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人間工学、その起源と歴史
──人事管理の代名詞としての人間工学──


人間工学の「起源」とは
 今日の「人間工学」は、さまざまな学問領域を横断して、広範な対象に対して適用される 「ものの見方」である。人と人をとりまく環境との相互関係を調査・分析して、 人びとの生活や仕事、社会活動をより快適・安全・容易なものにするための知の総和であるといえよう。 応用領域は多岐にわたる。医療や看護、安全管理、工学デザイン、建築、職務設計、 職場環境の改善、生産システムの改善、社会空間の設計、 環境問題への対応など、さまざまな分野で「人間工学」が語られるようになった。 こうした動きに支えられて「人間工学」の歴史への関心が芽生え、 その「起源」が後から発見されることになった。

 「人間工学」の起源は、その語源に即していえば、二つの源泉がある。 ひとつはアメリカ合衆国で1911年にウィンスロップ・タルボットによって 造語された "human engineering" の流れであり、 これは私が人事管理史研究のなかで明らかにした。 いまひとつは19世紀中頃のポーランドの学者Wojciech Jastrzębowski の造語になる "ergonomics" の流れであり、これは彼の著書が1997年に復刻されたのを 機に広く知られるところとなった。

  注意しておきたいことは、このどちらも、今日の「人間工学」の隆盛を背景にして、 後から発見されたという事実である。今日の「人間工学」がこれらふたつの思想的源泉から 直接影響を受けて発展したというわけではない。 第二次大戦後の人間工学の発展に寄与した人たちは、これらの源泉を知らなかった。 もとより、知らぬ間に影響を受けていたということは十分にありうることだが、 それはそれで、そのようなものとして「起源」を論ずることになろう。 人間工学の「起源」なり「源流」という言葉を使う場合、 どのような意味で使っているのかを自覚する必要がある。

 以下は、私の次の論文からの抜粋である。

上野継義「アメリカ人事管理運動と『人間工学』の諸相 (1)──人間工学ブームの盛衰──」福島 大学『商学論集』第83巻第4号・富澤克美先生退職記念号 (2015年3月25日): 93-118.

















アメリカにおける人間工学 (human engineering) とは
 ヒューマン・エンジニアリング (human engineering) という言葉は、 これが初めてあらわれた1910年代初頭のアメリカでは、人の取り扱いを 「科学」にしなければならないとの労務改革のメッセージとして用いられた。 これはその当時新しい考えであった。19世紀の後半、モノをあつかう術である機械工学 (mechanical engineering) は驚異的な発展をとげ、アメリカ産業を押し上げる原動力となったが、ヒトをあつかう術はそれに見合うかたちで発展してこなかった、このギャップを埋めるには後者を機械工学に匹敵する「科学」として確立し、専門家の仕事として発展させなければならない。強烈な専門職業イデオロギーに裏付けられたこのような問題意識が、1910年代のはじめに human engineering という言葉に結晶し、やがてこれがブルームフィールドら雇用管理運動の指導者たちによって「人事管理」の代名詞として用いられ、人口に膾炙することとなる。人間工学は、機械工学と同様、専門職業領域と学問領域の両方を指し示す言葉であったが、これから検討するように、それ以上の働きをした。

 人間工学の語の初出はウィンスロップ・タルボットによって創刊された雑誌『人間工学』である。 この雑誌は短命に終わり、その後しばらく "human engineering" の語は管理文献から姿を消すが、1916年、 マイヤー・ブルームフィールドら雇用管理運動の指導者たちがこの言葉を「人事管理」の代名詞として 用いるようになって突如復活する。多様な人びとがこの言葉に惹きつけられ、雇用管理運動に合流していく。 安全第一運動、産業医の運動、インダストリアル・エンジニアリング運動、鉱山工学、産業心理学など、 さまざまな分野で「人間工学」という言葉は用いられた。その総体が人事管理運動である。(1)

 1920年代以降の人間工学については別個の考察が必要である。 人間工学の語は、早々とブルームフィールドの手を離れ、第一次大戦後いくつかの 専門職業分野に引き継がれた。インダストリアル・エンジニアリング (IE) の分野では、 1930年前後に工学教育とのかかわりで人びとの口に上るが、しばらくの間おおきな進展は みられなかった。それが第二次大戦中、空軍戦闘機のコックピットの設計問題が契機となり、 人間の能力に機械や作業環境などを適合させるための研究がすすみ、戦後、機械設計や システム設計の学として人間工学は成熟することとなる。 こんにちパソコン用の椅子や机の設計など、民生品の工学デザイン領域で人間工学が 応用されているのは周知のとおりである。英語圏では "human engineering" よりは、 むしろ "ergonomics" の語が好んで使われるようになった。 近年は人と環境とのインターフェイスを考察する学問名称としてひろい範囲で使われるに至った。 現代の人間工学と1910年代の人間工学との間に思想的なつながりがあるのは事実だが、 その因果連関を辿るにはひとまとまりの考察が求められる。

(1)「人間工学 (human engineering)」という言葉の使用例は 僅かながら次の学会報告のスライドに掲載した。 上野継義「アメリカ人事管理運動と人間技師の戦い──労務管理の専門職化とのかかわりで」 経営史学会第51回全国大会自由論題報告(2015年10月10日、大阪大学)、 スライド。 大会報告の資料は次のページを参照されたい。



























雑誌『人間工学』の創刊
  「人間工学」の語の最初の使用例は、管見のおよぶ限り、ウィンスロップ・タルボット (Winthrop Talbot) によって1911年に創刊された雑誌『人間工学』である。彼は1866年ボストンに生まれ、若くして欧州に遊学してヨーロッパの諸言語に通じ、その後ハーヴァード大学に学び、さらにボストン大学医学教室の傑出した医師にして初代学部長を務めた父の後を追って医学を志す。ロンドンで医師免許を取得したあと、プラハの病院でインターンを勤め、ウィーン大学で先端医療を修得し、1892年から父とともにボストン大学で臨床に従事するかたわら、病理学と顕微鏡検査法の講義を担当した。1895年には米国で初めて血液病理学の講座をボストン大学に設置している。もともと青少年教育に熱い思いをいだいていたタルボットは、ハーヴァード大学卒業後にサマー・キャンプを組織したが、1900年には医学の仕事を辞めて、その後の10年間を夏冬の少年キャンプの運営に捧げた。多方面にわたって卓越した才能を発揮した古典的学者は、一転して今度は労務改革の世界へと入っていくことになる。

  雑誌『人間工学』はタルボット自身の実際経験から生まれた。1910年に彼は、全国電気ランプ協会 (National Electric Lamp Association) の保健・エコノミクス部 (Department of Health and Economics) の部長職を引き受けた。この協会は、一見業界団体のような名称を有している が、この産業の21企業をたばねる持株会社である。カナダのトロントからカリフォルニアまで広範な地域に散在する工場群におよそ5000名の労働者が就労していた。これらの工場は、もとは独立の小規模製造企業であり、労働条件や労使関係は工場ごとに異なっていたと考えられるが、タルボットはそのすべてに空調および衛生環境を整えるための産業衛生プログラムを導入した。そして労働者の処遇に「科学」を適用することの重要性を痛感したタルボットは、そのための情報交換の場として雑誌『人間工学』の刊行を思い立つのである。また彼は1912年からニューヨークの有名な摩天楼ウールワース・ビルディングに事務所を構え、労働関係コンサルタントの仕事をはじめた。顧客にはイェール&タウン製造会社 (Yale & Towne Manufacturing Co.) やジェネラル・ケミカル社 (General Chemical Co.) といった大手企業のほか、地元のバレット社 (Barrett Co.) などが名を連ねている。
















タルボットの人間工学運動
 タルボットの活動は1910年代初頭にわかに盛り上がった産業衛生運動 の一潮流としてさしあたり位置づけることができる。ただし、彼の場合、企業のマネジメントのありようを変革しようとの明確な意思を持っていたことと、それを実現すべく並外れた行動力を示した点で、同時代の数多の産業医と趣を異にしていた。さらにまた、『人間工学』誌への寄稿者を見渡すと、タルボットの人脈は広範囲におよび、社会改良のさまざまな潮流とかかわっていたことがわかる。労務政策に応用できるものは何でも採り入れていこうとの姿勢がみられ、実際彼の労務改革案は産業衛生運動の域を超えていた。 タルボットの労務改革案の骨子は、独立の労務部門「人間工学部」を設立し、その仕事を専門家に任せるというものであった。1911年1月、『人間工学』創刊号において、彼は自身の労務改革構想を説明している。そもそも人間工学という言葉は機械工学に対比されるべき「新しい専門職」を表現するために自分が考案したものだと述べている。そしてこの新しい職能を担う企業内の分権化された部署として「人間工学部」を新設すべきだと提案した。この部門は、経営組織内において、「生産、販売、購買、会計監査、輸送、エンジニアリング、研究開発の諸部門」と同等の地位に位置づけられるべきであるとしている。

  人間工学部は、当時の先進的な大企業に見られる福利部とのちの人事部の機能を併せたような性格を有していた。タルボットによれば、部門名称は保健・エコノミクス部、サーヴィス部、あるいは福利部でもさしつかえないと述べており、その職能の中には19世紀末葉から20世紀はじめのソーシャル・セクレタリーが担った伝統的な福利活動と重なる部分 も認められる。だが、中心的な職能として列挙されている以下の3領域はいずれも当時利用可能となっていた「サイエンス」であり、それらを積極的に労務政策に採り入れていこうとの姿勢が看取される。第一は、労働条件の改善にかかわる諸活動であり、とくに当時急速に研究のすすんだ産業衛生 (industrial hygiene and sanitation) が重視されている。「換気や配管、暖房、照明、洗面所や化粧室、ランチ・ルーム、休憩室やリクレーション・ルーム、病院施設、就業時の従業員の保健」を考慮して、工場の新築プランをコントロールするのも人間工学部の役割だというから、いわゆるレイアウト技師の職能を取り込んでいたことになる。第二は、職務の労働者への影響、労働者とその職務の適合性、効率的な作業方法に関する「研究、実験、調査」であり、いわゆる体系的管理の成果に学んでいたと考えられる。第三は、長期勤続者優遇型の私的福祉である。労災補償や互助会、年金、貯蓄および融資制度、疾病救済基金、企業内教育が列挙されており、これらは「労使協調のための近代的方法」であるとしている。

  人間工学部の設置目的は労務政策に「科学」を応用することであったが、利用すべき「科学」の範囲には彼なりの考えがあり、当時注目されつつあった産業心理学には距離をとっていた。「インダストリアル・サーヴィスは、労働コストを引き下げるための会計制度と密接に関連づけられるべきである」が、「労働コストは能率に規定され、能率は精神活動の法則に規定されて」いる。そして精神活動は「動機」と「環境」に影響されているが、動機を扱う産業心理学は未成熟ゆえ、人間機械 (human machine) に作用する物的な労働環境を扱う科学に焦点を絞るという。上述の3分野のサイエンスを重視する理由をタルボットは自分なりに考え抜いていたことがわかる。なお、産業心理学に対する不信感は後述のとおりブルームフィールドにもあった。

  タルボットの人間工学運動は人事分野における後の管理運動の諸特徴を先取りしていた。すなわち、人間工学を新しい専門職として位置づけている点、伝統的なフィランソロピーに距離を置き、労務管理の科学を志向している点、新しい能率観がコスト計算の視点からみても有利であると説いている点、労働のさまざまな側面を調整し統括する職能として人間工学部を構想している点、またこれらの思想を普及するための情報交換媒体を用意した点においてである。これらはいずれも労使関係管理運動や雇用管理運動の中で全国規模で実現されることになるが、そうした諸特徴のすべてを小規模ながら備えていた。実際ブルームフィールドらが雇用管理運動を立ち上げるとき、運動の目標や労働問題解決の処方箋はもとより、人間工学という言葉づかいまでが踏襲されることになる。したがって、「人事管理」という言葉こそ使っていないが、事実上ここからアメリカの人事管理運動は始まったとみてよいだろう。































『人間工学』の終刊とその後
 従来の人事管理史研究において人間工学運動が適切に位置づけられてこなかったのは、タルボットの思想に共鳴する人がわずかであったこと と、『人間工学』誌が短命であったためであろう。同誌は1912年の秋に突如終刊となった。その理由は、おそらくは、(1) タルボットの問題関心が移民のアメリカ化に移っていったことと、(2) 雑誌の創刊からわずかのうちに労働の諸側面で活動する専門家協会があいついで設立され、情報交換の場を提供しようとの所期の目的が別の団体によって全国規模で実現されようとしていたためであろう。この二つはいずれも人事管理史を理解する際の枢要点にかかわることがらゆえ、少しく敷衍しておく。

  第一に、アメリカ人事管理思想の底辺には、移民を「よきアメリカ市民」に造り替えようとの社会改良派知識人の教育的な問題関心があり、タルボットはそうした思想を代表する人物のひとりであった。彼はローレンスの繊維産業ストライキを契機にして移民のアメリカ化にとり組むようになる。その後続発するパタースン絹産業スト、コロラド炭鉱ストなど、いずれも原因は労使間の意思疎通の不十分さにあるゆえ、もしも移民労働者が英語の読み書き能力を身につけるならば、大半の労働問題は氷解すると彼は考えるようになる。短見の憾みなしとしないが、タルボットは彼なりの理由づけと具体的な施策を考えていた。1914年2月、下院の公聴会において「読み書きの出来ない労働者は高くつく労働者である」と言い切っている。読み書き能力の効能は広範囲におよび、労働災害など種々の労働問題を未然に防止し、労働力の質を高めて生産効率の向上に寄与し、民主主義の基礎を形づくるという。英語の授業では、最初のうちは教育や勤勉、正確さや注意深さがどのように収入の増加に結びつくかに力点が置かれるが、ゆくゆくはアメリカ市民のなんたるか、国家に対するつとめとは何かに重点は移っていく。そして新聞が読めるようになることは「個人の成長にとってとても大切」だと説いている。「新聞は情報を広め、思考を刺激し、良き市民となる素質を強化いたします」と。第一次大戦期には移民のアメリカ化が管理問題として意識されるようになり、大戦後は移民をアメリカ人にするための教育制度として従業員代表制が位置づけられるようになるが、その背後には、タルボットら社会改良派知識人の思想に典型的に顕れている移民労働者に対する教育的な眼差しが働いていたことは注意されてよいだろう。

  第二に、アメリカ人事管理のおおきな特徴のひとつは、管理の制度化への強い志向が見られたことである。これは1910年代の初めに、労働のさまざまな部面で、それぞれ別個に、ほぼ同時にあらわれた。タルボットがとりわけ深い関心を寄せていた安全衛生の分野では、1912年に最初の全国規模の安全大会が開催され、翌13年にはNSCの前身、産業安全のための全国協議会 (National Council for Industrial Safety) が創設された。タルボットは1913年にニューヨークで開催された第2回全国安全大会に、後に結婚することとなる教育家アナ・ヘッジス (Anna Charlotte Hedges) とともに出席している。同じ13年に社内教育の分野でも新しい動きがはじまっており、大企業の訓練管理者を中核メンバーとする全国社立学校協会 (National Association of Corporation Schools; NACS) が誕生した。また、後に雇用管理運動へと発展することになるブルームフィールドの活動も1910年代初めに始まっていた。おそらくタルボットはこれらの動きを知るに及び、重複的な努力を避けて移民の英語教育に注力しようと考えたのであろうが、管理の制度化への問題関心はその後も一貫して持ち続けた。彼は1917年に鉄鋼業界誌に筆を執って、「すべての産業中心地に産業企業管理に役立つ情報を交換するための機関が必要だ」と説いている。「人的側面に関する産業企業管理技術は過去5年間に急速に発展したことから、そうした機関なしでは、経営者はこの分野の最新の情報を採り入れることができないであろうし、なんであれそのための時間もみつけられない」と論じている。

  『人間工学』誌の終刊とともに “human engineering” の語は管理文献から一時的に消えたが、1916年に突如息を吹き返した。労働分野の諸協会のうち、NSCは安全管理を固有の専門職として確立する方向で行動しており、他方NACSは教育にかかわる専門的中間管理者を広く組織していたが、第一次大戦への参戦直前に、お互いの問題関心の親近性に気づかされる。その契機となったのが雇用管理運動の出現であった。ブルームフィールドが、産業の人間要素にかかわるあらゆる活動を包括し調整する職能として「人事管理」を提唱し、人間工学という「新しい科学」の必要性を訴えた。こうして人間工学の語は復活したが、すぐにこれらの諸協会の間で路線の対立が明らかとなり、やがてこの言葉は毀誉褒貶の荒波にもまれていくこととなる。


































参考文献
  1. Winthrop Talbot, "A Study in Human Engineering," Human Engineering 1 (January 1911): 3-5.

  2. Winthrop Talbot, "Human Element in Industry," Iron Age 91 (February 6 and 13, 1913): 366-68, 418-20.

  3. Winthrop Talbot, "Shop Hygiene," Engineering Magazine 45 (April 1913): 94-97.

  4. "Talbot, Winthrop Tisdale," National Cyclopedia of American Biography, vol. 30 (New York: James T. White Co., 1943), 235-36.

  5. Winthrop Talbot, Adult Illiteracy, U.S. Department of Interior, Bureau of Education, Bulletin, 1916, no. 35 (Washington, D.C.: GPO, 1916).











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