第1次家永訴訟
第1審判決


損害賠償請求事件
東京地裁 昭和40年(ワ)第4949号
昭和49年7月16日判決
(原告) 家永三郎
(被告) 国
代理人 村松俊夫 外17名

■ 主 文
■ 事 実
第一 当事者の求める裁判
一 原告
二 被告
第2 原告の主張(請求原因および被告の主張に対する反論)
一 当事者の地位
二 本件の概要
三 被告の不法行為とその違憲・違法性(本件検定の違法性)
1 本件をめぐる全般的事情(教科書検定制度の実態とその問題性)
(一)教科書検定制度の問題性
(二)歴史的にみたわが国教育政策の問題性
(三)「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態
(四)諸外国の教科書制度
2 教科書検定制度のしくみ
(一)検定制度の大綱について
(二)検定の基準について
(三)検定の手続について
3 教科書検定制度の違法性
4 検定の基準および手続の違法性
5 検定基準違反
四 損害の発生
五 国家賠償法の適用
第三 被告の認否および主張
一 当事者の地位
二 本件の概要
三 被告の不法行為とその違憲・違法性
1 本件をめぐる全般的事情
(一)教科書検定制度の問題性
(二)歴史的にみたわが国教育政策の問題性
(三)「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態
(四)諸外国の教科書制度
2 教科書検定制度のしくみ
(一)検定の大綱について
(二)検定の基準について
(三)検定の手続について
3 教科書検定制度の違法性
4 検定の基準および手続の違法性
5 検定基準違反
四 損害の発生
五 国家賠償法の適用
第四 証拠
一 原告
二 被告
■ 理 由
第一 本件各検定処分とその経緯
一 原告の経歴とその地位
二 本件検定処分に至る経緯
三 教科書検定制度の沿革
1 終戦前の制度
2 戦後の制度
第二 現行教科書検定制度
一 教科書とは何か
二 教科書検定の権限
三 教科書検定の組織
1 文部大臣の補助機関
2 教科用図書検定調査審議会
四 検定基準
1 絶対条件
2 必要条件
五 教科書検定の手続と運営
1 検定の受理
2 審査
(一)原稿調査
(二)検定合否の判定
(三)理由の告知
(四)校正刷審査(いわゆる内閲本審査)
(五)見本本審査
(六)救済制度その他
3 発行・採択
第三 争点の判断(その1、総論)
一 教育の自由
1 教育を受ける権利と親の教育権
2 教師の教育の自由ー教育基本法第10条の解釈
二 学問の自由
三 各国における教育の自由
1 ILO・ユネスコ勧告
2 OECD教育調査団の報告書
3 諸外国の教育法制
(一)イギリス
(二)フランス
(三)西ドイツ
(四)アメリカ合衆国
四 表現の自由
五 適正手続の保障
六 法治主義
1 教科書検定制度の法的根拠
2 学習指導要領の拘束力
3 手続的保障
第四 争点の判断(その2、各論)
一 本件各教科書検定の経過
1 昭和37年度検定
(一)審査
(二)理由告知
(三)審査期間
2 昭和38年度検定
(一)審査
(二)修正指示
(三)審査期間
(四)その他
3 むすび
二 本件教科書検定における合否の判定
三 指摘箇所に対する当否の検討
1 昭和37年度検定
2 昭和38年度検定
第五 損害賠償義務
一 昭和37年度検定
二 昭和38年度検定
第六 結論
(別紙)昭和37年度検定におけるA・B意見の区分表
目録(一)原告輔佐人
同(二)原告訴訟代理人
同(三)被告訴訟代理人
同(四)被告指定代理人

 

■ 主  文


1 被告は原告に対し金100、000円およびこれに対する昭和40年6月19日以降完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを10分し、その1を被告の、その余を原告の各負担とする。
■ 事  実



[1] 被告は、原告に対し金1、875、758円およびこれに対する昭和40年6月19日より支払済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。
[2] 訴訟費用は被告の負担とする。
[3]との判決ならびに仮執行の宣言。
[4]原告の請求を棄却する。
[5]訴訟費用は原告の負担とする。
[6]との判決。
[1] 原告は、昭和12年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事し、昭和16年以降新潟高等学校教授、昭和19年以降東京高等師範学校教授を歴任し、昭和24年学制改革に伴い、以後今日まで東京教育大学教授として、将来教員となるべき人々の歴史教育に当つてきたものである。その間、昭和23年には「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞し、昭和25年には論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得た。著書に、右のほかに「日本道徳思想史」、「日本近代思想史」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「歴史と現代」など日本史および歴史教育に関するもの約30冊がある。また原告は、昭和21年に戦後最初の国定の日本史教科書が編纂されるに当つて、文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」の編纂に従事し、昭和27年以降は、三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」の執筆・改訂を行ない、高等学校における歴史教育にも尽力してきたものである。
[2] 被告国は、教育行政を所管する行政機関として文部大臣を置き、文部大臣は、国の教育行政を分担管理する主任の大臣として(国家行政組織法第5条)、文部省の所管事務(文部省設置法第5条参照)を統括し、職員の服務についてこれを統督する地位にあり(国家行政組織法第10条)、主任の行政事務について、法律もしくは政令を施行するため、または法律もしくは政令の特別の委任に基づいて、文部省令を発する権限を有し(同法第12条第1項および第4項)、右の一般的権限のほか、学校教育法その他により、教科用図書の検定等の権限を有するものである(学校教育法第21条、第40条、第51条等)。

[3] 昭和35年、高等学校学習指導要領が全面的に改訂となり、教科書改訂の必要が生じたので、原告は、その執筆にかかる高等学校第3学年用日本史教科書「新日本史」5訂版原稿につき、昭和37年8月15日出版者たる株式会社三省堂(以下三省堂という。)を通じて検定申請を行なつたところ、文部大臣は、翌38年4月に至り不合格処分を決定し、同月12日文部省に出頭した原告および三省堂担当社員らに対し、初等中等教育局教科書課教科書調査官渡辺実、同村尾次郎、同貫達人の3名を介して、初等中等教育局長福田繁作成名義の同月11日付不合格決定通知書を交付し、不合格の理由を告知した。不合格の実質的な理由は、のちに詳述するように、憲法・教育基本法はもとより文部大臣自身が定めた学習指導要領にすら反するものであつたが、このため、右「新日本史」の昭和39年度の出版は不可能となつた。
[4] その後原告は、前記原稿に若干の修正を加えて、同38年9月30日再び検定申請の手続をとつたところ、文部大臣は、同39年3月に至つてようやく条件付合格の決定をなし、同月19日文部省に出頭した原告および三省堂担当社員らに対して、初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上、前記教科書調査官渡辺実を介して、条件付合格となつた旨を伝達し、本文280頁・史料22頁の白表紙本につき約300項目に及ぶ合格条件を示して修正を要求し、さらに、三省堂担当社員に対しては同年4月12日および同年4月20日の2回にわたり重ねて修正要求をした。
[5]しかし、右修正要求に応じなければ、不合格となることが明白であり、このため「新日本史」の出版が不可能となつて同書がまつたく姿を消してしまうことは原告としても忍び難いところであり、企業体としての三省堂も多大の損失を被ることが明白であるので、三省堂および原告は、不本意ながらも若干の修正に応ぜざるをえなかった。しかしながら、右の修正要求は、後述のごとく、いづれも違法なものであつて、これにより原告は記述の自由を著しく制約されたものである。
1 本件をめぐる全般的事情(教科書検定制度の実態とその問題性)
(一)教科書検定制度の問題性
[6] 学校教育法(昭和22年法律第26号)第21条、第40条、第51条が定める教科書検定制度は、義務教育、普通教育において使用される教科書の適正化を図るという、一見もつともな趣旨のもとに行なわれているが、しかし歴史的にみるならば、この制度は必ずしも純粋に教育的目的のために運用されたものではない。かえつてそれは、実際には、教育内容を権力的に統制するというきわめて危険な目的のためにしばしば利用されてきた。また、諸外国では、わが国のような教科書に対する中央官庁の事前審査の制度は必ずしも採用されていない。したがつて、教科書が義務教育ないし普通教育で使用される主たる教材という性格をもつからといつて、それだけで直ちにこれに対する国家の関与、とくに中央官庁の事前審査を当然視しあるいは必要視することは誤まりであり、危険なことでもある。
(二)歴史的にみたわが国教育政策の問題性
[7] 戦前のわが国教育政策は、基本的には学校教育による国民の思想統制を目ざすものであり、教科書制度もまたこの目的のための最も有効な手段として利用されてきた。
[8] このことは、わが国における教科書検定制度あるいは教科書国定制度の発足の由来をみれば、きわめて明瞭である。
[9] すなわち、明治の初頭においては、政府は、国民に海外の新知識・新思想を吸収させることに熱心で、国民の思想を統制すべき政治的必要性を意識していなかつた。このため、教科書も、自由に発行し、自由に使用することが認められていた。このため、諸外国の近代民主主義思想が、きわめて自由にわが国学校教育の内容に取り入れられることとなつた。
[10] このような事情が急変したのは、明治10年代に入つて、自由民権運動が全国的に展開されるに至つてからのことである。すなわち、自由民権運動の全国的な高揚におどろいた政府は、これにきびしい弾圧を加えるとともに、明治13年、通牒によつて、箕作麟祥訳「勧善訓蒙」、福沢諭吉著「通俗国家論」、「通俗民権論」、加藤弘之著「国体新論」等、近代民主主義思想を紹介した書物の大部分を、小学校教科書として妥当でない、小学校で教えるべき性質のものではないという理由で使用禁止とし、自由民権思想の抑圧に努めた。
[11] 翌14年には、小学校教則綱領(同年文部省達第12号)が定められ、そこに示された各教科の教授要旨によつて、各教科の教育内容が規制されることとなつた。同時に、教科書についても認可制がとられ、教科書の内容が右の教授要旨に適合するよう要求されるようになつた。教科書検定の制度は、こうした経緯を経て、明治19年の小学校令の制定によつて確立されたものである。
[12] 当時の政府は、右のように自由民権運動を鎖圧するばかりでなく、さらに絶対主義的天皇制の確立を図る必要に迫られていたので、この目的のために、政府は、旧来の儒教思想を復活強化し、儒教道徳を利用しながら、天皇中心の国民意識を形成することを図つた。明治23年には、この目的のために教育勅語が発布され、以後これがわが国教育の至上の原理とされるに至つた。
[13] こうして、教科書もまた、当然に天皇制イデオロギーを国民に撤底させるための手段と目されるようになり、明治20年代の終り頃から30年代にかけて、右のような観点から検定教科書の不十分さが指摘され、教科書の国定化を要望する声が支配層のなかから強く打出されるようになつた。例えば、日清戦争の直後である明治29年には、貴族院が、「小学校修身科ノ教育タルヤ国家ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナルニ因リ、其ノ教育ヲ施スニ必要ナル教科用図書ハ国費ヲ以テ完全ナルモノヲ編纂シ、其ノ教育ニ欠点ナキヲ期セザルベカラズ」という建議を行ない、明治32年の衆議員における建議案においても、「徳育ノ要ハ善良ナル修身教科書ヲ編纂シ全国ノ就学児童ノ徳行ヲ同撥ノ下ニ教養シ、忠君愛国ノ精神ヲ哲発シ以テ国家ノ文明ヲ進メ富強ヲ致スニ在リ、現今各小学校往々修身教科書ヲ異ニシ授業ノ方針亦区々ニ渉ルノ弊アリ是レ実ニ徳育帰一ノ本旨ニ非ス」と主張された。

[14] このような動きにのつて、政府は、明治36年修身・国史・地理・国語の教科書を国定とした。国定化された教科が、修身・国史・地理・国語であつたこと、とりわけ修身教科書の国定化が早くから強く主張されてきたことは、国定制度の意図がどのようなものであるかを如実に物語つている。そして、国定制度が、その後の教育内容の極端な国家主義化・軍国主義化に役立つたことは衆知のとおりである。また、これによつて、歴史的真実がいかに隠蔽され、歪曲されたかも、われわれの記憶に新らしいところである。
[15] 戦後になつて、戦前の教育制度に対する反省に基づいて、教育制度の民主化が図られ、教科書についても国定制度が廃止されたが、検定制度が排除されるまでには至らなかつた。
[16]しかし、戦後の検定制度は、戦前のそれと異なり、ある程度民主化されたものとなつた。例えば、教科書に対する中央政府の統制を排除する趣旨で、検定権限は都道府県教育委員会におかれることとなつた(旧教育委員会法第50条。ただし、戦後の物資不足という特殊事情に対処するために、用紙割当制が廃止されるまでは、暫定的に文部大臣が検定を行なうこととされた。同法第86条)。また、戦後の学習指導要領は、戦前の教授要目のように教育内容を画一的に拘束するものではなく、むしろ教師によい示唆を与えてその創意工夫を助長する性格のものにかわつた。したがつて、検定においても、教科書編著者の創意工夫が尊重され、教科書の内容に詳細に立入つてこれを規制することはなかつた。
[17] ところが、その後、極東のスイスから反共防波堤への占領政策の転換や、このためのわが国の再軍備政策その他の違憲政策の推進に伴い、教科書に対する中央官庁の介入は再び強められ、検定制度は再び右のような政治的観点からする思想検閲としての色彩を強くもつようになつた。
[18] 昭和28年には、学校教育法・教育委員会法の一部が改正され、用紙割当制廃止後も教科書検定は恒久的に文部大臣が行なうものとされた。
[19] 昭和30年8月には、日本民主党が、「うれうべき教科書」と題するパンフレツトを公刊して、宮原誠一(東京大学教育学部教授)、宗像誠也(東京大学教育学部教授)、周郷博(お茶の水女子大学教育学部教授)、日高六郎(東京大学文学部教授)、長田新(広島大学教育学部教授)などわが国有数の学者の定評のある社会科教科書を「偏向」した「赤い教科書」であると非難し、その直後の同年9月には、文部省は検定を「厳重にする」ことを理由に、検定審議会委員のいれかえを行なつた。そして、実際にも、この時以降「偏向」というレツテルをはられて不合格になる教科書が多くなつた。
[20] 昭和31年には、文部大臣の検定権・検定基準立法権を恒久化するとともに、検定に合格する見込がないと認められる図書に対する検定の門前払い、教科書出版業者の登録拒否、その事業場への立入検査などの権限を文部大臣に与えること等を内容とする教科書法案が国会に提出された。同法案は、教育の国家統制を図るものとして、学者・教員その他の世論の強い批判を浴びて廃案となつたが、文部省は、それにもかかわらず同法案の重要な内容をなしていた教科書調査官制度を同年秋から発足させ、従来からあつた教科書調査員(非常勤)に加えて、常勤の文部省職員を調査官として教科書の内容審査に当らせることとし、検定強化の態勢をととのえた。
[21] 次いで、昭和33年には学校教育法の一部改正によつて学習指導要領に法的拘束力が賦与され、同年の小・中学校学習指導要領の改訂、昭和35年の高等学校学習指導要領の改訂などの事情と相まつて、検定は年を逐うごとに強化され、歴史、政治、経済、社会機構に関する記述は、著しく制約されるようになつた。このため上原専禄、宗像誠也、長州一二、日高六郎などのわが国有数の専門学者が教科書の執筆を断念し、あるいは編集者からパージされるという事態まで生じている。
v 以上によつて、教科書検定制度は、教育内容の統制、ひいては国民の思想統制という政治的意図に実際に利用されてきたし、あるいは、教科書の内容に対する思想審査にわたる危険性を常に内包する制度であることが明白である。
(三)「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態
[22] 原告は、昭和22年4月に一般用市販図書として「新日本史」を公刊し、同24年3月には改訂版を発行していたが、三省堂から高等学校用日本史教科書の執筆を依頼され、右「新日本史」を台本にして、戦後の歴史学界における研究の成果と原告自身の研究の結果とに基づき全面的に改訂増補を加えて右教科書の原稿を完成し、同27年春検定の申請手続をとつたところ、一旦は不合格となつた。その理由としては、大逆事件の記述のあることが好ましくないこと、日露戦争が国民によつて支持された戦争であることを明らかにしていないことなどが示されていたが、原告が右不合格原稿に何らの訂正を加えずに再申請したところ合格し、「新日本史」として昭和28年度から教科書として用いられた。
[23]その後、三省堂の依頼により右「新日本史」初版に全面的な添削を加え、同30年あらためて改訂原稿の検定申請をしたところ、216項にわたつて修正することを条件として合格となり、その後2回にわたつて修正を要求されたが、修正に応じうる点は修正し、承服できない点については修正を拒否した。その例をあげると次のとおりである。
[24](1)「この二院(貴族院と枢密院)は後々まで貴族・官僚の根城として民主主義の発達をくい止める役目をつとめたのである」という記述について、「妥当でない。これらがあつたために、政党の横暴を防いだのではないか」という削除要求を受けたが拒否した。
[25](2)「しかし、こうした一連の政策(アメリカへの全面協力、破防法制定、再軍備推進、アメリカとの軍事協力)は必ずしも国民のすべてによつて支持されてきたのではない」という記述について、全面的な削除を求められたが拒否した。
[26](3)日本軍は北京・南京・漢口・広東などを次々と占領し、中国全土に戦線を広げた」という記述について、「『中国全土に戦線が広がつた』と訂正せよ」と要求されたが、これを拒否した。
[27] このように、抵抗してようやく検定に合格し、昭和31年度から「新日本史」再訂版が発行された。
[28] 昭和30年の高等学校社会科学習指導要領の改訂に伴つて、「新日本史」3訂版の検定申請を、同31年11月、同32年5月の再度にわたつて行ない、同30年度と同様の過程を経てようやく合格し、同34年から3訂版が、また同37年から4訂版が発行された。
(四)諸外国の教科書制度
[29] わが国のように検定制度をとつている国は、アメリカの一部の州、スエーデン、西ドイツ、タイ、台湾などであまり多くはない。しかも、例えば西ドイツでは、検定はすべて州の文部省が行ない、連邦国家は何ら関与していないといつたふうに、必ずしも中央官庁の検定ではないのである。
[30] ノルウエー、ベルギー、アメリカの一部では、認定制度をとつている。認定制度は、わが国の明治の検定以前の状態で、民間で自由に著作し発行したものを公共機関で審査し認可するというものである。
[31] また、イギリス、フランス、イタリヤ、オランダ、デンマーク、アメリカの一部では、ほとんど自由発行、自由採択にまかされている。フランスの場合は、認定制度がとられているが、しかし認定には、各県の大学区視学官を議長として、実際の教育者が当つており、国家の支配はまつたくうけていない。とくに、イギリス、オランダ、イタリアは、完全な自由発行、自由採択の制度がとられている。
[32] 以上の諸外国の教科書政策を通じてみても、普通教育で使用されるものだからというだけで、教科書に対する中央官庁の事前審査が自明のこととされているわけでは決してないのである。
2 教科書検定制度のしくみ
[33] 本件昭和38年以降の教科書検定については、概ね次のごとき法的しくみとなつている。すなわち、
(一)検定制度の大綱について
[34]「高等学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書……を使用しなければならない」
[35](学校教育法第51条、第21条第1項)とあるのをうけて、文部省令で「教科用図書検定規則」(昭和23年4月30日同省令第4号)が定められ、「(教科用)図書の著作者又は発行者は、その図書の検定を文部大臣に申請することができる。」(同規則第3条)、「図書の検定は教科用図書検定調査審議会の答申にもとづいて、文部大臣がこれを行う。」
[36](第2条)、「図書の検定は、原稿審査、校正刷審査及び見本本審査の3段階を経て完了する。」(第4条)こととされている。
[37] 因みに、制定当初の学校教育法第21条第1項、第106条、教育委員会法(昭和23年法律第170号、昭和31年9月30日廃止、以下「旧教育委員会法」という。)第50条等では、公立学校における教科書の検定権を都道府県教委におくことを建前とし、当時の物資不足の状況下で用紙割当制が存する「当分の間」だけ検定権をもつ「監督庁」を文部大臣としていたが(旧教育委員会法第86条)、昭和28年8月の同法改正により右記のごとく文部大臣の検定権が恒久化されたのである。
(二)検定の基準について
[38] 検定の基準については、右検定規則第1条第1項が、「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法(昭和22年法律第25号)及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする」とあるのをうけて、文部省初等中等教育局が文部省設置法(昭和24年法律第146号)第8条第13号の2に基づき定めた「教科用図書検定基準」(昭和33年12月12日文部省告示第86号)が、各教科に共通する検定合格の「絶対条件」と、各教科ごとの「必要条件」について詳細な定めを設けている。
[39] 因みに、昭和24年当時の「検定基準」では、絶対条件として、
[40]「(1)わが国の教育の目的と一致しているか。
[41] 教育基本法及び学校教育法の目的と一致し、これに反するものはないか。たとえば、平和の精神、真理と正義の尊重、個人の価値の尊重、勤労と責任の重視、自主的精神の養成などの教育目的と一致し、これに反するものはないか。
(2)立場は公正であるか。
[42] 政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派にかたよつた思想・題材をとり、又、これによつて、その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難しているようなところはないか。
(3)それぞれの教科の指導目標と一致しているか。」
[43] という3項目があげられていたが、その後数次の改訂を経て昭和33年の前記「検定基準」では、
[44]「(1)(教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に定める当該学校の目的と一致しており、これに反するものはないか。
[45](2)(教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。
[46](3)(立場の公正)………前掲に同じ………」
[47] と改められており、各第1項を比較すれば、改訂の意図するところがおのずから明らかである。
(三)検定の手続について
[48] 本件当時の検定の手続については、まず著作者または発行者から教科用図書の原稿が提出されると、文部大臣はこれを前記審議会に諮問し、文部省教科書調査官の調査に付するとともに、審議会の調査員に送付してその調査に当らせる(審議会は文部省設置法第27条およびこれをうけて昭和25年5月に制定された教科用図書検定調査審議会令(昭和25年政令第140号)に基づき設置されたもので、その委員80名は「教育職員及び政治、教育、学術、文化、経済、労働等の名界における学識経験のある者のうちから、文部大臣が任命」したものであるが、その実際の顔ぶれをみるとその人選が果して公正に行なわれたかについては問題が多いといわれている。)。調査官は、右設置法施行規則(昭和28年文部省令第2号)第5条の2に基づき、「上司の命を受け、検定申請のあつた教科用図書……の調査に当る」(第2項)ことを職責として、初等中等教育局教科書課に配置され(第1項)、その数は40名であり各教科を分担している。調査員は、「学識経験のある者のうちから審議会の意見を聞いて、文部大臣が任命」した者で(審議会令)、実際には学識経験者および全国の小・中・高校教員から選ばれた者よりなり(総数600名に上る。
[49])、三者は並行して原稿審査にあたり、調査官は原稿ごとに2名以上、調査員は3名で調査を行なうが、調査が一応終ると(もつとも、調査員の調査にはふつう3週間程度の余裕しか与えられていない。)、審議会は教科別の部会を開き、調査官と3名の調査員がそれぞれ作成した計4通の調査意見書および評定書を参考として審議を行ない、合否を決定する。
[50] その結果、不合格と決定したものについてはその理由を、合格と決定したものについては修正の条件があればそれに関する意見(A意見とB意見とがあり、文部省当局の説明によれば、前者はそれに応じなければ検定に合格しないという強い性格のものであり、後者はたんなる希望意見であるとされているが、実際には、必ずしもそのように運用されていない。)を付して、審議会は文部大臣に答申を行ない、これをうけて文部大臣(文部省初等中等教育局教科書課)はほとんどそのまま合否を決定し、申請者に決定の内容およびA・B意見を通知する。不合格処分を行なうに当つて、出版者・編著者の意見を事前に聴取する等の手続はまつたく設けられていない。
[51] 以上が原稿審査の段階であつて、これに合格した申請者は、示された修正意見に基づいて原稿に修正を加え、右教科書課における修正の可否の検査を受け(校正刷審査)、これをパスすると、表紙奥付等をつけて完全な体裁をととのえた見本本につき造本技術的な審査を受け(見本審査)、これを通つて、はじめて検定合格を与えられることとなるわけである。
[52] 因みに、教科書調査官は昭和31年11月文部省設置法施行規則(同省令)の一部改正(同年文部省令第26号)により新設されたもので、同年の第24国会にこの制度をもりこんで提案された教科書法案が「地方教育行政の組識及び運営に関する法律」案の強行可決をめぐる混乱で廃案となつたため、不当にも省令改正という行政措置によつて実現されたものである。この時以降、それまで教育専門家や現場教員によつて行なわれてきた教科書検定に、行政官僚が直接関与することとなつた。
3 教科書検定制度の違法性
[53] 教科書の著述・編集・刊行は、いうまでもなく憲法上の言論・出版の自由の保障をうけるべきものであるが、現在実施されている教科書検定制度は、前述のごとき検定基準およびその運営の実態から窺えるように、教科書の内容に対する思想審査を行ない、そのいかんによつて教科書としての発行と学校における使用とを禁止するもの(学校教育法第21条、第40条、第51条)であつて、明らかに憲法第21条第2項の禁止する検閲に該当するものである。
[54] 言論・出版の自由をはじめとしてすべて国民の基本的人権は公共の福祉による制約をまぬがれないものと一般に考えられているが、憲法第21条第2項が、同条第1項の言論・表現の自由の保障に加えて、とくに検閲禁止を定めたのは、言論・表現の自由にあつては、国家権力による事前抑制から自由であることが、その性質上とくに強く要請されるからにほかならない。したがつて、言論・表現の自由に対する事前抑制は、公共の福祉を理由としても原則として許されないものといわなければならない。のみならず、検定制度の必要なゆえんとしてあげられている普通教育の特質に基づく小・中・高校教育の画一化の要請なるものは、むしろ憲法・教育基本法が定める教育の民主的諸原則に反するものである。

[55] すなわち、現行憲法は、国民に思想・信条・言論・表現・学問等の諸自由を保障し、これによつて国民は、国家権力によつて介入や制約をうけることなく、自由に学問研究の成果を享受し、さまざまな思想や意見に触れ、政治的・社会的現実や歴史的真実を出版物・新聞・ラジオ・テレビその他を通じて、知り、聞き、読む機会を保障されているのである。それがわが国の憲法秩序である。
[56] したがつて、わが国の教育制度は基本的にこの憲法秩序に適合するものでなければならないし、現に、教育基本法、とくにその前文、第1条、第2条および第10条は憲法の右の要請に応えて教育法制の基本原理を定めている。ことに、教育基本法第10条は、戦前のわが国教育制度が、教育を通じて国民の思想統制を図り、この目的のために教育を画一化し、教育を歪曲したことに対する反省に基づいて、教育を権力的に統制し画一化することを教育に対する「不当な支配」として禁止し(第1項)、教育行政が教育の内容に権力的に介入することなく、その外的諸条件の整備に当るよう、その任務と限界とを定めている(第2項)。もつとも、今日の小・中学校教育は義務教育として行なわれるものであり、高等学校教育も普通教育の一環として行なわれるものである以上、その教育内容について国や地方公共団体が何らの関与をなしえないということはできないであろう。しかし、国や地方公共団体の教育内容に対する関与は、憲法・教育基本法の右のごとき要請からして、真に必要とされるごとく大綱的な基準の設定にとどまるべきで(兼子仁・教育法151~2頁、昭和39年3月16日福岡地裁小倉支部判決、同年5月13日福岡高裁判決同旨)、それ以外は、非権力的な指導助言の作用によるべきである。現在のわが国教育法規が、指導助言という非権力的作用をふんだんに取り入れているのも(文部省設置法第5条第18、
[57]第19、第20、第22号、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第19条第3、第4項等参照)この趣旨に基づくものにほかならず、この作用こそは、人間の内面的人格、思想の形成を目的とし、高度の専門性を有する教育という作用に最もふさわしい方法なのである。
[58] 以上のごとき戦後のわが国の民主的な教育思想および教育法制の基本原則からすれば、教育内容の非画一化(権力による画一化の排斥)こそは、教育的価値として積極的に擁護され、尊重されなければならないものである。このような観点からいえば、教科書の内容について事前審査を行ない、あるいはごく大綱な基準の範囲をこえて教育内容の画一化を図るために検定を行なうことは、教育法制を貫ぬく基本原理にも反するものであり、教科書の自由発行制度こそが、最もよくこれに適合した制度であるということができるのである。
[59] 現在のわが国の検定制度およびその実際の運用は、前述したところで明らかなように、一定の政治的イデオロギーに基づいて、今日のわが国における各分野の学問研究の成果を自由に教科書にもりこむことを妨げ、学問上の真理や定説を歪め、歴史的・政治的・社会的現実を隠蔽し、子供(国民)が、学校教育を通じて、これらのものを学びとる機会を奪おうとしている。
[60] また、調査官らのきわめて恣意的な判断によつて、教科書執筆者の記述の自由や創意・工夫が制約され、教科書の内容が歪められ、正しい知識を学びとるべき子供の学習の権利が損われている。しかも、この弊害は、社会科だけではなく、数学、物理、英語などの学習の全領域にわたつて現われている。
[61] このような検定制度は、憲法第21条、教育基本法第10条に違反するばかりでなく、わが国憲法の基本的な精神、憲法秩序の全体に反するものといわなければならない。
4 検定の基準および手続の違法性
[62] かりに、何らかの型態の検定制度が必要であるとしても、濫用されることのないように、明確な限界が付され、このための制度的、手続的保障が設けられていなければならない。検定制度が前述のごとき危険性を内包し、現に弊害を生み出していることにかんがみれば、このことは当然であろう。
[63] このような検定制度に対する限界づけの要請は、第一つに検定制度が言論・出版の自由にかかわりをもつことに基づくものである。すなわち、検定制度は、検定が、表現の自由をいたずらに侵すことのないように、確実な制度的・手続的保障を備えていなければならない。そうでなければ、その検定制度は憲法第21条のみならず憲法第13条、第31条にも反することになろう。けだし、憲法第13条、第31条の規定は、憲法第21条等の権利自由の保障条項と相まつて言論・出版の自由をはじめとする国民の権利・自由が実体的にも、手続的にも保障されるべきことを要請する趣旨のものだからである(昭和38年9月18日東京地裁判決タクシー業免許申請却下事件、昭和38年12月25日東京地裁判決乗合バス事業免許申請事件同旨)。
[64] 第二に検定制度は、教育行政が教育内容を権力的に統制し画一化してはならないとする教育基本法第10条の観点から、明確な限界を課せられなければならない。
[65] この意味で検定制度は、大綱的基準の設定という教育行政の基本的限界内にとどまるものでなければならず、そのための制度的・手続的保障を具備していなければならない。
[66] 以下、右の2つの観点から、現行検定制度の違法性を指摘したい。
[67](一)検定基準は、一面ではきわめて包括的な基準を包むと同時に、他面ではきわめて詳細な基準を含んでおり、かつ、例えば「特定の政党や特定の宗派にかたよつた題材をとり、またこれによつてその主義や信条を宣伝したり、あるいは非難したりしているようなところはないか」(絶対条件3)というように、その文言はきわめて抽象的・瞹昧で、みる人の主観(世界観・主義・信条・教育観)によつてどのようにもかわりうるようなものとなつている。このため現行基準によれば、教科書の内容にも全面的にかつ詳細に立入つて審査することができ、しかも調査官らの恣意的判断を防止することはきわめて困難である。

[68](二)検定基準の1つとして、学習指導要領があげられているが、学習指導要領は、教育内容につき相当詳細に規制したものであつて、明らかに大綱的基準の範囲を逸脱しているので、これに法的拘束力を認めることはできない(兼子仁・教育法177~8頁、昭和39年3月16日福岡地裁小倉支部判決、同年5月13日福岡高裁判決同旨)。それは指導助言以上の性格をもちうるものではない。そうだとすれば、学習指導要領を検定基準の1つとして、教科書の内容がこれに適合するように要求し、これに反すると認める場合には修正削除を指示しあるいは不合格処分を行なうことは、許されないものといわなければならない。
[69](三)また、教育基本法に適合しているか、内容の選択程度が適正であるか、内容が正確であるか等の基準についていえば、これらの事項は、いわば教育的・学問的な判断ないし裁量にまつべきものであり、また、教科書執筆者の歴史観・学説・見解・教育観などによつて判断がわかれることがありうるものであるから、行政権が、その判断をいわば一義的に行なうことは適当ではない。例えば、いくつかの学説がある場合に、文部大臣・検定審議会・調査官が、適正・正確と判断するもの以外を排斥し、あるいは、学問上真理とされている説や事実を文部大臣らがそれとは別の判断見解に基づいて、排斥することは妥当ではない。少なくとも、これらの事項について、行政機関の自由な裁量を認めるべきではない。行政機関による審査は、むしろ、明白な誤記・誤植・色刷の不鮮明、学問的にも確定されている事実や法則に明白に反する記述等、明白で異論の余地のない欠陥の是正のみを目的とすべきである。そしていくつかの学説・史観等のいずれが正しいか、どのような内容の選択や事実の評価が最もよく平和主義・民主主義の精神に適合するか、どの程度のものが最もよく当該年度の生徒の発達段階に適合するか等の事項は、学問的討議、学問研究自体の発展、執筆者の創意や、配慮、教科書採択(選択)の際の教師の教育的配慮(裁量)に基づく判断、さらには教師の教育研究などにまつべきである。
[70](四)教科書検定は、検定審議会の答申に基づいて行なわれることとなつているが、その委員は文部大臣が自由に任命することができ、その人選が公正に行なわれるべき保障は存しない。また、右審議会の審議・合否の決定に先立つて調査官の審査が行なわれるが、調査員に至つてはその氏名さえも秘匿され、これらの者の調査意見書、評定結果や右審議会の審査はすべて非公開であつてすべてが秘密裡に行なわれる建前となつている。不合格とされた場合も、その理由は2行程度のきわめて簡単で抽象的なものしか示されない。修正削除の箇所やその理由(条件付合格処分の場合の条件)も調査官が口頭で伝えるのみで、文書によつていない。合否が決定される前に、出版者や編著者の意見を述べる機会は保障されておらず、不当な修正削除の指示・要求に対し不服を申立てるための救済制度が保障されていない。検定が公正に行なわれるための制度的・手続保障は皆無といつてよい。
5 検定基準違反
[71] 本件における不合格決定の理由および条件付合格の修正要求の内容は、憲法・教育基本法はもとより文部省自身の定めた検定基準にすら反している。すなわち、文部省の定めた教科用図書検定基準には、絶対条件として教育基本法、学校教育法および学習指導要領等をあげているが、次に例示するとおり、本件における不合格の理由および条件付合格の修正要求の内容は、文部省の作成した学習指導要領にすら相反するものである。
[72](一)昭和38年9月30日に検定申請をした原稿(以下「38年申請白表紙本」という。)33頁脚注に「『古事記』も『日本書記』も『神代(かみよ)』の物語から始まつている。『神代』の物語はもちろんのこと、神武(じんむ)天皇以後数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統1してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが、その中には民間で語り伝えられた神話・伝説なども織りこまれており、古代の思想・芸術などを今日に伝える貴重な史料である」という記述があるのに対し、右傍線部分につき、強要されて削除を余儀なくされた。この命題は、津田左右吉博士の著名な研究によつて明確に立証されており、今日日本史を専攻するほとんどすべての学者が肯定しているところであり、かつ、右脚注の本文は、「712年(和銅5年)には『古事記(こじき)』が、720年(養老4年)には『日本書紀(にほんしよき)』が完成した。このような歴史書の編纂(へんさん)が行なわれたのも、律令政府の政治的自覚の高まりを示すものであろう。また、このころ、諸国に命じて地誌・伝説を集めた『風土記(ふどき)』をも作らせている。『古事記』は、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)
[73](生没年不詳)に命じて誦み習わせた皇室の系譜と物語を大安万侶(おおのやすまろ)(?~723)が書きしるしたものである。『日本書紀』もまた天武天皇のとき着手され、舎人(とねり)親王(676~735)を総裁とする編纂者によつて完成された」という記述であるから、右脚注とくに傍線部分を除くと、古事記・日本書紀についての記述が不正確になるだけでなく、古事記・日本書紀の記述をそのまま史実と誤解せしめる記述になり、右削除要求は、史実に基づかない非科学的な歴史の学習を期待しているものというほかはない。これは、学習指導要領の「史実を実証的・科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う」目標にも著しく反するものである。
[74](二)38年申請白表紙本196頁写真「大日本帝国憲法」の説明の「官報号外の表紙、金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している」という記述のうち右傍線を付した部分の削除を余儀なくされ、さらに、同白表紙本197頁の「これが大日本帝国憲法であるが、憲法は公布の日まで秘密にされ」という記述について、「秘密にするのがふつうで特別のことではない」として削除を求められたため、「これが大日本帝国憲法であつて」とし、脚注に「起草・審議の過程においては、草案が公表されなかつたので国民は公布の日まで憲法の内容を知ることができなかつた」と加えて修正せざるをえなかつた。これらの修正・削除要求は、学習指導要領の「時代の性格を明らかにし、その歴史的意義を考察させる」、「現代社会の歴史的背景をはあくさせ、民主的な社会の発展に寄与する態度とそれに必要な能力を養う」という目標に著しく反するものである。
[75](三)38年申請白表紙本238頁の人文科学の発達の項の「しかしながら、明治憲法のもとでは学問の自由が保障されておらず、人文科学に対しては強い政治的制約が加えられ、研究の妨げられることが少なくなく、学問上の著述のための災いにあつた学者も、1、2にとどまらなかつた」という記述に対し、「研究を妨げられなかつた学者もいる。審議会(教科用図書検定調査審議会)の人々は、戦争中でも研究の不自由はなかつたという人もいる」ということを理由に修正を求められ、結局傍線部分を削除し、傍点部分を「大幅な自由」と改めざるをえなかつた。この修正要求は、明治憲法体制のもとでは人文科学とくに社会科学の研究について学問の自由が極度に制限されていたという重要な史実の学習を妨げるものであり、学習指導要領の「日本の文化が、政治や社会・経済の動きとどのような関連をもちながら形成され、発展してきたかについて考察させ」るという目標に反するものである。
[76](四)38年申請白表紙本258頁の戦争体制の強化の項の「……国民は戦争について真相を十分に知ることができず、無謀な戦争に協力するよりほかない状態に置かれた」という記述のうち、「無謀な」を削除するよう強要されて削除した。
[77] また、昭和37年8月13日に検定申請をした原稿の不合格理由として、「242頁に『本土空襲』『原子爆弾とそのために焼野原となつた広島』という戦争の暗い写真が掲げられ、244頁では『出陣する学徒』『工場で働く女子生徒』のように戦争に1生懸命協力している明るい面が出ているが、245頁ではまた『戦争の惨禍』のような写真(街頭で募金する義手の白衣の勇士)があつて全体として暗すぎる」という点があげられており、昭和38年9月30日再申請した白表紙本には『戦争の惨禍』の写真は挿図として掲げなかつた。これらは、学習指導要領に「戦争のもたらす人類の不幸や損失について深く考えさせる」とあるのとまつたく相反する。
[78](五)38年申請白表紙本274頁の「安全保障条約によつて、アメリカ軍は日本に駐留を続け、全国各地に多くの基地を保有した」という記述の「基地」について、「条約では『施設』といつている」として修正を求められ、やむなく「施設(一般には基地と言つている)」と改めたが、条約にいう合衆国軍隊の使用する「施設および区域」を一般に米軍基地というのであつて、右修正要求は、憲法の平和主義の原則に反する日本の現状を明確にすることを妨げるもので、ことさらに不正確な表現を用いることを強いた点は文部省自から定めた前記教科用図書検定基準にも反するものである。
[79] 文部大臣の前記昭和38年4月11日の違法な不合格処分および昭和39年3月18日の違法な条件付合格処分ならびにこれに基づいて同月19日以降同年4月20日までの間に前後3回にわたつて行なわれた違法な条件(修正削除)の指示により、原告は、表現の自由を侵害され、あるいは著しく制約され、多大の精神的苦痛を被つた。昭和38年度の場合、結果的には、原告は修正削除に応じ、検定合格となつたが、しかし、なお次の理由により、原告はその表現の自由を侵害され損害をうけたものといわなければならない。
[80] すなわち、原告は、わが国の民主教育の発展をねがつて、日本史の専門研究者としての立場から、昭和27年以来、高校用歴史教科書の執筆・改訂に従事してきたものであつて、検定制度が反動化し、記述の自由が著しく制約されるという困難な条件のもとでも、執筆を断念することなく、可能なかぎり憲法と教育基本法の精神に適合した歴史教科書の出版を継続させるために尽力してきたものである。原告が、昭和37年度および38年度の際に筆を折るという態度をとらなかつたのは、このような原告の立場に基づくものである。けだし、原告が執筆を断念し、将来にわたつて歴史教科書の著作の自由を放棄することは、文部省の望むところであつたろう。
[81] もともと国民は、教科書の執筆・出版の場合にも、憲法の表現の自由の保障をうけ、行政官庁の不当違法な制約をうけることなく、自由に教科書の執筆・出版をなしうる地位にあるのであつて、結果的に検定に合格したか否かにかかわらず、文部大臣ないし調査官の修正削除の指示という制約をうけ、これに応じないかぎり、検定不合格処分をうけ、あるいは筆を折るほかないという状態に執筆者がおかれていること自体、表現の自由に対する侵害であるといわなければならない。かくして、原告は、右の精神的苦痛に対する損害賠償として、被告に対し、少なくとも金100万円を請求する権利を有する。
[82] 次に、原告は、昭和37年度の検定不合格処分により、昭和39年度用として発行予定の新(五)訂版「新日本史」の発行が不能となつた。右5訂版は、もし本件検定不合格処分が行なわれなければ当然予定どおり発行されていたはずであつて、これによつて原告は、印税による利益を受けることができたはずである。したがつて、右違法不合格処分と昭和39年度新(五)訂版「新日本史」の発行できなかつたこととの間には相当因果関係があるから、昭和39年度に右新(五)訂版が発行されたであろう部数と、その印税によつて受ける利益を失つたので、被告はこの失つた印税相当額を損害賠償として原告に支払う義務があるといわなければならない。
[83] 原告が昭和39年度版の発行によつて得たであろう利益の額は、昭和39年度に発行されるはずであつた発行部数に定価を乗じ、そこから原告が受けるべき印税の額から税金を控除した額である。
[84] そこで、発行部数の確定であるが、3、4訂版を例にとれば、昭和34年度61、272部、35年度41、320部、36年度34,627部、37年度36,652部(3、4訂版合わせて)、38年度29,606部となつており、39年度は4訂版が一部発行され、その部数は13,592部であるが、昭和38年度から日本史は必修科目となつたため、全生徒が受講しなければならなくなつた事情があり、また、改訂版は初年度にとくに売行が多いのが常であり、かつ高校進学数も増加している事情を考慮すると、39年度分の発行部数は、昭和40年度に発行された新(五)訂版の発行部数を基準として計算するのが合理的である。なお、昭和39年度は、右のように旧版(4訂版)が一部発行されているから、右発行部数は控除しなければならない。
[85]そこで右数字をみると、昭和40年度にはじめて発行された新(五)訂版は、87,576部であり、昭和39年度に発行された4訂版の発行部数は13,592部であるから差引73,984部となる。また、新(五)訂版の一部の価格は昭和40年、41年版とも金160円(4訂版は金199円)であり、昭和39年版発行予定価格も金160円である。また、印税率は、すべて7%である。ただ著者に対しては、この印税とは別に教師用指導書の発行部数に応じて1率金130,000円が支払われることになつているのでこれが加算される。
[86]これに基づいて計算すれば、次のとおりとなる。
[87](1)73,984×160=11,837,440
[88](2)11,837,440×0.07=828,620.8
[89](3)828,620.8-82,862=745,758.8(注)税金は10%源泉

[90](4)745,758+130,000=875,758
[91] 右(1)ないし(4)の計算の結果は金875,758円となり、右額が昭和39年度新(五)訂版の発行により原告が受けうる利益である。
[92] 以上のとおり、本件違法処分によつて昭和39年度中における原告の得べかりし利益の喪失は、金875,758円に相当する。
 したがつて、本件不合格処分および条件付合格処分によつて原告が被つた損害額は以上の合計額金1,875,758円である。
[93] [94] 文部大臣、事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局教科書課長諸沢正道、同局審議官妹尾茂喜および同課教科書調査官渡辺実らは、いずれも国から給与を受け、かつ、国の選任・監督する公務員であるが、教科用図書検定に関する権限を行使するに際し、原告に対し故意または過失により前述のように違法な不合格処分および前記白表紙本に対する修正・削除の要求をなし、よつて、前述の損害を与えたものであるから、国は、国家賠償法第1条により右損害の賠償をなす責を負うものである。
[1] 原告が昭和12年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事してきたこと、同一6年以降新潟高等学校教授、同一9年以降東京高等師範学校教授、同24年以降東京教育大学教授を歴任していること、同23年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を受賞したこと、同25年に論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、列記されたような著述があること、戦後に「くにのあゆみ」の編纂に従事したこと、以上のことは認める。しかし、原告に関するその他の事実は知らない。被告国に関する記述はすべて認める。
[2] 昭和35年に高等学校学習指導要領が全面的に改訂されたこと、同37年8月15日に三省堂から「新日本史」の検定申請があつたこと、同38年4月に文部大臣がこれに対し不合格の決定をしたこと、同月12日に文部省において原告および三省堂担当社員らに対し、初等中等教育局長福田繁作成名義の同月11日付不合格決定通知書を交付したこと、その際初等中等教育局教科書課教科書調査官渡辺実より不合格の理由を告知し、村尾次郎、貫達人両教科書調査官が同席したこと、同38年9月30日に前年度の申請原稿に修正を加えた原稿について三省堂より再び検定申請があつたこと、同39年3月に文部大臣が条件付合格の決定をしたこと、同月19日に文部省において原告および三省堂担当社員らに対して初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上渡辺教科書調査官より条件付合格になつた旨を伝達し、さらに、合格条件および参考意見併せて約300項目を伝えたこと、4月20日に三省堂担当社員に対し妹尾審議官および渡辺教科書調査官より若干の参考意見を伝えたこと、以上のことは認める。
[3] しかし、その余の事実はすべて争う。すなわち、「新日本史」原稿の検定を申請したのは三省堂であつて、原告ではない。昭和38年4月の不合格の決定は、申請原稿が正確性および内容の選択において著しい欠陥があつて、検定の基準に合致しなかつたためであり、この決定は憲法、教育基本法、学習指導要領に反するものではない。同39年3月19日に条件付合格の決定を通知した際、合格条件(後述のA意見参照)73項目と参考意見(後述のB意見参照)217項目を伝えたにとどまり、修正要求を行なつたものではない。同年4月20日に若干の参考意見を伝えた場合についても同じである。同年4月12日に意見を伝えたことはない。
1 本件をめぐる全般的事情
(一)教科書検定制度の問題性
[4]原告の主張は争う。
(二)歴史的にみたわが国教育政策の問題性
[5] 明治初年に教科書について特段の制度が定められていなかつたこと、同一3年に通牒により掲記の書籍を小学校教科書として不適当であるので採用すべきではないとしたこと、同一4年に小学校教則綱領が定められ、これによつて各教科の教育内容が規制されるようになつたこと、同一9年に小学校令の制定によつて教科書検定制度が創設されたこと、同23年に教育勅語が発布されたこと、同29年に貴族院が、同32年に衆議院が各々国定制度について建議を行なつたこと、同36年に小学校令が改正され、小学校用教科書について国定制度が始められたこと、戦後に検定制度が採用され、検定権限は都道府県教育委員会に付与されたが、用紙割当制が廃止されるまでは文部大臣が検定を行なうこととされたこと、昭和28年に学校教育法、教育委員会法の一部が改正され、用紙割当制廃止後も教科書検定は文部大臣が行なうものとされたこと、同31年に教科書法案が国会に提出されたが審議未了となつたこと、同年10月に教科書調査官制度が発足したこと、同33年に小学校、中学校の学習指導要領が、同35年に高等学校の学習指導要領が各々改訂されたこと、以上のことは認める。その余の事実および主張は争う。
[6] 原告がわが国の教科書制度に関して述べるところは、一面的なみかたに偏しているところおよび誤つているところが多いので、以下主なる点を指摘する。
[7](1)わが国における明治以後の初等学校の教科書は、明治5年に発布された学制に基づき全国に設けられた小学校の教科書として発展していつたものである。当初は、教科書について特別の制度はなく、欧米の教科書等を翻訳したもの、従前の寺小屋の伝統に基づく往来物、藩校の伝統に基づく漢籍等が教科書として用いられていた。これは、当時はいわば学校教育制度の揺籃期であり、未だ統1的な教科書制度を明確に打ち出すに至らなかつたためであるとみるのが正鵠を得ており、原告の主張するようにとくに意図的に教科書の自由な発行、使用を認めたわけではなく、また、当時の政府が国民に海外の新知識、新思想を吸収させることに熱心で、教科書制度を設ける政治的必要性を意識していなかつたとみるのは妥当ではない。ところが、明治10年代から20年代にかけて就学者も増加し、学年編成、学校制度も次第に整備されるに対応して、教科書の体裁、内容も近代教育を施すにふさわしいものに整備されることが当然要請されてきた。そのために認可、検定、国定の各制度が順次採られ、それにより教育水準の維持向上、児童、生徒の心身の発展段階に応じた教育内容の整備、改善が行なわれたのである。勿論、明治10年代から20年代にかけて、明治初年の文明開化、欧米心酔から脱して国風尊重の気風が生じ、これが教科書制度の上にも影響して、そのような観点から教科書の内容が制約されたことは否めないが、さりとて、教科書制度が教科書の整備改善の上に果した大きな役割は到底否定しえない。原告は、自由民権運動を鎮圧し、絶対主義的天皇制を確立するために教科書制度が採用された旨主張しているが、それはあまりにも一面的な見解であるといわなければならない。
[8](2)また、戦前の小学校における教科書国定制度採用の直接の動機となつたのは、明治35年に起つた教科書疑獄事件であるが、原告はこれについてまつたく触れるところがない。それで国定制度が採用されるに至つた経緯を簡単に述べる。当時の検定制度においては、文部省検定済の多数の教科書のなかから、各府県ごとに教科用図書審査委員会の審査を経て採定されることになつていた。民間の出版社にとつては、自社発行の教科書が採択されるか否かは重大な問題であり、そこで決定権をもつ府県の審査委員を動かし、自社発行の教科書を採択させようとする運動が次第に激しくなり、出版社と審査員との間の醜聞が絶えなかつた。そのため、文部省は、明治34年1月に小学校令施行規則を改正し、処罰規定を設け、刑に処せられた場合には関係教科書の審査採定を無効とし、その発行者の教科書は5年間採定を禁止することにした。それでも、贈収賄の醜聞は跡を絶えず、明治35年には全国的に大規模な摘発検挙が行なわれた。これが有名な教科書疑獄事件である。その結果、検定制度に対する批判が高まつたばかりでなく、当時の主要な発行者は罰則の適用を受け、法令上大部分の教科書は使用できないこととなり、したがつて、検定制度はそのままでは維持することが事実上困難となつた。そこで、これを契機として政府はかねてから気運の高まつていた国定制度の実施へ進んだのである。なお、国定教科書を使用する教科も準備の整つた教科から順次及ぼされていつたものであつて、明治37年から修身、国語、日本歴史、地理、同38年から算術、図画、同44年から理科の国定教科書が使用された。
[9](3)昭和31年に提案された教科書法案の主なる内容は、第一つに検定の公正綿密を期するため、検定の機構および方法を整備改善すること(教科書検定審議会の新設、検定手続きの整備、明確化等)、第二に適正な採択方式を確立すること、第3に発行、供給の確実、円滑を期すること、第4に教科書の価格の適正を期することであつて、原告が引用しているような事項は法案の中心となつている事項ではない。原告の主張は末梢的な事項をもつて全体を説明しようとするものであつて、法案の内容説明としては、はなはだ不適当である。
[10](4)教科書調査官について、原告は、教科書法案の重要な内容をなしていたもので、同法案が廃案になつたにもかかわらず、発足させたとして非難しているようであるが、これはまつたく原告の誤解である。すなわち、教科書法案には教科書調査官に関することは全然規定がなく、教科書調査官制度の設置には同法案の制定を何ら必要としないのである。また、学習指導要領は、昭和33年の改訂以前から法的拘束力があり、同年に学習指導要領と関連して学校教育法が改正されたこともない。最後に、教科書採択について認可制度がはじめられたのは、明治16年であつて、明治14年ではない。以上の3点は、明らかに誤りである。
(三)「新日本史」に対する従来の検定の経緯とその実態
[11] 昭和27年に「新日本史」について再度にわたり検定申請があり、その結果第2回目に検定に合格となり、同28年度から教科書として使用されたこと、同30年に「新日本史」初版について改訂の上検定申請があり、原稿審査において条件付合格となり、同31年度から「新日本史」再訂版が発行されたこと、同30年の高等学校社会科学習指導要領の改訂に伴い、改訂を加えた「新日本史」について同31年11月および同32年5月に検定申請があつたこと、同34年から3訂版が、同37年から4訂版がそれぞれ発行されたこと、以上のことは認める。ただし、検定申請者は三省堂であつて原告ではない。その余の事実は争う。ことに、
[12] 原告が主張する昭和30年の216項目にわたる修正要求なるものは、妥当でないと認められる箇所について参考意見を述べたものであつて、修正要求では決してない。また、原告が修正要求を拒否したと主張する事例についていうと次のとおりである。
[13](1)項について、被告側が示した意見は、原告が主張するように「貴族院と枢密院の二院が政党の横暴を防いだ」というのではなく、「そのような役割をも一面では果していたと考えられるので、このようなことをも配慮して記述してはどうか」という参考意見を述べたものであつて、原告の主張とは趣旨を異にし、削除要求ではない。
[14](2)項について、被告側が示した意見は、「凡そすべての国民に支持される政策というものは少ないのに、原告の記述によるとことさらに反対の意見を強調しているように受取られるので、表現について何らかの配慮をしてはどうか」と参考意見を述べたものであつて、原告の主張とは趣旨を異にし、削除要求ではない。
[15](3)項について、被告側が示した意見は、大略記載のとおりである。しかし、それは参考意見であつて、もとより削除要求ではない。
(四)諸外国の教科書制度
[16] 本項の記述は不正確である。例えば、西ドイツにおいては、州の文部省が検定を行なつているが、これは同国が連邦制度をとつていて、連邦政府には文部省が設置されていないのであつて、このことをもつて単純にわが国の場合と比較することは当を得ない。イタリヤにおいては、教育の目的に合致しない教科書の使用を禁止する権限が文部省に留保されている。また、国定教科書の制度をとつている国(例えば、ソ連、中共等、台湾、アフガニスタンでは小学校の教科書のみ。一部の教科のみを国定している国もある。)があることについては、全然触れるところがない。したがつて、本項の記述をもつて各国の大勢とすることは妥当ではない。
2 教科書検定制度のしくみ
(一)検定制度の大綱について
[17] 認める。ただし、旧教育委員会法においては、都道府県教育委員会の教科書の検定は、「文部大臣の定める基準にしたがい」行なうべきものと規定されていた。
(二)検定の基準について
[18] 教科用図書検定基準は、文部省初等中等教育局が定めたものではなく、文部大臣が定めたものである。結論の「各第1項を比較すれば、改訂の意図するところが明らかである。」は争う。同基準の絶対条件の第1項は、改定前と改定後とにおいてとくに趣旨が変つているものではない。その余の事実は認める。
(三)検定の手続について
[19] 教科用図書検定調査審議会の委員の人選に対する批判は争う。人選は公正に行なわれている。調査員の調査期間についての記述も争う。期間は、通常20日間から50日間程度に及んでおり、申請原稿の内容・分量等に応じて十分な期間が与えられている。
[20] A意見およびB意見についての説明は不正確である。A意見は、それを修正しなければ合格とは認められない程度の欠陥について示すものであつて、合格条件である。B意見は、欠陥ではあるが、それを修正しなくても合格と認められる程度のもの、または、欠陥とはいえないがそれを修正する方がより良くなると認められるものについて示すものであつて、いずれも修正する方が望ましいと認められるが、それを修正するかどうかは最終的には著者に任せられる性質のものであつて、いわば参考意見である。実際上もそのように運用されている。このようにA意見およびB意見を示すことにしているのは、A意見については、申請原稿のままで合格と認めてよいという図書がほとんどないという実情にかんがみ、検定制度の趣旨に照らしてなるべく多くの教科書を合格させるための措置であり、かつ、不合格となつた場合に行なう再申請という手続を省略するという申請者の利益をも考慮して行なつている措置であり、また、B意見については、教科書のもつ重要な意義にかんがみ、参考意見を示して著者の自主的な判断と選択によつて教科書の内容をより良くしていくための措置であつて、いずれも必要適切な措置である。原告は、これらを目して修正要求であると主張しているが、それはまつたく曲解であるといわなければならない。
[21] 文部大臣が審議会の答申について、ほとんどそのまま合格を決定するという記述は不正確である。審議会の答申を尊重して、答申のとおりに決定している。
[22] 不合格処分について、出版者、編著者の意見を事前に聴取する等の手続をまつたく設けていないとの主張も失当である。教科書の検定は、本来、当該図書が教科用に適するか否かを認定するのであるから、図書自体について審査を行なえば、足りるのであつて、合否の審査にあたつて原稿以外の多くの補足説明を必要としないはずのものである。それに、一般的にいつて不合格のときに限らず、検定申請にあたつては、必ず著者がとくに意を用いた点または特色について調査の参考として欲しい事項を記載した編集趣意書を提出させることにしているほか、調査上必要な資料の提出を求めており、また、多くの人による綿密慎重な調査により公正にして客観的な審査を保障している措置とあいまつて、著者等の意見の事前聴取については、現状の程度が適当かつ十分である。
[23] 教科書調査官が文部省設置法施行規則の一部改正によつて設置されたことが不当であるとの主張は争う。教科書調査官は、検定についての文部大臣の権限を適正に遂行するための必要な調査等を行うため、通常の方法に従い、適法に設置されたものである。教科書調査官の設置と教科書法案との関係は前記のとおりである(歴史的にみたわが国教育政策の問題性の項を参照)。教科書検定に行政官僚が直接関与することになつたとの主張も争う。教科書調査官は、各教科に関し専門的知識を有する職員(経歴からみても大多数の者は大学、高専において教授・助教授であつた者)である。また、職務内容も審議会に調査意見を提出し、かつ、合否等についての決定の結果をそのまま伝達するに過ぎない。
[24] その余の事実は認める。
3 教科書検定制度の違法性
[25](一)原告は、教科書の検定が憲法第21条第2項にいう検閲に該当するので、憲法第21条に違反すると主張しているが、これは誤りである。憲法第21条第2項に規定する「検閲」とは、出版等の方法による思想の発表に先立つてあらかじめ思想内容を検査し、不適当な部分についてはその発表を禁止することと解されている。ところで、教科書の検定は、その図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものである(教科用図書検定規則第1条第1項)。それ故、かりに検定に不合格となつても、その結果当該図書が教科用図書に採用されないという効果を生ずるにとどまり(学校教育法第51条、第21条)、それ以上に当該図書の出版を禁止する効果までを生ずるものでは決してない。このように思想の発表を禁止するものでない以上、「検閲」に該当しないことは明らかである。
[26](二)原告は、教科書の検定が教育基本法第10条に違反するから違法であると主張しているが、これもまた誤りである。教科書の検定は学校教育法第21条、第40条、第51条、文部省設置法第5条第12号の2、第8条第13号の2という法律上の根拠に基づいて行なわれているものである。このように、検定が法律上の根拠に基づいて行なわれるものである以上、検定それ自体が教育基本法第10条に違反する違法な行為であるとの非難が起きる余地はないのみならず、実質的に考察しても、検定は教育基本法第10条の趣旨に違反するものではない。原告の主張は、検定が教育内容に権力的に介入して教育内容の画一化を図るものであるから、それは教育行政が教育内容以外の、「外的諸条件」の整備に当るよう、その任務と限界を定めた同条第2項に違反するとともに、教育に対する不当な支配でもあるので、同条第1項にも違反するというにあるようであるけれども、教育基本法第10条第2項の解釈として、教育行政の任務と限界とを原告主張のように、教育内容以外の諸条件の整備に限定すべき合理的理由はない。教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標とするかぎり、教育内容であれ、その他の諸条件であれ、教育行政は当然におよぶものである。これを教科書の検定についていえば、次に述べるように、教育行政の当然の任務に属するといえる。
[27] すなわち、検定は高等学校以下の初等教育および中等教育を施こす諸学校において使用される図書が、教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めることである。(学校教育法21条、第40条、第51号、第76条、教科用図書検定規則第1条)。元来、これらの学校においては、未だ心身の発達が十分でない児童・生徒に対して、将来の国家、社会の形成者として必要な普遍的、基礎的な教育を与えることを目的としている。したがつて、この目的達成のためには、初等教育および中等教育について、機会均等を確保するとともに、必要な教育水準の維持向上と適切な教育内容の保障を図ることが是非とも必要である。ところで、教科書は、これらの学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された各教科の主たる教材として教授の用に供される児童用または生徒用の図書であり(教科書の発行に関する臨時措置法第2条第1項)、それらの学校において使用を義務づけられているのであつて、その内容は、これらの学校における教育水準や教育内容を規定する重要な役割を有している。教科書のもつこのような役割にかんがみ、初等教育および中等教育の目的達成のためには、その内容が教育基本法の定める教育の目的および学校教育法に定めるそれぞれの学校の目的、目標に合致するものであり、それらに従つて適切に定められた教育課程の基準である学習指導要領に定める教科の目標、内容等に適合するものであり、その内容が公正なものでなければならないことは当然である。検定は、これらの学校で用いられる図書が右のような見地からみて教科書として適したものであるか否かを認定することであるから、それは正しく初等教育および中等教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確保の一環として行なわれているというべく、教育行政の任務に当然に属するものである。
[28] このように、教科書の検定は教育行政の任務と限界を越えるものでないから、教育基本法第10条第2項に違反するものではない。また、教科書の検定は、図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めることであつて、教育内容を権力的に画一化するものではない。したがつて、検定をもつて教育に対する不当な支配であるとなし、教育基本法第10条第1項に違反するとする原告の主張も理由がない。
[29](三)原告は、検定が一定の政治的イデオロギーに基づいて行なわれ、または、恣意的な判断に基づいて行なわれているため、教科書の内容を歪め、正しい知識を学びとるべき子供の学習の権利を損なつており、これは憲法秩序の全体に反すると主張しているけれども、原告の右主張は全面的に争う。むしろ、検定が一定の政治的イデオロギーに基づいて行なわれることは、教科用図書検定基準において厳に排除しているところであり、また、恣意的な判断に陥いらないよう慎重な手続を構じてあるのである。
4 検定の基準および手続の違法性
[30] 原告の主張は、検定制度に、それが濫用されて、言論、表現の自由を不当に侵したり、あるいは教育内容に権力的に介入して画一化することのないようにするための制度的、手続的保障が具備されていないので、検定自体が違法となるというにあるようである。そして、その根拠として憲法第13条、第31条を掲げているようである。けれども、憲法第13条は、生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とするとしているもので、立法上および行政運用上の指針を示したにとどまり、この規定自体から直ちに原告主張のごとき結論は出てこない。また、憲法第31条は、その規定の位置および文言(「……その生命若しくは自由を奪はれ、又はその刑罰を科せられない。」)からして刑事手続に関する規定であると解するのが妥当である(美濃部達吉・日本国憲法原論202頁、佐々木惣1・日本国憲法論435頁、註解日本国憲法上巻586頁)から、教科書の検定のような行政手続には適用がない。したがつて、憲法第31条を根拠にする原告の主張は理由がない。
[31] もつとも、行政庁が行政行為を行なうにあたつては、実体的な判断が公正であることを要するとともに、その手続についても公正が要請されることは当然である。そのため法令は各種の行政行為の目的、性質、内容等に照らして、それぞれに相応する手続を定めているのである。このように行政行為の手続についての法令の定めがある場合は、これを履践しなければならないことは勿論であるが、手続について法令に別段の定めがない場合は、どのような手続によるかは、原則として行政庁の合理的な裁量に任されているというべきである。原告の主張するように制度的、手続的保障が具備されていないこと、そのことにより行政行為自体が違法になるという理由はない。のみならず、原告が濫用の危険があるとして具体的に列記している検定の基準および手続に関する主張も、次に述べるとおり誤りである。
[32](1)原告は、検定基準が、一面では包括的であり、他面では詳細であり、ときには抽象的な表現であるので、恣意的な判断を防止しえないと主張している。しかし、検定基準の定める内容は、学識経験者、教育職員らをもつて構成される審議会の良識をもつてすれば、十分に公正な判断を下すことができる程度のものであつて、原告の主張は失当である。
[33](2)検定基準は学習指導要領を引用しているが、学習指導要領は法的拘束力を有しないから、これによる検定は許されないと原告は主張している。しかし、学習指導要領は、教育基本法に従い、高等学校以下の学校における初等教育および中等教育の機会均等の確保、教育水準の維持向上を図ることを目的として、学校教育法第20条、第38条および第43条の規定に基づいて定められた教育課程の基準である。したがつて、それは教育基本法第10条の趣旨に即し、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立のために適法に定められた文部省告示であつて、その法規命令としての効力を否定する理由はない。
v(3)原告は、「教育基本法に適しているか」、「内容の選択程度が適正であるか」、「内容が正確であるか」等の検定基準は、教育内容にわたつて検定を行なう危険性があると主張するもののようである。しかし、検定が教育内容にわたる場合であつても、それは教育行政の任務に属し適法であることは前記のとおりである。また、検定は取り扱われた内容が検定基準に照らし教科用として妥当であるか否かを判断するものであり、学説や見解について、その学問的な価値自体を評価しようとするものではない。
[34](4)原告は、検定が公正に行なわれるための制度的、手続保障がないと主張している。しかし、第一つに、教科用図書検定調査審議会の委員は、教科書に関し識見を有する学識経験者、教育職員のうちより文部大臣が任命しているのであつて、不公正な人選を行なつているとされるいわれはない。第二に、教科書調査員の氏名、教科用図書検定調査審議会の議事等を公開しないのは、検定が公正に行なわれることを確保するためである。すなわち、もし、これらを公開した場合、検定申請者等から不当な圧力が加わり、検定の公正が保たれないおそれが多分に予測されるのである。第3に、不合格理由については、文書の他に口頭により詳細な補足説明を行ない、また、質問等を認めて、趣旨の十分な伝達を期している。第4に、条件付合格の際の合格条件および参考意見の伝達は、文書によるよりも口頭による方が十分に意を尽すことができるので、合理的であり、また、録音等を認めることにより口頭説明により生ずる支障がないようにも配慮している。第5に、出版者、編集者の意見については、合格決定前に編集趣意書を提出せしめ、検定調査上の参考にするほか、調査上必要な資料の提出を求める等の措置を講じている。第6に、不合格の場合には、行政不服審査法による異議申立の途が開かれており、また、条件付合格の際の合格条件については、各条件につき、意見の申出を認め、その申出に理由があると認められるときは、当該条件を撤回する簡便な救済制度を認めている。以上のとおり、原告の各主張はすべて失当である。
5 検定基準違反
[35](一)38年申請白表紙本33頁の脚注に、原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、原告主張の部分が削除されたこと、同脚注の本文として主張のような記述があつたこと、以上のことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、傍線の部分に「すべて……である。」と記述してあるのは、「断定に過ぎ、不正確な記述ではないか」ということをB意見として伝えたに過ぎない。文部大臣のこのような参考意見に対し、原告は自主的に傍線の部分を削除したものであつて、文部大臣は原告に削除を強要したことはまつたくない。したがつて、削除要求が学習指導要領に違反するとの原告の主張は失当である。また、傍線部分を削除しても、原告の主張するように記述が不正確になり、史実そのものと誤解されるようなことにはならない。のみならず、右白表紙本の記述は、前記のとおり不正確であつて、それこそ学習指導要領の「史実を実証的、科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う」目標に反するものである。
[36](二)38年申請白表紙本196頁および197頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、前者が削除され、後者が脚注を加えて訂正されたことは認める。その余の事実および主張は争う。前者について、文部大臣は、菊の紋節の使用は、ひとり大日本帝国憲法にのみ特有のことではなく、切手、紙幣、貨幣をはじめ、国家機関の公文書や建築物にも広く認められていたところであるから、右白表紙本のような「金色の菊の紋章に欽定憲法の威厳を示している。」との記述は、あまりに主観的に過ぎること、また、「欽定憲法の威厳を示している」との表現は、同憲法が何かことさらに威厳をもつて国民に臨んだ憲法であるかのような、一面的な理解に導くおそれがあることをB意見として伝えたものである。
[37] また、後者の記述については、当時の日本の制度からみて憲法に限らず、すべての法令は公布の日まで国民に公表されないのが普通であるのに、右白表紙本のような記述によると、大日本帝国憲法のみが特別の事情から秘密とされたような誤つた認識を与え、それがひいては同憲法について適切でない理解に導くおそれがあることをA意見として示したものである。
[38] 文部大臣のこのような意見に対し、原告において自主的に削除または訂正したものであつて、文部大臣は原告に対して削除または訂正を強要したことはまつたくない。したがつて、修正、削除要求が学習指導要領に反するという原告の主張は失当である。むしろ、右白表紙本の記述は、前述のとおり、不正確または内容の選択が適切でなく、学習指導要領にいう「時代の性格を明らかにし、現代社会の歴史的背景を把握させる」という立場からすれば不適当であるといわなければならない。削除または訂正後の記述の方が学習指導要領の右趣旨により合致しているといえる。
[39](三)38年申請白表紙本238頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、その主張のような訂正があつたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、大日本帝国憲法第29条が、完全ではないにしても、学問の自由と密接な関連のある言論、著作、印行、集会、結社の自由を認めており、ある程度学問の自由を保障しているのに、右白表紙本のような記述によると、大日本帝国憲法がまつたく学問の自由を保障していなかつたかのような誤つた認識を与えるおそれがあることを、B意見として示したも である。すなわち、右B意見は、当時における人文科学の研究が制限された史実を肯認した上で、その表現について指摘したものに過ぎない。このような文部大臣の意見に対し、原告において自主的に削除、訂正を行なつたものであつて、文部大臣は削除、訂正を強要したことはまつたくない。したがつて、修正要求が学習指導要領に反するとの原告の主張は失当である。むしろ、右白表紙本の記述は、不正確であつて、原告が引用している学習指導要領の部分の趣旨に照らし適切ではない。
(四)38年申請白表紙本258頁に原告主張のような記述があつたこと、修正の結果「無暴な」の字句が削除されたことは認める。文部大臣は、第2次世界大戦のような最近の事実については、歴史的評価が定まつていないので、評価を避けてできるだけ客観的に記述する慎重な態度をとることが教科書としては望ましいことを、B意見として参考に示したものである。文部大臣のこのような意見に対し、原告は自主的に右の削除を行なつたものであつて、文部大臣が削除を強要したことはまつたくない。
[40] 次に、昭和37年8月15日に検定申請した原稿に、原告主張のような五葉の写真がさし絵として掲載されていたこと、38年申請白表紙本に、右五葉の写真のうち、「戦争の惨禍」と題する街頭で募金する義手の白衣の軍人の写真が掲載されていなかつたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣は、昭和37年度検定の不合格理由を説明する際、原告からの質問に応じ、これらの第2次世界大戦に関する最初の四葉の写真については選択がとくに不適当ではないが、ただ「戦争の惨禍」と題する写真は、白衣の元軍人の写真であるが、顔のうち口から上の部分がたち切られ、義手が露出していてきわめて残酷なものであり、教科書に掲載する写真としては選択が適切ではないという趣旨を述べたものである。原告の主張のように、これら五葉の写真が「全体として暗すぎる」という趣旨のことを述べたのではない。これに対し、原告は38年申請白表紙本においては、「戦争の惨禍」と題する写真を自主的に削除しているのであつて、文部大臣において削除を強要したことはまつたくない。
[41] 以上、削除要求が学習指導要領に反するとの原告の主張は、いずれも失当である。
[42] 原告が主張する「戦争のもたらす人類の不幸や損失について深く考えさせる」についても、教育上の他の条件への配慮が要請されることはいうまでもない。
(五)38年申請白表紙本274頁に、原告主張のような記述があつたこと、修正の結果、「基地」が「施設(一般には基地といつている)」と修正されたことは認める。その余の事実および主張は争う。文部大臣側では、日米安全保障条約第6条によると、「施設及び区域」と規定されているが、「施設及び区域」と「基地」とではその内容が異なるので、表現が不正確であることをA意見として指摘したものである。
[43] 文部大臣の指摘の趣旨が右のようなものであつたことは、修正後の表現をみても十分に窺えるところである。文部大臣のこのような指摘に対し、原告は自主的に前記のように修正したものであつて、文部大臣が修正を強要したことはまつたくない。のみならず、原告の主張は日米安全保障条約による米軍の日本駐留が、憲法の平和主義の原則に反するという評価を前提とするものであるが、この前提自体が誤りである。また、原告は、文部大臣の右指摘を目して、「ことさらに不正確な表現を用いることを強いた。」と主張しているが、右白表紙本の記述こそ不正確であつて、修正後の表現の方がより正確である。
[44] 以上、いずれの点からみても、原告の検定基準に反するとの主張は失当である。
[45] 本項における事実および主張のうち、昭和34年から昭和40年にかけて、原告主張の発行部数どおりの「新日本史」3訂版、4訂版、新(五)訂版がそれぞれ発行されたこと、昭和40年度使用の新(五)訂版の一部の定価が金160円であることは認めるが、その余はすべて争う。ことに、昭和39年に条件付合格になつた検定に関しては、文部大臣の意見に対し、原告において自主的に修正、削除を行なつたものであるから、検定と原告主張の精神的苦痛との間には相当因果関係が存しない。かりに、原告に精神的苦痛を生じたとしても、それはきわめて軽微であり、かつ、主観的なものであつて、賠償請求を認めるに足りないものである。すなわち、検定は、図書が教育基本法および学校教育法の趣旨に合し、教科書に適することを認めることである。それで、昭和37年度の検定不合格決定によつても、その図書が教科書として採用されないという効果を生ずるにとどまり、それ以上に図書の出版を禁止するものでは決してない。それ故、このような検定不合格により原告が被る精神的苦痛というのはきわめて軽微であり、かつ主観的なもので客観性に乏しいといえる。また、昭和38年度条件付合格の分については、ともかく検定に合格となり、教科書としても採用されることが認められたのであり、かつ、削除、修正の箇所についても原告において自主的に行なつたのであるから、原告において精神的苦痛を被つたとしても、それは取るに足りないものであり、かつ、きわめて主観的なものといわなければならない。したがつて、かりに、原告が精神的苦痛を被つたとしても、賠償請求を認めるに足りないものである。
[46] 原告は、もし昭和38年4月11日の昭和37年度検定不合格処分がなかつたとしたら昭和39年度に発行されたはずの「新日本史」新訂版の発行部数を推計しているが、その推計は次に述べる理由から合理的ではない。
[47] 原告は、「昭和38年度から日本史は必修科目となつたため、全生徒が受講しなければならなくなつた事情にあること」を前提として推計を行なつている。たしかに、社会科日本史は、昭和35年の改訂以前の高等学校学習指導要領においては必修科目ではなかつた。同年の改訂版の高等学校指導要領においてはじめて普通科の生徒については必修科目となつたが、その他の学科の生徒については依然として選択科目である。また、右高等学校学習指導要領は、学校教育法施行規則の一部を改正する省令(昭和35年文部省令第16号)附則第1項の規定により、昭和38年4月1日以降高等学校の第1学年に入学した生徒にかかる教育課程から適用されることになつていた。そして、社会科日本史は、通常第3学年において履修することとされているので、普通科の生徒に限つてみても、通常、昭和38年度に高等学校第1学年に入学した生徒が第3学年に進学する昭和40年度から必修科目となつたものであつて、原告が主張するように昭和38年度から必修科目となつたものではない。したがつて、昭和39年度には、日本史はまだ必修科目ではなかつたのであるから、必修科目となつた昭和40年度より発行部数は当然少ないはずである。それ故、昭和39年度に昭和40年度と同一の発行部数があると仮定して、昭和39年度の発行部数を推計している原告の主張は、合理的でないといわなければならない。
[48] 文部大臣、事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局審議官妹尾茂喜、同局教科書課長諸沢正道、同課教科書調査官渡辺実が、いずれも国から給与を受け、かつ、国の選任、監督する公務員であることは認めるが、その余の事実および主張は争う。
[49] ことに、検定は法律に規定されているのであり、文部大臣が国家公務員として法律に従い検定を行なうことはきわめて当然のことであるから、検定制度自体の違法(実体面および手続面の双方を含む。)を理由としては、国家賠償の請求は成り立たない。
第四 証拠(省略)

■ 理  由



[1] 原告は、昭和12年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、爾来日本史の研究に従事してきたものであるが、昭和16年以降旧制新潟高等学校教授、昭和19年以降東京高等師範学校教授を歴任し、昭和24年学制改革に伴い、以後今日に至るまで東京教育大学教授の職にあること、その間、昭和23年に「上代倭絵全史」の著述により日本学士院恩賜賞を授与され、昭和25年には、論文「主として文献資料による上代倭絵の文化史的研究」により文学博士の学位を得たこと、著書には右のほか「日本道徳思想史」、「日本近代思想史」、「植木枝盛研究」、「司法権独立の歴史的考察」、「歴史と教育」、「歴史と現代」など日本史および歴史教育に関するもの約30冊があること、昭和21年に戦後初の国定の日本史教科書が編纂されるに当つて文部省の編纂委員に任命され、「くにのあゆみ」編集に従事し、昭和27年以降は三省堂発行の高等学校用検定教科書「新日本史」を執筆、改訂を行なつてきたことは、いずれも当事者間に争いがない。
1(証拠省略)を総合すれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[2](一)原告は、戦後まもない頃から中等学校用の新しい教科書の執筆を考えていたが、昭和22年とりあえず一般書として「新日本史」を発行した。その後、三省堂より新学制による高等学校用の日本史教科書の執筆依頼を受けたので、右「新日本史」を土台としてこれを全面的に書き改め、昭和27年に三省堂発行の「新日本史」として高等学校用日本史教科書の検定申請をした。
[3] 原告は、戦前の日本史教育が、神話や伝説をあたかも客観的事実のごとく教えたことにみられるように非科学的であり、また、政治権力者中心の視野の狭いものであつた点を反省し、右教科書では、まず何よりも客観的事実を歴史教育の中心におき、日本国憲法ならび教育基本法の理念に従うこと、民衆の生活史、文化史を重視し、従来ともすればいわゆる暗記物になりがちな網羅主義を避けて、統1的、重点的に歴史の流れを生徒に把握させることなどをとくに配慮した。
[4] ところが、右「新日本史」は当初検定不合格とされたが、原告が別段修正もせず再度検定申請をした(当時の検定制度でこれが可能であつた。)ところ、今度は合格し、昭和28年度から教科書として発行された。
[5](二)原告は、昭和30年右出版社の要請により、前記初版本に全面的な添削を加えて検定申請をしたが、これは条件付合格となり、全部で216項目にのぼる修正意見を付された。この原稿は原告と文部省との間に再三にわたる折衝が行なわれたのち、最終的には検定に合格し、「新日本史」(改訂版)として昭和31年度から使用された。
[6](三)昭和30年には高等学校社会科の学習指導要領が改訂され、教科書もまたこれに準拠したものを使用しなくてはならなくなつたため、原告は、新しい学習指導要領に合わせて書き改めた「新日本史」3訂版を昭31年11月29日付で検定申請したが、昭和32年4月9日不合格処分の通知を受けた。原告は、これに対し文部省あての抗議書を提出したが容れられず、同年5月再申請分も不合格となつたため、修正の上3度検定申請をしたところ、ようやく合格したので昭和34年から3訂版として発行した。
[7](四)その後、数年を経て、原告は、右3訂版に部分的改訂を加え、4分の1改訂として検定申請(教科書検定規則第10条、第11条第1項)をし、これに合格したので、昭和37年度から4訂版として発行し、これは昭和39年度まで使用された。
2 本件各検定処分につき、以下の事実は当事者間に争いがない。
[8](一)昭和35年高等学校学習指導要領が全面的に改訂され、教科書改訂の必要が生じたので、三省堂は昭和37年8月15日(証拠省略)原告の執筆にかかる「新日本史」5訂版原稿につき検定申請を行なつたところ、文部大臣は翌38年4月に至り不合格処分を決定し、同月12日文部省において原告および三省堂担当社員らに対し同省初等中等教育局長福田繁作成名義の同月11日付不合格決定通知書が交付され、その際同局教科書調査官渡辺実より不合格の理由が告知されたが、同調査官村尾次郎、同貫達人の両名もこれに列席した。
[9](二)原告は、前記原稿に若干の修正を加えて、昭和38年9月30日三省堂より再び検定申請をしたところ、文部大臣は昭和39年3月条件付合格の決定をなし、同月19日文部省において原告および三省堂担当社員らに対して初等中等教育局審議官妹尾茂喜ら同席の上教科書調査官渡辺実より右原稿につき条件付合格となつたことならびにその合格条件等が伝達された。
[10](証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他に同認定に反する証拠はない。
1 終戦前の制度
[11] 明治4年廃藩置県が行なわれ、中央行政機構整備の一環として同年7月全国の学校を管轄するため文部省が設置された。翌5年学制(同年8月3日文部省布達第13、第14号)が発布され、学校を小学、中学、大学の3段階に分けた。この公布に当つて同年7月発せられた学制序文(太政官布告第214号)は、一般に被仰出書とも呼ばれているもので、学校における学問の意義を次のように述べている。すなわち、「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身を脩め聞き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず」とし、これが学校設立の理由であつて、学問は身を立てる財本というべきものであると説いた。また、右学制において教育の機会均等の原則が示されたが、これにつき、右序文に「自分以後一般の人民(華士族農工商及婦女子)必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と記している。
[12] これがわが国の近代教育制度の発足であるが、明治12年学制を廃して教育令(同年太政官布告第40号)を公布した。これによれば、学校はこれを小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校その他の各種学校とし、とくに国民教育の基礎である小学校教育の整備に重点をおいた。教育令は、当時の自由民権思想の影響を受けて範をアメリカ合衆国の教育行政に求め、学制の中央集権的、画一的性格を改め、教育の地方分権化を図つたものであつたが、これには批判が強く、明治13年12月には早くも改正され、同一8年には経済的不況のため再度改正された。
[13] その間、文部省は教科書に関し明治5年9月「小学教則」を公布して、各教科別の教授要旨を定め、小学校における教科書を指示した。しかし、当時は教育体制が備つていないため、教科書についても特別の制度はなく、欧米の教科書を翻訳したもの、寺小屋時代の往来物、藩校の漢籍などが多く用いられ、また、文明開化の啓蒙書もよく使用された。そこで、文部省は小学校教科書の編集に着手し、明治6年4月「小学校図書目録」を公示し、文部省や東京師範学校が編集した教科用図書や掛け図が右指示図書中に追加されたが、実際にどの図書を教科書に使用するかは各府県、各学校の自由選択に委されていた。
[14] ところが、明治12年いわゆる「教学聖旨」が公けにされたのを契機として明治初期の文明開化の思想が後退し、教科書制度も次第に改変されていつた。すなわち、明治天皇は、同一1年東山、北陸および東海各地を巡幸の折、維新後の急激な教育施革が民衆の生活と遊離し、民衆の間にはかえつて国の教育制度に対し不満を抱くものも少なくなく、就学率も低下している実情を視察し、文教政策振興の必要を痛感するに至り、教学の本義がいかなるところに存するかを待講元田永孚に指示して起草せしめたものが右教学聖旨である。明治14年には小学校の教科書について開申制度(届出制度)、同一6年には小、中学校の教科書につき認可制度が設けられた。そして、明治19年には小学校令(同年勅令第14号)、中学校令(同年勅令第15号)、師範学校令(同年勅令第13号)、および帝国大学令(同年勅令第3号)が制定され、これによつて戦前の学校制度がほぼ確立された。文部省は、右小学校令(第13条)および中学校令(第8条)により小学校と中学校の教科書について検定制度を採用し、同年5月教科用図書検定条例(同年文部省令第7号)を定め、翌年これを廃して新たに教科用図書検定規則(明治20年文部省令第2号)を定め、教科書検定実施の基準とした。
[15] また、明治22年には大日本帝国憲法、同23年には教育勅語がそれぞれ発布されたが、その後明治36年に至り、その前年度に発生したいわゆる教科書疑獄事件を契機として、小学校令の一部改正(明治36年勅令第74号)により小学校の教科書は文部省において著作権を有するものに限られることとされて国定制が実施されることになり、中学校においては昭和18年中等学校令(同年勅令第36号)により国定制がとられるに至つた。
2 戦後の制度
[16](一)昭和20年8月わが国はポツダム宜言を受諾し連合国軍の占領下に置かれ、文部省は同年9月「新日本建設ノ教育方針」を発表した。しかし、その第1項に示された新教育の方針は「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルと共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシ……」というものであつた。他方、連合国軍総司令部は、日本における軍国主義勢力の除去と民主化のため次々と指令を発したが、教育についても、同年10月「日本教育制度ニ対スル管理政策」と題する指令を発し、軍国主義、極端な国家主義の教育内容からの排除、基本的人権思想の教授および実践の確立、教育関係者の資格審査などを求め、さらに、同年12月には修身、日本歴史および地理の3科目の授業の停止ならびに使用中の教科書の回収を指示した。そして、このうち地理については昭和21年6月、日本歴史については同年10月の覚書により、文部省が編集し右総司令部の認可を経た教科書のみの使用による右2教科の授業再開を許可したが、修身科についてはそれが許可されず、昭和22年新発足した社会科のなかに地理、日本歴史とともに公民が含まれることとなつた。
[17] ところで、戦後のわが国の教育を最も根本的に方向づけたものは、昭和21年3月来日した米国教育使節団の総司令部あて報告書である。そこでは、日本の過去における教育の問題点を克明に指摘し、これに代るべき民主的教育のあり方を提言している。端的にいえば、個人はその能力と適性に応じた数育の機会均等が与えられなくてはならないこと、また、教育内容、方法および教科書の画一化を避け、教育における教師の自由と関与をより広く認めるべきことを強調している。
[18] 右教育使節団に対し日本の情報を提供し、意見を交換するため、わが国の学識経験者による教育家委員会が編成されたところ、同委員会は、たんに右活動にとどまらず、より積極的に教育行政の地方分権化や学制の6・3・3・4制など独自の改革案を提唱したが、その後同年8月内閣に新しく教育刷新委員会が設置されるに及んで発展的解散をした。
[19] 昭和21年11月3日日本国憲法が公布され、翌22年5月3日より施行された。これによりわが国の基本的教育体制が確立され、憲法第26条は国民の教育を受る権利を国民の基本的人権として認めたものである。同年3月教育基本法および学校教育法が公布施行され(ただし、学校教育法の施行は同年4月1日)、小学校、中学校ならびに高等学校においては「監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」(同法第21条第1項、第40条、第51条)と規定し、ここに戦後の教科書検定制度が発足することになり、昭和23年度より施行され、同24年度からは前記各学校において検定済教科書が使用された。
[20] 文部省は、右教科書検定制度の発足に備えて、昭和23年4月教科用図書検定規則(同年文部省令第4号)を公布し、昭和24年4月教科書検定基準を文部省告示として公けにした。そして、昭和23年7月制定公布された教育委員会法(同年法律第170号・のちに「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の制定に伴い、昭和31年9月30日かぎり廃止)第50条によれば、教科書検定の事務は都道府県教育委員会の権限に属する事項(私立学校については都道府県知事に属する。)とされたが、当時国内における用紙事情悪化のため、同法第86条により「用紙割当制が廃止されるまで、対部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書のうちから、都道府県教育委員会が、これを採択する。」と定めた。他方、学校教育法第20条の「小学校の教科に関する事項は、第17条及び第18条の規定に従い、監督庁がこれを定める。」(中学校につき同法第38条、高等学校につき同法第43条)という規定における「監督庁」は当分の間文部大臣とする旨規定された(同法第106条)。
[21] ところで、学校教育法施行規則(昭和22年文部省令第11号・昭和33年8月28日文部省令第25号による改正以前のもの)第25条によれば「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱いについては、学習指導要領の基準による。」と定められ、文部省は前記教科書検定制度の発足に先だち、昭和22年春新しい教育課程の基準として学習指導要領一般編および右教科編を作成した。
[22] しかしながら、これはかなり早々の間に作成されたものであつて、その表紙にも「(試案)」と明記され、その一般編の序論に述べられているごとく、あくまで教科課程につき教師自身が自分で研究していく手びきとして書かれたものであつた。
[23] 日本国憲法、教育基本法などの制定により、いよいよ教育勅語の取扱いが問題化してきたが、昭和23年6月19日衆議院は「教育勅語等の排除に関する決議」を、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」をなし、政府に対し直ちにこれら詔勅の謄本を回収、排除する措置を講ずるよう要請した。
[24] その後、昭和26年に学習指導要領が改訂されたが、その一般編の表紙にも右22年版と同様「(試案)」と明記されており、その序論においても「学習指導要領は、どこまでも教師に対してよい示唆を与えようとするものであつて、決してこれによつて教育を画一的なものにしようとするものではない。」と明言している。
[25](二)昭和27年4月28日講和条約が発効し占領状態が終結を告げた。翌28年8月学校教育法の一部改正(同年法律第167号)により教科書の検定権限は建前として都道府県教育委員会(私立学校においては都道府県知事)に属するとされていたのが改められ、恒久的に文部大臣に属することとなつた。
[26] ところが、日本民主党は昭和30年2月の総選挙において、その選挙綱領のなかで「文教の刷新・施設の整備・国定教科書の統1」を公約、同年6月衆議院行政監察特別委員会は、教科書の不公正取引、偏向問題を取り上げ、証人喚問を開始したが、同年8月から11月にかけて日本民主党から「うれうべき教科書の問題」と題するパンフレツト(全3集)が出され、その第1集では「教科書にあらわれた偏向教育とその事例」として次の「4つの偏向タイプ」を指摘した。
[27](1)教員組合をほめたてるタイプー宮原誠一編の高等学校用の「一般社会」(実教出版)

[28](2)急進的な労働運動をあおるタイプー宗像誠也編の中学校用の「社会のしくみ」(教育出版)
[29](3)ソ連・中共を礼讃するタイプー周郷博、高橋★一、日高六郎の小学校6年用の「あかるい社会」(中教出版)
[30](4)マルクス∥レーニン主義の平和教科書ー長田新編の「模範中学社会3年用下巻」(実教出版)
[31] その後、同年9月には教科用図書検定調査審議会委員の交替があり、その直後の昭和32年度用教科書の検定で8種類の社会科書が不合格となつたが、なかんずく中教出版株式会社発行岡田謙監修、日高六郎、長州一二編著「日本の社会」は当時発行部数50万部をこえていただけに斯界に波紋を投じた。これは従来申請原稿1点につきA・B・C・D・Eの5人の調査員が調査に当つたが、全調査員が合格の評定をしているのに、6番目の人物として新登場したFの意見により結局不合格となるものが多いといわれ、それが特定の審議会委員ではないかと騒がれ、ジヤーナリズムにもいわゆる「F項パージ」として取り上げられた。しかし、事実は慎重審議した審議会の意見を便宜F意見として表示したもの、または過大もしくは過小とみられる調査員の評定を除き、そのもの1名につき新規調査員2名に調査評定させ、これに便宜F、Gの符号を付したものであつた。
[32] こうした時代的背景のもとに、昭和31年の第24国会に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」案ならびに「教科書法」案が提出された。前者は教育委員の直接公選を改め、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するものとし、後者は教科書の検定、採択、発行、供給の全般にわたつて法制を整備しようとするものであつたが、右2法案に対しては、教育に対する国家統制の復活をうながすものであるとして、矢内原東大学長らのいわゆる「十大学長声明」をはじめ多くの批判があり、結局、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は成立したが教科書法は成立せず廃案となつた。しかしながら、文部省は、同年中に行政措置により中央教育審議会の委員を従来の16名から80名に増員し、新たに同省に専従の教科書調査官40名を設け、検定申請のあつた教科書原稿の調査等に当らせることとなつた。(昭和31年10月10日文部省令第26号による文部省設置法施行規則の改正)。
[33] 教育課程の基準とされた学習指導要領は、昭和22年作成以降本件検定処分当時までに次のように改訂されてきた。
[34](1)昭和26年小・中学校および高等学校用の全面改訂
[35](2)昭和30年12月小・中学校の社会科のみ改訂
[36](3)昭和31年高等学校用のみ全面改訂
[37](4)昭和33年小・中学校用の全面改訂
[38](5)昭和35年高等学校用のみ全面改訂(本件検定処分に適用のもの)
[39](6)昭和43年小学校用のみ全面改訂
[40](7)昭和44年中学校用のみ全面改訂
[41](8)昭和45年高等学校用のみ全面改訂
 右改訂はいずれも教育課程審議会の答申に基づくものであり、昭和33年の小・中学校の各学習指導要領改訂からは文部省の告示をもつて公示され、教科用図書検定基準も同年に改訂された(同年文部省告示第86号)。昭和38年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(同年法律182号)が成立し、小・中学校教科書の無償給与制が確立されるとともに、小・中学校の教科書については都道府県教育委員会が採択地区設定権をもち(同法第12条第1項)、いわゆる広域統1採択制(同法第12条第1項、第13条第3項)がとられ、文部大臣が教科書発行者を指定できるようになつた(同法第18条)。
[1] 教科書の意義について、実定法上は教科書の発行に関する臨時措置法(昭和23年法律第132号)第2条によると「『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せる児童又は生徒用図書であつて、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と定義づけられている。他方、学校教育法によれば、
[2]小学校、中学校および高等学校などでは文部大臣の検定を経た教科用図書または文部大臣の著作権を有する教科用図書でなければ使用してはならない(同法第21条第1項、第40条、第51条)と定められている。したがつて、右諸学校において使用される教科書とは、文部大臣の検定済のものか、文部大臣が著作権を有するいわゆる国定のものでなければならないわけである。しかも、前示(証拠省略)によると、右諸学校では、例外として教科用図書検定基準のない教科あるいは基準はあつてもそれに合致するものが発行されていないなどごく限られた例外の場合を除いて、必ず教科書を使用することが義務づけられている(昭和26年12月10日文部省初等中等教育局長の京都府教育委員会教育長宛回答)のである。
[3] 右実定法の規定に(証拠省略)を総合すると、教科書につき次のことをいいうる。
[4]1 教科書は主たる教材である。教科書は、前記諸学校においてその授業に使用する教材のなかで、中心的役割を果すべきもので、他の副本読本、ワークブツクまたは参考書など「教科用図書以外の図書その他の教材で有益適切なもの」(学校教育法第21条第2項)、すなわち補助教材と称されるものと区別される。
[5]2 教授の用に供される児童または生徒用の図書である。教科書は、右学校において心身ともに未発達の児童ないし生徒に対して教授用として使用されるものであつて、それなりの教育的配慮が必要である。
[6]3 各教科課程の構成に応じて組織排列されたものである。教課書は、教科の主たる教材としての系統的、組織的な学習に適するよう各教科課程の構成に応じて組織排列されたものであることを要し、この点でたんなる知識や技能の羅列されたものでもなく、また、学問的、学術的研究発表の場でもないのである。
[7]4 学校教育の現場では、教師の教授活動においてはもとより、児童、生徒の学習においても教科書への依存度がきわめて高いというのが実情である。
[8] 以上の事実に公教育たる学校教育においては教育の機会均等と教育水準の維持向上が必然的に要請されることを併せ考慮すると、教科書について内容の正確性、立場の公正さが要求されるのはもとより、子供の発達段階に適応した内容の選択など教育的配慮が必須というべきである。
[9] 学校教育法第21条第1項は「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、これは中学校(同法第40条)、高等学校(同法第51条)ならびに盲学校、聾学校および養護学校(同法第76条)にそれぞれ準用されている。ただし、同法第107条により、高等学校、盲学校、聾学校および養護学校ならびに特殊学校においては、当分の間同法第21条第1項(同法第40条、第51条、第76条において準用する場合を含む。)の規定にかかわらず、文部大臣の定めるところにより、同条項に規定する教科用図書以外の教科用図書を使用することができると規定されている。そして、文部省の職務権限を明らかにしている文部省設置法第5条第1項は「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基く命令を含む。)に従つてなされなければならない。」とし、その第12号の2に「教科用図書の検定を行なうこと」とされ、教科用図書検定規則第2条によると、教科用図書の検定は、教科用図書検定調査審議会の答申に基づいて文部大臣が行なうものと定められている。また、教科書の発行に関する臨時措置法第2条にも前記(第2の1)のごとく、「この法律において『教科書』とは、(中略)文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と規定されている。
[10] この点につき、原告は、現行教科書検定については、教科書検定とは何か、いかなる基準、手続でなされるべきかなど国民の権利、自由にかかわる教育上の重要事項について法律により何ら定めるところがないので、現行教科書検定は憲法体系下における法治主義の原則に違反する旨主張するけれども、のちに(第3の6)詳述するように、教科書検定の権限、検定の基準、手続などにつき直接規定した法律の明文はなくても、学校教育法の右規定は、その反面において、教科書検定は文部大臣が行なう旨を定めたものと解するのが相当であつて、これにより文部大臣の教科書検定の権限に欠けるところはないものというべきであり、その他の検定実施上の手続規定に関しては、学校教育法第88条、第106条により文部大臣がその法律の委任に基づき国家行政組織法第12条第1項所定の省令として教科用図書検定規則を定めているのであるから、原告の右主張は理由がない。
1 文部大臣の補助機関
[11] 教科書検定は、文部省の所掌事務に属し(文部省設置法第5条第1項第12号の2)、同省内部では初等中等教育局の担当とされている(同法第8条第13号の2)。そして、同局には局長および教科書検定課長(本件検定当時は教科書課長)が置かれる(国家行政組織法第20条第2項)ほか、審議官2名(同法第20条第3項、文部省組織令第13条第1項)および教科書調査官(文部省設置法施行規則第5条の2)が置かれている。教科書調査官は昭和31年10月文部省令第26号をもつて設置されたものであつて、その員数は、別に定める定数の範囲内でこれを置くこととされており(同法施行規則第5条の2第1項)、本件検定当時においては40名であり、そのうち社会科担当の調査官は10名(うち日本史3名、世界史2名)であつた。そして、全調査官のうちから9名以内の者を担当する教科を定めて主任教科書調査官と称した(文部省設置法施行規則第5条第3項参照)。
[12] 右のものは、いずれも文部大臣の補助者として教科書検定関係の事務を担当したが、その各自の分掌するところは左記のとおりである。すなわち、初等中等教育局長は、同局の所掌事務の総括者として、他の事務とともに教科書検定の事務をもつかさどり(文部省設置法第6条第1項、第8条第13号の2)、同局審議官は、命を受け、初等中等教育局の所掌事務のうち重要事項にかかるものを総括整理する(文部省組織令第13条第2項)ものとし、教科書検定等の事務についても総括整理し、同局教科書検定課長は、同課の所掌事務である教科書検定に関する事務等を行ない(同組織令第5条、第12条)、教科書調査官は、上司と命を受け、検定申請のあつた教科用図書および通信教育用学習図書の調査に当る(文部省設置法施行規則第5条の2、第2項)もので、その事務については教科書検定課長によつて総括される(同規則第5条の2)。
2 教科書用図書検定調査審議会(以下「審議会」という。)
[13] 審議会は、検定申請の教科用図書を調査し、および教科用図書に関する重要事項を調査審議することを目的として文部省に設置されたもので(文部省設置法第27条第1項)、その内部組織、所掌事務および委員その他の職員に関しては、同条第2項により政令に委任され、教科用図書検定調査審議会令(昭和25年政令第140号・以下「審議会令」という。)がこれを規定している。
[14](一)審議会の所掌事務は、文部大臣の諮問に応じ検定申請の教科用図書および通信教育用学習図書を調査し、教科用図書に関する重要事項を調査審議し、ならびにこれらに関し必要と認める事項を文部大臣に建議する(審議会令第1条)こととされている。
[15](二)審議会の組織を示すと次のとおりである。
[16](根拠規定)審議会令第6条、審議会第10条第1項
[17](「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」第1条)
(図1)
[18] 検定基準の作成および改訂その他の重要事項で、会長において審議会の審議を経る必要があるとあらかじめ認めた事項と文部大臣に対する建議に関する事項を除き、分科会の議決をもつて審議会の議決とされ(審議会令第9条、教科用図書検定調査審議会規則《昭和31年11月30日審議会決定》第14条)、さらに、分科会長において分科会の議決を経る必要があるとあらかじめ認めた事項に関するものを除き、部会の議決をもつて分科会の議決とするものとされている(審議会令第10条第4項、「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」《昭和31年11月30日教科用図書検定調査分科審議会決定》第2条)。
[19] したがつて、通常個々の教科書検定に関する右部会の合否の決定は、すなわち審議会の決定としてそのまま大臣に答申されることになる。
(三)審議会の委員は120名以内とし、教育職員、学職経験者および関係行政機関の職員のうちから文部大臣が任命するものとし(審議会令第2条第1、2項、第3条第1項)、必要に応じて文部大臣は審議会の意見を聴いて学識経験者のうちから臨時委員を任命することができる(審議会令第2ないし第4条各第2項)。
[20] また、審議会には検定申請のあつた教科書および通信教育用学習図書の原稿を調査させるため、調査員が置かれ(審議会令第2条第3項)、専門の事項を調査する必要があるときは専門調査員を置くこともできる(同条第4項)。右調査員は文部大臣が学識経験者のうちから審議会の意見を聴いて任命するものとされている(審議会令第3号第2項)。
[21] そして、(証拠省略)によると、本件検定当時、審議会委員は総数110名、そのうち、教科用図書検定調査分科会に属するものは80名で、さらに、第2部会(社会科)員に属するものはこのうち15名であつたこと、調査員は約600名から700名であつたことが認められ、他にこれに反する証拠はない。
[22] 教科用図書検定規則第1条第1項は「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする。」とするが、文部省告示による教科用図書検定基準(昭和33年文部省告示第86号・昭和43年8月26日文部省告示第289号による改正前のもの、以下「検定基準」という。)およびその実施細則に当る教科用図書検定基準内規(昭和33年文初教第586号)が定められている。

[23] 右検定基準は、全教科に共通な絶対条件3項目と各教科別の必要条件10項目から成立ち、その内容は次のとおりである。
1 絶対条件
[24] このいずれかを欠くときは申請図書は絶対的に不適格となる性質のものである。
[25]「(一)(教育の目的との一致)教育基本法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これらに反するものはないか。また、学校教育法に定める教育の目的および方針などに一致しており、これに反するものはないか。
[26](二)(教科の目標との一致)学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。
[27](三)(立場の公正)政治や宗教について、特定の政党や特定の宗派に偏つた思想・題材を採り、また、これによつて、その主義や信条を宣伝したり、あるいは非難したりしているようなところはないか。」
2 必要条件
[28] 各教科ごとに定められ、これを欠くときは欠陥のある教科書とされるが、絡対条件のように絶対的に不適格とはならない性質のもので、その内容も実質的には各教科ほぼ共通であるが、社会科の場合は次のとおりである(地図を除く。)。
[29]「(一)(取扱内容)取扱内容は学習指導要領によつているか。
[30] 取扱内容は、学習指導要領に定められた社会科の当該科目又は当該学年の内容によつている。
[31](二)(正確性)誤りや不正確なところはないか。また、一面的な見解だけを取上げている部分はないか。
[32](1)本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に誤りはない。
[33](2)本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に不正確なところはない。
[34](3)本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料その他に相互に矛盾しているところはない。
[35](4)一面的な見解だけを、じゆうぶんな配慮なくとりあげている部分はない。
[36](5)誤植(脱字・欠字・記号の脱落などを含む。)はない。
[37](三)(内容の選択)内容には、学習指導要領の示す教科の目標および科目または学年の目標の達成に適切なものが選ばれているか。
[38](1)教科の目標、科目または学年の目標および学習指導要領に示す内容に照して、必要なものが欠けていない。
[39](2)とりあげた内容には、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに適切でないものはない。
[40](3)注・さし絵・写真・地図・図表・問題などには、教科の目標および科目または学年の目標を達成するうえに必要なものが選ばれており、適切でないものは含まれていない。

[41](4)現代の社会生活や科学の進歩に適応したものが、必要に応じて選ばれている。
[42](5)他の教科・科目および道徳との関連が、必要に応じて考慮されており、それらでの指導と矛盾するところはない。
[43](6)健康・安全その他学校教育全般の方針および慣行に反しているところはない。
[44](7)特定の営利企業や商品などの宣伝や非難になるおそれのあるところはない。
[45](四)(内容の程度等)内容の程度は、その学年の児童・生徒の身心の発達段階に適応しているか、また、児童・生徒の生活・経験および興味に対する配慮がなされているか。
[46](1)本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料などには、その学年の児童・生徒の能力の程度に照して高すぎ、または低すぎるものはない。
[47](2)本文・注・さし絵・写真・地図・図表・問題・資料などにおいて、児童・生徒の生活・経験および興味に対する配慮がなされている。
[48](3)児童・生徒の性別に対する必要な配慮の欠けているところはない。
[49](五)(組織・配列・分量)組織・配列および分量は、学習指導を有効に進めうるように適切に考慮されている。
[50](1)内容の発展的な系統が全体として適切にたてられている。
[51](2)各内容の配列や関連づけが適切である。
[52](3)各内容の間に、不統一や不要の重復がない。
[53](4)注・さし絵・写真・地図・図表などは、適切な位置に配置されている。
[54](5)小学校にあつては、季節との関係が必要に応じて適切に考慮されている。
[55](6)各内容の分量の配分は適切である。
[56](7)全体の分量は、指導時間や児童・生徒の心身の発達段階からみて適当である。
[57](六)(表記・表現)漢字・かなづかい・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などは適切であり、これらに不統一はないか。また、表現は冗長・粗雑でなく、児童・生徒に理解しやすいものであるか。
[58](1)漢字・かなづかい・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などは適切である。
[59](2)漢字・かなづかい・おくりがな・ローマ字つづり、記号、用語、計量単位などに不統一はない。
[60](3)文章は冗長・粗雑でなく、児童・生徒に理解しやすいものである。
[61](4)さし絵・写真・図表などは粗雑でない。
[62](七)(使用上の便宜等)目次・索引・注・凡例・諸表その他教科書使用上の便宜を与えるものが、必要に応じて用意されているか。また、出典などは必要に応じて示されているか。
[63](1)目次・索引・注・凡例・諸表・問題・資料などが、必要に応じてとり入れられている。
[64](2)目次・索引・注・凡例・諸表・問題・資料などは、利用しやすくできている。
[65](3)さし絵・写真・図表などには、必要に応じて説明が加えられている。
[66](4)引用された材料には、必要に応じて出所・出典が示されている。
[67](八)(地域差・学校差)特定の地域や特に施設・設備のよい学校にだけ適するようになつていないか。
[68](1)内容が都市または農村・山村・漁村のいずれにもかたよつていない。
[69](2)内容が特定の地域にだけ適するようになつていない。
[70](3)小学校にあつては、必要に応じて特定の地域に取材した内容でも、全国的に使えるように考慮されている。
[71](4)普通の施設・設備のある学校で使いやすいようになつている。
[72](九)(造本)印刷、文字の大きさ、行間、書体、判型、分冊ならびに図書としての各部の表示その他に欠陥や適切でないものはないか。
[73](1)印刷は鮮明である。
[74](2)文字の大きさ、字間・行間・書体などは適切である。
[75](3)判型および分冊が適切になつている。
[76](4)表紙・見返しなど図書の各部の表示に欠陥がない。
[77](5)本文およびその他の用紙ならびに製本の様式・材料などが適切なものである。
[78](6)その他の体裁に欠陥がない。
[79](10)(創意工夫)内容、組織、表現その他について、適切な創意工夫が認められるか。
[80](1)内容の選択について適切な創意工夫が認められる。
[81](2)児童・生徒の心身の発達段階や興味などに対する配慮について適切な創意工夫が認められる。
[82](3)組織・配列および分量について適切な創意工夫が認められる。
[83](4)表現について適切な創意工夫が認められる。
[84](5)使用上の便宜その他について適切な創意工夫が認められる。」
1 検定の受理
[85] 教科用図書検定の申請は、その著作者または発行者から文部大臣に対してこれをするものと定められている(教科用図書検定規則第3条)ところ、(証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[86] 文部省は、教科書検定事務の円滑を期するため、教科書発行業者の組織である社団法人教科書協会を通じてあらかじめ検定申請者の意見を徴した上で、通常3か年度(各4月1日より翌年3月31日までを1年度とする。)にわたる検定実施年次計画を定め、これをその最初の年度の検定受理計画を検定申請者に通知する時期(通常前年の2月ないし12月頃)より約6か月前に教科書発行業者に示すこととしている。さらに、初等中等教育局長(本件当時は教科書課長)は、各年度の検定実施に先だち教科書発行者あてに教科書検定申請上の注意事項を書き送つているが、その際原稿の添付書類として、編集趣意書を用紙3枚程度にまとめて提出するよう義務づけている。それは、学習指導要領に示された内容と原稿内容とを対比できるように示し、内容の取材や組織、配列等についてとくに意を用いた点または特色について調査の参考としてほしい事項を記載することになつている。

[87] 次に、教科用図書検定規則第4条によれば、教科書の検定は、原稿審査、校正審査および見本本審査の3段階を経て完了するものとされ、申請者から提出する原稿は審査の公正を期するため、著作者名あるいは発行者名の記載されていない白表紙のものを提出すべきものとされており、通常これは白表紙本と呼ばれている。
2 審査
[88](証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
(一)原稿調査
[89]「中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(昭和34年11月12日審議会決定)、「昭和36年度以降使用小学校教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(昭和34年3月11日審議会決定)によれば、原稿の調査評定は調査員および教科書調査官が行なうものとされているため、文部大臣より申請原稿について諮問があると、直ちに右両者にそれぞれ調査依頼がされる。申請原稿が社会科のものであつたとすれば、それは社会科担当の全調査官(本件当時10名・そのうち日本史3名、世界史2名)の調査後、右全員による調査官会議において検討し、その結果を抽せんで各原稿ごとに選ばれた主査および副査官がまとめて各申請原稿につき1通ずつの調査意見書および評定書を作成する。他方、右同一の原稿につき無作為に抽出された調査員3名(大学教授など専門学識者1名、学校の教員など現場職員2名)が各自1通ずつの調査意見書および評定書を作成する。
(二)検定合否の判定
[90] 審議会は、前記教科書調査官ならびに調査員の調査意見書および評定書(いずれも合計4通ずつ)をもとにして申請原稿を検討し、昭和34年3月11日ならびに同年12月12日付の前記各審議会決定にかかる内規に従いその合否を判定するのである。それを右内規より引用すれば次のとおりである。
「第1 調査評定について
[91]1 原稿の調査評定は、調査員および教科書調査官(以下調査者という。)が行う。
[92]2 調査員の調査は、同一の原稿に対して、原則として3名とする。
[93]3 調査評定は、教科用図書検定基準(昭和33年12月12日文部省告示第86号)に基き、受理単位ごとに行う。
第2 評定方法について
[94]1 絶対条件の評定方法
[95] 絶対条件については、3項目のそれぞれについて「合」「否」のいずれかに評定する。合否のいずれとも決しがたい場合は「?」とする。
[96]2 必要条件の評定方法
[97] 第1ないし第9項目については別表1、第10項目については別表2の評定尺度により評定する。
3 総合評定
[98] 絶対条件および必要条件の評定結果を総合して全体として「合」・「否」のいずれかに評定する。合否いずれとも決しがたい場合は「?」とする。
第4 合否の判定について
[99] 教科用図書検定調査分科審議会は、調査者の調査評定の結果を検討し、次により合否を判定する。
1 絶対条件
[100](1)各調査者の評定が、同一の項目に対し、そのいずれも合(または否)であり、これに対して疑義がないと認めたときは、合(または否)とする。
[101] ただし、否(または合)とするに足るじゆうぶんな理由があると認めたときは、調査者の評定にかかわらず否(または合)と判定することができる。
[102](2)同一の項目に対する調査官間の評定が不一致のときは、その項目について合否いずれかに判定する。
[103](3)調査者が「?」記号を付した項目については、その項目について合否のいずれかに判定する。
2 必要条件
(1)必要条件の合否を判定するのは、次の基準による。
[104]ア 項目の評定に1つでも「×」記号があれば不合格とし、「×」記号のない場合にはイ以下に定めるところによる。
[105]イ 総点を1、000点とし、これを第1ないし第9項目に別表3のとおり配点する。
[106]ウ 第1ないし第9項目の評点を記号に応じて別表4のとおり定める。
[107]エ 第1ないし第9項目の評点合計が800点以上のものは合格とする。
[108]オ 第10項目の評点は、評語に応じて別表5のとおり定める。
[109]カ 第1ないし第9項目の評点合計が800点に達しない場合に、第10項目の評点をこれに加えて800点以上になるときは、これを合格とし、なお800点に達しないものは不合格とする。
[110](2)各調査員の評定を総合平均したものをもつて調査員の評定結果とする。
[111](3)調査者の評定結果に対して疑義がないと認めたときは、(1)の基準により合否の判定を行う。
[112](4)前号の判定を行うにあたり、調査者の評定に疑義があると認められたときは、疑義があると認めた調査者の評定項目について検討し、その結果を疑義があると認めた調査者の評定とおきかえ、(1)の基準により合否の判定を行う。
3 原稿に対する合格または不合格の総合判定
[113] 絶対条件の3項目および必要条件がいずれも合と判定されたものを合格とする。
[114] この場合、原稿に訂正、削除または追加など適当な措置をしなければ教科用図書として不適当と認める事項があるときは、これをA意見として指摘し、これに必要な措置を加えることを条件として合格を認める。
[115] なお、訂正、削除または追加などした方が教科用図書としてよりよくなると認める事項については、申請者に参考までに伝えるため、これをB意見として指摘する。」
[116] なお、B意見が付された場合、そのなかには、必要条件の各項目に照らし欠陥と認められるが、それを修正しなくても合格と認められるいわる「欠陥B」と称されるものと、必要条件に照らし欠陥とは認められないが、修正した方が教科書としてより適当であると認められるので参考意見として付されるいわゆる「ベターB」と称されるものとを含み、B意見は本来これを修正しなくても不合格となることはないのが原則である。しかし、合否の評定に当り、必要条件第1ないし第9項目ごとの項目点を決定する際に、右「欠陥B」については減点の対象となることがあり、すなわち、それが多量にあれば結果的に不合格に結びつくこともありうるのである。
[117] そして、審議会の審議結果は、申請原稿の合格・不合格の判定ならびに右A・B意見の指摘をして文部大臣に対し答申され、同大臣は右審議会の意見を尊重し、原則としてその答申どおり合格・条件付合格(修正指示を含む。)または不合格の決定をするのが通例である。
(三)理由の告知
[118] 前記検定の合格(条件付合格を含む。)ならびに不合格の結果は、文部省より申請人に対しそれぞれ書面をもつて通知されるが、その理由は、条件付合格の場合には、教科書調査官より口頭をもつてA・B意見の付された箇所全部につき逐1告知され、また、不合格の場合には右通知書に検定基準のうち主たる欠陥部分と認められた事項を指摘して告知されるほか、教科書調査官より口頭をもつて具体例をあげながら補足説明を加えることがなされており、右いずれの場合にもその場における申請者側の質問には適宜応答を惜しまず、速記、録音機などの使用も許されている。
[119](別表1) 第1ないし第9項目に対する評定尺度および記号
[120](別表2) 第10項目に対する評定尺度および評語
[121]評語 区分
[122]普  創意工夫としては、特に指摘することがない。
[123]良  部分的に、多少適切な創意工夫が認められる。
[124]良上 良と優の中間程度と判定される。
[125]優  相当適切な創意工夫が認められる。
[126]優上 優と秀の中間程度と判定される。
[127]秀  かなり広い範囲にわたつて、きわめて適切な創意工夫が認められる。
[128](別表3) 第1ないし第9項目の配点
[129](別表4) 第1ないし第9項目の評点
[130](別表5) 第10項目の評点
[131]評語 評点
[132]普   0
[133]良  10
[134]良上 20
[135]優  30
[136]優上 40
[137]秀  50
(四)校正刷審査(いわゆる内閲本審査)
[138] 原稿審査において指摘された事項につき、申請者は指摘どおり修正を施し、あるいは自己修正するとか、または指摘事項に従つて修正し難いと認めるときは、これについての自己の意見を表明して文部省の指定する期間内(通常半月ないし1か月)に校正刷審査(教科用図書検定規則第4条)を申請することができる。これを一般に内閲申請と称しているが、同申請原稿には、指摘事項A、指摘事項Bまたは自己修正による修正箇所を明らかにするため、次の各措置をとるよう定められている。
[139](1)指摘事項Aによる修正箇所は、修正事項を正しく朱書し、その事項のある頁の上部に「赤色」付せんを貼りつけておくこと。ただし、修正事項が活字以外のものについては、修正を行なつた写真・原画・楽譜等を添えて修正を明示すること。
[140] また、著作者において、指摘事項Aにより難いと認めた事項があるときは、原稿の該当箇所に傍線(赤色)を付して、その頁の上部に「紫色」付せんを貼りつけ、かつ、その事項と修正し難い理由とを文書に記載して原稿とともに提出すること。
[141](2)指摘事項Bによる修正箇所についても右と同様の措置をとり「黄色」付せんを貼りつけておくこと。なお、著作者において、指摘事項に対して意見があるときは、原稿の該当箇所に傍線を付して「黄色」付せんを貼りつけ、その意見を欄外に記載すること。
[142](3)前記の指摘事項のほか、著作者が原稿を再検討した結果、句とう点、表記統1・用語統1等形式的な事項について自己修正を加えたものがあるときは、その箇所に(自)という記号を付して、修正しようとする事項を正しく朱書し、それのある頁の上部に「縁色」付せんを貼りつけておくこと。
[143] 校正刷審査は、右の内閲本について主として教科書の内容につき再審査を行なうものであつて、この段階で新たにAまたはB意見が付されることもあるし、右修正箇所につき適切でないと認めて再考をうながすこともある。
(五)見本本審査
[144] 見本本審査は、教科書検定の最終段階部分であつて、内容はもとより表紙、奥付、印刷、造本等全般なものがその対象となるから、申請者より実際の教科書と同一の造本を施したものを提出してその審査が行なわれる。
(六)救済制度その他
[145] 前記不合格処分につき行政不服審査法に基づく異議の申立が許される(同法第6条)ほか、条件付合格の場合には右に述べたごとく校正刷審査の段階で指摘事項により難いことを述べることが認められている。文部大臣は、申請者の指摘した点を再検討の上、自己の付した意見を撤回することもあり、また、指摘事項Aに対して右申立がなされた場合には、審議会の再審議にかけられ、その結果前記指摘意見が撤回されることもある。
[146] そして、叙上の原稿審査に要する時間は、申請原稿量の多寡などにもよるが、通常4か月ないし7か月である。
3 発行・採択
[147] 以上の検定に合格した教科書は、官報に検定済教科書として、その名称、著作者の氏名および発行者の住所氏名等一定の事項を公告し(教科用図書検定規則第12条第1項)、発行者は毎年発行しようとする教科書の書目を文部大臣に届け出るものとし、この届け出に基づき文部大臣は教科書目録を作成して都道府県の教育委員会に送付するものとされている(「教科書の発行に関する臨時措置法」第4条、第6条第1項)。発行者による右届け出は検定合格済図書についてはもちろん、現に検定申請中のものでも原稿審査に合格しているものはこれを届け出ることが認容されている(証人渡辺実の証言)。
[148] 都道府県教育委員会は、右教科書目録に基づきそれぞれ教科書展示会を毎年文部大臣の指示する時期に開催する(右臨時措置法第5条第1項)が、発行者は同法第4条による届け出済の教科書にかぎりその見本を出品することができる(同法第6条第3項)。なお、証人渡辺実の証言によると、教科書展示会は毎年7月1日から約10日間開催されるのが通例であつて、前記教科書目録はこれに間に合わせるため同年5月頃までには作成されることが認められる。
[149] そして、これらの図書のうちから、採択権者である(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第23条第6号)各教育委員会によつて教科書の採択がなされるのである。
[1] 原告は、現行教科書検定制度は憲法第26条によつて保障されている教育の自由、なかんずく子供の教育を受ける権利、すなわち学習権、親を含む国民の教育権および教師の教育の自由を侵害すると主張するので、この点につき判断する。
1 教育を受ける権利と親の教育権
[2] 憲法第26条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」(第1項)、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」(第2項)と定めている。
[3] 本条は、憲法第25条第1項が国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を基本的な権利として保障しているのに対し、その文化的な側面として国民各自に等しく教育を受ける権利を保障し、その実現の手段として、国民に対しその子女に普通教育を受けさせる義務を負わせる反面、国に対しても立法その他の措置を講ずべき義務を負わせたものである。
[4](一)この点に関する原告の主張は、おおよそ次のとおりである。
[5] 個人の尊厳が確立され、子供の教育を受ける権利が憲法によつて保障されるゆえんのものは、子供の成長発達のための学習の権利が子供の人権として捉えられたことによるにほかならない。子供の学習権は教育を受ける権利の核心をなすものであつて、子供は、公権力によつて制約されることなく自由に自からの成長発達を追求し、その潜在的な可能性を合理的に開花させ、かつ、思想的に自由な国民として育つため、公権力によつて画一化されない教育を受ける自由を有する。そのために、国は、教育内容に対する介入を控えるべきであり、換言すれば、教育の外的諸条件の整備確立についてのみその権能を有するに過ぎないものである。そして、このよう考えは近現代の教育原理にも合致するものであり、つとに18世紀フランス革命期の思想家コンドルセ(A.N.C.Condorcet)ならびに現代のアメリカ教育学者カンデル(L.L.Kandel)が唱道したところであるというのである。
[6] そもそも、教育とは可能性にみちた子供の能力を全面かつ十分に開花させ、子供の人格の完成を目ざして行なわれる営みであり、憲法第26条の教育を受ける権利の保障は、子供に対しその個人的人格を尊重し、将来民主主義社会の一員となるための人間形式を目ざして自から学習する機会を保障しようとするものであつて、これは子供の自然的権利に属するというべきである。
[7] これに対し、親は本来自己の子女を教育する権利を有するのであり、これは親の自然的な権利であつて、実定法上も「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」(民法第820条)と規定されている。親の教育権は、歴史的には19世紀中頃まで教育法制上中心的地位を占めていたが、その後、人権思想の普及するに伴い「親権利から親義務へ」と思想的転換を見たのであり、近代教育原理は子供の学習権を教育権保障の中核に置き、これに対する親の義務を強調するようになつた。
[8](二)次に、公教育制度の形成過程をみるに、(証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[9] 19世紀前半における欧米の近代市民国家の教育制度は、まだ私教育を中心とし、教会の学校支配が依然として強く、日曜学校、教区学校、慈善学校などが主であり、各国とも教会との争いを避けて宗教的私立学校尊重の私教育を温存した。しかしながら、産業革命以後の社会構造の変化は著しく、右世紀後半になると、産業界から労働者にも一定の基礎学力を要請するようになり、併せて折から台頭してきたナシヨナリズム、社会不安対策などの諸理由から各国は教育を教会中心の私教育制度のまま留め置くことができなくなり、国・公立学校を整備拡充して教育を大衆に開放する施策をとるようになり、次第に公教育制度が確立されるに至つた。
[10] こうして確立された近代公教育における共通の基本原理は、教育の義務制、無償制および世俗化を主軸とするものであつた。かくて、現代では、それぞれの親がその子女に対して自から十分な教育を受けさせ、子供の学習権を満足させることができなくなつたため、親は自身で右責務を果す代りに子供を国または公共団体の営む学校に入れて教育を受けさせることにより教育義務を実現するようになつたのである。
[11] さらに、20世紀に入ると、各国の憲法は国民の生存権的基本権を保障するようになり、
[12]例えば、ワイマール憲法が「子を教育して肉体的、精神的および社会的に有能にすることは、両親の最高の義務であり、かつ、自然の権利であつて、その実行については国家共同社会がこれを監督する。」(第120条)と規定しているように、教育の権利は親の権利から親の義務へと転化し、子供の教育を受ける権利の保障は確立された。
[13](三)そこで、公教育における国の立場を考えてみるに、前記認定のことからも明らかなように、国または公共団体の設置運営する今日の学校教育は、親の私事的な子女教育に代つて組織的、機能的に実施される公教育であつて、本来親の教育権と矛盾対立するものではないはずである。のみならず、民主主義国家においてはその存立と繁栄は国民各自の自覚と努力にまつものであるから、教育は国家社会の重大関心事となり、とくに、現代国家は福祉国家として重要な使命のなかに教育の振興を掲げ、次代を担う子供に対し、適切な教育を施し、その健全な心身の発達と能力の向上開発を期するものであり、今や教育の実施普及は公共の福祉中最重要なものの1つである。さればこそ、日本国憲法は、福祉国家の理念を宜明するとともに、その施策の一環として国民の教育を受ける権利を保障し、国に対しその権利を実現するため義務教育をはじめ各種の必要な施策を実施する権限と責務を課しているのであり、また、教育基本法にも、法律に定める学校は公の性質をもつものとされ、教員は全体の奉仕者であると明記されたのである(同法第6条)。
[14]因みに、教育関係の立法として、教育基本法、学校教育法、社会教育法(昭和24年法律第207号)、私立学校法(同年法律第270号)、義務教育費国庫負担法(昭和27年法律第303号)、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(昭和31年法律第162号)、「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(昭和38年法律第182号)、「就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律」
[15](昭和31年法律第40号)等があり、国は右各法律に応じた施策をすすめる義務があり、また、市町村は小学校および中学校を設置する義務を負い(学校教育法第29、第40条)、経済的理由により就学困難と認められる学令児童の保護者に対して援助をすべきこと(同法第25条)が定められている。
[16](四)原告はコンドルセやカンデルの学説を援用しつつ、教育行政は教育の内的事項に関与することは許されず、外的事項についてのみ責務を負うと主張する。そして、(証拠省略)によれば右コンドルセの学説においては、子供を教育する権利は両親の自然権に属し、それは同時に自然から与えられた義務であつて放棄することができないものであること、公教育は家庭教育の延長であり、その機能を有効にするための代替物であり、偏見をなおすための集団化(親義務の共同化)であること、公教育は知育に限定され、内面形成を中心とする徳目には関与しえず、また、公権力の設置する教育機関はいつさいの政治的権威からできるかぎり独立でなければならないし、いかなる公権力といえども新しい真理の発展を阻害し、その公権力における特定の政策や1時的な利益に反するごとき理論を教授することを妨害する権限をもつてはならないことが説かれていることが認められる。しかしながら、右(証拠省略)によれば、コンドルセの学説は、フランス革命の激動期に普遍平等の国民教育を唱道したもので、必ずしも今日においてもそのまま通用するものではない(当時においてもその教育案は採用されなかつた。)。のみならず、彼は公教育を国家権力からまつたく独立のものとすることを考えていたわけではなく、最終的には公教育行政権を人民の代表者である議会に従属せしめ、ただ、その具体的運営を国立学士院の権限としているに過ぎない。そして、その理由として「あらゆる権力のなかで、これこそは腐敗するおそれが最も少なく、また個人的な利益で誘惑されることも最も少なく、さらに知識を有する人々の総意の影響を最も反映し易いものであるからである。」と述べている。また、下級学校において公権力による教科書の選定を認めているなど、コンドルセは必ずしも原告主張のごとく公教育に対する国の関与を排斥しているものとは認め難いのである。

[17] 他方、カンデルは、教育を内的事項(Interna)と外的事項(Externa)に区分していること原告主張のとおりであるが、前示乙第67号証によれば、彼は右区分によつて教育行政を中央教育行政機関と地方教育行政機関の各分担すべき事務とに配分しようとするものであつて、健全な行政制度は中央機関の外的事項の決定と内的事項の地方分権化が相まつて教師の自主的専門職的成長を助長すると述べており、中央政府が教育の内的事項についてまつたく何らの任務をも有しないというものではないこと、カンデルの右思想は1933年当時のイギリス教育を対象に記述せられたものであつて、必ずしも今日の公教育にそのまま当てはめることはできないことが認められる。そしてその後の経済社会の発展に伴い高度教育が要求され、次第に中央政府が教育内容にわたる事項の決定に関与せざるをえず、また、教育実践においては教育の内的事項と外的事項とは相互に密接不可分な関連を有し、これを明分することが困難であることを併せ考えると、右諸学説を根拠に教科書検定制度が国民の前記憲法上の権利を侵害するとは断じ難い(なお、教育基本法第10条第2項との関係はのちに詳述する)。
[18](五)このようにみてくると、現代公教育においては教育の私事性はつとに捨象され、これを乗りこえ、国が国民の付託に基づき自からの立場と責任において公教育を実施する権限を有するものと解せざるをえない。また、かように考えることこそ、憲法前文が「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する。」と宣明している議会制民主主義の原理にもそうゆえんであるというべきである。
[19] したがつて、教科書検定制度そのものは、国が憲法第26条第1項に定める国民の教育を受ける権利の実現を目ざして行なわれる学校教育制度の一環として学校教育法第21条第1項、第40条、第51条、第76条等に基づき実施されるものであつて、その目的とするところは教育の機会均等、教育水準の維持向上ならびに教育の中立性確保などにあるものと認められるから、これをもつて憲法第26条第1項の子供の教育を受ける権利、同第2項の親の教育権を侵害するものとは解し難い。
2 教師の教育の自由ー教育基本法第10条の解釈
[20] 原告は、憲法第26条および教育基本法第10条の趣旨よりして、教師はそれぞれの親の信託を受けて児童・生徒の教育に当るものであるから、教育は専門的知識を有する教師の自主的な判断に委ねられ、教師は公権力により制約されない教育の自由を有し、反面、国の教育行政は教育目的遂行に必要な外的条件整備に限定され、教育課程その他の教育内容に権力的に介入することは許されないと主張する。
[21] ところで、教育基本法は教育の目的として「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とうたい(同法第1条)、同法第10条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」(同条第1項)、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」(同条第2項)と定めているので、原告の右主張との関連で検討をすすめる。
[22](一)右にいわゆる「不当な支配」とは、政党など政治団体、労働組合その他国民全体ではない一部の党派的勢力を指称し、不当な行政権力的支配もこれに含まれると解する。教師の職務は、学校において日常子供に接し、その教育活動に従事する専門職に属する(教員免許状制度)から、教育は一般行政と異なり、教師の主体的活動がなければ十分な教育効果をあげることはできないのであり、その意味において、教師の自主的な創意と工夫が尊重されなければならないとともに、不当な外部的勢力の支配から独立であることを要するのである。この点につき、昭和21年来日した第1次米国教育使節団報告書も「教師の最善の能力は、自由の雰囲気のなかにおいてのみ十分に発揮される。」と指摘している。したがつて、教育基本法の趣旨とするところもまたここに存することは明らかであつて、行政権の行使といえどもその不当なるときはこの例外ではありえないのである。
[23] しかしながら、さればといつて、公教育の場における教育方法や教育内容に対する国の教育行政が原則として排除され、ただ全国的な大綱的基準の設定や指導助言をなしうるにとどまるとするほど右教師の教育の自由ないし独立が排他的、絶対的でありうる筈はないのである。国は、福祉国家として憲法第26条により教育の責務を遂行するため、法律に従い諸学校を設置運営する義務を負い(学校教育法第2ないし第4条、第106条第1項)、国民全般に対し教育の機会均等、教育水準の維持向上を図る責務を有するから、適法に制定された法令による行政権の行使は、それがかりに教育内容にわたることがあつても、その内容が教育基本法の教育目的(同法第2条)に反するなど教育の本質を侵害する不当なものでないかぎり、右にいわゆる不当な支配に該当せず、許されるものと解するを相当とする。
[24](二)次に、教育基本法第10条第1項後段に「国民全体に対し直接責任を負つて行われるべきものである。」というのは何を意味するかについて案ずるに、原告は、教師の教育の自由を前提としつつ、これは教育における民主主義原理をうたつたものであり、法律的あるいは行政的な責任を意味するものではなく、国民全体に対する直接的な教育ないし文化責任という意味である。いいかえれば、これは国民の教育を受ける権利を基本にすえ、国民がその子供に教育を受けさせる責任に対応した国民の教育の自由を前提にした上で、教師が直接父母、国民との結びつきのなかで教育を展開していくことを想定しているのであると主張している(原告主張別紙(12)第5編第3章第6節第3の2(三))。
[25] ところで、(証拠省略)によると、教育基本法を審議した第92帝国議会に提出された政府の同法案説明参考資料には「教育が国民に対し直接責任を負うというのは、国民と教育との間に不当な夾雑物があつてはならないというのであつて、国の行なう教育行政一般について国民の意思が議会に表明せられ、その議会に対して文部大臣を含めた内閣が責任を負うということを排斥するものでは決してない。」と記述されていることが認められ、この事実に徴すると、右の「国民全体に対し直接責任を負う」というのは、次のように解すべきものと考える。すなわち、本来教育を含む国政全体が国民の厳粛な信託によるものであつて(憲法前文)、公教育における国の教育行政についても民主主義政治の原理が妥当し、議会制民主主義のもとでは国民の総意は国会を通じて法律に反映されるから、国は法律に準拠して公教育を運営する責務と権能を有するというべきであり、その反面、国のみが国民全体に対し直接責任を負いうる立場にあるのである。
[26] 他方、国民が教師に対し直接その子供の教育を付託し、その責任を追及しうる方法は現行制度上認められていないのである。したがつて、教育基本法の右文言は、前叙の事実をふまえた上、ただ教育が国民にとり重大事であることにかんがみ、国民と教育との間に中間的な介在を経ないで直結されるべきことを明らかにし、両者の間に特別の親近性が存在することを宣明したに過ぎないものであつて、これは教育者や教育行政関係者の心構えを述べたにとどまり、これから直ちに法的効果が生ずるというものではないと解するのが相当である。
[27] よつて、教育基本法の右文言から原告主張のごとき結論を抽き出すことは困難である。

[28](三)原告は、同法第10条第2項の意味するところは、国の教育行政は教育の外的条件整備確立をその責務とし、教育内容に立入る権能を有しないことを明らかにしたものであると主張するのに対し、被告は、右の必要な諸条件のなかにはいわゆる教育の内的・外的事項を問わず含まれるから、教育行政が教育課程その他教育内容に立入ることも許されると主張して両者の見解が対立している。
[29] ところで、原告の右主張のごとき学説は、もともとアメリカの教育学者カンデルが1933年代のイギリス教育を対象に教育行政を内的事項と外的事項に区分し、前者は地方教育機関に、後者は中央教育機関に分掌せしめるのが健全な教育行政のありかたであると唱道したことにはじまるもので(前記2の4)、わが国の学者でこれに賛同するものも少なくない。
[30] しかしながら、教育における教師の立場は前述のとおりであつて、教育内容から教育行政を排除するほど独占的な地位を有するものとは到底認められないし、また、右のように教育事務を内的事項と外的事項とに区分する立場が今日のわが国における教育実情のもとで必然的なものとも認められないのである。他方、国は公教育たる学校教育を運営し、教育目的を遂行する責務を有するから、教育の機会均等および教育水準の維持向上のため教育全般の制度機構を整備する必要がある。したがつて、右法条項にいう条件整備のなかには教員の固有権限に属する教育実施に関する事項を除き、学校施設、教育財政等の物的管理や教職員人事等の人事管理はもとより教育課程の基準設定、教科書その他の教材の取扱(教科書検定を含む。)等教育内容についての管理運営を包含するものと解すべきである。また、かように解することこそ現行教育法制にも適合するゆえでもある。すなわち、現行法制上は、教科に関する事項は監督庁(文部大臣)が定めるとされ(学校教育法第20条、第38条、第43条、第106条第1項)、文部大臣は教育課程の基準として学習指導要領を定めている。また、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によると、教育委員会の権限とされる管理には学校の設置、管理、廃止(同法第23条第1項)、学校その他の教育機関の財産および職員の任免等人事に関する事項(同条第2、3号)、学校の組織・編成、教育課程、教科書その他の教材の取扱に関する事項(同条第5、6号)ならびに当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務(同条第19号)も包括的にその権限とされ、学校長は所属職員を監督し、校務をつかさどる権限を有する(学校教育法第28条第3項)ものと各規定されている。
[31] よつて、原告の前記主張は採用できない。
[32] 憲法第23条は国民の基本的権利として学問の自由を保障すると規定しているが、このうちに教育の自由も含まれるか否かは検討を要するところである。
[33] ここでいわゆる学問の自由とは、欧米においていわゆるアカデミツク・フリーダム(academic freedom)と呼称されるもので、伝統的な考え方によれば、それは大学などの高等研究機関における教授ないしは研究員を対象とするものとされ、学問の自由には学問研究の自由とその研究結果の発表の自由を含むものと解されてきた。ところが、わが憲法第23条はたんに「学問の自由は、これを保障する。」と規定しているのみで、その対象を明文上限定しているわけではないので、憲法によつて保障される学問の自由は右より広く、国民一般を対象とするものであつて、大学など高等研究機関にかぎらず下級教育機関の教師にも及ぶものと解される。
[34] しかしながら、学問の自由自体は国民一般に保障されるところであるとしても、学問の自由と教授の自由ないしは教育の自由とは必ずしも同一ではなく、大学など高等教育機関においては学問の自由の範ちゆうに教授の自由を含むものと解されるとしても、それより下級の教育機関についてはその教育の本質上一定の制約を伴うことのあるのは当然であつて、両者を別異に考えても学問の自由の本質に反するものではない。
[35] 例えば、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)基本法第5条第3項は「芸術および学問、研究および教授は自由である。」と保障の規定を設けているが、右にいう教授の自由とは教育の自由と同一ではなく、大学における教授の自由を意味し、例えば国民学校の教員が教育を行なう場面には適用されないと一般に解釈されている。そして、この解釈の条理的根拠としてあげられているのがドイツの大学における「研究と教授の一体性」という原理である。つまり、そこで考えられている教授は専門的な学問研究の自由な発表にほかならず、それは学問認識の媒体であり、研究の補充作用として観念されてきたのである。
[36] この点につき、最高裁判所の判決(昭和38年5月22日大法廷判決、刑集17巻4号370頁)は次のように判示している。すなわち、憲法第23条の学問の自由は、学問研究の自由とその研究結果の発表の自由を含み、学問の自由の保障はすべての国民に対しそれらの自由を保障するとともに大学が学術の中心として真理探求を本質とすることから、とくに大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨とする。教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するが、必ずしもこれに含まれるものではない。しかし、大学については憲法の右の趣旨と学校教育法第52条(大学の目的)に基づいて教授の自由が保障される。大学における学問の自由を保障するために伝統的に大学の自治が認められている。大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学業を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味するものと解されるというのである。
[37] わが憲法の保障する学問の自由は本質的には以上のとおりであつて、下級教育機関における教育の自由を含まないものと解されるについては、前記理由のほかに下級教育機関における教育の本質にも由来するのである。そこでは、教育の対象が心身の発達が十分ではない児童・生徒であり、しかもその教育は普通教育であつて教育の機会均等、教育水準の維持向上を図るため適当な範囲における教育内容、教材、教授方法等の画一化ならびに教育の中立性確保が必然的に要請されること、大学の学生と異なり児童・生徒は十分な批判力もないから、その発達段階に応じた慎重にして適切な教育的配慮が必要であつて、あくまでも教室は教師が自からの学説、研究の結果を主張、発表する場ではないことなどが教育の自由を制約する要素となつており、下級な教育機関ほどその制約も強まることが容認されるのである。
[38] そして、学問の自由ならびに教育の自由に対する右のごとき考えは、学校教育が真理の伝達を使命とし、学問的成果に依拠すべきことと何ら矛盾するものではなく、右下級教育機関において使用すべき教科書について検定制度を実施しても憲法第23条に違背することにはならないものというべきである。
[39] 原告は、その主張するような教育の自由が認められるのは最近の世界的傾向であると主張するので検討する。
1 ILO・ユネスコ勧告
[40] 昭和41年(1966年)1月ILO・ユネスコ合同の専門家会議において「教育の地位に関する勧告」の最終的案文が作成され、次いで同年9月21日ないし10月5日のパリーにおけるユネスコ特別政府間会議において右勧告が採択され、次いで、同年11月18日ILO理事会はこれを承認し、同月末のユネスコ総会において採択されたことは当事者間に争いがない。
[41](証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[42] ユネスコにおける右勧告はその前文において「国は教育の進歩における教員の基本的役割ならびに人間の開発および現代社会の発展への彼らの貢献の重要性を認識し、教員がこの役割にふさわしい地位を享受することに関心を持ち……」と述べ、その61項は「教職者は職業上の任務の遂行にあたつて学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するため格別に資格を与えられたものであるから、承認された課程の枠の範囲内(within the framework of approved programmes)で、かつ、教育当局の援助のもとで、教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて主要な役割を与えられるべきである。」と述べている。たしかに、これは教師の職業上の自由をより大きなものとし、その役割と地位につき1つの方向を示唆するものではあるが、右勧告は「学問上の自由」の内容について定義されていないため、これをたんに教育方法に関するものだけと限定して解される余地が十分あり(1970年4月27日ないし5月8日の教員の地位に関する勧告の適用についてのILO・ユネスコ合同専門家委員会報告書による参加国のうちいくつかはそう解釈している。)、また、同報告書によると、参加国74か国のうち37か国は教授要目、教科書および教育方法等に関する教員の職業上の自由につき一定の制限を設けており、右勧告案の採択に当つても議論が分れ、結局前記のように「承認された課程の枠の範囲内で」とか「教育当局の援助のもとで」という文言が挿入されるに至つたものである。
[43] そうしてみると、それはあくまで将来に対する1つの指針として受け取るべきものであり、現実的採用の可能性は各国の政治的、財政的、文化的諸事情にかかつているというべきであるから、これをもつて実定法上の解釈原理とすることは相当ではない。
2 OECD教育調査団の報告書
[44] 昭和45年1月OECD(経済協力開発機構)教育調査団が来日し、その調査結果を「日本の教育政策に関する調査報告書」として公けにしたことは当事者に争いがない。
[45](証拠省略)によると次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[46] 右報告書は日本の教育について「価値を育てる教育と教育による政治的教化とは、はつきり区別することができる。教育でこの2つの用法を混同するならば教育における画一性と多様性との均衡を保つという困難な仕事は一層むずかしくなる。例えば学校には一定の活動を保障しながらしかも社会的結合を保つていくといつた程度の画一性は必要とされる。しかし半面、この画一性が中央政府の手で行なわれる場合(とりわけ1つの政党が長期にわたつて政権を独占している国では)、政権の座にある政府がその支配の永続化を図るため服従を強いるおそれがある。このような場合には政府も野党もともに教育を政治的教化の手段とみなし、多様な価値を受容する能力をもつた人間を育てるという共通の目標はそこなわれることになろう。最近は学習指導要領と教科書検定制度をめぐつて議論がかわされている。この背後にあるのは以上の問題にほかならないが、その際日本政府の立場は多様性を犠牲にして画一性を強調しているように思われる。」、「文部省は、次のような権限をもつている。(一)各教科における学習指導要領を決める権限をもつている。また、その権限は詳細な点まで指示するようになつており、教育課程に変化を与えようとする教師の自由は制限されている。(二)使用されるすべての教科書に対して検定認可の権限をもつている。この権限は歴史のような教科にかかわる場合に、画一的な政治的価値を押しつけるという危険をはらんでいる。また、近代社会の必要にこたえようとするなら、教育の内容や方法を改善するためにいろいろな工夫や実験を行なわねばならないが、中央集権と画一主義はこうしたことの大きな妨げとなつている。このようにして教育内容のなかの価値に関するものを支配しようとする考えは、純粋に教育的立場からみると、たいへん大きなマイナスをもたらすことになる。」と述べ、今日のわが国における教育上の最も困難な問題点を率直に指摘している点は傾聴に値するが、もともとOECDは欧州自由諸国を主体とし、域外の正式加盟国は日本、アメリカ合衆国およびカナダのみであり、その間にかなり国情の相違があるのみならず、右調査報告書は後日OECD教育委員会において教育政策検討会を開催する際の素材とするため日本の教育政策を対象に取り上げたものであつて、改善を求める勧告の性質を有するものではない。また、同報告書は主として高等教育に関するものであり、初、中等教育に関してはむしろ「われわれは自分たちの国にくらべて初、中等段階での日本の成果がいかに大きいかに深く印象づけられた。(中略)とりわけ、初、中等教育についていえば、日本の人々に役立つようなことをこちらから指摘したり、示唆するよりも、むしろわれわれ自身の方が学ぶべき立場におかれているのではないかというのが調査団の一般的な意見であつた。」と述べている。
[47] 右報告書は以上のごとき性質のものである上に、教育制度については加盟国間にかなりの差異がみられ、例えば、カリキユラムについてはアメリカ合衆国を除くほとんどの国が大綱を法律によつて規定し、中央当局によつて決定される一般的な教授要目に従いカリキユラムに適合した教科書を書き、補助教材を作成するものとされている。
3 諸外国の教育法制
[48] 諸外国の教育法制を概観すると次のとおりである。
[49](証拠省略)によれば、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
(一)イギリス
[50] 1944年教育法によると、教育行政が地方分権化され、中央官庁たる文部大臣はこれに直接関与しない。教育内容、方法および学校運営は校長に委任されるが、地方教育当局は校長を監督し、地方教育当局の教育長の任命には文部大臣の承認を要する(同法第88条)とともに、文部大臣は教育当局に対し広範な指揮命令権を有し(同法第1条)、これに従わなければ補助金の削減や打切りも可能である(同法第100条)。そして、公私立学校において宗教教育および集団礼拝を必修とし(同法第25条)、国王直属の勅任視学官が約500名もいて教育内容から学校経営まで学校・カレツジおよび地方当局へ助言し、その旨を文部大臣に報告するのが任務とされる。
[51] また、次のような各種の試験制度は同国教育制度の特色をなすものの1つである。
[52](1)11才(イレブンプラス)試験 初等学校修了者が中学校(グラマースクール・テクニカルスクール・モダンスクールの3コースがある。)へ進学する際受験する。
[53](2)普通教育資格取得試験(G・C・E)この受験資格は中等学校第5学年に在学し、年令が16才に達した生徒であることを原則とし、主として大学進学希望者が最小限の資格をうるために受験するものである。
[54](3)中等教育資格免状試験(C・S・E)これは大学に進まず就職を希望する平均以上の能力のある中等学校第5学年の生徒またはこれを修了した年令16才以上のものが受験資格を有する。
[55] このような英国の試験制度は、実際にはその試験内容の範囲と程度が公示され、これが学習の目的とされるために事実上イギリスのカリキユラムを規制する結果となつている。

(二)フランス
[56] フランスの教育行政はすこぶる中央集権的色彩が強い。すなわち、国公立学校の教師はすべて公務員であつて、公立学校の監督および私立学校の統制は文部大臣とその代行者である大学区総長、大学区視学官その他の視学官によつて行なわれる。
[57] 文部大臣は、教育行政につき左の権限を有する。
[58](1)正教授を除く高等教育、中学教育、実業教育の教職員の大部分の人事
[59](2)各段階の学校教育の目的の設定と変更
[60](3)教育課程と教育方法の決定
[61](4)公立教育機関に関する管理法規と服務規律の制定
[62](5)私立教育機関の監督
[63](6)学校および教員の各種試験ならびに受験に関する規定の制定
[64](7)補助金交付の決定
[65](8)人事に関する規定の制定
[66] フランスの視学制度はきわめて組織的であつて、視学制度の最頂点には督学官があつて文部大臣を直接補佐し、大学区には大学区視学官があり、その下に初等教育視学、幼稚園視学があり、いずれも文部大臣の任命になるものである。これらの視学官の任務は、教職員の指導監督のほかにその成績評価をも含むのである。
[67] そして、教科書は次の手続によつて選定される。
[68](1)国公立学校(例を小学校にとる。)では、1914年2月の教科書の選定に関するデクレ(わが国の政令に当る。)により、学区視学官を委員長、初等視学官、師範学校長および教授、初等教育会議の代議員である2名の教員、県教育会議の指名するカントン(郡)の代議員から構成される委員会において選定されたリストに登載されたもののなかから教科書を採択しなければならない。
[69](2)私立学校には右デクレの規制は及ばないが、一定の禁止書目にリストされたものは採択できない。
[70](3)1880年2月27日付法律により、文部大臣は国民教育審議会の意見をきいた上で道徳、憲法および法律に反する図書を学校の教科書として使用することを禁止しうる権限を与えられている。
(三)西ドイツ
[71] 同国基本法第6条第2項は「子供の育成および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行にたいしては、国家共同社会がこれを監督する。」とし、同法第7条第1項は「全学校制度は国の監督を受ける。」と規定している。そして、国内の教育に関する事項をラント(州)の任務としているので、わが国の文部大臣に当る連邦の機関は存在しないが、各ラントの文部大臣によつて構成される常設文部大臣会議が設けられ、これが連邦全体にわたる最高の決定機関である。初等中等諸学校の教育課程に関する原則は各ラントの文部省によつて決定される。各ラントの文部省は教授計画(Bildungsplan)を制定し、省令として公布し、すべての学校に対し各学年の必修および選択教科とその授業時数、教授目標と範囲、扱われる教材などを指示している。これはわが国の学習指導要領に匹敵するが、法的拘束力を有し、視学官は各学校におけるこの原則の適正な実施を監督する。そこで、教科書についても各ラントの文部省による検定が実施される。文部省は検定委員会の決定により合格とされた教科書目録を作成し、これを各ラント内の学校に配布し、各学校では同目録中より教科書を採択する。右検定手続は各ラントにより若干の相違はあるが、例えば、ザクセンでは検定委員会は委員十数名よりなり、その下で1原稿につき現場教師と大学教授各1名による調査が行なわれる。そして、検定は内容の正確性と政治的立場の2つの重点が置かれている。

[72] もつとも、第2次大戦後合議制学校管理方式が法制化され、職員会議が教育の内的事項を決定し、校長が執行機関となり、両者に紛争が生じたときは学校監督庁が裁定し、教員側はこれに異議申立ができることとされた。
(四)アメリカ合衆国
[73] アメリカ合衆国では連邦憲法修正第10条の規定に基づき教育に関する事項は州の権限とされ、教育課程(コース○オブ○スタデイ)の編集権は州に属する。しかし州当局の教育課程への関与の程度方法は各州によりかなり相違し、教育課程の大綱のみを州が決定し、細目を地方教育行政機関または学校へ委ねるものもある。反面、ニユーヨーク州のように愛国的および市民的奉仕ならびに義務の精神を昂揚させ、また、平時および戦時に国民としての義務を遂行すべき覚悟ができるようにするため、愛国主義教科内容の作成を指示するもの、その他共産主義が連邦憲法の政治原理に反することやアメリカ史の教育を法的に義務づける州も少なくない。
[74] 次に、教科書制度は、わが国と比べて教科書への依存度が低く(いわゆる教科書を教えるのではなく、教科書で教える。)、教科書の出版自体は多く民間会社に委され、州はその採択に関与するのみであるが、各州で採択方法は異なり、各学区ごとに自由採択を許すのはニユーイングランドなど西北部20州、州単位で採択するところは南部26州などと分れている。そして、いずれの場合も教科書は州または学区が買い上げて児童・生徒に無償で貸与されるが、1冊の本は少なくとも4、5年は継続して使用される。
[75] 以上のようにみてくると、わが国と欧米の教育行政ならびに教科書制度は、相違点のほかに比較的類似する点もかなり認められる上、各国の制度はそれぞれ歴史的、社会的背景に由来するものであつて、1概にいずれを是、いずれを非とも論じえない面があり、わが国の現行教科書検定制度が前記諸国に比較して不当に画一主義を強制し、あるいは国民の教育に関する諸権利を侵害するおそれの強いものとは認められないのである。
[76]1 原告は、国民の1人として公権力による制約を受けることなく、教科書を執筆し、出版する自由を有すると主張するので、この点につき判断する。
[77] 思想表現の自由を保障することは、民主主義に不可欠の基本的要素であつて、近代国家はいずれもこれを基本的人権として保障しているが、ここに至るまでには人類の貴重な歴史的経過があつたのであり、ことにわが国は終戦前まで思想統制により表現の自由が厳しい制度を受けた体験を有するのであるから、再びこの轍を繰り返さないよう十分自覚することが望まれるのである。憲法第21条第1項が「集会結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と定めたのも右趣旨によるものであつて、さらに、同条第2項において「検閲は、これをしてはならない。」との規定を設けたのは、かつて思想言論の自由を禁圧する手段として検閲が濫用された事実にかんがみ、とくに設けられたものと思われる。右にいわゆる検閲とは、主として出版、映画および演劇等についてその発表の事前に公権力をもつてその内容をあらかじめ審査し、不適当と認められるときはその発表を禁止する制度であると解される。
[78] ところで、被告は、本件教科書検定は教科書としての使用の制限に関する事項であり、これは憲法の保障する表現の自由にかかわる問題ではなく、換言すれば、教科書検定は行政庁(文部大臣)が特定の著作物につき教科書としての資格を付与するところの1種の特許行為であり、これは行政庁の自由裁量に属することがらであつて、検定申請者にかかる特権の付与を求める権利が存するわけではないのみならず、申請者は申請図書が教科書検定に不合格となつても、当該図書を教科書として出版使用することが認められないのみであつて、これを一般市販図書として出版発行することは毫も禁止されるところではないから、教科書検定は憲法上の表現の自由とは関係のない別個の制度であると主張する。
[79]2(一)教科書検定の法的性質については学説が分れ、大別すると次の3つがある。
[80](1)確認行為説、教科書検定は、申請図書について検定基準に照らして検査し、それが基準に合致していると認められる場合に公けの権威をもつてこれを認定する行為である。

[81](2)特許行為説、教科書検定は、書籍一般のなかから教科書として適格性のあるものを認定して、これに対し一般の図書が本来は有しない教科書としての資格を新たに付与するものであつて、いわばこれにより1種の特権を与えるものである(本件被告の主張はこれに属する。)。
[82](3)許可行為説、教科書の発行は国民各自の出版の自由に含まれる基本的権利であり、教科書検定は法令によるこの自由の一般的禁止を特定の場合に解除する許可行為である(本件原告の主張はこれに属する。)。
[83] そこで案ずるに、表現の自由は民主制の根幹ともいうべき国民の重要な基本的権利であつて、これが憲法上の保障は後記のごとく内圧的な制約および公共の福祉による最小限度の合理的な制限に服するほかみだりにこれが制約を被ることのない強力なものであることにかんがみ、教科書検定は、その制度的存在理由、機能ならびにその運用面等において、国民の本来有する右自由と少なくとも民主主義原理の上で両立しうるように調整されたものでなければならないものというべきである。
[84] そして、かかる観点からすると、教科書検定は前記(第3の1の1(三)参照)のごとく、現代公教育において国が児童・生徒に対し必要かつ適切な教育を施し、教育の機会均等と教科書水準の維持向上を図るという教育的配慮から検定権者(現行法上は文部大臣)にその権限が与えられているものであつて、このかぎりにおいて国民の有する一般的な表現の自由が抑止されている場合であると解するのが相当である。したがつて、このような立場から教科書検定の法的性質を捉えるならば、これに関する右諸説のうち(2)の特許行為説は検定権者がその固有の権利として教科書の出版・発行に関する絶対的権限を有し、これを検定申請者に対し分与するものであるように解されるので妥当ではない。
[85] 他方、教科書検定手続を分析的に観察すると、確認行為的面もないわけではないが、教科書検定自体を確認行為とみるのは、検定当局が客観的な検定基準に照らして一義的にその適否を確認判断するにとどまりまつたく裁量の余地を残さないものなら格別、現行教科書検定基準たる前記絶対条件ならびに必要条件の各項目にみられるごとくそれ自体検定権者にその教育専門的配慮による裁量権が予定されているものと解される(もとより一定の客観的制限の範囲内においてであるが。)ことと矛盾する結果となるので、前記(1)の確認行為説も妥当ではなく、結局、教科書検定は申請図書につき教科書としての発行・採択を許可する制度であると解する((3)説)のが相当である。
[86](二)現行教科書検定の検定基準は、学校教育法第88条、第106条第1項に根拠を有する文部省令たる教科用図書検定規則に基づき、文部省告示として公布されたものであつて、法的拘束力を有し、たんに検定申請者に対し検定合否の基準となるばかりではなく、検定権者に対しても自縛的作用をいとなむというべきである。
[87] そして、右検定規則第1条第1項は「教科用図書の検定は、その図書が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適することを認めるものとする。」と定め、検定基準の絶対条件および必要条件の内容が前記(第2の4)のとおりであること、昭和37年度本件教科書検定での不適切箇所(被告主張の別紙(18)記載の整理番号1ないし323・以下この整理番号による。)および昭和38年度本件教科書の修正意見箇所(原告主張別紙(一)記載の整理番号1ないし14、整理番号重1ないし20・以下この整理番号による。)の各内容記載ならびに(証拠省略)を総合すると、本件教科書の各検定は、その申請図書の各記述内容にまで立ち入らなければこれを十分審査し、その合否の判定をすることが不可能であつて、現実にもそのように運用実施されており、たんに原稿の誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りないしは造本その他の技術的事項にとどまるがごときものではないことが認められ、他に同認定に反する証拠はない。
[88] そして、検定不合格の結果は、教科書として使用することができないのみならず、補助教材その他いかなる名目、手段によつてもこれを教材として使用することを禁止されている(昭和23年8月24日発教第119号文部省教科書局長通達)。
[89]3 そこで、前叙のごとき実体を有する現行教科書検定が果して憲法の保障する表現の自由を侵害するものであるか否か、つまり憲法の検閲禁止の規定に抵触するか否かについて判断する。
[90](一)教科書検定が申請図書につき教科書として発行・採択することを許可する行為であることは既述のとおりであるから、当該申請図書は教科書検定に合格することによりはじめて教科書として発行・採択されうる資格を取得するものであつて、国民は一般的な表現の自由を有することから直ちに文部大臣に対し特定の著作物につき教科書として出版・採択することを認めるよう要求しうる権利まで有するものではないことが明らかである。
[91] 他方、国民は既に一般市販図書として出版・発行している図書を教科書として検定申請することにつき現行法制上何らの制限も受けないのであり、また、検定申請図書が検定不合格となつた場合でも、当該図書が教科書として出版・使用することが許されないだけであつて、これを一般市販図書として出版・発行することはまつたく自由である(このことと、その図書がよく売れるかどうかとは別個の問題である。)。
[92] このように見てくると、教科書検定は思想審査を本来の目的とするものでもなく、またあらかじめ審査する制度でもないから、思想審査を主眼とし、出版物等の事前抑制を本質とする憲法第21条第2項にいわゆる検閲には当らないものというべきである。
[93](二)加うるに、表現の自由といえども決して無制限のものではなく、内容的制約ならびに公共の福祉による合理的な制限はまぬかれえないのである。ただ、右制限はいずれも表現の自由を主張することが他の各種の社会的価値や要求と衝突する際にこれが調整のため主としてことがらの重要性を比較衡量の上決すべきものであつて、その制限は必要最小限の合理的範囲にとどめられるべきは当然である。かような観点から現行教科書検定制度をながめるならば、この制度は、国が福祉国家として児童・生徒の発達段階に応じ、必要かつ適切な教育を施し、教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るという国に課せられた責務を果すために、その一環として前記法令に基づき実施するものであるから、その実施に当り申請図書の記載内容に立ち入つて審査し、その結果によつて合否を判定することにより、著作者の教科書執筆の自由、すなわち出版の自由を制限する結果を招来することがあつても、当該検定実施の具体的な運用が前記各法令の趣旨に則した合理的な範囲にあるかぎり、それは公共の福祉による制限として忍受すべきものといわざるをえない。
[94](三)ただこの際、国の教科書検定関係者は次のことを十分留意すべきである。
[95] 戦前教科書検定が思想統制ないしその一環としての教育の画一化方策の具に供されたことは否定できない事実であり、現行教科書検定制度のもとでも、教科書とくに日本史をはじめ歴史教科書については、政治的イデオローギーや価値観の相違から史観ならびに学説の対立抗争が顕著である。されば、教育基本法がとくに教育の政治的中立を宣明している(同法第8条)ゆえんもここにあるのであつて、教科書検定制度において前記のごとくこれをたんに文部大臣の専権にのみ委ねることなく、右検定は審議会の答申に基づいて文部大臣がこれを行なうものとし、その立場の公正を制度上保障しているのである。
[96] それ故、文部省当局の検定関係者は事に当るに厳正中立を旨とし、いやしくも独断恣意に陥ることなく、あるいは教育的配慮を強調する余り必要以上に著作者の教科書出版の自由を制限することのないよう厳に戒心すべきはもとより、本来教科書検定は教科書として不適合な図書を排除する(原稿の記述が欠陥とされる場合と一定の記述を欠くことが欠陥とされる場合とがある。)という、いわば消極的使命を本質とするから、表現の自由に対する関係では謙抑的な態度を持すべきである。
[97] 以上の観点から、のちに指摘する本件の争点となつている具体的な不適切箇所ならびに修正意見箇所につき、それぞれ本件教科書検定が右限度を逸脱し原告の教科書出版の自由を不当に侵害している事実の有無を検討することとする。
[98] 原告は、現行教科書検定制度は国民の表現の自由、学問の自由および教育の自由など基本的人権にかかわる行政処分であるのにその手続的保障規定が整備されていないので、憲法第31条に違反すると主張する。
[99] 憲法第31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定しているが、同条はアメリカ合衆国憲法修正第5条の「何人も法の正当な手続(due process of law)によらなければ生命自由および財産を奪われることはない。」という規定ならびに修正第14条の「州は何人に対しても法の正当な手続によらなければ、その自由、生命、財産を奪うことはできない。」という各州に対する制約規定のいわゆる適正手続の原則に由来するものであることは明らかである。しかしながら、憲法第31条の文言は「刑罰を科せられない」とし、また、刑事手続に関する憲法第32条以下の規定の冒頭に置かれていることにかんがみると、憲法第31条は主として刑罰権の発動に関し人身の自由の基本的原理として設けられたものと解すべきであり、これが行政手続に適用されるとしても、個人の生命、身体、財産に対し刑罰類似の制裁を科する手続にかぎり適用されるものと解すべきであり(最高裁昭和41年12月27日大法廷判決民集20巻10号2379頁)、本件教科書検定手続のごときには適用をみないのであるから、原告の前記主張は理由がない。
1 教科書検定制度の法的根拠
[100] 原告は、教育については戦前の勅令主義を改め、憲法第26条も法律によるべきことを明示しているのに、現行教科書検定制度は、教科書検定とは何か、いかなる基準、手続でなされるのかなどについてまつたく法律の規定を欠き法治主義に違反すると主張するので、この点につき判断する。
[101] 近代国家においては、一方において国民の基本的人権の尊重を宜明するとともに、国民の権利、自由を制限するような公権力の行使は国会によつて制定された法律に従つてなされなければならないとする法治主義ないしは法の支配が確立された原理となつている。わが憲法が法治主義原理を基盤とすることは、同第14条、第13条の規定の趣旨からも窮われるところである。
[102] たしかに、現行教科書検定制度について正面から明文をもつて検定の内容、基準、手続等を定めた法律の存しないことは原告の指摘するとおりである。そして、現行法上文部大臣の教科書検定権限の根拠ならびにその手続等を定めた法規は、ほぼ次のとおりである。

[103](一)学校教育法第21条第1項は「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部大臣において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定め、中学校(同法第40条)、高等学校(同法第51条)およびこれらに準ずる盲学校等につき(同法第76条)それぞれ右規定が準用されている。
[104](二)同法第88条は「この法律に規定するもののほか、この法律施行のため必要な事項で、他方公共団体の機関が処理しなければならないものについては政令で、その他のものについては監督庁が、これを定める。」とし、右監督庁は同法第106条第1項により文部大臣とされている。
[105](三)(1)文部省設置法第5条第1項は「文部省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、次に掲げる権限を有する。ただし、その権限の行使は、法律(これに基く命令を含む。)に従つてなされなければならない。」と規定し、同項第12号の2は「教科用図書の検定を行うこと。」と定めている。
[106](2)同法第8条本文は「初等中等教育局においては、次の事務をつかさどる。」とし、その第13号の2は「教科用図書の検定を行うこと。」と定めている。
[107](3)同法第27条は「本省に次に掲げる機関を置き、その設置の目的は、それぞれ下欄に記載するとおりとする。
[108]種類
[109]目的
[110]教科用図書検定調査審議会
[111]検定申請の教科用図書を調査し、及び教科用図書に関する重要事項を調査審議すること
[112] 前項に掲げる機関の分科会、内部組織、所掌事務及びその他の職員については、他の法律(これに基く命令を含む。)に別段の定がある場合を除くほか、政令で定める。」と規定している。
[113](四)「教科書の発行に関する臨時措置法」第2条第1項は「この法律において『教科書』とは、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であつて、文部大臣の検定を経たもの又は文部大臣において著作権を有するものをいう。」と定めている。
[114](五)学校教育法第88条、第106条に基づき次のものが定められている。
[115](1)教科用図書検定規則(文部省令)
[116](2)教科用図書検定基準(文部省告示)
[117](3)学習指導要領(文部省告示)
[118](4)教科用図書検定基準内規(初等中等教育局長通知)
[119](5)文部省組織令(政令)
[120](6)文部省設置法施行規則(文部省令)
[121](7)教科用図書検定調査審議会令(政令)
[122](8)「小学校用、中学校用および高等学校用教科用図書の検定申請新原稿の調査評定および合否判定に関する内規」(教科用図書検定調査審議会決定)
[123] 以上が現行教科書検定の根拠法規とされるものである。
[124] ところで、法律による行政を標榜する法治主義といえども絶対的なものではなく、本来国民の権利や自由を保障するための近代的統治原理の1つであるから、国民の権利や自由を侵すおそれがなく、かつ、国民福祉行政上の合理的必要があるような場合には、一定限度でこれが緩和されることまで禁ずるほど固定的なものではないと解される。したがつて、今日のごとく社会機構の変化に伴い急速に複雑、膨大化した行政組織のもとでは、行政の合目的ないしは能率的運営の要請から一定の範囲で緩和されうるものであり、その限度は一般的に法律には委任の明文がある場合のほか法律に相当の根拠規定を有する場合にかぎり認められるものと解すべきである。
[125] 果してそうであるならば、現行教科書検定制度においても、文部省設置法のような行政庁の組織に関する法律または「教科書の発行に関する臨時措置法」のようにたんに教科書の定義を明らかにしたものは別としても、学校教育法第21条第1項、第40条、第51条および第76条は、文部大臣に同法所定の教科書検定に関する実施権限を与えたものと解するのが相当であるから、前記のごとく、現行法上教科書検定とは何か、その基準、手続等について正面からこれを規定した明文の法律は存しなくても、少なくとも学校教育法の右諸規定が前示の意味における根拠規定たりうるというべきである。
[126]2 学習指導要領の拘束力
[127] 学習指導要領は、文部大臣が学校教育法第20条、第38条、第43条、第106条、同法施行規則(昭和33年8月28日文部省令第25号による改正後のもの。以下同じ。)第25条、第54条の2、第57条の2に基づき、教育課程の基準としてこれを定め、文部省告示をもつて公示したものである(本件検定に適用されたのは昭和35年10月15日告示のもの)。
[128] 昭和33年右改正以前の学校教育法施行規則第25条は「小学校の教科課程、教科内容及びその取扱については、学習指導要領の基準による。」と規定していたが、現行の同規則第25条は「小学校の教育課程については、この節に定めるもののほか、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。」(高等学校については同第57条の2)と規定しているところ、被告は学習指導要領には法的拘束力があると主張し、実際の行政解釈もそのようである(昭和33年8月1日改正指導要領説明会での質疑応答における内藤誉三郎初等中等教育局長の説明)。
[129] ところで、昭和22年当初の学習指導要領は「試案」と明記され、教師に対する手びきとして出されたものであつた(昭和26年改訂版も同様)が、右施行規則の改正に伴い学習指導要領が文部省告示として公示されたけれども、このこと自体は何ら学習指導要領の法的拘束力の根拠となりうるものではない。けだし、告示は法令等行政措置の公示形式に過ぎず、この形式がとられたことから学習指導要領に法的拘束力が付与されたものとは到底解されないからである。しかしながら、本件教科書検定当時の学習指導要領(高等学校用昭和35年改訂のもの。(証拠省略))によれば、その内容は第1章から第3章まで総体388頁よりなり、第1章において教育課程の編成、内容等に触れ、第2章において各教科科目ごとに各目標、内容、指導計画作成および指導上の留意事項について述べているが、社会科第3日本史についていえば、約5頁にわたり記述されているに過ぎず、その程度もいまだ大綱的基準を示すにとどまり、各教師がその創意工夫により適切な教育活動を行なう余地は十分あるものと認められる。
[130] したがつて、学習指導要領の有するそれ自体の拘束力はともかく、現実にはこれが検定基準として織り込まれることにより、少なくともその限度で法的拘束力を有することは明らかである。
3 手続的保障
[131] 教科書検定制度のごとき行政手続には、適正手続の保障を定めた憲法第31条の適用をみないこと前記のとおりであるが、教科書検定は国民の基本的人権である表現の自由に重大なかかわりをもつものであるから、右検定権限の行使はたんに実体的に正当であるばかりではなく、手続的にも公正さが制度的に担保されなければならないというのが憲法体制下の法治主義の要請であると解する。しかし、それが具体的にいかなるものであるべきかは、当該行政行為の目的、性質、これによる規制をうくべき権利や自由の性質など具体的事情を斟酌して各別に定めるほかはない。
[132] そして、現行教科書検定については、前記のごとく、教科書検定機関の組織(第2の3)、検定基準(第2の4)が具体的に定められ、その内容は一般に公示されている。のみならず、検定の手続と運用についても、社団法人教科書協会を通じてその意見を徴した上検定実施年次計画をたて、これに基づく検定受理計画ならびに検定申請上の注意事項についてもあらかじめ教科書発行業者に通知されていること、検定審査の公正を保つため審議会が設置され、文部大臣の検定合否の決定は原則として同審議会の答申どおりに行なわれていること、右審議会委員およびその調査補助者である調査員はそれぞれ一般人のなかから選ばれ、その調査、評定ならびに合否判定の手続に関しては審議会内規が定められていること、検定結果の通知およびその理由告知、校正刷審査の際における色分け付せんによる意見開陳の各手続ならびに原稿審査には通常4か月ないし7か月の期間を要すること、また検定不合格処分については行政不服審査法による異議申立が可能であることについては、いずれも前記(第2の3、5)のとおりである。
[133] そうすると、現行教科書検定制度は、その当事者に対する告知、聴聞など手続的保障の面で欠けるところはないものというべきである。
[134] もつとも、検定基準が必ずしも一義的ではなく、かなり包括的であり、審議会の委員、調査員などが文部大臣によつて任命されるものであること、審議会の合否判定の資料となる評点の算出方法が必ずしも明確ではないなど将来解決されるべき問題点もないわけではないが、これがために現行教科書検定制度の公正さが手続的に担保されていないものとまではいえない。
1 昭和37年度検定
[1] 三省堂から昭和37年8月15日原告の著作にかかる「新日本史」5訂版の検定申請がなされたが、文部大臣は、これを不合格処分とすることを決定し、昭和38年4月12日文部省に出頭した原告および三省堂社員らに対し、教科書調査官渡辺実、同村尾次郎、同貫達人の3名を通じて同省初等中等教育局長福田繁作成名義の同月11日付不合格決定通知書を交付したことは、前記(第1の2の2(一))のとおりである。
[2](証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
(一)審査
[3] 審議会の社会科担当の委員は総員15名よりなり、文部省社会科担当の教科書調査官は総員10名で、そのうち、日本史担当の調査官は渡辺実、村尾次郎および貫達人の3名であり、本件教科書原稿については抽せんにより渡辺調査官が主査、村尾調査官が副査と決定した。本件申請原稿「新日本史」5訂版には受理番号「7ー205」が付され、直ちに右社会科担当調査官全員および調査員3名にまわされた。同年度の社会科関係の検定申請原稿数はいずれも高等学校用教科書の倫理・社会23点、世界史A14点、世界史B22点および日本史18点計77点であつて渡辺調査官の場合、本件原稿を含めて5ないし6点の日本史原稿の主査を割当てられた。同調査官は、本件原稿につき昭和37年末ほぼ調査を終了し、昭和38年1月18日社会科担当調査官全員による調査官会議にかけて討議し、その結果を主査である渡辺調査官がまとめ、同月21日付の評定書および調査意見書を作成したが、右評定書には「総評」として「この原稿は正確性、内容の選択・表記・表現において欠陥が認められるが、全体として叙述に力量があり、新しい学界の動向をもとり入れ、簡潔に記述されている。但し近代史の取扱には一方的な暗い部面をとりあげている分野も多少はあるが、全般的にみると、合格としてよいと認める。」と記載されており、その評定総点数は816点(創意工夫10点を含む。)で、合格であつた。
[4]他方、調査員3名(甲、乙、丙と仮称)の各評定書および調査意見書も右と同時頃審議会へ届けられ、同年2月頃から審議会日本史小委員会(審議会喜田、今野、森谷各委員、調査官渡辺、村尾、貫)において本件原稿につき審議し、同月20日の同委員会の議事録によれば、「渡辺調査官より、この原稿を特に合格にした理由として4訂版との比較において認定したとの説明あり。但し、近代史においては正確性、内容の選択、表記・表現に欠陥があるばかりでなく、特に一方的な叙述が多く、絶対条件にてらしても欠陥があるとの意見も出され、慎重に審議した結果、満場一致をもつて不合格と判定」と記載されている。右の絶対条件とはその第2項(教科の目標との一致)「学習指導要領に定める当該教科の目標と一致しており、これに反するものはないか。」に違背するというものである。このように、右小委員会で満場一致をもつて本件原稿が不合格と判定され、同月26日開催された審議会第2部会において、喜田委員より前記小委員会の決議が報告されたのち、審議の結果、他の日本史6点はいずれも合格と判定されたが、本件原稿のみは判定保留となつた。ついで、同年3月13日同部会において委員12名出席の上、本件原稿につき午後1時30分から午後4時まで慎重審議のすえ、従前の調査者の調査意見書のほか新たに32箇所の欠陥(それがA意見であるか、B意見であるのか明確ではない。)が追加指摘され、欠陥箇所は総計323箇所となり、必要条件の正確性、内容選択の点において調査官の評定記号よりそれぞれ1段階下位のそれに該当するものと評定され、評点の総点が774点となり、これに創意工夫の10点を加算しても784点にとどまり、合格点である800点を下まわつたため本件原稿は不合格と判定された。
[5] 審議会においては、前記のとおり分科会の議決をもつて審議会の議決とされ(教科用図書検定調査審議会規則第14条)、また、部会の決議をもつて分科会の決議とされる(「教科用図書検定調査分科審議会の部会の設置及び議決事項の取扱に関する規程」第2条)から、結局、右第2部会の決議がそのまま審議会の決議とされたのである。
[6] そこで、審議会会長天野貞祐は昭和38年3月26日文部大臣に対し本件原稿につき正確性、内容の選択に著しい欠陥があることを理由に検定不合格と判定した旨の答申をし、文部大臣は右答申に基づき本件原稿の検定不合格処分を決定した。
(二)理由告知
[7] 文部大臣は、同年4月12日教科書調査官渡辺実、同村尾次郎および同貫達人を通じて、文部省に出頭した原告および三省堂社員らに対し本件原稿の検定不合格通知書を交付するとともに、渡辺調査官より右不合格処分の理由となつた箇所のうち38箇所を事例的に摘示しながら約1時間にわたり口頭をもつて不合格理由の説明を行なつた。右事例の選択は調査官に一任されていたので、渡辺調査官は調査官会議に諮つてこれを決定した(具体的には、乙第47号証の2・修正意見書、第48号証の2・第49号証の3、5の各調査意見書の各左側欄外に○印の付されたもの)ものであるが、それは正確性、内容の選択に関するものを中心にし、組織・配列・分量に関するものを若干加えたものであつた。例えば、内容の選択では、(1)記紀の取扱い、(2)江戸時代の学問、山崎闇斎とか国学者の評価、(3)明治維新の基本的性格などの取扱い、(4)大日本帝国憲法の取扱い、(5)教育勅語の扱い、内村鑑3事件の取扱い、(6)戦後の教育の扱いー学習指導要領、検定基準の問題など6つの柱を立てて説明された。これに対し、原告から右指摘箇所につき具体的な質問があつた。
(三)審査期間
[8] 原稿審査には検定申請受理後4か月ないし7か月を要するのが通例とされているところ、本件原稿は昭和37年8月15日申請受理から昭和38年4月12日不合格処分の通知までに約8か月を経過していることが明らかである。しかし、それは主として同年度の社会科の検定申請件数が多く、日本史の場合18点もあり、各調査官の担当件数が多かつたことによるものであり、また、本件原稿については審議会において不合格の判定を決議して(昭和38年3月13日)から最終的な不合格処分の決定通知をするまで若干期間の経過がみられるが、これはこの時期になると教科書展示会に間に合わせるため合格図書を不合格図書より優先して事務処理せざるをえなかつた事情によるものである。
2 昭和38年度検定
[9] 原告は前記不合格となつた原稿に修正を加えた上、三省堂から昭和38年9月30日「新日本史」5訂版の検定申請をし、昭和39年3月19日文部省において同省初等中等教育局長福田繁作成名義の条件付合格の通知書が原告および三省堂社員らに対して交付されたことは前記(第1の2の2(二))のとおりである。
[10](証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれを動かすに足りる証拠はない。
(一)審査
[11] 昭和38年度の本件原稿に対する主査は渡辺調査官、副査は貫調査官と決定し、同年度の検定申請原稿数は、高等学校用のもの政治・経済21点、世界史A1点、世界史B2点、日本史13点、小学校用のもの社会30点(うち改訂9点)計67点であつた。
[12] 本件原稿には「8ー196」の申請受理番号が付され、調査官および調査員の調査にまわされたが、渡辺調査官は昭和39年1月中にほぼその調査を終了し、同年2月12日調査官会議が開催され、社会科担当の全調査官により本件原稿を検討した結果を主査である渡辺調査官がまとめ、同月15日付の評定書および調査意見書を作成した。そして、右評定書には「総評」として「この原稿は1つの事象について一方の面だけ強調し、他の面を軽く取扱うというような記述が所々に見受けられるので、これが性格上の1つの欠陥と認められ最も大きな欠陥になつている。とくに近現代史にそれが集中されている。だが現在の教科書には余り取扱つていない生活史の面を平易にとりあげて記述されており、広い階層をとらえた叙述など各所に特色が認められる。しかも全般的に簡潔に平易に記述されている点も優れている。以上を総合してこの原稿は合格と認められる。」と記載されており、その評定総点数は846点(創意工夫10点を含む。)であつた。
[13] ついで、昭和39年3月16日の日本史小委員会において、この原稿には問題が多いので内閲本について再審査することを条件として合格とする旨の判定がなされ、翌17日の第2部会においても290箇所の欠陥(うち審議会において新たに指摘したもの13箇所)が指摘され(昭和38年度原稿の整理番号1ないし14を含む。)、そのうちA意見を付されたもの73箇所、B意見を付されたもの217箇所であり、結局、評点の総点数846点(創意工夫10点を含む。)となり、合格点である800点をこえたので右小委員会同様内閲本について審議会が再審査することを条件に合格とされた。
[14] そして、同日、本件原稿につき審議会会長天野貞祐より文部大臣に対し同旨の答申をなし、文部大臣はこれに基づき右答申どおり条件付合格の決定をなし、同月19日文部省において渡辺調査官を通じて原告および三省堂社員らに対しその旨の通知書を交付した。
(二)修正指示
[15](1)昭和39年3月19日前記条件付合格通知書の交付に引きつづき、渡辺調査官より原告および三省堂社員高木4郎、同小松謙2郎、同今井克樹、同西岡央江に対し口頭をもつて右合格条件が告知されたが、それはたまたま他に適当な場所がないため初等中等教育局妹尾審議官の部屋で同審議官在執務中に行なわれ、文部省側は古市課長補佐が立会つた。渡辺調査官は、審議会の審議を経た修正箇所およびその理由を本件申請原稿に転記し、それに依拠しながら条件指示の告知をしたが、それは要点のみ簡潔に記述されたものであつたから、右口頭告知に際し相手方の理解を助けるため適宜これをふえんしながら説明した。
[16]そして、同調査官は、最後に、前記文部大臣の決定に従い、この原稿には問題が多いので審議会が内閲本の段階で再審査することが決定されているから了承されたい旨を明確に伝えた。なお、その後、それまで自席にいた妹尾審議官は、濃辺調査官らの席に加わり、三省堂社員からこの本はA意見だけ修正すれば合格になるのかとの質問をされたのに対し、A意見はもちろんのことB意見もやはり欠陥であることに変りはないのであるから修正するよう検討していただきたいと述べた。
[17](2)同年4月7日三省堂から内閲本(証拠省略)が提出され、A意見の付された箇所について紫色付せんによる異議申立もなくそのまま修正され、B意見についてはその一部につき指示されたとおり修正し、一部につき黄色付せんによる修正に応じ難い旨の意見が付せられていた。
[18](3)同年4月18日前記条件付合格の決定に基づき、審議会第2部会(出席委員9名)において右内閲本の審査を行なつた結果、さらに17箇所(昭和38年度原稿の整理番号重4ないし20)についてB意見の修正意見を付することを決議し、即日審議会会長より文部大臣に対しその旨の答申をした。
[19] そこで、同大臣は、4月20日右内閲本に対し前記答申どおりB意見の修正指示を決定し、文部省妹尾審議官の部屋において渡辺調査官より三省堂社員高木、同小松に対し右17箇所の修正意見およびその理由を告知した。その際、文部省側からは渡辺調査官のほか古市課長補佐が同席し、妹尾審議官は前回同様自席で執務していた。そして、右調査官の告知が1通り終つたのち、三省堂社員から同審議官に対し、内閲本の段階で修正意見を指示するのはおかしいのではないかと質問されたが、同審議官は、検定は原稿、内閲本および見本本と3段階に分けて審査されることになつているから、内閲本の段階でなお不適当な箇所があればさらに修正意見が付されてもおかしくはないし、とくに本件原稿については審議会の再答申がなされて意見が付され、それを本日通知したわけであるから、どうかこの趣旨をくんで検討して貰いたい旨の返答をした。さらに、三省堂側よりB意見を再々修正要求するのはどういうわけかと質問したのに対し、右審議官より、B意見は最終的にはその修正を著作者の自由にまかされているけれども、だからといつて最初からよく検討されないということでは、このような意見を付する意味もなくなるし、A意見・B意見の取扱いを今後考えなければならないと答えるなどのやりとりがあつたが、時間的には、5、6分程度であつた(前示妹尾審議官室における修正意見告知の際の同審議官の位置につき原告本人は一部これに反する供述をしているが、右部分は採用しない。)。
(三)審査期間
[20] 昭和38年度の本件原稿の検定経過は次のとおりである。
[21](1)昭和38年9月30日 教科書検定申請受理
[22](2)昭和39年2月12日 調査官(社会科)会議
[23](3)同年3月17日 審議会条件付合格を答申
[24](4)同月19日 文部省より条件付合格通知書の交付および条件告知
[25](5)同年4月7日 内閲本提出
[26](6)同月16日 教科書記号・番号・交付票のための届出、教科書目録登載
[27](7)同月18日 審議会内閲本につき修正意見答申
[28](8)同月20日 文部省より右修正意見告知
[29](9)同年5月27日 見本本提出
[30](10)同年6月5日 見本本審査終了し、文部大臣は同年7月30日本件原稿につき文部省検定済の旨の官報による告示をした(この点は当事者間に争いがない。)。
[31] ところで、教科書検定手続には、普通の場合、原稿審査に4ないし7か月、原稿審査後内閲本申請に要する準備期間が約1か月、内閲本審査に約半月、その後見本本申請に要する準備期間が約1か月、見本本審査に約2ないし3週間を要するのが通例とされているから、その間通算約10か月を要するところ、昭和38年度の本件原稿は昭和38年9月30日検定申請を受理され昭和39年6月5日見本本審査終了まで通算約8か月余であるから、とくに遅延したことにはならない。
[32] また、検定に合格した図書が現実に教科書として採択されるには、教科書目録に登載され、かつ、各地の教科書展示会に出品されることを前提とするが、教科書展示会は毎年7月1日から10日間開催されるのが通例であり、他方、原稿審査に合格すると、前記のとおり教科書目録に登載することが認められる(本件原稿は昭和39年4月16日)のみならず、教科書発行業者は文部省に見本本を提出するとほとんど同時にその見本本と同一のものを各地の教科書展示会場あてに発送し、これを検討する機会を提供するようにしているのが実状であるから(本件教科書も普通に教科書展示会に間に合つている。)、本件原稿に対する教科書検定手続が別段遅延したものとも認められないし、また、そのために原告ないしは申請人三省堂の権利を侵害したとは認められない。
(四)その他
[33] 原告は、昭和39年4月12日渡辺調査官が三省堂社員今井を通じて20項目(昭和38年度原稿の整理番号重1ないし3を含む。)の修正指示をしたと主張するが、そのような事実はなく、それは前回告知した修正意見につき、同月7日提出された内閲本の記述からみてA意見とB意見をはき違えているのではないかと思料される点を念のため連絡したに過ぎないことが認められ、右認定に反する(証拠省略)は採用できない。
[34] なお、原告は、同月20日文部省妹尾審議官室における修正意見の告知に際し、同審議官が三省堂社員らに対し「この本については省内、文部大臣はじめ非常に関心をもつており、実は1冊は文部大臣の机の上にあがつていて、もし今日追加指示をしたものについて応諾されないならば、不合格にするということもありうる」旨の発言をしたと主張し、これにそう証人小松謙2郎の証言部分もあるが、証人妹尾茂喜、同渡辺実の各証言ならびに文部大臣は既に本件原稿の条件付合格を決定告知済であり、しかも右修正意見はB意見のみであつて、そのためにいまさら不合格とされる筋合のものではないなど弁論の全趣旨を総合すると、妹尾審議官はその際、本件原稿は欠陥箇所も多く審議会の再審査にかけられたほどであるから、とくに文部大臣にも報告されている点に触れて述べたものであり、原告主張のように修正に応じなければ不合格とする旨の発言をした事実はないことが認められ、右小松証言は信用できない。
3 むすび
[35] 叙上の事実に照らすと、昭和37、38両年度の本件各検定には、原告主張のごとき不公正、あるいは法治主義の要請に反する不当な手続が行なわれた事実はないものというべく、この点に関する原告主張は理由がない。
[36]1 教科書調査官、調査員の任務および審議会における申請原稿に対する調査評定ならびに合否の判定については、前記(第2の5の2(一))のとおり審議会の内規(証拠省略)がある。
[37] そして、右内規によると、必要条件(同内規第3の2)については第1ないし第9項目までの総点を1、000点とし、これを同内規別表3のとおり配点して、これより同内規別表4の各記号に応じて減点し、第1ないし第9項目の評点が800点以上のものを合格とするが、これに満たないものも第10項目(創意工夫)の評点を加算して800点以上となるときはこれを合格とすること、また、申請原稿に対する総合判定は、絶対条件の3項目および必要条件のいずれも合と判定されたものを合格とすることが定められている。さらに、同内規によれば、原稿に訂正、削除または追加など適当な措置をしなければ教科用図書として不適当と認める事項があるときはこれをA意見として指摘し、これに必要な措置を加えることを条件として合格と認めることができること(一般にこれを「条件付合格」と呼んでいる。)、および条件付合格の場合、A意見のほかにB意見が付されることがあるが、これは訂正、削除または追加などした方が教科用図書としてよりよくなると認める事項について申請者の参考までに伝えるため指摘されるものであることが規定されている。
[38]2 しかし、(証拠省略)を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。
[39](一)文部省ならびに審議会における教科書検定の実務上は、いわゆるB意見のなかには評定記号((図2)等)の決定に当り、減点の対象とされいわゆる「欠陥B」と減点の対象とはされないが修正した方がよりよくなるいわゆる「ベターB」との区別があり。右の欠陥Bは、例えば総量約300頁の原稿につき30ないし40箇所にも及ぶB意見(欠陥B)が付されたような場合は評点すなわち評定記号の決定にあたり減点の対象として考慮されるのである。ただし、結果として条件付にせよ合格すると、その後はB意見はベターBはもとより欠陥Bであつても修正指示に従つて修正する方がより望ましいが、修正するかどうか最終的には著作者または申請人の意思にまかされ、これを修正しなくても検定不合格となることはないという性質のものである。
[40](二)具体的な評定の基礎となる評点の算定方法は、前記内規の別表3に定める第1ないし第9の各項目に配点された点数より各評定記号に応じて減点していくいわゆる減点方式がとられており、評定記号は各欠陥箇所に付した減点を第1ないし第9の各項目ごとにとりまとめ、その数値を申請原稿の総頁数で割つて得た比率を基準として決定される。もつとも、この計算は指摘された欠陥箇所のうちA意見のみを対象とするのが原則であり、ただB意見(欠陥B)も前記のように1原稿中に多数認められるようなとき、とくに、評定記号をいずれにするかボーダラインにあるような場合に減点の対象とされることがありうるのである。
[41] ところが、各評定記号を決定するにつき評点を計算する際、A意見1個につき何点減点するのか、B意見(欠陥B)がいくつあれば何点減点されるのかこれを直接規定したものは見当らない。しかし、渡辺証言によると、前記のとおり総量300頁程度の教科書であれば30ないし40個の欠陥B意見があることにより減点対象とされるが、その場合B意見1個につきどれほど減点されるのかこれを明確にしえないこと、A意見の場合は一般的に1個につき最高10ないし15点、社会科の場合では最高12または13点、最低1点、大体は2点または3点の減点が普通で、これを具体的に例示すると、ルビが横にぬけておつたとか送り仮名のところがずれているなどの場合はわずかな傷であるから1点程度、昭和37年度の原稿の修正意見書の後半部分の例えば整理番号181の明治維新の改革面のとりあげ方が不十分だとするところは10点前後、整理番号281の基地の用語の誤りは2ないし3点、整理番号288の教科書の最後の文章として日本が混乱している形で終つているのは不当であるとしたところは2または3点それぞれ減点されたことが窺われ、他に同認定に反する証拠はない。
[42]3(証拠省略)により、調査官、調査員ならびに審議会の昭和37、38各年度の本件原稿に対するそれぞれの評定、A意見およびB意見の数は左表のとおり(ただし、38年度はB意見を省略、両年度とも調査員についてはA・B意見を省略)であり、また、昭和37年度における不合格理由箇所のA意見またはB意見の区別は別紙「昭和37年度検定におけるA・B意見の区分表」(以下たんに「区分表」という。)のとおりであることが認められ、他にこれを動かすに足りる証拠はない。
[43] ただし、各年度の検定における審議会のA意見およびB意見の数は、調査官および調査員3名の各調査意見書計4通のA意見ないしはB意見のうち審議会において採用したもの(具体的には各調査意見書の審議会判定欄に昭和37年度の場合○印を、昭和38年度の場合はA・Bの記号がそれぞれ記載してある。)の数に審議会の修正意見によるA意見またはB意見の数を加算したものである。
[44] もつとも、昭和37年度の検定不合格処分に関する審議会の修正意見書にはA意見・B意見の記載がなされていないので、次のように取り扱つた。
[45](一)証人渡辺実の証言によつたもの(整理番号145、153、181、190、203、228、243、245、246、253、262、266、281、288、。ただし、同227については同証人の証言は不明確であるためこれを採用せず、次の(二)に述べるように(証拠省略)によつた。)
[46](二)昭和38年度の調査官の調査意見書(証拠省略)または同年度の審議会の修正意見書(証拠省略)のA・B意見の区別より推認できると思われるものはこれによつた(整理番号12、20、24、26、30、61、72、112、137、138、144、227、297、)。
[47](三)原告が文部大臣の指摘に応じて昭和38年度原稿において修正したものでことがらの性質や弁論の全趣旨によつてA意見と認めたもの(整理番号99、101、117、)

[48](四)(1)整理番号10は、昭和37年度の調査員甲の調査意見書(証拠省略)によればA意見、同乙のそれ(証拠省略)によればB意見であるが、昭和38年度の調査官の調査意見書がB意見であるのでこれをB意見と認めた。
[49](2)整理番号11は、昭和37、38両年度とも修正意見書に指摘はされているが、いずれにもA意見またはB意見の記載がないけれども、被告は昭和38年度の本件原稿につきB意見を付したと主張しており(別紙(24))、かつ、後記認定のごとく、昭和38年度検定の整理番号重14にB意見が付されているので、また、整理番号120も同様被告はB意見を付したと主張しており(別紙(24))、かつ、昭和38年度検定の調査員丙の調査意見書(証拠省略)にもB意見が付されているので、これらについてはいずれもB意見と認めた。
[50](3)整理番号61は、昭和37年度の修正意見書(証拠省略)には内容の選択の誤りとして指摘されているが、被告主張(別紙(24))によるとこれは正確性の欠陥の誤記であるとされ、別紙(18)にも基準該当箇所欄に正確性となつており、かつ、昭和38年度の修正意見書(証拠省略)にも正確性を欠くとしてB意見を付されているのでこれによつた。
[51](4)整理番号136は、調査員乙の調査意見書(証拠省略)にA意見とあるのでこれによつた。
[52](5)整理番号163は、被告主張(別紙(18))によれば造本の欠陥とされているが、昭和37年度の調査官の調査意見書(証拠省略)では正確性の誤りとしてA意見を付されているので、これによつた。
[53](6)調査員の調査意見書と調査官のそれが相違する場合には後者を採用した。
[54](なお、右(三)および(四)の(2)に説示した点は、いずれも別紙区分表の証拠欄では「弁論の全趣旨」として表示した。)
[55]4 ところで、原告は本件各検定の合否判定基準がきわめて不明確であると主張し、その主要な点として次のものをあげている。
[56](一)同一記述に対し、ある年には問題にされながら他の年には問題とされていない箇所、あるいは問題とされる理由にくい違いがあるなど客観性に欠けている。
[57](二)A意見、B意見の区別があいまいである。
[58](三)評定記号が具体的な欠陥の指摘と無関係になされるなど評定尺度があいまいである。
[59](四)被告主張のいわゆる減点方式による評点計算の根拠が不明確である。すなわち、
[60](1)減点箇所(A意見)1個につき何点減点するのか分らない。
[61](2)本件ではB意見の箇所も減点の対象にしたのではないか。というのである。
[62] そこで、本件原稿につき前記諸点を検討するに、右(一)については、(証拠省略)を総合して原告指摘箇所を対比すると、それはおおむね本件原稿の記述そのものがある程度変えられたことによるか、あるいは、時間的経過に伴う学問的水準、教育内容ならびに社会事情等の変化に応じて検定当局による指摘理由ないしは取扱いに相違が生じたものと認められるので、これがため検定基準に客観性を欠く証左とはなし難い。また、(三)の評定尺度があいまいだとする原告の指摘は、ほとんど調査員の評定に関するものであるが、(証拠省略)によると、文部省において「調査員の手びき」(証拠省略)を配付するなど調査方法に関する指導につとめているにもかかわらず、調査員のなかには十分これが徹底していない面もあることが認められる。しかしながら、調査員の調査意見書および評定書はあくまで審議会の参考資料にとどまり、終局的には審議会によりふるいにかけられ、審議会において妥当とするもののみが採用されるのであるから、原告指摘の点は申請原稿の検定結果とは直接の関連はないのである。
[63] 次に、(四)については、たしかに検定当局の指摘する欠陥箇所1個につき何点減点されるのか明文の基準が設けられていないけれども、審議会における評点の算出方法が前記のとおりであるとすれば、技術的により工夫改善すべき余地はあるにしても、現行のままでもかなり高度の客観性をもつものと認めることができる。したがつて、これを検定基準ないしはその方法として不当に明確性を欠き、教科書検定が全体として検定当局の恣意にながれる危険があるものとは認められない。なお、(二)のA・B意見の区別、これが評点との関連については前記のとおりである。
[64] よつて、原告の右主張はすべて理由がないこと明らかである。
3 そこで、昭和37年度の本件原稿における不適切箇所ならびに昭和38年度の本件原稿に対する修正指示箇所につき具体的な当否を検討する。
1 昭和37年度検定
[65] 同年度の検定における本件原稿は不合格となり、そこで不適切であるとして指摘されたものが323箇所であつて、その具体的内容が被告主張(別紙(18))のとおりであることについては当事者間に争いがない。
[66] そして、右のうち次の合計98項目は原告が自から本件原稿の誤りを認めるものである。
[67](古代)整理番号36ないし8、18、22、26、35、38ないし40、44ないし46、52、54、59
[68](中世)整理番号64、66、67、70、77ないし79、82ないし86、89、92、100、102、107
[69](近世)整理番号110、129、142ないし144、146、149、153、154、159、161、163、167ないし169、171、172
[70](近現代)整理番号174、175、178、182、201、202、204、206、
[71]222、223、231、241、245、246、261、267、269、277、279、292、294ないし296、298、299、301ないし322
[72] そこで、右以外の項目につき前記(当裁判所の判断、その1、総論)の観点から本件記録中の当事者の各主張とこれに照応する各証拠(証拠省略)ならびに弁論の全趣旨により、

[73](一)整理番号62、93、188、215、264、281(以上A意見を付されたもの)
[74](二)同124、207、216、236、286(以上B意見を付されたもの)
[75]については原告の主張が理由あるものと認められるが、その余については原告の主張は理由なく、かえつて被告の主張が相当と認められ、これらの認定を覆すに足りる証拠はない。
[76] そして、右のうち当事者の主張等からみてとくに問題があると思料されるものにつき、以下に当裁判所の判断内容の詳細を摘示する。
[77](編注・判断内容の詳細は省略)
2 昭和38年度検定
[78](一)(証拠省略)によると、本件原稿の整理番号1ないし14の記述(ただし7、13は写真)に対し、文部大臣が検定基準に照らし被告主張のごとく整理番号1は内容の選択に誤りがある、同2は正確性を欠く、同3ないし5は内容の選択に誤りがある。同6は組織・配列・分量の不適切、同7は造本の欠陥ならびに内容の選択に誤りがある。同9、10は表記・表現の不適切、同11は内容の選択に誤りがある、同12は正確性を欠く、同13、14は内容の選択に誤りがある旨の各修正意見を付し、これに基づき条件指示を行なつたことが認められ、そのうち同4、10、12にはA意見、その他にはすべてB意見がそれぞれ付されたことについては当事者間に争いがない。
[79](二)(証拠省略)を総合すると、本件内閲本の整理番号重1ないし20の記述(ただし15、19は写真)に対し、文部大臣が検定基準に照らし被告主張のごとく整理番号重1は内容の選択に誤りがある、同重2は組織・配列・分量の不適切、同重3、4は内容の選択に誤りがある、同重5は正確性を欠く、同重6は内容の選択に誤りがある、同重7は表記・表現の不適切、同重8は組織・配列・分量の不適切、同重9の選択に誤りがある、同重10は正確性を欠く、同重11は組織・配列・分量の不適切、同重12は内容の選択に誤りがある、同重13は正確性を欠く、同重14、15に表記・表現の不適切、同重16は内容の選択に誤りがある、同重17は表記・表記の不適切、同重18、19は組織・配列・分量の不適切、同重20は内容の選択に誤りがある旨の各修正意見を付したこと、右のうち整理番号重6、7、10ないし16には各B意見が付されたことが認められ、そして、同重1にはA意見、同重2ないし5、8、9、17ないし20にはB意見がそれぞれ付されたことについては当事者間に争いがない(整理番号重16につき被告の別紙(24)でA意見を付したことになつているが、別紙(17)ではB意見となつており、内閲本に対するものであるから右にA意見とあるのは誤記と認められる。)。
[80](三)前記検定意見の当否について、当裁判所の判断のうち、次のものはこれに照応する昭和37年度原稿に関する前述の当裁判所の判断を引用するほか、若干の補足を付加することとする。
[81](編注・「次のもの」の記述は省略)
[1]1 同年度検定において記述が不適切であるとして指摘された事項のうち、整理番号62、93、188、215、264、281の6箇所はそれぞれA意見、同124、207、216、236、286の5箇所はそれぞれB意見を付されたものであるが、以上はいずれも右検定意見を付したことが不当であること前記判示のとおりである。
[2] ところで、教科書検定における合否の判定は、前記のとおり(第4の2)、審議会の内規別表3に定めた配点から欠陥箇所に応じて減点して得た第1から第9項目までの各評点の合計が800点以上となるもの、または同表第10項目(創意工夫)の評点を加算して800点以上となるものが合格とされるのであるが、本件原稿は総評点(創意工夫を含む。)が784点にとどまつたため不合格とされたものである。
[3]2 次に、本件原稿につき前示11箇所の不当に検定意見を付された部分がなかつたならば本件原稿が検定に合格しえたか否かについて判断する。
[4](一)評定記号は、各項目ごとの累計減点数を教科書原稿の総頁数(昭和37年度原稿は(証拠省略)によると口絵・目次・序論を含めて336頁である。)をもつて除し、その割合によつて決定されることは既に認定のとおりであるが、その具体的数値は、証人渡辺実の証言と弁論の全趣旨を併せると次表のとおりであることが認められ、これに反する証拠はない。
[5](図5)
[6](二)検定の合否に影響するのは原則としてA意見に限られることは既に認定したところであるが、本件検定(審議会)の各項目ごとの減点数とA意見の数を対比してA意見1個当りの平均点数を算出してみると(第4の2の3掲示の表参照)、
[7](1)正確性では、本件検定(審議会)の評定記号(図6)、不合格理由のA意見数が126個であるから前記(一)の表により平均減点数は、
[8]最小の割合のとき 303÷126=2.4(小数点2位以下切捨)
[9]最大の割合のとき 369÷126=2.9(同上)
[10]となり、最小の場合2・4点であり、最大の割合の場合に2・9点である。
(2)内容の選択では、本件検定(審議会)の評定記号△、不合格理由のA意見数が23個であるから、前記同様の方法により平均減点数は、
[11]最小の割合のとき 235÷23=10.2(小点数2位以下切捨)
[12]最大の割合のとき 302÷23=13.1(同上)
[13]となり、最小の割合の場合10・2点であり、最大の割合の場合に13・1点である。
[14](3)表記・表現では本件検定(審議会)の評定記号(図7)、不合格理由のA意見数が15個であるから、前記同様の方法により平均減点数は、
[15]最小の割合のとき 101÷15=6.7(小数点2位以下切捨)
[16]最大の割合のとき 168÷15=11.2(同上)
[17]となり、最小の割合の場合6・7点であり、最大の割合の場合に11・2点である。
[18](三)さらに、本件検定(審議会)の各項目ごとの減点数とA意見の数を対比して、A意見1個当りの平均減点数を算出してみると(第4の2の3掲示の表参照)正確性の減点90点、A意見の数126個であるから平均減点数は0・7となり、内容の選択は減点56点、A意見の数23個であるから平均点数は2・4となり、表記・表現の減点32点、A意見の数15個であるから平均減点数は2・1となるのである。
[19](四)前叙の(一)ないし(三)の事実に既に認定した各事実および証人渡辺実の証言ならびに弁論の全趣旨を総合して推計してみると、本件検定においてA意見の欠陥箇所として指摘されたものの減点数はその1個につき、正確性では3点、内容の選択では13点、表記・表現では11点をそれぞれこえることはないものと推認するのが相当である。
[20] ところで、不当に不合格理由とされた前記減点分を是正する方法としては、各項目の減点累計数から不当とされた減点分を控除し、その結果を原稿総頁数で除することにより項目点の頁数に対する割合を算出し、それを前示2(一)掲記の1覧表に当てはめてみればよい。これを式で表わすと次のとおりとなる。
[21]不合格理由箇所の減点累計a1+a2+a3……+an
[22](nは各項目のA意見数)
[23]不当とされた不合格理由の減点累計A1+A2+A3……+An
[24](nは違法とされたA意見数)
[25]で表わすと
[26]是正すべき評定記号の基礎となる項目点の頁数に対する割合は
[27](a1+a2+a3……+an)-(A1+A2+A3……+An)÷336(教科書原稿総頁数)
[28]すなわち
[29](a1+a2+a3……+an)÷336-(A1+A2+A3……+An)÷336
[30]となるので、そのうち(A1+A2+A3……+An)÷336を実際に計算してみると、不当とされた指摘箇所のうち
[31](1)正確性に属するものは整理番号62、215、281であり、減点すべき点数は各個につき3点をこえないこと前記のとおりであるから、合計してもせいぜい9点をこえず、これを右式に当てはめると、A1+A2+A3÷336=9÷336=0.026(小数点4位以下切捨)
[32]をこえないこととなる。
[33](2)内容の選択に属するものは整理番号264で、その減点すべき点数は13点をこえないこと前記のとおりであるから、これを右式に当てはめると
[34]A1÷336=13÷336=0.038(小数点4位以下切捨)
[35]をこえないこととなる。
[36](3)表記・表現に属するものは整理番号93、188であり、減点すべき点数は各個につき11点をこえないこと前記のとおりであるから、合計してもせいぜい22点をこえず、これを右式に当てはめると
[37]A1+A2÷336=22÷336=0.065(小数点4位以下切捨)
[38]をこえないこととする。
[39] 以上の結果に徴すると、右不当減点分の割合はきわめて些小であつて、これを控除してもしなくても、これが評定記号の基礎たる減点割合にはほとんど関係がなく、したがつて、右不合格理由の不当指摘、つまり不当減点の事実はこれがために評定記号の修正、ひいては本件検定不合格処分への影響はないものとして取扱うことのできる程度にとどまるものと考えられる。
[40](五)もつとも、各項目の評点がきわめてボーダーライン(各評定記号の区分すれすれの評点をさす・以下同じ。)に近かつた場合、例えば極端な事例としてごく僅少な点差で本件検定(審議会)の評定記号に決定されたような場合を想定すると、前記のごとく不当にA意見の付された正確性、内容の選択および表記・表現の各項目では、それぞれ1段階上位の評定記号となりうる可能性、つまり正確性については(図6)から△へ(項目の評点は18点増加する。)、内容の選択については△から(図8)へ(項目の評点は14点増加する。)、表記・表現については(図7)から○へ(項目の評点は16点増加する。)繰りあげられる場合がないわけではない。
[41] しかしながら、他方、評点による評定記号の決定においてボーダーラインにあるとき、各項目ごとのB意見(欠陥B)の数が多数の場合はこれを減点の対象として斟酌し、その評定記号を決定するというのが検定実務であることは既に認定したとおりであり、これは合理的なものとして是認されうるところ、その限度は原稿総頁数300頁程度のときB意見を付された箇所が各項目に30ないし40箇所にも及ぶような場合であるとされていることも先に認定のとおりである。
[42] そして、昭和37年度の本件原稿に対する検定において付されたB意見(証人渡辺実の証言によると、その殆んどが「欠陥B」であることが認められる。)の数は、正確性について35箇所、内容の選択について20箇所、表記・表現について48箇所であるが、そのうち内容の選択について整理番号207の1箇所、表記・表現について整理番号124、
[43]236、286計3箇所は前記のとおりこれにB意見を付したことが不当なものであるから、これを控除すると、内容の選択については19箇所、表記・表現については45箇所のB意見が付されることとなる。
[44] したがつて、本件検定において、右不当減点の是正によりかりにボーダーライン近くの線で1段階上位の評定記号に繰りあがることがあつたとしても、本件原稿の場合、内容の選択は別として、前記数にのぼるB意見の付されている正確性と表記・表現の両項目ではこの点を考慮に入れてその評定記号を決定すべき場合に該当するから、これにより、結局、本件検定の決定した評定記号へ繰りさげられる可能性が非常に強いものと推認されるものである。そして、たとえ、内容の選択において1段階上位の評定記号に繰りさげられることがあつたとしても、同項目の評点が14点増加するにとどまり、いまだ本件検定の合格ラインである800点にはなお不足することが明らかである。
[45] してみると、右の点は本件不合格処分には影響を及ぼさないものというべきである。
[46](六)なお、試みに、各評定記号ごとの減点累計数値の中間値をとつて比較した場合、昭和37年度検定の正確性、内容の選択ならびに表記・表現の各項目においてそれぞれ1段階上位の評定記号へ繰りあがるためには67ないし68点だけ減点数が低減しなければならないことが計算上明白である(例えば、正確性について(図6)の中間値336点と1段階上位の△の中間値268点の差は68点である。)。
[47] 右試算に徴すると、前記のごとく正確性につき不当減点数が9点、内容の選択について同じく13点、表記・表現について同じく22点をそれぞれこえることはないのであるから、この方法によつても前記不当減点のために評定記号の修正を要するまでには至らず、ひいては本件検定の不合格処分の結論に影響するような問題にも至らないものである。
[48]3 叙上のごとく、昭和37年度検定において文部大臣が不当に不合格理由とし、ひいては不当に減点したことの瑕疵も、結局は右検定の不合格処分そのものの結論を左右する程度のものと認めるには足りず、他に不合格処分そのものに影響を与えることになるような事由の立証もない。したがつて、同年度検定不合格処分が違法であるとする原告主張は理由がない(そこで、この点に関する文部大臣らの過失を論ずるまでもない。)。
[49]1 本件原稿は同年度の検定において条件付合格となり、文部省当局より条件指示がなされ、さらに、その後提出された内閲本について修正意見が付されたこと、これらのうち、昭和38年度原稿の整理番号3、6、8、9、12、同内閲本の整理番号重2、3、8にそれぞれ付されたB意見はいずれも不当であること前記認定のとおりである。
[50]2 そこで、右不当な条件指示ならびに修正意見の告知が違法であるかどうかについて考える。
[51] 文部大臣が教科書検定の実施につきかなりの裁量権を有することは被告主張のとおりであるが、反面、教科書検定はこれに関する前記諸法令に従い、検定基準に則して客観的に実施されてこそ検定権者である文部大臣らの恣意的判断を排除し、その適正かつ公正な運用を期待しうるのである。したがつて、文部大臣の右裁量権も、結局はその範囲内においてこれを認めうるに過ぎないのであり、これを逸脱した検定処分はたんに不当であるにとどまらず、違法性を帯びるものと解すべきところ、文部大臣の付した前記整理番号3、6、
[52]8、9、12同重2、3、8に対するそれぞれの条件指示ないしは修正意見が検定基準に照らし不当であること既述のとおりであるから、この点に関する文部大臣の右条件指示ならびに修正意見の告知はいずれも違法といわざるをえない。
[53]3 ところで、被告は、右条件指示ないしは修正意見の告知が違法であつても、この点につき原告が異議をとどめず任意に修正に応じたのであるから、これによりその違法性は阻却されると主張するけれども、(証拠省略)によれば、右違法な条件指示ないしは修正意見の告知によつて、原告が、本件原稿が検定に合格し、教科書として採択されるためにやむなく不本意ながら同原稿記述を原告主張のように修正したことが認められ、他にこれに反する証拠はないから、被告の右主張は理由がない。
[54]三 原告は長年日本史の研究に従事し、高等学校用教科書として「日本史」を初版から4訂版まで執筆してきたが、その5訂版(昭和39年度より使用の予定)として三省堂を通じて本件検定申請したところ、昭和37年度検定において不合格となり、昭和38年度検定において条件付合格となつたのである。そして、昭和38年度検定における前記違法な条件指示および修正意見の告知により、原告は心ならずも原稿記述の修正を余儀なくされたが、原告本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨によると、これにより原告の被つた精神的苦痛は金100、000円をもつて慰藉するのが相当であると認める。
[55]四 教科書検定は、被告国の機関である文部大臣がその権限に基づきこれを実施するものであるが、文部大臣ならびにその職務上の補助者である文部事務次官内藤誉三郎、初等中等教育局長福田繁、同局教科書課長諸沢正道、同局審議官妹尾茂喜および同課教科書調査官渡辺実らは、本件教科書検定において前記違法な条件指示および修正意見告知についてそれぞれ関与したものであり(この点は当事者間に争いがない。)、かつ、本件各証拠によれば同人らはその点について少なくとも過失があつたものと認められ、原告はこれにより右損害を被つたものであるから、被告国はその公務員である同人らによる前記損害を損償すべき義務がある。
[1] 叙上の次第で、被告は原告に対し金100、000円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和40年6月19日以降完済に至るまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払う義務があるので、原告の本訴請求のうち右限度で認容し、その余は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第89条、第92条本文を適用し、仮執行の宣言は本件については相当でないのでこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。
[2](裁判官 高津環 牧山市治 上田豊3)
[3]別紙(省略)
[4](図3) 昭和37年度原稿
[5](図4) 昭和38年度原稿

 

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