日蓮正宗管長事件
上告審判決

代表役員等地位不存在確認請求事件
最高裁判所 昭和61年(オ)第531号
平成5年9月7日 第三小法廷 判決

上告人 (控訴人  原告) 久保川法章 外155名
          代理人 小見山繁 外12名

被上告人(被控訴人 被告) 日蓮正宗  外1名
          代理人 宮川種一郎 外2名

■ 主 文
■ 理 由

■ 裁判官大野正男の反対意見

■ 上告代理人小見山繁、同河合怜、同小坂嘉幸、同川村幸信、同山野一郎、同弥吉弥、同江藤鉄兵、同富田政義、同片井輝夫、同伊達健太郎、同竹之内明、同加藤洪太郎、同華学昭博、同仲田哲の上告理由


 本件上告を棄却する。
 上告費用は上告人らの負担とする。

[1] 特定の者が宗教団体の宗教活動上の地位にあることに基づいて宗教法人である当該宗教団体の代表役員の地位にあることが争われている場合には、裁判所は、原則として、右の者が宗教活動上の地位にあるか否かを審理、判断すべきものであるが、他方、宗教上の教義ないし信仰の内容にかかわる事項についてまで裁判所の審判権が及ぶものではない(最高裁昭和52年(オ)第177号同55年4月10日第一小法廷判決・裁判集民事129号439頁参照)。したがって、特定の者の宗教活動上の地位の存否を審理、判断するにつき、当該宗教団体の教義ないし信仰の内容に立ち入って審理、判断することが必要不可欠である場合には、裁判所は、その者が宗教活動上の地位にあるか否かを審理、判断することができず、その結果、宗教法人の代表役員の地位の存否についても審理、判断することができないことになるが、この場合には、特定の者の宗教法人の代表役員の地位の存否の確認を求める訴えは、裁判所が法令の適用によって終局的な解決を図ることができない訴訟として、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たらないというほかない。
[2] これを本件についてみるのに、上告人らの請求は、被上告人阿部日顕(以下「日顕」という。)が被上告人日蓮正宗(以下「日蓮正宗」という。)の代表役員及び管長の地位にないことの確認を求めるものであるが、原審の判示するところによれば、日蓮正宗においては、代表役員は、管長の職にある者をもって充て、管長は、法主の職にある者をもって充てるものとされているところ、代表役員は、宗教法人法に基づき設立された宗教法人である日蓮正宗を代表する地位であり、法主は、日蓮正宗の宗教上の最高権威者の呼称であって、宗教活動上の地位であるというのである。原審の右認定判断は、記録に照らして首肯するに足り、右事実関係によれば、日顕が代表役員及び管長の地位にあるか否かを審理、判断するには、日顕が法主の地位にあるか否かを審理、判断する必要があるところ、記録によれば、日蓮正宗においては、法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承する者であるとされているから、日顕が法主の地位にあるか否かを審理、判断するには、血脈相承の意義を明らかにした上で、同人が血脈を相承したものということができるかどうかを審理しなければならない。そのためには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入って審理、判断することが避けられないことは、明らかである。そうであるとすると、本件訴えは、結局、いずれも法律上の争訟性を欠き、不適法として却下を免れない。したがって、本件訴えを却下すべきものとした第一審判決は相当であるから、上告人らの控訴を棄却すべきものとした原判決は、その結論において是認することができる。論旨は、原審の判断の違憲、違法をいうが、原判決の結論に影響を及ぼさない部分を論難するものにすぎず、採用することができない。

[3] よって、民訴法401条、95条、89条、93条に従い、裁判官大野正男の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。


 裁判官大野正男の反対意見は、次のとおりである。

[1] 多数意見は、日顕が代表役員及び管長の地位にあるか否かを審理、判断するには、日顕が法主の地位にあるか否かを審理、判断する必要があるところ、日顕が法主の地位にあるか否かを審理、判断するには、日蓮正宗における血脈相承の意義を明らかにした上で、同人が血脈を相承したものということができるかどうかを審理しなければならず、そのためには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入って審理、判断することが避けられないことは明らかであるとし、本件訴えは、結局、法律上の争訟性を欠き、不適法として却下を免れないとして、これと同旨の第一審判決は相当であるから、上告人らの控訴を棄却した原審の結論は是認することができるとするのであるが,私は、本件に法律上の争訟性が欠けるとすることに同意することができない。その理由は、次のとおりである。

[2] 本件において、裁判を求められていることは、日顕が日蓮正宗における代表役員及び管長の地位を有するか否かである。
[3] そして、日蓮正宗にあっては、代表役員は管長の職にある者をもって充てる(宗教法人法所定の規則である日蓮正宗宗制5条、6条1項)とし、管長は、法主の職にある者をもって充てる(宗教団体としての規則である日蓮正宗宗規13条2項)とし、更に法主の選任手続としては、「法主は、必要と認めたときは、能化のうちから次期の法主を選定できる。但し緊急やむを得ない場合は大僧都のうちから選定することもできる。」(宗規14条2項)と定めている。
[4] 本件の争点は、まさに日顕が右宗規の条項に適合して法主に「選定」されたか否かである。

[5] ところで、日蓮正宗においては、右「選定」は、「血脈相承」という宗教的儀式によってされるものである。そして本件では、日顕が昭和53年4月15日当時法主の地位にあった日達上人から「血脈相承」を受けたか否かが直接の争点事実となっている。しかし「血脈相承」は日蓮正宗の教義ないし信仰の内容にかかわる宗教的儀式であって、その意義及び存否は、裁判所の判断の対象とはならない。その点は多数意見のいうとおりである。
[6] しかし、そのことから直ちに法主の「選定」の有無が裁判所によって判断できない非法律的な宗教的事項になるわけではない。法主の「選定」があったか否かは、「血脈相承」それ自体を判断しないでも、「選定」を推認させる間接事実(例えば、就任の公表、披露、就任儀式の挙行など)の存否、あるいは選任に対する日蓮正宗内の自律的決定ないしこれと同視し得るような間接事実(例えば、責任役員らによる承認、新法主による儀式の挙行と列席者の承認など)の存否を主張立証させることによって判断することが可能である。「選定」の直接事実は「血脈相承」であり、それは裁判所の判断すべき事項ではないが、右例示の間接事実は、教義、教理の内容にわたるものではなく、裁判所にとって判断可能な社会的事実であり、これらの事実の存否によって、裁判所は日顕が宗教法人たる日蓮正宗の代表役員であるか否かを判定することが可能であり、また必要である。
[7] けだし、裁判所は、宗教団体の教義、教理ないし信仰の内容に介入することはできず、また、介入してはならないが、日蓮正宗は宗教団体であると同時に、国家法である宗教法人法によって設立されている法人であることにも留意しなければならない。すなわち、日蓮正宗は、その財産を所有し、維持運用し、業務及び事業を運営することに資するため宗教法人法により法人格を取得し法律上の能力が与えられているのであり(宗教法人法1条)、その限りにおいて法律的世俗的存在でもあって、所轄庁の認証を受けた規則(代表役員の任免は必要的記載事項である(同法12条1項5号)。)によって代表役員が選定されたか否かは、まさに法律的事項である。したがって、その選定の直接事実が教義、教理にかかわる宗教的儀式であるからといって、直ちに本件紛争そのものが法律上の争訟性を欠くとすることは適当ではない。第一審判決のように、本件を法律的事項でないとして司法権が及ばないとすると、宗教法人たる日蓮正宗は、代表役員の地位が司法上確定できないことになり、本来は法律的事項に関する紛争についても司法権による法の実現ができず、法人の財産の維持、運用、その業務及び事業の運営が困難になるであろう。それは、およそ裁判所が宗教団体の自主性を尊重することとは、全く反対の結果となる。そのような結果になることは、日顕が正当な代表役員であることを主張する者にとっても、それを否定する者にとっても不利益である。

[8] 以上のように、私は、多数意見が教義、整理や信仰の内容に干渉してはならないとする点にはもとより賛成であるが、そのことから直ちに本件を法律上の争訟でないとして第一審判決を支持したことに反対である。

[9] なお、本件につき、原審は、団体の構成員は、理事等の役員の任免に関与し得るものとされている場合には、特定の者の役員たる地位の存否を争う適格と法律上の利益とを有するが、役員等の任免に関与し得ない場合には、自己の権利義務又は直接自己にかかわる具体的法律関係の存否の問題を離れて、一般的に、特定の者につき、その役員たる地位の存否を争う適格及び法律上の利益を当然には有しないと解すべきであるとし、日蓮正宗の末寺の代表役員等である上告人らは、法主の任免に関与する機会を有しないから、日顕が日蓮正宗の代表役員及び管長たる地位にあるか否かを争う適格及び法律上の利益を有しないとして、本件訴えを却下している。
[10] しかしながら、上告人らは、原審の判示するとおり日蓮正宗の末寺の代表役員等の地位にある者であるところ、その地位の存否が日蓮正宗の管長の任免によることなどを考慮すれば、日顕が日蓮正宗の管長たる地位にあるか否かにつき、上告人らが法的にも重大な利害関係を有することは否定できない。したがって、上告人らは、日顕の管長たる地位の存否ひいては管長をもって充てられる日蓮正宗の代表役員たる地位の存否を争う適格及び法律上の利益を有するというべきである。これと異なる原審の判断を是認することはできない。

[11] 以上説示したところによれば、本件訴えは、これを不適法として却下すべきものではなく、日顕の代表役員及び管長の地位の存否について進んで本案判断をすべきものであるから、原判決を破棄し、第一審判決を取消して、本件を第一審に差し戻すのが相当であると考える。

(裁判長裁判官 佐藤庄市郎  裁判官 貞家克己  裁判官 園部逸夫  裁判官 可部恒雄  裁判官 大野正男)

(別紙) 当事者目録(省略)
[1] 上告人らの当事者適格を否定した原判決は、当事者適格に関する民事訴訟法の解釈を誤り、ひいては国民の裁判を受ける権利を保障した憲法第32条に違反するものである。
[2] 本件訴訟は、被上告人阿部日顕が同日蓮正宗の代表役員及び管長の地位を有しないことの確認を求める確認訴訟である。しかるところ、確認訴訟においては、確認の利益がそれ自体特定の原・被告間の紛争についての解決の必要性及び当該訴訟物につき確認判決をなすことの紛争解決方法としての有効性を要件とするものとされていることから、一般に、確認の利益があるときは、原則として当事者適格があるものとされている。このようなことから、宗教法人の檀信徒が代表役員の地位の存否を争った裁判例において、従来多数の下級審判決が一致して、宗教法人の構成員である檀信徒の当事者適格を認め、このことは、むしろ当然のこととされてきたものである(東京地裁昭和25年9月16日判決・下民集1巻9号1454頁、東京高裁昭和27年4月30日判決・下民集3巻4号594頁、東京地裁昭和33年2月7日判決・下民集9巻2号162頁、広島地裁昭和49年4月18日判決・判例時報758号94頁、神戸地裁昭和51年9月13日判決・判例時報853号76頁等)。また、包括宗教法人に関しても、真宗大谷派の末寺住職及び末寺檀徒が同派管長・代表役員の地位を争った訴訟において、いずれもその当事者適格が肯認されているのである(京都地裁昭和53年12月14日判決・判例時報920号208頁)。
[3] ところで、原判決が上告人らの当事者適格を否定する根拠とするところは、これを肯認したときは、団体の準則上役員の任免に容喙し得ない者にも訴訟上の請求の形でその選任に異議を唱えることを広く許すこととなり、その結果として団体の自律性を害し、いたずらに内部関係の紛糾を招くこととなること、及び、かかる訴訟の実体判決が対世的効力を有することから、そのような強力な効果を有する訴訟を提起しうる適格を広く認めることの妥当性に疑問があるということの2点に集約される。原判決は、これらのことを根拠として、代表役員の地位を争う適格を有する者を、その任免に関与する権利を有する者に限定した。しかし、当事者適格をこのように極めて狭く限定することの妥当性こそが問題とされるべきである。
[4] ここでは、まず原判決の挙げる論拠が上告人らの当事者適格を否定する根拠となるものではないことを指摘し、次いで本件訴訟において上告人らの当事者適格が認められる理由を述べることとする。
[5] 原判決が挙げる右論拠中、団体の自律性の点については、上告人らの当事者適格の問題と団体の自律性とはおよそ無縁のものであることを先ず指摘しておく。すなわち、団体の自律性を問題とするのであれば、原判決がいう理事者の任免に関与しうる者に当事者適格を認めることも自律性の観点からこれを否定すべきが筋であり、さらには、具体的不利益処分の無効確認等を求める訴訟において。その前提問題として代表者の地位の存否を争うことすら否定すべきことに帰結するからである。かくては、何人も、いかなる方法によっても代表者の地位を争うことができないこととなり、従来、裁判所が地位不存在確認訴訟という訴の類型を認めてきた趣旨が没却され、また、国民の裁判を受ける権利が根底から否定されることに帰着するのである。
[6] さらに、仮に団体の自律性が問題となるとしても、それは、団体が多様な代表者選任方法のうち、いかなる方法を採用するか、および、代表者として誰が最適任であるかの判断の2点につきるものである。
[7] すなわち、まず私的団体における代表者の決定方法には、世襲制、1人または特定少数人による指名制、選挙制その他さまざまな形態がありうる。そこで、これらの方法のうちいかなるものを採用するかは、当該団体が自らの政策的判断に従って自主的にこれを決定すべきものである。したがって、裁判所は、団体が決定した選任方法が強行法規もしくは公序良俗に反する違法なものでない限り、その決定の当否に立ち入って判断を下すことは原則として差し控えるべきものであろう。この意味で、団体の自律性が請求の当否に関する裁判所の判断に影響を及ぼすこともありうるが、これは実体判断に関する問題であって、当事者適格の問題ではないのである。この場合裁判所は、採用された選任準則が憲法、強行法規、公序良俗に違反するものであるかを判断した上、そうでない場合には請求棄却の実体判決を下すべきものであって、訴却下の訴訟判決を下すべきではない。この手法は、後記最高裁判所昭和30年6月8日大法廷判決のとる手法である。次に、採用された選任準則に則った適式な手続による選任がなされた場合においては、具体的に選任された者がその地位に相応しい人格、識見、能力等を備えているか否かの問題についても、当該団体の判断がまず尊重されるべきものである。この場合も、裁判所が当該団体の判断を覆すことは、原則として許されないであろう。ここでも、団体の自律性が問題となりうるが、しかし、これも当事者適格の問題ではなく、請求の当否すなわち実体判断に関する問題である。
[8] さらに、仮に以上の問題との関係で、団体の自律性が当事者適格の存否に影響を及ぼすべきものとしても、本件訴訟において上告人らか主張するところは、団体の自律性とは全く無関係な局面の問題である。すなわち、上告人らは、右に述べた選任方法の適否や具体的人選の当否を問題としているのではなく、被上告人日蓮正宗が採用する具体的選任準則を前提とした上、右選任準則に則った適式な選任がなされていないことを理由として、被上告人阿部日顕の地位を争っているのである。換言すれば、上告人らは、被上告人日蓮正宗の管長、代表役員の選任に関し、同被上告人の内部における自律的決定(選任準則に基づく適式な選任)がないにも拘らず、その地位を僭称する者があるため、僭称代表者の地位を争い、本件訴訟を提起しているのである。このように、上告人らの請求を基礎づける事実は、団体の自律性とはおよそ無関係なものであり、かかる訴訟における当事者適格制限のため、団体の自律性をその根拠となし得ないことは、言うまでもないことである。

[9] 次に、原判決の論拠中、選任権への容喙の点については、右のとおり、本件訴訟においては選任行為の存否そのものが争われているのであって、上告人らか現になされた選任結果の当否を問い、あるいは、裁判所に対し代表者を選任することを求めているのではないのであるから、本件訴訟の提起によって、上告人らか選任権者の権限に容喙しようとするものでないことは自ら明らかである。

[10] 第三に、内部関係の紛糾の点については、訴訟の提起は内部関係紛糾の結果であって、訴訟の提起が紛糾の原因となり、あるいはこれを助長するものではないのである。原判決は、原因と結果の因果の関係を誤解しているものと言わざるを得ない。また、被上告人日蓮正宗の教師資格を有する僧侶中約3分の1に相当する多数の僧侶が原告となって本件訴訟を提起している事実に鑑みれば、裁判所が本件訴訟において被上告大阿部日顕の地位の存否につき実体判断を下すことが、とりもなおさず紛争を抜本的に解決し、このような紛糾した事態の収拾を促すことになるのである。さらにいえば、被上告人阿部日顕が上告人らを擯斥処分に付した上、被包括寺院の後任住職、代表役員を任命したことから、右後任者(訴訟上の当事者は寺院)と住職である各上告人らの間に被包括寺院の建物明渡請求訴訟および、右上告人らの代表役員地位確認訴訟が全国各地の裁判所に多数(上告人ら以外のものを含めて合計128件)提起されており、訴訟の重要争点の一つとして、被上告人阿部日顕の地位の存否が、擯斥処分の有効性を巡る前提問題として争われている。しかるところ、殆んどの裁判所が本件訴訟の帰趨に注目して、事実上訴訟手続の進行を停止しているのである。本件訴訟において同被上告人の地位の存否につき実体判決がなされないのであれば、これら多数の裁判所がそれぞれ独自にこの点の判断を下すべきこととなる。このことは、単に訴訟経済に反するのみならず、紛争の抜本的解決の絶好の機会を失することにより、被上告人阿部日顕の地位の存否に関する各裁判所の判断が区々となった場合は(これは当然予測されるところである)、現在の紛争をさらに激化させることは、火を見るよりも明らかである。この意味では、原判決の意図するところとは逆に、本件訴訟によって右の点の争いを合一的に確定する必要性は極めて大なるものがあるというべきである。

[11] 原判決の第二の論拠、すなわち判決の対世的効力を理由とする当事者適格の制限の点については、かかる判決の効力は当事者適格を制限する根拠となるものではない。抑々役員の地位不存在確認訴訟の判決の対世的効力は、かかる訴訟において誰が最も有効な防禦方法を尽くすことができるかという観点から、何人を被告とすべきかの問題すなわち被告の当事者適格を確定する際に意味を有するものに過ぎず、原告となりうべき者の適格を制限する根拠を提供するものではないのである。かかる訴訟においても、一般の確認訴訟の場合と同様、原告の当事者適格判定の基準となるのは、役員の地位の存否につき、その即時確定を求める法律上の利益(確認の利益)を有するか否かである。
[12] 判決の対世的効力は、右のとおり、訴訟において最良の防禦を尽しうることが期待される者が防禦に努めてもなお役員の地位が否定された場合に、団体内外の混乱を避けるために付与された判決の付随的効力に過ぎないのである。したがって、かかる付随的効力の故に、確認の利益を有する者の当事者適格を制限することは、本末転倒というべきであって、憲法第32条が保障する裁判を受ける権利を否定するものに外ならない。
[13] なお、一般に役員の地位存否確認訴訟の原告適格を有する者を当該団体の構成員に限定する解釈がとられているが、これは、団体構成員のみが右に述べた意味での確認の利益を有するものと解されているからであって(前記下級審の諸判決の多くも、このことを念頭において、檀徒等が団体の人的構成要素であるか否かを問題にしている)、判決の対世的効力を理由に当事者適格を制限しているものではない。
[14] また、仮に対世的効力に基づく当事者適格の制限がありうるものとしても、原判決のいうがごとき選任権の有無による区別は余りに安易な制限という外ない。選任権は、団体およびその代表者との法律関係、法的利害関係を構成する多数の要因の一つに過ぎず、その決定要因となるものではないのである。他に如何に密接かつ直接の法律関係があっても、他に如何に強度な法的利害関係があっても、そのことは全く顧慮されることなく、単に選任権の有無の一事でもって当事者適格の肯否が判定されるのであれば、前記憲法第32条の趣旨は完全に否定されることは論を俟たないところである。

[15] 最後に、原判決が当事者適格の判定基準とする選任に関与する権利の有無という基準が、それ自体、極めて脆弱な基準であることを指摘しておく。すなわち、私的団体における代表者の選任方法は多種多様であり、そのうちいかなる方法を採用するかは団体の決するところを尊重すべきものであること前記のとおりである。ここで、同様の性格を有する2つの団体を想定し、構成員の権利義務も同等であるが、ただ代表者の選任方法につき一方は構成員による選挙制を採用し、他方は現任代表者による指名制を採用しているものと仮定する。この場合原判決の基準に拠れば、前者では構成員の当事者適格が認められ、後者では否定されることになる。さらに、同一団体が規則を変更して選挙制を指名制に改め、あるいは逆の変更をした場合にも同様の結果となる。このことは、同種または同一の団体において同等の権利義務を有する者の裁判を受ける権利の有無が、団体の恣意的決定により左右されることに帰着する。国民が有する憲法上の権利の消長が、かかる団体の恣意により自由に左右されることが許されるべきでないことは、もとより当然のことである。かかる不合理な結果が生ずるのは、当事者適格という重大問題を決する基準として、私的団体の意思によって自在に左右されるような脆弱な基準を定立した原判決の不見識さに帰せられるのである。
[16] なお、右仮定は単なる架空の絵空事ではなく、現に被上告人日蓮正宗においても、昭和49年の宗制宗規の改正前は選挙制を採用していたことを付言しておく。
[17] 本件訴訟における当事者適格判定の基準は、前記のとおり、被上告人阿部日顕の地位の存否につき上告人らかその即時確定を求める法律上の利益を有するか否か、換言すれば、上告人らか右地位の存否に対し法律上の利害関係を有するか否かに帰着するのである。
[18] しかるところ、団体の構成員は、当該団体およびその代表者の地位にある者との間に、その者の具体的権限の行使を待つまでもなく、最も強い法律上の利害関係を有しているのであるから、構成員の地位にある以上、当然、代表者と称する者の地位の存否につき即時確定を求める法律上の利益を有するのである。この結論は、次のような法律実務家の健全な実務感覚にも合致するものである。すなわち法律上の利害関係あるいは法律上の利益という幾分抽象的なニュアンスを有する概念の具体的適用に際しては、単に理論的側面のみならず、法律実務家の健全な実務感覚が重要な役割を果たすのである。この意味で、神社の氏子といった宗教法人との関係が極めて希薄な者が提起した代表役員の職務執行停止・代行者選任仮処分申請事件につき、申請人の法律上の利益を否定した一例(大阪高等裁判所昭和54年8月11日決定・判例時報948号64頁)を除き、前記のとおり、従来の下級審判決が一致して、宗教法人の構成員たる檀徒が、宗教法人の代表者の地位の存否につき直接の法律上の利害関係を有することを認め、その地位の存否を争う法律上の利益を認めてきたことが注目されるべきである。このようにして蓄積された裁判例は、単にこれを下級審判決にすぎないとして一蹴すべきではなく、実務法曹の健全な実務感覚を反映するものとして、理解すべきものである。
[19] 上告人らは、いずれも被上告人日蓮正宗の教師資格を有する僧侶として、後記のとおり、同被上告人およびその管長・代表役員との間に、前記諸判例が認める檀信徒に比しても格段に高度かつ極めて密接な法律上の利害関係を有し、同被上告人の管理運営に関与する権限を有する者である。したがって、少なくとも教師資格を有する僧侶である上告人らが、本件訴訟の当事者適格を有することは、正に一点の疑いもなく明らかであり、これを否定した原判決は、この点に関する民事訴訟法の適用を誤った違法なものであると断ぜざるを得ない。

[20] 次に、被上告人日蓮正宗内部における上告人らの法的地位および権利義務の概要は以下のとおりである。
(一) 上告人らの地位
[21] 上告人らは、いずれも被上告人日蓮正宗の教師資格(甲第1号証宗規187条参照。以下単に宗制もしくは宗規として引用する)を有する僧侶であり、別表記載のとおり、その大部分(上告人163名中116名)は同被上告人に包括される宗教団体である寺院(宗制38条)の住職・代表役員である(宗制43条)。また、上告人秋山徳道、同久保川法章、同佐野知道、同古谷得純、同簗瀬明道の5名は、同被上告人の議決機関である宗会(宗制22条)の議員、上告人岩瀬正山、同小谷光道、同藤川法融の3名は、裁決機関である監正会(宗制32条)の構成員(監正員)である。これらの上告人中、久保川法章は宗会議長、岩瀬正山は監正会会長の要職にある。さらに、被上告人日蓮正宗の緊急やむを得ない場合の次期法主の被選定資格者たる大僧都の僧階にある者(宗規14条2項)として、上告人岩瀬正山、同小谷光道の2名がその資格を有し、右両名は、同被上告人の責任役員たる重役の被選定資格を併有している(宗制6条2項)。この外、上告人中7名は責任役員兼宗務執行責任者である総監(宗制6条2項、18条)の被選任資格たる僧都以上の僧階にある(宗制17条1項、宗規191条)。
(二) 被上告人日蓮正宗の組織
[22] 被上告人日蓮正宗は、同被上告人との間に被包括関係を設定した寺院および教会を包括する包括宗教法人である(宗制38条)。
[23] その人的構成要素としては、日蓮正宗の教義を信奉して得度を受けた僧侶(宗規217条、218条)および同宗の信者である檀徒・信徒(宗規224条、225条)から成り、それぞれ僧籍登録、檀徒名簿・信徒名簿への記載がなされるものとされている。このうち僧侶は、権訓導以上に叙された教師および非教師に区分され、その権利義務に差等が設けられている。
[24] 一方、同被上告人の機関として、法人を代表し、事務を総理する代表役員(宗制8条)、一宗を総理する管長(宗規13条 この両者は法主がその地位を兼ねることとされている)、3名の定員から成り法人の事務および宗務を決定する責任役員・役員会(宗制5条、9条、宗規17条)、宗務執行機関である宗務院(その長を総監という 宗制15条、18条、宗規18条)、議決機関である宗会(宗制22条)、代表役員の諮問機関である参議会(宗制29条)、紛議・懲戒に関する異議申立裁決機関である監正会(宗制32条)、会計監査を行う会計監査員(宗制36条)の各機関が置かれている。
(三) 僧侶・教師の権利義務
[25] 僧侶とは、得度を受け度牒を有する者をいい(宗規210条)、前記のとおり、被上告人日蓮正宗の僧籍に登録されることによって、その構成員となる。僧侶のうち権訓導以上の僧階資格を有するものは教師とされ、これ以下の非教師と区別されている(上告人らは前記のとおり、全員教師資格を有する)。僧階の昇級は管長の権限事項である(宗規15条6号)。
[26] 教師の権利義務のうち主要なものは次のとおりである。
(1) 宗会議員の選挙権・被選挙権。監正員の選挙権。僧都以上の者はその被選挙権(宗制23条、宗規96条、136条、141条)。宗会および監正会は、被上告人日蓮正宗の極めて重要な機関であるが、その選挙は、管長がこれを発令するものとされている(宗規195条)。
(2) 被包括寺院・教会の住職・主管および代表役員となる資格(宗制43条、宗規172条)。寺院・教会は、被上告人日蓮正宗の不可欠の構成要素であるが、その代表者の任免は管長の権限事項であり(宗規15条6号、180条)、管長の任命に対しては、いかなる者もこれを拒否できず、辞任の際も管長の許可を要するものとされている(宗規180条、177条)。
(3) 宗務院役員などの被選任資格(宗制17条、20条)。
(4) 賦課金、義納金納付義務。被上告人日蓮正宗の経費は、寺院教会および僧侶に対する賦課金、手数料その他の収入で賄うこととされているが(宗制44条)、教師は定時または臨時に、一定割合の教師賦課金および義納金の納付義務を負担し(宗規265条、285条)、滞納者は住職・主管資格がなく、また懲戒処分を受ける(宗規186条、248条5号)。納付通知書は、管長の命により総監が発する。
(5) 褒賞・懲戒を受ける(宗規237条ないし261条)。褒賞並びに懲戒およびその減免等は、管長の権限事項である(宗規15条7号)。懲戒処分事由中には布教の拒否・妨害(宗規247条2号)、無許可他出(宗規248条4号)、住職赴任の妨害(宗規249条1号 住職の任免は管長権限)、誹毀・讒謗(同条3号)等管長に関するものが多数ある。
(6) 職務専念義務 僧侶が世務につくには総監の認許を要し(宗規214条)、営利を営むことは懲戒の対象となる(宗規247条1号)。
(四) 被包括寺院代表者の権利・義務
[27] 被包括寺院および教会の設立、宗教法人化、規則の制定・変更、合併・解散、出張所の設置には被上告人日蓮正宗代表役員の承認が必要である。住職・主管は、当然に寺院・教会の代表役員の地位を取得するが(宗制43条1項)、その代務者を含め任命権者は、被上告人日蓮正宗の管長である。(宗規172条)。また、寺院・教会の責任役員およびその代務者の選任についても、管長の承認が必要である(宗制43条2項)。
[28] 次に、寺院・教会の代表役員は、その職務の執行に際し、重要財産の処分、金銭の借入・保証、境内地・境内建物の変更には、各寺院規則所定の手続の外、被上告人日蓮正宗代表役員の承認を受けることを要する(宗制41条)。
[29] さらに、寺院・教会は、管長の命により宗費として所定の賦課金納付義務を負担する(宗規265条)。被上告人日蓮正宗の会計は、寺院・教会および教師が負担する賦課金等によって運営されるのであるが、昭和55年度の予算を例にとれば、総収入約9300万円のうち右賦課金は7500万円が計上されており、この総予算に占める割合は、実に81%を占めているのである。
(五) 宗会の権限
[30] 上告人のうち5名の者が宗会議員であることは前記のとおりであるが、宗会は、被上告人日蓮正宗所属の全教師の選挙によって選出された16名の議員により構成される議決機関である。
[31] 宗会の第一の権限は、宗制・宗規その他の諸規定の改廃である(宗制27条1号)。当事者適格を有する者を役員の選任に関与する権利を有する者に限定する原判決の法律解釈の誤りの点は暫く措いても、宗会は、その権限に基づき宗制宗規を改正することによって、管長・代表役員の選任権者の範囲を変更することができるのである。現に、昭和49年改正前の宗制宗規では、管長候補者の直接選挙制が採用されており、教師資格を有する僧侶は、全員その選挙権を有していたのである(この詳細は原審における控訴人ら第二準備書面第四日蓮正宗の宗制寺法、改正前宗制宗規の沿革と原判決の認定の誤りの項参照)。
[32] 宗会はこの外、予算・決算の承認(同条2号、3号)、基本財産の設定・変更・処分、借入・保証の承認等の財産に関する事項(同条4号、46条、48条)責任役員(重役)の選定(宗制6条2項)、参議・会計監査員の互選(宗制29条、36条)等被上告人日蓮正宗の運営上の重要事項についての決定権を有している。
(六) 監正会の権限
[33] 監正会は宗務執行に関する紛議および懲戒処分に関する異議申立の裁決機関であり、(宗制32条)、5名の監正員で組織される(宗規22条)。監正会の裁決に対しては、異議申立が許されないこととされている(宗規33条)。
[34] 以上のとおり、上告人らは被上告人日蓮正宗の経費を分担し、宗会議員等の選挙権その他の権限を通じ、あるいは被包括寺院の代表役員として、同被上告人の組織の運営に関与し、同被上告人およびその管長・代表役員との間に極めて密接な法律関係を有しているのである。

[35] 上告人らが当事者適格を有することは、上記のところから明らかであるが、被上告人阿部日顕の地位の存否を合一的に確定することの必要性につき一言しておく。
[36] まず第一に、本件訴訟が被上告人日蓮正宗の教師資格を有する僧侶の約3分の1、総数174名の僧侶によって提起されている事実の重みである。同被上告人の組織の維持、運営に責任を有する立場にあるこのように多数の僧侶が、被上告人阿部日顕の管長・代表役員の地位取得に疑問を呈し、訴訟の場においてその疑問の根拠を客観的に明らかにしているのである。また、上告人らのうち多数の者が、本件訴訟の提起自体を理由として同被上告人によって、擯斥処分に付され、さらには、同被上告人の地位を積極的に争ったわけではなく、その地位の存否は本件訴訟の帰趨によって決せられると回答した者も、同様に擯斥処分に付されているのである。
[37] 次に、同被上告人によって任命された後任住職、代表役員と称する者と上告人らとの間に合計128件に上る建物明渡等請求訴訟が全国の裁判所に提起され、同被上告人の地位の存否が重要な争点として争われている事実がある。
[38] さらに、上告人らの教師資格を有する僧侶、被包括寺院の住職・代表役員その他の地位にある者としての諸活動につき、前記のとおり、管長・代表役員の許認可その他の諸行為が必然的に介在する機会が極めて多いことである。
[39] これらの諸事実は、本件訴訟において、実体判決によって被上告人阿部日顕の地位の存否を合一的に確定することの必要性を大ならしめるものである。
[40] すなわち、全国各地の裁判所が同被上告人の地位につき、それぞれ個別に審理を尽し判断を下すことは、訴訟経済の観点からして不経済であるのみならず、区々の判断は内外に大きな混乱を招来することが明らかである。また、裁判所によっては、右地位の存否に拘らず、処分事由との関連その他具体的事案に応じ擯斥処分を不当であるとして、同被上告人の地位の存否の判断を回避した判決をなすことも十分ありうるところである(擯斥処分が不当と判断されれば、住職・代表役員の地位が存続し、明渡請求が棄却される)。この場合、上告人らの職務の遂行上、管長・代表役員の許認可を要する行為を行う必要が生じたときは、どのように対処すべきことになるのであろうか。毎回無許可で行い、その度に懲戒処分を受け、一々これを訴訟で争うべきことになるのであろうか。あるいは、右各訴訟において同被上告人の地位を否定する判決がなされ、右判決が確定したとする。この場合、被上告人両名は右各訴訟の当事者でないから、判決理由中の判断の拘束力の問題を論ずるまでもなく、判決の効力が被上告人両名に及ばないことは明らかである。各裁判所がこぞって同一の結論を出し、その全てが確定したとしても、事情は同じである。かくては、同一宗派内に被上告人阿部日顕を管長・代表役員とする一派とこれを否定する一派が両立し、そのいずれもが他方を排斥し得ない結果となる。同被上告人は、あらゆる裁判所によってその地位が否定されたとしても、その地位は全く揺らぐことがないのである。
[41] 原判決の論理に従えば、かかる結果を是認すべきことになるのであるが、その不当なることは明白である。
[42] 本件訴訟によって提起された紛争を最も有効かつ適切に解決するためには、被上告人阿部日顕の地位の存否につき実体判断を示すことによって、その地位の存否を合一的に確定する以外に方法はなく、このことがとりもなおさず、本件訴訟につき上告人らの確認の利益を肯定すべき実質的根拠を提供するものである。
[43] 役員の任免に関与する権限のない者の当事者適格を否定した原判決は、最高裁判所の判例に違反している。
[44] 最高裁判所昭和30年6月8日大法廷判決(民集9巻7号888頁)は、被包括宗教法人(末寺)の檀徒総代が、包括宗教法人の管長が任命した末寺住職についてその任命の効力を争い、包括宗教法人及び末寺住職を相手方として、住職の職務執行停止及び職務代行者選任の仮処分を求めた事案である。この事件の第二審判決(東京高等裁判所昭和27年4月23日判決・右民集参照判決掲載)は、檀徒総代は住職選任権限を有しないから当事者適格がないとの本案前抗弁に対し、「単なる檀徒であっても住職の任命行為の無効を主張するにつき法律上の利害有」すとして当事者適格を肯認した(仮処分申請は実体上の理由で申請却下)。右最高裁判決は、この点に関する第二審判決の判断を是認することを前提とした上、右事件上告人(檀徒総代)の上告理由につき実体判断を行ったものである。
[45] このように、最高裁判所は、住職の任免に関与する権限のない檀徒にも住職の地位の存否を争う適格を認めているのである。上告人らは、全て教師資格を有する被上告人日蓮正宗の僧侶であり、前述のとおりその大部分が末寺住職の地位にあり、一部は同被上告人の重要な宗務機関である宗会・監正会の構成員であるほか、重役の被選任資格である大僧都及び総監の被選任資格である僧都以上の僧階資格を有する者もあり、被上告人日蓮正宗と上告人らの法律関係は、右事案における末寺と檀徒の関係とは比較すべくもないほどに密接である。
[46] したがって、上告人らが法主の選任に関与する権限を有しないことを理由として、上告人らの当事者適格を否定した原判決は、右最高裁判決に違反し、この違反が判決に影響を及ぼすべきことは明らかである。
(なお、右最高裁判決の事案では、住職が欠けた場合には、代表者等が候補者を選任して管長の承認を求めるにつき、総代の同意を得ることとされている。しかし、90日以内に候補者の選任がないときは、管長に住職任命権があることからも明らかなとおり、総代の同意の規定は単なる訓示規定にすぎない――同意の有無に拘わらず、住職の選任をなし得る――その意味で、総代が住職の任免に「関与する権利を有する」ものとはいえないものである。)
[47] 原判決は、一方で
「管長及び代表役員の地位、権限が前記認定のとおりであることからすれば、被控訴人阿部がその地位にあることから直ちに控訴人らの具体的権利又は法律関係に何らかの影響があるとも解されない」
としつつ、その直後に、
「管長及び代表役員の地位が団体としての活動上(括弧内省略)極めて重要なものであることは前記のとおりであるから……特定の個人が右地位を有するかどうかによって被控訴人日蓮正宗の活動や団体内部の諸関係が大きな影響を受ける可能性があることも否定できないところである。」
と判示する。
[48] しかして、「前記認定」の管長及び代表役員の地位、権限とは、各種役職員の任免、住職・主管の任免、僧階の昇級、僧侶等に対する褒賞・懲戒、宗費・義納金の賦課・徴収、末寺寺院・教会の財産処分の承認等を含むものであり、これらが、上告人らの具体的権利及び法律関係に関するものであることは明らかである。
[49] 要するに、原判決は、被上告人阿部日顕が同日蓮正宗の管長・代表役員の地位にあることが、一方では、上告人らの具体的権利又は法律関係に影響を及ぼさないと述べ、他方では、これらに影響を及ぼすとしているのであって、この点において、原判決には理由齟齬の違法がある。
[50] 原判決は、
役員の任免に関与する権利を有しない団体構成員は、「自己の権利義務又は直接自己に関わる具体的法律関係の存否の問題を離れて、いわば一般的に、特定の者についてその役員たる地位の存否を争う適格及び法律上の利益を当然には有しない」
と判示した。かかる解釈が、当事者適格に関する民事訴訟法の解釈を誤ったものであることについては前述のとおりであるが、右前提に基づき直ちに上告人らの原告適格及び訴の利益を否定した原判決には、理由不備の違法がある。
[51] すなわち、原判決は、役員の任免に関与する権限のない者は役員の地位を争う適格を「当然には」有しないと判示しているのであって、「適格を有しない」と述べているわけではない。ここで「当然には」という限定句が使用されているのは、当該団体の具体的性格、団体と構成員との権利義務関係、法律関係の密度等の具体的事実関係に即応して、当事者適格及び訴の利益の存否を決定すべきことを意味するものと解すべきである。換言すれば、原判決の右判示は、団体構成員中、役員の任免に関与する権限を有する者の当事者適格を積極的に肯認することを明言したに過ぎず、それ以外の者の当事者適格を一切否定する契機を含むものではないのである。このような原判決の理解が正しいものであることは、右判示に続く次の説示によっても明らかである。すなわち、原判決は、
「単に団体の構成員であることによって当然にこの種の訴訟を提起する適格を有するものと解することは、個々の場合において当該団体の具体的性格に即して定まるべき構成員の法的地位を画一的に取り扱い」
として、個々の事案における具体的事実関係の調査の必要性を明言しているのである。
[52] しかるに、原判決は、被上告人日蓮正宗の具体的性格、上告人らの法的地位その他具体的事実関係について何ら顧慮することなく、単に、上告人らが法主の任免に関与する機会を有しないことの一事をもって、上告人らの当事者適格を否定した。
[53] この点において、原判決には理由不備の違法がある。
[54] 原判決は、民訴法第388条の解釈を誤ったものであり、右は判決に影響を及ぼすことが明らかであって破棄されるべきである。
[55] 本件事件の第一審判決は、
「被告阿部日顕の被告日蓮正宗における代表役員および管長の地位の存否を決するには、血脈相承の存否を判断しなければならないところ、以上のとおり血脈相承という宗教上の行為は被告日蓮正宗の教義、信仰、教団の存立に深くかかわるものであるから、その事実の存否を判断することによって、教義、信仰ひいては教団自体の存立に影響を及ぼすことは避けられず、したがって、単に、事実の存否のみに限定して判断することは到底不可能といわなければならない。」とし、
「このように争点となる事実の存否の判断が宗教上重要な教義や信仰に影響を及ぼすことが明らかな場合には、国家機関である裁判所による公権的判断によるべきではなく……結局、本件訴訟は……裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。」
とし、争点となる事実の存否の判断が宗教上の教義信仰の判断にかかるとの理由で、結局法律上の争訟性がないとして本件訴を却下したものである。
[56] しかるところ、原判決は、第一審判決における却下理由については直接判断をしていないものの、右争点について、
「そこで、本件の被控訴人日蓮正宗の場合についてみると、前記のように、その管長、代表役員の地位の前提となる法主の地位は歴代の法主の血脈相承に基づいて取得されるところ、前掲甲第1号証および弁論の全趣旨によれば、右血脈相承は、宗教上の秘儀としてその内容の全体を客観的に把握することのできない性質のものであるが、現法主(ときによって前法主、宗規第14条5項)が特定の者を次期法主とする意思をもってこの者に対する口伝によって行う一定内容の行為であることが認められるから、その存否が専ら信仰上の価値判断にかかっているような事柄とは異なって一個の客観的な社会的事実としての側面を有するものであることは否定できないのであり、したがって、これを全面的に司法判断の対象外にあるものと断ずることができるかどうかには若干の問題がないわけではない。」
と判示した。
[57] 原判決の右判示内容のうち、法主の地位は血脈相承に基づいて取得されるとする認定の不当性については後述するが、少なくとも、宗教的価値判断を伴わないで管長あるいは代表役員の地位の存否の司法判断が可能であるとしたことは正当であって、原判決は、原告適格の点は別として、右地位の存否について法律上の争訟性を肯定したものであり、第一審の却下理由については、第一審判断を不当として排斥したものと評価できる(判時1173号16頁参照)。しかし、このように、原審が、本件について第一審判決のいう不適法却下の理由はないが、原告適格不存在の理由によって結局不適法であると判断したのであれば、第一審の不適法却下判決を取消して、あらためて訴の却下判決をなさなければならないものであり、原判決は民訴法第388条の解釈を誤ったものである(兼子・条解上916頁、菊井・村松・民訴II610頁、注解民訴法5巻197頁、東京地判昭和45・1・21下級民集21巻1、2合併号26頁参照)。これを、現実的にみても、原判決では、主文によって、明確に第一審判決を取消していないのであるから、訴訟当事者には、原判決において排斥されたか否かが判明しないこととなる。したがって、上告人が原審の却下理由たる原告適格の問題についてのみ上告した場合で、上告審がこれを理由ありとしたときでも、さらに第一審判決の却下理由により上告を棄却するときは、上告人としては、第一審判決の却下理由に対する憲法違反あるいは法令違反による上告は不可能となり、かくては、上告人としては第一審却下理由についての上告の機会が奪われる結果となる。
[58] 原判決は、釈明義務を怠っており、これは民訴法第127条に違反し、右違反は判決に重大な影響を及ぼす。
[59] 第一審判決は、前記のとおり、当事者適格の点については、原告の主張を認め原告適格が存すると判断したうえで、法律上の争訟性なしとの理由で却下したものである。当事者適格の点については、前記詳述のとおり、過去の判例において、一部「氏子」というような、法人との関係が希薄な地位にある者について原告適格を否定した事例があるものの、その他は、「信徒」「檀徒」というような法人との関係が比較的希薄と思われる者についても原告適格を認めており、ましてや、上告人のように末寺法人機関および包括宗教法人の機関たる地位にあって、檀信徒以上に法人との間で密接かつ全面的利害関係を有する者についてこれを否定した判例は皆無であることから、原審における当事者双方は、当事者適格の争点については、ある意味では第一審判断を当然の前提とすらしていたのである。このことは、原審における当事者双方の約2年間にわたる審理中に提出した厖大な準備書面においても当事者適格の点については双方とも1行すら触れていないことからも明らかである。また、原審は、その審理中、一度たりとも当事者適格の点について、当事者双方に対し主張立証を促したことはなく、かつ、この点に関する釈明を全くなさなかったものであり、このことは一件記録から明らかである。そして、当事者双方は、まさに、法律上の争訟性の点について集中して主張を展開してきたのである。もし、仮に、原審が当事者適格の点について関心があったのであれば、原審としては、当事者双方に右争点に関する釈明をなし、相互に主張立証を十分になさしめたうえで判決すべきであるにもかかわらず、これを完全に怠ったものである。当事者適格の有無については職権調査事項とされているが、職権調査事項であればなおさらのこと、当事者双方の当事者適格に関する主張あるいは証拠の提出を求めるべきものであるといえるし、ましてや、従来の判例を一挙に変更するような判決の場合はなおさら双方の主張を徴するべきといえる。現に、原審は、本件上告人らの一部に、宗規14条3項、2項により被選定資格を有する大僧都がいることについても全く事実を確認しておらず、上告人らのうち、何名が宗会議員あるいは監正会員であるかについても明らかにしていないし、そのような事実の存否に関して釈明していないのである。このように、原審は、結果的に原審が関心があった当事者適格の点については、当事者双方に対し、なんらの主張もさせず、反対に関心外の点について、漫然と数年間にわたり双方の主張を放置してきたことになる。このように原審において全く触れられていない争点部分で判断した原判決は、上告人および被上告人双方を驚かしめた判決であったし、原審は法律上の争訟性に関する難解な争点に対する直接的判断を逃げ、当事者適格で一応控訴を棄却して、上告審の判断に委ねたのではないかとの疑いさえ起こる。このように、原審が上告人に対し、右当事者適格に関する主張、立証の機会を与えなかったのは、釈明義務を怠ったものであり、民訴法第127条に違反しており、右は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、破棄されるべきである。
[60] 上告人としては、法律上の争訟性に関し、念のために、第一審判決の憲法違反および法令違反並びに原判決の法令違反を主張する。

[61] 第一審判決は、宗教法人法および日蓮正宗宗制宗規の解釈を誤り、ひいては裁判所法3条の解釈を誤り、憲法第20条、憲法第32条に違反するものであって、右は判決に重大な影響を及ぼすことが明らかである。

[62] 宗教法人法は、本来権利能力のない宗教団体に対し、直接権利義務の主体となりうる法人格を付与するために制定された法律である(宗教法人法第1条1項)。宗教団体に法人格を付与するについては、法人の機関、権限等について明確に規定させ、宗教法人の世俗的側面については国法の関与するところとし、反面宗教的側面については、裁判所等の国家機関の関与を禁止したものである。すなわち、宗教法人法は、法人格付与のための法人執行機関の資格任免に関する事項、基本財産の管理処分に関する事項等を規則で明定することを義務付け(同法12条)、一定の規則の定めある場合に限って法人格を付与している(同法4条)。そして代表役員の宗教団体の世俗面に関する事務の権限が、当該宗教団体に対する宗教上の支配権を含むものではない(同法18条6号)として信仰面の機能と世俗面の機能とを明確に分離している。同法85条では国家機関の宗教団体に対する干渉を禁正しているが、これはあくまでも「信仰、規律、慣習等宗教上の事項」についての調停、干渉および「宗教上の役職員の任免進退」に関し、勧告、誘導、干渉することを禁止しているのであって、法人組織上の機関に関してはむしろ国法が関与することを明記しているものと解すべきであるし、いわんや世俗的地位である代表役員等の地位の存否についての裁判までを禁止しているものではない。これは宗教上の地位が世俗上の地位の前提となっている場合でも同様であって、このことは宗教法人法の立法趣旨、規定相互の関係、憲法32条が国民に裁判を受ける権利を与えていること、裁判所法が法律上の争訟についての裁判権を有することを明記していることからも明らかである。
[63] したがって、宗教上の地位が世俗的地位たる代表役員の地位の前提となっている場合は、その宗教上の地位の選任準則がそのまま代表役員の選任準則をなしているのであって、その場合における宗教上の地位の選任準則とは当然世俗的裁判所が認識し得る法規範としての選任準則でなければならないし、かかる選任準則は、当然に選任という効果が一定の客観的事実にかかるものでなければならず、世俗の裁判所が選任行為の存否を認定判断できるものでなければならないのである。

[64] ところで、宗教上の地位は、その性質上当然に教義的色彩を帯びてくることは否めない。そして、その地位の承継についても、各教団においてはなんらかの教義的意義付けがなされているし、地位承継に関してもしばしば神秘的儀式行為が付きまとっており、伝統慣習が関係してくる場面も当然多くなる。そして、各宗教集団においては、その教団統率者としての資質について多かれ少なかれ独自の信仰上の資質基準ないし資質獲得の契機をなすとされる一定の信仰上の事実の存在を要するとされることが多い。右信仰上の要件とは、たとえば神の啓示の存在とか、心霊の乗り移りとか、当該人が当該宗教集団の信仰的統率者として、信仰上ふさわしいかどうか、真に宗祖の教えを承継している者であるかどうか、あるいは極端な場合当該人が「神」そのものであるかというように、その事実の存否が世俗人には客観的に認識し得ない領域に属するのが特徴である。日蓮正宗においても、法主は宗祖日蓮から仏法の一切を承継した者とされ、右承継を意味する「血脈相承」が必要であると信仰されている。
[65] しかし、ある者がかかる要件を充たしているかどうかはあくまで信者の信仰に属することであって、かかる要件は法規範的意味での選任準則では有り得ない。この場合、信仰上の要件を充たしているということは当該宗教を信仰する者にとっては信仰上の事実かも知れないが、そういう超自然的、神秘的要件をもって、世俗的地位である代表役員の地位が決定される性質のものではないのである。
[66] 代表役員の地位存否の判断の前提となり対象となるのは、あくまで代表役員の地位に関し、その選任準則としての宗教上の地位の選任準則の内容とその要件事実の存否であり、そこで問題となるのは、当該人がその教団で信仰上の資質があるかどうかあるいは信仰上の承継があるかどうかなど信仰上要求される条件にかなっているか否かではなく、当該人が右地位の選任準則に基づいて、選任されたかどうかの判断に限定され、裁判所は信仰上、教義上の事項についての判断は全く必要としない。したがって、宗教上の地位の選任準則の認定はあくまで法規範としての認定でなければならないし、だからこそ仮に規則その他の規定がなくても、慣習、条理の中から選任準則の抽出認定が可能なのである。

[67] 判例は、従来から一貫して右のような立場に立っている。すなわち、最高裁昭和55年4月10日判決(判時973号85頁)(以下本門寺事件判決という)は、
「これを本件についてみるのに、本件においては被上告人が上告人寺の代表役員兼責任役員たる地位を有することの前提として適法、有効に上告人寺の住職に選任せられ、その地位を取得したかどうかが争われているものであるところ、その選任に関する争点は、被上告人が上告人寺の住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうかというような本来当該宗教団体内部においてのみ自治的に決せられるべき宗教上の教義ないしは宗教活動に関する問題ではなく、専ら上告人寺における住職選任の手続上の準則に従って選任されたかどうか、また、右の手続上の準則が何であるかに関するものであり、このような問題については、それが前記のような代表役員兼責任役員たる地位の前提をなす住職の地位を有するかどうかの判断に必要不可欠のものである限り、裁判所においてこれを審理判断することになんらの妨げはないといわなければならない。」
とし、本門寺において住職選任規則が明定されていなかったにもかかわらず、慣習・条理から右選任の規範的準則を認定したのである。いわゆる真光文明教団事件判決(東京高裁昭和52年3月31日判決・宗教関係判例集成5巻579頁・最高裁昭和52年9月22日判決・同巻588頁参照)も、「指名」と「神示」との関係について、右本門寺事件と同様の前提に立っている。

[68] このような観点から、日蓮正宗における法主の規範的選任準則をみると、つぎのとおりとなる。
[69] 一つは、宗規第14条2項による選定であり、この場合は、法主は退座して、次期法主が直ちに法主に就任する。つぎに当代法主の不慮の事故などによって次期法主を選任できない場合をおもんばかって、法主が退座することなくかつ次期法主となるものを自らの意思においてあらかじめ決めておきたい場合には同条4項の学頭を選任する。最後に学頭(次期法主候補者)としての人材が育っておらず、法主白身も能力的にも体力的にも当分の間法主としての職責を果たし得るものと考えている間に、不慮の事故などによって死亡その他の事由で次期法主を選任出来ない事態が発生すれば、補完的に総監、重役、能化の協議によって次期法主を選任する。
[70] そして、法主が同条2項によって選任する場合は、当代法主自ら宗教的権威付けのための儀式たる相承の儀式を行い得るが、同条3項、4項の場合は、法主に就任する者は、宗教的権威付けがなされていないこととなるため、その宗教的権威付けのため、同条5項の規定を設けているのである。
[71] 宗規14条5項は「退職した法主は前法主と称し、血脈の不断に備える」と規定する。右規定の方法は、同条2項、3項が、次期法主選任権、被選任資格および被選任要件について明確な規定を設けていることに比べると、その表現方法は極めて宗教的である。そして、同条5項が、協議制による選任規定である同条3項、および次期法主候補者規定である同条4項に引続き規定され、また前法主の宗教的権限を規定した同条6項の前に規定されていること、ならびに前法主に選任権限を与えたものであれば、同条3項および同条4項の存在は全く必要ないことからすれば、同条5項の規定は、同条3項の場合、すなわち、法主が死亡その他の事由で次期法主を選任できず、総監、重役、能化の協議によって選任した場合、および同4項により、学頭が選任されている状態で法主が死亡した場合、前法主が次期法主に行う宗教的権威承継に関する規定であるというほかない。
[72] 宗規第14条1項は、その宗教的主宰者としての宗教的権限を規定するについて、法主が宗祖の仏法の一切を承継した者であることを宣言した宗教的権威規定であることは明らかである。したがって、日蓮正宗において慣行的に行われている宗教儀式たる血脈相承は、その儀式によって宗祖の仏法の一切を承継したものと宗教上擬制されるだけのものであって、それが代表役員などの法律上の地位を左右するものではないことは明白であって、日蓮正宗においては法主の選任は宗規14条2項、3項によって選任されるものであることは明らかである。このように解することが、前記のように宗教的資質に関する信仰要件と法主の規範的選任準則を明確に分離している宗規14条の規定に合致する解釈となる。

[73] ところが、第一審判決は、宗規第14条2項にいう「選定」を、このような宗教的資質に関する信仰次元での要件たる血脈相承と同意義であると認定し、さらには宗規第14条3項にいう総監、重役、能化の協議による「選定」も右血脈相承と同意義と認定し、宗規14条3項にいう「選定」は前法主が行う旨規定したものであるなどという、明文の選任規定を全く無視する認定をなした。第一審は、法律上の地位の前提たる法主に関する規範的選任準則を認定しなければならないのに、これと全く次元を異にする宗教的主宰者たる法主に求められる宗教的資質存否の問題とを混同して認定し、自らこれが司法判断の対象外としたに過ぎない。のみならず、第一審判決は、法律上の地位の前提たる法主の選任準則について、規範的選任準則を認定したものではなく、法主に求められる教義上の資質要件を認定したものであって、右のような認定をなしたこと自体、教義の解釈なくしては認定できない事項について認定判断したものであって、これは、憲法第20条に違反するものであり、かつ、前記本門寺判決および真光文明教団事件判決の判例に違反する。
[74] このように、第一審判決は、宗教法人法および日蓮正宗宗制宗規の解釈を、ひいては、裁判所法第3条の適用を誤まり、かつ判例にも違反し、国民の裁判を受ける権利を規定した憲法第32条に違反した判決である。

[75] 原判決は、右法律上の争訟性に関する点については、第一審判決を排斥したものと解せられるのであるが、宗規第14条に関する解釈について、なお誤りがあり、かつ、理由齟齬または理由不備の違法があり、右は民訴法第395条5項に違反している。
[76] すなわち、原判決は、第一審判決と同様、「法主の地位は歴代の法主の間の血脈に基づいて取得され」るとし、また、血脈相承については、
「法主は宗祖日蓮からその仏法の一切を承継した代々の承継者として位置づけられており、その承継もしくは承継行為は『血脈相承』と呼ばれ、あたかも父から子へと血統が受け継がれていくのと同様に、宗祖の遺した仏法の一切が中断されることなく、また、いささかも変えられることなく、そのまま代々の法主によって承継されるものであるとされている。」
と認定し、さらには、
右のような血脈相承は、「現法主(ときによっては前法主、宗規第14条5項)が特定の者を次期法主とする意思をもってこの者に対する口伝によって行う一定内容の行為であること」
が認められるとしている。原審の右認定によると、日蓮正宗においては、現法主または前法主のなす「宗祖日蓮の仏法の一切を承継する行為」の存在が唯一の法主就任要件であるかのごとき認定判断となっているのである。ところが、原判決は、一方でこのような前提にたちながら、他方では
「宗規によれば法主による次期法主の選定が行われない場合には総監、重役および能化の協議によって次期法主が選定されるものとされ」ている
とし、法主(現法主)による次期法主の選定が行われない場合には、宗規第14条3項によって、総監、重役および能化の協議によって次期法主が選定されるという、全く前記認定と相反する認定をなしているのである。これでは、原判決のいう「特定の者を次期法主とする意思をもってこの者に対する口伝によって行う一定内容の行為」と宗規第14条2項あるいは3項にいう「選定」とがいかなる関係にあるかもわからない。仮に、原審が、原判決のいう「特定の者を次期法主とする意思もってこの者に対する口伝によって行う一定内容の行為」と「選定」が同意義であるというのならば、宗規第14条3項の場合、その行為の主体が異なることになり、また、仮に、「血脈相承」と「選定」とが、別個の概念もしくは別個の行為であるとするのならば、宗規14条3項の場合、前法主のなす「血脈相承」によって法主が就任するのか、あるいは総監、重役、能化の協議による「選定」によって就任するのかが全く判明しない。
[77] 原判決のいう客観的社会的事実としての血脈相承はあくまで現法主のなす宗規14条2項に基づく「選定」を窺わせる間接事実であり、直接事実ではないにもかかわらず、原判決は、血脈相承を直接事実であるかの如き認定をなしたがために、宗規14条2項、3項の解釈について矛盾を生じているのである。宗規14条2項の場合は、「選定」をする者も、右選定を受けた者に対してなされる「血脈相承」の儀式もともに現法主によってなされるために、混同されやすいが、補完的選任準則たる宗規14条3項の総監、重役、能化の協議による「選定」の場合は、前法主が血脈相承の儀式をなすことからすれば、「血脈相承」は右規範的選任準則によって「選定」された者に対し、その宗教的権威付与のために行われる儀式であることが明らかであろう。
[78] このように、原判決は、宗規14条の解釈につき、矛盾する認定を行っており、右は理由齟齬、理由不備の違法がある。

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