『夕刊和歌山時事』事件
上告審判決

名誉毀損被告事件
最高裁判所 昭和41年(あ)第2472号
昭和44年6月25日 大法廷 判決

上告申立人 被告人

被告人 河内勝芳
弁護人 橋本敦 外3名

検察官 平出禾

■ 主 文
■ 理 由

■ 弁護人橋本敦、同細見茂の上告趣意


 原判決および第一審判決を破棄する。
 本件を和歌山地方裁判所に差し戻す。


[1] 弁護人橋本敦、同細見茂の上告趣意は、憲法21条違反をいう点もあるが、実質はすべて単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

[2] しかし、所論にかんがみ職権をもつて検討すると、原判決が維持した第一審判示事実の要旨は、
「被告人は、その発行する昭和38年2月18日付『夕刊和歌山時事』に、『吸血鬼坂口得一郎の罪業』と題し、得一郎こと坂口徳一郎本人または同人の指示のもとに同人経営の和歌山特だね新聞の記者が和歌山市役所土木部の某課長に向かつて『出すものを出せば目をつむつてやるんだが、チビリくさるのでやつたるんや』と聞こえよがしの捨てせりふを吐いたうえ、今度は上層の某主幹に向かつて『しかし魚心あれば水心ということもある、どうだ、お前にも汚職の疑いがあるが、一つ席を変えて一杯やりながら話をつけるか』と凄んだ旨の記事を掲載、頒布し、もつて公然事実を摘示して右坂口の名誉を毀損した。」
というのであり、第一審判決は、右の認定事実に刑法230条1項を適用し、被告人に対し有罪の言渡しをした。
[3] そして、原審弁護人が
「被告人は証明可能な程度の資料、根拠をもつて事実を真実と確信したから、被告人には名誉毀損の故意が阻却され、犯罪は成立しない。」
旨を主張したのに対し、原判決は、
「被告人の摘示した事実につき真実であることの証明がない以上、被告人において真実であると誤信していたとしても、故意を阻却せず、名誉毀損罪の刑責を免れることができないことは、すでに最高裁判所の判例(昭和34年5月7日第一小法廷判決、刑集13巻5号641頁)の趣旨とするところである」
と判示して、右主張を排斥し、被告人が真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたとしても名誉毀損の罪責を免れえない旨を明らかにしている。
[4] しかし、刑法230条の2の規定は、人格権としての個人の名誉の保護と、憲法21条による正当な言論の保障との調和をはかつたものというべきであり、これら両者間の調和と均衡を考慮するならば、たとい刑法230条の2第1項にいう事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である。これと異なり、右のような誤信があつたとしても、およそ事実が真実であることの証明がない以上名誉毀損の罪責を免れることがないとした当裁判所の前記判例(昭和33年(あ)第2698号同34年5月7日第一小法廷判決、刑集13巻5号641頁)は、これを変更すべきものと認める。したがつて、原判決の前記判断は法令の解釈適用を誤つたものといわなければならない。
[5] ところで、前記認定事実に相応する公訴事実に関し、被告人側の申請にかかる証人吉村貞康が同公訴事実の記事内容に関する情報を和歌山市役所の職員から聞きこみこれを被告人に提供した旨を証言したのに対し、これが伝聞証拠であることを理由に検察官から異議の申立があり、第一審はこれを認め、異議のあつた部分全部につきこれを排除する旨の決定をし、その結果、被告人は、右公訴事実につき、いまだ右記事の内容が真実であることの証明がなく、また、被告人が真実であると信ずるにつき相当の理由があつたと認めることはできないものとして、前記有罪判決を受けるに至つており、原判決も、右の結論を支持していることが明らかである。
[6] しかし、第一審において、弁護人が
「本件は、その動機、目的において公益をはかるためにやむなくなされたものであり、刑法230条の2の適用によつて、当然無罪たるべきものである。」
旨の意見を述べたうえ、前記公訴事実につき証人吉村貞康を申請し、第一審が、立証趣旨になんらの制限を加えることなく、同証人を採用している等記録にあらわれた本件の経過からみれば、吉村証人の立証趣旨は、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたことをも含むものと解するのが相当である。
[7] してみれば、前記吉村の証言中第一審が証拠排除の決定をした前記部分は、本件記事内容が真実であるかどうかの点については伝聞証拠であるが、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき相当の理由があつたかどうかの点については伝聞証拠とはいえないから、第一審は、伝聞証拠の意義に関する法令の解釈を誤り、排除してはならない証拠を排除した違法があり、これを是認した原判決には法令の解釈を誤り審理不尽に陥つた違法があるものといわなければならない。
[8] されば、本件においては、被告人が本件記事内容を真実であると誤信したことにつき、確実な資料、根拠に照らし相当な理由があつたかどうかを慎重に審理検討したうえ刑法230条の2第1項の免責があるかどうかを判断すべきであつたので、右に判示した原判決の各違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。
[9] よつて、刑訴法411条1号により原判決および第一審判決を破棄し、さらに審理を尽くさせるため同法413条本文により本件を和歌山地方裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石田和外  裁判官 入江俊郎  裁判官 長部謹吾  裁判官 城戸芳彦  裁判官 田中二郎  裁判官 松田二郎  裁判官 岩田誠  裁判官 下村三郎  裁判官 色川幸太郎  裁判官 大隅健一郎  裁判官 松本正雄  裁判官 飯村義美  裁判官 村上朝一  裁判官 関根小郷)
[1](一)、憲法第21条に保障されている言論の自由が、民主社会成立の基盤として極めて重要な機能を有していることは異論のない所であろう。けだし、言論の自由が広範に保障されている社会において初めて、我々は事実を知り公然と自己の意見を開陳し、物事を堂々と批判し誠論を交えることが出来るのであり、そしてそのことによつてより良くより正しい結論を導出して、我々の社会における誤りを是正し、より良き社会を建設しうるのである。勿論、言論の自由と言えども全くの無制限の勝手気まゝなものではあり得ない。しかしながら、右記の如く民主社会における言論の自由の果す機能の重要性よりして、民主々義社会にあつては、言論の自由に対する制限は、必要最小限に止めるべきである。さもなくば、民主々義そのものが根底から危機にさらされる結果となろう。
[2] 言論の自由を制限するが如き法の制定、あるいは法の解釈には極めて慎重でなければならぬ。

[3](二)、原裁判所は、かつての最高裁判所の判例(昭和34年5月7日第一小法廷判決刑集13巻5号641頁)を踏襲し、刑法第230条の2の解釈として、
「被告人の摘示した事実につき真実であることの証明がない以上、被告人において真実であると誤信していたとしても、故意を阻却せず、名誉毀損罪の刑責を免れることができない」
旨判示される。
[4] しかしながら、真実であることの証明があつたか否かという事は、後日刑事訴訟手続の段階(しかも事実審理の最後に到つて)において始めて明らかになる事柄であり、しかし、その判断は裁判官の自由心証に任されているのである。更に、真実であることの証明は極めて訴訟技術的な事柄である。
[5] 自己の公表した事実につき、その真実性の完全な証明をあらかじめ、全く間違いなく予測するなどということは正しく神のみのなせるわざであり、何んといえどもなし得ないことである。

[6](三)、もし刑法230条の2の解釈として、
「真実であることの証明がない以上、被告人が真実であると誤信していたとしても、故意を阻却せず名誉毀損罪の刑責を免れ得ない」
という見解を採用するならば、いかに公共の利害に関する事実であり、いかにその公表の目的が公益を図るに出たものであり、さらにその事実が真実であつた場合ですら、事実を公表した者は将来何等かの事情で(強制捜査権は勿論もちえず証人確保の困難なことは現実に屡々おこりうる。)その事実の真実性を証明出来ない場合がありうるという点で、常に名誉毀損罪の刑事責任を問われる危険性を負つていると言わざるを得ない。
[7] 他人の好ましくない事実を公表する者は、常に名誉毀損罪の刑責を負う危険性と同居しているというが如き結論を導く前記の如き原判決の刑法の解釈が、我々の真実を知る自由報道の自由を不当に制約し、言論の自由を必要以上に制限し、憲法21条に違反するものであること明白である。少くとも、行為者において事実の真実性の証明が可能な程度の資料根拠を有して、事実を真実と信じたのであれば、たとえそれが誤信であつたとしてもやはり故意を欠くものとして名誉毀損罪は成立せずと解すべきである。
[8] よつて、原判決における刑法の解釈は憲法第21条の違反があるから破棄を免がれない。
[9](一)、言論の自由、報道の自由の民主々義社会における重要性についてはすでに詳論したところであり、刑法第230条の2の規定の新設も、明らかにこの自由の重要性に着眼したによるのである。この規定の解釈のみならず、具体的事案に対する名誉毀損罪に関する規定の適用に際しても、いやしくも言論の自由報道の自由を必要以上に制限することなきよう充分慎重でなければならぬ。形式的には名誉毀損罪を成立せしめるが如くであつても、その事案の動機目的、手段方法、行為の態様、被害者とされる者の名誉権の具体的内容等を厳密に調査検討考慮し、それが、言論報道の自由の擁護と尊重という至高の民主々義理念のもとにおいて、法秩序全体の精神に照らしてなお正当と認められる場合においては、可罰的実質的違法性無きものとして、無罪とせらるべきが法の目的と正義にかなうものである。

[10](二)、被告人の行為に対する被害者とされる坂口徳一郎なる者は、特だね新聞と称する悪徳新聞を発行し、かつて、この新聞を利用しての名誉毀損事件、恐喝事件により実刑に処せられた経歴を有するに拘らず、その後も何等反省の気配をも示すことなく、相変らずその発行する特だね新聞により、悪質、低劣な暴露記事を掲載して市民の名誉を毀損し、恐喝行為を行ないペンの暴力を欲しいまゝにして市民の私生活の平穏を乱し、和歌山市民から嫌悪されていた者であることは、原裁判所第一審裁判所共に正しく認定しているところである。
[11] そして又、被告人は社会の公器である新聞の発行者としての使命感から、この坂口徳一郎のペンの暴力を徹底的に指弾し、もつて新聞倫理の自主的確立と市民の社会的及び私的生活の平穏と安全を回復する真しな意図をもつて、一連のキヤンペーンを展開し、本件記事もその中の一部をなすことも、異論のない所である。
[12] ペンの暴力に対し一般私人が批判、攻撃を加えることは、それが個々に報道の手段を持たぬことや後難を怖れざるを得ない無力さの故に容易ではない。ぺンの暴力に対し、まず立上つて反撃を加うべきは正義のペンがなければならぬ。
[13] かような意味において、被告人の本件行為の動機目的はまことに正当なものであつたのであり、この点は原判決も正しく認定するとおりである。
[14] 特だね新聞の前記の如き悪徳、無道、無反省ぶりよりして、これに対する批判は、その表現や、文体、修辞に多少の行きすぎがあつたとしても、非常に徹底したものでなければ効果がないことも明白である。被告人には本件記事を記述するに際し、2つの事実を1つの場所での一連の事実の如くに錯誤して構成した過失はあつても、それが本質的に、ことさら虚構の事実を意識的にねつ造したものではない。又本件記事は被告人の完全に信頼出来る部下である吉村記者の取材、報告に基ずいてこれを真実なりと確信して報道したのである。又一方具体的に本件記事をみるのにその内容は被害者とされている坂口徳一郎を公然と名指して、これを特定しているものでは決してなく、特だね新聞の記者という一般的表現によつてその記者の暴言の事実を、しかもこれまた日時や相手方の特定を避けて、通例の新聞記事編集上、表現上の配慮と工夫がなされていること明白である。
[15] 一方ひるがえつて、本件においてその名誉を保護さるべき対象である坂口徳一郎につき考えるに、同人が以前の名誉毀損、恐喝事件、更にその後の数々の悪業によつてすでに悪名が高い事実等により、坂口徳一郎なる者の名誉は真に保護されるに値しなくなつていると言わねばならない。本件記事の内容も特だね新聞及びその発行者たる坂口徳一郎の悪徳の仮面をはがすという目的をこえ、坂口の私行、私生活の秘密、プライバシーをいたずらにあばくというようなものでないことも明白である。

[16](三)、以上の諸点を綜合して考えるならば、坂口徳一郎の名誉に対する毀損といえども、それは極めて軽微なものにすぎず、社会的にみて、深刻且重大なものとは到底言い得ない。
[17] これに対して被告人の本件キヤンペーンが、基本的に社会正義にかなうものであり、新聞人による悪徳新聞批判の使命と責務の重大性は極めて大きな意義を有するのである。
[18] 前記の如き、本件記事全体の執筆の態度、記載内容の不特定性と新聞編集、報道技術上の配慮等の諸点を併せ考えるならば被告人の本件行為は可罰的実質的違法性なきものとして無罪とされるのが正しく正義にかなうものである。
[19] しかるに原裁判所が被告人の本件行為につき違法性の阻却を認めることなく、これを有罪としたのは、明らかに判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、原判決は罰すべからざるものを罰しており、原判決が破棄され被告人が無罪とされないならば、著しく正義に反すると思料する。

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