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わたくしごと

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◆"You Raise Me UP" を訳してみたい◆

“You Raise Me Up”は,ノルウェーの男性とアイルランド出身の女性 によるデュオSecret Gardenが2002年に発表した曲です。美しい旋律 と敬虔な詩が共感を呼び,多くのアーティストによってカヴァーされました。

この歌の作曲者Rolf Lovlandは,アイルランドの歌曲にヒントを得て,それにあ のメロディーを与えたのですが,当初はなかなかうまくいかなかった。しまいに はやめてしまおうとまで考えていたのですが,その時,アイルランドの作家 Brendan Graham の小説『純白の花』と『The Element of Fire』が突然想い出さ れ,作詞をこの作家に任せることにしたのです。

『純白の花』は,19世紀アイルランドのポテト飢饉を背景にした小説です。主人 公エレン (Ellen O'Malley) は,飢饉で夫を亡くし,よりよい生活の道があると の甘言につられ,3人の子供をおいて,オーストラリアに向かいます。さまざま な艱難を乗り越えて,最終的には,彼女は自分を騙した人たちに復讐するという ストーリーだそうです。

この歌はこの小説を題材にしているわけではないですが,御手の支えを得て荒波 を乗り越えるというテーマには共通性があるように思います。

以下は私の訳詞です。かなり大胆な意訳を試みましたので, 下に引用した英文の原詩と比較対照してみてください。

(November 1, 2006)

* * * * *

魂ほころび
  こころ破れ
あなたを待ち望む
  静けさの中で


高き山へ
  荒波の中へ
歩んでいける
  あなたの支えあれば


待ち望み
  こころ震え
あなたに満たされ
  命の不思議を思う


高き山へ
  荒波の中へ
歩んでいける
  あなたの支えあれば


When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit awhile with me


You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...To more than I can be


There is no life-no life without its hunger
Each restless heart beats so imperfectly
But when you come and I am filled with wonder
Sometimes, I think I glimpse eternity


You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...To more than I can be




◆青田川の堤を歩いてみよう◆


[はじめに] この文章は,私の郷里新潟県高田(現在の上越市,上杉謙信の生誕地といった方がイメージしやすいでしょうか)で進んでいる河川工事に不安を覚え,地元の人が運営しているメーリング・リストに投稿したものです。街の中心部を流れる青田川は(おそらく江戸時代に)高田の城下を外敵から守るために人為的に作られた河川ですが,数百年の歴史に洗われたその土手は野草が一面に生い茂り,私が幼い頃には川に入って遊ぶこともできました。都市型河川ではまれなくらい人と自然との共生が上手くいっている川なのですが,その土手をコンクリートで固めるというのです。欧州では,もとの生態系に戻すための河川工法が発達し,いくつもの成功事例が日本でも紹介されているというこのご時世に。ローカルな問題ではありますが,環境問題はどこでも共通の性格をもっており,ここに記した問題へのアプローチは他のケースにも応用可能だと思います。

* * * * *

青田川の堤を歩いてみよう。さしあたりは司令部通りに架かっている橋のあたりから上(かみ)に向かって,瀬音を聞きながら土手を散策するのはたのしい。桜の花の散る頃ならば水面に粉雪を掃くがごとし。高田出身の文人,小田嶽夫の『高陽草子──ふるさと記──』にこんな一節があります。「わざわざ花の名所の濠ばたへ行かなくても,寺町通りにも桜並木はあるし,市内の屋敷町を流れている青田川の堤に蜿蜿(えんえん)と連なった桜などこそゆっくりと賞でるにふさわしい。」もちろん四季折々に風情があって,桜の季節だけが特別というわけではありません。秋には深い影がしみわたり,古都の風雅を観ずるにはうってつけの散策路となります。

ですが,郷里の高田に帰るたびに,わたしは情けない気持ちにさせられます。昔の美しい街並みが壊され,高田公園や金谷山の山肌が削りとられ,重厚な洋風建築の数々がいずれも安っぽい様式に取って代わられていくのを目の当たりにしてきました(とくに本町通のいまの市役所・分所はグロテスクで品がない)。殺風景な街になってゆくのが痛々しい。もとより古いものを残すほうが,たとえば建物ひとつとってみても,財政的に大変なのはわかりますが,つまるところ住人一人ひとりの美意識と,住んでいる土地の将来をどれくらいの時間的視野で考えていくのか,という点に問題は収斂していくとおもいます。短期的にみていかにも良さそうなことが,はたして永続的な価値をもちうることなのか否か,その辺の判断力がいま厳しく問われているのではないでしょうか。

青田川に話しを戻しましょう。現在すすんでいると聞く河川工事に,いったいどのような社会的利益が,あるいは〈誰にとっての利益〉があるのでしょうか。「自然保護 対 開発」というおきまりの抽象的な対立図式では問題の所在そのものがみえてこないはずです。環境民族学の知見によれば,「われわれの先人たちは,自然環境との対立をかかえつつも,開発が自然の回復力や再生力を逸脱しないよう,見事なバランスをとってきたということです。暮らしの中に,自然との共生を志向する自然観,民俗モラルを持っていた」。そこには自然と人間による立体的なドラマがあったのであり,いまでいう「自然保護」とは異なっていたといいます(『日本経済新聞(夕刊)』2001年9月27日, p. 20.)。したがって,わたしたちの世代もまた,後の世代(子や孫やさらに後の世代)に対して禍根を残さないような生活様式と美意識が求められている。また,市場経済を前提とする現代社会にあっては,あらゆる環境問題は,市民生活の「ほんとうの豊かさ」と民主主義の視点から,つまり経済学と政治学の問題として検討していく必要があるでしょう。

(6 October 2001)




◆職人の技と知恵◆

我が家に古くから伝わる柱時計が,京都にきてから調子がよくない。SEIKO社製の年代物で,造りは貧弱で骨董的価値は高くないものの,無条件に愛着がある。一週間巻きの機械式であり,一杯にねじをくれてやると本来8日間は動くはずなのだが,このところ3日程で止まってしまうようになった。振り子の音も元気がなく,こころなしか悲しげに響く。近くに時計修理の看板を見つけ,さっそく持ち込んでみた。

店の親爺は長年中京区の店で働いていた時計職人で,退職してからも時計をいじりたくて看板を出しているのだそうな。しばらく親爺と雑談していると修理依頼の客がかなり出入りする。 どうも客の多くは近所の老人たちで,持ち込まれる時計は目覚まし時計の類がほとんどのようなのだが,たまに「歯車のぎっしり詰まった」のを持ってきてくれる客がいる。こうなると嬉しくてたまらないわけで,お客としばしの長談義と相成る。わたしもしっかりと講釈を受けてきた。

時計は「老いる」のだという。油も差さずに動かし続けるとたとえ7日巻きでも数日しか動かなくなり,やがては歯車もすり減って死を迎える。機械式時計はまさに生き物だ。また歯車の表面の色から時計がいかなる環境で使用されていたのかも読めるそうで,優れた職人に時計修理を依頼することは私生活の一部を教えるようなものだとも。

わたしが件の柱時計を持ち込むと,慣れた手つきで針と文字盤をはずし,さっ と文字盤を裏返して一渡り眺め回す。なんとそこにはこれまで修理をした職 人の名前と日付がそこここに記されており,それらを日付順にたどることに よって時計の診察歴が読めるのだ。昔の職人は筆で署名したものだという。 身近にあって毎日目にしている時計にこんな秘密が隠されていたとは。何はともあれ帰ってきた柱時計は元気にチクタクいうようになった。

(23 November 1999)




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