石井記者証言拒否事件
上告審判決

刑事訴訟法第161条違反被告事件
最高裁判所 昭和25年(あ)第2505号
昭和27年8月6日 大法廷 判決

上告人 被告人

被告人 石井清
弁護人 岩田宙造 外2名

検察官 安平政吉 関与

■ 主 文
■ 理 由

■ 弁護人岩田宙造、同芦苅直己の上告趣意
■ 弁護人海野普吉の上告趣意
■ 弁護人芦苅直己の上告趣意


 本件上告を棄却する。

[1] 刑訴143条は「裁判所はこの法律に特別の定ある場合を除いては何人でも証人としてこれを尋問することができる」と規定し、一般国民に証言義務を課しているのである。証人として法廷に出頭し証言することはその証人個人に対しては多大の犠牲を強いるものである。個人的の道義観念からいえば秘密にしておきたいと思うことでも証言しなければならない場合もあり、またその結果、他人から敵意、不信、怨恨を買う場合もあるのである。そして、証言を必要とする具体的事件は訴訟当事者の問題であるのにかかわらず、証人にかかる犠牲を強いる根拠は実験的真実の発見によつて法の適正な実現を期することが司法裁判の使命であり、証人の証言を強制することがその使命の達成に不可欠なものであるからである。従つて、一般国民の証言義務は国民が司法裁判の適正な行使に協力すべき重大な義務であるといわなければならない。ところで、法律は一般国民の証言義務を原則としているが、その証言義務が免除される場合を例外的に認めているのである。すなわち、刑訴144条乃至149条の規定がその場合を列挙しているのであるが、なお最近の立法としては、犯罪者予防更正法59条に同趣旨の規定を見るのである。これらの証言義務に対する例外規定のうち、刑訴146条は憲法38条1項の規定による憲法上の保障を実現するために規定された例外であるが、その他の規定はすべて証言拒絶の例外を認めることが立法政策的考慮から妥当であると認められた場合の例外である。そして、一般国民の証言義務は国民の重大な義務である点に鑑み、証言拒絶権を認められる場合は極めて例外に属するのであり、また制限的である。従つて、前示例外規定は限定的列挙であつて、これを他の場合に類推適用すべきものでないことは勿論である。新聞記者に取材源につき証言拒絶権を認めるか否かは立法政策上考慮の余地のある問題であり、新聞記者に証言拒絶権を認めた立法例もあるのであるが、わが現行刑訴法は新聞記者を証言拒絶権あるものとして列挙していないのであるから、刑訴149条に列挙する医師等と比較して新聞記者に右規定を類推適用することのできないことはいうまでもないところである。それゆえ、わが現行刑訴法は勿論旧刑訴法においても、新聞記者に証言拒絶権を与えなかつたものであることは解釈上疑を容れないところである。論旨は、
新聞は民主政治の下においては民衆の健全な判断の基礎となる材料を提供するものであるから、この意味において単に営利企業たるに止まらず、社会の公器たる性質を有するものである。そして、一切の表現の自由は憲法21条1項によつて保障されているところであり、この表現の自由を達成するためには新聞記者の取材の方法も自由でなければならない。また、取材の自由を維持するためには取材源を秘匿する必要があるのであつて、ここに取材源を秘匿することが新聞記者の倫理であり、権利であると考えられる理由がある。かく取材源を秘匿することは材料提供者に対する道義であるばかりでなく、実に新聞そのものの表現の自由を護る上において絶対に必要な手段となるものであつて、これが世界共通の新聞倫理である。それゆえ、取材源の秘匿は表現の自由を保障した憲法21条1項により保護されなければならないから、新聞記者が取材源につき証言を拒絶する場合は刑訴161条にいわゆる「正当の理由」ある場合に該当するものといわねばならない。然らば、原判決が新聞記者の取材源につき証言を拒絶する場合を正当の理由に該らないものとしたのは表現の自由を保障した憲法21条に違反するものである、
と主張するのである。
[2] しかし、憲法の右規定は一般人に対し平等に表現の自由を保障したものであつて、新聞記者に特種の保障を与えたものではない。それゆえ、もし論旨の理論に従うならば、一般人が論文ないし随筆等の起草をなすに当つてもその取材の自由は憲法21条によつて保障され、その結果その取材源については証言を拒絶する権利を有することとなるであろう。憲法の保障は国会の制定する法律を以ても容易にこれを制限することができず、国会の立法権にまで非常な制限を加えるものであつて、論旨の如く次ぎから次ぎえと際限なく引き延ばし拡張して解釈すべきものではない。憲法の右規定の保障は、公の福祉に反しない限り、いいたいことはいわせなければならないということである。未だいいたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための取材に関しその取材源について、公の福祉のため最も重大な司法権の公正な発動につき必要欠くべからざる証言の義務をも犠牲にして、証言拒絶の権利までも保障したものとは到底解することができない。論旨では新聞記者の特種の使命、地位等について云為するけれども、憲法の右保障は一般国民に平等に認められたものであり、新聞記者に特別の権利を与えたものでないこと前記のとおりである。国民中の或種特定の人につき、その特種の使命、地位等を考慮して特別の保障権利を与うべきか否かは立法に任せられたところであつて、憲法21条の問題ではない。それゆえ、同条を基礎として原判決を攻撃する論旨は理由がない。
[3] 論旨は、刑訴146条及び147条がいずれも憲法38条1項の規定に基ずき設けられたものであることを立論の前提としているのである。そして、刑訴146条が右憲法の規定に基ずくものであることはすでに説明したとおりである。しかし、右憲法の規定にいわゆる「自己」というのは供述者本人に限定せらるべきであつて、刑訴147条に規定する近親者を包含しない趣旨であると解すべきである。従つて、刑訴147条の規定は憲法38条1項によつて保障される範囲ではなく、証人と一定の身分関係ある者との近親的情誼を顧慮して証言拒絶権を与えることが立法政策上妥当であると認めたものに外ならないのである。然らば、所論違憲論のうち刑訴147条に関する部分は、その前提においてすでに失当である。
[4] 次に、刑訴146条が憲法38条1項に基ずく規定であることは前記のとおりであるから、もし被疑者不特定の場合に刑訴226条により証人に証言を強制することが右刑訴146条の規定に違反するものであれば、それは同時に右憲法の条項に違反するものといえるであろう。しかし、証人自身が刑事訴追又は有罪判決を受ける虞があるかどうかは、その求められている証言の内容の如何により自ら判定し得べきことは原判決の説示するとおりであり、そしてこの事は本件の具体的の場合についてばかりでなく、一般論としても言い得るところである。従つて、原判決が被疑者不特定のため刑訴146条による証言拒絶権を奪うことにならないと判示したことは固より正当であつて、この点に関する所論はその理由がない。
[5] 刑訴法は捜査については、原則として強制捜査権を認めていないのであるから、捜査官が捜査の目的を達するために証人尋問の必要ありと認めた場合には、刑訴226条に規定する条件の下に、検察官からこれを裁判官に請求すべきものとしているのである。そして、右の請求を受けた裁判官はこれを相当と認めた場合には、証人を尋問することができるのであり、召喚を受けた証人が証言義務を負担するものであることはいうまでもないところであつて、本案被疑事件が尓後の捜査の結果犯罪の嫌疑十分ならずとして不起訴処分となり、或は本案被告事件が後日罪とならず又は犯罪の証明なしとして無罪となつても、その証拠調手続が遡つて違法無効となるものでないことは疑のないところであるから、証人は被疑事実が客観的に存在しないことを理由として証言を拒むことを得ないものといわなければならない。従つて、検察官が刑訴226条により裁判官に証人尋問の請求をするためには、捜査機関において犯罪ありと思料することが相当であると認められる程度の被疑事実の存在があれば足るものであつて、被疑事実が客観的に存在することを要件とするものではないことは、原判決の説示するとおりである。固より捜査機関が犯罪ありと思料すべき何等の根拠もないにかかわらず、故意に架空な事実を想定して捜査を開始し、刑訴226条により証人尋問の請求をしたとすれば、それは明らかに捜査に名を藉る職権の濫用であるといわなければならない。しかし、本件において原判決は次のとおり判断しているのである。すなわち、
松本市警察署司法警察員が昭和24年4月24日松本簡易裁判所裁判官に対し松本税務署員関伊太郎に対する収賄等被疑事件について逮捕状を請求し、翌25日午前10時頃逮捕状の発付を得たが、同日午後3時頃朝日新聞松本支局の記者被告人石井清が同署捜査課長会田武平に対し関伊太郎に対する逮捕令状が発付になつた旨を告げて、事件が如何に進展したかを聞きに来たこと、同人は知らない旨を答えたが、右の如く逮捕状発付の事実が外部に洩れた気配があつたので、予定を変更して同日午後9時これを執行したこと、ところが翌26日附朝日新聞長野版に該逮捕状請求の事実と逮捕状記載の被疑事実が掲載され、その文面の順序等が逮捕状記載と酷似していたことは、第一審でなされた証拠調の結果により明らかに認め得る事実である。そして、逮捕状の請求、発付の事実が執行前に外部に漏洩するときはその執行を困難ならしめ、ひいては捜査に重大な障害を与えるものであるから、当該逮捕状の請求、作成、発付の事務に関与する国家公務員たる職員については、右は明らかに国家公務員法100条にいわゆる職員の職務上知得した秘密に該当するものといわなければならない。然らば、以上の事実とその他の証拠を綜合すると、捜査機関において松本簡易裁判所及び同区検察庁の職員中の何人かが職務上知得した秘密を第三者に漏洩した国家公務員法違反罪の嫌疑が生じたものとして捜査を開始するを相当と認められる十分の理由があるものである
というのであつて、所論の如く右被疑事実が単に噂に止まつて疑の程度には達しないものであるということはできないのみならず、前示被疑事件につき捜査上必要ありと認めてなされた本件証人尋問の請求が検察官の職権濫用によるものであることは、全然これを認めることができないのである。従つて、原判決が本件証人尋問の請求を刑訴226条に違反するものでないと判断したことは固より正当であり、その間何等所論の如き違憲の点があるとはいえないのである。また論旨は、刑訴226条が原判決の如く判断し得る旨を規定したものとするならば、同条もまた憲法13条に違反すると主張する。しかし、原判決の判断の正当であることは前記説明のとおりであつて、所論の如き理由から刑訴226条の規定を違憲であるということはできないから、論旨は到底採用することができない。
[6] 新聞記者に対し取材源につき証言を強制することが、表現の自由を保障した憲法21条1項に違反するものでないことはすでに説明したとおりであるから、所論違憲論はその理由がない。また論旨は、本案被疑事件が犯罪を構成せず、従つてその犯罪の成立を前提としてなされた被告人に対する刑訴226条に基ずく証人尋問の請求は無効であると主張するが、本件証人尋問の請求については本案被疑事実が存在しており、その請求が無効でないことは前論旨に対して説明したとおりであるから、論旨はその理由がない。

[7] なお、本件については刑訴411条を適用すべきものとは認められない。
[8] よつて刑訴408条により主文のとおり判決する。
[9] 右は裁判官全員一致の意見である。

 裁判官長谷川太一郎は退官につき評議に関与しない。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 沢田竹治郎  裁判官 霜山精一  裁判官 井上登  裁判官 栗山茂  裁判官  真野毅  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 谷村唯一郎)
[1] 本件事案は新聞記者である被告人が新聞に記載した記事につき、他の刑事々件の証人として喚問せられ、その記事の出所を尋なられたるに当り、記事の出所は新聞記者としては業務上之を秘匿する義務ありとして証言を拒絶したゝめ、その拒絶の当否が問題となつたものであつて、この点に関し原判決は先ず左の通り説明して居る。
民主政治の下にあつて新聞は民衆に判断の基礎となる材料を提供するものとして社会の公器たる使命を荷担うものであること、新聞がその重要使命の一つである迅速な報道という任務を遂行する上において広く取材源を求める必要があり、取材源を確保するためには取材源を秘匿する必要の生じてくること、更に之を秘匿することが新聞界の倫理として存在していることも亦十分之を首肯し得るところである。(原判決第二の(A)中)
以て新聞の性格、使命並に新聞記者がその取材源を秘匿することが新聞界の倫理として存在することについての弁護人の主張を認め、更に又取材源を秘匿することが公益事項たる性質を有するものであることについても左の通り説明して居る。
そして新聞が一面社会の公器であるとせられる以上、その業務遂行のため必要とせられる取材源秘匿の問題も亦社会公益に関する事項として他の一般営利事業の場合のそれと同日に論じ得ないことも之を肯定せざるを得ないであろう。(同上)
而して原判決は進んで弁護人等の主張を左の如く録取し、
所論はこの取材源秘匿の必要性を更に敷衍して訴訟法上若し新聞記者にかゝる秘密の保持を許さゞるにおいては、取材の自由ひいて憲法によつて保障せられた表現の自由を阻害するものであるとし、結局取材源の絶対的秘匿は新聞そのものゝ表現の自由を護り社会の公器としての義務遂行上必要欠くべからざるものと立論しているのである。若し所論の如く記者に記事の出所につき法律上証言義務を認めることが憲法第21条によつて保障せられた表現の自由を奪うものであれば、最早証言拒否の正当理由の判定を俟つまでもなく、之に関する限り法の明文如何に拘らず之を証人として喚問すること自体即ち証人適格そのものも否定されねばならないであろう。(同上)
と判示し、本件が憲法第21条第1項に関して解決を要する問題を包含することを明かにし、進んでその解決を試みていう。
なるほど憲法は国民の権利自由を国家権力の侵害から守ることを第一義とし、その一つである表現の自由についても法律を以てしても制限し得ない絶対的保障の形式を採つている、しかし憲法が国民に保障する自由及び権利も之を濫用してはならず常に公共の福祉のため之を利用する責任を負うものであること、及び個人の権利は公共の福祉に反しない限り尊重すべきことが第12条及び第13条にその前提として規定されているのである。従つて公共の福祉ということがこの憲法によつて保障せられた権利自由の適法な行使の制約であり限界であつて表現の自由というも決して絶対的無制限なものでないことは明かである。かく考えると国家が公共の福祉のため必要なりとして定めた法律の規定がこの限界を超えた権利自由に制約を加うる結果となつても敢えて憲法の精神に反するものと謂うことはできない。尤も公共の福祉に名を藉りて法律等を以て之に制限を加うることは許されず、果してその制限が公共の福祉に適合するか否か即ち合憲性の有無については究極において最高裁判所の判断に委せらるべきこと勿論であるから表現の自由の限界に関する叙上の解釈は決して国家権力の一方的な独断によつて公共の福祉の名の下に濫りに基本的人権乃至自由を侵害する危険を包蔵するものではないと謂い得ると思う。(同上)
[2] 以上援用した原判決の趣旨は大体に於て本件につき弁護人等が主張した所と一致し正当である。唯憲法第12条及び第13条は国民の側から之を観れば憲法の定むる基本的人権を行使する具体的の各場合に遵守すべき規定であつて、之に基き憲法所定の基本的人権の範囲を恒久的に制限するような立法を許容する趣旨でないことは明かであるに拘らず、原判決が右両条を根拠とし、その権利の範囲に恒久的制限を加うる立法をなし得るものと解釈したのは著しき錯誤に陥つたものと言はねばならぬ。斯くして原判決はその誤つた解釈を根拠として左の通り本件事案を論断して居る。
而して之を本件の場合について観るに刑事訴訟法が一般国民に対し叙上説示のような厳格な証言義務を規定しているのは国家の最も重要な任務の一つである適正な司法権の行使として社会公共の福祉のため絶対に必要な制度であることは言うを俟たぬから、たとい之により新聞記者に対しその記事の出所につき証言を強制することがあり且つそれが偶々新聞の取材の自由ひいて表現の自由に障害を与える結果となつても右は既にその限界を超えた自由に対する制約であつて、之を以て憲法の条規に抵触する違憲の立法乃至解釈であると論断することは到低許されないと信ずる。(同上)
と論断した。
[3] 然れども前示のように新聞記者が取材源を秘匿することは憲法第21条第1項に規定する表現の自由に属することは原判決も亦これを認めて居る所であつて、憲法上の基本的人権である以上、仮令法律を以てするも之に制限を加うることは出来ぬはずである。刑事訴訟法が一般国民に対し汎く証言義務を規定して居るからといつて、直ちに之により特殊の立場にある新聞記者の表現の自由もまた当然制限せられたるものと論断したのは甚しき誤りと言はざるを得ない。右判決は前示刑事訴訟法の規定は表現の自由に障害を与える結果となつても、これは既に憲法がその自由につき定むる限界を超えた自由に対する制約であると言うも之れは全然理由なき独断である。原裁判所は果して如何なる根拠によつて、このような結論を導き出したのであろうか。刑事訴訟法が一般国民に対し証言義務を規定して居ると言うことによつて、特殊の立場にある新聞記者に与えられて居る表現の自由が制限せられたものと言う根拠とすることの出来ぬのは勿論であり、又右刑事訴訟法の規定がかような趣旨を有するものとするならば夫れは憲法の与えた自由を法律を以て制限せんとするものであつて当然無効であること言うを俟たぬところである。加之刑事訴訟法第149条が保護せんとする医師、助産婦、看護婦等が業務上知り得る秘密と、本件新聞の取材源に関する秘密とを比較して之を考うるも前者は単に個人的羞耻感等に関する私事に過ぎざるに反し、後者は直接公共の福祉に大なる影響を及ぼすものであつて、国家が之を保護する必要の程度はその軽重大小何人にも容易に推知することができると思う。この見地よりするも原判決が刑事訴訟法の規定を援用して表現の自由は制限せられて居るから、証人の供述義務を免れしむるものでないと云うのは誤りである。
[4] 右述ぶる所のように原判決は新聞記者がその取材源を秘匿することにつき、憲法第21条第1項に規定する表現自由の保護を受くるものであるという抽象的前提論に於いては、正当なる説示をなしながら、この所論を本件の具体的事実にあてはめて結論を導き出さんとするに当り、突如として重大な錯覚に陥つたように、理由とならない理由により且つその正しき前提論とも矛盾して相容れない論旨により、本件被告人が刑事訴訟法上の証言義務に違反したものと断定したのは表現の自由に関する憲法第21条第1項の規定に違反するものと言はざるを得ない。
[5] 憲法第38条第1項は「何人も自己に不利益な供述を強要されない」と規定し、刑事訴訟法第146条及び第147条は右憲法の趣旨に基ずき設けられたものであることは原判決もまた認むる所である。右に所謂「自己に不利益な供述」とは自己が刑事訴追を受けるに至る虞あるものであれば足りるのであつて、必ずしもその供述は自己が現に犯した犯罪で処罰せらるべきものに限らないことは言うを俟たない所である。又その所謂「自己」は厳格に自己個人に限定せられるものではなく、自己と同視すべき配偶者又は親子等をも包含するものと解すべきは前示刑事訴訟法第117〔147カ〕条の規定によつても明かである。而して刑事々件につき証人として喚問せられた者が右憲法により与えられた権利に基ずき証言を拒絶するか何うかを決定するためには当該事件の被疑者が何人であるかを知ることを必要とする場合が少くない。否寧ろ之を必要とすることが普通であろう。即ち証人が自己と同視すべき近親者のため刑事訴訟法第147条により証言を拒まんとするには被疑者が特定することを絶対必要とするは勿論、自己自身のためにせんとする場合にあつても被疑者の特定を必要とすること決して少なしとしない、例えば窃盗の被疑事件につき、被疑者より盗品を買受けた事項に関し喚問せられた証人の如きは、証人とその被疑者との関係如何により証人が賍品収受又は故買等の濃厚なる嫌疑を受くるに至る虞あること明かであるから、被疑者が特定するときは当然その証言を拒絶するであろうと思はるゝも被疑者が特定せざる限り拒絶の当否を判定することは出来ぬ、その他一般の犯罪にあつても数人共犯の事件につき喚問せられた証人が被疑者との交渉につき供述を求められた場合の如き当該被疑者と証人との従前の関係如何により、証人も亦共犯者の一人であるという疑惑を被る可能性に著しき差異あることが想像に難くない。従て証人は求められた証言を拒否するや否やを決定するためには、被疑者の何人であるかを知る必要ありと言はねばならぬ。然るに当該被疑者不特定のまゝ証人が証言を強要せらるゝものとするときは、後に至り証言を拒むことを利益とするような者が被疑者として特定したときは、証人は疑いもなく憲法により与えられた供述拒絶の権利を奪はれた結果となるのである。然かもこの結果は検察当局により故意に悪用せらるる危険なしとしない。何となれば被疑者が特定するときは証人が証言を拒絶するものと予想せらるゝ場合には、検察当局は既に内心被疑者を特定して居るに拘らず、表面不特定として目指す証人を喚問し、証言拒絶の途を閉ざして供述を強要することが出来るからである。右の非難に対し原判決は次ぎのような理由により之を排斥している。
本件の場合被疑者が特定していなくても証人として喚問を受けた被告人が証言をなすことによつて、(1)被疑者との間に自己が共犯の関係ありとして訴追を受ける虞れがあるかどうか、(2)自己と一定の親族関係ある者が刑事訴追を受ける虞れがあるかどうかは、その求められている証言の内容如何によつて供述せんとする証人自身において判定し得べく、若し以上の場合に該当すると思えば証言を拒むことができるのであつて、被疑者不特定のため証言拒否権を奪うことにはならないのである。(原判決第一(B)の中)
[6] 然れども右(2)の被疑者との一定の親族関係に基ずく証言拒絶は、被疑者の特定せざる限り親族関係が不明であるから実行不可能である。又(1)の被疑者との共犯関係の訴追を受ける虞ありや否やも前述べたように被疑者が特定しなければ之を判定することが出来ぬ場合が少なくないのである。尤も原判決は右判定の能否を本件の特定事実を基礎として立論して居るようであるが、此の問題は一般論であつて本件の特定事実に基ずくものではない。即ち原判決に於て刑事訴訟法は被疑者不特定の段階にても証人の供述を強要することを得しむる趣旨であるというが、(之れは刑事訴訟法同訴訟規則の誤解であることを弁護人は確信するも本論旨に直接影響がないから茲にはその説明を省略する)、若し果して然りとするならばその規定は憲法に違反するものとして当然無効であるや否やが問題である。従て之を論ずるに当つて汎く一般の場合を対象とすべく、猶り本件の特定事実関係のみに局限するのは間違いである。而して一般論として被疑者不特定の場合に証人の供述を強要することが違憲であるならば、仮りに本件の特殊事情のため被告人は被疑者不特定にてもなお証言を拒絶するや否やを判定することが不能であつたとしても、本件被告人に証人として証言を強要したことが不当であることは明瞭である。
[7] 要するに原判決が刑事訴訟法及び同訴訟規則は被疑者不特定の場合にあつてもなお証人に証言を強要することを許す趣旨であるとして、本件被告人に対し証言を拒絶する権利ないものとしたのは憲法第38条第1項の規定に違反することを免れないものである。

[1] 原判決はその理由第一の(B)に於て、刑事訴訟法第226条による証人訊問の請求に当り本案たる被疑事件の被疑者の特定することを要しないものとし、更に進んで、本案たる被疑事実の存否に付ては、その理由第一の(A)に於て、
前略、そこで次に検察官が捜査上の必要に基きなす刑事訴訟法第226条の証人尋問の請求は、捜査の如何なる段階に於て之をなし得るか――中略――が問題となる。一般に犯罪の捜査に付ては任意捜査を原則とし、強制捜査は刑事訴訟法典に特別の定ある場合に限られるが(第197条第1項但書)この特別の定ある場合に該当する同法第226条によれば「――条文省略――」と規定する外は捜査の如何なる段階においてのみ之が尋問を請求し得るかに付ては同条は勿論その他の規定にも之を限定する直接の定め〔は〕ないのである。寧ろ刑事訴訟法第197条第1項の規定の趣旨を探究すれば、法律に特別の定めある右第226条の強制処分も同条の要件を具備するに於ては捜査の目的を達するため必要な限り、捜査の段階如何に拘らず之が請求をなし得るものと解するのが妥当である。蓋し強制捜査も任意捜査と同じく捜査の一手段であつて共に犯人及び証拠を集取するのが目的であるから、捜査の必要上事の緩急に応じてその順序方法を適当に取捨選択し得るものと解すべく――中略――以上説示した所によつて検察官の本条による証人尋問請求を適法ならしむべき「被疑事実存在」の意義も、前説示の捜査開始の要件としてのそれと区別して考うべき論拠はないとの結論に到達せざるを得ないのである。
と判示しているのであるが、之を要約すれば、刑事訴訟法第226条による証人尋問の請求は、犯罪捜査の段階如何に拘らず之をなし得るものであり、従つて右尋問請求を適法ならしむべき「被疑事実存在」の意義も、捜査開始の要件である刑事訴訟法第189条第2項「犯罪があると思料するとき」との、所謂捜査機関の主観的嫌疑が存在するだけで足りるものとしていることが明かである。然しながら、果して刑事訴訟法第226条による証人尋問請求の際の「被疑事実の存在」が、原判決の如く、輙く之を単に「犯罪があると思料するとき」との所謂主観的嫌疑があるだけでよいとすることが出来るであろうか。弁護人は之に深い疑問を持たざるを得ないのである。勿論、原判決の謂う如く、刑事訴訟法典は犯罪の捜査に於て任意捜査を原則とし強制捜査は特別の規定ある場合に限られるものとは云うものの、之等2手段は共に併用せられママよいもので捜査の必要上、事の緩急に応じてその順序方法を適当に取捨選択し得るものであることは当然である。然し乍ら「捜査開始の要件」は兎も角として、捜査手続の段階に於て之を対人的処分と対物的処分とに分けた場合、その前者に於て任意捜査手段を執る場合と強制手段を執り得る場合とは明かにその要件を異にしているのである。例えば任意捜査の場合、被疑者の出頭を求めるに付ては、刑事訴訟法第198条第1項に単に「犯罪の捜査をするについて必要があるときは」と規定するに対し、強制捜査の場合に付ては同法第199条第1項に「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは」とあつて、所謂捜査機関の主観的嫌疑も任意捜査の場合と異なつて相当高度のものであることを要し、従つて之を裏面から謂えば、客観的に或る程度被疑事実が認められなければならないこととなるのである。このことは憲法が保障した基本的人権を確保する上からも当然の事柄であつて、犯罪の捜査とは云えその手段を強制に拠る場合そこに捜査機関の恣意の介在は断じて許さるべきではない。特にその処分が対人的であるとき愈々その感を深くするのである。今、刑事訴訟法第223条を見るにその第1項には任意捜査の場合第三者の出頭を求め取調をするに付ては、矢張り「犯罪の捜査をするについて必要があるときは」とあるに反し、強制捜査の場合を規定した同法第226条には、犯罪の捜査に欠くことのできない知識を有すると明らかに認められる者が、云々、とあつて、被疑事実に関する知識を有すると明らかに認められる者でなければ捜査機関は証人尋問の請求をすることが出来ないのである。従つて捜査機関の被疑事実に対する主観的嫌疑も、之を捜査開始の要件である「犯罪ありと思料するとき」又は前記「犯罪の捜査をするについて必要があるとき」と称する程度の嫌疑だけでは足りないことが明かで、被疑事実の存否に付ても捜査機関が証人尋問を請求するには、捜査機関が相当高度の主観的嫌疑を持ち得る程度に被疑事実の客観性が推測せられなければならないと謂い得るのである。又被疑事実の存在しない処に被疑事実の客観性を推測できる筈もなく、被疑事実の客観性を推測できない処に前記相当高度の主観的嫌疑の生ずる筈もない筋合であるから前述の如くに、客観的に或る程度被疑事実が認められる場合であることを要するものと謂つて差支えないであろう。
[2] 斬くの如く刑事訴訟法第226条による証人尋問を請求する場合の所謂主観的嫌疑は、その濃度に於て捜査開始の場合のそれと明かに異つており、而かも客観的に或る程度被疑事実が認められなければならないのであつて、原判決がこの場合、尚捜査開始の要件としての単なる主観的嫌疑を以て足るものとし、被疑事実の存否に付ても之と同様であると判断しているのは同条の解釈に付て捜査の権限を不当に拡張したものと謂うべく個人の身体的自由を甚しく不当に拘束する結果を招来するものである。原判決は斬かる場合に付て、
前略、しかし捜査機関が犯罪ありと思料すべき何等の根拠もなく故意に事実を捏造して捜査を開始し、かゝる証人尋問の請求をしたとすれば、それは明らかに捜査に名を藉る職権の濫用であつて捜査権の行使が正義の原則に適はずこの場合にも猶且つ強制処分による裁判官の尋問であるとの形式的理由の下に当該証人について宣誓乃至証言拒否罪に問擬することは到底吾人の正義観の許さないところである。
として、捜査権の適正なる行使を専ら捜査機関の自主的抑制に俟つを以て足れりとしているものの如きは、吾人の甚しく不可解とする処である。日本国憲法施行前に於ける吾人国民の基本的人権は果して如何に取扱われたであろうか、法律の許容する強制捜査に名を藉り、国民の基本的人権、殊にその身体的自由を有名無実の侭に堕し去つたのは、当時のフアツシヨ的な夫々の捜査各機関ではなかつたか。治安維持法違反事件に付て惹起された数々の人権蹂躙の事実の如きは明らかに之等の問に答えてくれることであろう。日本国憲法は茲に鑑み、個人の基本的人権の確保に付ては極度に慎重な態度を持しているのであつて、その第13条に生命、自由に対する国民の権利に付ては、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を特に規定しているのである。原判決の前述被疑事実存否に付ての不当な判断は、当然憲法第13条に違反するものと謂わねばならない。
[3] 尚、本件に於ては本案たる被疑事実の存否が原判決の前記判断を論ずるに付て根本的に重要であると考えるから、更に論を進めて本案たる国家公務員法違反被疑事件の存否に付て考察することにする。この点に付ては弁護人は第一審当初より消極説を抱いていたのであつて、控訴趣意書に於てその詳細を論じておいたから、茲では簡単に之に触れることにしたい。即ち、本件に於て国家公務員法違反と謂うべき逮捕状請求の事実並に逮捕状記載の事実が漏洩したとすれば、当該逮捕状の請求、作成、発付の事務に関与した松本市警察署、松本区検察庁、並に松本簡易裁判所の夫々の職員を措いて他に考えられないのであるが、松本市警察署員に付ては同署長和田柳平作成、野尻検察官宛昭和24年4月27日附松警察第19号「新聞記事について」と題する書面により、次に同区検察庁並に同簡易裁判所の各職員に付ては、第一審証人和田柳平の証言並に前記検察官野尻作次作成、検事石合茂四郎宛昭和24年4月27日附「逮捕状請求事実漏洩調査報告」と題する書面により、夫々当該方面を詳細に調査したが、秘密漏洩の事実なきことが明らかにせられているのであつて、尚第一審証人警部補玉井喜代一の証言によれば、区検察庁や簡易裁判所方面で逮捕状請求並に逮捕状記載の事実を漏洩したのではないかとの噂はあつたがそれは単に噂に止まつて疑の程度には達しないものであつたことが明らかである。斯くの如く国家公務員法違反被疑事実存在せず且、捜査機関の所謂主観的嫌疑も単なる噂に過ぎなくて疑の程度に達しないものであつたに拘らず、この場合尚検察官は刑事訴訟法第226条による証人尋問の請求をすることが出来るであろうか。所謂主観的嫌疑にまでも高められない単なる噂の程度を以て、什うして第三者である個人の自由を拘束する前記強制尋問手続の請求をすることが出来るであろうか。或は亦、弁護人の所論に対し、前記秘密漏洩の事実があつたか否かに付て市警察署に於ては、その調査が行われている事実があるから之を以て国家公務員法違反被疑事実があつたと見るべきであり、同時に亦、捜査開始の要件である主観的嫌疑があつたものと見るべきであるとの議論があるかも知れない。然し乍ら斯かる議論は捜査権の行使に付て少しも考慮を払わない素朴極まる議論である。
[4] 凡そ刑事訴訟手続に於ては、捜査機関に於て犯罪ありと思料する場合、茲に捜査は開始せられ、やがて嫌疑をかくべき犯人と事実が推定せられ、被疑事件としての立件手続がとられ、捜査機関備付けの事件簿に記入せられ、事件番号が定められて、はじめて被疑事件が客観的に存するものと言うべきである。然るに本件の本案たる被疑事件に付ては立件手続も執られていないし、被告人石井以外には聴取書が一つも存在しないのである。之を以て什うして被疑者不詳の国家公務員法違反被疑事件が客観的に存在したものと言い得るであろうか。又所謂主観的嫌疑をかくるに充分なものと言い得るであろうか。殊に右被疑事件の推移を見るに、仮に秘密漏洩の疑があつたとしても、夫れは本件被告人に対して訴追をした検察側、審理をした裁判所側にあると噂せられた事件であつて、然かも今日に至る迄何等の進展を見ない許りでなく、その後捜査すらなされていないことが明らかで、噂は全く雲散霧消してしまつたのである。斬かる関係で、如何して被告人石井が犯罪の捜査に欠くことのできない知識を有すると明かに認められる者に該当すると言い得るであろうか。凡そ自らの側に非があると噂せられた事件に付て内部的調査も充分なされず、立件手続もなされずして、当該事件の第三者に対し直に自由を拘束して口を開かせんとするが如きは、法律の正当な手続によらないで自由を制限するものと言うべく、憲法第31条にも違反するのである。斯かる捜査権の行使を以て果して妥当なりと謂えるであろうか。自己の非を他に転嫁して尚恬然とする。権力至上主義乃至封建思想の残滓の結果に他ならないとの批判を受けても弁解の余地がないであろう。原判決は最後に結んで日く、
前略、右捜査の段階において捜査上の必要のためなされた本件証人訊問手続も亦この点に関する限り、前段説示の理由により適法且つ有効と断ぜざるを得ない。――中略――固より通常の場合には斯様な順序方法によつて捜査手続を展開してゆくことは望ましい態度であろう。しかし之は飽くまで当妥当の問題であり、捜査の必要上事の緩急に応じその順序方法を異にしたからと云つて之を以て直ちにその手続を違法無効と解し得ないこと前に説示したとおりであつて、その所謂「立件手続」もかの公訴提起の如く訴訟法上の意義を持つものではないのである。而して又以上のように解することは憲法第31条に反するものとも考えられない
と。弁護人は原判決の斬かる結論に対し、強く反対するものである。之を要するに、原判決の前述刑事訴訟法第226条による証人尋問請求の場合、被疑事実存否の意義に付ての判断は、明かに憲法第13条に違反するものであつて破棄さるべきと考える。
[5] 而して亦、仮に原判決の前記判断を以て刑事訴訟法第226条の正しい解釈であるとするならば、同条は捜査開始のときの単なる主観的嫌疑だけで証人尋問の請求を為し得る旨を規定したこととなり、国民の自由に対し強制の処分を伴う右尋問の請求が、捜査機関の恣意に任せられることとなつて、甚しく不当な立法であると断ぜざるを得ない。従つて同条も亦、憲法第13条に違反するとの譏りを免れないであろう。
[6] 原判決はその理由第二の(A)(二)に於て、
前略、本件の場合この問題の正しい結論を得るためには第一に一般証言義務につき現行法上法が期待する国家的法秩序の目的精神を探究し、次に之と対立する所論の証言拒絶事由の社会規範的評価乃至之と憲法上の表現の自由との関係を究明し、両者を比較検討してその限界を決するのが順序である。
と論を起し、次いで、
憲法第38条第1項の要請に応えたとみるべき刑事訴訟法第146条第147条を除くその他の規定(第144条乃至第149条)は公務上及び一定の義務上秘密の保護という超訴訟法的要請のため、実体的真実発見乃至は犯罪捜査の必要という訴訟法的要請を或る程度明文を以て制限したものであると解せられるが、之等の場合にあつても各本条の但書乃至は他の項において極めて厳格な制限規定を設けているのである。之等法の精神から考えると、現行法は一般国民の証言義務に要請するところ極めて高度且つ厳格なものあることが看収出来るのであつて、少なくとも之等公務上又は一定の業務上秘密の保護のために認められた諸規定は、固より限定的列挙であつて之を広く他の場合に類推適用すべきでないこと勿論である。而して右法律に定める以外の場合において証言拒否が所謂正当の理由に該るかどうかを制定するに当り、上来説示の法の所期する証言義務の高度且厳格性は、先ず第一に留意せらるべき基本的な前提である。
として、現行法の国民に対する証言義務の要請は極めて高度且厳格なるべきことを強調し、更に、
国家が公共の福祉のため必要なりとして定めた法律の規定が、この限界を超えた権利自由に制約を加うる結果となつても敢えて憲法の精神に反するものと謂うことはできない。――中略――而して之を本件の場合について観るに刑事訴訟法が一般国民に対し叙上説示のような厳格な証言義務を規定しているのは、国家の最も重要な任務の一つである適正な司法権の行使として社会公共の福祉のため絶対に必要な制度であることは言うを俟たぬから、たとい之により新聞記者に対し、その記事の出所につき証言を強制することがあり、且つそれが偶々新聞の取材の自由ひいて表現の自由に障害を与える結果となつても、右は己にその限界を超えた自由に対する制約であつて、之を以て憲法の条規に抵触する違憲の立法乃至解釈であると論断することは到底許されないと信ずる。
として、新聞の取材の自由乃至は表現の自由も決して無制限のものではあり得ないことを説示し、最後に
そこで以上説示して来たところに従い双方の要請をあらゆる角度から比較検討して判断するに、少くとも我が国現行法上の解釈としては結局前示国家が国民に期待する証言義務の高度且つ厳格性は猶且つこの取材源秘匿の新聞倫理の上に優位せしめたものと解するの外はない。
と結んで、結局新聞記者の取材源秘匿は刑事訴訟法第161条の「正当な理由に」該当せず又、刑法第35条の「正当な義務行為」にも該らないものとしているのである。
[7] 然し乍ら、原判決の前掲判断の如く、証言拒絶の正当な理由ある場合を、然かく厳格に解して、刑事訴訟法第144条乃至同第149条の規定を限定的列挙でありとし、之を広く他の場合に類推適用すべきものでないとすべきであろうか。惟うに、憲法第38条は原則として何人も自己に不利益な供述を強要されないことを国民に対して保障しているのである。而して刑事訴訟法第143条は国家司法権を適正に行使せんが為、何人でも証人として尋問できる旨を規定しているのであつて、謂わば同条は憲法第38条の例外規定とみるべきものである。従つて亦刑事訴訟法第144条以下の特別規定は例外の例外、即ち原則的規定とも謂い得られるのである。斯く考えて来ると、右第144条乃至同第149条の規定は証言拒絶の場合に付て之を拡張的に解釈すべきものとの論拠にこそなれ、之を厳格に且つ狭義に解釈するとの論は甚しく妥当を欠くものと謂わざるを得ない。このことは亦、同法第161条の正当な理由を論ずるに付て極めて重要な解釈基準を与えるものである。そこで新聞記者の取材源秘匿は右正当な理由に該るか否かに付て考察してみると、新聞は民主政治の下に於ては民衆の健全な判断の基礎となる材料を提供するものであるから、この意味に於て単に営利企業たるに止まらず社会の公器たる性質を有するものである。而して一切の表現の自由は憲法第21条によつて保障されているところであり、この表現の自由を達成するためには、新聞記事の取材の方法も自由でなければならない。又取材の自由を維持するためには取材源を秘匿する必要があるのであつて、茲に取材源を秘匿することが新聞記者の倫理であり権利であると考えられる理由がある。斯く取材源を秘匿することは材料提供者に対する道義であるばかりでなく、実に新聞そのものの表現の自由を護る上に於て絶対に必要な手段となるものであつて、之が世界共通の新聞倫理であるのである。然し乍ら弁護人と云えども取材源の秘匿に付て必ずしも之を絶対無制限のものと主張するものではない。若しも新聞記者が取材に関し詐欺窃盗等その他不正の手段を用いた場合、或は公序良俗を紊す目的を以て取材した場合等に於ては、斯かる行動は新聞の公器性に反するから取材源秘匿の理由がないと解すべきである。
[8] 今之を本件の場合に付て考察してみると、逮捕状請求並に逮捕状記載の被疑事実漏洩は公務員に課せられた秘密保持の義務違背であつて、之を訴追することによつて一般公益が保たれることになるから本件取材源の秘匿は公益を害するものであると謂うかも知れない。然し乍らその秘密を漏洩し之を新聞記事として発表するも捜査を妨害することなく、却て公務員の背任、収賄の事実を摘発し且、脱税の不正事実を発表することによつて犯罪の一般予防に役立つものとしたならば、それは新聞本来の公器性の範囲を逸脱しないものと謂うべきで、この場合の取材源の秘匿は、表現の自由を保障した憲法第21条により保護されなければならないと考える。斯くて表現の自由を遂行するために取材源の秘匿をなすことは、社会の公器たる新聞記者の業務遂行上必要欠くべからざるものとして刑法第35条の正当業務行為と謂うべく、又之を理由として証言を拒絶する場合は刑事訴訟法第161条に所謂「正当な理由」ある場合に当然該当するものと謂わねばならない。
[9] 因に取材源の秘匿が新聞記者の「正当業務行為」なりやの点について、民事訴訟法第281条はその第3号に、証言拒絶の一場合として特に「技術又ハ職業ノ秘密ニ関スル事項」を掲げている点に鑑みれば、前記「正当な理由」を原判決の如く狭く解釈する理由なきこと更に明瞭であると思う。原判決は、茲に刑事訴訟法第161条に所謂「正当な理由」ある場合を徒らに狭義に解し新聞記者の取材源秘匿を之に該らないものとしたのは、表現の自由を保障した憲法第21条に違反するものと謂うべく、到底破棄を免れないものと信ずる。
[1] 民主政治は民衆の判断によつて動かされる政治であるから、民主国家に於ては言論表現の自由は絶対に必要欠くべからざるものであり、この基本的人権を明確に保障した規定こそは、外ならぬ憲法第21条第1項であつて、規定の本質よりするも且又法文自体よりするも何等の制限を受けぬ絶対的のものであると解さなければならない。勿論この憲法の保障する自由権もその具体的行使に於ては憲法第12条、同第13条等の制限に服するであろうが、表現の自由自体は飽迄も法律を以てするも之を制限し得ないものであり、このことは例えば憲法第22条第1項との比較によるも明白である。而して、新聞は真実を迅速適正に民衆に知らしめ、国政その他万般の事柄についてその判断の基礎となる材料を提供することを使命とする公共的企業であつて、民主国家に於ては特に言論の表現機関として最重要のものであるから、当然憲法の保障を以て記事発表の自由、之が取材の自由と共に併せて取材源秘匿の自由をも有すると解すべく、原判決も亦この必要性を充分に容認しておるのである。
[2] 飜つて第一審判決摘示の事実を観るに逮捕状請求の事実に関する公務員の秘密漏洩罪の嫌疑を前提として刑事訴訟法第161条違反罪の成立を認定しており、第二審も亦之を容れて前段の事項につき、
思うに逮捕状の請求発付の事実の如き執行前外部に之を漏洩するときは、その執行を困難ならしめ延いて捜査に重大なる障害を与えるものであるから、当該逮捕状の請求、作成、発付の事務に関与する国家公務員たる職員については右は明らかに国家公務員法第100条に所謂職員の職務上知得した秘密に該当するものと謂わねばならぬ。
と判示しておる。然し乍ら、右の如く結果に於て捜査に重大なる障害を与える虞あることを唯一の理由として、逮捕状請求の事実を目して直ちに前記職務上の必密と断論することは果して妥当であろうか。否々、絶対に然らぬのである。民主国家に於ては国家機密以外に秘密――特に憲法第21条第1項との関連に於て表現の自由を拘束するが如き秘密――は存在しないのである。換言すれば、国家に重大な影響を及ぼし、たやすく回復し難いような事項に限つて国家は例外的に秘密を設け民衆に之が遵守を要求しておるに過ぎない。かゝる見地に立つときは、逮捕状請求の如き事実は決して表現の自由の枠外に位置するものではない。従つて、国家公務員法第100条第1項所定の職務上の秘密とは、国家対公務員と謂う全く特殊な関係に於てのみ認容せられる秘密であつて、その中には官庁綱紀の維持という行政的考慮に基くものをも包含し、その秘密漏洩の悉くが当然同法第109条第12号を構成するとは限らないと解すべきである。換言すれば国家公務員法第100条第1項によつて公務員たる身分を中心として「職務上知得した秘密」(特殊的な秘密)として指摘されるものであつても、之を憲法第21条第1項との関連に立つて評価判断するときは決して秘密(一般的な秘密)ではなく、自由に表現し得るものがあり、逮捕状の請求の如きは正に之に該当し、決して国家公務員法第109条の成立のないものである。このことは刑事訴訟法第144条但書と比較すれば明瞭であろう。尚、現行の刑事訴訟法の下に於ては捜査の密行も書類の非公開も存しない(旧刑事訴訟法第253条、第55条と現行刑事訴訟法第196条、第47条とを対比すれば明らかなるのみならず、現在新聞紙法第19条、第20条等も廃止せられている)から、前示の如く原判決が捜査に重大なる障害を与えることを理由として逮捕状の請求に関する事実を以て、国家公務員法第109条に謂う秘密漏洩罪の成立を認定したことは失当とせねばならぬ。
[3] 果して然らば、本件の国家公務員法被疑事実はその対象が逮捕状の請求なる事実にある以上罪を構成せず、従つて、その犯罪の成立を前提としてなされた被告人に対する刑事訴訟法第226条に基く証人尋問の請求は無効であり、被告人が取材源を秘匿した行為は憲法第21条第1項の保障に価し被告人は何等同法第161条に該当しないのである。要するに原判決は憲法第21条第1項の解釈を誤り被告人に対し表現の自由を容認しなかつた違法が存すると謂わねばならぬ。

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