朝日訴訟
上告審判決

生活保護法による保護に関する不服の申立に対する裁決取消請求事件
最高裁判所 昭和39年(行ツ)第14号
昭和42年5月24日 大法廷 判決

上告人(被控訴人 原告) 朝日茂
        代理人  新井章 外14名
被上告人(控訴人 被告) 厚生大臣
        代理人  青木義人 外4名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官奥野健一の補足意見
■ 裁判官田中二郎の反対意見
■ 裁判官松田二郎、同岩田誠の本件訴訟承継の点に関する反対意見

■ 上告代理人海野普吉、同鎌形寛之、同上田誠吉、同新井章、同渡辺良夫、同川口巌、同尾山宏、同相磯まつ江、同芹沢孝雄、同根本孔衛、同高橋信良、同田邨正義、同近藤忠孝、同小池義夫、同荒川晶彦の上告理由
■ 上告代理人海野晋吉、同鎌形寛之、同上田誠吉、同新井章、同渡辺良夫、同尾山宏、同相磯まつ江、同芦沢孝雄、同根本孔衛、同高橋信良、同田邨正義、同近藤忠孝、同川口巌、同小池義夫、同荒川昌彦、同四位真毅の上告理由(補充書)
■ 上告代理人海野普吉、同風早八十二、同鎌形寛之、同上田誠吉、同新井章、同渡辺良夫、同四位直毅、同尾山宏、同田邨正義、同根本孔衛、同小池義夫、同荒川晶彦、同相磯まつ江、同芹沢孝雄、同近藤忠孝、同高橋信良、同川口巌、同鷲野忠雄の上告理由(補充その二)


 本件訴訟は、昭和39年2月14日上告人の死亡によつて終了した。
 中間の争いに関して生じた訴訟費用は、上告人の相続人朝日健二、同君子の負担とする。


[1] 本件上告理由は、別紙記載のとおりである。
[2] 職権をもつて調査するに、上告人は、昭和38年11月20日本件上告の申立をしたが、昭和39年2月14日死亡するにいたつたこと、記録上明らかである。
[3] 上告人は、十数年前から国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所し、厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と現物による全部給付の給食付医療扶助とを受けていた。ところが、同人が実兄敬一から扶養料として毎月1,500円の送金を受けるようになつたために、津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、右送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として上告人に負担させる旨の保護変更決定をした。同決定が岡山県知事に対する不服の申立および厚生大臣に対する不服の申立においても是認されるにいたつたので、上告人は、厚生大臣を被告として、右600円の基準金額が生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりない違法のものであると主張して、同大臣の不服申立却下裁決の取消を求める旨の本件訴を提起した。
[4] おもうに、生活保護法の規定に基づき要保護者または被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的利益ではなく、法的権利であつて、保護受給権とも称すべきものと解すべきである。しかし、この権利は、被保護者自身の最低限度の生活を維持するために当該個人に与えられた一身専属の権利であつて、他にこれを譲渡し得ないし(59条参照)、相続の対象ともなり得ないというべきである。また、被保護者の生存中の扶助ですでに遅滞にあるものの給付を求める権利についても、医療扶助の場合はもちろんのこと、金銭給付を内容とする生活扶助の場合でも、それは当該被保護者の最低限度の生活の需要を満たすことを目的とするものであつて、法の予定する目的以外に流用することを許さないものであるから、当該被保護者の死亡によつて当然消滅し、相続の対象となり得ない、と解するのが相当である。また、所論不当利得返還請求権は、保護受給権を前提としてはじめて成立するものであり、その保護受給権が右に述べたように一身専属の権利である以上、相続の対象となり得ないと解するのが相当である。
[5] されば、本件訴訟は、上告人の死亡と同時に終了し、同人の相続人朝日健二、同君子の両名においてこれを承継し得る余地はないもの、といわなければならない。

[6] (なお、念のために、本件生活扶助基準の適否に関する当裁判所の意見を付加する。

[7]一、憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない(昭和23年(れ)第205号、同年9月29日大法廷判決、刑集2巻10号1235頁参照)。具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。生活保護法は、「この法律の定める要件」を満たす者は、「この法律による保護」を受けることができると規定し(2条参照)、その保護は、厚生大臣の設定する基準に基づいて行なうものとしているから(8条1項参照)、右の権利は、厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するにたりると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると解すべきである。もとより、厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない。しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。したがつて、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。
[8] 原判決は、保護基準設定行為を行政処分たる覊束裁量行為であると解し、なにが健康で文化的な最低限度の生活であるかは、厚生大臣の専門技術的裁量に委されていると判示し、その判断の誤りは、法の趣旨・目的を逸脱しないかぎり、当不当の問題にすぎないものであるとした。覊束裁量行為といつても行政庁に全然裁量の余地が認められていないわけではないので、原判決が保護基準設定行為を覊束裁量行為と解しながら、そこに厚生大臣の専門技術的裁量の余地を認めたこと自体は、理由齟齬の違法をおかしたものではない。また、原判決が本件生活保護基準の適否を判断するにあたつて考慮したいわゆる生活外的要素というのは、当時の国民所得ないしその反映である国の財政状態、国民の一般的生活水準、都市と農村における生活の格差、低所得者の生活程度とこの層に属する者の全人口において占める割合、生活保護を受けている者の生活が保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの一部の国民感情および予算配分の事情である。以上のような諸要素を考慮することは、保護基準の設定について厚生大臣の裁量のうちに属することであつて、その判断については、法の趣旨・目的を逸脱しないかぎり、当不当の問題を生ずるにすぎないのであつて、違法の問題を生ずることはない。

[9]二、本件生活扶助基準そのものについて見るに、この基準は、昭和28年7月設定されたものであり、また、その月額600円算出の根拠となつた費目、数量および単価は、第一審判決別表記載のとおりである。
[10] 生活保護法によつて保障される最低限度の生活とは、健康で文化的な生活水準を維持することができるものであることを必要とし(3条参照)、保護の内容も、要保護者個人またはその世帯の実際の必要を考慮して、有効かつ適切に決定されなければならないが(9条参照)、同時に、それは最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、かつ、これをこえてはならないこととなつている(8条2項参照)。本件のような入院入所中の保護患者については、生活保護法による保護の程度に関して、長期療養という特殊の生活事情や医療目的からくる一定の制約があることに留意しなければならない。この場合に、日用品費の額の多少が病気治療の効果と無関係でなく、その額の不足は、病人に対し看過し難い影響を及ぼすことのあるのは、否定し得ないところである。しかし、患者の最低限度の需要を満たす手段として、法は、その需要に即応するとともに、保護実施の適正を期する目的から、保護の種類および範囲を定めて、これを単給または併給することとし、入院入所中の保護患者については、生活扶助のほかに給食を含む医療扶助の制度を設けているが、両制度の間にはおのずから性質上および運用上の区別があり、また、これらとは別に生業扶助の制度が存するのであるから、単に、治療効果を促進しあるいは現行医療制度や看護制度の欠陥を補うために必要であるとか、退院退所後の生活を容易にするために必要であるとかいうようなことから、それに要する費用をもつて日用品費と断定し、生活扶助基準にかような費用が計上されていないという理由で、同基準の違法を攻撃することは、許されないものといわなければならない。
[11] さらに、本件生活扶助基準という患者の日用品に対する一般抽象的な需要測定の尺度が具体的に妥当なものであるかどうかを検討するにあたつては、日用品の消費量が各人の節約の程度、当該日用品の品質等によつて異なるのはもとより、重症患者と中・軽症患者とではその必要とする費目が異なり、特定の患者にとつてはある程度相互流用の可能性が考えられるので、単に本件基準の各費目、数量、単価を個別的に考察するだけではなく、その全体を統一的に把握すべきである。また、入院入所中の患者の日用品であつても、経常的に必要とするものと臨時例外的に必要とするものとの区別があり、臨時例外的なものを一般基準に組み入れるか、特別基準ないしは一時支給、貸与の制度に譲るかは、厚生大臣の裁量で定め得るところである。
[12] 以上のことを念頭に入れて検討すれば、原判決の確定した事実関係の下においては、本件生活扶助基準が入院入所患者の最低限度の日用品費を支弁するにたりるとした厚生大臣の認定判断は、与えられた裁量権の限界をこえまたは裁量権を濫用した違法があるものとはとうてい断定することができない。)

[13] よつて、民訴法95条、89条に従い、裁判官奥野健一の補足意見および裁判官草鹿浅之介、同田中二郎、同松田二郎、同岩田誠の反対意見があるほか、全裁判官一致の意見により、主文のとおり判決する。


 裁判官奥野健一の補足意見は、次のとおりである。

[1] 私は、多数意見のごとく、いわゆる保護受給権が生活に困窮する要保護者又は被保護者に対し、その者の最低限度の生活の需要を満たすことを目的として与えられたものであることにかんがみ、保護受給権それ自体はもとより、被保護者の生存中の生活扶助料ですでに遅滞にある分の給付を求める権利も、その性質上、一身専属の権利であつて他にこれを譲渡したり相続することが許されないという理由で、本件訴訟の承継を否定するものである。
[2] そもそも、訴訟承継の制度は、訴訟係属中に当事者の死亡、資格の喪失、訴訟物の譲渡等があつても、訴訟物に関する争いが客観的には落着していないのに訴訟は終了したものとして新訴の提起を要請することが訴訟経済に反するところから、右の事由が生じてもなお訴訟は同一性を維持するものと擬制し、承継人をして在来の当事者に代わつて訴訟を追行せしめんとする制度であつて、この訴訟の承継が認められるのは、訴訟の対象たる権利又は法律関係の承継がある場合か、訴訟の対象たる権利又は法律関係の承継人でなくても特に法令により訴訟追行権を与えられている場合でなければならない。そして、この理は、行政訴訟においても異なるところはない。しかるに、本件訴訟は、津山市社会福祉事務所長の保護変更決定を是認した厚生大臣の不服申立却下裁決の取消を求める訴であつて、特定の保護金品の給付を求める訴ではなく、上告人の相続人たる朝日健二、同君子の両名は、上告人に与えられた保護受給権の承継人でないのはもとより、特に法令により右却下裁決の取消しにつき訴訟追行権を与えられている者でもない。従つて、本件訴訟は、上告人の死亡と同時に終了し、その相続人らにおいてこれを承継する余地がない、といわざるを得ない。
[3] 右の結論は、所論のように上告人の生存中の生活扶助料ですでに遅滞にある分の給付を求める権利が相続の対象となり得ると解するとしても、この権利が本件訴訟の対象となつていない以上、そのことによつて左右されるものではない。
[4] 反対意見の裁判官は、不当利得返還請求権を論拠として、本件訴訟の承継を肯認すべきであるとされる。しかし、そのいわゆる不当利得返還請求権なるものは、保護変更決定により、医療費の一部自己負担金に繰り入れられた月額900円を限度として、そのうち、本件生活扶助基準金額と適正な生活扶助基準金額との差額に相当する部分について成立するものと考うべきであるところ、これは本件却下裁決が取り消されることを前提としてはじめて成立するものであるが、裁決の取消を求める権利自体、保護決定を受けた者のみに専属する権利であつて、相続人による相続が許されないものである。従つて、前記両名は、不当利得返還請求権を論拠として本件訴訟を承継することもできない。
[5] されば、当裁判所としては、本件訴訟は上告人が昭和39年2月14日死亡したことによりすでに終了したものとして、訴訟終了の宣言をなすべきである。

[6] 私は、以上のごとく、本件訴訟はすでに終了したものと解する以上、最早事件は裁判所に係属していないのであるから、本件生活扶助基準の適否について論ずることは、余り意味のないことであると考えている。しかし、多数意見が念のために付加した意見や田中裁判官の反対意見の中で示された保護受給権の性質に関する見解には賛同することができず、この点が本件訴訟における本案の基本問題であり、また、前記訴訟承継の問題とも関連するところがあるので、敢えて、それについての私の考え方を述べておくこととする。
[7] 憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。この憲法の規定は、直接個々の国民に対し生存権を具体的・現実的な権利として賦与したものではなく、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものと解されている(昭和23年(れ)第205号、同年9月29日大法廷判決、刑集2巻10号1235頁参照)。そしてまた、「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、固定的な概念ではなくして、当該社会の実態に即応して確定されるべきものであり、その具体的内容も算数的正確さをもつて適正に把握し難いものであることはいうまでもない。しかしながら、右の規定が生存権を、単なる自由権として、すなわち、国が国民の生存を不当に侵害するのを防止し、または、国に対して不当な侵害からの保護を求め得るという消極的な権利としてではなく、前叙のごとく、積極的に、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るような施策を講ずべきことを国の責務として要請する権利として捉えているところに新憲法の近代的憲法としての特色があるものといわなければならない。このことに思いをいたせば、憲法は、右の権利を、時の政府の施政方針によつて左右されることのない客観的な最低限度の生活水準なるものを想定して、国に前記責務を賦課したものとみるのが妥当であると思う。従つてまた、憲法25条1項の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法が、生活に困窮する要保護者又は被保護者に対し具体的な権利として賦与した保護受給権も、右の適正な保護基準による保護を受け得る権利であると解するのが相当であつて、これを単に厚生大臣が最低限度の生活を維持するに足りると認めて設定した保護基準による保護を受け得る権利にすぎないと解する見解には、私は承服することができないのである。そして、保護受給権を上記のように解する以上、厚生大臣の保護基準設定行為は、客観的に存在する最低限度の生活水準の内容を合理的に探求してこれを金額に具現する法の執行行為であつて、その判断を誤れば違法となつて裁判所の審査に服すべきこととなる。
[8] しかしながら、以上のように、厚生大臣の定める保護基準は客観的に存在する最低限度の生活水準に合致した適正なものでなければならないからといつて、適正に設定された保護基準の内容がその後のある時点において右の基準線に完全に合致しないというだけの理由で、直ちに当該基準を違法と認めるべきことにはならない、といわなければならない。何となれば、生活保護法は、保護実施担当官の主観を排し、要保護者の生活困窮の程度に応じた必要な保護が行なわれることを企図して、保護の実施は厚生大臣の定める保護基準によらしめることとしているのであるが、そもそも、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、前叙のごとく、固定的な概念でなく、その具体的内容は、当該社会の実態を勘案し、要保護者の経済的需要の種類、態様並びに年令別、性別、世帯構成別、所在地域別その他の事情を調査して決定しなければならないため、厚生大臣が保護基準を設定するためには相当長期の日時を必要とする。しかも、右の内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するものであるから、或る時点において設定した保護基準をその後における諸般の情勢の変化に絶えず即応せしめるがごときことは、いうべくして行ない得ないからである。そこで、適正に設定された保護基準の内容が、その後の情勢の変化により生活の実態を正確に反映しないことになつたとしても、基準の改訂に要する相当の期間内であれば、当該時点における基準と生活の実態との乖離が憲法及び生活保護法の趣旨・目的を著しく逸脱するほどのものではないと認められる限り、それは、保護基準という制度を設けたことによるやむを得ない結果として法の容認するところであつて、まだもつて違法と断ずることは許されないといわざるを得ない。原判決の確定した事実によれば、本件生活扶助基準は、昭和28年7月いわゆるマーケツト・バスケツト方式なる理論生計費算定方法に従つて一般の生活扶助基準を作成し、これに入院入所患者の生活という特殊の事情を加味して設定されたものであるというのであつて、それは、当時のわが国の経済状態、文化の発達、一般国民生活の状態等に照らして、一応当時における客観的な最低限度の生活水準に副つたものと認められる。また、原判決の確定した事実によれば、わが国の国民経済は、右昭和28年7月から翌29年末まではさほど顕著な変動を示さなかつたが、昭和30年度において急激に発展し、昭和31年度、殊にその下半期にいたり、一般の予想を上廻る成長を遂げ、これに伴い、国税の自然増収もにわかに増加し、消費生活の向上、物価の騰貴をきたし、前示変更決定の行なわれた昭和31年8月当時、すでに、本件生活扶助基準の内容は、景気の上昇により、いわゆる補食費を除いても、入院入所3か月以上に及ぶ長期療養患者の健康で文化的な最低限度の生活の需要を満たすに十分なものではなく、早晩改訂されるべき段階にあつた、ところで、右景気変動の結果は、翌年度にならなければ適確に把握しがたかつた、というのである。されば、右の事実関係の下においては、本件生活扶助基準で定められた月額600円なる金額は低きに失するきらいはあるが、まだもつて違法とは認められないとした原審の判断は、前段説示の理由により、これを首肯し得ないわけではない。


 裁判官田中二郎の反対意見は、次のとおりである。

[1] 多数意見は、「本件訴訟は、上告人の死亡と同時に終了し、同人の相続人朝日健二、同君子の両名においてこれを承継し得る余地はない」として、上告理由とは無関係に、前提問題で、訴訟終了の判決を下したが、私は、この考え方には賛成しがたい。
[2] なるほど、本件訴訟の承継が肯認されるべきかどうかは、疑問の余地のある問題である。しかし、行政事件訴訟における訴訟要件は、これをできるだけゆるやかに解釈し、裁判上の救済の門戸を拡げていこうというのが、近時、諸外国におけるほぼ共通の傾向であり、それは、行政権に対する人民の救済制度である行政事件訴訟、殊に抗告訴訟の性質に照らし十分の理由があることにかんがみ、わが国においても、理論上可能な限り、いわゆる門前払いの裁判をすることを避け、事案の実体に立ち入つて判断を加えることが、国民のための裁判所として採るべき基本的な態度ではないかと、私は考える。
[3] 右のような見地から翻つて本件をみると、本件訴訟の承継は、理論上もこれを肯認し得ないわけではなく、そうである以上、本案の内容に立ち入つて、上告理由で主張する諸論点について、裁判所の判断を明らかにするのが妥当な態度ではなかつたかと考えるのである。
[4] 右のような考え方に立つ以上、私としては、多数意見に反し、本件訴訟の承継が肯認されるべき理由を明らかにするとともに、さらに進んで、上告人の主張する上告理由について、私の意見を述べておきたいが、多数意見によつて、本件訴訟はすでに終了したものとされた以上、上告理由のいちいちについて、逐次、詳細に答えることは、あまり意味のないことであるから、私としては、ただ、憲法25条の生存権の保障をめぐつて国民の重大な関心を集めている本件訴訟の主要な問題点について、上告理由を手がかりとしながら、基本的な考え方を示すだけに止めておくこととしたい。

[5] 私が多数意見に反して本件訴訟の承継を肯認すべきものとする理由は、次のとおりである。
[6] 多数意見は、生活保護法の規定に基づき要保護者又は被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的な利益ではなく、法的権利であつて、保護受給権とも称すべきものであるとし、この権利は、被保護者自身の最低限度の生活を維持するために当該個人に与えられた一身専属的な権利であつて、他にこれを譲渡し得ないし、相続の対象ともなり得ないものとしている。この基本的な考え方は、正当であつて、異論のないところである。ただ、多数意見は、被保護者の保護受給権はもとよりのこと、被保護者の生存中の扶助ですでに遅滞にあるものの給付を求める権利も、すべて被保護者の最低限度の生活の需要を満たすことを目的とするものであることを理由として、当該被保護者の死亡によつて当然に消滅し、相続の対象とはなり得ず、また、後に述べる不当利得返還請求権も、保護受給権を前提としてはじめて成立するものであり、その保護受給権が一身専属の権利である以上、相続の対象とはなり得ないものとし、従つて、本件訴訟の承継の余地がないと断じている。しかし、多数意見のいうように被保護者の生存中の生活扶助料ですでに遅滞にあるものの給付を求める権利が保護受給権そのものと同様に使用目的の制限に服すべきものであるかどうかについては、全く疑問の余地がないというわけではない。仮りに、右の点について、多数意見のとおりに考えるべきものとしても、ただそれだけで、本件訴訟の承継を否定する根拠とはなし得ないと、私は考える。というのは、もともと本件訴訟は、厚生大臣の定めた生活扶助基準が違法に低額であると主張して、朝日茂が同人の実兄敬一から送金された月額1,500円(後に600円に減り、次いで全く跡絶えてしまつた。)より、保護の補足性に関する規定に基づき右基準に定める日用品費600円を控除し、残額900円を医療費の一部自己負担金とする旨の保護変更決定を是認した裁決の取消を求めるものであるから、本件で訴訟の承継の成否を決する契機として捉えるべきものは、生活保護法に基づく保護受給権そのものでないことはもちろん、すでに遅滞にあるものの給付の請求でもなく、本件保護変更決定によつて、医療費の一部自己負担金に繰り入れられた月額900円を限度として、そのうち右厚生大臣の定めた生活扶助基準金額と適正な生活扶助基準金額との差額に相当する部分に対する不当利得返還請求権であると解すべきであるからである。
[7] 右の点を本件事案に即してもう少し具体的に述べると、津山市社会福祉事務所長のした本件保護決定前に、朝日茂は、生活扶助として毎月600円の支給を受ける権利と、医療扶助として無償で現物給付を受ける権利とを有していたところ、右所長の本件保護変更決定によつて、生活扶助月額600円の支給は打ち切られ、新たに医療扶助についても一部自己負担金として月額900円の支払義務が課せられるに至つた(もつとも、後に400円の軽費の措置がとられた。)。従つて、若し、本件裁決が取り消されることになれば、国は、生活扶助月額600円の支払を不当に免れ、また、医療費の一部自己負担金とされた月額900円を限度として、そのうち右厚生大臣の定めた生活扶助基準金額と適正な生活扶助基準金額との差額に相当する部分を法律上の原因なくして不当に利得したこととなる。もとより被保護者たる朝日茂が適正な生活扶助基準による保護そのものを直ちに請求する権利を有するものといえないことは後に述べるとおりであるが、本件裁決が取り消された場合には、厚生大臣は、憲法及び生活保護法の規定の趣旨に従つた適正な生活扶助基準を設定すべき拘束を受けることとなるのであるから、国は、同人に対して右の限度においてその利得を返還しなければならず、これを朝日茂の側からいえば、同人は、右の限度で不当利得返還請求権を有するものといわなければならないのである(もつとも、原判決の確定した事実関係のもとでは、右月額900円の全部が岡山療養所に現実に納入されて国庫の収入に帰属したかどうかは明らかでないが、若し納入されていない分があるとしても、朝日茂は、その分につき納付債務の不存在確認を訴求し得たはずであるから、不当利得返還請求権の認められる場合とその理を異にするものではない。)。この国に対する不当利得返還請求権は、保護受給権そのものの主張でないことはもちろん、すでに遅滞にある生活保護の給付の請求そのものでもなく、元来、朝日茂の自由に使用処分し得た金銭の返還請求権ともいうべきものであつて、このような権利についてまで、その譲渡性や相続性を否定すべき合理的根拠は見出しがたいのではないかと思う。
[8] そして、若し、右のような意味での不当利得返還請求権が認められるべきものとすれば、この請求権を行使するためには、本件で取消訴訟の対象になつている裁決の取消がされることを当然の前提条件とするのであつて、右の権利を相続した朝日健二・同君子の両名は、本件裁決の取消によつて回復すべき法律上の利益を有するものと解するのが相当である。
[9] もつとも、本件訴訟は、元来、右の不当利得返還請求を訴訟物とするものではなく、前記裁決の取消を求めるものであるが、一般に処分又は裁決の取消訴訟の目的は、処分又は裁決によつて相手方に生じた違法な侵害状態の排除によつて、その処分又は裁決のなされなかつたもとの状態を回復することにあると考えるべきであつて、行政事件訴訟法9条に、処分又は裁決の取消の訴の原告適格を定めるに当つて、「処分又は裁決の効果が期間の経過その他の理由によりなくなつた後においてもなお処分又は裁決の取消しによつて回復すべき法律上の利益を有する者を含む。」ことを明記したのも、本件のような事案について、原告適格を肯認する趣旨を明らかにしたものと解すべきである。当裁判所の大法廷判決(昭和37年(オ)第515号、同40年4月28日大法廷判決、民集19巻3号721頁)も、従来の判例を変更し、処分の取消によつて回復し得べき法律上の利益がある場合には、原告適格のあることを判示しているのである。
[10] そして、訴訟の承継という制度を認める狙いは、本来、訴訟係属中に当事者の死亡、資格の喪失、訴訟物たる権利又は法律関係の譲渡等によつて当事者が訴訟追行権を失つた場合には、当該訴訟はその成立要件を欠くものとして却下を免れないわけであるが、訴訟物に関する争いそのものが客観的に落着していない場合において、その承継人より又は承継人に対しあらためて訴を提起させることは訴訟経済上妥当でないために、訴訟の実質的同一性を肯認し、その承継人をして在来の当事者に代つて訴訟を追行させようとするものである。従つて、本件におけるように、当該権利又は法律関係が在来の訴訟の訴訟物となつていない場合でも、相続人において将来その相続にかかる権利又は法律関係を訴求するために訴訟を継続していく利益が残存していると認められるときは、相続人をしてすでに形成された訴訟法律状態を承継させるべきものと解するのが相当である。
[11] 以上のような理由によつて、私は、本件訴訟は朝日茂の死亡と同時に、健二・君子の両名によつて適法に承継されたものとみるべきであると考える。

[12] 右に述べたように、本件訴訟の承継を肯認すべきものと考えるので、次に、本案の内容について、判断を加えておくこととする。
[13] まず、結論を述べると、私は、結局、本件上告は棄却を免れないと考える。その理由の概略を述べると、次のとおりである。

(1) 上告代理人海野普吉外14名の上告理由第一点及び第二点(上告代理人海野普吉外17名名義の補充上告理由第一点を含む。)について。
[14] おもうに、生活に困窮する要保護者又は被保護者が国から健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するに足りる保護を受けるのは、もはや、かつてのように国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う単なる反射的利益に止まるものではなく、法律上の権利であり、保護受給権ともいうべきものであつて、そのことが現行の生活保護法の画期的な特色をなしていることは、さきに説示したとおりである。問題は、この権利が何に由来し、どのような内容を有するものとみるべきかにある。
[15] 憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。しかし、この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運用すべきことを国の責務として宣言したものであつて、個々の国民に対して直接具体的な請求権としての権利を付与したものでないことは、つとに当裁判所の判例とするところである(昭和23年(れ)第205号、同年9月29日大法廷判決、刑集2巻10号1235頁)。従つて、具体的な権利は、右の憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつてはじめて与えられるものと考えるべきである。ところで、生活保護法は、「この法律の定める要件」を満たす者は、「この法律による保護」を受けることができる旨を規定し(2条)、その保護は、厚生大臣の設定する基準に基づいて行なうものとしているのである(8条1項)から、同法は、厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するに足りると認めて設定した保護基準による保護を受ける権利を保障したものであつて、生活保護法以前に客観的に確定し得べき最低生活水準の存在を前提し、これを維持するに足りるものを権利として保障したものではないと解すべきである。もつとも、厚生大臣の設定する保護基準は、法8条2項の定める事項を遵守したものであることを要し、結局は、憲法25条1項の趣旨に適合した健康で文化的な最低限度の生活を維持するに足りるものでなければならない。しかし、健康で文化的な最低限度の生活といつても、それは、元来、確定的・不変的な概念ではなく、抽象的な相対的概念であつて、その具体的な内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて絶えず向上発展すべきものであり、多数の不確定的要素を総合考量してはじめて決定し得るのであつて、ある特定の時点における内容も算数的正確さをもつて適正に把握し決定するということは到底期待できない性質のものである。従つて、客観的・一義的に確定し得べき最低生活水準の存在を前提し、これを維持するに足りる権利を保障するというようなことは、憲法自体としてももともと予定するところではないというべきであるから、生活保護法が右のような水準を維持するに足りる適確な内容の権利を与えなかつたからといつて、直ちに憲法違反となるわけではないと、私は考える。
[16] かような見地からいえば、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、法の定める範囲内において、厚生大臣の合目的的かつ専門技術的な裁量に委ねられているとみるべきであつて、その判断の誤りは、当不当の問題として、政府の政治責任の問題が生ずることはあつても、直ちに違憲・違法の問題が生ずることのないのが通例である。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定するなど、憲法及び生活保護法の趣旨・目的に違背し、法律によつて与えられた裁量権の限界を踰越し又は裁量権を濫用したような場合にはじめて違法な措置として司法審査の対象となることがあるにすぎないと解すべきである。生活保護法が不服申立の対象を「保護の決定及び実施に関する処分」に限定し、(65条1項)、保護基準設定行為そのものについて触れていないのも、右の事情を示したものということができる。
[17] もつとも、生活保護法8条2項には、「前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。」と規定されているから、厚生大臣は、保護基準を設定するに当り、合理的な理論生計費算定方式を採用するなど、右の要請に応ずるように努めなければならないし、また、理論生計費算定方式を採用するに当つては、その基礎となるべき生活資料を確定しなければならないが、そもそも、健康で文化的な最低限度の生活という概念が、さきに述べたように、抽象的な相対的概念であつて、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて絶えず向上発展するものであり、多数の不確定的要素を総合考量してはじめて決定し得るものである以上、どのような内容・程度のものを健康で文化的な最低限度の生活費の算定資料とすべきかについては、所論のいわゆる生活外的要素をもあわせ勘案するのでなければ確定しがたいのであつて、保護基準の設定に当り、かような要素を勘案することをもつて直ちに違法と論難するのは当らない。
[18] 原判決は、保護基準設定行為は覊束裁量行為であるとしながら、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかは厚生大臣の専門技術的な裁量に委されているといい、従つて、その判断の誤りは、法の趣旨・目的を逸脱しない限り、当不当の問題にすぎないと判示している。従来の一般の考え方によれば、覊束裁量行為については、その判断の誤りは、単に当不当の問題に止まらず、適法違法の法律判断の問題として、司法審査に服すべきものと解されている。こういう普通の見解からいえば、原判決の用語は、必ずしも妥当とはいえない。しかし、原判決の真意は、生活保護法に保護基準に関する定めがあつても、それは決して行政庁に全然裁量の余地を認めない趣旨ではなく、厚生大臣の専門技術的な裁量の余地を認める趣旨であることを判示するにあるものと解し得るのであつて、その限りにおいて、原判決の結論は是認されるべきものである。また、原判決が本件保護基準の適否を判断するに当つて考慮したいわゆる生活外的要素というのは、当時の国民所得ないしその反映である国の財政状態、国民の一般的生活水準及び都市と農村における生活の格差、低所得者の生活程度とこの層に属する者の全人口中に占める割合、生活保護を受けている者の生活が保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの国民感情の存在及び予算配分の事情などである(殊に、原判決は、予算については、厚生大臣が、社会保障費として一定の必要額を認めながら、予算不足の故をもつてことさら必要以下に低減したというのではなく、社会保障費と他の各種財政支出との均衡を保たせる限度において予算上の措置を配慮したのは相当であるとしているにすぎない。)。このような諸要素の考慮は、保護基準の設定に当り、厚生大臣の裁量に委されているとみるべきであつて、その判断については、法の趣旨・目的を逸脱しない限り、違法の問題を生ずることはないと解すべきである。原判決が保護基準設定行為を覊束裁量行為と説示しながら、以上の諸要素を本件保護基準の適否判定の資料としたことは、表現の不適切の嫌いはあつても、かような瑕疵は、判決の結果に影響を及ぼすものではないといわなければならない。従つて、論旨は、結局、理由がないこととなり、排斥を免れない。

(2) 同第三点及び第五点(同補充上告理由第二点を含む。)について。
[19] 厚生大臣が本件生活扶助基準金額算定の方式としていわゆるマーケツト・バスケツト方式を採用したのは合理的でなかつたとはいえないとした原審の判断は、原判決挙示の証拠に照らし、首肯し得ないわけではなく、また、原判決は、この方式による本件生活扶助基準額算定の過程及びその金額の当否について、必要な限度で、判断を加えているものということができるのであつて、原判決には、所論の法令違背の違法はなく、論旨は、これと相容れない見解に立脚するか、原判示にそわない事実に基づいてその違法をいうものであり、違憲の主張も、その実質は、原判決の法令違背の主張にすぎず、採るを得ない。
[20] 次に、本件生活扶助基準額は直ちに違法といい得るほど低額とはいえないとした原審の判断の違法・違憲をいう点について、本件事案に即しつつ、やや具体的に私の考えを述べておきたい。
[21] 本件生活扶助基準は、昭和28年7月に設定されたものであり、本件保護変更決定が行なわれた昭和31年8月頃には、物価騰貴等によつて、かなり事情が変つてきていたこと、従つてその8ケ月後の32年4月には右基準の改訂が行なわれていることに思いを致すと、31年8月には、その扶助基準額が低きにすぎるものであつたことは卒直にこれを認めざるを得ない。しかし、そのことだけで、直ちに生活扶助基準の違法・違憲を根拠づけるものとはいい得ないのではないかと、私は考える。
[22] そもそも、生活保護法によつて保障される最低限度の生活というのは、人間としての生存を維持するに足りる最低の生活ではなく、健康で文化的な生活水準を維持するに足りるものであることを必要とし(3条参照)、保護の内容も、要保護者個人又はその世帯の実際の必要を考慮して、有効かつ適切に決定されなければならない(9条参照)が、同時にそれは、最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、かつ、これをこえてはならないという制約を受けている(8条2項)。従つて、生活保護法によつて保障される保護の程度は、社会生活において近隣の者に対し見劣りや引け目を感じさせない程度の生活を営み得るまでに潤沢なものではあり得ず、殊に本件のような入院入所中の保護患者については、長期療養という特殊の生活事情や医療目的からくる一定の制約のあることにも留意しなければならない。この場合、日用品費の額の多少が病気治療の効果と無関係でなく、その額の不足は、たとえ僅少であつても、患者に対し看過しがたい影響を及ぼす場合のあることも否定し得ない。しかし、患者の最低限度の需要を満たす手段として、生活保護法は、その需要に即応するとともに保護実施の適正を期する見地から、保護の種類及び範囲を定めて、これを単給又は併給することとし、入院入所中の保護患者については、生活扶助のほかに、給食を含む医療扶助の制度を設けており、また、別に生業扶助の制度も設けているのである。従つて、単に治療効果を促進し、現行医療制度や看護制度の欠陥を補うために必要であるとか、退院退所後の生活を容易にするために必要であるという理由で、それに要する費用まで日用品費と断定し、生活扶助基準にかような費用を計上していないからといつて、直ちにこれを違法ということはできない。また、いわゆる補食費についても、保護患者に対する給食が治療の一環として行なわれる建前になつている以上、それは、生活扶助(日用品費)の問題ではなく、医療扶助の問題であつて、いわゆる補食費を金銭的給付という形で生活扶助基準に計上すべきであるとの所論も、にわかに承服しがたい。
[23] また、本件生活扶助基準にいう患者の日用品に対する一般抽象的な需要測定の尺度が具体的に妥当なものであるかどうかについては、日用品の消費量が各人の節約の程度、当該日用品の品質等によつて異なるのはもとより、重症患者と中・軽症患者とではその必要とする費用が異なり、特定の患者にとつては、ある程度に相互流用の可能性のあることも考えられるので、単に本件基準の各費目・数量・単価を個別的に考察するだけではなく、その全体を統一的に把握する必要がある。また、入院入所中の患者の日用品であつても、経常的に必要なものと臨時例外的に必要なものとの別があり、臨時例外的に必要なものを一般基準に組み入れるか、特別基準ないしは一時支給又は貸与の制度に譲るかは、厚生大臣の定めるところに委ねるほかはなく、たとえ、一時支給の制度が完全・円滑に実施されがたい実情にあるとしても、それは、当該制度の運用上の当不当の問題にすぎないのであつて、それだけを理由として、臨時例外的に必要な費目を一般基準に計上すべき理由とはなしがたい。従つて、一般基準たる本件生活扶助基準の当否は、特別基準等に組み入れるべき日用品を除外し、専ら経常的な日用品のみを対象として決定するほかはないというべきである。
[24] 以上のことを念頭において検討すれば、原判決の確定した事実関係のもとにおいては、本件生活扶助基準がその設定当時入院入所中の患者の最低限度の日用品費を支弁するに足りるとした厚生大臣の認定判断に、その裁量権の限界を踰越したとか、その裁量権を濫用した違法があるものとは断定することができない。もつとも、さきに指摘したように、右基準は、本件保護変更決定の行なわれた昭和31年8月から僅か8ケ月を出ない昭和32年4月に改訂されたこと、同改訂による新生活扶助基準と本件生活扶助基準とを比較対照すれば、新基準に新たな費目のとりいれられたものがあり、また、両基準に共通な費目であつても、数量の増加、単価の引上げの認められたもののあることが明らかである。しかし、保護基準は、さきにも指摘したように、文化の発達、国民経済の進展等に伴い、絶えず向上発展すべきものであるから、右の新生活扶助基準の内容を論拠として、それより3年余も前に設定された本件生活扶助基準が厚生大臣の恣意に基づくものと断定するのは相当でない。
[25] ところで、原判決の確定した事実によれば、わが国の国民経済は、本件生活扶助基準が設定された昭和28年7月から翌29年末までは、さほど顕著な変動を示さなかつたが、昭和30年度において急激に発展し、昭和31年度、特にその下半期においては、一般の予想を上廻る成長を遂げ、これに伴い、国税の自然増収もにわかに増加し、また、消費生活の向上、物価の騰貴をきたしたというのである。従つて、本件生活扶助基準額は、昭和31年8月当時、すでに右景気の上昇に伴い、最低生活の実態に即さないものとなつていて、早晩改訂されるべき段階にあつたものと推認される。しかし、その実態に即さない程度が、入院入所中の患者に対する生活保護の実をあげ得ないほどでなかつたことは、原判決の正当に確定するところである。しかも、このような基準の改訂には、その調査研究等のために相当の日時を必要とし、また、景気変動の結果も、翌年度にならなければ適確には把握しがたいような事情にあること等にかんがみると、ある時点において設定した保護基準をその後における生活の実態に絶えず即応せしめるということは、実際には至難の業であつて、右に指摘した程度における基準と生活の実態との乖離は、およそ基準の設定ということが合理的な措置として承認されるべきである以上、避けがたい必要悪として、法自身の認容するところといわなければならないであろう。
[26] 以上説示したように、本件生活扶助基準の設定そのものは、いちおうマーケツト・バスケツト方式という理論生計費算定方式に従つた、不合理とはいえないものであり、また、右基準と生活の実態との乖離が前述のような程度のものである以上、マーケツト・バスケツト方式そのものに必ずしも欠陥がないとはいえないことや、日用品費の不足がたとえ僅少であつても、患者に対し看過しがたい影響を及ぼす場合のあること等を考慮に入れてもなお、本件生活扶助基準で定められた月額600円という経常的な日用品費の金額は低きに失する嫌いがあるとはいえ、それは、行政措置によつて是正されるべき不当の問題であるに止まり、司法救済に値いする違法があるものと断ずるに足りないとした原判決の結論は、是認するほかはない。従つて、原判決に所論憲法及び法令の解釈適用を誤つた違法があるものとはいいがたく、その判断の過程にも、所論法令違背の違法を見出しがたい。論旨は、結局、右と相容れない見解に立脚して原判決の違法をいうか、原審の専権に属する証拠の取捨選択、事実の認定を非難するものであつて、採用できない。

(3) 同第四点について。
[27] 原判決は、本件生活扶助基準が中・軽症患者の需要を主眼として設定されたものであるが、重症患者の補食を除くその他の特殊の需要をまかない得ないものではなかつたこと、朝日茂についても、同人は本件保護変更決定の行なわれた昭和31年8月当時、両側混合性肺結核におかされた安静度2度の重症患者であり、栄養不足に陥つていて、発汗のため着換え用衣類を余分に必要とし、特に寝巻には不自由をし、日用品一般についても、かなり窮屈を忍ばなければならない状態にあつたが、寝巻については、一時支給ないし貸与の制度があり、現に貸与を受けていた病衣が厚地のため寝巻としては必ずしも適当なものとはいえなかつたとしても、病床で着用できないほどのものではなかつたこと、その他の臨時例外的な日用品についても、昭和30年6月から昭和33年5月までの間、同人には特別支出の見るべきものがなかつたことを認定している。そして、原審の右事実認定は、その挙示の証拠に照合すれば首肯できないわけではなく、その判断の過程にも所論の違法があるものとは認められない。また、重症患者に対する補食費に関する所論は、さきに説示した理由により採用しがたいといわなければならない。
[28] なお、原判決は、岡山療養所においては本件保護変更決定後朝日茂に対しその医療費一部自己負担金900円のうち400円の限度で日用品費及び嗜好品費の必要を理由として療養費軽費の措置をとつたこと、同人の昭和30年7月から昭和33年5月までの3年間における日用品費の支出額は、右軽費の措置や臨時の収入があつたために平均月額1,040円48銭に及んでいたこと、また、同人は本件保護変更決定に対する不服申立の事由として、重症に陥つているため嗜好品的栄養の補食費として月額400円を日用品費の追加分として認めてほしい旨のみを主張し、日用品費自体については格別不足を訴えていなかつたことを認定し、これら認定事実を判断の資料に加えていることは判文上明らかである。所論は、この点の違法をも攻撃しているが、軽費の措置に関する原判示は、傍論の域を出ず、右不服申立の事由も単なる事情にすぎないものであつて、原判決の判断を左右し得るものではない。原判決の結論は相当であつて、所論憲法及び法令の違反はなく、論旨は採用できない。

[29] 以上述べてきたように、本件生活扶助基準や本件保護変更決定を直ちに違憲又は違法とし、これを無効又は違法と断ずることはできず、結局、上告は排斥を免れない。法律論としては、右のように解するほかはないし、生活保護法による扶助の制度がきわめて多数の要保護者や被保護者を対象とする以上、一定の「生活扶助基準」を設定し、これによつて扶助をしていくほかはなく、この「生活扶助基準」の改訂に当つては、その調査研究のために相当の日時を要することも否めないのであるが、憲法25条の精神を徹底する趣旨からいえば、政府当局としては、常時右の調査研究を怠ることなく、もつと適切かつ迅速に、生活の実態に即するようになお一段の配慮を加えるべきであるし、また、生活扶助基準の制度が必要避けることのできない制度であるとしても、具体的な事情に即応して、生活の実態との間に乖離をきたさないために、一層適切妥当な措置を迅速に講じ得るような裁量の余地を認めるものであることが望ましい。生活保護の制度は、単に恩恵的な制度でなく、権利として、これを保障したものであることはさきに述べたとおりであるが、権利であるということから、却つて、この制度の現実の運用に当る者の暖い思いやりが失われるに至るようなことがあつては、制度の本来の趣旨・目的が達せられないこととなるであろう。本件においては、結局、原告の敗訴を免れないが、いちおう、勝訴した国側も、その措置が妥当であつたとして支持されたわけではなく、ただ、その措置が違憲・違法とまではいえないと判断されたにすぎない点に深く思いを致し、この事件を契機として、生活保護制度のより適切な運用について、政府当局並びに関係者のすべてが、真剣に反省し、国民の強い要請に応え得るような対策を考慮するよう希望してやまない。


 裁判官松田二郎、同岩田誠の本件訴訟承継の点に関する反対意見は、次のとおりである。

[1] 生活保護法の規定に基づき要保護者又は被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的利益でなく、保護受給権ともいうべき権利であること、およびその権利が譲渡、相続し得ない一身専属権であることは、多数意見のいうとおりである。しかし、右保護受給権が一身専属的であるということは、本件訴訟において承継を否定する根拠となるものではない。
[2] 本件において津山市社会福祉事務所長のした保護変更決定前、朝日茂は、生活扶助として毎月600円の支給を受ける権利と医療扶助として無償にて現物給付を受ける権利を有していたところ、右所長の変更決定によつて生活扶助月額600円の支給は廃され、また新たに医療扶助については自己負担金として毎月900円の支払を課せられるに至つたのである。従つて、若し本件裁決が取り消されることがあれば、保護受給権が右に述べたごとく権利である以上、国は本来義務として負担すべき医療扶助の給付をしないため、同人をして支払うことを要しない自己負担金を支払わしめるに至つたのであるから、右変更決定以降同人が自己負担金として国に支払つた限度において、国はこれによつて法律上の原因なくして不当に利得したこととなる。すなわち、国は同人に対して、右の限度においてその利得を返還することを要することとなるのである。これを、朝日茂の側よりいえば、同人は本件裁決の取消を条件とする不当利得返還請求権を国に対して有し得ることとなる。従つて、この条件付権利は、不当利得返還請求を内容とするものである以上、同人の有する保護受給権とは別個のものであつて、すなわちその性質はこれと異り一身専属的のものではなく、相続性を有するものというべきである。このように考えてくると、朝日茂の死亡によりこの条件付権利は、健二、君子の2人の相続人によつて相続されたものというべきであるから、朝日茂は既に死亡し、また本件訴訟は不当利得返還請求を訴訟物とするものではないが、健二、君子の両名は「本件裁決の取消によつて回復すべき法律上の利益」(行政事件訴訟法9条参照)を有するものと解するのを相当とする。けだし、もしこれを否定するときは、右両名は将来国に対して不当利得返還請求をなし得べき途を全く鎖されてしまうからである。
[3] 要するに、私たちは叙上の理由により、本件訴訟の承継を認めるものであり、承継を否定する多数意見に反対するものである。

[4](多数意見が本件訴訟は上告人朝日茂の死亡によつて終了したものと認めた以上、多数意見即ち当裁判所の判断としては、本件訴訟は既に終了したものとされたのである。このことは当裁判所としては、本案の上告理由にまで立入つて判断しないことを表明したものに外ならない。そしておよそ評議の対象となつている論点について評決がなされるまでは、それに関与した各裁判官はその信ずるところに従つてその意見を述べ得、また意見を述べなければならないけれども、一旦評決がなされたときは、すべての裁判官はこの評決の結果に服すべきことは当然である。従つて、上告人の死亡による本件訴訟終了の点につき、反対意見を有した私たちも、本件訴訟が既に終了したものと認めざるを得ない以上、その訴訟が未だ終了していないことを前提として本案の上告理由にまで立入つて意見を述べるということはなすべきことでないのである。そしてたとえ上告理由について意見を述べたとしても、本件訴訟が既に終了したとされた以上、その意見なるものは、法律的には意味を有し得ないものである。私たちが敢て本件の上告理由について意見を述べないのは、このために外ならない。)

 裁判官草鹿浅之介は、裁判官松田二郎、同岩田誠の右反対意見に同調する。

(裁判長裁判官 横田喜三郎  裁判官 入江俊郎  裁判官 奥野健一  裁判官 五鬼上堅磐  裁判官 草鹿浅之介  裁判官 長部謹吾  裁判官 城戸芳彦  裁判官 石田和外  裁判官 柏原語六  裁判官 田中二郎  裁判官 松田二郎  裁判官 岩田誠  裁判官 下村三郎)

(別紙)
(訴訟代理人目録は省略する。)
[1] 原判決は、右第8条第2項にもとづく生活保護基準の意義について、「生活保護行政が予算を伴うことはいうまでもないが、国の財政その他国政全般についての政策的配慮を経て定められた予算の配分に従つたというだけの理由で、該基準の設定が適法ということにはならない」としながらも、「しかしながら反面生活保護のための費用は、納税を通じて国民が負担するものである以上、保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれと無関係に定め得るものではなく、またその時期における国民の生活水準、文化水準の程度も当然対照されなければならず、国民感情も無視することはできない」とし、さらにその具体的適用にあたつては「しかしなお概観的にみて本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得ない」と右基準の著しい低劣さを認めつゝ、「ただ、さきにも示したように、……本件日用品費の水準の引上の要否を考慮するためには、一般生活扶助基準の引上の要否が不可分的に考慮されなければならないところ昭和31年当時生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいた国民だけでも1,000万人に近かつたことは既に示したとおりであるから、右生活扶助水準をさらに引上げるということになれば、納税を通じて一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼすことは否定できないものであり、……またさきに示したような(生活保護を受けている一部の者の生活が保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの)国民感情も一部に存在することをも参酌するとき」は、確信をもつて右保護基準を違法とまでは断定しえないと判示している。

[2]一、しかしながら、右判示は、生活保護法第8条第2項、同第3条の解釈を誤つたものであること明らかである。
[3] すなわち右第8条第2項は「前項の(厚生大臣の定める)基準は、要保護者の年令別、性別、世帯構成別、所在地域別、その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない」と定めているが、そこにいう最低限度の生活とは、同第3条が明記する「健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」ところ、現憲法が全体として、国民に国家権力の自制を約束するに止まつた19世紀型憲法から一歩踏み出して積極的に国民生活に干渉し、実質的に国民に平和で豊かな生活を保障しようとする20世紀的憲法の性格を打出していること、憲法第25条はその具体的な中核規定として国民に生存権的基本権の保障を確認し、国がもしこの生存権的基本権の実現に努力すべき責務に違反してこれに障害となるような措置に出るときは、さような措置を直接無効とする法的効力を有するものであること(以上第一審判決参照)、生活保護法は、まさに右のような憲法第25条の理念にもとづき「国が生活に困窮するすべての国民に対しその困窮の程度に応じ必要な保護を行ない、その最低限度の生活を保障する」ことを目的として制定されたものであり(同法第1条)、かつ同法は最低限度の生活の保障をたんなる国の恩恵や施策にともなう反射的利益としてでなく、すべての貧困な国民に権利として与えたものであること(同法第2条、第64条ないし第69条参照)、同法こそが努力してもなお自力では人間たるに値する生存の維持しえない国民に対する最終の生存権保障立法であること、等に鑑みれば、前記第8条第2項及び第3条はたんなる国(厚生大臣)に対する訓示規定ではなく、国に生存権保障を具体的に義務づけた強行規定と解すべきことは明白である。
[4] そうとすれば、同条等にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なる文言も、単なる修飾の句としてでなくその概念にふさわしい内実を有するものと解すべきは当然の理であつて、その内実の具体的探究に際しては、いやしくも同条ないし生活保護法全体による「最低限度の生活」の実質的保障を覆し、もしくは脅かすごとき方法ないし考究がとられてはならない。国民の現実の生活資料にもとづき、今日の生活科学によつて科学的、合理的に健康で文化的な生活の最低限度を指摘しうるにも拘らず、他の政策的要因を導入して最低限度を下廻る生活水準を法にいう「最低限度」とみることがあるならば、それは畢竟法の趣旨とする実質的な最低限度の生活水準の保障を否定することに帰するのであつて、かゝる解釈は同法の到底容認せざるところと言わなければならない。
[5] ところで同法第8条第2項は、前述したごとく保護基準は「最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない」と定め、明らかに右最低限度の生活水準を一線として把えうることを予想し、しかも右基準は「保護の種類に応じて必要な事情」のみを考慮して定めるべきものとし、諸多の「生活」外的な政策的事情を考慮すべきでないことを示唆している。また今日の生活科学の上でも科学的、合理的に最低限度の生活水準にアプローチしようとする有用な試みがなされ、マーケツト・バスケツト方式やロウントリー方式、エンゲル方式などの理論生計費方式や、実態生活統計から最低生活費の割出しに迫ろうとする実態生計費方式が定立されていることは周知のところである(上告人の昭和38年7月8日附準備書面参照)。
[6] そして被上告人ら行政当局も右最低限度の生活水準を科学的に導きうるものとしてきたことは、かれが右にあげた理論生計費方式の一であるマ・バ方式を公に採用してきたことから十分窺われるし、さらに立法府も右のための予算要求があれば義務費として無修正で承認議決することとしてきた事実(原審証人河野一之、同小沼正らの証言参照)は、その間の消息を一層強力に裏付けるものである。
[7] もとより「最低限度の生活」とはいつてもそれはわが国における、国民としての生活であるから、わが国の当該時点における社会的、経済的、文化的発達の程度、具体的には国民経済力、国民所得水準、国民消費水準、生活文化、生活様式、生活慣習、生活感情のいわば「国民生活」の観念に内在的な要素(あるいはその観念に本質的、必然的に投影せざるをえない要因といつてもよい)を顧慮すべきことは当然であり、むしろこれらの諸要素を考慮することなしには「国民生活」の内容を把握することは不可能でさえある。上告人もかつて右の如き諸要素との関連を無視して「生活」水準が把えられうるなどと主張したことはなかつたし、また実際にも法廷に顕出した諸統計等証拠資料には右のような諸要素は確実に投影しているのである。
[8] しかしながら問題は、原判決が摘示しているような、時々の国の予算、財政事情とか、納税者感情、膨大な低所得層の在存といつた、いわば「生活」外的な政策的要因を、生活保護基準の決定ないし評価の際に必須的に考量すべきかどうかである。これらは客観的、合理的に把握評価された生活保護水準に対し、国の予算、財政事情からそのうちどの程度を経済的に保障したらよいかとか、非保護国民の納税感情を満足させるために被保護者は右水準にも拘らずどの程度劣等な処遇に位置づけられるのが好ましいとか等といつた、政策的な要因であり、生活科学にもとづいて生活水準(保護基準)を把握する過程には本来登場してこない性質のものであつて、その多くが科学的、合理的に算定された最低限度の生活水準」を切下げる結果を招来するものだからである。
[9] が、この点については、上告人が原審において詳細に指摘したように(前掲準備書面参照)、国会自身生活保護のための予算は「義務費」として予備費を流用してでも無条件に支出を承認するものとしているごとく、予算財政が被上告人の決定する保護基準をいささかでも制約することがあつてはならないと考えられているうえ、実際にもそのための支出は総予算の3パーセント、かりに日用品費を600円から1,000円に引上げても僅か6億円程度の支出増を来たすに過ぎないことが明らかである(証人木村禧八郎、同小沢辰男の各証言、甲第101号証、同102号証及び同第6号証参照)。
[10] また他の社会保障関係費への影響を考量しても、予算、財政に大巾な変動を惹起させるものでないことは、昭和37、8年の大巾な該基準引上げの例に徴しても容易に推察することができる(証人今井一男の証言等参照)。原判決が漠然とおそれている膨大な低所得層への影響、換言すれば大量の被保護層の増大が杞憂に過ぎないこともまた、同様実証ずみである。
[11] また納税者感情についても、被保護者が相当の間接税を物品購入を通じて国に納付していることから、被保護者は非納税者であるとする前提そのものに既に誤りがあるうえ、この論の実際的意味は被保護者の劣等処遇にあるところ、かような救貧法的発想はすでに甚しい時代錯誤であり、かような漠たる観念によつて、具体的な納税者一般の生活水準との著しい隔差(一般勤労世帯の生活水準に対し被保護世帯のそれが30パーセント台でしかなかつたことは、上告人がしばしば明確な証拠【甲第124号証乃至第130号証など】をもつて指摘してきたところである)の存在をも無視して、生活保護水準を制約してしまうことは前記のような生活保護法第8条、第3条の趣旨よりして到底許されないと言わなければならない。ことに上告人等生活保護患者が保護基準の決定的な不足を補うため病身に鞭打つてアルバイトし、また自己負担金の巨額な滞納によつて辛じて最低生活を維持していること、にも拘らずなお被保護国民には、つとめて自力で生活を維持し、国の世話になりたくないという強固な生活感情が共通的に存在することは、原審における夥しい証拠(甲第110号証ないし第116号証、及び第118号証の1ないし3)によつて十分明らかなのであるから、原判決が明確な証拠資料もなしに通俗的な抽象的な納税者感情なる観念をもつて生活保護基準を制約したことは極めて失当である。
[12] また被上告人が原審で強調してきたいわゆるボーダーライン層の膨大な存在という要因についても、それゆえに生活保護基準をより低水準に据えおかねばならないということになるとすれば、それはまさに政府がその政策の貧困によつて発生せしめた悪しき結果を既成事実としてさらに被保護層に非人間的な生活レベルを押しつけることを意味することは明白である。かような背理は許容されるべきでないことは多言を要すまい。
[13] そして右の論にとつて、決定的なことは、政府側の統計資料によつてさえ明認されているように当時の被保護者の生活水準が、一般勤労世帯のそれの僅か35パーセント前後であり、被服費のごときは20パーセントに過ぎなかつたという厳然たる事実の存在である。このことはわが国の一般勤労世帯がかなり高度の生活水準をエンジョイしているなどという荒唐無稽な結論を導くものでは決してなく、低所得層1,000万人と大ざつぱに呼称する被上告人の統計自体に問題が存するか、もしくは著しい富の偏在、不平等な分配が存在するかのいずれかを示唆するものである。
[14] そして、かりに1,000万人という数字の確度は別として、相当多数の低所得層が存在することは事実としても、もともとすべて低所得層の生活向上のためには生活保護制度をもつてしなければならぬと考えること自体ナンセンスなのであつて、社会保障は多くの制度、方策を擁しておるし、さらに国政の正常のあり方からすれば、低所得国民の貧困問題解決、生活向上という課題は完全雇用政策や最低賃金制の実施などの労働政策、経済政策によつて主として解決さるべきである。
[15] 叙上のごとくして、予算、財政の枠とか、納税者感情といつた「生活」外的要因は、いずれも生活保護基準の検討把握のさいに考量すべき筋合のものでないことは明白であるところ、原判決は漫然これらの要因をもとに本件生活保護基準の劣悪さを認容しているのであつて、これは結局生活保護法第3条、第8条第2項の法意を曲解し、その解釈運用を誤つたに出たものと言うほかはない。
[16](一) 原判決は、具体的な保護処分は、覇束裁量行為であり、保護基準そのものの決定についても、それは「行政庁の完全に自由な選択を許す」趣旨のものではなく、「客観的一線を探求決定してこれに従うべきものとして、その自由裁量性を否定している。そして、そのこと自体は、すでに指摘した生活保護法(とくに昭和25年の改正後の新法)の立法の経緯やその趣旨や同法第1条、第2条、第3条、第5条の各規定の趣旨等からいつて、きわめて正当な解釈であるということができる。
[17] しかしながら、そのあとで、原判決が展開している保護基準の適否に関する検討の過程及びその結論は、保護基準の決定が法規裁量であるとするその前提的立論を厳格に貫ぬいたものとは到底認められない。あるいは、覇束裁量の場合の「裁量」の性格や無容について、原判決は、誤つた理解をいだいているといつてもよい。ことに原判決が、保護基準自体が、相当広い巾をもつたものであり、したがつて、その決定についても行政庁は相当広範囲の裁量を許されていると考えている点は、保護基準の決定が、国民の健康で文化的な生活の最低限度を画する性格のものである点からいつて、謬論も甚だしいといわなければならない。むしろ原判決の行なつている検討の過程及びその結論は、自由裁量行為――それもきわめて広範囲な裁量権の認められている自由裁量行為を前提とするに等しいものであるといつてよい。
[18] 原判決が、本件基準額の適否を検討するに当つて、その適法である所以を明らかにすべきことを被上告人側の主張立法責任とみないで、これを違法と断定するに足る資料の提供を上告人側の主張立法責任ととらえているとみられる点も、原判決が保護基準の決定を実質的には自由裁量とみていることの一つの帰結であると思われる。
[19] これは甚だしい矛盾であり、背理である。この点で原判決は、理由そごをあえてし、結局実質的には生活保護法第8条の解釈運用を誤つたものといわねばならない。
[20] 以下にその理由を述べる。

[21](二) 原判決は、昭和31年当時の本件保護基準額乃至本件日用品費の基準額の適否を検討するに当つて、まず、その算定方式であるマーケツト・バスケツト方式について、方式自体としての適否を問い、次に、この方式を適用して、基準額を算出したその過程に誤りがあるかどうかを検討し、算定方式及び算出の過程に違法がなければ、当該基準額は、一応適法なものと推認すべきであるとしている。
[22] 次に原判決は、基準額が、全体として、実態生計費からあまりにかけ離れ、現実を無視した架空のものでないか否かを検討している。
[23] いずれの場合にしろ、原判決は、基準自体相当の巾をもつたものであり、その決定につき行政庁は相当広範囲な裁量権をもつていることを前提としているから、前者の場合の「算出の過程に違法がない限り……」とは、算出の過程に著しく不合理な点がなく、一応人を納得させる程度のものであれば、一応適法なものと認められるという意味であり、また後者は、その総額が、現実無視の架空の数字という程に低額のものでない限り、当該基準額を適法と認めざるを得ないとする意味なのである。
[24] 前者の場合に、「一応適法なものと推認」するのは、さらに後者の検討を経なければならないとする意味であるのが、算定方式や算出過程に著しい不合理性を見出しえないのに、その総額が「現実無視の架空の数字」ときめつけられる程に、破綻を露呈することは、現実にはありえないから、原判決は字面では二重の検討を行なつているようにみえるけれども、実際には、別段厳格な検討を行なつたわけではないのである。否むしろ、総額について「現実無視の架空な数字」といえるか否かという、きわめて低い評価基準による以上その検討は、算定方式及び算出過程にまで立入つた理論的究明よりも甘いものといつても過言ではあるまい。
[25] 原判決もまた、「(総)額を一見したゞけで確定的に違法であると断定できるほど極端に低いものではないから」こそ、算定方式及び算出過程にまで立入つた検討に着手したのではなかつたのか。
[26] いずれにしろ、以上の如き程度の審査であれば、原判決のいう「行政庁の完全に自由な選択を許す自由裁量」行為についてさえ、一般に行なわれているところである。
[27] 自由裁量といえども、法的拘束から全く自由なわけではなく、法律が行政庁に裁量を認めたその趣旨・目的や情理からいつて、裁量の許される範囲には自ら限界があるのであつて、行政庁がその裁量の範囲を逸脱したり、裁量権を濫用した場合には、違法の問題を生ずるとすることは、学説・判例上一般に承認されているところである(田中二郎・行政法総論294~5頁参照)。
[28] 具体的に言えば、行政庁の前提事実の認定に誤認がないかどうか、その事実から結論に至る過程に著しく不合理な点がないかどうか(一応筋の通るものであるかどうか)の点は、自由裁量行為の場合でさえ、裁量権の範囲の逸脱(違法)の有無という意味で司法審査の対象とされているのである(例、東京地裁昭27・9・27行政裁判例集3巻9号221頁)。本件の如く、合理的な結論を導くためには、合理的な算定方式によることが必要であるという場合には、算定方式が、一応の合理性を備えているかどうかも当然に審査の対象となるであろう。蓋し、算定方式自体が一応の合理性さえも備えていないようでは、如何に自由裁量行為とはいえ、その適法性を認めるわけにはいかないからである。
[29] また、例えば、行政庁の裁量が「社会通念上著しく妥当を欠く」場合(最高裁3小昭29・7・30民事判例集8巻7号1463頁、最高裁2小昭32・5・10民事判例集11巻5号699頁、最高裁2小昭28・7・3行政裁判例集4巻7号170頁)、「著しく正義に反する」場合(青森地裁昭28・1・7行政裁判例集4巻1号13頁、名古屋地裁昭29・6・9行政裁判例集5巻6号140頁)、「著しく不公平かつ妥当を欠く」場合(神戸地裁昭29・3・23行政裁判例集5巻3号60頁)、「条理によつて定まる客観的基準を無視した不公平な扱いと認められる」場合(松山地裁昭26・4・26行政裁判例集2巻5号107頁)等、要するに、裁量が著しく不当と認められるときは、もはや裁量権の範囲を踰越したものとして、その裁量は違法となるとするのが、判例上一般である。
[30] したがつて、原判決の如く、日用品費の基準額が、「頗る低く」「いかにも低額に失する」、「直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚である」と認められる場合には、その決定がたとえ自由裁量行為であつたとしても、これを違法と断ずるのが当然であろう。

[31](三) 保護基準額の決定は、原判決も指摘するように、覇束裁量(法規裁量)であつて、自由裁量ではない。覇束裁量(法規裁量)とは、何が法の命ずるところであるかについての裁量、すなわち、法の解釈適用に関する判断作用をいうのであつて、この場合、法規がその文言上明確で一義的な定めをしていないとしても、その趣旨は、あくまでも行政庁に対して一義的な拘束を加えるというものであるから、法規の抽象的乃至不確定的な概念を、解釈を通じて明確にし、そこから法の一義的拘束を導き出さなければならないのである。行政庁は、法の執行に当るものであるから、一応自らの法律解釈(法規裁量)にしたがつて、行政を行なうことが認められなければならないが、その裁量は、すなわち法律解釈そのものであるから、全面的に司法審査に服すべきものである。もしその裁量を誤まれば、単に不当であるに止まらず、直ちに違法と認定されることとなる(田中二郎・前掲284頁参照)。いうならば、この場合の裁量は、自由裁量と異なつて、原理上、裁量の巾が認められていないといわねばならない。
[32] したがつて、原判決が、保護処分を覇束裁量行為であり、保護基準額の決定を覇束裁量としつつも、その決定が、「ある範囲内で行なわれる限り、当不当の論評を加えることができても、その違法は論証することができない結果行政庁の当該判断に基く措置がその効力を否定されない」場合があるとし、また「行政庁の判断が、法の定める抽象的要件より逸脱し、もはや当不当の問題をこえてその法律上の要件が満たされたものと思考される余地を失つたときは、右判断に基く措置は違法とされなければならない」として、この場合の裁量に、当初から一定の巾が認められていて、その範囲内で裁量を誤つても、当不当の問題しか生じないかの如く論じていることは、それ自体著しい背理である。

[33](四) 原判決も指摘しているように、確かに司法審査によつて、保護基準を明確な数字の形で導き出すことは困難であろう。しかしだからといつて、保護基準額を定めるについて、行政庁の判断に始めから一定の巾が予定されているとすることは、早計である。また、保護基準額の決定につき許容されている巾の上限と下限も、同じく明確な数字を以て示すことは不可能だから、結局、司法審査としては、現実の保護基準額が、著しく低きに失すると認められる場合に始めてこれを違法となす程度(但し原判決は、「頗る低く」とも尚且つ違法でないとしていることに注意)に甘んじざるをえないとすること(但し原判決は、後に日用品費について670円という明確な数字を導き出していることに注意)もまた、早計である。
[34] なぜなら、司法審査としては、あるべき保護基準額を明確な数字をもつて確定し、それと現実の保護基準額との差を同じく明確な数字を以て算出しなければ、現実の保護基準額の適否の判断を一義的になしえないというものではないからである。
[35] この理由を説明するために、今一度保護処分が覇束裁量行為であり、保護基準の決定が覇束裁量であるとされる所以を顧みてみよう。
[36] すなわち、生活保護法に基く具体的な保護処分及びその基準をなす保護基準は、同法第1条、第3条、及び第8条第1、2項の要件を充足するものでなければならない(同法第1条及び第2条の要件を充たさなければならないことについては、同法第5条参照)。
[37] これらの要件は、いうまでもなく、法が行政庁に自由裁量を認めた上で、それに対する一応の指針として定めたものではなく、保護請求権の内容を具体的・客観的に確定するための要件として設けたものである。「健康で文化的な生活水準」(3条)といい、「最低限度の生活」(1条、3条)といい、「困窮の程度に応じた」「必要な保護」(第1条)といい、「最低限度の生活の需要を満たすに十分なもの」(第8条第2項)といい、いずれも、特定の国家、社会の特定の時期、発展段階を前提とするならば、客観的に確定可能なものであり、同時に、解釈を通じて客観的に確定すべきことを、法は予定し、要請しているのである。
[38] たとえば、保護請求者が、その特定の生活上の需要を具体的保護処分が満たしていないと主張している場合――本件の場合に即していえば、日用品費の基準額につき、その算出根拠となつている費目、数量、単価の不足が具体的に指摘された場合には、裁判所は、解釈を通じて、健康で文化的な生活水準の最低限度を客観的に確定した上で、当該需要が、これを維持する上で必要なものと認められるか否かを検討し、当該需要がこれに該当すると認められる場合には、さらに、具体的保護処分(日用品費の基準)が、これを満たしているか否かを検討すべきである。そして、これらの点は、いずれも、あるべき保護基準額の総額が、算数的明確さで導き出しえないとしても、それとは関連なしに、客観的に確定可能な事項である。
[39] だから裁判所は、健康で文化的な生活水準の最低限度を、解釈を通じて明確にすることを拒否することは許されないし、特定の需要が、「健康で文化的な生活」の内容をなすか否か(それを欠いても、なおかつ健康で文化的な最低限度の生活といいうるかどうか)について、判断に巾があるからといつて、いずれとも決しかねるとしたり、当該需要が「健康で文化的な生活」を維持する上で必須なものと認めながら、それが具体的保護処分によつて満たされているか否かはいずれとも決し難いなどということは許されないのである。
[40] そして、最低限度の生活を維持するために必要不可欠と認められる特定の需要を、保護処分が充足していないと認められる以上、もはや当該保護処分は、生活保護法第1条、第3条、第8条第2項の要件を充足する適法な処分というをえないから、直ちにこれを違法と断定することができるのである。その場合に保護基準総額が算数的明確さで確定されていなくとも一向に差支えないし、またその必要もない。司法権としては、何等かの点で保護基準が最低限度を割つていると認められれば、直ちにこれを違法として取消すべきである。あるべき基準総額は、この司法的判断を参酌した上で、行政庁が改めて定めることとなる。そしてその適否もまた以上の如き形で判断されることとなるのである。
[41] 原判決は、たとえば、交際費、交通費について、「その支出は基準額の範囲内で彼此節約してできる限度にとゞめるべきであり」、また自治会費について、「一般費目の節約によつては捻出できない程の額の会費を徴収してまで活躍しなければならないものとは思われない」としており、交通費、交際費、自治会費等が全く欠けてもなお且つ健康で文化的な最低限度の生活といいうるか否かの判断をあいまいにしている。基準額の範囲内でも、節約すれば捻出できるというのであれば、ともかくもその必要性を認めているようにもみえる。また捻出不可能な場合にも特段の配慮を加える必要がないというのであれば、必要不可欠とはみていないことになる。しかしながら、この場合は、まさに、交通費、交際費、自治会費が欠けていても、健康で文化的な最低限の生活といいうるかが問われているのであつて、もしそういいえないとするならば、基準額の範囲内で他の必要的需要を犠牲にすることなく、これを実際に捻出しえているかを厳密に検証すべきであつたのである。
[42] 現に、第一審判決は、原告の日用品費の費目・数量・単価の不足についての具体的指摘をもとにして、それらが、最低限度の生活を維持する上で必要なものか否か、又、本件保護基準がそれを配慮しているか否かを検討している。たとえば修養娯楽費については、それによつて「単調な長期療養生活に耐えうるための精神的支柱を見出すことが必要不可欠である」とし、また補食費は、「人間性に根ざす直接の需要としてこれを考察しなければならない」としてその必要性を認め、且つかかる必要費目を保護基準乃至保護変更決定が全然顧慮していないことを認定して、保障基準等を違法と断定している。

[43](五) 保護基準設定の際の法規裁量の性格や内容、さらには、あるべき保護基準額が一定の巾をもつたものか否かを考察するに当つては、それが健康で文化的な生活の最低限度を画するという特質をもつこと及び要保護者の生活がすでに相当にきりつめられたものであることを考慮し、要保護者の生活の実情に即した考察が行なわれなければならない。このことは、基準額が、その総額において適法といえるか否かを検討する際にはとりわけ重要である。
[44] すなわち、保護基準の決定は、健康で文化的な生活(人たるに値する生活)の最低限度を画するものであり、最低限度に充たない生活水準を許容しないとする性格のものであるから、それがきわめて厳密に考察されるべきものであることはいうまでもない。それがあまりに広漠としたものであれば、それはもはや、最低限度を画するものとはいい難い。
[45] 加えて、保護基準は、「最低限度の生活の需要を充たすに充分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない(生活保護法第8条第2項)という風に、二重の制約の下におかれているのであるから、かりにあるべき保護基準額が一定の巾をもつたものであるとしても、その巾はきわめて狭いものといわねばならない。
[46] さらに、要保護者は、いわば爪に火をともす式の節約・やりくり算段によつてようやくその生計を維持しているのが実態である(そうしなければ到底生活を維持しえない)。またとくに基準額の算定がマーケツト・バスケツト方式による場合には、どうしても品目・数量の挙げ方に主観が混入しがちであり、したがつてまた不足勝ちであり、且つ品目・数量を厳選特定して組み立てられたそれ自体きわめて余裕に乏しい窮屈なものであるから、それは、もともと現実のさまざまな需要に融通無礙に即応しがたい性格のものであつて、品目相互の融通や算出根拠に組まれていない品目の購入費をこれから捻出する可能性にもともと乏しいものといわねばならない(本件日用品費基準では、全く流用自由な雑費は、600円中僅かに8円96銭が「その他」として認められているにすぎない)。かようにして、高額所得者にとつては、大した意味をもたない5円、10円程度の多寡が、要保護者の生活にとつては、きわめて大きな比重をもつことになるのである(以上の点は、原審における証人寺坂隆、同松本千秋、同小林昭、同江草昌、可小野範昭の証言等により明らかである)。
[47] 確かに、日用品費600円の中には、たとえば肌着2年1着分400円が月割に按分されており、そうした費目は必ずしも毎月々支出しなければならないものではなく、その意味でそれは流用可能な金額であるといえる。しかし同時に、要保護者は、2年に1回、月600円のうち400円をさいて肌着1着を購入しなければならない。そうしなければ、最低限度の生活を維持しえないことになる。この2年に1回の月400円の支出は、結局は、毎月々の支出にはねかえつていくから、結局は、毎月、600円の金額は、算定根拠たる別表の内訳通り支出されるに等しいこととなる。そして、別表の内訳は、最低生活の維持に不可欠な費目・数量・単価によつて構成されているのだから、「その他」の8円96銭を超える別表掲記の費目以外の支出を行なつた場合には、必ず、別表掲記の、それ自体最低生活の維持に必要不可欠とされている他の需要が犠牲にされることになる。つまり最低生活の破かいを他の面での最低生活の破かいによつて補うということになる。
[48] もし、他の必要費目を犠牲にすることなく、別表記載以外の費目の支出の融通がつくとすれば、それは、アルバイト、借金、自己負担の滞納、その他によつて得た臨時収入等を前提としている(つまり600円を超える金額は支出している)からであるか、あるいは、別表の費目・数量・単価に予め余裕をもたせているかのどちらかである。後者であるとすれば、それがどれ程のものかの一応の金額及びそれによつて、別表記載以外の必要費目を全部賄いうるか否か厳密に検証し、これを明らかにすべきである。原判決の如く、そうした厳密な検証を行なうこともなく、安易に流用・捻出可能と断定することは違法である。
[49] また、保護基準は、最低限度を画するものであるから、少なくとも物価の値上がりに厳密に即応したものでなければならない。たとえば同じく5パーセントの値上がりであつても、それがもつ比重は、高額所得者と要保護者とでは大変に違うのである。物価の値上がりがあれば、それがきわめて微細なものでない限り、それだけで従前の保護基準は、最低限度を割つてしまつているといつてよい。
[50] さらに、保護基準は、国民生産高・国民所得の上昇とも即応して改善されるべきものであるから、国民生産高・国民所得が上昇するにもかかわらず、保護基準が据えおかれるとすれば、保護請求権の内容は相対的に低下することになる。
[51] 以上のように考えるならば、仮にあるべき保護基準総額が一定の巾をもつたものであるとしても、その巾は、原判決のいう如く、70円(1割強)の多寡をも単なる当不当の問題たるにすぎないとなしうる程に広漠たるものとは到底解しえないのである。
[52] きわめてきりつめられた最低生活における600円にとつての70円の不足は、すでにその許容された巾を明白に割つたものというべく、違法と断定するに充分なものといわなければならない。
[53] しかるに原判決がこの点を見誤り、右程度の不足では前記憲法第25条、生活保護法第3条、第8条にいわゆる「健康で文化的な最低限度の生活水準」を満していないとは云えないと断定したのは、結局右各条の解釈運用を誤つたものと言わなければならないのである。 (一) 原判決の一般扶助基準額に関する適法性の推認
[54] 原判決は本件日用品費計算の基礎となつた一般の生活扶助基準額は行政庁がなんらの資料にも基づかず恣意的に定めたものではなく、昭和23年8月の第8次改訂から採用された理論生計費方式いわゆるマーケツト・バスケツト方式を推進し……たものであることが認められるから、かような方式を採用したことが違法でない限り、またその方式により全額を算出する過程に違法がない限り、一応適法なものと推認すべきであり」本件日用品費の基準の設定についてマーケツト・バスケツト方式を採用したこと自体については特に合理性がないとは云えないから違法ではないといい、更に本件日用品費基準額の算出過程につき、被上告人が「マーケツト・バスケツト方式により定めた一般の生活扶助の基準を基礎とし、入院入所生活という特殊事情に鑑み、右の一般基準に追加削除をして本件日用品費を算出した」が「かような方法をとつたこと自体には特に問題はなく、」「生活保護の基準一般についても昭和31年8月まで前後13回にわたる改訂が行なわれてきたこと、本件日用品費の基準は昭和32年4月に行なわれた第14次の基準改訂とともに本判決別表記載の内訳のとおり改訂され、合計額において月額640円に引上げられたこと、その間にあつて控訴人(被上告人)は国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し基準の適正化に研究と努力を続けて来たこと(その努力の結果が満足すべきものかどうかは別として)」等を認め、昭和30年度以降の国民経済の大きな発展を認め、昭和31年8月1日当時少なくとも昭和32年4月1日実施の右改訂基準と一致しない限度では改訂前の基準では本件で問題となつている昭和31年8月1日当時には既にある程度不相当となつていたものと推認することはできる。」が上告人はそれでも尚不十分であるというので各費目について検討し、その中で肩掛、パーマネントウエーブ、教養娯楽費、交際費、交通費、自治会費、その他多様な日用品の費目や数量、単価につき、生活保護法の保障する入院入所患者の生活がそれほど高度の水準を意味するものとは解されないと判示している。以上の点からすれば原判決は当然に一般生活扶助基準額が適法なものとの前提に立つているものというべきである。然し乍ら原判決は一般生活扶助基準額は算出方式の採用及び算出過程に違法がない限り適法なものと推認すべきである。以下それらの点の違法の有無を検討する。といつてい乍ら、マーケツト・バスケツト方式の採用には触れている(尤も文言の上では一般生活扶助基準額設定ではなく、本件日用品費の問題としてであるが)のに、その算出過程については何ら言及するところなく、その論旨に従つたとしても一般扶助基準額の適法性の推認についての理由を欠くものである。のみならず以下述べるように一般扶助基準額の内容を仔細に検討すれば、著しく低きに失し、適法性の推認は否定さるべきである。

(二) 一般生活扶助基準額の検討
[55] 一般生活扶助基準額が、昭和23年8月の第8次改訂から採用されたマーケツト・バスケツト方式により、(その後になつて)都内の標準世帯についてマーケツト・バスケツトを組みこれを基礎にして分解、組合せをなし地域差やその後の調査により修正を施して来たものであることは原判決指摘の通りである。然し乍ら以下述べる如く、それは著しく低額にすぎるものである。
[56] 昭和24年5月当時の第10次改訂にあつてもエンゲル系数81.6という消費の実体を無視したものであつた(甲第137号証)。
[57] 一般勤労者世帯の暮しは決して豊かなものではないのに、被保護世帯の家計費は絶対的に低く比率は年々低下して3分の1近くになり、平均1人当り保護費は僅かに26%にしかならない。然し現実にはこれだけではやつていけないし、多くは勤労収入等により基準を上廻つた生活をしている(甲第39、41、108の1、124、127、126、127、135号証、天達証人一、二審)。
[58] 生活保護基準の劣悪さは、その家計支出を一般のそれと比較することによつて一層明瞭となる。飲食物費、光熱費は半分以下、住居費3分の1以下、被服費雑費は20%以下になつている(甲第125号証)。
[59] 昭和29年当初の扶助基準額は中卒で2,660円、高卒で2,760円であり、公務員初任給の約2分の1である(天達証人二審)。
[60] 保護世帯と日雇世帯の生活の比較については甲第135号証にみられる実収入(保護基準額ではない)はほゞ同じ13,000円余であるが、前者の家族人員は約5人、後者は約4人であるから1人当りの収入は後者が高くなつている。
[61] 甲第128、129号証及び天達証人の二審証言によると、都内単身者家計調査の結果では、勤め先からの収入と内職収入などを合計して平均収入は13,015円であるが、それでも尚平均953円の赤字を示し、之は借金その他さまざまの方法でうめられている。月4千円以下の単身者の生活は4,900円の赤字で1カ月の平均支出は7,600円程度で、全平均の2分の1に止るが、それでも生保1人当りの金額よりは何倍かの支出ということになる。而も生保を受けた場合はその扶助額が最高の生活であり、別途収入があれば収入認定によつて差引かれるから、一たん生保をうけると基準の枠以上の生活が不可能となるので、一般世帯に比し貧困によるその残酷さが一層顕著となるのである。
[62] 保護世帯の生活が一層苦しくなるもう一つの理由は、飲食物費以外のものについては、まず比較的消耗度の高い且つ高価な寝具や、寝巻、シーツ、枕カバー等を一般費目より削り、之を一時扶助支給分とする一方、一時支給の手続を複雑化し、且つ予算の枠の中にとじこめ、現実には有名無実に近い有様とした(後述)。
[63] それと同時に費目、数量の不足、実情に即さない単価等は益々その不足に拍車をかけた。
[64] 第13次改訂の中にも、飲食物費については熱量計算に際して可食率を見込んでおらず(青山、沢田、小沼各証人、甲第137号証)ビタミンやカルシウムその他の栄養素に対する配慮がなされず、又食品の質については金額の面で極めて低劣なものしかとれないような結果に押えつけられてある。
[65] 栄養摂取量の角度から生活保護をみると実際の摂取量は栄養学上の基準量よりかなり下廻つている。甲第39号証の2の摂取量は一般国民1人当りの平均量であるから、一般勤労者世帯の生活費に近い金額でまかなわれているといつてよいであろうが、それでもなほ一般国民でも必要栄養量に達しないのに、生活保護の場合を比べると後者は全く問題にならない程劣悪になる(熱量のみでいえば基準量2,180カロリ、摂取量2,092カロリ、生活保護1,620カロリ)。生保の場合廃棄率をみこんでいないことを考えれば、生保の栄養量は更に少なくなるものである。同じことは甲第34号証によつても明らかであり、熱量は著しく不足しタンパク、脂肪等で半分、カルシウム、ビタミン等は約2割前後で刑務所の6割強にしか達しない。
[66]10 もつと重大なことは生保基準に予定されている栄養量を同基準金額で実際に購入することができるかどうかである。
[67] 「生活保護基準による献立の実際」(国立栄養研究所報告、「生活と福祉」昭和33年4月号甲第132号証)及び千葉社協が行なつた「生活保護法による基準飲食物費の栄養学的調査」(昭和30年7月甲第131号証)は、栄養所要量を基準飲食費内で賄えるものはなく、右基準飲食費は必要経費の60乃至80%或は50%にしか達していないことを明らかにしている(天達一、二審証人)。このような劣悪な飲食物費は野犬狩でつかまつた犬の飼代に等しいといわれている。
[68] 以上の事柄は、根本やえの東京での体験からいつても(甲第146号証)裏づけられるところであり、他に青山証人の証言で明らかにされた具体的例によつても証明されるところである。
[69]11 基準飲食物費が右の如く不足して十分な栄養がとれないのに、食費以外のものの基準額が前述の如く低劣であるため、之を補うものに若干の隠し収入(借入金その他)があるが、そのほかに、やむを得ず、本来不足している筈の飲食物費を削つている傾向もある(甲第132号証)。それは基準額のエンゲル系数が66.6乃至65.3であるのに実支出の夫れが60強であることからも窺われる(甲第137、141号証)。これはエンゲルの「生活程度が悪くなれば、生活費の占める割合が多くなる」という法則の、限界以下の生活における逆現象といえる。食費が十分に間にあつているから削つたのではなく、やむを得ず食費にくいこまざるを得なかつたのである。
[70]12 以上のような一般基準額の低劣さは、要(被)保護者が自殺か発狂をするのではないかを心配され(小川証人、甲第116乃至118号)、現に被保護者や、保護申請を却下され、発狂や自殺した例は少なくない。又被保護世帯での有病率が高く病気になつてからの死亡率も極めて高く快復率が少ない結果となつている(川上証人、甲第87乃至90号証、甲第17号証)。
[71]13 このような一般生活生保基準額に対してどのような評価を与えているかをみる。
[72](1) 厚生省は第13次改定の妥当性を証明する論拠に戦前救護法下の救護基準とほゞ同水準であるといつている(「生活保護百問百答」第9集264頁、甲第138号証)。然し乍ら戦前の救護基準がその当時妥当であつたか否かは疑わしいのみならず、かりに妥当であつたとしても戦前の救護基準は救護法の貧困観から導き出されるものであり、救護法での救護要件「貧困ノタメ生活スルコト能ハザル」とは「日常の衣食住に関し、一般社会生活上必須と認められる最低限度の資料を得ること能はざる状態を指称す」るいわば最低生存という考えであり、健康で文化的な生活という要素を含むものではなかつた。したがつて健康で文化的な最低生活を営む権利や、保護請求権という考えの片鱗すら否定した救貧法のもとでの救護基準とほゞ同水準であることを以て妥当性の論拠の一つとすることは、とりもなおさず当時の保護基準自体が救貧法的であることを示すにほかならない。更に右百問百答によれば「基準の……積算の方法はロントリーがなしたような、(科学的、理論的)な仕組となつているが内容については社会経済事情によつて変更が加えられ、結果的にみればその仕組はいわば社会的貧乏線の合理的説明のための道具として利用されている面が強いといつた方が適切のようである」という事実である(甲第138号証の246~248頁)。
[73](2) 総理府社会保障制度審議会の「答申及び勧告」においても財政の優先確保、保護基準の引上及び基準設定並びに不服申立手続の公正且つ簡易迅速化の要請をしている(甲第119号証)。
[74](3) 失業対策問題調査研究会の報告では、わが国の社会保障制度は現状では不備であるので保護基準は国民生活水準の向上にともなつてこれを引上げ、さらに勤労控除の改善など自立更生のために必要な措置を大巾に拡充することの必要を述べている(甲第120号証)。
[75](4) 労働省雇用審議会の「失対制度の刷新改善に関する構想」で、「失対事業高令者等就労福祉事業の就労者の賃金……の水準は社会保障的見地から配慮を加えつゝ、若干の作業手当を付加するものとする」という諮問に対し、右「賃金が現行失業対策事業就労者の現にうけている賃金を下廻ることのないよう措置すること」を答申している(甲第121号証)。
[76](5) 厚生省生活保護行政担当官小沼正は座談会で基準は充分と思つていない。一般の水準が上つているのに保護基準もあげろ、というと財政的にもたないという意見が出ているが、これを打ち破る支援を望む旨の発言がある(甲第123号証)。
[77] 以上は何れも公的機関や公人によつてその基準の低劣さを明らかにされたものである。
[78](6) その他一般世論(毎日新聞の社説、甲第122号証)、被保護者の立場やケース・ワーカー等も基準額の低さを認め、之だけではとても生活ができない旨を異口同音にいつている(小川証人、甲第110乃至114、116乃至118号証)。
[79](7) 籠山証人は健康で文化的な生活とは東京の日雇、北海道の農民の生活を基礎にして算出された生活程度であると述べているが、之らの生活費のエンゲル系数を計算してみると、74.1及び72.8となり、仮に適切なエンゲル系数を決定することが困難であるとしても、右の数字が極めて劣悪な生活内容のものであることは一見して明らかである。
[80]14 原判決は、マ・バ方式を採用したことに違法がない限り、またその方式により金額を算出する過程に違法がない限り一応適法なものと推認すべきだとして、エンゲル方式は研究段階にあり、藤本方式は画期的方式と評しつゝも小沼証言を採用して時期尚早であるとして排斥しているが、エンゲル方式は昭和36年基準改訂以後採用され(エンゲル系数57.9、尤も右方式の採用はマ・バ方式を採用していることから受ける攻撃をさけるためのものであり之によつた改訂基準も亦政策的配慮により定められ、決して満足すべき基準額ではないが)、藤本方式はその調査対象の少ないことを理由に非難するものもいるが(小沼証人)天達証言(二審)並びに甲第130号証によつても明らかな如く研究調査対象は厚生省の被保護者生活実態調査279世帯をはるかに上廻る308世帯に及ぶのであり、そればかりでなく、さきにのべた一般生活保護基準額の極めて低劣であることの理由として述べた諸事項との関連で判断すれば、むしろ藤本方式のいう最低生存費4千円、最低生活費7千円の数字は結果からみても遥かに合理性を窺えるものである。又少なくともエンゲル方式は「エンゲル系数が通常人間としての生活の限界とされている55をはるかに上廻る(生活内容としては、はるかに下廻る)65附近であつても尚健康で文化的な生活水準を維持できるなどとは言えない」ということを証明する段階には達していたものであること疑を容れないところである。
[81] そもそも最低生活費とは、単なる動物的生存、衣食住などの物質的必要の最低限といういわば「最低生存」とは区別され、そのような最低限をみたすだけでなく、文化的社会において生活する人間としての尊厳と体裁を維持しうるに足るもの、いわば「人たるに値する生活」を維持しうるものでなければならないこと当然である。原審がマ・バ方式について「費目、数量の選出に主観的要素がはいり易く、また非現実的に流れ易いという欠陥を伴うものである」ことを認めたとおり、その一般生活扶助基準額の算定過程において、決定的にその欠陥を暴露し、早々違法であると考えるべきであつた。
[82] 前記諸事項を綜合すれば原判決が、被上告人は国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し基準の適正化に研究と努力を続けて来た事実を認め、この認定を妨げる証拠はない、といつていることも亦事実に反するといわねばならない。

[83](三) 叙上の如くであるから結局原判決は一般生活扶助基準額は生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条第1項等の健康で文化的な最低限度の生活を満たすに充分な適法なものとの前提に立つものであるところ、右に述べたところからすれば、明らかに最低生活の基準を割り前記各法条の解釈運用を誤つたものとのそしりを免れず、又一般生活扶助基準額が適法であるとの前提に立つて判決をしながら、適法性の推認の際に基準額算出過程の検討及び一般生活扶助基準額そのものの検討を省いたのは、理由不備、理由齟齬重大な事実誤認のそしりを免れないものである。
[84] 原判決はマ・バ方式を採用した上で本件日用品費の基準額算出の過程に誤りがあるかどうかの判断に際し、昭和31年8月1日当時、少なくとも昭和32年4月1日実施の第14次改訂基準と一致しない限度では或る程度不相当となつていたものと推認し、なお上告人主張の各品目、数量、単価について検討を加え、第14次改訂基準によつてもなおパンツ2年に1着及びチリ紙月1束程度は不足し、月額670円程度の基準額になるが未だ違法でないとし、上告人の主張する多くの費目、数量、単価につき、生活保護法の保障する生活水準がそれ程高いものとは解されないということ及びその他の理由で之を排斥した。
[85] 然し乍ら入院入所患者の日用品費の個々的な検討をするに際し、まず、入所患者の生活と医療、更には医療制度、看護制度の患者生活に及ぼす影響等を検討する必要がある。

1 本件日用品費算出について、入院入所結核患者の「生活」及び「医療」に対する基本的な考え方
[86] 入院生活も亦人間生活である。患者生活は人並な体裁を維持し、人並なつきあいができて、人間に値する生活でなければならず劣等感や精神的冬眠状態にないという基盤に立つていなければならない。
[87] 長期入院患者の場合、通常のいわゆる日用品をどれだけ満足させることができるかという考え方のほかに、その生活条件を整え、生活にハリを持たせ精神活動はなるべく活発に続けさせることが必要である。そうすることによつて、早く社会に復帰するという意欲を具体的に起こさせ、そのことが治療効果を促進することにもなるのである。
[88] 結核患者の場合、最後まで治ろうとする努力をすてない限り、注射、投薬などのはつきりした医療技術の上に患者の闘病の精神をふるいたたせるための精神身体医学的な働きかけが絶対に必要になつてくる。1輪の花が患者の治ろうとする意欲をかりたて、重症者と雖も、終日ねたままの状態で編物をしたり、シシユウをしたり、1日に1枚の習字をし、本を1頁読むことさえ、時には大切な作業療法である。即ち医療も亦人間に値する衣食住が満たされ、人間らしい生活によつてはじめて、本来の目的が達成されるのである(証人川上、野村、天達一審、児島美都子、浅賀ふさ、高津、朝日茂一審、甲第6、7、3378・85号誌)。
[89] 若し以上のことが満たされずに、医療が治療偏重となり、生活条件をおろそかにすると、療養生活が破壊される。即ち、自殺や精神病神経病が増え又酒を飲むほど療養態度が悪いといわれる原因となり、重症者は死亡して行く。(証人川上武、同浅賀ふさ、同村山ミチ子、同梅津つや子、同寺坂隆(本の購入、飲酒等)、同小林昭(42項、自殺の例)、証人松本千秋、小野範昭――発狂の例、証人檜尾、同町田に対する尋問の部分)。

2 医療、看護制度の患者生活に及ぼす影響
[90] 之ら諸制度の低劣さが患者生活の日用品費不足に拍車をかけている。
[91] ところで当時に於ける制度上での医療や生活に対する考え方は極めて不十分であつたが、療養生活と密接な関連を持つ医療制度、看護制度に於ても亦、同様であり、このことが患者の療養生活を益々破壊する方向に追いやり、且つ、日用品費の負担を多くしている。
[92] まず日本の医療は治療偏重(治療が十分という意味では決してない)で、予防とか療養の生活条件をととのえるという点はおろそかにされ(川上証人)、その上、医療扶助による治療は、通常3等鈍行方式といわれるように、必要なときに必要な治療を適切に行なうことが出来ない(寺坂証人)。このことは急激な病状の変化に適応した処置がとれず、例えば、急に病状が悪化した場合にマイシンがうてない(佐藤市郎証人)とか、喀血等の際に止血剤が思うように使えない(朝日茂)とかの不都合を生ずる。
[93] 又、昭和29、30年に問題となつた「入退院基準」では、結核菌陰性3ケ月間と、安静度5度に達したときは退院させるという方針が出され、又レントゲンのみを資料に医療扶助審議会が退院を決めるという、真に療養の実情に即さない基準を作り、医学的な面や社会的条件を十分考慮することなく、兎もかく患者を早く病院等より締め出そうと考えたのである。(小野範昭証人)
[94] 右の入退院基準は在宅患者との交替だといわれたけれども、結果から見ても空床がふえ、入院待機患者の数も減つてはいないのである。(甲第96号証6枚目)
[95] 更に昭和30年から始まり、昭和31年から実施された付添を廃止しての新看護婦体制については、医療関係者より「右体制は予算削減のためのもので、看護の内容を低下させる」という理由で猛烈な反対があつたが、之に対し当局は「予算の削減が目的でなく、医療と看護の向上が目的だ」と弁明していた。両院の社労委では「右体制が看護要員の増加設備と給食の改善を実施するのでなければ看護の実際の支障が起るのであれば、そのような支障のないようにし、無理に強行してはいけない」ことが確認された(甲第77号証、同96号証1枚目裏)。
[96] それにも拘らず、結果は年間数億の国費が節約され、その見返りの施設整備費等が得られず、重症患者はスクリーンで区切られた枕頭部屋に押し込められ、看護婦は労働過重になやまされ、看護婦の数は間もなく減りそのシワ寄せが療養者の生活をおびやかした(甲第96号証2枚目、同第94号証、同第95号証、小野範昭、梅津証人、朝日茂二審)。このことは当然に生活費の不足に拍車をかけることとなる。
[97] 劣悪な療養条件の中で多くの人々が死んで行つた。呼鈴を握つたまま死んだ人もいる。岡山療養所の13乃至16病棟で昭和32年から3年の間で55人が死亡し、そのうち生保をうけた患者は39名の多きを数えた(甲第96号証、朝日茂二審)。
[98] 右のような医療政策に於ける人間無視、人間破壊は一般生活扶助基準額や、日用品費が必要な最低生活費に著しく不足していることと全く同一の思想に立脚するものである。即ち医療生活何れの面でも患者を人間に値するものとして取扱つていないことの証左であるのみならず、制限診療による薬や治療材料の使用制限は実在する。本来現物給付さるべき医療扶助にかかるものであつても之が適切に現物給付されない以上補食の場合と同様、生活保護法第34条第1項但し書により或は生活の需要を満たすものとして金銭給付をなすべきである。又新看護体制による看護要員の不足、看護婦の労働超過等による患者へのシワ寄せ(労力の面だけみても従来付添婦がやつていて、看護婦が諸種の事情で出来ないときは、患者が自ら之をなすか、他人に頼むか、之をしないのかのいずれかである)は日用品費の増額を来す。補食用食物をつくること、買物、洗濯、裁縫、清拭、排便等々々について、勿論、病院や看護婦の仕事や職務の範囲内のものもあるが、その頻度等より必ずしも病院側のそれのみでは足りない場合が多いし、又被上告人の言う如く、買物を看護婦に頼むことは職務外のことを要求することになるばかりでなく、そうでなくてさえ過重な労働を更に増加することになるだろう。

3 本件日用品費算出の非合理性
[99] 本件日用品費計算の基礎となつた一般の生活扶助基準はもとより、本件日用品費の算出においても厚生大臣が恣意的に定めたものであつて合理的なものでなく違法なものである。
[100] 原判決は、本件保護基準の決定の方式であるマーケツト・バスケツト方式は「費目、数量の選出に主観的要素がはいりやすく、また非現実的に流れやすい」と一応警戒の目をもつてこれを注視しているかのようであるが、現実にその適否、合法違法の判断にいたると、「控訴人は国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し、基準の適正化に研究と努力を続けたこと(その努力の結果が満足すべきものかどうかは別として)等の事実を認めることができこの認定を妨げる証拠はない」とのべ、被上告人の決定を容認しているのである。
[101] では本当に被上告人の基準決定は合理的且つ適正なものであろうか。本件決定の基準になつた昭和28年7月に決定された第13次の改訂について、いかなる組方をしたか、また物価はどうであつたかを直接に示す証拠がすくないので、これが32年4月に改訂された結果と対比して、被上告人の改訂の方法・態度が本当に原判決のいうとおり「基準の適正化に研究と努力を続けた」かどうかを検討しよう。この両次の改訂の結果について、その日用品費の部分に関し前者については第一審判決の別表として、後者は原判決の別表として掲示されているのでこれを比較する。
(1) 被服の品目、数量の組み方について
[102] 第14次改訂では、被服ではズボン下、敷布、枕カバーが新たな項目として加わつている。昭和32年になつてから始めてこれらの品物が日常生活の必要品になつたわけではないことは明らかである。これらが生活に必要なことは昭和28年といえども同様である。これらの品物は国民の生活水準があがるにつれて、あらたに必需品になつてきたという性質のものではない。また最低生活の必要品というわけではないが、一般国民の間に相当普及しておつたものであり、時代の進展にともない「健康で文化的な最低限度の生活水準」にとりいれらるべきものとなり、生活保護者にもこれをおよぼすべきものとされてきたようなものでもない。これらの品物が戦後の極端な衣料欠乏の時代に事実上手に入らないときは別として、日本国民の間では長い期間にわたり文字通り必需品になつているのである。してみるとこれらも昭和28年7月当時においても「健康にして文化的な最低限度の生活」の必要条件をなすものとしてマーケツト・バスケツトに組むべきものであつた。この点第13次改訂が最低生活をみたしていないこと明らかである。
[103] 第14次改訂は、くしを2年に1本、安全カミソリの刃を12枚、インク年1びんをつけくわえている。これらのものが「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なものであつた事情が、昭和28年と昭和32年と異なつていないことは右の衣料品についてのべたと全く同様である。
[104] これらは被上告人の保護基準をくむ上に、マーケツト・バスケツトを組むについて費目数量の選出が合理的なものでないことを示すものである。現行生活保護法では、被上告人も恩恵的、救貧法的に恣意的に出来るだけの保護を加えればよいといつたものでなく、「健康で文化的な最低限度の生活」を営むにたりるだけの品目、数量を義務的に組まなければならないのにもかかわらず、依然として恩恵的、救貧法的な考えが腹の底にあるので、具体的な国民生活からその最低基準をくむのでなくて、制定者の恣意でまず予算をおさえてこれだけの品目、数量を組めばよいのだといつた態度から組みあげていつたものである。もし被上告人がそうでないというのであれば、どういう理由でこれらの品目、数量が、昭和34年には最低生活の中にくまなければならなかつたかを宣明すべきである。しかるに被上告人側の証拠はこの点について、何んら合理的な根拠をあきらかにしていないのである。
(2) 被服の選択について
[105] 品目の取り上げ方自体が恣意的であり、不合理であることは右にのべたとおりであるが、不合理はそれのみにとどまるものではない。えらばれた品目のなかで、具体的にどの品物をマーケツトで見つけて、それをバスケツトに入れるかという点でさらに恣意的である。これを右の両表について検討してみる。
[106] その前に衣料品の物価がどのような推移をたどつたかを甲第50号証によつてみると岡山地方では被服の消費者物価指数は昭和29年平均で88.5であり、昭和32年平均で86.8である。第13次改訂の年である昭和28年の該当分がないが、右によつても大体の線を推定することができる。これによつてみると昭和32年は昭和29年の98.3%にあたつている。甲第50号証により被服物価指数の変化の傾向をみると昭和28年は昭和29年の88.5より若干高く、したがつて昭和32年との比は98.3%より若干下まわることになろう。
[107] 第13次改定表(以下甲表と称する)と第14次改定表(以下乙表と称する)の両表にあげられている品目中被服の部分を比較してみると、両表で共通のものはパンツ、補修布、縫糸、手拭、足袋である。その単価を比較してみると、パンツでは乙表と甲表の比は1.08、補修布では1.15、縫糸で1.33、手拭では0.71、足袋0.87である。このように上がつたものもあり、下がつたものもある。この間に加工度の高いものが高いというような傾向があるのかと思うとそうではない。加工度の低い補修布とか、縫糸とか、あるいは手拭は同一の傾向をとらなければならぬはずなのに、補修布、縫糸はそれぞれあがつているのに、手拭は逆に下がつているのである。しかも補修布と縫糸との上がり方にも、1.15と1.33というように差違がある。これらは衣料の基本的な品目であるから、その物価変動は右にあげた一般指数の98.3%をやや下るものに近いはずであるが、乙表があげている単価はそれをとおくはずれているばかりでなく、上がつているものさえあるのである。これらの品目中の標準品あるいは最下級の品質のものというように、両表が共通して一定の品質のものをバスケツトに組み入れたならばこのような結果は出なかつたに相違ない。
[108] シヤツの選択についても奇妙な結果がでている。シヤツは甲表では夏冬あわせて2年1着が、乙表では冬シヤツと夏シヤツとわかれ、前者が3年2着、夏シヤツ2年2着となつている。この4年間に「健康で文化的な最低限度の生活」の内容がこの程度上り、それが保護基準に正確に反映したか否かは、しばらくとわないことにしよう。
[109] 甲表がシヤツを2年1着というときは、同じシヤツを夏冬をとおして着るということである。寒暑の差のはげしい日本でこういうことが出来るものであろうか。実際にはそれでは生活はできない。これは被上告人側がとにかくこれだけにしようと金額だけ割りふつておいて、あとから適当な品物をあてはめたことを示している。これが恣意的な選択であることはその価額にも反映している。甲表のシヤツは1着400円で、乙表の冬シヤツの290円よりも高くなつている。夏冬兼用のシヤツが冬シヤツよりも上質なものであるというのであろうか。しかもこの間被服の物価指数は98.3%より若干しか下がつていないのである。しかも同じ衣類の加工品であるパンツは甲表では1着120円から、乙表では1着130円に値上がりしているのである。パンツの値上がりも右の被服の一般指数が下がつている傾向からみておかしいのであるが、かりにそれを正しく選択されたものと仮定すると被上告人制定の基準品目表のシヤツの選択の恣意性はこの両表の比較自体からいよいよあきらかになる。
(3) 被服以外の日用品費の組方について
[110] 被服以外の日用品の取り上げ方についても、甲乙両表を比較してみると恣意的な扱い方が見いだされる。
[111](A) 下駄、草履のはきものは必要数量は甲乙両表とも変らない。しかしその単価をみるとおかしい結果がでている。草履の単価がかわらないのに対し、下駄は甲表70円が乙表では165円と2.35倍になつている。この騰貴率はこの両表の中で飛び抜けている。しかし甲第49号証「国立岡山療養所における厚生会購買部の運営及び価格について」によつてみると、昭和33年1月1日現在で下駄は170円となつており、草履は240円となつている。即ち下駄は乙表の単価に近いが、草履は約2倍になつている。してみると甲表の下駄の単価が実際の値段の半分であるか、あるいは乙表の草履の値段が実際の値段の半分にしかみていないかの、いずれかである。どつちにしても基準表の単価が客観的な市価にもとづかない架空のものであることを示している。
(B) 縫針について
[112] 甲表においては縫針は1カ月当32銭であるのに対し、乙表では8円33銭になつている。その単価の比較は両表からだけではむつかしいけれども、1カ月当りの金額にして23倍になつたというのはどういう理由であろうか。しかも縫針を使用するについての対象である補修布が1年当り甲表4ヤールから乙表0.8ヤールと大巾に減少しているのである。昭和28年と昭和32年の単価の変動は別にして、これはどちらかが生活の実態に即していないか、あるいは双方が実態からかけはなれていることを物語ることの以外の何物でもない。
(C) 石けん類について
[113] 洗たく石けんは乙表では甲表の半分の1年12個になつてしまつた。しかも単価が同じである。一般の生活は上がつているのに洗たく石けんの使用量が減つたのはどういう理由であろうか。
[114] 洗顔石けんは逆に甲表12個から乙表24個にふえている。単価は30円から15円と減つている。洗たく石けんの単価がかわらないところからみると、この間洗顔石けんの単価がかわつたものとも思われない。すると甲表がとりあげた洗顔石けんと乙表のそれとは、品質あるいは大きさが違うものであろう。この間一般に洗顔石けんの大きさがかわつたことがないのは公知の事実である。してみると被上告人が基準となるべき品物を何らの理由なく恣意的に取り変えたものと言うべきである。そうでなければ洗濯石けんの単価の変動があつたにもかかわらずこれを修正せずにそのまま使用している事になる。いずれにしてもこの点石けん類について被上告人の選択が恣意的である事においては変りがない。
(D) 新聞について
[115] 新聞は甲表では1人で1部をとり1月の紙代が150円になつている。ところが乙表では2人で1部をとる計算になつている。1月の紙代が1月150円から330円になつたのはこれは動かせない事実であろう。新聞をとることが最低の文化生活のための必要であると認めたならば、紙代が150円から330円にあがつたからといつてその必要性がかわるものではない。1人で1部とることが昭和28年当時必要であるならば、昭和32年でも1人1部の必要性がかわるわけがない。この間文化水準はあがつているはずである。それにもかかわらず、2人に1部と下げてきたのは、1カ月当りの紙代150円から330円に上るのをおさえ、150円から165円と日用品費全体との上昇率と帳尻をあわせるためである。即ち生活の文化的水準の実際とは何んらかかわりのない予算の割りふりにもとづくのである。
[116](4) 以上甲・乙両表を具体的に検討してみたとおり、被上告人の本件日用品費基準の設定は、原判決がいうように「国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し、基準の適正化に研究と努力を続けた」とは到底いえないことは明らかである。第13次改訂から第14次改訂の間、600円から640円えの推移は国民生活の実態から割り出されたものでなく、政府の恣意的な、合理性のない政策的決定にもとづく、根拠のない数字である。第14次の数字がそうであるならば、本件決定の基準となつた第13次改訂の数字もそのようなものであることが容易に推定でき、またそう判断をしても誤りがない。それのみか右の検討のなかで第13次の数字の不合理な理由が直接明らかになつているのである。
[117] 原判決は政府の決定は正しいとの前提にたつて十分検討を加えず漫然これを擁護しているのはまことに遺憾である。

4 基準費目の不足について
[118](1) 原判決は日用品費の計算のための費目の検討に際し、衿布以下患者自治会費までの費目及び体温計について、
「衿布は使い古した衣料で間に合わせたり、手拭で代用する途があるし、……肩掛及びパーマネントウエーブ代まで考慮しなければならない程生活保護法の保障する生活水準が高いものとは解されず、箸は前から所持しているのが通常でかつ金額も僅かで半ば永久的に使えるものであるから、その毎月の消耗分は別表所掲の「その他雑費」月額4円57銭中に含ませるのが相当であり、クリーム又はメンソレータムの類は……予防用の少量のものは右の「その他雑費」でまかなえるし……ペンは単価が安いので「その他雑費」でまかなうべく、ノートや便箋は別表所掲の「用紙代」名義月額20円の中に含めて考えるべきである。教養娯楽費、交際費、交通費及び患者自治会費については、療養に専念すべき患者のための日用品費として計上すべきであるかどうか疑問であるのみならず、教養娯楽の面において新聞まで読めないようでは、他の一般患者にくらべて見劣りがするけれども、その面の費用として別表には「新聞代」名義で月額165円が計上されているから一応の最低限度の水準は保たれるし、交際費・交通費については入院入所中の生活保護患者である以上その支出は基準額の範囲内で彼此節約してできる限度にとどめるべきであり、最低限度の生活として日用品費のなかにこれらをとくに取り上げなければならないものとは考えられず、なお入院入所中の患者の自治活動は病院又は療養所が施設管理や医療目的を考慮して許した範囲においてのみ認められるべきであつて、生活保護患者から一般費目の節約によつては捻出できない程の額の会費を徴収してまで活躍しなければならないものとは思われない」
とのべ、更に甲第15、16、27、48、52、58、78号証、証人佐藤市郎、中吉、横田、野村、村山、梅津、小林、江草、寺坂、松本、小野範昭の証言及び朝日茂(一審)の供述中に述べられる数十の費目についてはそれぞれ、パンツ、補修用材料、雑費、従前から所持、医療給付、身体障碍者福祉法、計上すべきでない、生活保護はそれほど高度のものではないとして何れも排斥している。
[119] 之らのうちまず「その他雑費」(4円57銭)の中に入れられたものは、箸、クリーム又はメンソレータム、ペン、ボタンその他の補修用材料、マスク等であり、「従前より所持しているのが一般である」として排除されたものは、ハサミ、石鹸箱、カミソリ器、ペン軸等である。雑費4円57銭では之ら費目の必要な金額の数分の1にも足りないこと明らかであり、従前より所持している費目なるものも、永久に使用できるものではなく、そもそも劣悪な生活環境下にあつて、入院前之らを所持し得たか否かも疑問であり、更に従来1箇で足りていたものが入院によつて更に買い足さなければならない場合も多い。
[120] 衿布は使い古した衣料で間に合わせるというが、ボロボロになつても尚代りのものがない被保護者にとつて、古物で衿布に代用するなど思いも及ばず、年2本のタオル(手拭)で衿布にしたのではタオルを洗濯もできない状態であろう。
[121](2) 修養文化娯楽費については、原判決は1部の新聞を買うことすらできない費用のあることを以て健康で文化的な生活を満たすに足れりとする。然し患者は人間として生活し、病気をなおし、退院して生存競争の中で働いて生きていくよう準備(自立助長)して行かねばならない。之らの費目が単に娯楽に止る場合であつても、人間生活の中には必要不可決なものであるし、そのことが滅入り勝な長期結核患者の精神的な支えとなり、治療の上で大きな効果を挙げることは容易にうなずけるところである。ところで、現代の医学は転換療養によつて積極的に患者に生活のハリと社会復帰への意欲を盛りたてようとしている。そのための諸費用は、将来は医療給付として考えられるべきであろうが、取り敢えず修養、文化、娯楽費の中に入れてみるべきであろう。病院側で意識的に転換療法として取上げていない場合であつても、そのような内容のものを患者自らが、或は病院の内外で、サークル活動として、或は個人でなすべきものである。更に右のようなことは、退院後の社会復帰を目ざし、その後の生活の方針としてなされる必要がある。作業療法や特定の課目の勉強等が之に入るであろう(簿記、ガリ版、書道、珠算、木工細工、その他)。
[122] 原判決は作業療法や転換療法についての好影響を認め乍ら之を医療給付としてその要否を定むべきであるとのべているがその誤りであること後( )に述べるとおりである。
[123] 以上は甲第78号証乃至第85号証及び野村証人にみられる転換療法に必要な又は松本証人の述べる作業療法等のための諸品目や、ラジオ、及びその修理代、ラジオテキスト、修養書、専門書、サークル活動費、療養雑誌(瀬尾、小林証人、朝日茂)等は是非共必要なものである。低医療政策による医療を全面的に依存することはできず、自己の病状と療養雑誌に掲載される専門医の意見を参考にし、看護婦や主治医と相談し、医療効果を一層大ならしめるべく努力することは療養に必要な補助手段であり、自衛の方法でもある。
[124] 重症者に対しても転換療法を行ないうるものであること野村証言により明らかなばかりでなく、重症者必ずしも読書制限にはならない。喀血やシユーブの直後の短期間はともかく、安静度が1、2度であつても、比較的病状が安定してくれば、時間の制限はともかく、読書し、ラジオを聞くことはむしろ許されているといつてよい。化学療法の発達は重症者に対しても容易に社会復帰の可能性を与えているので、重症の時から社会の進歩におくれぬ様準備を始めるべきである。というよりは不安と焦燥に明けくれる重症者であるからこそ、益々この種の費用を必要とするのである。又この種の勉強等によつて病状を悪化させたという例をきかない(松本証人)。又結核患者は回復後元の職場にもどれないことが多く、且つ、体力の点から通常の勤務につくことは困難な場合が多い。療養中に身につけた知識を以て生活をしている例も少なくないのである(松本証人)。特に療養生活を体験してすぐれた文化人や知識人となつた人の多いことに着目すべきであろう。
[125] 療養所には備付の新聞はなく、又図書も備付のないところもあり、療養所に備付があつても多くは古いものである。国立岡山療養所の場合は、自治会が図書を管理し、殆どが戦前のもので、よみたいと思う本が少なく、最近は年々30~40冊位購入するが、俳句誌のようなものでも、時代が変つてあまり読まれず、又新書は仲々廻つてこない状態である(松本、小野範昭、朝日茂当審)。ここでいう療養中の勉強というのは、一時扶助の如き社会復帰のための直接的な費用をさすのではない。その基礎となる知識や技能並びに一時扶助の対象とならない面でのそれをいうのである。
[126] 患者の精神的苦悩、明日への希望の喪失の原因は種々あるが、その根本は、日用品費の著しい不足と、従つて、明日への希望を見出すための材料(いわゆる修養、文化娯楽)を奪われている点にある。これらの費用は初めからないのである。
[127] 本件日用品費算定の場合には以上の(1)、(2)のことがらを基礎にしなければならない。
(3) 集団生活の面で必要となる費目
[128] 交通費、自治会費につき、前者については認めず、後者については節約で捻出できる範囲でしかみとめないということは、結局之をみとめないということである。
[129] 退院者に対する送別会、冠婚葬祭の費用、クリスマスや正月その他の適当な機会に催されるさゝやかなパーテイの会費などは、たとい少額にせよ、出さないわけには行かない。右のような行事そのものは、人間としての最少限度の要求である(小川証人)。患者自治会は任意団体であるにせよ、その性質上全員加入がたてまえであり、事実自治会は全患者のために病院や当局側と交渉し、給食その他療養条件の改善につとめ、図書の管理や時には金銭の管理利用等まで行なつている。その存在価値を疑うものはいないであろう。会費の免除は生活が苦しいことの結果としての例外的な措置であつて、被保護患者が大半を占める療養所で、仮に会費免除をすれば、会は存立し得ない。
[130] 会費すら納められないとすれば、集団生活の中で非常に見劣りのする生活ともいえよう。
(4) 日常生活の面での費目
[131] ペン、万年筆、インク、ノート、クリーム、メンソレ、クシ、鏡、ポマード、カミソリ、ハサミ、ツメ切り、ナイフ、果物ナイフ、ハシ、ハシ箱、マスクについては今更多言を要しないであろう。(尤も14次改訂ではインク、クシは費目に入つた。ペン、ノート、クリーム、メンソレ、カミソリ、ハサミ、ハシ等も独立に費目に入れるべきである。)時計及びその修理費、電気スタンド、書見器、鍋、皿、ヤカン、洗面器、補聴器の修理のための小包、荷造送料、電池代等、便箋(独立してみとめること封筒切手みとめて便箋のないことはおかしい)、ベツトのスベリ止め、花瓶、衣裳ケース、フトン袋、防虫剤、坐机、うちわ、電気コタツ、カ取線香、花、用事を頼んだときの謝礼や費用(低医療政策の結果多くなる)、外出時の交通費等も必要不可欠といえよう。之に類して摘記出来ないものが数多くあることは容易に理解出来よう。補聴器等が他法によるとの理由で排除すべきでないことは別にのべたとおりである。
[132] 女性のパーマは少なくとも都市やその附近にあつては近隣の人と比べて非常に見劣りしない生活という点で不可欠のものであろう。パーマの不要というのは例えば男子に丸坊主になれということゝ同じ程度の苛酷さを持つている。女性のメンスバンド、シミーズ、髪油、腰ヒモ。
(5) 手術等のために特に必要となる費目
[133] 胸帯、傷ぶとん、肌じゆばん、丁字帯、腰巻、これも医療扶助との理由で排除すべきでない。
(6) 一時扶助の対象となつていると思われる費目及び之に類似の費目
[134] 之らのものが一時扶助によることなく、日用品費の中におりこまれるべきことについては後にのべる。
[135] 布団上下、及び修理代、寝巻(病衣)、毛布、敷布、枕カバー、丹前、肩かけ、股下、襟布等である。之らは決して耐用年数が長いことはない。特に結核の療養生活に際してそうである。
[136] 右のほか、軽症者外出時の洋服、ワイシヤツ、ネクタイ、靴下、靴など。和服の際の羽織、帯など。(以上、甲第27号証、同48号証、同150号証、同52号証及び結核患者各証人、児島、沢田、平尾、浅賀証人の証言参照。)

5 基準数量の不足について
[137] 原判決は14次改訂の基準に照らし尚パンツ2年に1着、チリ紙月1束不足するといゝ、更に日用品費の消費数量は、個人差や節約の程度、品物の品質、強度したがつてその単価に左右されるものであり、複雑多岐な要素に影響され、これらを切離して検討できないものであるところ、……証拠はかような要素を明らかにしていない。要するに改訂基準にかゝげられた数量ではかなりの窮屈を忍ばなければならないという程度に止まり……決定的に不足すべきことを認定すべき証拠としては……いずれもいまだ十分なものとはいゝがたい、と論じている。然し数量の点での資料として甲第27号証「長期入院者生活扶助要求額調査資料」、甲第48号証「入院生活費の面からみた国立岡山療養所入院患者の実態」、甲第150号証「生活保護法による日用品費の基準と私達の療養生活」、甲第52号証等があり、之らの資料と児島、沢田、瀬尾、佐藤市郎、中吉、小林、松本、江草、高津、横田、浅賀各証人の供述等を綜合すると、原判決認定にかゝるパンツ、チリ紙に限らず、肌着、葉書、封筒はもとより、大半はその数量に於ても不足していることを明らかにしている。尤も之らの品目の使用量には、個人により若干の差を生じているが、全体として不足を訴えている。
[138] 被上告人側申請の証人、町田武一は甲第27号証は、本件訴訟を目的として、幹部が1000円に合うよう適当に数字を書き入れた信用性のない調査であることを証言した。然し乍らこの事を証人に話した沼田某が都患の最高幹部の1人であつた事実はないし、沼田が入院していたのは昭和20年台の末から昭和30年までとすれば、同証人がいう裁判にかゝる(昭和32年8月12日付訴状)頃は、沼田はこの調査に関与する立場にはなかつたものである。因みに本件調査は昭和31年6月であり、この事は沢田証人の証言によつても明らかである。仮にこの調査が昭和32年8月にかゝる頃の調査だとすれば、殊更に31年6月にさかのぼらせる必要はなかつたし、又当時都患に於て本件不服申立が却下されたことを何らかの方法で知つたとしても、訴願の段階での争点はむしろ補食にあつたのだから、殊更裁判に勝つための調査であれば、むしろ補食の実体とその必要性についての調査をこそなすべきであつたと解せられる。
[139] そもそも日患が全国組織を有しているからといつて、岡山での事件が本訴を起すかどうかの段階で、未だ争点も明らかでない段階で、いきなり組織的な調査をするということの方が不自然である。よつてこの部分についての町田証言は信用がおけないばかりでなく、同証人の全体の信用性を疑わせるものである。
[140] 同じく草野証人も、日用品費関係、補食関係についてほゞ被上告人の主張に沿う証言をしているが、同証人の親戚のものが国立岡山療養所に勤務しているというような特殊な事情と、同証人の妻の職業を知り得た事情について極めて非常識な且つ前後矛盾した証言をしたことによつて象徴される如く、彼の証言も亦迎合的で信を措くに足りない。
[141] 以上の事実に照らせば、なるほど各証拠は、各個人の節約の程度や品質、単価等について逐一明確なデータを提供しているわけではないが、基準単価自体甚だ低廉であることのちにのべるとおりであり、尚全体としては数量の上で決定的に不足を生ずることを認定し得るものである。
[142] 仮に原判決の如く「かなりの窮屈を忍ばなければならない」としても、本件生活保護の基準は「必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なもの」でなければならないこと法の明記する(第8条)ところであり、又憲法第25条生活保護法の法意であるから、それはとりもなおさず、違法ということに帰するというべきである。原判決が可成りの不足(窮屈)では不当に止まり、決定的不足と断定する十分な証拠の存在を否定して違法の主張をしりぞけているのは、窮極において一見明白性の議論に逆戻りすることになり、明らかにあやまりである。

6 基準単価の不足について
[143] 原判決は、日用品費の単価は品質によつて異なるのに……その間の事情が具体的でなく、証拠のいずれを援用してよいかにわかにきめることができないし、その上単価は安くて、丈夫なものが手にはいる程度の最低の価格に、理髪や洗濯の場合は最も簡単にすませる最低の料金にそれぞれとゞめるべきところ、証拠にでている単価で別表所掲を上回るものが、いずれもかような最低の価格又は料金によるものであることを認めるべき証拠はないとのべている。
[144] 特殊な装飾をほどこした物や稀少価値をほこる一部のものを除き一般には安い品ほど品質が悪く、丈夫な品ほど良質で単価も高いものであること、原判決も認めるところである。理髪で最も簡単にすませる最低とは何を指すものであるか、丸坊主を意味するのか、同様に最も簡単な洗濯とは通常ノリツケやアイロンをかける場合でも之を省略する趣旨であるのか不明であるが、一般の場合にしろ入院患者の場合にしろ、他の者より更に簡単な、従つて安価な特に被保護患者用の理髪や洗濯などあり様筈がなく、又仮にそのようなものがあつたとすれば、それはとりもなおさず一般の場合より見劣りのする生活を意味するものであるから、健康で文化的な最低生活即ち人間に値する生活とは言えなくなると思料する。
[145] 品物を買う場合でも、基準単価で別表記載の耐用年数を表示したレツテルを貼つた商品など売つておらず、各人はとぼしい費用で物を買うのに、或は高価良質のものを求め、或は各種の事情で安価で粗悪品しか買えないときもあるであろうから、決定的に単価が低きに失する少額の日用品費しか支給されない被保護者であつても現実の購入状況は、その単価や耐用年数等はまちまちであつて容易に之を把握することはできない。然し別表所掲と同額又はそれより低額の価額があるといつても、それは散髪料に象徴されるように、正に最低、最悪の品であり、通常の物を入手しようとすれば、多くは基準単価では購入できない。以上のことは甲第15、16、19、27、48、49、50、51、52、58、73ノ1、78、91、151ノ1号証、証人児島、沢田、天達、平尾、市村、瀬尾、佐藤(市)、上田、中吉、高津、横田、野村、梅津、小林、江草、松本、寺坂、小野(範)の証言、朝日茂本人の供述第一審の検証の結果等によつて認められるところである。
[146] ところで、昭和30年の消費者物価指数を100とすれば、28年7月1日で95.4、32年4月1日で102.9で、この間約7.5%の物価の上昇をみているし、甲第19号証によれば、26年を100とし、28年は111.9、31年は118.4で6.5%である。7.5%或は6.5%は600円を基準にすれば45円或は39円の上昇である。
[147] 又甲第62号証に見られる如く、単価に巾があつても、基準単価の範囲内で買えば結局粗悪なものしか入手できず、衣類についていえばそれだけ痛みを増し消耗を早めることになり、又石鹸等も肌を弱めている患者にとつて悪いものは使用できないことを看過してはいけない。
[148] 尚甲第62号証と甲第49号証等を検討すれば(尤も49号証は640円に改訂後である)、購買部の単価が夫れ夫れ基準単価より僅かに上廻つていることが明らかとなる。
[149] 重症者の散髪の期間を延ばすとか、坊主にする議論については、その近隣者と著しく権衡を失するだけでなく、衛生上も共に好ましくないし、重症者の散髪の都度看護婦による洗髪は期待できないので、一般には勿論、国立岡山療養所に於ても60円ではすまないものである。(洗髪20円、出張代10円を含め90円となる)。
[150] 以上の次第であるから全体としてみれば、別表記載の単価ではその消費数量にたえる程度の品質のものを入手することができないものと認めうべきところ、原判決は前記「最低の価格」「最低の料金」なるものを具体的に明らかにしないまゝ、而も挙証責任を上告人に転嫁したか、或は生活保護法にいう最低生活水準を違法に低くみた誤りがあるといえる。

7 最低生活要求は全体として把握され充足されねばならない。
[151](1) 原判決は、(A)丹前、病衣、寝巻その他一時支給に属する品目については、実際には支給されることが殆どないと主張するけれどもそれは一時支給の取扱いという特別基準の運用上の問題であつて、一般的な日用品費の基準そのものを争う理由とはならない。(B)補食費は病院給食即ち治療の一環としての医療給付の問題であるから生活扶助(日用品費)としても、医療扶助の金銭給付としても考えられない(従つて補食のための器具や食器代も計上すべきでない)(C)クリーム、メンソレータム、手術や喀血の際に必要となる衣料その他は医療品として所側で準備すべきであり、作業療法や転換療法のための材料費も医療給付としてその要否を定むべきであり、(D)補聴器、その電池代や修理代は身体障害者福祉法第20条により交付又は支給されるもので……保護の限りではない。等々と述べている。
[152](2) 然し乍ら右のうち(D)については現実には予算がない等という理由で殆ど断られる状況であるので、現に生活に困窮し急迫した事由がある以上、必要な保護を行なうべきである(生活保護法第4条第3項)。(B)(C)についても同じ生活保護法体系の中にあり、(A)は日用品費と同様生活扶助の一時支給である。
[153] 之らの費用が入院入所患者の人間としての生活上必要不可欠なものであり、それが日用品費という名目で呼ばれるか、一時支給、或は医療扶助の金銭給付として処理されるかいずれであるにせよ、之に相応する金員が給付される(又は医療費一部負担患者にとつてはその分の控除を認める)ことによつて、患者としてその選択と責任において(必要な範囲で医師の指示に従い)それぞれの目的のために自由に使用しうる金額が患者の手元に存在することが重要なのであり、生活保護法や憲法第25条は生きた人間に対し、生活全体として人間らしい生活を保障するものであつて、之をバラバラに分解し、療養所や国が努力を怠つた場合に国民に対して、第一義的に「生活保護法の給付を保障せず国に対し不履行責任を追及させることを考えている」わけではないのである。
[154] この点原審判決は生きた全体としての人間的要求を把握しようとしていないばかりでなく、現物給付としてでなく金銭という形で給付され、又はその分の留保が認められるという一見方法論に属することが実は人間らしい生活、人間の尊厳を認めた生活の保障という実体論と緊密な関係を持つものであるという方法論の重要性を見誤つている。右は憲法第13条のすべて国民は個人として尊重されるという要請にも違反するものである。補食については他の部分にくわしいので之を援用し、一時支給について検討する。
(3) 一時支給(扶助)や貸与は被保護者の需要を殆ど満たしていないこと。
[155](A) 原判決(第二審判決)は丹前及び病衣又は寝巻等について
これを日用品費の一般的な基準に入れる要はないと判示し、その理由として
イ 右各品目は一部の範囲ではあるが貸与されていた例があること。
ロ 耐用年数において比較的長く且つその年数を的確に把握することがむずかしく、価格も比較的高価であるから真に必要なときに限り臨時の特別扱いを講ずるということもやむを得ないこと。
ハ 右各品目についてこれを一般的な基準に組み入れるかどうかは控訴人の決すべきところであること。
ニ 右各品目について一時支給されることが殆どないという被控訴人の主張は一時支給の取扱いという特別基準の運用上の問題で一般的な日用品費の基準そのものを争う理由とはならないこと。
等の諸点をあげている。
[156] しかし、証拠にもとづき事実を直視するときは、右判示は生活保護法第8条の解釈を誤るものと云わなければならないのである。
(B) 右各品目は現実にどれだけ支給されたか
イ 療養所等における貸与
[157] 原判決は右各品目が「貸与されていた例もある」ことをその理由にしているが、その貸与の状況は原判決も認めるとおり「一部の範囲」でありその「一部の範囲」も次にのべるとおり殆どないに等しい状態なのである。
[158] 即ち病衣(寝巻や防寒には不向)は3年に1枚位(朝日茂第二審供述)が貸与され、或いは夏物と冬物各1枚が貸与されたものの次々と補修して袖などが摩切れて袖なしになつても新品との交換がない(小林昭証言)という状態であり、療養所生活にとつて必需品である丹前は10年程前に傷夷軍人の外套と丹前のうち1つを選んで貸与されたことがあるが、物が悪く2年位で傷んでしまつた(小林昭証言)ような状態である。
[159] しかもこれらの数は少なく、昭和25年以降は一般には知られず(横田証人)むしろ貸与はなかつたという風に理解されていたのである。
[160] これらの貸与の実情は患者の最低の要求にも到底応じ得ないものであつたのである。
ロ 一時扶助の支給状況
[161] 一時扶助は、生活扶助を受けている者で自然消耗又は小災害により衣料寝具が使用に堪えなくなつたときで且つ真に支給を必要とする状態にある場合支給されるものであるが、制度上も必要な数だけ支給することになつておらず(甲第149号証)現実に衣料や寝具を必要とする状態の場合には尚更その必要な数だけ支給されてはいなかつた。
[162] 統計によれば昭和29年4月から34年11月までの約5年半の間、全国で衣料及び寝具の支給された総額は2,204件であつて、生活保護世帯16,000世帯に1件の割であり且つ全国で年間約400件である(甲第70号証)。都道府県毎で云えば年間平均10件弱である。
[163] 右の数字は衣料や寝具を必要とする者にすべて一時扶助があつたものではなく、現実にはいくら申請しても貰えなかつたり(児島証人)入院案内で夜具等一切持つてくるように指導したり(市村証人)一時扶助の制度のあることすら知らなかつたり(朝日茂第二審供述、高津、横田、小野範昭、小林昭各証人)申請の手続及びその実施の方法が複雑面倒であつたり(甲第149号青山証人)して支給をうけたくても受けられないでいた人が多いのである。
[164] 更に右衣料又は寝具の取扱いに要する経費については厚生省が予算の総額を定め指示した範囲内において経理するよう民生局より各福祉事務所長あて通知され、これによつて処理されているのである。(同右)
[165] 以上のような実情の中で患者は本来一時扶助の対象に組み入れられている寝具や寝巻等衣料品についてまで日用品費をさき、或いは何らかの補充方法(その中には死亡した同僚患者の遺品のせり市などを含む)を講じて買入れ取得してきたのである。(前掲各証人、本人)
(C) 臨時の特別扱いを講ずる合理的な根拠があるか
[166] 原判決は
「丹前等右各品目は耐用年数において比較的長く、且つその年数を的確に把握することがむずかしく、価格も比較的高価であるから真に必要なときに限り臨時の特別扱いを講ずるということもやむを得ない」
と判示している。
[167] しかし、これらの品は病人特に結核患者が使用する場合何れも消耗がはげしいばかりでなく肌着類その他のいわゆる日用品に比較してはるかに高価であつて之を自ら買い求めることは多大の犠牲を払わなければならず日用品費間の相互の流用などによつてこれを捻出することなどは到底不可能である。従つてこれらの品について臨時の特別扱いを講ずることもやむを得ないとか、これを一般の基準に組み入れるかどうかは被上告人の決すべきところであるというようなことは簡単には云えないのである。
[168] 更に前述のような予算の制約をつけること自体も違法であり許されないと解すべきなのである。
[169] 以上の如くみれば一時支給の制度は現実には少なくとも生活保護費ひきしめの作用をなしていると同時に被保護者の扶助費(日用品費)を益々不足する方向へと追いやるのである。
[170](4) 之を要するに一時支給その他を日用品費の問題ではないといつて排斥したことは生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条の解釈と運用を誤つたものである。

8 日用品費が決定的に不足することの実証、その一。
――日用品費不足の補充方法とその患者生活に与える影響。――

[171] すでにみたように基準費目、数量、単価が何れも現実の人間らしい生活の必要に及ぼず、従つて本件日用品費は決定的に不足するのであるが、右は被保護患者の日用品費補充の実態と、そのことが如何に患者生活を破壊しているかという面と、更には現実にはどの程度の支出をしているかの両面から検討する必要がある。
[172] 原判決は月600円という日用品費基準は当時としても「頗る低い」ことを認めながら、
「さらにこれを違法としてその法律上の効力を否定しなければならないことを裁判所が確信をもつて断定するためにはその資料は……なお十分でない」
とのみ判示し、右のような不足補充等の実体については全く目をつぶつている。
[173] のみならず、被保護患者の日用品費等支出の実態を、日用品費がどれほど必要かという資料とせず、原判決が認定した日用品費670円の違法性否定の材料、即ちこれが現実無視の架空の数字でないことの資料として比較している。その間違を論証するためにも日用品費不足補充の方法及びその影響を明らかにすべきである。
[174] 日用品費の不足を補うため、患者はあらゆる創意工夫と努力を傾けている。それは生きるためのやむを得ない最少限度の要求なのであるが、実は之が患者に対して好ましくない影響を与えている。
A 患者自らのアルバイト
[175] 最も一般的な方法であつて、ほゞ全体の8割程度の人がアルバイトをしていると考えられる(松本、江草証人)。一口にアルバイトと云つても、その態様は種々でありバライテイに富んでいる。体力を要するもの、要しないもの、専門的知識や技術を要するもの、特殊な立場にあつて可能なもの等いろいろである(町田、草野、檜尾証人らの関連証言は措信できない)。
(イ) 袋貼り、はがきの上書き(高津証人)。
(ロ) お使い、新聞やヤクルト配達(甲第16号証の1、2枚目児島証人)。
(ハ) 理髪、洗濯、裁縫等の身の廻りの世話、人形造り、レース編み(浅賀証人、甲第16号証の1、2枚目、檜尾証人)。
(ニ) 廃品回収(松本証人)。
(ホ) 味噌汁やうどんを作つて売る(児島証人)。
(ヘ) 庭に大豆等をまいてうる。つつたフナや、残飯を鶏にやつてお金や現物(卵)を貰う(松本証人、朝日茂)。
(ト) 小鳥、豚、牛、山羊、羊等を飼育する(寺坂、浅賀、江草証人)。
(チ) 蒲団がズリ落ちないような工作、書見器、電気ゴタツの製作、時計、ラジオの修理等(江草、浅賀、檜尾証人)。
(リ) 貸ラジオの管理(朝日茂本人)。
(ヌ) サークル(例えば書道)の指導や、木工、竹細工等工芸品や盆栽等の製作売却(瀬尾、松本、浅賀証人)。
(ル) 雑誌等に俳句、短歌、詩その他の投稿、クイズの応募等による懸賞(小林、村山、松本証人)。
(ヲ) 自治会役員手当(中吉、浅賀証人)。
[176] 之らは現実に行なわれているアルバイトのうちのほんの例示にすぎない。
[177] 右のうち前半はどちらかと云えば一般的なもの、後半は専門的なものと云えようが、重症者と雖も長期に入院していることによつて病院内の土地や耕作物の耕作権(?)や利用権(?)を取得し、軽症者に小作させ、或は軽症者を使用してアルバイトをし、収入の道を得ているようである。
[178] 日用品費をつかい果し、洗濯代が出せずに、重症者が自ら洗濯する(甲第142号証)のもアルバイトの一種とも云えるであろう。
[179] 右のアルバイトの中で、治療の積極面に目を向けた、いわゆる転換療法や作業療法の結果として「物」が製作せられ、換金されるという極めて例外的なものを除いては、精神的、肉体的重荷は療養に影響なしとは云えない(甲第16号証)ことは明らかである。
B 見舞金、援助、借金等
[180] これらも一般的な資金源である。
(イ) 知人からの見舞金や援助、病棟カンパ、借金、友人の使い古した衣類等を時々貰う(児島、佐藤市郎証人、朝日茂)。
(ロ) 社会福祉協議会、社会事業団等などからの見舞金(村山、小野範昭、寺坂証人)。
(ハ) 自治会からの借金(中吉、小野範昭、高津証人)。
[181] 知人からの見舞金や援助も長期の療養生活であつてみれば、当初のうちはともかく次第に疎遠になつてくる(村山証言)。勢い、見舞に来た人に無理に借金を申込んだり、病状をかえりみず外出して金策に奔走したり、わざわざ近親者の近くに転院するなど、無理な方法をとらざるを得ない(佐藤市郎、寺坂証人)。(尚この項、甲第16号証の1、2枚目、甲第52号証2枚目)
C 物(土地、衣料品)の処分。
[182] 不動産や動産等もその所有の程度や利用の状況等によつては、之を売却処分しなくとも生活保護法による扶助を受けることができる。それは最少限度生活に必要なもの、体面を保つために必要なもの、自力助長のために保存しておく必要なもの等々を残しておかねばならないからである。然し乍ら、之等のものすら秘かに処分し金にしなければならなくなる(小野範昭、村山、児島証人、朝日茂、甲第2号証)。
D 入院料(自費負担)や生活保護一部負担金の滞納や、出身世帯の犠牲(村山、児島証人、甲第142号証)。
E 軽費(無料)制度。
[183] 「国立療養所入所費等取扱」で入院料の全部又は一部の負担能力がないであろうと判断された場合、市町村長の証明があると所長の裁量により、その範囲内で入院料は免除又は減額される(今村、児島証人)。
[184] 尤も医療扶助の一部負担金を支払つている場合、被上告人はその者に対して軽費制度を適用することは違法である旨主張している(後述)。(田中英夫証人)。
[185] 日用品費不足を補うために、患者が右のように多くはやむを得ず本来の療養生活を何らかの意味で犠牲にして来た。
[186] 一般的に云えば、そのことのために患者は精神的安定を欠き、落着いて療養ができない(寺坂証人)ばかりでなく、A及びBに於て既に述べたような不都合が生ずる。更にCでみる如く、本来自立助長のために温存しておくべき物までも処分し果さねばならない。
[187] 然しその中でも特に留意しなければならないのは、日用品費を補わんがための次に述べるような決定的な人間性の破壊である。
[188]その一、さらに不足する日用品を売つて補食費に充て、(年末支給の寝巻を売つて手術前の補食に充てた例、村山証人)給食についてくるものを売つて日用品費に充てることである。後者につき特に佐藤市郎証人の証言要旨を引用する。
 それですから給食についてくる牛肉とか卵などを売つて、金がいるような時にはそれで苦面しております。……以前はパンを取つたらパターがついていましたからね。バターとリンゴがついていたので、それを売つたのです。……食べたいんですけど是非金がいる時にはそれ以外に金の捻出方法がないですから。
[189] 右は正にタコが自らの足を食つているに等しく、このような状態でエンゲル係数をとれば逆現象を起す。
[190]その二、所謂「ガラクタ市」についてゞある。
[191] 患者が、結核で死んだ療友の遺品を貰い受けて着ている(瀬尾、佐藤市郎証人)とか、亡くなる前から衣料品を譲り受けることについて約束して歩く(浅賀証人)ということだけでさえ、健康人にとつては異様な感じを受けるのに、「臨終に近い患者ができると、生前からあの人は何を持つていた、あれがでたら何とかしてほしいということで、市の日には殺到する」(高津証人)ばかりでなく、時には同じ病棟内で奪い合いでけんかになるというようなことまで起る(浅賀証人)のである。
[192]その三、日用品費不足を補うため、薬を盗んで横流しをするとか、
女の患者なら売春をするということも過去にあつた(浅賀証人)
ということである。このような人達の意思の弱さを一概に責めることはできないのではなかろうか。何故なら所謂隠田もなく、アルバイトも出来ない、即ち通常の方法では全く収入の道を断たれた患者は、屡々官給の日用品費以上の金が入るか否かで、生と死を左右する決定的岐路に立たされる(佐藤市郎証人)。
[193] 彼らが坐して死を待てば、それは「生活保護患者は死亡率が高い」(甲第17号証の12、同号証の15)の統計資料を提供して亡き数に入り、(尚家族からの遺棄と生活扶助却下決定とで死亡の例、村山証人)之を待てない人は自らの命を断ち、或は精神異常への途を辿るであろう。
[194] 即ち被保護患者は専ら日用品費が著しく少なすぎるので自衛上之を補足するために、時には身の危険もかえりみずにアルバイト等して、その結果は医療を含めて患者生活を破壊しつゝある。然しこの収入がなければ、もつと急速に生活が破壊される。国が生活保護法上の責務の不履行をしているからといつて損害賠償を請求するなど凡そナンセンスであり、そのようなことでは国民の人間に値する生活は回復できない。否本件訴訟こそ、実質的に生活保護法上の国側の責務の履行を請求する訴訟なのである。

9 日用品費が決定的に不足することの実証、その二。
――日用品費支出の実態と「現実無視の架空な数字でない」ことの批判――

[195](1) 原判決は
「マーケツト・バスケツト方式には個々の費目につき合理的に算定できるという長所がある反面、前示のように非現実的に流れ易いという短所もある。ことに社会生活を営む限り、一見不合理な無駄とも思われる生活様式があつて、これから全く離れることはむずかしく、これに伴う支出を理論的に積み上げることも容易ではない」。
といつている。
[196] 右の論旨は正当である。即ち、マーケツト・バスケツト方式はそれが如何に精密に積み上げられたものにせよ、現実の社会生活を営む以上、合理的に積み上げのできない、而もそれが日常生活にとつて必要不可欠なアルフアがあるのである。このアルフアはマーケツトバスケツトの積上げ方式によつては算出できない。強いて右の方式によるとすれば、現実に要した生活費の中から、最低生活に不必要と思われるものをマーケツト・バスケツト方式によつて削減して行く方法である。そうした方法をとらないとすれば、マーケツト・バスケツト方式で理論的に生計費を算出したものに、更に実態生計費との対比に於いて、一見不合理と見える無駄(実は合理的な必要生計費アルフア)をプラスしなければ、右の生計費は現実無視の架空な基準として違法のそしりを免れないであろう。
[197] 原判決の論旨も右の如く発展すべきであつた。
[198] 而るに原判決は
「したがつて内訳たる個々の費目、数量、単価を理論的に検討した結果、違法でないとされた基準でも、その総額において、実態生計費からあまりにもかけ離れるときは、現実を無視した架空な基準として違法になる場合も起りうる」
というのである。
[199] 右の論旨の表現を変えれば、(イ)あまりにもかけ離れるときでも違法でない場合もある。(ロ)あまりに至らない相当程度にかけ離れるときは違法でないということになるであろう。この関係を図示すれば次のようになると思う。(図略)
[200] 論旨極めて不明確であるが上告人において彼此考え合わせれば次のようなことを云つているのではなかろうか。即ち実態生計費の中には「文字通り不合理な無駄(丙)」の存在を予定し(このことは原判決の文言上明らかでないが、後に「若干のむだをも含めたやむをえない最低限度の支出にとゞまるわけでなく」といつていることからほゞ推察しうる)、(イ)甲〔マ・バ方式により積み上げた理論生計費〕と甲乙〔一見不合理な無駄〕丙〔甲乙丙の合計が実態生計費〕との差があまりにもかけ離れるときは乙を無視したということで違法になる場合もあるが違法にならないこともあるし、(ロ)右甲と甲乙丙との差があまりにもではなく、相当程度かけ離れている丈ではその差は殆ど丙であるから違法ではないというにあると思う。
[201](2) 而るところ原判決は
純粋の日用品費に関するもので月額1,000円を超えるものは僅かに1つあるにすぎず、要求額希望額ですら丹前、病衣を含み月額1,000円であり、現実に支出した額は、実収入によつて決定的な影響を受けるもので、若干のむだをも含めたやむを得ない最低限度の支出にとゞまるわけではなく、また要求額、希望額というのは主観的要素に左右される傾向がある。
 このように考えてくると実態調査の結果や要求額、希望額が右の程度であることは、本件日用品費の基準600円(月額)が低いことを示すものではあつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分でないといわなければならない。
と判示する。
[202] 然しそもそもこの点に関する原判決の論旨の出発は、社会生活を営む限り一見不合理な無駄と思われるが、離れることのできない、而もマ・バ方式では積上げ困難なアルフア(乙)の探究、考慮の如くであつたのに、途中で議論がすりかわり、結論は甲乙丙の合計が1,000円程度であるということは、600円(甲)が低いことを示すものではあつても、この中には実質上の無駄な支出(丙)や之に対応する主観が入つているのであるから、600円が現実無視の架空な額を掲げた違法なものだと断定できないとなつてしまつた。乙は何時の間にか消えてしまつている。若し原判決がいうが如くの結論を導き出すのであれば、まず前提としての実態調査の結果や要求額等のうち、乙に関する部分、丙に関する部分を明らかにしなければならない。そして乙に関する部分が零であり、600円を超える部分はすべて丙であることを認定しなければならない。何故なら乙の部分が仮に1円にせよ、それが現実の社会生活を営む以上はなれることの出来ないものであれば、之を積上げなければならないこと、当然であるからである。尤もこの部分が1割位であれば、その程度では頗る低額ではあるが未だ違法とは云えないと論じ去つたかも知れない。然し乍ら1割5分、2割、3割或はそれ以上であるかも知れないのである。
[203] 以上の点についての判断を何ら示しておらず、くいちがつていることは理由不備、理由齟齬のそしりを免れない。
[204](3) 原判決が現に支出した額は、実収入によつて決定的な影響をうけるもので無駄な支出を含めて1,000円程度であるのは600円は低いが現実無視ではない、何故なら、余分な収入があるから無駄な支出(丙)があつたというのである。然し実際は逆であつて被保護者は600円という決定的に低い金員しかなく、この中から若干は補食にさき、残金をそれ以外の生活必需品(場合によつては原判決にいう一時支給や医療扶助に属するものまでも含めて)を購入する必要にあてなければならないのである。従つて全く余分の収入がなければ基準費目等の購入に回される金額は益々少なくなる。それでは生きていけないからすでに述べたように、無理をして収入の道を考えて、之を日用品費等にあてるのである。然しその余分の収入も、勿論個々人にとつて差があるが、全体として極めて不十分であり、結局全体として尚人間らしい生活を営むものではないのである。然るに原判決は一方に於て月600円という極めて低額の日用品費しか給付せず、且つ給食その他の医療給付、一時支給等も劣悪な条件下におき、被保護患者に枠をはめて、人間らしい生活ができないようにしておき乍ら、之を無視し、他方之ら実態調査の対象になつた被保護患者が恰も人間らしい生活をはるかに上回る生活を現にしている(又はしようとして要求している)ということを前提とし、而も尚その日用品費として支出した額が現に1,000円そこそこしかないという点をとらえて、基準額600円の違法性を否定した。正に被上告人の違法な処分の結果を理由に、その違法な処分の違法性否定の根拠としたものというべきである。
[205] このことはさきに述べた一般生活扶助基準額が人間らしい生活を営む上で著しく低いこと、本件日用品費が同じく著しく低いこと、原判決がいう明らかに日用品費のみ支出が1,000円を超えたという甲151号証が昭和36年6、7月に於て可能であつた(この当時の日用品費は昭和36年4月の第17次改定により1,035円となつていた)こと、物価の上昇は僅かであるにかゝわらず、昭和32年3月以前600円であつた日用品費が同32年4月に640円となつたのを振り出しに705円、1,035円、1,090円(36年10月)、1,285円(37年4月)、1,575円(昭38・厚生省告示158号)と、当時のに比べて2.6倍強の上昇率を示している(現在の額が充分であるというのではない)こと等からも容易にうかゞえよう。これらの点に関する原判決の論旨は現実無視の架空なものというにはゞからない。
[206](4) 原判決は実態調査や希望額、要求額を、日用品費算出の資料(その中でも特に乙の判断のための)とせず、之を600円が現実無視の架空な額でないことの資料としたことは採証の原則を誤つたものである。その理由については既に述べた。
[207] 原判決が掲げている甲号各証の調査によつても日用品費の支出額は平均して、738円(甲第15号証)、500円乃至900円、希望額900円乃至1,000円(甲第16号証)、887円(甲第17号証)、補食を含めて1,729円又は2,046円(甲第31号証)、1,330円(生保患者)と、2,500円(社保患者)(甲第60号証)、但し原判決は補食費を含めてといつているが、含まれていないことは証拠上明らかである(昭和34年6月調査)、1,281円乃至2,657円(甲第68号証の8但し補食の有無不明)、1,274円乃至2,019円(甲第68号証の9同前)、796円乃至1,989円(甲第151号証)であり、このほかに、他に判決の引用しなかつたものとして、2,188円、1,068円、2,265円(甲第58号証、小野超三個人の支出小遺帳より補食費を除外、31年6月より8月までの分)、1,350円(補食費749円を含む)乃至2,078円(補食費1,133円を含む)(何れも甲第74号証の2昭和36年4月調査)、等がある。
[208] 右の支出が前に述べたように日用品費が著しく少ないため、やむを得ずアルバイト等をしながらも支出されたものであることを考えるとき、マ・バ方式で算出された600円或は原判決のいう670円という数字そのものが、如何に本来あるべき努力を傾けて算出されたものでないか、且つ一見むだと思われるアルフア(乙)が考慮されていない、現実無視のものであるか、を知ることができよう。
[209] 原判決は、甲第27号証の要求額の中に丹前、病衣という費用を含んで月額1,000円であるというが、判決別表によつて丹前と病衣の月額合計275円を差引くと875円である。これと600円との差275円のどれが無駄(丙)であるというのであろうか。更に右の要求額自体マ・バ方式に拠つているのであるから、本来は一見無駄と思われる費用(乙)を加えなければならない筈である。
[210] 右の要求額は当時の劣悪な社会保障行政の実情に稽み、現実に要求を実現させるという配慮から、調査に際し、文化的要素を削り、ほゞ基準費目に焦点をおき、それらについての要望をまとめたとの感を禁じ得ないのである。
[211] かく考えると、原判決は之ら調査や要求額を日用品費の基準を算定する資料そのものとせず、現実無視の架空な額でないことの比較の資料としたことは採証の原則を誤り、且つ、健康で文化的な最低生活の基準の解釈、運用を誤つたものというべきである。

10 本件日用品費、1割程度の不足及び決定的不足や現実無視の架空な額でないことゝ違法性
[212](A) 原判決は、日用品費はマ・バ方式により算出すると月額670円程度になり、600円はこれを約1割程度下回ることになる。しかし節約や相互流用の余地が皆無なわけでなく、670円というのも1円でも下回ることを許さない趣旨ではなく、その上改訂直前であるからその程度はやむを得ないところであるという。然し1割程度(実は670円のうち70円)不足すると、原判決別表のうち月額10円未満のもの全部併せても60円15銭であるから、マーケツト・バスケツト方式で基準額を算出する際に縫糸、手拭(タオル)、縫針、湯呑、歯磨粉、歯ブラシ、クシ、安全カミソリ、封筒、鉛筆、インク、その他雑費と約10円のもの1品目が除外されたと同じことになる。それでも尚生活保護法第8条や憲法第25条にいう、最低限度の生活の需要を満たすに十分なものと云えるのであろうか。
[213] 右のほかにも、原判決は基準費目については、上告人の主張を一時支給、医療扶助その他の問題としてバラバラに分解して上、生活保護の保障する水準はそれ程高くないとし、基準数量について、かなりの窮屈をしのばなければならないが、決定的に不足することを認定すべき証拠としては、いまだ十分なものではないといゝ、単価につき、別表記載の単価ではその消費数量にたえる程度の品質のものを入手することができないことを認めるべき証拠としては、いずれも十分でないといゝ、1割程度の不足では確定的に違法と断定することは早計であるとなし、600円は実態調査に照らし、現実無視の架空な額を掲げた違法なものと断定する資料としては、十分でないとのべている。然し乍ら論旨のとおりとして品目、数量、単価についてそれぞれの不足が個々的には決定的なものではないとしても、それが2乗、3乗されて、結論的にはその不足は最早決定的不足に達するものといわねばならない。
[214] そもそも日用品費がいささかでも不足すれば(1円かどうかは別として)それは法の要請する需要を満たすに十分でない結果違法となるものであり、本件基準の設定が法規裁量である以上かなり又は頗る低額である必要はなく(頗るは著しくと同意義と考えられ自由裁量行為でも著しく不当であれば違法となる)、況んや、統治行為に関して違憲違法の審査の有無を論ずる場合の一見明白性と同意義と解せられる現実無視の架空な額ということが認められなければ違法といえないという筈はないのである。原判決は、基準設定の処分を目して、法規裁量といゝ乍ら、実は統治行為まで被上告人の裁量の余地を広げ、司法権の審査の範囲をせばめたのである。之を別な角度からいえば、原判決はそれ自身、実質において一見明白性の議論を持ち出さなければ違法を否定し得ないほど本件日用品費が著しく低額であることを認めたということも云えるのではなかろうか。
[215] 叙上の如くであつて、原判決は結局は実質的には生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条の日常生活の需要の上で健康で文化的な最低生活を満たす適法なものと前提しているところ、右にのべたところからすれば、明らかに最低水準を割り、前記条項の法意を誤つて解釈運用したそしりを免れず、又一般生活扶助基準額を適法なものとの前提に立ち判決をしていながら、右一般生活扶助基準額の適法性の検討を省いたのは理由不備、理由齟齬の違法の誤りを犯し、又要求額を含め、実態調査の資料を現実無視の架空の額との比較となして日用品費そのものを決定する資料としなかつたのは、採証の原則を誤つたものであり、右は何れも判決に影響を及ぼすこと明らかな重大な違法というべきである。
[216] 原判決は、本件日用品費基準額の内訳は主として中軽症患者の需要を考えて構成されていること及び重症患者の需要が必ずしも中軽症患者の需要と一致しないことを認めながらも費目間の相互流用の可能性を理由にして両者の日用品費必要額の違いはまずないことを認め得るという。
[217] しかしながら原判決は右相互流用の可能性について両者の需要の差異を証拠に基づいて詳細に比較検討し、具体的に如何なる費目間の流用が如何なる限度で可能なのか明らかにしていないのみならず、両者における日用品費必要額に差異はないと認定するためには決定的意味を有するところの流用可能金額を示さず、従つてその計数上の根拠が明らかでない。
[218] 以下に述べるとおり原判決は違法に事実を確定したものであるが、更に右の点で判決の理由としては極めて不十分、不明瞭なものである。
[219] 便宜上原判決該当部分を引用すると
「そこでまず重症の要保護患者一般についてかような特別基準を設定する必要があるかどうかを考える。本件日用品費の基準額の内訳はその掲げた費目数量に徴しても主として中軽症患者の需要を考えて構成されているものというべきところ、重症患者の需要は必ずしも中軽症患者の需要と一致しない。ことに……重症患者は中軽症患者に比べ発汗が多いため衣類の着換えを余分に必要とし、痰も多く血痰の出ることもあつてチリ紙の消費量も大きく、従つてこれら費目に関する限り右内訳表所掲の数量では足りないことを認めることができる。しかしながら重症患者は、安静を旨とし終日臥床し又は床上で生活し、歩行も運動も控えなければならないから、右内訳表中足袋、下駄、ぞうりの類の消耗はほとんどなく、石けんの消費も小量で、その他の費目においても中軽症患者より少なくてすむものがあり、これらの支出に予定された額は他に流用できるわけである。右流用できる余裕をもつてしてもなお重症患者の衣類及びチリ紙の不足その他の特殊の需要を補うことができなければ重症患者についての特別基準設定の必要性も考えられるところ、当審証人江草昌の証言中には重症患者は軽症患者よりも多くの費用を必要とする旨の部分があるけれども、右はその内訳が明らかでないのみならず、当審証人小野範昭の証言の一部に照らしても直ちに採用することができず、ほかには右流用できる余裕をもつてしてもなお重症患者の特殊の需要を補い得ないことを認めるべき証拠はない。かえつて右証人小野の証言の一部によれば重症患者と軽症患者を比較して日用品費の必要額のちがいはまずないことを認めることができる。」
[220] ここで原判決のいう本件日用品費の基準額の内訳とは、昭和28年第13次改訂基準による月額600円のものを指すのか、そうではなくて昭和32年第14次改訂基準の月額640円の内訳表を指すのか明らかでない。前記のとおり原判決は前者についてその適法か否かを判断すべきところ、殊更にこれを後者にすり替えるという偽瞞的行為をなしている部分があるが、当面問題として取りあげなければならないのは言うまでもなく前者であるからその内訳についても当然前者の内訳表について検討すべきである。
[221] 上告人が再三述べたとおり、本件日用品費基準は重症患者のみならず中軽症患者についてもひとしく違法たるを免れないのであるが、その点を一応考慮の外に置き、中軽症患者600円の前提の下に重症患者との需要の差異を比較してみると、原判決が重症患者について不足を認めている衣類・チリ紙は右内訳表によれば足袋を除いて衣類月額90円40銭、チリ紙月額20円計110円40銭であり、一方原判決が重症患者について消耗ほとんどなしとする足袋・下駄・ぞうりは月額合計39円99銭である。
[222] 従つて重症患者について足袋・下駄・ぞうりの損耗は全然なく、衣類・チリ紙は右内訳表記載の倍量を要するものと仮定すれば(実際には足袋・下駄・ぞうりの損耗も皆無ではなく、衣類・チリ紙は倍量以上を要する。)、重症患者は月額39円99銭の余裕によつて月額110円40銭の不足分に流用補充しなければならない計算になるのである。右の様なことは条理上不可能でありこれを強いることは明白に経験則に違反するのである。(チリ紙月2束を余分に消費すれば、それだけで衣類の不足を補う分はなくなる)。
[223] 次に、右の仮定は必ずしも合理性を有しない(その理由は前記の様なものであるが)との非難を考慮して、衣類の不足分を第14次改訂基準との差額分と仮定する(右差額分程度の不足は被上告人においても改訂の前提として認めるところであろうし、原判決も改訂前の基準は改訂基準と一致しない限度では本件当時不相当となつていたものと推認している。その際第14次改訂基準による内訳表中、第13次改訂基準に比して単価の低下する部分は、現実の価格変動に対応せず不当であるから単価については第13次改訂基準の内訳表によることとし、不足数量及び価額を算出すべきである。)
[224] 第14次改訂基準を第13次改訂基準に比較すると衣類に関しては肌着2年1着が冬シヤツ3年2着及び夏シヤツ2年2着に増えており、ズボン下又はシミーズ3年2着、敷布2年2着、枕カバー1年2枚が加えられている。
[225] そこでこの増加数量を月単位に換算すると(夏シヤツ、冬シヤツの区別は第13次改訂にはない区別であるからこれを肌着として処理する)、結局第13次改訂基準に比較して第14次改訂基準による増加分は、肌着72分の7枚、ズボン下又はシミーズ18分の1着、敷布12分の1着、枕カバー6分の1枚であり、その価額は肌着38円88銭、ズボン下又はシミーズ17円50銭、敷布25円、枕カバー16円67銭、合計98円5銭になる。
[226] 従つて少くともこれだけの分量及び費用が第13次改訂基準では不足していたというべきところ、第14次改訂は重症患者のみならず中軽症患者についても前基準の不足を前提としてなされたのであるから原判決認定のとおりに中軽症患者に比較してより多くの衣類を必要とした重症患者にあつては、右改訂後の数量価額との差額を上まわる不足分があつたといわなければならないのである。
[227] 不足額は右のとおりチリ紙を含めて前記月額110円40銭をとつても、又、右月額98円5銭にチリ紙月1束20円(両基準に差異はないが、チリ紙月1束の不足は原判決が認めているところ)の価額を加えた118円5銭をとつても、いずれにしても重症患者において損耗なしと仮定した足袋・下駄・ぞうりの支出予定額39円99銭をもつて補い得るものではない。(この際、右改訂基準によつて減少した部分もあるが、右減少は不要を理由とする減少とはなし得ないから判断の対象におくべきである。)
[228] 従つて原判決のいう流用による不足補充の可能性は現実に存在しないのであり、重症患者については特別基準が設定されなければならなかつたことが明白である。
[229] もつとも、右第二の仮定もなお客観的根拠に乏しいとの非難も予想され得るところではあるが、前記のとおり一応の根拠を挙げ得るのみならず、問題の主要な原因は原判決が不足数量金額についてなんら具体的なものを明示することなく極めて抽象的に若干の費目を挙げることによつて重軽症患者所要日用品費比較として能事終れりとしている点にある。本件審理に照らし、重症患者につき特別基準の必要性が明らかであるが、少くとも重症患者と中軽症患者に日用品費必要額のちがいはなく、故に重症患者について特別基準設定の必要なしと判断するからには原判決は右両者について個々の費目ごとに精密に必要数量、必要金額を認定比較した上でその総額について差異のないことを明らかにすべきであつたのに、この点に関して十分審理を尽さなかつた点に帰責されなければならないのである。
[230] なお原判決は重症患者の中軽症患者よりも所要経費の小額で足りるものとして石けんの消費が小量であることをあげ、またその他の費目においても中軽症患者よりも少なくてすむものがあるとして流用可能の理由の一部としている。しかしながらこゝでも同様に石けんの消費が重症患者の場合中軽症患者に比較して何が故にどの程度小量であるか明らかにしていないばかりか、その他の費目とは具体的に何を指すのか特定していないのである。
[231] 以上の様に原判決はその判文自体の中に一見明白な審理不尽を示しているのみならず「衣類の着換え及びチリ紙に関する限り」内訳表所掲数量では不足するとの第一段の認定が既に採証法則を無視し自由心証主義を悪用した恣意的認定であると言わざるを得ない。
[232] 即ち証拠は重症患者が軽症患者よりも多く必要とする日用品は原判決認定の着換え用衣類及びチリ紙に限られず、他にも右の如き品目の存することを示している。
[233] 理髪の際の病室出張代(証人中吉昭)、洗濯代・通信費(証人高津益治)汗を拭いてもらうお礼(上告人本人第二審)等がいずれも重症患者にとつて中軽症患者以上の経費を必要とすることが認められるのである。補食費については多言を要せず、他に述べるのでここでは触れないが、重症患者に特に欠くべからざる補食費を除いても、重症患者が中軽症患者より多く必要とする日用品には右の如きものが数えられ、その総額については原判決認定のとおり証人江草昌が重症患者は軽症患者より多額の日用品費(補食費を含む)を必要とする旨供述しているのである。ところが原判決は右証言を採用し得ずとして小野範昭の証言をあげる。小野の右証言は「重症患者と軽症患者と比較して日用品費の差異はありますか」との問いに対して「まあないようです」と答え、一旦差異の存在を否定したものの、その否定の仕方自体決して確定的なものでなく、更に続けて「同じですか」との問いに対しては「同じとはいえませんが」と答えて差異の存在を肯定するに至つているのである。この際証人小野の右供述は日用品費の差異の存在を否定するものとしてでなく、証人江草の供述による差異の存在の立証をさらに固めるものとしての意味を有することはその証言内容から明らかであり、小野の証言をもつて江草証言の信用性を否定する証拠とすることは常識に反した不合理な事実認定として経験則違反の謗りを免れ得ない。
[234] 病状の程度を問わず本件保護基準が余りにも低きに失し、生活保護法の予定する水準に達していない違法基準であることは既述のとおりであるが、特に長期重症の要保護患者就中上告人にとつては、仮に右基準が軽症患者にとつて適法なりと仮定しても右一般保護基準によつてはまかなえない特別の事情があつたのであるから、特別基準を設定すべきであつたのに原審判決は右特別事情について審理を尽さず、かつ証拠無視、経験法則違反の事実認定を行ない、ひいては特別基準設定に関し生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条の解釈適用を誤つた本件保護変更決定を維持した違憲違法がある。右が原判決の主文に影響を及ぼしたことは明らかであるから原判決は破棄されなければならない。
[235] 原判決には上告人に関する限り特別基準を設けるべき特別事情について審理を尽さず事実を確定した違法及び生活保護法及び憲法の解釈適用を誤つた違憲法並びに理由齟齬の違法がある。
[236] 原判決は、上告人に関し特別基準を設けないでなされた本件保護変更決定を適法とする理由として、
(一) 上告人が昭和31年8月当時まず寝巻に不自由していたところ病衣の貸与を受けていたのであり、それが多少厚地ではあつても寝床の上で着用できないものであることは証拠上認められずそのほかに寝巻まで考慮しなければならないほど生活保護法の保障する生活水準は高度のものではないこと。
(二) 本件保護変更決定に対する不服申立を却下した知事の決定に対する不服の事由として重症に陥つているため嗜好品的栄養の補食費として月400円(内訳、果物甘味料200円、卵10個110円、バター4分の1ポンド90円)を日用品費の追加として認めて貰いたい旨もつぱら主張し日用品費自体については格別不足を訴えていなかつたこと。
(三) 昭和30年6月から昭和33年5月までの3年間にとくに臨時的・例外的な日用品費支出の見るべきものがなかつたこと。
(四) 療養所の側で療養費軽費の措置をとつた。
(五) 臨時収入があつたため上告人の実際の支出額が1000円をこえていたことを考慮に入れても昭和31年8月当時上告人のため日用品費の特別の基準を設定しなければならないような個人的な特別の事情を認めることはできないとする。
[237] 第一に寝巻の点について原判決がその不自由を認めながらも生活保護法によつて寝巻を考慮する要なしとした理由は、結局病衣が寝床の上で着用できないものであることは「証拠上認められない」というのであり、この考え方を突きつめれば如何に着用困難であつても着用不可能でない限り寝巻を考慮する必要は否定されてしまうのである。重症患者が病衣のみ貸与され、寝巻を貸与又は購入等の方法によつて入手し得ない場合、その病衣を寝巻として着用せざるを得ないことは自明の理であり、肌着のみを着用して臥床するのと、着用困難ではあつても病衣着用の上臥床するのと何れかを選択しなければならない状況にあつて、肌着着用のみの臥床を選択することは常識上考えられないところである。従つて寝巻として如何に不適当であつても寝巻として使用すべく病衣が貸与された場合には、患者に対し寝巻としての着用を強制することに外ならず、その結果必然的に寝床の上で着用できないとは「証拠上認められない」から、仮に必ずしも寝巻として適していなくともその外に寝巻を考慮することは不要だという結論に到達するわけである。
[238] これを更に徹底するならば病床上何らかの衣類を着用している限り、即ち裸体でない限り寝巻を考慮する要はないとの結論にまで至るべき人間性無視の思想であると言わざるを得ない。
[239] しかも原判決は寝床の上で着用困難ではあつても着用不能とは証拠上認められないような病衣の貸与がなされている限り、そのほかに寝巻まで考慮しなければならない程生活保護法の保障する生活水準は高度のものではないという。換言すれば病衣の外に寝巻を保障される生活水準は生活保護法の保障する生活水準よりも高度のものであるというのである。
[240] ところで厚生大臣の定めるべき保護基準は「最低限度の生活の需要を満たす十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない」(生活保護法第8条第2項)。原判決が病衣の外に寝巻を保障される生活水準は生活保護法の予定する水準より高度だという趣旨は、当然、寝巻を考慮することによつて保護基準が右法条の規定する最低限度の限界をこえるということを意味するのであろうが、果してそうとすれば原判決は寝巻の考慮は違法であるとの判断を下したことになるのである。原判決のいうところに従えば寝巻の考慮によつて「最低限度の生活の需要を満たすべきもの」との上限(同時に下限)をこえてしまうからである。
[241] しかしながら生活保護法によつて保障される最低限度の生活は「健康で文化的な生活水準を維持し得るもの」でなければならず(法第3条)、右法意が前に詳述した如きものである以上は病衣の外に寝巻を考慮することによつて右保護基準が法の規定する水準をこえ、ために違法視されなければならないということはあり得ない。右の如き考え方は生活保護法の精神と全く相容れないところである。法は病衣が寝巻として不適当の場合には、その外に寝巻をも保障すべき保護基準を強行的に要求しているのである。
[242] 原判決はこの点について生活保護法の解釈を誤り、ひいては上告人に関する特別基準設定の必要性についてその適用を誤つた違法がある。右違法は判決主文に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決は破棄を免れない。

[243] 第二に原判決は、上告人が本件保護変更決定に対する不服申立を却下した知事の決定に対する不服の事由として補食費としての日用品費追加のみを訴え日用品費については格別不足を訴えていなかつたという。
[244] 成程、原判決の指摘する乙第16号証(不服申立書)によれば補食費の不足のみを訴えているかのようにみえるが、上告人の日用品費不足を立証すべき証拠方法は右に限られることなく、上告人が「当時寝巻以外にも着換え用衣類をはじめ日用品一般にかなり窮屈を忍ばなければならなかつた」ことは他の証拠資料により原判決も認めているところである。ここに原判決理由中の矛盾即ち理由齟齬の違法が示されている。
[245] 行政訴訟の審理及び判断の範囲は不服申立の理由に拘束されず従つて原判決も右不服申立理由の枠を越えて日用品費不足も右乙第16号証は他の全証拠方法とひとしく日用品費の不足又は充足を立証すべき多数の資料中の1個として位置づけられるべきものである。しかるに原判決は右不服申立書の記載を不当に偏重し、右記載の真に意味するところを究明しようとせず、その証明力を減殺し反対事実を立証すべき証拠が上告人より提出せられているのを看過又は無視してしまつた。即ち右不服申立書に関し上告人本人は原審において次のように述べている(昭和37年10月17日現地公判)。
控訴人代理人(後に提出する乙第16号証を示す)
 その書面は記憶ありますか。
――はい。
 その書面はあなたのほうで申請なさつたわけですね。
――県の厚生課からこれをよこして私はいろいろ書きたいのですが枠をはめて余計なことを書いてはいけないというのです。
 ここに記載してある不服申立は嗜好品的な補食が必要で内訳は果物、甘味料200円、卵10個、バター4分の1ポンド合計400円位を日用品費のほうに使わしてくれというのですが、当時日用品費はいいが補食するのに足りないからということで申請したのですね。
――どちらも足りなかつたですね。
 この文面からいえば主に補食のほうを申請したのですね。
――両方とも必要でしたね。
[246] 右のような上告人本人尋問の結果から、本件不服申立は県の厚生課から申立書を受けとつたのであるが、上告人はいろいろ不服の理由を書くつもりでいたが、課員の方で枠をはめて余計なことを書いてはいけないという指導を行い、上告人は右の指導に従つたまでであることは明白であり、右不服申立書(乙第16号証)の記載を絶対視することの誤りも異論のあり得ないところといわねばならない。しかるに原判決は右上告人本人尋問の結果についてその採用し得ない理由を説明することもなく全く不問に附しているのであり、そして漫然と上告人が当時日用品費については格別不足を訴えていなかつたかの如き事実を認定するに至つたのである。右は明らかに原審がこの点に関し十分審理を尽さなかつたことを意味するものであり、右審理不尽の違法は判決主文に影響を及ぼすこと明らかであるからこの点でも原判決は破棄を免れない。

[247] 第三に原判決は、甲第52号証によれば昭和30年6月から昭和33年5月までの3年間に上告人についてとくに臨時的・例外的な日用品費の支出のみるべきものがなかつたことを挙げており、この限りでは原判決の認定は正当なものというべきであるが、しかしながら右事実を原判決中、上告人に関する特別基準設定の必要性を否定する理由とするときには判決理由の他の部分と矛盾して理由齟齬の違法を犯すことになるのである。
[248] 原判決において一見すると略々一貫しているかの如く思われる論理によれば
「寝具、病衣、寝巻、丹前、外套、毛布、包布等の品目は耐用年数において比較的長く且つその年数を適確に把握することが難かしく、価格も比較的高額であるから月々経常的に支出する一般基準には組み入れないで従前のものが使用に耐えなくなつたとか災害その他の理由で所持しない場合においてしかも病院又は療養所からも貸与を受けられないという真に必要なときに限り臨時の特別扱いを講ずるということも、基準という制度を設ける限り、その運営技術上やむを得ないところである。生活保護法第8条もかような措置を禁ずる趣旨ではなく、ただ、かような特別の事情のあるときでも必ず特別基準を設定し、これによつて保護の行なわれるべきことを要請するにとどまると解すべきである。基準というからには、あらゆる場合に対処できるような基準を定めることは事実上不可能であり、あの種の場合については、基準設定上の技術上の制約に基づき、又はそれが臨時的、例外的事例に属するという理由により、一般基準とは別の特別基準に譲るという弾力的な取扱いも許されるわけである。右に掲げた各品目についてもその需要の特殊性や価格の高いことに徴すると、これを一般的な基準に組み入れるかどうかは厚生大臣の決すべきところであつて、厚生大臣が右に掲げた品目については、その一時支給に関する特別基準を設けてこれによつて給付を行なつていることを認めることができるから、これらが一般的な日用品費の内訳の中に組み込まれていないという理由で本件日用品費の基準を争うことは当を得ない」
と述べ、右各費目欠如の違法を主張する上告人主張をしりぞけて、右の各品目は一時支給の取扱いという特別基準の運用上の問題としている。
[249] 原判決の右の如き論理及び原判決認定の如き実際の取扱に従うならば特別基準の設定が臨時的、例外的日用品費支出の前提条件に外ならず、決して臨時的、例外的な日用品費支出が一時支給に関する特別基準設定の前提条件とされるべきものではない。即ち、原判決の如く丹前、病衣、寝巻等の品目を臨時的・例外的支出として一時支給の対象とみて、一時支給の取扱という特別基準運用上の問題とする以上は、各患者について最初に右の如き品目についての真の必要性を判断し、その必要性ある場合には次に右患者について特別基準を設定し、最後に右品目(又はその代価)を一時支給するという順序にならなければならないのである。従つて右一時支給が現物給付の形で与えられるにせよ、金銭給付の形態をとるにせよ、支給の前に特別基準の設定がなされなければならない理である。従つて特別基準設定の後でなければ右品目に対する現実の日用品費支出、即ち原判決のいう「臨時的・例外的日用品費支出」の「見るべきもの」がないことは条理上当然である。
[250] 要するに、原判決の基本的な考え方を貫くならば特別基準の設定と臨時的・例外的日用品費支出の論理的前後関係、従つてまたこの場合は時間的前後関係も前者が先にあり後者が後でなければならないことは自明の理である。ところが原判決は、上告人に関する限り特別基準を設定すべき個人的特別事情の存在を否定することを目的として右に述べた如き基本的な考え方を一転させ、「臨時的・例外的な日用品費の支出に見るべきものがなかつたこと」を一理由として特別基準設定の必要性を否定し去つた。即ち、ここにおいて原判決は明らかに「臨時的・例外的日用品費支出」を特別基準設定の前提条件とする考え方に逆転しているのである。
[251] 一時支給に関する当時の実務処理上、前提たるべき特別基準の設定なしに「臨時的・例外的日用品費支出の見るべきもの」がないことは言うまでもなく、原判決理由中における右の如き前後撞着し、自己矛盾に満ちた論理は、この1点をとつても直ちに理由齟齬の違法あるものとして絶対に破棄を免れ得ない。
[252] 更に原判決には右の点に関連して次の如き理由齟齬の違法がある。
[253] 原判決摘示の甲第52号証によれば昭和30年6月より昭和33年5月までの3年間に上告人が支出した日用品費の内訳として(1)夜具類―蒲団補修代(5年間に1回仕立直す。月額60円33銭)(2)衣類―(イ)丹前補修代(3年間に1回仕立直す。月額13円33銭)(ロ)寝間着(夏・浴衣、3年間4枚、月額50円。冬・ネル、3年間2枚、月額38円89銭)が記載されている。
[254] 蒲団補修をとつてみた場合に5年間に1回仕立て直すということだが、5年間かかつて徐々に仕立直すのでないことはいうまでもなく、仕立て直すときは一時に仕立て直すことは常識の教えるところであり、丹前補修についても右の理に異なるところがなく、寝間着購入費の一時支出も異論のないところであろう。上告人は右の如き支出を臨時的・例外的日用品費支出と考えるものではないが、前に引用したとおり丹前・病衣・寝巻等を臨時的・例外的費目とする原判決理論によれば甲第52号証記載の各費目中右3項目は当然臨時的・例外的日用品費支出とされなければならない。
[255] 仮に5年間に1回仕立て直したとされる蒲団補修についてその時期を右3年間内かそれとも右3年間の以前であつたのか確定し得ないとすれば、原審はこの点明白な審理不尽の違法を犯したものというべく、丹前補修、寝間着についてはその支出が右3年間に(特に寝間着については6回にわたつて)行なわれていることは甲第52号証の記載自体から明白である。従つて原判決は「甲第52号証によれば右3年間に臨時的・例外的な日用品費支出の見るべきものがあつた」と認定をなさなければならなかつたのに、上告人に関する限り特別基準を設定すべき個人的特別事情の存在を否定することを目的として、ここにおいてその理論的一貫性を平然と放棄し、右蒲団補修代・丹前補修代・寝間着代を臨時的・例外的日用品費支出とせず、反対に「甲第52号証によれば右3年間にはとくに臨時的・例外的な日用品費の支出の見るべきものがなかつた」としている。この点においても原判決には理由齟齬の違法あること明白であるから破棄を免れ得ないのである。

[256] 第四に原判決は、上告人に関する限りの特別基準設定の必要性に関し、上告人の日用品費支出額につき軽費の措置を考慮に入れている点で理由齟齬の違法及び生活保護法の解釈を誤つた違法がある。
[257] 原判決も認めているとおり岡山療養所が軽費の措置をとつたのは本件保護変更決定後であり、従つて本件保護変更決定の適法・違法を判断する際には右軽費の措置が存在しない状態を基礎としなければならなかつたのであるが、原判決が右軽費措置による上告人の収支増を考慮に入れたことは本来判断の資料になり得ない事実を判断の資料に採用した違法があるといわなければならない。更にそれ以前の問題として、そもそも原判決指摘の如く右軽費措置が生活保護患者には適用できないものである限り、上告人が一時右措置の適用を受けたとしても常に打切り或は違法な支出として返還を求められるの危険にさらされることは論をまたず、かゝる不安定な収入源を恰も恒常的収入源であるかのように取り扱うことは許されないところであつて、保護基準の適否並びに特別基準設定の必要性を裏付ける個人的特別事情の判断に際しては右軽費措置のない状態をその判断の基礎としなければならない。違法ではあつても右軽費措置の適用を受けている間は特別基準設定の要なく、右措置の打切りと同時に特別基準設定の必要性を生ずるなどということは理論的混乱である。右措置を考慮に入れずに特別基準設定の必要性をまず判断すれば、必要ありとの結論に到達せざるを得ないのであるから、直ちに特別基準を設定し保護を行うことによつて患者の保護は充足され、違法な軽費措置を講ずるなどということはしないですむのであつて、これが筋道でなければならない。ところが原判決は右軽費措置の違法を論じつつその適用を考慮に入れて特別基準設定の必要性を排斥したことは矛盾と言わざるを得ないのであつて、理由齟齬の違法ありとして破棄を免れない。
[258] なお、右措置の打切りを想定するだけでも収入の減少著しく被保護患者の日用品費不足は極度化すると考えられるのに、その上違法適用なるが故に不当利得なりとして返還請求を受ける場合があり得るとすれば、現状でも著しい不足を生じている日用品費は収入減少、支出増加という二重の打撃を同時に受けて完全に上告人の生活が破壊され尽すことは見易い理である。原判決は軽費の措置(や臨時収入)があつたため当時上告人が平均月額1,000円をこす日用品費支出をなしていたにもかゝわらず「着換え用衣類をはじめ日用品費一般にかなり窮屈を忍ばなければならなかつた」ことを認定しつつ右軽費措置適用打切り又は返還請求の可能性については全く触れるところがない。軽費の取扱いは月額400円であり、右の取扱いを受けていた期間を含む3年間の日用品費支出は平均月額1,040円48銭になること原判決認定のとおりであるから右取扱いの打切りによる上告人の収入減は日用品費支出の上で1,040円48銭から640円48銭への減額(正確には補食費を含めて1,590円48銭から1,190円48銭)を余儀なくされるのであるが当初の金額が多額の場合とは異なり、もともと1,040円48銭の小額からさらに400円の減額を強行されることはその影響を受ける者にとつて大打撃である。既に給付を受けた分について返還請求を受けた場合にはその打撃は更に甚大なものになる。
[259] 現に上告人が軽費の取扱いを受けていた期間は極く短期間にとどまるのであつて、昭和31年8月にはじまつた右措置は同年12月までで打切られていることが証拠上窺われるのである(田中英夫証人、上告人本人第二審)。ところで、上告人は右軽費措置適用期間5ケ月を含む前記3年間、月平均1,040円48銭の日用品費支出が可能だつたのだから支出減も現実に軽費によつて得た2,000円を3年間に均分して月額55円55銭にとどまり左程の影響を受けないと解することは正しくない。元来余りの日用品費窮迫の故に人間としての同情を禁じ得ず軽費の扱いをとらずにいられなかつた(田中英夫証人)程の最低生活にあつては、月額55円55銭の減少といえども軽視し得ぬのみならず、かかる最低生活にあつては月々の軽費400円を翌月以降に繰越し使用することは不可能であり、従つて5ケ月間にわたつて給付を受けた軽費は各月にその全額を消費し尽され3年間に徐々に消費支出されたのではないから右軽費措置打切りの際一時に月400円の支出減を招かざるを得ないわけである。甲第52号証の記載はこれを否定する趣旨ではない。生活保護の基準は「違法な」軽費措置の適用なしに健康で文化的な生活水準を維持し得るものでなければならず、特別基準設定の必要性の有無は軽費措置を考慮外において判断されなければならなかつたのであり、軽費措置不存在の状態における上告人の日常生活は人間としての同情から違法をおして右措置が講じられたことに端的に示されている如き最低生活であつて、当時の保護基準は到底生活保護法の規定する「健康で文化的な生活水準を維持し得るもの」とは言い得ない違法基準だつたのであるから当然に特別基準設定の必要あるものであつた。原判決は「違法」として判断外におくべき軽費措置を適法であるかのように扱い判断の資料として矛盾をみせているほか、右措置を考慮に入れたことは生活保護法の解釈適用を誤つたものであり、特別基準を設定しないでなされた違法な本件保護変更決定を維持した違法があつて、右違法は判決の主文に影響を及ぼすこと明らかであるからこの点でも破棄を免れないのである。
[260] 上告人に関する特別基準設定の必要性と療養費軽費の措置とは本来2つの異なつた平面に属する問題として独立別個に考察されるべきものであり、この両者を関連させることは異質の要素を混淆させ理論的混乱を惹起す結果とならざるを得ないのであつてその違法は明白である。右の理は原判決の基調となつている思考方法からも言い得るのであり、原判決中軽費措置に関する部分を他の部分と比較対照するとき、そこにも鮮明な理由齟齬の違法を見出し得るのである。
[261] その一は一時支給に関する原判決理論である。
「本件内訳表中費目において丹前・病衣又は寝巻、敷布及び枕カバーが欠けており、右品目は一時支給として現物で支給されることになつているとしても、実際にはほとんどその支給を受けられない状況であつたから、右費目を一般的な日用品費の内訳の中に組込むべきである」
との上告人主張に対して原判決は前記のとおり
「右各品目が耐用年数において比較的長くかつその年数を的確に把握することがむずかしく、価格が比較的高額であるところから、基準設定が基準上の制約を受けたり、又はそれが臨時的・例外的事例に属するので真に必要な特別事情があるときに限つて一時支給に関する特別基準を設定し保護を行なつては足りるのであつて右品目が一般的な日用品費の内訳に組込まれていないという理由で本件日用品費の基準を争うことは当を得ない。一時支給の取扱があつても実際には一時支給されることが殆どないということは一時支給の取扱という特別基準の運用上の問題であつて、一般的な日用品費の基準そのものを争う理由とはならない。」
としてこれを排斥した。即ち一般的な日用品費の基準と一時支給に関する特別基準は制度上独立して扱われるべきものであつて、両者を牽連させることは誤りであるとの理論が示されたわけである。上告人は一時支給に関する右原判決理論が正当なものであるとは考えないが、それにしても一時支給に関して示された右のような原判決の理論に従うならば、国立療養所入所費等取扱細則に基づく軽費の取扱いと生活保護法上の日用品費の基準とは全然独立別個のものとして関連性を否定されなければならなかつたのであり、軽費の取扱いは軽費の取扱いという制度の運用上の問題であるから、特別基準設定の必要性を判断する際には考慮外におかれなければならなかつたのである。しかるに原判決は上告人に関する特別基準設定の必要性を否定することを目的として、右に示した理論を逆転させ軽費の措置を考慮に入れて判断した。ここに見られる矛盾は即ち理由齟齬の違法に該当すること明白であるから原判決は破棄を免れない。
[262] 右に同じ矛盾が補食費その他に関する原判決理論との間にもみられる。
「長期療養の結核患者にとつては療養所の給食では健康で文化的な食生活を維持することができなかつたから栄養の不足を補うためには補食をせざるを得なかつた。その補食費は当然日用品費に計上されるべきである。」
との上告人主張に対して原判決は、
「医療扶助として給食付の医療を給付する以上、仮に給食が不完全なため補食を必要とするとしても、それは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費としてとり上げ基準額を算出する費目の一に掲げるべき筋合ではない。したがつて、補食を必要とすることは、医療扶助に関する基準を争う事由としてはともかく、日用品費に関する基準を争う理由とはならない」
としてこれを排斥した。即ち原判決はここでも日用品費と給食乃至補食は別個の制度上の問題であるとして相互に影響し合うことを否定したのである。
[263] 他の費目に関しても日用品費として計上すべきであるとの上告人主張を排斥する理由として原判決のいうところは
「手術や喀血の際に必要となる衣類その他は日常の身の廻りの用を弁ずるための日用品というよりはむしろ医療用品として病院療養所の側で準備すべきであり一般的な日用品費として取り上げなければならないわけではなく、補聴器及びその電池代・修理代は身体障害者福祉法第20条により交付又は支給されるもので生活保護法に基づく保護の限りではない」
等であり、ここに一貫して流れている理論は上告人が日用品費として計上すべきであると主張する各費目を生活扶助以外の個々の制度上の問題に解体し、又は生活扶助内部でも一般基準と一時支給に関する特別基準という2制度の運用上の問題に細分することにより、日用品費算出の基礎を可能な限り厳格に制限し実質的に狭めようとするものである。
[264] 原判決の右の如き理論はもとより生活保護法の解釈を誤つた違法なものであるが、それを別にしても、原判決理論に一貫性を保たせるためには、国立療養所入所費等取扱細則に基づく療養費軽費の措置と生活保護法に基づく日用品費の基準とはなお一層厳格に分離されなければならず、右軽費措置のみを日用品費の基準に関する判断内に取り入れてはならなかつたのである。ところが原判決は、丹前・病衣又は寝巻、補食費、補聴器等については一般的日用品費として計上することの不要又は不当を論じながら軽費措置のみはなんらその理由を説明することなく日用品費に関する基準判断の一要素として考慮に入れ、上告人に関し日用品費の特別基準を設定すべき個人的特別事情はないと判断した。これは明らかな原判決理由中における矛盾であるから理由齟齬の違法ありとして破棄を免れ得ないところである。

[265] 第五に、原判決は上告人が臨時の収入を得ていたことをも含めた全収入をもつて平均月額1,040円48銭の日用品費を支出し、なお日用品一般にかなり窮屈を忍ばなければならなかつたことは原判決認定のとおりである。ところで生活保護法は被保護患者のかかる臨時収入を見こして保護基準を設定すべきことを予想していない。保護が補足的なものであるとしても長期重症の入院患者に対する生活保護の基準は被保護者の無資産無収入を予想して生活扶助のみで健康で文化的な生活水準を維持し得るものでなければならないのである。収入認定の厳しさはこれを前提としなければ到底適法視し得ないものである。また臨時の収入は文字どおり臨時の収入に外ならず、決して経常的収入ではなく不確定的要素の強いものであることもいうをまたない。即ち或月に幾何かの臨時収入があつたとしても翌月以降にそれを確実に期待し得るものではない。臨時収入を得るために患者がアルバイト等をすることの悪影響も看過すことのできないものである。
[266] 従つて上告人に関する特別基準設定の必要性を判断する際に臨時収入が考慮されてならないこともまた当然であり、前記軽費措置による収入及び臨時収入の一切が控除された生活扶助基準月額600円について特別基準設定の必要性が考察されるべきであつた。右600円についてその適法か否かを判断し更に特別基準設定の必要性の判断に及ぶことが唯一の正当な判断であり、軽費や臨時収入等の要素を考慮に入れることは誤りと断定せざるを得ないのである。右の意味で原判決は生活保護法の解釈適用を誤り、不当に判断材料の枠を拡げたものである。甲第52号証の記載より経験則上導き出される帰結は、上告人にとつて当時月額1,000円をこえる支出が最低限度必要であり、600円の日用品費では少なきに失して違法であるから特別基準設定の必要があるということに外ならない。又、原判決は臨時収入が「臨時」即ち不確定的な要素に支配されることを認めながら、右収入が失われた際如何なる結果を生ずるかについて一言も触れることなく特別基準設定の必要性を否定したことは、療養費軽費措置適用打切後の状況について触れるところがなかつたのと同様の理由により矛盾した理論と言わねばならないのであつて、原判決の理由齟齬に一点を附加するものである。
[267] 右のとおり原判決は生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条の解釈適用をまり、かつ理由齟齬の違法があるから破棄されなければならない。
[268] 補食費の支給が憲法及び法律の定める最低限度の生活を保障するうえに必要か否かの判断は、憲法第25条及び生活保護法第3条の「健康で文化的な生活水準」の概念の内容を具体的に確定する操作に他ならず、それはとりもなおさず同法第3条、第8条の解釈適用の問題に他ならない。すなわち、補食費の必要性の有無の判断に際しては、生活保護患者の生活状態の正確な把握が欠くべからざるものであり、その意味では事実の認定が極めて重要なウエイトを占めることは勿論である。しかし、かくて証拠により明らかにされた「生活保護の実態」が法の定める「健康で文化的な生活水準」に合致するか否か、或いは、右水準の維持のために果して補食費の支給が必要か否かの判断が、法律問題に属することは論をまたない。けだし、法規の定める抽象的観念、例えば「公序良俗」「正当な事由」等が問題とされる場合に、これが事実問題か法律問題か一見してその区別が甚だ紛しい事例が少なくないにもかかわらず、従来常にこれらが法律問題として取扱われてきたことは明らかである。これと本件の場合と何ら本質的な差異はないのである。
[269] さて、原判決は、補食費は日用品費として計上すべきであるとの上告人の主張について
「医療扶助として給食を給する以上、仮に給食が不完全なため補食を必要とするとしてもそれは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取り上げ、基準額を算出する費目の一に掲げるべき筋合ではない」
と判示し、さらに、補食費を医療扶助の金銭給付より支給すべきであるとの上告人の主張についても
「給食付の医療扶助を行なうときは当該医療機関の給食とは別個に補食費を現金で支給する余地はない」
と断じて結局補食費支給の必要性を否定した。原判決の右判断には以下にのべるとおり、生活保護法第3条、第8条、第12条、第34条第1項の解釈適用を誤つた違法がある。
[270] 原判決は生活保護法第12条を形式的に解釈運用した結果、同法全体の趣旨、ひいて憲法第25条に反するものである。
[271] 右判断の違法を論ずるにあたりまず生活保護法の解釈適用に関する原判決の根本的に誤つた解釈態度を指摘しなければならない。それは原判決全体を通じて容易に看取されるところであるが、補食費に関する判断において特に顕著だからである。
[272] そもそも生活保護法は現実に非人間的生活を余儀なくされる生活困窮者に対し健康で文化的な最低限度の生活を維持し得る権利を与えたものであり、しかも自力その他あらゆる手段を講じてのちなお人間らしい生活ができない者に対する国家の責務としての施策の法である。従つて同法の解釈適用にあたつてはあくまで現実の生活を正確に把握することを要し、その上で当該生活の実態が人間らしい生活であるか否か、保護を与えるべきか否かを考究すべきであつて、決して可能性をもつて現実に代えたり、形式論理によつて法の要求と現実との乖離を容認することは許されないといわねばならない。
[273] しかるに原判決は前記判断に際し「現実の給食においては治療上必要な栄養が十分摂取できない事態の起こるであろうことを否定できない」と述べて「集団給食に伴う欠陥」を認めながら、それは給食の「運用上の改善をまつほかない」し、給食の「実施が不十分であるときはそれは保護の事実行為の問題である」と論じ去つている。原判決が右給食の欠陥を認めるならばそのような給食の実態において補食が必要かどうか、生活保護患者が人間にふさわしい生活を維持できるかどうかという現実の事態を究明すべきであつて、原判決の右判示は運用上の改善の可能性をもつて――実は可能性の存否すら判定しないで――現実の欠陥ある給食状態を庇護し現実の給食が法の要求する健康で文化的な最低生活に背馳することに目をつむるものであつて生活保護法適用のあるべき態度とは正反対の極めて不当な態度といわねばならない。
[274] ことに生活保護法は、その第1条にも明らかなように、「日本国憲法第25条に規定する理想に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、……その最低限度の生活を保障する……ことを目的とする」ものであつて、すべての貧窮する国民に対し、同法所定の要件を充たすかぎり、全的、強行的に最低限度の生活を保障しようとするものであり、保護の種類を生活扶助以下の7種に分けたのもこれらの7種の扶助の形式的運用により保護を限定しようとする趣旨ではなく、これら運用により具体的、実質的に最低限度の生活の保障を全うしようとする趣旨なのであるから、現に同法の保障を下廻る生活実態が存する限りそのいずれかの実質的運用によつて保護を全うすべきであつて、形式的な解釈運用によつて、その救済を拒む結果を招くごときは、厳に戒められねばならない。
[275] しかるところ、原判決は、前にも指摘したように
「仮に給食が不完全なため、補食を必要とするとしても、それは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取り上げ……るべき筋合ではない」
とし、さらに医療扶助の面においても
「これは運用上の改善にまつほかなく、そのことのゆえに医療扶助に関する基準そのものを違法視することはできない」
として、保護の種類の建前を形式的に強調することにより、補食費にかかわる救済を実質的に拒否してしまつた。このような原判示によれば、上告人等生活保護患者は、行政庁による運用上の改善がなされるまでは(またなされぬかぎり永久に)栄養摂取、精神的満足のうえで最低限度を下廻る生活を余儀なくされることは論理必然であり、かかる解釈態度が根本的に生活保護法の前示のような趣旨に反することは明らかである。
[276] つぎに原判決は、上告人等入院生活保護患者の食事が医療扶助の「病院又は診療所への収容」(同法第15条第4号)として、現場でなされる(給食として与えられる)ことから、たとえ給食の不備、とくに集団給食の限界から入院生保患者の「食事」ないし「食生活」に不足が生じても、それは所詮生活扶助の対象とはなりえないと、いとも簡単に断定する。

(一) 補食は食生活の一部である。
[277] しかしながら、これは給食を食事ないし食生活のすべてとし、制度上、取扱上のテクニツクを事の本質と見誤つた極めて皮相な速断といわなければならない。
[278] なんとなれば、俗にも衣食住という言葉があるように、食事は生活の一要素であり、生活そのものである。一般の生活保護受給者に生活扶助として食費が給付されるのも、当然の事理の当然の帰結に過ぎない。
[279] ところで、入院入所の生活保護患者の場合、食費が生活扶助の給付から除かれるのは、彼が「病院又は診療所に収容」されていることから生活保護法第15条、同第34条第1項、同第52条第1項等によつて食事が現物で給付される建前になつていることによる。そしてそこでは建前として、患者という人間にとつて必要な食事のすべて、言いかえれば患者の食生活のすべてが給食によつて充足されることが当然に前提されているわけである。従つて、その建前にもかかわらず、給食がそれ自体としてはいかに工夫改善せられても所詮患者という人間の食生活を満足せしめ得ぬ本質的限界があり、しかもその不足が患者の健康で文化的な最低限度の食生活の水準を脅かすものであるときは、再び原則にたちかえつて生活扶助としてその充足ないし保障を考えることはむしろ当然の理であつて、何ら異とするに足りない。
[280] 因に同法第12条は、生活扶助として給付されるものとして「衣食その他日常生活の需要を満たすに必要なもの」(第1号)を挙げており、本件で日用品費と俗称しているのは、まさに右の謂に外ならないのである。

(二) 給食は単なる治療の一環ではない。
[281] また右に関連して、原判決は
「療養所での給食は医療の一環として専門家である医師の判断により患者の症状に応ずるようされるのが当然である」といい、また「療養所に対し治療の一環として給食を委ねている限り」
と述べて、あくまで患者の給食が医療ないし治療の一態様であると断定している。
[282] しかしながらこれも右に述べたごとくたまたま入所生保患者の食事が療養所への収容として「医療扶助」という形で給付されるという、いわば制度上、技術上の建前を、患者の食事に関して本質的必然的な帰結と速断したものという外はない。
[283] 患者に食事を給付するのは、彼を収容した療養所が行なうのであつて、医師が行なうのではない。いいかえれば患者への給食は、彼を社会復帰の日まで療養所という生活の場において生存せしめるために行なわれるのであつて、彼を治療するためにのみ行なわれるのではない。もとより患者の生存が脅かされるようなことがあれば治療のために障害をきたすし、逆に患者の生存や生活がより良い状態になれば治療の効果が促進されるであろうからその意味で患者の食事と治療とは無縁ではないが、さればといつて患者の食事は治療のためにのみなされるものでないことは自明である。糖尿病、肝臓障害その他摂取される栄養素がそのまま病弊となる特殊な疾病を除いて、一般に患者の食事と治療とは必然的な関連をもたない。
[284] さればこそ本件岡山療養所においても、医師は給食について治療としての観点から仔細に配慮干渉したことはかつてなかつたし(佐藤章証言)、患者が自ら行なう補食について療養所がすすんでガスや電気コンロなどを設備してきたのであり(第一、二審検証の結果、瀬尾康夫証言ほか)さらに多くの人証、物証によつて明らかにされているように、患者による補食が一般に行なわれてきたにもかかわらず、何ら治療上の障害をきたさなかつたばかりか、かえつて治療効果を促進向上せしめてきたのである。
[285] しかるに原判決は、また何ら証拠もなく、かつ理由も示すことなしに
「このような解決(すなわち補食)が医学上好ましいかどうか問題である」
と断定したのは明らかな誤謬であり、同法第12条、第15条等の解釈を誤り、重大な判断遺脱、理由不備をあえてしたとのそしりを免れないといわなければならない。

(三) 食生活の精神的、文化的意義を無視することはできない。
[286] さらにまた右に関連して、原判決は、患者の食事をもつぱら物質的、生理的意味での生命維持の手段としてしか理解せず、その精神的機能、文化的意義を無視した点において、極めて皮相的、一面的であるとの非難を免れない。
[287] われわれ人間は、食事によつて生存に必要な栄養を摂取することはもとよりであるが、それと同時に食物の色彩や風味から多大の慰安を得ているのが常であり、また、自らの嗜好に合致した食物を喫することによりできる限り精神的喜びを得ようと努めるのは人間本然の姿である。すなわち、人間生活における食事は生存手段としての物質的機能のみならず、語源に忠実な意味でのrecreationまたはrefreshment役割を果たしていることは、ことさら解明を要しない。
[288] しかも、かかる食事の物質的側面と精神的(或いは文化的といつてもよいのであるが)側面とは分かちがたく結びついている。すなわち、両者の機能が混然一体をなして人間の食生活が構成されていることはいうまでもなく、右の2つの側面を形式的、概念的に分離して考察することは到底許されるべきではない。
[289] さらに食事の物質的機能のみを強調し、その精神的機能を捨象した食生活は、最早人間のそれではなく、動物の食生活と本質において何ら変りはないものといつて過言ではない。つまり、食事によつて慰安をえたいという欲求、単的にいえば自己の嗜好に適した食物を喫することにより精神的満足をえたいというのは、すぐれて人間的な欲求であり、かかる欲求の存在こそが人間の食生活と動物のそれとを分ける最も基本的なメルクマールに他ならないのである。
[290] 従つて、憲法及び生活保護法の保障がいやしくも、動物的生存から区別された意味での「人間生活」の保障を意味するものだとすれば、それは当然右のような食事に関する人間的欲求をも少なくともいくらかは充足せしめることを要請していることは疑いの余地のないところであり、仮に、被上告人の定めた保護基準が右欲求に対する許容性を欠いているとすれば、かかる基準の違法たることは勿論である。
[291] また、前述のように食事そのものが、単に患者の生命維持を目的とする医療の手段にとどまらず、文化的側面も含む生活全体の問題である以上、補食もまた医療扶助の一部としてではなく生活扶助全体の問題として論じられなければならないのは自明の理である。
[292] しかるに、原判決が既述のような行政上の便宜により設けられた形式的区分にとらわれて、患者の食事を専ら治療に支障のない程度の栄養量の補給という観点のみから処理し、その精神的、文化的側面を全く顧みようとしないのは、唯々驚くより他はなく、かかる偏頗な見解は人間の食生活を極めて低い動物的次元において取扱おうとするものといつても過言ではない。
[293] ことに上告人のごとき長期の入所患者にとつては、食事が唯一の楽しみであり(江草昌証言、上告人本人の第一、二審供述等)、食事を十全に摂ることによつてかろうじて心の安らぎと、闘病ないし社会復帰への意欲をもやすことができるのであるから、かような意味での補食の必要を無視し去つた原判決の誤謬は一層決定的と言わなければならない。
[294] 原判決が「現実の給食においては……治療上必要な栄養が十分摂取できない事態の起こるであろうことを否定できない」と説き、補食の必要を認めるかのような口吻をもらしながらも結局補食費の支給を拒否し生活保護患者をして補食をとり得ない状態に放置する結論に達したのは前記のように誤つた解釈態度に終始したこともさることながら、病院給食の実態を正解せず、補食の必要性について未だ充分な理解に達しなかつたためであると考えられるので、以下まず補食の不可避性ならびに不可欠性について少し詳細に検討する。

(一) 結核患者特に重症者の栄養と食事について
[295] 結核は周知のように非常に消耗性の高度な疾患であり、大気、安静、栄養が治療の大原則といわれているように栄養の補給は患者の体力を回復し、治療を効果的にするため極めて重要な意義をもつものであつて、蛋白質、脂肪、無機質、ビタミン等は健康人以上を必要とする(甲1、35号証、沢田栄一、児島美都子各証言)のであり、特に重症患者においては喀血、嘔吐等による体力の消耗甚だしく更に多量の栄養を必要とする(甲2)。ところが結核患者は結核に伴う発熱または安静による食欲不振、科学療法に附随して生ずる消化器の衰弱等により食物の摂取は健康人に比し著るしく困難であり、加えて健康人以上の好き嫌いが生じがちであつて、しかもその好き嫌いは健康人の場合と異なり我慢すれば食べられるという性質のものではない。従つて栄養が十分摂取されるためには、その食事はただに栄養価が高いだけではなく、食べ易く、食欲をそそり各人の嗜好に適合することが必要であつて、健康人において贅沢とみなされがちな「嗜好」も、安静と食事以外に闘病の方法をもたない重症者にとつてはしばしば生死を決する鍵となるのである(甲6、30、35号証、江草昌、高木和男、沢田栄一、原実、長嶺晋吉、寺坂隆吉各証言)。

(二) 病院給食(集団給食)の限界と欠陥について
[296] そもそも集団給食はいかにその種類を多くしても、その集団性、画一性から各人の嗜好に合つた臨機応変の家庭料理に比すべくもなく所詮個性抹殺の制服料理であつて(甲6号証、第一審判決)、各人の嗜好を充分受け容れることは期しがたいものである。
[297] 集団給食が本質的に右のような限界を包蔵することは、とりもなおさず集団給食そのものがそれ自体充足的なものではなく他に食事を求むべき要因を内包することを意味するものといわねばならない。
[298] 原判決は補食費の支給を疑問とする理由として各人の嗜好を全面的に満足させるほど生活保護の給食水準は高度ではない旨説示するけれども、給食によつて各人の嗜好を全面的に満足させることなどは原判決も認めるように「集団給食ではとうてい不可能」なのであつて、それ故にこそ補食の不可避性を認めざるを得ないはずであり、補食費給付の必要性は給食の限界を越えた補食の必要性に由来するものであつて、給食水準そのものの高低の問題ではない。
[299] 更に集団給食が右のような本質的限界を有する以上患者の食生活を一応なりとも充たすためにはその運用に供される人的物的設備の完備が要請されるところ、岡山療養所はじめ国立病院、国立療養所における給食は材料費を別論としてもその設備、人員等が極めて貧弱であるため、結核患者特に重症者にとつては喜んでこれを食べ、栄養を充分摂取することは甚だしく困難であつた。すなわち、
(イ) 料理人の人員が不足で、岡山療養所においては患者食600、職員食150、計750食を16名が3交替で調理しなければならなかつた(上田忠一証言)ため手の込んだ料理ができず、調理、盛付けが粗雑で食欲をそそらせるに足らず、食事時間の間隔も短かく食欲の生ずる時と一致しない。また食事時間の画一性から患者の病状によつては食欲の生じない時が少なくない。
(ロ) 保温設備が不完全であり、これに加えて特に岡山療養所は山腹に立地し、16の病棟が長くかつ急な傾斜をもつた廊下を連ねており、炊事場から配膳室、病室までの食事の運搬に非常な時間を要する(第一審判決)ため、患者の口に入るときは冷たい味の落ちた食事となつた。
(ハ) 食器も画一的な単調なもので、油気と洗い傷で汚なく食欲を減退させた。
(甲30、35、43、57、61号証、高木弘男、米山忠治、五十嵐正治、市村丑雄、瀬尾康夫、児島美都子、沢田栄一、中吉昭、横田洋、上田忠一各証言)
[300] 右のような予算の制約による人的物的設備の甚だしい貧弱さは後記材料費の貧弱さと相まつて各国立病院、国立療養所が給食運用上の改善につくす如何なる努力をも空しくし、その給食を厚生省当局が指示する完全給食の実施基準(甲4号証の1、2、3、5号証)に則つて行なうことをも不可能にしたのであり、その必然の結果として後記のような多量の残飯を生ぜしめ、補食を不可避ならしめたのである。

(三) 完全給食の内容とその摂取状況について
[301] 厚生省公衆衛生局栄養課発表の結核患者の必要栄養素基準量によれば成人患者1日につき熱量2,350カロリー、脂肪50グラム、蛋白質95グラム、カルシユーム1,500ミリグラム以上、ビタミンA5,000IU以上、同B12.00ミリグラム以上、同B22.00ミリグラム以上、同C100mg以上を必要とするものとし(甲2号証)、同省医務局国立療養所課も熱量2,400カロリーとするほかほぼ右に等しい基準により各国立病院、療養所の給食を指導している(甲1号証の1乃至3)。そして特に脂肪については80グラムから100グラムを必要とする学説が多く、他国には200グラムを要すと説く学者すらあり、また蛋白質についても100グラムから120グラムを要するとする学者が有力である(甲35号証、沢田栄一、児島美都子各証言)に徴すれば、右栄養課の基準は決して高度のものではなく結核患者にとつてこれを下廻ることは許されない必要量とみて誤りないこと明らかである。
[302] しかるに厚生省社会局長の各都道府県知事宛の完全給食の承認基準なるものは普通患者成人1日につき2,400カロリー以上、蛋白質80グラム以上、脂肪20グラム以上と定められるのみであつて(乙50号証)、その限りでも右栄養課の基準量をはるかに下廻るのみならず、脂肪、蛋白質に劣らず重要なカルシユーム、ビタミン等の栄養素について何ら定めないものであり、しかもそれは食物自体が含有する量であつて廃棄量は考慮外におくもの(横田洋証言)で現実の摂取量とは無関係なのである。およそ必要栄養量の基準としては右のような内容の基準などあり得ないのであつて、完全給食の承認基準とは医学栄養上の基準ではなく(五十嵐正治証言)入院料の基準点数につき3点を加算するための要件にすぎないこと明らかである(甲30号証)。さればこそ厚生省当局も前記のように給食の栄養指導にあたつて右承認基準をその基準としては用いないのであり、「完全給食」といつても、それさえ摂取すれば十分という意味では決してない。
[303] ところで国立病院、国立療養所では給食の材料費は昭和31年当時1日1人当り94円10銭または96円10銭という低さであるが、これは昭和24年保険局が入院料を決める必要項算出した数値58円17銭を漫然スライドアツプしたものであつて(甲3号証の1、2)、昭和31年当時に適合したものではなく、当時都下の公私立給食病院の材料費は平均120円であり(甲6号証)、全国的な平均も120円をこえていた(甲8、9、10、乃至16、30、43号証、米山忠治、五十嵐正治各証言)が、厚生省公衆衛生局栄養課が試作した120円の理想的料理ですら、その栄養量は完全給食の承認基準量にも達せず(甲7号証)おいしく食べやすい給食には140円(甲25号証)から155円(児島美都子証言)を要したのである。従つて、右94円10銭または96円10銭という金額では極めて悪質の材料を用いるほかなく、新鮮でおいしく食べやすい食事を作ることは到底不可能であつた(甲3、25、29、43号証、米山忠治、長嶺晋吉各証言)。
[304] 右のように給食の材料費そのものが甚だしく低劣であるため前記給食の諸設備の欠陥を度外視しても必要栄養量の確保は絶対的不能であること明白であつて、証拠上昭和31年当時現実に給食されていた食事の栄養が前記栄養課の基準量に著るしく不足していることが認められるのはむしろ当然といわねばならない(甲1号証の1乃至3、7、8、26、29、30号証、沢田栄一、児島美都子、五十嵐正治各証言)。
[305] 上述のような劣悪な人的物的設備と材料費による当然の結果として岡山療養所はじめ国立病院、国立療養所の給食は多量の残飯残菜を生じ、病院により差はあるが(特に副食)、昭和32、3年頃で主食の摂取量は80~85%、副食のそれは65~73%であつて、特に重症者の摂取率は低く、主食59~80%、副食50~70%であり、政府自からも国会で国立療養所の給食が2割以上の残飯を出していたことを認めてさえいた(甲8、14、15、28、29、30、43、44、45、46、47号証、沢田栄一、五十嵐正治、高津益吉、中吉昭各証言)ものである。
[306] 給食の実体が以上のようなものであるに拘らず、原判決は「現実の給食の欠陥は運用上の改善にまつほかない」と説くが、――そのような判断自体不当であること前述のとおりであるが――果たしてそれは運用上の改善によつて解決し得たであろうか。それは上述の集団給食本来の限界と病院給食の現状、すなわち、極めて貧しい人的物的設備、材料費等に照らせば到底不可能であること明らかである。また原判決は右給食改善への努力は「集団給食という制約のもとにおいてできる限り」行なえばたりると判示するが、岡山療養所ほか国立病院、国立療養所が右改善への努力を怠つていたわけではなく、十分な努力を尽してさえ、給食の現状は陳述のとおりなのであつて、より以上の改善を期待する余地はなかつたのであり、原判決の右判示は給食の現状をそのまま認容するものにほかならない。

(四) 補食の不可欠性について
[307] 補食は以上のような給食の現状から患者にとつてやむことのできない要求として取られているのであつて、第一審判決のいみじくもいう「人間性に根ざす直接の需要」なのであり、昭和31年当時岡山療養所はじめ全国各地の国立病院、国立療養所はいわゆる完全給食を実施していたに拘らず、療養患者のほとんどすべてが補食をしていたこと(甲13、14、15、16、28、29、54号証の1ないし7、五十嵐正治、沢田栄一、米山忠治、影山統二郎、平尾正彦、中吉昭、浅賀ふさ、小野範昭、松本千秋、江草昌各証言)からも明らかなように補食は結核治療の基礎として不可欠のもので特に重症患者にとつては生存のため必要でさえあるのである(甲69、14号証、江草昌証言)。すなわち、
[308](イ) 第一に病院給食がいわゆる完全給食と称しながら栄養学上の基準量に達せず、かつ集団給食の欠陥から十分摂取されないため、その不足を他に補充しなければならない。これは特に重症者においては死活の問題であつて、私費患者、健保適用患者に比し生活保護患者の回復者が少なく、死亡者が著るしく多い(昭和30年厚生省調査によれば、後者が前者の6.9倍である。甲17の15、上告人本人の尋問)のは生保患者が補食を十分とれないことが一原因であること明らかである。
[309](ロ) 第二に結核患者は食欲が不安定で嗜好偏向が強く、給食をできるだけ食べるためいわば潤滑油として補食が必要となる。このことも重症者において顕著であるが、一片の好物を口にすることによつて給食を食べることができるようになること(上告人本人の尋問)は容易に理解されよう。
[310](ハ) 第三に長期安静を要する結核患者にとつては前述のように食べることが最大の関心事であり、例外なく生活の中心を占めるものであるが、患者の口にあう補食がいかにその単調な生活に潤いを与えるかは健康人の窺知し得ないところであつて、その精神的慰安は患者に生きる望みを与えるばかりでなく、身体的状態をも良好にし、治療上有効でさえあるのである(甲6、12、14、28、43、69号証、市村丑雄、浅賀ふさ、村山みち、佐藤一郎、高田ひさよ、児島美都子、横田洋各証言、上告人本人の尋問)。
[311] ちなみに昭和25年頃まで厚生省では補食費を生活扶助から支出することを認めていたこと。補食の問題が病院給食の貧困問題と関連して衆参議院各社会労働委員会にたびたび取上げられたこと、岡山療養所の患者自治会と所当局との交渉がほとんど給食問題に集中されていることも補食の必要性がいかに大であるかを裏書きするものである(甲7、8、21、76、77号証、小野超三証言)。
[312] 更に補食の内容、程度、費用源をみれば、患者がいかにそれを必要不可欠のものとして求め、苦しい生活の中からその費用を捻出しているかが一見して明らかである。
[313](イ) まずその内容をみると、卵、牛乳、バター等、蛋白質、脂肪等の高単位の栄養品が多く、給食による栄養不足を補おうとの努力が認められ、果物、野菜が多いのも給食に欠けている新鮮な野菜等に対する渇望とビタミンの不足を表し、次いで海苔、佃煮、梅干等小付物が多いのは給食をできるだけ食べるための潤滑油の役割を果していることが認められる(甲12、13、14、17の7、28、29、31、44、47、152号証、梅津つや子、小野超三、米山忠治、五十嵐正治、佐藤市郎、児島美都子、沢田栄一、中吉昭、浅賀ふさ、横田洋、高田ひさよ各証言)。
[314](ロ) そして昭和31年当時、岡山療養所を含め各地国立病院、国立療養所では患者はその大半が1人1月500円から1,000円を補食に支出し、その小遺中に占める割合は岡山療養所において約55%で他所でも大差なく、小遺の多寡に拘らず一定してその必要性を示し(第一審認定)、また総じて重症者がより多く支出してその必要性のより高いことを表わしている(甲12、13、14、16、17ノ2、29、44、45号証、江草昌、寺崎隆、児島美都子、沢田栄一、大塚靖子、中吉昭、横田洋、小野範昭、佐藤市郎、瀬尾康夫、小野超三各証言)。そして右費用は日用品費を流用し(それが本来流用を許さない悲惨な額であることはいうまでもない)医療費を負担する患者はその負担金を滞納し、また少しでも動ける患者は治療上有害であることを知りながら木工、時計、ラジオの修理、盆栽、人形作り、療友の下着洗濯、肌着縫、屑拾い等のアルバイトをしてわずかな収入を得、或いは借金、所持品の売却、見舞金等によつて充当していることが明らかである(甲16号証、佐藤市郎、瀬尾康夫、小野範昭、江草昌、高津益治、村山ミチ子、浅賀ふさ各証言、上告人本人の尋問)。
[315] そして費用を捻出できない者は、他人が落した卵を床にはつてすする光景さえ現出するのである(小野範昭証言)。
3 上告人の補食の不可欠性について
[316](イ) 昭和31年当時上告人の病状は安静度1度ないし2度の重症で、左肺は荒蕪肺でほとんど機能は停止し右肺も侵され肺活量は1,100から1,200であり、微熱、血たんが続き、喀血も断続的にあり睡眠にも波があつて給食の摂取率は2分の1ないし3分の2程度であつた(高田ひさよ、市村丑雄各証言、上告人本人の尋問)。
[317](ロ) 上告人の給食率が悪かつたのは右病状と前記のように貧しい給食の材料費と設備の欠陥による給食のまずさからであつて摂取すべき栄養は絶対的に不足していたので他の患者同様補食は不可欠であつた。
[318] また上告人は給食は普通食にしていたが、それは当時の岡山療養所の重症食は一種類で選択の余地なくカロリーが足りない上、蛋白質、脂肪、カルシユーム、ビタミン等が不足していたためであり、補食により栄養を補給するとともに給食をできるだけ食べるよう努めたのである(乙6号証、長嶺晋吉、高田ひさよ各証言、上告人本人の尋問)。
[319](ハ) 上告人の補食の内容は患者一般と大差なく、果物、野菜、肉、魚、卵、干物等であり、昭和31年当時患者一般の平均以下である月額550円の補食費を必要とした(甲52号証、高田ひさよ、中吉昭各証言、上告人本人の尋問)。そしてその費用は友人、同窓生、元患者の見舞金や他人のラジオの管理に対する謝礼金、入院当時のわずかな所持品の売却等によつてようやくこれにあてていた(甲52号証、中吉昭証言、上告人本人の尋問)。
[320] 叙上のごとくして上告人ら生活保護患者にとつて補食は不可避であり、またその健康で文化的な最低限度の患者生活を維持していくうえに必要不可欠であることは極めて明らかである。

(五) 原判決のあげる消極的理由について
1 (患者の個別的嗜好を満足せしめるほど生活保護法の給食水準は高いものではないという原判示の不当性)
[321] 右の判示が、もし個々の患者の嗜好を給食によつて全的に満たしうることを前提としているとすれば、それは原判決自身認めているように、国立療養所の集団給食においては到底不可能であるから、もとより給食水準の高低などいうことを論ずる余地はない。
[322] 上告人もさような意味における嗜好の満足の必要を主張したことはかつてない。
[323] またもしその趣旨が、給食以外の方法によつても各人の嗜好を満足せしめる場合も含むものとすれば、前記のごとく重症結核患者の嗜好が通常人のそれのごとき主観的、恣意的なものでなく、慢性的な食欲不振をカバーして療養効果を上げるため栄養を摂取しようとする客観的、合理的なものであり、一方病院給食の限界から不可避的に発生し医療上不可欠な必要度のものである以上、それを保障することはまさに入所患者たる国民にとつてその健康で文化的な最低限度の生活水準を充足させるための必須の要件であつて、生活保護法による水準はそれほど高いものでないなどという余地はない。
2 (給食制度の運用の改善にまつべしとする原判示の不当性)
[324] 原判決は
「現実の給食においては、給食用の設備、器具の状況、調理、保温、盛付、患者の症状、嗜好の違い、材料費、人件費その他諸般の事情から治療上必要な栄養が十分摂取できない事態が起るであろうことは否定できない」
と述べながら、それにもかかわらず、原判決は、患者が必要な栄養を摂取できないという事態は給食制度の運用上の改善にまつべきであり、別途補食費を支給すべきでないとする。しかし右の見解は以下にのべるとおり明らかに誤りである。
[325] 補食が、上告人ら長期入所結核重症患者の慢性的食欲不振や集団給食の限界からいかに不可避かつ不可欠であるかは前述のとおりである。従つてそれは給食制度の限界を出るものであるから、所詮その運用上の改善では賄いきれるものでなくこの点においてすでに右原判決の論旨は理由ないことが明らかである。
[326] つぎに右を暫く措き、原判決の挙示するところに即して検討してみても、その非実際的な不当さは蔽うべくもない。
[327] すなわち、本来の意味での完全給食を実施するに足る人的、物的諸条件が充足されているにもかかわらず、現場の給食担当者或いは病院療養所の管理者の不手際や怠慢により給食に欠陥を生じたものであれば、その是正も比較的容易であり、それはまさしく保護の事実行為の問題に過ぎないとしても、あながち不当ではないであろう。しかし、原判決のあげる現行給食制度の欠陥の大部分は、単に現場機関で解決できる問題ではない。例えば、原判決が運用上の改善の一例としてあげる「症状、嗜好の違いに応ずる複数献立を作ること、食器、盛付、給食時間等に工夫をこらすこと」などをとりあげてみても、岡山療養所の給食担当者上田忠一の証言等によつても明らかなように、1度に調理する食事が750食という多数に達する条件のもとで、患者の症状や嗜好の違い、或いは盛付等に配慮を加えることは如何に関係者の努力をまつても、国の定める給食関係者の定員の枠内においては到底実現不可能であるし、食器の改善の問題にせよ当然予算上の措置を必要とするものである。また、給食時間に工夫をこらすことも、給食担当者や現実に配膳を行なう看護婦の勤務時間上の制約を免れ難く、これとて給食担当者のみならず看護婦の定員の増加なくしては実現を期し難い問題である。のみならず、食事の質に最も重要な影響を与える材料費にしても、既述のごとく、昭和31年当時の国立病院、療養所の1日当り給食費単価は94円10銭または96円10銭の低さであるが、その頃東京都下の給食病院で110円から127円の材料費を支出し(甲10ないし16号証)、また渋川市金井国立療養所における調査結果によれば、患者が容易に摂取しうる食事を作るのには140円の材料費を要している事実に徴しても、前記94ないし96円程度の単価は、質的に患者の需要を充足する材料を購入することは到底不可能な額であり、右単価の増額なくしては、給食内容の実質的改善は行なわれえないことは明らかである。
[328] 以上何れをとりあげても、原判決のいう運用上の改善は個々の病院、療養所の内部で容易に処理解決しうる問題ではなく、否応なしに被上告人の国立病院療養所関係行政全般の改善なくしては実現を期しえない性質のものである。また上告人ら患者において、直接その是正を求めようとしても何ら有効適切な手段は与えられていないのである。
[329] また、仮に、被上告人において、右改善に努力をするとしても、その完全な達成は早急には不可能であり、相当の期間を要することは免れがたい。また、現に、国立療養所等において、いわゆる完全給食制度が実施されてから十数年を経過した今日においても未だ十分な改善はみていないのが実情である。その間、これらは単に保護の事実問題であるとして、患者が現実に必要な栄養を摂取できない状態にあるにもかかわらず、これを長年月そのまま放置するのも己むをえないとする原判決の見解は、既述の如き生活保護法の趣意に照らし、余りにも不当だといわなければならない。
[330] 一例をあげれば、仮に、国立病院に治療上不可欠とされる手術の設備を欠いていたとすると、手術を必要とする患者は当然民間病院に行つて手術を受けなければならない訳であるがその費用については、生活保護法第34条第1項により金銭で補償すべきであることは何人も異論がない筈である。原判決はこの場合も、手術設備の不完備については運用上の改善にまつべきであるとして、金銭給付の必要を否定するつもりであろうか。しかし、給食問題も右の事例と全く同様である。すなわち、生活保護患者を収容する国立療養所の給食が不完全であつて、ために治療上不可欠な栄養の確保が不可能であれば、患者は他の手段すなわち補食により栄養を補充するより他ないが、その費用は必要な限度において金銭で支給さるべきが当然であり、かかる自明の理を漫然看過した原判決の見解は驚くべき謬見である。
3 (補食について他からの流用は不可能である)
[331] また、既存の日用品費からの流用の可能性についても、日用品費の額がすこぶる低額であることは原判決も認めるところである。原判決の極端に控え目な計算によつても昭和31年における日用品費の最低限度の必要額は670円であり、当時の支給額600円は、この標準から見てさえ1割も少なく、原判決ですら既存の費目相互間の流用可能性を前提として、かろうじて違法の判断を回避した位であるから、到底右600円をもつて補食又は嗜好品費をカバーすることの不可能なことは明らかであり、これを理由に日用品費の基準費目として、或いはこれと別途に補食費を計上すべき必要を否定することも到底許されないところである。
4 (補食費が社会保険の給付の対象になつていないということは、補食費の必要性否定の根拠にならない)
[332] なお、原判決は、補食費が一般の社会保険で給付の対象としていないことを、生活保護法のもとにおける補食費支給の必要性否定の根拠の一つにあげている。しかし、社会保険で補食費を支給の対象としていないことの当否自体極めて疑問であるばかりか、社会保険の場合は生活保護法第4条のような補充性の原則はなく、従つて収入認定は行なわれておらず、法のたてまえとしても補食費を被保険者が自己負担する経済的余裕があるものと取扱つても差支えないのであるから、これと生活保護患者の場合とを同律に論ずることは正当でない。
[333] また、既にのべたように、患者の補食は単に医療的見地だけから必要とされるのではなく、むしろ生活文化的側面からその必要性が認められるのである。従つて、原則として医療面のみを取扱う社会保険の医療給付において補食費が給付対象とされていないからといつて、このことが、生活扶助としての補食費支給の必要性を否定する根拠となりえないことは自明の理である。

(六) 結び
[334] 以上詳説したとおり、補食は療養中の結核患者にとつて必要不可欠のものであつて、そのために要する費用は現行生活保護法上いかなる手続によつてであれ、支給されなければ同法および憲法が保障する健康で文化的な最低限度の生活を維持することは勿論、生存すら期し難いのである。そして、補食に要する費用を導出するには現行生活保護法上、生活保護の日用品費として計上することと医療扶助の金銭給付として支給することとの2つの途が見出し得るのであり、既に述べたところから明らかなように、補食の現実の姿から見れば、生活必需品として前者の途を適当とし、制度的、手続的には後者の途を便宜としよう。そしてかかる意味での補食費を生活扶助として給付しうることは既に指摘したところであるが、かりに同法の形式的建前に則り、医療扶助として把えるにしても、同法第34条第1項但書は「現物給付によることが適当でないとき」または「保護の目的を達するために必要があるとき」は現金給付することを可能としているのであるから、補食が絶対的に不可欠である以上、右但書にもとづき、被上告人等は補食費を現金で給付すべきであつたのである。
[335] しかるに、原判決は前叙のごとき判断から漫然これを給食制度の運用上の改善に委ねたのであるから、右第34条第1項、第3条、第8条ひいて憲法第25条の趣旨に違背したとのそしりを免れないこと明らかである。
(一) 原判決の論理
1 (保護基準決定と予算財政事情との関係について)
[1] 原判決は、先ず生活保護法第8条に基づき厚生大臣の設定した保護基準に対し司法審査の及ぶこと、並びに右保護基準設定行為が同法第8条第2項、同第3条の拘束を受ける覇束裁量行為に他ならないことを明らかにしたうえ、本件保護基準に対する司法審査の基本的方針について、つぎのように述べている。
「本件において3ケ月をこえる入院入所中の単身患者の最低限度の生活の需要を満たす合理的な日用品費の基準を定めることは、多数患者の多様な経済的需要の実態を調査把握した上生活科学たる生計費理論をこれに適用するという専門・技術的検討を要する事項である。したがつて、本件日用品費の基準の設定が違法であるというためには一べつしただけでこれを無効視できる場合のほかは、単なる素人的感覚又は判断にのみ頼ることは許されないのであつて、専門技術的分野にわたる事項もすべて司法審査の対象としなければならない。また、生活保護行政が予算を伴うことはいうまでもないが、国の財政その他国政全般についての政策的考慮を経て定められた予算の配分に従つたというだけの理由で、該基準の設定が適法であるということにはならない。
 しかしながら、反面、生活保護のための費用は、納税を通じて国民が負担するものである以上、保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれと無関係に定め得るものではなく、また、その時期における国民の生活水準、文化水準の程度も当然対照されなければならず、国民感情も無視することはできない。」
[2] 原判決の右見解のうち、保護基準が被保護者の経済的需要の実態を把握したうえ生活科学たる生計費理論を適用して定められなければならないとする点、またそのときどきの国民生活水準、文化水準も当然対照せらるべきであるとする点は、上告人のかねて強く主張するところであり、もとより正当である。つぎに、保護基準も国民所得ないしはその反映である国の財政とは無関係でないとの見解も、例えば戦中戦後の混乱期のように国民全体が貧苦に喘ぎ、国家財政も極端な危機状態にある場合にまで、これらの事情と全く無関係にあくまで科学的合理的に決定された生活水準にのみ固執することは、妥当でないとの意味であるならば、必ずしも反対すべき理由はない。しかしながら、仮に、原判決が右のような極端な国家的危機状態の場合に限られることなく平時においても常に、予算財政上の配慮によつて保護基準を適宜左右することが許されるとの見地に立つているとするならば、これは極めて問題である。
[3] さすがに、原判決も前記引用箇所において
「国の財政その他国政全般についてこの政策的配慮に従つたというだけの理由では該基準が適法といえない」
ことを認め、さらに別の箇所では
「特に社会保障費につき一定の必要額を認めながら、ことさらそれを必要以下に削減したものとは、証拠上認められない……こともまた本件日用品費の額を違法とまで断定することの困難な事由となる」
と述べているところからみて、少なくとも表面的には、かかる解釈を否定しているやに見受けられる。
[4] ところが、原判決は、形式的にはともかく、その実質において保護基準決定に際し財政政策的配慮を他の要因に先がけて優位におくことを承認し、ひいては、以下に述べるように生活保護法第3条の最低生活の保障を単なる画餅に帰せしめているといつて過言ではないのである。
2 (原判決の本件日用品費基準に対する判断の分析)
[5] 原判決は本件保護基準を審査するに当つて、先ず第一に右基準額算出の根拠となつたマーケット・バスケツト方式そのものの当否を検討した結果、少なくも右方式には費目・数量の選出に主観的要素がはいりやすく、また非現実的に流れやすいという欠陥のあることを認めている。
[6] 第二に、右マーケツト・バスケツト方式を適用して、具体的に本件日用品額を算定する過程において相当程度品目数量に不足があり、これを金額に換算すると不足額が約70円に達することも、これまた原判決の認定するところである。
[7] 第三に、生活保護患者の実態生活費や日用品費の要求額と比較対照した結果においても、600円という本件基準額が頗る低いことは否定できないとしている。
[8] ところで、以上の原判決の認定を前提としてもなお、本件日用品費額が法第8条第2項、第3条の要件を欠く違法なものであることは、極めて明瞭だといわなければならない。なる程、第一の点についていえば、昭和31年当時未だマーケツト・バスケツト方式は理論生計方式として実用性を失つていなかつたことは原判決の言うとおりであつたかも知れない。しかしながら、右方式に原判決の指摘するが如き欠陥が存在することが明白である以上、少なくも、右欠陥を補正する何らかの方策を講ずべきは、当時においてもなお被上告人の法律上当然の義務であつたといわなければならない。右の点に目を覆い、マーケツト・バスケツト方式を採用したこと自体にわかに違法とは断じ難いとすることから、直ちに右方式を適用して算出された基準額について適法の推定が働くというのは明らかに論理の飛躍がある。むしろ、マ・バ方式に前記のような欠陥の内在する事実は、それにもかかわらず右欠陥について無反省にこれを適用した結果に対し違法の推定こそ及ぼして然るべきであろう。
[9] 第二の点についても、原判決は70円という不足額が、もともと本件日用品額全体が頗る低いものであることからして、決して無視し得ない金額であることを認めつつも、本件が昭和32年4月になされた第14次基準改訂の直前の時期にあつたことを理由に、1割程度の不足は已むを得ないとしている。しかし、原判決の右所論は、例えば第13次基準改訂の行なわれた昭和28年当時一般勤労世帯の1人当り生計費が5,897円であつたが、本件保護変更決定のなされた昭和31年当時は7,393円と実に25.4%の消費水準の上昇を示しているのに対し(甲第124号証参照)、保護基準はその間足かけ4年も実質上据置きのまま放置されている事実、或いは昭和27年5月1日の第12次基準改訂と昭和28年7月1日の第13次改訂との間に、CPS〔消費者価格調査〕1ケ月平均の消費支出即ち一般世帯の消費水準は18,825円から27,569円と約46.4%の上昇があつたにもかかわらず、保護基準額の方は第13次改訂により従来の8,059円から9,232円と僅か14.6%の引上をみたに過ぎない事実等(甲第70号証参照)に目を覆うものとの非難を免れ難い。なる程、本件保護変更決定のなされた昭和31年8月当時はまさに国民経済が著大な進展を遂げた時期であり、またこの実勢の変化を明確に把握し得たのは翌32年に入つてからであつたかも知れない。しかし、国民の生活水準が顕著な上昇を示したのは、ひとり昭和31年だけではない。27年から28年にかけても急激な上昇が存在した、それにもかかわらず保護基準の引上げは必ずしもこれにともなわなかつたことは前示の統計資料の示すとおりである。また、28年以降31年に至るまでの間も物価の急騰こそなかつたとはいえ、一般勤労世帯の生活水準は年々前述のように堅実な進展を示してきているのである。以上の経緯からすれば、32年以前においても、なお、保護基準改訂の機会もまたその必要も十二分に存在したことは明らかであり、到底原判決のごとき一面的見解には左袒し得ない。
[10] 第三の点についても、原判決は、実態調査の結果と比較して本件日用品費の基準600円は頗る低い金額であつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものであるとまで断定するには不十分だという。しかし、生活保護の基準額は、実際に不足が生ずれば適当に他から補つてそれで済むというような曖昧な金額ではない。他から収入があれば当然これを支給額から控除したうえ、あくまで基準額の範囲内で生活を維持すべしとするのが法の建前である。かかる厳格な金額については、現実に大多数の者がその金額の範囲内で生活ができないでいるという事実だけで、これを「現実無視の額」というに十分ではなかろうか。それも、生活保護患者の日用品費の現実の支出が基準額を上廻つていることの原因が、収入認定を免れた不労所得に主として依存でもしているのであれば格別、現に大部分の患者がみすみす療養の障害になりかねないのを承知で苦しいアルバイトをし、その収入をもつて保護給付の不足額を補つている実情にあることは、多くの証拠が明らかにしているところである。けだし、生活保護基準のようにあくまでその範囲内で現実に生活が可能であること法律上必須の前提とする金額については、実態生計費平均との比較においてそれが「頗る低い」ものである以上、特段の事由のない限りそのことだけで直ちに違法との評価を免れ難い筈であり、畢竟「頗る低い額」というも、或は「現実無視の架空の額」というも何等実質上の差異は存しないものといわなければならない。
[11] 以上要するに、原判決が本件保護基準を違法と断定するについての障害として掲げた事由が、いずれも現実的な根拠に乏しいことは明らかである。それにもかかわらず、結論において、原判決が違法の判断を回避したことは、結局、予算財政上の配慮を保護基準の策定にあたつて全面的優位におくことを承認したことに起因するものといわざるを得ない。
[12] そこで、以下この点について詳細な検討を加えてみよう。
3 (原判決の結論)
[13] 原判決は、上告人の第一次的請求に対する判示の結論的部分において、大要つぎのような見解を明らかにしている。
(1) 本件日用品費の水準の引上げは、当然一般生活扶助基準の引上げを伴う。
(2) 昭和31年当時生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいた国民が1,000万人近く存在していたので、生活扶助水準の引上げは、当然生活保護関係費の増大をもたらす。
(3) さすれば、納税を通じて一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼすが、このような場合に、生活扶助のため一般国民がどの程度の負担をするのが相当か、ということは容易に決められない問題である。
(4) よつて、違法の判断を差控える。
[14] しかし、ここでまず明確にしておかなければならないのは、生活扶助基準の引上げが国家予算中生活保護関係費の増額をもたらすことは否定し難いとしても、それが当然に国民の租税負担に直接的影響を与えると結論することは論理の飛躍であり、妥当でないということである。何故ならば、昭和31年度の一般会計予算中生活保護関係費の占める割合は僅か3.3%であり、社会保障関係費全部を併せても10.9%に過ぎず、従つて、扶助水準の引上げが、仮に、生活保護予算の大巾な増大をもたらすとしてもなお、他の予算費目を削減して、これを生活保護費に充当する等の、当初予算の枠内における配分操作によつて、これを十分賄うことが決して不可能ではない筈だからである。即ち、原判決が扶助水準の引上げに伴う社会保障費の増大をいかなる程度のものと想定しているかは不明であるが、少なくとも、これが同一予算規模内の費用相互の配分操作によつて賄いきれない程の巨額(例えば一般会計予算総額の過半に達するような)に達するものと信ずべき資料はなんら存在しないから(この点は後に詳細する)扶助水準の引上げと国民の租税負担の増大との間の直接的な関連は強く否定されなければならないからである。そうだとすれば、原判決が違法の判断を差し控えた理由は、国民の租税負担の増大というよりは、実質は予算配分の際の各種財政支出相互のバランスの問題に帰するものと言わざるを得ない。
[15] つぎに、原判決は本件日用品費の基準が「頗る低い」と言い、或いは「いかにも低額に失する」と言うとき、何を比較の対照においているのか敢て明示するのを避けようとしている憾みなしとしないが、しかし、この場合原判決があるべき保護基準、換言すれば健康で文化的な最低生活の需要を充すに足る金額を比較の対照として念頭においていることは否定すべくもないであろう。また、現に原判決とて、本件日用品費額が健全な社会通念あるいは生活科学の成果に照らして、最低生活の需要充足に決定的に不十分であることを、種々の弁解を試みながらも結局は暗に承認せざるを得ないでいることは、既に詳しく指摘したとおりである。
[16] さて、そうだとすれば、原判決はその極めて複雑な論理展開にもかかわらず、究極において、扶助水準の引上げが、予め政策的に決定された予算配分に顕著な変動を及ぼす虞れがある場合には、たとい当該保護基準が客観的、合理的見地から最低水準をはなはだしく下廻つていると認められてもなお、違法の判断を回避すべきだとの見解に立脚しているものといわざるを得ない。右の見解は、逆にいえば保護基準が時の政府の財政政策の支配を受け、これに全面的に従属することを承認するものに他ならないし、まさに問題の本質はこの点にあるといわなければならないのである。そこで、以下原判決の右見解が果して生活保護法の解釈として正当か否かを検討したい。

(二) 現行生活保護法の制定経過と同法の解釈
[17] 生活保護法が憲法第25条の生存権保障の理念を具体化し実現することを目的として制定されたという経緯、或は、同法第8条第2項の文理の上からしても、被上告人が保護基準を決定するについては、「保護の種類に応じて必要な事情」のみを考慮すべきであつて、他の政策的要因例えば予算財政事情等が考慮に入れられてはならないというのが、同法の唯一の正当な解釈であることは、既に上告理由書第一点において指摘したとおりであるが、なお同法の制定経過、ことに旧法の対比を中心にしてこの点をふえんしたい。
[18] 旧生活保護法においては、「保護は生活に必要な限度を超えることができない」(旧法第11条)という制限的な条項を設けているのみであつて、保護基準に関する明確な法的規制を欠いていたのに対し保護基準が保護の担当者の主観を離れて客観的合理的に算定するようにすると共に(現行法第8条)、保護基準の内容が、憲法に定める健康で文化的な生活水準に合致すべき旨を明確かつ実効的に法定(現行法第3条)するに至つたところに現行生活保護法(法律第144号)の画期的意義があるとされる。ここで注目すべきは、右のように憲法第25条の趣旨を体現したとされる現行法は昭和25年5月4日にはじめて制定施行をみたのであつて、新憲法制定後、実に3年有余の間は、旧法がそのまま行なわれていたという事実である。このことは、立法者が憲法第25条が設置されたからといつて、直ちにその文言を何らの成算なくして法文にとり入れ、結局はこれを単なる修飾句に堕しめる軽率を避け、国民経済の回復伸張等を考慮しながら十分な歳月と準備を重ねたうえで、ようやく憲法の生存権保障を一般国民の具体的権利として定立することに踏み切つたことを示しているに他ならない。即ち、現行保護法制定までの前記のような時間的経過は、同法第3条が慎重な配慮と並々ならぬ決意の下に設置されたものであつて、時々の財政事情の影響により、その内容に変動をきたすような軽々たる性質の規定でないことを客観的に裏付けるものと言うべきである。
[19] 因みに、現行生活保護法案を審議した第7国会の厚生委員会会議録によれば、当面の立案担当者である当時の木村忠厚生省社会局長は「国の財政経済状態がどうあろうとも、新法の趣旨によればこれだけは保障しなければならないという一線が存在するべきではないか」との趣旨の議員の質問に対し、政府委員としてつぎのように答弁している。
「いかなる場合においても最低の線があるということは事実だろうと思うのであります。ただ問題になります点は国民全体の線が非常に低いという場合で、それより低いということは、またやむを得ない」(同会議録21号)
[20] また同政府委員は、別の個所で当時の生活保護基準(第10次改訂基準)に関連してつぎのようにものべている。
「最低生活の基準がこれでもつて最低として十分だとは考えない。ただエンゲル係数75%というもの(注・第10次改訂基準の計算上のエンゲル係数は75%とされている)、CPSの勤労世帯家計費のエンゲル係数は62%であり、その状態からみて已むをえない。国民生活全般が好転して来ることになれば、それに伴い上げることもきわめて必要と思う。」
[21] 即ち、ここにおいても、国民一般の生活水準自体が科学的合理的見地からみて最低水準を割つている場合にあつては、これに伴い保護基準がそれを下廻つても已むを得ないとの考え方こそ示されているものの、財政上の配慮によつて基準が左右されてもよいという考え方は明らかに否定されている。なお、現行生活保護法の制定に参与したものではないが、本件保護変更決定のなされた昭和31年当時を含め前後12年にわたり社会保障制度審議会委員の地位にある原審今井一男証人も、保護基準が国家財政とつながりをもつべきでない旨、再三にわたり強調している事実も注目に価する(原審第11回口頭弁論調書)。以上、生活保護行政の直接ないしは間接の責任者の見解に依拠してもなお、原判決の前示所論の誤りは明白といわなければならない。

(三) 保護基準と保護請求権の権利性
[22] 旧生活保護法(昭和21年法律第17号)は慈恵的色彩が強く、必ずしも国に対して最低限度の生活を保障する保護の実施を請求する積極的な権利を一般国民に与えているものと解し得なかつたのに反し、現行法は、その第2条において無差別平等の原則を確立し、第3条によつて保護の内容が「健康で文化的な生活水準」を維持するに足るものでなければならない旨を明示し、さらには第64条以下の不服申立手続を整備することにより、いわゆる保護請求権の具体的権利性を明確にした。この点は旧法との対比における現行法の最大の特色として、政府当局者の立法趣旨説明等において屡々強調されてきたところである(第7国会昭和25年3月25日衆議院厚生委員会における厚生大臣の提案趣旨説明、同年4月22日衆議院本会議における厚生委員会委員長報告、或いは甲第137号証)。右のごとく一般国民に与えられた保護を請求し得べき地位の具体的権利性が確立されたことの当然の帰結として、生活保護関係費は「義務費」の取扱がなされ、万一当初予算で賄いきれぬときは予備費を流用してでも無条件にその支出がなされるべきものとされている(原審証人河野一之、同小沼正、同木村禧八郎、同小沢辰男の各証言、あるいは甲第139号証の2、第26回参議院社会労働委員会会議録第9号1頁の国務大臣答弁)。即ち、生活扶助費はたとい予算が不足しようとも或いは国家財政が如何なる状況にあろうともそれを理由に法律上その支払を拒絶することは許されないものとされており、この点では例えば国家賠償法等に基づく国の損害賠償債務と何等本質を異にするものではないといわざるを得ない。生活保護費が義務費として取扱われているということは、一定の予算の枠の制約の下にその基準額が定められることなく、むしろこの場合予算額はこれとは別箇無関係に決定された必要基準額の単なる積算予測にしか過ぎないことを意味する筈である。しかし、仮に、予算財政を考慮しつつ保護基準を決定することが許されるとすれば、生活保護関係費が結局全体として当初予算の枠内におさまるよう如何様にでも操作が可能となり、これを義務費としたことの意義の大半は失われる結果となる。例えば、公務員の不法行為による国家賠償の場合に一方ではこれを義務費として扱いながら、他方賠償額を算定するに際しては、国の財政事情を勘案してその額を適宜左右するとしたら、その不当性は何人の目にも明らかであろう。けだし、保障基準の算定に際し予算財政事情による制約を考慮に入れることは、保護請求権の権利としての実質を脅かし、ひいては、これを具体的権利として定立した現行法の趣旨を没却する虞が多大であり、この点においても原判決の見解は失当だといわなければならない。

(四) 憲法第25条と生活保護法の解釈
[23] 憲法第25条第1項は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定し、さらに同条第2項は「国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定している。この憲法第25条第1項は国に対しすべて国民が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるように積極的な施策を講ずべき責務を課して国民の生存権を保障し、同条第2項は同条第1項の責務を遂行するために国がとるべき施策を列記したものに他ならない。
[24] 上告人は、右憲法第25条は単なるプログラム規定に止まることなく、少なくも、この生存権の実現に努力すべき責務に違反し生存権の実現の障害になる国の積極的行為を無効にする効力を有するものと考えるのであるが、この点は今暫くおくとしても、右規定が政府に対し、生存権保障を国の最も重要な政策とし積極的に推進すべき責務を課していることは論を俟たない。かように、国が生存権保障のための施策を優先的に推進すべき責任を負つているということは、当然右諸政策の実施に不可欠な国家予算の編成及び施行の面においてもまた、生存権保障の実現に努力すべき憲法上の義務を課せられていることを意味する。
[25] ところで、広い意味での生存権保障のための施策としては種々考え得るとしても、通常は憲法第25条第2項に列挙されている社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上推進の3つを指すことは明らかである。その中で最も主要なものとされているのが社会保障制度であることは何人も異論のないところであろうし、さらにその中にあつても生活保護法に体現される公的扶助制度が社会保障制度の根幹をなしている事実は、一般的に承認されているところといえよう。このことは、社会保障制度審議会が昭和37年8月22日付の答申及び勧告中において「最低生活を保障する生活保護等の公的扶助は、依然として社会保障の最小限度の、そして最も基本的な要請であるといわなければならぬ。国庫はこのため所要の負担をなすべきであり、この負担は社会保障の分野において最優先すべきである」との指摘を行なつている事実からも明らかである(甲第119号証)。
[26] 果してそうだとすれば、憲法は予算の編成に際して、何をおいても(少なくも、憲法上その支出が義務付られている費用、例えば公共収用に対する正当な補償のための支出、国会議員、裁判官等の報酬等を除いては)、先ず生活保護関係の支出を尊重すべき旨要請しているものといわなければならない。
[27] 即ち、生活保護関係費は国家予算のあり方を指導し支配すべきであつて、その逆ではない。従つて保護基準額を、他の財政支出例えば防衛関係費等との割り振りやバランスに対する顧慮のもとに決定することは明らかに憲法の要請に反することになる。
[28] また同条が最高規範としての憲法条規であることにかんがみ下位規範に対する指導理念或は解釈規範としての意義をもつことは論をまたないが、この点よりしても生活保護法第3条、8条の適用に当り、いやしくも憲法の前記要請に背反するがごとき解釈の許さるべきでないことは理の当然であつて、原判決の前示所論の誤りは明白である。

(五) 生活保護行政の実態とその違法
1 (財政に対する配慮の不必要性)
[29] 生活保護法の解釈として、保護基準を設定するについて予算財政事情に対する顧慮を一切排除すべしとすることは、たとえ国家財政が破綻するといえども、なお保護基準は守らるべしとの非常識な結論を導くものでは決してない。即ち、上告人は、かつて一度として生活保護基準が国民一般の生活水準及びこれを支えている国民所得水準と無関係に決定され得るものと主張したことはない。かりに、保護基準が一般消費水準との対比のもとに定められるとすれば、国民の所得水準が極めて低く、従つてその租税負担能力の低い場合にも、ひとり生活保護のみが高度の水準を維持し、その負担のため国家財政が破綻に頻するという虞は存在しない筈である。要するに、財政予算との関連が否定されてもなお一般生活水準というパイプを通じて生活保護基準と広い意味での財政全般とのつながりは保たれているのであつて、国家財政の健全な運営という見地からしても、保護基準に対し財政政策による制肘を加えるべき実際上の必要は毫も存在しないというべきである。
[30] それにもかかわらず、政府は、従来保護基準の決定につき単に一般国民生活水準を参酌するだけに止まらず、否、むしろ一般生活水準の顕著な上昇にもかかわらず、これに伴う保護基準の引上げに対してさえ、以下にのべるように予算財政事情を理由に制肘を加えてきたのが実情である。
2 (法第3条第8条運用の実態)
[31] さて、原判決は保護基準と国家財政との関係の現実に触れて、つぎのように述べている。
「当時の国家財政中における社会保障に充てられた金額は当時の政府における当該行政担当者及び財政担当者が検討の上他の各種財政上の支出との間に均衡が保たれるように考慮して立案されたものであることが認められ、特に社会保障費につき一定の必要額を認めながら、ことさらにそれを必要以下に削減したものとは、証拠上は認められない。」
[32] ここで、原判決は社会保障費といつているが、具体的には生活保護関係費を念頭においていると思われる。ところで、社会保障費が原判決のいうように、各種財政上の支出との間の均衡を考慮して定められているということは、結局、社会保障費或いは生活保護関係費の積算の基礎となる保護基準もまた、同様に財政上の制約を決して免れていないことを意味する筈である。原判決は、「一定の必要額」をことさら削減した事実は認められないというが、保護基準に対する財政上の制約が「一定の必要額」が厚生大臣によつて明示されているに拘らず、あえて財政上の理由を付してこれを公然と削減するという形態をとつて表れることは政治の常識からいつてありうべくもないのであり、むしろ、問題は本来必要とされる金額を財政に対する配慮から不必要と認定してしまうことにある。そして、現に、マーケツト・バスケツト方式には常に右のような恣意的認定ないし理由づけを可能とする非科学的不合理性ないし欠陥が包蔵されているのである。即ち、原判決もマーケツト・バスケツト方式が費目・数量の選出に主観的要素がはいりやすいという欠陥のあることを認めているし、かつて厚生省社会局保護課課長補佐として、保護基準の算定の直接の担当者であつた原審証人小沼正も、同方式は必要品目、数量について議論のわかれることが多く、ことに飲食物費以外の費目について水かけ論に終ることが少なくない旨証言している。例えば、本件日用品費について、いずれも、マ・バ方式による第13次改訂基準と第14次改訂基準との必要品目、数量、単価等を相互に比較検討してみるならば(上告理由第三点二3参照)、マーケツト・バスケツト方式による基準算定の恣意性は一層顕著であり、おそらく、右両基準相互間にみられる必要品目、数量、単価に対する評価の喰い違いについて全て合理的な説明を付すことは何人といえども不可能であろう。
[33] さて、右のように必要品目の撰択等について当事者の主観によつて左右される領域が極めて大きいということは、たとい生活保護行政の担当者が本来必要と認めて積上げた品目、数量も、財政政策上出来る限り生活保護予算の増大を抑えたいと考えている財政担当者の主観からすれば大巾に不必要とされ削減されるおそれないとしないし、かように当初から立場を異にする者に対し、個々の品目、数量等の必要性を絶対的に論証することは、少なくもマーケツト・バスケツト方式のもとでは至難のことに属するであろう。
[34] 現に前記小沼証人はその間の事情についてつぎのとおり述べている(原審第10回)。
(被控訴代理人)「具体的な予算の事を聞きますが、厚生省で予算を組まれて、予算要求を出しますね。その出し方というのは、前年度を飛躍的に増加しないで、やるわけでしようね。」
(答)「飛躍という場合は、むしろ、物価と生活水準の上昇というものにみあつて、考えていくというのが基本的です。」
(被控訴代理人)「その予算要求が大蔵省で審査されますね。減らされる事はありましたか。」
(答)「議論の段階で最後にどこかで話が落ちつくわけですが、入れるか入れないとかいう議論はいつでもやつていたわけです。」
[35] 右証言はやゝ明確な答弁を避けようとするきらいなしとしないが、それでもなお、結論的には基準決定の実際は予算接衝の段階で財政当局とある品目を基準に入れるか入れないか、即ち各基準費目毎にその必要性の有無について議論がなされ、その結果最終的にはどこかで妥協がつき、換言すれば必ずしも全面的に厚生省の主張どおりとはいえない線で基準額が決まるのが常態であることを示唆しているものといえよう。
[36] さらに、極端な場合になると、マーケツト・バスケツト方式は基準算定の尺度としての実質的な意義を全く失い、予め政治的に決定された金額に対しもつともらしい説明をつけるための単なる道具に堕ちてしまつていることも少なくない。例えば、昭和32年の第14次改訂は第13次基準を6.5%引きあげたのであるが、その経緯について当時の神田厚生大臣は、同年3月16日の第26回参議院社会労働委員会において、大要つぎのように語つている。(甲第139号証の3、同委員会会議録3頁)。
「昭和32年は公務員の給与ベースが6.2%アツプになつたので、生活保護基準もこれに比例して上げるということで、大蔵省との事務折衝が行なわれていた。しかし、たまたま、当時の石橋内閣が社会保障に大きく乗り出そうとの旗じるしを掲げていたので、厚生大臣自身が大蔵大臣に交渉して、非常に長時間議論した結果、公務員より0.3%だけ余分に上げるということで了解がついた。その金額の理論的根拠といわれるが、要するに折衝の過程で(適当に決つたということで)御了解願いたい。金額が決つてから後に社会局長にこれを説明できるような理論的根拠を作つてくれぬかと頼んだ訳である。」
[37] さらに、厚生省の刊行している「生活保護の諸問題」(甲第138号証)中以下の如き記述からすれば、右昭和32年度のような事例が稀有の例であるどころか、むしろ、常態であることが窮われるのである。
「現行生活扶助基準額の算定は、社会的貧乏線をどこに設定するかという事情によつて左右され、この内訳をマーケツト・バスケツトという方式によつて組立てている現状である。言葉をかえていうと、内訳は金額算定の基礎数値、すなわち予算積算の基礎であり、これは予算編成及び予算執行技術上からの形式的要請にすぎないとも考えられる。……従つて結局生活扶助基準についての問題は、その内容よりもむしろ基準額総体として把えられることになる。」(260頁)
「而うして、この保護基準額は最終的には、国家財政の中から生活保護費はいくら支出できるかということ、貧困階層のうち何人を保護の対象とするかということ、最後に社会経済労働諸事情とこれが対策はどうなつているかということに帰結される。すなわち政策が先行し、而る後基準額はどれ位にすれば、財政支出として負担可能の範囲内で賄うことができるかという社会的貧乏線としその基準額が設定されることになり、これを如何に合理的に組立てるかという問題になる。そうして、社会的貧乏線と科学的貧乏線との歩みよりないし接近が、終局的には真の意味での科学的、合理的な基準設定の可能性として存在する結果となるであろう。」(271頁と272頁)
[38] 即ち、保護基準額と生活保護予算との関連を単純化すれば、
保護基準額 × 対象人員 = 予算額
との数式で表わすことが不可能ではないが、ここにおいては、先ず予算額が政策的に決定された既定のものとして扱われ、後は保護の対象となる貧困階層の人員との相関関係によつて基準額が決定されること、従つて、マーケツト・バスケツト方式その他諸々の生計費理論は、かくして既に決められた基準額に一見科学的合理的な根拠を付与するための手段にしか過ぎない旨の見解が大胆卒直に表明されている。右文書が厚生省社会局保護課長編にかかる公的刊行物であることからして、生活保護法運用の実体がほゞ右の見解に従つてなされていることは推測に難くないが、そうだとすれば、法第3条の最低生活の水準は、第一審判決のいうように、国の予算を指導支配するどころか、逆に財政々策に全面的に従属しているといつて過言ではない。
[39] 基準設定のための作業の実態は、前示のような一部当局者の言動から窺知るより以外には、部外者にとつて必ずしもその詳細はつまびらかではないが少なくも、新聞等に報道される毎年度予算折衝の経緯に徴しても、厚生省=厚生大臣、即ち生活保護法第8条の規定により保護基準の決定権者が必要と認めた基準額が財政当局即ち大蔵省の手によつて大巾な削減を余儀なくされることの決して稀でないことは明らかである。
[40] 例えば、昭和32年度政府予算案の編成過程をみると、当初厚生省側は生活扶助費総額にして前年度対比42億円の増額、率にして約20%強の基準額引上の必要を主張したのに対し、大蔵省原案はこれを金額にして10億円、引上率5%に削減し、その後折衝を重ねた結果最終的には、まさに既に引用した神田厚相の国会答弁にみられるような経緯で、引上率6.5で落着をみている(朝日新聞昭和32年1月15日、同年27日版参照)。また、最近の例でも、昭和37年12月12日付朝日新聞には、厚生省の基準額22%引上案に対し、大蔵省議は8%を主張している旨の、また、同新聞昭和38年12月28日版には、同じく厚生省案22.35%に対し、大蔵省が10%の引上率しか認めなかつたことを厚生大臣が大いに不満としている等の記事が見受けられるところである。
[41] 本来生活保護基準は、厚生大臣がその責任と判断に基づいて独自に決定すべきが法の趣旨であるにもかかわらず、以上の如く厚生省当局が、その設定に先立ち予め財政当局にその金額を内示してその意見を聴き、さらには、その意向に従つて、自からあるべき基準額として算定した額に修正削減を加えるに至つては、明らかにそのこと自体生活保護法第8条、第3条にひいては憲法第25条違反の評価を免れ難いのはもとより、実質上以下にのべるように生活保護水準の著しい劣悪化を招来しているのである。
3 (一般扶助水準の劣悪性とその違法)
[42] 昭和31年当時の一般生活扶助水準の劣悪性は、既に上告理由書第三点一、(二)において詳細に指摘したが、ここで特にとりあげておきたいのは一般世帯の生活水準との対比である。
[43] 現行生活保護法の制定のきつかけとなつた昭和25年の「社会保障制度に関する勧告」に際して、生活保護水準は、標準世帯の生活水準の少なくも50%以上であることを必要とするというのが社会保障制度審議会の委員全員の一致した意見であつたといわれる(小山進次郎「生活保護法の解釈と運用」28頁)。ところが、現実の生活扶助基準額は、昭和25年当時一般消費水準(C.P.S1ケ月平均FIES消費支出額)の僅かに約36.9%に過ぎず、前記審議会の要請する50%にも遥かに及ばない状態であつた。右審議会勧告の50%という標準が無視された原因がいわゆる財政事情に対する配慮にあることはいうまでもない。一般国民の標準的あるいは平均的な生活保護水準がどの程度であるべきかということは、にわかに決し難い問題であるかも知れない。しかし、一般国民の生活が極めて高度の水準にあつたのならともかく、我が国の当時の国民生活の現状を考慮するならば、保護基準は最小限度平均水準の50%を下廻ることは許されないとする見解は誠に正当だといわなければならないし、またそれが審議会委員の全員一致の意見であることからも明らかなように、おそらくは最も異論のないところと思われる。それにもかかわらず、昭和25年当時の生活扶助水準が一般水準の40%にも達していないことは、現行法制定当初から既に基準額が極めて低水準であつて違法との評価を免れがたい状態にあつたことを示すものに他ならない。
[44] この点、当面の担当者であつた社会局長が国会において、一般世帯、家計のエンゲル係数62%という数字を援用して苦しい弁解を試みている事実は既に紹介した。右見解の当否は極めて疑問であるが、仮にこれに従つたとしてもなお、現行法制定当初から既に基準額の不十分性は明らかに認められており、将来一般水準或いはエンゲル係数の向上に伴い、当然扶助水準もこれに比例して上昇すべきものとされていたことは明白である。さて、それでは、現行法発足後の一般生活水準と基準額との関係は如何なる状況にあるのであろうか、果して、一般水準の上昇に歩調を合わせて基準も向上しているのであろうか。答は否である。即ち、生活扶助基準額とCPS1ケ月平均FIES消費支出額との対比では昭和25年当時前述のように前者は後者の36.9%であつたのに対し、26年5月には39.7%、27年5月には42.8%と一時上昇を示したものの、28年の第13次改訂基準当時は33.5%に下がり、32年の第14次改訂当時34.5%とやや上つたものの34年の第15次改訂の際には30.9%にまで下降している。現行法制定後1、2年のピーク時に比較すると実に10%前後もの水準低下である。(甲第70号証表6)。これを単なる基準額でなく実態生計費の面で比較しても、被保護世帯のそれは、一般勤労世帯の生計費の昭和26年当時52.5%であつたのが、32年には36.3%とこれまた16%強の格差の増大が生じている(甲第124号証)。これをエンゲル係数でみても第13次基準額中における飲食物費の割合は計算上67%、第14次基準では、64.7%と、前記の国会答弁にいう25年当時の75%よりは向上を示しているが、その間、一般世帯の方は昭和25年の62%から昭和30年当時既に44.5%と遥かに著しい進展を見せており、25年と30年との間に前者が8%程度の減少を示したに止まるのに対し、後者は17.5%も減少するなど、ここでも減少の程度において10%からの差が開いている(甲第145号証)。実態生計の面でも、一般世帯のエンゲル係数が昭和22年の66%前後から昭和25年62%、昭和34年頃には40%以下へと順調に低下の一途をたどつたのに対し、被保護世帯の方は、昭和26年までは同じくおおむね順調に下つて60%を切つたが、以後は60%前後のまま停滞しているとの評価がなされている(甲第141号証、同第115号証)。
[45] 以上、一般国民の生活水準と生活保護水準とのシエーレが逐次拡大する傾向にあつたことは、多数の公的資料も指摘もしまた警告も発しているところである。
[46] もつとも、仮に、現実の生活扶助基準額が科学的合理的見地からみて十分健康で文化的な生活を維持するに足る金額に既にして達していたと認められるならば、或は右の水準を超えてまで、さらに一般消費水準上昇がなされなくとも敢て違法というに足らないかも知れない。しかし、生活扶助水準が決して科学的にみて「文化的」とは勿論、「健康的」とさえいえない状況にあつたことは前示のように上告理由第三点に指摘したとおりである。因みに、2、3の例証をあげるなら、第13次改訂基準の生活扶助費額は、科学的な調査研究の結果、これ以下では体力、健康状態或は知能指数等の著しい低下が避け難いとされる生活水準をはるかに下廻つていることが実証されているし(甲第22号証及び藤本武の第一審第11回口頭弁論期日における証言)、昭和32年の名古屋市内における生活保護世帯の栄養調査によれば、保護世帯の現実の摂取熱量平均は、栄養基準量の6割3分にしか当らず、動物性蛋白に至つては僅か必要量の2割8分に過ぎず、栄養面からすれば刑務所の食事より劣つているとの結果がでていることは極めて重要である(甲第153号証)。右の調査は限られた範囲のものとはいえ、保護世帯全体の栄養状態を窮わせるに足るものであるし、全国的にみても、例えば第14次基準の場合、基準額計算上のエンゲル係数は64.5%であつたのに対し、被保護者中の都市勤労世帯家計の実態エンゲル係数は56.2%と実態の方が小さくなつている、これは基準のうえでは他の費目が必要額以下に圧縮されているため、実際には食費を削つて食費以外の他の費目にまわさざるを得ないことによるものであるが、もともと基準の飲食物費とて決して余裕がある訳でなく、低廉な食物を撰択して調理法を工夫してかろうじて所要栄養量の摂取を可能にする程度のものであることを考えると、さらにその金額を1割以上も下廻る現実の食費額では到底所要の栄養を摂取できないことは自明であろう(甲第70号証)。右のようなエンゲル係数に関する基準との喰違いは、単に第14次改訂基準だけの問題でなく、例年しかも全国的な統計の上で存在しているところからして、基準そのものの適否にかかわる本質的な問題というべく、これを単に被保護者の生活上の努力の不足に帰することの許さるべきでないのは当然である。
[47] 以上のように必要栄養量さえ欠く生活保護世帯の生活状態は、たとい如何なる見地からしても、到底文化的で健康な生活水準に達しているものと目し得ないことは明白であるが、そうだとすれば、如何に控え目な立場をとつたとしてもなお、当時一般国民の生活水準の上昇に十分比例する基準額の引上げは、絶えずこれをなすべきが現行法制定当初から予定された被上告人の当然の義務であつたといわなければならない。
[48] しかるに、昭和26、7年以降保護基準は依然として、少なくも健康的な水準にさえ達しないまゝで、しかも、一般国民生活の著しい進展に即応することなく、一般生活水準との格差は増上する一方の状態に放置されてきたのである。これは、被上告人の怠慢か、さもなくば、基準引上に対する財政当局の前述のような制肘以外に原因は考えられない。
[49] しかしながら、国民一般の生活水準も低く、従つて、これに対応する所得水準、ひいては租税負担能力も必ずしも良好とはいえない昭和26、7年当時でもなお、一般生活水準の平均の40%程度の生活水準を維持するに足る扶助が現に可能であつた以上、それよりも、はるかに生活水準、所得水準も上昇し従つて租税負担能力も増大している筈の、例えば昭和31年当時において、少なくも、平均水準との対比割合において、昭和26、7年頃と同程度の水準の扶助を行なうことが、国家財政に対し、改めてその適否が問題になる程の重大な影響を与えるものと考えるべき何等の根拠も想定し得ない。それにもかかわらず、保護基準の適正な引上が確たる合理的な根拠もなく阻止されてきたのは、まさに前項で指摘した保護基準に対する財政政策の不当な支配の悪しき結果に他ならず、その弊害は顕著だといわなければならない。

(六) 結論
[50] さて、既に指摘したように原判決は、本件日用品費の引上げは、一般生活扶助水準の引上げと不可分の関係にあるところ、一般生活扶助水準の引上げが相当程度国庫の負担増を招来することを理由に、本件日用品費額につき違法の判断を躊躇するもののごとくである。
[51] しかし、原判決のいう一般生活扶助基準自体も昭和31年当時、保護世帯の生活実態の面においても、また、一般国民の生活水準との対比においても、法の要請する最低水準に達しておらず、そのまゝでは違法の評価を免れ難い状態にあつたことは、既に論証したとおりであるから、当時において一般扶助水準の引上げを躊躇すべき理由は毫も存しないと言わなければならない。
[52] なる程、生活扶助水準の引上げが国庫の財政支出を伴うことは当然であり、また、国家財政の中で生活扶助予算がどの程度の割合を占めるのが適当かということは司法裁判所の決すべき問題ではないであろう。しかし、現行法は、生活保護請求権の権利性を確立し、またその実質的保障として第3条の規定を設けるに際し、そのための所要の負担は国庫において無条件になすべき旨を当然の前提としていることはいうまでもなく、それにもかかわらず、敢て、本来立ち入るべきでない財政問題を考慮の対象とした原判決は、司法裁判所の態度として正当ではない。また、保護基準の司法審査に際して、少なくも一般国民生活水準との関連にさえ十分留意するならば、健全な国家財政の運営に破綻をきたすが如き結論に導く虞は想到し得ず、そのほかになお財政問題を顧慮の対象となすべき実際上の必要の認められないことは既に論証したとおりである。
[53] 因みに、西独の練達の裁判官が公的扶助請求権の問題に関連して、つぎのように述べているのは傾聴に価する。
「有効な法規範を尊重することより、財政的考慮の方を優越させることは、いかなる場合にも法治国家の観念と一致しないものである。」(Mueller, "Die Frage des Rechtsanspruches des Hilfsbeduerftigen auf oeffentliche Fuersorge" Recht der Arbeit, 1952, S.134 なお、著者は当時西独ヴイースバーデン行政裁判所のデイレクターであつた。)
[54] けだし、一方では法律にたとい最低限度であるにせよ「健康で文化的な生活水準」を保障する旨何等の留保も付さず明記しておきながら、他方では財政の都合次第では、右最低水準の需要を充すに足らない基準額もまた違法とならないとすることは、まさしく羊頭を掲げて狗肉を売るの類というべく、法治国家の政府のとるべき態度ではないとともに、況んや、司法裁判所において、かかる行政庁の誤つた態度をかりそめにも擁護することのあつてならないのはいうまでもないところである。
(一) 原判決の論理
[55] つぎに原判決は、
「生活保護のための費用は、納税を通じて国民が負担するものである以上、保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれと無関係に定め得るものではなく、またその時期における国民の生活水準、文化水準の程度も当然対照されなければならず、国民感情も無視することはできない」
とし、
「昭和31年当時、生活保護を受けている一部の者の生活が保護を受けていない多数貧困者の生活より優遇されているのは不当であるとの国民感情も一部に存在していたこと」
が甲第39号証、乙第11号証、原審証人河野一之、同今井一男の証言により認められるから、
「このような国民感情が一部に存在することをも参酌するとき、本件日用品費の基準が、単に頗る低額に過ぎるとの比較の問題をこえて、さらにこれを違法としてその法律上の効力を否定しなければならないことを裁判所が確信をもつて断定するためには、その資料は、……本件口頭弁論に顕出された限りにおいてはなお十分でないといわなければならない」
と判示している。これを要するに、原判決は、生活保護基準の当否を考える場合、国民感情を度外視することはできないと言うのであるが、原判決の意味する国民感情とは、生活保護を受ける者がこれと同程度の生活を営む非保護国民より優遇された結果となるのは好ましくないとの感情、端的にいえば劣等処遇の原則を指すものに外ならない。

(二) 原審挙示の証拠の検討
[56] しかしながら右のような原判決の論理は生活保護法や憲法第25条の趣意に照らしても、また事実に照らしても、大いな誤りであり、生活保護法の解釈運用の上で極めて危険な謬見と言わなければならないのである。まず事実の面で原判示がどのような誤りをおかしているかを明らかにしよう。
[57] 第一に、原判決は、尨大なボーダーライン層が存在することを肯認できる証拠として乙第11号証(昭和31年、「厚生行政基礎調査報告」)をあげているが、この統計調査報告は上告人が原審昭和38年7月8日付準備書面第一の二の(二)の(2)の(ハ)で指摘したように、昭和31年3月における東京都の低消費世帯の現金支出をもとにした統計調査であり、多くの仮定と既成の統計をもとに推計されたものである。たとえば右調査による農家支出額と一般的な農家経済調査との開きが殆ど1対2の割合であることや、現物支出の割を昭和27年の統計にもとづいて全体の14パーセントであることを前提とし、さらに東京都における統計調査をこれに10,649倍して全国推計を行なつているのであつて、推計自体かなり思い切つたものであるうえ、何といつてもこの統計調査は低所得層のそれでなくして低消費、低支出層のそれである。したがつて推計の結果得られた数字をそのまま確定的なものとして原判示のように「昭和31年当時生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいた国民だけでも1000万人に近かつた」と認定してしまうことは、そもそも問題であり、ことに農家等の場合、収入所得がかなりの水準に達していても、生活様式、生活慣習によつて低い消費支出で生活するものが相当存在することは一般通念も認めるところであつて(原審氏原正治郎証言)、消費水準即所得水準とみることは大いに問題とされなければならないのである。まして、一般の生活者と被保護生活者との生活のあり方には、そのゆとりの点において非常な懸隔があるのであつて、後者が厳しい収入認定制度のもとで家計の規模を保護水準ぎりぎりの現金収支に限定されるに比して、前者の場合は何らの規制なく生活努力による所得増加や、借金、アルバイト等の臨時収入もすべて自由とされていることを見逃してはならないのである。(以上、証人氏原正治郎、小川政亮らの証言、甲第110号証ないし同第116号証、同第135号証等参照)。
[58] また第二に、原判決がさきに示した国民感情なるものの認定証拠としてあげる証人今井一男、同河野一之の各証言を仔細にみても、たとえば今井証人は、控訴代理人の
「憲法25条の健康にして文化的生活というのは相対説においては、社会経済の進展、国民の経済力ですか、財政とか物価とか、国民感情なんかはいかがですか。」
という問に対し
「国民感情も、勿論一つの要素になると思います。要するにあの25条の約束は、国民がお互いに税金を出しあいまして、この線以下の生活水準の人をなくそうという約束と私たちは理解いたします。その意味において、負担する方のものの考え方、それらの人たちの生活水準というものがこれにひびいてくる。それが私どもの相対説という立場であります。」
と答えて、原判決のいうような劣等処遇の原則よりもいわゆる納税者感情を考慮せざるをえぬことを述べているに止まり、また河野証人の場合も、
「ボーダーライン層の人より被保護者を優遇しないことは当然であります。」
と極めて簡単粗略で論証のない証言をしているに過ぎない。
[59] 原判決がこれら抽象的で論証に欠けた証言から、さきのごとき大胆な判示をあえてしたのは、右両証人が政府や関係機関の高官であつたためその証言の信用性を高く評価したものとしか考えられないが、それはともかくとしても、少なくとも右の程度の証言から原判決のごとき断定をするには、この点に関する反証ないし否定的証拠についてもこれを採用すべからざる所以を示すべきであつた。
[60] たとえば原審小川政亮証人は、控訴代理人(家弓)の、
「生活保護の金は国民の税金でまかなつているのですが、税金を出している国民の感情は考えないでいいというのですか」
という反対尋問に対し
「そういつた血税論は、明治時代のはじめからあるわけですが、足立区の調査でもいつておりましたが、今まで自分で働いて生活してきたのが戦争とか失業とか過労による病気のために保護を受けるようになつたのであつて、今まで税金を払つてきたのは、保護を受けるときも当然受けられるために払つてきているのだという考え方が出てきておりました。」
と答え、また裁判長の
「戦争直後のように国民全体が栄養なんか不足する程度にしか得られないというような場合を仮定して、生活保護がある場合には保護受給者については、国民より高い保護を与えなければならないということになるのですか。」
との補充尋問に対し、
「その段階において健康で文化的な最低限度の生活はこの程度だということで、それを考えていかなければならないと思います。」
と答えており、要するに右証言は、血税論なるものは明治初期の古くから存在して保護水準の向上を抑える要因となつており、むしろ正しくは被保護者をふくめた国民から税金をとつてきたのは憲法の趣旨にそつて大砲よりバターに、つまり社会保障の充実等基本的人権の保障を全うするためであると考えるべきことを示唆しているのである。
[61] このほかにも木村禧八郎証人は、控訴代理人(家弓)の
「そういうボーダーライン層と被保護者と比べてどつちが苦しかつたかおわかりになりますか」
との質問に対し、
「生活保護を受けている人より受けていない人が苦しい場合があります。生活保護を受けるのは、ケースワーカーが生活保護をうけるべきだといつてきめられているわけですが、生活保護はボスなんかの関係でうける人もあるわけです。実際に困つてうけなければならない人も条件が厳しくて受けられない人もあつて、保護を受けている人が楽で、受けていない人が苦しい場合もあります。」
と答え、さらに、
「仮に1千万人近くボーダーライン層の人達は自分の力で営々として働きながらも低所得で苦しいのだと思いますが、国民の税金で保護されている人を1千万人の人以上に優遇するということは公平の面、又は国民感情からどうでしようか」
との問に対し……
「それは常識問題ですね。ボーダーライン層をもつと上げたらいいでしよう。それを上げることによつて生活保護者も上げたらいいわけでしよう。自分は働いているのに、生活保護を受けて楽をしている人があるという苦情は聞いておりますが、生活保護をうけている人もボーダーライン層も低過ぎるのだから両方上げたらいいわけでしよう。」
と証言し、また天達忠雄証人も、この点の考え方について、米連邦政府顧問のシヤルロツト・トール博士の著書を引用し、
「民主主義の下では、全ての人達がつまり生活が保障されなければならない。この場合に本件は勿論、働く義務があるわけですけれども、何かの理由で一時的あるいは恒久的にそれが失われる場合には社会あるいは国家が、その人に協力をして、そして人間らしい生活が営める様に援助をしなければならないという、それが民主主義のルールだというふうに述べられております。」
と述べている。
[62] また木村証言を裏うちし、原判決のいう国民感情の起こつてくる原因を明らかにするものとして、甲第113号証(西原道雄「生活保護と国民の権利意識」雑誌「法社会学」第6号61頁以下)が、
「『困つてなくても保護を受けている人がいるのに非常に困つていて扶助を受けていない人もいる』等と情実や不公平に対する非難は非常に多い。しかし、この調査に関するかぎりでは、生活に余裕があつてしかも扶助をもらつているような人は見当らなかつた(第2表参照)。『同一生活程度で扶助をとれない人が悪くいう。』というある被保護者の言葉が適確に示すように、現行保護生活基準すれすれの同じ程度に生活に困つている者の数が非常に多くて、しかもそのごく一部しか扶助を受けていないという事実が、このような問題の起こる最大の原因だと考えられる。」
と指摘し、さらに正しい国民感情に触れて、
「被保護世帯をかこむものは、しかし非難や軽べつばかりではない。世人は被保護世帯に対して『割合理解がある。ことにこの辺では。』『寮の人たちは割合理解している。』等、理解や同情があるという答が半数近くを占めたことは、今後の方向を示すものとして注目された。
 これを裏書するかのように、保護を受けていない方の人たちからも『本当にこういう人は困つているのだからこのような制度(生活保護制度等)を拡大すべきだ』等の意見が数多く出されている。情実や不公平があるのではないかという疑念をもつている人たちでも、『本当に困つている人はどんどん扶助すべきだ。』ということは声を揃えて強調している」
と述べていることを見逃すことはできない。

(三) 原判決の誤り
[63] のみならず、原判決が断定したような劣等処遇の感情が甚しい時代錯誤であり、生活保護水準の向上を抑える論理としてのみ役立つて結局現行生活保護法の趣旨に背馳するものであることは、控訴人側自身の立証等のなかにも窺われるのである。
[64] たとえば原審小沼正証人は、控訴代理人より、
「保護基準を決めるについては、このようなボーダーライン層の生活実態を参考にして決めてあるわけですね」
と質問されて
「……で、むしろそういうものを決めていく過程で、この尨大な低所得者階層が問題になるのは、英国の例を引きますと、非常に低い階層(について)最低賃金制なんかが確立しない当時に、こういう基準を決める場合に、1つの原則が出ております。これは Less Eligibility 劣等処遇の法則と呼んでおりますが、非常に低い階層がある。しかも最低賃金制が確立していない時は、働かない者は、働く者よりも劣つた生活でなければいけないという原則が、一つこれは政策として打出されているんです。これは政策として打ち出さなくとも当然国の行政の場合に潜在する原則になる。……(最低)賃金制が確立すれば、消えるわけですが、そうでない限りは、今の様な原則がないと、逆に保護基準を高くしておきますと、いろいろな不平が現在でもまだ出てまいりますが、例えば自分たちは、あくせく働いてひどい目にあつているけれども保護世帯は、ぶらぶらしているじやないかというふうな表現を使われた場合もありますが、そういう均衡がとれないわけです。」
と劣等処遇の原則が最低賃金制の確立(わが国では労働基準法立法の当初からすでに予定されているが政府の怠慢と業者の抵抗でいまだ部分的にしか行なわれていない)の前に消えてゆくべき前近代的な思想であることを間接に自認し、さらに、
「政府の方針によつて、この年度においては、こういう方に重点をおこうということで上つたことはありませんか。」
との質問に対して
「あると思います。先ほどの英国のことで申しますと Less Eligibility の法則はなくならないといけないと人として低所得者を考えなければならないということは日本の場合にもあつたと思います。……むしろそういうふうにしなければ行政が一般の是認を受け入れられない、社会保障に重点をおくということが世の中一般に認められた。そういう変り方が反映したものだというふうに考えております。」
「単なる変更というよりも、むしろ社会福祉に対する考え方、或いは人間に対する考え方が……進んだものだというふうに考えております。」
と答えて、今日の生活保護法のもとでは、生活保護制度のとらえ方が、低所得者を人間としてとらえ、その生活を人間の名に値するものとしなければならない。政策的に劣等処遇の原則をもちこむことを許さないところまで進展してきていることを認めているのである。
[65] しかも、同証人がいうような劣等処遇の観念が誤りであることは、一つには、被保護世帯は決して非稼働世帯ではなく、むしろ昭和34年当時で稼働世帯が全体の56パーセントを占め、その他の世帯は傷病者世帯、高令者世帯であること、また最低生活に必要な経費のうち、約55パーセントは被保護者の収入によつて賄われており、この収入は若干の年金収入等を除いては、すべて働きによつて得られたものであること(以上甲第115号証、厚生省刊行「生活保護基準の引上げは惰民の養成にならないか」参照、その他この点に関する証拠は天達忠雄証言その他多数提出されている)、また一口に被保護者と同等の生活レベルの者が1千万人といわれるが、「昭和33年における一般世帯の最下層(FIES世帯5分位層のうち第1階層)と被保護世帯の生計費を比較すれば、被保護世帯は一般世帯の最下層の57パーセント程度の実支出となつている」こと、「また一般世帯のエンゲル係数は、昭和26年には52.8パーセントであつたものが、34年では38.6パーセントと漸次低下しているのに対し、被保護世帯ではほぼ58パーセント台で横這いの状態を続けている」こと(以上、甲第115号証)。
[66] 二つには、被保護世帯の生活意識を顧みても、
「ほとんどの人が何らかの形で生活保護制度の存在を知つており、それに関心をよせているにも拘らず、失業や病気などによつて、自分が現実に生活に困つた場合には多くの人はまず兄弟や親に相談している。またほとんどの人が『収入が皆無で一家心中の手前まできて』等と、せつぱつまつてどうにもならなくなるまでがまんして扶助を受けに行つていないことも事実である。民衆の側の権利意識の成長がまだ充分でないことがその一半の原因をなしていることはいうまでもないが、一方たとえ意を決して申請に行つても、手続は厄介でいやな思いをするばかりか、結局事実上扶助をもらえないことも多いために、制度の現状に対する不信が大きく作用していることも忘れてはならない。」(前掲西原教授「生活保護と国民の権利意識」――東京都足立区における社会調査――55頁)
「生活に困るようになつたからといつて直ちに公の保護を受けにいく人はほとんど見当らない。『収入が皆無で一家心中の手前まできて』等ほとんどの人がせつぱつまつてどうにもならなくなるまでがまんして扶助を受けに行つていない。ついにやむをえず医療扶助を受けたとき、『ここまで落ちたか!』と慨歎した人もいる。現在生活保護を受けていることについても『すまないと思う。人間として下の下の生活だと思う。犬や猫と同じだと思う。自分で働いて生活するのでなければならないが、今のところは仕方がない。子供にも苦労をかけるが早く清算したい。』という意見がある。保護を受けることを恥と考えている以上、『子供には知らせたくない』のも当然」(同右63頁)
であり、結論としては、
「富裕の原因は勤勉であり、貧窮の原因は怠惰及び無能力である。長らく社会を支配してきたこの根強い考え方は、生活に困窮した者に公の扶助を受ける権利を与えることを著しく妨げてきた。……貧民を救助し過ぎ(?)ないように、怠惰を助長しないようにとの配慮は、各国の救貧法の歴史を通じてみられるところである。とくに日本では、封建的身分観および政治権力の絶対主義的性格からして、一般に国家と国民の間が権利義務関係によつて規律されることはほとんどなかつたうえ、公的扶助に対してはマルサス流の自由放任論からする反対の影響もあつて、困窮者に扶助を請求する権利を与えるどころではなかつた。『怠け者は扶助しない』ことは当然の前提であつた。
 『貧乏人には怠け者が多い。』この考え方は政治的支配者だけのものではなかつた。それは実定法上困窮者に保護請求権を与えることを困難にしたばかりか、公の扶助を受けようとする者がそれを権利として意識する上にも大きな障害となつてきた。実定法上明確な保護請求権のある今日でも、これを権利として積極的に主張しない者が多い原因の一つは、貧困に陥つたのは自分の責任だと考えているからではなかろうか。生活に困るのは『働きがないからだ』と家族にもいわれ、自分でもそう思いこまされている者はまだ多い。しかし貧乏が稼ぎをどんどん追いこし、『働けどわが暮し楽にならざり』という言葉が実感をもつて迫つてくるようになると、事態は若干異なつてくる。まして過労に過労を重ねて病に倒れた人、長年の勤労と貯蓄の結果を空襲で一夜のうちに灰にしてしまつた人にとつては『貧困の原因が怠惰だ』というような単純な論理は通用するはずもない。貧乏の原因が必ずしも怠惰や無能力によるものでないことにまず気づくのは、怠惰・無能力によらないことが明白な原因に基づいて貧困に陥つた人たちである。」(同右67頁~68頁)
のであつて、原判決が想定したような劣等処遇の思想は、現実には
「どん底の生活をしている被保護者が久しぶりに一寸した買物をしたときなど、『保護を受けているくせにぜいたくだ』という激しい非難」や、「『家でおむすびを作つて花見に行つたとき、新しい物を買つたとき、総会等で意見を述べたとき』などに、『人の税金で食つている。』『民生委員の世話になつているのになまいきだ。』などと陰口をきかれたり、『民生委員の出すお金は私達の税金から出ているのだから、大きな顔をして通れまい』と近所の人にいわれた」
などと、きわめて不幸なかたちで被保護者に向けられ、なかには扶助を受けていたが
「あまり近所がうるさいので石にかじりついてもと自発的にやめた」
というごとき事例(同右61頁)さえ少なくないのである。
[67] 右のような被保護者の意識及び周囲の態度に関する事情は、他の証拠からも窺えるところであつて、甲第110号証(新潟県社福協、日社短大共同調査「小地域の福祉問題、1955年」)によれば、被保護者のうち4分の1以上が貧困の原因を怠惰に求め、公的保護を受けることを恥辱と考えており(同右40頁参照)、被保護者達は保護基準が低すぎても、
「固定資産税を滞納するとか、雨もりがしてもそのままにしておくということで住宅費支出を節約したり、着物はぼろのままで我慢したり、何しろ扶助額が低いので、勤労収入も非常な無理をしたりすることを前提として、しかもなお最低生活を支えるのに不足の分は、……あるいは食料品店には借金をしたり衣料を質に入れたり、80才をこえた老婆が近所の畑仕事を手伝つたり手足の不自由なからだで必死に内職をしたり、……寝不足、めまい、肩こりになる苦しみと戦つたりして、要するに人間であることを放棄して、死ぬか生きるかの境でやつと補いをつけている」(同右60頁)
実状にありながら、なお被保護者に対する世間の態度は冷たく、被保護者は
「2、3の例外を除いては、いずれも周囲の人々即ちいわゆる、“世間”の無理解乃至冷たさを訴えている。……『被保護世帯は月給取りだ』ということばが農村にはある。……金銭給付を受けている被保護世帯は殆どが『被保護世帯のくせに、と二言目にはいわれる』といつた意味のことをもらし、『どうしても世間に対して遠慮がちになる』と述べている。……なかには子供が仲間同士でけんかした際、『扶助を受けてるじやないか』とののしられ、帰つて来て、戸をしめて『しよぼしよぼして』いるので、こちらまでもらい泣きさせられたという母親もある。」(同右64頁)
のが実態であり、また甲第112号証(山梨県厚生労働部等共同調査「農村生活と社会福祉第5集」52頁以下)、同第114号証(神奈川県及び同県社福協共同調査「被保護世帯の意識に関する調査」23頁以下)も、ほとんど同じような具体例を示して、被保護者が世間に対して非常に肩身のせまい思いをしていること、1日も早く保護を受けないで済む状態になりたいと願つていることを明確に指摘している。
[68] 三つには、現行生活保護法の趣旨及び当局の運用そのものが、原判決のいう劣等処遇の原則を否定していることが挙げられる。
[69](1) 生活保護法第2条は、「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる。」と定め、さらに同第3条で、「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。」として、およそ生活に困窮するすべての国民は、同法所定の要件をみたす限り、無差別平等に健康で文化的な最低限度の生活の保護をうけうることを明示している。
[70] この原則は、
「働く能力のあるものを保護しないという救貧法では対処できないので、昭和21年2月27日占領軍司令部によつて『公的扶助に関する覚書」が出され、これにもとづいて緊急生活保護要綱が閣議決定されたが、それらのなかで国家責任の原則、必要かつ十分の原則とともに、戦後の新しい生活保護制度の原則の1つとしてうち出されたもの」
であり、旧生活保護法のなかでもかなり徹底はさせられていたが、なお昭和25年制定の新法にうけ継がれてなお徹底充実化がはかられたのであつて、(以上、小川政亮証言)、
「旧法においても保護を受ける者に卑屈感を与えないよう細心の注意が払われたが、所詮それは国の側における配慮の範囲を出なかつた。新法により国民に保護請求権が与えられることになつたので、保護が文字通り国民に対し保障されることとなつたが、……実際上の問題として191万人(昭和25年6月)に達する被保護者の多くは、法律の建前がどう変ろうとも、今なお一種の潜在的卑屈感を捨てきれずにいるに違いない、このような状態にある人々から、かかる圧迫感を取りのぞくことこそ、ケースワークの目的とする部門の一つであつて、この際最も大切なことは、当局側にある者の行き届いた配慮である。……特に世帯の状況に対する考慮を欠き、機械的に就労による所謂自立の強要をするが如きは、無差別平等の原則の極端なる誤解と言うべきである。」(厚生省社会局保護課長小山進次郎「生活保護法の解釈と運用」62頁~63頁参照)
[71] もとよりこの原則は、被保護者がその社会的身分、門地や保護を受けるに至つた事情等によつて差別されないための原則ではあるが、右の解説等からも窺われるように、間接には、保護を受ける者が、保護を受けることなく稼働する低所得者の生活水準より劣後におかれるような取扱いを受けることがあつてはならないことをも意味していることは明らかである。
[72](2) つぎに被保護者に与えられる生活水準(保護水準)の程度も、右第3条は何らの留保条件も付することなく「健康で文化的」であることを要請しているし、当局が本件当時科学的生計費方式であるマーケツト・バスケツト方式をとつてきたことは、まさに右の要請に沿わねば同法の趣旨に反するとの、当局の認識を示すものと言うことができる。
[73] マーケツト・バスケツト方式が、生活科学の成果にもとづいて生計費を科学的・理論的に割り出しうるとの考え方に立つた、いわゆる理論生計費方式の一つであることは、甲第138号証(厚生省社会局保護課長黒木利克編「生活保護の諸問題」昭和31年刊245頁以下)によつて明らかであり、前記小沼証人も、
「生活保護法の考え方に従つていくと、そういう限度を決めて、その範囲内で自由に給付する。こういう考え方はおかしいという風な事になつて、適確に生活水準を決めて、これだけを保障すると、しかもそれは、下廻つても上廻つてもいけないという適確なものでなければならないという考え方が、生活保護法の精神として出てきたわけです。」
「そういう風に厳密度上廻らない、下廻らないという考え方になると、今迄のような決め方でなくて、もう少し具体的に生活に即して決めなければいけない。そういう考え方に立ちまして、……マーケツト・バスケツト方式に変つたわけです。」
「それは現在の生活科学は、そこ(本当に最低生活者に絶対必要だと思われるような科学的、合理的な生活水準)まで、ぴしやりと出るとは考えておりません。それにしても、その時代、その段階における最低生活というものは、生活保護の建前、保障しなければならない。それにできるだけアプローチするという考え方で、今迄きた。」
と述べ、また今井一男証人も、
「(保護基準の算定については、一応ある程度の巾が予想されるが)、その巾を結局は1本の線に集約しなければいかんわけであります。人によつて差をつけるということは、生活保護の世界における原則に反しますので、無差別平等というので、生活保護の基本線でありますから、どんな原因で貧困になろうと原因は問わない……とにかく1つの線でカバーするという線であります。」
「……国民の中で、一定水準以下の人間はなくしようと約束したものが(憲法)25条ですが、一定の約束というものからいたしまして、出す人間ともらう人間との水準のバランスということが中心となつて考えられて、その水準を考える場合のフアクターとしては、それは健康とか文化的という要素が主に働くというのが相対説の立場であります。絶対説というのはそうではございませんので、人間が生活するにはいくらいくらの着物がいると、従つて水準がこうだということでありまして、政府も最初は絶対説をとつておつたにみえもするんですが、マーケツト・バスケツト方式というのは、絶対説に近い考えといえるかもしれません。」
と証言して、いずれも右の趣旨、つまり生活科学によつて最低限度の人間らしい生活水準を割り出せるし、また生活保護法の趣旨からすれば、まさにそうすべきだと、政府当局が考えていたことを肯認しているのである。
[74] このように貧困者に対して実質的、科学的に人間らしい生存を保障してゆくという考え方及び運用の実際のなかに、被保護者の保護水準を、政策的に非保護層の生活水準より劣後におくべきだとするような「国民感情」なるものが全く介在する余地がなかつたことは言わずして明らかであろう。

(四) 結び
[75] 以上のようにみてくると、原判決が、被保護者が働きつつ保護を受けずに低所得に甘んじている国民より優遇されているのは不当だとする国民感情が国民の一部(といつても具体的にどの程度・範囲の国民を指すのか不明であるが……)に存することを前提とし、これを生活保護基準の乗定の際に考慮に入れるべきだとしていることが、事実の上でも、法の趣旨に照らしても甚しい謬見であり、結局被保護層の生活水準の向上を抑止する口実にしかなりえなかつたし、今後もなりえないことが明らかである。
(一) 原判決の論理
[76] つぎに原判決は、
「生活保護のための費用は、納税を通じて国民が負担するものである以上、保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれと無関係に定め得るものではなく、またその時期における国民の生活水準・文化水準の程度も当然対照されなければならず」
と前提し、甲第39号証、乙第11号証並びに当審証人河野一之、同今井一男の証言によれば、
「昭和31年当時生活扶助を受けていた者は140万人程度であつたにかかわらず、国民中1000万人に近い数の者が生活扶助水準と同程度又はそれ以下の生活を営んでいたこと……が認められ」そうとすれば「右生活扶助水準をさらに引上げるということになれば、納税を通じて一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼすことは否定できないものであり、このような場合に生活扶助のため一般国民がどの程度の負担をするのが相当かということは容易に決められない問題である」
と判示している。
[77] これを要するに、原審としては本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得ないが、さりとて尨大な低所得層の存在を考えると、基準引上げは当然被保護対象者の激増をきたし、生活保護予算の増大を通じて国民の税負担に大きな影響をもたらすから、容易に基準引上げを肯定することはできない、というのである。

(二) 原審挙示の証拠の検討
[78] 乙第11号証が原審のいうごとき低所得層の統計調査ではなくして低消費層のそれに過ぎないこと、多くの仮定にたつた全国推計であることは既に述べた。この点については原審の引用する今井一男証人も、
「(この統計による被保護者と)同等以下という判断でございますが、結局通貨価値で判断する以外にございませんから、生活保護で認めた金額、その金額以下の生計費、生計費というのは具体的にお金をその月に支出したという、そういう意味で比較する以外に方法ありませんので、……そういう方法をとれば、千万という数字に(なるわけ)であります。
 従つて実態的に調べていきますと人の生活条件はいろいろ違いますから、この人たちが全部生活保護の対象になるべき人だというのは、若干問題があります。
 しかし日本では、相当水準的には低いグループの人が生活保護以外に数あるということになると思います。」
と述べ、また小沼証人もほぼ同旨のことを指摘して、右統計上の数字の意義と限界を明らかにしている。
[79] 河野一之証人は、乙第11号証の示す数字を肯定しながらも、それが保護基準の引上げとどう具体的に関連するかという肝腎の点については、
「……当法廷における木村氏の証言で生活保護の面で日用品費を600円から1000円にすると、予算上6億円ですむと言われたとのことですが、右のように金額を上げますと、母子保護とか児童保護などの他の面にも影響し、予算にはねかえりが来ます。従つて財政が膨脹することになります。」
と抽象的に述べただけで、保護基準の引上げに伴つて顧慮に価する程度の影響があるか否かについては、何ら具体的な事実を示していないのである。そうでなくとも同証人は旧法時代からの財政当局者として、劣等処遇の原則や生活保護制度への財政収入からの枠づけを肯認したり、例年大蔵当局が厚生省の保護予算要求を削減してきた半ば公知の事実を否認したりするなど、多くの点でその証言の偏頗性を窺わせているが、これらをすべて捨象しても、抽象的な同証言から、原審が断定したように「右生活扶助水準をさらに引上げるということになれば、……一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼすことは否定できない」などと言い切れるものでないことは多言を要しない。
[80] この点については原審の挙示するもう1人の証人今井氏の証言も、同様全く抽象的であつて、
「失業対策賃金とか社会保険関係のいろんな給付水準にも勿論はね返りますし、日本の共通的なこの面におけるいろいろの問題(児童福祉、国民年金、軍人遺族援護費、結核対策費など)には、すべてこれが影響を及ぼします。」
「生活保護の該当者だけの数で、木村氏の意見はまとめてあると思いますんで、それ(生活保護水準)よりある程度上であるとか、観念づけられたいろいろの賃金から、給付から、もろもろのものがございますから、それに全部再検討を加えなければならないということには当然なつてまいります。」
という程度に、影響なり再検討なりの範囲については具体的に触れてはいるものの、その程度については何ら具体的に述べていないのである。

[81](三) これに比して、被控訴人が提示した関係証拠はいずれもきわめて具体的、実証的であつて、甲第103号証(厚生省社会福祉年報抜萃「31年度の施設被保護世帯及び被保護人員」)及び木村禧八郎証言によれば、
「施設内被保護世帯の施設というのは政府の施設、たとえば国立病院などのことで、病院に入院して保護をうけている世帯と人員の数で、世帯数は13万1836世帯、人員は13万8000人です。……そこで生活保護をうけている人で政府の施設に入院している人全部が最高の600円を支給されているものと仮定すると、6億7200万円あれば、これらの人への給付を1000円に引上げることができるわけです。」
「その点については、昭和31年度の施設内の保護人員を14万人として、かりにこの人達に日用品費1000円を支給するとすれば、予算は16億8000万円になるのです。しかるに31年度の景気は先程も申上げましたが、非常によくなつて自然増収もふえ、2回も予算の補正を組み、決算書をみると582億も余つているわけです。しかも社会保障費についても不用額35億7000万円もあるわけです。不用額をたてる位なら16億8000万円がどうして出せないか、……財源がないから支給できないということは理由付けにはどうしてもならないと思います。防衛費なんか200億円以上も余つているわけですから。……。」
というのであり、また右ほど具体的詳細でないが、甲第119号証(昭和37年8月「社会保障制度審議会の答申及び勧告」)及び原審天達忠雄証言によれば、
「答申及び勧告ですが、それを見ますと重点的に生活保護を高めなければならないと、例の所得倍増計画に従つて昭和45年を目途に約3倍に引上げたい、こういう案が出ております。でその費用は、税金をたくさん取立てるということでなくて、過渡的な処置だと思いますけれども、各種社会保険の積立金が非常に沢山ございます。それをプールして、生活保護の方に流用する道を講ずれば、大丈夫だという考え方も述べられております。」
ということが示唆されているのである。
[82] もとより生活扶助基準が引上げられれば、これに伴つて失対賃金、国民年金の定額部分など関連した社会保障関係費の増大が招来せしめられることは当然であろうが、それが予算規模を大巾に増大させたり、国の財政政策の変更を余儀なくさせる程のものとは到底なりうるものでないことは、昭和37、8年度にそれぞれ生活保護基準が18パーセント前後も引上げられたに拘らず、なんら予算、財政上の大変動や混乱を来たした事実がないという一事に徴しても、余りに明白と言わなければならない(今井証言参照)。

(四) 生活保護基準の引上げとボーダーライン層との関連についての正しい考え方
[83] 以上、本件に顕出された証拠に照らして原判決の断定が誤りであることは明白となつたと考えるが、しかし尨大なボーダーライン層が存在することは事実であり、これと生活保護基準の引上げとの関連について、どのように考えることが正しいかの検討を避けることはできない。そこで以下に上告人らの考え方を述べることとしよう。
[84] まず右のようなボーダーライン層が存在する場合、保護基準の引上げは原判決が断定し去つたように、「納税を通じて一般国民の負担に当然大きな影響を及ぼす」ということになるであろうか。この点についてはかなり多くの証拠が原審に顕出されている。たとえば、今井証人は、前に引用したように、
「従つて実態的に調べていきますと、人の生活条件はいろいろ違いますから、この人たちが全部生活保護の対象になるべき人だというのは、若干問題があります。」
「……一つには3、4年前までは、日本の労働力が非常に余つておつた、そういう事がいわゆる低賃金層をだす原因にもなり、又それが(生活保護水準の)数字をふくらませない理由でありますが、………そうなりますと、この数字だけを基礎にいたしまして生活保護水準は決められるものじやなかろうと思います。その意味におきまして、雇傭事情の変化が大きく響いておると考えたいのであります。」
「(生活保護基準の引上げと)財政と直接のつながりはあるという人もありますけれども、私はあるというふうには解すべきではない、又その程度はわずかなものだと思います。……」
などと基準引上げが直ちに生活保護等社会保障予算の増大となつてはねかえつてくるものでないことを認めており、氏原正治郎証人は、
「私はボーダーライン層1千万というのは大体減つてきたわけでして、……最近は5、600万になつておると思いますが、生活保護基準を引上げたら5、600万人を被保護世帯にしなければならないというか、あるいはなる必然性をもつてくると、……私は考えておりません。
 考えていない理由の一つは、……生活保護世帯に被保護を申請しない人があるだろうと思います。事実といたしまして、最近被保護世帯が、保護基準が上つた人ですけれどもそれほど増えていないという、率にいたしますと、かえつて減少しているというのが事実でございます、……私の考えるところによりますと、保護を受けられないような様々な制限があることと、そのために実際保護基準が上がつたら当然ふえるべき人がふえていないという事があるわけです。……
 もう一つの理由といたしましては、……いわゆる低所得層というのをみますと、そのまま保護をうけられないだろうと考えられる人たちが沢山いるわけです。また保護を受けるよりは別途の方策によつて所得を上げることが望ましいし、又そういうふうな方向に国の政策も進んでいると、こういうふうに考えられるわけです。例えば、低所得階層の中には、日雇労働者がございますが、……最近の労働力不足によりまして民間につきましてはかなり(賃金が)高くなつてきておる。又……そういうものと関係のあるような賃金政策をとろうと、こういう考え方もあるわけです。それから又、零細漁家、部落産業、炭鉱離職者など、低所得階層の大きな供給源になつておる人たちに対しては、いろいろな方法が講ぜられているわけです。また日雇労務者層に流れこんできた者に対しては、労働者は、今年は相当熱心に職業訓練や再訓練の制度をうち出しているということになりますと、いまございます5、600万人が直ちに全部、被保護世帯になるということは、常識的にも考えられないんじやないか、こういうふうに思います。
 政策の問題だけではなしに、もう一つ申し上げますと、生活の実態からいいましても、今の低所得階層が、そこから抜け出す場合、子供が教育をうけて成長するということは、非常に大きな理由になつているんです。ですからこういう子供が成長して収入を得られるようになれば、必ずしも被保護世帯になる必要はない。又低消費水準世帯と呼ばれるものの中には、農村でございますが、主に農地をたくさん持つているものがある。……一般の私の見聞したところによりますと、こういう人は保護を受けておりません。……それから、その他自分で家をもつているとか、テレビをもつておるとかいうものもかなりおりますから、こういう事からいきますと、かりに保護法の制限を大巾に緩和するということになれば、これはなるかもしれませんが、現状ではそういうことはないといつていいと思います。ないというよりも、過去数年の例をみると、かえつて減つているというのは、甚だ奇妙な現象だと、かように私は考えております。」
と述べ、木村証人は、
「私はむしろ被保護者だけをもつと上げなければならないといつているわけですよ。財源があるのに非常に均衡を失つていると思うわけです。」
「ボーダーライン層をもつと上げたらいいでしよう。それを上げることによつて、生活保護者も上げたらいいわけでしよう。自分は働いているのに、生活保護を受けて楽をしている人があるという苦情は聞いておりますが、生活保護を受けている人もボーダーライン層も低過ぎるのだから両方上げたらいいわけでしよう。」
「勿論なんでも安易に生活保護費だけを上げていけば、財源に限界がありますが、今日までの経済の発展と財源からみまして、生活保護費の引上げについてはそんなに心配することはないんじやないかと思います。」
「生活保護者は2つに分けられるわけで、労働力のある人、労働力のない人があるわけです。労働力のある人には雇傭を安定させる、労働力のない人には生活扶助その他の社会保障を充実させることによつて救うべきだと思うわけです……。」
と述べ、さらに天達証人は、
「生活保護費は御承知のように毎年ではございませんけれども、だんだん引上げられております、引上げられておりますけれども、予算総額に占める割合は、漸減をしてきているわけです。」
「つまり生活保護基準の金額自体は上がつているわけですけれども、総予算の中に占める比率はだんだんと下がつているということは、物価その他賃金その他の上昇に見合つては上げられていないから、従つて総予算の割合は少ないと、もう一つのことは、生活保護をうける人たちが、生活保護の基準が上がつても、必ずしも増加をしないということの結果だと思います。」
と述べ、さらに被控訴代理人の
「そうしますと、そういう関連で生活保護基準が上がつても必ずしも予算総額が非常にふえなくてもいいんだということは、どういう観点からいえるわけでしようか。」
との質問に対し
「一つは、生活保護を受ける人たち、或いはボーダーライン層そのものも、御承知のように社会の進歩発展の中で固定しているのではなくて、雇用の機会が大きい目でみますと、ふえることもございます。従つて就労のチヤンスが総体的にふえる。或いは前に働けなかつた人達が部分的にも働けると、そういうことがございます。(つまり、生活保護者、或いはボーダーライン層が固定しているのではなくて普通の勤労による自立をした生活を営める様になる人達が出てくる。)
 従つて保護基準を上げれば固定をしたボーダーライン層に全部適用するということには、必ずしもならないということだと思います。」
と答えて、以上いずれもが、生活保護基準の引上げが必ずしも尨大なボーダーライン層の被保護者化を意味するものでないことを示しているのである。
[85] 最後に、なお右のような事情は政府刊行物(甲第115号証)や政府の諮問機関たる社会保障制度審議会自身も認めるところであつて(甲第119号証「昭和37年8月答申及び勧告」参照)、甲第115号証によれば、
「4 保護基準を改訂すれば、被保護階層への落層が増大しないか。
 保護基準引上げに伴う被保護人員の増は、次の諸点からして、通常考えられるよりも遥かに少ないものと考えられる。
(1) 保護基準を引上げても、前述のごとく自立意欲が助長され、かつ自立促進のため諸措置が講ぜられることによつて、被保護階層から脱却する者が少なくない。
(2) 改訂しようとしている保護基準は、長期経済計画によつて期待される国民生活の伸びとの関連において行なわれるものであつて、低所得者についても、このような経済賃銀施策によつて当然所得の増加が図られるので、被保護階層へ転落する数は、それ程多くない。
(3) 従来の経験によれば、被保護人員は一般的な景気の変動等によつて大巾に増減することはあるが、基準の改訂に伴つて人員の増加を来たすようなことはなかつた。昭和27年度に15.6パーセントの基準改訂が行なわれているが、いずれの場合にも同様な傾向を辿つている。」
のであり、また甲第119号証はまず「貧困階層に対する施策」について
「国民の最低生活を保障することは社会保障の中心課題であるが、これにはもちろん経済、財政、労働、住宅等の分野における諸政策においてそれぞれ十分な配慮が必要であり、とくにいまの段階においては本格的な最低賃金制度が確立することが必要であることは言までもない。」
と述べたうえ、さらに「低所得階層に対する施策」について、
「社会保障の均衡ある発展をはかるためには、ささいな事故によつて容易に貧困におちいるおそれのある者に対する施策を充実する必要がある。老齢者、身体障害者、精神薄弱者、母子、内職者、失業者等のうちには、生活保護を受けるまでになつていないが、それとあまりかわらない生活しかできないボーダーライン階層や、職業や収入が安定していないために、いつ貧困におちいるかわからない不安定所得層のものが多く、その数はわが国において1千万人に近いともこれを越えるともいわれている。これらの低所得階層は、その種類があらゆる分野にわたつており、しかも実態が十分に把握されていない。またこれらに対する対策についても積極的な方針がなく、従来は主として篤志家のみにまかされていた。わが国のように所得格差が大きく、住宅その他についての公的施設がおくれている国においては、低所得層の対策がとくに重視されなければならない。」
とし、これに対する対策として、社会福祉対策と社会保険制度の充実の2つを挙げ、このうち、まず、「社会福祉対策」としては、
「社会保障の目的達成のためには、生活保護についてこの社会福祉の対策に力を注がなければならない。ここでいう社会福祉は、一定条件にある低所得階層の権利として確保しようとするものであるから、従来社会福祉といわれてきたものよりも狭い概念であり、国民の福祉をより一層向上するために行なう対策はこれに含まれない。また社会保険を補完する性格からみれば、社会保険の整備によつてしだいに縮少する筋合いのものではあるが、現実には社会保険の力はそこまでにおよんでおらず、またこの固有の分野はあまりにもゆるがせにされてきた。そこで今後しばらくの間、とくにこの分野を開拓し、貧困におちいるおそれの最も強いこの方面に対する施策に税金を重点的に投入すべきである。
 現在の社会福祉の最大の欠陥は、思いつきで、組織的、計画的でないこと、体系化への努力が払われていないことである。またこれを単に補助、奨励するのみであつて、これに対して積極的に責任を国がとらないことである。これにそつてあたらしい事業が地方または篤志家の創意ではじめられることはもとよりさしつかえないが、それが有効適切なものと判明した場合には、これをもすみやかに国の計画にとり入れなければならない。なお、社会福祉施設は、国および地方公共団体の責任によつて充実しなければならないが、これを急速に充実するためには、社会保険の積立金はとくに適当な資源である。たとえば、年金福祉事業団等がこの資金をもつてこれらの施設を設置し、長期の年賦償還の方式などにより、これを地方公共団体等に移譲することもできるであろう。」
と述べ、さらに具体的な「社会福祉の運営」について、
「社会福祉は、その対象の種類が区々であるためその対策としての方法もいろいろである。たとえば、身上相談・内職のあつせんの類から職業の補導、低利資金の貸し付け、金銭の支給、すすんで各種社会福祉施設や医療の提供などにいたるまで種類、内容、水準等においてまさに千差万別である。したがつて、どのような対策がその具体的な方法となるかはそれぞれの対象に応じてきめるしかない。この場合、対象の種類ごとに十分な均衡はなかなかえにくいが、均衡をとるための配意が、社会福祉の体系化のためにとくに必要である。
 また施設の運営にあたつては、社会福祉のための施設と、他の社会保障の施設とを厳格に区別することも必ずしも必要でない。
 たとえば、乳児院、養護施設、養老院等においては公的扶助の部分、社会福祉の部分、それ以外の部分が同一施設に混在することがあつてもよいであろう。なおたとえれば、授産事業においては職業訓練や、職業紹介との連携をとり、また身体障害者についてはリハビリテーシヨンを前提とする医療が行なわれることは社会福祉の目的を達成するために重要なことである。」
と指摘したうえ、具体的に、職業病対策、リハビリテーシヨン、失業対策、低家賃住宅対策などの方策を挙げている。また第2の社会保険制度の充実についても、零細企業労働者、日雇労働者への社会保険の適用と保険料減免、被傭者以外の低所得者に対する国民年金保険料の免除、児童手当の支給、失業者に対する医療給付等々……きわめて具体的な勧告を行なつている。
[86] 要するにいわゆるボーダーライン層の所得向上、生活向上のためには、むしろ右のような社会福祉対策、社会保険制度の拡充などこそが本来的に考慮されてきたし、またそうすべきであつて、原判決のいうごとく、生活保護を直ちに適用し、そのために多大な予算的措置が当然に必要となるなどとは到底断定しえないことはもはや疑う余地がないであろう。
[87] さらに原判決の判断が決定的に誤つていることは、それが国民感情とか、尨大なボーダーライン層の存在への顧慮を強調する余り、保護基準の判断に際して、より重要な要因である「国民の生活水準」とのバランスという点を殆ど全く無視してしまつたところにあると言わなければならない。
[88] さきに引用したように、原判決は、保護基準の決定にあたつては「その時期における国民の生活水準、文化水準の程度も当然対照されなければならず」と、一応理くつの上では国民の生活水準とのバランスの顧慮が深可欠であることを認めながら、またさらにこの点に関しては当事者双方より相当豊富な具体的資料が顕出されていたにも拘らず、その実、この点に関する判断は完全にネグレクトし、積極・消極をとわず何らの判断をも示していない。生活保護基準の決定に際して国民の一般生活水準との比較考慮が不可欠であることは、むしろ自明の理であつて、両当事者とも第一審以来指摘したところであり、第一審裁判所はもとより、原審自身もそれが当然対照すべき要素であることを強調してきたにも拘らず、原審が全く顧慮判断を示さなかつたことは、原判決を一見して明らかである。
[89] 国民の最低生活水準を策定するにあたつて、たんなる国民感情(劣等処遇の感情)や漠として低所得層の存在に対する顧慮よりも、その時点における国民の一般生活水準や文化水準への顧慮の方が、より重要かつ不可欠であることは、これまた自明のところである。しかるに原審がさしたる具体的資料もなしに、いわば消極的要因である前2者についてのみ再々判示しながら、具体的でほとんど争う余地のないほど明瞭かつ詳細な資料には一顧だに与えず、この点の判断を示さなかつたのは、原審が、生活保護費が租税によつて賄われているという一事にとらわれ、その重みを不当に重視したことに基因するものと解する外ないのである。
[90](1) 本件昭和31年当時被保護者の生活水準が国民の一般生活水準や勤労者世帯の生活水準と比べてほとんどその3分の1程度でしかなかつたこと、しかも昭和26年頃から年々その格差が増大してきていることは、既述のように多くの証拠が一致して指摘するところである。
[91] たとえば政府当局側の資料(乙第18号証(「生活と福祉」第61号13頁)、前掲甲第115号証等)によつても、
「(1) 一般世帯に対する被保護世帯の消費支出を比べると、昭和26年には、56.5パーセントであつたものが、漸次低下して、昭和34年には39.7パーセントとなつており、その格差は格大しつつある。
(2) また一般世帯のエンゲル係数は、昭和26年には52.8パーセントであつたものが、34年では38.6パーセントと漸次低下しているのに対し、被保護世帯ではほぼ58パーセント台で横這いの状態を続けている。
(3) 昭和33年における一般世帯の最下層(FIES世帯5分位層のうち第1階層)と被保護世帯の生計費を比較すれば、被保護世帯は一般世帯の最下層の57パーセント程度の実支出となつている。
(4) 前述のように一般世帯と被保護世帯との生計費の格差が拡大したが、その理由は、一般世帯生計費と被保護世帯生計費の伸びが昭和26年から昭和29年頃まではほぼ平行して推移したのに対し、それ以降において被保護世帯生計費の伸びが著しく停滞しているためである。」
ことが指摘され、さらに甲第124号証(厚生省社会局調べ「一般世帯に対する被保護世帯の生計費の推移」)によれば、昭和31年で一般世帯の生計費は1人当り7393円であるのに対し、被保護世帯のそれは2702円(前者の36.5パーセント)にしかすぎず、甲第136号証(「新法制定後における保護基準の推移」生活と福祉第8号17頁所収)によつても、昭和31年6月当時、C.P.S(FIES)の1ケ月支出額が27302円であるのに比して、保護基準額は9465円(前者の34.7パーセント)にしかすぎないことが明らかであり、さらに詳細な分析(甲第125号証、右同誌所収)によれば、被服費及び雑費については、被保護者の消費水準は一般世帯の20パーセント程度に過ぎないことが指摘されるのである。ひとくちにパーセンテージ39.7パーセントとか20パーセントとかと比率でいつても生々しい現実感が湧いてこないかもしれないが、要するに標準5人世帯で一般勤労世帯が27000円強で生活している状況のもとにおいて毎月1万円足らずの金で人間らしい生活が営めるかということであり、一般世帯で1人あたり月900円近い被服費、2300円近い雑費を支出している生活状況のもとで、被服費1人あたり月171円、諸雑費450円でどうやつて人間らしい生活が維持できるかということである。
[92] これを本件上告人のような単身者に例をとつてみても、昭和31年当時、18才の単身者に対する生活保護基準は月3180円で、人事院勧告の6870円に比べほぼ2分の1のレベルであり、(甲第128号証)、昭和30年11月当時の東京都600世帯に対する総理府統計局の「単身者世帯家計調査」(甲第129号証)によれば、右単身者の平均実収月額は13,015円で、うち勤労収入が12,167円、他方支出額は実支出額が13,120円で、うち消費支出額が12,194円となつており、右生活保護基準額との間に著しい格差(後者の24パーセント)が存在したことが明らかである。右調査によれば、単身者のうち最も低所得の者でも前月からの繰越しや貯金の引出し、借金などで、生計費を補填し、消費支出が7600円となつておるが、これでは飲食費、光熱費、住居費、雑費をまかなうに精一杯で被服費には450円(6パーセント)しか割けていないのである。
[93] もつて当時の保護基準がいかに非人間的な低水準であつたかが窺い知れよう。
[94](2) このほか、さらに国家予算の中で生活保護費の占める割合が、昭和31年当時僅か3.3パーセントにしか過ぎず(社会保障費全体としても10.9パーセント)、しかも昭和29年末、漸減せしめられつつあつたこと(甲第134号証、甲第106号証他)
[95] 諸外国と比べてみても、昭和27、8年当時、社会保障関係費の国庫負担額が歳出予算において占める割合は、アメリカにおいて23.9パーセント、イギリスで17.2パーセント、スエーデンで35.1パーセント、西ドイツで30.3パーセントであるのに対して、日本の場合はわずか9.1パーセントであり(甲第154号証)
[96] また、一般国民における保護率は、昭和34年時点でイギリスが5.134パーセント、同じくフランスが5.752パーセント、昭和33年時点でアメリカで3.474パーセント、昭和31、2年時点で西ドイツ連邦が2.51パーセントであつたのに対し(甲第109号証)、昭和31年当時日本ではわずか1.9パーセント程度であり(甲第108号証の3等参照)
[97] また、労働賃金と保護基準との比較においても昭和31年時点で、後者は前者に対してイギリスでは62~65パーセント、西ドイツでは64.5パーセントを占めているのに対し、日本では41.2パーセントであり、60才以上の単身者の場合イギリスでは22パーセント、西ドイツでは18.1パーセントであるのに対し、日本ではわずかに9.3パーセントにしか過ぎないこと、も、証拠に照らして十分明らかにされている。
[98](3) 以上の諸事実に鑑みるとき、本件保護基準が、国民の一般生活水準・文化水準に比較していかに決定的に劣悪であり、バランスを失しているか、そしていかに非人間的な低水準であるかは、弁明の余地がないほどに明白である。
[99] 原判決が、これらの事実に圧されて「……なお概観的に見て、本件日用品費の基準がいかにも低額に失する感は禁じ得ない」としながらも、国民生活水準との対照や基準引上げに伴う税負担へのはねかえりなどについて具体的、客観的な検討を加えることなしに、漠たる国民感情やボーダーライン層の尨大さを理由として、右のごとき非人間的な低基準をなお生活保護法に違反するものでないとしたのは、結局同法(第3条等)の趣旨の理解を誤つたものと断ぜざるを得ないのである。
[100] まずこの点に関する原判決の論理をいま1度要約しておこう。
[101] 原判決は、保護基準は、「最低生活」、「健康で文化的な生活水準」(生活保護法3条、8条2項)の要件に適合するよう覊束されていること、しかし「健康で文化的な生活水準」は一定の巾をもつことを前提とした上で、本件保護基準の適否の検討を次のような方法で進めている。
(1) 日用品費算出の方式及び算出過程に違法はないか。違法がない限り、当該日用品費の基準は一応適法なものと推認する。
(2) 日用品費が、その総額において、実態生計費からあまりにもかけ離れていないか、その当否を他の観点から吟味検討する。
[102] そして原判決は、(1)の点について、マーケツト・バスケツト方式をとること自体には違法はないとした上、基準の費目・数量・単価のとり方の適否について検討し、昭和32年4月改訂の基準(総額640円)によつても、なおパンツ2年1着、チリ紙1束程度の不足を生ずることを認めた。しかし原判決は、それを加算してみた月額670円は、「1円でも下廻ることを許さない趣旨での最低限度の金額ではない」から、1割程度の不足をもつて、確定的に違法と断定することは早計であると結論している。
[103] また(2)の点については、証拠上「本件日用品費の基準が低額であることは否定できない」が、本件日用品費の基準が、「現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分ではない」と結論している。
[104] 原判決の右の如き検討の前提・方法・過程には、多くの誤謬が含まれていること上告理由第二点主張の通りであるが、上告理由第二点の主張の趣旨を明確ならしめるため、更に左の諸点を指摘しておきたい。
[105] 原判決は、保護基準の設定が覊束裁量であること、つまりは、当該保護基準が「健康で文化的な生活水準」、「最低限度の生活の需要を満たすに十分なもの」に適合するか否かについて、一義的な司法的判断をなしうることを明らかにしている。これはきわめて正当である。
[106] しかし、こうした前提をとる以上、当該基準が「最低限度の生活の需要を満たすに十分なもの」であるか否かを厳密に検討し、満たしていないと認められるときには、直ちに当該基準を違法と断定すべきである。一義的判断が可能であるということは、この意味にほかならない。日用品費の基準がマーケツト・バスケツト方式に拠つている場合には、このような裁判所の一義的判断は、益々容易となる筈である。当該基準の算出根拠として明示されている費目・数量・単価が、健康で文化的な最低限度の生活を維持する上で必要不可欠と認められる具体的需要を満たしていない場合には、これを直ちに違法と認定しうるからである。したがつて、原判決は、改訂後の基準(月額640円)をもつてしても、なおパンツ2年1着及びチリ紙月1束程度の不足を生ずると認定した以上、本件日用品費の基準が、総額において、許容された巾を超えていないか否かを検討するまでもなく、直ちに本件日用品費の基準が違法であるとの結論を導くべきであつた。このパンツ2年1枚、チリ紙月1束の追加は、「入院入所患者は、発熱に伴う寝汗や化学療法に伴う汚れのためのパンツの着換えを余分に準備しなければならない場合が多く別表所掲の1年1枚では足りないし、啖の出るときはその処理のためチリ紙の消費量も多く別表所掲の月1束では足りない」という事情によるものであるから、それは、「最低の生活の需要」と認めるに充分である。だとすれば、それ以上に、右数量を加算した670円と本件日用品費の基準600円との差が違法と断定するに足りるか否かを論ずることは、全くナンセンスである。
[107] また日用品費の総額の適否を検討する場合にも、それが覊束裁量である以上、裁判所においても、その適正な「客観的一線」をできる限り厳密に「探究決定」すべきである。したがつて、日用品費の総額の適正な「客観的一線」が、仮に一定の巾をもつものであるとしても、その巾は決して広いものではないとみなければならない。基準が、「最低の生活の需要」という、いわばギリギリの生活水準を画するものであるという点からいつても、このことは一層強調されなければならない。したがつて、裁判所が認定した適正な総額と現実のそれとの差が違法であると認められる程度のものか否かを検討するに当つては、著しく逸脱しているか否か、を基準にすべきではない。その差額が――1円でも許されないといいえないとしても――全体的にみれば殆ど影響がないとみられる極く軽微なものでない限り、直ちに当該基準を違法と断定すべきである。原判決も、
「1割程度の不足とはいつても、最低に近い必要額と比較してのことであり、また毎日の生活に直結する日用品費のことでもあり、しかも療養所という隔離された環境の生活では、たとえ僅少の不足額でも逐月確実に累積し他より補充の見込が少ないから、本件日用品費の基準が頗る低いものである以上、それになお若干の不足があるということになると、それは直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚である」
と述べて、右の理を半分以上認めている。「本件日用品費の基準が頗る低いものである」以上にさらに前述の如き不足があるとすれば、もはや本件日用品費の基準を違法と断定するに充分な筈である。1割強の不足額を当不当の問題にすぎないとする程に、「最低の生活の需要」は広漠たるものではない筈である。もしそうだとすれば、生活保護法3条、8条1項等が、行政庁の基準設定に対し、覊束を加えたことの意味は失われてしまうことになる。
[108] 保護基準が、生活保護法第3条、第8条第2項の要件を満たすか否かについては、挙証責任は行政庁の側に存すると考えるのが妥当である(滝川叡一・行政訴訟の立証責任、訴訟と裁判所482~483頁、484~486頁、509~513頁参照。行政事件訴訟十年史、153頁註(6)参照)。蓋し、保護基準は、右規定の要件に適合するよう設定すべく覊束されているからである。仮に、「行政処分の適法性の推定」の説をとつてみても、保護基準自体は、行政処分ではなく、その準則を定めたもの(法規)としての性格を有するものであるから、これについてまで適法性の推定を賦与することは妥当ではない。したがつて本件日用品費の基準が、「最低の生活の需要を満たすに充分なもの」、「健康で文化的な生活水準」に適合すると認めるに足る充分な証拠が存しない限り、これを違法とみるべきである。したがつて原判決が、たとえば日用品費の数量につき「入院入所患者の日常の身の回りの用を弁ずるには決定的に不足することを認定すべき証拠としては、これらの証拠は、いずれも、いまだ十分なものといいがたい」とし、あるいは総額においても「現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分でない」としたのは違法である。
[109] この点についてはさらに後述する。
[109] 原判決は、マーケツト・バスケツト方式は、昭和31年8月当時科学的な生計費算定方式としての権威をいまだ失つていなかつたというべきであるからこの方式を採用したことをもつて、直ちに当該基準を違法視することはできないとする。われわれもまた、マーケツト・バスケツト方式を採用したことをもつて、本件日用品費の基準を直ちに違法視するものでないことは、昭和38年7月8日付準備書面(第一、二、(一)、(ロ))をみれば自ら明白であろう。ただわれわれが右準備書面で指摘し、また原判決も認めているように、マーケツト・バスケツト方式は、「費目・数量の選出に主観的要素がはいりやすく、また非現実的に流れやすいという欠陥を伴うものである。」だとすれば、具体的な日用品費の基準が「最低限度の生活の需要を満たすに充分なもの」となるためには、単に漫然とマーケツト・バスケツト方式によつたというだけでは足りず、さらに、この方式が内包する右の如き欠陥を補正するため特段の配慮が必要となつてくる。
[110] もしそのような必要な是正措置がとられていることが明らかにされないならば、マーケツト・バスケツト方式が右の欠陥をもつこと、及び挙証責任が行政庁にあることからいつて当該基準を違法と推定すべきである。また裁判所が費目・数量を検討するに当つては、とくにその点をふまえておくべきである。即ち、たとえば、
[111](1) 費目・数量にもれがあると認められるときは、当該費目・数量を算定根拠に明確に(明示的)に組み入れるべきである。逆に、原判決のように、これを明示的に掲げることを要求せず、費目相互の流用、節約、捻出の可能性を安易に認めることは、マーケツト・バスケツト方式のもつ右の如き欠陥をますます助長することになる。原判決は、クリーム、メンソレータム、箸、ペン、補修用材料、マスク、交際費、交通費、自治会費等の実に多数の費目について、基準の枠内での相互流用によるべきであるとし、また、はさみ、石けん箱、カミソリ器、ペン軸が消耗品(磨耗、破損、紛失する)にすぎないことを見忘れて、日用品費として取上げること自体を怠つている。基準に含められていない費目への流用は、それ自体「最低限度の生活の需要」とされている基準内費目を犠牲にすることを意味することを忘れてはならない。確かにある月だけをとつてみれば、基準内費目のどれ一つを犠牲にしても直ちに最低生活を下廻るとはいいえないとしても、長期的にみれば、流用によつては「最低生活」を維持しえないことは論理上明白である。
[112](2) マーケツト・バスケツト方式の欠陥を補正するという観点からいえば、「その他雑費」が重要な意味をもつてくるわけである。原判決も、クリーム以下マスクまでの費目をこれに当てている。しかし、この費目に充てられている金額は僅かに8円96銭(昭和32年8月の改訂後は4円57銭)にすぎない。しかるに原判決は、この金額でマーケツト・バスケツト方式の欠陥を補正するに充分であるか、原判決の指摘する費目がこれで充分に満たされうるかの検討を全く行なつていない。
[113](3) マーケツト・バスケツト方式によるときは、生計費は人間の生理的生存に必要な、いわば物理的な需要に限定されがちで、その文化的需要を含ましめる上で充分でないという欠陥がみられる。というのも、文化的需要の内容・程度はみる人の主観によつてかわり易いし、またそれがなくとも「最低の生活」を維持しうるようにみられやすいからである。したがつて、第一審判決が修養娯楽費について、「単調な長期療養生活に耐えうるため……必要不可欠である」と認めたような、慎重な配慮がとくに要請されるわけである。原判決の修養娯楽費の前述の如き扱いは、この意味でも甚だしく当を失しているといわねばならない。
[114] 日用品費総額検討の基準については前述の通りである。ここでは、マーケツト・バスケツト方式が欠陥を内包することとの関連で、次の点を指摘しておきたい。
[115] マーケツト・バスケツト方式は、前述の如き欠陥を内包するものであることが明らかな以上、この方式によつて算出された日用品費の総額が非現実的に流れていないか否かを他の観点から検討すべきである。たとえば、エンゲル系数方式、実態生計費方式などの他の理論生計費方式による多角的な検討に、それはたえうるものでなければならない。マーケツト・バスケツト方式により費目・数量・単価が一応合理的に組まれているとしても、それが総額において他の理論生計費方式によるそれと喰い違つている場合には、そのことは当該基準におけるマーケツト・バスケツト方式の適用が主観的であり、妥当性・客観性を欠いていることを疑わせるに充分である。日用品費の実態調査、生活保護患者の要求、希望等も、こうした検討の有力な手がかりとなるものである。われわれが、これらの点を主張立証したのもこのためである。原判決もまた、本件日用品費の総額について「その当否を他の観点から吟味検討」しているが、しかし、そこではこのような「他の観点から」する「吟味検討」が、マーケツト・バスケツト方式が欠陥を内包することとの関連で必要不可欠なものとして要請されているのだという認識が欠けている。このため保護基準の設定が覊束裁量であること、挙証責任が行政庁の側にあることという前提が厳密に貫ぬかれていないことと相まつて、原判決が行なつた「吟味検討」は、「現実無視の架空な額」といいうるか否かを基準にするという、きわめてルーズなものになりおおせている。このようなルーズな検討ではマーケツト・バスケツト方式の欠陥を補正するという意義は到底もらえない。
[116] そして、日用品費の実態調査等よりみると、本件日用品費の総額は、原判決も指摘するように、「低額であることは否定できない」、「いかにも低額に失する感は禁じ得ない」ものである以上、この点に関する原判決引用の各証拠は、本件日用品費の基準が違法であることを伺わせるに充分であるといわねばならない。つまりは、原判決の如く、本件日用品費の基準が「現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分でない」と結論すべきではなく、その逆に、それらによつて「マーケツト・バスケツト方式の欠陥を露呈していることが充分に窺われ、これを否定するに足る十分な資料は存しない」と結論づけるべきであつた。
[117] 原判決は、日用品費600円の算出過程において、一般生活扶助基準額が、要保護者の最低生活を維持するのに必要にして且つ十分なものであるかどうかについての具体的な検討には全く触れていない。
[118] それでは原判決は日用品費の額を認定する上において一般生活扶助基準およびその額を全く思考の外においたのかどうかというとそうではない。上告理由書(第三点一の(一)「原判決の一般扶助基準額に関する適法性の推認」――17頁目以降)に詳述したが、原判決は
被上告人が「マーケツト・バスケツト方式により定めた一般の生活扶助の基準を基礎とし、入院入所生活という特殊事情に鑑み、右の一般基準に追加削除をして本件日用品費を算出した」
と述べているし、別のところでは、
「ただ、さきにも示したように、入院入所患者の日用品費の額は、一般生活扶助の水準と同程度の生活を営むことを前提として、これに入院入所という特殊事情に基づく部分的補正を行なつて定められたものであるから、本件日用品費の水準の引上げの要否を考慮するためには、一般生活扶助基準の引上げの要否が不可分的に考慮されなければならない」
とも述べている。このように原判決も認めているように、日用品費の算出が一般生活扶助基準にその基礎をおいているばかりでなく、憲法第25条や生活保護法第3条、第8条、第12条等でいう健康で文化的な最低限度の生活水準とは具体的に如何なる生活内容、程度を維持していなければならないかという点の判断に於ても、一般生活扶助の要保護者の場合と入院入所患者の場合との間に(両者の間に生活形態の違いから生ずる費目、数量、単価等の差異はあつても)、その法律的評価の尺度において寸毫の優劣も存し得ないこと明らかである。即ち入院入所患者に対する日用品費の適否は、それ自体のみの検討だけでは不十分であり、日用品費算出の基礎であり日用品費と密接不可分の関係にある一般生活扶助基準額が法の要件を満たしているかどうかを判断し、之との対比に於て検討されなければならない。仮に一般生活扶助基準額が著しく法の要件を満たさず最早違法としか評しえぬ場合に、右の違法な一般基準額に基礎をおき、之と同程度の生活を営むことを前提として、算出された日用品費は、その点において既に違法であるのみならず、日用品費の算出過程でも、前同様、著しく劣悪な生活内容を以て法のいう最低生活なりとする違法な尺度に基づいて追加削除された、いわば二重の誤りを犯しているのであるから、このようにして生じた日用品費は到底之を適法ということはできないのである。
[119] そうであるからこそ上告人は第一、二審を通じて、単に日用品費がそれ自体として著しく低すぎるため違法であるとの主張立証に止まらず、その前提たる一般生活扶助基準額も亦違法なものであることの主張立証についての多くの努力を重ねてきたのである。
[120] 一般生活扶助基準額の違法性のみの立証、或は主としてその違法性の立証のために申請した書証、人証も少なくなく、裁判所も亦右の趣旨に沿つてこれらを採用し、証拠調がなされた。
[121] その結果は上告理由書第三点一の(二)及びこれに対応する本補充申立書に述べた如く、明らかに一般生活扶助基準額は著しく低きに失し、違法のそしりを免れ得ないのである。
[122] 然るに原判決は上告理由書第三点一、(一)記載部分及び原判決全体の趣旨からみて、結局は日用品費と密接不可分の関係に立つ一般生活扶助基準額は生活保護法第3条、第8条、第12条、憲法第25条第1項等の健康で文化的な最低限度の生活を満たすに充分な適法なものとの前提に立ち、日用品費の適法性を推認し、違法性を否定しているものであるところ、右は重大な事実誤認が、明らかに前記各法条の解釈運用を誤つたものであり、判決に影響を及ぼすこと勿論である。
[123] 又、原判決は一般生活扶助基準額が適法であるとの前提に立ちながら、その適法性の推認の際に基準額算出過程の検討及び一般生活扶助基準額そのものが前記各法条にいう法の要件を満たしているかどうかの検討、判断をしていないのは、原判決の論旨自体理由不備、理由齟齬の違法があり、而も右は単に形式的或は軽微なものではなく、さきに述べたように日用品費の適法違法の判断の上で重大であり、判決に影響を及ぼすこと明らかである。
(二)の2について
[124] 被保護世帯の家計の現実の支出は保護基準額そのものではない。基準そのものは絶対的に低すぎるから、創意工夫によつて、生きるための自衛をはからざるを得ない。統計によれば被保護世帯の構成員の中で勤労収入を得ているものがあり、そのほかにも借金を含めて何らかの収入がある。その結果、実際に支給される生活保護費は保護基準額の約70%で、之らを合計すれば、現実には保護基準をかなり上まわつた生活をしている(甲第135号証)。それにもかかわらず、右のように上廻つた被保護世帯の家計費ですら、東京でいえば一般勤労者世帯の家計費に対する割合は、昭和26年で52%であつたものが、年と共に比率は低下し、昭和31年にはほぼ3分の一に近い36.5%にしか達していないのである。(甲第39、第41、第108の1、第124、第125、第126及び第127号証、前記天達証人第一、二審の証言)。

(二)の4について
[125] 被上告人側申請の証人河野一之は、生活扶助基準額(昭和29年頃)8,234円がそれほど低いものでないことのひきあいとして、国家公務員の給与ベースのうち、初任給中卒4,900円、高校卒5,700円をあげている。然し生活扶助基準額は標準5人世帯のものであり、当時の生活扶助基準額から年令上中卒、高卒をぬき出してみると中卒で2,660円、高卒で2,760円であるから、結局生活扶助基準額は公務員初任給の約2分の1ということになる(証人河野一之、同天達忠雄の原審証言)。

(二)の6について
[126] 本家計調査は昭和29年11月当時のものである。

(二)の8について
[127] 第13次改訂でも飲食物費についての熱量の計算に可食率をみておらない結果、大根の葉から皮まで、魚なら頭からしつぽまで食べられるという前提に立つている。昭和32年に厚生省が栄養研究所に委託して献立を作つたときは魚の骨をすりつぶして使うとか、山ごぼうや自然に野生している山菜などを無料でとつてきて入れるなどしなければ必要なカロリーをまかなうことができなかつたのである(原審青山春夫証言)。

(二)の10について
[128] 因みに昭和37年4月の第18次改訂でも基準額中の食費は35才男子でも僅か1日(1食ではない)80円であり、翌38年第19次改訂の際の1級地標準4人世帯生活扶助基準は17%の引上げにも拘らず、平均1人1日の食費は僅かに70円にすぎず、当時の東京都の犬抑留所での野犬飼養料が1頭1日70円と同額になつたが、それでも尚埼玉県の野犬飼養料1日100円にははるかに及ばない。
[129] ケースワーカー根本やえの実験(甲第146号証)によれば、最も気候その他の生活条件のよい十月を選び、且つ飲食費について98円も基準飲食費を超過したにも拘らず、基準カロリー30日63,000に対し僅かに32,800足らず、タン白基準量2,100に対し1,100足らずと約半分の栄養量しか摂ることができず、少しでも栄養価の高いものを求めようとすると極端に量が少なくなり、限られた物量で調理し必要に近いカロリーをとるためには基準以上の光熱費が必要であり、又専門的知識や時間を要し、間食は絶対に望めず、稼働能力は低下し、病気に対する抵抗力がなくなることが明らかにされた。実験6日目頃からビタミンCの欠乏症状を訴え、9日目には顔や足がむくみ、歯が浮き、頭痛を訴える。12日には39度の高熱で欠勤、19日目にはカルシウムを打つ。25日目空腹のためめまい、28日目髪の毛に艶がなくなり、皮膚がカサカサする。30日目には体重が約2キロも減つているのである。
[130] 青山証人はまた被保護世帯の生活実態について、昭和32、3年頃日雇の人が昼食にフライパンで御飯をいため、ソースをかけただけで食事をし、他の未亡人世帯では佃煮程度でお湯をかけて食事をしていることなどを明らかにした。そして又入院中の被保護患者は病院の食事が食べられず鮭の頭を買つてきたものを細かくきざんでそれをボールの中に入れてぽつぽつ食べているような状態なのである。

(二)の11について
[131]「給食についてくる牛肉とか卵などを売つて、金がいるようなときにはそれで苦面しております」「以前はパンを取つたらバターがついていましたからね。バターとりんごがついていたのでそれを売つたのです。」「食べたいんですけど、是非お金がいる時にはそれ以外に金の算出方法がないですから。」(以上第一審証人患者佐藤市郎の証言)。
(二)の13について
[132](1行目、一般生活保護基準……は一般生活扶助基準……と改訂)

(二)の14について
[133] 生活扶助基準額の適法性を判断するについてもう1つ重要なことは、基準の設定経過である。
[134] 戦後の昭和21年4月、生活困窮者緊急生活援護要綱により生活保護の基準が設けられたが旧生活保護法(昭和21年10月1日施行)では、「保護は生活に必要な限度を超えることができない」(第11条)という制限的な条項を設けているのみであつて、理念としては兎も角、基準はあくまでも制限的消極的なものであり、慈恵の域を超えるものではなかつた。従つて第7次改訂までの間基準額は一般勤労者世帯生計費(CPS)の僅か20%を上下する有様で、極めて低いものであることが窺えるのである。更に右基準は保護の要否認定の基準ではなく、支給の基準で、而も格別拘束されるわけではなく、実施の指導として、必要額一ぱいを支給せず幾分かを減額するように手心を加えればきつとその分位進んで働く気持をもつようになるであろうといつているのである。
[135] ところで昭和23年8月(旧法時代)の第8次改訂により基準額算定について理論生計費方式を採用したが、CPSとの対比も依然として37.6%と低いものであつた。昭和23年11月に実施された第9次改訂では世帯構成員の性別年令別の相違にも適応し得るよう組合せ方式をとつたが、昭和24年5月の第10次改訂でもエンゲル係数81.6という消費の実体を無視したものである。昭和25年に生活保護法(新法)が発足し、翌年の第11次改訂より昭和28年7月の第13次改訂に至るまで若干の修正を加え翌29年に米価を補正して昭和31、2年に至るのであるが、ここで採用された基本方式も、理論上から云つても、さきに述べた可食率を見込まなかつたり、一時扶助にシワ寄せをすることなどを含め、基準額による生活水準は生活の実態とほど遠いものでしかなかつた(以上甲第137号証)。
[136] これら基準額の変遷の中にみられる扶助費の著しい不足は、政府内部の予算接渉の中にも見出すことができる。昭和36年4月の第17次改訂の際厚生省はマーケツト・バスケツト方式により基準額の26%引上げを要求したにも拘らず、最後的には18%に削られてしまつたのであるが、そうなると厚生省は18%の引上げだけで最低生活ができると強弁するのである(前記青山証言)。
(一) 右第三点二4乃至6について
[137] 原判決には、本件日用品費基準の費目、数量、単価(以下単に費目、数量、単価という)に係る判示部分につき、次のとおり、法令の解釈運用上の誤り、事実誤認ならびに理由不備がある。
1 立証責任分配上の誤り――法令の解釈、運用上の誤り。
[138](1) 原判決には、立証責任分配上の誤りがありかつ、この誤りこそ原判決を違法たらしめた主たる要因の一つであることは、すでに別項で詳論したとおりであるが、このことはなかんずく数量、単価に係る判示部分について顕著であり、判決に重大な影響をおよぼすこと明らかである。
[139](2) 即ち、原判決は、まず数量につき、各証拠を綜合して認定した結果として(原判決別表改訂基準に掲げられた数量では)「かなりの窮屈を忍ばなければならない」ことを認めながらも、なお「日用品の消費数量は、各個人による節約の程度、当該品目の品質、単価その他複雑多岐にわたる諸般の要素に影響され、これらを切り離して検討できないものであるところ、以上の各証拠(原判決所掲の甲号各証ならびに被控訴人側証人等の各証言を指す)いずれもかような要素を明らかにしていない」として、とどのつまり、日用品の決定的不足を認めるには「これら各証拠はいずれもいまだ十分なものとはいいがたい」とし、次いで、単価についても、証拠中「前記別表内訳は、単価の点でも低すぎるという趣旨の記載又は供述が多い」が、前同様「日用品の単価は品質によつて異なるのにかかわらず、右各証拠にはその間の事情が具体的に出ていないから」右単価ではその消費数量にたえる程度の品質のものを入手することができないことを認めるには「以上の各証拠はいずれも十分でない、といわざるをえない」として、結局、パンツ2年1着、チリ紙月1束を除き、ほかには、費目「数量、単価において、右基準額では入院入所生活における日常身の回りの最低限度の需要を満たすことができないことを認めるに十分な証拠はない」から、要するに、パンツ、チリ紙の不足を含む基準額の1割程度の不足では、「本件保護基準を……確定的に違法と断定することは早計である」と断じている。
[140](3) 右のように、原判決は、ここでは、本件基準額が違法であるかどうかを判断の対象としかつ、その立証責任は右違法を主張する被控訴人側―上告人側が負うべきことを前提としている。
[141] しかしながら、本件のごとき行政処分取消訴訟では、本来、右の処分が適法であるかどうかこそ判断されるべきなのであり、かつ、これについての立証責任は右の適法を主張する側――一般に被告行政庁側――従つてまた本件のばあいでいえば控訴人側―被上告人側こそ負担すべきであることがたてまえとされていることは、別項で詳しく述べたとおりである。従つて、原判決は、右の点でまず根本的な誤りを犯していることは多言を要しないであろう。
[142](4) しかして、もし仮に、原判決にかかる誤りがなかつたとすれば、その結論が全く逆のもの――すなわち、本件控訴棄却の結論に達すべきものであつたことは、原判決の認定自体に照らし明らかである。
[143] けだし、すでに、原判決そのものが、数量につき「かなりの窮屈」を忍ばなければならないことを認めざるをえなかつたし、また単価についても、それが「低すぎる」ことを裏付ける多数証拠の存在を認めているのだからこの点だけからしても、数量、単価が不足しひいては基準額が適法でないことは明白であるそして原判決でさえ基準額が「すこぶる低」く、「直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚である」ことを認めざるをえなかつたものであり、少なくとも積極的に基準額が適法であることを認めるに十分な証拠がないことは、余りにも明らかである。
[144] ちなみに、数量、単価の検討は、原判決の中でも、その結論を大きく左右するに足る重要な位置を占めている。なぜなら、原判決によれば、本件基準が違法かどうかを判断するにあたり、マ・バ方式の採用、また「その方式により金額を算出する過程」に違法がない限り、右基準は一応適法なものと推認すべきである。として、右2点についての判断をすこぶる重視しているが、数量、単価の検討こそ費目と共に費用算出過程を構成する要因に外ならないからである。
[145](5) しかるに、原判決がかかる要因の検討判断にあたり、以上述べたとおりの誤りを犯したのは、生活保護法第8条、第12条、第3条、第5条の解釈、運用を誤つたものであり、ひいて、憲法第35条の趣旨を全く没却して、これに違反したものである。
2 本件基準の「健康で文化的生活水準に著しく不足していること」――事実誤認並びに法令解釈、運用の誤りについて。
[146] のみならず、原判決挙示の各証拠、その他原審で顕出されたそれらを綜合すれば、かえつて本件基準は、費目、数量、単価のいずれについても、憲法第25条、および、生活保護法第8条、第3条、第5条の定める「健康で文化的な」最低生活水準を著しく下廻る違法なものであることさえ明らかであるところ、原判決には、この事実を誤認した違法がある。しかして、この点は先にも上告理由書第三点で、多角的かつ実証的に究明しているが、以下更に、2、3補充する。
[147] なお、右事実誤認につき、検討するにあたつては、それが、第一に、上告理由書第二点で述べた法令の解釈、運用上の誤りに由来するものでもあることすでに、右第二点で触れたとおりであり、第二に、その意味では、そこで指摘した誤りの顕著にして具体的な例であることの2点に、特に留意すべきである。
(1) 費目について
イ、ズボン下等6(7)費目に対する判断遺脱に由来する事実誤認
[148](イ) 原判決は、費目につき検討するにあたり、本来その目安を、本件で問題とされている昭和31年8月1日当時実施されていた基準にこそ求めるべきであつた。けだし、本件の問題点は、いうまでもなく右時点当時における日用品費基準、従つてまたそこに計上されている費目が、はたして健康で文化的な生活の最低水準を維持するに足りるものであつたかどうか、の点に外ならないからである。しかるに、原判決は、あえて、これを避けて、その翌年である昭和32年4月1日実施の改訂基準を右検討の目安としたうえ、主として「被控訴人が具体的に指摘する費目で、右改訂基準にも挙げられていない費目」についてのみ、検討したにすぎなかつた。その結果、ズボン下(またはシミーズ)、敷布、枕カバー、櫛、安全カミソリ、インクの計6(7)費目については、それらが、昭和31年8月1日当時の基準には、どれ1つとして計上されていなかつたにもかかわらず、その後新たに右改訂基準に盛られるに至つた、というだけの理由で、原判決における検討の対象から、全く除外されてしまつているのである。
[149] もつとも、原判決は、のちに、本件基準額の不足を約1割(金額にして70円)と算出する過程で、右改訂前の基準額と改訂基準額との差額40円を右不足額に加えていることから、あるいは、この点で、改訂前後の各基準間にみられる費目の増減に対する配慮を加味している、との弁明を試みるかも知れない。
[150] しかしながら、ある費目が健康で文化的な最低の生活水準を維持するうえに必要不可欠であるかどうかは、入院入所中の被保護者の生活の実態との関連で、その費目そのものにつき、それが必要であるかどうか、を個別的具体的かつ実証的に検討することによつて、はじめて明らかにしうることであつて、これは、単に、右の費目につき一定の率で換算した金額なり割合なりの、それも数費目分を一括したものに対する、いわば十把ひとからげ式評価によつて置きかえうるものでは到底ありえない。従つて、かかる弁明の成り立つ余地は全くないのである。(この点は、後に五項で詳述する)。
[151](ロ) ところで、これらの費目が、いずれも健康で文化的な最低生活を維持して行くうえで欠くことのできないものであることは、外ならぬ原判決自身が別表として掲げた改訂基準では、これらの費目を計上せざるをえなかつた事実によつて、最も明確に裏書きされているが、それのみならず、原審で顕出された各証拠もまたこのことを十分に明らかにしているのである。
[152] たとえば、一般的にみても、結核で療養中の患者は寝ている時間が多く、かつ、常に身辺の清潔を保つ必要があることから、彼にとつて敷布が必需品であることは、一見明白であるが、寝ている時間の多いため、更に洗たくの度数が多くなり(特に洗たく機による洗たくは生地を痛め易い)、消耗度が一段と激しく、そのため、仮に、原判決が屡々いう一時支給、あるいは貸与の制度が真に適正に運用されることがありうるとしても、それらによつては、到底需要を充たしえないことは見易い道理であり、従つて、右費目は日用品費の一般基準に計上されるべき必要性があることは、朝日茂一審供述、ならびに証人横田洋の証言等に照らして明らかである。
[153] また、ズボン下についても、たとえば次に引用する原審小林昭証言は、その必要性を生生ましく明らかにしている。すなわち、本件国立岡山療養所では、大気安静療法を行なつており、病室には火気もなく、冬は寒くて病衣1枚ではとても過ごしえない状況下にあつたが、更に、
「療養所は廊下が多く、しかも昭和31年頃は窓もなかつたので、冬はズボン下なしでは寒いだけでなく身体にも悪いのです。昭和31年当時は風呂場は、中央の炊事場のそばの第1浴場を利用していたのですが、患者としては遠くの風呂場に行つたり、売店やポストに行つたり、時には外も歩くことがありましたから、ズボン下なしでは生活できません。外など殆ど出歩かない重症患者でも、ズボン下は必要です。それは夜便所へ行つたり、洗面所に行つたり、配膳室に食事を取りに行つたりしますから、ズボン下を使用しなかつたら風邪をひく元になつてしまいます。」
[154](ハ) 以上のとおり、原判決は、本来、前記6(7)費目について、個々的、具体的かつ実証的に、その必要不可欠であるかどうかを検討すべきであつたにもかかわらず、かかる検討をすることをあえて回避し、従つてまた、それらが健康で文化的な生活の最低水準を維持するうえで、必要不可欠であるかどうかを省みることもないまま、本件基準につき、費目の面での違法性はない、としたのは、まさしく判断の遺脱に外ならず、ひいてまた事実誤認の違法を犯したものである。
ロ、炊事用具、食器類についての事実誤認等
[155] 原判決はまた、「被控訴人の指摘する各費目のほかに」患者または医師等の経験、またはこれに基づく意見として挙げられている。入院入所生活に必要な日用品としての「多様な費目」についても検討する、と述べて、一見したところ、入院入所中の被保護者の生活の実態に根ざしたこれらの切実な訴えに耳を傾けるかのごとき態度を示しながら、その実、あるものは「その他雑費」でまかなうべきであるとし、また、あるものは「従前から所持しているのが一般」であるとし、更にまたあるものは、医療給付等の他の制度による保護にその解決を求めるべきである、とする等、要するに、現実から全く眼をそむけた形式論理としか評しえない論法をあれこれと用いたうえ、結局、これら費目がいずれも計上されていないからといつて、本件基準を違法とすることはできない、としているのである。
[156] しかしながら、かかる判示が、いかに人間性をふみにじり実態を無視し、かつ、証拠にも反した事実誤認であるかは、その1つの例を炊事用具、食器類にとつてみるだけでも、明らかである、といえよう。
[157](イ) まず、原判決は、炊事用具、食器類が補食のためのものであることを前提としたうえで、「補食費を支給すること自体認められないから、補食のための器具、食器代も計上すべきではない」として、すこぶる安易に、これら費目を基準に計上するにはおよばない旨認定している。
[158] しかし、かかる認定は、補食費が費目として計上さるべきかどうかの基本的問題をこの際、別項に譲るとしても、なお、二重の意味で、事実誤認のそしりを免れえないものである。
[159] けだし、第一に、原判決は、これら費目の用途を、単に補食との関係にだけ限定しているけれども、右各費目は、補食のためにだけ用いられるものでは決してなく、療養所側から支給される食事のためにもまた、欠くことのできないものであつたし、第二に、本件療養所における当時の給食の事情等に照らすとき、健康で文化的な最低生活以前の問題としてのいわゆる生存を維持するうえで、これらの費目は必要不可欠であつたからである。
[160](ロ) しかして、以上のことは、原審証人横田洋、同竹内綾夫、同小林昭等の各証言によつて、証拠上明白に裏付けられているのである。
[161] 現に、横田証人は、この点につき次のとおり述べている。
「患者の体の状態などによつて、食慾が進まない時があるし、夕方食事が早過ぎて、食事をとつておいてぬくめたりするのに、全部食器からあけて別にとつておくどんぶりや鍋、そういうものがいつたものですから、そういうものは必要としました。」「特に夕食の場合は、公務員の勤務時間が5時までなので、結局それまでに翌日のために食器を消毒してしまつたり全部の手続をすませるために、夏だと4時から4時半ごろまでの間に配つた食器を集めてしまうので、一般家庭と相当の開きがあるわけです。特に朝から昼にかけて食欲がないのでのばしたりすると、晩とほとんど2、3時間の開きしかないので、ほとんどの患者さんが自分の什器にとつておりました。」
[162] 竹内証人(昭和31年8月1日当時の国立岡山療養所炊事担当者)の証言もまた右の横田証言と全く照応している。すなわち、同証人は、患者が「時たま(食事を)暖めて食べることは見たことがある」し、また、右療養所では、夕食は4時半前後であつて、昼食と夕食との時間が接近していることは認めたうえで、それは「勤務時間が5時までですから、あまり遅くなると勤労時間がずれる」ためであつた、と述べているのである。また、小林証人は、次のとおり述べている。
「(入院入所生活では)薬鑵が必要です。食事の前に療棟婦が患者の薬鑵にお茶をついでくれることになつているのです。食事のときのお茶は、1杯の湯のみ茶碗だけでは、次の食事までには足らないのです。」
[163](ハ) 事実が右のとおりである以上、これに反する原判決が、この点で事実誤認の違法を犯していることは、他に説明を加えるまでもなく、すでに明白であろう。
3 数量に係る判示にみられる理由不備
[164](1) 原判決は、3カ月をこえる入院入所生活者にとつての日用品の所要数量を検討するにあたり、まず、「浮浪者」のごときばあいは例外として、一般には「最少限の衣料と身回品を一応持つている」のが「通常の場合」である、として、このばあいを所論の「前提」としている。しかして、かかる前提に立つたうえで、原判決は、同別表基準に掲げている数量では、「少くともパンツ2年1着、チリ紙月1束程度」の不足があるが、これ以外またはこれ以上の数量不足を認めるには、証拠不十分であるとしている。
[165] すなわち、原判決によれば、入院入所患者が「一応持つている」はずの「最少限の衣料と身回品」とを、右基準所掲数量に加算したうえで、その合計数量が、はたして、入院入所患者にとつて、健康で文化的な最低生活水準を維持するために必要欠くべからざる日用品の所要数量を充しているかどうかを基本的な見地とし、かつこの見地から、右基準が違反かどうかの検討が加えられていることになり、これをいいかえれば、原判決のいわゆる「最少限の衣料と身回品」とは、基準が計上している数量とならんで、右所要数量の一構成部分とされているのである。
[166](2) ところで、かかる見地に立つ限り、原判決は進んで「通常の場合」、入院入所患者がはたしてどれ程の「衣料または身回品」を持つて入院入所するのか、その種類、数量、品質等にわたつて、仔細かつ厳密にして、事実に即した検討を加えるべきであつた。
[167] けだし、かかる見地の下では、これらの「衣料または身回品」の種類、品質、数量等の如何は、そのまま直ちに、入院入所患者にとつて、健康で文化的な最低生活水準維持に必要な日用品所要数量が充されているかどうかの結論を決することになり、ひいては本件基準の違法の有無をも左右することにならざるをえないからである。
[168](3) ところが、原判決はそのいわゆる「最少限の衣料と身回品」の種類、数量、品質等につき、なんら明らかにしていないが、これは、理由不備以外の何物でもなく、従つて、原判決は、この点でもまた違法である。
(一) 一時扶助受給の問題点
[169] 本件当時一時扶助を受けるためには、いろんな要件がからみあい、現実には殆どその支給をうけることは困難であつた。扶助を受ける者の要件としてはまず、生活扶助を受けている者で、自然消耗又は小災害により、衣料、寝具が使用に堪えなくなつたときで、且つ真に支給を必要とする状態にある場合に限られるのである。
[170] 従つて医療扶助のみを受けているものは対象から除外される。衣料は2人世帯まで1着以内、3人以上2着以内、寝具(布団又は毛布)は2人世帯まで1組以内、4人まで2組以内、5人以上3組以内となつている。布団については1組に2人又はそれ以上の同衾を強いることもあり得ることは我慢できるとしても、衣料が2人で1着ということはどういうことになるのであろうか(勿論従来1着は持つているだろうということを前提として考えているのであろうが)。
[171] 要保護者が一時扶助をうけようとするときその手続は極めて面倒である。保護実施機関による実地調査により要件を認定した上、申請書のほか、保護台帳、収支認定書写、現に受けている生活扶助の程度、必要とみとめられる品目、数量及び所要経費の見積額、支給の要否に関する意見書、その他の参考資料を添付し、知事に進達することになつている。若し之により難いときは保護の実施機関より知事を経由して個々に厚生大臣に特別基準の設定を具申することになつている。
[172] ところで右の一時扶助の申請に対しては、予算の枠があり、知事の承認は右の予算によつてしめつけられるのである。即ち、昭和27年5月15日民保収第352号各福祉事務所長あて東京都民生局長通知「生活保護法による生活扶助の衣料及び寝具の取扱について」によれば「この通知による衣料又は寝具の取扱いに要する経費については厚生省が予算の総額を定め指示した範囲内において経理することになつているから了知のこと」となつている。
[173] 昭和32年以降は民生局長協議が廃止され福祉事務所長会議で支給できることになつたが、その時は更に制限が加わり、入院患者と施設内にいる老人には寝具は支給できないということがはつきり言われていた。その以前でも入院患者だけの場合は支給されることはまずなかつたのである。(以上甲第149号証、前記青山証言)
[174] 原判決には理由不備の違法がある。具体的には後記のとおり原判決の示した事実と理由との間の食い違いを如何に判断すべきか上告人には解し兼ねる点が見受けられるのである。

[175](一) 上告人は第一審より終始、本件保護変更決定及び本件裁決並びに月額600円の本件保護基準の違法を主張し、被上告人はその適法を主張してきたのであり、昭和31年4月1日の第14次改訂にかかる保護基準については、上告人が第一審昭和35年3月日付準備書面中、「訴の利益等について」述べた部分に
「原告は本件において被告厚生大臣の裁決処分の違法を争つているが、その前提として被告が生活保護法第8条に基づいてなした生活保護の基準(本件裁決当時600円、現在670円)そのものを争うものである。」
と主張し、被上告人が原審昭和38年5月10日付準備書面(最終準備書面)において
「一旦決定された生活保護基準は社会文化、経済諸情勢の変動に応じ、毎年改訂の必要の有無が検討されているのであるが、本件扶助基準は……昭和28年7月1日の改訂によるものであつて、その後昭和34年4月1日の第14次改訂に至るまでの間、特に著しい物価の上昇その他社会、文化、経済的諸情勢の変動がなかつたので本件当時においてもそのまま維持されたものである。」
と触れているのみである。争点はあくまでも月額600円の保護基準の適法違法に集中されたのであつて、第14次改訂による月額670円の保護基準が争の中心とされた事実はない。従つて原判決が事実及び理由において示すべきところは本件保護基準月額600円に関する当事者双方の主張とこれに対する判断でなければならず、徒らに第14次改訂基準の当否を論ずることは争点から外れるものである。

[176](二) 原判決は事実においては当事者双方の主張をこの点に関して概ね正確に記載し次の様に指摘している。
1 上告人主張について
[177]「被控訴人が憲法及び法律の保障する最低限度の生活の需要を満たすためには、少なくとも日用品費月額1,000円を必要とし、右月額600円の定めは低きに失して違法であり、被控訴人の収入1,500円から生活扶助相当額1,000円を控除するときは、残額500円だけが被控訴人の医療費一部負担となし得る額である。従つて生活扶助額600円を前提としてなされた本件保護変更決定は違法であるから、被控訴人は同年8月6日右決定に対し岡山県知事に不服申立をしたが同知事は、同年11月10日付でこれを却下する旨の決定をしたので、被控訴人はさらに同年12月3日控訴人に対し不服の申立をしたところ、控訴人は、昭和32年2月15日付で右申立を却下する旨の裁決をした。しかしながら違法な本件保護変更決定を維持した本件裁決は、これまた違法を免れないから右裁決の取消を求める。」
[178]「控訴人は、月額600円の金額を算出するに当つて、マーケツト・バスケツト方式を採用し、この方式を用いて定めた一般の生活扶助の保護基準を基礎とし、そのうち入院入所生活に不必要と思うものを除き必要と思うものを加え、原判決別表記載の内訳のとおり患者の身の回りの用を弁ずるため一般的に需要度の高いと思う標準的な費目を積みあげて右金額を算出したものであるが、右方式は生計費算出の一方式であつても、いかなる費目を積みあげるかによつていろいろ差が出てくるところから、この方式の採用は生活費の決定については問題のあるところである。そして月額600円の日用品費は、後記補食費の問題を別としても、3カ月をこえる入院入所中の単身患者の健康で文化的な生活水準を維持するに足りる日常身の回りの費用を著しく下回る額であつた。」
[179]「月額600円では著しく不足する上、長期療養の結核患者にとつては、療養所の給食では健康で文化的な食生活を維持することができなかつたから栄養の不足を補うためには補食をせざるを得なかつた。その補食費は、当然日用品費に計上されるべきである。要するに月額600円では身の回りのすべてを弁ずるに決定的に不足し、したがつて、本件日用品費の基準は、要保護者の年令別、性別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつてとはいえないから、生活保護法第3条、第5条及び第8条第2項に違反する。このように基準自体が少額に失する違法なものである以上、これに従つて被控訴人に対する扶助を廃止ないし削減した本件保護変更決定もまた違法である。」
[180]「同法第9条は、要保護者の実際の必要に即応して保護の基準を上回る保護の実施をも要請していると解すべきところ、長期療養重症患者たる被控訴人には、一般患者以上の特別の要求があつたから、月額600円をこえる日用品費を支給されるべきであつた。のみならず、岡山療養所の給食は補食によつて被控訴人の栄養不足を補わざるを得ない状況であり、かような場合には日用品費の中に当然補食費を考慮すべく、補食費を加えた日用品費が支給されるべきであつた。ところが、本件保護変更決定は、これらの措置に出なかつたから、同法第9条及び第3条に違反する。」
[181]「本件日用品費600円の基準の内訳は、費目の選択において非合理的・形式的で、最低限度の生活に必要不可欠な品目を落しているし、単価・数量においても少なきに失するものがある。」
2 被上告人主張について
[182]「被控訴人に生活扶助として給付すべき日用品費を月額600円としたことは違法でない。すなわち生活保護法第8条によれば保護は厚生大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基として同条の定めるところに従つて行なうべきものとされており、控訴人は右規定に従い保護基準(昭和28年7月1日厚生省告示第226号)を定め、これによる保護の実施要領(昭和28年6月23日社第61号厚生次官通知、同年7月9日社発第415号、昭和29年9月9日社発第713号各厚生省社会局長通知)を通達し、入院期間3カ月をこえる要保護者で給食を受けている無収入の単身患者大人1人の日用品費(被服費、保険衛生費、雑費)を月額600円の範囲内で支給するものとしたのであり、その支給額の計算方法は原判決末尾別表記載のとおりであつて、右金額は生活保護法の要件に合致するものである。しかるに被控訴人は、昭和31年8月1日以降兄朝日敬一から月1500円の仕送りを受けるようになつたからその後は月額600円の生活扶助及び月額900円に相当する部分の医療扶助を必要としなくなつた。したがつて、本件保護変更決定は適法であり、これを維持した原裁決もまた適法である。」
[183]「仮に本件日用品費の基準月額600円が違法であつたとしても、昭和31年8月当時被控訴人自身においては、月額600円でその日常の身の回りを弁ずるに足りていたのみならず、誤つて適用されたものではあるが軽費制度により月額400円の医療費減免措置を受けその額だけ医療費の自己負担を免れそのため月額1,000円を自己の手許にとどめ日用品費に不足しなかつた。したがつて結局において本件保護変更決定は適法である」
[184](三) 右の様に、原判決はその事実摘示においては当事者双方の主張が本件処分当時適用された第13次改訂基準における月額600円の生活扶助基準の適法性に関する争いであることを指摘しながら、理由においては一転して昭和34年第14次改訂基準の適法、違法を論じ争点のすり替えを行なつた。
[185] 理由においてもその最初の部分においては、原判決はなお
「かようにして基準算出の基礎となつた内訳(原判決別表=第1審判決別表)自体に即し、これに組まれている個々の費目・数量・単価につきそれぞれの過不足を検討し、その総合された結果に基づき、3カ月をこえる入院入所中の単身患者の健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するための日用品費としての適法・違法を判断すべきものである。」
と述べて第13次改訂基準の適法・違法を判断するかの如き口吻をみせながら、
「本件日用品費の基準は昭和32年4月に行なわれた第14次の基準改訂とともに本判決別表記載の内訳のとおり改訂され、合計額において月額640円に引上げられたこと」
を認定した後は、原判決別表としても第14次改訂基準別表を掲げ、右別表の適法性の検討にのみ焦点を合せ、争点を無視してしまつた。この判決別表のすり替えは極めて巧妙に行なわれ、一見すると誤魔化され兼ねないものであるが、右すり替えの理由として原判決の挙げるところは結局「ところで、被控訴人の主張は、右改訂後の基準でもなお不十分であるというに帰するところ」というのであるが、上告人の主張を如何に要約すれば「右改訂後の基準でもなお不十分であるというに帰する」のであろうか。無論改訂後の基準でも不十分に相違ない。しかし上告人の主張は第13次改訂基準が違法であるとの主張であることは自明であり原判決のような要約ができる筈はない。それを全く恣意的に右のように上告人主張を整理した上で、原判決は第14次改訂基準別表の費目・数量・単価について検討しているのである。
[186] 原判決は次のように述べる。
「被控訴人が具体的に指摘する費目で右改訂基準にも挙げられていない費目は、丹前、病衣又は寝巻、衿布、肩掛、はし、男性のクリーム又はメンソレータムの類、女性のパーマネントウエーブ代、ペン、ノート、便箋、修養娯楽費、交際費、患者自治会費及び補食費ということになり、なお体温計も改訂基準では削られているからこれも右に準じて考えるべきである。」
[187]「丹前及び病衣又は寝巻について……控訴人が……その一時支給に関する特別基準を設けてこれによつて給付を行なつていることは……認めることができるから、これらが一般的な日用品費の内訳の中に組込まれていないという理由で本件日用品費の基準を争うことは当を得ない。」
[188]「衿布以下患者自治会費までの費目及び体温計についてこれらの費目は、……衿布は使い古した衣料で間に合わせたり手拭で代用する途があるし、入院入所中の生活保護患者のため肩掛及びパーマネントウエーブ代まで考慮しなければならない程生活保護法の保障する生活水準が高いものとは解されず、箸は前から所持しているのが通常でかつ金額も僅かで半ば永久的に使えるものであるからその毎月の消耗分は別表所掲の「その他雑費」月額4円57銭中に含ませるのが相当であり、クリーム又はメンソレータムの類は……医療の面で考慮すべきであり、予防用の少量のものは右の「その他雑費」でまかなえるし……ペンは単価がごく低いので右の、「その他雑費」でまかなうべく、ノートや便箋は別表所掲の「用紙代」名儀月額20円のなかに含めて考えるべきであり……別表には「新聞代」名儀で月額165円が計上されている……。」
[189]「補食費について……それは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取り上げ基準額を算出する費目の一に掲げるべき筋合ではない。」
[190]「被控訴人の指摘する各費目の外に入院入所中の生活に必要な日用品費として多様な費目が挙げられており……これら各費目を検討するに……褌は別表所掲の「パンツ代」で補修用材料・マスクは同じく「その他雑費」でまかなうべきであり……別表記載の内訳をみると入院入所中の生活に必要なものが最低限度に近いとはいいながら一応そろつているから、その上に右に掲げた各費目を要求するほど生活保護法の保障する入院入所患者の生活が高度の水準を意味するものとは解されない。」
[191]「次に数量について考えるに……別表所掲の1年1枚では足りないし、痰の出るときはその処理のためチリ紙の消費数量も多くなり別表所掲の月1束では足りないこと及びこれらの不足を補うため少なくとも更にパンツ2年1着・チリ紙月1束程度をそれぞれ別表所掲数量に加えるのが相当であると認めることができ……。……別表改訂基準に掲げられた数量ではかなりの窮屈を忍ばなければならないという程度にとどまり、さらに進んで右数量では入院入所患者の日常の身の回りの用を弁ずるには決定的に不足することを認定する証拠としては、これら証拠はいずれもいまだ十分なものとはいいがたい。」「最後に単価について考える。……別表内訳は単価の点でも低すぎるという趣旨の記載又は供述が多いけれども、なかには費目によつて別表所掲と同額かこれより低額の単価を出しているものもある。……岡山療養所の職員厚生会購買部又は患者自治会における日用品の販売価格が記載されているけれども、その単価にも別表所掲と同額のもあればこれより高額又は低額のもある。……単価で別表所掲を上回るものがいずれもかような最低の価格又は料金によるものであることを認めるべき証拠はない。このように検討してみると、別表記載の単価ではその消費数量にたえる程度の品質のものを入手することができないことを認めるべき証拠としては以上の各証拠はいずれも十分でないといわざるを得ない。」
[192]「以上のとおりであつて、別表改訂基準によつてもなおパンツ2年1着及びチリ紙月1束程度は不足するというべきである。しかしそのほかには、費目・数量・単価において右基準額では入院入所生活における日常身の回りの最低限度の需要を満たすことができないことを認めるに十分な証拠はない。」
[193] 原判決中、別表に言及している部分を大略抽出しただけでも以上の通りであつて、ここで別表とされているものは何れも第14次改訂基準の別表に外ならない。即ち本件保護変更決定及び本件裁決時の保護基準に関する是非の判断を回避して、改定後の基準が恰も争の対象であるかのような判断を示し論点をすり替えているのである。
[194] しかも右の如き争点と判断の齟齬ないしこれに対する非難を免れようとして、理由において長々と改訂後の基準について論じておきながらその結論部分において突如として
「……このように考えてくると……本件日用品費の基準600円(月額)が低いことを示すものではあつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分でないといわなければならない。」
として再度本件基準の適法性判断を示した。右の様な判断は原判決の判断の主要な対象が14次改訂基準にあつたところからして飛躍したものというべきであり、改訂後の基準の適法性より直線的に本件基準の適法性を導き出したものとして不合理な判断といわざるを得ない。

[195](四) 従つて頭書に述べたとおり判決理由としては事実と理由との食い違いのため、当事者主張に関する判断が直接示されていないため、不明瞭で如何なる事実上又は法律上の判断を示したのか判明せず、又右判断の根拠が全く曖味である。よつて原判決は理由不備の違法あるものとして破棄を免れない。
[196] 本件での争点をつきつめれば、上告人が昭和31年8月当時に、国立岡山療養所に入所中という状況のもとで、月額600円という金で、憲法25条及びそのもとにある生活保護法にいう「健康にして文化的な最低限度の生活」を営むことができたか、否かということである。法的には、実兄から送金のあつた月額1,500円のうち、900円を医療費の一部として納付せしめ、そのことによつて上告人に月600円で生活せしめるにいたつた、津山福祉事務所長の処分が憲法の保障する水準以下の生活を余儀なくせしめた違法なものであつたか否かである。
[197] 原判決はこれに対して、生活保護法の規定する保護の種類と、そのもとに行なわれていると思われる行政措置の方法にしたがつて、個々の方法について判断をしているが、真の争点である「全体としての生活」については判断を示していない。上告人にとつては、月600円で実際に健康にして文化的な最低限度の生活ができるかどうかが直接問題であり、その保障がどのような行政の経路をとるか否かは、直接問題ではないのである。本件では、一見日用品費だけが問題になつているようであるが、それは生活保護法の組み立て方及び行政の措置にもとづき、「日用品費」という名目で月600円の金額が上告人の手許にのこされたからにすぎない。
[198] 生活保護法にもとづく、生活扶助の手段である日用品費の一般基準を月600円と定められてあるが、それが憲法の保障する「健康にして文化的な最低限度の生活」に達していたかどうかの判断だけでは、真の争点に対する回答になつていないのである。上告人はその一般基準を算出する基礎になつた日用品の全ての品目について、この600円から支出しなければならないことは勿論、生きていくために必要である全ての支出についてこの中から支払つていかなければならないのである。その支出の必要対象が、厚生大臣の定める基準のなかでは、医療費として分類されていようとも、あるいは基準のなかには全く見当らないとしても生存にとつてどうしても必要とあらば、この600円のなかから支出していかなければならないのである。上告人としては、その手許に残された金で、憲法25条に定められた生活ができなければならないのである。であるから、生活保護法に定められた保護の種類のうちで、ある一種類の保護、たとえば生活扶助として認められた基準が、その基準のなかに折り込まれている支出項目の現実の支出に及ばなくとも、他の種類の保護たとえば医療扶助の基準に余裕があり、そこから流用することができるようになつていて、現実にカバーすることができるならば、それでも上告人の要求は一応満たされるということができよう。もちろん、各種類の保護方法のなかでは、基準を構成する支出項目の数量が、現実の支出をみたしていることは保護方法を区分し、基準をたてそれによつて保護する建前からいつて必要であるけれども、それだけが問題ではない。
[199] おのおのの保護種類の基準が、憲法の定める最低生活に若干足りない場合があり、本件の場合も日用品費についてそのように判断されている。個々の保護種類の内部については、仮にそれが少しであり、それだけでは違法とは言えないと判断されても、それだけでは生活全体について保護が違法か否かの判断にならない。おのおのの保護種類についての基準を綜合してみれば、個々の保護基準については違法といえない不足も、それがかさなりあつて、保護の処分が全体の生活を憲法の要請する最低生活以下におとし入れていることになれば、違法といわなければならない。
[200] 原判決は各保護方法にわけて、それぞれの方法についての基準については、違法か否かを判断しているが、各基準を綜合した、全保護体系についての行政庁の基準措置が、法に違反しているか否かを判断していない。のちに詳説するとおり、原判決も各基準のなかには、計算の基礎に不足があり、また運用の不備があることを認めている。すると、ある保護方法についての基準の不足、不備が、他の保護方法にどういう影響をおよぼすかは当然考慮されなければならない。保護の対象である被保護者の生活は一体不可分であり、またこれに対応する各保護方法は体系をなしているからである。ある保護方法の欠陥はそれが他の部分にしわよせになり、その部分の不足を輪をかけたものにし、一部の基準の中自体の問題としては、我慢のできるものであつても、全体の生活がそのしわよせされた部分から破綻するにいたるのである。こうなれば、保護基準の体系は全体としてみれば違法と判断せざるをえないのである。
[201] 原判決も、保護方法内の「融通」を考えている点からみれば、この点にまつたく思い及ばなかつたものではないであろう。にもかかわらず、全体系の違法性の判断をしなかつたのは、各基準内の不足について、個々にみれば我慢ができるではないかと言いたいがためである。それによつて、生活保護全体の破綻を、国民の目から掩おうという意図からでたものと考えざるをえない。
[202] 原判決のこのような態度は、判断遺脱であるとともに、生活保護法第8条の解釈を誤つている。
[203] 個々の保護の種類について、定められた基準それ自体法のいう最低生活の線に達しているか否かを判断する必要がある。それは、全体としての保護が、最低の生活を保障しているかどうかをはかる目安として、その計測の手段として必要なのである。個々の基準がどれほど不足しているのか、また余裕があるのか、あるいは他にどれほど融通をつけられるか否かが検討され、その上にたつて、生活保護全体が最低生活を満たしているかどうかが判断されることになる。
[204] 原判決は、入院、入所者の生活扶助の内容をなす、日用品費の一般基準が違法であるかどうかの判断はしている。また医療扶助の一内容であり、その基準に該当する療養所の給食内容について違法であるかどうかを判断している。そして、それらの内容がそれぞれ十分に入院、入所者の生活の最低の必要を満していないことを認めた上で、それでもなお違法にはならないといつている。原判決は各方法の基準につき、どの程度の生活が憲法の要請であり、また生活保護法の規定する最低生活であるかについての解釈運用をあやまつている。上告人は、例えば日用品費について、扶助基準に定められている内容が、品目、数量において不足していることを具体的に挙げ、また価額を過少に評価している点をすでに具体的に指摘している。給食の内容についても補食をせざるをえない実情を委細をつくしてのべているのである。原判決は不当にも、これを無視し、それらを必要性の範囲から斥けてしまつたのである。原審裁判所が生活保護をうけている国民の生活を直視し、憲法の精神をまげないならば、基準自体が不十分であることから、それだけの理由によつてもこの基準によつて測定した本件処分の違法性の結論に達したであろう。現に第一審判決は、このことにより原裁決を取り消している。
[205] 原判決は、厚生大臣が定めた日用品費について最低生活を満たすための必要な品目、数量として上告人があげたものを斥けたにもかかわらず、その日用品費では最低生活を維持するのに尚不足であることを一応認めざるをえなかつた。即ち、
「実際には昭和31年8月1日当時も実情は既に改訂を必要とする段階に来ていたものと推認すべく、当時これをいかなる額にまで改訂するのが相当であつたかは、本件に現われた限りの資料だけによつてはたやすくこれを確定することはできないけれども、少なくとも昭和32年4月1日実施の右改訂基準と一致しない限度では改訂前の基準は本件で問題となつている昭和31年8月1日当時には既にある程度不相当となつていたものと推認することができる」
とのべているのである。そして、
「別表改訂基準(昭和32年4月1日実施)によつてもなおパンツ2年1着及びチリ紙月1束程度は不足するというべきである。……右のパンツとチリ紙の不足分を別表記載の単価で計算すると月額30円程度となり、これを右基準額に加えると、入院入所患者の日用品費として月額670円程度という数字が得られ、本件日用品費の基準600円はこれを約1割下回ることになる。」
といつている。原判決は又つづけて次のようにのべている。
「1割程度の不足とはいつても、最低に近い必要額と比較してのことであり、しかも療養所という隔離された環境の生活では、たとえ僅少の不足額でも逐月確実に累積し他より補充の見込みが少ないから、本件日用品費の基準が頗る低いものである以上、それになお若干の不足があるということになると、それは直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚であるということも考えなければならない。」
[206] 原判決がここまで考えおよんだならば、本件処分の違法の判断をなすべきであつた。原判決は右のパンツ2年1着及びチリ紙月1束の不足の「ほかには費目、数量、単価において右基準額では入院入所生活における日常身の回りの最低限度の需要を満たすことができないことを認めるに十分な証拠はない」といつている。一審判決はこの点について原審と判断を異にしているが、基準において不足していれば、その不足の数額を確定するまでもなく違法という結論に達している。一審判決の論理にしたがえば、右の相異する判断部分は暫く措くとしても、原判決の達した事実認定からしても違法という結論に達するのである。この点原判決は誤つていることが明白である。
[207] 寝具、病衣、寝巻、丹前、外套、毛布、包布等は入院、入所患者の日用品費の一般基準からはずされている。これらは結核のように長期の療養を要する入院、入所患者にとつては必需品であり、入院、入所中に補充しなければならない。すると少なくとも、これらの人達に対しては一般基準として算入すべきである。しかし、仮に原判決がいつているように、
これらの品物が「耐用年数においてシヤツやパンツにくらべると比較的に長くかつその年数を的確に把握することむずかしく、価格も比較的高額であるから、月々経常的に支出する一般的な基準には組み入れないで、従前のものが使用にたえなくなつたとか災害その他の理由で所持しない場合においてしかも病院又は療養所からも貸与を受けられないという真に必要なときに限り臨時の特別扱いを講ずるということも、基準という制度を設ける限り、その運営技術上やむをえないところである」
という前提にたつてみよう。しかし、この結論が成立つためには原判決がいうように「かような特別の事情があるときでも必ず特別基準を設定し、これによつて保護の行われるべきこと」が必要である。即ちそのような特別基準の運営が行なわれないかぎり、生活保護法第8条に違反することになる。一般基準が完全に給付され、特別基準が十分に運営されてはじめて一つの保護方法について、生活保護法第8条第2項の「最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つこれをこえない」という要請がみたされるのである。
[208] 本件の決定当時に右の品目についての特別基準の運営が十分になされていたであろうか。この点について、原判決は
「被控訴人は、この種品目については、一時支給の取扱があつても実際には一時支給されることがほとんどないと主張するけれども、それは一時支給の取扱という特別基準の運用上の問題であつて、一般的な日用品費の基準そのものを争う理由とはならない。」
とのべているばかりである。問題は、生活保護をうけている者にとつて、日用品をふくむ生活扶助が法の要請している水準に達しているかである。一般基準とあわせて、特別基準が十分運営されることによつて、ある一つの保護方法の生活扶助が法の要請をみたされるのである、特別基準の運用状況の判断なくしては、一般基準の立て方自体の合法性を判断することはできない。国がある品目を一般基準にいれるか、特別基準にいれるかは、立法技術というかもしれないが、いかなる立法技術の体系をとろうとも、被保護者の最低生活をみたすことはこの場合必須の条件である。生活保護体系の立法技術が、即ち本件の場合基準の立て方が拙劣又は不十分であり、被保護者の必要をみたすことができないならば、それは法の要請をみたしえず違法である。日用品費の一般基準は、その特別基準に補充されて、はじめて生活扶助のうちの日用品費部分の基準として合法か違法かが判断されうるのである。日用品費部分の一般と特別とあわせた基準が問題であるのに、一般基準と特別基準を分断して、寝巻等の右の品目について「特別基準の運用の問題である」というのでは、判断の遺脱である。特別基準の運用が全くなされないか、不十分にしかなされていない現実において、特別基準の運用を予定して立てられた一般基準は不十分である。現実に特別基準が十分に運用されていないのであれば、それらの品目は一般水準に折りこまれなければならない。ある品目は特別基準で行なわれることになつているからといつて、現実に行なわれていない立て前を被保護者に押し付けるのは、立法技術の不備を被保護者に負担させるか、あるいは被保護者を愚弄するものである。少なくとも大部分の人にとつて必要であるもの、例えば寝具、寝巻等が特別基準として十分に運用されていなければ、行政の責任者としては一般基準に包含させなければならない。もしそうでないとすれば違法である。
[209] 原判決は、寝具、寝巻等の右の品目の特別基準の運用状況について直接判断をしていない。これについて第一審判決は
「寝巻、敷布、枕カバーなどは常時臥床を余儀なくされ、かつ長期に及ぶ入院患者にとつて必要不可欠であるのはもちろん、その消耗度は通常の比ではないことはみやすいところであり」とのべたうえ、「一時支給の手続は煩雑なため速かに需要に応じにくく現実にはほとんど有名無実の状態にある」
としている。原判決がこの判断に反する判断をし、日用品費の特別基準の運用が十分であるといつていないところからすれば、原判決もこの結論を容認しているものとみられる。この判断の上に立つてみれば、原判決が行なつているように一般基準の内容と特別基準の運用をきりはなす方法が右にのべたように誤りであるからして、その結論は、第一審判決のようになるべきである。
「従つてこれもまたたんに行政措置の便宜に止めず一般的に基準費目として認めた上これを需要に応じて支給しうるものとするのでなければその最低限度の必要をみたすものといいがたいとしなければならない。」
ということになる。即ち厚生大臣の日用品費の一般基準の立て方は生活保護法第8条の要請を満たしていない違法なものであり、これを容認した原判決の法律の解釈の誤りは明白である。
(一) 原判決は各基準を綜合すれば違法性が決定的であることを看過している。
[210] 本件の争点は津山福祉事務所長の保護変更処分が、生活保護法第8条、第9条の趣旨にそうものであつたかどうかである。厚生大臣が定めた日用品費の基準が右の条項の要件をみたしているかどうかの判断も、療養所の給食の内容が右条項の要件をみたしているかどうかの判断も、それ自体の違法性が争うのが直接の目的でなく、上告人の生活全体をおおうところの原処分の違法性判断のための一つの方法であることを銘記しなければならない。ところが、原判決自体、日用品費の一般基準において、すでに最低限度を1割以上を割つていることを認め、またその特別基準の運用が不十分であることを容認し、その上給食内容が補食を必然的ならしめることを承認しながら、それらの各基準はそれぞれについてはいまだ違法というには足りないとしているのである。生活保護の基準は、生活保護法第8条第2項に「最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つこれを超えないものでなければならない」のである。即ち被保護者の生活にとつて、ぎりぎり一杯のものであることが法の要請である。してみるとその基準自体に不足があるとなれば、最低生活の限度一杯のものであるという基準の性格からして、ただちにその基準は違法であるという判断をなさなければならない。したがつてその保護基準を適用し、この水準をこえていないところの保護処分は、それだけですべて違法といわざるをえないのである。右の論旨はすでにしばしばのべているところであるが、その点はしばらく措くとしても、本件の争点からすれば、原判決は少なくとも、右の各基準が不足であるという認識の上にたつて、それらの不足を綜合したものでも、なおかつそれら各基準を適用した保護処分が法の要請する最低の水準に達せしめるか、どうかを判断すべきであつた。原判決が、日用品費目の一時支給については「一時支給の取扱という特別基準の運用の問題である」としているのは誤りであることが明白である。

(二) 補食費の不足は日用品費の不足を決定的にならしめる。
[211] また給食については、療養所が「努力を怠るときは、当該療養所の責任、ひいては国の不履行責任の問題を生ずることがある」といい、給食の不足は「運用上の改善にまつほかない」といつて、判断をさけている。そして被保護者に対して、不満があるならば、法及び行政当局の定めた制度にそつて、それぞれの運営を別々に争えという態度にでている。上告人としても、岡山療養所の給食によつて、現実に生命が維持され、恢復力がでてくるのであれば、それ以上の給付をしないからといつて争う必要はないのである。しかし、現実には足らなかつたのである。給食の運営を法的に争う方法があるものとして、また被保護患者の主張がとおりそれが違法であるという判断が出るとしても、その判断をかちとるまでには、どれだけの日時を要することか、すぐわかることである。その長い期間にわたつて、被保護者が他の栄養補給方法を講じないとすれば、その人の生命が失われるのは確実である。患者にとつては、給食が、単なる口の好みにあうかどうかではない。のどをとおるかどうかの、消化しうるかどうかの問題であり、のどをとおらなければ、生命が維持できないのである。
[212] 生命を維持しようとすれば、何か方法を講じなければならない。それは、持物を売るか、他の人から金を借りるか、日用品にあてる部分からまわすかである。上告人のような長期入所患者にとつては、売るべきものはないし、他人から借りることも著しく困難であることはみやすい道理であり、多くの証言からただちにわかることである。証拠にあらわれている患者の内職その他の補充手段は治療上好ましくないし、第一、重症患者たる上告人にとつては不可能である。したがつて日用品費にあてるものと定められた金から、補食にまわさざるをえないのである。上告人が当時、補食につかつていた費用は月額550円であり、一般の患者からくらべれば少ないものであるが、果物、野菜、肉、魚、卵、干物等、上告人が本人尋問にのべている内容が、療養生活のために最低必要なものでなかつたというのであろうか。それすらも被保護患者である上告人には許されないものというのであろうか。これらが潤滑油となり、かろうじて生命を保たせたのである。
[213] 上告人はこの費用を、手許の600円から支出せざるをえないのである。このために日用品の支出にあてる金額は50円しかのこらない。この50円をもつて原判決別表の日用品及び、パンツ2年1着とチリ紙1束の需要を、金額にして670円にあたる品目数量をみたさなければならないのである。これは到底不可能なものである。処分当時の日用品費の一般基準が、原判決が最低基準であると認めた金額よりも、1割以上低くとも、なお違法でないと原裁判所は判断しているが、一般基準の1割以下であつては、もはや違法でないということはできないであろう。それが現実の状態である。
[214] 上告人の現実の日用品費が50円で足りたのであろうか。勿論足りなかつた。上告人が手許に残る金を1,000円にして欲しいと知事に要求したときに、補食費にあてたいと訴えたのは、補食も最も切実な問題であつたから、それが前面に出た。しかし不足は、補食費にかぎらず、日用品代についても同様であつたが、申立書の書き方を指導した県の役人の指示によつて、現にでている申立書のとおり日用品費の不足が申立書の表面にでなかつたのである。その事情は、上告人がその本人尋問で訴えているとおりである。

(三) 法の執行者は予算の不足を要保護者及びその周囲に転嫁すべきではない。
[215] 上告人は生きたかつたし、なおりたかつたので、補食をした。そのために借財をしなかつたが、入院当時からもつていたわずかな所持品を売らざるをえなかつた。生活保護法は上告人のように、資産もない長期療養の入所患者に、身の皮をはぐような処分を強いたり、返すあてのない不義理な借財を強制する法意なのであろうか。また上告人は、友人、同窓生、元患者の見舞金をうけることによつて、その不足がおぎなわれた。もしも、このような人達の好意がなかつたならばどうなつたであろうか。上告人は、一審判決によつて、みずからの主張の正当性を認められた喜びもしることなく原判決の不正と無情にいきどおることもなく、本件処分のときから、いくばくもたたないうちに、その生涯をとじなければならなかつたろう。友人たちは、上告人の窮況をみかね、原処分の不当をいかりながら好意を示してくれたのであろう。福祉事務所長が、上告人の要求をしりぞけ窮地につきおとしたから、みかねてこれだけの救援がされたのである。福祉事務所長は、またその背後にある行政当局者は、この人たちの前に恥じなければならない。法の執行責任者のやるべきことを、患者の周囲の人の負担に転嫁している。その結果現実に生きていられたではないかというがごとき口吻をもらすことがあるとすれば、まことに救いがたい根性といわざるをえない。被保護者が困窮すれば、誰かが救援するだろうと考えて、その好意による金を予め計算するようなことを、生活保護法の運用者がすべきではないし、またそれが法意でもない。そのような遣り方は、国民の善意に乗じる卑劣きわまりないやり方である。

(四) 軽費は本件処分の違法性を証明している。
[216] また、岡山療養所当局が上告人に対して、その医療費一部負担金月額900円のうち400円につき、日用品費及び嗜好品費の必要を理由に療養費軽費の措置をとつたことも、上告人の生命の維持を可能ならしめたことにあずかつて力があつたであろう。療養所当局はこの措置が生活患者に対して、立て前としては、とりにくい性格のものであることを知つていたと思う。それでも、なおかつ、この措置をとつたのは、療養所の給食だけによつては、上告人の生命が保ちがたいことを意識していたからである。官僚組織の一部である、国立療養所当局をふみきらしたものは、人の生命が失われるという現実である。
[217] 療養所当局が400円の経費を認めることによつて、600円とあわせて1,000円が上告人の手許にのこつた。このことは、上告人のような状態にある患者が、療養所生活をつづけるためには、最低月額1,000円かかることを、療養所当局も認めざるをえなかつたことを示すものであり、津山福祉事務所長の本件処分が違法なことを証明するものである。

(五) 医療費一部負担の被保護者に対する収入認定にあたつての正しい考え方。
[218] 津山福祉事務所長の処分の違法性を判断するにあたつて、考慮しなければならないのは、同所長がその金庫から600円の金を、日用品費として上告人に現実に支給したのではなく、医療費一部負担として毎月900円を、いわば取り上げたのだということである。いわゆる収入認定の場合には、被保護者の手に金をあたえるのでなく、被保護者の手にある金をとりあげるのである。同じ保護処分といつても、現実の過程はちがうのである。所長が現実に金を支出する場合には、被保護者の現実の状態が厚生大臣の定めた基準そのままの支給では、法の定める最低限度の生活を維持させることができないとわかつていても、現実に配付された予算金額によつて制約されて、その必要額を支出できないという事態がおこることもあろう。しかし、収入認定の場合は、このような制約はない。法の定める生活水準を維持するために必要な金額を超えるものを、医療費負担にまわせばよいのである。これによつて、被保護者の健康にして文化的な最低限度の生活がまもられ、生活保護法第8条、第9条の法意が達せられるのである。

(六) 生活保護法第8条第1項の「需要の測定」の法意と、被上告人の基準の組み方の誤り。
[219] この場合、被保護者の手許にのこされる金額は厚生大臣の定める一般基準を超えることは、1円といえども許されないであろうか。本件処分はこのような考え方にもとづいて行なわれ、原判決はこれを肯定している。しかし、それは誤りである。厚生大臣の基準の立て方は、右にのべた正しい法の執行と明白に矛盾している。逆にいえば、同法第8条、第9条の法意がそのように解釈されねばならぬとすれば、被上告人の昭和28年に定めた日用品費の第13次一般基準も、昭和32年4月に定められた第14次基準も、法意にそわない違法な組み立て方であるといわなければならない。その理由はつぎのとおりである。
[220] 原判決は「健康で文化的な最低限度の生活水準そのものが、文化の発展、国民経済の進展等に伴つて絶えず進展向上すべきものである」といつている。そして原判決はまた被上告人が昭和32年4月の第14次の基準改訂までの間に、「国民の生活水準の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に絶えず留意し基準の適正化に研究と努力を続けてきたこと(その努力の結果が満足すべきものかどうかは別として)等の事実を認めることができ」るとしている。原判決の「基準の適正化に研究と努力を続け」たという判断は誤りであることはしばしばのべているとおりであるけれども、被上告人が「国民の生活水準の推移物価の推移、物価その他の経済事情の変動及び生活科学の発達に留意」すべきであるという趣旨には賛成であり、さらに被上告人は努力するだけでは足りず、「基準の適正化」という結果をもたらすべき義務がある。そうでなければ、基準は要保護者の最低限度の生活の需要を満たすに十分なものでなければならないという生活保護法第8条第2項の規定に違反するからである。
[221] 被上告人は、この義務を果していない。その具体的事実は、上告理由書の第三点にのべてあるとおりである。たとえば、日用品費の一般基準についてみれば、第13次改訂(第一審判決別表)と第14次改訂(原判決別表)とを比較してみるだけでも、明白である。その詳細は上告理由書第三点、二、3、「本件日用品費算出の非合理性」に分析しているとおりである。
[222] 日本の経済は昭和25年の朝鮮戦争を契機にして大膨張し、昭和28年、昭和29年と着実に前進し、原判決も認めているとおり「国民経済は昭和30年中既に大きな発展を示し、昭和31年度特にその後半期に至つて著大な進展を遂げ」たのである。国民の生活水準、消費水準も、生産の伸長にはおよばないけれども、向上の傾向にあつたことはあきらかである。このような状態においては、被上告人が定むべき基準は、原判決がいうように「文化の発展、国民経済の進展等に伴つて絶えて進展向上すべきもの」として定められねばならない。日本の消費者物価は、終戦以来紙幣を増発して国民から大量に収奪することによつて、大資本を育成するための手段であるインフレーシヨン政策により、その巾はあるけれども、一貫して上昇してきたことは公知の事実である。原判決もいうとおり、「物価も昭和30年度はほぼ安定していたのが昭和31年には上昇に転じ」たのである。
[223] このように生活水準の向上の面からも、物価の上昇の面からも、基準の金額が近い将来ぼう張することが、相当客観的な根拠をもつて予見されている場合には、被上告人の基準の定め方についてそれに対応する用意がなければならない。生活保護費は国の義務費と観念されているならば、財政上の理由から不足することがわかつていながら手びかえておくことはゆるされない。その場合に法の要請にこたえる基準の立て方に、2つの方法がある。1つの方法は、一般基準を余裕をもたして定めておき、現実の最低必要費がそこにまでいたらない場合には、一般基準との差額を減じて適用すればよいのである。他の方法は、一般基準は改訂の時の水準に見あつたものにしておくが、生活水準、物価上昇がみこまれる額を予備費的に定めておき、実際の上昇程度に応じて、物価上昇、生活向上による特別基準の運用として行なうのである。このようにしてはじめて、生活保護法第9条に定める必要即応の原則をみたし、また同法第8条第2項の「最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つこれをこえない」保護をしたということができるのである。
[224] 現実の日用品費一般基準を定めるについての考え方は、生活水準の向上、物価の上昇をみこして余裕をふくんだものとして組むというやり方ではない。改訂等の最低生活水準と厚生大臣が考えたもので、きつしりと目一杯に組まれている。であるから、時がたてばその最高を給付しても、必然的に、第8条、第9条の要請をみたしえないものとなるのである。
[225] 日用品費として被保護者に給付又はその手許にのこすべき金額は、日用品費一般基準の額を1円もこえて給付すべきでないという解釈がただしいものであるとして、その前提は動かせないとするならば、その運用が第8条、第9条の要請に反しないようにするためには、余裕のある一般基準を予めたてておくより仕方がないのである。それでなければ、被保護者の最低限度の生活をなりたたせる給付ができないし、また収入認定による医療費一部負担の場合には最低生活を侵害することになる。
[226] 要するに、日用品費の一般基準を改訂当時の最低生活費と考えられるものにあわせて、目一杯にきつしりと組むという考え方と、日用品費の給付は一般基準の額以上1円を出せないという考え方は、日本の現状においては生活保護法第8条及び第9条の法意をともにみたす上において、ならびたたないものであり、互に矛盾するのである。であるから、本件処分の場合に、原処分者の考え方のように、被上告人の定めた日用品費の一般基準からみちびきだされた入院、入所患者の日用品費基準を超えて給付又は収入保留を認めることができないという法の解釈をとり、これを前提として考えるならば、被上告人の日用品費の一般基準の組み方は生活保護法第8条、第9条の法意に反して違法であるといわなければならない。

(七) 基準の運用の違法性。
[227] また本件処分当時の日用品費の一般基準の組み方が生活保護法第8条、第9条の法意にかなうものであるとして、それを前提として考えるならばその不足分を補う特別基準のための予備費がなければならず、特別基準が十分に運用されることによつて、右の両条項がみたされなければならないのである。しかし、現実においては、青山春夫証人がのべているように、予備費的なものがないばかりか、寝具などの特別基準の適用はなるべくするなという行政指導がなされ、その結果、寝具等の一時扶助の制度があるのだということを示すためだけの申訳的な数字が、実施件数として統計にあらわれている(甲第70号証)のみで、実際にはゼロに近いのである。であるからして、さきにのべたとおり、特別基準の十分な運営状況を前提としてのみ、評価されるべき日用品一般基準は、本件処分当時において、その組み方からして違法であるといつたのである。
[228] このようにして、処分当時の生活保護法の運営は、その当時の日本の現状にてらして、両立しない右の2つの考え方を、あたかも両立するかの如くに見せかけ、被保護者の憲法第2条の生存する権利を侵害していたのであり、原判決は被上告人のこのような汚ない運用を擁護しているのである。

(八) 津山福祉事務所長のとるべきであつた措置。
[229] では、原処分者である津山福祉事務所長は、このような状況の下ではいかにすれば、憲法第25条と生活保護法第8条、第9条の法意をみたすことができたであろうか。日用品費の一般基準が昭和28年7月当時の最低生活の水準きつかりのものであり、本件処分当時の最低生活水準と相異していた事情がわかつていたはずであり、また職責上わかつていなければならなかつたのであるからその差額を上告人の手許に保留しておかねばならなかつた。また給食の実際と上告人の補食の必要性を認識していたはずでありまた知つていなければならなかつたのであるから、その必要額を上告人に残しておかねばならなかつた。これが注意にそう措置であつた。とすれば上告人の訴えにより少なくとも1,000円はのこしておかねばならなかつたのである。

(九) 生活保護法第8条、第9条の憲法第25条にそつた合理的統一的な解釈。
[230] 生活保護法第8条第1項にいう「厚生大臣の定める基準により測定」するというのは、生活扶助に関しては、その一般基準そのままを適用して、それの最高限度以上の金額を「要保護者の需要」とすることができないものであると解釈されてはならない。それは、その一般基準自体の、実際の最低生活水準からの回離は必然的であるから、寝具その他の特別基準の運用の実際を別にしても、そのまま適用できないことが明らかであるからである。
[231] 一般基準の性格が右のごとく実際の最低生活水準からはなれているならば、「厚生大臣の定める基準」とは、その一般基準だけをさすものではない。このことは、生活保護法第8条第2項の規定のしかたからも推定できる。同条第1項の基準は、「要保護者の種々の性質、保護の性質に応ずるか最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない」と規定しているが、色々の人の最低限度の生活の必要にして、十分な条件というものは状況に応じて偏差があり、極端にいえば個人毎にみなちがうといわなければならない。すべての人の需要を掩う一般基準をつくれば、一部の人にとつては必ずしも必要のない品目、数量がふくまれることになり、すべての人に共通に必要な品目、数量をもつて一般基準をつくれば、一部の人にとつて不足な部分が必ず生じることになる。だがら後者の傾向の一般基準の組み方を採れば、必ずある種類の人に共通した定型的な特別基準と、まつたく具体的な場合の必要をみたすための特別基準をたて運用することが必要である。とすれば同条第1項の要保護者の需要を測定する「基準」の中には、定型的と非定型的な特別基準をも含むものでありその測定にあたつては一般基準は基準としてもつとも重要な働きをするであろうけれども、一応の目安にとどまるのである。

(一〇) 原処分及びこれを支持した原判決の違憲性と違法性
[232] 津山福祉事務所長も、このようなものとして、日用品費の一般基準を運用しなければならなかつた。そして当時の実際の必要需要にしたがつて上告人に1,000円をのこすべきだつた。しかしこれは予算上、少しも支障はなく困難はないのである。事ここに出ずして一般基準の600円を機械的に適用して、あとの900円を上告人の手から取り上げる結果になる処分をし、それによつて上告人の憲法上の権利をおかしたのである。
[233] 処分当時、厚生大臣が実際にみあつた一般基準の訂正をせず、また行政の指導が600円の日用品費基準をそのまま適用せよというのであつたとしても、福祉事務所長はその責任はまぬかれない。また当時の最低生活水準の確定が困難であつたことも理由にはならない。所長は権利者たる要保護者に対して、法の執行にあたり、その最低生活をみたすべき責任を有するからである。またなにが最低生活水準が事後になつてはじめてわかつたとしても、その処分が要保護者の権利を現実に侵害した事実は存在する。実施者としては、その見込をふくんだ処分をすべきである。少なくとも、収入認定にともなう措置については容易にできうることである。
[234] 原処分が、客観的に憲法第25条、生活保護法第8条、第9条に違反していることは明らかである。しかし、原処分者は、処分当時はそれがわからなかつたという弁解がなされるかもしれない。けれども、法執行の責任者の主観的な無知は違法を救うものではない。
[235] 原処分者にもまして不当なのは、原判決の態度である。事後の審理の結果、日用品費についても最低ぎりぎりの線になお1割以上の不足があり、補食が必要であることを認めていながら、一体で上告人の生活を、各保護基準に分断して、保護の必要性と処分の違法性を少なく見せかけようとし客観的に明白な違法を救済しようとしている。原処分は、上告人の憲法第25条と生活保護法第8条、第9条の権利を奪い、場合によつてはその生命をも危険におとしいれかねまじき違法な行為であつた。この事態について、第一審判決は補食の問題に関し、
「給食そのものについていかなる改善をほどこし、間然たるところなからしめたにせよ、なおかつ補食が不可避であるとすれば、事はもはや医療扶助の一内容としての給食改善の問題を超えて人間性に根ざす直接の需要としてこれを考察しなければならない。」
とのべている。これが裁判所のとるべき態度である。
[236] 国民は裁判所に対して、行政権の不当な行使から、人権をまもるべきことを要請している。原裁判所が、この要請にこたえず、第一審判決の正当な結論をくつがえし、行政権の人権侵害行為を容認し、支持したのはまことに遺憾である。そのための判断の過程において、原判決は右にのべたような、憲法第25条に違反し、生活保護法第8条第9条の解釈について重大な誤りをおかしていることが明らかであるので、ただちに破毀をされるべきものである。
[237] 原判決は、補食費は日用品費の一部として計上されるべきであるとの上告人の主張に対し、「医療扶助として給食を給する以上仮に給食が不完全なため補食を必要とするとしても、それは、医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取上げるべき筋合ではない」とし、更に補食費を医療扶助の金銭給付により支給すべきであるとの主張についても、給食付の医療扶助を行なうときは、当該医療機関の給食とは別個に補食費を現金で支給する余地はない」と断じ結局上告人の指摘する補食費は生活扶助としても医療扶助としても支給できないと判示した。そして生活保護患者にとつて補食が必要であるかどうかに関しては、「現実の給食においては……治療上必要な栄養が十分摂取出来ない事態の起るであろうことは否定できない」こと、「集団給食に伴う欠陥を補食という方法で各自各様に解決している」こと、生活保護患者の補食費を含む支出月額が、都内某病院では月平均1,729円(併給)または2,040円(単給)(甲第31号証)国立岡山療養所では平均1,330円(生活保護患者につき)ないし2,500円(社会保険患者につき)であること、(甲第60号証)をいずれも認定している。
[238] にもかかわらず原判決は補食費の支給を否定しその理由として第一に各人の嗜好を全面的に満足させるほど生活保護の給食基準は高度でない。第二に補食による解決が医学上好ましいかどうか問題である。第三に一般の社会保険でも補食費の給付の対象としていない。第四に給食上の配慮を十分につくしてもなお極度の食欲不振その他のため治療上必要な最低限度の栄養すら摂取できない場合は、食欲増進剤や栄養剤を投与する他ないと説示している。
[239] 原判決が集団給食の欠陥とこれによる補食及びそのための出費の事実を一応なりとも認めるとすれば、問題は補食が行なわれている事実をどのように評価するかであろう。
[240] そこで原判決の補食の必要性に対する評価を検討し原判決の説く右消極的理由がいずれも根拠のないものであることを明確にする。
[241] 療養患者、長期療養患者は、病院給食以外に補食をとらなければ治療上必要な栄養が十分摂取できず生きてゆけない。

(一) 給食の実態。
[242] 云うまでもなく結核は体力の消耗度が高度の疾患であつて栄養の補給が大気、安静とともに結核治療の3大原則の一とされており「食餌療法」なる療法がある位にそれは重視されている(甲第2号証、甲第35号証)。医者も「高たん白、高脂肪療法が結核の治療の根本と考え、医者として(病院・療養所より)給食されたものは全部食べるよう(患者を)指導している」のである(原審証人寺坂隆の証言)。患者も「やはり結核患者は食べることが第一だろうと思います。私のように手術もできないし、化学療法もきかない者は、先生はまず第一番にできるだけ食べなさいといわれますし、食べることが命をもたす唯一の方法だろうと思つている」のである。(原審被控訴人朝日茂本人供述)。
[243] ところが日常の病院給食は十分に患者に摂取されないのが現実である。すなわち国立療養所における給食の残飯残菜が、昭和30年当時2割以上出ていたことは、第25回参議院社会労働委員会(昭和31年12月12日)第26回衆議院社会労働委員会(昭和32年5月16日)で政府自ら認めているところである(甲第7、第8号証参照)。昭和33年3月多摩済生病院(患者約200名)での調査によれば、主食3分の2以上を摂取する患者は全体の87パーセント、副食3分の2以上摂取する患者は73パーセントあつたことが明らかとなつている(第一審証人たる多摩済生院院長五十嵐正治の証言)。また全国の結核患者によつて構成されている自治会である日本患者同盟が昭和32年10月国立岩手療養所、同新潟療養所、同療養所浩風園、同大阪療養所、同徳島療養所及び同療養所清風園の療養患者1,550名を対象に調査した結果、次のことが明らかになつた(甲第29号証、第一審証人日本患者同盟中央本部組織部長沢田栄一の証言)。即ち第一に、給食の主食については、三食を通じて全部摂取している者が48パーセントから57パーセントにすぎず、2分の1以下しか摂取しない者が13パーセントから21パーセントに達していること、第二に副食では、三食とも全部食べる者が40パーセント前後にすぎず、2分の1以下しか食べぬものが30パーセントにも達していることである。第三に、主食でも重症患者ほど主食、副食の摂取率が低いことである。(安静度1―2度の患者で主食の摂取は三食を通じ、全部食べる者は35パーセント前後にすぎず2分の1以下が30パーセント前後に達する。又副食では、全部を食べる者は、僅かに20パーセント強であり2分の1以下が46パーセントにも達している)。その他昭和33年4月国立療養所臨浦園(甲第14号証)、昭和33年5月国立広島療養所(甲第15号証)での調査においてもほぼ同一の結果がでており、又岡山療養所の患者自治会たる療和会が昭和32年8月2日同療養所患者全員643名中回答者488名を調査したところ、次のことが判明している(甲第44号証、第一審証人たる右療和会副委員長中吉昭の証言)。第一に主食の摂取量について、三食全部食したものは57.3パーセントで2分の1以下が16.6パーセントに達する。第二に副食で三食を通じ全部食したものは29.5パーセントにすぎず、2分の1以下が40パーセント弱にも達している。又右調査で重症(安静度1―3度)の生活保護患者27名を調査したところ(甲第45号証、右中吉昭証言)、重症食粥食の者(9名)の三食通じての主食摂取量は平均71.6パーセント、副食は59.7パーセント、選択食の者(12名)の平均摂取率は主食89.8パーセント、副食67.2パーセントであつた。なお重症食の主食は常食の半分が規定となつている。このように重症患者は1割ないし3割の残飯、3割ないし4割の残菜を出している。
[244] 各国立病院療養所のいわゆる完全給食は医学栄養上の基準でなく(第一審五十嵐正治証言)その給食実績も厚生省医務局国立療養所課の設定している栄養基準量を割つたものである(甲第1号証)。(その詳細については上告理由書第五点四の(三)参照)。
[245] 右のような不十分な給食について、更に平均2割の残飯、残菜が生じ特に重症患者にあつて1割から3割の残飯、3割から4割の残菜が生じているのであるから、給食のみでは、患者の栄養不足は明白である。
[246] 各国立病院、療養所の患者間に例外なく補食が行なわれているのは右の栄養補給のうえから当然のことであつた。
[247] 原判決は給食が「十分摂取できない事態の起こるであろうことは否定できない」といいながら、その実右のような残飯、残菜の生ずる現実を全く無視しているというほかはない。
[248] 右のような給食の摂取状態が結核の治療に悪影響を与えることは明白である。厚生省側証人でさえ給食を全部摂取すれば補食の必要はない、2割程度の残飯が生じても治療上差支えはないだろうと証言している(第一審岡本玉樹、景山統二郎証言)にとどまるばかりか、右厚生省側証人らの証言は所要量を下廻る前記給食含有栄養量のさらに1、2割減がどういうものかを思えば甚だ疑問である。前記医師寺坂隆は右の程度でも治療上影響があると明言している。
[249] 右のような給食の摂取状況で他から栄養を補給しなかつたならば結核の治療を阻害することは勿論、生命の維持すら確保できないのは明白であろう。

(二) 給食に残飯、残菜が生ずるのは患者のわがままによるものであるか。
[250] 上告理由書第五点四の(二)(三)で述べたように、病院給食においては、給食用の設備、器具の状況、調理・保温・盛付・材料費、人件費等の事情のため不可避的に残飯、残菜が生ずるが、この現象は、患者、特に生活保護患者の努力によつて解消されることは到底不可能である。
[251] すなわち、結核患者特に長期安静を要する患者は病状により食慾が不安定なため、「個性抹殺の制服料理」である病院給食を十分摂取することはできない。しかも健康人の場合と異なり、我慢をすれば食べられるという状況ではないのである、
「健康人の場合は食慾がないといつてもある程度食べられるものですが、重症患者の場合は食慾がなければ飯を口に入れても、糠を口に入れたように感じられてどうしても食べられないのです。……贅沢でなく食べようとしても食べられないのです」(原審江草昌証言)。
「重症だつた頃は給食が全然食べられなかつたこともあります。そのことは軽症になつたり或いは健康体になると忘れがちで食べられなかつたことなど容易にわからないと思います」(原審松本千秋証言)
と元患者は訴えている。食慾の減退は患者の不注意や贅沢からではなく
「病気の性質上非常に長い、又運動することがとめられている状態から云つても、薬の関係からもですが、熱がなくとも普通食慾が減退しやすい」のである(原審浅賀ふさ証言)。
のみならず生活保護患者については次のような特徴が看過されてはならない。
「生活保護の患者は入院当時から肝臓障害、心臓障害そういう合併症がある人が多く、これは低所得によるための不合理な食生活、栄養障害、これは血清蛋白とか貧血症によつて出てきておりますが、入院当時からそういう状態で入つてきて結核にかかると、薬のパスの服用による胃腸障害とか長期の薬の服用による肝臓障害をきたすとか結核にかかりやすい体質は無力性体質が多いので胃腸の活動低下とか、そういう状態で手術をすれば手術後の血清肝炎がおこつたりすることがあるのです。」「殆どの患者がそうなるのですか」―「学会でもそういわれております、私の取扱つた場合にも殆ど出ています」。「胃腸障害、肝臓障害は健保なんかの患者より生保の患者のほうが特徴的に多いということですか」―「そうです」。「そういうことで給食をうまく摂取しにくいということですか」―「そうです」(前記寺坂隆証言)、
結核に併発する胃腸病等により食慾不振は一層激しくかつ恒常的となる。
[252] このように残飯、残菜は単に人間としての嗜好からだけでなく結核患者の食慾不振から生ずるものである。患者は給食以外に各人の口に合う物を摂取することによつて少しでも食慾を生じさせ給食を食べようと努力している。生活保護患者の嗜好を満足させるほど生活保護法のもとでの給食は高度のものでないとする原判決の説示は、無意識のうちにも一般健康人の嗜好を前提とし、そのような満足は生活保護を受ける者にとつてぜいたくであるこの考え方に立つているとしか考えられない。しかしながらこのような考え方は給食の対象が健康人でなく療養患者であることを忘れたものであり療養所における生活保護患者の補食の実態を全く理解していないと云うべきである。

(三) 補食の必要性。
[253] 以上述べたように集団給食の限界や結核に附随する食慾不振から、療養患者、特に長期の療養患者は、給食以外に補食をして栄養を補給しなければならない。もし補食が十分にできなければ患者は健康を恢復維持できず死を免れない実情におかれていると言つても決して過言でないのである。
[254] 厚生大臣官房統計調査部の昭和28年、同30年、同31年に行なわれた入院患者の治療費支払方法別退院患者数(百分率)の調査結果によると次のことが明らかである(甲第18号証、甲第17号証)
(1) 軽快を理由に退院した者で、
全額自己負担者は62.7パーセントから66.9パーセント
国民健康保険患者は67.2パーセントから70.1パーセント
生活保護患者は46.3パーセントから56.6パーセント
である。
(2) 死亡を理由に退院した者
全額自己負担患者は6.7パーセントから3.4パーセント
国民健康保険患者は、5.4パーセントから6パーセント
生活保護患者は14.5パーセントから20.9パーセント
である。
[255] 生活保護患者は、他の入院患者に比べ著しく回復が遅く、又死亡率は2倍強から6倍の高さである。又岡山療養所の重症患者で昭和32年から34年の間死亡した者は55名であるがそのうち39名が生活保護患者である(原審被控訴人朝日茂本人供述)。この比率も右厚生省の調査結果とほぼ同一である。このことは、生活保護患者が補食を十分とれないこと、ひいては補食費を捻出するためにする無理がその重要な一因をなしていることを裏書きするものである。
[256] 以上のように補食は、
[257] 第一に、給食によつてどうしても摂取されない栄養の不足を補充するためにとられる。それは生存維持のため必要不可欠である。前記日患同盟の調査結果によれば(甲第29号証、前記沢田栄一証言)、卵、牛乳、バター等、蛋白、脂肪等の高単位の栄養品が圧倒的に多い。又果物、野菜が多いのは、給食に欠けている新鮮な野菜、ビタミン不足を補うためである。
[258] 特に重症患者には、果物の需要が多い。しかし生活保護患者の重症患者は食慾がなく果物などほしがるが、病院では実際は出せない(原審証人たる国立新潟療養所医療ケースワーカー村山ミチ子の証言)。しかし生保患者は「好きな果物なんか自由には買えない」のである(原審、小野範昭証言)。
[259] 第二に、結核患者は、食慾が不安定で、給食をできるだけ食べるよう潤滑油として補食が必要となる、海苔、佃煮、梅干等小付物が多いのはこのためである。
患者は「栄養をとることから療養所の給食をたくさんとるため塩辛、目刺など補食した」(原審小林昭証言)。
「私は胃下垂等のため給食が全部食べられなかつたので補食をとつたのです。そして補食をとれば給食は大体全部食べられたのです。給食を食べなければ身体がもちませんでした」(前記江草昌証言)。
「重症食もありましたが、量が少なくいつもわるいと食慾がたまに出ても食べることができないのですそれで普通食を食べて補食してできるだけ沢山食べようと思つたわけです。……私はめざしとか干物が好きなものですからああいうものを食べると食慾が出るので……」(原審朝日茂本人供述)。
[260] このように潤滑油とも云うべき補食で給食をとり、治療上必要な栄養をとろうと努力することは健康人では考えられないことである。特に他の患者に比し食慾のない重症患者にはこの種の補食も必要となる。
[261] 第三に、患者の口にあう補食は、単調な療養生活に潤いを与え(動けない重症患者は特にそうである)、精神的慰安は患者に生きる望みを与え、治療上も有効である。
「昔母が作つてくれた……なすびを辛く煮たもの、塩サバを酢につけたもの……昔食べた田舎料理といいますかな、そういうものが食べてみたいと云うことですね」(第一審朝日茂本人尋問)。
[262] これらの補食は原判決が想像するいわゆるぜいたくと考えられるようなものではない。
「うまいうなぎでも1ぺんくらい食べてみたいと思います。……まあバナナ1本くらい食べてみたいことがあるですなあ……」(同右人)。
と希望はするが、生活保護患者にはそのような夢はかなえられないのである。
[263] 補食に要する額は、昭和32年当時日患同盟の調査によれば生活保護患者は1カ月500円位が最も多く健康保険、共済組合加入患者では1,500円から2,000円がもつとも多い事が判明した(甲第29号証、前記沢田栄一証言)。
[264] 甲第29号証による各療養所における生活保護患者の補食費の支出状況および患者の種類別補食費支出状況を表にすると次のとおりである。
[265] 岡山療養所の調査結果も略同一である(甲第44号証)。
[266] 第一審よりの証人で生活保護患者の補食費をみると(昭和31―34)
瀬岡康夫(重症患者) 600円
佐藤市郎(併給患者)1000円
中吉昭 ( 〃  )1500円― 500円
小野超三( 〃  ) 400円―1000円
横田洋 (単  給)1200円―1300円
小野範昭(併  給) 600円― 800円
江草昌 ( 〃  ) 600円― 900円
朝日茂 ( 〃  ) 500円― 600円
(図)各療養所における生保患者補食費支出状況〔省略〕
(図)患者種類別補食費支出状況〔省略〕
[267] 水島協同組合病院の生活保護患者の1カ月の補食費は平均600円(昭和33年頃)であつた(前記寺坂隆証言)。そして重症患者が一般に軽症患者よりも補食費が多いのは食欲不振で給食の残飯残菜の割合が多いことによるものと考えられ、又患者の総支出が少なければ少ないほど補食費の占める割合が高くなるのは補食が一定の限度において必要欠くべからざるものであることを示している(甲第31号証、第一審児島美都子証言、第一審判決等参照)。
[268] 上述のように補食は生活保護患者の生活にとつて絶対不可欠のものであるところ、原判決は、補食費の支給が不要である理由の一つとして、集団給食の欠陥を補う方法として補食をすることは、「医学上好ましいかどうか問題」であると述べている。
[269] しかし証拠上かかる疑問を生ずる余地は全くないのであつて、原判決が単に素人の推測をしているのだとしたら甚だしい不見識といわねばならない。
[270] まず結核においては前述のように栄養の補給が治療上の3大原則の1であつて、その栄養の補給は注射、投薬でなく食べることによつてするのが好ましく、何はともあれ栄養のあるものを沢山食べることが要請される。このことはむしろ公知の事実といつてよく、しかも医学的には支持される常識であることは疑問の余地がない。
[271] そうだとすれば卵、バター等栄養価の高いものを少しでも多くとること、また、のり、佃煮等によつて給食をできるだけ沢山食べようとすることは医学上きわめて好ましいことに相違なく、「医学上好ましいかどうか問題」などという謬見がどこから生ずるのか不可解でさえある。のみならず証拠上も、補食が「医学上好ましい」ことを示すものはあつても、これを否定する資料は皆無である。
[272] 病院は患者の補食を許し、医師がその相談にあたり、しかも医師は補食が好ましいと述べている。
「補食については病院側でも許可しておりました」(前記元患者江草昌証言)。
控訴代理人の問「補食は医者の指導でやつているのですか。」
答「いや、これは医者の指導というよりは相談会のときに相談にのつておりますが。」
問「補食したとしても医者としてそれが全部治療上絶対不可欠の補食であつたということは断定できないでしよう。」
答「はい、しかし私の経験では補食を十分にしたことによつて早くなおつたと思います」(前記医師寺坂隆証言)。
[273] またさらに厚生省側の証人となつた医師でさえ次のように述べている。
原告代理人の問「補食は治療上必要なことかどうかどうお考えになりますか。」
答「治療上は必要ないと思います。ただ健康で消化吸収力のある人が食べればそれは食べれば食べるだけのことはあると思います。よりよいということです。より回復を早くするということは違いないと思います。」
問「病院給食を完全に摂取した場合は病気が直らないというようなことはないといわれるのですか。」
答「いや補食をしなくても病院から出ている食事は全部食べておれば回復はするということなんです。
 消化吸収力のある方は、それはたくさん要求があるときに食べたほうが非常によりベターであるということです。」(第一審証人岡山療養所医務課長佐藤章の証言)
原告代理人の問「補食の医学上治療上の意味合いというのは。」
立「できる場合はした方がよいと思います。」
問「よりベターだというんですか。」
答「はあ。」
問「よりベターであるというのは治療上どういうことなんですか。」
答「できたほうがよいと思います。」
問「よりよい治療効果が生ずるということですか。」
答「そうです。」(第一審証人たる医師景山統二郎の証言)
[274] さらに患者の側においては補食を病気の恢復のため、体力、生命の維持のため絶対に必要だとの確信をもつてその摂取に腐心していることは前掲各証言、統計等によつて明らかである。
[275] このように補食が「医学上好ましい」ことは条理上、証拠上明白であつて原判決の前掲判示は甚だしい理由不備といわねばならない。
[276] また原判決は
集団給食に伴う欠陥を解決するための補食は「一般の社会保険でも給付の対象としていないのであるから、その費用としての補食費を生活保護患者に給付すべきものとすることも疑問である」
と判示する。しかしながら右判示は原判決の生活保護法に対する基本的理解の欠除を示すものである。
[277] そもそも社会保険は集団という基礎の上に危険を分散するという保険の原理を生活上起こり得べき一時的多額の出費に応用したものであつて、そのような出費をすることのできない階層、主として労働者のために生成発達してきた制度である。従つてそれは第一に、賃金生活者を対象とする。わが国においても現行法上健康保険をはじめ社会保険の殆どすべては雇用労働者を対象にしている。彼等は決して富裕ではないが一定の収入が予定されている人々である。雇用労働者を対象としない殆ど唯一のものに国民健康保険があるが、これは主として農漁村民や自営の中小商工業者を対象とするもので、その多くは富裕ではあり得ないが独立の経営者であるから、これまた一定の収入を期待することができる。要するに社会保険は当然には生活困窮者を対象とするものではない。ただ事実上富裕な者はこれを利用する必要がないだけである。これに反して生活保護は他に依るべき方法を失つた絶対的生活困窮者を対象とする制度である。第二に、社会保険は資本主義的合理性にもとづく保険原理の応用であるから、その母胎である生命保険や火災保険と同様の技術的性格を引継ぎ、いかにしたら合理的かが指導原理となるため保険給付の内容もその観点から考慮される。
[278] これに反して生活保護は国家がその責任において生活困窮者の生活の維持を保障するものであるから、保護が必要かつ十分であるかどうかが指導原理となり損益的または比較衡量的考慮を容れる余地がない。第三に社会保険は前述の保険原理から給付の原因つまり保険事故は傷病死出産という一時的に多額の出費を要する事項に限られる。これに反して生活保護は対象者の全生活面にわたる、いわば全人的保護である。
[279] 従つて社会保険と生活保護は機能的現象的に生活困窮者(貧困の程度に格段の差があるのであるが)の救済という面を共通にすることから共に社会保障の名題の下に論じられるけれども、そこに右のような根本的差異があることを見過ごすわけにはいかない。
[280] 一般の社会保険に補食費が考慮されていないのは対象者が補食費ぐらいは捻出できる経済的能力あることが当然予定されており、かつ補食費支給のために保険料を払つておくことに合理性がないからである。(なお理由書第五点四(五)4)ところが生活保護患者においては生活費にきびしい枠があつて、補食費を捻出することは絶対的に不能なのであり、無理にこれを可能にするならばそれ以外の生活面において人間であることを止めねばならないのである。
[281] このように補食費の支給を不要とする根拠を社会保険との対比に求めた原判決は生活保護法第8条、第3条、第1条を誤解し、ひいて憲法第25条を無視したものである。
[282] また原判決は
「極度の食欲不振その他のため給食によつて治療上必要な最低限度の栄養すら摂取できない例外的場合は、食欲増進剤や栄養剤を投与するなどの臨床的措置を構ずるのほかなく、単なる給食の問題ではない」
と説示する。
[283] 論旨まことに正当であるがこのような当り前なことを説いてみたところで何ら意味をもたない。問題はそのような例外的状態にない圧倒的多数の患者についていかにすべきかだからである。
[284] 一般に食欲不振はやたらに食欲増進剤や栄養剤等の薬を用いるより嗜好品の自然な摂取によつて解決する方がより好ましいことは常識であるが、原判決が補食費の支給を認めないかぎり例外的状態に至らない場合でも判示のような措置による解決が強いられることになる。
[285] そこで患者が(前記のような例外的場合でない)通常の場合に食欲不振等の理由で給食が食べられないことから原判決のいう臨床的措置を求めたとき療養所はそのような措置を講じてくれるであろうか。
[286] そのような解決の途がやはり閉ざされていることは、患者が
「ただ食欲不振ということでは注射はしてくれません」(江草昌証言)
ということだけでなく、次のような医師の証言によつて明白である。
被控訴代理人の問「蛋白や脂肪をできるだけ多く有効に摂取しなければならないのに残飯がでるということについて医者としてどういう指導をされるわけですか。」
答「食欲不振の患者には治療薬を与えるわけですが、生保の患者の治療方針は三等鈍行方式といつてかなり制限があります。33年は胃散を使うことも制限されとつたのです。」
問「三等鈍行方式というのは。」
答「東京に行くのに当時急行も準急も普通列車もあるわけですが、生保の患者は三等の普通列車の方式でなおすべきであるという指導を受けていました。」
問「どこからの指導ですか。」
答「県の方の指導です。」
問「何か具体的に医師を集めた会議でいわれたのですか。」
答「生保を扱つている病院の医師を集めた指導の際にいわれました。」
裁判長の問「三等鈍行方式でやれという指導があつたのですか。」
答「そういう言葉では具体的にいわれませんが、なるべく最低の治療をやつてくれというのです。」(前記寺坂隆証言)
[287] このように食欲不振による給食の摂取不能は原判決のいう例外的場合ぎりぎりいつぱいまで臨床的措置によつては救われないことが明白である。例外的場合以外はかような実態であるのにこれを無視し、あえて例外的場合の医療的措置に藉口して補食費支給の不可欠性を否定した原判決の前記判示は明らかに理由不備の違法を犯したものといわねばならない。
[288] 上述のように補食は療養中の結核患者、就中重症患者である上告人にとつて必要不可欠のものであつて、そのために要する費用が支給されなければ生活保護法および憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」を維持できないことは勿論、生存も期し難い。しかるに原判決はまず補食は医療扶助としての給食の問題であるとして生活扶助による補食費支給の方途を閉ざし、次いで医療扶助としては給食によつて現物給付する以上現金給付の余地なしとしてこれを拒否してしまつた。しかしながら補食費の支給は現行法上右の2つの途のいずれにおいても可能である。そこでさらに原判決の論理の形式を吟味することによつて理由書を補完することにし、まず生活扶助について検討し、次いで医療扶助について検討することとする。

(一) 補食の必要は給食の問題ではない。
[289] 原判決はまず補食費を日用品費として計上し得ることを否定して
「医療扶助として給食附の医療を給付する以上、仮に給食が不完全なため補食を必要とするとしても、それは医療扶助の一部としての給食自体の問題であり、該補食費を日用品費として取り上げるべき筋合ではない」
と判示する。
[290] しかしながら補食の必要は単に給食の不完全から生ずるのではなく、集団給食の本質的限界から不可避的に生ずるのである(理由書第五点の四(二))。原判決も他の部分で「治療上必要な栄養が十分摂取できない」事態の発生と現に患者が補食をしている事実を認めた上、各人の嗜好を全面的に満足させることは集団給食においては不可能だと述べているのであるから、補食の必要が給食の運用上の改善によつては払拭できないものであることを認めているものと解するほかはない。
[291] 補食の必要が給食の運用上尽すべき最善を尽したとしても払拭できず給食の範囲内での解決が不能だとすれば、もはや、補食の必要は給食の範囲内にとどまるものではなく、その外にあるものとして給食とは別個にこれを観察すべきだといわねばならない。
[292] のみならず仮に補食の必要が給食の不完全から生じ、その改善によつて払拭できるものだとしても、かくして現実に生じた補食の必要は未だ給食の問題だと論じ去ることはできない。というのは、給食が改善される見込がなく、療養所にとつて当面どうにもならないことであるなら、やはり給食によつては解決できない問題だといつてよいからである。
[293] また補食は原判決のように単に医療の一環としてこれをみるべきではなく、療養患者の生活の主要な一部、生活それ自体なのであり、画一的な給食によつては到底得られない精神的、人間的、文化的要素をもつていることを看過してはならない(理由書第五点の三の(二)(三))。
[294] 補食が給食とは全く異質の性質を具有しているとすれば、補食を補食の分野に放逐して顧みないことの不当はますます明らかである。
[295] また原判決が補食を医療扶助の分野に簡単に放逐してしまう思考の基礎として、給食そのものを医療の一環だと割切つて顧みない態度の誤りを指摘しなければならない。給食自体が本来生活の主要な一部、生活そのものであつて制度上の便宜から医療扶助の中に取り入れられているにすぎないという正しい認識があれば、よもやこのように簡単に即断しないであろう。原判決が給食を医療の一環だと割切り、「療養所での給食は医療の一環として専門家である医師の判断により患者の症状に応ずるようされるのが当然である」というような考えが机上の空論であることは、厚生省側の証人である岡山療養所医務課長が、給食系統は医務系統と別個であつて給食系統には1名の医師も看護婦も兼任ですら入つていないと述べ(佐藤章証言)、給食が医師の監督や指導を直接受けるような体制に全くなつていない現実に照らせば明らかである。
[296] このように原判決が補食の必要は給食の問題だと断定するに際しては、補食の必要が何に基因し、いかなる性質をもつのか、給食の改善による補食の解決が果して可能かを考究判断すべきであつたといわねばならない。原判決が前掲判示のように即断したのは右の判断を遺脱し理由不備の違法を犯したものである。

(二) 補食費はいわゆる日用品費といえる。
[297] 原判決が前記のように補食の必要を給食の問題であると即断したのは、1つには補食の必要は給食の運用において解決すべきものであり、2つには制度上、患者が療養所に収容されると給食が行なわれ、その結果生活扶助として支給される生活必需品費から飲食物費が控除されることとなつていること(生活保護法第52条第1項、第15条、第34条第1項、準用される国民健康保険および健康保険の諸規定)によるものと思われる。
[298] しかしながら、補食の必要は給食の運用上の改善によつては解消できない性質のものであり(理由書第五点の四)、現実の生活が法の要請する水準を維持できるよう現実的に保障されねばならないことは生活保護法第1条、第3条によつて明らかであるから、補食が右水準の維持のため不可欠であるとすれば、何らかの給付によりこれを保障しなければならない。病院等への収容により結局飲食物費が生活扶助費から差し引かれるという前述の仕組はあくまで制度上のたてまえであつて生活保護法の基本原則を左右するものでないことは勿論である。
[299] さればこそ昭和22年頃から同25年まで生活保護法により病院または療養所に収容中の患者に対して補食費が生活扶助として支給できるものとされていたのである(昭和22年社乙発第1682号厚生省社会局長通知)。この措置は昭和25年5月に至り廃止された(昭和25年社乙第71号厚生省社会局長通知、甲第21号証)が、これはいわゆる完全給食をすれば補食の必要はないという発想に起因するものと思われる。しかしすでに詳論したようにいわゆる「完全給食」とは制度上の呼称であつてその実態は決して「完全」とはいえない(理由書第五点四)ばかりでなく、岡山療養所における可食率は7、8割であつて(第一審認定、第59号証)補食の必要は厳として存在するものである。いわゆる完全給食によつても補食が不可避だとすればいかなる形であれ補食費は支給されねばならず、これを生活扶助として支給した従前の措置はまさに至当であつて、もとより廃止さるべき筋合ではなかつたと言わねばならない。
[300] このように補食の必要が給食の運用如何に拘らず普遍的恒常的に存在するものであるなら、もはやそれは給食の問題ではなく給食の領域外において給食とは独立に存在する生活上の一需要といわねばならない。
[301] ところで日用品費と称されるものは生活保護法第12条第1号の「衣食その他日常生活の需要を満たすために必要なもの」つまり生活扶助として支給される生活必需品費の中から療養所に収容されることによつて不要に帰する諸費用を控除したものであるから日用品費と呼ばれても生活必需品費であることに変りない。従つて療養所における生活上不可欠なものが生じたとすれば、それはとりもなおさず日用品費と呼ばれる生活必需品にほかならない。補食が生活に不可欠であるかぎり、これを日用品費とみるのはむしろ当然というべきである。加えて前述のように給食そのものが患者の生活の主要な一部であつて、その本来の性格に反しながらも制度上の便宜から医療扶助に含まれているのであるから(理由書第五点の三)補食を「食」という本来の姿で把え、その費用は日用品費に加えることが正当というべきである。
[302] このように、補食費は日用品費として取上げ得ることが可能かつ必要なのであつて原判決は前掲各法条の解釈を誤つたものである。

(三) 補食費は医療扶助としても支給できる。
1 給食に関する基準は適法か。
[303] 原判決は医療扶助に関する基準の適法違法を考察するにあたつて、
給食については「治療上必要な給食を行なうことを療養所自身に委ね、その具体的内容については別段の基準を設けず、その運用面において行政指導や予算的措置によつて給食内容が適当であるようはかることとしていた」
と認定した上、それは「少しも違法でない」とし、
「現実の給食においては……治療上必要な栄養が十分摂取できない事態の起こるであろうことを否定できない。しかしこれは運用上の改善にまつほかなく、そのことのゆえに医療扶助に関する基準そのものを違法視することはできない」
と判示する。
[304] しかしながら、保護基準は保護を最も確実、適切に行なうために定められた最低生活の需要を測定する尺度である。保護のすべての面にわたつて、この保護基準という尺度で生活需要の過不足を測定することにより保護が必要かつ十分に行なわれることが保障されているわけである。最低生活の需要を測定する尺度であるから基準自ら最低生活の需要を満たすに十分なものでなければならないのは当然である(生活保護法第8条)。従つて医療扶助に関する基準は給食について少なくとも治療上必要な栄養を十分摂取できるものでなくてはならない。そうでなければ法の要請を満たすとは到底いえないであろう。右基準が適法であるためには生活保護患者が現実に治療上必要な栄養が十分摂取できるような内容をもつていなければならないのである。このことは日用品費の月額600円という基準が適法であるためには現実に600円で最低生活が営めることを要するのと全く同様である。
[305] そこで医療扶助に関する基準が、原判決の認めるように「給食の具体的内容については別段の基準を設けず」に運用面で「適当であるようはかること」になつている場合、その基準は治療上必要な栄要を十分摂取できる内容だといえるであろうか。それは前述の保護基準の役目を果すことができるであろうか。右のような基準では、治療上必要な栄養の摂取が特定の医療機関の機構上できないこともあろうし、行政庁の指示に誤りがあることもあろうし、また医療機関の怠慢によつて不適当となることは十分考えられるのであるから、基準自体によつては必要な栄養の確保を期待することはできないといわねばならない。しかも、現実の生活の中で具体的に生じた患者の需要を基準と対比することは勿論できず、対比できなければいかなる保護をどの程度行なうべきか決められないから基準本来の役割を何ら果せないことになる(例えば基準に給食の材料費が150円と定められている場合には現実に100円の材料費しか使われていないとすれば、基準に照らして、さらに50円を増加するという保護を与えるべきことが判明する。このような作用ができない基準は何のためにあるかわからない)。従つて前記のような基準では患者は治療上必要な栄養の摂取を全く保障されていないというべきである。そして現に「治療上必要な栄養が十分摂取できない事態」が発生しているのであるが、もし右基準が給食について材料費、まかない費、栄養量、温度、給食人員、給食時間等可能な限り具体的な基準を定めており、それにも拘らず右のような事態が生じたとすれば、それは運用機関の責任となり得るし、たしかに、「運用上の改善にまつほかなく、そのことの故に基準を違法視できない」であろう。しかし医養扶助に関する基準が給食の具体的内容について何ら明確な基準を設けることなく、これを運用面に放置し、従つて患者が治療上必要な栄養を十分摂取できるような内容となつていないならば、それは医療扶助に関する基準自体の欠陥にほかならず、生活保護法第8条違反の基準といわねばならない。
[306] ところで原判決は触れていないが、いわゆる完全給食がなされていたことをもつて右基準が適法であることの理由に挙げることは到底できない。けだし完全給食の内容は甚だしく不完全であつて(理由書第五点四(三))、実際の運用において必要な栄養の摂取を確保するものではない。現に厚生省自ら昭和28年に給食の品質が低下している事実があることは遺憾であると警告しているくらいである。(甲第4号証の3)。そのうえ完全給食が全部食べられるものならまだしも、上述のように患者の食欲不振等避け難い理由から、7~8割しか食べられていないのである(甲第59号証)。このように完全給食なるものは患者に治療上必要な栄養の摂取を確保するには少しも役に立たない。原判決が言及しなかつたのもその故であろうと思われる。
[307] 原判決は「治療上必要な栄養が十分摂取できない事態」の発生を認め、にも拘らず基準は適法だというが、原判決の見地に立つて給食は医療の一環であり、「治療上必要な給食を行うことを療養所に委ねた」のであるなら右のような事態の発生はまさしく給食の主目的を根本から失わしめるものである。医療扶助に関する基準にはそのような事態が起こらぬよう可能な限り給食内容につき具体的基準を設けるべきであつて、これを全く欠き、給食の主目的を保障していない右基準が適法であり得ようはずはない。
[308] 従つて原判決の前掲判示は生活保護法第1条、第3条、第8条の解釈を誤つたものであると同時に、理由に齟齬ないし不備あるものと言わねばならない。
2 事実行為の問題であつても本件裁決は違法となる。
[309] また原判決は「医療(給食を含む)の実施が不十分であるときは、それは保護の事実行為の問題」であり、給食の欠陥から補食を必要としても「運用上の改善にまつほかなく」基準は適法であつて、療養所が給食に尽すべき努力を怠るときは不履行責任の生ずることはあつても「基準自体の適法、違法とは関係がない」と判示する。要するに、給食の欠陥ないし補食の必要は運用の問題であつて基準の違法をもたらさない、との理由で補食費の支給を否定しているのである。
[310] しかしながら、生活保護法は要保護者の現実の生活実態が同法ひいては憲法第25条の要請する水準を維持しうることを保障していることは明らかであり(第1条、第3条)、基準の設定は右の保障を実効あらしめる方策である(第5条、第8条)。従つて基準が適法である場合においても生活の実態が法の要請する水準に満たないものであるならば、かかる実態は国の生活保護法上の違反行為ないし違法状態であり、国は直ちに当該生活の実態を法の要請する水準に引き上げるべき責任を負うことは明らかである。原判決が場合により「療養所の責任、ひいて国の不履行責任の問題を生ずることもある」と述べるのもこれを認める趣旨であろう。
[311] そうだとすれば、いうまでもなく本件訴訟は上告人に対する保護変更決定を維持した被上告人の裁決を争うものなのであるから、補食費の支給が法の要請する水準を維持するため不可欠のものであるかぎり、上告人の生活実態が右水準に満たないことを是認し、ないしはその是正を拒否した本件裁決が違法であることは明らかである。事実行為といえども、それが法の要請する水準に満たないものであれば、それは直ちに実施機関のひいては国の責任を惹起するのであつて、かかる事態を是認する処分が違法であることは明白である。医療扶助の基準が違法でないからといつて法の保障する水準に満たない(基準が適法とすれば該基準に満たない)生活実態を放置することが許されないことは一点の疑いをも容れる余地はない。補食の必要ないし給食の欠陥が事実行為であることは本件裁決の違法に関しては全く障害とならないのである。
[312] のみならず給食の現状はその運用上の改善を到底期待できないこと既述のとおりであるから、本件裁決の違法はますます明白といわねばならない。
[313] 従つて原判決が医療扶助に関する基準の適法違法を判断するにとどまり、給食の欠陥ないし補食の必要を事実行為の問題として放置しこれが法の要請を満たすか否かを審究判示しなかつたのは許し難い理由不備であり、同時に生活保護法第1条、第3条、第5条、第8条の解釈を誤つたものといわなければならない。
3 補食費の支給は二重の給付とはならない。
[314] 原判決は生活保護法第34条第1項但書による医療扶助の金銭給付という形で補食費を支給し得ることを否定するにあたつて、右但書の意味を
「原則的方法である現物給付(同項本文)の全部又は一部に代えて金銭給付によることができる旨を定めたにすぎない」
と説いた上、
「右但書の規定を根拠として金銭給付の方法による医療扶助を行なうという二重の保護決定をすることはできない」
と判示する。
[315] 右判示はすでに給食という現物給付をしているのだから給食の問題である補食の費用につき金銭給付をすると二重の保護になるという単純な理解によるものであろうが、かかる断定はむしろ次にのべるように三重の誤りをしているといわねばならない。すなわち、第一に、給食を十分なものないしはその運用次第で補食を解消し得るものと考え、補食が給食とは別個の存在であることに思い至らない点である。その誤りについてはすでに論じた。第二に医療扶助においては必要な医療は給付しなければならないのであつて、治療がどんなに必要であつても、これ以上は治療してやらないという意味での給付の限界があるわけではない。従つて投薬して治癒しなければ注射をし更には手術を施すということはしばしば起こることであるが、これと同様に給食という医療を施してもなお足らなければ補食費の支給という医療をさらに施すのは当然のことである。第三に原判決は本条項但書の金銭給付を同項本文の現物給付にとつて代わるものと考えているがそのように解すべき根拠はない。同項は扶助の方法として原則と例外を定め、その撰択を認めたにすぎず、同一目的のために現物と金銭とを同時に給付しても一向に差支えないのである。
[316] 従つて生活保護法第34条第1項により補食費を支給することは決して二重の保護にはならず、同条項によつてこれを支給することは可能かつ必要なのでありこれを否定した原判決の前記判示は同項の解釈を誤り、かつ理由不備の違法を犯したものというべきである。
[317] 以上のとおり補食費は生活保護法上、生活扶助としても医療扶助としても支給し得るのであり、しかも支給しなければ患者の最低生活を維持することは勿論、その生存を確保することもできないのである。しかるに原判決は集団給食の欠陥から治療上必要な栄養を十分摂取できない事態が発生し、そのため補食がなされている現状を認めながらあえて詭弁を弄して補食費の支給を拒否してしまつた。そして最低生活の維持ないし生存に対する危険について救済を拒みながら療養所としてはできる限りの給食を行なえばよいので、療養所が、「こうした努力を怠るときは当該療養所の責任、ひいて国の不履行責任の問題を生ずることもある」と説示する。治療上必要な栄養が十分摂取できないのに損害賠償のような道が残されているからよいではないかというのである。しかし不履行責任の追求などという迂遠な方法が本件のような場合に何ら実質的な救済とならないことは縷説をまたないところである。
[318] 一例を挙げれば集団示威行進の許可制の場合に概括的な許可基準によつて関係官庁が恣意的に不許可処分を繰り返しているとき、損害賠償という方法では、その救済として全く不十分であるばかりか、そのような救済に期待していたのでは集会の自由は全く閉息してしまうことが明らかである。このとき、右許可基準の違法を確認し恣意的処分をする余地なからしめることがどうしても必要である。
[319] 本件の場合、右と形式を同じくしている上に、彼は自由の問題であるが此はまさに死活の問題である。補食をとれないために、補食費が支給されないために、補食費を捻出するため重症をおして無理なアルバイトをするために、恢復しない者があり、病状が悪化する者があり、死んで行く者があるのである。上告人朝日茂の死が補食費が支給されなかつたことと無関係であると誰が保証できよう。
[320] 以上要するに、生活保護法上補食費は支給が可能であり、かつ必要不可欠であつて、これを否定した原判決は、同法第1条、第3条、第5条、第8条、第9条、第12条、第15条及び第34条第1項に違反し、ひいて憲法第25条に違反すること明白である。
[1] 生活保護は保護基準にもとづいて行なわれ、その保護基準は、厚生大臣が定めることとなつているが(生活保護法第8条)、厚生大臣は、生活保護法第3条その他の定めにもとづいて、これを具体化する形で保護基準を設定すべきであつて、予算の如何によつて保護基準の内容を左右することは許されない。
[2] この点について、原判決は、一面において「年次歳出予算の総額には拘束されることなく、予算に拘らず受給権者は国に対するその権利を失わない」といいながらも、他面では「社会保障に充てられた金額は当時の政府における当該行政担当者及び財政担当者が検討の上他の各種財政上の支出との間に均衡が保たれるように考慮して立案されたものである」と述べ、保護基準設定に際し、予算は考慮に加えることが許されるとする余地を残している。一般的にみても、このような論が存在しないわけではない。
[3] したがつて、保護基準の適否を論ずるに当つてはまず保護基準を設定するに際して予算を考慮に加えることが許されるか否かが明確にされなければならない。
[4] ところで、保護基準によつて具体化されるべき「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法第25条第1項、生活保護法第3条)の内容、程度は、さきに述べたように、一定の国、一定の時期を前提にするならば、一義的に補足、決定することが可能であるから、生活保護を設定するに当つて予算を考慮に加えることが許されるということは、生活科学にもとづいて、人間らしい生活の最低限度を維持するためにどのような物質的諸条件が必要であるかという観点から決定された給付内容を、予算の不足乃至は予算の均衡を理由に削減することができるということにほかならないのである。つまり、予算を考慮に加えることが許されるとすることは、たとえ予算全体の適正な均衡を図るためとかその他どのような名目で説明しようとも、実質的には必ず保護基準をひき下げる方向にのみ作用するということである(原審証人今井忠男の証言は、国民総所得や予算、財政の規模が大きくなるに即応して、保護基準は「最低限度」そのものを引上げられるべきだと述べているが、これはあくまであるべき保護基準と予算、財政との関係を指摘するものとは評しえても、現実の両者の関係をとらえたものとは到底いいがたい。)。
[5] したがつて、ここでの問題の中心は、憲法、生活保護法の趣旨、精神、あるいは生活保護請求権の性格からいつて、右のような結論を容認することができるかという点に存するのである。
[6] 生活保護基準を設定するに当つて予算を考慮に加えることが許されるか否かは、一般的にいえば、法律と予算の関係をどのようにとらえるかという問題に帰着する。つまり、国の経費支出を定めた法律が予算編成をリードしその内容を決定づける拘束力をもつか否かの問題に帰着する。
[7] ところで、国の経費支出を定めた法律はさまざまであり、常に予算を拘束すると論ずることも、常にその逆であると論ずることもできないから、結局この問題は拘束する場合と拘束しない場合とを区別する基準をどこにおくかの問題に帰着する。国の経費支出を定めた法律が支出基準を法定している場合であつても、もつぱらそれにもとづいて支出が行なわれなければならない場合と、法定の基準のほかに予算も考慮に入れることができる場合とがあるのであり、個々のケースがそのいずれに属するとみることができるかが問題となるのである。この点について、田中二郎教授は、恩給法による恩給とか土地収用法による損失補償とか国家賠償による損害賠償のように、給付に対する反対給付またはこれに準じて考えてよい経済的対価の場合には政府の予算措置を義務づけるが、補償金・奨励金のように政府の政策的支出の場合には政府の予算措置を義務づけるものではないと論じている(田中・法律と予算383頁以下)。後者の場合には、支出基準が決定されていてもそれはあくまでも一応の基準にすぎず、予算の範囲で支出すればよいとされている。
[8] 右の田中教授の説によれば、対価性の有無が基準となつているが、しかし、実際には右のいずれの類型にも属さない立法例が少なくない。これらの立法例はその立法趣旨や立法の性格・内容等の点でまことに多岐多様であり、したがつてそれらのすべてについて、対価的性格を有しないというだけの理由で、予算の範囲で支出すればよいと考えることは妥当ではない。だから、右のような事例にも妥当するような、より一般的な基準を究明することが当然に必要となつてくる。
[9] 思うに、この問題は、さきにも述べたように、予算の如何によつて法定の経費支出を左右してよいか否かの問題であるから、区別の基準は、経費支出を定めた法規が、その趣旨や当該経費の性格などからみて、予算の如何によつて影響されることを許容していると認められるか否かの点に求められるべきである。
[10] 田中教授が挙げている土地収用法による損失補償等の場合は、商品流通の領域では国家といえども等価交換の一般原則に服するという当然の事理、及びこのことを憲法第29条が保障しているという点に、国の経費支出を、したがつてまたそのための予算措置を義務づける根拠が存するのである(このことは商品購入とその代金支出の場合を考えればきわめて明白である。政府は、予算を理由に、代金の支出を拒んだり、これを減額することは許されない)。
[11] したがつて一般的にいえば、右の場合のように当該経費の性格からいつて、国の経費支出を義務づけるだけの実質的根拠を有する場合、あるいはそれにもとづいて法が具体的に支出を義務づけている場合には、そのための予算措置が義務づけられているものというべきである。ことに、経費支出が、国民の側の権利として保障されている場合にそうである。たとえ経費支出が国の側の一方的給付に終るものであつても、それが国民の権利として保障されている点では、給付に対する反対給付の場合と違いはないのである。このような国の一方的給付の例は、社会保障制度の拡充に伴つて増加する傾向にあり、しかもそれは憲法第25条の生存権保障の要請にもとづくものである。このような憲法第25条(及びそれを具体化した生活保護法)にもとづく一方的給付と憲法第29条(及びそれを具体化した土地収用法上の損失補償)に裏づけられた等価交換との間に軽重や差別を設けることは、いかにしても妥当ではない。
[12] 田中教授が挙げている恩給や補助金の場合も、右の基準によつて証明することが充分に可能である。
[13] すなわち恩給は、職員の在勤中の労務提供に対する反対給付の一部と考えられないことはないが、それよりも恩給が職員の側の具体的権利とされているために、そのための予算措置が義務づけられると考える方が、より直載な考え方であろう。逆に補助金・奨励金は、もともと政策的な支出であつて、それをうける国民乃至法人の側の権利とは考えられていないから、これを支出するか否か、あるいはどの程度まで支出するかは、もつぱら政府の政策的考慮に委ねられることになるのである(しかし補助金であつても、国がその必要性を重視しているために、一定額の支出を法律をもつて義務づけているとみられる場合がある《たとえば義務教育費国庫負担法第2条、第3条参照》。このような場合には、やはり法で定められた通りの支出を行なうために予算措置を義務づけられると考えるべきであろう)。
[14] 以上の法律と予算に関する一般的基準に従えば、生活保護法による生活保護の場合には、国民の具体的権利として保障されていることからいつて、予算を拘束する場合に属するといわなければならない。すなわち、この場合には、もつぱら法定の基準(生活保護法第3条等)にもとづいて保護基準が設定され、このようにして設定された保護基準にもとづいて支出されるべきであり、法定の基準以外に予算の如何を考慮に入れることは許されないのである。本件の第一審判決が、「最低限度の水準は決して予算の有無によつて決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである」と述べているのは、予算と法律との関係という側面からみても、きわめて正当であつたということができる。
[15] ところで、右の結論のうち、保護基準で定める経費については、予算の如何にかかわらず、定められたとおりに支出されなければならないという点は異論のないところであろうが、厚生大臣が保護基準を設定する場合においても予算の如何を考慮に入れることが許されないという点については、さらに若干の説明を加える必要がある。
[16] というのは、たとえば給与法による給与の場合も前述の基準からみれば、予算を拘束する場合に属するが、これは一般職の給与に関する法律及び別表の俸給表に定められた金額については、予算の如何によつて支出を左右することはできないが、俸給表自体は、予算をも考慮に入れて、設定されているのである。
[17] しかしながら、俸給表の設定は、人間らしい生活の最低限を画するという性格のものではなく、かなりの巾をもつたものであるから、その範囲内で予算をも考慮に入れたからといつて、その俸給表が直ちに違法となるとはいえないのである。憲法も法律も俸給表の内容の覊束するような実質的な基準は設けていない。国家公務員法第64条第2項は俸給表設定の基準を定めているが、この基準自体が相当の巾をもつている。
[18] これに反して、生活保護基準については、憲法第25条及び生活保護法第3条がこれを覊束するより実質的な根本基準を明示しており、しかもそれは給与の場合と違つて、人間らしい生活水準の最低限を画するという性格のものである。それはいうまでもなく、国の債極的介入によつて健康にして文化的な生活の最低限度を確保し、それ以下の生活の存在を解消しようとする憲法第25条の要請にもとづくものである。以上のような生活保護基準の性格からみれば、それが予算的配慮によつて左右されることを許容する余地のないものであることはきわめて明白であろう。
[19] 因みに、生活保護法は、保護の決定及び実施に関する処分に対する争訟手続を保障しており、それに関連して保護基準そのものを争いうることを認めているのであるが、このことは、保護基準が同法第3条の原則によつて覊束されるものであることを前提としたものといわなければならない。
[20] もし、生活保護基準を設定するに当つて予算をも考慮に加えることが許されることになれば、最初に述べた如く、保護基準の決定は国の財政規模や予算の配分に関する高度の政治的考慮を必要とするということになり、実際には司法的救済は殆ど役に立たないものとなろう。そればかりか、「健康にして文化的な生活の最低限度」という法的規範が政策的考慮ということであいまいにされ、実際には、右の最低限度が確保されないに等しい状態になるであろう。
[21] 国の経費支出をともなう法律を、これによつて内閣が予算編成を義務づけられる場合と義務づけをうけない場合とに区別するについて、経済的対価性の有無という基準は一個の尺度ではあり得ても、これによつてすべての場合を合理的に裁断することは不可能であり、むしろ、一般的尺度としては、給付を受ける国民の側の具体的権利性こそを重視すべきことは既に指摘した。ことに、この指摘は、いわゆる社会保障給付の領域において最も良く妥当する、即ち社会保障こそ、対価性ないし反対給付性の有無による給付の制度的区分が急速に消滅しつつある領域なのである。
[22] たとえば、恩給法による給付について考えてみると、これが公務員の過去における労働の対価としての側面を有することは否定し難いし、事実恩給額が退職者の在職年数及び俸給の額によつて決定されるという点をとらえれば、まさにそうである。しかし、恩給法による給付のうちでも遺族扶助料(恩給法第72条以下)に至つては、退職者が死亡の当時扶養すべき家族を擁していたと否との事柄によつて、その給付の有無が左右される点において、退職者の過去の労働との対価的牽連関係は極めて薄弱となり、むしろ、公務員遺族の生活確保についての配慮が前面にでていることは、明らかである。現に恩給制度を広い意味での社会保障の一環としてとらえる考え方が今日ではむしろ有力である(甲第119号証、昭和37年8月2日付社会保障制度審議会勧告、黒木利克著「日本の社会保障」156頁―著者は元厚生省社会局保護課長)。さらに、いわゆる社会保険と呼ばれる拠出制の社会保障制度をとりあげると、これらの場合の保険給付は、一見被保険者の拠出に対する反対給付的性格を有するかに見えるが、しかし、実際には必ずしもそうとはいい切れない。たとえば、健康保険の場合は、給付の内容は各被保険者に対し均等であるが、保険料は被保険者の収入割りであり(健康保険法第71条第2項)のみならず、保険料の半額は事業主の負担とされ(同法第72条)そこには、拠出と給付との間の実質的な対応関係は存在しない。これが国民健康保険となると、国が予算の範囲内で支給するとされる補助金のほかに、給付額の一定部分についての国庫負担が明定されている点で、いわゆる扶助的色彩は一層濃厚である。さらに国民年金法になると、無拠出者に対する給付を定めている点では、その限りで拠出と給付との対価的意義は完全に失われてしまつている(同法第80条から第82条の2まで)。
[23] この社会保険における対価性の喪失の現象について、かつて厚生省の社会局保護課長であつた黒木利克氏はつぎのようにのべている。
「かくて私保険における『共同の自助』という本質は、社会保険という場ではいちじるしくその色彩を薄めることになる。さらにまた、この色彩を薄めるものに社会保険の財源の三者負担制がある。社会保険の財源は、こんにち一般的に、労働者と雇傭主がそれぞれ折半負担する保険料に、相当額の国庫負担を加えることによつて、始めて充足されることとなつている。この国庫負担が給付費を含まない事務費相当部分についての国庫負担にとどまつている段階においては『国家の助力によつて補完された自助』とも考えられるが、それが社会保険における財政赤字の一般的補填という無制約な性格を含むようになると、社会保険における『収支均等の原則』は形式的にも崩壊し、社会保険における保険料というものは、危険共同体における危険分散というよりも、むしろ財源調達の一方法に過ぎないこととなる。従つて社会保険は、その実質からいえば『拠出制の社会施設』であると規定できるであろう。……
 かくして、社会保険と公的扶助の概念的制度的区別は、次第にその意味を失い、結局国民共同体における社会連帯の要請に即して、いかに給付体系を構成し、いかに費用負担を分配するか、つまり最も効果的に社会衡平の原理を国民共同体の内部に実現するかが問題となつてくる。つまり理論的には、社会保障法の統一元化への方向が今後の進路となるであろうことは確かである。」(前掲「日本の社会保障」160頁以下)。
[24] さらに、いわゆる「福祉国家」の条件としては、「社会保険と社会扶助とが接近、統合し、国家の責任における社会保障体系が完成されること」が必須であるといわれている(山田幸男「行政法の展開と市民法」119頁)。果して福祉国家という概念が社会科学の上で一つの国家類型として存立しうるか否か、かりに可能として果して社会扶助と社会保険の接近統合だけで福祉国家の条件が満たされるのかどうかは、疑問であるにしても、少なくも、社会保障の真の目的は国民の健康かつ文化的生存の確保にあり、社会保険と公的扶助は等しくそのための必須の手段として、両者の間に何ら本質的区別を認めないのが、現代文明国家の現実であり、かつ常識と化していることは、疑う余地がない。
[25] さて、以上のべたように、現実にわが国の社会保険のうちには、拠出と給付との間に一応対価性の認められるものもあるが、さきほどの健康保険の場合のように実質的な対価性は失われ、単に給付が拠出者に対してなされるという限りで、わずかに反対給付的性格を残しているに過ぎないものもあり、さらに無拠出者に対する給付を認めた国民年金に至つては名目的な反対給付性さえ失われかけているといつてよい。このうち、国民年金は直接政府管掌事業であるから、まさに国の給付義務が問題となりうるし、また現在健保等が直接政府事業になつていないということも、さして重要な問題ではない。何故なら、健保にせよ、国民健保にせよ、強制加入的性格を有する以上、もともと私的なものではないし、さきほどのように、社会保障については最終的に国家が責任をもつべきものとすれば、これら事業も何時直接政府管掌事業に切り替わつても不思議はないからである。したがつて、これら社会保険が完全な強制加入制度をとり、かつ国ないしは地方公共団体の直接事業とされれば、その保険料は、まさに、財源調達方法の一種として実質において租税と何ら変りはないことになるであろう。現に、国民健康保険法第76条が保険料にかえて地方税法第5条第5項第4号の国民健康保険税を課すことを市町村に認めているのはこの如実な表われというべきである。そうなれば、社会保険給付と、租税収入を財源とする生活保護給付との間には、その反対給付的性格を問題にする限り、もはや実質的にも形式的にも何らの差異は存在しない。すなわち、生活保護の被保護者といえども、窮乏に陥入る以前においては、租税を納付してきていたであろうし、また、保護を受けているときでさえ、少なくもその消費生活を通じて間接税を負担していることは明らかである。したがつてもし健康保険のように拠出の多寡にかかわらず均等の給付を行なう場合において、たとえわずかであつても拠出のあつた点をとらえて給付の対価性を肯定し得るとするならば、生活保護給付についてもまた、租税との関係においてその対価性は否定しつくせないはずである。
[26] しかも、一方では比較的過去の拠出(労務)との対価的つながりが明確だと思われる恩給の場合でさえ、既に指摘したように退職者の生存年数や扶養遺家族の有無により給付の総額が左右される点において、むしろ需要に応じた給付という側面も少なくないし、また、実際に恩給法の規定の背後には、退職公務員及びその家族の生活保障に対する配慮が強く働いていることは否定し難い事実であつた。かかる恩給制度と、同じく需要に応じた給付の実現を目指す拠出制の社会保険給付との間に、果して法的な取扱を異にするほど重要かつ本質的な差異が存在するであろうか。
[27] 加うるに、さきにのべたように、拠出の分量よりは需要の充足を重視する拠出制の社会保険給付と、生活保護給付との間に実質的な区別の余地がないとするならば、対価性の有無という観点は少なくも社会保障の領域においては、最早給付または支出の重要性を決定する基準として、決して実際的でもないことは自ずと明らかである。のみならず、社会保障制度においては、国家の責任の下に、社会保険と公的扶助が接近統合すべき旨が予定され、かつ現実に国政全体が上告人らをふくむ国民の側の努力により、牛歩のあゆみながらその実現を指向せざるをえなくなつているとき、その社会保障関係給付相互間にある種の差別的取扱を考慮すること自体無意味なばかりか、有害でさえあるといわなければならない。
[28] むしろ、つぎにのべるように、社会保障すなわち国民の健康的文化的生存の確保が現代国家の重要な存立目的となつていること、さらに、わが国でも憲法第25条によつて、社会保障の推進が国の最も重要な施策の一つとして位置づけられていることを考えると、いやしくも国会が社会保障のための一定の支出を明定した法律を制定した以上、内閣においてこのため必要な予算措置を義務として講ずべきは極めて当然であつて、この点において内閣の裁量の余地はないものというべきである。
[29] すなわち、既に述べたように生活保護法の文言上明確な覊束性、国民の保護給付請求権の具体的権利性等において、生活保護関係支出はいわゆる補助金という本質を異にする。それと同時に、生活保護給付が憲法上義務づけられた支出であるという点も極めて重要である。憲法第25条がそれ自体としては国民との間の具体的権利義務規範を設定したものではないとしても、なお、国家機関に対し、健康で文化的な最低生活の保障のために必要にして十分な社会保障立法の定立とその運用のために必要かつ十分な財政措置を講ずべきことを命じている点において、規範たるの性格を失つていないことは明らかであり、これに対応して、政府及び国会は社会保障のための諸施策を国政上を最重要の施策並びに支出として位置づけるべき義務を負つていることは疑問の余地はない。かように、生活保護給付が憲法に根拠をもち、憲法によつて義務づけられている支出であることにおいても、他の政策的補助金等との大きな相違があり、さればこそ、現実に生活保護関係支出はいわゆる義務費の扱いがなされてきたし、今日まで、それについて何ら異論をみていないのである。したがつて、生活保護給付について、政府は法律に示された基準に従い、これに忠実に予算編成をなすべきである。
[30] しかもこの場合、法律が支出について一定の基準を示していることが重要なのであつて、その際法が算数的に明確な表現を用いているか、経験概念的表現を用いているかは本質的な問題ではない。現に、生活保護法第3条及び第8条は同法に基づく給付の内容が「健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」と経験概念を用いて明確な基準を示しているのであつて、たまたまこれが直接算数的表現をとつていないことに藉口して、本来経験概念の解釈運用による具体化の過程であるべき保護基準の決定に際して、いわゆる政治的裁量をもちこむことは憲法第25条、生活保護法はもとより憲法第73条第1号に基づく内閣の予算編成提出義務にも違反し、到底許されないこと明らかである。
[31]一、原判決は、マ・バ方式には、非現実的に流れ易いという短所があること、「一見不合理な無駄とも思われる生活様式」――ひいてまた、これに伴う生活費――が、社会生活上不可欠であるにもかかわらず、これに伴う支出の理論的積みあげが容易でないこと、を認めざるをえなかつた。そこで、原判決は、
「(基準の)内訳たる個々の費目、数量、単価を理論的に検討した結果違法でないとされた保護基準でも、その総額において実態生計費からあまりにもかけ離れるときは、現実を無視した架空な基準として違法になるばあいも起こりうる」
としたうえ、かかる観点から、昭和31年8月1日当時における基準額の当否を、同年頃ないしその前後にかけて行なわれた、日用品費に関する実態調査の結果、または被保護患者の要求額希望額を示す甲号各証(いずれも統計資料)に照らして検討している。
[32] 右のような方法論について異論のあることはすでにのべた(上告理由書第三点9・10)ところであり、更にのちにふれるが、それにしても、原判決の右の検討の方法によつてすら、これを正しく行なえば、本件保護基準がその総額において実態生計費からあまりにもかけはなれた、現実無視の基準として、明らかにその違法性(生活保護法第3条、第5条、第8条第2項、憲法第25条第1項違反)を指摘されなければならなかつた筈である。しかしながら、ここで原判決が行なつた検討は、その過程において重大な誤りを犯し、そのために、違法な本件保護基準を容認する結果となつたのである。しかして、この点は、既に種々の角度から詳述したが(特に上告理由書第三点二、9)更に、原判決の右判示部分に示されている証拠の引用、検討の方法ならびに内容、特に証拠評価等に関する誤りにつき、原判決が挙示している甲号各証等を引用しつつ、これをあきらかにしようとすることがここでの主なるねらいである。

[33]二、ところで原判決のかかる見解を個々的に検討するに先立つて特にあきらかにしておきたいのは、つきつめれば理由不備、理由齟齬に帰着するのであろうが、原判決がその矛盾を敢て無視したその基本的態度についてである。
[34] 即ち、原判決は一方で本件基準額月額の1割程度(70円)の不足を認めざるをえなかつたが、その際この不足が被保護患者の「健康で文化的な最低限度の生活」を維持するうえにおよぼす影響について次のとおり述べている、
「1割程度の不足とはいつても、最低に近い必要費と比較してのことでもありしかも療養所という隔離された環境の生活では、たとえ僅少の不足額でも逐月確実に累積し、他より補充の見込が少ないから、本件日用品費の基準が頗る低いものである以上、それになお若干の不足があるということになると、それは直ちに生活保護法第8条第2項の要請を欠く心配が濃厚であるということも考えなければならない」。
しかして、原判決のこの論旨は未だ不十分とはいえ、ともかくマ・バ方式によつて計算されたありうべき保護基準と、それより少ない現実に給付される保護費との差額の存在が被保護患者の生活にどのような影響を与えるかを判断するについて、正しい思考の方向を示しているものといえる。そして、この論旨を一貫させる限り、被保護患者にとつては、日用品費の不足は、それがたとえわずか1割程度であつても、「健康で文化的な最低限度の生活」の維持を不可能にするものであること、従つて、現実の保護基準は、違憲違法なものである、との結論を導き出す方向で論旨をすすめなければならなかつたはずであり、これに反してもし、それが右と反対の結論に到達するのであれば、何故、マ・バ方式による計算を下廻つてもよいのかを論証すべきであつた。たとえば被保護患者の生活費支出の実態が右の計算を下廻り、且つそれでもなお、「人間らしい生活」を維持しているというようなことでもあればその1例である。
[35] ところが、被保護患者の生活実態がそのようなものでないことは明らかであり、却つて実支出はすべてマ・バ方式による計算額をはるかに上廻るものである。そこで、この差額の存在に着目し、マ・バ方式の欠陥をこそ是正すべき方向で検討をすすめるべきであつた。然るに原判決は基準額といわゆる実態生計費との間に生じている差額について、右のような検討をしないばかりでなく、却つて後述のとおり今度は、この点から本件基準が違法かどうかを改めて検討するとして一見公正を装いながらその実、保護基準がその総額の点で「実態生計費からあまりにもかけ離れるとき」にあたらないし「現実を無視した架空な基準」でもない、などという、それこそ、被保護患者の生活の「現実を無視した架空な基準」を恣意的に持ち出すことによつて実態生計費の統計資料を、保護基準が違憲違法でないことの論拠に利用しているのである。
[36] 原判決の右のような児戯に等しい誤りを敢て犯した基本的態度こそ、実は原判決における甲号各証検討の、誤つた結論およびその理由を導いた最大の原因に外ならない。

[37]三、原判決は、甲号各証検討の結果として
「実態調査の結果や要求額、希望額が右の程度であることは、本件日用品費の基準600円(月額)が低いことを示すものであつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものであると断定する資料としては十分ではない」
と述べている。そして、その理由として、原判決が特に掲げるのは、次の4点である。
1 右実態調査の結果のうち、「補食を含めない純粋の日用品費」支出が月額1,000円をこえる例は、「わずかに甲第151号証の1、2の例が1つあるにすぎ」ない。
2 要求額、希望額の点でも、「甲第27号証の患者同盟の要求額ですら」「特別基準でまかなうべき丹前、病衣という費用を含みながら……なお月額1,000円にとどまつている」。
3 現実の支出額は、「実収入によつて決定的な影響を受けるもので」「最低限度の支出にとどまるわけではな」い。
4 要求額、希望額は、「主観的要素に左右される傾向がある」。
[38](一) 第一に、原判決は、右甲号各証の検討にあたつて、実態調査の結果および要求額、希望額のいずれについても、殊更「月額1,000円」をめやすとし、且つ、この額に証拠評価上の事実上の基準としての作用を営ませている。即ち、先にも述べたとおり、原判決は、実態調査の結果の吟味について、「純粋の日用品費」支出が「月額1,000円をこえる結果を示している証拠のみを殊更にとりあげたうえ、かかる証拠が甲第151号証の1、2の1しかないことを、特に強調しているし、また要求額、希望額についても、現に原判決挙示のとおり、これに関する多数の証拠が存在しているにもかかわらず、「患者同盟の要求額ですら」という根拠になりえない事由以外になんらの根拠も示さないまま甲第27号証のみを、拾い出したうえ「特別基準でまかなうべき丹前、病衣という費用を含みながら……なお月額1,000円にとどまつている」として、ここでもまた「月額1,000円」にしつように、拘泥している。
[39] しかしながら、まず、一体なぜ「月額1,000円」が、このように、証拠評価上の事実上の基準となりうるのか。現実の支出額や要求額、希望額の多くが月額1,000円をこえない限り月額600円の本件基準額は違憲違法にはならないとでも考えるのであろうか。それは全く不合理な独断にすぎない。或いは、原判決は、県知事、厚生大臣に対する上告人の不服申立において、日用品費月額1000円が要求されていることをひきあいにするかもしれない。
[40] しかし、右不服申立における上告人の要求ないし要求額は、一方で、これを割る基準額が直ちに違憲違法であることを裏付けるものでこそあれ、他方で、現実の支出額や要求額、希望額は、それが月額1,000円をこえない限り、月額600円の本件基準を違法ならしめるものではないとの判断を証明するものではないこと、上告人の右の要求の趣旨ならびに性質からみてあえて詳論するまでもなく、明白である。
[41] いずれにせよ、原判決が、かかる事実上の証拠評価基準を設けたことについては、合理的根拠の一片だに見出しえないのであるが、それにもかかわらず原判決は、かかる基準を設けることによつて、現実には前記甲号各証に示されている実態調査の結果や要求額、希望額のうち、月額1,000円以下のものを実質上ことごとく無視する結果を導き出しているのである。
[42] 結局原判決は、一定の予断に基づいて証拠の恣意的な選択と評価を行ない、且つこの目的に副う限りでの証拠評価の基準を恣意的に設定したものといわざるをえない。
[43] また、原判決は要求額、希望額について特に甲第27号証を引用したうえ、丹前、病衣の費用を含めても、「なお月額1,000円にとどまつている」との評価を下していること先に述べたとおりであるが、右甲第27号証を仔細に検討すれば次のことが一見あきらかである。即ち、右の証拠に示されていのは、日本患者同盟東京支部が当時すでに同支部に加盟していた14病院につき、そこに入院療養中の被保護患者を対象として行なつた調査の結果であり、従つて、原判決が、右支部(即ち、東京都患者同盟)要求額として引用している月1,000円という額は前記14病院の調査結果を基礎資料とするものであるところ、右基礎資料についていえば、そのうち、わずか1病院(清心療養園友愛会)の調査結果(平均月額922.5円)を除き、他の13病院のそれは、すべて月額1,000円をこえている。しかもその最高は1,967.38円(東京都養育院附属病院)と本件基準月額の3倍強にあたる高額を示し、また14病院の平均月額ですら1,233.92円であり、いずれも1,000円を大巾に上廻つているのである。更に、これら基礎資料の示す月額はその数量、単価等の具体的にして詳細なことからも明らかなように、実は被保護患者の現実の支出額を基礎にして算出されたものとみられるが、それにもかかわらず、都患者同盟の要求額として、これら基礎資料を要約した結果がむしろ調査結果平均額を233.2円も下廻る月額1,000円にまとめられているのは一体なぜかといえば、それはなによりも要求の実現可能性に対する患者側の配慮に外ならないといえよう。それは右要求の基礎資料として、わざわざ調査結果を添付したことからも伺えるところである。
[44] しかるに、原判決は、一方で丹前、病衣の費用を含みつつもなお月額1,000円にとどまつているではないかと、その点だけを強調しながら、他方で、以上述べた基礎資料そのものの示す結果については一言半句も触れずにこれを無視しているのは、公正を全く欠いた違法且つ不当な態度といわざるをえないのである。

[45](二) ところで、証拠評価に関する原判決のかかる態度は、一つには本件基準額と、前記甲号各証の示す現実の支出額または要求額、希望額との間に存在する差額をどうみるかの問題に由来するものといえよう。即ち、この差額はいかなる観点からどのように評価されるべきか、また右の差額がその程度にとどまるのはなぜか、などの点である。そこで、次にこの点について検討すると、
[46] なによりもまず、この差額について評価する際の基本的観点は、この差額の存在が入院入所中の被保護患者の実生活のうえにいかなる影響をおよぼすのか、をあきらかにすることに求められなければならない。そして右の影響が被保護患者の「健康で文化的な最低限度の生活」を侵害することになるかどうかということである。
[47] ところで、この差額は、たとえ少額であろうとも、直ちに被保護患者の最低生活水準を侵害するものであることは、すでに上告理由書第三点、特にその二、8・9で多数証拠を引用しつつ、詳述したとおりである。のみならず、現に外ならぬ原判決自体ですら、その論理を貫く限り、右と同旨の結論に到着せざるをえない矛盾をはらんでいることも、すでにのべたところである。しかも、このことはまた、原判決の恣意的証拠評価によつて実質上無視された前記甲号各証に照らしても次のとおり明白に裏付けられているのである。
[48](1) たとえば、甲第17号証によると、本件で問題となる昭和31年8月を5年も遡つた昭和26年当時において、すでに実支出が月額1,789円の多額にのぼつている事実があきらかにされている(同号証の2――もつとも、うち、補食費902円を含む。従つて原判決のいわゆる「純粋の日用品費」は差引887円となるが、それにしても、この数字は本件基準月額600円が、その実施の5年前における実支出額をすら287円も下廻わる低劣なものであることを示している。)。しかも、右の実支出額ですら、当時における社会保険患者のそれと比較すると、なんとその50%ないしそれ以下にすぎないこと(同号証の2、3、5)、更に費目別支出についてみても、「公的扶助は、すべての費目において他に比し甚しく少ない」こと(同号証の3、4、図23)が、それぞれ明確に指摘されているのである。しかして、右甲第17号証は、厚生省大臣官房統計調査部作成のいわば、当局側資料であるが、かかる資料によつてすら、右のような事実があきらかであることからしても、一般に被保護患者の生活が、いかに低劣を強いられているかは明白であろう。
[49](2) それでは、これら患者の最低生活を支えるべき保護基準の実情はどうか。今、この点を甲第48号証(昭和33年1月当時、国立岡山療養所における調査結果)によつて検討してみると、まず、費目については、保護基準によつて入院入所患者に認められている費目の数は、現実に患者が必要として使用している費目の数の2分の1にすぎないこと、しかも保護基準が計上している雑費は月4.57円と、ほとんど零に等しい額であるため、右の費目不足を雑費で補うことは、とうてい不可能であることがあきらかである。
[50] しかも、右の調査によつても雑費の実支出額は月額257円で、基準に計上されているそれの約57倍に相当するのである。また、基準に計上されている数量、単価の非現実性、劣悪性については、特に次の指摘が注目される。
「640円の基準と入所患者が実際に使つているものとを比較すると約半分の品目については基準の方が、実際に使つているものより高く見積られており、残り半分の品目が単価が安く見積られている。しかし、基準の単価が高く見積られているものでも、結局は表に見るように基準該当品目33品目中、6品目を除き、あとのすべてが必要量が入所患者が実際に使つているものより少なく見積られているため、月間必要量は33品目中11品目を除きすべて基準は不足している」。
そして、同号証第2表は、右に指摘された数量、単価不足の実態を費目別に詳細に裏付けているのである。
[51] しかして、ここには、他にこれ以上の説明を加えるまでもなく、原判決が支持するマ・バ方式の「非合理性」と被保護患者の生活の実態が、どんなものであるかが、まざまざとあかるみにされている、といえよう。因みに同号証第1表によると、昭和33年1月時における、現実の支出額は、男1,447.14円、女1,469.58円である(右は、いずれも「結核薬品費」および「栄養費総額」を除いた、いわゆる「純粋の日用品費」である。なお、右調査対象者計79名中、被保護患者は53名で総数の約7割である)。いいかえると、33年当時の保護基準月額640円は、実支出額の2分の1弱にすぎなかつたものであり、その著しい劣悪性は覆うべくもない。また、同号証第2表では、被保護患者の生活水準が、社会保険患者などのそれに比較して、甚だしく劣悪であることが、費目、数量、単価別に、具体的且つ詳細に示されている。
[52](3) ところで、以上のとおり、保護基準がきわめて劣悪であることの結果は、被保護患者の生活に対して、現実にどのような影響をおよぼしているであろうか。甲第68号証によると、昭和33年5月において、全国19都道府県内58病院、療養所の結核病床総数のうち、被保護患者で占めている病床数は、4,272床と、実に総数の44%にあたる高率を示しているが、この事実こそ貧困によつて健康が破壊されていく実情を端的に示すものに外ならない。しかも、これら被保護患者のうち、一部負担患者についてみると、その負担にとても応じきれないため滞納する者が多く、その1人平均が14,700円にものぼること、また一部負担に耐えられないため、やむなく退院、退所した患者が224名もいること、更に医師より入院入所を指示されたものの、経費の一部負担支払の見通しが立たたないため、入院、入所を断念せざるをえなかつた患者の数が53名と、実に被保護患者総数の14%を占めていること、などの悲惨な事実が次々にあきらかにされているのである(同号証の1)。それだけではない。やつとの思いで入院入所することができた被保護患者に対しても、生活の甚だしい窮乏は容赦なく襲いかかつてきている。現に甲第17号証の12、14、15などによると、一方で退院事由からみた、被保護患者の治癒率は極端に低く、全額自費負担患者の53.1%、その他の62.4%に対して、わずかに30.4%にすぎない。他方、これに反して、その死亡率は著しく高く、全額自費負担患者の2.7%、労災患者に至つてはわずか1%であるのに対して、14.7%と最高率を示しているのである。しかして、かかる事実の数々はなにを物語つているか。
[53] それは被保護患者にとつては、保護基準の劣悪こそ単なる生活の破壊どころか、そのまま病いと死につながつていることを端的に示すものでなくて、なんであろうか。
[54] 以上を要するに、本件保護基準が、「健康で文化的な最低限度の生活」水準を悪る違憲違法なものであることは余りにも明白、といえよう。
[55] ところで、右の差額評価につき、原判決によつて立つ観点が、以上述べてきたそれと異なるものであることは明らかである。それどころか、原判決は、その前述のような証拠無視の態度に照らすと、実支出額や要求額、希望額で月額1,000円以下の分については、それと本件基準月額との差額は、被保護患者の生活のうえにいかなる影響をもたらすか、について特に検討を加えるまでもない程度のわずかな額との評価を前提にしているものと解さざるをえない。しかしながら、かかる見解が、被保護患者の生活の実情を無視し、彼等にもまた憲法第25条第1項の保障が厳然として存することを事実上否定した違憲違法にしてしかもすこぶる非人間的なものであることは、すでに述べたことからあきらかであろう。のみならず、仮にかかる見解に立つとすれば、そのばあいには、右差額を無視しても差支えない理由を明らかにしなければならなかつた筈である。而して右の差額を、あえて検討を加えるまでもないわずかな額として無視することが果して正当であるかどうかは、右差額の存在がもたらす影響がどんなものであるかが、被保護患者の生活実態との関係で把握されてこそ、はじめて客観的にあきらかにされるのであり、そうでない限り、右差額の無視はなんらの合理性をも認められない主観的恣意的なものといえるからである。しかるに原判決において、かかる検討が全くなされていないのは、重大な誤りといわざるをえない。
[56](1) 第一には、すでに述べたような被保護患者の生活の甚だしい窮乏状態、特に600円程度の日用品費で生活している患者の生存すらおびやかされている生活破壊の状態が挙げられなければならない。
[57] そして甲第15号証、第16号証、第74号証の2、などによると、被保護患者の中には現実の支出額が本件基準月額を下廻つている者すら存在していることがあきらかであるが、すでに詳述したとおり、600円の保護基準額ですら、「健康で文化的な最低限度の生活」を維持することを得ない事実とあわせ考えるとき、この事実も、被保護患者の生活が著しく破壊されつつあることを明白に示している。
[58] 同様に、上告理由書第二点(二)、8、Eにおいて、特に引用されている「共喰い現象」ないし「エンゲル係数にみられる逆現象」もまた、被保護患者の甚だしい生活破壊の状態を端的に示すものに外ならない。同じような観点からして、要求額、希望額も、右のように生存すらおびやかされようとしている甚だしい窮乏状態にある者のささやかな要求こそ、絶対必要不可欠なものと理解されるべきである。
[59](2) 第二には、いわゆる補食費の不可欠性である。しかして、このことそれ自体については、すでに上告理由書第五点、四、その他で詳論したとおりであるが、ここでの問題は、本来、補食費が被保護患者の生活にとつて不可欠である正にその故に、右費用を捻出するために、その分だけ日用品費にくいこんでくる現象が現実に生じていることにある。たとえば、甲第16号証は、被保護患者の間では、被服費に次いで補食費の要求が圧倒的に多いこと、しかも特に、「重症者は折角の病院給食が食えないため、どうしても補食するので、その分だけ被服費や留守宅の最低生活費に食い込む実状にある」ことを訴えているし、また、甲第31号証では、小遣(ここでは日用品費と補食費との合計を意味している)が低額であればある程、また軽症よりも重症であればある程、小遣中において補食費の占めるパーセンテージがますます高くなつていること、しかも反面で病状が重ければ重い程小遣額は逆に少なくなつていることが、統計的に示されている。更にまた甲第69号証によれば、化学療法で胃と肝臓とを散々に痛めつけられてしまつている長期療養患者にとつて、空腹と食欲とは全く別個のものであり、空腹感はあつても食欲がない、という両者のアンバランスが切実な問題となつていること、しかもすでに薬に対する完全耐性を生じているばあいが多いため、ひたすら食事を摂取することだけに、生死がかかつているとき、或いはまた激しい喀血で生命の不安が脅かされるときなどには、たとえ「どんな無理をしてでも自分の嗜好に合つた食物を摂り、生き度いと思うし、又治りたいと思う」そして、「此の儘助からないのなら尚更好きな物は医学的学問的には少々毒と云われても食べて死に度いと思う」と、切々の叫びが綴られているのである。
[60] ところで、かかる状態に追いやられている者にとつては、問題の核心は正に「健康で文化的な最低限度の生活」を保持すること以前の、生存そのものを維持できるかどうかの問題に外ならず、且つかかるばあい他のなににもまして補食費支出を優先させるであろうことは自明といわなければならない。第一審、村山証言にみられるように、支給品の寝巻を「本当は自分で着たいのだが、手術が近くなつて栄養を補給しなければならないからどうしてもお金がかかるので」これを換金して補食にあてた、という事例などは、右にみた事情を端的に裏書したものに外ならない。
[61] 因みに、甲第28号証にみられる昭和33年4月の国立福井療養所における調査結果によれば、安静度の如何を問わず、入所患者全員のうちの9割以上を占める圧倒的多数が、補食を行なつていること、安静度5度の患者については、遂にその率は100%に達することが示されており、しかして、この事実と以上述べた事実或いは、甲第17号証の5などを照らしあわせてみるだけでも、入院入所中の被保護患者にとつていかに補食、従つてまた補食費の捻出が、切実且つ不可欠であるかは最早明白であろう。
[62] しかして、以上に見た事情こそ、被保護患者の日用品費の現実の支出額、更には要求額、希望額を低く規制する要因の一つに外ならないのである。
[63](3) 第三に、特に要求額、希望額については、以上に述べたことの外に、要求、希望を出す者の側において、その実現可能性に対する配慮から、数額的に自己抑制している事情の存在を看過することはできない。しかして、この事情は、なによりもまず、先に甲第27号証について見たとおり、そこに要求額、希望額としてまとめられている数額(月1,000円)が、実は、右数額算出の基礎資料に示されている数額を大巾に下廻つていることからも十分にうかがわれるが、外にも、たとえば、甲第16号証では、「1,000円の額は全国の療養者の切実でささやかな願望である」こと、特にこの「1,000円」には補食費も含まれていることから、たとえこの要求額、希望額が実現しても、その増額分は、「夏シヤツ1枚がやつと買える程度」にすぎないところの「実にささやかな要求」であることが、重ねて強調されている。そして、以上のことを裏返せば、被保護患者がかかる配慮までしなければならないところにこそ、実は我国社会保障がいかに貧困であるかがまざまざと示されているのである。
[64] 以上、3点にわたつて述べたところからもあきらかなとおり、実態調査の結果や要求額、希望額が前記甲号各証に示されているごとき数額の範囲にとどまつていることの原因なり背景には、つまるところ、被保護患者の極端な生活窮乏があるのであり、従つてかかる生活状態の下では、原判決によつて、いわば取るに足らないもの同然の扱いを受けている、前述の差額の存否は、被保護患者にとつては、正に人間たるに値いする生活の保持については勿論、それ以前の生存そのものを左右する問題ですらあることはきわめて明白である。しかるに、原判決が、右差額の存在、ひいてはまた右の存在を示すところの前記甲号各証を、実質上無視したことは違憲違法の判決を生んだ重要な要素の1つであるといわなければならない。

[65](三) ところで、原判決が、本件基準は低額ではあつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものとはいえない、と断じた理由として、更に一つには、現実の支出額が(余分の)実収入の決定的な影響をうけるものであり、最低限度の支出にとどまるわけではないこと、また二つには、要求額、希望額は主観的要素に左右される傾向があることをも掲げていることは、前述のとおりである。
[66] しかしながら、およそ本件においてこれらの事由の妥当する余地を全く見出しえないものであることは、すでに上告理由書第三点記載の各事実、更には、前述のとおり前記甲号各証に示されているような被保護患者の生活実態、など照らしてみるだけでも十分にあきらかであり、従つて、この際、この点につき重ねて説明を加えるまでもない。
[67] そこで、ここでは、唯、原判決の掲げる右の2事由のうち、前者については、それでは、現実の支出額が基準額を下廻つている者すら存在する事実(前述)、或いはまた、上告理由書第三点、二、8、A、に指摘されているごとく、被保護患者が自らの病状に対する悪影響をおしてすら、各種のアルバイトをせざるをえない実状を一体どのように理解すればよいのか、また後者についても、たとえば、甲第27号証、第150号証などにみられる数字は、その平均性および、個別的具体的詳細性において十二分に客観性が担保されていると考えるが、原判決はかかる点について一体どう説明するのか、について甚だ疑問なきを得ないことを指摘するにとどめる。

[68]四、以上のとおり、原判決の「低くはあつても、現実無視の架空な額を掲げた違法なものとはいえない」との結論はあやまりである。そして更に、冒頭に述べた証拠引用、検討の誤りもまた、右にみた誤りと密接不可分に関連しているのであるか。最後に原判決にみられる証拠引用、検討の誤りについて例を示して結びにかえたい。
[69] 即ち、原判決は「甲第48号証及び第150号証は費目ごとの数量、単価についての調査で支出総額の調査ではない」との理由から、これに対する証拠価値を排斥している。しかしながら、第一に右甲号各証はいずれもここで原判決自ら取り上げている甲第27号証と全く同旨のものであるのに、一方のみを取り、他方を捨てる合理的理由もないのみならず、第二に、原判決のかかる各証拠排斥理由は、マ・バ方式を擁護しようとする論理とは矛盾するものである。費目毎の単価、数量の計算に基づいてそれを積算する方式こそ、外ならぬ原判決が適法性を推定したマ・バ方式の方法論ではなかつたか。

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