「エホバの証人」輸血拒否事件
上告審判決

損害賠償請求事件
最高裁判所 平成10年(オ)第1081号、第1082号
平成12年2月29日 第三小法廷 判決

上告人・附帯被上告人(被控訴人 被告) 国
                代理人 山崎潮  外15名

被上告人・附帯上告人(控訴人  原告) 甲野太郎 外3名
                代理人 赤松岳  外2名

■ 主 文
■ 理 由

■ 上告代理人細川清、同富田善範、同齊木敏文、同永谷典雄、同山中正登、同大竹たかし、同林圭介、同中垣内健治、同近藤秀夫、同渡部義雄、同山口清次郎、同平賀勇吉、同星昭一、同安岡邦信、同小林隆之、同高柳安雄の上告理由
■ 附帯上告代理人赤松岳、同野口勇、同石下雅樹の上告理由


 本件上告及び附帯上告を棄却する。
 上告費用は上告人の、附帯上告費用は附帯上告人らの負担とする。

[1] 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
[2] 亡甲野花子(以下「花子」という。)は、昭和4年1月5日に出生し、同38年から「エホバの証人」の信者であって、宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するという固い意思を有していた。花子の夫である被上告人・附帯上告人甲野太郎(以下「被上告人太郎」という。)は、「エホバの証人」の信者ではないが、花子の右意思を尊重しており、同人の長男である被上告人・附帯上告人甲野一郎(以下「被上告人一郎」という。)は、その信者である。
[3] 上告人・附帯被上告人(以下「上告人」という。)が設置し、運営している東京大学医科学研究所附属病院(以下「医科研」という。)に医師として勤務していたAは、「エホバの証人」の信者に協力的な医師を紹介するなどの活動をしている「エホバの証人」の医療機関連絡委員会(以下「連絡委員会」という。)のメンバーの間で、輸血を伴わない手術をした例を有することで知られていた。しかし、医科研においては、外科手術を受ける患者が「エホバの証人」の信者である場合、右信者が、輸血を受けるのを拒否することを尊重し、できる限り輸血をしないことにするが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する、という方針を採用していた。
[4] 花子は、平成4年6月17日、国家公務員共済組合連合会立川病院に入院し、同年7月6日、悪性の肝臓血管腫との診断結果を伝えられたが、同病院の医師から、輸血をしないで手術することはできないと言われたことから、同月11日、同病院を退院し、輸血を伴わない手術を受けることができる医療機関を探した。
[5] 連絡委員会のメンバーが、平成4年7月27日、A医師に対し、花子は肝臓がんに罹患していると思われるので、その診察を依頼したい旨を連絡したところ、同医師は、これを了解し、右メンバーに対して、がんが転移していなければ輸血をしないで手術することが可能であるから、すぐ検査を受けるようにと述べた。
[6] 花子は、平成4年8月18日、医科研に入院し、同年9月16日、肝臓の腫瘍を摘出する手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、その間、同人、被上告人太郎及び同一郎は、A医師並びに医科研に医師として勤務していたD及びE(以下、右3人の医師を「A医師ら」という。)に対し、花子は輸血を受けることができない旨を伝えた。被上告人一郎は、同月14日、A医師に対し、花子及び被上告人太郎が連署した免責証書を手渡したが、右証書には、花子は輸血を受けることができないこと及び輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師及び病院職員等の責任を問わない旨が記載されていた。
[7] A医師らは、平成4年9月16日、輸血を必要とする事態が生ずる可能性があったことから、その準備をした上で本件手術を施行した。患部の腫瘍を摘出した段階で出血量が約2245ミリリットルに達するなどの状態になったので、A医師らは、輸血をしない限り花子を救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。
[8] 花子は、医科研を退院した後、平成9年8月13日、死亡した。被上告人・附帯上告人ら(以下「被上告人ら」という。)は、その相続人である。

[9] 右事実関係に基づいて、上告人の花子に対する不法行為責任の成否について検討する。
[10] 本件において、A医師らが、花子の肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、花子が、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことをA医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、A医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、花子に対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続した上、A医師らの下で本件手術を受けるか否かを花子自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。
[11] ところが、A医師らは、本件手術に至るまでの約1か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、花子に対して医科研が採用していた右方針を説明せず、同人及び被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。そうすると、本件においては、A医師らは、右説明を怠ったことにより、花子が輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。そして、また、上告人は、A医師らの使用者として、花子に対し民法715条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。これと同旨の原審の判断は、是認することができ、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は採用することができない。
[12] 所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難し、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうか、又は原審の裁量に属する慰謝料額の算定の不当をいうものであって、採用することができない。

[13] よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 千種秀夫  裁判官 元原利文  裁判官 金谷利廣  裁判官 奥田昌道)
     目  次
第一 事案の概要及び問題の所在
 一 事案の概要
  1 当事者
  2 本件請求の内容
  3 原判決の判断
 二 問題の所在
第二 違法性及び法的保護に値する利益について
 一 医師の救命義務と患者の自己決定権
  1 原判決の判断の誤り
  2 医師の説明義務の範囲
   (一) 説明義務の根拠としての自己決定権の限界
   (二) 説明義務と医師の裁量権
  3 説明義務の懈怠と民法709条の違法性判断
   (一) 本件手術に至る事実関係
   (二) 検討
 二 法的保護に値する利益と自己決定権
第三 本件における治療方針の説明について
 一 原判決の判断
 二 原判決の判断の誤り
 三 まとめ
第四 本件輸血の適法性
 一 原判決の判断
 二 本件輸血の正当性
 三 まとめ
第五 結語

[1] 上告人は、上告の理由を次のとおり明らかにする。
1 当事者
[2] 上告人は、東京大学医科学研究所附属病院(以下「医科研」という。)を設置・運営し、相上告人A、同D、同Eの各医師(以下、右3名を「A医師ら」という。)及びB、C、Fの各医師(以下、右3名を「B医師ら」といい、全員を一括して「本件医師ら」という。)は、平成4年7月ないし9月当時、医科研に勤務し、訴訟承継前控訴人甲野花子(平成9年8月13日死亡。以下「花子」という。)の肝臓右葉付近に存在した後腹膜の悪性腫瘍の摘出手術(以下「本件手術」という。)に携わった者である。
[3] 花子は、昭和4年1月5日に出生し、昭和38年から「エホバの証人」の信者となり、信仰上の理由から輸血を忌避していた。
[4] 被上告人甲野太郎(以下「被上告人太郎」という。)は、花子の夫であり、また、同乙川春子、同甲野一郎(以下「被上告人一郎」という。)、同丙川夏子はいずれも花子の子であり、右4名は花子の相続人である。

2 本件請求の内容
[5] 本件は、花子が、本件手術の際に、本件医師らによって意に反して輸血された(以下「本件輸血」という。)として、上告人に対しては債務不履行又は不法行為を理由に、また、本件医師らに対しては不法行為を理由に、それぞれ損害賠償を求めたものである。
[6] 上告人に対する本件請求は、(a)本件手術を主たる治療内容とする診療契約の締結に際し、上告人との間で、手術中いかなる事態になっても輸血をしないとの特約を締結したにもかかわらず、上告人の履行補助者である本件医師らが、右特約に反し本件輸血をしたとして、債務不履行に基づく損害賠償を求めるとともに、(b)本件医師らが、できる限り輸血しないこととするが、輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血する治療方針を採用していながら、輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血を受けない旨の、花子の意思を認識した上で、その意思に従うかのように振る舞い、右治療方針の説明を怠って、花子に本件手術を受けさせ、本件輸血をし、右の行為によって花子の自己決定権及び信教上の良心を侵害したとして、民法715条に基づき損害賠償を求めるものであり、花子の死亡後、被上告人らによって承継されたものである。

3 原判決の判断
[7] 原判決は、右請求中、(a)の「手術中いかなる事態、すなわち輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血しない」(原判決はこれを「絶対的無輸血」と称する。)旨の特約違反の主張については、特約の成立が認められないとして上告人の債務不履行責任を否定した。
[8] これに対し、(b)の「できる限り輸血しないこととするが、輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血する」(原判決はこれを「相対的無輸血」と称する。)との治療方針を採用しながら、その説明を怠ったとの点については、A医師らが、絶対的無輸血の意思を有していた花子に対し、相対的無輸血の治療方針を採用していることを説明する義務を怠って本件手術を行い、本件輸血を実施したため、花子が、絶対的無輸血の意思を維持して医科研での治療を受けないこととするか、その意思を放棄して医科研での治療を受けることとするかについての選択(自己決定)の機会を奪われ、自己決定権及び信教上の良心を侵害されたとし、また本件輸血は、花子の救命のために必要であったことは認められるが、その違法性は阻却されないとして、民法709条、710条、715条に基づき、A医師らの使用者である上告人に対し、精神的損害の賠償を命じた。
[9] 一般に、「エホバの証人」と呼ばれる宗教の信者が患者である場合には、一方において、手術を含む最高の医療水準に基づく治療を求め、他方において、信仰上の理由から輸血を忌避する(その態様が個々の具体的なケースにおいて差異があることは原判決がその14ページ末行から16ページ1行目において認定するところである。)ため、治療に当たる医師と患者との間に極めて深刻な事態をもたらすことがある。すなわち、当該患者の救命上、手術が不可欠であり、手術による救命の可能性が相当の確実性をもって予測される場合において、手術に輸血が不可欠と予測されるとき、又は緊急事態における輸血の可能性が否定できないときは、担当医師は、眼前に救命可能な患者を見ながら、輸血による救命手段を執ることができないという医師の倫理に反する困難な事態に直面するのである(このような現場に直面した際の医師の苦悩について、例えば甲第13号証の1「医事法の今日的問題」54ページ下段及び57ページ下段の浅井登美彦医師の各発言参照)。そして。このような困難な事態は、担当医師において、患者の希望に可能な限り沿いながら治療に当たることとし、手術前の検討においては、無輸血での手術が可能であると診断することができた場合において、手術着手後、予測と異なる機序をたどり、救命のためには輸血が不可欠の事態に直面したとき、その極限に達する。かかる事態に直面した医師は、輸血という救命手段がありながら、患者の無輸血の意思に拘束され、本来、生を求めて手術に同意した患者が死に向かう事態を手をこまねいて座視すべきものであろうか。座視したことが患者の意思に基づくものとして、医師の法的責任が問われないとしても、救命のため輸血行為に及んだ医師の行為が法的に非難されるべきであろうか。これが本件において問われている根本の問題である。
[10] そして、ここで注意を要するのは、治療を求められた医師において、輸血拒否の下では治療に当たることができないとして、転医を求めることは、何らこの深刻な事態を解決することにならない点である。すなわち、転医により当該医師は当面の問題を回避できたとしても、患者の病状が進行する中で、いずれかの医師は患者の転医という方法により回避することができず、より病状の悪化した状態において、前記の深刻な事態に対峙せざるを得ないのである。この意味で、本件は臨床に携わる医師全体に関わる問題と言うべきである。
[11] 原判決は、このような困難な問題に対し、患者の自己決定権を法的に保護すべき価値の体系の中で至高のものと位置づけた。患者の主体性を最大限重視した右判断は、医師の倫理の問題に尽きるならば、もとより傾聴すべき一個の見解であると言えよう。
[12] しかしながら、本件で問われているものは、患者の生死の分かれ目という極限の状況において、患者の救命に全精力を尽くすべき医師の法的義務と患者の自己決定権との調和を、いかにして図るべきかとの問題である。両者の関係を、輸血を巡る臨床医家の認識をその歴史的推移の中に位置づけた上、法の立場から評価することを求められているという意味において、本件は、正に法と倫理が交錯する重大な問題に関わるものであり、かつ、その判断は、臨床の現場、ひいては患者全体に対する医療のあり方、例えば防御的医療(Defensive Medicine)の問題等にも重大な影響を及ばさざるを得ないものである。最高裁判所の明快なご判断が望まれる。
1 原判決の判断の誤り
[13] 原判決は、本件医師らには花子に対し相対的無輸血の治療方針を説明すべき法的義務があるとした上で、A医師らには右説明義務を怠った違法があるとする。
[14] しかしながら、右判断は、花子に対する相対的無輸血の治療方針につき法的説明義務を措定した点において誤りがあり、また、仮に右義務が措定され得るとしても、右義務違反に関する民法709条の違法の評価において考慮すべき事項を考慮せず、右義務の懈怠を直ちに民法709条の違法とする誤りを犯したものであり、ひいては民法709条の違法の判断を誤ったものである。

2 医師の説明義務の範囲
(一) 説明義務の根拠としての自己決定権の限界
[15] 原判決は、医師の説明義務の根源を患者の自己決定権に求め、この自己決定権を法的に保護すべき価値として極めて高く位置づける(原判決26ページ末行から28ページ5行目)。
[16] しかし、原判決のように、患者の自己決定権を説明義務の根拠とするとしても、その範囲は、自己の生命の喪失の結果となる選択にまで及ぶべきものではない。その理由は、以下のとおりである。
[17](1) 医師法及び医療法においては、医師の職分は、医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保することにあり(医師法1条)、医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師等の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるべきものとされている(医療法1条の2第1項)。また、医師は、正当な事由がなければ診療を拒んではならない(医師法19条1項)ものと定められている。
[18] 一方、刑法においては、自殺しようとする者の行為を容易にしたり、死を求める者の嘱託や承諾によって生命を喪失させる行為は、その者の同意にもかかわらず、違法行為として、処罰の対象とされる(同法202条)。
[19] このように、我が国の法体系においては、自己の生命を自ら処分する権利や、自己の生命を処分しようとする意思に他人を従わせる権利を認めていないことが明らかであるし(注釈刑法(5)62ページ)、救命のために最善の治療を尽くすのが医師の基本的使命であり、これを患者の意思で拘東することは予定されていない。
[20] したがって、患者の自己決定権の範囲は、自己の生命の喪失の結果となる選択にまで及ぶものではない。
[21](2) 患者が自殺の意思で治療を拒否することは、自己決定権の濫用であり、医師は、これを無視して診療をすることができるとされる(町野朔「患者の自己決定権」日本医事法学会編著・医事法学叢書第1巻49、50ページ)。
[22] この点については、原判決も、「自殺をしようとする者がその意思を貫徹するために治療拒否をしても、医師はこれに拘束されず……医師の治療方針が優先される。」(原判決27ページ9行目から28ページ1行目)と判示するところである。
[23] 原判決によれば、自殺の場合は、「ライフスタイル」や「自ら決定できる生きざま」として法的保護に値しないが、信仰上の理由がある場合には法的保護に値するということになろう。しかし、両者の違いは何ら明らかにされていないし、原判決の使用する「ライフスタイル」や「生きざま」という言葉自体、その内容も範囲も極めて多義的であいまいであって、法的義務の発生を説明するには不十分というほかない。また、実際にも、自らの生命を維持しないという選択について、その真の動機を第三者が判断するのは困難であり、信仰上の理由と区別して、厭世自殺のみを明らかに不合理と判断し得る客観的な基準もない。
[24] 医師が救命可能な患者の生命を救う行為は、当事者の意思や真の動機にかかわらず、社会的に相当な行為として認知されていることは、自殺者をその意に反しても救命する行為を不法行為とする議論がないことからも明らかである。原判決の判示は、我が国の法体系と整合しないばかりでなく、国民の常識とも乖離するものである。
[25](3) 原判決は、「いわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである。」(原判決28ページ4、5行目)と判示する。
[26] 右判示自体からは、原判決が本件を「いわゆる尊厳死」に当たると考えるものかどうかは明らかでないが、少なくとも、価値的にはこれと類似の関係にあると考えているものと思われる。
[27] 「いわゆる尊厳死」については、その定義自体についても確定的なものはないし、要件や効果についても同様であって、我が国において、尊厳死に関する確立した社会的合意は今日でも形成されていないと考えられるが、少なくとも、患者の意思に絶対的な優先順位を認めるものでない。
[28] 原判決は、本件手術によっても花子の治癒は望めなかったとして、本件手術の価値を不当に低く見るとともに、そのような認識に立って本件を尊厳死に類するものと考えたものとも思われる。しかしながら、本件では、花子の余命は、放置すれば約1年と見込まれ、本件手術は相当困難なものと判断されたものの、花子は、本件手術後5年間の生存が可能となった(原判決46ベーシ10行目)のであり、十分な医療効果がみられたのである。したがって、本件が尊厳死と同様の意味で患者の自己決定権の行使が尊重されるべき事案でないことは明らかである。
[29] 以上のように、患者の自己決定権は、自己の生命の喪失という結果の選択にまで当然に及ぶべきものではなく、我が国の法体系上も、また。社会通念上も、その絶対的な価値が承認されているものではない。
[30] したがって、患者の自己決定権から直ちに患者の生死に係わる本件輸血に関する治療方針の説明義務が生ずるとすることは誤りである。
(二) 説明義務と医師の裁量権
[31] 治療における患者の主体的立場を徹底して重視する立場からは、医師は、患者が望むあらゆる情報を告知すべき倫理上の責務があるといえよう。しかし、医師は、その一挙手一投足が患者の生死や病状に直接の影響を及ぼし得る立場にあることから、右情報開示の責務を法的義務にまで高めるに当たっては、医師の患者に対する右のような立場に十分配慮するとともに、患者の治療に直接の責任を持つ医師の合理的な専門医学的な判断を尊重する必要がある。そして、医師の専門医学的判断の合理性の有無は、治療時における臨床医学の実践における医療・水準に基づくことを要する。
[32] そこで、本件輸血当時における輸血の際の患者の同意の要否及び信仰上の理由による輸血忌避者に対する臨床医家の態度を原判決が確定した事実に即してみてみると、以下のとおりである。
[33] (a)平成元年、厚生省健康政策局長は輸血療法に関するガイドラインにおいて、「輸血療法を行う際には、患者またはその家族に理解しやすい言葉でよく説明し、同意を得た上でその旨を診療録に記録しておく。」ことを挙げたこと、(b)同2年中には日本医師会の生命倫理懇談会が絶対的無輸血の条件下での手術の実施をやむを得ないことではあるが肯定する旨の見解を発表したこと、(c)同2年から本件手術前までの間に北信総合病院、国立循環器センター、聖隷浜松病院、京都大学医学部附属病院、上尾甦生病院及び鹿児島大学医学部付属病院などが絶対的無輸血の条件下での手術を是認する見解を発表したことが認められる(原判決22ページ10行目から23ページ9行目)。
[34] これら一連の経緯からみると、平成元年ころまでは輸血のみを取り上げて同意を得る取扱いすら十分確立したものではなく、また、その後、本件手術が行われた平成4年ころまでには、絶対的無輸血の条件下での手術の実施を「やむを得ないこと」として是認する見解が示され、ようやく全国で僅か6つの医療機関が右見解に従い無輸血手術を行うことを表明したというのである。このことからすると、本件手術当時においては、全国の圧倒的多数の医療機関における輸血忌避者に対する対応は、救命の必要があり、輸血が医療上不可欠である場合には、患者の意思にかかわらず輸血をするというものであったものと推認されるのである。そして、このような対応は、医師の救命義務に立脚するもので、何ら非難されるべきものでないことは多言を要しない。
[35] 輸血忌避者に対する平成4年当時の臨床医家の右のような状況からすれば、輸血が唯一の救命手段である場合には、患者の同意を得ることなく輸血措置を採るということが臨床医学の実践における医療水準であったのであるから、医師に倫理上の説明義務を課するのはともかく、これを法的義務とすることは相当ではない。

3 説明義務の懈怠と民法709条の違法性判断
[36] 原判決は、A医師らの花子に対する相対的無輸血の治療方針に関する説明義務の懈怠を民法709条の適用上も直ちに違法であると判示する(原判決40ページ末行から41ページ1行目)。しかし、仮に、A医師らに本件輸血に関する法的な説明義務が肯定されたとしても、この義務の懈怠をもって直ちに民法709条の適用上も違法とすることは誤りである。
[37] 民法709条における違法性の判断は、被侵害利益の種類と侵害行為の態様との相関関係において考察すべきである。医師には患者に対する救命義務があり、また、その実現のための裁量も認められている。医師の説明の内容、方法等についても、それまでの診療経過、疾患の現状、患者の年齢・性格・精神状態、説明後に予想される患者の対応等を踏まえた合理的な裁量が認められるべきであり、花子に対するA医師らの対応を違法と評価し得るかどうかは、診療当時の臨床医学の実践における医療水準に照らして検討されるべきである。
[38] そこで、以下、原判決が確定した事実に従い、検討を進めることとする。
(一) 本件手術に至る事実関係
[39](1) 花子は、昭和38年からエホバの証人の信者となり、信仰上の理由で輸血をしないこととしていた。長男の被上告人一郎もエホバの証人の信者であり、その夫である被上告人太郎は、エホバの証人の信者ではなかったが、花子の信仰を理解し、輸血に関する意思を尊重していた(原判決の引用に係る第一審判決10枚目裏5行目から8行目)。
[40](2) 花子は、平成4年3月ころから体調の不良を訴え、同年7月6日、国家公務員共済組合連合会立川病院において、悪性の肝臓血管腫により手術の必要があるとの診断結果を告げられたが、立川病院では無輸血での手術を断られた。そこで、エホバの証人の医療機関連絡委員会のメンバーの医師等の協力を得て、無輸血で手術をする医療機関を探した。花子は、無輸血手術の可能性のある病院として、上尾の病院及び東京のA医師を教えられたが、A医師がそれまでにエホバの証人の信者に対する手術を無輸血でしていると聞かされ、A医師の所属する医科研に転医した(原判決の引用に係る第一審判決11枚目表1行目から裏8行目)。
[41](3) 一方、医科研では、花子を診断する以前から、エホバの証人の信者から依頼を受けて、外科的治療を行っており、甲状腺腺腫の右葉切除術、上皮小体腫瘍の摘出、総胆管嚢腫に対する胆嚢切除等の手術が行われ、いずれの事例でも無輸血で手術に成功していた(原判決の引用に係る第一審判決12枚目裏7行目から10行目)。また、医科研における最近の肝臓癌の治療のための切除術のうち7例は、1500ミリリットルの範囲の出血量ですんでおり、輸血がされたのは、出血量が1350ミリリットル、2685ミリリットル及び1950ミリリットルの3例であった(同15枚目表3行目から7行目)。
[42](4) A医師は、花子に対する超音波検査の結果、肝右葉付近に巨大な腫瘍があることなどの所見を得、その摘出手術は相当困難なものとの感じを抱いた(原判決11ページ5行目から7行目)。
[43] また、花子の余命は、本件手術を実施しなければ1年余にすぎないと見込まれた(原判決46ページ8、9行目)。
[44](5) 平成4年9月14日、A医師は、被上告人太郎及び同一郎に対し、手術の日時・内容について10分間程度の説明をした際、輸血のことについて特に言及しない同人らの態度を見て、同人らが輸血の点を避けようとしたとの印象を持った(原判決の引用に係る第一審判決15枚目表8、9行目、17枚目表6、7行目)。
(二) 検討
[45] 右一連の事実によれば、立川病院で手術を断られた花子は、エホバの証人の信者に対する無輸血治療の実績のあった医科研に望みを託したものであって、手術自体は望んでいたのであり、生を希求していた。本件手術直前花子の症状は、肝原発の血管系腫瘍、肝細胞癌、悪性後腹膜腫瘍等と診断され、摘出手術適応であり、摘出手術を受けない場合には、約1年の余命と見込まれ、花子の救命のためには本件手術は不可避であった。花子は、信仰上の理由による絶対的無輸血の意思を表示していたが、A医師らが右意思を明示的に受け入れたものではなかった。A医師らは術前の検討において、無輸血で本件手術に成功する可能性が高いと判断する相当な根拠を持ち、花子の意向に添える可能性は相当程度あったが、本件手術は巨大な腫瘍の摘出手術であり、また、手術の対応としては、予想し得ない事態が生じる場合があることも前提とせざるを得ないため、輸血の可能性について医師として正確に述べるとすれば、「できる限り輸血しないこととするが、輸血以外に救命手段がない状態になった場合には輸血する」と伝えざるを得ない状況にあった。ところが、花子は、信仰上輸血をしないとの立場にあり、その夫もその意思を尊重し、長男はより積極的に輸血拒否を主張しており、また医科研の紹介自体、エホバの証人の医療機関連絡協議会のメンバーによるものであることなどからして、相対的無輸血の可能性を告知したならば、花子が明示的に絶対的無輸血の意思を放棄した上で医科研での手術を受けるという選択をすることは有り得ない状況にあった(原判決39ページ5行目から7行目参照)。
[46] A医師らは、このような状況下において、相対的無輸血の治療方針を説明することは、花子に手術拒否の選択を強いる結果とならざるを得なくなると判断した(原判決引用に係る第一審判決同17枚目表1行目から4行目)が、それは、花子の希望でもある無輸血で救命する可能性(原判決引用に係る第一審判決15枚目3行目から7行目によれば、最近10例中7例までもが他人の血を輸血することなく手術ができたのであるから、極めて高い可能性である。)をも含めて否定してしまう結果とならざるを得ないものであった。
[47] 医師の救命義務は、極めて社会性の高い価値を実現するものである。本件手術に携わった本件医師らは、患者の救命と花子の望む無輸血による手術の実施という二つの要請を共に実現できる可能性の最も高い我が国最高水準の医療機関の医師として、この要請を共に実現するため、医師の良心に従い、誠実に職務を遂行した。その結果、本件手術自体は無輸血で成功し、患者の救命という目標は達成したものの、術後に予測し得ない出血の発生により、やむをえず本件輸血を実施し、結果的に花子の要請に応えることができなかった。
[48] 輸血が救命の唯一の方法である場合の輸血忌避者に対する臨床医家の対応は、前記2(二)に述べたとおりである。また、原判決も判示するとおり、
「花子が医科研に受診し入院して本件輸血を受けた平成4年7月ないし9月当時、エホバの証人患者の手術に際して絶対的無輸血の治療方針を採用するのが相当か、それとも相対的無輸血の治療方針を採用するのが相当かについて、確定的な見解があったものではな」く、さらに「わが国の医療現場における説明及び同意(インフォームド・コンセント)の観念及びこれに関するシステムは、なお流動的な形成途上」(原判決47ページ1行目から末行)
にあったのである(原判決後の新聞等における本件の報道を見ても、医師や医療関係者間において、一定の合意が成立していないことは明らかである。例えば、平成10年2月21日付け朝日新聞の特集記事参照。)。したがって、少なくとも、本件輸血が行われた平成4年当時は、相対的無輸血の治療方針を採用した医師は、その旨の説明をすべきであるという考え方が、診療当時の臨床医学の実践における医療水準であったとまでは認めることができない。
[49] 花子は、本件手術を受けるに際し、絶対的無輸血の意思を表明していたもので(なお、その具体的表明の態様については後記第三参照)、仮に、花子の自己決定権及び宗教的信念が法的に保護されるべき利益であるとしても、本件のような具体的状況を相関関係的に総合すれば、本件輸血が行われた平成4年当時の臨床医学の実践における医療水準に照らし、相対的無輸血の治療方針を説明しないという選択が、患者の意思をできる限り尊重しつつも救命のため最善の措置を採るという医師の法的義務に反するものでないことは明らかである。原判決は、患者の自己決定権なるものを至高のものとする立場から、A医師らの花子の生死に係わる極限的状況における真摯な対応を「医師の思い上がり」(原判決47ページ末行から48ページ1行目)と評価したもので、人の生死に直面する中で決断せざるを得ない医療現場の苦悩をはなはだしく軽視したものといわざるを得ない。
[50] 原判決は、花子の自己決定権を絶対的なものと位置づけ、輸血拒否者に対する臨床医学の医療水準の解釈を誤るとともに、輸血の説明に係る医師の裁量を否定し、相対的無輸血の治療方針の説明を法的義務と認めた結果、A医師らの対応を違法としたものであって、説明義務違反に係る民法709条の解釈適用を誤ったものである。
[51] 原判決は、自己決定権を、「各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができる」権利と定義付けした上(原判決27ページ6、7行目)、前記のとおり、花子は、絶対的無輸血の意思を維持して医科研での治療を受けないこととするか、その意思を放棄して医科研での治療を受けることとするかについての選択(自己決定)の機会を奪われ、自己決定権を侵害されたと判示している。
[52] しかしながら、原判決が右に説く自己決定権なるものは、「自己の人生のあり方」という事柄の性質からして、極めて主観的なものであり、その内容も広範多岐にわたり、その外延も極めて漠然としたものにならざるを得ない。
[53] 人は、他人の権利や公共の利益ないし秩序を害しない限り、自己の人生のあり方を自ら決定することができるといえるにしても、そのことと右決定のために他人にどれだけのことを要求し得るかということとは自ずと別の問題である。右自己決定権の内含、外延は何かはもとより、ある人の自己決定のために他者はどれほどの法的な協力義務を負うのか、また、他者の自己決定に必要な情報を提供しなかった者はいかなる場合に賠償義務を負うことになるのかという問題については、未だに論議さえ十分にされているとはいい難い状況にある。
[54] そして、このような状況の下で、かかる不明確かつ広範な内容を含み得る患者の自己決定権を前提として、医療の現場にある医師にそれに対応する法的な説明義務を課すとすると、医師の説明すべき内容はほとんど無限定なものとなって、適切な医療の実践を妨げる結果となる。
[55] 以上のことからすると、少なくとも、具体的な医療実践上の不利益を離れて、単に自己決定の機会を奪ったこと自体を法的保護に値する利益の侵害とすべき理由は見いだし得ない。従来の医療過誤訴訟においても、患者に対する説明義務違反を理由として、生命・身体に対する侵害ではなく、自己決定権の侵害のみを認め、慰謝料を認容した裁判例も少なからず存在する。しかし、これらは、いずれも、何らかの医療実践上の不利益が認められた事案であり、そのような不利益が全く認められない事案について純粋に自己決定権を法的保護に値する利益と認めて、慰謝料を認容した裁判例は見当たらない。本件は、医療行為としては、期待した医療効果が上がった事案であり、輸血自体によって何らかの医学的な不利益が生じた事案ではない。このような医療実践上の不利益の存在しない事案について、自己決定権自体の侵害を理由として、賠償責任を肯定すべきではない。
[56] 原判決は、一方で、花子は、絶対的無輸血の意思を維持して医科研での診療を受けないこととするのか、あるいは絶対的無輸血の意思を放棄して医科研での診療を受けることとするかの選択の機会を奪われ、その自己決定権を侵害されたとしながら、他方で、本件輸血を受けたことを花子の損害とし、本件輸血自体について違法性を検討している。本来、自己決定権を法的保護に値する利益とするのであれば、花子の損害は純粋に選択の機会を奪われたことに尽きるはずである。しかし、原判決は、花子は、説明を受けていれば本件手術について同意しない選択をしたと認められると判示しているのであるから、種々考慮の上、選択する機会が奪われたことではなく、本件輸血を受けたことにより宗教的信念を侵害されたことを問題としているのである。原判決も、
「(なお、本件手術についての花子の同意は、治療方針について十分な説明を受けずにされた瑕疵のあるものではあるが、結果として手術が輸血なしでされた場合には、花子に損害が生ずることはないから、被控訴人らの責任も生じない。)」(原判決41ページ1行目から4行目)
と判示しているから、選択の機会の喪失という純粋な自己決定権・の侵害自体によっては、慰謝料を認めるつもりはないようである。本件では、本件輸血によって侵害されたとする宗教的信念との関係で、本件輸血の違法性が端的に問題とされるべきであって、選択の機会という不明確なものを法的保護に値する利益として重要視し、説明義務違反ないし損害発生の根拠とすることは誤りである。
[57] 以上によれば、原判決は、自己決定権を法的保護に値する利益と認め、慰謝料を認容した点において、民法709条、710条の解釈適用を誤った違法がある。
[58] 仮に、本件において、A医師らが花子に対して相対的無輸血の治療方針を説明すべき法的義務を負うとしても、原判決が認定した事実によれば、以下に述べるとおり、右説明義務は履行されており、花子において自己決定権を行使することは可能であり、相対的無輸血の条件下での本件手術は同人の自己決定権行使の結果というほかないのであるから、自己決定権の侵害があったとする原判決は誤りである。
[59] 原判決は、D医師が、輸血以外に救命手段がない事態になれば、患者が誰であれ輸血する考え方を抱いていたところ、平成4年9月7日、花子に対し緊急時には救命のために輸血する方針である旨を告げ、花子から「死んでも輸血をしてもらいたくないし、必要なら免責証書を提出する」と言われたが、「そのような証書をもらっても仕方がない」と返答した旨認定(原判決33ページ8行目から34ページ2行目)した上、次のとおり判示する。すなわち、
「D医師は、一応相対的無輸血の方針を説明していると認められるが、花子がこれに納得せず、絶対的無輸血に固執していることを認識した以上、そのことを他の担当医師特に責任者である被控訴人Aに告げ、担当医師団としての治療方針を統一すべき義務を負い、その内容が花子の固執しているところと一致しなければ、自ら又は被控訴人Aを通じて、花子に説明してなお医科研における入院治療を継続するか否か特に本件手術を受けるかどうかの選択の機会を与えるべきであった。そして、被控訴人A、同D及び同Eは、無輸血で手術を行う100%の見込みがないと判断した時点で(少なくとも術前検討会の後花子及び家族への手術説明の際には)、担当医師団の方針としてその説明をすべきであった。」
「被控訴人Aら3名は、輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血する治療方針、すなわち、相対的無輸血の治療方針を採用しでいながら、花子に対し、この治療方針の説明を怠ったものである。」(原判決35ページ3行目から36ページ2行目、同36ページ9行目から37ページ1行目)。
[60] しかしながら、原判決の認定した事実によれば、本件医師らは、輸血に係る方針を花子に対し、説明していたというべきである。
[61] すなわち、花子の主治医であるD医師は、平成4年9月7日、花子に対し、
「手術には突発的なことが起こるので、そのときは輸血が必要です。」「輸血しないで患者を死なせると、こちらは殺人罪になります。やくざでも、死にそうになっていて輸血をしないと死ぬ状態だったら、自分は輸血をします。」
と述べ、緊急時には救命のために輸血する方針である旨を伝えたばかりでなく、花子から
「死んでも輸血をしてもらいたくない。そういう内容の書面を書いて出します。」
と言われたのに対し、
「そういう書面をもらってもしょうがないです。」
と返答して、花子の申し出を明確に拒否した(原判決の引用に係る第一審判決13枚目表4行目から9行目、原判決17ページ11末行から18ページ8行目、同33ベーシ10行目から34ページ2行目)。また、同月11日、E医師は花子に対し再度「輸血はできないですか。」と質問した事実がある(原判決引用に係る第一審判決13枚目表末行から裏1行目)。
[62] D医師の右告知は、明確に相対的無輸血の治療方針を説明するものであるし、E医師の右質問も、本件医師らにおいて絶対的無輸血の申入れを受け入れないことを花子に理解させるに十分なものというべきである。そして、これらの告知内容は本件医師らの方針と一致するものであるから、右告知は、輸血に係る説明義務の履行と評価することができる。しかも、本件医師らにおいて、絶対的無輸血の治療方針を採ることを明言したことはないのであるから、花子には、「絶対的無輸血の意思を維持して医科研での診療を受けないこととするのか、あるいは絶対的無輸血の意思を放棄して医科研での診療を受けることとするのかの選択の機会(自己決定権行使の機会)」(原判決39ページ1行目から4行目)が与えられていたというべきである。
[63] なお、A医師は、平成4年9月14日、被上告人太郎及び同一郎に対し、本件手術について説明するとともに、「術後再出血がある場合には、再び手術が必要となる。この場合は医師の良心に従って治療を行う。」と述べた(原判決引用に係る第一審判決15枚目表8行目から裏5行目)。
[64] 原判決は、この点について、A医師の右説明は、その内心の意図はともかく、相対的無輸血の治療方針を表明するものではない(およそ輸血について言及したものと認めることはできない。)としている(原判決19ページ1行目から3行目)。しかし、右説明が、術後に出血が起こり、どうしても輸血しなければならないときには輸血する方針を示したものであることは、被上告人太郎及び同一郎には容易に理解し得たものであり、右事実に対する原判決の評価は経験則に反し、著しく不合理であるといわざるを得ない。そうであるからこそ、被上告人一郎がA医師に免責証書を手渡したものの、被上告人太郎及び被上告人一郎は、それ以上、輸血のことについて特に言及しようとしなかったのであり、それゆえに、原判決は被上告人一郎からA医師に手交された免責証書の交付をもって「(A医師は)形式的なものと考えてこれを受け取った。」と認定しているところである(原判決の引用に係る第一審判決16枚目裏末行から17枚目表1行目)。
[65] また、前記経緯のように、花子自身は、本件医師らから絶対的無輸血についての何らかの確約も得ていないにもかかわらず、A医師らに対して絶対的無輸血についての最終的な意思の確認をしようとしていないし、手術後においても、この点について、何らの確認もしていない。その意味で花子自身の対応は、消極的な形ではあるが同人の自己決定権の行使の結果というべきであり、できるだけ輸血しないで手術しつつ救命を最優先する相対的無輸血の方針を受容していたというほかはない。
[66] 原判決は、以上の一、二に摘示したような事実関係を踏まえた上で、絶対的無輸血の特約の成否に関して、
「花子は、口頭により絶対的無輸血を求める旨の意思を表示していることは認められるが、文書上はその意思は明確でない。また、被控訴人医師らは、口頭によっても、文書によっても右花子の求めに応ずる旨の意思を表示しているとは認められないが、できる限り輸血をしない旨の意思表示はしていることが認められる。したがって、絶対的鱇輸血の合意が成立していると認めることはできない。(手術に当たりできる限り輸血をしないこととする限度での合意成立の効果は認めるべきであるとする)」(原判決14ページ2行目から8行目)
と説示する。
[67] 右説示は、本件手術に際しての輸血に関する相互の理解状況を適切に表しているものということができる。すなわち、花子は絶対的無輸血について、本件医師らから何らかの確約を得ることができなかった。むしろ花子とA医師らとの間には、原判決が右説示において「手術に当たりできる限り輸血をしないこととする限度での合意成立の効果」、換言すれば「相対的無輸血の合意成立の効果」を認めるべき状況にあったのであるから、花子において、そのまま医科研において本件手術を受けるか否かの意思決定を行う機会は十分与えられていたのであり、花子が本件手術を承諾したのも、右機会を踏まえてのものであったとみるべきものである。そうすると、本件においては、輸血に係る説明は、自己決定権の行使の機会を確保するに足りる程度にはされていたものというべきである。
[68] したがって、原判決には、民法709条の解釈適用を誤った違法がある。
[69] 原判決は、A医師らとの関係において、本件輸血自体を違法と判示した。
[70] すなわち、
「本件輸血は、同被控訴人(代理人注。A医師)らが前記説明を怠ったことによって発生したものであるから……本件輸血が花子の救命のために必要であったことをもって同被控訴人らか前記説明を怠ったことの違法性が阻却されることはない。そして、この違法性が阻却されない以上、前記説明を怠ったことによって発生した本件輸血の違法性も阻却されることはない」(原判決41ページ5行目から末行)
としている。
[71] そしてその理由として、原判決は、本件輸血をその必要性ゆえに適法とするならば、
「花子の意思にかかわらず、また、前記説明をするとしないとにかかわらず、およそ本件輸血は違法でないこととなるが、このような考え方は……救命のためという口実さえあれば医師の判断を優先することにより、患者の自己決定権をその限りで否定することとなるから、採用できない。」(原判決42ページ2行目から6行目)
と説明する。
[72] しかしながら、原判決の認定事実によれば、本件手術終了の時点における花子の出血量は、2245ミリリットル余りで、低血圧、頻脈、創浮腫が著明となっており、この時点で、適切な対処をしなければ、花子が不可逆的なショック状態に陥り、生命の維持が困難となる状況であって、本件輸血以外には他に適切な救命手段はなかった(原判決44ページ4行目から45ページ4行目)。
[73] したがって、この段階における判断として、本件輸血の必要性及び相当性には疑いがなく、A医師らが、麻酔科の医師らの判断を受け入れて本件輸血を行ったことは、医師として極めて正当な対応であった。
[74] 原判決が、「本件輸血が花子の救命のために必要であったことは、認められる。」(原判決40ページ6、7行目)としているにもかかわらず、これを違法と判断するのは、そうしなければ、「救命のためという口実」によって、患者の自己決定権が否定されることになるからだという。
[75] しかし、本件輸血が、B医師らとの関係では違法性がないとされるにもかかわらず、A医師らとの関係では、患者の自己決定権が否定されるから違法であるとするのは、背理というほかはない。もともと自己決定権それ自体を、医療実践上の不利益の有無と関係なく、法的保護に値する利益とすべきでないことは、既に第二、三で述べたとおりである。仮に、これを肯定するとしても、花子は本件輸血により宗教的信念を侵害されたというのであるから、本件においては、本件輸血自体の違法性が問われるべきであり、自己決定権の侵害とは別個に論じられるべきである。
[76] 本件輸血の判断は、本件手術終了の時点において、医師として真摯に状況を判断した上でのものである。
[77] およそ手術には、想定し得ない事態の発生の可能性が常に存在し、救命のための臨機応変の対応が必要とされる。手術中に想定外の状況が生じる可能性は常にあるから、輸血を全く想定していなかった場合であっても、輸血が必要となることがある。このような場合において、患者に生じた致死的状況を放置して、救命手段として有効な輸血をしないことは、前記のとおり、医師の義務違反として現行法上も許容されておらず、花子の宗教的信念を考慮しても、なお輸血を行うべきことが、少なくとも平成4年当時の平均的医師の認識として正当であったことは明らかである。
[78] 以上の検討によれば、本件輸血については、社会的に相当な行為として何らの違法性も存しないし、少なくとも、患者本人の同意を得る余裕のない緊急事務管理行為として違法性が阻却されるというべきである。
[79] 本件輸血は、原判決も認めるように、花子の救命のために必要であった。したがって、A医師らのした本件輸血は、花子の同意がなくとも、それ自体社会的に容認され、また期待された行為であり、何らの違法性も存しないし、少なくとも患者本人の同意を得る余裕のない緊急事務管理行為として違法性が阻却されるというべきである。
[80] 原判決は、これを事前の説明義務と結び付け、必ずしも明確でない理由によって違法とするが、本件輸血は、本件手術終了時点での麻酔科医師の専門的判断に基づくものであり、事前の説明内容にかかわらず違法性は存しない。
[81] したがって、本件輸血を違法とする原判決の判示には民法709条の解釈適用を誤った違法がある。
[82] 本件において、A医師らは、我が国最高水準の医療機関の医師として、患者の救命という医師の使命と、信仰上の理由に基づく無輸血による手術の実施という二つの要請を共に実現するため、医師の良心に従い、誠実に職務を遂行した。結果的に花子の無輸血の要請には応えることができなかったが、本件の具体的状況を相関関係的に総合すると、相対的無輸血の治療方針を即物的には説明をしないという選択が、本件手術当時における臨床医学の医療水準の中において、医師の裁量を逸脱して違法の評価を受けるとは考えられない。また、患者の自己決定権行使という観点からすれば、本件では、その機会を与えるに足りる程度の方針は伝えられており、説明義務の不履行自体認められないし、さらに、本件輸血自体は、その状況に照らして、違法とはいえないことが明らかである。
[83] したがって、本件において、患者の自己決定権を至高のものと措定した上で輸血に係る説明義務の存在を肯定し、A医師らの説明義務違反を理由として、自己決定権の侵害を認めた原判決には、民法709条、710条の解釈適用を誤った違法があり、これを前提に民法715条を適用して上告人の責任を肯定した原判決の違法は明らかである。
[84] 原判決の判断を是認するならば、絶対的無輸血の治療を希望する患者は、いかに無輸血による手術が成功する可能性が高い場合であっても、多くの医療機関において、手術を拒否されるというような事態も生じかねない。原判決の判断は、自己決定権を法的に保護すべき利益の中で至高のものと位置づけるに急な余り、患者の救命に全精力を尽くすべきことを要求され、患者の生死の分かれ目の極限に臨む医師の現実の苦悩を余りにも軽視したものであり、本件事案の解決に止まらず、医療現場に対して、医療の根幹にかかわる極めて深刻かつ重大な影響を及ぼすものである。
[1] 原判決は、附帯上告人(被上告人)らの請求のうち、附帯被上告人(上告人)国に対する契約責任(債務不履行責任)を認めず、また、附帯被上告人(上告人)国及び3人の被控訴人医師すなわち、A、D、E(この3人はいずれも、関連事件 東京高等裁判所上告提起事件平成10年(ネオ)第107号事件の上告人である)に対する不法行為責任は認容しながらも、その損害賠償認容額を合計55万円という著しい低額にとどめた。附帯上告人(被上告人)らはこれらの2点につき不服であるので、ここに附帯上告する。
[2] すなわち、まず、原判決は、「事実及び理由」中の第五「争点に対する判断」の一「争点一(無輸血特約)について」において、絶対的無輸血の合意が成立していると認めることはできず、手術にあたりできる限り輸血をしないこととする限度での合意成立の効果は認めるべきであるとして、附帯被上告人(上告人)国の契約違反を理由とする附帯上告人(被上告人)らの請求を棄却した。しかし、かような判断とそれを導いた理由には、後に詳述するとおり、憲法解釈に誤りがあるとともに、理由不備・理由齟齬の違法があり、かつ判決に影響を及ぼす重大な法令違反(経験則違反)がある。
[3] さらに、原判決は、「事実及び理由」中の第五「争点に対する判断」の四「争点四(損害)について」において、
「花子が本件輸血によって医療における自己決定権及び信教上の良心を侵害され、これにより被った精神的苦痛は、大きいものがあったものと認められる」
と認定していながら、その実、憲法上の重要な基本的人権であるこれら自己決定権や信教の自由の侵害の大きさをあまりにも過小評価するものであり、医療訴訟における期待権侵害などに関する過去の類似の判例に比し、認容額は著しく低額である。加えて、附帯被上告人(上告人)国の被用者であった医師ら(関連事件 東京高等裁判所上告提起事件平成10年(ネオ)第107号事件の上告人A、D、E)の本件行為の不誠実性を看過しており、これらは要するに、原判決には、憲法解釈に誤りがあるとともに、理由不備・理由齟齬の違法があり、さらに判決に影響を及ぼす重大な法令違反があると言わねばならない。
[4] 原判決は、絶対的無輸血契約の成立を認定しなかった一方で、いわゆる相対的無輸血契約(「手術に当たりできる限り輸血をしないが、輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血をする」という合意)の成立の効果を認めた。しかし、このように、絶対的無輸血の合意といわゆる相対的無輸血の合意という二つの分類分けはおよそ当事者の念頭になかったものであり、相対的無輸血合意の効果を認定したことはまったく当事者の意思に反している。
[5] 後述するように、花子の意思は、あくまでも輸血をしないという条件での手術依頼であり、花子は一貫して絶対に輸血は受け入れないとの意思を表明していた。被控訴人医師ら(以下、「Aら」という)も、その花子の右意思を熟知したうえそれを尊重するように振る舞い、輸血をするかもしれないということを終始秘していた。花子が医科研病院で手術をしなくなるのを避けるために意図的に輸血の可能性を秘匿していたのである。このような医師側の不誠実な行為をもって花子の不利益になるような契約の効果を認めるのは正義に反する。

[6] 原判決は、本件で絶対的無輸血の合意が成立していると認めることはできないと判断した理由として、
(a)花子が口頭で絶対的無輸血を求める旨の意思を表示していることは認められるが、文書上は、その意思は明確でないこと、
(b)Aらは、「輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血はしない」と明言しておらず\、口頭によっても、文書によっても花子の絶対的無輸血の求めに応ずる旨の意思を表示しているとは認められないこと、
(c)エホバの証人の信者である患者の症例報告によれば、エホバの証人患者は、多くが絶対的無輸血の意思を表明しているが、輸血の承諾をした事例や相対的無輸血を承諾した事例などがあり、エホバの証人患者の輸血について採る態度はさまざまであること、
(d)医療の専門性に鑑み、医師はその専門知識及び能力に基づきその良心に従って医療内容を決定すべきであり、患者による治療内容に対する注文は、通常は単なる希望の表明に過ぎず、原則としては、医師が明示に承諾した場合でなければ、そのような医師の治療方針と抵触する合意が成立したと認めるべきではないところ、Aらは絶対的無輸血の治療方針を採用せず、相対的無輸血の治療方針を採用していたこと、
を挙げている。
[7] 以下、(a)ないし(d)の誤りを論証する。
[8] 原判決及び第一審判決自身認定しているとおり、花子は絶対的無輸血の意思を有し、これをAらに少なくとも口頭で幾度も伝えており、Aらも花子が絶対的無輸血の意思を有していたことを十分に承知していたのであるから、なぜ(a)の点が絶対的無輸血の合意を否定する根拠となるのか理解に苦しむ。
[9] 花子の輸血拒否の意思はきわめて固く、Aらもそのことは十分承知していたことを裏付ける事実(いずれも当事者間に争いがなく、原審及び第一審が認定した事実)のいくつかを以下に挙げる。

[10] 花子が医科研病院を受診したのは、かねて入院中の立川病院では輸血なしでの手術はできないと言われ、医療機関連絡委員会のメンバーの訴外Xから、Aがかつてエホバの証人の患者に無輸血手術をした経験があると聞いたからであり、Aは、花子が輸血なしでの手術を受けることを求めて医科研病院に受診したという右の事情を知っていた。

[11] 花子が医科研病院を外来で受診した際(平成4年7月28日)、同席していた附帯上告人(被上告人)甲野一郎は、Aに対し、「ご存知だと思いますが、母は30年間エホバの証人の信者をしていて、輸血することはできません。」と伝えている。

[12] その後も、花子は、被控訴人Eの「血の一滴でも輸血するのはだめですか。」との問いに、「できません。」と答えており(入院時の平成4年8月18日)、被控訴人Dの「手術には突発的なことが起こるので、そのときには輸血が必要です。」、「輸血しないで患者を死なせると、こちらは殺人罪になります。」との申し出に対しても、「死んでも輸血をしてもらいたくない。そういう内容の書面を書いて出します。」と返答しており(同年9月7日)、これは原判決書の18頁によると「絶対的無輸血の意思を口頭で表明したものである」とされている。また、被控訴人Eの「輸血できないですか。」との再度の質問にも、花子は「できません。」と明確に回答している(同年9月10日)。

[13] そして、同年9月14日、術前説明の際に附帯上告人(被上告人)甲野一郎はAに対して、念を押して、いざとなったらセルセイバーを使えることを伝え、さらに、「先生方を信頼しています。でも、本人の意思をぜひ尊重してもらいたいし、ご迷惑をかけたくないので受け取っていただきたい」と言い添えて、免責証書(乙第4号証)を手渡している。
[14] 右免責証書には、「輸血を受け入れません」と一度だけ記載されているのではなく、(絶対に輸血を拒否することで知られていた)エホバの証人であるがゆえの輸血拒否であることが記載され、医師が輸血使用を必要と判断する場合であってもやはり輸血を拒否するということも重ねて記されている。

[15] Aらが、術前には、「輸血をしなければどうなるかについては、それを説明すれば原告(花子)は手術を拒否すると考えて、あえて説明をしなかった」し、本件輸血行為を実施する段階でも、「原告(花子)が輸血をすることを知ると抵抗して輸血の実施が困難になると考えて」おり、輸血後にも、「本件輸血の事実を告げることが原告(花子)のためにならないと考えて、本件輸血をしたとの説明をしなかった」と、自ら主張していることからしても、Aらが花子の絶対的無輸血の意思を熟知していたことは明らかである(この点、第一審、原審とも「被告(被控訴人)医師らが手術中いかなる事態になっても輸血を受け入れないとの原告(花子)の意思を認識していたことは明らか」であると認定したとおりである)。

[16] 以上のとおり、花子は、最初から輸血をしないという条件で手術を申し込んでいたのであり、もし輸血をされる可能性があるなら、立川病院を退院したのと同様に医科研での手術を承諾せず、別の病院に移ったことが確実である。医科研病院へ来る前から、また医科研病院に入院してからも一貫して絶対的に輸血を拒む意思を表明していたのであり、免責証書の内容もその花子の態度を再確認したものと見ることができる。実際、Aらも、この免責証書を見て、花子の意思が依然として変わっていないということを理解していたのである。
[17] なお、原判決書の19頁には、免責証書の記載文言について「「どんな損傷」という表現が用いられているが、「傷」という語感からは死の結果をも許容する趣旨かどうか疑いの生ずる余地がある」と述べているが、「どんな損傷」という言葉を「致死的損傷」は含まないと読むことには無理があり、原判決のこの推論はこじつけであって、文言を曲解していると言わねばならない。
[18] さらに、免責証書が交付されたのは9月14日であるが、乙第1号証(カルテ)の14頁の9月14日当日欄に記録された「患者家族、本人とも輸血は絶対してほしくないといっている」という花子側からの聴き取りの結果からわかるように、いかなる場合にも輸血を拒否するとの花子の意思はきわめて固く、Aらもそのことを十分認識していたのである。
[19] したがって、原判決が、絶対的無輸血の合意を否定するにあたり掲げた理由の(a)の点はおよそ根拠となり得ない。
[20] 原判決が挙げる(b)の点についてであるが、Aらが「口頭によっても、文書によっても花子の絶対的無輸血の求めに応ずる旨の意思を表示しているとは認められない」という原判決の判断は、明らかに経験則に反し、意思表示(法律行為)の解釈を誤った違法がある。
[21] なぜなら、Aらは右三で述べたような花子の一貫した絶対的輸血拒否の意思を十分認識しつつ、左のとおり、花子の意思を受け入れたと認められる対応をしていたからである。

[22] Aは、花子側からの無輸血での手術の申し入れに対し、平成4年7月28日、「いざとなったら、セルセイバーがあるから大丈夫です。本人の意思を尊重して……きちんとやっていきます。」と答えている。

[23] 同年9月14日の術前説明の際には、Aは、花子らから差し出された免責証書(乙第4号証)を「わかりました。」と言って受け取り、目を通した上で被控訴人EかDに手渡している。
[24] 右免責証書には、
「私は、……血液または血液成分のいかなる輸注も受け入れることができません……私は、エホバの証人の一人として、この医療および信教上の指示書を作成いたします。私は、治療にあたってくださる医師の方々が輸血もしくは血液成分の使用が必要であると判断される場合のあることを理解しておりますが、そのような場合であっても私はその見解を受け入れることができず、ここにお伝えする指示を固守します。」
と記載されているが、Aらは何ら異議を述べることなく右書面を受け取っている。
[25] 意思表示は、表意者の内心の効果意思とは無関係に、あくまでも、表示行為の客観的な意味によって解釈されるものである(通説)。つまり、その表示行為の意味は、それが社会において通常有する意味に即して判断されるということである。
[26] 本件においては、Aは前記免責証書を「わかりました」と発言して受け取り、同席した他の医師(D、E)もAからそれを受け取り、何ら異議を述べなかった。このように、一方当事者が誰もが明確かつ一義的に理解できる方法で意思を表示しだのに対し、他方当事者が「わかりました」と答えて何ら異議を述べることなくその文書(意思表明)を受け取った場合、書面の作成者・提出者のその表明された意思に対して同意したと解するのが、経験則に基づく常識的な解釈である。さもないと、契約の安全性を著しく損なうことになる(西野喜一「宗教的理由による輸血拒否と専断的輸血」判例タイムズ第955号108頁参照)。
[27] 結局本件では、花子の無輸血治療の申し込みに対してAらの承諾の意思表示があり、花子と附帯被上告人(上告人)国との間に絶対的無輸血治療の合意が成立したと解釈するほかはない。
[28] ちなみに、本件事件当時の医療現場の状況として、医師がエホバの証人の患者から輸血拒否の申し立てがあった時は、患者の意思を書面(免責証書)によって明確にすることを求め、これによって医療側も患者の意思に従うという取り扱いが、左記のとおり多くの医療現場で行なわれていた(なお、誓約書の類は、本件で使用された「免責証書」と同様、必ずしも医師側の署名は必要とされていない)。
(一) 鹿児島大学医学部付属病院使用の誓約書(甲第12号証の2、平成3年)
(二) 京都大学医学部医の倫理委員会方針(甲第12号証の7の3、平成3年)
(三) 福井医科大学付属病院指針(甲第12号証の9、平成4年)
(四) 鳥取県立中央病院指針「成人の場合は、本人の輸血拒否の意思を尊重し輸血は行わない。意識がない場合でも、本人の輸血拒否の宣言書があればそれを尊重する。」(甲第12号証の10、平成4年)
(五) 東京厚生年金病院使用の申立書(甲第12号証の12、平成5年)
(六) 済生会下関総合病院使用の申立書(甲第12号証の15、平成6年)
[29] 以上のような書面の交付がエホバの証人の患者からなされ、医師はそれにしたがって輸血をしないで可能な限りの治療を行なうというのが実状であった。
[30] エホバの証人の患者から輸血拒否の証書を異議を述べることなく受け取っておいても、医師は絶対的無輸血治療の承諾をしたことにはならないなどという非常識な解釈はこれらのどこにも見い出せない。
[31] 次に、(c)の点であるが、本件契約の内容を解釈するについては、そもそも本件医療契約の当事者(国側に関しては、Aないし主治医であるD、E)の意思がどこにあったのかを本件当事者の態度に即して考えることが必要であり、他の症例に際して行なわれた別の当事者の行なった意思表示を、本件における意思表示の解釈にあたって安易に結び付けてはならない。
[32] 本件においては、既述のごとく、花子の絶対的無輸血の意思は一貫して明白であって、Aらもその意思を十分に知りつつそれに従うかのように行動しているのであるから、花子の依頼(絶対的無輸血治療)を承諾したと認定されるべきである。
[33] なお、原判決が挙げている他の症例(しかもそれはごくわずかであり、原判決自身、多くの症例報告ではエホバの証人患者が絶対的無輸血の意思を表明していると述べている)の中には、患者自身ではなく家族の意思を報告した事例も含まれていて、引用が不適切であるだけでなく、はたして患者自身が本当にエホバの証人であったのかどうかもあいまいである。
[34] すなわち、乙第8号証の1の18の症例は、そもそも輸血の承諾をした患者がエホバの証人ではないのに、原判決は、この患者を、家族の説得により輸血の承諾をしたエホバの証人患者の例として挙げるという誤りを犯している。また、乙第8号証の1の7の症例は、患者は子供でまだエホバの証人ではない事例(エホバの証人ではない父親が当初から輸血を承諾していた)であるから、これを引用するのは不適切である。さらに、甲第13号証の12の症例(同号証103頁)は、患者本人は絶対的無輸血の意思を貫いている(エホバの証人ではない家族は輸血に反対せず)。原判決の挙げる他の2症例においても、患者がはたしてエホバの証人だったのか否か、医師がそう思い込んだだけなのかは、簡略な報告だけなので判然としない。
[35] 右のような、医師の一方的な報告に基づく正確性の乏しい資料を使って、また関連性の乏しい報告まで引用して、本件で絶対的無輸血の態度を一貫して示していた花子と、花子の意思を熟知していたAらとの合意内容を解釈しようとした原判決には大きな誤りがある。
[36] 原判決は、本件で絶対的無輸血の合意が成立していると認めることはできないと判断する理由として、(d)のような根拠不明な前提を持ち出した。すなわち、
「医療の専門性に鑑み、医師はその専門知識及び能力に基づきその良心に従って医療内容を決定すべきであり、患者による治療内容に対する注文は、通常は単なる希望の表明に過ぎず、原則としては、医師が明示に承諾した場合でなければ、そのような医師の治療方針と抵触する合意が成立したと認めるべきものではない」
とした。
[37] 右のような考え方が仮に正当とされる場合があったとしても、それはせいぜい、一般の患者が、定型的な簡単な治療あるいは技術的な細かい治療内容に関し、患者が、「できればこうして欲しい」と医師に希望を述べる場合に限られよう。
[38] しかし、本件のように、エホバの証人である患者が、生死を左右する手術を受けるに際して、宗教的信念に基づき最期までどのような生き方をするかを真剣に熟慮した上で、絶対に輸血はしないようにと、当初から一貫して求め続けていた場合には、
「医師がその良心に従って医療内容を決定すべきであり、医師が明示に承諾した場合でなければ、医師の治療方針と抵触する合意が成立したと認めるべきではない」
との考えは妥当する余地はない。
[39] 本件花子の意思表明は、原判決が言うところの「患者による通常の単なる希望の表明」にとどまるものでは決してない。したがって、もし、本件のような場合にまで、原判決の右考え方を当てはめてしまうのであれば、自己決定権や信教の自由を保障した憲法に反する。
[40] また、右考え方は、原判決自身が述べている、
「手術における患者の同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができるという自己決定権に由来する。……人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない」(判決書の27頁)
との判旨と明らかに矛盾し、理由齟齬の違法があるとも言えよう。

[41] 原判決が、以上一ないし六で述べたような、一貫性を欠いた論理、誤った事実に基づく説明、そして自己の立場と矛盾する論法を用いなければならなかったのは、そもそも本件で絶対的無輸血契約の成立を否定するという誤った結論を採ったからである。この点からも、本件において絶対的無輸血契約の成立を認めるのが至当であることが理解できよう。
[42] 原判決は、認容損害賠償額を金55万円という極めて低額なものとした。原審がその理由として挙げた左記の(a)ないし(e)の点について、批判しつつ検討する。
[43] 原判決は、(a)として、花子が侵害されたものは純粋に精神的なものであることを損害賠償額を低額としたことの理由として挙げている。

[44] そもそも、最初から、附帯上告人(被上告人)らは、純粋に花子の被った精神的苦痛に対する損害賠償を求めているのである。そして、原判決自身、
「花子が本件輸血によって医療における自己決定権及び信教上の良心を侵害され、これにより被った精神的苦痛は、大きいものがあったものと認められる」
と判断しているのだから、ここで、「花子が侵害されたのが精神的なものにすぎないから」というのは、損害額を低額とする理由にはなり得ない。

[45] 花子は、Aらによって、他の病院で輸血を使用しない治療を受ける機会を奪われただけでなく、Aらによる輸血行為により強制的に宗教的信条を蹂躪されたのであって、花子の受けた精神的苦痛が筆舌に尽くし難いものであることは容易に想像することができる。以下、この点を論証する。
(一) 花子の信仰歴
[46](1) 花子は、昭和38年にエホバの証人となり、それ以来本件手術に至るまで約30年の信仰生活を歩んできた。
[47](2) 花子にとって信仰は生活の一部というより人生そのものであった。すなわち、花子は、本件手術のあった平成4年の時点では、ほぼ30年もの長きにわたって1週間に5回あるエホバの証人の集会に定期的かつ熱心に出席していた。のみならず、毎日、聖書及びその解説書の勉強を続け、布教活動を行なっていた。このことは、辛い入院生活においてさえ欠かすことなく、回りにいる人々に聖書について伝道している様子を見ても明らかであろう(甲第31号証参照)。従って、主婦としての家事の時間を除けば、花子の生活の大半を宗教活動が占めていた。そして、成人した3人の子供は同じ信仰を持ち、未信者たる夫(附帯上告人甲野太郎)も、花子の信条を尊重し花子の宗教活動に協力していた。従って、花子にとっての信仰は、単なる趣味とか心の安らぎだけの問題ではなく、人間としての生存基盤そのもの、あるいは人生そのものとなっていたのである(以上、平成7年10月4日実施の原告本人尋問の本人調書9ないし29項)。
[48](3) また、花子は、「医療上の宣言」カード(甲第30号証の1、2)を常に携帯し、そのカードを毎年更新することによって、無意識になった時でも輸血を断固として避けるという、聖書の教えを忠実に守りたいと考えていた(同本人調書50ないし54項)。
(二) 無断輸血が花子に与えた影響の重大性
[49](1) 花子の被害の重大さについて、中川意見書(甲第97号証の12、13頁)は、
「患者の人間的生命においてもっとも重要な宗教的信条を欺いたこと。それによって生きる意味を失わしめた。人は生きる意味を失った時、死ぬ。それは人間的生命だけでなく、それが連動している生物学的生命にも影響を与える。」
と述べている。
[50](2) また、平野意見書(甲第100号証の17、20頁)は次のように述べている。
「信仰がその人たちの全存在、全人格を支える場合、そのような信仰を否定することは、その人たちの存在を否定することになる。信仰に基づく自己決定権は単なる思い付きや気まぐれではなく、それだけの重みがあるのであり、最大限に尊重されるべきである。」
「輸血の強行により患者の信仰は否定され、患者は律法を破る結果になり、長年築いてきた神との関係が断たれたように感じ、その後の人生が崩壊する危機に直面させられたのである。以上のように考えられるとすると、患者の精神的苦痛は甚大であり、法的に救済されるべきであるといえよう。本件では信仰が自己決定に絡んでおり、そのことは自己決定に深みと重みを与えている。そこでは自己決定権が信教の自由と一体となっていると考えられるから、輸血の強行を単に一度きりの自己決定権の侵害ととらえ、「実害」を小さく考えることはできない。輸血の信仰上の「意味」や「結果」に配慮しないで、一時的な自己決定権の侵害としてこれを軽視すべきではない。本件は、信教の自由すなわち信仰生活の自由の侵害でもあり、人生全体にかかわる持続的問題として理解すべきである。…本件患者は、信仰生活に生き、人生を信仰に基づいて長年歩んできた。本件ではそれが否定された。本人にとって最高のものであり、究極の価値をもつものが損なわれた。その悲しみと苦しみを理解すべきである。」
[51](3) 花子は、
聖書の教えを実践することが、「私自身の生活全体を占めております」
と述べている(平成7年10月4日実施の原告本人尋問の本人調書27項)。花子にとって、宗教的信条は何にもまして重要だったのである。ゆえに、それを侵害することは、花子に想像できないほどの深い悲しみと苦しみをもたらした。実際、花子は自分の心境を、
「ある女性が強姦されたときに、そのあと生き残るかもしれませんが、でも、その人はその傷は生涯癒えないわけですから、私も自分の意識がないときにそうやって輸血をされたということは、強姦と同じで、生涯この苦しみの傷は消えないと思います。やはりよく眠れない日がしばしば今でもあります。約束を守っていただけなかったことを残念に思いますし、私自身は苦しみの日々がまだ続いている、ということを知っていただきたいと思います。」
と述べている(同本人調書の125項)。
[52](4) 一般に医師たちの間でも、エホバの証人の患者に対して輸血をしてしまうことは当の患者にとって重大な損害を与えることになるということは知られていた。それを示す医学文献の例として、次のものがある。
「Jehovah's witnessにとっては、……輸血を受けるということは、まさに重大な危機であるといえる。……Jehovah's witnessの患者にとって、輸血されることは、その後の生活が……無意味になるわけで、医師はそのことを考慮して、肉体的治療だけでなく、精神的な面も解決してやる必要があると思われる。」(甲第13号証の1)、
「もし輸血によって助かったとしても彼らにとってはそれは霊的死を意味する重大な事柄である。」(甲第13号証の12の110頁)、
「宗教的信条に反したことを他人から強要されることは、生きているよりも苦痛であることがあるということを認識すべきである。」(甲第16号証の72頁)、
「エホバの証人に輸血を強行することは、死よりも辛い精神的負担を負わせることになる。」(甲第17号証の91頁)
[53](5) Aら自身も、花子が輸血をされた場合に非常な精神的苦痛を受けるであろうことを輸血前から熟知していたのである。この点は、A自身が、
「患者さんが自分が輸血を受けたということを知ると、それによってきわめて大きな精神的な打撃を受けるということは充分予測しておりました。……私としては、本人が自殺するのではないか、ということを一番恐れていました。輸血をされたショックがあまりにも大きいということです。それを私は認識しておりました。」
と供述しているとおりである(第一審第15回口頭弁論調書と一体となる被告A本人調書の66項、253項ないし255項)。

[54] 加えて、Aらの輸血行為が自己決定権(憲法13条)及び信教の自由(憲法20条)という憲法上保障された花子の基本的人権を侵害する行為であることも、損害賠償の額を算定する上で看過されるべきではない。
[55] とりわけ、本件におけるAらの行為は、信教の自由を「直接的に」侵害する態様のものであるから、花子の受けた損害は、その点から見ても甚大なものと言わなければならない(甲第96号証の30頁参照)。
[56] 原判決が精神的苦痛を慰謝するのに50万円で足りると判断したのは、信教の自由や自己決定権という憲法上の人権を正当に評価し損なったからであり、これは憲法の解釈を誤ったものである。
[57] 思うに、棟居意見書(甲第96号証)の27、28頁も述べるとおり、
「原告は本件輸血行為によって正に特定の宗教活動を強制されたに等しく、信教の自由に対する直接の侵害が発生したといいうるように思われる。なぜなら、原告は本件輸血によって、肉体的にその信仰し続けてきたエホバの証人の信仰に背く存在とされてしまったのであり、これは個人の意思に反してエホバの証人の信者としての戒律を破ることを強制されたに等しい。……いわゆる踏み絵が内心の信教の自由を直接に狙い撃ちにする重大な侵害であることは論をまたないが。、原告の信仰を熟知した上で敢えてなされた本件輸血行為は、公権力が個人の足をつかんで物理的に踏み絵を踏ませることと何ら異なるところはない。」
のである。
[58] 原判決は、(b)で、「被控訴人医師らはその時点でなし得る最大限の治療をした」と評価するが、輸血を絶対に受け入れられないという患者に対して、その患者の意思に反した医療行為(輸血)を行なったのであるから、決して最大限の治療をしたと言うことはできないはずである。患者の意思に沿って、可能な限りの治療方法を駆使してこそ、真の意味の「最大限の治療」と言えるのである。
[59] もし医師が、患者の意思に反した場合にも「最大限の治療をした」と評価され、患者の損害(精神的苦痛)は少なく評価してもよいということになれば、医師に対し、一生懸命治療に努力しさえすれば患者の意思を無視してもよいとの免責の口実を与えかねない。
[60] また、そもそも本件手術においては、純粋に医療技術の面からしても、高折意見書などの医師の鑑定意見書が指摘しているように、セルセーバー、膠質液輸液、希釈式自己血輸血、低血圧麻酔といった代替治療法の適応があったにもかかわらず(甲第63号証、同第64号証、同第98号証の1頁ないし5頁)、Aらはこれらの代替治療法の活用による輸血回避の努力を全くしていない。花子が輸血を絶対に拒否しているのに、Aらが代替療法を次善の策として試みようとすらしなかったことからみても、Aらが「最大限の治療」をしたとは到底言い得ない。
[61] 原判決は、(c)の理由において、余命約1年のところ、腫瘍を摘出したおかげで、花子は、手術後5年間の生存が可能となったということを評価している。
[62] しかし、実際には決して癌が根治したわけではなく、花子は姑息的手術によって残された腫瘍の再発転移によって失意のうちに亡くなった(甲第102号証ないし同第105号証)。それまでの間、花子は深い悲しみと苦しみの毎日を味わわせられたのである。輸血によって花子はその宗教生活や神との関係を汚され、手術後亡くなるまでの短い余生を後悔のうちに閉じることを余儀なくされた。
[63] 原審は、人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるとして、いわゆる尊厳死を選択する自由を肯定しているが(判決書の28頁)、言わば「充実した1年は失意の5年に優る」という人生観を尊重するのが尊厳死容認の考え方のはずである。したがって、ここで原審が、満足のいく1年間の生存よりも5年間の肉体の延命の方を重く見たのは論理矛盾と言わねばならない。
[64] ここでは、Aらが輸血に関する自分たちの治療方針を花子に説明せず、無輸血治療の機会を奪った(ひいては輸血を強行した)という具体的な違法行為が問題になっているのであるから、絶対的無輸血の治療方針を採用するのが相当かどうかというような、一般的方針についての確定的見解がなかったということはここでの問題と関係がない。

[65] さらに、実際のところ、本件手術のなされた平成4年当時には、エホバの証人である患者が明確に輸血を拒否した場合には、その意思に反して輸血をしてはならないとする考え方が一般的でもあった。以下、そのことを例証する。
[66](一) 医師であり生命倫理の専門家でもあった中川教授は、その意見書の中で、次のように述べている。
「エホバの証人患者の輸血については、患者主体の医療の倫理の展開とともに世界の各地で問題になり、医療倫理の研究者たちも加わって、その理論と実際的な運営法が研究され、本件が発生した平成4年の7月には、日本においても相当数の施設において、原則や実施法が定められていた。たとえば、日本医師会生命倫理懇談会は、平成2年1月9日公表した『説明と同意についての報告書』のなかで、この問題に特に筆を割き『医師は治療上で輸血が必要ならば、患者を説得して輸血の同意を得るようにするべきである』とし、『しかしながらあくまで輸血を拒否するのであれば、それが患者にとってたとい不利であっても、本人の意思によるのであるから、やむをえないことであり、医師がそれについて法的な責任を負うことはないと考えられる』と書いていた。また、医科研と同系列の東京大学医学部麻酔科教室でも同じ頃、『(a)患者の希望どおり、絶対に輸血しない。(b)輸血しないでおこった合併症、結果については異議を申し立てない旨を病歴に記載させ、患者本人および近親者の署名を得る。……』という方針が定められていた。……要するに、今回、医科研病院においては、現代的な患者主体の医療の原則は無視されて医師の判断に患者はしたがうべきものという古典的、そして技術至上主義がまかりとおっていたということである。」(甲第97号証の14ないし16頁)
[67](二) 実際、本件手術ころまで(1990年初めまで)には、医学文献においても、エホバの証人の患者に輸血を強行することが許されないという論調が大勢を占める状況であった。左にその一部を挙げる。
(1) 乙第8号証の1の3
「成年に達している患者自身の意志で輸血を拒否する場合、本人の明白な意志表示がある場合にはそれに従わざるを得ない」(1983年)
(2) 乙第8号証の1の4
「エホバの証人派信者に対する輸血は、憲法で保証された信教の自由を侵害することになりかねない重大な問題であり、成人患者の信教の自由に優越する要素は存在しないとされている。」(1984年)
(3) 乙第8号証の1の6
「現況における一般的考えを紹介してみよう。成人患者の定時手術で、患者の意志を確認できる場合。諏訪らの報告(患者の希望どおり、絶対に輸血しない)と同様である。」(1986年)
(4) 甲第12号証の2
「成人で本人に承諾能力のある場合には、本人の意思は尊重されるべきである・どうしても本人の納得が得られねば、輸血を断念せざるを得ない。」(1986年)
(5) 乙第12号証の2
「今後は輸血療法でも『説明と同意』を得、それを診療録に『記録』することを心がけなければならない。……『エホバの証人』に対する輸血については今までも多くの議論があり、現場の医師はその対応に苦慮してきた。しかしインフォームドーコンセントの概念を輸血療法に導入してこそ、このような考え方が出てきたのである。輸血拒否に直面した時、医師は他の選択肢を考慮し全力を尽くさねばならない。」(1991年)
(6) 甲第13号証の4
「日本では前述の如く日本医師会が1990年の日本医師会生命倫理懇談会の報告書の中で『……患者があくまでも輸血を拒否すれば輸血しないこともやむを得ない』と報告し、最近国立循環器センター、鹿児島大学医学部、京都大学医学部等々が相ついで同様の方針の決定を報告している。」(1992年)
[68] 以上のように、本件手術がなされた当時には、医療界においてさえ、明確に輸血を拒否しているエホバの証人の患者に輸血をしてはならないとする考え方が多かった。
[69] ましてや、医師自らはいざという時には輸血をする意思でいながら、患者にはこれを秘して手術を承認させる(本件でAらが行なった行為)ということなど、いずれの医療機関においても論外の行為であり、これはもはや「方針とか見解」の問題ではなく、誰が見ても反倫理的なことである。
[70] 原判決は、(e)の理由中で、まず、わが国の医療現場における説明及び同意(インフォームド・コンセント)の観念及びこれに関するシステムは、なお流動的な形成途上にあるということを述べる。
[71] しかし、患者の自己決定権を尊重すること、そのためにインフォームド・コンセントを重要視する流れがあることは明白であり、インフォームド・コンセントを実際の医療現場でどの程度まで定着させていくべきかが発展途上にあるというにすぎない。

[72] 原判決は、また、(e)の理由中で、「Aらの行為は善意に基づく」と判断しているが、ここにいう善意とは、輸血をしても手術をすれば何年か延命できると考えたことを指すものと理解される。しかし、それはとりもなおさず、花子の意思を無視するということであり、花子にAらの価値観を押し付けるということである。善意は、相手方の幸福の増加に向けられたものでなければならない。輸血が花子の価値観に反し、花子に著しい精神的苦痛、不幸をもたらすことを知りながらあえてそれを行なったAらの行為を「善意に基づく」などということは到底できない。以下に述べるように、Aらはきわめて悪質な行為を行なったのである。
[73](一) Aらは、花子の右意思を十分に認識していたにもかかわらず、輸血を行なうことがありうる点を故意に秘匿し、花子の希望を受け入れたかのように振る舞った。
[74] 星野意見書(甲第101号証の8、9頁)が述べるとおり、Aらの右各行為によって、「患者である原告は、医師に裏切られた」のであり、Aらの「患者に対する行動は、極めて非倫理的であり、医師への不信感を募らせる」行為であった。
[75] Aらは、花子が輸血されたことを知ると自殺するかもしれないことを知っていた。つまり、花子にとって輸血されることは、死にも匹敵するほどの重大なことということを知っていながら、輸血する可能性を一貫して秘匿しつつ輸血を行なったのであり、Aらの行為は犯罪とも同視できると言わなければならない。
[76](二) また、Aらは、花子の意思に反する輸血をしてしまったのであるが、真に花子の利益を考えての行為だったのであれば、術後速やかに、納得のいくように輸血の事実とその経過を花子に説明すべきであった(甲第101号証の11、12頁参照)。しかるに、Aらは、輸血の事実を花子本人はもとより、その家族や友人にも知らせないことを申し合わせ、輸血製剤の費用を病院負担にすることにして、隠蔽工作を図ったのである(乙第1号証の84、98頁)。
[77] Aらは、内部告発によって無断輸血が週刊誌の記者の知るところとなり、手術後50日も経過してからようやく輸血の事実を花子の家族(附帯上告人甲野太郎)に伝えた。このような、誰にも知られなければ隠し通そうという不誠実な態度は、花子の意思に反して輸血を敢行したことと同じく重大な信頼破壊行為である(甲第94号証の山田論文同旨)。
[78](三) 無断輸血を隠し通すために、Aらや医科研病院のスタッフは、花子にことさら虚偽の事実を語りつづけ、輸血なしで手術が成功したかのように思い込ませようとした(甲第15号証の22、23頁)。
[79](1) 9月19日に、被控訴人Eは、花子の長男の妻(甲野冬子)に対して、「甲野さんがお腹にガスがたまっていると言うが、それは血液製剤を使わないからです。そうした道を甲野さんが選んだのだから仕方がないですね。」と述べた。
[80](2) 手術後しばらくして、花子が廊下で被控訴人Dに会った時、花子が、「わたしの意思を受け入れてくださってありがとうございました。」と述べたところ、同Dは「医師として当然のことをしただけですよ。」と述べた。
[81](3) 9月の末ごろ、花子の身体がむくんだことについて、被控訴人Dは花子の次女(附帯上告人丙川夏子)に対し、「このようにむくみがひどくなっているのは。甲野さんが、事情があって(輸血が)使えないからです。心臓も圧迫しているので心配だ。」と述べた。
[82] とりわけEとDは、自ら秘密裏に輸血を強行しておきながら、花子が輸血を拒否するからこんな苦しい目に遭うのだという態度をとっており、不誠実極まりない。
[83](4) 以上のごときAらの術前、術後の対応からして、花子やその家族である附帯上告人(被上告人)らにとって輸血されたということは想像すらできないことであった。心から信頼していた医師達が数々の裏切り行為を重ねていたという事実を知ったとき、花子の衝撃は甚だしく大きかった。実際、花子は、
「息子がA先生から確かに輸血をしたということを聞いた、という言葉を聞いたときに、私は、その時まで本当に疑わずに、無輸血でされていた、ということをずっと信じていましたので、本当に大きなショックでした。」
と述べている(平成7年10月4日実施の原告本人尋問の本人調書121項)。
[84] 右に見たとおり、Aらの行為を善意に基づくものと評価するのはあまりにも事実と常識に反する。
[85] 原判決が算定した、花子がAらの本件行為によって被った精神的苦痛に対する慰謝料の金額は、他の事例と比較しても著しく低額である。

1 期待権侵害のケース
[86](一) 極小未熟児が、未熟児網膜症で失明した事件で、医師が、学会出張のために5日間患者を看護婦任せにしていたこと、及びカルテに改竄の疑いがあることが、医師・患者間の信頼関係を損なう不誠実な診療として債務不履行を構成するとして、慰謝料の支払いを命じた事例において、300万円の慰謝料の支払いを命じた(仙台高等裁判所平成2年8月13日判決 判例タイムズ745号206頁)。
[87](二) 受刑者の慢性腎炎が進行して末期腎不全に至ったことにつき、病状の進行を阻止する可能性を奪われたことに対する慰謝料として500万円の損害賠償を認めた(広島地方裁判所平成2年6月29日判決 判例夕イムズ742号128頁)。
[88](三) 頚椎の椎弓切除手術に先立って医師が脊髄腔造影検査(ミエログラフィー)を実施しなかったことにつき、患者に生じた運動障害等との相当因果関係はないが、ミエログラフィーは本件手術に必要不可欠な基本的診断法であったのであるから、原告はその実施を期待しており、その不実施は身体の外縁にある人格的利益である期待権の侵害であるとして、200万円の慰謝料を認容した(大阪地裁平成元年6月26日判決 判例タイムズ716号196頁)。
[89](四) 癌で死亡した事例につき、適切な指導を受けることにより疾病の早期発見、早期治療の機会を奪われたことについて期待権侵害に対する慰謝料として300万円を認容した(東京地裁平成4年10月26日判決 判例時報1469号98頁、判例タイムズ826号252頁)。
右期待権侵害事例と本件との比較
[90] 本件においては、上告人医師らは、花子の絶対的輸血拒否の意思を認識していたにもかかわらず、輸血の可能性について説明せずに本件輸血を行ったことにおいて、右(一)判例でいうところの「医師・患者間の信頼関係を損なう不誠実な診療」があったところは明らかである。また、花子は、Aらの言動から、絶対的無輸血による手術を期待していたものであり、その期待権が侵害されたことは明らかであり、その点右(三)、(四)の判例と比較できる。
[91] 右(一)ないし(四)の判例では、200万円から500万円までの賠償額が認容されており、それから考えても、原審が認めた50万円の慰謝料が著しく低額であることは明らかである。

2 説明義務違反のケース
[92](一) 乳癌の患者である原告が乳房を残す手術を希望していたのに、被告は、原告に対して乳房温存療法及び手術の内容について十分説明しないまま「できる限り乳房を残して欲しい」との原告の意思に反して原告の乳房を切除する手術を行なったことについて、説明義務違反による精神的損害に対する慰謝料として200万円の賠償を命じた(大阪地裁平成8年5月29日判決)。
[93](二) 舌癌手術において、患者の事前の明示の意思に反して舌を切除したという事案について、慰謝料として30万円を認めた(秋田地裁大曲支部昭和48年3月27日判決 判例時報718号98頁)。
右説明義務違反事例と本件との比較
[94] 右(一)の判例は、患者が同意していない手術を説明なしに行なったケースであり、本件においても200万円を下る理由はないはずである。また、右(二)の判例は昭和48年の判決であり、約25年前でさえ30万円の金額が認容されているのである。

3 強姦・貞操侵害のケース
[95](一) 若い男女学生間におけるラブホテルでの性交渉について、貞操侵害による不法行為の成立を認めた事例において、慰謝料として250万円の賠償を認めた(横浜地裁平成5年3月23日判決 判例タイムズ813号247頁)。
[96](二) 宿泊施設勤務の女性に対する上司のセクシュアル・ハラスメントによる精神的損害に対する損害賠償として110万円を認めた(静岡地裁沼津支部平成2年12月20日判決 判例タイムズ745号238頁)。
[97](三) 会社社長の女子社員に対するセクシュアル・ハラスメントについて慰謝料として700万円の支払いを命じた(札幌地裁平成8年5月16日判決 判例タイムズ933号172頁)。
右強姦・貞操侵害事例と本件との比較
[98] 本件において、花子にとって、本件輸血を受けたことによる精神的苦痛は、強姦行為を受けたことによる精神的苦痛と同等ないしそれ以上のものであった。そうだとすれば、本件認容額の50万円は、所謂性交までいっていないセクシュアル・ハラスメントで認められた右110万円ないし700万円の金額を下ることはないはずである。

4 名誉毀損のケース
[99](一) 写真週刊誌フォーカス等の記事による名誉毀損についての慰謝料として300万円の支払いを命じた。(東京高裁平成5年12月20日判決 判例タイムズ871号261頁)。
[100](二) 信用情報会社が誤情報を流した事例で、個人の経済的信用及び名誉が毀損されたことに対する慰謝料として200万円の賠償を認めた(大阪地裁平成2年5月21日判決 判例時報1359号88頁)。
右名誉毀損事例と本件との比較
[101] 右名誉毀損は、いずれも純粋な精神的損害であるが、200万円ないし300万円の賠償が命じられている。右と比較すれば、本件のごとく信仰の核心部分たる宗教的信条が侵害されたケースにおいて、右各金額より低い金額で花子の精神的損害が慰謝されるはずがない。

[102] もし、本件における附帯上告人(被上告人)らの損害賠償の額が少額なものにとどまってしまうならば、花子の損害を十分に贖うものとならないばかりか、日本の医療現場における医師のパターナリズムを排し、インフォームド・コンセントや患者の自己決定権を確立していくことが困難となろう。
[103] 以上のとおり、原判決には憲法解釈の誤りがあり、理由不備・理由齟齬の違法があるとともに、判決に影響を及ぼす法令違反(経験則違反)があると言わなければならない(新民事訴訟法附則第20条、旧民事訴訟法第394条、同第395条第1項6号)。
[104] よって、右損害の賠償を求めたく、附帯上告人(被上告人)敗訴部分の金額(1145万円)のうち、一部請求として、附帯上告人(被上告人)武田茂久に対しては金300万円、同乙山春子、同甲野一郎及び同丙川夏子に対してはそれぞれ金100万円及びこれらに対する平成5年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員の支払を求め、ここに附帯上告を提起する。

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