帆足計事件
第一審判決

損害賠償並びに慰藉料請求事件
東京地方裁判所 昭和27年(ワ)第2879号
昭和28年7月15日 判決

原告 帆足計 外1名
被告 国

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由


 原告の請求を棄却する。
 訴訟費用は原告の負担とする。


[1] 原告訴訟代理人は、「被告は原告両名に対し、それぞれ金100万円及びこれに対する昭和27年5月22日より完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求原因として次のとおり陳述した。

[2] 原告帆足は、昭和26年12月10日頃在パリー国際経済会議発起人オスカー、ランゲ博士から、昭和27年4月3日より同月10日迄ソヴイエト連邦の首都モスコー市で開催される国際経済会議えの出席招請状を受領し、その後重ねて右発起人会事務局長から同年2月21日附書面で同会議え出席されたき旨招請を受けた。また原告宮腰は、同会議に出席する日本人の選考を右ランゲ博士から委嘱された訴外平野義太郎より経理専門家として同会議えの出席を勧められた。
[3] そこで原告両名は同年2月25日東京都知事を経て外務大臣に対し、
渡航先     ソヴイエト社会主義同盟
経由地名    芝浦港よりウラジオストツクを経てモスコーに至る
渡航目的    国際経済会議出席のため
出発港名    東京湾芝浦港
出発予定期日  昭和27年3月
予定乗船名   ソヴイエト船
帰国予定期(滞在期日) 昭和27年5月(2ケ月)
という一般旅券の発給申請をした。
[4] ところが、外務大臣から昭和27年3月15日附通知書を以て、原告等の旅券発給申請につき、「旅券法第19条第1項第4号の趣旨に鑑み旅券の発給を行わないことに決定した。」旨の通知があり、更に3月19日附通知書を以て「右3月15日附通知書は事務上の手違によりその内容に脱字があつたものであるとして、旅券発給を行わない理由として、前記旅券法第19条第1項第4号の外同法第13条第1項第5号の趣旨をもその理由とする。」旨の通知を受け、右旅券の発給を拒否されたため、本件会議に参加し得なかつた。

[5] しかしながら、旅券法により旅券の発給を拒否することは出入国管理令が海外旅行に旅券の所持を必要としている関係上憲法第22条により保障される基本的人権の一である海外渡航の自由を剥奪するものであるから、公共の福祉に対する明白且つ現実の危険が存する場合のみに限られるべきである。従つて右見地から旅券法における旅券発給拒否を規定する条項の解釈はつとめて厳格になされなくてはならない。
[6] 而して旅券法第13条第1項第5号に於ける「日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当の理由がある者」という意味は、旅券発給申請者個人の資格を指すものであり、「著しく且つ直接に」という表現を用いたのは基本的人権に対する最少限の制限としてその害悪の発生が極めて顕著であり、且つその害悪が申請者個人の行為から直接発生する場合でなければならないことを示すのであつて、単に漠然と或る害悪が発生するであろうという推測のみでは制限の条件をみたさない。本件において、原告等が旅券発給を申請した当時、原告帆足は前参議院議員として、原告宮腰は現衆議院議員として、両名共厳格な資格審査を経ているのみならず、原告等は本件会議参加の意図の外他に何等の犯罪行為を企図するものでなかつたことは明らかである。従つて原告等が著しく且つ直接に国の利益又は公安を害する虞れのないことはいう迄もない。若し外務大臣の旅券発給拒否処分の理由が旅券発給申請者本人に関する事情よりも本件会議の性格の点にありとするならば、これは明らかに前記法条の趣旨を逸脱する解釈といわなければならない。しかも本件会議の性格は同会議発起人会より送付された文書によれば、「経済評論家、農業家、貿易業者、労働組合指導者、協同組合指導者、技術家による国際会議であり、参加者の政治的社会的見解の如何を問わず、会議の目的は諸国間諸経済体制間の平和的経済協力の促進発展の可能性並びに世界各国間経済関係の改善を研究するにある。」とされ、開催地はモスコー市であるが主催者は在パリ国際経済会議発起人会であり、議事は純経済的問題に限定され、同会議の決議は出席者を何等強制するものではないから、原告両名が同会議に参加することは著しく且つ直接に日本国の利益を害する性質のものでないことは明らかである。以上いずれにしても、原告両名は旅券法第13条第1項第5号には該当しないのであつて、外務大臣は故意又は過失によりこれを無視又は看過したものである。
[7] 次に旅券法第19条第1項第4号は「旅券の名義人の生命身体又は財産の保護の為に渡航を中止させる必要があると認められる場合旅券の返納を命ずることができる。」旨規定している。右法条は一旦交付した旅券の返納を命ずる規定であるから、本件の如く旅券の発給を拒否する場合には適用し得ない。仮にこの場合にも適用があるとしても、本条は旅券名義人乃至旅券発給申請者を保護するための規定であるから、申請者が旅行を希望するにも拘らず、保護に名を藉りて旅券の発給を拒むことは個人に対する不当な干渉である。しかも原告等は1952年2月15日附書面を以て対日理事会ソ連政府代表部より、「ソヴイエト経済団体においてモスコー市えの旅費、滞在費等の一切の費用をまかない、ソ連政府の査証が交付され、その生命並びに安全を保障する。」旨公式の通知を受け、これを外務当局に提示してあり、外務大臣に対してソ連政府より総司令部を通じ右の趣旨が通告されているのであるから、原告等の生命、身体、財産の安全が侵害される虞がないことは、外務大臣に於て本件旅券発給拒否処分当時十分認識されていた筈である。
[8] かように、外務大臣の本件旅券発給拒否処分は全く理由がなく、原告等の右旅券発給申請は旅券法所定の欠格事由に毫も該当しないものであつて、このことは外務大臣において十分認識し又認識し得べかりし事柄であるから、原告等は外務大臣の故意又は過失により旅券の発給を拒否され、従つて憲法の保障する海外渡航の自由乃至権利を侵害されたものと謂うべきである。

[9] 原告両名が、外務大臣の右旅券発給拒否処分によつて、本件会議に参加できなかつた為蒙つた損害はおよそ次の通りである。
(一) 得べかりし利益の喪失
[10] 原告等が若し本件会議に参加し得たならば、世界各国の実業家その他と会談し各国の経済に関する知識を知得し、又ソヴイエト経済団体の賓客としてソ連邦内における各種の施設、組織等の視察、研究を為し得たのであるから、ソ連の国内事情につき極めて貴重な知識体験を体得できた筈である。そしてこれらは本件旅券発給拒否処分当時外務大臣において予見していたところであり、少くとも予見し得べかりしところである。原告帆足は経済評論家であり、原告宮腰は経済専門家である。原告等は経済人として本件会議に参加し、右の如き経験を得ることは原告等の経済人たる地位に直接利益を齎すものであるから、かゝる知識、経験は単なる精神的利益ではなく経済的利益というべく、その喪失は経済的損害に外ならない。かゝる原告等の得べかりし知識経験を金銭に評価した額は、尠くともこれを得るために必要な費用の総額に相当する金額以上というべきである。原告等がかゝる知識経験を得るためにはソ連のモスコー市迄旅行し、一定期間滞在しなければならなかつたのであるが、右滞在期間につき、原告等は本件旅券発給申請に当つて2ケ月の滞在期間を予定して居り、ソ連政府並びにソヴイエト経済団体があらかじめこれを承認していたのであるから、ソ連国内の滞在期間は往復船車内の日数を控除しても30日を超えるものであつた。また右モスコー市迄の往復旅費は100万円以上であり、滞在日1日につき尠くとも5000円を要した筈であるから滞在期間30日分金15万円を必要としたのである。従つて右の得べかりし知識経験を金銭に評価すれば、原告両名につき夫々尠くとも金115万円となる。なお、本件旅券がソ連政府定期航便に間に合うように遅くとも3月16日迄に交付されゝば、これらの往復旅費、滞在費一切は、ソ連政府又はソヴイエト経済団体において負担することになつて居て、原告等において負担の必要がなかつたのであるから、純損害は、本来得べかりし知識経験の喪失による損害から原告等がこの期間(2ケ月)日本国内において得られる収入月額3万円の割合で2ケ月分金6万円を控除した金109万円である。
(二) 慰藉料
[11] 原告等は、前記会議に出席の為尠なからぬ努力をしたがこれはすべて水泡に帰し、貴重な知識経験を得る機会を逸したばかりでなく、恰も原告等が国益を侵害する行為を行う虞がある者であるかの如き印象を社会一般に与え、政治家乃至経済専門家としての将来の活動発展のうえに重大な不利益を蒙つた。その精神的苦痛は甚大であり、これを金銭に見積れば尠くとも金200万円に相当する。
[12] 以上合計各309万円の損害は、外務大臣が故意又は過失により原告等の海外渡航の自由乃至権利を侵害したことにより生じた損害である。而して外務大臣は国の公権力の行使に当る公務員であり、右損害はその職務を行うにつき故意又は過失により違法に加えられたものであるから、被告においてこれを賠償する責任があるものである。原告両名はいずれも右損害額の中、得べかりし利益の喪失による損害及び慰藉料各金50万円ずつ合計100万円及びこれに対する訴状送達の翌日から完済まで年5分の割合による損害金を本訴において請求するものである。

[13] 被告の主張について左の通り述べた。
[14] 被告は旅券法第13条第1項第5号に於て日本国の利益又は公安を害するかどうかは、国の立場から客観的に判断すべきものと主張するが、原告等はもとより国益増進の見地から本件旅券発給の申請をしたものである。又原告等の出席する会議、渡航先の国家の性質に対する評価等によつて渡航を制限することは、右法条の解釈として失当であることはすでに原告の主張したところである。
[15] 被告は又ソ連における同胞抑留問題、漁船拿捕問題等を理由に本件渡航を国益又は公安を阻害するものであると主張するが、右は本件旅券発給申請の問題と直接関連性がないことであつて、これを前提とする右主張は理由がない。
[16] 旅券法第19条第1項第4号はあくまで一旦発給した旅券の返還を命ずる規定であり、且つソ連政府は生命並びに財産の安全保障について、日本国政府の危惧による旅券交付拒否につき、その心配なく右危惧の解消すべき保障を総司令部を通じて外務省に通知したものであるから、外務当局が知らなかつたとか或は右は単なる儀礼的文句にすぎないということはあり得ない。
[17] 原告等が本件損害賠償請求権を放棄したという抗弁事実は否認する。
[18] 更にたとえ右損害賠償請求権が放棄されなかつたとしても、その行使は権利濫用であるという被告の主張は失当である。
[19] すなわち、原告等はデンマーク農業視察の帰途、合法的にモスコー、北京を通過して帰国したに過ぎない。しかしながら政府の妨害によつて本件会議には参加できず、これに附随し一般旅行者に許されないソ連国内各地の施設組織等の視察をなし得ず、その他実業界の円満な協力にも支障を来し、精神的肉体的に甚大な損害を受けたのである。なお、被告主張の国際慣行の点は原告の関知しないところである。むしろ外交機関の正式保障を無視した政府の措置こそ、国際慣行に違反したものというべきである。よつて原告等に権利濫用の事実はないと述べた。

(立証省略)

[20] 被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め次の通り答弁した。原告の主張事実中、原告等が原告主張の日東京都知事を経て外務大臣に対し、ソ連のモスコーに於て開催される国際経済会議参加の為旅券の発給を申請し、これに対し外務大臣が原告に対し、昭和27年3月15日附通知書を以て「旅券法第19条第1項第4号の趣旨に鑑み旅券の発給を行わないことに決定した。」旨通知があり、更に同月19日附書面を以て、「右3月15日附通知書は事務上の手違によりその内容に脱字があつたものとして、旅券発給を行わない理由として前記旅券法第19条第1項第4号の外同法第13条第1項第5号の趣旨をもその理由とする。」旨通知をなし、旅券の発給を拒否したこと、原告帆足が前参議院議員であり、原告宮腰は現衆議院議員であることはいずれもこれを認める。原告が主張するその余の事実はすべて争う。

[21]、外務大臣が原告主張の理由を以て本件旅券の発給を拒否した処分は正当であつて何等違法の点は存しない。
[22] 旅券法第13条第1項第5号は「外務大臣において著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」には旅券の発給をしない旨規定している。これは旅券の発給を申請した者に右のような行為を行う意図があり、その危険がある場合のみならず、たとえ申請者にその意図がないときでも、一般に当該外国に渡航することが著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する結果を招く虞がある場合には、すべて旅券の発給を拒否することはできるものといわねばならない。蓋しこの場合において、日本国の利益又は公安を害するかどうかは国の立場から客観的に判断すべきものだからである。
[23] ソ連は昭和20年8月終戦直前に日本に宣戦したもので、昭和27年4月28日に効力を発生した平和条約にも調印せず、日本国とソ連邦とは未だ平和状態が回復されていないのみならず、ソ連には今なお30余万の我が同胞が抑留されて居り、且つ終戦後今日迄ソ連官憲によつて拿捕された漁船、漁夫の釈放されない者も相当数に上つている。日本政府は連合国最高司令官を通じてソ連側に再三これにつき問合せをし、また釈放方を懇請しているが、ソ連側からは今日迄何等の回答に接していない。
[24] 日本国は民主主義の下、国際間に正常な経済と平和関係とを促進するため平和条約に調印し、国際間に新たな発足を準備したのであるが、ソ連は共産主義国として自由世界に挑戦し、朝鮮その他における国際共産主義の武力行使を援助し、自由世界に明白な対立を示していることは顕著な事柄である。戦後東亜の物資交流が円滑を欠くに至つた大きな原因はこれら政治的問題にあることはいうまでもない。朝鮮動乱においては、国際連合軍は国際共産主義の武力行使を抑制して平和を確保するため必要な措置を執ることを余儀なくされている。
[25] かような事情を無視して、モスコー国際経済会議に出席し、これに協力することは、それ自体「著しく且つ直接に」自由世界の一員として発足しようとする日本国の利益又は公安を害するものである。アメリカ労働総同盟(AFL)はモスコー経済会議は自由世界に混乱と分裂を齎さんとする新たな共産主義者の工作で、単に経済関係のみなるが如く装い、自由主義国家間に、ソ連が世界の安定と繁栄とのため民主主義諸国と正常且つ友好的商業関係を樹立しようとしているという危険な幻影を拡めんとするものであり、従つてこの会議に協力せずとする態度を表明しているが、これは外務大臣が本件旅券発給を拒否した態度を裏書するものである。殊に抑留者30数万の外、多数の漁船漁夫の釈放されない状況にある際、これを無視してモスコー国際経済会議に参加を認めることは、日本にとつても最も重大な懸案を放置するかの感を与え、今後の交渉にも多大の支障を生ずるのみならず、一般国民感情としてもこれを許容することはできない。
[26] つぎに旅券法第19条第1項第4号は「旅券の名義人の生命、身体、又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる」場合に旅券の返納を命ずることができる旨を明らかにしている。若し旅券発給の申請があつた際に、右条文の規定する渡航中止を必要とする事情が存する場合には旅券の発給を拒否できると解すべきである。蓋し一応旅券を発給し、然る後直ちに返納を命ずべきであるということは無意味な形式論であり、且つかかる煩瑣な措置をとることは公務員の本質に反するからである。
[27] しかして、日、ソ間に前示のの如く、不当なる同胞抑留、漁船漁夫拿捕の諸問題が存しているのであるから、日本国民としてソ連に旅行する者の生命身体又は財産は大きな危険にさらされているものといわねばならない。原告等はソ連政府から外務大臣に対し、「会議参加者に対しその安全が保証される。」旨の通知があつたと主張し、昭和27年3月10日附総司令部外交局発外務省宛書面によると、「日本人を含む国際経済会議参加者は責任あるソ連機関よりあらゆる必要な協力と歓待を受ける。」旨の記載があるが、これは単なる儀礼的な文言に過ぎず、これのみによつて、日本人参加者の身体、生命が保障されたものとすることは、日ソ間の従来の行きがゝりから、当時としては到底首肯することができなかつた。従つて外務大臣が当時の国際間の情勢判断から旅券法第19条第1項第4号の規定する事情があると判定したことは決して違法でも不当でもない。

[28]、原告等の本件損害賠償請求権は放棄されたものである。仮に然らずとするもその行使は権利の濫用であつて許すべきものではない。
[29] 原告等は、本件旅券発給の拒否処分があつた後、不当に入ソする方針をたて、デンマーク農業協同組合の調査研究に名を藉り、昭和27年3月18日渡航先をデンマークのコペンハーゲン市として一般旅券の発給申請をした。その際、原告等は外務省欧米局渡航課長松尾隆男に対し「モスコー行旅券の件は水に流す。」と語り、その代りデンマーク行旅券の発給を受けたい。ソ連には行かないと一札入れてもよい旨を申出たのである。従つてソ連渡航の旅券発給に関する紛議はこれによつて一切解決したのであつて、原告は本件損害賠償請求権を放棄したのである。
[30] しかして原告等及び原告宮腰の秘書中尾和夫は、政府から同年3月28日デンマーク行旅券の発給を受けたが、その際、松尾渡航課長の要求によつて、原告帆足はその申請書に、右中尾和夫は原告宮腰及び自己の各申請書に夫々「ソ連国際経済会議には行かない。」旨記入した。松尾渡航課長は特に右3名の旅券に「この旅券はソ連及びその衛星諸国には無効」と記入して交付した。一般国際慣行上旅券に自国が明記されていないときには、当該国領事は無効な旅券として入国及び通過の査証を与えないのであるから、前示旅券による入ソは不可能なのである。然るに原告等一行は昭和27年4月11日空路デンマークに向い、その帰途モスコーに赴き、更に中共地区を経て同年7月1日帰国したのである。原告等は、ソ連及び中共において、右旅券に関する国際慣行を無視したのを奇貨とし、違法な入ソを敢行したのである。一方において違法行為により入ソの目的を達しながら、他方において入ソに支障を与えたことを理由に損害賠償の請求するが如きは、全く権利の濫用として許されないところであつて、本訴請求は失当であるといわねばならない。

[31]、原告主張の得べかりし利益の喪失による損害の請求は不当である。
[32] 原告等が本件会議に参加することによつて経済人として知識乃至経験を取得することは、一般教養の問題であつて財産上の利益とはいえない。従つてこれを財産に見積ることは法律上不可能である。また旅費、滞在費等がソ連側負担であつたとしても、右費用は消費されるべきものであつて、其の消費によつて得た知識、経験が直ちに財産上の利益に還元されるものではない。
[33] 殊に原告等は本件旅券発給を拒否された後、ソ連、中共地区に入り、原告主張の経済上の知識、経験は十分取得できた筈であり、外務大臣のソ連行旅券の発給拒否によつて毫も妨げられていないわけである。
[34] 従つて原告等に得べかりし利益の喪失はない。

[35]、慰藉料の請求もまた理由がない。
[36] 原告等が本件会議参加のためなした渡航準備は、後日デンマーク渡航に名を藉りソ連及び中共地区に入つたことによつて無駄にはならなかつたわけである。しかも原告等は、ソ連及び中共地区との了解はどうあろうとも、旅券に記載されていないソ連及び中共地区入りという日本国法上違法とされる行為を敢行し、本件旅券発給拒否処分の如きは全くこれを無視したものであるから、精神上の苦痛の如きは想像し得ないと述べた。

(立証省略)


[1] 原告等が昭和27年2月25日東京都知事を経て外務大臣に対し、ソ連のモスコー市で開催される国際経済会議参加の為旅券の発給を申請したところ、これに対して外務大臣は旅券を発給しない旨決定し、外務大臣から原告等に対し、同年3月15日附書面を以て、「旅券法第19条第1項第4号の趣旨に鑑み旅券の発給を行わないことに決定した。」旨の通知があり、更に同月19日附書面を以て、「右3月15日附の通知書は事務上の手違によりその内容に脱字があつたものであるとして、旅券の発給を行わない理由として、前記旅券法第19条第1項第4号の外同法第13条第1項第5号の趣旨をもその理由とする。」旨通知があつたことは当事者間に争がない。

[2] およそ、海外渡航の自由は、基本的人権の一として日本国憲法第22条により保障されるところであつて、何人と雖公共の福祉に反しない限り、自由に海外に旅行することができるのである。
[3] しかし、右渡航の自由は無制限なものでなく、公共の福祉に反する場合にはこれが制限を受けるのは当然であつて、公共の福祉の立場から出入国管理令が日本人の出国及び帰国の場合に旅券の所持を必要と定め、旅券法が旅券交付の要件手続等を規定しているのも、この意味における渡航の自由の制限であつて、憲法の精神に反するものではない。

[4] よつて進んで本件旅券発給拒否処分が違法であるかどうかを判断する。本件において外務大臣は旅券を発給しない理由の一として、原告等が、旅券法第13条第1項第5号所定の「外務大臣において著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」に該当することを挙げている。そこで先ず、この点につき、外務大臣がかような認定をなした経緯を検討する。
[5] 成立に争なき乙第1号証、第3号証の2及び証人松尾隆男の証言(第1、2回)に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、その経緯はおよそ次に述べるとおりであることが認定できる。
一、日、ソ間の関係
[6] ソ連は、昭和20年8月終戦直前日本に宣戦を布告し、爾来連合国の一員として日本国を占領管理して来たものであるが、昭和26年9月日本国と連合国中の多数国、即ち米、英その他の自由主義諸国家間に成立した対日講和条約にも調印せず、日、ソ両国間には未だ平和状態が回復せらるるに至つていないのである。しかも一方日本を仮装敵国として1950年2月14日中共と、中ソ友好同盟及び相互援助に関する条約を締結している。更に、ソ連にはなお多数の我が同胞(当時の調査によれば約30万)が抑留されて居り、且つ終戦後今日迄ソ連官憲に拿捕された漁船及び漁夫の釈放されない者も相当に上つている。日本政府は当時連合国総司令官を通じソ連側に再三右調査方及び釈放方を懇請したが、ソ連から今日迄何等の回答にも接していない。
[7] 日本は前記平和条約に調印し、自由諸国家の一員として右諸国と友好関係を結ぶ決意をなし、独立国として国際間に新たな発足を準備したのであるが、ソ連は共産主義国として自由世界に挑戦し、朝鮮その他における国際共産主義の武力行使を援助し、自由世界に明白な対立を示している。朝鮮動乱においては、連合国は国際共産主義の武力行使を抑制して平和保護の為必要な措置を執るの余儀なきに至つている。
二、本件会議に対する政府の認識
[8] アメリカ労働総同盟(AFL)は、本件会議は自由世界に混乱と分裂をもたらさんとする新たな共産主義者の工作で、単に経済関係のみであるかのように装い、自由主義諸国家間に、ソ連が世界の安定と繁栄とのため民主々義諸国と正常且つ友好的商業関係を樹立しようとしているという危険な幻影を拡めんとするものであり、従つてこの会議に協力せずとする態度を表明しているが、当時外務大臣も同会議の性格につき右と同様の見解を有していた。
三、本件旅券発給拒否の理由
[9] 前記のような日ソ関係と本件会議の性格に鑑み、渡航申請者である原告両名の意図如何に拘らず、何人と雖同会議に参加しこれに協力することは、日ソ間の冷厳なる対立関係を糊塗し、恰も日本国が共産陣営との連繋と友好とを希望しているかの如き感を与え、日本国と米、英その他民主々義諸国との友好関係、殊に米国との国交上好ましくない事態を生ぜしめる虞がある。また多数の抑留同胞及び漁船漁夫が釈放されていない際、これを無視して同会議に参加することは、日本国にとつて最も重大な問題を放置するかの如き感を与え、今後の交渉に多大の支障を来たすのみならず、国民感情としてもこれを許すことはできない。そしてこれらは、昭和26年9月米英その他の民主々義諸国と平和条約を締結し、なお日米安全保障条約をも締結し、右諸国と相提携し自由世界の一員として発足せんとする日本国の利益を著しく且つ直接に害するものであると判断したのである。

[10] ところで、本件において、旅券の許否を決定するに当つては、本国と当該渡航国との外交関係、モスコー国際経済会議の性格等諸般の国際情勢を検討する十分な資料を必要とするものであるから、当局者である外務大臣は右事項について周密な調査、検討をして判断すべきことは当然であつて単に渡航先が現政府に「好ましくない」といつて軽々しく右申請を拒否してはならないことはいうまでもない。
[11] そして外務大臣のなした判断と雖、事後的に裁判所の司法審査に服すべきであり、その審査の結果右判断が旅券法の規定に徴して明らかに不当と認められる場合には,違法な処分として取消を免れないと解すべきである。何となれば、旅券法第13条第1項第5号によつて旅券発給を拒否することは、憲法第22条により保障された海外渡航の自由を制限するものであるから、公共の福祉の要請により、旅券法前示法条所定の「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある場合」に該当するか否かは慎重に判断されなくてはならないからである。

[12] ところで、本件旅券発給申請当時、原告帆足は前参議院議員であり、原告宮腰は現衆議院議員として、いずれも政治家乃至経済人として社会的に重要な地位を占める人物であることは顕著な事実であり、原告等各本人の供述によると、本件会議えの参加が国益増進に寄与するところ大であるという見地から旅券発給を申請したものであることが認められ、原告等自身には主観的に国の利益を害する行為を行うような意図が存しなかつたものと謂つて差支えない。しかしソ連に渡航し本件会議に参加することが国の立場から見て、客観的に国の利益に顕著且つ直接の侵害がもたらされる危険が存するならば、原告等が当該外国に渡航し同会議に参加することは本人の主観的意図の如何に拘らず、それ自体旅券法の前示法条所定の「著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」に該当するものと謂わなければならない。
[13] そこで進んで、客観的に国の立場から見て、原告等が当該外国に渡航し、本件会議に参加することは、それ自体著しく且つ直接に国の利益を害する虞があると認定する相当な理由があるかどうかの点が審査されねばならない。
[14] まず、国の利益に関しては、日本国政府が米英その他の民主々義諸国と昭和26年9月平和条約を締結し、なお米国とは安全保障条約を締結し、右両条約は国権の最高機関である国会で承認せられた以上、両条約によつて明示された米英その他民主々義諸国との友好関係の促進を前提として国の利益を考えなければならない。つぎに日ソ関係は前叙認定の通りであつて両国間に平和的な国交が回復していないのみならず、多数同胞がソ連国内に今なお敵国人として抑留を受け、或は漁船漁夫が拿捕されるが如き敵対行為が為され、極めて非友好的状態におかれているものと解しなくてはならない。本件会議の性格、目的に関しては甲第1号証の1乃至6(原告帆足本人の供述によつて成立を認められる)同第2号証(成立に争はない)に、原告両名各本人尋問の結果を綜合すれば、会議の目的は諸国間の平和的経済協力の促進発展の可能性並びに世界各国間経済関係の改善を研究するにあるとされ、且つその性格に関しては議事は純経済問題に限定せられ、何等政治的性格を有しないとされていることは一応認め得るけれども、一方前叙認定のような厳しい批判のあつたことも無視できない。
[15] ところで、右に説示した3点は、本件において、外務大臣の判断の基礎となるべき事柄である。而して右3点に関する外務大臣の見解乃至認識は前記(一)乃至(三)に摘記したとおりで、右見解乃至認識の前提事実はすべて公知の事実であるか又は証拠によつて認められるところである。この点に関する外務大臣の資料の調査、検討につき本件申請当時の状況においては格別疎漏があつたものと認められない。従つて、これらのことを前提として――殊に前示の日ソ関係、及び本件会議の性格に関する強い疑惑に鑑み――前示のような社会的に重要な地位を占める原告等において、平和条約の発効前たる旅券発給申請当時、主として米国の多大の援助を受け、且つ全面的協力を要請されていた日本国の立場を無視し、ソ連の平和攻勢の一還として米国内に厳しい批判を浴びているモスコー国際経済会議に参加することそれ自体が、日本国が共産陣営との連繋と友好とを希望しているかの感を与え、米英その他民主々義諸国との友好関係に好ましくない事態を生じ、前記のように、国家の針路として右諸国と提携し、自由世界の一員として独立国としての新たに発足せんことを決意した日本国の利益を著しく且つ直接に害する虞があると認定することは、判断の筋道としては一応首肯し得るところである。してみれば外務大臣のかような判断は、これを目して未だ旅券法の前示法条に反した明らかに不当なものであつたとはなし難い。

[16] 以上の理由を以て、当裁判所は、外務大臣において旅券法第13条第1項第5号に基き本件旅券の発給を拒否した処分は原告等主張のように違法乃至は不当なものでなく、結局適法であつたものと認定するを相当とする。
[17] よつて、その他の点を判断するまでもなく、原告等の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第819条を適用して主文のとおり判決する。

  (裁判官 花淵精一 岡部行男 粕谷俊治)

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