1. 報告テーマと分析視角
20世紀初頭のアメリカの大企業労務政策を考察する際、どうしても視野に入れておかなければならないことは、福利活動をさまざまな非営利団体が外部から支えていたことである。19世紀末葉からの企業規模の飛躍的な拡大と移民の大量流入は、労働者福祉を専門に取り扱う非営利組織の活動をおおいに刺激し、企業の側でも慈善の香りの強い活動から手を引きたいとの思惑からそのような専門家組織に仕事を委託する方向を辿り、相互に密接な協力関係を築くことになった。これまでYMCAの働きが明らかにされてきたが、それ以外の団体については依然不明なままである。本報告の目的は、そのような外部団体のひとつである訪問看護婦協会 (visiting nurse associations) に着目し、福利活動の面で進展した外部の団体との協働 “cooperation with outside agencies” (U.S. Bureau of Labor Statistics) について、その実態を解明することである。
とくに注目しているのは協会から派遣された産業看護婦 (industrial nurses) による移民のアメリカ化作業である。安全管理の専門家として登用されたセイフティ・マン (safety men) は、地域ぐるみ、家族ぐるみで保安意識を高めることがめぐりめぐって職場における安全な作業慣行の確立に結びつくとの考えから、移民労働者家庭に普段から接している企業外部の団体に協力を求めるようになる。地元の小学校、カソリック教会、YMCAとならんで、訪問看護婦協会がこの要請に好意的に応えた。訪問看護運動のリーダーたちは公衆衛生への取り組みを実効性のあるものにするには労働者階級と直に接する必要があると前々から考えており、安全運動への協力はそのための格好の通路になると思われた。しかも、これによって訪問看護婦の社会的有用性がビジネスの世界で広く認められるようになれば、年来の希望である看護の専門職化に向けて大きく前進できる。このような動機から協会は工場に看護婦を派遣するサーヴィスを新たに組織した。これが産業看護 (industrial nursing) である。
分析に際しては、訪問看護リーダーや産業看護婦たちが自己の職業理想を語るときつねに念頭においていた「マターナル」なる思想の働きを浮き彫りにする方向で史料を読み解いてゆく。調査の結果分かったことは、マターナルな視点や言葉遣いはそのときどきの情況で使い分けられており、その背後には看護を一個独立の専門職業にしようとの強い思いがあった。産業看護婦たちは、労働者福祉にかかわるさまざまな仕事を看護的介入の対象として定義し、自己の専門的サーヴィスに対する需要を開拓しようとした。このような「ウェルフェアの看護化」と呼ぶべき試みが進展するにつれて産業福利看護婦 (industrial welfare nurses) という呼称も使われるようになる。
2. 研究史と本研究の位置
本報告の検討テーマは、経営史(人事管理史)、看護師、公衆衛生史という三つの研究系譜の交叉領域に位置している。
従来の経営史研究では、たとえばコロラド・フュエル&アイアン社やフォード自動車会社における福利部 (Sociological Department) の活動にみるように、企業がみずから移民のアメリカ化作業にとりくんだ事例が注目されてきた。しかし、これは一般的なやり方ではなく、大半の大企業は慈恵性を疑われやすいこの手の仕事を外部の団体に丸投げしていた。いまひとつウェルフェア・セクレタリー (welfare secretary) やソーシャル・セクレタリー (social secretary) と呼ばれる女性の福利担当者 (welfare workers) の働きに着目する研究があるが、セクレタリーらがどのような運命をたどったのかはよく分かっていない。その一部は雇用管理者や人事管理者へと転身していくが、大多数は歴史の舞台から消えていった。だからといって生活者としての労働者を世話する仕事が企業で必要とされなくなったわけではなく、とくに女性や移民や黒人を多くかかえている大規模産業企業や中堅企業の雇主は「パターナル・システム、あるいはマターナル・システムと呼ぶべき」施策を求めていた。こうした需要に応え、専門性に欠けるセクレタリーに代替していったのが産業看護婦である。
看護史の分野では、看護はそもそも専門職たり得るのかと批判的に問う研究がある。看護史家バーバラ・メロッシュは、「新労働史」の研究を引き合いに出して、工業化過程ならびに職場の合理化過程の影響下にある伝統的なクラフトの中に看護の仕事を位置づけ、自分の仕事への統制力を欠いている点を指摘した。看護労働の文化は、病院附属看護専門学校の伝統的な徒弟制度に根をもっているために、職人技と実務経験と自制心に価値をおいてきた。これこそが看護の大きな流れであって、専門職イデオロギーは影響力はあるがはなはだ少数の逸脱現象に過ぎなかった、看護は「専門職ではないし、専門職たりえない」と断じた。本研究は、こうした先行研究の存在を承知しつつも、なによりまず訪問看護運動のリーダーや個々の産業看護婦たちの思いに寄り添い、なにゆえに看護は女性専門職たりうるのか、これを彼女たち自身の語りに即して明らかにする。
公衆衛生史の研究では、今日、私生活への公衆衛生的な介入はどの程度まで認められるべきかがさかんに議論されているが、本研究はそのアメリカ的特徴を探る手がかりとなるであろう。1910年代に移民のアメリカ化が公衆衛生看護の重要テーマとして位置づけられて、産業看護婦による大胆な介入が試みられた。公衆衛生が大企業の私的福祉プログラムとして組織された点に特殊アメリカ的な特徴のひとつがあるのではないか。
3.史料と用語
主として用いた史料は、シカゴ訪問看護婦協会文書のほかは、20世紀初頭の既公刊文献である。19世紀のあいだ看護は専門職であるとの社会的認知を得ておらず、この時代に公刊された看護テクストのほとんどは男性医師によって書かれた。たとえ看護婦が書いたとしても、その価値が認められていなかったために、図書館員も看護婦も保存の努力を怠った。こうした事情は世紀の転換とともに様変わりした。1900年創刊の American Journal of Nursing や1909年創刊の The Visiting Nurse Quarterly など、公衆衛生看護を専門的にとりあつかう雑誌が出現した。これらの雑誌を網羅的に検討したのはいうまでもない。
用語上注意しておきたいのは “nurse” の訳語である。本報告では「看護師」というジェンダー・ニュートラルな用語を使わず、敢えて「看護婦」とした。その理由は、看護は女性専門職だと主張する訪問看護婦たちの強い思い入れと同時代人の一般的な受けとめ方をそのまま訳語に反映させたほうが、当時の人びとの思考と行動を理解するうえで好都合であろうと判断したからである。1924年の史料にはこうある。「わたしたちは長らく“ナース”の語から“女性”を連想してきましたから、ナースに言及するときは必ず“彼女”といいました。」