北海タイムス事件
特別抗告審決定

法廷等の秩序維持に関する法律による制裁事件に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
昭和29年(秩ち)第1号
昭和33年2月17日 大法廷 決定

抗告人 本人  X
    弁護人 上田保

■ 主 文
■ 理 由

■ 弁護人上田保の特別抗告申立理由


 本件特別抗告を棄却する。

[1] 所論は、申立人の所為は法廷等の秩序維持に関する法律2条に該当しないのにかかわらず、これに制裁を科した第一審決定を維持した原決定は、憲法31条に違反するというに帰する。
[2] しかし所論違憲の理由とするところは、原審が法廷等の秩序維持に関する法律2条の解釈を誤つたものとし、あるいは原審に事実誤認のあることを前提とする単なる法令違反の主張に帰するので、論旨は採用することができない。
[3] 所論は、原決定は申立人の第一審決定認定の事実が法廷等の秩序維持に関する法律の定める制裁を科せられる行為に当らないとの抗告理由について判断をしなかつたのであるから、憲法32条に違反するというに帰する。
[4] しかし記録に徴するも、所論のような主張は、原審がこれを単なる事実誤認の主張と認めて適法な抗告理由とならないと判断しているのであり、その判断は正当である。従つて原審が抗告理由について判断しなかつたとの所論は、前提を欠くばかりでなく、単なる訴訟法違反の主張にほかならないので、採用することができない。
[5] 所論は、原決定は憲法21条の解釈を誤り新聞の報道の自由を制限したものであつて、同条に違反するというに帰する。
[6] およそ、新聞が真実を報道することは、憲法21条の認める表現の自由に属し、またそのための取材活動も認められなければならないことはいうまでもない。しかし、憲法が国民に保障する自由であつても、国民はこれを濫用してはならず、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うのであるから(憲法12条)、その自由も無制限であるということはできない。そして、憲法が裁判の対審及び判決を公開法廷で行うことを規定しているのは、手続を一般に公開してその審判が公正に行われることを保障する趣旨にほかならないのであるから、たとい公判廷の状況を一般に報道するための取材活動であつても、その活動が公判廷における審判の秩序を乱し被告人その他訴訟関係人の正当な利益を不当に害するがごときものは、もとより許されないところであるといわなければならない。ところで、公判廷における写真の撮影等は、その行われる時、場所等のいかんによつては、前記のような好ましくない結果を生ずる恐れがあるので、刑事訴訟規則215条は写真撮影の許可等を裁判所の裁量に委ね、その許可に従わないかぎりこれらの行為をすることができないことを明らかにしたのであつて、右規則は憲法に違反するものではない。
[7] 本件について第一審裁判所の確定した事実によれば、申立人Xは北海タイムス釧路支社報道部写真班員であり、昭和28年12月10日午前10時半頃釧路地方裁判所第1号法廷において被告人Aに対する強盗殺人被告事件の公判が開廷された際右事件の取材のため法廷内の新聞記者席に居合せたものであるが、公判開廷前の同日午前9時半頃同裁判所刑事部書記官室において書記官小田井寿之から「本日の公判に関する公判廷における写真の撮影は審理の都合上、裁判官が入廷し公判が開始された以後はこれを許さないから、公判開始前に撮影されたい」旨の裁判所の許可を告知されて充分これを了解していたのにかかわらず、裁判官が入廷し右被告事件の公判が開始され、人定質問のため被告人が証言台に立つや、裁判長の許可がないのに勝手に記者席を離れ、法廷内の一段高い裁判官席の設けられてある壇上に登るべく、写真機を携帯して傍聴席より向つて右側の右壇上に至る階段を駈け上り始めたので、裁判長は「写真は駄目です」と制止したのにこれに従わず右壇上に上り、被告人に向つて写真機を構え、同所において被告人の写真1枚を裁判所の許可なく、かつ裁判長の命令を無視して撮影したものであるというのである。されば、申立人の公判開廷中における右写真撮影の行為は、裁判所の許可なく、かつ裁判長の命令に反して行われたものであつて、法廷等の秩序維持に関する法律2条1項前段に該当するものであるから、これに同条の制裁を科した第一審裁判所の決定を維持した原決定は正当であり、所論憲法の規定に違反するものでないことも、明らかである。それゆえ、所論は採用することができない。

[8] よつて、法廷等の秩序維持に関する法律9条、法廷等の秩序維持に関する規則19条、18条1項に従い、裁判官一致の意見で主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 河村又介  裁判官 小林俊三  裁判官 入江俊郎  裁判官 垂水克己  裁判官 河村大助  裁判官 下飯坂潤夫  裁判官 奥野健一)
 憲法第31条は、「法律による自由の保障」を規定して居るが、この「法律による適正な手続」には形式的な手続が法律で定められて居ると共に、実体的な要件が法律で定められて居ることを含むことは当然であつて、即ち「法律の根拠なくして罰を科せられない」との原則を宣明して居る。又そこに言ふ「其の他の刑罰」が刑事罰と共に行政罰を含むことは勿論である。さて法廷等の秩序維持に関する法律(以下法廷秩序法と略す)は、民主社会における法の権威を確保するため、法廷等の秩序を維持し、裁判の威信を保持する目的の為に一定の行為に対して一定の制裁を科することを定めて居る。このことは前叙の原則により、一定の行為以外の行為に対しては何等の制裁を科し得ないことをも意味する。この一定の行為とは、法廷秩序法第2条所定の場所に於ける イ、秩序を維持するため裁判所又は裁判官が命じた事項を行わず若しくは執つた措置に従わないこと。ロ、暴言、暴行、けん騒その他不穏当な言動で裁判所又は裁判官の職務の執行を妨害し若しくは裁判の威信を著しく害したこと。のいずれかに当る行為である。これらの行為は,裁判所侮辱中の直接侮辱に当るが、この直接侮辱に対する制裁を規定した法廷秩序法を考えてみると、
同法は「旧憲法時代の裁判所というものは、国民は裁判所に行くことが恐しかつた。ところが民主主義の観念に伴いまして、むしろ、そうなることを悪用し、裁判所の威信を妨害したり、法の威信を失墜せしめんとする行動がみられるようになりました。したがつて、裁判所の権威をより一層守る方法として、この法案を提出いたしました」(衆録第62号)
の理由の下に作られ、
「本法案は裁判所における審理を暴行、けん騒その他の不穏当の行為によつて妨害し、あるいは、裁判の威信を著しく害する者に、秩序罰たる制裁を科することによつて、その法廷の秩序を保持し、裁判の円滑運用を図らんとするものであり、現下の状勢に鑑み適切である」(参録第64号)
と考えられて居る。かかる立法の経過過程に於て理解された法廷秩序法は、法治国家に於ける法の権威は至上でなければならないが、法の至上性は究極的には、裁判所の厳正公平な裁判によつて具体化される。その為には法の適用をする裁判所がそれだけの権威と信頼をもたなければならない。この権威と信頼の確立と保持は、裁判官自らの努力によりかち得られなければならない。裁判官の努力なく、即ち信頼のないところには権威は決して生れない。しかし如何なる裁判官の努力にしろ、最初から裁判所の権威を否定する人達に対してはそれは無駄であらう。神の権威を否定する者に対して神の存在を説いても何の役にも立たないのと同様である。しかし裁判所の権威は確立され保持されなければならない、とする法治国家における絶対の要請から、その存在は正当である。又法廷秩序維持法は、この法治国家の本質に基く要請によつてのみ、その存在は必要とされ、その存在の範囲は、法の権威を認める人達にその権威を保持する手段は法に対しての信頼丈であり、その手段として制裁を執ることは法の権威の否定に他ならないから、法の権威を否定する人達に対して法の権威を確立する為の範囲に限られる。このことは即ち、法廷秩序法が、法を無視する過激な法廷闘争をする人々に対してのみのものでないにしろ、裁判所の権威に対する許されない攻撃を押えるための特別の法律であり、裁判所の権威に対する攻撃以外のものに対する法律でないことは分明である。この特別の法律である法廷秩序法は、その当然の目的を達する為に制裁規定を持つが、その制裁を受くべき行為は当然に法廷秩序法の目的に違背する行為に止めらるべきことは正当な論理の帰結である。しかもそれはその行為の中、間接侮辱を除外した直接侮辱に限られる。法廷秩序法第2条の直接侮辱は、如何に定義されようとも、裁判所が直接に見聞し得る場所で裁判所の威信を害する行為である。威信を害しない行為は侮辱とはならない。而も威信を害する行為は、制裁の手続が、同一人が被害者であり、告訴者であり、裁判官であり、そこに裁判官個人の気質、感情等が入り易いものである以上、より客観的に価値を判断されたものでなければならない。然し法廷秩序法第2条は
「法案の第2条が非常に広く構成要件が規定されておるように見えますけれども、やはり法廷の秩序維持という観点からこれを、しぼつて解釈して行くべきである」(法務委員会録第63号、岸最高説明員)
と言はれなければならない程広く第2条所定の行為要件は規定せられて居る。然し、
「この制裁制度を運用するに当つては、あらゆる違反行為にすべて制裁を科するという趣旨のものではなく、つまり裁判官個人の感情に委かせて制裁を科す趣旨のものでないことは当然である」
とも言はれる様に、第2条所定の行為要件に該当する行為が直ちに制裁可能であるとして、制裁権の発動の抑制によつて非合理を救おうとする態度は正しくない。構成要件という概念は、一定の法効果(制裁)を発生させるための前提条件の意味であつて、制裁の結びつかない行為要件は構成要件ではない。法廷秩序法の制裁は前述の如く法の権威の否認に対してのみ向けられる。従つて第2条所定の行為要件が法の権威の否認と言ふ要件が包含せられて始めて、第2条に規定されて居る要件は構成要件となり、制裁と結びつく。従つて第2条の構成要件はしぼつて解釈されなければならないのではなく、しぼつて解釈されたものが構成要件なのである。即ち、若し裁判官が不慣れであつて、法廷の秩序を維持する為ながら誤つた行為をし、又は命じたならば、訴訟関係人が如何に裁判所の権威を重視して居ようとも、それには従い得ない。この場合もまさに「秩序を維持するため裁判所が命じた措置に従わず若しくは執つた措置に従わず」なのである。この場合は制裁の発動される余地はない、訴訟関係人の不慣れの場合も同様であらう。このことは右行為が法廷秩序法第2条の構成要件を充足して居ないことを示す。裁判所の権威を否認し犯した行為であつて始めて第2条の構成要件を充足する。さて本件について考えて見ると、認定された事実は(特別抗告人等はその多くについて全く納得出来ないものであるが)
「……より「本日の公判に関する公判廷における写真の撮影は審理の都合上裁判官が入廷し、公判が開始された以後はこれを許さないから、公判開始前に撮影されたい」旨の裁判所の許可を告知されて充分にこれを了解していたのに拘らず、裁判官が入廷し、右被告事件の公判が開始され、人定質問の為被告人が証言台に立つや裁判長の許可がないのに勝手に記者席を離れ、法廷内の一段高い裁判官席の設けられてある段上に登るべく写真機を携帯して傍聴席より向つて右側の右段上に至る階段を駈上り始めたので裁判長は「写真は駄目です」と制止したのにこれに従わず、右段上に上り被告人に向つて写真機を構え同所において被告人の写真1枚を裁判所の許可なく且つ裁判長の命令を無視して撮影したものである」(記録8丁以下)
とされる。叙上事実によると要するに、裁判長の命令に違反したと言ふに止まり、その行為により本案の審判に於ける秩序を乱し、審理を妨害した形跡もない。単に写真を写すことそれ自体が審理の妨害となり、法廷の秩序を乱して裁判所の威信を害するならば写真の撮影が全く拒否されなければならない。法廷の秩序の維持に撮影が妨害となり得ないからそれが許容されるのであらう。又撮影が事件呼上後人定質問以前の訴訟法上の公判開始後にされたからとするのも論拠がない。例えば英法に於ける写真の撮影による法廷侮辱にしろ、法廷における撮影が法廷を騒がし、又は裁判所が被告人の利益のため、又証言中の証人の心を乱さないようにするため禁止したに拘らず撮影した場合のような場合に始めて法廷侮辱となる、のであつて、本件の如き場合、被告人の法廷に於ける撮影は許容せられて居り、守らるべき利益なく、又実質的な審理にも全く入つて居らず、従つて審理の妨害にも当らない。それならば、撮影の禁止の命令に従はずに写真を撮影したとの事実(これこそ特別抗告人等の全く承服出来ぬ点であるが)が制裁を受くべき事実に該当するのであらうか、そうではない。物体が一定の方向に運動する時に零の時間でその物体を静止状態にすることは出来ない。人間の行為、動作も亦同じである。本件当時の事情が
「私が右の壇上に至る階段を駈上りかけた時、裁判長から「写真は駄目です」と制止されたのはよく聞きとれませんでした。只私としてはフラツシユとシヤツターを切る寸前、若くは同時にその制止を聞かされた様に思つて居る」(4丁)
であり、又
「此のフラツシユの閃光と同時に羽生田裁判長から「写真は駄目だ」との制止がありました、よつて写真取材はその確実を期する為常に2枚を撮影することにしていましたので、なお1枚予備の写真を予定していたのでありましたが、右制止があつたので之を取止め直ちに記者席に戻つたのであります。」(11丁)
と、写真を2枚撮影すべきところを、制止に直ちに従つて1枚のみに止めたことは、認定事実において「同人の写真1枚を撮影したものである」と説示されて居り瞬間でないにしろ直ちに裁判長の命令に従つたことは明かに認定事実に於ても認められて居る。運動が静止状態になるための時間は運動の力と比例する。かかる運動の力を無視して静止の状態に至るべき時間を求めることは不可能である。以上で明らかな如く何等命令に違反した事実はない。尚認定事実によつても、法廷秩序法第2条所定の構成要件に該る事跡は全く認められず、且つ裁判所の権威を否認した事実又その意欲すらも認められない。以上で明かな如くに本件行為は法廷秩序法第2条に該当する行為ではなく、又その他の制裁を受けるべき行為でないのに関らず、それに制裁を科した第一審決定を維持した決定は「法律の根拠なくして罰を科せられない」ことを保障する憲法第31条に違背する。よつて原決定は取消されるべきものと信ずる。
 即ち原決定に依ると、Xの抗告申立理由は、原裁判所認定事実が誤認であるとの点、及び原第一審裁判所の措置は新聞紙の報道の自由を制限する違法のものであつて法律の適用を誤つたとの2点のみとするが、同人の抗告申立理由(記録10丁以下)を検討すると以上2点の他に、原裁判の認定した事実がこの法律の定める制裁を科せられるべき行為にあたらないことをも抗告申立の理由として居るのである。このことは抗告申立理由の
「なおその際使用してフラツシユランプはウエストNo.5の閃光電球であり、その光線、音響はともに何等裁判に支障を来した事実もなければ、また暴言喧騒不穏の行動等によつて、裁判所の威信を著しく害した事実のないこともまた明白なことであります。」(12丁)
とあるを見ても明瞭である。このことは
「訴訟行為の解釈には、表示の文理に拘泥することなく、四囲の事情――訴訟の発展をも含めて――を考慮してそのもつべき合理的規範的な意味を探究しなければならない。このばあいに客観的な表示に重きをおくべきか、行為者の主観的な意思に重きをおくべきかは問題である。手続の確実性を強調すれば前者に重点をおくのが当然のようであるが、刑事手続においてはその技術性を不当に強調して、被告人その他の私人に不測の不利益をあたえてはならないのであつて、かような観点から私人の訴訟行為についてはとくにその真意の探究が重要と考えられる。」(団藤、綱要129)
との観点からすればより明白に認められる。抗告の理由は、法令違反のみに限られているので、原裁判における事実認定の不当及び制裁の過重を攻撃することは、抗告適法の理由にならないが、原裁判の認定した事実がこの法律の定める制裁を科せられるべき行為に当らないことを理由とする抗告は適法なものというべきである。この点において原裁判の認定した事実がこの法律の定める制裁を科せられるべき行為にあたらないことを理由とする抗告は適法なものであり、且つこの理由については法廷秩序規則第18条により抗告裁判所は判断をし、理由のあるときは原裁判を取消す等、又理由がない時は決定で抗告を棄却しなければならない。然るに記録等を精査しても、何処にもこの理由について判断した痕跡すらない。それにもかかはらず抗告審は決定をもつて抗告を棄却して居る。このことは、国民の適法な手続による裁判の権利を無視して、司法拒絶をなしたものであるから、明らかに憲法第32条及第31条に違背するものであつて取消されるべきものと信ずる。
 憲法第21条は「……言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とし、言論出版その他一切の表現の自由を宣言して居る。言論等の自由は民主主義社会を動かす原動力であり、言論の自由があつて始めて民衆の意思があるがままに表現されて始めて社会が発展する。民主政治発展の歴史はそのまま言論自由の発達史であつた。ところが19世紀末頃から新聞が産業として発展してきてからは、言論等の自由の実質はその大部が新聞の自由と言ふ形に置きかえられ、又、表現されるようになつた。新聞は人々の判断の基礎をかたち造る社会機構そのものとなつた。新聞を除いた現代社会は最早考えられない。言論等の自由は新聞の自由であり、新聞の自由は言論界の自由である。言論、出版その他一切の表現の自由とは言論と出版の両者のほか一切の表現の自由を含む、新聞の自由はここに根拠を持ち、社会と共に新聞の自由はある。憲法の保障する自由権は、近代国家の存立を基礎づける権利であり、新聞の自由も亦近代国家存立の基礎そのものである。この新聞の自由には、取材の自由と報道の自由とを含む。報道の自由とは、取材によつて得た感覚なり知識なりを、さらに選択し判断して、発表に適した部分に、文章作業を加えたものを報道することの自由であつて、憲法第21条第2項の検閲からの自由、即ち事前検閲からの記事の差止めとか、新聞の発行停止とかを行はれないと言ふことの反射的自由に限られるべきものではなく、報道それ自体にその自由が認められることは当然である。取材の自由とは一切のニユース源に接近することの自由である。この取材が自由であると言ふことは、国家は国民のために存在し、すべての国民は社会生活の上に立ち、国家機関や国民個々の動きは、挙げて社会大衆の関心に他ならず、即ちどんな事象でも社会大衆はそれを見、知り得る権利があるから、新聞はその社会に於ける地位に基き、それらをニユース素材とすべき権利と義務がある。従つて取材が拒否されるのは、憲法上の合理的根拠に基く場合にのみ許される。それは素材の秘匿が極めて社会生活の為、個人の名誉の保持の為、利益とせられる場合と取材の方法が法令に違反する場合である。しかし取材それ自体を拒否しようとする法令は許されない。かかる取材の義務、即ち自由が認められるのは、それが報道の自由即ち言論等の自由と共にあるからである。新聞の自由は報道の自由と取材の自由をもつて成り立つのであつて、取材の自由を奪ふことは片輪をもつて車を進ましめるの愚である。取材の自由を奪ふことは検閲をすることと等しく、一切のニユース素材の顕出を拒否することである。而かるに原決定は、
報道の自由とは憲法第21条に規定されている表現の自由の一種に外ならないが、本件における写真の撮影は取材行為というべく、報道のための準備的行為であつて、報道行為そのものではない。
とする。まさに正確な意味に於ける報道行為と取材行為とは異るのであるが、しかし、両者の意味が異るからとの理由丈で憲法上保障された権利でないとは言えない。憲法に於ける言論の自由等が新聞の自由であり、新聞の自由が報道の自由と取材の自由を含むことは前述のとおりである。そして憲法の文字解釈からはこれらの自由が表現の自由の一種とせられることは理解出来る。併し表現の自由とは何ものかの発表の自由と解し得るならば、その何ものかを与えないことは、その何ものかを発表させないことであつて表現の自由を侵害するものである。即ち憲法に於ける表現の自由には当然取材の自由を含むのである。原決定は続けて
また写真を撮影しなければ裁判の報道ができないわけではないから写真の撮影を制限或は禁止することは憲法の規定に違反するものといえない。
とする。表現の自由は与えられた素材をそのまま発表することではない。新聞の自由、報道の自由が与えられた素材の発表のみに係るとすれば、それは官報等と殆ど異る所はない。表現、報道の自由とは真実妥当と目される事項を発表するの自由であつて、決して不当の、虚偽の事項を発表するの自由ではない。その素材が妥当か否か、又真実か否かは発表者の裁量に委ねられる。それを国家の機関がすることは検閲の禁止に触れる。故にその発表についての責任は発表者(編集者)が負ふ。その発表の正当性の担保は発表者の人格、識見と素材の豊富さ以外にはない。素材が豊富であると言ふことは、何を発表すべきかの選択の範囲を広げ、虚偽の素材を発見出来ることを意味する。権利の行使は、その形骸の不満足な行使ではその名に価しない。豊富な内容をもつた十分な行使であつて始めてその名に価する。この様に編集者の責任に於いての、自由な発表の権利こそ憲法の保障するものであり、この権利えの制限は憲法上認められる場合に限られるのであり、その権利の痕跡の行使だけで憲法は満足されない。又原決定は、
そうして刑事訴訟規則第215条には公判廷における写真の撮影は裁判所の許可を得なければこれをすることができない旨の規定があるから、原裁判所の執つた措置はなんら違法のものでなく。
と続ける。この規則の合憲性についての疑念は少くはないが、それをさておいても、この規則は、写真の撮影等が裁判所の厳正公平な裁判を妨げる事が多いと考えられ、裁判所の厳正公平な裁判こそ法治国家の最上の要請なればこそ、それを保持するために一般に写真の撮影等が禁止される。又然し言論等の自由も亦近代国家の重大な要請である。両者の一般的な優劣は論じ得なく、両者は共に尊重せられる。此の意味に於てその禁止の限界は両者の妥協点に存する。ここにこの規則の「裁判所の許可」及び「特別の定め」が理解される。許可を与えることと与えないことはこの意味に於て裁判所の恣意に委ねられて居る訳ではない。だからこの規則の存在は取材行為が憲法上の権利ではないと言ふ論拠にはならないし、又法廷に於ける写真の撮影に制裁を科すことの根拠にもならない。以上右に叙述した如くに原決定が第一審決定は新聞紙の報道の自由を制限する違法のものではないとすることは、憲法第21条の解釈を誤り,言論等の自由権を不法に侵害し、新聞紙の報道の自由を制限することであり、憲法21条に明らかに違背するから取消されるものと信ずる。
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