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バングラデシュの伝統医療

――コビラージと民衆世界――


上 野 継 義


【初出】日本キリスト教海外医療協力会『みんなで生きる』 第268号 (1996年 3月 10日), 8頁.


 わたしは,昨年の六月,バングラデシュへ写真取材の機会を与えられ,東海林朱実ワーカーの地域保健活動と,たくましく生きるゴルノディの人々の生活を記録してきた。この度の取材はわたしにとってまさに発見の連続であった。紙幅の関係もあるので,ここではとくに印象深かったことのなかから一つだけ記すことにしたい。それはバングラデシュの伝統医療についてである。

 バングラデシュ社会はいま急速に変化している。都市では衣服製造企業が雨後の竹の子のごとくたちあらわれ有力な輸出産業に成長しつつあり,また農村でも近代化の動きはいたるところに感じられる。だがその一方で,農民たちの思考・行動様式には,伝統に深く染まっている部分がかなりあるのも事実であり,JOCSのかかわっている医療・保健の分野はとくにそうである。なかでも一般に広く信じられている伝統医療は,民衆の生活や世界観と密接にかかわっており,近代的な保健・医療が現地に入っていく段階で,しばしば競合関係に立つといってよいだろう。ボグラで活動されている岩本直美さんは,これまで彼女のかかわってきた子供のほとんどすべてが「コビラージ」と呼ばれる民間療法師にかかった経験をもっており,コビラージは農民たちにとって非常に近づきやすい存在である,と証言している。

 人々の話を総合して判断すると,コビラージに関するイメージは人によって相当の開きがあり,薬草を処方する草本医のようなものから,超越的世界に通じている呪術師に至るまで,この両極端の間にさまざまな偏差をもって存在していると考えられる。現地で雇用したガイドの一人(明かに知識階層に属する)は,コビラージを「doctor in special to herbal medicine」と説明しており,いわゆる中国や日本の「漢方医」と同様の存在だと理解していた。たとえば腹痛の時などコビラージの薬はとてもよく効くという。これに対して,ダッカ・ハウスの運転手シュニールおじさんは,手足を骨折したときコビラージを訪ねてギプスをはめてもらうという。日本の「骨接ぎ」に近いのであろうか。ところが,悪魔(ショイタン)やお化け(メーブートゥ)が乗り移ったり,妖精(ポリ)を見るようになったときにもコビラージの助けを求めると話していた。そしてコビラージの力なしには悪魔を追い払うことなど出来ない,と断言する。

 民衆がコビラージの言葉をいつも鵜呑みにしているかというと,人それぞれ時と場合によってまちまちであり,とりわけ都市部の住民は近代医療と巧みに使い分けていることも多い。ただしその使い分けの分岐点がはなはだ重要であって,目に見えるか見えないかという視覚による病因特定の可能性が判断基準になっているようだ。たとえば,子供が夜泣きをするとか,顔色が悪い,腹が痛いといった,目に見えるかたちで原因を特定するのが困難な場合にはコビラージを訪ねるのに対して,ケガの治療など容易に目に見えるかたちでの療法が求められるときには西洋医学の扉をたたくという。なお,コビラージの多くはムスリムだが,ヒンドゥもいるそうで,彼らは宗教や宗派の違いを超えて薬を処方する。

 このような事実を「迷信」に過ぎないと言って簡単に片付けるわけにはいくまい。ワーカーの活動を,わたしたちが日本で普通のことと思っている「近代的」医療・保健行為の次元のみで捉えていると,現実に進展している事態との間に大きな認識のズレをもたらす可能性がある。現地の住民にとって身体は有機的な世界の一部であって,それゆえに農民たちは身体にかかわる仕事に従事している者を不可思議な超越的世界と現世の日常的世界とを媒介する特別な存在として受けとめている可能性がある。彼らにとって医療という行為は,単なる「近代的医療技術の適用」ではなくて,むしろ「文化に深く埋め込まれた技 (art)」であるといってよい。したがって,ワーカーの活動は農民たちの健康増進のみならず,文化の変容をも必然的に伴うものなのだといえよう。

 その意味では,タイの大森絹子ワーカーの専門とする医療人類学の研究は興味深い。JOCSは今後このような医療人類学的,あるいは医療歴史学的記録を体系的に蓄積し,次のワーカーに引き継ぐようなシステムを開発すべき時に来ていると思う。伝統医療を単にワーカー報告会のときのエピソードとして,あるいは異国の珍しい風物詩の一齣として紹介する段階はとうに過ぎ去っており,むしろ民衆文化をより深く理解するための貴重な通路として,あるいはまた地域保健活動にたずさわる際の予備知識として冷静に受けとめる必要性を痛感する。わたしの専門である歴史学の分野でも,このような事実に関心が持たれるようになっており,たとえば民衆の身体観をより大きな文化的脈絡のなかに位置づけてまるごと理解しようとする研究もすでに現われている。

 最後になったが,伝統医療に関する情報収集では東海林さんの卓越した語学力に助けられたのはいうまでもなく,バングラデシュ滞在中は現地のワーカーやダッカ・ハウスの人たちをはじめ沢山の方々のお世話になった。心から感謝したい。



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