堀木訴訟
控訴審判決

行政処分取消等請求控訴事件
大阪高等裁判所 昭和47年(行コ)第32号・昭和48年(行コ)第3号
昭和50年11月10日 第8民事部 判決

控訴人・附帯被控訴人(被告) 兵庫県知事
被控訴人・附帯控訴人(原告) 堀木文子 こと 堀木フミ子

■ 主 文
■ 事 実
■ 理 由

■ 控訴人の主張
■ 被控訴人の主張


一、原判決主文第一項を取消す。
  右取消にかゝる被控訴人(附帯控訴人)の請求を棄却する。
二、被控訴人(附帯控訴人)の本件附帯控訴を棄却する。
三、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人)の負担とする。

一、控訴人(附帯被控訴人)(以下「控訴人」という。)
1、控訴につき
 原判決中控訴人敗訴部分を取消す。
 被控訴人(附帯控訴人)(以下「被控訴人」という。)の請求を棄却する。
 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
2、附帯控訴につき
 本件附帯控訴を棄却する。
 附帯控訴費用は被控訴人の負担とする。

二、被控訴人
1、控訴につき
(一) 本件控訴を却下する。
   控訴費用は控訴人の負担とする。
(二) 本案について
 本件控訴を棄却する。
 控訴費用は控訴人の負担とする。
2、附帯控訴につき
 原判決中被控訴人敗訴部分を取消す。
 控訴人は被控訴人が昭和45年3月から同年8月までは1カ月金2,100円、同年9月からは1カ月金2,600円の各割合による児童扶養手当の受給資格を有する旨の認定をしなければならない。
 訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。
 当事者双方の主張及び立証の関係は次に付加するほかは原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。(但し原判決3枚目裏11行目から12行目の「第2項」、同4枚目裏5行目、同5枚目表4行目の各「第2項」を削る。)

一、控訴人は、当審において、別紙(一)「控訴人の主張」のように、被控訴人は、当審において同(二)「被控訴人の主張」のように各主張した。

二、三、立証(省略)

[1]一、被控訴人は、「本件控訴は、控訴人の真意に基づかないものであるから不適法である。」旨主張し、その理由とするところは、
「控訴人は、原判決は正当であるから控訴すべきではない旨再三にわたり、公に表明していること、仮りに控訴人が最終的には控訴の意思をもつていたとしても、それは控訴人において、国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律を誤解し、法務大臣の控訴指示を適法と信じた結果、これに従つてなした控訴で、錯誤に基づくものである。」
というのである。
[2] しかしながら、訴訟行為は民事(行政事件を含む)訴訟手続において裁判所に向けてなされる公法的な行為であるから、手続の安定を尊重し、明確を期する必要上、私法行為と異なり表示主義、外観主義が貫徹され、特別な場合(例えば民訴法第420条第1項第5号参照)を除いては、その行為について錯誤、虚偽表示、詐欺強迫等のあつたことによつて効力が影響されない(管轄の合意のように訴訟外でなされるものは格別)。したがつて又当事者が外形上訴訟行為として表示をする以上、行為当時内心どんな意思に基づいてこれをしたか、その真意がどうであつたかを問う必要はなく、専ら当事者の表示を標準としてその効力を判定すべきものと解するのが相当である。そして、本件において、昭和47年10月11日控訴人が原判決に対し控訴する旨記載した控訴状を当裁判所に提出していることは記録上明白なことであり、控訴の提起という表示行為が控訴人によりなされている以上たとえ控訴人知事が事前に裁判外で控訴しないことが適当と思われるとの意見を公表していたとしても、また、最終的には法務大臣の指揮に従つて本件控訴を提起するに至つたとしても(なお、都道府県知事は本件のような国の機関委任事務についての行政訴訟については、いわゆる権限法第6条第1項、第5条第1項により法務大臣の指揮を受ける立場にあるので、知事において、法律の解釈を誤り錯誤によつて、本件控訴をしたと解する余地はない。)本件控訴の効力に消長を来すものでなく、被控訴人の所論は採用できない。

[3]二、被控訴人は、また「本件控訴は控訴の利益を欠くから不適法である。」旨主張し、その理由とするところは、
「控訴人は、原判決後、その趣旨に賛同し、みずから障害(老齢)福祉年金と児童扶養手当との併給を実質的に認める児童養育見舞金支給要綱を定めるなどし、更に立法府においても、原判決の判断を正当として、昭和48年9月26日右併給を認める法改正を行い、改正法は同年10月1日より施行されている。したがつて本件控訴は、本件係争の併給禁止条項が制度全体としては既に問題が解決済であるのに、ひとり被控訴人の児童扶養手当の受給資格のみを争うためになされたものであるから、最早や控訴をしてまで、争う実質上の利益はない。」
というのである。
[4] しかしながら、控訴の利益の存否は第一審判決が控訴人に不利益か否かによりきまるのであり、不利益か否かは既判力を生じる判決主文を基準として判断すべきである。これを本件についてみるに、被控訴人の控訴人に対する本訴請求中本件児童扶養手当認定請求却下処分の取消請求部分が第一審判決において認容され、控訴人が敗訴した以上、この判決に対し控訴人は控訴の利益を有すること明らかである。判決理由中に判断された法令の違憲の存否は、本件控訴が理由あるか否かに関することであり控訴の利益とは関係がない。以上のとおり控訴の利益の存否は形式的にこれをとらえるべきであるから、これに反する被控訴人の所論は採用できない。
[5] ちなみに所論、控訴人が原判決後、児童養育見舞金支給要綱を制定したといつても、各成立に争いのない甲第29、第30号証を総合すれば、右は兵庫県が独自の立場で県会の承認を得て知事が「昭和47年度兵庫県児童養育見舞金支給要綱」を制定したものであり、それは「国民年金法に基づく障害福祉年金を現に受給しているため、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当が支給されないものに対し、兵庫県児童養育見舞金を支給すること」をきめたものであり、本件併給禁止条項の存在を前提として、「他の法令等によりこれに替るべき措置が講ぜられるまでの暫定措置」とされたものであるから、その制定は本件控訴理由の当否についても無関係といわねばならない。また所論法改正が行われたとしても、右改正は、昭和48年10月1日より施行されたもので、遡及効が認められているわけでないから、これがため右改正前の本件併給禁止条項が問題となつている本件控訴理由の当否について影響を及ぼすものでもない。

[6]三、被控訴人は、更に「本件控訴は、控訴権の濫用である。」旨主張し、その理由とするところは、
「本件控訴は、児童扶養手当と障害福祉年金の併給を禁止した前記改正前の条項が、原判決によつて違憲であると判断されたため、国において控訴をさせたものであつて、本件控訴によつて求めるところは違憲の判断を受けたという司法機関に対する形式的な面子以外のなにものでもない。控訴提起とうらはらに控訴提起後、国会が右併給の正当性と必要性を認めて法改正が行われたので、本件控訴は国会の意思とも矛盾するし、また下級裁判所の軽視と相俟つて、司法の違憲審査制度、ひいては三権分立の制度に反する。単なる面子のために判決の確定を妨げることは、貧困と差別に耐え、救済を求めている被控訴人に対する人権侵害行為である。」
というのである。
[7] しかしながら、控訴権は第一審で一部又は全部敗訴した当事者が当然にもつ権利(控訴裁判所に対し不服申立することの出来る訴訟上の権利)である。したがつて、たとえ第一審の裁判に瑕疵があつても当事者の上訴権の行使がなければ上訴審は開かれないし、当事者の申立が裁判によつて全部認容されておれば、裁判の瑕疵にかかわらず原則としてその当事者に上訴権は認められない。現行法は形式的不服の存在を上訴の要件とし、これある限り、敗訴当事者には当然の権利として上訴権を認めている。
[8] そして控訴権の濫用とは、観念的にいえば、控訴権者が控訴の本来の目的である原判決の誤謬の訂正による権利の防衛のためでなく、原裁判の正当なこと、従つてまた控訴の理由ないことを認識しているにかゝわらず(主観的要件)、控訴の確定力遮断効を利用し、訴訟引延し、又はこれに類する結果を意図して控訴権を行使することである。このような濫控訴を防止する直接的な対策(これを不適法として却下する如き)は現行法のもとでは考えられない。けだし濫控訴が主観的要件によるため控訴提起の当初、これを判定することは実際上不可能といつていい。控訴審の審理過程をとおして控訴棄却の結論に達したとき右主観的要件の充足があつたとみることが出来る場合があるにすぎないからである。ただこの防止対策として間接な方法であるが、現行法は金銭による制裁(民訴法第384条の2)を規定しているに留まる。
[9] 右のとおり、たとえ控訴権の濫用があつたとみられる場合でも、控訴を不適法としてその却下を求めることはできないから、これと異なる見地に立つ被控訴人の所論は採用できない。
[10] のみならず、第一審で一部敗訴の判決を受けた控訴人に対し、法務大臣が「国会で制定された法律が違憲と判断されたことは重大な問題で、一審限りで判決を確定させることは相当でなく上級審の判断を仰ぐ必要がある。」として本件控訴を指示し、右指示に従つて本件控訴権の行使がなされたとしても、それは控訴人が審級制を活用し、控訴により原判決の取消変更を求めたにすぎず、これを目して控訴権の濫用とはいえず、又右指示に従つた本件控訴の目的が司法機関に対する形式的面子以外にないともいえない。また所論法の改正が行なわれたことも、本件控訴理由の存否にかかわりないこと前に説示したとおりであるから、これがため控訴権濫用の問題を生じる余地がなく、本件控訴が司法機関に対する形式的面子の維持だけの目的でなされたとはいえない。また本件控訴権の行使が司法による違憲審査、三権分立の制度にそいこそすれ、右法の改正によつてその点に影響を及ぼすものでないことも明らかである。なお、控訴人が他に何ら実質的利益がないのに、ただ訴訟完結を遅延せしめる目的のみを以て本件控訴を提起したと目すべき事由は見当らないから、本件控訴自体が、被控訴人に対する人権侵害となる余地もない。
[11] 被控訴人が国民年金法別表記載の一種一級に該当する視力障害者であり、国民年金法に基づく障害福祉年金を受給していること、昭和23年3月6日離婚し、それ以来、二男堀木守(昭和30年5月12日生)を養育してきたこと、被控訴人が昭和45年2月23日控訴人に対し、児童扶養手当の受給資格について認定請求をしたところ、控訴人は同年3月23日付で右請求を却下する旨の処分をし、これに対し、被控訴人が同年5月18日付で控訴人に対し異議申立をし、控訴人が同年6月9日付で、右異議申立を棄却する旨の裁決をしたこと、その裁決理由は、被控訴人が障害福祉年金を受給しているので、昭和48年法律第93号による改正前の児童扶養手当法第4条第3項第3号(以下「本件併給禁止条項」という)に該当するというものであつたこと、以上は当事者間に争いがない。
[12]1、控訴人は、
「裁判所が本件のような併給禁止ないしは調整条項を違憲であると判断することは、結局は新たな立法を行うことと同じ効果をもち、しかもその結果は当然国家予算の支出を伴うこととなるから、明らかに司法審査の限界を逸脱する。」
旨の主張をする。
[13] 思うに、裁判所が違憲立法審査権をもつとはいつても、それは具体的訴訟事件において争訟の解決に必要な限りにおいて法令が憲法に違反するかどうかを判断することができるにすぎず、抽象的に法令の違憲審査をするものでない。本来司法権は受動的、消極的な機能を果たすにすぎず、国の政策形成を積極的に行うべきものではない。従つて違憲判決がなされたとしても、違憲とされた法令条項は対世的一般的に無効となつてしまうのではなく、その事件について無効なるが故にその適用を排除されたに留まる。違憲判決の効力は、右のとおり、当該事件および当事者を拘束するが、対世的にその法令が直ちに無効となるのではない。憲法は司法権が果たす抑制的機能としてはこれで十分としたものと解される。ただ立法府は違憲判決を尊重し、その法令を廃止、改正するであろうし、行政府はその執行を自制するであろう。これが又憲法の予期するところでもある。しかしながら、このような予期から生じる結果は違憲判決の直接の効果でなく、間接的事実上の結果にすぎない。従つて、裁判所が本件のような併給禁止ないし調整条項を違憲無効であると判断したため、年金等の支給要件や、支給額について右条項による制限が除去されたのと同じ結果になるとしても、それは裁判所のもつ違憲立法審査権の行使がなされた当然の結果でなく、違憲判決の有する右間接的事実上の結果にすぎない。従つて、違憲判決により裁判所が積極的に国の政策を方向づける立法(法令の廃止、改正)を行うものではない。また裁判所の右違憲判断の結果、国家予算の支出を来たすことは必然的であるけれども、これまた裁判所の違憲立法審査権の行使がもたらす間接的事実的結果であり、裁判所が国会の権限(予算審議、決議権)や内閣の権限(予算作成、国会提出権)を侵すものではなく、司法権がその受動的、消極的な本来の役割の範囲を逸脱するものでもない。
[14] 以上のとおり、控訴人の主張するような理由をもつてしては、障害福祉年金と児童扶養手当の併給を禁止した本件併給禁止条項についての裁判所の違憲審査権を否定し去ることは出来ず、所論は採用の限りでない。

[15]2、裁判所が、国民の直接選挙により選出された議員によつて構成された国会の審議の結果、多数者の賛同によつて定立された法律について、違憲無効と判断することは重大なことであるから、違憲立法審査権の行使に当つては、慎重でなければならず、殊に係争の法令条項が国民に対し権利、利益を賦与するようないわゆる給付行政に関するもので、立法府の立法裁量に属する事項に属するもの(一般に立法裁量事項につき、裁量内でなした立法については違憲問題は生じない。)である場合、これを違憲であると判断するがためには、立法府が恣意によるなどして、判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない。
[16] 被控訴人は、わずかな額の障害福祉年金受給を理由に児童扶養手当を支給しないとすることは、身体障害者や母子家庭の生活実態に照らし、母と子の生存権を不当に侵害するもので、本件併給禁止条項は憲法第25条に違反すると主張するので、以下この点について検討する。

(一) 憲法第25条の解釈と社会保障
[17] 憲法第25条第1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運用すべきことを国の責務として宣言し、また、同条第2項は、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定する。この規定は社会生活の推移に伴う積極主義の政治である社会的施策の拡充増強により、国民の社会生活水準の確保向上に努力すべき国の責務を宣言したものである。憲法第25条の第1第2項を通じ、国はこれに対応して国民一般に対して概括的にかかる責務を負担し、これを国政上の任務としなければならないのであるけれども、個々の国民は、直接これにより、国に対し具体的、現実的な権利を有するものではない。国民の本条による具体的権利は、本条の規定の趣旨を実現するために制定される個々の法律によつて、はじめて与えられるのである。そして、本条第1項について、これをみれば、同項による国民の具体的な最低限度の生活保障請求権は同項の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである(生活保護法第1条、第3条、第4条、第8条、第9条参照、なお最高大法廷判昭和23・9・29刑集2巻10号1235頁、同昭和42・5・24民集21巻5号1043頁)。
[18] 被控訴人は、
「本条をプログラム規定であると解する見解は、終戦直後の昭和23年頃の困難な経済社会のもとにおいては通用しえたかも知れないが、今日においては通用しない論理であるとか、本条は裁判規範であるとか」
の主張をする。
[19] しかし、「健康で文化的な最低限度の生活」といつても、それは固定的なものではなく、確定的・不変的な概念でなく、抽象的な相対的概念であつて、その具体的な内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上発展すべきもので、多数の不確定的要素を総合考量してはじめて決定しうるのであつて、その具体的内容は時と所によつてちがいうるものであり、憲法もこれを予定し、その基準の設定を固定化しているわけでないから、昭和23年当時からみると、我が国の文化経済の発展にはめざましいものがあるからといつて本条が国の責務を規定したいわゆるプログラム規定であることを否定し、国民は直接本条によつて具体的現実的請求権を取得するものとは考えられない。もつとも右憲法の規定を国の責務を宣言したものと解しても、それがため憲法第25条が裁判規範として機能することまでも否定するものではもちろんない。
[20] 以上のとおり、憲法第25条第1項は国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運用すべき国の責務を宣言したものであり、又同条第2項は国民の社会生活水準の確保向上に努めるべき国の責務を宣言しているものであるが、同第2項に基づいて国の行う施策は、結果的には国民の健康で文化的な最低限度の生活保障に役立つているとしても、その施策がすべて国民の生存権確保を直接の目的とし、その施策単独で最低限度の生活の保障を実現するに足りるものでなければならないことが憲法上要求されているものとは解されない。むしろ憲法第25条は、すべての生活部面についての社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進を図る諸施策の有機的な総合によつて、国民に対し健康で文化的な最低限度の生活保障が行われることを予定しているものと考えられるのである。結局同条第2項により国の行う施策は、個々的に取りあげてみた場合には、国民の生活水準の相対的な向上に寄与するものであれば足り、特定の施策がそれのみによつて健康で文化的な最低限度という絶対的な生活水準を確保するに足りるものである必要はなく、要は、すべての施策を一体としてみた場合に、健康で文化的な最低限度の生活が保障される仕組みになつていれば、憲法第25条の要請は満たされているというべきである。
[21] 本条第2項の趣旨が以上のようなものであるとすると、同項に基づいて国が行う個々の社会保障施策については、各々どのような目的を付し、どのような役割機能を分担させるかは立法政策の問題として、立法府の裁量に委ねられているものと解することができる。
[22] また、本条第2項による国の責務の遂行には、当然に財政措置を伴うものであり、而も財政には制約があるから、国は国家財政、予算の配分との関連において、できる限り、社会生活水準の向上及び増進に努めればよく、それをもつて同条項の規定の趣旨に十分合致するものと解すべきである。
[23] そうして、国が右のような努力を続けることによつて、国民の生活水準が相対的に向上すれば、国民の最低限度に満たない生活から脱却する者が多くなるが、それでもなお最低限度の生活を維持し得ない者もあることは否定することはできないので、この落ちこぼれた者に対し、国は更に本条第1項の「健康で文化的な最低生活の保障」という絶対的基準の確保を直接の目的とした施策をなすべき責務があるのである。すなわち、本条第2項は国の事前の積極的防貧施策をなすべき努力義務のあることを、同第1項は第2項の防貧施策の実施にも拘らず、なお落ちこぼれた者に対し、国は事後的、補足的且つ個別的な救貧施策をなすべき責務のあることを各宣言したものであると解することができる。

(二) 児童扶養手当制度の趣旨
[24] 次に児童扶養手当が憲法第25条第1、第2項のいずれによる施策であるかを検討する。
(1) 社会保障制度
[25] いずれも成立に争いのない乙第14号証の1、2、成立に争いのない乙第17号証、当審証人安藤哲吉の証言及び弁論の全趣旨によれば、憲法第25条の以上のような趣旨をうけて、これを具体化するための社会保障制度としては、(1)主として、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他生活困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担による方法においてなす防貧施策としての経済保障と、(2)生活困窮に陥つた者に対する国家扶助による健康で文化的な最低限度の生活を保障する救貧施策としての生活保障の2本建てから成るけれども、もともと我が国において「社会保障」ないし「社会保障制度」といつても、その趣旨は必ずしも定かではなく、通常は右2つの保障施策の外に、国がその向上を図らねばならないとされる(3)公衆衛生及び医療と(4)社会福祉の2部門をも含めた4部門を総称しているものであることが認められる。
(2) 生活保障(国家扶助)と経済保障(社会保険)
[26] 右2本建ての制度のうち、救貧施策である生活保障については、既述のように生活保護法による生活保護制度が憲法第25条第1項の趣旨を直接実現する目的をもつて制定されているとみなければならない。そのことは生活保護法第1条に「この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。」と定め、第3条に「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。」と定めていることから明らかであるが、更には同法第4条第1項に「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。」同第2項に「民法(明治29年法律第89号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。」と各規定し、いわゆる保護の補足性の原則を定め、同法第8条第1項に「保護は、厚生大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。」同第2項に「前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。」と各規定し、保護の基準及び程度の原則を定め、又同法第9条は、「保護は、要保護者の年齢別、性別、健康状態等その個人又は世帯の実際の必要の相違を考慮して、有効且つ適切に行うものとする。」と規定し、いわゆる必要即応の原則を定めているが、これらの規定からすると、生活保護法に基づく生活保護制度は、現に窮乏の状態にある者に対し、その現在の生活需要に着目して健康で文化的な最低生活の保障を行おうとするものであつて、保障の実施は、窮乏の程度に応じて個別的、具体的になされ、具体的には、あらかじめ国が最低生活の基準を定めておき、所得がその水準に達しない者に対して、その不足分を金銭又は現物の給付によつて補うという建前が採られていることがわかる。このように生活保護法による生活保障は具体的、個別的救済を目的とするものであるため、その保障を行うに際しては、現に窮乏の状態にあるか否か、すなわち、自力では健康で文化的な最低限度の生活を営み得ないか否か、営み得ないとすれば右最低生活水準に達するにはどの程度の給付を必要とするか等に関する行政庁の認定を必要とし、その認定を行うため資産調査及び収入調査(ミーンズ・テスト)等の手段が講ぜられているのである。
[27] 而して生活保護法による生活保障制度が以上のように具体的、個別的な救貧施策であるということは、憲法第25条第1項が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しているということからくる極めて必然的な結果である。
[28] そうだとすると、逆に、右のような具体的、個別的な保障施策としての規定が存在しない法律によつて社会保障制度が設けられた場合それは憲法第25条第1項に直接関係しない、同条第2項に基づく防貧施策であると解することができる。すなわち、前記補足性の原則等のような規定の存否が、憲法第25条第1項に直接関係する法律ないし制度であるかどうかの判断の主要な目処になるということができる。
[29] ところで、国民年金法の制定に至る経過をみてみるに、いずれも成立に争いのない乙第14号証の1ないし3、同第15号証の1ないし3、同第16号証の1ないし4、同第17号証、当審証人坂本龍彦の証言及び弁論の全趣旨によれば、次のことが明認される。
[30] 我が国の経済保障(社会保険)制度の中心は公的年金制度であるが、同制度は、国民年金、厚生年金の2制度を主体とするほか、船員保険、国家公務員共済組合、地方公務員等共済組合、公共企業体職員等共済組合、私立学校教職員共済組合、農林漁業団体職員共済組合の8制度にわかれていること、これを沿革的にみると、官公吏に対する年金制度として知られている恩給が最も歴史が古く、明治初年に軍人恩給制度として始まり、間もなく文官に対する恩給も設けられ、大正12年に恩給法に統一された。一方、現業官庁に勤務する者に対しては、大正8年ごろから官業共済組合が設立されていたが、これらが旧国家公務員共済組合法に引き継がれ、前述の恩給法と合体して、現在の国家公務員共済組合、地方公務員共済組合及び公共企業体職員等共済組合となつた。民間の被用者の年金制度としては、昭和14年に船員保険法が制定され、まず海上労働者に対する年金制度が実施されたのが最初であり、昭和16年の工場、鉱山等の一般労働者を対象とする労働者年金保険法がこれに続いた。更に後者は、昭和19年には、適用対象も事務職員及び女子まで包含した被用者一般に拡大され、厚生年金保険法と改正された。しかし、これらの年金制度は、いずれも被用者を対象とするものであり、農民等の自営業者や零細企業被用者などは、依然として制度の外に取り残されてきた。これに対し、社会情勢の変化に伴う家族制度の崩壊、人口の老齢化、社会保障意識の高揚、戦後の急速な経済復興その他もろもろの社会的要因を背景として、これら既設の制度から取り残された人々をすべて年金制度の網の目に包み込むという構想の下に、昭和34年に国民年金法が制定され、ここに我が国の年金制度においてもようやく国民皆年金の体制がとられるに至つたのである。このように、国民年金法は、国民皆年金の理念に基づき、これまでの被用者を対象としていた公的年金制度による保護の及ばなかつた農漁業者、自営商工業者、自由業者等を適用対象として制定されたものである。我が国の年金制度は、それまで、一部国庫負担を加味した拠出制による社会保険方式を原則としていたので、国民年金制度もこれにならい、拠出対給付という対応関係を基本とし、老齢、障害、死亡などの保険事故に際して被保険者又はその遺族に保険給付を行い、その所得能力の喪失又は減少に対し必要なてん補を行おうとするものである。しかしながら、拠出制一本で貫くと、制度実施の時点において既に老齢、障害又は母子の状態にある者及び将来保険事故が生じても保険料納付期間が所定の期間に達しないため拠出制の受給権に結び付かない者に対しては、国民年金制度の保障する利益を及ぼすことができず、国民皆年金の理想が全うされない結果となる。そこで、右国民年金制度においては、この拠出制の欠陥を補うための経過的及び補完的な無拠出の年金制度たる福祉年金制度を設けるに至つたのである。
[31] 而して、国民年金法の規定を検討してみても、前記補足性の原則等のような具体的、個別的救貧施策であると認めるべき規定は見当らず、受給資格及び給付内容は、保険事故の種別に応じて一般的に定型化され、保険事故により被保険者に生ずる生活需要の有無及びその具体的な程度いかんにかかわりなく、いわば平均的需要に着目して画一的な給付が行われる仕組みとなつており、且つ国民年金法第1条は、「国民年金制度は、日本国憲法第25条第2項に規定する理念に基き、老齢、廃疾又は死亡によつて国民生活の安定がそこなわれることを国民の共同連帯によつて防止し、もつて健全な国民生活の維持及び向上に寄与することを目的とする。」と、第2条は、「国民年金は、前条の目的を達成するため、国民の老齢、廃疾又は死亡に関して必要な給付を行うものとする。」と規定していること及び前認定の立法の沿革に徴してみると、国民年金法による国民年金制度(本件で問題なのは障害福祉年金及び母子福祉年金制度)は、明らかに憲法第25条第2項に基づく、防貧施策制度であり、同条第1項には直接関しないものであるといえる。
(3) 児童扶養手当法と国民年金法
[32] 国民年金制度は原則が保険制度である以上、被保険者たる夫が死亡したときに母子年金が、被保険者が廃疾の状態になつたときに障害年金が支給される仕組みになつており、右のような保険事故の発生が支給要件とされるため、制度発足時に既に死別母子の状態にある者、重度の廃疾にある者は、拠出制年金の支給を受けることができないため、これらの者にも、皆年金体制を実りあるものとする意味で、無拠出であつても、全額国庫負担で年金を支給する規定が設けられた。これが経過的福祉年金である(国民年金法第81条、第82条)。また、拠出制年金の対象者でありながら、事故が発生した時に拠出期間が一定限度に満たず、拠出要件を充足しないため、拠出制年金を受けられない者を対象として、補完的福祉年金が設けられた(同法第56条、第61条)。以上のとおり、国民年金法は全面的に拠出制を採用するのではなく、拠出制を基本としつつ、拠出制を補うために、経過的に、あるいは補完的に無拠出制の福祉年金制度を採用して、国民皆年金体制の即時実現を達しようとしたものである。夫死亡という事故による母子世帯の所得(稼得能力)喪失ないし低下に対する所得保障を目的とする母子年金(遺族年金の一種)、又は廃疾という事故による所得(稼得能力)喪失ないし低下に対する所得保障を目的とする障害年金について、経過的、補完的に設けられたのが、母子福祉年金又は障害福祉年金である。
[33] 右のように、死別母子については、国民年金法による母子年金あるいは母子福祉年金又は年金関係各法による同様の給付を受けられるようになつたのであるが、夫と離婚し、又は内縁関係を解消した場合のように夫と生別した場合には、右のような給付は受けられない。これは、離婚その他夫との生別という人為的な事象が偶然性を前提とする年金保険事故になじまないため、保険料拠出を建前とする年金制度に取り入れられなかつたためであるが、死別と生別とを問わず、よつて生じた母子世帯の社会的、経済的実態は同じであるため、これと死別母子世帯とくらべその公平を図り、生別母子世帯について母子福祉年金に準ずる所得保障を実施することにしたのが、児童扶養手当法の制定である。その際、実質的に生別母子世帯と同視し得る世帯即ち児童の父が廃疾である場合等のような場合も同様の保障の対象とすることとされた(法第4条第1項第1ないし5号)。
[34] 以上児童扶養手当法による手当制度は、年金制度ではないが、実質的に防貧施策としての母子年金、母子福祉年金制度を補完する目的をもつて、創設された所得保障制度であると認めるのが相当である。
[35] 右のことは、児童扶養手当法の内容特に該手当の支給要件(公的年金給付との調整条項)、給付額、財源(全額国庫負担)の対比において母子福祉年金との応答が等しくなるよう配慮されていることからも明らかである。
[36] もつとも、被控訴人は、
「児童扶養手当の実質上の受給権者は、母でもなく、世帯でもなく、正しく児童であり、また稼得能力の低下、喪失に対する所得保障の性格をもつものではない。この点において母子福祉年金とは違う。」
旨主張する。そうして、児童扶養手当法第1条が手当法の目的を「児童の福祉の増進を図る」と規定し、同法第2条が手当支給の趣旨を、その前段において「児童の心身の健やかな成長に寄与すること」と規定し、その後段において「その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない。」と規定し、更に同法第14条第3号はこれを受けて、「受給資格者が、当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は「その額の全部又は一部を支給しないことができる。」と規定していることからすると、児童扶養手当は児童の健全な養育に資するという目的で支給されるものであることは明らかであるけれども、このことは前示のような立法の経緯及び同法第1条に「父と生計を同じくしていない児童について」とあり、また同法第4条第1項に手当は「母又はその養育者に対し」支給する旨の規定の存するところに徴すると、児童扶養手当は稼得能力の低下、喪失に対し、母(又は養育者)を受給権者とする所得保障の性格をもつと解することと矛盾するものではない。すなわち、児童扶養手当は法第4条第1項所定の母又は養育者にこれを支給し、その所得保障をすることによつて最終的には児童の福祉の増進が図られ、児童の心身の健やかな成長に寄与することになるのである。母子年金、母子福祉年金も最終的には全く同じ効用をもつものであると考えられる。
[37] 当審証人河野正輝の証言中、児童扶養手当の趣旨、目的に関する部分は、以上の理由から採用できない。
[38] 母子年金及び母子福祉年金の場合には支給要件として、「夫によつて生計を維持していた」者ということになつているのに対し、児童扶養手当の場合には、支給要件規定のうちに同旨の文言がないことを根拠として、児童扶養手当は、稼得能力の低下、喪失に対する所得保障の性格をもつものではないと結論づけるわけにはいかない。前者は保険的方法により所得保障をしようということから、規定上受給権者を制限特定する上で必要であるため、入れられているものにすぎないし、児童扶養手当法第1条に「父と生計を同じくしていない」との文言が入れられてあることによつてみれば、児童扶養手当も母子年金、母子福祉年金と別異に解すべき理由はない。また児童扶養手当法第5条の第二子からの加算規定は児童扶養手当が稼得能力の低下とは無関係のことを示すものであるともいえない。児童扶養手当は、生別母子ということから一般的に予測される稼得能力の低下、喪失によるその所得の一部を保障するものであつて、一挙にそれによる所得の低下、喪失の全額を保障するものではないから、技術的に、児童数によつて支給額を按分していく方法をとつているものと考えられないことはない。また当審証人坂本龍彦の証言によると、児童扶養手当法の児童数に応じた加算の制度及び国民年金法の母子年金、母子福祉年金における扶養家族がある場合の加給の制度は、ともに児童扶養手当または年金を受ける者の生活実態にある程度見合つた給付をすることが適当であるという考え方に基づくものであることが認められるので、右加算制度のあることをとらえて、児童扶養手当を母子福祉年金とは性質が異なるとか、稼得能力の低下、喪失とは関係ないなどと断定するわけにはいかない。
[39] その他被控訴人が児童扶養手当が母子福祉年金とは性質の異なるものであるとして挙示する事由は、いずれも、両者の関係をしかく決定づけるものではないし、また前記解釈に抵触を来たすものではない。
(4) 児童扶養手当と児童手当
[40] 被控訴人は、
「児童扶養手当は、父と生計を同じくしないという特殊な状態にある児童に限定して設けられた児童手当制度の一種である。」旨、また「児童扶養手当は、国際的な意味での家族手当としての児童手当であつて、他の年金給付などと併給するのが原則である。」
旨主張する。そこで以下この点について検討を加える。
[41] 我が国の児童手当法は、昭和46年5月27日制定され、昭和47年1月1日から施行されたものであるが、いずれも成立に争いのない乙第43号証の5、同第45号証の2によると、同法による児童手当制度は、一般に家計における児童養育費は養育する児童数に応じて増大する一方、所得は必ずしもこれに対応するものでないことから、一定数以上の児童を養育している者に対して、その養育している児童数に準拠した所定の給付を行うことにより、児童養育費の負担を総体として減少させ、所得と支出の不均衡を是正しようとするものであると観念されていることが認められ、また、いずれも成立に争いのない乙第33号証の2、同第55号証の4によつて、世界各国の児童手当制度を概観してみても、右同様に、児童の養育費の負担を軽減することを目的とする給付としてとらえ、給付は原則的には児童数(児童の養育費の増減)に比例すべきものとして扱つていることが認められる。すなわち、児童手当は児童の養育費の負担増に対応する支出保障としての給付であるというべきである。このことは、児童手当法第1条中に「児童を養育している者に」児童手当を支給する旨、「家庭における生活の安定に寄与する」とともに「次代の社会をになう児童の健全な育成及び資質の向上に資する」ことを目的とする旨規定していること及び同法第4条所定の支給要件規定の内容から十分に窺知できる。
[42] これに対し児童扶養手当法は、前示のような立法経緯及びその内容からして、最終的には児童の成長に寄与する効用をもつものではあるが、主として生別母子状態という稼得能力の低下又は喪失に着目して、母(又は養育者)を受給権者として、母子福祉年金に準ずる所得保障を行う制度を定めたものであると解することが出来る。
[43] 更に児童手当法の立法趣旨を考えるに、いずれも成立に争いのない乙第48ないし第51号証の各1、2によると、我が国の児童手当法の制定の過程において、児童扶養手当制度の外に児童手当制度を設けるに至つたのは、「多子」という負担増加に着目し、すべての世帯にこれが手当を一律に支給するという必要からであつて、児童扶養手当との間における制度の目的趣旨が違うことを十分意識して扱つていたことが窺われる。
[44] また、成立に争いのない乙第55号証の4、5によれば、児童手当あるいは家族手当は、世界各国の例をみても、子女の扶養を要件として一般家庭における平均的生活状態に着目して給付を行うのが普通で「扶養」以外の両親の一方が欠けているとか、児童が心身障害児であるとかいう特別の事由について支給要件、給付額を変えることをしているものはないことが認められる。いずれにしても児童扶養手当をもつて、児童手当の一であるとはいい難い。
[45] このように、児童手当が、児童を養育していることに伴う支出の増加に着目した制度であるのに対し、児童扶養手当は、稼得能力の低下又は喪失に着目した制度であり、両制度は基本的に性格を異にしているから、それぞれの受給資格、支給要件、支給額等を独自に規定し、かつ両制度相互の間で、受給資格、手当額等について何ら併給調整を行つておらず、児童扶養手当の受給者についても、児童手当の支給要件に該当すれば児童手当が支給されその場合に何れか一方の額が減額されることもない。
[46] また、いずれも成立に争いのない乙第25号証の1ないし6、同第52号証の1ないし5、同第53号証の1ないし3、同第54号証、同第55号証の1ないし5及び当審証人角田豊の証言(一部)によれば、次のことが認められる。すなわち、ILO102号条約は、社会保障制度を社会保障上の事故別に9つに分類して、それぞれの基準を定めている。
[47] すなわち(1)医療、(2)疾病給付、(3)失業給付、(4)老齢給付、(5)業務災害給付、(6)家族給付、(7)母性給付、(8)廃疾給付、(9)遺族給付の9部門である。そこで児童手当は右「家族給付」の中に分類される。そして同条約第69条は、「家族給付」を除いて、公的年金給付間の併給の調整ができる旨定めているけれども、「家族給付」については同第40条において、単に「適用を受ける事故は、所定の子に対する扶養の義務とする。」旨定めているのみであつて、それ以外の廃疾、死亡、稼得能力者との生別というような事故を家族給付の事由とはしていない。したがつて、ILO102号条約にいう家族給付のうちには、夫(父)との生別を給付事由とする我が国の児童扶養手当は含まれず、また同条約第69条にいう併給調整の除外事由にも当らない。また、右のように同条約第40条が家族給付について、「適用をうける事故は所定の子に対する扶養の義務とする。」との規定に関し、ILO第102号条約に関する条約、勧告適用専門家委員会の報告書も、両親が離婚、別居、あるいは死亡した場合等の子に対して一定の給付を支給する立法について、その保護の範囲は、「条約の規定に適合するとは思われない基準」であると述べている。南ア連邦、デンマーク、アメリカ合衆国などでは、ILO102号条約の家族給付部門に含まれない父又は母の死亡、離婚、別居、廃疾、老齢などを給付事由とする規定を別に設けている。同条約は、遺族給付の部門において、同条約第60条第1号中で「適用を受ける事故は、扶養者の死亡の結果その寡婦又は子が被る扶養の喪失とする。」旨定めている(ILO128号条約第21条第1号同旨)。等しく労働者の生活上のニードに対する保障であつても、疾病(所得の中断)、老齢(所得の喪失)などによるような事故の場合に支給すべき給付と、家族手当金というような給付とではその性格が異なり、前者は「失つた所得に対する補償」というものであり、後者は子女の扶養という事故がある限り、支給さるべきもので「所得への恒常的な補給」というものであるという区別があることは、国際的に理解されていて、ILO102号条約の前記内容もこの意味において解釈さるべきである。ILO128号条約中には「家族給付」についての定義づけは見当らないが、同条約第33条第2項には、この条約で定める給付は同一の事故について「家族給付」を除く他の社会保障現金給付を受けている場合には、併給の調整ができると定めている。ILO128号条約にいう「家族給付」も102号条約のそれと差異がないとみるべきである。1969年当時、国際的に我が国には、公務員に対する特別制度を除いては、家族手当と称し得るものが存在しないとされ、我が国の児童扶養手当は国際的にも家族手当として扱われていなかつた。以上のことが認められる。
[48] 叙上認定の事実に前示のような我が国における児童扶養手当の趣旨を比照すると、児童扶養手当は国際的な意味における家族給付の一種ではなく、むしろ、ILO条約102号、同128号各条約の遺族給付に近似したものであると認めるのが相当である。
[49] したがつて、我が国の児童扶養手当において他の年金給付との併給調整を行つたからといつて、それが国際的常識に反し、不合理であるとはいい難い。
(5) 児童扶養手当と生活保護
[50] 児童扶養手当は無拠出であり、その財源は全額国庫負担となつているため、この点では生活保護と違うところはないけれども、前示のような児童扶養手当制度創設の経緯に照らすと、児童扶養手当が無拠出制であることは、無拠出制の年金(福祉年金)が国民皆年金体制の早期実現という政策的配慮に基づく経過的補完的特別措置によつて設けられたのと同趣旨において設けられたもので、生活保護の場合とは趣旨が異なることが容易に認められる。
[51] 前述のとおり、年金制度は、老齢、廃疾又は生計中心者の死亡という所得能力の低下又は喪失の原因となる事故が発生した場合に、所得保障としての年金を支給するものであるが、児童扶養手当制度も又防貧施策としての年金制度(母子福祉年金制度)を補完する性質のものであり、夫(父)と生別という原因による稼得能力の低下、喪失に対する所得保障としての手当を支給する制度である。
[52] そして、児童扶養手当法には、具体的に稼得能力が低下、喪失した状態にあるかどうか、資産状態はどうであるかなどのような個別調査(ミーンズ・テスト)をとつた規定はなく、生別母子という原因の原因の発生によつて、一般的に所得能力の低下、喪失があるとして手当を支給することにしているのである。前示生活保護法に見当たる「補足性の原則」などのような具体的、個別的救貧施策であることを予定させる諸規定は児童扶養手当法中には存在しない。もつとも、同法第9条ないし第11条にみられる前年度における所得制度の規定が存し、所得の喪失の程度についてある程度の判断を経た上でなければ給付がなされないことになつているけれども、給付の程度は所得の喪失の程度に対応せず、前年度の所得が一定の限度以上の者に対しては一切支給しないかわりに右の限度に満たない者に対しては所定の全額を支給する仕組みになつており、この点、生活保護とは趣を異にしている。
[53] 以上のようなことからすると、児童扶養手当法には国民年金法第1条のように憲法第25条第2項の趣旨を具体的に実現するものであるとするような目的規定はなく、その第1条に、この法律の目的として、「この法律は、国が、父と生計を同じくしていない児童について児童扶養手当を支給することにより、児童の福祉の増進を図ることを目的とする。」と規定しているにすぎないけれども、なお児童扶養手当制度は憲法第25条第2項の規定する理念に基づき、国民皆年金制度のもたらす恵沢を国民年金給付の対象から漏れた人々に対してもひろく補填させる目的から設けられた制度であるといえる。したがつて児童扶養手当制度は、国民の生活水準の相対的向上を図るための憲法第25条第2項に基づく積極的、事前的防貧施策の一であつて、同条第1項の「健康で文化的な最低限度の生活」の保障には直接関しないと解することができる。換言すれば、児童扶養手当制度は、生別母子世帯の生活は最終的には生活保護法によつて保障されるべきものであるとの前提に立つて、主として所得能力の低下、喪失に対し、一般的総括的に、その所得の一部を保障しようとする制度であるということができる。

[54](三) 障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁じた本件併給禁止条項は憲法第25条第1項に違反しない。その理由は次のとおりである。
[55] 憲法第25条第1項にいう「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)の達成を直接目的とする国の救貧施策としては、生活保護法による公的扶助制度がある。そして、国民年金法による障害福祉年金、母子福祉年金及び児童扶養手当法による児童扶養手当、児童手当法による児童手当などは憲法第25条第2項に基づく防貧施策であつて、同条第1項の「健康で文化的な最低限度の生活」の保障と直接関係しないことは既に述べたとおりである。
[56] したがつて、児童扶養手当法が障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁止したとしても、生活保護法による公的扶助たる生活保護制度がある以上、憲法第25条第1項違反の問題を生ずるものではない。すなわち、その被保障者の生活実体がもし右併給を受けなければ、なお貧困の域を脱することができないというのであれば、当該被保障者には生活保護法による生活保障の途が残されているのであつて、本件併給禁止条項は憲法第25条第1項とかかわりがないといわねばならぬ。

[57](四) 障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁じた本件併給禁止条項は憲法第25条第2項に違反しない。その理由は次のとおりである。
[58] 憲法第25条第2項には同第1項のような「健康で文化的な最低限度の生活」の保障という絶対的基準はなく、而も国は「生活水準の向上につき、財政との関連において、できる限りの努力」をすればよいのだから、国が同条同項に基づき、具体的にどのような内容の法律を定立し、どのような施策をし、これにどのような性格を与えるか、これによりどの程度の生活水準の向上を図るか、更には一の施策と他の施策との関連をどうみるか、個々の施策について、その給付要件、対象を如何にするか、支給額をどの程度にするかは、いずれも立法政策の問題であつて、立法府の裁量に任せられているといわなければならない。
[59] そして、このような立法政策に属する事項については、政治上その当不当の批判を受けることあるは格別原則として、違憲問題を生じる余地がない。只例外として立法府の判断が恣意的なものであつて、国民の生活水準を後退させることが明らかなような施策をし、裁量権の行使を著しく誤り裁量権の範囲を逸脱したような場合であれば、憲法第25条第2項に反することが明白となり、司法審査に服することとなる。
[60] ところで、いずれも成立に争いのない乙第2号証、同第16号証の3、同第22号証の2、同第31号証、同第57号証、当審証人坂本龍彦、同安藤哲吉、原審証人岡本和夫の各証言によれば、次のことが認められる。すなわち、(1)我が国の公的年金制度(児童扶養手当制度も含む)はいくつかの制度に分立していることから、1つの事故の発生によつて、いくつかの制度による給付の重複が生じることがある。また複数の事故の発生した結果、給付が複数競合することもある。(2)しかしながら、国家財政上、社会保障に支出され得る財源は無限ではあり得ないから、右のような複数の給付の間における調整の問題が生じてくる。(3)このような場合において、第一は併給を調整又は禁止する行き方であるが、これによると併給の調整又は禁止の結果、浮いた財源は他に回して支給事由を増設し、支給対象者の範囲を拡大することができ、大多数の国民層が何らかの支給事由に基づいて少なくとも一種類の年金、手当等の公的給付を受けられるようにすることができることになる。第二は併給を認める行き方であるが、これによると支給対象者の範囲を一部の者に限局する代りに、その者には手厚い給付を行うことになる。(4)そして、母(又は養育者)が障害福祉年金を受給できるときは児童扶養手当の支給を受けられないことになつたのは、母(又は養育者)の児童扶養手当の消極的受給要件(障害事由)のうちに、母又は養育者が公的年金受給者であることを規定したからで、結局これは右第一の行き方をとつたものである。そしてこのような併給禁止措置がとられたのは両者とも無拠出で全額国庫負担であり、共に稼得能力の低下、喪失に対する所得保障であり、右稼得能力の低下が事故数に必ずしも比例するものでないから、そのうち最も重大な事故(ここでは廃疾)に対応する給付のみを行うとしても不合理ではないという見解にもとづき右併給禁止の立法措置がとられるに至つた。以上のことを認めることができる。この認定に反する証拠はない。而して、右第一、第二のいずれの行き方が国民の生活水準の向上増進を図る上で効果的であり、より適切であるかの判断は、立法政策に属するところであるが、その判断をなすに際しては国の財政、社会保障制度全般、各制度の目的、役割、国民感情などを考慮して、これを総合してなされるべきであり、このようなことを考慮して結論を出すことは立法府の裁量の範囲に属する事項であるといわねばならない。これを本件についてみるに、以上の認定によれば立法府が障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁止したことが、右のような点に立法府が考慮を払わず、恣意によるなどして裁量権の行使を著しく誤り、またはその濫用の結果に出たものとは認め難いから、右併給を禁止した本件併給禁止条項は憲法第25条第2項に違反するものとはいえない。

[61](五) 被控訴人は、
「母が被控訴人のような重度の身体障害者である生別母子世帯の極貧状態の生活実態、殊に生活保護制度が生存権の保障の機能を十分発揮していないという現状と無拠出制の年金や手当が実際には、その支給額が低額過ぎるため、救貧の役割しか果たさず、年金や手当の支給を受けなければ生活していけないという現実からして、母が僅かな障害福祉年金を受給しているという一事のみをもつて、本来生存権保障のために設けられている児童扶養手当の支給をしないということは憲法第25条に違反する」
旨主張する。
[62] 而して、右主張は憲法第25条を、同条第1項では国民が生存権を有することを総則的に規定し、同条第2項は第1項から生ずる国の当然の義務として、いわゆる社会立法によつて国民の健康で文化的な最低生活を保障すべきことを規定しているものだとの解釈を前提にして、国民年金や児童扶養手当の制度ないし立法の趣旨内容は、直接「健康で文化的な最低生活」を保障するものでなければならないとの考え方に立脚するものであると解される。
[63] しかしながら、憲法第25条は前説示のように解すべく、即ち同条第2項は国が国民の生活水準の向上に努めるべき責務のあることを、同条第1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべき責務のあることを各規定したものであり、同条第2項による具体的な施策は直接には「健康で文化的な最低生活」の保障をするに足るものとして設けられたのでなく、右最低生活は最終的には生活保護により実現されるべきものであると解すべきであるところ、児童扶養手当も、障害福祉年金も共に「健康で文化的な最低限度の生活」の保障を直接の目的として設けられたものではなく、いずれも稼得能力の低下、喪失に対する所得の一部を保障しようとするもので、憲法第25条第2項に基づく防貧施策に属すると解すべきである。
[64] したがつて、被控訴人のような母が重度の身体障害者である生別母子世帯の生活実態が劣悪で「健康で文化的な最低限度の生活」に及ばないとすれば、その救済は、本来救貧施策である生活保護制度に依存さるべきこととなる。そして本件併給禁止がなされても、なお生活保護をうける途は残されているのであり、生活保護の問題としては保護基準の適正化(保護基準の設定は厚生大臣の合目的的裁量にまかせられているが、その判断が現実の生活条件を無視するようなものであれば、裁量権のゆえつ、又は濫用にあたり違法である。最高大法廷昭和42・5・24民集21巻5号1043頁)や、制度の運用の適正化などによつて達成し得るよう図るべきことである。本件併給禁止条項はいずれも憲法第25条第2項に由来するもの同志の間におけるものであるから右生活実態を理由に「健康で文化的な最低限度の生活」の保障を直接に目的としない障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止をもつて、憲法第25条に違反するとはいえない。また、救貧施策と防貧施策を混同し、いずれも後者に属する年金や手当が低額すぎて救貧の機能しか果たさず、その支給がなくては現実に生活ができないから、障害福祉年金と児童扶養手当を併給しなければ、憲法第25条に違反するとの被控訴人の主張は採用できない。

[65](六) 被控訴人は、
「国がすでに立法によつて、一定水準の生存権保障施策を具体化しているばあいに、それにも拘らず、国民のある部分について、正当な理由なく、施策の対象から除外したり、より劣悪な処遇をしたりすることは生存権の侵害である。即ち児童扶養手当法は一定以下の所得水準にある生別母子世帯等の児童を対象に、児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として一定の手当を支給する旨定めながら、同一の法律の中でとはいえ、母(養育者)が右手当とは全く趣旨の異なる障害福祉年金を受給しているという一事のみによつて、右手当の支給を禁じていることは、右手当や年金が母子世帯の児童や障害者の生存権を保障するものであることを無視して、これを侵害し、且つ一旦与えた国民の右手当受給権を奪い、憲法第25条の具体化として実現された一定の生活水準の後退を意味するものであつて、同条に違反する。」
旨の主張をする。
[66] しかしながら、右前段の主張(生存権の侵害である)は障害福祉年金制度や児童扶養手当制度が「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)の保障を直接目的とした施策であることを前提にした主張であるが、右両制度共防貧施策であつて、直接には右最低生活基準の実現を目的とする制度ではないと解すべきであるから、所論はその前提において既に失当である。
[67] また右後段の主張(生活水準の後退である)については、成立に争いのない乙第1号証の1、2、原審証人唐木沢敏の証言によれば、本件併給禁止条項は児童扶養手当法制定の当初から存在し、法の改廃によつてうまれたものではないことが認められ且つ同条項の趣旨は母(養育者)が年金を受給し得るときは、もともと手当の受給権を与えないというもので、児童扶養手当の消極的支給要件(障害事由)を定めたものと解すべきであるから、一旦賦与された手当受給権を後に奪つたものとはいえない。

[68](七) 以上、母(養育者)が障害福祉年金を受給できるときは、児童扶養手当を支給しない旨の本件併給禁止条項及びこれに基づいてなされた本件処分は、憲法第25条に違反して無効である旨の被控訴人の主張は理由がない。
(一) 憲法第14条第1項の解釈と公的年金を受けることができる地位。
[69] 憲法第14条第1項は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは何ら右法条の否定するところでない(最高大法廷判昭和45・6・10民集24巻6号499頁、同昭和39・5・27民集18巻4号676頁)。そして同項前段のいわゆる法の下の平等原則は法秩序全体の基本原則であつて、法の適用について行政、司法を拘束するのみならず、立法についても立法府を拘束するものと解するを相当とする。
[70] また、同項後段は、前段の原則をより具体的に示したもので、挙示の人種、信条、社会的身分、門地等の差別事由は、重要事項を例示したもので、この例示にもれたものは、平等が保障されないという趣旨ではない、と解すべきである。そして、同条項中の「社会的身分」とは、広く人が社会において占める或程度継続的な地位を指すものであつて、人の出生によつて決定される社会的な地位または身分に限定されるものではないと解するのが相当であるから、本件条項中の「公的年金を受けることができる地位」もまた、右の「社会的身分」に類するものといい得るのであり、憲法第14条第1項は、このような地位による差別をも禁止しているものといわなければならない。

[71](二) 障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁止した本件併給禁止条項は憲法第14条第1項に違反しない。その理由は次のとおりである。
[72] 本件において、被控訴人は夫と離婚し、児童を養育しているため、児童扶養手当を受けられるべき筈のところ、被控訴人自身が国民年金法別表記載の一種一級に該当する廃疾の状態にある者(視力障害者)として、障害福祉年金を受けているため、本件併給禁止条項により、児童扶養手当の支給を受けられないことになるが、そこには障害福祉年金を受けることができる地位にある被控訴人が、そのような地位にない者との間において、等しく児童を養育していながら、児童扶養手当の支給を受けられないという差別扱いがなされているものといわなければならない。
[73] そこで、このような差別扱いが合理性を欠くかどうか、すなわち、障害福祉年金と児童扶養手当との併給禁止をすることに合理的理由があるかどうかということについて判断を進めてみる。
[74] 右併給禁止条項が憲法第25条との関係において立法裁量を逸脱したものでないことはさきに認定したとおりである。ところで、法の下の平等原則はあらゆる立法についても立法府を拘束するものであるから、ここに改めて憲法第14条との関係において右立法の内容が憲法第14条に適合するかどうかについて検討しなければばならない。そして右のように併給禁止条項が障害福祉年金の受給者か否かにより、児童扶養手当を受けられるか否かに差別を設けたものと解するとせば、右差別について合理性の有無が憲法第14条適否を決することになる。公的年金相互間に重複が生じた場合、財源には限度があるため、併給を調整又は禁止して、これにより浮いた財源を他に広く給付することによつて、大多数の国民層が少なくとも一種類の年金、手当等の公的給付を受けられるようにすることは、限りある財源を効率よく公平に活用するという見地からは相当のことである。しかし一方、趣旨、目的が異なり、役割の違う年金や手当相互間において、併給調整したり、併給禁止をしたりすることは、これを必要とする国民層のニードに対応した給付をしないことに帰し、正当なことではない。したがつて、これらをいかに調和せしめるかが問題である。而も、国の社会保障施策は多岐にわたつているが、これらが総合作用して、はじめて憲法第25条の趣旨が具体的に実現されるよう仕組まれているのであるから、単に一部門のみにおいて、国民のニードに対し憲法第25条の趣旨が具体化されているかどうかをみるだけでは不十分であり、こうした施策の全体系を考慮に入れて総合的に考察するのでなければ、当該併給調整又は禁止が合理的であるかどうかの正当な判断はできないものといわねばならない。
[75] ところで、国民年金法第20条は、国民年金法所定の2以上の年金給付の受給権者には、その者の選択により、その1つを支給し、他の支給を停止する旨、同法第65条第1項第1号は、障害福祉年金、母子福祉年金及び準母子福祉年金は受給権者が公的年金給付を受けることができるときは、その支給を停止する旨各規定している。そして、本件併給禁止条項の内容は、国民年金法第20条、同第65条第1項第1号の内容と同趣旨となつている。
[76] また他の年金制度例えば、厚生年金保険法第38条第1項及び船員保険法第23条の7第1項は、国民年金法第20条と同旨の定めをし、国家公務員共済組合法第74条は、退職年金と廃疾年金について、いずれか1つの給付を行う旨を定め、地方公務員等共済組合法第76条も同旨の定めをしているのである。
[77] 而して、いずれも成立に争いのない乙第5号証、同第16号証の3、同第22ないし第24号証の各2、同第31号証、同第57号証、成立に争いのない甲第70号証、原審証人岡本和夫、当審証人坂本龍彦、同安藤哲吉の各証言及び当審証人河野正輝の証言の一部並びに弁論の全趣旨を総合してみると、立法府が右のような併給調整又は禁止をした立法的根拠は、事故が複数であつてもそれによる稼得能力の低下、喪失という結果は同一であること(例えば障害福祉年金と母子福祉年金又はこれを補完する児童扶養手当とは併給されないが、前者は廃疾という事故による稼得能力の低下、喪失に対する所得保障であり、後者は家計維持者との死別又は生別による母子状態を事故とする稼得能力の低下、喪失に対する所得保障であり、結局事故は複数であつてもその結果は同一であるということ)複数の所得低下、喪失を招来する事故が発生しても、所得低下、喪失の程度は必ずしも比例的に加重されるものではないこと、同一人について2つ以上の事故が生じた場合にそれぞれの年金を支給することは、特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることになり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失することになること、特に障害福祉年金と母子福祉年金更にこれを補完する児童扶養手当の併給禁止は、これら年金、手当がいずれも無拠出制であつて、費用は全額国庫負担であり、一般国民感情が未だ併給を当然視する迄に至つていないこと、憲法第25条の趣旨を具体化しようとする施策は年金や手当制度の外に、数多くの施策がなされているため、これらの総合的な見地に立脚して、年金や手当の併給調整又は禁止をしても、そのことだけをとりあげて、一概に国民のニードに応じない施策をしたものであるとはいえないこと、例えば身体障害者、母子のように何らかの援護を必要とする者のためのその他の施策としては、まず社会福祉施策として、身体障害者福祉法等に基づき公的機関による相談指導、身体上の障害を軽減し、あるいは除去して日常生活能力、職業能力の向上を図るための更生医療の給付、身体上の欠陥を補うための補装具の交付、特別の医学的治療、生活訓練を必要とする者を対象にリハビリテーシヨンを行うための身体障害者更生援護施設への収容の措置、身体障害者家庭奉仕員の派遣等、各種の更生援護の措置が採られているし、そのほかにも、他の制度による福祉措置がある。雇用安定制度、税制度上の優遇措置、諸料金等の減免等である。母子に対しては、母子福祉法等に基づき、母子福祉資金の貸付け、母子相談員による相談指導、母子福祉施設の設置、母子寮への入所の措置等の福祉の措置が行われている。またこれらの者が病気をしたり、けがをした場合には、健康保険法、国民健康保険法等の医療保険制度により、医療の給付がなされることになつているなどのこと、更には、こうした諸施策にもかかわらず、なお生活困窮に陥つた者に対しては最終的には個別的な救貧施策として生活保護制度が設けられているため、これにより救済がはかられること、家族給付(我が国の児童扶養手当はこれに含まれない)を除いては併給調整又は禁止しても国際的常識にもとるものではないこと、以上のようなことから、立法府は財源の公平且効率的活用のため、複数の事故のうち、最も重大な事故(本件の場合は廃疾)に対する給付のみを行うことにし併給を禁止したり、又その調整を行うことには合理的理由があるとの見解に依拠したものであることが認められる。
[78] 而して当裁判所も右併給禁止に合理性があるものとした右見解を是認できるのであつて、これによれば障害福祉年金と児童扶養手当との併給をも禁ずる本件併給禁止条項が、立法府の恣意によるなどして、その合理性の判断を著しく誤つたものであるとは到底認め難い。したがつて前記のような差別扱いが合理性を欠くこと明らかであるとはいえない。
[79] もつとも、成立に争いのない甲第12号証の1ないし4、同第13号証、同第14号証、原審証人田中昌人、当審証人児島美都子の各証言から窺われる重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法的根拠にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえないけれども、これらはこうした施策の運用において適切なものが欠けている故であると認められるから、これをもつて、本件併給禁止が合理性を欠くことが明らかであるとする根拠とはなしがたい。
[80] 被控訴人は、
「本件併給禁止条項は母が障害福祉年金を受給している児童と、そうでない児童とによつて、児童扶養手当の支給の上で不合理な差別扱をうけていることになる。」
旨主張しているが、児童扶養手当の受給権者は母(養育者)であつて、児童ではないと解せられること前説示のとおりであるから、右論旨は採用できない。
[81] 被控訴人は、更にまた
「本件併給禁止条項は、原判決理由中で判断されているように世帯ごとの比較をしてみても不合理な差別である。」
旨主張する。
[82] 原判決によると、障害福祉年金を受給している母が児童を養育している被控訴人の家庭のような母子世帯と、父が障害福祉年金を受給し、健全な母が児童を養育しているような3人の世帯とを比較し、後者の場合には児童扶養手当が支給されるのに反し、前者の場合には支給されないことになり、そこには児童扶養手当の支給について、性別による差別と、公的年金を受給し得る地位による差別と二重の差別が存在するとしているのであるが、このような比較は正当ではない。性別による対比をするとすれば、廃疾の父が児童を養育する場合における同手当の支給の有無をもつてすべきである。そして廃疾の状態にある父が児童を養育している場合、その父は児童の養育者たる資格において児童扶養手当の支給をうけることができる(児童扶養手当法第3条第1項第3号)が、父が障害福祉年金を受給しているときは、児童扶養手当は本件併給禁止条項により支給されないのであるから、性別による差別はない。したがつて所論は採用できない。
[83] 被控訴人は、
「児童扶養手当は児童の心身の健やかな成長に寄与するために支給されるものであるのに、この目的とは全く関係のない母が障害福祉年金を受給しているという事実により、同手当の受給資格を奪う本件併給禁止条項は、児童を個人として尊重しないものであり、憲法第13条に違反する。」
旨主張する。
[84] 右は憲法第13条前段の違背を主張するものと解せられるところ、同条に「すべて国民は、個人として尊重される。」とは全体主義、国家主義を斥けて、個人主義をとることを宣言したものである。すなわち、個人主義思想の国家観によれば、国家は人間が個人の尊重、個人の自由を基礎とする共同生活を営むために必要な秩序を創設維持するためにあるのであり、「個人として尊重される」というのは、個人人格の固有価値を認め、これを全法秩序の基礎として尊重する趣旨である。憲法はその理念を原則規範として表明したものであると解することが出来る。
[85] そして、児童扶養手当の受給権者は母であると解すべきこと、障害福祉年金と同手当との併給を禁止したことはその立法的根拠に照らし、合理性を欠くことが明らかであるとはいえないことからしてみると、右併給禁止だけをとらえて、直ちに個人主義にもとるなどとは到底いい得ない。したがつて、所論は理由がない。

[86]三、そうだとすると、本件併給禁止条項は憲法に適合しないとはいえないから、これを適用して控訴人のなした本件却下処分は適法であり、何らの取消理由もない。
[87] 被控訴人は本訴において、処分の取消請求に併せて、「控訴人は被控訴人が昭和45年3月から同年8月までは1カ月金2,100円、同年9月からは1カ月金2,600円の各割合による児童扶養手当の受給資格を有する旨の認定をしなければならない。」との請求(義務づけ訴訟、給付訴訟)をしているものである。思うに、一般に許認可申請(認定請求)に対する行政庁の拒否処分(先行処分)に対して、その取消しと申請(請求)内容の処分を求める訴について、右先行処分の取消判決が確定した場合には、行政庁は行政事件訴訟法第33条第1項により、これに拘束され、同条第2項により右申請(請求)に対し、更に処分をやりなおすことになるが、同条の拘束力は裁判所が違法としたと同一の理由に基づいて同一人に対し同一内容の処分をすることを禁ずる趣旨にすぎないものであつて、行政庁が別の理由に基づいて同一内容の処分をすること迄も妨げるものではないと解される。従つて、行政庁が右取消判決の趣旨に従つて改めて申請に対する処分をするに当つては、判決の趣旨に従つて、右申請(請求)に応じた内容の許認可もしくは認定処分をすることも、或はまた、判決が違法とした理由とは異なる点について自ら第一次的判断を加え、その結果、判決とは異る理由により、再び同一の拒否処分をすることも許されるというべきである。
[88] 果して然らば、右のような先行処分の取消請求に併せて義務づけ訴訟を提起しているような場合においても、行政庁に対する義務づけ訴訟は、三権分立の立場から、なお原則的には不適法として許されないというべきである。しかしながら、例外的に、先行処分の取消判決の違法とした理由以外の理由をもつて再び同一の拒否処分をなす余地がなく、申請に応じた処分をなすべき行政庁の作為義務の存在が一義的に明白であり、且つ事前の司法審査によらなければ、当事者の権利救済が得られず、回復しがたい損害を及ぼすというような緊急の必要性があると認められる場合には、行政庁に対する義務づけ訴訟も許されると解するのが相当である。
[89] もつとも、この点については有力な反対説がある。それによると、
「原告は処分の違法を主張して、その取消を求めているのであるから、訴訟の対象は処分自体であつて、処分理由ではない。そして被告行政庁としては、その違法ならざる所以を立証すべき立場におかれているのであつて、取消判決後、別の理由で再度同一の処分を行うことを認めるのは、防禦の手段を尽さなかつた被告行政庁に利益を与える結果となるばかりか、事件は裁判所と行政庁の間で往復を繰返し、最終的解決に役立たないものとなり、国民の権利救済に欠けるとの理由から、取消判決確定後、行政庁はいかなる理由によるにせよ、再度拒否処分を行うことは許されないと解すべきである。それ故、取消判決がある以上行政庁の作為義務が一義的に明白になつたとして義務づけ訴訟を適法として許すべきである。」
というのである。
[90] そして、この反対説のように行政庁において当該拒否処分をした理由以外の理由を取消訴訟において提出することも許されると解して差しつかえないであろうけれども、行政庁がその提出を怠つたことの故をもつて、直ちに行政庁に対し訴訟において提出しなかつた理由による同一内容の処分のやりなおしを許さないという拘束を認めるということは、訴訟法的にみて(特に訴訟物をいかに理解するか)講学上いわゆる「新訴訟物理論」に基づかない限り首肯できないといわざるを得ない。また実際問題として、行政庁は処分理由以外の理由があれば、その主張をも併せてなすのが常であり、右防禦方法の提出の懈怠もしくは出しおしみの結果、いつまでも事件を裁判所と行政庁の間でたらいまわしして、最終的解決を遅らしめるというような事態がひきおこされるというおそれはないであろうし、更に右反対説によれば、本件のように、義務づけ訴訟を取消訴訟と併合提起している場合取消判決が確定すれば当然申請(請求)に応じた内容の処分がなされるのだから、義務づけ訴訟を認める訴の利益はないことになる。以上の点から右反対説には左袒できない。
[91] 以上の見地に立つて、これを本件についてみるに、児童扶養手当法第6条に基づき、都道府県知事のなす「受給資格及び手当の額」の認定については、同法第12条、第14条、第29条などの規定に照らし、なお都道府県知事の裁量判断の余地が残されていると認められるので、本件認定処分が一義的になさるべきものというを得ない。本件義務づけ訴訟は不適法であり、許されないものといわなければならない。
[92] そうだとすると、原判決中、被控訴人の本件児童扶養手当認定請求却下処分の取消請求を認容した部分は失当であるから、これを取消し、右取消請求を棄却し、被控訴人のその余の請求にかかる訴(義務づけ訴訟)を却下した部分は正当であるから、被控訴人の本件附帯控訴は失当として棄却することとし、民事訴訟法第89条、第96条を適用し、主文のとおり判決する。

  裁判官 増田幸次郎 仲西二郎 三井喜彦
(別紙(一))控訴人の主張
[1] 控訴人は一審判決に対する控訴の要否につき、「控訴しないことが適当と思料される。」との参考意見を付して法務大臣の指示を求めたが、法務大臣は、国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律(以下「権限法」という)による指揮権に基づいて、控訴人に対し、第一審判決に対して上訴すべき旨を指示した。そこで控訴人は、右の指示に従つて控訴することに決定し、本件控訴に及んだものである。控訴人が最終決定に至る間にどのような見解を抱こうが、最終的には控訴する意思を固めて控訴提起したものであることは明白である。
[2] 被控訴人は、法務大臣には本件控訴について控訴人に指示すべき何らの法的根拠も権限もなく、かかる指示は地方自治の本旨にもとる強迫行為であると主張するけれども、法務大臣の指示は権限法に基づくものであつて、地方自治の本旨にもとるものではない。
[3] 被控訴人は、児童扶養手当と公的年金給付の併給禁止の一部撤廃を伴う改正法が成立した以上、控訴人は実質的な控訴利益を欠き控訴権の濫用にあたる旨主張するけれども、児童扶養手当法及び特別児童扶養手当法の一部を改正する法律(昭和48年法律第93号)の施行期日は昭和48年10月1日であつて(同法附則1条)被控訴人の児童扶養手当の受給資格の有無は、右法律によつて何ら影響を受けるものではない。本件控訴には実質的な利益が存する。
1、我が国の社会保障制度について
[4] いわゆる社会保障制度とは、社会保障制度審議会が昭和25年10月に行つた「社会保障制度に関する勧告」によれば、
「疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担において経済保障の途を講じ、生活困窮に陥つた者に対しては、国家扶助によつて最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上を図り、もつてすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいう。」
のであり、同勧告は、このような考え方に基づき、社会保険、国家扶助、公衆衛生及び医療、社会福祉の4部門からなる社会保障制度の体系を示している。そして、今日でも、社会保障制度審議会の示したこの考え方が、社会保障制度に関する最も一般的な考え方ということができる。

2、経済保障(社会保険)と生活保障(国家扶助)
[5] 社会保障の実施のための具体的方法としては、(1)疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対する保険的方法又は直接公の負担による経済保障(2)生活困窮に陥つた者に対する国家扶助による最低限度の生活保障という2つの類型が考えられるわけであるが、通常、前者は社会保険(及び直接公の負担に基づく財源の補充)制度による社会保障といわれ、後者は国家扶助制度による社会保障といわれている。
[6] 各制度の目的及び性格並びに両制度の関係は、次のとおりである。
[7](一) 国家扶助制度は、現在、生活保護法による生活保護制度として実施されている。その目的は、同法1条の定めるように、憲法25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障することにある。生活に困窮し、憲法25条1項の保障する健康で文化的な最低限度の生活を営むことができない状態にある者は、その窮乏に陥つた原因のいかんを問わず、生活保護法によつて最低限度の生活を保障される仕組みとなつており、この制度によつて、国はすべての国民に対し健康で文化的な最低限度の生活を最終的に担保しているのである。
[8] この意味において、国家扶助制度は、現に窮乏の状態にある者に対し、その現在の生活需要に着目して最低生活の保障を行おうとするものであつて、保障の実施は、窮乏の程度に応じて個別的、具体的になされる点に特色があり、具体的には、あらかじめ国が最低生活の基準を定めておき、所得がその水準に達しない者に対してその不足分を金銭又は現物の給付によつて補うという建前が採られている。したがつて、その保障を行うに際しては、現に窮乏の状態にあるか否か、すなわち、自力では健康で文化的な最低限度の生活を営み得ないか否か、営み得ないとすれば最低生活水準に達するためにはどの程度の給付を必要とするか等に関する行政庁の認定を必要とし、その認定を行うため資産調査及び収入調査等の手段が講ぜられる点に、この制度の本質的な特徴が見いだされる。
[9](二) 社会保険制度は、国家扶助が最低生活の保障という絶対的な生活水準を確保するための制度であるのとは異なり、通常その生活を脅かす老齢、廃疾、死亡その他経済上の負担を招来する事故に対し、右事故から生ずる生活上、経済上の脅威という危険を国家的な保険技術又は社会連帯の思想に基づく直接の公費負担を通じて大量的に分散することによつて、その救済を図ることを目的とする制度である。前述の国家扶助がいわば事後的、具体的な救貧施策的性格を有するのに対し、社会保険制度は事前的、一般的な防貧施策的性格を有するものということができる。
[10](三) 社会保険制度と国家扶助制度との基本的差異は、国家扶助の場合には、一定の絶対的な生活水準を確保するという制度本来の目的からして、扶助にあつては、それが個々的な生活需要の程度に対応してなされることの特質上、扶助の受給資格及び給付の程度が一定の基準に照らして個別的、具体的に認定することによつて初めて定まるのに対し、社会保険にあつては、受給資格及び給付内容は、保険事故の種別に応じて一般的に定型化され、保険事故により被保険者に生ずる生活需要の有無及びその具体的な程度いかんにかかわりなく、いわば平均的需要に着目して画一的な給付が行われる仕組みとなつており、個々の事案について行政庁の判断の介入する余地が極めて限られているということである。
[11] 給付に要する費用は、国家扶助の場合には必ず一般財源に依存しているのに対し、社会保険にあつては、拠出制、国庫負担制及び両者の併用等、政策的にはさまざまな選択が可能であつて、被保険者及び事業主からの保険料等の形式による拠出金のみに依存する方式も考えられれば、国庫が保険料の一部または全部を負担する方式も考えられる。社会保険の財源の求め方については、専ら国情に応じた政策的判断に任せられている。我が国の社会保険制度は、拠出制に給付財源の一部国庫負担制を加味したものが多い。

3、公的年金制度としての国民年金制度及びこれを補完する児童扶養手当制度
(一) 国民年金制度
[12] 公的年金制度は、老齢、障害、死亡など国民が個々人では事前に十分な備えをしておくことが困難な事故によつて生活の安定が損なわれるのを、社会連帯の考え方に立つて公的に救済し、国民生活の安定を図ろうとする制度である。
[13] 現在、我が国の公的年金制度は、国民年金、厚生年金の2大制度のほか、船員保険、国家公務員共済組合、地方公務員等共済組合、公共企業体職員等共済組合、私立学校教職員共済組合、農林漁業団体職員共済組合の8制度に分かれている。
[14] 国民年金法は、国民皆年金の理念に基づき、これまでの被用者を対象としていた公的年金制度による保護の及ばなかつた農漁業者、自営商工業者、自由業者等を適用対象として制定されたものである。
[15] 我が国の年金制度は、これまで、一部国庫負担を加味した拠出制による社会保険方式を原則としていたので、国民年金制度もこれに倣い、拠出対給付という対応関係を基本とし、老齢、障害、死亡などの保険事故に際して被保険者又はその遺族に保険給付を行い、その所得能力の喪失又は減少に対し必要なてん補を行おうとするものである。しかしながら、拠出制一本で貫くと、制度実施の時点において既に老齢、障害又は母子の状態にある者及び将来保険事故が生じても保険料納付期間が所定の期間に達しないため拠出制の受給権に結び付かない者に対しては、国民年金制度の保障する利益を及ぼすことができず、国民皆年金の理想が全うされない結果となる。そこで、国民年金制度においては、拠出制の欠陥を補うための経過的、補完的な制度として、無拠出の年金制度たる福祉年金制度を設けている。
(二) 児童扶養手当制度
[16] 国民年金制度の発足により、死別母子世帯については、国民年金法による母子年金若しくは母子福祉年金又は年金関係各法による同様の給付を受け得るようになつたのであるが、夫と離婚し又は内縁関係を解消した場合のように夫と生別した場合には、給付の対象とならない。
[17] しかし、生別母子世帯の経済的実態は、死別母子世帯と変りがない。この点から、国の何らかの積極的施策が必要とされ、生別母子世帯について、母子福祉年金に準ずる無拠出の所得保障を行うこととされた。これが児童扶養手当制度である。
[18] したがつて、児童扶養手当制度は、国民年金制度を補完するものであり、経済保障すなわち防貧的な所得保障施策の一環として位置づけられる。

4、身体障害者、母子に対する社会保障施策について
[19] 社会保障の施策には各種のものがある。身体障害者あるいは母子のように何らかの援護を必要とする者のための施策として、身体障害者福祉法等に基づく施策、雇用安定制度、税制上の優遇措置、母子福祉法等に基づく福祉措置などの社会福祉施策、疾病傷害に対する医療保険制度による医療給付、稼得能力の低下に対する年金制度等による防貧的な所得保障の施策等がそれであるが、これら施策等によつてもなお生活困窮に陥つた者に対しては、救貧的な生活保護の制度があり、これによつて、最低限度の生活が保障されている。而もこれらの諸施策は互いに有機的に補足し合つて制度全体を効果的なものとする仕組みになつている。児童扶養手当法の位置つけあるいは公的年金受給者には児童扶養手当を支給しないものとする規定の合理性についても、このような仕組みの中で検討する必要がある。原判決はこの点の考慮を欠くものである。
[20] すなわち、障害福祉年金受給者には児童扶養手当を支給しないことの合理性であるが、障害福祉年金及び児童扶養手当は、身体障害者あるいは母子に対する極めて多岐にわたる社会保障諸施策及び関連諸制度のうち、これらの者の稼得能力の低下に対応する防貧的な所得保障施策という限局された一部門を構成するものにすぎない。このような一局面のみを微視的に取り上げて単純に対比し、夫と生別し児童を養育する母と、これに更に身体障害という状態が加わつている者とに対する国の処遇が平等原則に合致しているか否かをあげつらうことは、大きな誤りである。
[21] 身体障害者あるいは母子に対しては、防貧的な所得保障の施策のほかに、各種の社会福祉の措置及び医療の給付等がなされており、これら国民の健康で文化的な生活の維持、向上が図られている。そして、これらの施策にかかわらず、なお生活困窮に陥つた者に対しては、最終的には救貧的な生活保障の制度が設けられており、これによつてすべての国民の最低限度の生活が保障される構造となつている。
[22] したがつて、障害福祉年金受給者には児童扶養手当を支給しないからといつて、決して身体障害者あるいは母子の生活が顧みられず、放置されるということになるわけではない。殊に憲法25条1項にいう健康で文化的な最低限度の生活は、すべての国民に絶対的に保障されているのである。
[23] このように、国の社会保障施策の全体系を考慮に入れて総合的に考察するならば前記のいずれの者に対する処遇、保護がより厚いかを論ずることは、到底不可能である。
[24] このように見てくると、被控訴人の本訴請求は、そもそもその出発点において失当であり、社会保障施策の全体的考察を全く怠つているという点において既に棄却を免れないものといわざるを得ない。
1、国民年金制度――特に母子福祉年金、障害福祉年金――の趣旨
[25] 国民年金制度は在来の公的年金制度から取り残されている国民に対して年金の保護を及ぼし、もつて国民皆年金体制を確立するために創設されたものであるが、制度の目的は、憲法25条2項に規定する理念に基づき、老齢、廃疾又は死亡によつて国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によつて防止しようとするものである。年金給付の種類としては、老齢、通算老齢、障害、母子、準母子、遺児及び寡婦の7種類があるが、そのうち母子年金は夫が死亡した場合に(国民年金法37条)、障害年金は被保険者が廃疾の状態にある場合に(同法30条、30条の2)支給される。
[26] わが国の国民年金は拠出制(厚生年金保険その他の被用者年金制度に加入していない20才から60才までの自営業者、農民等を被保険者とし、毎月一定の保険料を納付することとされている)を基本としつつ、拠出制を補うために、経過的、補完的に無拠出制を採用することが国民年金体制の即時実現という目的を達するために必要であると考えられたため、福祉年金制度は設けられたのである(国民年金法81条、82条、同法56条、61条)。

2、児童扶養手当法制定の経緯
[27] 死別母子については、国民年金法による母子年金あるいは母子福祉年金又は年金関係各法による同様の給付を受けられるようになつたのであるが、夫と離婚し、又は内縁関係を解消した場合のように夫と生別した場合には、給付の対象とならない。これは、生別という人為的な事象が年金保険事故になじまないため、年金制度に取り入れられなかつたためであるが、死別と生別とを問わず母子世帯の社会的、経済的実態は同じである。母子年金、母子福祉年金等のわく外にある生別母子世帯の要望と死別の母子との公平を図る見地からも、生別母子世帯について母子福祉年金に準ずる所得保障を行うことが要請された。これが、児童扶養手当法制定の主たる動機である。
[28] 児童扶養手当法は、母子年金、母子福祉年金等の支給の対象とならない生別母子世帯及び実質的にこれと同視しうる世帯を対象としており(同法4条1項)、その意味で、児童扶養手当法そのものは年金制度ではないが、実質的にそれを補完する目的をもつて創設されたものである。

3、児童扶養手当法の内容
[29](一) 受給権者は父母が婚姻を解消した児童、父が死亡した児童、父が一定の廃疾の状態にある児童、父の生死が明らかでない児童、その他右に準ずる状態にある児童を監護する母又は母以外の養育者(児童と同居して、これを監護し、かつその生計を維持している者)である。
[30](二) 児童扶養手当法の公的年金給付との調整に関する規定のうち、本件において問題となつている改正前の4条3項3号の規定は、国民年金法20条65条1項1号に対応するものである。母子世帯において児童扶養手当支給の対象たる児童を監護すべき母が公的年金給付を受けることができる場合というのは、母子福祉年金において受給権者たる母が他の国民年金給付または公的年金給付を受けることができる場合と事情は異ならないから、この場合と同一視してしかるべきものである。
[31](三) 手当額は母子福祉年金の額に準じて定められている。昭和45年10月分からは、すべての場合を通じて全く同一の金額となつている。
[32](四) 児童扶養手当は財源の面でも母子福祉年金との均衡を考え、全額国庫負担の制度となつている。

[33]4、無拠出の年金及び児童扶養手当を典型的な国家扶助の制度である生活保護制度と対比すると、生活保護は、生活に困窮した者に対し健康で文化的な最低限度の生活を保障するために行われるものであるが無拠出制の年金及び児童扶養手当は、国民の生活水準の相対的向上を図るため、その所得の一部を保障するところのより積極的な社会保障施策としての意義を有する。そして生活保護においては、保護は生活に困窮する者がその利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行うという、いわゆる補足性の原則が採用されており、保護の実施に当たつては、資力調査を行つてこの点を明らかにした上で開始されるのに対し、福祉年金及び児童扶養手当においては、本人、配偶者及び現に生計を担当している扶養義務者に前年度に一定金額以上の所得があつたことが制限の要件となるのみで、労働能力の有無や財産等の活用の能否等は一切問題とされない。また、生活保護は最低限度の生活を維持するために必要な費用中の不足部分を全額保障するが、無拠出制の年金及び児童扶養手当は所得の一部を保障する。すなわち、これらの給付の受給者には、年金、手当のほか、個人の貯蓄や社会情勢に即応する程度の扶養義務者の扶養があることが前提とされているのであつて、このような前提を欠く者については、最低生活費の不足分は生活保護で補われることとなる。
[33] これらの点からみると、生活保護は救貧的制度であり、無拠出制の年金及び児童扶養手当は所得能力の全部又は一部の喪失者に対し生活設計のよりどころを与えるものとして、防貧的制度の範ちゆうに属するものということができる。福祉年金及び児童扶養手当制度が最低生活水準の確保を直接の目的としていると解するのは誤りで間接的、結果的に最低限度の生活の維持に役立つているにすぎない。
[34] 原判決は、生別母子世帯においては児童扶養手当は救貧的機能を発揮していると述べているが、原判決が生別母子世帯の生活実態についてるる述べ、それが極度に困窮している旨判示していることにかんがみれば、生別母子世帯は一般的に既に貧困状態に陥つているから、このような世帯に支給される手当は、正しく貧困状態からの救済という機能を果たすものであり、救貧的役割を有するものであるとするものであろう。
[35] しかし、このような論法からするならば、一定水準以下の経済状態にある者に対する社会保障給付は、その趣旨及び目的のいかんを問わず、すべて救貧的性格を有するものということにならざるを得ないが、このような結論は到底是認することができない。原判決は、救貧的制度と防貧的制度の役割の差異を理解せず、また、生別母子世帯の生活は最終的には生活保護法によつて保障されるべきものであり、児童扶養手当はこれを前提に所得の一部を保障しようとするものであることを看過しているのである。

5、児童扶養手当と児童手当との関係
[36](一) 児童扶養手当は、生別母子状態という稼得能力の喪失、低下に着目して、母子福祉年金に準ずる所得保障を行う制度であり、児童手当とは、一定数以上の児童を養育している者に対して、その養育している児童数に準拠した所定の給付を行うことにより、所得と支出の不均衡を是正しようとするものである。
[37] そして、児童扶養手当は、このような児童手当制度の一種として位置づけられるものではなく、年金制度を補完するものであり、基本的には公的年金制度の一環としてとらえるべきものである。その根拠の第一は児童扶養手当法の既述のような制定の経緯(立法過程)である。第二は児童扶養手当は母子世帯又は準母子世帯の中でも一部の世帯すなわち公的年金給付を受給することができない生別母子世帯を主たる支給対象としていることである。母子世帯の児童の養育費のみが多額に上るということはあり得ない。手当額は母子福祉年金に関連づけられて定められているし、児童扶養手当と児童手当との間、相互間には受給資格、手当額等につき何ら調整を行つていない。第三は児童扶養手当の給付の内容である。「児童の扶養料」(児童の養育費の負担を軽減することを目的とする給付)であるならば、その給付は、現在の児童手当法の持つているように、原則的には児童の数、すなわち児童の養育費の増減に比例すべきものである。しかるに児童扶養手当の給付内容は右と違い、基本的給付に、児童が2人以上の場合には児童数に応じた若干の給付が加算されるという構成を採つているのである。この給付の構造は母子福祉年金と共通であり、現在は全く同一である。また母子福祉年金と母子年金の額は基本給付には差があるが、子が2人以上のときの加算額は同一である。このように児童扶養手当の給付の内容、仕組みが国民年金法の母子福祉年金、更には母子年金と同様であるということは、これら手当及び年金が同一の趣旨、目的の下に設けられた同一性質の給付であることを物語るものである。
[38](二) 児童扶養手当が児童手当ではないことは、児童手当制度の意義及び沿革に徴しても疑いのないところである。
[39] 社会保障がその対象とする困窮の原因については、社会保障制度審議会の「社会保障制度に関する勧告」において、「疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他」とされているが、これらの原因は、大別すれば、収入の減少(稼得能力の低下)を招くものと、支出の増加をもたらすものとに分けることができる。児童手当は、このうち、支出の増加をもたらすところの「多子」に対応して設けられた制度である。
[40] 我が国の児童手当法は、昭和46年5月に制定され、昭和47年1月から実施されたが、同法1条の内容は児童手当が児童を養育していることに伴う家計支出の増大に対処するための制度であることを示している。
[41] 児童手当あるいは家族手当は、世界各国の例を見ても、子女の扶養を要件として、一般家庭における平均的生活状態に着目して給付を行うのが普通であつて、「扶養」以外の両親の一方が欠けているとか、児童が心身障害児であるとかいう特別の事由について支給の要件、給付額を変えることはしていない。右のような特別の事由に対しては、母子福祉対策、心身障害児対策として別の施策を講じているのが普通である。
[42](三) 児童扶養手当は、被控訴人主張のような「特殊な児童手当」でもないし、ILO第102号条約の「家族給付」の一種でもない。これに当る給付は我が国においては児童手当のみであり、児童扶養手当は、同条約59条の「遺族給付」に近似したものとみる方が妥当である。
1、憲法25条と我が国の社会保障
[43] 憲法25条1項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運用すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。具体的な最低限度の生活保障請求権は憲法25条1項の規定の趣旨を実現するために制定された法律によつて初めて与えられているものというべきである。また憲法25条2項は、社会生活水準の確保向上を国の責務として宣言しているが、同項に基づいて国の行う施策は、結果的には国民の健康で文化的な最低限度の生活保障に役立つていることは疑いをいれないけれども、その施策がすべて国民の生存権確保を直接の目的とし、その施策単独で最低限度の生活保障を実現するに足りるものでなければならないことが憲法上要求されているものとは解されない。むしろ憲法25条1項、2項の規定を総合的に理解すれば、同条は、すべての生活部面についての社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進を図る諸施策の有機的な総合によつて、国民に対し健康で文化的な最低限度の生活保障が行われることを予定しているものと考えられるのである。
[44] したがつて、憲法25条2項により国の行う施策は、個々的に取り上げて見た場合には、国民の生活水準の相対的な向上に寄与するものであれば足り、特定の施策がそれのみによつて健康で文化的な最低限度という絶対的な生活水準を確保するに足りるものである必要はなく、要は、すべての施策を一体として見た場合に、健康で文化的な最低限度の生活が保障される仕組みになつていれば、憲法25条の要請は満たされているというべきである。
[45] 我が国の社会保障の具体的方法としては、(1)疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対する保険的方法又は直接公の負担による経済保障(2)生活困窮に陥つた者に対する国家扶助による最低限度の生活保障の2本建て方式を採用し、右(1)の経済保障によつて、困窮の原因となる事故の生じた者についてその生活水準の相対的向上を図ることとし、経済保障その他あらゆる手段を活用してもなお健康で文化的な最低限度の生活を維持し得ない者に対しては、右(2)の生活保障によつて健康で文化的な最低限度という絶対的な生活水準の確保を図つている。ここにいう経済保障方式の具体的な現れが国民年金その他の各種年金制度及び児童扶養手当制度をはじめとする各種手当制度等であり、生活保障方式の現れが生活保護法の定める生活保護制度である。
[46] このように、社会保障制度を構成する諸施策は、互いに有機的に補足し合つて社会保障制度全体を効果的なものとし、全体として憲法25条の要請を満たすことが予定されており、個々の施策は、それぞれの目的に照らしてその役割、分担を異にしているのである。個々の社会保障施策にどのような目的を付与し、どのような役割、機能を分担させるかは、立法により適当に定め得る事項に属する。
[47] 被控訴人の主張する併給禁止条項の憲法違反の論議は、実は、公的年金の受給(有資格)者に対しても、児童扶養手当の受給資格を認める立法措置を講じていないことが、一国の社会保障施策としての憲法の標ぼうする社会保障の理念に反しているという議論に帰着し、被控訴人の主張は将来の立法政策にわたる事柄であつて、現行法規の憲法違反の問題には本質的にかかわりがないというべきである。

2、憲法25条1項と2項の差異
[48] 憲法25条1項は、国が最小限度の政治的責務として、すべての国民が少なくとも「健康で文化的な最低限度の生活」を営み得るように努力しなければならないことを明らかにしているのであるが、右憲法の規定を受けて、生活保護における保護基準は、健康で文化的な最低限度の生活を維持するに足りるものでなければならないと定められている(生活保護法3条、8条)。したがつて、この保護基準すなわち何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、一応厚生大臣の合目的的な裁量に任されているとはいつても、現在の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨、目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬがれないのである。すなわち、国家扶助(生活保護)については、国のなすべき程度について、憲法の要請に基づく絶対的基準の存することを否定することはできない。
[49] これに対し、憲法25条2項は、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とするにとどまり、その水準については何らの基準も示していない。国民の生活水準を前記最下限以上にどの程度向上させるかは、専ら政治的責務の範ちゆうに属する事柄であり、全面的に立法政策にゆだねられた問題といわなければならない。その給付水準は、保険料の拠出の有無、高低、その他の社会保障施策の水準等を勘案した上、国民の合意によつて、したがつて結局は立法府において決定されるべき事項である。
[50] 以上のところから、最低限度の生活保障としての国家扶助(生活保護制度)と経済保障としての国民年金等の諸制度とは、憲法上の意味が異なることが明らかである。

[51]3、児童扶養手当制度は、母子家庭の健康で文化的な最低限度の生活を保護することを直接の目的として設けられたものではない。児童扶養手当制度は、国民年金制度に付随するものとしてこれを補完するものである。生活保護法の規定と児童扶養手当法の規定とを対比すると、条文にうたわれている制度の目的が異なり(生活保護法1条、児童扶養手当法1条、2条)、前者には給付の絶対的基準が示されている(生活保護法3条)のに、後者には具体的な手当額を定めるにとどまり、特段の基準は示されていない(児童扶養手当法5条)。
[52] また、国家扶助制度は、現に窮乏の状態にある者に対し、その現在の生活需要に着目して最低生活の保障をおこなおうとするものであるから、右保障の実施は、窮乏の程度に応じて個別的、具体的になされる点に特色があり、具体的には、あらかじめ国が最低生活の基準を定めておき、所得がその水準に達しない者に対し、その不足分を金銭又は現物の給付によつて補うという建前が採られている。したがつて、国家扶助を行う前提として、自力では健康で文化的な最低限度の生活を営み得ないか否か、営み得ないとすれば最低限度の生活水準に達するためにはどの程度の給付を必要とするかについての認定が必要であり、その認定は資産調査及び収入調査等の結果に基づいて個別的、具体的に行われ、給付の額も個々の事案に応じて必然的に異なつてくる。
[53] しかるに、児童扶養手当は、一定の母等が児童を監護するときは申請さえあれば受給資格が発生し、本人が健康で文化的な最低限度の生活を営み得ない状態にあるかどうかは受給資格と無関係であり、また、給付の額も児童の数に応じた加算を含めて受給者の生活状態にかかわらず一律平等である。
[54] 児童扶養手当については、受給権者本人又はその配偶者若しくは扶養義務者の前年の所得が一定額に満たないときは、不動産や預金等の形で十分な資産、資力を有していても全額支給され、国家扶助の場合と趣旨を異にしている。即ち生活保護制度に見られるような補足性の原則は働かない。児童扶養手当法が拠出を前提としない制度であつて、手当の給付に要する費用が国の一般財源で賄われているからといつて、生存権保障を直接の目的とする制度であるとはいえない。

[55]4、児童扶養手当は、最低限度の生活は最終的には生活保護法により保障されるべきものであるとの前提に立ち、所得の一部を保障しようとするものである。他の公的年金給付を受けてもなお最低限度の生活を維持し得ないとするならば、その生活を最終的に保障すべきものは、生活保護制度であつて、児童扶養手当制度ではない。したがつて、児童扶養手当の支給は障害者ないし母子家庭の生活実態がどうであるかとは関係なく、その現状を根拠として本件併給禁止条項が憲法25条に違反するとすることは誤りである。この点において、原判決は失当といわざるを得ない。

[56]5、以上のとおり、児童扶養手当制度は、それ自体によつて母子家庭の最低生活の保障を実現しようとする制度ではないから、児童扶養手当の給付額及び支給要件をどのように定めても憲法25条違反の問題を生ずる余地はないものというべきである。
[57] 憲法25条の生存権規定は、国に対してできる限り生存権の完全実現のために努力すべき政治的責務を課するものではあるが、その「できる限り」ということは、本来、国の経済的、財政的能力に基づいて立法府が判断すべきことであつて、司法権が立法府に対して指示し得る性質のことではないのである。
1、児童扶養手当法及び国民年金法における併給調整条項の内容
[58] 本件併給禁止条項の内容は、国民年金法20条及び65条1項1号の内容と同趣旨となつている。

2、児童扶養手当法及び国民年金法における併給調整条項の根拠
(一) 国民年金と他の年金制度による給付との調整について
[59] まず、公的年金制度が分立していることから、制度間の調整が問題となる。保険事故が生じた場合には原則としてその加入している制度による給付のみがなされており、かつ、なさるべきであることは加入者がその制度にのみ保険料を支払うことから当然のことである。また1つの保険事故に対し複数の制度による複数の所得保障が行われる制度というものは、限度のある財源を効率的に活用するものとはいえないし、また制度を複雑化するもとともなる。したがつて、福祉年金を含めて国民年金制度による給付が原則として他の厚生年金保険法、国家公務員共済組合法等による給付と併給されないとしても十分の合理性がある。国民年金制度を補完する児童扶養手当が、同一事故について他の年金と併給されないことについても同様である(児童扶養手当法4条1項2号、2項3号、4号)。
(二) 国民年金制度内における併給の調整について
[60] 複数の保険事故が発生した結果、複数の給付がなされる場合の給付の制限の問題がある。これは各種年金相互間でも、国民年金制度下においても共におこり得る(国民年金法20条)。例えば障害福祉年金と母子福祉年金とがそれである。障害福祉年金は重度の障害により稼得能力を喪失したため、その生活費等として支給されるものであり、母子福祉年金は、一般的に家計維持者である夫と死別し、かつ、養育しなければならない児童がいるため稼得能力を失つた妻に対して支給されるものである。障害福祉年金は出費の増加に対応するものではなく、母子福祉年金は児童の養育費として支給されるものではなく、いずれも稼得能力の低下又は喪失を事由として支給されるものである。そのよつてきたる原因(廃疾、母子状態)は異なるけれども、その結果は、稼得能力の喪失ということであつて、全く同一である。したがつて、この同一の結果に着目して1つの給付しか行わないとしても不合理とはいえない。
[61] けだし、公的年金受給者には、既に老齢、廃疾その他所得低下を招来する事故が生じており、それに生別母子状態という所得低下の原因となる事実が付加されても、所得低下の程度は比例的に加重されるものではないからである。所得低下の原因となる事実が競合している場合には、これを各別に評価せず、総合的に評価してそのうちの最も重大な原因に対応する給付のみを行うこととしても、必ずしも不合理ではない。
[62] むしろ、同一人について2つ以上の事故が生じた場合にそれぞれの年金を支給することは、特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることとなり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失することとなるのである。
[63] 以上のように障害福祉年金と母子福祉年金を併給しないこととしたことには十分の合理性があり、本件で問題となつている母子福祉年金の補完制度である児童扶養手当と障害福祉年金との併給の問題についても同様のことがいえるのである。
(三) 福祉年金及び児童扶養手当の特殊性に基づく併給調整の合理性について
[64] 両者とも全額国庫負担により支出されるもので、拠出制年金とは本来的に性格が違い、したがつて、その支給要件及び額もおのずから異なつて然るべきである。限りある財源を一方に偏することなく、広範囲な国民層に対し広く適切な給付を行うこと、即ち限りある財源を公平かつ効率的に活用しなければならないという見地からして併給禁止も合理性がある。支給対象者の範囲の拡大を望む国民層の国民感情も無視できない。
[65](四) 公的年金受給者に児童扶養手当を支給しないことは、また公的年金等の所得保障の施策と併せて各種の福祉施策が行なわれており、最終的には国家扶助(生活保護)により国民の生活が保障されている社会保障の体系の下においては、不合理なものとはいえない。
[66](五) 以上、本件併給禁止条項には合理的な理由があり、憲法14条1項に違反しない。

[67]3、保険事故が重複した場合の併給調整の合理性は、国際的に見ても認められているところである。

[68]4、被控訴人は、視覚障害者世帯及び母子世帯の窮乏した生活の実態からして併給しないのは不合理であると主張するのであるが、それは結局併給調整自体の合理性の問題ではなく、公的年金等の給付水準が低きに失するという額の問題に帰着する。給付水準が低いというのは給付水準の在り方それ自体の立法政策の当否の問題である。

[69]5、原判決が父生別、母は廃疾で児童を養育している被控訴人の家庭と、父が廃疾、母は健全で児童を養育している家庭とを対比して、両事例間には「性別による差別」と「障害者であるとの社会的身分類似の地位による差別」が存するとしたことは、比較事例を誤つたものである。両事例は、家族数、家族構成等を異にしている。

[70]6、児童扶養手当、特別児童扶養手当及び児童手当はその制度創設の動機、目的及び社会保障制度における位置づけが相互に異なるものであるから、特別児童扶養手当法4条4項3号が併給を認めているからといつて本件併給禁止条項には合理的根拠がないとはいえない。特別児童扶養手当法は公的年金制度とは特に関連がなく生れたものであつて、その本質は重度心身障害児童等の福祉対策の一環としての給付であり、介護料的な手当であつて、防貧的な稼得能力の喪失等に着目した所得保障たる公的年金ではない。また児童手当のような家族給付の一種でもない。

[71]7、原判決後本件併給禁止条項は法改正により削除され(昭和48年法律第93号)、児童扶養手当は国民年金法に基づく障害福祉年金又は老齢福祉年金を受けることができるときでも支給されることになつた。しかし右改正は、本件併給禁止条項が憲法に違反するものとして行つたものではなく、児童扶養手当法の内容が手当額を初めとして順次改善、充実されてきているのであるが、右改正もその一環として評価すべきものであり、立法府がその裁量の範囲内において採つた施策である。児童扶養手当の受給者が障害又は老齢という事故により福祉年金受給者となつた場合の生活実態を考慮して、障害福祉年金又は老齢福祉年金との併給を認めることとしたものである。
[72] もつとも右のような併給をしないで、障害福祉年金に扶養加算の制度を設けるという方策も考えられるけれども、そのいずれを採用するかは立法府の決定すべき立法問題にほかならない。

8、児童扶養手当の支給要件の定め方と立法府の裁量
[73] 児童扶養手当の支給要件をどのように定めるかは、立法府の裁量事項に属し、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的措置が著しく不合理であることの明白である場合でなければ、これを違憲とすることはできないものというべきである。
[74](一) 経済保障(社会保険)の一環としての児童扶養手当については、その支給要件をどのように定めるかは、正しく立法政策の問題であり、その受給権者の範囲及び受給額をどこまで拡張しなければならないという憲法上の基準は全くないのである。もとより、児童扶養手当の支給要件の定め方も、し意的なものであつてはならないことは当然であつて、憲法14条の定める法の下の平等の原則に従うべきものであるが、生活保護における保護基準の場合と比較して、裁量権をゆだねられたのが行政庁でなくして立法府であること、また保護基準の場合のような最低限度の生活を維持しなければならないとする絶対的要請は存在しないことからして、当然その裁量の幅が異なるのみならず、その裁量には質的な差異があるというべきである。
[75](二) 国民の権利を制限し、国民に義務を課する消極的規制措置については、厳格な司法審査を経る必要があろう。しかし、国民に権利、利益を賦与する立法、例えば社会政策及び経済政策上の積極的施策に関しては、立法府に広範な裁量権が認められてしかるべきである。
[76] 児童扶養手当制度は、憲法25条2項に基づく積極政策であり、国の経済的能力とも深いかかわり合いをもつものであるから、立法府の裁量権の範囲は極めて広く、国民の権利を制限する立法の場合と比べて平等原則、比例原則による制約も極めて緩和されていることは疑いをいれない。
[77](三) 殊に、社会保障施策は、積極的政策の中でも、とりわけ政策的、技術的判断を要する事柄である。経済保障制度の在り方は、限られた一般財源をどのように効率的に配分するかという、専ら立法政策の問題である。
[78] すなわち、社会保障の向上及び増進のための立法措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象者についてどのような支給要件の下にそのような措置を講ずるのが適切妥当であるかは、主として立法政策の問題であつて、立法府の裁量的判断にまつほかはない。
[79](四) 司法権の機能、作用は、本来、受動的、消極的なものであつて、決して積極的な政策形成を行うことではない。
[80] ところが、併給調整条項を憲法14条1項に違反すると判断することは、結局は新たな立法を行うことと同じ効果をもつといわざるを得ないのである。公的年金制度全体を見るならば、併給調整条項は数多いから、もし裁判所がその条項の妥当性、合理性を一々判断し得るものとすれば、裁判所が各種年金の支給要件、支給額等を憲法14条1項という観点から調整する作用を営むこととなり、ある限度においてではあるが裁判所が立法者の観を呈することとなる。しかも、その違憲判断の結果は当然予算を伴うこととなり、国家財源の配分という立法府の専権事項を犯すことになるのであつて、このような事態は、明らかに司法審査の限界を逸脱するものといわざるを得ない。
[81] したがつて、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的措置が著しく不合理であることが明白である場合でなければ、これを違憲とすることはできないものというべきである。
(別紙(二))被控訴人の主張
[1] 本件控訴は、形式的には、原判決に対する不服があるとして提起されている。しかし、控訴人知事は、原判決の結論に実質的な異議はなく、むしろ積極的にこれに賛成し、従う意志、態度を公的にも私的にも明らかにしており、また、原判決の趣旨に沿つた法改正も既に行われているのである。すなわち、控訴人は、みずから原判決の意を受けて障害(老齢)福祉年金と児童扶養手当との併給を実質的に認める児童養育見舞金支給要綱を制定するなどして、単に被控訴人との関係だけでなく、広く一般に原判決の趣旨である障害福祉年金と児童扶養手当との併給を実現させる努力をしているほか、本件控訴についての国への意見書において、
「この事件は、堀木文子個人の経済的な事情を考慮した判決であり、実情もそのとおりであるので、控訴しないことが社会のニードにもあい、かつ控訴しないことが適当と思料される」
旨の意思を表明している。控訴人は個人的にも控訴する意思はなく、原判決に服するつもりであつたことを明らかにしている。
[2] また、昭和48年9月26日障害福祉年金と児童扶養手当との併給を認める法改正が行われ、同年10月1日より施行されており、立法府においても原判決の趣旨、結論を正当と認め、これに従う意思を明らかにしているのである。
[3] この点につき控訴人は、被控訴人の受給資格の有無は前記法改正によつて何ら影響を受けるものではないから、本件控訴には実質的な利益が存する、と主張する。
[4] しかしながら、右主張は、控訴人が表明してきた態度と明らかに矛盾するものであるのみならず、併給禁止条項が改正され、制度全体として既に問題が解決されているのだから、相当ではない。かような場合、被控訴人ひとりの問題に限つてみるのではなく、制度全体として控訴をして争う利益(しかもそれは、国ないし公共団体としての利益)がなお存するのかどうかによつて決すべきである。そうだとすれば、既に改正された併給禁止条項の違憲性をめぐつて控訴をしてまで争う実益は最早ないというべきである。
[5] したがつて、本件控訴は、控訴の利益を欠き、却下を免れない。
[6] 控訴人は、前記のとおり、原判決に賛成し、控訴すべきでないという意向を内外に表明しているので、本件控訴は控訴人の真意に基づくものでないことが明らかである。したがつて、訴訟行為として不適法であり、却下すべきである。
[7] 控訴人は、本件控訴については、法務大臣が「権限法」により、控訴人に対し指示をなしたこと、および控訴人が最終的には控訴する意思を固めたことを以つて、被控訴人の右主張に対する反論としている。しかし、本件控訴に関し、法務大臣が県知事に控訴の指示をなしうるというのは、「権限法」の解釈適用を誤つたものであり、かつ、控訴人が「最終的には固めた」とされる控訴の意思は、右「権限法」の誤つた解釈に基づき、錯誤に出たものであつて、やはり真意に基づくものとはいい難いのである。
[8] 児童扶養手当の支給に関する事務は、地方自治法別表第3に定める機関委任事務であつて、その事務の執行は、すべて当該機関(控訴人)が「自らの判断と責任において」行われるべきものである(地方自治法138条の2)。
[9] 控訴人は、機関委任事務にかんする訴訟についても、「権限法」6条1項、5条1項の適用があるというが、「地方自治の本旨」を無視し、国の機関である「行政庁」と、国の機関委任事務を行う「地方公共団体の機関」とを同一視する誤りを犯している。
[10] 国の機関委任事務の処理についても、地方自治の余地が全くないとすることは誤りである。国の行政であつても、地方の実情にそくした裁量的判断の及ぶ余地がある。そして児童扶養手当の支給に関する事務とそれにかかわる訴訟事務についても地方の実情に即した裁量の判断の余地がある事務であるということができる。
[11] 国の委任を受けてその事務を処理する関係における地方公共団体の長に対する指揮監督につき、いわゆる上命下服の関係にある、国の本来の行政機構の内部における指揮監督の方法と同様の方法を採用することは、地方自治の本旨にもとる結果となるおそれがある。そこで、地方公共団体の長本来の地位の自主独立性の尊重と、国の委任事務を処理する地位に対する国の指揮監督権の実効性の確保との間に調和を計る必要があり、地方自治法146条は、右の調和を計るため、いわゆる職務執行命令等、訴訟の制度を採用したものと解すべきである(最判昭35・6・17、民集14巻8号)(同旨、東京地判昭38・3・28、判時331号)。
[12] 以上、国の機関たる行政庁と機関委任事務を処理する地方自治体の機関とを同視することはできない。
[13] また、控訴人の見解に従うと、国の機関委任事務について、都道府県知事は本来当該事務を管轄する「主務大臣(本件の場合は厚生大臣)の指揮監督を受ける」(地方自治法150条)とされるのに対し、一旦当該事務に関する訴訟になれば、すべて法務大臣の指揮命令を受けることとなり、それ自体不当であるだけでなく、当該事務についての地方の実情を主務大臣に比べてもはるかに知らないと思われる法務大臣の指揮命令によることは、地方自治の本旨に反するだけでなく、当該事務の遂行にも有害であると思われる。
[14] 権限法は、まず国を当事者または参加人とする訴訟につき、その訴訟を統一的に処理するために、法務大臣をして訴訟を統括せしめんとしたものであり、この理は、国から公権力の行使の権限を与えられ、訴訟において当事者となりうる各行政庁の場合にも同様であるとして、5条1項および6条1項が規定されているのである。
[15] ところで、地方公共団体の場合は、憲法上確立されている地方自治の原則があるので、7条で、法務大臣の指揮権の及ばないことを原則としつつ、例外的に、「その事務に関する訴訟について、法務大臣にその所部の職員でその指定するものに当該訴訟を行わせることを求めることができる」ことにより、その要請に基づいてのみ法務大臣の介入が許されるにすぎない。しかし、国の機関委任事務に関する訴訟については、権限法は直接規定を設けていない。(5条2項但書の規定を根拠に5条1項、6条1項の適用があるとする説は、憲法92条の地方自治の本旨に反する解釈であるとのそしりを免れず、そのように解する場合には、法律自体が違憲無効となるといわざるを得ない。)
[16] 権限法自体が違憲でないためには、地方自治の本旨を尊重して、「地方公共団体の事務に関する訴訟」に準じて取扱われるのが妥当である。すなわち、5条、6条ではなく、7条及び8条但書が準用されるべきである。現に本件控訴においても、控訴代理人の主張とは異り、8条但書に従つて、控訴についての特別授権のため、改めて指定手続きが履践されているものと思われる。
[17] したがつて、法務大臣の控訴指示がなされたとしても、その指示は違法なものであり、県知事は当該指示(職務命令)の適法性について、実質的審査権をもつのであるから、控訴人はこれに従う義務はなかつたものであり、この点にかんし、法律上の錯誤によつて「控訴の意思を固めた」のであるから、本件控訴は不適法であることは疑う余地がない。
[18] 控訴人坂井時忠知事は、原判決に対し、
「盲目の障害者である堀木さんが、かよわい女手ひとつで子どもを育てなければならない実情は、まことに同情にたえないものがあつたと認め、法務省、厚生省には強硬に、原判決に対しては控訴すべきではないし、したくないという県の意向を述べて善処方を迫つたが、『国会の議決を経て制定された法律が、違憲だとの判決には控訴せざるをえない。』との政府見解を覆えしえず、万やむを得ず、その指示に従わざるを得なかつた。」
とのべ、他方、国側においても、現になされている控訴は、法務大臣が
「国会で制定された法律が違憲と判断されたことは重大な問題であり、一審限りで判決を確定させることは相当でなく、上級審の判断を仰ぐ必要がある」
として、控訴をさせたのであつて、控訴によつて求めるところは、違憲の判断を受けたという司法機関に対する形式的な面子以外にないといえる。
[19] このような控訴は、実質的な控訴利益を欠き、控訴権の濫用にあたるといわなければならない。
[20] しかも、控訴提起後間もなく、控訴提起という原判決に対する不服申し立てとはうらはらに、当該違憲判断をされた法律の改正に着手し、昭和48年9月26日に法改正を成立させ、同年10月1日より施行しているのであつて、もはや控訴を維持する何らの実質的利益がないことは、更に明白となつた。
[21] このうえなお控訴を維持することは、障害福祉年金と児童扶養手当の併給の正当性と必要性を認めた国会の意思とも矛盾するし、下級裁判所の軽視と相まつて、後述する司法による違憲審査制度、ひいては三権分立の制度の趣旨にも反することになろう。
[22] また、単なる面子のため判決の確定を妨げ、今なお貧困と差別に耐え、1日も早い問題の解決を待ち望んでいる被控訴人に対し、裁判開始前からの権利侵害を維持継続することは、控訴制度の趣旨にも明らかに反するもので、それ自体許しがたい人権侵害行為であるといわなければならない。
[23]一、憲法14条1項は立法者をも拘束するものであり法律の制定にあたつても、その内容において平等原則に反してならないことが憲法上の要請として働くのである。同条項後段に列挙された差別事由は例示的に列挙されたものであり、これ以外による差別も、それが不合理なものである限りは本条項に違反し、そのような内容の法律は憲法に違反し、無効である。「障害福祉年金(公的年金)を受給する者」として、児童扶養手当の支給に関して差別をすることが合理性を欠くものであるとすれば、かゝる差別扱いを定めた本件併給禁止条項は、その限りにおいて憲法14条1項に反し無効である。次にこれを詳述する。

[24]1、児童扶養手当の形式的な受給権者は母ないし養育者とされているが、後にのべるように、同手当の実質的な受給権利者は児童であると解されるところ、同手当支給の対象者たる児童の立場からみて、同じ生別母子家庭等の児童であるのに、母が障害福祉年金の受給者である児童に対しては、同手当が支給されず、そうでない(母が健全で、障害福祉年金を受けていない)児童に対しては、同手当が支給されるという差別がある。而してここでは父が不在ないしはこれと同一の状態にある児童相互間で、母が障害福祉年金を受給しているか否かの一事をもつて、「児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給される」同手当の支給において差別的取扱いをなすことの合理性の有無が検討されなければならない。

[25]2、児童扶養手当の法律上の受給権者とされている母(養育者)の立場からみて、同じく生別母子家庭等の要件を満たしているのに、健全な母(養育者)であれば同手当が受けられ、障害福祉年金の受給者である母(養育者)であれば手当が受けられないという差別がある。而してここでは、重度の障害者であり、障害福祉年金を受給しているという一事でもつて、その母(養育者)に対しては児童扶養手当の支給をしないという差別的取扱いの合理性の有無が検討されなければならない。

[26]3、のみならず、原判決のように世帯単位で比較し、
「障害福祉年金を受給している父と、健全な母と、児童との3人の世帯に対しては、障害福祉年金と手当とが支給され得るのに反し、障害福祉年金を受給している母と、児童のみの2人の世帯に対しては、障害福祉年金が支給されるのみであつて、手当は絶対に支給されないことになつている」とし、両事例を対比すると、「手当の支給について、障害者として公的年金を受け得る者が、母であるか又は父であるかということ、若しくは母が障害者であるか又は健全であるかということの差異によつて」差別があり、そこには「性別による差別並びに障害者であるとの社会的身分類似の地位による差別という二重の意味の差別が存在する」
とみることもできないわけではない。
[27]1、本件併給禁止条項が合理的であつて憲法14条1項に違反しないとの主張立証責任は控訴人側に課さるべきである。

[28]2、児童扶養手当の性格は、児童の福祉の増進を図る目的で、児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給される手当であつて、その支給の実質的対象は、世帯でもなければ、母でもない。正しく児童について支給されるものである。児童扶養手当制度は、国際的に児童手当制度の発達と普及が進むなかで、父と生計を同じくしない等の特殊な状態にある児童に限定して生れてきた児童手当制度の一種である。手当の性格は児童の養育という支出増(稼得能力の低下ではない)に対応するもので、家族給付の一つである。その実質的受給権者は児童であると位置づけられるのである。
[29](一) 児童扶養手当法1条は、「父と生計を同じくしていない児童について児童扶養手当を支給することにより児童の福祉の増進を図ることを目的とする。」と定め、同法2条は、児童扶養手当が、「児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給されるものである」ことを明言し、更に同条後段は、「その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない」と、社会規範として、目的外使用を禁止し、同法14条3号はこれを受けて「受給資格者が、当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は「その額の全部又は一部を支給しないことができる」と定めている。
[30] これらの規定は、手当支給の趣旨、目的が、「児童の心身の健やかな成長」にあり、その他のどこにも存在しないことを物語つて余りあるものである。右の14条3号にあたる規定は、国民年金法には全く存在しない。
[31](二) 児童扶養手当は、稼得能力の低下に対応する遺族給付の一種ではない。
[32] 遺族給付は、一般に死亡した者によつて生計を維持していた配偶者・子・父母・孫・祖父母などの各遺族の扶養の喪失を支給事由とするものであるから、児童扶養手当がその一種であるなら、「生計を維持していた」者という要件がなければならないはずである。ところが、児童扶養手当の支給要件を定めた同法4条1項にはかかる要件はない。このことだけでも、児童扶養手当が稼得能力の低下とは関係ないことは明らかである。
[33] 児童扶養手当法4条1項によれば、手当を支給されるのは、児童を監護する母もしくは、児童を養育する者である。即ち、手当受給の母が、児童を第三者に養育してもらうようになつた段階では、もし、遺族給付であれば、母親がひきつづきその給付を支給されるものであるのに対し、児童扶養手当においては、母は給付を受けられなくなり、現実に児童を養育している者に支給されるのである。このように児童扶養手当は、児童と共に移動し、児童についてまわる手当である。そして、このような場合、「養育者」であることには何の制約も定められていないのであるから、「養育者」の稼得能力の低下を論ずる余地はない。
[34] 又、同項3号によれば、父が廃疾の状態にある児童の母もしくは養育者にも手当が支給されるのであるが、かかる場合に、父の廃疾状態に対応する公的年金給付は、児童加算の部分を除いては児童扶養手当と併給されるのであるから、これまた稼得能力の低下を論ずる余地はない。
[35] 更に、同法5条によれば、児童扶養手当の額は第二子から加算されることになつている。これまた、稼得能力の低下とは無関係のものであり、児童の数と関連をした給付であることを認めるに足る。
[36] 児童扶養手当法が、その立法の動機においては確かに国民年金法において死別母子世帯に母子福祉年金を支給することとのかねあいも考えられたこともあつたが、それは法制定にあたつての当初のことであつて、野党側からの「国民年金法の一部改正によつて生別母子世帯にも母子福祉年金を」という要求をふりきつて単独立法化される中で、社会保障の考え方としては、国民年金とは切断され、立法段階においても児童手当の萌芽と考えられるに至つたのである。即ち児童扶養手当は「普遍的に児童の生計費を大巾に保障しようとする」ものではないから、本格的な児童手当ではないが、その対象となる「極く限られた分野」では、児童手当の役割を果たすものというべきである。更にいえば、母子福祉年金の性格についても、必ずしも控訴人の主張するような稼得能力の低下に対応する遺族給付とは断定し得ないものがある。それは補完的遺族年金の形式をとつているが、実質的には、母子・準母子世帯に対する児童扶養のための手当とみるべきである。寡婦、遺児の両拠出年金を除いて、母子・準母子についてのみ、補完的に福祉年金の制度を設けているのは、母子・準母子世帯における苦しい生活実態のなかで、児童を養育する困難に着目してのことといわなければならないからである。
[37](三) 本件併給禁止条項は、国民年金法20条・65条1項1号とは対応しない。
[38] 児童扶養手当法の併給禁止には、2通りあり、その一は同法4条2項3号ないし5号による「児童が公的年金給付を受けていたり、あるいは公的年金給付の加算(児童加算)の対象となつている」ことを理由とするものであり、その二は、本件併給禁止条項の母や養育者の公的年金給付を理由とするものである。
[39] 控訴人は本件併給禁止条項が国民年金法20条及び65条1項1号と対応し、同趣旨であると主張する。なるほど、形式的にのみみれば、1人の受給権者が、2以上の年金を受けられない点で対応しているように見える。しかし、それならば、児童扶養手当法4条2項3号ないし5号の規定は何故設けられているのか、国民年金法でこれに対応する規定のないこととなり、全く不合理な二重の併給禁止である。
[40] 控訴人のいうように、併給禁止条項が、同一人に対し、同一事故について二重の支給をしないという配慮からくるものであるとするならば、国民年金法20条65条1項1号に対応する規定は、児童扶養手当法4条2項3号ないし5号か、本件併給禁止条項のいずれか一方でなければならないはずである。
[41] 右のいずれが対応すると考えられるかは、結局、手当の趣旨目的や、真の受給権者は誰かということから判断せざるをえない。そして、手当の真の受給権者が児童である以上、国民年金法20条65条1項に対応しうるのは、児童扶養手当法4条2項3号ないし5号であつて、本件併給禁止条項ではないことは明らかである。
[42](四) 実務上の扱いでも児童扶養手当の支給の対象が児童であることを前提にしている。
[43] 児童扶養手当の所管は、児童手当と同じく厚生省児童家庭局であり、母子福祉年金のそれが厚生省年金局であるのと全く異つている。
[44] 特別児童扶養手当等の支給に関する法律等の一部を改正する法律案によれば、児童扶養手当の支給額は、特別児童扶養手当、児童手当と共に一括して、1つの法律で改訂され、しかもその提案理由として「児童扶養手当及び児童手当の支給対象児童の福祉の向上を図るため」となつていることから、児童手当・児童扶養手当・特別児童扶養手当という同一の所管に属する3制度が歩調を同じくしていること、児童扶養手当が児童手当と同じく、児童福祉のために、支給されていることを厚生省をはじめ、政府当局も認めているのである。
[45](五) その他にも児童扶養手当と母子福祉年金との間には実務上も法律上も幾つかの違いがある。たとえば(1)母子福祉年金の受給権は、請求に基づいて裁定されるのに対し、児童扶養手当の場合は受給資格の認定を受けることになつている(児童扶養手当法6条)。(2)母子福祉年金の給付を受ける権利の消滅時効は5年であるのに対し、児童扶養手当の場合は2年である。(3)手当の額は、制定当初は同額であつたが、昭和39年からは、児童扶養手当の方が低額に押えられ、現在のように、母子福祉年金と同額になつたのは、本件訴訟提起後の昭和45年9月以降である。
[46](六) 児童扶養手当は、国際的な意味での家族手当としての児童手当である。
[47] 元来家族手当としての児童手当は、児童の養育と多くの国では多子家族の生活の維持を目的として設けられてきたものである。しかしながら、ILO102号条約に関する報告書は、両親が離婚・別居あるいは死亡した場合等の子に対して、一定の給付を支給する法律が、家族給付の性格を有することを前提に、それのみでは、この条約が要求する最低基準を満たしていないとしているが、ここでは、このような限られた範囲の児童に対する給付も家族給付として位置づけているのである。すなわち、家族手当としての児童手当は、現在では、ハンデイキヤツプを負つた家族における児童の養育等のためにも支給されるように発展し、更に、児童の養育以外にも範囲を広げられてきているのである。このことは国際的すう勢である。
[48] わが国でようやく本格的な家族手当制度として発足した児童手当制度が、多子を理由とする古典的な形の家族手当でしかなかつた以上、母子家庭ないしはそれに近い状態というハンデイキヤツプに着眼した児童扶養手当とはニードが異なるのであるから、両制度は併存することが当然であり、そのことは、何ら児童手当と児童扶養手当とが共に児童の養育のための家族手当であることを否定する根拠とはならない。
[49](七) また母子家庭の生活実態からみても、一般家庭に比べると著しく困窮していることが明らかであり、児童扶養手当はかゝる困窮家庭に対し、その児童の養育という支出増に対応して支給されるもので、家族手当の性格を有する。
[50](八) 児童扶養手当は、母なるが故に受給しうるものではなく、児童を監護する母、養育をする者が、児童の監護養育をするためにのみ受給しうるのである(児童扶養手当法1条2条4条1項14条3号)。その手当の使用の方法が右の趣旨目的に拘束されることは社会規範であり、実務上も「支給対象児童」なる言葉が用いられているのである。つまり、児童の養育を受ける権利(児童福祉法1条2条参照)に対応して支給される手当である。かかる性格の手当については端的にその児童に対して与える(従つて親権者に支給する)よりも、監護養育する者に支給する方がより確実にその目的を達しうることは明らかであろう(民法830条1項参照)。このように考えると、児童扶養手当は、実質的には児童を受給権者(究極的利益の帰属者)とするものと断ぜざるを得ない。

[51]3、障害福祉年金は低所得の重度障害者に対し、その者個人の主として稼得能力の低下に、従として支出負担の増加に対応して支給される救貧的給付である。
[52](一) 重度の障害によつて生活の安定がそこなわれる最大のゆえんは、その者の稼得能力の低下にあることは、だれしも争わぬところであるが、それと同時に、障害者であるために様々な支出増が伴うことも明らかである。このような生活実態と、国民年金法にいう「国民生活の安定」を比較するとき、障害福祉年金が主として稼得能力の低下に、従として支出負担の増加に対応して支給される年金であることは明らかである。
[53](二) 障害福祉年金は障害者本人に対してなされる給付である。国民年金法が障害者本人を受給権者としていること、夫婦とも障害福祉年金を受給する場合に併給調整がなされていないこと、更には、児童加算の制度がないことからみて、世帯に対する共通生活費的な性格はもつていない。
[54](三) 障害福祉年金は救貧的機能をもつている。原判決は
「成立に争いのない甲第12号証によれば、身体障害者の内、特に視覚障害者の生活実態は極めて苦しいものであり、昭和43年3月1日現在における都内の一級及び二級各視覚障害者合計1268人の内約13%が生活保護を受けており、これは昭和43年3月現在の全国の保護率1.5%の約8倍の高率であること、国民年金法の厳格な支給要件にも拘らず、障害福祉年金を受けている者は、右の内、51.7%にのぼつていること、更に、何らかの職業についている者は、右のうち53.8%であるところ、その就業者中、74.5%は、はり、きゆう、あんまなどのいわゆる三療に従事していること、右就業者の1カ月平均収入は、3万円未満の者が71.7%であること、また、原告のような50才以上の女性(この点は成立に争いのない甲第1号証によつて認めることができる)についてみれば、その60%が他の人に依存して生活しなければならない現状であること、そのうえ、これらの視覚障害の女性は、一般の女性と比べて、家政能力・作業能力が低く、通常の生活にさえも大変な困難が伴つているといえるだけでなく、右能力の不足を補うために、他人の手助けを必要とし、そのための出費をもしなければならない状況であることをいずれも認めることができる。この認定を左右するに足る資料はない。」
と論じ、このように極度に困窮している者に対する障害福祉年金が救貧的機能をもつものであることを認めている。

[55]4、同一人に対する複数の社会保障給付が併給調整されるのは、それらの給付が、稼得能力の低下に対応する場合に限られるのであつて、その場合の基準は、その稼得能力の低下の度合いが一般的平均的に加重される程度に応じて併給調整されるのである。そうでなく、支出増に対応して支給される場合は、同一人に対する給付の重複であつても併給されるべきである。
[56](一) 併給調整は2つの種類に分けられる。1つは同一人について、2つ以上の生活事故が重複する場合であり、もう1つは同一事由により複数の受給権が生ずる場合であるが、本件の場合は前者に該当する。
[57] 同一人に複数の事故が重なつた場合、そもそも年金給付が一般的には、老齢・廃疾・遺族という主として稼得能力の低下喪失をもたらす事故別に定型的にとらえてなされるところから、それら事故別に定型化されているものを、その場合の要保障状態に近づける必要がある。これが併給調整のなされるゆえんである。従つて、併給調整の基本原理は、複数の事故が重複したことによつて、稼得能力の喪失低下が一般的平均的に加重される程度に応じて併給調整するということにならざるをえない。廃疾と廃疾の併合によつて、三級障害から一級障害へと加重した場合に給付が3分の5倍になるのはその端的な例である。一方社会保障給付の中には、稼得能力の低下に対してではなく、支出の増加に対応するものがある。かかる給付については、常に完全併給されるべきであることは当然である。児童手当が完全併給されているのはその例である。
[58](二) 国際的にも障害・老齢・廃疾という主として稼得能力の低下を生ずる事故に対応する社会保障給付の相互間の重複は、減額措置の対象としうるが、一方、家族給付(わが国の児童扶養手当もこれに当る)は右のような減額措置の対象とすらならず、いかなる場合にも完全併給しなければならないということが、ILO102号及び同108号各条約により国際規範化され、国際的良識となつている。
[59](三) 児童扶養手当の受給権者は実質的に児童であり、障害福祉年金の受給権者は障害者(本件では被控訴人)であつて、支給対象者は別異であり、同一人ではないと解せられるから、本件の場合、同一人に対する給付の問題ではなく、併給調整のありようがない。仮りにそうでなくても、児童扶養手当は、児童の監護養育という支出増加に対応する給付であるから、本件は支出増対応給付完全併給の原則にあてはまる。
[60] また、わが国の児童扶養手当は、国際的な意味での家族手当としての児童手当に該当するので、前記国際規範に照らしても完全併給されなければならない。
[61] 以上のように、本件児童扶養手当と障害福祉年金の併給は当然のことであり、控訴人の併給調整論は明らかに誤りである。

[62]5、控訴人は
「児童扶養手当その他無拠出制の年金給付の財源は、国民大衆の租税負担によつてまかなわれるものであつて、財政上おのずから制約があり、その限られた財源によつて、広範囲の国民層に対し適切公平な給付を実施しようとする社会保障政策上の要請が存する」
と主張して差別を合理化しようとする。しかしながら、昭和48年9月児童扶養手当法4条3項3号が改正され老齢福祉年金と、児童扶養手当との併給が認められるに至つたが、その予算案によれば、右併給に要する費用は、年間僅かに1424万3000円にすぎず、これは昭和48年度一般会計の総予算額14兆2840億7300万円の0.000099712%にすぎないことからすると、財政上の制約はなきに等しいものである。障害福祉年金は本件却下処分のなされた昭和45年2月当時において、月額僅か2900円、現在においても月額11,300円にすぎず、又児童扶養手当も昭和49年2月当時において月額わずか2,100円、現在においても月額9,800円にすぎない。このような状態において、財源云々というは、児童の福祉の増進という児童扶養手当制度の趣旨を没却するばかりか、国際良識からみても、全く許されないものである。国際的には、ILO43号同67号各勧告によつて拠出制のみならず、無拠出制の年金についても生活保障の原則がうちだされた。そして現在においては、経済大国となつた日本も含めて、先進工業国は、ILO条約だけでなく、ILO勧告のレベルまで関係国内法規の水準を改善することが当然の責務となつている。1961年の社会保障憲章においても、「保障すべき水準は、必要にしてかつ充分なものでなければならない」旨宣言されている。このように、国際良識として、ILO勧告などに規範化されている年金などの生活保障の原則を前にしながら、前記のような、生活保障には遥かに足りない年金や手当の額にもかかわらず、財源を云々することは失当である。

[63]6、身障者就中重度身障者母子世帯の生活実態は、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止が如何に不合理なものであるかを証して余りがある。
[64](一) 肉体に障害があることによつて生じる社会的ハンデイキヤツプとしては、大きくわけて、3種類のものに分けられる。すなわち、第一に身障者は、働く機会が保障されておらぬか、あるいはその機会が著しく狭められている。第二にその必然的結果として、所得が低く、また他方障害があるために、余分な支出を余儀なくされ(必要経費)るなどのため、その生活はきわめて困難である。第三に経済的以外の面で人手をかりなければ、自立していけない。こうしたハンデイキヤツプに対し、社会的配慮がなされることが、社会保障の原点といえる。
[65] 障害福祉年金は、一般の貧困世帯とはまた違つた特徴を持つ重度障害者層に対して、最低生活保障の一部としての役割をはたしているということができ、控訴人が主張するように、障害福祉年金と児童扶養手当を併給することは、二重三重の保障になるといつた余裕のある給付ではまつたくないことは、重度身障者層の生活実態からして明白である。
[66](二) 子供をかかえた母子世帯の生活は、貧困状態を超えて極貧状態である。低雇用・低収入・子供の育児等のため母親の3人に1人は健康を害しているという調査結果がでている。こうした母子家庭において子供を育てるうえでは当時2100円と額は少いとはいえ児童扶養手当(支給額は昭和49年9月から児童1人の場合月額9800円、第二子には800円加算、第三子以下は400円加算)は欠くことのできないものといえる。
[67] 控訴人は児童の扶養のためには児童手当があると主張するが、わが国の児童手当制度は昭和47年1月から実施されたが、現在第三子以降の児童(義務教育終了前)のみを対象に支給されることになつており、わが国において義務教育前の子供を3人以上育てることのできる世帯はかえつて所得に余裕のある世帯が多いといわれており、その意味では母子世帯にとつて児童手当を受給することの可能な世帯は極少数に限られており、かかる実態からみても児童扶養手当が児童手当の役割を現実にはたしていることが明らかである。
[68](三) 重度障害者母子世帯のハンデイはそれぞれのハンデイを単にプラスしたものをはるかに上まわるものである。こうした2つの事故が重なつた場合、その生活実態は単なる倍加以上の劣悪な生活状況に陥つている。
[69](四) 身障者就中重度身障者母子世帯の生活実態は、(1)著しい貧困層あるいは、いわゆるボーダーライン層に位置すること(2)従つてそこでは、生活保護受給者といつた控訴人がいうように一方が「救貧」施策を求める階層であり、他方が「防貧」施策を求める階層であるといつた明確な階層区分が可能ではなく、生活保護や障害福祉年金や児童扶養手当等々によつてやつとの思いで生存を維持しているといつた方が実情に合致しており、そのことは、当時児童扶養手当額が僅か月額2000ないし3000円といつた少額のものであつてもそれを受給する層に対する影響は想像を絶するぐらい重大な意味をもつこと(3)更には単に経済的面のみでなく生活全般にわたつて困難を強いられていること(4)特に被控訴人のごとく重度身障者母子世帯は単に重度身障者世帯と母子世帯をプラスしたものというものではなく、生活困難の度合いは複合的に加重する。
[70] 本件併給禁止条項は、通常の生別母子世帯が本来受給できる権利を、母親が重度身障者で、障害福祉年金の受給者であることを理由にその権利を奪い去ることであり、その生活実態をふまえてみれば、「併給を認めると二重三重の保障になる」といつた「やりすぎ論」が憲法14条25条の法意を全く無視した議論であることは明白である。

[71]7、控訴人主張の立法裁量論は誤りである。
[72] 控訴人は、公的年金制度の根拠規定たる憲法25条がプログラム規定であり、(生活保護基準の設定における裁量権の逸脱のばあいを除いて)同条に基づく立法施策はすべて、立法府の裁量的判断に委ねられているということを前提とし、かかる前提から憲法14条の合理性の判断にあたつても立法府に巾広い裁量権を認め、「裁量権の逸脱」があり、「著しく不合理であることが明白」でなければ、違憲の問題は生じないと主張する。
[73] しかし、控訴人のかかる憲法解釈は独自の所論であつて、一般的妥当性を有しないばかりでなく、かくては憲法14条を実質上空文化してしまうものであつて、誤りといわざるを得ない。また仮りに百歩譲つても、本件は「立法裁量権の逸脱」であり、「著しく不合理であることが明白」な立法であつて、憲法14条に違反すると断せざるを得ない。
[74] 立法権の行使が、立法府の権限に属し、その自由裁量に委ねられているとしても、その権限は憲法41条に由来するのであり、憲法の定めなり諸原則を離れてまで自由勝手に立法する権限まで与えられているものではない。法の下の平等の原則は憲法上の重要な原則の一つであり、かつ立法権自体、もともと憲法14条の制約下において委ねられているのであり、平等原則違反の立法をする権限は、立法府といえども元来与えられていない(立法者拘束説)。その意味で、立法に当つて平等原則を侵すことは、認める余地がない。それ故、平等原則違反の立法がなされたときは、それだけでその立法は権限の踰越(逸脱)として、違憲である。立法される分野が、社会保障施策にかんするものだからといつて、平等原則の適用について、他の諸分野においてより、広い裁量の余地を認めなければならないとする法的根拠は存しない。
[75] 具体的にいつて、憲法25条自体としては制度の立法その他について立法府に広い裁量の余地を持たせていることを否定するものではないが、そのことと、ほぼ同等の状態にある国民相互間に、(当該立法によつて)合理的でない差別を持ちこむことが許されるか否かとは、全く別問題である。いいかえれば、年金や手当の制度を創設するか否か、支給額をいかに定めるかが立法府の裁量事項だとしても、そのこととは別の次元で、支給対象とされる国民と対象外とされる国民との間に、不合理な差別が持ちこまれていないかどうかを憲法14条の観点からテストしなければならない訳であり、このテストは憲法25条の解釈論的立場がどうあろうと、結論を異にするものではない。
[76] 生存権の保障をめざす社会保障の諸施策は、その出発点において、社会的経済的不平等をなくし、すべての国民に人間としての生活の面における実質的平等を実現しなければならないという理想から出発したものであるから、仮りにも不公平、不平等と見られる取扱いは許されない分野の問題である。
[77] 仮りに立法裁量権を肯定するとしても、本件併給禁止条項は立法府の裁量権の範囲を逸脱した著しく不合理な立法によるものであることが明白である。著しく不合理なことが明白か否かは、客観的な根拠に基づいて、国民大多数をして容易に首肯せしめるに足る健全な法感覚によつて判断されなければならないのはいうまでもない。被控訴人のような全盲の母が、ひとりで子供を育てることが、いかに困難かつ苦渋に満ちたものであるか、このような状況を前提にする限り、同じ生別母子家庭という要件を満たしているにも拘らず、手当を支給しないことは、単に月何千円かの収入を得られないというにとどまらず、直接にその児童なり母親の生活をおびやかす。貧困層における社会保障給付の不支給は、他の国民層におけるばあいにも増して、経済的に著しい打撃であり、その影響は深刻である。そしてこのことは、兵庫県議会が原判決を支持し、法律改正を含む改善をおこなわれるよう強く要望する旨の決議をなし、兵庫県は原判決後「児童養育見舞金支給要綱」を制定して、実質的に児童扶養手当の併給を認める措置をとり、国においても原判決後3カ月を経ずして併給禁止を一部撤廃する旨発表し、法案作成、昭和48年9月26日法改正がなされた。その外、原判決には圧倒的な国民世論の支持があり、京都府議会でも原判決支持の決議を採択し、多数の学者の支持を得ている。このように原判決即ち本件併給禁止条項が違憲であることの判旨は広汎な国民的支持を得ているのであるから、国民大多数の健全な法感覚によつて、本件併給禁止条項は客観的に著しく不合理な差別扱いであることが明白であるというに足りる。控訴人の前記主張は特異かつ常識に反する見解にもとづくもので採用するに値しないというべきである。
[78]1、本条は単なるプログラム規定即ち国の政治的責務を規定したものではなく、生存権の現実的な権利性を明確にしているものであり、具体的な裁判規範である。
[79] 敗戦直後の困難な経済社会事情のもとでは本条をもつてプログラム規定(最判昭23・9・29食管法違反被告事件の傍論参照)であるとして、「健康で文化的な最低限度の生活」の権利の実現が棚上げされたのはやむをえなかつたとしても、わが国のその後のめざましい経済復興が実現した現在においては、そのように解すべきではない。本条による国民の権利は具体的な法的権利であり、いいかえれば、現実的に法的効力を有する権利であり、本条は具体的な裁判規範であつて裁判による権利侵害排除の法的根拠たり得るものである。判例も裁判規範性を否定してはいない。

[80]2、本条1項は、国民が生存権「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を有することを保障し、その旨を総則的に明示し、2項はそれに基づいて国が努力すべき施策のうち重要な事項を具体的に列挙したものであつて、1、2項は一体不可分の関係に立つものである。即ち2項は1項から生ずる国の当然の義務として、各種の社会立法によつて国民の健康で文化的な生活を保障すべきこと(ナシヨナル・ミニマム)を規定したもので両者は一体不可分の規定である。
[81] これを具体的にいえば、国民年金や児童扶養手当の制度ないし立法が右2項の社会福祉、社会保障、公衆衛生などの何れに属するにせよ、その趣旨内容は1項の趣旨をふまえて、「健康で文化的な生活」を保障するに足るものでなければならないのである。
[82] 「最低生活の保障」を直ちに公的扶助とだけ結びつけることはできない。「健康で文化的な最低限度の生活保障」をするためには、貧困の状態に陥つてからの公的扶助よりも、むしろ貧困の危険に対処するための社会保険の方が中心となるべきものであるし、また所得保障にとどまらず、医療や福祉サービスも含めた種々の施策を講じることによつて、それらが総合されて、はじめて「健康で文化的な」生活を保障することができるのである。

[83]3、本条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」とは、「人間の尊厳にふさわしい生活」(世界人権宣言23条3項)を意味し、その具体的な内容は時と所によつて、ちがいうるけれども、それは単なる「最低限度の生活」を意味するに過ぎないものではなく、「健康で文化的」ということが生活保障水準として設定されているのである。
[84] 生存権の内容は、(1)国がすべての国民に人間の尊厳にふさわしい生活を保障すること、そして、(2)それは同時にすべての国民の間の実質的平等(同様のニードにあり、同様の資格要件をみたす人々(人々の階層)は社会保障制度において同じように扱われるべきであるということ)の実現を図るべきことを意味している。また(3)本条1・2項の具体化として実現された水準を後退ないし奪われない、あるいは後退させたり奪つたりしてはならないということである。

[85]4、社会保障制度を論じるにあたつては、その全体を通ずる原則として、常に実質的平等ないし公平の原則(憲法25条の規範的内容をなしている原則である)に適合しているか否かを検討しなければならない。一局面の問題である、あるいは他の諸制度があるということは、右の原則をないがしろにしてもよい理由とはならない。控訴人は、「最終的には救貧的な生活保障の制度が設けられている」ことをほとんど唯一の根拠として、併給禁止の平等原則違反の有無の検討を避けようとするのであるが、かかる考え方は、社会保障における平等原則についての無理解に基づくものであり、完全に誤つている。
[86]1、憲法25条の解釈として、国が国民の生存権実現に障害となるような行為を自ら行なうことは、同条違反として、是正の措置が講じられねばならない。国がすでに立法によつて、一定水準(その高低を問わず)の生存権保障施策を具体化しているばあいに、それにも拘らず国民のある部分について、正当な理由なく施策の対象から除外したり、より劣悪な処遇をしたりすることは、憲法25条違反である。
[87] 一定の所得水準以下の状態にある母子家庭の児童や、身体障害者に対して、児童扶養手当や障害福祉年金を支給するのは、まさに憲法25条の命ずるところによる。にもかかわらず、他の理由によるわずかな公的年金を受給しているという一事でもつて、その者に年金や手当の支給を全面的に拒否することは、国民年金法や児童扶養手当法の実現しようとする目的に反し、これらの支給を必要とする母子家庭や障害者の生活実態に照らして、憲法25条の命ずるところに反する。

[88]2、母子家庭や障害者の生活実態に照らし、公的年金や児童扶養手当の支給を必要とすることは明白であるのに、僅かな公的年金を受給しているという一事をもつて年金や手当の支給を拒否することは、すでに形成されている一定水準の生存権保障施策から落ちこぼれさせることであり、国民の間の実質的平等追求実現に逆行して事故のない者との間の格差を固定させ、人間としての尊厳を傷つけるものであつて、明らかに憲法25条に違反する。

[89]3、わが国の生活保護制度は、生活保護それだけで最低生活保障の役割を果たしているとは到底いい難い現状であり、不十分ではあるが、年齢や手当の支給と相まつて、相互補完することによつて、はじめて最低生活の保障がなされるものであるから、これらの併給を禁止することは児童扶養手当の支給が最低生活保障の一手段であることを無視するもので憲法25条に反し、立法裁量権の範囲を逸脱するものである。
[90]一、被控訴人は、「控訴人が児童扶養手当の受給資格を有する旨の認定をしなければならない」との請求をしているのであるが、これに対し、原判決は、
「右請求は控訴人に対し、作為を求めるものであるが、それは行政庁が行政権を発動するに際して有する第一次的判断の権限を侵害するものであるから、三権分立の原則に反するものであつて、現行法上許されない訴えである」
として、被控訴人の右請求を不適法却下している。
[91] しかしながら、義務づけ訴訟に関しては、行政庁の給付義務が一義的に裁量の余地がない程明瞭であつて、その第一義的判断権を留保する必要がなく、かつ個人の権利が侵害される場合には許容されるとするのが判例学説の動向である。なお、ドイツ行訴法113条4項では、事案が成熟しているときは、裁判所は義務づけ判決をするとされているが、「当該行政処分をするための法律要件の全部が具備するとき覊束処分において、事案が成熟する」と解されている。
[92] 本訴においては、児童扶養手当の認定請求をなした被控訴人が受給資格を有するか否か、並びに手当の受給額については、それぞれ児童扶養手当法4条5条によつて、いずれも明瞭であり、控訴人の裁量を入れる余地は全くなく、また、認定がないことにより、被控訴人の手当の支給を受ける権利が侵害されていることは明白である。

[93]二、本訴で争いの対象となつているのは、本件却下処分の適否であり、却下理由の適否でないことは処分時に示されなかつた処分の適法理由を訴訟段階で主張することについて制限がないことにより明らかである。そうすれば、控訴人としては、処分の適法であることを立証すべき立場にあり、本件併給禁止条項以外の障害規定に該当する事実があれば、当然控訴人としては主張すべきである。
[94] しかるに、取消判決後、別の理由で、再度同一の処分を行うことを認めるのは、防禦の手段をつくさなかつた控訴人に不当な利益を与える結果となるばかりでなく、裁判が、事件の最終的解決には何ら役立たないということになつてしまう。
[95] 手当の受給資格について、同法4条により、手当の額については、同法5条により一義的に決しうるのであるから、本件却下処分が取消された以上は控訴人は認定処分をなすべき拘束をうけ、裁量の余地は全くない。したがつて裁判所が被控訴人の右請求を認容し義務づけ判決をしたとしても、控訴人の第一義的判断権を侵害したということにはならない。
[96] 被控訴人は、児童扶養手当法4条1項1号に該当する児童を養育している母であることは明らかであり、他に同条2項3項に規定する障害事由は全くない。而も被控訴人が、同法9条に定める所得額を越えていないことも証拠上明白である。

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