「時と所によつて同一でなく、同一の社会においても変遷がある」ことを認めつつ、他方において社会通念の変化では「超ゆべからざる限界」として、時代と民族と社会を超越した普遍の規範たる「性行為の非公然性の原則」があるというのである。
[9] そしてこの前提に立つて多数意見は、
「本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、……相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し」たものである
としている。しかし、わたくしをして言わしむれば、かような判断は、前後を弁まえない極めて非論理的なもの以外の何物でもない。
[10] 多数意見が前提として説いている「性行為の非公然性の原則」とは、すでに触れたように性行為を公然と実行しないというだけの意義に過ぎないから、性行為の非公然性の原則に反するとは、性行為を公然と実行するということに帰着する。(本訳書はもとより生き物ではないから、公然であろうと秘密であろうと、訳書そのものが性行為を実行することはありえないことである。)本訳書の性的場面の描写は、性行為を公然と実行している場面をえがいたものではない。この意味においてはどこにも、性行為の非公然性の原則に反するかどはないはずである。
[11] また多数意見は前段において、性行為の非公然性の原則は、時と所と社会によつて変化することのない普遍の規範だというのであるから、本訳書の性的場面の描写が性行為の非公然性の原則に反するということは、とりもなおさず時と所と社会によつて変化することのない普遍の規範に反するということになる。一体そんな極端なことがどうして言えるのか、わたくしには全く理解することができない。現にフランスでは、原著やその完訳が出版されており、またイタリヤでは原著が、ドイツではその完訳が出版されておる。手近い話が、本件の第一審で証人となつた福原麟太郎、神近市子、吉田健一、宮城音彌、吉田精一、波多野完治、岩淵辰雄、峯岸東三郎、野尻与顕、曾根千代子の10人は、猥褻文書でないとし、金森徳次郎、沢登哲一、駒田錦一、宮川まき、土屋光和、森山豊の6人は、猥褻文書であるかどうか明らかでないとし、ガントレツト恒、森淳男、阿部真之助、東まさ、斎藤勇、渡辺鉄蔵、宮地直邦、児玉省の8人は、猥褻文書であるとしている程度のものである。わたくしは、多数意見が本訳書の描写をもつて時代と民族を超えて変化することのない猥褻性をもつかのごとき表現をしている部分は削除すべきであると考える。
[12] 次に多数意見は、
「著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である」
と言いその後にも数箇所で法解釈と言つているが、これもはなはだ耳障りな表現である。
[13] 本件に即していえば、刑法175条は「猥褻ノ文書……ヲ販売シ……タル者」を処罰するのである。そして本件では「猥褻」の意義が当面の問題となり、判決では、同条の猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」として、その意義内容を明らかにしている。ここまでが法解釈の問題である。
[14] そこで著作の描写自体が、かように法解釈で明らかにされた事柄に該当するかどうかを判断し、従つて猥褻文書に該当するかどうかを判断するには、証人その他の証拠によることを要せず、裁判官の法的価値判断によつてなさるべきものである。それ故、著作自体が猥褻文書にあたるかどうかの判断は、具体的事実に法律を当てはめる法律適用の問題であつて、多数意見のように法解釈の問題というべき性質のものではない。法律解釈と法律適用とは、裁判上の作用として性質を異にし、両者を区別することは大切である(民訴349条、刑訴405条1号、406条参照)。ただ法律解釈と法律適用とは互に関連する作用であるから、時に両者を包括して広義において法律適用という場合がある。例えば刑訴380条において「法令の適用に誤があつて」というのは、法令の解釈または狭義の法令の適用に誤がある両者を含んでいる。しかし、その反対に法律解釈という言葉の中に法律適用をも含ましめることはあり得ないことであるし、またないのである。また「法令の違背」または「法令の違反」という言葉を用いて、法令の解釈または法令の適用の誤の両者を含ましめている場合がある(民訴349条、刑訴458条、旧刑訴409条、520条参照)。非常上告の場合にも「法令の違反」という言葉を用いており、これについて法律解釈の誤りだけであつて法令適用の誤は含まないと解した大法廷判決がある(判例集6巻4号685頁)。わたくしは、当時少数意見として詳細にその不当なることを述べ、その後多くの支持を得たが、かかる事例に徴しても、法律の解釈と法律の適用とについて常に明確な認識をもつことが必要であると考える。それ故、前述のように本件で法解釈の問題とした多数意見をそのまま承認することは出来ない。
[15] 一般的にいつて、猥褻の法律上の意義内容を明らかにする正確な解釈を打ち立てることは、はなはだ因難な仕事であるが、それをいかように定義を定めてみたところで、さて問題となつた具体的の描写が、その定義として解釈された事柄に該当するかどうかの第二次の判断は、裁判官に負わされた一層困難な仕事である。というのは、裁判官が個人としての純主観によつて判断すべきものではなくして、正常の健全な社会人の良識という立場にたつ社会通念によつて客観性をもつて裁判官が判断すべきものである。純主観性でもなく、純客観性(事実認定におけるがごとく)でもなく、裁判官のいわば主観的客観性によつて判断さるべき事柄である。
[16] 多数意見は、
「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。」
といつている。これは一つの本事件に関するばかりでなく、すべての事件に通ずる裁判の使命ないし裁判官の心構えに触れている点においてすこぶる重要な意義がある。法律上真に猥褻と認められるものに対し、裁判上猥褻なものとして処理することは当然すぎるほど当然な事柄であるが、それ以外の「社会を道徳的頽廃から守らなければならない」とか、「病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬ」とかいつた物の考え方は、裁判の道としては邪道である、とわたくしは常日頃思い巡らしている。裁判官は、ただ法を忠実に、冷静に、公正に解釈・適用することを使命とする。これが裁判官として採るべき最も重要な本格的態度である。憲法で、裁判官は法律に拘束されるといつているのはこのことである。しかるに、前記のごとく道徳ないし良風美俗の守護者をもつて任ずるような妙に気負つた心組で裁判をすることになれば、本来裁判のような客観性を尊重すべき多くの場合に法以外の目的観からする個人的の偏つた独断や安易の直観により、個人差の多い純主観性ないし強度の主観性をもつて、事件を処理する結果に陥り易い弊害を伴うに至るであろう。思想・道徳・風俗に関連をもつ事件においてことに然りであることを痛感することがある。またこの邪道は、被告人の基本的人権の擁護に万全の配慮をしなければならぬ刑事事件において、却つて取締の必要を強調して法を運用しようとし、時に罪刑法定主義の原則を無視ないし軽視するに至る他の邪道にも通ずることを篤と留意しなければならぬ(判例集4巻1988頁、同7巻7号1591頁以下参照)。

[17]第二 伊藤整の上告に関しては多数意見の結論に反対である。同人に関する原判決には左記の重大な違法があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反することが明らかであるから、職権をもつて刑訴411条1号により原判決を破棄し、上告趣意を判断するまでもなく原審に差し戻すを相当とする。
[18] 第一審判決が犯罪事実の存在を確定せず、犯罪の証明なしとして無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が右判決を破棄し、何等事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴400条但書の解釈として許されないところである。そしてこれは、すでに大法廷判決が数次にわたり示したところのものである(昭和31年7月18日判決、判例集10巻7号1147頁、同年9月26日判決、判例集10巻9号1393頁)。この判例の理由とするところは、
起訴の罪責なしとした第一審の「判決に対し検察官から控訴の申立があり、事件が控訴審に係属しても被告人等は、憲法31条、37条の保障する権利は有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受けるものといわなければならない。従つて被告人等は公開の法廷において、その面前で、適法な証拠調の手続が行われ、被告人等がこれに対する意見弁解を述べる機会を与えられた上でなければ、犯罪事実を確定され有罪の判決を言渡されることのない権利を有するものといわなければならない。それゆえ本件の如く第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、被告人の前記憲法上の権利を害し、直接審理主義、口頭弁論主義の原則を害することになるから、かかる場合には刑訴400条但書の規定によることは許されないものと解さなければならない」
というにある。
[19] そして同判決においては、その結びにおいてわざわざ
「そして刑訴400条但書に関する従来の判例は右解釈に反する限度においてこれを変更するものである」
と断わつている。この刑訴400条但書の解釈と憲法31条等との関係は、随分以前から話題になつていた問題であるが、例の三鷹事件を契機としてその後においても一層深い考察が加えられ、その結果控訴審における新らしき犯罪事実の認定については、従来の判例態度を変更して前記のような大法廷の判例が確立されるに至つたのである。
[20] ところで本件において伊藤整は、第一審では無罪とせられ同人に対して有罪事実の認定はなかつた。第一審判決の事家認定の中には、「小山久二郎は……ロレンスの著作なる「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳出版を企図し、伊藤整に之れが翻訳を依頼しその日本訳を得た」旨の記載はあるが、原判決では翻訳者の協力の態様は種々のものがあり、協力の程度いかんによつては幇助犯が成立する場合もあり、共同正犯の成立する場合もありとした。そして原判決は、何等事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで、伊藤整に共同正犯の成立する事実認定をしたものである。この点において本件は、まさにぴつたりと前記大法廷判決の場合と同様であつて、刑訴400条但書に違反する違法があるから、原判決はこの点において破棄さるべきものである。
[21] さらに、伊藤整は第一審においては無罪、第二審においては罰金10万円に処せられたことは明らかであるから、左記理由によりても原判決は破棄さるべきである。
[22] わたくしは、一審よりも重い刑を新らしく量定する場合についても、前記大法廷の判決と全く同様の理由によつて、同様の結論に達すべきものと思う。すなわち、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、何等の事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について第一審の刑よりも重い刑を言い渡すことは、刑訴400条但書の解釈として許されないものと考える。
[23] しかるに、同じ7月18日に言渡された別件の大法廷判決(判例集10巻7号1177頁)における多数意見は、第一審の執行猶予の判決を破棄して控訴審で実刑を科した事件につき、
「控訴審が検察官からの第一審判決の量刑は不当であるとの控訴趣意に基き第一審判決の量刑の当不当を審査するにあたつては、常に控訴審自ら事実の取調をしなければならないものではなく、訴訟記録及び第一審に於て取り調べた証拠によつてその量刑の不当なことが認められるときは、控訴審は自ら事実の取調をしないで、第一審判決の刑より重い刑を言渡しても刑訴400条但書の解釈を誤つたものということはできない」
と判示している。冒頭にかかげた新らしい有罪事実の認定に関する大法廷判決は、詳細に理由を述べているのに反し、量刑に関するこの判決はこのように極めて簡単であつて、何故に有罪事実の認定と刑の量定について取扱を異にしなければならないかの理由に関しては、黙して何も語つていない。だから格別取り押さえどころはない。がわたくしは、この判決は前者の判決に詳細に語られている理由そのものと明らかに矛盾する大きな欠陥があると考える。
[24] 冒頭の有罪事実の認定に関する判決の理由は、要約すると控訴審においても被告人は憲法31条、37条の権利を有し、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用をうけるというにある。憲法31条は「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めている。同条は科刑に関し適正手続すなわち現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義等による審理手続を保障したものである。言いかえると、この保障は科刑(ペナルテイ)に対して与えられたものである。そこで裁判上「刑罰を科する」には、一面において有罪事実を認定し、他面において刑を量定することが必要である。この事実認定と量刑とは、科刑の両翼をなすものであつて、その一方だけで科刑ということは有りえない。(稀には判決において有罪事実の認定がなされておりながら、量刑がなされていない場合がある。これは真の科刑というものではない。例えば、かのプラカード事件の第二審判決は、有罪事実を認定した上で、大赦を理由として被告人を免訴している、判例集2巻6号607頁。)憲法31条は、明文の示すとおり科刑に対する保障である以上、科刑の両翼たる事実認定と量刑とは共に、同条の保障を受けるが当然である。されば事実認定について同条の保障あることを詳しく説明した冒頭判決の理由は、量刑についても妥当するものといわなければならぬ。
[25] あるいは、事実認定の問題は重いが、量刑の問題は軽いと考えるものがあるかも知れない。なるほど有罪事実の認定がまずなされて、次に刑の量定の必要が起つて来る。有罪事実の認定がなければ、量刑の問題は起らない。ただこのことから、事実認定の方は重要であつて憲法31条の保障をうけるが、量刑の方は軽いから同条の保障をうけないと速断して差別的取扱をすべきものではない。これは全く観念論的な物の考え方である。よくつぶさに脚下を照らしてあまねく現実を見るがよい。有罪となる被告人は、無罪となる被告人に比しいかに圧倒的に多いか、また公判廷において起訴事実を素直に認める被告人は、これを否認して争う被告人に比しいかに多数であるかは、東西の司法統計資料が常に極めて雄弁に物語つているところである。これによつても被告人の大多数のものにとつて裁判上重大関心事は、事実認定の問題ではなく、実はむしろ量刑の問題に帰するのである。だから、量刑の問題こそは、裁判の実際において最も多く考慮が払われなければならぬのが現実というものである。この現実に立てば、事実認定が憲法31条の保障をうけるだけで、量刑が同様の保障をうけないような片翼的な偏つた司法の運営では、国民の基本的人権は十分に保護されるとは言いえない。例えば、スリの犯罪事実を控訴審で新たに認定するには書面審理では許されないが、三鷹事件のように一審の無期懲役を控訴審で死刑に変更するには書面審理だけで許されるというのであつては、すこぶる不権衡な取扱方であつて、人権の保障にははなはだ事欠ける憾みがあるといわなければならぬ。
[26] ここにまた、事実認定と量刑の取扱に差別をおく理由づけとして、事実認定は、真実の探究であつて裁量の余地のない事柄であるが、量刑は裁量が広く許される事柄であるとする見解があるが、これには替同できない。この見解には2つの点の欠陥がある。(一)1つは、事実認定は裁量の余地のない事柄だとする点であり、(二)他の1つは、量刑の裁量であるから常に違法の問題は生じないと考える点である。
[27] しかし、(イ)事実認定もまた裁量によるものであり、(ロ)量刑は裁量ではあるが、二審で重く科刑する場合には憲法31条の要請によつて直接審理主義、口頭弁論主義の手続を通して量刑の裁量がなされることを要し、これに違反すればその裁量のやり方が違法となるわけである。この関係をすこし詳しく述べてみたい。犯罪事実の認定は、歴史的事実としての真実の探究・発見にあることはもちろんであるが、このことから直ちに事実認定は、「裁量の余地のない事柄」であると速断することはできない。科学的な正確な方法で例えば精密機械の操作によつて過去(一定の近い過去でもよいが)の歴史的事実を的確・自由に再現しうるよう人智が進歩しない限り、そして現行の裁判官による証拠裁判の手続でいく限り、人的証拠であれ物的証拠であれ証拠能力の問題は別として、その証拠価値は価値判断の対象として結局(経験則違反の問題を生じない場合には)裁判官の裁量にまかされることとならざるをえない。かように証拠の価値判断が裁判官の裁量にまかされている以上、いわゆる証拠裁判すなわち証拠の価値判断に基づき証拠の取捨選択をすることによつて真実として発見される事実認定そのものもまた究極において裁判官の裁量にまかされているのである。一般に事実の認定は、事実審裁判官の専権に属するといわれているのは、この意義を有するものである。事実の認定は、真実の探究であつて裁量の余地のない事柄であるという見解は、目的と手段を混同した議論である。事実の認定は、真実の発見を第一義の目的とする。しかし、この目的を達成するための手段としては、証拠によることを要し、証拠を取捨選択するには証拠の価値判断をすることを要し、証拠の価値判断は結局裁判官の裁量によることを要する。現時の証拠裁判制の下においては、証拠能力の法規と経験則に反せざる限り、事実認定は、すべて裁判官の裁量にまかされていることは明白である。
[28] 次に、刑の量定もまた同様に、原則として裁判官の裁量にまかされている。事実の認定と刑の量定はもとより目標を異にするが、手段として裁量によることは同一であるのみならず、その裁量は証拠の価値判断を基本とすることも同様である。(ただ現行刑訴法の上では有罪事実認定の証拠は判決にかかげることを要するが、量刑の証拠はその必要がないとされている差があるだけのことである。)そして事実の認定についても、刑の量定についても、裁判官の裁量は、現代刑事訴訟の基本原則である口頭弁論主義、直接審理主義をとおしての上の証拠の価値判断を基本とすべきものであつて、原則として単なる書面審理による証拠の価値判断を基本として裁量することは許されていない。憲法31条は、まさにこの意義を含むものであつて、人類多年の努力と経験によつて確立せられた現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義は憲法においても保障するところであり、かかる適正手続によらなければ刑罰を科せられないことが基本的人権として保障されているものと解すべきである。直接審理主義、口頭弁論主義による証拠の価値判断と単なる書面審理によるそれとは往々にして異る。一例をあげれば、直接審理主義、口頭弁論主義をとおして証人尋問をした裁判官は、証言の内容の外に証人の顔色、目色、音声、表情の変化、発言の態度などについても直接仔細に観察することができる立場にあつて、これらを総合して陳述内容の価値判断をするのであるから、いかに証言の内容が秩序整然として外観上一糸乱れぬものであつても、端的に偽証を観破しその証言の証拠価値を認めないこともあるであろう。またこれと反対に、証言の内容は、尋問に応じ幾変転しているが、それは当初の記憶の不明確なことによるものであつて、尋問の進め方で徐々に記憶を喚びさまし、最後の陳述が真実に合するものとしてこれに十分な証拠価値を認めることもあるであろう。この場合裁判官は生きた証言を聞いて心証を形成することになる。ところが、控訴番で書面審理だけで証拠の価値判断をするとしたら、裁判官は紙の上の死んだ証言を眺めて心証を形成する外はないから、前者の調書上秩序整然たるものに証拠価値を認め、後者の調書上供述の変転したものに証拠価値を認めないこともあるであろう。ここに人類の知恵として裁判殊に刑事裁判における直接審理主義、口頭弁論主義の必要が強調せらるべき根本理由が存するわけである。


 裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。

[1] 私は多数意見に同調するものであるが、ただ私は、原審の審判手続に違法の部分があると信ずるところ、前記判示にはなんらこの点にふれるところがなく、誤解を受けるおそれがあるから、私かぎりの意見を附け加えたい。
[2] 原審の審判手続は、被告人伊藤整に関するかぎりは違法である。すなわち右被告人に対し、第一審は無罪を言い渡したのであるが、控訴審は、その審理に当り、なんら事実の取調をすることなく、被告人の意見弁解もきかないで、単にいわゆる書面審理のみにより、破棄自判の有罪判決を言い渡したのであつて、このような手続は、二審においてはじめて被告人を有罪とする審判としては、刑訴法上許されないものであり、後記の大法廷判例の趣旨にも反するものであると信ずる。しかるに上告趣意はなんらこの点に関し主張するところがない。してみれば前記多数意見がこの点にふれなかつたのは、必しも原審の手続を是認したものではなく、特に判断する必要はないと認めたのかもしれない。しかし私見によれば原審の手続には前記のような重要な違反があるから、職権(刑訴411条)でこの問題を取り上げ、結論が前記主文に帰するにせよ、その判断を示すべきであつたと考える。
[3] まず、多数意見の含むところが、仮りに、前提として原審の手続を是認する見解に立つものとすれば、それは、本件において被告人の所為を有罪とするに足りる罪となるべき事実は、一審においてすでに客観的には確定しているから、二審がその確定した事実によつて有罪と認めるならば、いわゆる書面審理のみによつて有罪判決を言い渡すことは違法でなく、後記大法廷の判例は本件のような場合を含まないという趣旨であるかもしれない。しかし私は、一審が被告人を無罪とした場合は、その事実認定がいかなる段階に達していたとしても、刑事審判における有罪判決の最少限度の要件たる「厳格な証明」を経た「罪となるべき事実」としては確定したと見ることはできないと解するものである。仮りに、一審の無罪判決が、単に刑罰法規の解釈または適用の誤りに因つて生じ、被告人の所為は単なる一個の客観的事実にすぎないと認められるような場合は、見方によつては、一審でその「客観的事実」は確定しているといえるかも知れない。しかし私見によればかかる場合でも「罪となるべき事実」は決して確定しているものではない。人の行為は、単なる外界の事実とは異なつてすべての人の意思に関連するものであり、特に本件において原審は、一審と見解を異にする「犯意」の存在を要求しているのであるから、この事実認定には、改めて独自の厳格な証明の過程を経なければならないことは当然の理である(この点後記)。そして裁判所は、罪となるべき事実の外形的存在を認めた後も、なお違法性阻却事由等につき審理を遂げ、あらゆる駄目を押した上、最後に情状を取り調べ、ここにはじめて具体的な処断刑をもつてする有罪判決を言い渡すのであるから、本件のように一審が、すでに伊藤被告について公訴事実の成立を否定した場合は、違法性阻却事由等についてなんら審理考究をしなかつたであろうことが当然推認される。しかるにもし二審で有罪判決をする場合にかぎり、これらの問題を一切究明することなく書面審理のみによつてなすことができると解すると、結局これらの点を究明しない刑事審判や審級の存在を是認することとなり背理なるこというをまたない。
[4] 本件において原審は、一審の見解を誤りとして否定し、本件訳書自体を刑法175条にいうわいせつ文書に当ると断定するとともに、被告人伊藤整について、わいせつ文書販売罪の成立を認めるに必要な犯意は、本件訳書に判示の性的描写の記載が存在すること及びこれを出版販売することの認識あるをもつて足りるとし、一審で取り調べた本件記録中に存する証拠を引用して、伊藤被告に本件犯罪の成立に必要な犯意に欠けるところはなく、また被告人小山久二郎と共同加功の意思及び行為の分担のあつたことを認定するに妨げるものではないと判断したのである。しかし一審判決は、本件訳書は、本質上わいせつ文書とはいえないが、ある関係においてわいせつ文書となるという見解の下に、伊藤被告について「前叙の如き環境を利用醸成して為されたことについては法律上加功しなかつたものと解すべく、刑法上共犯と目することは出来ない」としたのであるから、原審が本件犯罪の成立に必要とする犯意とは法律上その性質を異にし、従つて原審の要求する「罪となるべき事実」について事実認定を行つたものではない。もちろん当事者も客観的事実も同じであるから、事実の個々の部分に互いに競合するところのあるのは当然であるが、事は、原審が新たに要求する犯意の認定の問題であり、その存否によつて原審として独自の有罪か無罪を決定するのであるから、原審は、自ら要求する犯意の成立について独自の事実の取調を行い、その事実認定の上に立つてはじめて有罪判決を言い渡すことができるのである。一審において全く要件を異にする「罪となるべき事実」を取り調べた結果、その事実なしとして無罪を言い渡した審判の余り物ともいうべき事実を利用し、二審の有罪判決の基礎とするのは、人の行為としての罪となるべき事実を外界の事実と同一視するのそしりを免れないであろう。後記当裁判所大法廷の判例にいう第一審無罪の判決に対する第二審は、自から事実の取調をしないで破棄自判によつて有罪の判決を言い渡すことはできないとする趣旨には、本件のような場合をも含むこともちろんであつて、これを例外と解すべきなんの根拠もないと信ずる。従つて原判決は大法廷の判例の趣旨にも反するものと解すべきである(昭和26年(あ)第2436号同31年7月18日判決、集10巻7号1147頁。昭和27年(あ)第5877号同31年9月26日判決、集10巻9号1391頁各参照)。
[5] なお、前記のほか、原審の手続は量刑に関して否定し得ない違法を含むことを指摘して置きたい。一審は、被告人伊藤整に関する限り、同人を無罪と認めたのであるから、被告人の情状について全く審理をしなかつたのは当然であり、またその必要はなかつたのである。しかるに原審は、わいせつ文書並にわいせつ文書販売罪の成立について一審と異なる見解をとりながら、一審で取り調べた書面上の資料のみに基いて被告人に有罪を言い渡したのであつて、二審としては、被告人の情状につきなんの事実調も行わず、被告人本人の意見弁解すらきかなかつたのである。加うるに二審は、本件訳書は本来わいせつ文書であるから、これと異なる見解に立つ一審は、すでに前提において事実誤認があると判示し、また本件訳書がわいせつ文書に当るかどうかの認識は、伊藤被告の犯罪の成否には関係がないが、情状の軽重には関係がありとし、一審はこの点についても、結論において判決に影響を及ぼすべき事実誤認があると判示しながら、しかも自から何の事実調も行わず書面上の資料のみによつて被告人伊藤整は、本件訳書がわいせつ文書たることにつき未必的認識を有していたという情状を重からしめる決定的な事実を認定したのである。二審で有罪判決をする場合にかぎり、情状についてこのような独断が許されると解すべき根拠は全く考えられない。そしてまた情状というものが、記録に存する資料である程度の判断をなしうることは否定しないが、もつとも重要なことは、裁判をする裁判官自身が、その耳目によつて被告人本人から直接意見弁解を聴き、現実な生な心証を形成することであつて、直接口頭審理主義もここにあるのである。もし二審で有罪判決をする場合にかぎり、情状の取調は書面上の資料で足りるという見解に立つと、前示のように一審で全く情状を取り調べなかつた場合もあるから、勢いこのような二審は、なんら情状の取り調をしないで有罪判決ができるという結論になることを是認しなければなるまい。非理なること論をまたないであろう。この非理を正当とするために、あるいは二審が事後審であるという名を掲げ、あるいは二審の裁判官は、書面上の資料によつて十分に情状を判断しうるというがごときは、手続を簡易にするために刑訴の主要な原則を犠牲にすることであり、また二審の裁判官の判断力に理由なき特段の優性を擬制することであり、独善であるというのほかなく、遡れば憲法31条の保障を受けないで刑罰を科せられる刑事審判のあることを是認することにならざるを得ない。
[6] 以上のとおり原審の手続は違法であるが、前述のように被告人も弁護人も上告趣意においてなんらこの点を非難する主張をしていない。してみれば被告人はこれらの点について不服がないものと認めなければならない。私見によれば、前記の違法は、大法廷の判例にも反するから、職権(刑訴411条)をもつてこの点をとり上げ、判断を示すのを相当とするところ、右上告趣意の態度と原判決の判示するところにかんがみるときは、結論としては、原判決を破棄しないでも著しく正義に反するものとは認められないと考える。よつて上告棄却の主文に同調するものである。
[7] なお昭和29年6月8日第三小法廷判決(判例集8巻6号821頁)。昭和30年6月22日大法廷判決(判例集9巻8号1219頁)に掲げた私の意見をここに引用する。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 真野毅  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 小林俊三  裁判官 本村善太郎  裁判官 入江俊郎  裁判官 池田克  裁判官 垂水克己)
[1]原判決は、刑法第175条の解釈適用を為すに当り、憲法第21条、第12条、第13条の言論出版等表現の自由に関する諸法条の解釈を誤り、その結果憲法の保障する基本的人権である、言論出版等表現の自由を不当に制限した違法がある。
[2] 原判決は刑法第175条の猥せつ文書の意義につき、従来の大審院の判例、
「刑法第175条に所謂猥せつの文書図画其他の物とは性慾を刺戟興奮し、又は之を満足せしむべき文書図画其他一切の物品を指称し、従て猥せつ物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものなることを要することは、其前条の猥せつ行為に関する規定と対照して、之を解するに余あり。」(例えば、大正7年6月10日刑事第二部判決、法律新聞1433号22頁)
と昭和26年5月10日の最高裁判所の判決、
「刑法第175条にいわゆる『猥せつ』とは、徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」(第三小法廷判決、最高裁判所刑事判例集第5巻第6号1026頁以下)
とは、その表現に多少の相違はあるが、結論的には同一趣旨のものと解すべきであり、原審裁判所は右2判例に従うのを正当とする態度を持しながら右2判例を要約補足して猥せつ文書の要件として左の3つの要件を挙げている。即ち、第一に、
「徒らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る描写又は記述の記載があることを要する。」(原判決11頁9行目以下)
性慾の発現及び満足の形式においてある一定の社会的制約があり、これが性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成し、
右性的秩序の態様は、「近代文明社会においては、性行為が男女両性の間に無秩序に行わるべからざること、性的行為を公然行うべからざること、性的行為についてこれを公然行つたと同一の効果を生ずる虞ある程度に描写又は記述した文書図画を公表すべからざること等をその内容とするものであることは否定し得」(原判決12頁2行目以下)ず、「わが国においても、右のような性生活に関する社会的制約が、善良の風俗の一つである性的秩序として侵すべからざるものとして保護されていることは、刑法第174条乃至第182条及び第184条の規定の存することによつて明らかである。」(原判決12頁8行目以下)
とし、第二に、
「右第一の徒らに性慾を刺戟興奮せしめるに足る記載がある結果、普通人即ち一般社会人の正常な性的羞恥心を害し且つ善良な性的道義観念に反するものたることを要する。」(原判決12頁15行目以下)
とし、第三に、
「以上第一及び第二の要件に該当するか否かは、一般社会人の良識に照して客観的に判断しなければならない。」(原判決13頁12行目以下)
としているのである。

[3] 更に進んで原判決は、本件訳書が右猥せつ文書に該当するか否かにつき、各種の証拠を綜合し
「本件訳書を前記『猥せつ文書』を判定すべき基準に照して判断すると、本件訳書には、検事指摘の12箇所に及び原判決別紙(一)記載のような性的描写の記載があり、」(原判決18頁7行目以上)右記載は、「前記説明の一般社会人をして過度に性慾を刺戟興奮せしめるに足る記載に該当するものと認められ、従つて、公表すべからざる事項を公表したことによつて、一般社会人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するものと認定することができる。」(原判決18頁10行目以下)
としている。唯原判決はこれに附加して、
「もとより、本件訳書は、その原作者ロレンスの序文や翻訳者たる伊藤整のあとがき等によつて明らかな通り、その内容全体から見れば、ロレンスの真摯なる探究心の下に性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく理解せしめる意図を以て書かれていることを知り得るのであり、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異り全体の10分の1程度に過ぎず、いわゆる春本程の程度の猥せつ性がないことは認められるけれども、本件訳書中の性的描写は余りにも露骨詳細であるためこれによる過度の性的刺戟が解消又は昇華されるに至つておらず、その芸術的価値又は原作者の意図の如何にかかわらず、文学において許される前記説明の一定の限界をも超えているものと解することができる。」(原判決18頁12行目以下)
とし、又他の個所において、
「本件記録全部を精査すると本件訳書の原作者たるロレンスは英国の作家として相当高地位を占め、『チヤタレイ夫人の恋人』は賛否両極端に亘るにもせよ、ロレンスの作品として文芸批評の対象となつており、性を真面目に考える思想を基礎としている点において、性を享楽的に取扱ういわゆる春本の類とは異るものと認められ」(原判決25頁15行目以下)る
旨判示している。

[4] 原判決は、本件における被告人小山久二郎の犯意につき、
「本件訳書の猥せつ性について、検察官主張のように確定的な認識を持つていたとまでは認定することはできず、結局或いは猥せつ文書販売罪に触れるかも知れないとの認識即ち未必の認識があつたに過ぎないと認めるのを相当とする。」(原判決27頁10行目以下)
とし、更に
「被告人小山久二郎の主観的意図としては、同被告人は確定的には本件訳書の猥せつ性についての認識なく、戦後の性的不良出版物のはん濫の情勢を見て、出版物に対する事前検閲制度が廃止せられ、出版の自由が与えられた反面において、その自主的判断が極めて困難な時期において、前記警世的意図をもつて、本件訳書を出版販売したのである。」(原判決27頁17行目以下)
旨判示し、被告人伊藤整の犯意につき、
「刑法第175条の猥せつ文書販売罪における犯意の成立については、当該文書の内容たる記載のあることを認識し、且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右文書の内容たる記載の猥せつ性に関する価値判断についての認識、即ち、右文書の内容たる記載あるが故に当該文書が『猥せつ文書』に該当することの認識はこれを必要としないものと解すべきである。」(原判決32頁3行目以下)
――原判決は、原判決判示の猥せつ文書の第一及び第二の要件に該当するか否かの判断は「法律判断であり、価値判断である。」(原判13頁13行目)としている。――という前提に立ち、
「被告人伊藤整について本件猥せつ文書販売罪が成立するに必要な犯意に何ら欠けるところな」し。(原判決34頁3行目以下)
とし、更に
「本件訳書が『猥せつ文書』に該当することについて、前記説明の未必的な認識程度の認識があつたことも充分これを認定することができる。」(原判決36頁8行目以下)
と判示している。

[5]四 原判決は、憲法の保障する言論出版等表現の自由と刑法第175条との関係につき、
「出版その他の表現の自由は、他の基本的人権と共に憲法が強力に保障するものであり、本質的には、天賦の自然的人権であると考えられて来たのであるが、憲法の保障する基本的人権は、憲法が日本国民に保障したことにその存立の基礎があるものと考えなければならない。即ち本質的には人類不遍のものであると考えられるにしても、現実的には、憲法の各条章の範囲内においてのみ保障せられるものである。」(原判決53頁7行目以下)
とし、憲法第11条、第97条により右見解が裏付けられるとし、
「国民各自が享有する基本的人権も絶体無制限であり得ないことは、一人の基本的人権の絶体無制限の行使が、他人の基本的人権を侵害することのあり得ることによつて明らかである。従つて国民相互の基本的人権行使の調節の問題を生ずることは看易き道理である。」(原判決53頁15行目以下)
それ故憲法第22条、第29条、第26条第1項のように、「公共の福祉の範囲内」又は「法律の定めるところにより」との制限がない憲法の各規定といえども、絶体無制限の行使を保障しているものとは解し得られないのであつて、右は憲法第12条、第13条の両規定の存在によつて知り得る。
「即ち、憲法第21条の表現の自由も右第12条、第13条による制限に服するものと解すべく、従つて国民個人の基本的人権の行使が、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利の濫用となる場合においては、権利の行使たることが否定され、憲法の保障を受けないものといわなければならない。そして権利濫用に該当する行為が、憲法の条章に照らし、有効と認められる刑罰規定に触れる場合は、その規定によつて処罰を受けるものと解すべきであり」、(原判決54頁6行目以下)
右は出版その他表現の自由についてもあてはまるとし、
ハ 更に公共の福祉の意味、公共の福祉と基本的人権との関係につき、
「公共の福祉とは、日本国民全体の幸福を指すが、本質的には同時に人類全体が理想として有する永遠の幸福に関連あり、これに寄与する概念であり、その構成員たる個々人の基本的人権を最大限度に尊重することも同時に包含するのである」(原判決54頁14行目以下)
が、人類全体に共通した公共の福祉は現実的にはあり得ず、従つて
「憲法の規定する公共の福祉は、わが国の現在(過去を承継し、未来に向上発展を目指するものであることは勿論である)のそれであるといわねばなら」ず、(原判決54頁18行目以下)「その内容は、日本国民各個の基本的人権を最大限に尊重することを基礎としつつも、それを超越した日本国民全体の幸福の維持発展に必要な各種の要素によつて構成されて」おり、(原判決54頁19行目以下)
「善良なる風俗の維持」もこの内容をなすとし、
「『猥せつ文書』はたとえ出版物として販売、頒布される場合であつても、前記説明の理由によつて、善良の風俗の一部である性的秩序に悪影響を及ぼす危険性があり、公共の福祉に違反するものというべきであ」り、(原判決55頁7行目以下)「刑法第175条は右性的秩序維持に向けられた公共の福祉維持を目的とする刑罰法規であつて、憲法に違反する点のないことが明らかである」(原判決55頁9行目以下)
と判示している。
[6] 日本国憲法は、わが国における最高基本法規であり、刑法各本条も憲法に違反しない限りにおいて有効と認められるものであり、又憲法に則して解釈せられるべきであることは論を俟たない。刑法第175条は猥褻文書頒布等の行為を禁じこれに違反する者に対して刑罰を科すべきことを規定しているが、本条はその第21条において憲法が保障する言論、出版その他一切の表現の自由と密接な関係を有するものであるから、その正しい解釈適用は先ず右憲法の規定の有する意味の把握より初めるのでなければならない。
[7] 先ず、言論、出版の自由を含め基本的人権について考察する。わが憲法に用いられている基本的人権の言葉そのものは、ポツダム宣言第10項において初めて表はれたものであり、右が日本国憲法に採り入れられたものであるが、その歴史的淵源は遠くさかのぼる。人間が人間としての尊厳を保つために、人間が生れながらにして不可譲、不可侵の天賦の人権を有する、という自然権の考え方に淵源して、1776年のヴアージニアの「権利宣言」、1789年のフランス革命の「人権宣言」において初めて実定法としての公的表現をみいだし、ここに自然権として法的に保障されるに至つた。当時基本的人権は国家、行政権からの自由という形で表現せられ所謂自由国家の出現を見たのであるが更に、自由国家における自由が実質的には一部貧困者を反つて不自由に追込むことになるという事態を生ずるに至つたので、ここに貧困からの自由としての生存権の国家による積極的保障が唱えられ、新たな社会国家の出現が望まれるに至つた。20世紀に至つて、自由権、生存権の両者を保障するワイマール憲法(1919年)スターリン憲法(1936年)、世界人権宣言等の新たな憲法の出現を見るに至つた。
[8] 更に基本的人権の不可侵性について考察すると、最初は尚基本的人権の上に超越する或る権威によつて与えられたものであるとし、法律によるその制限は尚これを容認するというただ単に所謂国家の行政権からの自由という形で表れた基本的人権の観念が、それが人間として存在するための諸条件であるという本質的性格をもつため、基本的人権を守ることそのことが一つの最大の価値である、その上にこれを制限する何物もあり得ないという考え方に発展し、アメリカ憲法の修正第1条即ち「連邦議会は、国の宗教を定め、若しくは、自由に宗教的行事を行うことを禁止し、言論及び出版の自由を制限し、又は、人民が平穏に集合する権利及び苦情に対する救済を求めるため、政府に請願する権利を剥奪するような法律を制定してはならない」とする規定のような立法権に対しても尚自由にして不可侵の保障を基本的人権に附与するに至つたのである。
[9] 過去のわが国においては、明治憲法において、「臣民ノ権利義務」として君主から恩恵的に与えられた、従つて法律の留保付きの、緊急勅令や非常大権によつてすら直ちに制限せられるような前近代的な、凡そ近代的自由権とは認められない自由権を与えられていたに過ぎない。ところが日本国憲法は、それが国民の中から盛り上つたものではなく、国際民主主義勢力によりいはば与えられたものであるにせよ、多大の犠牲を払わせた戦争とその敗戦の置土産として我々国民の前に表れ、明治憲法時代の臣民意識の一掃と人権意識の覚醒を促したのである。憲法は所謂自由権的人権と共に生存権的人権を保障することを掲げ、更にアメリカの司法権優越の憲法思想に裏付けされて、明治憲法の基本的人権の保障についての制限である「法律ノ定ムル所ニ従ヒ」、「法律ノ範囲内ニ於テ」というような所謂法律の留保を全廃して、基本的人権が「侵すことのできない永久の権利」である、(憲法第11条、第97条)ことを明確に宣言し、近代民主主義国家の要件としての基本的人権の地位を確立したのである。

[10]ママ 憲法が国民に保障する基本的人権は、以上述べたように、憲法第11条、第97条によつて、侵すことのできない永久の権利とせられているが、尚ここに注意すべき法的問題がある。
[11] 憲法が国民に保障する基本的人権の中、憲法第22条に規定する居住、移転、及び職業選択の自由、及び憲法第29条に規定する財産権は、その享有につき夫々右条文中に「公共の福祉に反しない限り」、又「公共の福祉に適合するように」という制限が明示せられており、憲法第26条に規定する教育を受ける権利は、その享有につき右条文中に「法律の定めるところにより」という制限が明定せられているのに反し、その他の基本的人権については何等の制限が加えられていない。従つて右憲法第11条及び第97条の規定するところに従い、右3条に規定する基本的人権を除き、他の基本的人権はすべて絶体無制限に享有せられるものといわねばならない。
[12] ただ、憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」と定め、憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定め、前者は国民の、後者は国の、夫々基本的人権の行使の態度について規定し、基本的人権の指導的観念としての公共の福祉につき規定している。ここで右憲法第12条及び13条が単に国民及国家の基本的人権行使の態度が公共の福祉に副うよう行使せられるべきであるという教訓的規定であり、この規定の存在により、前記諸基本的人権が公共の福祉により制限せられるものではないと解釈すれば格別、反対に、前記諸基本的人権と雖も右憲法第12条及び第13条の規定の存在により公共の福祉により(勿論法律という形式により)無条件に又は一定の限度において制限せられるものであると解するときは、――前記の諸基本的人権の不可侵性と、憲法第22条及び第29条の規定の文言との関係において、矛盾や説明に窮する事態に逢着するのである。
[13] 後者の説をとる論者の中にも、柳瀬教授の分類に従えば、第一に公共の福祉による基本的人権の制約を無条件、無制限なものとする単純なもの、第二に、公共の福祉による基本的人権の制約は無条件、無制限なものでなく、それには更に一定の限界があることを説くもの、右は一定の限界が何であるかにより更に分類すれば(1)この限界が権利自由に対する事前の制限であるとするもの、(2)基本的人権に対して公共の福祉を理由としてなしうる制約は、ただその内容又は行使を制限することだけでこれを剥奪することはそれには属さず、即ちその範囲は権利自由の制限に止るとする説、(3)基本的人権に対する公共の福祉の制約は、権利自由の内容そのものの制限規整でなく、その現実の行使の態様の規律に外ならないとする説、(4)基本的人権に対する公共の福祉の制約は国民の自律であるという説、となり、その間幾多のニユアンスがある。右説の一々について詳説はしないが、その中傾聴すべき多くの所説はあるにしても、結論的に見て、右諸説は何れも、憲法第11条、第97条に定められている基本的人権の不可侵性との矛盾、撞着を解明しえないものと思われる。
[14] 私は、憲法上の基本的人権が、前述のように、各国における民主政治の長い歴史の過程において、諸々の機会に順次かちとられたものであり、その方向は明らかに、行政権からの自由から更に立法権からの自由へ、――その不可侵性を強化して来たものであり、且つわが日本国憲法がアメリカ合衆国憲法修正第1条と共に、右思想の発展の先端に立つ歴史的所産であることを思えば、私は、わが憲法上の基本的人権は正にあらゆる権威から不可侵性の絶対無制限的存在であることを確言せねばならぬと思う。
[15] 右の立場に立つときは、憲法第12条及び第13条は、国民及び国が基本的人権の行使に対する態度を教訓的に示した規定であると解せねばならない。この説に対して、苟も法である憲法において、何等の法的拘束力を伴わない単に道徳的教訓規定を置く訳がない、又教訓が所謂法的教訓ならば当然に法律的拘束力を伴うものというべきであるから、畢竟教訓的規定と解する意味はないとして非難するものがある。然し、法的観念としての基本的人権の行使に当つての指導概念として、法的概念である公共の福祉について規定し、基本的人権の全き行使を図ろうと法が企図することは、必要であると共に、大いに実益のあることであり、又法的教訓規定とすれば直ちに法的拘束力をもち、よつて以て直に基本的人権が公共の福祉によつて制限せられうると結論することは、その間に大きな論理の飛躍がある。
[16] 原判決の判示するように、基本的人権は憲法が国民にこれを保障したことに存立の基礎があり、現実には憲法の各条章の範囲内においてのみ保障せられるものであることは異論のないところである。然し乍ら、この理論的基礎に立ち、単に憲法第12条及び第13条の存在のみを理由として、公共の福祉により基本的人権を制限しうると結論することは、近代民主主義国家が、正に国民の基本的人権を保障するためにのみ存在する、という基本的原則を充分顧慮せず、依然国民個々人に超越する国家目的、理想を有するとする前近代的思想的立場に捉われている傾があるところに由来するように考えられ、又前述の基本的人権の発展の歴史に遂行して、基本的人権の地位を再び或る基本的人権の上にある権威の下に甘んじさせんとするもののように思われる。法の解釈は、憲法のような国の制度についての基本的法の場合は特に、単なる文理解釈でなく、その法の有する目的を、歴史的に、思想的に把握し、それに沿つてなされるのでなければならない。右の問題は、尚公共の福祉という法概念の意義を更に考察して明らかにせねばならぬ。

[17] 又基本的人権が前に述べたように、人間が人間としての尊厳性を保つため必要欠くべからざる諸条件の綜合である限り、基本的人権が侵されるような公共の福祉はあり得ない。又基本的人権はあらゆる個人に対して保障されねばならぬものであるから、個人と個人との間に、基本的人権の矛盾、衝突がある場合にはそこには既に公共の福祉はあり得ない。然らば公共の福祉とは、個々人の基本的人権が調和ある統一的秩序において保障せられた状態であるということができる。個々人の幸福が公共の福祉であり、公共の福祉が、すべての個人の基本的人権の尊重、保障を含むものであれば、もはや基本的人権に対立する観念ではなく、基本的人権と内面的に結びついた観念であり、基本的人権の理想的状態についての指導的観念であるといわねばならない。従つて憲法第12条、第13条は、理想的には国民及び国が本来基本的人権の行使が公共の福祉に合致すべきものであるから、このような状態に近付けるように努力すべきものという趣旨を明らかにしたものと考えられるのである。
[18] 国家が国家として存在する以上、国家としての統一的社会秩序、政治秩序を有することは勿論であるが、近代民主主義国家においては、前述した通り、個々の国民の幸福――基本的人権の尊重、保障――をその存立の基本的原理としているのであるから、右社会秩序、政治秩序は本来国民の基本的人権の保障の為に形成せられなければならない。従つて民主主義国家において、基本的人権の保障と矛盾するような国家的利益は存しない筈である。国家の利益も個人の利益も、すべて基本的人権の保障という点で共通である。公共の福祉はこのような意味で国民全体の幸福であり、同時に国家の利益でもあるのである。この点が個人の尊重、基本的人権の保障が国家の存立の基本原理とされていない絶体主義国家において、個人の権利は国家―君主が個人に超越的に設立した一定の標準、原理により恩恵的に賦与するものであつて、公共の利益は個人の尊厳性より高次な原理として存在したのと根本的に異るものなのである。
[19] 右のように考えて来ると、前述した憲法第12条及び第13条の規定の存在により基本的人権が公共の福祉により制限されるとする説が不合理であり、基本的人権の不可侵性を認める説が正当であることより明らかになつた。然し、更にここで考えねばならぬことは右述のように基本的人権は法的に無制限であるにせよ、在的にも全然無制約であるかという問題である。このことは右に詳述した法理論とは別個の問題であることを注意しなければならない。この問題に関して第一に、基本的人権がすべての国民に対して保障されなければならないという原則から、基本的人権の行使には自ら、各人の自由権の行使は、社会の他の成員に対して同一の権利の享有を保障することを妨げてはならないという制約が生ずる。基本的人権と他の基本的人権との衝突の起ることはあり得るが、この際右の原則に照して如何に両者を調整するかという問題がある。然しこれに付き予め法律によつて一般的原則を示し、どちらかが常に制限されるということを定めるのは不当に一方の基本的人権を侵害することになり、基本的人権の不可侵性に反するものであることは勿論である。基本的人権の不可侵性の理論を押し通せば、この場合の解決策はないように思われるが、然し基本的人権が内在的に前述のような制約を有すべきであるから、この実際解決として個々のケースに応じ何れの基本的人権を制限するかを裁判所が決定することは必ずしも不可ではないであろう。右制限の標準となるのはやはりどちらの基本的人権が基本的人権全般の伸長に価値があるかによつて決すべきである。尚本項において述べたところは、あくまで基本的人権と基本的人権との現実の対立、衝突であつて、基本的人権と(公共の福祉と無内容的に呼ばれるものを含む)他の如何なる利益との衝突をも含まないことを注意すべきである。第二に、基本的人権それ自体の範囲についてである。一見基本的人権に該当するように見えて、実質的にそれに該らない場合が存する。基本的人権は、前述のように、人間が人間として尊厳性を保持するために保障せられるべき諸条件が法により権利付けられたものであるから、基本的人権というからには右のような本質、価値を保有すべきものでなければならぬ。具体的に或る自由が基本的人権と呼ぶに値するものか否かは、憲法所定の個々の法条に照して具体的に検討しなければならないが、各法条がある自由を基本的人権として掲げた趣旨から見て全く基本的人権として取扱うべき価値を持たないような場合には、形の上では基本的人権行使のように見える場合でも、憲法の保障を受け得ないものであることは勿論である。然しこれはもはや基本的人権の枠外に存するものであつて、その内在的制約ということはできないものである。

[20] 以上基本的人権の本質につき、特にそれと公共の福祉との関係において、理論的考察をしたが、以上の結論として言えることは、(一)基本的人権は、(憲法第22条、第29条、第26条の場合を除き)絶体無制限、不可侵であつて、法律によつては勿論公共の福祉によつても制限され得ないこと。(二)然し、基本的人権はその本質上、他の基本的人権と現実に矛盾対立を生じたときは、個々具体的なケースに応じ、何れの行使を許すことが基本的人権全体を伸長するに役立つかということによつてその何れを制限するかを決すべきこと。(三)憲法上保障せられるべき基本的人権は、基本的人権の本質に鑑み保障せられるべき価値を有するものでなければならず、憲法上保障せられるべき基本的人権である限り、それが制限せられるような法条の解釈は絶体に許されないこと。である。

[21] 更に進んで以上の基本的人権の有する本質、原則に従つて、本件に付き直接関係を有する言論、出版その他一切の表現の自由につき考察する。
[22] 憲法は、その第21条において、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由はこれを保障する。検閲はこれをしてはならない。」と規定し、言論、出版等表現の自由を保障している。言論の自由は、基本的人権中所謂行動上の自由権として、民主主義的国家において身体の自由、精神の自由等一切の自由を擁護しこれを価値あらしめる基本的手段として最も重要な人権に属するものである。
言論の自由は、「異つた意見をもち、これを発表し得る自由を意味するが、最も重要なのは、現代秩序の核心にふれることがらについても異つた意見を持ち得ることに存するのでなければならない」(米国大審院ヂヤクソン判事の言葉)
のである。即ち時の権力者や多数者の意見や、一般に認められている標準や慣習に迎合追従せず。これに反対して自己の正しいと信ずる主張をなし得る権利であるところにその意義があるというべきである。明治憲法の時代において前述のような絶体主義的理念の下に、単に君主から恵与せられた、「法律の範囲内」における自由を持つに過ぎなかつた時代においては、国民は真の言論の自由はなきに等しく、「公共ノ安寧秩序」等の名の下に、出版法、新聞紙法、治安維持法、等々の言論圧迫の諸法律が猛威をふるつたのである。この歴史を省みるにつけ、われわれは言論圧迫の弊害の如何に大なるかを知り、新憲法の定める言論の自由の意義の重大さを痛感するのである。前述の基本的人権の考察により明らかなように、憲法第21条所定の言論、出版等表現の自由は、憲法第12条及び第13条の存在に拘らず、公共の福祉によつても制限することを得ないものであり、いわんやその他如何なる制限にも服しない、絶体無制限の、侵すことのできない権利である。
[23] 又言論出版等表現の自由の行使が他の基本的人権と現実に対立衝突する場合においても、この場合の制限を予め法律で定めることができないことは、前述のとおりであるから、これに刑罰を以て臨むことができないことはいうまでもない。従つて苟も憲法第21条所定の言論出版等表現の自由と認められる限り、その行使が刑罰法条に触れることはあり得べからざる事に属する。従つて言論出版の自由の行使について刑罰法規がその自由を制限、刑罰を科することを得るのは、専ら前述の似而非言論、出版であり、本来憲法上保障せられるべき言論、出版というに値しないものに対してのみに限られるものである。この限度を超えて制定せられたものは違憲の法条であり、この限度を超えて解釈適用せられた場合は違憲の解釈適用というべきである。ただこの際、憲法によつて自由を保障せられる言論、出版と似而非言論、出版との限界をどう考えるべきかについては問題がある。私は基本的態度として言論出版の自由が基本的人権として前述の如く強力な地位を与えられたものであるのに鑑み、憲法によつて自由を保障せられる言論、出版を可及的に広く考えあらゆる価値的立場から見て無価値性、有害無益な極く限定的なもののみが、その自由の保障を受け得ないとすることが正当であると信ずる。いわんや既成秩序を批判して、言論の切磋琢磨により、文化の進歩向上を図ることを主目的として認められるものであるに照して、ある言論が単に既成の観念無又は或る考え方の一部(又は大部)の持主から見て無価値有害であるという理由でこれを憲法の自由の保障から排除しようとすることは、畢竟言論出版の自由の地位を旧体制の時代に引戻す以外の効果はないのである。観点を変えていえば、右の限界は、言論、出版を受ける側からでなく、言論、出版をする側から見て決すベきであり、苟も理性的進歩を企図する何等かの理想的主張を含む場合等は――受ける側から見たその主張の当、不当、これに対する好悪の感、又はそれによりもたらされる秩序の(真実には一時的の)混乱等に拘らず、――憲法の自由の保障を享有すべきものである。この点につき、アメリカにおける実際の取扱には参考に供すべきことがある。E・S・ニューマン著(妹尾晃訳)「アメリカ法における基本的人権」の言論、出版及び集会の自由の項に次のように述べられている。
「しかし法律は、あたかも物の売買において不正取引を禁ずるはたらきをするのと同じく、思想の売買取引においても、法律は消費者大衆を不正行為から保護する任務をもつている。従つて虚偽や欺瞞が言論の自由の名において保護を受けたためしはない。詐欺罪で訴追された場合又は侮辱若しくは名誉毀損に関する民事、刑事の訴訟においては、憲法修正第1条も、同修正第4条も、被告を弁護してくれる楯とはならない。ただ被告を弁護し得るものは、真実か、又は、自己の述べたことが真実であると信じ且つそう信ずるについて相当の理由がある場合のみである。のみならず、ある一個の思想の表現の一部分、とまでは言えない程度の発言utterances「言論」"speach"とは言えないから、というので憲法の保護を受けていない。何かある一つの思想を伝達する、というのでなく、もつぱら、その言葉utterancesのための言葉として、淫卑なlewd猥せつなobscene、侮辱的なinsulting又は軽蔑的なblasphemous発言をした場合は、法律の処罰を受ける。書物、フイルムその他の文書、図書類の検閲に関して、最も問題となるのは、その書かれている言葉、又は消されている言葉が、どこまでは思想の表現であるといえるが、どこからは、思想の表現であるとは言えない、ただもう下卑た発言としか言えなくなるのか、という点である。」
[24] 右の如くアメリカにおいては、極く限られた場合即ち単純な発言の場合等にのみに自由の保障が排除せられるにすぎないこと、言論の思想性が問題とせられていることは注目すべきである。更にアメリカにおいては、言論の自由は政府、官憲等の事前検閲をなさないことを意味し、言論をなした爾後にその行為に対し責任を問われない意味ではなく、言論によつても公安を害するものは刑法上の犯罪を構成するものとせられる。この考え方を、わが憲法の解釈上とるものもあるが、これはアメリカにおける法治国家における自由の思想に基く歴史的に生じた考え方で、理論的には誤りを犯しているものと思われる。右のような考え方によれば、事前に或る言論、出版に対する刑罰規定が存在することを意味し、この規定の存在により言論、出版の自由は実質的に威嚇、制限せられているものであつて、その取締が事後に行われるからといつて、自由が制限せられていないということはできないというべきだからである。この考え方は、ただ歴史的意味における即ち事前検閲を排除することを強調するという意味において主張するとき、且つ右の処罰せられる場合が前述のような本来憲法上自由の保障を受けるに値しない、枠外にある似而非言論にのみ限ることによつてのみ正当化せられるものと考えられる。わが憲法のように、言論、出版等表現の自由の保障を規定する外、明らかに事前検閲規定を明定した憲法の解釈には無意味な見解に過ぎない。

[25] 以上詳述した基本的人権としての言論、出版の自由のもつ性質、地位より考えるならば、刑法第175条にいわゆる猥せつの文書が如何なる範囲に、而して如何なる意味を持つものとせられなければならないかは多言を要せずして明らかであろう。前述したように、言論、出版が刑罰法規の適用を受けるのは、可及的狭少に解せられねばならず、あらゆる価値的立場からみて無価値、有害無益な場合に限るべきであり、その範囲内において、猥せつ文書たる諸要素が考えられ、その定義が定められねばならないのであり、この範囲を越えて拡張して解釈することは違憲のそしりを免れないのである。私は第一審以来、常に右の考え方を基本として、憲法の条章に沿つて刑法第175条の適用の合憲的に及びうる範囲を考え、その範囲内で猥せつ文書の何たるかを結論しようと試み、猥せつ文書をもつて
「徒らに淫蕩的な性慾の興奮を起させる目的のもので、人を性についての淫らな享楽的な考え方に導き、健全な性的秩序を堕落せしめる可能性のある文書」
と定義した。猥せつという問題につき、その表現の自由が憲法によつて保障せられない限界を決定する要素を論定したものである。而して右定義の内容の重要な要素として、
一、文書が全体の意味として判断せられるべきであり、
二、文書における作者の意図、目的を考慮せねばならず、意図、目的において性に対する真面目な思想を追究せんとするものが存するならば猥せつ文書となし得ないものであり、
三、文書が単に一部(又は大部)の人々に感覚的に――道義的と称するも単に因習乃至儀礼的慣行に対して――与える反応によつて判断せられるべきでなく、文書の客観的性質によつて判断せられるべきであり、且つその性質が価値的に判断せられるべきこと、
を挙げたのである。而してその結論として、刑法第175条は、正に春画春本(主たる目的が淫らな考えを起させることにあり、性的刺戟が文学的芸術的目的の手段たる程度を超え何ら理想的目的が存しないものを含む)の類に向けられ、且つそこに限られねばならないとしたのである。私は性科学書、性を扱つた文学書は、その意図目的において理性的に、思想を主張しようというものである限り、これを無制限に自由とすることを喜ぶ。その表現が或る種の弊害を生ずることよりも、はるかに進歩の原理であり基礎である言論の自由が違法に抑圧せられ社会福祉の全面的進行停止に陥ることを恐れるから。

[26] 私は、本件「チヤタレイ夫人の恋人」訳書が、右に申述べたような標準に照して、猥せつ文書としての取扱をうけるべきでないことを確信し、第一審以来これを論証して来た。原判決も亦、前述のとおり、原作者ロレンスの真摯な意図と、著作自体の持つ哲学性、思想性並びに本訳書が春本と異ることを充分認めているのであつて、私の右主張は正当と認められたのである。この点につき更に意見を開陳する必要はない。

[27] 更に私は、わが憲法下において、猥せつ文書販売罪を成立せしめるに足る犯意は如何なるものであるかにつき触れたい。凡そ犯罪の成立には犯意が必要であり、犯意の成立には、刑罰各法条の規定する犯罪構成要件の認識を要するものとせられている。そして更に右構成要件該当の行為が法律上犯罪に該るか否かの問題は刑法第38条第3項の所謂法律の錯誤として犯意を阻却しないとする。右のような法律の考え方は、犯罪構成要件が、本来反社会性のある(違法な)行為の類型であつて、行為者が右要件を認識するということはとりも直さず自分が違法行為を行うのであるということを認識することであるということから導き出されたものと思われる。従つて犯意成立の要件として認識を要する犯罪構成要件とは、それ自体違法な行為の類型として理解せられるものでなければならない。猥せつ文書の場合、犯罪構成要件が露骨な性描写を含むものであることは勿論であるが、露骨な性描写が必ずしも直ちに反社会性を有するものとはいえない。或る反社会性のある属性を有する露骨な性描写でなければならない。或る反社会性ある属性の認識は本罪の犯意の成立に不可欠である。右の理論は本罪が言論、出版の自由と関係があることより考えると重要である。言論、出版の自由を保障するわが憲法下において、猥せつ文書として法が刑罰を科し得るのは、前述のとおり、何等の思想を含まずあらゆる価値的立場から見て無価値で有害無益な文書に限られるべきものであるから、右のような文書であることの認識が反社会性ある属性の認識としてなければならない。苟も行為者が、ある文書の思想性を信じ、これを発表した場合には犯意なきものとすべきである。これを単に露骨な性描写があることの認識を有するとの理由で犯意の成立を認めるようになれば、行為者は右描写を通じて思想を世に問わんとすることをためらうようになり、法により実質的に言論、出版の自由を奪われたと同様の事態に至るであろう。従つて露骨な性描写の認識を以て足るとする理論は憲法に違反するとしなければならない。
[28] 前記第二において、原判決の前記第一に記載した事項についての弁護人の見解を述べたが、これにより第一記載の原判決の判断に対する弁護人の見解も略明らかであると思う。従つて左にこれを要約しながら若干補足的に説明することにする。

[29] 原判決は、憲法第21条の表現の自由が、憲法第12条及び第13条の存在により、公共の福祉により制限されるとしているが、右所説が憲法を誤つて解釈したものであることは前述のとおりである。原判決は右の所説の理論的根拠については全然説明を加えず、単に、一人の基本的人権と他人の基本的人権を侵害することのあり得ること、憲法第12条及び第13条の存在という2つの事柄から当然結論せられることとしている。然し右2者より如何なる理由によつて結論できるか重要なのであり、又原判決の右所説が、憲法第11条及び第97条に定められている基本的人権の不可侵性との関係において如何に説明せられるかについても全然触れていないのであつて、到底批判に堪えうるものではない。

[30] 原判決は、更に進んで公共の福祉の意義につき判示している。公共の福祉が基本的人権の尊重を内容とする旨の所説は正当なものである。然しながら、右の考え方を押し進めれば、公共の福祉はあらゆる国民に遍く不可侵の基本的人権を、享有せしめるような理想的なものとして観念せられ、基本的人権と正に同胞でなければならぬのに、原判決は、これを、原判決自らが基本的人権間の矛盾衝突を生じ得る、従つて基本的人権が制約されざるを得ないとする、(故に本来国民全体の福祉はあり得ない)わが国の現在のそれであるとし、又(基本的人権と対立するものとして)基本的人権を制限するものと解し、又
その内容が「それ(日本国民各個の基本的人権)を超越した日本国民全体の幸福の維持発展に必要な各種の要素によつて構成されている。」(原判決55頁1行目以下)とし、「公共の福祉の解釈については、個人的立場を離れた国民全体の集団意識の立場において判断されなければならない。」(原判決57頁末行目以下)
とする明らかな論理的誤りを敢てせねばならなかつたのは何故か。私は矢張り、原判決が、民主主義国家の存立の基本原理が基本的人権の保障であるということから導き出されるわが憲法における前述のような基本的人権の地位を直視せず、基本的人権が、国民を超越する国という権威から恵与せられたものであり、国には国民の福祉を超越する公共の福祉が先ず存在し、国民の福祉従つて基本的人権は公共の福祉に反しない限りにおいて保障せられるに過ぎないとする前近代的、明治憲法的理論を基礎としているためであるとしか考えられない。正に公共の福祉についての憲法上の解釈を誤つたものであるといわねばならない。

[31] 右のような憲法上の基本的考え方に基いてなされた、原判決の刑法第175条の適用は、その前提が誤つているためにすべてが誤つた違憲の結論に導かれていることは前記第二に述べた見解に照し明らかであるが、重要な点につき若干補足的見解を述べる。
[32] 第一に、原判決は、刑法第175条の猥褻文書であるか否かの認定には、その文書が作者において思想を発表する意図があつたか否か、思想的なものを含むか否かは、(それにより性的刺戟を解消、昇華されるに至る場合を除き)原則として問題にならないとし、(原判決16頁2行目以下、18頁3行目以下)専ら露骨な性描写を基準とすべきである(前記第一記載の原判決の猥褻文書の定義)とするようである。露骨な性描写ということが、憲法下成立しうる刑法第175条の解釈上、単に憲法において自由を保障せられる言論、出版の枠外にある(むしろ基本的人権と対立するとみられる)ものに対してのみ解釈上の基準になりうるものであり、従つて右の考え方が根本的に憲法の規定を度外視した違憲の解釈であることは前述した通りである。原判決の右の考え方は、刑法第175条を法律なるを以て(即ち法律ならばすべて国家の有する公共の福祉にそうものであるから)、その解釈適用に当つて憲法の諸規定を念頭におく必要はないとする理論に基くものであることを考えられる。従つて、前記第一記載のように、原判決が本件訳書を哲学、思想の書であり、作者の意図の真摯さをも認めながら、尚本件訳書を猥褻文書と認定したことは違憲の解釈というべきである。
[33] 第二に、原判決は、公共の福祉の内容として、善良な風俗が存在するとし、
『「猥褻文書」はたとえ出版物として販売、頒布される場合であつても、前記説明の理由によつて、善良の風俗の一部である性的秩序に悪影響を及ぼす危険性があり、公共の福祉に違反するものというべきである。(原判決55頁7行目以下)
と判示し、右性的秩序について、第一に記載したとおり、その態様として性的行為についてこれを公然行つたと同一の効果を生ずる虞ある程度に描写又は記述した文書図画を公表すべからざることを挙げ、更に右性的秩序は「一般社会人の性的道義観念によつて支持されている」(原判決13頁2行目)というのである。
[34] 右のような性的秩序が果して公共の福祉の名に値するものであるか。原判決の判示するように、公共の福祉が基本的人権を最大限度に尊重するものであれば、右の「善良な風俗」というも、「性的秩序」というも、基本的人権の尊重という内容をもつものとして理解せられなければならない。ところが、原判決が性的秩序の態様として判示するところは、或る意味の道義的観念の支持を受けるものであることは肯定できるにしても、尚私は慣習といいうるものに過ぎないと思われる。慣習が法的に保護せられることに異論はないが、問題は、言論、出版の自由の憲法上の保障まで剥奪してまで、これを保護することが、基本的人権を最大限度尊重するとする公共の福祉の立場から見て妥当であり、より多く基本的人権を伸長する所以であるからである。言論、出版の自由は、前述のとおり、あらゆる権威、あらゆる慣行に対して理性による攻撃を試みる自由たるところに真面目があり、それが一時の、或る範囲の秩序の混乱を招くにせよ、窮極において理想に向つての進歩をもたらし全体の福祉を増大する意義を有するのである。慣習に反抗する言論の自由を法によつて奪おうとすることは、この自由を無意義にするもので憲法の精神に反するものと信ずる。従つて公共の福祉によつて基本的人権を制限しうるとする原判決の立場を仮りに是認するも尚原判決の右の解釈は違憲たるを免れないと信ずる。

[35] 原判決は、被告人小山久二郎については、前記第一記載のように、その出版販売の主観的意図において、本件訳書の思想性を認識し、警世的意図があつたことを認定し、被告人伊藤整については、猥褻性の認識は未必的なものであると認定したのみで主観的意図については深く触れないが、前記小山と略同様の認定をしているように見られる。以上のように、被告人等が、その主観的意図において、文書自体の反社会性としての無思想、無価値につき認識することなく、善意な場合、犯意を認めるべきでないことは前記第二記載のとおりであつて、両被告人に対して犯意を認定した原判決は、憲法に違反する認定をしたものというべきである。

[36] 以上第一乃至第三において詳述したとおり、原判決は、憲法第21条と第12条及び第13条との関係、憲法第12条及び第13条の公共の福祉につき各憲法の解釈を誤り、ひいては、刑法第175条の解釈適用、被告人等の犯意の認定につき各憲法に違反したものであり、刑事訴訟法第405条第1号に該当するから、同法第410条第1項により原判決を破棄すべきものである。
[1] 原判決(以下すべて印刷せられた原判決書の頁数により引用する)11頁6行以下17頁終から2行迄において、原裁判所は、刑法第175条にいう「猥褻ノ文書」の意義に関する自らの解釈を明らかにした。その立論の過程において、原判決が多くの論理的誤謬を犯していることについては、正木主任弁護人の上告理由書の記載にゆずるが、当弁護人は、以下先づ原判決の云うところを、当弁護人の理解するところに従つて、左の如く要約した上、これを基礎として上告の理由を開陳する。
『人間生活における性慾の発現及び満足の形式については、ある一定の社会的制約を内容とする性的秩序ともいうべきものがあり、それは、善良の風俗として、法によつて保護される以前においてすでに一般社会人の性的道義観念によつて支持されておるもので、ひいて、これが一つの法益として実定法をもつて保護されているのである。右の性的秩序は、これを要約すれば性交の秩序保持、性的行為の秘密性保持等の制約をその内容とするものであり、一般社会人は、この制約に反する描写記述を含む文書図画に対するときは、過度に性慾を興奮又は刺戟せられ、羞恥と嫌悪の複合した特異の感情を抱くに至るものである。而して、この性的秩序乃至はその底によこたわる一般社会人の性的道義観念は、固定的なものではなく、時代の変遷と共に漸次開放的となる傾向にあり、それは望ましい傾向といいうるのであるが、いかに時代が進歩するも、なお、そこには超ゆべからざる一定の限度があり、それこそ文書の猥褻性を判定するメルクマールとなるものである。その限度とは何かといえば、それは「社会生活において、個人の性器若しくは性的行為を公然表示し、又は公然表示したと同一効果を生ずべき個人又は小説等の作中の人物の性器若しくは性的行為の露骨詳細な描写又は記述を公然表示することは許されない」ということを最少限度とする制約である(特に14頁11行から13行迄119頁3行)。従つて社会通念(裁判所が国民各層を広く包括した一般社会人の抱くであろうと考える通念であつて、専門的な人、高度の知識人のそれではない)に従い、ある文書が、右の最少限度の制約を破るものとみとめられるときは、その文書は猥褻文書となるのである。尤もそれが文学書等であつて、その「芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめて、猥褻性を解消せしめ、或いは、その哲学又は思想の説得力が性的刺戟を減少又は昇華せしめて猥褻性を解消せしめ」ている場合は「多少の性的描写があつても、猥褻文書に該当しないこと」もある(16頁11行より14行迄)。』
[2] 当弁護人は以上が猥褻文書の意義に関する原判決の解釈であると理解して誤りないものと信ずるのであるが、今、これを、原判決の改まつた、裃を着た表現はともかくとして、もつと実証的に裁判の実際に即して考えてみたい。
[3] ある文書(特に文学書)が猥褻文書であるかどうかは、裁判所(具体的にはその思想、感受性、性的経験等において極めて個別性に富んだ甲判事乙裁判官によつて構成される裁判所)が、その文書を読み、刺戟が強すぎるかどうか、を裁判官の感じをもつて判定し、(この判定が決定的)且つ法廷に現われた証拠の中からこれを裏づける資料を発見して、自らの判定に対する確信を強める《前記のように専門人や知識人の見解によらないというのであるから、多種多様の人々の中から刺戟が強すぎるという証拠(特に証言)を集めることも、又反対に大したことはないという証拠を集めることもいずれも全く容易である。これが、もし当弁護人が第一審以来主張して来たように、良識乃至社会通念なるものは、存在概念ではなくして、価値概念なのであるから時代の高い水準において決すべきであるとするならば(第一審における宮城音彌証人の証言)自ら帰一するところがある筈であるが、原判決は、これをみとめないで社会通念乃至一般社会人という概念を当為の世界の問題であるといいながら、すぐその後で「一般社会人は専門人又は最高知識人のみによつて構成せられていない」とか、同一の判断をなす多数者の存在を推測又は推定するなどという全く存在の世界の問題として事を処理する矛盾を犯しているのであるから、結局それは客観性のない、独断的概念としか考えられない――112頁終りから2行目より113頁2行迄、112頁5行から9行迄》ことによつて決せられるのである。そして、これに反する証言や資料は、その質と量におかまいなく「受ける刺戟は読む者によつて当然差違があるから反対の者があつても差支えない」という理由で簡単に斥けられてしまう。要するに、実質的には裁判官が1人の、しかも特殊の目的をもつ読者として受けたいわば偶然の性的刺戟(感覚の頼りなさ!)が、ほとんど決定的基準となるものであり、証拠や鑑定は、この裁判官の感じをいうところの社会通念にまで格上げをする道具だてとなるにすぎないものである。(この点は原判決に即して次に述べる。)多くの法律的術語の使用と、壮大ないいまわしによつて壮麗眼を驚かす原判決も、その衣裳を脱がせて、ギリギリのところを考えてみれば、このような判断過程を是とするものにすぎない。
[4] 原判決は、上述の「猥褻文書」に関する解釈を本件訳書「チヤタレー夫人の恋人」に適用し、この作品を「猥褻文書」と断定するのであるが、(17頁終から1行目より19頁4行迄)それによれば、原裁判所は自ら右作品を通読した結果に(18頁1行、2行)他の証言や証拠物の各記載を参酌し(18頁7行)、過度の性的刺戟を与える文書であると認める。ただ、本件訳書の目的は性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく理解せしめるということにあり、思惟的刺戟を与えるものであり、描写の分量又は方法もいわゆる春本と異るが、それでもまだその与える過度の性的刺戟は解消又は昇華されていない(この後の認定の部分はもつぱら裁判官の読後感に基いてなされていることは、特に他に何らの資料を挙示せぬ原判決の行文上誠に明白である)、この認定に反する証拠はあつても、別にこの認定の妨げにはならない(19頁1行から4行迄)というのである。要するに原裁判所が本件訳書を通読して、「これは少々刺戟が強過ぎる」と感じた、そして法廷に現われた証言や著書をみるとこの感じを支持する資料がある。そこでその資料、場合によつてはその一部分を収集、援用して、社会通念に格上げした、又、裁判所の読後感によれば、この小説のねらつている高い思想的立場も多少解らぬではないが、どうもやはり性的刺戟が残りすぎると考えられる(裁判官が、特別な目的をもつて、いわゆる12箇所を特に念頭において読めば一層そうなるであろう)、本件作品に猥褻文書という刻印を打つにはそれだけで十分なのである。
[5] 原判決は、両被告人の本件訳書刊行の際の認識について数個所において触れているのであるが、先づ小山被告人について云えば、
小山は、ロレンスの性の解放の真しな思想に同感し、時代をおおう不真面目な性の取扱いにあきたらず「今日の状態ではこの書物がそれほど強いシヨツクを与えることはない。又真面目な読者にはロレンスの思想がよく分つて貰えるだろう……そういうような意味でこの思想が読者に性の問題を真面目に考えさすという意味から云つて、警世の書と考え」ていた
ことを認定している(26頁5行以下特に12行以下)、すなわち同被告人にはその猥褻性についての確定的な認識がなかつた、ただ1、2の推測的な資料から未必的な認識があつたにすぎないというのである。次に伊藤被告人についてもほぼ同様に、彼が本書の思想が真しなもので、性秩序の混乱を解消する警世的作用をもつものであることを確信していたことを認め(120頁4行5行)ながら、ただ同被告人が昭和11年に出版した削除版の序文(伊藤執筆)を主要な証拠として、未必的な認識のあつたことを認める(34頁8行から36頁9行迄)というのである。
[6] ここで、原判決に即しつつ、本件の赤裸々な姿を脳裡に描いてみることが、本件の真に憲法的な重要性を理解する上に有効であると思われる。戦後権力に対する個人の自由と平等を確保するため従来の各種の制限が撤廃されると、出版の自由に便乗したエロ・グロの不良出版物が街頭にあふれ、他面街娼は跋扈し、その他大戦の後に避け難い現象として性のたいはいと享楽化はいよいよ顕著な事実となつていつた。伊藤も小山も、真しな文学者或いは出版社として、それぞれ文壇、出版界でその文化的功績をみとめられてきた人々であるが、これらの不潔な傾向に抵抗し、性の厳粛性を戦後の日本に取り戻すことが、戦に敗れつつも、新生を目ざす日本として必須であると考えた。それには20数年前これと同じ立場に立つて性の正しい理解を説いたロレンスの「チヤタレー夫人の恋人」を、完全な姿で日本の読者に提供することが最も適当であると信じた。特に伊藤は、早くから、人生問題としての性の追及に文学者としての関心を強く抱いており、わが国における軍閥政治の最盛期を迎えんとした昭和11年既に本書を翻訳出版している。尤も、基本的人権の不法な抑圧の下に在つた当時として、心ならずも削除版とし、且つ自衛のため不本意な序文をも自ら執筆附加せざるを得なかつたが、本書に如き、かの軍国時代において出版するには最も不適当と思われるものを、危険を冒しつつ、世を風びする性の虚偽と偽善を排し、その厳粛な真の姿を真面目な読者に理解させようと敢えて世に問うたほど、彼の、ロレンスが本書において表明した思想の意義に対する評価は高かつたのである。戦後基本的人権は強力に保障されることになつた、真面目な建設的言論が抑圧されることはあり得ない、而も本書紹介の必要性は従来の比ではない、この気持が正直一途、良い出版物の出版を念とし、時々商売を忘れる傾向のあつた小山と完全に一致して、ここに本訳書はロレンスが望んだとおりの完全な姿で読者に提供されるに至つたのである。ここで原判決がいう、被告人両名の未必的認識の点の真相を考察しておくのがよいであろう。
[7] 原判決に挙示されている両被告人の供述記載(26頁終りから4行目より27頁8行迄、30頁)を、部分的に、言葉尻りを捕える方法でなしに、全体の趣旨を探り、被告人等の胸奥を推測すると、当時の彼等の心境は次のようであつたと思われる。
[8] エロ・グロ出版物は街にはんらんしている。戦前戦中ならば真珠も瓦礫も一緒にして本件訳書もこれらのガラクタと共に官憲の手で葬り去られたであろう。然し、戦後憲法は改正され、正しい自由が与えられた、本書は出版せられなければならないし、又それは当然許される、ただ、取締官憲の中にはそのまま旧い人々が残つている、読者(原判決に従うならば「一般社会人」、「社会通念」)の理解を得ることには断固たる確信があるが、古い思想と権力えの郷愁をすて切れない官憲が1人も残存しないとは保障できないのではなかろうか、だが然し再び考えてみるまでもなく、本書はすでに今世紀有数の作家の1人たるロレンスの主著として、世界的に評価の定まつた思想的作品であり、多くの文明国において刊行せられているではないか、一方基本的人権就中その又、根本的人権たる言論出版の自由は、戦後日本の精神的支柱と考えられ官憲も亦民主化された筈である、これを理解しない官憲の残存は考えられない。本書の刊行は、これを実行することこそ文学者又は出版者の使命であり、又、当然許される。
[9] このように被告人らに原裁判所の誤解らしきものを招くような多少の考慮があつたとすればそれは専ら取締官憲のありうべき無理解に向けられた一時の危ぐであつて間もなく自信の中に消え失せたものであり、決して読者に向けられたものでなかつたことを理解しなければならない。ところが、かくて出版された本書は独自の見解を自負する検察官によつて起訴され、第一審ではもとより、第二審たる原審においても、被告人等の真しな意図や、本書が、世に定評ある思想的著書たることは認められたのであるが、未だ性的刺戟を昇華していないという裁判所の判断によつて、被告人等は猥褻文書販売罪を犯したという不名誉と恥辱を担わせられる運命となつたのである。真珠は瓦礫と一つにされた。否むしろ、瓦礫は依然として街にはんらんしていながら真珠は紛砕せらるべきものとされた。これがいわゆる「チヤタレー事件」の真の姿である。
[10] 当弁護人は以上のような理論構成と判断を内容とする原判決は、以下に述べるような理由により憲法第21条に定められた言論出版の自由を抑圧するものであつて、到底破棄を免れないものであることを主張する。
[11] およそ、日本国憲法によつて強力に保障せられるに至つた基本的人権は一に止まらないが、言論出版等いわゆる表現の自由はその最も基礎的な、基本的人権中最高の座席を占めるものである。憲法が揚言する国民主権と民主主義が、討論と多数決の政治であり、思想的には寛容と説得を主調とする相対主義に立脚するものであることは今更述べるまでもない。従つて、言論出版の自由のない所には民主主義はなく、あるものはただ暗黙の絶対専制のみである。
[12] 政治的見解発表の自由については、人はこの理を直ちに了解する。然し、その他の文化的(美術、音楽、文学等の)意見発表の自由の重大性は、政治的言論の自由に勝るとも劣るものではない。政治的言論の自由は文化的言論の自由を基盤としてその上に立つものであり、むしろそれのみに依存するものでさえあるとも云える。史上多くの独裁国において政治的自由のみを抑圧して文学、音楽、美術等を放置した例があるだろうか。否むしろ、政治的抑圧えの第一着手として、エロ作品の取締を取り上げたといわれるナチス独逸の事例が、この間の消息を明白に物語つている。
[13] 思想、哲学、文学等に関する文化的意見発表の自由は無制限に近いまでに保障されなければならない。国民は真面目にそれらの言論を発表しようとするに当つては、完全に自由であるべきであり、仮りに原判決の論ずる如く、「公共の福祉」の名の下に例外的に何らかの制限を科しうることを認めるとしても「何が許されないか」を予め疑問の余地なく明瞭に知る権利がある。
[14] 原判決は読む者の受ける性的刺戟の「過度」(程度不明確)なりや否やを論じ、当為の問題といいながら存在の問題でもあるかの如き独断的「社会通念」を云々し、剰え、文学書については、性的刺戟の昇華(意味不確定)、減少(程度不明)といい、結果的には上述のように甲判事乙裁判官の読後感をもつて判断するという甚だアイマイ、モコたる基準を示した。ある言論を発表しようという者が、自己の良心と学識とを挙げ、且つ世界の定つた評価を基礎とし、多くの信頼すべき人々の意見にきき、確信をもつて発表した場合であつても、たまたま事件の処理を担当する裁判官が、一読して刺戟が強過ぎると考え、これと同一の意見をもつ十数人の証人の証言さえあれば(権威ある反対証人がたとい何人あつても無意味)その言論は「犯罪」として処罰されるというのである。かくて国民は予め何が許され、何が許されざるかを知ることは遂に不可能なのであり、犯罪者として処罰されることによつて始めてこれを知るのである。これをしも言論自由の喪失といわずして何であろうか。当弁護人は、本件第一審の弁論、第二審における控訴趣意書ならびに控訴趣意の補充陳述において、右の趣旨から、国民が安んじて自らの尺度となしうるような明白な基準を樹立すべく貧弱ながらも思索を重ね、
『その文書の客観的記述より判断してその文書の目的が性の真しな取扱いを説くものと認めうるか、然らずして性の享楽的、罪悪的取扱いを説かんとするものであるかを最高の良識によつて判定すべきもの』
との基準をもつて正しいと信ずるに至つたのであるが、いわゆる春本の類(その目的が奈辺にあり、これを販売せんとするものの真意が奈辺にあるか、何人にも一見して明らかなもの)に関する限り(従来刑法第175条を適用されたものは専らこれらいわゆる春本に限られ、その他の性関係文書はかつての出版法や新聞紙法の風俗かい乱罪として取扱われたこと、今、出版法新聞紙法の廃止の理由として、後者を前者と同一に右刑法の条文を以て処断することが、いかに従前の判例に反し且つ違法なものであるかは、正木主任弁護人の上告理由書に詳細説くところである)当弁護人の見解によるも、原審の解釈に従うも結果的に差異はないであろう。(尤もそれら春本に関してもこれを「公共の福祉」「権利の乱用」の理論を安易に用いて刑法第175条の適憲性を易々として肯定する論には言論自由の重大さに鑑み当弁護人としては多大の疑問を有するものであるが、今はこれを論じない)。然し事、本件の如き原判決もみとめるような、思想の書、哲学の書、芸術の書に関しては、原判決の掲げるような漠然たる基準特に「昇華」論の如きは到底これを肯定することができないのである。アメリカ合衆国最高裁判所がWinters V. New York事件《333 U.S.507.520(1948)》において猥褻物に関するニューヨーク州法第1141条2項の違憲性について示したといわれるように、当弁護人は、本件に関する限り刑法第175条自体の違憲性を主張する必要をみとめないが、少くとも、具体的に本件に関する司法処分としての原判決の内容は、右合衆国最高裁判所の多数意見のいう所と同じように、あまりに漠然(Vague)としており、国民に何が許されざる言論であるかを明確に示さないものとして合衆国憲法修正第14条と同様に国民の自由を保障する我が憲法第21条に背反するものであることは明らかであると確信するのである。
[15] 被告人両名共、ロレンスの性に関する思想が、性を厳粛なものであることを強調することを理解し、本件訳書の出版販売は、戦後の性秩序の混乱を解消する警世的作用をもつものであることを確信していたものであつて、本件訳書の出版によつて特に利欲のみを追求する意図があつたとは認められないこと、本書がその内容全体から見るとロレンスの右の哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し正しく理解せしめる意図をもつて書かれていることは明らかで、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異なり全体の10分の1程度に過ぎないこと、本件訳書の原作者たるロレンスは英国の作家として相当高い地位を占め、「チヤタレー夫人の恋人」は賛否両極端に亘るにもせよロレンスの作品として文芸批評の対象となつていること、伊藤被告人が原著につき、現在では一流批評家は猥褻であるとは云わない事実に信頼していたことは、すべて原判決のみとめるところであり(120頁4行から6行迄、18頁13行から16行迄、25頁15、16行、31頁2行など)、又、本件訳書の出版によつて何等具体的な弊害又はその発生の具体的危険性が存在しないことについては、原判決も暗黙裡に肯定するところである(52頁7行から10行迄)。
[16] 当弁護人は上述のように、言論、表現の自由の抑制は、殆んど無制限に等しい最少限度に止めるべきものと信ずる。然らば右のように、被告人両名に猥褻文書を販売しようという意思がなく(上記の如く仮りに未必的にあつたとしてもそれは無理解な末梢の官憲に対する一時的考慮のみであつた)、却つて警世的著書であることを確信し、且つ、これを確信するにつき相当の理由乃至根拠(被告人らの信頼する前記世界的評価)があり、而もその出版販売により何ら明白な差迫つた弊害乃至危険の発生が危虞せられない本件において、これを犯罪として処罰することによつて、少くとも本件の具体的場合において、被告人らに言論出版の自由が認められていると揚言しうるであろうか。殆んど取立てた教養をもたない市井人ですら、「アンナ難かしい小説を問題にするより、何故、あの毒々しい裸体写真や、エロ川柳の満載してあるカストリ雑誌を取り締らないのでせうか」という意見をもらすものが多いのであるが、その意見自体法律的には問題とするに足りないとしても、少くとも本件訳書の起訴と処罰が、言論の自由に対する明白な侵害であることを感じ取つているものといえるのではあるまいか。当弁護人は、以上のような事案である本件に、刑法第175条を適用することこそ、むしろ刑罰権の乱用であると信ずるものである。
[17] 刑法第21条第1項は、前述のように言論出版の自由を強力に保障しているのであるが、同条第2項は、検閲の禁止と信書の秘密の保持とを特に規定した。検閲の禁止も信書の秘密の保持も共に第1項にいう言論出版等の表現の自由中に性質上当然包含せられているものである。然るに特にこれを第2項に掲記した所以は、何であろうか。思うに、それはこの両事項が、言論圧迫の方法として最も強力且つ普通に用いられるものであり、乱用され易いということ及びこの両者共、その性質上条件附でこれをみとめることは無条件でこれを認めることになること、すなわち、検閲についていえば実際上検閲を行つた後でなければ、それが「公共の福祉」上検閲すべきものに該当する文書なりや否やが分明しないのであるから、一部に検閲の禁を解くことは全部にこれを認めることに帰することから、検閲は絶対的にこれを認めない趣旨と解しなければならない。すなわち検閲の禁止は言論抑圧の諸方法の中特に絶対的である趣旨が汲取れるのである。而して、このように検閲を絶対的に否定することは、その同一精神の反面として同時に国民の自主的判断(原判決のいう)を絶対的に尊重するということでなければならない。もとよりそれは、誠実、真剣な真実の「自主的判断」でなければならず自主的判断に便乗、仮装した悪意ある判断まで、これを保護するというのではないが、然らざる限りその保護は無制約的でなければならない。
[18] 原判決は、(119頁11行以下)言論出版の自由が憲法によつて強力に保障され、事前検閲の制度が廃止された結果、著作者又は出版業者の著作又は出版の適否に関する判断の自主性は新しき意義をもつ重大な責任を伴うに至り、これらの者はその自主的判断を誤らざるようすべきであつた、然るに被告人らはその自主的判断を誤つた、それが本件犯行の原因であつたといい、且つ右の自主的判断は極めて困難な状況にあつたといつている。すなわち、原判決の見解によれば、言論自由の保障された憲法下にありながら、しかも真面目な且つ相当の根拠ある「自主的判断」さへも、なお誤まつてはならないのであり、当然そこにその自主的判断の正か誤かを判定すべき一段高い判断の尺度が予定されているのである。すなわち、著作者又は出版者は最後まで自己の判断に頼ることは危険なのであり、他の何人かの判断を予定して、これに違背することのないように注意しなければならないのである。然らば、その他の尺度となるべき判断とは結局何人の判断であるのか。原判決に従えば窮極においてそれは裁判所の判断(いかに社会通念なる美装をまとつていても)ということに帰するのであるが、起訴なくして裁判権の発動のない点からいえば、実際には検察官、いな、更に実証的にいうならば最末梢に在る取締官憲の判断ということにならざるを得ないのである。果してそうであるならば、刑事犯罪人としての不名誉な処罰を免れたい国民は、むしろ出版販売に先立ち、取締官憲の意見をきき、その諒解の下に出版して不慮の危険を避け度いであろう。単刀直入的にいえば、むしろ検閲制度を復活して貰つた方が個人的には有難いであろう。それかあらぬか原判決も、上記のその結論部分において、被告人らは検閲制度の撤廃と共に自主的判断が困難となつた結果として、その判断を誤つたものであると云い、検閲制さえ存在すれば本件は起りえなかつたことをみとめ被告人らのため検閲のなかつたことを嘆じ、これに同情する口吻をもらしているのである。当弁護人をしていわしむれば前にのべたような原判決の見解に従う限り、憲法による検閲制度の禁止は、言論の自由の保障どころか、却つて旧憲法下においては善良な市民、真面目な文化人としてその生涯を送つたに相違ない被告人らに、猥褻文書販売罪というぬぐうべからざる汚点を印せしめる結果となつたとしか考えられないのである。かくて原判決は、結局検閲制の存在を肯定する精神的基盤に立つものであり、少くとも検閲の禁止に関する憲法の真意に対する理解を欠き、結局において言論の自由を不当に抑圧することにおいて、むしろ検閲制を容認する以上の結果となることを是認したもので、到底違憲たるを免れないものである。なお以上の所論に対し、憲法第21条第2項の規定は、事前検閲を禁止する趣旨であつて、事後において、その言論、出版を犯罪として処罰することは何ら同条項の規定に抵触するものではないとの反論が当然予想せられるのである。そして、右条項が、事前の検閲禁止に重点を置くものであることは一応首肯し得るところではあるが、同条項の目指すところは、そのような比較的末梢の解釈問題に拘泥して、その真使命を逸するには余りにも根本的であり過ぎるであろう。検閲禁止を特に揚言した憲法の眼目は、上来述べ来つたように、言論自由の保障の下では、真しにして善意な自主的判断の上に立つ一切の言論は、絶対的に保護せられなければならないこと、事前においては固より、事後においても、又、たとえ公共の福祉その他の名の下においてであつても、官憲のイニシアチヴに基いてこれに対して加えられる一切の制約はすべて違憲とするにあると解しなければならない。けだし、もしそう解しなければ、結局上述のように、被告人等の如き善良にして悪意なき国民が、検閲の禁止規定があるがため、却つて処罰を受くるという、言論保障の趣旨とは、正に反対の結果に導かれざるを得ず、勢い検閲制度の復活に拍車をかけるに至るであろうからである。要するに便乗的言論乃至出版はともかく、然らざる真しなそれは、絶対的にこれを保障するのが憲法の趣旨でなければならない。
[19] 憲法は、一切の立法及び裁判の基礎となる最高法規であり、その下に在る多くの諸実定法と異なつて、いわば純法律的規定のみならず、多くの政治的原理の宣明、プログラム的諸規定、下級諸法の解釈原理、裁判及び行政の指導理念等をも包含している。しかしそれらはいずれも憲法に規定せられることによつて法規範たる性格を与えられ、国民生活の中に息吹く現実の法となつた。たといそのままの形で、国民の日常生活を直接に規律するものでないにしても、具体的司法、行政、立法の中に現実に生かされなくてはならない。特に憲法も予定するとおり、裁判の中においてこそ生かされなければならない。しかるに、当弁護人は、原判決が、事案の全体に対し、憲法上の考慮をはらう以前に、刑法第175条や、これに関する判例をまつ先に考慮したのではないかを疑わざるをえない(原判決全体を通じて覗われるが、具体的にいえば例えば、12頁2行より10行迄にいうように、刑法に規定があることのみを根拠にして、ある種の性的記述のある言論を発表する自由がないというが如き。)。もとより、ここに前後というのは、論理的前後乃至判断中における重さの順序をいつているのであるが、本件の如き事案の審判に当つては、裁判所が憲法の番人であることを第一義とする立場において、区々の末梢的事項を一応背後に押しやり、事案のいわば大局的、憲法的把握を誤らず、その把握の下に具体的な下級実定法の解釈を示されることこそ国民の切なる願いであろう。
[20] 本件証拠中に在る故ハロルド・ラスキ著、「近代国家における自由」(100頁)において、著者は、本件「チヤタレー夫人の恋人」に言及し、自分は、この書のもつ価値と意義に関しては、官憲の見解に従うよりも有識人の意見に信頼するそれが最も民主主義的態度であるとの趣旨を述べているのであるが、これと全く同じ見解の下に立つて、その訳出、刊行を企てた両被告人を不名誉な犯罪者として遇することが、言論の自由を保障し、文化的生活を揚言する憲法の下における裁判なりや否や、その然らざること多言を須いるを要しないであろう。

[21]以上の理由により速やかに原判決を破棄せられ、被告人らの無罪の宣告を下されんことを切望する。
    目  次
第一篇 罪刑法定主義違反、判例違反その他
  第一章 原判決の「破毀理由」が意味するもの
  第二章 原判決の「猥褻文書」を判定すべき「基準」の本質
第一節 天降り的「基準」
第二節 憲法の存在を無視して作られた「基準」
第三節 「基準」とは旧出版法、旧新聞紙法と同質
第四節 「猥褻文書」と「風俗壊乱の文書」とは同じではない
第五節 「基準」は判例を曲解している
第六節 前記「基準」は裁判官の越権
第二篇 原判決は憲法「前文」を含む左記憲法の諸条文に違反して被告人等に有罪の判決を与えた
  第一章 原判決は被告側の主張した憲法上の諸権利を詭弁をもつて葬つた
第一節 被告側は憲法第21条に基き本件著作物を翻訳出版することによつて、憲法第12条記載の「公共の福祉」に対する国民としての責任を果したことを主張した
第二節 弁護人等は本件が無罪たるべき法律上の統一ある見解を述べた
第三節 しかるに原判決は憲法第99条、同第76条第3項に違反し憲法を無視し詭弁をもつて右の被告側の正当な主張を葬り、理不尽な根拠に基いて被告人等に有罪の判決を与へた
  第二章 原判決は新憲法(日本国憲法の略)を誤解して本件を裁いた
第一節 正木控訴趣意書〔33〕乃至〔45〕に対する判断の部に現われた原判決の憲法違反
第二節 原判決の「公共の福祉」論に現われた憲法違反
第三節 憲法無理解の諸点
第四節 基本的人権の意味を解せず
  第三章 新憲法下に於ける刑法第175条の法意と、その範囲
第一節 刑法第175条に対する弁護人等の定義の法律的の根拠
第二節 弁護人の右の主張は、ヒユーマニテイを基調とする欧米の国家や学者の意見とも同じである
第三節 弁護人の見解に相違する原判決の「基準」は全国民に対し怖るべき結果をはらむ
    註解 日本国憲法上巻 第3章国民の権利及び義務
第三篇 「良心」違反
  第一章 裁判官は良心に従つて裁判をする義務がある
第一節 裁判官の従うべき「良心」の意味
第二節 「正義」を守ることは国民の権利
  第二章 原判決は良心に従つて作成されていない
第一節 原判決は故意に論理の法則を蹂躙し自己の良心に叛いた
第二節 原判決の構造自体が非良心的である
第三節 原判決は全部不正
  第三章 原判決に現われた非良心の種類
第一節 当然なすべき論理的判断からの逃避
第二節 あまたの詭弁を使用したこと
第三節 言語魔術(国語の不完全性と民衆の言語に対する盲点)を利用
  第四章 原判決に使用された「詭弁」と「言語魔術」の実例
第一節 2つは同じ虚偽
第二節 原判決に使用された形式論理学上の虚偽
第三節 「言語魔術」(Verbal Fallacy)による非良心
  第五章 元判決に対する原判決の弁護に現われた各種の虚偽
第一節 元判決は弁論要旨〔70〕―〔77〕に弁論したように、その106頁の判決文書中第17頁の第1行目から7行目までを除いた他は、全部理性ある者の論理的判断は不可能であつて、ただそれが無理を通すための非良心的文書として見るときに始めて筋が通るものであります
第二節 当弁護人の控訴趣意書に対する原判決の非良心的な判断の諸例
結語

(本文省略)

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