博多駅フィルム提出命令事件
抗告審決定

フイルム提出命令に対する抗告事件
福岡高等裁判所 昭和44年(く)第45号
昭和44年9月20日 第3刑事部 決定

抗告人 金子秀三 外3名
弁護人 村田利雄

■ 主 文
■ 理 由

■ 抗告の理由


 本件抗告を棄却する。


[1] 本件抗告理由は、末尾添付の抗告の理由記載のとおりである。
[2] およそ、報道機関は現代民主社会において一般国民に思想、判断の基礎となるべき各種知識を補給する主要な根源をなすものとして極めて重要な社会的使命をになうものであり、これら報道機関が真実を報道することは憲法21条の認める表現の自由に属するものというべきところ、事実を正確且つ迅速に報道するには必然的にその不可欠の前提として自由に広く取材を求めることが要請されることはこれを首肯するに十分である。しかし、憲法が国民に保障する自由も絶対無制限のものではなく、常に公共の福祉のためその時、所、場所、方法、態様等につき、おのずから合理的制限の存することは、屡次の最高裁判所判例の示すところである。
[3] ところで、刑事訴訟法は99条において「裁判所は必要があるときは証拠物又は没収すべきものと思料するものを差し押えることができる。但し特別の定のある場合はこの限りでない。裁判所は差し押えるべき物を指定し、所有者、所持者又は保管者にその物の提出を命ずることができる。」と規定して、国民に対し裁判所のなす押収受認義務を課しており、例外的に同法103条乃至105条によつて、公務上並びに特種の業務上の秘密という超訴訟法的要請から押収拒絶権のある場合を定めているが、これもまた但書において厳格な制限を設けている。かかる規定の趣旨に徴すれば、右除外例は限定的列挙と解すべきであつて、これをたやすく他の場合に類推適用すべきものではなく、従つて、報道機関に対してはこれが適用ないものといわねばならない。そして、これら押収受認義務は国民の所有権、占有権等の財産権に対する重大な制限というべきところ、法が国民に対しかかる義務を課する所以のものは、国家の最も重要な任務の一つである司法裁判が実体的真実を発見し法の適正な実現を期するという使命を達するため絶対不可欠のものであることによるものであつて、かかる使命達成という社会公共の福祉のため必要な制度であるというべきは多言を要しないから、たとえそのため報道機関に対しその取材した物の提出を強制しうることにより取材の自由が妨げられ、更には報道の自由に障害をもたらす結果を生ずる場合があつても、それは右自由が公共の福祉により制約を受ける已むを得ない結果というべく、憲法21条の保障する表現の自由を侵すものとはいわれない。従つて、裁判所が裁判の必要上報道機関の取材したフイルムに対し提出命令を発することがあつても、それは何等憲法21条に違反するものではない。
[4] 刑事訴訟法99条所定の押収の必要性有無の判断が、犯罪の態様、軽重、押収物の証拠としての価値、重要性、押収物の隠減毀損されるおそれの有無、押収によつて受ける相手方の不利益の程度、その他諸般の事情を考慮してなさるべきことは、まことに所論のとおりである。
[5] そこで、本件特別公務員暴行陵虐等付審判請求事件の記録を精査するに、その被疑事実は要するに、福岡県警察本部長、同警備部長、博多鉄道公安室長その他氏名不詳の警察官、鉄道公安官8百数十名が、博多駅に下車した三派系全学連所属学生約300名の行動を警備した際、右全員が共謀して多数学生を前後より挟撃したうえ、通路階段上から投げ飛ばし、足払いで転倒させて突き落し、また手拳や警棒を以つて頭部、背部等を殴打したという事実等であつて、被疑者殊に氏名不詳の被疑者や被害者が尨大な数にのぼり、犯行の態様も複雑、微妙なるものがあつて、これまでに収集された主要な証拠は各種供述調書というべきところ、被害者側の供述調書は僅か数通にしてすべて右犯罪の成立を肯定する内容のものであるに反し、被疑者側の供述調書は犯行を徹底的に否定する内容のもので、双方の供述が截然と別れて相対立し、第三者的立場にある者の供述が殆んど見当たらず、しかも前示各供述調書以外の者の供述を求めることはたやすく期待出来ない状況にあるため、犯行の態様を仔細に把握して検討することの容易な業でないことが窺われ、報道機関が中立的立場において現場の状況を撮影した本件フイルムは、当時における双方の動静を如実に連続的且つ動的に把握したものとして、証拠上極めて重要な価値を有することが窺われる。ところで、本件フイルムは社会公共のため真実の報道を使命とする報道機関が専ら報道目的のため取材したものであることに鑑みれば、これを報道目的以外の刑事訴訟の証拠資料に利用されることは、報道の自由を標榜する報道機関に対し相当の不利益をもたらすことは否み得ないところであるが、しかし、右フイルムは既に放映済のものもあるのみならず、外部に発表されないという相手方との強い信頼関係の基盤に立つて取材されたものとは認め難く、却つて、如何なる箇所を報道するかは報道機関の自由な選択に属するものとしても、右フイルムはその取材に際しこれを報道して一般に公開することを予定されたものといい得るから、右フイルムがたまたま裁判の証拠に供されたとしても、それは態様を異にした公開とも目し得べく、従つてこれがため報道機関の蒙る不利益は、報道機関がその秘匿を最高倫理としている取材源について開示を求められる場合に比すべくもないことは特に留意せらるべきである。しかしまた、本件フイルムは他の一般の証拠物とは著るしく趣を異にし、報道機関が専ら報道のため身を挺し苦心を重ねて取材し自ら製作して大切に保管しているものであることに思をいたすとき、たまたまそれが裁判上の証拠になるからといつて、たやすくその意に反し強制力を用いてこれが開示を求めるが如きは厳に慎しむべく、報道機関の立場も慎重考慮したうえ、かかる措置は他に求むべき適切な証拠もないため万已むを得ない最後の手段として採らるべきことが望ましいこと勿論である。原審の措置もまたかかる配慮に出たことが窺われる。
[6] そして、付審判請求は請求が理由ありや否や、すなわち事件を公判に付すべきかどうかを審理する手続であつて、被告事件に対する一般の公判手続と異なり証拠調べの程度もおのずから差異のあることは所論のとおりである。しかし、この手続はなお裁判所が右請求の理由の有無を独自の見地において審理判断するものにして、それが裁判である以上裁判一般に強く要請せられる適正な判断が期待されるものというべく、そのため相当の各種証拠を求めることもまた已むを得ないものといわねばならない。さればこそ刑事訴訟法は審判請求を受けた裁判所に対し受訴裁判所と同一の権限を与え自由に強制処分をなし得ることとしたものといわねばならない。
[7] 叙上縷述の各種事情を彼此考察すれば、原裁判所が本件付審判請求事件の審理のため必要と認めて抗告人等に対し本件フイルムの提出命令を発したことはまことに已むを得ない措置として相当というべく、必要性の判断を誤つたものとはいわれない。
[8] なお、本件提出命令に関与している裁判官白井博文は本件付審判請求事件においてさきに不公平な裁判をなすおそれありとして被疑者らから忌避の申立を受け、該申立は原審において却下されこれに対する即時抗告も当審において棄却されたが、最高裁判所に特別抗告がなされて、原審並びに当審の右各決定は取り消され事件を原審に差し戻されているところ、右特別抗告には執行停止の効力が認められないから、当審の前記抗告棄却決定は直ちに効力を生じ、一応忌避申立却下の状態となり、右申立により生じていた訴訟手続停止の効果も解消していたものというべきであるから、その後白井裁判官が関与してなされた本件提出命令は適法なものというべく、そして最高裁判所の右取消裁判は将来に対し効力を有するものと解すべきであるから、該取消によつて適法になされた本件提出命令の効力が左右されるものではない。
[9] 叙上説示のとおり本件抗告は理由がないから、刑事訴訟法426条1項によりこれを棄却すべきものとし、主文のとおり決定する。

  (裁判長裁判官 中村荘十郎  裁判官 伊東正七郎  裁判官 松沢博夫)
[1](一) 表現の自由は憲法上基本的人権の最も重要なものの一つであるが、いわゆる報道の自由も表現の自由の一態様として、出版の自由等とともに憲法第21条により保障されていることは疑のないところである(最高裁大法廷昭和33年2月17日決定刑集12巻2号253頁。)。
[2] 報道は事実を正しく伝え知らせることであるが、報道の自由は、憲法が標榜する民主主義社会の基盤をなすものとして憲法上特に重要な地位にあるものといわねばならない。けだし国権のあらゆる発動はすべて国民に由来し、国民がこの権能を選挙その他の場において発動するためには、国家や社会に関するあらゆる正確な情報を持つていなければならないからである。従つて報道機関の有する報道の自由は、報道を受取る国民の側からすれば、国民がその諸々の権利の発動の基盤として自由な判断を形成するために不可欠な、いわば国民の「知る権利」としてとらえられている。このように報道機関のもつ報道の自由は国民の「知る権利」と表裏一体をなしているのであつて、報道機関が公器として体する責任は重大であり、民主主義を貫く立場からは報道の自由はこのような公器の持つ特権として最大限の尊重を受けなければならない。

[3](二) 報道機関の活動は、取材、取材したもののニュース価値の判断と編集および報道の3つの段階に分けることができるが右に述べた報道の自由を確保するためにはこの3つの段階に応じてそれぞれの自由が保障されなければならない。とりわけ取材の自由、すなわちニュース源に接近し、素材を獲得する自由は、報道の自由を全うするには不可欠のものである。

[4](三) かりに本件のごとき裁判所による提出命令が適法になされ、これに報道機関が従う義務がありとすれば報道機関の取材の自由はこれにより大きくそこなわれることは火を見るより明らかであり、その結果真実を報道する自由は失われ、国民がその主権を行使するに際しての判断資料を失うという重大な結果を導くことになるのである。

[5](四) 取材は真実を伝えるという、報道の目的の大前提であることは右にのべたとおりであるが、取材は広く国民一般、社会一般の協力を得なければその目的を達し得ないことは明らかである。そしてこれまで広く報道機関に取材の自由が確保されて来たのは、報道機関が取材に当りつねに報道のみを目的とし、取材した結果を報道以外の目的に供さないという確固たる信念があり、国民の側にもこれに対する大きな信頼があつたからである。
[6] 万一、本件のような国家権力によるフイルムその他の提出命令が適法とされ、報道機関がこれに応ずる義務ありとされ、その結果これらが報道以外の目的、特に刑事事件の証拠に使われることになれば(捜査機関による捜索、差押許可状の発布請求の乱用の危険も予測できる。)、ニュース素材や情報の提供者は提供に消極的になり、報道機関に協力した結果がいつどこでどう利用されるか絶えず不安を持ち、取材に応じないか、応じても意図的な素材提供をすることなどが懸念されるのみならず取材する側の記者、カメラマン等も、取材の結果が報道以外の目的に利用されかねないことを念頭において取材にあたることとなろう。さらに取材者に対する積極的な妨害行為も容易に予想されるところである。
[7] そしてその結果は真相のはあく及びその公平かつ多角的な報道が不可能になり、わい曲された事実が報道されることは必定である。このことは本件提出命令の本案ともいうべき付審判請求事件の場合のみならず、集団行動の現場における取材に関して特に懸念されるところである。咋今国民の集団行動が多くみられ、それに関する報道は重要な意義を持つことにかんがみ、報道機関はその使命に照らし真実を報道するため、他から制肘されることのない取材の自由を保障されなければならないのである。

[8](五) 抗告人も公正な裁判およびそのための真実発見という、公共の福祉のための司法権の発動の重要なことは容易に理解できるが、これと衝突する報道の自由が右にのべたほどの重大な意味をもつものである以上本件提出命令は、報道の自由に対し憲法により公共の福祉の名によつて許される制限のらちを越えたものといわなければならない。
[9] 刑訴法99条1項は「必要があるときは証拠物又は没収すべきものと思料するものを差し押えることができる」と規定し同条2項はこれをうけて、その物の提出を命ずることができると定められているのである。而して、その必要性の有無の判断は究極的には裁判所の判断によるものであるとしても、その判断は恣意的になさるべきものでないことは当然である。
[10] 「犯罪の態様、軽量、差押物の証拠としての価値、重要性、差押物が隠減毀損されるおそれの有無、差押によつて受ける被差押者の不利益の程度、その他諸般の事情に照」すことを要するのである(最高裁昭和44・3・18、第3小法廷決定)。従つて本件のように命令を受けた者が報道機関である場合その公共性の故に、単に被命令者の不利益というよりは報道の自由、表現の自由、言論の自由に対する重大な侵犯となるのであるから、前記最高裁判所決定の説示以上に差押によつて受ける被差押者の不利益の程度、その他諸般の事情を考慮すべきにかかわらず、これらの配慮を欠き提出命令を発するに至つたことは刑訴法上、その解釈を誤つたものといわねばならない。
[11] 而も付審判請求事件である本件において刑訴法265条2項にいう、必要あるときの事実取調とは、同法266条の決定を為すに足りる限度であるからその必要性の判断についてはその範囲、限度に於いて特に慎重を要するものといわねばならない。前記最高裁判所の決定は捜索、差押許可の裁判、同許可状に基く差押処分、各取消準抗告事件に対する特別抗告事件であるが、原審たる東京地方裁判所は、東京簡易裁判所、裁判官の為した捜索差押許可、並に同許可状に基く差押処分につき、準抗告を容れて
「右フイルムを押収されることの、その所持者たる映画研究会に与える不利益、(その一つとして、彼らはこれを期日の迫つた学園祭に上映する目的を有すること等)と比較衡量してみた場合には右フイルムの強制的な差押までは許されないものと解するのが相当である」(東京地裁昭和43・11・22刑事第13部決定)
として差押処分を取消している。
[12] 更に右フイルムにかかる再差押処分に対する準抗告に於ても、抗告裁判所たる原審東京地方裁判所は
「本件物件のように第三者が自己の意思に基き撮影した映画フイルム等について、これが犯罪事実の立証になんらかの形で利用できるからといつて直ちに差押が許されるということまでを意味するものではなく、その判断に当つては、右のような物件の証拠資料としての信憑性、代替性の有無、事案の重大性、その他捜査の必要性の度合いなどについてはもとより、所持者がこれを作品として社会に発表するについての利益等についても十分検討考量のうえ、慎重に差押の可否を決定すべきであろう」(東京地裁、昭和43・11・26、刑事第4部決定)
と説示している。而して差押処分は再差押処分が違法であることを直接の理由として取消している(最高裁決定は判例時報548号22頁以下、原審たる東京地裁各決定は同538号17頁以下所載)。右フイルムは国学院大学映画研究会が報道を目的として撮影したものであることが窺われるけれども単に学園祭に上映する程度のものにすぎないところ、本件の場合純粋に報道をその使命とする被命令者に於て公共目的の為、憲法21条によつて保障される基本権にもとづき撮影したフイルムであるから右各決定説示以上に慎重な考量、判断を必要とすること論をまたないにかかわらず、その考量を欠き、安易に提出命令を出したことは前記刑訴法の解釈を誤つたものというの外はない、況や、憲法21条に違反することも明らかであること、第一項記載の通りである。
[13] 以上の理由により原決定は報道機関の存立そのものを危くするものであり、報道の自由を保障した憲法第21条および刑訴法に違反したものと思料するのでその取消を求める次第である。
[14] なお、本決定に対しては、昭和44年9月2日最高裁判所に対し特別抗告の申立をしている。

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