Galileo

ガリレオ通信

第5号

(November 7, 1997)


【天文対話】
☆☆今夏のアメリカ調査旅行『日記抄』
★8月2日(土曜日):ミシガン州の Upper Peninsula では,道路は総じて起伏のある直線をなし,快晴時にははるか行く手に蜃気楼が立ち昇る。対抗車線の車は海のなかから現れ,自らのライトでまるで炎に包まれているかのようだ。
◆8月3日(日曜日):19世紀の製鉄所跡 Fayette を訪ね,写真を撮ったり,岬を散策して半日を過ごした。地名はジャクスン製鉄会社のエージェント Fayette Brown が,ここを製鉄の適地に選んだのにちなむ。同社が鉄鉱石をミシガン北部の鉱山から Escanaba まで鉄道で運び,そこで船に積み代えて一端 Fayette に陸揚げして精銑し,不純物を取り除いたあとの半製品である銑鉄だけをクリーヴランドへ送った。これによって積み荷の量を大幅に減らして,コストの削減を達成したのである。 ◆労働者はカナダ,英国,北ヨーロッパ諸国からの移民たちで構成されていた。もっとも骨の折れる労働は,重量100ポンドの銑鉄の塊を船に積み込む仕事であった。鉄塊のサンプルが展示されていたが,大の大人にとってさえ並の重さではない。彼らの生活は楽ではなかったが,それなりに満たされていた,と遺構の説明書にはある。時間が許せば釣りを楽しみ,その日の釣果を食卓に乗せることができたという。◆Fayette の街は二つの溶鉱炉を囲む形で発展した。精銑用の燃料には地元の堅木を用い,石灰石は切り立った岬から採掘された。24年間の操業で229,288トンの鉄を生産している。だが19世紀末葉に木炭製鉄 (charcoal iron) の市場が衰退したために,Fayette の溶鉱炉も1891年に閉鎖の運命を辿る。その後 Fayette は観光地として存続し,ホテルなどは営業を続けたが,やがてそれも捨て去られた。◆今日,遺構は部分的に復元され,湾を取り囲む地域一帯がファイエット史跡に指定され,ミシガン州歴史博物館システム (Michigan Historical Museum System) の一環として保存されている。なお,個人的な感想をつけ加えるなら,あまりに復元に手をかけ過ぎて,外観を立派にしてしまったのはいただけない。一昨年訪ねたカリフォルニア州の Bodie に比べて,崩壊の美学,ゴースト・タウンの哀愁に欠ける。人の感情を揺るがすなにかが殺がれてしまったようだ。

☆☆閑話休題。だいたい学術論文と申しましても,歴史はつまるところ物語ですから,誰にでも本来読めて,理解できるはずのものなのです。行きつけの豆腐屋のおばさんが,わたしと同じ新潟県出身で,読書好きなものだから,結構話が合うのですね,これが。私の書いたものを次から次と渡すと,これまた次から次と読んで,その上コメントまでくれたりするのです。つい先日などは「先生,あの論文のジョン・ラスキンというのは,マルクスと関係あるのかなぁ〜と思ってましたら,ありましたね〜〜ぇ,註の中にやっぱりありましたものね〜〜ぇ,註がとても面白かったですよ」などと,筆者の言いたいところをちゃ〜んとつかまえて,うちの学生よりもこれはできるなぁ〜,などと,超失礼なことを内心思いながら,一体どちらの大学を出られたのですかと尋ねると,「い〜え,私が出たのは田舎の短大でして,新潟の地元にあるんですよ,おはずかしい〜〜。あっ,そうそう,この黒豆納豆,160円です。」ですから,教育というのも,やり方次第なのだなと思いながら,「その木綿豆腐も下さいね」と買い物をしてきたのでした。◆自宅の庭にリンゴの木を植えたそうで,リンゴが出来たら差し上げますとのこと。うれしいね。[後日談]リンゴ3つと,梨をひとついただいた。ありがとう。

【星界の報告】
☆☆《1995年3月卒》◆K.S.さん:97年4月,帯広測候所から新千歳空港測候所観測課に転勤。☆☆《1996年3月卒》◆大樹 ◆達朗:東京にいるはず。ニュージーランドから帰ってきて,逞しくなりました。◆宏明:97年4月に釧路に転勤。釧路は寂しいところだと皆にいわれて泣いていました。マジメ人間の高橋が,茶髪にして,タバコを吸って,酒をガブ飲みして,本を読まなくなりました。「髪を染めようが何をしようが構わないが,本を読まないのはホンと〜にダメだよ」と斎藤にいわれていました。よい友人に恵まれたね。またディスカッションしよう。 ◆由起さん (北星学園):4月から半年間の予定で,ミャンマーへ日本語教師として赴任。 ☆☆《1997年3月卒》◆良介:アルバイトをしながら勉強している。合宿のときの写真を手紙とともに送ってもらいました。ありがとう。あれからそれほど月日も経っていないのに,とてもなつかしく思われるのは,なぜであろうか。現住所は,札幌市。10月にゼミナールに顔を見せたが,外国行きを計画しているらしい。 ◆T.Y.:電子開発学園本部に就職。森枝情報によれば,もっぱらコンピュータの研修で,まだ仕事をしていないとのこと。わたしの友人は,彼の卒論題名「今西自然学と現代文明――生物全体社会の弁証法」に注目していた。 ◆堀:実家の中卸業を継ぐ。◆良行:放浪しているのでしょうか?「放浪」は上野ゼミの卒業生に傾向的にあらわれる病気ですが,悪いことではありません。「着ているものはボロで寒かったとしても,本を読み,考え,流星を観察することができるのなら,彼自身が言ったとおり,その心は自由だったのである。」(ジョージ・オーウェル)☆☆《4年生》◆Y.N.:目下,女子労働について卒論執筆中。関連書籍を片端から読破している(らしい)。 ☆☆《3年生》◆N.I.:青森県出身。趣味は山登りで,高校時代は山岳部のキャプテン。論文テーマ「マシーン・ストレスについて」。社会科学的視点の存否が気にかかる。

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【山登り日記――恵庭岳の巻,その2】
 作:良介,アドバイザー:倫弘
 ★[附記]『ガリレオ』第3号において「山登り日記」の作者を山本としましたが,森枝の間違いでした。訂正いたします。今号はその続きです。前回は山に登らないで「山登り日記」が終わってしまいましたが,今度こそ登るはずです。(う)

 ★次の日の朝,一睡もしなかった我々隊員は,いまだ無敵状態[註:これは「山登り日記・その1」を読まないとわからない]の上野隊長とともに美しい朝の日の出を迎えた。湖の岸辺に巨大な岩があり,隊長はそこの上に登り,自分のカメラでパチパチ,朝靄のかかった幻想的な雰囲気の湖を撮影していた。隊長はやたらと感激したらしく,「いやー,すっばらしいねー」と何度も言いながら,湖を撮影していた。隊員の山本と森枝も自分のカメラを持ってきて,隊長と同じく岩の上に登り,湖を撮影した。少しづつ表情を変化させていく湖は,なにかしら神秘的で,我々を引き寄せて離さなかった。

 昨晩一睡もしなかったため,その後我々隊員と隊長はテントの中で三時間ぐらい眠りについた。起きた我々は,昨日の元気もどこへいったのやら,皆がうつろな表情をしていた。だが隊長は,あいも変わらず元気で,我々隊員のためにお粥を作ってくれた。さすが,冒険慣れしているだけのことはある。お粥を食べて息を吹き返した我々隊員は,テントをかたずけ,車で湖の管理小屋に行った。そこでトイレタイムをとり,そこのおばちゃんと世間話をした。(たまたま,この周辺にオウム信者が潜伏しているかもしれないという話をおばちゃんがしていた。上野隊長はおばちゃんの話がよほど愉快だったらしく,「いやーなかなかおもしろいおばちゃんだねー」と反応していた。)その管理小屋で,調子を崩した堀隊員と無念の別れをすることになった。残り三人となった,我々隊員と上野隊長は,一路,恵庭岳へ向かった。恵庭岳のふもとに着いた我々は,さっそく山を登り始めた。

 今日も空は晴れ。いつもの上野隊長の「我々が山に登るときはなぜか,晴れるんですよねー」と,にこやかな笑顔とともに,山登りは始まった。隊長の先導の元に我々は険しい山を登り始めた。なかなかに起伏が激しく,急な斜面を登らなければいけない場面もたくさんあったのだが,そこは百戦錬磨の我々である。緻密なチームワークと上野隊長の完璧なるフォローとともに,我々は順調に足を進めていった。途中で,残雪を発見し,我々は水分補給ができた。恵庭岳という山は,登っていて退屈しない山である。とりわけ,頂上への最後の登りは,ロッククライミングの真似事みたいなことをしたのであるが,ここを登るときの緊張感は,またなんともいえないものであった。

 頂上にたどり着くと,すでに何人かの先客がいて,疲れ切っている我々に,お菓子を分けてくれた。感謝とともに菓子を受け取り,我々は休息をとることにした。頂上での景色はまた格別であった。言葉で説明したいが,やはり自力で登って,じかに自分の目でその景色を味わっていただきたいと思う。言葉では描ききれない世界がそこにあるからである。さて我々は,高いところが苦手な,山本隊員と,なぜか頂上では切り立った危ないところに座っていた中谷隊員と,ほっと一息いれている森枝隊員の三人とともに,我々隊員を時には暖かく,時には厳しく導いてくれた上野隊長と,頂上に到達した証として写真を撮り下山することにした。

 下山してからしばらくして,我々は見晴らしのよい場所を発見して,昼食をとることにした。上野隊長がお湯を沸かしてくれ,そのお湯でインスタントラーメンを作った。(中谷隊員だけがカップめんで「スパ王」を持ってきていた)山の中で食べるインスタントラーメン(上野隊長が我々隊員の栄養のために持ってきてくれた乾燥ワカメをいれたゴージャスなラーメンである)は,なかなかにおつな味であった。お腹も一息つき,我々は再び上野隊長の先導のもとに山を下り始めた。我々のチームワークは抜群で,帰りもいくらかの困難はあったものの,無事に下山することができた。車にたどり着き,皆で水を飲み,手を洗ったが,こんなにも水が,いとおしく思えるのも,山登りをしたからではなかろうか。何ともいえない充実感がそこにあった。山を登り,頂上からの景色もすばらしいと思ったが,それにもまして,なにかをやり遂げた充実感がそこにあった。困難があっても,それに負けないで歩いて行くなら,きっと頂上にたどり着くはずである。そこにはなにが見えるであろうか。先ほども書いたが,そこには登った人にしか見えない世界がある。登った人にしか分からない充実感がある。きっと上野ゼミナールがある限り,山登りは続いていくであろう。願わくは,現代の物質的文明社会の中では決して見えない世界を,上野ゼミナールの山登りから経験してほしいと思う。そこには我々が失いつつある,なにかがあるはずだから。

「わたしはそのなかに,永続的で意義深いなにかがあると信じています。……自 然がくりかえすリフレイン。夜の次に朝がきて,冬が去れば春になるという確か さのなかには,かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。」
        ―― レイチェル・カーソン(上遠恵子訳)
         『センス・オブ・ワンダー』より
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【青年海外協力隊】
 エティオピア滞在中の杉村寛さんからの現地報告のつづきです。★エティオピア人にどのように自主独立の意識を植え付けていくかということが問題であると思います。◆エティオピアには,列強によって植民地化されたという歴史もなく,国民のほとんどは内陸の高原地帯に住んでいたために,欧米諸国の奴隷がりからもほとんど免れています。それにもかかわらず,エティオピア人の大部分がもっている被害者意識はどこから来るものなのか,それが不思議でたまらないところです。おそらくそれは他の国と比較して,自分たちは大変貧しく,恵まれていない,という思いから来ているのだろうと思います。しかし,それを自覚するのはいいが,その先どうしていくのかというヴィジョンがないのです。◆こちらの学校では,「一番優れている人種は白人,二番目はアフリカ人,三番目の一番遅れいる人種は東洋人」と教えているそうです。ちなみに,これはケニア,タンザニアでも同じです。今の時代にこんなことを教えること自体,非常にナンセンスだと思いませんか? エティオピア人の話によると,クリスチャンの祖先アダムとイブは白人だったのだから,白人が一番に来ることについては,致し方ないとのことだそうです。東洋人が三番目に来ることについては,東洋は進んだ国もあるがアフリカ以上に遅れた国もたくさんあるとのことです。そんなわけで,わたしたち東洋人が道を歩くと,そこらのガキどもが,ここぞとばかり「チャイナ,コーリア」と馬鹿にして,たちの悪いガキなどは石を投げてくることもあります。学校がそんなくだらないことを教えるくらいなら,まず本当のエティオピアの現実を教え,それに一人一人がどう立ち向かっていくのかを教えて欲しいと切に思います。◆今回は,約一年間わたしがここに住んでみえてきたエティオピアの芳しくないところばかりを記しました。

【地球は回っている】
☆☆今年ゼミナールで取り上げた書物★大河内暁男『経営構想力』東京大学出版会★ゼライザー『モラルとマーケット――生命保険と死の文化――』千倉書房.これはお勧めの一冊。とても面白い。
☆☆読書案内,第2回目★ハイゼンベルグ『部分と全体』(みすず書房)◆量子力学の開拓者のひとりハイゼンベルグによる自己弁明の書。なぜ自己弁明しなければならなかったのかは,各自ドイツの歴史にあたって調べてもらうとして,さしあたりそのような歴史的背景を抜きにしてもこの本は楽しめる。プラトンの『対話篇』を意識して書いたという。著名な物理学者同士の宇宙論をめぐる対話は,われわれの思考を壮大な構想力の「磁場」へと連れていってくれる。そしてなによりも一流の物理学者は優れた歴史家・文学者・思想家でもあるということを知るだろう。そもそも歴史と文学を抜きにして,宇宙は語れない。
★熊岡路矢『カンボジア最前線』(岩波新書, 1993)◆本書は,日本国際ヴォランティア・センター (JVC) のメンバーとして長年カンボジアにかかわってきた熊岡氏の活動報告であり,カンボジアの人々への愛情の書である。JVCを含む市民団体が1993年2月に,シンポジウム「日本の農薬援助とカンボジア問題」を東京で開催したが,そのおり熊岡氏は,外務省の藤原氏に向かって,日本政府の誤った農薬援助の中止を求めている。「カンボジアが一番苦しかったのは79年から81年で,このときは4〜500万人の人口に対し,100万トン足りなかった。今は50万トン程度不足しているに過ぎないのです。本当に苦しかったときにやらないで,なぜ今急いでやるのですか。」しかもカンボジアにとって不必要な農薬を。本当に苦しかった時には放っておいて,市場としての可能性が出現するや過去への反省もないまま利益に群がるという「エコノミック・アニマル」に対する痛烈な批判である。日本人一人ひとりの良心を試す書である。

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【冬合宿・卒論報告会のご案内】
 ◆恒例の冬合宿の「統一論題」をお知らせいたします。◆昨年は然別峡の菅野温泉でしたので,今年はまた凌雲閣を訪ねようと思います。◆この合宿は,上野ゼミOB・OGはもとより,『ガリレオ通信』を受け取った人に自由に参加して頂く,公開ゼミナールです。参加希望者は連絡をください。◆テキストにあらかじめ目を通して,自分の感想や意見をまとめておくべきなのは,いうまでもありませんが,諸君の社会での貴重な経験を報告してくれるなら,それを免除いたします。雪に囲まれた露天風呂で一杯やりましょう。

☆と  き:1997年12月 15〜17日(2泊3日)
☆と こ ろ:十勝岳温泉 凌雲閣
☆統一論題:人物経営史の方法――企業者としてのエジソン――
☆テキスト:ニール・ボールドウィン『エジソン――20世紀を発明した男』(三田出版会, 1997)¥3, 800.


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