『四畳半襖の下張』事件
第一審判決

わいせつ文書販売事件
東京地方裁判所 昭和48年(刑わ)第703号
昭和51年4月27日 刑事第20部 判決

被告人 佐藤嘉尚 会社役員
    野坂昭如 著述業

■ 主 文
■ 理 由


 被告人佐藤嘉尚を罰金15万円に、同野坂昭如を罰金10万円にそれぞれ処する。
 被告人両名においてその罰金を完納することができないときは、金2,000円を1日に換算した期間、その被告人を労役場に留置する。
 訴訟費用は、全部被告人両名の連帯負担とする。

[1] 被告人佐藤嘉尚は、昭和42年2月、東京都新宿区新宿3丁目所在の出版社「大光社」に入社し、編集の業務に従事していたが、昭和46年7月、同社を退社して、同年8月18日、同都品川区平塚3丁目15番1号石井マンシヨン401号において、雑誌および書籍の出版ならびに販売等を営業目的とする株式会社面白半分を設立し、その代表取締役となり、月刊雑誌「面白半分」を昭和47年1月号から発行、販売しているものであり、被告人野坂昭如は、昭和38年ころから小説家として文筆活動をしているものである。
[2] 被告人佐藤嘉尚は、右雑誌の出版にあたり、内容の充実を期し新機軸を図るため、現役の小説家に6か月交替で編集長を委嘱することを方針としていたが、その方針にもとづき、昭和46年11月ころ、前記大光社時代に勤務していた当時知り合つた被告人野坂昭如を訪ね、同被告人に昭和47年7月号から同年12月号までの右雑誌の編集長を依頼したところ、被告人野坂昭如は、かねてから、個性があり、かつ、自分の好みが出る雑誌を編集してみたいという希望を有していたので、これを承諾した。被告人野坂昭如の編集権限は、被告人佐藤嘉尚からその提案にかかる企画について相談を受けて取捨選択をし、また、自らも企画案を提示し、被告人佐藤嘉尚は、これに従うというものであつた。
[3] 被告人佐藤嘉尚は、昭和47年4月初めころから、雑誌「面白半分」7月号の企画の検討を始め、被告人野坂昭如と、その編集について話し合いを重ねていたが、同年5月初めころ、被告人野坂昭如方において、被告人佐藤嘉尚がかつて学生時代に読んだことのある金阜山人戯作「四畳半襖の下張」を掲載することを提案したところ、被告人野坂昭如もその内容を了知していて、右提案に賛成した。そこで、被告人両名は、被告人佐藤嘉尚が知人から借り受けコピーしていた同書の全文を雑誌「面白半分」昭和47年7月号に掲載して発行、販売することに決定し、被告人佐藤嘉尚は、右決定にもとづいて、準備をすすめ、昭和47年5月中旬同都新宿区市谷加賀町1丁目所在の大日本印刷株式会社に発注して、右「面白半分」7月号3万部の印刷、製本を完了した。
[4] 前記金阜山人戯作「四畳半襖の下張」は、男女の性交の場面等を行為者の姿態、会話、発声、感覚等をまじえ露骨かつ詳細に描写した記述を含むわいせつの文章であるが、被告人両名は、共謀のうえ、別表記載のとおり、昭和47年6月2日ころから同月5日ころまでの間、11回にわたり、東京出版販売株式会社ほか5社および朝倉由利ほか4名に対して、右「四畳半襖の下張」と題する文章を掲載した雑誌「面白半分」昭和47年7月号合計2万8,457冊を、代金合計288万276円で売り渡し、もつてわいせつの文書を販売したものである。
[5] 被告人両名の判示所為は、いずれも包括して、行為時においては刑法60条、175条前段、昭和47年法律第61号による改正前の罰金等臨時措置法3条1項1号に、裁判時においては刑法60条、175条前段、昭和47年法律第61号による改正後の罰金等臨時措置法3条1項1号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから、刑法6条、10条により軽い行為時法の刑によることとし、被告人両名につき所定刑中罰金刑をいずれも選択したうえ、その所定金額の範囲内で、被告人佐藤嘉尚を罰金15万円に、被告人野坂昭如を罰金10万円にそれぞれ処し、被告人両名においてその罰金を完納することができないときは、同法18条により金2,000円を1日に換算した期間その被告人を労役場に留置し、訴訟費用は、刑事訴訟法181条1項本文、182条により被告人両名に連帯して負担させることとする。
[6] 弁護人は、わいせつ文書等の頒布、販売の処罰を規定した刑法175条が日本国憲法(以下「憲法」と略称する。)21条および31条に違反して無効である旨主張するほか、刑法175条の解釈・適用について縷々主張しているので、まずこれらの点につき判断を加えながら、当裁判所の見解を示すこととする。

1 刑法175条と憲法21条および31条との関係について
[7](一) 刑法175条は、性的刺戟を伴う記事を取り扱つた文書(以下「性的文書」という。)等のうち、わいせつとみなされるものの頒布、販売を禁止し、これを処罰しようとする規定であるから、憲法21条が国民に保障する言論、出版その他一切の表現の自由に一定の制限を加えようとするものであることは、明らかである。しかし、表現の自由といえども、人間が集団的な共同生活である社会生活を営むなかにおいて認められ、社会的性格をもつ以上、絶対無制限のものではなく、他人の権利や自由を不当に侵害したり、社会全体の利益を害してはならないという制約に服するものであつて、その濫用は禁止され、公共の福祉に反することは許されないのである(最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決・刑集11巻3号997頁、同44年10月15日大法廷判決・刑集23巻10号1239頁等参照)から、わいせつ文書等の頒布、販売が公共の福祉に反し、憲法上の保護をうけるに値しないものであるかどうかを検討する必要がある。
[8](二) ところで、性欲は生物たる人間の備えている本能であり、人間は心身の成熟するにしたがつて性に関する欲求と関心を強めるが、性欲の発現形態である性行為は、種族保存の作用を有し、家族および人類存続の基礎をなしている。人間の社会において、男女はその愛情と性的結合によつて夫婦という生活単位を形成し、この生活単位は社会の新しい構成員を創生し、育成することによつて、社会の永続と発展を支える柱となつている。そのため、どこの文明社会においても、夫婦および家族に関する生活関係は制度として保護され、わが国においてもまた、夫婦の社会的意義を認め、その維持と擁護が図られている(憲法24条)。人間の性生活は、夫婦という公認された結合が存在するように人間連帯の絆をなし、日常生活において欠くべからざるものとして、人間社会の最も基本に位置し、その存立にかかわる重要な営みであるといいうるのである。
[9] 一方、性欲は快感を与え快楽を伴うことを本質としてもつていることから、人々はこれに耽溺し易く、その本能の赴くままに放任するときは、人々の性交渉は、奔放、放恣に陥り、無節制、無制約に行われる傾向をもつている。そのため、人間の理性は本能の発現である性行為が一定の社会的秩序(性秩序)のもとに行われることを要求する。そもそも、人間は本能にもとづく生活以上に理性にもとづく生活を希求するものであり、性生活の面においても、それが社会生活において行われる以上、本能に支配されて放縦に堕することを防ぎ、一定の秩序のもとに営まれることが人間相互の幸福を守り、ひいては人間社会の存続、発展をもたらすものであると考えるに至り、このような性秩序を維持するために、性欲ないしこれにもとづく性行為を自制し、調節し、あるいは醇化するものとして、性道徳ないし性風俗が形成されてきたといいうる。この性道徳ないし性風俗の内容は、時と所によつて相異、変遷があつたにもせよ、少なくとも、人間が他の動物にみられない羞恥感情を有することに由来する性行為非公然性の原則がその根幹をなしてきたことは否定できないと思われる。
[10] この原則は、性器を公然と露出したり、性交やこれに関連する性戯(以下これらを含めて「性的行為」という。)を公然と実行したりしないことを基本的な内容とするが、それはこれを公然と行えば、見る者をしてその性的本能に訴えて過度に性欲を刺戟、興奮させ、理性による抑性を困難にするとともに、性的羞恥心を失わしめて、ついには性秩序を無視するような振舞を誘発する危険を内在しているからである。この趣旨からすると、文書・絵画・写真等においても、現実に性器が露出されたり、性的行為が行われているのを見るのに比せられるほどの露骨かつ詳細な性器または性的行為の描写のあるものを公表することは、これらを読む者、見る者をして、その性的欲求に迎合して性欲を刺戟、興奮させ、理性による性欲の抑制を困難にし、性的羞恥心を失わしめる点において、性器を公然と露出したり、性的行為を公然と行つたのと変るところはないのである。文書等による表現はそれが現実の行為そのものではなく模倣であるにしても、その表現の仕方によつては、現実に性器の露出ないし性的行為が公然と行なわれたと同様あるいはそれ以上の心理的影響を見聞する者に与えることがあり、また、その性質上現実の行為によるものよりも広範囲に認識されうるものであることにかんがみれば、このような文書等を公表することもまた禁止されるべきで、右原則はこのことをも包含するのである。
[11] そして、この原則が性道徳の内容として、広く人々の間で是認され、尊重された結果、社会一般にこれを善良の風俗として守るべきであるとする性的道義観念を生み出してきたと同時に、逆に、このような環境のもとで生育し、生活するなかで、培われ育成された性的羞恥心や性的道義観念によつて、この原則は支えられ、性秩序が維持されてきたと考えられるのである。そのため、もし、性器の公然露出や性的行為の公然たる実行が社会に横行し、または、それと同程度に性器または性的行為を露骨かつ詳細に描写した文書等が社会に蔓延するなど、この性風俗が無視されることが多くなれば、人々はそれらのものに接することにより過度に性欲を刺戟、興奮させられて、次第にその性的羞恥心を失い、性的道義観念が麻痺して性道徳は遵守されないようになり、その結果、人々は性欲を抑制、調節する歯止めをなくし、理性よりも本能に支配されて行動するようになつて性秩序が混乱することは必至であると思われる。性道徳の乱れと風紀の弛みは、社会の衰退に密接な影響をもつのである。そして、さきに述べたような性生活が人間社会においてもつ重要性を考慮すれば、そのことが社会全体の利益を侵害するものであることは、疑いをいれないところである。
[12] そうだとすると、性行為非公然性の原則を維持して、性風俗を健全に保ち性道徳を守ることは、畢竟、性を尊重し、社会全体の幸福に合致するものであるということができよう。性的文書等といえども、現実に性器または性的行為を見るのと同じほどに露骨かつ詳細に性器または性的行為の記述、描写されたものを頒布、販売して社会に公表することは、善良な性道徳、性風俗を害し、性秩序を乱し、ひいては、社会全体の利益を損うのであつて、公共の福祉に反するものであることは明らかである。憲法21条が保障する表現の自由も、性的文書について、右の限度においてその行使が制限されるのもやむをえないのであつて、このことはすでに最高裁判所の判例(前記昭和32年3月13日大法廷判決等参照)の趣旨とするところであり、当裁判所もこれを正当とするものである。
[13](三) 弁護人は、道徳や風俗は法によつて強制されるべきではなく、また、憲法上表現の自由の制限が許されるのは、その表現による侵害が明白にして現在の危険のある場合に限られる旨主張する。
[14] たしかに、法はすべての道徳や風俗を維持することを責務とするものではない。道徳や風俗の保持は、本来教育・宗教その他の社会的良識に俟つべきであつて、これらに法が規制を及ぼすことにはできる限り謙抑であることが望ましいことはいうまでもない。しかしながら、道徳や風俗のなかでも、社会の存続発展や秩序維持に関し重要な意義をもつもので、しかも、人間の道義観念等に期待するだけでは、往々にして遵守され難いものについては、最少限度法によつて強制することが社会全体の利益のために必要であるといわねばならない。これを性の面に関する社会生活においてみれば、性行為非公然性の原則を内容とする性道徳、性風俗がまさにこのような道徳、風俗であることは、今まで述べてきたところにより明らかであろう。それゆえ、この必要最少限度の性道徳、性風俗を維持することは、法に委ねられた任務であるということができる。
[15] もとより、刑法175条は公開された性的文書等において、性に関する思想が述べられている場合に、その思想そのものを問題とし、また、現在の性道徳、性風俗に対する批判、論議等が記されている場合に、それが反道徳的、反風俗的であるということを理由として、これらをすべて禁遏しようとするのではなく、ただ、その表現の仕方において、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写がなされている場合に、その面からの性道徳、性風俗に対する侵害を許容しないとするにすぎないことに留意する要がある。
[16] また、表現の自由を制限する基準として、いわゆる「明白にして現在の危険」の法理を適用すべき場面のあることは、最高裁判所昭和29年11月24日大法廷判決(刑集8巻11号1866頁)も言及するところである。しかし、わいせつ文書等の頒布、販売を規制するのは、それらの文書等が不特定、多数者間に公然と頒布、販売されること自体において、一般に守られている性行為非公然性の原則を犯し、社会的法益である性道徳、性風俗ないし性秩序に対して侵害を及ぼすからであつて、その結果として現実に弊害の発生したことやその具体的危険のあつたことを問うものではないのである。したがつて、わいせつ文書等の頒布、販売の禁止を、性犯罪を招来したり、社会の存立を危うくする行為を惹起するような明白にして現在の危険のある場合に限るべきであるとする見解は、採用することができない。
[17] 弁護人の主張は、要するに、最少限度の性道徳や性風俗を社会的な法益として保護する意義および必要性を過少に評価するものであつて、賛成することはできない。
[18](四) 上述したように、わいせつ文書等の頒布、販売を禁止することは、それ自体憲法21条に違反するものではないが、表現の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要な権利であつて、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする(憲法13条)ものであるから、これを制限する場合にも、必要な限度を超えることのないよう、その法解釈および適用に際し格別の配慮がなされなければならない。それは、このようなわいせつ文書等の頒布、販売を法により規制する場合についても、当然要求されるのである。加えて、性に関する事象は、前述のように、生物的にも社会的にも人間の根源的、基本的な営みのひとつであり、人間と性との関係は深刻かつ微妙な関係にあるから、自然科学、社会科学、芸術、哲学等において、人間ないし人間の社会生活一般につき思索し、研究し、記述等するうえで性は重要なテーマとなりうべきものである。したがつて、これに関する表現の自由は、最大限に保障されることが肝要であり、この保障と性道徳および性風俗の保護との間には正しい調和が保たれるように慎重な配慮を加えることが要請される(調和の要請)。
[19] また、わいせつ文書等の頒布、販売を禁止する法規にも、刑罰法規一般の場合と同じように犯罪構成要件の明確性が要求される。元来、法律の規定は、その性質上抽象性を有することが避けられず、そのためいきおい解釈を必要とするが、少なくとも、一方において、裁判規範として刑罰権の恣意的な発動を避止するとともに、他方において、行為規範として国民に禁止される行為と禁止されない行為との識別を可能ならしめるものでなければならない。このことは、憲法31条の規定する罪刑法定主義の要請するところであるとともに、構成要件の不明確性のゆえに国民が本来表現の自由に属する行為さえも抑止するような事態がおこることは、国民一般の表現の自由に対する重大な侵害であるから、その意味で、憲法21条の要請するところでもある(明確性の要請)。
[20] それゆえ、わいせつ文書等の頒布、販売を禁止しようとする法規は、右に述べたような2つの要請を充足するものでなければならず、刑法175条を解釈、適用するにあたつても、とくにこのことを念頭において行う必要がある。

2 刑法175条の解釈、適用について
[21] 刑法175条は前記のように調和および明確性の要請を充たすように解釈、適用されなければならないのであるが、それは、同条の構成要件の解釈の点だけではなく、違法性および有責性の点をも含めた全体的な理解のうえでなされるべきものであると考える。そこで、以下において、当裁判所の同条の解釈、適用に関する見解を述べることとするが、本件では、わいせつ文書の販売の成否が問題となつているから、もつぱらわいせつ文書販売罪に重点を置いて論ずることとする。
[22](一) まず、刑法175条の規定する「わいせつの文書」の意義について検討する。
[23] 同条に規定される「わいせつ」というのは、いわゆる記述的構成要件要素ではなく、規範的構成要件要素と称せられるものである。それがどのような意味内容をもつているかは、規定自体からは必ずしも画一的に明瞭にはなつていない。そのために、まずこの言葉の意味内容を確定しなければならない。ところで、わいせつ文書販売罪は、前述したように、性行為非公然性の原則を文書の上でも維持しようとするものであるから、わいせつ文書というためには、現実に性器または性的行為を見るのと同じほどに性欲を刺戟または興奮させるような露骨かつ詳細な性器または性的行為の描写のあることが必要である。そして、そのような文書は、同時に、人々の性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するものであることは、今まで述べてきたところより明らかであるから、同条に規定する「わいせつ」とは、要するに、「いたずらに(過度に)性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること」を意味することになる。これは、これまでの判例の見解と一致するものである。この見解は、従来の大審院および最高裁判所の判例を経て、「チヤタレー」事件および「悪徳の栄え」事件に関する最高裁判所大法廷判決により一層明確にされ、確認されて、今ではわが国裁判所の確定した判例理論となつているといつてよい(前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決同44年10月15日大法廷判決等参照)。
[24] 弁護人は、「わいせつ」の概念のなかにアメリカの連邦最高裁判所の判例で示されたように「埋め合わせできるような社会的価値を全く欠くこと」を要件とすべきであるといい、また、社会的価値のある文書については、その制作、販売、宣伝等の諸事情を考慮してわいせつかどうかを判断すべきである旨主張する。右主張には、当裁判所がさきに示した調和の要請に関するひとつの提案として傾聴すべきものを含んでいる。いうまでもなく、芸術、思想、学問等は、文化の向上、発展、社会の進歩のために不可欠のものである。しかし、文書がわいせつであるかどうかということと、芸術、思想、学問等の社会的価値があるかどうかということとは、別異の次元に属する問題であつて、右のような社会的価値のある文書であつても、道徳的、法的観点からみてわいせつ性を有するものと評価することは、なんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書の具備する芸術性、思想性、学術性等がその文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少、緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下にわいせつ性を解消させる場合のあることが考えられるが、右の程度以下にわいせつ性が解消されない限り、芸術、思想、学問等の社会的価値のある文書であつても、わいせつの文書としての取り扱いを免れることはできない。このことは、すでに最高裁判所大法廷判決(前記昭和32年3月13日判決同44年10月15日判決)の判示するところであり、当裁判所もこれを正当として是認するものである。また、文書のわいせつ性の有無は、その文書自体について客観的に判断されるべきであり、現実の購読層の状況あるいは著者や出版者の主観的意図等当該文書外に存する事実関係は、文書のわいせつ性の判断の基準外に置かれるべきものと解することは、前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決の趣旨とするところであり、同裁判所昭和48年4月12日第一小法廷判決(刑集27巻3号351頁)の明言するところである。当裁判所もまた、「わいせつの文書」の概念の構成要件的解釈としては、これらの判例を妥当なものと考えるから、所論のように製作、販売、宣伝等の諸事情を考慮してわいせつの文書であるかどうかを判定すべきものではないと思料する。
[25](二) 前述したように、文書がわいせつ性を有するかどうかは、文書のもつ芸術性、思想性、学術制等の評価とは、直接かかわりのないものである。しかしながら、わいせつ性を有する一方、他方において芸術、思想、学問等の社会的価値を備える文書の存在することは、否めない事実である。これらの文書について右のような社会的価値を有しながら、それによつてわいせつ性が昇華されるものでない限り、どのような目的、方法、状況のもとで公開されたかを問うことなく、わいせつ性を有することのみを理由としてその販売を一律に禁止することは、表現の自由の保障と性道徳および性風俗の保護との間の調和の要請に正しく答えようとする態度ではないと思われる。もとより、芸術、思想、学問等の価値の存否、程度それ自体は、裁判所の判断に親しむものではない。しかし、ある文書がそのような価値があるものとして社会的に評価されているかどうかは、裁判所において判断の可能な問題である。そして、右のように社会的に評価されているものは、換言すれば、社会的に有用なものであるということができるから、このような文書については、わいせつ性を有するものであつても、場合によつては、その販売の禁止を解除する余地を認めることが必要であると考える。
[26] ところで、ある行為が犯罪の構成要件に一応該当し、形式的には行為の違法を窺わせる場合であつても、それが社会共同生活において認められた正しい目的を達成するためのものであり(目的の正当性)、しかも、その行為が右目的達成のための手段、方法として相当のものであるときには(手段、方法の相当性)、その行為により齎らされる利益と行為の結果侵害される利益とを比較衡量したうえで(法益の権衡)、その行為を全体としてみて法秩序の是認する範囲内にあるということができるならば、刑法35条の正当な行為に該当し、罪とならないと解される。この法理は、刑法175条の場合についても当然妥当しうべきものであり、これを例外とする理由はないといえよう。
[27] そこで右の法理をわいせつ文書販売罪について適用すると、まず第一に、当該文書の販売がその文書の有する社会的有用性の利用と実現に資するという真摯な目的をもつものでなければならない(このことは、もとより、右の目的に名を借りて、もつぱら性を享楽の具に利用し、人々の性欲を刺戟、興奮させることを企図したり、人々の性的好奇心や興味につけこんで利を図ることを許すものではない。)。第二に、その販売は、印刷・製本の体裁、広告・宣伝の方法、紹介・解説の内容、購読層等にも十分留意して、右の目的が正しく達成されるような配慮のもとで行われることが必要である。第三に、文書が現実に販売されたことにより、社会が芸術、思想、学問等の面で享受した利益とわいせつ性のため侵害された法益との比較衡量をしたうえで、その行為を全体として考察し法秩序の是認する範囲内にあるということができなければならない。この3要件を充足するとき、その文書の販売は正当な行為に該当し、わいせつ文書販売罪は成立しないというべきである。
[28] 前記最高裁判所昭和44年10月15日大法廷判決は、
「芸術的、思想的価値のある文書はわいせつの文書として処罰の対象にすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつわいせつ性によつて侵害される法益と芸術的、思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、わいせつ罪の成否を決すべしとするような主張は採用することができない。」
と判示しているけれども、当裁判所の見解は、芸術的、思想的価値のある文書をわいせつ文書に当らないとするものではなく、また、名誉毀損罪に関する法理を類推適用したものでもない。ただ、刑法35条の法理によつて、芸術、思想、学問等の価値を有していると社会的に評価されている文書について、その販売の余地を認めようとするものであり、右判決はこの点につきなんら判断を示していないと解されるから、右判例に抵触するものではないと思料する。要するに、当裁判所は、芸術、思想、学問その他の面で社会的に価値があると評価されていながら、同時にわいせつ性をも有している文書について、右の範囲内において、販売を許容することが、さきに述べた調和の要請を充足させるものであると思惟するのである。
[29](三) 次に弁護人は、刑法175条にいう「わいせつ」の概念は明確を欠き曖昧である旨主張するが、同条の「わいせつ」の概念自体はさきに示したとおりに理解すべきものであつて、不明確であるということはできない(最高裁判所昭和46年12月23日第一小法廷判決、同裁判所裁判集刑事182号521頁参照)。もつとも右定義のうち、「いたずらに」、「正常な性的羞恥心」、「善良な性的道義観念」等の文言は、なお抽象的ではあるが、「わいせつ」の概念のようにその内包が社会通念の変化に伴い流動を免れないものにあつては、ある程度抽象化するのはやむをえないところである。また、ある刑罰法規が憲法31条により要求される行為規範としての明確性を充足するには、通常の判断能力を有する一般人の理解において、その適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれる程度のものであればよいのである(最高裁判所昭和50年9月10日大法廷判決、裁判所時報674号1頁参照)。そして、当該文書のわいせつ性判断の基準としては、一般社会において行われている良識すなわち社会通念にしたがつて客観的になされるべきものである(前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決等参照)と解するときは、通常の判断能力を有する一般人にとつて、普通、ある文書がわいせつであるかどうかを識別することは可能であるということができる。したがつて、憲法31条に違反して無効であるというほど、「わいせつ」の概念が曖昧、不明確であるとすることはできない。さらに、裁判所は前記のように社会通念にしたがつて客観的に当該文書がわいせつであるかどうかを判断すべきものであつて、恣意的な判断は許されないのであるから、刑法175条が裁判規範として有すべき明確性をも有しており、この点においても憲法31条に抵触するものでないことはいうまでもない。
[30] そして、このわいせつ性の有無についての判断は、裁判所の法律判断であつて、弁護人の主張するような事実認定の問題でないことは、前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決の判示するとおりである。裁判所が具体的文書について行うわいせつ性の判断は、その文書の販売行為に対し、検察官の公訴提起があつてはじめてなされるのであるが、裁判所の判断は前述のように社会通念にしたがつてなされるものであるから、個々の行為者がある文書の販売に際してなしたわいせつ性についての判断と多くの場合は、合致するものであるといえよう。しかし、時には行為者の判断が裁判所の判断と異なる場合もありうると考えられる。このような場合、行為者において当該文書に問題となる内容の記載があることおよびこれを販売することの認識があれば足り、行為者のわいせつ性に関する評価の錯誤は、法律の錯誤としてわいせつ文書販売罪の故意を阻却するものではないと解されているのが判例である(前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決参照)が、右の判例といえども、行為者がわいせつ性を具備しないものと信ずるにつき、いかに相当な理由があると認められる場合でも、故意を阻却しないとして処罰する趣旨であるとは解し難い(東京高等裁判所昭和44年9月17日判決、高集22巻4号595頁参照)。けだし、このような場合でも故意が阻却されないと解するときは、国民の間に、本来表現の自由に属する文書の販売にさえ慎重になり、これを差し控えるような事態が起りかねず、それが表現の自由に対する重大な侵害となることは、さきに述べたとおりであるからである。それとともに、構成要件が規範的なものであるため、ある程度抽象的な基準を設けざるをえないとしても、そのことからくる不利益をひとり行為者にのみ負担させることになれば、憲法31条の精神からみても妥当でないといわなければならない。それゆえ、行為者がわいせつでないと信じたことについて相当な理由があると認められる場合には、わいせつ文書販売罪の故意は阻却されると解すべきである。当裁判所は、このように解することによつて、具体的な適用の段階においても、明確性の要請が充たされるものと考える。
[31](四) 刑法175条のわいせつ文書販売罪は、以上のように合憲的に解釈、適用すべきものであるから、刑法175条が憲法21条および31条に違反し無効である旨の弁護人の主張は採用することができず、また、刑法175条の解釈についての弁護人の主張にも賛成することができない。
[32] なお、弁護人は、検察官が本件訴訟においてその起訴にかかる文書のわいせつ性の存在について証人の取調請求をする等の十分な立証を尽しておらず、このような検察官の訴追態度は違法であるから、刑事訴訟法338条4号により公訴を棄却すべきである旨主張する。所論のように検察官が本件文書以外にわいせつ性存在のための立証をしなかつたことは、好ましいとはいえないが、わいせつ性の判断は裁判所が文書自体について行う法律的評価であるから、この点につき、検察官がわいせつ性判断の対象となる当該文書の証拠調を請求し、これが取り調べられていれば、他に格別の立証をしなかつたとしても、これをもつて直ちに違法であるということはできない。弁護人の右主張は採用しえない。

[33] 当裁判所の前述のような基本的な見解にしたがい、以下弁護人の主張に対する判断を含めながら、被告人らが「四畳半襖の下張」を「面白半分」昭和47年7月号に掲載して販売した行為について、わいせつ文書販売罪が成立するかどうかを検討することとする。

1 構成要件該当性、主として「四畳半襖の下張」のわいせつ性について
[34] 弁護人は、「四畳半襖の下張」は普通人を現在の義務教育終了ないしは高等学校卒業程度の国語力を有する人と仮定すれば、普通人には読解が不可能であるから、読むことのできない物にわいせつ性は存在しないし、また、かりに普通人に読解が可能であるとしても、性に関する社会通念の著しい変遷によりもはやこの程度のものはわいせつとはいえない旨主張し、被告人らも同旨の供述をしている。
[35](一) なるほど、「四畳半襖の下張」はいわゆる擬古文風の文語体で書かれ、すでに古語ないし死語となつている言葉が多く使用されているため、これを読み、かつ、その内容を十分に理解するには、ある程度の知識や教養あるいは社会経験が必要であろうと思われる。しかしながら、ある文書が何人にとつても読解することが不可能であるものならば格別、どの範囲の人にとつて当該文書の読解が可能であるか否かということは、社会的な法益を保護するわいせつ文書販売罪の予定している公然性をその文書が有しているかどうかという問題にかかわるだけである。つまり、ある文書がわいせつであるとしても、それを読解することの可能な者が極く限られているならば、その文書の販売をわいせつ文書販売罪として取り上げるだけの社会的意味を有せず、処罰の必要がない(刑法理論的には、わいせつ文書販売罪の予定する程度の法益侵害がなく、可罰的違法性を欠く。)のである。これに反し、読解の可能な者が、国民全体からみれば比較的少なくても、これが性道徳、性風俗の保護の観点から無視できない程度の数に及べば、わいせつ文書販売罪の成立を妨げる理由とはならない。要は、わが国内に存在する「四畳半襖の下張」の読解可能な者が右の程度の数に及ぶかどうかが重要なのである。ただ、この場合文書の読解が可能であることは、これを読む者をして性欲を興奮または刺戟させ、その正常な性的羞恥心を害するか否かが問題となるのであるから、使用されている用語を逐語的に読み、かつ、解釈することができ、その内容全部を正確に把握できることまで要求されるものではなく、まして、文書の有する文学的ないし芸術的な価値等を読みとることまで要請されるものでもない。かりに文書のなかに読み方や意味の不明な語句があつても、個々の章句は、全体としての文書の一部として意義をもつのであるから、前後の関係、つながりからこれを推測することができ、また、全体的な筋の運び、情景等を理解するうえに妨げとならないで、文書のもつ内容や情感をほぼ読みとれることができれば足りると解すべきである。
[36] 人の知識、教養は、単に義務教育において受ける学識だけではなく、それを基礎とし、それと相俟つて、家庭や社会等において諸々の人生経験や社会体験等を経ることによつて、深められるものである。「四畳半襖の下張」には、たしかに難解な言葉が含まれるとはいえ、現代において使用されている用字や用語も少なくなく、読みにくい漢字のなかには振り仮名の付けられているものもあり、性器および性的行為を表わす用語も前後の関係から大体その意味を了解することができる。同書は大正年代に記された小説であり、文語体で叙述されているものの、あながち現代文と全くかけ離れて理解し難いものとは認められず、わが国の教育の普及程度等に照らし、これを読解することの可能な者が無視できない程度に多数存在することは肯認されるところである。のみならず、右「四畳半襖の下張」は、一般人を対象に広く販売に供されていた通常の総合雑誌に登載されており、被告人らにおいても同誌の読者がこれを閲読できることを前提として掲載、販売したものと推認されるのであって、公然性が否定されるほどその数が少なく特定しているとは考えられない(第10回公判調書中の証人榊原美文の供述部分によれば、同証人は本件「四畳半襖の下張」の文章について行つたテスト結果を披露しており、参考に値するものではあるが、そのテストは、主として右の文章中の特定の用語や一部の文節を抽出してその読み方や意味を解答させるというもので、その対象者の数、範囲、用語等の選択、テストの方法等について全く問題点がないとはいえず、右テスト結果をもつて直ちに前記認定を左右するに足りる証拠とすることはできない。)。
[37] なお、最高裁判所昭和45年4月7日第三小法廷判決(刑集24巻4号105頁)は、英文書籍のわいせつ性はその読者たりうる英語の読める、日本人および在日外国人の普通人、平均人を基準として判断すべきである旨判示しているが、右判決の趣旨とするところは、英文書籍のように読者層がとりわけ限定され、これによりその読者たりうる者の受ける性的刺戟、興奮や性的羞恥心の程度が一般社会人を基準としては判断しえないような特別の事情のある場合には、このような読者たりうる者の普通人、平均人を基準としてわいせつ性を判断すべきであるというのである。ところで、本件証拠によれば、前記「四畳半襖の下張」は、いわば知的大衆娯楽風俗雑誌とも評価されている月刊総合雑誌「面白半分」の昭和47年7月号に掲載され、取次会社を通じての小売店における店頭販売、一般客や定期購読者に対する直接販売という通常の方法により廉価(定価150円)で広く社会一般に向けて多数販売されていることが認められるのであつて、その読者たりうるには、前述のようにある程度の知識、教養あるいは社会経験が必要とされるとはいうものの、英文書籍の場合ほど読者層が限定されるものではなく、その読者たりうる者の受ける性的刺戟、興奮や性的羞恥心の程度が一般社会人のそれと異なると思われる特別の事情も見当らない。それゆえ、本件については、いまだ前記わいせつ性判断の基準の設定に影響を及ぼすほど読者層あるいは読書環境の限定があつたとはいえないから、一般社会における良識すなわち社会通念にしたがつてわいせつ性の存否を判断することとする。
[38](二) 検察事務官認証の判決書謄本によると、本件「四畳半襖の下張」と同一のものがかつて昭和25年8月26日東京地方裁判所においてわいせつの文書と判断されたことが認められる。このことは、それ自体尊重されるべきことであつて、等閑視することはできない。しかし、社会通念は決して固定、不動のものではなく、同一の社会においても時代の推移とともに変遷することの免れないものであるから、20数年前になされた右の判断がそのまま今日の社会においても通用するとはいえないので、現代における社会通念にしたがつても、なおわいせつ性を具備するかどうかを考察する必要があると解する。
[39] ところで、現代のわが国においては、性に対する社会一般の意識が進み、性に対することさらな羞恥感や必要以上の秘密性が薄れ、女子の服装や男女の交際関係等においてみられるように、かつては受け入れなかつたような表現を容認する素地が形成されていることは、所論のとおりである。とくに、ここ数年来、新聞、雑誌、映画、テレビ等のいわゆるマスコミにおいて、性的な表現を大胆、卒直にとりあげるものが少なくなく、社会一般の人々がこれに接する機会の増大したことが要因をなしていることも事実である。そして、盲目的、無批判的な性的行為の秘密性の厳守から意識的、批判的な性表現の自由、解放に向かつて進んでいく傾向にあることは否定しえず、それが単に人々の性的興味や関心を狙い、また、営利を事とした安易な商業主義によるものではなく、性についての正しい理解を与える性教育等と相俟つて、人間の幸福な生活に資することを目的とする限り、望ましいことといえる。しかし、これにも超ゆべからざる限度があるものといわねばならない。今日、わが国の社会において、いかに女子の服装が開放的になり、男女の交際が自由になつたといつても、そこには一定の限度が存し、また、いわゆるマスコミにおいても、一部のものは論外として、大部分のものについては性的表現に自ら一線が画されているのであつて、性器や性的行為の人前での表顕はもとより、性器を露骨に描写したり、性的行為の情景が公然と行われるのを見るに等しいような表現は、避けられているのが実状である。今日の社会一般の人々がそのような性的表現をなんら異とすることなく、これをあるべき姿として是認し受容するほどにその意識が変遷しているとみることはできず、こうした性的表現に接するときは、これにより過度の性的刺戟、興奮を覚え、性的羞恥心を感ずるのが通常であろうと思われる。性生活は現代においてもいわゆる閨中の秘事であり、性の自由と放縦とは明確に区別されているのである。「ポルノ解禁」という言葉が世上口にされている昨今であるが、立法論としてはともかく、歴史、伝統、社会事情等を異にする北欧やアメリカ等一部の国の性に関する風俗、慣習、法制度の現状を、いま直ちにわが国社会に取り入れ、これをそのままわが刑法の解釈に採用することは相当でないと考えられる。
[40] そこで、本件「四畳半襖の下張」について検討する。同文章は、雑誌「面白半分」昭和47年7月号の28頁から36頁までにわたつて掲載された短編小説であるが、元待合の売り家を買い求めた金阜山人という人がその手入れをするうち、四畳半の襖の下張りに何やら書きしるされている紙片を発見し、これを水刷毛で一枚一枚剥がしながら読み始めたことから筆を起し、その内容について叙述しているものである。同小説の全体の約3分の2にわたつて、ある男がいまはその女房となつている女性が芸者に出ていたころ同女と馴初めになつたときの交情を回顧し、種々体位を変えながら性交を続けていく有様や性交に関連した性戯の情景をその姿態、性器の模様、行為者の会話、音声、感情、感覚の表現等をまじえながら露骨、詳細かつ具体的に描写されている。それは、これを読む者をして、あたかも眼前にこれらの行為が展開されているのを彷彿させ、これを目にするのと同様なほど扇情的な雰囲気を醸し出し、性的好奇心を挑発させるものであるといえる。このような内容をもつ本件「四畳半襖の下張」は現代の健全な道徳感情をもつた普通人を標準として観察するときは、いたずらに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反することは明らかであるといわなければならない。
[41] もつとも、文書については、性的行為についての記述、描写のなされている部分のみを取り出して、そのわいせつ性の有無を判断することは相当でなく、文書としての性質上、当該部分を文書全体との関連において、換言すれば、作品全体を通読しようとする正常な読書態度を基準としてこれを判断すべきものであり、この見地に立つて、本件「四畳半襖の下張」中、さきに指摘した情交場面の描写部分を作品全体との関連において総合的に検討してみても、右の結論に変更を加える余地を見出すことはできない。さらに、この作品が戯作として特殊な文体で書かれているほか、文章に独特のリズム感があつて、登場人物の心理や感情の動きをたくみにとらえ、流麗な筆致で表現されており、そのなかに著者の教養の広さを窺わせ、その文学的才能の豊かさを推知されるものがあるけれども、これらの点を十分考慮に入れても、わいせつ文書販売罪の予定する程度以下にまで、わいせつ性を減少、緩和させているとは認められない。今日の社会通念にしたがつても、なお、本件文書のわいせつ性は優に肯定することができる。
[42] 弁護人申請の証人は、「四畳半襖の下張」はわいせつではないと述べているけれども、社会通念は特定の年齢、階層にある者や専門家等を標準とするのではなく、社会一般のいわゆる普通人を対象とするのであり、かつ、個々人の認識の集合またはその平均値ではなく、これを超えた集団意識であつて、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものではない(前記最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決参照)。右証人の供述のなかには傾聴すべき見解の示されているものがあるが、これらを検討しても、前記判断の妨げとはならない。
[43] したがつて、本件「四畳半襖の下張」が刑法175条にいう「わいせつの文書」に該当するものであつて、被告人らがこれを「面白半分」7月号に掲載して販売した行為はわいせつ文書販売罪の構成要件を充足するということができる。弁護人の前記主張は、理由がなく、採用することができない。

2 正当行為の成否について
[44] 次に、「面白半分」昭和47年7月号の販売が正当行為に該当するかどうかを検討する。
[45](一) 弁護人は、「四畳半襖の下張」は、エロチツクリアリズムが世界的関心を集め、その価値が認識されようとしているなかで、貴重な文学的作品であり、また、一種の社会批判、自然主義批判としての意義をもち、さらに、日本の伝統的な文学である戯作の手法を継承するものであつて、その文学的価値は高く、日本文学研究のうえで重要な地位を占めるものである。しかも、近代日本の文学史において最も偉大な作家の一人である永井荷風の作品であるため、同作家の作風や思想等を探究するにあたり有用な素材となるばかりでなく、性風俗の記録または民俗学の資料としての価値も有する旨主張し、今まで世に埋もれ、公開を憚かられていたこの作品を公表することの社会的意義を強調している。
[46] 裁判所は、前判示のように、「四畳半襖の下張」の文学的あるいは資料的価値の存否、程度を判断したり、著者が誰であるかとか、著者が文学界においてどのような地位を占めるか等を決定する職責をもつものではないが、右文章が社会的にどのような評価を受けているかを考察することは可能であろう。この見地に立つて検討すると、第6回公判調書中の証人井上厦の供述部分、第8回公判調書中の証人吉田精一および同木庭一郎の各供述部分ならびに第10回公判調書中の証人石川淳の供述部分等を総合すれば、「四畳半襖の下張」が文学的あるいは資料的価値があるものとの評価を受けており、その文体、構成、題材、作中人物の扱い方等からみて、著名な作家である永井荷風の書き表わした作品であると推定されていることが認められる。これらの証言によつてみれば、「四畳半襖の下張」にはその意味で社会的有用性があるといえる。そして、右作品がこれまでに刊行された永井荷風全集にも収録されておらず、幻の名文として世に埋もれていたものであることを考えると、これを出版、販売することが文学を愛好し、また、永井荷風を研究しようとする人々等に対しては右のような社会的有用性の利用と実現に資するものであることは否定できない。
[47](二) ところで、被告人佐藤嘉尚の司法警察員(昭和47年6月28日付)および検察官に対する各供述調書ならびに被告人野坂昭如の司法警察員および検察官に対する各供述調書によれば、被告人野坂昭如は、江戸時代にすぐれた文学として文化的価値を認められていた酒落本や艶本が全く顧みられなくなつた現状を残念に思い、これをよみがえらせるべく、そのなかからふさわしいものを選んで雑誌「面白半分」に掲載しようと考えて検討していたが、適当なものが見当らないでいたところ、被告人佐藤嘉尚が学生時代に読んだことのある「四畳半襖の下張」を想起し、知人からその原文を借り受け、著者が永井荷風であるという説のある、このような美しい擬古文を「面白半分」に掲載して社会に紹介したいと思慮し、被告人野坂昭如に提案したので、これが永井荷風の著作と伝えられ、かつ、明治以降に書かれた戯作のうちでは最もすぐれた作品に属し、江戸時代の戯作の伝統を受けついでいる古典的な名作であると記憶していた同被告人も、右提案に賛成し、江戸時代のものに代えて右作品を掲載するに至つたことが認められる。このような経過からみると、被告人らは、単に営利のみを意図したのではなく、この作品の有用性を被告人らなりに認識したうえで、社会一般にこれを紹介しその利用と実現に資する目的をもつて、販売したことが肯認される。
[48](三) ついで、その販売の方法等をみてみると、本件証拠によれば、雑誌「面白半分」昭和47年7月号は、取次会社を経由しての小売店における店頭販売、定期講読者に対する直接販売等、同誌の通常の販売ルートにしたがつて社会一般に販売されたものであり、その販売にあたつて、とくに宣伝、広告のなされた形跡の存しないこと、その表紙には「四畳半襖の下張」が掲載されている旨の文言はなく、目次には「特集『四畳半襖の下張』」との付記があるほかは、他の記事と比べて特別の扱いはされていないこと、「四畳半襖の下張」の本文についてみれば、同雑誌中の広告や詩等を除いては、他の記事より少し大きい10ポイントの活字が使用されているが、多色刷りや人目を引く挿画や写真は加えられていないこと、本文のあとに、被告人らの企画にもとづき城市郎の解説と長部日出雄および阿部牧郎の感想文として「わが『四畳半………』体験」と題する文章が掲載されていることが認められる。
[49] このうち、同雑誌が社会一般に向けて多数販売されたことは、「四畳半襖の下張」がわいせつ文書であることからすれば、その社会に対する影響を考えて読者層をとくに限定する等の配慮をしていない点で、問題とする余地がある。しかし、反面、この作品の社会的有用性が主に文学的価値の面で認められ、社会の一般の読者に広く与えられるのでなければこれを活かす十分な意味を有しないという被告人らの意図を考慮するならば、右の販売方法がとりわけ不相当であつたとはいえない。また、印刷、製本等の体裁も、少し大きい活字が用いられていること程度では、前記の目的に反するものと認められず、その他、右作品を格別売り出そうとしているような姿勢を見出すことは困難である。しかしながら、城市郎の執筆になる解説は、「四畳半襖の下張」を永井荷風自身は偽作と称していること、それにもかかわらず現在では同人の真作とみなす説の圧倒的に多いことに触れる一方、この作品が昭和23年5月に警視庁にわいせつ文書とみなされて摘発されたときのことを永井荷風の日記「断腸亭日乗」や当時の新聞、雑誌の記事を中心に紹介しており、そのなかでは「四畳半襖の下張」が春本あるいはエロ本として扱われていたことが述べられている。さらに、長部日出雄の「わが『四畳半………』体験」でも、これを春本としてとらえ、同人がそれまで春本や好色文学に興味がなかつた理由を前置きとして叙述したあと、「初体験の感想」として、今回「四畳半襖の下張」をはじめて読んだときの読後感を記しているし、阿部牧郎の「わが『四畳半………』体験」は、「ダンスの如く」と題して、中学生時代に同級生数人と「四畳半襖の下張」を読んで、強力な性的衝撃を受けたこと、その後旅館を経営している同級生の家に行き、女湯や家族湯を覗き見たときの状況を記述していることが認められる。それらは、いずれも右作品をもつぱら春本として取り扱つており、その文学的、芸術的価値等を指摘した点は見当らない。
[50] 本件「四畳半襖の下張」を読む者は、これらの解説や体験記もあわせて読むのが通例であると思われるし、「四畳半襖の下張」の作者自身これを淫文と記していることを合わせ考えると、一般の読者にとつて、「四畳半襖の下張」はいわば目先の変つた春本ないし好色的読物として印象づけられ感受されるおそれが多分に存し、被告人らがいうような意味における把握がどれだけ可能であるか疑問であるといわなければならない。他に、「四畳半襖の下張」の文学性ないし芸術性が社会一般の普通人に十分理解、鑑賞されるような考慮がなされたものと認めるに足りる証拠はない。そうだとすれば、被告人らが前記の目的を達成するための相当な配慮のもとで「四畳半襖の下張」を掲載した「面白半分」7月号を販売したとは、認めることはできない。
[51] したがつて、本件販売によつて与えられた社会的利益と侵害された法益とを比較衡量するまでもなく、被告人らの行為は、全体としてみて、法秩序の是認する範囲内にあるものとはいえず、正当な行為に該当しない。
[52] なお、弁護人は、「四畳半襖の下張」を公表することは社会的に有用な行為であるから可罰的違法性を欠く旨主張するが、社会的有用性があるからといつて直ちに可罰的違法性がなくなるとはいえないし、右に検討したように販売にあたつての配慮を欠如しているほか、本件文書のもつわいせつ性の程度、販売の規模、冊数等からみて、本件が処罰に値しないほど違法性が軽微であるとは考えられず、社会的に許容される限界を超え、わいせつ文書販売罪の予定する程度の可罰的違法性を有していると認められるから、弁護人の右主張は採用できない。

3 故意の存否について
[53] 被告人両名がいずれも「四畳半襖の下張」の内容を熟知しながら、これを掲載した「面白半分」昭和47年7月号を販売したことは、被告人らの自認するところである。しかし、本件証拠によると、被告人らは右雑誌を販売する当時、すでに前記のように、「四畳半襖の下張」が昭和23年5月わいせつ文書として警視庁により摘発されたことを知つていたものの、その後20年以上の歳月を経過していて、性表現の自由が広く認められるようになつている一方、右の作品が古典的な戯作の名作であり美しく流麗な文章で書かれていて、文学的価値が高く、読む者にわいせつ感を与えるものではないと信じていたことが認められる。
[54] なるほど、終戦後3年を経たころと現在とでは、社会通念も異なり性表現の許容される範囲も漸次拡大されてきているし、本件文章にも被告人らの主張するような文体上の特色や格調が認められ、文学的に価値があるものと評価されていることは、首肯されるところであるけれども、「四畳半襖の下張」の有するわいせつ性の程度は、軽度であるとはいえず、社会一般の良識の許すものでないことが明らかである。被告人らにおいて、単にその文学的価値のみならず、そこに描写されている男女の性行為等の露骨かつ詳細な表現に思いを致すならば、社会通念によつてそのわいせつ性を認識することはさほど困難でなかつたと思われる。そして、他に被告人らがこれをわいせつでないと信じたことにつき相当な理由の存したことを認めうる証拠はない。したがつて、わいせつ文書販売罪の故意を阻却するものではない。

[55] 以上のとおりであつて、被告人両名の本件行為は、刑法175条のわいせつ文書販売罪を成立させるものといわなければならない。
[56] よつて主文のとおり判決する。

  (裁判官 林修 林五平 森岡安廣)

別表(略)

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