ポポロ事件
上告審判決

暴力行為等処罰ニ関スル法律違反被告事件
最高裁判所 昭和31年(あ)第2973号
昭和38年5月22日 大法廷 判決

上告人 東京高等検察庁検事長 花井忠
被告人 千田謙蔵
弁護人 石島泰 外3名
検察官 村上朝一、中村哲夫、神山欣治

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官入江俊郎、同奥野健一、同山田作之助、同斎藤朔郎の補足意見
■ 裁判官垂水克己の補足意見
■ 裁判官石坂修一の補足意見
■ 裁判官横田正俊の意見

■ 東京高等検察庁検事長花井忠の上告趣意


 原判決および第一審判決を破棄する。
 本件を東京地方裁判所に差し戻す。

[1] 論旨のうちで、原判決には憲法23条の学問の自由に関する規定の解釈、適用の誤りがあると主張する点について見るに、同条の学問の自由は、学問的研究の自由とその研究結果の発表の自由とを含むものであつて、同条が学問の自由はこれを保障すると規定したのは、一面において、広くすべての国民に対してそれらの自由を保障するとともに、他面において、大学が学術の中心として深く真理を探究することを本質とすることにかんがみて、特に大学におけるそれらの自由を保障することを趣旨としたものである。教育ないし教授の自由は、学問の自由と密接な関係を有するけれども、必ずしもこれに含まれるものではない。しかし、大学については、憲法の右の趣旨と、これに沿つて学校教育法52条が「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究」することを目的とするとしていることとに基づいて、大学において教授その他の研究者がその専門の研究の結果を教授する自由は、これを保障されると解するのを相当とする。すなわち、教授その他の研究者は、その研究の結果を大学の講義または演習において教授する自由を保障されるのである。そして、以上の自由は、すべて公共の福祉による制限を免れるものではないが、大学における自由は、右のような大学の本質に基づいて、一般の場合よりもある程度で広く認められると解される。
[2] 大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治は、とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度で大学に自主的な秩序維持の権能が認められている。
[3] このように、大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである。もとより、憲法23条の学問の自由は、学生も一般の国民と同じように享有する。しかし、大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、また大学当局の自治的管理による施設を利用できるのは、大学の本質に基づき、大学の教授その他の研究者の有する特別な学問の自由と自治の効果としてである。
[4] 大学における学生の集会も、右の範囲において自由と自治を認められるものであつて、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによつて、特別な自由と自治を享有するものではない。学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。また、その集会が学生のみのものでなく、とくに一般の公衆の入場を許す場合には、むしろ公開の集会と見なされるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。
[5] 本件の東大劇団ポポロ演劇発表会は、原審の認定するところによれば、いわゆる反植民地闘争デーの一環として行なわれ、演劇の内容もいわゆる松川事件に取材し、開演に先き立つて右事件の資金カンパが行なわれ、さらにいわゆる渋谷事件の報告もなされた。これらはすべて実社会の政治的社会的活動に当る行為にほかならないのであつて、本件集会はそれによつてもはや真に学問的な研究と発表のためものでなくなるといわなければならない。また、ひとしく原審の認定するところによれば、右発表会の会場には、東京大学の学生および教職員以外の外来者が入場券を買つて入場していたのであつて、本件警察官も入場券を買つて自由に入場したのである。これによつて見れば、一般の公衆が自由に入場券を買つて入場することを許されたものと判断されるのであつて、本件の集会は決して特定の学生のみの集会とはいえず、むしろ公開の集会と見なさるべきであり、すくなくともこれに準じるものというべきである。そうして見れば、本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがつて、本件の集会に警察官が立ち入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない。
[6] これによつて見れば、大学自治の原則上本件警察官の立入行為を違法とした第一審判決およびこれを是認した原判決は、憲法23条の学問の自由に関する規定の解釈を誤り、引いて大学の自治の限界について解釈と適用を誤つた違法があるのであつて、この点に関して論旨は理由があり、その他の点について判断するまでもなく、原判決および第一審判決は破棄を免れない。
[7] よつて刑訴410条1項本文、405条1号、413条本文に従い、主文のとおり判決する。

[8] この判決は、裁判官入江俊郎、同垂水克己、同奥野健一、同石坂修一、同山田作之助、同斎藤朔郎の補足意見および裁判官横田正俊の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。


 裁判官入江俊郎、同奥野健一、同山田作之助、同斎藤朔郎の補足意見は次のとおりである。

[1] 憲法23条にいう「学問の自由」には、教授その他の研究者の学問的研究及びその発表、教授の自由と共に、学生の学ぶ自由も含まれるものと解する。すなわち、教授その他の研究者が国家権力により干渉されることなく、自由に研究し、発表し、教授することが保障されると同時に、学生においても自由にその教授を受け、自由に学ぶことをも保障されているものと解する。そして、大学は学術の中心としての教育の場であり、学問の場であるから、右学問の自由の保障は、また、その自由を保障するため必要な限度において、大学の自治をも保障しているものと解する。けだし、若し大学の教育の場、学問の場に警察官が常に立ち入り、教授その他の研究者の研究、発表及び教授の仕方を監視したり、学問のための学生集会を監視し、これらに関する警備情報を収集する等の警察活動が許されるとすれば、到底学問の自由及び大学の自治が保持されないことは明白であるからである。従つて、警察官が特に、警察官職務執行法(本件当時は警察官等職務執行法)6条所定の立入権の行使としてではなく、単に、警備情報の収集の目的を以つて大学の教育の場、学問の場に立ち入ることは、憲法23条の保障する学問の自由ないし大学の自治を侵す違法行為であるといわねばならない。
[2] しかし、本件ポポロ劇団の集会は、原判決の認定事実によれば、反植民地闘争デーの一環として行なわれ、演劇の内容も裁判所に係属中の松川事件に取材し、開演に先き立ち右事件の資金カンパが行なわれ、更にいわゆる渋谷事件の報告もされたというのであつて、真に学問的な研究や、その発表のための集会とは認められない。従つて、本件警察官の立入行為が前記の学問の自由ないし大学の自治を侵した違法行為であるということはできない。
[3] しかし、本件集会が、少くとも大学における屋内集会であることは否定できない。憲法21条で集会の自由を保障する所以のものは、集会において、各自が相互に、自由に思想、意見の発表、交換をすることを保障するためであるから、若し、警察官が警備情報収集の目的で集会に立ち入り、その監視の下に集会が行なわれるとすれば、各自の表現の自由は到底保持されず、集会の自由は侵害されることになる。そして、本件集会が平穏なものでなかつたという資料はなく、警察官は警察官職務執行法6条の立入権によらず、単に警備情報の収集を目的とする警察活動を行なうため、これに立ち入つたことは、たとえ、学問の自由ないし大学の自治を侵害したものではないにしても、憲法の保障する集会の自由を侵害することにならないとは断じ難い。(本件において、警察官が入場券を購入して入場したものであつても、一私人または一観客として入場したものではなく、警備情報収集のため警察活動を行なうため入場したものであることは、原判決の認定するところであり、また、本件集会が公開に準ずべきものであつたとしても、集会の自由が侵害されないとはいえない。)
[4] しかし、本件警察官の立入行為が違法であつたとしても、その違法行為を阻止、排除する手段は、当該集会の管理者またはこれに準ずる者がその管理権に基づき警察官の入場を拒否するか、入場した警察官の退去を要求すべきであつて、若し警察官が右要求に応じないため、これに対して実力により阻止、退去の措置に出で、それが暴行行為となつた場合に、始めてその暴行行為につき違法性阻却事由の有無が問題となるわけである。
[5] 然るに、原判決の認定するところによれば、被告人は警察官が自発的に立ち去ろうとしているのに、無理に引き止めて、判示の如き暴力を加えたというのである。然らば、本件暴行は警察官の立入行為を阻止、排除するために必要な行為であつたとはいえず、警察官が警察活動を断念して立ち去ろうとしている際に、もはや現在の急迫した侵害は存在せずその排除とは関係なく、被告人が警察官に対し暴行を加えたものというべきであるから、違法行為を排除するため、緊急にして必要已むを得ない行為であつたとは到底認めることはできない。
[6] わが刑法上、加害行為の違法性を阻却するのは、例えば正当防衛、緊急避難等の場合におけるように、法益に対する侵害または危難が現在し、これを防衛するために行なわれる加害行為が緊急の必要にせまられて已むを得ないものと認められる場合でなければならないものと解すべきである。然るに、被告人の本件加害行為については、かかる緊急性は認められないのみならず、過去において違法な警察活動があつたとか、また将来における違法な警察活動の防止のためとかいうが如き理由では、到底本件加害行為の違法性を阻却するに足る緊急性あるものと認めることができないことは明白である。第一、二審判決は、法益の比較均衡のみに重点をおきすぎて、右の緊急性について十分な考慮をめぐらしていない憾みがある。それは、ひつきよう、判決に影響を及ぼすべき刑法の解釈に誤りがあることになり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められるから、第一、二審判決はいずれも破棄を免れない。


 裁判官垂水克己の補足意見は次のとおりである。

[1]一 学問 憲法23条にいう「学問」とは、まず、本来の意味では、深い真理(真の事実を含む)の専門的、体系的探究解明をいい、哲学およびあらゆる自然科学、社会科学を含む。けれども、倫理学、文学、美学等には世界観、人世観等哲学や高い美の探究創造が含まれることがあり、高い芸術の探究創造は本来の意味の学問と同様に自由が保障されるべきであるから、憲法23条にいう「学問」には芸術を含むと解される。(学校教育法52条が「大学は学術の中心として……深く専門の学芸を教授研究……することを目的とする。」という所以である。)現代の学問芸術は人類数千年の文明、文化の遺産に現代の学者、芸術家が加えたもので出来ており、これが、万人が健康で高等な文明的、文化的生活をなしうる基をなしており、また、同時に次の世代の文明、文化の基となるものである。国民の間に、真に学芸に専念する人々の多いことは国民の大いなる福祉である。

[2]二 憲法上学芸の自由は誰が持つか それはその意思と能力を持つて専門的に学芸を研究する学者、芸術家個人であると思う。かような学者、芸術家の多数が自由独立の立場で学芸を研究、解明する永続的、組織的中心である公私立の大学はまたその構成員たる学者、芸術家個人とは別に大学自体として学芸の自由を憲法上保障される。だが、学問芸術の新規な理論や傾向や、諸流派の芸をみて何が学問、芸術であり、何が非学問、非芸術であるかを専門家でない者が判断することは至難のことであるから、この判断には権威ある学者、芸術家の良識判断を尊重するほかないが、しかし、憲法ないし法律にいう「学問」「学芸」「その自由」とは法概念であるからこれが訴訟で争点となつた場合には裁判所は学者、芸術家の意見を尊重しつつ究極には自己の見解により法的判断をしなければならないのではないか。国会や行政機関が法的判断を下すに当つても憲法に従うかぎり、やはり学者らの意見を尊重しつつ自から憲法の許すと考える範囲内でこれをなすほかないのではないか。問題であるが、本判決の多数意見はこの立場に立つて学問の自由を観念し、これと、その自由に属する事項と左様でない事項とを区別しているのではないか。
[3] 多数意見第2段は説示して要するに次のようにいう「大学の学問の自由と自治は、直接には、大学の本質に基づき、教授その他の研究者の研究、その結果の発表、教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味する。これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も一般国民以上に学問の自由を享有し大学当局の自治的管理による施設を利用できる。大学における学生の集会も右の範囲において自由と自治を認められる。」と。しかし、大学における或る教授の担任学科が演劇ないし芸術である場合に、その学科を研究する学生がその教授を受け若しくはその指導の下に演劇を行い或いは鑑賞する行為はまさに憲法上の自由に属するけれども、私は、演劇専門外の法学、理学、医学部等の学生がかような行為をすることは深い学問又は高い芸術の専門的研究ではない、と考える。教育基本法8条が「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」というのは大学教育に限らず、高等学校等についてもいうことであつて、右のような演劇を行う如きは一般教養の一部にすぎない。大学内で学生が自己の専攻に属しない事項について科学的研究、芸術的修養をすることは自由であり、大学生であるだけに余程尊重されるべきであろうが、かような活動は高等学校、中学校でも、一般市民でも、固より自由に行うことを妨げられるものではなく、これを大学生が大学内で行うからといつて「大学の学問の自由」とはいえないと思う。演劇をその専門の教授その他の研究者の指導、意向から全く離れて行うことは教授、研究者の研究でもなく、また、学生が選んだ自己の専攻学芸の専門的研究に必ずしも当らない。いわんや、本件において、若し学生らが反植民地闘争デーの一環として松川事件に取材した演劇を行うべきことを告げずして教室使用許可を受けてかかる演劇を行わんとしてその際資金カンパや渋谷事件の報告が行われたとすれば、それは、教室の許可外目的のための使用であつて、無許可使用若しくは使用権の濫用であり多数意見の判示する如く右上演集会は実社会の政治的、社会的活動に当るものというべきで、学芸の研究には属しない。(私は、わが国今日の大学前期は実は大学でなく予科にすぎず、その学生は未だ深い専門的学問研究を教授されていないのではないかと疑う。)

[4]三 大学の学問の自由の侵害はどんな場合に起るか 立法、裁判により又は行政権をもつて、或る大学又は或る学者、芸術家に或る事項の研究、発表を困難ならしめ、制限するが如き、或いは個人が学者の研究を圧迫、妨害し、資料を隠匿し、又は反対に誘惑するが如きはその侵害となろう。大学当局ないし学生自ら学問の自由を放棄するなら学問の自由は失われるであろう。例えば、所定の授業時間に教授や一般学生の教室に入場できないよう一部学生が勝手に教室入口に机や椅子を積み重ねてピケを張る如き行為や、これを大学当局が黙視する如きである。(大学は治外法権を持つものではないから、右のような授業妨害行為を実力で排除しうる自警隊を持ちえないとはいえ。)
[5] 刑法は別段大学の自由を侵す罪を規定していないが、これは何故か。前記の外、私人のする大学の自由の侵害は、概ね刑事法上の教授、研究者らに対する暴行、共同暴行、脅迫、強要、住居侵入、傷害、業務執行妨害、詐欺、名誉毀損、物の隠匿、損壊等々の犯罪の形で行われると思われ、その場合にはかような犯罪として処罰されうるからであろう。だが、貴重な学問的研究報告書を窃取する目的で、大学構内に紛れ込んだだけでは大学の自由は未だ侵されまい。侵されるとしてもそれは少くとも抽象的な意味での大学の自由である。又、大学の研究用の顕微鏡の窃取は研究者の業務妨害罪なり学問の自由の侵害に、常になるであろうか。

[6]四 大学の自由の擁護手段と本件 本件起訴状記載の如き東京大学法文経第25番教室における劇団ポポロの演劇が、たとえ同大学における学芸の研究であり、警察員が入場券を買い自己の警察員たる身分を秘して入場したこと(これは刑法233条、234条の業務妨害罪成立の要件を欠く)が、大学の学芸研究の自由の侵害であるとしても、警察員が着席して静止し、又は、退場すべく出入口に向つて歩み寄つた際に、学生がその手を押え手拳で腹部を突き或はその洋服の内ポケットに手を入れオーバーのボタンをもぎ取り或いは洋服の内ポケットに手を入れボタン穴に紐でつけてあつた警察手帳を引張ってその紐を引きちぎるなどその他の暴行を加える如きは、大学の自由の侵害を排除するに適せず、起訴にかかる刑事法上の犯罪を構成するものというほかない。この場合の暴行こそかえつて演劇の進行、鑑賞を妨害するものでなくて何であろう。原判決が犯罪の成立を阻却すべき事由として認めた事情の如きは刑法上何ら右犯罪の成立を阻却するに足るものでなく、右の場合超法規的犯罪成立阻却事由があるとした原判決の法律判断も失当である。右の如き場合、学生としては演劇の進行を妨げないよう静かに警察員に質し、理由を告げて退場を求め、或いは大学当局に急報して適切な措置を求めるに止めるべきであつた。にも拘わらず、若し起訴状記載の行為に出でたものとすればこれこそ最高学府に相応しくない、学生自身による暴力犯罪であるといわねばならない。


 裁判官石坂修一の補足意見は次の通りである。

[1](1) 本件公訴事実は、「被告人は東京大学経済学部4年在学中の学生であるが福井駿平外数名と共同して、(一)昭和27年2月20日午後7時30分頃東京都文京区本富士町1番地東京大学法文経25番教室に於て東大劇団ポポロ主催の演劇を観覧中の本富士警察署員柴義輝に対し同人の右手を押え手拳で腹部を突き或は同人の洋服内ポケットに手を入れオーバーのボタンをもぎとる等の暴行を加え、(二)其の頃前同所に於て同様演劇観覧中の同署員茅根隆に対し同人の両手を押え洋服の内ポケットに手を入れボタン穴に紐でつけてあつた警察手帳を引張つて其の紐を引きちぎる等の暴行を加えたものである」というにあるものであり、その起訴状には適条として、暴力行為等処罰に関する法律1条1項が記載せられておる。
[2] したがつて、第一審としては、果して、被告人自身に右公訴事実となつておる、右両巡査に対する暴行の所為があつたか否か、福井駿平外数名の者にも同公訴事実となつておる同様の所為があつたか否か、及び被告人と右福井駿平外数名の者との間に右両巡査に対する犯罪を共同する意思があつたか否かについて審理を尽し、共同の罪責に帰するものがあるとすればその具体的事実関係を明らかにすべきである。然るに、第一審は、その審理を尽すことなくして、被告人が他の行為者と共同する意思の下に犯罪を行つたことを確認すべき何等の証拠もないとし、僅かに、証拠上被告人の行為として認定し得ることは、柴義輝巡査が教室内より逃げ去ろうとするに際し、同巡査の腕をつかみ、他の学生等と共に逮捕したこと及び同巡査が舞台前に連行せられて、学生等に取り囲まれた際、同巡査が警察手帳の呈示を拒むので、そのオーバーの襟に手をかけて引き、強く手帳の呈示を求めた以外には出ないものと認定しておるにとどまるのである。而して原審も亦、第一審と同一轍をふみ、たやすく第一審の前記事実認定を是認し、事実誤認を主張する検察官の控訴趣意を却けておる。
[3] しかしながら、記録及び証拠に徴するときは、第一審判決及びこれを維持する原判決には、重大な事実の誤認を疑うに足る顕著な事由が認められる。

[4](2) 記録及び証拠によれば、東京大学においては、教室を使用する希望の者に対し、政治的目的のないことを条件とし、かつ、借用願を徴してその使用を許可していたところ、原判示劇団ポポロの代表者は、昭和27年2月11日、会合の次第が演劇「何時の日にか」(いわゆる松川事件に取材したもの)及び「あさやけの詩」の他、挨拶、解説であり、入場者は同大学学生職員であるとして、同月20日午後5時より9時まで同大学法文経25番教室を使用したき旨の教室借用願及びこの会合に政治的目的のないことを保証する書面を管理者に提出し、実際には、労働組合青年部と提携して行う再軍備反対署名、他の団体においても行なう反植民地闘争デーの闘争の一環としての活動である演劇(何時の日にか)及び資金カンパその他を行う意図あることを秘して、同月20日右教室を借受けた事実の存在を疑うに足る顕著な事由があり、しかも同夜開演に先立ち、右松川事件の救援資金カンパが行われ、更に、いわゆる渋谷事件の報告もなされたことは、原審の自ら認定する事実であり、いわゆる渋谷事件とは、本事件発生に極めて近い頃、渋谷駅前広場において、東京大学教養学部学生等が再軍備反対、徴兵反対のための署名運動をしたところより、警察官が無届集会として解散を命じ、学生側がこれを応ぜずして警察官隊と衝突し、その内の数名が検挙せられたことを指すものである事実及び右借用願には、入場者を東京大学学生職員とせられていたけれども、実状においては、入場券を買い求める者は随意に入場しており、その内の相当数が外来者であつた事実を証拠上認め得るのであり、本件集会は、公開のものであつたと判断せられる。したがつて、右教室を借受けた目的は、真に、憲法の保障する「学問の自由」及びこれに由来する「大学の自治」の範囲に属する研究集会のため使用するにあつたのではなくして、実社会の政治的、社会的活動に当る行為としての公開集会を開催するため使用するにあつたものであるとの認定判断に到達する確実性が高度であるといわねばならない。然りとすれば、到底、第一審判決及びこれを維持する原判決において判断せられる如くに、原判示劇団ポポロの本件集会を以つて、右「学問の自由」、「大学の自治」の範囲に属するとなる由もない。以上説明した事情のある限り、警察官としては、警察法1条、警察官等職務執行法6条2項(本件当時)により本件集会に立入るにつき、合理的理由があつたものといわねばならないのみならず、右両巡査に、右集会の進行を害する意図があつたと認むべき資料もない。かような事実関係の下においては、警察官が公衆の一員として本件集会に入場券を買求めて入場したことに対しても被告人にこれを排除防衛すべき何らの法益もない。
[5] 更に又、入場料を徴する本件の如き公開集会において、内心の指向するところは何であれ、言説、演技がそれ自体に止まつておつて、現実に他の法益を害するものでない限り、これらを行なう者の自由にまかせらるべきことは固よりであり、同時に、入場者としても亦、内心の指向するところは何であれ、場内の静粛をみだし、他の入場者に迷惑を被むらしめ或は集会の進行を妨害する等によつて、現実に他の法益を害しない限り、単に言説を聴き、演技を看ることは、入場者の自由にまかせられるものと解すべきである。この理は、入場者が一般公衆であると警察官であるとによつて異るところはなく、原判示両巡査に前叙の如き現実に他の法益を害する意図及び行動のあつたことを認むべき資料はない。
[6] 第一審判決及びこれを維持する原判決は、頗る薄弱な事実認定の上に立つて、徒らに超法規的な正当行為論を想定展開した憾みがある。

[7](3) 法益防衛行為の違法性が阻却せられるためには、単に、その法益と右防衛行為により害せられる法益とが均衡を保つことのみを以つて足るものではなくして、法益に対する侵害が現に急迫しており、かつ、防衛行為がやむことを得ざるに出ることを必要とするものと解すべきである。本件に即してこれを観るときは、次の通りとなる。仮に本件犯行以前において、警察官により違法な学内立入が行われたとしても、既に過去の行為に属し、法益に対する侵害は終了しておるのであるから、これに対する侵害排除行為を認め得る余地がない。更に原審の認定によれば、原判示柴巡査は、本件集会場である原判示教室内の大学学生より警察官であることを感付かれた気配を覚え、急遽、同教室より退去すべく、右中央辺の席を立つて同教室後側西南部にある出入口に向つて歩み寄つたとき、被告人が同巡査の右手を掴み、その後、被告人は、同巡査に原判示の暴行を加えたのであるから、被告人は、同巡査が任意に現場より退去を開始したにも拘らず、これを阻止した上、同巡査に暴行を加えたものと判断すべきであつて、仮に被告人に防衛すべき何らかの法益があつたとしても、その法益に対する侵害は、他に特段の事情がなければ、最早、現に急迫しておるとはいえないのみならず、右暴行を以つて、法益を防衛するためやむことを得ざるに出たものともなし得ない。仮に原判示の如く、本件集会の際、将来における警察官の違法な学内侵入の虞れあることが予想せられたとしても、これを現に急迫しておるとは考えられない。したがつて、本件所為を正当な防衛行為であると解すべき刑法上の根拠はない。
[8] 上述の観点よりするときは、被告人の本件所論を違法性の阻却せられたものであると解した原審の判断は、誤つておるとなすべきである。


 裁判官横田正俊の意見は次のとおりである。

[1](一) 大学における学問の自由を保障するため、大学の自治が認められ、この自治の権能が大学の施設及び学生の管理にも及ぶことは、論のないところである。この大学の施設と学生の管理に関する自治は、大学における学問の自由を保障することを窮極の目的としてはいるが、その権能は、決して、純然たる学問の研究又はその結果の発表、すなわち学問に直結する事項にのみ限定されるものではない。これを学生の学内活動についていえば、学内において、純然たる学問的活動のほか、各種の活動(いわゆる自治活動)をしているのであるが、大学は、それらの活動についても、ある程度において、これを指導し監督する権限と責任をもつものといわなければならない。けだし、大学がこのような権限と責任をもち、学生の活動を健全な方向に導くことは、その結果において、学問に資することとなるからである。そして、学生の活動が大学の権限と責任の下におかれている範囲においては、大学の自主性を尊重し、これに対する外部からの干渉は、できうるかぎりこれを排除すべきであるというのが、大学の自治の本義であると解される。

[2](二) 他面において、大学といえども治外法権を享有するものではなく、学生の学内活動もまた、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、公共の安全と秩序の維持とを責務とする警察の正当な活動の対象となるものであることはいうをまたないところであり、また、この警察の活動のうちには、警察官が任意の手段によつて行う、いわゆる警備情報活動が含まれることもこれを認めなければならない。ただし、大学における学問の自由と大学の自治の本義にかんがみれば、学内に対する警察権の行使、ことに警備情報活動は、他の場合に比較して、より慎重にこれを行い、必要の限度をこえないことが強く要請されるのである。

[3](三) この大学の自治と警察権の行使の調整を図ることは、かなりの困難を伴う問題であり、結局においては、関係者の良識と節度にまつほかはないが、この点に関して注目に価するものは、原判決に示されている文部次官の通達であろう。この通達は、集会、集団行進及び集団示威運動に関する東京都条例が施行されるに際し、右条例の解釈につき、警視庁と協議の上、文部次官が、昭和25年7月25日、東京都内所在の大学の長等に宛てて発したものであるが、右通達中、大学の学生による学内集会に関する部分を摘示してみると、この通達においては、学校構内における集会で、学生又はその団体が学校の定める手続による許可を得て、特定の者を対象として開催されるものは、公共の場所における集会とは認めず、したがつて公安委員会の許可を要しないことが明らかにされているが、同時に、右集会の取締については学校長が措置することを建前とし、要請があつた場合に警察がこれに協力することとする旨が定められているのであつて、右は、単に集会の許可権者を明らかにしているに止まらず、学内集会に対する大学の自治と警察権の行使との調整の問題にもふれているものと解されるのである。右通達によれば、大学の責任と監督の下に行われる正規の学内集会の条件としては、特定の者を対象とするものであること、すなわち一般公衆を入場させないという意味での非公開性が定められているだけで、集会の目的、内容については、とくにふれるところはないが、本来、大学においては政治的活動はもとより(教育基本法8条2項)、大学教育の理念とする政治的中立性を害し、学問に専念すべき学生の本分にもとるがごとき社会的活動をすることは許されないのであるから、かかる目的、内容を有する集会に対しては、大学が許可に際し規制を加えること(学生の管理に関する大学の自治の作用)が当然に予定されているものと考えられるので、正規の学内集会といいうるためには、集会が少くとも右のごとき活動を目的、内容としないものであることも条件とされているものと認められる。右通達に示されたところは、それ自体に法律的な抗束力を認めることは困難であるとしても、大学の自治と警察権の行使の調整に関する一応の具体的基準を示したものとして、決して軽視してはならないものと考えられる。要するに、学生による学内集会が、少くとも以上の2条件を現実に具備しているかぎり、警察官のこれに対する職務行為としての立入りは、正規の法的手続を踏み、必要の限度をこえないでする場合のほかは、許されないものと解される反面、集会が現実に右条件を欠いている場合には、警察官は、これに対し、一般の屋内集会に対すると同一条件で立入ることができるのであり、その集会が大学の許可をえて学内において行われているという形式的理由だけで、警察官の立入りを拒むことをえないものと解するのが相当である。もつとも、この後の場合においても、集会が単に非公開性を欠くに止まる場合においては、警察官の警備情報活動としての立入りは、警察官の特殊性にかんがみ、これが学内集会(ことに学問的会合)の運行を不当に妨げることとなり、集会主催者側においてその立入りを拒否するにつき正当の理由があることとなる場合もありうることを見逃してはならないであろう。

[4](四) 本件につきこれをみるに、大学の公認団体である東大劇団ポポロが主催した本件学内集会が、前示通達の線に副い、大学の許可(形式上は施設使用の許可)を得て法文経25番教室において開催されたものであり、また、東大の学生、職員約300名を対象とし、政治的目的を有する集会でないことを条件として許可されたものであることは、本件記録に徴し明らかであり、また、原審は、右劇団ポポロの性格、本件集会の内容、警察官立入りの実情等につき一応の認定をしているのであるが、本件記録に徴すれば、原審は、右劇団ポポロの実体、本件集会の真の目的、その現実のあり方、許可に際し大学当局はこの集会の目的、内容をどのように理解していたか等本件集会の実態を明らかにするために必要な事項に関し審理又は判断をよく尽していないうらみがあることを否みえないのである。そして、この事実関係が明らかでないかぎり、本件集会に対する警察官の立入りが、上述したところに照し、許容される限度をこえたものであるかどうかを判定することはできないのであるから、原判決には、少くとも、右の点に関し判決に影響を及ぼすべき審理不尽の違法があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと思料する。

(裁判長裁判官 横田喜三郎  裁判官 河村又介  裁判官 入江俊郎  裁判官 池田克  裁判官 垂水克己  裁判官 河村大助  裁判官 下飯坂潤夫  裁判官 奥野健一  裁判官 石坂修一  裁判官 山田作之助  裁判官 五鬼上堅磐  裁判官 横田正俊  裁判官 斎藤朔郎)
[1]一、原判決は本件劇団「ポポロ」主催の演劇発表会は反植民地闘争デーの一環として行われ、演劇の内容もいわゆる松川事件に取材し、開演に先き立つて同会場で右事件の資金カンパやいわゆる渋谷事件の報告等のなされたこと、並びに柴、茅根および里村の3巡査は孰れも入場券を購入して入場し、当時右3名以外にも一部少数の東京大学の学生や教職員ならずと思しき者の入場していた事実を認めながら、
「一般に、良識ある公民たるに必要な政治的教養は大学教育上も十分尊重すべきであり(教育基本法第8条第1項参照)従つて、学生が政治的社会的諸現象に関心を抱き、それらを命題とし又はそれらに取材して演劇等の具体的方法によつて広義の研究的行動をなし更にその際極めて附随的にその演材に因む実社会的事実の報告や之に関連する資金蒐集運動をなすが如きことあつても、それが学校当局公認の場所と方法とによる以上やはり学内活動の一部たるを失わず、」となし「本件劇団『ポポロ』についても前記の如く演劇自体の取材等に若干当時の実社会的事象を加味し、併せて同事象に関連する報告や資金蒐集等をなし又入場券を頒布したため本件警察官等のみならず他にも幾分同入場券によつて入場した外来者があつたとしても、右劇団が東京大学公認の学内研究団体であり、右演劇会が同学内集会たるには変りないものである。」
と判示したのは、憲法第23条に規定する学問の自由についての解釈適用を誤り、右規定の要請として認められる大学自治の範囲を不当に拡張して解釈適用し、右憲法の条規及び大学自治の原則によつて許容される学内集会について誤れる判断を下した違法があるものといわなければならない。

[2](一) そもそも憲法第23条が同法第19条、第21条の表現の自由の外に、特に学問の自由保障の規定を設くる所以のものは、学者、研究者は学問の分野における指導的立場にある者としてその自主性を尊重すべきものであり、政治及び行政は、みだりにその判断に基いて干渉すべきではないものとした趣旨に基くものであつて特に大学は学問研究に関する最高学府として真理探究を使命とし国家及び人類の発展と幸福に寄与した歴史的事実に鑑み、そこにおける教授研究者の学問の研究及び発表を完全に保障しなければならないものとした趣旨に外ならないのである。大学自治の原則は大学をして右の使命を遺憾なく完遂せしむるための保障的制度として古くより伝統的に認められ、わが国においても既に旧憲法下においては一般に承認せられていたものであるが、学問の自由保障が憲法の条規によつて明定せられている今日においては、大学の自治は憲法の要請に基く制度としてこれを尊重擁護することを要するは論を俟たないところである。然しながら、この故に大学の自治をもつて無制限の権能の如く解することはできない。大学は、大学自治の原則の適用として、その人事、学生及び施設の管理並びに大学内部の秩序維持について一定範囲の自主性を有することは一般に認められているところであるがそれは学問の研究という目的のために第1次的に自主的権能を認められるにとどまり、国家の監督権をすべて排除する趣旨ではなく(学校教育法第64条参照)、大学の自治活動といえども学問研究の目的外に逸脱するにおいては場合により、国家干渉の対象たるを免れないのである。すなわち大学の自治も亦、国法上の制度として国法の支配の下にあり正当なる国家権力の発動を拒み得ないのみならず、その範囲も亦憲法の保障する学問の自由の限界によつて自から制限を受くべきことは、大学自治の、よつてもつて承認せられる目的、使命に鑑み自ら明らかなところといわなければならない。而して大学の自治は次に述ぶるごとく、憲法の保障する学問の自由の持つ意義と公共の福祉という目的によつて制限を受けるとともに学生の自治は教授研究者の自治に比し更に限局せられたものということができる。
[3] 先ず学問の自由の意義自体から認められる限界について論ずることとする。憲法の保障する学問の自由とは学問の研究及び発表の自由をいい、これに限定せらるべきことは学説の一般に認めるところである。これを大学における学問の自由の限界について論ずるならば、大学は学問の研究及び教育の場たる本質に鑑み、教授及び研究者が学問について研究し、その成果を、研究発表、討論、及び講義等の方法により発表する自由をいうのであり、これに限定せられるものといわなければならない。大学は真理探究をもつて本来の使命とするが故に、そこにおける研究や研究発表、討論及び講義は自由たるべき本質を有するとともに、その自由の限界は右の範囲に限定せられなければならないのである。なかんずく、教授の研究と講義の自由は、大学が研学と教育の場たることの特殊性により、大学における学問の自由の核心をなすものである。教授は学内における研究と講義の内容については完全に自由たるの保障を有することを要し、他の如何なる勢力からも不羈独立でなければならない。されば憲法の要請する保障的制度としての大学の自治も亦教授の研究と講義の自由を確保しようとする目的に出たものであつて、換言すれば教授及び研究者の自治がその中心をなすべきものであるといわなければならない。かかる意味の擁護のために絶対不可欠のものとして、大学の歴史を通じ概ね教授会の自治制として認められ、また、教育基本法第6条第2項により教員に対する身分尊重の規定となつて具現せられるに至つたものであると認められる。
[4] 然しながら「教育は…国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」(教育基本法第10条第1項参照)が故に教授、研究者の自治と雖も無制限なものではない。大学における教授、研究者がその保障される学問の自由の範囲外に逸脱して大学の自治を適用することは教育が国民全体に対し直接責任を負つて行わるべきものとする本旨に離反するといわなければならないのである。原判決が、大学自治の原則の適用に関し、「大学は学長(又は総長)の校務管掌権限を中心として、その大学内における研学および教育上の有形無形の諸点につき教職員および学生の真理探究又は人間育成の目標に向い一定の規則に従つて自治的活動をなすことが認められる」と判示する所以もここに存し、その自治活動が無制限に許されるものでないとの趣旨をも示したものと思料する。すなわち、憲法以下法律全体の規定に則り、秩序正しく実施されなければならず、その間自ら一定の限界のあることは已むを得ないところである。されば憲法の要請する大学自治の目標は、大学における教授、研究者の研究と発表の自由、特に教授の講義の自由の保障にあること論を俟たないところであるが、その自治活動はこれらの自由と関連のない集会その他の活動にまで及ぶものではないと思料する。
[5] 次に学問の自由は真理探究という学問の本質から生ずる一定の限界のあることも亦免れないのであつて、所謂政治的又は社会的目的をもつ実践活動は学問の自由の許容しないところである。けだし、かかる行動は研究とその発表とを通じて客観的に真理の追求につとめるという学問それ自身の本質に反するからである。されば政治的又は社会的目的をもつ実践活動は仮に学内の活動であつても学問の自由保障の埓外にあり、従つて学問の自由保障のための制度としての大学の自治の範囲に含まれないと同時に国家はかかる行動に対し保障の責任を負うべきものではないといわなければならない。
[6] 更に大学における学問の自由は公共の福祉という目的によつて制限を受けることは他の憲法上の基本権と同様である。
[7] 憲法の保障する自由及び権利は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のために利用する責任を負うものであり、公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重が払われるのである(憲法第12条、第13条)。されば学問の自由、従つて大学の自治も亦、国家及び社会が公共の福祉のためにする行為についてはこれと相調和する限度において制限を受くべきことは已むを得ないところである。
[8] 尚、学生の自治を、教授及び研究者の自治と同列に論ずることが妥当であるか否かの点がある。大学自治の観念は、上述のごとく、教授及び研究者の研究及び講義の自由にあるものと一般に理解せられるところであるが、学生の活動については、必ずしも教授及び研究者の自治程明瞭に承認されているとは解し難いのである。学生の活動は、大学当局の統制と指導の下に行われるものであり、それはむしろ大学内部における教育の手段として学校当局により或程度の自治が認められているにとどまるものである。すなわち大学における学生の自治は教授、研究者の自治活動の反射作用として学校当局との関係において或程度承認されたとは云い得るも大学当局以外の第三者との関係において学生が一般に所謂自治を承認されているとは認め難いのである。
[9] 従つて学生の活動が或程度大学の自治に含まれる場合があるにせよ、その自治の範囲は本来の教授、研究者の自治のそれよりも一層限局されたものであることは明白である。
[10] 然るに原判決は叙上の諸点によつて明らかにせらるる大学当局の限界について、いささかも言及するところなく、本件集会の性質を学内集会と論断したのは大学自治の解釈適用を誤つたものに外ならない。

[11](二) そこで、原判決が学内集会なりと判示するところの本件劇団「ポポロ」主催の演劇発表会の性質について検討、考察するに、原判決挙示の各証拠によれば、右劇団は東京大学公認の学内研究団体ではあるが、学生をもつて組織する団体であり、教授、研究者の組織団体ではない。また、右演劇発表会の開催に当つては事前に大学当局に対し政治目的を有しない旨の保証書を提出し、学内集会としての許可を受けてはいるが、入場券を発売し一般人の自由に入場し得る状態において開催され(右入場券には入場者の資格を制限したる記載もない。)本件警察官3名も亦その身分資格についていささかの質問も受くることなく入場券を購入して入場し、他にも東京大学の学生及び教職員に非ずと思料せられる外来者の入場していた事実に徴し、本件集会は当初より一般外来者の入場を予定していた公開のものである事実が認められ、又本件演劇会が所謂反植民地闘争デーの一環として行われたこと、反植民地闘争デーとは、押収に係る東大新聞の記事によれば西暦1946年2月21日インドのボンベイでインド海軍が反英運動を起し、全印度の青年、学生、農民、労働者等がこれに呼応して蹶起しこれを記念して西暦1949年カルカツタで開かれた世界民主青年連盟第2回代表者大会でこの日を反植民地闘争デーと決定し、爾来2月21日を反植民地闘争デーと呼ぶに至つたこと、その演劇の内容についても、右東大新聞の記事「学内メモ」欄によれば「松川事件」を取材することが当初より予定せられていたことが認められるに拘らず、大学当局に対する教室借用願によれば右演劇題名は「何時の日にか一幕二場」「あさあけの詩一幕」と記載され、届出の題名自体からは「松川事件」を取材することを窺知するに由なく、政治目的を有しない旨の前記保証書の提出と相俟つて、大学当局に秘して右演劇会に「松川事件」を上演しこれを政治的に利用せんとする意図を推認せられる事実、当日「松川事件」を取材した演劇が開催され、その内容は右事件が官憲の捏造事件の如く作為して演出せられた事実、開催に際して右事件の救援資金カンパが行われ、又その2日前に発生したる所謂渋谷事件の報告がなされた事実等が明認せられるところである。而して叙上証拠によつて認められるべき各事実に徴すれば、本件演劇会は、一般に公開せられ数々の政治的社会的実践活動を伴ないおよそ学徒の集会にふさわしからぬものであつて、真面目なる学問的研究の集会とは到底認められない。憲法第23条が大学の自治によつて保障しようとする学内集会とは既に述べたところによつて明らかなる如く、教授、研究者が講義その他研究の発表、討論の目的の下に学内における教室等特定の場所に会合する集会を指称するものであるから、少くとも本件集会の如く入場券を発売して一般外来者の入場し得る状態の下に開催せられ、剰え、政治的社会的目的をもつ実践的活動を内容とした集会は、仮に形式的には学校当局承認の手続が履践せられ、学内特定の教室において行なわれたとしても、憲法の保障する学内集会とは到底認むることを得ない。これを要するに集会の本質を学内集会と認むべきや否やは、その集会が大学公認の手続を経たりや否、或は大学公認の場所で行なわれたりや否の形式的要素のみによつて決定すべきものではなく、集会開催の手段方法及びその内容の実態に関する実質的要素をも加味して具体的に検討し、憲法の保障する学問の自由の範囲に属する行動なりや否によつて決定すべきものである。
[12]然るに、原判決は、
1「学生が政治的社会的諸現象に関心を抱き、それらを命題とし又はそれらに取材して演劇等の具体的方法によつて広義の研究的行動をなし更にその際極めて附随的にその演材に因む実社会的事実の報告や之に関連する資金蒐集運動をなすが如きことあつても、それが学校当局公認の場所と方法とによる以上やはり学内活動の一部たる失わず」
とし、
2「同集会の入場に際し同会の目的や会員の一般的資力よりみて不当ならざる程度の入場料を徴することや同入場券頒布の方法に便乗して観劇資格者の主要部分として予想している当該学校の学生および教職員以外の一部少数者が会場に混入するが如きことがあつたとしても、それは同会経理担当者の能力や入場者看視員の注意力の批判の原由となるや否やは格別、これによつて同集会の学内集会たる性格に変更を来す程本質的な事柄ではない」。
と論断するをもつて検討するに、
[13] 先ず1の点については、原判決は「学校当局の公認の場所と方法とによる以上やはり学内活動の一部たるを失わず」とし、集会の本質を形式的要素のみによつて決定せんとする重大な誤りを犯しているものといわなければならない。もとより学生と雖も、政治の研究の自由を奪わるべきものでないから政治的社会的諸現象に関心を抱き、これらに取材して演劇等の具体的方法により政治的研学をなすことはそれが正当なる目的意図に出で、良識ある公民として必要な政治的教養の限度にとどまるにおいては、その研学行動は憲法の是認し保障するところといわなければならない。然しながら右研学的行動にして政治的社会的実践活動の領域に亘り、或いは大学の政治的中立性を毀損し、もしくは毀損する疑のある活動となるに至るときは憲法の保障する学問の自由の限界を踰越し、学内活動と認むることを得ないものと信ずる。けだし、大学における政治的中立性は国家およびその機関においてのみこれを守らなければならないものではない。大学内部の学生及び教職員自身も亦これを尊重すべく学園内部を自らの手によつて政治化し、もしくは政治化する虞れのある行動は厳に戒めなければならないところである。教育基本法第8条第2項が「法律に定める学校は特定の政党を支持し又は、これに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない」と規定する趣旨も亦ここに存するものと思料する。果して然らばかかる観点に立つて本件演劇会の性格を観察するに右演劇会は前叙のごとき意義と内容を有する反植民地闘争デーの一環として行われ、従つて学生及び教職員の演劇研究とは直接には関係がないことが認められ、また「松川事件」の取材についても、右事件は当時現に公判繋属中に係り、事の真相は、公平なる裁判の結果を待つて、明らかにせらるるものであるに拘らず、敢てこれを官憲の捏造事件の如くに取材、上演して資金カンパを行うことはこれを政治的事件として特定政党のために宣伝利用する意図をもつてなされたことが明らかであつて、学問研究の領域を逸脱したる政治的社会的実践活動であり憲法の保障する学問の自由の範疇に属するべき事項ではないと思料する。この点において本件集会はその内容の実態において学内集会と認むること能わざるものである。殊に大学当局に対する教室借用願によれば「松川事件」の演題は記載なく、又資金カンパを行なう等の記載もないのであるから本件演劇会において右事件を取材し、その救援資金の蒐集運動をなし、渋谷事件の報告をなすことは、何れも大学当局許可の内容をなしていない事項に属し、この点からみるも本件演劇発表会は明らかに形式的にも大学当局の許可条件に違反するものであり、判示のいわゆる「大学当局公認の方法」によつて実施された集会とは到底認められず、従つて原判決明示の理由自体からも右演劇会は大学の自治下にある正当な学内集会とは認むることを得ないものであると思料する。
[14] 次で2掲記の判示理由について検討するに、この点に関し、特に注意を要するは、判示理由中「それは同会経理担当者の能力や入場者看視員の注意力の批判の原由となるや否やは格別」との記載部分は何等の証拠に基かざる判断である。本件記録並びに証拠の全部に徴するに入場料の徴収又は納否を検査する要員の存在していたことは認め得るも判示の如き経理担当者、特に入場者看視員なるものが存在し、外来者入場の防止に努められたと認めらるべき証拠は全然存在しない。従つて経理担当者或いは入場者看視員なるものの能力や注意力の批判に関する原判決の論議は何等の証拠に基かざる架空の議論である。原判決はかかる架空の仮定的論拠に立ち、恰も経理担当者、特に入場者看視員なるものを擅に想定して外来者の入場をかかる架空の要員の注意力の欠如の責任に転嫁し、もつて本件集会の学内集会たる性格を強いて論定せんとするものであつて、かかる理由によつては、いまだ何等本件集会の学内集会たる本質を明らかにするものではないといわなければならない。また、入場料の如きは、主として来場を予定せられる者の一般的資力及び演劇内容の実質価値に基いて決定されるものであるから会員の一般的資力を標準として不当ならざる程度の入場料が徴せられたとて、これをもつて本件集会を学内集会と目することはできないものであり、一般外来者の入場数の如きも、多分に偶然的事情によつて支配せられるものであるから仮にその入場者が少数であつたからといつてこれをもつて本件集会の学内集会たることを決定すべき本質的要素とすることを得ないのは当然である。要は、本件集会が一般人の入場を当然予想せられ得る入場券発売の方法によつて開催せられ、その結果一般外来者の入場した事実の存したことが、入場料の額、又は外来者入場数の多寡に拘らず、本件集会の公開性を示す決定的要素なのであり、本件集会をもつて純然たる学内集会と認むることを得ない所以なのである。然るに一般外来者の入場を、右入場券頒布の方法に便乗し、入場者看視員の注意力の不足に乗じて少数入場したに過ぎないものの如く判示して本件集会を学内集会なりとする原判決は本件入場券頒布の本質に関する考察を誤り且、入場者看視員の注意力の欠如なる証拠に基かざる架空の議論を立論の根拠とするものであつて到底正当なる理由と認めることを得ないものと思料する。
[15] 之を要するに本件「ポポロ」演劇会は教育基本法第8条第1項に規定する良識ある公民たるに必要な政治的教養とは目されず、憲法第23条の保障する研学的行動に該当せざること明らかであつて本件集会は形式的には学内集会たる手続を経て行なわれたとするも実際の行動と内容の面から観察して憲法の保障する学問の自由の限界を逸脱し、右自由を擁護するための大学の自治に属せざる集会である。然るに原判決は本件演劇発表会を「学内集会たることには変りないものである」と判示したのは叙上、如何なる観点より論ずるも誤りにして、畢竟学問の自由保障に関する憲法第23条の規定の解釈適用を誤り、右自由擁護のため憲法の要請するところたる大学自治の限界を不当に拡張して解釈適用し大学自治の範囲に属するものとして許容せられざる集会を学内集会と判断して右憲法の条規の適用を誤つた違法を犯したものといわなければならないから到底破棄を免れないものと思料する。

[16]二、原判決は、その判決理由中、「前記警察官等の行動は、結局わが国現下の憲法を頂点とする全法的秩序に違反する意味において違法行為であると言わなければならない」と判示して、本件警察官等が警備活動の目的をもつて本件劇団「ポポロ」の演劇会場である東京大学法文経25番教室内に立入つた行為を、大学の自治を紊し、大学自治制度の基盤となつている前記法秩序に違反する違反行為であると論断している点において、憲法第23条の学問の自由保障に関する規定の解釈適用を誤り、右規定によつて認められる大学自治の限界を不当に拡張して解釈適用した誤を犯しているものといわなければならない。
[17] 以下その理由を説述する。

[18](一) そもそも警備活動とは、公共の安寧秩序を保持するため、犯罪の予防および鎮圧に備えて各種の情報の蒐集並びに調査をする警察活動であるが、苟しくも公安の維持を任務とする警察が、かかる警備活動をなすことは、その目的、手段、対象において正当である限り適法なる職務にして職権に属する行為といわなければならない。凡そ警察の使命は警察法第2条(旧警察法第1条)において明規せられるところであるが故に、警察官たるものはその職務執行に当つてはよくこれら法規の法意を理解、把握して合目的に、且社会通念に照し最も合理的に行ない、その職務執行の適否は憲法の条規と関連を生じ、公共の秩序維持に多大の影響を及ぼす極めて重要なものであることに思いを致し、いやしくも法意を逸脱して職権の濫用にわたることのないよう努力しなければならないことは当然である。而して治安維持の立場から合理的に判断し、具体的に公安を害する事態或いは犯罪発生の虞れが多分にあると認められる場合には、大学構内と雖も警備活動の対象となることを免れ得ないところであつて、大学は正当の理由のない限りこれを拒否することを得ないものといわなければならない。けだし、大学の自治は憲法第23条による学問の自由を保障するための制度として認められたとはいえ、その自治的特権が無制限に承認せられたものではない。それは既に述べたる如く公共の福祉の維持と相調和する限度において制限を受くべきことは憲法第12条、第13条の趣旨に照し明白である。而して警察目的も亦、公共の福祉を図る所以であるから、警備活動がその目的、手段、方法において正当なる場合には大学自治と相調和し、これと両立すべき関係にあるものといわなければならない。
[19] 然るに原判決は、大学自治の原則の適用に当り、警察権と大学自治との関係について、大学の
「外部との関係においては政治的又は警察的権力は治安維持等の名下に無制限に大学構内における諸事態に対して発動することは許されず、たとい客観的には警察的活動の対象となるが如き外観の事実ある場合にも、それが大学構内殊に教室や研究室内におけるものなる場合には、事情のゆるす限り、先ず大学当局自らの監護と指導とに委ねて解決を図り、同当局の処理に堪えず又は極めて不適当なるものとして同当局より要請ある場合初めて警察当局が大学当局指定の学内の場所に出動するを妨げずとなすことはわが国における大学自治の実態として公知の事実である」。
と判示し、大学構内における警察権の発動は特別の事情のない限り、大学当局の自主的処理に委ね、警察当局は大学当局の要請ある場合の外は、みだりに学内に職権を行使することは許されないものと論断する。
[20] 然しながら大学の自治も憲法以下の国法の下にある制度であり、これを治外法権的特権と誤解すべきではない。大学内の事象に対しては国家は大学当局の承認がなければ一指をも染め得ないというものではなく、正当な目的に基き適法な手続により、且相当な限度において発動された警察権の行使に対しては大学自治はこれを容認しなければならないものと思料する。而して警察権の発動に当り如何なる場合が、大学自治の侵害とならないかは、大学当局の要請に基く場合はもとより、たとい同当局の要請ないし事前の承認がない場合においても学問の自由に対する圧迫ないし干渉の意思全然なくこれと関係のない事象に関し、純粋に治安維持の観点より警備活動をなす場合には、迅速処理と秘密の保持を旨とする警察活動の本質上、警察が責務完遂の為め行う警察活動として適法であり、従つて当然、大学自治の侵害とはならないものと思考する。然し、かかる場合と雖も、無用な摩擦を生ぜしめないことを考慮して、できるだけ速やかに大学当局に連絡してその承認を求め、警察活動によつて大学に不測の損害を与えないよう配慮すべきは当然であろう。而してかかる警察権行使の結果、仮に大学自治の侵害を生じた場合において侵害の排除は大学当局と警察当局との話合により適宜処理せらるべきものであつて学生その他第三者によつて自力救済等の手段の許さるべきでないことは法治主義の原則上論を俟たないところである。
[21] 而して原判決が大学自治と警察権行使の限界に関する判旨見解を裏付ける証左として挙示する判示文部次官通達は、むしろ判示の如き見解について一般的に疑義がある結果判示都条例の大学構内における解釈適用について特例的規準を示すに至つたものに外ならないのであつて、右は学校構内における集会集団行進、集団示威運動についての紳士協約的のものであり、該通達(特に同通達第3項)をもつて大学構内における警察権発動の原則を示すものとして凡ての警察活動に適用あるものと解することを得ないものである。
[22] 翻つて、大学の現状を見るに広汎なる構内と施設を有する大学が、現在の、その組織、機構の下において果して構内の全般にわたつて遺憾なく治安維持の責務を果し得る自治の組織と能力を具有しているとは到底認められない。ここに実際問題としても、大学構内における凡ての警察事象について大学当局の自主的処理のみを期待することが不可能と認められる事情が存するのであり、警察は治安維持の責務上大学構内と雖も学問の自由の侵害に亘らない範囲において警察権発動を余儀なくせざるを得ないのである。されば大学自身も亦、善意に基く警察権の発動に対しては深い理解と寛容と信頼の立場の下にこれに協力し、両々相俟つて治安維持の完璧を期すべきであり、然るにおいては、両者の間に醸すことあるべき摩擦もこれを防止し得るものということができるのであつて、これをこそ、民主主義下における大学自治本来の在り方といわなければならないのである。
[23] 以上の意味において原判決は警察権行使に対する大学自治の限界に関し誤れる解釈を下し、警察権行使を不当に制限せんとする誤を犯しているものといわなければならない。

[24](二) 次に原判決は
本件警察官が警備活動の目的をもつて前記劇団「ポポロ」の演劇会場に立入るに際しては、たとい入場券を購入使用しているとしても、警察官等職務執行法第6条第2項ないし第4項の規定の趣旨に鑑み、「その旨大学当局に少くとも告知すべき」であり、「告知すべきことは現行憲法下におけるわが国の全法律秩序に照して当然のことである。」然るに、「大学当局……には何等の連絡をなさざるまま右演劇会場に立ち入ることは前記大学の自治を乱すものであつて、正しく前記法律秩序に違反する所為たるを免れない(警察官等職務執行法第6条第3項参照)。」とし、「大学の自治そのものが……今や憲法および法律の積極的な保障を受けて既に確定的な法律制度となつている以上」右警察官等の行動は、「その制度の基盤となつている前記法律秩序を紊」し「結局わが国現下の憲法を頂点とする全法律秩序に違反する意味において違法行為である」
と論断する。
[25] 而して右告知義務の根拠として前示職務執行法第6条、第2項第4項を援用し、
「たとえ有償公開の一般興行場ですらその公開時間中に警察官が犯罪の予防等のためその場所に立入る際には、同場所の管理者等は正当の理由ある場合には右立入の要求を拒むことができるばかりでなく、右管理者等の要求あるときは同警察官はその立入の理由を告げ且つその身分を示す証票を呈示することを要する事例にかんがみるも」然るべきものである。
と判示するものである。
[26] 然れども、有償公開の一般興行場において警察官が犯罪予防のためその場所に立入る行為は常に右法条の適用を受けるものではない。該法条は警察官が職権行為として立入る場合、管理者において正当の理由なく拒否したときには即時強制として立入り得ることを規定したものである。警察官において入場料を支払い立入る場合は、任意の行為として右法条の適用を受けるものでないことは当然である。かかる場合における警察官の行為はたとえ職務行為である場合と雖も、一般市民と同じ資格において立入るのであつてその立入りは任意自由と解すべく敢て立入りについて管理者に対し要求ないし理由告知の義務のないことは理論上当然であるのみならず、管理者より正当な理由に基いて退去を求められるまではその立入りは合法にしてそれに基いて秘密裡に場内を調査する行為は放任行為として合法であり、憲法上の基本権を侵害するものではないと思料する。
[27] 右法理は大学自治の認められる大学構内の集会についても公開性を有し学内集会と認められない集会については一般である。大学内の有料公開の集会に対し、警察官が警備活動対象事実発生の虞れを認めたため、所定の入場料を支払つて、場内に立入つた場合の如きは任意の行為として合法であり、その際大学当局に事前の連絡をなし立入りの目的、趣旨について予め諒承を得ておくことは道義上望ましいには相違ないが、かかる連絡のない儘、入場したからといつて右立入りを違法ないし不法として非議論難すべき筋合ではないのみならず大学自治侵犯の廉ある行為でもないのである。けだしかかる集会は大学自治の許容せざる集会に属し、憲法の保障するものではないからである。従つて右立入りにより警備事態の発生に対処する準備として秘かに場内の実情を調査する行為は放任行為として合法であり、大学の業務即ち学問の自由ないし大学自治に妨害を来すものでないのみならず集会主催者側の言論、集会、結社及び政治活動等に対する基本的人権の侵害を伴なうものでもないと思料する。何となれば警備活動はその目的、手段、方法及び対象において正当であり公共の福祉のためにするものとして大学自治を始めとする叙上基本権と均衡調和を保持しているものと認められるからである。
[28] この点に関し、犯罪捜査目的のため秘聴器を使用した事案に関するものではあるが、昭和26年11月6日国家地方警察本部新潟県十日町地区警察署長設楽十一郎が日本共産党8幹部の動向並びにアカハタ後継紙同類紙の右警察署管内発行配布等について捜査する目的をもつて、その部下をして谷矢一郎等の居住する十日町諏訪町高橋信次方において、右高橋の承諾を受け、マイクロホンを右谷矢の居室の隣室である6畳間の襖に接着して取付け増幅器を階下6畳間の押入に置いて右谷矢の居室における会話を盗聴した公務員職権濫用被疑事件について東京高等裁判所第11刑事部のなした抗告棄却決定理由、即ち、
「かくして右聴取は、右捜査目的を達するに必要な範囲と限度において行われた限りにおいては、たとえその為に前記谷矢一郎等の所論基本権等の行使に軽度の悪影響が与えられたとしても、それは右聴取行為に必然的に伴う結果であつて、これを目して職権を濫用するものであるとすることはできない。何となれば右の範囲と限度内における聴取は合法的な捜査行為として公共の福祉を図る所以であるから右谷矢等は所論基本権等を右公共の福祉のために利用すべき責任を有するからである」。(昭27、(く)第76号同28、7、17、東高裁第11刑事部決定)
は、右警備活動の合法性を理由づける根拠たり得るものとして注目を要するものである。
[29] けだし公安維持上、具体的に発生のおそれのある犯罪の防止もしくは鎮圧の必要がある場合警備活動の目的をもつて入場料の支払等適法の手段をもつて集会に立入り隠密裡に行う調査行為は目的、手段、対象において正当であり、基本権に与える影響も亦極めて軽微であつて、具体的犯罪捜査の場合と何等区別して考えなければならぬ理由がないからである。叙上所論に基づき本件警察官等の本件劇団「ポポロ」主催の演劇会場立入行為の法律的性質についてみるに、右演劇会は憲法の保障する学問の自由ないし大学の自治の適用を受けない集会であること如上縷述の通りであるから、本件警察官等の立入りは大学の自治を犯したこととはならず、またその立入りに際しては入場券を購入使用しおるを以て警察官等職務執行法第6条第2項第4項の適用はなく、従つてその立入りは任意自由の放任行為として合法であり、その手段においても違法の廉はない。而して第一審における証人藤原貢の証言によると当時東大内には全学連や都学連の事務所があつたこと、この両団体は学内団体ではなく校外諸団体との連合体で大学当局の公認していないものであるに拘らず学校の施設を使用していたこと、又共産党東大細胞なるものがあり、解散していたにも拘らず、その頃東大再建細胞なる秘密団体名のビラが学内に撒布せられたり、政令第325号違反の疑のあるビラが学内に撒布せられていたこと、其の他当時の一般情勢としても政治目的をもつた学生運動が盛んとなり、昭和25年10月頃、東大内にレツドパージ反対の学内デモが行われ、大学当局の要請に基いて本富士警察署員の出動が2回に亘つて行われたこと(記録542丁以下)、又同じく第一審における証人大場和夫、同斎藤文治の各証言によれば、昭和26年末期より昭和27年初頭に亘り、一部学生の不法越軌行動が頻発していたこと、且本件集会の当時2月18日及び当日の2回に亘り、渋谷駅前広場において東大生による無届示威行進事件が発生していたこと(記録578丁裏、628丁裏)等が認められ、柴巡査等はこれらの情勢に対応し本集会が反植民地闘争デー前夜祭の一環として行われ一般にも公開されていたのに鑑み公安維持上犯罪の発生を予想しこれが予防若しくは鎮圧の準備の必要に基いて立入り、専ら隠密裡に場内の実情を調査したにとどまり、その結果警察的見地において同集会を解散させる必要を認めたときは直ちに解散を命ずることなく、一応大学当局に通報して大学当局の措置を待つ予定であつたものであるが故に右調査は目的、手段、対象において正当であり、本件警備活動に基く立入は合法にして何等学問の自由ないし大学自治の侵害なる違法の点は認められないと思料する。
[30] 果して然らば、以上如何なる観点より考察するも本件警察官等の「ポポロ」劇団演劇会場立入行為は憲法以下如何なる法律にも違反することなく、これを違法とする論拠はないものといわなければならない。然るに、原判決が予め大学当局に告知のないことを理由とし本件警察官の会場立入行為をもつて大学の自治を紊し憲法以下全法律秩序に照し違法とするのは畢竟憲法第23条の解釈適用を誤り、学問の自由保障の要請として憲法上認められる大学自治の限界を不当に拡張して解釈適用したものといわなければならず到底破棄を免れないものと思料する。
[31] 以下その理由を詳述せんに、

[32]一、そもそも違法性というは、当該行為が法律上許容されないことを意味する。而して違法性には形式的違法性と実質的違法性とあり、前者は法規に違反することをいい、後者は行為が国家的共同生活の目的に違反して法益を侵害し又危殆ならしめることをいうのである。国家的共同生活の目的に違反して法益を侵害することであるが故に、或いは実質的違法性とは「行為が公の秩序善良の風俗」に反することなりといい、或いは違法性の実質をもつて「反文化性」なりとし、或いは「国家的条理違反」又は「法益の侵害又は脅威」なりとして学説は区々に分れているが、本旨は結局同一に帰着し法律秩序全体からの否定的価値判断を受けるものであるということができる。而して刑法は違法性阻却事由として第35条ないし第37条において特別の規定を設けているが、行為の違法性をもつて実質的に理解し、法律秩序全体の精神において違法の有無を論定すべきものとするにおいては違法性阻却事由は本質的には超法規的なものであり、特に法規によつて形式的に規定せられた場合に限定せられるものではないであろう。而して原判決が「これは……正当防衛や自力救済の法規とも範疇を一にせず又刑法第35条を形式的に引用するものでもなく、同条にいわゆる『正当』の観念の基礎をなし一層広汎且つ深遠な法則として一般に認められている条理である」と判示する所以も同趣旨に出ずるものと思料する。
[33] 然し乍ら、しかく実質的違法性の原理を認め、超法規的違法性阻却事由の成立を肯認するとしても、法典主義の下に成法の厳格解釈を基調とするわが刑罰法令の下にあつて犯罪の存否を判断するに際しては右理論の解釈適用は慎重でなければならず安易な適用は十分慎しまなければならないところである。されば一定の行為が犯罪構成要件に該当するに拘らず、違法性なきものとしてその行為者の行為の可罰性を否定せんがためには、法律の形式的規定を基礎としてそれらに通ずる法律全体の精神の上に立脚して違法性阻却の要件を判断しなければならないのであり、漫然、正当行為ないし実質的違法性阻却事由あるものとして行為の可罰性を否定することは許されないところと思料する。
[34] 然るに原判決は
「正当行為というは、一般に法益に対する不法なる侵害行為に対しては一定の限度内においても之を阻止排除する権利あることを前提とし、その防衛の限度および方法自体も亦公共の秩序を紊さざる範囲に止まるべきであるが、その公序とは……憲法以下全体によつて企図せらるる均衡と調和(第一審判決にいわゆる憲法的秩序)の維持せらるることをいうのである。而して此の秩序を紊して或る法益に対し侵害を加える行為については当然一定の阻止排除行為が公認され、而してその排除行為にして同様の公序を紊さざる限度に止まり之により防衛を受ける法益が防衛行為(侵害排除行為)によつて損害せられる法益と適当の比例を保つて相当優越する場合においては、その防衛行為は正当行為として肯認せられ、刑法上も違法性を阻却するものと解するを相当とする。……而して亦此の理論はその初め侵害を受けた法益が身体財産等に関する私益たると研学教育機関等に関する公益たるとによつて差異ある理由なく、又その防衛行為主体は被害法益の主体自身たると之に準ずる地位の者もしくは第三者とを区別すべき必要もみない。」
と判示して正当行為の要件を論断し、次で被告人が警察官柴義輝に対して腕をつかみ又は着用のオーバーコートの襟を引つ張るなどの行為のあつたことを認めながら、右警察官の本件会場立入行為を違法の処置であると非難した後、
「被告人の柴巡査に対する行動は、…その動機目的は右大学自治保全の念願にあり、而して同巡査に加えた現実の損害は僅かに片手をおさえ、着衣の襟を引いた程度に過ぎない。しかもそれ等の所為も、前述のように右会場の管理者等において適法に要求し得る警察手帳の呈示に関連してなされているにすぎない。而して被告人は同大学にとつては当時一学生であるが、同大学の自治の法益擁護上の立場は大学当局の職員以外に少くとも学生その他同大学と特殊関係ある者にはひとしく認めるを妨げないのみならず、被告人の本件所為によつて齏らされる大学自治保全の法的価値と同行為によつて被つた右警察官の個人的法益の価値とを前述公共秩序維持の原理に照して勘案考量すると、前者の著しき優越は自ら明白である。従つて、此の際右警察官に対する外観上犯罪類型に該当する法益侵害行為はありとしても被告人の該行為は刑法上違法性を阻却せられるものといわなければならない。」
と判示している。しかしながら、かくの如き見解は要するに実質的違法性阻却の要件を不当に解釈適用して行為の可罰性を否定した一種の独断論に過ぎないものと思料する。
[35] 仍つて、判示理論の正否、及び本件におけるその適用の当否について検討する。

[36]二、原判決は正当行為を論ずるに当り、先ず
(一)「公共の秩序(即ち憲法的秩序)を案して或る法益に対し侵害を加える行為については、当然一定の阻止排除行為が公認される」、
と判示して、法益侵害行為にしては当然一定の阻止排除行為が権利として承認せられるものと論断する。然しながら正当行為が権利として認められるとしても法益侵害に対し、常に必ず一定の阻止排除行為が許容せらるものではない。
[37] 法益侵害に対して当然一定の阻止排除行為が認められるとする観念は、これを徹底せしむれば、実力が法秩序を支配することを認容するものであり、法治主義の根本理念と相背馳する法律思想として到底承服し得ないところである。蓋し法治国家における国民の任務とするところは常に必要な法律的手段に導かれるところにあり、個人が熱し過ぎて軽率に突進することは、われわれ今日の国家的に組織された法律文化の下においては著しく不相当なものとして排撃しなければならないからである。而してこの原則は夙に旧大審院時代より判例において認められるところである。即ち
(イ)「他人ノ築造セル堰堤ガ慣行並規約ニ違反シタルトキト雖之ヲ損壊スル権利ナキヲ以テ数人共同シテ擅ニ之ガ損壊行為ヲ為ストキハ暴力行為処罰ニ関スル法律第1項ニ該当スルモノトス」(昭和10年(れ)第721号同10、7、25、第2刑事部判決)。
(ロ)「被告ガ墳墓ノ所有者トシテ其ノ地域ヲ通行スル権利ヲ有シ、従テ他人ガ之ニ板塀ヲ設置シタル行為ハ此等ノ権利ヲ侵害スル不法行為ナリトスルモ被告ハ之ガ救済手段トシテ自ラ板塀ヲ撤去スルノ権利ヲ有セサルモノトス」(大判抄録78巻10042頁)
との判旨に徴するも、法益侵害に対し無条件にこれを阻止排除する行為の許容せられざることが明らかである。ここにおいて「情況の急迫性」ということが法益侵害行為に対する反撃の行為正当化事由の要件として当然に考慮せられねばならぬこととなるのである。然らざれば、時と場所とを問わず、一定の阻止排除行為が正当化される結果となり、甚だしく不合理な結果を招来することが極めて明瞭であるといわなければならない。およそ権利の行使と雖も、その手段は無制限に是認せられるものではなく、それが正当化されるには一定の要件が必要とせられるのである。原判決が正当行為の要件として「情況の急迫性」を考慮していないことは極めて失当たるを免れないのであつて正当行為の要件について重大な誤を犯しているものといわなければならない。このことはわが刑法典上違法性阻却事由として明規せられている正当防衛及び緊急避難において、それぞれ「急迫の侵害」及び「現在の危難」ということがその要件として規定せられている趣旨からみるも明らかに肯認せられるところであつて、侵害の「急迫性」という事態が正当行為ないし実質的違法性阻却の重要な要件であることは論を俟たないところであり、かかる「情況の急迫性」を認められてこそ、初めて侵害に対する阻止排除行為が正当行為として社会通念上許容せられるところとなるのである。
[38] されば自救行為について最高裁判所の判決は実質的違法性阻却事由適用の一場合としてこれを肯認しながらもこれを定義して
「自救行為とは一定の権利を有するものが、これを保全するため官憲の手を待つ遑なく自ら直ちに必要の限度において適当なる行為をすること、例えば盗犯の現場において被害者が賍物を取還すが如きをいうのである。」(昭22、5、18、大法廷判決)
と判示し、急迫性の存すること、換言すれば官憲の手を待つに遑なきこと即ち法律上の手続による救済を受くる時間的余裕のないことを重要な要件としているのであつて、この趣旨は自救行為を認めようとする改正刑法仮案第20条が
「請求権ヲ保全スルニ付相当ノ時期ニ法律上ノ手続ニ依ル救済ヲ受クルコト能ハザル場合ニ於テ其ノ請求権ノ実行ノ不能ト為リ又ハ著シク困難ト為ルコトヲ避クル為自ラ救済スルニ出テタル行為ハ其ノ際ニ於ケル情況ニ照シ相当ナルトキハ罪ト為ラス」
と規定し、請求権が危殆に瀕し、その保全の為に法律上の手続による救済を求める暇のない緊急な必要ある場合にのみ、これを認めんとしたことと同一であつて、以上の趣旨に鑑みるも法益侵害に対する阻止排除行為の正当化事由の一根拠として常に急迫性の要件を必要とすることとは法治主義の下における法律理念当然の要請として争う余地のないものと思料する。されば同じく自救行為に関する最高裁の判例ではあるが家屋の不法占拠者に対する急迫性のない自力救済について、賃借権の
「侵害を排除するためには須らく国家機関の保護を求むべきであり、自ら判示の如く威力を用いて同女の営業を妨害するが如きことは法の認容しないところといわなければならない。」(昭和25年(あ)第2108号昭27、3、4第2小法廷判決)
と判示しているのは正当であり、この法律理念を宣明しているものに外ならない。
[39] 而してこのことは法益権衡を実質的違法性阻却事由とする理論においても妥当するところである。メツガーによれば、法益権衡により適法とされるに際して考慮される事情として、法益自体が「危急」に瀕していることを第1の問題とし、(メツガー「刑法総論」1955年6版122頁以下参照)、又1927年3月11日の独逸大審院判決によれば「法益権衡の原則を適用するに当つての一般的な要件は、上述した意味における現実の法益緊急状態の存在ということである。従つて、妊婦にとつて他の方法によつては避けることのできない現在の危険がなければならない。……現在の危険とは、経験則に照らし、自然の成り行きにおいて、他の干渉がなければ侵害の発生が確実に切迫していると思われる場合をいうと解すべきである」(独逸大審院判例集第61巻242頁以下第72事件参照)としているのであつて「情況の緊急性」は法益権衡の原則においても不可欠の要件として強調されているところである。
[40] されば、原判決が法益侵害行為について当然一定の阻止排除行為が公認されると判示しているのは、自救行為論に基いて論ずるも、また、法益権衡の原則の理論によるも採用し難いところであつて、正当行為ないし実質的違法性阻却の要件の解釈に関し重要な誤を犯しているものとして排撃を免れないと思料する。次に

[41](二) 原判決は
「その排除行為にして同様の公序を紊さざる限度に止まり之により防衛を受ける法益が防衛行為(侵害排除行為)によつて損害せられる法益と適当の比例を保つて相当優越する場合においては、その防衛行為は正当行為として肯認せられる」。
と判示し、防衛法益と侵害排除行為によつて損害せられる法益とを較量し前者が後者に優越する場合は、侵害排除行為は公共の秩序を紊していない限度において正当行為であると論断する。判旨は要するに法益の権衡のみによつて防衛行為の正当性を理論づけんとするものである。而して原判決は「その侵害排除行為にして公共の秩序を紊さざる限度に止まり」と判示しているがその趣旨は法益の権衡外に要件を考定するものとは認められない。一般に実質的違法性阻却事由を考慮する場合においては法益の権衡は重要な要件には相違ないが、これのみをもつて足れりとするものではないと思料する。
[42] 何となれば、法益の権衡は純粋に形式的な原則に過ぎないものであり、この原則は更に、一般文化観ないし法律理念を補助手段として適用されなければならないものだからである。けだし、法益の軽重は事実認定を基礎とする法律判断であり形式的には必ずしも明白に定め得るものではなく、従つて相争う利益の法律的価値判断だけでは少しも実質的違法の存否を得るものではないのである。ここにおいて、まず、法律の目的が反省され、憲法以下法律秩序全体の目的精神に照して如何なる手段方法が許容されるかを判断しなければならない。而してすべての法律は正義に向つて定められ文化の進歩に貢献し、社会生活の平和と幸福を助長し維持する目的に奉仕するものであるが故に、実質的違法性阻却事由の行為とは、国家の全法律秩序の目的精神に照して是認され且つ目的達成のために相当な手段をもつて行われる場合であることを要するものである。従つてこの「正当目的」と「その目的への相当手段」ということが実質的違法性阻却事由を確定する上において重要な要件となるのである。而して国家的に認容された目的到達のために如何なる手段が相当であるかは、法益権衡の外に諸種の要素を綜合して考覈しなければならない事項である。殊に正当行為は法律上厳格な要件を規定されている正当防衛、緊急避難の外に違法性阻却事由を認めんとするものであるが故に、その適用に当つては法律の全精神に照して右の各規定に内在する共通の要件を按じ、あらゆる角度より厳重な検討を要すべきであつて、その行為が共同社会生活の見地からみて合理的な一般人の行動として通常なるものと思考せられるや否、その行為がその特別な状態において共同社会の理想とする思想と一致するか否により違法性阻却の有無が慎重に判定されなければならないものである。
[43] かくして既に述べたる如く「情況の急迫性」即ち法的手続その他平和的手段に訴える余裕がなかつたか否、「行為の必要性」即ち「已むを得ざる行為」であるか否、換言すればその行為が当該防衛法益を救う唯一の手段であるか否(「手続方法の必要性」)等は、法益の均衡保持の要件とともに手段の相当性を判断する上に十分考慮されなければならぬ重要な要件である。然るに原判決は「手段の相当性」即ち、「情況の急迫性」及び「手段、方法の必要性」について全然考慮するところなく法益権衡のみによつて正当行為ないし実質的違法性阻却の要件としたのは、右要件の解釈に重大な誤を犯したものにして失当たるを免れないのである。単に法益較量の立場から論ずれば、個人の生命身体に対する自由も憲法の保障する基本的人権であり学問の自由と共に、憲法的保障の対象をなし侵害を受けてならないことは憲法的秩序維持の上にける貴重な要請であつて、相共に憲法上の保護法益たることにおいて両者の間に上下優劣の差がないのみならず、個人の自由の侵害は原判決のいわゆる憲法的秩序を紊すものであり、学問の自由侵害の行為と、その間何等の軒輊ある訳のものではない。然のみならず、学問の自由に対する侵害は抽象的被害に止まるに反して、個人の生命身体の自由に対する侵害は有形的具体的被害となつて発生し、かかる不法な実力行使の是認せられる結果は社会秩序を乱し国民全体の自由の脅威に連なるものとして決して軽視を許さないものといわなければならない。而してこの趣旨は、憲法第28条に関するものではあるが、
1「憲法は勤労者に対し団結権、団体交渉権、その他の団体行動権を保障すると共に、すべての国民に対し平等権、自由権、財産権等の基本的人権を保護しているのであつて是等の諸々の基本的人権が労働者の争議権の無制限な行使の前に悉く排除されることを認めているのでもなく、後者が前者に対して絶対優位を有することを認めているのでもない。寧ろこれら諸々の一般的基本的人権と労働者の権利の調和をこそ期待しているのであつて、この調和を破らないことが、即ち争議権の正当性の限界である。この調和点を何処に求めるべきかは、法律制度の精神を全般的に考察して決すべきである。固より使用者側の自由権と雖も絶対無制限ではなく、労働者の団体行動権のためある程度の制限を受けるのは当然であるが原判決の判示する程度に、使用者の自由意思を抑圧し、財産に対する支配を阻止することは許さるべきではないと認められる。」(昭和23、(れ)1049号昭25、11、15、大法廷判決)
2「そもそも勤労者の団結権、団体交渉権、その他の団体行動権は憲法第28条の保障するところであるが他面憲法はすべての国民に対し平等権、自由権、財産権等の基本的人権をも保障しているのであつて、前者の権利の無制限な行使を許容し、それが後者の基本的人権に絶対的に優位することを是認するものではなく、従つて憲法の保障する争議における場合と雖も、刑法所定の監禁、傷害、公務執行妨害等の暴力的行為が行われたときには前記勤労者の権利行使の正当性の限界を逸脱したものとして違法であることは勿論である」。(昭30、(う)第1440号昭31、2、24、大阪高裁第5部判決)
等の判例の趣旨からも優に窺知し得るところである。
[44] 従つて、正当行為判定の基準を法益権衡のみに求めることは畢竟裁判官の恣意に基く独断の弊を招致することを免れ難く、法秩序の要請たる法的安定性は著しく毀損せられ、社会生活の秩序は維持することを得ざるに至るといわざるを得ない。
[45] 而して左記判例は何れも手段の相当性を違法性の判断の基礎としたものとして、注意を要するものと考える。
1「按スルニ権利行使ノ意図ニ出テタル行為ト雖モ、其ノ権利者ノ故意又ハ過失ニ因リ法律ノ認ムル範囲ヲ逸脱スル方法ヲ以テ行ヒタル為他人ノ権利ヲ害シタルトキハ是レ蓋シ権利ノ濫用ニシテ権利ノ行使ト謂フヲ得ス、而シテ其ノ所謂法律ノ認ムル範囲ヲ逸脱スルヤ否ハ社会観念上被害者ニ於テ忍容スベキモノト一般ニ認メラルル程度ヲ踰越シタリヤ否ニ依リテ決スヘキモノナリトス従テ自己ノ権利ヲ実行スル目的ヲ以テ他人ニ対シ恐喝手段ヲ施用シタル場合ト雖モ若シ此ノ如キ方法ニ依ル実行ニシテ社会観念上被害者ニ於テ忍容スヘキモノト一般ニ認メラルル程度ヲ踰ユルモノナルニ於テハ其ノ行為ハ既ニ権利ノ行使タル性質ヲ失フカ故ニ之カ為ニ敢テ恐喝罪ノ成立ヲ阻却スヘキ理由ナキモノトス」(昭9(れ)第621号同年8月2日大審院第1刑事部判決)
2「他人に対し権利を有する者が、その権利を実行する行為は、それがその権利の範囲内であつて、且つその方法が社会通念上一般に許容されるものと認められる程度を越えないかぎり、何等違法の問題を生じないけれども、その行為が右の範囲又は程度を越えるときは、違法となり、犯罪を構成することあるべきは勿論である。そこで仮りに、本件美唄炭鉱労働組合員は、坑内5円、坑外3円の出勤手当の支給を受ける権利を有して居り、これが存続を要求するため、本件行為に及んだものとしても、その手段として為した被告人等の行為は、当時の社会状態を考慮に入れても、社会通念上一般に許容される限度を超えたものであり、刑法35条の正当な行為とはいえない」(昭24、(れ)第1622号、同年6月17日大法廷判決)。
3「市民のため食糧を獲得すること又は市長や食糧営団の職員に反省を促すことが目的として正しいとしても、それだけでその目的を達成するための手段がすべて正当化される訳ではない。その手段は秩序を守りつつ個人の自由や権利を侵さないように行わなければならない。けだし秩序が維持されることも個人の基本的人権が尊重されることもそれ自体が公共の福祉の内容を成すものだからである。それ故に原判決が被告人等の所為を公共の福祉に反するものとし、正当の行為に非ずと断じたのは当然であつて論旨は理由がない」(昭24、(れ)第1601号昭25、10、11、大法廷判決)。
4「所論の労働組合法第1条第2項において労働組合の団体交渉その他の行為について無条件に刑法第35条の適用があることを規定しているのではないのであつて、唯労働組合法制定の目的達成のために、すなわち、団結権の保護及び団体交渉権の保護助成によつて労働者の地位の向上を図り経済の興隆に寄与せんがために、なした正当な行為についてのみこれが適用を認めているに過ぎないのである。従つて、勤労者の団体交渉においても刑法所定の暴行罪又は脅迫罪に該当する行為が行われた場合、常に必ず同法第35条の適用がありかかる行為のすべてが正当化せられるものと解することはできないのである」(昭24、(れ)第319号同24、5、18、大法廷判決)。
5「争議行為は如何に正当な目的のためになされる場合でも民主的文化国家の理念に反するような行為は争議行為としても許さるべきではない」。(昭23、9、25、東高裁判決)
[46] されば法益較量のみを正当行為判定の要件とした原判決は行為正当化事由ないし違法阻却事由に関する刑法の解釈を誤り、違法性の判断には右の外「手段の相当性」をも併せ考慮しなければならないものとする法理を看過したる違法を犯しているものということができる。更に

[47](三) 原判決は
「此の理論はその初め侵害を受けた法益が身体財産等に関する私益たると研学教育機関等に関する公益たるとによつて差異ある理由なく又その防衛行為主体は被害法益の主体自身たると之に準ずる地位の者もしくは第三者とを区別すべき必要もみない」。
と判示し、公益に対する第三者の防衛についても法益権衡によつて違法性を阻却し得るものと断定する。然し乍ら一般に公益に対して第三者の防衛行為を認むべきや否は正当防衛について議論の存するところである。或学者は
「国家は、国家自体に対する侵害だけではなく、個人に対する侵害を防衛するための特別組織をもつている。国家の特別組織がはたらかないという重大事に際して、個人が国家に代つて法秩序を防衛するというような場合は考えられない。
 個人が国家のために法秩序を防衛することは正当防衛の概念に含まれてないと解すべきである」(滝川、刑法雑誌2・1、212頁)
として国家正当防衛権ないし国家のための緊急救助を否定せられるのである。これに反し最高裁判所判決は積極的態度をとつているとは云え、国家、公共の法益の防衛は国家又は公共団体の公的機関の任務に属すべきことであるが故に、私益に関する場合よりも一層緊迫した事態においてのみ例外的に許容されるべき筋合のものであるとして、「情況の急迫性」及び「手段、方法の必要性」の要件の具体的適用については極めて慎重な態度を堅持しているのである。曰く
「かかる公益ないし国家的法益の防衛が正当防衛として認められ得るか否かについては、これを否定する学説見解もないではないが、公共の福祉を最高の指導原理とする新憲法の理念から言つても、公共の福祉をも含めてすべての法益は防衛せられるべきであるとする刑法の理念から言つても、国家的、国民的、公共的法益についても正当防衛の許さるべき場合が存することを認むべきである。だがしかし、本来国家的、公共的法益を保全防衛することは、国家又は公共団体の公的機関の本来の任務に属する事柄であつて、これをた易く自由に私人又は私的団体の行動に委すことは却つて秩序を乱し事態を悪化せしむる危険を伴う虞がある。それ故、かかる公益のための正当防衛等は、国家公共の機関の有効な公的活動を期待し得ない極めて緊迫した場合においてのみ例外的に許容さべきものと解するを相当とする。…さらに刑法第36条及び第37条にいわゆる『已むことを得ざるに出でたる行為」という観点から眺めるならば、一層容易にかつ明白に同じ結論に達することが理解されるであろう。防衛行為が已むことを得ないとは、当該具体的事態の下において当時の社会通念が防衛行為として当然性妥当性を認め得るものを言うのである。そして殊に前述のごとく国家的、公共的法益に対する侵害等を私人が防衛する場合に、已むを得ざるものとして当然許容さるべき範囲は、整備せる現代国家の警備機構の下においては、必然的に比較的極めて狭少な局限されたものたるべきことは国家理論の帰結として何人も承認しなければならぬところである。さて、本件においては、総罷業に突入の危機に際し、一私人たる被告人等が『この総罷業は、産別の指導によるものであるから、同会議の指導者である同会議議長聴濤克己に交渉し罷業中止方を勧告することとし、但し当時の一般情勢より見て聴濤克己に左様な勧告をしても、同人が之に応ずるかどうか疑問であり、又たとえ同人が承諾しても同人独りの力を以てしては今更罷業を中止させることは至難であろうから、若し聴濤が罷業中止の勧告に応じなかつたならば一面同人が指導者として事茲に到らしめた責任に対する制裁として、他面、同人を傷つけることによつて社会的センセイシヨンを捲き起し、総罷業計画団体を動揺させるため同人に対し暴行傷害を加え』るに至つたものである。そもそも暴力は野蛮の遺風であり、暴力沙汰は文化国民として恥ずべきものであることは言うを俟たない。かかる事態においても、かかる暴力の行使は、現代国家生活における法律秩序と社会平和をかき乱す以外の何ものでもないことは、健全な常識に照らし、寸毫も疑念をさしはさむ余地がない。かかる暴力の行使は、やがて暴力の専制的支配を是認する思想に通ずるものであつて、立憲国家においては厳に排斥しなければならぬところのものである。従つて社会通念は、かかる行動を当然として是認し許容するはずがないことは、極めて明白であつて、かかる行為は正当防衛、又は緊急避難として寛恕さるべきものではない」(昭24、(れ)第295号同24、8、18、第1小法廷判決)
[48] この判例によつて窺えるごとく、正当防衛又は緊急避難の場合においては、公益に対する第三者の防衛行為は「情況の急迫性」ないし「手段、方法の必要性」の要件において極めて限局された適用を受くるものとならざるを得ないのである。この事は正当行為の場合においては更に一層厳格に解すべきであり、被害法益の主体に準ずる地位の者もしくは第三者の防衛行為は極めて急迫した事態において真に已むことを得ざる事情の存しない限り許容されないものといわなければならない。然るに公益に対するそれら第三者的立場にある者の防衛行為について法益権衡のみを違法性阻却の要件とする原判決は行為正当化事由に関する刑法の規定の解釈を誤つているものといわなければならない。

[49](四) そこで進んで本件被告人の行為は正当行為として違法性を阻却せらるべきものか否につき検討する。
[50] 先ず本件集会の本質について考察するに本集会が大学自治によつて許容されないものであることは既に縷説した通りである。従つて原判決は柴巡査の本件「会場内に潜入したことは違法の処置には相違ない」旨(207丁裏10行目)判示するけれども本件警察官の立入によつて学問の自由ないし大学の自治は毫も侵害を受けていないのみならず警察官は本件集会の立入に際しては入場券を購入使用し隠密裡に調査していたものであるから、本件警察官の学内立入行為は違法の廉がある訳はなく、現実に被告人によつて防衛せられねばならぬ憲法的秩序の被害法益は存在しないのである。されば被告人の本件行為に対しては正当行為に関する理論を適用する余地は全くないものであるから被告人の行為が正当行為として違法性を阻却せらるべき理由は毫も存しない。
[51] 次で本件被告人の行為について観察するに仮に被告人において本件警察官等の行動の中に大学自治侵害という違法事実を認めたとしても、被告人の行為は侵害排除の手段として極めて不相当のものであり、「情況の急迫性」及び「手段、方法の必要性」の要件を欠如しているものといわなければならない。すなわち、原判決によれば
「被告人は偶々教室たる本件演劇会場内において警察員と思しき柴巡査等が大学当局又は右演劇団体代表者の了解のないまま同会場に潜入している姿を現認したため予ねてから斯ような警察官の学内潜入を阻止排除し併せて将来も斯ような警察活動態度の廃絶を求めるため、まず、同人が果して警察職員なりや否や、もし然りとせばその氏名、担当職務、潜入目的等を一応知つておく目的で、取り敢えず、同会場より退去せんとする右柴巡査に追いつき、その片腕をおさえて退出を止め、その後他の学生が被告人と同様の意図で同室舞台前において同巡査の氏名、職務等を知らんとしたが、同巡査は之を語らず且つ警察手帳の呈示等をもなさないでいるとき、同所に行つた被告人は同手帳の呈示を一層迅速ならしめる考で同巡査着用のオーバーコートの襟を手で引つぱる等の態度に出た」
ことが認められる。然しながら被告人の行為は「警察官の学内潜入を阻止するため」とは云え、柴巡査は忠実にしかも平和裡に職務を執行し、その途中被告人等のただならぬ気配を察知して自発的に右会場を退去していたものであるから、侵害されていた学問の自由ないし大学の自治は既に回復し被告人によつて阻止排除されるべき急迫な法益の侵害行為は実在していなかつたものである。然るにも拘らず被告人はこれを追いかけ、これを捕えて退出を阻止し、被告人のこの退出阻止行為を発端として右巡査を捕えて舞台前に拉致する他の学生と共に同所に行つて警察手帳の呈示を強制する手段として同巡査着用のオーバーコートの襟を手で引つぱる等の行為をなしたのであつてかかる糾問的行為は大学自治防衛のため何等必要なく、同巡査に対するいやがらせ又は報復手段に出でた軽挙妄動以外の何物でもなく、これをもつて法の許容する範囲の行為と目することを得ない。仮に「将来の警察活動の廃絶を求める意図」があつたとしても明らかに法の許容する範囲を越えた行動といわなければならない。何となれば右巡査にして既に退去している以上、敢えて本件行為に出なくても大学当局に連絡し警察当局との間の話合による解決の道を図る等将来の措置を講ずべき平和的手段の余裕は十分にあり、又右巡査が直ちに再び立入つて来るという危険性があるならば看視と説得によつて立入を阻止する方法もあるのであつて本件行為以外の方法による余地が他に全然なかつたと認めるに足る事情も存しないということが窺えるからである。
[52] 然るに拘らず、原判決は
(イ) 被告人の行為の「動機目的は右大学自治保全の念願にあつた」こと
(ロ) 被告人の行為は、柴巡査の「氏名、担当職務、潜入目的等を一応知つておく目的で」行われ、「右会場の管理者等において、適法に要求し得る警察手帳の呈示に関連してなされているにすぎない」こと
(ハ) 「同巡査に加えた現実の損害は僅かに片手をおさえ、着衣の襟を引いた程度に過ぎ」ず「被告人の本件所為によつて齏らされる大学自治保全の法的価値と同所為によつて被つた右警察官の個人的法益の価値を……勘案考量すると前者の著しき優越は自ら明白である」こと
を理由として被告人の行為を正当行為と論断するにつき按ずるに、
[53] (イ)の点については被告人が大学自治保全の念願をもつたとしても、それは被告人が大学自治の侵害があると一方的に誤信し前記行為に出てたものであつて、その様な誤信があつたからとて客観的に違法な被告人の行為が正当化されるものではない。その趣旨は前掲昭和25年10月11日大法廷判決からも十分窺えるところである。
[54] (ロ)の点については、本件警察官の立入は警察官職務執行法第6条4項の適用なき任意行為であり、しかも本件は柴巡査が職務の執行を中止して退場した後の事件であるから、被告人において立入の理由及び警察手帳の呈示を要求する権利はなく、況や警察官の氏名等を尋ね、警察手帳の呈示を強制しそのため身体捜検をなすが如き何等の権限と有しないものであるから柴巡査においてその要求に応じなかつたからといつて、同巡査に何等責むべき違法なく、被告人の行為を正当づける理由は全然ないものといわなければならない。 [55] (ハ)の点については原判決は正当行為ないし実質的違法阻却の1要件としての法益権衡に関する判断において誤を犯しているものといわなければならない。柴巡査の受けた個人法益の侵害は直接、現実に身体に対し加えられた損害であり、これに反し、右侵害によつて排除される大学自治の侵害は既述の如く、全然あり得ないか、或いは仮にこれを認めるとしても教授、研究者の自治より限局された学生の演劇研究という自治活動に関するものであり、その侵害は頗る抽象的且極めて軽微なものたるにとどまるのであつて後者の法益をもつて前者のそれに著しく優越するものとなすことは到底できないのである。而も、被告人の行為として判示の認定するところは軽微なりとは云え、当該行為の軽重は必ずしもその行為のみの孤立的判断によつて決定せらるべきものではなく、当該行為が行われた動機、背景、情況を勧案して具体的に決せらるべきものにして、然るにおいては被告人の行為は他の学生等の右巡査に対する迫害の端緒を作り、同巡査をして2時間余に亘る暴力にさらさしめ、その一環として被告人の判示所為が行われたものであつて被告人の行為は決して軽微なものとは認め難く従つて柴巡査の身体の自由に加えられた侵害も亦決して軽いものと判断さるべきものではないのである。
[56] 一般に憲法上の法益において、それが学問の自由ないし大学自治の法益たると個人の自由に関する法益たるとその間に上下、軽重、優劣の差のあるべきものでないことは既に述べた通りであり、原判決が大学自治保全の法益を柴巡査の個人法益に優越すると判断したことは公益は私益に優先するとの観念を単に形式的機械的に適用したるにとどまり法益の均衡保持を具体的に決定したものとは認められない。
[57] 従つて本件大学自治保全の法益を柴巡査の個人的法益に優越すると判断した原判決は、法益の均衡保持に関する具体的判断を誤つたものであつて著しく失当たるを免れないと思料する。
[58] 近時憲法上の自由擁護に名を借りるものであれば、直接行動によつて問題解決の手段とすることを是認する風潮の存することは寔に憂うべきことである。然しながらかかる直接行動は民主主義の否定であり暴力による革命の正当性を是認する思想に通ずるものであつて明らかに憲法の認容するところではない。立憲国家の下においては暴力の行使はその理由及び程度の如何を問わず厳に排斥されなければならないところである。暴力の根絶は国民全体に課せられた責務であつてかかる行動が許容されるものでないことは社会通念上極めて明白といわなければならない。しかも被告人は当時一学生に過ぎず、大学自治の擁護保全は大学当局の責任と善処によつて解決すべき手段に属するが故に、一意勉学の道にいそしむことこそ学生の本分に属することであり、国家、国民の期待にそう所以である。昭和27年5月16日付文部次官通達の「最近学園において学生と警察官との紛争がしばしばひきおこされているが……学生が学校当局を介さないで直接警察側と交渉することのないよう厳にいましめられたい」との趣旨も要するに、学生がその本分を逸脱して直接行動に出ずることを強く戒しめたものと思料する。されば本件被告人の行為は学生の本分に悖り、教学の精神にも背馳するものであつて、この観点からも社会通念上一般に許容される限度を超えたものとして非難せらるべきものである。
[59] 然るに、専ら法益権衡の理論を根拠となし、被告人も亦、大学自治擁護の立場にあるものとして被告人の所為を正当行為として刑法上違法性を阻却するものとした原判決は正当行為の要件に関する解釈を誤り、正当行為と認められない行為についてこれを適用したる法令の違反があるものにして判決に影響を及ぼすべきことが明白であり、破棄せざれば著しく正義に反する場合に該ると思料する。
[60] 以上の理由により原判決は憲法第23条の解釈に誤りがあり又判決に影響を及ぼすべき法令の違反あるものにして破棄せざれば著しく正義に反すると認められるをもつて、到底破棄を免れないものと思料し、刑事訴訟法第405条第1号により並びに第411条第1号による職権の発動を求むるため上告を申立てた次第である。

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