チャタレー事件
第一審判決


猥褻文書販売被告事件
東京地方裁判所
昭和27年1月18日刑事第八部
被告人 小山久二郎 伊藤整

■ 主 文
■ 理 由

 

■ 主  文

被告人小山久二郎を罰金25万円に処する。
右罰金を完納しないときは1000円を1日の割合で換算したる期間被告人を労役場に留置する。訴訟費用は被告人小山久二郎の負担とする。
被告人伊藤整は無罪
■ 理  由



[1] 被告人小山久二郎は東京都千代田区富士見町2丁目12番地出版業株式会社小山書店の社長として出版販売等一切の業務を統轄して居るものであるが、D・Hロレンスの著作なる「チヤタレイ夫人の恋人」の翻訳出版を企図し、伊藤整に之れが翻訳を依頼しその日本訳を得たる上、その内容に別紙(一)の如き性的描写記述のあることを知悉し乍ら之れを上、下2巻に分冊して出版し、昭和25年4月中旬頃より同年6月下旬までの間前記会社本店等に於いて日本出版販売株式会社等に対し上巻8万29冊、下巻6万9545冊を売渡し以つて猥褻文書の販売を為したものである。
[2] (証拠説明省略)

[3] 刑法第175条には猥褻の文書図面を販売したる行為を罰する旨規定しているが、その猥褻文書とは如何なるものを指称するかについては明らかにしていない。検事は大正7年6月10日大審院判決に「猥褻ノ文書図画其ノ他ノ物トハ性慾ヲ刺戟興奮シ、又ハ之ヲ満足セシムべキ文書図画其ノ他一切ノ物品ヲ指称シ、従ツテ猥褻物タルニハ人ヲシテ羞恥厭悪ノ感念ヲ生セシムルモノナルヲ要ス」とあり、昭和26年5月10日最高裁判所判決に「徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するもの」とあるところより、之を定義して「我が国現代の一般読者に対し慾情を連想せしめ、性慾を刺戟し、興奮し且つ人間の羞恥と嫌悪の情を催さしめるもの」となしたのに対して、弁護人は「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に訴え性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ未成年者をして恢復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」即ち「客観的に観察し性器又は性行為を人間の理性又は情操等の高等なる精神機能に訴えて描写又は記述した文書図画を除外し専ら感覚的官能的な描写又は記述によつて興味的又は享楽的の効果を期待したと判断される非学術的又は非人道的の図書」と定義すべきであると主張した。
[4] 思ふに人は個人として生存を完うとすると共に種族を永遠に確保する為に生命の創造たる生殖行為を行ふのである。この種族本能たる生殖行為は生物一般の為すところと同じであるが、現在にのみ生きる生物殊に動物は本能たる性慾の導くまゝに瞬時に満足することによつて種族保続のことは終るけれども、理性に基き文化を授受し向上を続ける人間は現在に生きるのみでは足らず過去より来り、未来に及ばねばならぬのであるからその営みは本能的、瞬時的ではなく精神的、永遠的でなければならぬのである。性慾は生殖行為の源であり人間に於いても動物と等しくその奥底に根ざしたものであるが、人に於ける性慾は動物のそれと異り理性によつて醇化され自己を拡大し異性を視ること我の如くなすところの恋愛となつて居るのである。性慾を醇化せる恋愛は自然の帰趨として結婚となり、性慾が背景となり成立したる結婚はその性慾を浄化して恋愛に導くものである。元来性慾は旺盛でありこれが満足による快楽は大である為に耽溺の危険が最も甚しいのであり、動物に於いては発情期の存在等の如く自然的な調節が為されて居るが、人間は理性による自己制約を為し得る為に進化を重ねて現在の如く自然的制約を超越して性の営みを為し得るに至つたのである。
[5] 性慾はこれを醇化し、調整し、昇華するときは人生を豊潤にし美化する上に欠くべからざる原動力となるのであるが、これを刹那的、享楽的の具とするときは乱倫となりてその人は亡び、社会の秩序は失われてついには民族の滅亡を来すに至るのである。人間を動物と区別する重大なる点は精神生活の有無である。精神生活は大脳の機能によるものであるが、その機能は抑制的、調節的な面と鼓吹的、煽動的な面があり、性慾についてはその抑制調節作用によつて克己、修養、羞恥、礼儀が生じ、そこに性の道徳が確立されたのである。性本能に対する理性による抑制作用は人間の人間たる所以の大本であり、これにより倫理が起り、文化も栄えるのである。性慾という最も強い慾望に於いて克己の実を挙げてこそ人間として万物に誇り得るのであつて、自然のままの慾望に引きづられるのでは何等動物と選ぶところはないのである。この理性による性慾の抑制を否定又は動揺せしめるような結果を招来するものは人類の幸福を阻害するものであるから断乎としてこれを社会より排除しなければならぬ。ここに猥褻物に関する刑罰法規の存在理由があり、猥褻刊行物の流布の禁止に関する国際協定の締結せられたる所以があるのである。(別紙二)
[6] 性慾は生殖に対する衝動であるが、これが成立には肉体的、精神的の要件が必要であり、これを一言にして表現すれば緊張状態と発散状態である。緊張状態は神経、筋肉等の敏感なる反射作用によるものであり、この反射作用は(一)生殖線を中心とするホルモンの働きにより心神が敏感となり複雑なる反応が起り易くなり(二)五官から来る種々なる刺戟が動機となつて性の慾望が喚起され(三)中枢神経系の働きによつて起る複雑なる精神作用殊に性に関する情念、想像等によつて性慾はいや増すのである。従つて性の慾望を喚起するような五官からの刺戟や性慾をいや増す情念の喚起が、理性による性慾の抑制を否定又は動揺せしめる態のものであるときは、かゝる刺戟や情念等を起さしめるものは猥褻物であり、それが文書であれば猥褻文書となるのである。而して或文書がかゝる結果を生む文書であるかどうかは各人について定むべきことであるが、之れを法律により猥褻文書として社会より排除する場合には社会的に評価しなければならないのであつてその標準は社会の通常人を以つてすべきも、年令的には未婚の青少年に重点がおかるべきものである、蓋し青春期に於いては精神状態は感傷的となり、心神が不安敏感となつて感情は転換し易く、空想は旺盛に、衝動は泉の如く湧いて制御するを得ず、自ら求めて懊悩、煩悶するにいたるが、結婚により性慾を満足し得るに及び始めて理性による克己の余裕を生ずるのであるから、未婚の時期に於いては性に対する刺戟をつとめて避け、純潔なる雰囲気の中で育成すべきものだからである。
[7] 証人児玉省は「猥褻とは性的なことに関連する事物、行為等を通じて普通世人一般が表に出してはならんようなものを表に出す場合」と定義すべきものと供述し、証人波多野完治はキンボーリ・ヤングが「猥褻とは、不潔な思想を受入れ易いところの人々の心に不潔な思想を惹起するかも知れないようなこと、若年又は未経験である為に不潔な影響に暴露されておるところの人々を堕落させるようなこと」であるといひ、ロレンスが「好色文学とは性を侮辱し、それに泥をぬりつけようとするものである」「精神が肉体を軽蔑し、又恐れてゐるか、或は肉体が精神を憎悪し、これに反抗するのでなければ、猥褻な感じは起らない」と書いて居るのを引用し、「性の問題を隠蔽して、性の問題がタブーになつていることを利用して性の好奇心を挑発したり、その挑発により性衝動を歪めて、異常な、快楽的なものと考えさせる行動や表現である」と定義すべきものと供述し、証人宮城音弥はワレンの心理学辞典に「猥褻とは性的な或いは他の身体的な機能に関して、社会的な慣用を蹂躪するところの身振りとか、語られた言葉である」と定義されて居るのを引用して「猥褻とは露骨で性感覚を惹起し、これが社会的慣習に衝突し、その領域を越えたものであつて、社会人に集団表象を離脱するとの印象を与えるものである」と定義し、露骨とは性的なものが隠蔽されずに知覚される状態や記述されたものであり、集団表象とは社会的な慣習であり、離脱とはその慣習と非常に違ふことを云ふのであると供述した。猥褻文書を処罰してまで社会より排除せんとする理由が前記の如く理性による性慾の抑制を否定又は動揺せしめることにありとすれば、猥褻文書はかゝる結果を招来するに足る文書といふべく、キンボーリ・ヤングが「不潔な思想を惹起するかも知れないこと」とし、波多野証人が「性衝動を歪めて、異常な快楽的なものと考えさせる表現」とし、ワレンが「身振りとか、語られた言葉」とし、宮城証人が「集団表象を離脱するとの印象を与えるもの」とし、何れも客観的(即ち読者に及ぼす影響より観ること)に定義して居るのはその意味である。従つて弁護人主張の如く「悪意ある性関係の文書」「効果を期待したと判断される図書」と主観的(即ち作者の意図を観ること)に定義すべきものではない。(従つて弁護人主張のような意図があつても、前記の効果を生じ難いものは猥褻文書とはならないのである。)而してかゝる結果を招来する文書は先づ性慾の喚起を催す動機たる刺戟を与えこれにより性的興奮を覚えさせるものであることを要するのであつて、判例が性慾を刺戟興奮しとはこの謂である。而して性慾を刺戟、興奮せしめる文書の内かゝることからして理性による抑制を否定又は動揺する結果を招来するようなものに対しては吾人は嫌悪感を抱き、自らは羞恥を感ずるにいたるのである。蓋し宮城証人の供述によれば人間が青春期になり性感覚が起ると自然に羞恥感が起つてこれを抑制しようとする。これを肉体の知恵と呼んでいるのであり、これは生物学的のものであるが、更に後天的には道徳的、社会的に助長されるというのである。従つて性慾を刺戟、興奮され理性の制御を動揺せしめられるにいたれば自ら羞恥を感じ、かゝる文書に対しては嫌悪感を覚えるからである。弁護人が「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ」といふのは理性による性の制御を失つた結果を指称するもので、ヤングが「堕落させるような」といつたのとその類を同じくするものである。斯様な見地からすれば猥褻文書は「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すベきである。

[8] 弁護人は憲法第21条に「言論、出版その他の表現の自由はこれを保障する」と定められたことから、所謂春本以外の性的出版物を刑法第175条に該当する文書として処罰の対象となすことは憲法に違背するものであると主張する。憲法第21条に定められたる出版等の自由は憲法第11条に定められたる基本的人権の一種であり、その基本的人権は人類が天賦の権利として有したるものを国家が法的に取上げたのであつて、憲法第11条第97条に定むる如く永久の権利として信託され、侵すことは出来ないのである。而して憲法がかゝる自然権を法上の権利として確認するにいたつたのはこの基本的人権を認めることが人の社会生活をして価値あらしめるからである。従つてその権利主体たる国民は不断の努力によつてこれを保持し、それは公共の福祉の為にのみ利用すべく、濫用してはならない(第12条)し、国家機関は公共の福祉に反しない限り立法その他の国政上最大限度に尊重しなければならない(第13条)のである。「公共の福祉」の本来の意味は人間の共同生活に於ける幸福をいふのである。人間は自然的には心身の慾望を満足し、理性的には人格を向上せしめることによつて幸福を感ずるのであるが、社会的共同生活を為して居る為各人の行ふところは直接、間接に他人に影響し他人の幸福を増減するのであるから、人間の人間たる所以を自覚すれば自他共に平和と幸福をもたらす如く行動すべきであり、かくてこそ社会的共同生活の幸福が保たれるのである。而してこゝにいふ「公共の福祉」は我が憲法上の概念であるからその「公共の福祉」は日本国に於ける国民の共同生活に於ける幸福と解すべく、何が公共の福祉であるかは我が国の現在と近き将来を基準とし、一般的社会通念に従つて定むべきものである。弁護人は「公共の福祉とは人類の永遠の平和、繁栄を★うところの客観的な、合理的な、歴史的な現実であり、人類の未来を夢見つゝそれに害あるものが公共の福祉に違反するものであり、単なる社会の利益といふ如きものではない」と主張する。人類は永遠なる理想をめざして撓ゆまざる努力を続けて、進化し、向上することは異論のないところであるが、その歩みは理想への線上を真直ぐに進むものではなく、常に右に傾き、左に傾きつつ(右翼思想、左翼思想の謂ではない)一段々々と理想に近づいて行くのである。この右傾し、左傾することは進歩の過程であるが、そこには自らなる社会的制御があり、左右への振動は一定の巾員を保つのが通常の状態である。社会が混乱し、人々の行ひが乱れたときは両側の線外に傾き過ぎたる場合であつて、所謂行き過ぎにして及ばざるにも等しく一見退歩したかの観を呈するのである。(蓋しこの行き過ぎは是正するのに多くの時日と努力を要し、時には過去の社会形態と似た形態を呈することがあるからである。)(別紙三)従つて国家社会に於いては、国家社会に自ら存する巾員内の行為が公共の福祉に寄与するものとなるのであり、外側線外への行き過ぎの行為は公共の福祉に反するものであるといわねばならぬ。故に弁護人の主張は人類の理想そのものを我が憲法上の公共の福祉となすもので、現実の国家社会を直視しないうらみがある。
[9] かく解するときは基本的人権の行使が公共の福祉に反し得ないとの制約は、基本的人権に内在する制約であり、本質的のものであるといわねばならぬから、その行使は外側線内に於いてのみ認めらるべきで、外側線の外に行き過ぎたる行動は既に基本的人権の行使とは認め得ないのである。而して自らなる巾員、外側線の何れにあるやは歴史とその時代の文化により明らかにせらるるものといふべきである。
[10] 刑法第175条の猥褻文書を前記の如く定義するときは、かゝる文書は公共の福祉に反するものというべきであるから、之が出版は基本的人権の行使と解し得ないのであつて、これを刑法によつて処罰することは基本的人権の侵害とはならないのである。所謂春本が刑法第175条に該当する猥褻文書とせられることは異論のないところであるが、かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである。従つてかゝる結果を招来する危険のある文書は所謂春本であると否とを問わず刑法第175条の猥褻文書として排除することが、社会的共同生活の幸福を確保する所以であるといふべきである。

(イ)本件訳書と春本等との関係
[11] 所謂春本が刑法第175条に該当することは前記の如くであるから「チヤタレイ夫人の恋人」の伊藤整訳のものが、所謂春本と類を同じくするものか否かの点について考察するに、証人渡辺★蔵は「非常に猥褻な書物でよくもかような露骨なことが書かれたものだ」と思ふ程であり「その猥褻性は超努級的で、淫猥な書物である」と供述し、証人ガントレツト恒は「今まで読んだものゝ内で一番汚い表現がなされて居り、読むと身の毛のよだつ思ひであつた」と供述した。証人波多野完治は、世に猥褻図書として定評のある「ガミアニ」「バルカン戦争」を取上げてその一部と本件訳書の性描写の部分とを、文章心理学的立場より検討したところ、本訳書は所謂猥褻文書の要件を具備していないとの結論(別紙四)を得たと供述した。依つて該二図書(証68、69)を閲読するにその行文は所謂春本と異ならざるものであり、同証人の供述を詳細に検討したところ首肯し得べきものであるから、本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである。
[12] 証人宮城音弥、宇留野藤雄は市販されている月刊雑誌の性描写と本訳書の検事指摘部分とを比較し、その読者の受けた刺戟を精神電気反応測定器によつて測定したところ、市販雑誌の方が反射量は概ね高かつたと供述した。依つて電気反応について考察するに、宇留野証人の供述によれば、この測定は、被験者が読書等によつて情緒的刺戟を受けると情緒的興奮という心理的現象を起し、これと併行して生理的表出を生ずるが、この生理的表出は自律神経系統に属するため被験者はこの表出を左右することは出来ないのである。性描写のある本を読んでそれを知覚すれば性感といふ情緒的興奮が生ずるが、これは心理的現象であつて、直ちに測定することは出来ないため、被験者の不随意なる生理現象に置換えて測定するのであつて、これが精神電気反応測定である。その測定の結果は別表(別紙五)の通りであるが、その表の「反射量」は反射の最高量或は平均量ではなくて、反射量の合計である。「嫌悪感」と「興奮度」とは測定後被験者に質問して得た答であるが、「嫌悪感」というのは「嫌らしい」という普通に使つている意味であり、両書を比較して何れが強い嫌悪感を抱いたかということである。この場合本訳書について嫌悪感が皆無であつたかどうかはわからないのである。又「興奮度」も両書を比較しての結果、何れがより興奮したかを問ふたのであつて、表の九番に「両方無し」とあるのは誤記である。性的興奮と嫌悪感が同時に起るときは両者は加重されて反射量は高くなるのであるが、市販雑誌の反射量の内にどの位嫌悪感によるものが加つて居るかは測定困難である。外界から刺戟(読書することなどである)が加えられるとそれを知覚して心理現象並生理現象を起すのであるが刺戟そのものは同一物であれば、何人にも同じく与えられるのであるが、それを知覚することは各人によつて異なるのである。即ちその者の生理的条件、感受性、経験などによつて個人差が生じ、それにより知覚そのものに差異を生ずるのである。従つて反射量は他の被験者と比較すべきではなくて、同一人について両書の反射量の差を見るべきであるといふのである。
[13] 依つて別表について検討するに、(2)(4)(9)(15)(17)番に於いては興奮度は両者とも殆んど等しいのであるから反射量の差は嫌悪感のそれとほゞ等しいものと解すべきであろうが、反射量の差は(0.2)(0.5)(1.3)(1.4)(0.85)となつて居りその個人差は大である。(宇留野証人の供述によると(4)番は雑誌の方は「見て損をした」と答えたというのであるが、「見て損をした」というのは嫌悪感と解すべきところ、それは前記の如く(0.5)である。この場合雑誌の方は興奮度が少し強いというのであるから精密に言えばこの(0.5)には少量の興奮度の差も加つて居ることゝなり、更に雑誌の方はヌード写真で、被験者が18才の女性であつたことからすれば、そこには感情的なもの(女性としての経験的な反撥感情)が強く働いたのではないかと思われるので、嫌悪感は(0.5)以下というべきであろう。)嫌悪感の強弱という点が明らかにしてないので判然とは言えないのであるが、興奮度について「強い」と答えた(1)
[14] (6)番の両反射量の差は(2.5)(0.7)で、両書ともほとんど等しいと答えた(2)(4)(9)(15)(17)番の差は(0.2)(0.5)(1.3)(1.4)(0.85)であるから、興奮度の自覚量(被験者が興奮した強さを自覚したことを意味する)に差があるか、表現(強いとか弱いとかを表明する言葉の使ひ方のこと)に差があるかで、いづれにしても個人差は相当にある。
[15] 本訳書第八番について見るに、(16)(17)番と(18)(19)番とは、それぞれ反射量がほゞ同量であるが、雑誌のそれには相当の差があり、(17)(18)番と(15)(19)番の雑誌の反射量はやゝ似て居るが、本訳書のそれには相当の差があるから個人差は極めて複雑であると認められる。
[16] このように個人差が相当にあるのであるが、宇留野証人の供述によれば、この機械による実験では被験者の自覚しない微妙な刺戟も生理現象として現われるのであり、この反射量の差が何程の場合に一般的に両書を区別し得るか例えば(0.7)の差で両書を判然と区別したものと、(1.4)でも両者を区別しないものとがある場合に、一般的には何程の差で両書を区別するものとすべきかということである。仮に一般的には(1.0)であるとすればそれ以下のものの区別は一般性を失ふことになるのである)は色々と統計的な処理をしなければ、これだけからは言えないというのである。従つてこの点が明確にならない限り、両書を社会的に見て区別することが出来難いのである。
[17] 本訳書の中検事指摘の第八番について特に5人の被験者が用ひられて居るが、この点について、宇留野証人は、この実験をする前に多湖助手や十数名の学生に尋ねたところ、第八番が一番強い刺戟を受けるといつたが、自身で全巻を通読した結果もその様に感じたので、たの実験に際しては、反射量が一番高いと思つた為に特に5人の被験者を用いた。その結果は別表の如く余り高くなかつたが、その理由は判然としないと供述した。別表の(15)
[18] (16)(17)(18)(19)番の本訳書第八の反射量は他の部分より一般的には低いのに、雑誌の方は他の部分と余り差がないのであるから、性的興奮や嫌悪感を電気反応測定器で測定した結果と、自ら感受したと思つた結果即ち表現するところが一致しないか、或はこの被験者が宇留野証人、多湖助手その他の学生等と異つた読み取り方をした特殊なものと解すべきが如くである。(証人野尻与顕は第八はクライマツクスのところと供述し、証人駒田錦一は第七、八は刺戟が強いと供述した)殊に(17)番は興奮度は両書にほとんど差がないというのであるから、反射量の差(0.85)は嫌悪感のそれと解すべきであろうが、同人については本訳書の反射量が高いのであるから、嫌悪感は本訳書と言うべきであるに、雑誌の方が強いと答えて居るのである。これは電気反応測定の結果と自覚とが一致しない証左か、或は雑誌の嫌悪感が強いとの答が正確でないか、(0.85)の差では自覚的に両書を区別し得なかつたかの何れかであり、この実験の結果が直ちに自覚的のものを証し得ないとの感が深いのである。
[19] 宇留野証人の供述によれば、与論調査学会の実験によれば、書物の装幀、挿絵などの持つ効果は重大であると発表されて居るから本実験に於いても雑誌の装幀は大きい効果を持つたと思ふ。被験者には予め性的興奮を測定すると告げてなかつたが、感づいていたと思われる。被験者には本訳書は指摘部分を与えたが、雑誌は3冊を与え被験者がその内より一冊を選んで更に読むべき個所を選んだのであるといふのである。本実験に於いて被験者は雑誌の装幀や挿絵やその他の記述を披見し、その内より性的描写の部分を選んだのであるから、それらの準備行為による性的興奮、嫌悪感が、本実験の結果に影響していることは窺知し得るところである。宇留野証人の供述によれば、この実験は被験者を調べて生理的条件が悪いときは測定が不可能だから除外し、更に実験着手までに深呼吸をさせたり、暗算をさせたりして、自発性反射を少なくした(即ちその場の条件、状態に馴らせる)後に着手するというのであるから、この実験は極めて精密な操作を要するものであることが認められる。従つて雑誌の表紙等(これは当該描写からすれば還境的なものである)の影響は相当大きいもののように思われる。故に実験室外で読む場合は同一結果であるとは保し難いと思われる。刑法第175条を適用する上に於いて問題となるのは、その書物を読んで電気反応で測定し得るような生理的現象を起したかどうかではなくて、自覚した生理現象の強弱、それによる性的興奮が理性による制御を否定又は動揺するに至らしめる危険のあるものであるかどうかであるから(一)自覚するものが何程であるか(二)両書を区別すべき標準である一般的な反射量の差は何程と認むべきか、などが明らかにされない限り、この反応検査の結果から、両書の差が、社会的に認めらるべきものとの結論は出ないというべきである。
[20] 宇留野証人は前記実験に引続き、本訳書下巻5頁より107頁まで(第八の一部)と124頁より125頁まで(第九)と、「逢びき」「祇園の女」という所謂春本の一部とをテープ・レコードに吹込み、その録音を、被験者に聞かせて検査したところ、本訳書の方が、春本より性感度は少かつたとの結論が出たと供述したが、本訳書が、所謂春本と異なるものであることは、前段で認めたところであり、宇留野証人の供述する如き結果の出ることは蓋し当然のことであつたと言わなければならないのである。然るところ、右実験の結果を検討するに内観による答の内最も重要である「性的興奮の度合について」被験者16名の内両者共に「0」であるもの2名、両者共に(マイナス1)であるもの4名、であるところからすれば、本訳書は春本との差が差程ないとも思われるもので、内観と反射量との関係は明確を欠くに至るのである。
(ロ)本件訳書の存在意義
[21] 弁護人は本書は性の意識を解放せんとするところの純文学作品であるから、これを戦後の我が国の読者に与えることは公共の福祉に合するものであると主張するを以てその点について考察する。「大英百科辞典」(証55)には「D・H・ロレンスは1885年に生れ1930年に死亡した英国の小説家であるが、彼は1911年より13年の間に「白孔雀」「息子と恋人」を著作しその偉大な力量と独創性のある作家として出現した。その後彼の作品の形と文体は精神分析論とイタリア、サルジニア島、ニユーメキシコ、オーストラリアの旅行とによつて深い影響を受けるようになつた。彼は現代イギリスの小説家中最も有力な存在の一人であつた。彼は特にその後期の著作に於いては、次第に強く性の問題に熱中するようになつた。性の動機についての彼の力強い分析は、彼の著作の最も力強い特質となるであろう。然し彼は自然の風物を解釈する偉大な才能を持つていた。そして彼の描写の多くのものは、精神的な透視力と芸術的力量とを示している」とあり、リチヤード・オールデイントン著「D・H・ロレンス」(証60)には「ロレンスに関して書かれたものは実に多い。最近の書誌によると600種以上の書物や評論や記事、ロレンスについての思出を書いた本が、バイロン卿以来、如何なる英国の作家に関してよりも多く出版された。イングランドの同じ地方から出たこの貴族と平民の2人の作家が、同じように国内に於いてよりも、自国以外の国に於いて遥かに大きな文学上の名声を得たといふことは不思議な合致である」とあり、中橋一夫が「現在私が従事している20世紀英文学研究の中間報告」であるといふ「二十世紀の英文学」(証13)に於いて、ロレンスを取上げて居り、「西洋文学を正しく理解する為に必要とされる知識の大綱を辞典の形式で纒めようとした」といふ「世界文学辞典」(証14)並「西洋文学を自己の糧としようとする学生諸君及び一般読者の為に西洋文学に関する一般的知識を適度に圧縮し要約して一つの綜合的な観点を作ることに役立」たしめんとした「西洋文学辞典」(証15)には何れもロレンスの項があり、志賀勝著「ロレンス」の序文には「ロレンスは文化の崩壊と人類の危機と、そしてまた個人の、言葉どほり生老病死のさまざまな悩みのなかに、彼は常に思ひ返され、考へ直される魅力ふかい存在である。……彼のやうな人間が生れ、あのやうに生きたことが、現代文化の一番鋭い批判とも言へる。人間としての親しみと重要さを彼ほど感じさす文学者は数多くないであろう」とあり、証人土居光知はロレンスに対する批評は賛成者も、反対者もあつたが、今では同情者の方が多いようであり、その時代の代表作家として認められて居る。私は1922年から27、8年頃まで滞英していたが、その印象ではロレンスやジヨイスが居た為に文学の面では他国より一歩進んでいたと思つたと供述し、その著「D・H・ロレンス」(証53)のはしがきには「私がロレンスの小説に興味をもつやうになつたのは、世界大戦前後の人々の心理状態が彼によつて深刻に描き出されてゐることを感じたからであつた。それはまことに不健全な心理状態であるといはれるかも知れない。しかしそれは彼ばかりの不健全さではなく、時代精神の状態であり、彼がその不健全さを明確に透察し、大胆に表現したのである。……かくして書いて見ると、数多い矛盾や破綻に出遇ひ、ロレンスは理解し難く、同感するに困難な作者であることをつくづくと感じた。このことはロレンスに対する諸家の批評がまちまちであつて、帰着するところなき事実からでも想像できる」とあるところよりすれば、20世紀の英文学を研究する為にはロレンスの作品を読むことがかなり重要なることといふべきである。
[22] ロレンスの作品中で「チヤタレイ夫人の恋人」が如何なる地位を占めるべきかについて考察するに、ステイヴン・スペンダア著「破壊的要素」(証56)には「彼は自己自身の姿を取る時よりも、それ等の作り変えによつて彼が予言者としてもつと効果的な姿を取る時、その作り変えが宿命的な働きをすることが多かつた。単純な作り変えの例は「チヤタレイ夫人の恋人」であつて、その作品の中ではロレンスは森番となり、その森番がロレンスの福音を喋るのである」とあり、エー・シー・ウオード著「1920年代」(証58)には「彼の生涯抱き続けた一つの希望は、現代人の性に対する態度を変革させるということにあつた。その希望は晩年には一層強くなり「チヤタレイ夫人の恋人」に於いて、これまで彼の希望を拘束していた因習の束縛を遂に放棄したのである。この作品は美しく、かつ火のやうに清潔ではあるが、かなりの程度まで彼の目的を失敗させたものである」とあり、前出「西洋文学辞典」には「ロレンスは虹、恋する女たち、で男女の完全なる性生活の理想を伝えようと努力し、慣習的な堕落した現代の両性関係を否定して、大きな生命の根源に到る性の途を説いた。……この思想は精神分析の方法を用ひて発展させられる。即ちそこで彼は完全なる性関係の上に異性同志の結合による新しい社会の建設を説く。かくして彼は新しい社会の建設を主張する予言者の姿となつた。……そこに彼の新社会建設の夢が現実の壁に面して破れる情炎をうかがうことが出来る。かくして彼の関心は再び男女関係を通じて宇宙生命の根源に接するといふ神秘主義に戻る。……病気のためイタリアに暮すようになつた。その間に彼の傑作「チヤタレイ夫人の恋人」が書かれた。ここには彼の性の哲学が、それに適切な背景のもとに夢のように展開する」とあり、証人斎藤勇は「チヤタレイ夫人の恋人」はロレンスが晩年に苦心して書いた力作であるが、傑作ではない。英国の小説批評家のジヨン・ビーバースはその著書で「これはロレンスの最悪の作で、どんな下らない小説家でもこんなものを書いて足れりとはしない」と酷評し、詩人で批評家のフレーザーはその著書で「これは彼の最善の作ではない。勿論それは多分彼の一番悪い作品である」と評し、小説家で批評家のリチヤード・オールデイントンはロレンスと親交があり、深い同情と共鳴を持つているのであるが「英国の有名人辞典」中に「これは非常な力作ではあるが、多くの点で彼の著作の内最も不満足なものである」と書いて居るので、英国の批評家もこの書が傑作であることは容易には認めないのである。その批評は賛否共に両極端であると供述し、証人土居光知は、この小説は先の暗いメランコリーなものであるが、ロレンスが死を考えて最後のギリギリのところで生命の温さを持たうとして想像の上で書いた小説である。これはロレンスがのつぴきならぬ気持で真面目に書いたものと思ふと供述し、証人吉田健一は、ロレンスの傑作は「チヤタレイ夫人の恋人」と「書簡集」である。前者はロレンスが自分の窮極の思想を語らうとしたもので、後者より価値が高い。即ちこれは自分の思想の姿全体を現わす為に書かなければならぬと思つて書いたのであると供述し、証人福原麟太郎は、ロレンスは精神分析の方法を用ひたこと、人間性及び社会生活に対する反抗、革新という態度を持つたことがその特徴である。その作品は思想もであるが、美しさの点から位置を高めたのである。「チヤタレイ夫人の恋人」はロレンスの作品中で一番よいものかどうかはわからないが、ロレンスの文学に対する考え方や、人間及び社会に対する考え方の総決算である。私の著書である「英文学入門」の巻末の英文学百選にはロレンスの作品として「チヤタレイ夫人の恋人」は挙げなかつた。この小説は英文学を専攻する上に欠くべからざるテキスト的のものとは思わないが、ロレンスを勉強する人や近代英文学を研究する人は読むべきものと思ふと供述し、前出「大英百科辞典」にはこの書はロレンスの代表作品として挙げていないのである。従つて、この小説をロレンスの傑作であるとすることは一般的とは云ひ得ないと思われるが、英文学殊にロレンスを研究する人々にとつては価値あるものとして遇せらるべきものであることは認め得るのであるから、本書は英文学殊にロレンスを研究する人々より奪ふことは出来ないと云ふべきである。
[23] 然るところ、本件訳書はかゝる研究家にのみ与ふるものとして出版せられたものではなく、一般読者に対して無制限に購読せしめんとして出版せられたものであるから、英文学やロレンスの研究家以外の者に対する関係について更に考察しなければならないのである。
[24] 依つて当法廷に於ける証人中英文学を専攻し、ロレンスを研究したもの以外のものについて本書を如何様に理解したかについて見るに、証人曽根千代子はロレンスは本訳書の巻頭で「現代は本質的に悲劇的時代である。我々がこの時代を悲劇的なものとして受入れたがらないのもその為である」「如何なる災害がふりかゝろうとも我々は生きなければならない」と書いて居るが、これはロレンスが自己の体験を観念として説き起して居るので非常な確信を持つた性の意識者として素晴らしいのである。ロレンスは性の意識を高揚しつつ機械文明に対立させようとしたもので、この小説の描写は全体として生々として居り、花が開くというような美しい自然の表現である。私は1年前から性は恐しい、汚いものと思うようになり、自分の存在がつまらなく思えたので、何とかしてこの考えを直そうと考え出した頃に本訳書を手に入れて読んだところ性は美しいものであると思ふようになつた。私はロレンスの考え方に同感して居るが、今後もロレンスの思想が私の考え方の根本になると思ふ。この書の性描写の部分は花を構成している花弁の一枚々々をはつきり書いたというように受取つたので、それがないと花の幻影はわかつても花を構成している雄蕊、雌蕊の存在がわからないと同じであると供述し、(調書の供述記載である。以下供述と略称する)証人吉田精一は我が国の古典である逸著聞集、狂雲集、西鶴もの、犬つくば、末摘花、古今著聞集、春色梅暦などに比すれば、本訳書の性描写は態度が真面目であり、表現も具体的ではなく、やゝ抽象的、表象的で一種の詩的な美しさを感ずる。従つて性的描写から露骨さを感じないし、或部分は具体的に描写してあつたが、特別な感じは持たなかつたと供述し、証人野尻与顕は本訳書は性科学書としてもよい本であると思ふ。本訳書にはヒユーマニテイが躍如としている。本訳書中のクライマツクスは下巻第128頁以下即ち検事指摘の第八番のところである。ここは芸術的にも、内容的にも一番よいところであると思ふ。私はここを読んで肉の感じは全然なく、すぐれた芸術品を読む以外の何ものもなかつたと供述し、証人峯岸東三郎は私は本訳書を読んで人間は自然でなければいけないという純粋な人間から生れて来た思想を感じた。私は前に三笠版のものを読んだが、三笠版になくて本訳書にあるところの性描写は非常に露骨ではあるが官能に直かに訴えることはなく、極めて知的に、科学的に、心理的に書いてあつて不真面目なものを感じさせないのであつたと供述し、証人岩淵辰雄はこの書は戦争犠牲者をめぐつて人間生活の葛藤が性の面で強く取上げられて居ると思ふ。著者は意図や思想について色々と書いて居るが私はそういう思想的な面を検討する意味で読んだのではないから作者の意図について印象は特に持つていない。と供述し、証人金森徳次郎はロレンスの本訳書での見解は特殊なものであり、その倫理的思想は現在の日本に於いては特殊な着想の下に照されて居り、その性に関する描写は日本の通常の標準に照すと一種の抵抗意識、眉をひそめる、心中にシヨツクを受けるような面を含んでおる。この書には文学を云ひ現わす為に必要な、適切な分量を越えた性的描写が多い。かくまで迂余曲折した描写をしなくても、もう少し筆を縮めても小説全体の筋は可なり明瞭に現わせると思ふ。本訳書の性描写は12ケ所もありその中にはこういう行き方でなければ文芸物になり難いという点もあり、全体を通じて注意周到に出来て居るに拘らず、筆が行き過ぎて居るとの感じを受けるのである。その性的描写は露骨であるというのではなく個人の性的羞恥心を深く刺戟するものであると供述し、証人東まさは本訳書の性描写は余りにも露骨で不愉快を与える程度である。ロレンスは美しい夫婦愛は霊肉一致したものである。即ち肉体と思考が一致するところに生活の意義があるという新しい性道徳を掲げて居ると思うが、その意図はあれほど露骨に書かなくても表現されると思うと供述し、証人森山豊はこの小説は一言で言えば情ないように感じた。というのは人間生活に於ける性慾と性交というものを余り過大に取扱つて居る。即ち人間の動物的な面だけが強調され過ぎている。ロレンスは結婚は愛する者が相互理解の下に精神的なつながりを根底に持たねばならぬ。そして家庭の幸福は精神と肉体の両面の調和或は合一ということが基礎であるということを言わんとして居ると思うが、それを現わす為には検事指摘の12ケ所の性描写は必要はない。それがなくてもロレンスの言わんとするところはわかるのである。却つてその性描写がある為に一般に受ける感じはロレンスの狙うところを外れて性描写としての印象が強くなり、全体の目的とする印象が薄らぐのである。その性描写は科学書と異つて文学的に表現してあるので感情に訴えることが多く、読者の性慾を強く刺戟すると供述し、証人阿部真之助はロレンスは性慾を軽蔑したり、罪悪視したりすることはいけないのであつて、もつと生物として、人間として大切なものであるということを強調したと思う。この考え方は全く同感であるが、これは驚く程新しいものではなく、むしろ陳腐で、そう深味のあるものではない。このロレンスの考え方を現わすのにこの書の書き方は成功していないのである。作品の意図は認められるが、手段としての表現は不満足であり、性慾を行う上での社会的な制約即ち時、所、社会的条件を無視した場合が多いのである。その性行為の描写は医学的のものとか、所謂春本でないと書かないような描写がしてあり、私のように春画、春本を読んだものでも生理的刺戟を感じた。春画、春本でかなり訓練されていた私が相当薬が利き過ぎたと感じた位に繰返し、無用に近いまで性慾の重要性を説いているのであると供述し、証人沢登哲一はこの書の性的描写のところは著者としてはあそこがなければいけないと思つたであろうが、あのように細かく露骨に書くことは賛成出来ない。その性描写は洗練された言葉で卑猥感を持たせないように努力したと思われるがその描写は細かくて、猥本とスレスレの線をうまく渡るような苦心が見えるのである。日本の古典である西鶴や春水のものは言葉や描写が余程洗練されていて、簡潔で余韻もあると供述し、証人森淳男は本訳書は二度読んだが2回目の時は丹念に読んだので前よりも刺戟が強く、凄いものだと思つた。この書のテーマも嫌いだが、それにも増して性の技巧が微に入り細を穿つて、長く書いてあるので50才にもなろうとする私も相当刺戟が強かつた。これは最近の所謂カストリ雑誌よりもひどい描写であると供述し、証人宮川まきはこの書の性描写のところは母親の立場から若い者に読ませることは賛成出来ないようなものであつた。所謂カストリ雑誌はみだりがましく書いてはあるが、或所まで行くと終りになるのに、本訳書では性交の描写が初から、或はそれ前から終りまで細かく、長く描写されて居り若い人に読ませたくないほどのものであると供述し、証人宮地直邦は本書の性描写は性交やその周囲の状況を具体的に一種の感情的な文字を入れて表現されて居るのであつて、現代の性道徳観念に背馳しているのである。性行為の感覚を余りにも具体的に描写し、そこに経験感情が入つて居る為に読者を刺戟するのであると供述し、証人駒田錦一はロレンスは本書を真面目な態度で書いたもので、単に挑発的な意図で書いたものでないことは認められるが、青少年に読ませることは好ましくないものである。その性描写は一般社会常識に照してかなり強い表現であるから、青少年が読めば性慾を刺戟されて、これを再現したいとの衝動にかられるであろうと思われたと供述し、証人児玉省は本書の英文のものを12、3年前に読んで、その性描写に強く性慾を刺戟されたのであるが、今度本訳書を読んで、以前より多少は減じたがそれでも相当の刺戟を受けたと供述した。
[25] この様に本訳書を読んで理解するところが、異なるのは何故であろうか。この点について桑原武夫著「文学入門」(証64)には「人間は絶えず欲求或は興味、関心によつて環境即ち客観世界に働きかけてこれを変化し更に人間もそれによつて変化させられるので人間と環境との間に相互的変化作用が行われて一応の均衡状態に達したときそこに人間は一つの経験をするのである。この経験が完了するまでおし進められて欲求は満足するのであつて、この経験が完了したとき作品が生れるのである。作品を書くことは主観的なインタレストを客観世界との連関の内におくことであり、読者はこの作品を読むことによつてインタレストを感ずるのである。この様なインタレストは読者が作者と共通な基盤の上にあり、作品が伝達可能即ち作品の精神が読者に働きかけて影響を与えるものでなければならぬのであつて「共通なもの」を読者が持たぬときは、それによつてインタレストを覚えないのである」とある。金森、ガントレツト、渡辺証人が本訳書を読んで共感を覚えないのは、ロレンスとその基盤を異にして居る為と思われ、土居、斎藤証人が専門的立場からロレンスの思想を知悉して居乍らも本訳書を読んで共感し得ないのも「共通なもの」がないからであると思われる。ロレンスは「誰が何と云つても、この小説が今日の人間に必要な、真摯な、健全な作品であることを私は断言する」と強く宣言して居る。然し乍らエドウイン・ミユア著「一九一四年以後の現代」(証57)には「ロレンスの性に対する態度はたしかに病理学的なものであつた。それについても彼は時として鋭いことを云つたのは事実であるが彼が人生のことを一般問題として論じた時には正常な人生の構成要件を彼は省略した。……彼の作品の本質は照明であつた。だが彼は自分の光明を、自己製の哲学によつて暗くし、制限した」とあり、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(証58)には「チヤタレイ夫人の恋人に於いて、これまで彼の希望を拘束していた因習の束縛を遂に放棄したのである。この作品は美しく、かつ火のように清潔ではあるが、かなりの程度まで彼の目的を失敗させたものである。若しロレンスが信じていたように大多数の人々が、何代も続いた生命力の間違つた指導を受けたために性的に病人になつているものならば、それを治す為には道徳的治療の為に一時代かゝるであろう。だがロレンスは公開的な論議をして説明的に行うという気持にはならない。また恢復期の病人だと考えて、その説教を中止しようともしない。彼は道徳的病気と道徳的健康さとの中間の存在を見て取らない。チヤタレイ夫人の恋人を一般に販売するのは疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮なことである。……この小説の中で最も思わしくない点は、彼の性の論理を説明する為に、直截的な恋愛をテーマとして選ばなかつたことである。偶発事件の為に中心になる主題からそれることがあまりに多い。……これは、ロレンスの主張する肉体の愛の公然たる楽しき正常さを曇らすものである」とあり、中橋一夫著「二十世紀の英文学」(証13)には「ロレンスの神秘的な哲学のすべては、ロレンスのエゴイズムの紛飾にすぎないように思われる。彼の哲学を展開しているその作品を読むことによつて人々は既成の秩序の否定に共鳴する。彼らはこれに代る新しい秩序をロレンスに期待する。そして一見したところの彼の生命の哲学はこれを与えてくれているようにみえる。しかしそれはロレンスのエゴイズムの姿をかえた出現にほかならぬ。大衆はそれが彼等の求める秩序でないことを直観し、それが疑惑と不安として吐露されるのである」「ロレンスの文学は夢の世界であつた。その哲学も、宗教も、現実とは一応きり離された彼の夢であるということは、その作品を読むさいに忘却することを許さない」「チヤタレイ夫人の恋人に於けるロレンスを強くとらえていたものは夢であつた。現実の問題はしばしばうかがわれるにもかゝわらず、この作品は彼の夢の世界といわなければならぬ」とあり、証人福原麟太郎はこの書を戦後の日本の社会に与えたいと考えて敢然と飜訳した伊藤整の勇気に敬服した。フランスでは完本が自由に出ているときいていたので日本もフランスの様な国になつたのかとも思つた。広く世界の文学史上に於いてロレンスに似通つた作家は知らないし、「チヤタレイ夫人の恋人」に似たような小説も知らないと供述し、証人野尻与顕は私は性に関する内外の著書を沢山読んだのであるが、本訳書より詳しく性行為を書いたものを見たことがないし、文芸書でも本訳書ほど性行為を赤裸々に詳しく書いたものはなかつたと供述し、証人斎藤勇は、「ロレンスは性慾について行き過ぎの考を持つて居るから本書の性描写はない方がよいと思ふ。T・S・エリオツトはその著「異教の神々を求めて」の中で、ロレンスは性慾について病的であると書いて居り、アントニイ・ウエストはその著「D・H・ロレンスの評伝」中で、この書のことを、芸術品として受入れることの出来ないものを書いた。芸術作品はたとえ作者と意見を異にして居るものが読んでも肯くことが出来るが、本書の場合はロレンスと反対の人はこれを受入れて楽しむことは出来ないと書いて居る」と供述し、証人土居光知は「ロレンスは感情的な恋愛を極力無視しようと考えたのでこの点が彼の恋愛観の特異性である。彼は女性を、生命の温かさを与えてくれるものとして書いて居るがこの小説は彼が想像の上で書いたものであつて愉快なものではない。この書はロレンスに興味を持つており、ロレンスと同じ問題を悩んで居る人々のみが共鳴するものである」と供述しているところからすれば「チヤタレイ夫人の恋人」は検事指摘のような性描写がある為外国に於けるが如く我が国に於いても容易に一般の共感を得られるものでないと謂わざるを得ないのである。このことは「D・H・ロレンス書簡集」(証54)の内1928年3月5日附マルテイン・セツカー宛のものには「この小説は幾分革命めいているのです。やゝ爆弾じみているのです」とあり、同年3月17日附ロルフ・ガーデイナー宛のものには「これは一個の爆弾です。生活する人間に取つては大きな刺戟です」とあり、本訳書のあとがきに、フリーダーの言として、「僕はこれを出版したものだらうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪をしか齎らさないものか知ら?」とロレンスが語つたとあることよりすれば、ロレンスもこの小説は一般的には容れられないものであり、本訳書の序文にある如く、「わづかな場所にこの作品の範囲は限られている」といふ特殊なものであることを知つていたことによつても裏付けられるものであるといふべきである。
[26] 証人波多野完治は、相良守次著「心理学」(証119)の記述を引用して書物の記述には一般的に「素地」となるところと、浮いて「図柄」となるところとあるが、「素地」と「図柄」とが同じ広さ、条件であれば、自然の状態で両者は互に転ずるもので、これを反転作用といふ。本訳書はロレンスの性の意識を新にせんとして書かれた小説であるから、性の意識を明らかにせんとしたところが、「図柄」になり、その他の部分は「素地」となる。即ち個々の描写は読むに従つて「図柄」として入つて来て積重ねられて行くのであるが、これはロレンスの思想をはつきりさせる手段として提供された「図柄」であるから最後にはロレンスの性の哲学が「図柄」となり、その他のものはこれを支えるところの「素地」となるものであるから、性的描写の部分は一時的には「図柄」となるが段々と「素地」の方に入つて行き「図柄」として残ることはない。従つてこの部分から猥褻感を受けることはないのであるが、初めから猥褻なものであるとの先入感即ち「素地」の下に読むと性的描写の部分から猥褻感を受け、又この書の「子宮」などといふ表現に刺戟されてロレンスの哲学に反撥を感じて読むと哲学から出たところの表現を「素地」にする為に性的描写の部分を「図柄」として受取り、これによつて性的興奮や猥褻感を抱かなくても不愉快を催すのである。従つてこれらの人々は「図柄」と「素地」とを反転して居るのであると供述した。然るに同証人の供述によれば、広さや条件が異つて居るときは小さい方やまとまつた条件のものが「図柄」となるのであり、広い方は「図柄」となり難く、自然の状態でこれを見れば反転現象は起り難いのである。又内容の性質から見て同じ部分が集つているときはその中から特定のものを「図柄」として引出すことは自然の態度では出来ないので積極的に働きかけることを要し、これを注意作用といふ。右の場合にも同種の材料を扱ひなれて来ると(音楽家が新しいシンフオニーの中から主題をききとるようなこと)先行の経験によつて容易に「図柄」として引出し得るにいたるのであるといふのである。よつて、本訳書中検事指摘の性的描写の部分の広さ、条件について考察するに、証人吉田健一はロレンスは性本能は人間が最も誠実を強いられる事実であるから、その性本能まで掘下げて、その実感に従つて精神を健全に再建するといふ画期的な思想をもつて居り、「チヤタレイ夫人の恋人」はその思想を完全に展開したものである。ロレンスの思想は性本能から出発した独創的なものであるから、性交の描写はなくてはならないものである。この書から性描写の個所がないと作品としての価値がなくなるので、検事指摘の12ケ所を削除すれば残部は全然意味がなくなり、切り離した12ケ所からは断片的ではあるが、今まで曽つてなかつたような最高の文学を見ることが出来るのであると供述し、証人土居光知はロレンスは性交が行われた後そこからやさしみが出て来るという恋愛観であり、彼は感情的な恋愛は極力無視しようと考えていたのであつて、これが彼の恋愛観の特異性である。この小説は性交のところが中心で他はこれを導き出す為のものである。従つて性的描写はそれがよいか悪いかは別としてエツセンシヤルな部分であるからこれがなければ興味索然たるものとなると供述し、証人波多野完治は「本訳書の特色は性交時に於ける男、女のオルガスムの遅速を書いたことである。ロレンスは自我と他我との関係即ち他我の認証の問題を探究したのである。近世の哲学では他我の認識といふ問題は重要であつたが、ロレンスはそれを小説といふ形で捉えようとした。オルガスムの遅速は男と女とが感情的に融和することの表現である。ロレンスの性の思想は性描写を除いてはわからないと供述したのであつて、その性的描写は小説中での特色的部分でありその思想を解すると否とを問わず、読者に強く印象づけられるものである。
[27] 波多野証人の供述によれば本訳書中の性交描写の部分は全部で40頁あるといふのであるから、その部分は他の部分より纒つたものとなつて居るわけである。証人森淳男は本訳書の性描写は性の技巧が微に入り細を穿つて、長く書いてあり刺戟が強かつたと供述し、証人宮川まきは「所謂カストリ雑誌の性描写はみだりがましいが、あるところまで行くと終りになつているのに、本訳書では性交の場面は初めから或はその前から終りまでズーツと細かく、長いことかゝつて書いてあると供述した。これは知覚に於ける幾何学的錯視図に於ける分割錯視の法則(等しい長さ、等しい広さのものの内その一つを多数に区切ると、区切つた方は分節が多くなつて他より長く、広く知覚される)であつて、性交の描写が詳細に、長く記述されて居るとその部分に於いては強い印象を受くることとなるのである。
[28] 以上の如くであるから、本訳書を読んだ場合にはロレンスの思想を知つて居ると否とに拘らず性描写の部分を「図柄」として知覚し印象にとどめることは自然であり、これを「図柄」として印象にとどめず昇華し得た者は波多野証人が供述した如く、「先行の経験」によるものであると解すべきである。このことはロレンスの研究家である吉田健一証人等が本訳書から直ちにロレンスの性の思想を汲みとり、心理学の研究家である波多野証人が精神衛生学の欲求不満の解決の方法がイギリスの社会状態と結びついて生き生きと書かれて居ることを知つたことにより裏付けられる。而して性を汚いものとし自らの存在がつまらなく思えたので何とかして考え直そうと思つた頃に本書を読んだ曽根証人や作者の意を汲んでそれを自分の心の糧にしたいと思つて読んだ峯岸証人が性描写から性的興奮すらも受けていないことは「注意作用」により右図柄を反転して居るものである、と思われる。
[29] 前叙の如くロレンスの性の思想は画期的、特異的のものである為と、それが小説の形に於いて象徴的に記述されて居る為に哲学書に於ける如く概念的に汲みとることは困難であつて、本訳書の性描写の中には「探し絵」的(自己の形をつくつている輪廓線が他の形の輪廓線と一緒にまとまつて自己の姿は解体されておる。その姿を見るには注意作用が要る。)にその思想が記述されて居るのである。従つて性描写の部分を「図柄」として知覚した読者が更にそれよりロレンスの性の思想を汲み取ることは極めて困難であるといわねばならぬ。このことは、証人福原鱗太郎はその著「英文学六講」で「書中には非常に露骨な描写があり、英国では削除版が出たが、その削るべき所などはあつてもなくても大したことはない」と書いて居るが、当法廷では、露骨な性的描写は作品全体から見て不可欠のものであり、それを削除すると内容はつまらなくなり作品全体が損われると供述し、伊藤被告は三笠版の後書に「この小説は版行されるあてを作者が持てなかつた程の神聖な露骨さで有名なもので、英国のセツカア版では危険な個所だけをとり去つたものである。この版は原著者の意思は満たされていないものであるが、ロレンスがこの小説で語らんとしていた思想はこの版で尽されている」と書いて居るが、当法廷では、この書では作中人物が或経験によつて思想が変化し、実生活も変化するように書いてあるから性描写の部分がないと如何なる事情で変化したかといふ岐路や精神と肉体が同時に変つて行くことがわからない。従つてそれが重大な盲点となり、本書の理解に支障を来たすのである。性的経験を持ち、それを土台にして物を考える力のある人は三笠版でも何故変化したかを類推出来るが、経験のない人が読んだのでは肉体と精神と共に尊重すべきだといふ漠然とした結論しかわからないと思ふ。ロレンスの思想は性描写の中に一番鋭く現われているので、その思想は性描写と切離せないのである。私の考えがこの様に進歩したのは社会が変化したこと、年をとつてよくわかるようになつたこと、研究を重ねたことに原因すると思ふと供述したのであるが、右両名とも多年英文学を専攻し、ロレンスを研究して居るものであることに徴しても充分に窺知し得るのである。この点について波多野証人は、本訳書を読んで受取るもの即ち「図柄」は「文学形象」と呼ぶものであり、読者は読んで得た文学形象を更に反省して、その哲学を汲みとるのである。この文学形象には四つの層があるが、それは(一)文学の意味を掴える(二)その意味を通じて筋とか人物の動きを掴える(三)全体の構想を掴む(四)全体の構想がどういふ意図で使われておるかといふことを掴むのである。大体の読者は第一、二層で止まるのであつて、優れた人でもせいぜい第三層までしか掴めないと思ふ。ロレンスがこの小説で現わそうとしたのは第四層であつて、そこまで掴む読者もあると思ふ。ロレンスはそれを目的としたのであつて、最近のロレンス研究の傾向は第四層を掴むところにある。イギリスの「世界評論」紙上でハーバート・リードはロレンスの伝記の批評として「ロレンスは今まで人間として余りに批評され過ぎた。併しロレンスの本質は半哲学者、準哲学者ということであるから思想を中心にして読まねばいけない」と記述し、フランスの「批判」紙上でメイユはロレンスの小説はすべて哲学的小説であると書いて居る。従つてロレンスの小説の「図柄」を掴まえようとすれば第四層を読みとらねばならぬと供述した。前出「文学入門」には「読者の大多数は作品が面白い即ちインタレストを感ずればこそ強制もされないのに拘らず作品を読むのであつて、修養とか教養とか趣味の向上の為に読む人は多くはない。読者は面白さを感じた後に描写がすぐれているとか、世界観が新しいとか、思想が深刻であるとかいふようなことに興味を覚えるのである」と記述されている。而して証人沢登哲一は本訳書は訳が生硬で読むのに退屈するものである。今の高等学校の生徒には本訳書の描写はよくわからない。その意図は大学生即ち高等教育を受けた人でないとわからないと思ふし、年輩の人でも読書を続けて居る人でないとわからぬと思ふと供述し、証人斎藤勇は本訳書は原文に忠実に訳したもののようであるが、話の筋だけならば新制高校生でもわかるが、ロレンスの性に関する考え方や人生観を理解することはなかなか出来ない。ロレンスの意図と本訳書の記述とは必ずしも一致していないから、これを読んでその意図を酌みとることは誰にでも出来ることではなく、ロレンスの作品を色々と読んでいる人でないとむづかしいと思ふと供述し、証人吉田健一は本訳書は英語の先生的立場で訳してあるので、難解であり、固さがあると供述し、証人東まさは本訳書はわかり難い本であるから高校の生徒は読んで一応は理解出来るのであろうが、性的な予備知識のない者では全体的なロレンスの思想を理解することは出来ないと思ふと供述し、証人駒田錦一はこの書はかなり難渋で読むのに辛棒を要するものである。この書の言葉はむづかしくて読むのに骨が折れて一気に読み切れなかつた。このむづかしさは言葉自体や表現や文章についてそうであり、その意味がとりにくいこともあつた。本訳書は長い上に難渋であるから素養のない人は序文からズーツト読むことは骨が折れると思ふ。私は哲学を専攻したので性描写の一部にギリシヤ思想の現われと見られるところがあつて理解出来たが、そのように読む人は非常に限られた人であると思ふ。この書は旧制中学卒業程度の学力がないと理解出来ず、新制高校を卒業すればかなり理解出来ると思ふと供述し、証人波多野完治は本訳書は哲学的に非常に高度のものであるから高等学校卒業位までの人にはなかなかわからないと思ふ。性が重要であることはわかつてもどのように重要であるかがわからないと思ふ。ロレンスは序文で「凡ての女は自分が雇つてゐる猟場の番人の後を追ひ駈けなければならないなどと私は言つてゐるのではない。誰の後も追ひ駈ける必要があるなどと言つてゐるのではないのである」といつており。この小説は一つの象徴だと書いて居るのであるが、このことがわかるのは大学生以上のものであると思ふ。ロレンスの思想は哲学書の様に概念として捉えるように書いてないから、一般の読者は直感的に漠然と掴んで居り、それが第二層の文学形象であると供述し、証人峯岸東三郎は私の周囲の農村青年の学力からすれば中学を卒業すれば一応は読めると思ふが高校を卒業しないと理解出来ないと思ふと供述し、証人土居光知はロレンスは一面人生に対する希望を失つて唯一の生命に対する暖かみ、喜びを追及しようとし他面その当時の社会の腐敗を根本的に建直さねばならぬとの考えからこの小説を書いたのであるが、その意図を十分に汲んで理解して読む人は非常に少いと思ふ。大体の人は極く一般普通人が感ずるようにただの性の書として読み、春本として読まれる危険は相当にあると思ふ。本当にロレンスに興味を持ち、同じ問題を悩んでおる人だけが読んで共鳴を感ずるものと思ふと供述した。
[30] これらのことによれば、読者の多数は本訳書を読んでその性的描写を「図柄」として受取るのであり、更にその「図柄」よりロレンスの思想を汲みとるまでには至らないのが普通の状態と思はれるのである。然るところ沢登証人は少数の生徒に教育的な立場から読書指導をして、共に勉強するのであれば意味があると思ふが、それには生徒や教師その他いろいろの条件がうまく行かなければ出来ないことであると供述したのである。このことからすれば、条件にして本訳書を理解するに適するものであれば、その性的描写により刺戟を受くるも、理性によりその性的興奮を制御し得ないような結果を招来せしめない場合もあり得るものと解すべく、本訳書はかかる条件下の読者に与うることは有意義であるとしなければならぬ。従つて本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるものであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重といふべきもの)したものといふべきである。
(ハ)本件訳書と一般読者
[31] 証人波多野完治は相良守次著「行動の理解」(証120)を引用して読者が書物を読んで猥褻感を受ける場合を分析して、その猥褻感(B)は読者(P)と書物並に環境(E)の函数(f)である(B=f(P・E))と供述した。本訳書の如く僅かに猥褻文書たることを免れておる文書は読者並環境の変化により、猥褻文書となることも考えられるので、その点について考察する。前出「文学入門」には「日本の現代文学の読者の大部分は社会的人生的に未経験なる青少年によつて占められておる」とあり、毎日新聞社が昭和25年9月中旬に文部省統計数理研究所の協力を得て全国に瓦り20歳以上の男8839人、女9404人、小売書店300軒について、層別ランダム抽出法により行つた「読者世論調査」(証16)によれば20歳以上の者で読者をしているものは雑誌については37・8%であるが内20歳より29歳までの者は17・2%であり、書籍については15・8%であるが内20歳より29歳までの者は7・5%であるから、読書を為すものの内20歳より29歳までの者は半数に近い多数であり、若しこれを20歳未満のものについても調査すれば驚くべき多数となることは明らかである。従つて本書が如何様に読みとらるべきかについては青少年を主なる対象として考察しなければならないのである。その学歴について見るに前記調査によれば中学卒業者(新・旧中学、新高校)は半数以下の多数で、小学卒業者と高専卒業者以上は夫々同数位であるから、そのほとんどは中学卒業者以下であると言ふべく、従つて難解なる本訳書は波多野証言によつて明らかである如く文学形象の第二層を掴む程度に読まれるのが通常であると認むべきである。このことは曽根証人は文学を愛好し相当数の文芸書を読了して居り、その読書態度も極めて真摯であるが、本訳書を読みその性描写の部分を「花を構成している花弁の一枚々々をはつきり書いたというように受取つたので、それがないと花の幻影はわかるが花を構成している雄蕊、雌蕊の存在がわからないと同じことになる」と供述したが、11ケ所の性交の描写については「大体同じものだと思つた。ロレンスは性描写が1ケ所であると暗示力に富みそこに目をつけて読むが、沢山書いてあると赤裸々となつて好奇心を起さずに読み、性の実態がわかると思つて何度も書いたと思ふ」と供述したのに徴すれば、ロレンスが「この小説は立つている雌しべと雄しべを持つた満開の美しい花である」(書簡集中1928年3月13日附ウイター・ビナ宛のものー証54)と書いた意味を理解し得なかつたものであり、又農村に於ては非常なる読書家であり、文芸愛好家である峯岸証人は作者の思想を読みとるといふ態度で作品を読み続けて来た。三笠版では性に関する露骨な描写が削除されておると思つたが、その為ロレンスの言わんとしていることが酌み尽せなかつたので、完訳の本訳書を読んだのであると供述したが、本訳書の性描写については具体的だという感じを抱き、そこがなければならないと思つたが、検事指摘の12ケ所の一つ一つがどのような意味を持つているかは考えなかつたと供述したことからしても窺知し得るのである。
[32] 次に戦後の社会状勢について考察する。前記の如く日本に於ける読者は青年層がその大部分であるから、その点に留意して考察しなければならぬ。証人石井満は戦後の我が国ではエロ・グロの出版物が多くなり風紀上好ましくない現象を呈した。良書もこのエロ・グロ出版物に押されて居り、ついに良書もエロ・グロの文章を盛らなければ売れないという状態になつた。その後出版綱領を作つて不良図書を排除することとし、それによつて最もひどいと思はれたものについて善処方の勧告を為したが、業者はそれに応じなかつたし、当時の社会としては取締の手をつけると却つて売れるといふ状態であり、又或種のものでないと売れないといふ傾向に引摺られた業者もあつたので、その後、現在まで自主的の取締はしないのである。所謂カストリ雑誌では10万も15万も売れたものであつたが段々と売れなくなつて来て居る。この様なものが売れるのは社会が混乱し、人心が乱れていたからであると思ふ。日本の読者は乱読で何でも手当り次第に読むという傾向が濃いのであるから読書指導が必要であると供述し、証人岩淵辰雄は戦後性に関した所謂パンパン雑誌が沢山出たが、これは戦争中に抑圧されていたものが、戦後適当なはけ口を失つた為、民衆が政治、経済、生活などに失望した時に起る共通した現象であると供述し、証人金森徳次郎は現在の日本では程度の低い、風紀を紊すような出版物が出ていて非常に顰蹙すべき状態であるが、これは社会の道義的な力では如何ともし難いことであると供述し、証人阿部真之助は戦後の日本では好色的な出版物が横行して居るが、これは憲法上の出版の自由に乗じたものであると思ふと供述し、証人宮地直邦は戦後所謂カストリ雑誌が市中に氾濫して居り、昭和26年1月より7月までの間に猥褻文書の疑で検挙したものは、68種もあり内7種は単行本であつたと供述し、証人駒田錦一は戦後は所謂カストリ雑誌が多数に出版され、青年達も多くそれを読んで居ると思ふと供述し、証人福原麟太郎は戦後の日本には所謂カストリ雑誌が氾濫していたと供述し、証人波多野完治は今日の日本では所謂カストリ雑誌とかホテルの広告などの為に性に対する関心が不当に刺戟されて居る。そのカストリ雑誌は2、3年前頃は大人も青少年も多く読んでいたが、現在では余り読まないようである。このようなことで成人もであるが、一番危険なのは青少年であつて、性の乱費の傾向を生ずるのである。戦後の混乱の中でも幸に青少年は心身を完全に消耗し尽さない内に、社会が再生の方向に向つたので、青少年も健全化の傾向をとつて来た。然し現在でも警視庁その他の必死の努力でやつと青少年の性的な心身の消耗が食い止められて居る状態であると供述した。押収に係る戦後的出版物(証42乃至44、50ノ1乃至17、51、87ノ1乃至7、88乃至95ノ2)によればその装幀、挿絵は極めて煽情的で、その記述も露骨或は擽り的な物でいづれも煽情的である。従つてこれを購読する者は勿論店頭に於いて披見し或は暼見した者は、公然と街頭に貼出されてあるところのこの種出版物の露骨煽情的なる広告、新聞紙上に掲載されたる内容目次の広告を暼見することと相俟つて性的刺戟を累加されて居るものと認められるのである。
[33] 而して証人宮地直邦の供述により認められる如く青少年の性的虞犯化の原因の一つとして映画は重視せらるべきものであるところ、証人渡辺★蔵の供述によれば映画界に於ては映画倫理規程なるものを作り、映画の自主的審査をなしたのであるが、之が実施には強制的な面がない為に実効を十分に挙げ得ず、時には社会の批判を甘受しなければならぬような作品を世に送つたような実情であることが認められる。
[34] かかる事情に加えて、証人宮地直邦が指摘したる如く戦後街娼は跋渊して居り、証人宮川まきの指摘したる如く戦後の性に対する考え方は乱れて居り、証人福原麟太郎は戦後の社会思想は非常に混乱して居り、性のことは重要な社会問題となつていると供述して居るのであつて、戦後は性的不良出版物が多く現われ、街娼の出現等も加つて性に関する考え方は乱れて居り、思慮の不十分なる青少年に於ては性的衝動について理性による制御力を著しく鈍化せしめられて居るものと解すべきである。このことは証人東まさが虞犯少年は恋愛小説が好んで読んで居り、性行為についての反省力を持つていないために、性行為を羞かしいことでないと思ふような傾向にあると供述し、証人宮川まきは青少年との座談会を開いたことがあるが性に対する考え方がルーズになり刹那的に、性を粗末に取扱つて居るようであつたと供述し、証人宮地直邦は戦後に於いては少年は性的図書を乱読して居るようであり、多くの少年が自涜行為に走つている傾向であると供述し、証人駒田錦一は青少年は性的衝動が強いのであるが、戦後の日本では精神を失つて肉体的な面に関心が払われ過ぎていると供述し、証人児玉省は女子大学の生徒は18歳位から22歳位までであるが、戦後に於いては性的道義心が多少頽廃し、結婚外の性行為を余り悪く思わなくなつて来て居り、純潔ということを以前ほど重く考えないようになつたと供述し、証人森山豊は戦後に於いては性道徳はかなり乱れており結婚外の妊娠や性病にかかつた人が多くなつて居ると供述したことによつても裏付けられるのである。
[35] ここに留意すべきは、戦後の日本に於ける性の混乱状態は一面に於いて性意識の解放を意味するものではないかとの見解である。出版物、映画、街頭の出来事などは一見性意識の進歩を意味するが如くであるが、性のことはしかく皮相的に観じ得ないものがある。証人吉田精一は自分の子供が大きくなつたら本訳書のようなものを読ませたいと思ふと供述したほど所謂性についての進歩的考え方の者であるが、同証人は日本では従来女性を種を遺すための道具の様に考え、その人格を認めていなかつた。従つて性を賎しいもの、更に罪の意識と結びつけて考えていたのである。この様な封建的な慣習や感情は現在の社会の大部分を占めており、各家庭にも残つていると思ふ。日本では親と子との間で性の話をすることを恥しいと思つている人が多いがこれは右の様な考え方につながりがあると思ふ。即ち性を汚いものとする伝統的な考え方がある為と思ふと供述し、証人神近市子は私達は非常に卑怯であつて、性のことは知つていてもあけすけに話すことをしないが、これは今までの生活習慣からで、その様な機会を持たないのである。私は今までに一、二度身上相談で言つたことはあるが、これほど纒つて話したのはこの法廷で言ふのが始めてであると供述し、証人曽根千代子は今まで恋愛をしたことはなく、性的なことを見聞して性的興奮を覚えたことはない。私は信仰を持ちたいと思ふが、既成宗教には共鳴するものはない。私は日本や世界の歴史上の人物、現に生存している人々で特に尊敬している人はいないと供述し、所謂理性的な純白の処女であり、自己意識の強いことを窺わしめたのであるが、同証人はこの書を読んで、性の美しさを知つたが、そのことを両親にも、先生にも話していない。それは私はこの書を読む前は性を羞かしいと思つていたが、読んでから羞かしくないという気持になつたけれども、母は私と同じ気持になつていないから、私が話をすると母が羞かしいと思ふだろうと思つたからであると供述した。このような点からすれば、戦後の性の混乱は単なる混乱であり、ロレンスの所謂「乱痴気騒ぎ」に過ぎないのであつて、性の意識はまだ「羞かしいもの」としてその悩裡に刻まれて居り、暴露的快楽を追ふている状況であると解すべきである。従つて我が国に於ける性についての社会的意識はしかく解放されていないと認めなければならない。
[36] 本訳書は性に関する記述がなされて居るから必然的に性教育の点に触れなければならぬのである。性は人間の本性に根ざしたる重大事であることを見極めた現在に於いては性の正しき知識を与えるところの性教育の必要なることは何人も認むるところであり、証人波多野完治の供述によれば、その教育は幼少の頃より施すことが好ましいので外国では既に実行に移されて居るといふのである。然るところその教育の程度、方法については未だ帰一するところがないのであつて、当法廷に於ける証言を見るに、ガントレツト証人は性教育は重大なことで是非せねばならぬことであるが、その話をするときは最も慎重な態度で非公開で個人個人について為すべきものであり、私は6歳位の子供に対して行つて来たと供述し、沢登証人は高等学校では性教育は当然為すべきであるが非常にむつかしいので、それをやるだけの自信がないから行つていないと供述し、宮川証人は性は崇高なものであり、美しいものであるから純潔でなければならないのであつて、そのことは性教育として教えなければならないが、学校や家庭での教育には限度があり、女子に対しては性についての夢を持たせて結婚させるべきであると供述し、駒田証人は性教育は生理的、医学的な線で止めるべきで、年令に応じて自然に性の理解を深めるべきである。その方法は学校や家庭で個別的に指導すべきものである。このようにして性教育をしても性の衝動は受けるのであるから、性教育は非常にむづかしいものであると供述し、神近証人は性教育は性生活が始まる頃が最も関心を持つので滲透した理解が為されるからその頃に為すべきだと思ふ。性教育は積極的に為すべきものである。欧州では母子の間で相当進んだ会話が為されて居るが、私はまだそこまでは出来ないと供述し、峯岸証人は性教育を深く考えたことはないが、自然に書物などによつて知識を得ると思ふと供述し、波多野証人は児童心理学上からして、第二児童期即ち5、6歳頃に、性的な昂揚があるのでその頃衛生的に注意してやり第三児童期即ち小学校入学後知識を求めるからその頃より時代に適したように為すべきであると供述し、証人岩淵辰雄は私は性教育に特に努力しない方がよいと思ふ。学校で性教育をするから、後は常識や理性が発達しておれば、適当に行くと思ふと供述した。これは性教育が如何に重大であると共に困難であるかを物語るものである。波多野証人は性教育を為す際に生徒の中に一人でも不潔な性知識を持つたものが居るとやゆしたりするので、教師の人格というものは大変大きい役割をするものである。本訳書のような性の書物を読む際には性教育に於ける教師の役目は本訳書自体と読者自らが持つことになる。従つて読者が、社会から不潔な態度を受けて居ると、自らをさげすむような態度で読むことになると供述した。伊藤被告はヴアン・デ・ヴエルデ著「完全なる結婚」の完訳本(証49ノ1)の序文に「私は今や此の仕事をなすべき正当の年令に達し、充分なる準備を有するのである。4半世紀を越える長年月を理論的並に実際的問題に捧げた科学者、多くのそして種々の思想に形をかへて来た文筆家、豊富な経験を有する婦人科医、多数の男性及び女性の信頼するもの、人間について何一つ不案内の事なき人間、男性について何一つ弁へぬ事なき男性、夫婦の幸福も不幸も味ひつくした夫、楽しき諦めをもつて生を見つめ、若気の馬鹿をするには年をとりすぎ、だが「無慾で居る」にはまだ若過ぎる境の五十男が、これ等がすべて合して筆を執つてこそ、この仕事にあたる適任者たり得るのである」とあるのを指摘し、かかる記述があると読者はこの著述が著者の人格を背景としたものであることを感じてこの著書を信用するのであるが、同書の抄訳本(証49ノ2)にはそれがないのであるから信頼感が湧かないのみならず、表紙に花が印刷してあるので、完訳とは違つた感じを受けるのである。本訳書に於いては右書物の序文の働きは、序文と後書がするのであると供述した。依つて先づ序文を見るに証人吉田精一が供述した如く極めて難解であり、ロレンスの性思想に関する予備知識を持つていないと理解し難い点が多くあり「誰が何と言つても、この小説が今日の人間に必要な、真摯な健全な作品であることを私は断言する」「あなた達の清教徒的な変態ぶりがあなた達に快楽を与えるならば、それもいいだろう。又今流行の乱痴気騒ぎも、或は単なる猥褻さもいいだろう。私としては私の作品と、精神と肉体とが調和してその間にある均衡が保たれ、精神と肉体が互に相手を尊重するのでなければ人生は生きるに値しないといふ私の主張を固執するものである」とあるところは、その真摯な態度と共に強い自我を感ずるものである。そのあとがきに於いて「ロレンスの父は無教養な一介の炭坑夫だつたが、母は技師の娘で教員をしたこともあり、文学上の素養もあつた」「1912年彼は大学時代の師の妻で、3人の子の母であり、8才の年長であるフリーダに逢ひ恋愛に陥つた。フリーダはドイツのリヒトホーヘン男爵の娘であつた。フリーダは夫と子供を棄てて、ロレンスと共にドイツへ去つた」「1914年、イギリスに帰り、フリーダと正式に結婚した。大戦が始まり、フリーダがドイツ人だといふことで、色々な困難が起つた上ロレンスの大作「虹」が発禁になつたりして生活が困難になつた」「ロレンスの死後、妻フリーダは、ロレンスが、「チヤタレイ夫人の恋人」を書いてゐた頃のことを次の様に述べてゐる『……私はまた、誰一人書いたり言つたりしようとはしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の勇気と大胆さに驚嘆した。「チヤタレイ夫人」は2年間というもの、ロレンスが緑黄色の地に薔薇の花を描いた古い箱の中に仕舞つておかれた。私はその箱の前を通つた時、度々かう考えたものであつた。「この本がいつかここから出る時があるだろうか?」……騒動が起る前に、大部分が売れて行つた。最初亜米利加へ送つたものが、送り先へ届かず、その次に英国から悪罵が送られた……」「この小説については厚稿が三つ作られた。彼は1930年に死んでゐるから、死に先だつこと幾ばくもなかつた。フリーダが書いてゐるやうに彼はこの小説が悪罵と憎悪をもたらすことを予期してゐた。この書が現代の人類の生活に対する最もきびしい批判となることを彼はよく知つてゐたのである」とあるところは性について悩み、ロレンスの如くその解決を求めている人々にはこの書を信ぜしめるものがあろうが、その他の者にとつては、却つてこの書をやゆする気持を抱かしめるであろうと思われるのである。沢登証人がこの書でも少数の生徒に教育的な立場から読書指導が出来るのであれば読ませることも意味はあると思ふ。私も本当に優秀な生徒や希望者に特別講義をしたいとも思つたこともあるが現在では生徒と一諸に読んで勉強できるような教師は余りいないと思ふ。読書する場合でも、生徒教師その他いろいろの条件がうまく行かないと出来ないことであると供述したことは性教育との関係において本訳書が如何に厳しい取扱ひをさせられねばならぬかを示唆しているものである。被告人並に弁護人は性に関して科学書が露骨なる記述を為してその真理を探求していることに徴しても、文学の面に於いてかゝる探求を禁ずることは出来ないものであると主張する。その主張自体は極めて正当である。然し乍ら証人波多野完治、森山豊が指摘した如く通常猥褻文学は性を禁止されたものであるとし、快楽的に下等な態度でこれを扱ひ、作中の人物に個性を持たせ、実在するが如く書かゝれて居るに反し性科学書は性を純粋に客観的に扱ひ作中の人物は人間といふ抽象的なもの(即ち人格のない物とも謂ひ得るもので親近感がない)としそれにより情緒的なものを受取らないような記述が為されて居るのである。従つて性科学書に於いても抽象的でなく人物に個性を持たせて記述することにより情緒的なものを読者に与えるにいたれば猥褻文書となる可能性は強いのである。従つて読者にインタレストを与えることを本質とする文学作品に於いて性の探求を為さんとするときはその記述により読者が情緒的なるものを、どの程度に受くべきか充分なる考慮が払わるべきものである。
[37] 次に本訳書が出版発売に当つてどのように取扱われたかについて考察しなければならぬ。第一に本訳書が上・下2冊に分冊せられたことの意義についてである。証人高村昭は一般的に上・下に分冊した場合には下巻の売行部数は上巻より少数であるのが例であり、本訳書も下巻の売行きが少数であつた。従つて発売に当つて上巻だけを読んで下巻を読まない人があることは予想していたのである。本訳書を分冊にした理由は読者の経済的事情を考慮したもので、初めの給料日と次の給料日に分けて買えるであろうと思つたからであつたが、この様に分冊するについては取次店の意見をも参考にしたのである。本訳書を一冊にして発売するより上・下に分冊した方が多数の人に読まれると思つたからであると供述し、小山被告は本訳書を上・下2巻としたのは読者の便宜を考えたからであつた。これを一冊にするとその定価は320、30円位になり、分冊であるときより買ひにくゝなると思つた。従来或る本を上・下のように分冊して発売すると下巻は上巻より1、2割位売行きが減少するのが例であつたから、本訳書もそれ位に減少するのではないかと思つとたと供述した。本書は性についてのロレンスの考え方が小説として書かれて居るのであるが、これは他の小説と異なり上巻より下巻へと真面目なる態度で読むのでなければ、その意図を汲むことが困難であることは叙上の説明によつて明らかである。従つて本訳書が読者に与えられる際には如何にしたら真面目に読まれるかという点に重点をおいて考え、措置せらるべきであつて、手軽に、気安く買はれるというが如きは却つて本書を誤読することへの拍車となるのである。右両名の供述によれば小山被告は本書を手軽に買われることをのみ考え、一部の人は上巻のみしか読まないであろうこと、手軽さから通俗小説的に取扱うことになり誤読するであろうことを考慮しなかつたものであるといわねばならぬ。小山書店出版図書目録や広告スクラツプ帳(証74)によれば相当高価なるものが分冊でなく出版されて居ること、性科学書であり前出「完全なる結婚」が非分冊であり、キンゼイ外2名著「男性の性行為」(証73)は分冊であるが高価であること、右両著共に上質なる装幀、製本が為されておることに比すれば、本訳書は出版者が手軽く取扱つたことにより一般読者が通俗小説的に受取るものとの算は極めて多いと認むべきである。
[38] 第二に本訳書発売についての広告である。小山被告の供述によれば本訳書についての広告は池野淳美作成の広告一覧表の如く為され、その文章は前出広告スクラツプ帖に貼付されてある如くでありその大部分は自ら案文に目を通したことが認められる。その昭和25年4月16日附東京毎日新聞掲載のものには「戦争の為に性的不具になつた夫にかしづく貴婦人チヤタレイと、坑夫の家に生れた森番メラーズとの恋愛を描いたこの小説は、死を5年後にひかえたロレンスが全く発表を予想せず書いたものだけに、その愛慾描写は曽て何人も試み得なかつたほど大胆である為に各国ともこれが出版の可否をめぐつて烈しい論争の渦を巻き起した」とあり、同旨のものは、同年4月17日附アサヒニユース、同月24日附大阪、中部各毎日新聞、同月26日附出版新聞、読売新聞、西部毎日新聞、同月27日附東京朝日新聞、同月29日附大阪、西部、中部各朝日新聞、同月30日附婦人タイムズに掲載されて居り、同月8日附都新聞掲載のものには「その余りに大胆な愛慾描写の為に、出版の可否をめぐつて世界中に烈しい論議を巻き起した問題作」とあり、同旨のものは同月2日附東京朝日新聞、同月9日附毎日新聞、同月13日附東京毎日新聞、同月14日附中部毎日新聞、同月15日附西部毎日新聞、大阪朝日新聞、法政スポーツ、同月16日附西部朝日新聞、同月19日附中部朝日新聞、北海タイムス、大阪毎日新聞、同月20日附東京新聞、同月25日附大阪新聞、同月27日附北海道新聞、同月29日附婦人民主新聞、文芸春秋6月号、婦人画報6月号、女性改造5月号に掲載されて居り、同月25日附大学新聞には「この小説は戦争で性的不具になつた夫にかしずくチヤタレイ令夫人と、坑夫の息子で森番をしているメラーズとの恋愛を描いたものであるが、その愛慾描写が余りに烈しいため、世界各国で大に問題になつた。わが社はこれを全文伏字なしの完訳としたが、それはこの小説がエロスの世界を最も知的に最も厳粛に追究したからである」とある。右広告文中「死を5年後にひかえたロレンス」といふのは三宅証人が、ロレンスが「チヤタレイ夫人の恋人」を書き初めたのは1926年で、死亡したのは1930年であると供述したことになり筆をとつてより5年後であることは認められるが、前出書簡集の内1928年1月6日附ドロシー・ブレツド宛のものには「僕は小説を書き直している。もうこれで三度目です。最後の章以外は全部出来ました」とあることよりすれば事実に付いて正確ではないのである。又「ロレンスが全く発表を予想せずに書いた」といふのは、本訳書の後書中に「チヤタレイ夫人」は2年間といふものロレンスが緑黄色の地に薔薇の花を描いた古い箱の中に仕舞つておかれた」とあるからであろうが三宅証人によればこの書は第三原稿を出版したとのことであるが、前出の手紙によれば「僕はこの小説をこのフローレンスで私家版として出版しようと考えています。一部10ドルで」とあるので事実に反して居る。又「出版の可否をめぐつて世界中に烈しい論議を捲き起した」とあるのは、三宅証人の供述によれば、この書の完全本はイタリヤのオリオリ版、フランスに於けるオリオリ版の写真版、フランスのオデツセイ版(後にオベリスク版、ペガサス版)フランスのガリマアル版(仏訳)、オーストリアのタール版(仏訳で限定出版)で、その他の国ではホツト・パーツと謂はれる性描写の部分を削除したものが出版されているのみであるといふのであり、このことを指称するものの如くである。又「戦争で性的不具になつた夫」とあるが、これは前出「二十世紀の英文学」によれば「クリフオードは観念にとらわれる現代社会、肉体を忘れて精神生活の崇高を説く資本主義社会の典型」であり「メラーズは機械文明、物質文明の現代社会を憎悪し、健康な、暖い、純真な思いやりのある情熱を現わした」もので、「コニイは女性として生きることを求めているもの」を現わして居るといふのであるから、広告文の如く書かれることは、前出「一九二〇年代」でエー・シー・ウオードが云つた如く、「ロレンスの主張する肉体の愛の公然たる楽しき正常さを曇らすもの」であり、更に本訳書の序文でロレンスが「凡ての女は自分が雇つてゐる猟場の番人の後を追ひ駈けなければならないなどと私は言つてゐるのではない。誰の後も追ひ駈ける必要があるなどと言つてゐるのではないのである」といつて居ることとは逆にテーマそのものを強く印象づけるものである。而してこれらの広告は、本訳書を愛慾描写の烈しい小説であると評価し、死をひかえて、発表の意思なく、赤裸々に書いたもので、世界中で出版の可否を烈しく論議されたといふ経歴を持つものであるといふのであるから、読者はこれを低俗なる性慾小説と速断する疑は多分にあるのである。更に同年5月27日附読売新聞の広告には「驚くべきはチヤタレイの売行である、3週間ベストセラーズのトツプを切つてチヤタレイ旋風を捲き起している」「数多い最近の翻訳小説のうちこの1ケ月間に売行きのよかつたもののトツプはチヤタレイ夫人の恋人である」とあり、同年6月11日附都新聞、同月13日附図書新聞、同月14日附読書新聞の広告には「8週間ベストセラーズのトツプを切りつつある問題作」とあることからしても、本訳書が広告により低俗化せられたとの感を深くするものであり、伊藤被告が「煽情的な、刺戟的な広告をすると夫婦雑誌のような種類のものと誤解し、起訴状のように、春本的にとられる危険性がある」と懸念したことが、事実となつて現われたものと言ふべきである。
[39] 文学作品は作者の人格の現われであるから、その作品は個別的に読むべきでなくその一生を通じ、全体として見るべきものであつて、思想的作家についてはそのことは重要であり殊にロレンスの如くその思想が生活そのものであり、その間に幾変転かして居るものにとつては特に必要なことである。証人沢登哲一が、ロレンスは文学的にも、人間的にも優れたところがあるから、その人格に触れさせようとするならば選集でなく全集で出すべきであると供述し、証人土居光知が、ロレンスの思想はその作品を、作られた順序に従つて読めばわかると思ふが、この小説を一番目に出したことは真剣に読ませる上から言えば順序が違つていたと思ふと供述したことはこのことを指称するものと思われる。小山被告は単に原稿が早く出来たことのみの事情から本訳書を第1回に売出し、予ねて出版を予定されていたという啓蒙的出版物たる「ロレンス研究」をそのはるか後にいたつて発行したことは、この点について何等の配慮を為さなかつたものである。
[40] 前叙認定の如き環境下にこの書を出版するについて、小山被告は何等の措置を為さなかつたことはエー・シー・ウオードの指摘する如く「疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮な」企図であり、かくして出版された本訳書は読者の多数には低俗なる性慾小説として、春本的に受取られるであろうことが認められるのである。証人城戸浩太郎が「チヤタレイ夫人の恋人」を出版するに際し小山被告はこの書は性描写のところが世間で誤解されるおそれがあるといい、上巻発売の日に社員を一堂に集めて、この書は昔から問題になつて居るから、若しかしたら或反響を起すかも知れないが、一つの警世的意味で出版するから、社員は、誤解に対してはつきりした態度がとれるように本訳書を読んでおけと云つたと供述し、小山被告がアントートを挿入するに際してその5項に「あなたがもし検閲官だつたら、本書を発禁にするか」との問があることについて、若し「発禁にせよ」という回答が50%以上あれば、私の独善的な考え方を訂正して出版を見合せなければならないと思つたから、アンケートの発案者に対してその問の訂正を申入れたが、研究上是非必要であるといふので、私は重大なる決意を以つてそのアンケートを挿入したのであると供述したことからすれば、そのことは小山被告も予め知つていたものと認むべきである。而して証人阿部真之助は私の知つている人々で不断は文学などには何も興味を持たないで一意金儲けに没頭している者が、例外なく本書を読んで居るが、その会話から察すると、猥褻だと思われる部分に興味を持つて読んでいたことがわかつたと供述し、証人森諄男は私が嘱託医をしている会社の重役から「先生、一つ読んで見ないか、面白いよ」といつて読まされたが、読んで見て「面白い」といふのは刺戟が強いという意味だと思つたと供述し、証人駒田錦一は、本訳書を読んだ青少年は性的描写の部分を中心にして読んだものが多く中にはその個所にアンダーラインを引いて廻読した者もあると供述し、証人城戸浩太郎は本訳書にアンケートを挿入したが、それに「あなたがもし検閲官だつたら、本書は(1)発禁にする(2)一部削除する(3)そのまま出版させる」といふ項を設けたのは読者の中から発禁にすべしといふ意見の出ることも想定出来たからであつたと供述し、証人高村昭は小山書店で「発禁間近い」といふ広告をしたことはないが、上野の小売店でその様なビラを下げた店があつたとのことである。本書は出版当時は爆発的売行はしないと思つていたところ後で思つたよりも売行きがよくなつた。これは本書には性描写の部分が多いからであると思ふと供述し、工藤房太提出の販売一覧表、大川英郎作成の出版発行一覧表によれば発売当初より売行きは好調であり、6月に入つてからは急激に増加して居ることが明かである。城戸証人作成のアンケート集計表(証107)によれば、アンケートは2077枚であり内中学、新制高校卒業までの者は719名、専門学校卒業以上の者は1358名であるが、その回答内容を見るに(三)本書中の性行為の描写をどう感じたかという問に対しては(1)美しい1618名(2)いやらしい111名(3)ワイセツ百名で(四)あなたは、本書を読みながら性的興奮を感じたかといふ問に対しては(1)感じた1616名(2)感じなかつた426名であるから一見本書による性的興奮を浄化し美しいとの感じを得たものの如くであるが、(一)チヤタレイ夫人のような結婚の場合には、次のどの方法が適当であると思ふかとの問に対しては(1)はそのまま結婚を続ける153名(2)他に愛人をつくる316名(3)離婚する1558名であり、ガントレツト証人が、チヤタレイ夫人が性的不能の夫と結婚生活を続けて行かねばならぬことには同情出来るが、それならば、公然と離婚をすべきで、夫婦生活を続け乍らあのようなことになることは、とるべき途ではないと供述したのと、同じ立場をとるもので、本訳書の立場とは異なるものであるから、テーマに対しては反対の                                                                             立場にあるものと言わねばならぬ。然るにそのテーマ中の最重要部分である性描写を美しいこととして受取つたといふことは諒解し得ないことであるのみならず、12ケ所の性描写のすべてについて同様美しいといふ表現が為されて居ることからすればこれはそのままに信じ難く、所謂春本的「いやらしい」「ワイセツ」でないといふ消極的表現と解するのが妥当である。前出毎日新聞社の調査によれば本訳書を読んで「ためになつた」との回答は男12名で15位(女子はなしで、男女合計の第1位は132名)であるが「面白かつた」との回答は男26名で9位、女8名で13位(男女合計は34名で11位、第1位は234名)であり、回答者の学歴は、男は高専卒業以上12名、中学卒業以上13名、小学卒業1名で、女は中学卒業、小学卒業各4名であり、年令は男は20才より29才まで15名、30才より39才まで5名、40才以上6名で、女は20才より29才まで3名、30才より39才まで5名である。又戦前戦後を通じて是非買いたい本として本訳書を挙げたものは34名で第3位(内男23名、女十1名で、第1位は67名)であり乍ら、好む著者、執筆者としてロレンスを挙げたのは1名もない(1位は吉川英治で584名、トルストイは65名で18位、アンドレ・ジイドは49名で24位)のである。従つてこの「面白い」といふのは、森証人の「面白い」即ち性的刺戟の強いものとの意味に解すべきが如くである。蓋しインタレストであるとすれば、ロレンスの他の作品並に作者としてのロレンスが挙げらるる筈だからである。(ロレンスを理解せしめる為の「ロレンス研究」が1万部余りの売行であつたと小山被告が供述したことも考慮すべきである。)更に小山被告が本訳書の広告によつて多少性的好奇心を持つであろうが、この書は性の問題を解決する為のものであるからそれは当然のことであると思つていた。広告によつて本書に大胆な性描写があると読者に思はせて広く読ませたいといふ気持、即ち広告によつて橋渡しをするといふ気持であつた。本訳書の売行きは初は上、下共に1万部乃至3万部位であると予想していた、と供述したことも考え合せると本訳書は相当広範囲の読者に春本的取扱を受けたものと認められ、証人沢登哲一が本書が15万部も売れたというのはカストリ雑誌と違つて作者や本屋の名が売れていたことと宣伝で意識を煽つた為であると思ふ。今の高等学校の生徒には本書の描写がよくわからないので全体を読まないで、初に読んで生徒が印をつけておいて性的な興味だけで性描写の所だけを時間中に机の下でゴソゴソと読み廻すという心配がある。本書の意図のわからない人は恐らく春画の隣り位のつもりで読む人が多いと思ふと推察したことは正鵠を得ており、これらのことによつても前叙認定の妥当なることが裏付けられるのである。証人吉田精一は起訴されるなどの問題が起つた後は、色眼鏡で見るという状態が生じて来るから、誤つて読む人が殖えると思われるので、一般的に売ることは問題で、出版社の方で自発的に出版を遠慮するのが望ましいと供述し、証人波多野完治は本訳書は読み方によつては猥褻感を抱くのであるが、起訴状のようにして世間に紹介されると、この作品を正しく読むことの妨害となり、そのことを是正するには5年乃至10年はかかると思ふ。従つてその間は一部を原文にするとか、別冊にして図書館に置くなどの方法をとるべきであると供述し、本訳書を春本的に読む傾向は起訴によつて惹起されたものであるといふのである。証人曽根千代子は私や友人8人のものは性について考えて見たいといふことと、性を取扱つて居る本だから読んで見たいとの好寄心と、起訴されたのでどこがわるいのかとの好奇心から本訳書を読んだのであるが、その内で起訴されたことから起きた好奇心が一番強かつたと供述し、前出毎日新聞社の調査中書店の回答によれば「売切後も注文があつた本」の第2位で96店(第1位は103店)、「再版を希望するもの」の第2位で33店(第1位は35店)であり検挙後間もなく、本訳書と同一内容の偽版が出版されたことよりすれば、起訴の事実が相当に影響して居ることは認められるが、同調査によれば「よく売れたもの」の第3位で103店(第1位は174店)であり、小山被告が新聞等で本訳書を猥本扱ひにした記事が出て来たので私は自分の考えを検討しなければならぬと考え始めていたと供述したところからすれば、起訴以前に於いて既に猥本的に取扱われ、それによつて爆発的売行を呈していたものと認むべきである。
[41] 而して前出「文学入門」によれば、「読者は作品を読んで面白さを感ずるが、それは読者が能動的に作品と協力し、そこに楽しさを感ずることであるから、必然的に緊張感を抱くのである。読者はそこに表現された人生に強いインタレストを感じ作中人物に共感し、その行動をわがこととして、そこに強いインタレストを感ずる。しかしその人物は現実世界に実在する人間でないからインタレストは人生そのものえのものとなり、この作品から受けたインタレストを直に現実的行動に出ることはないが、然も行動直前ともいふべき状態におかれるのである。即ちあらゆる条件が揃つたならばそのように振舞つて見たいという気持、行動をはらんだ心的態度が心の中に生じ、それは心に痕跡をのこしたまゝ蓄積され、何らかの行動に影響を及ぼしこれを規制する。例えば恋愛小説を読んで異性一般えの愛情の目ざめから特定の異性に改めて愛情を覚えることなどである」とあるところからすれば、本訳書を読んで、その性的描写記述を「図柄」として受取るところの多くの読者は、行動直前的とも謂ふべき性的興奮を覚え理性により制御するを得ざるか、著しく困難を感ずるに至るであろうと思われるのである。而して曽根証人が、本訳書の内容について、コニイとクリフオードとの間に子供があつたとしても、コニイがクリフオードとの虚偽の生活をいやだと思えば子供をすてて家を出て行くことは当然である。人間は子供の為に自分の性を殺すことは悪いことである。子供に対して幾らかの愛情を持つていても欺瞞に満ちた生活を離れたかつた場合に自分を犠牲にすることは絶対に悪い。本書のテーマと逆で男性が女性を捨てることも、それによつて男性が幸福になれば肯定するのである。私はロレンスの考え方に全く同感であると供述したことは「行動の直前的状態」とも解すべきであろう。而して同証人の如く積極的に理解せんとして本訳書を読むものは、性的興奮を覚えても理性に依る制御を乱されることはないであろうが、之に反して積極的に理解しようとしないで本訳書を読む者は、この行動直前的状態ともいうべき点について如何なる影響を受けるであろうか。この点について、沢登証人は高等学校の生徒でも性描写はわかるので、いろいろの技巧をやるものだといふことを感じて、男女生徒が共鳴して実行するのが出るとの心配がある。大部分の生徒はプラトニツクラブを考えて居りそれに憧がれて居るので、本書を読んで性の交りはこんなものかと思い面白半分で遊戯的に行ふのではないかと思ふと供述し、宮川証人は青少年との座談会を開いたことがあるが、それによると性を刹那的に粗末に取扱つて居るようであるから、本書を読んで性描写に興味を持つて読み、自ら実行することによつて性を解決するのではないかと思われると供述し、駒田証人は本書を読んで青少年は肉体の面に強い刺戟を受け、実行したいとの衝動にかられてキヤンプ生活等で再現したいとの考えを抱くのではないかと思ふと供述したのであるが、同証人等の経歴に徴すればこの推察はけだし正鵠を得たものであろう。叙上の如き環境下に販売せられたる本訳書は、読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第175条に該当する所謂猥褻文書と認めらるるに至るのである。

[42] 叙上の如く本訳書は小山被告の手により猥褻文書として販売されたものであるが、伊藤被告はこれに共犯として加功したかどうかについて考察する。作者或は翻訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版業者の為すところであるが、作品は読者に読まれること即ち販売されることを予定してつくられるものであるから、作者と出版者は、作品を介し、販売なることを共にするものと解し得られるのが通常の事態であり、その共にすることの態様により、これを刑法上の正犯又は幇助犯と認め得るのである。然るところ「チヤタレイ夫人の恋人」は所謂春本とは異なり本質的には刑法第175条の猥褻文書とは認め得ないものであるが、叙上のような環境下に本訳書が販売されたことによつて、猥褻文書とせられたるものと認むるを以つて、訳者たる伊藤被告はかゝる環境下のものとして本書を販売することに積極的なる加功を為したかどうかを審らかにしなければならないのである。証人高村昭は本訳書上巻の原稿を伊藤被告より受取つたとき同人は、完訳したが出すかどうかは小山書店に一任すると言つた。それは性的描写のところが誤解されるのではないかとの考慮からであると思つた。上巻発売後の昭和25年4月末頃伊藤被告より、本訳者の短い広告文を取上げて、長い文章だと間違はないが、性を厳粛に、知的に扱つたことを書かずに、大胆な描写であるとだけ書くと誤解され易いからと注意されたことがあつたと供述し、小山被告は、伊藤被告に「チヤタレイ夫人の恋人」の翻訳を依頼したところ、同人はこの書にはこういふことが書いてある。過去に外国で問題が起つて、色々と論争され、非難もあつたから、慎重に考慮して、完訳のままで出版するなり、多少の手加減を加えるなりよく考えてくれと言つた。伊藤被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受入れるかどうかを懸念しての申出と思つたと供述し、伊藤被告は、小山被告より「チヤタレイ夫人の恋人」の翻訳を依頼されたときに、私はロレンスの性格、この書の性格、殊に先に誤解されたことがあること、現在では英文学では第3番目に論ぜられる位で、これをぬきにしては現代英文学は考えられないほどの重要な作品であることを説明し、全部訳してお目にかけるから、それを読んで慎重に考えた上で小山書店側の決意に於いて完訳を出版するなり、多少の手加減をするなりしてくれと話した。この手加減といふのは性的描写の部分で、同じ意味の日本語のどれを使ふか、原文とかラテン語とか、学術語にするか、或は削除するかという意味であつた。その後に小山書店の者に「広告はカストリ雑誌のように煽情的な感じを絶対に出さないようにしてくれ。誤解されるから」と注意したが、それは、この書は性を取扱つたものであるからそのことを書くのはよいが、下手な文章で書くと煽情的となり夫婦雑誌のような種類のものではないかとの誤解の下に読み起訴状のように春本的にとられる危険性があると思つたからである。この原著が世に出たときは世間の反抗を受けたので、現在では一流の批評家は猥褻であるとは言わないのであるが、これを翻訳するのには気をつけなければならぬと考え、思想的な固苦しさと文体とを合致するように直訳体をとつたのであると供述した。これらのことから考察すれば、伊藤被告は本訳書を正しく読みとるものを読者と想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し、その具体策を小山被告に申出でたことが認められる。証人石井満、堤常、小林茂の供述並に小山書店出版図書目録によれば、小山被告は日本出版協会の有力会員であり、高級出版物を多数に出版して居るのであるから、伊藤被告が、小山被告を信じ右の申出を以て足れりとしたことは諒し得るところである。従つて伊藤被告は本件販売行為が、前叙の如き環境を利用、醸成して為されたことについては法律上加功しなかつたものと解すべく、刑法上共犯と目することは出来ないのである。尤も本訳書がその後爆発的売行きを呈するにいたつたのであるから、さきに懸念したことの現れであることに考えを致しその対策を講ずべきに、ことここに出なかつたのは文学を愛する者として怠慢であるとのそしりを免れないのであるが、これは文人としての徳義上のことに属し法律上の責任を問ふべきことではないのである。
[43] 依つて刑事訴訟法第336条に従い被告人伊藤整に対しては無罪の言渡を為すべきものである。

[44] 被告人小山久二郎の判示所為は刑法第175条前段罰金等臨時措置法第3条第1項に該当する犯罪である。
[45] 依つて小山被告の犯情について考察するに、出版の自由は民主主義社会の根幹を為して居り、我が国の如くその育成途上にある国に於いては非常に重要なるものであり、これは私企業として経営せられていても、その機能は公共性を有し、これを私益の為に行ふことは勿論、自己の偏見に基いて、行使することも厳に慎まなければならないのである。憲法第11条はこの権利は国民の不断の努力によつて保持すべきことを宣言して居るが、その精神は、この自由を正しく行ふことについて特にかゝる業者が不断の努力を為すべきことを要請しているものと解すべきである。性は人間の根源に根ざしたものであり、これに関することは人間性に直結された重要事の一つである。従つてこれに関することは極めて慎重に取扱はるべきものであり、その利益的な面のみにとらわれて事を断じてはならないのである。性のことは一度偏して考え、行ふにいたれば、これが是正の困難であることはロレンスの嘆きを俟つまでもなく明らかであるから、これを人間の幸福の為に究めんとするには、先づそれにより幸福をそこなわれるものなきかを考え、そこなわれるものがある場合はそれを救うの道を講ぜねばならぬのである。本訳書は共感するもののみが読むべきものであつて、共感せざるものが、これを読んで害を受くるもそれは自業自得であると言ふに至つては人類愛の何物であるかを理解しないことも甚しいと言わなければならないのである。蓋し性について偏したる考えや、誤れる行ひを為すものは人生の幸福を失ひ、かゝるものが社会の一部に存するときは、極めて急に他に伝わり、遂には社会全般を風靡するに至るべきことは、戦後の社会情勢を観れば誠に明らかであるからである。故に本訳書の出版については細心の注意を払ひ、一人の誤解者もないことを期すべきものであつた。性に間する科学書である前出「男性の性行為」はその巻頭にこの研究が科学者によつてなされ、人類生物学的に重要なること、公的機関を用いて慎重に為されたと、記述が客観的に為されて居ること、出版並翻訳出版の意義等について詳細なる記述(別紙六)が為されて居る慎重さと懇切さは以つて範とすべきであろう。本訳書出版についてはかかる措置をとらざるのみならず前叙の如き環境を利用、醸成して為したる無制限出版は警世的効果を持つ一面に眩惑せられ、鹿を追ふもの山を見ざるの業であつたと謂わなければならぬのである。而して前記の如く本出版に際してとつた措置は商業主義的と解せられる面もあるが、小山被告は営利のみを追究したものではなく、多数の読者にこの書を与えることによつて、より警世的効果をも生ずるとの信念を抱いていたことは証人石井満、高村昭、城戸浩太郎、堤常、小林茂の供述、前記出版図書目録により認め得べきその出版業績並に被告人の供述によつて認め得るのである。
[46] 従つてその刑責を問ふには、悪辣なる出版者に科すべき懲役刑を以てのぞむことはその当を得ないものであるから、所定刑中罰金刑を選択すべきものである。然るところ、本訳書が戦後の混乱した社会に、叙上の如く出版された為、その意図は曲解せられ向後多年に亘つて、一般的には所謂春本とその類を同じくするものとして遇せられるようになつたものであり、性に関する考え方の進歩も阻害する結果となつたのである。民主主義下に文化を愛育すること最も喫緊なる現在に於いては、悪辣行為ならずと雖もその刑責は軽からざるものであると謂はなければならない。よつてその罰金額の範囲内で被告人小山久二郎を罰金25万円に処し、これを完納し得ないときは刑法第18条により1000円を1日に換算したる期間被告人を労役場に留置すべきである。証人に支給したる費用は刑事訴訟法第181条第1項に則り主文の如く被告人小山久二郎に負担せしむべきものとす。
[47] 依つて主文の通り判決した次第である。

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