公衆浴場法合憲旧判決
上告審判決

公衆浴場法違反被告事件
最高裁判所 昭和28年(あ)第4782号
昭和30年1月26日 大法廷 判決

上告人 被告人 甲野一郎(仮名)
    弁護人 諫山博

■ 主 文
■ 理 由

■ 弁護人諫山博の上告趣意
■ 被告人の上告趣意


 本件上告を棄却する。

[1] 論旨は、公衆浴場法2条2項後段は、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠くと認められる場合には、都道府県知事は公衆浴場の経営を許可しないことができる旨定めており、また昭和25年福岡県条例54号3条は、公衆浴場の設置場所の配置の基準等を定めているが、公衆浴場の経営に対するかような制限は、公共の福祉に反する場合でないのに職業選択の自由を違法に制限することになるから、右公衆浴場法及び福岡県条例の規定は、共に憲法22条に違反するものであると主張するのである。
[2] しかし、公衆浴場は、多数の国民の日常生活に必要欠くべからざる、多分に公共性を伴う厚生施設である。そして、若しその設立を業者の自由に委せて、何等その偏在及び濫立を防止する等その配置の適正を保つために必要な措置が講ぜられないときは、その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来たすおそれなきを保し難く、また、その濫立により、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、ひいて浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難い。このようなことは、上記公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましいことであり、従つて、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠き、その偏在乃至濫立を来たすに至るがごときことは、公共の福祉に反するものであつて、この理由により公衆浴場の経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、憲法22条に違反するものとは認められない。なお、論旨は、公衆浴場の配置が適正を欠くことを理由としてその経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、公共の福祉に反する場合でないに拘らず、職業選択の自由を制限することになつて違憲であるとの主張を前提として、昭和25年福岡県条例54号第3条が、憲法22条違反であるというが、右前提の採用すべからざることは、既に説示したとおりである。そして所論条例の規定は、公衆浴場法2条3項に基き、同条2項の設置の配置の基準を定めたものであるから、これが所論のような理由で違憲となるものとは認められない。それ故所論は採用できない。
[3] 論旨は、公衆浴場法が公衆浴場の経営について許可を原則とし、不許可を例外とする建前をとつているに拘わらず、昭和25年福岡県条例54号は不許可を原則とし、許可を例外とする建前をとつており、右条例は公衆浴場法にくらべて、より多く職業選択の自由を制限しているので、憲法の精神に反するのみならず、地方公共団体は「法律の範囲内」で条例を制定できるという憲法94条に違反していると主張する。しかし、右条例は、公衆浴場法2条3項に基き、同条2項で定めている公衆浴場の経営の許可を与えない場合についての基準を具体的に定めたものであつて、右条例3条、4条がそれであり、同5条は右3条、4条の基準によらないで許可を与えることができる旨の緩和規定を設けたものである。即ち右条例は、法律が例外として不許可とする場合の細則を具体的に定めたもので、法律が許可を原則としている建前を、不許可を原則とする建前に変更したものではなく、従つて右条例には、所論のような法律の範囲を逸脱した違法は認められない。それ故所論は採用できない。
[4] 論旨の中違憲をいう点は、上記弁護人諫山博の上告趣意第一点及び同第二点前段について判示したところと同様の理由によつて、採用できない。その他の論旨は、単なる法令違反の主張乃至事情の説明を出でないものであつて、刑訴405条の上告理由に当らない。

[5] よつて同408条により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田中耕太郎  裁判官 井上登  裁判官 栗山茂  裁判官 真野毅  裁判官 小谷勝重  裁判官 島保  裁判官 斎藤悠輔  裁判官 藤田八郎  裁判官 岩松三郎  裁判官 河村又介  裁判官 谷村唯一郎  裁判官 小林俊三  裁判官 本村善太郎  裁判官 入江俊郎  裁判官 池田克)
[1] 本件公訴提起の基礎になつた公衆浴場法第2条は、憲法違反である。公衆浴場法第2条1項では、業として公衆浴場を経営しようとする者は、都道府県知事の許可を受けなければならないと規定している。第2条2項では、都道府県知事が公衆浴場の営業許可を与えないことができる場合を、(一)公衆浴場設置の場所若しくは構造設備が公衆衛生上不適当であると認めるとき、(二)設置の場所が配置の適正を欠くと認めるときに限定している。弁護人は、右の条項のうち、設置の場所が配置の適正を欠くと認めるときに公衆浴場の営業許可を与えないことができると規定した部分は、憲法第22条に違反していることを主張する。
[2] 憲法第22条1項は、何人も公共の福祉に反しないかぎり職業選択の自由を有することを保障している。これを裏からみれば、個人の職業選択の自由は、公共の福祉に反する場合でないと法律をもつてしても制限してはならないことである。基本的人権に制限を加えることのできる公共の福祉とはなにかについては、議論が百出して帰するところを知らない有様である。木村亀二教授は、
「公共の福祉とは社会の全員の共存共栄であり、社会連帯である」とし、「憲法第12条が基本的人権の行使の指導理念として公共の福祉を規定したのは、すべての国民の基本的人権が他の者の基本的人権を侵すことなく、調和的に、国民のすべてが、共存共栄の連帯関係を目標として、基本的人権を行使すべき旨を宣言したものであり、第13条は、基本的人権の内容・行使が共存共栄の連帯関係を限度とし、これを破壊し蹂躙するに至る場合には制限を受ける旨を宣言したものである」
と述べている(末川博編・基本的人権と公共の福祉97~98頁)。清宮教授は、
「公共の福祉に反する行為とは、憲法の保障する自由及び権利が、一般国民に平等に確保せられるものを妨げるような行為を意味する」
と書いている(憲法要論74~5頁)。学者はその他いろいろの意見を述べているけれども、公共の福祉というのが、一部の特定人・少数者の利益を指すのでなく、国民一般、又は共同社会の不特定多数の構成員の利益というような考え方を意味するとしている点においては共通である。最高裁判所の判決では、公共の福祉という語句を定義ずけているものが見当らず、むしろその意味を真正面から解明することを避けてきたのではないかと思われる点があるが、昭23、3、12大法廷判決(刑集2巻3号191頁)、昭25、10、11大法廷判決(刑集4巻10号2029頁)、昭26、4、4大法廷判決(民集5巻5号214頁)、などで使つている「公共の福祉」の語も、だいたい右と同様に理解してよいであろう。
[3] 公共の福祉をこのように理解したうえで、憲法第22条を、も少し掘りさげて考察してみよう。日本憲法の立つている経済的基盤は、いうまでもなく、資本主義経済である。資本主義経済の特徴は、自由競争、ろこつにいえば、適者生存、弱肉強食である。これが個人の経済生活においては、職業選択の自由として現われる。職業選択の自由こそは、資本主義社会を支えている経済的基盤であり、新憲法のバックボーンの一つをなしている。資本主義社会における職業選択の自由とは、各個人が利潤の多い職業を、自由に、誰に遠慮することもなく選び得ることである。甲が収益の多い職業を営んでいるとき、その横で乙が甲より以上の資本を投入して同じ職業を営む場合を想像しよう。甲は乙の資本力にけ落されて、それ迄の独占的な収益をあきらめ、かえつて欠損するような結果になるかも知れない。しかしこれが弱肉強食の資本主義経済の常であり、乙のこのような自由を、憲法第22条は保障しているのである。そうである以上、特定の或は少数者の営業上の利潤を保全するために、特定の職業選択に制限を加えることは、現在の憲法の下では許されない。特定者或は少数者の営業上の利潤を保全して他人の営業の自由を束縛することは、自由競争を建て前としている資本主義経済の自殺行為であり、公共の福祉にかなうことにならないからである。
[4] 公衆浴場法第2条1項では、公衆浴場の経営を許可制にしている。しかし同条2項では、法律で定めた例外の場合以外には許可しなければならないことになつているので、ここでは違憲の問題は提起しないことにする。同2条のうち、公衆浴場の設置の場所若しくは構造設備が公衆衛生上不適当と認める場合に都道府県知事が営業の許可を与えないことができるとある部分は、浴場附近の不特定多数人の公衆衛生という利益のために、浴場経営の自由を制限しようとするのであるが、浴場附近の不特定多数人の公衆衛生ということは、既に述べた公共の福祉という名に値いする利益ということができるから、ここでは、憲法第22条違反の問題は起きない。設置の場所が配置の適正を欠くと認められるときは、公衆浴場の経営を許可しないことができるという公衆浴場法第2条2項後段の部分は、問題である。この点を詳述する。
[5] 記録に綴合わされている九大法学部林田和博教授の鑑定書によると、国会における審議のなかでは、設置の場所が配置の適正を欠くときに公衆浴場経営を許可しないことができる根拠として、(イ)配置の適正を欠くと、必要な場所に浴場が設置されないことになる。(ロ)浴場が濫立すると附近の人家が煤煙をかぶつて非衛生的だから公共の福祉に反する、というような議論がなされたもようである。こんなばかげた理由が、基本的人権を制限出来る公共の福祉といえず、まさに公共の福祉の濫用にすぎないことは、林田教授の指摘しているとおりである。保安隊が戦力であるとかないとかいう愚論が恥づかしげもなくくり返されるような国会だからこそ、このようなねぼけた立法理由の説明がなされたのであろう。
[6] 第一審の福岡地方裁判所吉井支部は、この点について、
「其の設置の場所が配置の適正を欠くことは、憲法第22条に謂わゆる公共の福祉に反するものと認めるのが相当である。故に公衆浴場法第2条は憲法第22条に違反するものと云うことはできない」
とだけ判示している。裁判所の命じた鑑定人林田和博教授の詳細な反対趣旨の鑑定書があり、弁護人の「弁護の要旨」にも理由をあげて反対趣旨を論じているのに、何ら理由も示さないで、「公共の福祉に反するものと認めるのが相当である」とだけで片づけた第一審判決は、卑怯で、不親切で、独善的で、何人をも心服させることのない裁判である。
[7] 第二審福岡高等裁判所は、
「然し公衆浴場の偏在を避け、配置の適正をはかることによつて、出来る限り多数の者に、浴場を利用させる便宜を与えるとともに、その経営を健全ならしめ、ひいては、衛生的設備を充実せしめることは、公衆衛生上きわめて必要であり、その濫立に委するときは、多くはその経営に経済的行きづまりを来たしたために浴場の衛生的設備なども低下し、不衛生的になるのは、健全なる社会常識上考えられるところである。それ等の意味からして、公衆浴場の設備の場所の配置の適正をはかることは、公共の福祉に副うものと謂うべきである」
と判示している。第二審判決の理由は、要するに、(イ)知事が人為的に配置の適正を計つてやらないと、浴場が偏在して多数者に浴場を利用させることができない。(ロ)浴場を濫立さしたら浴場経営の収益が少くなり、そのため衛生設備が低下するということである。
[8] これだけの事を、第二審判決は法律用語を使いわざわざむずかしく表現しているにすぎないようであるから、以下にその理由が成りたたないことを説明しよう。(イ)の、都道府県知事が人為的に許可不許可ということで配置の適正を計つてやらないと、浴場が偏在して、多数者が公衆浴場利用の機会に恵まれないというのは、大うそである。公衆浴場の経営に知事が干渉せず、自然にまかしておいたら、浴場は大衆の要求する場所に設立される。大衆の求めるところと利潤の確保されるところとは、資本主義の社会では必ず一致するからである。アダム・スミスが自由主義の経済は国家が個人に干渉せず、各人の自由に放任していると、神の見えざる手(invisiblehand)に導かれて調和がとれていくといつたのはこのことである。現実の問題をとらえてみても、知事が配置の適正を欠くものを許可しない方が、自由設立にまかしておくよりも、大衆に浴場利用の機会を多く与えるなどということは、想像されない。さらにまた、仮りに浴場経営を自由放任していたら浴場が偏在して困るとしてみよう。そんなことがあり得たとしても、これはなにも公衆浴場だけに限るものではない。本屋でも野菜屋でも豆腐屋でも自由営業を認めていたら偏在することがあろうしそれらも偏在しない方が便利であろうが、それは今の社会では当り前ではなかろうか。こんなことでは、公衆浴場だけをとらえて、営業を不許可にするに足る公共の福祉が害されたものということはできない。(ロ)の浴場を濫立さしたらお互に既設浴場業者の収益が減少し、ひいては浴場の衛生施設が低下するという理由も、もつとものようにみえて、実は理由になつていない。浴場設置を自由放任しておくと、浴場が濫立するという前提は、利潤の見通しのないところに浴場経営を始める馬鹿はないという資本主義経済の原理を無視している。公衆浴場の設立を自由放任していたら、利潤をあげる可能性のあるところには浴場がぞくぞく設立されるかも知れない(これは濫立ではない)。しかし利潤をあげる可能性がなくなると、そこには公衆浴場は立てられない。そして利潤をあげることのできる線と、利潤をあげることのできない線、或は逆に損失をこうむる線は経済学によれば明確に限界づけられ、区別されている。利潤の得られなくなる限界を超えて浴場の新設をすることは、普通に考えられない。そうである以上、浴場の自由設立主義をとつても、損失覚悟の浴場設立はあり得ないし、法律で定められた衛生施設(これは浴場経営の資本の一部である)を完備できないのに、敢えて公衆浴場を経営しようという変り者もあまりないだろう。さらにまた、公衆浴場の衛生施設を、浴場業者の収益を確保してやることによつて維持させようという考え方も、世間ばなれがしている。公衆浴場の衛生施設を完備させる必要があるのなら、公衆浴場法第2条1項前段だけで充分である。この条件を浴場がどうして充たすかということまで法律が考えてやる必要はない。衛生設備の一定の基準に充たないものは経営を許可しないという冷厳たる態度でよいのである。これが資本主義社会に於ける経済と法の在り方である。
[9] 以上詳述したように、第二審判決が示した理由も職業選択の自由を制限するに足る公共の福祉ということはできない。それでは公衆浴場法第2条2項後段で、いかなることをねらつているのであろうか。理くつはいろいろあげられながらも、この条項の本当のねらいはただひとつ、既設公衆浴場業者の利潤確保ということである。おれの利潤を犯すような繩張りには、浴場新設は許さないぞ、既得権益は法で守るぞというのが真のねらいである。林田鑑定書の指摘するとおり、同法の規定は、
「既設公衆浴場経営者の保護を意味する以外の何ものでもなく、そこには国民の良識に照して、納得し得る他の何等の合理的理由も発見し難いのである。」
そうすると、この規定によつて保護しようとねらつている利益は、特定少数の既設公衆浴場業者の既得権益にすぎず、それによつて奪われるのは、不特定多数人がもつている職業選択の自由の、貴重な一角である。特定少数者の利益を守るために、不特定多数人の基本的人権の一部分を侵すような規定が憲法に違反しないはずはない。これが公衆浴場法第2条2項後段の違憲である理由である。その他詳細な違憲理由については、九大法学部長林田和博教授の鑑定書の鑑定理由を全面的に援用しわが国の最高の法律実務家を網羅している御庁において、基本的人権尊重に立脚した活溌な憲法論議を展開されるよう、切に期待する。
[10] 福岡県条例第54号は、憲法第22条同第94条違反である。福岡県条例第54号第3条は、公衆浴場の設置の場所の配置の基準は、既に許可を受けた公衆浴場から、市部にあつては250メートル以上郡部にあつては300メートル以上の距離とする。前項の距離は直線とし公衆浴場家屋相互間の最近距離とすると規定し、第5条は、知事は地形、人口密度その他特別の事情があると認めるときは、前2条の基準によらないで営業の許可を与えることができる。前項の許可を与えるに当つては、審議会に諮問しその意見を徴しなければならないと規定している。右のような内容を含んだ福岡県条例第54号が、公共の福祉に反する場合でないのに職業選択の自由を違法に制限していることは第一点説示のとおりである。したがつて右と同様の理により、この条例は憲法第22条に違反している。しかし福岡県条例第54号は、それと別な理由により、さらに違憲である。同条例の組立てをみると、第3条において、公衆浴場法にいう配置の適正を具体的な数字で表現しているが、第5条では、知事は地形、人口密度その他特別の事情があると認めるときは、前2条の基準によらないで営業の許可を与えることができるとし、前項の許可を与えるに当つては、審議会に諮問して意見を聞かなければならないことになつている。条例では一定の距離を規定しその距離以内においては原則として公衆浴場の経営をしてはならないことにし、地形、人口密度その他特別の事情があると認められるときにだけ例外として経営を許可するという立場をとつている。即ち一定距離以内については、公衆浴場の不許可を原則とし、特殊の例外のときだけ、審議会の諮問という手続を経て許可してもよいというのである。公衆浴場法第2条の規定では、許可を与えないことができるという言葉で表現されているように、許可原則、不許可例外の建て前をとつているが、福岡県条例第54号は不許可原則、許可例外という逆の立て方をしている。そして福岡県条例の方が、公衆浴場法にくらべてより多く職業選択の自由に制限を加えていることは、いうまでもない。これは、公共の福祉による基本的人権の制限は、必要の最少限に止まらなければならないとする憲法の精神に背いているだけでなく、地方公共団体は、「法律の範囲内で」条例を制定することができるという憲法第94条に違反している。上告の理由は以上2点である。基本的人権が、公務員の争議権剥奪やスト規制法の制定などにみられるように、公共の福祉の美名のもとに、一歩一歩侵害されようとしている今日、公共の福祉の正しい解釈を示してやることこそ、御庁に課せられた最大の責務ではなかろうか。
[11] 御庁の今までの判決をみると、公共の福祉によつて基本的人権が制限される場合のある事は当然であるというような調子で、本気で公共の福祉の理念を究明する努力を怠つているようにみえて仕方がない。そういう御庁の怠慢の間に、行政機関や立法機関や御用学者たちは、公共の福祉という理念を、ナチス流の公益優先、滅私奉公の考え方にすりかえようとしている。本件で直接問題になつているのは、公衆浴場の経営をどの程度制限できるかというだけのことである。しかしこの裁判の意味しているのは、立法行政機関による公共福祉の理念の不当な濫用を、司法機関がどう喰い止めるかという大きな問題である。御庁の英断により原判決を破棄し、基本的人権擁護の輝しい金字塔を立てられるように、自由と人権を愛する一弁護士として、心から御庁に希望する。
[1]一、公衆浴場法違反被告事件について第一審では無許可営業たる理由に依り罰金5000円の判決を受けたが判決に当り無許可営業を行なはねばならない様な結果となつた原因に就ては中村副検事は一言半句も之に言及していない。又一番論争となつた憲法違反に関しても林田教授が法律鑑定して憲法違反の疑ひ最も濃厚と判定したのに対しても何等反論しなかつた。
[2]一、昭和25年5月29日附で甘木土事務所より公衆浴場新築届出が受理せられ建築に及んだのである。
[3]一、営業に関しても再三県衛生部長と種々交渉して来たのであるが業者の反対運動があまりにも猛烈で県としても業者の反対を押切つて許可する事が出来ず不許可とした。
[4]一、県の不許可処分に対しては別途行政訴訟を以て裁判中である。
[5]一、私しは県の不許可の理由が公衆衛生上でなく既設業者との距離の問題であるので審議会にかけて許可の可否を決定してもらう様再三依頼したけれども審議会にかける事なく不許可とした。
[6]一、当町に於ても一般公衆の間で新築して1ケ年も営業しないので同情があり町議会でも問題になり営業の是非を議題として採決する事になつたが仲裁に依り解決を図る事となり委員が3名選任せられて既設業者との仲裁に当られたけれども既設業者の同意を得る事が出来ずお流れとなつた。(県が既設業者との了解が出来れば許可すると言ふので)
[7]一、以上の様な許可を得る為には県会議員町長町内有志の尽力にもかかわらず不許可となり施設が引上者の身で借財で建築した事ではあり全く死活問題でありついに不法とは知りながらも之以上休む事は死を待つ事であり解決は裁判に依る以外に道なく営業を開始したものです。営業開始に当りては営業届も提出済であり事業税も納入済であり何等公共の福祉に反する点は一つもありません。全く公衆からは衛生的な設備の新築の浴場でありよろこんで利用してもらつています。
[8]一、第一審では憲法に謂ゆる「公共の福祉に反すると認めるのが相当である」と判決理由に述べてあるが之は全くの実情と反する事で私しの場合は設置の場所が「配置の適正を欠く」と言う理由から不許可になつたもので配置の適正に関しては新築に当り図面を以て届出してあり新築したる後に配置の適正を欠くと言う様な行政官庁の見解の相違を他人のぎせいに於て負担せしめる結果となつた罰は全く官庁たる県にあると言わざるを得ない。
[9]一、憲法の職業選択の自由が公共の福祉に反しないかぎり認めてあるのに公共福祉に利益する事一目瞭然たる浴場が既設業者の権利の為に反対に会ひ距離が近すぎると言う理由で憲法を無視してまで不許可にした事については断して承服出来ず上告に及んだ趣意であります。解決は行政訴訟的社会問題であります。許可さへあれば事円満に解決する事柄であり最高裁判所は事情参酌の上免訴の判決をお願いする次第であります。

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