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モホリ=ナジとニュー・バウハウス


上 野 継 義


【初出】『アサヒカメラ』 (上)1991年 6月号, 118-19頁;(下)1991 年 7月号, 126-27頁.

(上)

 ラズロ・モホリ=ナジ (Laszlo Moholy-Nagy) 宛にシカゴ芸術産業協会 Association of Arts and Industries (AAI) から電報が届いたのは, 1937年6月6日のことであった。 これが,後にシカゴへバウハウスの思潮が導入される契機となるのだが, 当時,モホリ=ナジはナチス統治下のドイツをさって, イギリスで産業デザインの仕事にたずさわっており, この電報内容はパリで知らされた。

 AAI はシカゴの大規模百貨店主マーシャル・フィールド2世 (Marshall Field II) を中心に,同地の産業企業家によって組織されたもので, 「欧州で最上の産業芸術学校にのっとって組織した産業デザイン学校」 を設立する目的で,同校の校長にモホリ=ナジの招聘を計画したのである。

 しかしながら,この誘いに対して,モホリ=ナジの妻はドイツでの経験 から強い懸念を抱き,それをパリにいる夫に伝えている。 ファシストが生まれたのは産業が教育を乗っ取ったときだったように, 馬小屋と大平原(シカゴのあるアメリカ中西部)は ファシストとまったく同じような気がする,と。

 だが,モホリ=ナジは1928年にドイツのバウハウスを辞して以来, 一時しのぎの生活を続けていたことと,基本的にアメリカ人は過去の しがらみから解放された自由人だとの信念をもっていたこと, さらには,かつての同僚ウォルター・グロピウス (Walter Gropius) ──当時ハーヴァード大学教授──の勧めもあって,ついにシカゴ行きを決意する。 AAI も三顧の礼をもってモホリ=ナジを迎え, マーシャル・フィールドは自分のマンションを学校用に改造して提供している。

 ニュー・バウハウスが開校するまでにかわされたモホリ=ナジと 妻との間の往復書簡は,その後の経過をあたかも予言していたかのようで 興味深い。シカゴに到着するや,モホリ=ナジは AAI 企業家の私邸に呼ばれて 歓待を受けるが,彼らの邸宅にみられる建築様式,家具,絵画のなかに, 現代芸術への嗜好をしめすものがなにもないことに一抹の危惧を覚え, 聖書の句を引用して,「ゆるしたまえ,彼らは自分たちがなにをしようと しているのかわからないのです」と,妻に書き送っている。

 いっぽう,妻は,モホリ=ナジと AAI の5年間の契約が成立したことに 喜びつつも,電報で次のような提言をしていた。 「バウハウスの名前は落とせ。ドイツおよび過去のプログラムとの一致は 賢明じゃない。アメリカン・スクール・オブ・デザインはどう。」 なにはともあれ,それから9ヶ月して,AAI は同校不要との決定を下し, モホリ=ナジは自分の給与が支払われないことを知る。 第二期生約80人がすでに入学を希望しているなか, 校門は一方的に閉ざされてしまったのである。

 AAI 側の主張は口汚いののしりのようにも響くが,その概略はこうである。 モホリ=ナジは精神的な落ち着き,バランス感覚,外交手腕,忍耐力, 教育経験を欠いているだけでなく,他人のアイデアを盗用し,AAI の資料をほかの会社のために用いたり,資金を横流しし,つまるところ人も会社も うとんじ,学生間に不安や口論,騒動をまき起こし,学校の機能を損ない, AAI の社会的信用を台なしにした,という具合である。

 いささか滑稽であるが,かくしてニュー・バウハウスは短命に 終わってしまったのである。


* * * * * * * *

(下)


 シカゴのニュー・バウハウスが ものの一年もたたないうちに破綻してしまった理由としては, 一般に財政問題が指摘されているが, シカゴ芸術産業協会 (AAI) のモホリ=ナジ批判をみると, 複雑な感情のもつれのあったことがうかがえる。 先にひいたモホリ=ナジの手紙から察すれば,AAI がヨーロッパにおける芸術の動きにまったくといっていいほど通じて いなかったということが,ことの底辺にあるような気がする。

 事実,当時のシカゴの人はモホリ=ナジの学校は, スクール・オブ・ジ・アート・インスティチュート (SAI) のものまねだと評する向きがあった。 その頃の SAI は中世ヨーロッパのルネサンス絵画を理想とする芸術家 がいるなど,伝統芸術に強く傾斜しており,これとニュー・バウハウス とを混同するくらいだから,当時の社会一般の新しい芸術運動への認識 の程度は推して知るべし。 まして写真が重要な芸術形式のひとつだというモホリ=ナジの考えなど, およそ理解の範囲を超えていたといえるであろう。 また彼の意図をそれなりに評価していた『ニューヨーク・タイムズ』紙でさえ, 「外国文化」をアメリカに移植すべきか否かといった疑問をぶつけている。

 これに対して,モホリ=ナジは自らの理想をかかげて, シカゴにとどまる決意をし,教師陣も一年間無給で教えてほしいという モホリ=ナジの依頼を引き受け,校名をスクール・オブ・デザイン School of Design (SD) と改めて再出発する。 古いナイトクラブのタップダンス練習場の下を賃借りして校舎にした。 教師と学生とが一緒になって大掃除をし,大量に発生するゴキブリに 手を焼いたというから,おおよそどのような場所であったかは想像に難くない。

 大量生産による非人間的影響はバウハウスのデザインによって相殺しうる のだというモホリ=ナジの理想は,大恐慌後の無気力な社会のなかで, 独自の位置を占めたという。 また SD が象牙の塔となることなく常に現実を直視するために産業界との 関係を保ち続けた。 1944年には学校規模を拡大して,校名も SD から インスティチュート・オブ・デザイン Institute of Design (ID) と改め, 46年には校舎として旧シカゴ歴史協会の建物を購入して移転する。 ところが,45年にモホリ=ナジは白血病とわかり, 翌年11月24日に他界してしまう。

 モホリ=ナジの亡くなる46年には,教師,学生合わせて千人を数えたが, 財政状態は開校当初同様,火の車だった。 このようななかで,ID はより大きな組織への帰属を模索し, 知的自由の府として名高いシカゴ大学に話を持ちかけるが, 「大学には芸術のはいる余地がない」と一蹴され,結局49年, 私学イリノイ工科大学 Illinois Institute of Technology (IIT) のなかに吸収されて今日に至っているのである。

 この組織の変化が教育プログラムにまで影を落としたのは言うまでもなく, モホリ=ナジが生きていたとしたら,果たして是認したかどうか。 モホリ=ナジはすべての人間には隠された創造力があらかじめ備わっており, それを教育によって開花させうると考えていたが,他方, 教育の限界も熟知しており,新入生には自分の考案した創造的作業への 導入プログラムを受けさせて,その中で十分な成果のみられない者については 個人的に辞めてもらった。

 これに対して,IIT はすべての学生に同じ入学試験を課すことを主張して 譲らなかった。 かくして,ID の教育内容は1950年代以降,漸次平準化の傾向をたどり はじめ,当初の「革命的で,かつエキサイティング」な性格を徐々に失っ ていくことになった。

 なお,ID の「光と色彩のワークショップ」として知られる写真プログラム に限っていうならば,モホリ=ナジは自分の死に先立って46年に, アーサー・シーゲル (Arthur Siegel) とハリー・キャラハン (Harry Callahan) を招聘してスタッフの充実をはかっており, さらにキャラハンはアーロン・シスキンド (Aaron Siskind) を呼び, 40年代から60年代まで ID は写真教育の中心地となる。 またマサチューセッツ工科大学のビジュアル・スタディー・センターは モホリ=ナジの知人ジョルジュ・ケペス (Gyorgy Kepes) によって開かれて いるほか,インディアナ大学のヘンリ・ホームズ・スミス (Henry Holmes Smith),イリノイ大学シャンペーン校のアート・ シンサボー (Art Sinsabaugh) など,アメリカの主要大学の写真教育に ID の教師や卒業生が携わっていたことは注目されてよいだろう。 今日,バウハウス好みの芸術家の卵はイリノイ大学シカゴ校に集まる 傾向があるという。 ここはかつてアーサー・シーゲルが教師をしていた。

 さて,このように見てくると,ニュー・バウハウスの転変の著しさと同時に, 常に理想を求めて闘ったモホリ=ナジの姿が,とりわけ印象深い。 進むべき方向を見失った現代の地平から見ると, 彼の姿はうらやましくも思えるのだが, 彼の生きた時代が政治的にも経済的にも多くの難問を抱えていた時代だった ということも無視するわけにはいかないだろう。

 社会のあらゆる問題に対して,芸術がなにかをなしうると考える モホリ=ナジの哲学は,このような時代のなかでは必然的に緊張を はらんだものとならざるをえない。 また新しい芸術運動に対する無理解の壁にもしばしばぶつかったが, 彼は人間への信頼を失わなかった。

 私は人間以上に芸術を信ずることはできない。 あらゆる人間は自己を表現している。 そのほとんどは芸術なのだ──これが,モホリ=ナジの信念であった。


関連リンク

  1. Bauhaus Archive: Museum of Design

  2. インスティチュート・オブ・デザイン (Institute of Design, ID)


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